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邪馬台国畿内説 Part420
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:32:39.77
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547998887/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:34:48.54
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:35:24.90
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:35:46.15
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:36:08.97
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:36:30.27
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:36:49.79
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:37:11.70
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:37:56.71
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:38:19.29
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:38:47.05
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:39:14.75
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:39:38.47
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:39:58.26
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:40:20.29
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:40:45.03
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:41:05.09
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:41:24.04
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:41:50.37
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:42:15.04
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:42:40.49
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:43:03.68
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:43:27.91
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0024◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:43:55.40
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:44:18.68
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0026◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:44:45.30
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:45:11.20
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:45:45.77
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:46:21.18
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0030◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:46:46.21
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:47:07.62
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0032◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 03:47:27.16
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0033◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:47:49.96
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:48:21.24
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:48:43.75
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:49:09.94
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:49:38.89
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:50:06.76
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:50:38.48
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:51:07.93
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:51:40.39
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:52:07.16
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:52:27.27
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:52:50.73
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:53:08.41
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:53:32.78
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:53:58.62
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:54:20.71
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:54:42.39
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:55:03.99
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:55:30.38
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:55:54.31
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:56:13.88
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:56:39.07
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:57:03.96
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:57:27.96
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:58:00.14
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:58:27.90
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:58:52.32
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:59:16.19
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0061◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 03:59:40.93
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0062◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 04:00:01.34
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 04:00:20.44
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/24(木) 04:00:43.34
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0065◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 04:01:03.32
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0066◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 04:01:28.86
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 04:01:49.43
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 92を追加
0068誤写指摘
垢版 |
2019/01/24(木) 05:35:58.39
奥山君 間違ってるよ
FAQ92は既に追加されてるよ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 92を追加
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:14:42.58
そんなところまで詐欺を働くのか。
畿内説はセコすぎるよ。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:49:27.62
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:49:43.91
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:49:59.59
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:50:23.64
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:50:41.73
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 14:28:09.46
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 14:28:52.06
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 16:37:55.42
間違ってるのを指摘されたのだろ
恥かく前に訂正したらよい
「荒らし行為と看做させて頂きます。」じゃなく
「ご教授賜った」でいいんでねーの
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 16:51:01.74
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:52:01.28
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:21:23.32
九州・邪馬台国の滅亡を再検討する(弥生遺跡消息一覧表)
https://tizudesiru.exblog.jp/238866410/

福岡県朝倉郡筑前町・弥生時代の遺跡の惨状↑。
>筑前町の柏木宮ノ元遺跡・宮ノ前遺跡は、弥生後期の遺跡です。
>つまり、写真の土器の大量廃棄は弥生中期ではなく、後期の出来事です。
>阪井田遺跡も弥生後期の遺跡で、溝に大量の土器が捨てられていました。
>この大きな事件があったのは弥生後期となり、邪馬台国の滅亡はこの時期だったと思われます
(注:この邪馬台国の滅亡時期はブログ主の独自見解です)。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:21:40.23
418の>>668
>上海などのある江蘇省は杭州湾を隔てて会稽郡の北隣
会稽郡の東にあるのは海だけ
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map2.jpg
地図をみよ<

その地図は、何時の時代の頃の地図なんだ?。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:24:23.36
九州・邪馬台国の滅亡を再検討する(弥生遺跡消息・その2)
https://tizudesiru.exblog.jp/238864962/

朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状↑(その2)
>倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。
>さらにこの筑前町に隣接する朝倉・甘木一帯の集落も同様であった。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:36:42.74
おう九州説
畿内には鉄器がないとかバカな事抜かして
みんなの笑いものになれや
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:53:20.71
>>82
考えれば分かるよ


・・・脳があれば、だがね
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:02:06.96
418の669
>森博達氏は、『日本書紀』をα群とβ群に分け、
α群は中国人が書き、β群は日本人が書いたものだという。
「東漢」は雄略紀・欽明紀・敏達紀(6世紀末)のα群にあり、
「倭漢」は皇極紀(7世紀中頃)以降のα群と、応神紀・推古紀・天武紀のβ群にある。
このことから、日本人の主張がはいるβ群はすべて「倭漢」で統一され、
中国人が書いたα群は、敏達紀(6世紀末)までは「東漢」で、
皇極紀(7世紀中頃)からは「倭漢」であることがわかる。<

これでは、「倭漢」と書かれた応神紀と皇極紀と推古紀と天武紀の王は、
いずれも、明確に、
九州倭国の出身者や九州倭国の縁故者であった、という事になる。
つまり、「倭漢」という呼称は、九州倭国での呼称であった訳で、
「東漢」という呼称は、東の国(大和など)に移った「漢」である、という意味も湖沼であった事になる。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:04:35.47
日本の神話?

『松傾』
本人に関する話だと書いてあるでしょ?
神話のはじまりのほうの。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:08:30.52
『松傾』

AD200年頃・・・みたいな事が書いてあるけど、
大陸にいた頃を含めると・・・。

『三貴子』中東とか何やらになるとか?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:08:51.11
418の>>670
>殉葬も、棺に入れて葬れば何かしら出て来るかも知れないが、
日本書記の垂仁紀の記述にあるように、殉葬された者たちの呻き声が
何晩も聞こえたり(たぶん体を縛って半分土に埋めていると思われる)、
その後(生きながらか死んだ後かに)犬に食われたりするような殉葬の仕方だと、
現代まで残らない可能性がある。
卑弥呼だけでなく、垂仁までの墓のどこからも殉葬跡が出ないのは、そのためだと思う。<

ダメだ。
祇園山の(複数埋葬も含む)62個の殉葬墓は、全て、
殉死後に、いろんな棺に入れられており、
垂仁紀に書かれたものとは、全く違うもの。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:12:26.73
なぜ知っている人がいるのか・・・・?となるでしょ、
『ワンピース 粉雪』鼻、竿のネタとかw

『』その他、漫画、アニメ、ゲーム・・・創作の類。

鼻 竿『三貴子』の話でしょ、
イザナギの鼻から生まれたとか。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:12:50.79
>>91
魏志倭人伝には卑弥呼のいる邪馬台国に
径百歩、直径140mの墓があると書いてある
それが畿内にある

それと景初2年(3年の間違い)、西暦239年に
卑弥呼は魏に使者を遣わして銅鏡を貰ったとあって
畿内で見つかる三角縁神獣鏡には景初三年と
その魏の年号が入っている
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:20:36.26
>>96
棺に入ってるなら殉葬じゃなくて埋葬だね
もし殉葬なら人が棺なしに縦に埋まってなくちゃいけない
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:28:36.10
418の>>672
>>647が示してくれたURLにあった図
http://www.geocities.jp/bicdenki/MAP2.jpg
こんなに海だらけでは、七万戸の国の都は無理だろ?<

誰が書いた図であるのか?は、知らんが、
河内湾→河内湖→三角州状態→陸地化の変化を見ても、
そんな砂丘島が大量に散在するような形になる、とは思えない。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:31:22.84
例えば・・・サルタというスレなどを読んでみて
「普通の顔じゃないか」(普通の日本人)と言ってる人がいたり、
そういう画像などが貼り付けられていたのかな?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:34:10.76
中東(不明)〜〜渡って来たとしても、
いつの時代の話なんだよ・・・みたいな話?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:35:56.03
418の>>681
>>3世紀に奈良をヤマトと呼称していたという根拠がない。<

>あるんだよ 「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」<

これも「南≠東」に拠って×だよ。
後漢書も九州説だから。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:39:15.35
本当に老婆談と同じw

蚕を飼い、機織りしていたとか・・・、
泥棒のようなものに入られ〜〜〜???
いろいろと、無くなったとか
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:44:50.92
『松傾』でしょ?

松の木が植えられていて、
そこに立っている人物の写真があったでしょ、
老婆談というのも、その家の話
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:56:03.68
418の>>683
>三国時代に銭塘江以北は呉郡で会稽郡ではない 三国志が書かれた精神時代も同様 <

お前の提示した地図の信頼性を問題にしている。

>そして呉郡まで含めてもその地域で一番東なのは「寧波」であり、上海ではない
寧波は銭塘江以南でしっかり会稽郡の中<

まだ変な事を言っている。
「会稽東治」という表現をするという事は、「東治」は、会稽郡内ではない。
会稽郡内であれば「会稽之東」で十分であり、
「会稽東治之東」だなんて書く必要がない。
だから、「会稽東治之東」と書いた、という事は、
陳寿は、「東治は会稽地域の外にある地」というつもりで書いているのであり、
そういう意味でも、寧波は会稽郡内だから、「会稽東治」には入らない。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 20:59:37.19
418の>>688
そうやってあらゆる史料事実や学問を無視してきたので、
大和説は亡んだ。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:03:03.99
ガンダムなのか、何なのかわからないけど
『アプサラス』調べてみるとわかる、

あと某と某、某というキャラも同一人物なんだろう・・・
とか、気づいている人がいたり

漫画、アニメに詳しい人なのかな
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:04:18.99
418の>>689
>魏志倭人伝で「邪馬臺」と書かれているのだから、<

ウソを付くな、大和説者。
魏志倭人伝では「邪馬壹國」だ。

そうして、大和説はどんどんトンデモの隘路に無限後退していく。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:07:35.70
418の>>695
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説も、
本当懲りないな。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:09:09.26
>>110
12世紀ごろの写し間違いだよ
それが通説
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:11:57.94
418の>>696
>>投馬国は宮崎県都万<

>それだと女王国以北にならないと何度言えばw<

投馬國は、卑弥呼共立国の一つだから、
女王國に含まれており、だから「女王國以北」の中になる、
って何度言えば。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:19:22.57
>>107
>「会稽東治」という表現をするという事は、「東治」は、会稽郡内ではない。
>会稽郡内であれば「会稽之東」で十分であり、
>「会稽東治之東」だなんて書く必要がない。

人類の非常識ザラコク
会稽は郡名でもあるが郡の北部にある越の旧都名でもある
だから南部閩越地方のことは会稽東冶と言わなきゃ正しく通じないんだよ
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:23:08.15
『聖化 日神 日霊 津』〜『松傾』

なぜ知っている人がいるんだろう?
という事になってくるでしょ、

寺院が〜という話もしていたり、直系?
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:24:33.88
418の>>697
>それまでにない軸線を合わせた大型建物一つとっても それまでより高度な建築文化だよな?<

そりゃ、弥生銀座の何本もの「大道」群の方が、条坊の前段階であり、
高度な建設文化になるんでは?。

>奈良盆地は青銅器生産でも北部九州より技術水準が上だぞ?><

何だ?。まさか「銅鐸」や△の事か?。
銅鐸の鋳型は北部九州にあるし、
△は、粗悪な副葬用だったぞ。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:29:19.68
418の>>701
>九州の山門は畿内の大和と比べられた瞬間即死だぞ<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言を使えば、
大和説は、瞬間即死だぞ。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:35:46.00
418の>>703
>隋書の裴世清は大和に行っているのだから <

これまた、嘘つき騙し。
隋書は、裴清であり、大和へは行っていない。
こうして大和説はトンデモカルトになっていく。

>つまり萬二千里は実測値ではなく、古典にある「伝説の地の果てまでの距離」が
そのまま踏襲されていることがここでも確認できる訳だ<

これも嘘つき騙し。
魏志と魏略は「余」を付けているから、
魏使らは、きちんと計測して「近似値」とした報告を書いていた。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:38:28.84
>>107
お前が変だよ。
お前の言う通りであるなら「會稽東冶」という表現自体が存在しないはずだ。
しかしながら《吳書十五》《呂岱傳》に「會稽東冶」は存在する。
だから「會稽東冶之東」とは「會稽郡東冶縣之東」ということである。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:41:23.51
>>119
避諱を知らないなら、中国史に口を出さない方がいい。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:41:43.20
418の>>705
>三角縁神獣鏡が畿内でたくさん見つかってるから
銅鏡文化の中心はむしろ畿内<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和の△は、(問題の3世紀中頃ではなく)4世紀であり、
呉系楽浪鏡師らの一部が大和の子弟に教えて造らせた粗悪な副葬用の大量の△。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:44:27.91
調べてみた?七夕などの話が出てきたり、
老婆の言う伊達郡(むかーし住んでいた)のほうの話とか

七夕が有名だという話だし
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:44:43.35
>>118
「畿内」なんて存在もしないなんて嘘つき騙しの文言を使うから
九州説は瞬間即死
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:46:04.03
418の>>708
「南→東」などの嘘つき騙しの、
今日の大和説書き込み工作員は、
嘘つきがバレてばかりで、ダメだな。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:47:55.05
>>122
景初、正始と3世紀中ごろの魏の年号が入っているので
三角縁神獣鏡はその頃の魏の鏡
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:49:11.92
418の>>711
こうして「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
オウム返しされるしかしない「オウム人間?」になっていく。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:52:30.69
418の>>713
人類の常識や、「南≠東」や、「冢≠前方後円墳」や、教科書レベルの知識を、
頑として受け付けない人々、
反論はせず拒否するのみ 、
それが、大和説。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 21:59:14.24
418の>>716
それ、大和説者が、
新しい論も読まずに、「南→東」などの嘘つき騙しの古い大和説の本と、
その焼き直しのブログしか読んでいない、時代遅れの情弱ってだけww、

>この論文も何度も紹介してるだろうが!
「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」 橋本輝彦 · 2008
>>575を参照<

橋本も、もう何十年も、「南→東」の嘘つき騙しの情弱な・・・・アホ学者であった事は、
十分承知しているよ。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 22:45:49.70
418の>>726
>現在の定説は卑弥呼の時代は弥生時代だっけ
実際はホケノ山古墳が3世紀前半に近い時期の完成だろうから
古墳時代になるんだろうけれど<、

ホケノは、有棺有槨の前方後円墳だから、卑弥呼のの有棺無槨の冢よりも新しく、
「庄内〜布留」だから、庄内の石塚よりも新しいから、
3世紀末以後になるから、
この大和説男は×。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 22:50:21.30
418の>>729
大和は、粗悪な副葬用の△の、
失速した銅鏡文化國である。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 22:55:27.00
>>967
台与の年、15歳は単なる勘違いだ。
お主が言う通り、13歳だ。
わはははは。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 22:56:30.94
418の>>730
>そりゃあ魏の年号が入った三角縁神獣鏡の多く見つかる機内<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和からは、明帝下賜の「景初二年」以前の鏡は出土せず、
紀年△も出土しないから、×。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:02:18.86
418の>>732
>テンプレで実にアッサリと纏向で出土した三世紀前半の魏鏡が紹介されているな<

知らんな。
スレ主も「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師である事は、
皆が分かっているし・・・。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:07:46.85
418の>>739
>陳寿は皇帝を奉るために
古くからの伝承に合わせる形で魏志倭人伝を書いたんだよ
全然読み取れてないじゃん<

魏志と魏略は、「余」を付けているから、
「古くからの伝承に合わせて」いないんだよ。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:16:26.64
418の>>745
>纒向型前方後円墳から古墳と認める立場では、
卑弥呼の共立以降を古墳時代草創期としている<

卑弥呼の墓は冢であって、前方後円墳ではないから、×。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:19:40.49
418の>>748
もう、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に、
勝ち目はない。
諦めろ 。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:24:24.41
418の>.754
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
なんでそんなに、
無理に無理を重ねてまで自分の地元(大和)に女王国を持って来たいのさ?。

そのモチベーションが本当に分からんわ。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:34:29.43
418の>>758
日本人じゃなくて、
万世一系皇国史観儒教の人種差別殺戮戦争的思考が染み付いたキョクウの・・・・さ。
彼らににとって歴史は都合よく作り変えるものだから。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:40:41.56
418の>>758
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説も何も、 三国志を見れば、
九州説に都合の悪いことは書かれてないのがわかる。
それと、無理に身内の大和説学者を持ち上げたりもしないとか・・・。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:51:22.24
418の>>759
いわゆる恨の文化ってやつだよな。
日本の歴史が中国より短いのが恨めしいから、
大和朝の万世一系八降雨一宇皇国史観を言い続けるし
列島がせいぜい金印なのに、玉璽を持つ中国が恨めしいから、
中国を野蛮な小国にしたがる。

さらに言えば、大和は中国の文化のおかげ無しで繁栄していたことにしたがる。

大和説の背景はある意味実に分かりやすい 。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:55:12.93
418の>>761
大和説は、ただの悪罵というか
万世一系八紘一宇の皇国史観の儒教精神から生まれる政治的意味合いの呪詛というか
日本国民の大多数がウソで騙されてるのを見ると
奴らは溜飲が下がる
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 23:58:17.07
>>120
>しかしながら《吳書十五》《呂岱傳》に「會稽東冶」は存在する。
>だから「會稽東冶之東」とは「會稽郡東冶縣之東」ということである。

これを見ても、倭人伝の東治が誤記だってのが確認できるね


三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五に二ヶ所ある

「會稽東冶」五縣賊呂合、秦狼等、爲亂。

四年、廬陵賊、李桓、路合、「會稽東冶」賊、隨春、南海賊、羅雌凵A一時並起。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 00:01:04.12
>>134
>台与の年、15歳は単なる勘違いだ。

こういう基本的なところで勘違いするような浅い知識で
エラそうにドヤ顔するなよ!ww
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 00:26:07.26
15歳は男子の元服祝
13歳は女子の髪上祝
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 00:37:39.06
九州説こそ何回間違い指摘されても短里短里と念仏唱えるばっかだろ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 00:56:13.65
>>146
お主ほどではない。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 00:58:20.88
>>149
台与は13歳で女王になった。
卑弥呼もその頃に女王になったとすれば、70代で死んだことになる。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 01:09:58.32
>>118
卑弥呼は筑後山門だから、大和説は即死じゃね。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 01:44:23.18
>>1
畿内説の雑用係お疲れ様
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 05:56:30.96
>>155
九州説はもう思考することさえ止めたようだな
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 06:25:19.21
418の>>762
>箸中山の築造は諸説あるが三世紀後半から四世紀初頭くらいで
卑弥呼の死と時期が被ってるとも言いきれない微妙な感じと <


箸墓は、布留の前方後円墳だから、4世紀頃であり、×。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 06:33:33.63
ザラコク笑劇場のご託宣タイムか
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:02:19.71
418の774
>纒向遺跡があるから、じゃなくて、纒向遺跡の発掘成果と魏志倭人伝の記述を照らし合わせると
畿内ヤマト以外の候補地が全滅ってだけだよ<

文献考古共に、大和説は全滅。

>細かい根拠は>>654に書いてある 邪馬臺・ヤマトはある意味マイナーな1項目ってだけ<

邪馬臺≠ヤマト。 文献無視、 それは大和説。

>会稽の東も、<

類スレ主は、会稽東治之東→会稽の東、というインチキ騙しをしている。

>水行陸行記述も無視しないと成り立たないし、<

類スレ主は、陳寿や人類の「出発→途中→到着」という旅程説明の原則を無視している。


距離は短里を捏造するし、島巡り仮説も捏造、放射読みと水行の起点は帯方郡というのは無理読みの珍解釈

>方位距離デタラメ、<

類スレ主や大和説は、魏使らの実地の見聞計測記録を、
口先だけで「デタラメ」とヘイトスピーチ否定宣伝をしている・・・・。

>距離は上で書いた
方角が間違っているのは末盧国・伊都国間で間違っているのが確定<

東南は、末盧國からの出発時点での出発方向記録であったから、合っていた事で確定。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:11:55.93
418の>>の776
>感覚の違いはいかんともしがたいが、遠くに見えてた山がそこにあることは分かるから
東南という誤解は生じない <

「東南」は、末盧國の出発時点の出発方向説明であり、
「誤解」でも「間違い」でもなく、
類スレ主らの、
「魏使らや陳寿や人類の旅程説明の原則」の否定、
という詐欺であった事で確定。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:18:35.23
>>154
>卑弥呼もその頃に女王になったとすれば、

これが根拠のない仮定で、しかも魏志倭人伝の年已長大という記述から否定される
同じことを何度も書かすな

>>154には根拠がなくてご都合主義の妄想しかない
つまり、九州説の典型
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:22:27.39
>>155
>卑弥呼は筑後山門だから

まともな遺跡もなくて当時は海ばかり
7万戸の大国の中心じゃないよ
古墳時代に入っても、大きな古墳は作れない地域

筑後山門は「ヤマト」の音だけの比定地
邪馬臺をヤマトと読むなら、大和の方が当然優位だ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:28:24.72
>>160
>文献考古共に、大和説は全滅。

これを根拠とともにきちんと論証しないとダメww

あ、先に言っとくけど「方角は出発方向だけでいいから現実の方角とは一致しない」で
いいらしいから 「南≠東に拠って×」は通じないよ
邪馬壹國へは行ってるから移動説明だし出発方向でOKだww
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:30:48.15
418の>>779
>>年代詐欺は、否定できないのがよくわかりました。<

>「それは科学技術軽視の呪術師レベルのカルトの言い分」
これで否定されているのが理解できないんだww テンプレより>>12
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
・・・。(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)<

根本的に、いくら大和説学者らの名前や編年を挙げても、彼らは、ほぼ全員が、
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘吐き騙しを肯定し、
「東征毛人五十五国」や「大和は倭国の別種の旧小国」や、
倭国は「正北抵新羅」であるから北部九州にあった、という史料事実の否定隠蔽の、
「結論先にありき」の詐欺論法を使っている事がバレているから、
何の信頼性も推論確率もない・・・・アホ集団であった、という事だ。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:35:21.00
418の>>787
この投稿みたいなことを、
何も具体的根拠をあげずに書けるってことは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説がダメだ、
って証拠だな。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 07:48:20.73
418の>>789
>九州説滅亡の時は近い<

戦前の慢性一系八紘一宇の皇国史観の、人種差別的殺戮戦争狂の大和説者や、
学会教育界や右翼マスコミや安部自民が、このまま、
国民の7割の反対にも関わらわず、国民を「思想統制」し続ければ、
大和説だけではなく、国民全体が滅亡する事になる時期が近い。
諸行無常。万物流転。盛者必滅、栄枯盛衰。
奢るキョクウ大和説、久しからず。

人類生物、皆兄弟。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 08:44:03.29
年代繰り上げは、大和内部の先陣争い・同士討ち
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 08:50:30.26
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 08:57:14.23
418の>>793
>(卑弥呼の死と箸墓)合わないことも無い だいたいで<

卑弥呼の墓は冢であり、箸墓は巨大前方後円墳であるから、
始めから全く合わず、×。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 09:30:42.92
・倭は会稽の東に無い
・九州の中でさえ方向も距離も間違いだらけ
・伝説の時代から、実際に交流をしている時代までも同じ距離と方向で考えている

行程を調べれば調べるほど何の意味もない事が分かるだけ
この行程の珍解釈しかない九州説がどんだけ存在価値のない物だかわかる
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 09:44:05.04
九州には九つの説がある。其のうち八つは影武者説だ。
しかし不勉強の到りのキナイ中には、どれがどれだかわからないだろうww、
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:00:46.50
418の>>827
>前方後円墳と三角縁神獣鏡と纒向遺蹟があるから畿内の大和はノーダメージ<

「畿内」なんて存在もしないし、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「△≠明帝下賜鏡」や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「大和は倭国の別種の旧小国」などで、
大和は、ほぼ100%のダメージ。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:30:25.53
418の>>827
>前方後円墳と三角縁神獣鏡と纒向遺蹟があるから畿内の大和はノーダメージ<

いくらブツが転がっていても、道なくば絵に描いたモチ。 腹が減っても役立たず。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:34:40.75
418の>>847
>その割には魏志倭人伝には侏儒国や裸国や黒歯国だのが出て来るんだが
これは魏志倭人伝が淮南子や後漢書を下敷きに書かれている事を示し
正確性よりも政治性や祭事性の強い書である事を示すもの<

魏使らも陳寿らも、普通に計測結果を記録し、残しただけであり、
淮南子も後漢代記録とは違う事を記載しているから、それらを下書きにしていない。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:41:06.14
418の>>850
ただ今皆さんには、大和説のオーム真理教人間を、
ご覧になって頂いております。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:49:40.24
418の>>852
三角縁神獣鏡は、明帝下賜鏡じゃなくて、
呉系楽浪鏡師鏡だったと、文献考古の両面から科学的に分析された。

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」で、
魏朝里で千里(約(60〜90km)して別の地に着くような倭種の国は、
大和ではない事も、明らか。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:54:49.77
>>177
どこの素人さんが「分析」したの?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:55:32.25
418の>>855
>九州説は淮南子を無視するの?・・・<

淮南子には、10尺棒を使った類一寸千里の法が書かれており、
それでも、(長里否定をしての)短里である事はしての)変わりがないから、
無視しないの。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 11:18:54.06
418の>>859
>スプリング8という分析器で調べた所
三角縁神獣鏡は魏・晋時代の中国銅鏡と同じ銅素材と分析結果が出た <

勿論100%完全一致ではなく、近い成分比の群になっていた、というだけであり、
△と同じ徐州銅などが入っていた事を示すのであり、
明帝の下賜の銅鏡百枚との一致ではなく、
「海東鏡」や「徐州銅鏡」などの、
呉系楽浪鏡師らの持ち込みや使用材料など材料銅との大体の一致を示すもの。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 11:22:15.10
>文献考古の両面から科学的に分析された。
でた
九州説お得意の「そうにきまったからそうなんだ」
何の根拠も提示したためしのない妄言w
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 11:28:23.00
>>418>>860
>女王国は邪馬台国<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言。

>1万2千里は淮南子に出てくる概念的なこの世の果てまでの数値 <

魏使らや、陳寿や魚豢らは、淮南子とは別に計測された里数で記載した。

>当然元は邪馬台国までの距離を示すものではないから <

この男(類スレ主)は、邪馬台国という存在もしない文言を使って、
インチキ騙しをしようとしている・・・・。

>九州北部を指すというならそこは邪馬台国じゃないという事になる<

「余」を使った記録であるから、淮南子とは関係のない計測であり、
だから「北部九州じゃない」という事にはならない。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 11:34:30.53
418の>>862
>短里は無いって
井田法限田法戸調制といった周から晋までの土地政策と合わないじゃん<

井田法の周代の規定文には、
「里」に関する記載なんて、存在していなかったんだから、
「短里は無い」なんて、全く言えないではないか。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:03:58.66
418の>>863
>何が言いたいのかわからんな<

谷本計算は太陽仰角から千里の距離を計算したのであり、
「1尺が何寸か?」は、全く関係がない、という事が判らんようなアホで、
「南→東」などの嘘つき騙しをするような詐欺師の類スレ主では、
何を説明して上げても無駄だ。という事だな。

>とにかく周の時代は1寸2.3cmとして1尺8寸の約20cm
1尺10寸で一寸千里を計算して1里76〜77mになったという谷本計算は間違い <

周代には10進法が大体定着していた筈だから、
おそらく「1尺=10寸」の尺寸系内の換算規定も定着していた筈であり、
だから、問題は、「1尺=8寸」という地域があったのか?や、
そのような「尺定規」が発見されていたのか?、という事だな。
そして、周髀算経では、「1尺=10寸」も、「1尺=10寸」で書かれている、
という事だ。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:09:57.53
418の>>867
>畿内説 嘘つかない<

大和説は、「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言を使っているし、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しまでする・・・・人種。
九州説者は、史料事実からの推論には確率の低い論を言う事があっても、
史料事実に関しては、原則として嘘を付かない。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:12:23.97
>九州には九つの説がある。

九州にはお爺さんの数だけ作り話がある
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:14:14.06
>>177
魏晋1里=434m。
ちょうどぴったんこ大和。
大和=倭種の国。
女王国=北部九州。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:19:18.15
井田法は1里四方を井の形に区切ったものなんてのは四書五経に載ってるでしょ
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:22:50.56
>>163
邪馬臺は、中国中古音でヤマドイ。
ヤマトの音写がヤマドイにはならない。
九州山門の3世紀の発音は、ヤマドの確率99%。
奈良のヤマトは倭種の国。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:25:28.56
418の>>874
>東遷説は、すべて根拠薄弱。 九州倭國から別れたなんて…<

大和説は、全て根拠薄弱。
「南≠東」や「冢≠前方講演府bb」を否定し、
倭国の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」を否定し、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
倭国の白村江での大敗の後で倭国を併合吸収継承した事も否定する、
という嘘つき騙しの・・・・詐欺師だから。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:26:03.79
畿内には万余の爺が居ても、たった一つの説しかない。
奈良のシカの一つ覚え。。。
センベイくれー
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 12:44:18.66
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:06:13.53
418の>>883
>それなら邪馬台国は<

「邪馬台国」なんて存在しない嘘つき騙し文言。

>会稽東冶の東<

「会稽東治之東」と書かれている。

>沖縄台湾辺りにあったと主張する気?<

女王國は九州島付近にあった、と主張する。

>陳寿はそう書いてるにだからな<

陳寿も九州島付近だ、と主張している。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:15:23.37
418の>>887
>卑弥呼が居る所は邪馬台国だよ<

邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言だし、
卑弥呼のいたところは、筑紫だよ。

>そして魏志倭人伝にはその墓は径百歩、約140mとある
これは箸墓の円墳部分に丁度一致するのだ<

魏使らの記録や陳寿の記載では、1里≒76.5m位だから、
「径百余里」は、1里=300歩に拠って、約25.5mになり、
だから、箸墓は、×。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:19:32.67
418の>>889
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、真の危機を迎えると、
類スレ主が突如さらに覚醒しさらに、
ものすごい大和説狂になったりして。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:28:19.00
418の>>894
後漢書倭伝の記載は、魏志倭人伝の記述とはかなり違う部分があり、
後漢書には漢と倭奴国の情報もあるけれど、
「後代の自己解釈に拠る書き換え」部分が沢山ある半分×書であり、
後漢書が×であっても、
だからと言って、魏志倭人伝×にならないだろう。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:40:37.78
418の>>898
>>大和は倭種の国。 <

>魏志倭人伝の記述を読め! 「皆」倭種だよ
対馬も壱岐も九州も大和も伊豆諸島も「皆」倭種だ <

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であり、
女王國は、半島南岸や海峡から九州島付近であり、
だから倭種は、中国地方から瀬戸内周辺だ。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:42:17.38
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している韓国人のキナイコシと韓国政府が雇用している韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシの頭と韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 13:52:33.21
418の>>901
>>卑弥呼が死んでから20年、30年のちの築造は、まず無いな。<

>土を盛るだけで10年以上かかるんだが?<

張政らは、「10年以上かかった」なんて事を記録していないな。

>殯も年単位でありそう <

張政らは、殯があった、なんて事も記録していないな。

>誤差を見積もれば、違うというのは不可能な年代差しか残らない<

要するに、
箸墓は、卑弥呼の墓ではないし、
纏向は女王之所都ではない、という事だな。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 14:03:22.90
418の>>904
>>基線の測距は数百m位であってもあって概算は出来るし、<

>(現代基準の測距器があれば計れなくもないが、当時1度以下の角度が正確に測れると思うか?ww
測れるって言うんだろうなww ザラコクだからww <

両端からの見通し線が区別出来たら、作図が可能だから、
見通し線が底辺長の何倍かを計測計算できるので、
対象までの見通し距離も概算出来る。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 14:08:05.49
測量したと言う人は実地でやって証明してね
当時の道具なんて日曜大工で再現できるでしょ
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 14:13:29.48
418の>>907
>>陳寿は、臨海郡という名前を出していないし、それが会稽郡の南にあるんなら、
「会稽東治」の場所とは関係がない。<

>自分で言ってたことを全否定ww 都合が悪くなると手のひらクルックルww<

お前が出した「臨海郡などの乗った地図」に関しては、
史料批判する材料がないから、保留中だよ。

>でも教祖の古田御大の言ったことは、どんなに明確に間違っていても決して認めませんww
それが儒教道徳者ザラコクの生き方!<

全くのバカだよね、類スレ主は。
私の論は、古田さんと全く同じではない、という事は、古田説を知っている人は、全員知っているはずだよ。
しかし、ここまで狂うという事は、
類スレ主も、最早末期症状にさってしまった、という事だな。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 14:33:45.54
418の>>909
>現代では、離れた所に建物があったら容易に見えなくなる、と言っているのだよ
当然、昔は糸島平野のどこからでも見えただろうね、それが何か?
尚更可也山を基準に考えただろう<

一度可也山の付近を車で通ったが、標高365m位では、
唐津からも背振山地の端に半分かかってしまって、区別が困難であり、
勿論前原〜糸島水道付近は全く見えず、
伊都国への目的地方向にする事も無理なようだね。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 14:54:08.23
また九州説がいい加減なことを言っているな
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 15:14:00.79
・倭は会稽の東
・朝鮮半島の東南の海を越えて上陸
・中国は会稽も朝鮮半島の場所も把握している

この事から考えられることは「中国人は倭は南に長い土地だと認識している」と言う事
現実の日本列島と全く違う理解をしてるのが分かる

実際の使節が往来した隋の時期に至ってもこの感覚は同じ
そしてこれは伝説の時代から同じ認識
つまり中国人は後の時代に至るまで倭の位置や形など理解してない事が分かる
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 15:25:54.79
北部九州説の糸クズは、どこまで行っても糸クズのまま、、
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 15:35:48.79
418の>>910
>これ、読めるかな?
「現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの」
>現状でこれより妥当な編年はないよ<

ダメだ。
学会教育界は、殆ど全員が「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説支持者であり、
国民の7割からも否定されており、
そんなものは、始めから根拠にならない。

>否定したかったら、これまでの「多数の学者の成果の集合知」を否定できるだけの
膨大な根拠と正確な論証を用意してね!<

既に「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態を提示してある。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 15:38:32.82
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 15:46:06.07
418の>>912
>>魏使らも陳寿も、女王國の事を倭種だとは呼ばず、
区別した書き方をしているんだよ<

>それが九州説に思い込み 海を渡った島も全部皆倭種だって書いてあるんだよ
そもそもからして倭人伝だろ? 倭種の人が倭人だよ<


いや、倭人伝は、倭人伝の中で、
半島から九州周辺の女王國や狗奴國を含む倭国地域と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とを区別しており、
言わば、倭人伝の倭人の中に、
女王國などを含む倭国と、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とが存在していて、
それらを区別している、という書き方だ。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 15:55:38.73
>>208
それは史料実態という美名で祭り上げた
ただの頓珍解釈
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:03:58.50
418の>>915
大和説者や類スレ主は、
「会稽東治→会稽」のインチキをするし、
「行程移動里数合計の萬二千余里が不彌國でほぼ終わっている」事を無視するし、
「水行陸行日数記載」は行程里数には関係のない数字である事を隠蔽するし、
その他の大和説にとっては都合の悪い記述も無視しないと成り立たないし、
距離は、部分的里数記載にだけに「短里→長里」にを捏造するし、
島巡りの記述も隠蔽するなどの無理読みの珍解釈。
魏志倭人伝の方角記述でも、「東南陸行五百里到伊都国」の東南は、
末盧国からの出発時点での出発方向説明であって、間違っていない、という事で確定 。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:07:32.89
>>210
古代中国は、異種族が混在していた。
それが常識だったから、少し離れたところある注目すべき東の国も女王国の倭人と同種だとことわったまで。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:10:59.63
418の>>917

>だから1尺20cm相当の周の時代のモノサシが見つかってるって
1寸2.3cmはどの時代でも変わらない
尺の長さは時代を下るにつれ少しづつ長くなっていく
周の時代の1尺は約8寸相当と漢の時代の人間も言っているし
それぞれその通りの周1尺20cm漢1尺23cmのモノサシも見つかってる <

ダメだ。
1尺=8寸だ、というんなら、そのように刻まれた尺寸定規を探してこい。
できなければ、1尺=10寸の10進法は変わらず、
谷本計算や一寸千里もそのままだ、という事だ。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:13:32.62
>>200
筑後山門あたりは、弥生終末期にも甕棺使っていた。
甕棺の場合、殯はしないだろう。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:15:51.45
>>918
>>降伏しなければ血の雨を振らせるぞと脅して国を奪ったんだろ?<

>でも、血の雨は降ってないぞww 半島や大陸とは文化が違うんだよ
縄文時代から広域流通、広域分業が成り立っている社会なんだよ<

神武は、近隣部族の首長らを「仲直りの宴会」と招待して飲ませ、
突然合図して、皆殺しにして、血の雨を降らせた。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:19:54.07
418の>>920
>だから漢の時代より後代の歴史家
魏の歴史学者が淮南子及び後漢書を下敷きにして
皇帝陛下への報告書を書いたんだよ
そして恐らく陳寿はそれに邪馬台国までの記述をつけ足した<

そんなインチキズボラをしたことが、
部下らや後続の張政らによって皇帝らにバレれば、
そりゃ、魏使らの首が危ないもの。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:25:09.58
418の>>921
>後漢書では
桓・靈間 倭國大亂 更相攻伐 「歴年無主」 有一女子名曰卑彌呼 
年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王
とある
卑弥呼の死亡どころか、卑弥呼の共立以前から九州の王なんていない状態が
何年も続いていたんだよ <

何だ?、大和説者は、
後漢書の記載を認めて、九州説の根拠にするんかい?。

それなら「邪馬臺國」はやっぱり九州にあったんだから、
「邪馬臺=ヤマト」の大和説は、×になり、破綻した。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:32:17.10
このスレで現行スレにレスが追い付くように待ってあげるべきかね
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:50:26.95
誰も読んでないバカの為になんで対応しなきゃいけないんだ
アホか
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 16:53:08.96
〜西暦57年 『魏志倭人伝』によると伊都国(福岡県糸島市)に代々の王がいた。平原遺跡がその遺跡。
西暦57年 漢から金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇誕生。首都は奴国(福岡県)
西暦57年 『新羅本紀』によると倭人が新羅の王になった。(金印「漢委奴国王」の影響力と思われる。)
西暦57〜181年 銅鐸文化の時代(欠史8代の時代)
西暦181年 第10代・崇神天皇。首都は大和(ここまでの間に首都が福岡から奈良に移った。)
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年 『崇神紀』によると倭国の人口の半分が死んだ。
西暦182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった。」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦183年 『崇神紀』によると渟名城入姫命の髪が抜け落ち身体が痩せ細ったので神を祀れなくなった(崇神天皇の娘も餓死寸前)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 『新羅本記』によると倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡った。
西暦181〜184年 大噴火の影響で大飢饉が発生。倭国大乱。中国では黄巾の乱が勃発。
西暦184年 奈良でモモソ姫に大物主神を祀らせたら五穀豊穣になった。スーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になる。新王朝が誕生し、銅鐸文化が消滅。
西暦200〜247年 『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(第11代・垂仁天皇、本名は伊久米)
西暦248年 『三国志』によると女王・卑弥呼が亡くなった。
西暦248〜266年 第12代・景行天皇の息子・ヤマトタケルが熊襲(熊本)の討伐に成功。ちょうど吉野ケ里遺跡(熊襲と倭国の国境付近の軍事施設)の衰退時期。
西暦266年 台与が朝貢した。

西暦266〜397年 記録が残ってないのか系譜が途切れたのかわからないが空白期間。大陸は戦国時代で倭もそれに参加して三韓討伐やってたようだ。 (神功皇后の神話時代)

西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。『三国史記』

※学者の間でも応神天皇は新王朝説は有力な説である。
※13〜14代天皇は空白期間を繋ぎ合わせるための架空の天皇と思われる。学者の間でも架空説が有力
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:07:18.26
奥山君 間違ってるよ
FAQ92は既に追加されてるよ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 92を追加
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:25:47.09
218の>>922
>なぜそう決め付ける?
まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <

正始4年は、「大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口・・・掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」
だけで、下賜品の記載そのものがないし、
正始6年は「詔賜倭難升米黄幢、付郡假授」だけだし、
正史8年も「遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」
と対象は魏の率善中郎將の難升米になっていて、卑弥呼になっておらず、
当然、下賜品もない。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:34:49.92
肥後熊本山門郷説:
東京帝国大学 白鳥庫吉・宮内庁文学御用掛 近藤芳樹

(倭女王卑弥呼考・白鳥庫吉著より) 
>本居宣長氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致し・・・、
>(しかるに)近藤芳樹氏は、倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべし、と説かれたれば・・・
>(この説は)尤も余輩の意を得たるものなり。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:39:33.31
九州説は100年前のレベルから進歩してないどころか
退歩していることが指摘されたのかな
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:41:37.62
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛で明治天皇のお側役も務めた近藤芳樹とは、
気脈を通じ、邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いたのである。
これは明治43年六・七月であったが、しかるべき由縁あってのことであろう。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:44:07.16
(近藤芳樹・略歴)
幕末明治期の国学者。
周防国岩淵村(防府市)田中源吉の長男。早くから上方に遊学して村田春門,本居大平,山田以文に国学,律令を学んだ。
天保11(1940)年長州(萩)藩士近藤家を継いで藩の和学方となり,萩に居を構える。
藩主毛利敬親に重用され,元治1(1864)年には藩校明倫館の教官となった。
維新後しばらく山口県庁に勤めたが,明治8(1875)年宮内省に出仕して文学御用掛に任じられた。
明治天皇の東国行幸,北陸行幸に供奉して『陸路の記』『十符の菅薦』の供奉日記を著す。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:53:46.39
肥後熊本山門郷説の東京帝国大学 白鳥庫吉・宮内庁文学御用掛 近藤芳樹に対し、
「南は東の誤記」であったとして激しく反論したのが、
畿内大和説の京都帝国大学の内藤湖南であった。
以来百余年、ご承知の邪馬台国論争がつづいてきたわけだが、
畿内説も進歩なく、近年ついに箸墓撤退の始末。。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:54:48.62
418の>>926
>纒向型前方後円墳から前方後円墳へ移行し全国に拡大していく時期が卑弥呼の時代、
三世紀と重なるのは興味深いな
卑弥呼の時代というか卑弥呼の死後まもなくというか <

始めから、判断がクルっている。
卑弥呼の墓は、冢であり、前方後円墳とは全く違うのであり、
大和で最も早い頃の石塚が前方後円墳であり那珂八幡よりも新しいから、
3世紀末であり、卑弥呼の頃とは全く重ならない。

また、大和に前方後円墳が出来たのは、
当然九州倭国の「東征毛人五十五國」があったからであり、
その将軍らは、那珂八幡の前方後円墳部族の東征将軍であったんだろう、
という事になる。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 18:54:59.95
>>224
見つかる三角縁神獣鏡には複数の年号が記銘されてるから
当然下賜も複数回あったろう
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:02:01.75
>>226
ま、あれだ。
すでに明治43年の時点で、
東京帝国大学と宮内庁は倭人伝を読み解いていたということだ。
それに逆らった畿内説は、身の程知らずのトンデモ・・。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:03:10.61
>>24 
FAQ23-1
「箸墓は築造過程で円丘と基壇部のみの前方部からなっていた時期がある」は、テンプレ主によって何度もコピー表示される一文であるが、その“時期”とはいつのことなのか、またその根拠はなんなのか、一度も明確に示されたことがない。
主張するだけなら誰でもできるので、テンプレ主はその時期と根拠を一度明示するのがよい。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:11:45.96
>>198
魏晋1里=434m
千余里=434km
434km=大和
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:19:17.57
>>234
>東大は九州説引っ込めたぞ

もう、東大とか京大とか言う時代じゃないんだよ。  自然科学的分析考古学は残酷。  @阿波 
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:23:36.79
>>234
ま、どうせそのうちくたびれるだろうと、畿内説に暴れさせた。
そして100年後・・、
畿内大和説は、あえなく撤退(いわば、ひとり切腹に追い込まれたわけだ)。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:33:45.72
>>232

江戸時代の国学、明治時代の国粋主義は皇国史観が正統な歴史観だからな
皇国史観では卑弥呼は九州の女酋だから
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:42:26.96
>>173
畿内は普通に存在してるし
東→南は陳寿がそう書いたから
卑弥呼の墓は冢
三角縁神獣鏡は各史書に書いてある
卑弥呼が魏に使いを送った年景初3年の銘が入っている
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:45:28.69
>>238
そうだったらいいのにね
実際は考古証拠科学的分析の結果が積み重なって
九州説は木っ端微塵
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 19:51:19.52
>>175
淮南子が後漢代記録とは違う事を記載していても
だからといって魏志倭人伝がそれら2つを下敷きにしなかったとは言えない
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:00:46.19
>>242
古代三世紀には、道もブツも歴然とどこかにあったのに、
1700年たって、それらの証拠物件はすっかり薄れてしまってるわけだ。
それを発掘によって再現するには、時間もカネも根気も必要だ。
南は東の誤りだーーー、のように、大声を張り上げて、論敵を片づけてしまってはなるまい。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:03:48.01
世界教師マYトレーヤ「放射能の影響で免疫力が崩壊し、人々はインフルエンザに罹りやすくなっています」
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:05:08.40
>>244
畿内にはしっかりとブツが残ってるが
九州には何でないのかな
ちなみに魏志倭人伝に書いてる通りの道のりを辿れば
着くのは沖縄辺り
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:12:39.64
>>246
確かに、沖縄辺りという解釈もできよう。
しかし、読み方によっては、筑前筑後にも、肥前肥後にもなりうるというわけだ。
さて、どこが正解なのかな・・、
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:18:26.14
>>247
魏志倭人伝に邪馬台国は会稽東治(冶)乃東と書いてある
会稽東治(冶)乃東は沖縄や台湾辺りを指す
少なくとも九州北部は指さない
そうなると邪馬台国は魏志倭人伝が指してるから沖縄だとするか
それとも距離記載は間違いだから物証で見て畿内だとする他にない
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:26:29.00
>>247

沖縄も筑前筑後にも、肥前肥後にもなりうるなら
パズルじゃ比定できないんだよ
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 20:30:31.83
明治時代なのに「宮内庁」とか平気で書き続けているバカに歴史を語る資格はないな
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 22:38:57.37
418の>>932
>その東夷に、九州説のいう東夷伝里も短里も「使う人がいない」ww <

変な文を書く人間だなあ。
こりゃ、類スレ主が、ちょっと脳がおかしくなって来ているようだなあ。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:05:06.53
418の>>942
>畿内説は500枚全部が魏鏡だなんて言ってないんだが?
三角縁神獣鏡のうち「最初期の鋳上がりのよい『斜縁』神獣鏡」が魏鏡だって話<

www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に拠れば、
「吾作明竟」の斜縁神獣鏡は、楽浪系の鏡であった、
ように書かれているよ。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:12:24.99
418の>>945
>方角記述は間違うときは間違うことが実証されたってことだ <

魏志らも、陳寿も方向なんか間違えないよ。
「東南」は、
末盧國からの(目的地方向ではなく)出発時点での出発方向であでのった、という事だ。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:20:58.19
>>233
テンプレでは、その時期と根拠が明示されてるな
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:22:48.97
418の>>951
>なぜ? 九州倭国に権威がなくなったから「歴年無主」になったんだぞ?
昔の秩序では収まらないから新秩序が模索され、その結果新しい女王・卑弥呼が共立された<

いや、共立女王は、
(道のり里数合計が萬二千余里にほぼ達した)不彌國のすぐ南にある邪馬壹國に、
「女王之所都」した。
大和に女王之所都したのではない。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:32:08.08
>>253
それ、九州説のアマチュアさんの個人ホームページ上での意見だろ
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:32:56.69
>>253
>「吾作明竟」の斜縁神獣鏡は、楽浪系の鏡であった、
ように書かれているよ。

「楽浪出土鏡に似ている」としか書いていないな
なぜ「楽浪系の鏡であった」にすり替えるのか?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:37:32.86
418の>>952
>「邪馬台国時代の遺物の出土状況
 http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
に対するコメントだよ
弥生時代500年超の積算><

卑弥呼や壹與の頃は、九州はまだ前方後円墳時代ではないから、問題ない。

>弥生終末期とは関係ないものがほとんど<

弥生期として十分。

>しかも、平原1号墓出土鏡の仿製鏡まで舶載鏡に数えるというインチキもしてる <

平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、明らかに明帝の下賜鏡であり、
舶載鏡だよ。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:42:03.12
418の>>954
>九州では強力な国は誕生しなかったから<

伊都国の一大率がいて、強力であった。

>畿内の邪馬台国に調停を頼んだのだろうな<

「南≠東」に拠って、関係がなく、×。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:46:56.86
>>255
まさか。
ちゃんと、西暦で答えてみろ。
その西暦の時期に、円丘と基壇部分だけだったというその根拠を書いてみろよ。
わははははは。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:47:36.49
418の>>956
>どんなゴマカシを思いついたところで、837年の遣唐使で唐会要の倭国伝に
薜原朝常嗣と記録されている藤原朝臣常嗣は畿内大和朝廷の貴族だ
畿内大和朝廷が倭国であることの証明でしかない <

どんなゴマカシを思いついたところで、
薜原朝常嗣は、倭国使であると名乗ったから、唐は、倭国使として記録し、
唐会要は、倭国使節だとして記録した。
それが史料実態だ。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:49:34.64
>>247
筑後山門。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 23:55:20.41
418の>>957
>ほう なら会稽東「治」は存在しなかったと認めるんだな?<

認めないよ。陳寿の地の文での証言、という史料事実だから。

>それなら魏志倭人伝に記されてる邪馬台国の位置は <

邪馬台国なんて、史料に存在もしない嘘つき騙し文言だから、×だ。

>後漢書に書かれてる会稽東「冶」乃東で沖縄台湾辺りという事になる<

後漢書は、「自己解釈に拠る書き換え」をする半分×の後代史書だから、
論拠にならないよ。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:02:11.82
部外者にはわからない事なんだろう、
それとも関係者なの?


何度も書いているけど、
家は『松傾』こういう名前の家なんだけど
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:06:05.94
>>980
≫漢時代の淮南子にこの世界の果ては1万2千里と出てしまってる以上
魏志倭人伝の1万2千余里はそれを踏襲したと結論付けざるを得ない
つまり帯方より南1万2千里は邪馬台国までの距離を記したものではなくて
漢時代からの万里の修交を謳う目的で
邪馬台国は万里の彼方にあるとするための符牒的な数字≫<

「余」があるから、魏使らは実測しており、
淮南子を踏襲する、という事をして部下や張政らに確認されてインチキがバレれば、
魏使らの首が危ない。

現代の「尊宅した厚生省の役人ら」などのように。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:07:19.03
伊達郡の川俣町という掲示板、読んでみた?

『ほむた』?が〜・・・、
みたいな事を言っている人がいたり、
家も、むかーし、その辺りに住んでいたんだよと言っているし
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:10:08.65
418の>>981
>sp8で判明したのは主に京都出土のたった8枚のうち
古い6枚の成分が中国由来というだけ
古い銅鐸も同じく中国由来が有るが中国産と言う人はいない
中国から材料輸入して鋳直しただけ <

ふーん、成程。
そんなことであったのか。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:20:44.46
418の>>987
>鋳直した鏡は複数素材の混合の国内コピー品と
測定結果が出てるよ
従来から文様などで舶載品、渡来品であるとされていた
三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と成分が一緒と測定結果が出た<

△は、「海東」鏡や「徐州銅」鏡に拠って、
呉系楽浪鏡師らの手元持ち込み銅や、銅鐸銅の鋳直し△。

それで、類スレ主や、何故、「京都の△」の話に反論しないの?。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:23:39.04
>>269
「京都の△」の話とは何か意味不明
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:25:56.42
『松傾』・・・?

先住民なんだろうという話をしている人がいたりw
本当に東北地方のほうに住んでいたと言っているし
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:26:55.33
>>261
全部ちゃんと書いてあるから読んでごらん
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:28:24.05
418の>>989
このスレで行われてる事は、大げさに言えば、
戦前の万世一系皇国史観の、人種差別的殺し合い戦争狂のヤクザ暴力団や学会教育界や、
右翼マスコミや安部自民や、儒教大和説学者らによる、
国民の7割や人類への犯罪。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:30:48.52
銀〜・・・という漫画があるでしょ?
どこかの民族のような衣装を着ていたり


老婆の言っている、
銀〜というのは『松傾』?こういう名前、上の名前w
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:33:07.78
418の>>992の訂正
九州の前方後円墳は、わかってる所でも那珂八幡などが最古もであり、275年頃。
ホケノの副葬品に方格規矩四神鏡はあっても、卑弥呼か壹與からの下賜された鏡片。
239年伝来の三角縁神獣鏡もないから恐らくはそれ以後。
それから考えると、大和の庄内や前方後円墳は、
3世紀末頃の、石塚から後。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 00:40:37.44
418の>>995
人類犯=戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観の唯我独尊殺人狂の儒教大和説
大和説は一言で言うと、
「南→東」などの嘘吐き騙しの、学問や科学や人類の常識に対する冒涜だな

・・・・非常識は大和説
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 01:35:27.91
>>275
>九州の前方後円墳は、わかってる所でも那珂八幡などが最古もであり、275年頃。

その年代、あなたの希望だけでしょ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 03:47:01.51
>>243
------------
>>175
淮南子が後漢代記録とは違う事を記載していても
だからといって魏志倭人伝がそれら2つを下敷きにしなかったとは言えない
------------


迷路に入り込んだようだ
逆も言える

「魏志倭人伝がそれら2つを下敷きにしなかったとも言える 」
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 04:01:05.53
>>1の主張はいかでいいのか?(どうせ何処からかの引用だろうが)

箸墓は円墓であった
使者が見たのは円墓
前方部は倭人伝以降に作られたものである
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 04:07:57.00
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)

???????????????????????????????????????????
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 04:50:43.19
庄内0  AD177+18   纏向石塚
庄内1  AD222     二口かみあれた
庄内2  AD240     下田
庄内3  AD258     二口かみあれた
布留0
布留1
布留2
布留3
布留4  AD389     宇治市街 須恵器

庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
布留0古相時期に建造開始の箸墓がAD258より古くなることはあり得ない。
つまりAD248に死亡した卑弥呼の墓ではない。

アホの>>1


アフォの〜>>1
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 05:30:30.83
>>276
>人類犯=戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観の唯我独尊殺人狂の儒教大和

こんな呪詛のような怒号を
朝から晩までわめき続けてる人の
言うことが常識だったら怖すぎるよこの世界
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 05:50:48.29
>>282
ザラコクは
南≠東は執拗に叫び続けてるが

南→東の明快な答えを出した学者はいない
誤認?誤写?誤情報?
いずれにせよ、
畿内説のスレとしては、行程は他説批判に徹するしかないのだろうか?
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 05:53:55.30
人類犯=戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観の唯我独尊殺人狂の儒教大和説者が創った虚構が九州説。

大和朝廷が中国に朝貢してたなんて言えなかったからな。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 05:55:59.97
>>284
同類相哀れむかな?
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 05:59:32.71
>>285
自分の吐いた言葉がそのまま自分に返ってくる典型さろうな。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:11:01.23
>>281
二口かみあれたのAD258が
庄内3だって根拠がないね
情報の出所を出してみな
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:12:23.55
>>283
イミフ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:12:38.98
大きな墳墓が出来てから本人が死んでくれたら話は早いが、
想定より早く死ぬこともあったであろう。
その場合はまず埋葬してから墳墓にするということもあっただろう。
どこか忘れたが墳丘のえらく深い場所に埋葬施設がある古墳があったはず。

しかし卑弥呼は高齢で死んでいる。
墓はとっくに完成してただろう。
円墳を先に造って遺体を埋葬してから後方部を造ったなんてありえない。

>>1が箸墓の円墳を先に造ったと主張するなら、箸墓は卑弥呼の墓ではないという事だ。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:15:22.10
>>287

森井、森岡編年。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:40:10.05
おっと森井さんは河内編年だった。
では森岡編年ではどうか。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/morioka.png

布留0という指標は庄内3と布留1の間あたりにくるのだろうから、
どちらにしても「二口かみあれた=AD258」より古くはならない。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:49:06.23
419の>>94の追記
>それで3世紀中葉の卑弥呼の時代には
九州と畿内の文化的繋がりがすでにあったと見ているけれど<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるが、
大和伝承では、やはり天孫族のニギハヤヒが先住らは共存していて、
そこへ神武らが入植し、その後の欠史八代の頃は、
九州倭國の「地方の市を監督する大倭職」の地位を誇っていた。
そして、崇神の少し前から、
九州倭国の(伊都国の天孫族系だけではなく)卑弥呼の姫氏系も東征に参加し、
崇神らがその東征(三道将軍や四道将軍)に従軍して支配地を広げ、
景行は南九州征伐に従軍し、倭建命も熊襲戦や関東遠征に従軍したらしい。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:53:02.10
>>278
1万2千里や裸国や黒歯国や会稽東治(冶)乃東など
淮南子や後漢書に出てくる言葉が出てくるので
魏志倭人伝はそれらを下敷きに書かれたと言える
ふう迷宮は脱出できたようだ
そもそも迷宮でも何でもなかったけど
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 06:57:36.19
>>283
東にある邪馬台国を
陳寿が晋皇帝を奉りまた権威を高めるため南と書いた
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 07:01:15.46
419の>>95
>>(大和盆地内では)婚姻を通して「共存」状態であって、<

>首長層の間の婚姻関係も、卑弥呼共立でまとまったことの背景の一つだろう<

「南≠東」などに拠って×。

>>欠史八代の中の4人には「大倭」の号が付けられているから、<

>九州には、倭も大倭も、地名にも人物名にも一切ないんだけど?ww
九州倭国なんてないんだよw <

姪浜付近や肥前や筑後の「大和」の呼称の淵源は、
やはり「大倭」であったんだろう。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 07:24:32.00
419の>>99
>九州説は鉄が大好きだけど、鉄があるところが都なんていう話はない
弥生時代最大の鉄器生産工房の淡路島の五斗長垣内遺跡が邪馬台国だって言うやつはいないだろう?<

淡路は、やはり元は出雲系であり、そこへ天孫族系の国生み神話の渡来があり、
播磨と阿波とホケノに鏡片が出土しているから、
卑弥呼らの姫氏系の 鉄器製作地になっていた可能性が高い。

>そして何度も言うが、筑紫山門には七万戸の国を想定すべき遺跡はないし、
弥生末期はまだ海に半分浸かっている状態で、陸化した部分も筑後川が
運んだ砂が積もった軟弱地盤 水行陸行も説明できないし、投馬国も置けない
筑後山門はむりぽ <

おそらく、福岡平野〜筑紫平野付近の7万戸の邪馬壹國内の地。
火の国山門に渡来した姫氏と肥前方面に渡来した徐福系など、
いくつもの部族の混在地であった。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 07:28:33.35
根拠の提示もなく
おそらく
だろう
ってのは妄想という事だな
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 07:30:42.61
桜井市が観光に力を入れるのはわかるが
誇大PRはだめだ
未解決の歴史を捏造すれば桜井市民の恥


卑弥呼は実在の人物で桃太郎とは違うのだから
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 07:35:40.44
>>298
奈良盆地よりまし
畿内を含めても耕作面積は福岡平野〜筑紫平野の数分の1
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 07:37:07.77
>>299
桜井市は観光と教育のはざまで揺れ動いていねーか
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:12:10.81
九州のほうが上でしょ。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:15:28.68
そもそも生前から巨大墳墓を作るなんてことは古墳時代ではあったかもだが、弥生時代の卑弥呼にはなかっただろ。
郡使も最初の派遣の時にもう墓を作っていたとは書いてない。
テンプレ通りならすでに建造が始まっていたことになる。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:21:04.65
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:37:24.08
>>292

二口かみあれた遺跡の柱材の年輪年代AD222とAD258を
それぞれ庄内1と庄内3に並行させてる根拠は何?
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:37:26.65
>>306
北部九州が畿内に負けてますな

w
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:37:39.63
>>306
理論的に正解である
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:38:52.03
>>308
どこまでを北部と呼んでいるのやら。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:40:55.10
筑紫、豊国、肥国で畿内のおよそ倍かな?
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:42:51.46
江戸期の石高だともっと差が開くな
畿内は耕作地は狭すぎ
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:43:51.14
>>306

出挙は地方の開墾が進められた時代だから

東海道 10,640,176
東山道 7,305,418
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:46:52.53
なんで尾張は古代に天下を取れなかったんだ?
いや、取っていたけど黒歴史にされた?
纒向とかどう見ても尾張の傘下だしなあ。
熱田神宮が三種の神器を持っていたりするし。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:50:27.71
要するに、卑弥呼が王になったのは国許に田んぼが多いからじゃないってことさ
倭人伝に書いてあるとおりだ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:50:56.42
律令上、租税の中でも正税は、地方機関(国府や郡家)の主要財源とされていたが、
正税徴収には戸籍の作成、百姓への班田など非常に煩雑な事務を必要としていた。
しかし、公出挙であれば、繁雑な事務を行わなくとも多額の収入を確保することができたので、
地方機関の多くは百姓に対する強制的な公出挙を行い財源としたのである。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 09:54:00.39
>>315
>倭人伝に書いてあるとおりだ

どこにも書いてねえよw
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 10:06:55.32
出挙というのは、農業生産の推進のために
国が本稲を農民に貸し出して利息を取る制度なので
稲作開墾が遅れていた地域が出挙稲数が多い
稲作に向かなかった黒ぼく土分布地域と重なる
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 10:12:59.74
>>292
>では森岡編年ではどうか。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/morioka.png
>布留0という指標は庄内3と布留1の間あたりにくるのだろうから、
>どちらにしても「二口かみあれた=AD258」より古くはならない。

ほら、九州説のインチキはすぐバレる
森岡の表に庄内3など書いてないだろ

森岡の分類は弥生終末(=庄内)を3期に分けていて、その新段階が布留0相当なので問題ない
森岡の言う中段階が庄内2と3だ
そもそも二口かみあれたというのは畿内じゃなくて能登半島の遺跡なんで、庄内3か布留0か安直に一線を引く方がおかしい
庄内3と布留0は同時に存在していて、庄内3を使い続けてる地域もある(というより庄内やその同時代の各地の土器分布の中に布留0が斑点のように拡がっている)からだ
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 10:34:40.68
・倭は会稽の東
・朝鮮半島の東南の海を越えて上陸
・中国は会稽も朝鮮半島の場所も把握している

この事から考えられることは「中国人は倭は南に長い土地だと認識している」と言う事
現実の日本列島と全く違う理解をしてるのが分かる

実際の使節が往来した隋の時期に至ってもこの感覚は同じ
そしてこれは伝説の時代から同じ認識
つまり中国人は後の時代に至るまで倭の位置や形など理解してない事が分かる

なので方角だの距離だのを持ち出して邪馬台国の比定など不可能
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 10:47:18.64
>>320
箸墓が卑弥呼の死後しばらく期間を置いてから作られたことがよくわかりますね。
畿内説は卑弥呼死後の西日本の変動を少し前倒しして誇張しているわけですね。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:00:54.76
>ほら、九州説のインチキ

九州説というか、「アフォの〜>>1」と書くのは斜面爺
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:02:40.59
それは常套句みたいなものだろ。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:03:11.34
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:05:37.15
自作自演アホの>>1
自作自演アホの>>1
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:08:33.76
アホの>>1
アホの>>1
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:09:30.60
>>325

この、高鴨地域で指名手配されてる立小便爺さんのセリフが「アフォの〜>>1
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:16:18.41
419の>>103
「南→東」などのように、
方位を何が何でも間違ったことにしたい大和説は
伊都国や末盧国を好き勝手に移動させてしまうし、
果ては「会稽東治まで会稽に移動」させちゃう。
滅ぶはずだよ大和説。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:19:20.25
>>322
なんで理由もなく「わかります」のかね
九州爺は脳の構造が常人と違うのかな
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:22:39.17
>>329
>果ては「会稽東治まで会稽に移動」させちゃう。

は?

会稽東治が会稽郡の外にあったなんて
頭のおかしい人の口以外から聞いたことがない
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:38:05.36
自作自演アホの>>1
自作自演アホの>>1
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:44:15.90
斜面じいさん又も速攻論破されて発狂してるのか
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:49:49.57
九州説は自スレを盛り上げたら良いのに
ここに書き込む九州説自体主張がバラバラなのだし
九州説同士で話せよ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:50:54.59
何かといえば皇国史観を振り回す大和説は
一日中といわず、一年中発狂してるようだな、、、
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:56:20.30
ここは畿内説のおかしさを批判するスレだよ。
どうせ九州説の中身を詳しく書いてもついてこれないだろ?
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 11:57:15.46
ニュー速+のスレ読んできた

・考古学者の言う事は信用できない
・だから奈良の遺跡もみんな嘘
・神武東征神話に基づくと九州から関西に移動した
・田舎の奈良が日本の中心のはずがない
→だから邪馬台国は九州  ということだそうだ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:01:46.58
畿内説が皇国史観だなんて、そんな嘘ネタがどっから湧いて来るんだろうな
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:02:02.27
まあ悲しい事に大多数の人はそこまで興味もないんだろうけど
ずっと争ってるんでしょぐらいで
色々面白いのにな
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:05:29.91
>>336
どこがおかしいか?
おかしいのは九州説だろ
九州説の詳しい中身なんてどうせ距離は短里だから邪馬台国は九州だぐらいだろ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:15:28.52
シンプルに何も知らない人を納得させるには
邪馬台国とは大和国のこと
卑弥呼の時代の中国の鏡三角縁神獣鏡が畿内でたくさん見つかる
卑弥呼の時代3世紀の物の直径100m以上の前方後円墳が
畿内に複数ある
学会では畿内ですでに決着がついてる
こんくらい言っとけば大体納得してくれるだろ
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:17:49.20
>>343
> 邪馬台国とは大和国のこと
九州にヤマト(山門)がある こっちが発祥

> 卑弥呼の時代の中国の鏡三角縁神獣鏡が畿内でたくさん見つかる
> 卑弥呼の時代3世紀の物の直径100m以上の前方後円墳が
> 畿内に複数ある
3世紀とは限らない だって考古学者は嘘つくから

> 学会では畿内ですでに決着がついてる
学会は信用できない

はい論破
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:21:54.27
>>342
皇国史観によれば、神武は紀元前の5〜6世紀に大和へ至り、政権を樹立した。
だから、皇統に属するモモソが卑弥呼だと主張しているのではないかな…

九州説は、その神武が去った後の空白地帯に、
2-3世紀になって邪馬台国女酋長を中心とする強力な国々が興ったといっているのだ。
明らかに、皇国史観の外だ。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:24:24.24
>>344
九州の山門は畿内の大和に比べて前方後円墳もなければ三角縁神獣鏡もない
九州説は短里とかウソをつく
はい論破
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:25:48.50
>>346
考古学は嘘

はい論破
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:27:45.75
>>345
それで中国に朝貢したのはその九州の女酋長と
偉大なる皇祖は中国に朝貢などした事はない
戦時中の皇国史観
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:30:57.51
>>345

畿内説は紀元前5〜6世紀に王権が樹立されたという説ではない
2-3世紀になって九州に女酋長を中心とする強力な国々が興ったというのは作り話
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:31:19.50
短里がウソという事は九州説は嘘をついていて
考古学は本当という事だな
なるほど
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:32:12.46
>>345
そンなこと主張してる畿内説はいないから
九州説は今日も作り話に明け暮れる
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:35:18.58
・倭は会稽の東
・朝鮮半島の東南の海を越えて上陸
・中国は会稽も朝鮮半島の場所も把握している

この事から考えられることは「中国人は倭は南に長い土地だと認識している」と言う事
現実の日本列島と全く違う理解をしてるのが分かる

実際の使節が往来した隋の時期に至ってもこの感覚は同じ
そしてこれは伝説の時代から同じ認識
つまり中国人は後の時代に至るまで倭の位置や形など理解してない事が分かる

なので方角だの距離だのを持ち出して邪馬台国の比定など不可能
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:36:44.41
>>350
ならばなんで欠史八代の一女モモソの墓が卑弥呼の墓なのか??
皇統と絡めているのは、まさに大和説ではないか
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:38:31.23
皇統と卑弥呼が絡んだとして
皇国史観と何の関係があるのか
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:43:39.33
皇国史観をベースに置くということは、
万世一系・皇統以外は認めることはないということ。
つまり、天上天下、すべて皇統の人物であったという結論にならざるを得ない。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:44:57.95
皇国史観は皇紀2600年とかしてるけど
畿内説的に見れば神武東征による初代天皇即位は
西暦180年頃と推定されるので反皇国史観的とも言える
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:46:03.21
>>354

白石のはモモソが卑弥呼じゃなくて
箸墓の伝承として残ったのだろうということだろ
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:49:53.73
>>357
それはただ単に、皇統史観の年次を微修正したに過ぎない。
ベースはあくまで皇国史観だ。

反皇国史観といいたいのなら、皇統以外に有力な種族がおり、其の国もあったと主張すべきである。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:50:23.12
>>356
万世一系と畿内説は根本的に別のもの
万世一系を論じるなら欠史十代の頃の系統がどうとか
そういう話だし別のスレでする事
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:53:36.91
>>359
そうかな?
皇紀は2600年じゃなくて1900年ぐらいだし
皇祖は中国の臣下だった
戦中なら不敬罪で銃殺ものだと思うけど
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 12:58:54.98
大和説のは、皇国史観ではなくて、神話史観とでもいうべきだな
ただに高天原神話を信ずるかどうかで、コウコクシカンかどうかを判断している。
全く無意味。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:02:29.35
いや畿内説は考古物証及び科学測定結果及び
淮南子後漢書魏志倭人伝その他各史書統合史観だけど
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:05:52.30
419の>>110
>インチキ単位を使えば結果もインチキ<

「南→東」などのような、
インチキ方位やインチキ里距離を使えば、
結果も、大和説はインチキ。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:06:51.53
九州説は短里の1里76.5m
これを均して66.6
666の悪魔説
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:12:43.89
419の>>111
>間違ってる理由が無いから正しいことを前提にしないとな
何でも間違いじゃ議論にもならない
魏志倭人伝の記述を基に現実と照らし合わせて各国の位置をすべきですね。<

同時代史書の魏志のような、
信頼性の非常に高い史料事実を理由や基準にして、推論しなければ、な。
大和説者のように、「何でも間違いだ」では議論にもならないし、
一種の宗教的な・・・・だ。
魏志倭人伝の記述を基に現実と照らし合わせて各国の位置をすべきですね。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:19:20.25
>>362
まったく証拠を出さない九州が
またイイカゲンなこと言ってるな
神話なんて使うのは九州のゴミ東遷説だ
畿内説には関係ない
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:19:52.86
大和の邪馬台国がそのまま成長して大和朝廷になった事はほぼ疑いがない

ただその系譜については当然史書と同じであるとは限らない
そんなことは別に言うまでもない事
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:20:02.61
九州説は千差万別だけれども、玄界灘を高天原に比定したり、
三種の神器の発祥や神武東征を根拠にした作り話
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:25:42.75
奈良県
櫛羅(くじら)藩(奈良県御所市) 1万石
小泉藩(奈良県大和郡山市)    1万1千石
芝村藩(奈良県桜井市)      1万石
高取藩(奈良県高取町)      2万5千石
柳生藩(奈良県奈良市)      1万石
柳本藩(奈良県天理市)      1万石
大和郡山藩(奈良県大和郡山市) 15万1千石


熊本藩だけで52万石
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:28:44.96
419の>>112
>まあ、タタラ跡と判断されれば製鉄跡であるのはまちがいないんだろうが、現時点では
「タタラ製鉄は六世紀から」とされていて、
三菱金属のウェブサイトのタタラ製鉄のページには ・・・<

また、変な記載だねえ。
この男(類スレ主?)や「三菱金属のウェブサイト」は 、
魏志の「國出鐵、韓、wai、倭皆從取之」や、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」の
鐵と採取や使用例を、どう説明するんだろうかねえ?。

三菱金属と言えば、当然政府や大和説文部省の言いなりなんだから、
始めから、全く信用できない会社なんだろう。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:38:05.02
畿内説の倭人伝に基く確実な物証は何もない
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:39:31.41
そもそも大和に成立した邪馬台国は弥生時代のヤマトが成長して出来た国ではない

周辺国が連合して「大和に中心を作ってできた国」
なのでここが日本最強でも日本で最も栄えた場所でも何でもない

地理的な面で中心地として新たに都が作られた土地
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:40:22.54
>>366
>大和説者のように、「何でも間違いだ」では議論にもならないし、

それからして既にデマ
証拠に基づき個々に真偽を考証している
なのに九州説は反論もしない
畿内説の言うことを問答無用でウソウソと叫んでる
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:41:16.58
419の>>113
>方角が間違っている理由 つ https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg
末盧国が定説通りの唐津平野とすれば、伊都国は北東 インチキをして呼子にしても東
呼子からは可也山が見えるから、呼子からでも南東と認識することはない <

「東南」は末盧國出発方向であるから、唐津からでも、呼子からでも、東南になり、
魏使らは間違っていない。

>距離が間違っている理由
つ http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/matsurakoku.gif
遠回りすると、距離が半分になるという“不思議”ww <

これも、到着地や出発地点のゴマカシだな。
末盧到着は、おそらく唐津港。末盧出発は、西唐津駅付近。
だから、距離もあって、2倍になどならず、大体合っている。
類スレ主は、・・・・詐欺師。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:41:29.76
>>372
何もないという証拠は?
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:44:33.03
>>375
>これも、到着地や出発地点のゴマカシだな。
>末盧到着は、おそらく唐津港。末盧出発は、西唐津駅付近。

理由も言わない九州
たいした遺跡もない西唐津に来てすぐ出発とは、何をしに来たんだ?
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:45:48.04
419の>>115
>妄想が どこまで行くか 九州説 <

「南→東」などのような、
史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐き騙しの妄想が、 
どこまで行くか?、・・・・大和説。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:48:23.13
大和説は、上陸早々から違う方角に陸行せよか、
そりゃ立派な詐欺師www
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:49:46.15
邪馬台国が大和に新たに作られた中心地であるとするならばその女王たる卑弥呼の存在については大いに謎が残る

大和からの自生なら大和の女王がそのまま推戴されるだろうが、大和が地理的に選ばれただけの中心地となると話が変わる
どこの誰だか全く分からない事になる

卑弥呼の出身地については邪馬台国に文化的諸要素を組み込まれている地域全てにその可能性があると言える
ただ、一大卒と言う監視員を置かれて属領的な扱いを受けている九州の可能性は低いと考えられる
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:50:08.47
>>373
2行目からは普通に妥当であるが、1行目の「大和に成立した邪馬台国」は、何かの間違いかな。
邪馬台国は、九州筑後山門。
そもそも、倭をもってヤマトと読むのは漢字渡来後のこと。
それ以前に、奈良がヤマトと呼ばれていたという証拠はない。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 13:57:41.89
419の>>116
>地理の基礎知識もないやつが、九州北部は広い(筑紫平野が)とか、奈良は寒いとか
言い張るからな。ひどいのは奈良湖がある!とかw
古代の海岸線を示しても、無視するか学者の捏造だとか。<

「南≠東」などのような、
史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、人類の常識も知らない・・・・大和説者が、
福岡平野や筑紫平野や佐賀平野やや筑後〜熊本平野は、狭いとか、
奈良は寒くないとか、湿地帯ではないとか、
古代の海進と海退の繰り返しであった事を無視するとか。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:00:21.88
>>346
前方後円墳や三角縁神獣鏡の存在が邪馬台国の存在を証明しないことは、すでに確定しているが…。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:02:57.72
419の118
>>奈良が栄えたのじゃなくて、相対的に九州が衰えたというか西日本が伸びたのだろうな。
お馬鹿なやつは、雪をバカにして雪が降る地域をど田舎だとか遅れてるとか主張するけど。
記紀の記述は具体的な地域は、出雲、ヤマト、越、尾張、丹波、吉備が多くなる。
というか、神武東征以降、九州の具体的な地名は出てこない。
征服する場所としては出てくるが、ヤマト王権の主要な構成員の中には出てこない。
現在は「ど田舎」扱いの土地が、当時は重要だったわけだ。 理由は、「水」だ。<

理由は、簡単だ。
記紀は、九州倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作した、半分偽史書であったから。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:08:53.93
>>295
無視。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:13:08.00
>>289
卑弥呼は、甕棺で葬られた可能性がある。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:19:38.07
卑弥呼は、塚に葬られた可能性が超大である。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:19:42.22
>>383
誰がどうやって確定させたの?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:21:24.28
卑弥呼は、肥後熊本に葬られた可能性が超大である。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:21:55.12
>>381
地形由来の地名だから変更は無理
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:25:31.88
>>387
卑弥呼の墓は、外周の甕棺K1だ。
墳頂の石棺は偽装。
盗掘や大和による破壊を恐れ、偽装したのだ。
だから、卑弥呼墓は裾部の甕棺K1だ。
偽装のおかげで、現代まで残った。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:29:08.50
>>360
皇国史観とは、
万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方のことである。
『古事記』・『日本書紀』の神話部分をも歴史的事実とすることを一つの特徴としている
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:30:21.57
>>393
つまり九州説だね
畿内説には関係がない
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:31:47.73
>>390
理由もないのに可能性は大きくならないよ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:32:50.68
>>391
九州なら普通に各地に山門があり、地形と漢字の意味がぴったり一致している。
しかし、奈良には大きな扇状地がなく、扇状地の裾付近をヤマトと呼ぶほどの地形自体がない。
だから、奈良にはヤマトの地名はない。
奈良には、ヤマトの名が地形から自然的に発生したことを証拠立てるものがない。
何度もいうが、九州にはそれが普通にあるのだ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:33:04.67
皇統の箸墓と、卑弥呼の墓の一致を画策する大和説は、
まさに万世一系・皇国史観の権化なり。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:39:47.00
>>389
あれ、熱を吹いた学者たちの議論がこれまでにいくらもあり、それでも邪馬台国=大和と確定しなかった。
新聞らが「箸墓が卑弥呼の墓の最有力」と今でも吠えているということは、学者の議論でも邪馬台国が大和と確定しなかったということなのじゃよ。
確定したのかね。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:41:15.01
>>354
>ならばなんで欠史八代の一女モモソの墓が卑弥呼の墓なのか??
>皇統と絡めているのは、まさに大和説ではないか

女王卑弥呼の墓を後世のひとが一介の皇女の墓ということにしてしまったって説の、どこが皇国史観なんだ?
ただの皇女の墓と大王の墓がナゼ同じ大きさ?書紀おかしーだろぉと当然突っ込むわけだが
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:44:49.79
>>391
その地形が奈良にはないのだから、「(奈良のヤマトは)地形由来の地名だから変更は無理」説は、無理確定。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:49:45.28
物証の乏しい畿内説
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:50:11.65
>>399
後世の人とは、記紀を編纂した人たちだろ。
それを援用する大和説はまさに皇国史観の擁護者。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:50:50.51
>>396
>だから、奈良にはヤマトの地名はない。

ないって証拠は?
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:54:34.96
>>374
畿内説の言うことはデマ
考古学者も学会もデマ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:54:57.63
>>402
>後世の人とは、記紀を編纂した人たちだろ。
>それを援用する大和説はまさに皇国史観の擁護者。

いつ、誰がどこで援用したの?
証拠は?
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:56:41.32
>>367
考古学界はこうやって神話をバカにするから信用できないんだ
日本人なら神話に基づいて研究すべきで邪馬台国は九州である
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 14:59:15.22
>>398
畿内説は95点で100点取れなかったから落第だー
30点取った九州説の勝ちだー
という狂った理屈
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:00:51.84
>>357
年代を修正しただけで、卑弥呼即位と神武即位の年代を揃えて、邪馬台国とヤマト王権の始まりを同一視して、ヤマト王権以外の王権を認めない立場が畿内説だろ。
それは皇国史観だよね。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:01:47.74
記紀は偽書で信用できないのに
記紀に書いてある神話は信じるのは矛盾してるよね
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:01:55.05
>>406
ほら、九州説が皇国史観だった
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:02:03.56
>>365
小学生以下の計算力のくせにわけわからんことを言うな。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:02:33.73
>>368
>大和の邪馬台国がそのまま成長して大和朝廷になった事はほぼ疑いがない

はいはい
皇国史観
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:04:05.82
>>408
>・・卑弥呼即位と神武即位の年代を揃えて、邪馬台国とヤマト王権の始まりを同一視して、ヤマト王権以外の王権を認めない立場が畿内説だろ。
>それは皇国史観だよね。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:04:06.93
>>373
>地理的な面で中心地として新たに都が作られた土地

そんなこと、魏志倭人伝には書いてないんだよ。
魏の目の届かないところに大和があったと考えるべき。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:04:33.08
>>409
それなら魏志倭人伝も偽書で信用できないね
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:06:50.62
>>408
途中ではイッちゃった

>・・・卑弥呼即位と神武即位の年代を揃えて・・・が畿内説だろ。
>それは皇国史観だよね。

それ、誰の説?
ふつう畿内説は神武とか持ち出さないけど?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:07:35.81
>>380
>ただ、一大卒と言う監視員を置かれて属領的な扱いを受けている九州の可能性は低いと考えられる

大率は、引きこもりの卑弥呼の代わりに女王国より北の対馬海峡(倭国の生命線)を監察した官僚だろ。
伊都から出かけて対馬海峡を監察したから刺史のようだと評されただけで、伊都が女王国で問題ない。

それより、女王国が大和なら、大率はどこを監察していたんだい?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:09:03.44
>>414
>・・・と、考えるべき。

べきだ、という理由は?
九州説はいつも理由を言わない
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:10:31.05
>>407
出土品から言ったら、畿内説は落第だろ。
魏志倭人伝に書かれたものが何一つ出ない。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:10:47.11
>>417
はい、無学の大間違い
刺史は都には置かれません
つまり伊都は地方拠点
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:11:09.89
>>415
>>409
>それなら魏志倭人伝も偽書で信用できないね

邪馬台国のスレに来なくていいんだよ?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:11:14.67
>>383
ホケノ山は卑弥呼の時代の3世紀と炭素14c年代測定法で確定
三角縁神獣鏡は蛍光X線分析法で魏・晋鏡と同一成分である事が判明
畿内には3世紀から直径100m級の前方後円墳が存在し
魏から鏡が入ってきていた
三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に使いを」送ったと各史書に記されている
景初三年の年号が入っている
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:11:20.59
>>419
出ないという証拠は?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:12:04.25
>>416

>>357
>畿内説的に見れば神武東征による初代天皇即位は
>西暦180年頃と推定されるので

おらおら
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:12:18.17
>>423
「邪馬台国」と書かれた物が一つも出ていない
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:12:47.01
>>420
刺史そのものじゃない。
あくまでも「如し」だろ。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:13:34.89
>>422
卑弥呼と書かれていない
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:14:26.84
三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ

刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。
役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、
その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:14:58.46
>>417
>それより、女王国が大和なら、大率はどこを監察していたんだい?

西海道
大和の政権が筑紫大宰を置いたのと同じくね
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:15:50.88
>>430
「卑弥呼」と記名されてないのだから卑弥呼がもらったものという証拠はどこにもない
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:16:34.28
>>426
つまり、如くない
九州説死亡
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:17:39.87
>>393
じゃあ畿内説とは関係ないね
万世一系は万世一系
畿内説は畿内説
九州説だって九州説の立場で万世一系を主張しようと思えば出来るしな
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:18:33.50
>>425
>「邪馬台国」と書かれた物が一つも出ていない

だから畿内説が落第?
ならば九州説も落第してるんだが
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:19:52.97
>>434
東遷説が皇国史観と確定したわけだが
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:20:26.92
>>432
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に
卑弥呼は景初三年に魏から銅鏡百枚貰ったと書いてあるぞ
じゃあ景初三年と記銘されてる三角縁神獣鏡は
卑弥呼が魏から貰った鏡だな
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:22:27.62
>>432
つまり九州説が失格ってことで、いいのね?
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:23:39.14
>>431
>大和の政権が筑紫大宰を置いたのと同じくね

女王国から北を検察したんだよ?
西ではないよ?
また方角は誤りと言うつもり?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:24:51.28
>>434
九州説は万世一系を認めない立場だよ。
むしろ倭国の王統はヤマト王権とは別にあったと言う意見が多い。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:25:08.74
>>436
もしそれが歴史事実でも皇国史観になるの?
そうなると事実を語れば皇国史観?
そうなると神話を事実とするのが皇国史観という前提が崩れ
神話を事実とするのが皇国史観ではない事になる
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:28:22.04
>>441
では皇国史観とは何?
前提が崩れても畿内をそう非難する?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:30:09.35
>>437
そもそも魏王から送られた鏡をさ
卑弥呼が亡くなったからすぐ卑弥呼の墓にいっしょに埋めたりするかな?
普通魏王から送られた大切なものはそのまま生き残った奴の歴代代表が大事にそのまま持ってるんじゃね?
その魏王から送られた大事な鏡が用をなさない(魏が亡ぶ もしくは 邪馬台国が亡ぶ)時代になって
はじめて墓に一緒に埋葬品・調度品として納めるんじゃね?

だからはじめ九州にあって畿内に持って行ってから各地に散らばった可能性もあるよね?
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:30:10.47
>>441
歴史的事実だと証明できない東遷説は
皇国史観の牙城と呼ばれるに相応しいな
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:30:21.58
畿内説は、箸墓からも逃亡し、皇国史観からも逃亡したか。
さてどこへ隠れるのでせう。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:32:09.51
>>444
那珂八幡で使っちゃった九州は圏外デス
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:32:39.82
419の>>120
>ヤマト王権が邪馬台国と関係がないとしたら、
むしろ大和が倭国を乗っ取った証拠じゃないか?<

大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国、
という関係だから、
この男も・・・・×人間。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:33:03.96
>>408
それが皇国史観であっても畿内説とは関係ないよ
そもそも畿内説は畿内と魏の朝貢関係を見出している
これは皇国史観と相反するもの
そしてそれを否定したいがために
江戸時代の国学者本居宣長が唱えたのが九州説の大本
九州説こそ皇国史観
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:33:51.51
皇国史観なんてのは言いがかりや論点外しに使ってるだけでしょ
九州説は歴史を目的としていない証拠
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:36:01.17
>>450
魏志倭人伝は文学でしょ
それを考古学とかで証明しようとする畿内説が間違い
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:38:06.36
>>445
魏志倭人伝に桓霊の間(160〜180年)倭国大いに乱れとあり
考古学上も2世紀末から3世紀にかけて畿内の文化の急変が確認される
記紀には年代が不明だけれど神武が九州から出発し
畿内を制圧したとあり
これは古代の神話の例によってある程度の史実を反映していると
考えうるに十分な根拠を持つものと思われる
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:38:31.81
>>451
人の言葉をブツで証明するのが世の当然だろ
九州説はそんなことも分からないのか
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:41:59.65
>>444
卑弥呼の墓の中はわかってないよ
畿内に最初にあって全国に持っていったかも知れないだろ?
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:47:36.46
>>411
教会に悪魔祓い頼んで見るかな
効いたりして

九州説は自分の都合に合わせるために
存在もしなかった1里76.5mの短里が魏で使われたとしている
76.5を均すと66.6
666の悪魔の数字九州説
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:56:44.73
>>452
だから九州説は皇国史観なんだよ
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 15:57:19.56
419の>>128
>末盧国から伊都国の東南陸行五百里の方角が間違っているということの最終決着を着けようか  
可也山はかなり広い範囲から見られるランドマークで、これを基準に考えれば
伊都国周りで方角を間違うことはない
呼子から見た可也山・・・
三雲遺跡群から見た可也山
可也山までの距離感がまるで違うのが分かる
呼子上空から見ると・・・
三雲上空から見ると…・
こうしてみると、伊都国にとって可也山は信仰対象であってもおかしくない
実際、三雲南小路遺跡から冬至の日の入りの方角に可也山があり、 その直線状に平原遺跡がある
航空写真は三雲南小路遺跡から冬至の日の入り方向がまっすぐ上に なるように調整してある
方角、間違いようがないだろ?<

始めから、「東南」は、(伊都国の方向ではなく)末盧國の出発時点の方向であり、
可也山が伊都国だとは全く言えないから、
ランドマークになっていたのか?も不明であり、
だから、この類スレ主の「出発点呼子で可也山ランドマーク」説が、始めから×。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:03:06.51
419の>>129
>そんな統一国家めいたものは弥生時代には存在しないよ 形跡がない <

100余國が余30國になっても、
漢委奴國王や倭国王帥升や卑弥呼や壹與のような女王がいた。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:06:11.57
建前を言ってもなあ
畿内説大和説は、結果としてコウコクシカンを擁護している。これ明白。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:06:53.36
>>458
伊都国のある方位がわからないから出発方向だけ書くと言ってたくせ、山たてで方位が判ると証明されると
コロリ態度を変えるコロリ九州説
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:07:00.96
>>408

>ヤマト王権以外の王権を認めない立場が畿内説だろ。

畿内以外にも王はいた
東国の狗奴国の王や従属してた伊都國の王
倭人ではない異人地域にも王はいたであろう
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:09:32.22
皇国史観は九州説
戦時中支配的なのも九州説だったそうだ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:11:22.67
419の>>130
>現地では方角を間違いようがないだろ?
でも、魏志倭人伝に東南と書いてあるのは、陳寿のせん述までの間のどこかで
方角の錯誤が生じたということだ
史書の方位・方角の記述は間違うときは間違う訳だ これで決着だな <

魏使らの記録は、部下や後続の張政らの確認がなされているし、
陳寿の確認の「計其道里、當在會稽東治之東」でも、
間違っていない事が確認されているから、
この類スレ主が、分裂幻覚の妄想・・・・であった、という事で決着。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:12:27.99
>>454
畿内にあったという根拠がない。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:13:26.50
>>462
狗奴国がいつ東にすり替わったんだ?
畿内説は嘘つきばかりだ。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:13:48.07
419の>>131
>あんたの信用がなくなる <

類スレ主ら大和説者の信用は、とっくの昔に無くなっている。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:15:14.89
>>466

後漢書の拘奴國の方位のほうが正しい
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:16:21.04
>>461
あれこれムニャムニャ、何言ってるのか良くわからんね。
そろそろあれかな、、、
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:18:41.46
419の>>134
>「方角は絶対に正しい」という前提で読むことが、合理性を失う <

人類は、
東西南北の方向は「ほぼ」間違えず、
里数も「大体」間違えず、
「6倍位も間違える」事は全くのようにない。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:20:16.77
魏からもらった鏡はみんな溶かして平原の大鏡に改鋳してしまっちゃったでしょ。
ぼけてるんですか、おじいちゃん。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:27:31.92
419の>>136
>>むしろ大和が倭国を乗っ取った証拠じゃないか?<

>九州には、倭国、大倭国という地名も、倭、大倭を含む人名も伝えられていない
九州が倭国と考える理由がない <

倭国を併合吸収継承した8世紀の大和日本国は、記紀などによって、
倭国の存在や歴史を「禁書」などに拠っての徹底的に黙殺削除盗用造作をしたから、
列島では全くのように存在せず、
しかし、歴代中国史書群や金石文が記録しており、
極め付きは、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、
北部九州にあった事が証言された。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:29:40.64
>>473
それこそ、後世史家の「自己解釈」wでないの?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:52:09.65
419の>>141
邪馬臺国が大和国と読めない件について、
「南→東」の嘘つき騙しの大和説も、
並並ならぬコンプレックスを感じてきてたんだな。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:54:09.38
>>473
>極め付きは、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、

「正北抵新羅」は日本列島が半島南方海上を南へ南へと長江の南まで伸びている、という間違った地理感で言ってるだけ
当時の地図がモロそうなのが証拠
実際の地理とは違う
南が東の間違いだというだけのことだ
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 16:56:29.56
>>477
>邪馬臺国が大和国と読めない件について、

うそつき
読めちゃうから必死でヤマイチ国だなどとトンデモこいて恥晒してきたのが九州説の黒歴史だ
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:04:25.90
419の>>143
>行程で記述されている戸数は、沖縄あたりまで延びる巨大島にみあった戸数に膨らましているので、<

膨らませていない。
陳寿もきちんと会稽東治之東として、女王國が九州島付近である事を示している。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:08:05.29
ヤマトが九州の地名なら問題ない。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:12:10.52
>>480
会稽の東は屋久島あたりの緯度になる。
実際の九州より南に位置することになる。
屋久島あたりだとすると、七万戸は無理。
沖縄あたりまでの巨大島でなければ、七万戸の人口を養う土地がない。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:15:51.35
>>481
その通り。
九州には山門の地名は、現在も複数ある。
ただ、邪馬臺(ヤマドイ)に見合う地名とすれば、ヤマトは無理。
ヤマドが唯一の類似地名。
山門は、3世紀頃はヤマドの発音だった。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:16:19.05
>>481
でも九州説は問題にならない
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:18:14.60
>>483
>ただ、邪馬臺(ヤマドイ)に見合う地名とすれば、ヤマトは無理。

無理だ無理だと言い張るだけで、その理由が出てこない
それが九州説、
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:29:37.05
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:30:18.70
夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差、計其道里、当在会稽東治之東。

これを詳しく読んでみると、下記の如し

会稽 ≒ 会稽東治
×・・・(倭の)邪馬台国は当在会稽東治之東
○・・・(倭の)諸国は当在会稽東治之東
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:33:56.28
>>403
文字記録と現在の地名と合わせて、ヤマトの地名はどこにもない。
有ると言うなら、みせてみろ。
それ以前は分からないというのと、それ以前にはあったというのとは根本から異なる。
有ったといえるのは、過去を見てきたトラベラーくらいだからなあ〜。
それとも、君はトラベラーかい?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:37:44.64
>>489
あいかわらず情報量ゼロの九州説w
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:37:58.29
419の>>153
>特別な理由ではなく、陳寿の手に入る情報が不正確・不完全だったのだと判断している <

魏使らの記録は、部下や後続の張政らに拠って確認されてされているから、問題がない。

>末盧国の比定地は唐津平野で問題ない<

おそらく到着港は唐津港であり、であり、出発地は西唐津駅〜唐津駅付近。

>そこからの東南陸行五百里は、伊都国ではないところ、
例えば面土国への経路の記録だと考えるのが現状では妥当性が高いと考えてる<

書紀や風土記の「伊都国は怡土の地」という証言は、抹殺し難いし、
後代史書の「面土國」は「自己判断に拠る書き換え」の可能性が高く、×。

>違う行き先の旅程が、伊都国への旅程として書かれてしまう程度の情報しか
陳寿の手もとになかったのだろう<

張政は、当然「臨津搜露」を受けているから、確認されている。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:41:55.70
>>490
>あいかわらず情報量ゼロの九州説w

畿内説も同じw   @阿波
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:48:14.58
>>489

大和国城下郡大和(於保夜末止)郷
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:52:17.41
>>489
>文字記録と現在の地名と合わせて、ヤマトの地名はどこにもない。

大倭国ってシッカリ史料にありますけど?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 17:54:45.67
>>486
な、この久留米弁聞いたら、ヤマドなんて普通に有りそうだろ。
それにしても、久留米の沖縄も、基本おんなじ〜。
わけ分からん。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:01:47.22
>>495
現在の久留米も沖縄もこんなんだから、8世紀や9世紀の奈良、京都の文献では山門をヤマトと読んでいると主張しても、現地ではヤマトと言っていたかどうか、まったく分からん。
ヤマトなんて、単なる奈良弁に過ぎんことは、この久留米弁聞いたら納得するだろ。
邪馬臺は中国中古音でヤマドイなので、邪馬臺はヤマドだというワイの主張すら色あせてくるくらいにわけ分からんのが、久留米や沖縄の発音だぞ。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:02:46.76
>>495

久留米の南の三池炭坑では朝鮮人もたくさん働いたんだよ
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:12:51.35
>>494
大倭は、ダイワ。
ヤマトじゃな〜いよ。
ヤマトは、ヤマドの奈良弁。
九州筑後の山門(ヤマド)を、おそらく5世紀頃に奈良に持ってきて、奈良をヤマトと発音して呼び慣わすようになったもの。
そのヤマトに大倭の漢字を当てるようになったのは、漢字を通用するようになる6、7世紀頃だろう。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:18:53.33
筑後の山門郡は大神郷があるし、宇佐神宮の荘園があるから
おそらく大和の大神氏が持ち込んだ郡名だろうな
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:26:24.34
山門郡瀬高には九州では最古級とされる聖衆院来迎寺や
709年頼現の創建の成合寺があるから
山門の字を当てたのだろう
百済系渡来人が多かったのかもしれない
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:36:54.26
419の>>163
>つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、
葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ <

これまた、類スレ主は、変な日本語をしゃべるなあ。
大和の王家は、「倭国日本国の総本家」でもなく、「大王家」でもなく、
九州倭国の中の阿毎氏から別れた別種の旧小国の王であり、
阿毎氏の分家の血を引いている、というだけだ。

>>八咫の鏡を含む<

>これも、皇統の鏡以外は三種の神器ではない 普通名詞としても「八咫鏡」の語は使われている <

現天皇家も、阿毎氏の分家として、三種の神器や八咫鏡を崇めている。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:38:31.23
想像しか言わない九州説は
根拠は一切沈黙w
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:46:09.20
>>502
べつに日本語はどこも変ではない
事実、どこが変だか指摘が無い
思うに九州説信奉者の日本語がおかしい事実が再三指摘されているため、不正な印象誘導で対抗しようとしたのではないか
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:54:36.41
>>493
この大和郷の大和(於保夜末止)は、大倭神社の社名に由来するのだろう。
この辺りを管掌したのが大和神社だったのではないか。
なので、大和(於保夜末止)は神社名由来であり、地名由来ではないと思われる。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 18:57:34.07
419の>>164
>>(倭人伝での里数記載)それでも概ねの比例関係は維持されているので、<

>まだ言うかww 4倍異なるものは、「概ねの比例関係」とは言わないww<

まだ言うか。類スレ主の「4倍異なる」という計算が、そもそも、
「比定地」や「出発点や到着点」を、陳寿の記載事実や記載実態とは全く反した解釈をしたものであり、
史料実態に拠れば、「1里≒60〜90m」位であり、中間点の75mの2割位範囲内であったではないか。
それに、大和説者や類スレ主らの長里説は、始めから、
75mの6倍位の差異のある全くの嘘つき騙しであったではないか。

>短里も、東夷伝里も、使う人がそもそもいないしどこにも伝わっていない
ただの、九州説を説明するために考案された捏造<

史料事実であり、史料実態だ。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:00:13.68
419の>>165
>九州説も行程は畿内説みたいあてにならないで通せばいいのに
行程抜きでも十分に畿内説より利はあると思うよ <

畿内なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
文献でも考古でも、大和説は、九州説に比べて、
全く×だよ。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:01:24.90
>>499
山門郡は、山門郷の山門だろうな。
山門郷が周辺の中心だったから、山門郡の郡名として採用された。
元々、地名として山門があったから、山門郷、そして山門郡の郷名、郡名ができた。
山門の漢字は、その元からあるヤマドに、意味も含めて山門が当てられたもの。
郡名から郷名が生じたのではないだろう。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:06:56.31
テンプレのような憶測はいいから
確かな物証を畿内説はいくつか挙げてくれないか
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:07:07.41
419の>>167
>盛んに、世間の常識に抵抗しているが、3世紀末以降の根拠はな〜に?<

大和の石塚が撥型前方後円墳であり、
卑弥呼の冢や那珂八幡の前方後円墳よりも、後の形になるから。
またホケノも、有棺有槨で、「布留」時代になっているから。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:14:20.98
419の>>168
>>行程抜きでも十分に畿内説より利はあると思うよ<

>九州説に利なんてないよw
弥生終末期から古墳時代へは、大きな動乱の兆候などまったく考古学的に検知されていない
弥生終末期に大きな勢力だったところはそのまま古墳時代に入ると大きな古墳を作るようになる
そして、九州には古墳時代初期の大古墳がない
この時点で北部九州に倭王を擁する大勢力がなかったことが確定する<


この男は、また、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って倭国は北部九州であった事が確定しており、
その九州倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」をした、と上表していたから、
大和が九州倭国の東征に拠って征服された事になる事を隠蔽して、
世間の人々を騙そう、としている。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:14:43.42
>>500
でも残念ながら奈良説は世間一般では認知されてない
古代通してずっと栄えてたのは九州と思ってる

天下のNHKが「大宰府は日本最初の都城」と言ってたくらいだし
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:20:50.27
419の>>174
>じゃあ、いつ倭は東遷したんだ? <

九州倭国は、東遷などしていない。
「自昔・・・東征毛人五十五國」があったのであり、
白村江の大敗の後の701年に、
別種分家の大和日本国に併合吸収継承されたのだ。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:21:55.73
>>512
ブラタモリだね
あの番組のスタッフは藤原京も知らんのかと耳を疑った
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:22:35.85
>>512-513

まるで子供の喧嘩だね。  @阿波
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:23:09.05
後漢書で大倭王は邪馬台国にあり、楽浪郡から一万二千里だろ?
一万里で九州北岸なのだから、九州から出ないだろ。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:26:17.07
419の>>180
>畿内が勢力拡大してきて、九州は飲み込まれたんだよ しいて言うなら西進<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
九州倭国が 「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたものであり、
大和はその五十五國の中の一国であり、
白村江の大敗の後の701年に、
別種分家の大和日本国に併合吸収継承されたのだ。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:26:29.03
>>509
邪馬台国=大和国
三角縁神獣鏡
3世紀の前方後円墳

魏志倭人伝は邪馬台国の位置を
会稽東治(冶)乃東、沖縄台湾辺りと記してるので
距離方位の記述は正確性に欠け邪馬台国の位置を示した物と扱えない
すると考古物証から見れば畿内で決まり
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:28:53.07
419の>>182
>いや? 九州説のいう起点で測ったら、5倍から6倍になったんだよww
さらに差が開いたw まあ、大体で言うなら4倍違うというのが分かりやすいw <

まだ言うか。
類スレ主の「4倍異なる」という計算が、そもそも、
「比定地」や「出発点や到着点」を、陳寿の記載事実や記載実態とは全く反した解釈をしたものであり、
史料実態に拠れば、「1里≒60〜90m」位であり、中間点の75mの2割位範囲内であったではないか。
それに、大和説者や類スレ主らの長里説は、始めから、
75mの6倍位の差異のある全くの嘘つき騙しであったではないか。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:29:48.52
奈良の奴らは
自分たちが九州人に負けて支配されたから東遷を認めたくないんだろうね
残念ながら奈良は九州の勢力に負けた負け犬なんだよ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:30:05.55
>>508

山門の漢字を当てているのは大和の政権
元からあるヤマドに漢字を当てたら山門にはならない
山門(ヤマト)以外の漢字も当てられていない
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:30:22.77
>>515
大宰府が藤原京より古いから。
藤原京は694年。
ところが唐が白村江の直後に筑紫都督府を置いたのは669年だ。
藤原京は唐の都に倣って作られたというが、大宰府都督は唐の直轄地のことだ。
しかも大宰府は大野城・水城を含み筑紫を横断する長大な塁を持つ要塞都市だった(ブラタモリより)。
長城を持つ唐ならではの設計だね。
まさに倭国の都城にふさわしい。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:32:59.35
>>521
前提条件の間違いによる計算違い
魏志倭人伝は邪馬台国の位置を沖縄台湾辺りとするので
1万2千里を換算すると1里140mが正解
もちろん畿内説は史料とつき合わせ
魏の1里は約430mだったから1万2千里は実測地ではない架空の数値と結論づける
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:35:36.83
>>522
けど邪馬台国は畿内だけどね
さらに奈良は支配されたわけではなく連合協定を結んだ形
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:43:38.95
神武東征では神武の兄二人が討ち死にするほど大苦戦
あまりの苦しさに空と海に向かってあなたは私の守り神ではなかったのか
なぜ我々は陸だけでなく海でも苦しむのかと怨嗟したという
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:44:06.41
419の>>184
>>この海は、地理的に瀬戸内海が妥当。<

>全然妥当じゃないよ 瀬戸内海のように島がわちゃわちゃあるところは渡海ではない
関門海峡は600メートルしかないし基本陸地のそばを行くことになるから、 渡海ではなく水行
帯方郡からの旅程には渡海が入っているのに水行10日は帯方郡からと言い出したり、
ここではあまり見かけないけれど、九州説は御笠川を遡上する水行を言い張ったり、
九州説は水行、渡海の解釈がめちゃくちゃww<

渡海は、水行の一部に含まれるものであり、
「海を渡る」事を明確に言いたい場合に使われる文言であり、
明確な海岸沿い航行には使われず、洋上航海的な場合に使われるもの。
だから、女王國からの「東渡海」は、
宇佐付近から山口県東部や愛媛方面への水行の場合に使われ、
玄界灘を洋上航海して下関付近に達する場合にも使えるが、
中部瀬戸内のように明確な沿岸航行になる時には、使い難い。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:51:25.44
>>525

スラスラと嘘を書くなあ。
ますます畿内説が嘘つきだという印象を深めるだけだと思うけどなあ。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:51:53.22
>>485
それ、なんちゃって発言。
ヤマドイとヤマドがごく似ているのは、幼稚園児が聴いても分かること。
彼らに、ヤマドとヤマトのどちらがヤマドイと似ているかと聴いたら、ヤマトと答える子はいない。
言い張るだけなのは、お主だっちゃ。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 19:56:49.72
>>196
>しかし上司が東の所を南と書けと言ったらそう書かれる<

何だか、どこかの(大和説者が大好きな)政府や厚生省の役人の話みたいだが。
しかし、部下や後続の張政らの確認が入っているから、
嘘つき騙しになる事は書けない。
出来る事は、資料の削除隠蔽だけ。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:00:08.10
まあ、ヤマトも九州の地名だしな。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:02:07.78
>>528
君たちは、(渡河)の語彙を知らんのか。
渡河と渡海は、河と海の違いだけであって、どちらも岸から岸へ水域を越えること。
行橋の岸から難波の岸まで舟で行って海を越えることが、渡海。
門司の岸から下関の岸まで舟で行くのも、渡海じゃ。
そして、小倉の岸から西小倉の岸へ舟で行くのは、渡河じや。
渡河も渡海も同じ。
違うのは、その水が無味であるか、塩辛いかだけ。
あまり能のない議論は、しないのがよい。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:04:27.86
>>524
興味本意の番組なんて、そんなもんだろ
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:06:22.20
7世紀まで日本で一番は九州だったね
平城京に遷都してやっと畿内に移った
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:06:56.23
>>529
嘘だって証拠は?
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:09:49.81
419の>>198
>那珂八幡は三角縁神獣鏡が出ている
ホケノ山は出てないから遺物でいえば畿内のホケノの方が古い<

△に関しても、列島で一番古いとされているのは、糸島の志登の△であり、
祇園山や藤崎西新町よりも古いし、3世紀前半であり、
紀銘もないようだから呉系楽浪鏡師らの渡来直後の鏡らしい。
そして、ホケノは前方後円墳であり、祇園山の冢よりも新しいし、鏡片もあって布留だから、
3世紀末以後。
だから、筑紫から大和への「伝播」と考えられ、
それを起こしたのは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍ら、だろう、
という事になる。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:13:17.64
>>535
畿内体制の確立は701年の大宝律令からだから、そこは藤原京だろうね。
それ以前の倭国の中心地は、巨大な都城を擁した大宰府だよ。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:20:31.87
>>529
今の時代ネットでちょっと調べれば情報はすぐ手に入る
検索すればすぐに嘘はばれるのだ
九州説の言いがかり先方は情報社会に取り残された前世紀の化石
調べて真実を知った人はますます九州説から離れ
やがて九州説は人間原理に背く
非人類的な思考に基づく説であるとあまねく全世界に知れ渡るだろう
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:22:49.73
419の>>201
>ホケノの木棺をAMS方で分析したら120〜240年頃のものと判明
棺内遺物から3世紀前半〜中ごろ <

木棺の板から採取したものであれば、当然(樹の表面ではなく)、
木髄に近い部分からの採取であった事になり、
樹表面への年輪数(数十年?)だけ古い部分であった事?になり、
また、勿論「プラズマ化」に拠る放射性壊変の促進で50年位古く出る事も避けられず、
その両方だけで、ホケノは3世紀末以後、という事になってしまう。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:26:41.83
九州説はカルト宗教団体
目的は適当な事言って人を騙し優越感に浸る事
嘘で人を騙し人を動かすのは彼らにとっての愉悦だからだ
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:28:45.43
太宰府の都城の仮説に飛びついて節操無いな
中大兄皇子の命令でだってのは都合良く無視してるし
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:32:50.32
>>523
アホ言っちゃいけない。
そんなら、高知の浦戸はなんと読むの。
山門と浦戸は、対義語。
ヤマドとウラド。
実際に、大分県中津市には(山戸)と戸の字を用いた地名がある。
意味はおんなじだ。
3世紀の筑後山門はヤマドだよ。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:35:51.07
その目標とする所がまるで意味不明の九州説だけれど有害な存在ではある
だから意味がわからないまま理性で成り立つ社会からは排除される
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:40:12.97
>>540
仮定から断定が出る九州説マジック
誰にでもバレる
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:47:47.12
>>543

その高知の「浦戸」と中津市の「山戸」はどの文献記載の地名?
現代筑後でヤマド、ヤマカドとも訓むというのは根拠にならないから
上代に「門」を「ド(do)」と訓む証拠を示せばいいだけ
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:51:59.38
419の>>202
>画文帯神獣鏡は後漢の鏡 呉はまだ存在していない <

Wikiの、https://www.sankei.com/west/news/131027/wst1310270070-n3.htmlには、
中国南方系の鏡か
卑弥呼の生きた3世紀の中国は、魏・呉・蜀の「三国志」の時代にあたる。
当時、鏡は中国全土で作られていたが、北部の魏だけでなく、南部の揚子江流域でも多くの鏡が製作された。
そのため専門家の間でも、画文帯神獣鏡のモチーフは、南部の江南系とする見方がある。
京都府京丹後市の太田南2号墳(3世紀中ごろ)でも、中国製の画文帯神獣鏡が出土しており、
河上さんは、この京都府北部にヤマト王権の海外交流の港があったとみている。
さらに中国北部の魏以外にも、倭と密接な関係があった朝鮮半島を経由し、
中国南部の呉などと交流した可能性も「否定できない」とみる。・・・
今年9月に橿原考古学研究所付属博物館が出版した「海でつながる倭と中国」の筆者の一人で、
同館学芸課長の今尾文昭さんは、神戸市の夢野丸山古墳で見つかった「重列式神獣鏡」に注目。
倭と呉のつながりを指摘する。
この鏡は、画文帯神獣鏡と同じように神仙と霊獣を表現。
江南の浙江省で、227年か228年ごろに作られ、230年代に倭に持ち込まれた可能性があるという。
重列式神獣鏡の中には、呉の年号が記された鏡もある。
倭と呉の間で、正式な外交関係があったという記録はないが、今尾さんは、この鏡を呉の鏡と推定する。
「魏と呉は224年以降、断交状態になる。その場合は陸路によるルートは難しいが、
倭との間には海を使った直接ルートがあったのではないか」と今尾さん。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:55:07.07
419の>>206
>だって実際間違ってるからしょうがないだろ
邪馬台国は沖縄台湾の辺りと書かれてるし <

書かれていないし。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 20:58:31.32
419の>>207
>>しいて言うなら西進<

>それって、せいぜい倭の五王とか継体天皇とかの時代だろ?<

「西進」なんてない。
あったのは、九州倭国の九州平定や、「自昔・・・東征毛人五十五國」。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:05:36.40
419の>>209
>>王が不在になり、その後新たな王として卑弥呼が共立されたと見ればよい<

>その時に王都が博多湾沿岸から畿内に移動したなら、東遷だろ、

「南≠東」によって、卑弥呼は東遷しておらず、
大和は×。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:06:17.24
>>523
山門を奈良弁で読んだだけ。
現地ではヤマド。
そのヤマドの意味を採って現地の知識人が漢字を当てたのが、山門。
当然、現地の役人も、山門をヤマドと読んだ。
そして、その報告書を見た奈良の本庁役人が、「田舎者だな、山門はヤマトだよ」と意識の高いところを発揮して奈良弁ヤマトを公式の発音としてしまった。
権力に弱いのは、出先の役人。
そのうち、山門をヤマトと発音するようになった。
そういうこと。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:10:20.44
419の>>210
>・倭は会稽の東に無い <

女王國は、「会稽東治の東にある。

>・実際の行程も九州内でさえも方向間違えだらけ <

東南は末盧國からの出発時点での出発方向であり、「方向間違い」はほぼ存在しない。

>・距離も方向も伝説の頃から何も変わらない記述<

「余」が書かれたり、書かれなかったり区別して書かれているから、
過去の「伝説」の踏襲ではなく、魏使らの実地の計測記録。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:11:11.20
>>546
上代日本語は7、8世紀の奈良弁。
3世紀の九州の発音に当てはめるのは、無理。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:14:55.57
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:15:43.27
419の>>212
>>ダメだ。
卜部兼方が「怪しい情報」であると書いた、という事は、
卜部兼方は、その情報の存在を認めた、という事だ。<

>ダメだろ 怪情報の存在を認めたからといって 怪情報の内容を事実と認めちゃ<

卜部兼方は、「倭の遣使が西晋惠帝に日本を名乗った」という記録を見なければ、
そんな情報を紹介出来る筈がない。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:33:48.66
>>553

福岡市にも山門地名はあるがヤマトとしか訓まない
筑後はアクセント形式も崩壊している地域なので
発音も混乱してヤマド、ヤマカドなどと訓むようになってしまったのだろう
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:34:37.04
419の>>217
>海東鏡の文言は倭国に贈る事を前提とした鏡である証拠<

呉系鏡師が東の海を渡って渡来して来た、という事の証拠。

>銅出徐州は徐州は魏の領土なので魏鏡である証拠<

徐州付近は、揚州の近縁部であり、呉と魏の争奪があったところ。

>呉の鏡師の存在を想定しなくても三角縁神獣鏡は魏の下賜鏡でシンプルに説明がつき
他に疑念は生じない<

紀年の年号や洛陽出土数や敵国の呉系の鏡など、全く説明が付かない事ばかり。

>そもそも楽浪は元は後漢の領土で卑弥呼の時代は魏の領土 楽浪に呉系の鏡氏のいる理由が無い<

呉は公孫氏との接近があり、楽浪に呉の鏡師の渡来が認められ、
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
にも、楽浪鏡が列島に来ている、という説明がある。

>そして梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は 卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記載
これらは11世紀に原典に近いものが失われるより前の 三国志を引き写していて
卑弥呼が魏に使いを出した年が景初三年になっているのは 誤字が多いと前書きにもある12世紀以降の三国志<

後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」は証拠にならず、宋明清代の校勘にもかからず、
版本の底本写本を貼り付けての版刻では、文字の失敗は殆ど起きず、だから写本通りであった、という事になる。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:36:38.55
>>542
>中大兄皇子の命令でだってのは都合良く無視してるし

それこそ後世のでっち上げだろ。
敗戦国の戦後処理体制みたいなものだったんだろう。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:38:27.57
藤原京より前に大宰府に大規模な都城があったことは考古学的に確実なわけで、それは倭国の中心地が7世紀までは筑紫であったことを示すものだよ。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:38:29.72
419の>>219
>万世一系皇国史観は九州説 本居宣長が天皇の権威づけに創設したもの<

「大和天皇家が天地開闢以来支配する事になっていた」という万世一系皇国史観は、
大和説。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:45:06.11
>>560
そんな畿内説は無いね
ザラコク脳内の変なものだろう
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:46:18.97
>>559
>藤原京より前に大宰府に大規模な都城があったことは考古学的に確実なわけで、それは倭国の中心地が7世紀までは筑紫であったことを示すものだよ。

城郭?だけ?  @阿波
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:51:11.97
419の>>229
>魏志倭人伝を見ても方角が南方向にどんどんズレていくのは常識<

不彌國の南の邪馬壹國女王之所都まで、南〜東の間の「折れ線的道のり」記載になっている。

>魏の学者は後漢からの伝承 倭の都倭奴国は国境より南1万2千里で倭の極南界にあり<

後漢書は、
魏使らの実地の見聞計測の魏志の「自己解釈に拠る書き換え」をしている半分×書であるから、
論拠にならない。

>場所で言えば会稽東冶乃東で沖縄や台湾の辺りであるに
邪馬台国を当てはめて報告書をまとめ上げた <

陳寿の「会稽東治之東」が。九州島付近の「女王國」にピッタリであり、
魏使らの報告の正確さを確認してくれた。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:54:29.15
このように、ひたすらウソをつくのが九州説
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 21:58:38.72
天智天皇が大宰府の城郭を百済人に造らせたときは
筑紫君薩野馬はまだ唐にいたよな
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 22:20:33.32
>>563
>陳寿の「会稽東治之東」が。九州島付近の「女王國」にピッタリであり、

なんてウソをついてるから
世間から見放された九州説
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 22:32:09.35
419の>>231
>後漢書には楽浪帯方から一万二千里のところに何があると書いてあるの? <

魏志と同じように、
「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」と書いてあり、
その地に卑弥呼が共立された事まで書いてある。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 22:47:05.27
419の>>232
>後漢書は版が複数存在し互いに誤字の修正が効く
例えば邪摩惟国ヤマユイ国が邪摩堆国ヤマト国になっている版があるので
原典はヤマト国と書かれていたと言ったように
現行の魏志倭人伝は12世紀の護持の多い版しかないので そういった比較が効かない<

変な男。脳がおかしいんじゃない?。
魏志倭人伝の版本での差異文字は、
「都支國と郡支國」と「黄幢と黄憧」と「對海國と對馬國」の3つ位しかない。
また、版本は、底本写本を板に貼り付けて版刻して版を作るので、
原則として底本写本と同じである。

>しかし12世紀以前の史書の倭人伝を見るとその誤字部分がわかるのである
それから見ると12世紀以降の魏志倭人伝は誤字が多いと 結論を出さざるを得ない<

後代史書は、
「自己解釈に拠っての内容説明的な書き換え」を実行する史家が多くて、
魏使写本記載の根拠にならない。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 22:54:08.93
419の>>239
>>(大和説者は)また、魏志の「東治」に対する校勘は、
宋明清代の校勘学者は誰も校勘していないから、
全員「東治」のままで正しい、と断定していた、 という事にも気が付かない。<

>放置されてることと認められたことの区別がつかない九州脳<

この男も、「校勘とは、文字の差異があれば放置しない」とう事が仕事である、
という事が分からないらしい白痴の大和説者。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 22:58:23.20
>>557
>楽浪に呉の鏡師の渡来が認められ、
この根拠は全くないね

>にも、楽浪鏡が列島に来ている、という説明がある
「楽浪鏡説もあり」とはあるが「列島に来ている」なんてどこにも書いてないよ!
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 22:59:25.46
>>239
>学会はホケノを3世紀中葉としてるけど慎重だよな
前葉にしてもいいぐらいなのに<

卑弥呼の墓は、3世紀中頃の有棺無槨の冢であり、
ホケノは、有棺有槨で前方後円墳であるから、卑弥呼の墓よりもずっと後であり、
3世紀末以後。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:00:04.08
どんどん尾鰭がつく老人の妄想
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:02:33.76
>>570
つまり諸本の異同かないから
明らかに間違ってても
放置されてるんだよ
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:07:07.41
その程度の諸本しかなかったんだな
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:16:17.36
九州に都市遺跡が多いのは確か
現在の考古学では、各々の経緯をあてはめるのは難しいと思う
そこに、九州説が多岐に渡る理由がありそうだ
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:17:56.35
>>575
確かって?

証拠は?
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:19:42.20
いや、バラバラ九州説が根拠にしてるのは行程パズルだよ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:21:11.11
419の>>243
>景初2年は間違い 梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧によれば景初3年<

後代史書の、前代史書記載の「自己解釈に拠る書き換え」は、
半分×であり、根拠にならない。

>価値はある 徐州の銅で作ったという事を明記するという 記銘された年号と同じ<

中国では、徐州の銅で造った事など、何の自慢にもならず、価値もなく、
倭人に対しては、徐州銅で造った、と刻む事は価値があるもの。

>>海東鏡は作られる鏡が海の東 倭国に贈られる事があらかじめ想定されていた事を示す証拠<

そんな事を刻んだら、卑弥呼に「お前は海東の田舎人だ」と見下げている事になり、
卑弥呼を蔑視していた事を示す事になるから、×。

>国内で作られた鏡は国内で作られた成分が出る<

同じ成分の銅を材料銅に加えて作れば、どこでも同じ位の成分になる。

>今の所三角縁神獣鏡は倭国と魏に相当する場所でしか見つかっていないから
記銘された年号その他試料や成分分析結果から見て 卑弥呼への下賜鏡とするのが妥当<

明帝の詔書は景初二年12月だから、景初三年以後の紀年鏡は、
明帝の詔書に書かれた銅鏡百枚にはならない。

>卑弥呼が魏に使いを送った年景初三年は当時現存していた魏志をそのまま引き写した
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に記載がある <

後代史書の「自己解釈に拠る前代史書記載の書き換え」は、証拠にならない。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:25:44.62
419の>>244
>数回に分けて100枚づつ貰ったんだよ<

正始4年も6年もは8年も、卑弥呼が鏡を貰った、とは書かれていない。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:27:04.38
>>578
つまり「正北抵新羅」は根拠にならない
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:29:45.43
>>579
やらなかったとも書かれていない
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:31:38.88
419の>>248
>>陳寿は、「会稽東治」と書いたのであり、
「会稽郡東治」とは書いていなんだけどね。<

>「会稽東治」が「会稽郡」の外だ というなら その理由を聞こうじゃないか <

陳寿は、
会稽郡の中の事であったんなら、「会稽之東」で十分であり、
「会稽東治之東」のようなややこしい書き方をする必要がない。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:34:59.33
>>556
鹿児島県出水市長島町の山門野は、今でもヤマドノと読むがな。
九州は、元々は山門=ヤマドだろう。
福岡などは、律令制になってから、奈良弁のヤマトに馴化したのではないか。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:38:22.78
>>261
>別の領域でより広範な範囲の首長によって共立されたのが卑弥呼だ<

大和説は、「南≠東」などのウソつき騙しをした事になるから、×だ。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:43:22.78
419の>>263
>大きな集落がないのは泡だよw 畿内には大集落、拠点集落がいっぱい<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
河内は米田に拠って大和とは別組織であるし、
いずれにしても、筑紫の弥生銀座には勝てない。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:44:39.62
>>583

地方行政機関の大宰府があった福岡と、九州でも独特な方言の鹿児島は
言葉がかなり違うからな
アクセント形式も違う
長い歴史の間に筑後ではヤマトと訓む層とヤマド、ヤマカドと層が生じたんだろう
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:52:47.37
「会稽東治の東」で
「九州では無い」という結論付けをしたいようだが

何度も書いているが
「魏志韓伝」
との關係も頭に入れないからトンデモが畿内説に横行する
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/26(土) 23:56:29.78
>>576
まず聞く前に畿内の2から3世紀の都市遺跡名を上げろよ
俺の回答はググればでてくる
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:04:08.91
>>582
>陳寿は、
>会稽郡の中の事であったんなら、「会稽之東」で十分であり、

なら、どうして会稽東冶という言葉が二ヶ所も出てくるの?
会稽郡は広い
会稽郡の中であっても、ただ会稽と言ったんじゃ正しく話しが通じないからだよ

あなたの言ってることは、辻褄が合わないよね
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:06:38.31
畿内に倭種の別圀の連合体があったんじゃーねーか
その1国のひとつが墓地を管理運営していたヤマトじゃねーか
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:07:00.35
>>585
>河内は米田に拠って大和とは別組織であるし、

米田はそう言ってませんが?
ねつ造はダメダメダーメよ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:13:56.74
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:19:31.94
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:24:29.08
九州老人説は無知な同じコピペしかしない
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:29:01.58
しかも内容を理解していないときた
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:31:27.81
>>583
>鹿児島県出水市長島町の山門野は、今でもヤマドノと読むがな。
>九州は、元々は山門=ヤマドだろう。
>福岡などは、律令制になってから、奈良弁のヤマトに馴化したのではないか。

地名は固有名詞なんだから、よそでこう読んでいるから、なんてのは根拠としては最弱だぞ
ましてや複合語になると音が変わるのもよくあることだし、山門野はその意味でも
山門=ヤマド説の根拠にはならない
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 00:48:45.38
鎌倉時代に関東の有力武士団が九州に所領を得て
土着してるから、支配層は東国発音が入ってるだろう
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 01:00:44.21
>>597
山門は、現在、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの読み方があり、ヤマドとヤマカドは同類の語彙であるので、基本的にはヤマトとヤマドの読み方になる。
山門野をヤマドノと読むのは、複合語のためにヤマトノが発音上ヤマドノとなっているのにすぎない、とすることは可能である。
一方、山門をヤマドと読むことがあるのだから、そのヤマドにノが付いてヤマドノと読んでいるのだとすることも可能である。
なので、複合語だからヤマドノと濁音になっているのであり、それがヤマドノの唯一の成り立ちだ、と断定するには無理がある。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 01:07:53.17
根拠が全部現代の発音なんだよな
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 01:41:10.31
>>597
固有名詞だから他所の同字の地名の読み方も同じだろうと想定することは無理だということであるが、
京都と書いてキョウトと読む地名あれば、ほかにも京都と書く地名がある場合、これもキョウトと読むだろうと想定することは可能であり、
しかもキョウトと読む確率は特別な読み方をする以外は実際に高い。
語彙の共有ということは、そうしたことを指す。
そして、同じ文化圏であれば、類似地形に対して同じ語彙を当てることは普通にあることだから、鹿児島で山門野をヤマドノと読んでいるのであるから、過去においても筑後で山門がヤマドと読まれたその可能性を排除することはできない。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 01:47:20.59
筑後山門と薩摩が同じ文化圏か?
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:04:35.76
>>600
邪馬臺は3世紀の中国で書かれた字であり、中国中古音では臺はドイと発音したとされている。
この邪馬臺(ヤマダイ)は倭國の国名の発音を音写したものだと考えられている。
そこで、九州の山門が候補の一つとして挙げられている。
ヤマトと読むから、そのヤマダイと似ているというもの。
ヤマダイと似ているからというのであれば、ヤマトよりもヤマドのほうがさらに似ているというわけである。
そこで、九州の山門は、3世紀にはヤマドと呼ばれていたのではないかとすることになるもの。
そして、そのヤマドは架空の読み方なのではなく、現在、その山門をヤマドと読むケースが地名や苗字にあるのだから、過去において山門はヤマドだったのではないかと推定することは可能なのである。
ちなみに、同じ3世紀に伊都(イト)と呼ばれた地名が、現在も糸島として存続しているのだから、現在の山門(ヤマド)が3世紀にもヤマドと呼ばれていたと想定することはごく当たり前のことと言える。
つまり、この地名の場合、現在の発音を3世紀まで遡及することは可能だといえる。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:06:44.34
>>603
訂正

2行目の邪馬臺(ヤマダイ)は、邪馬臺(ヤマドイ)が正しい。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:09:48.88
>>595
やっとわかったか寺澤は無知だと
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:17:40.96
>>602
銅矛同剣文化圏の説明として、「九州地方を中心として中国、四国地方に延びる…範囲」とされている。
それに、海の交易路を考えると、鹿児島西岸地方は熊本や福岡などと近い。
広域文化圏としてくくることができる。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:25:51.70
>>606

鹿児島で銅矛が何本出てるか知ってるの?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:45:16.15
何本出てるの?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 02:47:13.98
>>603

>中国中古音では臺はドイと発音したとされている。

臺を中古音で[ dɒi ]としてるのは郭錫良だけなんじゃないの?
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 03:03:59.39
>>607
銅矛を出した遺跡は、山門野がある出水市長島町ではみられない。
しかし、この長島町は縄文後期〜5世紀、6世紀とお宝続々の土地だ。
海路の交易ルート拠点だったことが分かる。
語彙は、交易路に乗って移動する。
山門野(ヤマドノ)の山門は、熊本や福岡などの山門と共通の語彙であることを示している。
古い語彙は、中心地から遠隔地になるほど残る。
山門野のヤマドが出水市長島町に残っていることは、福岡や熊本と同じ文化圏であった印と言える。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 03:07:41.95
お爺さんはasitano81だね
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 03:39:37.35
>>609
ウィクショナリー日本版

臺 中古音 doj
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 03:43:47.10
>>611
君たちは、書いているのが誰かよりも、何を書いているかに注目したまへ。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 04:04:05.88
そもそも。

邪馬台国の台の字は音がTじゃなくてD。
大和はT。

門とか津の濁りと思う。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 04:10:48.82
九州説の言わんとすること。
それは倭人伝の言うところの邪馬台国とは
ありきたりな大和ではなく、また別のものなんじゃないの?ということ。
纏向がーとか土器とかどうでもいいんだよ。

当時の九州に畿内勢の統治支配が及んでたのかそうじゃないのかってこと。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:17:25.03
ヤマトは東海地区にあった国の出先
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:19:33.94
墓地墓地でんな
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:20:26.87
官職名の違いをみると九州は他地域に服属してたと思うけれど
九州上陸直後の官職名と大きく変化しているから遠方の国に支配されてたとするのが妥当
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:20:52.07
ヤマト説は儲かりまっか

墓地墓地でんな
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:27:39.66
ぼちぼちの語源
19:01
 「心情」を表す「batu=battu」の音の変化形
の一つが「boti=ぼち」ぼちだと推測されます。
まあまあの状態「大満足ではない」時の「気持」
が「ぼちぼち」の表現です。 若者の「肝」試しを
する習慣が日本にはありました。 ある「恐い」
場所を選び、物を持ちそこへ行って来い、そこ
へ行った証拠に、それを置いて来いと「肝試し」
をしていました。選ばれた場所が「boti=墓地」
です。
アッカド語のアルファベット表記
 は次の通りです。

 アッカド語  日本語   英語

 kabattu   肝    the liver
         気持  the mind
          気分  the mood
          精神   spirits

 zibbatu   尻尾    tail
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:32:44.56
419の>>272
>>海岸部分よりもはるか内陸奥深くの地域にまでなっているのは、何故なんだ?。<

>郡治が臨海港湾都市だからそういう名前がついただけ <

まあ、対して説明になっていない、稚拙な説明だな。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:41:01.14
419の>>275
>>「聖壹」の文字に関しても、宋明清代の校勘学者らは、誰一人校勘対象にせず、
「聖壹」という記載を承認している。<

>それ、間違い 誰もが間違いと思っていて なおかつ 誰一人校勘対象にしない
という実例なんだよ 「聖壹」という記載を誰もが承認してない<

これも、稚拙で、分裂幻覚的な妄想。
陳寿原本や写本での史料事実は「聖壹」であった、
という事の、非常に確率の高い証拠。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:50:22.19
419の>>278
>>「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の地の文であるから、
陳寿執筆時点の地名や地域呼称を使うのが自然であるからな。<

>陳寿の地の文であると 陳寿執筆時点の地名や地域呼称を使う って 証拠は? ??? <

「自然」というのは、「人類の常識だ」という意味に近く、
だから、「絶対的証拠」というのではなく、「確率が高い」史料実態だ、というものだ。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 05:57:17.72
邪馬台国までの行程の記述は、実際に当時の日本にやってきた人でなければ書けない。
それからすると、実際にやってきた郡使である梯儁か張政が書いたものでしょう。
その記述は、帯方郡から狗邪韓国を経て、初めて海を渡り千里で対馬国。
また海を渡り南に千里で一支国。さらに海を渡り千里で末盧国。これで九州に到着です。
末盧国から東南陸行五百里で伊都国。さらに東南百里で奴国。東に百里で不弥国。
南に水行二十日で投馬国。南水行十日、陸行一月で邪馬台国。
これが郡使の書いた邪馬台国までの道筋となります。一番重要と思われるこの記述をどうして畿内説は無視するのか。
それは畿内説にとって都合が悪いからでしょう。この記述を見て邪馬台国が近畿地方にあったと考える人はまずいない。
陳寿は日本に来たことがないので日本の地理はわからない。だから、郡使の書いた記述を元に、
「その道里は、まさに会稽東冶の東に当たる」と書いたのでしょう。机上の想像というべきものです。
しかし、当たらずといえども遠からずで、会稽の真東は、屋久島あたりに相当します。
仮に、会稽の近くから東に東に船を進ませると、黒潮に流されて九州に到着することになります。
なのに、会稽東治の東は九州のはるか南という畿内説の主張には疑問を感じます。
また、「倭の地を回りめぐれば、五千里余」の記述は、倭国を南北に長ーい島だと考えた場合に矛盾が生じます。
つまり、、「会稽東治の東は南→東の根拠足り得ません。」再度「「倭の地を回りめぐれば、五千里余」

九州説を非難する前に、畿内説の倭人伝解釈のほうに目を向けたほうが生産的かも。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:04:27.91
419の>>290
>>当然、陳寿の執筆時期の地名や地域状況に拠った説明を書いている事になる。<

>ならばその当時は、銭唐江より北は呉郡だから、江蘇省はどうやっても会稽ではないww <

その地図の年代がまだ疑問。
また、「東治」地域の所属は、当初から、「呉の支配地ではないか?」と推定しておいたし、
その後Wikiに拠って、呉の揚州の支配地だろうとしていた。
また、「江蘇省」というのは、私の現在的な地域表現のつもり。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:12:32.67
九州説では倭国は沖縄や台湾とか言う方は以下をどう解釈しているのだろうか
「當在會稽東治之東」VS「倭の地を回りめぐれば、五千里余」
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:14:38.23
419の>>296
>つまり、末盧国が呼子だというインチキをしてもなお
東南陸行五百里という方角が間違っていることは確定だ <

呼子出発であっても、出発方向は「東南」である事には変わりないし、
途中が「陸行五百里」も大体合っているから問題はないし、
呼子が問題なのは、一大國からの「千余里」とのと整合性位だ。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:28:27.38
419の>>299
>>可也山は東征前の神武が好んで登った山だっけ?<

>神武は日向にいたから糸島の可也山には登らないだろうに<

糸島地域には 、神武の祖父代以前からの神社や墓遺跡や、
神武の兄弟や神武の姉?のナルタ姫のや神社などがあるから、
五瀬命や神武兄弟は、宮崎から、一旦怡土郡の糸島付近に戻っていて、
そこで、先行きに見込みがない事が分かって「猶東に行かむ」として、
仲間を募って、武装流民部族のように、東征して行った、と推定されているんだよ。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:28:51.01
>>625
>仮に、会稽の近くから東に東に船を進ませると、黒潮に流されて九州に到着することになります。
>なのに、会稽東治の東は九州のはるか南という畿内説の主張には疑問を感じます。

それ、支離滅裂
だって陳寿は「計算するとちょうど会稽東治の東になる」と書いてるんだから、倭人伝にある道里から計算上そうならないといけない
勝手な解釈で史料記述の意味を歪めたら、ダメ

しかも「会稽東治」を勝手に「会稽」にして想定している
あなたの考えは疑問だらけどころか、勝手な改変とスリカエで出来ているといえるね
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:33:09.51
>>629
>そこで、先行きに見込みがない事が分かって「猶東に行かむ」として、

>>629
「猶東に行かむ」だろ
つまりあんたは史料原文を歪曲改竄するわけだ
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:43:59.57
>>626
>また、「東治」地域の所属は、当初から、「呉の支配地ではないか?」と推定しておいたし、
>その後Wikiに拠って、呉の揚州の支配地だろうとしていた。

だから何なんだ?
福建だって広東だって呉の支配地だし、呉の揚州の支配地だぞ
それらの場所がそんな理由で「江蘇省」には、当然ならない
メチャクチャを言うな
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 06:52:17.56
>>623
>これも、稚拙で、分裂幻覚的な妄想。
>陳寿原本や写本での史料事実は「聖壹」であった、
>という事の、非常に確率の高い証拠。

罵っても反論にはならないし
理由のない決めつけだったものの確率も高くならない
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:00:14.31
>>625
>邪馬台国までの行程の記述は、実際に当時の日本にやってきた人でなければ書けない。

開口一番こういう「オレ様決め付け」で始めてくれるとイイね
いつもの思い込みオジさんだろ?
ダラダラの長文を読む手間が省けるわ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:10:58.54
>>632
あ、広東は広州だった
呉の支配地域には変わりないが
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:23:24.21
419の>>302
>>墓の大きい事も、
「何故そんな大きな墓が必要になったのか?」 という理由を推定出来て初めて
合理的になるんだよ。<

>王の権力がより大きくなり、より大きな動員力を持つようになったことを示すためだよ
大モニュメントは権力の大きさを視覚化する装置だからね <

孔明の遺言や文帝の薄葬令の気持ちが分かっていないな。
今回の大嘗祭問題でも同じだが、
セレモニーはどうしても、前代や前回の時と、
「同等か少し漸進的な発展形」になってしまうもの。
それを一挙に巨大豪華にすれば、当然使役させられた国民の怨嗟を買い、財政にも破綻が来るもの。
だから、突然の極端な巨大化や厚葬化は、当然その必要があった、という事であり、
それは、新規の被征服者を使役支配しなければならない、という必要があったから。

>大きな墓が必要になった理由は最初から自明であり、
臣下が王より大きな墓を作ることはないというのは合理的<

一挙は、不合理。

>従って古墳時代の九州の首長が大きな古墳が作れない時点で、倭王は九州にはいない<

倭国は、文帝の薄葬令に従った。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:27:24.93
419の>>308
>九州説には絶望しかないけどな<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説には、
絶望と狂気しかないけどな。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:37:30.42
>>636
薄葬令なんて、無いから
自分が死んだときの葬りかたを命令しただけ
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:40:22.05
>>637
あんたには悪口しか無いんだろ
マトモな反論したのを見たことがない
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 07:47:21.92
>>636
>>従って古墳時代の九州の首長が大きな古墳が作れない時点で、倭王は九州にはいない

>倭国は、文帝の薄葬令に従った。

つまりその九州倭国とやらには誰も従ってないんだね古代日本
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:00:44.83
419の>>315
>>臨海郡が海岸から内陸の奥地まで広がっていたんだから、
建安郡は、臨海郡のために、先に会稽郡から離れてしまっていて、
260年に分郡される必要がなくなってしまっている<

>・・・この分郡の前に、銭塘江より北は呉郡になっているから、揚子江下流域は
既に会稽郡ではない
そして、ここで言う「東部臨海地域」は、分郡前の会稽郡の南の方の
「大陸の東岸」であって、会稽郡の東側という意味ではない
臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?・・・ <

だから、その地図の史料批判が必要だ、と言っている。
また、陳寿は、会稽を会稽郡に限定しないで、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽、という意図で書いており、
そうすると、銭塘江河口の杭州付近という意図で書いた可能性が高く、
その「東部」とすれば、当然杭州湾北岸も含む事になる。

>ただ実はここでも方角が90度回っていて、 実際には臨海郡は会稽の南部だし、
建安郡は会稽の西にある<

何だ?、類スレ主は今度は、中国人も「方角が90度」狂っている、
という分裂幻覚の妄想をして、誤魔化すんかい?。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:02:28.12
>>641
>何だ?、類スレ主は今度は、中国人も「方角が90度」狂っている、
>という分裂幻覚の妄想をして、誤魔化すんかい?。

妄想でなく
動かない史料事実だな
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:06:18.72
>>641
>だから、その地図の史料批判が必要だ、と言っている。

きちんと史料に基づいて書かれた地図だし誰にでも出典が確認できるので、今さら史料批判は必要ない
したいなら、自分がすれば良い
誰も止めない
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:07:27.89
九州説というか教祖の古田は適当に思いつくまま嘘ついて
整合性も考えないからあちこちからボロが出る
鮮人気質
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:07:37.36
>>630
部分的に切り取っての反論はいかがなものか
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:07:39.25
419の>>323
>なんでどういう経緯で大和に倭の都が移ったの?<

倭国の都が大和に移ったのは、白村江の大敗の後の701年頃なの。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:09:52.67
>>641
>「夏后少康之子封於會稽」の会稽、という意図で書いており、

その子孫が越王句践で彼の都が会稽だな
つまり杭州湾の南川だ
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:11:19.88
>>646
インチキの部分が具体的に指摘されてるだけ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:11:49.10
>>647
証拠は?
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:16:00.11
>>646
論理的に反論出来ないアノいつものアノ人か
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:21:14.51
畿内説は以下をどう解釈しているのだろうか
「當在會稽東治之東」VS「倭の地を回りめぐれば、五千里余」


行程を否定するなら、「當在會稽東治之東」を持ち出し他説批判に走るのは愚の骨頂
九州説は倭人伝の行程を解明しようとしているのだよ。
畿内説も倭人伝の行程を畿内説なりに解明したらいかがか・・
たとえば径百歩は誤情報と九州説は言わないよ

別に行程抜きにしても倭人伝に基く遺物や邪馬台国の様子で議論してもいっこうにかまわないが
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:25:14.90
>>642
あなたもいかに考えるか教えて欲しい
652日本@名無史さん2019/01/27(日) 08:21:14.51
畿内説は以下をどう解釈しているのだろうか
「當在會稽東治之東」VS「倭の地を回りめぐれば、五千里余」
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:27:26.53
>>652
>行程を否定するなら、「當在會稽東治之東」を持ち出し他説批判に走るのは愚の骨頂

なんで?
理由もなく罵るのは愚の骨頂
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:30:07.90
>>653
>畿内説は以下をどう解釈しているのだろうか
>「當在會稽東治之東」VS「倭の地を回りめぐれば、五千里余」

「倭の地を回りめぐれば」って外側一周だと思い込む人の脳があまりにも馬鹿だと解釈
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 08:31:40.86
>>652
>たとえば径百歩は誤情報と九州説は言わないよ

一歩が20何センチとか言ってるよな
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 09:04:31.55
倭王は、どのみち王であって皇ではないということ。
なんで冊封が必要なのかと言えば、中華圏においては、相応の立場のお墨付きになるからだ。
冊封を受けたのは半島の制圧と支配のために有利だし、必要だったからに他ならない。
日本国内においては特別、何の意味も為さない代物。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 09:04:57.18
>>656
考慮した結果
畿内説は行程を考慮しない
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 09:11:19.64
>>655
ならば、あなたの訳し方と、どのように理解してるか聞きたいのだが

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 09:40:51.06
>>636
>孔明の遺言や文帝の薄葬令の気持ちが分かっていないな。

解っていないのはお前だって。
《文帝紀》を早く読み直せよ!
一日に50近く投稿する超暇人だろ!

>倭国は、文帝の薄葬令に従った。

封土がある冢だとしている時点で従っていない。
お前は何度も「卑弥呼の墓は、冢であり」と書いているのだが、理解できないのかねぇ。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 10:05:52.39
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 10:06:59.56
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 10:07:33.37
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 10:18:55.39
>>659
再三書かれている通りだと

離れたり接したりの倭の島々の主要各地を歴訪した移動距離だ
つまり一万二千里のうち倭国外の七千里を引いた五千里だね
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 10:46:32.30
>>664
>つまり一万二千里のうち倭国外の七千里を引いた五千里だね

ヨコだが、
「絶在海中洲㠀之上」はどう解釈すんの?  @阿波
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:07:38.83
>>664
>つまり一万二千里のうち倭国外の七千里を引いた五千里だね

そりゃちがうだろ
参問倭地、、、周旋可五千餘里 だから、五千余里は「倭地」のこと。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:08:58.14
1周5千里×80mでだいたい沖縄本島くらい
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:10:02.78
・倭は会稽の東
・朝鮮半島の東南の海を越えて上陸
・中国は会稽も朝鮮半島の場所も把握している

この事から考えられることは「中国人は倭は南に長い土地だと認識している」と言う事
現実の日本列島と全く違う理解をしてるのが分かる

倭人伝の行程も九州内ですら距離も方向も間違いだらけ

実際の使節が往来した隋の時期に至ってもこの感覚は同じ
そしてこれは伝説の時代から同じ認識
つまり中国人は後の時代に至るまで倭の位置や形など理解してない事が分かる
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:20:41.48
福岡、長崎、佐賀で五千里
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:23:12.39
>>669
このように
九州説は理由をいわない
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:31:00.51
対馬海峡が三千里だからそんなものだよ。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:31:42.70
このように
九州説はいいかげん
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 11:38:42.95
>>669
「絶在海中洲㠀之上 或絶或連」
と書いてる倭人伝を完全に無視してるね
九州説の史料無視も困ったもんだ
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 12:08:52.02
壱岐、対馬などが連なっているだろ。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 12:23:53.50
>>674
つまり「福岡、長崎、佐賀で五千里」はウソ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 12:26:18.10
長崎県じゃん
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 12:30:59.71
五千里
九州で落ちつくね
畿内は無理だね

>>668
>「中国人は倭は南に長い土地だと認識している」と言う事

倭人伝の周旋可五千餘里 も嘘だと言っているのだねww
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 12:40:28.43
>>676
つまり
>対馬海峡が三千里だからそんなものだよ。

と言っていたのが多いウソだな
九州説はウソばかりだ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 12:42:58.36
>>677
このように、理由をまったく言わず自分一人で納得して他人に意味のわからない独白をする

それが九州説
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:00:00.13
>>679
イミフ
悔しがるなよ
南北に?千里長いのだよ倭地は

魏志韓伝、韓国は「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有」
を参考にして教えてくれよww
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:07:18.50
などと意味不明なことを書く>>680は脳が錯乱しているのだろうか
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:10:07.44
>>680
南北に長いのなら九州だよな。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:10:28.75
「韓は帯方郡の南にある。
東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。」


韓伝
「南は倭と接す」
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:17:55.68
>>682
なぜ九州説は理由を言わないのだろうね
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:19:37.57
韓国の方が九州の3倍近く大きいから
畿内まで入らないと計算合わないな
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:24:31.00
>>685
韓国=四千里四方・・周りは1万6千里 4×4

倭地・・・・周り?は5千里

3倍でぴったしじゃん
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:27:18.21
論理的に展開できない九州説の悲しさ
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:27:42.04
つまり九州説とやらは邪馬台国は屋久島辺りにあると言うわけかw

そりゃ面白いな
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:30:39.13
畿内説はボヤキしかできねーようだ
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:35:19.25
>>689
という証拠は?
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:42:08.20
さすがに長崎は違うだろw
佐賀も東部くらい
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:50:13.00
南に南に移動して鹿児島辺りに邪馬台国があると
それが九州説なんだな
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:51:57.16
1周400kmに南九州は入らないよ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 13:57:20.01
狗奴国は沖縄とかの勢力と言う事かー
九州説はおもしろいなぁ
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 14:06:22.88
海を越えて戦争仕掛けたのかー
沖縄はかなり後代まで縄文文化だったのにすごいなー
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 14:07:17.51
まぁ中国は台与の後も男性王が立って使節が継続して、アメノタリシヒコを用明天皇だと理解してそれを平安時代の天皇の系譜に直結してると理解してるわけだからな

魏志のヤマト=大和であるのも確定してるし、王統の変化など起こってないと理解してるのも確定してる
九州説だの九州王朝説なんて成り立つ余地はそもそも皆無だからなー
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 14:07:21.34
東に海がないとダメだから
1周400kmだと
福岡県の周囲長1,026.3kmを丸めて1/3にして
佐賀の東部がちょっと入るくらいだな
だから九州説というか、九州の福岡以外関係なかとよ説
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 14:15:51.08
倭人伝の行程を見ると中国人の地理感覚がガバガバ過ぎて笑うな

こんなもんを持ち出して「絶対!」とかほざいてる九州説の脳ミソのなさに毎度笑える
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 14:21:33.24
九州説は漢文解釈がダメダメでしょ
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 14:57:22.63
九州バカが静かになったな
ニュー即のスレで同じ感じのバカが暴れてるからそっちで喚いてるのかなw
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:05:07.03
倭奴国→鰐国
周旋5千里=250`

半島南岸から対馬までが1000里ということは、
1000里=50`前後ということ。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:07:09.19
鰐とか熊とか鷲とか蜘蛛とか
単にまつろわなかったヤシがいたが故の名前だと思いまつ。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:14:17.34
中国人は日本人のイントネーションを4声に基づいて漢字をあてました。
書いて渡せばわかりやすかったと思います。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:17:14.12
>>697
その計算で韓伝の韓国=四千里四方はどぬなんの?
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:21:03.35
>>703
誰が誰に、何を?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:24:14.91
>>697
まあ、筑紫説だとそうなるな。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:25:14.96
>>704
韓伝でもちょうど短里
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:26:21.14
九州説の脳内だと日本は極小の島
当然会稽の東にもない

アホ丸出しだな
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:31:52.16
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:34:51.45
・伝説の時代の表記そのまま
・方向も距離も九州でも間違いだらけ
・会稽の東に無い
・タンリとやらを使うと日本は極小の島

こんなもんを持ち出してほざいてるのが九州説
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:38:48.85
中国からは福岡までしか視野に入っていなかったということだろ。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:41:24.53
水行も陸行も無視
「こうだったらいいな」だけで話をしてる馬鹿九州説に笑いしか出ない
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:44:55.17
具体的な反論はなしかよ。
九州以外、ありえないようだな。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:45:20.27
福岡からなんてとっくに離れて更に水行、陸行してるのに福岡にしか興味ないwww
能無しサルはこれだからwww
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:46:12.02
魏志のヤマト=大和

は確定してるから
もうそもそも九州説なんて論外なんだよアホが
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:47:57.41
ぼくちゃんの都合が悪いから水行も陸行もぜんぶ無視しまちゅ!

ぼくちゃんの都合が悪いから倭の大きさが極小の島でも問題ないでしゅ!
当然会稽の東になんて完全に収まらないけど関係ないでちゅ!

ぼくちゃんの勝利でちゅ!

これが理論w
大爆笑だな
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:50:26.95
九州バカの脳内だととっくに通過して延々と水行、陸行したはずの福岡が邪馬台国なんだとさw

方向も距離も全部間違いだらけの記載を更に好き勝手にいじくり回して「はい、ここが邪馬台国ですよ」だと

笑わせんなサル
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:51:07.40
>>714
「絶在海中洲㠀之上 或絶或連」に合わない
ってのが具体的反論に見えないなら
あんたに付ける薬がない
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:53:19.81
>>696
魏志のヤマト=大和であるのも確定してるし…なんてダメダメ。

魏志のヤマト ×
魏志の邪馬臺=ヤマドイ ○
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:56:37.93
>>720
あんた、それもう論破されてなかったか?
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 15:59:04.49
・伝説の時代の表記そのまま
・方向も距離も九州でも間違いだらけ
・会稽の東に無い
・タンリとやらを使うと日本は極小の島

最初から何にも使い物にならない地理感でしかないと分かるだけ
後の時代になってもそのまんま
これが中国人の脳内の倭

はなから参考にもならない物をいじくり回して比定とか
そもそも頭おかしい
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:01:15.06
で、聞いてみればこのそもそもがおかしい中国人の地理を持ち出すしかネタがない

九州説がどんだけバカだかわかるわ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:01:22.30
>>719
本州でらないということだよ。
津軽海峡は知られていなかっただろうから。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:05:04.68
>>709
萬二千餘里は実数ではなく「遥か遠方」を示す比喩表現だよ。

漢書西域伝でも同じように遠方の国を一万二千里と書いてあるが、もちろん正確な実数ではない。
万里の長城が一万里じゃないとおかしいと言ってるようなもの。
魏志倭人伝だけが実数一万二千里だとするなら、それ相応を証拠が必要。

魏志倭人伝で邪馬台国までの行程が途中から日数ベースの記述になっており距離でなくなっている点を
行程の言い換えのような苦しい言い訳をせずとも、そのまま実測できていないと受け取れば良い。
この点が萬二千餘里が実数ではないという証明でもある。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:08:01.03
>>725
>魏志倭人伝だけが実数一万二千里だとするなら、それ相応を証拠が必要。

後漢書
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:12:07.21
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:21:13.38
【1万2千里】【で】女王国

つまり、1万2千里以内の九州は女王国の外
実際、「女王国に統属する」場所で女王国に従ってる土地であって女王国扱いされてない
そして一大卒に監視されて怯えている
ただの属国だと言う話

九州を出てから女王国に入り、都の邪馬台国は属国の九州を出てから水行10日、陸行一月の場所

これが倭人伝の記載
何をどう寝ぼけて九州が邪馬台国とかほざいてるのやら
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:23:53.09
理解できるかな?

1万2千里以内の九州は端から女王国「でさえない」んだよ

なに?1万2千里がどうしたって?
詳細にこまかーく「ここはまだ女王国に入れない属領です」と書かれてる記載がなんだって?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:25:10.71
>>726
それは後漢書東夷伝の方ではなく、地理志の方か?

東夷伝では全く証明になっていない。

楽浪郡徼去其國萬二千里
楽浪郡から一万二千里

其西北界狗邪韓國七千餘里
狗邪韓國から七千里

自女王國東度海千餘里至拘奴國
女王国から東に海を渡って千里で拘奴國

自女王國南四千餘里至侏儒國
女王国から南に4千里で侏儒國

自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國
侏儒國から船で東南に1年で裸國、黒齒國

後漢書東夷伝で書かれているのはこれだけ。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:33:47.12
>>709
神仙思想で書かれた淮南子の
空想的な世界の果ての距離に準じているなら
1万2千里は邪馬台国までを示す距離じゃないという事だよ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:36:24.35
畿内は遠すぎ。
女王がいたところじゃない。

いたところは距離的にも方角的にも東九州か西四国あたり。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:36:27.18
>>728
誤魔化すな。
国境までは一万二千里ではなく、七千里だ。
狗邪韓国から南は倭国だ。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:38:20.36
こうやってありもしない妄想を根拠にほらを吹くしかない九州説

九州は女王国にさえ含まれないただの属領でした
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:40:41.76
>>724
>本州でらないということだよ。

なんで「でらない」の?
理由は?
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:41:40.72
1万2千里で女王国だからなー

1万2千里以下だと延々と書かれて、しかもハッキリ統属だの一大卒に監視されてるだの明記されてるからな
九州バカがどう喚き散らそうが九州は女王国外のただの属国だとハッキリ書いてるだけ
しかも中国史はアメノタリシヒコを用明天皇だと確定して後の平安時代の天皇と系譜が繋がってると書いてる

魏志のヤマト=大和であることも確定してるんだよなぁ

九州説とか、九州王朝とかバカの妄想以外にないんだよなぁ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:43:59.20
九州説が最後の砦みたいに喚き散らしてる行程こそが

「九州は女王国外の属国の証拠」なんだよなぁ

バカは理解できないのが笑えるが
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:55:32.58
用明天皇よりずっと前の時代の話ですけど…



問題はこのあたりの部分なんです…

ウガヤまで筑紫城にいたってのは誰でも知ってることですよ…
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 16:59:15.81
ここは倭(←中国人が言ってるだけ)の5王が天皇だと思ってしまう人がいるスレですね!
将軍レベルの九州の5「王」だとは思わないんですかね!
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:01:45.72
中国史は台与の後に男性王が立って継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送ってると書いてる
その上でタリシヒコの遣使を示している

卑弥呼後の系譜の話が書いてあるんです

はい、残念でした
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:02:13.21
後世になっても中国から適当に国「王」認定されてる将軍が沢山いるというのに、
5王が天皇でおかしいと思わないんですかね!
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:03:42.10
バカが倭の五王とか言ってて草生える

九州バカは倭人伝さえも読んでないくらいだからな
当然他の史書なんて読んでないんだから仕方ないね
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:04:47.86
>>731
強固な固定観念にとらわれた古代中国人にとつては、1万2
千里は 邪馬台国までを示す距離であるのは確かなんだがな。
それを現代の倭人がどうのこうの言ってもはじまらんし。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:07:53.24
>>737
楽浪帯方から倭国の国境までは7千里なんだってば。
だったら一万二千里の「女王国」とは女王の王都だろ?
一万里で九州に着いてしまうんだよな。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:08:02.82
中国史は台与の後に男性王が立って継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送ってると書いてる
その上でタリシヒコの遣使を示している

卑弥呼後の系譜の話が書いてあるんです

バカには理解できないかなぁ?
中国は「台与の後に普通に王が継承してその後も隋、さらにはその後に至るまで同一系譜にあると書いてる」わけよ

王年代記を持ち込まれて日本の系譜を参考にしても「用明天皇」の部分をシッカリと独自の記録に則して書いてる
つまり、中国は「邪馬台国=大和」であると確定して理解してるわけよ

ざんねんでしたねぇ
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:08:55.23
>>721
全然。
かすりもしてない。
奈良のヤマトなんて、筑後山門(ヤマド)のパクリ。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:11:04.45
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:11:16.36
>>739
筑紫日向宮だろ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:12:32.91
>>746
用明天皇の話は唐の時代以降に認識が上書きされただけだろ。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:13:03.78
>>749
伊都のことですね。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:13:15.24
>>747
ほら、九州説はまったく理由が言えない
これで他人と議論して勝てるわけがないよ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:14:16.11
唐は隋の禅譲を受けて王統を伝える国

なので隋の外交を正統として理解するわけよ
だからタリシヒコの部分は隋の外交を継承する
だから五王時代の遣使は詳しく触れない

そういう記載なわけだ

で、その上で邪馬台国=大和であると示している
中国の正式な歴史理解がここに読み取れると
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:18:32.17
中国からしたら日本の王年代記をそのまま採用すればいい

だが、用明天皇の所だけはそれをせずにアメノタリシヒコであると書いてる
中国が正式に使節として受け入れた隋の記録を正統として示したわけだ

そもそも中国が九州説がほざくような「畿内政権の九州政権の乗っ取り」とやらに気を使う必要なんてないからなw

中国側の正式な記録として書いたのが分かる
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:18:54.21
>>753
旧唐書と新唐書で倭についての認識が違うから、そこで何かあったんですね。
何か?
白村江と倭国の滅亡ですね。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:20:40.35
>>728
傍国、境界の外にあり境界をなす国、に奴国があるし、投馬国から女王国じゃないか?
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:22:10.69
そもそも、タリシヒコは記紀でも九州を舞台とした景行天皇や仲哀天皇の名前だよな。
タリシヒコは筑紫倭国の倭王だよ。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:23:36.34
>>753
中国の誤認は、明らかなんだが。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:24:21.64
>>755
>旧唐書と新唐書で倭についての認識が違うから、そこで何かあったんですね。
>何か?
>白村江と倭国の滅亡ですね。

旧唐書と新唐書がいつ書かれたか知って言ってんの?
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:24:41.88
倭の5王って磐井さんの親戚なんジャマイカ。
磐井さんを成敗したあとは落ち着いたんだろうけど。

磐井さんのことを考えると
卑弥呼が皇統の人間とは簡単には思えないな。
いわゆる九州の豪族の女酋長ってこともあるわけだし。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:24:53.15
419の231
>>しかし後漢代の倭と魏代の倭が別のところにあったとは書かれていないし、
後漢書も魏志倭人伝も楽浪帯方から一万二千里で一致しているから、
卑弥呼の即位の時も移動はしていないことがわかる。<

>後漢書には楽浪帯方から一万二千里のところに何があると書いてあるの?<

後漢書は、「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」として、
魏志とほぼ同じ里記載(短里)を踏襲しているから、魏志と同じく、
萬二千余里には倭の都がある、と言っている。

>あったのは歴年無主だった後に卑弥呼が女王になって都した邪馬台国でしょ<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
あったのは、倭国であり、卑弥呼の都もあった、と言っていることになる。

>たとえ旧政権が郡から一万里の場所だったと情報を持っていたとしても
後漢時代内の政権交代だから最新情報に更新するだろう その推論は成り立たないね
むしろ倭国王帥升の国と区別する必要を感じて敢えて大倭王と書いた可能性の方に信憑性がある<

後漢書は、倭の中心部は、郡から(短里で)萬二千里の場所にあった、と主張しており、
大和の事など、全く記載していない。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:24:53.22
タリシヒコが用明天皇だと確定してるのだから

「倭から日本になった」

も壬申の乱だと理解できる
バカ九州説はこんなものを九州王朝の証拠とかほざくサル以下の脳ミソだから笑える
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:26:19.77
用明天皇はタラシヒコじゃないし!
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:28:03.35
>>757
九州説はこういう捏造が大好き
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:29:04.63
419の>>232
おかしいなあ。この投稿は反論済みの筈。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:33:57.20
国号を日本にした理由

・倭という名前が雅じゃない
・倭と日本は別種
・日本は旧小国で倭の地を合わせた

要するに中国がずっと言ってた倭というのは日本ではないと言ってる。
それを理解できないのはバカの極み。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:40:00.60
419の>>329
>でも事実として大和が都になってるし 落伍者の方が強くなってる<

大和が都になったのは、白村江の後の701年頃。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:48:37.40
そりゃーウガヤの尊以降、
皇統は皇統として代を重ねるごとに畿内で発展したんでしょう。

しかーし!
じゃー、卑弥呼がいたという時代は畿内の力がちゃんと九州に及んでいたの?ということなんだよ。
卑弥呼の可能性は皇統のモモソヒメ以外にもたくさんあるってこと。
九州の女王(豪族)ってことだってあるわけですよ。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:52:58.75
九州説でほぼ決まりだな
畿内説は論破済みのテンプレしか提起できないんだから
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:57:26.91
>>769
で?
きつ誰が何と言って論破したんだ?
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 17:59:52.57
419の>>332
>なんで〜。 3世紀前半末だよ。 博多遠征軍の大祭祀者務めた凱旋王の墓がホケノ。<

3世紀前半末は、卑弥呼の墓の有棺無槨の「冢」の時代であり、
ホケノは、有棺有槨でかなり大きな前方後円墳であるから、
卑弥呼よりもずっと後の3世紀末以降になるから。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 18:34:58.07
>>771
それ、あなた一人の思いつきでしょ?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 18:42:22.57
419の>>337
>弥生西暦200年 (鬼頭宏)
南九州 6万5千人
北九州 4万1千人
四国 3万人
山陽 4万9千人
山陰 1万8千人
畿内周辺 7万人
畿内 3万人
東海 5万4千人 <

鬼頭も、「畿内」なんて存在もしなかった大和説文言を使っているから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説という「結論先にありき」の似非学者であり、
信用出来ない。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 18:51:51.18
>>766
>要するに中国がずっと言ってた倭というのは日本ではないと言ってる。

なんで?

倭が日本と名を改めたとも書いてあるのに?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 18:56:56.76
結論

畿 内 説 は 方 位 や 距 離 の 謎 を 解 け な い バ カ の 集 ま り
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 18:59:05.78
419の>>338
>>祇園山は、墳裾の(複数埋葬を含む)62個の殉葬墓があるから、<

>それ殉葬墓じゃないからww 殉葬墓に殉葬者を葬ってからその殉葬墓の上面を削って
地山成形するなんてことはあり得ない
殉葬墓だと行っている墓地の上に、墓地の存在を無視あるいは軽視して
地山成形の上で段築葺き石を持った古墳時代の方墳を作ったのが祇園山古墳だ<

上面を削られたのは、
墳裾の1号甕棺の「剣や鏡片を所持した成人女性」の墓であり、
おそらく、卑弥呼の死で殉死した「俾」の中の高級女官であり、
だから、祇園山の冢の造成する前に、先に、祇園山の守り神として埋葬された墓。

だから、62個の小型埋葬墓は、祇園山の造成とほぼ同じ時期の殉葬墓であった事になり、
発掘報告者が主張した「50〜100年位の間の集団墓」説を否定する証拠になる。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:06:35.53
>>752
胸を張って、ヤマトとはこういう意味の言葉です、と言ってみなさい。
具体的なことを言わずに、相手をこなすのは無能印。
ヤマトの言葉の由来をちゃんと言ってみなさい。

ま、無能印なのを認めるのなら、言わなくていいよ〜。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:16:23.65
>>775
だという証拠は?
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:17:23.81
>>777
言えないと何の問題があるの
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:17:25.74
>>777
「倭」を、阿波では「ヤマト」とよんでいただけだよ。 「倭大国玉神社」「倭大國敷神社」とかね。  @阿波
0781学術
垢版 |
2019/01/27(日) 19:21:35.13
ヤマ サキュバス だろ?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:22:10.19
>>780
これが言えるのは、倭国(阿波)だけだからね。  @阿波
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:24:30.54
419の>>353
>卑弥呼の墓ができて(卑弥呼が葬られて)、
その後に殉死した者が葬られたと書いてあるがなあ。<

祇園山では、鏡片と剣を所持した成人女性が先に殉死して「墳裾の1号甕棺」に殉葬され、
残りの61個は、卑弥呼と同時期ないしは直後の殉死者の陪葬墓、という形だなあ。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:32:08.16
>>771
竪穴式の石室の構造が黒塚古墳より古い形式なので、ホケノ山は4世紀初頭の黒塚古墳よりも古い古墳とみられている。
また、弥生型である後円部の不整円形がホケノでまだ続いていて、整円形の箸墓よりも古いとみられることから、3世紀半ば頃の築造とするのがよい。
ホケノが3世紀末以降の築造になることは、ない。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:32:13.58
中国は日本の王年代記を受け取った後もその情報をそのまま使わずに修正を加えている

それがアメノタリシヒコ=用明天皇と言う情報
そしてそれ以外の日本の系譜を容認して記載している

つまり魏志のヤマト=大和であり、台与の後も継続して使節を送り続け、
その後も平安時代の天皇に至るまで同じ勢力であると理解しているのが分かる
当然、「倭から日本への国号変化」も「同じ政権内の話=壬申の乱」だと認識していると分かる

この事から中国は九州の邪馬台国や九州王朝など全く考えてもいないことが明白

最初から九州説など日中双方の歴史から全否定されていると言う事が明らかと分かる
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:35:11.34
>>783
>残りの61個は、卑弥呼と同時期ないしは直後の殉死者の陪葬墓、という形だなあ。

同時期ないしは直後の殉死者の陪葬墓から
須恵器が出てるんなら
祇園山は卑弥呼冢の候補から脱落確定ね
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:42:45.71
419の>>362
>>瀬田周溝墓2世紀後半説は、どうも疑問が多すぎる。<

>疑問って何なの?
理由もなく年代を引き下げたいというあんたの欲望以外なにも見つからない<

庄内1の石塚は、3世紀第4四半世紀頃。
庄内0の瀬田周溝墓が2世紀後半では、100年位の断絶になり、疑問。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:48:20.88
>>774
倭が日本になったというのも、部分的には正しい。
ただ、筑紫倭国の宗家ではなく、分家の一つだったのだろうね。
日本は倭から別れた小国とあるからね。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:49:46.03
>>785
>それがアメノタリシヒコ=用明天皇と言う情報

これはあくまでも「日本」の言い分であり、倭の言い分ではない。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:50:19.46
>>780
阿波では、なんで倭(ワ)をヤマトと呼んだの?
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:51:10.95
>>787
考古学的には九州北部がいち早く文字文化を受け容れた。
西日本で一番文化的発展が遅れていたのが大和。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:56:56.85
419の>>389
>アンチ畿内説は「纒向は集落じゃない」しか言えなくなったのか?
纒向地内での住居の発掘例が少なくても、これだけの大遺跡を作るだけの
人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
3世紀の倭国の中心なのが明らかなんだよ<

庄内1の石塚が3世紀第4四半世紀頃だし、
庄内3〜布留のホケノが33世紀末以後であり、
布留の箸墓は4世紀以後になるし、
「南≠東」や九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」などに拠って、
「纏向は3世紀の倭国の中心」説は、×。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:58:05.03
>>1
「旧唐書」には、『倭国伝』と、『日本国伝』のふたつがある

ひどいのは日本に対する評価で
「日本人はすぐ話を大きくしてホラばかりふくから中国人は誰も信じてない」とあり、倭国に対する扱いとまったく異なる

民族性がよく現れている。どこかの民族とそっくり
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 19:59:31.74
>>791
>阿波では、なんで倭(ワ)をヤマトと呼んだの?

さあね。  そんな理由なんてどうでもよろしいがな。 「倭大国魂神社」「倭大國敷神社」とか使ってるから。  @阿波  
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:01:26.52
>>788
庄内1の石塚はが3世紀第4四半世紀頃って
あんたの我流珍説が異常なせいなのでは?
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:01:34.26
419の>>394
大和説は具体的な話ができず、
全て大和説学会教育界の総論精神論に終始しちゃう
そして万世一系皇国史観の戦争宗教になっていく
思い当たらんか?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:08:09.66
「日本」がついている嘘の一つが、邪馬台国畿内説。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:08:31.02
>>797
あたらんな
ザラコクのウソは
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:09:46.90
漢字
倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。
当然のこととして、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
 こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。
それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。
弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
 考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「不一致」から目を背けてはなりません。
学問的良心があるのなら、この「不一致」から逃げてはなりません。
 他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。
たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。
これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、
倭人伝と考古学事実の「一致」が証言しているのです。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:15:25.70
419の>>395
勝手に年代を動かすなよ。

>畿内勢力と筑紫倭国の衝突なんて何度もあったということだろう。<

畿内なんて、8世紀以前には、原則として存在しなかった。
また、大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であったのであり、
6世紀に継体が反乱してようやく九州倭国の王家の一員に参画出来た、
というだけだ。

>景行天皇の話もヤマトタケルの話もそうだし<

景行も、九州倭国の南九州遠征の将軍的な地位であったのであり、
倭建命も、九州倭国の中の一武将として働いただけだ。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:24:23.35
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:28:50.08
419の>>402
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、情弱の人?。

>3世紀当時列島最大の墳丘墓が5基あり、<

何故名前をあげないの?。何故前方後円墳と言わないの?。冢でないから都合が悪い?。
また、大和の前方後円墳の始まり頃の石塚は、3世紀末であり、
「3世紀」という事がインチキ。

>遺跡範囲も他の遺跡を圧する突出した大きさ<

弥生銀座などに、全く負ける。

>それまでになかった規格による最大級の建物群<

九州倭国の「東征毛人五十五國」の「地方の市」の祭祀建築。

>これだけの根拠があれば
「人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
 3世紀の倭国の中心なのが明らか」なんだよ<

「南≠東」などに拠って、始めから×。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:33:08.77
419の>.411
>もう畿内説に対してまったく反論できないようだ<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
この大和説男も、「南≠東」などに全く反論出来ないようだ。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:41:22.94
419の>>418
具体的な話ができないという大和説の弱点を抉られて、
史料事実からの具体的な話をしてるからの九州説に向かって、
「抽象論」とか考えなしに脊髄反射しちゃうにが、
大和説の末期症状
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:47:03.73
419の>>428
その「ハッタリ」だと判断する根拠を「具体的に史料事実を指摘して!」って、
何度言われても、できないらしいねぇ
大和説・アンチ九州説の人は、人材が払底しているな。

「南≠東」などの嘘つき騙しの指摘に対して、
まともな返し一つできない、こんな低レベルしか残っていない。

まあ、まともな判断力のある人は今どき畿内説以外は採らないから
当たり前といえば当たり前だけれど
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 20:52:14.26
前スレマンはチキンだから速度調整して追い付かない様にしてるな
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:00:04.21
419の>>431
>(纏向)残念ながら建設開始は3世紀初頭、人によっては2世紀末としている<

庄内1の石塚が3世紀末になるから、その前の第5様式も3世紀後半位にしかならない。

>そして、最初に纏向大溝を作ることから始めていて、
最初から大規模な土地造成が計画的に行われている<

最初から水はけの悪い地だったから。

>最初が小さいのは当たり前
その最初期から大規模集落が構想されているのが分かる<

最初から大規模集落を構想していたんなら、水はけの悪い地を選択しない。

>新しい共立女王の新しい都として計画的に作られたと考えるのが合理的<

「南≠東」などで、×。

>最初期の纏向石塚古墳の時点で、列島最大だよ ごまかせてないぞww <

一貴山銚子塚と同じ位だろ。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:07:13.18
419の>>434
>加賀石地区は伊都国王都の始まりの地点
◆弥生時代初期(約2,500年前)の大型支石墓を確認
◆弥生時代前期(約2,500〜2,300年前)の集落と墓域(甕棺)を確認
番上地区は伊都国対外交渉の中枢地点
◆番上地区は弥生時代中期後半〜古墳時代前期(約2,000〜1,700年前)の伊都国対外交流の中枢地域
◆多量の中国製の土器(楽浪系土器)と国内2例目となる石製の硯すずりが2点出土
少し前には古墳前期の大型建物跡も発見されている<

情報提供、有難うございます。
この「古墳前期の大型建物跡」というのが、
天誅とyamatogawakonanが話していた建物の事なんだね。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:22:32.06
アメノタリシヒコ=用明天皇の情報は、日本の史書には記載されていない

つまり【日本の史書の情報と関係なく中国が独自の記録をもとに記載している】

バカ九州説がほざく「日本の言い分が取り入れられた」のでは全くない

つまり、バカ九州説ほざくような白村江で倭が滅んだとか言うバカ話は一切存在せず、

日本の畿内を中心とする勢力は邪馬台国の頃から継続していることが明白となっている

九州説や九州王朝説など端から全く存在しない与太話であるとハッキリしている
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:26:23.30
そもそも用明天皇の和風諡号はタリシヒコではなく、橘豊日命だぞ。
タリシヒコは景行天皇(大帯日子)らの九州の王統の名前だ。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:29:35.52
まぁ九州説なんて普通に史書読んでれば出てくるはずもない話

バカ丸出しの九州説は史書なんて読んでないのがまるわかり
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:33:17.67
419の>>447
>>◆番上地区は弥生時代中期後半〜古墳時代前期(約2,000〜1,700年前)の伊都国対外交流の中枢地域
◆多量の中国製の土器(楽浪系土器)と国内2例目となる石製の硯すずりが2点出土
考古学では現況では弥生時代後期〜古墳時代初期の中心はここだろう<

>卑弥呼の都から片道2ヶ月かかるので一大率が置かれてたんだから、その施設だろ?<

何だ?、倭国の一大率が、漢字を書けた、という事を認めるのか?。

>>少し前には古墳前期の大型建物跡も発見されている<

>これに関しては、近くの端山古墳との関連が考えられている
端山古墳は全長78.5メートルの前方後円墳<

別に、端山古墳と関係がある、なんて事が断定出来ない。

>伊都国首長が畿内発の葬送文化を受け入れていたことを示しているし、<

「南≠東」などに拠って、×。

>国力としては80メートル弱の墳丘墓がやっとということ<

「東征毛人五十五國」の大和とは違って、
糸島では、魏の臣下になった大夫が多くて、薄葬令の制約を強く受ける。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:35:18.94
419の>>448
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
千回ウソをつけば本当になる、
と信じているようだ。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:39:35.34
九州説は隠蔽とかいつも喚き散らしているが中国側がそんなもんに付き合う必要はないw

逆に同一の勢力の継続についての情報を、九州説が言うところの倭を乗っ取って自称したはずの日本は自分で書きもせず、中国が勝手に書いてると言う図式になる
陰謀も隠蔽も存在してないと言うのが確実

つまりそんな九州王朝だのそんなもんは最初からありもしないと言う事
バカ九州説のバカぶりが当たり前の史書を見れば当たり前に明らかになる
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:44:46.44
419の>>458
>>年代前倒し詐欺<

>根拠もなく詐欺だと誣告するだけの簡単な仕事です!って?ww <

根拠も言わずに、詐欺だと誣告するだけの、簡単な仕事です。

>詐欺だといいたいなら、詐欺であることを確認できる年代観を、
これまでの「多数の学者の成果の集合知」を否定できるだけの膨大な根拠と
正確な論証を用意した上で提示して見せてくれww<

詐欺だといいたいなら、
詐欺であることを確認できる文献考古の史料事実や史料実態を、
正確な論証を用意した上で提示して見せてくれ。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:45:30.18
いつも何かと言うと持ち出してきた唐書に九州説のバカは何が書いてるか全く理解できてなかったと言う事

お笑いだなw
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 21:51:46.37
419の>>460
>>伊都国がその頃でも大型古墳を作れるくらい栄えていたんだよね? <

>まあ、九州では全長78.5メートルは「大型」古墳だねぇ
100年前の纏向石塚古墳よりも小さいし、畿内なら王墓とかには引っかかりもしない
下池山古墳の120メートルよりも小さいし、要は特に大きくもない地方豪族ってだけ
そんなところが倭国の中心とか言っちゃえるのが九州説だよなww<

九州倭国は、魏の臣下になった大夫らが多いから、薄葬令が強く作用するが、
それでも、一貴山銚子塚は103mだ。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:02:16.60
419の>>470
>三国志の原書あれば成り立つ議論を展開されてもな
写し間違ってるのだから諦めろん <

宋明清代の校勘学者は誰も、版本の「邪馬壹國」の校勘をしていないし、
版本の底本写本は、版本と全く同じであり、
そうすると、全ての写本に「邪馬壹國」と書かれていた、という事になり、
突き詰めて行けば、陳寿原本も邪馬壹國と書かれていた、という事の確率は、
99.9%以上位になる。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:03:17.23
実際のところ短里の主張や九州倭国が701年まであったとかいう捏造は信用無くすわな
机上で成立してる様に思っていても裏付けが何もないし隠蔽されたなどと放言して検証さえ放棄してる
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:17:16.32
>>744
少なくとも現実的な距離じゃあない
帯方より南1万2千里を当時の尺度に直すとパプアニューギニアになるし
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:19:44.36
>>748
大和と出てくるけど
まあそれに出て来なくても問題ない
魏志倭人伝で示されてる場所は明らかに邪馬台国じゃないから
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:25:05.73
>>819
厚葬なのか薄葬なのかはっきりしろ
何だ九州は墳墓の副葬品が豪華とか言っといて
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:39:09.09
419の>>471
>>畿内説の歴史学者の年代観は、日本国民から受け入れられていないようだ。<

>教科書に載ってるよ<

じゃ、教科書会社は、
日本国民が受け入れないような、嘘吐き騙しの教科書を作って、
国民や生徒を騙している、
という事だ。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:40:27.71
>>744
>強固な固定観念にとらわれた古代中国人にとつては、1万2
>千里は 邪馬台国までを示す距離であるのは確かなんだがな。

邪馬台国までではなくて女王國までだよ

例えでいうと
東京(帯方郡)から北海道(女王國)までの距離であって
札幌(邪馬台国)までの距離じゃない
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:43:25.11
>>824
>何だ九州は墳墓の副葬品が豪華とか言っといて

そうなんだよね
もともとの薄葬令は豪奢な副葬品を墓に入れると盗掘にあって
死者の安寧が妨げられるから、副葬品は質素にしろっていうものなんだからww
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:46:13.84
419の>>477
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説バカは、
倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した程度の低いした記紀妄想を、
古代史だと思い込んでるのが、笑えるな。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 22:52:16.03
419の>>487の訂正
卑弥呼の墓は「冢」だから、
前方後円墳の石塚は、卑弥呼の冢よりもはるかに新しく、
3世紀末頃だ。
つまり、纏向遺跡が建設されていく時期は、「邪馬台国の時期」と全く重ならない。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 23:03:59.76
419の>>493
>なぜなら「距離を測る方法がない」から <

魏使らは、当然一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測を知っているから、
計測していたのだし、
その事は、陳寿の計算の「計其道里、當在會稽東治之東」でも確認され、
更に、倭人伝では「余」という近似をした事を示す里数値記載と、
「余」のない実測値記載とが混在している事からも、
計測があった、という事が分かる。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 23:04:43.75
帯方郡から倭の国境(狗邪韓国)までは七千里だろ。
王都(女王国)までが一万二千里だ。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/27(日) 23:58:59.53
萬二千餘里は女王國の境界まで
王都までは日数で書かれている
九服之制の荒域(文化はつる地)の外に対する観念的な里数
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 00:07:51.58
>>826
普通、A国からB国までの距離をいう時、A国の国境からB国の国境までの距離をいう場合と、
A国、B国の首都の間の距離をいう場合、地理的な中心地の間の距離をいう場合などがある。
倭人伝の場合、行程の最後に卑弥呼がいる都を挙げ、そして郡から女王国までを1万2千余里としている。
文意からすると、帯方郡庁から卑弥呼の都までの距離を1万2千余里としていると読める。
郡境から女王国の国境までとしているようには読めない。
かりに女王国の国境までの距離とすれば、帯方郡境から対馬か唐津までの距離となるが、前述の通り、行程を女王の都まで記して、その直後に1万2千里の記述がなされているので、対馬や唐津の国境までの距離とするのは不自然である。
そして、女王の都のある国(女王国)としては、邪馬台国を意味していると考えられる。
倭人伝の記述では、女王国は倭國全体を指す場合と、女王が都としている国を指している場合とがあるように読める。
1万2千余里については、後者と考えるのが妥当。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 00:11:08.64
結局九州バカの行きつくところは、
元から間違いだらけ、誤認だらけの行程を好き勝手に弄り倒して邪馬台国だと言い張るしかないと

中国の史書は畿内政権の継続をハッキリと示していて、
九州説や九州王朝なんて言うバカ丸出しの妄想なんて最初から成り立たないからな

まぁ所詮はキチガイの集団の寝言だと言う事だな
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 00:19:47.91
【行程から読み取れる現実】
・1万2千里で女王国。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国

※1万2千里以内の九州は「女王国でさえなく女王国に統属し、一大卒に監視されて怯える属国」

【史書から読み取れる現実】
・中国は台与後の男性王からアメノタリシヒコ(用明天皇)と、その後の平安時代の天皇に至るまで同じ系譜上にあると理解

※九州説も九州王朝も最初から存在さえしてない

これが史書から読み取れる現実
アホ九州説は史書なんて読んだことも無いので九州王朝だの九州説だのがあると思い込んでる間抜けだとよく分かる
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 00:21:47.56
華夏の立場で読まないと
里というのは漢民族が定めた度量衡
倭は「漢時有朝見者」のでそこまでは文化が及んでいる
女王國には初めて足を踏み入れるから日数で表している
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 00:29:17.24
アホな妄想で勝手な設定を盛り込んで「こう考えたらこう読める」とか言い出して好き勝手な距離を作り出す

とどのつまりキュウシュウセツの全てがこれ
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 00:35:27.86
>>825
まるで日本の教科書を使ったことが無いみたいだね!
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 03:43:11.55
教科書検定に問題があるのではないのかな
なお、邪馬台国は畿内と断定的した義務教育課程の教科書あるのかな
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:03:16.68
419の>>509
>破綻させられたのは谷本計算だ 3寸男によってなあ <

谷本計算に拠って破綻させられたのは、
「南→東」嘘吐き騙し大和説学者らや、類スレ主らだ。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:07:59.98
419の>>512
>淮南子の書かれた漢の時代では短里なんて使われてないので・・・<

漢代にも、淮南子の類一寸千里や、「介山」の高さ、でも短里が使われている。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:18:19.02
【行程から読み取れる現実】
狗邪韓國〜末盧國間を3千里と設定しながら倭地を周旋5千里
畿内には届かないよ
自郡至女王國 萬二千餘里この文は国名を羅列して此女王境界所盡と書いた後に出てくる文で
萬二千餘里を遥かに超えた地域は設定していないと読むのが自然

【史書から読み取れる現実】
以北に對海國、一大國を比定出来ない
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 東に海がない
其南有狗奴國 南に狗奴國を比定できない
今倭水人好沉没捕魚蛤 本より海が無い
兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃 矛も無ければ鉄もない
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑弥呼宗女壹與年十三為王國中遂定政等以檄告喩壹與
前後に歴史を持たない纏向には用はない
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:27:21.25
419の>>515
>じゃ7世紀日本のヤビタイ国とはどこだろう<

またウソを付くな。ヤビタイ国なんて存在しない。
俀國の都の在する地名だ。

>その頃は日本の政権は大和国だったはずだが <

列島の盟主は九州の俀國で、
大和は、扶桑國と呼ばれて、その俀國の附庸國であり、
小野妹子が隋文帝に「日本国」を名乗って、
独立國になった事を承認して貰おうとして、失敗したばかりだ。

>そして隋の使者は大和国まで来てもいるし<

「自竹斯國以東、皆附庸於俀」だから、裴清は大和方面へは行っていない。

>遣隋使等があって交流は盛んだった さらに北史では倭の都は邪摩堆とある
臺はドでも別にいい <

北史は、自己解釈」に拠って、
隋書の「邪靡堆」記録を「邪摩堆」と書き換えたから、半分×書だ。

>3世紀は邪馬台国はヤマド国と呼んでいたかも知れないから<

この男も、「南→東」などの、ように、
史料事実や史料実態の書き換えをする嘘吐き騙しの詐欺師であるから、×人間。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:33:54.23
419の>>517
>邪馬壹國は12世紀に復刻された魏志倭人伝に初めて現れる表記<

版本は、底本写本のコピー複写で造られるから、
魏志版本の全てが邪馬壹國で合った、という事は、
魏志写本群も全て邪馬壹國と書かれていた、という事。

>歴代の史書の倭人伝はほぼ邪馬臺國 <

後代史家の「自己解釈に拠る魏志写本の書き換え」は、半分×記載であり、
証拠にならない。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:43:57.44
419の>>519
大和説学者は、頑なに、
一寸千里や、簡易三角測量や、記里車や、歩測や、日数測などの簡易測量などを、
実地で試そうとしないな。
日本国内なのだから簡単に証明できるのに、
やらないのは、おそらく、
やれば、「短里」の存在や谷本計算の正しさを証明してしまう事になるから。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 06:51:21.37
419の>>523
>淮南子に由来する1万2千里は漢からの由緒ある数字<

周代からある程度知られていた数字。

>邪馬台国はその位置にあらねばならぬというのは魏の政治決定<

邪馬台国なんて歴史上に存在もしていなかった嘘吐き騙し文言。

>それを架空の数字と抜かす九州説ザラコクは打ち首<

万世一系皇国史観教に狂って殺戮戦争狂になった大和説学者らは、
怖い怖い。
早く、牢屋や病院に隔離してほしい。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 07:01:17.24
419の>>525
>不彌国までで1万700里<

對海國と一大國の国内見聞移動をしているから、不彌國でほぼ「萬二千余里」。

>邪馬台国まで残り1300里ある<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言。

>それを南に水行陸行して会稽東治(冶)乃東、沖縄台湾辺りに
邪馬台国はあると記述上魏志倭人伝はなっている<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、その後は「水行陸行」は殆どしないし、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定をしていて、
ほぼ九州島を指しているから、
沖縄台湾辺りなんて、推定もしていない。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 07:25:46.65
後漢書において、国境までは楽浪郡から七千里と明記されている。

用明天皇の和風諡号は帯日子ではなく、橘豊日命。

畿内説は史書を無視するのもいい加減にしろよ。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 07:33:39.70
419の>>526
>元は世界の果てまでの空想的な数字に
ちょっと余がついても邪馬台国までを示す距離にならない <

「余」は、得られた数値に関しての、「概数」である事を示し、
形容詞的な数値使用においては、殆ど使われず、
そのような場合には、「余」を付けずに、概数のままの断定的な表現が選択される。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 07:40:11.91
419の>>528
>魏志倭人伝の会稽東治はどうやら存在しなかったようだ <

宋明清代の校勘学者は誰も校勘せず、
版本群は、それぞれの底本写本の複写コピーであるから、
魏志写本群でも、皆「東治」であったのであり、
だから、それを「東冶」に書き換えた後漢書の范曄や、
現代大和説学者や、台湾出版社がアホであった、という事だ。

>代わりに会稽東冶はあってその東は沖縄台湾辺り<

この男も、そのアホの仲間。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 07:45:42.93
419の>>532
>邪馬台国は畿内で
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離方位は
淮南子や後漢書の記述を元にしていて指しているのは
会稽東治(冶)乃東で沖縄台湾辺りだから正確性がないというのは
畿内説の共通見解<

畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
大和説者は、全員「南→東」などの史料事実や史料実態を否定曲解する、
万世一系皇国史観という思想宗教的な・・・・アホ詐欺師人種集団。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:08:41.60
手書きで写本してた800年間と
印刷本となった宋代以降を同列に比較するのは論理的思考ではないな
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:41:25.74
419の>>542
>・倭は会稽の東に無い <

女王國は、ほぼ「会稽東治之東」の九州島付近にある。

>・九州の中でさえ方向も距離も間違いだらけ <

魏使らの行程の説明は、人類の常識通りの記述法であり、ほぼ間違っていない。
大和説者は、それをほぼ全て間違いにしないと成立しない。

>・伝説の時代から、実際に交流をしている時代までも同じ距離と方向で考えている<

「余」の付けられた記載があるから、実際の見聞計測からの推定記録である。

行程を調べれば調べるほど、実際の地理と合っている事が分かる。
この行程記載の珍解釈しかしないし大和説が、どんだけ存在価値のない物であるのかであるの?が、
すぐわかる。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:45:21.67
419の>>543
>なんか邪馬台国とは関係無い異常な書き込み多いな <

なんか、史料事実に存在もしない「邪馬台国」とか「畿内」とかの嘘つき騙しの、
「邪馬壹國女王之所路」に関係無い、
「南→東」などの詐術的な、
異常な書き込み多いな 。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:52:04.35
419の>>544
>南としても会稽東治(冶)乃東で邪馬台国は台湾や沖縄辺りと
魏志倭人伝に陳寿は書いてるんだから九州説も無理だぞ <

何だ?。
一連のこの変な投稿の人間は、やっぱり、
「南→東」の嘘つきや、「邪馬台国」などの存在もしない嘘つき騙しの文言を使う、
・・・・詐欺師の大和説者であったのか。

少し相手にしてやって、損をした。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:53:43.80
このように嘘をつくことによって
辛うじて存在しているのが
九州説という虚構
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:54:10.21
419の>>546
多少なりともまともな頭の大和説者は、
とっくに大和説から撤退している。
未だにこのスレに書き込む大和説と阿波は、
極めつけの狂人。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:57:54.01
419の>>548
>よくわからんけど
陳寿が東にある邪馬台国を南と書いただけ<

邪馬台国なんて存在もしないから、よくわからんけど?、
魏使らは陳寿は、不彌國の南にある邪馬壹國女王之所都を、
南と書いただけ。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 09:05:28.57
書きこみ&クッキー確認
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419の>>552
>>行程や距離が正しいとしたら、<
正しいことは、 陳寿の位置推定の「会稽東治之東」や、 「(末盧國から)東南陸行五百里、到伊都國」の「東南」は、末盧國からの出発方向であったであった、 という事だけで、確定。 「正しいとしたら」という仮定をおく必要がない。

投稿確認
この書き込みで本当にいいですか?
犯罪予告や犯罪示唆、誹謗中傷、性的な出会いを目的とした書き込みでないか今一度確認してくださいね。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 09:43:00.20
>>563
>(一寸千里計測)確か魏とか唐の時代に計られたよ<

魏は、周髀算経の一寸千里を採用しているんだから、計測はしなかった筈。


>1寸600里程度とか出たはず<


南北朝〜唐朝は、学者や朝廷も始めから長里論者であるんだから、
全く一寸千里には全く合わず、一寸200里位になって、困り果てた筈。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 09:45:59.79
兄が夜を治め、弟は昼を治める。
当然、兄は全兄とは限らず、男系女系を問わない半兄も含まれるでしょう。

畿内を弟が治め、九州を兄が治めた。
タラシヒコオオキミが奏上してますよ。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 09:46:36.38
都合が悪くなるとタンリとか言い出して距離を短く喚き
都合が悪くなると距離を伸ばして喚き散らす

都合が悪くなると捏造だ何だと喚きだす

これがキュウシュウセツの全て
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 09:49:36.24
九州は1万2千里以内の女王国でさえもない属国

台与以後平安の天皇に至るまで畿内のの勢力が継続していると、【日本の捏造どうのとか言う妄想関係なく】【中国自身が】認識している

これが事実
能無し九州説のバカ妄想など最初から存在していないのが明白
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 09:55:54.78
大王をオオキミといった。
大=意富でしょう。

伊都ですよ。

上古の伊都は倭の中心だった。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:10:45.43
>>850
>宋明清代の校勘学者は誰も校勘せず、
お前、《三國志》だけが校勘対象だとでも思っているのか?
《後漢書》の「東冶」も「宋明清代の校勘学者は誰も校勘せず」だろ
そもそも范曄が「東冶」書き換えたなんてお前の言いがかりだ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:30:39.84
後世、倭と日本は別種である。
…と日本側が中国側に対して言ってる。

中国→おまいら、倭の中の一部だろ?
日本→倭ではない。別種。倭の地は併合した。俺らの方が上だ。

おまいら、昔から味噌糞一緒だな。昔から勝手に倭よばわりして、雅じゃない字までつけてる。
そのままいろんな意味で勘違いしててもいいけど、それはそれで腹立つから、教えてやる。
で、俺らは日本って決めた。今後は言うのも書くのも日本で宜しく。つつがなきや。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:40:03.65
旧出雲勢を中立や風見鶏にして、九州勢と畿内勢の力関係が変わったタイミングがあると思います。
おそらく、崇神天皇の御代あたりから。

万世一系を謳い、天照、倭大國玉、大神の神。
それぞれ斎主を決めて外宮で祀るようになった。

含蓄と忖度(笑)がある記述だと思う。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:43:57.34
>>417
>大率は、引きこもりの卑弥呼の代わりに女王国より北の対馬海峡(倭国の生命線)を監察した官僚だろ。
>伊都から出かけて対馬海峡を監察したから刺史のようだと評されただけで、伊都が女王国で問題ない。

>それより、女王国が大和なら、大率はどこを監察していたんだい?

相変わらず、九州説の一大率の解釈はデタラメだなw
卑弥呼の都が伊都だったら、どうして都に刺史を置くんだ?
奴国や末盧国は検察しないのか?

一大率は畿内大和から、北部九州を検察するために置かれた出先で
大陸との出入国管理も行う官職だよ
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:46:45.65
>>831
>帯方郡から倭の国境(狗邪韓国)までは七千里だろ。
>王都(女王国)までが一万二千里だ。

違うよ
帯方郡(東京)から狗邪韓国(函館)まで七千里と
帯方郡(東京)から女王国・倭国(北海道)まで萬二千里は当然区別される
もちろん、女王国(北海道)と邪馬台国(札幌)も区別される
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:48:37.25
九州勢なんてのはないよ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:56:05.81
419の>>569
>そうだな
畿内説は宮内庁すら否定してるからな <

ふーん。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 10:56:38.04
>>866
>後世、倭と日本は別種である。

そもそも「別種」というのが「同じものの別の呼び方」という意味なんだけどな
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:00:53.32
冊封(中国のお墨付き)の善悪。

善→朝鮮半島の制圧・支配にはお墨付きになる。
悪→お墨付きのよって地方の王が立場を勘違いする。皇にまつろわない。

教訓
国内統治においては意味を為さず害悪そのもの。
国外統治や外交においては権威や序列になり、意味があるもの。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:13:06.04
>>872
>そもそも「別種」というのが「同じものの別の呼び方」という意味なんだけどな

そう、いずれも「忌部はん」 だからね。  @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:15:12.69
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。

東京都伊豆諸島 神津島に阿波命が祀られている。  これも、黒潮に乗って阿波から進出した関東忌部が残した痕跡である。  @阿波
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:16:18.44
下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は、千葉県南房総市にある神社である。

同名社が旧白浜町と旧千倉町に2社ある。いずれも*天日鷲命を主祭神とし、式内社「安房国朝夷郡 下立松原神社」の後裔社を称している。長らく論争となっていたが、結局どちらにも決め手がなく、そのままとなっている。

どちらの社伝でも、天富命とともに安房に渡り当地を開拓した天日鷲命の孫の由布津主命が、神武天皇元年に天日鷲命を祀ったのに始まると伝えている。  @阿波
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:17:52.51
「日本國者、倭國之別種也」と書いてるのは舊唐書
「筑紫城」が書いてるのは新唐書日本傳
チェリーピックしたらだめ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:28:34.21
419の>>570
>事実と照らし合わせて合致しないのは採用しないだけ<

大和説者は、
史料事実や史料実態が自説の大和説に合わなかったら、
「南→東」などとした自説の方の反省をせずに、
史料事実の方を否定曲解をするという、
嘘つき騙しの詐欺師であるだけ。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:34:00.68
419の>>573
>逆に九州説特に北部説こそ
魏志倭人伝含むおおよそ全ての文献によって否定される<

逆に、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」という総括に拠って、
九州北部説こそ、およそ唐代以前の全ての文献に拠って、肯定される。
魏志倭人伝含むおおよそ全ての文献によって否定される
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:42:39.68
史書なんて読んだこともない九州説は今更現実を教えてもらってこうやって訳の分からない妄想を喚き続けるしかない

哀れ哀れ
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:45:50.99
そりゃ慌てるよなぁ
九州説のバカどもは史書なんて見たことも無いからな

邪馬台国の会とかのアホな妄想をそのまま信じ込んでるだけの間抜けの集団だからな

誰でも知ってるレベルの真実を知らされて狼狽してる様が笑える
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:49:00.46
鐵勒,本匈奴別種
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 11:49:44.10
霫,匈奴之別種也
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 12:00:15.06
419の>>580
>会稽東治(冶)乃東は沖縄台湾辺りを指すから畿内とはしないよ<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言だし、
陳寿の女王國の位置推定は、(東冶ではなく)、会稽東治之東であるから、
ほぼ九州島付近であって、沖縄台湾辺りを指していないから、
この大和説男も、×男。

>その事実を元に魏志倭人伝の距離方位は正確性に欠けると指摘するのみ <

いや、女王國の位置は、投馬國が南九州に当たり、
不彌國で萬二千余里はほぼ終わっているから、水行十日陸行一月は郡からの日数であり、
「不彌國の南」は南で良く、
何の問題もない。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 12:10:55.10
419の>>584
>主に邪馬台国を九州北部とする古田説の主張は<

古田説は、「邪馬台国」は否定説。

>魏志倭人伝淮南子後漢書隋書北史梁書日本書紀太平御覧などによって否定される<

倭国中心地=北部九州説は、
魏志倭人伝、後漢書、宋書、梁書、隋書、晋書、北史、旧唐書、唐会要などに拠って、
肯定される。

>そもそも邪馬台国は九州北部にはなかったから当然そうもなる<

そもそも「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しであったから、
当然、大和説は否定される。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 12:14:48.59
419の>>586
>それは陳寿の考えでしょう・・おそらく大陸より東(日の昇る方位)
使者が会稽東治(冶)乃東と伝えたのでしょうか? なおご存知だと思いますが
倭人伝では(治)です 後漢書では(冶)です<

後漢書の「東冶」は、
「後代史家の自己解釈に拠る、魏志の陳寿の位置推定の書き換え」であり、
半分×記載であり、根拠になりません。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 12:54:51.73
「後代史家の自己解釈に拠る、魏志の陳寿の位置推定の書き換え」
こそが全く論証されていない願望に過ぎないから論拠にならないんだよな仮説ならまだしも事実の様に語るのは詐欺的
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:04:18.87
>>866
隋書のニュアンスがよる伝わるな。
日本人は不遜で嘘つきと書かれるわけだよ。
畿内説は恥さらしだ。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:05:21.43
残ったのが後代史家より後代の民間版本だからね
書き換えと解釈してるのは、はるか後代の素人だから
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:06:36.57
>>868
>卑弥呼の都が伊都だったら、どうして都に刺史を置くんだ?
>奴国や末盧国は検察しないのか?

