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邪馬台国畿内説 Part419
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:41:27.76
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547745916/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:44:21.28
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:44:52.48
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:45:12.44
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:45:34.62
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:45:54.06
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:46:14.95
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:46:38.88
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:47:07.81
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0010◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:47:30.49
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:47:53.32
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:48:18.09
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:48:42.73
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:49:02.69
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:49:23.13
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:49:42.06
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:50:05.68
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:50:26.76
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:50:48.56
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:51:10.17
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:51:34.94
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:51:56.71
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:52:20.17
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:52:42.56
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:53:08.88
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:53:36.42
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:53:57.91
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:54:22.74
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:54:50.09
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:55:11.14
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:55:33.02
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:55:56.70
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 00:56:16.55
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:56:36.39
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:57:08.33
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:57:30.49
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:57:50.63
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:58:11.42
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:58:30.25
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:58:51.99
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:59:15.30
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 00:59:40.47
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:00:03.83
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:00:22.99
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:00:43.78
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:01:04.30
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:01:24.96
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:01:50.90
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:02:11.51
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:02:32.17
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:02:52.56
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:03:15.17
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:03:46.97
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:04:05.55
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:04:27.98
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:04:47.61
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:05:07.76
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:05:28.09
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:05:50.89
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:06:13.19
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0061◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:06:39.34
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0062日本@名無史さん
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2019/01/21(月) 01:06:57.08
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:06:58.72
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:07:18.05
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:07:52.59
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0066◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/21(月) 01:08:23.94
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 01:09:50.60
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0068◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 01:10:11.55
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0069◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 01:10:32.73
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0070◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/21(月) 01:11:22.01
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆なし
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 01:57:22.43
>>938

http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm

この画面の一番上の「みやま市の遺跡」を、しっかりみてみるべし。
筑後山門地域がどのような所であるか、よく分かる。
飛ばし見するんじゃないぞ。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 02:46:11.11
闘いの音頭が〜、ドラムの音〜。
『茶釜 天津』というか・・・・・・・・・・の話でしょ?

「日本の話なんですよwww」
と言ってる人がいたり、数年前の、とあるスレ参照。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 02:48:48.82
おじーちゃんが〜????
と言ってるもいたり
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 02:58:39.91
本当に偶然


たしか写真を貼り付けたはず、
笠の人形、太鼓を叩いている人形が飾ってあったり、
ほとんど、泥棒のようなもに入られたり?した後のモノ



キュウリの葉、葱の華・・・の写真、
あれは、本当に昔の写真だと言っている
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 03:09:17.05
『太鼓を叩く 人形』

三つ巴?の太鼓を叩く人形、
たしか飾ってあったでしょ?

あと『笠 人形』
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 03:12:33.67
おずぼーん(お爺ちゃん、祖父という意味?)
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 03:19:03.44
軍人だったのかな?
でも戦争などには行っていないと言っているし

『松傾』?
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 05:21:06.44
>>71が示してくれたURLにあった図
http://www.geocities.jp/bicdenki/MAP2.jpg

こんなに海だらけでは、七万戸の国の都は無理だろ?

九州説の中では、山門説は山門郡が置かれていたから、ある程度実体のあるマシな説だが
山門郡は筑紫、筑後の中でも重要な地域とされたことがないし、
古代に栄えたことを示す遺跡もない

行程論からも、水行、陸行記述を説明できないため否定される
九州説の中でも山門説が主流にならないことを見ても、
山門説に妥当性および説得力がないのが見て取れる
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 05:40:44.38
地名だけでゴリ押すのもどうかと思うが
方角を間違ってないことにしたくて遺跡のカケラもない場所を比定するご都合呼子よりはマシか
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 06:41:10.90
417の>>693
>卑弥呼の前から邪馬台国があったと言う事か<


邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言。
邪馬壹國は、おそらく倭國亂で、
福岡平野中央部〜筑紫平野部に統合された姫氏が中心となった国。

>ホケノ以前の墳墓がその前段階と言う認識かな<


ホケノは、大量の鉄鏃や画分帯や布留を副葬した有棺有槨の前方後円墳であるから、
九州倭国の東征毛人五十五国の中の、部将クラスの人物の、3世紀末頃の墓であり、
楽浪からの新規渡来系部族の要素も持った人物の墓。

>それにしてもやはり纏向型の突然の拡散の謎は残るな<

纏向型の拡散ではなく、那珂八幡などの筑紫型の拡散であり、
当然、東征毛人五十五国の将軍や部将クラスの、阿毎氏系が中心となった人物の墓。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 06:52:32.81
417の>>694
>隋書流求国伝にも「水行五日」の記述がある。<

おそらく、尖閣や石垣島方面から、偏西風や黒潮に乗って、島伝いの琉球にやって来たもの。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 06:58:29.33
前スレ
>>922

>まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <


そうだね、使者が4回も行ったなら方位は間違わないね。距離も短里でしょう。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:06:55.33
前スレ
>>922

>まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <


そうだね、使者が4回も行ったなら方位は間違わないね。距離も短里でしょう。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:06:59.70
前スレ
>>922

>まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <


そうだね、使者が4回も行ったなら方位は間違わないね。距離も短里でしょう。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:07:54.63
417の>>695
>そのままの意味
纏向型の再初期段階の物は畿内と九州、関東にいきなり現れる<

纏向型ではなく、
九州倭国の中の伊都国の阿毎氏系の東征将軍や部将らの那珂八幡型の前方後円墳で、
その新規東征地域に那珂八幡型前方後円墳を残していった。

>中間の東海にも瀬戸内海にもないのに突然出現する
その中間地点には別の墳墓や祭祀が存在していて「見つかってないだけ」と言う状態でもない
当時の人の移動を考えるとかなり不思議な広まり方をしてる<

瀬戸内の讃岐や阿波や、東海にも、前方後円墳的な小型墳墓があるが、
それらは、楽浪などからの新規渡来部族や姫氏系の部将らの墓であったんだろう、と思われる。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:12:44.12
417の>>697
>あと古墳を全部詳しく調べたわけではないけれど
三世紀の前方後円墳は畿内にしかなかったはず<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和などの畿内型よりも、やはり、
那珂八幡などの筑紫型前方後円墳の方が先行した。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:25:25.54
417の>>703
>なるほどね 神武東征を史実として捉えているわけか
そこを邪馬台国の起点として見てると<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つきだましの文言。

>ただ九州から広まる文化が弥生時代を通して希薄で
考古学的に東征がほぼ成立しえない点はどう考えているのか知りたい<

神武らの大和侵入で磐余に建国があっても、
大和内には、まだまだ出雲系銅鐸祭祀部族や毛人部族が沢山残っている状態で、
欠史八代の頃は、
婚姻を通して「共存」状態であって、
欠史八代の中の4人には「大倭」の号が付けられているから、
阿毎氏の分家らは、九州倭国の地方の市を監督する大倭職的な地位にあった。
大和内に次の「東征毛人五十五国」の将軍らが入ってきたのは、
崇神の頃以後。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:28:34.11
>>79
それがね鉄の精錬遺跡もあるのだな
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:31:24.65
417の>>704
>ホケノ山は3世紀中葉 卑弥呼の時代 <

ホケノ山は、有棺有槨の前方後円墳であり、
3世紀中葉の卑弥呼の墓の「有棺無槨」や「冢」ではないし、
「庄内〜布留」であるから、3世紀末以後。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:38:43.45
>>90
>それがね鉄の精錬遺跡もあるのだな

それ、弥生終末期じゃないだろ?

九州説にバカ約1名が奈良湖連呼で見苦しいが、それ以上に水浸しなのが筑紫大和だよ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:41:41.70
417の>>706
>ホケノで中国鏡の副葬があるから<

画分帯神獣鏡は、やはり神獣鏡であるから呉系であり、
筑紫に入った初期の呉系楽浪鏡師らとは別の鏡師群であり、
播磨や阿波やホケノには鏡片が出ているから、
卑弥呼らの直属的な部下であった可能性が高い。

それで3世紀中葉の卑弥呼の時代には
九州と畿内の文化的繋がりがすでにあったと見ているけれど
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:48:19.36
>>89
>婚姻を通して「共存」状態であって、

ザラコクにしては珍しくこの部分は正しい
首長層の間の婚姻関係も、卑弥呼共立でまとまったことの背景の一つだろう

>欠史八代の中の4人には「大倭」の号が付けられているから、

九州には、倭も大倭も、地名にも人物名にも一切ないんだけど?ww
九州倭国なんてないんだよw
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:54:11.94
伊都国の糸島に限定せずもっと広範囲に比定地を見直す必要がある
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:55:20.87
なんか九州説のデータ古くね
九州説だけ昭和に生きてるのか
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:56:31.16
>>93
>嘘年代で反論とは哀れ

ではその正しい年代をはっきり示せばいいんじゃないか?
反論は具体的に指摘してくれっていつも言ってるだろ?

九州説は鉄が大好きだけど、鉄があるところが都なんていう話はない
弥生時代最大の鉄器生産工房の淡路島の五斗長垣内遺跡が邪馬台国だって言うやつはいないだろう?

そして何度も言うが、筑紫山門には七万戸の国を想定すべき遺跡はないし、
弥生末期はまだ海に半分浸かっている状態で、陸化した部分も筑後川が
運んだ砂が積もった軟弱地盤

水行陸行も説明できないし、投馬国も置けない
筑後山門はむりぽ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 07:59:47.38
>>96
そのページに「鉄の製造跡が藤の尾遺跡では『通行証』らしき品が出土」ってあるんだが?
弥生時代に通行証はないぞw
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:02:17.88
>>97
>伊都国の糸島に限定せずもっと広範囲に比定地を見直す必要がある

そうだな! 糸島市という言い方は不正確だ
怡土郡だった範囲とする方がより実体に近い

伊都国は千戸の国だからそんなに大きくない
まあ魏略だと1万戸だが
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:09:08.22
>>81
末盧国の比定地も難しいね
長崎県佐世保市・福岡県福岡市・宗像市・遠賀郡などと推定する研究者もいるね
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:36:57.79
方位を何が何でも正しいことにしたい九州説は
伊都国や末盧国を好き勝手に移動させて
果ては会稽まで移動させちゃう
滅ぶはずだよ九州説
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:38:56.26
>>102
>末盧国の比定地も難しいね

大陸からの玄関口(末盧国)は福津・宗像方面。
対馬海流に流されて、大陸からの玄関口(末盧国)は福津・宗像方面。
元寇・朝鮮通信使・世界文化遺産  どれをとっても、大陸からの玄関口(末盧国)は福津・宗像方面。  @阿波
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:43:05.40
>>103
方位も距離も何もかも間違っていたことにして無理矢理に邪馬台国を九州から畿内に移動しているのが畿内説だろw
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:44:10.90
九州北岸に上陸してから短里で二千里南下すると、おおむね筑後ヤマトなんだよな。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:48:09.72
>>106
>方位も距離も何もかも間違っていたことにして無理矢理に邪馬台国を九州から畿内に移動しているのが畿内説だろw

だから、方位も距離も何もかも合致しているのは倭国(阿波)だけ だと、何度言えばw  @阿波
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 08:50:51.02
方位も距離も何もかも合致しているのは、熊本城の可能性が、高まってきたな。。。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 09:39:28.20
>>107
インチキ単位を使えば結果もインチキ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 09:50:55.04
>>106
間違ってる理由が無いから正しいことを前提にしないとな
何でも間違いじゃ議論にもならない
魏志倭人伝の記述を基に現実と照らし合わせて各国の位置をすべきですね。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 10:35:04.30
>>96
引用のページには
「大陸から渡ったタタラ(鉄の生産)の跡や古墳(中略)山川や高田では鉄の製造」
とあり、弥生時代の遺跡という表にも「タタラ」として表記されている

まあ、タタラ跡と判断されれば製鉄跡であるのはまちがいないんだろうが、現時点では
「タタラ製鉄は六世紀から」とされていて、三菱金属のウェブサイトのタタラ製鉄のページには
「弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったと
 いうのが現在の定説です。
 今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、
 戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な
 鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、
 鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が
 始まっていたと考えるのが妥当と思われます。」
と書かれている http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm

タタラ製鉄という時点で、弥生終末期じゃないだろ?ww
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 10:39:32.06
>>111
>間違ってる理由が無いから正しいことを前提にしないとな

方角が間違っている理由
つ https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg
末盧国が定説通りの唐津平野とすれば、伊都国は北東
インチキをして呼子にしても東
呼子からは可也山が見えるから、呼子からでも南東と認識することはない

距離が間違っている理由
つ http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/matsurakoku.gif
遠回りすると、距離が半分になるという“不思議”ww
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 10:45:41.98
417の>>707
>神武天皇の故地は日向で北部九州の扱いはかなり悪い むしろ冷遇された外様的存在
だがここに最古級の古墳が現れてる
日向に古墳が現れるのは定型化後なので東征神話にも齟齬が出る
単純に九州と神武東征を結び付けられない点でもある<

日向は、元は、東テイ人の地域であり、
糸島に天孫降臨した阿毎氏が、海彦山彦の頃から植民地化し、
ウガヤフキアエズは糸島に戻った形跡がなく、日向で五瀬命や神武やナルタ姫らが出来、
五瀬命らは糸島に戻ったが、
天孫族と「合同」した形になっていた姫氏系のと勢力競争に勝てず、
五瀬らは、仲間を集めて武装流民集団として、宇佐から東征して行った。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:25:29.38
地理の基礎知識もないやつが、九州北部は広い(筑紫平野が)とか、奈良は寒いとか
言い張るからな。ひどいのは奈良湖がある!とかw

古代の海岸線を示しても、無視するか学者の捏造だとか。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:29:10.31
>>116
>言い張るからな。ひどいのは奈良湖がある!とかw

さすがに、弥生時代に奈良湖は無いが、湿地帯ではある。  @阿波
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:34:06.09
奈良が栄えたのじゃなくて、相対的に九州が衰えたというか西日本が伸びたのだろうな。
お馬鹿なやつは、雪をバカにして雪が降る地域をど田舎だとか遅れてるとか主張するけど。

記紀の記述は具体的な地域は、出雲、ヤマト、越、尾張、丹波、吉備が多くなる。
というか、神武東征以降、九州の具体的な地名は出てこない。
征服する場所としては出てくるが、ヤマト王権の主要な構成員の中には出てこない。

現在は「ど田舎」扱いの土地が、当時は重要だったわけだ。
理由は、「水」だ。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:41:01.49
>>118
>征服する場所としては出てくるが、ヤマト王権の主要な構成員の中には出てこない。

ヤマト王権が邪馬台国と関係がないとしたら、むしろ大和が倭国を乗っ取った証拠じゃないか?
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:43:59.44
>>118
>というか、神武東征以降、九州の具体的な地名は出てこない。

そりゃ記紀が筑紫から大和に都落ちした一族の歴史書だからだよね。
ヤマト王権と筑紫倭国が並行して存在していた可能性を否定するものではない。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:48:06.09
>>118
> 記紀の記述は具体的な地域は、出雲、ヤマト、越、尾張、丹波、吉備が多くなる。

ウソはイカンぜよ。
記紀の記述は、倭国(阿波)国内 だと、何度言えばw   @阿波
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:54:37.80
ほんの少人数が暮らすなら、問題はないが、ある程度人口が増えてそれに見合った
水田を作るには、それに見合った水が必要になる。
大平野の真ん中や河川のそばは、水害が起きると全滅する。だから昔の人はそんな
ところに村を作ったりしていない。
雪の多い地域は今でも米どころだが、それは山が雪を蓄え少しずつ流してくれるから。
どんなに日照りが続いても、田んぼの水には困らないってのはそういう地域。
現在、山陰、北陸といわれる地域がそれにあたる。
出雲、丹波(丹後、丹波、但馬のこと)、越(越前、越中、越後)
瀬戸内は、溜池を作る技術ができるまでは規模を大きくすることは難しい。

1,天然地形を利用した初期のもの
2,多少の灌漑技術があるもの(環濠集落)
3,大きな前方後円墳が作れる程度

人口が徐々に増え、3まで行かないくらいの2の後半頃、当時の技術で最も人口を維持できたのが
「豪雪地帯」である上記の地域だったのではないかと思う。

濃尾平野は、今とは違い海が広がっていたが、山すそは上流の豪雪地帯から流れてくる
水を利用することが出来た。
関東平野の上流部もおそらくそうだったのだろう。上下の「毛野」も。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:57:36.98
神武東征がいつかにもよるが、もし畿内説の鴨厨の意見の通りに神武が卑弥呼と同年代であるならば、神武東征より前は筑紫が王都だと記紀に書かれているので、倭国大乱前の男王70〜80年と一致する。
そして考古学的には1〜2世紀の弥生王墓は筑紫にしかない。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 11:59:06.37
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:01:06.78
九州の遺跡は、吉野ケ里で代表される「台地」の上が多い。
安全だからな。
九州北部洪水クラスのやつが来ると、台地以外は流されるから。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:04:16.76
417の>>709
つまり「魏志=長里説」はサギ
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:05:38.47
末盧国から伊都国の東南陸行五百里の方角が間違っているということの
最終決着を着けようか

可也山はかなり広い範囲から見られるランドマークで、これを基準に考えれば
伊都国周りで方角を間違うことはない

呼子から見た可也山
https://i.imgur.com/ilU5axs.jpg
三雲遺跡群から見た可也山
https://i.imgur.com/vOORE36.jpg
可也山までの距離感がまるで違うのが分かる

呼子上空から見ると
https://i.imgur.com/CmghoqN.jpg
三雲上空から見ると
https://i.imgur.com/cieiYbz.jpg
こうしてみると、伊都国にとって可也山は信仰対象であってもおかしくない
実際、三雲南小路遺跡から冬至の日の入りの方角に可也山があり、
その直線状に平原遺跡がある
航空写真は三雲南小路遺跡から冬至の日の入り方向がまっすぐ上に
なるように調整してある

方角、間違いようがないだろ?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:06:25.64
>>125
そんな統一国家めいたものは弥生時代には存在しないよ
形跡がない
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:07:31.18
>>128の補足
>方角、間違いようがないだろ?

現地では方角を間違いようがないだろ?
でも、魏志倭人伝に東南と書いてあるのは、陳寿のせん述までの間のどこかで
方角の錯誤が生じたということだ

史書の方位・方角の記述は間違うときは間違う訳だ
これで決着だな
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:07:55.11
>>119
>間違っている例を出したら、他も間違っていることになるのか?

あんたの信用がなくなる
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:10:13.95
>>124
>もし畿内説の鴨厨の意見の通りに神武が卑弥呼と同年代であるならば、

これはないよ
神武の方が卑弥呼より5世代くらい前
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:12:00.66
自分の間違いを倭人伝の間違いに転嫁する基地害ww
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:12:21.97
>>119
>間違っている例を出したら、他も間違っていることになるのか?

「方角は絶対に正しい」という前提で読むことが、合理性を失う
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:12:40.84
417の>>715
>ただそんなに九州北部の旧勢力も酷い扱いを受けたわけではなくて
倭奴国の旧王家は和邇氏となって有力豪族として
天皇家に遣えたと思っているけど <

その「天皇家」が、大和天皇家の事であったんなら、
大和が天皇を称したのは、天智からであるんで、
「南≠東」などに拠って、×。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:14:40.09
>>120
>むしろ大和が倭国を乗っ取った証拠じゃないか?

九州には、倭国、大倭国という地名も、倭、大倭を含む人名も伝えられていない
九州が倭国と考える理由がない

>ヤマト王権が邪馬台国と関係がないとしたら、

関係あるから心配要らないよ
というか、そのものだから
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:20:56.39
自分の間違いを、倭人伝の間違いに転嫁する、ヒラヒラ基地害ww
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:22:42.69
>>124
>神武東征より前は筑紫が王都だと記紀に書かれているので

いくら5チャンといえども、ウソはイカンぜよ。  @阿波
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:27:29.75
>>138
さすが阿波博士、ご正論です。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 12:29:34.38
4世紀の秋津遺跡
伊勢神宮と作りが似た建物群

これ何の遺跡やろな
高い塀で囲まれている割には、立地的に防衛に向かない場所だし
姫に纏わる神社も近くにあった

大切なものを守ると同時に、大切なものが逃げないようにしていた風に感じるわ

アキツって言葉はどういう意味なんやろ
関東では低地のことをアクツというらしい

【白栲】(しろたへ)の雲

秋津と何か関係あるのかな
阿波も何か関係あるのだろうか?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:03:22.00
邪馬臺国がヤマト国と読めちゃう件について九州説は並並ならぬコンプレックスを感じてきてたんだな
こっちゃ大して気にもしてないのに
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:10:07.26
>>104
対馬海流に対してアマチュアの大陸、朝鮮は常に流されて宗像へ行く。
縄文以来のプロ九州は、唐津から2島を渡って朝鮮に着き、同じように2島を経て帰ってくる。
なので、対馬、壱岐、唐津航路を記している倭人伝の行程は、九州プロが漕いで渡って来たということ。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:18:07.69
>>99
行程で記述されている戸数は、沖縄あたりまで延びる巨大島にみあった戸数に膨らましているので、あの戸数を実際の邪馬台国に当てる必要はないよ。
筑後山門は、政治的に筑紫平野の盟主に選ばれているので、必ずしも大勢力であったとしなくてもよい。
熊本に攻められて劣勢になるくらいだから、筑後山門は熊本を凌ぐほどの大勢力でなかったのは明らか。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:27:54.44
戸数を改竄して減らすなら沖縄でも可
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:32:41.96
>>91
卑弥呼は九州。
ホケノは大和。
違っていて、当たり前。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:36:03.55
>>87
相当、熱あるな。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:41:02.13
>>105
頭、悪そう。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 13:45:02.35
>>120
ようやく正解にたどりつく者が出てきたか。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 14:10:13.72
>>130
間違えようがないにもかかわらず、倭人伝は東南への行程を書いているということは、何か特別な理由があったのだとは、考えんのかね。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 14:20:00.78
>>143
>行程で記述されている戸数は、沖縄あたりまで延びる巨大島にみあった戸数に膨らましているので、あの戸数を実際の邪馬台国に当てる必要はないよ。

まあ、戸数はある程度の誇張はあるだろうし、正確な数ではなく文飾もあるだろう
しかし、奴国二万戸に対して、邪馬台国七万戸というのは、それだけ邪馬台国が
大国であることの表現であり、奴国よりも小さな勢力を邪馬台国に比定することはできない

>筑後山門は、政治的に筑紫平野の盟主に選ばれているので、必ずしも大勢力であったとしなくてもよい。

山門が筑紫平野の盟主に選ばれたってのは、どこに書いてあるんだ?
山門が記紀に出てくるのは田油津媛のところだけ
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時、田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被誅而逃之。
そして、田油津媛も山門縣の土蜘蛛というだけで、周りの豪族を率いている様子はない

少し時代が下った頃でも、筑紫君磐井は三井の辺りが本拠地だし、
さらにのちの筑後国分寺、筑後国府も現在の久留米市のあたりで山門群ではない
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 14:20:20.81
>>149
葛城鴨と、同類じゃね。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 14:23:47.73
>>150
>何か特別な理由があったのだとは、考えんのかね。

特別な理由ではなく、陳寿の手に入る情報が不正確・不完全だったのだと判断している

末盧国の比定地は唐津平野で問題ない
そこからの東南陸行五百里は、伊都国ではないところ、
例えば面土国への経路の記録だと考えるのが現状では妥当性が高いと考えてる

違う行き先の旅程が、伊都国への旅程として書かれてしまう程度の情報しか
陳寿の手もとになかったのだろう
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 14:28:57.09
417no>>727
>神門5号墳は3世紀中葉前後の築造とされている。
那珂八幡より半世紀ほど早いということであって、不自然でもないし問題でもない<

神門5号墳の「3世紀中葉頃」という絶対年代比定の根拠は何だっらの科ね?。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:01:01.69
>>136
>関係あるから心配要らないよ
>というか、そのものだから

願望、妄想
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:06:45.91
>>143
>熊本に攻められて劣勢になるくらいだから、筑後山門は熊本を凌ぐほどの大勢力でなかったのは明らか。

筑後ヤマトも熊本も、肥国としては一つだろ。
卑弥呼も卑弥弓呼も同族なんだよ。

>>151
>山門が記紀に出てくるのは田油津媛のところだけ
>そして、田油津媛も山門縣の土蜘蛛というだけで、周りの豪族を率いている様子はない

田油津姫は神夏磯姫の末裔とされている。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を持っていて、筑紫の梟帥という称号を与えられている。
筑紫の倭王、または最高権力者である帥そのものだよね。
田油津姫を倒すことで、神功皇后は九州北部すなわち倭国の覇者となることがてきた。
倒された側の田油津姫の栄光を讃える文言が、倒した側である天皇家がまとめた日本書紀に書かれるわけがない。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:12:02.51
417の>>739
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:21:56.47
417の>>739
>土器はそんなに被征服のあるなしの証拠になるかねぇ
いずれにしても結局は奴国の最盛期は1世紀
2・3世紀ごろは衰退に向かう<

この男は、おそらく「奴國=弥生銀座」という史料実態の否定の大和説者。
奴國は、「日向峠西麓〜早良平野部」位にしかならない。

>いずれかの段階で日向勢力もしくは畿内勢力 どちらかに支配されたのは明白 <

畿内なんて存在もせず、
日向勢力も大和も、糸島の阿毎氏系の国であったも。

>記紀や後漢書の文献を統合すれば俺は
2転3転あったかも知れないけれど107年に
宮崎の西都原辺りの天皇祖先が征服したと思っている <

記紀も後漢書も、後代の「自己解釈に拠る書き換えや盗用造作の多い半分×書」であり、
十分な史料批判に拠らなければ、論拠には使えない。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:27:15.53
>>740
>三角縁神獣鏡は魏鏡で 卑弥呼が魏から貰ったものだよ
九州でよく見つかるのは漢鏡そして国産鏡 一部三角縁神獣鏡も出てるけど <

△は、「海東鏡」や「徐州銅鏡」の存在で、
呉系楽浪鏡師らの渡来での製作鏡だ、という事が確定しており、
景初二年以前の紀年鏡が存在しないから、魏鏡説が×になっている。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:33:44.29
417の>>746
>しかし久しぶりにこのスレでまともな畿内説の話になった気がするな<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言を使うこの大和説男も、
万世一系皇国史観教という宗教的な「結論先にありき」の・・・・詐欺師。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:42:13.68
417の>>747
>神門5号墳は3世紀中葉前後の築造とされていて、ホケノ山と同時期か少し遅れる頃が考えられる。<

ホケノは3世紀末以後であるから、それなら神門5号墳も4世紀以後頃になる。

>纏向遺跡の外来系土器のうち、関東系の土器が現れるのは纏向2式の時期から。
纏向2式は210年〜250年とされていて、この時期には石塚古墳などの纏向型古墳がすでに造られている。<

石塚は大和の庄内の始まり頃で3世紀末である。

>纏向型とされる神門5号墳が3世紀中葉前後に作られるのは、時期的には不自然ではない。<

不自然。3世紀末以後が自然。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 16:02:26.59
>>157
>神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を持っていて

鏡、剣、玉は、ごく普通の首長層の副葬品セットであって、持ってたから王だということにはならない
山口の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳などでも出てる
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ

>八咫の鏡を含む

これも、皇統の鏡以外は三種の神器ではない
普通名詞としても「八咫鏡」の語は使われている

日本書紀 巻第十四  大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 16:38:57.44
前スレ996
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547745916/996

>それでも概ねの比例関係は維持されているので、

まだ言うかww
4倍異なるものは、「概ねの比例関係」とは言わないww

短里も、東夷伝里も、使う人がそもそもいないしどこにも伝わっていない
ただの、九州説を説明するために考案された捏造
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 17:12:55.47
九州説も行程は畿内説みたいあてにならないで通せばいいのに
行程抜きでも十分に畿内説より利はあると思うよ
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 17:30:46.18
>>157

>筑後ヤマトも熊本も、肥国としては一つだろ。

山門はコマビトではない

>田油津姫は神夏磯姫の末裔とされている。

されてない
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 17:35:27.19
>>162
盛んに、世間の常識に抵抗しているが、3世紀末以降の根拠はな〜に?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 17:45:15.02
>>165
>行程抜きでも十分に畿内説より利はあると思うよ

九州説に利なんてないよw

弥生終末期から古墳時代へは、大きな動乱の兆候などまったく
考古学的に検知されていない
弥生終末期に大きな勢力だったところはそのまま古墳時代に入ると
大きな古墳を作るようになる

そして、九州には古墳時代初期の大古墳がない
この時点で北部九州に倭王を擁する大勢力がなかったことが確定する
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:00:22.64
>>151
邪馬台国七万戸は屋久島から沖縄あたりまでの領域と想定してあるようなので、中国の会稽(紹興市)〜東冶(福州市)の範囲の戸数を当てはめれば、まあ妥当ではないか。

倭國乱は玄界灘側の連合と、筑紫平野側の連合の騒乱で、乱以前は奴国が盟主を務めていたのだろう。
乱が筑紫平野側優勢で手打ちとなって、筑紫平野側が政治的に筑後山門を盟主として選んだのだろう。
その山門は、地勢的にみて吉野ヶ里方面や鳥栖方面と比べて耕地面積が小さい。
けっして大勢力とはいえない。
邪馬台国が倭國の盟主となったのは、あくまで政治的な理由によるのだろう。

田油津媛を矮小化して描いたのは、日本書紀のプロパガンダだろう。
兄がいて世俗政治を取り仕切っていたようだから、弟が政治方面の要になっていた卑弥呼と瓜二つだ。
大和が、邪馬台国の卑弥呼を英雄視するわけがないね。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:03:48.66
お前たちの妄想は本当におもしろいなw
続きは?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:11:14.04
>>163
>つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、

皇国史観?
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:12:11.32
>>164
>4倍異なるものは、「概ねの比例関係」とは言わないww

以前のスレで批判されて2倍だか3倍だったかに修正したはずでは?
またズルをしている?
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:16:51.65
>>155
…女王国から東へ舟で千余里行ったところに倭種の国がある。
この海は、地理的に瀬戸内海が妥当。
瀬戸内海をはさんで、西に女王国、東に倭種の国。
九州を倭國と考えないとね。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:23:29.96
>>170
>兄がいて世俗政治を取り仕切っていたようだから、弟が政治方面の要になっていた卑弥呼と瓜二つだ。

そうなんだよね。
田油津姫の伝記は卑弥呼を思い起こすよね。

ちなみに神夏磯姫が田油津姫の祖というのは、田川市の若八幡宮の伝承。
田川市も田油津姫らの拠点の一つだったらしい。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:28:51.89
>>171
これが、歴史のリアルな真実。
あれ、日本書紀は全編プロパガンダだろ?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:29:41.78
>>178
畿内が勢力拡大してきて、九州は飲み込まれたんだよ
しいて言うなら西進
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:32:32.52
やけっぱち畿内説ww
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:35:57.34
>>173
>以前のスレで批判されて2倍だか3倍だったかに修正したはずでは?
>またズルをしている?

