邪馬台国畿内説 Part429
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1550571711/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 畿内説の必死の工作は畿内説を盤石にするどころか
離反者を増やすだけという悲しい展開になってるな
巷では九州説論者が増えている 畿内説は邪馬台国と関係ないことばかり持ち出して根拠だと言い張るからね。
ヤマト王権と邪馬台国を履き違えているだけだと思う。 掲示板で雑談していたら荒らしと言われたでござるよ。
畿内説は追い詰められて余裕がないな。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 帯方郡から福州までが1500km
1万2千里≒1500qでいいのかな? 福州の東に女王国なんかあるわけないから九州説はダメというなら、
畿内説はもっともっとダメ、臨みは皆無。、、 >>77
だめだね
韓は方4000里くらいしか無いんだろ?
そこを7000里くらいすすんたわけだ
だから12000余里を直線で南下する計算をしたらサギ >>79
>福州の東に女王国なんかあるわけないから九州説はダメというなら、
>畿内説はもっともっとダメ、臨みは皆無。、、
ダメな理由は?
発狂したのか? 朝鮮から対馬へ渡るのに千里
対馬から壱岐までが千里
壱岐から九州までも千里
朝鮮から九州に上陸するまでに三千里とか言ってるわけだから
あまり意味があるとも思えないね >>84
だからそういう比率、縮尺で計算しろということだろう。
九州上陸から二千里でもう邪馬台国だよ。 >>87
>阿波が一番ダメ
ハハハ、トンデモにとってはそうだろう。 @阿波 >>88
その通り、そういう比率、縮尺で計算しろということだ。 >>91
そういう理屈で短里を使うのならもっと説明するべきだよ
要は、とても遠いという意味合いの1万2千里を当てはめるために、実際の距離を1万2千里の比率に伸ばしたという事だよね? その比率縮尺で確かに正しいと考える根拠の提示がないのがダメなんでしょ >>89
そうやって理由もなしにダメダメ言うのが
ダメ説なんだよね
九州説は自己矛盾するダメ説
畿内説は問題なし >>93
しかも、その比率さえ一定しないという問題を指摘されて100年
まったく解決できないままだった九州説が20世紀とともに終わったのは
遅過ぎ 要は
帯方郡から1万2千里
朝鮮半島から九州までが3千里
あとは同じ比率で考えろ
という事か? >>95
江戸時代から、ちっとも進歩していない畿内説と九州説というガラパ説。 @阿波 >>83
そうやって理由もなしにダメダメ言うのが
ダメ説なんだよね
畿内説は自己矛盾するダメ説
九州説は問題なし >>93
そりゃ、里数の記事記載は誤っているという前提での発言だ。
言い換えれば、倭人伝はでたらめという認識から発している。 2019/02/21
【考古学】北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性[02/19]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1550732843/43-45 帯方郡から1万2千里
帯方郡から九州上陸までが1万里
残りは2千里
帯方郡から九州上陸までが1万里なので、
その比率にあわせた2千里
Σ(・□・;)宇佐か 427>>499
>陳寿が政治的な理由で東にあった大和国、邪馬台国を
帯方より南1万2千里の会稽東治(冶)の東
現在の地図で見ると沖縄や台湾辺りとした
だから九州上陸時点で方角が南へ南へとズレていく<
陳寿は、女王國を「会稽東治之東」としたから九州島付近を指しており、
沖縄台湾を指しておらず、
だから、この大和説男が詐欺師。 427>>499
>陳寿が政治的な理由で東にあった大和国、邪馬台国を
帯方より南1万2千里の会稽東治(冶)の東
現在の地図で見ると沖縄や台湾辺りとした
ならば畿内は、八丈島あたりだな ザラコクは老人にしては文章が中学生みたいだな
昔は中卒で就職が当たり前だったから高校には行ってないのだろうな 畿内説論者には人間としての魅力がないから
支持者が増えないのでは?
底の知れた人物じゃ誰もついてこない 427>>513
>それとな 魏の使者が上陸する場合 使者が乗ってる船は中国の船じゃないか?
船員も中国あるいは朝鮮人じゃないかな?<
「持衰」の見聞記録があるから、倭船。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 時代はかなり下るけど琉球王朝には柵封使は中国船で来てたね >>98
>畿内説は自己矛盾するダメ説
そうやって具体的な指摘の出来ない九州説が
空論として淘汰されていくのは
当然の成り行きだ テンプレを最後のよりどころとする畿内説が多いけど
これはまさに畿内説の集団自殺と言ってよい まだ、延々とマンネリネタやってくんだろうな。 とっくに倭国(阿波)に決定済みと言うのにww @阿波 九州説の嘘も罵倒もオウム返しももう全て通用しないからな
ほらさっさと退場しな 九州説の反論に返す言葉がなくて
やけになってるのはわかるけど
少し落ち着いたらどうだ畿内説の諸君 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>118
九州説はもはや虚勢を張るぐらいしかできないようだな
みんな見てみ哀れで滑稽なこの様を
わははは 九州説の反論って反論になってないから話が噛み合わないんだよね
里程は当てにならないという見解に畿内説では〇〇里は何kmだみたいな頓珍漢な問いで返されたり
この場合こういう理由で里程は信頼できると考えられるというのが反論だと思うのだが 冊封使をもてなすための御冠船踊の踊奉行に任命され、
組踊を創作した玉城朝薫の子孫がDA PUMPのISSA
従属国の伊都國は副官が一人多いので、
伊都國王と4人のラインダンスで郡使を出迎える大役を仰せつかっていたのではないだろうか 虚勢かどうかはスレを見ているみんなが分かっているよ
畿内説は論破済みのテンプレを死守しようとしている自殺志願者だということを 九州説は萬二千里をきちんと説明できないからダメなんだよ
基本は大月氏に対するバランス
大月氏が、漢書西域伝で「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」
この11600里よりも遠く見せたいというのが、根本
それと、漢代の倭国本土(本州四国九州)上陸まで一万里という設定が第2
第3が、淮南子の世界観
淮南子の墬形訓では、
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里が全世界とされ、
そのうち中華の本土が、九州之大,純方千里,九州之外,乃有八殥,亦方千里、つまり三千里四方
これが、山海経以来の世界観で、漢土の外が南北萬千五百里、東西萬二千五百里になる
この後、秦の始皇帝の統一を経て、中華王朝の直轄地が、方万里に(観念的に)拡張される
だから、北方民族との境界の壁が万里の長城と呼ばれることになる
これが、時則訓では五行思想を入れて
東西南北中央の極が、全て等しく萬二千里に整理される
「地」は全体で、東西南北ともに3万6千里の「方形」になる訳だ
で、この淮南子の知識を持った陳寿が、倭国までを大月氏の萬千六百里より遠くするのに
採用したのが、東方之極、つまり東の地の果てまでの観念的な距離、萬二千里ということ 東と南も区別がつかない畿内説・・・
終わってるね w 畿内説は倭人伝を剽窃しただけの小説
邪馬台国問題ではその現実ぬきには議論が進まない 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 427>>541
>畿内からは卑弥呼が魏に使いを送ったと<
畿内なんて存在もしない嘘つき詐欺の文言。
卑弥呼は、「南≠東」に拠って、筑紫の女王。
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に記述がある景初三年銘の<
明帝の詔書は景初二年だから、景初三年かがみは、景帝の鏡ではない。
>陳氏作三角縁神獣鏡が見つかっているぞ<
陳氏は、渡来の呉系楽浪鏡師らの中の一人。 >>93
>その比率縮尺で確かに正しいと考える根拠の提示がないのがダメなんでしょ
そうやって理由もなしにダメダメ言うのが
ダメ説なんだよね
畿内説は自己矛盾するダメ説 >>99
>言い換えれば、倭人伝はでたらめという認識から発している。
畿内説は妄想の中で「僕が考えたさいきょうのヤマト」を追求しているだけだろ。 >>944
>それをひがみと言うらしいよ…
ひがむほど阿波はスターダムに乗ってないけどな。
ただ、鉄器づくりのための鉄材を半島まで仕入れに行っていたと解釈するのは、どうよというところ。
その鉄器づくりも、鉄材不足で需要を満足させるほど生産されていなかったとみられているほどだから、半島へ仕入れに行っていたとの解釈は無理じゃな〜いの。
阿波に対してリキが入ってきているのは、分かるけどね。
まあ、がんばりたまえ。 >>130
>そうやって理由もなしにダメダメ言うのが
>ダメ説なんだよね
>畿内説は自己矛盾するダメ説
「その比率縮尺で確かに正しいと考える
根拠の提示がないのがダメ」
と、明確に理由が書かれているのに
その明確な事実を無視する九州説はダメ説 >>133
根拠があるかどうかの判断はそれ以降の話じゃないの? 比率縮尺の場合は
九州上陸から二千里でどこに着くのかを示してください >>135
>>そういう比率、縮尺で計算しろということ
が正しいのか信憑性があるのか
まずは検証するべきじゃないのか?
と言ってるんだよ
畿内説の人はパブロフ状態で、いきなり根拠がないと言い張るけど
畿内説の根拠も同じようなものじゃないか 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 距離はデタラメと畿内説で決めたの誰なんだろう
魏志韓伝もデタラメ?三国志すべて距離はデタラメ? >>137
ですから、検証するためには、九州上陸から伊都歌劇団國を通り過ぎて
二千里で到達したところに何という遺跡が存在するのかを示しなさい >>137
>畿内説の根拠も同じようなものじゃないか
同じようなものだってこと根拠は? >>140
人の話をきいてないんね
だから九州説はダメなんだ そういうこった。
魏志韓伝もデタラメ、三国志すべて距離はデタラメ
がしかし、畿内説は正しいのだーーーーー、なんて、ふんぞり返って自慢しても、だあれも信用しないのだ。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>148
つまり南北が逆だと思い込んだのではなく
意図的に回転させたという事 >>148
大きな半島があるから、日本を横に描いても縦でも変らん >>153
変わってるじゃん
日本列島が正しい向きと位置だったら朝鮮半島と中国大陸はもっと左によることになる
そうなると同じ大きさの紙だと中国を小さく書かないといけなくなる >>154
日本の右側にスペースがあるから横が正しいなら横に描ける >>155
屁理屈だなぁ
そのスペースに収まるように向きもサイズも位置も変えたんだろうに
そうやって言い張る時点で畿内説はダメなんだよ >>156
縦に描いてるのが事実
紙の都合でというのが屁理屈 >>157
紙に描いてるのが事実と言う根拠は?www >>159
縦に描いてるのが事実
赤字のヘタクソなのが落書き >>160
すげぇな
こんなのが畿内説なんだwww
根拠も論理も理論もない
ただ言い張ってるだけwww
その混一図が正しいとでも思ってるのか?
インドの位置も大きさも違う
タイやシンガポールもおかしい
それなのに日本の向きや大きさだけは信用していいと言い張ってるw
それが畿内説www
子供の絵地図と同じで、自分がよく知ってる部分だけ異様に詳しく書き込んで、
知らない部分は適当に書く
だから中国本土や朝鮮は異様に細かく大きく描いてる
そういう事が理解できないから畿内説は馬鹿にされるんだよ >>161
>日本の向きや大きさだけは信用していいと言い張ってる
言っていない
>知らない部分は適当に書く
東西だと知らないということな >>162
ん?
混一図は日本列島の南北が逆だと思われてた証拠のつもりだったんじゃないの?
行ってないのならどういうつもりでこんな落書きみたいな地図を何度も取り上げるのかな?
畿内説って都合が悪くなると話を逸らすのかな? >>163
畿内説は倭人伝の地理観は間違っていると言っている
九州説は倭人伝の地理観は、現在の正確な地図に当てはめていいという主張 >>165
いいや
アスペじゃありませんので
今と同じ精度は要求してませんよwww
しかし、
太陽が昇る方向を南と思い込んだりはしないだろう程度の正確さは期待してもいいと思ってるよ >>164
だろう
という推測であって、根拠はないんだよね >>164
それ、琉球は地図の上の方に書かれてるんだよね >>166
アスペという言葉好きだな、呼子詐欺おやじ
邪馬台国に比定する遺跡はどこか?と何度も聞いているがお前は答えない >>169
どこでもいいんじゃないか?
畿内説は、何度も何度も場所が変わって今の時点では箸墓の近辺なんだろ?
それがどうやら違ってるという事になったらどうせまた別の場所を上げるんだろ? >>171
候補って言っても、
箸墓くらい信憑性が薄くてもいいのなら九州の遺跡ならどこでもいいんじゃないか?
馬具が出てくる遺跡だしwww >>172
どこかにきっとあるじゃ、お話にならないんだよ >>174
候補もない、九州ならどこでもいいお前のは説じゃない
まず、九州の遺跡のお勉強から始めろ >>175
そうやって話をそらせて逃げようとしてるんだろうけど
混一図はスペースの都合で日本の向きを変えた
という可能性を否定できる根拠は誰も持ってないという事は認めないとなwww >>176
お前がヘタクソ落書きで東西日本を大きく描いてるだけ >>177
朝鮮半島や中国の大きさと比較したらあのくらいでちょうどいいだろうが
あの混一図の日本列島は小さすぎるだろ と、
こうやって個別具体的な話になると全くダメなのが畿内説 >>176
横かられす
なんせ邪馬台国は7万戸もあった。
その候補地の肥後熊本は、掘れば邪馬台国時代の遺跡だらけだ。
(ま、畿内説は「ここは邪馬台国」と書かれた看板が出ないことには認めないだろうけどな・・) >>178
それなら縦横の問題じゃない
地理観が間違った地図が存在したという事実があるだけ >>181
屁理屈だな
>>148を全く否定できてない そもそもあの混一図で
タイラオスベトナムはどこになるんだ?
インドっぽい場所の右側に小さな半島があるけど、
もしかしてあの部分だろうか?
だとしたら
日本がどうのこうのというレベルじゃないな
という事
そのくらい無茶苦茶な地図なのに
日本は南北逆に考えられてたとか言い張ってもなぁwww >>182
落書きはいらないから、
東西に正しく描かれている龍谷大学図と同時期の地図を示しなさい >>184
東西か南北かは置いといて
一つの地図ですべての方角を揃えていなければならないというセオリーは
人類発祥から存在していたものではない
単にスペースの都合で向きを振り替えただけだろ
中国にとって化外の地である日本の向きを少々変えたとして、何か不都合があるのか? >>185
単にスペースの都合で向きを振り替えただけかどうかは
ヘタクソ落書きではなく、同時期に存在した正しい向きの地図があれば
スペースの都合の可能性を判断する >>186
向きを正しく描く必要性がないのだから
そんな地図が存在してなくても未発見でも問題ないんだよ >>186
>中国にとって化外の地である日本の向きを少々変えたとして、何か不都合があるのか?
これには答えられないわけだなwww >>188
お前のは、地図にしても候補となる遺跡にしても
実態が全く無い >>190
南北逆だと考えられてたという屁理屈にも実態はない
ただ逆に書かれた地図が存在するだけ
それに対して根拠のない妄想をしてるのが畿内説 >>191
間違った地図が存在するというのが実態
お前のは、お前が思うというだけが根拠
相手が相手にしなくなるまでしつこく言張ればそれでいいという文化風習 >>192
間違ってるのか、意図的に変えてるのか
それは誰にもわからないんだが
なんで間違ってると決めつける?
根拠は?w
>相手が相手にしなくなるまでしつこく言張ればそれでいいという文化風習
根拠なしに間違ってると言い張るお前の事だろ? 候補となるような3世紀の遺跡があるときに
初めて行程解釈と整合するかどうかの判断になる
呼子詐欺ジジイには候補すらない >>194
候補に合わせようとするから畿内説hあ間違えるんだよ
そうやって話をそらさずに
>>193に逃げずに答えてみろ
そんなこともできないのが畿内説www >>193
現実に間違ってるのが実態
地図が間違ってる理由をお前がヘタクソ落書きでそう思うというだけ 九州から「ここは邪馬臺国」と書かれた看板が出土しても、
それは畿内にあったものを、だれかが引っこ抜いて九州まで運んで埋めた可能性が捨てきれない・・、
とかいって頑張るんだろうからな。
畿内説は、その手のヤカラさ。 >>195
畿内説は行程を比定には使わないから合わせていない
お前のは候補もないのに行程解釈を連呼しているだけ >>196
なぜ意図的に変えたとは考えずに間違えたと決めつけるんだ?
その根拠は?
根拠なくそう思ってるだけだろ?
畿内説っていつもこれwww >>199
畿内説は間違っている地図を提示しているだけ
お前がその理由を決め付けている >>198
どうせお前は日本海を通って出雲を経由したとか言い始めるんだろ?
魏志倭人伝の記述なんて気にしなくてもいいんじゃないか? >>200
その地図が間違ってるのか意図的に向きを変えてるのか
だれが分かるんだ?
お前はなぜその地図が間違ってると決めつけることができるんだ?
その根拠は?
何度も聞いてるけどお前は根拠を一度も提示できてないぞ >>200
>お前がその理由を決め付けている
間違ってると決めつけてるのが畿内説
俺は、間違ってると決めつけることはできないと言ってる
意図的に向きを変えた可能性を否定できる根拠は無いと言ってるんだよ
もちろんお前にも否定できる根拠はない
どちらの可能性もあると言ってるのに、それを理解できないのがお前なんだよ >>147
韓伝の四千里四方を畿内説なりに解説くれんか >>159
>これが事実
https://i.imgur.com/1rDLKHJ.jpg
この地図、遣隋使や遣唐使に見せたら笑われるレベルの地図 1402年に李氏朝鮮で作られた地図
遣隋使 遣唐使 の 時代も南は東ということかな
馬鹿げてるよ 昔の中国じゃ南に倭国が伸びてると思ってたんだよ
後漢書あるいは魏志倭人伝がそうなってるし
それを参照した史書にもほとんどそう書かれてるから
そこにこういう国があると入ってきた情報を近い順に並べていったら
蝦夷が一番南となって南北が逆に書かれてるように見える
南北が逆なんじゃなくて実態は東方向が南に書かれてるんだろう
後漢書や魏志倭人伝と同じように >>130
>そうやって理由もなしにダメダメ言うのが
>ダメ説なんだよね
理由はちゃんと提示してるだろ?
短里があるとする根拠は、循環論法以外はないし、
循環論法を否定する論拠は何度も複数挙げている
1.短里の使用例はない
2.短里を使う理由のある人がいない
3.短里を示す考古遺物が一切ない(魏晋里は古尺の現物が出土している)
これだけで、短里が成立しない理由としてはおつりが来るよ
>畿内説は自己矛盾するダメ説
はい、ミラーリング(詭弁検定初歩)だねww
九州説は自らが批判されたことを言い返すだけ >>205
>>これが事実
>https://i.imgur.com/1rDLKHJ.jpg
>この地図、遣隋使や遣唐使に見せたら笑われるレベルの地図 短里が循環論法には思えないのだけれど?
どこがどう循環論法なの? >>204
>韓伝の四千里四方を畿内説なりに解説くれんか
これ、何度書かなきゃいけないんだ?w
まず最初に、帯方郡から倭國本土(本州、九州、四国)に上陸するまでが一万里
渡海は1回で千里×3
女王国まで萬二千里 という設定がある
半島の沿岸航行は、七千里ではないけれど、
倭国上陸までが万里
渡海が千里×3だから、七千里なんだよ
設定が先にあって、そこから出てくる数字
韓の方四千里は、実際には方四千里ではないけれど、沿岸航行七千里に合わせて、
南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、方四千里としている
最初に設定ありきで、それに合わせて机上の計算で作った数字なんだよ >>210
>短里が循環論法には思えないのだけれど?
>どこがどう循環論法なの?
