邪馬台国畿内説 Part434
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1551727393/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。 前スレ最後へのレス
土御門家の話は初めて聞いたけれど、八咫の鏡と宗像辺津宮との関係は簡単で、辺津宮の神器も八咫の鏡なんだよね。
もともと八咫の鏡とは複数枚あり、そのうち一枚が伊勢に伝えられているという状況らしい。
だから、平原遺跡で複数枚副葬されてもおかしくはない。 432>>488
>>九州北部にいた複数の集団のうち、前方後円墳を作るグループが瀬戸内を通過して畿内に入り、<
>北部九州に「前方後円墳を作るグループ」なんていなかったんだよ<
列島で初めて造られたのは、那珂八幡や津古生掛などだ。
>それまでの北部九州の墓制の伝統とは一切関係ない前方後円墳がいきなり作られ始める 完全に他所から移入された墓制だ<
壹與の遣使が西晋武帝に天円地方を学んで、
モンゴルや高句麗の前方後円墳を知って、
壹與の次の王位から造られたものだ。
>それ以前は方形周溝墓(須玖岡本遺跡D地点、三雲南小路遺跡)か
四角く盛り土した低めの墳丘墓(吉野ヶ里遺跡北墳丘墓)しかない
こうやって、誰にでも確認できる確実な根拠を挙げて説明して初めて、
「北部九州にいた前方後円墳を作るグループ」なんてのは妄想だ!って言えるんだよ<
周溝の中に、天円地方を造っただけだ。 片や御神宝として千数百年も伝世され、
こなたは叩き割られて墓地にブチ撒かれていた。そもそも扱いが違う贋作鏡。、 御所廻りの京都御苑にある神社は全部宗像系だしね 土御門系だと賢所は元々宗形、宗像の分社。白川家だと伊勢? 432>>492
ほら、また具体的内容のない非難しかしない
常に内容がないのが,
「南→東」などの嘘つき騙しの、大和説クオリティ 宗像は高天原から筑紫への天孫降臨を守護した氏族で、その時に八咫の鏡が筑紫へ運ばれたことになったいるんだよね。
だから八咫の鏡が複数あったなら、一枚が宗像大社にあってもおかしくはない。
そうすると、そもそも八咫の鏡はどこで作ったんだということになる。 432>>493
>>祭祀は、部族氏族単位的なものだ。<
>そうか そんな状態の九州には 当然ながら国王が君臨する「国家」など無いな <
「舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國」の国々が、
殆ど「部族氏族単位」の国だ。 >>69
>もともと八咫の鏡とは複数枚あり、そのうち一枚が伊勢に伝えられているという状況らしい。
また妄想で適当なことを書いているww
前にも教えただろ?
八咫鏡でも、皇統と無縁のものは普通名詞としての八咫鏡なんだって
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。
さすがに牟士那(ムジナ)の腹から出たのが、皇統と関係があるとは言わないだろ?
もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる
八咫鏡という呼称の「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるという通説に従う、ということだ
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った
宗像大社の「八咫鏡」もこの用法だよ つまり八咫の鏡が複数あるという点について異論はないんだろ? 432>>497
>日本海経路、丹波経由の畿内説だよ <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などによっても、×。 4世紀の筑紫の梟帥である神夏磯姫も八咫の鏡を持っていた。
筑紫にこれだけ多く八咫の鏡の記録があることは、三種の神器の成立過程を考える上で重要だと思う。
マンホールのふたなどと言っている阿呆には、ろくな考察はできないだろう。 権威なき模造の八咫鏡
ま、三角縁神獣鏡の二の舞ってことよ。 三角縁神獣鏡に権威なんてないだろ。
記紀に登場していたか? いまだに卑弥呼の鏡が三角縁神獣鏡っていってるバカがいるの勘弁 >>82
そうか、ちと省略し過ぎたかな。
八咫鏡には、高天原時代の思兼神が指揮して作らせた権威ある皇統の八咫鏡と、
