大和王権について考古学的に語るスレ
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大和王権について考古学的に語るスレです
邪馬台国畿内説については専用スレでお願いします >>12
地図が読めない人?
布留遺跡がどこにあるかわかってる? >>15
>日本海ルートの覇者であった出雲とは関係がない。
出雲系だ。
長柄神社の祭神シタテルヒメのお父さんは大国主。
名柄遺跡からは銅鐸と鏡が同時に出ている。
上牧からは加茂岩倉との兄弟銅鐸も出ている。 >>14
>前王朝とは葛城王朝ではなく、出雲王朝だったかな。
葛城王朝は出雲系。
ただし最高位の男王は神武から孝安までの「天皇」ではない。
神武の義理兄である天日方奇日方から続く大物主だ。 >>24
>神武の義理兄である天日方奇日方から続く大物主だ。
起点が間違っている。
その祖先を紐解けば、イザナギイザナミにたどり着く。 >>22
>もっと遺跡と遺物の話をしようぜ
「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 3世紀に、男系直系の大王系譜なんて考えられるのかな?
神武や崇神や垂仁のモデルになったヒコは存在するにしても、
そもそも大王なんてもの自体が存在してないんじゃないか? >>2
>大和の大王墓の系譜(推定)
>3c 纒向石塚→纒向矢塚→纒向勝山→東田大塚→ホケノ山→箸墓→西殿塚→桜井茶臼山
違う、この時代のこれらの墓は大王ではない。
この時代の大王の墓は高天原だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
大和盆地の最高位、最も標高の高い位置に王墓はある。
標高は435m。
卑弥呼の墓もここ。
魏志倭人伝の記述どおり土蜘蛛という奴婢とともにある。 書き方がおかしかったので訂正。
× 最も標高の高い位置に王墓はある。
〇 最も標高の高い王墓である。 >>22
>もっと遺跡と遺物の話をしようぜ
「矢野遺跡」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 @阿波 つまり天日方奇日方はイザナギの5世孫であり、それを大物主の始まりとするのは誤りだ。
少なくとも三輪山の神の始まりは活玉依姫に子供を産ませた天日方奇日方の父親であるべきだが、実はこの人物は何処の馬の骨ともしれぬ正体不明の人物なのである。
実は鴨一族は女系相続の国津神なのである。
だからこそ、その当主であったナガスネヒコによる「なぜ次々に天津神がやって来るのか」という言葉が意味を持つ。 交流を示す出土品
縄文時代を研究する県埋蔵文化財センター・湯浅利彦専務理事の話
矢野遺跡の出土品は、関東や九州から伝わった文化と県内で育まれた文化が混ざり合っており、地域交流の結節点だったことを示している。
西日本を代表する出土品で、徳島の歴史を県民に知ってもらいたい。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 @阿波 神武は大王(おおきみ)ではない。
日本書紀でも神武の義理兄である天日方奇日方が鴨王(きみ おおきみ)となっている。
崇神の時代にクーデターがあった。
天皇家は10代崇神以降、明治天皇になるまで1500年間に伊勢神宮を一度も参拝していない。
内宮で皇室の祖神・天照大御神を祀ってるのにおかしな話だ。
天皇即位の報告に行ってもいいのに。
内宮のご神体といわれる鏡は崇神が怖くて手元から放逐したもの。
崇神は大物主を倒した、いや頃したんだ。
その時の鏡が今の伊勢神宮にある。
だから皇室は怖くて伊勢神宮に行けなかったんだ。
その鏡はいまだ一か所に落ち着かず、式年遷宮という形で20年に一度移動する。
頃されたのは最後の大物主であるアタガタス。
この神を今も祀り続けてるのが天理の和邇集落。
卑弥呼に直結する唯一の物証・国宝中平銘鉄刀の保持者である。 >>28
>3世紀に、男系直系の大王系譜なんて考えられるのかな?