九州説の短里があるという論理展開は以下の通り
1.倭人伝の行程は、現実の距離に合わないから短里だ
2.短里があるのは、倭人伝が短里で書いてあることで証明できる
これだけなんだよ
循環してるだろ?w
単に、倭人伝の距離が現実に合わないことを短里だと言い張っているだけ >>210
邪馬台国は九州にあったに違いないから
魏志倭人伝の距離は短里に違いない
循環論法 >>212
ひどい捏造だな。
九州説はほぼわかっている地理と魏志倭人伝の記事を付けあわせたら、邪馬台国が九州になったというものだろ。 >>205
この地図が実在することが現実だよね
スペース足りないから縦にしたというのは想像
https://i.imgur.com/1rDLKHJ.jpg
だけどもう一つ
現実を見てほしいね
ヘタクソな赤字で日本を大きく書いたのは
現代日本の九州論者
地図にあるままの日本は
そのまま東西南方正しい方向に書いても
ちゃんと地図に入る
スペースが足りないから縦にしたというのが
一目でウソってわかるだろ?
しかも、もっと前の時代から
日本を北に、蝦夷とか毛人を南に
書いた地図が実在してるんだぜ
九州説がデタラメを主張してるって
動かぬ証拠じゃないの? >>214
>九州説はほぼわかっている地理と魏志倭人伝の記事を付けあわせたら、邪馬台国が九州になったというものだろ。
それは捏造だな
九州説は現実の地理に合わせて魏志倭人伝の記事にある数字の単位を、邪馬台国が九州になるように創作したものだ 後世の地図にも方角が歪んでるのがあるんだから、
畿内説の方角距離が歪んでいても許される・・、という理屈のようだな。 魏志倭人伝の里は魏で使われた尺度と大幅に異なっている
だから邪馬台国までの距離を正確に測ったものとは扱えない
ゆえに邪馬台国まで1万2千里というのは不確かなもの
これが三段論法 >>214
魏志倭人伝の記事によったら邪馬台国は沖縄とか台湾の辺りになるぞ >>217
いいや
魏志倭人伝に書いてあるような地理を中国人が信じこめば、ああいう地図を書いてしまう
という現実だよ このスレは実は九州説をおびき寄せ
ボロボロになるまで論破し尽くして九州説をストレス死にさせるためにあるのだ >>216
>九州説は現実の地理に合わせて魏志倭人伝の記事にある数字の単位を、邪馬台国が九州になるように創作したものだ
事実の順序入れ替え操作と、論旨改ざんだ。
九州説は、現実の地理と突き合せたら、邪馬台国は九州になった。
その里と魏志倭人伝の記事にある数字を突き合せたら短い里の単位になった(創作したのではない)。
さらにその短い里の単位は、半島7千里にも渡海3千里にもよく合う、という順序論旨だ。 畿内説はストレス発散でスッキリ
九州説は夜寝れなくなるぐらいイライラw >>132
>その鉄器づくりも、鉄材不足で需要を満足させるほど生産されていなかったとみられているほどだから、半島へ仕入れに行っていたとの解釈は無理じゃな〜いの。
君ねぇ、弥生時代の倭国(阿波)に鍛冶炉遺構がいくつあるか知らないようだね。 九州なんて相手にもならないんだよ。 勉強不足を恥じなさい。 @阿波 >>222
魏志倭人伝によれば九州通り過ぎて沖縄辺りまで行くんだけど >>218 名前:日本@名無史さん 2019/02/22(金) 18:21:34.55
>魏志倭人伝の里は魏で使われた尺度と大幅に異なっている
>だから邪馬台国までの距離を正確に測ったものとは扱えない
>ゆえに邪馬台国まで1万2千里というのは不確かなもの
>これが三段論法
理屈の組み立てが、三段論法に成っとらんな。字数も三行半あるし・・w >>226 名前:日本@名無史さん 2019/02/22(金) 18:37:14.72
>>222
>魏志倭人伝によれば九州通り過ぎて沖縄辺りまで行くんだけど
ただの畿内説丸出し読みだな、、、 >>203
>俺は、間違ってると決めつけることはできないと言ってる
お前はそう思うということだな
意図的に向きを変えた実態もない
そして、お前は九州ならどこでもいいということだから
行程情報では比定できないということでいいな >>163
混一図は日本列島が逆立ちしてるけど、少なくとも日本列島をおおよそ正しく太平洋に表記出来ている。
つまり、それなりの測量技術が有った証拠と言えるだろう。 @阿波 >>214
>九州説はほぼわかっている地理と魏志倭人伝の記事を付けあわせたら、邪馬台国が九州になったというものだろ。
それがでたらめなんだからしょうがないじゃないかww
「ほぼわかっている地理と魏志倭人伝の記事を付けあわせたら」
この部分を具体的に書かないから、インチキでたらめなんだよ
具体的に書けと何度言われたら分かるんだ?w 九州説は一人一説なので、名前欄に九州のどこの説かをわかるように記入して
質問するようにしてください。 >>132
>その鉄器づくりも、鉄材不足で需要を満足させるほど生産されていなかったとみられているほどだから、半島へ仕入れに行っていたとの解釈は無理じゃな〜いの。
君ねぇ、弥生時代の倭国(阿波)に鍛冶炉遺構がいくつあるか知らないようだね。 九州なんて相手にもならないんだよ。 勉強不足を恥じなさい。 @阿波 >>222
>九州説は、現実の地理と突き合せたら、邪馬台国は九州になった。
証拠は? >>217
>後世の地図にも方角が歪んでるのがあるんだから、
>畿内説の方角距離が歪んでいても許される・・、という理屈のようだな。
違うよ
論衡に見られる「百越の流れの倭」と、「日本列島の民族」を同じ「倭」表現していることから
分かるように、大陸中華では倭国が越の沖合いにある南国という思い込みがそもそもあり、
魏志倭人伝の中でも「計其道里、當在會稽東冶之東」とあるように、撰者の陳寿も
その思い込みの中にある
「だから」倭国は半島の南から会稽東冶之東、越の近くまで伸びる南北に長い洲島だと
認識されていたのが確認できるし、それに合わせた旅程になっていると判断している、
というのが畿内説の論立てだ
反論があるなら具体的にどうぞ
太陽の方角は間違えない、というのはその場では成り立っても、陳寿の机上には
倭国の日の光は届かないから、反論としては無意味だよww >>132
>その鉄器づくりも、鉄材不足で需要を満足させるほど生産されていなかったとみられているほどだから、半島へ仕入れに行っていたとの解釈は無理じゃな〜いの。
君ねぇ、弥生時代の倭国(阿波)に鍛冶炉遺構がいくつあるか知らないようだね。 九州なんて相手にもならないんだよ。 勉強不足を恥じなさい。 @阿波 >>227
ふーん
それなら短里を三段論法で証明してみ
どうやっても循環論法にしかならんけどな >>231
九州説は、このスレにも何度も具体的な行程論・里数案が出ている
それに比べ、畿内は行程論や里数論にはくみしないと避けて逃げてばかりじゃないか。
トンズラ畿内説こそ、具体的に書いて見せたらどうなんだ。 >>222
>その里と魏志倭人伝の記事にある数字を突き合せたら短い里の単位になった(創作したのではない)。
証拠あるの?
付き合わせたデータと
その単位を出した計算式は? >>222
はいみなさん、よく見てくださいね!
>その里と魏志倭人伝の記事にある数字を突き合せたら短い里の単位になった(創作したのではない)。
>さらにその短い里の単位は、半島7千里にも渡海3千里にもよく合う、という順序論旨だ。
これ、>>212の
「九州説の短里があるという論理展開は以下の通り
1.倭人伝の行程は、現実の距離に合わないから短里だ
2.短里があるのは、倭人伝が短里で書いてあることで証明できる 」
と完全に一致してるって分かりますか?
こういうのを、循環論法って言うんですよwwwww >>163
混一図は日本列島が逆立ちしてるけど、少なくとも日本列島をおおよそ正しく太平洋に表記出来ている。
つまり、それなりの測量技術が有った証拠と言えるだろう。 @阿波 >>228
魏志倭人伝に女王国があると記されている
会稽東治(冶)の東は現在の地図で見ると沖縄とか台湾の辺り >>242
>1.倭人伝の行程は、現実の距離に合わないから短里だ
これはまるきり逆だ。
倭人伝の行程は、現実の距離によく合っているから「短い里」なのだ。 >>245
その論で、畿内は八丈島と決定したwww >>240
逃げてなどないが?
魏志倭人伝と真摯に向き合って
魏志倭人伝には女王国の位置として会稽東治(冶)の東
沖縄か台湾の辺りと書かれている事や
そこまでの距離が帯方より南1万2千里とあるのは
淮南子に由来する世界の果てを表す数字を援用したものだとか
陳寿は政治的理由があって邪馬台国をはるか遠くの国に置いたんだとか
そうやって理解している
畿内説は九州説みたく短里を捏造しないと消滅してしまったりしないからな >>245
畿内は、八丈小島だとよ。とうとう島流しになったようだなww >>246
つまり「合ってる」という思想先にありきで九州説は単位を捏造したのだな? >>132
>その鉄器づくりも、鉄材不足で需要を満足させるほど生産されていなかったとみられているほどだから、半島へ仕入れに行っていたとの解釈は無理じゃな〜いの。
君ねぇ、弥生時代の倭国(阿波)に鍛冶炉遺構がいくつあるか知らないようだね。 九州なんて相手にもならないんだよ。 勉強不足を恥じなさい。 @阿波 >>247
>>249
やれやれ九州説はついにイカレちまったみたいだな >>248
畿内説が魏志倭人伝と真摯に向き合えば、畿内は八丈小島だからな。それで決まりだ。 >>240
>九州説は、このスレにも何度も具体的な行程論・里数案が出ている
出ているって証拠は?
具体例を出して、本当に具体的なのか証明してくれ >>251
「合ってる」じゃないぞ、「合った」だ。
八丈小島の畿内倭種よ、住み心地はどうだ。ハワイみたいでなかなか良いだろう。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 しかし九州説書き込み工作員も仕事でやらされてるんだとしたら可哀そうだ
とっくに全てにおいて反論が確立してる九州説で
このスレの畿内説を論破してこいとか言われてるのか
そんなの意味なく深い穴掘らされるような無意味で苦痛を伴う作業だろ
そういうのは拷問と言う >>255
何度も出してるわい。
いまさら、九州倭語を読めない倭種のやつらに出して見せてもどうしょうもない。 >>215
小さくして南北が正しくても、それじゃ意味をなさない
朝鮮半島に一番近いのは九州だよ
その次が本州
そういう経路の方が方向よりも重要
回転させた意味を理解できてないからそんな屁理屈で言い訳をするんだよ >>257
九州説は連日論破され続けて正気が無くなってるようだ >>261
大きく捏造した反抗をホッカムリする九州説の詐欺おじさん >>263
現実に、南北逆転した地図がいくつもあるのだが? 八丈小島の畿内倭種が、
いまだになんちゃら言っとるな。
さぞかし、住み心地が良いことだろう。 >>265
北を上にするという決まりは人類発祥からのルールではないからだよ
人によっては南を上にして書くこともあっただろう >>261
>朝鮮半島に一番近いのは九州
地理的に近い西北九州は
民族的にも日本人より全羅南道の韓国人に近いだろう >>261
>小さくして南北が正しくても、それじゃ意味をなさない
おい、現実を見ろ
逃避するな
小さくて、かつ南北が逆転してるだろ >>254
畿内とは律令の頃の行政区分五畿七道のうちの五畿
大和、山城、摂津、河内、和泉の事をいう
魏志倭人伝に邪馬台国が沖縄とあろうとも
ここに三世紀の魏との交流の証の銅鏡や
集権的な政治機構のあった事を思わせる前方後円墳がある
よって大和=邪馬台国とするのが蓋然性が高い >> >>267
>北を上にするという決まりは人類発祥からのルールではないからだよ
>人によっては南を上にして書くこともあっただろう
ちゃんと朝鮮が日本の北に書いてあるのにか?
それはルールの問題じゃなくて
正気かどうかの問題だ
九州説はもう
正気でない 「紙のスペースが足りないから日本列島を回転させた」と言う説明はダメだろう。「紙が勿体ない」とか、そんな卑近な理由からではない。
そうではなく、
「中華世界は世界の中心にあり、しかも面積的にも大地のほとんどを占め、東夷南蛮西戎北狄は大地の隅っこの方に細々と存在するべきであり、現実にもそう」
「なので世界の辺縁まで実際に行った使者たちの報告がこの世界観に合ってなかたら、史書編纂者や地図編纂者は、方角や大きさを書き換えていい。と言うかしっかりと書き換えるべき」
こう言う思想から、日本列島を90度回転させたり、東南アジアの位置を移動させてるんだよ。 >>269
南北が逆なのは、朝鮮に一番近いのは九州だからだよ
日本の大きさを小さくしただけじゃ意味が無いんだよ >>274
それが、何なんだ?
自分の論理破綻を指摘されて発狂したか? 畿内説の出す地図は
時代がずいぶん違うのは何故なんだ
混一疆理歴代国都之図なんて笑うよ 15世紀の物だろ
地図の価値でなく畿内説の倭人伝の距離への反論としてはくだらん地図
誰かが指摘してたように
遣隋使や遣唐使も笑うし
日宋貿易の宋の人にも笑われるよ 朝鮮、対馬、壱岐、九州、本州
という位置関係が分かればいいんだよ
その順番なら日本列島がどれだけ回転していてもいい >>277
お前はこの図で論破されて怒り狂ってるんだろうけど
朝鮮半島が北にあっても、
朝鮮から日本へ渡るときに最初に九州へ行くという順番が成立していたらそれでいいんだよ
>>279な
>>274の絵は、なぜ九州を軸に回転させてるのか理解できてるか?
バカだから無理かwww >>246
>倭人伝の行程は、現実の距離によく合っているから「短い里」なのだ。
これがウソ
現実の距離に合っているというためには、「魏晋里」で測らないといけない
現実の距離に合うように創作したものが「短い里」なんだよ
ここが理解できないおバカさんが九州説なんだよねww >>279
じゃあ倭人伝に南と書いてあったが実際には東で
いいな? 九州説書き込み工作員よ
お前はお前の上司によって拷問にかけてられているのと同じぞ >>281
お前には他人を論破する能力は無い
現に日本列島を何倍も大きく書き直したインチキを
見破られたろ? >>287
インチキではなく
正しい大きさに戻しただけだぞ
お前は馬鹿なので九州を軸に回転させた意図を理解できなかっただけだぞ
あんな小さい日本で水行30日や陸行一月なんてかかるわけないだろ
ちょっとは頭を使えバカwww >>204
>韓伝の四千里四方を畿内説なりに解説くれんか
あのね、距離は実測じゃなく感覚なの 畿内説は九州説が何か言ってきたら事実に合わない所を指摘するだけ
九州説にとってはそれが拷問レベルの苦痛
けど上司の命令だから書き込まないといけない
本当に九州説とその背後は何の益体もない上に苦痛しか生み出さんな
まるで物の道理に反してるから
いずれはこの世から滅び去るんだろうけど 物の道理に反するものは淘汰されてきた
人類はそうやって進歩してきた
九州説が滅びるのは定め >>293
>九州説が滅びるのは定め
そう言う畿内説も滅びる定め。 唯一の存在は倭国(阿波)。 @阿波 物の道理…ブーメランだねぇ
今のところ考古学で説明できてるの伊都説ぐらいじゃん 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 >>297
>今のところ考古学で説明できてるの伊都説ぐらいじゃん
考古学で??? 碌な遺跡も無いのに??? @阿波 >>288
それで あんたの意見は?
混一疆理歴代国都之図 15世紀の物なんだけど
遣唐使も遣隋使も日本はこの地図通りと思ってたんかな
朝鮮が描いた地図なのが救いだが >>298
それ、t-検定じゃダメだって、何度も教えられてるじゃん
魏志倭人伝の記載と実際の比定地から、統計学的に言える一里の長さ
海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ
不彌国の比定地はいまだに定説がないので、結局使えるのは
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=50m/1里
のみ
この50m/1里、 50m/1里 の2試料(n=2)から計算される平均と分散は
平均:125 不偏分散:11250
nが30未満で、母集団の分布についての情報もないので、正規分布、t-分布ともに
平均値の信頼区間の推定に使えないため、チェビシェフの不等式から95%信頼限界を
求めると、
125±4.48×√11250=125±475
まとめると
125(-350〜600)ただし( )内は95%信頼区間 単位はメートル
魏志倭人伝から統計学的に推定できるのはここまで
どの区間を見ても短里でぴったりというのが、でたらめだというのがよく分かる
魏志倭人伝から推定される一里の長さは-350〜600メートル
意味ないだろ? >今のところ考古学で説明できてるの伊都説ぐらいじゃん
鉄器のあるど真ん中に
前の70-80年男王とはちょっと違う区域に作られた女王墓
>共立女王
魏志倭人伝と完全に一致 >>303
>>211に書いてあるから読んでおいて >>304
>海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ
また出たよ。
都合が悪い数字は採用しない。
恣意的なデータの取捨は詐欺に等しいよ。 >>305
>前の70-80年男王とはちょっと違う区域に作られた女王墓
何度も書かすなよ
平原1号墓は、魏志倭人伝に道教100枚もらったと明記されているのに、
後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば1週間で作れるしょぼい墓
副葬品の多い厚葬墓で、副葬品から被葬者が女性の可能性が高い「だけ」で、
「女王」だとか「卑弥呼」だとかの想定は、よほどのバカでなければできない墓だよ
こんなのを卑弥呼の墓の候補にしなきゃいけない時点で九州説は終わっている
伊都国と邪馬台国が別の国として書かれているのを、いかにゴマかすかという発想だけで
できているのが、北部九州説の中でも支持者の少ない伊都国説だ >>307
>都合が悪い数字は採用しない。
>恣意的なデータの取捨は詐欺に等しいよ。
なら、お前が正しいと考えるデータを「具体的に示せば」いいだろ?
海上距離が正しいと言い出したら笑ってやるよww >>308
>後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
漢はともかく、魏にそれほどの権威は感じていなかったから、内行花文鏡の材料にしてしまったんだろうね。
倭国大乱が終わり、独自の技術革新が成し遂げられて卑弥呼の治世に造られたのが平原遺跡の八咫の鏡だろう。
年代的にもピッタリなんだよ。 >>309
>>298
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
>狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
>対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
>一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里 >>204
少なくとも九州ではない証左の一つ。
何故なら九州であれば、半島との対比で「周旋五千里余」ではなく、
半島や対馬・壱岐と同じく「方可三千里」とか「方可二千里」と書かれる筈だからだ。 >>308
主観だね
では、自分も主観で
ジトウは大陸で女性に流行した物であるため、女性の可能性大
鏡は当時は既に自国で緻密な鏡の国産に成功していた証
この時代の墓でこのレベルの国産鏡を副葬しているのは平原だけ
高い技術力と驚異的な鏡の占有率
当時、洛陽では復古鏡も流行しており、それを元に作られた可能性がある
方格規矩鏡の尚方作の鏡とか特にね
超大型鏡は完全オリジナルだけど、それも素晴らしい
後にも超大型鏡は作成されてるが、大きさは平原鏡より小さい
規制がかかっていた可能性あり >>310
>漢はともかく、魏にそれほどの権威は感じていなかったから、内行花文鏡の材料にしてしまったんだろうね。
これはひどいww
妄想の上に妄想を重ねているw
魏に権威を感じていなかったら、そもそも遣使はしないだろ?
この時点で矛盾しているのに気づかないのか?w
さらに、九州説の設定では九州は帯方郡との頻繁な交流があるんじゃなかったのか?
魏の皇帝が「到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」といって下賜した品を鋳潰したら、
皇帝の権威を踏みにじるようなものだぞ?www
さすがは九州説、ものごとの道理をすべて無視して、自説のご都合に合わせる訳だwww >>310
>倭国大乱が終わり、独自の技術革新が成し遂げられて卑弥呼の治世に造られたのが平原遺跡の八咫の鏡だろう。
平原の鏡は、バキバキに割られている時点で八咫鏡ではないし、
平原や伊都国に八咫鏡があったという伝承も記録も一切ない
平原の鏡を八咫鏡だと言い出したのは、単に原田大六氏の思いつきに過ぎない
>年代的にもピッタリなんだよ。
平原1号墓の推定年代は2世紀末
卑弥呼が死ぬ約50年前だww
死ぬ前に葬られたら卑弥呼もいい面の皮だよなww 伊都クズはイメージでしか語れない
各論を持ち出されるといつもトンズラ >>311
>>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
これが正しいというつもりかい?