いや?
九州説のいう起点で測ったら、5倍から6倍になったんだよww
さらに差が開いたw
まあ、大体で言うなら4倍違うというのが分かりやすいw
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:38:18.47
>>174
>じゃあ、いつ倭は東遷したんだ?

してない
後漢書では「歴年無主」と書かれているので、九州の王は倭国乱の前後で没落して、
王が不在になり、その後新たな王として卑弥呼が共立されたと見ればよい
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:42:25.56
>>175
>この海は、地理的に瀬戸内海が妥当。

全然妥当じゃないよ
瀬戸内海のように島がわちゃわちゃあるところは渡海ではない
関門海峡は600メートルしかないし基本陸地のそばを行くことになるから、
渡海ではなく水行

帯方郡からの旅程には渡海が入っているのに水行10日は帯方郡からと言い出したり、
ここではあまり見かけないけれど、九州説は御笠川を遡上する水行を言い張ったり、
九州説は水行、渡海の解釈がめちゃくちゃww
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:43:37.95
>>177
>そうなんだよね。
>田油津姫の伝記は卑弥呼を思い起こすよね。

べつに?
ただの彦姫制だろ?
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:49:22.90
>>183
>王が不在になり、その後新たな王として卑弥呼が共立されたと見ればよい

つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:52:30.73
>>184
九州というくらいだから、九州説には最低でも九つ説がある。
標的が多くて大変だろうけど、混乱しないようしっかり論破してくれやwww www www。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:54:25.03
>>173の補足
鎌倉幕府が滅んで、足利幕府が新たに開かれても、
鎌倉から京都室町に武家政権が西遷したとも遷都したとも言わないだろ?

まあ、朝廷がずっと京都にあるから、遷都という言い方がないというのもあって
直接は比べにくいが、同じ清和源氏の血筋の中での政権交代ではあるが、やはり
幕府(政権)所在地が移動したとはみなされない
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:56:41.57
>>186
>つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波

前に書いたのと同じコピペだなw
暇なら連続句読点のバカスレを埋めて来いって言ってるだろww

妄想だと思うなら、具体的な根拠を挙げて問題点を指摘しなよw
永島文書よりも後漢書の方が、しっかりした典拠だぞww
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:08:06.15
417の>>754
>ダメダメ。
3世紀後半の大和の前方後円墳から鉄器がどんどん出土する理由は、纏向政権が貴重財の独占頒布を行ったから。
博多に輸入される貴重財をなぜ大和で独占頒布できたのか。
理由は簡単だ。
纏向連合政権が博多を制圧して、輸入貴重財を独り占めしたから。
そして、その貴重財を加盟各国へ頒布した。<

ダメダメ。
大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国だ。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:09:56.30
>>189
>妄想だと思うなら、具体的な根拠を挙げて問題点を指摘しなよw

問題点:それらに見合う、弥生時代後期集落遺跡がない。 つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波
 
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:15:50.29
417の>>755
>首長が会盟して、死んだら前方後円墳を作るという合意をする
その合意の時に年かさだった首長から順に死んで前方後円墳を作る <

ダメダメ。墓の形態は、その部族に所属する証でありシンボルだ。
だから、「東征毛人五十五國」の将軍部族や武将らの死亡に拠って造られたモノだ。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:19:22.36
417の>>757
>沼津の高尾山古墳は3世紀前半の纒向型(?)前方後方墳だよ
東海地方でも定型化前からかなり大きな古墳が作られている <

大和の纏向型なら、3世紀末だ。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:28:14.28
417の>>762
>>(倭国が自ら日本と名乗ったという情報)釈日本紀に記録の「晋の惠帝」への遣使の時であり、<

>ダメだ。
唯一の情報源である釈日本紀に「怪しい情報」と書いてあるんだからね。
そんな話に依存すれば自分の説が怪しいものになるだけだ。<

ダメだ。
卜部兼方が「怪しい情報」であると書いた、という事は、
卜部兼方は、その情報の存在を認めた、という事だ。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:29:57.17
>>177
夏羽焼きか〜。
あの赤村前方後円墳山も田川だね。
なかなか面白そうなところだね、田川は。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:37:15.88
417の>>764
>飛鳥時代に宮が設置された「前期難波大隈宮」は香川県さぬき市津田。「後期難波宮」は奈良時代(大阪市)<

法円坂の難波宮は条坊都市であるから「京」というべきであり、
筑紫の土器が出土しているから、筑紫倭国の分都という性格であり、
「倭京」そのもの。
つまり、孝徳がその倭京の主であったように書かれている。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:40:34.17
>>88
那珂八幡は三角縁神獣鏡が出ている
ホケノ山は出てないから遺物でいえば畿内のホケノの方が古い
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:40:59.85
>>195
>なかなか面白そうなところだね、田川は。

田川辺りは、「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」などがある奴国だよ。  @阿波
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:42:17.61
魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。

魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。

奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。

遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。

問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。

巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。

不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。

九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。

魏志倭人伝を読む限り九州北部は女王国、倭国ではなく、女王国に服属する国地域、属国属領であるのがわかるな
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:42:58.65
>>91
ホケノの木棺をAMS方で分析したら120〜240年頃のものと判明
棺内遺物から3世紀前半〜中ごろ
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:45:09.94
>>198
>那珂八幡は三角縁神獣鏡が出ている

その「那珂八幡古墳」の朱は、まず「間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:47:39.84
>>184
小倉から行くのではないぞ〜。
行橋あたりから周防灘を行くのが決まった航路。
福岡から飯塚、田川を通って行橋へ出る。
その飯塚市にある立岩遺跡の副葬品が豊富なのも、福岡から周防灘への交易路の要衝だったからだ。
景行天皇が九州の周防灘沿岸各地を影響下に置いたのも、大和にとってこの交易路が生命線だったからだ。
第一、小倉へ行くのは遠回りになる。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:48:10.85
>>127
魏志倭人伝の里は
淮南子の世界の果てまで1万2千里に当てはめられた淮南子里だからな
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:50:42.16
>>133
だって実際間違ってるからしょうがないだろ
邪馬台国は沖縄台湾の辺りと書かれてるし
距離方位もそれに合わせてある
裸国だの黒歯国だの出てくる
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:51:55.35
>>180
>しいて言うなら西進

それって、せいぜい倭の五王とか継体天皇とかの時代だろ?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:52:16.92
417の>>769
>>ダメだよ。 自然や歴史や物理などにおいては殆どすべてが不可知部分であり、<

>つまり、証拠もないのに
人類の常識とか言って断定ばかりしてるザラコクは
思想宗教的な「100%絶対断定的な論」の奴隷だな <

違うな。
「人類の常識」という判断自体が「確率が高い」という事であり、
「100%絶対断定的な論」になっていない。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:52:53.05
>>183
>王が不在になり、その後新たな王として卑弥呼が共立されたと見ればよい

その時に王都が博多湾沿岸から畿内に移動したなら、東遷だろ。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:53:49.86
・倭は会稽の東に無い
・実際の行程も九州内でさえも方向間違えだらけ
・距離も方向も伝説の頃から何も変わらない記述

行程なんてものは魏志倭人伝はじめ中国の史書は距離も方向も当てにならないと言う証拠にしかならない
こんなもんをどう振りかざしても何の根拠ともならない

そしてこんなものの珍解釈にすがり続けている九州説とやらがどんだけデタラメだか理解できると言う話
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:55:20.83
>>196
>>84
>しかし上司が東の所を南と書けと言ったらそう書かれる

うわぁ
儒教的思想に支配された畿内説の世界は大変だなw
九州説は百家争鳴で自由すぎるけどw
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:55:54.68
>>194
>ダメだ。
>卜部兼方が「怪しい情報」であると書いた、という事は、
>卜部兼方は、その情報の存在を認めた、という事だ。

ダメだろ
怪情報の存在を認めたからといって
怪情報の内容を事実と認めちゃ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:56:40.91
>>200
ずいぶんと懐かしいコピペだね。
ここまでの議論が水泡と帰しているね。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:59:08.83
417の>>777の訂正
>後漢書のほう 現在見れる魏志倭人伝は12世紀の復刻で誤字が多い<

この男も全くのアホなんだね。
後漢書の方も、12世紀の復刻になっているから、
「復刻で誤字が多い」、という事に気が付かない。

また、魏志の「東治」に対する校勘は、宋明清代の校勘学者は誰も校勘していないから、
全員「東治」のままで正しい、と断定していた、
という事にも気が付かない。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:00:51.06
>>188
>幕府(政権)所在地が移動したとはみなされない

何が言いたいのかわからないが、鎌倉幕府と室町幕府は区別されているよ?
移動というより別政権だね。

しかし後漢代の倭と魏代の倭が別のところにあったとは書かれていないし、後漢書も魏志倭人伝も楽浪帯方から一万二千里で一致しているから、卑弥呼の即位の時も移動はしていないことがわかる。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:05:25.67
>>209
>その時に王都が博多湾沿岸から畿内に移動したなら、東遷だろ。

博多湾沿岸にあった旧政権が崩壊して
畿内に新政権が誕生した場合
そこに断絶があるならば
東遷とは言わない

西晋→東晋、北宋→南宋のようなケースは微妙
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:08:18.09
>>160
海東鏡の文言は倭国に贈る事を前提とした鏡である証拠
銅出徐州は徐州は魏の領土なので魏鏡である証拠
呉の鏡師の存在を想定しなくても
三角縁神獣鏡は魏の下賜鏡でシンプルに説明がつき
他に疑念は生じない

そもそも楽浪は元は後漢の領土で卑弥呼の時代は魏の領土
楽浪に呉系の鏡氏のいる理由が無い
そして梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は
卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記載

これらは11世紀に原典に近いものが失われるより前の
三国志を引き写していて
卑弥呼が魏に使いを出した年が景初三年になっているのは
誤字が多いと前書きにもある12世紀以降の三国志
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:08:26.01
>>203
社伝だがな。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:10:07.92
>>189
>妄想だと思うなら、具体的な根拠を挙げて問題点を指摘しなよw

問題点:それらに見合う、弥生時代後期集落遺跡がない。 つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波
 
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:14:05.79
417の>>781
>三角縁神獣鏡は魏鏡の証拠で溢れている 景初三年や正始元年と魏の年号の記年<

明帝の詔書は景初二年だから、景初三年以後の紀年鏡は、明帝の下賜鏡ではない。

>銅出徐州 師出洛陽、徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと記銘 <

明帝の下賜鏡に、「師出洛陽」なんて事を書いても何の価値もないし、
むしろ倭国のようなはるか異郷で造った鏡である事を示すし、
同じ国分茶臼山古墳から出土した「海東」鏡は、
もろに呉系楽浪鏡師らの渡来での製作鏡である事を示す。

>蛍光X線分析による成分分析で魏・晋鏡と同一成分と判明<

徐州銅を使っていた鏡であったのなら、当然の成分類似。

>洛陽近郊に相当する畑で1面発見<

列島からの500枚以上の△の根拠になっていない。

>畿内で見つかってる鏡の銘景初三年は<

畿内なんて存在もしない。

>日本書紀、梁書によれば卑弥呼が魏に使いを送った年と出てくる <

後代史家の「自己判断に拠る書き換え」は、根拠にならない。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:16:40.48
417の>>782の訂正
不可知部分が99.5%以上である自然や歴史においては、
帰納的確率的な推論を拒否して、「絶対断定」や「一致」を要求する人間の方が、
デタラメで脳がおかしい、って事だよ。

大和説者の実態はそんなもんだ。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:17:23.00
>>222
>持ち込まれたから何だ?

筑紫「忌部はん」 のお墓だよ。  @阿波
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:17:44.61
>>211
やれやれ
とうとう畿内説が儒教思想と抜かすようになるまで落ちぶれたか
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:19:03.47
>>201
後円部が不整円形であるのと符号しているな。
箸墓の直前の墓なのは、間違いないようだ。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:20:12.84
>>222
>持ち込まれたから何だ?

ついでに、三角縁神獣鏡も筑紫「忌部はん」が持ち込んだものなんだよ。 分かるかい?  @阿波
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:21:15.99
>>217
>三角縁神獣鏡は魏の下賜鏡でシンプルに説明がつき
>他に疑念は生じない

500枚ももらってないよね?
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:22:27.64
>>211
魏志倭人伝を見ても
方角が南方向にどんどんズレていくのは常識
魏の学者は後漢からの伝承
倭の都倭奴国は国境より南1万2千里で倭の極南界にあり
場所で言えば会稽東冶乃東で沖縄や台湾の辺りであるに
邪馬台国を当てはめて報告書をまとめ上げた
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:27:17.63
>>215
>しかし後漢代の倭と魏代の倭が別のところにあったとは書かれていないし、後漢書も魏志倭人伝も楽浪帯方から一万二千里で一致しているから、卑弥呼の即位の時も移動はしていないことがわかる。

後漢書には楽浪帯方から一万二千里のところに何があると書いてあるの?
あったのは歴年無主だった後に卑弥呼が女王になって都した邪馬台国でしょ
たとえ旧政権が郡から一万里の場所だったと情報を持っていたとしても
後漢時代内の政権交代だから最新情報に更新するだろう
その推論は成り立たないね
むしろ倭国王帥升の国と区別する必要を感じて敢えて大倭王と書いた可能性の方に信憑性がある
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:28:03.61
>>214
後漢書は版が複数存在し
互いに誤字の修正が効く
例えば邪摩惟国ヤマユイ国が邪摩堆国ヤマト国になっている版があるので
原典はヤマト国と書かれていたと言ったように
現行の魏志倭人伝は12世紀の護持の多い版しかないので
そういった比較が効かない
しかし12世紀以前の史書の倭人伝を見ると
その誤字部分がわかるのである
それから見ると12世紀以降の魏志倭人伝は誤字が多いと
結論を出さざるを得ない
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:28:04.39
>>230
あれもこれ持って、具体的にはなにのこと?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:28:23.68
417の>>784
>12世紀には原本が失われていた魏志倭人伝
前書きにも転写される内に誤字が多くなってきたと書いてある<

宋明清代に校勘に供されたのが、全部で80万字位の中の2000字余りであり、0.5%位。
魏志倭人伝の2000字余りの中では、「都支國と郡支國」と「黄幢と黄憧」の二文字だけ。

>後漢書には書いてないし<

後代の後漢書は、実際の遣使に拠る記録に拠らず、
「高慢な自己解釈に拠る書き換え」が多いから、半分×書」であり、根拠に使えない。

>12世紀以前の魏志倭人伝を引用した各史書倭人伝と比べて違ってる字が多いから
現在見られる魏志倭人伝は誤字が多い <

これも、後代史書の「魏志の紹介」は、「内容説明的な書き換え」が非常に多いから、
根拠にならない。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:30:32.67
>>214
>また、魏志の「東治」に対する校勘は、宋明清代の校勘学者は誰も校勘していないから、
>全員「東治」のままで正しい、と断定していた、
>という事にも気が付かない。

放置されてることと
認められたことの
区別がつかない
九州脳
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:30:38.18
・倭は会稽の東に無い
・実際の行程も九州内でさえも方向間違えだらけ
・距離も方向も伝説の頃から何も変わらない記述

行程なんてものは魏志倭人伝はじめ中国の史書は距離も方向も当てにならないと言う証拠にしかならない
こんなもんをどう振りかざしても何の根拠ともならない

そしてこんなものの珍解釈にすがり続けている九州説とやらがどんだけデタラメだか理解できると言う話
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:33:14.96
417の>>792
はいはい、「南→東」などの嘘つき騙しのの大和者は、
大和説が滅んで悲しいんですね 。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:33:34.72
>>226
学会はホケノを3世紀中葉としてるけど慎重だよな
前葉にしてもいいぐらいなのに
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:34:29.99
>>193
高尾山の前方部は撥形に開いており、このような前方部を持つ弥生終末期の墳丘墓は、纏向と尾張と東海だけなんだよな。
纏向の石塚のプロトタイプが尾張の前方後方型なのは、明らかなんだがなあ。
吉備由来なのは柄鏡型円墳であって、纏向の祖形が吉備というのは有り得んな。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:36:24.55
417の>>796
>会稽東治ね 卑弥呼の時代に会稽郡なんだから<

陳寿は、「会稽東治」と書いたのであり、
「会稽郡東治」とは書いていなんだけどね。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:38:43.90
417の>>797
つまり闇ではないんだよ。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のの脳力低下だ。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:41:15.90
>>221
景初2年は間違い
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧によれば景初3年

価値はある
徐州の銅で作ったという事を明記するという
記銘された年号と同じ
海東鏡は作られる鏡が海の東
倭国に贈られる事があらかじめ想定されていた事を示す証拠

国内で作られた鏡は国内で作られた成分が出る

今の所三角縁神獣鏡は倭国と魏に相当する場所でしか
見つかっていないから
記銘された年号その他試料や成分分析結果から見て
卑弥呼への下賜鏡とするのが妥当

卑弥呼が魏に使いを送った年景初三年は
当時現存していた魏志をそのまま引き写した
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に記載がある
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:49:01.13
しかし前ザラコクは
15年九州説やってるみたいな事言ってたけど
その行き着いた先がオウム返しと狂った罵倒とは何とも哀れよのお
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:50:00.70
417の>>800
>周髀算経は半分×書 ww<

周髀算経は、周朝の認識の記録。

>一寸千里はトンデモ説として有名 wwww<

谷本確認計算と魏志などの記録とのほぼ一致に拠って、
これまで「トンデモ」だとして来た学者が、皆・・・・アホであった、
という事で確定。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:50:38.12
邪馬台国の会とかのアホ連中と「九州で間違いない!」とか脳みその足りない妄想を15年垂れ流してただけだろうよ
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:50:40.63
>>241
>陳寿は、「会稽東治」と書いたのであり、
>「会稽郡東治」とは書いていなんだけどね。

「会稽東治」が「会稽郡」の外だ
というなら
その理由を聞こうじゃないか
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:54:23.88
417の>>803
一寸千里の単位偽造や「南→東」などの嘘つき騙しで、大和説バッサリ。
万世一系皇国史観戦争狂詐欺の大和説。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:54:37.39
>>234
>これも、後代史書の「魏志の紹介」は、「内容説明的な書き換え」が非常に多いから、

それ、証拠だして貰おうじゃないか
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:56:14.78
>>249
>万世一系皇国史観戦争狂詐欺の大和説。

とか口に出しちゃった時点でザラコクの信用ゼロでしょ
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:57:45.98
417の>>808
>投馬国五万戸の最有力候補である(い・つま)出雲の西谷3号墳、箸墓の特殊器台は吉備で焼かれて、現地に運ばれたことが判っている。
これは邪馬台国連合共通の威信材として珍重されていた証ではなかったでせうか?<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、×。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:00:10.81
>万世一系〜詐欺

いろいろある作品などの売り上げ、
お金の一部なども、
その家(万世一系〜詐欺)に渡っているという話でしょ

頭の良い人は気づいている、知っているんだよ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:02:36.79
一系(直系)詐欺?

国民を騙し、あらゆる創作物(漫画に・・・・・ゲーム・・・その他)、
その家に渡り・・・・生活費などに使用?
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:04:24.42
417の>>818
>いつ如何なる時もいっさい証拠を出さない九州説 w.ww<

以前から何度も何度も証拠を出してあった事をこっそり隠して、
「証拠を出さない」とヘイトスピーチする 、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:05:34.91
>>231
>後漢書には楽浪帯方から一万二千里のところに何があると書いてあるの?
>あったのは歴年無主だった後に卑弥呼が女王になって都した邪馬台国でしょ

言っている意味が全くわからない。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:05:51.94
パチスロなどもそう、
宇宙戦艦のパチスロもあるでしょ?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:09:58.12
>>264
>谷本確認計算と魏志などの記録とのほぼ一致に拠って、

谷本計算以外の数値は存在しないのだから嘘だろ
「ほぼ一致」って、また詐欺かよ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:10:53.54
>>255
>以前から何度も何度も証拠を出してあった事をこっそり隠して、

そんな言い返しするだけで
その証拠を絶対ださないところで

皆様すべてお察し


ww
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:11:25.00
>>209
>その時に王都が博多湾沿岸から畿内に移動したなら、東遷だろ。

東遷じゃないんだよ
なぜなら、権力主体が別の体制だから
室町幕府は鎌倉幕府が移動したものではないだろ? それと同じ

漢委奴國王の金印をもらった王は、倭王でも倭国王でもない
まだ、倭国という「一つの国」はない訳だ
倭人の中に、金印をもらった地域王があるだけ
その地域王が没落し、歴年無主となったのちに、
別の領域でより広範な範囲の首長によって共立されたのが卑弥呼だ
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:12:34.77
417の>>820
>どっちにせよ当時、江蘇省には会稽は存在しないんだよ
ザラコクのウソはどうしようもない<

どっちにせよ、陳寿が魏志を書いた当時、
「会稽の東の治」地域は、揚州に属しており、
揚州は、揚子江河口付近の南北地域であったから、江蘇省も含む、という事であり、
類スレ主らのウソはどうしようもない。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:19:02.34
>>208
>「人類の常識」という判断自体が「確率が高い」という事であり、
>「100%絶対断定的な論」になっていない。


ちゃんと論証できないで
「人類の常識」
なんて問答無用の言い張りに堕落した時点で

その判断自体が「確率が高い」とか
理由なき「100%絶対断定」してる
わけなんだがね
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:21:48.57
>>241
>陳寿は、「会稽東治」と書いたのであり、
>「会稽郡東治」とは書いていなんだけどね。

さすがのザラコクも、この件では嘘をつきすぎたと気づいているのかなww
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:22:42.74
417の>>824
>>という事は、この男(類スレ主)が提示していた「臨海郡」の地図が、
>いつ頃の地図だとしていたのか?、という事が問題だな。<

>そりゃ257年間だ 明らかだろ <

「臨海郡」と言いながら、
海岸部分よりもはるか内陸奥深くの地域にまでなっているのは、何故なんだ?。
また260年の(会稽郡からの)建安郡の分郡が、
臨海郡が挟まっていたんなら、
全く意味不明になってしまうんではないのか?。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:23:51.84
>>262
>「会稽の東の治」地域は、揚州に属しており、
>揚州は、揚子江河口付近の南北地域であったから、江蘇省も含む、という事であり、
>類スレ主らのウソはどうしようもない。

ザラコクがまた発狂している

東京が日本国に属しており
日本国が日本海岸を含むと
東京は日本海岸なのか?
発狂してるな
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:24:21.36
>>240

高尾山は廻間V式併行の土器が含まれるなら
石塚の前ってことはないだろ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:27:19.42
>>268
ましてや瀬田は庄内0
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:28:56.50
417の>>830
>そんな証拠あるの?
三国志は基本的に記事の出来事があった時点の地名を使ってるよ<

陳寿の地の文である「計其道里、當在會稽東治之東」は、
当然、陳寿の執筆時期の地名や地域状況に拠った説明を書いている事になる。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:31:00.71
前方後円形の成立は播磨、讃岐が先行してる
元々の円形周溝墓からの変化過程も追える

前方後方形に祖型は追えない
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:35:26.46
>>266
>海岸部分よりもはるか内陸奥深くの地域にまでなっているのは、何故なんだ?。

郡治が臨海港湾都市だからそういう名前がついただけ
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:37:43.61
417>>831
>もともと『三国志』の中では“壹”と“臺”との間違いが非常に多く、
有名な孫堅の兄の孫羌の字も、“聖臺”であるのに“聖壹”と間違えている。<

別に間違えてなどいない。
古田さんは、当然「兄弟での共通文字使用」という事の反例を挙げておられたし。
「聖壹」の文字に関しても、宋明清代の校勘学者らは、誰一人校勘対象にせず、
「聖壹」という記載を承認している。

>“邪馬壹国”が後漢書で“邪馬臺国”に書き換えられたのは明らかな誤字だからだ。
“孫聖臺”は孫堅の兄として有名。・・・<

後代史書の「自己解釈に拠る書き換え」は、根拠にならない。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:43:08.91
417の>>833
>>(東冶という文字)陳寿は、
永安3年の分郡(会稽郡から建安郡の分郡)以前の地名として使っただけだからな。<

>卑弥呼の遣使は分郡以前なので全く問題がない<

「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の地の文であるから、
陳寿執筆時点の地名や地域呼称を使うのが自然であるからな。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:46:21.50
>>273
>「聖壹」の文字に関しても、宋明清代の校勘学者らは、誰一人校勘対象にせず、
>「聖壹」という記載を承認している。

それ、間違い

誰もが間違いと思っていて
なおかつ
誰一人校勘対象にしない
という実例なんだよ

「聖壹」という記載を誰もが承認してない
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:49:44.67
417の>>834
>さっき
>漢代末から晋代の情報を根拠にして、晋代の読者に説明しており、
と言ってたのと、もう自己矛盾してるな 九州説はいい加減だ <

別に「自己矛盾」などしていない。
ここでも類スレ主は、「どこがどのように何故自己矛盾になるのか?」を書かずに、
「九州説はいい加減だ」といういい加減なヘイトスピーチをやっている。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:49:47.00
>>128
それは三雲からの写真じゃないよ
九星飲料工業あたりだし
そもそも三雲からはバイパスはみえない

また、可也山を呼子からはアップしてないのに、糸島からのをアップしちゃダメじゃん

そりゃ、三雲からのが大きくは見えるけどさぁ
この写真のように、こんなに近くには見えないから
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:50:38.71
>>274
>「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の地の文であるから、
>陳寿執筆時点の地名や地域呼称を使うのが自然であるからな。

陳寿の地の文であると
陳寿執筆時点の地名や地域呼称を使う
 って
   証拠は?


???
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:53:08.34
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連投してるで
問い合わせID:49c9ea9fecd1ae9f
ホスト:p1618053-ipad040108kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
417の>>838
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
ヘイトスピーチ的な嘘つき騙しの中傷しか出来ないのね。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:58:30.52
>>258
科学的分析で三角縁神獣鏡は
当時の魏・晋鏡と素材の銅が同じ成分と判明
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:05:07.33
しかしザラコクはipadで書き込んでるのか?
小じゃれた爺さんだな
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:06:02.96
畿内説はゴリオシ
ヤマト王政頼みで、倭人伝の記述無視では学問じゃない
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:07:54.77
よーしもし神戸行ったときipad使って一生懸命書き込みしてるジジイを見かけたら
誰かれ構わず張っ倒そう
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:17:40.98
以前

姫ゆみこ、姫ゆみこと言っている人がいたでしょ、
家の母親と同じ名前でしょ

『松傾』の家の嫁、何かの家なのかな?本物の?
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:18:50.62
偶然なのかな?
あの家の写真なども・・・・、
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:22:04.39
河童、河童の三平、げげげ・・・?でもないし、
作者の写真でもないし。

茶釜 天津?・・・・・・・芸能人でもないし。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:35:11.18
>>270
>当然、陳寿の執筆時期の地名や地域状況に拠った説明を書いている事になる。

ならばその当時は、銭唐江より北は呉郡だから、江蘇省はどうやっても会稽ではないww
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:39:30.45
417の>>845
また理由ナシで「南→東」や「人類の常識知らず」などでの断定ヘイトスピーチか。
だから大和説は馬鹿にされる。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:41:35.39
このスレの話ではないのかもしれないけど


キュウリの葉、葱の華〜〜〜〜〜〜、
あの謎の写真の家(『松傾』)の嫁、何なんだろう??
有名人なのかな??