其国は2世紀前半から男王が続いていたからね。
卑弥呼やトヨの時代も本当は男王なのだが争いが収まらないので女王にしたのだろう。
これが3世紀のヒミコもトヨもいる王家。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
天皇がよそ者であることがわかる。 天日方奇日方の日方をヒコではないかとする説もあるようだ。
そうだとすると妹のヒメ(踏鞴五十鈴)と「ヒメヒコ」を形成していることにある。
次代にもう一つヒメヒコがある。
豊御気主とトヨ津媛だ。
そうすると古代日本の男女一対の統治システム「ヒメヒコ制」から面白いことが分かります。
3世紀前半 ヒメ(踏鞴五十鈴)と天日方奇日方
3世紀第三四半期ころ トヨ津媛と豊御気主
この葛城に存在したヒメヒコ制が纏向遺跡のある磯城に移る。
3世紀第三四半期ころ ウツシコメとウツシコオ
3世紀後半 イカガノシコメとイカガノシコオ
このイカガノシコメから産まれたのが崇神。
そして箸墓古墳は交野や山代に近似古墳があることからもイカガノシコオの墓であろう。
イカガノシコオの妻・真木姫の父が山代国造の祖である長溝、
イカガノシコオと真木姫の子が交野連であるタベノスクネであるからだ。
箸墓を卑弥呼墓とすることなど、もはやトンデモである。 >>25
その祖先を紐解けば、イザナギイザナミにたどり着く。
起点はスサノオこと倭国王帥升だ。 神社という場所は遺跡ではない。
が、古代からの聖域であるから、その考察は大変重要だ。
王のいた場所、それが今では神社になっていると推測される。
卑弥呼のいた場所もしかり。
4世紀前半の崇神天皇ゆかりの大神神社以前、
つまり3世紀の謂れがある名神大社は高鴨神社をはじめ葛城にしかない。
邪馬台国の王都とは葛城であっさり決定なのだ。
卑弥呼の住んだ場所は長柄神社、通称「姫の宮」であろう。 >>40
>王のいた場所、それが今では神社になっていると推測される。
王のいた場所は大集落遺跡だよ。 倭国(阿波)の神社は陵墓もあるが、大半は倭国(阿波)から勧請されたもの。 大神神社然り。 違うかい? @阿波 なんで考古学的に語るスレなのに記紀ベース、それも考古学的な根拠の希薄な神代や神武天皇の頃のエピソードを根拠に話を進めたがる奴がいるんだよ >>38
スサノオですらイザナギイザナミの子供だろうが。 >>42
逆に、何があれば神武の実在が証明されるのか。
それを考えたら、考古学的証拠がないからといって実在を否定するのは誤りだ。
証拠といえば、九州の文化が畿内に移入された事実が証拠となり得るかもしれない。 >>42
記紀ベースになってるのはスレ主の方だよ。
男系直系の大王なんて、3cにいる訳がないんだから。
もとになった人物たちを、無理矢理に中国風の男系直系に書き換えた記紀を、
ヒメヒコに戻した上で、考古的史料との比定を行う必要がある。 >>42
>それも考古学的な根拠の希薄な神代や神武天皇の頃のエピソードを根拠に話を進めたがる奴がいるんだよ
崇神は行灯山古墳で4世紀前半に実在であろう。
ならば纏向遺跡開始時期が今では2世紀末。
崇神以前、約120年の期間がある。
一世代20年として6世代、先代旧事本紀では崇神から神武まで6世代、ピタリ符合する。
神武実在には根拠がある。 >>44
>何があれば神武の実在が証明されるのか
壬申の乱の時、挙兵報告の場所に神武陵のことが書かれている。
7世紀にはすでに神武陵が普通に認識されていたことがわかる。
神武が実在しないという人たちは、神武が架空の人物という意見であろうから、
ではなぜ7世紀にすでに神武なる架空の天皇が創作され、