帯方郡はソウルじゃないって、このスレでも出てただろ?
帯方郡ちは鳳山郡智塔里の唐土城だよ
テンプレにも書いてあるだろ? >>311
>>狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
>>対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
>>一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
この時点で、2倍も異なる数値になってる
こんな単位なんてない
これで短里は正しいと言い張るつもりかい?www >>320
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70、6mは、概ね妥当。 @阿波 >>312
>半島や対馬・壱岐と同じく「方可三千里」とか「方可二千里」と書かれる筈だからだ。
佐賀や長崎の地形を見れば、四角くないことは明白 >>315
>魏に権威を感じていなかったら、そもそも遣使はしないだろ?
>さらに、九州説の設定では九州は帯方郡との頻繁な交流があるんじゃなかったのか?
もともとは公孫氏の帯方郡と交流していたんだよ。
その公孫氏を倒した魏は脅威だったから、保身のために朝貢したのだろう。
ただ、そこに権威を感じていたかどうかは別の話だよ。 >>316
>平原や伊都国に八咫鏡があったという伝承も記録も一切ない
筑紫の日向は天孫ニニギが八咫の鏡とともに降臨した土地だ。
所縁がある。
>平原1号墓の推定年代は2世紀末
卑弥呼の治世そのものだね! お前ら韓人の作り話によくもまあ参加できているものだな 耳璫は元は非漢民族の文化で、
王子時代の釈迦像もピアス状の耳璫をつけているから
平原が漢の文化の槨の影響を受けてないなら
中国にはない錆色塗装鏡も入れてるし
被葬者が女性とは限らないだろう な〜んだ
甲論乙駁の割には、ここは怡土クズ仲間のサロンかい。
折角のサロンをかきまわすようだが、邪馬台国は肥後熊本にあったのだぞえww ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 >>252
>勉強不足を恥なさい…
弥生後期中葉から終末期までの阿波の鉄器出土量は、吉備の4分の1、播磨の3分の1程度。
阿波の鉄器生産のための素材供給が限定的であったのは明らか。
高温炉は一箇所のみで、その他はみな低温炉。
しかも、炉が多くても、鉄器の出土量はそれほど多くない。
それが、阿波の鉄器生産の現実。 平原遺跡が2世紀というのはかなり無理があり、むしろ3世紀の可能性の方が高いな。
つまり卑弥呼の墓としてもっとも可能性が高い。 >>289
>インチキではなく
>正しい大きさに戻しただけだぞ
おやおや
九州説は詐欺師そのものか
困ったもんだ
https://i.imgur.com/1rDLKHJ.jpg
北は渤海湾、南は中国最南端近くまである日本
当の地図に書かれた日本の数倍ある日本
それをジラジラしくも
「正しい大きさに戻した」
と言い張る
まさに厚顔無恥ウソつきの詐欺師
反省ってこと知らないの?
正直に生きる意志ないの? >>332
>平原遺跡が2世紀というのはかなり無理があり、むしろ3世紀の可能性の方が高いな。
理由も言わずに
考古学の定説を平然と踏みにじり
考古学的には伊都説などと嘯く
まさに九州狂気の沙汰 >>335
「おまえの勝手な考え」だという証拠は? 径40cmを越える大型鏡も中国では南越墓から彩画鏡が出ているので
平原の被葬者は前漢時代の非漢民族地域の影響を受けていると考えられる 300年間、畿内説も北部九州糸クズ説も、
仲哀天皇・神功皇后記のパクリで解釈してきたから解けなかったのだよ。
パクリ解釈だと糸島が伊都国になるが、そもそもそれが迷宮の入り口。
末盧国・唐津からは、松浦川に沿って上流へ進み、
脊振山系の南を迂回して500里で佐賀川上の伊都国に到った。次その東100里の佐賀三根郡目達原(吉野ヶ里一帯)には不彌国があった・・・、
そしてそこからはるか南方に投馬国(日向西都の都万)と、少し南に邪馬台国(肥後熊本の邪馬嘉国)あった。1里は50m〜100mの範囲内。
以上でカンタン解決さ。
人生何事によらず、最初の一歩をどう踏み出すか、それが最も肝心なのだよ。 >>323
>その公孫氏を倒した魏は脅威だったから
脅威に感じていたら、魏の皇帝の顔の泥を塗るようなこと、「下賜品を鋳つぶす」なんて
ことをしちゃダメだろうが!ww
平原1号墓が卑弥呼の墓なら、鋳つぶして作った仿世鏡をさらにバキバキに砕くところまで
魏使の張政が見てることになるぞww
これが荒唐無稽な妄想だと気づけないやつじゃないと九州説はやってられないww >>324
>筑紫の日向は天孫ニニギが八咫の鏡とともに降臨した土地だ。
>所縁がある。
日向三代の説話に八咫鏡は一切出て来ないのを知らないのかい?ww >>333
朝鮮半島の大きさと比較したらそんなもんじゃないかな? >>324
>卑弥呼の治世そのものだね!
卑弥呼の治世=卑弥呼が生きてるうちに卑弥呼を埋葬しちゃダメだろうが!ww
バカですか?w >>289
>お前は馬鹿なので九州を軸に回転させた意図を理解できなかっただけだぞ
スペースが足んないから回転させたって言ってた自分自身が完全に論破されたこと、みとめるんだね >>340
初代ニニギは八咫の鏡とともに筑紫の日向の伊都のクシフル山に降臨したんだよ。 >>325
>弥生時代にしてはまあまあの精度だ。
海上距離が測れてたら、倍も異なる距離を一律で千里にはしないだろ?
精度以前だよ
5割違うならともかく2倍になってるんだからw >>342
誤差って知っている?
卑弥呼以外には、平原遺跡の被葬者の候補が見つからない。 >>347
それくらいは科学の分野では珍しくはない。
棄却する理由にはならない。 バッカな頭の♪
九州説は♪
いっつもみんなの♪
笑いもの♪ >>351
そんなふうに根拠を言わないのは
科学の世界じゃ珍しいよ >>349 名前:日本@名無史さん 2019/02/22(金) 22:04:28.98
>卑弥呼以外には、平原遺跡の被葬者の候補が見つからない。
卑弥呼の墓は納得した。
それで臺与の墓はどこだい?? >>349
見つからない理由は「無能だから」なんだろ? >>354
棄却する根拠を提示していないで勝手なことばかり言っているのはそちらだよ。 >>357
提示されてるだろ
帰納してないからだよ >>346
>初代ニニギは八咫の鏡とともに筑紫の日向の伊都のクシフル山に降臨したんだよ。
唐古鍵遺跡の近くの鏡作神社の社伝では、高天原で作ったはずの八咫鏡の前に作った鏡が
伝世しているし、和歌山の日前神宮・國懸神宮の神宝、日像鏡・日矛鏡も、石凝姥命が
八咫鏡に先立って造った鏡という伝承がある
こういう周辺の伝承すら北部九州には一切ないんだよ
伊都国に八咫鏡があったとする伝承も文書もない
まあ、考えてみれば銅鏡は弥生時代だから、八咫鏡は畿内で作ったと考えるのが妥当 >>349
>卑弥呼以外には、平原遺跡の被葬者の候補が見つからない。
お前が卑弥呼しか知らないからだろww
普通に伊都国首長の奥さんだろ
その程度の墓だよ >>351
>科学の分野では珍しくはない。
統計学も理解してないやつが科学とかwww
>棄却する理由にはならない。
棄却するしない以前に、信頼区間が広くなりすぎて意味のある情報がないって言ってるんだよww
まあ、そのレベルのことが理解できないから九州説なんだろうけど >>361
>普通に伊都国首長の奥さんだろ
おまえ、そんな人と知り合いだったのか?
紹介してくれよ。
論文はどこにある? 1里76.5m説者も、とうとう証拠提出できなくなり、1里76.5m説に根拠なしを晒したな。
よしよし。
早く目覚めてね。 >>359
>伊都国に八咫鏡があったとする伝承も文書もない
あれ?
知らないの?
クシフル山は平原遺跡のすぐ東側にあるんだよ? このスレは
邪馬台国九州説がどうしてこうも下火になったか
初心者にもわかりやすく
現実的に体感できる
スレです >>322
>>半島や対馬・壱岐と同じく「方可三千里」とか「方可二千里」と書かれる筈だからだ。
>
>佐賀や長崎の地形を見れば、四角くないことは明白
そんなもの、方可の範囲だよ。
朝鮮半島の南側や西側の海岸線をGoogleマップで見れば、
海岸線がものすごく複雑で細かい湾や半島になっていて、島もたくさんあることが一目瞭然。
この朝鮮半島や、南北に細長い対馬を方可と呼ぶのであれば、ずっと滑らかな九州の地形など余裕で方可の範囲だ。 >>359
>こういう周辺の伝承すら北部九州には一切ないんだよ
天孫ニニギは八咫の鏡を授かり、宗像三女神に守護されて博多湾を望む筑紫の日向のクシフル山に降臨した。
そして宗像大社の辺津宮の神宝だと伝えられている。
八咫の鏡といえば九州北部だよ。
近畿には後世に持ち込まれたんだよ。 >>364
薮蛇
平原が卑弥呼の墓だって論文要求されたら
あなた困るよね 九州説はこうして病身舞を踊りつつ
人々の忘却の彼方に消えていくのでした >>366
>クシフル山は平原遺跡のすぐ東側にあるんだよ?
おじいちゃん、ウツギもクヌギもクシフルの訛と言い張るのは
無理だって何度も教えてもらったでしょww >>360
何だ、現地を知らんのか。
邪馬台国の北端は筑後山門郡の北を流れる矢部川まで、南は熊本平野の南端の宇土・宇城までだった。
だから筑後山門郡は、肥後邪馬台国の北の玄関番だったのさ。
(狗奴国は球磨郡球磨郷な) 広めの海峡を渡ったらひと声『千里』。
陸上では、近い所は『百里』、ちょっと遠いところは『五百里』と、
行程記事は距離についてはこんなにアバウト。
ホントに歩数で測ったりしてたら、『百里』、『二百里』、『三百里』、『四百里』と、
もっとバラけるはずだ。
海峡だって真面目に測ったとしたら全部『千里』じゃなくて『五百里』とかが出て来るはず。
なので一万二千里がどうしたとか、短里がどうしたなんて議論は、本当に意味がない。 >>359
>まあ、考えてみれば銅鏡は弥生時代だから、八咫鏡は畿内で作ったと考えるのが妥当
お前が「妥当」という時は、根拠なく決め付けている時だったな。
妥当と考える根拠を示せよ。
ちなみに弥生時代の銅鏡の鋳型はほとんどが九州北部から出土するからな。 >>349 名前:日本@名無史さん 2019/02/22(金) 22:04:28.98
>卑弥呼以外には、平原遺跡の被葬者の候補が見つからない。
卑弥呼の墓は納得した。
それで臺与の墓はどこだい?? >>364
曽根遺跡群という伊都国領域内の有力家系の家族墓の中で、
一つだけ極端な厚葬墓となっているのが平原1号墓
それでも、伊都国首長の三雲遺跡群の墳墓より格落ちなのは間違いない
であれば、伊都国首長と縁続きの伊都国第二家系の女性と考えるのが妥当
>>364は、曽根遺跡群という言葉すら知らないんだろうなww >>381
>それでも、伊都国首長の三雲遺跡群の墳墓より格落ちなのは間違いない
年代が違う。
どちらも王墓でよい。 427>>545
>倭人は距離を知らずに日数で表すのだから
最後の日数の部分は倭人からの聞き取り情報 <
倭人は、里数は使えないが、
魏使らは、里数も日数も両方使える事になる。 平原1号墓は曽根丘陵西側斜面で頭を西に向けて
三雲の中心地に足向けてるからな 427>>552
>水行20日陸行一月と書いてる時点で
魏の使いは測量していなかったことが分かる<
何らかの計測がなければ、韓から侏寿國までの細かい里数記載は出来ない。 427>>554
>水行10日と20日
陸行一月は何里になるんだ?
それが分からないと満二千里なのかどうか分からないんじゃないか?<
この人は、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっている事が、
未だに判らないらしい。 >>383
どちらも「伊都国の」王墓といってもいいが、倭国の王墓じゃないよ >>376
>だから筑後山門郡は、肥後邪馬台国の北の玄関番だったのさ。
玄関番が王都ってことはないわなww
まあ、肥後も邪馬台国じゃないんだがw
肥後説では投馬国の比定地もないし、水行陸行の経路も妥当な推定はできないだろ? >>383
年代が違う、が理由でしょ?
同時代に平原より副葬品が豪華な墓は無いのだし
王墓なのは定説だが、問題はその範囲と詳細な年代だろうな >>387
ザラコクみたいなウソつきがいれば計測は要らないな >>383
>どちらも王墓でよい。
よくないよ
伊都国首長の墓は、古墳時代に入っても、端山古墳、築山古墳と三雲遺跡群の地に作られる
曽根遺跡群の平原1号墓は、伊都国の王ですらない 平原1号は素環頭大刀の置き方が異常
棺上に首元に交差するように置かれている >>395
思いこみだね
三雲と平原とは少ししか離れていない
歩いて15分〜20分ぐらいか?
同じ国内なのは間違い無いのだから、
それより、考古学的事実の豪華な副葬品の方が雄弁だよ 427>>595
>12世紀に編集された誤字が多い現魏志倭人伝こそ<
写本版本全体での差異文字発生数の割合は0.5%以下。
>それ以前の史書に比べてどれよりも新しい後代の書
それ以前の魏志を引き写した梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には <
いずれも、魏志写本版本との差異発生確率は、10%位以上であり、
後代史書群の「自己解釈に拠る書き換え」の多さにうんざりする代物であり、
根拠には使えない。
>卑弥呼が鏡を貰ったのは景初三年とある<
魏志写本版本と通典には、「景初二年」とある。 距離の問題じゃないんだよな
平原1号墓は三雲の中心地からも見えないし、頭は西向きだし 427>>608
>前方後円墳は卑弥呼の墓の大きさと魏志にある<
卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳ではないから、×。
>径百歩、直径約140mに相当するのが畿内にある<
前方後円墳の「径」は、「前方部と後円部全体の長径」にないから、箸墓は×であり、
円墳では「冢=尖り状の錐体台」にはならないから、×。
>三角縁神獣鏡には卑弥呼の時代の魏の年号や<
明帝の詔書は景初二年だから、その後の年号のものは、×。
>銅出徐州 師出洛陽の銘文の記銘 <
魏朝の鏡では「自慢にもならない紀銘」だし、「海東」鏡も同じ場所から出土しているから、
呉系楽浪鏡師らの渡来での制作鏡である事が分かる。
>素材の銅が魏・晋時代の中国鏡と同一と分析結果が出ている
すなわち魏志倭人伝にある卑弥呼の貰った銅鏡とするのにうってつけ <
材料銅に類似があった、というだけ。 >>392
>王墓なのは定説だが、
確かに弥生王墓という括りはあるし、王墓級という言い方もあるけれど、
赤坂今井墳丘墓とか大風呂南1号墓、西谷墳墓群や楯築墳丘墓も弥生王墓だぞ
同じ時期のこれらの墓より平原1号墓はしょぼいんだから、倭王墓ではない >>385
年代が違う「から」、どちらも倭王墓で問題はない。 平原遺跡の豪華な副葬品に対してその程度の過小評価しか下せないなら、なんの説得力もないぞ。
考古学的事実と向き合わないという畿内説の態度の悪さだけが目立っている。 伊都国っていつできたんやろな
三雲南小路遺跡の方形周溝墓が気になるわ >>392
>王墓なのは定説だが、問題はその範囲と詳細な年代だろうな
邪馬台国筑紫説だと、熊本は狗奴国になるから、せいぜい筑後と肥前と豊前が含まれるくらいだな。
倭国の本貫は後漢書によると対馬海峡だから、問題ないけど。 >>398
>同じ国内なのは間違い無いのだから、
九州説はこれだからww
曽根遺跡群でも累代的な造墓が古墳時代まで続くが、常に三雲遺跡群の墓よりも劣位の墓だ
明確に別家系
>それより、考古学的事実の豪華な副葬品の方が雄弁だよ
だから仿世鏡ばかりで魏の皇帝下賜の鏡が一枚もない時点で
副葬品からも卑弥呼の墓だとかいう寝言は否定される
豪華な副葬品というが、割れた仿世鏡がやたら多い以外は、
ガラス製品は大風呂南1号墓の方が上だし、鉄剣の副葬も丹波の王墓級の方が上 以前から書いている事なんだけど、
なぜ家の話ばかりしているんだ? これも以前から書いている事なんだけど、
低脳の集団なんだろうw >>404
>平原遺跡の豪華な副葬品に対してその程度の過小評価しか下せないなら
逆だ!逆!
お前が情弱で九州以外の遺跡の知識が決定的に欠けてるから、
平原1号墓を過大評価しているだけ
割れた鏡の枚数でも、桜井茶臼山古墳に負けてるし、平原1号墓は
最初の頃、周溝に作られた土坑墓を原田大六氏が殉葬墓だと誤認したから、
魏志倭人伝の徇葬者奴婢百餘人と結びつけて考える人が出たってだけだぞ サトシ?
書き込みをしている人の名前を知っている人たちがいたり、
あと漫画の話なのかな?サイ(〜サトシ)・・・?
弟だとかw うらしまマリン・・・・本当は『松傾』?
こういう名前の家で・・・とか >>403
>年代が違う「から」、どちらも倭王墓で問題はない。
卑弥呼の治世の中だから、卑弥呼の墓ではないし、卑弥呼が倭王である以上
卑弥呼の治世中に倭王墓が作られるはずがないなww
卑弥呼の死とは年代が違う「から」、卑弥呼の墓でも王墓でもない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実際は・・・妹の話なんだろうけど、それとも兄の話? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>407
>曽根遺跡群でも累代的な造墓が古墳時代まで続くが、常に三雲遺跡群の墓よりも劣位の墓だ
何をもって劣位なんだ?
どの遺跡が平原遺跡と同年代で平原遺跡より優位なんだ?
畿内説というのは、説明もせずに決めつけるだけか?
>明確に別家系
九州説でも別家系だから、構わないよ。 >>410
茶臼山は後の時代だろうに
破片のバラマキは北部九州の破砕鏡文化の影響か?とかもいわれたね
平原を真似してる事になり、比べる事に意味がない 漫画でも同じようなコンセプト、
シャイニン・オン(日、太陽の紋章?)という技を使用したり >>410
>割れた鏡の枚数でも、桜井茶臼山古墳に負けてるし、
違う年代のものと比較するなよ。
だから畿内説は信用されないんだぞ。 >>413
>卑弥呼の治世の中だから、卑弥呼の墓ではないし、卑弥呼が倭王である以上
>卑弥呼の治世中に倭王墓が作られるはずがないなww
循環論法かな?
まともな論理性がある人間のセリフではないな。 『アマテラス』
画でも良いから観てみてw
シャイニン・オン、太陽(日)の紋章・・・光の剣・・・
その他、 >>376
地図を見れば、一目瞭然。
大牟田、荒尾の東に筒ヶ岳、観音岳の山地が南北に連なる。
この山地は、玉名、菊池川まで続く。
この山地が、邪馬台国と狗奴国の境界となっていた。
そして、この境界が現在も福岡県の南端と熊本県の北端の境界を形作っている。
今も昔も、地形は変わらん。 >>420
>循環論法かな?
