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邪馬台国畿内説 Part433
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:23:13.57
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1551514102/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:24:13.32
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:24:46.30
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:25:12.20
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:25:42.40
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:26:08.94
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:26:31.18
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:26:55.61
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:27:23.70
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:27:51.52
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:28:19.73
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:28:48.30
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:29:12.23
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:29:43.45
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:30:07.89
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:30:34.19
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:31:12.29
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:31:37.89
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:32:00.15
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:32:33.08
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:33:01.65
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:33:23.29
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:33:57.12
√◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0024◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:34:18.06
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:34:46.36
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:35:11.98
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:35:36.23
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:36:03.13
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:36:28.92
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0030◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:36:53.55
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:37:16.04
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0032◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:37:39.83
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0033◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:38:02.69
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:38:29.43
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:38:48.35
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:39:13.23
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:39:34.72
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:39:52.58
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:40:16.30
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:40:41.20
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:41:11.45
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:41:33.12
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:41:55.31
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:42:18.93
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:42:40.98
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:43:00.58
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:43:23.61
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:43:47.41
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:44:10.08
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:44:35.79
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:44:57.19
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:45:20.30
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:45:41.20
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:46:08.20
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:46:32.59
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:46:53.53
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:47:18.54
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:47:41.07
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:48:04.12
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:48:27.72
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0061◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:48:58.18
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0062◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:49:21.12
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:49:42.14
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/05(火) 04:50:21.95
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0065◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:50:57.07
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0066◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:51:26.27
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/05(火) 04:52:03.85
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 06:34:19.41
963 名前:これは無いよ 南→東の回答になって無い 2019/03/05(火) 02:31:24.08
6141 ◆m1vOjzSxiM 2019/03/04(月) 07:34:17.78
瀬戸内海航路で邪馬台国に行った場合
1か月も南→東と魏使は間違えるだろうか?それも幾度も
北極星は常に山陽側で光り輝くし
太陽は四国側で光り輝く
誤情報や誤認で済ませる畿内説はやはりおかしいと思う
瀬戸内で方位を1か月も間違える方法を教えて欲しい
   ⇓
617日本@名無史さん2019/03/04(月) 07:53:22.18
>>614
何度言っても理解しないな
その場で方角が分かるのと、
史書に正しい方角が書かれるのは、
同列には論じられない
記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される


「記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される」
これは無いよ 根拠がない証拠がない 誰が修正したの?畿内説の一方的な倭人伝を歪めた解釈としか????
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 07:53:47.42
前スレ>992
>それを何のコメントも無しに史料に採用すると思うほうが
>まさに「これは無いよ」だわ

それ以外に資料がないのだからそれを排除したら倭国の記事が書けない
「何のコメントもなしに」というが、計其道里當在会稽東冶之東というのが
この記述で正しいという陳寿のコメントに他ならない
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 07:59:27.44
>>69
つまり陳寿は倭国を、日本列島よりはるか南と考えてた
ということは短里など使っていないし
南だという方位も間違ってる
結論出てるね
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:08:40.05
前スレ>997
>福津・宗像

根拠なしで地名だけ言われてもな
唐津が妥当とするのを覆すだけの根拠が必要って言われてるのにw

これまで泡が挙げた根拠は、
対馬海峡で東に流されるはず
壱岐から千里なら唐津では近いからもっと東
地名は満津浦と永嶋文書(出所不明)に書いてあるww

でも、そこには大した遺跡もないし古墳時代に入っても小さな古墳しか作れない
四千戸の国の場所としては不当
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:09:11.13
>>32

出雲圏のムギバンダ遺跡は
巻向以前の遺跡では最大だったけど
時代的には卑弥呼の前なんで
男王の時代かな
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:12:21.66
>>33

国譲りの時も
伊都ノ尾羽張は中心的な役割をしてるし
国譲りで卑弥呼が倭女王になったときも
伊都国の力は大きかったってことかな
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:16:48.36
>>39

卑弥呼が朝貢した年号のはいった3角縁は
日本で作られた記念鏡だし

ってことで3角縁の出土範囲が
倭を構成してる30カ国の範囲だね
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:19:30.82
>>47

関東から九州にかけての広い範囲が倭の30カ国の範囲で
その真ん中くらいの位置が巻向でそこに都をつくり
卑弥呼を共立した
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:25:31.12
>>52

平原の8咫鏡は
卑弥呼の前の男王の御霊を収める為の鏡だし

男王は出雲の大国主で
大国主は八っていう数字が似合う王だから
御霊を収める鏡は八花八葉の花紋鏡が合ってる
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:28:05.09
>>61

3角縁には卑弥呼が朝貢した年号の記念今日もあるし
3角縁が出土する範囲が当時の倭の3カ国の範囲だよ
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:30:29.68
30カ国というのは国邑の単位なので、実は九州北部で収まるよ。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:30:45.93
>>64


前方後円墳の円の部分が墓で
台形の部分は墓を拝む為の付帯施設だよ


ってことで墓の大きさってことなら
円形の部分でいんだけどね
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:35:56.29
431>>677
>南≠東なんてとっくに論破されとる<


「南→東」などの嘘つき騙しなんて、とっくに論破されている。

>陳寿が皇帝奉りのために伝承に合わせ<


陳寿は、「皇帝奉り」なんてしていない。
知り得て確認出来た範囲内の事を記録した。

>現実的でない帯方より南1万2千里<


「余」で区別しているから、現実的。

沖縄台湾の辺りの会稽東治(冶)の東と書いたんだよ
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:37:04.67
>>64径百余歩という規模認識に不自然さは無い。


前方後円墳は
円形の三輪山とふもとの台地を合わせた形を元にしてる


三輪山には大国主の御霊を祭って
ふもとの台地でお祭りをした

要するに円形のお墓と
祭りをする為の台形の土地ってことで
それがベースになって前方後円墳だけどね
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:40:53.20
おかしいねえ。
また途中で投稿ボタンを押した事になっていたので、書き直し。
431>>677
>南≠東なんてとっくに論破されとる<

「南→東」などの嘘つき騙しなんて、とっくに論破されている。

>陳寿が皇帝奉りのために伝承に合わせ<

陳寿は、「皇帝奉り」なんてしていない。
知り得て確認出来た範囲内の事を記録した。

>現実的でない帯方より南1万2千里<

「余」で区別しているから、現実的。

>沖縄台湾の辺りの会稽東治(冶)の東と書いたんだよ<

陳寿は、「会稽東冶の東」なんて書いていないから、この男(おそらく類スレ主)は×。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:42:47.68
>>41魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!

巻向以前の最大の遺跡は出雲圏のムギバンダ遺跡なんで
男王は出雲の大国主ってことになる


倭人伝ではトマ国の官命はミミだけど
出雲の宮の官命は八耳なんで同じだし
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:43:13.10
このように
九州説は何も証拠を出さない
出せばウソとバレるし
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:45:37.70
>>71
>根拠なしで地名だけ言われてもな

根拠:古代日本と東アジアとの対外交流が認められた「世界文化遺産」の認定。 以上。  @阿波
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:48:20.44
>>64箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!


円の部分が墓で
台形の部分は祭りをする為の付帯設備なんだよね


ってことで墓の大きさってことなら円形の部分だけで問題はないし

円形と台形の組み合わせっていうんは
円形の三輪山に納められた男王の御霊と
それを祭る為の三輪山のふもとの台地の合体
ってことだしね
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:51:39.30
>>58畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!


卑弥呼やトヨは巫女で子供がいないんで
大和朝廷の直接の祖先じゃないけどね
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:54:18.68
>>71
>でも、そこには大した遺跡もないし古墳時代に入っても小さな古墳しか作れない

ほれ。 唐津なんて、目じゃないよ。  @阿波

大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:55:25.55
纒向テンプレ1-92は ウソの言い訳カンペ集
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:55:28.95
昨夜メチャクチャわめいてた
博多に庄内240年男は
逃亡したか
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:56:58.78
>>90
反論あきらめて中傷専科となった九州トンデモ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:58:06.42
>>71
>根拠なしで地名だけ言われてもな

根拠:古代日本と東アジアとの対外交流が認められた「世界文化遺産」の認定。 以上。  @阿波
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 08:58:54.10
>>71
>でも、そこには大した遺跡もないし古墳時代に入っても小さな古墳しか作れない


ほれ。 唐津なんて、目じゃないよ。  @阿波

大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:02:01.33
431>>698
>西服衆夷六十六国で畿内に屈服してる九州が東征は有り得ないな<

隋の開皇末にようやく「日本国」を名乗ろうとして、
白村江の後で九州倭国を併合吸収継承出来た大和が、
九州へ「西征衆夷六十六國」するなんて事は有り得ないな。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:06:43.01
>>70

船を南に向けて漕げば
海流で南東に進むけど

素人には海流が分からないんで
その場合は船の向いてる方向だけってことに
なる

船の方向を南に向けて漕いでも
海流が東にな上がれてれば進む方向は南じゃないし
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:07:48.51
>>95
国名いつ変えるかなんて何の関係も無いだろ
支離滅裂な主張だぞ九州説
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:10:18.95
>>70陳寿は倭国を、日本列島よりはるか南と考えて

海流が分からなければ船の方向だけってことになるけど

海の上で海流が東に向って流れてれば
船の方向を南に向けて漕いでも船の進む方向は南東になる


ってことで魏志倭人伝の南は海流を無視した場合の方向
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:10:30.07
>>71
>根拠なしで地名だけ言われてもな

根拠:古代日本と東アジアとの対外交流が認められた「世界文化遺産」の認定。 以上。  @阿波
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:11:44.66
431>>702
そうやって
「南→東」などの嘘つき騙しや、
なにひとつ証拠のないことを
延々と断定し続けてる大和説の人って
明らかに頭ヘンだよね
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:11:51.32
>>71
>でも、そこには大した遺跡もないし古墳時代に入っても小さな古墳しか作れない


ほれ。 唐津なんて、目じゃないよ。  @阿波

大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:13:29.42
倭人伝の行程記事の
「従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国」
この「到狗邪韓国」の前には、「○乍ら(途中右折れの)△乍ら」が入っている。
(これに関し、上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、難路ではあるが一本道で右折左折はない。どう見ても不適合だ。)

しかしここを、前例に倣って読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折れの、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、
と読むのが正しい読解である。
(注:右折左折は、一般地図上の左右に依る。日本の道路交通法では上例は左折に当たる)
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:13:58.11
>>101
いいや
世間の人はね
ザラコクみたいにウソばかりついてる人のこと
そう思うよ
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:15:27.12
>>100


素人じゃ海流が読めないんで
海上での船の進んでる方向は分からないけどね

素人が分かるのは船が向いてる方向だけど
海流を考慮した船の進んでる方向は分からない
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:15:49.68
>>103
九州説はこんなにメチャクチャだという好例
いただきました
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:16:22.53
>>76
>御霊を収める鏡は八花八葉の花紋鏡が合ってる

なぜその大国主の鏡が伊都にあったの?
大国主を倒した後にニニギが即位したのは筑紫だから、結局は筑紫が倭の王都になるよね。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:17:41.51
>>105
じゃあ、今向かってる島がどっちの方角にあるかも船の上で分からないの?
デタラメすぎる
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:28:54.02
>>109
天皇制と即位については律令制で完成したとするならば、天武より前は単に倭王になったことを即位と呼ぶしかないのではないか。
ならば、筑紫の高千穂宮で王となったニニギは即位したことになる。
新唐書では、
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。」
とあり、天津神(阿毎、あま)の系譜が長らく筑紫にいたことを示している。
ちなみに彦瀲はニニギの孫で神武の父であるヒコナギサウガヤフキアエズ命のこと。
筑紫と出雲が二大勢力であったが、出雲の大国主を倒して筑紫が倭国の正統となったというのが、奈良時代の日中の認識なんだよ。
その後の畿内の時代が長すぎて、筑紫の時代が忘れ去られようとしているのは、おかしなことだ。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:30:33.03
431>>703
>>また、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
投馬國はそこから南へ水行二十日だから南九州であり、
だから、女王國は、会稽東治之東でピッタリであり、

大和は、女王國から更に東北東へ八千里位あるから、
大和説は終わっており、死亡確定だよね

なむあみだぶ
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:30:33.81
ちなみに新唐書は、出雲の王統はなかったことになっている。
しばしば過去の別の王統の存在は忘れられたり無視されたりする。
しかしそれは正しい歴史ではない。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:31:40.09
>>110
新唐書?
九州のころ王って書いてないよね
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:33:57.29
>>86
>根拠:古代日本と東アジアとの対外交流が認められた「世界文化遺産」の認定。 以上。

3世紀の史書に書かれた国の比定地を考える根拠が、21世紀の世界遺産ww
すごいな、泡の考えることはww
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:34:49.92
431>>707
教授や学会教育界や文部省や右翼マスコミの顔色ばかり伺って、
他人との会話もできない可哀想な大和説のお兄ちゃん
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:34:53.85
300年間、誤記内邪摩途説も北部九州イトクズ説も、
仲哀天皇・神功皇后記の剽窃解釈に惑わされがゆえに解くことができなかった。
剽窃解釈は糸島が伊都国だと主張するが、そもそもそれが迷宮の入り口。

筑紫島上陸後の末盧国・唐津からは、松浦川に沿って南へ進み、
脊振山系の南を迂回して東南陸行500里で佐賀川上の伊都国に到った。
また次東行100里には、佐賀三根郡目達原(吉野ヶ里一帯)の不彌国があった・・・、
そして、そこから遥か南方に投馬国(日向西都の都万)と、
やや南に邪馬台国(肥後熊本の邪馬臺国)があった。
1里は50m〜100mの範囲内。以上で万事めでたく解決に到る。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:38:08.54
431>>710
倭人伝の行程どおり進んでも
沖縄あたりの海へドボンとしないことを
陳寿本人が明確に保証しちゃってるので
沖縄説も大和説もあり得ないことは
誰にでも解るよね?
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:40:23.11
431>>712
九州説にどんな問題があるんだ?
「南→東」などの嘘つき騙しに狂った大和説ストーカーがいる以外にさー
それって圧倒的に強い者の宿命だろ
ならばそれも問題という程でもないよな
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:42:36.05
431>>716
「南→東」などの嘘つき騙しの万世一系天皇主義に、
大和説は毒されすぎ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:45:46.05
431>>722
「南≠東」などに反論できないので
相手を罵ることで自分の馬鹿さを証明した大和説
それは惨めの極致である
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:48:15.94
431>>728
史料批判って何だかも知らない、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の貧困
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:48:31.31
里数が大きい割りに、なんとなく近い感じもしたから、陳寿は原文をいじらずに日数を併記して、判断は読者に任せたのだろう。
編者が勝手に東を南に書き換えることはない。
疑義があれば注釈で対応する。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:49:23.16
>>111
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
>投馬國はそこから南へ水行二十日だから南九州であり、
>だから、女王國は、会稽東治之東でピッタリであり、

>>111
投馬國が南九州だと
なんで女王國が会稽東治之東でピッタリなんだ?

因果関係も論理も、何も無いではないか
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:51:40.35
>>118
書いてあると何なんだ?
論理的に説明できないのか?

あのな、九州説は思い込みだけで出来てるから他人に説明できないんだよ
いいかげん自覚しろよ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:54:19.58
>>123
それ、空想だけだろ
これだから九州説って奴は
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:54:47.44
>>125

>>113
>>110
>新唐書?
>九州のころ王って書いてないよね

に対して、新唐書に「王」と書いてあるよという反論だろ。
コミュ障か?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:56:37.08
>>126
ないという証拠は?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:57:26.95
>>127

空想とは、こういうのを言うんだよ。

>>75
>>47

>関東から九州にかけての広い範囲が倭の30カ国の範囲で
>その真ん中くらいの位置が巻向でそこに都をつくり
>卑弥呼を共立した
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:59:29.38
>>128
反論になってないよな
新唐書のどこに九州のころ王だったと書いてある?
知障か?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:59:54.74
>>114
>3世紀の史書に書かれた国の比定地を考える根拠が、21世紀の世界遺産ww


3世紀の史書に書かれた国の比定地を考える根拠が、単なる妄想だけww

ほれ。 唐津なんて、目じゃないよ。  @阿波

大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:02:05.50
>>130
それを空想と呼ぶ根拠は?
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:03:39.23
>>130


神武も東征するときに
九州は中心からはづれてるんで大和にいったってことで
当時の倭の中心は巻向あたりなんだよね
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:05:16.68
>>71


卑弥呼が共立された時代は大きな遺跡は巻向だけど他にないんだよね
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:05:46.11
>>134
>当時の倭の中心は巻向あたりなんだよね

君も唐津と同レベルだよ。  @阿波
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:08:11.97
>「世界文化遺産」の認定

宗像沖ノ島の世界遺産の除外するように勧告されてた関連遺跡群のほうは
分担金で買ったようなもんだからな
今世界遺産が無いのは四国だけかな
四国八十八箇所霊場の登録を目指してたけど
徳島のがチマチョゴリダンス道場になってしまってるから難しいだろう
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:08:41.48
>>101「南→東」などの嘘つき騙しや、

船が南に向いてても
東に向かう海流が早ければ
船は東南東に進むけどね


海流が分からない素人の場合は
船の向いてる方向しか分からないしね

ってことで船が南に向いてるから南ってしただけど
実際に船が進む方向は海流を考慮した東南東だしね
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:10:46.78
>>131
代々の王は筑紫城にいたと書いてあるだろ。

「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。」
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:12:20.23
>>118みたいな、ちゃんと受け答えできない人が
コミュ障の典型ではないのかな
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:12:32.42
>>110出雲の大国主を倒して筑紫が倭国の正統となったというのが

出雲の男王の御霊を大和の三輪山に納めて
卑弥呼が御霊を奉って政治を行ったってことだし
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:15:04.77
>>114
>3世紀の史書に書かれた国の比定地を考える根拠が、21世紀の世界遺産ww


3世紀の史書に書かれた国の比定地を考える根拠が、単なる妄想だけww

ほれ。 唐津なんて、目じゃないよ。  @阿波

大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:15:45.74
>>140
どこに?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:15:51.53
>>111投馬國はそこから南へ水行二十日だから南九州であり、

船を南に向けて漕いでも
東に向かう海流が早ければ船の進む方向は東南東だし


ってとで船の向いてる方向は南だけど
船が進んだ方向は東南東だよ

素人の場合は海流が分からないんで
船の向いてる方が南なら進んだ方向も南って記述になる
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:17:19.82
>>107なぜその大国主の鏡が伊都にあったの?

国譲りで伊都ノ尾羽張は中心的な役目を果たしてるし
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:18:56.61
オオナムチの鏡は三輪から伊勢へ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:18:57.36
>>108


海上じゃ海流を考慮した船の進行方向は素人じゃ分からないよ
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:21:10.87
>>120
東に向かう海流を考慮すれば
船を南に向けて漕いでも進むのは東南東だけどね
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:22:12.61
>>142
>>110出雲の大国主を倒して筑紫が倭国の正統となったというのが

>出雲の男王の御霊を大和の三輪山に納めて
>卑弥呼が御霊を奉って政治を行ったってことだし

大国主を倒してから何世代後のことだと思っているんだよ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:23:25.75
>>148
わからないと、断定する理由は?
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:23:25.50
>>119「南→東」

東に向かう海流を考慮した場合は
「南→東南東」 ってことになる
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:26:39.27
>>107なぜその大国主の鏡が伊都にあったの?

出雲の大国主の御霊を収めるヤタの鏡が伊都国で作られたってだけのことだし

国譲りの時に伊都の尾羽張は中心的な役割をしてるし
大国主の御霊を収めるヤタの鏡が伊都国で生産されても
別に不思議じゃないけどね
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:27:37.81
出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、

己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:30:29.43
>>136

巻向からは関東から九州にかけての土器が出るし
関東から九州にかけての真ん中あたりが巻向
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:33:21.71
>>139

巻向が建設された3世紀前半には
他の地域に大きな遺跡はないよ


巻向が建設される2世紀末に
関東から九州にかけての環濠集落が一斉に放棄されて
人々は平野に分散して住むようになったんで
3世紀にないると大きな遺跡がなくなってるんだよね
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:37:40.98
三貴子(神)、それとも大国主の話?

調べてみた?
KISSというバンドにポール(竿?)という人物がいたでしょ、

・・・・・・・・・・・・・・・・芸名だと書いてあるし
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:40:15.44
あの写真、松の木・・・、オジギソウ・・・、
あとポールのようなものも写っていたり


『松傾』
このような名前の家
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:40:43.26
>>154出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、

己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの
命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ


大御和は三輪山で
三輪山に大国主の御霊は収められてる

よーするの三輪山がお墓で
三輪山のふもとの台地が祭祀する場所なんだよね


円形の三輪玉がお墓で
ふもとの方形の台地が祭祀をする場所ってことで
これが前方後円墳のモデル
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:42:57.80
歌舞伎、芝居が〜という話(『老婆談』)をしていたり、
明治頃の話、それ以前?

不明〜(何かの)〜直系の家のなのか?
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:43:12.31
平原は昭和40年まで誰も知らなくて人糞撒いてたところだからね
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:45:51.50
人物ではないけど、

ポール(筒状のもの?)のような物も写っているでしょ、
笹の葉、灯篭・・・とか

何なんだろう、頭が良かったのかな?
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:48:45.71
>>164


卑弥呼は北九州の巫女で巻向に移住した人も北九州が多いんで
巻向の土器は北九州の人々が作ったものだし


ってことで北九州の地名が大和地方の地名と同じなんだよね
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:51:19.54
>>161己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの
命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ

大国主は八雲立つ出雲の八鉾の尊って言われてた感じで
八っていう数字のこだわりがある
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:55:01.91
弥生中期までは南九州に北部九州の須玖式が搬入されてるけど
土器の移動は一方通行的なものとされている
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:56:28.45
>>101「南→東」などの嘘つき騙しや

素人なんで海流の知識がなかっただけ

船が南に向いても海流の方向が東でつよければ
船の進む方向は東南東


ってことで南は東南東に読み変える必要がある
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:57:27.99
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある

孝元とオオナムチが同時代の人
なんかおかしな話になってきたな
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:00:49.25
杵築大社の八雲の天井図
一つ欠けて雲は7つしかない

欠けた雲が所謂本当の大国主なんじゃないか
何処に言ったんやろな
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:01:00.29
dead end?

壁(板が並べてある、実際は壁ではない)の前に立っていたり、
セメントの話でしょ、そういう意味
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:04:17.74
431>>732
に対する返信が、消えてしまっているね。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:07:20.96
『AKIRA』という作品

工事中なのかな、
高速道路〜『dead end』?

白髪の少年が出てきて・・・・・・・・・。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:07:33.90
>>158八咫の鏡が伊都にあるという根拠がない

国譲りで伊都ノ尾羽張は中心的な役割を果たしてるんで
大国主の御霊代のヤタの鏡が伊都で生産されてても
別に全然不思議じゃない

逆に記紀の記述にガッテンだ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:10:58.61
>>164
証拠は?
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:11:00.39
>>91
ちゃうちゃう。
いままで熟睡よ。
体力回復には、寝るのが一番春の風。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:12:13.75
431>>735
またも、「南≠東」などの鎧袖一触で、
論破される大和説の悲惨
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:14:04.04
>>177


卑弥呼が北九州出身なんで
巻向の移住者は北九州が主体ってことで
逆に土器は少ない

その理由は現地で土器は作ったから
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:14:17.85
日本の文献で糸島が伊都と書かれたことはない
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:15:47.41
431>>737
>神武と卑弥呼が同時代なら卑弥呼とはヒメ后〈Bǐ mài hòu〉、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛しかいないのである<

「南≠東」などに拠って、×である。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:17:56.52
>>181
「南≠東」などに拠って、×である。

海流を考慮すれば
南は東南東
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:18:25.11
>>178
体力は回復しても信用は回復しないウソの罪
九州説はこうして堕落しいく
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:19:05.43
偶然にしては・・・という話ばかり、
サイバーパンク?

川崎区の南部のほうに住んでいて
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:19:40.67
記紀における伊都の表記は筑紫の日向の高千穂宮。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:20:43.48
>>178
とにかく、大和説が成り立つには、資料の誤読、誤認、曲解によるしかない。
TB期の新古区分は、240年くらいが境目だろう。
その新相が庄内3式に併行するわけだから、TB期新相のあとに九州型布留式類似甕が現れるのはごく当たり前。
大和の箸墓は、TB期新相と布留式類似甕の境目の最も古い古墳というのが佐々木の説じゃ。
最も古い古墳を大和の石塚古墳だとする寺澤一派は、パンツの紐を下げすぎなんだよ。
チンコが見えてしまうぞ。
早く、元に引き上げろ。
わははははは。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:22:07.82
本当の話

家の後ろに・・・・高速道路、産業道路?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:23:17.34
>>143

唐津氏の反論はないの? できないの?  @阿波
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:23:27.05
431>>743
>当時の森さんの言ってた事は正しい。 でも今では時代が違うからね。
庄内0期は2世紀末になった。<

大和の庄内は、石塚の3世紀末が始まりだから、×。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:24:25.72
伊都から伊豆まで
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:26:44.75
>>183
東南東に見える島がどんどん近づいて来りゃ、舳先がどっち向いていようが東南東に進んでると分かるよ

まあザラコク並みの無能白痴ボケ老人でなければの話だが
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:28:49.10
>>186

国譲りの主役は伊都ノ尾羽張だし
伊都ノ尾羽張はイザなぎが逃げ帰るときも活躍してる
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:28:55.20
>>187

それは久住編年じゃなくて、吉井信号鮮人編年
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:28:55.68
>>96
あんた相当な畿内説の信者だな
瀬戸内海を常に南に船を向け、蟹走行で東に流れた^_^
バカじゃないの
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:31:21.99
『姥清水』という作品?五穀豊穣、身を清め〜、

『AKIRA』でいうと「ミヤコ」という人物、キャラ?

昔、住んでいたというところも・・・・だしな・・・w
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:31:24.54
>>187
>その新相が庄内3式に併行するわけだから、TB期新相のあとに九州型布留式類似甕が現れるのはごく当たり前。

で? その
TB期新相のあとに九州型布留式類似甕が現れる
ってのは、誰の説なんだ?

w
w
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:34:58.87
>>192

海上じゃ素人のは海流は分からないし
船の方向が南で海流が東でつよければ
船の進む方向は東南東


ってことで魏志倭人伝の海上の南は
東南東に置き換える必要がある
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:37:38.99
『もののけ姫 ヒイ』〜『河童バビィ』?
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:38:10.39
>>184
信用は、付くか落ちるかだけ。
おめら大和説の信用は、もう地に落ちた。
あとは、メッキを付けるしか手はない。
しかし、メッキは禿げるからなあ。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:41:07.90
禿げは吉井信号鮮人asitano81
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:41:25.35
>>200
という証拠は?
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:42:25.75
>>198
>ってことで魏志倭人伝の海上の南は
>東南東に置き換える必要がある

ってことで、壱岐から渡海千里は、東南東の福津・宗像方面となるわけだ。  @阿波
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:46:52.14
431>>760
学説に史料事実の根拠は要らない
「南→東」など、なんでも言えばよい
と思ってる人は大和説以外 いない

つまり大和説は学説でない って、動かぬ証拠なんだけどけね
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:48:29.18
431>>762
>邪馬台国の王都は纏向ではない、葛城だ。<

「南≠東」などに拠って、×。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:50:09.90
>>191
うまい。
ついでに、出雲(いずも)も。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:51:30.58
九州説は一から十まで捏造ばかりだな
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:53:18.30
>>207

畿内説もね。  @阿波
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:53:48.22
>>194
久住編年は権威があるが、吉井信号は発見できなかった。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 11:58:49.17
431>>788
「南→東」などの嘘つき騙しのように
大和は皆トンデモ説で
偽情報を流すくらいしか能がない
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:00:18.44
>>143

唐津氏の反論はないの? できないの?  @阿波
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:02:10.56
431>>794
素直に読めば、筑紫とかだよな
大和も沖縄も阿波も、×。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:07:07.64
九州説のやってる事

捏造
罵倒
以前のスレッドにレス
自己スレに自演同意
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:08:53.03
吉井信号あたりは海抜4mくらいしかないな
有明海は干満差が日本一だから3世紀は潮干狩り小屋(宮)だな
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:11:34.41
>>202
あ、失礼。
剥げるだったな。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:17:31.41
ゴキナイ説のテンプレは、ウソの言い訳カンペ事例集
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:18:56.40
本当に、おかしな話ばかり、
河童というわけではないんだけど、
キュウリのような葉が写っていたり・・・。

山の上のほうに住んでいた・・・、
テングテングと同じような話なのかな、
誰々(どこそこ)の家の近所に引っ越しをしてきた?
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:21:33.31
>>215
3世紀頃は古墳寒冷期突入の直前だから、海岸線は柳川あたりにまで下っていた。
だから、みやま市一帯が、新たに出現した大水田地帯の壮大な祭祀ワールドとなった。
吉井信号は、その卑弥呼の祭祀センターが建てられていたところな。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:30:55.37
>>220

水田跡は見つかっていない
海岸線は西に移動し、浮島が出現した
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 12:41:04.40
カグヤというキャラも老婆談でしょ?