そして墓まで作られていたのか、その説明をしてほしいものだね。 >>42
民族願望とお里自慢したい馬鹿しかいないからしゃーない >>45
>ヒメヒコに戻した上で、考古的史料との比定を行う必要がある。
ヒメヒコだって、後世のスタイルだよ。
女王国と主張する魏志倭人伝からはヒメヒコなんて微塵も感じられない。 >>52
魏志倭人伝の女王卑弥呼と男王が、ヒメヒコそのものだよ。
そして記紀に出て来るヤマト王権の敵が3パターンあって、
@ヒメヒコ・・どちらかが裏切って、血筋は存続。以後ヤマト王権の重臣に。
A兄弟・・どちらかが裏切って、血筋は存続。以後ヤマト王権の重臣に。
Bヒメヒコでも兄弟統治でもない・・だまし討ちで一族郎党滅殺。
@、Aは征服後も大切にされるが、Bは生きる資格なし状態の禽獣の扱い。
これって、記紀はヤマト王権だけは無理やり男系直系に書き換えたけども、
ヤマト王権の敵についてはそこまで書き換えが出来ず、
そのまんま残ってしまったことを意味する。
いずれにせよ、記紀に見られるヤマト王権の敵で、最も格が高いのがヒメヒコ制の敵なのだから、
当時のヤマト王権だって当然ヒメヒコだ。 >>53
妄想入ってるから非考古学的ってことで「このスレ」では却下だな 神武後の皇統が記紀の記述通り男系直系と信じてるのならば、
古代史をやったり、趣味にするのは10年早いよ。
記紀は、その編纂時に、
『我が国にも、中国に負けない男系直系の皇統があったんだぜ!
なので我が国は中国と同等の文明国っ!』
アピールをするために書かれてるんだから。
そのために、初期のヤマト王権について記紀では、
ヒメ/ヒコを、皇女または皇后/大王にことごとく変換するように
書き換えられている。 >>54
おいおい!どっちが妄想だよ。
魏志倭人伝に倭国はヒメヒコだって明らかに書かれてるだろ。
邪馬台国以外の国も、必ず2ペアだぞ。
3cから男系直系の大王なんている訳がないだろ。
そんなもん、聞いたことすらないわ。
それともキミは、あれなの?
日本会議とかのアッチ系の人なの? >>56
お前の言う3パターンは完全に妄想やんけ
考古学的根拠は皆無やん >>57
3cから男系直系だったって、考古学的根拠って何だよ?
考古学的根拠?はあーーーー?だよ。
そんなもんどこにあるんだ?日本会議。 >>57
いったい、どんだけ皇国史観好きなんだよ。
継体以前を全部否定する津田史観も、ちょっとやり過ぎだが、
神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安・・って、マジで信じてるの?
それって、古代史について語る資格すらないよ。 >>45
>男系直系の大王
別に大和王権の大王が男系直系であった必要は無いし、スレ主の書き込みのどこからそんな要素が読み取れるんだよ 未盗掘で保存状態の良い古墳を掘っても、稲荷山古墳の鉄剣のような文字遺物が出ない限り、
その古墳がどこの誰のものか分からないのに、
考古学的資料で、3cからヤマト王権が男系直系だったと証明出来るって、恐れ入った。
歴史学を覆すよそれは。
考古学的資料の何を見れば分かるんだい? >>56,58,59
思い込みも甚だしい
このスレのどこに皇国史観や男系直系に固執してるやつがいるんだ??? >>61
やっぱり日本会議系か。
日本史スレに来ないでくれよ。皇国史観的で非科学的なことを言って、
引っ掻き回されると迷惑なんだよ。 パヨってマジ池沼だな・・・
考古学前提のスレなんだから単純に記紀の斜め読みを辞めろと言ってるだけなのに・・・ >>65
黙れ日本会議。
3cの考古学的資料から、一体何をどうやれば、
当時のヤマト王権が男系直系だってことが出て来るんだ?