>まともな論理性がある人間のセリフではないな。
循環論法って言いたかったのかな?ww
平原1号墓が2世紀末というのは、魏志倭人伝とは独立の情報だから、
どことも循環してないぞ
そして2世紀末を卑弥呼の治世中(卑弥呼の共立後)だとするなら、
卑弥呼が生きている以上、卑弥呼の墓ではない(卑弥呼は248年?没)し、
卑弥呼が倭王なのだから他に倭王は居ない
卑弥呼の墓でもなければ倭王の墓でもない
平原1号墓が2世紀末という独立情報からの一方向の推論で、
どこにも循環している箇所はない
短里の論拠が循環論法と指摘されて反論できなかったのが、よほど口惜しかったんだねww >>422
>この山地が、邪馬台国と狗奴国の境界となっていた。
そこは邪馬台国でもなければ狗奴国でもない
七万戸の国のないところを適当に言い張るのはやめなよww ○人口
○遺跡の分布
○前方後円墳の分布
○鏡の分布
○行程記事(90度回転)
郷土愛溢れる九州論者の人たちには申し訳ないが、
これら全てが邪馬台国が畿内であったことを示している。
自分の郷土に邪馬台国を持って来たいというのは、
人情としてはまあ、あるのかも知れないが、
事実や学問としては、やはり何かが違うと思いますよ。 >>424
7万戸は、沖縄あたりまで続く巨大島の想定のもとに想像で書かれた戸数。
現実の筑後山門=邪馬台国の人口算定の資料とするのは、いかがしこお。
クコチヒクが菊池の酋長であることは、通説。 数年前の、どのスレだったかな、
何かに気づいている人がいたでしょ
国か、何か(どこかで?不明。)で、
宣伝しているんだよなwwwwww
と言ってる人とか うらしま〜というのも仮名、キャラクター名でしょ。
むかーし住んでいた事があるんだよというところも
『姥清水』?この近所だしな・・・・・・・・・・。 本当に『姥清水』だけで十分、一度観てみるとわかる
神社〜寺?身を清め、
五穀豊穣・・・何やらと言っていたり 『姥清水』
カカ様でしょ、母親のことだと書いてあるし、何なんだろう
三貴子(神)?家は『松傾』?
こういう名前の家、うらしまん・・・その他 なぜ人の家の話ばかりしているんだ?と聞いているんだけどw
『サイバーパンクSPECIAL』というコミックも同じ、
ロトちゃんというキャラが出てきて、母親(まま、かか様?)が〜と言っているしw
住んでいるところも神奈川県の川崎区の南部のほう 伊勢、出雲が何やらと言っているのがいるけど、
どこの基地外なんだ はやく刑務所に行けと言っているのにw
言う事を聞かないし
『犯罪』
騙り、成り済まし・・・詐欺など、犯罪でしょ いい加減に気づいたほうが良い
『人工地震』
お前が刑務所にいかないし(自殺でも良い)、
言ってることを・・・しないからなんだよ 帯方郡ちは鳳山郡智塔里の唐土城だよ
テンプレにも書いてあるだろ?
☝
それで、どのくらいの距離になるのかな? 訂正
帯方郡ちは鳳山郡智塔里の唐土城だよ
テンプレにも書いてあるだろ?
☝
それで、プサンまでどのくらいの距離になるのかな? 頭の良い人は気づいている。
どこかで宣伝(メディア関係)、役など演じている・・・
なんでも良いんだけど。
実際は他人の家の話でしょ、
漫画やアニメ、ゲームなども、他人の家の話を描いているという意味。
『人権侵害』 そういう事をしている人たちは
ゴキブリ(寄生虫、害虫)以下w
そういう事なんだよな〜と、
なぜか知っている人がいたり 鉄器ゼロの領民 + 鉄器満載の「新」領主
狗奴国の領民 + 邪馬台国 の 征服者 ? よくわからないけど『デスラ〜』と言ってる人がいたり、どのスレだったかな? 『松傾』
家は、こういう名前の家w
偶然なのかな? 当時(むか−し)、
住んでいたというところの紙も貼り付けないといけないのかな
『姥清水』
この近所、いまの福島県の・・・説明不要
松の木、セメントのブロックw、
オジギソウ、シダ類が植えてあったり、あと灯籠とか
有名人なのかな? でも家は安達郡ではかったような?
伊達郡の川俣町・・・、飯野というところがあったとか あと『天津 茶釜』?
家の写真(キュウリのような葉、葱の華)と同じようなコンセプトだったり、
太鼓(ドラム)の音が〜とか
日本の曲ではないんだけどw 『河童の三平』〜『ゲゲゲ』写輪眼・・・ほとんど同じ 本当にどうなっているんだろう
家の隣に高野さんという人が住んでいたんだけど、
ドラムの練習していて、よく音が聴こえてきていた >>403
太陽が東から昇る「から」、おれは王様だ。 >>401
魏志倭人伝の書かれた時代に前方後円墳という言葉はない
もしあったのならそう書かれてただろうけど
箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても
全長で140mになるような古墳は畿内にいくらでもある
九州にはない
景初二年は景初三年の誤記
複数の史書が卑弥呼が魏に使いを出したのは景初三年と記しているし
景初四年や正始元年などそれ以降の魏年号の入った鏡も畿内で見つかっている
これは畿内が魏と継続して交流していた証 >>348
>>374
なんで朝鮮半島に合わせたらいけないんだ? というか、
方角も距離も大雑把なのに
墓の大きさの記述は正確だと言い張る根拠って何なんだろう? いい加減に気づいたほうが良いぞ
『何者にもなれない お前たち』
ゴキブリを見ると・・・氷殺、退治?
それで・・・・・・・・・・兄弟妹? >>456
根拠は実際に存在している前方後円墳や三角縁神獣鏡なんだが?
妄想が根拠の九州説とは違うのだよ >>453
>景初四年や正始元年などそれ以降の魏年号の入った鏡も畿内で見つかっている
>これは畿内が魏と継続して交流していた証
えっ? それが「魏と継続して交流していた証」??? 恥ずかしくないの? ほんとは恥ずかしいんだよね? @阿波 >>460
前方後円墳なら全長を記録するだろ
その時点で箸墓はありえない
箸墓以外でほざけ ゴキブリ〜人の家に寄生しているという意味、
実際はコミック(アニメ)・・・などの制作者、関係者などもそうなるんだけど
気づいているだろう >>458
魏の1歩は約1.4mと律歴志と当時のモノサシの現物から判明してるから
百歩は約140mで箸墓の円墳部分と一致
短里なんて九州説の脳内にしかない事もはっきりしている >>464
それ以前の話で、
100歩って事実なの?
なんで100歩という記述は信用できるの? >>462
おうええよ
全長で140mの前方後円墳なんて畿内には数百はあるだろうからな九州には1つもないけど
そっちの方が山ほど語れるわ
箸墓1本に絞っておいた方が九州説としてはいいのにバカだなあ >>465
なぜなら
全長もしくは円墳部で径百歩に相当するような古墳が
機内に現物としてあるからだ >>468
では畿内は冬でもはだしで生活してて生野菜を食べてたの?
おかしくないか? >>467
いや別に諦めてないけど
箸墓も含んで径百歩に相当する古墳が数百はあるから九州には1つもないけど
この事実を世間に知らしめ九州説を破滅に追い込むだけだが >>467
また九州説は朝から発狂してるのか
かわいそうだな >>462
>前方後円墳なら全長を記録するだろ
そう決めつける理由は? >>469
それは事実の確認が取れないからどうでもいい話
しかし径百歩に相当する古墳や魏の年号の記銘された三角縁神獣鏡は実際に存在し
魏志倭人伝の記述とも合致している事が現在でもはっきりと確認できる 427>>608
>前方後円墳は卑弥呼の墓の大きさと魏志にある
径百歩、直径約140mに相当するのが畿内にある
三角縁神獣鏡には卑弥呼の時代の魏の年号や
銅出徐州 師出洛陽の銘文の記銘
素材の銅が魏・晋時代の中国鏡と同一と分析結果が出ている
すなわち魏志倭人伝にある卑弥呼の貰った銅鏡とするのにうってつけ<
これまた、既に「反論否定済み」のモノの、大和説詐欺師の貼り付けのようだから、
面倒だから、放置ね。 >>422日本@名無史さん2019/02/23(土) 00:28:38.40>>424
>>376
>大牟田、荒尾の東に筒ヶ岳、観音岳の山地が南北に連なる。
>この山地は、玉名、菊池川まで続く。
>この山地が、邪馬台国と狗奴国の境界となっていた。
この程度の山地は歩いてか〜るく越えられた。
船・橋に不自由した古代の国境は越すに越せない河川。その名残は各郷・郡・国の境に見られる。 魏志倭人伝の記述と実際の考古物の一致
この事実によって九州説などは粉みじん 墓の大きさも誇張されていたんだろうなあ。
5倍くらいに。 なぜ『神奈川 方言 じゃん』なんだと思う?
ウラシマの台詞w 前方後円墳や三角縁神獣鏡から悲鳴を上げて逃げ惑う九州説 >>425
邪馬台国と関係ないものばかり「根拠」にしていることがよくわかる。
魏志倭人伝の記事はほとんど無視されている。 >>475
径百歩と記述してるだけで、実際は径50歩だった可能性を否定できてないんだよね
三角縁神獣鏡なんて何百枚も出てきてるわけだし
そんなのに意味があるのだろうか? >>485
じゃ50歩だった証拠を持ってきな
銅鏡は百枚貰ったと書いてあるだろ
都合が悪いから魏志倭人伝を無視する九州説 数年前の、とあるスレ
・・・〜って川崎に住んでいるんじゃないの?
川崎に住んでいるでしょ?
みたいな事を言ってる人がいたり、どういう事なんだろう >>468
>なぜなら
全長もしくは円墳部で径百歩に相当するような古墳が
機内に現物としてあるからだ
あのー前方後円墳だし、築年も不明だし
土器に付着してた炭化物も、日本中どこでも3世紀に土器で煮炊きしてたんだから
見つかっても不思議で無いしーー旅人の物かもしれんし、輪鐙も見つかるし
いわんや、魏との交流の遺物も発見されていない
決めつけるには時期尚早 >>474
大きさを記録するなら形も記述するだろ?
お前はどうやって記録する?
円墳なら直径だけでも大きさは伝わるだろうけど
前方後円墳みたいな異形の場合、
普通は短辺長辺の長さを記録しないか?
人間としての常識の話をしている
前方後円墳の大きさを記録するときに後円部の直径だけを測るとか
それって人間としての能力がかなり劣ってると思うが >>486
本当に百歩だった証拠は?
>銅鏡は百枚貰ったと書いてあるだろ
百枚以上出てきてるだろ >>488
ホケノ山の木棺は炭素14c年代測定法で120年〜240年と判明している
今の所三世紀中葉とされているがもしかしたら2世紀後半まで遡るかもなあ 427>>639
>円墳でも畿内には100m級があるんだよなぁ 九州にはない <
卑弥呼の墓は「冢」であり「円墳」ではないから×であり、
「径百余歩」は、行程記載が短里であったから、「1歩≒25.5cm」になり、
だから、径25.5m余径の墓になるから、100m級も×。
>卑弥呼が魏に使いを送った年と史書にある 景初三年の記銘があるから
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡とする以外にない これが多く出るのが畿内<
明帝の詔書は景初二年であったのだから、景初三年以後の紀年鏡は明帝下賜鏡ではなく×であり、
大和からの出土△は、4世紀以後の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓になるから、×。
これだけで大和説の負けが確定しているという事は、
まともな頭をしているなら誰でも理解できる。 >>492
>もしかしたら2世紀後半まで遡るかもなあ
という希望? >>491
じゃ百歩じゃなかった証拠は
魏とは複数回交流があった事が魏志倭人伝に記録されている
そして複数の魏年号の記年鏡も見つかっている
本当に九州説は物を知らないなあ 本当の話だと言っているんだよw
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』 >>494
科学的測定結果を見れば単純にそうなるだろ
お前は頭が悪くてわからんのかも知れないが 老婆が言うには
歌舞伎、芝居〜という話をしていたり、何なんだろう >>495
方角が違ってて
距離も違う
冬でもはだしで生活してるというのも畿内では無理じゃないかな?
という事で、
魏志倭人伝の記述に信憑性があまりないので
百歩という部分だけを信用する根拠がない >>497
しかしお前の脳内以外では、いまだにそうなっていないんだろ? >>500
現に百歩に相当する墓が畿内にいくらでもある
魏志倭人伝と考古物が合致していてその事実を否定できるようなものは今の所何もない 『デスラ〜』で画像をググると
『ターロン・オブ・ヘレン』
というレコードの画像が出てきたり、何かの鳥のデザインw >>479
理由は無いの?
ただ「常識だー」と言い張るだけ?
それが九州説なの? >>501
ホケノ木棺が120〜240年は科学的測定に基づく事実
お前の脳内では違っているようだけど それともキングというアーティストだった?
『デスラ〜』 >>484
>邪馬台国と関係ないものばかり「根拠」にしていることがよくわかる。
邪馬台国と関係ないものばかりだと決め付ける理由は? >>423
>平原1号墓が2世紀末というのは、魏志倭人伝とは独立の情報だから、
誤差を含んだ推定だよ。
副葬品からいえばもう少し後の卑弥呼がなくなる前後の3世紀中頃が「妥当」だろう。 径百歩という部分だけを都合よく信じるのではなく
殉葬者も百人いたという部分も信じないといけないだろうね
そういう古墳あるの? 427>>654
>晋書巻12天文中
景初元年七月,公孫文懿叛。
二年正月,遣宣帝討之。
三年正月,天子崩。
四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。
景初四年ばっちりあるね <
晋書は、唐代の書かれた後代史書であり、
自己解釈に拠る解釈を書いている可能性があり、
魏志のように、天子の起居注を見て書いた、
同時代史書の記載を訂正する根拠にはならない。 論と証拠が揃っている畿内説に
九州説の詭弁ももはや通用しやしない >>488
>あのー前方後円墳だし、築年も不明だし
>土器に付着してた炭化物も、日本中どこでも3世紀に土器で煮炊きしてたんだから
>見つかっても不思議で無いしーー旅人の物かもしれんし、輪鐙も見つかるし
>いわんや、魏との交流の遺物も発見されていない
箸墓が?
それ、一項目でも根拠が提出できる?
出来ないでしょ? 『松傾』・・・・迷宮〜ラビリンスの王、主。
『サイバーパンクSPECIAL』・・・・・・・? >>516
じゃあ卑弥呼の墓ではないだろうね
魏志倭人伝の記述では殉葬者100人と書かれてるので、
それが無い墓は卑弥呼の墓ではないだろ >>518
現物が確かめられないならそこの記述は事実じゃないというだけだが?
しかし径百歩の墓は畿内に実在している 魏志倭人伝の記述と現物の合致
この二つによって九州説などは粉みじん >>519
その考え方がおかしいと言ってるんだよ
魏志倭人伝の記述に間違いが多いわけで
それなのに径百歩の部分だけは正しいと決めつけるその短絡的な考え方が理解できない
その程度の知能だから畿内説なのかな?
>現物が確かめられないならそこの記述は事実じゃないというだけだが?
径百歩程度の大きさの古墳があるから事実という考え方は頭がおかしいよ
殉葬者100人がいないのでその墓ではない
という事実認定をされるだけだよ wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwとなるでしょ
結婚(家と老婆が)するとき、
何かの家の人みたいな事を言われたとか、
御殿のような家に住んでいて
さかきばら事件、酒呑童子? >>515
>>いわんや、魏との交流の遺物も発見されていない
>それ、一項目でも根拠が提出できる?
箸墓の被葬者が魏と交流していた証拠を提示してください。 >>522
どこが短絡なんだ?
最も測定の難易度の低いものに信頼性があるのは当然なのに
こんなことも理解できないとは
九州説は困ったものだな >>522
現に径百歩の実物があんだからどうしようもないだろ
魏志倭人伝の記述と考古物の合致を見るのが畿内説
妄想で語るのが九州説 ・塚
・径百歩
・殉葬者百人
魏志倭人伝に記述されている卑弥呼の墓の説明は大きくこの三つで
畿内説の場合
径百歩の部分しか見てないんだよ
だからおかしい
しかも塚だから常識で考えれば円墳 >>525
殉葬者百人は?
見つかってないなら卑弥呼の墓じゃないだろ
>>526
径百歩だけを満たしても卑弥呼の墓にはならないよ
・塚
・殉葬者百人も満たさないとな >>527
>しかも塚だから常識で考えれば円墳
そんな常識が実在するって証拠は? 本当に最近(数年前)聞いた話、
震災などが起きてからw
結婚するとき・・・・・・・・・・・・・・・、
何か・・・・・凄い家の人wだと言われたとか >>529
ちなみに奴婢を生き埋めにした跡は国内のどの古墳からも見つかってないよ
その事実の確認が取れないから周りに奴婢が埋まってるのが
卑弥呼の墓だとは言えない
けれど径百歩の墓は実在している
そういうわけで径百歩の確認が取れる古墳が卑弥呼の墓 >>530
殉葬者百人が出てないのに卑弥呼の墓だと言い張ってる時点で見てないことが分かるだろ?
>>531
「塚」という文字で前方後円墳をイメージできるか? 径百歩の墓が円墳だとしても
九州にはなくてそのクラスがあるのは畿内なんだよな >>529
>径百歩だけを満たしても卑弥呼の墓にはならないよ
>・塚
>・殉葬者百人も満たさないとな
その二つは問題にならないから
箸墓でいいな? >>534
それこそ大昔から前方後円墳はなになに塚という名称で呼ばれて来たんだが >>533
という事は、
その卑弥呼の墓の説明文にも創作が含まれてると判断しないといけなくなる
そうなると径百歩という記述も信用すべきではないとなる
3つの条件があるのだからその3つすべてを満たさないと対象物ではないことくらい常識で分かるだろ?
・ミニバン
・電気自動車
・ニッサン
この3条件を満たす車種名を答えよ
正解は該当なしだけど、
畿内説はアホだから
・電気自動車
・ニッサン
が実在するからノートだと言い張ってるようなものだぞ >>536
なぜ問題にならないの?
>>537
具体的な例を挙げてみて なぜ合致しているのか?となるでしょ、
住んでいるところも・・・・川崎区(神奈川県)の南部のほうで、 >>531
>そんな常識が実在するって証拠は?
そんな常識が実在するって証拠は、「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。 @阿波 >>662
>そうして生じた空白の1ヶ月は後に景初三年後12月と記されるが
当時では景初四年1月扱いだった可能性が出てくる<
可能性はない。
「景初三年後12月」は、正式には「景初三年の後12月」という呼称であって、
「景初四年」と呼んでは、後継皇帝への侮辱になるのであり、
呼んではいけないもの。
後代史家の勝手な解釈など通用しないし、
列島の△の「景初四年」の紀年は、その鏡師が正始改元を知らなかった、という事にしかならない。
>まあ記録上はそうなっているけど
実際的に正始年号が公的に使われ始めたのはその年の8月辺りで
それまでは景初四年が使われていた可能性があるという研究もある
証拠の1つとして景初四年鏡には景初四年五月丙午之日と銘がある<
景初四年鏡は、
「正始」改元を知らなかった、渡来の呉系楽浪鏡師の作であった事の証拠。 >>534
ダメだね
事実と違う
出ない理由がちゃんとテンプレに書いてあるから見てるんだよ >>538
ノートはニッサンのミニバンの電気自動車
もしニッサンの電気自動車が一種類だけだとしたらどうなる?
それは必然的にノートの事だとわかるだろ
そういう事だ >>534
>「塚」という文字で前方後円墳をイメージできるか?
できるかも何も、日本じゅう塚と名のつく前方後円墳だらけじゃないか
なにを現実無視してんだ >>541
この矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に“金印”が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。 @阿波
八倉売神社:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
http://www.geocities.jp/nachtmahr_3rd/F-tales/himiko.html >>538
>という事は、
>その卑弥呼の墓の説明文にも創作が含まれてると判断しないといけなくなる
どうして?
判断しないといけなくなら理由は? >>547
創作が含まれてる時点でどれが創作でどれが真実なのか区別できないからだよ >>539
問題にならんね
殉葬者をどこに埋めたか史料に無い
「どこにあるかわからんモノが出ないから条件を満たさない」
なんてメチャクチャな必須条件はあり得ない >>546
卑弥呼の墓に金印埋めたって時点でガセ卑弥呼の墓確定
卑弥呼が亡くなった時点でまだ魏と邪馬台国は交流しており
金印を墓に埋めたら後継者のトヨが困っちゃう >>549
百人埋めたのなら百体くらい周辺から出てこないとな
卑弥呼の墓と同じ時代のが >>542
>「景初三年後12月」は、正式には「景初三年の後12月」という呼称であって、
>「景初四年」と呼んでは、後継皇帝への侮辱になるのであり、
>呼んではいけないもの。
証拠は? >>515537日本@名無史さん2019/02/23(土) 09:16:29.27>>539
>>534
>それこそ大昔から前方後円墳は「なになに塚」という名称で呼ばれて来たんだが
「なになに塚(つか)」であって、
「なになに塚(チョウ)」とは呼ばれていないだろ。
つかは日本式古墳の一般的呼び名だが、チョウは古代中国の特定の形式のお墓 例えていうなら、ハイブリッドと衝突回避システムがついた車を探していたら、
「ノートは電気で走りますよ」
と言って売りつけてくるのが畿内説。
魏志倭人伝の邪馬台国と全然違った畿内をねじ込んでくる。 国内のどの古墳からも奴婢を周りに生き埋めにした跡は見つかってないよ
つまりそういう習慣はなかったって事だ >>555
という事は、
魏志倭人伝での卑弥呼の墓の記述は創作だったという事だ >>550
>金印を墓に埋めたら後継者のトヨが困っちゃう
同じ理由で、卑弥呼は後漢の頃にもらった金印を国璽としたはずなんだよ。
福岡で見つかった漢委奴国王印のことだけど。 >>557
卑弥呼が貰ったのは親魏倭王の金印だぞ
福岡のは漢倭奴国王印 >>557
当時の木簡や紙などの文字が書かれたものが一切出てこないのが不思議だよね
>>558
その金印をもらうまでの話だろ
曲がりなりにも倭国の王なのだから >>508
学者の推定年代を拒絶して
お前が年代工作しても意味ない >>556
そこは創作かも知れないけれど
径百歩の墓は実際にある
現物で確かめられる部分は事実 >>561
その考え方は間違ってる
創作がたまたま合ってたことを否定できないからだよ >>559
卑弥呼は奴国の女王じゃなくて邪馬台国の女王なんだけど だいたい、「漢」を冠して統属を表す印は
「漢匈奴悪適尸逐王」のように王莽時代だよな >>553
だな
日本も中国も漢字を使ってるけど
同じ意味で使われてるとは限らないよな >>563
そうだろう
うらしまマリン(仮名、キャラクター名)は、
そこの国の王や王子ではないし 志賀島の金印は
倭国の奴国なの?
漢が委ねる奴国なの? >>567
後漢書に倭奴国に金印あげたと書いてるから倭の奴国だろ >>568
それは間違った考え方
創作の可能性を否定できないのだから、事実だと断言することは不可能になっている
事実である可能性を否定できないのと同じ程度に
創作である可能性も否定できないんだよ
だから、知恵のある人は、事実だと決めつけるようなことはやらない >>569
倭国連合の一国家である奴国に金印を授けたのか
倭国連合の一国家である邪馬台国と同じようなものだね
それぞれの小国家の王が持ち回りで代表をやってたのかもしれないな ドラムの話なども、なぜ合致しているのか・・・となるでしょ?
いまは引っ越しをして、隣には住んでいないんだけど
高野さんと言うんだけど、
たしか元々は茨城(千葉、埼玉だったかな)とか、
そっちのほうの人だよと言っていたり >>570
記述と実物が合致するのは事実と認められるよ
一部が違うから全部が違うという事にはならない
事実と合ってる部分は認めないと >>542
>「景初四年」と呼んでは、後継皇帝への侮辱になるのであり、
その後続皇帝の名前を言えるか?
言えないだろ
さかのぼって皇帝じゃなかったことにされた人物だ
ナントカ帝という名は無い
「景初四年」をさかのぼって無かったことにするくらいチョチョイのチョイなんだよ それで、家が〜〜〜〜〜〜〜『松傾』〜〜〜〜〜〜でしょ?
何の話なんだろう >>571
倭奴国が連合国だったなんてどこにも書いてないんだけど >>574
どれだけ言い張っても間違いは間違いだよ
嘘まじりの文章の中の言葉にたまたま合致するものが存在したとしても
それだけで事実と決め付けることはできないよ >>563
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、倭王だよ。 >>578
魏志倭人伝の記述で現物で確かめられないものは事実としないし
現物で確かめられるものは事実と認めたらいいんじゃないかな >>569
倭国伝に書いてあるから、倭奴国の王を倭王に冊封したんだよ。
卑弥呼が最初の国書を魏に送るときは漢委奴国王印を使ったことになる。
そしてすぐに魏は金印を更新して親魏倭王の印を与えたんだよ。 >>581
君が勝手に誰の承諾もなくそう思うのならそれでもいいけど
そんな程度じゃ誰も君のいう事を信じないよ
嘘交じりの文章は疑うのが当たり前なんだよ >>579
魏志倭人伝には女王のおわす所が邪馬台国と書いてあるよ >>577
30カ国ほどあったと書かれているね。
その中で倭奴国に金印を与えた。
倭奴国が倭を束ねるように権威付けをした。 >>585
そうだよ。
でも立場は倭王。
総理大臣は東京にいても都知事ではない。
卑弥呼は邪馬台国にいるけど邪馬台国女王ではない。
倭王なんだよ。 本当に・・・結婚するとき、
何かの?家の人だと言われたとか
『松傾』? >>550
>卑弥呼の墓に金印埋めたって時点でガセ卑弥呼の墓確定
そんな円墳や伝承すらないお粗末ガセ説。 @阿波 >>582
漢倭奴国王印は畑の中に埋まっておったぞ
これは奴国が帥升に征服された際に隠されたのだ
>>583
正確じゃない情報が混じってても
実際にものがあるならその部分は事実を書いてると言えるだろ
>>584
鉄器など畿内の古墳2基だけで300点は見つかってる
絹も鏡を包んでいた痕跡が出てるよ 427>>663
>短歩はあり得ない<
魏使らや陳寿らの短里使用があり、1里=300歩の換算規定が存続していた限り、
「短歩」は有り得る。
>歩は元が身体尺だから、身体感覚から大きく外れる長さにはなり得ない
そして字の成り立ちからして複歩なんだから、1歩=6尺から大きく外れる「歩」はない<
「歩」の文字成立時点では、後代の所謂 「歩行」を否定して、
「止まっている」状態の字形であり、
複歩では、「止まっている事の否定」になってしまい、
「単歩=1足底長」という事にしかならない。 >>591
>正確じゃない情報が混じってても
>実際にものがあるならその部分は事実を書いてると言えるだろ
不正確な記述にたまたま合致する現物があった
という可能性を否定できないからダメ
事実を書いてるとは言えない 志賀島の高麗部落で拾ってきた金印を鑑定した亀井魯も高麗人だろ >>591
>鉄器など畿内の古墳2基だけで300点は見つかってる
>絹も鏡を包んでいた痕跡が出てるよ
水銀朱や勾玉もね。 倭国(阿波)の「忌部はん」 のお墓だから。 残念でした。 @阿波 >>586
本当に30ヶ国もあったのかどうか
確かめようがないから奴国は連合国じゃなし
>>588
ちと何が言いたいのかわからんな 427>>664
>またキウスが掘っ立て柱に執着<
軟弱地盤での大型高床建築では、柱の石床などの補強がなければ、
あっという間に倒壊してしまうもの。 人物埴輪の登場(五世紀半ば)以前は、殉死の習慣が残っていても不思議ではないだろう。
日本書記の垂仁紀にあるように、(おそらく縄か何かで縛った)殉死者を古墳の領域に半分生き埋めにし、何日も泣き声が聞こえたり犬に喰われたりするような殉死の仕方であれば、骨が散逸して後世まで残らなくても別におかしくはない。
石棺に入れて大切に埋葬しても骨は完全に残らないんだから。 >>593
実際に径百歩の墓があるから事実を書いてる >>591
>鉄器など畿内の古墳2基だけで300点は見つかってる
>絹も鏡を包んでいた痕跡が出てるよ
水銀朱や勾玉もね。 倭国(阿波)の「忌部はん」 のお墓だから。 残念でした。 @阿波 志賀海神社の鍍金鐘も高麗時代後期の朝鮮半島製だしな >>599
たまたま偶然という可能性を否定できないのでダメ 427>>665
>三角縁神獣鏡の素材の銅は中国魏・晋時代の銅鏡と同じものと分析された<
渡来の呉系楽浪鏡師らの使用材料銅の成分に、魏晋鏡の銅産地の材料銅の混在があった、
というだけ。
>銅出徐州 師出洛陽 徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったとの銘も入っている<
中国で造った鏡であれば、何の自慢にもならない銘であるから、
列島で造った鏡である証拠。 >>600
この前忌部はんに聞いてみたら違うと言ってたぞ
>>602
ものがある以上
事実を書いてる可能性も否定できないからOK >>604
なんでループさせるんだ?
>>570で終わった話だ
事実である可能性を否定できないのと同じ程度に
創作である可能性も否定できないんだよ
だから、知恵のある人は、事実だと決めつけるようなことはやらない >>478
筒ヶ岳501m、観音岳473m。
この二つの山をつなぐ尾根が約20kmに渡って南北に連なっている。
この尾根が障壁になって、福岡県と熊本県を分けている。
昔も同じ。
この地理条件は、背振山地が玄界灘沿岸と有明海沿岸を分けているのと同じ。
みやま市付近の邪馬台国は、熊本まで延びていないな。 >>604
>この前忌部はんに聞いてみたら違うと言ってたぞ
ハハハ、にせ「忌部はん」 だな。 @阿波 >>598
実際には殉葬は生き埋めじゃなくて特殊壷とかに
血を入れて特殊器台に捧げたとかだろな
人物埴輪の現れる前の古い古墳にはそれがある
殉葬跡は特殊器台で箸墓にもあって
径百歩で殉葬跡が認められる箸墓こそ卑弥呼の墓の条件を満たしていると言える
>>603
何の自慢にもならないというのは意味わからんな
日本製品にメイドインジャパンと書くのは自慢か?違うだろ
製造地をはっきりさせるためにそう書く 松傾・・・なぜ?デスラ〜なのかとか、
たしかに子供の頃の写真だというのがあって、
何かの制服のようなものを着ている、白い制服
軍人? >>591
>鉄器など畿内の古墳2基だけで300点は見つかってる
>絹も鏡を包んでいた痕跡が出てるよ
もちろん、その鉄器も 水銀朱や勾玉もね。倭国(阿波)の「忌部はん」 のお墓だから。 残念でした。 @阿波 >>605
けど魏志倭人伝に書いてある径百歩とされる墓が畿内にいくつもある
九州にはない
これをどう捉えるべきか 山の上のほうに住んでいて、凄い・・・土地を持っていたとか、
確実に戦前?の話(『老婆談』)
もっと昔の話なのかな? >>608
>日本製品にメイドインジャパンと書くのは自慢か?違うだろ
自慢だろ?
ブランドなんだよ。
事実と異なり称されることもある。 >>607
忌部はんです私は本物です
畿内の古墳は私の墓ではありませんね >>613
銅出徐州 師出洛陽の銘が自慢でも何でもない証拠に
三角縁神獣鏡の銅素材は魏の鏡と同じ物が使われていると判明してる 九州説は早い所白旗上げてこのスレから撤退するんだな >>614
>畿内の古墳は私の墓ではありませんね
ハハハ、そんなこと言ったって、「鉄器」や「水銀朱」や「勾玉」でもろバレだがね。 @阿波 >>614
>畿内の古墳は私の墓ではありませんね
ハハハ、ついでに「青石石棺」や「葺き石」でもろバレだがね。 @阿波 427>>667
>九州の古墳なんぞどうでもいい
どうせ調べても径140mもないか三世紀のものじゃないか
そもそも古墳ですらないか 調べるだけ時間の無駄なのはわかってるからな<
大和の古墳なんぞどうでもいい。
どうせ調べても、前方後円墳ばかりで「卑弥呼の冢」ではないし、
3世紀末以後のものばかりだし、
径百余歩(約25.5m余り)もないし、
「殉葬奴婢百余人」なんて墓も見つからない。
調べるだけ時間の無駄なのはわかってるからな。 427>>669
>当時の魏志倭人伝を引き写した各史書の倭人伝には
卑弥呼bェ魏から銅鏡貰bチたのは景初三粕Nとある
それそのものの魏年号の景初三年が入っているから
三角縁神獣鏡は卑弥呼の貰った鏡とするには十分
魏鏡の証拠もあるし洛陽でも1面発見 他の鏡とは考えづらいな <
明帝の詔書は、景初二年だから、銅鏡百枚はそれ以前の準備出来ており、
そうでなければ「銅鏡百枚」なんて詔書に書けないんだから、
景初三年以後の△は、明帝の下賜鏡ではない。 >>611
>けど魏志倭人伝に書いてある径百歩とされる墓が畿内にいくつもある
たまたまだな
現代の日本人がイメージする「塚」と
魏志倭人伝の時代の中国人がその目で見て記述した「塚」が全く同じである根拠は無い >>622
じゃ魏の人間は何を見て径百歩の大きな塚なんて書いたんだよ
>>621
景初二年は三年の誤記 >>606 名前:日本@名無史さん 2019/02/23(土) 10:28:20.41
>筒ヶ岳501m、観音岳473m。この二つの山をつなぐ尾根が約20kmに渡って南北に連なっている。
>この尾根が障壁になって、福岡県と熊本県を分けている。昔も同じ。
>この地理条件は、背振山地が玄界灘沿岸と有明海沿岸を分けているのと同じ。
脊振山系のような大山深山ではない。高めの丘陵のようなところで、しかも現況ところどころに国道県道も通っている。
>みやま市付近の邪馬台国は、熊本まで延びていないな。
みやま市瀬高付近の東西数qは、海面より少し高いだけの平坦地で、
現況でも高速道路、国道、JR線、新幹線、私鉄大牟田線、県道が通過している。
此の平坦地は大牟田・玉名・山鹿・菊池・熊本方面へつながっている。
どう考えても、戸数500程度のみやま市瀬高が邪馬台国の中心だったわけはない。
熊本平野が邪馬台国の中心であり、みやまはその北の重要な玄関口だったのだろう。 このスレに九州説の書き込みが途絶えた時
九州説は息絶える >>624
塚を見たんだろ
魏志倭人伝では
卑弥呼の墓の説明よりも前に倭人の墓の説明をしている
・人が死ぬと、棺はあるが槨のない土で封じた塚を作る。
このような説明をずっと前の段階でやってるんだよ
なので、この記述、説明と異なる墓の可能性は低い >>627
いいや
暇なときには書き込む
忙しい時は書き込まない だから言っているでしょ、ほとんど家の話だと。
『松傾』
こういう名前の家で・・・・・・・・・・・・。 >>605
根拠のない俺様の断定で終わらそうと力づく連呼ですか?
w
w 老婆の家では牛を飼っていて、
誰の家だったかな〜蚕を飼い、機織をしていたという話、
その家の人と結婚して・・・・・。
次の代で・・・・・・老婆と結婚?
天の川ガンダムでしょ? >>631
>根拠のない俺様の断定
創作交じりの文章だと認めてるのに、径百歩の記述だけは事実だと決めつけてることの説明だな >>628
槨あって棺なしは倭国の葬儀習慣であって
邪馬台国の葬儀習慣とは書かれてないね
だから槨のある墓があってもそこは邪馬台国じゃないとは言えない
>>629
別に書き込まなくてもいいよ 天の河?『天の川ガンダム』でググってみて、本当に画像が出てくるからw >>634
邪馬台国は倭国連合の中の一つの国だよ
え?
この部分でも都合のいい部分だけを採用するの?
それが畿内説なんだねwww 『松傾』
祭祀関係の家だというサイトが出てきたでしょ、
竹、機織が何やら〜とか >>636
そりゃあ九州説にとっては都合悪いだろうからな >>615
>三角縁神獣鏡の銅素材は魏の鏡と同じ物が使われていると判明してる
そりゃ国産鏡でも素材は中国産だから、当然。 老婆の家の話
『牛飼い』〜〜〜〜〜〜〜〜、
その後、農家になったのかな?
農家ではないのかな、何なんだろう >>634
>槨あって棺なしは倭国の葬儀習慣であって
>邪馬台国の葬儀習慣とは書かれてないね
詐欺師の口上 >>639
だよね
魏の鏡を日本国内で溶かしても、素材は魏の鏡と同じだもんなw >>639
バカめ国産鏡は素材も国内で作られたものとわかる
>>641
実際そう書かれてるだろ
倭国の葬儀習慣は棺あって槨なし
邪馬台国じゃなくて
まあそもそも古墳の話じゃなくて一般的な墓の話なんだろうが もう九州説は完全に手詰まりだろ
早めに撤退した方がこれ以上醜態を晒さずに済むぞ 427>>698
皇国史観教に狂った大和説者は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺だけではなく、
自説補強の為なら、インチキ筆跡鑑定の偽書説でもなんでも、
見境なく飛び付くからなー そもそも九州説がこのスレに書き込みに来る意味がわからんな
放っといた方がよほど九州説にとっても有益だろうに
九州説が何か書けば書くほどそれについて調べられて反証が蓄積していく 『デスラ〜』
牛のようなデザインのレコード(画像)も出てくるでしょ?
牛ではない? >>646
>九州説が何か書けば書くほどそれについて調べられて反証が蓄積していく
ハハハ、畿内説もね。 @阿波 本当に説明しなくても、わかる人にはわかる
自分の記憶とは違う〜みたいなスレが建っていたり、
他の人(自分の家の話ではない)、他の家の話だからなんだよ >>485
>径百歩と記述してるだけで、実際は径50歩だった可能性を否定できてないんだよね
ただな、それを見聞した魏使が「特記」して記録に残し、陳寿も書く価値のある情報だと
認識した時点で、長く王位にあった倭国随一の存在にふさわしい墓だったと言える
そこらにあるような25メートルの墓を5倍の誇張して書く理由がない
国内によりでかい墓があるようでは候補にならない
>三角縁神獣鏡なんて何百枚も出てきてるわけだし
>そんなのに意味があるのだろうか?
逆だ
全国に何百枚も副葬されるだけの意味がある鏡だったということであり
そこに倭国と交流があった時代の魏の年代の紀年銘鏡があるんだから、
それを作り配布した主体が魏との交流の当事者だってこと
九州では畿内からもらった一枚の鏡を大事に大事に副葬してるよね 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の在日韓国人考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 427>>727
「南→東」などのような史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をし、
あやふやな情報に食い付いていつのまにか確定事項のように扱うをし騙しをするのは、
いつもの大和説の愚行 >>508
>副葬品からいえばもう少し後の卑弥呼がなくなる前後の3世紀中頃が「妥当」だろう。
100年単位を誤差と言い張って、何の根拠もなく自説に都合のいい年代だと
勝手なことを言い出すから、九州説は学説にならないんだよ
平原1号墓は本体を作ったときに掘った周濠が、長年放置されて埋まって堅く締まってから
その埋まった土に土坑を掘って作られた土坑墓の年代が3世紀前半くらいなんだから
どうやっても卑弥呼の墓にはならない
結局、九州説は情弱の思い込みなんだよ >>643
>バカめ国産鏡は素材も国内で作られたものとわかる
ほう?
どこで産出した銅なんだ? 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>643
>倭国の葬儀習慣は棺あって槨なし
>邪馬台国じゃなくて
田舎の風習を書いてもしょうがないからね。
倭の王都である邪馬台国で見聞したことを記載したはずであり、同じ意味なんだよ。
畿内の墓制が魏志倭人伝と食い違うのは、畿内が郡使の目の届かない、倭国の中でも辺境の土地だったから。
実際に九州北部の王墓が棺あって槨なしだし。
畿内は邪馬台国ではないということだよ。
>まあそもそも古墳の話じゃなくて一般的な墓の話なんだろうが
根拠のない仮定であり、詐欺? >>625
平地であっても、ちょっとした盛り上がりや坂道が、その近辺の住民意識を別のものにする。
これは、ごく普通の人間心理。
なので、標高500mの山に連なる尾根筋が南北20kmも続けば、みやま、大牟田と玉名、菊池はもう別々の国。
倭人伝がクコチヒクを書き、狗奴国とし、その北に卑弥呼の邪馬台国があると書いているのは、そこの住民が自然地理環境で、別の国を作っていたことを示している。 浦島太郎(仮名)・・・・本当は中国(中華)の話だろう >>534
>殉葬者百人が出てないのに卑弥呼の墓だと言い張ってる時点で見てないことが分かるだろ?
国内に大規模殉葬が確認された墓は一つもない
殉葬跡のない墳墓から候補を見つけるよりないだろう
記紀には垂仁天皇代の倭彦の殉葬が悲惨だったから殉葬はやめたという記録があるが、
倭彦の墓も見つかっていないのだから、殉葬の有無を言挙げするのは意味ないだろ?
円墳かどうかに関してはテンプレのこの側面図を見れば、墓の部分は円墳と
理解されるのは妥当
後円部5段築成の2段目までの高さしか、前方部は作られていない
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
のちの古墳は前方部が発達して 「茶臼山」などと呼ばれるようになるが、
初期古墳の前方部は低平で後円部に付属した祭壇と判断されるのも無理はない うらしま、蓬莱・・・・・、機織りの話でしょ?
これは違っていても良いんだけど
『渚モデラート』という曲とか 邪馬台国側の城が大野城、基肄城。
狗奴国側の城が菊池城。
筑後平野が倭国の主戦場であったことは、考古学的にもわかる。
大野城と基肄城は、後に大宰府を囲む巨大な大宰府羅城の一部となっている。
壹與の時代に狗奴国を吸収した倭国は、大宰府を都としてさらに強大な戦闘国家として発展したのだろう。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていた倭人という民族の真実の正体を、隠すことなのだな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、何者だったのだろうか、、、 魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、纒向遺蹟が、作製される前に奈良に住んでいた者達では、ないのかな。。。 >>656
邪馬台国の葬儀習慣とは書かれてないからね
それでホケノに槨があるから邪馬台国じゃないとは言えないし
ホケノ山が特別だったのかもしれない
それに畿内の一般的な墓は方形周溝墓でまさしく棺あって槨なし
棺あって槨なしは畿内説を否定する材料としては弱すぎる ここに突撃してくる九州説は頭が悪いな
まあ賢い人間は九州説なんてやらんだろうけど >>650
邪馬台国に行ってみたら卑弥呼死んでたわ
大きな塚を作って埋葬してたよ
大きさは百歩くらいで殉葬者が百人だったそうだよ
次に男が王になったけど1000人くらい死んだのでまた女王になってたよ
というのが墓に対する特記?
卑弥呼が死んだことに対する特記じゃないか?
>そこらにあるような25メートルの墓を5倍の誇張して書く理由がない
卑弥呼が死んで墓があったよという
よくある紀行文だろ
中国人の記述なのだから誇張されてるのはよくあることだ >>559
>当時の木簡や紙などの文字が書かれたものが一切出てこないのが不思議だよね
木や紙のような有機物が、二千年土に埋もれていて分解しないというのは、
よほどの条件が揃わないときびしい
日本は気温が高くて土壌細菌が元気だからね
平城宮跡からあれだけ大量の木簡が出たのは、本当に僥倖 >>650
>全国に何百枚も副葬されるだけの意味がある鏡だったということであり
流行だっただけじゃないか?
日本国内でコピーしてたし
ただの縁起物 >>659
>国内に大規模殉葬が確認された墓は一つもない
という事は
殉葬者百人という記述が創作だったという事だろう
創作した文章が混じってるのだから
そのあたりの文章をすべて真実だと決めつけることはできないね >>667
じゃあ卑弥呼の墓は方形周溝墓じゃないのかね? >>571
>倭国連合の一国家である奴国に金印を授けたのか
それはない
その頃に倭国連合はない
倭人の領域の一国家、奴国の王、だ
>倭国連合の一国家である邪馬台国と同じようなものだね
同じじゃないよ
卑弥呼の共立を経て、初めて広域の祭祀連合、前方後円墳体制が始まる
>それぞれの小国家の王が持ち回りで代表をやってたのかもしれないな
それもない
台与が卑弥呼の宗女とされているように、血統概念はすでに重要な要素となっている
血縁関係の中での有力者回り持ちはあり得るけどね >>667
>それでホケノに槨があるから邪馬台国じゃないとは言えないし
>ホケノ山が特別だったのかもしれない
畿内説は追い詰められると訳の分からん言い訳をするよね。
これで畿内が邪馬台国?
むしろ、邪馬台国ではなかった可能性の方が高いように思えるね。 >>674
>>>667
>じゃあ卑弥呼の墓は方形周溝墓じゃないのかね?
おお、それならば倭国大乱後の女王墓であることがわかっている方形周溝墓である平原遺跡の方が、卑弥呼の墓である可能性が高いではないか。 >>581
>魏志倭人伝の記述で現物で確かめられないものは事実としないし
>現物で確かめられるものは事実と認めたらいいんじゃないかな
畿内説はそうしてるんだけどね
でも、九州説は都合のいいことは信じて、都合の悪いことは信じないんだよ
チェリーピッキングでできてるのが九州説だからね >>678
塚
径百歩
殉葬者百人
チェリーピッキングで塚であること、殉葬者百人を無視してるのが畿内説 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>680
「其山有丹」
福岡県では丹山がない。 @阿波 邪馬台国では無くて倭国のうち大陸に近い方の説明だな >>682
倭国の話だから国内にあるならいいんじゃないの? >>676
古墳の多くは中がどうなってるのかわからない
もしかしたら箸墓は棺あって槨なしなのかも知れないだろ?
そういうわけでたまたまホケノが槨ありだとしても
畿内説を否定する事にはならない
>>677
卑弥呼の墓は径百歩で直径が140mと伝えられる大きなもの
卑弥呼の時代には王族クラスの人物はすでにそれで埋葬されているから
女王卑弥呼の墓は前方後円墳だろ >>686
掘ってもいない古墳を根拠に頼る畿内説。 最近の研究では三角縁神獣鏡には舶載鏡が含まれてるという見方が優勢だわな >>687
掘った所で何も出ないのがわかり切ってる九州説の古墳
邪馬台国は九州じゃないからな 黒塚古墳からは黄幢の骨組みらしいU字型の鉄製品出てるし難升米なんかは畿内出身者なんだろうな 別に卑弥呼に限らず、当時の権力者が死ねば、多かれ少なかれ殉葬はやってたんだろう。
それらを含めて今まで殉葬の痕跡が見つかっていないと言うことは、
現代まで残りにくい殉葬のやり方をやってたと言うこと。
地表浅く殉葬された人の死骸を犬やカラスが食い散らかしてバラバラになってしまうとか、
特殊器台に血を捧げるとかね。
平安時代に、飢饉や疫病により路上でゴロゴロ死んでいた人たちの骨なんて、現代まで残ってないでしょ?
意図的に深く土に埋めて埋葬しないと、とても現代まで残らないよ。 >>690
>黒塚古墳からは黄幢の骨組みらしいU字型の鉄製品出てるし難升米なんかは畿内出身者なんだろうな
黒塚古墳の竪穴式石室や
黒塚古墳からは黄幢の骨組みらしいU字型の鉄製品や「水銀朱」出てるし難升米なんかは倭国(阿波)の「忌部はん」 なんだろうな。 @阿波 深く埋めても骨は残らないよ日本の土は酸性だから
貝塚は貝の炭酸カルシウムで中和されてるから保存状態が良い
また古墳内部では副葬品の銅製品由来の銅イオンの影響で残る事があるそう 九州説は、
女王であっても倭人の一般的な墓と同じでなければならない
支配層が特別であってはならないという思想が根底にある
これは九州説者の出自によるものだと思われる >>691
殉葬は死後の世界でも主人に仕えるために殉葬されるのだから
野垂れ死にとは違う >>697
>そして、阿波説が誇大妄想。
反論が怖くて、具体的な指摘ができない畿内説。 @阿波 >>686
>卑弥呼の墓は径百歩で直径が140m…卑弥呼の時代には王族クラスの人物はすでにそれで埋葬されているから
なにかい、卑弥呼は後円部の円墳だけで前方部は計算に入れず、一方、卑弥呼の王族クラスは前方部も後円部も全部計算するだと?
都合よすぎるチャンチャコでんなあ。 殉葬者百人の痕跡を見つけられないのに
卑弥呼の墓だと言い張るのが畿内説 >>701
なんでそんなもの見つける必要があるの? >>659
前方部と後方部合わせてそういう形の墓なの。
円墳ではないということ。
倭人伝の径百歩と合わせようと、無理に円墳形だと強調するのは間違い。 >>704
という事は卑弥呼の墓の記述の部分は創作なのかもしれない
径百歩も創作だったんじゃないのかな? 大化の改新のときも殉葬禁止令が出てるので畿内に殉葬の風習があったとして問題無さそうではある
九州には殉葬の習慣は無かったかも >>672
>殉葬者百人という記述が創作だったという事だろう…
というより記事の内容は、伝聞ということだろうな。
張政は卑弥呼に会ってないし、ずっと伊都国にいたようだからなあ。
倭人の役人が、ホラ吹いたのとちゃうか。 >>710
そんなもんだと思う
伝聞、
ホラ話
ますます径百歩の信憑性が薄れてきた >>709
殉葬禁止令が出るくらいなら何度も殉葬は行われてたんだろう
という事は、殉葬の痕跡も色々な古墳から出てきてるんじゃないのかな?
箸墓にはそれが無い
っとw >>703
どこに埋めたか書いてないじゃないか
探せるわけがない なんで徇葬してないのに百餘人徇葬したと伝えなきゃならんの >>712
東と書かれてるのに南だと言い張って魏志倭人伝の記述を無視する畿内説
殉葬者百人の記述を無視する畿内説
冬でもはだしを無視する畿内説
冬でも生野菜を無視する畿内説
鉄の鏃を無視する畿内説
チェリーピッカーって畿内説の事だね 日本の研究では殉葬墓は確認されていないのだが
九州説は九州の特殊な墓にだけ殉葬があった(はず)と主張している
九州の一部民族では現代も殉葬というか、ポアという風習が存在する >>714
>>709のように後代でも殉葬が続いてたのだろうから
殉葬の作法は知られてるんじゃないか?
だとしたらそれに従って探せばいいんじゃないの?
>>715
中国では殉葬してるから、日本でもやってたと思って創作したんじゃないか? 中国では儒教の普及とともに殉葬は消滅し、俑が副葬されるようになった 九州は朝鮮半島に近いので、古来日本列島に拡がらない半島由来の墓制や
首狩の風習、頭蓋骨変形人製造などの特殊な風習が見られる 日本は骨が残りにくい土壌だから仕方ない
九州説は揺るがない >>724
無視してないと言いたいなら自らが弁明しなさい 九州説にとっては、殺人と屠殺(畜)が同じ感覚なのかもしれない >>725
テンプレに書いてないのはハダシと生野菜くらいだから
特に説明いらんのでないの? >>728
自分でテンプレのどこに書かれてるか書けばいいんでないの?
それが弁明じゃないの?w 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の在日韓国人考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>730
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>730
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだね、、、 >>729
よまないのはバカの勝手だからどうでもいい 九州説はちょっと手痛い反撃うけるとコレだからな
ゴミらしくていいけど >>738
弁明しないのなら、畿内説は魏志倭人伝を無視してるという認識がそのままという事だよ >>671
>ただの縁起物
なぜ縁起物だと認識されたのかってこと
魏との交流は倭国からでも、一大イベントで楽しかったんだよ
好物(よきもの)をいっぱい貰えたし 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国人の宣伝係員に作製させたスレッドのテンプレートが、ゴキブリが叩きつぶすされるようにして、叩きつぶされてしまった、、、 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>740
アホか
無視したって証拠を要求されて
出せなかったから
アホ九州説の言い分が消えるんだよ >>745
無視してないなら無視してない説明をすればいいんじゃないか? >>669
>卑弥呼が死んで墓があったよという
>よくある紀行文だろ
>中国人の記述なのだから誇張されてるのはよくあることだ
例えば成人男子が10人もいれば1週間くらいで作れるようなしょぼい墓だったら、
倭人は王の墓でもしょぼい墓しか作らないって書かれるよww
大作冢径百餘歩とはっきり書かれているのに、ウソだぁ誇張だぁと泣きわめく九州説 >>747
殉葬者百人とはっきり書かれてるんだろ? まさに>>740が九州バカの気が狂ってる証拠だと思うけどね >>654
>どこで産出した銅なんだ?
いろんなところの銅製品をブレンドして作ることになるから、
微量成分の分布が広くバラバラに散るようになるんだよ >>747
10人で1週間で作れるような墓じゃなかったんだろ 証拠証拠といえば、論破した気分に成っとるんだろな。
その割に、畿内の証拠にお目にかかった試し無し。
「これが証拠だ」というのが証拠のつもり。そりゃ証言というんだけどな。 >>679
>チェリーピッキングで塚であること
お前は塚・冢をなんだと思っているんだ?ww
説文解字の時点で
冢
高墳也
っていきなり書いてあるのにww
古墳のように高く盛り土した高墳こそ、冢そのものなんだよ >>753
>証拠証拠といえば、論破した気分に成っとるんだろな。
実際なるんだよ
証拠が出せないお前は、論破された
>その割に、畿内の証拠にお目にかかった試し無し。
という証拠は? >>755
そんなことする必要があるのって理由は? >>758
なにが?
日本語の不自由な奴がまた出た >>759
殉葬者百人とはっきり書かれてるんだろ? >>760
卑弥呼の墓の事だよ
知らなかったのか? >>715
方形周溝墓(家族墓)では、次々に一つの墓域に埋葬を追加していくから、
それが殉葬だと誤認されたかもしれない
また、卑弥呼より古い時代には吉野ヶ里の甕棺墓列のように、庶民墓が
墓域に集団埋葬され、それが北墳丘墓への墓道のように認識されれば、
これも殉葬だと誤認されうる
大陸に殉葬の文化があり、それを前提に倭国の葬送文化を見たときに、
殉葬だと誤認されることはあると思う 427>>742
「南→東」の嘘つき詐欺師の大和説脳になると、
非論理的思考しかできなくなるようだ >>766
そんなことする理由は?
九州説は論理的な発言が出来ないんだな >>751
>10人で1週間で作れるような墓じゃなかったんだろ
そう思うよ
平原1号墓のような、径十歩にも満たない、成人男子10人いれば1週間で
作れるようなしょぼい墓は卑弥呼の墓ではないってことだ
殉葬もないしねw >>758
>前方後円墳とは限らないんだよ
前方後円墳とは限らないというのは、形式論理としては正しいが、
>>756は「古墳はすべて塚ではない」というバカへの返答だからw
そして、形式論理以上の考古学的視点まで含めて考えれば、北部九州も含めて
卑弥呼の死んだ248年(?)頃の3世紀半ばには、古墳時代に入っているし
古墳時代の前方後円墳体制では各地の首長墓、盟主墳は前方後円墳または前方後方墳となる
卑弥呼の墓は、3世紀の倭国の首長層の墓制を考えれば、前方後円墳と考えるのが妥当、となる 427>>748
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
ヌスット猛々しいな。
始めからら有効数字1桁程度の近似的計測値を元にした事がはっきりしている一寸千里の法を、
100%絶対断定した空想だ、と曲解して、
計測値と100%断定値との違いをでっち上げて、
近似的計測値の方を抹殺するこの大和説男の類スレ主は、
やっている事が、悪質な詐欺師そのものなんだよ。 >>768
殉葬者百人とはっきり書かれてるんだろ? 427>>753
罵って
ウソ嘘つき詐欺をごまかす
大和説 工事途中の前方後円墳の周溝と休憩中に堤で昼寝してるおじさんたちを見て
殉葬者百人だと思った可能性はある >>772
だから、書かれていたら何なの?
人間とは会話の出来ないひと? 427>>777
「南→東」などの嘘つき詐欺の、明確な論拠もなく、
何となく流れで自己説得してしまってるアホが大和説論者だから、
説明できないのは仕方ないか 殉葬とはあるけれど
それが生き埋めとは書いてないんだよな >>772
ねぇボク、列車事故で死者100人と書かれていたら事故現場に100人のお墓を見つける必要があるか
よく考えてみようね >>643
>>>639
>バカめ国産鏡は素材も国内で作られたものとわかる
なあ、畿内説は弥生時代の国内の銅山を示してくれないか?
それと、和銅という年号の由来を知っているか? >>778
殉葬だったら他の場所に遺体を運び去ったりしない。 427>>783
「南→東」だという論証が、まるでなされていないのを、
ミラーリングで誤魔化す
こういうのが、人の形をしたカス詐欺師のの大和説の典型的な詭弁ww 中国の殷墟の殉葬例を見ても
生き埋めというより首が切断された遺体が見つかっている
もしかしたら首を捧げるのが殉葬だったのかも
中国の古代儀式では人の生首をよく使ったらしいし
道歩くときに魔よけに生首ぶら下げて歩いたり
饅頭の成り立ちも人身御供の生首の代わりだったし >>779
>>750を参照
「いろんなところの銅製品をブレンドして作ることになるから、
微量成分の分布が広くバラバラに散るようになるんだよ」
これで仿世鏡だと判断できる >>783
特殊器台の用途が生首置き場だったら怖いな
それだと特殊器台が円筒埴輪に替えられた理由にもなるけれど >>779
国産鏡は銀・アンチモン比が中国鏡のそれと比べて多く広範囲に広がる
すなわち国産鏡の成分は中国の恐らく古い色んな銅を溶かして混合した物を使って作られたとわかるのさ >>786
たぶん特殊器台には特殊壺を設置したんだろう
ただ特殊壺は最初から底に穴が開けられてるらしい
どうやって使ったのかが本当に不明
しかしそうなればもしかしたら円筒埴輪にずらっと首を並べてたのかも >>788
幻聴を聴きながら死んでいく九州説の愚者 >>788
幻聴が聞こえるのは統合失調症の症状だぞ >>786
>特殊器台の用途が生首置き場だったら怖いな
なるほど!この可能性はあるね! 427>>790
>可也山から三雲遺跡群まで5キロ程度だと分かる<
東松浦半島東岸部から「可也山〜三雲」は20〜25km。
そんなに離れていちゃ、可也山は、
始めからランドマークになっていなかった。 427>>793
>まだ半影の物理現象が理解できないのかよ
3寸が測定誤差なら1寸なんて信用できる数値では無くなるわけだが・・<
類スレ主はまだ分からんアホであるみたいだなあ。
8尺棒の幅が2寸であれば、
その8尺棒のどこから影長を計測したのか?が書かれていなければ、
それだけで影長に2寸の差異や誤差が発生するし、
それが冬至では太陽入射角が小さくなるから、2寸の二倍以上の差異や誤差が発生してしまう、
と言ってんだよ。 427>>797
>君は「≒」だけでなく「おそらく」「ほぼ」「大体」「筈」「ようであり」を使うのが大好きだよねー
短歩はcmでしか表記されたことが無い、現代の発明品w
世間の皆さまは、よくご存じだぞw<
キミは、
自然や歴史においては「不可知部分が殆どである」といういう事が判らず、
「絶対断定」論を使う人間や大和説者は、宗教や詐欺に狂ったアホ詐欺師である、
という事も判らない・・・・らしいね。
という事も判らない >>794
追い詰められて、自分たちのダメなところを見つけられて
それでもなを、破綻の九州説 >>783
>もしかしたら首を捧げるのが殉葬だったのかも
北部九州の甕棺時代には頭部がない人骨や
体部と頭部を別々の甕に埋葬した人骨が見つかっている
甕棺造墓集団は弥生末期にはど没落している 427>>808
>位置も浙江省あたりの東に書いてる事実
そして倭人が会稽東冶の東にいるって文献情報<
魏志は、「会稽東治之東」であり、「会稽東冶の東」ではないから、
類スレ主は×であり、
後代学者の「後漢書の会稽東冶」を踏襲した地図も×である事になり、
それを根拠にした類スレ主も、×人間。 427>>814
>そして倭人が会稽東冶の東にいるって文献情報がある事実<
魏志は「会稽東治之東」であり、
後漢書は「自己解釈に拠る書き換え」をした半分×書であるから、
後漢書の記載を踏襲した後代の地図学者や、類スレ主ら大和説者らは、
×人間。 427>>819
>>扶桑国と日本国が別国という認識はあるし、扶桑国は日本よりも北側の国だ<
いや、梁書の認識は、「扶桑國と倭國」とは別国だ、という認識であり、
扶桑國伝は、「名國王爲乙祁」として「顯宗と仁賢と」の実名を紹介しているから、
大和の事であり、
「扶桑國者、齋永元元年、其國有沙門慧深來至荊州。
説云扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中國之東」
の「在大漢國東二萬餘里」は、「在中國東二萬餘里」の紹介失敗だ。 >>795
>8尺棒の幅が2寸であれば、
ザラコクや
お前がバカなのはみんな知ってるから、そんなに一生懸命バカをさらさなくても大丈夫だって!
ザラコクに抽象思考が難しいのは分かっているがあえて書く(というかザラコク以外の人向けだが)
思考実験で、幅が十分に広い板とその影を考えてみてごらん?
それでも板の先端(幅広)が作る影には、本影と半影領域があるのは理解できるかな?
これは板の先端を通る太陽の光が、太陽の視直径の分だけ傾きの幅を持つことに起因するものだ
つまり影の側から見て、太陽の上端の光が作る影の先端が本影の端で、太陽の下端の光が作る影の先端が半影に端となる
棒の太さが無限大でも=棒の太さが太かろうが細かろうが、半影の幅は決まった一つの値に決まるんだよ
棒が太ければ半影が広くなるとかバカすぎ
測定条件 表の影の長さ
夏至 冬至
A 本影(影は最短)S1 15.04寸 129.2寸
B 半影(影は中間)S2 15.42寸 130.6寸
C 半影(影は最長)S3 15.80寸 132.0寸 これが半影の最遠端
『周髀算経』 16寸 135寸 比べれば3寸の差があるよな?
半影の最遠端で測っても冬至の影の長さは、周髀算経の記述より「3寸も短い」!
つまり、周髀算経は冬至の影の長さすら計っていないただの机上の計算の書であり、しかもその計算の根拠が、蓋天説という間違ったモデル
そして一寸千里は、
蓋天説の天と地との間の距離「8万里」と影を計る棒の長さ「8尺」との比であり、夏至の太陽の影でなくても、冬至でも春分でも、洛陽でも上海でも北京でも、机上の計算では千里離れると影の長さは1寸の差になる
一寸千里は、現実の地理とはまったく関係のない値だよ 427>>828
>>具体的に会稽陶冶って今の中国のどこ? 北緯何度?<
>北緯26度<
「会稽東冶」ではなく「会稽東治之東」だから、
北緯31〜33度位になり、九州島付近にピッタリになり、
北緯26度説は、×。 427>>835
>逆に言えば、それなりの地図すらない場所は、方角も距離もでたらめということ
それなのに、九州説は方角も距離も正確、正しく旅程をたどれば
邪馬台国の場所は正しく分かるとか言うから、バカだって言ってるんだよ<
古代中国晋人らは、一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測を知っており、
当然東西南北もほぼ間違えず、
また邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
この大和説者や類スレ主らは、×ね。 帯方郡から女王国まで1万2千里なんだから、
中国大陸に置き換えてみると、洛陽から「会稽東治」までが1万2千里になる。
ゆえに、「会稽東冶」の福州は× >>806
>「会稽東冶」ではなく「会稽東治之東」だから、
>北緯31〜33度位になり
どうしてそんなウソつくの?
九州説は何故ウソつくの? >>808
>帯方郡から女王国まで1万2千里なんだから、
>中国大陸に置き換えてみると、洛陽から「会稽東治」までが1万2千里になる。
どうしてそんなウソつくの?
九州説は何故ウソつくの? 427>>850
「南→東」ダァの「長里」ダァの「邪馬台国」ダァで、
位置がわかると言う大和説が、
今…お亡くなりになりました。 427>>856
>会稽は、会稽山の位置で示せば、この地図の杭州の州の字のあたりになる
九州なんてかすりもしないだろ <
ほらまた、類スレ主のインチキ詐欺が始まった。
「会稽東治」は、当然会稽山ではなく、
会稽の東方の「治」域であり、上海付近から江蘇省の海岸地域になり、
それから「之東」は、九州島付近を指し示している事になる。 427>>86お
いつも、「南→東」などの嘘つき詐欺をする。
大和説者の弁舌は、その程度。 427>>869
「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説のレベルって、本当に低いな
主観や、文部省や学会教育界や右翼マスコミが言ったというだけで、
「とにかくボクちゃんは認めないぞ」と連呼するのを反論だと思ってる節がある 痛いところをつかれて畿内説が暴れ回っている
致命傷だったようだ 427>>872
皇国史観宗教に狂って、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺の大和説は、
万事それ 427>>876
>その範囲では、地理情報は二点間の直線方向、直線距離になってる<
当然、魏使らは、二点間の直線方向なんて、見えなくっちゃ判らないし、
距離も道なりに計測しなくっちゃ判らない。
>道のりというのはあたらないし、出発方向が書いてあるというのはない <
絶対的直線距離だ、というのも当たらないし、
「出発説明+途中説明+到着説明」の順に記録して行くしかない。 >>813
>会稽の東方の「治」域であり、上海付近から江蘇省の海岸地域になり、
後漢〜三国の頃には、会稽郡は銭唐江、銭唐湾より南にしかないよww
江蘇省は会稽ではないww 427>>888
>東松浦半島や、海上から見えていた可也山のそばに三雲遺跡群=伊都国があるのが、
壱岐から渡ってきた人には明確に分かるってことだ
可也山のふもとから写真撮影ポイントまで5.3キロ
平原遺跡まで5.1キロ、番上地区まで6.5キロだ
可也山から写真撮影ポイントまでの距離と、平原遺跡までの距離はほぼ同じだぞw
明確に伊都国の範囲だろ?w<
三雲が可也山の5km位も南にあるんなら、
東松浦半島東岸部からは、20km余り離れた可也山は、
三雲のランドマークにはならないし、
伊都国も全く見えていない、という事だ。 427>>896
「前方後円墳」が「冢」であるって理由は?
ないだろ
根拠なし
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説が、
無理無駄にゴネてるだけ 427>>900
>>同時代の魏使らに拠る実地の見聞計測記録に拠った倭人伝の中の、<
>実地見聞計測記録だとか、全く根拠なし ご託宣しても無駄 <
「余」の有無での書き分けの存在や、それが出来るのが魏使らしかいない事。 427>>915
>会稽郡治が紹興市、東冶県が福州市なのははっきりしてるんだよ
会稽東冶五県というときには建安、侯官、漢興、南平、建平で、この内「侯官県」が
直接的な東冶県の場所<
陳寿の「女王國の位置説明」は「会稽東治之東」であったんだから、
東冶県は、始めから、×。 427>>927
>>箸墓みたいに大きいものは「墳」さ。「冢」はもっと小さいもの<
>冢とは高墳である
つまり冢は墳の一種 <
説文解字は「冢、大墳也」とは書いていない。
「冢≠墳」であり、「冢は墳の中に含まれるもの」であり、
「冢は、高く見える墳だ」と言っており、
「冢は、尖り錐体状に高さを感じる墳だ」と言っている事になる。
>しかも冢は墳墓の中でも大きいもの <
「大きいもの」というのは、嘘つき詐欺。
「高く見えるもの」。
>だから、「山のように大きいのは墳とされる」というのはウソ <
孔明の遺言は墳を山に例え、遺族も孔明の冢を棺を容るるに足りる程度の小さいモノにしたから、
三国時代の中国人は、墳とは「山のような大きなもの」という認識であった。 427>>948
>スペースに余裕がある地図でも
倭が福建の真東に書かれてますね
スペースの都合で位置が南なのではないわけだ <
唐代以後の地図学者は、
「魏志を自己解釈に拠る書き換え」を実行した半分×書の後漢書を踏襲するアホが多く、
知的退化をした地図が多いから、そんな地図は、証拠にならない。 427>>951
>>同時代の孔明の遺言で「冢は棺がようやく入る大きさで、山を墳に見立てる」といってるんだから。<
>言っていない
「冢は棺がようやく入る大きさにしろ、山を墳に見立てて代用しろ」
と薄葬を命じる遺言している
つまり本来なら冢は大きいもの、墳は土盛りをするのが常識ということだ <
インチキウソ騙し。
孔明は、「薄葬」とも「代用」なんても言っていない。
山を墳に見立てているし、
冢を「棺を容るるに足る程度」にするように、という遺言をしているだけ。 427>>952
>北東が東南と書かれていたら、90度間違っていることになる <
「東南」は、末盧國の出発時点での出発方向の説明であり、間違っていないし、
そもそも、末盧國から伊都國は、見えていないから、
「北東」なんても記載出来る筈もない。 とっくに論破され済みの話を振りかざしたって
だーれも聞く耳持たない 427>>953
>福建省の真東に倭国があり<
後漢書の「自己解釈に拠る書き換え」のミス。
魏志は、「会稽東治之東」。
>その下に琉球がある 倭国の上には日本国がある
これほど大雑把なのに真東がどうのこうのとか議論する意味があるの?<
「真東」なんて、陳寿は言っていない、
端に「之東」であるから、「ほぼ東」程度。 427>>954
>銅鏡百枚ほか、重量物も含めた大荷物を輸送するには船が一番エネルギー効率がよい
呼子で上陸して陸送する理由がほぼゼロなんだよ <
魏使らの案内人の倭船の倭人も、人類の常識の「安全最短の原則」に拠って、
呼子上陸の可能性もある。
但し、「渡海千余里」の誤差が少し大きくなるだけ。 427>>959
>言い訳じゃなくて、お前が論理的に間違ってることを指摘してるんだが
理解できないか?
日本と蝦夷の位置関係だけが間違っているという状況を認めないなら
百済も新羅も南に書いてないとおかしいことになるんだぞ<
混一図そのものが、始めから半分×書の後漢書などを根拠にしているから、
信頼性の低い半分×地図であり、
論拠にならない。 >>712
バカちゃう。
径百歩、殉葬百人、いずれも百でそろい過ぎてるよ。
邪馬台国の役人のホラ話を、魏使は真に受けたということじゃね。 >>831
ザラコクは唐津湾辺りに上陸って言ってたのにww
>呼子上陸の可能性もある。
畿内説に反論するためなら自説の言い分も適当に曲げる男!
それがザラコクww
バカすぎw 韓国政府に雇用されている、邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人が、優れたザラコク氏に論破されてしまったので、悪口を言い放ったな。。。
835日本@名無史さん2019/02/23(土) 21:26:37.56
>>831
ザラコクは唐津湾辺りに上陸って言ってたのにww
>呼子上陸の可能性もある。
畿内説に反論するためなら自説の言い分も適当に曲げる男!
それがザラコクww
バカすぎw >>836
韓国政府に雇用されている、邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人の3寸男が焦っているのではないのかな、、、 427>>987
>少なくとも箸墓は円墳部が140mと判明してるから
どちらかというとこっちに軍配が上がるな <
不定形の「径」は、原則は「長径」だから、
前方後円墳の「径」は、前方部〜後円部の最長径になるので、
箸墓は、×。 長さが3寸しかないので、焦っている可能性も、あるのではないのかな、、、 427>>989
>まさに会稽東冶之東と書かれているときに、
北東や南東まで東に入るというのはインチキ読みだよww <
陳寿が書いたのは「会稽東治之東」だから、
類スレ主の捏造が、「×。 427>>999
>陳寿は倭国が台湾に近いくらい南だと思って書いてるし
読んだ人もみんなそう思うということだ
つまり方位も里数も間違ってるという証明だね <
陳寿は女王國が会稽東治の東だと思って書いてるし、
読んだ人もみんなそう思うということだ
つまり方位も里数も間違っていないという証明だね >>795
>>まだ半影の物理現象が理解できないのかよ
>8尺棒の幅が2寸であれば、
2寸がどこから出た数字なのか不明だけど、幅方向は影長に影響しないw
お菓子の箱ででも縦・横に置き換えて実験してみなよwすぐ出来るだろw
>その8尺棒のどこから影長を計測したのか?が書かれていなければ、
>それだけで影長に2寸の差異や誤差が発生するし、
2寸の差異や誤差が発生したら、1寸なんて数値は信用できないだろw
>それが冬至では太陽入射角が小さくなるから、2寸の二倍以上の差異や誤差が発生してしまう、 と言ってんだよ。
2寸の二倍以上の差異や誤差が発生したら、とても使いものにならないだろw、と言ってんだよw >>797
>キミは、
>自然や歴史においては「不可知部分が殆どである」といういう事が判らず、
キミだけ「不可知」の定義が世間一般と違うようだねー
>「絶対断定」論を使う人間や大和説者は、宗教や詐欺に狂ったアホ詐欺師である、
このスレに「ダメだ」を連発してるのが一人いるよねー 韓国政府に雇用されている、邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人は、ダメだ。。。 >>845
>韓国政府に雇用されている、邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人は、ダメだ。。。
連続句読点のことかな?www 畿内説は恥知らずの倭人伝盗用をいますぐやめるべきだ 428>>180
>5世紀に范曄の編集した後漢書の原本
原後漢書の成立は実は魏の時代ではないか
だから冒頭に後漢の時代に存在しなかったはずの邪馬台国の文言が出てくる
范曄は原文に書き足す時は
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)のように
注釈として入れている<
また変な大和説者。
「案今名邪摩惟音之訛也」は、唐の李賢に拠る「後漢書への注」の筈。 >>838
>不定形の「径」は、原則は「長径」だから、
なんの権限もない素人のおじいさんが
そんなことを決めて命令しても
誰も従う義務はないんだよ >>842
とっくに滅んでる九州説に言われてもなあ >>813
>「会稽東治」は、当然会稽山ではなく、
>会稽の東方の「治」域であり、上海付近から江蘇省の海岸地域になり、
上海は会稽の北だよ
会稽以外だよ
そして「治」域なんて
中国人の知らない変な言葉は発明しちゃ
ダメだよ >>847
盗用という言い回しがスデにあちらさんの国そのもの 会稽東「治」なんて地名は存在してなかった
現在でも確かめられるのは会稽東「冶」
その東側が台湾や沖縄辺り 428>>186
>後漢書原テキストが魏の時代に成立なら
魏略、魏志倭人伝→5世紀後漢書という今まで言われてきた順に成立したのではなく
原後漢書→魏略、魏志倭人伝という順も考えられる
つまり三世紀の魏志倭人伝に邪馬台国は
やっぱり邪馬臺國と書かれていたのであり九州説は滅亡 <
存在確認も出来ないような、「原後漢書」というものの存在を仮定するんなら、
どんな事でも造作出来る、一種の詐欺であり、
若しもそんな原後漢書があったとしても、その原後漢書に、
魏志に書かれ明帝への遣使や壹與や張政などの記録が存在できる筈もなく、
だから、この大和説男の造作は、×。 >>187
>後漢書にも魏略にも魏志倭人伝にも
女王国の位置は会稽東治(冶)の東
現在の地図で見れば沖縄や台湾の辺りと書かれている<
魏略には当然陳寿の地の文である「会稽東治之東」は書かれていない筈だし、
後漢書の「会稽東冶の東」は、後代の「自己解釈での書き換え」文言であるから、
この男の「沖縄台湾」説は、×。 >>854
現在でも見られる後漢書に邪馬台国は出てきてもトヨや張政の記述はなし
これはつまり後漢書原本はその頃の魏時代に成立した事を強く示唆する 5世紀范曄編の後漢書→三世紀魏で成立の後漢書→原テキストの1世紀後漢と倭奴国の朝貢記録と
こういうわけだな >>827
>冢を「棺を容るるに足る程度」にするように、という遺言をしているだけ。
だから
>同時代の孔明の遺言で「冢は棺がようやく入る大きさで、山を墳に見立てる」といってるんだから。
と言っていたのは
真っ赤なウソだよね 韓国政府に雇用されている、邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人は、ダメだ。。。 >>860
>韓国政府に雇用されている、邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人は、ダメだ。。。
つまり、連続句読点はダメだってことだな?www Q三角縁神獣鏡百枚を超えるのはなぜか
A魏との交流は複数回ある
これってスゴイ解答だと思う
魏との交流が複数回あるのだから南は南と認めてよいと思うのだが >>863
記年銘鏡の年号から最低4回は来てることになるな 428>>189
>弥生時代にはわからないな
魏の人たちがどうやって、東シナ海のはるか向こうの正確な位置を認識できたのかを
証明しない限り、 あんたはただの遠吠え馬鹿だ<
魏使らは、複数回来て、
「余」を使っての有効数字1桁程度の近似値の見聞や、
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測などで、計測しているし、
陳寿も、その計測値に拠って、
「計其道里、當在會稽東之東」という推定計算をしている。 428>>193
>会稽東治(冶)の東は現在で見ると福建省福州の東辺りで 台湾や沖縄辺りだ
そこに邪馬台国はあると魏志倭人伝は書いている <
陳寿は、女王國の位置を「計其道里、當在會稽東治之東」と推定して、
九州島付近にほぼピッタリであり、
だから、類スレ主は、・・・・詐欺師。 428>>196
類スレ主は、
性懲りもなく、インチキ詐欺を貼り続ける
後漢書の邪馬臺國は、大倭王の居地だ、と何度言われても、
直さないし反論すらしない
大和説にはダメ人間しかいない 428>>198
>東にあった邪馬台国を
陳寿が政治的理由で南と書いたんだよ<
陳寿には政治的理由なんてない。
単に魏使らの記録から、
「計其道里、當在會稽東治之東」という女王國の位置推定を書いただけ。 428>>201
>邪馬台国が国境から1万2千里で
会稽東治(冶)の東にある事になっていたのは<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
陳寿は、「会稽東治之東」と女王國の位置推定をかいたのであり、
「東冶」と書いたのではない。
>恐らく魏の学者や臣従達による政治的な決定<
西晋代に既に下野していた陳寿は、
「魏の学者や臣従達による政治的な決定」などには関係なく、
従う必要は全くない。 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩
「大きな冢を作った」と解釈した場合
大きさを表現するなら箸墓の墳丘長278mを採用しただろうに
なぜ円部だけ表現したのか?
それは、後円部だけが墓であるからだ 428>>205
>わかるわけないというかそこが邪馬台国じゃないのは明らか
けれど魏志倭人伝には邪馬台国、女王国の位置は
会稽東治(冶)の東で沖縄か台湾の辺りとある<
魏志倭人伝の陳寿は、
女王國の位置を「会稽東治之東」として、九州島付近を推定したとして事になるから、
この大和説男の「沖縄台湾」論は、×。 428>>209
>後漢書原テキストの内容の方が魏志倭人伝より古い可能性があるよ
後漢の倭の伝承を魏がまとめたものだろう だから漢と倭奴国の交流記録が残っている
中国で史書というのは魏志がそうであるように
前王朝の記録を後代の王朝がまとめるものだそうだから
後漢書原テキストもそうやって成立したとも考えられる
すまり今まで魏志倭人伝のオリジナルと思われていた
海に潜ってアワビ取るとか南国を思わせる倭国の描写は
もしかしたら漢の時代の伊都国辺りの伝聞情報をそのまま記載しているのかも知れない <
魏志には、魏の明帝への遣使や、魏使の梯儁や張政の来倭記録があるから、
倭人伝の殆どは、魏代の記録を元にして書かれた事になるので、
それを後漢代記録だとしたこの大和説男は、やはり・・・・詐欺師の×人間。 428>>212
>魏志倭人伝には邪馬台国、女王国の位置は
会稽東治(冶)の東で沖縄か台湾の辺りとある<
「会稽東治之東」であるから、九州島付近を推定しているにで、
沖縄台湾は、×。 428>>213
証明のできる現実世界では、明らかに,
「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説が、
政治思想で歴史を歪ませてるけどね 428>>216
>東観漢記見たいなあ
もしかしたら魏志倭人伝と同じことが書いてあるかも知れない <
東観漢記に、
魏代の「今使譯所通三十國」や、
魏の明帝への遣使や、
魏からの梯儁や張政らの遣使の記載などがなど、
ある訳がない。 428>>220
>この発想がすでに頭が悪い
魏代より前からの伝承で、倭は百越の流れと想定されていて、百越の故地の沖合に
いるものと思われていたんだよ それが会稽東冶之東だ
それと、淮南子の萬二千里の彼方という数値を合わせて考える(計其道里)と
まさに会稽東冶之東になる(當在会稽東冶之東)、というのが陳寿の認識なんだよ <
魏使らは、一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測で記録し、
陳寿も一寸千里などで会稽東治の位置計算をして、
女王國の「計其道里、當在會稽東治之東」というの位置を推定し、
九州島付近だ、と分かっていた。 >>878
私の助け舟 喜んでくれてありがとう
しかし前方後円墳は前部と後部一対で墓です 428>>212
>魏志倭人伝には邪馬台国、女王国の位置は
会稽東治(冶)の東で沖縄か台湾の辺りとある<
その場合、五畿大和は八丈島になる。おかしくないか、おかしくなけりゃ邪馬台国は沖縄台湾で良し。 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。
辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。
また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 >>882
畿内が八丈島にあるなんて魏志倭人伝に書いてねーぞ >>884
邪馬台国が沖縄台湾なら、五機大和は、当然八丈島になる。
いやか、いやなら沖縄台湾説をおろせ。 >>885
沖縄台湾は魏志倭人伝にそう書いてあるだろ?
邪馬台国の道のりを計算すると会稽東治(冶)の東に当たるって
会稽東治(冶)の東は地図で見ると沖縄台湾の辺り 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、
その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 >>868
地図上で見れば会稽東治(冶)の東は九州通り過ぎたはるか南になるよ 石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡
の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。
また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。
さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、
在地の人々による積極的な関与があったと考察される。 @阿波 >>884
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
邪馬台国が沖縄・台湾ならこれらの圀は海中に沈むか小笠原諸島になる >>870
陳寿に政治的理由はあったよ
当時の皇帝の先祖の功績を祭り上げるという
なので邪馬台国の位置をはるか南の彼方
恐らくは後漢で倭奴国があるとされていた倭の極南界
国境より南1万2千里の会稽東治(冶)の東に邪馬台国を当てはめ記述した >>890
実際に沖縄台湾は邪馬台国じゃないのは明らかなので
その東にあるという国々も海に沈まなくて済む >>871
会稽東治という地名は存在した事はなく
会稽東冶はあった
後漢書でも女王国の位置は会稽東冶乃東
魏志倭人伝の会稽東治は12世紀の誤記 >>871
西晋時代の皇帝の先祖は
帯方を支配していた公孫氏を攻め滅ぼし
そのお陰で魏は倭に朝貢に来させる事が可能になった
皇帝の先祖を祭り上げるために
陳寿は邪馬台国を魏の学者や臣従が後漢の伝承をなぞって
国境より南1万2千里の世界の最果てに置いたように
それを踏襲して邪馬台国ははるか南に離れ後漢にも朝貢した
由緒正しい国ですよとして記述した >>874
後漢書の原テキストの成立も魏の時代だろたぶん
5世紀范曄の後漢書が原テキストをそのまま書き写してるとすれば
後漢には存在してなかった邪馬台国が出てくるから >>899
それじゃ九州の倭種は沖縄台湾人という事になるぞ >>901
お言葉を返すようですが、九州人は倭人です。
徐福伝説もあるように、もともと沖縄台湾とは浅からぬ縁あり、とくに否定はせぬ。 どうやら五機大和の倭種は、八丈島流民で決定らしいな、、、 上の方のカキコにあったが、
倭人とは、漢人系の渡来人のことであり、、
倭種というのは、新羅系の渡来人種族のことだそうだ。 >>896
>国境より南1万2千里の世界の最果てに置いたように
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
は?万?里なんだよ >>906
オッ、オマイさんも難しい病を患っているのか、お互い大変だよなあ・・・ 相変わらず、九州説は論理的思考ができないんだなww
萬二千里で会稽東冶之東と書いたのは陳寿であって、そこに実際に倭国があった訳ではない
つまり陳寿が書いたことは、現実でも真実でもない、と畿内説は主張しているのに、
「だったら畿内は八丈島だな」とか、自ら「バカで〜す」と披瀝せずにいられないのは
どういう病理なんだろうww >>887
サヌカイトや黒曜石の産地を“文化発信地”とは言わんね。
石棒の発祥が阿波だというのなら別だがな〜。
石棒自体は、縄文前期から出土例がある。
東日本が中心で、西日本ではごく少ないそうだ。
そのごく少ない西日本の産地が縄文晩期〜弥生前期の三谷遺跡というわけ。
ただ、近くには蔵本遺跡などがあり、このあたりが各種貴重財の生産地の一つであることは事実だがな。
まあ、阿波が西日本各地への文化発信の中心地であったとするのは、誇大妄想以外のなにもんでもないな〜。 >>911
>萬二千里で会稽東冶之東と書いたのは陳寿であって、そこに実際に倭国があった訳ではない
だから、そもそもそう言ってるだろう。
女王国は沖縄台湾にあったというが、
陳寿はその倭国の位置を会稽東治之東と表現したのであって、
倭国(及び女王国)が、今の倭国の位置にあったことは古代も現代も変わりはないのだからな。 >>890
この情報は、九州筑後山門にあった実際の邪馬台国の東方に関連する情報だよ。
渡海千余里は、瀬戸内海を指している。
で、倭種の国とは、纏向に祭祀所と墓域を設けた連合政権のことなんだよな〜。
つまり、大和は邪馬台国ではない、ということ。
ザンネ〜ンね。 魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置が実際のものでない以上
書いてある距離方位や位置情報で場所を割り出そうとするのは無意味
そして考古物で見ると邪馬台国は畿内で決まり >>911
いまだにそんな認識なのか
だから畿内説は馬鹿にされるんだよ >>916
考古物で畿内になる根拠がない
それってただの大和政権じゃないか? >>912
そもそも、阿波をどの地域圏に入れるかとしたら、南河内、南淡路、紀伊、徳島、香川の地域圏だろう
まあ、環南部大阪湾地域圏とでもいえる。
瀬戸内圏とは言いがたいし、播磨摂津北部大阪湾圏ではないし、とにかくはずれだな。 それで、どこの基地外なんだ?
精神科というのがあるから、そこに行け >>907
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
>は?万?里なんだよ
相変わらず、ア・タ・マ悪いなww
中華(漢土)の端から、世界の端まで萬二千里だ
それが東西南北それぞれにあるから、世界全体は3万6千里四方になる
萬二千里からまだまだいくらでも行く場所はある
だが、この領域は基本的に華人にとって人跡未踏の世界だから
伝説や観念の世界であって、その実在を問うのは無意味だ >>918
卑弥呼の時代三世紀頃の前方後円墳
各史書の倭人伝に卑弥呼が魏に使いを出したと記述のある年
西暦でいえば239年、景初三年の魏年号が記銘された三角縁神獣鏡の存在など 老婆にも言えることなんだけど、
もともとの頭の出来が違うんだろうw
と言っているんだよ
なぜ詳しい、詳しかったんだと思う? >>922
前方後円墳が邪馬台国の根拠になるのはどんな理屈? >>917
>だから畿内説は馬鹿にされるんだよ
バカにされてるのは九州説だよww
>いまだにそんな認識なのか
で?
九州説の認識を具体的に書いて見せてよwwwww >>922
>景初三年の魏年号が記銘された三角縁神獣鏡の存在
その神獣鏡が出土した古墳の被葬者が直接魏からもらったという証拠はないけど、
それが何の根拠になるの? あの写真・・・『葱の華』など、何かの家だったのかな?
『松傾』
こういう名前の家 >>924
卑弥呼の墓は径百歩と伝えられる大規模なもの
また三世紀の畿内ではすでに集権的な権力が確立されていた事も示す
その頃の九州古墳にこのクラスは存在しない 老婆と言っているけど、その写真などの家の嫁だからw
詳しいんだろうけど
当時、住んでいた家というのがあるんだけど、
本や書なんかが沢山、ずらーっと並んでいたとか
老婆には、よくわからない本だと言っていたしw >>918
>考古物で畿内になる根拠がない
>それってただの大和政権じゃないか?
ただの大和政権だが、畿内様式土器と前方後円墳(纒向型を含む)の分布から
当時の「倭国の領域全体を覆う秩序」の中心が大和にあることが分かる
もちろん首長同士の連合だから、支配ー被支配の関係ではないし、
面として列島を埋めているわけではないが、北部九州や宮崎西都原も参画している秩序だ
その大和政権の外には、倭王が存在する余地がまったくない
つまり倭王は大和政権の範囲内に求めるしかなく、その中心であり盟主なのは大和の首長となる
そこが倭女王の都するところ=邪馬台国なのは、明白なんだよ
要するに、ただの大和政権なんだが、それが大陸中華の聞き書き音訳だと
「邪馬台国」という表記になることが魏志倭人伝によって分かる、というだけなんだよ
簡単だろ?ww 石棒の祭祀はミシャグジ様と関わりがあるかもしれない
伝承によると建御名方の神が諏訪にやってきて土着の洩矢神を下したのだという
洩矢神の末裔とされるのか諏訪大社の祭祀を担当した守矢氏であり、この守矢氏が祀っていたのがミシャグジ様
このミシャグジ信仰のご神体とされているモノや依代とされているモノと同じと思われる物が縄文時代の遺跡からも出土している
ミシャグジ信仰は縄文時代から存続していることが推測される
建御名方神と洩矢神の戦いの話は、出雲弥生系と縄文系の二つの人たちが葛藤の末に融合した歴史を表していたのかもしれない
この両者共存の古代からの聖地が諏訪でありサナギという銅鐸そっくりの祭器が今でも残っている
記紀に収録されなかった太古の神々がいたのは確実であり、銅鐸はそういう神々の祭祀に用いられたのかもしれない >>928
>魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置が実際のものでない以上
>書いてある距離方位や位置情報で場所を割り出そうとするのは無意味
という理屈で魏志倭人伝の記述は信用ならないと書いてるのに
径百歩の部分は都合よく信用するの? >>930
秩序の中心と
共立された王の所在が同じである必要は無いんだよ >>931
どちらとも断定できないのなら神獣鏡があるかどうかは何の意味もなさないという事になる どのスレだったかな
あの写真を貼り付けたとき、
それ宮様の写真じゃないの?というレスがあったり >>936
けど魏が卑弥呼に鏡をあげた年の魏年号が入ってる鏡が見つかったなら
その地域は魏と関わりがあった可能性を否定できないね 冬でも裸足
冬でも生野菜
入れ墨しまくり
それらを全肯定したうえで畿内だと言い張るのなら筋は通るけどな
都合のいい部分だけをチェリーピッキングするから畿内説は支持されないんだよ >>940
その数百枚の鏡を何のために使ったかだよな
自分で隠し持ってたのか
それとも周辺国にばらまいたのか
後者なら、神獣鏡があるという事は邪馬台国の隷下にあったという事だ >>941
肯定してないと決めつける理由はなんだ?
理由もなく中傷するのが九州説か >>933
>という理屈で魏志倭人伝の記述は信用ならないと書いてるのに
>径百歩の部分は都合よく信用するの?
位置情報と墓の大きさの情報の、信頼度を同一視して0、1、
all or nothingの論法にしてしまうのはただの思考放棄だろ
土地の位置情報は測量法もないし、古い伝承から来る思い込みが下敷きにある
実際の地理と合わないのは現代の地図情報と照らし合わせて間違っているのは確定
それに対し、墓の大きさは実見情報だし、百歩というのは身体尺で近似計測できるから
見積もりも容易だし、現実に径百歩と見なせる巨大墳丘墓が存在している
この二つを同列に論じようという時点で、チェリーピッキングだよww >>939
三世紀に魏と邪馬台国が交流を持った頃
大和と呼ばれる地域に大きな勢力があって
魏の年号が入った鏡が見つかって径百歩に相当する古墳があって
これはたまたまかな >>943
冬でも裸足で生活してたの?
奈良で?www >>944
冬でも裸足とか生野菜とか記述されてるのは
会稽陶冶の東という位置情報をもとに創作してると考えるべきだろ
そうなると
位置情報だけではなくその他の部分も創作されてると考えるべきだよ >>942
そうだよ
三角縁神獣鏡は畿内を中心としてその周辺からよく発見されるよ >>935
>秩序の中心と
>共立された王の所在が同じである必要は無いんだよ
古代社会で、王の所在地以外の場所に秩序の中心を置く理由があったらおしえてくれww
現代でも無理やりに作った人工首都は、オーストラリアのキャンベラにしても、ブラジルの
ブラジリアにしても、国家の中心にはなっていないぞww >>912
>石棒の発祥が阿波だというのなら別だがな〜。
ハハハ、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、縄文時代に円形配石遺構で祭祀に使っていたかもね。 @阿波
>そのごく少ない西日本の産地が縄文晩期〜弥生前期の三谷遺跡というわけ。
>ただ、近くには蔵本遺跡などがあり、このあたりが各種貴重財の生産地の一つであることは事実だがな。
まあ、阿波が西日本各地への文化発信の中心地であったとするのは、間違いないな〜。 わははは @阿波 >>949
邪馬台国から畿内に下賜して
畿内から周辺に配られたんだね
わかりました >>933
>書いてある距離方位や位置情報で場所を割り出そうとするのは無意味
という理屈で魏志倭人伝の記述は信用ならないと書いてるのに
径百歩の部分は都合よく信用するの?
「都合よく」って、アタマおかしいのか?
測る難易度を考えろ
数字と現物の合い具合を見ろ
行程は信じない
百余歩は信じる
自然で妥当であたりまえな結論だ
だから現実を見ろって言ってるんだよ >>950
共立された王が治める倭国連合だからだよ
それぞれの小国家にも王は存在するのでそれぞれが秩序の中心となる
連合国家の代表となる国が一番栄えている必然性が皆無なんだよ >>946
じゃあ何を履いてたというんだ?
毛皮のブーツでも履いてたと? 福岡で冬に生野菜なんて無理
普通に寒いし裸足なんて凍えて死ぬよ >>919
>そもそも、阿波をどの地域圏に入れるかとしたら、南河内、南淡路、紀伊、徳島、香川の地域圏だろう
そもそも、それ全部、倭国(阿波)を発った「忌部はん」 たちの進出開拓地だわね。 わははは。 @阿波 画一的で頭の硬直した畿内説論者との議論はしばしば話が通じない
その元凶は論破されたテンプレにある
邪馬台国が知りたければまずテンプレを捨てよ >>952
違うな
魏から邪馬台国に下賜されてその周りに配ったんだよ
魏志倭人伝にはそう書いてある >>930
>当時の「倭国の領域全体を覆う秩序」の中心が大和にあることが分かる
ハハハハハ、碌な遺跡も無いのに? @阿波 >>945
>大和と呼ばれる地域に大きな勢力があって
ハハハハ、碌な遺跡も無いのに? @阿波 >>948
>福岡寒いよ
>裸足なんて無理
奈良盆地も寒くて裸足なんて無理。 @阿波 >>965
全長100m200mの前方後円墳は碌な遺跡ではないのか >>952
倭国(阿波)から畿内に下賜して
倭国(阿波)から周辺に配られたんだね。 @阿波 古代人の履物ってあったのかな
弥生時代の想像図で草鞋とか履いてるの見たこと無い >>967
>全長100m200mの前方後円墳は碌な遺跡ではないのか
たかだか、臣下の「忌部はん」 のお墓だよ。 奈良は「忌部はん」の墓地に過ぎん。 @阿波 >>971
じゃ忌部はんとやらはそんな大したことないのか 中国の図だと倭人は裸足で書かれてたな
後漢書や何かからの想像図かも知れないけれど >>972
>じゃ忌部はんとやらはそんな大したことないのか
大したことが無いのは、奈良盆地だよ。 わははは。 @阿波 >>953
でも中国の使者は邪馬台国まで行ってないんだろ?
倭国人からの伝聞なんだろ? >>967
霊園だったんだろ
辺境だったという証拠じゃないか? >>974
奈良盆地が大した事ないならそこに居たらしい忌部はんも大した事ないってことじゃないか >>977
忌部も奈良もたいしたことないだろ
ド田舎の辺境だから人が少ないので
イオンやコストコみたいな大規模店舗と同じように
大きな規模の墓を作った >>976
>>978
あの規模の古墳は当時作るのに10年20年かかっただろう
当然多くの労働力が必要で人がたくさん集まって大きな集落も結成されただろう
そう魏志倭人伝にあるような7万戸ぐらいの >>973
つーか、韓人や楽浪人がいちばん見かける倭人が
船乗りや漁師なんだよ >>959
テンプレは九州説連敗の黒歴史そのものだからな
憎くて憎くて、もうしょうがないんだろ >>979
そんなに時間がかかるなら卑弥呼の墓じゃないだろう
魏志倭人伝では
正始8年には卑弥呼が死んで墓もできてることになってる >>977
>奈良盆地が大した事ないならそこに居たらしい忌部はんも大した事ないってことじゃないか
いくら優秀な「忌部はん」 でも、そう一朝一夕とはいかんわね。 古墳時代は、古墳づくりで精一杯ってとこ。 @阿波 >>982
大規模な古墳は被葬者が死ぬ前から作られるんだよ >>983
忌部はんは優秀なのか大した事ないのかはっきりさせな 韓人や楽浪人、どの国でも同じ、
先祖というの?もともとは、どこかの馬の骨(例え)
くるくるぱーには何を言っても、
わからないんだろうけど >>985
>忌部はんは優秀なのか大した事ないのかはっきりさせな
優秀な「忌部はん」 は、あんな奈良盆地に住みたくなかったんだよ。 ごめんね。 @阿波 魏志〜というのも同じ、
そもそも〜・・・・・辿ると馬の骨でしょ 忌部はんは全長100m200mの大した事ない古墳しか作れないなんて
じゃ大した事なかったんだな それよりも・・・・・・
西王母など〜
神仙界のほうが重要になってくる >>989
>忌部はんは全長100m200mの大した事ない古墳しか作れないなんて
うん、その程度だ。 ワハハは。 @阿波 なんだ忌部はんも大した事ないなあ
そんな大した事ない連中のいた阿波が邪馬台国なわけないね 反論できなくて悪口だけって
そりゃ九州説さんミジメだね 『ふたりを 永遠に導いて』
なぜか西王母に捧げられた曲みたいでしょ、
気づいている人は気づいている
芸能関係=どこか、何かの工作員かなんじゃないのか?
みたいな事を言ってる人たちがいたり このスレッドは1000を超えました。
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