老婆が創価に入り・・・、
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:43:30.16
417の>>851
ほらな。
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘の相手の説明には知らん振りする。
人類の常識を無視する。
結論部分だけを言い張る。
理由は言わない。
もちろん 証拠は絶対に出さない。

だから大和説はダメになった。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:47:47.47
>>277
>それは三雲からの写真じゃないよ
>九星飲料工業あたりだし

残念でした
「三雲遺跡群の辺りから」って正しく書いてあるだろ?
三雲遺跡群は40ヘクタールって言ってた人がいるけれど、その40ヘクタールの範囲から
川幅一つ分外れただけの場所だよ
三雲からはこの程度に見える

>また、可也山を呼子からはアップしてないのに、糸島からのをアップしちゃダメじゃん

呼子からのもアップしてあるだろ?
https://i.imgur.com/ilU5axs.jpg
どこから見たのかも航空写真の方に記してある
どうして見え透いたゴマカシを書くかなぁ

>そりゃ、三雲からのが大きくは見えるけどさぁ
>この写真のように、こんなに近くには見えないから

呼子からの写真の可也山は本当に小さくしか見えてないぞww
それに三雲に行く途中で可也山のもっと近くを通るから
伊都国が可也山のそばだというのは紛れもない

呼子から東に見えていた可也山のそばにある伊都国は、
呼子からでも東であって東南ではない
つまり、末盧国が呼子だというインチキをしてもなお
東南陸行五百里という方角が間違っていることは確定だ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:48:05.84
417の>>857
>>帰納的確率的な推論を拒否して、「絶対断定」や「一致」を要求する人間の方が、<

>「南≠東に拠って×」っていう「絶対断定」を振り回している人がいたような気がするんだけど?
Zarakokuとかいう人だったような気がするんだけど、>>782さんは知りませんか?
そのZarakokuとかいう人、本当にバカですよね、「絶対断定」してるんですから
「デタラメで脳がおかしい」人ですよね! <

当然「×」という事は、「確率が殆どない」といういみですね。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:54:58.84
417の>>858
>>そうしたら全ての文化は九州からということで一元的に説明できる。<

>そうしたら、王のいる場所の墓が小さいという不合理が生じるんだよ<

不合理ではないね。
墓の大きい事も、
「何故そんな大きな墓が必要になったのか?」 という理由を推定出来て初めて
合理的になるんだよ。

>前方後円墳は、定型化後も、纏向型も、纏向発祥なのは動かない <

前方後円墳は、卑弥呼の冢よりも後の時代である、
という事で、大和説の敗退は、動かない。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:00:38.56
>>297
>可也山は東征前の神武が好んで登った山だっけ?

神武は日向にいたから糸島の可也山には登らないだろうに
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:03:04.93
>>280
すまん、誤字だらけになってしまった
グーグルで調べれば誰でもわかるけどな

前スレで志登遺跡あたりからの写真は妥当かな
二子山が綺麗に見える所でオススメだね
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:07:12.35
>>297
>墓の大きい事も、
>「何故そんな大きな墓が必要になったのか?」 という理由を推定出来て初めて
>合理的になるんだよ。

王の権力がより大きくなり、より大きな動員力を持つようになったことを示すためだよ
大モニュメントは権力の大きさを視覚化する装置だからね

大きな墓が必要になった理由は最初から自明であり、
臣下が王より大きな墓を作ることはないというのは合理的

従って古墳時代の九州の首長が大きな古墳が作れない時点で、倭王は九州にはいない
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:08:22.87
417の>>860
>>いや、永安3年(260年)の会稽郡から建安郡の分郡は、有名だ。<

>その前の257年に臨海郡が分軍されていて、建安郡の分郡はそのあと<

だからそれじゃ変な事になる、って言っておいたんだよ。
臨海郡が海岸から内陸の奥地まで広がっていたんだから、
建安郡は、臨海郡のために、先に会稽郡から離れてしまっていて、
260年に分郡される必要がなくなってしまっている。

>そして、東冶県は臨海郡の中<

それもおかしい。東冶県は、建安郡にあった筈。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:12:55.89
417の>>863
>未だに見つからない卑弥呼の冢は一体どこにあるのか?
それはつまり、 現在立ち入れない場所、そして立ち入ったとしても、
その存在を現在の構築物を破壊しない限り確認できない場所、
つまり箸墓後円部の真下にタイムカプセルのように埋まっているとしか考えられない。<、

「南≠東」などに拠って×。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:17:47.81
417の>>865
>>卑弥呼の冢百余歩(直径150mの円墳)
、箸墓後円部の直径は160mでスッポリ入るサイズに設定してあり、無駄がないw <

>なら箸墓で纏向型前方後円墳が一気に巨大化した理由も説明が付くな、一応 <

「南→東」などの嘘吐き騙しの同じ穴の狢同士の、
分裂幻覚の妄想ごっこね。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:18:02.92
>>301
>場所は違うじゃん

違わないよ
三雲遺跡群がどこを指すのか理解してるか?
https://i.imgur.com/vOORE36.jpg
このグーグルストリート画像の左下にカメラ位置を示す地図があるが、この人形の右側の二本の川が
瑞梅寺川と川原川でこの川に挟まれた微高地が三雲遺跡群

九星飲料の工場も三雲遺跡群の範囲に入ってる

>可也山をアップもしてるよね?

呼子からの写真と同じズーム率だよ
肉眼で見たときの印象はこれくらいになる
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:21:01.22
417の>>866
>このように畿内説には歴史を探るロマンがある。<

「ロマン」で歴史や学問をやるのは、そりゃ小説や偽書だよ。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:27:34.51
417の>>858
>地中レーダー探査で、箸墓後円部の地下から卑弥呼の冢が発見された暁には、<

「南→東」などの嘘吐き騙しの 大和説者に特有の、小説のような分裂幻覚の妄想ね。
大和説は、鉄と威信材に振り回され、
史料解釈の泥沼から発生した脳内電波に踊り狂ってしまった人々、
と後世の歴史に刻まれることでせうね。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:28:01.93
>>271
播磨、讃岐の墓は、突起付き円墳どまり。
その突起は、撥形に発展していない。
ずっとそのまま。
有年遺跡の突起付き円墳が前方後円型に発展すると想定されたが、有年の突起付き円墳は実際には方墳へ発展した。
突起付き円墳が前方後円型へ発展する説は、今や崩壊しつつある。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:30:37.25
前方後円墳尾張起源説とか言ってる奴の事実誤認ぶりが笑えるな
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:30:45.07
>>299
というか、神武がいたのは筑紫の日向、つまり三雲を含む倭国の王都、すなわち伊都だよ。
卑弥呼の前の男王70〜80年の日向三代から続く王都だね。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:33:44.65
2〜3世紀の倭国の勢力比較

筑紫>>出雲>越>吉備>尾張

大陸半島に近い方が有利だったわけだ。
内陸の大和はまだ独立した勢力ではなかった。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:34:00.40
417の>>874
>卑弥呼時代の邪馬台国は大和、河内、摂津、播磨、讃岐、阿波の辺りを勢力圏にしていると思われる
これに北部九州、上総付近の勢力が同調していると言う形<

「南≠東」などに拠って、×。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:34:12.75
>>303
>臨海郡が海岸から内陸の奥地まで広がっていたんだから、
>建安郡は、臨海郡のために、先に会稽郡から離れてしまっていて、
>260年に分郡される必要がなくなってしまっている。

257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、
266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。

この分郡の前に、銭塘江より北は呉郡になっているから、揚子江下流域は
既に会稽郡ではない

そして、ここで言う「東部臨海地域」は、分郡前の会稽郡の南の方の
「大陸の東岸」であって、会稽郡の東側という意味ではない

臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg

(太平)二年春二月甲寅、(中略)「會稽東部爲臨海郡」

(永安)三年春三月西陵言、(中略)「以會稽南部、爲建安郡」

寶鼎元年(中略)「分會稽、爲東陽郡」

ただ実はここでも方角が90度回っていて、
実際には臨海郡は会稽の南部だし、
建安郡は会稽の西にある
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:36:42.29
417の>>875
>邪馬台国の成立の流れとしてはまず大和、摂津、河内、播磨、讃岐、阿波に交易を主体とする同盟が成立
その後、北部九州、上総にもその連合に参加する勢力が現れる
その時点で全国的な交易網を持つ勢力が形成されてのちに、近江や吉備が参加して一気に政権として確固たるものになったと考えてる <

「南≠東」などに拠って、×。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:39:30.97
417の>>877
>庄内式の分布、纏向型とその原型と考えられる墳丘墓の分
これらは瀬戸内海東部を中心とする地域にこの中心地がある
この地域の広域の連帯が成り立った後に吉備や近江の影響が強くなる形になっている
考古学的に自然な成立過程を追える <

庄内も前方後円墳も、筑紫が最も早いから、×。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:42:34.02
417の>>879
>播磨の突起付き円墳が纏向の前方後円型墳墓へとつながるとの仮説は、崩壊し始めている。
纏向型の祖形は、尾張の前方後方型墳墓。<

前方後円墳の列島での祖型は、筑紫の那珂八幡など。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:45:41.23
417の>>882
大和中心説は、「南≠東」などに拠って×。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:50:41.19
417の>>886
>大和に鉄がないのは、3世紀前半まで。
纏向政権が博多を制圧し、鉄器など貴重財の独占を行った。
その時期は3世紀中頃。
なので、3世紀後半には大和で鉄器が出るようになる。<

大和の「鉄鏃の大量副葬」のホケノは、3世紀末以後になるから、×。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:55:18.58
417の>>888
>祇園山古墳も、原口古墳と同じ状況 <

祇園山は、墳裾の(複数埋葬を含む)62個の殉葬墓があるから、
卑弥呼の墓であり、原口古墳とは全く違う。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:57:24.21
>>306
弥生時代の後期〜古墳時代初期の場合は、三雲公民館の東、番上地区ぐらいから南あたりで、井原にかけてになるだろね
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:58:29.21
>>313
なんでどういう経緯で大和に倭の都が移ったの?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:59:47.96
417の>>890
大和の「鉄鏃大量副葬」は、3世紀末以後のホケノ。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:04:25.13
417の>>891
>唐古鍵をはじめ大規模集落でも、墳墓でも見つからないからな
大和に限らずに鉄は九州と出雲に抑えられて周辺地域でも出土は少ない
邪馬台国の前後に急激に出土が増える事から時代の画期があったとみるべきだろう
九州と出雲が衰退して独占が崩壊して近畿地方にその交易ルートが開けたと言う事だろう<

大和に齎された、九州倭国の「東征毛人五十五国」の将軍や部将らに拠って、
鉄鏃などが齎されたの。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:05:41.21
伊都GCが伊都國の入口じゃなかったの?
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:07:13.12
>>323
移ってないかも。
神武は九州における倭国大乱の落伍者で、大勢力がいなかった内陸の僻地に都落ちしたのだろう。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:10:27.95
大山祇の息子の三島の神が開拓した大和の土地を、饒速日と神武が長髄彦を征伐して奪ったんだよ。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:14:19.29
>>327
でも事実として大和が都になってるし
落伍者の方が強くなってる
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:18:06.54
>>322
伊都国が可也山の南東だから呼子から南東ってのは通らないのは確認できたな?
いくら頭を捻って思いつきで難癖を付けても、現実には勝てないよww
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:21:09.18
>>320
なんで〜。
3世紀前半末だよ。
博多遠征軍の大祭祀者務めた凱旋王の墓がホケノ。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:29:53.63
>>318
那珂は、有り得へん。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:31:32.75
>>329
それには100年単位の時間が必要だった。
筑紫がつまづいたのは、唐に敗戦した白村江の戦いのため。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:39:55.62
>>311
君の頭の悪さは、笑うに足りんがな。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:53:16.30
>>313
弥生西暦200年 (鬼頭宏)

南九州 6万5千人
北九州 4万1千人
四国 3万人
山陽 4万9千人
山陰 1万8千人
畿内周辺 7万人
畿内 3万人
東海 5万4千人
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 00:53:54.28
>>321
>祇園山は、墳裾の(複数埋葬を含む)62個の殉葬墓があるから、

それ殉葬墓じゃないからww

殉葬墓に殉葬者を葬ってからその殉葬墓の上面を削って
地山成形するなんてことはあり得ない

殉葬墓だと行っている墓地の上に、墓地の存在を無視あるいは軽視して
地山成形の上で段築葺き石を持った古墳時代の方墳を作ったのが祇園山古墳だ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 01:14:10.27
>>136
山門があるがな。
一方、奈良にはヤマトの地名がない。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 01:28:59.97
>>209
都が遷ったのは、博多から山門へだ。
東遷なんて、分家都落ちなど根拠が弱すぎる。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 01:39:33.90
>>141
古代中国人が音写した邪馬臺は、ヤマドイだし。
ヤマトじゃあ〜りません。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 01:43:23.20
>>185
卑弥呼が、ヒコヒメ制説の元祖だろ。
そして、田油津媛=卑弥呼なの。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 01:59:58.12
田油津姫は4世紀末。
卑弥呼の末裔であり邪馬台国の女王だが、卑弥呼本人ではない。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:01:18.12
>>340
もちろん、都落ちは遷都ではない。
都は筑紫であり続けた。
卑弥呼はそこにいた。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:07:21.85
>>268
石塚のプロトタイプは、廻間遺跡のSZ01墳丘墓。
高尾山などは、この廻間の前方後方型から発展した。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:10:51.43
>>344
卑弥呼が居たのは、筑後山門。
卑弥呼の前の男王は、奴国の祭祀王だろう。
要するに、玄界灘連合は、筑紫平野連合に実質負けて、倭国の盟主の座を失ったわけ。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:16:54.74
すでに気づいている人もいるでしょ、
どういうことだと思う?

『天津神』

グーグルで検索してみて、画像
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:20:54.24
>>346

筑後山門出身の肥国女王卑弥呼が倭国王に即位したのは、倭の王都であった伊都。
卑弥呼の前の男王は、伊都国(倭奴国)の日向三代。
要するに、玄界灘連合は、筑紫平野連合に実質負けて、倭国の盟主の座を失ったわけ。
そして敗者の一派は筑紫を出て、親戚筋の饒速日を頼り大和へ入った。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:22:18.96
本人、ホンモノ?
だけが知っている事なんだろう


『松傾』の家の写真があるでしょ、
シダ類、オジギソウのようなモノが写っていたり
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:24:58.15
>>343
神功紀のエピソードは、田油津媛と併せて羽白熊鷲のことも書いてある。
羽白熊鷲は、6世紀前半の磐井のことだろう。
つまり、この神功紀での田油津媛と羽白熊鷲は4世紀のことではなく、歴史的に筑後で起こった大和派遣軍と戦いの相手のことが挙げられていると解釈するのがよい。
磐井の乱の記録はあるが、卑弥呼と大和派遣軍との戦いの記録はない。
しかし、神功紀に上げてあるということは、大和軍と卑弥呼の接触はあったということである。
卑弥呼の謎の死の理由は、大和派遣軍なんだよと書紀の編纂者は高笑いしているということだな。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:27:15.41
あのキュウリの葉、葱の華など・・・の写真も

『松傾』の家の写真
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:34:38.50
山の上のほうに住んでいて、寺院が〜という話とか、
どこかの城にも通っていたと言っていたり

『松傾』の家の話
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:36:00.26
>>338
卑弥呼の墓ができて(卑弥呼が葬られて)、その後に殉死した者が葬られたと書いてあるがなあ。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 02:39:07.16
>>348
最後の一行が、劇画チック。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 04:26:22.23
>>355
突起付き円墳の突起は、撥方に発展しない。
瀬田遺跡の円形周溝墓は、奈良文化財研究所が発掘して弥生終末期(庄内前半)としている。
その実年代を2世紀後半としているようだ。
かなりの人がこの奈良文研の実年代に疑問を持っており、3世紀後半が適当とする声もある。
従来の庄内式では、庄内1式は210年〜250年。
仮に、この時期に瀬田遺跡の円形周溝墓を持ってきたとしても、この時期にはすでに堂々たる周濠を持つ石塚古墳は完成しているわけだから、瀬田周溝墓は石塚古墳の祖形になり得ない。
また、この瀬田周溝墓の突起は東田大塚古墳の前方部によく似ているし、円墳部も整円であって弥生特有の不整円ではない。
この二つの要素からみた瀬田周溝墓は、東田大塚古墳とそっくりといえる。
東田大塚古墳は、3世紀後半の築造とする考えもある。
これは、瀬田周溝墓は奈良研の2世紀後半より100年新しい3世紀後半とする意見と符号する。
瀬田周溝墓2世紀後半説は、どうも疑問が多すぎる。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 05:22:04.23
纒向は古墳造成基地
掘立柱建物は斎場
纒向出土の鋤(すき)は95%が土木用
土木作業員は掘立小屋で暮らすから高床は必要無い
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 05:32:17.38
それで、お前の書き込みを読んでいると大爆笑なんだけどw
池沼か何かなんだろう
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:06:02.60
謎の猿田彦というスレは読んでみた?
『酸漿』などの話もしているでしょ


『松傾』と同じ家(というか書き込みをしている人物)の話なんだけど、
『旧広瀬座』というところがあって
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:12:58.99
貼り付けたでしょ、写真


松の木が立てられていて、そこに立っている人、
コンクリート(セメント)のブロックのようあものが置いてあって、
笹の葉?オジギソウ、シダ類・・・など

『松傾』の家の話、写真もw
広瀬座というか『福島 民家園』?
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:23:08.41
謎の竿、ポールのようなものも写っているでしょ?
ネタか何かなのかな?かなり高等じゃない?


→『松傾』
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:28:12.62
>>356
間違いだらけの長文乙

>突起付き円墳の突起は、撥方に発展しない

なんか根拠でもあんの?
あんたの宗教の信仰話を聞いても意味がない


>かなりの人がこの奈良文研の実年代に疑問を持っており、3世紀後半が適当とする声もある。

それも根拠がどこにあるの?
あんたの御託宣を聞いても意味がない


>従来の庄内式では、庄内1式は210年〜250年。
仮に、この時期に瀬田遺跡の円形周溝墓を持ってきたとしても、この時期にはすでに堂々たる周濠を持つ石塚古墳は完成して

瀬田の周溝から出てるのは庄内0
つまり、あんたの大間違い
もしくは妄想


>瀬田周溝墓2世紀後半説は、どうも疑問が多すぎる。

疑問って何なの?
理由もなく年代を引き下げたいというあんたの欲望以外なにも見つからない

 
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:32:17.54
蚕を飼い、機織りなどをしていた家もあって
・・・という話とか、本当は、どういう職の家なんだろう。

祭祀関係?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:36:04.49
>>363
「忌部はん」   @阿波
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:40:12.38
>>357
>纒向は古墳造成基地

そう考えるのが自然。  @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:41:20.60
九州の話はしていませんと言ってる人がいたり、
あと数年前の、とあるスレ「芸能人の話はしていません」とか

そっち(福島県のほう)が本物の家なんだろう、
小野という家も保存されいるし
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:54:00.56
>>356
>かなりの人がこの奈良文研の実年代に疑問を持っており、3世紀後半が適当とする声もある。

この手の話には何故かいつも
 どこの誰が
 いつ何処で
 何と言った
という具体的情報がゼロなんだよね
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:56:16.50
wiki『小野』

そうなんだろうw
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 06:58:09.66
周辺に小手子の像というものも建てられているしw
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:06:54.73
417の>>894
>大和は栄えていたから中心になったのではなくあくまでも政治的、地勢的な理由で選ばれた土地
なので鏡も鉄も邪馬台国の中心地となってから見つかりだす
むしろ大和の在り方を考えたら自然な話
逆に邪馬台国の中心となった後に九州や出雲は鉄や鏡の独占的地位を失いその中心を大和に譲る
邪馬台国の時代にここに日本の核となるような場所が現れたと言う証拠の一つになっている<

九州倭国の「東征毛人五十五国」に反するから、×。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:09:56.81
417の>>898
>纏向は宗教的な施設でその役割は周辺地域との祭祀による連帯の確認
この場所が名実ともに政治経済の中心地となるのは定型化の後
卑弥呼時代は祭祀と王の居城と言う性格<

「南≠東」などに拠って×。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:12:59.39
417の>>899
>寺澤氏が弥生時代の大和と、邪馬台国の中心となった大和には文化的な断絶があると指摘してる
その断絶も邪馬台国が大和からの自生ではなく、周辺地域の連帯の中心として作られた場所であるからと理解できるな
なので「弥生時代の大和の鉄や鏡がない」と言う事はむしろその性格を示すだけの事で、
大和の邪馬台国の存在を否定する要素になり得ないと分かるな <

邪馬台国なんてなかったし、九州倭国の「東征毛人五十五国」を無視しているから、×。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:22:01.40
417の>>903
>鉄の出土量で、大和が筑紫を逆転する3世紀後半(250年以降)、<

九州倭国の「東征毛人五十五国」に拠る鉄鏃使用であり、であり、
ホケノが最初であるから、3世紀末以後。

>大和では最初の前方後円墳と言われる箸墓が3世紀第四四半世紀(275年〜300年)に築かれている。<

箸墓は布留でありホケノの後であるから、4世紀以後。

>このことは、邪馬台国が大和ではなく、筑紫にあり、
大和が筑紫を併合した後、朝貢した魏を継いだ晋が後継者争いで亡命するなど
中国大陸の戦乱に巻き込まれることを恐れて、東遷したことを示している。<

大和が筑紫を併合したのは、白村江の後だから、×。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:26:55.41
417の>>908
>それまでの各地の排他的な在地土器を上書きするように急激に分布する土器
そしてこれも各地の祭祀を上書きしながら広まる纏向型前方後円墳
この動きは近畿を起点として九州、関東にまで広まっている
ちょうど邪馬台国の時期に合致し他にこのような中心は見いだせない
観念どころかかなりハッキリした証拠があると言える
この時期の大和以外に邪馬台国の候補などないと言っていい
今問題とされてるのはその成立と発展拡大の動きであって位置はもう議論する段階ではないだろう<

九州倭国の「東征毛人五十五国」であった事を完全に無視しているから、
この大和説男は、×人間。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:28:01.21
畿内に邪馬台国と関係ない邑〃があり
連合形成(助け合い制度)があったでいいんでねーの
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:30:02.76
417の>>911
>邪馬台国の時代である弥生終末期から出現した土器や古墳はその後の古墳時代にスムーズに繋がる動きを見せている
なので邪馬台国は大和で、その邪馬台国が発展拡大して大和朝廷になっている<

「南≠東」や「東征毛人五十五国」などを完全に無視しているから、
この大和説男も、・・・・詐欺師。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:30:16.32
どこの基地外なんだ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:32:27.74
>>375
>畿内に邪馬台国と関係ない邑〃があり

それは、倭国(阿波)を発った「忌部はん」 たちの邑〃だよ。


>連合形成(助け合い制度)があったでいいんでねーの

そりゃ、「忌部はん」 同志なんだからw   @阿波
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:33:25.73
どこの基地外なんだ?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:36:43.57
全レス馬鹿のザラコクは誰がなにを言っても判で押したように同じレスを付けている
水辺の蛙はどちら方向から脅しても水の方に逃げるのと同じ
数年前から思考はできない状態のようだ
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:37:03.97
どこのっていうか、九州説のだろ?w
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:38:59.23
お前の名前は?と聞いているんだよ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:42:50.67
417の>>925
>まあ、九州説の人は鉄くらいしか九州の誇れるものがないから、
決して認められないだろうけれど、これが通常の論理的な帰結だ
そして九州の鉄器出土量は、2世紀中に激減していて、3世紀の卑弥呼の時代に
着ないよりも多いと言えるような状況ではないんだけれどねw <

弁辰伝の「國出鐵、韓、wai、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡」
を完全に無視し、
九州倭国の「東征毛人子十五国」が鉄鏃鉄刀を大量に必要ととした事を隠蔽しているから、
この大和説男も、・・・・詐欺師であり、×人間。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:46:29.50
コピペや決まり切った書き込みしかしない連中は、
既に語るべきことがないってことに気づけないんだろうな

30年前のもう間違っていたことが確定しているオワコンにしがみついてても
真実にはならないんだけどね
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:47:33.73
集落と呼べる竪穴式住居跡も無く高床式建物跡も無い
纒向は神社か斎場じゃねーか
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:49:12.87
>>384

それに代わって、颯爽と倭国(阿波)の登場ですな。  @阿波
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:51:21.49
>>367

長文は張り付けが多いから、どこから引用してきたかが問題なんだよな
テンプレみてみい、引用だらけだから部分的にはわからんでも無いが
通してみれば支離滅裂だろ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:55:03.51
アンチ畿内説は「纒向は集落じゃない」しか言えなくなったのか?

纒向地内での住居の発掘例が少なくても、これだけの大遺跡を作るだけの
人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
3世紀の倭国の中心なのが明らかなんだよ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:59:00.30
>>388
>通してみれば支離滅裂だろ

それが言いたかったら、具体的に指摘しないとただの独り言w

どことどこが整合性がないのか、具体的に指摘しなよ
そうすれば議論になるだろ

まあ、結局は議論にもならず、九州説側がフルボッコにされるだけなのが常だけれど
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:11:42.85
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:13:37.92
>>389
>人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
>3世紀の倭国の中心なのが明らかなんだよ

根拠のない妄想を言い張るだけか
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:14:32.05
>>384
>コピペや決まり切った書き込みしかしない連中は、
>既に語るべきことがないってことに気づけないんだろうな

>30年前のもう間違っていたことが確定しているオワコンにしがみついてても
>真実にはならないんだけどね

畿内説の姿かな?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:16:28.21
九州説は具体的な話ができないから総論精神論に終始しちゃう
そして個人宗教になっていく
思い当たらんか?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:17:44.21
>>350
>つまり、この神功紀での田油津媛と羽白熊鷲は4世紀のことではなく、歴史的に筑後で起こった大和派遣軍と戦いの相手のことが挙げられていると解釈するのがよい。

勝手に年代を動かすなよ。
畿内勢力と筑紫倭国の衝突なんて何度もあったということだろう。
景行天皇の話もヤマトタケルの話もそうだし。
田油津姫だけ年代を動かす必要はない。

>磐井の乱の記録はあるが、卑弥呼と大和派遣軍との戦いの記録はない。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:18:35.56
>>394
抽象論はいいから、畿内に邪馬台国があった証拠を出せよ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:22:32.06
>>396
>抽象論はいいから、畿内に邪馬台国があった証拠を出せよ。

それは無理というものだよ。  九州もだけどw   @阿波
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:26:14.38
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:27:21.38
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説を、完全に、破綻させてしまった谷本計算とは、どのような計算なのだろうか、、、
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:29:42.99
邪馬台国自体、ゴキブリなんだけどな
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:35:45.77
『うらしまマリン』
(仮名、キャラ名)というキャラがいるでしょ、
王女(女王)・・・王子、姫・・・・・・・・・とか


本当は、そういう話、それだけの話、
やまたいの女王なんていない
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:36:13.27
>>392
>根拠のない妄想を言い張るだけか

情弱の人?

3世紀当時列島最大の墳丘墓が5基あり、遺跡範囲も他の遺跡を圧する突出した大きさ
それまでになかった規格による最大級の建物群

これだけの根拠があれば
「人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
 3世紀の倭国の中心なのが明らか」なんだよ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:38:46.62
謎の震災などが起きた後だったな?とあるスレの話


お前たちのしたことは、すべて知っているぞ。
みたいな事を言ってる人がいたり、何かの台詞のような感じ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:41:32.61
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:42:59.04
いつからストーカーのようなことをしているんだ?
みたいな事を言ってる人もいた


確実に〜『大震災』でしょ、
お金を返さないからなんだよ、気づいているというか、知っているはずなんだけど
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:42:59.60
それは4世紀から5世紀の遺跡だから残念でした
いきなり大きいのができる訳ないだろ
最初期≠最大規模
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:50:17.39
例えば日本という国があるでしょ、
お前が造った国なの?持ち主、経営者?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:52:00.84
>>402
これだけのハッタリ根拠があれば
「人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
 3世紀の倭国のハッタリ中心なのが明らか」なんだよ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:54:15.62
>>402
キミの根拠はハッタリww
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:57:47.46
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:58:34.48
>>409
もう畿内説に対してまったく反論できないようだ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:59:33.11
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:00:14.13
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説を、完全に、破綻させてしまった谷本計算とは、どのような計算なのだろうか、、、
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:00:27.49
世間では>>406みたいなのをハッタリって言う
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:02:04.82
ホンモノから言わせると

邪馬台国も、私の家に寄生しているだけ・・・・みたいな話になる
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:02:36.56
417の>>940
>つまり大和が発展し始めるのは、九州で卑弥呼が亡くなってから。<

大和が発展し始めるのは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍が入って来てから、
でしょうね。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:03:41.75
>>402
>これだけの根拠があれば
>「人的・経済的な集中がここにあったことが現実に存在する遺跡により明確で
>3世紀の倭国の中心なのが明らか」なんだよ

ハハハ、それ、「忌部はん」 の所業なんだよ。 ごめんね。  @阿波
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:04:32.05
>>396
具体的な話ができないという九州説の弱点を抉られて
具体的な話をしてる畿内説に向かって「抽象論」とか
考えなしに脊髄反射しちゃう
九州説の末期症状
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:09:09.02
確実に何か知っている人がいると思うんだけど、
昔の話なのかな?


お金を貸しすぎたり(桁が違う???)、
他人に恨まれるような事(実際は違うんだけど)ばかりしていると、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・狙われたりするんだぞ
と言ってる人がいたでしょ。


みんなで・・れば怖くないみたいな手法を使われ・・・、
抹殺?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:12:05.62
本当に返せないくらいの額になっているとか、
それで、みんなで・・・れば怖くない・・・


弱者?みんなで抹殺(不明)状態に・・・?
様々な手法を使い・・・?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:16:11.21
数年前の予言スレでも

貸した金返せよ、返せよと言ってる人がいたり、
何かの曲でしょ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:21:13.43
お前が会社を作りたいと言ったとき、
資金を出して(貸して)あげたのは私だ

みたいな話?

何か知っている人がいるんじゃないの?
昔の話?お金も返していないとか
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:23:14.41
(そういう理由があり)殺そうとしたんでしょ?
と言ってる人がいたり、どのスレだったかな
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:32:44.75
言ってる人がいたでしょ?調べてみた?
むかーしは何をするにも数人(3〜4人で決定していた)・・・。

日本の話
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:33:29.85
呟きがカリカリしているw
やっぱりあいつは畿内説だよな
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:34:15.71
邪馬台国畿内説には、なぜ、「抽象論」ばかりで、具体的な話が、一つもないのだろうか。。。。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:36:45.44
神代、朝廷関係の話?


