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邪馬台国畿内説 Part428
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0001◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:21:51.48
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1550396897/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:25:58.41
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:26:48.50
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:28:46.99
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:29:19.33
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:30:11.37
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:30:33.15
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:30:51.78
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:31:29.71
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:31:46.94
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:33:51.14
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012>>1悪い タイムリーな点pyレ
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2019/02/19(火) 19:38:04.68
タイムりなー話題を載せてくれないか

前スレ
978日本@名無史さん2019/02/19(火) 18:28:19.91>>983
>>977
13世紀もその認識?
テンプレの地図は13世紀に描かれたと書いてないか?




遣隋使や遣唐使がこの地図みたらどう思うだろうか?
また、13世紀以前にに来た中国や朝鮮の方がこの地図見たらどう7思うだろうか?
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:38:21.22
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:38:42.82
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:39:48.62
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0016>>1悪い タイムリーな議論ヨロシク
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2019/02/19(火) 19:40:01.65
ごめん
名前不鮮明だった


タイムりなー話題を載せてくれないか

前スレ
978日本@名無史さん2019/02/19(火) 18:28:19.91>>983
>>977
13世紀もその認識?
テンプレの地図は13世紀に描かれたと書いてないか?




遣隋使や遣唐使がこの地図みたらどう思うだろうか?
また、13世紀以前にに来た中国や朝鮮の方がこの地図見たらどう思うだろうか?
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:41:23.42
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:42:14.21
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:49:36.41
0020日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:49:58.47
0021日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 19:50:11.83
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:50:21.42
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0023日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:50:48.62
0024日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:51:02.49
0025日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:52:12.88
0026日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:52:26.19
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:52:35.11
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:53:30.31
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:53:54.18
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0030◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:54:17.07
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0031日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:56:19.08
0032日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:56:46.47
0033日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 19:57:27.63
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 19:57:31.79
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0035日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 19:58:05.22
0036日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 19:58:28.86
0037日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:01:56.57
0038日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:03:08.48
0039日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:03:34.23
前スレ
978日本@名無史さん2019/02/19(火) 18:28:19.91>>983
>>977
13世紀もその認識?
テンプレの地図は13世紀に描かれたと書いてないか?




遣隋使や遣唐使がこの地図みたらどう思うだろうか?
また、13世紀以前にに来た中国や朝鮮の方がこの地図見たらどう思うだろうか?
0040日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:03:51.23
0041日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:03:55.37
前スレ
978日本@名無史さん2019/02/19(火) 18:28:19.91>>983
>>977
13世紀もその認識?
テンプレの地図は13世紀に描かれたと書いてないか?




遣隋使や遣唐使がこの地図みたらどう思うだろうか?
また、13世紀以前にに来た中国や朝鮮の方がこの地図見たらどう思うだろうか?
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:04:00.12
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:04:36.74
0044日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:05:11.70
0045日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:06:15.72
0046◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:07:44.56
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:07:56.36
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:08:17.22
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:08:57.45
0050◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:09:10.72
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:09:22.42
纏向の掘立柱建物は崇神天皇や垂仁天皇や景行天皇が關係した建物か
いまの考古学者はその線を探っているよ
桜井市は別だけど
0052日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:09:26.51
0053日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:09:38.68
纏向の掘立柱建物は崇神天皇や垂仁天皇や景行天皇が關係した建物か
いまの考古学者はその線を探っているよ
桜井市は別だけど
0054日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:09:59.33
纏向の掘立柱建物は崇神天皇や垂仁天皇や景行天皇が關係した建物か
いまの考古学者はその線を探っているよ
桜井市は別だけど
0055日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:10:19.06
0056◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:10:30.80
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:11:01.90
0058◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:11:25.41
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:11:35.21
0060日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:13:15.33
>>41

だと思います
13世紀の日本の地図を見たら、遣隋使や遣唐使もびっくりすると思います
0061日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:14:40.02
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
0062日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:15:24.64
0063日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:16:09.32
0064日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:17:27.57
0065◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:18:08.82
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0066日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:18:19.65
0067◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:18:22.13
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0068スレ主さんへ 誤字 漢字弱い?
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2019/02/19(火) 20:19:06.58
文献を引用するのも良いですが

元となる文献に誤字があるのかとも思う

いま一度 引用文献を精査した方が良いです

漢字が弱い???
0069日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:19:10.87
0070◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:20:00.73
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0071日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:20:56.80
同意  あの地図は倭国じゃねーな

60日本@名無史さん2019/02/19(火) 20:13:15.33
>>41

だと思います
13世紀の日本の地図を見たら、遣隋使や遣唐使もびっくりすると思います
0072◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:21:45.44
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0073◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:21:56.76
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0074日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:22:11.66
0075◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:22:17.99
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0076日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:22:36.20
0077◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:22:36.17
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0078◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:22:56.26
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0079日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:22:58.50
0080◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:23:14.38
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:23:27.90
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:23:47.08
0083◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:24:52.54
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0084日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:26:30.67
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:26:50.11
0086日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:27:33.01
老婆とは言っているけど
『松傾』(オジギソウ、シダ類の写真)〜家の嫁・・・

葱の華、キュウリのような葉の写っている写真も
『松傾』の家の・・・子供の頃の
0087日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:28:10.44
奥山氏が、焦っているな、、、
0088日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:29:03.18
0089◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:29:09.98
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0090◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:29:21.75
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0091日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:29:46.53
よくわからないけど、
その当時の話、謎の凄い刀を持っていた、飾ってあったという話でしょ?
後の〜『サイバーパンクSPECIAL』?

住んでいるところも川崎区の南部のほうだしな・・・、
0092日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:30:53.44
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0093◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:31:35.95
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0094◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:31:46.03
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0095日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:32:17.88
これも以前から書いている事なんだけど、
神社〜〜〜?誰が住んでいるんだ?
0096◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:32:45.95
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0097◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:32:57.35
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0098◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:33:15.07
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0099日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:34:11.06
100
0100日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:34:23.38
これも以前から書いている事なんだけど、
神社〜〜〜?誰が住んでいるんだ?
0101日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:34:31.49
100
0102◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:35:36.57
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0103日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:35:51.00
0104日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:36:20.40
0105◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:36:26.00
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0106◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:36:35.88
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0107日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:36:44.31
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:37:46.89
ミク尊などの話

気づいている人は気づいているんだよ、
本来なら〜芸能界、歌手でもなんでも良いけどw
になり・・・みたいな事を言いたいんだろう


本当に、何かの家の人なんだけど・・・一般人(いまは?)だとか
0109◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:38:15.49
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:38:18.69
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:39:40.70
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0112◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:40:18.58
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0113日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:40:52.58
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0114◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:42:49.41
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0115◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:44:19.62
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0116日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:44:43.95
韓国人が、このスレッドを作製しているのでは、ないのかな、、、
0117◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:45:10.44
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0118日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:45:20.34
0119日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:46:12.12
0120日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:46:30.69
120
0121日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:48:18.69
奥山氏が、焦っているな、、、
0122日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:50:39.95
0123◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:51:01.83
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0124日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:51:10.87
ミク尊などの話

気づいている人は気づいているんだよ、
本来なら〜芸能界、歌手でもなんでも良いけどw
になり・・・みたいな事を言いたいんだろう
0125◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:51:57.14
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0126◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:52:47.31
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0127◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:52:57.36
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0128日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:53:17.69
義熙十二年〔416〕、以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王一。
 倭王に先だって、百済王の余映を「鎮東将軍」とした。
0129日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:53:21.09
0130日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:53:54.52
0131◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:54:35.51
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0132日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:54:39.65
邪馬台国畿内説は、破綻しました。。。
0133日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:55:03.18
0134日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:55:47.27
義熙十二年〔416〕、以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王一。
 倭王に先だって、百済王の余映を「鎮東将軍」とした。
0135日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:56:12.22
0136◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 20:56:44.19
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0137◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:56:55.98
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0138◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:57:15.15
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0139日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 20:57:18.17
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0140◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:57:39.75
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0141◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 20:58:01.12
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0142日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 21:00:39.04
0143日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 21:01:25.56
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0144日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 21:02:47.75
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0145◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 21:02:55.07
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:03:40.30
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:03:45.27
スレッド427で、503一時障害エラーが出た。
なんか臭うよな。
スレッドが427から428へ代わったら、427へのアクセス障害がなくなった。
管理者が、不利な状況をみているようなフシが…。

わははははは。
0148◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 21:03:48.12
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:04:09.38
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0150◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/19(火) 21:04:09.20
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0151◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 21:05:12.16
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0152◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/19(火) 21:06:11.52
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:09:17.36
>>147
訂正

3行目の「427へのアクセス障害がなくなった」→「428へのアクセス障害は発生しない」が正しい。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:19:54.28
ヒロユキ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:25:10.39
>>152=>>1
誤字ぐらい(追加・変更)訂正したらいいよ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:29:24.64
ヒロユキ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:35:11.87
>>158=>>1
名無しでも良いですが
テンプレに自信があれば名無しで無くても良いと思います
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:38:37.65
>>158=>>1
名無しでも良いですが
テンプレに自信があれば名無しで無くても良いと思います
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:40:28.36
歴史の捏造はダメだろう
倭国大乱以降起きたことを受け入れないと同じことを繰り返す
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:43:23.05
いくら論破されて悔しいからって荒らしはダメだよ
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:44:43.30
「 宋書夷蛮倭国伝」
・・・・現在では?もありますが当時としては良いと思います
和訳があるから  これ半角にして読んでください
http://himiko−y.com/scrp1/wano5ou.html 

畿内説ではうっとおしいかもしれませんが
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:45:49.78
しかし九州説もそんなに書き込むの嫌々ならやめたらいいのに
どっかから指示でも出てるのか
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:49:16.91
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:49:44.34
>>169さん
あなたね いえ何も ご自由に
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:53:40.97
スレは進めど頭は進まず畿内説は停止したままだがや
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:05:26.05
>>172
畿内説のスレだからテンプレに従い
畿内説を深堀りをすればOK
九州説のカキコミを相手にしない方が良いのでは
怒ってるの?5ちゃんだから仕方無いしそれも承知の上でしょ。
有名な研究者や学者がこのスレに来てないよ
冷静な人もいれば、喜怒哀楽の激しい人もいるこれが5ちゃん
人世いろいろ
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:06:19.12
邪馬台国、初期のヤマト政権は【牛】と【石】の政権
卑弥呼亡き後、牛の王が立つも内乱で石に主導権が移ったんだろう

牛鬼伝説
牛玉紙を取り合うなどの裸祭り
もその辺りにモチーフがありそうだ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:08:24.15
遣唐使が十三世紀の地図見たらナンヤカヤとしつこく書いてたアホ
ありゃ信長がコーエーのゲームやったら的なif話か?
かなりくだらないな
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:09:34.58
>>175
そんなに反論こわいのか?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:10:08.38
>箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり

比桃@(Bǐ miē hòu)、比売后〈Bǐ mài hòu〉

●「ヒメ(姫)后」

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 


高天原にある日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
奴婢(土蜘蛛)とともに埋葬されている。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:10:59.81
さて九州説は放っといて後漢書の研究でも進めるか

5世紀に范曄の編集した後漢書の原本
原後漢書の成立は実は魏の時代ではないか
だから冒頭に後漢の時代に存在しなかったはずの邪馬台国の文言が出てくる

范曄は原文に書き足す時は
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)のように
注釈として入れている

なので現在言われているように5世紀の范曄編集の後漢書は
范曄が魏志倭人伝を参考に邪馬台国と書き足したわけではなく
魏の時代に成立の原テキストをかなり忠実に書き写してあるのではないか
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:11:25.31
>>168
「 宋書夷蛮倭国伝」は畿内説にとってウザイ存在だな
部分的に他説もしかりだがな
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:14:34.55
>>177
そういうコンセプトだと思う、
謎の大戦(不明)などがあったでしょ?

誰々や某が参戦していれば、指揮官だったらな〜とか
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:16:20.84
>>175
>畿内説のスレだからテンプレに従い
>畿内説を深堀りをすればOK

テンプレは妄想で自己完結しているからね。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:16:47.45
71日本@名無史さん2019/02/19(火) 20:20:56.80
同意  あの地図は倭国じゃねーな

60日本@名無史さん2019/02/19(火) 20:13:15.33
>>41
だと思います
13世紀の日本の地図を見たら、遣隋使や遣唐使もびっくりすると思います



面白いカキコミだが テンプレの途中はやめとけ
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:18:18.38
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:19:00.49
後漢書原テキストが魏の時代に成立なら

魏略、魏志倭人伝→5世紀後漢書という今まで言われてきた順に成立したのではなく
原後漢書→魏略、魏志倭人伝という順も考えられる
つまり三世紀の魏志倭人伝に邪馬台国は
やっぱり邪馬臺國と書かれていたのであり九州説は滅亡
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:21:21.38
>>185
後漢書にも魏略にも魏志倭人伝にも
女王国の位置は会稽東治(冶)の東
現在の地図で見れば沖縄や台湾の辺りと書かれている
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:26:35.03
>>187
>現在の地図で見れば

弥生時代にはわからないな

魏の人たちがどうやって、東シナ海のはるか向こうの正確な位置を認識できたのかを
証明しない限り、
あんたはただの遠吠え馬鹿だ
0190>>184
垢版 |
2019/02/19(火) 22:28:36.54
>>41
言いたいことはわかるから御免な
遣隋使や遣唐使も方位を誤認してるわけじゃ無いということだろ
あの13世紀の地図は倭国と関係無いし 日本の領土の認識としては使えないよ
明日香、奈良、平安・・外交はあったし畿内に数多く渡来人が来てるし
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:29:14.97
>>170
だ〜が、交野あたりは、基本が方形周溝墓で、前方後方型もみられるという方形墓の土地。
前方後円墳に発展する祖形はみられんな〜。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:29:42.14
426>>287
>じゃ畿内説に有利<

「南≠東」などに拠って、大和説は×。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:30:01.56
>>189
会稽東治(冶)の東は現在で見ると福建省福州の東辺りで
台湾や沖縄辺りだ
そこに邪馬台国はあると魏志倭人伝は書いている
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:32:21.97
>>191
前方後円墳などという奇形は、倭国の伝統ではないだろう。
方形周溝墓こそ倭王の基本的な墓制。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:35:06.37
>>185
>楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。

性懲りもなく、インチキコピペを貼り続けるww
(の王都)の付け足しが捏造だと何度言われても直さないし反論すらしない

九州説はダメ人間しかいないw
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:35:54.88
質問

会稽東治(冶)の東

陳寿が言ったの?魏の使者が言ったの?
陳寿としたら、ご解釈か、中国から見て東程度じゃねーの(日は東から昇る)
東シナ海って何処までが東なんだ
東シナ海は佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県にも面しているのだろ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:40:12.09
>>193
はっはっは
スレ序盤でもう逃げてるのかw

だから、弥生時代にどうやって
海の遥かかなたで見えない台湾や沖縄が
会稽東治(冶)の東だとわかるのか?

その方法を証明しなければ、
負け犬の遠吠えにすぎない
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:41:08.22
426>>321
このように
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
証拠がきらい
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:41:17.43
>>197
邪馬台国が国境から1万2千里で
会稽東治(冶)の東にある事になっていたのは
恐らく魏の学者や臣従達による政治的な決定
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:43:12.16
結局畿内説なんて夢のまた夢なわけだな

寝技でぜんぶ否定して
否定した上で、
畿内にありましたーと結論だけ連呼

鉄器もないが論理もない
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:44:29.21
>>180
>5世紀に范曄の編集した後漢書の原本

後漢書の倭国伝の多くの部分の「原本」は、魏志倭人伝だよ
ほぼすべての部分で対応が取れる
魏志倭人伝の字数を減らして要約したものが後漢書東夷列伝倭と見てよい

その他は、後漢代の朝貢の記録だけ
後漢書オリジナルの情報は
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
の2行だけ
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:45:30.66
キナイコシ

倭人伝から逃げて後漢書の研究

なむなむ
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:45:44.22
>>199
わかるわけないというかそこが邪馬台国じゃないのは明らか
けれど魏志倭人伝には邪馬台国、女王国の位置は
会稽東治(冶)の東で沖縄か台湾の辺りとある
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:47:21.26
>>205
なに逃げようとしてんの?

弥生時代に、
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

証明できないんだろ?
あーかわいそw
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:48:34.29
>>181
どこか?

具体的にプリーズ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:49:41.94
426>>332
政治思想が介在して嘘吐き騙しの断定をする史学では、大和説
人類の常識や、史料事実の科学的な分析から帰納的確率的推論をする史学では、九州説
これで住み分けるんだよ
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:52:10.07
>>203
後漢書原テキストの内容の方が魏志倭人伝より古い可能性があるよ
後漢の倭の伝承を魏がまとめたものだろう
だから漢と倭奴国の交流記録が残っている

中国で史書というのは魏志がそうであるように
前王朝の記録を後代の王朝がまとめるものだそうだから
後漢書原テキストもそうやって成立したとも考えられる

すまり今まで魏志倭人伝のオリジナルと思われていた
海に潜ってアワビ取るとか南国を思わせる倭国の描写は
もしかしたら漢の時代の伊都国辺りの伝聞情報を
そのまま記載しているのかも知れない
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:52:22.97
>>206
陳寿本人がそう書いてるでしよ
出来たんだよ
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:53:15.24
後漢書は東観漢記が基本になってる
東観ってのは後漢の宮中図書館の事でここで漢記ってのが著作されてた
三国志の時代には史記漢書とあわせて三史と呼ばれて広く知られていたそうな
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:54:43.60
>>206
わかるわけないよ
大体そこが邪馬台国じゃないのは100%明らか
けれど魏志倭人伝には邪馬台国、女王国の位置は
会稽東治(冶)の東で沖縄か台湾の辺りとある

皇帝を奉るために陳寿が恐らく漢からの伝承に合わせた
少なくとも正確なものじゃなく
皇帝を奉るためそう書いたのは確実
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:55:03.77
>>208
証明のできる現実世界では、明らかに九州説が政治思想で歴史を歪ませてるけどね
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:55:19.11
426>>348
>方位は間違いというよりは陳寿が邪馬台国を
会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾辺りに想定したのでそういう記述になった<

「南→東」が×と同じく、
「会稽東治→会稽東冶」も、×。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:55:43.45
>>210
逃げてるねえ

弥生時代に、
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

できないわけだ

だったら、会稽東治(冶)の東なんてのは、だいたい東方ということになり、
九州で問題ない。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:57:13.81
>>211
東観漢記見たいなあ
もしかしたら魏志倭人伝と同じことが書いてあるかも知れない
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:57:28.07
>>212
弥生時代に、
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

それを証明できないんだろ?

だったら、
弥生時代に会稽東治(冶)の東と言えば、
だいたい日本列島なんて全部入ることになる

悔しい?w
議論できずにわざとすっとぼけるしかなくて
悔しい?w

こっちは楽しいけどwww
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:58:37.14
426>>349
>この条件で考えられるのは「九州の地域性を無視して独自の文化を急激に広めて塗りつぶしていく畿内」が邪馬台国であると言う事が自明になる <

「畿内」も「邪馬台国」も存在しない嘘つき騙しの文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、大和説は×。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:04:18.90
>>189他の頭の悪い書き込みは「呼子上陸バカ」クンかなw

>魏の人たちがどうやって、東シナ海のはるか向こうの正確な位置を認識できたのかを

この発想がすでに頭が悪い
魏代より前からの伝承で、倭は百越の流れと想定されていて、百越の故地の沖合に
いるものと思われていたんだよ

それが会稽東冶之東だ

それと、淮南子の萬二千里の彼方という数値を合わせて考える(計其道里)と
まさに会稽東冶之東になる(當在会稽東冶之東)、というのが陳寿の認識なんだよ

正確な地図があるとかないとか、ポイントも要点もつかめていない無能以外は
気にもしないところだというのにww
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:06:02.43
九州説宮崎バカもザラコクと同じく壊れたテープレコーダーになったか
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:07:52.00
>>220
このスレで書き込むのはこれが初めてだぞ
勝手に勘違いするな
だから畿内説は馬鹿にされるんだぞ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:11:28.78
コメント内容>>198
>東にあった邪馬台国を、陳寿が政治的理由で南と書いたんだよ、
と政治的に捏造する大和説者。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:11:33.88
>>217
わかるわけないよ
そこに邪馬台国は実際ないのは明らかだし
けど魏志倭人伝にはそう書いてある
つまりわからないのにそう書いたという事だ
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:12:37.27
426>>378
>1里=300歩=1800尺 <

「1歩=6尺」の始皇帝命令を使っているから、魏朝の李ではなく、×。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:17:55.31
426>>382
>末盧国から伊都国が東南ではない、で終了 <

「東南」は、末盧國からの出発方向で正しい、
で終了。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:19:17.08
>>223
だって邪馬台国は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾と書いているだろ
現実的な距離ではない帯方より南に1万2千里とも

1万2千里は淮南子に由来する世界の果てまでの数字
皇帝陛下の徳はそこまで届き
そのはるかな地にある倭国が朝貢にやって参りましたぞ
というのが陳寿の書いている事

実際は後漢からの伝承
倭の極南界にある倭奴国があるとされた位置で
陳寿はそれに則して邪馬台国をそこに持っていった可能性があるけど
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:20:11.07
>>224
畿内説というのは
ほんとうに惨めだなあ

弥生時代に
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

これを証明できないということは、

弥生時代に
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であるとまで正確には
わからなかった

だから会稽東治(冶)の東が九州で全然問題ない、
ということになる
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:21:45.44
>>227
さすが 詐欺師!

邪馬台国は会稽東治(冶)の東
とは書いてあるが、

沖縄や台湾とは書いていない

会稽東治(冶)の東が沖縄や台湾と主張したいのなら、

弥生時代に
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

これを証明しなければならない
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:22:36.36
弥生時代に
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

これを証明できないキナイコシの
いつもの詐欺行為をお楽しみください
0231陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:22:42.06
>>175
自分もそう思います。
九州説との議論に意味があるとか、何がしかの有益なことがあればいいのですが、実際には何もない。

畿内説同士で議論の深掘りをした方がいいと思います。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:25:29.73
>>224
ダメダメ。
その道里を計れば、と書いてあるでしょ。
有明海から舟で南下して20日、薩摩からさらに10日南下したあと、上陸してさらに一ヶ月陸行くするその道のりを計算すると、
ちょうど会稽から東冶までの範囲の東の海上に邪馬台国があることになるよ〜ん、と陳寿が書いたのだね。
どう? 楽しい?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:26:41.29
相変わらず九州説は目茶苦茶なロジックだな
魏志倭人伝の陳寿の推測は現実と照らして間違いなので陳寿が信頼した位置情報もまた間違っていたというのが素直な解釈
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:27:11.62
426>>402
>だから投馬国と邪馬台国は可五萬餘戸、可七萬餘戸という書き方になっている
投馬国・出雲国は四隅突出墓の文化圏
邪馬台国・ヤマト国は畿内第V様式土器を使う範囲と
いう考古学的な実体のある領域を示すことができる<

「南≠東」などに拠って、×。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:28:17.88
>>234
>会稽東治(冶)の東

行程表と全然関係ない一文だなあ
それにしがみつく惨めなキナイコシの姿


弥生時代に
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
どうやって知ることができるの?

返事がまだだなあ
よう、詐欺師さん?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:28:32.19
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:28:35.11
>>230
だから多分わからなかったって
会稽東治(冶)の東現在の地図で見れば沖縄や台湾だけど
けど魏志倭人伝はそこに邪馬台国があると書いてある
言うなれば指してる場所は適当

そうなると魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国の場所を示していないから
それで考古物で見れば邪馬台国は畿内となるわけさ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:30:58.91
426>>406
>結局魏志倭人伝の方角は間違っていると言うことにしかならない <

人類の常識として、魏使らや倭人も東西南北の方向を間違えないから、×。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:32:07.67
>>238
おいおい

会稽東治(冶)の東ってのは、
行程表と全く関係ない場所の一文だよな?

しかも会稽東治(冶)の東を弥生時代に精密に調べる方法は
わからないときてる
つまりだいたい東、九州で問題ないわけだ

その会稽東治(冶)の東を持ち出して、
>魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国の場所を示していないから

行程表を全部否定するってのは、

詐 欺 師
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:33:23.26
>そうなると魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国の場所を示していないから
>それで考古物で見れば邪馬台国は畿内となるわけさ

これが詐欺師キナイコシのレベル
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:34:02.59
>>232
けれどそこは邪馬台国じゃない事は明らかだよな?
つまり魏志倭人伝の距離方位はアテにならない
考古物で見れば邪馬台国は畿内
このやり取りそろそろ飽きたんだけれども
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:34:37.51
>>230
>弥生時代に
>会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
>どうやって知ることができるの?

バカの見本を見つけたよ
あんただが

会稽東治(冶)の東だと三国時代の人が書いている
会稽東治(冶)の東は沖縄か台湾だと現代人の我々は知っている
だから
会稽東治(冶)の東、つまり沖縄か台湾のあたりだと
現代人の我々は同じ現代人に解説する
弥生時代は関係ない
この説明法に、なんの不備もないな
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:35:49.93
>>242
つまり、正しいと言えるレベルだ

なんの問題もない
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:39:54.86
>>243
>けれどそこは邪馬台国じゃない事は明らかだよな?