証拠も説明も出来ないくせに、レッテル貼りか?日本会議!
日本史板に来るな! >>66
いや最初にレッテル貼ったのはお前だからw
妄想はSF板でやれ >>65
これ
パヨとかウヨとか政治的アイデオロジーは知ったことではないが、古墳や遺跡そっちのけで「ぼくの考えたさいこーの記紀解釈披露大会」繰り広げてる人たちがいるんだからアホらしくてありゃしない 神武だって、『神武天皇』などと言われるのはずっと後世のことで、当時の名前は、
カムヤマト イワレビコノ スメラミコト
であって、そのうちスメラミコトは明らかに後世につけた名前で、カムヤマトだって後付けだろう。
すると、本当の名前は、ただの
イワレビコだ。
自称、九州出身のイワレビコ。奈良盆地の有力者の娘イスズヒメに通い婚していたイワレビコだ。
船団を率いて奈良盆地を征服したとか言うが、そんなの本当かどうか?
こんなの大王でもないし、以後男系直系で大王位を継承し続けるなんてお笑い草だ。
そもそも継体以前は何回も王朝交代してるんだから。
こんなの、当たり前の共通知識だろ。 >>67>>68
だから、考古学的史料で、何をどうやったら、3cのヤマト王権が男系直系だったって分かるんだよ?
あるんだったら見せてみ。
見せてみ、と言ってるんだ。
ええ?
土器の編年か?古墳の形態か?AMS法か?
見せてみ、と言ってるんだ。 >>70
誰も男系直系にこだわりなんて持ってないんだが、お前は誰と戦ってんだ? >>70
魏志倭人伝に倭国はヒメヒコだって明らかに書かれてないのに、書かれてる!って妄想しちゃうヤツが何を言ってんだよ・・・ >>70
男系直系とは限らないし、そんなことは言っていない
初期大和王権の大王位は世襲以外の方法で受け継がれていた可能性も否定できない
勝手に相手の意見を決めつけてもらっても困るぞ そもそも、神武以降、男系直系の大王で続いているんだったら、
崇神期辺りの『女王卑弥呼』なんて存在する訳がないだろ。 自分に反対する人間は「大和王権の大王位は男系相続だった」という意見を持っていると決めつけて(都合の良い仮想敵をつくって)
その仮想敵相手に鼻息荒くしてシャドーボクシングをしていらっしゃるんだから世話ねーわな >>73
いやだから、大王なんて、もっと後世になってからだろ。
3cに、そんな中国の皇帝っぽいもんが倭国にいる訳ないじゃない。
いるのは、やや上位の存在であるヒメに対する、
ヒコだよ。
ヒコ!
ヒコ!
3cに大王なんていない。
それは当時のヒコが、記紀によって後付けで大王にされただけ。
何でこんな常識が分からないのさ? >>76
張政が女王を王と認識してるんだから王政もしくはそれに準ずる体制はあったと考えるのは普通の思考回路だぞ 3cではヒメヒコが最上の統治形態だが、
そうでなければ、兄○○、弟○○だ。
とにかく2人ペアーで統治したがるのが、当時の倭国。
2人ペアーで統治してない連中は禽獣と一緒で、
記紀でもそういう奴らはヤマト王権によって(だまし討ちにより)根絶やしにされている。
こんなの古代史について話す上での、初歩的な共通認識だろ。 >>78
> 3cではヒメヒコが最上の統治形態だが、
これが妄想でなくて何だというのだ(笑) >>76
考古学上は「大和王権」の盟主を便宜上「大王」と呼ぶからだよ
「ヒコ」も記紀からしか読み取れないだろ
ここは考古学的に語るスレなんだからさあ >>76
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
伊都国には代々王がいて、女王国に統属してるとかいてある。