数年前の予言スレ


貸した金返せよ、返せよと言ってる人がいたり
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:40:23.02
>>408>>409
>これだけのハッタリ根拠があれば
>キミの根拠はハッタリww

その「ハッタリ」だと判断する根拠を
「具体的に指摘して!」って何度言われてもできないねぇw
九州説・アンチ危難説の人は人材が払底しているなw

まともな返し一つできない、こんな低レベルしか残っていないw

まあ、まともな判断力のある人は今どき畿内説以外は採らないから
当たり前といえば当たり前だけれど
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:43:03.44
本当の話なんだろう、サルタというスレ読んでみた?
「仕事を紹介してください」という書き込み

『オー人事 オー人事』『おーくら大臣 おーくら大臣』?
ウラシマン?課長しま耕作?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:43:04.46
ほほう、ハッタリ効果は相当なものとみたww
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:44:34.92
>>406
>それは4世紀から5世紀の遺跡だから残念でした

残念ながら建設開始は3世紀初頭、人によっては2世紀末としている
そして、最初に纏向大溝を作ることから始めていて、
最初から大規模な土地造成が計画的に行われている

>いきなり大きいのができる訳ないだろ

最初が小さいのは当たり前
その最初期から大規模集落が構想されているのが分かる
新しい共立女王の新しい都として計画的に作られたと考えるのが合理的

>最初期≠最大規模

最初期の纏向石塚古墳の時点で、列島最大だよ
ごまかせてないぞww
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:48:57.43
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:49:27.70
本当に国などを作った家などがあるでしょ、
権利や権限を持っている人物とか・・・追放・・・乗っ取られた?

何もしていないのに・・・・追放?冤罪?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:51:39.73
>>330
根拠ねぇ

加賀石地区は伊都国王都の始まりの地点

◆弥生時代初期(約2,500年前)の大型支石墓を確認

◆弥生時代前期(約2,500〜2,300年前)の集落と墓域(甕棺)を確認??

番上地区は伊都国対外交渉の中枢地点

◆番上地区は弥生時代中期後半〜古墳時代前期(約2,000〜1,700年前)の伊都国対外交流の中枢地域

◆多量の中国製の土器(楽浪らくろう系けい土器)と国内2例目となる石製の硯すずりが2点出土

少し前には古墳前期の大型建物跡も発見されている

考古学では現況では弥生時代後期〜古墳時代初期の中心はここだろう
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:53:00.58
『三等重役』三頭?

人事〜課長:浦島太郎・・・長竿、松傾のことでしょ
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:58:18.74
現在の日本?
本当に、おかしな事になっているんだよな〜・・・・と気づいている人がいたり

ウラシマン『松傾』の話なのに??
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:02:27.88
シュテンドルフ??酒呑童子??

何者かに裏切られて殺されたみたいな話、
みんなで・・・れば、怖くない方式?

実際、ドルフは殺されてもいないし、死んでもいない
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:05:40.16
何か知ってる人がいるんだろう、
これは、とある漫画なんだけど

『河童バビィ』
というキャラクターとか
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:08:43.68
『河童バビィ』


>バビィ: 河童族の実質的なリーダーと思われる呪術師。
>彼女が占いで受けた神託で

何かを決定するような人物
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:12:29.54
???????????????❔
騙り、成り済ましでもいるのかな❔

家の写真でしょ、河童ではないんだけど
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『何者にもなれない お前たち』?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:15:34.72
>>434
それ、範囲じゃないだろ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:16:12.25
家の写真なんだけど、

キュウリの葉、葱の華・・・。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:20:42.02
417の>>944
>>卑弥呼の共立は倭国大乱後の2世紀末のはずだものな。
その頃から栄えた遺跡を大和に見つけない限り、大和説は考古学的な証拠がないただの妄想。<

>だから、纏向 <

纏向の一番古い石塚は、前方後円墳で庄内だから、3世紀末であるし、
「南≠東」に拠っても、×。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:23:08.81
謎の猿田彦というスレを読んでみて

仕事を探してください、紹介してください
という書き込みをしている人がいたり

『おー 人事  おー 人事』?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:47:23.36
>>434
>加賀石地区は伊都国王都の始まりの地点

何か勘違いしてないか?
「三雲加賀石遺跡/三雲遺跡加賀石地区
 遺構概要
 銅鏡出土地。歴博報56、集落+墳墓-「弥生V期」-包含層
 遺物概要
 埋文研究会20 、弥生後期後半-銅鏡(方格規矩鏡)1
 歴博報56、方格規矩鏡(破片、1976年発掘、福岡県教委蔵)」
記録上は、弥生後期の三雲遺跡群の一角というだけだが?

それに、
>◆弥生時代初期(約2,500年前)の大型支石墓を確認
>◆弥生時代前期(約2,500〜2,300年前)の集落と墓域(甕棺)を確認

だとしても、卑弥呼の時代には関係ない
甕棺墓時代に栄えていたのが没落したのが北部九州という話にしかならない
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:47:46.79
>>434
>番上地区は伊都国対外交渉の中枢地点

こっちも
「三雲遺跡 番上地区
 遺構概要
 歴博報56、集落-平安末〜鎌倉-溝
 遺物概要
 歴博報56、鏡(破片、1977年発掘、福岡県教委教委蔵、混入) 」

三雲遺跡群としての評価がこれで変わるとも思わないが?

>◆番上地区は弥生時代中期後半〜古墳時代前期(約2,000〜1,700年前)の伊都国対外交流の中枢地域
>◆多量の中国製の土器(楽浪らくろう系けい土器)と国内2例目となる石製の硯すずりが2点出土
>考古学では現況では弥生時代後期〜古墳時代初期の中心はここだろう

卑弥呼の都から片道2ヶ月かかるので一大率が置かれてたんだから、その施設だろ?

>少し前には古墳前期の大型建物跡も発見されている

これに関しては、近くの端山古墳との関連が考えられている
端山古墳は全長78.5メートルの前方後円墳
伊都国首長が畿内発の葬送文化を受け入れていたことを示しているし、
国力としては80メートル弱の墳丘墓がやっとということ

これをどう脳内変換すれば、伊都国が倭国の中心なんていう寝ぼけた話になるんだ?
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:50:36.13
>>444
この人は千回ウソをつけば本当になると信じているようだ
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:54:42.79
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:11:40.77
417の>>945
>魏志倭人伝の行程の里は魏里じゃない淮南子の地の果て1万2千里を
会稽東冶乃東までそれっぽく割り当てた淮南子里<

淮南子は、類「一寸千里の法」を使っているので、短里論者。

>箸墓の百歩は淮南子里である理由は無いので
魏里で約140mでOK<

淮南子は短里論者であるので、1里=300歩に拠って、
百余歩は25.5m余であり、箸墓は全く×。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:21:40.32
417の>>946
>それがな、九州説の中でも古田史学の一派は、「漢地陸行一月」説なるものを
開発して、物理的には可能ということにしてしまっているんだよww
まあ、九州説でも古田史学の会の信者以外は「漢地陸行一月」説はトンデモって
分かっているけれど<

この男(おそらく類スレ主)は、・・・・か。
「漢地陸行一月」なんて、聞いた事もない嘘つき騙し文言。

>「水行十日陸行一月」および「投馬国が戸数道理略載の女王国以北の国」を
きちんと説明できる九州説は存在しない <

「水行十日陸行一月」は、その直前文言の「女王之所都」の説明文言であるから、
「郡〜女王之所都」の所要日数。
また、投馬國は女王國に含まれるから、
「以」に拠って「女王國以北の中に含まれる」し、
不彌國から出航の「水行二十日」の国である事からも、
「女王國以北」の国の中に含まれる。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:22:47.55
>>431
>残念ながら建設開始は3世紀初頭、人によっては2世紀末としている

年代前倒し詐欺
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:24:10.32
417の>>947
>逆に邪馬台国の中心となった後に九州や出雲は鉄や鏡の独占的地位を失いその中心を大和に譲る<

九州倭国の「東征毛人五十五國」があって、大和がそれに協力したようだから。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:27:13.43
>>447
>これに関しては、近くの端山古墳との関連が考えられている
>端山古墳は全長78.5メートルの前方後円墳

年代は?
古墳時代だろ?
伊都国がその頃でも大型古墳を作れるくらい栄えていたんだよね?
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:29:10.31
キナイコシが三雲や伊都を恣意的に狭い範囲で捉えて没落没落と願望をさも事実であるかのように喧伝している詐欺であることがよくわかった。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:37:36.23
>>455
>キナイコシが三雲や伊都を

ヨコだが、伊都なんて地名どこにもないよ。  @阿波
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:38:31.20
417の>>949
>隋書の邪靡堆、ヤビタイは邪摩堆、ヤマトの誤記に決まってるだろ
7世紀の日本の王権はヤマトなんだからな<

隋は、大和日本国は俀國の附庸國としか見ておらず、独立を認めていなかったから、×。
中国が大和のは、日本国を承認したのは、唐の武徳中になってから。

>それと台は臺の新字体な<

臺を「ト」と読ませることがインチキであり、×。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:38:37.96
>>452
>年代前倒し詐欺

根拠もなく詐欺だと誣告するだけの簡単な仕事です!って?ww

詐欺だといいたいなら、詐欺であることを確認できる年代観を、
これまでの「多数の学者の成果の集合知」を否定できるだけの膨大な根拠と
正確な論証を用意した上で提示して見せてくれww
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:41:39.33
畿内説の歴史学者の年代観は、日本国民から受け入れられていないようだ。
科学的根拠に乏しいからね。
相対的年代はわかっても、絶対年代は難しい。
しかも、邪馬台国論争では比定年代が10年ズレれば、卑弥呼の死後に躍進する地域が卑弥呼の生前から栄えていたかのように見えてしまう。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:42:26.49
>>454
>伊都国がその頃でも大型古墳を作れるくらい栄えていたんだよね?

まあ、九州では全長78.5メートルは「大型」古墳だねぇ
100年前の纏向石塚古墳よりも小さいし、畿内なら王墓とかには引っかかりもしない
下池山古墳の120メートルよりも小さいし、要は特に大きくもない地方豪族ってだけ

そんなところが倭国の中心とか言っちゃえるのが九州説だよなww
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:45:16.19
>>456
>ヨコだが、伊都なんて地名どこにもないよ。  @阿波

伊都=イト=怡土郡
日本書紀にも伊覩縣として出ている

泡が情弱チェリーピッカー、村おこし
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:48:03.79
417の>>951
>そういう年代を提唱してくれる考古学者に出会ってから言ってくれ
でないと妄想家としてしか見てもらえないよ <

日本の考古学会の学者らは、
ほぼ全員が「南→東」などのウソ付き騙しの詐欺師であるから、
始めから信用性が全くなく、
そんな・・・・アホの「見て貰い」なんても全く関心もない。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:52:22.30
417の>>954
>わはははは。 九州勢力東遷の理由は、何?
勝手に東遷させちゃ、ダメダメ。<

九州倭国の「東征毛人五十五國」があった。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:54:45.82
417の>>956
>そもそも倭国とは、筑紫を盟主として出雲、越などが含まれる日本海沿岸の国だった。
3世紀に卑弥呼がなくなると筑紫の求心力が低下した。 <

筑紫の求心力が低下したのは、白村江の大敗後。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:00:50.30
>>461
>伊都=イト=怡土郡

勝手な妄想にすぎない。


>日本書紀にも伊覩縣として出ている

伊都なんて地名どこにもないよ。  @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:01:15.56
417の>>859
>むしろ原本の3世紀の魏志倭人伝に邪馬臺國と表記されていて
5世紀に編集された後漢書がそれを引き写した<

後漢書は、半分×書であり、邪馬壹國と記載対象が別であり、始めから×。

>現在ある魏志倭人伝は11世紀頃に原本に近いのが失われて
12世紀に民間に流布していたのを集めて作った復刻版の紹煕本という版
これに邪馬壹國は初めて現れる<

宋明清代の校勘学者は誰も、「邪馬壹國」の校勘をしていない。

>それ以前の5〜11世紀の魏書曰く〜等の
魏志倭人伝の引用である文言のある後漢書、隋書、北史、
太平御覧などの各史書の倭人伝はほぼ邪馬臺國表記 <

後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」よりも、
同時代の使節の実地の見聞計測記録の魏志倭人伝の記載の方が、
はるかに、信頼性が高い。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:03:48.34
>>449
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、魏志倭人伝時代の後の時代に、倭国の将軍の一人に捕獲されて、日本国となる纏向遺蹟を作製させられた可能性が、高いな。。。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:06:06.02
三国志の原書あれば成り立つ議論を展開されてもな
写し間違ってるのだから諦めろん
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:12:41.44
>>459
>畿内説の歴史学者の年代観は、日本国民から受け入れられていないようだ。

教科書に載ってるよ
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:16:30.45
>>395
ヤマト王権は、田油津媛=卑弥呼を滅ぼしたことを中国王権に知られたくなかった。
それで、最初から緘口令を敷いて、口封じした。
しかし、その事跡は伝えられていて、そのことがあったのは王権中枢は皆知っていた。
それが日本書紀が田油津媛のエピソードを書いた理由だ。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:26:19.45
>>395
この田油津媛のエピソードが書かれているのは神功紀であり、神功紀の後半に卑弥呼の朝貢の事跡が書かれている。
書紀の時代想定は、3世紀。
4世紀なんてどこから出てきたの?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:45:43.79
卑弥呼の朝貢の事跡が書かれている時代に
一地方の土蜘蛛の田油津媛という名前からして
存在が疑わしいな
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:59:43.13
>>395
磐井の乱は、国内の事件。
卑弥呼のは国際外交事件だから、その事件の首謀者がヤマト王権だとは、記録には残せない。
卑弥呼の件は、闇に葬られたことを示している。
しかし、記紀は、もはや外交問題にはなり得ないことを知って、田油津媛を登場させて、高笑いしてるというわけ。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 13:10:58.75
>>473
>4世紀なんてどこから出てきたの?

三国史記などとの比較から、日本書紀は120年繰り上げてあるという説が有名。
応神天皇が4世紀末というのはわりとコンセンサスを得ているはず。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 13:11:40.99
バカは程度の低い妄想を古代史だと思い込んでるのが笑えるな
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 13:34:40.67
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 13:55:54.65
>>472
>ヤマト王権は、田油津媛=卑弥呼を滅ぼしたことを中国王権に知られたくなかった。

これはないと何度言えば!ww
大陸中華は前王朝の放伐を「前王朝が徳を失ったから新たな有徳の○○が討ち滅ぼした」という
易姓革命で正当化する文化が基盤にあるんだから、前王を討ったというのは誇るべきことであり
隠す理由がないww
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 14:13:44.48
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 14:26:37.74
連続句読点は以前はまだ反論しようと努力していたようだが、
最近は完全に無意味な書き込みしかしなくなったなw

しないんじゃなくて、できないんだろうけれどww
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 14:55:34.64
韓国政府に雇用され、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している韓国人が、討論への反論を諦め、嘘を言い放ったな。。。

481日本@名無史さん2019/01/22(火) 14:26:37.74
連続句読点は以前はまだ反論しようと努力していたようだが、
最近は完全に無意味な書き込みしかしなくなったなw

しないんじゃなくて、できないんだろうけれどww
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 15:43:20.13
>>482
韓国政府に雇用され、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している韓国人が、討論への反論を諦めたので、スレッドが寂れてしまったな、、、
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 15:43:50.35
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 15:46:07.32
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、魏志倭人伝時代の後の時代に、倭国の将軍の一人に捕獲されて、日本国となる纏向遺蹟を作製させられた可能性が、高いな。。。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:01:28.87
>>482>>485
図星を指されて火病った連続句読点、焦りの4連投ww

火病り方といい、素が見えてるぞww
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:16:50.23
417の>>965
>残念ながら纏向の建設が始まり、築造時点で列島最大の纏向石塚古墳が造営されたのは
「邪馬台国にいた卑弥呼が亡くなった時期」よりも数十年も早い時期だ<

卑弥呼の墓は「冢」だから、
前方後円墳の石塚は、卑弥呼の冢よりもはるかに新しく、
3世紀末頃だ。
つまり、纏向遺跡が建設されていく時期は、まさに「邪馬台国の時期」と重なる
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:19:12.76
>>487の訂正
417の>>965
>残念ながら纏向の建設が始まり、築造時点で列島最大の纏向石塚古墳が造営されたのは
「邪馬台国にいた卑弥呼が亡くなった時期」よりも数十年も早い時期だ<

卑弥呼の墓は「冢」だから、
前方後円墳の石塚は、卑弥呼の冢よりもはるかに新しく、
3世紀末頃だ。

>つまり、纏向遺跡が建設されていく時期は、まさに「邪馬台国の時期」と重なる<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×だ。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:22:13.04
417の>>967
おやおや。
見事なまでに物証を無視して、
「南→東」などの嘘つき騙しの憶測だけで進む説だな、
大和説は。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:27:01.66
417の>>970
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
憶測というより、犯罪者的な妄想だな。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:35:31.80
417の>>971
>倭国上陸までぴったり1万里とは出来過ぎですな
これは概念的な架空の数値を無理やり当てはめたもので
実際に計測された物じゃないのかも知れんなあ
例えば淮南子に書かれてるこの世の果て1万2千里の数値とか<

魏使らが「架空の数字」を報告したら、同僚や部下や、後続の張政らに確認されて、
「架空で嘘であった事がバレ」て、魏使らの首が危なくなる、
って、何度書いて上げても、・・・・大和説者には分からんようだなあ。
大和説者は、(どこかの国の政府や公務員らのように)、
さっさと虚偽報告で首が危なくなればよい。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:40:02.38
417の>>374
>最初の纒向石塚古墳は西側周濠から庄内0式期の土器が出土しており
三世紀初頭の築造と推定されている<

石塚は、前方後円墳だから、卑弥呼の冢ではなく、
卑弥呼よりもずっと後の3世紀末であるから、×。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:43:16.60
>>491
>魏使らが「架空の数字」を報告したら、同僚や部下や、後続の張政らに確認されて、
>「架空で嘘であった事がバレ」て、魏使らの首が危なくなる、

見てきたような嘘をいい、ってやつだなww
「架空の数字」を報告も何も、距離は「報告してない」と考えるのが妥当

なぜなら「距離を測る方法がない」から
帯方郡から倭国(本土:九州を「含む」)に上陸するまでは、
すべて「水行」と「渡海」で、距離を測る手段を魏使は持っていない

なので、史書を撰述する立場の人(陳寿もしくは陳寿以前の人)が、
渡海は一律で千里とか、観念的な数字を当てた
それだけのこと

測れないものを報告しないといって処罰されるはずがないだろう?wwwww

それをのちになって現実の数字が分かる(測れる)ようになったあと、
あと知恵で「換算した縮尺」が短里とか、寝ぼけたことを言っているというのが現実ww
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:48:37.90
417の>>975
>北部九州説は渡海後船を一切使わない説<

不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、その後の渡海は必要がなく、
邪馬壹國は、不彌國の南の北部九州になり、
不彌國から「水行二十日」の投馬國は、卑弥呼共立國であるから、女王國に含まれ、
九州島の中の中にあって、ほぼ南九州である事になる。

大和は、全く関係がないし、魏使らは「倭種」位かしか分からない場所。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:53:17.85
417の>>977
>行程からの憶測という方法論を捨てると九州だという説そのものが沈没するのだが<

「南→東」などのように、
行程記載実態を否定曲解というインチキ方法論を採った事がバレると、
大和説そのモノが沈没するのだが。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:23:56.21
417の>>981
>まず距離が測れないから渡海千里としているのに、
それを実距離と紐付けするのが意味がない
実際、対馬ー壱岐間の距離に対して、壱岐ー九州間は半分強しかない
短里の長さは融通無碍に伸び縮みするww<

魏使らの記録は、一寸千里を使ったにせよ、簡易三角測量などを使ったにせよ、
有効数字1桁程度の近似値などであるから、半分位になる事が幾らでもあり、
それで十分。

>次に、渡海と水行をごっちゃにしているのがおかしい
渡海と水行は別の概念<

当然「渡海は水行の中に含まれる」もの。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:35:24.20
417の>>982
>1万2千里は実測でも何でもなく
まして短里でもない世界の果てを表す概念的または
符牒的な数字<

魏志と魏略が「余」を付けているから、
魏使らの記録に「余」が書かれていた事になり、
「概念的や符牒的」ではなく、実測値であった事を示す。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:41:49.30
>>493
>渡海は一律で千里とか、観念的な数字を当てた

そうやって大まかな数字を測って報告したんだよ。
報告もなしに数字を作るなんてことはしない。
バレたらクビが飛ぶ。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:43:40.52
417の>>983
>旧唐書は、後漢書の倭國大和混同説を引き継いで、<

後漢書は、「倭國大和混同説」ではなく、「倭國=九州」説。

>倭奴国からずっと発展してきた王権であるとの立場。
これが錯誤であることは、後漢書をよく読めば分かること。<

後漢書は「大きな錯誤がある」という程でもない。
「誇大的な解釈や表現がある」という程度のもの。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:46:18.00
417の>>985
>纒向は宮殿跡だから 鏡とかは墓の中じゃね<

纏向は、「南≠東」などに拠って始めから×。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:53:18.93
417の>>988
>じゃ前方後円墳が出現する頃には 熊本は畿内の手下だったワケだな<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」があったのだから、
大和が九州倭国の手下であった。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:09:31.06
417の>>993
>短里などない 古代から妄説があるだけだ <

周髀算経や山海経や戦国策や淮南子や魏志などや江表伝や書紀まで使っているから、
史料実態だ。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:13:24.97
『猫神やおよろよず』
とあるキャラを調べてみるとわかるはず
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『たまごっち!』?
なぜ「ともみ」という名前なんだと思う

本当は、その写真の家の話でしょ❔❔❔
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:14:52.65
『猫神やおよろず』

:メイ子(メイこ)というキャラ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:17:11.96
なぜ知っているのか?・・・・家の話でしょ
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:22:10.29
あと『うらしまマリン』『河童バビィ』・・・?その他

家の話でしょ(調べて)読んでみた?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:28:22.36
『猫神やおよろず』
正倉院〜何やらというキャラ、
朝廷関係?
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:32:29.71
天津神・国津神・・・みたいなキャラもいたり
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:39:38.86
謎のサルタというスレがあるでしょ、
ほとんど同じような話をしていたり
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:39:55.35
>>450
淮南子の書かれた漢の時代では短里なんて使われてないので
短里論者なんて居ない魏の時代でも
一寸千里は架空の法則
もし実際使ったら現実の里と全然合わない事がすぐわかる
古代から何回か実測されてその度に違うと結論が出ている
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:41:49.65
ストーカーというか?

創価か何かなんだろうと言ってる人がいたり、
カルト?〜ストーカー?ほとんど犯罪
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:42:51.95
417の>>994
>陳寿が東にある邪馬台国を南と書いたから<

陳寿は、「大和説者のような宗教に狂った・・・・」ではなく、普通の人だから、
方向は間違えないし、魏使らの記録を書き換えない。

>記述上は邪馬台国は会稽東冶乃東で沖縄や台湾辺り <

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
後漢書の「東冶」は、「自己解釈に拠る書き換え」であるから×。

>考古学物証では畿内<

考古学物証でも九州。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:44:55.15
>>457
じゃ7世紀日本のヤビタイ国とはどこだろう
その頃は日本の政権は大和国だったはずだが
そして隋の使者は大和国まで来てもいるし
遣隋使等があって交流は盛んだった
さらに北史では倭の都は邪摩堆とある
臺はドでも別にいい
3世紀は邪馬台国はヤマド国と呼んでいたかも知れないから
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:46:28.10
予言スレというのがあるんだけど、
そのスレでも「創価か何かなんじゃないのか」と言ってる人がいたり
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:47:22.73
>>467
邪馬壹國は12世紀に復刻された魏志倭人伝に初めて現れる表記
歴代の史書の倭人伝はほぼ邪馬臺國
0518畿内説のスレゆえ敢えて
垢版 |
2019/01/22(火) 18:47:36.31
ここの畿内説は一貫性が無い
畿内説の学者もイッパイいるので一本に絞るか
畿内説の学者の誰に傾注して書き込んでるか明らかにしないといけないと思う


畿内説の学者間でも意見の相違があるが各々の学者は一貫性がある
しかし
>>1も趣味だろうから、テンプレ批判や「名無しのすれ主カキコミ」するつもりは無いが
その場しのぎは良くない

例えば
行程は参考としないが、他説批判には使う

他あるがおいおい書きこむよ
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:48:24.41
九州説は頑なに簡易測量を実地で試そうとしないな
日本国内なのだから簡単に証明できるのに
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:48:42.06
「創価なのか?」とか、たしか言ってる人がいた

謎のサルタというスレを読んでみて、同じような事を言っているし
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:49:29.83
417の>>996
このように、何も証拠を出さないのが大和説


つまり、妄想
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:51:11.08
『天皇教』調べてみた?

本当に神代というのがあり、そこから直系〜一系なの?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:56:23.39
>>491
淮南子に由来する1万2千里は漢からの由緒ある数字
邪馬台国はその位置にあらねばならぬというのは魏の政治決定
それを架空の数字と抜かす九州説ザラコクは打ち首
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 18:57:38.28
頭の病院に行くか、自殺でもしたほうが良いんじゃないのかw大爆笑
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:00:12.28
>>494
不彌国までで1万700里
邪馬台国まで残り1300里ある
それを南に水行陸行して会稽東治(冶)乃東、沖縄台湾辺りに
邪馬台国はあると記述上魏志倭人伝はなっている
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:01:43.90
>>498
元は世界の果てまでの空想的な数字に
ちょっと余がついても邪馬台国までを示す距離にならない
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:04:13.24
417の>>997
>方角が90度狂っていることを許容するなら、日本海経路の畿内説が
魏志倭人伝の旅程に一番綺麗にマッチするんだが? <

魏使らも陳寿も、普通の人間であり、
大和説者らのような嘘つき騙しの・・・・人種ではない。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:04:31.78
>>514
魏志倭人伝の会稽東治はどうやら存在しなかったようだ
代わりに会稽東冶はあってその東は沖縄台湾辺り
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:05:43.16
テンノウというのは、どういう意味、何のことなんだ?
と何度も聞いているはず
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:08:47.23
テレビに出てくる人のこと?
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:11:37.09
>>518
邪馬台国は畿内で
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離方位は
淮南子や後漢書の記述を元にしていて指しているのは
会稽東治(冶)乃東で沖縄台湾辺りだから正確性がないというのは
畿内説の共通見解
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:12:17.72
もしかして・・・・・・・(あなたは)頭が良い人なのか?と思っているでしょ
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:15:49.75
数年前の他のスレの話になるんだけど
本当に頭の良い人がいた

「もう出てこないんだからいいよ」
この場、ここに来ない?みたいな書き込み、何だったんだろう

なぜかKPOP辺りのスレ
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:16:21.38
>>477
番上地区が中心地で到着地なんだろ?
近くには曽根遺跡群もあるのだから、広い範囲に集落はあっただろうね
村や地区、みたいな感じの纏まりはあっただろう

前期前方後円墳は未発掘の古墳が糸島では多くあり、発掘待ち
そもそも最近は畿内発かどうかはなんとも言えない状況だから、このあたりの時代は面白くなってるね
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:20:39.12
「実在していたのか!」
「まじだったのかwww」
「」
「」


このような書き込みをしている人たちがいたり、
漫画、アニメ・・・・ゲームなどの話だったかな?

