邪馬台国畿内説 Part427
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1550200332/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 素人の浅知恵かも知れないけど 誰か間違いを教えてくれないか
狗奴国と倭国【邪馬台国でも可)の主たる戦場の地はどこ?
戦場の地が畿内以西だとすると、畿内説の邪馬台国の地は狗奴国に一時制圧された?
素人ですまんが教えてくれないか ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 素人の浅知恵かも知れないけど 誰か間違いを教えてくれないか
狗奴国と倭国【邪馬台国でも可)の主たる戦場の地はどこ?
戦場の地が畿内以西だとすると、畿内説の邪馬台国の地は狗奴国に一時制圧された?
素人ですまんが教えてくれないか 素人の浅知恵かも知れないけど 誰か間違いを教えてくれないか
狗奴国と倭国【邪馬台国でも可)の主たる戦場の地はどこ?
戦場の地が畿内以西だとすると、畿内説の邪馬台国の地は狗奴国に一時制圧された?
素人ですまんが教えてくれないか ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 あのーーーーーー 東海は何国なの????????????????????? ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 誤字ぐらい修正するといいよ
テンプレなんども書いてんだから ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 >>20 名前:1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/17(日) 19:11:12.65
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
⇧
誰もそんな質問してないよーーー ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 425>>499
>亀井遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡その他たくさんの大集落遺跡群が、
畿内第V様式土器の段階(弥生後期)で一つの勢力としてまとまっているから、
その範囲が邪馬台国七万戸の範囲と何度も書いているだろうが<
南≠東に拠って、×。 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 畿内説は槨が出た時点で詰んだ。
オレ様が槨じゃ無いと言えば槨じゃないが畿内説の反論ですが。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 425>>500
>>則天以後は、 唐会要の倭国伝は、きちんと倭国使節を記録している。<
>その則天以降の倭国伝に出てくる
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
が、大和朝廷の藤原朝臣常嗣なんだから、倭国=大和朝廷なのが明確だろ?ww<
薛原朝常嗣が倭國からの使節であった、という事は、
唐会要という客観性の高い記録であり、
大和日本国側の文書の記載の「日本国の使節の藤原朝臣常嗣」のよりも、
信頼性が高い。 また纒向では、外来土器の研究によって、
北部九州との物流がまったく無い事が判明した。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 祇園山の刺し違い二体は明らかに殉死を示す遺体である。
オレ様が殉死じゃ無いと言えば殉死じゃないが畿内説のの反論ですが。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 >>
426の>>969
雲出川河口から対岸の南知多までの海上距離=40km。
鳥羽から対岸の伊良湖岬までの海上距離=20km。
倍の海上距離は、倍のリスクがある。
鳥羽から伊良湖岬までは、雲出川〜南知多までのリスクの半分で行き着く。
天照神を伊勢に置いたのも、東国経営のため。
東国との幹線は鳥羽〜伊良湖岬〜三河〜東国だった。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 425>>506
>その結果、投馬国五万戸や、奴国二万戸が倭国内の大国として記録されている訳だ
九州と本州の距離で、別の国扱いされたりはしないしされていない<
「南≠東」などに拠って、×。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 三角縁神獣鏡(笑)
彫氏が自分の名前を掘り間違えるという失態を犯す。
とてもじゃないが
悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。
の様な下賜品では無い。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 425>>512
>縄文以来、沿岸航行で長距離交易を行ってきていて、相互の交流も十分にあった倭国内で
弥生終末期には各地で巨大墳丘墓を作る時代に入っているのに、めぼしい墓も作れない北部九州が
最大勢力だというのは、まともな論理的思考力のある日本人には無理だな <
「弥生終末期には各地で巨大墳丘墓を作る時代に入っている」というのが×。
3世紀中程の卑弥呼の冢の頃の九州倭國には「鉄鏃」が多く見られた、とされており、
大和の前方後円墳の有棺有槨の「庄内〜布留』のホケノの鉄鏃は3世紀末以後。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 養蚕する。絹綿を生産している。
3世紀に絹を生産していたのは北部九州のみ! ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) 425>>514
「南→東」などの嘘ばかり付いて、
中身がなくて具体的なことが全く言えないから、
胃痛いんじゃないのか?、大和説は ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 竹の矢は鉄のヤジリか、骨のヤジリ。
3世紀の鉄の鏃は九州から多数出土、
纒向からは数えるほどしかない。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 大帯軍(ソウル北部)から狗奴韓国(釜山)まで海岸沿いを水行で7000里
これが700キロなので、1里100mになる。
邪馬台国まで、大帯軍から12000里なので、釜山から残り5000里、5000キロ。
とてもじゃないが大和など行き着きようも無い。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 425>>529
>>なんせ、卑弥呼の墓は「塚」だったのだからな。そこんところを気狂ってはイカン。<
>ほとんどの古墳は歴史的に塚と呼ばれて来たがね <
どこの国の話をしているのか?は知らんが、
卑弥呼の「冢」は魏使らの中国人の記録であり、当時中国では、
孔明が遺言で「冢と墳とは明確に違うものだ」というは書き方をしており、
だから「古墳=塚」は、×だよ。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 もし仮に大和が邪馬台国だとしたら、
北部九州から大和まで、
広大な地域を支配していた事になり、
それに対等に対抗し、邪馬台国が魏に助けを求めて使者を送る様な、
狗奴国を日本列島に再現することができなくなる。
魏志倭人伝の記述から再現できるパワーバランス上、
邪馬台国は大和ではありえない。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 磐井の乱で明らかなように、
6世紀始めにおいても、
福岡県山門の支配者筑紫君磐井が、
福岡県の糟屋に代々屯倉を持っていた事が記述されている。
この事は、邪馬台国が一大卒を置いて、
北部九州を支配していた事と重なってくる。
もし仮に、3世紀に大和政権が北部九州を支配していたとしたら、
どうやって、筑紫の君磐井が、その後、そこに屯倉を置く事が出来たのか、
説明する事は出来ない。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 425>>534
>介山は、介休市から20kmくらいの位置だぞ?。<
?。介山の高さに関して、介休市の名前を出したのは、お前だった筈だよ。
>インキチというまえに、三十里の計算を出せよ。 どこで測量したというんか。
その位置をちゃんと書けよな〜。 インキチはお主じゃろ。 わははははは。<
黄河の支流が来ている筈だで、と、どこかで書いて置いた筈だぞ。
30里という計測は、おそらく、黄河の支流の低地だろう。
また介山は、(富士山のような低地の平野部から聳えている山ではなく)、
山並みの山地地域から突出的に高くなっている山のようだから、
「周七十里」の計測は、(低地での周ではなく)、
その「突出」部分だけの周囲であったんだろう。
だから、「三十里」も「七十里」も短里で説明が付く。 九州説の反論が全部ずっと前からFAQで潰されてる事実が実にわかりやすいな 前方後円墳は司馬炎が266年11月に、南郊北郊にそれぞれ作ったとされる、
円丘と方丘をあわせた、冬至と夏至の祭りをあわせて行ったとされる祭祀の構造物である。
266年11月5日に晋の都洛陽に到着したトヨの使者は、
この円丘と方丘を合わせた構造物を見て、そこで皇帝だけが儀式を行う事を聞き、
それを日本に帰って自らの支配地で再現したのが前方後円墳である。
日本で、突如として前方後円墳が現れたのは、
266年に円丘方丘の祭壇で儀式を行った事をトヨの使者が見たからに他ならない訳で、
日本で最初に作られた前方後円墳はトヨの祭壇で無ければならない。
その儀式は11月に行われた事を示さなければいけない。
その後、墓として利用され、新たな支配者が新たな祭壇を別の場所に作ったと言える。 425>>535
>冢:高墳也。(說文解字)<
孔明の遺言での使用例とは、若干意味が違うが、
「冢≠墳」だという主張である事には違いない。 狗奴国は隈国、狗古知卑狗は久々知彦=菊池彦である。
邪馬台国は山門であり、邪馬台国vs狗奴国が隣接した地域に再現できる。
投馬国は妻国(上妻・下妻:八女地域)である。 >>92
黄河の支流の低地が海抜ゼロメートル?
ご冗談を
ww 425>>552
つまり、また大和説は、
「南→東」などのように、
一切証拠なしに我流珍説を言い張っていると
そういうことですな? 介山は実存するのだろ
あんまり嘘ついてたらだめだぞ 2004年、ホケノ山古墳から立派な槨が出た。
吉備の楯築古墳からも槨が出ている。
これらは、魏志東沃沮伝に槨ありと記述された楽浪漢墓と同じモノである事が、
中村春寿氏によって明らかにされている。 425>>555
>>(唐会要)倭国伝と日本国伝に書き分けられた、という事が実態であり、<
>それはあなたの「解釈」でしょ<
いや、唐会要の史料事実。
>そしてそれが「実態なのだ」という主義主張 しかし、証拠は無い<
唐会要の記載が証拠。 自己顕示欲が肥大しただけのモンスターがテンプレ畿内説 425>>557
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
言い張るだけ言い張る いっさい証拠は出さない
それが大和説という人種の生き方 前スレみたが酷いな
てか直木さん知らんのが九州説論者なんか
既に完全論破されたアホみたいな現実主義()を盲信してるみたいだが
東中野関連のスレからこちらに移動してきたのかな 425>>563
つまり、また「南→東」などのような何の根拠もない、
口先騙しのウソだっのね、
大和説 >>96
冢=高墳とあるんだろ
なら前方後円墳は魏志倭人伝にある冢そのものではないか 女王国より4千里の南に小さいおじさんの国、珠儒国がある。
珠儒国=種子国=種子島であり、実際に、山門より300キロ南に種子島がある。
弥生時代に小さいおじさんの部族が埋葬されていた事が分かっている。 425>>569
この大和説男の・・・・貼り付けの繰り返しは、
忙しいから、また放置ね。 とっくに死滅してるのが信じられず
墓場から這い出してうめき声を上げながら周囲をうろつき回るゾンビ亡者九州説 425>>572
主張は毎日声高にする
証拠は絶対出さない
九州説というお気楽な生き方
学説として死ぬのは当たり前ですね 畿内説とは?
戦前に行われていた記紀に基づく九州からの東征論を
否定する為に戦後に提唱されたイデオロギーありきのトンデモ論です。
9条の会とか入らされますが、喧嘩でナイフで人を刺す連中です。
気をつけましょう。 >>110
種子島の広田人の身長は南九州、西北九州と変わらない >>113は、途中で投稿ボタンを押した事になってしまったので、やり直し。
425>>572
「南→東」などの嘘つき騙しの主張は毎日声高にする
証拠は絶対出さない
それが大和説というお気楽な生き方
学説として死ぬのは当たり前ですね ゾンビ亡者九州説は腐った脳みそで
ウォォ〜邪馬台国は九州だあ〜とうめき声を上げながらあてもなく俳諧する哀れな存在
可哀想だからみんなあまりいじめないであげてね ここの場ではあるが、九州説を唱えてる人にも一定の敬意持ってたが
今はもう無理だわ 425>>576
>九州説は考えが足りないから思い至らないようだけれど、ヒメヒコ制の
ヒメ王が卑弥呼、台与で、ヒコ王が崇神、垂仁、景行と考えればまったく矛盾も問題もない<
「南≠東」という矛盾や問題があるから、×。 425>>579
「南→東」などのような嘘つき騙しの、大和説のような
理由もなく断定ばかり してる人たちの説が
世間から忘れられていくのは 当然のことだ
だって 聞いた人は理由がわからないんだから
わけのわからないことばかり言い張る人に いつまでも耳を傾けるわけないよね 九州説の鮮や在のつく人の思考はこんなもん
儒教思想に動かされてるから 考古学をイデオロギーで歪める畿内説に真実など語る気持ちはさらさら無いだろう。
魏志倭人伝より、イデオロギーが優先されるのが畿内説だからな。
槨が出ても槨じゃ無い、北部九州の土器が出なくても、
北部九州を支配していた事になる。
なぜなら、イデオロギー(記紀否定、東征否定)ありきだからだ。 425>>580
>古墳のような墳丘を「高塚」というのだよ
卑弥呼の墓が「塚(冢)」なのだからそのものだろうがw<
魏使らの同時代の孔明の遺言では、「墳と冢」とを、
はっきりと別の物として区別する書き方をしているんだよ。
大和説はスレ主を始めとして、類スレ主らのように、
自分の勝手解釈を正しいと勘違いしているから痛々しい 朝鮮の李氏朝鮮時代が千年
その間貴族の両班が絶対で庶民は奴隷扱い
李氏朝鮮の貴族両班は強権で庶民を支配するために
常識に照らし合わせて有り得ないほどの非道理を庶民に振るい
それにそぐわない者は残酷にブッ殺した
そんな環境で残った遺伝子はとにかく何にでも盲従
上が言った事は道理に反していようがとにかく服従
法規範や普遍的価値観なんかもお構いなしという感じの白痴的遺伝子
そんな遺伝子を受け継ぐのが在日白丁九州説 >>126
九州説の白痴ゴリ押し思考は
全人類から糾弾されてしかるべきものである 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 >>124
畿内が古来から邪馬台国に通じるやまと国という呼び名
その地域に卑弥呼のいた時代の魏の年号が刻まれた銅鏡
そして卑弥呼と同時代の前方後円墳がある
これは誰にでも確かめられる事実であって
イデオロギーがどうのこうのとはまるで関係なし
そういう言いがかりをつけるやり方が逆に
現実の事実は都合悪いから言いがかりでごまかそうとする
イデオロギーに満ちた在日九州説のよくある手口のサンプルケース 後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな? 2世紀末以来の長期政権であった卑弥呼体制が消滅することにより畿内にも成長のチャンスが訪れたが、ほんの十数年の年代の誤認により、あたかも畿内が卑弥呼のもとで発展したかのように見えてしまう。
しかしあくまでも3世紀の畿内は筑紫の足元にも及ばない発展途上地域であり、まして卑弥呼が共立された2世紀末には、畿内が女王を出せるほどの発展もまとまりも見出せない。 三角縁神獣鏡の銘文って、
外国人が着てるTシャツの日本語みたいなもん。
とてもじゃ無いが、漢語として通じるものではない。
これは即ち、三角縁神獣鏡に銘を刻んだ勢力が、
漢語を操る能力が無かった事をハッキリ意味している。
意味不明の漢語の銘文を持つ三角縁神獣鏡の出土する地域は、
邪馬台国では無い事を示していると言える。 九州説よ
お前らは病気だ
今すぐ行いを改めろ
そうすればその白痴も少しづつマシになっていくから >>133
なんか証拠あって言ってる?
ないよね
そうであってほしいという欲望だけ
それが九州説 >>119
今なら福岡県は全国で尻から4、5番目くらいに小さい
山門に集まった炭鉱夫が引き下げているのだろう 九州説の動向が気になってスレに貼りついている畿内説にドン引き >>137
イヤそれは九州説の方じゃないか
なぜわざわざ畿内説スレに訪れる 畿内説がデマを広めて歴史をゆがめようとするからだろ。 >>95
>南郊北郊にそれぞれ作ったとされる、
>円丘と方丘をあわせた、冬至と夏至の祭りをあわせて行ったとされる祭祀の構造物である。
南郊壇と北郊壇は別の場所に作られるもの
それを見て帰ってきたのなら、別々に作るだろww
それに266年より前から前方後円墳があるんだから、説得力もまるでないただの迷惑コピペってだけ 九州説はあっち行け
お前らは未来永劫アホな事のたまわって人々に後ろ指さされまくる運命なんじゃ >>140
バカかテメーはwww
晋書を読めとしか言いようが無いなwww 九州説は安本を拠り所にするしかない時点でもう勝ち目がないことを自覚しろよ 本当に知っている人は知っているんだよ
『king of kings』が来るまでは遊びみたいなものだったという意味
『松傾』が来てから〜という話 >>139
畿内は古くからやまとという呼び名
複数の史書に卑弥呼が魏に使いを出したと記されている
景初三年の魏年号が記銘された銅鏡が見つかっている
中央集権を思わせる
卑弥呼の時代三世紀中葉の100m級前方後円墳が畿内にある
デマでも何でもない
誰でも確かめられる事実 『松傾』が来るまでは・・・・紛いもの?
「何々や某というものなども、当時からありました、知っていましたよ^^^^^^」
こういう類 >>145
>中央集権を思わせる
※個人の感想です。 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 425>>584
>平原1号墓 12×8メートル
祇園山古墳 25メートルの方墳 というのは、見劣りするなんてもんじゃないだろ?
平原1号墓の面積は、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の10分の1以下だ <
魏の薄葬令。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。 >>125
>魏使らの同時代の孔明の遺言では、「墳と冢」とを、
>はっきりと別の物として区別する書き方をしているんだよ。
それ、誤読
誤読の中でもイタイタしいタイプのやつww
FAQ84
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。 あの『聖化 日神 』のところにも書いてあったでしょ、
それと知っている人がいる?というのも、おかしな話
天帝から任命された〜、授かり〜とか 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの反省の無い、
サル以下の九州説と会話しても無駄
「史料事実」の重要性など、何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに、
バカ丸出しの妄想できるんだから 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの反省の無い、
サル以下の九州説と会話しても無駄
「史料事実」の重要性など、何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに、
バカ丸出しの妄想できるんだから 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの反省の無い、
サル以下の九州説と会話しても無駄
「史料事実」の重要性など、何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに、
バカ丸出しの妄想できるんだから 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの反省の無い、
サル以下の九州説と会話しても無駄
「史料事実」の重要性など、何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに、
バカ丸出しの妄想できるんだから wiki『天帝』
日本でのことなのかな?
>天帝には過ちが三つあるというが、
>その詳細は不明である。
>恐らく信仰上で不都合となり、
>抹消されたとの考え方もあるらしい。
このような事が書いてあるし 福岡県では辰砂は産しない
福岡の遺跡出土の水銀朱は本邦産でもない >>142
>バカかテメーはwww
>晋書を読めとしか言いようが無いなwww
北郊壇は首都よりも北側の北郊に作る
南郊壇は首都よりも南側の南郊に作る
離れた場所の離れた構造物だよ
それを一緒に作るってどんな発想だ?ww
前方後方墳の存在はどう説明するんだ?ww
「晋書を読め」じゃなくて晋書の該当箇所を引用して解釈して見せてごらんよww >>160
佐賀県では出るようだから、福岡、佐賀、長崎の範囲が倭国でいいな。 >>142
Part424で引用したのに読んでないの?
《晉書》卷十九 志第九 禮上
「是月庚寅冬至,帝親祠圓丘於南郊。」 キュウリのような葉の写っている写真
本当に『松傾』こういう名前の家の写真w
偶然なのかな? 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
サル以下の・・・・大和説者と、まともな会話しても無駄
何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに
バカ丸出しの妄想できるんだから 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
サル以下の・・・・大和説者と、まともな会話しても無駄
何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに
バカ丸出しの妄想できるんだから 425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
サル以下の・・・・大和説者と、まともな会話しても無駄
何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに
バカ丸出しの妄想できるんだから ERROR: Samba24:Caution 15 秒たたないと書けません。(1 回目、9 秒しかたってない)
2ちゃんねる快適ツールを使うと、待ち時間が大幅に短縮されるんだ。
(Samba24-2.13)
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名前: 日本@名無史さん
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内容:
425>>586
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
サル以下の・・・・大和説者と、まともな会話しても無駄
何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに
バカ丸出しの妄想できるんだから 503 Service Temporarily Unavailable
nginx/1.12.1 晋書 卷三 帝紀第三 武帝
十一月己卯,倭人來獻方物。
并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。
罷山陽公國督軍,除其禁制。
己丑,追尊景帝夫人夏侯氏爲景懷皇后。
辛卯,遷祖禰神主于太廟。
11月己卯 倭人来たりて方物を献ず
南,北郊に於ける円丘,方丘を併せ,二至(夏至と冬至)の祀り,二郊に於いて合す
山陽公國の督軍を罷め,其の禁制を除く
己丑,景帝夫人の夏侯氏を追尊して景懷皇后と為す
辛卯,祖禰神主を太廟に于けるに遷す
これ、各行は別々の記事だぞ
これだけの記事が武帝の泰始二年11月にあったってこと
なぜこれが前方後円墳の起源だと思うのかが不思議 芝居、歌舞伎が〜とか、何か関係しているのかな?
あと、あの『アマテラス』の画とか、
実際は男(役者)でしょ >>165
>《晉書》卷十九 志第九 禮上
>「是月庚寅冬至,帝親祠圓丘於南郊。」
これ、冬至に帝親が南郊に円丘(南郊壇)を作り祀ったっていう記事で、
方丘は出て来ないんだけど?
方丘の北郊壇は都の北に作るんだよ
北郊壇は夏至の祀り >>164
>佐賀県では出るようだから、福岡、佐賀、長崎の範囲が倭国でいいな。
それ、今はそこに辰砂の鉱脈があるのが分かっているけれど、
弥生時代には知られてないんだよ
物理的に存在していても、知られていなければ其山有丹とは書かれない >>176
142ではないよ。勘違いさせたね。
>これ、冬至に帝親が南郊に円丘(南郊壇)を作り祀ったっていう記事で、
>方丘は出て来ないんだけど?
うん、冬至の記事だからね。
鄭玄説に基づいて魏明帝が作らせたもの(南郊と円丘、北郊と方澤が併置されていた)
を王肅説に基づいて(南郊に円丘、北郊に方澤をそれぞれ併せて)修復したということらしいよ。
円丘方丘が並んだなんてのは誤読で間違いない。 >>179
吉野ヶ里の南祭壇は、北墳丘墓の軸線〜立柱・祠堂の延長上にあるから
北墳丘墓に対する祭祀の場だろう
冬至夏至とは何の関係もない
しばらく前にこれを二十四節気を示す太陽信仰だって言い張ってたバカがいたんだけどね >>181
記憶力悪いな。
吉野ヶ里のその南北軸線の角度が真北に対して東へ5度の角度になり、
その角度が、二十四節気カレンダーの2年目の小寒点と重なると言うただけ。
それが太陽信仰と関係あるなどと言うてないわ。
ボケ。
ハナタレ。 >>145
ヤマトの呼び名ができたのは、5世紀頃だろう。
その前は、ヤマトの呼び名はなかったじゃろな。
古くからある…、デマじゃないか。 賛同する
>>84日本@名無史さん2019/02/17(日) 20:15:33.53
もし仮に大和が邪馬台国だとしたら、
北部九州から大和まで、
広大な地域を支配していた事になり、
それに対等に対抗し、邪馬台国が魏に助けを求めて使者を送る様な、
狗奴国を日本列島に再現することができなくなる。
魏志倭人伝の記述から再現できるパワーバランス上、
邪馬台国は大和ではありえない。 俺も知りたい 狗奴国はどこだったのかの手掛かりにもなる
>>7日本@名無史さん2019/02/17(日) 18:59:59.72
素人の浅知恵かも知れないけど 誰か間違いを教えてくれないか
狗奴国と倭国【邪馬台国でも可)の主たる戦場の地はどこ?
戦場の地が畿内以西だとすると、畿内説の邪馬台国の地は狗奴国に一時制圧された?
素人ですまんが教えてくれないか 根拠や証拠を示すべき 「古くから」って いつ? 出典は?
>>145日本@名無史さん2019/02/17(日) 22:08:02.74
畿内は古くからやまとという呼び名
複数の史書に卑弥呼が魏に使いを出したと記されている
景初三年の魏年号が記銘された銅鏡が見つかっている
中央集権を思わせる
卑弥呼の時代三世紀中葉の100m級前方後円墳が畿内にある
デマでも何でもない
誰でも確かめられる事実 畿内説は、ヤマト王権の萌芽を邪馬台国と誤認しているだけ。 >>92
お主が言う黄河の支流というのは、汾河。
その汾河の中流あたりに介休市があり、その介休市から東南へ20kmほどで介山(綿山)がある。
介休市の海抜は、756m。
介山の断崖の下の地面は、介休市の標高よりも高いところにある。
なので、仮に介休市の海抜756mを介山の標高2440mから引くと、1684mになる。
これが介休市から見た介山の高さだ。
そこで、高三十里をメートルに直すと、2295m。
なので介休市から見たはずの介山の高さ三十里2295mは、実際の介休市から見た介山の高さ1684mよりも611mも高い数値となる。
三角測量して600mもの誤差がでるということは、有り得ん。
それとも、測量士がアマチュアだったのかもな。
お主は、インターネットで介山(綿山)がどういう山なのか調べてみたか。
漢代には道教寺院が多数その断崖に作られ、魏晋の時代には仏教寺院すら断崖に作られている。
その寺院へ登るための登山道が断崖に設けられていたのだ。
高三十里は、1里430mで12.9km。
三十里は、その登山道の距離を言うとるのよ。
最初からインターネットで介山(綿山)の写真を見ていたら、「おんや? おかしいぞ」と気がついていたはずだ。
そうした手間をかけずに、古田の口車を信じたばっかりに、ここで恥さらすはめになったのやな。
もう遅いわ。恥かいて、顔赤うして、しばらく俯いとるんやな〜。 『王母』ググると出てくる
「うらしまたろう」〜〜画像も、
役者(を描いたもの)だとわかるでしょ 本物は『松傾』?
・・・松の木が立てられていて・・・オジギソウ、シダ類・・・。 デスラ〜。
お前はデスラかー!頭おかしくなるわ!!
と言ってる人がいたり、何なんだろう
震災の話? 何度も書いていることなんだけど、
何かの家だったのかな?
白い制服のようなものを着ている子供がいて、
『松傾』の・・・・・4,5歳くらいの頃の写真だと言っていたり というか家の写真なんだけどw
デスラかー!!という書き込みも、
モレ(仮)に対するレス(>>)
何なんだろう 本当に数年前の陰謀スレ、
このような事を言ってる人がいたり、
たしか芸能関係の話、
本人(私、本人たち?)の知らないところで、
勝手なことを〜とかw
モレ(仮)の同じ
デスラーか!!とレスされても、
何の事なのか、わからない 本当に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創価か何かなんだろうwと言ってる人がいたり、
創価なんじゃないのか?とか 『宇宙戦艦 創価』調べてみると、
それらしき話が出てきたり、創価関係?
他の作品(漫画、アニメ、ゲーム・・・)もそうなんだろう >>189
登高とは違うと思うな
三国志では登高は随所に記述されている
また周70里の説明も含めて述べるべきでは? >>186
あんたらが疑問に思うように、大和の地ではドンパチやってた形跡はない
すると、畿内説では狗奴国と言い争いだけをしてたことにならないか
それを、朝廷まで泣き言言いに行ったのかな? 425>>602
嘘つきの心理
「こうだったらいいな」
↓
「こうに違いない」
↓
「最初から卑弥呼の宮室樓觀だった」
大和説詐欺師のサルがこのままのサル踊りを毎度してるんで大爆笑w 425>>605
(随分長い事、投稿を拒否抹消させられたが、続き再開)
ほらね
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
一切証拠を言わずに、結論わめくだけ 425>>606
>実際、魏志倭人伝に、卑弥呼の死に際して「大作冢、徑百餘步」って書かれてるだろ?