つまり王にも序列があると張政や陳寿は認識してることからも王の上、すなわち大王がいて当然。 邪馬台国に姫はいても彦はいないだろ。
それをヒメヒコだなどと抜かすのは妄想だ。 「大王」という呼称が正確なものかどうかが問題ではない
「大王」というのは、日本列島の前方後円墳体制をベースとする首長連合の盟主を指す「歴史用語」なの
当時は「大王」という呼称は存在してなくて!などというのは、
当時は「前方後円墳」なんて呼称は存在してなくて!とか、当時は「竪穴式石室」なんて呼称は存在してなくて!とかイチイチ言ってるようなものだぞ >>81
その伊都国にいた王とは卑弥呼のことだろ。 >>79>>80
いや、おかしいだろ。
実態としてはヒメヒコ制だと解釈するから、
モモソヒメ(日本書記の記述上は皇女で三輪山の斎宮)が、
実態としては『女王』である卑弥呼であろうと比定できる訳で。
まあ卑弥呼がモモソヒメと100%決まっている訳でもなく、
イスズヒメかも知れないが、いずれにせよ皇女や皇后を『女王』だと比定できるのは、
実態としてはヒメヒコであると読むから、そう出来る訳よ。
それを『皇女や皇后は、文字通り、あくまでも皇女や皇后であって、大王は大王なんだ』
などと言い出したら、卑弥呼を一体誰に比定するのよ? >>84
え?は?
伊都国には代々王がいて、女王国に統属してる
↑
これ読めないの?
もう一度聞くけど
伊都国には代々王がいて、女王国に統属してる
↑
これ読めないの? >>85
>実態としてはヒメヒコであると読むから、そう出来る訳よ。
勝手な仮定をして読むなよ。
>それを『皇女や皇后は、文字通り、あくまでも皇女や皇后であって、大王は大王なんだ』
>などと言い出したら、卑弥呼を一体誰に比定するのよ?
皇女達の中には該当者がいないのだろうね。 >>85
大王の定義が「男王に限る」とは言っていないが?
男帝だろうと女帝だろうと「天皇」なんだから、男王だろうと女王だろうと「大王」だよ
女性が事実上政治のトップにあって、「大王墓」と言われるような巨大古墳の被葬者たる存在なら、それは大王だよ >>86
伊都国に代々王がいて、皆が王に統属している。
つまり伊都国こそ歴代の王都であり、卑弥呼もまた伊都国にいたと書いてあるのだよ。 >>87
ヒメヒコ制は、日本古代史を語る上での、初歩の初歩の知識だから、
この場で覚えて。学習して。
>>90
だから、大王なんて言葉は後世の後付けだって、何回言わせるんだよ。
当時はただのヒメか、ヒコだ。そして1人統治でなく、2人ペアだ。 >>90
>>83な
そしてここは考古学的に語るスレなのだが、「2人ペアの統治」というのは如何なる考古学的根拠に基づいているのか? て言うか、記紀を読んだら、皆殺し対象である山賊以外の敵はみんな、
ヒメ+ヒコか、兄○○+弟○○で出て来るでしょうが。
ニギハヤヒ+ナガスネヒコだって、兄○○+弟○○の変形パターンだぞ。
そしてヒメ+ヒコか兄○○+弟○○の片方が裏切ってヤマト王権に投降し、
残った方を騙し打ちで滅ぼすが、裏切った方は重臣として登用され、
以後の名門氏族の祖になる。
これが当時の『あるべき美しい軍事征服』の姿。
記紀に書いてあるでしょ。 >>91
だから、考古学のどこからその考えが出て来るんだ?
ええ?おい!
文献資料でなく、考古学的遺物の何が、
「2人ペアの統治」を否定するんだよ?
ええ?おい!
土器編年で「2人ペアの統治」が否定されるのか?
古墳形式の伝搬で「2人ペアの統治」が否定されるのか?
AMS法で土器についた炭化物を分析したら「2人ペアの統治」が否定されるのか?