なぜか数年前の~popスレ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:25:54.59
コミックを調べてみて
『うらしまマリン』(仮名、キャラ名でしょ)というキャラのプロフィール

テレビ・・・そんなの観ないじゃ〜ん、観たいものがない
と書いてあったり
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:26:46.12
>>518
ああ、それわかるわ
確かにそうだな
行程や距離が正しいとしたら、"南"で畿内説は無理だしね
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:29:13.44
なぜか「うらしまん」と同じようなことを言ってる人たちがいるでしょ


『天皇教』
検索すると出てくるサイト、掲示板??
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:35:07.08
>>500
(後漢書)
自女王国東度海千餘里至拘奴国 雖皆倭種而不属女王

(魏志)
女王国東渡海千餘里復有国皆倭種
其南有狗奴国

後漢書は、魏志倭人伝の文章の(千餘里復有国)の間に拘奴国を挟み込んでいることが分かる。
この拘奴国は、倭人伝の文章の(其南有狗奴国)から持ってきたもの。
したがって、女王国の南にあるとされたものを東に移していることが分かる。
なぜ、後漢書がこのような認識をしているのかが問題。
後漢書の著者が生きていたときに、南宋に倭の河内・大和政権の使節団が朝貢してきた。
仁徳か履中が派遣した使節団とみられている。
後漢書の著者は、史家であるとともに政治家でもあったため、この使節団から倭人伝の倭國と河内・大和政権との関係を問うことはできた。
史家の立場としては、当然であった。
その結果、河内・大和政権は倭人伝の倭國から発展したものであると理解し、そして倭人伝に言うように狗奴国は河内・大和の南にあるのかどうか問うたはずである。
そして、そのような強力な国は河内・大和の南にはないが、東にはあるとの返答を得たと思われる。
その結果、後漢書の著者は、倭人伝の文章を編集して、東に拘奴国があると記述したことが考えられる。
したがって、後漢書は「倭国大和混同」説の最初の史書になった。

実際、大和に卑弥呼の都を置いた場合、渡海千余里は魏晋里1里434mの場合、434kmほどになり、この距離は千葉県房総半島を越えて太平洋の海中に達する。
地理的に不合理であり、大和を女王国とすることは無理である。
一方、女王国を北部九州に置いた場合、その距離はちょうど大和に当たる。
大和の住人が倭種であることは間違いなく、倭人伝の記述は間違っていないことが分かる。
また、狗奴国の所在地を女王国の南から東へと編集したのは、倭からの使節団からの聴取に基づいたものであることは間違いないだろう。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:35:18.51
『筋肉少女帯  俗な奴等にゃ二人は見えない』

これで検索してみて、どういういう事だと思う?
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:47:15.93
・倭は会稽の東に無い
・九州の中でさえ方向も距離も間違いだらけ
・伝説の時代から、実際に交流をしている時代までも同じ距離と方向で考えている

行程を調べれば調べるほど何の意味もない事が分かるだけ
この工程の珍解釈しかない九州説がどんだけ存在価値のない物だかわかる
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:50:22.38
>>538
南としても会稽東治(冶)乃東で邪馬台国は台湾や沖縄辺りと
魏志倭人伝に陳寿は書いてるんだから九州説も無理だぞ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:53:06.94
543??
どこの低脳なんだ?天皇教の話をしているんだよ、
倭人=後の天皇になるんだろうw大爆笑

あまてらすが何やら〜とか
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:55:26.63
>>543
多少なりともまともな頭の九州説者はとっくに九州説から撤退している
未だにこのスレに書き込む九州説と阿波は極めつけの狂人
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 19:56:08.44
池沼wの集団には、
何を言ってもわからないんだろう
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:01:50.40
本当に、たらりらら〜?バカボンのテーマだよ
・・・キュウリ、ナス・・・。

テレビ(マスコミ?)から、こちらの姿は見えないでしょ。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:02:37.97
>>465
>伊都なんて地名どこにもないよ。  @阿波

字が違うとか言い出したら、阿波も8世紀までないことになるぞww
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:09:03.99
>>538
>行程や距離が正しいとしたら、

正しくないことは
「会稽東治之東」
「(末盧國から)東南陸行五百里、到伊都國」
だけで、確定

「正しいとしたら」という仮定をおく必要がない
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:11:02.51
キュウリの葉などの写っている写真があるでしょ
『松傾』
こういう名前の家の写真なんだけど、有名人なのかな?
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:16:40.74
『バカボン キュウリ』

同じような曲があったり
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:20:02.27
何が、おかしいのか・・・?となるはず、
バカボンの作者も生まれてない頃の写真
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:24:35.05
>>550
>字が違うとか言い出したら、阿波も8世紀までないことになるぞww

当たり前の話。 なにを頓珍漢言ってんの? 阿波に特に意味はないよ。  @阿波
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:26:27.95
>>550
>字が違うとか言い出したら、阿波も8世紀までないことになるぞww

当たり前の話。 なにを頓珍漢言ってんの? 「阿波」という地名に特に意味はないよ。  @阿波
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:28:25.31
なんでアワストーリーが出てくるんだよ



あと本当にバカボンの曲について調べてみたの?
ウグイス〜と言っていたり
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:29:11.41
>>512
>古代から何回か実測されてその度に違うと結論が出ている

どこにそんな測量データがあるんだ?
出してみろ。
どうせお前の屁理屈だろ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:31:58.72
>>559
>なんでアワストーリーが出てくるんだよ

それは、魏志倭人伝や記紀がアワストーリーだからさ。  倭国(阿波)がでてこないでどうするよ。  @阿波
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:43:35.18
>>552
その正しくない、が畿内説の見解なんだろ?
なのに、正しくないと考えている行程文を根拠に他説批判してる事になるんだね
うん、わかった
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:46:48.16
>>557
>当たり前の話。 なにを頓珍漢言ってんの? 阿波に特に意味はないよ。

なら、伊都は大陸人の聞き取りによる音訳なんだから、
怡土郡、伊覩縣でいいだろ?

何を伊都という地名なんかないとか馬鹿なことを言ってるんだかww
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:48:34.42
>>564
正しくない行程文を正しいと言い張る説があったら
そらこうだから正しくないと指摘するだろ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:50:03.42
およそほぼ全ての史書の内容を否定することになった畿内説。
それはもう、ただの妄想だよ。
少なくとも邪馬台国とは関係ない。
0568:おーーいスレ主
垢版 |
2019/01/22(火) 20:52:55.54
ヤマト王政と邪馬台国の謎を解くのは

邪馬台国≒ヤマトとするには????


あまりにも3世紀の文明がヤマト(纒向)が代表する地は???

九州はもとより、近江や東海、北陸、四国、・・・・・


紀年銘鏡もヤマトでは??????


銅鐸と同じ成分の鏡・・・・・・・・・・が三角縁神獣鏡??????
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:54:38.19
そうだな
畿内説は宮内庁すら否定してるからな
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 20:57:08.13
>>565
>なら、伊都は大陸人の聞き取りによる音訳なんだから、

だとしても、怡土郡、伊覩縣がなんだって話。 怡土郡、伊覩縣に特に意味はないよ。 勝手に妄想してるだけ。  @阿波
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:00:01.24
>>532

纒向については畿内説間でも異論を唱える方も多いようだが、あんたはど考える?


誰かが書き込んでいたが、畿内説で纒向を王都とするにはムリがあると思う
畿内説が纒向一本やりは過去の話では??
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:00:13.51
逆に九州説特に北部説こそ
魏志倭人伝含むおおよそ全ての文献によって否定される
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:01:25.84
宮内庁の職員は中立の立場なんだよと言ってる人がいたでしょ、
天皇(教?)信者でもないとか
0576畿内説の諸君 本論は?
垢版 |
2019/01/22(火) 21:08:08.24
会稽東治之東は他説批判に使う手法????


会稽東治之東から畿内説を正当化すべきだ

陳寿の「会稽東治之東」は畿内そのものだと断定すべき

長里でもなんでもいい
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:11:00.55
>>560
舊唐書 卷三十五 志第十五 天文上
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:13:12.30
本当に・・・偉い人になったからといって、
我田引水のようなことをしたり、そういう事をしてはいけない

誰の視点からなのか、わからないけど、
倭猿は倭猿なんだよ・・・教わった習った(倣った)とか
05791  ◆q8leUXpsw.
垢版 |
2019/01/22(火) 21:13:15.51
>>568
過去スレ読んでますか
私のコテ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:14:03.53
>>576
会稽東治(冶)乃東は沖縄台湾辺りを指すから畿内とはしないよ
その事実を元に魏志倭人伝の距離方位は正確性に欠けると指摘するのみ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:15:17.43
>>573
詳細に頼む
九州説の誰の説?
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:16:44.10
色々と教わった(悪く言うとパクリでも可)後に・・・、
もう、お前は用済みだみたいな、ネタがあったりするでしょ

ネットなどでも
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:20:02.38
>>581
主に邪馬台国を九州北部とする古田説の主張は
魏志倭人伝淮南子後漢書隋書北史梁書日本書紀太平御覧などによって否定される
そもそも邪馬台国は九州北部にはなかったから当然そうもなる
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:20:41.96
本当に漫画やアニメ、ゲーム・・・その他なども同じ、
そういう手法
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:21:43.71
>>580
それは陳寿の考えでしょう・・おそらく大陸より東(日の昇る方位)
使者が会稽東治(冶)乃東と伝えたのでしょうか?

なおご存知だと思いますが
倭人伝では(治)です
後漢書では(冶)です
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:22:48.90
・倭は会稽の東に無い
・九州の中でさえ方向も距離も間違いだらけ
・伝説の時代から、実際に交流をしている時代までも同じ距離と方向で考えている

行程を調べれば調べるほど何の意味もない事が分かるだけ
この行程の珍解釈しかない九州説がどんだけ存在価値のない物だかわかる
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:25:26.51
>>574
箸墓は宮内庁の管理下だぞ。周囲のため池もそうだ。
このほかに、宮内庁管理の古墳はいくつあるか数えきれないくらいあるだろ。
「古代は宮内庁の手中にある」といっても良い。現実を見るべきだ。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:25:26.88
本当にドクター・ゲロ・・・・セルみたいな感じ、
日本の話でしょ?いろいろと吸収、養分にして・・・それだけ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:29:21.08
>>586
使者が伝えたというよりも恐らく後漢から倭国の首都はそこという事になっていた
後漢書に後漢に朝貢した倭奴国は倭の極南界で
会稽東冶乃東にあるとなっているから
陳寿は邪馬台国の位置をその伝承に合わせる形で魏志倭人伝を書いた
ちなみに魏志倭人伝の会稽東(治)は存在しない地名
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:35:08.31
>>590
>後漢書に後漢に朝貢した倭奴国は倭の極南界で

倭の極南界は日本語読みだ。倭奴国は倭の南界を極むるなり。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:35:41.61
>「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」<

カラー畿内説内での主流の見解は以下の回答は?


1、渡海・・・・の定義・・(湾は無いと思う。伊勢も三河湾も渡海言うつもり?なら??
2、千餘里・・・この距離感
3、狗奴国との關係 


総じて地理的に説明いただきたい
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:38:58.19
その日は朝から夜だった
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:39:27.51
本当に天皇が何やら〜と言っている人がいるでしょ、
神代〜一系(直系)ではない、詐欺なんだよと言っていたり


気づいている人は気づいている
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:40:53.10
>>590
私もそう思います
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:47:20.50
なぜ頭の良い人がいるんだろう、
その掲示板(サイト)で言ってる人がいるでしょ?

マスメディア(テレビ、ネット含む)などを悪用して〜・・・とか、
同じことを考えている人がいたり、
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:49:56.33
>>590
私もそう思います

陳寿も魏の使者の方位や距離は難解だと思います。
陳寿は魏の使者と謁見していないのでしょう。
会稽東治乃東は日の昇る方向ぐらいで、九州から関東まで網羅する方位だと・・・
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:52:26.46
何かの?ホンモノのような家の人(例えば現在一般人とか)がいるとするでしょ、
出てこられなくする手法がある?


メディアなどを悪用する
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:52:51.21
>>591
つまり倭奴国は倭国の一番南にあると
魏志倭人伝もその後漢の伝承に沿う形で書かれたもの
漢を慕い朝貢した万里の彼方の由緒ある国が
魏を同じように慕い朝貢に来ましたよと皇帝を奉るために
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:53:42.98
もめるなら 距離や方位はどうでもいいじゃん
倭人伝で書かれた遺物や風土はどこが有力なのかじゃねーの
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:56:47.66
>>592
畿内説の課題だが
邪馬台国と関係無いからネ
聞いた話程度
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:56:58.46
>>597
場所的に言えば会稽東治(冶)乃東は沖縄や台湾
正確な地図が無い時代だから多少漠然としたものだろうけど
ただ少なくとも九州北部や畿内は指してない
九州北部を通り過ぎて水行陸行してそこに向かうと
魏志倭人伝には記されているから
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 21:57:05.43
>>590
A: 自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
B: 曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方

ABは同じ構文である。
Bでは「平」を平らぐと動詞読みすること明らか。・・・宣帝之公孫氏を平らぐる也
Aにおいても「極」は極むると動詞読みするのが当然である。・・・倭国之南界を極むる也
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:02:33.32
『AKIRA』という作品も同じようなコンセプトでしょ
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:02:46.54
>>600
>倭人伝で書かれた遺物や風土はどこが有力なのかじゃねーの

言わずもがな。  @阿波
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:04:20.36
>>604

ハハハ、倭国(阿波)の爪の垢煎じて飲む?  @阿波
0608畿内説に質問
垢版 |
2019/01/22(火) 22:04:33.96
別に反抗するわけで無いが
不弥国は北部九州として
北部九州からヤマトまで投馬国しかないのか
四国や中国地方はどないなったんねん
魏の使いは4回ほど邪馬台国に行ってねーか
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:05:10.63
>>564
>なのに、正しくないと考えている行程文を根拠に他説批判してる事になるんだね
>うん、わかった

行程文は正しくない
これは確定

その間違っているものを正しいと言うための珍解釈を「発明」しても、
その珍解釈は当然間違っている訳だ

その間違った珍解釈を正しいと言い張っている人を批判しているしているのであって
他説だから批判してるんじゃないよw
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:05:53.33
>>603
建武中元二年(57)倭奴国奉貢朝賀使人
自稱大夫 倭國之極南界也

建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。
使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にあるで問題ない訳
南を極めるとはどういう事か
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:08:08.89
『ドクター・ゲロ』『AKIRA』『』『』

天津神・国津神などが登場するゲームも同じでしょ?
遺伝子というかモンスター(神、妖精・・・悪魔・・・)同士を合体させ・・・とか

あと魔界塔士サガも?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:09:59.58
>>572
>纒向については畿内説間でも異論を唱える方も多いようだが、あんたはど考える?

これが既に妄想

邪馬台国がヤマト国であり、そのヤマト国の中心施設が纒向遺跡と
いうのはコンセンサスになっている
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:10:54.15
>>610
倭奴国は、倭国(筑紫島)の南の果てまで極めている(納めている)
0615@阿波 へ
垢版 |
2019/01/22(火) 22:12:50.65
>>607
阿波説の弱点は畿内同様の行程と
7万戸、中国地方との關係に集約される
いかに考える?

忌部以外で何がある
畿内説とどう違うのか丹山だけかい
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:15:17.70
>>612
>阿波こそ畿内説の爪のアカを煎じて飲んだらどうだ

是非、飲んでみたい。  どんな垢があるの?  桃の種?  @阿波
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:15:19.11
>>614
しかし倭の極南界は後漢書魏志倭人伝によれば
会稽東治(冶)乃東で沖縄や台湾の辺り
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:16:11.83
>>588
箸墓の北の池は宮内庁の管轄じゃねーぞ
知ったかぶりでいい加減なこと言うんじゃない
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:16:45.66
>>608
>北部九州からヤマトまで投馬国しかないのか

ない
何か問題でも?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:17:11.14
『天皇教』本当に何がしたいのか、さっぱりわからない

確実に言えることは『ドクター・ゲロ』のような人物がいてという話でしょ
0622陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:17:53.90
末盧国に到達するまでは正しい方位なのに、末盧国に到達した後から、
時計回りにキッチリ90度間違え続けている。

これは『間違えた』のではなくて『書き換えた』と考えるのが妥当。
書き換えるモチベーションとしては、

○天円地方説による世界観への整合
○邪馬台国と同格のクシャーナ王国
(匈奴領域からインド洋まで到達する南北巨大帝国)との整合
○呉を包囲するための政治的忖度

が考えられる。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:18:32.38
>>571
>だとしても、怡土郡、伊覩縣がなんだって話。 怡土郡、伊覩縣に特に意味はないよ。

笑かしてくれるなw
同じ地名が書いてあれば同じ場所を指すと考えるのが当然w

特に意味がないことにしないと、末盧国が福津って言えなくなるからごまかしてやんのw
そのくせ出所不明の永島文書に「万津浦」とあるから末盧国だと主張するww

泡はダメだわ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:19:49.87
>>570
都合が悪いことを否定していったら何も残らなかったのが畿内説。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:21:07.19
>>615
>阿波説の弱点は畿内同様の行程と


はい、倭国(阿波)への行程、どうぞ。  @阿波

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方市辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川市辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)

↓【南】 豊後水道 水行20日

投馬国(五万戸)(土佐宿毛市辺り)

↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は、陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察

女王・卑弥呼のおわす 【邪馬台国 阿波】 到着(七万戸)

↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:21:53.35
>>625
畿内説に都合悪い物なんぞ何もないわ
考古遺物や史料全てが畿内説の補強材料
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:22:17.65
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:23:17.35
>>613
>邪馬台国がヤマト国であり、そのヤマト国の中心施設が纒向遺跡と
>いうのはコンセンサスになっている

説明抜きで盲信しているのはあんたの勝手だが、他人を騙すなよ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:23:27.05
ドラゴンボールに出てくる『セル』?

有名な話なんだろう
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:26:29.44
>>622
>○呉を包囲するための政治的忖度

もっと南まで続いていた方がいいじゃん。
というか、魏志倭人伝が書かれた頃は呉も滅んでいたんだろ?
畿内説は嘘で嘘を塗り固めているよな。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:27:00.13
>>615
>7万戸、中国地方との關係に集約される

7万戸の一部。  中国地方については、卑弥呼の時代では瀬戸内海が使い物にならなかったので、関与していない。  @阿波
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa00.htm
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:28:14.74
>>629
三角縁神獣鏡は畿内で500以上見つかってるから
卑弥呼の貰った銅鏡百枚じゃないって九州説はいつも言ってたんじゃないか
こういう時だけ都合よくデータを作り変えて
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:28:53.19
何がしたいんだ?と聞いているんだよ
「さあ?」となるでしょ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:31:00.47
>>624
>同じ地名が書いてあれば同じ場所を指すと考えるのが当然w

笑かしてくれるなw 同じ地名と勝手に妄想してw
だとしても、怡土郡、伊覩縣がなんだって話。 怡土郡、伊覩縣に特に意味はないよ。 @阿波
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:31:28.99
>>590
>後漢書に後漢に朝貢した倭奴国は倭の極南界で
>会稽東冶乃東にあるとなっているから

後漢書のその記述は、魏志倭人伝の女王国より先の余傍国の記述の最後のところの
「次有奴國。此女王境界所盡。」
この奴国を倭奴国だと解釈してしまったからだよ

陳寿は北から南へ国を書いているから、女王の境界の尽きるところが一番南、
つまり極南界ということになる
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:34:23.62
『天津神・国津神』
ドラゴンボールに出て来たでしょ、
たしか出てきたような気がするんだけど
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:40:52.28
>>637
魏志倭人伝は倭国の国土は女王国よりさらに南に4000里あり
漢の時代から30国使者の往来があったとしてるから
それへの辻褄合わせかもね
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:46:43.35
やはり魏志倭人伝は後漢書の原資料を下敷きに書かれたとしか思えない
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:48:40.81
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。

こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:50:51.61
要約も出来ずにそのまま貼り付ける奴は結局分かってない
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:52:16.97
文献的に魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国を指してないのは最早明らかだから
あとはもう考古学の領域だなあ
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:55:40.53
記紀神話(不明)の最初のほうの?
『松傾』に関する話だと書いてあるんだけど、どういう事なの?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:56:21.60
>>628
そう、調査は橿考研がしてる
宮内庁管轄なら宮内庁書陵部が調査するはず
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 22:58:35.13
>>597
>陳寿は魏の使者と謁見していないのでしょう。

日本語がおかしい
陳寿も魏使も謁見するような地位にない

面会とか面談でいい
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:04:05.26
しかし後漢書の前文には何で邪馬台国と書かれてるんだろうか
424年に書かれたから魏志倭人伝を引用したとするのは
少し安直なような気がしないでもない
後漢書の原資料そのものに邪馬台国と書かれていたのか
しかしそうなると今度は年代が合わなくなりそうだし
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:04:26.15
このスレに、
モレ(仮。書き込みしている人という意味。)の事を知っている人がいたとして

なんで詳しいんだよ・・・、
もしかして知っていたのか?となるでしょ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:06:33.02
>>630
>説明抜きで盲信しているのはあんたの勝手だが、他人を騙すなよ。

逆だ、逆!

>>572のこれ「纒向については畿内説間でも異論を唱える方も多いようだが」を
具体的に示す必要があるのがそっちの方
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:08:27.93
>>636
出来の悪いオウム返しとコピペしか書けないなんて、
さすがザラコクと同レベルで並ぶ泡さんだわww
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:09:58.86
『サイバーパンクspecial』
このコミックにも、謎の刀、剣(天空?)のことが書いてあったり。


ロトちゃんというキャラが登場する作品があるんだけど、
川崎区の南部のほうに住んでいる・・・話、設定だし。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:11:05.24
>>640
>やはり魏志倭人伝は後漢書の原資料を下敷きに書かれたとしか思えない

いや、単純に魏志倭人伝が後漢書の典拠資料ってことでいいだろ?
光武帝への帥升等の朝貢とか後漢代のことは独自記事、
つまり別史料を参照している部分もあるけれど
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:11:48.62
阿波という言葉で興味深いのは、阿アだな
まだまだ謎が一般ある
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:11:50.87
2013。。。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:14:26.19
>>604
鉄は出んがな。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:15:13.30
ドラゴンボールなんかも無かった頃の話、老婆の話w


銀〜〜〜?なんていう名前の親戚もいた、
歌舞伎や芝居・・・・・・・・・凄い刀が〜。
0658日本@名無史さん
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2019/01/22(火) 23:23:18.95
>>653
俺は逆と思うな
倭国の都は国境より南1万2千里で30国使者の往来があって
会稽東冶乃東にあってその他の文化習俗の記述は
倭奴国が朝貢した頃後漢ですでに出来上がっていたと
万里の修交を謳うのが漢の時代の朝貢だったから

それは後漢の記録に残され魏志倭人伝は
それをほとんど引き写して倭奴国の位置に
邪馬台国を当てはめたんじゃないかと
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:27:36.33
>>656
鉄器は畿内のホケノ山と椿井大山古墳の2基だけで合わせて350点ぐらい出ている
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:43:14.69
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:43:56.99
>>659
卑弥呼より後の時代に九州から持ち込んだだけ。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:46:39.91
>>647
>後漢書の原資料そのものに邪馬台国と書かれていたのか
>しかしそうなると今度は年代が合わなくなりそうだし

だから、卑弥呼が即位するより前の後漢の時代でも、倭の王都は邪馬台国だったんだよ。
キナイコシが主張するような、倭国大乱を契機とした東遷なんてなかった。
後漢代の倭国の王墓は糸島平野(伊都国)にしかない。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:46:42.32
>>660
淮南子の1万2千里は世界の果てまでの架空の数値
当然邪馬台国を指す距離じゃない
指しているのは会稽東治(冶)乃東で沖縄や台湾
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:48:33.44
>>637

つまり倭奴国が倭の南端。
倭とは対馬海峡だけの国。
王都は南岸の倭奴国。
卑弥呼はその倭の女王。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:49:31.05
『ツンドラの  色がきれいと  イワン言い』

ポケモンの博士でしょ、どういう事だと思う?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:51:32.14
>>667
絶対年代の根拠なし
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:57:32.74
本当に何が、おかしいのか?となるでしょ、
数年前の、とあるスレ、なぜか音楽関係のスレ

「実在していたのか!」
「まじだったのかwww」
「」と言ってる人がいたり

漫画やアニメ・・・ゲームの話?
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:58:51.60
>>515
7、8世紀の奈良では、国名はヤマト。
トで一貫している。
臺もトと読んでいる。
奈良はヤマトであって、ヤマドではない。

ヤマドは九州筑後の山門。
邪馬臺は、古代中国語ではヤマドイ。
ヤマドイはヤマドの音写。

ヤマトの音写はヤマドイとはならん。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:59:43.20
>>668
内装の木棺が炭素14c測定でAD120〜240年
239年に卑弥呼の貰った鏡の三角縁神獣鏡の副葬がない
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:03:49.49
ポケモンの話だとしても?
キャラなどのモデルは作者(原作?)だと書いてあるのに。


実在も何もないはず・・・どういうことなんだろう、
本当の作者ではなく、他の人の話なのかな。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:05:48.13
>>671
3世紀ぐらいは大和をヤマドと言ってたかもよ
日本に文字のない時代だからどう発音してたかは不明
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:09:44.22
>>659
大和で鉄が出るのは3世紀中頃以降。
前半3世紀前半以前は、ほぼゼロ。
この急激な変化は、大和が輸入鉄器などを独占するようになったことで説明がつく。
大和は、3世紀中頃に博多を制圧したということ。
ホケノ山は、おそらく、その大和派遣軍の凱旋総司令官の墓だろう。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:13:15.62
『スサノオ』?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:13:45.30
>>675
3世紀中頃にはホケノ山はもうすでに出来ている
被葬者は3世紀前半に近い人物
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:17:20.34
>>674
3世紀の倭人伝に邪馬臺と書いてあり、それをヤマドイと読んでいた。
なので、ヤマドという名の国があった可能性が高いの。
九州には奈良時代には、山門の地名が普通にあった。
一方、奈良にはヤマトの地名はない。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:39:33.07
>>662
「キナイコシ」なんて言ってると連続句読点並みのバカって言う証明にしかならないぞww

>だから、卑弥呼が即位するより前の後漢の時代でも、倭の王都は邪馬台国だったんだよ。

後漢書の東夷列伝倭条は
後漢書 倭 在韓 東南大海 中 依山爲居   凡百餘國 
三国志 倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 

自武帝滅朝鮮  使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
漢時有朝見者 今使譯所通  三十 國      世有王  皆統屬女王國

と、ほぼ逐語レベルで対応が取れる
共通の典拠があったと言うより、片方がもう一方の直接の典拠と見る方が合理的
そして、どちらが元本かと言えば、当然に成立年が古い方の三国志ということになる

 
>キナイコシが主張するような、倭国大乱を契機とした東遷なんてなかった。

東遷じゃないよ
北部九州が没落して歴年無主の状態になってから、卑弥呼の共立で新生倭国が立ち上がったんだよ
室町幕府が鎌倉幕府の移遷ではないのと同じ

>後漢代の倭国の王墓は糸島平野(伊都国)にしかない。

倭の奴国の王墓であって、倭王の墓ではない
九州説の根拠と称するものはすべて古くて時代が合わない
そこから決定的に没落しているのが北部九州という地域だ
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:45:52.17
「門」は万葉仮名では「ド(do)」とは訓まない
『倭名類聚妙』では山門郷 夜万止(やまと)と訓む
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:52:16.43
>>678
>可能性が高いの。

その可能性がどれくらいなのか、客観的な論証が足りない
3世紀の倭(ヤマト:畿内)の読みが、ヤマドだった可能性も十分にあるし
逆に大陸での邪馬臺の読みがヤマトゥだった可能性も高い

山門の地名がどこまで遡れるか不明だし、これがヤマドだった保証はどこにもないし
現状ではヤマトと清音で読まれている

これは山門がオ甲類、
邪馬臺と「夜麻登」「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」がオ乙類というのよりも、実証が足りないし根拠として弱い
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 00:57:09.89
そんな事よりもwiki『ポケモン』を読んでみて





そして『河童の三平』『茶釜 天津』とか、どういう事だと思う?
家の写真と同じような感じなんだけど
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 01:03:15.54
『ポケモン』このあたりの話

>日本以外での「ポケットモンスター」の名称


河童と一緒にいるタヌキの意味?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 01:14:10.71
>>677
纏向遺跡の纏向型墳丘墓の被葬者は、政権加盟国のうちのおもだった国から持ち回りで派遣された代表祭祀者だ。
ホケノ山では、二重口縁壷や加飾壷が出土するので、近畿・伊勢湾沿岸の勢力が派遣した祭祀者の墓だろう。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 02:02:55.58
>>572
>纒向については畿内説間でも異論を唱える方も多いようだ

誰が異論を唱えるんだよ
捏造するな
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 02:25:36.48
>>681
大陸での邪馬臺の読みがヤマトゥだった可能性はない。
上古音の候補はダー、中古音はドイ、ダイ。

山門の読みは、ヤマト、ヤマド、ヤマカドのいずれかだ。
ヤマドの可能性は相当高い。

これは山門がオ甲類…以下の文は、意味不明。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 02:33:40.74
>>680
和名抄の山門=夜万止は7、8世紀の奈良弁。
九州の山門は、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの読みがある。
しかし、山門は山戸と書く場合もあるので、ヤマカドはない。
ヤマトかヤマドのいずれか。
中国史書の邪馬臺は、中古音ではヤマドイ。
ヤマトの音写がヤマドイか、ヤマドの音写がヤマドイかと言えば、ヤマドに軍配が上がる。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 02:52:40.22
>>687

>九州の山門は、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの読みがある。

それ現代のちっご弁だろ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 03:34:36.46
>>678
>一方、奈良にはヤマトの地名はない。

いや・・・もう

こういうことを平気で言っちゃう
九州説のおじいちゃんって
脳・・・腐ってるよね
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 05:02:03.52
>>685
>誰が異論を唱えるんだよ

卑弥呼墓=箸墓説は橿原考古学研究所でも半数くらいだと聞いたぞ。
石野さんは勝山論だし。

そろそろ卑弥呼の墓は本当に前方後円墳なのか、
邪馬台国の王都は纏向以外にあるのでは?と思う人が出てきていいはずだ。

まぁそういう有能な人が出てきても遅いわけだけどね、ヒミコもその墓もわしがすでに指摘してるからね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539994037/l50
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 05:49:29.54
箸墓古墳被葬者とその相関関係だ。


               長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
                 ┃
  イカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
              ┃
            タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳)
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 06:54:24.20
>>684
>纏向遺跡の纏向型墳丘墓の被葬者は、政権加盟国のうちのおもだった国から持ち回りで派遣された代表祭祀者だ。

そんなアホな。  なんでそんなめんどくさいことをw   まして、奈良盆地で。


>ホケノ山では、二重口縁壷や加飾壷が出土するので、近畿・伊勢湾沿岸の勢力が派遣した祭祀者の墓だろう。

近畿・伊勢湾沿岸の勢力とは、取りも直さず「忌部はん」 。  @阿波
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:28:04.89
>>653
>光武帝への帥升等の朝貢とか後漢代のことは独自記事、
>つまり別史料を参照している部分もあるけれど

だから後漢書と魏志倭人伝は共通の原資料があるんだろうと。
そうしたら、一万二千里は陳寿がいろいろ忖度して作り上げた数字ではないということになる。
そもそも、膨大な三国志の中で、倭についてだけそこまで細かく考えて数字を作ったりしない。
ちゃんと使いを出したことが記録されているのだから、概算でもいいから里程について何らかの報告をしたんだよ。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:28:46.21
>>622陳寿90度回転さん
>末盧国に到達するまでは正しい方位なのに、末盧国に到達した後から、
時計回りにキッチリ90度間違え続けている。


何故 間違えたのか証明できる?使者は4度も渡航しているのだよ
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:29:17.45
>>677
そうやってまた前倒しする。
詐欺
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:33:06.63
418の>>89
>要するにロクに校勘されてなかったわけな
900年書写されて内容の変わった宋代の三国志<

一回の写本に拠る差異発生の確率は、「0.5%÷全写本実行回数」になるし、
魏志倭人伝の2000字の中だけでもの3文字しかないから、
大和説者らが、間違いだとしていた文字は、
全て間違いではなかった、という事だ。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:33:41.60
箸墓のため池を宮内庁管轄にした阿保は畿内説から去れ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:41:41.41
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、

   「棺あって槨なし。」

と、明記しているのだ。
ホケノは木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない

「三国志」の著者は、葬式には、こだわっていたようだ  
たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:45:48.51
318の>>92
>その場で方角を間違わないことと
それを記録して、海を渡って記録を持ち帰って、報告して、
それを参照して史書が編纂されるまで間違いがないこととは同値ではないんだよ<

梯儁等の記録報告は、当然部下や後続の張政らの「実地での確認を受けている」から、
間違えておれば、梯儁等の首が危ない。

>実際、末盧国から伊都国の方角は明らかに間違っているし、<

伊都国への方向ではなく、末盧國からの出発時点での出発方向記録であるから、
間違っていないし。

>狗奴国の方角も魏志倭人伝では南だが、後漢書では東だ<

後漢書の范曄は、使節の実見を伴わず、
前史の魏志の「自己解釈に拠る書き換え」を実行している半分×人間であるから、
魏志との差異部分は、根拠に使えない。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:47:33.32
>>679
>共通の典拠があったと言うより、片方がもう一方の直接の典拠と見る方が合理的

「合理的」
嘘をつく時の常套句がまた出たね。
それは勝手な主観的判断であり、根拠にはならない。

>>679
>倭の奴国の王墓であって、倭王の墓ではない

根拠なし。
というか、奴国(福岡平野)ではなく糸島平野の方についてなので、奴国の王ではない。
勝手にすり替えるな。
嘘つき。

>九州説の根拠と称するものはすべて古くて時代が合わない

糸島平野の王墓は後漢代だよ。
後漢書の楽浪郡から一万二千里の邪馬台国、大倭王の王都は糸島平野にあったという認識なんだよ。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:48:45.52
>>684
根拠のない妄想を垂れ流すなよ。
仮にそうだとしても、魏志倭人伝では倭種に過ぎない。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 07:53:27.27
>>687
>中国史書の邪馬臺は、中古音ではヤマドイ。
>ヤマトの音写がヤマドイか、ヤマドの音写がヤマドイかと言えば、ヤマドに軍配が上がる。

またいい加減なことをw
勝手に中古音と決め付けているが上古音から中古音に移る頃で、混ざっている
つきあいの古いところは上古音で考える

上古音だと邪馬臺は
(g)ia[v]g-mar-d(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-t`(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-di(e)g

雑に片仮名にすれば イァマドゥ、イァマトゥ、イァマディゥだ
「イァ」は拗母音の表記でさらに雑にすれば「ヤ」、小さい「ゥ」は曖昧母音

ヤマドゥ、ヤマトゥ、ヤマディゥの2番目はヤマトだろ?
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 08:00:04.36
宋代以降の印刷本ですら誤植があるのだから
その以前に800年以上あった手書き写本の時代では多くの写し間違いがあるという事が証明されたな
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 08:03:04.64
>>690
>卑弥呼墓=箸墓説は橿原考古学研究所でも半数くらいだと聞いたぞ。

ほら、白状したww
卑弥呼墓が箸墓かどうかには異論があるが、
邪馬台国がヤマト国でありその中心が纒向遺跡であることには異論はほぼない

話をすり替えてごまかすなよww
箸墓ではないという場合は、纒向古墳群の先行する纒向型前方後円墳のいずれかを当てる
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 08:05:06.71
>>693
>だから後漢書と魏志倭人伝は共通の原資料があるんだろうと。

だから、存在しないものを想定するより、大部分は魏志倭人伝の記述をそのまま参照したと
考えれば十分だろ?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 08:07:15.50
>>695
>詐欺

だーかーらー、詐欺だといいたいなら、詐欺であることを確認できる年代観を、
これまでの「多数の学者の成果の集合知」を否定できるだけの膨大な根拠と
正確な論証を用意した上で提示して見せてくれww

根拠もなく詐欺だと誣告するだけの簡単な仕事です!って?ww
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 08:28:07.32
>>705
現代に伝わっていないだけだよ。
原資料がなければ別記事は書けない。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 08:29:15.58
もはや、勝手な妄想を振り回している吉が一人いるだけになってきたな。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 09:08:02.69
後漢書は北魏の時代でしょ
五胡十六国の大乱の中で200年を経て資料が残ってるとは普通考えないわな
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 09:18:13.84
>>709
技官所には、倭人伝にない独自固有の表現・記事があるのだから、
別史料もあったことの証明である。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 09:23:19.04
418の>>95
>>宋明清代の三国志の写本版本群の中で、校勘学者らが校勘対象にした文字数は、<

>北宋本が刊行されて以来これまで校勘の記録があるのは版本同士の比較だけ
写本と照合したような記録は存在しない<

版を刻するには、一つ一つの文字を始めから彫り込んで行くのではなく、
紀銘鏡や印鑑を作る時に、紙などの書かれた文字を貼り付けて、
文字線の部分が浮かび上がるようにするように、
写本などを版木などに貼り付けて、
その文字線を残して浮かび上がるようにして掘り刻むから、
版本は底本写本とに殆ど同じ文字形になる。
という事は、写本とほぼ同じ文字であった事になる。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 09:29:16.74
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 09:48:09.11
418の>>102
「南→東」のウソを付き、
「会稽東治之東」を「会稽郡の東」だというウソをつき
朝目覚めてはウソをつき
昼食を食べてはウソをつき
日が傾いてはウソをつき
夜も更けてはウソをつく

それが、万世一系皇国史観戦争教にクルった大和説者の日常
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 09:58:39.22
>>700
>「合理的」
>嘘をつく時の常套句がまた出たね。
>それは勝手な主観的判断であり、根拠にはならない。

あのなぁww
その前の、存在が確認できない「共通の典拠文書」を仮定する方が、
どう考えても恣意的であり、「恣意」というのは「主観により勝手に決める」ってことだぞ

「合理的」という文言を否定したいのなら、
「具体的な論拠を示して」「合理的ではない」ことを論証しないとww
「合理的」という言葉が主観だからというのは、何の反論にもなっていないww
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 10:08:33.46
>>700
>根拠なし。
>というか、奴国(福岡平野)ではなく糸島平野の方についてなので、奴国の王ではない。
>勝手にすり替えるな。
>嘘つき。

では、これから「奴国と伊都国が一体で邪馬台国であり、伊都国がその都」とかいう
ふざけた九州説の書き込み画あるごとに、>>700はそれを嘘つきと言って全否定してくれw

三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡D地点の二つの墳丘墓は年代的に近い
どちらも銅鏡を大量に副葬しているが、一般に西暦57年と107年の朝貢時に
もたらされた漢鏡だろうと考えられている

ここから、後漢代に朝貢したのは北部九州の首長であり、その首長墓が
三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡D地点だろうという推測になっている訳だ

しかし、>>700は「後漢代」という言葉でだまそうとしているが、卑弥呼の前の最後の朝貢は
西暦107年で、卑弥呼の遣使より130年も前のことだ

その間に、倭国乱(後漢書では倭国大乱)があり、北部九州は倭人共同体の中で
その相対的な地位が決定的に没落してるんだよww

九州説の出してくる論拠は、全部古い
北部九州の没落前のものばかりで、邪馬台国の時代以降はしょぼいものばかり

そして、出してくる論拠が「伊都国」と「奴国」のものであって、
『邪馬台国の比定地』のものが一つもない

伊都国、奴国と邪馬台国が別の場所にある別の国だと認められない時点で
九州説は論説になっていない
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 10:21:10.27
418の>>106
>>「參問」したのは、女王之所都までであり、
だから魏使らは、南九州の投馬國には「參問」していない。<

>既に参問は訪問の意味ではないと教えたのに、<

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であり、
「倭地を参して問した」というのだから、
魏使らが「参し問した」地であった、という事だ。


0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 10:24:42.23
>>715
ちと横から言いたいんだが、
九州説といっても州ごとに九つはある。>>715で言ってるのは北部九州説というべき説なんだけどな。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 10:29:44.00
418の>>113
>邪馬台国、初期のヤマト政権は、朝鮮半島と行き来していた日本海側の勢力と、東海の縄文色の強い狩猟民を中心とした征服王朝だな
白山系、諏訪系とか<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、元は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の国であったが、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などに拠って、
九州倭国の別種の旧小国になったのだ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 10:43:50.23
>>711
>写本などを版木などに貼り付けて、
>その文字線を残して浮かび上がるようにして掘り刻むから、
>版本は底本写本とに殆ど同じ文字形になる。

zarakoku脳内のおとぎの国ではそうかもしれないけど
我々の読んでる史書はそういう本ではないので
ごちそうさま
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:05:45.15
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:06:09.86
>>716
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。
ここで目を引くのは「参問倭地」の表現ですね。
女王の覇権のもとの倭国ではなく、「倭地」としてあるのは、女王の覇権の境界の南に狗奴国があったからでしょう。
つまり倭地とは・・、

女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、
筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。
よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。
現地でいえば、九州島の北端から南端(開聞岳辺り)までのことだったのでしょう。
事実、対馬海峡を三千余里とすれば、九州島の南北は五千余里に相当します(図上で計ってみてください)。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:06:23.70
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:16:48.80
>>721
>女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、

女王の覇権内の邪馬台国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のこと


>筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。

九州にそんな強大勢力は存在しない。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)


>よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。

決して、ならない。  周旋可五千余里とは、四国のこと。  @阿波
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:26:45.56
418の>>121
>鉄がありすぎるってより、無管理状態でしょ九州は国家が誕生してない <

大和は、3世紀末以後のホケノまでは、全く鉄鏃も出ないから、
それまでは、鉄を使った戦争国家は出来ていなかった。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:41:04.56
五畿は、ホノケの年代を必死に繰り上げようとして滑稽だぜ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:42:16.29
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し続けるために、韓国政府に雇用された韓国人が、ホノケの年代のことで、論破されているな。。。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:51:45.41
418の>>122
>>「方角」を変えたら、いつまで経っても嘘つき騙しである事には変わりがない。<

>そうやって 気に入らない意見を論理じゃなく
力で抑え込もうとする九州説は堕落しまくってるな <

そうやって気に入らない意見を、
史料事実からの論理じゃなく、力で抑え込もうとする大和説は、
堕落しまくってるな。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:57:34.89
倭女王卑弥呼考 東京帝国大学 白鳥庫吉
>本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致し・・・、
>(しかるに)近藤芳樹氏は倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば・・・
>(この説は)尤も余輩の意を得たるものなり。

(近藤芳樹)
幕末明治期の国学者。
周防国岩淵村(防府市)田中源吉の長男。早くから上方に遊学して村田春門,本居大平,山田以文に国学,律令を学んだ。
天保11(1940)年長州(萩)藩士近藤家を継いで藩の和学方となり,萩に居を構える。
藩主毛利敬親に重用され,元治1(1864)年には藩校明倫館の教官となった。
維新後しばらく山口県庁に勤めたが,明治8(1875)年宮内省に出仕して文学御用掛に任じられた。
明治天皇の東国行幸,北陸行幸に供奉して『陸路の記』『十符の菅薦』の供奉日記を著す。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:00:32.37
418の>>123
>北部九州は朝鮮半島から来てる人が多いからね
半島で産する鉄、手に入る中古品は当然多い
北部九州は住居跡規模と鉄器出土数との間に相関関係は認められない(野島)<

「野島」って男も、こりゃちょっと・・・・大和説者だなあ。
北部九州には、弥生銀座を始め、その周辺の糸島や筑紫平野部の周辺に、
鉄器出土数と居住遺跡との相関関係が認められるが、
大和では、鉄鏃そのものが3世紀末以後のホケノまで待たなくてはならず、
半島からの渡来品も全くのように存在しない。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:02:26.26
>>729 続き
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛で明治天皇のお側役も務めた近藤芳樹とは、
気脈を通じ、邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いた。
しかるべき由縁あってのことであろう。、
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:12:47.83
東大が九州説を諦めたのだから学術的に見込みが無いのだろうな
九州説は出版物多いけどアマチュアばかり
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:26:38.61
北部九州説は出版物多いけど確かに安物ばかりだ。
がしかし、九州肥後説の出版物は白鳥以降ない、トンデモと一緒にするな。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:28:08.06
418の>>135
>>部分行程の里数合計が、不彌國までの「萬二千余里」で全く終わっている、<

>それじゃあ会稽よりも遥かに北になるから <


この類スレ主男は、また「会稽東治」を「会稽」とする嘘つき騙しをしている。

>九州説後臨時でよろしいね 南無阿弥陀<

「会稽東治之東」は、「女王國」の位置推定であり、
女王國には投馬國も含むから九州島全体になり、
「会稽東治之東」にピッタリになり、
類スレ主らの大和説ご臨終でよろしいね。
南無阿弥陀仏。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:42:06.26
>>715
>三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡D地点の二つの墳丘墓は年代的に近い

しかし三雲にだけ三種の神器が揃っていたので、伊都の墳墓と奴国の墳墓には格差があるんだよ。
だから、伊都にあり三種の神器が揃っていることが倭王の証と考えられている。

>西暦107年で、卑弥呼の遣使より130年も前のことだ

また何か騙そうとしている?
卑弥呼の共立は190年頃と考えられているから、最後の朝貢からは約80年しかない。
畿内説だとその間に大和に遷都しなくてはいけなくなる。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:42:56.46
418の>>147
>>東南は、出発時点での出発方向の記載であり、目的地の方向ではない。<

>出発方向だけ書いて、実際の方向が書いてない地理情報なんて無意味だろうに<

陳寿の行程記載は、旅程説明であり、
地理説明ではないんだよ。

>>可也山は、伊都国のかなり北方であり、伊都国自体は全く見えないよ。
「伊都国が見える」なんて、その場しのぎの嘘を付いては、だめだよ。<

>加也山のお膝元に伊都国があるんだから、加也山の方角が分かれば伊都国の方角が分かる
ザラコクの言い分がその場しのぎのデタラメであり、まったく論理的ではないww<

始めて倭地に来た魏使らにとっては、伊都国の町が見えていなければ、
伊都国がどの方向であるのか?は全く判らない。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:45:29.65
卑弥呼が肥国女王だったと思う。
しかし倭国女王になってからは王都であった伊都に移動したのだろう。
だから肥後や筑後(もともとは有明海沿岸の肥国の一部だ)と混同されるのだろうね。
それが肥後説や筑後説の原因だ。
あとは一万二千里のうちの残り二千里の扱いかな。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:49:20.24
>>716
>「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であり、
>「倭地を参して問した」というのだから、
>魏使らが「参し問した」地であった、という事だ。

参問の主語は、「誰でもない人」だよ
参問は「参照して問う」ことだよ
参問倭地は、「倭地のことを文書・記録を参照したり人に問うたりして調べたところ」くらいの意味
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:49:26.51
>>737
糸島に移転したなどと、出まかせいうな。
だから、残りの2千里を考えればどうしたって肥後になるんだよ。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:53:09.92
>>733
>がしかし、九州肥後説の出版物は白鳥以降ない、トンデモと一緒にするな。

出版物がないのは、書こうとする人も需要もないオワコンだからだろ?
要するに北部九州説以上に肥後説はトンデモ扱いだってこと
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:54:10.57
>>736
>始めて倭地に来た魏使らにとっては、伊都国の町が見えていなければ、
>伊都国がどの方向であるのか?は全く判らない。


始めてきたのなら、街並みが見えてもイトコクかどうか判別できないだろう。
昔は、看板もネオンサインもなかったのだからな。苦し紛れの言い訳だらけ、、、笑っちゃうね。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:56:51.60
>>735
>だから、伊都にあり三種の神器が揃っていることが倭王の証と考えられている。

そんなことを言うのは、脳内お花畑のドリーマーだけだよ

弥生王墓という言われ方をするのは
(一般の墓とは)隔絶した規模の個人墓
副葬品が非常に多い
の2点を満たすものだ

いわゆる三種の神器だけで判定するものではない
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 12:57:41.74
>>740
安物、トンデモと一緒にするな。
近年の発掘成果を踏まえれば、肥後説こそ本命なのだよ。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:01:49.01
>>735
福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野の西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
このことから、福岡平野から糸島平野の西端までが、倭奴国王家の長きにわたる支配下にあったことがわかる。
もちろん、この両平野の中にイトクズ国が入る余地など、全くなかったのである。
<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:03:01.32
>>735
>また何か騙そうとしている?
>卑弥呼の共立は190年頃と考えられているから、最後の朝貢からは約80年しかない。
>畿内説だとその間に大和に遷都しなくてはいけなくなる。

遷都はしてないんだって!
北部九州がつぶれて、歴年無主になって、その後の収拾策として卑弥呼の共立がなったんだよ
大規模な人の移動もないし、征服などもない

室町幕府は鎌倉幕府が西遷したものという人もいなければ、
徳川幕府は室町幕府が東遷したものという人もいないだろ?

卑弥呼の共立王権は北部九州とは別の政権であり、新生倭国の誕生といえる

卑弥呼の共立自体は、3世紀に入ってからだと個人的に考えている
そうでなければ、卑弥呼の寿命が生物学的に不自然

いずれにしても、須玖岡本遺跡D地点も、三雲南小路遺跡も卑弥呼の時代に
つながらない古いものなんだよ
どちらも甕棺墓だし
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:05:49.02
>>743
>近年の発掘成果を踏まえれば、肥後説こそ本命なのだよ。

で、肥後説では
1.都はどこ?
2.卑弥呼の径百歩の墓はどこ?
3.投馬国はどこ?
4.水行、陸行はどんな経路?

これくらいはきちんと答えてね!
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:18:57.23
>>743
肥後どこだよ。
伊都よりすごいのか?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:22:02.73
>>746
で、肥後説では
1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)
2.卑弥呼の径百歩の墓はどこ?・・・阿蘇高千穂町三田井、高千穂神社のご神体山(径百余歩)
3.投馬国はどこ? ・・・宮崎県西都市都万一帯
4.水行、陸行はどんな経路? ・・・松浦唐津港→東南陸行・佐賀川上大願寺→東行100里吉野ヶ里の不彌国→
→ここから南方角に、投馬国・都万国西都と、邪馬台国・肥後山門郷と、阿蘇高千穂の卑弥呼之所都あり。

投馬国への水行20日は帯方郡から1日千里の計算で、松浦末盧国唐津まで10日、九州島西回りで西都まで10日。
邪馬台国女王之所都への、水行10日は上と同じ、陸行1月は唐津から高千穂までテクテク。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:26:55.74
418の150
>3世紀に300km以上の直線距離を測定できたとか、あるいは300km四方の面積を測定できたとか
いくら何でも頭が足りないだろw <

部分的簡易三角測量や歩測の組み合わせや、
一寸千里と大体の方向が判ればが、
有効数字1桁程度の距離概数は、知ることが出来る。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:27:41.47
>>746
卑弥呼の塚は、阿蘇・高千穂神社のご神体山
>国道218号から少しだけそれて高千穂神社の駐車場に駐車。駐車場から境内へ進みます。
>拝殿と本殿(重要文化財)にお参りした後、本殿裏の小山を周回する小径を一回り。
>どこか裏の小山頂上に行く経路は無いか周回してみましたが道無し。
>磐座的なにかがあるのかと思いながら確認出来ず残念なのでした。
>おそらく本殿裏の小山頂きがご神体山に近い扱いなのでしょうね。
https://akiba9echo.exblog.jp/19202164/
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:34:26.74
418の>>153
>アホ 四千里=300kmがこじつけなんだよ
仮に距離を測定したとしても、当時測定できた距離とは道のりの距離か航行距離(移動距離)<

アホ。「韓の方四千里」の計測は、海上の「航行」ではないよ。
当然、郡の役人らに拠っての、
韓地での一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測の組み合わせだよ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:40:15.26
418の>>157
>>谷本計算は、太陽仰角を使っているので、尺寸系の寸法関係は、
千里の距離には全く関係がなく、変わらない。<、

>一尺が何寸かで太陽仰角は変わるぞ <

変わらない。
類スレ主は・・・・アホ。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:40:40.58
>>747
肥後・菊池市から山鹿市にかけての一角にあった方保田東原遺跡だろうな。
弥生鉄工房のすごさときたら、イトクズがまさにイトクズに見える。

また、七城町の臺邑から出土した臺弥生遺跡は多重環濠に守られていた。
此処こそ、邪馬臺国の「臺」。
卑弥呼之所都は、倭30国を治める鬼道の都だから、九州島のほぼ中心に当たる阿蘇・高千穂にあった。
なにしろ此処は、総延長20q・深さ100mの渓谷に守られた天然の要害砦。その広さは奈良の桜井市とほぼ同じだ。驚くばかりの女王之所都!
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:51:50.90
>>751
韓の方四千里は、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里とは別に測量したものなのか?w
七千余里は循海岸水行と書かれているんだが
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:55:33.80
418の>>172
>それを東南陸行と言い張るのは、厚顔だよなw<

「東南」は出発説明であり、「陸行五百里」が途中説明になるから、
「東南陸行」と組み替えるのは、
類スレ主のインチキ騙しの詐欺。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:59:08.85
418の>>173
>庄内の始まり、庄内1式は200年前後。 これは定説。<

大和の庄内の始まりは、石塚であり、3世紀末。
筑紫の庄内の始まりは、祇園山の庄内や、柳田のついうっかり発言に拠って、3世紀前半。
これ、史料実態。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 14:12:58.34
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 14:48:17.88
ザラコクも連続句点もウソつきすぎ
九州説は地に堕ちた
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 14:50:33.62
だから実際に簡易測量してみなって
舞台は日本だから簡単だろ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:09:12.19
>>748
>1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)

邪馬台国(福岡)の南にある狗奴国です。
官は菊池彦です。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:19:35.36
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:20:50.95
卑弥呼→@かA
@九州の豪族の姫→八女津姫
A畿内の皇統の姫→モモソ姫
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:21:30.22
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、 嘘の悪口を言い放ったな。。。

758日本@名無史さん2019/01/23(水) 14:48:17.88
ザラコクも連続句点もウソつきすぎ
九州説は地に堕ちた
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:23:18.29
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破され、 嘘の悪口を言い放ったのは、韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している犯罪行為が地に堕ちているからではないのかな。。。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:24:13.43
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 15:25:51.36
>>760 名前:日本@名無史さん 2019/01/23(水) 15:09:12.19
>>748
>1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)

5. 狗奴国はどこ?・・・球磨地方(人吉)、此処は奈良盆地と同じ広さの水田地帯である。
   住人は、コマヒト(肥人)と呼ばれ、記紀に久米族とも記された弓の種族
0767日本@名無史さん
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2019/01/23(水) 15:34:31.57
>>760 名前:日本@名無史さん 2019/01/23(水) 15:09:12.19
>>748
>1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)
>邪馬台国(福岡)の南にある狗奴国です。
>官は菊池彦です。

肥後・菊池の名は、11世紀に大宰府から藤原の一子が下向土着して、菊池を名乗ったことから始まる。
三世紀とは、何の関係もない士族である。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:04:37.62
・倭は会稽の東に無い
・九州の中でさえ方向も距離も間違いだらけ
・伝説の時代から、実際に交流をしている時代までも同じ距離と方向で考えている

行程を調べれば調べるほど何の意味もない事が分かるだけ
この工程の珍解釈しかない九州説がどんだけ存在価値のない物だかわかる
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:22:10.09
418の>>190
このように、魏使らの記録の中で、
都合の悪いところは「南は東の間違いだ」とし、
都合の良いところはそのまま南→南だと言って、
その理由を説明しないのが、大和説。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:33:26.22
418の>>197
>藤堂先生は、どんなストーリーも書いてないよ
藤堂先生が言いたいことはこれ↓
「しかし、これまで私が縷々列挙してきたのは、「三国志」を「三国志」として「書写したもの」同士の「異同」なのである。
 その間に、これほどの「異同」が含まれていることは、「写本には誤写はつきもの」という、当たり前のことを如実に
 示していることは明々白々である。逆を言えば、今日の「版本魏志」が「陳寿オリジナル」のままであることなど、
 到底望むべくもない「夢想」でしかないと言いうるのである。」
魏志倭人伝の記述は99.5%正しいから「南≠東」だ、というザラコクの言い分を
全否定ww <

ふーん?。
藤堂も、
宋明清代の校勘で倭人伝の2000字余りの文字の中で、校勘に挙げられたのは、
「都支國と郡支國」と「黄幢と黄憧」の2文字だけであった、
という事を知らず、
倭人伝の中には、間違いが沢山あった、
というインチキをしゃべっていた・・・・学者だったんだな。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:39:10.56
>>762
九州に女性首長は多くいた。
八女津姫はそのうちの一人に過ぎない。
八咫の鏡を持っていた神夏磯姫の方がまだ卑弥呼に近いと思う。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:43:40.42
418の>>199
まだ人口の少なかった古代においては、
国間距離は、原則として「明確な居住外縁部間の距離」であり、
その間は、小部族集落や不毛の地であり、
境界が接している場合には、「其toku廬國與倭接界」というように、
「接界」とはっきり示すのが原則、なんだよ。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:51:26.00
>>741
>昔は、看板もネオンサインもなかったのだからな。苦し紛れの言い訳だらけ、、、笑っちゃうね。

どうだろうね。
中国だと城郭都市の門には国名が掲げられていたからね。
鳥居の上に額が掲げられていたかもねw
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:53:01.07
菊池に住んだから菊池〇〇なんだと思うけど。

苗字が一緒の場合、個人の特定は、場所+名前だからね。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:53:21.91
>>742
>いわゆる三種の神器だけで判定するものではない

三種の神器が倭国王権の象徴だよ。
それで説明がつくのだから、それ以外の解釈を加える必然性はない。
嫌なら半島へ帰れ。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:56:10.09
>>773
バカタレ、加也山のふもとの鳥居の上の額の文字が、
遥か彼方の呼子から読めるわきゃなかろうが。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 16:57:39.45
>>745
>卑弥呼の共立王権は北部九州とは別の政権であり、新生倭国の誕生といえる

場所が全く違い、王統も違う?
それはもう倭国ではないよ。
後漢書も魏志も邪馬台国まで一万二千里で一致しているから、その間に移動なんてしていないことは明らか。

>卑弥呼の共立自体は、3世紀に入ってからだと個人的に考えている

それでは桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)にあった倭国大乱から離れ過ぎている。

>そうでなければ、卑弥呼の寿命が生物学的に不自然

25歳くらいで共立され、80歳くらいで亡くなったのなら、生物学的におかしくはない。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:00:52.52
>>745
>どちらも甕棺墓だし

だから九州説の中でも、王都は伊都(邪馬台国)のままで、王統だけ天孫族から他の氏族に代わったという意見がある。
それが王統を揺るがす倭国大乱の結果だったんだよ。
敗者となった天孫族が筑紫を出て大和に行き、玉突きで畿内にも新しい時代がやってくることになったと考えられる。
畿内の「画期」は、筑紫における倭国大乱の余波なんだよ。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:01:37.03
あんたがたどこさ
肥後さ
肥後どこさ
熊本さ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:02:59.37
>>776
鳥居があるのくらいは読めるし、そこに到着した時に読めるだろ。
そこに滞在したと記録されているのだから。
郡使は朝晩とそれを眺めたんだよ。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:04:14.96
>>774
記紀でも、地名+彦という名前はよくある。
菊池彦がそのはじめの例なのかもしれない。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:13:08.01
磐井さんが負けるまで日本って実質的には2元体制だったんじゃないかと思うけどな。
九州一帯地域と畿内連合って感じで。
ずっと九州には大きい自治権を与えるような宰相元帥・管領的な地域王だけはおいていた。
理由は遠いから。
でも、大きい自治権を与えるが故に時にはまつろわぬメンドクサイやつが出てくる原因にもなったと。

卑弥呼の時代は大体、欠史8代後半〜だろうなーと。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:17:12.88
>>782
>磐井さんが負けるまで日本って実質的には2元体制だったんじゃないかと思うけどな。
>九州一帯地域と畿内連合って感じで。

それ、多元王朝説ですよ。
それでは、その中で中国が倭国と呼んでいたのはどこなのか。
後漢書では倭の北限は朝鮮半島南岸、倭の南限は九州北岸としています。
魏志倭人伝になるともう少し情報が増えて、卑弥呼がいた女王国から海を東に渡ったところにも倭人がいたことが記録されています。

さあ、卑弥呼がいたのはどこでしょう。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:22:59.76
>>783
卑弥呼ちゃんいたのはどこさ
肥後さ
肥後どこさ
熊本さ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:29:35.12
>>783

朝鮮部落史
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:42:02.94
>>766

菊地もコマビトだろ
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:42:22.00
崇神→四道将軍
垂仁→豊城入彦
景行・日本武・成務・仲哀・神功→九州征伐
神功→三韓征伐
応神天皇→400年前後

九州平定したのは6世代前後かけて。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:45:26.13
>>767
普通、土着して名乗る場合、住んだ所の地名を氏名とするんじゃないの?
その藤原氏が菊池を名乗ったのは、その土地が菊池だったから、と。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:46:45.18
>>785
倭国は渡来人たちの国さ。
いわば三世紀の、「新大陸アメリカ合衆国(新大陸アマツヒト合衆国)」
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:49:51.46
418の>>203
>>10月20日の話は、北条先生も書いてますね。 そちらもみてみたら?<

>それは柳田説を批判しなかっただけだろ? きちんとした礼儀のある人は、安易な論難はしない
そして、単純な数学的な計算で、平原遺跡から見た日向峠からの日の出は10月22日だと分かる<

夏至から冬至での日の出方向の角度範囲は大体55〜60度位であり、
半年を180日とすれば、2日差で3分の2度位。
太陽視角は0.5度だから、殆ど太陽視角位の差異であり、
20日と22日の太陽位置は、太陽視角程度の差であり、問題にならない。