結婚したときも・・・ほとんど駆け落ちみたいなものだよ
と言っていたし、老婆の話ではなくて、
老婆よりも数代前(家の話)の話?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:17:16.96
それにしても、どういうことなんだろう、
何か?代理の人(芸能などのこと)がいて、
他の家や人の宣伝している?ような事を言ってる人がいたり
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:19:13.44
>>222
検索欄に「5.海面変動がもたらす地盤環境に及ぼす影響と評価」と入力し、画面を開いて一番上の「5.海岸変動がもたらす…」のサイトをクリックし、開いたサイトのファイル名「ART0010172072.pdf」をクリックする。
そのサイトの「図-5.2」に西暦200年頃の海岸線が描かれている。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:20:30.41
宣伝ではないとするなら・・・、
悪く言うと寄生?

ホンモノ(子孫、末裔?)の家に寄生w
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:28:10.21
予言スレというのがあるんだけど

「お前の事なんてしらない」
と言ってる人がいたり・・・ということは騙り?成り済まし?

モレ(仮名、この書き込みをしている人物)の事なんてしらないという、
レス「>>」だったしな・・・。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:32:40.07
兄弟、妹?・・・?家の話だしなw

『何者にもなれない お前たち』
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:35:14.84
何度も書いていることなんだけど、
刑務所に行けと
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:39:07.09
歴史関係の住人のほうがマトモな感じがする、
オカルト関係のスレは・・・?池沼の集まり?
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 13:48:58.91
漫画、アニメ、ゲーム?

実際は他人の家の話なのに、
自分(作者)の家のことのように(描く)書いている作品があったり

そのような作品があるでしょ
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 14:23:41.07
気づいている人は気づいているんだよ、
なぜ同じようなもの(検索して出てくる画像など)ばかり出てくるんだと思う

日本の神話で言うと夫婦(最初)の神?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 14:27:48.06
何度、説明すればわかるんだろう

妹がいるでしょ、5月15日生まれ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 14:30:01.17
〜〜〜〜〜〜〜直系なんだろう、
みたいな事を言ってる人がいたり

どのスレだったかな、読んでみた?
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 14:41:06.64
なぜ家と関係のない人間が、
メディア(テレビでも何でも良い、芸能関係でもw)に出演しているんだ?


お前の貰っている、お金なども、
どこから出ているの・・・とか

騙り、なりすまし?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 14:53:40.22
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまいました。。。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 15:50:05.09
>>123
>里数が大きい割りに、なんとなく近い感じもしたから、

「なんとなく近い感じもしたから」wwwwww
想像力が豊かですねww
文字資料だけで近い感じも何もないもんだwww

九州説の反論て、このレベルなんだよな
このレベルでも、自分で考えているだけザラコクやキウスよりはマシw
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 15:52:20.04
>>126
>論理もへったくれもない畿内説という想像主義者が何を言う?

何度も何度も、反論するのは構わないが「具体的な指摘」をしなさいって教えてるだろ?
どこを以って「想像主義者」だと断じるのか「具体的な理由・根拠」を示しなさいな

九州説は、結局いちゃもんレベルを超えてないんだよ
だがら、議論にならないww
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 15:52:27.36
>>210「南→東」などの嘘つき騙しのように


東に向かって流れてる海流がある場合は
船を南に向けて漕いでも船の進む方向は東南東になる


よーするに日本に来た使者は海流の事を知らない素人なんで
船の向いてる南って方向だけで記載してるんで
実際は海流を考慮した東南東に置換えが必要
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 15:55:30.23
>>195

日本海を東南東に流れたって事だと思う


上陸したのは出雲圏でそこから陸路で大和まで行った


出雲圏のトマ国の官名はミミだけど
出雲の都の官命は八耳って記紀に記されてるし
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 15:58:22.11
>>204「南→東」など、なんでも言えばよい
と思ってる人は大和説以外 いない


東に向かう海流がある場合は
船を南にむけての進む方向は東南東


中国の使者は海流の知識が無かったんで
船の向いてる方向の南だけで記述したのであった
海流を考慮すれば南→東南東ってことになる
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 15:58:45.94
妄想が炸裂しているな
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:01:51.30
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまいました。。。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:05:42.16
>>132
>大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」

これで反論した気になってるから、泡は情弱ww
菜畑遺跡
宇木汲田遺跡
桜馬場遺跡
のビッグネームに比肩する遺跡が一つも上げられてないじゃないか

古墳時代に入ってからも、唐津では久里双水古墳のような100メートル級があるが、
宗像地域での出現期古墳では島津丸山古墳の60メートル級がやっと

唐津が末盧国という定説を覆すだけの根拠なんて、一つも提出できない泡であったw
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:08:57.96
>>139
>伊都国や奴国に大きな遺跡があるよ。

唐津・末盧国にも、千々賀遺跡などのそれなりに大きな遺跡があるよ
でも、末盧国、伊都国、奴国は邪馬台国とは別の国

これらを除くと、北部九州に3世紀のめぼしい遺跡はない
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:16:24.93
>>250
>でも、末盧国、伊都国、奴国は邪馬台国とは別の国

意味わからん。
狗邪韓国から南は全て卑弥呼が統べる倭国だよ。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:23:57.48
狗邪韓国を統べてる官がいない
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:28:18.25
なぜ大爆笑なんだと思う

例えば宇宙戦艦の話があったでしょ?
漫画、アニメ・・・など

何々という名前(名字など)は日本人ではないとか、
ほとんど、後付けと同じ話をしていたり
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:28:40.51
>>20記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!


アマテラス(おおひるめ)は鏡祭祀の時代の人物で
卑弥呼と時代が重なるけどね


銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
アマテラスは2世紀末以降の人物ってことで
アマテラス=卑弥呼だよ

おおひるめの漢字表記は大日巫女だし
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:32:02.91
あったでしょ

朴=木下説とか・・・?

もれ(仮)の知っている、
朴は確実に朝鮮人、韓国人というの?在日w

ちなみに川崎区(神奈川県)というところの話
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:33:37.74
>>250


2世紀末に関東から九州にかけての環濠集落は一斉に放棄されて
人々は平地に分散して住むようになって人口が急増した

ってことで全国的に3世紀には広い遺跡が無いんだよね
巻向を除いて

巻向は例外的に3世紀に突如として表れた祭都で
これが3世紀の唯一の広域遺跡なんだけどね
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:35:05.41
本当に漫画やアニメの話をしているの?

『もののけ姫』
それとも他の作品だった?
そのような名前の声優もいたり、よくわからないけどw
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:38:08.20
>>249
>菜畑遺跡
>宇木汲田遺跡
>桜馬場遺跡
>のビッグネームに比肩する遺跡が一つも上げられてないじゃないか

古臭い遺跡ばかり並べ立てて、これで反論した気になってるから、唐津は情弱ww


>古墳時代に入ってからも、唐津では久里双水古墳のような100メートル級があるが、
>宗像地域での出現期古墳では島津丸山古墳の60メートル級がやっと

ピント外れの、古墳時代を持ち出して、これで反論した気になってるから、唐津は情弱ww   ワハハハハ   @阿波
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:38:36.02
ほんとーに凄い話を教えてあげよう

お前(w)が日本人で、モレ(仮)が在日?みたいな話になるw
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:45:55.07
ちなみに家は『松傾』?
こういう名前の家w上の名前の読み方も変えたのかな?


松の木が立てられていて、同じコンセプトの写真だし、
もれ(仮)が生まれるよりも前の写真だから、詳しいことはわからない
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:48:04.74
住んでいるところ?

セメント通り(現〜)というところがあるんだけど、
そこの横のほうw
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:48:36.18
>>181
>日本の文献で糸島が伊都と書かれたことはない

とりあえず日本書紀には
巻第六 垂仁天皇紀に
到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』
巻第九 神功皇后紀に
「事竟還日、産於茲土。」其石今在于伊都縣道邊
とあり、これらは糸島の怡土のことでいいと思うが?
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:52:17.03
>>193
>国譲りの主役は伊都ノ尾羽張だし

その古事記の伊都は、万葉仮名表記だから、伊都国とは無関係だろ
日本書紀では稜威雄走神と書かれている
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:57:43.57
>>220
>3世紀頃は古墳寒冷期突入の直前だから、海岸線は柳川あたりにまで下っていた。

残念ながら、海進、海退は、短期的な寒暖にそれほど左右されないんだ
北極近くの大陸氷河の重さでその辺が沈んでいた分が千年単位で回復する過程で
海進が起こる
海退はその逆

下山正一先生の多数地点のボーリング調査で有明海の海岸線を調べた研究を見てごらん
「下山正一 有明海」でグーグルで画像検索すれば見やすい図が探せる
弥生末の吉井信号付近はまだ海だよ
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:59:03.52
例えば

日本人ではないのに、
なぜ日本の漫画やアニメ、ゲーム・・・その他w
のテーマ(キャラクターなど)になっていたりするんだ

とか、そういうことになるでしょ

人権侵害、金(そこから得たもの)を返せみたいな話になったり
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:01:38.84
>>251
>狗邪韓国から南は全て卑弥呼が統べる倭国だよ。

「倭国=邪馬台国」ではない
邪馬台国は、伊都国・奴国と同じ並びの倭国内の「クニ(単位となる勢力)」

末盧国、伊都国、奴国は、邪馬台国とは別の「クニ」と書いた方が正確だったね
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:02:02.96
蝦夷は在日か
なるほど
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:08:54.07
>>258
>ピント外れの、古墳時代を持ち出して、これで反論した気になってるから、唐津は情弱ww

古墳時代に入って最初に作られる各地の古墳は、そのまま弥生終末期の勢力の大きさ・強さを
反映した物となっている
だから、畿内や丹波、吉備では大きいが、北部九州では小さい
その北部九州でも、宗像地域は大きなものがない

>古臭い遺跡ばかり並べ立てて、これで反論した気になってるから

さらに、魏志倭人伝の末盧国の記述には官が記されておらず、
魏代以前の記録に拠るものとも考えられる
つまり、古臭い時期に十分な勢力があったと考えられる場所こそ末盧国の比定地として
蓋然性が高いことになる

泡は、結論ありきの牽強付会な妄想が頼りだから、きちんとした論証ができないし
情報自体がチェリーピッキングな情弱でしかない
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:09:18.93
>>266
ではそのような7万戸の国邑が畿内にあったのか?
畿内説は広域を邪馬台国と呼んでいるのではなかったか?
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:10:05.56
431>>795
>そこが問題なのだよな倭人伝は
1.方位は合っているが距離は間違い
2.方位、距離とも間違っている
3.方位、距離(短里)とも会っている
4.他
俺は1を採用の九州説<

距離も、行程部分の関しても郡と狗邪韓國と對海國と一大國と伊都国がほぼ定点になっており、
侏儒國もほぼ定点になっていて、有効数字1桁概数としては、十分正確であり、
その比率に拠って、残りの末盧國や奴國や不彌國の位置も非常に狭い範囲に特定出来、
不彌國で萬二千余里がほぼおわっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある、と特定出来る。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:10:47.59
>>268
>つまり、古臭い時期に十分な勢力があったと考えられる場所こそ末盧国の比定地として
>蓋然性が高いことになる

逆だよ。
狗邪韓国と同じく、官を置くほどの規模もなかったんだよ。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:11:58.41
有名な、あのコピペ

『在日通名、帰化人に多い苗字』

花屋、飲食店・・・・w
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:36:46.55
>>268
>古墳時代に入って最初に作られる各地の古墳は、そのまま弥生終末期の勢力の大きさ・強さを
>反映した物となっている

碌な弥生終末期の集落遺跡のない唐津にそんな妄想は無意味。


>だから、畿内や丹波、吉備では大きいが、北部九州では小さい その北部九州でも、宗像地域は大きなものがない

だからそれは、弥生終末期に北部九州が遅れているからさ。  ワハハハハ 


>さらに、魏志倭人伝の末盧国の記述には官が記されておらず、
>魏代以前の記録に拠るものとも考えられる

そんな君にだけ都合の良い妄想は聞き飽きたよ。  ワハハハハ  


>つまり、古臭い時期に十分な勢力があったと考えられる場所こそ末盧国の比定地として
>蓋然性が高いことになる

そんな君にだけ都合の良い妄想は聞き飽きたよ。  ワハハハハ    
臭い遺跡ばかり並べ立てて、これで反論した気になってるから
唐津は、結論ありきの牽強付会な妄想が頼りだから、きちんとした論証ができないし
情報自体がチェリーピッキングな情弱でしかない。  @阿波
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:45:18.25
>>271
末盧国は4000戸であったから、
唐津から平戸辺りまでの多数の邑から成り立っていたのではないか。浜山海に沿うとはこのことであろう。
主邑(首都)としては、立地から見て伊万里が第一の候補になる。
つまり末盧国の範囲とはいえ、当時の唐津は寒村で、官は常駐していなかったと考えれば良いのではないか。
なお、帯方郡と邪馬台国女王之所都との交流ルートとして、倭人伝は唐津港経由を挙げているが、
用向きによっては、伊万里を上陸地点として利用していた可能性も排除できないであろう。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:47:29.64
>>256
それがね 纏向は生活痕がないし、集落跡も無いのだよね
クラブハウスのあるゴルフ場みたいなんだよな
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:48:23.68
本当は、川崎区、この辺りの話をしているんじゃないの?

『公明 浜田まさとし』という人物がいたり
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:58:35.42
>>274
そんな九州にだけ都合の良い妄想は聞き飽きたよ。  ワハハハハ    

九州は、結論ありきの牽強付会な妄想が頼りだから、きちんとした論証ができないし
情報自体がチェリーピッキングな情弱でしかない。  @阿波
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 17:59:14.16
>>275
それは誰の説?

w
w
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:06:41.34
>>269
>ではそのような7万戸の国邑が畿内にあったのか?

魏志倭人伝で、戸数が可○萬戸となっている投馬国と邪馬台国は
国邑じゃないだろ
同一文化・勢力圏だよ

>畿内説は広域を邪馬台国と呼んでいるのではなかったか?

言うほど広域ではない
大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通に出土する範囲だ
テンプレにも書いてある

投馬国は、四隅突出墓の墓制を共通に持つ範囲で丹波以西の中国地方日本海側
中国地方の瀬戸内川との連携は、考える必要がある
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:14:42.02
>>271
>狗邪韓国と同じく、官を置くほどの規模もなかったんだよ。

對馬國 有千餘戸  官 卑狗、副 卑奴母離
一大國 有三千許家 官 卑狗、副 卑奴母離
末盧國 有四千餘戸 「官の記載なし」
伊都國 有千餘戸  官 爾支、副 泄謨觚、柄渠觚
奴國  有二萬餘戸 官 兕馬觚、副 卑奴母離
不彌國 有千餘家  官 多模、副 卑奴母離

末盧国は、萬戸以上の大国以外では、一番大きい
「官を置くほどの規模もない」というのは、まったく根拠がない

泡は、基本文献の内容も知らない情弱ww
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:14:57.74
>>279
>同一文化・勢力圏だよ

同じ四国だからね。


>大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通に出土する範囲だ

畿内第V様式土器は単なる厚型の弥生土器だよ。 なに言ってんの?
軽量薄型土器(東阿波型土器)を言いたいんだろうけどww  虫が良すぎ。  @阿波  
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:17:16.64
>>273
>碌な弥生終末期の集落遺跡のない唐津にそんな妄想は無意味

それを言ったら、阿波の遺跡はみんな小さいぞww
千々賀遺跡は弥生終末期の集落遺跡だよ
前に教えただろww

でも、その時も、ザラコク同様に「そんなのぼくちんは認めないんだー」って
言ってたけどさww
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:17:56.74
『松傾』?

実際に住んでいるところは、
川崎区の南部のほうだしな〜・・・。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:18:14.64
東阿波型土器は阿波の土器の一形式でしかない
布留式と共伴する
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:18:27.18
>>280
>泡は、基本文献の内容も知らない情弱ww

>>271さんは私じゃないよ。 みんな、そう思ってるってこと。  自覚しなさい。  @阿波
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:20:14.01
>>274
>唐津から平戸辺りまでの多数の邑から成り立っていたのではないか。浜山海に沿うとはこのことであろう。

弥生時代の海岸線の推定図を見てごらん
松浦川河口付近には大きな潟湖があって、唐津平野の平地は現在と比べるとかなり狭く
山と「川、潟湖、海」に挟まれた状態になってる
そのままで濱山海居の状況になってるよ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:20:37.71
>>263

伊都の尾羽張は伊都国の尾羽張だし
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:22:45.40
>>267


蝦夷は縄文系だけどね

ちなみに倭種は渡来系の弥生人
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:24:31.73
>>279
>大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通に出土する範囲だ
>テンプレにも書いてある

少なくとも、これは国邑ではない。
畿内説はダブスタを用いている。
だからテンプレが批判されるのである。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:25:39.89
>>264
下山氏のこの講演録では1800年前の弥生末の海岸線は不確かなものだと指摘しているが、吉井信号のある瀬高町小川はこの弥生海岸線よりもずっと北にある。
そして、現在のみやま市瀬高町吉井信号地点の海抜は9m。
十分陸域だろう。
講演録では佐賀市について詳しく述べられているが、みやま市については残念ながら言及がなされていないので、どのあたりまで海岸が来ていたかは不明だ。
ただ、瀬高町は中心域には広く田んぼが広がる地形だから、元々は矢部川の後背低湿地帯だったのではないか。
しかしながら、市街域はちゃんと微高地にあり、この地勢は弥生時代からほとんど変わっていないと思われる。
吉井信号は、田んぼに突き出たその微高地の上にある。
卑弥呼の祭祀センターは、ここにあった。
彼女は、当然豊作を祈る大祭祀を行ったはずだ。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:27:06.49
>>279投馬国と邪馬台国は


投馬国と邪馬台国はともにかなり広い国なんで
間の他の国はなく接してる

投馬国は出雲圏全体で
邪馬台国は大和圏全体って感じかな
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:27:39.87
>>286
それはその通りと理解してる。
ただ、今よりかなり狭い唐津平野で4000戸はむつかしかったのではないか。
又、此処以外にも、松浦という地名は残っているので、もう少し広く考えても差し支えないと思う。
そうすれば、官名がなかった(官は常駐していなかった)理由が読める。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:29:20.91
>>270


船の方向は南を向いてるけど
東に流れる海流を考慮すれば
船の進む方向は東南東になる


ってことで南→東南東ってする必要がある
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:29:50.49
>>280
>泡は、基本文献の内容も知らない情弱ww

>>271さんは私じゃないよ。 みんな、そう思ってるってこと。  自覚しなさい。  @阿波
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:31:09.67
>>291
そんな広域の遺跡はない。
畿内説は壮大な妄想だな。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:31:37.77
断絶、氷の世界という曲があるけど、
実際は〜・・・・・・・・『松傾』
〜日本に来て、日本人になっているからでしょ

何の家のなのか知らないけど、寺院の話とか
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:34:24.57
431>>810
>魏使は天体観測しながら移動なんてしないだろ?<

方向記載がある部分は、当然、日の出日の入りや太陽で、方向を計測した。

>そして、現地で方角を間違えないことと、その記録が間違いないこととは同値ではない
実際、末盧国から伊都国の方角が90度間違っている<

末盧國の出発時点では、当然、伊都國は見えないし、
魏使らが関心があるとすれば、邪馬壹國女王之所都の方向 。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:35:18.69
>>282
>それを言ったら、阿波の遺跡はみんな小さいぞww

君は大きいとか小さいとか、よく言うね。 君の機銃は大きさだけかね。  浅いね。   


>千々賀遺跡は弥生終末期の集落遺跡だよ

たった、それだけ?  わはははっは  @阿波
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:35:42.47
>>290

>現在のみやま市瀬高町吉井信号地点の海抜は9m。

土盛って舗装してるんだよw
周辺の現在の海抜4m地表に何も露出してないんだから
3世紀の地表はその下の層
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:36:35.33
431>>812の訂正
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
安部文部省や右翼マスコミや学会教育界の後押しがあったのに、
国民の投票ですら3割でしかなく、
全く勝てなかった大和説は、そもそも学説でも何でもなかった
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:43:18.14
>>282
>それを言ったら、阿波の遺跡はみんな小さいぞww

君は大きいとか小さいとか、よく言うね。 君の基準は大きさだけかね。  浅いね。   


>千々賀遺跡は弥生終末期の集落遺跡だよ

たった、それだけ?  わはははっは  @阿波
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:57:11.30
>>279
>同一文化・勢力圏だよ

同じ四国だからね。


>大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通に出土する範囲だ

畿内第V様式土器は単なる厚型の弥生土器だよ。 なに言ってんの?
軽量薄型土器(東阿波型土器)を言いたいんだろうけどww  虫が良すぎ。  ワハハハハは  @阿波  
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:09:38.16
何が面白いのか?となるはず
本当に「wwwwwwwwwwww」(大爆笑という意味らしい)


『松傾』でしょ?
おとなしかった(物静か)と言っているし、あまり会話もしないとか、
母親が言っているんだから、確実。

当時(不明)のことだから詳しいことは知らないけど、
寺院とか、そういう話をしている。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:11:36.47
>>287
>伊都の尾羽張は伊都国の尾羽張だし

漢文の読めない人なのかな?
古事記のこれだろ?
坐天安河河上之天石屋、名『伊都之尾羽張神』、是可遣。「伊都二字以音。」
若亦非此神者、其神之子、建御雷之男神、此應遣。

日本書紀だとこうなる
有天石窟所住神『稜威雄走神』之子甕速日神、甕速日~神之子熯速日神、
熯速日神之子武甕槌神。

伊都之尾羽張神がいたところは、古事記では「天安河河上之天石屋」
日本書紀では「天石窟」で、伊都ではない

古事記には「伊都は音で読め」と注釈されてるし、
日本書紀では「稜威」と意味を示す文字が当ててある

伊都之尾羽張神の伊都が伊都国の伊都というのは、漢文の読めない人の思い込み
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:16:44.76
>>289
>少なくとも、これは国邑ではない。

そうだよ? ずっとそう言ってるだろ?

>畿内説はダブスタを用いている。

???
どこがダブスタなの?
邪馬台国を国邑だと言った覚えはないし、テンプレにもそんなことは書いてないぞ?
いつもの「脳内畿内説」に対する反論なのかな?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:21:05.46
畿内第V様式土器は、畿内各地の形式が消失する
弥生時代後期からの複合型集落が解体され平準化していく過程に即した土器
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:21:13.01
>>295
>そんな広域の遺跡はない。

遺跡=国じゃないだろ?
伊都国だって、三雲遺跡群の周りの田んぼも含めて、糸島平野が伊都国だぞ?
奴国も同様に、中心は比恵那珂遺跡群だが、福岡平野全域が奴国と想定されてる
でなければ、二萬戸は入らないだろ?

どうも、九州説は基本認識がおかしい
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:23:19.56
>>298
>君は大きいとか小さいとか、よく言うね。 君の機銃は大きさだけかね。  浅いね。   

茶化すだけで反論はできない、とww
そして、数だけ多い阿波の遺跡(土器が落ちてただけの遺跡を含む)では、規模では
比べようがない、とww

>たった、それだけ?

具体的な反論はなし、とww

泡は、物氏らずの情弱ww
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:27:34.71
>>306
>畿内第V様式土器は、畿内各地の形式が消失する

これと同じことが、庄内式土器、布留式土器の2段階で、列島の西半分の広域で起こる訳だ

畿内第V様式土器の定式化が、畿内勢力=ヤマト国・邪馬台国の成立を意味し、
庄内式土器・布留式土器の定式化が、倭国=卑弥呼を中心とする祭祀連合の成立を意味する

このように認識すれば、日本古代の国家形成が非常にすっきり理解できる
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:28:52.67
出雲や大和は水田遺構が切れ目なく続いているのか?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:30:05.73
>>306
>複合型集落が解体され平準化していく過程

なんで複合型集落が解体されたの?  @阿波
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:34:20.65
301日本@名無史さん2019/03/05(火) 18:43:18.14
>千々賀遺跡は弥生終末期の集落遺跡だよ

たった、それだけ?  わはははっは  @阿波
唐津など、およびじゃないよ。  ワハハハハ

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:37:25.78
>>310
>出雲や大和は水田遺構が切れ目なく続いているのか?

福岡平野だって、水田が切れ目なく続いている訳じゃないよ

これは推測になるが、投馬国と邪馬台国の戸数表示が可○萬余戸となっているのは
一つの平野だけの国ではないことを意味していると考えれば、理解しやすい
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:39:36.63
>>309
>庄内式土器・布留式土器の定式化が、倭国=卑弥呼を中心とする祭祀連合の成立を意味する


庄内式土器・布留式土器の定式化が、「忌部はん」 が畿内へ進出したことを意味する。

このように認識すれば、日本古代の国家形成が非常にすっきり理解できる。   @阿波
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:41:16.18
>>313
>福岡平野だって、水田が切れ目なく続いている訳じゃないよ

だから、弥生の大洪水による灌漑稲作の壊滅 だと、何度言えばw  @阿波
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:42:03.28
>>292
>又、此処以外にも、松浦という地名は残っているので、もう少し広く考えても差し支えないと思う。

それは、松浦郡がべらぼうに広かったからだよ
その辺りには他に土地を代表するような集落がほぼなかったから、広い面積を
松浦郡とひとまとめにしていた時代があるということ

その広い松浦郡の中で、松浦=末盧・末羅の原地名を考えるとき、
松浦川のある唐津平野を想定するのが妥当
川の名前は移動しないから
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:44:59.31
>>316
>その広い松浦郡の中で、松浦=末盧・末羅の原地名を考えるとき、

地名で考える???  レベル低すぎ。  御粗末すぎ。   @阿波
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:48:45.85
それにしても、
おかしな性格()だという説でしょ?
家の父親のことを言ってるのかもしれないな・・・。


老婆(父親の母親)も、
なんでこんな性格になったんだろうと言っていたし・・・。


老婆に似ているん(性格)だろうと言う話とか、
親戚なら知っていると思うんだけど・・・。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:51:21.93
>>311
それはね、だんだん小さなグループで小さくまとまってる時代じゃなくなって来たからだよ
川の流域単位、さらに平野単位のボスが上に乗っかったお蔭で、小さい派閥が解体したのさ
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:53:17.66
>>278
誰の説かは忘れたが同意している
根拠(生活用具が少なく土木具が目立つ)
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:53:41.28
>>313
>これは推測になるが、投馬国と邪馬台国の戸数表示が可○萬余戸となっているのは
>一つの平野だけの国ではないことを意味していると考えれば、理解しやすい

つまり、邪馬台国と投馬国は複数の国邑を含むと言うことだね。
ならば、それを九州の福岡なり宮崎なりに比定することを妨げるものではない。
逆に、畿内説ではその中の国邑が紹介されていないという不自然なことになる。
九州ではあれほど細かく国邑の距離や方角を紹介していたのに。
伊都国はともかく、不弥国なんて細かく紹介する必要はない。
出雲まで何里とか、大和まで何里という情報すらないのはおかしいではないか。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:56:06.12
>>320
土木作業員が住んでいた程度であり、栄えた王都から程遠い。
同じ時代の九州が土器も鉄器も銅器も絹も水銀朱も豊富であったのとは対照的だ。
大和はただの田舎だよ。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:57:01.37
>>317
>地名で考える???  レベル低すぎ。

泡は情弱

人が同じ場所に住み続ければ、親子で話が通じなくなると困るので、
同じ場所は同じ地名で呼ばれ続ける

世代が重なりながら人が入れ替わって行っても、地名はずっと維持される
地名は「言葉の化石」と言われるのも、故なしではない

実際に魏志倭人伝の地名も
對馬國    対馬
一大國(一支)壱岐 
末盧國    松浦
伊都國    怡土
奴國     那の津 那珂
不彌國    これは不明
投馬國    出雲
邪馬台國   大和
斯馬國    志摩
已百支國   伊吹
都支國    土岐?
彌奴國    美濃?
鬼國     紀
くらい残っている

定説となっている比定地をほぼ全否定しないと成立しない泡説は、
基本、情弱が考えたトンデモ以上のものではない
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:59:24.78
>>304

伊都国の王は崇神の時にも出てくるけどね

アメノヒボコが朝鮮から渡来したときに
伊都国の王が倭王と名乗ってたんで
間違って九州の伊都国にいってしまった
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:01:51.26
『姥清水』?