いい加減に答えろや!嘘つき野郎! 確かに西殿塚古墳は前方部と後方部それぞれに石室があったと見られていて、それはヒメヒコ制である論拠として用いうるものかもしれないが、桜井茶臼山、メスリ山の両古墳にそのような痕跡は無い
箸墓古墳については現状詳細不明
考古学的に語るスレなんだからそこら辺について触れる必要は当然あるよね?? >>93
完全否定はされないが、肯定する根拠も存在しないだろうよ >>89
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
漢文読む知能がないなら反論するなよ無能 魏志倭人伝で、邪馬台国が卑弥呼と男王の2人統治だって、明白に書いてあるじゃないの。
邪馬台国以外の国だって、官と副の2人統治だって、明白に書いてあるじゃないの。
記紀も(後世に改ざんした)ヤマト王権と山賊以外は、みんな2人統治だろ。
これで、日本が3cから大王の1人統治だと主張できること自体が信じがたいわ。 >>93
「2人ペアの統治ってのはお前が言い出したことなんだからお前がまず考古学的根拠を示せ
出来ないなら黙って消えろ >>97
官と副がいたら二人統治なのかwww
バカは死ねって >>98
あーあ。
やっと負けを認めたね。
どうせそんなことだと思ったよ。
文献資料でなく考古学的資料から、初期のヤマト王権が1人統治か2人統治かなんて、
そんなの分かる訳がない。
まあ、とにかく、ヤマト王権の初期は、2人統治。
ヒメヒコか、兄○○+弟○○。
これで結論。いいね。
て言うか、これって常識だから。古代史について語る上での、あたり前の共通認識だから。 >>99
もしかして、ヒメヒコ制って、このスレで初めて知った?
そんなことないよね?
それだったら物凄く恥ずかしいよ、本当に。
古代史についてレスする資格ないよ、マジで。
顔を真っ赤にしてる?
涙流してる?
いやでもね、ヒメヒコ制は初歩の常識だから。
良かったね、初歩の常識を勉強出来て。
とにかく僕に感謝してね。変な逆恨みしないでね。
僕は常識を教えてあげただけなんで。 それにしても、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安・・って、いまだに固く信じてる人がいるとは・・。
ヒメヒコどころか、欠史八代とかもあるって言うのに。
神武なんて、奈良盆地の有力者イスズヒメのところに通い婚していた、ただのイワレビコですよ。 >>100
>そんなの分かる訳がない。
>まあ、とにかく
こんなことを言い出す時点で君の負けでしょ
「考古学的根拠は無いけど正しいもん!誰の同意も得られないけど共通認識のじょーしきだもん!」
頭の悪さを披露するのも大概にしたらどうなのか 三輪のオオモノヌシでさえ、モモソヒメの所に通い婚ですよ。
3cに、中国の皇帝みたいなのが倭国にいたわけないじゃん。 >>100-101
返しが朝鮮ヒトモドキそっくりで竹生える
言い出しっぺが証明するのが学術
出来ないならお前は学術板にいるべきじゃない >>103
しつこいなあ・・。
文献資料(魏志倭人伝、記紀)では、当時の倭国は2人ペア統治。
考古学的資料では、1人統治か2人ペア統治かは分からない。
これでFA。
はい。涙拭いて、wikiにも確かヒメヒコ制の記事は短いけどあったと思うので、
それを読んで、それから魏志倭人伝と記紀をパラパラッと読んで、寝てください。
とにかく逆恨みしないでね。僕は親切に、常識を教えてあげただけなんで。 ヒメヒコ制が常識や共通認識といった類いのものと断言するなら、少なくとも過半数の古代史学者は「初期大和王権はヒメヒコ制である」と言っていなきゃ話にならんが
あと、ここは考古学的に語るスレなので、「ぼくの考えたさいこーの文献解釈」をご開陳する前に、西殿塚古墳と桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳の違いをヒメヒコ制の観点から説明できるようになってから出直して来てください >>106
魏志倭人伝と記紀からヒメミコ制だと明確に断言できる記述を出せよカスくん >>105
ニュー速+あたりからやって来た、百田コピペ本の愛読者ですかね?