その後に、それをまねて民間ベース(地方豪族)で作られた権威なき八咫鏡があったのではないかということだ。
三角は景初三年鏡が出るので、魏の小さな鏡をまねたのだろうが、似たような経緯だな。
そう考えると、その後のことがよく納得できる。 p433の>985
千余里は、倭人から聞いた「舟で何日」を、魏の役人が中国の「水行1日=何里」を当てはめて里数に換算した。
手漕ぎによる水行1日の里数は、中国でも倭でも同じだったということ。 432>>500
>テンプレにも書いてあるが、邪馬台国七萬餘戸は
「畿内第V様式土器を使う領域」で、概ね「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だよ<
邪馬台国も畿内も、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「七万戸」の邪馬壹國は、「南≠東」などに拠って「大和+河内〜環大阪湾」の範囲は×であるし、
第X様式は、筑紫にあるから、「大和+河内〜環大阪湾」の範囲も×。 p433の>972
「水行」は、舟で水上を行くこと。
「渡海」は、海を一方の岸から別の岸まで舟で海を越えること。
「水行」「渡海」の違う語彙が用いられていたからとて、何の問題もない。 432>>502
>距離は課題だな<
距離は、課題ではない。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている。
>いっそ畿内説みたいに方位・距離ともと言わないが距離ぐらい誤情報としたら良いのに
九州説は馬鹿正直に倭人伝と向き合うネ <
「畿内」なんて史料事実にも存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説者は、
同時代の魏使らの実地の見聞計測記録で、客観性も信頼性も確率も高い魏志の記録を、
否定抹殺や曲解の・・・・のような嘘つき騙しで向き合うネ。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。 p433の>953
名古屋清洲の海抜4mで畑つくっていると言ったのは、清須は海岸から約10kmなので、その辺りでは塩害はないということを言うため。
みやま市の弥生200年頃の海岸線が現在の矢部川河口より4kmほど上流の江の浦あたりだったとしても、そこから吉井信号まで6kmほどある。
そこまで潮はあがって行かないから、塩害はない。
吉井信号に卑弥呼の祭祀所が建てられていて、稲の豊作祈願をしたことについて、何の問題もない。 >>84
あとから作ったということはないと思う。
前スレにあったように、ギリギリで八咫の鏡の大きさを超えない配慮があったようだ。
オモイカネの鏡はアマテラスの命により宗像氏族が筑紫に運んだことが記紀に明記されている。
それが何枚であったか書かれてはいない。 >>70
428の811を読んでいないのか?
魏明帝は、圜丘と天郊を都の南、方丘と地郊を都の北に作らせた。
これを晋の武帝は、南郊に圜丘と天郊を併せ、北郊に方丘と地郊を併せ整備し直した。
つまり方丘と圜丘とが並んだことはない。
武帝の整備した施設と前方後円墳とは一切関係がない。
那珂八幡は後円部が北側にあり、向きも南北方向に向いていない。津古生掛も同様。
天南地北も守られていないことがよくわかる。 なんか妄想古代史になってるな
平原マンは自説を主張したいなら自スレ立てた方がいいぞ 全国の前方後円墳の方角はバラバラで、隣り合ったものでさえ揃っていない。
倭人の方角感覚はかなりいいかげん。 前スレ>>944
3世紀には現在の水門も堤防も河川の護岸もないので、山門は塩泥沼状態
今は沿岸部は塩害対策でポンプを使って山から農業用水を引いている
名古屋は伊勢湾、山門は干満差が日本一で台風がよく来る有明海
おそらく山門の干拓と水田開発は平安後期からの荘園時代からだろうね
筑後平野は、筑後川の旺盛な堆積作用と有明海の干満差によって広大な干潟が形成され、それが干拓されて造られた土地であり、
中世の荘園開発や江戸時代の新田開発によって干拓が進められてきました。
http://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/18/chiiki/index.html 古墳は平地から土盛りしないで自然地形を利用してるから方角がバラバラになってるのではないかなー >>78つまり八咫の鏡が複数あるという点について異論はないんだろ?