戦争中でも首都で戦闘があるわけじゃないんだし、七万戸の大国なんだから人はいくらでもいる
大きな墓が作れないところに倭王はいないよ<
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」だから、纏向説は始めから×。 425>>607
ふるいね
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘吐き騙しのトンデモ大和説は
学問的にもう否定されて歴史のクズカゴに入った過去説を
ふりまわすだけ 425>>609
答えに窮して
纏向が卑弥呼の居地だ、とか言い出した大和説サルのバカ踊りをご覧ください
証拠ゼロのラノベ書くのが
大和説の生きる道 >>199
倭人伝
「説相攻撃状」・・ともに攻撃状態 425>>612
>そこが、意見分かれる。 寺澤は、石塚などを古墳としているが、
他の学者には弥生墳丘墓であって古墳ではないとする者もいる。<
いずれにしても、大和説学者は、
「巨大前方後円墳の出現を古墳時代の始まり」としているが、
卑弥呼の冢や壹與の弥生墳丘墓は前方後円墳ですらなく、
巨大前方後円墳の始まりは、晋の天円地方思想を学んだ那珂八幡などが古く、
大和の巨大前方後円墳は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓として、
その将軍らが亡くなった1〜2世代後の、
3世紀末頃に始まった、という事にしかならない。 つまり、邪馬台国が畿内の場合狗奴国と戦争状態にあった地(戦場)はどこかと言うこと。
狗奴国は邪馬台国と近いのなら畿内が戦場となる。(其南有狗奴國)
戦場が中四国や九州なら、畿内邪馬台国は狗奴国に制圧されたことになる 425>>613
>>バカモノ。 お主も、卑弥呼が建物Dに住んだと思ってない、ということだな。<
>おつむの弱い九州説爺3はこうやっていつもイタコ芸をして笑われる<
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」なんだから、
「卑弥呼が居した」という事であり、
「居」という事は、普通は、「仕事をして生活した」という意味だ。 間違えた狗奴国を滅ぼした九州勢力が畿内にヤマト王政を築いたのではねーか >>182
>吉野ヶ里のその南北軸線の角度が真北に対して東へ5度の角度になり、
>その角度が、二十四節気カレンダーの2年目の小寒点と重なると言うただけ。
>それが太陽信仰と関係あるなどと言うてないわ。
お、ヘタレたな? この嘘つき無能お花畑がww
二十四節気だのなんだの言いだしたのは、同じ「墳丘墓・柱・小建物」のセットを
持つ平原1号墓(5号墓)が、太陽信仰とは関係ないと言われたのに対する反論として
埒もない二十四節気を言い出したんだってのも既に脳内から消えてるんだなww
平原1号墓が太陽信仰だってのは否定されたってのを認めるんだwwwww
二十四節気の3年分を円環に配置する例など、嘘つき妄想野郎の>>182の脳内以外には
古今東西どこにもないし、5度を刻む測定法は弥生時代にはないし、
吉野ヶ里の墳墓祭祀で小寒が重視される理由がなに一つ一切ない
またバカにされるために、わざわざ蒸し返すとか根っからのバカドMなんだなwww >>183
>ヤマトの呼び名ができたのは、5世紀頃だろう。
自分の妄想を推論だと思い込みさらに自分の中で事実だと認定してしまっているようだ
「具体的な根拠を付けて論じる」ことなしに何を言ってもムダ 425>>614
>>吉野ヶ里のは14人分 平原1号は吉野ヶ里には勝っている<
>おやまあ、ひどい詭弁を持ち出してきたなw
でも、丹波の赤坂今井や、吉備の楯築墳丘墓、出雲の西谷9号墓、纏向古墳群には
平原1号墓は圧倒的に決定的に負けてるってことでいいねw <
関係がない。
祇園山や平原は、倭の女王だから、薄葬令の制約を免れない。
出雲は、文身國であり、丹波は、文身國と大漢國の境界付近であるから、
九州倭国とは別国であり、
吉備や纏向は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の地域であり、
セレモニーは進化拡大する、の原則に拠って、
那珂八幡などの後での、模倣拡大が起こったもの。 >>185
>広大な地域を支配していた事になり、
支配してないと何度言えばww
自分で勝手な定義を立てて、そのかって定義の上に勝手な仮定を置いて、
その仮定を否定して畿内説が間違いと言ってもしょうがないだろうにw
卑弥呼は祭祀連合の象徴の共立女王なんだから、支配はしていない 425>>616
そうやって文献考古の史料事実から逃げ続けた結果が
大和説のいまの惨状なんだがね 425>>618
>「もちろん、纏向の古墳造営は古墳時代」は一周回って、正しいことになってるんだよ
その、纏向遺跡で古墳造営していた古墳時代は、卑弥呼の時代とばっちり重なるんだけどね <
古墳時代を頑張って石塚からだ、としたのであっても、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」であるから、石塚は、卑弥呼時代よりもはるかに後。 >>215
>卑弥呼は祭祀連合の象徴の共立女王なんだから、支配はしていない
卑弥呼時代の倭国(阿波)支配地域は、せいぜい阿波、讃岐、南淡ぐらいだろう。
狗奴国は阿波南部の長国。 @阿波 >>186
>狗奴国と倭国【邪馬台国でも可)の主たる戦場の地はどこ?
>戦場の地が畿内以西だとすると、畿内説の邪馬台国の地は狗奴国に一時制圧された?
狗奴国は「不屬女王」で、その王が卑弥呼と「素不和」であり、「說相攻擊狀」としか書いていない
卑弥呼死後の男王時代の混乱では「更相誅殺、當時殺千餘人」と比べると、
小競り合いのようにも見える
高天原での誓約後の素戔嗚尊の狼藉として、春則重播種子且毀其畔、秋則放天斑駒使伏田中、
復見天照大~當新嘗時、則陰放屎於新宮、又見天照大~・方織~衣・居齋服殿、
則剥天斑駒、穿殿甍而投納。とあるから、田圃に二重に種を播いたり、畦を壊したり、
田圃に馬を放したり、祭殿に糞尿を撒いたり、機織りの館に馬の死体を投げ込んだりするような
ことだったのかもしれない >>199
>それを、朝廷まで泣き言言いに行ったのかな?
テンプレFAQ9
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。 狗奴国も強大だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
卑弥呼の邪馬台国と比肩する国力がある。 @阿波 >>213
俺関係無いけど
あんんたは何時だと思う?根拠は?文献は? 425>>622
>社会情勢も同じで、倭国乱からの事態収拾で卑弥呼を共立するという社会情勢を共有している
北部九州の奴国でも纏向型前方後円墳の那珂八幡古墳を作ってるだろ?<
これまたインチキ。
倭地の前方後円墳は、晋の武帝に学んだんだから、筑紫の那珂八幡などが始まりであり、
大和の前方後円墳は、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の将軍らに拠って齎された事になるから、
那珂八幡などより、1世代位以上後。 >>208
>狗奴国は邪馬台国と近いのなら畿内が戦場となる。(其南有狗奴國)
>戦場が中四国や九州なら、畿内邪馬台国は狗奴国に制圧されたことになる
謎の論理展開だな
邪馬台国までの道里記載の旅程があって、そのあと戸数道里も分からない余傍国があって
その余傍国の最後に此女王境界所盡とあって、「其南有狗奴國」だぞ
邪馬台国と狗奴国の間に余傍国が挟まるのだから、そこまで近くはなかろう
また、四国や九州が戦場なら、畿内大和とはまったく関係ないところで戦っているだけで、
なぜ制圧されたことになるのか意味不明だ 記紀では「倭」
倭をヤマトと呼ぶようになったのは倭→和→大和じゃなかたっけ
あまり自信が無いが・・・・・・・・ >>211
>間違えた狗奴国を滅ぼした九州勢力が畿内にヤマト王政を築いたのではねーか
その論だと(その論に限った話ではないが)、九州勢力が畿内に王制を築く理由が何もない
九州から離れた場所を統治するためというなら、魏志倭人伝にあるように一大率を置いて
諸国を検察させればいい
土地と権力が密着している時代に、王権が移動する理由はない 425>>625
>FAQ19より>>17
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。」<
何だ?、また膨大な(誰も見てもいない)テンプレの一文の引用か。
こりゃまた、類スレ主がスレ主そのものであった、という事の証拠になるなあ。
>実際に「大作冢、徑百餘步」と書いてあるんだから、戦争中だろうとなかろうと、
径百歩の冢を作っているんだし、大きな墓がないところは候補地になれないんだよ<
前方後円墳は「冢」ではないし、
箸墓は、径280m以上?もあって、「徑百餘步」には全くならないから、×。 九州は西服衆夷六十六國だからザラコクの主張は全て恣意的に歪められており×だとわかる >>225
倭は「倭大國魂神社」「倭大國敷神社」が残る「阿波」で確定済み。 @阿波 >>224
まず、狗奴国の比定地はどこだと思うかだね
あなたの私見でいいからヨロシク >>228
ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北への「忌部はん」進出展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸
これ全部、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域である。 @阿波 425>>629
>庄内1式とか布留0式とかいう、土師器の様式編年は、
纏向遺跡で大量に出土した飯炊き甕の形式研究の成果なんだけどねぇ<
その「飯炊き甕」の発掘地が、どこだったのか?が論争になっているのであり、
掘立建築とか「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の中だったのか?、
が問題。
>そして、その飯炊き甕に付着した炭素の14C年代測定にクレームを付ける人がいたから
植物に炭素固定された当年試料であることが確実な桃核で14C年代が改めて測定されて
2世紀末には纏向遺跡が建設開始していることが確実になってる<
AMSは、プラズマ化に拠って、50〜100年位古く出ているから、×。
飯炊き甕で、何をしていたって考えているんだろうね、九州説の人はww >>225
倭国(阿波)は「其山有丹」で「阿波」に確定済み。 @阿波 >>5
>初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。 <
巻向から東海に行くのにわわざわざ伊勢経由で行くの?
951日本@名無史さん2019/02/17(日) 18:15:35.36
>>939
詳しく交通経路を教えてくれませんか
初瀬街道経由なら松坂からでもいいし 亀山から陸地でもいいし
伊勢が畿内邪馬台国に入るとでも? >>222
最初から、だよ
たどれる文献は記紀、万葉集しかないが初出時からヤマトであり、改名したという記述は一切ない
旧事本紀ではニギハヤヒの天降りの時に名付けたとされている
天祖以天璽瑞寶十種,授饒速日尊.則此尊稟天神御祖詔,乘天磐船而天降坐於河內國河上哮峰,
則牽坐於大倭國鳥見白庭山.天降之儀,明天神紀.
所謂乘天磐船而翔行於大虛空,巡睨是鄉而天降,謂:「虛空見日本國.」是歟 >>225
>倭をヤマトと呼ぶようになったのは倭→和→大和じゃなかたっけ
表記は
倭→大倭→大和→日本と変遷するけれど、読みはずっとヤマトだよ >>230
テンプレのFAQ9
S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
で、十分だと思うよ
律令の時代になっても、北陸がずっと越の国だったり、白河の関の先が全部陸奥国だったり
したように、大勢の外は大括りでひとかたまり扱いだった、でいいと思う
そしてその残存地名が、久能山、久努郷、毛野国に残されたってことでいいんじゃないかな FAQ9???
「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」
の解釈としてはちょっと?
交戦状態にあったのは確かだと思うよ
また
>>244
>四国や九州が戦場なら、畿内大和とはまったく関係ないところで戦っているだけで、
なぜ制圧されたことになるのか意味不明だ
狗奴国との交戦が中四国・九州なら畿内の勢力に挟み撃ちに合うから✖
朝廷に報告するまでも無い
国境沿いでドンパチと思うがね >>234
>巻向から東海に行くのにわわざわざ伊勢経由で行くの?
わざわざというが、縄文時代から弥生時代の主要交通路は沿岸航行だよ
ヤマト(邪馬台国)から宇陀越えで伊勢に出て、そこから船だよ
尾張方向に行くのは水行
渥美半島から静岡方面に伊勢湾を横断していくのは渡海千里
余傍国の最初が次有斯馬國(伊勢志摩)だから、伊勢はヤマトに入れないだろうね >>238
>狗奴国との交戦が中四国・九州なら畿内の勢力に挟み撃ちに合うから✖
????
この狗奴国と戦っている勢力はどこに本拠地があるどの勢力なんだ?
意味不明 大倭はオオヤマト
漢文的には、倭がどこかを征服して拡大すると大倭 >>239
いくら頑張っても、奈良盆地の東は山ばかり。 「東渡海千里」はどうやっても無理。 @阿波 425>>632
ほらな
「南→東」や「冢=前方後円墳」などの大和説は、
トンデモ説の理由が言えないだろ?
よい判別方法だ 425>>633
あんた、相当、「南→東」や「冢=前方後円墳」のオハナシ作ってないか?
これだから大和説はトンデモであり、×。 425>>635
>>この男は、「南≠東」や「」倭国=正北抵新羅」や「日本國者、倭國之別種也」、
などの問題をこっそり隠した嘘つき騙しをしているから、×人間。<
>テンプレに掲載されてるような話を「こっそり隠した」 とか
平然とウソつける九州説の くさった根性が凄い<
投稿数だけでも60個以上の、大量の嘘つき騙しの投稿を、
平然と、国民に読ませて騙そうとしているこの大和説の投稿子の、
くさった根性が凄い。 425>>638]
>>旧唐書日本国伝は、とっぱなに「日本國者、倭國之別種也」として、
日本国は倭国から別れた別種だ、としている。<
>モロバレのウソつくザラコクすげぇ 「から別れた」って原文にないの付け加えてら
一行で書いちゃって歴然だろ ねつ造を隠す気もないってか <
普通の人間なら「別種」とは「別れた別の種」だ、という事は自明であるのに、
この掲示板の大和説者が「同種だ」という変な曲解を主張して、
倭國と日本国とが「同じ国だ」という主張を書いていたから、
国民が騙されてはいけないので、「別れて別の国になっった」事を知らしめるために、
「別れた別種」という説明にしておいてあるのだ。 425>>641
>中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確<
中国の認識は、「日本國者、倭國之別種也」であるから、×。 混一図を見れば
会稽陶冶の東に九州があるのも当然だし
呼子か唐津から伊都国への方角が南東になるのも無理はない
しかし、
南や東しか進んでないのに畿内にたどり着く事は無い 425>>642
>九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる <
「日本國者、倭國之別種也」「或云日本舊小國、併倭國之地」であるから、
この投稿子は、嘘つき騙しの×人間。 そして魏志倭人伝自体が過去の書物の引き写しなので
仮定として、卑弥呼の時代には呼子ではなく唐津にわたることの方が一般的であったとしても
そのこと自体には何の意味も持たないわけなんだよ
唐津は松浦川の河口で平野のイメージなので、
・山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
このような魏志倭人伝の記述とは一致しない wikiの松浦国のページ
「なお東松浦半島北端にある呼子には律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていたが、
ここには支石墓から支石甕棺、甕棺墓、箱式石棺を経て配石墓に至る、推定前8-7世紀から2-4世紀の連続した遺跡が残されており、
抜歯を伴う縄文形質の人骨が出土した点でかつては話題になった。 」
呼子が律令制の時代でも大陸交通の拠点であったという事は
律令制よりも前の卑弥呼がいた時代でも大陸交通の拠点であったことは当然の話 425>>648
>・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から <
3世紀半ばには、明帝の下賜の21枚の「尚方作」などや、渡来の呉系楽浪鏡師らの△などがあるが、
大和は、3世紀末以後の楽浪系の画文帯と、
4世紀の△や九州倭国の東征将軍の内行花文鏡だけ。
>・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる<
一貴山銚子塚の黄金鏡や日田の鉄鏡も出土する。
>・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ<
大和は、3世紀末以後の少しだけ。
>・宮殿など影もない<
既に吉武高木や吉野ケ里にあり、三雲でも最近発掘された。
>・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない<
纏向は、0。
>・この当時発掘されていた丹山などない <
朱丹なら、いくらでもあった。
>・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失<
筑紫の胎土で造られた土器が大半であったから、近畿の土器は、市を介して搬入や上納程度。 425>>653
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
何故ぜったいに証拠を出さないのか?
うそと知ってて言ってるからさ 425>>654
>大和です・・・<
「南≠東」などに拠って、×です。 425>>656
ほら、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
また理由を言わない
だから7割の国民から、飽きられた >>252
水銀の鉱床は比較的浅い場所にあるので
水銀を取りつくしたら、あとは農業用地に作り替えるんだよ
だから現代に痕跡が残らなくても問題ない
豊後国風土記には、
かつて水銀が産出したと書かれてるのだから、
風土記よりも前の時代に水銀は出てたという事
邪馬台国の時代に産出してなかったとは言い切れないんだよ
それと、
魏志倭人伝は倭国の習俗を説明してるのだから
邪馬台国に水銀が無くても
倭国のどこかで産出してたらそれでいいんだよ >>248
>呼子か唐津から伊都国への方角が南東になるのも無理はない
しかし、
>南や東しか進んでないのに畿内にたどり着く事は無い
南や東しか進んでないのに伊都国にたどり着く事も無い >>667
>ここ畿内説のスレなんだが 九州説は去れよ
卑弥呼は天理市橿原市に居たのだよ 桜井市は斎場だよ 墓地<
「南≠東」などに拠って、×。 >>238
「ちょっと? 」「だと思うよ」って
普通の感覚だと反論にならないよな >>258
呼子に立って
呼子の住民に
「伊都国へ行くにはどの方向へ進めばいいですか?」
と聞くと
東ではなくもっと南よりを指さすだろう
そして
・草木が茂り、前を行く人が見えない。
という記述なのだから季節は夏ごろだろう
太陽が昇るのは東よりも北側から
なので、真東は見かけ上
東よりも南側になる 九州説では都合が悪くなると急に魏使がおバカさんになる 畿内説は、東を南だと思い込むおバカさんがいないと成り立たない 畿内説は、
太陽が昇る方向を南だと思い込んでるおバカさんが魏使じゃないとなりたたない >>257
水銀朱の話も、倭国(阿波)の前ではむなしいだけだよ。 やめときなさい。 @阿波 >>265
邪馬台国は倭国の中の一国家だよ
知らなかったの?
阿波の人ってそんなおバカさんだったの? >>261だと「南至」も倭人が南を指さしたということになる >>266
しまいには倭国(阿波)を取り込もうって魂胆かね? @阿波 >>267
普通に考えたら道路の方向じゃないか?
呼子から伊都国へ向かうにしても、道路は南東へ向かってるだろ >>268
倭国連合のなかの小国家に
邪馬台国も伊都国も松浦国も含まれる
当然畿内の勢力もそうだし
阿波の泡沫国家も含まれる >>266
>邪馬台国は倭国の中の一国家だよ
全くその通り。
邪馬台国は阿波の北方(粟国)
狗奴国は阿波の南方(長国)
卑弥呼時代の倭国(阿波)は阿波・讃岐・南淡辺り。 @阿波 >>257
ついでに、鉄器の話も、倭国(阿波)の前ではむなしいだけだよ。 やめときなさい。 @阿波 >>271
うん
阿波の南方に狗奴国があるのは当然だ
狗奴国は鹿児島だからな
倭国連合に属する泡沫国家の一つに阿波があるんだよ
もっとよく勉強しなさい
>>272
宗像教授を読めwww >>257
ついでに、勾玉の話も・・・・ これは言う気力もないかwww @阿波 >>274
勾玉の話はよく知らない
阿波で作ってたの?
下請工場だっただけだろ >>257
ついでに、銅鐸の話も・・・・ これは言う気力もないかwww @阿波 >>276
銅鐸は出雲とかあのあたりだろ
四国のド田舎に関連があるの? >>275
>勾玉の話はよく知らない
倭国(阿波)をもっと勉強しなさい。 @阿波 >>277
>銅鐸は出雲とかあのあたりだろ
倭国(阿波)や忌部一族をもっと勉強しなさい。 @阿波 >>278
九州の勢力が畿内を大規模に開発するための足掛かりとして
阿波に生産工場を作ったんじゃないの?
>>279
阿波に落ちた忌部氏は落ちこぼれだろ? >>242
>いくら頑張っても、奈良盆地の東は山ばかり。 「東渡海千里」はどうやっても無理。
邪馬台国東渡海千里なんてどこにも書いてないだろ?
奈良盆地は邪馬台国
女王国は、卑弥呼の共立に関わった祭祀連合
ただし、自女王国以北戸数道里略載と、自女王国以北、特置一大率の二箇所は
女王国がヤマト国 忘れてた
@阿波はキナイコシの同族だったw
あまり相手にしない方がいいwww 自「女王国」以北戸数道里略載と、自「女王国」以北、特置一大率
の2箇所の「女王国」は「奴国」の誤記だろ。辻褄あうじゃん >>248
>混一図を見れば
>会稽陶冶の東に九州があるのも当然だし
>呼子か唐津から伊都国への方角が南東になるのも無理はない
混一図を方角の錯誤の根拠にするならば、畿内が南と書いてあることが排除できなくなる
ただのダブスタじゃんww
九州説はこんなのばっかりw >>284
龍谷大の地図は紙が狭いから向きを変えてるだけ
他の地図は今の日本列島とほぼ同じ向きになっている
そんな基本情報も知らないのがお前 >>269
普通に考えたらというのをよく使う
一人一説が九州説 >>286
畿内説は?
纏向だけ?www
>普通に考えたらというのをよく使う
魏志倭人伝も含めた話だが
普通に考えて書物は記述される
普通に考えないから東を南と読み替えるようなおかしなことを行う >>281
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
邪馬台国(粟国)=女王国 ちなみに、狗奴国(長国)=男王卑弥弓呼
いくら頑張っても、奈良盆地の東は山ばかり。 「女王國東渡海千餘里」はどうやっても無理。 @阿波 >>282
>あまり相手にしない方がいいwww
ぼこぼこにされるから、あまり相手にしない方がいいwww @阿波 >>290
他の地図では向きがおかしくないので
龍谷大の方がおかしいと考えるのは当たり前
混一図は龍谷大の1枚だけじゃないんだよ
4枚ほど存在する
そのうちの3枚は日本列島は今とほぼ同じ向き
だとすると
龍谷大の向きのおかしい地図を信用するのは無理がありすぎる >>285
もっと古い時代の地図から方位が間違って描かれている
だからその説は間違いと確定ずみ >>250
>そして魏志倭人伝自体が過去の書物の引き写しなので
これは正しい
>仮定として、卑弥呼の時代には呼子ではなく唐津にわたることの方が一般的であったとしても
>そのこと自体には何の意味も持たないわけなんだよ
これは逆
以前は唐津に渡っていたのが、卑弥呼の時代には伊都国に直行していたと見るのが妥当
末盧国に官の記載がないのは、官が置かれた時代に末盧国にアクセスしていないためと
考えると分かりやすい
>唐津は松浦川の河口で平野のイメージなので、
それは、>>250の勝手なイメージ
実際には、今の平野面積のかなりの部分が潟湖になっていて平野面積はそれほどなかった
>・山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
>このような魏志倭人伝の記述とは一致しない
「草木が茂り…」は、卑弥呼より古い時代の末盧国に上陸して、佐賀、米多郷へ
抜ける松浦川上流沿いを行く経路の様子だろう >>293
どの地図?
君の妄想じゃなければ名前を挙げてくれ
画像を見たいし来歴も知りたい
>>291
お前がフルボッコになってるだろ
阿波は生産工場www >>292
つまり道理どおりに考えれば、龍谷図が本来のもので、正しく書かれている混一図のほうが修正版だろう >>294
>以前は唐津に渡っていたのが、卑弥呼の時代には伊都国に直行していたと見るのが妥当
それはまた別の話
魏志倭人伝のコピペ元の記述では呼子から伊都国へ向かってた
ということをお前は否定できてない
>末盧国に官の記載がないのは、官が置かれた時代に末盧国にアクセスしていないためと
>考えると分かりやすい
そうなると松浦国が唐津である必要すらない
>実際には、今の平野面積のかなりの部分が潟湖になっていて平野面積はそれほどなかった
戦国末期に開発されたからで
それ以前は呼子と大して変わらなかったのなら
紀元前から邪馬台国の時代以降までの連続した遺跡がある呼子が大陸交通の拠点であったことを否定できないわけだよ >>257
>風土記よりも前の時代に水銀は出てたという事
>邪馬台国の時代に産出してなかったとは言い切れないんだよ
風土記の時代は、記紀よりもあと
飛鳥時代に畿内豪族が九州の水銀鉱床を「発見」しているから、
それ以前には知られていない
>魏志倭人伝は倭国の習俗を説明してるのだから
>邪馬台国に水銀が無くても
>倭国のどこかで産出してたらそれでいいんだよ
大和で鉄鏃がないと言っている連中に言ってやってくれ
ただし、九州が四国、紀伊半島まで影響圏にしていたという九州説ならともかく
北部九州より栄えている出雲、吉備、大和を排除した九州のみの倭国は、
3世紀に丹がないので、その時点で破綻する >>261
>東ではなくもっと南よりを指さすだろう
これが妄想というかウソ
呼子周辺から、可也山が東に見えているから、伊都国は東と答えるよww
東南陸行の方角を守るためのインチキなんだから、いくらがんばっても無駄だよ 425>>668
>平原の頃だよね? 200年前後、ギリで卑弥呼に届くかどうかの墓
3世紀前半でみるといいかな <
平原は、21枚の「尚方作」鏡があるから、3世紀中頃の卑弥呼の死以後。
>首長墓が統一されているかどうか?が重要だが、
前方後円墳の那珂八幡と糸島や唐津地区の方形周溝墓は明らかに"同じ"ではない
それを単純に大きさでの比較を考えるのはどうかと思うが <
時期と部族が違う。
方形周溝墓は、当然出雲系の傾向を残した古い部族らの墓。
前方後円墳は、壹與の次頃の倭國王家が採用した墓。
>特に北部九州はバラつきがあり方形墳丘墓だったり円形墳丘墓だったり、墓の様相は様々
地域や首長次第で墓に対する思想が違う、ということだろう<
100余りの国や部族が30国になり、それに火の国山門の姫氏本家や徐福らの後裔もいて、
婚姻などで離合集散を繰り返したのだから。 >>295
>阿波は生産工場www
九州は、生産する技術さえも持っていないド田舎。
四国のド田舎にも劣る超ド田舎。 @阿波 >>287
各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがなくばらばらなのが、普通に考えた九州説
学者のほぼ通説が畿内説 >>269
>普通に考えたら道路の方向じゃないか?