>返しが朝鮮ヒトモドキそっくりで竹生える
教養がなく、頭の悪い人間ほど、こういう低級な差別ワードを使う。
差別ワードを使う = 教養ない&頭悪いの証明。
神武天皇をイワレビコと言われて怒った?
でも仕方ない。その当時はそうだったんだから。
もういいから、ヒメヒコ制についてさっとネットで調べてから寝てくれ。 >>90
ヒメヒコでペアだなどというのが妄想だ。
少なくとも魏志倭人伝はそのようなスタンスではない。 >>97
官と副は序列であって、ヒメヒコのような対等な分業ではないぞ。 >>108
もう、悔し涙で視界が曇ってるんだと思うが、
ヒメ『ミコ』制でなくヒメ『ヒコ』制ね。
ヒメヒコ制については、ここの板で古代史関係のスレに出没している人たちは、
例えば邪馬台国畿内説/九州説のどちらでも、9割方は知ってると思うけどね。 >>104
ど田舎の大和ではそうだったのであろうなあ。
筑紫における木花咲耶姫は明確に輿入れしているけどね。 >>106
>文献資料(魏志倭人伝、記紀)では、当時の倭国は2人ペア統治。
魏志倭人伝からは、
倭国は元々男王が統治していたが、倭国乱の末に卑弥呼と男弟による統治体制ができ、再び男王が立ち、しかし国が乱れたので女王台(壱)与が立った(これも男弟のような存在が統治か)旨があるのみで、ここからはヒメヒコ制のようなものは断定できない
卑弥呼の死後の男王はどう考えてもヒメヒコ制なるものは見出だせない
そして当時の巨大古墳を見ても、西殿塚古墳にはヒメヒコ制の可能性を見出だせるが、桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳からはそのような要素は見出だせない
女王を男王が助ける体制が存在した時期があったのも事実だろうが、ヒメヒコ制を断定するには証拠不十分 >>106
>考古学的資料では、1人統治か2人ペア統治かは分からない。
>これでFA。
だから勝手な妄想でヒメヒコが常識だなどとほざくな。 >>110
>>111
日本古代史の本を1、2冊読んで、意気揚々とこの板に乗り込んで来る人とか、
百田コピペ本を読んで『ブサヨクを論破してやる』と鼻息荒くこの板に乗り込んで来る人の、
イキり方だねえ・・。
とにかくね、ヒメヒコ制については親切に教えてあげたでしょ?
逆恨みしないでね。
魏使倭人伝を読めば、女王+男王、正+副。
記紀を読めば、ヒメ+ヒコ、兄○○+弟○○。
現にそうなんだから、現にそう書いてあるんだから、いくらイキってもどうしようもないだろ。
あとは魏志倭人伝と記紀を見てよ。 なんで考古学的に語るスレで文献解釈について侃々諤々やってんだ?
いいから大和古墳群と佐紀古墳群の関係の推測やら、古市古墳群と百舌鳥古墳群で巨大古墳がほぼ交互に築かれる件についてやら語れよお前ら とにかくね、継体以前は何回も王朝交代してるんだから、しょうがないだろ。
神武以来、男系直系で続いている訳がない。
あと、勘違いしてもらうと困るけど、僕は皇室を物凄く崇敬しているし、
特に昭和帝と今上陛下は極めて熱く崇敬している。
継体以前に王朝交代が何度かあったなどと言うことは、現皇室の価値を、
いささかも貶めるものではないし、世界最古の王家であることは全く変わらない。
そこ、勘違いしないでね。 >>109
魏志倭人伝と記紀からヒメミコ制だと明確に断言できる記述を出せよカスくん(二度目) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています