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なぜ大和に大王不在の空白の20年が出てくるのか?
日本書紀が昔の大王の在位期間や年齢を無理に引き延ばして
実際より昔の人物として記録してたことを忘れていないか?

応神天皇の時点で百済本紀と120年ズレている。応神天皇の元年は
390年あたりだが日本書紀では270年のこととし、後続する仁徳天皇
の在位年数を87年、允恭天皇の在位年数を42年と長い年数で記録している。
これは実年代とのズレを補正する過程であって、継体天皇が故郷を出て
大和に入るのに20年かかったのは事実かもしれないし、継体は新王朝の開祖
かもしれないが、
この期間は大和に継体の即位に反対する勢力がいたんじゃなくて、
雄略天皇崩御後に即位した清寧〜仁賢らの大王が実際にいたわけよ。
大伴氏や物部氏が継体を迎えようとしたのは、506年の出来事じゃなくて
526年の出来事。この年は武烈天皇の元年でもあるし、平郡氏が滅んだのも
欽明天皇が生まれたのもこの頃。武烈天皇は幽閉生活を強いられたが、
継体は死ぬまで大王に即位しなかった。

その証拠に継体の諡号には「男大迹天皇」と人名がそのまま使われているが、
武烈には「小泊瀬稚鷦鷯天皇」とちゃんとした諡号が使われている。
武烈が533年に亡くなった翌年534年が安閑天皇の元年。ここで、日本書紀が
記す年と実際の年とのズレが治まった。