>卑弥呼の死んだ年がそもそも不明、寿墓でなければ造墓年数もかなりかかるのも無視している <

勿論、正始8年の年次に書かれているんだから、
正始8年に非常に近い頃だったんだろうという事は言える訳で、
正始4年と正始6年に引きつづいてで2年間隔で正始8年の記載があるんだから、
やはり、2年位以内の出来事であったんだろう、とも言える。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:54:39.68
>>783
倭の時代も日本もだけど
時代が下ってもず〜〜っと対馬とか北九州が外交の窓口。
地域にどんだけの裁量権があったかに尽きる。

裁量権のあるなしの根拠は独立的な王権なのか、
皇統による自治権の付与なのかはわからない。
ただし、北九州は皇統の姻戚関係(海神ね)なのは記紀にも書いてある。
海神の男系がいてもおかしくないっちゃおかしくないし、海神系の姫かもしれないしわからんw
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:57:17.53
418の>>204
>>同じモノ(庄内)の大和での編年年代は、
筑紫よりも50年以上遅くなる<

>ザラコクや、それ何十年前の編年だ? 倭国内の流通の活発さを舐めすぎ<

類スレ主は、九州倭国の「東征毛人五十五國」という上表があった事を、舐め過ぎ。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:02:12.68
>>788
菊池には、もとククチ城があった。
この城は7世紀ころ、大宰府の大野城や基山の基ゐ城のころに、共に改修されている(それ以前のことは不明)。
だが、肥後のククチ城も高い山の上で、水もなく、白村江敗戦の頃に急増された土塁木造の朝鮮式山城と考えられている。
ちなみにククチとは、新羅系の木造建築物の築造集団として知られる(記紀ではククノチの神)。
三世紀との関係は全く不明。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:02:34.69
>>748
>邪馬台国・肥後山門郷と、阿蘇高千穂の卑弥呼之所都あり。

ないわぁ〜
邪馬台国が女王之所都と書いてあるのに、それを別々のところにするなんてww
やっぱり肥後説もトンデモだな
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:08:51.26
418の>>208
>どこからどの方角に見えたとかはいろんな想像してもきりがないので
結果的に末盧國ー伊都國の方位が違ってるなら、
他の方位についても違ってる可能性があると考えなければならない <

いや、普通の人類は、
東西南北の方向は、全く「間違えない」もの。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:09:13.55
>>775
>三種の神器が倭国王権の象徴だよ。
>それで説明がつくのだから、それ以外の解釈を加える必然性はない。

これも何度も書いているんだが、八咫鏡も八尺瓊勾玉も、
皇統のレガリアとは関係ないところでも記紀に出てくる

雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
        使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」

山口の赤妻古墳とか山梨県の笛吹市平林2号墳とかの、こういっては何だけど
地方のそこらの古墳でも、「三種の神器セット」は揃ってる

その3種があるから倭王だというのは成り立たない

>嫌なら半島へ帰れ。

>>775ご本人は半島人ではないのかもしれないが、九州説を一生懸命唱えてるのは
半島儒教道徳の信者の工作だぞ
自覚的カム自覚かは知らんが、それに加担しているのが>>775
日本人なら、正しい情報を広く求めてきちんと判断してごらん
それでも、九州説が正しいというなら、日本人として通常の判断能力がないってことだ

ザラコクや連続句読点のお仲間として仲良く九州説とかでやっていけばいい
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:10:04.67
ちょっと待てよ?
中国人が聞いたところには、卑弥呼は女王だと言っていると。
これは今でいう「にょおう」なんじゃないか?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:14:51.37
中国人の認識

大和人→倭人
熊襲人→倭人
土蜘蛛人→倭人

倭王=大和王、熊襲王、土蜘蛛王

味噌糞一緒とはまさにこのこと。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:15:55.77
418の>>211
>これで東南陸行だと主張できるのが厚顔すぎるw <

「東南」は出発時の出発方向説明であり、
「陸行五百里」は途中移動の説明であるのに、
「東南陸行」だと曲解捏造して、魏使らや陳寿が方向を90度間違えた、
と誹謗宣伝をする類スレ主らの大和説者は、厚顔過ぎる。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:17:03.48
>>777
>それはもう倭国ではないよ。

まず第一に、漢委奴國王は倭王でも倭国王でもない
倭人の中の奴国王というだけ
邪馬台国との連続性はないというのが、文献や金印がらむしろ読み取れる

>後漢書も魏志も邪馬台国まで一万二千里で一致しているから、その間に移動なんてしていないことは明らか。

これは嘘だな
後漢書では「樂浪郡徼去其國萬二千里」
この「其國」は倭国であって、邪馬台国ではない

魏志倭人伝は「自郡至女王國萬二千餘里」
この「女王國」も卑弥呼の共立に参加した連合で事実上倭国
邪馬台国ではない

このスレでもこれまでに何度も確認されているように、萬二千里は
淮南子等に由来する、中華世界の概念における世界の果てまでの観念的な距離の
数字を、晋の高祖司馬懿の功績を称えるために流用した者であって、
実測値でもないし、具体的な場所を指す数値でもない

そんなのしか、根拠がない時点で、九州説はオワコン
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:17:31.60
>>794
邪馬台国はは肥後地方に在り、、その中の阿蘇に女王の都はあったのだ。
(古代の高千穂は阿蘇の一部だった)。

ちなみに「邪馬台国が女王之所都」とよむと、国=都となる。
日本=京都、日本=江戸、日本=東京、と読むのと同じだが、それでよいのかな、かな、かな?、
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:18:44.04
418の>>212
だいたい大和説者や類スレ主らが出すのは、「南→東」などのような、
史料事実の否定曲解のウソデータばかり。
あるいは全く出さない 。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:20:34.47
>>801
>邪馬台国はは肥後地方に在り、、その中の阿蘇に女王の都はあったのだ。

ハハハ、冗談は良子さん。  @阿波
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:23:12.24
418の>>214
>纒向は宮殿跡だからいくら探しても集落跡は見つからないよ
鉄鏃や絹は古墳から出ている<

卑弥呼の宮殿があったんなら、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」であったんだから、
その「宮殿」跡とやらからも、鉄鏃や絹も出土している筈。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:33:36.14
418の>>226
いやいや、大和説の人は、
「まともな普通の人類は東西南北を間違えない」といくら言われても。
「まったく納得しないにだ」っていうだけの簡単なお仕事に徹してるだけでしょ?

末盧国からの東南陸行五百里で伊都国に到るという「東南」が、
出発時点での出発方向だというのは、おそらく誰が見ても明らかなのに、
それを「認めないんだー」って言い張ってるだけじゃない?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:34:20.57
ハハハ、@阿波のあれは良子さんというのか。。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:36:21.65
>>702
上古音は、実際、推測の域を出んらしいなあ。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:37:39.42
>>777
>それでは桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)にあった倭国大乱から離れ過ぎている。

そんなことはない
後漢書の桓・霊間の元ネタは、三国志東夷伝韓条のこれ
桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。

桓・霊の間というのは、後漢末の混乱の時代という意味のある意味決まり文句のようなもの
後漢書韓伝にはこのくだりがないから、桓・霊間という表現が倭人伝の方に流用されたのだろう

後代史書でそこまで信頼できるものでもないけれど、梁書では靈帝光和中としている
光和は178年 - 184年

>>777の言うように184年に即位したとすると、死亡したのが通常248年と考えるから
在位が64年間になる

25歳で即位して現代医療で延命治療した昭和天皇の在位が62年ちょい
卑弥呼は年已長大と書かれていて、長大は30歳とするのが普通(異論もあり)
弥生時代で、94歳まで生きるとか生物学的に無理だろ?

魏志倭人伝には倭国乱の時期は書いていない
死亡年が248年であることが信用できるとするなら、卑弥呼の共立は
3世紀に入ってからとするほうが妥当
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:39:31.66
兄が夜を治め、弟が昼を治める。
兄が九州(西)を治め、弟が畿内その他(東)を治める。
九州が倭国、畿内が日本国。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:40:28.62
>>791
>皇統による自治権の付与なのかはわからない。

3世紀の時点で皇統とやらが畿内に確立されていたという根拠がない。
畿内説の鴨氏は、神武が卑弥呼と同じ時代と言っているからね。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:42:49.37
>>783
>後漢書では倭の北限は朝鮮半島南岸、倭の南限は九州北岸としています。

していません
後漢書の倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也は
三国志の次有奴國 此女王境界所盡の誤解釈

使人自稱大夫は三国志の自古以來其使詣中國皆自稱大夫で、
後漢書に書いてあることは、基本的に魏志倭人伝に準拠している
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:43:03.68
>>808
>後代史書でそこまで信頼できるものでもないけれど、梁書では靈帝光和中としている
>光和は178年 - 184年
>卑弥呼は年已長大と書かれていて、長大は30歳とするのが普通(異論もあり)
>弥生時代で、94歳まで生きるとか生物学的に無理だろ?

長大が成人のこととする意見があって、20歳で即位なら84歳。
16歳で即位なら80歳。
弥生時代としては驚異的ではあるが、生物学的には可能。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:45:41.71
>>811
>後漢書の倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也は

グルリと九州北部を回ることを想定する。
周旋は回ることではないと?
辞書を引けよ。
まあ、長崎や佐賀の海岸線は複雑だから、ウロウロでもいいよ。
とにかく起点と終点が同じ奴国になっている。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:47:03.21
>>787
>九州平定したのは6世代前後かけて。

ヒメヒコ制で、統一がずれてるのだと思う
ヒメ王・祭祀王の統一が、卑弥呼のときで3世紀
このときの倭国は祭祀連合であって、前方後円墳体制が広く列島を覆っているけれど
ヒコ王・政務王の権限は各地の首長に主権がある状態

そこから、政務王の統一がなされていくのが、記紀の征服譚となっている
記紀が、この政務王の統一を重視する男系原理で書かれているために、
ヒメ王の統一・卑弥呼の共立がはっきりしなくなっている
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:50:56.94
>>790
>半年を180日とすれば、2日差で3分の2度位。
>太陽視角は0.5度だから、殆ど太陽視角位の差異であり、

相変わらずバカだなw
半年の間均等に動くわけないだろ
冬至と夏至の近くではほとんど動かないんだし、春分秋分のころが一番速い

まあ、何にせよ、平原1号墓の前に作られた5号墓の大柱が、
意味のある方向を向いていない時点で、1号墓の柱の向きが日向峠とか言うのも無意味
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 18:57:13.23
>>801
>ちなみに「邪馬台国が女王之所都」とよむと、国=都となる。
>日本=京都、日本=江戸、日本=東京、と読むのと同じだが、それでよいのかな、かな、かな?、

あんまり頭の悪いこと、書かないでくれるかな
倭人伝での国という字が、複数の意味で使われているのでごっちゃになっているが
「日本=」に当たるのは倭国であって、邪馬台国ではない
邪馬台「国」は奈良「県」くらいの見当(まあ、要するに大和の国でいいんだが)

倭国(日本)の中の邪馬台国(奈良県)に女王の都がありますよ(女王之所都)と
書いてあるだけ
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:00:29.43
>>807
>上古音は、実際、推測の域を出んらしいなあ。

まあ、それを言い出したら、当時はレコードなんてないんだから
推測以上のことはできない訳だが

奴国が、儺県にあたるのが確実な以上、奴国は「ナ国」と読むのが相当
奴をnagと読むのは中古音ではなく上古音という推定は認められるだろう
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:01:41.79
>>810
>畿内説の鴨氏は、

あの人を畿内説と括られるのはちょっとかんべん願いたい
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:03:38.01
だから言ってるだろう

三貴子(神)〜ポケモン・・・、
作者(制作)のことではないと
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:08:13.24
>>813
>グルリと九州北部を回ることを想定する。

ダメです

>周旋は回ることではないと?

はい、周旋は回ることではありません

直線的に(直線ではなくても)目的地までまっすぐに向かうのではなく、
いろいろなところに立ち寄りながら進むのが周旋

周旋五千余里は、単に女王国まで萬二千里から、其北岸狗邪韓國までの七千里を
引いただけの数字だよ

そもそも陳寿の倭国の中の国の記述は、北から南へという順になっている
最後の次有奴國、此女王境界所盡の奴国が北部九州の奴国に戻っているとしたら、
その奴国が其餘旁國遠絶、不可得詳の中には入れられない
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:08:18.51
あの日本神話

夫婦(神)というのがいるでしょ、
鼻から生まれたという話とか
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:10:35.04
人の家に寄生(人権侵害)をして、
お金儲けなどをしているんだから、
殺されたりしても何も言えないだろう
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:11:56.08
>>816
>倭国(日本)の中の邪馬台国(奈良県)に女王の都がありますよ(女王之所都)と
書いてあるだけ

なーんだ、奈良県=女王の都じゃなくて、
奈良県(の中の纒向あたり)に女王の都がありますよ〜〜、だろ。
俺の言ってることと大同小異じゃないか。(肥後国の中の阿蘇あたりに女王の都がありますよ〜〜)
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:15:21.07
>>823
>俺の言ってることと大同小異じゃないか。

どっちもトンデモだから、いい勝負になる。  @阿波
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:25:00.65
418の>>233
つか、「南→東」などのように史料事実の否定曲解をして、
「納得いく」か、いかないかの第三者が客観的に判断できる説明や判断基準を、
出せないんでしょ?。
つまり言っても意味ないこと言っても意味ない。

九州説はいつも意味ない
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:30:35.07
本当に数年前の、とあるKPOPスレの話になるんだけど、
なぜ知っている人達がいたんだと思う?


ポケモソのようなコンセプトだったり、
鼻が何やら〜、泣いているジェスチャー?をしている動画が貼り付けられたり、
あと何だったかな?
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:31:50.48
>>768
倭人伝の唐津からの行程は、倭人にとっては沖縄に行って巻貝を仕入れるための航路として意味のあるものであったが、古代中国人には神仙郷にある邪馬台国という観念のために意味があったもの。
何の意味もないのに、多くの文字数使って書くわけないわな。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:33:37.24
418の>>235
>その100里足らずと、「九州説の言う短里=70メートル」を合わせて考えると、
糸島平野から出られないんだよww
だから、伊都国の入り口を無理やりに伊都GCに持ってきたり、
奴国を無理やり引っ張ってきて峠のてっぺんまで奴国にしたりしてるww
でも、そんな比定地は妥当性「ゼロ」だよw<

伊都国は、怡土郡にあって「臨津搜露」する国だから、
前原〜糸島水道付近、という事で十分であり、
奴國は、伊都国の「東南百里」に外縁部 にあって二万戸だから、
日向峠の西麓から早良平野部であって、何ら問題がない。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:34:31.82
ゼルダの伝説?
BGMじゃなくて・・・そのようなネタもあったような
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:40:52.60
そのグループ(韓国)がいるでしょ、

「本当は日本に住んでいるんじゃないのかw」
(日本人なんじゃないのか?)みたいな書き込みをしている人がいたり
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:41:36.34
邪馬台国連合は豊(台与)の国、火の国、筑紫の国
狗奴国は日向国で神武東遷し近畿で大和朝廷を創立
古墳様式は日向から畿内へ伝承し巨大化
神功が討伐した九州の土蜘蛛は旧邪馬台国連合
伝承神話は史実
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 19:45:04.58
418の>>241
>邪馬台国までの距離とされる帯方より1万2千里は <

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言。

>会稽東冶乃東の沖縄や台湾を指している<

陳寿の比定は、「計其道里當在會稽東治之東」であり、
後代史書の後漢書の「其地大較在會稽東冶之東」は、
半分×情報であるから、根拠にならない。

>そこは邪馬台国ではないので魏志倭人伝の距離方位は間違い <

この・・・・大和説男の解釈が間違い。

>物証から見れば邪馬台国は畿内<

「邪馬台国」も「畿内」も存在せず、
文献からも物証からも、大和説は、×。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:07:49.49
『茶釜 天津』
この写真(演じている役者とか)があるでしょ、
同じようなコンセプトなのかな?


なぜか家の写真(『河童の三平』)と同じような?
何なんだろう
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:08:47.15
418の>>254
>夏の短い影で0.76寸(1.7センチ)、冬至の影の長さだと2.8寸(6.4センチ)と
結構な差が出るんだよ
  測定条件      表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸
   『周髀算経』    16寸      135寸 <

ふーん、成程。
周髀算経の一寸千里は、
影端の半影部分の最も遠い影端で計測していた、
という可能性が高かった、という訳か。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:10:04.70
冬の何やらとか、
銀のドレス結婚が〜何やら?みたいな曲もあったでしょ?

なぜかKPOP
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:17:15.76
エレクトリック〜という曲もあったでしょ

『うらしまマリン』(キャラ名。仮名。)
というキャラがいるでしょ、応援団みたいな設定なのかな?
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:19:06.37
418の>>255
>魏志倭人伝の記録では、倭国本土についてから邪馬台国までの往復だけで4ヶ月かかるんだけど?<

これ×ね。
魏使らのような「詔書と金印と大量の下賜品」を運ぶ魏使らの場合でも、
郡〜女王之所都の片道が「水行十日陸行一月」ね。
「倭載斯、烏越等」の数人の使者だけであれば、もっと早い。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:19:27.44
>>832
>陳寿の比定は、「計其道里當在會稽東治之東」であり、

テンが一つ増えたって会稽郡の土地が上海に引っ越したりしないよ
誤字サギはもうやめとけ
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:20:41.06
倭国=日本
東京=邪馬台国
永田町=伊都国
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:22:27.61
>823
>俺の言ってることと大同小異じゃないか。(肥後国の中の阿蘇あたりに女王の都がありますよ〜〜)

いやいや、肥後山門「郷」って何処だよ?
肥後国はヤマトって読まないだろ?
肥後山門と、阿蘇高千穂は別の場所

畿内の大和は大和「国」だぞ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:23:22.30
418の>>258
>248年に死んでいたところで>>126にあるように
「土の量から試算して毎日500人動員で10年、1000人なら5年という研究がある
 ぶっ続けに工事した場合だが」
くらいの時間はかかる
箸墓の推定年代260〜280年と誤差10年くらいしかないぞ<

箸墓は、「南≠東」に拠って、始めから×だな。
また、祇園山なら、それほどの年数はかからない。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:34:41.84
邪馬台国連合は火の国、筑紫の国
狗奴国は卑弥呼と袂を分かった火の国
神武は筑紫から東遷し近畿で大和朝廷を創立
古墳様式は筑紫から畿内へ伝播し巨大化
神功が討伐した九州の土蜘蛛は旧邪馬台国連合
伝承神話は史実
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:35:59.61
418の>>273
>奴国 二万戸  投馬国 五万戸  邪馬臺国 七万戸
すごくイメージしやすい お互いに船で行き来して交流してたんだろうね
3世紀西日本の状況がよく分かる気がする
これを記した魏人が実際にどこまで行ってたか、
伝聞かは分からないが、書くべきことをきちんと書いてるなあと思う<

奴国 二万戸  投馬国 五万戸  邪馬壹国 七万戸は、魏志の記載では、全て九州。
それを、この男は、「南→東」などの嘘つき騙しをして、大和説を匂わせているから、
この男も、・・・・詐欺師。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:39:33.60
鬼太郎が使用する技でしょ

雷?エレクトリック・ボーイ?電気武者?
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:46:06.37
>>834
  測定条件      表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸
   『周髀算経』    16寸      135寸

>ふーん、成程。

ふーんじゃねーよ!ww
冬至の長さで3寸も狂ってて、1寸千里もないだろうにw
要するに、冬至の影の長さすら実測してないんだよ

周牌算経は実測してない机上の計算
つまり、現実の地理とは関係がない
つまり、周牌算経を根拠とした短里は無効ww
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:48:32.29
『鬼太郎 体内電気』

とは言っても、家はゲゲゲの作者でもないし、
でも、なぜか同じような写真でしょ
『河童の三平』と・・・このスレにも貼り付けた、あの写真
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:52:25.45
初期ヤマト王権は百済人と倭人の合作
邪馬台国と関係無いからネ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:55:08.14
418の>>280
大和説の可能性がまだあれば、議論でも罵り合いでもある程度意味があると思うのですが、
実質、「南≠東」に拠って、大和の目は全くないでしょう?。
であれば、事務的な対応と言うか、ほどほどでいいんじゃないですかね?。
それよりも九州説の中で、精度を高めたり、差異について議論したいもんですね。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:56:52.50
それにしても・・・家の写真w
有名人なのかな?だったのかな?

何なんだろう
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 20:59:21.45
418の>>241
九州説同士で議論する事は、今は必要ないと思うけどなー。
女王国は九州で決まりだし、
むしろ、右翼的戦争国粋主義の大和説をこの地球上から根絶させる方法を議論したい。
なにかとてつもない方法があるかも知れない。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:01:51.37
>>850
そのためにはやはり、畿内説がいかに邪悪な歪曲を行なっているかを白日のもとにさらけ出して、膿を絞り出さないといけない。
つまり、このスレで畿内説の誤りを指摘し続けなくてはいけない。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:04:33.21
別のスレから転載

大和のイスケヨリヒメが、九州から来た大久米の鯨面を見て驚いた様子が記紀に伝わっている。
「黥(さ)ける利目(とめ)」に驚いたとあり、目の周りの黥(イレズミ)のことだとされている。
魏志倭人伝には鯨面が邪馬台国の風習として描かれているから、大和は邪馬台国ではない。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:09:06.20
>>852
意味不明の論理
神武東征が史実だと仮定して、それは邪馬台国の時代より前なのか後なのか?
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:13:24.00
>>840
>いやいや、肥後山門「郷」って何処だよ?

肥後山門郷は、熊本県菊池郡にあった律令下の山門郷。中心部は江戸〜明治期には野間口村ともいった。
現在の菊池市内の北西部分の微高地で田畑住宅地が点在、今も菊池市野間口という。
その北を流れる菊池川支流を渡ったさきに邪馬臺国の臺であったと思しき「臺城遺跡」があり、江戸期には「臺村」があった。

明治期になると、臺村と周辺の数村が合併して「砦村」という名の村を成した。
今も、臺郵便局とか砦保育園として、かっての地名の名残が見られる。
この砦村のさらに北接部に、弥生鍛冶鉄の大邑で有名な方保田東原遺跡がある。
是非、ご見学ください。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:17:08.27
418の>>288
>爺さんたちもあと10年もすればこの世からいなくなるよ<

ドイツも二回も大戦争をしたし、アメリカも戦争を懲りないようだし、
どこの国でも、(オームのように)、
国粋主義のキョクウやマスコミの愛国心とか民族国家至上主義の宗教的宣伝の騙されて、
興奮して、人類の共存を忘れて、
もう、数年の内に、殺し合い戦争をおっぱじめるんだろうなあ。
諸行無常。万物流転。栄枯盛衰。盛者必滅。
奢る平家久しからず。
人類皆兄弟。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:17:42.83
『朝廷』〜天子〜『何者にもなれない お前たち』?

なぜか家と写真と同じだし、
家の系図などを偽造(歴史、嘘の話、創作とか)しているのがいるとか?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:21:28.80
418の>>293
実際、戦争キョクウの大和説者とかが消えるのは、
彼らの死亡を待つ以外にないと思う。
話を聞く気のない者に何を言っても通じない。
どんなに理を尽くして矛盾を突きつけても聞きゃしない・・・・なんだから。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:26:01.00
418の>>297
このような書き込みを見るだけで、
魏志倭人伝の方角と距離が間違っているとしてしまって、
こんなに理不尽な大和説の比定をしなければならなくなるという事が、
如実に分かるな。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:27:50.11
418の>>299
>出雲と吉備の関係とか、投馬国の範囲とかは議論してみたいんだけどな <

「南→東」などの嘘つき騙しのようだから、×ね。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:33:16.17
418の>>313
「南→東」などに嘘つき騙しの連呼を否定されて、
絶叫するだけになった「類スレ主」や大和説者、
発狂中。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:34:03.53
あとアニメのキャラなんだけど
『ハタ皇子』
本当は秦氏のことでしょ?
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:36:23.83
韓国政府が宣伝する、偽装された右翼的戦争国粋主義の大和説をこの地球上から根絶させるためには、どのようなことを、実行すれば、良いのだろうか。。。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:37:28.33
418の>>314
>畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう <

九州倭国の東征軍と、出雲系文身國の銅鐸祭祀部族と、越の大漢國の、
一次的な「平和な共存国」が出来ていただけなんだろう。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:39:23.77
>>862
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝する係員の、キナイコシや3寸男を、やっつければ良いのではないのかな、、、
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:40:39.90
418の>>325
>難升米が魏に日本の首都の場所をゲロってしまった
日本としては帯方郡の次にターゲットにされるの日本だと考えるのは当然
その為に新首都を建造した それが巻向 <

「南≠東」などに拠って×。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:42:52.22
418の>>327
>◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。 <

「南≠東」などに拠って、×。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:43:02.41
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:44:19.50
418の>>328
>マキムクに首都移転する前の倭国の都は濃尾平野 <

「南≠東」などに拠って、×。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:47:20.18
418の>>341
>放置されたて、そらあ、解釈が異常。
区画溝の水の霊的パワー増幅のために、祭祀で勾玉が水に沈められた。
勾玉が区画溝などから出土するのは、工房の職人たちの祭祀行為だよ。<

ふーん。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:48:59.38
(オームのように)、
国粋主義のキョクウやマスコミの愛国心とか民族国家至上主義の宗教的宣伝の騙されて、
興奮して、人類の共存を忘れて、
もう、数年の内に、殺し合い戦争をおっぱじめる韓国政府が宣伝する、偽装された右翼的戦争国粋主義の大和説をこの地球上から根絶させるためには、どのようなことを、実行すれば、良いのだろうか。。。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:52:15.26
418の>>352
>前方後方型墳丘墓があるじゃないか。
前方部は撥形で、墳丘の周りをぐるっと周溝がとりまいている。
後方部を後円形にしたら、そのままじゃ。
前方後方型墳丘墓の後方部を後円形にすることを尾張に要求したのは、吉備だがね。 <

前方後円墳の始まりは、モンゴル〜高句麗であり、
列島の前方後円墳は、晋武帝の天円地方の思想を学んで、
高句麗の前方後円墳を模倣した那珂八幡などだから、
×ね。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:53:16.66
>>870
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝する係員の、キナイコシや3寸男を、やっつければ良いのではないのかな、、、、
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:57:15.33
418の>>354
>だから、古代中国人が黄海の沖に神仙郷があると強烈に妄想していたのだよ。 歴史事実だから。
その神仙郷に倭奴国や邪馬台国があるというわけで、唐津から有明海を経て沖縄あたりの邪馬台国までの行程を書いたのが3世紀後半の陳寿なんだよ。
このことが解けない君は、分裂幻覚に陥るしかないよな。 <

魏使らや陳寿は、倭国が「神仙郷」である、というようには書いていないから、×。
このことが解けない君は、分裂幻覚に陥るしかないよな。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 21:59:55.22
>>854
>肥後山門郷は、熊本県菊池郡にあった律令下の山門郷。

では、そこが邪馬臺國というのは無理だな
魏志倭人伝の国は多くの場合、国造が置かれる国や小さい場合は縣主が置かれる大きさがあり
律令制下の郡くらいに対応している

菊池郡大和郷ならそこは菊池国だよ
まあ菊池の地名がどこまで遡れるか分からないけれど

それから狗古智卑狗が菊池彦だから狗奴国は熊本という人が結構いるけれど、
熊本に狗奴国造はいないんだよね
阿蘇国造はいても、狗奴国造も菊池国造もいない

狗奴国は久努国造がある遠江の一部地域だろう
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:05:17.37
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:07:13.88
屁理屈は聞き飽きた。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:09:28.94
韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、この偽物の邪馬台国畿内説のホームページは、最終回で良いのではないのかな。。。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:16:25.02
>>876
次は糞理屈をどうそま
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:28:40.82
臺城は室町時代のだろ?
うてな遺跡は竪穴住居が見つかってる程度だな
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:40:52.30
>>897
彌生の環壕(土壕)も発掘され、どういうわけか、土器類その他が投げ込まれた状態だったそうだ。
弥生末の肥後・筑後一円には、村の放棄というか、慌てて逃げ去った村人の土器類その他を、
誰かがごっそり環壕に投げ込んで片づけてしまったような遺跡が多数見られるらしい。
強力な侵入者があったのだろうか・・・
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:41:04.12
418の>>351
>ザラコクという者のことは知らんが、藤堂シェンションのいうのは、ごく普通に当たり前。
藤堂シェンションのこの意見に反論するやつは、モグリ。
他人がA4版用紙にびっしり書いた文章を、別の用紙に書き写してみればすぐに分かること。
2、3行もすれば誤字脱字が一気に増える。
なので、版本が陳寿の原本そのままだということはまったくアリエンというのは、ごく当たり前に正しい<

版刻は、
原則として底本写本を板に貼り付けて、その文字部分以外の部分を削り下げて、
文字部分を浮かび上がらせて版を作って印刷するんだから、
間違いはほぼ発生しないんだし、
実際に、宋明清代の校勘では、倭人伝の2000字余りの中で、
校勘対象になったのは2字だけであった、という事が実態であり、
藤堂の言うほどは多くなかった、という事であったから、
藤堂は、×学者であった。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:42:51.24
土器だまりは皆そうだよ
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:54:25.93
>>881
要するに誤字が多いと前書きにもある12世紀の魏志倭人伝を
2文字しか直さず他はほとんど手付かずだったわけね
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 22:54:43.21
皇国史観に毒された畿内説は滅ぶべし。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:00:15.89
418の>>398
>3世紀ぐらいから時々調べられてたらしいぞ
そのたびに違うと結論が出てる
3世紀頃は確か魏で短里が使われてたんじゃなかったか
それで違うと結論が出るのは短里なんてなかったからだ<

魏使らは短里で記録したし、
陳寿の魏志や魏略もいたし江表伝の赤壁などでは短里を使っていたから、
魏朝と西晋朝は短里を使った。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:04:33.87
皇国史観は九州説
本居宣長が大和朝廷の祖が中国に朝貢なんかしていたわけがない
卑弥呼は九州の女酋長だったとしたのが始まり
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:08:20.35
418の>>409
そろそろ、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の、
息の根が止まるな。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:13:56.27
418の>>411
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
論拠が跡形もなくなって、
抗弁の余地すらなくなった大和説。
でも書き込むのは、皇国史観儒教的な殺し合い戦争宗教の悪意に突き動かされるゾンビ。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:16:43.69
418の>>416
二中歴に拠って、
神武即位元年は、紀元前91年頃になるから、
「2世紀中頃の神武東征」説は×。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:19:16.51
本当に、どういう事だと思うw

『東京 雹』
謎の雷雨、スーパーセル・・・・雹とか、
漫画、アニメ?そういう関係の〜かもしれないな
と言ってる人がいたり、職場があるとか、関係者が住んでいるの?
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:19:41.53
418の>>419
>九州説の宮室は竪穴住居<

吉武高木に既に宮殿があった。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:20:15.41
>>883
ちゃんとした肩書のある学者さんがいうと、九州説もそうかな、と思ってしまう
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:23:28.85
オウム返ししてばかりのオウム人間ザラコク
九州説は人を理性のない動物に変える
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:25:38.14
>>883
そもそも繋がってたら何か
そして繋がってなかったら何か
九州説の思考はいま一つ理解できない
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:27:38.57
418の>>413
>「東、安南に至る。成都に至るが如きの通水陸行なり。」みたいなザラコク読みだと
安南までの距離がどこにも書かれていないことになる
地理記述としてはありえない
しかもこの時期、安南は唐朝の国内なんだから、距離が分からなかったは通らない<

大理〜安南の「里数」が分かれば里数を書いたはずだから、
里数が書かれていない、という事は、通行路に拠る安南の市説明文。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:31:41.07
418の>>424
>現実には會稽郡の中に「會稽東冶」という地域が存在してるんだよ<

陳寿の証言では、
女王國は「計其道里、當在會稽東治之東」だ、
という事。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:33:18.04
あと数年前の熊本地震?