家の話でしょ、むかーし住んでいたことがあるんだよ
と言っていたり、その周辺・・・?。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:03:20.10
>>295
>そんな広域の遺跡はない。

ずっと前からFAQ4で釘を刺されてるのにね
旧世代の九州爺さんは意識改革からずっと取り残されてる

FAQ4が要らないとか毎度アホクレーム付けるウザバカも学習能力ゼロだし
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:05:02.28
>>321
>逆に、畿内説ではその中の国邑が紹介されていないという不自然なことになる。
>九州ではあれほど細かく国邑の距離や方角を紹介していたのに。

魏志倭人伝の撰述のときに利用できた史料が複数あり、その史料間で
書かれた時期と情報の書き方が違ってただけだよ

投馬国と邪馬台国の情報は、梯儁と張政の倭国訪問時の史料によると考えられるが、
北部九州の情報はそれ以前の後漢代からの情報が利用できたのだろう

逆に、後漢代の情報では倭国本土(本州、四国、九州)への上陸地点が
末盧国だったために、卑弥呼の遣使の際の魏使の旅程とは異なる順序で
北部九州の国が記載されていると考えられる
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:05:51.17
伊都国の王は仲哀の時にも登場する。
三種の神器を掲げて、仲哀を香椎に迎え入れた。
大和に向かった一族とは別に、筑紫に残った一族がいたんだろう。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:08:36.32
『姥清水』?
本当に、いつ頃の話なんだろう


兄、もれ(弟)で、妹でしょ?

本当はモレ(仮)の下に弟がいたんだよ、
みたいな事を言っていたし・・・?

死んだと言っていたのかな?生まれてくる前に死んだ?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:08:47.25
>>15


邪馬台国は大和圏の広い範囲だし
投馬国は出雲圏の広い範囲で
間に他の国はなく接してた
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:09:05.24
>>324
>伊都国の王は崇神の時にも出てくるけどね

それ、日本書紀の垂仁紀
到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』

古事記では、伊都は「イツ」の表音文字としてしか出てこない
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:10:28.43
>>330
丹後はどこの国?
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:10:35.43
>>327
>投馬国と邪馬台国の情報は、梯儁と張政の倭国訪問時の史料によると考えられるが、
>北部九州の情報はそれ以前の後漢代からの情報が利用できたのだろう

これは苦しい言い訳だよ。
後漢代に漢の役人が倭国を訪れた記録はない。
倭から朝貢していただけ。
魏になり、初めて帯方郡から郡使が出て伊都まで行き、その時に九州北部までの詳細な里程がわかったのだよ。
だからその里程は後漢書には書かれずに魏志倭人伝にだけ、書かれている。
編纂された年代を考慮すると、どちらも同じ原資料を参照していたはずなのに。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:10:51.26
>>295


3世紀になると環濠集落は破棄されて
人々は平野に分散して生活し始めるんで
3世紀には遺跡そのものが巻向を除いて存在しないよ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:12:32.80
>>197
佐々木だろが。
おめらが自説の補強に提示した佐々木憲一プロフェッサーだよ。
ちゃんと読んだのかよォ〜。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:13:10.58
>>323

地名でしか考ええことが出来ないお粗末説。  そりゃ、レベル低すぎだよ。  ワハハハハ   @阿波
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:13:23.41
兄、モレ(弟)・・・、
モレ(仮)には弟がいた?みたいなの話をしていたような、
生まれてくる前に・・・、死んだのかな?
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:13:27.77
>>300南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、

中国の使者は海流についての知識が無かったんで
船が南に向いてれば南に進むと思ってた


実際には東に向かって海流が流れてるんで
船が南に向いてても進む方向は東南東になる

ってことで南→東南東に修正する必要がある
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:15:03.70
>>289
九州で7万戸を想定できる広域勢力の存在を示すものがないから文句つけてるだけじゃん
畿内説の優位性を放棄して勝負しろと要求してるのと同じ
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:15:32.06
伊都のおわばり?は、息子が天孫である天照国照ニニギと書いてあるよ。
うまり、アマテラスの息子である倭王のこと。
まあ、実際にはアマテラスの在位が長くてスキップされたのかもしれないけど。
伊都にいた倭王のことだろうね。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:15:52.79
>>321邪馬台国と投馬国


邪馬台国と投馬国の間に他の国がないんで
邪馬台国と投馬国は地続きでお互いにかなり広い国
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:16:10.18
>>321
>つまり、邪馬台国と投馬国は複数の国邑を含むと言うことだね。

なんで?
魏使の目にはもう一つの国に統合されて見えてるんだから
複数の国邑を含むなんて話はしないだろ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:17:55.87
>>339
奴国を含む福岡県西部、もしくは佐賀と長崎を加えた九州北西部。
それが邪馬台国。
女王の都(伊都)があるところ。

投馬国は宮崎全域。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:18:36.41
>>323
地名でしか考えることが出来ないお粗末説。  そりゃ、レベル低すぎだよ。  

碌な弥生後期集落遺跡もない唐津など、およびじゃないよ。  ワハハハハ   @阿波

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:19:18.46
>>304


伊都の尾羽張の子孫が伊都つひこで
崇神の時代には伊都ツひこは倭王と自称してた
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:22:00.34
>>322
>土木作業員が住んでいた程度であり、栄えた王都から程遠い。

200メートル超級の巨大古墳を作るだけの土木作業員を
食わせるだけの余裕のある大国だってことだよ

王都以外では無理だろ?

実際、200メートル超級はほぼ「畿内周辺」と
「畿内大王家に后を出した家系の一代」だけだ
例外は、群馬県 太田天神山古墳、京都府 神明山古墳 だけだが
どちらも皇別氏族の祖と想定されている
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:22:11.12
>>232
うん、だけど古来ここで稲作が行われてきた。
倭名抄には山門郷と出ているので、現在と変わらない水田地帯だったはずだ。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:22:38.93
>>289
畿内説の優位性を放棄要求という以前に
国邑の定義を曖昧にしたままで
他人にはワケ解らない要求してる
ただの思い込み男だ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:22:58.34
『ドリフターズ』という作品(漫画)?

『バカヤロー コノヤロー』

誰々を〜殺そうとしたみたいな画像が出てきたり、
兄?もれ(弟)のことなのかな
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:23:26.18
>>328伊都国の王は仲哀の時にも登場する。


国譲りの時代や崇神の時代や仲哀の時代に出てくるんで
古代の力のある国みたいだね伊都国は
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:26:10.80
>>321


中国地方とか山陰とか関東とかの
古代の国ってかなり大きくて現在の複数県に及ぶ範囲だし

例えば毛の国は群馬・栃木だし
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:26:17.76
>>343
何の根拠もなく、裏付けとなる考古資料も示さず、言い張ってるだけ
それ小学生の行程パズルだw
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:28:18.49
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。

旧の百余国が(統合されて)、今は三十国なのだから、
平均すれば、旧国邑三つをまとめて一つの新国になったのであろう。
今でいえば三市町村で1国くらいの規模だったのではないか。。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:30:05.55
>>310

古代の国は広いのは複数県にまたがる範囲だったし

例えば毛の国は群馬栃木で
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:30:15.75
九州説にはアレだ
異常に発言数の多い一人の男か
複数のバカかわからんけど
異常に思い込みの強い奴がいる

自分の思い込みが絶対だと思ってるから
理由を全く説明できない
だから他人に全く理解できない演説をする

異常に説明が下手なのはそういう理由だ
説明能力がない
換言すれば
コミュ障
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:31:07.42
>>332
>丹後はどこの国?

丹波は、彦坐王の系統の丹波道主の国だよ
古墳時代初期に、上部が丸い独特の円筒埴輪を使った大古墳が3つ作られていて
その網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳が、日本海側3大古墳となっている
この3つの古墳がある範囲が、丹波の範囲でいいと思う
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:31:50.51
それにしても、なんで知っているんだろう?

子供(赤ん坊)の頃の話だから、よくわからないんだけど、
それとも、もれ(仮、弟)が生まれてくる前?
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:32:23.63
>>353
そんなのわからんだろ
80国が一つにまとまって残りが昔のままかも知れん
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:34:29.18
>>356
それ、やまとなの? いづもなの?
どっちでもないの?

やまとといづもは何処で接するの?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:34:33.85
>>331それ、日本書紀の垂仁紀


アメノヒボコは崇神の時代に伊都国を訪れてるんだけど
大和についた時には垂仁の時代になってた


よーするの伊都つ彦が倭王と自称してたんで
アメノヒボコは間違って伊都国に長い期間逗留して
間違いに築いて大和に来た時には崇神は死んでて
時代は垂仁だった
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:35:53.60
>>346
>200メートル超級の巨大古墳を作るだけの土木作業員を
>食わせるだけの余裕のある大国だってことだよ

倭国(阿波)はね。  @阿波
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:36:40.67
>>328
>伊都国の王は仲哀の時にも登場する。

それは、伊都国の「王」とは書かれていない

原文は「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」
国造ではなく伊覩「縣主」祖という書き方になっている
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:38:02.76
倭人伝の行程記事の
「従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国」
この「到狗邪韓国」の前には、「○乍ら(途中右折れの)△乍ら」が入っている。
(これに関し、上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、
難路ではあるが一本道で右折左折はない。「到る伊都国」というには、どう見ても不適合だ。)

しかしここを、前例に倣って読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到る伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折れの、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、
と読むのが正しい読解である。
(注:右折左折は、一般地図上の左右に依る。日本の道路交通法では上例は左折に当たる)
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:38:27.12
>>340伊都にいた倭王のことだろうね。


伊都国の王ってことで倭王じゃないけどね

30カ国に共立されたんは卑弥呼であって
伊都国の王者じゃないしね


共立は国譲りってことで記紀に記されてて
このときに伊都の尾羽張が活躍してるんで
30カ国のなかの有力な国だたんだろね伊都国は
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:38:57.08
>>323
地名でしか考えることが出来ないお粗末説。  そりゃ、レベル低すぎだよ。  

碌な弥生後期集落遺跡もない唐津など、およびじゃないよ。  ワハハハハ   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:41:21.06
>>340
>伊都のおわばり?は、息子が天孫である天照国照ニニギと書いてあるよ。

どこで得た知識なんだい?
子孫は国譲りのときの武甕槌神であって、ニニギじゃないよ
>>304に原文を載せてあるから確認して
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:41:35.17
>>343投馬国は宮崎全域。

投馬国は出雲圏全域の広い範囲

船を南に向けて漕いでも
海流は東に向かって流れてるんで
船の進む方向は東南東になる

南→東南東とすれば
投馬国は出雲圏で問題ない
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:42:27.41
『姥清水』
死んだ弟の話なのかな、
本当は弟もいるんだよ(生まれてくる前に死んだ)みたいな話をしていたし


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
本当は、もれ(仮)の父親は犯罪者なんだろうみたいな話?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:44:25.76
>>362それは、伊都国の「王」とは書かれていない

伊都つヒコは
崇神の時代では倭王と自称してたんで
朝鮮から渡来したアメノヒボコは間違って
九州の伊都国を訪ねてしまった

間違いに気づいて大和に行った時には
すでに崇神はなくなってて時代は次の垂仁だった
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:45:45.28
>>345
>伊都の尾羽張の子孫が伊都つひこで
>崇神の時代には伊都ツひこは倭王と自称してた

いい加減にバカをさらすのはやめな
伊都之尾羽張神は、高天原から一歩も出ていないし、天降りもしていないから、
子孫は地上にはいない

伊都々比古が出てくるのは垂仁紀だって!
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:45:56.85
300年間、五畿内ヤマト説も北部九州イトクズ説も、
仲哀天皇・神功皇后記の剽窃解釈に惑わされたがゆえに解くことができなかった。
剽窃解釈では糸島がイトコク国であったと主張するが、そもそもそれが迷宮の入り口。

筑紫島上陸後の末盧国・唐津からは、松浦川に沿って南へ進み、
脊振山系の南を迂回して東南陸行500里で佐賀川上の伊都国に到った。
また次東行100里の佐賀三根郡目達原(吉野ヶ里一帯)には不彌国があった・・・、
そして、そこから遥か南方に投馬国(主邑は日向西都市の都万)と、
やや南に邪馬台国(肥後熊本平野の邪馬臺国)があった・・・。
この間の1里は50m〜100mの範囲内。以上で、万事めでたく解決に到る。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:48:22.14
このスレの住人なら知っているはず、
当時、住んでいた・・・・みたいな用紙を貼り付けたの

『姥清水』?
いまの福島県・・・伊達郡?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:51:06.81
>>359


投馬から邪馬台国に向かう間に国は出てこないから
投馬と邪馬台国は接してるってことになるけど
かかった二数からみて両方の国は複数県にまたがるかなり広い国って感じかな

古代の越の国や吉備の国や毛の国みたいに
そのころの投馬や邪馬台国は複数県にまたがる範囲だったのかもね
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:55:02.17
気づいている人は気づいている、
というか知っている


そういう作品(漫画、アニメ・・・)・・・、
芸能人?の話ではなく、実際は家『松傾』?の話
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:58:20.94
311 放射能?

本当の話なのかな、
老婆の親戚なんかも住んでいるはずなんだけど

本当に何が起きたんだろう
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:00:42.63
>>346実際、200メートル超級はほぼ「畿内周辺」と
「畿内大王家に后を出した家系の一代」だけだ
例外は、群馬県 太田天神山古墳、京都府 神明山古墳 だけだが
どちらも皇別氏族の祖と想定されている


神武の出身地の宮崎にも200メートル級の古墳があったと思ったけど
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:01:28.92
>>299
現在の水田は、3世紀も水田だったろうから、「水田跡」はないだろう。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:02:11.74
数年前の、このスレの話

ひめユミコ、ひめユミコと言ってる人がいたり・・・、
家の母親の名前と同じだしな
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:04:15.78
本当に・・・、
下の名前(ゆみこ)が同じというだけなんだけどw
何なんだろう
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:05:07.23
>>376
神武の出身地は、薩摩阿多。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:06:39.47
あの謎のゲームの話ではないけど、
家の母親も次女だしな・・・w

たしか、そうだった
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:10:41.88
本当に、あの謎のゲームの話ではないけど

「エー」(ターンエー、∀)
のようなマークが何やら〜と言ってる人がいたり
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:11:31.80
>>381

神武が誕生したのは日向国だから今の宮崎県の範囲になるけど
宮崎県にも巨大古墳があるね
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:14:46.09
何か知っている人がいるのかな?
母親の親戚かな
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:15:14.24
>>362

伊都の尾羽張は
イザナギが化け物になったイザナミに追われてる時にも
助けになった人物だし
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:20:09.08
神話の話ではないとしても・・・、
母親はウサギ年(干支)だし
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:21:22.27
>>350
>国譲りの時代や崇神の時代や仲哀の時代に出てくるんで

国譲りのときには出てこない 単なる誤読 つ>>304
崇神じゃなくて垂仁紀 つ>>331
仲哀のときは、王ではなく県主の祖 つ>>362

ちゃんとコメント読んでよw

>古代の力のある国みたいだね伊都国は

まあ、畿内から一大率が派遣されてた場所だからね
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:25:43.20
>>376
>神武の出身地の宮崎にも200メートル級の古墳があったと思ったけど

男狭穂塚古墳が全長約175m
女狭穂塚古墳が全長約180m

どちらも200メートルに少し届かない
そして、これは仁徳天皇のときの髪長姫の実家の墓
まさに、大王家に后を出した家の1代限りの大墳墓だよ
畿内大王家の力による造墓と見てよい
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:25:54.47
>>388
アメノヒボコは伊都国についたのは崇神の時代だけど
伊都国王は倭王じゃないと気づいて大和に来た時には
すでに崇神は死んでいて時代は垂仁になってた
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:32:02.41
>>370

崇神の時代に伊都ツヒコは倭王と自称してたけどね

それで倭王に会いに朝鮮から渡来したアメノヒボコは間違えて
伊都国に行ってしまった

間違いにきずいて大和の倭王の元にたどり着いた時には
時代は垂仁になってた

ちなみにアメノヒボコの子孫が神功皇后だけどね
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:33:43.76
何か・・・・・・・・・・・、
知っている人がいるのかな〜。

どこかの機関、組織?何なんだろう
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:35:56.78
泡も九州説も、すぐにコピペ貼りになるのは、
知識と説明能力が足りないからなんだろうな
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:36:19.11
>>378
ほとんどは江戸時代に開拓した分だぞ。
畿内説だと、日本海沿岸や、纒向に至るまでの琵琶湖沿岸、淀川流域は切れ目なく集落や水田が続いていたのか?
どんな弥生時代だよ。
学者様もびっくりだ!
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:38:15.82
>>376
神武の出身地は筑紫の日向、すなわち倭国の王都であった伊都国だよ。
宮崎県が日向国と呼ばれるようになるのは、景行天皇の命名。
イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸に小戸大神宮が建てられている。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:39:42.55
>>198
>ってことで魏志倭人伝の海上の南は
>東南東に置き換える必要がある

ってことで、壱岐から渡海千里は、東南東の福津・宗像方面となるわけだ。  @阿波
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:41:07.74
>>369
>崇神の時代では倭王と自称してたんで
>朝鮮から渡来したアメノヒボコは間違って
>九州の伊都国を訪ねてしまった

その昔、倭では皆が王を自称したと書かれていたやつだ。
九州と畿内と、両方に王家があったんだよ。
そうなると、帯方郡とやりとりして楽浪土器が出土するのってどっちだっけ、という話になる。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:42:14.51
伊都クズはイメージだけで学者に勝ってると思い込んでいる可哀想な爺
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:45:52.37
>>390
畿内側のまとめた歴史書でさえ、筑紫に別の王統がいたことを隠していないんだよね。
日本書紀は県主に丸めてしまうこともあるけれど。
でも三種の神器を持ち出しているから、誰かから歴史の改竄ではと突っ込まれても、倭王の一族であることは三種の神器を持っていたことで説明していますよ、と言い逃れする準備がされている。
そうやって少しずつ意味をずらしていった結果が今の畿内説で、筑紫が倭の王都であったことを認めようとすらしない。
一千年かかって歴史は改竄されたんだね。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:46:50.94
糸島市の高祖山の古名は日向山、あるいはクシフル山。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:48:20.26
>>353
>旧の百余国が(統合されて)、今は三十国なのだから、

統合は勝手な妄想でしょ
70カ国は滅んだか連絡がつかなくなった
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:50:22.97
伊都国の存在感が半端ない。
もうここが王都でいい。
畿内が束になっても勝てない。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:58:26.25
>>399
>畿内側のまとめた歴史書でさえ、筑紫に別の王統がいたことを隠していないんだよね。

まったく証拠出さない九州説は常にトンデモ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:59:31.68
三種の神器というか剣鏡玉の三点セット自体は倭王家限定のものでは無いだろ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:59:45.09
>>402
いつまでもこんなこと言ってるから
九州説は学問の世界から消えた
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:02:24.30
>>395


神武東征の経路からみると
神武の出身は宮崎だけど

倭国の真ん中で国を収めたいっていっての東征なんで
当時の倭国連合の範囲は関東から九州までで
真ん中あたりが大和なんだけどね

ちなみに神武は3世紀末に大和に入って
初めて国を治めた崇神と同一人物で

神武の幼名は若御毛の尊で
これは崇神をさす

崇神が東国に立てた国は毛の国で
これば自分の名を国名に入れてる
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:02:36.96
父親の話、昔の話だから・・・なんだけど。

兄、それともモレ(仮)だったかな・・・を殺そうとしたとか?
母親自身も殺されそうになった事があると言っていたし。

生まれる前に死んじゃったけど、
本当は弟もいたんだよとか。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:06:47.41
>>406
>神武東征の経路からみると

難所である関門海峡を2度も通るのは不自然
100歩譲って宮崎から出発したとして、どうしてそこまで筑紫にこだわってよる必要があった?
そこにどんな用事があったんだ?
筑紫の倭王に挨拶するためか?

>倭国の真ん中で国を収めたいっていっての東征なんで

太平洋戦争の時の大本営発表の転進と同じ理屈だよ。
実際は九州における倭国大乱の敗者なんだよ。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:08:51.61
>>404
>三種の神器というか剣鏡玉の三点セット自体は倭王家限定のものでは無いだろ

日本人の常識に敢然と立ち向かう俺様カッコいー
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:09:46.05
『姥清水』〜『みちのく 岩代』?

家の老婆の家は二本松のほうの・・・・だしなw
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:13:43.65
>>408
史料にこだわるようで実は完全無視してるのが
九州説
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:13:45.59
やー公じゃねえか!
みたいな事を言っている人がいたり、どこかで見たんだったかな?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:15:05.57
>>409
そして学問無視して「常識ダー」一言で片付けたがるのが
九州説
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:16:41.34
>>279
>同一文化・勢力圏だよ

同じ四国だからね。


>大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通に出土する範囲だ

畿内第V様式土器は単なる厚型の弥生土器だよ。 なに言ってんの?

軽量薄型土器(東阿波型土器)を言いたいんだろうけどww  虫が良すぎ。  ワハハハハは  @阿波  
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:16:59.73
>>378

山門には「水田跡」も何も無い
米が育たない海水泥湿地
博多湾沿岸とも関係ない
肥後との間の空白地帯だな
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:17:47.20
>>411
都合の悪いことは全て非実在で済ませる畿内説。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:18:00.74
それにしても有名人なのかな、
当時住んでいた家に・・・凄い刀が飾ってあったとか
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:20:25.21
>>399畿内側のまとめた歴史書でさえ、筑紫に別の王統がいたことを隠していないんだよね。


崇神の時代に伊都国王が倭王と自称してたってことで
別に伊都国王が倭王ってことでもないけどね

崇神以前は倭国は30カ国で王を共立する時代だった

崇神になって初めて武力による統一王が生まれたけどまだ力が弱く
九州までは統一できてない

でもそれで倭の30カ国の範囲が九州に及ばないってことじゃないしね

倭の範囲は関東から九州にかけてだけど
初めて武力で統一しようとした崇神の時代には
九州は統一できてなかったってことで

これが記紀に記されてる伊都ツヒコが倭王と自称してたってことになるんだと思う
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:21:17.45
『ボーボボ』

太陽のようなキャラ、ドラゴンボールで言うとベジータ?
頬に傷・・・だしな?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:24:03.58
>>408

神武=崇神はトヨの後に共立された王なんで
根回しに北九州にも行く必要があったんだと思う

その後に崇神は武力による統一にうってでるけど
伊都国王はそれに反対して自ら倭王と自称してた

その記述が記紀のアメノヒボコ伝承になってる
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:24:19.00
『ボーボボ』
ネギのようなものを持っているし、
家の写真と同じ、葱の華?
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:27:47.97
>>409
>日本人の常識に敢然と立ち向かう俺様カッコいー

剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
山梨県の笛吹市平林2号墳もそう

普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:30:03.27
日本書紀の景行天皇に服属した神夏磯姫や仲哀天皇に帰属したいとでなんかは降る際に宝物を献上してるのだが剣や鏡なんよね
特に神夏磯姫はここの人が好きな大きな鏡である八咫鏡を持参して服属してる
各首長に権力の象徴たる宝物について共通の認識があったのではないかな
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:31:29.43
神話というのも美化しているだけで、
実際は、ただのヤー公?だと言っている人たちがいたり

よく調べてみると、
そのような話ばかりだし
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:39:23.40
それとも家の父親だけがそうなのかな、
なぜか、そのような気がしたり・・・、何なんだろう


漫画やアニメ、ゲームなども、
家の写真のようなものばかり出てきたり
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:40:52.62
>>417
それ、常識と思ったら実は迷信だ
という話だから
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:43:23.50
>>428
天皇家に三種の神器が現代まで伝わっているのだし、当然、古の墓に鏡、玉、剣の副葬がされるのには何らかの意味があると考えられる

その礎は福岡

これが事実なだけ
無視するか、事実を受け入れ検証するか?の違いだね

庶民の流行である土器云々より重要な気がするがね
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:45:24.02
>>429
ゴミみたいな石ころ差し出して来て
「これ、我らの神宝です。あなた様に従います」
って言って来たら、有り難くいただくだろ
「なにこのゴミクズw」って言って捨てないだろ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:46:43.63
>>433
王家が祖先祭祀に使った以上、それは庶民の流行ではない
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:47:52.62
431>>827
>地図がない時代に、A地点を起点にしてB地点がどの方角にあるかを把握する方法はない<

何だ?。類スレ主は、
末盧國から伊都国は見えないから、「東南」は伊都国方向だとは言えないし、
東南は東北の間違いだ、とは言えない、
という事が分かっていたではないか。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:50:09.69
なんかよく分からん煽りする奴がおるが論旨がはっきりせんな
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:53:05.35
伊都国の建国の事情がキー
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:55:08.65
>>425
>神武=崇神はトヨの後に共立された王なんで

神武は実在と考えるなら、崇神の5世代前
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:55:22.86
『天皇教』調べてみると、
そんなものは通用しないと出てくるし、

ホンモノ(〜直系)ではなく、
成り済まし、騙りだからなんだろうけど
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:56:49.80
431>>830
>何を言ってるんだ?
間違いが一つもない無謬の書というのは、ほぼあり得ないぞ <

何だ?、
不可知部分が殆どである自然や歴史においては「絶対断定」なんてあり得ない、
という事は、ずっと言って来ておいた筈だぞ。
だから「ほぼ」とか「大体」とか「確率的だ」とか、ずっと言っておいていた筈だぞ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:57:38.40
>>433
>重要な気がするがね

「気がする」ww

九州説ってのは、「具体的な根拠」を基礎とした論証をするっていう意識が端からないんだなww
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:59:33.67
どんなに偽造(ねつ造??)しようとしても無理、
後付けで・・・・何やら〜話だけを創作するとか、
そういうもの無駄


あの謎の写真というのも、家の写真なんだから
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:59:54.80
>>433
>古の墓に鏡、玉、剣の副葬がされるのには何らかの意味があると考えられる

「首長層に共通の葬送祭祀の様式」という意味だろ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:03:32.50
431>>841
>陸行1か月もあれば南九州だろうが北九州だろうが畿内だろうが
どこへでも到達できる距離だろう<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などによっても、×。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:03:39.34
>>435
>王家が祖先祭祀に使った以上、それは庶民の流行ではない

首長層は庶民じゃない
各地の盟主墳に葬られる立場の首長が使っているのであって、もちろん庶民ではないが
王ではない地域首長も普通に使っている

いわゆる「三種の神器セット」があるから、王だという話にはならない

九州説はここにバイアスのかかった思い込みがある
あからさまに言えば、三種の神器のチェリーピッキングなんだがな
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:03:59.40
三種の神器を継承することが万世一系の証だからな
九州説は皇国史観
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:04:15.92
以前から書いている事なんだけど、
右翼、左翼・・・天皇教・・・よくわからないけどw

ただの騙り、成り済ましの集団でしょ?
と聞いているの
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:07:29.52
431>>842
>伊都国への道・里数・方角の比定がなされていないのだよ。<

末盧國出発や、途中までは、伊都国は見えないんだから、
伊都国の方向など、始めから書けなかったんだよ。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:09:08.90
『デスラ〜』(『デスラー』)

こういうのも、家(『松傾』)の写真と同じだし、
シダ類、オジギソウの類が写っていたり、
それで、温泉に入っているの?