会稽東治(冶)の東を弥生時代に精密に調べる方法は
わからないときてる
つまりだいたい東、九州で問題ないわけだ

>つまり魏志倭人伝の距離方位はアテにならない

会稽東治(冶)の東 の一文と
距離方位など行程表は、まったく別の記載項目であるから、
会稽東治(冶)の東の正確性と
行程表の正確性とは相関しない

考古学でみれば、
鉄器が集落に北部九州レベルで普及していない畿内は邪馬台国ではない
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:41:00.73
九州説さんの言う「詐欺だ詐欺だ」には証拠がないんだよ
カジノで負けた文無しが腹いせの悔し紛れに
「イカサマだぁぁ」と叫ぶのと同じだ
死刑囚の絶叫そのものなんだよ
実は、わかってるんだろ?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:41:05.41
>>240
行程とは多少関係あるよ
不彌国の次に南に計30日水行とか陸行1月とか書かれてるから
つまり陳寿は邪馬台国を倭国の極南界
現在で見たら沖縄や台湾辺りになる
会稽東治(冶)の東と記しているわけだ

そこが邪馬台国ではないのは明らかで
そうなると考古物で見ると三世紀に
国内最大の前方後円墳を作れるほど大きな勢力があって
魏の三世紀の年号の入った魏鏡が見つかり交流も見出せる
畿内が邪馬台国だろうという事だ

九州説は考古物を無視するのかな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:41:20.25
>>199
ダメダメ。
「現在の地図で見れば沖縄や台湾の辺りと書かれている」ということ。
現在の地図上でみれば、と但し書きしている。
その但し書きを無いことにして、捏造するのは、謀略宣伝の常套手段。
ダメダメよ。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:42:10.22
>>244
相変わらずバカ詐欺師の見本だな
あんただが

会稽東治(冶)の東だと三国時代の人が書いている
しかし
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと三国時代の人は知りようがない

だから
会稽東治(冶)の東は沖縄か台湾だと現代人の我々が知っている
からといって、
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾のあたりだと
現代人の我々は同じ現代人に解説する ことはできない

弥生時代の話をしているのだからな
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:43:13.14
>>217
>弥生時代に、
>会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾であることを、
>どうやって知ることができるの?

「呼子上陸バカ」クンが快調に飛ばしてるねww

この質問が堂々とできる時点で、頭の出来が分かるってものだ

弥生時代に知ることができたなら、会稽東冶之東には琉球ありと書かれたに決まってるだろ?
なのに現実とは合わない「倭国がまさに会稽東冶之東に在り」って書いてあるんだから、
それが分からなかったことの証明になってるんだよ

簡単な形式論理だけで分かるのにww
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:43:55.18
>>249
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと三国時代の人は知りようがない
のだから、

現在の地図で見れば沖縄や台湾の辺りと書かれていようが、

魏志倭人伝に書かれた会稽東治(冶)の東が
沖縄か台湾だということはできない
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:44:52.21
>>246
>会稽東治(冶)の東の正確性と
>行程表の正確性とは相関しない

当たり前だ
会稽東治(冶)の東の正確性は
机上の理論計算だからね
記事と完全に整合する

行程表の正確性は
それが実地の観察結果なのか
政治的フィクションなのか
さえ判別できない

相関どころか
無関係だ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:45:42.16
>>243
じゃぁ、引っ込んでれば。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:45:56.63
>>251
>弥生時代に知ることができたなら、会稽東冶之東には琉球ありと書かれたに決まってるだろ?

その通りだな
弥生時代に会稽東冶之東を正確に知ることは出来なかった、
つまり琉球だとわからなかったから、
会稽東冶之東が九州でも問題ない
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:46:38.20
>>246
だいたいの東でも九州最南部にもかからないんだけどな
もし九州最南部を指したとしても考古学的に見てそこは他と文化的断絶があり
狗奴国だったというのが定説
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:48:23.78
>>252
おつむ弱いのか?

三国時代の人が会稽東治(冶)の東だと書いた
現代人は会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと知っている

現代人が現代人に説明するのに
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと言って
なんの問題がある?

当然ない
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:48:30.74
会稽東治(冶)の東を弥生時代に精密に調べる方法は
わからないときてる
つまりだいたい東、九州全部で問題ないわけだ

そして会稽東治(冶)の東の記事は
行程表とは別の話で書かれている。

会稽東治(冶)の東うんぬんで
行程表の信頼度にまで話を持って行くのは
明らかな詐欺
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:51:14.99
>>257
>>252
おつむ弱いのか?

三国時代の人が会稽東治(冶)の東だと書いた
だが
三国時代の人は会稽東治(冶)の東が正確にどこかはわからない
だいたい日本の全部をさしているに過ぎない

現代人は会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと知っていても
三国時代の人は知らなかったのだから、

現代人が現代人に邪馬台国論争するのに
会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと言うことはできない
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:52:07.39
>>255
>弥生時代に会稽東冶之東を正確に知ることは出来なかった、

お前・・・知能指数低い人だろ

三国志の筆者も、ここで話ししてる俺たちも
弥生時代の人間じゃないぞ
関係ない
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:53:47.74
>>250
>会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾のあたりだと
>現代人の我々は同じ現代人に解説する ことはできない

「呼子上陸バカ」クン、ますますバカだねww
3世紀の大陸の人にとって、会稽東冶之東の海上に何があるかは分からなくても、
「会稽東冶がどこにあるか」「会稽東冶がどれくらい南にあるのか」は分かってるんだよww

その東に倭国があるという認識は明確な錯誤であり、八尺棒で影の長さを計っていないと
いう証明でもある

つまり、大陸人(陳寿を含む)は倭国の位置を正しく認識しておらず、現実に反して
会稽東冶之東に至る南北に長大な洲島(列島)であると認識していたということ

正しくない認識の下に書かれた旅程をいくらひねくっても、正しい(本来の)位置には
たどり着かないよ

3世紀の邪馬台国の遺物がない九州説は、旅程パズルに走る(短里、島巡り、放射読み)か、
噂程度の根拠(平原1号墓は女王、宇佐八幡の山は古墳)に全賭けするしかないww
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:54:24.41
>>261
きたきた、詐欺師の常套手段

会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法は
わからないときてる
つまりだいたい東、九州全部で問題ないわけだ
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:55:51.32
>>259
>三国時代の人は会稽東治(冶)の東が正確にどこかはわからない
>だいたい日本の全部をさしているに過ぎない

明らかに間違いだね
彼らにはそんなことは判らない

彼らは倭が
会稽東治(冶)の東
だとしか知らない
日本など知らないのだ
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:57:18.32
行程表は各ポイントを逐一辿っている
間違えようもない

会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法は
わからないときてる
つまりだいたい東、九州全部で問題ないわけだ
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:59:33.17
キナイコシはこういう奴だからな

全てにわたって屁理屈を展開し続ける
論点ずらし
重箱の隅つつき

あれ?
そんな国があったよな?

狗邪韓国や投馬国が倭人領だと困る国が
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:00:23.26
結局九州説は魏志倭人伝に間違ってる部分があるという事にはしたくないのさ
魏志倭人伝の解釈だけで邪馬台国はここだって言えなくなるから
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:00:41.78
まあ会稽東治(冶)のだいたい東なら
邪馬台国はだいたい九州と言いたいわけか
けど考古学的には邪馬台国はほぼ畿内だからな
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:01:34.48
>>263
詐欺師はお前だよ

3世紀の人は倭が会稽東治(冶)の東だとしか知らない
つまり「だいたい東、九州全部で問題ない」
などと彼らは考えない
彼らは知らないのだから

そして我々は知っているね
会稽東治(冶)の東が
ぜんぜん九州ではないことを

つまり
「だいたい東、九州全部で問題ない」
と口に出すのは清白か詐欺師だ
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:04:39.71
>>265
>会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法は
>わからないときてる

どうして?
理由は?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:04:47.90
>>267
それ、何か証拠ある?
ただの中傷だよね
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:04:57.37
>>270
詐欺師はお前だよ

3世紀の人は倭が会稽東治(冶)の東だとしか知らない

つまり、倭が会稽東治(冶)の東だと知っているのだから、
だいたい東、九州全部で問題ない
と彼らは考える

会稽東治(冶)の東が正確には沖縄や台湾だと
彼らは知らないのだから

そして我々は知っているね
会稽東治(冶)の東が
ぜんぜん九州ではないことを

だがそれは現代だから知っていることであって、
邪馬台国論争ではまったく関係の無いことだ

つまり
「会稽東治(冶)の東は、だいたい東、九州全部で問題ない」
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:06:04.89
文献的にだいたい九州VS考古学的にほぼ畿内
畿内の勝ちだな
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:07:55.70
>>271
>会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法は
>わからないときてる

詐欺師キナイコシが
会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法
をまったく示すことができずに、

「いつもの」

逆質問で論点すりかえを試みているから
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:10:35.80
>>275
倭のとこは載ってないのか残念
まあ少し目を通して見るかな
漢文は苦手だけど
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:11:44.19
>>265
>会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法は
>わからないときてる

会稽東治(冶)は洛陽からどのくらい南か、3世紀の人は認識してるよな?
正確にかどうかは別としてな
正確かどうかじゃなくて当時の人が何里くらいと認識したかが問題なんだよ

会稽東治(冶)のちょうど東が
洛陽から南北成分で何里くらいか
どうして認識できないと思うんだ?




明らかに、彼らは出来るよな?
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:14:31.11
>>276
>逆質問で論点すりかえを試みているから

という証拠は?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:14:36.85
>>276
>会稽東治(冶)の東を3世紀に精密に調べる方法
>をまったく示すことができずに、

テンプレで具体的に示されてますけど?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:16:24.69
>>276

>>17参照
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:21:22.70
>>273
>だがそれは現代だから知っていることであって、
>邪馬台国論争ではまったく関係の無いことだ

おい
とうとう完全発狂したのか?
邪馬台国論争は現代の論争だぞ

まあ、過去になりつつあるがな
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:21:30.32
>>279
は?

それってどっちも畿内説の主張で正しいし、お互いに矛盾はない
コメントする必要もないし
「コメントできない」
と言う断定も全く根拠がないよ
そして誰も畿内説を論破した形跡はない
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 01:02:02.72
>>284
>そして誰も畿内説を論破した形跡はない

アンカ間違えてる?

>>279は畿内説の立場の>>262(私)の書き込みで、
九州説の>>273が論破されてるってことだよ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 04:41:26.99
>>197
>東シナ海って何処までが東なんだ
東シナ海は佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県にも面しているのだろ

ごもっとも
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 04:54:40.64
>>286
倭人伝読んだことないのか?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 05:41:20.00
>>269
大和が邪馬台国だとする考古学的な物が、ひとつもない。
269は、口先宣言だけ。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 05:47:47.75
ガッツリと議論できる問題が出なくなったな。
邪馬台国は北部九州で確定だな。
わははははは。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:08:53.43
于弥国から投馬国まで水行1日40里、20日で800里
投馬国から邪馬台国まで陸行1日40里、1月(30日)で1200里
合計2000里(邪馬台国の水行は衍字、投馬国の水行が重複)
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:09:10.56
>>288
実体なき言葉
「大和が邪馬台国だとする考古学的な物が、ひとつもない」
って口先宣言そのものだねえ
いやあ皮肉なもんだ
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:10:53.64
纏向を王都と言いだした時点で畿内説はご臨終
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:14:19.71
自爆だな
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:31:42.89
狗邪韓国
  │
対馬国
  │
一大国
  │
 末廬国──不弥国
 │ │\ \
 │ │ 奴国 \
 │ │    伊都国
 │ │
 │ │
 │ │
 │ │
 │ 邪馬台国
 │
 │
 │
 │
 │
 │
 │
投馬国
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:35:57.04
東シナ海は、中国大陸、台湾、南西諸島、九州に囲まれた海洋

支那はどこだろう
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:41:18.05
426>>498
>京都奈良大阪の文化的繋がりある地域の戸数を総計すると
きっちり7万戸ではなくてもそのくらい多く人口が居たとしても不自然ではない<

「南≠東」などに拠って、×。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:48:16.24
>>288
畿内には前方後円墳やら三角縁神獣鏡がガッツリ存在してるんだが
俺が口先で宣言してるわけじゃなくて
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:48:43.19
426>>510
>畿内説はオレ様の説ではなくて学者のほぼ通説<

畿内なんて皇国史観文言は、存在もしない嘘つき騙しだし、
「南≠東」などに拠っても、
「通説学者」が、全員、皇国史観の嘘吐き騙しの詐欺師である事になる。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:51:06.99
>>289
議論出来る話題がなくなったとして
それでどうして九州北部で確定になるんだ?
九州説脳はよくわからんな
もしかしてソントでもやってる積りなのかな
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:57:08.78
426>>512
>そりゃ道里を示せる女王国までの国々はおおよその戸数を示せるがと
魏志倭人伝に書いてあるからな
そして女王国は会稽東治(冶)の東 沖縄か台湾の辺りにあるとも <

「会稽東治」だから×。

>よって魏志倭人伝の距離方位の記述は正確なものじゃな<

ほぼ正確だから、×

>考古物証で見れば邪馬台国は畿内が妥当 <

邪馬台国なんても存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
考古物証でも、弥生銀座や糸島や筑紫平野部や祇園山があるから、
筑紫であり、
大和は、全く×。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:58:57.56
>>298
>畿内には前方後円墳やら三角縁神獣鏡がガッツリ存在してるんだが

それらは倭国(阿波)の産物。 どうすんの?  @阿波
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:02:56.60
426>>515
>(畿内説)前方後円墳とか庄内式土器とかで3世紀頃の文化的繋がりがあるから仕方ないだろ<

京都大阪大和は、いずれも九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国ずつであり、
それぞれ、半独立的。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:20:59.30
>>298
邪馬台国と関係ないじゃん。
関係するという根拠は?
エジプトにはピラミッドがあるけど、邪馬台国とは関係ないよね?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:24:48.80
ヨコからごめん
「会稽東治(冶)の東」だと沖縄あたりが邪馬台国になると主張する人は

倭人伝の方位は〇で距離が✖ということなの?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:30:39.80
>>304
>エジプトにはピラミッドがあるけど、邪馬台国とは関係ないよね?

同じく、九州も邪馬台国と関係ないけどね。  @阿波
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:33:58.44
>>294
末盧国起点の放射読みだと
東南陸行五百里 到伊都國
東南至奴國百里
が同じ方角でより近い奴国が伊都国名前に着かなきゃいけないことになる
めちゃくちゃ不自然だろ?

>>294の図ではごまかしてあるけどさw
今どき放射読みを言い出すってのは情弱もいいとこw
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:35:32.87
>>306
九州は邪馬台国と関係あるよ
問題は邪馬台国が九州にあったかどうかじゃねーの
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:37:44.31
>>305
そうなるな
「会稽東治(冶)の東」は距離論争で倭人伝の方位は肯定しないと
「会稽東治(冶)の東」の議論にならない
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:38:57.70
>>304
>エジプトにはピラミッドがあるけど、邪馬台国とは関係ないよね?

こいつもかなり生粋のバカだなw
ピラミッドが倭国にあったら、その所在地は邪馬台国の候補になるよ
始皇帝陵があっても同様

王の巨大権力の存在を推知させる遺跡の場所は、当然に王都の候補になる

エジプトのピラミッドが関係ないのは、エジプトが倭国じゃないからだw
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:41:40.21
>>305
>倭人伝の方位は〇で距離が✖ということなの?

いや?
倭人伝でも、「大陸の地理・方角」は正しいが、
その「外」はあてにならないって言ってるんだよ
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:45:34.78
>>306

>>308が正しい
北部九州の中心、比恵那珂遺跡群を中心とする奴国は、
邪馬台国を王都とする秩序のもととなった卑弥呼の共立に参画している
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:48:53.58
陳寿は郡から邪馬台国は南にあることは理解していたようだが
距離については長里?を用いた。それが「会稽東治(冶)の東」の記述になったかと思う
いずれにせよ、各説距離は難解だと思う
九州説の短里は謎を解く一手法だろう・・賛同するかどうかは人それぞれだがね
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:52:39.62
帯方郡から狗邪韓国、対馬海峡などの距離の記述を見れば、魏志東夷伝が短里で書かれていることは明白なんだが。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:57:26.16
会稽東冶は陳寿が実際の倭国よりかなり南を想定していたという事がわかる
この想定に基づいて行程が記されたために倭国の位置については間違った記事になってしまった
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:00:29.27
>>312
>邪馬台国を王都とする秩序のもととなった卑弥呼の共立に参画している

そんな根拠のない妄想をいくら言われても・・・・   @阿波
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:04:17.32
誇張されて書かれているので縮めてみましたというなら一つの解釈ではあるけど短里は無いな
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:05:00.23
>>307
済まんね
昨日、放射読みを閃いたものでさ〜
前からある考え方だったとは・・・・・
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:27:42.31
426>>524
>それなら魏志倭人伝の記述通りに邪馬台国沖縄説でも唱えるんだな<

倭人伝は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、沖縄説は、×。

>畿内説は陳寿がデタラメにそう書いたわけではなく
邪馬台国を由緒ある後漢の朝貢国倭奴国の位置の
帯方より南1万2千里、倭の極南界の会稽東治(冶)の東に想定して <

魏志は会稽東冶ではないから、×であるし、
畿内も邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:33:10.07
426>>530
>後の行政区分 五畿七道の 五畿(大和、山城、摂津、河内、和泉)を見ても
三世紀の卑弥呼の時代当時その辺りが一つの纏まりだったとしてもおかしくはない<

当然、九州倭国の「東征毛芯五十五國」の瀬戸内の終点の大阪が地域中心地。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:33:17.95
>>319
>倭人伝は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、沖縄説は、×。

そのヘンテコな読み方は会稽東治之東にならなくなって
辻褄の合わない九州説が崩壊するんだよ
残念だね
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:34:08.32
426>>531
このように
目の前にある現実を無視する妄想
それが大和説
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:34:39.78
>>317
その縮めた縮尺を便宜的に短里と呼んでいるだけだよ。
その縮尺で帯方郡から一万二千里の九州北部が邪馬台国。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:36:06.64
>>314
>帯方郡から狗邪韓国、対馬海峡などの距離の記述を見れば、
>魏志東夷伝が短里で書かれていることは明白なんだが。

三海峡の距離が異なるのに一律で千里とされている時点で、
海峡部の測量をしていないのは明白

計ってもいない単位があると主張する時点で大マヌケ

短里を信じる時点で知的能力が劣るという告白にしかならないよw
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:36:07.27
426>>533
そして,「南→東」などの嘘つき騙しのように、
絶対に証拠を出さない思弁のみの脳内空想
それが大和説
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:36:45.10
帯方郡から狗邪韓国まで七千里
対馬海峡の幅は三千里
では、帯方郡から一万二千里の邪馬台国はどこ?
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:38:01.23
>>324
1日の工程を千里としただけ。
まさか対馬海峡の海上で停泊して夜を明かしたりはしないからね。
測量云々は畿内説の詭弁。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:38:49.17
>>313
>九州説の短里は謎を解く一手法だろう・・賛同するかどうかは人それぞれだがね

いや、解けなくなって九州説を破綻させる躓きの石だよ
好き好んで余計な自己矛盾を抱え込むんだからね
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:41:49.85
426>>543
>記紀によれば畿内を纏めたのは初代天皇神武で
何代か後の卑弥呼は魏志倭人伝によれば
絶えなかった争いの鎮め役だったそうだから朝敵という事はない<

卑弥呼は、筑紫の女王であったから、×。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:44:02.93
426>>544
>だから、陳寿は日本列島を南北に五千里も連なる列島だと認識していたというのと、
投馬国・出雲、邪馬台国・ヤマトというのは整合的なんだよ <

「南≠東」に拠って、出雲とヤマトは×。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:46:30.61
426>>545
>目の前にあるのは7世紀の行政区分 五畿七道の五畿(大和、山城、摂津、河内、和泉)が
一つの纏まりとして扱われているのでその辺りが
三世紀の卑弥呼の時代当時に連合国家
邪馬台国だったとしても不思議ではないという事 <

「南≠東」などに拠って、×。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:50:57.99
426>>546
>>(大和大阪京都)環濠集落ばかりだけど、7万戸まで到達できるかな?<

>福岡平野の数倍の規模っていうのに不審はないからそれで十分だよ<

「南≠東」などに拠って×。

>亀井遺跡と唐古鍵遺跡、池上曽根遺跡のそれぞれで、比恵那珂遺跡群に匹敵するし<

弥生銀座にも全く匹敵しないから、×。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:52:28.91
426>>548
>傍国は遠すぎて分かんねって書いてあるのだから
九州ではなく畿内の女王国の周辺なんでしょうね <

「南≠東」などに拠って、×。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:54:23.81
>>323 名前:日本@名無史さん 2019/02/20(水) 08:34:39.78
>>317
>その縮めた縮尺を便宜的に短里と呼んでいるだけだよ。
>その縮尺で帯方郡から一万二千里の九州北部が邪馬台国。

それでいいんじゃないの。
むか〜し、短理という度量衡の制度があったみたいにがなり立てた人があったようだけど、あれは、今は亡きご老人。
いつまでも亡霊に悩まされては、つまらんわ。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:56:27.12
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連投ですよ
問い合わせID:4abca8446a4dae57
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
426>>551
>邪馬台国・ヤマト七萬餘戸は、畿内第V様式土器を共通に使う範囲
大和+河内〜環大阪湾の範囲だよ<

当然「南≠東」に拠って、×。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:57:02.07
>>334
それが会稽と合わないんだから自己矛盾で九州説死亡よ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:10:45.80
テスト投稿
426>>552
>邪馬台国が九州にあったというのが錯誤だろ <

邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、
女王國が大和にあったというのが「南≠東」などに拠って、錯誤であり、
嘘つき騙し。

(さあ、5chは、通してくれますか?)
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:14:19.96
426>>554
>那珂郡って奴国の2万戸だろ。<

弥生銀座から筑紫平野及びその周辺丘陵部が、邪馬壹國。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:15:26.61
「倭女王卑弥呼考」・・・ 東京帝国大学 白鳥庫吉
>「日本書紀」の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、
>斯る類似は獨り神功皇后と卑彌呼とに限るべからず。
>苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。
>故に余輩は茲に「書紀」が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。
〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕

すでに明治時代において、卑弥呼≒神功皇后は妄想と断じられていたのに、
大正時代の笠井信也、戦後昭和のハルタダイログ、フルタタケヒク、ヤスモツビテンらが、
依然として仲哀天皇・神功皇后伝説の糸・怡土・伊都に縛られたままで論じてきたのは解せぬ。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:19:34.53
426>>559
>何度も書いているように、「陳寿の認識」では倭国は半島の南から、
会稽東冶之東まで南北に長く続く洲島・列島で、
魏志倭人伝の地理記述は帯方郡から離れる方向が(現実の地理とは異なるが)
南と書かれているんだよ<

「会稽東冶」とは書かれていないから、類スレ主は嘘つき騙しの詐欺師であり、×。

>だから、北部九州から離れていく方向の投馬国・出雲、邪馬台国・ヤマトは南と書かれるし
陳寿の認識では投馬国は女王国以北で何も問題がないww <

出雲もヤマトも、「南≠東」などに拠って、×。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:19:46.10
「九州説の信者って」をタイプミスしたら
「九州説脳死んじゃって」になった

PCってすばらしい
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:48:02.79
426>>564
>タンリとか捏造しようが「1万2千里未満の九州は女王国でさえもない」と明記されてる<

長里とか捏造しようが「南→東」の嘘つき騙しをしようが、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わって、そのすぐ南に邪馬壹國女王之所都がある」
と明記されてる。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:52:34.08
426>>569
「南→東」などの嘘つき騙しの妄想を叫ぶだけのの大和説
理由は言わない
もちろん証拠は絶対出さない

大和説はもう、国民の頭脳からも、世界の歴史学からも消えた
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:57:21.15
426>>571
>>倭国には無いとされる槨が出ちゃうからな。<

>それ、一般人の墓制を書いた記事なんだけど?<

ダメだ。
魏使らは「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を、
見たから、その上で、
「有棺無槨」という書いている。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 09:57:36.13
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した韓国人が作製したこの偽スレッドではなく、下に紹介する公式ホームページで討論すれば、良いのではないのかな。。。

邪馬台国畿内説 Part428
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1550582296/l50
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:26:55.52
>>316
>そんな根拠のない妄想をいくら言われても・・・・  

根拠 つ 「那珂八幡古墳の存在」 最初期から前方後円墳祭祀連合に参加
     「畿内様式土器の流入」 畿内第V様式から継続的に入っている
     「九州様式土器の消滅」 最終的に九州も畿内様式土器を作るようになる

明確に、畿内勢力と奴国(比恵那珂遺跡群)は卑弥呼(弥生終末期)以前の
弥生時代後期から協調関係にあり、それをテンプレでは吉備も含めた同盟(アライアンス)と
表現している

土器も古墳も、物理的な現物証拠だから、出所不明な万津浦を根拠に末盧国を
比定するのとは訳が違うよw
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:30:26.76
>>318
>前からある考え方だったとは・・・・・

通常は、伊都国基点で放射読みする、という榎一雄氏が提唱したものを放射説って言うんだけどね
すでに、伊都国には「到」だから、という用字の根拠も含めて否定されてるよ

一部に、間違っているとは認めないって言い張る人は残っているけどね
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:35:15.16
>>326
>では、帯方郡から一万二千里の邪馬台国はどこ?

その萬二千里が、伝説の世界観由来の、淮南子に記された世界の果てまでの
観念的な距離なんだから、現実の地理との対応はまったく考えられていない距離なんだよ

倭国は遠い世界の果てにある国です、という意味

『倭国の中の「特定の地点」を指す数値ではない』

これが理解できない人が、九州説をやっている訳だww
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:37:33.51
426>>586
>(ホケノ)出てないよ 棟持ち柱のある槨なんてない <

「遺体そのものや遺体を入れる棺」を包む頑丈な小部屋的構造物があれば、
それは「槨」だよ。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:38:47.87
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:48:00.89
韓国政府が宣伝している邪馬台国畿内説は、韓国人の素人老人が勝手に決めたので、世間が納得しないのではないのかな。。。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:49:15.24
>>327
>1日の工程を千里としただけ。

行程、なww これは正しい

>まさか対馬海峡の海上で停泊して夜を明かしたりはしないからね。

これも正しい
でもな、投馬国が半島南部にあると言い張る九州説の一派は
海峡を渡るのに水行10日をかけるって言ってるのもいるけどさw

>測量云々は畿内説の詭弁。

いんや?
水行も測れないんだよ
測ってもいない距離に対して、仮においてある、または、設定に従って
書かれている数字に対して、「縮尺」を考えるのがデタラメであり捏造なんだよ

間違っているのはいつも九州説
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:56:25.05
426>>590
>ザラコクってさあ 東「征」毛人五十五國, 西「服」衆夷六十六國
は合わせて「征服」だって分かってないんだろうなw<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
「征伐」の他動詞と「服属」の自動詞の違いが判らないアホなんだろうなあ。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:02:39.30
426>>601
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は哀れなものよのう
天にツバ吐き世の理を踏みつけ
気がつけば国民の7割から疎外される
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:08:31.32
>>355
>「征伐」の他動詞と「服属」の自動詞の違いが判らないアホなんだろうなあ。

西「服」衆夷の「服」が自動詞だと言い張って恥をかき続けてきた男の名は
無学老人ザラコク

#160日本@名無史さん2019/02/10(日) 19:03:21.02
#>東征毛人ばかり言ってる人は西服衆夷を無視してるからな 、

#西の九州は、唐会要倭国伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、倭国中心であった事は、
#何度も説明済み。
#「服」は、「征」や「平」の他動詞の意味とは違って、
#服属していた、という自動詞の意味。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:13:41.94
なんちゃって野生号は素人センセの思い付きにすぎん。
まずは、地元の漁師に学べ。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:13:54.95
デジタル大辞泉の解説
 じどう‐し【自動詞】

動作主体の動作・作用が他に及ばないで、それ自身の働きとして述べられる動詞。
「を」格の目的語をとることがない。
「雨が降る」「花が咲く」の「降る」「咲く」などの類。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:18:54.11
>>357
その理屈でいくと
古田説は国民の10割から疎外されてることになるな
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:30:42.90
漢文では形式目的語の之が付けば他動詞であるとわかる

日本軍が見敵必滅って和製漢文を使ってたらしいが
これは中国語では敵を見れば必ず滅ぶという意味で滅は自動詞
見敵必滅之なら敵を見れば必ず滅ぼすの意味になるそうな
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:36:51.03
結局のところ他動詞は目的語を伴うので目的語があれば他動詞なのかと
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:42:20.18
東征毛人の征と西服衆夷の服は
動詞の後ろに目的語を伴う他動詞ということでしょう
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:43:32.39
>>323
>その縮めた縮尺を便宜的に短里と呼んでいるだけだよ。
>その縮尺で帯方郡から一万二千里の九州北部が邪馬台国。

縮める前の距離が「分かっている」なら、縮尺という概念も通じるけれど、
実際には「縮める前の距離」などなく、
・倭国上陸まで1万里
・渡海一回で千里(×3)
・女王国(倭国)までざっくりで萬二千里
という「設定」に合わせて数字を作っているだけ

意味があるとしても、九州島内の陸行距離だけ、なんだけど、
その部分も、百里か五百里の二択だから、近い、遠い、くらいの意味しかない

しかも、末盧国から陸行五百里では、伊都国には行けない

という程度に、いい加減なんだから、旅程から何か言おうというのはかなりむなしい試みだよ
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:45:26.42
征服された九州に大王なし
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:46:33.15
「倭国之極南界也。光武賜以印綬」

これだな→ 南界を極めるなり・・・○、 極く南界・・・×
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 11:47:41.16
>>354
>野性号は対馬〜壱岐間で一泊海上で過ごしてるな

野生号の実験は、随伴船がついてきてくれてるからね
そういう安全が保障されてなければ、海上で夜明かししたら遭難するだけ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:01:55.80
426>>666
>そもそも古墳の事じゃなくて一般人の墓の事書いてるんだろ
それなら九州のどっかで甕棺墓見てそう書いたとも言える
そしてホケノ山が棺あって槨ありでも畿内が邪馬台国で問題ない
ホケノ山が棺あって槨ありだから
畿内は邪馬台国じゃないと言い出す方がキチガイ<

魏使らは、卑弥呼の冢造りを見ているから、
「槨」があれば、「有棺無槨」と書く筈がなく、
従って、無槨であったのであり、
だから、槨のあるホケノの大和は、卑弥呼の国ではない。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:07:00.56
>>365
>という「設定」に合わせて数字を作っているだけ
設定に合わせて作った数字とは、百里、五百里のことかい?
それが何で不都合なのかい。

>しかも、末盧国から陸行五百里では、伊都国には行けない
行けないところを設定しておいて、行けない行けないというのは、いけない子。
ちゃんと五百里で行ける伊都国を探せ、、、実在するぞ。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:11:59.51
>>371
里程が正しいと言うドグマで遺跡もない比定地をたて
あまつさえ新しい単位まで作るという
そんな説が学問で居られるわけもなく
素人暇老人の慰み物に堕したのは
ものの道理というものだ
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:16:59.69
>>371
>設定に合わせて作った数字とは、百里、五百里のことかい?

違うよ
韓の方可四千里や、循海岸水行(中略)七千餘里、のこと

>それが何で不都合なのかい。

これを短里だと言い募るバカがうっとうしい
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:19:30.02
>>372
>という「設定」に合わせて数字を作っているだけ

設定に合わせて数字を作っているのだから、
陸行五百里に合う伊都国がないのはおかしい。
ないというのは、現代畿内老人の設定が間違っているからだ。(必ずや、五百里先に正しく実在する)
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:19:41.37
>>371
>行けないところを設定しておいて、行けない行けないというのは、いけない子。
>ちゃんと五百里で行ける伊都国を探せ、、、実在するぞ。

伊都国は実在するが、末盧国から東南陸行五百里の場所にはない
末盧国から東南陸行五百里で行く場所は伊都国ではない

別の場所への里程が、末盧国に上陸という情報とセットで伊都国の前に
入り込んでいるので多くの人がだまされているだけ

魏志倭人伝の地理・旅程記事の精度はその程度ってこと
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:22:48.37
帯方郡から12000里で福州まで行けるの?
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:27:08.76
>>374
>陸行五百里に合う伊都国がないのはおかしい。

実際にないのだから、それを認めることから始めようね!

>必ずや、五百里先に正しく実在する

そこにあるのは、米多郷だよ
筑紫米多国造の国
伊都国ではない
これが帥升の面土国だと考えると、いろいろ筋が通るけれど
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:27:09.12
>>375
それでは、設定に合わせて数字を作っていなかったということではないか。
前後のカキコが矛盾・ちぐはぐ・とっ散らかってるぞ、、、。
わやくちゃ。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:31:01.98
>>378
>それでは、設定に合わせて数字を作っていなかったということではないか。

半島の沿岸航行は、七千里ではないけれど、
倭国上陸までが万里
渡海が千里×3だから、七千里なんだよ
設定が先にあって、そこから出てくる数字

韓の方四千里は、実際には方四千里ではないけれど、沿岸航行七千里に合わせて、
南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、方四千里としている

最初に設定ありきで、それに合わせて机上の計算で作った数字なんだよ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:32:24.88
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してから、6年経ちましたね。。。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:43:58.76
面土の上古恩は
面が mi̯an mǐan mjuæn ミャン ミァン ミュアン
土が tʰo  tʰa  tʰɑɡ   ト   タ   タ   
くらいの感じ

大和言葉には、子音で終わる音がないから、面の末尾の'n'が取れて
ミャ(ン)タ、くらいかな
これが、米多・メタの音訳とみなせるかどうか
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:44:05.50
>>348
>観念的な距離なんだから、現実の地理との対応はまったく考えられていない距離なんだよ

内訳まで細かく記載されているので、これは無理な説明だ。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:45:35.77
>>353
>でもな、投馬国が半島南部にあると言い張る九州説の一派は
>海峡を渡るのに水行10日をかけるって言ってるのもいるけどさw

九州説の中にそんなアホがいるのは申し訳ない。
投馬国は帯方郡から水行20日で、邪馬台国より南になる。
宮崎県妻だろう。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:47:54.21
>>375
>伊都国は実在するが、末盧国から東南陸行五百里の場所にはない

伊都国が現在の糸島市ではない可能性とか、末盧国が松浦市ではない可能性もある。
末盧国は前原あたりだろう。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:48:39.40
>>379
>最初に設定ありきで、それに合わせて机上の計算で作った数字なんだよ

当たらずといえど、遠からず、その机上計算のどこが悪いんだよ。

それから、陸行の百里、五百里のほうは全くでたらめに作ったというのかい。
五百里先に、二世紀に米多郷と呼ばれたそれらしい国があったのなら、
それが倭国大乱後の三世紀の倭人伝に伊都国と記録されてもおかしくはないだろう。
それをもでたらめというなら、其の根拠を説明してもらおうか。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:49:42.02
>>379
>倭国上陸までが万里
>韓の方四千里は、実際には方四千里ではないけれど、沿岸航行七千里に合わせて、
>南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、方四千里としている

つまり比例関係は成立している。
九州北岸から二千里では、九州北部から出ない。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:56:18.82
萬二千餘里までが女王國以北
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:57:11.53
>>382
>内訳まで細かく記載されているので、これは無理な説明だ。

これがすでに妄想
倭国上陸まで万里
渡海一回で千里
女王国まで萬二千里
という設定と

倭国内の地理情報は、基本的に独立
さらに、水行10日陸行1月は、萬二千里の中の数字ではない

魏志倭人伝の地理・旅程記事から、場所が割り出せるという思い込みから早く抜け出せるといいね
情報として意味がありそうなのは、国の並び順までで、それ以上のことはほぼ分からない
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:00:15.64
>>383
>投馬国は帯方郡から水行20日で、邪馬台国より南になる。
>宮崎県妻だろう。

いいえ、投馬国は戸数道里が略載されているので、女王国(邪馬台国)以北の国
自女王國以北、其戶數道里可得略載
邪馬台国より南とした時点で、魏志倭人伝の記述には従いません宣言だよ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:01:16.79
>>379
なるほど、そういうことか!
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:04:12.91
>>388
>倭国内の地理情報は、基本的に独立
>さらに、水行10日陸行1月は、萬二千里の中の数字ではない

全く根拠がないデマを書くなよ。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:04:13.99
>>384
>伊都国が現在の糸島市ではない可能性とか、末盧国が松浦市ではない可能性もある。

可能性なら、必ずあるけれど、0に近い可能性を「ある」というのは、
詭弁であり詐欺師の論法

>末盧国は前原あたりだろう。

何の根拠もなく、こう言ってしまうのが九州説の赤坂さんww
末盧国は、松浦郡、松浦川という地名+多くの弥生遺跡(千々賀遺跡、
桜馬場遺跡、宇木汲田遺跡など)から、唐津平野で問題ない
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:05:51.50
>>389
>いいえ、投馬国は戸数道里が略載されているので、女王国(邪馬台国)以北の国

投馬国に里程は記載されていない。
邪馬台国までのルート上にはない。
そもそも半島南岸に5万戸も入らない。
宮崎平野なら入るし、西都原古墳群もある。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:12:42.36
>>393日本@名無史さん2019/02/20(水) 13:05:51.50
>>389
>いいえ、投馬国は戸数道里が略載されているので、女王国(邪馬台国)以北の国

「日」の数は記載されているが、「里」の数は記載されていない。これ漢の小学校クラスの常識。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:12:51.66
>>385
>それから、陸行の百里、五百里のほうは全くでたらめに作ったというのかい。

先にも>>364で書いたように、百里、五百里の二択で、近いか遠いかの区別しかない
百里は五百里とされたところよりは近いだろう、以上のことは言えない

>五百里先に、二世紀に米多郷と呼ばれたそれらしい国があったのなら、
>それが倭国大乱後の三世紀の倭人伝に伊都国と記録されてもおかしくはないだろう。

それは、米多国であって伊都国じゃないんだよ
地名が違うってこと

「名古屋という都市があるが、横浜と記録されてもおかしくないだろう」と
言われたら、そんなはずはなかろうとしか言えないだろ?

>それをもでたらめというなら、其の根拠を説明してもらおうか。

上に書いたとおり
地名は、そこに人が住み続ける限りは存続する
実際、對馬=対馬、一大(一支)=壱岐、末盧=松浦、奴=那の津、那珂、投馬=出雲、邪馬臺=ヤマトと、
全て現存地名まで対応しているのに、伊都=怡土だけ認めずに、伊都は米多だ、とか言い出したら
頭おかしいとしか思わないだろ?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:13:35.75
日程は里程ではない。
郡使は投馬国を通過していない。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:14:29.62
1万をシチサンに割ったくらいで「内訳まで細かく」とか
笑うしかない
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:14:53.46
投馬は妻(都万)だろう。
出雲とは一致していない。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:15:57.99
>>397
>日程は里程ではない。

だからなんなの?
日程も道里だよ
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:17:15.73
伊都国を怡土として不動のものとするなら、その北西五百里に末盧国を探さなくてはいけない。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:20:36.64
>>386
>つまり比例関係は成立している。

成立していない
水行七千里も、渡海千里も、九州上陸まで一ヶ所たりとも測定された距離がない
渡海三ヶ所も
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
となり、まったく比例していない

>九州北岸から二千里では、九州北部から出ない。

九州島内の陸行距離は萬二千里に入ってないから、意味がない
九州島まで一万里、そこから先が二千里(水行20+10日、陸行1月)と、
考えられていた「かもしれない」程度ww

結局、九州説の根拠が行程パズルしかないから、ここだけにこだわっているんだよw
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:20:50.31
宮崎は、倭国との交流は古墳時代からだな
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:25:34.03
>>393
>投馬国に里程は記載されていない。

日数表記も、「道里」略載なんだよ
>>137のFAQ78を読んでおいで

>邪馬台国までのルート上にはない。

また適当なことをww
末盧国には官の記載がないから行ってない、というのはまああり得るが、
投馬国を通っていないとする理由はない
あるのは九州説の都合と思い込みだけww
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:27:35.29
>>391
>全く根拠がないデマを書くなよ。

では、水行10日+20日と、陸行1月を、里に換算してくれるかな?
この換算ができないなら、萬二千里に参入することはできないよな?

水行、陸行と、女王国まで萬二千里は、由来(原典)の異なる別系統の情報なんだよ
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:28:53.07
426>>676
>質量分析器でググって見ろって
電磁場で加速して磁場の中での曲がり方で質量差のある原子を分離するんだよ
同じ速度で同じ電荷の粒子が進行方向に対して垂直な一様磁場を通ると、
同じ大きさの力がかかるが、質量が異なると加速度が異なるから、曲率が変わる
それによって、原子一つ一つを質量別に分離できる<

まだ変な事を言ってるな?。
まず、「原子」と言っているようじゃ、プラズマ化になっていないではないか。
プラズマ化は何時の時点でやったんだい?。
また、「原子」のままでは、電磁場的に安定しており、磁場をかけても曲がらず、
曲がらなかったら、質量差での区別も出来なくなるではないか。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:30:57.27
>>395
>「日」の数は記載されているが、「里」の数は記載されていない。これ漢の小学校クラスの常識。

日数表記も、「道里」略載なんだよ
>>137のFAQ78を読んでおいで

そして、邪馬台国行きも水行十日、陸行一月という日数表記だが、
これは自女王國以北、其戶數道里可得略載に間違いなく入るんだから、
投馬国が女王国以北に入らないというのは通らないんだよ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:36:07.74
>>399
>投馬は妻(都万)だろう。
>出雲とは一致していない。

投馬の上古音はdug-mag、雑にカタカナにすれば「ヅマ」だ
出雲の最初の母音の「イ」が弱声化すれば、「(ィ)ヅモ」となる

聞きなれない外国語の聞き書き音訳としては、
投馬「ヅマ」と出雲「(ィ)ヅモ」は、よく一致していると言える
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:36:23.23
陸行1月は30日として1200里くらいかな
片道4000里あると見積もられた公孫淵討伐の計画は行きで100日戦闘で100日帰りに100日と想定してるから1日の行軍40里で計算してる
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:43:45.30
426>>677
>×電磁場で加速して→○電場で加速して <

それでも同じ事。
原子をプラズマ化して電子と原子核に分離せずに原子のまま、であったら、
原子は電気的に中性であり、電場をかけても曲がらないし、
曲がらなければ、質量差での区分けも出来ない。
だから、先にプラズマ化しておかなければならず、
またプラズマ化をしてあれば、その上に新たに電場をかけて曲げようとすれば、
また、原子核の放射性壊変を促進してしまった、また、古く出てしまう事になる。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 13:58:41.02
>>407
漢の小学生以下ww
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:06:48.19
>>406
>まだ変な事を言ってるな?。
>まず、「原子」と言っているようじゃ、プラズマ化になっていないではないか。

プラズマは「状態」であって、物質を指さない
固体、液体、気体、プラズマ、という並びだ
分離するのは、原子一個一個、まあ細かいことを言えば原子核だが、通常は原子と表現する

>プラズマ化は何時の時点でやったんだい?。

試料の気化と同時で、プラズマ化してから、電場(加速器)に導入するんだよ

>また、「原子」のままでは、電磁場的に安定しており、磁場をかけても曲がらず、
>曲がらなかったら、質量差での区別も出来なくなるではないか。

そんなことを書く時点でまったく理解してないだろ?ww
一度自分でググって見ろって、何度言われれば分かるんだ?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:20:14.77
国名からは、好字令のためわかりづらい
宮崎と博多湾沿岸を結びつけるのは考古学的に無理
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:42:53.35
>>404
>投馬国を通っていないとする理由はない
>あるのは九州説の都合と思い込みだけww

ついに正体を現したな。
投馬国が半島南岸と言っているのは、九州説ではなくキナイコシの自作自演だったというわけだ。
撹乱だね。
卑怯な工作をするなよw
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:52:51.79
>>382
水行10日20日と
陸行1月はどうやって距離を出したんだ?
そこが距離じゃなくて日数の時点で萬二千里にならないだろ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:54:05.00
>>414
ゆえもない中傷が九州説のすべてですか?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:55:13.28
>>416
テンプレくらい読むといい
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:56:34.02
>>411
>漢の小学生以下ww

あーあ、いつもの九州説よりは話が通じるかと思って相手してきたけど、結局は九州説だな

これに対して「具体的な反論」ができるなら、論点を明確にして書き込めばいい
 ↓
日数で表記された距離は「道里」に該当するので、
投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

本書(九章算術)は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

理由も根拠も一言も書けず、一行書き込みしかできないなら
日数表記は道里ではないといっても無駄だよ
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:58:16.28
>>413
>宮崎と博多湾沿岸を結びつけるのは考古学的に無理

奴国系統と、火(肥)国系統では、技術文明の発展度合いにいささかの違いがあったのではないか。
則ち、火国系は松浦港〜脊振山系南の佐賀平野経由で、早くから輸入の鉄と鉄技術を利用できていたおかげで、
エネルギー・建物・橋など、燃料や建築資材としての木材の確保が潤沢にできていた。、
いわば古代の産業革命の恩恵を早くから十分に受けていたので、、
いまでいう考古学的な面で大きな差が生れていたのではないかと思う。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 14:58:28.22
>>408
>投馬「ヅマ」と出雲「(ィ)ヅモ」は、よく一致していると言える
(ィ)ヅモと発音してたという根拠はあるの?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:02:23.57
>>419
それで、行道八日は何里に相当するのかね、、、。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:09:52.03
常識人「日数表記だと距離は分かんないじゃん」
アホ 「テンプレ読め(ドヤ」
常識人「テンプレに従うと水行10日は何里?」
アホ 「。。。」

なんだこれwww
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:15:50.51
隋書で
夷人不知里数、但計以日
と書かれてるのだから

この日数表記は中国の算術による日数じゃなくて、倭人が中国人に伝えた日数だと思うんだがなぁ
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:17:18.69
>>298
前方後円墳や三角縁神獣鏡と卑弥呼は、まったくつながらんよ。
纏向に連合政権ができて、前方後円墳や三角縁神獣鏡などを造った。
その纏向の連合政権が発展してヤマト王権になったというのは、歴史の真実だがね。
一方、卑弥呼は北部九州だったし。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:27:06.57
426>>693
>女王国の東の端は何処かやな 纒向には東海の土器が大量
伊豆辺りまでが女王国の版図やろな<

「南≠東」などに拠って、×。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:29:14.03
426>>695
「大和説は〜が説明できない」って言う人はだいたい嘘つきか狂人
だっておまえ大和説の説明聞いてないだろってw
畿内説全員にインタビューでもしたんすか?
物理的にムリね
だから嘘ついてるのミエミエでしょ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:31:33.10
426>>696
>何度も説明している。
東は北であり、倭種とは津軽海峡を渡った先の、縄文人かアイヌだ。<

「南≠東」などに拠って、×。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:32:02.06
>>189
>魏の人たちがどうやって、東シナ海のはるか向こうの正確な位置を認識できたのか…。

そりゃ、倭人から聞いたのさ。
沖縄へは、縄文時代から渡っていたからなあ。
博多の倭人に聞いたら、ちゃんと答えてくれたということ。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:40:16.24
426>>699
>ホケノや半島南部の木製構造埋葬施設を槨と呼んでいるのは研究上の理由につきる<

ダメだ。
棺と槨を区別して書き分けていたのは古代中国人であり、
それが史料実態であり、史料に存在しているのであり、
だからどういうものを「槨」と呼んでいたのか?が問題であり、
「現在日本の研究者の都合」ではない。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 15:46:07.87
426>>700
>魏志倭人伝の女王国東渡海千里皆倭種でも、女王国連合=倭国本土(本州四国九州)から
離れる方向に渡海千里してもその島の国も皆倭種と言うだけ <

いや、「南≠東」などに拠って、九州島付近が「女王國」であり、
本州四国は、ほぼ倭種地域であるから、×。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:01:40.15
>>401
>伊都国を怡土として不動のものとするなら、その北西五百里に末盧国を探さなくてはいけない。

違うよ
伊都国の怡土は不動
末盧国の松浦(唐津)も不動
この間が、東南五百里とされた理由を考える必要がある、が正しい

「末盧国から東南五百里陸行」というのが、卑弥呼のとき以前の記録で、
それが、北部九州の地理情報として混入した、というのが妥当性が高いと思う

これは、私のオリジナルの考えではなくて、このサイトの受け売りだけどね
『東南陸行五百里』考
ttp://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:03:35.80
426>>704
>行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果
「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した<

これも×。
普通の知能の人類や魏使らは、東西南北を間違える事は99.9%以上ない。
それに対して、東西南北記載の史料の自己解釈に拠る「南は東の誤りと判明」は、
確率の低い間接的な推論に過ぎず、
人類や魏使らの判定を覆す事は出来るようなものではない。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:08:39.08
425>>708
>(畿内説の方々に聞いているので、九州説の方々はレスしないで下さい)<

嫌だ。
ここは、公共性の高い掲示板だ。
「南→東」や「畿内」などの嘘吐き騙しの…・投稿に、
国民が騙される事は、黙過し難い事だ。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:10:36.25
魏使の復命書に何が書いてあったのかも謎だし三国志を書いたのは陳寿だしな
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:12:47.87
426>>712
>纒向は邪馬台国の王都じゃないだろうか? 箸墓は卑弥呼の墓じゃないだろうか?
が畿内説の通説だ
断定はしてはいないのだ そこんとこヨロシク<

「南→東」などの嘘吐き騙しを、「通説」と宣伝して、
国民を間違った歴史認識に誘導しようとしている、
その事が、黙過し難いのだ。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:16:53.80
426>>715
>畿内や九州北部を征伐したのは牛と石
その後権力争いで、石が牛を乗っ取ったのだ
記紀では孝霊の時代、魏志倭人伝では卑弥呼亡き後男王の時の内乱<

「南≠東」であり、
大和日本国は、九州倭国の別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であるから、×。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:22:27.53
426>>745
>南が東なら、津軽海峡を渡った北海道が妥当 一票入れとく <

「南≠東」だから、×。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:24:44.79
>>426
>この日数表記は中国の算術による日数じゃなくて、倭人が中国人に伝えた日数だと思うんだがなぁ

同意する。
日数しかないところには郡使は行っていない。
また、邪馬台国までの日数は里程との重複だ。
邪馬台国までの里程は一万二千里で尽きている。
九州北部を出ない。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:25:44.60
426>>748
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
間違い論理の極論断定から成り立ってるから、
結論が違うと分かるんだよな
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:26:56.17
>>435
>この辺が、九州説の投馬国半島南岸説だよw

キナイコシの自作自演だったことがバレたな。
前のスレで自作自演をほのめかしていたもんな。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:28:28.32
実際の航路は韓国から九州に南下する場合と九州から韓国に北上する場合とでは
出港地と到着地が異なる。
楽奴国→対馬国→一支国→于弥国(韓国から九州に渡る場合のルート)
狗奴国←対馬国←一支国←末盧国(九州から韓国に渡る場合のルート)
魏志は実際にはありえない逆コースで渡海したように書いてある
郡から7000里は楽奴国であって狗奴国でない。
狗奴国は方4000里の韓地の二辺だから8000里になる。
「于弥国→投馬国→邪馬台国」が2000里だから合計で1万2000里になる。

末盧国、伊都国、奴国は立ち寄る必要があったとしても
邪馬台国までの最短距離を表示するためだけなら必要がない。
それがごちゃごちゃ里程かかれているのは奴国までで1万2000里にするため。
(魏使は奴国までしか行っておらず邪馬台国には行ってないから)
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:37:10.76
>>447
>それがごちゃごちゃ里程かかれているのは奴国までで1万2000里にするため。
>(魏使は奴国までしか行っておらず邪馬台国には行ってないから)

後漢書によると
「大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である」

つまり、一万二千里を尽くした奴国や伊都国が邪馬台国なんだよ。
高祖山を挟んで東西が一体となって発展していたのだろう。
当時は糸島平野に多くの工房などがあり、郡使もそちらに滞在したことがわかっている。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:41:39.28
自作自演がバレた途端に、キナイコシの連投が止みやがった。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:46:49.20
>>420

有明海沿岸異人地域の西部、南部も博多湾沿岸とは交流がほとんどない
庄内期に入って柳川市、佐賀市2ヶ所だけでやっと本州の倭人の風習の卜骨が出る
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:50:55.67
426>>753
>政治的理由で邪馬台国は帯方より南1万2千里
会稽東治(冶)の東の沖縄や台湾にある事になっていた
陳寿はそれを踏襲して方角で言えば東にあった邪馬台国を南と書いたんだよ <

陳寿は、会稽東治と書いたんだから、沖縄台湾ではなく、×。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:53:30.60
>>434
>伊都国の怡土は不動
>末盧国の松浦(唐津)も不動
>この間が、東南五百里とされた理由を考える必要がある、が正しい

ウソの言い訳を考える必要がある・・、が正しい。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:55:01.03
426>>755
>当時の地理的常識に従って倭国の位置を描写しただけだわな<

いや、魏使らは、部下や後続使節の目もあり、首がかかっている事であり、
実測しないでは書けないし、「余」の近似の書き分けもしているから、
きちんと計測して記録した。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:56:09.76
>>392
>末盧国は、松浦郡、松浦川という地名+多くの弥生遺跡(千々賀遺跡、
>桜馬場遺跡、宇木汲田遺跡など)から、唐津平野で問題ない

甕棺墓? お墓ばかり?  お粗末過ぎ。
何の根拠もなく、こう言ってしまうのが九州説・東遷説の赤坂さんww   @阿波
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:12:33.34
「テンプレ見ろ!」
とドヤ顔してた人は
結局、水行20日が何里なのか答えられなかったわけかwww
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:28:38.03
426>>756
>「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 
以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食
其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 
他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐」
これは、魏使らが実見確認出来た出来た卑弥呼の国の一般的風習
列島そのものに槨なしとは書いてない
興奮しないで読んだほうがいい <

魏使らは卑弥呼の墓の「冢」造りを見ており、
その上で、「有棺無槨」と書いている事になるから、上下一般的風習であり、
最低卑弥呼はホケノの国の人ではない。
興奮しないで読んだ方がよい。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:32:05.02
426>>765
つまり「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
魏使らや陳寿が嘘をついた、と主張するのだね?
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:34:08.48
投馬国は出雲じゃねーよ
テンプレ読めよ
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:35:08.04
>>457
いつも思うんだけど
そうやって過去スレの書き込みにレスしてるけど
誰も君を相手にしてなくね?
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:38:37.23
426>>791
「介山」の「山高」が海抜の長里で一致するとか、
真顔で言うのはチエオクだけ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:41:32.67
畿内説って自民党ネトサポクラブみたいな存在じゃね?

あることないこと根拠にして出鱈目ほざいている。

まあ、九州に邪馬台国があったと言う確たる証拠はないが、畿内に邪馬台国がなかったという証拠は山ほどある。
畿内に邪馬台国がなければ、自然に九州に邪馬台国があったと考えたほうが良くなる。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:44:09.96
>>460
>誰も君を相手にしてなくね?

そうやって相手にするのが間違い。
向こうは相手にしてもらうつもりは毛頭ないんだから。 相手してくれたら困るのよ。 
「枯れ木も山の賑わい」と思えばよいだけ。  @阿波
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:46:38.02
>>462
>畿内に邪馬台国がなければ、自然に九州に邪馬台国があったと考えたほうが良くなる。

そう来るところがさすが九州。  @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:50:00.32
>>466
邪魔だからこそ、「枯れ木も山の賑わい」と思えばよいだけ。  @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:56:05.29
426>>798
っていうか、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って「説」は、
存在しないだろ
それは、思想宗教にクルった凶悪な人種のアジテーションに過ぎない
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:57:12.15
426>>799
このように
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説はいつも
理由がなにも言えない
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:59:33.87
426>>812
今日も、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
狂ってる
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:02:19.48
前スレにオウム返しのレスをしてるのは
九州説のオウム人間ザラコク
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:02:20.55
426>>824
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説か・・・

ウソ説となえてるとジワジワ精神が蝕まれて こうなって来るんだろうかね
こんな風になるまでの大和説になるなよ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:06:58.14
>>421
>(ィ)ヅモと発音してたという根拠はあるの?

現在でも出雲の人の発音を聞くと、最初のイが弱くエに近い音で発音される
「(ェ)ヅモ」だな
まあ、2千年近く前も同じ発音だったとは言わないが、日本海側山陰地域は
東北方言に近い発音になるから、的外れな推定ではない
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:07:49.25
426>>832
>女王国は女王の国
卑弥呼は倭国の王であって、邪馬台国の王ではない
つまり女王国=邪馬台国という読み方は不正確<

いや、魏志は「邪馬壹國女王之所都」。
90度男は、「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説男。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:10:57.66
>>462

有ることがアカデミック畿内説
無いことがホロン部九州説
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:12:17.96
投馬国は出雲じゃねーよ
テンプレ読めよ
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:14:22.90
426>>837
>関裕二氏も、同様の古代史作家だよ
関裕二氏は近年は畿内説の方に重心を移してきているよ<

関も、「邪馬台国」という嘘つき騙し文言の使用者であったから、
全く信頼性がなく、
当然「畿内」という言葉を否定する筈もなく、
脳の異常者なんだろう、と思われ、殆ど読まない。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:14:27.91
>>422>>423
お前、何か勘違いしているだろう?

畿内説は、
萬二千里は、淮南子等の伝説上の世界の果てまでの数字を援用して、
遠い地の果てからの朝貢であるとする符丁であって、
「具体的な現実の距離とは関係ない」という主張だ
つまり、「水行20+10日、陸行1月」が「具体的な道里」であって、
この日数と萬二千里とは関連がないという立場

逆に九州説は、「萬二千里は邪馬台国までの具体的な距離であり
その内訳も明記してある」と主張している以上は、「水行20+10日、陸行1月」が
「里数に換算できなければならない」訳だ
そうでなければ、「内訳の積み上げで萬二千里にならない」からね

もちろん、「帯方郡からの総日数」が水行10日陸行1月というのも既に否定されている
帯方郡からの距離は九州上陸までに1000キロを超えるから、水行10日のためには
1日に100キロ進む船が必要だが、3世紀にはそんな高速船はないから物理的に否定される
また、九州上陸後に陸行1月は困難だし、特に北部九州説は詰んでいる

さて、萬二千里で邪馬台国に到着すると主張するなら、
「水行20+10日、陸行1月」が何里に換算されるのか、示してごらん?ww
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:15:35.90
>>425
これ、自分が常識人だと思ってる・・・ってこと?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:19:34.54
>>477
テンプレは畿内説の代表じゃないけどな
出雲が投馬国だよな
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:19:57.54
>>427
>纏向に連合政権ができて、前方後円墳や三角縁神獣鏡などを造った。

そうだよ
その連合政権の中心の王都のある国がが、畿内のヤマト国だってこと
前方後円墳は各地の墓制を統合した物で、連合政権つまり卑弥呼の共立勢力の存在を示している
また、三角縁神獣鏡は魏との交流を記念する銘文を持つものもあり、多くは倭国内で
作られた踏み返しなどのコピー鏡だが、魏との交流を記念する動機を持つ勢力は、
魏と交流した主体そのもの以外にはない

>その纏向の連合政権が発展してヤマト王権になったというのは、歴史の真実だがね。

その通りだよ

>一方、卑弥呼は北部九州だったし。

これは間違い
北部九州も、前方後円墳体制に最初から参画しているし、三角縁神獣鏡を
配布される側、つまり地方勢力なのが確定
前方後円墳が作られた頃に纏向に連合勢力があったと認めた時点で、
北部九州に自立した独立主体がなかったことが確定する
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:20:40.99
426>>837
>もうNHKの古代史番組でも畿内説前提の作りになっているし<

NHKは、読売産経やYahooや5chなどと同じく、
安部文部省の下請けの右翼マスコミである事がはっきりしていて、
客観性や学問性が全くなく、×。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:23:11.45
>>431
>そりゃ、倭人から聞いたのさ。
>沖縄へは、縄文時代から渡っていたからなあ。
>博多の倭人に聞いたら、ちゃんと答えてくれたということ。

いやいや、今度は沖縄と大陸の交流がないから、倭人(海人族)が沖縄を知っていても
その倭人は沖縄が会稽東冶之東であることが分からない

陳寿が、倭人が百越の流れだという大陸の伝承と、萬二千里という距離を合わせて
そう判断したってだけ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:24:50.47
関は畿内説だが
纏向を王都と言う若手のバカの畿内説論者から距離置いた
銭には勝てんけど 狂ってるよ 纏向や箸墓に集約するのは
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:26:49.30
>>426>>832
>女王国は女王の国
>卑弥呼は倭国の王であって、邪馬台国の王ではない
>つまり女王国=邪馬台国という読み方は不正確<

三国志・魏志倭人伝は歴史書であるから、記事は、すべからく時系列に沿って記述されている。
故に、下の記事文章が出現する以前の記事は、
女王が共立されるより前の事項であるので、女王国=邪馬台国である。
この記事文章が出現した後の記事は、
女王が共立されたのちの事項であるので、女王国=倭国(共立倭30国)のことである。

 其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:26:50.21
>>483
>纏向に連合政権ができて、前方後円墳や三角縁神獣鏡などを造った。

前方後円墳や三角縁神獣鏡などを造ったのは、倭国(阿波)の「忌部はん」 。  @阿波
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:30:22.76
テンプレ自慢が、テンプレにつまづくwww
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:30:39.50
会稽・・・東はね
畿内説の一部のお馬鹿さんが南の方角は認めるが
距離は認めないという矛盾をネグレクトして九州説にチャモンをつけてるだけ

邪馬台国は北部九州を含め南にあったから「会稽・・・東」を認めてるようなもんで
今の畿内説の学者は触れないよ・・墓穴掘るから
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:30:49.42
>>442
>同意する。
>日数しかないところには郡使は行っていない。

同意しちゃだめだよww
魏使、郡使が行ったところでも、測量しなければ距離(里数)は分からない
陸行であれば、歩測や移動時間で見積もることができるが、沿岸航行の水行では
大陸の人間には距離を見積もる手段がない
なので、魏使が日数で記録した、と単純に考えればよい

>また、邪馬台国までの日数は里程との重複だ。

これはありえない
大陸史書に、里程と日数の二重表記の例はない

また、>>480にも書いたように
帯方郡からの距離は九州上陸までに1000キロを超えるから、水行10日のためには
1日に100キロ進む船が必要だが、3世紀にはそんな高速船はないから物理的に否定される

>邪馬台国までの里程は一万二千里で尽きている。

尽きてないよ
不彌国まで行っても、まだ1300里残っている
1300里あれば550キロ以上進める

>九州北部を出ない。

これがインチキの極致だ
短里もないし、萬二千里は積み上げた数値ではないし、
倭国内の特定の地点を指さない
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:33:49.01
426>>839
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
八紘一宇戦争の万世一系皇国史観宗教であり、
先の戦争の反省が全くなく、
(オームと同じように)いずれ国民を戦争に駆り立てて、
絶滅させる寸前
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:34:01.08
>>446
>キナイコシの自作自演だったことがバレたな。
>前のスレで自作自演をほのめかしていたもんな。

都合が悪くなると、すぐミラーリングで自分への批判をオウム返しするww
まあ、投馬国半島南岸説は、九州説からも叩かれていたけれどね

でも、投馬国を邪馬台国以北に置こうとするのは正しいし、投馬国を経て
邪馬台国へ向かうという判断は正しい

まあ、投馬国への水行20日の起点を帯方郡にしている時点で間違いなんだがww
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:37:45.71
>>490
>会稽・・・東はね
>畿内説の一部のお馬鹿さんが南の方角は認めるが
>距離は認めないという矛盾をネグレクトして九州説にチャモンをつけてるだけ

・・・だという理由をひとことも語らない九州説

すべて理由のない決め付けで出来てるんだねえ
九州説っさ
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:39:55.57
>>447-449
投馬国、半島南岸説もトンデモだが、狗奴国・韓地説もものすごいトンデモだぞ?
方角が全無視になる

>つまり、一万二千里を尽くした奴国や伊都国が邪馬台国なんだよ。
>高祖山を挟んで東西が一体となって発展していたのだろう。

この伊都国、奴国が邪馬台国説も、九州説には人気だけれど、
伊都国、奴国の官と、邪馬台国の官の関係その他、別の国として書かれていることを
全無視しているし、まったく説明できない

九州説は、「何かを見つけました、邪馬台国はここです」とすぐに言いたがるけれど、
周辺情報との整合性がまるで取れていない
要するに、都合のいい情報ひとつだけを拾ってそれで論立てしただけの、チェリーピッキングばかり
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:42:09.79
>>453
>ウソの言い訳を考える必要がある・・、が正しい。

紹介した「『東南陸行五百里』考」は読んだのかい?
これが、これまで読んだ中で一番合理的な解釈だと思うぞ

反論があるなら、一読した上で「論点を具体的に記して」指摘してみてくれ
この話は、議論の価値がある
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:42:38.66
畿内説、テンプレ自慢が、テンプレにつまづくwww
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:43:39.20
>>455
>甕棺墓? お墓ばかり?  お粗末過ぎ。

おいおい、千々賀遺跡は集落遺跡だぞ
やはり泡は知識が足りない情弱だww
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:49:21.54
426>>845
>畿内は古くから地名がやまとである事<

「アマ、天」の「イ」氏や、「ヤマ、邪馬」氏の、
地方の市の戸や門、の呼称から始まった。

>景初三年、西暦で言えば3世紀239年と魏の年号が刻まれた鏡が出ている事<

景初二年の明帝の下賜鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの製作鏡であった。

>三世紀中葉に100m級の前方後円墳がある事<

大和の石塚の撥型前方後円墳は、明らかに卑弥呼の冢の後であり、
那珂八幡よりも後であるから、3世紀末頃。
物証は嘘をつかない...
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:49:22.50
>>495

>伊都国、奴国が邪馬台国説も、九州説には人気だけれど、

日本人にはない声闘習慣の民族市民運動なのでレス数は多いけど
人数は多くはない
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:51:19.74
>>459
>投馬国は出雲じゃねーよ
>テンプレ読めよ

ここは、テンプレと意見が違うんだ
四隅突出墓文化圏が、出雲・投馬国の可五万余戸の範囲だと考えている
吉備ではその勢力圏の広がりを考えたときに、五万戸になるような範囲が見出せない

ただ、吉備の特殊器台が出雲でも使われているし、吉備と出雲が近い関係だったと考える余地はある

山陰山陽を合わせて中国地方と呼ぶが、
北部九州 奴国 二万戸
中国地方 投馬国 五万戸
近畿地方 邪馬台国 七万戸
という関係の中での、中国地方と見れば、それでよいのかも
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:51:46.60
>>498
>おいおい、千々賀遺跡は集落遺跡だぞ

「平成12年(2000年)に漆の蓋状のものや直径40センチの柱や板材などが出土。周辺では、甕棺と銅鉾、銅戈などが出土した千々賀庚申遺跡、銅の腕輪が出土した千々賀宇ノ木遺跡」

甕棺墓で、鉄器さえも副葬されていないお粗末遺跡だよ。  お粗末過ぎ。  @阿波
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:52:02.36
426>>846
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
5chでも中傷専門になっちゃって
もう、絶滅済みのようだね。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:55:07.06
>>456
>結局、水行20日が何里なのか答えられなかったわけかwww

>>480に丁寧に書いておいたように、水行、陸行を里程に換算できないと困るのは
九州説の側だよ

畿内説は、そのまま水行陸行の日数分進む、とするだけ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:57:35.01
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種

この「女王國」は倭国か邪馬台国かが良くわからないので
解説も含め誰か教えてくれませんか
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:57:36.81
>>490
>南の方角は認めるが
>距離は認めないという矛盾

これ、具体的に説明してみて
畿内説は、距離も方角も不正確であてにならないとしているだけだよ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:00:27.20
>>503
>漆の蓋状のものや直径40センチの柱や板材などが出土。

これ、お墓から出ている訳じゃないんだよ?
泡には、直径40センチの柱を使った大建築は検出されてなかったと思ったが?ww
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:00:45.44
>>502
>ただ、吉備の特殊器台が出雲でも使われているし、吉備と出雲が近い関係だったと考える余地はある

吉備忌部と出雲忌部なんだから、近い関係は当たり前。  @阿波
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:02:49.96
同意します 纏向や箸墓から畿内説はあまりにも飛躍しすぎたと思います
畿内説の良いところをダメにしたような気がします
京都大学や大阪大学の研究者に期待したい

>>486日本@名無史さん2019/02/20(水) 18:24:50.47
関は畿内説だが
纏向を王都と言う若手のバカの畿内説論者から距離置いた
銭には勝てんけど 狂ってるよ 纏向や箸墓に集約するのは
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:03:42.88
>>506
>この「女王國」は倭国か邪馬台国かが良くわからないので

「女王國」は邪馬台国(北の粟国)
「倭国」は邪馬台国や狗奴国、讃岐などを含めた地域。  @阿波
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:05:38.41
>>505
畿内へ行きたいなら、日数分、好きなだけ勝手に進んでよろしい。
しかし、九州島内を通交するのなら、水行陸行の一日はそれぞれ何里かを答えろ。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:08:44.12
>>508
>これ、お墓から出ている訳じゃないんだよ?

甕棺墓だろ?  @阿波


>泡には、直径40センチの柱を使った大建築は検出されてなかったと思ったが?ww

はいどうぞ。
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
注目されるのは分銅形土製品がある。分銅形土製品には目・鼻・口など顔が線刻されており、祭祀に用いられたと思われる。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B0%A4%C7%C8%BB%D4%2F%C0%BE%C4%B9%CA%F6%B0%E4%C0%D7
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:10:52.15
>>497
そんなアホ連呼すればするほど
テンプレに反論ひとつマトモに出来ない九州説が
ますますミジメになるだけだぞ
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:11:00.89
>494>>507

会稽東・・・で、九州説を非難してる畿内説の奴が馬鹿
行程はあてにならないの証拠として出してもいいが
13世紀の地図は持ち出すと、誰かの書き込みじゃ無いけど
遣唐使もビックリ
中國の正史に疑問を投げ掛ける畿内説はある面好きだよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:12:35.29
>>514
初心者?
腐るほど反論してるぞ
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:14:35.14
>>514
九州説に限らず阿波説も反論してるし
また同じ畿内説でも日本海ルート支持者も反論してるぞ
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:14:59.16
>>512
そう言った人は誰?

九州説はまた捏造?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:15:37.85
>>516
いつ、どこで何と言って?
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:16:21.43
今に始まったことじゃ無いけど
最近、材料が無いのかキナイコシがボケをかますなww
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:18:46.84
投馬国は傍線。
帯方郡から海路で20日のところにある。
五島列島だな。
五島列島の中心地、富江は現地の人は「トンメ」と言う。
魏使はそこへ行っていない。
投馬国は5万の人口を抱える大国なのに、全く記載がないからね。
邪馬台国連合の一員として伝聞のみで記載された。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:20:52.17
畿内説???

近江は狗奴国でいいのだろうか?
伊勢は畿内邪馬台国の出先でいいのだろうか?
上野、亀山は何国なんだろ?
東海地方は何国なんだろう?
北陸地方は何国なんだろう?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:20:57.13
426>>848
>北部九州の外来土器が殆ど出ないと どうして畿内説が終わるんだ? 理由は?<

大和説学者らは、始めから、
大和が盟主だから、西日本全域からの外来土器の搬入(上納?)があったのだ、
という論理で大和説を唱えていたが、

実際には、筑紫に関しては、逆に、
筑紫に西日本全域や大和や半島からの搬入上納があり、
筑紫→大和の搬入は全く0であったから、
大和説学者らの説明が×で終わったから。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:22:45.45
畿内説???

近江は狗奴国でいいのだろうか?
伊勢は畿内邪馬台国の出先でいいのだろうか?
上野、亀山は何国なんだろ?
東海地方は何国なんだろう?
北陸地方は何国なんだろう?
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:24:00.01
>>462
>畿内に邪馬台国がなかったという証拠は山ほどある。

それを『具体的に根拠とともに書け』と何度言えば!
まあ、九州説が根拠だと思っているものは、既に全部否定済みで、その結果が
このスレのテンプレに残されているから、書くこともないんだろうけれどw
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:25:53.59
>>524
狗奴国は紀伊国の前身
読みの語呂合わせじゃねーけど
和歌山の古代史も馬鹿にできないぞ 
ググってみて
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:28:20.68
>>523
>筑紫→大和の搬入は全く0であったから、
>大和説学者らの説明が×で終わったから。

筑紫→大和の搬入は全く0であると
なんで大和説学者らの説明が×で終わるの?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:30:36.99
>>517
なんと言って?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:30:41.61
>>519
初心者はイカン
いつどこで
いつ=このスレのNO1から読んだの?最近でも良いよ
どこで=このスレに決まってるよ

言論の自由は認めるし5ちゃんも認めてるけど
あえて言うよ「 このスレに着いてくるなら過去レス読むか新情報を提示するか 」
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:31:38.24
426>>849
>九州の土器は畿内の庄内式に上書きされたんだよ<

これも、大和の庄内の始まりの石塚が、撥型前方後円墳であったために、
卑弥呼の冢や那珂八幡の前方後円墳よりも後の3世紀末になってしまった事や、
逆に、筑紫の庄内が柳田のついうっかり発言で3世紀前半の三雲になり、
更に祇園山や西新町や弥生銀座が続き、

米田が当初は播磨や河内の胎土の庄内の筑紫への搬入を説明したが、
その後、筑紫の庄内が殆ど筑紫の胎土で造られていた事が判り、
結局、庄内も、筑紫が河内や播磨や大和に先行していた、
という事になった。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:33:14.13
日本海ルートがテンプレに反論してるが
>>1 無視してる場合じゃ無いよ
九州説を相手にしてる場合じゃ無いよ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:33:49.87
426>>850
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
もう九州説に手も足も出ないな
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:35:40.80
>>487
>故に、下の記事文章が出現する以前の記事は、
>女王が共立されるより前の事項であるので、女王国=邪馬台国である。

いろいろと捏ね捏ねしているけれど、今問題にしているのは
「其大倭王」居邪馬臺國
樂浪郡徼 去「其國」萬二千里
去「其西北界」拘邪韓國七千餘里

ここで、三連続で出てくる指示語「其」の解釈だ
前にも、詳しく解説したが
最初の「其」は、「倭」または「倭国」
次の「其」も「其国」で「倭国」
三番目の「其」も「倭」または「倭国」だ

二番目にだけ「倭国(の王都)」と補うのは、インチキ捏造の類でしかない

そもそも、後漢書では後漢代が記録されているので、
本当の漢末(桓・靈間)になるまでは、卑弥呼は女王ではないし、倭国は女王国ではない
卑弥呼が倭王かどうかは、冒頭の記述には関係ない
だから、卑弥呼とも女王とも書かずに「大倭王」という表現になっている

繰り返すが、この問題の三連続の「其」の真ん中にだけ
「倭国(の王都)」と補うのは、インチキ捏造の類だ!
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:37:39.96
>>502
出雲以外の中国地方広域が投馬国?
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:39:48.33
>>506
>この「女王國」は倭国か邪馬台国かが良くわからないので
>解説も含め誰か教えてくれませんか

魏志倭人伝中の、「女王」表記は13ヶ所 うち5ヶ所が「女王国」

順に見ていくと
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

これを見ると、女王と書いて、女王国を意味するところがあるし、
女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがある

2と8、11,12,13の女王は、「卑弥呼という人物」を指す
1と4と5と、おそらく9と10は「女王国連合」(4、5、10は女王で女王国の意味)
3と7は「邪馬台国(女王の都する所)」
6ははっきりしないけど、9と10と同じ扱いで「女王国連合」でよい

つまり、基本的には女王・女王国は、「女王国連合(卑弥呼の共立範囲)≒倭国」で
「自女王國以北」の2ヶ所のみ「女王の都するところ=邪馬台国」となる
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:41:44.28
畿内説はなんなの

邪馬台国=ヤマト説⇒畿内説⇒近畿説⇒東海、北陸も入れそうな勢い
投馬国⇒吉備⇒出雲も入れる⇒さてさてどうなることやら
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:44:53.07
>>512
>しかし、九州島内を通交するのなら、水行陸行の一日はそれぞれ何里かを答えろ。

何を血迷っているんだ?
九州島内は通行していないし、日数表記はされていない
                以上ww

補足
この部分はテンプレとも意見が違うのだが、九州島内の陸行記事は
古い記録から採った地理紹介のための記述で、魏使は九州島内を陸上移動はしていないと思う
もちろん、伊都国、奴国では上陸して、その国内は歩いているけれど

壱岐からそのまま伊都国へ船で行き、奴国(福岡)、投馬国(出雲)へも、
そのまま船を回していると思っている
それが最も合理的だから
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:46:31.82
畿内説で一番嫌われてるのは阿波説
投馬国でも無いし、畿内にも入れてもらえない

@阿波 
記紀だよりの忌部は閉口するな
遺物じゃ畿内に勝ってるのに残念だな
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:49:32.07
>>866
相手の言ってることを聞かないで
「南→東」などの嘘つき詐欺をし、
自分の妄想と格闘する
それが大和説
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:50:37.85
>>535
>魏志倭人伝中の、「女王」表記は13ヶ所 うち5ヶ所が「女王国」

「倭国」表記は何か所?


> 女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがある

女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(邪馬台国)を意味するところがある。 

つまり、女王国=邪馬台国。  @阿波
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:51:55.92
>>491
>1日に100キロ進む船が必要だが、3世紀にはそんな高速船はないから物理的に否定される

千里は75キロくらいか?
時速8キロで9時間漕げばいい。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:54:44.42
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4ac06b0fed7faf17
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
426>>870
「南→東」などの嘘つき詐欺をし、
普通じゃないのが大和説

しかし、変だねえ。連投になっていない。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:54:55.72
>>521
>帯方郡から海路で20日のところにある。
>五島列島だな。

またすごいトンデモをぶっこんで来たなww
五島列島では、遺跡の状況を見ても、平地面積を見ても
どうやっても五万戸の大国は無理だろうに

五島列島は、古くは値嘉郡であり、値嘉島と呼ばれていた
古事記の国産みで最後の方で生まれる知訶嶋がこれにあたる

古地名では「チカ」なのがはっきりしているから、「投馬国・ヅマ」に当てるのは
地名から言っても無理がある
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:58:13.93
>>534
>出雲以外の中国地方広域が投馬国?

出雲を「含め」中国地方の広域が投馬国
基本的に「山陰の四隅突出墓の文化圏」でよいと思っているけれど、
吉備と出雲の関係しだいでは、吉備まで入る広域になる
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:04:27.38
426>>886
>記紀と魏志倭人伝によって
倭国大乱で神武天皇が畿内の国々を統一しやまとと改めたなら
西暦180年ごろ<

神武は書紀や二中歴に拠って、紀元前の人だし、
倭国大乱も畿内も存在しないし、
「やまと」説は「南≠東」などに拠って、×。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:04:29.09
>>533
>いろいろと捏ね捏ねしているけれど、今問題にしているのは
>「其大倭王」居邪馬臺國
>樂浪郡徼 去「其國」萬二千里
>去「其西北界」拘邪韓國七千餘里

卑弥呼は親魏倭王=倭王にはなったが、大倭王になったことはない。
この大倭王は、其の国もと亦男子を以て王と為し(其国本亦以男子為王。住七八十年)・・・、の男子王のことであろう。
其の倭国の大倭男子王は邪馬台国に居していた。
其の居国の邪馬台国は、楽浪を去る〜万二千里、、、
また其の居国の北西境界にあるクヤカンコクを去ること七千里、、、
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:04:55.39
>>543
五島列島は対馬島への出航地なんだよ。 対馬海流を利用してね。  @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:06:26.60
畿内説のテンプレは、ウソの言い訳。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:09:39.75
>>540
>「倭国」表記は何か所?

「倭」が22ヵ所、そのうち「倭國」は3ヶ所
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。於國中、有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使「倭國」、皆臨津搜露。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、「倭國」亂、相攻伐歷年。

正始元年。太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣「倭國」。拜假倭王、幷齎詔。

基本的には「倭」であり、「倭人」「倭地」「倭水人」などの表記が使われていて、
「倭國」という枠組みは重視しない書き方になっている
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:09:57.38
426>>900
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説が大和、
おおよそ全てにおいて負けて阿鼻叫喚に騒ぐのを、
悠然と見下さして貰うかな
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:13:24.71
>>536
そりゃ七万戸の国なら普通は西日本一帯を
想定してもおかしくはないんだからな。

倭人は山と海に挟まれた場所に住むんだしな。
平野に固まって住むのではない。
勿論山中深く高地に住むのでもない。
そうなると畿内周辺が主な場所になる。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:15:02.11
>>546
いろいろ捏ね捏ねしてるけどさ、
魏志倭人伝で
自「郡」至女王國、萬二千餘里 の郡は帯方郡だろ?
後漢書で
「樂浪郡」徼 去其國萬二千里 で、起点が楽浪郡になっているのに
萬二千里は変わらないのを、どう思ってるんだ?

萬二千里は、具体的な場所を指す数値じゃないんだよ
淮南子の、伝説の世界の果てを示す観念的な数字をそのまま持ってきただけ
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:16:41.48
ヤマの付く場所といえばヤマトにヤマシロ、ヤマセと生駒辺りに集中してるからな。
あの辺りが邪馬台国だよ、聖徳太子の縁の矢田丘陵辺りだね。
まぁもう畿内説で決まったんだよ。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:17:20.47
426>>914
「南≠東」などの嘘つき詐欺がバレて、
もうとっくに九州説で決着はついてるんだから、
大和説は諦めれ
せめて、このスレを閉じた方が醜態を晒さんで済むぞ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:20:43.08
426>>927
>狗奴國は静岡じゃね <

「南≠東」などに拠って、×ね。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:20:59.54
>>555
オラ九州説

狗邪韓国は倭人領土だ

畿内説のお前はどう思うんだ???
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:22:16.96
投を「つ」と読む?
「とう」だろ?
「つ」なら「都」だよ。
都を「と」と読むのはだいぶ後の話だ。
中国では今も「つ」だ。
伊都国は「いつ」国だからね。
ちなみに前原あたりは昔は伊蘇国だ。
糸になったのは伊蘇が訛ったものと記されているよ。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:25:40.93
>>557
韓国って書いてあるだろ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:26:13.03
>>559
オラ九州説

狗邪韓国は倭人領土だ

畿内説のお前はどう思うんだ???
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:26:43.44
>>506
倭人伝の構成は、次のようになっています。

倭地 (従郡至倭…)
女王国 (自女王国以北其戸数…)・(自郡至女王国萬二千余里)
倭地 (風俗)
女王国 (自女王国以北特置一大卒)
倭国 (其国本亦以男子…)
女王国 (女王国東渡海千余里…)
倭地 (参問倭地…)

これをみると、女王国は邪馬台国を指しています。
そして、(女王国東渡海千余里…)は、北部九州の大牟田、みやま、柳川、筑後、八女あたりにあった実際の邪馬台国からみた東方の海を千余里舟で行くとまた倭種の国がある、という情報になりますね。
その海は、瀬戸内海でしょう。
行橋市あたりから周防灘、瀬戸内海、大阪湾と進んで、河内・大和あたりが倭種の国でしょう。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:29:55.73
>>557
当たり前だが半島南部は倭人の国だが?
新羅だって半分倭みたいなもんだ。

で邪馬台国は後のヤマト、これ以外の答えはない。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:32:13.57
>>543

ウィキ

値嘉島(ちかのしま 値嘉嶋、値賀嶋とも表記)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つである。
西海道に所属し、領域は現在の平戸島と彼杵郡所属であった江島・平島を除く五島列島、及びその附属島嶼にあたる。
876年に肥前国から分立されたが、10世紀初頭までに廃止された。

壱岐島・対馬島・多禰島と同じように、国と同格の地方行政区分である島の字を用いた。

行政区分は平戸のほうじゃないか。
昔から平戸に属していたなんて証拠は全くない。

富江が投馬でよい。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:32:45.16
>>548
な〜んも反論できなくて中傷専門に堕落したのが
落ちぶれ果てた九州説
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:33:34.97
>>558
モモソが生まれた場所知ってるか?
保津で後に都村となるんだよ。
ホツとはホトだし女王が生まれ場所、中心と
いう意味なんだからな。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:34:55.00
426>>974
>会稽東治(冶)の東、沖縄や台湾の辺りと書いてある <

書いていない。
会稽東冶ではなく会稽東治であり、だから沖縄台湾も×。
類スレ主も、スレ主と同じく、嘘つき詐欺師仲間。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:37:58.98
ヤマトは国のまほろば、という意味もこれで判るだろう。
国のマホトからの転化だよ、真のホトの場所、
中心という意味だよ。
少しは賢くなっただろw
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:38:16.38
>>513
>竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)

その大型建物に、40センチ以上の柱があるといいねww
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:41:23.57
モモソの母親の名前の意味もこれで説明がつくだろう。
モモソ母はオオヤマトクニアレ姫
つまりオオヤマトを生んだ姫だ。
つまりモモソ姫とはヤマトそのものなんだからな。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:41:31.40
>>563
五島列島は対馬島への出航地なんだよ。 対馬海流を利用してね。  @阿波
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:45:51.76
>>568
>その大型建物に、40センチ以上の柱があるといいねww

掘っ立て柱なんてどうでもいいよ。 君は縄文時代の三内丸山遺跡にでも手を合わせておけばいいさ。  @阿波
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:46:11.70
426>>987
>三世紀ごろの倭国の状況
畿内邪馬台国とその出先機関一大卒によって監視されていた九州北部と <

畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
九州倭国の「東征毛芯五十五國」の中の一国。

>九州南部の熊本鹿児島辺りは考古学的文化的に見ても断絶があった
西暦266年以降に卑弥呼の後継者臺與が
魏の威を借りて狗奴国を滅ぼしたと魏志倭人伝にある<

書いてない。

>三世紀の状況から見るに畿内-九州連合で熊本鹿児島に攻め入ったんだろう
戦場はたぶん熊本鹿児島の県境のどこか <

景行は、浮羽に凱旋しているから、九州倭国の将軍的地位の人。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:49:05.44
>>573
>景行は、浮羽に凱旋しているから、九州倭国の将軍的地位の人。

大王かもしれませんよ。
師升も自ら海を渡っていますし
後の大王も自ら東征したと言っていますから。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:49:30.26
>>561
>これをみると、女王国は邪馬台国を指しています。

だから、>>535で全解釈してあるように、女王国と書いて邪馬台国なのは2ヵ所だけなんだよ
その2ヶ所だけあげて、女王国=邪馬台国でござい、というのはチェリーピッキングの極致w

ひどいもんだw
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:49:54.79
426>>988
結局「邪馬台国」なんてなかったし、
「南→東」などの嘘つき詐欺をして、
邪馬壹國女王之所都が大和にあったと強弁して、
歴史をねじ曲げようとした大和説
しかしその野望は阻止されてしまったのだった
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:53:34.52
>>563
>行政区分は平戸のほうじゃないか。
>昔から平戸に属していたなんて証拠は全くない。

だから、>>543で古事記の知訶嶋を挙げておいただろ?
五島列島が知訶嶋で、平戸は知訶「嶋」ではない

>富江が投馬でよい。

だめだよww
トミエと、ヅマでは、音が合わない

それに五万戸が入らないってのをガン無視してるだろ?
そういうのをインチキって言うんだよ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:53:54.87
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連投してるで
問い合わせID:4ac0c44acc692078
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
426>.992
九州説の磐石ぶりに
こんな典型的な負け犬の捨てゼリフしか出なくなった大和説
哀れなものよのう

おかしいのは大和説者の頭なんだけどね
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:08:15.30
邪馬台国とは七万戸の国で女王が都とする国。
都を津と解釈すれば女王が生まれた場所だからな。
ヤマトしかないだろ、しかも保津の姫、モモソ
そのものだ。
ヤマトからヤマシロ、ヤマセ周辺しかあり得ない。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:10:22.28
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:10:51.36
>>572
>掘っ立て柱なんてどうでもいいよ。 君は縄文時代の三内丸山遺跡にでも手を合わせておけばいいさ。 

泡がだめなところは、間違いを認められないところ
すぐに話をそらしてごまかそうとする
まあ、倭人の活動=忌部としているところから、というか全部ごまかしなんだけどさ

唐津の千々賀遺跡は、ちゃんと集落遺跡だっただろ? 墓だけじゃないんだよww
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:10:55.83
>>579
>ヤマトからヤマシロ、ヤマセ周辺しかあり得ない。

碌な遺跡も無いのに?  @阿波
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:11:30.07
>>535

3「自女王國以北其戸数道里可得略載」

女王國よりも北の地域は戸数と道里(=里数)を略載することができる
女王國内は里数ではなく日数表記

7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」

女王國よりも北の地域には特に一大率を置く
女王國内には一大率を置いていない

3、7の女王國は女王國連合
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:13:15.04
韓国人が作製した邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。。。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:17:06.00
>>583
>女王國内は里数ではなく日数表記

先進地域の女王國内こそ理数表記でしょうに。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:17:11.68
>>581
>唐津の千々賀遺跡は、ちゃんと集落遺跡だっただろ? 墓だけじゃないんだよww

だから、その程度の遺跡がどうしたと?  なにを気張ってんの? 
ところで、集落遺跡はその千々賀遺跡だけかね?   @阿波
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:19:07.45
>>574
>師升も自ら海を渡っていますし

これなんだけど、倭王自ら洛陽へ旅をするのはナンセンス。
ナンバーツーの(太宰の)帥が上洛したのではないか?
魏志倭人伝でも率(帥)は卑弥呼に次ぐナンバーツーだし。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:22:19.25
>>583
連合だなんて書いてないぞ。
あと、自女王国は女王国を起点としている意味で、以北も女王国を含む用語だよ。
慎重な陳寿らしく、二度もその範囲が女王国を含むことを明示している。

なお、慎重な陳寿は、邪馬台国までの行程も、里程と日程の二つを併記している。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:24:16.61
>>533
>樂浪郡徼 去「其國」萬二千里
>二番目にだけ「倭国(の王都)」と補うのは、インチキ捏造の類でしかない

わかったわかった。
これならどうだ。

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:34:54.09
>>575
いやいや。
女王国と書いてあるのは、全部邪馬台国だよ。
同じ字いてあるのに、違う意味のものがあるという解釈もひどいな〜。
邪馬台国を指していないのは、どれで、どうしてそう解釈しているのか、書いてみてチョ。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:42:51.41
>>574
景行は、纏向から筑紫へ行き、それから日向に向かい、熊襲を討って、熊本、筑後へ観光旅行し、うきはから大和の纏向へ還ったの。
みなさん、なんか、悪い夢みてるの?
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:48:19.78
>>567
マホラマとも書いてるよな。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:52:48.24
>>558
投馬は殺馬の間違いで、殺馬は薩摩だよ。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:01:11.25
>>591
景行は九州に上陸し、倭国女王神夏磯姫を軍事的に支援して実権を掌握し、自身が倭王として京都郡に王都を定めた。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:01:59.76
邪馬台国時代の国を語る際には弥生時代後期の広域土器様式圏くらいは基礎知識として知っておきたい
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:04:48.19
>>595

邪馬台国時代の国を語る際には弥生時代後期の「東阿波型土器」様式圏くらいは基礎知識として知っておき給え。  @阿波
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:07:00.32
まほ(真秀):十分であること。完全であること。
真秀らしい場所
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:07:08.52
>>565
>モモソが生まれた場所知ってるか?
保津で後に都村となるんだよ。
ホツとはホトだし女王が生まれ場所、中心と
いう意味なんだからな。

だから言ったろ?
「つ」が「と」になるのはずっと後。

日本書紀に「怡土」はかって「伊蘇」でありそれが訛って「怡土」になったと書いてある。
あのあたりは昔はもっと海が陸地に入り込んでいて、海近くだったのさ。
だから、あのあたりは磯だった。
そのイソが訛ってイトになったというわけ。
又、五十迹手の出身地でもある。
昔からイトではなかったんだよ。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:09:54.30
奈良時代の年貢は村の若者が命がけで都まで運んだからな


広域土器様式圏


無慈悲にも自費で
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:16:08.50
銅剣とか銅鏡とかはどうした。
土器しか頼れないからか。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:17:39.58
土器以外だと、、、桃の種。。。倭人伝に書かれておらん。。。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:28:02.71
427>>130
>畿内が古来から邪馬台国に通じるやまと国という呼び名<


畿内も邪馬台国も存在しない嘘つき詐欺の文言だから、×。

>その地域に卑弥呼のいた時代の魏の年号が刻まれた銅鏡<


卑弥呼は。「南≠東」で×であるし、
「魏の年号」も「景初三年」以後であり、明帝の詔書の景初二年以後だから、
明帝の鏡にはならず、×。

>そして卑弥呼と同時代の前方後円墳がある<

卑弥呼の墓は冢であり、大和は前方後円墳であるから、卑弥呼の墓よりもずっと後であり、
3世紀末であるから、×。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:29:40.28
427>>130
>畿内が古来から邪馬台国に通じるやまと国という呼び名<


畿内も邪馬台国も存在しない嘘つき詐欺の文言だから、×。

>その地域に卑弥呼のいた時代の魏の年号が刻まれた銅鏡<


卑弥呼は。「南≠東」で×であるし、
「魏の年号」も「景初三年」以後であり、明帝の詔書の景初二年以後だから、
明帝の鏡にはならず、×。

>そして卑弥呼と同時代の前方後円墳がある<

卑弥呼の墓は冢であり、大和は前方後円墳であるから、卑弥呼の墓よりもずっと後であり、
3世紀末であるから、×。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:30:36.45
>>603
年代の根拠が全くないね

だから、×
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:34:50.63
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:35:47.84
つまり、韓国人が作製した邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。。。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:47:48.99
土器にしても、纒向から楽浪土器が出ないからねえ。
帯方郡と交渉していたようには見えない。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:50:55.85
>>608
それは見る目がないだけだよ
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:53:41.74
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:02:53.80
>>500
やまとは漢字にすると山の戸
信仰対象だった山の入り口という意味

卑弥呼が魏から鏡を賜ったのを景初二年と倭人伝に書かれるのは
時代が下って誤記が多くなった12世紀以降
それ以前の倭人伝ではほぼ景初三年になっている

畿内の前方後円墳ホケノ山は三世紀中葉と
科学的にも判定されている

以上で九州説は消滅
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:08:58.10
>>301
会稽東治という地名は存在てなかったので
後漢書または古地名にある会稽東冶の書き間違い
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:28:36.65
気づいてないのか九州説
お前らはとっくに死んでるんだ
早いところ成仏してくれ南無阿弥陀仏
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:32:54.37
>>612
同時代に邪馬台国と関係なく近畿地方にも倭種がいただけ。
中国と国交がない地域はお呼びじゃない。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:50:09.54
馬鹿だな普段中国と交流が無い国が入貢してきたから喜ばれたんだぞ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:52:39.25
一大率檢察地域 卑奴母離(鄙守)設置
對海國 大官日卑狗 副日卑奴母離
一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
末盧國
伊都國 官日爾支 副日泄謨觚 柄渠觚
奴國  官日兕馬觚 副日卑奴母離 
不彌國 官日多模 副日卑奴母離
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 00:02:58.45
>>616
畿内から魏の年号が入った銅鏡が多数見つかるのは
国交のあった証じゃないですかねえ
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 00:19:27.86
投馬国は一大卒管轄外
王がいないし卑弥呼を共立した国の一つやろな
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 00:25:29.39
>>619
>畿内から魏の年号が入った銅鏡が多数見つかる

初耳だな

例えばどの銅鏡のことだ?
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 02:16:14.19
>>617
倭は漢に朝貢していた。
時節を誤ることなくね。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 03:11:15.07
>>612
>ヤマトは漢字にすると山の戸
信仰対象だった山の入り口という意味

だったら、日本書紀や古事記、また万葉集の歌などに、その山戸の表記がないの?
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 03:16:55.22
>>594
>景行は九州に上陸し…。

どこから来たの?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 03:42:14.91
>>596
東阿波型土器は、布留式土器と一緒に出るそうじやないか。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 05:19:16.75
427>>140
>それに266年より前から前方後円墳があるんだから、説得力もまるでないただの迷惑コピペってだけ<

これまた、類スレ主のインチキ宣伝。
筑紫での前方後円墳の最初は、275年頃の那珂八幡など。
大和の前方後円墳の始まりは、3世紀末の石塚など。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 05:23:43.21
427>>145
これまた、「南→東」などの嘘吐き詐欺師の貼り付けだが、
反論済みであるから、放置ね。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 05:48:26.16
427>>152
>FAQ84 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。<

関係なし。
古代中国人は、墳と冢とを「異なるもの」として使い分けており、
墳は、土が地面から(むくむくとと丸みを持って)盛り上がった形状をいい、
冢は、土が地面から錐体状の(尖り状に)突き出した形状をいう。
それの違いや関係を、説文解字は「冢、高墳也」として、
高さ(尖り度)を感じる噴出状だ、と説明したし、
孔明も、墳を山の形状に例え、冢を棺を容るるに足るような形状に使った。
だから、墳は山をイメージするから巨大感があり、
冢は韓の尖り家屋をイメージするから、墳よりは小さくイメージした。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 05:49:14.64
427>>152
>FAQ84 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。<

関係なし。
古代中国人は、墳と冢とを「異なるもの」として使い分けており、
墳は、土が地面から(むくむくとと丸みを持って)盛り上がった形状をいい、
冢は、土が地面から錐体状の(尖り状に)突き出した形状をいう。
それの違いや関係を、説文解字は「冢、高墳也」として、
高さ(尖り度)を感じる噴出状だ、と説明したし、
孔明も、墳を山の形状に例え、冢を棺を容るるに足るような形状に使った。
だから、墳は山をイメージするから巨大感があり、
冢は韓の尖り家屋をイメージするから、墳よりは小さくイメージした。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 05:50:52.76
427>>155以下の訂正
「南→東」などの嘘吐き騙しの反省の無い、
サル以下の大和説と会話しても無駄
「史料事実」の重要性など、何一つまともな事知らないんだからな
中国史に大和なんて全く相手にもされてないのに、
バカ丸出しの妄想できるんだから
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:04:02.70
427>>160
>福岡県では辰砂は産しない<

魏志に書かれた「朱丹」は、水銀だけではなく、
ベンガラなどを含む「朱色の顔料」の総称。
そして、辰砂は、松浦川上流の(からすんまのあった付近?)から採れたらしい。

>福岡の遺跡出土の水銀朱は本邦産でもない <

それほど朱丹に不自由していない。
東征毛人地域からは、市を介して辰砂の搬入はあったんだろうし、
明帝が「鉛丹五十斤」を卑弥呼に贈っているし、
丹木や阿蘇のベンガラもあるから。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:08:12.38
畿内説は邪馬台国西日本説にしたりするつもりじゃねーか
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:11:19.46
近畿中部説
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:15:30.37
427>>174
>晋書 卷三 帝紀第三 武帝
十一月己卯,倭人來獻方物。
并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。
罷山陽公國督軍,除其禁制。
己丑,追尊景帝夫人夏侯氏爲景懷皇后。
辛卯,遷祖禰神主于太廟。・・・
これ、各行は別々の記事だぞ
これだけの記事が武帝の泰始二年11月にあったってこと
なぜこれが前方後円墳の起源だと思うのかが不思議 <

なぜ類スレ主は、「天円地方」の思想を書いた部分を出さないで、
こっそり隠した引用を書くんだい?。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:26:21.21
427>>177
>>佐賀県では出るようだから、福岡、佐賀、長崎の範囲が倭国でいいな。<

>それ、今はそこに辰砂の鉱脈があるのが分かっているけれど、
弥生時代には知られてないんだよ
物理的に存在していても、知られていなければ其山有丹とは書かれない<

その「知る知らない」の話は、当然8世紀頃の大和政権の記録の話なんだろ?。
そんなものが、3世紀の九州での知見の証拠になんかなるもんか。

松浦川沿いの人は、松浦川の水の変色があれば、
当然上流にその色を出す鉱山?があるんだな?、と分かるもの。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:30:35.22
427>>179
>吉野ヶ里だと南端に方丘の祭壇があるな。<

成程。
こりゃ、通説大和説者側の「吉野ヶ里の年代比定」に、
重大な変更が必要になりそうですね。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:31:04.98
ザラコクさんよ
すべて倭人伝に忠実に解明しようとすると矛盾も生ずると思う
畿内説ほどとは言わないがネグレイトする部分もあってよいのでは
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:38:15.66
427>>180
>鄭玄説に基づいて魏明帝が作らせたもの(南郊と円丘、北郊と方澤が併置されていた)を
王肅説に基づいて(南郊に円丘、北郊に方澤をそれぞれ併せて)修復した
ということらしいよ。<

おや?、明帝も関与していたのか。
とすると、祇園山の南の方に、円墳が見つかる可能性がある、という事か。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:42:10.77
>>602
>あんたの東阿波型土器の理解は間違ってるよ

どう、間違っているか言えないお粗末。  @阿波
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:46:30.09
427>>181
>吉野ヶ里の南祭壇は、北墳丘墓の軸線〜立柱・祠堂の延長上にあるから
北墳丘墓に対する祭祀の場だろう 冬至夏至とは何の関係もない
しばらく前にこれを二十四節気を示す太陽信仰だって言い張ってたバカがいたんだけどね<

そういえば、仁徳などの百舌鳥古墳群も、軸が南北から少し東北〜南西に傾いていたなあ。
何か?理由があったんだろうか。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:47:50.85
>>620
>河内周辺や奈良盆地に弥生遺跡がないのかw

碌な遺跡が無いと言ってるのだがw   
おまえはアホか?   @阿波
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:50:26.19
>>626
>東阿波型土器は、布留式土器と一緒に出るそうじやないか。

それがなにか?  @阿波
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:58:34.99
427>>186
>狗奴国と倭国【邪馬台国でも可)の主たる戦場の地はどこ?
戦場の地が畿内以西だとすると、畿内説の邪馬台国の地は狗奴国に一時制圧された?
素人ですまんが教えてくれないか <

「畿内説」なんて書くアホ詐欺師男に教える必要もないが、
魏志には、狗奴國は、
「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」として、
女王の「南」とはっきり書いてあるから、
筑紫平野の南端部〜菊池付近なんだろう。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 06:59:51.16
>>642
阿波説=畿内邪馬台国出先説なのだよ
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:00:14.44
>>630
素人のおじいさん
なんかそういう宇宙からの電波でも受信したの?
そういう神の御告げかい?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:05:37.44
>>622
景初三年鏡 大阪府和泉市 黄金塚
景初四年鏡 京都府福知山 広峯15号墳
正始元年鏡 兵庫県豊岡市 森尾古墳

画文帯神獣鏡や斜縁盤龍鏡など
九州説はこの程度のことも知らずに畿内説スレに書き込んでるのかよ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:06:07.08
>>595
>弥生時代後期の広域土器様式圏

文化と政権とは別に考えればいいよ
パンを主食とする地域は皆 同じ政権下と言っているようなもの
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:08:27.72
前方後円墳もしかり
当時の流行だと解釈すべき
だから、蝦夷地でも出現する
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:08:47.80
>>645
>阿波説=畿内邪馬台国出先説なのだよ

そもそも、「畿内邪馬台国」など存在しないんだよ。  @阿波
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:09:22.33
>>643
布留式の時代には、もう纏向は完成しているし、しかも古墳時代に入っている。
そうすると、東阿波式土器を持った阿波人民が、弥生終末期の纏向に影響を与えたということにならない。
ヤマト王権の基礎づくりに、阿波は関与していなかったという歴史。
もっとも、纏向遺跡で東阿波式土器が出ているので、何らかの関与はあったとしても、それは3世紀後半から4世紀のことだよ〜ん。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:12:21.76
>>649
>当時の流行だと解釈すべき

倭国(阿波)を発った「忌部はん」 の進出だと解釈すべき    @�「波
0653日本@末シ無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:12:23.23
>>647
舶載銅鏡は、みな中古骨董流れ。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:13:53.36
427>>189
>お主が言う黄河の支流というのは、汾河。
その汾河の中流あたりに介休市があり、その介休市から東南へ20kmほどで介山(綿山)がある。
介休市の海抜は、756m。
介山の断崖の下の地面は、介休市の標高よりも高いところにある。

成程。
介山は介休市から20kmも離れていて、
しかも、汾河の低地に近いところにあった訳か。
という事は、介休市は、介山の高さや形状に殆ど関係がない、という事だな。
要するに、介山の山高の三十里は、汾河の低地から三角測量で計測され、
その周囲長の七十里は、
1000m位の高地にそそり立っている山容部分での計測であったんだろう、
という事だな。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:15:01.02
>>624
日本に漢字のない時代の呼び名だったから
後に音そのままに夜麻登など当て字されている
やまとに中国側の名称の倭を当てていた事もあった
そして倭を和に変え大和
やまとの本来的な意味を漢字で表すと山戸とか山扉
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:16:24.04
>>639
それ、太鼓判。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:17:07.36
>>652
忌部の進出じゃなく、忌部が流行らせたぐらいにしたら
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:18:51.16
>>653
おおよその史書の各倭人伝には景初三年に
卑弥呼が魏から百枚銅鏡を貰ったと書いてるよ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:19:42.07
倭≠和
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:21:00.03
地名が九州から近畿に移動した時に表記も改められた。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:25:26.63
>>624
大和川沿いの王子町役場付近に、舟戸の地名があるぞ。
山戸はないけどな〜。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:25:58.24
>>651
>布留式の時代には、もう纏向は完成しているし、しかも古墳時代に入っている。
>そうすると、東阿波式土器を持った阿波人民が、弥生終末期の纏向に影響を与えたということにならない。

意味不明。

>ヤマト王権の基礎づくりに、阿波は関与していなかったという歴史。

そもそも、奈良に「ヤマト王権」なるものは存在しないよ。 奈良は8世紀の大和朝廷から。 

>もっとも、纏向遺跡で東阿波式土器が出ているので、何らかの関与はあったとしても、それは3世紀後半から4世紀のことだよ〜ん。

それがなにか?  ほとんどが「東阿波型土器」だよ。   @阿波
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:27:36.89
>>657
>忌部の進出じゃなく、忌部が流行らせたぐらいにしたら

結局、同じこと。  @阿波
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:31:47.73
>>655
日本書紀には、筑後山門縣と漢字で書いてあるぞ。
なのに、なんで、山戸と書かないの。
日本書紀が山戸と書かないのは、ヤマトの意味が山戸でないからだよん。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:31:47.90
>>662
いつ東遷した?
まさか2600年前とか言わないよね?
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:38:50.88
>>663
>大和川沿いの王子町役場付近に、舟戸の地名があるぞ。

鮒からじゃねーの 湿地帯だから
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:38:57.70
>>635
>なぜ類スレ主は、「天円地方」の思想を書いた部分を出さないで、
>こっそり隠した引用を書くんだい?。

ザラコクはもの知らずで漢文も読めない
「并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊」
これだぞww
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:40:42.39
>>637
>>吉野ヶ里だと南端に方丘の祭壇があるな。<

>こりゃ、通説大和説者側の「吉野ヶ里の年代比定」に、
>重大な変更が必要になりそうですね。

南郊に作るのは、円丘だ
つまり南郊壇とは関係ないってことww
バカすぎ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:41:17.42
>>667
日本書紀では神武が九州から畿内に東征した物語があり
魏志倭人伝には倭国で大乱があって
それは桓霊の間、150〜180年と記録されている
よってそのあたり
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:47:41.75
>>641
>そういえば、仁徳などの百舌鳥古墳群も、軸が南北から少し東北〜南西に傾いていたなあ。
>何か?理由があったんだろうか。

海岸線や街道と平行に作ってあるんだよ
前方後円墳は「見せる王権の権威」だから
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:55:57.70
>>580
>大倭王は邪馬台国にいる。
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。

ダメに決まってるだろう
3番目が「邪馬台国の西北界」ではダメなのが確定だから、
その直前のその国は「倭国」であって、邪馬台国ではあり得ない

結論ありきでごまかそうとしているだけ
解釈の方向がおかしい
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:59:17.22
>>672
>日本書紀では神武が九州から畿内に東征した物語があり

全く違う。  倭国(阿波)国内での物語


>魏志倭人伝には倭国で大乱があって

倭国乱。 倭国(阿波)国内での乱。  @阿波
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:01:58.30
>>664
3世紀前半から4世紀にかけて、奈良にあった政治勢力の呼称としては、ワイは纏向連合政権、縮めて纏向政権と呼んでいる。
大型建物群や大墳丘墓を造り、鉄器など貴重財を連合各国へ配布したのは、この政権。

ほとんどが東阿波型土器だというが、外来土器としてだろ。
地元土器が駆逐されたという意味ではないよな〜。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:14:53.40
>>674
>その直前のその国は「倭国」であって、邪馬台国ではあり得ない

ぼんやりとした範囲ではなく、王都を意味するのであればそうだろう。
その場合、王都である邪馬台国まで一万二千里と同等の内容になる。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:16:54.58
>>668
戸は出入り口。
瀬戸は、海峡の両岸が迫って、水の流れの出入り口となる所。
この用例からすると、山戸と書けば山が両側に迫った箇所にある狭い道のこと。
王権が所在するところが、狭い谷道という意味とはな〜。
0679孝霊厨
垢版 |
2019/02/21(木) 08:18:34.59
ヤマトはヤマの都だよ、つまりヤマタイ。
そもそもヤマは元々山ではなく宗教的な
意味合いだぞ。

簡単に言うと黄泉だ、閻魔の由来でもあり
ヤマの元々の由来は神や天に近い場所。
山は天に近い場所だから後々高い場所を
そう呼ぶ事になる。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:22:52.75
>>676
>3世紀前半から4世紀にかけて、奈良にあった政治勢力の呼称としては、ワイは纏向連合政権、縮めて纏向政権と呼んでいる。

碌な遺跡もないのに纏向連合政権? なに考えてんの?


>大型建物群や大墳丘墓を造り、鉄器など貴重財を連合各国へ配布したのは、この政権。

それ、「忌部はん」 の仕業だから。


>ほとんどが東阿波型土器だというが、外来土器としてだろ。

在来も「東阿波型土器」の製法だよ。  @阿波
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:24:47.65
>>679
それはむしろ、タイの方がそういう意味では?
磐座というやつだな。
山や巨石を御神体として祀る信仰だ。
0683孝霊厨
垢版 |
2019/02/21(木) 08:29:54.25
また閻魔は元々神であり死んだ人を天に行けるか裁く役割を自ら望んだんだよ。
その為後に地獄の王としてイメージが定着して
いった存在だ。
だから死んだ実力者は天に行けるか、もしくは
蘇りを願って奈良盆地の周辺にまず巨大な
古墳を造りたがったという事だね。
そこが元々ヤマの由来の根本。単に標高が
高い場所をヤマではなく天に近いという意味。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:32:52.93
>>654
その三十里を1里76.5mで計算すると2295m。
介山の標高が2440mだから、海抜750mの介休市の地面から三角測量したとしても、その介山の高さが2295mになることは、有り得ん。
だから、高三十里は登高三十里の意味で、介山の崖に作った登山道の距離が1里430mで約12kmもあるということだな。

介山の高さを言うのなら、三十丈だ。
丈を付けるだけで、高さだということが分かる。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:34:40.97
>>680はヒトにしては脳が少ない
0686孝霊厨
垢版 |
2019/02/21(木) 08:37:35.49
まあ本来の言葉の意味がどんどん変わってゆき、元々の意味から離れて全く違う意味合いを
帯びてゆくのは多い話だ。
最近だと携帯なんて解りやすいだろう。
ケータイという意味が電話、通信器具の代名詞になったのは最近の事だ。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:41:34.78
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:43:46.44
>>681
出土土器を見たら分かる。
政権加盟各国が、土木作業員を送って、纏向の地ならしをした。
その纏向は、加盟国の祭祀センターと墓域の場所。
加盟各国から職員が送られて、祭祀が行われた。

纏向政権は、農協のような組織。
必要な肥料を手当てし、それを会員農家に配るのが仕事。
阿波忌部人民は、5世紀頃からそうした農協への必要物資納入の役目のを負った。

纏向阿波型土器が造られるようになるのは、4世紀頃からな。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:44:45.32
427>>208
>つまり、邪馬台国が畿内の場合狗奴国と戦争状態にあった地(戦場)はどこかと言うこと。
狗奴国は邪馬台国と近いのなら畿内が戦場となる。(其南有狗奴國)
戦場が中四国や九州なら、畿内邪馬台国は狗奴国に制圧されたことになる <

邪馬台国も畿内も、史料事実に存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
始めから、×話。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:46:25.57
427>>210
>狗奴国が初期ヤマト王政じゃねーか <

「南≠東」などに拠って、×。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:48:11.81
427>>211
>間違えた狗奴国を滅ぼした九州勢力が畿内にヤマト王政を築いたのではねーか <

畿内なんて存在していなかったし、「南≠東」などに拠っても、×。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:53:30.91
>>688
>纏向阿波型土器が造られるようになるのは、4世紀頃からな。

魏志倭人伝の時代は、纏向は倭種の地だったってこと。
だが、3世紀末期には、ぼちぼち「東阿波型土器」製法が移入されてるんじゃないの?  @阿波 
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:53:42.42
427>>215
>支配してないと何度言えばww
自分で勝手な定義を立てて、そのかって定義の上に勝手な仮定を置いて、
その仮定を否定して畿内説が間違いと言ってもしょうがないだろうにw
卑弥呼は祭祀連合の象徴の共立女王なんだから、支配はしていない<

畿内なんて存在もしない嘘つき詐欺になるし、
勿論、「南≠東」などに拠っても、×。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:55:09.47
>>679
ヤマ(山)は、ヤ(谷)とヤ(谷)の間(マ)の意味。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:00:58.74
427>>220
>テンプレFAQ9
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、
その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある<

ない。
「遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状」をしているし、
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」までもしている。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:05:51.82
ザラコクは相変わらず根拠無しだな
詳しく説明したらボロが出るからしないのだろう
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:10:09.87
>>693
纏向阿波型土器が現れる年代を書いているものに出会わない。
しかし、東阿波型土器が布留式土器とともに出るのは事実。
徳島南部の遺跡では、布留式の新しいものと一緒に出ている。
纏向の東阿波型は4世紀だろう。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:17:22.00
>>698
ワイが言うてるのは、纏向遺跡出土土器について。
関係ない国が、土木作業員を派遣するかよ。
常識だろ〜。
さては、お主は、素人だな。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:17:36.39
>>699
>纏向の東阿波型は4世紀だろう。

それは、纏向型前方後円墳造営が4世紀だから。  @阿波
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:30:18.64
427>>233の訂正
AMSは、プラズマ化に拠って、50〜100年位古く出ているから、×。

飯炊き甕で、どこで何をしていたって考えているんだろうね?、
大和説の人は。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:42:16.74
427>>235
>旧事本紀ではニギハヤヒの天降りの時に名付けたとされている
 天祖以天璽瑞寶十種,授饒速日尊.則此尊稟天神御祖詔,乘天磐船而天降坐於河內國河上哮峰,
則牽坐於大倭國鳥見白庭山.天降之儀,明天神紀.
所謂乘天磐船而翔行於大虛空,巡睨是鄉而天降,謂:「虛空見日本國.」是歟 <

成程。饒速日の坐した河内の磐船付近も「大倭」と呼ばれていたのか。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:50:37.36
>>696
>ない。
>「遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状」をしているし、
>「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」までもしている。

おじいちゃん、その漢文が読めないからメチャクチャ言ってるんでしょ?
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 09:55:05.45
九州説はそもそも論として
6世紀初頭〜中頃になるまでは統一的な王朝と呼べるようなものがなかった
という前提は抑えて欲しいんだが…
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:00:25.58
427>>237
>テンプレのFAQ9
S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。<

中部から北陸関東の銅鏃なら、
そりゃ、鉄鏃の九州倭人の「東征毛人五十五國」の支配域ではないな。

>で、十分だと思うよ
律令の時代になっても、北陸がずっと越の国だったり、白河の関の先が全部陸奥国だったり
したように、大勢の外は大括りでひとかたまり扱いだった、でいいと思う
そしてその残存地名が、久能山、久努郷、毛野国に残されたってことでいいんじゃないかな<

九州の狗奴國地域も鉄鏃であった筈だから、久能山、久努郷、毛野国も、ちょっと怪しいなあ。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:04:30.93
427>>239
>わざわざというが、縄文時代から弥生時代の主要交通路は沿岸航行だよ
ヤマト(邪馬台国)から宇陀越えで伊勢に出て、そこから船だよ
尾張方向に行くのは水行
渥美半島から静岡方面に伊勢湾を横断していくのは渡海千里
余傍国の最初が次有斯馬國(伊勢志摩)だから、伊勢はヤマトに入れないだろうね<

「南≠東」などに拠って、×。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:19:03.05
427>>254
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説の人は、
どこまで悪質な無学なのだろう
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:21:36.58
427>>257
>水銀の鉱床は比較的浅い場所にあるので
水銀を取りつくしたら、あとは農業用地に作り替えるんだよ
だから現代に痕跡が残らなくても問題ない
豊後国風土記には、 かつて水銀が産出したと書かれてるのだから、
風土記よりも前の時代に水銀は出てたという事
邪馬台国の時代に産出してなかったとは言い切れないんだよ<

成程。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:23:10.08
ゼビスポモール祭
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:26:01.89
427>>258
>南や東しか進んでないのに伊都国にたどり着く事も無い<

南や東は、各部分行程での出発時点での出発方向を示し、
途中は案内人や道なりに進むから、
南と東ばかりに出発しても、伊都国にたどり着く事が出来る。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:30:37.29
427>>262
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説では、
都合が悪くなると急に、
魏使をおバカさんにをする。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:34:34.10
出発の方向を指してるのでもちろん南に出発しても東の畿内に辿り着く
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:37:40.38
427>>281
>邪馬台国東渡海千里なんてどこにも書いてないだろ?
奈良盆地は邪馬台国 女王国は、卑弥呼の共立に関わった祭祀連合
ただし、自女王国以北戸数道里略載と、自女王国以北、特置一大率の二箇所は
女王国がヤマト国 <

「南≠東」だから、×。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 10:49:54.55
427>>284
>混一図を方角の錯誤の根拠にするならば、畿内が南と書いてあることが排除できなくなる
ただのダブスタじゃんww 九州説はこんなのばっかりw<


後代に「知的退化」を起こしている「混一図」は、参考資料程度であり、
史料論理の根拠にはしないよ。
大和説者は、こんな「知的退化」のインチキばっかり。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:05:06.09
427>.286
>普通に考えたらというのをよく使う一人一説が九州説<

人類の常識を知らず、普通に考えずに、
「都合の悪い史料を何でも間違いだ」とするインチキ説が大和説。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:05:43.33
>>674日本@名無史さん2019/02/21(木) 07:55:57.70>>677
>ダメに決まってるだろう
>3番目が「邪馬台国の西北界」ではダメなのが確定だから、
>その直前のその国は「倭国」であって、邪馬台国ではあり得ない

 界を「境界線」と解釈し、「倭国の西北境界線」と読んでるからじゃないかな。
もしそうなら、此処は「西北接」と書かれたであろう。
界にはもっと広い意味もある。
業界、下界、世界、他界のように、類(影響)の及ぶ一定の範囲内を「界」というのだから、
邪馬台国に居する大倭王の類(影響力)の及ぶ範囲、則ち「界」の西北で良い。
 また、ここは楽浪郡との距離関係を述べているくだりなので、「倭国」と解釈すると、
倭国内の位置によって数千里の誤差が出て、主旨がぼやけてしまう。
だから、大倭王の居国を基準に書いたととるのがもっとも適切であろう。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:15:13.99
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:22:35.76
427>>298
>九州説は無知が作った<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
宗教的な皇国史観教に狂った詐欺師が作った。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:24:04.60
頭のおかしくない九州説のひとって実在するのかね
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:30:46.20
畿内説のテンプレは、ウソの言い訳事例集。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:37:07.33
427>>300
>風土記の時代は、記紀よりもあと飛鳥時代に畿内豪族が九州の水銀鉱床を「発見」しているから、
それ以前には知られていない <

松浦川上流山地には、黒曜石の「からすんま」の産地があったから、
大和が知らなくても、九州倭国は知っていた、という可能性は十分にある。

>ただし、九州が四国、紀伊半島まで影響圏にしていたという九州説ならともかく
北部九州より栄えている出雲、吉備、大和を排除した九州のみの倭国は、
3世紀に丹がないので、その時点で破綻する<

魏志倭人伝の記載は、(水銀朱だけを特定したものではなく)、
朱丹という顔料での説明であり、
阿蘇付近のベンガラや丹木もあるようであり、
水銀朱も、市を介して幾らでも手に入るんだから、
問題は何もない。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:50:57.19
427>>301
>これが妄想というかウソ
呼子周辺から、可也山が東に見えているから、伊都国は東と答えるよww <

これもインチキというかウソ。
呼子付近から伊都国方向は、可也山のかなり南方向になるから、
東南という事も否定出来ないし、
伊都国付近は、呼子からも唐津からも直接的には視認出来ないし、
呼子にしても唐津港にしても、東南は「出発方向」として十分でもある。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:55:29.78
>>477
300年間、畿内説も北部九州説も、
仲哀天皇・神功皇后記のパクリで解釈してきたから解けなかったのだよ。
パクリ解釈だと、糸島が伊都国になるが、そもそもそれが迷宮の入り口だったのさ。

末盧国・唐津からは、松浦川に沿ってさかのぼり、
脊振山系を南に迂回して、佐賀川上に伊都国、佐賀三根郡の目達原(吉野ヶ里一帯)に不彌国・・・、
そしてその南方に、投馬国(日向西都の都万)と邪馬台国(肥後熊本の邪馬嘉国)で、カンタン解決さ。
何事によらず、最初の一歩、それが最も肝心なのだよ。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:01:05.11
>>724
その碌な遺跡のない唐津が、そもそも迷宮の入り口だったのさ。  @阿波
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:03:11.79
427>>304
>各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがなくばらばらなのが、普通に考えた九州説
学者のほぼ通説が畿内説 <

文献考古の史料事実を尊重し、その微細が解釈差異で分れているのが九州説。

それに対して、皇国史観の文部省や右翼学会教育界トップらの、
「都合の悪い文献考古を否定曲解」するインチキ解釈に、
従順に盲従して統一されているのが大和説。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:33:27.67
自郡至女王國、萬二千餘里。

平壌-釜山 520km (狗邪韓国7000里・・・740m/里)
釜山-唐津 209km (渡る三海3000里・・・700m/里)

唐津-熊本市 155km(邪馬台国2000里・・・770m/里)
唐津-鹿児島 322km
唐津-宮崎市 336km
唐津-徳島市 536km
唐津-桜井市 716km
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:39:38.56
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:51:05.69
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:55:54.41
連続句読点にしろzarakokuにしろ
偏った異常で危険な政治思想にどっぷり漬かった人物で
なんか世間や常識というものに対して
怨念にも似た深く暗い悪感情を抱いていて
際限なく呪詛も言葉を吐いているように見える
要するに狂ってるということだが
実は、これが九州説の本質なのではないか
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:02:10.48
>>705
>九州説はそもそも論として
>6世紀初頭〜中頃になるまでは統一的な王朝と呼べるようなものがなかった
>という前提は抑えて欲しいんだが…

文意がやや不明瞭なようだ。
これでいいか?

畿内説はそもそも論として
6世紀初頭〜中頃になるまでは統一的な王朝と呼べるようなものがなかった(畿内と九州は別の国)
という前提は押さえて欲しいんだが…
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:10:29.06
>>732
そんな幻を見てて、なんか楽しいの?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:13:27.85
越から擁立されてなんとか畿内日本国の王となったオホド王が筑紫倭国に戦いを挑んで、筑紫の君磐井を追い詰めたが、結局は糟谷の屯倉を手に入れただけで終わっている。
明らかに九州は畿内の支配から独立していた。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:20:58.72
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:22:09.16
>>734
そんな創作『逆転の日本史』作って何が楽しいの?
ただの偽史制作ゴッコでしょ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:22:21.38
磐井は明らかに反乱に失敗して屈服してるので
反乱の前も後も畿内政権の勢力圏だな
独立勢力同士の戦いでは無い
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:26:29.93
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていた倭人という民族の存在を、隠すことなのだな。。。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:38:46.85
>>737
そしてそれは考古学的に証明されてることなんだよね
磐井の先代と考えられてる石人山古墳が畿内大王陵の縮小コピー、磐井の岩戸山も継体陵の縮小コピー
つまり九州王は代々ずっと畿内大王の家来なんだよ

磐井の反乱というのも実は
勃興してきた中央集権主義が地方分権主義を強引に圧殺したことの大義名分の可能性もあるんだ
反乱なんか濡れ衣で、それどころか忠臣を陥れた可能性すらあるってこと
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:40:48.27
畿内説のテンプレは、ウソの言い訳事例集。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:42:29.12
>>734

その100年後に改新の詔で
701年に、大宝律令の制定だからな
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:44:44.27
九州説は反日偽史作成委員会
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:46:35.39
>>740
九州説が論破され続けてきた黒歴史そのものだから
力づくでも消したいんだろ?
バレバレ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 14:01:52.74
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 14:16:44.95
畿内説のテンプレは、ウソの言い訳事例集。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 14:33:15.01
>>745
その連呼、反論できませんって降伏文書だね
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 14:49:25.18
完全に破綻した邪馬台国畿内説をつい今までまだ宣伝していた、北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、嘘を見破られて、論破されて降伏した可能性が、高いな。。。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 16:46:44.48
畿内説の始まりは魏志倭人伝の、
・「南」は「東」の間違いかもしれない
・一大率は畿内が派遣していたのかもしれない
・大倭=大和と読むのかもしれない


すべて想像だからな。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 16:54:37.15
>>748

・・・なんて、すべて想像だからな。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 17:01:06.38
>>748
それが畿内説の始まりだという想像は
想像というより、むしろ妄想だな
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 17:33:21.75
九州説の始まりは朱子学者の新井白石
朱子学は南宋の儒教の新しい学問体系
元になってるのは東晋時代に魏の正統性を否定した蜀漢正統論
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 18:00:34.14
>>648
>文化と政権とは別に考えればいいよ
>パンを主食とする地域は皆 同じ政権下と言っているようなもの

飯炊き用の甕だけなら、流行でもいいけれど、精製器種という祭祀用土器が
統一されているから、そこには政治的な統一があるんだよ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 18:08:18.01
>>677
>ぼんやりとした範囲ではなく、王都を意味するのであればそうだろう。
>その場合、王都である邪馬台国まで一万二千里と同等の内容になる。

いくら誤魔化してもダメだってば!

三番目の「其」が、直前の「其国」を受けている
そして、「其西北界拘邪韓國」は、直前の「其国」の西北界が拘邪韓國ってことなんだから
直前の「其国」が邪馬台国ではありえない

樂浪郡徼 去「其國」萬二千里 は「倭國」で確定

「東京から北海道まで900キロ」というときに、
「東京から北海道(その道庁所在地札幌)まで900キロ」と書いたら、捏造だろ?

萬二千里は倭国内の特定の場所は指してないんだよ!
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 18:15:59.61
半日ぶりに来たけど、コメ数が進んでいる割に返信が必要なのがほとんどなかったww
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 18:18:07.83
>>754
>精製器種という祭祀用土器が
>統一されているから、そこには政治的な統一があるんだよ

「精製器種という祭祀用土器」とは、いわゆる「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」
統一とは全国へ進出した「忌部はん」だからだよ。  @阿波
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 18:31:34.69
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:27:53.94
427>>305
>呼子から伊都国(三雲遺跡群)まで陸行するというのがそもそもおかしい <

伊都国は、「臨津搜露」をするから、海岸〜糸島水道付近であり、
三雲付近は遠過ぎて×。

>それに、行程の後半は「北」に向かわないと着かないのに、
最初の方角だけでいいと言うのが噴飯物というか<

「出発+途中+到着」で記載するのは人類の常識であり、、史料事実や史料実態。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:31:26.91
>>760
そうは言っても、出雲の田和山遺跡より古いのは出てないだろ?
亀井遺跡付近をもっと発掘できるといいんだけどね
あと、伊勢遺跡の辺もよく探せばありそう
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:33:01.49
>>758
>「精製器種という祭祀用土器」

「精製器種という祭祀用土器」は、普通、精製器種3種という言い方をするんだが、
「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」 には対応しないなww
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:38:29.54
記録として書かれた本来の目的のうち、最も重要であろう方位も距離もいい加減で、明らかに事実に反している項目がいくつも見受けられる文献があるとして、
けれどそこに書かれた出来事は、考古学で発見された事物が文献の一部を補強するので金科玉条のように正しい
だから文献に書かれた事象は必ずあったんだ、ということ?
萬二千里が概念なら、「大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」もプロパガンダ用の根拠にならない架空の数字なんじゃねーの?
そんなことはない、それはここにしかなかった、桃・桃と力んでいるのは奇妙な感じがするんだが
「いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が
点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある」(テンプレ)

ワンピースを一万年後に地中から発見して、ここに書かれているのと同じ島が確かに洋上にあった。だからルフィーはいたんだ!
というのとあんまり変わらないような気がする
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:42:33.31
>>761
>「出発+途中+到着」で記載するのは人類の常識であり、、史料事実や史料実態。

それは傲慢独断老人ザラコクが、なんの権限もないずぶの素人なのに、証拠もないままひとりで決定したんだよね?
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:46:44.10
>>764
裏付けがあれば信用する
反証があれば却下する
疑義があれば保留する
そういう普通のことを言ってるだけなんだよな、畿内説は

なにか異議があるの?
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:49:53.14
427>>320
>状況を限定して言い訳を考えても、結果的に500里先の方位が間違ってるんだから<

「東南」は出発方向であり、「500里先の方位」ではない。

>「南至」も間違ってる<

「東南」が間違っていないし、「南至」も間違っていない。
間違っているのは、類スレ主。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:01:00.28
その硯の発見については別に驚くようなものではないな

・硯が見つかるが文字の使用例が殆どない
・見つかるのは大陸との交流地に偏る

・北部九州はこの硯の発見された前200年くらいから後200年くらいまで続く文化圏を維持していたが文字の普及は全く見られない

・日本は漢字の定着も、独自文字もない無文字時代だった
・硯の使用は外国人相手の限定的な漢字の使用目的
・漢字が定着しない事から日本の支配層や創設者が大陸の人間だったと言う説は否定される

・前200年ごろから九州に現れた王と呼べる存在が盛んに外国と交流していた
・通訳がいるが文字は無いと言う史書の倭の記載に合致する

と言う今までの定説がより補強されたと言う発見
別になにかが覆るような話が出たわけでも何でもない
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:05:25.98
>>763
>「精製器種という祭祀用土器」は、普通、精製器種3種という言い方をするんだが、

その3種が「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」 だと、何度言えばw  @阿波
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:05:49.46
>>736
日本書紀の記述そのままだが?
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:06:59.09
>>768
魏と国書をやり取りできたのは九州北部に限られるわけだけど?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:10:19.15
>>755
>樂浪郡徼 去「其國」萬二千里 は「倭國」で確定

まあそれでもいいけど、

>「東京から北海道まで900キロ」というときに、
>「東京から北海道(その道庁所在地札幌)まで900キロ」と書いたら、捏造だろ?

道庁までの距離が書いてあるのに、それ以外の漠然としたどこかまでの距離が書いてあるという、わけのわからない主張をするのかい?
それだと距離を記載する意味そのものがなくなるだろ。
倭の国境まで七千里、倭まで一万二千里とあるなら、一万二千里は倭の中心国邑、すなわち王都である邪馬台国までの距離以外の解釈はできない。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:12:20.67
>>773
>アワ国大乱ってか
>ふざけんな

ふざけてる場合じゃない。  @阿波
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:13:50.81
>>678
なになに戸という地名はどこにでもある
たった一つの用例で狭い場所と決め付けられても
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:14:29.26
>>769
>その3種が「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」 だと、何度言えばw 

泡の情弱っぷりを試験してるんだよww
その3種をきちんと説明してごらんwww
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:14:31.93
>>773
>アワ国大乱ってか

粟国 乱 だよ。  @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:15:47.60
>>766
>裏付けがあれば信用する

畿内説には裏付けがない。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:16:10.01
>>764
頭おかしい人かな?

>考古学で発見された事物が文献の一部を補強するので金科玉条のように正しい

「考古学で発見された事物で確認できる部分は、まあ正しいと判断できる」というのが、
畿内説の基本的な立場なんだが?

桃があったとは書いてないから、桃はなかったに決まってる、という方がおかしいだろ?

桃は、年代推定の試料に使っただけだし
大陸史書のありがたいところは、絶対年代が確定することだけだよ
そして、桃核から推定される纏向遺跡の年代が、その絶対年代と余裕を持って(推定年代には大きな誤差がある)
同じ時期よりも前といえるし、前方後円墳や畿内様式土器の拡散で広範囲の政治秩序=国の存在が推知できる

3世紀の倭国の各地域間の関係は、支配ー被支配の関係にはないが、墳墓祭祀を繋がりの核とした一つの大きな秩序を
作っていたのは確実であり、北部九州もその祭祀連合に参加していた

ここまでは、否定の余地がない

その上で、3世紀に倭王とされる存在がいたとすれば、その墳墓祭祀を核とした祭祀連合の中心以外には
考えようがない

これだけのことなんだよ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:17:37.32
>>762
筑紫の前に出雲や越の興隆を想定できても、それは何ら畿内説を助けはしないよ。
出雲から筑紫に列島の代表が移り、卑弥呼の時代を迎えるわけだからね。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:21:35.03
桃があったとは書いてないから、突出して大量の桃はなかったに決まってる
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:22:06.16
>>779
頭腐ってる?
肝心の中国との交流の痕跡が皆無だよ。
さらに、魏志倭人伝に出てくる鉄も絹も楼閣もない。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:34:02.15
427>>328
>地図を作成するわけじゃない記録なので
東南陸行も南至も方位は間違ってしまった<

魏使らは、大和説者らのような脳が変な人種ではないから、
東西南北位の方位は、間違えない。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:34:58.37
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:39:52.40
427>>332
>位置関係は行程通りだったと思い込むバカすぎなのが九州説 <

魏使らは、始めての倭地であるから、位置関係なんて始めから判らない。
判るのは、出発方向や途中移動方向。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:43:46.52
>>776
>泡の情弱っぷりを試験してるんだよww

君の弱っぷりが試験されたねww

その3種が「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」 だと、何度言えばw 
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:46:27.00
>>781
精製器種3種は、泡とは関係ないって分かったかな?ww
岡山の資料を出してくるあたりw
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:46:51.26
427>>334
>上陸前の海上から見えているし、東松浦半島から見えているんだから
呼子の上陸地で云々というのは詭弁にしても出来が悪すぎww
ほれ、東松浦半島から可也山が見える「証拠」だww <

可也山が見えたって、伊都国は判らないのだから、
可也山が見える事など、魏使らにとっては何の価値もない。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:50:35.08
>>788
>岡山の資料を出してくるあたりw

精製器種3種は、倭国(阿波)を起源とする吉備忌部と深い関係があるって分かったかな?ww   @阿波
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:50:45.50
>>783
>肝心の中国との交流の痕跡が皆無だよ。

そう思い込みたいんだね、かわいそうにw
つ >>90
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:55:20.32
>>788
>精製器種3種は、泡とは関係ないって分かったかな?ww
>岡山の資料を出してくるあたりw

精製器種3種は、倭国(阿波)を起源とする吉備忌部と深い関係があるって分かったかな?ww   @阿波
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:55:36.99
427>>336
>500里先は間違えて当然だが
1、2月先の方位は正確だと言張っているのが九州説<

魏使らは、陸上での百里位の距離では目的地が見えて方向を記載しているから、
こりゃ短里の証拠だなあ。
長里の43km位では、まあ見えないなあ。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:57:41.51
>>790
>精製器種3種は、倭国(阿波)を起源とする吉備忌部と深い関係があるって

結局、泡って他所の文化を泡のものだと言い張るだけなんだよな
本当に惨めな存在ww

小型丸底壺(鉢)、有段口縁鉢、小型器台(高坏)が、精製器種3種と呼ばれる祭祀用土器
「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」とは、対応してないって認めるだけのことができないのが
泡のダメダメなところ
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:58:25.61
>>772
>道庁までの距離が書いてあるのに、それ以外の漠然としたどこかまでの距離が書いてあるという、わけのわからない主張をするのかい?

道庁までの距離は書いてないんだよ
道庁までの距離なら833キロだ

萬二千里という千里単位のざっくりした値が、特定の場所を指す数値だと思う方がおかしい
そして、水行、陸行の日数が里数に換算できない限り、邪馬台国までの距離に算入できないし、
邪馬台国までの距離は求められない

後漢書の記述でも、萬二千里が王都までの距離だなどとは何処にも書いてないし、「其」という指示語の
指すものを順に追って読んでいっても、当該箇所の「其国」は「倭國」であって「邪馬台国」ではありえないし
「倭國(の王都邪馬台国)」と書いてもいない言葉を足すのは質の悪い捏造でしかない
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 20:59:33.87
ホケノがある時点で詰んでいるのだが。

三角縁が卑弥呼が貰った鏡なら、
ホケノは239年より前に完成。

ホケノの完成形を魏人が見ているのに前方後円墳の形が記されていない。

そもそも、ホケノは倭人伝の誰に相当するというのだ?
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:01:35.75
>同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
>(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

狗邪韓国が倭人領ではないと言い張る、
新宗教とは。。。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:01:45.61
>>794
>小型丸底壺(鉢)、有段口縁鉢、小型器台(高坏)が、精製器種3種と呼ばれる祭祀用土器
>「丸底薄型土器」・「東阿波型土器」とは、対応してない

君、時代に取り残されてるよ。 それ全部、「東阿波型土器」だよ。
本当に惨めな存在ww   @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:05:56.59
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:06:58.32
427>>341
>この地図を描いたときには、扶桑国と日本国は別国と認識されていた、と
その突っ込みには簡単に答えられるよ
梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条には、扶桑国伝がある<

梁書の扶桑國には「名國王爲乙祁」と書かれ、
「乙祁」は顯宗と仁賢と兄弟の「ヲケ、オケ」の可能性が非常に高いから、
扶桑國は大和國の事だ。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:08:29.17
>>794
君ねぇ、吉備忌部の末裔が、本国の倭国(阿波)に逆らっても土台無理だから。  @阿波
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:10:51.14
>>796
前方後円墳なら径百歩ある大きな塚と書かれているよ
ホケノが239年近辺かそれ以前なのは賛成
しかし九州よりはるかに大きな政治機構がその頃から畿内にあった事になり
詰むのは九州説
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:11:10.12
427>>742
>九州の爺は方位を間違った理由を考えてる
畿内説は行程の方位は間違ってると言っている <

九州説は、
魏使らや普通の人は、東西南北程度の方位は間違えない、
と考えてる。
大和説者は方位は間違ってると言っている。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:14:45.52
427>>345
>その聞かれた人は、可也山で伊都国の方角を認識できるから、<

可也山が見えても、伊都国は見えない。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:15:46.40
>>802
ホケノ山に三角縁がないから、239年以前。
完成形はわかっている。
で、箸墓古墳の完成形は径百歩の2倍。

はるかに大きな政治機構、の根拠とは?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:16:41.48
>>802
だからホケノ山は魏志倭人伝の誰の墓だよ?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:17:56.70
>>803
方位を間違うというより
陳寿が東にあった邪馬台国を皇帝への奉りのために
国境よりはるか南1万2千里にある事にして魏志倭人伝を書いた
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:19:01.38
427>>348
>東南陸行の方位は間違いであるという合意は得られた<

東南は、出発方向であり、「陸行五百里」が途中移動説明であり、
「東南」は間違っていない。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:19:38.52
>>807
だったら素直に東の邪馬台国への道のりを詳しく書けばいいだろ
素直に長里で

言い訳がましいんだよお前はw
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:22:07.42
>>806
畿内にある3世紀の前方後円墳によって畿内説が決定的に有利になるから
九州説の墓じゃね
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:23:58.60
>>810
ごまかし問答するしかないんだろ?

底の浅い説だな

本気で畿内説を考えてるなら、
ホケノ被葬者が誰かくらい考えておけよ


今から考えてももう遅いがなー
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:25:09.03
427>>350

>何度書けばいいのかな?
その場に立って方角を間違わないことと、
それを記録して、
その記録を持ち帰って、
その記録の前後関係が紛れることなく、
正しく記録され、
それを収集した史書の撰者が正しく方角を書くことは、同列視できないってww <

何度書けばよいのかな?。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者なら、
魏志の方向記載を書き換える事があっても、
魏使らや陳寿らのような普通の人間は、
「東と南と西と北」の文字を間違える事は、全くない。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:26:28.44
>>629
>おや?、明帝も関与していたのか。
やっぱり全く理解してなかったね!もう天円地方なんて言うなよw

《明帝紀》注
《魏書載詔》曰「(略)
今祀圜丘,以始祖帝舜配,號圜丘曰皇皇帝天;
方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;
天郊所祭曰皇天之神,以太祖武皇帝配;
地郊所祭曰皇地之祇,以武宣后配;宗祀皇考高祖文皇帝於明堂,以配上帝。」
至晉泰始二年,并圜丘、方丘二至之祀於南北郊。

>とすると、祇園山の南の方に、円墳が見つかる可能性がある、という事か。
あるわけねーよw
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:27:19.91
>>805
箸墓の円墳部は径百歩にほぼ一致
全体含めて径百歩になるような古墳は畿内にそれこそゴマンとある

それと箸墓は案外径百歩で作ったのかもな
国交のあった魏で使われていた歩を取り入れてそれで測って
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:29:08.10
>>814
おいおいまーた逃げるのかw

ホケノ山
纒向古墳群

周囲見渡したら、なんもない大湿原の中に、
見渡す限り前方後円墳の完成形だらけだろが

>それと箸墓は案外径百歩で作ったのかもな
だからその2倍だってw

ラりってんのかお前?w
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:29:59.02
伊都の町中でやるなんて書いてねーよ、倭人伝
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:30:11.74
>>779
>その上で、3世紀に倭王とされる存在がいたとすれば、その墳墓祭祀を核とした祭祀連合の中心以外には
>考えようがない

思考回路がフリーズしているのかな?
祭祀連合とやらも不確実だし、纒向が中心という根拠もない。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:31:25.48
427>>351
>九州説は伊都國は見えなかったので
方位は間違ってしまったと説明しているので<

そんな説明をしていない。「東南」は出発時点での出発方向説明。

>行程の方位は間違いということで畿内説と一致している<

畿内なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、
行程に書かれた方位は、魏使らの実地での確認記録であるから、間違っていない。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:31:37.59
>>795
>そして、水行、陸行の日数が里数に換算できない限り、邪馬台国までの距離に算入できないし、

後漢書は一万二千里と断定し、そこからさらに水行陸行など記載していない。
一万二千里は倭国の中心国邑までの距離だ。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:32:23.14
>>815
なんもない大湿原とか
無知を晒して恥をかく

それが、九州説クオリティ
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:33:40.74
>>809
魏志倭人伝に書かれている里は実在するものじゃなくて
全体で淮南子で使われてる世界の果てまでの数字
国境より南1万2千里っぽくなるように調整してる架空のものだから
それで邪馬台国までの道のりは表せない

邪馬台国までの道のりは途中で辿る国名で表した方が
現在でも確かめられるものと一致しやすい


対馬国(対馬)
 ↓
一支国(壱岐島)
 ↓
松羅国(松浦)
 ↓
伊都国(糸島市)
 ↓
奴国(博多、旧名儺県)
 ↓
不彌国(宇美町?)
 ↓
水行20日、投馬国(鞆の浦)
 ↓
水行10日、陸行1月邪馬台国(大和)
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:35:12.44
都合の悪い里程記事から必死に逃げ回っているだけじゃん。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:36:42.92
>>815
箸墓の円墳部分は144m
魏の1歩は約1.4mだから魏晋里でほぼ径百歩だよ
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:36:51.69
畿内に合わせるなら、帯方郡から狗邪韓国まで二千里、対馬海峡が千里、瀬戸内海が八千里とか書くはず。
なぜ九州上陸まで一万里になるような記事になったのか、説明してくれ。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:37:19.12
427>>356
>倭人伝の方角は間違ってるで畿内説も何も困らんよ<

倭人伝に書かれた方角は、ほぼ間違っていないから、大和説は×だよ。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:38:31.80
周囲見渡したら、なんもない大湿原の中に、
見渡す限り前方後円墳の完成形だらけだろが
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:39:59.00
>>823
今日もまた
議論から逃げて馬鹿のふりするだけ
みじめなやつだな

ホケノ山
纒向古墳群

周囲見渡したら、なんもない大湿原の中に、
見渡す限り前方後円墳の完成形だらけだろが

>それと箸墓は案外径百歩で作ったのかもな
だからその2倍だってw

ラりってんのかお前?w
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:41:16.30
>>827
里程を辿ると北部九州ど真ん中にご到着

考古学でも3世紀の日本最大発展地域
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:42:23.34
>>824
恐らく漢の時代からそういう風に決まっていた
倭国までは国境より1万里
その都は倭国の極南界で会稽東治(冶)の東にあり
道のりを合計すると計1万2千里
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:43:24.52
まだ戦ってると思ってるのが笑えるw
九州説は里程も対応遺跡も解読してるんだから、
それに対抗するなら、里程と対応遺跡を証明しないと

ただのお猿さんだぞw

みんなが笑ってる〜♪
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:44:12.14
>>829
>考古学でも3世紀の日本最大発展地域

ハハハ、碌な遺跡も無いのに?  @阿波
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:44:36.12
>その都は倭国の極南界で会稽東治(冶)の東にあり
>道のりを合計すると計1万2千里

つまり北部九州倭国
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:45:19.15
427>>357
>「以其國在日邊 故以日本爲名」と
「倭國自惡其名不雅 改爲日本」と
「日本舊小國 併倭國之地」の三つが「或曰(云)」でつないであるんだから、
撰者として一番いいたかったのは、最初だよな? <

一番言いたかったのは、当然「日本國者倭國之別種也」。
「或〜」は、唐内に存在した記録や情報の紹介。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:45:19.21
>>828
箸墓は円墳部分が144mで径百歩に相当するよ
2倍なら288mだけどそんなにない

それに全体含めて径百歩144mの古墳なら
それこそ畿内にゴマンとある
九州にはないけど
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:47:26.70
>>835
いいか、逃げるなよ?

前方後円墳の完成形のホケノ山古墳や、纒向古墳群が
周囲の視界の中にいっぱいある。

その中で、前方後円墳である箸墓古墳を作っていたのなら、
完成形は前方後円墳だとわかる。

だったら、径百歩の2倍だと魏人にはわかったわけだ。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:48:26.83
>>835
>それに全体含めて径百歩144mの古墳なら
>それこそ畿内にゴマンとある

そんなに「忌部はん」 のお墓を自慢されてもwww   @阿波
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:48:39.35
>>829
里程を辿ると九州北部の端っこの不彌国(宇美町?)まで
1万700里で邪馬台国まであと1300里ある事になるぞ
そこからさらに魏志倭人伝では南に水行陸行するとある
どう見ても九州北部は通り過ぎるねえ
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:48:59.34
勝負がついた五輪会場で泣きながらダダこねてる姿
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:51:24.50
>>831
魏志倭人伝の里程を辿ると会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りになる

畿内には三世紀卑弥呼の頃の径百歩に相当するような古墳がある
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:52:13.09
>畿内には三世紀卑弥呼の頃の径百歩に相当するような古墳がある

で、卑弥呼の径百歩墓はどれなんだい?
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:54:23.65
427>>361
本日、「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説と、
「人類の常識通りに南≠東」の九州説とは、
「倭人伝の行程の方位、距離は間違いか?」ということで、
合意を得ることができませんでした。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:55:21.35
あれだけいっぱいいたマンモスも、

最後の一頭は

こうやって追い立てられていったんだなあ
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:56:51.07
>>830
>倭国までは国境より1万里

国境までは七千里と書いてあるだろ!
畿内説は嘘つきの集まりか!
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:57:57.31
>>844
周囲に前方後円墳の完成形がいっぱいあるから、
箸墓古墳の完成形もわかっていたわけであり、
円形部分だけで論じるのは詐欺師だ、と直接的に言うのは品が無いので、
あえて疑問形にして弁解の余地を残してあげているのだよ、
ホケノ山被葬者すら想定していない詐欺師キナイコシ君。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:58:29.96
>>838
>そこからさらに魏志倭人伝では南に水行陸行するとある

後漢書にはこの部分がない。
つまり、日程は里程の言い換えなんだよ。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:00:49.27
>>841
箸墓古墳だな
円墳部分が径百歩だし魏志倭人伝の記述にピッタリだ
伝承で被葬者は女性らしいし
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:01:28.90
後漢書はトヨの使者が来た十年後くらいに書かれてるから
信憑性はわりと高いよね
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:03:40.35
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:06:55.41
>>845
7千里じゃまだ朝鮮半島
そっから海を渡ること三千里で倭国に到着

>>846
全体部分で論じても
144mの古墳なんて畿内にはいくらでもあるぞ
九州はせいぜい30mって所だがなあ

>>847
後漢書にはその代わり邪馬台国までの国々も出てこなくて
日程部分が里程なのかどうかはわからないから
根拠とするには不適当
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:09:22.58
>>801
結局、精製土器三種の説明ができず、情弱っぷりをさらしたのは泡でした土佐
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:09:43.49
ホケノ山という名前の古墳が、纒向にあったのだが、埋まっている死体が誰なのか不明なので、邪馬台国畿内説が破綻してしまった可能性が高いな。。。

846日本@名無史さん2019/02/21(木) 21:57:57.31
>>844
周囲に前方後円墳の完成形がいっぱいあるから、
箸墓古墳の完成形もわかっていたわけであり、
円形部分だけで論じるのは詐欺師だ、と直接的に言うのは品が無いので、
あえて疑問形にして弁解の余地を残してあげているのだよ、
ホケノ山被葬者すら想定していない詐欺師キナイコシ君。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:11:48.04
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:12:07.59
>>847
間違いだね
後漢書は部分道里を書いてないだけだ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:12:58.68
ホケノ山という名前の古墳が、纒向にあったのだが、埋まっている死体は、誰なのだろうか。。。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:16:26.56
>>851
>7千里じゃまだ朝鮮半島
>そっから海を渡ること三千里で倭国に到着

後漢書に倭国の国境は帯方郡から七千里の狗邪韓国と書いてあるだろ。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:21:51.79
>>857
それは郡側の視点で書いてるだけな
七千余里行ったとこにある狗邪韓國を出ると
そこから先が倭なんだよ
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:22:14.70
>>815
時々涌いて出るな、この態度の悪いやつw

>だからその2倍だってw
>ラりってんのかお前?w

テンプレに、箸墓や秦の始皇帝陵の側面図があるから見てごらん
我々は現代の知識で「前方後円墳」という目で見ているけれど、横から見たら
円丘+付属の平台だぞ

円丘頂上での葬送祭祀を見ていれば、墓は円丘部、前方部は祭壇と素直に見るのも無理はない
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:23:46.33
魏志倭人伝時代が終わった後に、纒向にあった、箸墓古墳ではない、ホケノ山という名前の古墳や他の古墳に埋まっている死体は、誰達なのだろうか。。。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:25:36.18
>>857
倭国の国境はなんて書いてないぞ
意訳すると楽浪郡の国境より七千里で狗邪韓国という風に書かれている
魏志倭人伝と同じ記述
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:26:07.48
ホケノ山という名前の古墳が、纒向にあったのだが、埋まっている死体は、誰なのだろうか。。。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:27:37.77
>>819
>後漢書は一万二千里と断定し、そこからさらに水行陸行など記載していない。

水行陸行が付いても付かなくても萬二千里っていう時点で、現実の距離でも
内訳距離の積み上げでもないって、論理的思考のできる人なら理解するんだけどね

<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭

要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:31:57.77
>>824
>なぜ九州上陸まで一万里になるような記事になったのか、説明してくれ。

前にも説明したし、テンプレにも書いてあるんだけどね

後漢代に倭から2回朝貢に来ていて、その時に倭国まで一万里っていう概念が作られたんだよ
この時倭国から来たのは九州の小首長の遣使なのは畿内説も認めてるよ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:32:55.03
つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだね、、、、
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:33:57.83
>>852
>結局、精製土器三種の説明ができず、情弱っぷりをさらしたのは泡でした土佐

ほれ。  @阿波
「土師器の器形は,弥生土器以来の壺,甕,高杯の組合せを基本とし,これに丸底壺,器台,盤の小型3種の土器が伴う。壺,甕は大小を問わず丸底が一般化し,無文化する。」

鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:35:11.50
魏志倭人伝時代が終わった後に、纒向にあった、箸墓古墳ではない、ホケノ山という名前の古墳や他の古墳に埋まっている死体は、誰達なのだろうか。。。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:36:26.61
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:36:46.01
427>>365
>学説畿内説は行程記事を根拠にはしていない<

あそう?、大和説は、行程の史料事実議論での負けを認めるの?。

>今後、素人衆九州諸説も行程を根拠としないよう希望します <

「南→東」などの嘘吐き詐欺師の「希望」は、薄気味が悪い画家、お断り。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:37:14.95
>>845
>国境までは七千里と書いてあるだろ!

対馬や壱岐は倭種の国だけど、倭国の本体じゃないからね
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:39:14.73
>>852
君ねぇ、吉備忌部の末裔が、本国の倭国(阿波)に逆らっても土台無理だから。  @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:40:55.61
>>867
前半と後半、別資料をもっともらしく並べただけじゃないかww

分が悪くなると自分の言葉を書かなくなる、情弱、惨めな泡であった

>類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。

全然広がってないね
より広く倭国を覆うように斉一化するのは、畿内様式土器だよ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:41:40.33
さて九州説は放っといて
魏志倭人伝後漢書前テキスト先行説の研究でもするか

後漢書から見るに倭の極南界隈が1万2千里とされているのは
後漢でそういう伝承が作られた可能性が高い
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:42:59.56
>>873
君ねぇ、吉備忌部の末裔が、本国の倭国(阿波)に逆らっても土台無理だから。  @阿波
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:44:01.60
しかし自演が多いよな、九州とか阿波とかバレバレなのにw
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:44:51.66
>>872
そして、底が浅いからすぐに書くべきことが尽きて、ただコピペを繰り返すだけになるww
泡は情弱で周囲のものを泡だと言い張るだけ

コピペしかできないならスレの浪費だから黙っとけ
というか、自分で立てた四国説スレに帰ればいいだろうに
好きなだけいくらでも駄論を展開すればいい
四国説スレなら誰も反論しないだろww
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:48:59.66
>>873
>より広く倭国を覆うように斉一化するのは、畿内様式土器だよ

あれれ、「精製土器三種」一本じゃなかったのかね?
その畿内第X様式の同時期が「東阿波型土器」だよ。

君ねぇ、大和・河内忌部の末裔が、本国の倭国(阿波)に逆らっても土台無理だから。  @阿波
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:49:45.30
427>>383
>九州説は距離の測定方法は決して言わないから机上の空論<

言ってあるよ。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:54:07.55
427>>384
>それを未開の辺境の日本で同じことができるわけないだろ
という話なんだよ <

有効数字1桁程度の近似計測が出来たから、記録された。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:57:07.92
阿波は卜骨が出ないから倭人が住む地ではないね
倭国の採石場
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:02:33.46
魏志倭人伝の成り立ちは
魏で成立した後漢書+魏略かその原本+トヨの頃の報告書ってとこか
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:05:53.45
427>>401
>ばかだな
沖縄の南海上あたりを示したのは陳寿本人だぞ <

陳寿は、沖縄の南海上あたり、なんて書いていない。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:06:08.11
「四国の辺地と云ふは伊豫、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり。」(今昔物語集)
辺地:交通不便な、遠く離れた所。僻地。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:14:37.12
427>>409
>インチキ詐欺したらやっぱり学説は死ぬんだよね
つまり九州説は死亡が確定してる <

「南→東」の嘘吐きインチキ詐欺をした大和説者は、死ぬ。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:18:41.75
九州説はそろそろ本格的に終いだな
何から何まで捏造説だから当たり前だけど
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:26:50.44
九州説は滅亡を恥じ入るな
それよりさんざんやらかてきた捏造を恥じ入ろ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:40:30.48
誰か教えてくれ

伊都国まで1万500里だろ

誰かが万2千里ははるか遠くということと言ってたが
1,500里の差ではるか遠くになってしまうのか?

また 倭国でない国々は はるか遠くの遠くだから ?万?里と表現するのか?
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:49:12.57
>>840
>魏志倭人伝の里程を辿ると会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りになる <

あんたよく知ってるね
倭人伝の方位(南)はあってるが距離が疑問なんだろ
だから沖縄や台湾になるんだろ
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:49:39.34
倭国(の本土の端)に上陸するまでが一万里
倭国(かたまり)まで萬二千里
倭国内の移動は萬二千里には反映されていない

東京から北海道まで900キロというのと函館から札幌まで150キロというのはほぼ関係がない
ちなみに、東京から函館は680キロだ
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:50:13.76
>>888
1500里は650kmに相当するぞ
結構な距離だ

遠くの朝貢国はみな万里
それが冊封体制の古代中国の世界観
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:51:24.30
>>888
その件は 畿内説の妄想だから
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:54:11.64
>>889
距離も方位も伝承上のものに邪馬台国を当てはめたもので
どちらも邪馬台国までの道のりを表したものではない
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:54:48.78
>>886
>九州説はそろそろ本格的に終いだな
>何から何まで捏造説だから当たり前だけど

何かを自信満々に言い出して、具体論に入った瞬間に否定されて
しばらくグダグダとやっぱり九州説の言い分が正しいと詭弁を展開しようとするけれど
ウソにウソを重ねるだけになって、そのネタが使えなくなるww

九州説はその繰り返しだww

最近だと、末盧国は呼子だから伊都国は東南、とか
宇佐神宮の亀山は古墳だ、とかww
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 23:57:33.90
九州説の言う事はおおよそ全てにおいて嘘
本当の事がなに一つないのが凄い
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:07:34.41
>>862
>意訳すると楽浪郡の国境より七千里で狗邪韓国という風に書かれている

これは恥ずかしいw
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:11:38.71
>>865
>この時倭国から来たのは九州の小首長の遣使なのは畿内説も認めてるよ

それから倭が東遷したなんて、後漢書にも魏志倭人伝にもないんだようなあ。

>>871
>対馬や壱岐は倭種の国だけど、倭国の本体じゃないからね

対馬や壱岐を倭種と呼ぶ記述はない。
むしろ後漢書は倭を朝鮮半島南岸から九州北岸と定義している。
倭種ではなく、倭そのものだよ。
倭種という表現は、東側の本州にしか用いられたことがない。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:14:05.63
>>890
>倭国(の本土の端)に上陸するまでが一万里
>倭国(かたまり)まで萬二千里

これ、矛盾しているだろ。
かたまり、ってなんだよ。
陸の塊なら上陸まででいいだろ。
畿内説の屁理屈は聞き飽きた。
理屈が通らないことを言い続けていてもしょうがないだろ。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:15:22.22
>>893
>距離も方位も伝承上のものに邪馬台国を当てはめたもので

邪馬台国への里程という明確な記述からグダグダと逃げ回る畿内説。
みんな見るがいい!
これが畿内説の末期だ!
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:18:41.25
>>701
纏向型墳丘墓は3世紀前半。
東阿波型技法による土器は布留1式の時期だから3世紀末〜4世紀。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:22:01.64
韓国は10万キロ平米で方4000里なので
方5000里の倭国は3万7000平米の九州には収まらないから畿内が邪馬台国なのだろうな
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:26:14.70
>>902
どこから方五千里が出てきた?
あた畿内説は適当は嘘をつくのか?
だから畿内説が世間から支持されないんだぞw
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:29:34.41
世間の支持ねえ
AKBみたく畿内説アイドルユニットでも作れば一発だろ
KNS48
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:32:04.92
>>902
あの時代の韓国は帯方郡と倭を含まないわけだから
結構狭いよ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:47:10.44
周旋五千里だっけ
1里75mで正方形と仮定すると1辺100kmにも満たないから邪馬台国南九州説は消えたか
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:55:02.27
>>897

「倭在韓東南大海中」だから朝鮮半島南岸には倭はない
邪馬臺國と三十許國は極南界の倭奴國より北にある
つまり本州に拡がるのが倭
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 00:58:38.61
「倭を朝鮮半島南岸から九州北岸」というのは支持されてない
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 01:10:41.56
狗邪韓国には戸数が書いてないから倭国として扱われて無さそうだがそうすると国の数が29国になって1国足りないんだよな
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 01:22:32.61
「今使譯所通三十國」

對海國〜邪馬臺國まで8国
旁國21国
狗奴國
計30国
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 01:37:43.97
>>909
支持云々ではなく、後漢書をちょっと読めばわかる。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 02:01:51.34
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 02:14:12.87
>>913

後漢書の其國は倭人伝の女王国
女王国は倭人の国々全体
狗邪韓國から女王國までの5千里は別の王がいる従属している諸国
特に一大率が置かれ従属諸國を檢察している
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 06:06:15.99
>>912
だから、その「ちょっと読めば」わかるというような解釈が支持されてない
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 06:22:59.93
>>913
おいおい
10000里程で北部九州まで着いてるのだろ
あと2000里もあるのだから
北部九州は通り過ぎた
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 06:35:41.69
427>>430
>1万2千余里の行程は、実際の邪馬台国の位置とは無関係。
普通は女王国の南にあった事になるしかない、というは正しい。<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
「邪馬壹國女王之所都」であるんだから、この大和説男も嘘吐き詐欺師であり、×。

>だが、その南に拘奴国はなく、<

これも×。ほぼ肥後にある。

>東にあると書いてあるのだから、後漢書の著者のハンヨウは東にあると判断できる情報を得たのだと考えるよりない。
そして、その情報をハンヨウに与えることができたのは、倭王讃の使節団しかない。<

范曄はおそらく、九州倭国の「東征毛人五十五國」情報を聞いており、
卑弥呼らに屈した狗奴國も、その一部が東征軍に参加した情報を聞いていた可能性ならある。

>5世紀の倭の王が河内・大和に政権を置いていたのは歴史事実。<

倭国は「正北抵新羅」で北部九州であり、
大和日本国は倭国の別種の旧小国であり、東征毛人五十五国の中の一国であった事は否定できない。

≧したがって、5世紀の倭王の政権の前の3世紀の倭王の都も讃と同じ河内・大和にあったと判断したわけ。
卑弥呼の倭国と讃の大倭王国は一貫した国であると考えた最初の人物がハンヨウ。
それ以降、歴代中国史書は、このハンヨウの後漢書の考えを踏襲しているもの。
倭人伝や魏略の南を東とするのは間違い、というのは正しい。<

この男が、×。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 06:41:26.76
427>>431
>怡土郡の糸島にイトコクがあったなどと云うは、
神功皇后記のパクリ・捏ねくりまわしにすぎず、物笑いのネタ<

風土記も 「ついうっかり」記載してしまっており、
書紀と風土記の両方での仕事「ついうっかり」発言情報は、正しい確率が高い。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 06:45:52.40
427>>432
>船が上陸するなら入り江だろ しかも大友遺跡の砂浜なら間違いない
上陸した後に現地人に伊都国はどこか尋ねるだろ<

大体も方向は聞いたかも知れないが、
出発時点では伊都国は見えないんだから、魏使らは案内人に従って進むだけ。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 06:52:22.70
427>>435
>アホですね
間違い情報なんだからね
間違い情報どおりに進んでる辿り着いた場所が
邪馬台国なワケはない <

アホですね
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき詐欺の間違い情報なんだからね
嘘吐き詐欺解釈どおりに進んでる辿り着いた場所が
邪馬壹國女王之所都なワケはない
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:00:46.65
>>881
>阿波は卜骨が出ないから倭人が住む地ではないね
>倭国の採石場

それが倭国(阿波)に対する、精一杯の反抗かね?  
まぁ、近年の倭国(阿波)の遺跡を見せられたら、無理もないとは思うがwww @阿波 
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:01:16.23
427>>438
換言すると、限度を超えてデタラメしないと大和説は成り立たない
建安郡東冶を無理矢理「会稽東治」にするのも
大和説インチキの一つだね

会稽東治もー間違いだーと叫んだかと思うと、すぐ全部間違いだと叫ぶ
チェリーピック大和説だもんね
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:03:50.88
>>884
>「四国の辺地と云ふは伊豫、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり。」(今昔物語集)
>辺地:交通不便な、遠く離れた所。僻地。

それが倭国(阿波)に対する、精一杯の反抗かね?  
まぁ、近年の倭国(阿波)の遺跡を見せられたら、無理もないとは思うがwww @阿波
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:16:49.57
427>>446
>唐代以前の史書 全部倭国伝<

その倭国は、「正北抵新羅」の北部九州にあった。

>唐代の史書 唐代に改号があったので、改号以前が倭国伝、改号後が日本国伝
唐代以降の史書 全部日本国伝 <

大和日本国は、倭国の別種の旧小国であって、開皇末に始めて中国に遣使出来た。

>そして、唐代史書の倭国伝の記事、登場人物がすべて畿内大和朝廷のもの
倭国も大和だったという証拠にしかなってないww <

唐会要も、倭国と日本国を、遣使も含めて書き分けている。

>一番言いたかったのは一番最初に書かれている「日本は倭国の別種である」という部分だろwww
これ、「別種」って「同じものの別の呼び方」ってだけなんだけど?
物知らずは怖いもの知らずで、恥知らずだww<

ほら、類スレ主が、また、別種って「同じものの別の呼び方」だ、というインチキをした。
だから、「別種は、別れて新たに作った別国だ」と書いてやらなければならなかった。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:39:28.42
>>897
>それから倭が東遷したなんて、後漢書にも魏志倭人伝にもないんだようなあ

そうだよ、東遷したなんて畿内説は言ってないだろ?
後漢書が分かりやすいけれど、倭国乱で北部九州が決定的に没落して
歴年無主、つまり王がどこにもいない状態になって、そこから畿内を中心に
新たな秩序が作られて、卑弥呼が倭王に共立されたんだよ

北部九州の人間が移動したのでも、イニシアチブを取っての権力移動でもない

>対馬や壱岐を倭種と呼ぶ記述はない。

魏略を読んでごらん
冒頭に「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 『度海千里復有國 皆倭種』」とある
次に 「従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
    『始度一海千余里』 至対馬國」と続くのだから、素直に読めば
半島の東南海上の洲島に倭があり、島の間を渡海千里してもみんな倭種というだけの記述だ

これが本来の記述だろうし、この位置の方がいいたいことが理解しやすい

>むしろ後漢書は倭を朝鮮半島南岸から九州北岸と定義している。

そんなことはどこにも書いてないww
それはただの九州説の願望ww
0927◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/22(金) 07:47:40.61
新スレ立てました。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1550785248/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:50:26.12
>>897
>これ、矛盾しているだろ。
>かたまり、ってなんだよ。

どこが矛盾してるか「具体的に説明」してから言えww

>陸の塊なら上陸まででいいだろ。

ダメだよ
ちょっと考えても見ろよ
日本からフィリピンまでの距離をいうときに、
「石垣島からフィリピン北端」の650キロって言うやつはいないだろう?
「大体日本の真ん中ら辺から、フィリピンの真ん中ら辺まで」の3100キロを
千キロ単位で丸めて「日本からフィリピンまで3000キロ」っていうのが
分かりやすいし普通の書き方

帯方郡から女王国まで萬二千里ってのはこの形の距離なんだよ

>畿内説の屁理屈は聞き飽きた。
>理屈が通らないことを言い続けていてもしょうがないだろ。

理屈の通らない(の王都)とかいう、捏造付け足しをしているのは
お前の方だぞww

現実を見ろよ
現実は常に九州説の敵だw
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:54:19.66
>>916
あんたの計算では1里何メートルなの?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:54:55.70
>>913
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

何度ウソ、捏造を書いてもダメ!
その国は「倭国」だ
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 07:57:02.72
>>926
>そこから畿内を中心に
>新たな秩序が作られて、卑弥呼が倭王に共立されたんだよ

もうそろそろ、そういう説も仕舞い頃だよ。  @阿波
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:07:09.63
>>926
>後漢書が分かりやすいけれど、倭国乱で北部九州が決定的に没落して
歴年無主、つまり王がどこにもいない状態になって、そこから畿内を中心に
新たな秩序が作られて、卑弥呼が倭王に共立されたんだよ<


畿内説流の願望や憶測の域を出ないネ
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:09:35.64
>>933
罵っても反論になりません
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:10:50.74
>>930
何メートルだと北部九州でいられるんだ?
無理するなよ
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:11:30.00
>>930
>あんたの計算では1里何メートルなの?

横レスだが、畿内説では1里は魏晋里、約430メートル以外の記述はない、としているし
文献上も考古遺物(古尺の実物)からもそれ以外の里はない

ただ、大陸中華の都合で誇張されている部分と、遠地だから不正確な部分があるだけ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:15:22.76
>>935
逆質かよ、答えられないなら無理しなくていいよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:17:18.12
>>933
>後漢書が分かりやすいけれど…
ダメダメ。
倭國乱の当事者と卑弥呼共立の当事者は同じなのだから、卑弥呼共立の場所も北部九州から移動していないの。
その場所は、畿内へは移らないのだよん。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:19:53.79
>>936
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m

女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m

∴1里=70、6mは、概ね妥当だよ。  @阿波
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:23:16.50
>938
>倭國乱の当事者と卑弥呼共立の当事者は同じなのだから、卑弥呼共立の場所も北部九州から移動していないの。

もうそろそろ、そういう説も仕舞い頃だよ。  @阿波
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:23:25.31
>>932>>933
畿内説は常に反「論」して、根拠付きで説明・解説してるのに、
九州説や泡は単に一行、根拠も理由もなく「違うんだー」って書くだけww

最近はコピペしかしないし、そろそろ終わりかな
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:23:28.05
>>928
>日本からフィリピンまでの距離をいうときに、
>「大体日本の真ん中ら辺から、フィリピンの真ん中ら辺まで」の3100キロを
>千キロ単位で丸めて「日本からフィリピンまで3000キロ」っていうのが
>分かりやすいし普通の書き方

そんなわけないよね。
東京からマニラの距離を書くのが普通だよ。
日本の真ん中なんて現代でも難しいし、まして三国志時代は国を領域ではなく国邑で捉えるからね。
中国人の考えとしては本来は一つの国邑が国なんだよ。
だから国から国へは、中心となる国邑から国邑までだ。
帯方郡から倭へであれば、郡衙から倭の王都の国邑まで。
ただ、実際には倭が広域を支配していることを考慮して、その国境である狗邪韓国までは七千里という記載もしている。
反対側の国境を魏は認識できてなく、東にもずっと倭種がいると記しているから、中心は求めることができない。
つまり、帯方郡から一万二千里が邪馬台国までの距離だ。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:24:20.00
>>936
>ただ、大陸中華の都合で誇張されている部分と、遠地だから不正確な部分があるだけ

どれくらい誇張されているんだ?
それがたんりなんだよ。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:26:03.11
>>921
その遺跡の解釈に、少しバイアスがかかってる傾向ありと…。
にわかに歴史舞台に出てきたので、ちょっと阿波立ってる?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:26:23.40
>>936
1里430Mとしたら
魏志韓伝の韓は「四千里四方」だから
韓は1,720キロ四方の大国にならないか?
陳寿が1里を書き分けたとは思えないが
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:27:09.60
>>941
>畿内説は常に反「論」して、根拠付きで説明・解説してるのに

ハハハ、碌な遺跡も無いのに?  @阿波
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:27:57.96
>>938
>倭國乱の当事者と卑弥呼共立の当事者は同じなのだから

これに根拠があれば、九州説にも説得力が出るんだが、
これが一切根拠も論証もない「お花畑の脳内設定」でしかないからな

伊勢遺跡のような遺跡が九州で見つかっていないのも、九州説の弱いところ
要するに、3世紀の遺跡が九州では、伊都国、倭奴国しかない
それ以外に栄えている場所がないんだからどうしようもない
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:30:07.60
>>939
>壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m

これが典型だけど、泡の比定地はデタラメ
短里があるといっている時点でトンデモ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:33:32.83
>>944
>その遺跡の解釈に、少しバイアスがかかってる傾向ありと…。

それを、ひがみと言うらしいよ。


>にわかに歴史舞台に出てきたので、ちょっと阿波立ってる?

にわかに倭国(阿波)が歴史舞台に出てきたので、明らかに阿波立ってるね。?  @阿波
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:37:20.24
>>948
>壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
>これが典型だけど、泡の比定地はデタラメ

この口先だけが、精一杯の反抗。  実に情けない。  @阿波    
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:42:32.72
>>942
>日本の真ん中なんて現代でも難しいし、

だから倭国(かたまり)って書いてるんだよ
陳寿は倭国を周旋五千里の長大国と捉えている
特定の一点でいうのはかえっておかしな話になるんだよ

>東京からマニラの距離を書くのが普通だよ。

距離が分かっていればそれも一定の意味があるけれど、
旅程の最後は水行陸行の日数で書かれていて実距離は陳寿の手元にない

それに東京からマニラの距離が分かったところで2984キロって書いてもしょうがないだろ
千里単位で丸めた数字の時点で、特定の場所は指していない

萬二千里は、遠い距離の千里に神秘数12を掛けたものだろう
一年が12カ月、木星の1周が12年、干支も十二支でこの十二を千に掛けると萬二千里が出てくる
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:43:54.06
九州説が研究しなくても
畿内説の自滅で九州説の支持が高まる構図が最近の情勢だな
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:44:53.62
>>936
1里430Mとしたら
魏志韓伝の韓は「四千里四方」だから
韓は1,720キロ四方の大国にならないか?
陳寿が1里を書き分けたとは思えないが
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:45:12.80
>>943
>どれくらい誇張されているんだ?

倭国本土(本州、四国、九州)上陸まで、萬里
女王国まで萬二千里という設定で誇張されてるから、
実距離との対応も比例関係も縮尺もない

>それがたんりなんだよ。

だから短里なんてないんだよ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:48:13.16
>>921
石材だけをとってみたら、熊本のピンク岩と同じで、阿波のブルー岩が脚光を浴びて、取引が外部から来るようになったということだね。
朱を入れたブルーの斑点のある東阿波型壷も、珍しいので纏向あたりまで広がった、ということかな。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:49:35.29
>>947
>伊勢遺跡のような遺跡が九州で見つかっていないのも、九州説の弱いところ

伊勢遺跡は邪馬台国の描写と関係なさそうだけど?

>要するに、3世紀の遺跡が九州では、伊都国、倭奴国しかない

そこが女王国なんだろ。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:51:55.54
>>951
>特定の一点でいうのはかえっておかしな話になるんだよ
>旅程の最後は水行陸行の日数で書かれていて実距離は陳寿の手元にない

一万二千里と書いてあるのに、最後は日数しかないとか、頭おかしくないか?

>それに東京からマニラの距離が分かったところで2984キロって書いてもしょうがないだろ
>千里単位で丸めた数字の時点で、特定の場所は指していない

誤差があることをわかっていれば、およそ3000キロと書くだけのこと。
魏志倭人伝はそういう風に数字を有効桁数一桁に丸めて書いてあるのだろう。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:52:42.59
>>954
>だから短里なんてないんだよ

だから短里なんて唱えた人はもういないんだよ。「たんり」でよし。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:53:07.81
>>951
>萬二千里は、遠い距離の千里に神秘数12を掛けたものだろう

これはひどい妄想。
これが畿内説かよ。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:54:21.13
>>954止めとけ
既に論破されているよ 

953日本@名無史さん2019/02/22(金) 08:44:53.62
>>936
1里430Mとしたら
魏志韓伝の韓は「四千里四方」だから
韓は1,720キロ四方の大国にならないか?
陳寿が1里を書き分けたとは思えないが
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:57:33.47
>>960
やめとけ

それすでに、数学は間違いってことで論破されてるから
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:59:20.00
ソウル駅から釜山駅までの距離は約400km
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:05:08.95
>>917
九州倭國が5世紀まで続いてるわけあんめ。
東征毛人五十五国の5世紀の政権は、河内・大和だよ。
3世紀の倭人伝に、大和は倭種の国だと書いてあんだろ。
毛人国は、長野のアルプスの北東だんべ。
九州からアルプスの北東まで、遠征できんだろに。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:06:57.55
427>>455
>無恥の能力の足りないバカが、煽る煽るww
魏志倭人伝くらいきちんと把握してから出て来いよ
計其道里、當在會稽東冶之東。
「その道里を計る(計算してみると)に、まさに(ちょうど)会稽東冶之東に在り」だよ
おバカさんww <

この男がまた、史料記載を改竄したな。
計其道里、當在會稽東治之東
だよ、おバカさん。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:07:01.43
>>957
>一万二千里と書いてあるのに、最後は日数しかないとか、頭おかしくないか?

一万二千里がウソだからそう書くしかない
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:08:30.55
>>964
その東治が東冶県あたりにあるだけのこと
九州説は死亡ずみ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:12:26.01
>>952
>九州説が研究しなくても
>畿内説の自滅で九州説の支持が高まる構図が最近の情勢だな

事実、九州説は研究などしていないな
それで差がついた
邪馬台国が畿内にあったと中高生が学校で教わる日も近い
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:15:57.89
・1万2千里というのはすごく遠いという意味なんだよ
・計算すると福州の東になるんだよ


( ゚Д゚)ハァ?
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:17:12.74
・1万2千里というのはすごく遠いという意味なんだよ
・水行30日と陸行1月を合わせても1万2千里なんだよ
・計算すると福州の東になるんだよ


( ゚Д゚)ハァ?
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:22:11.26
知能が低いと理解できないんだね
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:24:36.09
で、帯方郡から1万2千里の距離に福州は位置してるのでしょうか?
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:25:01.03
しているな
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:26:50.96
後漢書では、
楽浪郡から女王国までは1万2千里であるとして書かれている。
倭魏志倭人伝では、帯方郡から女王国までは1万2千里であるとの前提で書かれている。

どちらにせよ、
郡から女王国までは1万2千里であると前もって決めて書いているのだから、それ自体は正しい。
あとは、その内訳の割り振り次第ということだ。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:27:09.62
そうだよ
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:27:37.23
427>>457
>わざわざ半島の陰で東側の見えない場所を選んで「呼子から可也山が見えない」と文句いう人、なんなんだろうね
水人が海の上で位置確認をしないと主張してるのかな <

邪馬壹國女王之所都の位置方向確認をしても、
伊都国なんて見えないものの位置確認なんかするもんか。
せいぜい、次の到着地の末盧國の方向を倭人に聞く程度。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:32:05.97
>>976
はーい、測量した測量したと言い張ってたザラコク爺さん
ウソついてたと自白いただきました
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:32:07.85
427>>462
>それが最も合理的だ <

人類の「安全最短の原則」、それが最も合理的だ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:33:25.76
>>974 失礼・修正
後漢書では、
楽浪郡から大倭王居の邪馬台国までは1万2千里であるとして書かれている。
魏志倭人伝では、帯方郡から女王国までは1万2千里であるとの前提で書かれている。どちらにせよ、
郡から目的の国(大倭王の居国、女王国)までは1万2千里であると前もって決めて書いているのだから、それ自体は正しい。
あとは、その内訳の割り振り次第ということだ。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:33:48.07
>>975
帯方郡がソウルと言われてるから
ソウルから福州までの距離は1600キロ台
それが1万2千里?
12000里≒1600km?
0981日本@名無史さん
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2019/02/22(金) 09:34:45.40
>>980
>帯方郡がソウルと言われてるから

言われてませんが、何か?
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:35:34.03
九州説はインチキ知識で出来ている
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:36:03.71
>>959
万二千里の由来は、前漢のときに張騫が派遣された大月氏までの距離。
大月氏国までおよそ1万里。
後漢から魏の時代頃には、その1万里にさらに2千里を付加して、遠いところの代名詞とされた。
そもそも、張騫が大月氏へ派遣されたのは、前漢武帝が匈奴討伐のために大月氏と組んで挟撃しようとしたことによる。
魏の司馬イが、その漢武帝の戦略にちなんで、呉を牽制しようとしたことが邪馬台国厚遇の理由だろう。
邪馬台国までの1万2千里には、そのような大月氏との対比もあるのだよ〜。
これ、歴史の太鼓判な。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:37:25.81
>>983
智搭里だな
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:41:20.76
427>>470
>>東は太陽が昇る方向だからなぁ
それを南というのは昔の人でもおかしいと思うだろ <

>じゃあ伊都国はなんで東南陸行なんだ? <

陳寿の記載は、末盧國からの出発時点の出発方向。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:42:05.46
>>985
結局それが何処になるのかさっぱりだけど、
今の地図だとなんていうところになるの?
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:49:28.92
智塔里は智塔里
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:50:55.87
サリウォン市の東南郊外だね
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:54:06.45
427>>480
>この部分は、先行史書に対応部分がないから陳寿オリジナルの記述だよ
コピペじゃない
陳寿がその道里を計ってみて、まさに会稽東冶之東になると判断している訳だ<

「会稽東治之東」だから、この男が、また×。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:56:50.19
427>>483
>いくらゴネても 北部九州は 会稽よりはるかはるか 北の国 <

いくらゴネても
女王國は、ほぼ九州島付近であり、
会稽東治のほぼ東の国
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:58:11.62
>>986 名前:日本@名無史さん 2019/02/22(金) 09:41:20.76
>>じゃあ伊都国はなんで東南陸行なんだ? <

>陳寿の記載は、末盧國からの出発時点の出発方向。

ならば、末盧國から松浦川をさかのぼり、
脊振山系を南に迂回した先の佐賀市付近(佐賀川上あたり)でピタリだな。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:58:19.80
>>993
九州説はウソついてはダメよ
晩節を汚すなよ
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:59:57.47
九州説滅亡は時の流れ
逆らっても無駄
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:02:54.96
427>>487
>>陳寿が自分で邪馬台国まで行ってないのは当たり前なのだから
方向も距離もすべて伝聞<

>であろうが 書いた本人が 書かれたとおり行くと 長江より南なのだと書いているの
つまり 「書かれているとおり読んだら邪馬台国は九州」 というのは ウ  ソ <

陳寿は、会稽東治之東だと推定し、上海〜江蘇省の東海岸の東だ、としたんだから、
ほぼ女王國はほぼ九州島付近である事が、ホント。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:05:22.48
427>>490
>現実問題として
長江より南に存在しないのだから、陳寿の計算方法がどこか間違ってたんだろ
なぜ間違えたかというと
伝聞で記述された方向か距離のどれかが違っていたという事だろう<

范曄の解釈や、現代大和説者の曲解のサギが、間違っていたの。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:07:05.99
その帯方郡らしい場所から福州までの距離を測ると1500qだったよ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:07:13.74
2013年、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、破綻しました、、、
10011001
垢版 |
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