>呼子から伊都国へ向かうにしても、道路は南東へ向かってるだろ
呼子から伊都国(三雲遺跡群)まで陸行するというのがそもそもおかしい
それに、行程の後半は「北」に向かわないと着かないのに、
最初の方角だけでいいと言うのが噴飯物というか「ザラコク並み」w
それに道路も最初は南向きだよ
あまりにも適当すぎるww >>285
>龍谷大の地図は紙が狭いから向きを変えてるだけ
>他の地図は今の日本列島とほぼ同じ向きになっている
>そんな基本情報も知らないのがお前
安価が間違ってるぞww
>>248に言ってやれw >>305
そもそも、呼子や唐津を末盧国と言ってる時点で、トンデモ確定だから。 @阿波 >>297
>>76か
これってさぁ
文字を〇で囲ってるものと
囲ってないもの
黒字で白抜き
と種類があるけど
日本だと思われてるのはすべて文字を丸で囲ってるよね
これはどういう意味?
国名を記述してるだけじゃないか?
地図に書かれてない東側にこれらの国が存在するという意味じゃないの?
扶桑
蝦夷
日本は丸で囲まれてる
大陸の同じようにまるで囲まれてる
宋
青
揚
越
は何なんだろう? >>299
>魏志倭人伝のコピペ元の記述では呼子から伊都国へ向かってた
>ということをお前は否定できてない
こいつ、本格的なバカだなww
私が否定しようにも、その前に>>299が「呼子から伊都国に向かってた」というのを
「具体的な論拠を示して」「きちんと妥当な論拠で論証する」ことをしないと
こちらとしては、「ただの妄想ですね!」の一言でばっさりで済むんだよ
まず呼子を「末盧国」とする妥当性がないんだからww あと、背振山脈を越えたところに丸を付けて、ここが伊都国って書いてるのも
たぶん>>299だと思うが、国と国との間には人も畑もないんだから、
ここが伊都国ですって言われても、何のこっちゃにしかならないよ
領域国家じゃないんだから、国境を接するという概念はない
国と国との間は無主の地だ >>301
呼子に「上陸したら」伊都国の山など見えないよ
見えないのに見えるつもりになってる
これがインチキ
>>300
>大和で鉄鏃がないと言っている連中に言ってやってくれ
お前が言え
>北部九州より栄えている出雲、吉備、大和を排除した九州のみの倭国は、
>3世紀に丹がないので、その時点で破綻する
倭国はEU連合と同じだよ
西日本一帯の国家連合
たまたま邪馬台国が議長国をやってただけだ >>309
お前の妄想が何だって?
>「呼子から伊都国に向かってた」というのを
>「具体的な論拠を示して」「きちんと妥当な論拠で論証する」ことをしないと
紀元前から邪馬台国を含めてあさらに後の時代までの遺跡が呼子にある
呼子は律令制の頃でも大陸との交通の拠点だった
これ以上ない根拠だよ
お前は反論できないので読めないふりをしているだけ
>>310
>領域国家じゃないんだから、国境を接するという概念はない
つまり、正確な地図が無ければ正確な方向も分からないと自白したわけで
そうなると
呼子の住民からすれば呼子から唐津方面へ行く方向を指し示すのがやはり当然という結論になる >>308
>日本だと思われてるのはすべて文字を丸で囲ってるよね
それは単に波(海)の背景から切り取るためだろ? >>306
つーか、
>>龍谷大の地図は紙が狭いから向きを変えてるだけ
っていう説を出した奴がアタマ変だろ
成立の前後関係を考えないで独断と空想で決めたんだろ? >>314
いくら何でもそんな理由じゃないだろ
大陸の中にも丸で囲ってる文字があるんだから
曲がりなりにも地図なら一定の法則はあるだろ
>>313
なんでわざわざ見える場所に行く必要がある? >>316
上陸地点で伊都國の方位を決める必要がない >>317
旅行記を書くなら、呼子に上陸したときあるいは出発するときに、次の目的地がどこなのか聞いとくもんだろ つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 >>318
状況を限定して言い訳を考えても、結果的に500里先の方位が間違ってるんだから
「南至」も間違ってる >>314
幽で検索したら中国の昔の地域の名前だそうだ
幽州
青や揚も中国での九州という呼び名のものらしいね
という事は
丸で囲ったものは地域の名前だ、国名ではない
扶桑や日本があのあたりに存在するという意味で位置関係ではないんだろう
国名で位置関係もその通りという事なら
扶桑の国を日本国は別の国なのか?
という突っ込みに答えられなくなる >>320
状況を限定しないと呼子から伊都国の山は見えないんだがwww
可也山が見えるから云々というのは言い訳という事だよ >>311
呼子って、どかのつもりでいる?
同じ呼子町でも遺跡のある大友小友は浜辺と岡の上、呼子港は谷間の岩場で遺跡はない
だいたい入港前の北の海上から真東に可也山が見えるぞ
伊都に東南陸行など到底無理無理 >>323
どう限定?
重要なランドマークを無視できる内容? しかし、
テンプレなんて読んでないが
あの程度の粗雑なテンプレなら読まなくてもいいなw
>>326
山に登らないと見えないw
非常に限定的w
しかも無駄
そんな必要はないwww
人に聞けば済む簡単な作業だぞ
地図を作成するわけじゃなくて
どっちにどのくらい進めばたどり着くかの記録なのに
わざわざ山に登ってまで方角を知ろうとする必要性が、無い >>327
地図を作成するわけじゃない記録なので
東南陸行も南至も方位は間違ってしまった >>324
遺跡があるからその遺跡がある場所に上陸するとか
そんなアホな事考えてないだろうね?
遺跡はもともと砂浜
船が往来する港なら砂浜は不便じゃないか?
呼子の入り江に入ると考えるのが妥当じゃないか?
>>325
郡が国並みではないと俺が言ったかな?
その地図に書かれてる丸で囲ってない地域をそれぞれ含めた大きな地方が
丸で囲まれた
宋や青や揚だと言ってるんだが
理解できてない?
それを日本に当てはめると
扶桑と日本、蝦夷、琉球はそれぞれ別の地域だという事になる
扶桑と日本は別の地域だという事になっている
地形が描かれてない
こんなスカスカな記述なのに
位置関係はこの通りだったと思い込むのはバカすぎないか? >>328
東と南を間違えるかね?
太陽が昇る方向を南にして
北を東にしないと畿内にはたどり着けない
それはあまりにもアホじゃないか?
北東を北とか東に間違えるのは仕方がないと思うよ
南東を東や南に間違えるのも仕方ないかもしれない
しかし、
太陽が昇る方向を南というのはちょっと無理 混一図は龍谷大の1枚だけが正しいと言い張ってる根拠が>>76だけという事なので
それを論破したので龍谷大の混一図が正しいとは言えなくなったわけで
テンプレの71番は削除しないといけないね
4枚あるうちの3枚は今の日本列島と位置関係は同じなので
位置関係が大きく違ってたと言い張ることは不可能になったわけだよ >>329
糸島の山が見えない呼子の入り江で道を聞いてしまったので
方位を間違えてしまった
見えない投馬國、邪馬臺國への出航方向を聞いてしまったので方位を間違えてしまった
位置関係は行程通りだったと思い込むバカすぎなのが九州説 >>332
太陽が昇る方向を南と言い張らないと成立しないのが畿内説
畿内説の方も中国人を馬鹿にしすぎてるね >>311
>呼子に「上陸したら」伊都国の山など見えないよ
>見えないのに見えるつもりになってる
>これがインチキ
はいはい、その話も前から出てるんだよww
上陸前の海上から見えているし、東松浦半島から見えているんだから
呼子の上陸地で云々というのは詭弁にしても出来が悪すぎww
ほれ、東松浦半島から可也山が見える「証拠」だww
https://i.imgur.com/ilU5axs.jpg >>301
三雲についたら可也山は北西に見えるから、南東に進んだと考えるかもなぁ
可也山は初めは東に見えており、南へ進み、途中東に方向を変えて可也山の南の海を隔てた陸地をさらに東へ歩き、三雲へ到着
三雲番上地区あたりからは可也山は北西に見える
地図がない時代なら、東南と間違ってもおかしくないと思うがね >>333
500里先は間違えて当然だが
1、2月先の方位は正確だと言張っているのが九州説 九州説なら、残念でした、上陸前は寝ていましたというだろうw >>311
>倭国はEU連合と同じだよ
>西日本一帯の国家連合
>たまたま邪馬台国が議長国をやってただけだ
やっぱりこのバカかww
国際法もなく、法治の概念も希薄な時代に小国がトップを務めるなんてことはできないんだよ
他を圧倒するだけの力はないから共立という形をとるが、それでも最大国でなければ
共立国家群も納得せず、すぐに混乱が生じる
もちろん、卑弥呼個人のカリスマもあっただろうけれどね
実際、魏志倭人伝にも邪馬台国は七万戸の倭国での最大国として書かれている
3世紀の国家連合と、20世紀のEUとを比較できると思っているのがバカの証拠ww 当時、すでに強固な北辰信仰があったのに、
太陽を目印にしたので方角を間違えたなどと、たわごと・与太話もいいとこ。 >>334
見てないけどニュー速スレで論破済み
呼子の入り江からは見えない >>322
>扶桑の国を日本国は別の国なのか?
>という突っ込みに答えられなくなる
この地図を描いたときには、扶桑国と日本国は別国と認識されていた、と
その突っ込みには簡単に答えられるよ
梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条には、扶桑国伝がある 九州の爺は方位を間違った理由を考えてる
畿内説は行程の方位は間違ってると言っている >>329
>船が往来する港なら砂浜は不便じゃないか?
この人、なに考えてんの? 古代人力木造船なんだよ?
>呼子の入り江に入ると考えるのが妥当じゃないか?
荒波で、岩にぶつかって一巻の終わりだよ。 @阿波 >>323
>状況を限定しないと呼子から伊都国の山は見えないんだがwww
>可也山が見えるから云々というのは言い訳という事だよ
こいつ、本当に質の悪い詭弁野郎だな
可也山が見えない状況を限定しているのはお前の方だろうがww
着いた時に方角を聞くとかww
バカじゃん?w >>327
>そんな必要はないwww
>人に聞けば済む簡単な作業だぞ
その聞かれた人は、可也山で伊都国の方角を認識できるから、
伊都国は東と答える訳だ
その聞かれた人は、その辺をうろついているときに晴れた日には
可也山が見えているんだからなww
まあ、その前に呼子に上陸というのがデタラメなんだが
そのデタラメを受けた上でも、東南という方角は否定されるww >>341
そんなに新しい時代ですらそんな認識なら
旧唐書の記述に従って
倭国伝と日本伝のように別の国があったと考えないとね
日本は倭国を併合したという記述も信用したらいいと思うわ >>312
>つまり、正確な地図が無ければ正確な方向も分からないと自白したわけで
逆だww
正確な方向が分かるという九州説の言い分がもし万一仮に正しかったら
地図も正しい方角に描かれていなければおかしいだろ?
そこのところから、>>312は認識がおかしいし、
論理的思考のできないバカだってことだww >>348
そもそも、呼子や唐津を末盧国と言ってる時点で、トンデモ確定だから。 @阿波 >>330
>東と南を間違えるかね?
>太陽が昇る方向を南にして
>北を東にしないと畿内にはたどり着けない
何度書けばいいのかな?
その場に立って方角を間違わないことと、
それを記録して、
その記録を持ち帰って、
その記録の前後関係が紛れることなく、
正しく記録され、
それを収集した史書の撰者が正しく方角を書くことは、同列視できないってww
どうして九州説は、ある場所に立って方角を確認したら、
それが30年後の外国の史書に正しく書かれると言い張れるんだろう?ww
さらに、陳寿をはじめ大陸の古典を読める知識人にとって、倭は百越の流れの
南方系民族という固定観念がある
こうしたことを全部無視して、魏志倭人伝の方角は正しいに決まってるとか言いだすから
知恵が足りないと言われる
さらに、明確に方角が間違っている「末盧国ー伊都国間が東南」を正しいと言い張るために
どこまでも不自然な詭弁に走るのが嗤えてしょうがないw 九州説は伊都國は見えなかったので
方位は間違ってしまったと説明しているので
行程の方位は間違いということで畿内説と一致している >>346
>そんなに新しい時代ですらそんな認識なら
???
梁書だぞ?
魏、晋、南北朝、隋、唐の
南北朝(南朝:宋、斉、「梁」、陳)の梁書
倭国条と扶桑国条は別にある >>340
>見てないけどニュー速スレで論破済み
>呼子の入り江からは見えない
ニュー速スレで論破されて消えたのがお前だろ?ww
本当に、九州説は脳内妄想が現実に置き換わるから嗤えるw >>350
その言い訳だと魏志倭人伝の方角は間違ってる前提で考えないといけないという事で
そうなると松浦から糸島が南東と書き間違えられてても、九州説にとって何の不利益にもならないという事だぞ >>352
はぁ?
>>76
>「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
の話だぞ
12世紀から13世紀の話だ
勘違いしておかしなレスするなら消えろ
>>353
論破されて逃げたのはお前 >>354
倭人伝の方角は間違ってるで畿内説も何も困らんよ >>346
>日本は倭国を併合したという記述も信用したらいいと思うわ
旧唐書日本国伝
日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
「以其國在日邊 故以日本爲名」と
「倭國自惡其名不雅 改爲日本」と
「日本舊小國 併倭國之地」の三つが「或曰(云)」でつないであるんだから、
撰者として一番いいたかったのは、最初だよな?
どうして、3番目の「こんな話もあるけどね」というのだけ、重視しないといけないんだ?ww
だから、九州説はご都合主義のチェリーピッカーって言われるんだよw >>356
さらに数字は誇張してるので当てにならないから九州説には何も影響がないんだよ
まともな地図もなく、方角も無茶苦茶
距離は誇張してるし
別の記述では日本は倭国の別種倭国を併合したと書かれてるので
それを信用したら畿内説は成り立たない >>358
距離も間違ってるで畿内説も何も困らんよ
それと「日本は倭国の別種」記事とは別の話 >>357
倭国伝と日本伝があるのでお前の言い訳は通用しないんだよ
一番言いたかったのは一番最初に書かれている「日本は倭国の別種である」という部分だろwww
チェリーピッカーなんて言葉使わないけど、それに一番ふさわしいのは畿内説のお前だろうなw 本日、学説畿内説と素人衆九州諸説とで
倭人伝の行程の方位、距離は間違いということで合意を得ることができました >倭人伝の行程の方位、距離は間違いということで合意を得ることができました
分かりやすく言えば、
畿内説は、倭人伝の方位、距離を完全無視します・・、ということだな、了解、、。 >>359
距離も方角も間違ってる
けれど邪馬台国は畿内だ
と言ってるんだろ?
何でもありだな
>>361
学説畿内説を妄信する素人
だろ?
素人だから上辺だけで判断する
それが素人畿内説
合意したという事は
水行20日も20日じゃなくてもっと短い可能性もあるという事で
陸行一月も同じくで
九州説で最も弱かった距離の制約がなくなったら
九州説に弱点はなくなるんだよwww >>364
学説畿内説は行程記事を根拠にはしていない
今後、素人衆九州諸説も行程を根拠としないよう希望します >>354
>そうなると松浦から糸島が南東と書き間違えられてても、九州説にとって何の不利益にもならないという事だぞ
不利益はないなら、そう認めればいいだろ?
ただ、「東を南とは間違えるはずがない」とは言えなくなるってだけだがなww 九州説は
唐津ではなく呼子に上陸したという無理のない主張しかしてないんだがな
呼子は卑弥呼の時代よりも後世の律令時代ですら
・大陸交通の拠点であったという事
・紀元前からの連続した遺跡がある事
・壱岐から一番近い九州本土
等から
唐津に上陸する必要性が無い >>367
行程パズルはさきほど終了しましたので、
唐津上陸でも呼子でも邪馬台国比定には影響しません >>365
お前が勝手に思い込んでる学説畿内説って
畿内に大きな勢力が存在した
だから邪馬台国だ
という頭の悪そうな説だろ?
>>366
水行20日、陸行一月だから九州を飛び越えるという話もできなくなるぞ
>>368
いいや
「記述はある程度信頼できる」と仮定した場合でも九州説は成立するという話だよ
君のように方向も距離も完全に信用できないとしないと成立しない畿内説とは違うんだよ >>369
>阿波は裏切り者
えぇ〜、どういうこと? @阿波 >>370
>>18の◆FAQ 3−1
「〜行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
を一読してください
>「記述はある程度信頼できる」と仮定した場合でも九州説は成立する
九州パズル団残党の方は>>358とパズルスレで談笑してください >>372
ほんとにこのテンプレって頭の悪い奴が書いたんだろうな
なんで直線距離で考えてるんだ?
まともな地図もないのにどうやって直線距離が出せるんだ?
沖縄本島の南海上とかwww
そんなアホな考え方してるから方位も距離も間違ってないと成立しないとほざくんだろうな >>373
「方可四千里」(韓伝)も間違いで合意ということですな、了解 >>374
「可」が重要
戸数を記録した文章では
可五万戸だと推計五万戸という意味
有二万戸だと二万戸有るという意味
それを援用すると
推定して四千里という意味になるので四千里ないといけないわけではない 秀吉が朝鮮出兵したときも朝鮮が意外と小さくて驚いてたし古代人の認識も推して知るべし >>375
まともな地図もないのに直線距離は推定できないんだろ? >>377
あのね
山や谷や川を貫かないと分からない距離と
沿岸部を船で通る場合とで
条件が同じだとでも?
畿内説はそういう屁理屈しか言えないの?www >>378
その沿岸部を船で通る場合というのは直線距離なの? 425>>674
>後漢書の大倭王は、明らかに大和・河内王権の大王。<
これ完全な間違い。
後漢書は、倭奴國や倭國王帥升らや卑弥呼を、
魏志が書いた郡から萬二千里を踏襲し、
拘邪韓國を郡から七千里も踏襲しているから、
大倭王は、北部九州の王だ、とはっきり主張している事になる。
>拘奴国が東にあるとしていることでも、邪馬台国は大和であることが分かる。
その情報は、倭王讃の使節団から得たものだろう。<
拘奴国はが狗奴國の事であれば、魏代には女王國の南にあったのであるから、
後漢代にも、普通は女王國の南にあった事になるしかない。
>大和の南に強国がないこと、東にならあるという情報を得たということだ。
その情報をもとに、倭人伝の南を東に書き換えた。・・・<
「南≠東」だから、×。 >>379
本当に直線かどうかなんてわからないんじゃないか?
というか、お前が言いたいことがよくわからん
ただの屁理屈で揚げ足取りしたいんだろうな
という意思がにじみ出てきてるのは分かる
門司港から佐多岬までの直線距離が
邪馬台国の時代に分かるか?
という話なんだがな >>381
「方可四千里」は直線距離
お前が言う沿岸部を船で通る場合が直線かどうかなんてわからないなら
行程記事の「七千餘里」は距離情報にならないということでいいかな? 九州説は距離の測定方法は決して言わないから机上の空論
実証実験すれば畿内説を黙らせられるかも知れないのに誰も試そうとしない >>382
だからさぁ
中国大陸で中国人が過去に何年も何百年も住んでる場所なら、それなりの地図もあるだろうし
それでおおかたの直線距離を出すことも可能だろうよ
朝鮮半島も日本と比べたら中国人の往来は多いだろ
それを未開の辺境の日本で同じことができるわけないだろ
という話なんだよ
もうちょっと頭のいい奴を連れて来いよw
>行程記事の「七千餘里」は距離情報にならないということでいいかな?
次のレスで答えてやるよ >>382
>行程記事の「七千餘里」は距離情報にならないということでいいかな?
以前ニュー速でうpしてやった画像だ
https://i.imgur.com/nKWRwVj.jpg
https://i.imgur.com/6jYYB1u.jpg
https://i.imgur.com/Ankt299.jpg
北九州市から鹿児島市までの直線距離は255キロ
しかし沿岸部をなぞっていけば600キロを超える
これは現代の道路においての話なので
古代の獣道のような道路を想定したらもっと距離は長くなる
徒歩の行程記事ってそうやって実際に歩いた距離を記述するんじゃないか? >>385
お前の言ってるのは
>>358の「方角も無茶苦茶、距離は誇張してる」
>>378の「山や谷や川を貫かないと分からない距離」=陸路は誇張した道なり距離
>>381の「直線かどうかなんてわからない」=沿岸水行距離は不明
だな
畿内説の
>>18の◆FAQ 3−1
「〜行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
と、行程記事情報では比定できないということで一致していると あぁ、
7千余里は魏志倭人伝の記述か
「渡一海千里」は
千里じゃないと考えてる
沿岸を航海するのではなく、海を渡った場合は一日進めば千里とか
そんな数え方なんだろう
そもそも海の距離を測るなんて現実的に不可能だしな >>387
渡海距離も不明であるということだな、了解 >>388
出かけるので、九州パズル団の残党討伐をやっててくれ >>388
あー
アスペみたいに何が何でも全部の渡海距離は不明とは言ってないので勘違いするなよな
魏志倭人伝に関してなら
朝鮮半島から対馬
対馬から壱岐
壱岐から呼子
この間の距離は測っていなくても千里
ということだから >>373
>なんで直線距離で考えてるんだ?
>まともな地図もないのにどうやって直線距離が出せるんだ?
>沖縄本島の南海上とかwww
あなたの頭が悪いから理解できないだけだよ
書いた本人がそう理解して
倭がとんでもない場所にあると断定した
つまり書かれた距離情報も方位も間違いだと
結論が出た
そういうこと >>392
正確な地図と方位が分かってて
エンジン付きの船でどこへでも行けて
道路はまっすぐで舗装され
川は橋があり山はトンネルで貫いてる
それが常識の現代人が
古代人の旅程を曲解するから沖縄の南海上とか言ってしまうんだよ >>392
>>385の通り
畿内説のアホは直線距離で測ってるので
北九州から鹿児島市までの距離を255キロで考える
古代人は直線距離など分からないので沿岸部を伝っていった現実の踏破距離である600キロで記述する
こういう事だよ 425>>697
>理由を改めて書いたが、テンプレに既に書いてあるんだよ<
テンプレは既に批判してあるし、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・であるから、
何の価値も関心もなく、読まないよ。
価値がある、と思えば、その部分を転写しな。 >>335
>三雲についたら可也山は北西に見えるから、南東に進んだと考えるかもなぁ
その話も、既に出たんだよ
同じ話を性懲りもなくww
呼子のあたりから遠く小さく見えていた可也山が、すぐ近くに大きく見えるんだから
可也山のそば=東に来たと思うだけだよ
伊都国(三雲遺跡群)から見た可也山
https://i.imgur.com/vOORE36.jpg
>>334の写真と比べてみてごらん
俯瞰の写真だとこんな感じ
呼子からの可也山
https://i.imgur.com/CmghoqN.jpg
伊都国からの可也山
https://i.imgur.com/cieiYbz.jpg 古代人は北九州市から鹿児島市までは600キロと記述する
畿内説のアホは
北九州市から鹿児島市までの直線距離は255キロなので600キロだと九州を通り超えて海の上になる
なので古代人の記述は間違いだと言い張る
畿内説のアホが
邪馬台国は沖縄の南海上とか言ってる原因がこれ 425>>697
>理由を改めて書いたが、テンプレに既に書いてあるんだよ<
テンプレは既に批判してあるし、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・であるから、
何の価値も関心もなく、読まないよ。
価値がある、と思えば、その部分を転写しな。 425>>697
>理由を改めて書いたが、テンプレに既に書いてあるんだよ<
テンプレは既に批判してあるし、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・であるから、
何の価値も関心もなく、読まないよ。
価値がある、と思えば、その部分を転写しな。 425>>697
>理由を改めて書いたが、テンプレに既に書いてあるんだよ<
テンプレは既に批判してあるし、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・であるから、
何の価値も関心もなく、読まないよ。
価値がある、と思えば、その部分を転写しな。 >>393
>古代人の旅程を曲解するから沖縄の南海上とか言ってしまうんだよ
ばかだな
沖縄の南海上あたりを示したのは陳寿本人だぞ
曲解したのは古代の人々だ
そして宋の人も曲解して倭人が杭州より南にある地図を書いた
それは倭の南に日本があったりする地図だ
南だー短里だー言ってたら邪馬台国のことは解らない
これは最終結論なんだよ 425>>701
>赤坂今井墳丘墓や西谷墳墓群、楯築墳丘墓は、各地の首長が覇を争って
権力誇示のために巨大墳丘墓を作っている時代だよ<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があって、出雲や越が残って行った時代。
>それが卑弥呼の共立によって、前方後円墳に首長葬送の墳墓祭祀が統一される<
卑弥呼共立は、九州倭国内での事件。 >>401
陳寿はそんなこと言ってない
会稽陶冶の東は今の地図でも屋久島あたり
アスペみたいに真東と考えずに
北東から南東の間くらいに考えても九州は東になる
北東がダメだと言い張るなら東北東でもいいぞwww >>399
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・である
とか連呼するのって
批判じゃないから
ただの悪口だから >>403
>アスペみたいに真東と考えずに
陳寿本人が、ちょうど東と書いているのに?
罵ってもダメ
インチキはダメ 425>>792
>テンプレとは違うけども、これはもう、日本海ルートだと思いますよ。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>406
不正確な地図でちょうど東くらいと言ってるのだから
真東であるはずがないだろ
インチキはお前 この件、九州説はインチキ詐欺しないと死ぬんだけど
インチキ詐欺したらやっぱり学説は死ぬんだよね
つまり九州説は死亡が確定してる 425>>792
>テンプレとは違うけども、これはもう、日本海ルートだと思いますよ。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>408
>不正確な地図でちょうど東くらいと言ってるのだから
>真東であるはずがないだろ
ほら、早速もう九州説はインチキを始めました
「不正確な地図でちょうど東くらいと言ってるのだから」
って捏造だよね
陳寿は計算して結論を出したと言っている
自分の書いたデータからね >>412
その計算が間違えてるんだろ
その陳寿の記述ってどこにあるんだ?
ちょっと引用してみろ 九州説>>408のやらかしたインチキ捏造
みんなが目撃しましたよ テスト投稿
ただいま、全面的に?投稿出来ない?状態。 >>414
不正確な地図の時代に真東だと思われてたという話だから
今の正確な地図で真東じゃなくても何も問題ないしインチキでも何でもないんだよ 九州説は自説の通りに8尺棒を立てて台湾と九州の緯度が同じだと証明すればいいよ >>417
>不正確な地図の時代に真東だと思われてたという話だから
「不正確な地図の時代」って、なんか情報あるの?
九州説、また捏造かな? 九州説はインチキと捏造以外に何が出来るんだ?
教えてくれ >>418
過去の文献を引き写して計算したんだろ?
不正確な地図の時代ならそれでもいいんだよ
今は、その当時の地図がどんなだったのかも忘れ去られてる
今の地図では
違っててもしょうがない
>>420
今みたいに人工衛星からの撮影画像と比較したり
GPSで確認しながら測量した地図と
邪馬台国の時代の地図が同じ正確さだと言ってるの?
バカだなぁ 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 魏志倭人伝がそもそも過去の文献の引き写しというのは畿内説九州説の区別なく当たり前の話だと思ってたんだがなぁ
畿内説の一部のアホは陳寿がすべて書いたとでも思ってるのかな? >>404
それバカの発想
船は山立てしながら進むんだよ
半島の陰に入って東側が見えなくなってからの写真なんてなんの根拠にもならない >>423
>過去の文献を引き写して計算したんだろ?