宇宙戦艦(作品)も無かった頃に撮影した写真
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:10:35.59
>>439神武は実在と考えるなら、崇神の5世代前


アマテラスは鏡祭祀の時代の人物で
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
アマテラスは2世紀末〜の時代の倭の女王で
卑弥呼ってことになる

神武はアマテラス(卑弥呼)よりも後の時代で
トヨの次に共立された倭王だし

ただ神武は武力による倭の統一を目指した初めての王ってことで
崇神と同一人物で3世紀末から3世紀にかけての倭王だよ
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:13:27.39
何度書いても同じ、数年前の陰謀スレ

「神様の真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
「生きてたのか!」

このような事を書いている人がいたり
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:16:27.82
431>>848
>逆に、陸行一月という記事に誤りがある可能性が高い。<

「一月」ぴったし、という事ではなく近似的だし、
まあ、大きな間違いはないな。

>日本列島の沿岸であれば、水行の方がはるかに安全で確実だからだ。<

魏使らは、「安全最短の原則」であり、水行はあったとしても、最小限だな。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:20:48.79
431>>849
>思考停止で「方角が間違うはずがない」しか言えないのが九州説の側だw <

いや、「ほぼ間違えない」だ。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:22:20.83
〜□宗というのも同じ、
仲間内でテキトーにやっているだけ

同じ家(と思われる、遠い親戚?)なのに宗派?
も違うとか
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:27:05.48
『ボーボボ』(デスラ〜)=『デスラー』(ボーボボ)
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:28:13.64
431>>855
>ただ、末盧国から東南陸行五百里で伊都国には着かないから、
この部分の記述(方角を含む)は正しくないとしているだけ <

伊都国は見えていないからから、方向は書けないし、「東南」は出発方向。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:33:30.33
『葱の華』(『ボーボボ』=『デスラ〜』)・・・、

この作品(キャラ)も同じ『何者にもなれない お前たち』
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:37:29.24
431>>863
>伊都国の比定地は三雲遺跡群から動かさない <

ダメだ。
「臨津搜露」が出来る場所だから、「海岸から糸島水道」付近だ。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:46:05.76
白い制服のようなものを着ている子供、
『松傾』の家の〜〜子供のころ(4,5歳)の写真だという話も同じだし、
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:52:51.08
ゴキブリ(人の家に寄生)のような真似をするのは、
終わりにしたほうが良いと言っているのに、何度言えばわかるんだ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:57:22.29
>>428
>普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
>つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、

各地の前方後円墳の被葬者は軒並み大王家の末裔なんだろうね。
景行天皇の子供は80人もいて、各地の首長層になったのだそうだ。
そもそもいわゆる豪族もほとんどが元をたどると天皇家に行き着くわけだしね。
首長層これすなわち筑紫の倭王家の末裔なんだよ。
これが日本という国の姿。

>>429
>特に神夏磯姫はここの人が好きな大きな鏡である八咫鏡を持参して服属してる

そうすると、九州では重要な人物が登場するたびに三種の神器を榊にかけて登場するわけだけれど、それは恭順ではなく、三種の神器により祖先から継承した倭王家としての神威を示しているのだとわかる。
つまり我こそはアマテラスの何代の孫で卑弥呼の何代の孫であるところの神夏磯姫である、などと名乗ったのかもしれない。

記紀は、嘘かあまり書かないけれども、大事なところをボカすのが得意。
嘘を書くと同時代の他に人の批判を受けるけど、書き足りないぶんには、文章が下手ですいませんねえ、みたいに誤魔化せる。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 23:59:39.14
神と人間は違うんだよ

誰が言ったのか知らないけど有名な言葉
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:00:59.21
>>451
>ただ神武は武力による倭の統一を目指した初めての王ってことで

筑紫の大乱で落伍した都落ち組だよ。
親戚の饒速日が大和でいい暮らしをしていると聞いて、頼って東征したんだよ。
そもそも何年もかけて旅をして、九州にあったはずの自分の領地とかは捨てているわけだしね。
いや、そもそも倭王家の中にライバルも多く、まともな領地すら持てていなかったのかもしれない。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:06:05.10
>>463
神武と饒速日が大和で鴨一族の領土を奪おうとした時に、逆に非難を浴びて、言い訳したんだよ。
天神と人は(論理が)違うのだ。
それで鴨族の長である長髄彦を饒速日が倒してしまう。
そしてその姪のイスケヨリ姫が神武と結婚した。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:06:27.89
低脳には、わからないんだろうけどw
何度説明しても理解できない、なぜだと思う?


・・・・・・・・・・・・・・・低脳だからw


もともとの頭?何かが違うのかもしれないし、
・・・・・・・・・・・どういう事なんだろう

『松傾』・・・?ほとんどを作った人なのかな
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:14:44.80
子供も何かの制服を着ているけど、
父親は軍人、警官でもなかったと言っているし、
他の職だったのかな
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:21:00.30
『河童バビィ』〜『もののけ姫 ヒイ』

松の木が立てられていて・・・そこに立っている人物、
実際は同じ家。

アニメ(漫画)作者、製作者の考え?
そういうのは関係ない。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:26:11.94
『河童バビィ』〜『伊達の桃太郎』

この辺りも・・・同じような気がする
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:32:44.61
スサノオ〜・・・・こういう話も同じw
本当に気づいている人は気づいている


実際は、昔の中国のほうの話
『ザ・モモタロウ』
に出てくるサルタというキャラ、中国拳法の使い手となっているし
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:37:47.73
>>451
パラノイア、炸裂だなあ。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:38:08.70
中国人なのに、なぜ日本の先住(原住)民なのですか?

このように(疑問)思っている人もいたり

話のすり替え、後の時代になり・・・話を創作など
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:47:56.67
かなり後の時代になり、
日本の神話などを創作したり、
そういう考えが低脳

お前(不明)が、すべてみたいに、
正当化しようとしたり
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 00:54:37.15
降臨の段に現れる

物語的には中国(中華)を倒した、
俺はwそれよりも上の存在なんだぞ
みたいな話にしたいんだろうけど
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:01:44.47
>>384
ダメダメ。
神武のひい爺さんニニギが住んだところは薩摩阿多。
この血筋は、神武まで薩摩阿多を離れていない。
宮崎には、東征の途中にまったく立ち寄っていない。
宮崎説を広めた日下部さんは、元々薩摩阿多の出身だし。
神武が薩摩阿多育ちなのは、確定しているよ。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:04:05.47
ということは・・・、
実際は中国系のヤー(不明)なのかな
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:13:03.03
あの謎のゲームの話と同じ、
かなり詳しいけど、いろいろと調べてみたり、研究したのかな

最初のほうに現れるボスキャラ

y(ヤー)でしょ?
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:16:47.18
>>394
なにをおっしゃっちゃって。
日本書紀に山門縣の地名が出ているだろ。
奈良時代には、立派な水郷地帯だったのだ。
あそこは、卑弥呼の時代にはすでに水田地帯だった。
田油津媛がいたと書かれているだろ。
また、琵琶湖沿岸では、弥生前期には当時日本一の水田規模を誇る服部水田がすでに開発されていた。
あそこも広大な水田地帯だ。
ただ、淀川流域は、氾濫原だったがな。
ニギハヤヒが降り立ったが、すぐさま大和へ移転したのも、淀川が氾濫原で毎年洪水にやられていたから、嫌気がさして大和へ移ったのだろう。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:31:04.94
それよりも、
なぜ家の話だと知っているというか、
わかるんだろう

兄?モレ(仮名、弟w)の事を殺そうとした
とか、父親の話
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:31:34.68
>>416
日本書紀に山門縣が出てくる。
田油津媛が県知事つとめてたところだ。
つまり、縣は国司などが仕事したところ。
そんなところが、海水泥湿地なわけなかろ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:37:54.32
本当に『姥清水』・・・?


むかーし、この辺りに住んでいたことがあるんだよ
と言っていたり、というか住んでいた


数年前から、このスレにいた人なら知っている、
当時、そこに住んでいたみたいな用紙を貼り付けたから

いまの福島県・・・川俣町というところ・・・?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:45:34.27
老婆も言っていた・・・、
なんで、あんな人間(あのように育った)になったんだろう

とか
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:53:33.88
馬に乗り・・・謎の刀を持っていたという話とか、
腰に差していた・・・・寺院の話で・・・・・?

後に『姥清水』のような人間になった?
老婆の性格に似ているみたいな話ばかりなんだけど・・・。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 01:54:32.60
>>299
吉井交差点の写真みたが、道路面とその下の土地面の差は5mもないぞ〜。
道路面からちょっと坂になってる程度だ。
勾配は1mそこそこだな。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 02:20:03.50
アタマがマトモでないから九州説になるって判る証拠がたくさん出たな
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 02:51:44.92
謎の311被災地?放射能の伸びている方向?といい、
あの周辺に何かした人がいるのかな?

もしかして老婆の家の・・・?
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 02:56:49.81
家の老婆(あと一部の親戚)は、
あまり性格が良くないみたいな事を言っていたしな・・・、

母親が嫁に来たころの話とかw
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 03:12:56.85
相変わらず九州説は論拠を語らないでストーリー創作に逃避してるな
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 03:35:57.66
創価が関係しているのかな?
老婆の親戚(二本松のほうに住んでいる?)というのが
創価で・・・と言っていたしな。


老婆も創価に入り・・・、
でも家は家だから、あまり関係ないとは思うんだけど。
直接ではなく、間接的に関係している。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 03:42:44.48
創価でしょ?
カルト、セクトと書いてあるし・・・w

家(『松傾』?)自体は創価ではないし
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 03:48:59.81
『アッシュ・クリムゾン』
というゲームのキャラクターがいて、
フランス〜という設定だしな

ポケモンの主人公の英語名、アッシュ?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 03:54:10.51
アッシュ・クリムゾンのキャラクター設定

何かを盗まれた〜みたいな設定だと書いてあったような、
神格、アッシュの家の物語?そういうもの、
乗っ取られたとか

それとも他のキャラクターだったかな
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:03:34.03
フランス、アメリカ・・・とか、
本当に、どういう事なんだろう、何か知っている人がいるのかな
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:08:39.36
『何者にもなれない お前たち』

ゴキブリを・・・退治したくなる、退治しようとする?
上から目線?

『クリムゾン』と同じような性格、設定
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:28:58.92
説明不要

『デスラ〜』wikiを読んでみて
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:43:04.10
もしかして・・・まかさね〜・・・、
となるでしょ

俺が法だ〜みたいなコンセプト、
何かの漫画の台詞?
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:47:10.32
畿内説はイカン(除 日本海航路 太平洋航路)
脳内の地図から四国が無くなっているように思える
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:50:35.73
このような漫画のキャラもいるでしょ

右、左?どちらかの耳が取れたり・・・、
大統領だった?
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 04:58:05.04
うまやどのwiki

>天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、
>仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた、とされる。

キング・クリムゾン?王 耳 口? 
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 05:04:25.43
いい加減に気づいたほうが良い、
〜??????伝説など、
ほとんど美化したものだと言ってるでしょ、実際は・・・?


という話をしている人達がいたり
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 05:12:09.66
『うだうだ 銀』

老婆談と同じような話だし・・・w
家に凄い刀が飾ってあって
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 05:18:04.18
バイクの事を〜〜〜鉄馬と言ってる人がいたり、
どこで見たんだったかな
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 05:24:20.34
なぜ、このような設定の話ばかりなのか?となるでしょ

〜〜〜〜教は通用しないという話ばかりだし
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 05:33:35.95
関係ない人たちには、関係ないからなんだよ
という話にもなる


それはそうだろう
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 05:48:00.03
わかる人には、わかるみたいなコンセプトなんだろう


老婆談「馬に乗っていて、腰に刀を〜」

そういう漫画などの元ネタでしょ?
誰かの本名なのかな、上の名前
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:36:08.16
ヤマト朝廷とは

邪馬台国は九州に有り、
倭国も九州である

其の後、邪馬台国か邪馬台国に変わる九州連合の長が
東国を制圧しヤマト朝廷を築いた
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:42:46.60
子供たちが学校で習う日本史から決定的に外れた
邪馬台国九州説の行き場所はもう
ムーとかの雑誌だけ

瞑目
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:54:32.71
嘘ばかり教えられる小学生がかわいそう。
掛け算の順序で減点されるようなもの。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:54:37.69
キーワード:

老婆

松傾



河童

キュウリ

葱の華
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:54:57.50
509も無意味
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:55:33.86
ゴキブリ(人の家に寄生という意味)は消えろと言っているんだよw
読めないのか?


特定の人種や民族(考えなど)の事を
言っているわけでもないし

日本人(民族、不明?)でもゴキブリはゴキブリw
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 06:57:03.81
九州老人末期の夢は
お迎えの日まで覚めないからな
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:06:52.51
ヤマトの前方後円墳を作ったのが各地から集められた奴隷や強制労働なら
天皇の先祖はケシカランな
ここは、鬼畜ヤマトをやっつけたのが九州だと考えた方が
まあるく 治まる 
宮内庁の陵墓の比定は適当だ 天皇家をおとしめるつもりか
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:08:27.52
>>508
若井敏明氏の著書「邪馬台国の滅亡」では、
九州邪馬台国は367年にヤマト王権の仲哀天皇・神功皇后の九州征伐によって滅ぼされたとしている。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:11:31.07
>>497
>畿内説はイカン(除 日本海航路 太平洋航路)
脳内の地図から四国が無くなっているように思える


四国はド田舎だから人口もすくなく取るに足らない地だったんだ
阿波は、畿内邪馬台国の出先機関
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:12:39.31
>>462
>各地の前方後円墳の被葬者は軒並み大王家の末裔なんだろうね。
>景行天皇の子供は80人もいて、各地の首長層になったのだそうだ。

ということに「した」んだよ

この部分がある意味記紀の一番の創作
まあ、記紀を作る前に各豪族の伝承でそういう大王家に連なる者という
物語が作られてたんだろうけどね

考古学的に三種の神器が三種になったのは比較的新しい

「三種の神器があるから王家の墓」というのは九州説の人が大好きな「お話」にすぎない
この辺からして九州説は迷妄
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:13:13.07
お前たちのような存在は、
ただの基地外だと思われているぞ


右翼左翼〜そういうのも関係ない、
どこの国の人間なんだ?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:13:43.31
>>518
もう九州説なのは万年講師くらい
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:24:14.99
>>518
仲哀は生まれも育ちも九州。
宮は関門海峡にあった。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:25:13.63
>>518
>若井敏明氏の著書「邪馬台国の滅亡」では

若井敏明氏は、博士号を持っている非常勤講師

九州説だが、論拠は記紀に九州征伐が書いてあるから
そこまで邪馬台国が九州で存在していた「はず」というもの

考古学的な事象はほぼ無視で、記紀頼みの論旨
まあ、一般向けのエンタメ歴史学だよ
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:29:48.12
畿内説は嘘のかたまりでできているな。

>>520
>>景行天皇の子供は80人もいて、各地の首長層になったのだそうだ。
>この部分がある意味記紀の一番の創作

80人の大半は記紀編纂時には不明扱いになっている。
先祖の由来を創作するためというのは誤り。
九州各地には卑弥呼のような女性首長が多くいたから、服属させるたびに子供を産ませたのだろう。

>考古学的に三種の神器が三種になったのは比較的新しい

これも嘘。
紀元前の吉武高木遺跡に遡る。
特に共通するのは内行花文鏡が含まれていること。
前漢の頃にすでに福岡の地に倭国王権があり、漢に朝貢していたことがわかる。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:31:32.46
>>526
想像だけで嘘とか断定されてもな
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:37:21.49
纏向とは違う吉野ケ里
生活痕ムンムン・・これが都市

1集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。
壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、
その中に建物がまとまって立てられている。
2北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
3内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられている
4祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。
5食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:41:10.25
>>519
>四国はド田舎だから人口もすくなく取るに足らない地だったんだ
>阿波は、畿内邪馬台国の出先機関

そう思いたい気持ちは理解できるよ。  @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:44:01.15
纏向遺跡とはちがう平塚川添遺跡
生活痕ムンムン・・これが都市

1遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。
2中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。
3中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。
4別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。
5遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉(貨泉)などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土している
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:45:01.26
>>528
>生活痕ムンムン・・これが都市

それを言うなら、断然、加茂宮ノ前遺跡でしょ。 縄文時代から祭祀までやってるぐらいだから。  @阿波
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:51:46.44
纏向遺跡とはちがう板付遺跡
生活痕ムンムン・・これが都市
1断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出された
2板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。
3炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土したことで稲作農耕の存在が確認された。
4 穀物などの貯蔵穴は地面に掘った穴蔵で、平面形は方形または長方形で、時期が下ると円形になる。
深さは1〜2メートルほどで、断面形が袋状になる。夜臼期から板付U式までの貯蔵穴があり、環濠の北側と南側で合計200基以上確認されている[1]。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 07:55:09.19
吉野ケ里遺跡も平塚川添遺跡も環濠集落。 どっちも時代遅れの遺跡だね。  @阿波
0534日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 07:56:34.98
吉野ケ里遺跡も平塚川添遺跡も板付遺跡 も環濠集落。 どれも時代遅れの遺跡だね。  @阿波
0535日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 08:08:30.97
生活臭ムンムンw

要するに、どれも「人々がほとんど姿を見たことなない女王」のいる場所には程遠いってこと
0536日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 08:26:32.51
431>>869
>韓条と倭人条は完全に別立てだよ
伊都国と邪馬台国を重ねる二重帳簿詐欺説の人には、違和感がないのかもねww<

韓伝にも「倭」についての記述がある。
類スレ主は、宗教思想に狂った全くの・・・・詐欺師だなあ。
0537日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 08:36:14.12
431>>875
>>この時点で東南陸行五百里の記述は間違っているというのは確定だよ<

>なんでここだけ信用するんだ?
それでは考古学と一致しないのだから、記事の方が誤りだとするべきだろう?<

記事も間違っていない。
伊都国は見えていないんだから、伊都国方向が書ける筈もなく、
東南は出発の説明であり、陸行五百里は途中の説明。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 08:55:42.09
431>>892
>魏の役職名ではなく、よくわからない和語が書いてある。
つまり、倭人の任命した官なんだよ。<

「官、副」は、魏使らが
卑弥呼を共立した諸部族国の、それぞれの部族長と、その部族の軍担当に対する地位だ、
と認識した役職呼称。
邪馬壹國や、卑弥呼共立に不満があった狗奴國もその一つ。
また、卑弥呼政府には「大夫」という役職があり、
他に「王」と名乗れた伊都国には「一大國」という軍事的な組織があった。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 08:59:54.79
このように
根拠も出さずに断定三昧
それが九州説
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:04:30.54
阿波は、劣勢になると猛烈に反発する性癖のようだな。
鳴門の阿波が騒ぐときは、有効・有力なレスがあったときと思えばよい。。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:21:55.23
431>>898
まあ九州説は別に、大和と争う積りはないけど?
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の附庸國であった、という
史料などから導き出される当然の結果を書いてるだけだが

そうすると何故か大和説者が勝手に発狂し始めるんだけど
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:39:33.56
>>526
九州説は論理的思考ができないなww

>80人の大半は記紀編纂時には不明扱いになっている。
>先祖の由来を創作するためというのは誤り。

不明扱いというのは、
1.伝承がなかった ⇒ 創作
2.伝承が失われた ⇒ 重要ではなかった
の2択だが、記紀の目的は各氏族の系譜を記すという側面が大きいので
「重要ではなかった」という2.は採れない

そして皇別氏族の多くは、欠史八代の流れが多く、景行天皇の皇子の流れを
名乗る氏族は多くないんだ
景行天皇の皇別氏族は
讚岐國造、播磨別、伊豫國御村別、阿牟君、
阿牟君、火國別
日向國造
だけ

九州説は物知らず
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:44:10.15
431>>902
>北九州はあきらかに倭であり「邪馬台国」と一体の村々だったけれども
この当時の王都であるところの邪馬台村がそこにあったというのは
さすがにムリがある。倭のなかでももっとも発展し豊かな土地であったのは
北九州だったろうが、そこは倭人伝のいうところの王都(つか王村)ではない<

邪馬壹國は、卑弥呼共立国群の中の一国であり、一番戸数の多い国であったのであり、
だから、共立女王卑弥呼は、その一角に「(共立の)女王之所都」という都をおいただけ。
卑弥呼は、邪馬壹國という共立部族国の長でもなく、王でもなかった。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:44:52.86
>>526
>紀元前の吉武高木遺跡に遡る。

それが、吉武高木以来の伝統なら、3種の神器を「伴わない首長墓」が九州に
多くあるのはどうしてだ?
王族なら、3種の神器を備えるんだろ?
そういって、赤妻古墳や笛吹市平林2号墳も王族だということにしたんだからww
簡単に、破綻するような雑い論を立てるのはやめたら?ww

>特に共通するのは内行花文鏡が含まれていること。

吉武高木遺跡の3号木棺墓で出土した銅鏡は「多鈕細文鏡」だよ
平原1号墓を持ち上げるために、もろもろの無理が生じてるんだよなww
九州説は結論ありきの認知バイアスでチェリーピッキングするから、大笑いになる
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:48:40.34
431>>905
ははは、そうだな。
皇国史観の大和説者は、別種分家の旧小国とバラされたら、
すぐ沸騰するからな、、、
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:52:02.48
431>>911
>これはなにも邪馬台国畿内説を否定するものではなく、畿内は皇室の
いまします場所であり、それとは別に政庁が置かれ、北九州というこの
当時もっとも重要な経済の中心地を差配していたのが原初大宰府で
あってなんらおかしい事ではない。<

「南≠東」などに拠って、×。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:56:25.89
431>>917
>大宰府を囲む巨大な大宰府羅城の木材の炭素年代測定の一部は、240年頃を示していた。
大宰府の萌芽がすであったと考えるのはおかしなことではない。 <

成程。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:06:22.15
大宰府の布陣から推定されるのは、
博多湾からはもちろんだが、
南の有明海方面から攻め上る大軍も想定していたのではないか。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:07:53.95
431>>930
>会稽東治という場所は存在した事がなくて 後漢書には会稽東冶とあって
それは福建省福州市あたりになる そしてその東は沖縄台湾辺りになるから<

後漢書は、「後代の自己解釈に拠る書き換え」をした半分×書であり、
根拠にならない。

>そして帯方より南1万2千里は漢時代に書かれた淮南子に出てくる
世界の果てまでを表す概念的な数字
つまり魏志倭人伝に書いてある邪馬台国までの距離は世界の果てにあるという事を概念的に示すもの <

「余」の有無での書き分けがあり、侏儒國付近まで行っているから、
淮南子を踏襲していない。

>一方考古物から見れば三世紀に畿内と魏が交流していたのは明らか
よって邪馬台国は畿内という事になる<

類スレ主は、文献でも後漢書を採用したから、
倭国が北部九州であった事を認めてしまった事になり、
邪馬台国も畿内も存在もしない嘘つき騙しであり、
文献考古共に大和説は完全に否定されており、
類スレ主は、・・・・詐欺師。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:11:44.99
431>>933
「南→東」などの嘘つき騙しや、畿内なんて存在もしない意味不明のサギ文言を、
日がな1日わめいてる
正気かどうかも怪しい大和説者には
どんな史料を見てもまともに判断するのは難しいだろう
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:21:13.06
431>>944
その「南→東」などの嘘つき騙しのワンパターンで、
ぐうの根も出ないほどやり込められる、
頭の哀れな大和説
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:42:06.34
>>540
>阿波は、劣勢になると猛烈に反発する性癖のようだな。

なんで倭国(阿波)が劣勢になるんだい?  もし、倭国(阿波)がトンデモだったら、もうとっくに旧説の大声に潰されているよ。 
こうして、ほとんど一人でやってられるのは、倭国(阿波)に真実の裏付け(遺跡発掘の進展と科学の進歩)があればこそなんだよ。 


>鳴門の阿波が騒ぐときは、有効・有力なレスがあったときと思えばよい。。

うん、ほとんどがレスするほどの内容じゃないんだけど、「鳴門の阿波が騒ぐとき」は妄想天狗の鼻に噛み付く時だね。   @阿波
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:49:44.81
>>484

道路や家というのは雨天時浸水しないように盛土する
吉井交差点が6m、脇の畑が4m
3世紀は0〜2mの海水泥沼だろう
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:51:23.97
秘境阿波説は一人
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 10:59:52.14
>>555

秘境阿波説一人に翻弄されるトンデモ説。  秘境阿波説一人を潰せないトンデモ説。  実に不甲斐ないトンデモ説。  @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:05:58.13
秘境チマチョゴリ一人説は相手にするほどのネタがない
たまに気が向いた時だけ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:12:25.85
秘境育ちの泡は名脇役
敢えて潰すほどのことではない
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:41:53.99
431>>947
>そんな物より前方後円墳だ <

ダメだ。
大和の前方後円墳は、卑弥呼の墓の「冢」ではないから、
卑弥呼の死の3世紀半ばよりもずっと後になり、3世紀末以後だ。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:45:02.56
>>554
吉井交差点の海抜は、9m。
そこから坂で1m下ると8m。
家の土台に1m盛り土しても7m。
そこから田んぼまで1mで6m。
海水はここまで入ってこない。
稲は十分育つ。
3世紀にはみやま市一帯が田んぼ。
その田んぼの微高地に卑弥呼の祭殿があった。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:53:08.90
431>>958
>>魏使は来るたびに方位を間違えたと宣うキナイコシ<

>その場で間違えないというのと史書の記録に間違いがないというのを
無理やり混同し続ける無能<

古代中国人は、「東」と「西」と「南」と「北」という文字も、
形を間違える筈がないよ。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:55:48.29
>>525
そもそも、邪馬台国の存在は中国史書の文献によっている。
その文献無視して考古出土物だけみても、その物体がどういう意味を持つ代物かまるきし分からんのが実態。
纏向にしても、当時としては大きな建物の柱穴が出た、というだけ。
それがどういう意味を持つ建物なのかを推量するための資料が文献。
だから、単に遺跡だけじゃなあ。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:57:15.09
そう間違えないからこそ陳寿は倭国は南の国という中国固有の固定概念に縛られたわけだ
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:02:06.09
>>560

その海抜は何を使った?
GoogleEarthで吉井交差点は6m
脇の畑も広範囲に田んぼも4m
3世紀は塩性湿地だから米は育たないので泥地を好む満鮮豚を飼うのがよい
好んで豚を飼う下半身丸出しのチビ胡種が住み着いたのだろう
頭髪は剃りくり上げている
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:03:01.03
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまいました。。。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:06:10.84
>>484
>吉井交差点の写真みたが、道路面とその下の土地面の差は5mもないぞ〜。

その前に、下山正一先生の有明海の海岸線の研究は見たのか?
弥生末期でも、吉井交差点の西側はずっと海だぞ
吉井交差点のあたりが、陸化しているかどうかが微妙なところ
有明海はその地形から干満の差が大きいので、陸化していても満潮時の塩害で
稲作はできない
そしてその東側はすぐに山になってる

今でこそ、吉井交差点の周りはずっと陸地だけれど、
弥生末期の時点で筑紫平野のかなりの部分はまだ海のそこ

人が住めた広い平地は、吉井交差点よりもかなり北の方にしか広がっていなくて
その生活拠点の中心から離れた狭い土地に祭祀中心が置かれたと考えるのは、
合理的な判断ではないな

そして、吉井交差点が中心でみやま市全域が祭祀センターというのは
みやま市の半分以上が海の底な時点で大間違い

結局、「ヤマトと読む地名・山門」だけしか根拠がないんだよ、山門説には
実際、大規模祭祀を想定させる遺跡は一つもないんだから
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:15:27.58
431>>961
>どちらにせよ「服」は他動詞で、衆夷六十六國は九州九州を含む畿内より西の地域 <

倭国王武は、倭国の勢力範囲を、
「征伐」した地域と「平定」した地域と、「服属」していた地域とを、
書き分けた、という事が上表文での史料実態。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:19:15.32
山門の瀬高は、中期〜後期前半の甕棺時代に標高50mの三船山遺跡には多少遺跡はあるが
甕棺ど没落後の弥生時代終末期はこれといった遺跡がなくなる

http://www.library.miyama.fukuoka.jp/rekishi/kodai01.html
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:22:35.89
遺跡がない遺跡がないが
畿内説の言い訳だけど

すべての遺跡が残ることもないわけだし
すべての遺跡が発見されてるわけでもない
何かしらの遺跡があるけど未調査な場合もあるし

吉野ヶ里のように、当初は大したことない遺跡だと思われてたけど、調査したから大規模な遺跡だったことが分かる事もあるわけだよ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:25:59.08
431>>963
>三国志にも会稽東冶という記述があるよ
三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五に2ヶ所ある
その頃には東冶県は侯官県になっていたし、会稽郡からは外れていたけれど、
会稽東冶と呼ばれる地域は実在したと見ていいだろ<

陳寿が地の文で「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた時は、
東冶は、260年に会稽郡から建安郡に変わったんだから、
「会稽東冶」にはなっておらず建安東冶であったのであり、
会稽東冶なんて存在していなかったんだよ。」
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:26:05.31
>>567
>「征伐」した地域と「平定」した地域と、「服属」していた地域とを、
>書き分けた、という事が上表文での史料実態。

そんな史料事実はない
他動詞だ

九州説よ、嘘はいけない
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:26:44.75
学術調査して大規模な遺跡が見つかった場合に
初めて考察されるのであって、なにも見つかってない段階では
山門にパルテノン神殿やピラミッドがきっとあったというようなもの
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:40:30.06
431>>964
>大和+河内〜環大阪湾の範囲で、畿内第V様式土器を共通に使う領域ってきちんと教えてあるのに
未だに覚えないんだな テンプレにもちゃんと書いてあるぞ <

第X様式自体が、筑紫にもあって、
近縁部族に共通する「使用土器」形態であるだけであり、
武器や首長祭祀器具のような、強力な支配国家を意味するものではないよ。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:44:37.44
>>564
海抜6mは、みやま市役所所在地。
吉井信号は、そこから東へ1400mの所。
検索欄に「瀬高町の海抜」と入力して検索し、一番上の「吉井(みやま市/地点名)の地図 マピオン」を開く。
その画面にある吉井信号の地点の海抜が9m。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:45:10.93
>>572
どう見ても名古屋城なのに、
いやこれは安土城だと言い張ってるのが畿内説

今の安土には城がない
だから安土城は安土には存在してないんだ
と言い張るのが畿内説
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:45:31.54
つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に破綻してしまったのだね。。。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:48:11.86
安土はちゃんと立派な遺構が残ってるだろ
運動がてら登ってみるといいぞ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:51:09.56
熊本城や、吉野ヶ里城は、国宝だったのだな。。。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:51:10.28
>>543
>の2択だが、記紀の目的は各氏族の系譜を記すという側面が大きいので
>「重要ではなかった」という2.は採れない

頭の中で勝手な定義をして決めつけているだけだね。
実際に景行があちこちで種を蒔いて、それを単純に記録したと考えるだけでいい。
正式な妃の子以外は大事ではなかったということ。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:54:08.05
>>545
>それが、吉武高木以来の伝統なら、3種の神器を「伴わない首長墓」が九州に
>多くあるのはどうしてだ?

筑紫王統が絶対的ではなかったということ。
その他にも様々な氏族がいたというだけ。

>吉武高木遺跡の3号木棺墓で出土した銅鏡は「多鈕細文鏡」だよ

古すぎるが故に例外もあるのだろう。
三種の神器の何を重視するかも年代により変わるしね。
最後の平原で鏡だけ偏重していたりね。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:56:06.07
>>549
その通りだね。
大宰府羅城は筑後平野における狗奴国との戦いの記憶も反映されているのだろう。
神功皇后と田油津姫の戦いも、筑紫と肥国の戦いだし。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:57:26.19
>>569
伊都国や奴国は30ヶ国連合に入っているが、
糸島や博多から九州邪馬台国に繋がるものは出土されたのか?

九州は広いし、どこを掘っていいかわからないから、遺跡が見つかってないだけ
というのが九州説の幼稚な言い訳だが、
糸島や博多というピンポイントの場所で何もでなかったら、もう言い訳はできないんだよ
諦めな
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 12:59:04.29
糸島や博多は遺跡の宝庫じゃん。
どこに目が付いているんだ?
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:02:47.95
歴史泥棒が多いな
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:13:11.68
>>574

マピオンは最も近い地点の等高線を使って計算してるからだめだ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:23:40.73
>>584
2〜3世紀のものはすべてそうだろ。
平原遺跡は卑弥呼の治世(190頃〜247)の女王墓だぞ。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:25:30.54
>>582
大宰府出土物の240年を基準に考えれば、
其の少し前にあったのは倭国の大乱ということになる。
もしかして、このあたりを巡っての関ケ原ではなかったのかなあ・・・。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:28:56.98
>>586
マピオンでは、みやま市役所の海抜は6mになっている。
グーグルの海抜と同じだ。
吉井から1400mも矢部川へ寄った所の市役所の海抜6mは、その通りだろう。
そこより1400m山側へ行った吉井が9mというのも妥当だ。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:29:38.21
>>587
伊都国と邪馬台国は別の国
伊都国を邪馬台国だと言い張ってる特殊な人はどうでもいい
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:33:13.09
>>589
追加

みやま市のハザードマップでは、100年に一度の想定の洪水浸水域予想図では、みやま市役所は漬かっているが、吉井あたりは浸水していない。
そんだけの高低差があるということだな。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:36:09.34
>>569
鉄がない鉄がないが
九州説の言い訳だけど

すべての鉄が残ることもないわけだし
すべての鉄が発見されてるわけでもない
何かしらの鉄があるけど未調査な場合もあるし

>吉野ヶ里のように、当初は大したことない遺跡だと思われてたけど、
>調査したから大規模な遺跡だったことが分かる事もあるわけだよ

でも、調査するまでは、そこに大規模な遺跡があるという前提で話をするのは意味がない
発掘してから、出直しておいでww
そして発掘する前から、弥生時代末の海岸線の研究成果から、吉井信号付近は干満の影響を受ける、
塩分を多く含む低湿地だったのは確実で、大規模遺跡がある可能性は、まずない

吉井信号バカは、そろそろバカを自覚した方がいい
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:40:32.62
>>579
>実際に景行があちこちで種を蒔いて、それを単純に記録したと考えるだけでいい。

実際に、景行皇別の氏族は多くないんだってば!
そして、景行皇別氏族の土地に三種の神器の揃った古墳がある訳でもなく
逆に何の伝承もない土地でも、いわゆる三種の神器の揃った古墳は普通にある

話をそらしてごまかしに走っているけれど、三種の神器は首長(豪族)層の
副葬品として普通のもので、王家とか王家の子孫とかは関係がない
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:41:38.51
>>580
>筑紫王統が絶対的ではなかったということ。
>その他にも様々な氏族がいたというだけ。

つまり、>>580の想定する筑紫王統は、王じゃなかったんだよ
簡単な話だww
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:43:58.81
>>580
>古すぎるが故に例外もあるのだろう。
>三種の神器の何を重視するかも年代により変わるしね。
>最後の平原で鏡だけ偏重していたりね。

はい、ご都合主義のチェリーピッキングいただきましたww

つまり、3種の神器セットに見えるのは、その場にあった威信材の詰め合わせに過ぎないんだよ
伝統が大事だったら、鏡種も揃えるだろ?
というか、内向花文鏡が大事だって言ってたのに、反例を示されたら根拠のない言い訳に走る

九州説の典型だなw
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:44:34.70
431>>971
>もちろん正北抵新羅は西服衆夷六十六国の後だから
九州を制圧してそこから北に向かったというヤマト王権の記述で間違いないな<

もちろん正北抵新羅は、西服衆夷六十六国の後の唐代に、
倭国は新羅のほぼ「正南」だ、というんだから、倭国は九州であった事には間違いがなく、
新羅の東方である大和ではない事も間違いなく、
だから九州を制圧してから、そこから東に向かった、
という九州倭国の記述で間違いないな
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:46:51.94
>>587
>平原遺跡は卑弥呼の治世(190頃〜247)の女王墓だぞ。

卑弥呼が在世中の、女性と想定される厚葬墓だから、女「王」墓はあり得ないな
そのときの倭王は、卑弥呼なんだからww

卑弥呼が生きてるときに葬られた女性が、卑弥呼のはずがないww
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 13:58:08.15
431>>974
>畿内第V様式土器は弥生時代後期に使われるようになる
それ以前は各地で別々の土器を使っていたのが、地場の土器が消えて
共通様式の土器が使われるようになる<

第X様式は、武器や王の支配祭祀器具ようなものではなく、
単なる生活用品であり、改良流行し易いもの。

>これは土器生産のセンターが作られてそこから広域に運ばれるように
なったとということでり、
一つの交易圏・流通圏としてまとまったことも示している<

筑紫を含めて、地域で少しずつ違う、という事は、搬出搬入ではなく、
個々の地における工夫に拠って、少しずつ違ったものが造られた、
と言う方が阿kンが得やすい。

庄内式土器・布留式土器が列島の広い範囲で使われるようになるのも、
畿内で畿内第V様式土器の時に見られた同じ事象の拡大版だ
と考えると理解しやすい

歴史の流れに沿って考えていけば、倭の五王も九州枠國のことも理解できる
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:01:32.47
431>>975
畿内なんて存在もしない嘘つきだましもんごんであり、
そんな詐欺の範囲なら、バンバン止めてやるわ
広めれるもんなら広めてみな、大和説よ
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:03:12.47
>>591
訂正

みやま市役所は、100年に一度の洪水時には0.5mから1m未満の浸水。
吉井信号のやや北の国道東側の卑弥呼の祭祀所は微高地で浸水なし。
その周辺は0.5m未満の浸水となっている。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:06:11.51
431>>987
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
証拠を出して語ろうや
小学生じゃあるまいし、自分の作った仮説もどきをいくら言い張っても説得力ゼロ
筋の通らない屁理屈でごねても無駄
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:11:36.32
431>>995
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き詐欺の大和説は、
以前からのスレや投稿を見ればわかる
大和説はボロボロに負けてただろ

大和説側の書き込みは具体的な内容が一切ない
具体論がないからねw
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:15:11.21
>>600
再訂正

吉井信号の西側は0.5m未満の浸水。
吉井信号の東側と卑弥呼の祭祀所は0.5m〜1m未満の浸水だな。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:21:18.81
432>>77
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き詐欺の大和説には、
具体的な根拠がない
根拠だと言っていたものは、すでに具体的な根拠によって否定されて
それがこのスレにに列挙されている
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:40:20.46
>>593
だから、景行天皇の子供たちは大半が王族扱いされなかったということだろう。
何がおかしいんだ?
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:42:14.75
>>593
>逆に何の伝承もない土地でも、いわゆる三種の神器の揃った古墳は普通にある

伝承が失われただけだよ。
前方後円墳がある以上は、ヤマト王権の分家の氏族なんだろう?
まさか前方後円墳がただの首長層の流行だなんて言わないよねw

>副葬品として普通のもので、王家とか王家の子孫とかは関係がない

根拠なし。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:50:22.75
>>607
>前方後円墳がある以上は、ヤマト王権の分家の氏族なんだろう?

だれの説?
畿内説はそんなこと知らないな
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:52:04.44
>>589

標高はそんな単純な考えで決めるものじゃない

>>603

浸水してるじゃないかw
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:54:17.42
>前方後円墳がある以上は、ヤマト王権の分家の氏族なんだろう?

>>607は山門説のやつか?
ここまで知識ないとは驚き
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:56:14.67
>>604
>ザラコクようやく2周遅れを解消か

何周でも、言ってることがウソなのは変わらないけどね
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 14:59:04.44
>>610
驚くところじゃない
九州説儲に高校卒業程度の知識があることのほうが珍しい
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:13:23.74
>>607
>前方後円墳がある以上は、ヤマト王権の分家の氏族なんだろう?

そんなことは、トンデモ説の人以外は誰も言っていない

>まさか前方後円墳がただの首長層の流行だなんて言わないよねw

卑弥呼の共立に伴う祭祀の統一の内容が、首長の墓は前方後円墳とすることなんだよ
前方後方墳でも可だけどね
単なる流行だとか言いたがるのは、トンデモ説の人だけ
政治的な合意の産物だよ
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:15:22.32
>>607
>根拠なし。

山口の赤妻古墳や、山梨の笛吹市平林2号墳を、王家あるいは王の分家の墓とする方が
よっぽど根拠なしだろ?ww

自分が論証すべきことから逃げておいて、「悪魔の証明」系の論証を求めるのも
九州説の典型例ww
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:17:11.77
>>606
>だから、景行天皇の子供たちは大半が王族扱いされなかったということだろう。
>何がおかしいんだ?

本当にご都合主義で、手の平クルックルだなww
山口の赤妻古墳や、山梨の笛吹市平林2号墳には、三種の神器セットがあるぞ
これが王家の分家だと言いたいなら、その具体的な根拠を示してね!ww
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:19:13.30
>>603
>吉井信号の西側は0.5m未満の浸水。
>吉井信号の東側と卑弥呼の祭祀所は0.5m〜1m未満の浸水だな。

おおむね、その浸水範囲が弥生時代の海面下、あるいは満潮の塩害を受ける範囲だよ
その、海沿いすぐのところに集落から離れて祭祀センターを作る理由がないだろ?ww
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:29:06.00
つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に破綻してしまったのだね。。。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:33:06.88
>>613卑弥呼の共立に伴う祭祀の統一の内容が、首長の墓は前方後円墳とすることなんだよ


前方後円墳の型の元は
円形の三輪山とふもとの台形の土地だけどね


出雲国造神がしによれば
三輪山に大国主の尊の御霊を収めて大和が出来た事になってる

よーするに倭国大乱前の男王が大国主で
大国主の死後に国が乱れたんんで
大国主の御霊を祭り巫女の卑弥呼を共立して
倭国を治めたってことで

三輪山に大国主の御霊を移し
三輪山のふもとの台形の土地で大国主の御霊の祭事を行った

形でいえば三輪山が円形でふもとの台地が台形で
合わせて前方後円墳の形となる
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:39:45.65
>>590伊都国と邪馬台国は別の国

伊都国は影響力の大きな国だっだけど
邪馬台国とば別の国だし

記紀でも伊都の尾羽張とかがイザなぎのピンチを救ってるし
その子供は国譲りのとに活躍してるし

それに武力で倭を統一しよーとした崇神の時代
には伊都つヒコは倭王と自称して対抗してた
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:44:45.57
>>618
>前方後円墳の型の元は
>円形の三輪山とふもとの台形の土地だけどね

まあ、ありうる話ではあるけれど、それだと前方後方墳が説明しづらいんだよね
前方後円墳、前方後方墳の、後円部及び後方部が墓で、
前方部はそれに付帯する構造物・祭祀の場というのには同意

もともと、墓を円形に作るところでは前方後円墳、
方形に作るとことでは前方後方墳を作ることになった、でよいと思う

そこで、天神・天孫系は、前方後円墳、
地祇系は前方後方墳を選んでいるように見えるし、
そこに天円地方の思想が入っていそうな気はするんだけれど、
この辺は論証のしようがないからどうしようもない
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:53:12.11
>>595
三種の神器が鏡と玉と剣の事は事実

それを大事にし副葬品としたのが古の福岡市や糸島なのも事実

天皇家は文化を受容したのか?それとも受け継がれたのか?

籠神社の鏡が内行花文鏡だった事もあり、北部九州発祥の副葬文化と三種の神器が関係が無いとするのは、臭い物に蓋をしたいだけの極論だよ
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:55:25.63
>>620もともと、墓を円形に作るところでは前方後円墳、
方形に作るとことでは前方後方墳を作ることになった、でよいと思う

そこで、天神・天孫系は、前方後円墳、
地祇系は前方後方墳を選んでいるように見えるし、


出雲では方形の墓だったけど
大国主の御霊は円形の三輪山に納めらた

方形の山はないんで仕方のない事だし
前方後円墳にならざるおえなかったってことじゃないかな
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:55:52.29
つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に破綻してしまったのだね。。。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:00:05.52
神仙思想で仙人が住み仙薬があると信じられた海上の三壺山の
前方後円墳の円墳が蓬莱(蓬莱山)
前方後方墳が方丈(方壺)
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:14:54.93
>>620

出雲圏はもともとが四角い墳墓だったけど

大国主の御霊を円形の三輪山に納めたことで
方形と円形の古墳のルーツが出来てしまった
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:19:44.28
>>621
>三種の神器が鏡と玉と剣の事は事実

これが、「三世紀の事実」ではないのを無視しているところがチェリーピッキングなんだよ
時系列の無視でもある

三種の神器は、天皇の権威とともに長期間伝世することによって、権威化、神聖化したのであって、最初から三種の神器が王権の所在を示すものだったのではない
日本書紀には皇統とは無関係な「八咫鏡」も出てくるし、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」もある

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)奉
「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。 是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られている鏡が「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇

昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。

もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる

三種の神器のセットが出たからといって、それが王権のレガリアという訳ではないし、王権の所在を示すものでもない
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:27:29.25
>>595
>つまり、3種の神器セットに見えるのは、その場にあった威信材の詰め合わせに過ぎないんだよ
>伝統が大事だったら、鏡種も揃えるだろ?

吉武高木の頃はそうだったんだろう。
南小路でも、三種の神器ではない王権の象徴である璧が出ている。
最終的に八咫の鏡を含む三種の神器か確定したのが平原遺跡だったのだろう。

>>597
>卑弥呼が在世中の、女性と想定される厚葬墓だから、女「王」墓はあり得ないな

年代比定は絶対ではないが、倭国大乱の後の女王であるから、むしろ卑弥呼しか考えられない。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:31:49.67
>>618
>よーするに倭国大乱前の男王が大国主で
>大国主の死後に国が乱れたんんで
>大国主の御霊を祭り巫女の卑弥呼を共立して

乱れていたのが安定したのは、天孫降臨によるものなんだけど。
記紀のつまみ食いはよくないよ。

>>619
>それに武力で倭を統一しよーとした崇神の時代
>には伊都つヒコは倭王と自称して対抗してた

これ、順序が逆なのかもね。
伊都彦が倭王として対外交渉していたら、その立場を崇神が奪ったのかもしれない。
そして崇神は(畿内からは)初めての国を治める者としてのハツクニシラスの諡号が与えられたのかもしれない。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:33:37.90
>>1
まだ続いてるの?


それにしても本当に凄い話ばかり、
父親は逮捕もされていないと言っていたり、
たしか・・・兄?もれ(弟)?のことを殺そうとしたり、
母親も殺されそうになったことがあるんだよと言っているし・・・、
警察などに通報していないだけだという話なのかな?

本来なら弟(妹の上、妹の前に)が生まれるはずだったんだけど?
どういう話なんだろう
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:34:33.98
>>622
>大国主の御霊は円形の三輪山に納めらた

三輪山は眉唾だというのに。
大国主が亡くなってから、三輪山の話まで世代が開きすぎていて、場所も遠い。
大国主を祭るのはあくまでも出雲大社だよ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:38:26.50
>>626
>三種の神器は、天皇の権威とともに長期間伝世することによって、権威化、神聖化したのであって、最初から三種の神器が王権の所在を示すものだったのではない

ここだけ正しいのだろう。
吉武高木遺跡においては、実際に詰め合わせだったのだろう。
しかし三雲南小路遺跡では、同じ規模の王妃の墓には三種の神器が揃っていないから、三種の神器は王だけのものとする意識があったのだろう。
平原遺跡では、女王なので武器はいらないはずなのに、剣を一振りだけ加えて三種の神器の体裁をわざわざ整えている。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:38:29.46
それと、なぜ知っているのか?なんだよな・・・?
『バカヤロー コノヤロー』
それらしき画像が出てきたり、家と関係していそうな画像とか
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:40:55.98
素人ですまないが

纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:41:47.79
でも家は暴力団、ヤクザ(関係者)でもないし・・・w
本当に、おかしな話ばかり
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:43:50.00
>>621籠神社の鏡が内行花文鏡だった事もあり

神社のご神体の鏡は死んで鬼籍に入った人の御霊を収める為の御霊しろなんだけどね

伊勢神宮のご神体のヤタの鏡はアマテラスの御霊しろだし

大国主の御霊を収めたヤタの鏡は三輪山に治められて
三輪山自体がご神体とされてるし、
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:48:59.84
つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に破綻してしまったのだね。。。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:49:09.36
>>628

倭国大乱で乱れてたんで
卑弥呼を共立して倭国を安定させたってことだけどね

ここでポイントになるのが卑弥呼が巫女だってこと
巫女っていうんは偉大な先人の御霊代で
偉大な先人の御霊代となって信託を告げる祭りごとが
卑弥呼の統治の基本型なんだよね
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:53:01.55
>>626

鎮魂祭っていうんが神道の最も重要な祭事だけど
これは神楽で表現されてるアマテラスの岩戸伝説を表現したものなんだよね

ようするにアマテラスの御霊を古墳から取り出して
ヤタの鏡に移すってことが最も重要な催事で
神楽で伝承されてるんだけどね
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:53:15.93
432>>85
「南→東」などのウソを付き、
文献考古の史料実態に完全無知なうえ
中高生レベルの「人類の常識」を知らないで
毎日ウソついて、学者の仮面をかぶっているいるガキさんが
理由も言わずに断定しても
誰が信じる?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:54:15.62
>>616
まあ、この吉井信号まで潮が入っていたことを示す貝殻などの有る無しが決め手だね。
不確かだと指摘があるものの、柳川あたりが海岸だとすれば、いくらなんでも吉井の地下に潮が来ることはないだろう。
あれは諫早だったか、水門つけて潮を止めた。
その水門から少し上では畑などをつくっていたから、地中に塩害がでる範囲は海岸からそれほど上らない。
吉井まで潮は入っていなかったと思うがね。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:54:43.92
『姥清水』〜『デスラー』(wiki参照)
と同じだと言いたいのかもしれない、

むかーし、山の上のほうに住んでいたことがあるとか、
家の老婆の話?
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:56:05.88
>>635
>神社のご神体の鏡は死んで鬼籍に入った人の御霊を収める為の御霊しろなんだけどね

それはいつ頃成立した解釈なんだ?
少なくとも記紀にそのような解釈は明記されていない。
籠神社の鏡は、十種の神器と言って、アマテラスが孫の饒速日に与えたとされる鏡なんだよ。
同じ孫のニニギに与えられたとする三種の神器と起源は同じ。
それが三雲南小路や平原と同じ内行花文鏡だった。
これは畿内も九州北部も同じ内行花文鏡を祭る銅鏡文化を共有していたことを示す。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:56:15.26
>>633

年輪法だけどね

巻向よりも少し古いカギコカライセキが年輪法で2世紀なんで
それよりも古い巻向が2世紀末からってことになってる
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:56:34.84
432>>87
というか、大和説は、
九州説者が大和説のスレに、わざわざ来て頂いて書いて貰ってるんだから、
きちんと具体的な根拠を挙げて、大和説を主張してよ

それをきちんと具体的に否定してあげるからさw
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:58:46.39
神道の祝詞は、そのアマテラスの父親であるイザナギを祭る文句なんだよ。
筑紫の日向における禊をテーマとして、その加護を求めるものなんだ。
それが明文化された神道の教義だよ。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:59:15.57
>>639「南→東」などのウソを付き

中国の使者は海流の知識がなかったんで
船が向いてる方向だけの記述になってる

海流が東に向かって流れてる場合は
船の向いてる方向が南でも進路は東南東なんで
倭人伝の水行20の南は東南東に修正する必要があり
投馬国は出雲圏ってことになる
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 16:59:23.71
母親が家事などをしているときの話

我(母親の事)は何をしているんだ、
みたいな事を言われたことがあるとか

最初、聞いたとき、意味が分からなかったと言っているしw
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:00:28.20
>>643
木材は使い回されるから、実際にはそれより後であるという可能性がある。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:02:12.49
当時(母親が嫁に来た頃や、それ以前?)の老婆は、
そのような言葉を使っていたのかな?

どういう事なんだろう
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:03:25.37
432>>93
>「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)<

「南≠東」などの嘘つき騙しに拠って、寺澤は、×人間。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:04:04.26
>>643
キウスさんの発狂ぶり、いつも抱腹絶倒です
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:09:33.66
チェーンソーのゲーム?
家?の話wみたいな事を言ってる人がいたり

どのスレだったかな
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:09:55.74
432>>94
>>渡海とは危険を伴う。 伊勢湾ごときは沿岸航行すなわち水行でよろしい。<

>それで言うなら多島海ですぐに陸地に逃げられる瀬戸内海は、
最初から「渡海ではない」んだよ<

いや、周防灘を横断して松山〜今治付近に上陸するのなら、渡海だ。
またそれなら、足摺付近の侏儒國へ三千里(短里)を陸行したらしい事とも合う。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:13:32.52
それとも、ただのシンクロ現象?
母親は次女・・・で・・・。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:18:46.56
『ボーボボ』
どらごんぼーる・・・?のような画像も出てくるし
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:23:16.87
432>>95
>>つまり会稽東冶之東じゃなく、会稽東治之東なんだよね <

>東冶は東治と同じ場所だから 九州説は死んだ<

陳寿執筆時は、東冶は「建安郡の東冶」であり、
「会稽東治」にはならないから、
大和説は死んだ。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:29:13.08
>>640
>吉井まで潮は入っていなかったと思うがね。

吉井信号バカは、そろそろ撤退した方がいいって前から言ってるのに懲りないなww

>>566のこれに答えてないだろ?ww
弥生末期でも、吉井交差点の西側はずっと海だぞ
吉井交差点のあたりが、陸化しているかどうかが微妙なところ
有明海はその地形から干満の差が大きいので、陸化していても満潮時の塩害で
稲作はできない
そしてその東側はすぐに山になってる

今でこそ、吉井交差点の周りはずっと陸地だけれど、
弥生末期の時点で筑紫平野のかなりの部分はまだ海のそこ

人が住めた広い平地は、吉井交差点よりもかなり北の方にしか広がっていなくて
その『生活拠点の中心から離れた狭い土地に祭祀中心が置かれた』と考えるのは、
合理的な判断ではないな

『生活拠点の中心から離れた狭い土地に祭祀中心が置かれた』という主張は無理だろ?
そして、「みやま市全域が祭祀センター」という最初の主張は完全に破綻している

諦めなww
負け犬さんww
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:30:52.27
432>>101
このように
「南→東」などの嘘つき騙しがバレ、
文献考古の史料事実や実態の議論でも負け組トンデモでも大和説は
自分の主張の理由を
まったく言えなくなり、
だから滅んだ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:32:53.57
432>>102
「南→東」などの嘘つき騙しにかんしての、
大和説者の、しどろもどろの言い訳に、ワラタ
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:33:55.40
内行花文鏡推しの糸くずがいまだに消えないなぁ

九州の内行花文鏡を王の鏡とする伝統が畿内に伝わったとかいう戯言は
FAQ41のこれに反論できてからにしなよww

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、
舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に
継承されており、平原鏡と異根である。
これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:35:15.34
432>>103
>纏向遺跡と 垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください 初期ヤマト王政を解く鍵かも <

「南≠東」に拠って、卑弥呼は全く関係はないから、×。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:42:12.25
>>660
これを
大同小異という。
はい論破
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:43:56.20
432>>108
>(州胡情報)そんな情報を聞いて確認もしないで上に方向しちゃった役人は、
なんで首が飛ばないの? ww<

役人たちは、伝聞情報であれ、確認情報であれ、
その情報をきちんとそのまま報告すれば首が飛ばないが、
ズボラしたり、情報を意図的に改竄して報告した事が判れば、
首が危ないの。
(今の安部政府の役人たちのように・・・)
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:44:46.97
本当に数年前の、とあるスレ。

日本の話なんですよwww
という書き込みがあったり。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:46:46.29
432>>123
「南→東」などのウソしか言えないから、首が危ない大和説者。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:55:28.37
432>>133
>そんなこと勝手に決めても意味ないね 現実に方位を間違える人が実在するんだから<

普通の人類や役人たちは、東西南北は、ほぼ間違えないねえ。
間違うのは、ハクチなどであり、
わざと間違うのは、詐欺師や宗教。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 17:59:40.72
>>137
>>教えてくださいよ 纏向遺跡と 垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください <

>卑弥呼や纏向を継承した王なんだよ
畿内説を知らないお馬鹿さん <

卑弥呼は、「南≠東」などに拠って、×。
「東西南北」や「人類の常識」も知らない、大和説のおバカさん。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:02:31.45
432>>145
「南→東」などのような、
根拠のない決めつけしか出来なくなった大和説
いよいよ終わりやね
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:03:47.73
>>640

何も無い吉井信号のすぐ西は大江(海抜4m)、真南1.6kmが海津村(海抜3m)だからな
水門というのは現代のか?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:04:36.38
432>>149
「南≠東」などに拠って、九州説に負けて、
大和説口惜しいのう
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:06:36.91
432>>151
あはれなり 
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は
あほになり
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:09:28.52
432>>152
>畿内説は嘘 ヤマト説が正しい <

「ヤマト説」が、卑弥呼の「女王之所都」が大和だ、という意味なら、
「南≠東」などに拠って、×。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:21:54.36
432>>163
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説こそ、
キチガイ詐欺師しかおらんのは何故か?、
を考えた方がいいんじゃないのか
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:22:56.12
謎のチェーンソーのゲーム

主人公は渡来人だという設定みたいだし、
渡来系、帰化人〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜現在は日本人

という意味でしょ
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:23:44.59
ザラコクさんへ
前スレに返信するのはあなたの勝手だから好きにすればいいけど、
アンカーつけるのはやめて下さい
現行スレを参照する仕組みになっているので
「432の163」のようにアンカーを付けずにお願いします
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:26:30.36
ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:4b3346f3ce33aee7
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
432>>166
そういう、「南→東」などのような何も証拠のない話を
世間でなんと言うか知ってる?

「作り話」というんだよ


(せっかく頑張って追いつこうとしたのに、これで、また遅れそう)、
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:33:01.82
あと皇室、皇室〜と言っているのがいるけどw
フォローしあっている?