杉並区(周辺だったかな)に住んでいるんだけど、
直前に凄い振動があったと言ってる人がいたり、
東京の杉並区。

予言スレ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:35:33.25
杉並辺りが震源だったの?
その直後に熊本が揺れたとか

そのようなことを言ってる人がいたよ
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:36:46.38
ヤマト王権の開始を繰上げたいだけだろ。
海外の史書が軒並み倭は九州という前提で書いているのにね。
旧唐書では倭国と日本国を書き分けてさえいる。
それなのに記紀を信じて7世紀以前から大和が西日本を支配していたことにしようとしている。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:41:25.24
418の>>429
キョクウ皇国史観人種差別の殺し合い戦争狂の腐れ儒教思想の、
大和説が取り付いてる亡者どもよ。
お前らを深く哀れむわ 。
大和説自民や右翼マスコミや学会教育界説は、戦前ドイツと同じように、
いずれまた再度の戦争を引き起こして、
世界から激しく糾弾されから、
この地球上から抹殺される憂き目にあうだろう。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:45:44.70
>>881
木版印刷が確認される最古のものは、868年だそうじゃないか。
それまでは、写本だ。
唐までの間にどんだけ写本が繰り返されたか、ということじゃな。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:46:53.41
418の>>431
そういう誰が見ても意味不明の書き込み一つ一つが、
大和説の皇国史観儒教のタカ派戦争狂性を周りに明らかにしていき、
やがては、国民全体を戦争に強制し、
国民自体の首を絞める事になるんだよ。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:51:01.82
418の>>432
そういう誰が見ても意味不明の書き込み一つ一つが、
大和説の皇国史観儒教のタカ派戦争狂性を周りの国民に浸透させていき、
やがては、国民全体を戦争に強制し、
国民自らの首を絞める事になるんだよ。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:53:24.21
『熊本地震 震源 杉並』(杉並限定ではなく23区)

同じことを言ってる人がいるでしょ?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:56:46.95
面白い発想というより理にかなっているな
手段を選ばず邪馬台国を畿内に持ってきたいだけの愚論だな

>>884日本@名無史さん2019/01/23(水) 22:54:25.93
>>881
要するに誤字が多いと前書きにもある12世紀の魏志倭人伝を
2文字しか直さず他はほとんど手付かずだったわけね
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:57:35.27
418の>>433
はるか後代の後漢書の自己解釈に拠って、
「普通名詞の東治を固有名詞の東冶に誤解釈」をする、
という客観性に欠ける「大和説者が、自己陶酔解釈。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 23:59:47.16
418の>>434
そういう誰が見ても意味不明の書き込み一つ一つが、
大和説の皇国史観儒教のタカ派戦争狂性を、
周りの国民に浸透させて行き、
やがては、国民全体を戦争に強制し、
国民自らの首を絞める事になるんだよ。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:00:39.09
>>874
3世紀に国造はないからなあ。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:10:39.26
>>873
戦国時代や秦代に、黄海沖へ神仙郷探索隊が送り出されている。
後漢になると、倭奴国はその神仙郷(倭国極南界)にあると考えられている。
卑弥呼の邪馬台国は、その倭奴国が発展したものだ、という観念が定着していたのさ。
だから、沖縄あたりへの行程が書かれるわけ。

ここまで読み込まんと、倭人伝は理解できん。
お主も、その理解できてない一人じゃな。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:15:41.62
418の>>446
>会稽東治は、会稽郡に属した。<

陳寿は、会稽郡東治とは書かずに、会稽東治と書き分けた。
という事は、会稽東治は会稽郡ではない、という事であり、
揚州の治域であって、
会稽の東方の(揚子江河口付近の)地域を指していt事になる。

>長江河口地域には会稽東治は存在しない。<

なる。揚州の治域だから。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:20:00.19
>>871
妄想。
墓の前に参拝場が設けられるのは、いずこも同じということ。
参拝場があるから、それが前方後円墳のルーツだと吠えるのは、日本人の一派だけ。
外国人の誰一人として、そんな妄想は抱いていない。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:28:55.64
>>863
伊勢遺跡は、野洲平野の集落連合の祭祀施設だな。
そこが野洲平野の政治的中枢なのは、その通りだ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:29:45.74
>>901
九州じゃなくて古代中国の認識ははるか沖合いの沖縄台湾辺り
魏志倭人伝や後漢書にそう書かれてるから
政権を持ってるのは3世紀からずっとヤマトと認識されてて
各時代の史書にそう記されている
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:35:19.42
>>916
ついに狂ったか?
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:45:58.70
>>817
上古音の場合は、あまり確定的な断定はせんほうがよい、ということ。
奴は、ナだろうね。
ドは、ずっとあとの発音らしいから。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:50:14.69
気づいているはず

ポケモソ・・・その他も同じ、
作家(原案、原作)本人ではなく、ほとんど他の家の話、
それらしく思わせていたり・・・実際に、いたりするでしょ?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 00:58:11.41
>>812
台与が15歳で女王になっているから、卑弥呼もその年ごろに女王になったと考えるのが妥当。
とすると、卑弥呼は70代後半で死んだことになる。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:02:50.86
『ワンピース』
(漫画)が何やら〜と言ってる人もいたでしょ、
調べてみると熊本に関係していたり
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:12:00.99
日本の漫画やアニメ、ゲーム・・など、
繋がっているというか、ほとんど同じ?


例えば、謎のサルタというスレを読んでみて
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:15:08.00
夫妻がいて〜三貴子という話でしょ?
鼻が何やらとか、そこから生まれたの?
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:18:01.38
鼻  竿?

下ネタのことだというのも有名な話
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:30:39.29
本当に「🌀(くるくる)」の集団なんじゃないだろうな・・・・、
老婆のほうが詳しい?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:36:06.32
本当にガンダムの曲も同じ、あとボヤッキー?


嵐が〜、吹きあれる〜、ハザマで生まれた〜とか

『三貴子』
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 01:41:59.85
『ガンダム  嵐』

画像などを調べてみてよ
0928◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/24(木) 04:06:15.21
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1548268359/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 04:23:24.21
狗奴国→久努国(遠江)

成務天皇の時代に大部分の国造が任命されてるから
それ以前にはまつろわぬものが相応に成敗されてるということ。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 05:37:50.26
418の治域>>451
>事実じゃないんだよなぁ
鉄器が古墳からわんさか見つかってその古墳が計7000基以上あるから
当時大規模集落があったんだろで通じるのが畿内<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和よりも九州の方が古墳ははるかに多いんだし、
大和の大量の鉄鏃は、3世紀末以後のホケノからだし、
古墳も鉄鏃も、九州倭国の「東征毛人五十五国」の将軍らの所産。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 05:51:37.78
418の>>454
>荒神谷遺跡の銅剣を見ても分かるように、緑青に保護される青銅は土の中でも残りやすい。
けど鉄は土の中では残りにくい。埼玉の稲荷山古墳の石室の、あんだけ条件のいい場所でも、
たった1500年くらいで鉄剣はボロボロになっていた。<

稲荷山の鉄剣は、(石室ではなく)陪葬の「礫床」のヲワケが の付けていた筈。

>奈良盆地では陵墓に指定されている古墳の石室を開けない限り、
なかなか鉄は出てこないんじゃないだろうか<

奈良盆地ばかりが湿潤土壌ではなく、日本中がほぼモンスーン湿潤気候であり、
ホケノは有棺有槨であっても鉄鏃が大量に残っていたし、
九州には甕棺や石室墓が沢山あった。
要するに、この大和説男も一種の「都合のいいとこ取り」の詐欺師。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 05:56:20.97
418の>>457
>そのナガスネヒコと神武は戦争したんだろうが
それであまりにナガスネヒコが頑強に抵抗しっため しまいには身内に殺されたとか
AD160〜180年 倭国大乱の神武東征はドラマチックよ
タケミカヅチの神が神武に下したとされる剣 フツノミタマが石上神宮に現存してたりするし<

神武即位元年は、二中歴に拠れば、紀元前91年頃。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:00:20.81
418の>>458
>倭人伝の倭國騒乱は、2世紀後半頃。<

「相攻伐歴年」や「年已長大」に拠って、3世紀初め頃。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:04:07.28
418の>>459
>じゃあ畿内が当時の倭国の中心
邪馬台国で九州の立場は奴婢奴隷ペクチョンだったわけだな<

畿内なんて存在もせず、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、
白村江で大敗した九州倭国を701年に併合吸収継承した。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:08:11.12
418の>>460
>3世紀中頃以前は魏使は倭国に来ていない <

九州倭国には来ている。
大和の中国使節が来たのは、唐代始めの武徳中の裴世清が最初。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:12:51.84
418の>>462
>おら卑しき奴隷ペクチョン九州説は
我らリャンバンでも何でもなくて
普通の良識持って普通に生活してるごく普通の日本人に従わんかい<

大和説という人種が、
人種差熱的な殺し合い戦争狂の暴力団のような・・・・人種であるらしい、
という事を示す投稿だな。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:14:05.46
伊勢遺跡は畿内に含まれるのか?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:18:21.95
418の>>469
>九州人民がぺクチョンかどうか知らんが、西日本から東海・関東にかけての政治的まとまりの中心地が大和だな。
この3世紀後半に、纏向の政権がヤマト=倭國を名乗っていたかというと、まだなんじゃないか。
ヤマトを名乗るのは、河内政権からではないか。<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」があったんだから、
この大和説男も×。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:21:44.58
418の>>471
>公孫氏を滅ぼす前に魏使が倭国に来たとか倭人伝に書いてない
卑弥呼の遣使とは関係なく朝鮮半島から鉄をもって韓濊が来ているのが北部九州
卑弥呼の晩年の遣使の後、壹與の時代に鉄器が急増するのが畿内<

畿内なんて存在もせず、
鉄鏃のホケノは、3世紀末以後。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:32:11.49
418の>>477
>したがって、卑弥呼の使節が魏に朝貢するのは、景初三年六月説が正しい。
一年近い期間があれば、倭國の情報収集や卑弥呼の使節の上洛時期などの折衝は、十分できる。<

後代史書の「自己解釈に拠る書き換え」の記載は、信頼性が全くない。
明帝の「起居注」などを参照出来た同時代の陳寿らの、
明帝の詔書が景初二年12月であった、
という記載は、全く否定出来ない「同時代証言」であり、
卑弥呼遣使は「戦中遣使であった」という事は、覆せない。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:36:01.56
418の>>482
>証拠もないことを想像してもきりがない
倭国は鉄を産する国でもなく、鉄器を豊富に持つ国でもない<

魏志に拠れば、九州倭国の兵士は鉄鏃を多く使っていた。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:41:05.53
418の>>495
>那珂遺跡の弥生終末期の検知してる住居跡も10数基くらいじゃなかったかな
想定してる居住エリアはあるけど <

弥生銀座には、数本の「大道」が発掘されて知られているから、
当然、大都市的であったんだろう。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:48:20.14
投稿民からはニギハヤヒもしくはナガスネヒコの墓説が出てるようだ
ここのスレで卑弥呼の墓が見つからないのは、
後継王朝が毀損古墳を潰してその上に新古墳を築いたからとの説が出されていたが、
仮に旧王朝墓が円墳であるなら、
新王朝はそれに方墳をくっつけて旧勢力の存在そのものを隠蔽したという推測が可能にはなる

2019/01/23
【奈良】国内最大の円墳とされる富雄丸山古墳は大王墓級
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1548237372/
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:56:07.81
418の>>508
>それは単に>>471が現在の標準編年を「認めないんだー」って言ってるだけ
3世紀には、古墳時代に入っているし3世紀の初期古墳から十分量の鉄器が出ている<

大和の初期前方後円墳は、卑弥呼の冢の後になるので、3世紀末であり、
鉄鏃のホケノは、更に3世紀末以後。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 06:59:23.53
418の>>510
>いやいや、その情報収集の役目は、除正使の建忠校尉梯儁さんでしょ
だから、きちんと倭国の情勢を調べているし、北部九州により羽振りのいい吉備や
出雲、丹波に大和の人が来ているときに、九州ローカルの首長を倭王にしたりはしないって
同じ理由で、九州までしか来ていないというのも却下
戸数道里略載の投馬国(出雲)、邪馬台国(大和)まできちんと来て
倭国の3大国はきちんと訪問してるよ<

「南≠東」に拠って、×であり、却下。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:03:36.23
418の>>511
>こういう寝言を根拠なく言い出すからなぁww
東海は、三遠式銅鐸の頃からのおつきあいが深いってだけだよ
纏向遺跡で外来土器で一番多いのが東海だからって言いたいんだろうけれど、
外来土器は多いところ(祭祀施設)でも3割どまり
北部九州の在地様式の土器がなくなって、全て畿内様式と置き換わるのとは
話が違うw<

筑紫では、在地の胎土で造られた土器が大半であり、
大和からの搬入上納土器は、僅か。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:05:14.07
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:12:14.47
>>937
含まれません。
日本海文化圏、出雲の傘下です。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:14:41.43
>>937
畿内説では近江は含まれないよ
京都説ならOK
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:14:47.62
>>917
後漢書や魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
会稽東治(冶)の東で沖縄や台湾辺りと書いてるから
証拠が上がってるのに九州説は狂ってるから認めないけど
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 07:42:13.45
>>912
>陳寿は、会稽郡東治とは書かずに、会稽東治と書き分けた。
>という事は、会稽東治は会稽郡ではない、という事であり、

これも真っ赤なウソ
會稽東冶は何度も出てくるし会稽郡の中だ
そもそも 「会稽郡東治とは書かずに」なんだから
「書き分けた」というのもウソ

九州説はどうして毎日こんなにウソまみれなんだ
異常だ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:18:39.86
>>950 名前:日本@名無史さん 2019/01/24(木) 07:14:47.62
>>917
>後漢書や魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
>会稽東治(冶)の東で沖縄や台湾辺りと書いてるから

倭人伝には、倭国の位置は会稽東治の東と書いてあるけどねえ、、明らかに読み違えてるよ。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:27:56.34
>>940
公孫氏の軍との戦いは、雨季。
満州の雨季は7、8月。
この戦いが行われる前の6月に、倭国は魏の帯方郡へ朝貢を願い出たということだが、この時には帯方郡はまだ公孫氏が握っている。
6月に朝貢を願い出ることは、あり得ん。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:34:14.30
>>952
>倭人伝には、倭国の位置は会稽東治の東と書いてあるけどねえ、、明らかに読み違えてるよ。

なにが読み違えなんだ?
會稽東治は会稽東冶と同じ場所だろうに
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:55:42.34
>>954
会稽東治の東にあったのは倭(倭30国)、と書いてある・・・(邪馬台国ではない)
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:59:15.92
>>938
宋書の武は雄略天皇。
雄略は、大和にいた。
東征は、大和から東へ。
間違った頭のヘナチョコ説は、誤読が原因。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:05:30.33
>>953 名前:日本@名無史さん 2019/01/24(木) 08:27:56.34
>この戦いが行われる前の6月に、倭国は魏の帯方郡へ朝貢を願い出たということだが、
>この時には帯方郡はまだ公孫氏が握っている。

4代目バカ殿だった公孫淵が城攻めにあったのは、遼東半島の遼東城だった。
帯方郡では、バカ殿を見限った役人兵士たちが、遼東の落城を待ちながら、ノホホンとしていたのだ。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:14:12.01
>>955
>会稽東治の東にあったのは倭(倭30国)、と書いてある・・・(邪馬台国ではない)

こいつ。かなり知能指数低いな
邪馬台国は倭30国の一つだろう
その倭が会稽東治の東にあったなら邪馬台国も同じだ
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:23:12.81
418の>>556
>とすると、その大勢の建設作業員が住んでるところが七万戸のヤマト国でいいと考えられるだろ?
畿内説は邪馬台国七万戸は「大和+河内から環大阪湾」の範囲って言ってるだろ?
>纒向遺跡は邪馬台国七万戸の中心施設だよ<

「南≠東」などに拠って、×。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:23:55.04
>>958
邪馬台国と倭30国では広さが大違いだ。簡単に言えば倭が30倍もおおきい。
倭30国は九州島全体と、もしかして種子島・屋久島も含まれていたかもしれぬ。
当時の測量技術からすれば、会稽東治の東で問題なかろう。、
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:42:22.82
端っこの国の位置なんかを書かないだろ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:54:01.44
418の>>557
>張政が難升米に詔書黄幢を持って来たときは
相攻撃中で王都までは来ていないんじゃないかな<

「其六年、詔賜倭難升米黄幢付郡假授」で、
難升米は先に詔書を賜い、黄幢を付郡假授されていた。
だから、この時「狗奴國男王卑彌弓呼素不和」であった事は、魏に伝わっていた可能性が高い。
そして、
「其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」
なんだから、載斯烏越等が詣郡して、遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢した、
という事。
そして、その時に何故卑弥呼に詔書黄幢を渡さず、難升米に渡したのか?、については、
一つは、卑弥呼は親魏倭王であって、魏の臣下ではなかったが、
難升米は「率善中郎將」であって魏の直接的臣下でもあった事と、
もう一つは、卑弥呼に面会もしていなかったようだから、卑弥呼は既に病床にあって、
面会出来る状態ではなかったのではないか?、という事。
だから、「卑彌呼以死、大作冢・・・」であったんだろう、という事。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:01:07.05
418の>>567
>>弥生時代なら都市と呼べるほどの人がいなければ作れないよ <

>地方で人員を挑発すればいいだけ。 都市の有無とは関係ない。<

「地方から人員を徴発」出来たのが、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍や、その部下の武将や大和の大倭職王ら。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:15:46.03
>>901
>海外の史書が軒並み倭は九州という前提で書いているのにね。

この時点で既に誤読
大陸史書は、隋書までは倭國の位置を伝説の位置だと誤認しており、
それが会稽東冶の東の沖縄台湾レベルの南国
この時点で九州ではない

それが、裴世清の大和訪問により、それ以降は正しい認識が得られている

>旧唐書では倭国と日本国を書き分けてさえいる。

相変わらず理解力が足りないな
唐代(正確には武則天の武周のとき)に、倭國が日本國に國号を改めたから
それに対応して両立てになっているだけ

唐会要、旧唐書、新唐書の倭國伝に出てくる倭人の名前が、
大和朝廷の貴族の名前なんだから、倭国も日本国もその政府は大和朝廷
九州王朝の出る幕はないし、九州王朝などは九州説の脳内妄想以外には存在しない
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:18:14.44
>>910
>3世紀に国造はないからなあ。

三世紀に国と呼ばれたまとまりの地方首長は、そのまま豪族化して
国造や県主になっているんだよ
国造や県主を見ることで、3世紀の国のあり方(配置や大きさ)を推定することができる
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:20:56.06
>>918
>上古音の場合は、あまり確定的な断定はせんほうがよい、ということ。

してないだろ?
上古音だと邪馬臺は
(g)ia[v]g-mar-d(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-t`(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-di(e)g

雑に片仮名にすれば イァマドゥ、イァマトゥ、イァマディゥだ
「イァ」は拗母音の表記でさらに雑にすれば「ヤ」、小さい「ゥ」は曖昧母音

ヤマドゥ、ヤマトゥ、ヤマディゥの2番目はヤマトだろ?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:24:36.62
>>920
>台与が15歳で女王になっているから、卑弥呼もその年ごろに女王になったと考えるのが妥当。
>とすると、卑弥呼は70代後半で死んだことになる。

どうして九州説は自分の主張が論理的におかしいと指摘されると、妄想インチキを始めるのかなぁ
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王
と王になった時点で13歳であると明記されている
そして、13歳は年已長大とは書かれない

「台与が15歳で女王になっている」も嘘だし、
「卑弥呼もその年ごろに女王になった」と考える余地はまったくない
生物学的寿命を考えれば、卑弥呼の共立は3世紀に入ってからと考えるのが妥当
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:38:54.23
陳寿は「其人寿考 或百年或八九十年」と書いてるからな
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:18:30.66
418の>>577
>>ザラ・・・モロ言ってます<

類スレ主が、「臨海郡」の地図と称する地図を提示してくれたから、
その後は、臨海郡は会稽郡の南にあるものだろう、
としての論理に、変更した投稿をしており、
だから、その事を知らん振りして?、
類スレ主が「・・・モロ言ってます」という誹謗宣伝をしている事になる。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:25:44.19
418の>>578
>>まだ類スレ主は、変な事を言っている!。 「会稽の東」ではないよ。
「会稽東治の東」だよ。 誤魔化すなよ。<

>会稽東治は会稽郡の中にあるから会稽の東でも正しいんだが <

「会稽郡の中にある」んなら、陳寿は始めから「会稽の東」とは書けば済むのであり、
「会稽東治之東」のように「東治」を書く必要がなく、
だから、会稽東治之東のように東治という文言を付けた、という事は、
東治は、会稽や会稽郡の中にあったのではない、、という事を示すんだよ。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:36:51.72
418の>>579
>こっちは「ヤマト国」と言ってるんだがな
それを大陸の人が漢字表記の音訳で邪馬臺國と書いただけ <

後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と対象が違うし、
「ヤマト」とも読めないから、×。、

>魏志倭人伝の記述する3世紀の倭国の状況と考古学的資料を付き合わせると
畿内ヤマトに倭国の中心=王都があったとするのが妥当<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×だし、
文献考古共に、「ヤマトに倭国の中心」ではなかったから、×。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 12:19:50.81
>>970
>「会稽郡の中にある」んなら、陳寿は始めから「会稽の東」とは書けば済むのであり、

無知な人だな
会稽は広いんだよ
米国の西と言ってもアラスカの西とカリフォルニアの西じゃ大違いだろ


>だから、会稽東治之東のように東治という文言を付けた、という事は、
>東治は、会稽や会稽郡の中にあったのではない、、という事を示すんだよ。

うそつき
会稽東冶は会稽の中だし会稽山陰も会稽の中だ

九州説はどこまでうそつき集団なんだ
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 12:23:57.23
>>964
>大陸史書は、隋書までは倭國の位置を伝説の位置だと誤認しており、

何度も国交を重ね、3世紀にすでに魏の役人が訪問しているのだから、伝説上の位置だなどという言い訳が通用するわけないだろ。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 12:26:38.82
>>967
>生物学的寿命を考えれば、卑弥呼の共立は3世紀に入ってからと考えるのが妥当

壹與の年齢の誤認はアホだが、あんたは故意に嘘をついているからより罪深いな。
80歳まで生きることは生物学的に妥当だから、2世紀末の即位でかまわない。
あんたが「妥当」と書くときは、大抵が根拠のない主観か、あからさまな嘘だ。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 15:08:19.02
>>973
はずがない、はずがないとダダを捏ねても
実際間違っているのだから
あんたの言い訳の方が通用しないだろう
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 16:05:10.49
会稽郡は大きく分けて3つある
戦国時代の越だった地域と、東甌国だった地域、東閩国だった地域があるんだよ
会稽東冶は閩地
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 16:41:08.58
418の>>608
>邪馬臺は、3世紀前半。<


3世紀前半の女王之所都があるのは、邪馬壹國であるから、×。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:32:41.60
邪馬台国の滅亡を再検討する(弥生遺跡消息一覧表)
https://tizudesiru.exblog.jp/238866410/

福岡県朝倉郡筑前町・弥生時代の遺跡の惨状↑。
>筑前町の柏木宮ノ元遺跡・宮ノ前遺跡は、弥生後期の遺跡です。
>つまり、写真の土器の大量廃棄は弥生中期ではなく、後期の出来事です。
>阪井田遺跡も弥生後期の遺跡で、溝に大量の土器が捨てられていました。
>この大きな事件があったのは弥生後期となり、邪馬台国の滅亡はこの時期だったと思われます
(注:この邪馬台国の滅亡時期はブログ主の独自見解です)。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:38:27.34
邪馬台国の滅亡を再検討する(弥生遺跡消息・その2)
https://tizudesiru.exblog.jp/238864962/

朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状↑(その2)
>倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。
>さらにこの筑前町に隣接する朝倉・甘木一帯の集落も同様であった。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:43:16.62
418の>>641
>学者たちは、邪馬臺=ヤマト発音だと言って譲らないけどね。
奈良のヤマトは、元々はヤマドだった可能性もあるという意見は、初めて聞いた。
いいぞ、邪馬臺=ヤマド説が広がっているなあ、感激だ。<

後漢書の「邪馬臺國」は、九州のあったし、
邪馬臺には「ヤマト」の音韻がないから、
大和説は×だ。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:52:16.84
倭国大乱は九州北部の出来事だった。
よって、大和説はペケ
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:53:14.93
>>968
>陳寿は「其人寿考 或百年或八九十年」と書いてるからな

さすがに生物学的に弥生時代に100歳は無理
これをもって、二倍年暦と見る人もいる

ただそれだと台与の13歳が7歳になってしまうのでさすがに無理だと言う人もいる
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:01:45.35
>>974
>壹與の年齢の誤認はアホだが、

つまり>>974はアホなんだよ

>あんたは故意に嘘をついているからより罪深いな。

いや?
科学的に正しいことを書いてるだけだ
弥生時代の平均年齢でググってごらん
乳幼児死亡率が推定できない(遺骨が軟らかくて残らないから試料がない)ので
15歳以上の平均余命としての推定があるが、その推定で30歳程度だ
(15歳時の平均余命が15年程度)
もちろんこれは平均だから、長く生きる人は生きるのだけれど、平均寿命の
3倍程度まで生きる人はほぼいない

九州説は、「絶対にないとは言えない」レベルのことを、「ある」と脳内変換して
議論の根底に据えるから、科学的な推論にはならない
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:16:39.25
大和説は、「絶対にないと言える」レベルのことを、「ある」と脳内変換して
議論の根底に据えるから、科学的な推論にはならない
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:25:16.79
>>986
>もちろんこれは平均だから、長く生きる人は生きるのだけれど、

当時の主な死因が感染症、出産、外傷だとすると、卑弥呼はどれも当てはまらない。
奥宮で人と顔を会わせずに暮らせば、現代人と同様の寿命まで生きても不思議ではない。
80歳は不思議でも何でもない。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:32:57.94
418の>>654
>そんなことはない 勝手な主観という言葉で>>595が逃げているだけ
魏志倭人伝の記述で、倭国全体の文物風習ではなく邪馬台国固有の記述が以下の通り
・・・
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる<

全部反論済みであり、×。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:49:38.51
>>984
神武は熊野(和歌山三重辺り)から畿内に攻めて行ったと記紀にはっきり書いてるぞ
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:51:38.00
>>987
九州説はプラズマが原子崩壊を早めて
炭素14C年代測定をおかしくするとか言ってなかったか
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:53:50.19
今なら言える、最近陰毛が白髪になってた。なので、邪馬台国は存在しない。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 18:54:25.20
>>971
邪馬壹國は12世紀になってから倭人伝に初めて現れる
その前の倭人伝はほぼ邪馬臺國表記
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:00:15.71
>>955
会稽東治(冶)乃東にあると記されてるのは
後漢書では邪馬台国
魏志倭人伝では女王国
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:00:30.39
それよりも、なぜ詳しい人がいるんだろう

『ワンピース 粉雪』と
ガンダムに登場する某というキャラなどは同じ人物だとか
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:03:17.45
>>952
魏志倭人伝には会稽東治(冶)乃東に女王国すなわち邪馬台国があると書かれている
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:03:56.17
蚕を飼い、機織りなどをしていた家があって・・・、
電気、発電が何やら〜という話とか

『老婆談』
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:12:46.85
『三貴子』

サルタというスレを読んでみた?
イザナギとは他人と言ってる人がいたり
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