>不正確な地図の時代ならそれでもいいんだよ
つまり、そんな情報で邪馬台国の位置がどこだとか言ってる九州説は究極の馬鹿者だね
畿内説は行程記事で邪馬台国を比定しないから
当然セーフだが >>426
山建てで伊都国の山を利用したとする根拠はない
他の目印だってあるんだぞwww >>427
畿内説は東と南を間違えて
エンジンもない船なのに、一日当たりの移動距離を長く設定しないとたどり着けない
呼子に上陸して糸島その他を陸上移動してその後また船に乗るという頭の悪い方法を取らないとたどり着けないのが畿内説 >>380
1万2千余里の行程は、実際の邪馬台国の位置とは無関係。
普通は女王国の南にあった事になるしかない、というは正しい。
だが、その南に拘奴国はなく、東にあると書いてあるのだから、後漢書の著者のハンヨウは東にあると判断できる情報を得たのだと考えるよりない。
そして、その情報をハンヨウに与えることができたのは、倭王讃の使節団しかない。
5世紀の倭の王が河内・大和に政権を置いていたのは歴史事実。
したがって、5世紀の倭王の政権の前の3世紀の倭王の都も讃と同じ河内・大和にあったと判断したわけ。
卑弥呼の倭国と讃の大倭王国は一貫した国であると考えた最初の人物がハンヨウ。
それ以降、歴代中国史書は、このハンヨウの後漢書の考えを踏襲しているもの。
倭人伝や魏略の南を東とするのは間違い、というのは正しい。 怡土郡の糸島にイトコクがあったなどと云うは、
神功皇后記のパクリ・捏ねくりまわしにすぎず、物笑いのネタ >>426
船が上陸するなら入り江だろ
しかも大友遺跡の砂浜なら間違いない
上陸した後に現地人に伊都国はどこか尋ねるだろ >>431
怡土郡と志摩郡を合併したのが糸島だからなあ。
怡土が伊都ではないという脳味噌が、物笑いのタネ。 >>431
>>433
なるほど
今の糸島市役所は志摩郡になるわけか >>429
アホですね
間違い情報なんだからね
間違い情報どおりに進んでる辿り着いた場所が
邪馬台国なワケはない >>435
会稽陶冶の東も
真東ではないが、おおかた東
呼子から伊都国もおおかた南東
距離は直線距離ではなく実際の道のり、あるいは一日歩けば何里と決まってたのかもしれない
海は渡れば千里
そうやって
それほど間違ってないと考えれば九州説は成り立つ >>432
>しかも大友遺跡の砂浜なら間違いない
だから砂浜なんだよ
大型船は無理
漁村なの >>436
>そうやって
>それほど間違ってないと考えれば九州説は成り立つ
換言すると、限度を超えてデタラメしないと九州説は成り立たない
会稽郡最北端を無理矢理「会稽東治」にするのも
九州インチキの一つだね
方位を間違うわけがないのだー正確だーと叫んだかと思うと、すぐコレよ
チェリーピック九州だもんね >>433
>怡土郡と志摩郡を合併したのが糸島だからなあ。
こちら糸を怡土というようになったのは、神功皇后に時代よりのちのこと。
その怡土と、向こうの島(志摩)が合併して、今の糸島になった。
志摩は、まさに島だった。 >>437
じゃあ隣の入り江でもいいぞ
午前中は砂浜じゃないと船がぶっこわれるとほざく畿内説がいたからな
名護屋浦でもマリンパル呼子がある入り江でもどっちでもいいぞ
>>438
いいや限度を超えた出鱈目じゃないと成立しないのは畿内説
東を南と間違えるような限度を超えた間違い
これが畿内説だよ
よく覚えとけよ
九州説は限度を超えてない
東は東
南ではない >>440
となりの入江って、どこの?
具体的情報プリーズ >>442
>>名護屋浦でもマリンパル呼子がある入り江でもどっちでもいいぞ
名護屋浦と書いてるし
マリンパル呼子のある入り江でもいいと書いてるんだが
読めないのか? >>440
>午前中は砂浜じゃないと船がぶっこわれるとほざく畿内説がいたからな
だから当時の港は川岸が潟港なの
遠浅の浜は小舟しか着けない
九州説は基礎が分かってない人ばかりだね >>425>>723
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>360
>倭国伝と日本伝があるのでお前の言い訳は通用しないんだよ
こんな理解力で、日本史スレに出入りしているって時点でお笑い草ww
唐代以前の史書 全部倭国伝
唐代の史書 唐代に改号があったので、改号以前が倭国伝、改号後が日本国伝
唐代以降の史書 全部日本国伝
そして、唐代史書の倭国伝の記事、登場人物がすべて畿内大和朝廷のもの
倭国も大和だったという証拠にしかなってないww
>一番言いたかったのは一番最初に書かれている「日本は倭国の別種である」という部分だろwww
これ、「別種」って「同じものの別の呼び方」ってだけなんだけど?
物知らずは怖いもの知らずで、恥知らずだww >>367
>唐津ではなく呼子に上陸したという無理のない主張しかしてないんだがな
呼子には「国がない」というのが一番の無理なんだが?ww 425>>731
え?
こいつ脳死んでるの?
大和説が変な主張して、なのに証拠提出は断った
という異常な状態なんだけど
大和説は頭が悪すぎて現状が理解できないの? >>443
>マリンパル呼子のある入り江でもいいと書いてるんだが
>読めないのか?
アホ、そこが呼子港や 425>>733
>箸墓は年代が合わないとか、お前はもう二度と言うなよww<
卑弥呼は、3世紀中頃の「冢」だし、
箸墓は、「布留の前方後円墳」で4世紀以降だから、
年代が全く合わないよ。 >>404
またダサい写真を出してきたなww
>>396とどっちが説得力があるか、見れば分かりそうなものなのにww >>448
またザラコクがウソついて他人を中傷してるのか
九州説は人の道をふみ外した老人がやけに多いな 425>>736
>九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる <
大和日本国は、九州倭国の別種の旧小国の附庸國であったんだよ。 425>>740
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説キチガイが、
どんなに見えない振りしてバカ丸出しの間抜けな逃げ口上を言い続けようが、
現実は現実 >>413
>その計算が間違えてるんだろ
>その陳寿の記述ってどこにあるんだ?
>ちょっと引用してみろ
無恥の能力の足りないバカが、煽る煽るww
魏志倭人伝くらいきちんと把握してから出て来いよ
計其道里、當在會稽東冶之東。
「その道里を計る(計算してみると)に、まさに(ちょうど)会稽東冶之東に在り」だよ
おバカさんww 425>>745
>魏使は倭国の情勢調査もお仕事だから、倭国側が見せびらかしたかったというより、
魏使が出雲を回るように求めたんだと思う <
「南≠東」などに拠って、×。 わざわざ半島の陰で東側の見えない場所を選んで「呼子から可也山が見えない」と文句いう人、なんなんだろうね
水人が海の上で位置確認をしないと主張してるのかな 425>>747
中国史は、大和の勢力は、
九州倭国から別れた別種の旧小国であったかえらことを示し
九州倭国の属国であることを明示し続けている
考古学では大和は、
3世紀末以後の「東征毛人五十五國」に拠って征服で造られた巨大古墳位しかなく、
ロクな物がなく、古墳時代になるまで鏡さえも見つからない
それがバカが現実から目をそらし逃げ回り続ける大和の現実 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>458
という証拠をまったく出そうとしない珍人ザラコク >>457
水人じゃなくて中国から渡ってきた人だからだよ
もうちょっと考えてレスした方がいい
>>455
コピペだからそもそもおかしかったんだろうに
>>451
古代の人は空を飛べませんよwww
目の前に山があるから俯瞰した画像でごまかしてるんだろうがwww
>>449
呼子港ならそれでいいんじゃないか?
大友遺跡に砂浜とは違うというだけの事だ
>>447
見過ごされているのか、未発見か、名護屋城を作るときに消え去ったか
好きな方を選べwww >>429
>畿内説は東と南を間違えて
>エンジンもない船なのに、一日当たりの移動距離を長く設定しないとたどり着けない
それ、お前さんの脳内畿内説だろ?ww
畿内説が言っているのは、陳寿が倭国と南国だと認識していた、ということ
そして、一日の水行距離は20キロ程度だぞ
人が歩く速度とほぼ同じ、時速5キロ程度で午前2時間、午後2時間進む程度
それで、北部九州から出雲が16〜18日、出雲から丹波が6〜9日で
10日単位で丸めるとそのまま、水行20日と水行10日になる
九州説の一派は水行10日陸行1月は帯方郡からの日数だとかいいだして、
1日に100キロ進む船じゃないとたどり着けない旅程で自爆しているけどねww
>呼子に上陸して糸島その他を陸上移動してその後また船に乗るという頭の悪い方法を取らないとたどり着けないのが畿内説
呼子に上陸したとか言っているのは、>>429のバカだろ?ww
畿内説の総意ではないけれど、私はそもそも卑弥呼の時代は末盧国には寄っていないし、
伊都国、奴国、投馬国へもずっと船で水行していると考えてるよ
それが最も合理的だ >>423
>今みたいに人工衛星からの撮影画像と比較したり
>GPSで確認しながら測量した地図と
>邪馬台国の時代の地図が同じ正確さだと言ってるの?
>バカだなぁ
といいながら、東を南と間違えることはないって言い張ってるんだよな?ww
バカダナァ >>428
>山建てで伊都国の山を利用したとする根拠はない
>他の目印だってあるんだぞwww
それが言いたかったら、「具体的に他の目印を挙げて論じる」ってことをしなさいな
できなければ、ただの駄々捏ねだけの無能
可也山が洋上からもよく見えるランドマークだというのは、妥当な推論だし
山立てしながら進むというの、妥当で常識的な推論
それを否定するなら、その分強固な反証の根拠と論証が必要なんだが、
その能力は>>428にはなさそうだなww >>431
>怡土郡の糸島にイトコクがあったなどと云うは、
>神功皇后記のパクリ・捏ねくりまわしにすぎず、物笑いのネタ
神功皇后紀よりも、三雲遺跡群や端山古墳築山古墳の存在の方が、
伊都国比定地の根拠としては重要だろうにw
考古学を全無視しないと成り立たないから九州説は大変だww >>462
それどうせ放射説だろ?
短里や放射説と話すのは無駄だから
>>463
東は太陽が昇る方向だからなぁ
それを南というのは昔の人でもおかしいと思うだろ
>>464
船乗りが方向を知る方法で、中国から渡ってくる人とは関係ない話だからだよ >>461
>水人じゃなくて中国から渡ってきた人だからだよ
>もうちょっと考えてレスした方がいい
さっきまで、着いたところで土地の人に方角を聞くって言ってたのはウソだったことにするのかい?ww
土地の人は水人だし、洋上からも陸上からも可也山を見てるし、土地勘があるから間違わないよw
もうちょっと考えてからレスできないのかな?
自分の書き込み同士が矛盾しまくりww 425>>752
「南→東」などの嘘つき騙しのバカ大和猿が逃げても、
現実は変わらない 425>>757
「南→東」などの嘘つき騙しの低能大和説と会話する必要などない
ただ現実を言えばいい
大和キチガイが目をそらそうが、
それが動かしがたい事実 >>466
>東は太陽が昇る方向だからなぁ
>それを南というのは昔の人でもおかしいと思うだろ
じゃあ伊都国はなんで東南陸行なんだ? >>209
ちゃう、ちゃう。
「居」は、(そこに腰を落ち着けて住む)の意味。(学研漢和大字典) 425>>758
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のアホが、無視して知らない振りしても、
現実が変わるわけもない
ただ本当の事を言い続けるだけで良い >>467
地元の人が陸上に立ったなら
道路を指し示すと言ってるんだよ
今の漁師でも隣町へ向かう方向を聞かれたら道路を指し示すよ
もうちょっと考えろよwww
隣町の方向を聞かれて隣町の市役所の方向を指し示す人はなかなかいないぞ
だからお前の主張は穴だらけなんだよ 怡土郡だからイトコクがあったと云うのは、
神功皇后記のパクリ、捏ねくりまわし、物笑いのネタ 425>>762
中国は、倭奴國からずっと九州の勢力が日本の中心として中国と交渉している、
と理解しているのが明確
最初から大和説も、大和朝廷も中国は一切考えてもいないのが分かる
大和猿が幾ら聞こえない振りしてもこれが現実 >>473
>地元の人が陸上に立ったなら
>道路を指し示すと言ってるんだよ
つまりアホ言ってるんだよ
俺んち玄関南だから北海道いくのも南陸行だァ〜ってさ 425
>>764
大和は、中国史を通して、九州倭国に属する僻地であると書いているのが分かる
大和朝廷や大和説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない
インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが大、大和
女王国にさえ入らない属国
能無し大和キチガイがどんなに逃げ回ろうがこれが現実 >>475
とうとう伊都国を移動させてしまった九州説は末期猩猩 >>461
>コピペだからそもそもおかしかったんだろうに
この部分は、先行史書に対応部分がないから陳寿オリジナルの記述だよ
コピペじゃない
陳寿がその道里を計ってみて、まさに会稽東冶之東になると判断している訳だ
もうちょっと考えてから書き込みすればいいのにw >>470
>じゃあ伊都国はなんで東南陸行なんだ?
太陽が昇るのは東の方向だったから。
伊都国があったのは東南の佐賀平野の方向だったから。ともに間違いございません。 425>>768
大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の附庸國の一つであり、
隋の開皇末に初めて中国に遣使を派遣出来た国。
これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく大和の現実 いくらゴネても
北部九州は
会稽よりはるかはるか
北の国 >>477
船から降りた人に教えるのに
なんで 船で進む方角を教えるんだ?
それこそアホ回答じゃないか
>>480
いや
先行史書に無い?
なんで先行史書すべてを読んだ気でいるんだ?
陳寿が自分で邪馬台国まで行ってないのは当たり前なのだから
方向も距離もすべて伝聞
しかも陳寿が生きていた時代の記述とは限らない
それらを含めて計算しても大した意味はない 425>>769
>2世紀末に銅戈が大阪湾上陸 →3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入<
大和の庄内の最初は、3世紀末の撥型前方後円墳の石塚が最初。
筑紫は、筑紫の胎土でもっと早く3世紀前半頃には、筑紫の胎土で庄内を造っていて、
大和からの庄内の搬入上納は、僅か。
>3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入 <
卑弥呼や壹與らから東征将軍に下賜された(おそらく)明帝の鏡。
>→畿内から布留式土器が博多湾へ流入<
布留の始まりは、米田に拠れば、南加賀。 >>461
>古代の人は空を飛べませんよwww
>目の前に山があるから俯瞰した画像でごまかしてるんだろうがwww
俯瞰ではない、地上からの画像もつけてあるよね?
呼子に着いて聞く相手の地元の人が日々見ている光景も示してあるよ?
分かりやすくするためにつけた画像について「だけ」コメントするところが
チェリーピッカーの本能なのかな?
もう少し考えてから書き込みすればいいのにww >>484
>陳寿が自分で邪馬台国まで行ってないのは当たり前なのだから
>方向も距離もすべて伝聞
であろうが
書いた本人が
書かれたとおり行くと
長江より南なのだと書いているの
つまり
「書かれているとおり読んだら邪馬台国は九州」
というのは
ウ ソ
>>488
>そこは船着き場じゃないですよ
どこが船着場?
具体的に行こうじゃないか >>487
現実問題として
長江より南に存在しないのだから、陳寿の計算方法がどこか間違ってたんだろ
なぜ間違えたかというと
伝聞で記述された方向か距離のどれかが違っていたという事だろうな
>>489
大友遺跡の砂浜か呼子港な
邪馬台国の時代よりも後の律令制の頃でも大陸交通の拠点だったのだから
あのあたりのどこかでいいと思うんだが 日之出の方向は東、
伊都国の方向は東南、これ宇宙の真理 結局呼子詐欺ジジイの伊都国(と邪馬台国)は怡土郡糸島。 >>490
遺跡があるのは大友小友(登望)な
呼子港じゃない >>475
これを何度も貼るあたりがアタマ悪すぎw
この、伊都国といって○がつけてある所、人も住んでなければ田畑もないところだぞw
そんなところが伊都国の訳がなかろww
伊都国の国境を指すとかバカなことを言い出しそうだが、
これも何度も言っているけれど領域国家以前には国境の概念はない
旅程の途中の何もないところでここが伊都国ですってなる訳がない
こんな地図で、呼子が末盧国で、この丸が伊都国でございって言ってるんだから、
まあ、控えめに言ってバカ丸出しだなw >>461
>古代の人は空を飛べませんよwww
>目の前に山があるから俯瞰した画像でごまかしてるんだろうがwww
俯瞰ではない、地上からの画像もつけてあるよね?
呼子に着いて聞く相手の地元の人が日々見ている光景も示してあるよ?
分かりやすくするためにつけた画像について「だけ」コメントするところが
チェリーピッカーの本能なのかな?
もう少し考えてから書き込みすればいいのにww 425>>776
「南→東」の嘘つき騙しが最高に笑えたりして
大和説脳死してる 陳寿が政治的な理由で東にあった大和国、邪馬台国を
帯方より南1万2千里の会稽東治(冶)の東
現在の地図で見ると沖縄や台湾辺りとした
だから九州上陸時点で方角が南へ南へとズレていく >>496
どこかわからないけど宮崎〜大分南部になにかある説の
ちょろまかし詐欺ジジイだなw >>494
どちらでもいいけど
そこからだと糸島は見えないよ
>>495
何もないところはどこの国にも属さない?
アホw
>>497
何度かループさせないといけないのがこのスレのルールなのか?www
>>488
>>490 425>>781
「南≠東」などの嘘つき騙しを、
必死に見えないキコエナイを繰り返し、
逃げ回る大和猿の姿に抱腹絶倒 >>501
なんで見えなきゃアカンのだ?
半島の陰なんだから東側が見えない
これ、子供でもわかること、だよな?
魏の使者は船の上から景色みないのか?
上陸したら丘の上とか登らないのか?
測量や地誌を担当する武官は同行してないんだな?
それで、いいんだな? 425>>784
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
九州説の根拠を曲解捏造して批判する、嘘つき騙しの宣伝をする。
これが大和説バカが必死で唱え唱える「大和が日本の中心の最先端地域」の現実 425>>789
大和説のアホが、
必死こいて現実から目をそらして
ホラを吹きながらのたうち回る姿が、最高の見世物 上陸を呼子に必死にこだわっても、
肝心の邪馬台国は宮崎〜大分南部になにかあるだろw >>504
>なんで見えなきゃアカンのだ?
陸に上がって伊都国へ行く方向を指し示す時に、見えない方向なんて指ささないよ
>魏の使者は船の上から景色みないのか?
魏の使者ではないだろう
もっと前の時代の記録
ではその人が見たかどうかだと、
見ただろうけど、それで分かるのは自分が今いる海上からの方向であって
呼子からの方角は分からないだろうな
>上陸したら丘の上とか登らないのか?
魏の使者がわざわざ上る事は無いだろう
測量は専門の者に別途ヤラセるだろ
>測量や地誌を担当する武官は同行してないんだな?
測量させながら進むとは考えられないな
そんな事してたら普通に進むよりも何倍もの日数がかかるし、
松浦から伊都国が南東で500里とか
その程度しか測らないなら意味無いだろ
魏志倭人伝の時代より前の記録か
魏の使いが記録したならさらっと上辺だけの記録になるだろうな ザラコクはウサン臭すぎるので
嘘をつくことは出来ても
ひとを騙せない
信用ないからね >>501
>何もないところはどこの国にも属さない?
>アホw
これに「アホ」と答える時点で、現代の感覚でしか考えられない無能w
国と国との関係を示す地理情報は、基本的に点と点との関係で記述されているんだよ
国を通過する間の距離などは記述され地ない
根本から常識がないから、恥知らずで無能なんだよな、この>>501はww
まあ、その前に呼子を末盧国と言い張る時点でバカなんだが
しかも、魏志倭人伝の方角は間違っていないというために「呼子=末盧国」と
言い出したのに、結局方角はいい加減であてにならないってことにしてるしww >>484
>船から降りた人に教えるのに
>なんで 船で進む方角を教えるんだ?
>それこそアホ回答じゃないか
この前提が、バカ丸出しなんだよなぁ
伊都国がどちらにあるか聞いて、歩き始める方角を示したからそれを書いたって、
魏使の能力をバカにしすぎだろうww
しかも、歩いている間は、太陽の方角で方角は間違えないって言ってるのに
最初に東南と言われたから歩いている間に北に向かったけれど
地理、旅程記事で、東南と書きましたとかww
完全にザラコクの、出発方向が合ってるからいいんだっていうのとシンクロしてるw
しかも名護屋浦あたりに到着したら出発方向は南だww
あるいは、入り江の奥に付けたら、半島外周に出るために最初は北向きかもねww
自分の書き込みの間で矛盾を展開するのは止めろと何度言わせればww >>504
それとな
魏の使者が上陸する場合
使者が乗ってる船は中国の船じゃないか?
船員も中国あるいは朝鮮人じゃないかな?
>>511
だからお前は馬鹿なんだよ
伊都国の住民はどうやって生活するんだ?
どんぐりの木を他人にとられないように、
これは俺のものだと主張するんだよ
動物の狩場があれば、そこは俺たちの狩場だと主張するんだよ
そうやって伊都国の周辺も伊都国の住民の所有なのだとなっていくんだよ
唐津の住民が、これ以上先でどんぐり取ったり狩りをしたら伊都国の奴らにヌッコロされるからやめとこうッてなると
そこは必然的に国境い(くにざかい)になるんだよ >>508
>陸に上がって伊都国へ行く方向を指し示す時に、見えない方向なんて指ささないよ
ばかですか?
陸に上がらないと伊都国へ行く方向のこと考えもしないの?
行軍のとき土地勘を働かせるようなスタッフは、魏使一行には一人もいないってことで、FA?
誰が誰に行く方向を指し示すの?
行き先はどこか知らんが出かけた時の道は南向きだから「南陸行」とか書き残すレベルのメンバーってことで
これが九州説のFA? >>512
>魏使の能力をバカにしすぎだろうww
魏使じゃなくてもっと前の時代の記述だろうな
>しかも、歩いている間は、太陽の方角で方角は間違えないって言ってるのに
>最初に東南と言われたから歩いている間に北に向かったけれど
>地理、旅程記事で、東南と書きましたとかww
大雑把に言えば半島を南下して唐津方面へ向かうのだから北上していない
その後、国境い(くにざかい)へ東進するのだから全体として南東だぞ
もっと記述をよく読んで勉強しろ
素人かwww
>自分の書き込みの間で矛盾を展開するのは止めろと何度言わせればww
お前には読解力が無いんだよ
だからそう勘違いするんだ
>>514
>陸に上がらないと伊都国へ行く方向のこと考えもしないの?
呼子へ上陸するまでに乗ってた船は中国か朝鮮の船で船員も同じだろう
上陸してから考えても不思議ではないな
>行き先はどこか知らんが出かけた時の道は南向きだから「南陸行」とか書き残すレベルのメンバーってことで
呼子から唐津方面へ南下、唐津から伊都国の国境まで東進
全体として南東方向へ進んだ
うん、
完璧だね >>513
伊都国の国境いまでの500里が末盧國内移動なら
次の「東南至奴国 百里」の起点はどこになるんだ? >>513
船は和船だろう
朝鮮半島と何度も行き来して慣れてるし
海が荒れたら放り込まれるジスイが乗ってると魏志倭人伝にもある
当時の船を模した船形埴輪も見つかっている 425>>795
「南→東」などの嘘つき大和説猿が逃げようとしても、
すぐに現実に回り込まれる >>516
伊都国の中心部あるいは反対側の国境だろう
>>517
そんな、たどり着けるかどうかわからない運任せの船に中国人が乗るのかw
朝鮮半島から出発するのだから朝鮮人の船と考える方が妥当だろう
なんで無理して呼子の人間にしたがるんだ?
対馬や壱岐の人じゃダメなのか? >>508
魏の使者は船の上からいっさい景色を見なかった
上陸しても丘の上とか登らなかった
測量や地誌を担当する武官は同行してなかった
これで、いいんだな?
確認するぞ
九州説としては
倭人伝の行程記事の里程や方位の中には
魏使の得た情報など無い
それでいいゆだな? >>519
その次の「東行至不彌國 百里」の起点は? >>520
アスペかwww
>魏の使者は船の上からいっさい景色を見なかった
見たこともあるだろう
※魏の使者とは限らないコピペの記述もあるだろう
>上陸しても丘の上とか登らなかった
上りたかったら上るだろ
※魏の使者とは限らないコピペの記述もあるだろう
>測量や地誌を担当する武官は同行してなかった
同行してたら測量に時間がかかってとんでもなく長い日数がかかるぞ
※コピペした部分もあるだろう
>魏使の得た情報など無い
情報はあるだろうな
>>521
同じだよ >>516
>>伊都国の国境いまでの500里が末盧國内移動なら
>>次の「東南至奴国 百里」の起点はどこになるんだ?
>伊都国の中心部あるいは反対側の国境だろう
つまり行程里数の総合計は12,000余里と比較できなんだな?
それでいいんだな? >>522
国内移動距離情報がないなら
行程里数情報では国は比定できない
お前が考古学的根拠もなく勝手に範囲を決めてるだけだからな 皇国史観につながる東征と九州説は
何が何でも阻止する為に、
サヨクによって生み出されたのが畿内説。 >>522
>情報はあるだろうな
どれが、そうなんだ?
魏使の得た里数や方位なんだ?
そう判断した理由は? >>522
>※魏の使者とは限らないコピペの記述もあるだろう
>※魏の使者とは限らないコピペの記述もあるだろう
>※コピペした部分もあるだろう
ならば
それらは信頼性の保証がない記事だな?
つまり
行程の記事から、邪馬台国がどこにあったとか
解き明かすのは不可能
ということで
いいな? 425>>801
「南→東」などの嘘つき騙しがバレたゴミクズ大和説者が、
必死過ぎて楽しい >>519
イヤそれこそ百年単位で倭は朝鮮半島と往復してただろう
そして中国は内陸国だから航海がそんなに得意じゃない
それに和船にはジサイが乗ってるから海が荒れても安心だ 425>>803
ただ「南≠東」などという現実を示し続けるだけで、
悶え苦しんでのたうち回る大和説の蛆虫の姿を見るのが、
最高の悲しさ >>525
ウヨサヨ関係ねーぞ
どっちにとっても科学測定結果や発掘による考古物証など事実は事実 425>>805
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説クズは、イメージでしか語れない
各論を持ち出されるといつもトンズラ
ほとぼりがさめるとまた妄想を喚きはじめる >>531
>ただ「南≠東」などという現実を示し続けるだけで、
>悶え苦しんでのたうち回る大和説の蛆虫の姿を見るのが、
>最高の悲しさ
それ、おなぬーの虚しさだけどな
悲しいよな オウム人間ザラコクは完全に自分の殻に閉じこもってしまったらしい 425>>815
>その2号墓の周濠から出た土器片が2世紀末を示してるんだが?
1号墓周濠が埋まってから作られた土坑墓の遺物からも2世紀末が妥当 <
平原は、魏の工房の作を示す21枚の「尚方作」の方格規矩鏡があるから、
明帝の下賜の銅鏡百枚の一部であった事が確定し、
だから、3世紀中頃以後。 >>533
こういう嘘が平気で書ける九州説はスゴイ 425>>816
>昨日も書いたけれど、平原1号墓の被葬者は女性有力者であって「女王じゃない」<
平原は、魏の工房の作を示す21枚の「尚方作」の方格規矩鏡があるから、
明帝の下賜の銅鏡百枚の一部であった事が確定し、
だから、卑弥呼自身か?、その宗女の相続した壹與しか持ちえないもの。 議論を放棄した九州説は説である事をやめ読経の類となり果てた >>539
畿内からは卑弥呼が魏に使いを送ったと
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に記述がある景初三年銘の
陳氏作三角縁神獣鏡が見つかっているぞ >>532
考古学的物証によって畿内説は完全否定されるのだが、
それをイデオロギーが阻止する。 九州説がいつも言ってるけど
本当に三角縁神獣鏡は畿内で500枚以上見つかっているのかな >>542
三世紀の前方後円墳と魏の年号記銘の三角縁神獣鏡その他で
考古遺物だと畿内が有利との噂だ >>526
昔の記録のコピペばかりじゃ新規情報の邪馬台国までの経路はわからないだろ
常識を持てよ
倭人は距離を知らずに日数で表すのだから
最後の日数の部分は倭人からの聞き取り情報
魏の使いが邪馬台国まで行ってたとしても
魏の使い自身が測量をしてないことはこの部分で分かること
魏が自分で測ったのはその直前部分だろう 日、月、天
神の在座鳥居に伊禮は
此身より日月の宮とやすらげくす
鳥居は天の宮と関係ないのか? そもそもここは政治板じゃないからウヨサヨはよそでやるべき事 >>527
北九州市から熊本市までの経路は分かってて
その後鹿児島市まで行くことがあり鹿児島市までの経路を記述する場合
北九州市から熊本市までの経路はコピペし
熊本市から八代市までは自分で記述し
八代市から鹿児島市までの行程は鹿児島の人に教えてもらった
そういう書き方もあるだろ
魏志倭人伝もそのような記述だったんじゃないか?
という事は
それなりの信憑性はあるという事だ
絶対に全部正しいか間違いのどちらかみたいなアスペじゃないんだよ ERROR: We hate Continuous....
連投ですゆ
問い合わせID:4aafda870ddcae6f
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
425>>833
>「ヤマト王権に服属」定説に一石か 那珂八幡古墳、北部九州独自の形状
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190214-00010009-nishinpc-sctch
ご紹介、有難う御座います。
私の意見の補強になりそうです。 九州説はどうも邪馬台国論争を事実の追求より敵味方に分かれての論争として捉える傾向があるようだ 水行20日陸行一月と書いてる時点で
魏の使いは測量していなかったことが分かる >>551
畿内説はそんな事ない
なぜなら九州説のように他説のスレを荒らすなんて事はしないからだ >>523
水行10日と20日
陸行一月は何里になるんだ?
それが分からないと満二千里なのかどうか分からないんじゃないか? >>524
門司港から北九州市への距離は
北九州市から北九州空港までの距離
だいたいどうやって測る?
それが答えじゃね? ザラコクがたまに晒かすIPアドレス妙に怪しいな
二種類あるから勤め先が書き込み工作会社で
自宅に戻ってまた書き込んで荒らしてるんじゃないだろうな テスト投稿
425>>868
逆だよ。
大和説は、「南→東」や「冢→前方後円墳」などのウソを付き、
「尚方作」鏡が魏朝の工房で造った事を示す事などのを隠して、
世間の人々を騙そう、としている。 門司港から北九州市って同じ北九州市だったわwww
門司港から行橋市までは何キロで
行橋市から北九州空港までは何キロ?
門司港から行橋市は国道10号を通って24キロ
行橋市との市境いまでの距離だな
行橋市から北九州空港は
行橋市中心部から北九州空港まで国道10号を通って17キロ >>548
作り話を典拠のように語るなクワガタアスペ爺が >>559
なんで作り話なんだ?
倭国との交流はもっと昔からあったんだから
昔から知られてる経路なんてわざわざ新規に調べるわけないだろ
もっと常識を持てよ
世間知らずかwww >>560
お前が考えた作り話しか書いてないレスの
どこが世間の常識だ、クワガタジジイ 425>>885
>>「皆」とは、「例外なく全部だ」という意味だ。<
>九州より東は世界の果てまで倭国の支配下? まさかね そういう意味じゃない
東へ東へ進んで倭国の海岸へ着いて上陸するとき振り返って、
筑紫も含め九州からここまで「例外なく全部」倭=ヤマトの属国だと総括したの<
秦王國まできちんと国名を書いておいて、その先の国名や海岸国名を書かない、
というヘンテコな事を書いたら、裴清は、上司や皇帝から、
「お前はアホか?、私を見くびっているのか?」と叱責されて、
首が危なくなるものなの。
勿論「皆」と書いた事も同じ。
東の先の方に俀の都があったんなら、
「それなら、皆なんて書くな」と言われて、首が危なくなるの。 西暦57年ぐらいに倭は漢に朝貢して漢鏡が国内に入ってきた
それから約200年後に倭は魏に朝貢して魏鏡が入ってきた
その間は墓に副葬する銅鏡が徐々に枯渇して
魏と交流する直前には完鏡ではなく鏡の破片を副葬する状況になっていた
鏡の散発的な流入はあっても大規模なものはなかったので
考古的に見ると魏と国交を結ぶまでの間
中国との交流はなかったように思える >>556
一つがザラコクのオンボロPCで、もう一つが反日娘おばさんのタブレット端末だろう >>564
端末変えてもIPは一緒のはずなんだけどな
ワイファイで共有してればの話だけど このスレはもはや工作員しか書き込みしてないように思えてきたなあ >>513
>だからお前は馬鹿なんだよ
>伊都国の住民はどうやって生活するんだ?
>どんぐりの木を他人にとられないように、
>これは俺のものだと主張するんだよ
こいつ本格的にうすらバカだなww
米作社会になって、本拠地から20キロも離れたところにどんぐりを取りにいくのか?ww
本拠地からそんな離れたところで、どうやって所有権を主張し、他人を排除するんだ?
背振山脈周辺に、弥生遺跡がどこにある?
国と国の間は無主の地だ
常識がないやつは妄想で非常識を無理やり埋めるから、質が悪い >>561
お前は非効率にも、一度調べてわかってることまでまた調べなおすのか?
そんなことしたらクビだぞ >>515
>大雑把に言えば半島を南下して唐津方面へ向かうのだから北上していない
>その後、国境い(くにざかい)へ東進するのだから全体として南東だぞ
どこまでもインチキごまかしに走るんだな
唐津まで来て東に行っても、背振山脈の南側にしか行かないww
ごまかしの画像でも、背振山脈の「北側」に丸印を自分でもつけてるじゃないかww
北向きに移動していて、可也山のふもとまで行くのに、
「東南に出発したから東南でーす」とか、バカ丸出しww >>570
方角も無茶苦茶、距離は誇張してるとかいいながら
完全な南真理教で距離も南九州に持っていこうとしている
お前はクワガタの中のクワガタ腰提灯アスペジジイだ >>519
>伊都国の中心部あるいは反対側の国境だろう
お前さんの話では、国境に着いたところが起点じゃないと話が合わないぞww
ここで伊都国中心部を起点と考えるなら、呼子が末盧国中心部ではないのが明白だから
東南陸行五百里の起点は、上陸地点を呼子にしたところで、唐津平野起点でなければ話が合わない
思いつきだけでウソを重ねるから、自分の書き込み同士で矛盾だらけになるんだよ
低脳はこれだからww まあ前ザラコクは仕事場のPCが調子悪いだの言ってたからな
職場から書き込んでるのかと思ったもんだけどそういう事か >>574
上陸地点が起点になるのは当たり前だろ
そうやってお前は言い訳ばかりする 425>>905
>室見川の文鎮in弥生時代も笑えるけどな<
室見川の銘盤に書かれた「延光四年(125年)」という特定の年号を刻むのは、
125年に造られたものである、という事の絶対的な証拠だ。
それが判らないらしい中国学者や、
九大の「田村圓住」らは、ちょっと脳がおかしいんだろう。 オウオウザラコクが黙ったのが怪しいと言ったら
慌てたように書き込みが始まったぞ >>543
>九州説がいつも言ってるけど
>本当に三角縁神獣鏡は畿内で500枚以上見つかっているのかな
ざっと調べたところで
兵庫県 44
大阪府 38
京都府 66
奈良県 100
滋賀県 13
和歌山県 2
三重県 15
の合計 278枚のようだね
九州が73枚で、全国で484枚かな
ただ、これが全部って訳ではないから、500枚以上(だろう)というのが
間違いということでもない 425>>967
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は
理由を言うのが大嫌い 証拠出すのも大嫌い
だから滅んだ 425>>968
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
自分等が材料不足で理由を言うのがイヤなばっかりに、
「九州説が材料を出さずに決め付けた」 という証拠を出さなきゃならなくなった
愚かな大和説
なんか言い訳するたびに傷口が開いていく
あわれな大和説 425>>969
>ザラコクも祇園山が「土師器の古い方」とか連呼しちゃいましたね
もうこれ以上ソース出さずにトボけ続けてると
嘘つきザラコクの名はますます高まりますなあ <
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm ザラコクも可哀相なやつだなあ
四六時中畿内説に怨念吐き散らかすだけの人生なんて 484対0で、独自進化してるんだろ?
メイド・イン・ジャパン >>589
へえ、初耳だな。大発見じゃないか。
出土報告書は? >>590
所有者の王さんが論文書いてたけど
ネットで見れたはず 425>>988
>卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年と
旧来の魏志を引き写した梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に書いてある<
後代の「自己解釈に拠る書き換えをする史書の主観的な記載」は根拠にならず、
魏使のような同時代の実地の見聞記録の方が、はるかに客観性も確率も信頼性も高い。
>その景初三年と魏の年号が刻まれている陳氏作鏡の三角縁神獣鏡こそ
卑弥呼が貰った魏からの下賜鏡で間違いなし<
魏志では、明帝の詔書は景初二年であり、
その時には下賜の銅鏡百枚は準備出来ており、
だから景初三年鏡は、明帝の下賜鏡ではない。
だから、陳氏は、おそらく、呉系の楽浪鏡師であり、
楽浪戦乱を避けて列島に渡来して来た鏡師らの一人。 >>573
>ザラコクが黙ったのが怪しい
最近、5ちゃんねるは連投規制が強くなってるから、
ザラコクはすぐに連投ですよといわれて、一定時間投稿できなくなってるんだよww >>577
>上陸地点が起点になるのは当たり前だろ
>そうやってお前は言い訳ばかりする
お、呼子上陸バカ、まだいたなww
こっちが言い訳してるんじゃなくて、お前の書き込みどうしが矛盾してるんだよ
基本的に大陸史書の地理・旅程記事は、国または地域の「中心の二点間の方向と距離」で示される
それを、無理やり上陸地点から国境を越えたところまでとか、ご都合主義のインチキをしているから
矛盾だらけになってるんだよ
バカはお前だww >>592
12世紀に編集された誤字が多い現魏志倭人伝こそ
それ以前の史書に比べてどれよりも新しい後代の書
それ以前の魏志を引き写した梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼が鏡を貰ったのは景初三年とある 951日本@名無史さん2019/02/17(日) 18:15:35.36
>>939
詳しく交通経路を教えてくれませんか
初瀬街道経由なら松坂からでもいいし 亀山から陸地でもいいし
伊勢が畿内邪馬台国に入るとでも? 426>>86
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
良くもないし永遠でもないよ
国民の7割から否定されて、どうせこれから消え去る運命なんだから つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 >>593
どうかな?
工作員バレしたから上に指示を仰いでたのかも知れない >>589-591
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/345-02.jpg
まあ、発掘で出土ではなく、畑から見つかって骨董市で売られていたという代物だから、
どこまで信じていいかというのはある
西川寿勝氏の名前でググると、いろんな情報に当たると思うよ
中国まで行って、この鏡を実見してきた人 つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻し、韓国人の宣伝係員が、工作員であることがバレたので、上に指示を仰いでたのだね。。。 つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻し、韓国人の宣伝係員が、中国まで行って、畑に何かを埋める工作を、実行したのだな。。。 畿内説の売りってなんなのかようわからん
記紀?
前方後円墳?
三角縁神獣鏡?
あまり倭人伝と関係無いと思うけど 韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻し、韓国人の宣伝係員が、中国まで行って、骨董店を開店した可能性も高まってきたのでは、ないのかな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>600
モノは本物っぽいらしいな
キサゲ作業跡が当時の工具でやったものだろうとか
三角縁によく見られる仕上げの荒い部分がある所とか
ニセモノだったら考古学のプロフェッショナルの仕業だろう 呼子という地点は、邪馬台国城の城主が、綱引きを実行したのではないのかな。。。、 >>603
前方後円墳は卑弥呼の墓の大きさと魏志にある
径百歩、直径約140mに相当するのが畿内にある
三角縁神獣鏡には卑弥呼の時代の魏の年号や
銅出徐州 師出洛陽の銘文の記銘
素材の銅が魏・晋時代の中国鏡と同一と分析結果が出ている
すなわち魏志倭人伝にある卑弥呼の貰った銅鏡とするのにうってつけ つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、 北朝鮮に操られている韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、韓国人や北朝鮮人が、焦っているな。。。 ヨコからゴメン
巻向の掘立柱建物は卑弥呼の王宮かどうかは知らないけど
耐久性のない平屋だと思う
湿地帯ともで言わないが地盤が緩かったのは確かである・・今でも湧き水が出る
柱跡に石床や板床や石固めが無いから平屋だと思う 426>>281
>>8尺棒の先端の幅が、2寸であっただけでも、<
>太さ5センチ近い棒を天文の測定に使うと言い出すあたり
もう何も考えずただ言い訳言い返しだけのために メチャクチャ言ってるのバレバレ<
類スレ主は、全くのチホウだね。
例えば、二寸幅棒であれば、その地面の接地長から2寸の幅から影長計測誤差が発生しており、
更に冬至の仰角は30度前後であるから、8尺棒の上面の影の地面への投影寸法も、
夏至の時よりも広がってしまうではないか。 >>594
日本からアメリカ
アメリカからインド
アメリカへ入国する場所と
インドへ出国する場所が違っててもおかしくないぞ
そういうことも思いつかない低脳が畿内説に騙されるんだよwww >>608
直径140mの円墳なら宇佐神宮の本殿がある亀山がまさにその大きさだな >>608
径百歩はわかるが、倭人伝では円墳だし、箸墓は径百歩以外に倭人伝に基く何かある?
三角縁神獣鏡はあまり推すには??
推してもいいが、記年名鏡は群馬、山口、山梨、滋賀、静岡、福岡・・にもあるし・ >>613
どうでもいいが、もう少しまともな例えを出せよ
日本からインドに行くのにアメリカなんか通過するか >>615
畿内説に騙されるのは、全くのチホウなのでは、ないのかな、、、 北朝鮮に操られている韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、韓国人や北朝鮮人が、焦っているな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
622 名前:日本@ 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>611
家型埴輪で検索すればどんなのが建ってたか大体わかるよ 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>611
平屋ってのは、高床で一階だけってこと?
それとも土間? >>614
山がどうしたって?
魏志倭人伝にある直径140mは墓の大きさ 箸墓など出来たばっかりのときは、表面に石がびっしり張ってあって、「土を盛って冢となす。」と言う文には当てはまらない。
「径」には差し渡しと言う意味があるから、必ずしも円でなくても良いが、そうすると前方部も含んだ大きさが100歩でなければならず、箸墓なら径100に収まらない。
箸墓は卑弥呼の墓には不向きだ。
樫原考古学研究所は勝山古墳あたりを押している。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>634
みんなが思ってるよな
そういうのから逃げ回ってるだけのテンプレ 記年銘鏡は群馬説の主力じゃねーの
蟹沢古墳の年代比定再考する必用がある
銭が畿内説ほど潤じゃないのが残念だな
私的に群馬説は支持しないが記年銘鏡は倭人記述の「銅鏡百枚」では無いと思う >>613
>アメリカへ入国する場所と
>インドへ出国する場所が違っててもおかしくないぞ
おかしくはないかもしれないが、お前の頭はおかしいww
そんな「あったらいいな」の思いつきは何の論証にもならない
字数の限られた地理、旅程記事で、行きと帰りで距離が異なるような不合理な記述は
してられないから、「どこから入るかとか関係なく」「国の中心同士の位置関係」で
示されているんだよww
それが一番合理的な記述だってのは理解できるかな?
そして実際大陸史書は、その様式で書いてある
魏志倭人伝の末盧国・伊都国間が、その標準から外れると考えるべき理由がないw >>616
円墳でも畿内には100m級があるんだよなぁ
九州にはない
卑弥呼が魏に使いを送った年と史書にある
景初三年の記銘があるから
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡とする以外にない
これが多く出るのが畿内
これだけで九州説の負けが確定しているという事は
まともな頭をしているなら誰でも理解できる >>637
青龍三年のだしょ<倭人記述の「銅鏡百枚」 >>611
>柱跡に石床や板床や石固めが無いから平屋だと思う
これを言い出す人がちょくちょくいるけどさ、柱の太さがある程度以上あれば、
柱が沈んだりはしないぞ?
柱を沈めるには、柱の断面積分の土砂が押しのけられなきゃいけないが、
直径30センチ級の柱ではそんなのは考えられない
掘立て柱は、穴を掘って柱を据えて、柱と穴の隙間に土を突き込んで
柱が「傾かないようにする」のが目的 >>642
あんたはどうでもいい、邪魔だ
>>637
この人の呟きのが勉強になる >柱の太さがある程度以上あれば、
>柱が沈んだりはしないぞ?
aho?www >>632
高床でいいよ、
地面に直接、床?が面してないし、その工夫がなされてる物
纏向遺跡では現段階では高床としては希だから脚光も浴びているのではないかな。
巻向に高床式住居跡がいっぱい見つかればいいのですが
とこれで逆質ですいませんが、纒向では高床式ではなく竪穴式住居跡は多数見つかってますか? >>614
>直径140mの円墳なら宇佐神宮の本殿がある亀山がまさにその大きさだな
魏志倭人伝には「大作冢」とあって、山の上に葬るとは書いてないんだ
径百歩は人造の山であって、ちょうどいい大きさの山があった、ではダメなんだよ >>641
古い魏志倭人伝を引用した複数の史書には景初三年とある >>647
まさか、あの・・・・ダイサクのモノだったとでも言いたいの? 倭人伝だけじゃなく
東夷伝全てが東夷伝里で書かれているから歩も短いよ
歩が短いと今度は逆に九州の王墓のほうが大きさが合うことになる。
となると、
長さで勝負しても堂々巡りであり、形で決めるしかない。 >>643
しかりですが、基礎がしっかりしていないとは柱が多くても歪みが生じます
マッチ棒で試してください >>646
見つかっていませんな
それが邪馬台国先進性の証拠とのたまう畿内説者もいますが、
奈良盆地全体では後々まで竪穴式住居が主流なので、
高床式は住居ではない、ということですな >>644
>あんたはどうでもいい、邪魔だ
呼子上陸バカかな?
晋書巻12天文中
景初元年七月,公孫文懿叛。
二年正月,遣宣帝討之。
三年正月,天子崩。
四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。
景初四年ばっちりあるね >>647
亀山と書いたら山と思うとか
畿内説のやつらって馬鹿しかいないの?
古墳の話してるんじゃないの? >>648
ちがうちがう
年の問題じゃなくて、中国で作られていたかどうかの問題 >>645
>aho?www
現代建築でも直径30センチくらいの杭打ちに、どれだけごつい杭打ち機が必要か調べてごらん
そして杭の方は先端が円錐形にしてある
そこが平らな柱を打ち込もうと思っても、打ち込めるものではないし、自重で沈んだりはしない 失礼
基礎がしっかりしていない数か所に
何本かのマッチ棒を立てその上に何枚かの板?を載せ、錘をのせてください・
その上にまたマッチ棒を載せ何枚かの板?を載せまた錘を載せてください
一本のマッチ棒の間に板?を載せ数階建てにしても良いですよ。
数時間で歪んできますよ >>611他
卑弥呼の王宮が平屋だと問題があるんかよ >>660
あのー
纏向の掘立柱建物が卑弥呼の王宮でないと完全否定してないよ
平屋だと言ってるだけなのだが >>644
どうでもいいとな
実際景初四年はあったんだよ
景初三年の元日早々に明帝が死去
当時は踰年(ゆねん)改元といって皇帝が死んでから1年後に改元する
そして翌年1月景初から正始に改元となるはずだったが
そうすると正月の祝賀と皇帝の一周忌を同時に行う事になる
そこで改元を1ヶ月空け
2月を正始1月として改元する事にした
そうして生じた空白の1ヶ月は後に景初三年後12月と記されるが
当時では景初四年1月扱いだった可能性が出てくる
まあ記録上はそうなっているけど
実際的に正始年号が公的に使われ始めたのはその年の8月辺りで
それまでは景初四年が使われていた可能性があるという研究もある
証拠の1つとして景初四年鏡には景初四年五月丙午之日と銘がある >>650
>東夷伝全てが東夷伝里で書かれているから歩も短いよ
短歩はあり得ない
歩は元が身体尺だから、身体感覚から大きく外れる長さにはなり得ない
そして字の成り立ちからして複歩なんだから、1歩=6尺から大きく外れる「歩」はない
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) >>656
三角縁神獣鏡の素材の銅は中国魏・晋時代の銅鏡と同じものと分析された
銅出徐州 師出洛陽 徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったとの銘も入っている >>659
パスカルの原理だな
一本づつのマッチ棒には同じ圧力がかかるから
一本づつの基礎がしっかりしていないと沈むマッチ棒が出現するという事だな
納得 纏向野建物は2層以上の建物ではないな >>651
九州の古墳なんぞどうでもいい
どうせ調べても径140mもないか三世紀のものじゃないか
そもそも古墳ですらないか
調べるだけ時間の無駄なのはわかってるからな 室見川銅板の銘文は正しいと主張するくせに
三角や画文の銘文は頭から否定するダブスタザラコク >>637
当時の魏志倭人伝を引き写した各史書の倭人伝には
卑弥呼が魏から銅鏡貰ったのは景初三年とある
それそのものの魏年号の景初三年が入っているから
三角縁神獣鏡は卑弥呼の貰った鏡とするには十分
魏鏡の証拠もあるし洛陽でも1面発見
他の鏡とは考えづらいな >>651
伝聞記載だが、亀山古墳の埋葬主体は
「角閃石の一枚岩をくりぬいて作ったと思われる完全な長持形の石棺だった。石の節
理の条件からいって耶馬渓付近のものと思われるし、国東半島にはこういう石は存在しないそう
である」
という情報がある
これが正しいとすれば、3世紀の古墳というのはあり得ないなww
それから、「また『八幡宮本紀』は本宮が建つ山上の周りを 390 余歩と記す
ので直径は 125 歩となり、「径百余歩」と一致する。」なんていう情報もあるが、
実際に地図上で計ってみると直径で70メートルくらいしかない
ここでいう390歩は、現在の数え方、つまり単歩で390歩ということだ
しかし三国志の歩は当然に複歩だから、大きさも足りないんだよ
「亀山古墳が卑弥呼の墓」説は、具体論に入った瞬間に終了、だなww 九州説はウヨなのかサヨなのかどっちだ
どっちでも別にいいけど >>652
>基礎がしっかりしていないとは柱が多くても歪みが生じます
だから、掘立て柱は穴を掘って柱を据えた後、柱の周りに土を突き入れて
歪まないように固めるんだよ
なんだか柱が沈むことばかり気にしているけれど、建物として歪むのは
柱が傾く方が起こりやすいし影響が大きい
柱が傾かないように基礎を固めるためには、柱を据える穴を深くして、
柱の土中部分を長くすることが重要 室見川銅板を検索しても画像が出てこんな
本当にそんな物があるのかどうか ウヨ、サヨもない
ほとんど成り済まし、騙り・・・、
なぜだと思う?家の話をしているだけでしょ? 悪く言ってるわけではないんだけど、
家は畿内、九州に住んでいるわけではないし
神奈川県の川崎というところ 何の話なんだろう、むかーし住んでいたというところが・・・
『姥清水』・・・?『みちのく 岩代』
飯野というところがあって、蚕を飼い、機織りをしていた家() >>655
>亀山と書いたら山と思うとか
>畿内説のやつらって馬鹿しかいないの?
「亀山の下半部に第二次大戦時の防空壕が残っており、地層が歴然と露呈し
自然の地山である(原田大六著『卑弥呼の墓』六興出版 1977年)」
山だなww 『本当のアマテラス』(スサノオ・・・?)というスレを読んでみて、
いまは断絶しているけど、斎宮(皇族の女性)が仕えていた・・・?
みたいな話をしていたり
『葱の華』の写真?老婆の旧姓『渡辺氏』だしな・・・w まあ自然の山削った古墳もないわけではない
けど亀山は山だな 関係ないが
吉野ケ里遺跡を埋設するのに座標管理をした
とりあえず1,5m埋めて保存するが
柱の位置や防壁の座標を保存した 老婆とは言っているけど
『松傾』(オジギソウ、シダ類の写真)〜家の嫁・・・
葱の華、キュウリのような葉の写っている写真も
『松傾』の家の・・・子供の頃の >>674
ちょっと探した限りではこれが精一杯かな
https://m.facebook.com/furutashigaku/posts/1062754867109865
古田史学の会の情報だから話半分以下で読んで
「室見川銘板」でググると大体のことは分かるよ >>396
その写真で、可也山遠いじゃん、という話で終わったね >>684
九州説なニセ情報ばかりだからな
銅板についてはどうだろ
朝鮮半島にあったという金属市で購入された雑多な古金の1部かもな よくわからないけど、
その当時の話、謎の凄い刀を持っていた、飾ってあったという話でしょ?
後の〜『サイバーパンクSPECIAL』?
住んでいるところも川崎区の南部のほうだしな・・・、 これも以前から書いている事なんだけど、
神社〜〜〜?誰が住んでいるんだ? 数年前の、とあるスレの『だいじょぶだ教』と言ってる人がいたりw
「わたしゃ〜神様だよ」〜〜〜〜〜とか >>685
>その写真で、可也山遠いじゃん、という話で終わったね
本当にヘタレな逃げ口上だなww
写真で見るから小さいのであって、三雲遺跡群の辺りから見る可也山は
伊都富士と呼ばれるだけの山容を見せてるぞww
俯瞰の写真で見て分かるように、可也山までの距離と三雲遺跡群の広がりがどっこいという程度
東松浦半島からの距離と比べたらすぐそこだし、海路で直接来ても唐津から歩いてきても
三雲遺跡群に着く前に可也山のそばを通る
いくらごまかそうとしても無駄だよ
別スレの時は、三雲遺跡群の外からだとかズームして拡大してるんだろうとか
いろいろいちゃもんを付けた挙げ句に、全部でまかせだとバレて逃げたのがお前だ
お前の呼び名は「呼子上陸バカ」で行くからww 『だいじょぶだ教』
画像を調べてみると、なぜかミク尊?の画像が出てきたり
ミク尊(命?)の画像を調べてみると・・・ネギ・・・? シロート(なんていうの?不明)には、
デタラメを言っているように思えるでしょ? 『本当のスサノオ』
このスレッドも同じことばかり言っているだけ
ほんとに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
『うらしまマリン』グーグルで画像を検索してみてw 『松傾のスレ (18)』
このようなスレもあるけど、
無視したほうが良い、成り済ましだから ミク尊などの話
気づいている人は気づいているんだよ、
本来なら〜芸能界、歌手でもなんでも良いけどw
になり・・・みたいな事を言いたいんだろう
本当に、何かの家の人なんだけど・・・一般人(いまは?)だとか 漫画やアニメ、ゲーム・・・・?
ほとんど、そういうコンセプトばかり・・・、
頭の良い人は気づいているし、知っているw 古田史学会は自説補強の為なら偽書でもなんでも見境なく飛び付くからなー 『ネギま!?』
これも同じようなコンセプトでしょ?
ネギ・何やらフィールド?まいく? とある作品にマイク・おー?
というキャラが出てくるんだけど
なぜか妹と同じ、5月15日生まれ・・・?
『葱の華』の写真の家w >>579
>室見川の銘盤に書かれた「延光四年(125年)」という特定の年号を刻むのは、
>125年に造られたものである、という事の絶対的な証拠だ。
室見川文鎮w
その延光四年五という銘もコピペと判明ずみなんだよ
三種類の、年代も字体も違う銘文が
一つの文鎮にコピペで寄せ書きしてある
そんなものを古代人は作らないよ
現代人の作った複製品のオモチャなんだよ
史料だと言い張っても誰も相手にしない これも以前書いた『本当のアマテラス』
というスレの書き込み>127
LOOK『シャイニン・オン君が哀しい』
この曲の事を言っているんでしょ 『姥清水』〜『福島 民家園』の話
ネットが普及するよりも前から、
知っているし・・・・・・・・
・・・・・・・・家の『老婆談』 『ボーボボ』〜『ガンダム サングラス』
ほとんど同じ・・・・・・・・・『松傾』 >一つの文鎮にコピペで寄せ書きしてある
>そんなものを古代人は作らないよ
倭人伝などの史書だってコピペの寄せ書きみたいなものだが。。。
文鎮を作った職人が字体のお手本として置いた文章が
それぞれ別の時代のものだっただけだろ。 箸墓出土の埴輪の年代は?
ウィキイ
>2018年4月、奈良県立橿原考古学研究所が前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、
後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した結果、
前方部の土器は地元の土であるのに対し、後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが分かった。
このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を持っており、
箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される 『サイバーパンクSPECIAL』
ラビリンス、迷宮の王・主というキャラ(設定)がいたり、
なぜか牛のようなキャラ どっちかしか無いらしいぞ?
ウィキイ
>最古の埴輪である都月形円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。 またまた倭国(阿波)からの最新遺跡発掘情報。 @阿波
縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、関連した遺物の出土数は1000点以上に上った。
水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
県教委教育文化課は「調査研究を進めて広く展示公開し、徳島の歴史や文化財に興味を持ってもらえるような取り組みを進めたい」としている。
2019年(平成31年)2月19日 徳島新聞朝刊 極めて重要な発見
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。
当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、今後の研究につながる。遺構を切り取って復元などしてもらいたい。 アマテラスでも何でも良い、
実在していたとしても、本当は犯罪者なんだろうという話
家(岩戸)に閉じこもり出てこない、隠れている >>705
>文鎮を作った職人が字体のお手本として置いた文章が
>それぞれ別の時代のものだっただけだろ。
それが常識的な解釈なんだが、年号が書いてあるからその年号の時に作られたって言ってるんだよ
古田史学の会ではねww
そしてザラコクもそれを言い張るし、弥生時代に倭国に漢字が伝わっていた証拠だと捏造するww >>662
景初四年
踰年(ゆねん)改元がであったという中国の文献は? 日ゆ道祖論みたいなことを言っている人もいたり、
聖書? 大陸から渡って来た〜という話が事実だとしても、
人殺し(実際は人殺しではないんだけど)だと言ってる人がいたり、
先住民(国譲り?)を殺したりしたの? それが常識的な解釈なんだが、年号が書いてあるからその年号の時に作られたって言ってるんだよ
畿内説ではね
だから三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと言い張る 景初三年に魏から鏡の下賜があった事が記録されてるから 本当に・・・wiki『アマテラス』の画を見てもわかる、
刀?を持っているし、どこかに隠れていて・・・、 オウム・・・事件とか、
そういうのも同じじゃない?
何なんだろう
何かを伝えている、
教えてあげようとしているのかな >>670
地図で測ると70mどころじゃないぞ
もっと勉強した方がいい あやふやな情報に食い付いて
いつのまにか確定事項のように扱うのは
いつもの九州説の愚行 >>726
あれだけ量があるけど穴だらけ
よくあんなのでテンプレと言えるよな >>727
>あやふやな情報に食い付いて
>>670の
>>伝聞記載だが、
>>これが正しいとすれば
こういうのだろ?
あやふやだよなwww あまてらす?の画
『オウム 頭 装着』
このような人物も描かれていたり 426>>221
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
もう「史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの論理」が滅茶苦茶だな
少なくともこのスレからは撤退した方が自身のためだぞ >>723
>地図で測ると70mどころじゃないぞ
>もっと勉強した方がいい
>>670に「また『八幡宮本紀』は本宮が建つ山上の周りを 390 余歩と記す 」とあるだろ?
「本宮が立つ山上」部分が径70メートル程度なんだよww
よく読んで理解するように努めた方がいいよ?w
亀山本体はさし渡しで200メートルくらいあるのは知ってるが、不整形の山だし
さすがに変な形の山全体を古墳だとかは言い出さないだろ? >>728
>あれだけ量があるけど穴だらけ
そう思うなら、「具体的に指摘して」ね!ww >>729
>こういうのだろ?
>あやふやだよなwww
それ、元ネタは宇佐説の根拠なんだが?ww 426>>223
>「南≠東」なんて「会稽東治之東」で否定されてるし<
古代中国人も現代人も東西南北なんて間違う筈がないし・・・。
間違うというのは、現代の・・・・大和説者・・・・だけ。
>「大和日本国は九州倭国から別れた別種の旧小国」は
トンデモ爺さんが勝手に文字を足した捏造だろう 話にならない <
トンデモ大和説者の類スレ主が、「別種=同種だ」というインチキをしたから、
「別れた」という文言を入れておいただけだ。 >>734
>山上の周りを 390 余歩と記す
ほらな
お前の主張なんてこの程度
>亀山本体はさし渡しで200メートルくらいあるのは知ってるが
そういう事
>さすがに変な形の山全体を古墳だとかは言い出さないだろ?
少なくとも1500年ほどは大規模に手を入れてないのだから土木構造物なら少々崩れててもおかしくないぞ
まだまだ勉強が足りないぞ 426>>224
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のひとが、
「隠していない」って嘘つくの
とても汚くて嫌だな >>735
昨日2つくらい論破したぞ
>>736
伝聞のようなあやふやなもので宇佐じゃないと言い張るんだろ?
いつもの畿内説の愚行じゃないか
もう飽きたぞww 426>>225
>1里76.5mの単位を使っている中国文献なんて、ひとつもないよ。
あると食い下がるのなら、また別の“証拠”だしてみてチョ。<
この大和説男も、
これまで数え切れない位出して来た「大体の短里」の使用例を、
「1里=76.5m」」と極論断定説にすり替えて、
挙証を要求するインチキをしている////daよ。 あやふやだから根拠にはならない、と指摘しているんだが…
九州脳になると論理的思考ができなくなるようだ 日本語として
「山上の周りを390余歩」
という文字列を読んだとき
これを直径と読むべきなの?
周りと書いてるのだから周長じゃないか? >>742
お前は
宇佐説を否定するときに、あやふやな伝聞を根拠にしてるんだろ? >>691
少しズームされてるでしょ、それ
その地点は三雲より少し北側からだし
それでも遠いじゃん、で終ってた話
近くか遠くかは人の感覚の違いによるものだから使者がどう感じたか?はわかりようがないが、意見が分かれるぐらいの位置なのは確か
すごく否定してくるけど、あなたは倭人伝の記述は正確だった派なの?
正確な地図がない状況で、道の悪い陸行なら特に間違いはありえると思うけど
上陸地候補の呼子は渡海最短距離と後世の港だった事で有力と考えていますが
あなたは上陸地や伊都国、邪馬台国をどこを比定してるのですか? 426>>226
>>8尺棒の先端の幅が、2寸であっただけでも、十分発生する計測誤差だ、という事も、
説明して上げた筈だよ。<
>半影の大きさは、太陽の大きさで決まる 棒の幅が変わっても半影の長さは変わらない
物理も数学も分かってない無能なんだから、ウソを吐きまくって恥をさらすのはやめなww<
冬至に置ける8尺棒の影長計測の(夏至での計測からの計算に比べての)3寸差は、
8尺棒の接地端のどの地点から計測し、8尺棒の先端の影のどの地点まで計測するのか?、
の選択だけで計測差異が発生するものであり、
だから、この類スレ主が、
冬至の影長寸法がまだ3寸短いから冬至のデータはインチキだ、
として否定抹殺するのは、やはり・・・・詐欺師の行為だ。 426>>227
>それ以上に、一歩=25.5センチの「短歩(笑)」の方がヤバいけど
証拠一つ示さずにあると言い張ってるww<
当然、「1歩≒25.5cm」は、
谷本計算の「千里≒76.3〜76.6km」と、
「1里=300歩」からの算術的計算で得られるものだ。
世間の皆さま、ここでも注意してくださいね。
類スレ主は、「一歩=25.5センチ」というように、「=」という断定を使っていて、
私のような「≒」を使わないようにするインチキ詐欺をしよう、
としているんですよね。 >>746
ヌスット猛々しいな
測定もしないでインチキデータ公表した奴も
それを本物だと言い張る奴も
やってることが詐欺なんだよ >>740
>昨日2つくらい論破したぞ
「具体的に指摘して」ね
と言われたのに
「論破したぞ」 と豪語するだけで
証拠を出さないどころか
何を論破したかも言わないという
具体性のカケラも見せないこの人も
詐 欺 師 成分横溢ですね >>750
昨日のレスを読み返せ
そのくらいの労力はかけろクレクレ君www >>753
やっぱりお前はそうやってごまかし逃げるわけだよwww
FAQ71は削除
根拠は>>331の流れ
それとFAQ3-1も削除な
根拠は>>373の流れ
ほらな
二つ論破してるwww 426>>236
>比率が違うとかどうのの前に、それまでの北部九州の伝統とまったく異なる前方後円墳が
いきなり出現する時点で、北部九州という枠組みを超えたさらに上位の新しい体制に
比恵那珂遺跡群(奴国)の首長が参画したことが明確に分かる訳だ<
それが、晋武帝の天円地方を知った壹與の墓では使われず、
次代の倭国王頃から前方後円墳が始まった、という事の表れだ。
>そして、纒向型前方後円墳の時代からずっと、前方後円墳体制の中心は畿内にある<
ダメだ。
卑弥呼の墓は冢であり、纏向の石塚は、明確な撥型前方後円墳であり、
石塚は明らかに卑弥呼の頃よりもずっと後であり、
撥型ではない那珂八幡のくびれ部の角度よりも鋭角的になっているから、
石塚は、那珂八幡よりも新しい、という事になる。
つまり、筑紫の方が大和よりも古い。 426>>236
>比率が違うとかどうのの前に、それまでの北部九州の伝統とまったく異なる前方後円墳が
いきなり出現する時点で、北部九州という枠組みを超えたさらに上位の新しい体制に
比恵那珂遺跡群(奴国)の首長が参画したことが明確に分かる訳だ<
それが、晋武帝の天円地方を知った壹與の墓では使われず、
次代の倭国王頃から前方後円墳が始まった、という事の表れだ。
>そして、纒向型前方後円墳の時代からずっと、前方後円墳体制の中心は畿内にある<
ダメだ。
卑弥呼の墓は冢であり、纏向の石塚は、明確な撥型前方後円墳であり、
石塚は明らかに卑弥呼の頃よりもずっと後であり、
撥型ではない那珂八幡のくびれ部の角度よりも鋭角的になっているから、
石塚は、那珂八幡よりも新しい、という事になる。
つまり、筑紫の方が大和よりも古い。 自分が主張したことの証拠を出せと言った相手を「クレクレ君」と罵倒しちゃうところに
>>751の倫理性欠如と非論理性が見える >>757
IDも出ない不便な板でお前らの相手をしてやってるんだ
自分らで検索する労力くらい惜しむな
低能w 426>>236
>比率が違うとかどうのの前に、それまでの北部九州の伝統とまったく異なる前方後円墳が
いきなり出現する時点で、北部九州という枠組みを超えたさらに上位の新しい体制に
比恵那珂遺跡群(奴国)の首長が参画したことが明確に分かる訳だ<
それが、晋武帝の天円地方を知った壹與の墓では使われず、
次代の倭国王頃から前方後円墳が始まった、という事の表れだ。
>そして、纒向型前方後円墳の時代からずっと、前方後円墳体制の中心は畿内にある<
ダメだ。
卑弥呼の墓は冢であり、纏向の石塚は、明確な撥型前方後円墳であり、
石塚は明らかに卑弥呼の頃よりもずっと後であり、
撥型ではない那珂八幡のくびれ部の角度よりも鋭角的になっているから、
石塚は、那珂八幡よりも新しい、という事になる。
つまり、筑紫の方が大和よりも古い。 それにしても・・・本当の話
同じことを言ってる人がいたでしょ?
たしかアマテラス関係の話
閉じ込めた、封じ込めた、悪神(本当は)だとか ERROR: We hate Continuous....
連投ですゆ
問い合わせID:4ab46c179faeaecf
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
426>>229
>それよりザラコクは祇園山が「土師器の古いもの」だって妄想のデマ流したことを自白して懺悔しろよ<
これももう何度も提示してある事。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
を読みな。 >>754
言い張るだけの阿呆かw
>>331は自分で論破したと言っただけで証拠が書いてないのだから
もちろん論破した証拠にならない
>>373は罵っただけで何も反論していない
ほらな
論破したとか、真っ赤なウソだった >>763
やっぱり畿内説はバカばかりだな
>>331の「流れ」と書いてる
そのくらい周辺を探して読めwww
>>373も「流れ」だ
そしてお前らは反論できてない
読解力が無いから畿内説で満足できるんだろうなwww 426>>247
>>大和は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、<
>という捏造しないと 九州説は即死<
という「南→東」などの嘘つき騙しのような、
「史料事実の否定」の捏造をしないと、
大和説は、即死。 >>766
その周辺を読むこともできないおバカさんなんだなwww
そんな能力もないのに畿内説を信じちゃうのか
あ、
低能だから畿内説になってしまうんだなwww とあるスレ、同じことを言ってる人がいるでしょ
>聖上の御威光を以て、
>呪われし祟り神アマテラスを雨の中に封じこめ、
>これ以上我が國土を荒らすな
あと悪神とか >>761
祇園山が「土師器の古いもの」だって書いてないね 周辺を読めなんて説明してないと白状してるようなもの >>765
おいおい
>>>331の「流れ」と書いてる
>そのくらい周辺を探して読めwww
つまり証拠は出せないって話じゃないか
証拠の出せないお前は論破されたんだよ >>773
何の証拠だ?
あの地図は範囲外の場所にある日本のの地方をただ書き連ねてるだけだぞ
順番なんて任意でしかない
それを日本列島は逆だと思われてたとおかしな解釈をしてるだけ
それを指摘されて反論できてないのが畿内説だ
仮に畿内説の馬鹿が言ってるように
扶桑
日本
蝦夷
琉球
という並びだと思われてたとするなら
扶桑と日本は別の地域だという事になる
そして
日本の北に扶桑があることになる
昨日絡んできたバカは、
12〜13世紀に書かれた地図なのに、梁書で扶桑伝と倭国伝があるとか時代が違うアホなことを言ってたがな 426>>252
>(那珂八幡)出土した三角縁神獣鏡は直径約21.8センチメートルの三角縁五神四獣鏡で、
同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土しており、
また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品が知られている。<
成程。
那珂八幡の王は、渡来の呉系楽浪鏡師らに、自分と東征将軍らに同じ型の△を造らせて下賜した、という事になる訳だな。
>鏡面とチュウの部分に繊維が残っており、鏡面の繊維は平絹、チュウの繊維は薄モナ
あることが判明し、絹布に包まれた状態で副葬されたと考えられている。<
これも、筑紫での「絹の先行」の証拠になる。
>古墳の被葬者は、当時この地を支配した首長であり、両河川即ち福岡平野全体を
支配した北九州の中小首長であると考えられている。
大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差があるが、
同じ時期のものと推定され、初期ヤマト政権との関係が注目される。<
石塚は撥型前方後円墳であるし、△も絹もないから、当然那珂八幡よりも後。 >>765 って
「という話で終わったね 」
とかいう変な断定の仕方で
自分が相手を論破したかのように振る舞ってるやつと同じ人_ 明確な論拠もなく何となく流れで自己説得してしまってるのが九州説論者だから説明できないのは仕方ないか 『ガンダム 選ばれし者』
こういうのも関係しているのかな >>774
>あの地図は範囲外の場所にある日本のの地方をただ書き連ねてるだけだぞ
>順番なんて任意でしかない
そんなこと根拠もなく断定したって反論にならんだろ
おつむが軽すぎる 九州で鏡を副葬するのがはやっていた頃、畿内では銅鐸つくりに血道を上げていたんだが、なぜ急に鏡になったのかな?
漢末から中国では戦乱に明け暮れ、鏡どころではなかったらしい。
その頃、日本では副葬品としての鏡の需要は旺盛で、中国から鏡が入ってこなくなって仕方なく、自分たちで複製品を作っていた。
九州に中国鏡を模した小型仿製鏡が沢山ある。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/325-05.gif >>779
日本列島が逆に書かれてると思い込むこと自体が
根拠なく断定してることになるんだよ
同時代の複数の地図を確認するべきだね
出来ないならそんな地図があったんだねという事でしかない
龍谷大のたった一枚の地図を根拠にするのと同じ
全く意味をなさない
混一図はほかにもあるし、
他の混一図では日本列島は今と近い向きだ
そしてその原本も日本列島の位置は今と近い >>738
キミは「呼子上陸バカ」かな?
>ほらな
>お前の主張なんてこの程度
だからこれは、宇佐説側の情報だって書いてるだろうがww
だったら「呼子上陸バカ」君は、どんな主張をしてくれるんだい?
腹筋を鍛えたいから、ぜひ頼むww
こういうとき、具体的な自分の主張は絶対書かないんだよなぁ
人の形をしたカス・九州説の典型w
>そういう事
これだと、径百歩を軽く超えるぞ?ww
本当に適当だことw
>少なくとも1500年ほどは大規模に手を入れてないのだから土木構造物なら少々崩れててもおかしくないぞ
少々崩れたじゃ通らないんだよなぁ、これが
https://i.imgur.com/G3x4ZgG.jpg
この不整形の山が、どんな墳形が少々崩れたものだと言いたいんだ?
方墳?円墳?前方後方墳?
まあ、常に思いつきでウソを重ねる「呼子上陸バカ」らしい言い分だよなww >>740
これも「呼子上陸バカ」くんかな?w
>昨日2つくらい論破したぞ
それを具体的に書けないのが、人の形をしたカス・九州説の典型w
>伝聞のようなあやふやなもので宇佐じゃないと言い張るんだろ?
伝聞なようなあやふやな根拠しかなくて、国を推知できる遺跡がないから
宇佐じゃないって言ってるんだよ
宇佐だという論証が、まるでなされていないのをミラーリングで誤魔化す
こういうのが、人の形をしたカス・九州説の典型的な詭弁ww >>743
>これを直径と読むべきなの?
>周りと書いてるのだから周長じゃないか?
もう一つ前の>>670のコメントを見てくれ
「本宮が建つ山上の周りを 390 余歩と記すので『直径は 125 歩』となり、
「径百余歩」と一致する。」
これが、単歩だから合ってないという話 >>782
>だからこれは、宇佐説側の情報だって書いてるだろうがww
知らんよそんなの
お前が書いたんだろうがw
お前が差し渡し100歩の話に
>>山上の周りを 390 余歩と記す
という直径の話なのか円周の話なのか分からんことをほざいたんだろ?
しかも、倭人伝は墓の大きさの記述
お前は山上の周りという全く別の対象範囲の話を持ってきてる
すべてお前の馬鹿さ加減が原因だぞ で、宇佐説でもなく、宮崎説なんだけども南九州説じゃないというのが
呼子詐欺アスペ >>781
>日本列島が逆に書かれてると思い込むこと自体が
>根拠なく断定してることになるんだよ
思い込むとか? 根拠なく断定とか?
現実に北から日本、蝦夷、琉球の順で書いてあるじゃないか
現実を見ろよ
俺様は認めないって叫んでも反論にならないんだよ
>同時代の複数の地図を確認するべきだね
現実に1はもう一つ別の地図の名前もあげてるじゃないか
はい、論破
>龍谷大のたった一枚の地図を根拠にするのと同じ
もっと古い一枚を示されても「ミトメナイミトメナイ」
別の地図の名が書いてあっても「複数の地図を確認するべきだね」
みっともなくないか? >>782
>これだと、径百歩を軽く超えるぞ?ww
箸墓も超えてるよなwww
だから箸墓と同じ言い訳を採用してやるよwww
>この不整形の山が、どんな墳形が少々崩れたものだと言いたいんだ?
調査しない限り不明だろうな
円墳なら本殿の周りで径100歩程度
前方後円なら若宮神社のあたりまでが前方
それでも箸墓と同じ程度www >>784
>「本宮が建つ山上の周りを 390 余歩と記すので『直径は 125 歩』となり、
> 「径百余歩」と一致する。」
あー
そういう事か
それで125歩かwww
しかしな、
それは山上の話であって墓の話ではない >>745
はーい「呼子上陸バカ」くんだね
>少しズームされてるでしょ、それ
東松浦半島から見た可也山と、同じ縮尺だってニュー速のスレでも明記したよな?
実際で肉眼で見る大きさだったら、写っている車がリアルの大きさになるところまで
引き伸ばして見てくれ
>その地点は三雲より少し北側からだし
その地点は、三雲遺跡群から川一本分西に出たところだと説明したよな
こういうごまかしが、こいつの一番だめなところだ
>それでも遠いじゃん、で終ってた話
三雲遺跡群と同じ距離から見ているし、東松浦半島から見た山がすぐそばに見えることは
間違いないし、経路上さらに可也山の近くを必ず通るから、歩いた距離で
可也山から三雲遺跡群まで5キロ程度だと分かる
ニュー速でもこっちがここまで説明したところで消えたけれど、また消えるんじゃないかなww >>787
>現実に北から日本、蝦夷、琉球の順で書いてあるじゃないか
現実には
扶桑、日本、蝦夷、琉球な
そして台湾は書かれてない
はい論破w
そのくらいテケトーな地図という事だ
朝鮮から日本へ渡るには、まず扶桑に行かなければならないことになる
そういう地図だぞ
理解できてる? 宮崎説はこれまでも川遡上説や市役所伝いルート説など
異人脳っぷりを披露してきた
そして毎回罵声を発しながら消える >>746
まだ半影の物理現象が理解できないのかよ
3寸が測定誤差なら1寸なんて信用できる数値では無くなるわけだが・・ >>791
>扶桑、日本、蝦夷、琉球な
>そして台湾は書かれてない
>はい論破w
どうやって何を論破したんだ?
おまえ説明能力ゼロ人間か?
それに
琉球ってどこの国だか知ってるか?
論破とは、こうやる >>787
ttps://ameblo.jp/marine816/image-12219092190-13797038901.html
これだと
倭奴国と日本は別の国になってるなwww
で、倭奴国、日本、琉球と続いて一番南に蝦夷があるwww
この地図では朝鮮から日本へ行く前に倭奴国に行かないといけない
もっとひどいのは扶餘が日本と倭奴国の中間に存在する
位置関係まで考慮してないからこのくらい順番が無茶苦茶なんだろ>>794 >>790
それは俺のレスじゃないぞwww
誰彼構わず見境なしかwww
>>794
扶桑と日本を別の国と思い込んでる
13世紀ににな
台湾が書かれてないので、すべての位置関係を記録しようとした地図ではないという事
>琉球ってどこの国だか知ってるか?
沖縄だぞ知らなかったのか?
もっと勉強しろw >>747
君は「≒」だけでなく「おそらく」「ほぼ」「大体」「筈」「ようであり」を使うのが大好きだよねー
短歩はcmでしか表記されたことが無い、現代の発明品w
世間の皆さまは、よくご存じだぞw >>792
呼子に上陸してしばらく陸上移動して
水行の出発地点が有明海の沿岸
水行を2回行って上陸するのが八代のあたり
そこから陸行一月で宮崎へ行く
川を遡上してないし
市役所も伝ってないな >>795
>位置関係まで考慮してないからこのくらい順番が無茶苦茶なんだろ>>794
位置関係まで考慮してないんじゃなくて
位置情報が間近っていらことが理解できないのか?
間違っている地図のほうが古いんだよ
そして古い地図はどれも日本を異常に南方に描いてある >>799
だからさぁ
日本を実際の並びで地図に書き込もうとしたら
朝鮮半島からさらに右側にスペースが必要だろ?
そうなると紙の大きさが足りないし
辺境の日本の情報よりも中国大陸の情報を書き込む方が重要
日本列島に関しては位置関係よりも朝鮮からの順番で紙に収まるように記述した
こう考える方が正しい
朝鮮半島から九州に上陸し畿内の日本国、されに日本の奥に蝦夷がある
それを順番に書くとあの地図のようになる
子供が描く絵地図と同じ
自分が知ってる中心部は割と細かく書くけど
周囲は適当
それと同じことだ 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 テスト投稿
只今、426の200番台から、全面的に反論投稿を拒否されている状態。 >>800
>日本列島に関しては位置関係よりも朝鮮からの順番で紙に収まるように記述した
>こう考える方が正しい
自分の考えを「正しい」って自画自賛しても他人を論破はできないんだよ
勉強したまえ >>796
>台湾が書かれてないので、すべての位置関係を記録しようとした地図ではないという事
>>琉球ってどこの国だか知ってるか?
>沖縄だぞ知らなかったのか?
>もっと勉強しろw
ふふふ
キミ、論破された上に恥までかいちゃったね 論破された上に恥までかいちゃった、邪馬台国畿内説の宣伝係員は、韓国人の3寸男だったのでは、ないのかな。。。 >>803
お前は俺を論破できてない
もっと勉強したまへ
そもそも今の価値観の地図というものはもっともっと新しい時代に確立されたものだという事を畿内説のアホは理解できてない
北が上だとか
縮尺を統一するとか
基本的なルールすら昔は存在しなかった
子供が描く絵地図と同じ
それを現代の作図のルールで読もうとするからおかしな結論を出そうとしてしまう >>804
そっか
あの地図は13世紀だから台湾も含めて琉球だったか >>806
論破されてるよ
自分の考えをごり押しで言い張っても根拠が出せないだろ?
台湾を描いてないって言って論破されただろ
そ・し・て
いくつもの地図が南北逆に書いてるし
位置も浙江省あたりの東に書いてる事実
そして倭人が会稽東冶の東にいるって文献情報
自分のアイデアしか言えないあんたは
事実に支えられた主張に論破されたんだよ >>745
>すごく否定してくるけど、あなたは倭人伝の記述は正確だった派なの?
これまでの書き込み見てれば分かるだろうが!
魏志倭人伝の倭国の記事は、旅程記事と同時に、地理記事でもあって、
魏使の経路を追っているわけではない
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して地理・旅程を書いたのだろう
>正確な地図がない状況で、道の悪い陸行なら特に間違いはありえると思うけど
九州内では魏使は陸行していないよ
末盧国での東南陸行五百里は、末盧国・唐津平野に上陸して佐賀平野へ抜けるルート
このルートでは伊都国へは行かない
>上陸地候補の呼子は渡海最短距離と後世の港だった事で有力と考えていますが
無駄に陸行することになるから、まったく合理性のないあてずっぽう
それに無理に呼子を末盧国にしたところで、伊都国の方角は東南にならない
本当に無駄な強弁だ >>745
>あなたは上陸地や伊都国、邪馬台国をどこを比定してるのですか?
末盧国は松浦川の河口平野の唐津でいいし、そこが壱岐から渡海千里の上陸地
実際に船をつけるのは、松浦川河口にあった潟湖だ
ただし、卑弥呼の時代の魏使は唐津(末盧国)には寄らずに直接、伊都国に
船で向かったとするのが合理的
魏使が末盧国に寄っていないから、末盧国の官の情報がないと考えればよい
寄っていないのに末盧国がここに書かれているのは、卑弥呼の時代以前の情報の
コピペで、倭国の地理情報を記すため
伊都国は、糸島の三雲遺跡群以外にはない
末盧国も、伊都国も、通説どおりの比定地しか想定していないよ >>808
君が事実と思い込んでるその話は、昔の誰かの思いつきなんだよ
・いくつもの地図が南北逆になってる
だから南北が逆だと思ってたと思いつく
それをごり押ししている
畿内説ってこの程度なんだよ 南北が逆になってない地図も存在してるんだから
逆だと思い込んでいたと決めつけるのはおかしいんだよな 調べてみると、このような事を言ってる池沼がいたりw
頭が悪いのかな?
>天皇陛下が東京の避難所訪問なされたが、福島その他の東北土民どもが陛下に対して不敬な態度をとらぬか心配だ。
>天皇は万世一系の存在、陛下に対する不敬は皇祖神に対する不敬にもなるからだ。
>天皇陛下は土民どもに、御料園からイモや野菜を御下賜されたそうだ。
>畏れ多くも有り難いことではないか。 >>811
>君が事実と思い込んでるその話は、昔の誰かの思いつきなんだよ
事実だよ
いくつもの地図が南北逆に書いてる事実
位置も浙江省あたりの東に書いてる事実
そして倭人が会稽東冶の東にいるって文献情報がある事実
事実はごり押しをしない
淡々と実在する >>812
>南北が逆になってない地図も存在してるんだから
はい、どこに存在しますか?
事実のみを述べ何事も付け加えないでくださいね >>809
>これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して地理・旅程を書いたのだろう
つまり、
文献をもとに机上でこんな感じだろうと想像して記述したと言いたいわけだな?
>無駄に陸行することになるから、まったく合理性のないあてずっぽう
いいや
律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていたのだから合理的だったんだよ
唐津の方が便利で合理的なら
唐津に登望駅がおかれてないとおかしいだろ >>814
>いくつもの地図が南北逆に書いてる事実
それは北を上にしていると思い込んでるからだろ?
今の価値基準で考えるからそうやって間違える
これで論破
>位置も浙江省あたりの東に書いてる事実
ちょうど海だから書きやすいだけだ
たいして意味はないのに意味をこじつけようとするからそうやって間違える
東海上に書かれてるから会稽陶冶の東だとは言えない
これで論破
>そして倭人が会稽東冶の東にいるって文献情報がある事実
具体的に会稽陶冶って今の中国のどこ?
北緯何度?
答えられる?
それとも何となく? >>774
>という並びだと思われてたとするなら
>扶桑と日本は別の地域だという事になる
>そして
>日本の北に扶桑があることになる
相変わらず、痛々しいな
「呼子上陸バカ」クンは、梁書を読んだことがないんだろ?
梁書では
倭国伝、文身国伝、大漢国伝、扶桑国伝とあって、
倭国伝の次に
文身國 在倭國東北七千餘里
大漢國 在文身國東五千餘里
扶桑國者(中略)扶桑在大漢國東二萬餘里
と並んでいるから、扶桑国は日本の北東方向の東の方にあることになってる
扶桑国と日本国が別国という認識はあるし、扶桑国は日本よりも北側の国だ 女王国は吉野ヶ里
邪馬台国は筑紫平野、都は八女
狗奴国は熊本平野、都は八代
卑弥呼の塚は祇園山古墳
よろしいかな >>815
長崎の寺にある混一図な
>>819
だからさぁ
その記述があって
さらに地図が南北逆で記述されてたら矛盾してることになるんだよ
朝鮮半島から最初に上陸するのが扶桑国なのか?w
扶桑国を経由して日本へ行くのか?
ちょっとは真面目に考えろバカwww 上陸地は呼子か唐津か
500里の計算に違いが出てくる >>819
扶桑国は日本国よりも北側にあるんだろ?
そうなると地図に書かれてる通り
扶桑
日本
の並び順だ
どこに南北逆になってる事実があるんだ?www
そんな事実はないじゃないかw >>796
>台湾が書かれてないので、すべての位置関係を記録しようとした地図ではないという事
こいつ、本格的に物知らずなんだよなww
大琉球、小琉球って言葉も知らずに、
「台湾が書かれていない(キリッ)」とかww
お前のおかげで、ここは昨日から腹筋強化スレだわww >>810
>末盧国は松浦川の河口平野の唐津でいいし、
唐津が大陸の玄関口ならば、宗像に替わって「世界文化遺産」になっているはず。
>ただし、卑弥呼の時代の魏使は唐津(末盧国)には寄らずに直接、伊都国に
>船で向かったとするのが合理的
君にだけの、合理的妄想。
>魏使が末盧国に寄っていないから、末盧国の官の情報がないと考えればよい
君だけの、妄想。
>寄っていないのに末盧国がここに書かれているのは、卑弥呼の時代以前の情報の
>コピペで、倭国の地理情報を記すため
君だけの、妄想。
>伊都国は、糸島の三雲遺跡群以外にはない
御粗末遺跡。 実に情けない。 @阿波 >>798
>呼子に上陸してしばらく陸上移動して
>水行の出発地点が有明海の沿岸
>水行を2回行って上陸するのが八代のあたり
そんな経路は、魏志倭人伝をひっくり返してもどこにも書いていないww
本当に妄想が凄いなww >>817
お前さあ・・証拠もなしに自分の思いつき言い訳を語っても他人は論破できないんだよ
証拠が一つも出せてないだろ?
能力的・資質的に言ってお前、他人を論破することは不可能だよ
意地で「論破」って言葉が使ってみたかっただけだよな?
でも恥かくぞ
>それは北を上にしていると思い込んでるからだろ?
それらのどの地図も北が上にして書かれてないか?
華北は華南の北に書いてないか?
日本は琉球の北にかいていないか?
朝鮮半島の南に書いていないか?
事実を見ろよ
>ちょうど海だから書きやすいだけだ
長江の北でも東は海だぞ
どうして皆そろって南に書くんだ?
事実を見ろよ
>具体的に会稽陶冶って今の中国のどこ?
>北緯何度?
北緯26度 >>822
直線距離なんて測れないから
実際に歩いた距離が基準なんだろう
そして、
実際に歩くときに距離を測りながらなんてやらないだろうから
一日歩いたら何里
という基準があったんだと思うわ 万二千里=水行10日陸行1月
水行20日=2万里
水行は一日航海千里の規定を適用
帯方郡から水行20日で宮崎の西都、投馬国 >>816
>唐津の方が便利で合理的なら
唐津の方が便利で合理的だった時代に、
唐津(唐=大陸、津=港)という地名が付けられたんだよ
ただ、唐津に上陸するのが合理的なのは、松浦川沿いに佐賀平野に向かう場合、だけどな またテスト投稿
Part426は、現在画面にも出せない、という状態。 >>821
>長崎の寺にある混一図な
それは、いつ書かれた地図? >>829
>直線距離なんて測れないから
>実際に歩いた距離が基準なんだろう
ところが、大陸史書の地理記述は、直線距離の方が実際の距離に合ってるんだよ
方角も直線方向になってる
そこまで正確ではなかったのだろうが、それなりの地図があって、その地図上での
方角と距離を示しているように見える
逆に言えば、それなりの地図すらない場所は、方角も距離もでたらめということ
それなのに、九州説は方角も距離も正確、正しく旅程をたどれば
邪馬台国の場所は正しく分かるとか言うから、バカだって言ってるんだよ 泡厨はあいかわらず元気だな
すこしは日ユ同祖論について語れ >>831
>ただ、唐津に上陸するのが合理的なのは、松浦川沿いに佐賀平野に向かう場合、だ>けどな
単なる君だけの妄想話。 @阿波 >>828
>証拠が一つも出せてないだろ?
それはお前の事
南北逆と思い込んでいる
という証拠が無いんだぞ?
>それらのどの地図も北が上にして書かれてないか?
一般論だぞ
地図は北を上にして書くというセオリーは、人類誕生の時点から存在した絶対の基準というわけではないと言ってるんだよ
それらの地図が北が上ではないとは言ってないんだよ
読解力無いなぁww
>長江の北でも東は海だぞ
日本は朝鮮半島から離れた海の上に存在することになってるので、朝鮮半島に近すぎてもイメージ的によくないだろ
>北緯26度
で、26度のなんていう土地? >>835
万2千里=水行10日陸行1月(水行は一日航海千里の規定を適用
よろしいかな畿内厨くん >>823
>さらに地図が南北逆で記述されてたら矛盾してることになるんだよ
矛盾って、何と何が?
日本語が不完全なやつだな
>朝鮮半島から最初に上陸するのが扶桑国なのか?w
>扶桑国を経由して日本へ行くのか?
なんで?
理由は? >>835
中国大陸の昔から知られてる場所は何度も地図を作ったり測量したりしてかなり正確に分かってくるだろうけど
だからと言って辺境の倭国の地図も正確だとは言えないんだよ
>それなのに、九州説は方角も距離も正確、正しく旅程をたどれば
だろ?
会稽陶冶の東みたいに正確に分かる訳が無いんだよ
九州説はそんなアスペじゃなくて
大雑把にだいたいおおかたなんとなく程度には記述は信頼できるとしているんだよ >>836
>すこしは日ユ同祖論について語れ
申し訳ないが、興味なし。 @阿波 >>839
理由も言わずに「よろしいかな」もないもんだ 本当に家(あと写真)の話ばかりしてない?
そういう(不明)スレも、漫画やアニメ・・・なども >>788
>箸墓も超えてるよなwww
>だから箸墓と同じ言い訳を採用してやるよwww
箸墓は、明確に認識できる後円部径が、ほぼちょうど径百歩なんだが、
同じ言い訳を採用というと、亀山のどこが後円部に当たるんだ?ww
亀山は前方後円墳だと主張するつもりのか?ww
また、箸墓が大きすぎるに対しては、箸墓に先行する纏向古墳群に100メートル級の
前方後円墳があるからそちらを当てるという考えもあるんだが、亀山に先行する100
メートル級の前方後円墳てどこにあるんだい?wwww
お前の言う「同じ言い訳」って、何を指すんだ?
適当なことを言えば済むと思うなよ、この無能がww >>838
>南北逆と思い込んでいる
>という証拠が無いんだぞ?
証拠なら蝦夷が日本の南に書かれてるじゃないか
>地図は北を上にして書くというセオリーは、人類誕生の時点から存在した絶対の基準というわけではないと言ってるんだよ
そんなセオリーの話は誰もしてなかったのに
突然言い出すなんて異常だな
>日本は朝鮮半島から離れた海の上に存在することになってるので、朝鮮半島に近すぎてもイメージ的によくないだろ
なんで?
理由は?
>で、26度のなんていう土地?
そういう基礎的なことはテンプレでも読んで畿内説の主張(通説)を学んでからにしろ >>842
>会稽陶冶の東みたいに正確に分かる訳が無いんだよ
じゃあ何で陳寿はそう書いたんだ? こういうスレも・・・『神社って怖い場所なの?』
祇園、ZION、・・・牛頭、ギリシャ神話が〜とか、 >>842
>九州説はそんなアスペじゃなくて
>大雑把にだいたいおおかたなんとなく程度には記述は信頼できるとしているんだよ
東南ダァの何里ダァので邪馬台国の位置がわかると言う
九州説が今…お亡くなりになりました 本当に川崎区の南部のほうに住んでいて
『サイバーパンクSPECIAL』
巻末のほうに、迷宮(ラビリンス)の主、王・・・というコンセプト、
牛のような感じのキャラが載っていたり、
家に謎の刀が〜・・・、ゴーストライター? 南北どちらが上かなんて決まってなくても同一地図上では同じ方向方角に揃えるよね地図なんだもの 本当に老婆談、当時(不明)の話なんだけど、
歌舞伎(芝居)が〜・・・という話とか テンプレの地図、河入海とか江入海とかマル付きで書いてあるよね
海上も位置を意識してないわけないよ
地図なんだもん 中国的には、畿内は倭国じゃなかったということ。
要するに東の海を渡った先にある倭種の国の一つが大和国ってことよ。
https://imgur.com/a/rgD8Ixc >>817
>具体的に会稽陶冶って今の中国のどこ?
こういうレベルでエラそうにしてるから笑えるんだよなw
https://i.imgur.com/1CmWD40.jpg
東冶県は現在の福州市
会稽は、会稽山の位置で示せば、この地図の杭州の州の字のあたりになる
九州なんてかすりもしないだろ >>788
>円墳なら本殿の周りで径100歩程度
本当に理解力がないんだなw
単歩で125歩だと、複歩では60歩くらいにしかならないから、
まったく大きさが足りない
また、実際のところ、円墳と認識できる構造物も山頂には存在しない
>前方後円なら若宮神社のあたりまでが前方
で、どこが、前方部で葺き石があって段築があって円筒埴輪があるんだ?
>それでも箸墓と同じ程度www
亀山の山の長径が200メートルくらい
魏尺の径百歩は145メートル
後円部が直径145メートルだとすると、若宮神社の中央あたりまでを測らないと
径百歩にならない
すると、前方部は50メートル程度だな
これ、前方後円墳じゃなくて帆立貝式古墳になるぞww
しかも、その想定で亀山に計145メートルの円を重ねると、隙間だらけになる
前に、ただの山の尾根の傾斜地を塚だと言い張ってた人がいたけど、それと同じで
不整形の山で長軸方向には径百歩以上あるけれど、その部分が全然丸くないというオチ
何も考えずに、思いつきで適当なフカシばかり書いてるから、本当に支離滅裂になってる >>842
>中国大陸の昔から知られてる場所は何度も地図を作ったり測量したりしてかなり正確に分かってくるだろうけど
>だからと言って辺境の倭国の地図も正確だとは言えないんだよ
それ、情報がなかったり不正確だったりが理由だから
自分たちの認識を正しく表現する気がないのと違うから >>857の投稿の意味が通らない
いつも九州説はこの程度 後漢の時代には既に方格図というフォーマットが提案されてるが実際に作成できたのはかなり後代 大帯郡から拘邪韓国まで海岸沿いに水行で7000里って書いてあるのに、
どうしてキンキーは「1里は400mじゃなきゃあかんのや!」とか言ってるわけ??
頭大丈夫かな??そこが心配です。
まあ、弁証法とは無駄な議論をしちゃいけないって、
ショーペンハウワーも言ってますが。 >>862
それが当時の中国で使われていた1里の長さだからだが、それが何か? 本当に偶然にしては・・・な話ばかり、
頭が良かったのかな?
どこの学校に通っていたというのも聞いたことがないし、
ただ当時住んでいた家には、
本や書なんか沢山、ずらーっと並んでいたという話しか聞いたことがない 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>798
お前は、南限定と言いながら途中からは東に行っても可という
ちょろまかしみやこんじょチビジジイだな >>858
亀山は、豊の国の最重要神社なので、臺与の墓と考えるべきではないか。 九州説のレベルって本当に低いな
主観だけで「とにかくボクちゃんは認めないぞ」と連呼するのを反論だと思ってる節がある >>867
たったそれだけの理由では
「べき」でない >>868
>宇佐神宮本殿下の亀山の石棺というのは噂話程度だろ
ただ、その噂話以外、「墓」であるとする理由がないんだよな
亀山古墳という言葉も、実はそう言い張る人がいる「だけ」だったりするww >>839
>万2千里=水行10日陸行1月(水行は一日航海千里の規定を適用
>よろしいかな畿内厨くん
その萬二千里で、どこまで行く気なんだい?
帯方郡から北部九州まで水行10日で来ようと思うと、
一日100キロ進む船が必要になるんだが?
物理的に無理だろ?
さらに、投馬国はどう説明するんだ?
水行20日は、「どこから」「何里」にあたるんだ?
投馬国は、女王国以北の国だぞ?
投馬国をどこに比定する気だ?ww
この、日程と里程は二重表記というのを繰り返し書くバカがいるけれど、
その戯言はとっくの昔に破綻してるんだよ!w >>840
>末蘆国から伊都国経由で吉野ヶ里
そんなところに、伊都国はないww
投馬国はどこにあるんだ?ww 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>842
>中国大陸の昔から知られてる場所は何度も地図を作ったり測量したりしてかなり正確に分かってくるだろうけど
その範囲では、地理情報は二点間の直線方向、直線距離になってる
道のりというのはあたらないし、出発方向が書いてあるというのはない
不正確な部分でも、この記述法の原則は変わらないんだよ
「呼子上陸バカ」クンの想定は、根本からおかしいんだww >>855
>要するに東の海を渡った先にある倭種の国の一つが大和国ってことよ。
この書き込みがあるたびに、バカにしてるんだが、
渡海「千里」をなぜ隠す?w
九州と本州の間は、600メートルしかないぞ
1里60センチの超短里でも捏造するのかい?ww >>862
>大帯郡から拘邪韓国まで海岸沿いに水行で7000里って書いてあるのに、
そんな郡など知らないな >>871
噂話だけではないようだ。
前回の建て替えの時、棟の位置合わせのため、文化庁だかのお役人が、二之御殿(中央御殿)をうしろに動かそうとしたら、
社伝によりそれはできない、下に石棺が埋まっているから・・、と神宮側が止めたらしい。
そこでまさかと思いつつも、人足に神衣を着せて掘り始めたところ、確かに石棺に行き当たった。
それで慌てて埋め戻し、社殿は元の位置にて建て替えたのだそうだ。
その一部始終は、書き物になって残されているという。
(事実があらわになり、さては臺与の墓か・・となると、神社側としては面倒なので、
単なるウワサ、ということになっているのだろう) >>790
当時の遺跡の中心地は番上地域
古墳前期の大型建物も出てるしね
井原はさらに南になる
上記の場所では見え方は違い、前原有料道路は殆ど見えなくなる
まぁ、その九星飲料の西側からの画像からでも遠いじゃん、と言われていたよね
中心地からであれば、さらに遠くなる可能性大だけど >>879
>そこでまさかと思いつつも、人足に神衣を着せて掘り始めたところ、確かに石棺に行き当たった。
前も書いたけれど、3世紀だったら木棺でなければおかしい
3世紀で石棺埋葬の古墳は知られていない
>(事実があらわになり、さては臺与の墓か・・となると、神社側としては面倒なので、
>単なるウワサ、ということになっているのだろう)
ということで、噂が真実だったとしても、卑弥呼の墓もなければ台与の墓もないよ
まあ、もし本当に古墳だったとしても、地域豪族のさして大きくない墓だ
それで慌てて埋め戻し、社殿は元の位置にて建て替えたのだそうだ。
その一部始終は、書き物になって残されているという。 噂話にしては、内容が具体的で、
かつ棟筋合わせは官庁関与の建設では鉄則であり、理屈に合ってるので、事情を知る者の証言であろう。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>882
ま、そこのところはむつかしい。
宇佐神宮自体は、応神天皇のころに建てられたというから4-5世紀かな。
くだんの地に建てるとき、三世紀の臺与伝承の木棺古墳を均して、その上に建てようとしたが、
恐れ多いので、石槨をこしらえて補強し、その上に御殿を建てたのかもしれない。
石棺らしきに突き当たったところで発掘を中止し、あわてて埋め戻したというから、
本体構造は不明というべきだろうな。 可也山の写真が出てた時までは
呼子詐欺おやじの伊都國の国境は伊都GCだったんじゃないのか >>881
>上記の場所では見え方は違い、前原有料道路は殆ど見えなくなる
有料道路はどうでもいいだろ?
問題にしているのは可也山の見え方なんだから
>中心地からであれば、さらに遠くなる可能性大だけど
必死で誤魔化してるけど、本質はそこじゃないぞw
東松浦半島や、海上から見えていた可也山のそばに三雲遺跡群=伊都国があるのが、
壱岐から渡ってきた人には明確に分かるってことだ
可也山のふもとから写真撮影ポイントまで5.3キロ
平原遺跡まで5.1キロ、番上地区まで6.5キロだ
可也山から写真撮影ポイントまでの距離と、平原遺跡までの距離はほぼ同じだぞw
明確に伊都国の範囲だろ?w >>856
>東冶県は現在の福州市<
魏志の陳寿は「会稽東治」であり、
後代の後漢書の「自己解釈に拠る書き換え」の「東冶」は×。
>会稽は、会稽山の位置で示せば、この地図の杭州の州の字のあたりになる
九州なんてかすりもしないだろ<
会稽ではなく、「会稽東治」であり、上海付近〜江蘇省東岸になり、
その東はほぼ九州島になるから、
類スレ主のゴマカシは、×。 >>886
そういう作り話はいらないから
不明なら、何か調査でわかったらまた来なさい >>889
>会稽ではなく、「会稽東治」であり、上海付近〜江蘇省東岸になり、
「会稽東治」が上海付近〜江蘇省東岸というのが真っ赤なウソになり、
ザラコクのゴマカシは、×。 >>886
>恐れ多いので、石槨をこしらえて補強し、その上に御殿を建てたのかもしれない。
九州説は結構この手の思い付きを平気で書くが、日本人の感覚だったら
墓の上に御殿を建てることの方が、よほど恐れ多いはずなんだがなw
実際問題として、古墳の墳丘上に神社があるのはわりに多くあるけれど、
その場合は被葬者が祭神だと認識されているものだろう
社を作ろうと思ったら墓だったなんてことになったら、
そこには作らずに禁足地にするよ >>846
>箸墓は、明確に認識できる後円部径が、ほぼちょうど径百歩なんだが、<
卑弥呼も墓は「冢」であって「前方後円墳」ではなく、
前方後円墳の「径」は、当然「前方端〜後円端の長径」で計測するものだから、
いずれにしても、箸墓も、スレ主も類スレ主も×。 >>841
>なんで?
>理由は?
地図見てみろw
ttps://i.imgur.com/nIVTpBY.png
朝鮮半島から日本列島へ上陸するとして
一番近いのはどこだ?
扶桑だろwww >>894
目的地でもない別の島に何で上陸する用事があるんだ?
馬鹿ではないのか? >>893
>卑弥呼も墓は「冢」であって「前方後円墳」ではなく、
「前方後円墳」が「冢」ないって理由は?
ないだろ
根拠なし
無理無駄にゴネてるだけ >>850
>東南ダァの何里ダァので邪馬台国の位置がわかると言う
九州説が今…お亡くなりになりました<
「南→東」などのように、
同時代の魏使らに拠る実地の見聞計測記録に拠った倭人伝の中の、
都合の悪い記録を、全て何でも間違いだ、とするインチキ大和説者や、
・・・・スレ主や類スレ主の大和説が、
今・・・お亡くなりになりました。 >>893
>前方後円墳の「径」は、当然「前方端〜後円端の長径」で計測するものだから、
そんなこと唯我独尊ザラコクがワガママに
一人で決めても誰も言うこと聞かないよ
きく理由がない >>847
>証拠なら蝦夷が日本の南に書かれてるじゃないか
なんでそれが南北逆と思い込んでいた証拠になるんだ?
日本列島の中で朝鮮半島から一番遠い場所が蝦夷だからそうなってるだけで
紙のスペースの都合で向きを変えただけだという事を否定できてないんだよ
>そんなセオリーの話は誰もしてなかったのに
してるぞ
>>817はそのセオリーの話だ
お前は読解力が無いので理解できなかっただけだぞ
>なんで?
倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、
>そういう基礎的なことはテンプレでも読んで畿内説の主張(通説)を学んでからにしろ
あんな無駄なテンプレなんて読む気にもならんわ
テンプレに書かれてるなら番号でも書いとけwww >>897
>同時代の魏使らに拠る実地の見聞計測記録に拠った倭人伝の中の、
実地見聞計測記録だとか、全く根拠なし
ご託宣しても無駄 >>899
>あんな無駄なテンプレなんて読む気にもならんわ
それで論破したとか
大嘘バレました
w
w
w >>848
陳寿は水行10日と20日と
陸行一月を
どうやって考えたんだろうな?
>>856
>>889
>>891
ほら
こうやって会稽陶冶がどこなのか決まってないじゃないかwww >>869
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のレベルって本当に低いな
主観だけで「とにかくボクちゃんは認めないぞ」と、
連呼するのを反論だと思ってる節がある >>858
>単歩で125歩だと、複歩では60歩くらいにしかならないから、
あのな
理解できない馬鹿なら後50回俺のレスを読み直せ
お前の勘違いは
「山上の周り」を
円墳の外周と思い込んでるから
山上の周り390余歩なら、
今の拝殿や神殿のある部分だけのことだ
円墳で言えば中心部、頂上のあたり
円墳の上の方で測っても小さいのは当たり前だろ
なんでそんな簡単なことも理解できないんだ?
これだから畿内説は馬鹿にされるんだよ >>859
そうだよ
情報がなかったり不正確だからであって
その記述がそのまま正しいとは言えないと言ってるんだよ
>>876
>その範囲では、地理情報は二点間の直線方向、直線距離になってる
そう
往来が多くて地図を作るのも簡単だから
辺境の倭国も同じ程度の精度があると考える方がおかしいんだよ >>892
自分もそう思う。
例えば出雲の荒神谷遺跡や田和山遺跡は、それが遺跡だと誰も知らない只の森や丘だった時から、地元の人間が決して足を踏み入れない禁足地だった。
トヨの墓の上に神社を建てるなどあり得ない。 >>899
>紙のスペースの都合で向きを変えただけだという事を否定できてないんだよ
紙のスペースの都合で向きを変えただけだというのが一切証拠ないでしょ?
実際いくつもの地図が蝦夷を日本の南に書いている
これが提出できる現物の証拠
全員がスペースのない紙を使う理由は何?
理由がない
>してるぞ
>>817はそのセオリーの話だ
>>817がそのセオリーの話だ という証拠は?
>倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、
それが何の理由になるの?
説明能力ゼロの人? >>895
お前が常識しらずの馬鹿なんだよ
>>901
テンプレ嫁というからわざわざ探して読んでやったら穴だらけのアホレスだったからだよ
読む気にならんwww >>892
現在の宇佐神宮の被葬者は三御殿・三柱だが、
中央の二之御殿(社殿)が、まさに宇佐神宮の主祭神で、この地の古くからの神だったそうである。
両側の二社は後世の神たちで、
三番目の神功皇后御殿は、たしか10世紀ころになって建て祀ったもの。
なお、これ以前からあった宇佐神宮の祖社というのも境内にある。
さらにその前の前の祖社というのも、中津市にある。これらはいつの時代の社か不明。
宇佐神宮の歴史は、けっこう複雑なんだよ。 >>902
>こうやって会稽陶冶がどこなのか決まってないじゃないかwww
12000里で決まるよ >>908
罵っても反論にならないし
穴だらけと言う立証もできなかった
お前が恥だけかいた >>896
箸墓みたいに大きいものは「墳」さ。「冢」はもっと小さいもの
山のように大きいのは墳とされる。
諸葛孔明の遺言でも判るだろ。
山に因(よ)りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る。(蜀志・諸葛亮伝)
「わが墓は裏山を墳となし、冢は棺がようやく入る程度でよい。」
実際の諸葛孔明の墓は直径30m。高さも5m程度。
卑弥呼の墓は冢だから山のように大きくはない。高くもない。
箸墓は「冢」ではなく「墳」 >>907
>紙のスペースの都合で向きを変えただけだというのが一切証拠ないでしょ?
南北を逆に考えてたという証拠もない
>全員がスペースのない紙を使う理由は何?
長崎の寺が所有してる混一図は紙が大きいので日本列島もそれなりに正しい向きになってる
小さい紙だと辺境の日本の向きよりも中心部の大陸の情報を多く書き込んだ方が効率的だからだよ
>>817がそのセオリーの話だ という証拠は?
>>それは北を上にしていると思い込んでるからだろ?
>>今の価値基準で考えるからそうやって間違える
>それが何の理由になるの?
大海の中にあるんだよ
目と鼻の先にあったらそんな記述はしない >>910
萬二千里って書きたかっただけだろ
>>911
穴だらけだという指摘にまともに反論できてないぞwww >>902
>こうやって会稽陶冶がどこなのか決まってないじゃないかwww
違うと言っているのがザラコクだけww
会稽郡治が紹興市、東冶県が福州市なのははっきりしてるんだよ
会稽東冶五県というときには建安、侯官、漢興、南平、建平で、この内「侯官県」が
直接的な東冶県の場所 >>904
>山上の周り390余歩なら、
>今の拝殿や神殿のある部分だけのことだ
>円墳で言えば中心部、頂上のあたり
>円墳の上の方で測っても小さいのは当たり前だろ
そういうご託宣はいいから、「呼子上陸バカ」クンの考えるかっこいい亀山古墳の
径百歩の範囲はどこにあるんだ?
何の基準も根拠もなく、「径百歩」にあたる範囲とか言うなよww
既に>>858でも書いたが、亀山に径百歩=145メートルの円を重ねると、
隙間だらけになる
径百歩の円形部分は亀山にはないんだよwwwww >>913
>南北を逆に考えてたという証拠もない
あるでしょ
複数の地図で南北逆転がある
なぜ皆そろって紙が足りないの? >>914
>穴だらけだという指摘にまともに反論できてないぞwww
あなた「穴だらけと言う立証もできなかった 」って一撃で論破されてますよ >>914
>萬二千里って書きたかっただけだろ
流石にそれは反論ではない >>916
>となると北緯26度は嘘なのか?
なぜ?
福州市は北緯26度だが? >>905
>情報がなかったり不正確だからであって
>その記述がそのまま正しいとは言えないと言ってるんだよ
「呼子上陸バカ」クンは、完全に目的を見失ってるなww
もともと末盧国を、呼子に上陸した場所と言い張っていたのは、
東南陸行五百里の「東南」が正しい、魏志倭人伝は方角を間違わない、
だから、畿内説が南を東だとするのはおかしい、というのが目的だったのにww
魏志倭人伝の記述が正しくないと認めるなら、呼子に上陸する理由はほぼゼロだ
どうやら出発方向が東南だから正しいと言い出しているようだけれど、それは
ザラコクとまったく同じ意見で、唐津上陸で東南に出発でいいことになるww
まあ、バカの相手は面白いし笑えるわww 宇佐の元の信仰は
「一伝に曰く、八幡大菩薩、神明の時、三柱石と発す」(八幡宇佐宮御託宣集)
御許山山頂の巨石を祀る大元神社
香春で新羅の神を祀っていた辛嶋氏が宇佐に比売大神信仰を持ち込んだ >>922
>ザラコクとまったく同じ意見で、唐津上陸で東南に出発でいいことになるww
どっちもトンデモで、いい勝負。 がんばれ。 @阿波 >>922
>東南陸行五百里の「東南」が正しい、魏志倭人伝は方角を間違わない、
>だから、畿内説が南を東だとするのはおかしい、というのが目的だったのにww
違うな
太陽が昇る方向を南とするのはおかしいだろ
と言ってるんだよ
東と言ってもアスペじゃないのだから真東だけではなく
北東から南東の範囲なら東でもいいと言っている
お前がアスペだから理解できないだけだと思うぞ
>魏志倭人伝の記述が正しくないと認めるなら、呼子に上陸する理由はほぼゼロだ
いいや
呼子は大陸交通の拠点なんだよ
お前よりwikiの方がまだマシだろ? >>913
>小さい紙だと辺境の日本の向きよりも中心部の大陸の情報を多く書き込んだ方が効率的だからだよ
どうして蝦夷を日本の北に書かないの?
書くスペースあるでしょ? >>912
>箸墓みたいに大きいものは「墳」さ。「冢」はもっと小さいもの
冢とは高墳である
つまり冢は墳の一種
しかも冢は墳墓の中でも大きいもの
だから、「山のように大きいのは墳とされる」というのはウソ >>926
何度も書いてるが
朝鮮から近い順に並べると
九州、本州の順番だろ?
だから蝦夷は朝鮮半島から一番遠い >>913
>長崎の寺が所有してる混一図は紙が大きいので日本列島もそれなりに正しい向きになってる
あのねえ、それはずっと後世のものでしょ
正しい情報で修正されてると考えるのが普通の人だよ >>913
>>>817がそのセオリーの話だ という証拠は?
>>>それは北を上にしていると思い込んでるからだろ?
>>>今の価値基準で考えるからそうやって間違える
>
>>それが何の理由になるの?
>大海の中にあるんだよ
>目と鼻の先にあったらそんな記述はしない
>>817がそのセオリーの話だ という証拠は
出せないわけだね? >>928
>何度も書いてるが
>朝鮮から近い順に並べると
>九州、本州の順番だろ?
なんで朝鮮から近い順に並べる必要があるんだ? >>930
>>>それは北を上にしていると思い込んでるからだろ?
>>>今の価値基準で考えるからそうやって間違える
これはセオリーの話だ
北を上にするというセオリーが不変だと思い込んでいるから
そうではないとお前らに忠告してやってるレスだぞ
読解力無いなぁww >>931
道順だからだよ
朝鮮のすぐ下に
蝦夷
と書いてても、
日本へ行くなら最初に上陸するのは九州だ
蝦夷ではない >>934
>道順だからだよ
じゃあなんで扶桑が日本より北に書かれてるの
通り道じゃないよね
あなたの主張は矛盾してます >>909
>さらにその前の前の祖社というのも、中津市にある。これらはいつの時代の社か不明。
その中津市の祖社に何もなければ、卑弥呼の墓も台与の墓もないだろうに
ちょっと手ごろな山があれば、卑弥呼の墓だと言いたがるのが九州説の宿痾だなww >>932
>北を上にするというセオリーが不変だと思い込んでいるから
>そうではないとお前らに忠告してやってるレスだぞ
北を上にするというセオリーが不変だと思い込んでいる
という証拠は? >>888
>必死で誤魔化してるけど、本質はそこじゃないぞw
東松浦半島や、海上から見えていた可也山のそばに三雲遺跡群=伊都国があるのが、
壱岐から渡ってきた人には明確に分かるってことだ <
壱岐からは、可也山の後の背振山地が高くて、
可也山は、おそらく、ランドマークにならないし、
唐津からでは、伊都国そのものが見えない。 >>912
>山に因(よ)りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る。(蜀志・諸葛亮伝)
>「わが墓は裏山を墳となし、冢は棺がようやく入る程度でよい。」
これ誤読だって、テンプレにも書いてあるんだけどなw
遺言しなかったら、山のように大きな冢を作るだろうから、小さな冢にしなさいという
遺言なんだよ
>箸墓は「冢」ではなく「墳」
説文解字の「冢」に、いきなり「高墳也」って書いてあるんだけど?ww >>935
つまり
最初に言ったように
単に並べただけだという事だよ
南北を逆だと勘違いしてたのなら扶桑は日本の下にないといけない
なので南北を逆だと勘違いしてたのは間違いだという事がこれで証明された
扶桑
日本
蝦夷
と書かれてる時点で
南北が逆だと思われてたという主張は成り立たない
理解できる? >>932
実際にその地図は上を北として書かれているわけだが、こんな目の前の事実も理解できないのか? >>937
日本列島の記述が南北逆だと言い張ってるのはそれが原因だろ?
>>936
そこらへんの延喜は後世にどうにでも書き換える事ができるしね
筥崎が元だと言われたり
色々ある
色々あるという事は歴史が長いという事 >>916
>となると北緯26度は嘘なのか?
えーと、東冶県にあたる福州市を、北緯26度線が通っているのですが、
ご自分で確かめようとは、なされないのですね? >>927
根拠なく言われてもね。
時代が変われば意味も変わることも有るだろうが、
同時代の孔明の遺言で「冢は棺がようやく入る大きさで、山を墳に見立てる」といってるんだから。
冢は大きくないよ。
中国にある同時代の墓も良く見れば大きいのは殆どない。
直径5mくらいの墓が結構有名な武将の墓だったりする。
30mも有れば大きな冢に相当する。
径100歩は30mくらいだろう。
劉備の墓は径60mな。
戦乱のさなかで大きな墓作っている余裕はなかったんだろう。
日本も中国と事情は変わらない。
邪馬台国も狗奴国と戦争状態で大きな墓作っている余裕はなかったはずだ。
箸墓が卑弥呼の墓ではありえないと言う事を理解しろ。 >>942
>南北を逆だと勘違いしてたのなら扶桑は日本の下にないといけない
>なので南北を逆だと勘違いしてたのは間違いだという事がこれで証明された
なんで?
百済も日本の北に書かれてあるだろう?
当然ながら証明にならない >>928
スペースに余裕がある地図でも
倭が福建の真東に書かれてますね
スペースの都合で位置が南なのではないわけだ
https://imgur.com/a/rgD8Ixc >>947
日本列島は南北が逆だと思われてたのなら
日本
扶桑
蝦夷
の並びじゃないとおかしいぞ
>百済も日本の北に書かれてあるだろう?
言い訳になってない >>948
その地図だと
倭国の上に日本国があるわけだ
そして、大小の琉球の下に邪馬堤国かな? >>946
>同時代の孔明の遺言で「冢は棺がようやく入る大きさで、山を墳に見立てる」といってるんだから。
言っていない
「冢は棺がようやく入る大きさにしろ、山を墳に見立てて代用しろ」
と薄葬を命じる遺言している
つまり本来なら冢は大きいもの、墳は土盛りをするのが常識ということだ >>925
>違うな
>太陽が昇る方向を南とするのはおかしいだろ
>と言ってるんだよ
どうして方角間違いに、貴賎を付けようとするんだ?ww
>東と言ってもアスペじゃないのだから真東だけではなく
アスペじゃないんだから、という言葉を「呼子上陸バカ」クンは多用しているけれど
コンプレックスでもあるんじゃないのか?ww
>北東から南東の範囲なら東でもいいと言っている
北東が東南と書かれていたら、90度間違っていることになる
東が南と書かれていた場合も、同じ時計回り90度の錯誤なのだが、
この錯誤だけピンポイントでおかしいと言い張るのは、
ご都合主義のダブスタだと理解できるかな?
魏志倭人伝は八方位で書かれているのに、北東から東南までは東でOKとか、
それこそ「自分の主張に固執する自閉症スペクトラム症候群」の特徴を地で行ってるぞww
>お前がアスペだから理解できないだけだと思うぞ
よほどコンプレックスが深いようでww
いい医者を紹介してやろうか?w >>948
福建省の真東に倭国があり
その下に琉球がある
倭国の上には日本国がある
これほど大雑把なのに真東がどうのこうのとか議論する意味があるの?
獅子国って位置関係はあれでいいの?
福建省の真東に倭国があるのと同じ程度に正確にあの位置なのかな?
それとも君に都合のいい部分だけは正確で、その他は不正確でもいいのかな? >>925
>いいや
>呼子は大陸交通の拠点なんだよ
それは後代に、呼子までの街道が整備され、呼子の港町としての港湾機能が
作られてからの話なんだよ
銅鏡百枚ほか、重量物も含めた大荷物を輸送するには船が一番エネルギー効率がよい
呼子で上陸して陸送する理由がほぼゼロなんだよ
これが理解できないから「呼子上陸バカ」なんだろうけどさ
そしてなにより、呼子に上陸したら、東南陸行五百里という記述にも合わないww
呼子に上陸したと考えるやつが無能なバカだww
>お前よりwikiの方がまだマシだろ?
wikiは話半分にしないと笑われるぞ
古代史関係は、九州説系のバカが一生懸命、編集してるし
そして、宇佐八幡宮のwikiには、亀山「古墳」のことは一言も触れられていないww
さて、こう書いたら、編集に行くバカが出現するかな?ww >>952
>北東が東南と書かれていたら、90度間違っていることになる
バカなのかな?
北東から南東を東と呼んでもいいと言ってるんだよ
北東なら大雑把に言えば北か東であって南東にはならない
南東なら大雑把に言えば南か東であって北東にはならない
なのでお前の言い訳はやっぱり通用しない
>東が南と書かれていた場合も、同じ時計回り90度の錯誤なのだが、
90度の間違いはないと言ってるんだよ
せいぜい45度だな
北東から南東を東と呼んでもいいと言ってる意味が理解できてないようだwww
もっと勉強しなさい >>944
>色々あるという事は歴史が長いという事
新羅人が宇佐に来るまでにいろいろ変ったんだな
そして追い出された >>954
いいや
連続した遺跡があるのだから昔から拠点だったんだよ
後代に拠点となるなら糸島でも唐津でもいいじゃないか
かつて呼子が拠点じゃなかったら、後代に拠点となる必要性が無いんだよ >>931
>なんで朝鮮から近い順に並べる必要があるんだ?
ここでは前から話題に出ていることだけれど、
魏志倭人伝では、帯方郡から近い順に国の記載がなされており、
それが大枠で南方向とされている(一部に東南から東が混ざる)
陳寿の認識では、帯方郡、半島から遠ざかる方向が南、という解釈で
読むとすっきり理解できるんだよ >>949
>日本列島は南北が逆だと思われてたのなら
>日本
>扶桑
>蝦夷
>の並びじゃないとおかしいぞ
なんで?
どうして扶桑国が日本列島にあるんだ?
>>百済も日本の北に書かれてあるだろう?
>言い訳になってない
言い訳じゃなくて、お前が論理的に間違ってることを指摘してるんだが
理解できないか?
日本と蝦夷の位置関係だけが間違っているという状況を認めないなら
百済も新羅も南に書いてないとおかしいことになるんだぞ >>928
>冢とは高墳である つまり冢は墳の一種 しかも冢は墳墓の中でも大きいもの<
漢代の説文解字の時代は、「冢≠墳」と言っていて、
「冢は、高く見える墳だ」と言っているのであり、
三国時代の孔明の遺言のように、「冢が大きい」とは言っていない。
>だから、「山のように大きいのは墳とされる」というのはウソ <
だから、類スレ主は、「南→東」の嘘つきと同じように、
また嘘を付いた。 >>960
>漢代の説文解字の時代は、「冢≠墳」と言っていて、
>「冢は、高く見える墳だ」と言っているのであり、
>三国時代の孔明の遺言のように、「冢が大きい」とは言っていない。
おいおい
冢は墳の高いものなんだから
墳のなかでも大きいものなんだよ >>958
>陳寿の認識では、帯方郡、半島から遠ざかる方向が南、という解釈で
>読むとすっきり理解できるんだよ
つまり中国側は方位について認識の誤りがある
そういうこと >>959
>どうして扶桑国が日本列島にあるんだ?
ないとおかしいだろ >>933
等高線見ると円墳でも何でもない山やんけ >>960
>三国時代の孔明の遺言のように、「冢が大きい」とは言っていない。
またウソ
三国時代の孔明は「冢が大きい」とは言っていない。 >>963
>>どうして扶桑国が日本列島にあるんだ?
>ないとおかしいだろ
おかしいという理由は? >>962
しかしそうなると
朝鮮に一番近いのが扶桑で
ついで日本、蝦夷
という並びになっているでちょっとおかしい
日本列島の南北を間違えてるなら
日本
扶桑
蝦夷
と並んでないと変だろ?
>>964
本殿の付近が後円
八幡鳥居から若宮神社にかけてが前方 蝦夷が一番南なのは
倭国は帯方より南1万2千里とこぞって古代中国の史料が書いてるからだよ
そこに当時伝聞だったろう地名情報を近い順に書いていくとああいう地名の並びになるんだろ >>967
そんな恣意的に切り取っていいなら
どの山でも径百歩の卑弥呼の墓だな >>967
後円も前方もないな
落花生型だな
ナッツ姫地山だ >>966
扶桑が日本列島に無いとする理由は?
>>968
帯方より東南
>>969
地質によっては1000年以上もほぼ放置されてるのだから
だんだんと崩れて行って広くなっているのかもしれないよ
調査してないしできない場所だからどんな妄想でもできるよ >>954
>銅鏡百枚ほか、重量物も含めた大荷物を輸送するには船が一番エネルギー効率がよい
呼子で上陸して陸送する理由がほぼゼロなんだよ <
重量物を積めば、ますます、転覆し易くなる。
魏使らは、当然「安全最短の原則」であり、
危険な渡海は最小限にし、
水行も、沿岸航行程度の最小限。 >>967
>日本列島の南北を間違えてるなら
>日本
>扶桑
>蝦夷
>と並んでないと変だろ?
なんのおかしい点もない
この地図は東西の縮尺が東に行くにつれ南北の縮尺に比べてずっと詰められている
というだけだ
新羅と粛慎(ロシア沿海州)との位置関係を見れば一目瞭然
日本と蝦夷だけ逆転している >>938
>壱岐からは、可也山の後の背振山地が高くて、
>可也山は、おそらく、ランドマークにならないし、
>唐津からでは、伊都国そのものが見えない。
https://i.imgur.com/NDSCnBu.jpg
国土地理院のサイトで3D地図を作ってきたから見てごらん
壱岐から東松浦半島に着く直前の海上から見た様子だ
高さ方向は分かりやすいように強調してある
背振山脈の方が高くても、方角が異なるから重ならないし、
可也山は糸島富士と呼ばれるほど整った独立峰だから、
目立つし一番のランドマークになる
唐津から伊都国の平地が見えなくても、可也山の近くにあるというのは
土地の人なら分かるだろww >>974
13世紀の地図だぞ?
13世紀も日本と扶桑はそんなに離れてる設定なの? >>972
>扶桑が日本列島に無いとする理由は?
明らかだろう
倭国が帯方から1万2千里なのだろう?
そこから3万里も先だ
どうして日本列島だと思う?
文身國 在倭國東北七千餘里
大漢國 在文身國東五千餘里
扶桑國者(中略)扶桑在大漢國東二萬餘里 >>977
13世紀もその認識?
テンプレの地図は13世紀に描かれたと書いてないか? >>972
魏志倭人伝に女王国は帯方より南1万2千里
さらに南に4千里まで支配力が及ぶと記述があるよ
それに聞きかじった倭の地名を近い順に当てはめたんだろう
だから蝦夷か1番南
つまり魏志倭人伝がそうであったように
東→南としたからこそそうなっているとも言える >>976
そもそも扶桑なんて国が日本と別に実在してない件について 426>>233
>1里76.5mとしたために、尺、歩も縮めなければならなくなった古田信者たち“短里教”。<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の類スレ主は、
古田説では、「尺寸」系には大きな変化はなかった、として来た事を隠して
また、
「尺、歩も縮めなければならなくなった古田信者たち」という嘘つき騙しをしている。、 >>973
だからといって、呼子でなきゃならん理由がない。
三海を渡ってきたのだから、
あとは呼子でも、唐津でも、糸島でも、今津でも、博多でも、福津でも、沿岸航行の似たり寄ったり。 今日は南北逆が話題みたいだけど
魏志倭人伝は倭国を記述したものだろ
後世で日本を南北逆に書いた地図何て関係無いと思うけどな
倭国が日本全土だと魏の使者が確認してるなら別だけど・・・・ >>979
ちょっとわかんない
絵にかいてくれた方が分かりやすいかも
>>980
扶桑でwiki検索すると
かなり昔から使われてるという事だよ
>>984
13世紀ごろのなんていう本に書かれてるの? >>972
少なくとも箸墓は円墳部が140mと判明してるから
どちらかというとこっちに軍配が上がるな 426>>238
>だから九州は畿内の王に服属させられたんだが 通説だろ<
ダメだ。
大和日本国は、
九州倭国の別種分家の旧小国であり、
九州倭国の東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。」 >>955
>バカなのかな?
>北東から南東を東と呼んでもいいと言ってるんだよ
それは「呼子上陸バカ」クンがそうしたいなら勝手にすればいいけれど、三国志は八方位で書かれているんだ
北東方向は北東と書かれるし、南東方向は東南と書かれる
まさに会稽東冶之東と書かれているときに、
北東や南東まで東に入るというのはインチキ読みだよww
>北東なら大雑把に言えば北か東であって南東にはならない
>南東なら大雑把に言えば南か東であって北東にはならない
それなのに、末盧国から伊都国が、実際には北東なのに東南と書かれている時点で魏志倭人伝は間違っている訳だ
>なのでお前の言い訳はやっぱり通用しない
大丈夫、バカはお前の方だからww
>90度の間違いはないと言ってるんだよ
>せいぜい45度だな
お、新機軸ww
呼子にしても東南にならないから、魏志倭人伝が八方位であることを無視して45度まではOKという詭弁に走るんだww
思いつきで、無理な自己正当化を続けるのって楽しい?ww
>北東から南東を東と呼んでもいいと言ってる意味が理解できてないようだwww
>もっと勉強しなさい
商売人が値切られたときに、勉強させてもらいましたって言うのは知ってるけど
「呼子上陸バカ」の考え方の道筋を勉強しても、何の価値もないから遠慮しておくよww >>986
地図見てみたらいいだろ
聞きかじりの地名情報を南に1万6千里とされる倭の情報を当てはめたら
ああいう風な並びになるんだろ
こ奴は都合が悪くなると何にもわからないフリをするようだな >>986
>13世紀ごろのなんていう本に書かれてるの?
あの地図そのものの本文に書いてあるんだよ >>987
桃の種と馬具しか出てないから無理www
>>989
>北東方向は北東と書かれるし、南東方向は東南と書かれる
正確税45度と書いたのはそういう意味なんだが
理解力ないんだなぁw
北東なら北から東の範囲なら北東
南東なら南から東を南東
>それなのに、末盧国から伊都国が、実際には北東なのに東南と書かれている時点
俺が何度もうpした地図によれば南東になる
アスペなお前からすると東南東だろうけどなwww
まず最初に東松浦半島を南下する
南下する距離が一番長い
続いて唐津から東進
これが二番目に長い
そして少しだけ北上
この三方向の移動をベクトルで表せば東南になるのは当然 >>957
>いいや
>連続した遺跡があるのだから昔から拠点だったんだよ
その連続した遺跡が、交易関係でも港湾関係のものでもないから
呼子が航海の拠点だったと考えるのは、むしろその遺跡そのものから否定される
>後代に拠点となるなら糸島でも唐津でもいいじゃないか
>かつて呼子が拠点じゃなかったら、後代に拠点となる必要性が無いんだよ
その辺は、その時々の行政の都合だから何ともいえない
実は、構造船を使うようになった遣唐使の頃の方が、丸木舟で渡っていた頃より
遭難率が高い
そういう時代は、海上距離を最短にする意味が大きくなるから、
呼子を整備する動機が出てくる 426>>260
このように
大和説に持って行くには
ご都合だけで史料をアチコチ間違いだとしないと
まったく無理 >>985
局部的に方位が間違うミスが存在しうる
という実例だよ
それより本題は
倭が浙江〜福建の東にあるという認識が
陳寿以来続いてるという点だがねえ >>992
>まず最初に東松浦半島を南下する
>南下する距離が一番長い
>続いて唐津から東進
>これが二番目に長い
>そして少しだけ北上
>この三方向の移動をベクトルで表せば東南になるのは当然
こいつ、本格的にインチキ野郎だ
どうやっても呼子からは東だ
https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg 426>>264
>>理由は女王国の先の里程が記されているから。
逆に、里程→日程→里程となっている理由は?<
>それがなんで理由になるんだ? 九州説の考えることはワカラン<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
が書いてあるから。 陳寿は倭国が台湾に近いくらい南だと思って書いてるし
読んだ人もみんなそう思うということだ
つまり方位も里数も間違ってるという証明だね 畿内説の見苦しさは見るに堪えないな
@一人のようだが このスレッドは1000を超えました。
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