オマエが関係者か何かなんだろう、
遠い親戚、むかーし別れた氏族や家など

日本の皇室?
実際は中国(皇族?)の人ではないという話みたいだし、
悪く言うと自称・・・とか
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:35:44.75
サルタというスレッドを読んでみて、
悪く言うと土民?の酋長だと言ってる人もいるし

神祖、皇祖神だとか・・・土民の酋長?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:36:37.63
>>660
何をどう反論しろというのか。
ふーん、しかないな。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:41:26.66
ホンモノ(中華でしょ?皇族?)は、
とある途中、とある時代から入ってきたんだよ

それを神話や歴史などに差し込んだとか、
三貴子(神)というのも、同じような話みたいだし

実際は倭〜?ではない
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:45:21.54
>>656
>陳寿執筆時は、東冶は「建安郡の東冶」であり、

事件当時の地名を使うのが歴史書の常識なんだよ
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:51:48.84
>>662
>大同小異という。

つまり、「具体的な根拠」を示した上での「論理的な反論」は
できませんってことだね
九州説はいつもこれww

>はい論破

九州説の論はこのレベルだそうだ
畿内説スレでこのレベルは、とっても恥ずかしいことなんだけど、
無恥で無知なムチムチの人だと、平気らしいねww
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:54:40.45
>>660
>この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、
>舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に
>継承されており、平原鏡と異根である。

簡略化しただけだよね。
なんで偉そうなの?
平原の鏡の方が凝った設計だということだよね。
畿内と九州が別系統に進化したなら、なおさら畿内と九州は別の勢力圏で、魏と交流していたのは九州ということになる。

>これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

まだ見つかっていないだけでは?
わざわざ鋳型を作っておいて、一枚しか作りませんでした?
アホか。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:55:29.42
>>660

よく勉強しまちたねー
よちよち
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:57:48.29
>>679
>何をどう反論しろというのか。
>ふーん、しかないな。

つまり、平原のバキバキに割られた仿製鏡と、
完鏡の形で伝世、副葬されている畿内の鏡とは直接の関係はない、
別のルートでもたらされたものだ、というのに同意したってことでww

つまり、九州の伝統とは無関係に畿内の銅鏡文化は形成されたってことだ
◆FAQ 36 より
畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:58:54.57
テスト投稿
432>>167
九州説は、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の妄言など、どうでもいいんだが、
野放しにしたら、国民の何割かが、
大和説のウソに騙されて「皇国史観戦争狂」になってしまいそうだから、
黙過しない。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 18:59:44.55
>>683
>簡略化しただけだよね。
>なんで偉そうなの?

平原1号墓の鏡を王権のレガリアに位置づける主張のはずなのに、
王権のレガリアのために特鋳した鏡が「簡略化」してあるとかww

矛盾だらけだなww
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:04:03.37
>>683
>平原の鏡の方が凝った設計だということだよね。

九州説の言うことは当然ウソ
平原マンホール蓋は異常に簡略化された品
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:05:20.54
本当に・・・こう・つぶさわ(不明)
の陰謀なんじゃないの?

それらしき事を言ってる人がいたり、
なぜかゲーム関係のスレ
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:06:36.81
平原の内行花文鏡は文様のまわりの幅が広いだけだもんな
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:06:40.67
432>>182
「魏使が三国志を書いた」というデマを飛ばす、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:08:25.81
出自、規模(企業や会社、凄い資金、お金を持っている)の問題ではない・・・
みたいな事を言ってる人もいなかった?
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:12:19.81
432>>184
>「みやま市の遺跡」で検索し、上から2番目の「みやま市の遺跡」を開く。
遺跡はいっぱいある。
弥生後期には177戸におよぶ西日本一の集落跡が出ている。
環濠跡も出ている。 有数の地帯だ。<

ふーん。成程。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:12:54.33
『何者にもなれない お前たち』

実際に?このような家に住んでいるしw
キュウリの葉などの写っている写真の家?

どういう事なんだろう
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:13:14.53
なんだか、シンプルなiPodのヒットの後で、WALKMANユーザーが吠えている感じ。
2世紀末において九州北部は畿内とは別系統に独自のガレリアを成立させていたんだろ?
そして魏志倭人伝はひたすら伊都までの里程と伊都の様子を描写していると。
魏志倭人伝などを持ち出すと、キナイコシが、それは邪馬台国纒向の描写ではなく倭国の中の一般的な描写だと言うしな。
纒向についての解釈が魏志倭人伝に皆無じゃないか。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:16:08.49
なにひとつ 証拠出さない 九州説
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:20:11.34
ダイアモンドだねという曲でしょ、
キングダイアモンド(不明)というキャラの話とか

漫画のキャラ?実在の人物なのかな?
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:22:30.86
歌舞伎・・・・メイク(変身)?
本当にwそういう話

老婆も、そのような話をしていたり、
むかーしの話?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:23:53.24
>>682
言葉の意味が分からない人?
大同小異だよ、じしょでしらべてね
わかりやすいようにひらがなでかきました
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:28:46.41
>>695
だが伊都国は邪馬台国ではない
郡使が常に駐したところ
そして邪馬台国はそこから2ヶ月かかる遠方にある
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:29:34.47
>>699
きゅうしゅうせつと、はくちのちがいのことです
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:31:15.93
父親が〜みたいなコンセプトの話とかw
殺そうとした?殺されそうになった

家の話と同じだし
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:31:16.57
>>701
にほんごでかいてね
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:32:46.41
>>700
なぜわざわざ駐するのかな?
そこが邪馬台国の中枢だからだよw
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:34:36.98
>>696
畿内説の証拠って何かある?
前方後円墳だとか、土器だとか、魏志倭人伝に出てこないものばかり持ち出すけれど、鉄や鏡や絹の話をしたら?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:42:15.39
偶然でも、何でも(シンクロ現象)良いんだけど、
なんで、そんなところ(家)に住んでいるの?

みたいな話にもなってくる・・・・❔
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:44:43.14
『姥清水』
これも同じような話、
当時、この周辺に住んでいたことがあって・・・w
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:44:48.95
>>704
ふつう「駐」するのは
便利のいい中継地点や足がかりの拠点
つまり目的地ではない
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:44:54.80
>>700
日数は帯方郡から掛かる時間だよ。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:46:00.94
>>705
九州説さん敗北宣言いただきました
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:47:02.93
>>709
それ、物理的に無理だから
テンプレ読むこと
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:51:18.99
あと


なぜ、こう・つぶさわ(何々の野望〜。無双シリーズ)が出てくるのか・・・なんだよな、
何かあったのかな?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:51:33.79
>>708
という根拠は?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:55:38.39
432>>184
>「みやま市の遺跡」で検索し、上から2番目の「みやま市の遺跡」を開く。
遺跡はいっぱいある。
弥生後期には177戸におよぶ西日本一の集落跡が出ている。
環濠跡も出ている。 有数の地帯だ。<

ふーん。成程。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:56:09.21
>>705

3角縁は関東から九州の広い葉に分布してるけど
これが倭の30カ国の範囲だし

3角縁には卑弥呼が訪朝したときの記念の年号を記した記念鏡もあるし
3角縁は3の30カ国の共通の鏡なんだよね
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:59:16.14
>>672南≠東」などに拠って、×

船を南に向けて漕いでも
海流が東に向かって流れてれば
船の進む方向は東南東になる

ってことで水行で南に20日は東南東の20日になり
投馬国は出雲圏になる

さらに投馬国(出雲圏)から水行して上陸して南下すれば
大和につきそこが邪馬台国になる
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:00:25.22
またテスト投稿
ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:4b33d0b32ba1aee7
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
432>>237
>九州説の無理読みの方が頭おかしいと思うけれど <

「南→東」などのような、
都合の悪い史料事実の「否定曲解」の嘘つき騙しをする大和説者の無理読みの方が、
頭がおかしい、と思うけど。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:00:30.35
>>711
馬鹿が書いたテンプレとか読んでも無駄w
帯方郡から北部九州地域まで丁度の日数だよ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:00:55.50
>>633
>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ <

畿内説の学者で この根拠を解いたものはいない。周りの状況からだが、あなたが疑念を抱くように
後世に作られたと説を唱えたら反論の余地は無い畿内説だと思う
例えば三輪山大神社の社殿の前身と言っても反論に値する根拠は見いだせないだろう
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:03:38.64
>>690平原の内行花文鏡


これは大乱前の男王の御霊を収めるてめの鏡

男王は大国主八雲立つ出雲の八鉾の神といわれて
八を好む倭王だった

ってことで八花八葉の内行花紋鏡は大国主の御霊代にふさわしい鏡だし
出雲国像神賀詞にも大国主の御霊はヤタの鏡に移して
三輪山に納めたって記されてるしね
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:03:57.19
>>660
御前の論だと奈良で見つかった記年銘鏡の破片はどこから飛んできたのかww
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:06:16.32
帯方郡から伊都国、奴国までの距離が12000里で
帯方郡から伊都国、奴国までの時間が水行20日、水行10日陸行1日(月)と
同じ行程を距離と時間で説明しているだけのこと。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:06:22.40
>>717「南→東」などのような、

船を南にむけて漕いでも
海流の影響で東南東に進むけど
中国の使者は素人なんで海流の知識がなかったんで
方角を南と記した

ってことで南は東南東に変えて読むのが正解
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:07:26.81
簡単な説明を難しくして目的地が何処だか分からなくしてるのが畿内説。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:10:51.95
432>>239
>(テンプレ)いいえ、古代史の本や論説を広く読んで紹介してるよ
畿内説に限らず、ね <

テンプレは、結局は、
「南→東」の問題に、直接的な反論をせずに、
大和説ありきの「結論先にありき」での循環論法的な反論をしただけだし、
三角縁の議論や纏向論などでも「大和説者内でも孤立」した説明をしているだけだし、
今更読むなんて全く時間の無駄だし、
むしろ、国民には害になる嘘つき話ばかりだよ。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:11:32.37
>>681
>事件当時の地名を使うのが歴史書の常識なんだよ <


??????????????????????

もう少し、中国の古文書を・・・


いえ何も
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:13:10.94
>>681
>事件当時の地名を使うのが歴史書の常識なんだよ <


??????????????????????

もう少し、中国の古文書を・・・


いえ何も
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:15:22.59
432>>245
つまりテンプレは
「南→東だから、大和説は正しい」という夢物語なのですね
大和説老人が残り少ない余生を 絶望のうちに生き恥さらした果てに
惨めに悶え死ななくて済むように
投与する麻薬のようなもの
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:16:47.95
漫画などを読んでみるとわかる、
なぜか冷凍保存、装置のようなものがあって・・・


封印されているとか、
そういうコンセプトばかり『新 三種の神器』?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:19:40.65
432>>239
>纒向遺跡は兵の駐屯地 元締めが卑弥呼<

卑弥呼が纏向の王であった、という意味であるんなら、
「南≠東」などに拠って、×。
0731スレ主さんへ
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2019/03/06(水) 20:20:42.87
>>1
>倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。 <

漢委奴国王はどこにいたのですか
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:27:15.17
『後漢書』
倭国が後漢と外交交渉をもったのは、史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。その後になって、邪馬台国が魏の皇帝に使者を派遣している。魏志倭人伝には3世紀前半にも奴国について記されており、
奴国と倭奴国が同一ならば3世紀になっても生き残っていたことになる。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
— 『後漢書』東夷列傳第七十五
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:28:25.42
432>>260
>この考え方は邪馬台国を大和に想定しようが九州に想定しようが成り立つ<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
九州説者の「邪馬台国」は、後漢書の「邪馬臺」に少しの可能性が残しているが、
大和説者の「邪馬台国」は、「ヤマト」や「大和」に全く可能性がないから、×。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:39:46.51
>>633
>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ <

纏向遺跡の定義も現代人がつけた範囲ではあるね 水路(溝)も部分的
桜井,橿原、天理等々広範囲に考えれば掘立柱建物は三輪山伝説に基づき後世に作られた社殿の可能性もある
誰かが指摘してたが三輪山の神社の社殿の前身じゃないか


ちなみに畿内説では三輪山伝説を唱えるものもいるが
だとしたら、モモソ以降に作られたのが纒向の掘立柱建物となり卑弥呼の時代と遠のく
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:41:57.88
>>633
>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ <

畿内説の学者で この根拠を解いたものはいない。周りの状況からだが、あなたが疑念を抱くように
後世に作られたと説を唱えたら反論の余地は無い畿内説だと思う
例えば三輪山大神社の社殿の前身と言っても反論に値する根拠は見いだせないだろう
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:43:10.83
>>735
その謎を解いたのがすれ主じゃねーかwww
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:43:29.87
>>728「南→東だから、大和説は正しい

船を南に向けて漕いでも
東に流れる海流を考慮すれば船の進む方向は東南東なんで
南→東南東が正解
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:44:10.16
432>>284
>文化的に見れば畿内発の土器が全国的に出土があり<

大和発の土器は、筑紫では殆ど出土せず、筑紫→大和の土器は0である。
また、筑紫在地胎土の庄内は、3世紀前半であるが、
大和の最初の庄内の石塚は3世紀末である。

>また三角縁神獣鏡の分布の中心に位置している事は 考古的にも明らかになっている <

△の初発は、3世紀前半の筑紫の志登であり、
大和の△の初発は、4世紀の古墳である。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:46:57.79
>>711
引用くらいしろ。
無能
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:47:11.53
432>>291
>という一言だけ残して
議論するわけでもなく足早に逃げ去る九州説<

という一言だけ残して、
「南≠東」などの嘘つき騙しの議論するわけでもなく、
足早に逃げ去る大和説
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:48:15.02
遺物として
絹とは言わないが
鉄が畿内説の最大の弱点と思う
いろんな方が指摘しているのですが
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:49:13.43
>>735
>例えば三輪山大神社の社殿の前身と言っても反論に値する根拠は見いだせないだろう

それが正しいとする根拠もないから、ただの妄想。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:50:31.85
>>724
>簡単な説明を難しくして目的地が何処だか分からなくしてるのが畿内説。

それ、典型的な詐欺師の話法。
実は中身は何もない。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:53:26.61
731スレ主さんへ2019/03/06(水) 20:20:42.87
>>1
>倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。 <

漢委奴国王はどこにいたのですか
0745納得 畿内説の見解は?
垢版 |
2019/03/06(水) 20:56:04.78
734日本@名無史さん2019/03/06(水) 20:39:46.51
>>633
>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ <

纏向遺跡の定義も現代人がつけた範囲ではあるね 水路(溝)も部分的
桜井,橿原、天理等々広範囲に考えれば掘立柱建物は三輪山伝説に基づき後世に作られた社殿の可能性もある
誰かが指摘してたが三輪山の神社の社殿の前身じゃないか


ちなみに畿内説では三輪山伝説を唱えるものもいるが
だとしたら、モモソ以降に作られたのが纒向の掘立柱建物となり卑弥呼の時代と遠のく
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:59:18.33
>>683
畿内下池山古墳出土内行花文鏡
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000700000/e6c59c8777c949b69a9e966a571ddb2d

平原1号墓出土内行花文鏡
http://www.geocities.jp/itosimadoranekoki/isourou/naikou.jpg

明らかに平原1号墓出土鏡の方が図像を簡略化してるよな?
流水文のところを単なる同心円にしてその部分をバカみたいに広くして面積を稼いでる
ただ大きくするだけが目的の手抜き鏡だよ、平原1号墓出土鏡はww
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:01:05.68
>>683
>わざわざ鋳型を作っておいて、一枚しか作りませんでした?

王権のレガリアなら、1枚ものの特注品なのが当然
複数のコピー品を作っている時点で、量産の廉価版だ
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:05:10.16
中国人は海が静水だと思っていたとかまた珍説だな
沿岸航法で陸地が見えるのだから方角を正確に分かる魏使が間違え様が無い
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:05:50.03
大和説にだまされる素人はごくわずかだろうな
倭人伝を読めば読むほど大和説がありえないことを
実感する。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:06:26.03
卑弥呼を偲んで、一枚を残して割ったんだろうね。
破鏡の始まり、伝世の始まり。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:07:53.57
>>699
>言葉の意味が分からない人?

結局、反論できないんだなwwバカ丸出しw
反論できない重要な差異を、大したことないってことで誤魔化そうとしてるだけ

しかも誤魔化せてないww
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:10:19.19
>>746
いつまでも「トヨタよりシボレーの方がいい」みたいなことを言い続けるなよ。
レクサスの存在を認めろよ。
平原の八咫の鏡の発見は、日本の王権の成立過程を考える大きな材料だ。
それが畿内と別のところで進歩していたなら、なおさら倭国と日本国の関係を考え直さなくてはいけない。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:12:32.44
>>704
>なぜわざわざ駐するのかな?
>そこが邪馬台国の中枢だからだよw

駐するってのは、駐車の駐だよ
郡使「往來」常所駐

往来=行き帰りの時に、立ち寄るところなんだから、邪馬台国に行く途中にあるんだよ
中枢の訳ないじゃんww

邪馬台国が倭国の中枢
邪馬台国の中枢が別の国って、どう見てもおかしいだろww
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:13:35.70
本当に『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、何の家なんだろう?

かみたま級?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:14:32.44
>>746
結局、君が持ち出す事柄は、ことごとく九州説を補強する結果になっているようだ。
畿内は九州北部の文化を許容するというか塗り潰されるわけだけど、畿内と九州は弥生時代の交通手段ではあまりにも遠かったのか、しばらくは平行に別の道を辿るということだね。
後にまた統一されるわけだが、その過程は明らかにされていない。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:17:08.24
>>718
>帯方郡から北部九州地域まで丁度の日数だよ。

笑わせてくれるなぁww

帯方郡からの海上移動距離は1000キロを超える
それを水行10日で着くためには、1日の航行距離が100キロを超えるが、
そんな高速船はないから物理的に無理

そして陸上移動距離は北部九州説だとどうやっても数10キロにしかならない
それが陸行一月でちょうどとか、まともな神経では無理だろww
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:17:52.82
>>754
途中とは書いてない。
倭国にいる間は伊都に駐在したんだよ。
ちなみに畿内のどこかに滞在した記録はない。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:18:35.28
アニメの神様
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:21:00.67
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:21:53.32
432>>307
>出雲を含む日本海側交易圏と、畿内第V様式土器圏(邪馬台国七万戸)と
東海・伊勢の勢力(三遠式銅鐸圏)の会合の場として伊勢遺跡があり、
その機能を纏向遺跡が引き継いだと見るのが、近年の多数説 <

「畿内第V様式土器圏(邪馬台国七万戸)」という文言が、
畿内や邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「七万戸」なんて「南→東」など嘘つき騙しをしているから、
類スレ主は、人間性が×。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:22:31.91
1日千里、つまり70キロ。
時速10キロで7時間漕げばいい。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:22:57.61
平原は勾玉もガラスだから倭人じゃないよ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:23:21.63
>>719
>畿内説の学者で この根拠を解いたものはいない。

辻地区の大型建物群は、すぐ近くの祭祀土坑とセットの遺跡
その祭祀遺構からは多数の供献土器が出ていて、その土器の形式編年から
3世紀前半と判断されているし、同じ祭祀土坑から出た桃核の炭素試料を
使ったAMS法による14C年代測定でも矛盾のない編年が出ている

複数の独立した推定から一致した結果が出ている以上、それを否定したかったら
それ以上の根拠が必要
「4世紀と言われても否定できない」なんてことはないんだよ
そんな思いつきでは覆らないだけの根拠が積み上がっている
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:24:55.35
卑弥呼は舶来品に目がなかったということだろう。
それがなせ倭人ではなかったことになるのか。
おまえは毎日着物で仕事をしているのか?
洋服を着ていたら日本人ではないとでも?
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:26:20.22
>>721
>御前の論だと奈良で見つかった記年銘鏡の破片はどこから飛んできたのかww

畿内の鏡作神社周辺の青銅器工房で作ったんだよ
三種の神器の八咫鏡を実際に作ったのもおそらくその辺り
少なくとも宮中賢所の鏡はここで作っている
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:27:23.47
>>766
それって、オリジナルの八咫の鏡の踏み返し?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:28:58.08
>>713
三国志の用例ね
遠征の途中で軍を駐する
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:29:01.21
>>722
>帯方郡から伊都国、奴国までの時間が水行20日、水行10日陸行1日(月)と

おいおい、半島南岸投馬国バカがまた湧いて出たのかよ
半島に五万戸の大国なんてねえよ!
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:29:15.21
>>765

倭國が献上したのは「青大句珠二枚」だから
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:30:17.95
>>722
>同じ行程を距離と時間で説明しているだけのこと。

大陸史書にそんなバカな書き方をしているものはないww
バカの無理読みww
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:33:17.84
糸島は卜骨の風習もない女王國に従属した非倭人王の國だよ
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:35:02.73
>>770
>倭國が献上したのは「青大句珠二枚」だから

勾玉も倭国(阿波)。  @阿波
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:36:40.03
倭国の領域内にあればいいだろw
畿内説様によればw
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:39:21.50
>>746
平原より年代が50〜100年も新しい墓から出土した鏡を持ち出して、技術を比較しても意味がないよ
技術力が上がっているのは当たり前だからね

それに、下池山は内行花文鏡の超大型鏡という事から、明らかに平原発祥の超大型鏡文化を受容した事がわかる

下池山の鏡は、副室を設け、絹織物等から作られた巾着袋に入れられ、羅を使った漆塗木箱に納められていた

この超大型鏡にどれだけの意味があったのだろうね

また、後の時代になり技術が上がっても平原以上の大きさの鏡が作られていない
これは鏡の大きさに規制がかかっている可能性がある
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:40:51.57
>>741
>鉄が畿内説の最大の弱点と思う

別に?
弥生後期には倭国で鉄はそれほどの貴重品でもないし、畿内に鉄がないと考える理由がむしろない

鉄が潤沢になったことを示す指標に、石包丁が消えることがあるが、
北部九州より畿内の方が石包丁の消失が早い

また纒向遺跡メクリ地区からは大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石が出ている
189次調査では
「時期は不明ですが、この落ち込みからは土器の他にも鉄滓が多く出土しており、
 鞴羽口片もみつかっていることから、近くには鍛冶工房が存在していた可能性が考えられます。 」
174次調査では
「調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、
 約60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
 そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
 それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴(炉に空気を
 送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
という成果も出ている

畿内に鉄がないっていうのも、最新情報を入れていない情弱な人が言い続けているだけだよ
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:42:18.77
>>735
>畿内説の学者で この根拠を解いたものはいない。周りの状況からだが、あなたが疑念を抱くように
>後世に作られたと説を唱えたら反論の余地は無い畿内説だと思う

こういう真っ赤なウソを平気で書くから
九州説は信用を失い、滅んだんだよ
根拠は、ちゃんと発表されている

九州説が知識教養を欠くのは勿論問題だが
倫理に欠けてるのが最悪だ
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:43:25.72
>>750
>倭人伝を読めば読むほど大和説がありえないことを
>実感する。

どうしてそんな風に実感するのか「具体的に根拠を挙げて説明」してくれませんかね?

九州説は具体的なことを何一つ言わないし、言えないww
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:46:08.73
>>776
>また、後の時代になり技術が上がっても平原以上の大きさの鏡が作られていない
>これは鏡の大きさに規制がかかっている可能性がある

それは思った。
あえて言えば、八咫の大きさの鏡を改めて作ることは、大王の位を狙うと思われてしまう可能性があったのだろう。
謀反を疑われないためには、それより小さい鏡しか作ってはいけなかった。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:47:11.19
>>751
>卑弥呼を偲んで、一枚を残して割ったんだろうね。
>破鏡の始まり、伝世の始まり。

そんなデマは通らない
卑弥呼を偲ぶなら割る必要はないだろ?

逆に卑弥呼の持ち物だったからという理由で割るなら、1枚残す必要がない
変に残すと祟られるぞ!
日本の宗教はそういう構造だ

そして何より、平原1号墓は卑弥呼が存命中に作られた墓だから、卑弥呼はまだ死んでいないww
下手すると卑弥呼が生まれる前だww
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:47:11.46
つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に破綻してしまったのだね。。。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:47:39.26
432>>314
>ヒメヒコ制は、記紀の分析結果が
支配階層で血縁関係のある男女ペアの合葬が多く見られるという
考古学的発見で裏付けられたという見方から 学界で支持者が多い説だ
倭人伝の「男弟が佐治する」という一節をそう解釈するのも多数説で、
憑依型巫女と審神者のペアとして理解する者も多い<

「男女ペアの合葬」は、一般的には、
「夫婦」の「同じ墓に埋葬して欲しい」という希望であった場合の方が多い、
と思うよ。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:49:29.72
>>776
>それに、下池山は内行花文鏡の超大型鏡という事から、明らかに平原発祥の超大型鏡文化を受容した事がわかる

大きいってだけだろ
技術的系譜が違うって説明受けてもまた理解できないの?


>また、後の時代になり技術が上がっても平原以上の大きさの鏡が作られていない
>これは鏡の大きさに規制がかかっている可能性がある

ぜんぶ割って埋めちゃったのに、どうして大きさ知ってることになるの?
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:51:39.94
平原は北部九州にもまったく影響を与えていない
糸島でさえ何も祀られていなかった
墳丘は削られ、上から人糞を撒き散らしていた畑になっていた
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:51:46.17
>>780
いや、そもそも八咫だって根拠すら無いのだが
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:52:23.36
>>753
>レクサスの存在を認めろよ。

畿内のレクサスと、平原のヒュンダイを
車なのは変わらないだろ?って言われてもなww

そういうのは大同小異とは言わない
借りたレクサスを事故で廃車にして、代わりにヒュンダイを渡すって言われて
納得する人はいないだろ?

ヒュンダイ自動車は三菱自動車のGDIエンジンの技術を提供されて作り始めたもので、
トヨタ自動車とは関係ない
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:55:11.84
>>756
>結局、君が持ち出す事柄は、ことごとく九州説を補強する結果になっているようだ。

なってないよ
おめでたいやつだな

「結果になっているようだ」じゃなくて、そこをきちんと
「具体的に論証」して見せたらどうだ?

九州説は本当に恥知らずばかりだ
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:56:52.90
432>>316
>伊勢遺跡が纒向遺跡の前身だと言うのなら、吉備の楯築墓は何だと言うのか
何で吉備の地に突然(当時としては)巨大な墳丘墓が表れたのかは分からないが
楯築墓→纒向型前方後円墳→箸墓以後の定式化した大王墓
という変遷を辿った可能性は極めて高いと思う(血縁はともかく、連続した権威の系譜)
楯築墓→後の吉備の首長墓
纒向型→箸墓以後の大王墓
を別の系譜と判断するには吉備のブランクが長すぎるし
纒向型前方後円墳の祭祀器具の吉備との関係を考えても、
吉備の楯築墓を築いた勢力こそ、纒向勢力の前身でしょ<

九州倭国の「東征毛芯五十五國」の東征が、
出雲系の吉備や、
出雲系と越系と九州倭国系の東海勢力の妥協の近江を考えないと、解けない、
と思うよ。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:57:18.80
>>756
史料を統合すれば二世紀後半ごろに神武の九州勢が畿内入りして
邪馬台国を建国した事が強く示唆される
そして畿内が当時の文化の最先端となり
三世紀に前方後円墳が作られ後に九州へと伝播する
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:00:38.28
>>758
>途中とは書いてない。

往来って書いてあるだろ?
「郡の使者が往来し、常に足を止める所である」
来たときには必ず立ち寄るところだよ

逆に言えば、末盧国には寄っていない
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:02:41.63
>>762
>1日千里、つまり70キロ。
>時速10キロで7時間漕げばいい。

それでもまだ着かない
帯方郡からは1000キロを超えてるぞw
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:03:19.38
>>781そして何より、平原1号墓は卑弥呼が存命中に作られた墓だから、卑弥呼はまだ死んでいないww
下手すると卑弥呼が生まれる前だww


当時の平原で作られたヤタの鏡は
男王(大国主)の御霊を収めるご神体用だけどね


男王(大国主)の御霊を収めたヤタの鏡を三輪山にすえて
三輪山のふもとに巻向が建設された

男王(大国主)の御霊を斎俸して祭りごとを行う為に
卑弥呼が共立されて巻向で祭りごとをした

鬼道っていうんは
死んで鬼籍に入った人の御霊をあがめたてまつる宗教だし
卑弥呼の鬼道は男王の御霊をあがめたてまつるもの
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:05:00.80
>>762
>時速10キロで7時間漕げばいい。

手漕ぎで時速10キロはまず出ないし、瞬間的に出せてもそれを続けられない
机上の空論だな
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:05:41.36
>>766三種の神器の八咫鏡を実際に作ったのもおそらくその辺り
少なくとも宮中賢所の鏡はここで作っている


男王(大国主)の御霊を収めるヤタの鏡は九州の平原だけど
卑弥呼(アマテラス)の御霊を収めるヤタの鏡は大和圏だし
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:10:15.46
>>767
>それって、オリジナルの八咫の鏡の踏み返し?

八咫鏡の前に作った試作(という伝承)の鏡も近畿(和歌山)にあるし、
八咫鏡を作った石凝姥命の後裔氏族も畿内にいる
それが、唐古鍵遺跡近くの鏡作神社

となると、オリジナルの八咫鏡も畿内で作られたと考える方が妥当だろう
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:13:51.03
>>775
>倭国の領域内にあればいいだろw
>畿内説様によればw

畿内説では倭国は西日本全域(東側はどこまでか不明)だからそれでいいけれど、
九州説は四国も本州も倭国に入れない、九州のみの倭国っていう説だからダメだよww

「九州のみに倭国」の領域内にはないからねww
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:14:45.40
>>781
>日本の宗教はそういう構造だ

それは君の頭の中だけ。

>そして何より、平原1号墓は卑弥呼が存命中に作られた墓だから、卑弥呼はまだ死んでいないww

年代比定の誤差があるだけだよ。
耳璫はむしろ卑弥呼の没年に近い年代が想定されている。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:14:52.43
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に破綻してしまった。。。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:16:59.46
>>787

むしろ畿内の鏡の方がOEM生産なんだよ。
鏡を祭るのは紀元前から九州北部にあり、その間に畿内では銅鐸をぶら下げていた。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:17:14.64
九州説は机上の空論だから
具体的な話は決して出来ない

原理的に無理
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:18:20.14
>>798
四国も本州も倭や倭種ではあるよ。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:19:04.29
>>774
>技術を比較しても意味がないよ

技術の話なんか誰もしていない!
誤魔化すな
図像のデザイン思想の問題だよ

それに青銅器作成技術に関しては、平原1号墓の頃にはもっと立派な銅鐸が作れているんだから
同時代でも畿内の方がずっと上だぞw

平原は辺境の地で、技術水準も低い中でただ大きくすることだけを目指した手抜き鏡を作ったんだよ
そんな手抜き鏡を、ご神鏡の八咫鏡とごっちゃにしてくれるなってこと
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:20:12.18
>>769
馬韓が十万戸ですけど。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:20:31.89
>>784
時代も新しく当然技術者も違うのだから、系統云々を語ってなんの意味があるのかい?
北部九州の内行花文鏡文化の流れなのは明らか
平原の影響は畿内へ伝わったのだよ

ただ大きいだけなら、
なぜ当時畿内で流行している画文や三角を大きくしなかったのか?
下池山はあえて内行花文鏡に拘ったのだろう

また、平原の鏡は全部割られ副葬されたとなぜ断言できる?
根拠でもあるのかい?
他にも副葬されていない鏡がある、というのは当然考えられる事なのに
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:20:35.74
>>793

>>760
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
>狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
>対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
>一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里

これ、以前に君が計算したんだろ?
千里はなさそうだ。

君はいつもほとぼりが冷めた頃に前言を翻してサラリと嘘をつくよね。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:22:19.78
>>805
つまり倭人の住んでる五万戸の国が入る余地など無い
トンデモ説は常にムリムリ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:25:36.36
>>796
>男王(大国主)の御霊を収めるヤタの鏡は九州の平原だけど
>卑弥呼(アマテラス)の御霊を収めるヤタの鏡は大和圏だし

逆じゃない?
アマテラスの鏡はニニギが筑紫に降臨するときに持っていったはず。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:25:58.91
>>757
帯方郡から投馬国(狗邪韓国)までが水行20日
投馬国(狗邪韓国)から邪馬台国(伊都国、奴国)までが水行20日陸行1日(月)
陸行は末廬国から伊都国までだから月は日の誤り。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:26:20.86
>>807
これは九州説の人間が挙げた数字なんだよ
自分の数字をもとに計算すれば文句はないだろっていう計算だ

テンプレに帯方郡治はソウルじゃないって書いてあるだろ?
FAQ20「考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城」

1000キロなかったところで、10日の船旅では九州までたどり着けないし、
水行と渡海をごっちゃにして水行10日と書かれていると考える時点で実は破綻している
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:26:26.27
>>799

>耳璫はむしろ卑弥呼の没年に近い年代が想定されている

されていない
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:26:55.51
九州説は崩壊
あとは個人がてんでバラバラに好き勝手な事を言ってるだけ
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:28:17.36
>>776また、後の時代になり技術が上がっても平原以上の大きさの鏡が作られていない
これは鏡の大きさに規制がかかっている可能性がある

八雲立つ出雲の八鉾の神といわれた大国主が
倭国大乱前の男王でその御霊を入れる鏡が円周が八ヤタのヤタの鏡

神無月にはアマテラスを含め全ての神が大国主のとこにまつまり
古代では国中第一の霊神と大国主はいわれてた

ということで大国主の御霊を収めるヤタの鏡を超える
御霊代の鏡は存在しない
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:28:28.74
>>808
朝鮮半島南半分に二十万戸なら余裕ですよ
奴国だけで二万戸ですからね。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:28:48.22
>>801

平原の錆色塗装鏡は北部九州で作られても配られてもいない
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:29:21.59
>>797
>となると、オリジナルの八咫鏡も畿内で作られたと考える方が妥当だろう

ションベンおじさんと同じく、大和が高天原と言い出すわけか。
なんでもウリジナルはやめろよ。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:34:13.22
>>814
その大国主の御霊を入れた八咫の鏡を祭っていた伊都が出雲の次の倭の王都となり、卑弥呼がその祭祀を司ったのか?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:34:13.37
>>806
>ただ大きいだけなら、
>なぜ当時畿内で流行している画文や三角を大きくしなかったのか?

見て、わからんか?
デザインめんどいぞ
ダ龍鏡みてみ
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:35:49.09
伊都国は興味深い

博多湾の伊都国→紀ノ川の伊都→飛騨の石徹白イトシロ
なんか関係ありそうだ

白日別
白の勢力に日が婿入りしたのか?
日の分家ということかな

桃太郎と関係あるのかないのか、妄想が広がるな
官の爾支 ニニギに似ている、王じゃなく官というのが興味深い
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:35:57.31
>>809アマテラスの鏡はニニギが筑紫に降臨するときに持っていったはず。


卑弥呼(アマテラス)は九州出身の巫女だけど
共立されて三輪山の納めらた男王(大国主)の御霊を祭祀するてめに
大和に来て巻向が建設された

国譲っていうんは
大八島の統治権が卑弥呼(アマテラス)に譲られて伝承で
男王(大国主)→卑弥呼(アマテラス)
って流れだ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:36:26.92
出雲の大国主の後、倭国の王権が筑紫に移動したことは記紀に書かれている通り(出雲の国譲り)。
それを主導したのがアマテラス。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:36:43.23
>>804

ほぉ、銅鐸が作れるから鏡が作れると?
当時の??製鏡のレベルを知らないようだね

簡単で技術も低いというなら、平原以上の国産オリジナル鏡等が190〜250年中に存在するという事になるが、どこにあるんだい?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:37:47.29
鳥居の謂れは、日月の宮
どういうことなんやろか
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:38:50.38
>>820
白日別

日の下を白しめす(日本を支配する)(高天原の)分国
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:38:51.49
>>817
>ションベンおじさんと同じく、大和が高天原と言い出すわけか。

そんなことは誰も言っていない

高天原で作られたのでは「なく」、実際には(現実には)畿内の唐古鍵周辺で作られたのだろう、
といっているだけだ
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:39:12.62
>>815
九州説はいつも
具体的内容が
なにもない
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:39:45.75
>>799耳璫はむしろ卑弥呼の没年に近い年代が想定されている。

円周が八やたで八花八葉の内行花紋鏡は
八雲立つ出雲の八鉾の尊といわれて大国主の御霊を移す為の鏡だし

大国主(男王)の御霊を収めたヤタの鏡を三輪山に据えて
三輪山のすそ野に大国主の御霊を祭る為の都巻向が建設された
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:40:39.01
432>>319
>その実務を担うのはまず第一に有男弟佐治國と書かれた男弟で、その下に
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の4官だろう <

これは、ちょっと違うだろう。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮は、当然卑弥呼共立の最大国である邪馬壹國部族の官であり、
伊支馬が首長の官であり、以下順に「次」が彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮だ。
そして、卑弥呼政権の政府側は、佐治の次はおそらく「大夫」、という組織であり、
邪馬壹國側とは別の組織だ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:42:20.26
>>820
伊都国の東にある高祖山の古名は日向山
つまり伊都がニニギの王都であった筑紫の日向
高祖山にはかつて山城があり、その名を怡土城という
倭国の表玄関である博多湾を見下ろし、数多の王墓に囲まれた高千穂宮
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:42:27.09
応神のお父さん誰なんやろ
九州で生まれたというのが気になる
何でスクナヒコナが喜んだんやろな
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:42:43.32
>>806北部九州の内行花文鏡文化の流れなのは明らか
平原の影響は畿内へ伝わったのだよ

出雲国造神賀詞によれば
国譲りの後に大国主の御霊を移したヤタの鏡が三輪山に据えられ
大国主が大和の守護神となったと記されてる
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:43:11.77
技術系統の分析が考古学の遺物研究の王道なのに
それを全く理解しておらず上っ面だけを見て
「考古学的には〜」とか言ってしまう伊都クズは
自己を超過大評価してなおかつ大嘘つき
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:43:59.41
>>826
高天原で作られたと記紀にあるのだから、唐古・鍵遺跡周辺に高天原があったと言っているのと同等だ。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:44:29.22
>>823
>当時の?製鏡のレベルを知らないようだね

本格的にバカだな
当時の銅鐸作成技術(鋳造)は現代の技術でも再現できないんだぞ(削り出しなら作れる)


高さ144センチの立体物、表面に線刻画像ありと
直径50センチ以下の平面の円盤を作るのとどっちが難しいと思うんだ?
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:44:48.36
失われた王統を復活させる為に、分家の血をもらいに行ったとか
無いか‥
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:47:17.09
>>819
下池山の頃には三角神獣鏡が作られており、超大型化できないとする理由はないよ
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:47:49.21
一世紀半ば、博多湾に方形周溝墓

桃太郎は大陸へのルート確保の遠征だったのかな
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:48:31.10
432>>321
>先にも書いたように、墳丘の葺き石は、出雲の要素であり、出雲から独立などはしていない
出雲も卑弥呼の共立メンバーと見るのが妥当
さらに、特殊器台〜円筒埴輪は吉備の要素であり、吉備も卑弥呼の共立メンバーに入る
纏向遺跡で創始された前方後円墳祭祀の祭祀連合は、北部九州まで含めた広域連合の秩序を
形成している
北部九州だけの独立国にして、邪馬台国を小国にしようとする試みはそろそろ諦めなさい <

これは、「南≠東」に拠って、当然×。
また、出雲文身國は、梁代までは、
九州倭国からも、阿毎氏の別種分家の旧小国の扶桑國の大和からも独立的。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:48:45.34
>>831
応神の実父は奈良時代から武内宿禰と言われている。
またの名を住吉の神、またの名を高良の神(高良大社の末社はすべて武内宿禰を祭る)。
仲哀崩御の夜、神功皇后と住吉の神の間に密事ありと伝えられる。
つまり応神朝以降、筑前一宮も筑後一宮も武内宿禰を祭神としており、武内宿禰は実質的に倭王。
ちなみに豊前一宮は応神本人(八幡の神)を祭る。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:49:19.17
>>830
>伊都国の東にある高祖山の古名は日向山

これの根拠を聞いたことがないんだが?

日向川は伊都国ではなく、奴国側にある川
つまり、高祖山塊の東側斜面の朝日が当たる「ひなた」の地名だ

「ひなた」を伊都国に絡めて語るのは、ある種の「騙り」だろう
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:49:39.57
>>830

古名と言っても明治までしか遡れない
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:50:24.02
>>833
いいかげん、平原の鏡を過小評価して貶すのはやめにして、きちんと内行花文鏡の系統分類と向き合うといいと思うよ。
けなしているだけでは、客観的に見て説得力はないからね。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:51:38.92
>>835

ではなぜその高度な銅鐸づくりを止めて、唐古・鍵でも内行花文鏡を作るようになってしまったんだ?
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:52:04.63
>>835
なぁ、鏡の話だろ?
銅鐸が作成できたから鏡なんて簡単にできるはず、というのはあなたの思い込みでしかない

平原の時代に鏡を簡単に作成できたとするなら、その遺物を出してみて
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:52:38.62
高祖山がじゃまになってるので伊都國は日陰の国
あの山がなければ博多に行くのも早い
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:54:00.53
>>841
では高祖山の北側の港が筑紫の日向の小戸(現在ではヨットハーバー)と呼ばれているのは、どう解釈するの?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:54:08.70
432>>728
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
自説に都合で書かれていない事を勝手に書き加えてしまうのが大和説
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:56:11.27
>>847

いつから?
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:56:42.19
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」

(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)

「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:57:07.06
432>>330
>それなら屋久島は渡海だろ <

「水行は渡海を含む」だ。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:58:53.78
>>850

江戸時代に記録もない明治5年の話だな
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:02:34.32
432>>332
>ただ、纒向連合の形成に
吉備・出雲〜東海圏の勢力の関与が見られるのは考古学的事実だよ<

この「纏向連合」というのが×。
実態は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の国々、としての、緩やかな結合。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:03:42.62
>>837
根本的にわかってないな
具象図案を拡大するのは大変
幾何文様を拡大するのは楽
こう言っているのだが
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:03:57.37
>>849

神世の昔からだよw

■ 祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0856日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:07:55.53
>>843
伊都ンデモは根拠もなく平原の鏡を過大評価してて
きちんと内行花文鏡の系統分類をしようとしない
これが現実では?

具体的なこと言わない九州説は
客観的に見て説得力はない
理解できてる?
0857日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:09:15.96
>>852
慶長の頃の文書にあると書いてあるのにw

興味深いのは、椚集落は五郎丸の中に作ったとあることなんだ。
つまりここも怡土城または戦国時代の高祖城の遺構の一部と認識されていたんだろう。
そもそも博多と糸島を結ぶ日向峠を押さえることがこの城の役割でもあるので、峠を塞ぐように建設されていたはずなのだよ。
現在の復元図では日向峠の手前で不自然に城が終わっていたことになっているが、遺構が見つかっていないだけだと思う。
0858日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:09:45.90
432>>336
>吉備の特殊器台と石塚古墳の弧文円板を過大評価しすぎるのは、危うい。
学者の寺澤氏は、その過大評価の筆頭であるが、寺澤氏のモデルはおそらく間違いだろう。
特殊器台は出雲の西谷墓でもみつかっているが、この西谷墓の墳頂からは地元をはじめとして、吉備の特殊器台や北陸、その他中国地方各地の器台、壷の破片が出ている。
なので、特殊器台が出たからといって、出雲の西谷墓は吉備の勢力が築いたとはいえない。
これと同じで、箸墓で特殊器台が出たからといって、箸墓を築いたのは吉備の勢力だとは言えない。
また、石塚古墳の周濠出土の弧文円板に刻まれた弧文は吉備で用いられたものであるが、あくまで墳墓自体で用いられる呪具であり、水に沈めて行う祭祀のための呪具ではない。
それを吉備ではみられなかった(水に沈める祭祀)のための呪具として用いていることは、ある意味吉備の祭祀様式を無視して、異なる祭祀様式に転用していることを示している。
このことは、石塚古墳の周濠に弧文円板を沈めて祭祀を行ったのは、吉備ではなかったとこを示している。
纏向の連合政権が加盟各勢力の祭祀様式を寄せ集めたというのは、こうしたことを指している。
吉備由来の祭器、呪具を過大評価するのは、危ういというゆえんである。<

ふーん。
0859日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:12:33.87
糞ーン
0860日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:14:11.90
>>834
>高天原で作られたと記紀にあるのだから、唐古・鍵遺跡周辺に高天原があったと
>言っているのと同等だ。

いつもの「自分の脳内で作り上げた畿内説」に対する反論と同じだなw

畿内説は科学(人文科学)だから、基本的に神話に対して具体的な比定地を想定したりはしない
高天原で稲作や機織りが行われていることから、弥生社会だろうと想定するくらいだ
0861日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:15:17.29
筑紫の日向の高千穂宮からのニニギの国見

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日のたださす国、夕日の照る国なり」
(古事記)

高千穂宮の西側も東側もひらけた平野で、正面には朝鮮半島に続く道(海路)があった。
高祖山の東は福岡平野(奴国)、西は糸島平野(伊都国)、北は博多湾だ。

笠沙の岬は志賀島のことなんだろうね。
笠沙の岬はニニギの上陸地点としても知られ、天乃浮橋は海の中道のことだろう。
0862日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:18:10.77
>>841
>応神の実父は奈良時代から武内宿禰と言われている。

武内宿禰が神功皇后の父という説の方が好き

まあ、これは史料も史料も少なすぎて、想像以上のことはできないから、
あまりこだわっても実りはないけどね
0863日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:18:13.06
>>860
>高天原で稲作や機織りが行われていることから、弥生社会だろうと想定するくらいだ

畿内で機織りはしていたの?
弥生時代に畿内で絹はどれくらい作られて、どこに出土している?
それとも麻でも織っていたのかな?
0864日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:20:09.15
>>848「南→東」などの嘘吐き騙しをし

船を南に漕いでも海流に流せれて
出雲圏のとうちゃくしそこが投馬国

中国の使者は海流の知識がなかったんで
単に船が向いてる方向だけど記述で南として記しただけのことで
実際に船の経路は東に流されてる
0865日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 23:23:01.12
>>857

田中の家にあった「慶長の頃」っていうのが怪しいな
福岡藩にはそんな記録はなかったんだろ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:23:07.89
432>>338
>筑紫と言っても、久住の研究では
UA期までに畿内の庄内式、布留式の供献土器文化圏になるのは
比恵那珂博多の博多湾沿岸を中心に筑前と
佐賀東部と筑後北部地域までの点的な分布にとどまる <

久住も苦しいな。
まず、「点的分布」では、大和説そのものが根拠性が弱くなるし、
また、大和の庄内が3世紀末になり、大和の布留が4世紀以後になる、という事と、
筑紫のUAの年代のズレの説明が必要だな。
また、米田の布留の始まりは南加賀、という事との整合論が必要だな。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:31:39.44
>>860
>畿内説は科学(人文科学)だから、基本的に神話に対して具体的な比定地を想定したりはしない

古代人が頑張って伝えようとした歴史をいとも簡単に無視するねえ。
古代人の捉え方というフィルターがかかっているとはいえ、神話として書かれたのではなく、歴史書として書かれている。
確かに古い話は何を言いたいのかさえわからな部分もあるけれど、出雲の国譲りあたりからはかなりストーリーがしっかり固まっている。
戦後は記紀をあれもこれも否定する風潮が強いけれど、それでも記紀をすべて否定すると厩戸皇子も乙巳の変もなくなってしまう。
結局、畿内説はいいように歴史書をチェリーピックしているだけだ。
鏡作り説話や三輪山説話を取り上げておいて、神武も応神も否定するのは、都合が良すぎるだろ?
まして、考古学的に九州北部が弥生文化をリードしていたことがわかってきているわけだから、大和で編纂されたにも関わらず筑紫に多くの行数を割いている記紀を再評価するべきではないかな。
少なくとも7〜8世紀において、日本国と天皇家の故地が筑紫であったと認識されていたことは間違いないのだよ。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:34:33.25
>>843
>平原の鏡を過小評価して貶すのはやめにして

逆だ
いい加減に平原1号墓のバキバキに割られて、棺や壺に納められるのではなく、
墓坑内の土の上にバラバラにばらまかれた鏡片を過大評価して持ち上げるのは止めなよw

平原遺跡は累代的に造墓された家族墓地だが、厚葬墓は1号墓1つだけで、
王統の家族墓地ではないのは明白

1号墓の周溝に土坑墓が複数あるのが、殉葬墓ではないかと発掘当初に誤解され
魏志倭人伝の徇葬者奴婢百餘人と結びつけて語られたのが過大評価の発端

でも実際には、周溝が管理されずに埋まってから、その埋まった土に土坑を掘っているのだから
1号墓と土坑墓は最低でも数十年、おそらく100年近い時間差があり殉葬ではあり得ない

さらには1号墓の墳丘上にまで土坑墓が掘られており、平原1号墓に対する祭祀や尊崇の念は
早期に失われていたことが分かる

平原1号墓のバキバキに割られた仿世鏡を八咫鏡ではないかと言い出したのは
昭和になってからであり、地域の伝承にも平原に王墓があるとか八咫鏡があったというものはない

何度も書くが平原1号墓の推定年代は2世紀末で卑弥呼に生前であり、倭王墓ではあり得ない

基本的に発掘初期の誤解に基づく過大評価が発端であり、誤解が誤りであることが明らかに
なった後まで重視し続けるのは、情弱のチェリーピッキングでしかない
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:36:36.32
銅鐸が作れたんだから、銅鏡なんて簡単だ!ドヤァー


wwww

笑い死ぬわ
問題は何故銅鐸を捨てたか、だろ

wwww
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:37:54.14
>>855
>祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと

さくら先生「はらったま!きよったま!」
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:37:58.39
>>867

九州説は皇国史観だからな
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:39:07.03
>>851
>「水行は渡海を含む」だ。

それは間違い
三国志では、
水行 海の沿岸航行
渡海 海の外洋航海
泝流 川の遡上船行
は区別されている
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:39:41.18
文化的な説話と個人の事績は違うでしょ
神武が架空の人物でも全く矛盾しない
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:40:29.93
>>868
発掘初期の誤解ってなーに?
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:41:45.99
>>868
>平原遺跡は累代的に造墓された家族墓地だが、厚葬墓は1号墓1つだけで、
>王統の家族墓地ではないのは明白

突然共立されたからねえ。
倭王の直系の王統ではないのは魏志倭人伝も匂わせているから、問題はないよ。

>>868
>さらには1号墓の墳丘上にまで土坑墓が掘られており、平原1号墓に対する祭祀や尊崇の念は
>早期に失われていたことが分かる

卑弥呼の後にまた男王が立ち、世が乱れたからねえ。
むしろそのまんまだな。

>>868
>何度も書くが平原1号墓の推定年代は2世紀末で卑弥呼に生前であり、倭王墓ではあり得ない

発掘当初の誤った年代比定が未だに一人歩きしているんだな。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:45:08.28
発掘当初の原田大六は2世紀前半頃だろ
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:45:18.70
432>>356
>>筑紫が含まれているというのはどうして?<

>定型化前の纒向型前方後円墳の時点で北部九州最大国の奴国の首長墓に
前方後円墳が採用されているからだよ
那珂八幡古墳が比恵那珂遺跡群の長の墓だ
最初期から祭祀連合の一員と見ることに不審はない<

那珂八幡などの筑紫の初期前方後円墳群は、前方と後円のくびれが緩やかであり 、
大和の初期の石塚の撥型前方後円墳のきついくびれとは明らかに違い、
那珂八幡の方が石塚よりも古い事を示すから、
この類スレ主?論は、×。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:45:48.81
>>873
記紀はほとんどが個人の事績の積み重ねだよ。
それ以外の「説話」ってどこの部分?
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:47:39.30
>>857
>興味深いのは、椚集落は五郎丸の中に作ったとあることなんだ。

おいおい、椚集落は現代の地図にも載っているぞ
そして、五郎丸ってどこのつもりだ?

>峠を塞ぐように建設されていたはず

「されていたはず」ってww
創作はたのしいかい?

現実の椚集落は日向峠への道とは関係ない場所にあるし、
高祖山のピークとも関係ない場所にある

クヌギがクシフルの訛りというのは、無理があるだろ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:49:49.13
今日もヒステリックに騒ぎたてる機内蟲の悲鳴が心地よいな

騒いでも無駄なのに
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:52:05.62
432>>358
>現実にはその畿内纒向で始まった前方後円墳祭祀連合に、早い時期から奴国も
宮崎・西都原も参画してるんだから、それ以外のところだけで
卑弥呼の女王国連合を考えるには無理だろ? <

「畿内纒向で始まった前方後円墳祭祀連合「」というのが、×、
纏向の最初期の石塚は、撥型前方後円墳であるために、
筑紫の那珂八幡などよりも新しい。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:52:31.60
2世紀の日本に八咫の鏡を製作する技術があったことを証明してくれ。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:54:39.69
>>880
>今日もヒステリックに騒ぎたてる機内蟲の悲鳴が心地よいな

何度言われても「具体的な根拠」を示した「論理的な論証」ってのができないんだよな

九州説の人材枯渇は深刻
というかまともな思考力にある人は九州説を採らないから、当然といえば当然なんだがw
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:58:06.89
>>879
椚は日向峠の糸島側の入り口のところだぞ?
高祖山にはピークがいくつかあって、普通山頂とされているところより南、日向峠のすぐ上に一番高いピークがある。
そこがクシフル山と紹介されているわけだ。
しかも高祖山全体が歴史的に何度も山城として使われてきたことがわかっている。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:00:17.74
今伊都国説でがんばっている人は不思議

ザラコクほどバカではなく、連続句読点のように論立てを諦めて迷惑行為に特化する訳でもなく
とりあえず日本語で対話はできてるのに、九州説でがんばっている

この程度の対話ができる知的能力があれば、九州説があり得ないという判断くらいはできるだろうに

想定されるのは、その伊都国、平原1号墓推しの論調からして、古田史学の会の幹部の人かな?ww

古田史学の会も、騙される人が減ってじり貧だろうから大変だなww
未だに古田史学を支持しているのはザラコクみたいなのだけだしww
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:04:59.92
原田大六って糸島のアマチュア史家じゃん
アカデミズムへの反逆で異常な言動してた人
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:05:19.48
>>861
>高祖山の東は福岡平野(奴国)、西は糸島平野(伊都国)、北は博多湾だ。

だが、地名から言えば、阿多推しの言うことの方が妥当性が高い
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:06:53.54
九州説はなぜとっくに論破されてる話を何度も繰り返すのかな
何の得にもならんのに
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:08:56.11
伊都クズは何事も客観視できない
あるのは全て自分が絶対だという思い上がり
だからその主張には論理のかけらもなく
結論ありきでイメージを張り合わせた空虚なもの
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:09:09.01
糸クズって、どこだかのゴルフ場を末盧国と伊都国の国境だとか言ってたやつだっけ?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:10:11.86
>>888
韓国に向いていない。
また、考古学的に何も証拠がない。
伊都には王墓が多数ある。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:10:22.38
ゴルフ場のは宮崎爺さん
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:12:39.47
結局のところ古田や原田の亡霊が九州説なので新しい知見には対応出来ないのだろうな
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:14:28.13
伊都国は結構重要な役回りやと思うけどな
各国の使者が常駐していたので、倭国大乱で滅ぼされず王統が続いていたからね
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:15:26.24
>>850
民家の後以降は明治5年現在のコメント
なお、椚集落の裏にはちいさな尾根があり
くしふるは、その尾根のことだとするのが妥当
おなじ書物の高祖山の項目には、
くしふる関するに記述はない
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:18:01.49
博多湾は地政学的に非常に重要
自然のものだからどうしようもない
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:19:53.59
九州だと普通は環濠集落を想定するから、境界線なんてない。
ただ、三雲を囲む環濠というのも寡聞にして知らない。
高祖山の頂上まで構築物があったのなら、国邑のイメージそのものを変える必要がある。

>>841
>日向川は伊都国ではなく、奴国側にある川
>つまり、高祖山塊の東側斜面の朝日が当たる「ひなた」の地名だ

ちなみに、怡土城は山頂から西側の麓まであった。
伊都国から見て日の出る方という意味と考えるのが妥当。
細石神社の参道は日向峠とそのすぐ北側のクシフル山の方を向いている(いわゆる高祖山の頂上より南側)。
しかし、高祖山の東側に日向川、北側に日向の小戸、南側に日向峠もあるので、高祖山全体を日向山と呼んでいる古書が正しいのだろう。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:19:56.35
論理的でない思考を論理的に論破するのは非常に困難
なぜならば、非論理的思考者は論破された事実を理解することができないから

実例は伊都クなんとかさん
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:23:40.16
さあ九州説は少しでも説得力のある話をしないと滅びるぞ
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:25:29.67
>>896
>なお、椚集落の裏にはちいさな尾根があり
>くしふるは、その尾根のことだとするのが妥当

おお、意見が一致したようだ。
その尾根は実は高祖山山頂よりわずかに高くて、そこがクシフル山だとされている。
一番近い集落が椚なので、椚の裏手の山と表現されているんだね。
つまり日向峠をすぐ上から見下ろせるんだよ。
ここを押さえると、伊都国は陸路では攻め込めなくなる。
博多に行くのに高祖山が邪魔なのではなく、九州全土から穴熊しながら、半島への海路は維持できるんだよ。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:27:18.90
細石神社も小屋みたいな神社だよ
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:31:14.30
クシフル山って椚の田中が言ってただけだろ
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:31:13.80
>>806
>下池山はあえて内行花文鏡に拘ったのだろう

こだわってないよ
古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土

特に内行花文鏡が選ばれているってことはないだろ?
そして、ここにある内行花文鏡のどれを見ても平原1号墓出土鏡のような手抜き鏡ではない
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:36:15.42
>>897
逆に考えるんだ。
帥升がいた都が伊都国なんだ。
倭国大乱とされる桓帝・霊帝の治世(146年 - 189年)の前に70〜80年の男王の時代があったのだから、107年の帥升こそその男王の一人だぞ。
考古学的にはもう鑓溝遺跡などの伊都国の遺跡がある時代だ。
畿内説によれば、もうその直後に平原の鏡が伊都で作られることになる。
190年頃には卑弥呼が即位する。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:37:47.47
>>902
違う
高祖山の稜線上ではなくて椚集落のすぐ東に標高134mの尾根がある
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:43:24.84
>>902
こうやって未確定の情報をいつのまにか確定情報であるかのように勝手に変換して
その上にさらに未確定情報をつみあげて妄想を肥大化させていくいような連中が
非論理的思考者の典型
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:46:37.43
>>907
クシフル山はそっちではなく、北側の稜線上の峰。
高祖山より高い。

>>908
地図を見ればわかることだろう。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:48:27.17
>>899
怡土城が西側斜面に拡がっていると、なんで日向の地名が西側からの視点ということになるんだろう?
論理的な関連が全く不明だな
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:49:52.80
やっぱ高麗人が住んでたところだけあるな
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:50:16.05
>>909見てるだけで伊都クズの思考のおかしさがわかるな
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:51:42.85
>>911
ググると写真とかたくさんあるよ。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:52:58.76
クシフルの場所が問題になってるのに
なんら根拠を挙げずに断定するとかw
本人が気がついてないだけで周りからみるとただの馬鹿だなw
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:55:03.08
平原鏡にヤタガラスが描かれてると言張ってたヤツだからな
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:55:33.99
>>910
高祖山(古文書によれば日向山)は、山城によって西側の集落と結びついているからだよ。
山頂と山麓をたすき掛けするように繋いでいる中国式山城だそうだ。

少なくとも、南にも北にも日向の地名があるのだから、東の斜面だけを呼んだという説明は成り立たない。
南に日向峠、北に日向の小戸があるからね。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:56:16.51
ググって出てくる内容が正しいなら
邪馬台国の場所は何カ所もあったことになる

伊都クズはまれに見るアホ
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:56:35.54
古文書じゃないだろ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:58:14.35
伊都クズの根拠は真偽不明なものばかりだな
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 00:58:28.50
キリストやブッダも伊都だと思ってるんだろう
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 01:03:02.52
自分の思い込み(主観)と事実(客観)の区別がつかなくなってるみたいだな
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 01:09:30.83
「日向の小戸」が福岡市西区の小戸だということだって諸説あるうちのひとつにすぎないのに
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 01:11:48.21
>>923
そうだね。
だから昔の人は高祖山ではなくクシフル山と区別したのだろう。
そうすると、奈良時代の怡土城とは一致しないことになる。
戦国時代の高祖城だともっと範囲が広いらしいから、クシフル山を含むのかも。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 01:25:11.98
こいつ三雲の地形も知らなかったからな
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 02:23:31.61
>>895各国の使者が常駐していたので、倭国大乱で滅ぼされず王統が続いていたからね


崇神・垂仁の時代でも伊都国王は倭王と自称してたし

崇神の時代に
朝鮮半島から神功皇后の祖先のアメノヒボコが来日して倭王に会おうとしたけど
間違えて九州の伊都国に行ってしまった

あとで間違いに築いて大和にいったけど
崇神はすでに死んでいて時代は垂仁になってた
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 02:37:23.75
>>899九州だと普通は環濠集落を想定するから

関東から九州にかけての広い範囲で
環濠集落は2世紀末に一斉に破棄されて
人々は便利な平地に分散して住むようになったけどね

それで3世紀の巨大な遺跡は巻向しかないって状態になったんだけどね
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 02:48:49.44
>>905特に内行花文鏡が選ばれているってことはないだろ?

円周が八やたで八花八葉の内行花紋鏡は
八雲立つ出雲の八鉾の尊といわれて大国主の御霊を移す為の鏡で
特別なものだけどね

大国主は倭国大乱前の男王で
男王の死後に倭国が乱れてで男王の御霊をヤタの鏡に移して
三輪山に治めてふもとに際都巻向を造営して
祭りごと行った

大国主を斎奉する巫女が卑弥呼(天照)で
卑弥呼は男王の御霊の信託による政治を行った

卑弥呼(天照)が死んだらやっぱ倭の国が乱れたんで
ヤタの鏡に卑弥呼(天照)の御霊を移して
トヨが卑弥呼の御霊を斎奉する巫女となって国を治めた

これは神楽のあちめに示されてて
トロヒルメ(とよ)がオオヒルメ(天照)の御霊を欲し
天照の御霊をヤタの鏡に移して斎俸する祭事なんでかどね

オオヒルメの御霊が神上がりして天照になり
ヤタの鏡に移され
その御霊をトヨが斎俸して祭りごと(政治)を行うってことで
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 02:59:01.68
>>905特に内行花文鏡が選ばれているってことはないだろ?

九州の平原で作られたヤタの鏡は
男王(大国主)の御霊を移すためのもので
特別な鏡だけどね

鬼道っていうんは鬼籍に入った人の御霊を信仰の対象とする宗教で
男王(大国主)の御霊を奉ることで政治を行うってことで
大いに乱れた倭を平定したんだ

出雲国造神賀詞に
ヤタノ鏡に大国主の御霊を収めて三輪山に据えて
大国主が大倭の守護神となったと記されてる

円周が八ヤタで八花八葉の内行花紋鏡は
八雲立つ出雲の八鉾の尊といわれて大国主にふさわしい鏡で
鏡の頂点にたつしろものだ

全ての鏡はこのヤタの鏡の大きさを超えないし
八ヤタが鏡の上限になってるんだけどね
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 03:07:26.79
>>8822世紀の日本に八咫の鏡を製作する技術があったことを証明してくれ

必要は発明の母といわれてる

八雲立つ出雲の八鉾の尊と呼ばれて大国主の尊の御霊を移す鏡として
どーしても円周が八ヤタで八花八葉の内行花紋鏡を作る必要があった

出雲国造神賀詞に
大国主の御霊をヤタノ鏡に移して三輪山に納めたと記されてるけど
このヤタの鏡が平原で作らてらヤタノ鏡だ
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 04:13:55.41
735日本@名無史さん2019/03/06(水) 20:41:57.88
>>633
>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ <

畿内説の学者で この根拠を解いたものはいない。周りの状況からだが、あなたが疑念を抱くように
後世に作られたと説を唱えたら反論の余地は無い畿内説だと思う
例えば三輪山大神社の社殿の前身と言っても反論に値する根拠は見いだせないだろう
0935◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/07(木) 05:04:15.51
新スレ立てました。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1551900614/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 05:36:31.00
432>>361
>弧文円板は石塚の周濠の底の土層から出土した。
木組したとみられる丸太や鳥形が円板の近くでみつかっており、周濠完成後の導水前に行った祭祀の呪具だったのだろう。
この周濠には導水施設がみられることから、初めから水を入れる企画だったことは明らか。
したがって、周濠に導かれた水に霊力を与えるための呪具が弧文円板であり、鳥形だったというのは妥当な考えだ。
弧文円板は、水に沈めるために周濠の底に埋められた。
水に霊力を与えるために水濠や水溝に呪具を沈める祭祀を行は、山上の尾根先に造られる吉備の周濠のない墳墓にはみられない祭祀で、こうした水に呪具を沈める祭祀を行ったのは近江や尾張、大和などであった。
したがって、石塚で弧文円板を水に沈める祭祀を行ったのは、吉備ではなく、連合政権中枢を形成した大和、近江、尾張の勢力だったとみるのは、極めて妥当だといえる。<

ふーん。
石塚には、周濠墓祭祀部族部族が加わってrいた、という事だな。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 05:50:36.77
432>>373
大和説は毎日、分裂幻覚の妄想を垂れ流してる関係で
妄想妄想と呼ばれ慣れすぎてるから
なんか悪口言いたいとき
ふだん耳タコで聞いてる単語がつい口から出ちゃうだけだよ
何も思考してないのさ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 05:51:56.69
>>633
>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい
4世紀以降に作られたと解しても問題が無いと思うがなぜ <

4世紀以降であれば石床(砂利で固めても可)等 もっと強固に基礎を築いたであろうから古い建物
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 05:59:56.58
432>>378
>だが、その畿内の祭祀連合の中核的要素が、首長の死に際して前方後円墳を築くことなのだから
奴国首長の墓に前方後円墳・那珂八幡古墳が造営されている時点で、
畿内中心の祭祀連合の一員なのは明確になっている <

ダメだ。根本的に、那珂八幡などの方が、大和の石塚よりも古い。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:04:42.76
432>>379
>>長里であれば、女王國は赤道付近になってしまうが、<

>口先で結論だけ言い張るが九州説はまったく証拠が出せない
だから九州説は学問として扱われない <

小学校レベルでも出来る計算だ。
類スレ主は、小学校レベル以下のアホか?、
ヘイトスピーチで世間の人々を騙そうとする・・・・であるか?、だな。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:05:06.60
桜井市が纏向遺跡を公園化するのは時期尚早
徐々に公園化しており、
予算も多額につけているが、反対
まだまだ、調査すべきである 調査に予算をあてるべき
それともこれ以上何も出て来ないという事か 怒
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:09:22.87
桜井市が纏向遺跡を公園化するのは時期尚早
徐々に公園化しており、
予算も多額につけているが、反対
まだまだ、調査すべきである 調査に予算をあてるべき
それともこれ以上何も出て来ないという事か 怒
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:09:26.89
桜井市が纏向遺跡を公園化するのは時期尚早
徐々に公園化しており、
予算も多額につけているが、反対
まだまだ、調査すべきである 調査に予算をあてるべき
それともこれ以上何も出て来ないという事か 怒
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:14:16.32
>>669
水門は現在のだ。
開ける、開けないなど新聞ダネになったあれだ。

名古屋の清須市あたりは海抜4mだが、普通に畑つくっているから、塩害はない。
山門も仮に4mだとしても、稲作に何の支障もないね。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:14:21.77
432>>382]
>>那珂八幡古墳って箸墓古墳より先なの?<

>定型化前だからね
そういう意味じゃ「古墳」でなくて「墳丘墓」だな<

類スレ主が、また騙そうとして誤魔化している。
那珂八幡などは、大和の纏向型の石塚よりも古い。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:19:39.31
>>906畿内説によれば、もうその直後に平原の鏡が伊都で作られることになる。
190年頃には卑弥呼が即位する。


卑弥呼は鬼道をして祭り事をなしたけど
鬼道は鬼籍に入った人の御霊を信仰の対象とする宗教で
卑弥呼は倭国大乱前の男王の御霊を斎俸する巫女として
国を治めたってことだ

男王の御霊を移した鏡が
平原で作られた円周八ヤタで八花八葉の内行花紋鏡だ

このヤタの鏡は三輪山に据えられて
三輪山の裾野に男王の御霊を斎俸するための祭都が作られ
その都が巻向だ

巻向に住むのが北九州からこた卑弥呼で
巫女として男王の御霊を斎奉し
男王の神托にもとづいて国をおさめた
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:21:21.55
432>>384
>おいおい、魏志倭人伝のどこに「魏と直接交流してないことが明記」されているんだ?
原文引用できるものならしてごらん
投馬国は、道里(水行二十日)も戸数(可五萬餘戸)もきちんと
略載されている女王国以北の国で今使譯所通三十國の1つだぞ
>無視してるのはそっちだろ 宮崎西都原は投馬国じゃないぞww 投馬国は出雲だ <

「南≠東」などによって、×だ。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:30:11.30
432>>386
>>前方後円墳は九州が発祥なんじゃない? それが吉備や大和に伝わったのかもね!<

>那珂八幡古墳より、畿内纒向の纒向石塚古墳の方が古いんだよ <

ダメだ。
那珂八幡はくびれ部分の角度が緩やかであり、
石塚や箸墓ははっきり撥型で鋭角的であるから、
那珂八幡の進化的であであり、石塚などの方が新しい。、

>那珂八幡古墳はその「纒向型」前方後円墳という規格で作られている<

前方部長と後円部長の比率も違う。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:37:36.53
432>>389
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
都合の悪い史料事実は隠蔽するか?否定曲解し、
都合の良い解釈を宣伝する嘘をつくのが、
仕事です
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 06:43:44.84
432>>391
大和説は
1.伊都国と奴国は邪馬壹國とは、皆不彌國の近辺の国として魏志倭人伝に書かれている
2.北部九州の弥生銀座以上に栄えている場所が大和に見いだせない
3.「南≠東』
の3つだけで詰んでるんだよな
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:02:03.33
432>>400
>青谷上寺地遺跡の遺伝子解析結果が出たみたいやな
母系は渡来系、父系は縄文系<

元々、青谷上寺地遺跡が、出雲であったのか?が微妙。
また、出雲なら、ズーズー弁だから、毛人蝦夷の縄文系が入って来ていて当然。
そして、出雲は、越と新羅と沃祖や沿海州からの「国引き」神話を持っている。
古代においても、雄は殺し合いで減少し、雌は勝ち残った雄に引き取られて生き延び、
子孫を増やしたのではないか?。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:12:37.54
>>950「南≠東』

中国の使者は海流の知識がなかったんで
船が南に向いてるから単純に経路が南って記述しただけで

実際は海流があるんで東に流されて
ついた先は出雲圏でそこが投馬国

八雲立つ出雲の宮の長官名は八耳と記紀に記されてるけど
八は接頭語なんで取り除くと出雲の長官名はミミってことになる

魏志倭人伝で投馬の長官名はミミと記されてるけど
これは出雲の宮の長官名のミミと同じなんで
このことからも出雲圏が投馬国
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:28:18.66
>>944
>名古屋の清須市あたりは海抜4mだが、普通に畑つくっているから、塩害はない。

現代の話をしてどうするww
清洲の辺りを含め、名古屋城のある台地より西っ側は、木曽三川の氾濫原で
畑どころか田んぼすら後世までなかったところだぞ

東海道53次でも、宮から桑名までは道がなくて海路の七里の渡しになってた
これと同じってことはかなり後世までまともな土地利用は難しかったということにしかならない
しかも伊勢湾より有明海の方が干満の差が大きい

吉井信号バカさん以外は、みやま市に祭祀センターがあったとするのは無理って分かってるよww
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:33:40.68
>>926
>だから昔の人は高祖山ではなくクシフル山と区別したのだろう。

双耳峰でもないのに、高さもたいして変わらない1つの山の近接したピークというかコブに
別々の名前を付けるとかないわw
しかも古事記ではクシフル岳だぞ?

険しくもなんともない山頂付近のコブを「岳」と呼ぶのは日本語としては無理があるだろ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:42:33.09
>>945
>那珂八幡などは、大和の纏向型の石塚よりも古い。

そういうことを
根拠のひとことも言わずに
断定しちゃう
九州説って

すごいね
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:52:05.88
>>902
>その尾根は実は高祖山山頂よりわずかに高くて、そこがクシフル山だとされている。

これも間違い
高祖山頂の高さとされている数字は山頂よりも低い位置にある測量点(三角点)の高さ
実際の山頂は420メートルの等高線より上にある

>>902の言っている「名もないピーク」は420メートルの等高線がなく、山頂よりも低い
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:55:12.17
>>943の人は病気なんだね
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:56:24.84
>>946
>もうその直後に平原の鏡が伊都で作られることになる。
>190年頃には卑弥呼が即位する。

むしろ、没落して銅鏡分配機能も失った北部九州勢が、持ってた青銅材料を全部つぎ込んで、
やけっぱちになってでかい鏡を作って、それをぶち割って墓にばらまいたって感じじゃない?
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:08:27.69
432>>401
>ガセネタですな
その北部九州では畿内式の土器が出ているんですけど?
その畿内式土器が3世紀前半に北部九州で現地生産されるようになり
その北部九州製の土器が纏向で出てるんですけど?<

筑紫→纏向は、0。
纏向→筑紫は、僅か。
筑紫の土器も庄内も殆ど筑紫の胎土で造られ、その庄内は、3世紀前半。
纏向の庄内は、石塚の3世紀末から。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:10:22.37
>>959
というガセネタ
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:13:29.12
432>>404
「南≠東」
魏志倭人伝に書いてある女王國の1万2千里は、不彌國でほぼ終了
会稽東治之東は九州島付近
このトリプルパンチで大和説は死滅
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:19:22.90
432>>407
TA期に多々良川河口では筑紫のX様式が目立ち、
3世紀前半に三雲で筑紫の庄内が始まり、
TB期に那珂で庄内甕の在地胎土での製作が始まり
那珂八幡が築かれ、
大和の庄内Tの石塚は、3世紀末だから、
筑紫→大和の伝播があった。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:19:41.43
>>958
作る技術がある
作る材料がある
しかも平原遺跡の他の副葬品も豪華

おそらく当時の最先端の舶来品装飾品のほとんどを平原の女王が独占していたと思われる
畿内の2世紀の遺跡で同レベルの副葬品は確認されていない
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:20:38.06
>>961
ウソをつけば
九州説が死ぬだけだよ
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:22:12.67
>>963
>おそらく当時の最先端の舶来品装飾品のほとんどを平原の女王が独占していたと思われる

つまり国王ではないな
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:23:49.13
432>>409
>>大和日本国は、 新唐書に「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
と書かれたのが最初である。<

>それは、過去に遡って 我が国は他国に臣従したことがない
と強弁する政策をとったからだよ 単なる国策 政治のウソに騙されるのは愚かなことだ<

新唐書が、近世日本の国策など、知っていた筈がない。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:25:47.12
畿内説は平原遺跡の年代も前倒しして卑弥呼の墓ではないという風に持って行きたいのだろうが、前倒しすればするほど、畿内と筑紫の文化水準が乖離していく一方なんだよね。
しかし前倒しにも限界があり、倭国大乱より前にすることはできない。
平原遺跡の鏡は後漢鏡より新しい様式なので、どうしても卑弥呼の治世で製作したものになる。
つまり製作年代が2世紀末であったとしても、それを服装したのが3世紀中頃であった可能性を排除できない。
そもそも倭国大乱より後の女王は卑弥呼なので、他に該当する女性首長がいない。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:30:15.74
>>963
>畿内の2世紀の遺跡で同レベルの副葬品は確認されていない

纒向石塚古墳をはじめとして、纒向古墳群の埋葬主体部も副葬品も発掘できてないってだけだよ

畿内からは外れるが、丹波の大風呂南墳丘墓あたりでも、ガラス製品も鉄刀も、
平原1号墓より豪華で充実している
でも、大風呂南墳丘墓を倭王墓だなんて誰も主張していない

平原1号墓を過大評価するのは止めとけって何度も教えてるのにww
伊都国の有力家系の厚葬墓・被葬者は女性、が相応の評価だよ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:30:44.47
皇室にしろ、伊勢神宮にしろ、
本物の八咫の鏡は丁重に伝世され、現代まで伝えられている
粉々に割れて、畑にばらまかれていたなんてのは、
取り上げたらポロリ崩れてしまった出来損ない模造品
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:31:07.54
432>>422
>文献をしっかり読みこなした上で
魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は
陳寿が当時の晋皇帝の祖先の功績を奉るために
後漢から伝承の位置である倭国の都があるとされる場所
帯方、楽浪より南1万2千里の会稽東治(冶)乃東
倭の極南界にあるものとして書いたものと推察している<

「推察」ではなく、
「南→東」などの史料事実のの否定曲解の嘘つき騙しの大和説者の、
分裂幻覚の妄想。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:31:25.87
>>967
>平原遺跡の鏡は後漢鏡より新しい様式なので、

どこが?
具体的な根拠で論証して見せてww
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:34:48.04
432>>423
>渡海は渡河と同じ用法であり、渡河はこちらの岸から向かい側の岸へ越えることなので、渡海もこちらの岸から向こうの岸へ越えること。
渡海千里の瀬戸内海の場合、周防灘の北部九州側の岸(行橋市あたり)から東の難波あたりの岸へ海を越えること。
何も、むずしい話ではない。<

呉から遼東へ船で行く場合にも「水行」と書かれた。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:36:04.26
>>930
むしろ内陸の纒向が後進地域であったということだろう。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:36:28.56
>>963
>作る技術がある
>作る材料がある

でも卑弥呼がもらった魏代の舶載鏡は1枚たりともないww
そんなのを卑弥呼の墓だと主張するのが、バカっぽいww
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:42:51.55
432>>427
>畿内に陸橋付き円形周溝墓があったことが確認され、外部に前方後円墳の起源を求める必要はないと
されるようになっている
そこに葺き石や円筒埴輪(特殊器台)の樹立という、各地の墓制の外部装飾が付加されて
定式化されていった、でいいんだよ <

この男(類スレ主?)は、また「畿内」という存在もしない嘘つき騙し文言を使って、
国民を騙そう、としている。
いずれ、纏向だけではなく、播磨全域まで大和にしてしまうインチキをするんだろう。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:44:47.10
それまで交流していた公孫氏を滅ぼした魏ととりあえず交流したけれど、魏の権威はそれほど国内的には重視していなかったのだろう。
魏の方がむしろ倭を丁寧に扱っているように思える。
国産の八咫の鏡があれば、魏からの鏡はむしろその材料に過ぎない。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:52:19.34
432>>432
>帯方より南1万2千里は淮南子に由来する架空の世界の果てまでの距離<

「余」や「侏儒國」まで記録されているから、淮南子に全く合わせていなかった。
ズボラインチキした事がバレれば、魏使らの首が危ないもの。

>魏志倭人伝に邪馬台国の場所と記されてる会稽東治(冶)の東は
沖縄や台湾のあたり<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
陳寿は「会稽東治」と書いたんだから、沖縄台湾説も×。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:53:56.54
>>967
>畿内説は平原遺跡の年代も前倒しして卑弥呼の墓ではないという風に持って行きたいのだろうが、前倒しすればするほど、畿内と筑紫の文化水準が乖離していく一方なんだよね。

現実を見ろ
平原1号が2世紀の墓だと結論を出したのは公式の発掘調査であって、畿内説とか関係ない
目を覚ませ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:59:33.33
>>977
>邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
>陳寿は「会稽東治」と書いたんだから、沖縄台湾説も×。

陳寿の計算では「会稽東治」の真東
つまり沖縄や台湾のあたりに倭国あるんだよ
だから九州説は×だ
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:04:02.95
432>>434
その「どのように」ってところで、結論ありきで「根拠なしの捏造」に走るから、
大和説は学説にならないんだよ

「南→東」や「長里」がその典型
島巡り記録の抹殺もひどい
「邪馬台国」とか「畿内」とかの存在もしない文言も酷いし、
不彌國までの短里と不彌國以後の日数や長里の、二重帳簿詐欺も、
普通の知能があればできない
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:12:20.58
>>980
このように、なにも常識のない中傷ばかりの九州説
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:12:28.37
432>>447
>瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の築造時期は、古墳前期初頭だろう。
その突起の形は、東田大塚古墳の前方部と非常によく似ている。
そして、この時期には、纏向ではすでに前方後円型墳丘墓が5基も造られていて、それらは完全に全周する周濠をもつ大墳墓。
それより後につくられた瀬田の周溝墓は、播磨などの弥生後期の突起付き円墳から少しも変化していず、旧態そのもの。
この瀬田遺跡の周溝墓は播磨型そのものであって、纏向古墳群とはまったく系統を異にしている。
奈良文研にだまされてはいけない。<

成程。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:13:23.18
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:18:57.77
>>979 名前:日本@名無史さん 2019/03/07(木) 08:59:33.33

>陳寿の計算では「会稽東治」の真東
>つまり沖縄や台湾のあたりに倭国あるんだよ
>だから九州説は×だ

そうかい、その計算がただしいのなら、
畿内纒向は、八丈島にあった。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:21:32.98
432>>455
>勘違いしてるようだけど、この渡海千余里を書いたのは晋代の中国人。
彼は魏の書庫にあった資料をもとに、渡海千余里と書いた。
その資料は魏の役人が作成したもので、魏の役人は倭人から聞いたことを記録に移したもの。<


倭人が知らない筈の「里数」が書かれているから、
陳寿が、
魏氏の部下らが、実際に侏儒國付近まで行って、実見計測した記録を、
元にしたもの。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:30:28.85
そうだったのか、纒向は八丈島にあったのか。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:31:07.05
つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだね、、、、
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:37:59.61
432>>462
それこそ勝手作り話
>九州北部にいた前方後円墳を作るグループなんて何処にいるんだ<

主として天孫族系の阿毎氏が中心であったんだろうが、
卑弥呼の後裔の姫氏たちは、それほど強い関心がなかったようで、
阿毎氏系の分家の末端にあった、と思われる壹與の遺族も関係がなかったよう。






これだから九州説は・・・
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:42:17.38
纒向説は、ヒミコばかりに血道をあげて
トヨの墓所を提示できていない、ワラワラ。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:43:37.70
432>>468
>瀬田の突起付き円形周溝墓の円墳の形がほぼ整円形であり、弥生後期の円墳はおおむね不整円形。
石塚など纏向古墳群も弥生墳丘墓らしく不整円形である。<

そういえば、ホケノも少し歪んでいた様な気がするね。

>ところが、この瀬田周溝墓の円墳の形は箸墓の後円部と似て整円に近い。
また、前方部も東田大塚古墳の前方部とそっくりだ。
ところが、奈良文研は、この周溝墓は弥生後期後半(2世紀中頃〜後半)の築造だとしている。
奈良文研の年代評価はいつも百年古く出る、と評する人もいる。つまり、そういうことよ。<

成程。
奈良文研が犯人であったのか?。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:51:17.14
432>>480
>「畿内説の奴は南を東と読み替えている!けしからん!」 ↑
まあ言いたいところは分からんでも無いが、
じゃあ九州説は魏志倭人伝の邪馬台国への行程を読み替えていないのか?<

読み替えていないし、大和説者は、「邪馬台国」という文言も読み替えた結末。

>違うだろ バカ正直にそれに従ってたら邪馬台国が海中に存在していることになっちゃうから、
距離を読み替えているのが九州説だろう?距離を読み替えるのは問題ないのに、
方角を読み替えるのは大問題?どうしてそんなことがあろうか <

読み替えていない。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:54:37.68
432>>484
大和説者からの反論とか、何もないよ
だって証拠が出てこないだろ

九州説はテンプレを完封している
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 09:56:48.90
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 10:02:12.36
纒向は八丈島にあったと決したようだな。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 10:08:37.23
纒向は八丈島、八丈島は流人の島、、、、。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 10:09:50.85
>>976
>国産の八咫の鏡があれば、魏からの鏡はむしろその材料に過ぎない。

それだと、魏の元号の入った記年銘鏡を説明できないだろ?
魏との交流が一大国家イベントだったから、記念の記年銘鏡が作られたんだよ

平原1号墓に魏からもらった舶載鏡がないことをごまかすために
一生懸命詭弁を考えているんだろうけれど、実際に出土した考古遺物によって簡単に否定される

平原のバキバキに割られて土坑内にバラまかれていた鏡片を八咫鏡と言うのはやめな
大和朝廷のご神鏡に擦り寄ってくるなよ!
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 10:16:31.84
畿内の田舎者にとっては、まだまだ魏の威光は眩いものだったのだな。
しかし、帯方郡で政変を目の当たりにした九州の人間は国際感覚が豊かだったから、朝貢しつつも魏に心酔することはなかったということだ。
狗奴国との戦いに向けての支援もあまり具体的にはならなかったし、あまり魏との交流の成果は倭の方にはなかったかも。
まあ、畿内の田舎者にとっては全て夢のような話で、あとから記念の鏡を作るくらい大変な出来事だったのだろうけど。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 10:23:16.42
>>972
>呉から遼東へ船で行く場合にも「水行」と書かれた。

原文は?

これと勘違いしてないか?
FAQ33
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島

渡海になってるけどさww
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 10:31:56.24
廃れてしまった土御門系の秘儀では八咫鏡は宗像辺津宮表からパワーをもらうと書いてある。何を意味するのかね。
10011001
垢版 |
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