対馬海峡が倭国の生命線だからだよ。
奴国や伊都国は女王の直轄地だから、大率を使うまでもない。
大率が「刺史のよう」なのは、伊都から北に検察に出かける様子を郡使が見ていたからだよ。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:08:26.69
>>869
>帯方郡(東京)から狗邪韓国(函館)まで七千里と
>帯方郡(東京)から女王国・倭国(北海道)まで萬二千里は当然区別される
>もちろん、女王国(北海道)と邪馬台国(札幌)も区別される

函館まで里数を記載しておいて札幌までを記載しないアホがいるのか?
「女王国」は女王が直轄している国邑のことだよ。
一万二千里が王都までの距離だ。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:09:16.27
>>872
>そもそも「別種」というのが「同じものの別の呼び方」という意味なんだけどな

畿内説は新しい意味を創造するのが好きだよな。
ただ、世間ではそれを歪曲と呼ぶんだよ。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:13:23.77
伊都王都妄想説では半島南部5万戸が投馬國だから
一大率を伊都に置く意味がない
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:15:43.98
投馬国5万戸は宮崎県都万。
福岡県の邪馬台国7万戸とは別種。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:17:02.37
>>896

考古学的根拠なし
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:19:06.20
419の>>597
>私もそう思います 陳寿も魏の使者の方位や距離は難解だと思います。
陳寿は魏の使者と謁見していないのでしょう。<

当たり前。陳寿は、魏使らの記録を見て書いた。

>会稽東治乃東は日の昇る方向ぐらいで、九州から関東まで網羅する方位だと・・<

陳寿は、女王國地域の九州島と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とを、はっきり区別して書いているから、
女王國を、大和や関東まで、とか主張するのは、×です。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:20:18.68
>>863
>台与以後平安の天皇に至るまで畿内のの勢力が継続していると、【日本の捏造どうのとか言う妄想関係なく】【中国自身が】認識している

旧唐書では倭国と日本国が併記されている。
双方の使いが皇帝の前で言い争いをしてつまみ出されている。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:25:03.30
北部九州説は、本州とも、九州中部とも交流があまり無く
半島南部とは双子のようにとても交流した民族という考えなので
交流がない東部、南部と接している国々に
諸国を検察する一大率を特に置かなければならない
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:36:39.89
419の>>599
>つまり倭奴国は倭国の一番南にあると<

いや、「倭國之極南界也。光武賜以印綬」は、
「倭国がこれ南界を極むるや、光武は印綬を以って賜す」です。

>魏志倭人伝もその後漢の伝承に沿う形で書かれたもの <

魏使らも、陳寿も、5世紀に書かれた後漢書を知らないし、
関係なく記録し、倭人伝を書いた。

>漢を慕い朝貢した万里の彼方の由緒ある国が
魏を同じように慕い朝貢に来ましたよと皇帝を奉るために<

宋書に書かれた倭の使節の事?。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:39:04.27
419の>>600
>もめるなら 距離や方位はどうでもいいじゃん
倭人伝で書かれた遺物や風土はどこが有力なのかじゃねーの <

もめない。
「南≠東」などに拠って、大和は始めから×。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:42:41.05
419の>>601
>畿内説の課題だが 邪馬台国と関係無いからネ 聞いた話程度<

「畿内」も「邪馬台国」も存在しないから、全く意味不明であり、×。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:50:31.38
新羅の使節との席次の話と混同してバカな妄想話を繰り返す九州説に笑える

九州説は史書なんて一つも読んでないのがよく分かる
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:52:42.56
>>602
>場所的に言えば会稽東治(冶)乃東は沖縄や台湾
正確な地図が無い時代だから多少漠然としたものだろうけど<

「会稽東治之東」だから、ほぼ九州島であり、沖縄や台湾は、×。

>ただ少なくとも九州北部や畿内は指してない><

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は「南≠東などに拠って、始めから、×。

>九州北部を通り過ぎて水行陸行してそこに向かうと 魏志倭人伝には記されているから<

書かれていない。魏志倭人伝には不彌國で萬二千余里が終わって、
投馬國は、南方に水行二十日の南九州の位置にあり、
邪馬壹國女王之所留は、不彌國のすぐ南にあることになる、と書いている。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:54:13.37
あれだな
九州説はバカでしかも何の知識もないから喋れば喋るだけバカを晒すな

バカなんだから黙ってれば恥かかないものを

まぁ九州説なんて言ってる時点でバカの自己申告だから仕方ないが
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 13:58:07.09
流石はインチキ爺の小便で着色した本を聖典扱いしてる馬鹿の集団だな
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 14:01:42.15
嘘つきって嘘をつき続けていると自分の都合のいい事を事実だと思い込めるようになるんだよな
で、次々と訳の分からない妄想を何の疑問もなく垂れ流すようになる

九州説とか言うバカ見てるとよく分かるな
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 14:17:16.98
>>905
>邪馬壹國女王之所留は、不彌國のすぐ南にあることになる、と書いている。

書いていないよ
あなたが読んでいるだけ

書かれていないことをね
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 14:25:46.16
そうだったらいいな

そうに違いない

そうに決まった

九州説のバカ話を見てるとホラ吹きの脳内の都合のいい思考の変遷がよく分かるわ
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 14:48:59.00
>>900
>半島南部とは双子のようにとても交流した民族という考えなので

後漢書は読んだ?
卑弥呼の直前の時代のことが書いてあるけど、倭とは半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの対馬海峡にある国なんだよ。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 14:57:41.49
魏志倭人伝には卑弥呼は常治伊都国とハッキリ書いてある
いつまでも否定する畿内のバカは謝れ
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:12:15.12
ニュー即で暴れてたバカかなw
九州説の能無しは恥かくだけだから喋るなw
笑い死ぬ
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:13:23.65
結局、中国は列島の中でも一番大陸に近い九州北部としかほぼ交流がなかったということだ。
筑紫が弥生文化の中心であり、卑弥呼や帥升がいた倭の王都は伊都ということだな。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:20:00.06
結果的に奈良は衰退した田舎で福岡が都会になったから
九州説の勝ちだね
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:22:30.13
そして思考停止してあらゆる現実から目をそらして勝利宣言

典型的なホラ吹きの行動だな
バカの標本として九州説は本当に面白い

あ、あと100だから幾らでもバカ喚いて良いから埋めといて
少しくらいは人の役に立てるだろ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:24:51.61
>>917
>そして思考停止してあらゆる現実から目をそらして勝利宣言

><1のことかな?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:32:40.05
419の>>603
>A: 自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
 B: 曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方
ABは同じ構文である。
Bでは「平」を平らぐと動詞読みすること明らか。・・・宣帝之公孫氏を平らぐる也
Aにおいても「極」は極むると動詞読みするのが当然である。・・・倭国之南界を極むる也<

成程。勉強になります。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:33:47.46
>>912

後漢時代の北部九州甕棺造墓集団はど没落して、
最終期はドブみたいなところに埋められている
半島では全羅南道で5世紀くらいまで存続するので
馬韓伝の「遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しい」と同じ民族と考えていいだろう
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:39:29.87
419の>>604
>考古遺物は畿内が他を圧倒 <

考古遺物でも、北部九州は先進性であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」地域を圧倒しており、
大和などは、筑紫倭国の「おこぼれ頂戴」状態。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:47:08.15
419の>>609
同時代の魏使らの実地の見聞計測記録の行程文や、それに拠った陳寿の魏志記載は、
最も確率が高く、ほぼ正しい。
これは確定。
そのほぼ正しいものを、、間違っている。と言うための珍解釈を「発明」しても、
その珍解釈は当然間違っている訳だ。
だから、その間違った珍解釈をら、
正しいと言い張っている大和説者らを批判しているしているのであって、
他説だから批判してるんじゃないよ。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:53:54.52
>>920
あー、その甕棺集団が三種の神器を抱えた皇祖たる天孫族で、嫌になって筑紫から大和に東征したわけだ。
納得だ。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 15:56:40.97
>>923

少数民族甕棺墓(成人用)は九州西部にしか拡がらなかった
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:00:13.06
419の>>618
>しかし倭の極南界は後漢書魏志倭人伝によれば
会稽東治(冶)乃東で沖縄や台湾の辺り<

魏志と同じく、後漢書に拠れば、倭が極めた南界とは、
「自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:02:46.09
そして火の国の女王卑弥呼が担ぎ出されたわけだ。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:04:22.53
>百濟國,本亦扶餘之別種

つまり、百済は扶餘族

>高麗者,出自扶餘之別種也

つまり、高麗の出自は扶餘族

>鐵勒,本匈奴別種

つまり、鐵勒はもと匈奴族

>霫,匈奴之別種也

つまり、霫は匈奴族
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:05:55.97
419の>>625
>>北部九州からヤマトまで投馬国しかないのか<

>ない  何か問題でも?<

倭王武の上表文の、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」と矛盾する。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:06:10.98
火の国あたりは北部九州製の煎餅みたいな鏡が配られていた
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:06:57.03
>>892
>対馬海峡が倭国の生命線だからだよ。
>奴国や伊都国は女王の直轄地だから、大率を使うまでもない。
>大率が「刺史のよう」なのは、伊都から北に検察に出かける様子を郡使が見ていたからだよ。

また、うそを書き連ねているww
本国に、いらない官を置く必要がないだろw
「奴国や伊都国は女王の直轄地」なら「大率の存在異議」は最初からない
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:08:02.68
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:10:26.92
>>893
>函館まで里数を記載しておいて札幌までを記載しないアホがいるのか?
>「女王国」は女王が直轄している国邑のことだよ。
>一万二千里が王都までの距離だ。

また、適当なうそを書いているww

実際、函館(狗邪韓国)までの距離は書いてあるだろ?
そして札幌(邪馬台国)までの距離は測ってないんだよw
日数表記しか、陳寿の手元にないんだから

まあ、函館(狗邪韓国)までの距離の、ただの机上の計算による設定値であって
実測値じゃないけどな

そして、札幌(邪馬台国)までではなく北海道(女王国)までの距離として、
淮南子の萬二千里が置いてあるだけ

これを実測値だと思っているのが、徹頭徹尾、頭が悪いww
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:10:57.85
419の>>622
>末盧国に到達するまでは正しい方位なのに、末盧国に到達した後から、
時計回りにキッチリ90度間違え続けている。 これは『間違えた』のではなくて『書き換えた』と考えるのが妥当。
書き換えるモチベーションとしては、
○天円地方説による世界観への整合
○邪馬台国と同格のクシャーナ王国
(匈奴領域からインド洋まで到達する南北巨大帝国)との整合
○呉を包囲するための政治的忖度
が考えられる。<

考えられない。
部下や後続の張政らの確認を受けて、
「書き換えた」という嘘吐き騙しをしたことが、皇帝らにバレたら、
魏使らの首が飛ぶ。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:11:44.54
>>899
>双方の使いが皇帝の前で言い争いをしてつまみ出されている。

典拠の原文プリーズ!
三国史記とか言うなよww
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:15:30.53
>>899
>旧唐書では倭国と日本国が併記されている。

いい加減、これが頭悪いことを認識しなよw
旧唐書も新唐書も唐会要も、倭国伝と日本国伝が両立てになってる
要するに唐代の史書には、両方の伝がある

そして、唐以前の史書は倭国伝のみ、唐以降の史書は日本国伝のみ

単に、唐代に国号の変更があったから、それに対応して両方の伝があるだけなんだよ
唐書(新旧とも)の倭国伝の政府も大和朝廷だし、日本国伝の政府も大和朝廷ww
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:16:45.58
>>900
>北部九州説は、本州とも、九州中部とも交流があまり無く
>半島南部とは双子のようにとても交流した民族という考えなので

これ、頭悪過ぎ、と思わずに書きこめる神経がすごいわw
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:18:12.52
419の>>627
>畿内説に都合悪い物なんぞ何もないわ 考古遺物や史料全てが畿内説の補強材料<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説では、始めから、
「南≠東」や「冢≠前ぽ後円墳」などの、
文献考古での「都合の悪いもの」ばかり。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:20:43.37
>>913
>魏志倭人伝には卑弥呼は常治伊都国とハッキリ書いてある

これ、すごいよなww

伊都国には王がいると書いてある
王の名は書いてない
魏志倭人伝に出てくる王名は卑弥呼と、卑弥弓呼だけで卑弥弓呼は狗奴国の王だから
伊都国の王は卑弥呼
⇒卑弥呼は伊都国にいた

こんなガバガバ理論ww

常治伊都國の主語は一大率というのすら読み取れないんだからどうしようもないww
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:23:28.33
>>928
>倭王武の上表文の、
>「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」と矛盾する。


その何がなにと、どう矛盾するの?

あなた独自の変な解釈と相容れないだけじゃないの?
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:28:46.15
>>925
>魏志と同じく、後漢書に拠れば、倭が極めた南界とは、

後漢書のあの文を「倭が極めた南界」なんて読んでるのは
漢文のまったく読めない古田信者だけでは?
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:47:44.35
>>927
>つまり、百済は扶餘族

百済は扶余から別れた別の国だぞ。
無知な奴だ。

同様に、日本国は倭国から別れた別の国ということだ。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:51:55.04
>>930
>本国に、いらない官を置く必要がないだろw

女王国つまり伊都国から北の対馬海峡を治めるためには必要だったのさ。
壱岐や対馬だけでは防衛力が不足したのか、逆に壱岐や対馬が女王に反抗的だったのかはわからないけどね。
後者なら、それは天津国(あまつくに、=対馬海峡)の領域が国津神である火の国の女王に反感を持っていたのかもしれない。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:52:05.21
419の>>639
>魏志倭人伝は倭国の国土は女王国よりさらに南に4000里あり
漢の時代から30国使者の往来があったとしてるから
それへの辻褄合わせかもね <

倭人伝では、張政が来て、狗奴國との争いに「難升米爲檄告喩之」をしており、
更に、「更立男王、國中不服、更相誅殺」などを確認して、
壹與の共立を見ており、更に、
「政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」
まで実見しているんだから、
梯儁等の記録に対しての「辻褄合わせ」など、ない。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:55:12.59
>>935
>唐書(新旧とも)の倭国伝の政府も大和朝廷だし、日本国伝の政府も大和朝廷ww

それなら一つの国で国号変更の記事を乗せればいいだけ。
ところが、実際には併記されている。
しかも日本国と倭国の関係を書いている(日の出る方にいた別種)。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 16:56:28.24
>>942

糸島と火の国は何の関連もない
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:16:08.98
卑弥呼が天孫族ではないから、天孫族の歴史書である記紀には卑弥呼が登場しない。
畿内の日本国と九州の倭国が別の国だったということ。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:36:48.25
419の>>640
>やはり魏志倭人伝は後漢書の原資料を下敷きに書かれたとしか思えない<

後漢書は、魏代の240年頃の梯儁等の記録を書いているんだから、
魏志を見て、その記載を内容説明している事は、否定出来ない。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:40:49.28
419の>>642
>(一)大和にとっての外的強力とは
いかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、<

それが、九州倭国からの「自昔・・・東征毛人五十五國」があった、という系譜。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:43:24.70
419の>>643
>文献的に魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国を指してないのは最早明らかだから
あとはもう考古学の領域だなあ <

文献的に、魏志倭人伝の距離方位は大和を指してない、のは最早明らかだから、
あとはもう考古学の領域だなあ。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:49:08.21
どうも麻原彰晃民族地域は、ネズミ講発祥天下一家の会や
ミニスカート婆投資詐欺など、他人様のものを騙し取ったり
日本人を殺戮する人種が入り込んでいるので困る
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:51:42.40
419の>>658
>俺は逆と思うな 倭国の都は国境より南1万2千里で30国使者の往来があって
会稽東冶乃東にあってその他の文化習俗の記述は 倭奴国が朝貢した頃後漢ですでに出来上がっていたと
万里の修交を謳うのが漢の時代の朝貢だったから それは後漢の記録に残され魏志倭人伝は
それをほとんど引き写して倭奴国の位置に 邪馬台国を当てはめたんじゃないかと<

後漢書は、魏代の240年頃の梯儁等の記録を書いているんだから、
魏志を見て、その記載を、内容説明的に書き換えしている、
という事は、否定出来ない
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:55:11.11
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 17:56:06.52
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:03:00.29
>>953
>考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

そんなアホな。  @阿波
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:04:32.42
>>953
>考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

まずは、「其山有丹」で即刻退場 だと、何度言えばw  @阿波
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:17:40.01
>>952
んな、ばかな〜。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:43:43.94
419の>>667
>ホケノ山は卑弥呼より前のもの <

卑弥呼の墓は、冢であり、有棺無槨。
ホケノは、前方後円墳であり、有棺有槨だから、卑弥呼よりもずっと後。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:50:41.38
卑弥呼は平原女王です
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:51:41.75
>>958
そんなアホな。  @阿波
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:52:35.31
平原女王=卑弥呼が埋葬されている平原遺跡は
朝になると日向峠から光が差し込み平原神殿を照らす(アマテラス)
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 18:54:44.95
>>960

馬鹿馬鹿しい。  @阿波
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 19:07:55.08
可也山(筑紫富士)〜平原遺跡(神殿)〜三雲遺跡群(伊都王都)〜日向峠
この4カ所はほぼ一直線であり
東の日向峠から朝日の光が差すと伊都国に光が届き可也山に反射する
平原女王はこれを司る日の巫女と呼ばれた
これがすなわち日巫女=卑弥呼である
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 19:10:13.86
>>962

あほらし。 よくもまぁ。  @阿波
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 19:11:34.93
ほらバカ九州猿早く埋めろ

お前のバカ話なんて誰も見ちゃいないんだから
埋めるくらいの仕事はしろ

あと40も残ってるぞ猿
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 19:34:50.66
>>834
女王国から東へ舟で千余里行ったところに倭種の国がある。
女王国=倭國。
千里東=大和。
大和は倭種の国。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 19:41:34.31
>>965
女王国=倭国(阿波)。
千里東=大和。
大和は倭種の国。  @阿波
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 19:53:46.88
>>762
>(ホケノの絶対年代問題)内装の木棺が炭素14c測定でAD120〜240年<

木棺の材では、幹表面から年輪数だけ古い検体になってしまう事と、
AMS法でのプラズマ化に拠って、50年〜100年位古く出てしまうから、根拠にならない。

>239年に卑弥呼の貰った鏡の三角縁神獣鏡の副葬がない<

明帝の詔書は238年であるから、239年鏡では逆に下賜鏡では有り得ず、
また、大和の△の副葬は4世紀頃だから、
また逆に、ホケノが3世紀末以後の証拠になってしまう。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:02:57.14
419の>>675
>大和で鉄が出るのは3世紀中頃以降。前半3世紀前半以前は、ほぼゼロ。<

鉄鏃で一番早いホケノで3世紀末以後。

>この急激な変化は、大和が輸入鉄器などを独占するようになったことで説明がつく。<

大和が九州倭国の王家に参加出来たのは、継体の時で、
九州倭国を併合吸収継承したのは、白村江の後の701年頃であるから、×。

>大和は、3世紀中頃に博多を制圧したということ。
ホケノ山は、おそらく、その大和派遣軍の凱旋総司令官の墓だろう。<

3世紀中頃は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の時代であったから、×。
ホケノ山は、おそらく、その九州倭国の東征派遣軍の東征将軍か、
その武将クラスの墓だろう。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:06:23.92
419の>>677
>3世紀中頃にはホケノ山はもうすでに出来ている
被葬者は3世紀前半に近い人物<

ホケノは、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「有棺無槨≠有棺有槨」や布留の存在などによって、
3世紀末以後。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:13:47.71
419の>>679
>東遷じゃないよ 北部九州が没落して歴年無主の状態になってから、
卑弥呼の共立で新生倭国が立ち上がったんだよ<

「立ち上がった」のを大和だ、というのなら、「南≠東」などに拠って×。

>九州説の根拠と称するものはすべて古くて時代が合わない
そこから決定的に没落しているのが北部九州という地域だ <

九州倭国が、大和に併合吸収継承されたのは白村江の後の701年頃だから、
それまでは没落しておらず、だからこの類スレ主は×。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:21:45.51
後漢の頃は概念的に一万二千里だったけれど、魏の使いが測ったら、一万五百里だったんだよね。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:25:51.08
419の>>681
>その可能性がどれくらいなのか、客観的な論証が足りない
3世紀の倭(ヤマト:畿内)の読みが、ヤマドだった可能性も十分にあるし
逆に大陸での邪馬臺の読みがヤマトゥだった可能性も高い <

後漢書の邪馬臺國の位置も、
魏志の萬二千余里や七千余里という里数をほぼ踏襲しているから、
魏志と同じく「筑紫」付近である、という事にしかならず、
大和は、やはり「南≠東」などに拠って、始めから×だったり、という事になる。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:32:11.32
>>843
そうだな邪靡堆国、ヤビタイ国は存在しないよな
7世紀隋と国交があったのは大和
だから邪靡堆は当然北史にあるような邪摩堆の誤記
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:33:41.02
>>844
史書の倭人伝の多くは魏志曰くと当時の魏志倭人伝を引き写した事を明記している
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:35:31.63
>>846
ザラコクも半分オウムになりかかってるから早く病院行ったほうがいいぞ
手遅れかも知らんけど
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:43:33.81
>>847
対馬と壱岐島は方と書かれていて行や至の途中移動を示す文言がないね
さらに魏略には二つの島々の方400里等の表記そのものがない
後世になって入った情報を陳寿が付け足したもので
魏使が島を回って大きさを測ったものではない
さらに陳寿は倭国上陸までを丁度1万里に記述している
魏略も同じでありそうなると
島を巡ったとする魏志倭人伝と島の大きさの記述のない魏略の間に
距離の違いが見られなくてはいけない
しかし両者とも1万里で一致してるので
島を巡ったとする距離を行程に加えるのは間違いであると言える
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:45:29.36
ほら九州猿
やれと言った仕事まだ終わってないぞ
まだ20も残ってるぞ
飯食わせてやらんぞ

サル以下の知能でもスレ埋めるくらいできるだろ
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:45:50.11
419の>>674
>纏向遺跡の纏向型墳丘墓の被葬者は、政権加盟国のうちのおもだった国から持ち回りで派遣された代表祭祀者だ。<

「政権加盟国」なんて存在しない。
大和で起こった事は、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠っての東征将軍やその武将の墓や、
その東征に協力した「倭国の地方の市を監督する大倭職」であった、
神武以来の在地の王家の墓だろう、という事だ。

>ホケノ山では、二重口縁壷や加飾壷が出土するので、
近畿・伊勢湾沿岸の勢力が派遣した祭祀者の墓だろう。<

ホケノは、萩原1号と同じ楽浪型の画文帯神獣鏡を持ち、
九州倭国の有棺無槨とは全く違った有棺有槨墓であり、
大量の鉄鏃や鏡片を以っているから、
新たな楽浪渡来の流民が、九州倭国女王から鏡片を下賜されて、
東征将軍下の部将として、東瀬戸内〜東海の東征に活躍した人物の墓だろう、
という事になる。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:47:29.51
4世紀の秋津遺跡
伊勢神宮と作りが似た建物群

これ何の遺跡やろな
高い塀で囲まれている割には、立地的に防衛に向かない場所だし
姫に纏わる神社も近くにあった

大切なものを守ると同時に、大切なものが逃げないようにしていた風に感じるわ

アキツって言葉はどういう意味なんやろ
関東では低地のことをアクツというらしい

【白栲】(しろたへ)の雲

秋津と何か関係あるのかな
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:48:28.82
ザラコク見てると過去スレにひたすらウソを吐きかけ
都合悪いから現在現状に目をつぶる
九州説の本質そのものだな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 20:59:57.45
実際に存在しない都合のいいキャラクターを創作してラノベを書いて
お人形遊びする九州説
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:02:28.46
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:05:08.94
統合が悪い人物をいなかったことにしたい畿内説。
都合の悪い数字も無視、あれもこれもなかったことにしないといけない。
それが畿内説。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:06:54.39
畿内説に都合の悪い数字なんて何もないが
九州説に都合の悪い数字はおおよそ全てがそうなるだろうけど
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:09:20.70
419の>>703
>宋代以降の印刷本ですら誤植があるのだから<

版本は、底本の複写コピーであるから、原則として誤植は有り得ず、
発生差異は、全て「底本写本」に存在していた差異になり、
魏志倭人伝では、「都支國と郡支國」と「黄幢と黄憧」と「對海國と對馬國」との差異しか発生していないから、
「邪馬臺國」や「東冶」や「三年」などと書かれた写本は、存在しなかった、という事になる。

>その以前に800年以上あった手書き写本の時代では多くの写し間違いがあるという事が証明されたな<

その以前に800年以上あった手書き写本の時代でも、
99.5%以上、間違いが発生していなかった、
という事が証明されたな。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:12:13.14
419の>>704
の>ほら、白状したww
卑弥呼墓が箸墓かどうかには異論があるが、
邪馬台国がヤマト国でありその中心が纒向遺跡であることには異論はほぼない
話をすり替えてごまかすなよww
箸墓ではないという場合は、纒向古墳群の先行する纒向型前方後円墳のいずれかを当てる<

どっちにしても、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などで、
大和説は×だ。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:14:31.01
419の>>706
>だーかーらー、詐欺だといいたいなら、詐欺であることを確認できる年代観を、
これまでの「多数の学者の成果の集合知」を否定できるだけの膨大な根拠と
正確な論証を用意した上で提示して見せてくれww
根拠もなく詐欺だと誣告するだけの簡単な仕事です!って?ww<

どっちにしても、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などで、
大和説は×だ。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:22:12.13
419の>>707
>現代に伝わっていないだけだよ<

後漢書は、魏代の240年の梯儁等の見聞記録を書いているから、魏志を引用しているし、
魏志の「萬二千余里」や「七千余里」情報も簡略化しているから、短里説であり、九州説だ。

>原資料がなければ別記事は書けない。 <

上記のように、魏志を見て書いている。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:28:23.79
419の>>715
>伊都国、奴国と邪馬台国が別の場所にある別の国だと認められない時点で
九州説は論説になっていない <

それ以前に、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などに拠って、
大和説は論説になっていない。
0997◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/28(月) 21:30:36.82
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1548676547/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:32:36.59
419の>>721
>参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。
ここで目を引くのは「参問倭地」の表現ですね。
女王の覇権のもとの倭国ではなく、「倭地」としてあるのは、女王の覇権の境界の南に狗奴国があったからでしょう。
つまり倭地とは・・、

女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、
筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。
よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。
現地でいえば、九州島の北端から南端(開聞岳辺り)までのことだったのでしょう。
事実、対馬海峡を三千余里とすれば、九州島の南北は五千余里に相当します(図上で計ってみてください)。<

成程。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:41:20.27
419の>>732
東大が九州説を諦めたのは、文部省や「南→東」などの嘘つき騙しの学会権力者が牛耳ってしまって、
先行きに見込みが無くなってしまったのだろうな。
大和説は論文が多いけど、「南→東」などの嘘つき騙しのアマチュアばかり。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/28(月) 21:51:57.31
九州説がまた惨敗か
10011001
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