一つの鋳型から複数枚の鏡をつくり
そのうちの一番出来のいいものが御霊代となる
よーするに鏡が大事なんじゃなく
鏡に移された御霊が大事なんだ
天照も皇孫にヤタの鏡を我が御霊代として大事に扱えと命じてる
御霊を移してない鏡は単に鏡だけど
御霊を移した鏡はご神体なんだ
神社のご神体は現在でも普通に鏡だけど
鏡そのものは市販させていて
重要なのはその鏡に御霊を移した場合で
その鏡はご神体として大事なものとなる
靖国神社のご神体も御霊代としての鏡だけど
鏡が重要なんじゃなく鏡に移されて英霊が大事なんだ >>74
>宗像は高天原から筑紫への天孫降臨を守護した氏族で、
>その時に八咫の鏡が筑紫へ運ばれたことになったいるんだよね。
そんな話にはなっていない
宗像三神はアマテラスとスサノオの誓約の勝負で生まれた三女神
天孫降臨とは別に地上に降りているし、ニニギとは基本無関係
また、地上に降りるときに何を持って降りたとかの説話は何もない
>だから八咫の鏡が複数あったなら、一枚が宗像大社にあってもおかしくはない。
単にでかい鏡を、普通名詞で「八咫鏡」と読んでいるだけ
高天原と関係なく、ムジナの腹から「八尺瓊勾玉」が出た例も日本書紀にある
>そうすると、そもそも八咫の鏡はどこで作ったんだということになる。
宗像神社周辺のどこかで作ったんだろうってだけ
そもそも、現在の宗像神社には「八咫鏡」は祭られていないし、
「八咫鏡」があったという社伝もない
江戸時代の福岡藩の国学者青柳種信による沖ノ島滞在記録「瀛津島防人日記」に
西海道風土記逸文が引用されて載っていてそこに
「自天降居埼門山之時、以青玉置奧津宮之表、
以八尺紫玉置中津宮之表、以八咫鏡置邊津宮之表、
以此三表成神體之形而納置三宮」
とあるのが全てだよ
風土記逸文に「八咫鏡」という文字があるだけで、現在の宗像大社は
八咫鏡を奉祭しているとも、過去に祀っていたとも一言も言っていない >>84八咫鏡には、高天原時代の思兼神が指揮して作らせた権威ある皇統の八咫鏡と
円周が八やたで八花八葉のヤタノ鏡は
倭国大乱前の男王(大国主)の御霊代として作られた
大国主(男王)の御霊がヤタノ鏡に移されたっていう記述は
出雲国造神賀詞にありそのヤタノ鏡は三輪山に据えられたと記されてる
八雲立つ出雲の八鉾の尊といわれて大国主に
八花八葉の内行花紋鏡はふさわしい鏡だ >>78
>つまり八咫の鏡が複数あるという点について異論はないんだろ?
伊勢と宮中のご神鏡以外は、単に大きな鏡という意味の普通名詞で「八咫鏡」と呼ばれているだけ
単に「八咫鏡」と呼ばれているだけの鏡は、皇統の所在とはまったく関係がない
そして、平原1号墓出土鏡は、昭和になるまで「八咫鏡」と呼ばれたことはないし
「八咫鏡」と考える理由がない >>91
>オモイカネの鏡はアマテラスの命により宗像氏族が筑紫に運んだことが記紀に明記されている。
どこに書いてある?
具体的に典拠と原文を示してね! >>94
>全国の前方後円墳の方角はバラバラで、隣り合ったものでさえ揃っていない。
最初の纏向古墳群のいくつかは、箸中山古墳も含め古墳の軸が夏至の日の出の方角に
合わせてあるよ
古墳時代中期の百舌鳥古墳群では、街道と古墳の長軸が平行に合わせてあって
街道からその威容がはっきり最大限に見えるように作ってある
また、作り出しが片側だけにある古墳は、その作り出しのある側から見ることが前提で
作られている
>倭人の方角感覚はかなりいいかげん。
それなりに、意図を持って作られていると思うけれど、作られた時期によって
重視される「向き」が異なるってことはあるんだろうね >>95
九州農政局の説明中、「昭和の干拓事業」に掲載の柳川、みやま市あたりの地図では、吉井信号付近は干拓が行われていず、塩泥沼域でなかったことが分かる。
南瀬高あたりまでが明和4年以前の干拓域。
南瀬高と吉井信号の間は、3km程度。
まあ、吉井信号あたりは、塩害の及ばない範囲といえる。 八葉は中台八葉院、八葉蓮華の仏教用語で、これを表したのは八稜鏡
内行花文鏡の連弧の図像は、
九天(鈞天(中央)、蒼天(東方)、昊天(西方)、炎天(南方)、玄天(北方)、
変天(東北方)、幽天(西北方)、朱天(西南方)、陽天(東南方))「淮南子天文訓」
を表している 韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまいました。。。 >>94>全国の前方後円墳の方角はバラバラで、隣り合ったものでさえ揃っていない。
>倭人の方角感覚はかなりいいかげん。
円形の部分が墓で方形の部分は墓の付帯施設
円形の墓には上下はないってことで
方角が特にないんだよね >>104
>「昭和の干拓事業」に掲載の柳川、みやま市あたりの地図では、
(中略)
>まあ、吉井信号あたりは、塩害の及ばない範囲といえる。
昭和の時代にはな! 昭和には!
今問題にしているのは、弥生終末期だ
その頃には、昭和まで塩害が問題だったところは海だったんだから、
たとえ吉井信号のあたりがかろうじて陸化していたところで、
目の前が海のところに大規模な祭祀センターを作るかって言ったら
作らないだろ?
それこそ、年に一度の大規模な大潮のときとか塩水をかぶるぞ 大和の初期前方後円墳で強く意識してるのは埋葬頭位方向だな >>100
>平原1号墓出土鏡は、昭和になるまで「八咫鏡」と呼ばれたことはないし
>「八咫鏡」と考える理由がない
平原でつくられた八咫鏡は倭国大乱前の男王の御霊を移すための鏡だ
男王が死んで倭国が大いに乱れたんで
男王の御霊を八咫鏡にうつしてその神託で祭りごとを行うことにした
男王は八雲立つ出雲の八鉾の尊といわれた大国主なんで
大国主の御霊代としてにふさわしい鏡として
円周が八咫で八花八葉の内行花紋鏡が作らてた
出雲国造神賀詞によれば
大国主の御霊が移された八咫鏡は三輪山に据えられて
大国主の御霊が大和の守護神となった
三輪山のふもとの巻向は
大国主の御霊を斎俸する為の祭都だし
大国主の御霊を斎俸する巫女が卑弥呼ってことになる 出雲なんて関係ないし
こないだテレビで出雲の人骨検査やってたけど、
あのあたりは朝鮮人が渡ってきて勝手に自分らで殺しあってたらしい >>104
南瀬高の国道714号沿線には、津留、沖田、浜田、海津、海門などの地名がある。
このあたりが海岸だったのではないか。
吉井信号まで2km〜3km。
吉井信号付近の卑弥呼の祭殿は、みやま、筑後、八女にあった邪馬台国の水田地帯の海に向った最前線だったのだろう。 >>69
>平原遺跡で複数枚副葬されてもおかしくはない。
平原のヤタノ鏡は
倭国大乱前の男王の御霊代
複数枚のヤタノ鏡を作って一番出来のいいのが
男王の御霊しろとなったヤタノ鏡
この鏡が三輪山に据えられて
三輪山のふもとに男王の御霊を斎俸する都市である巻向が作られた >>109
大潮の被害を呪力で防ぐのが卑弥呼の仕事の一つだったのだろう。
卑弥呼を筆頭とした巫女集団が、海津などの浜に向かって呪文唱えた姿が目に浮かぶ。 >>113
出雲国造神賀詞は記紀よりの古形ろされ
神賀詞の上奏は出雲風土記にも記されてる
出雲国造神賀詞によれば
大国主の御霊はヤタノ鏡に移され三輪山に据えられて
大和の守護神となった >>117
卑弥呼の鬼道は死んで鬼籍に入った人の御霊を斎奉する宗教だ
卑弥呼が斎俸した御霊は倭国大乱前の男王の御霊で
その男王の御霊の神託を告げる巫女とし卑弥呼は共立された
ようするに巫女王としての卑弥呼の言葉は
男王の御霊の神託ってこと >>106
農政局の写真をみてみると、「排水樋門」と「堤防が守っている土地」では、水田が海の際まで作られている。
海から100mもあれば、塩害はないということだ。
南瀬高の海門(みなと)」から吉井信号まで3kmはあるのだから、塩害なく稲穂は豊かに風に揺れて、卑弥呼もニッコリ夏祭りだ。 >>83>いまだに卑弥呼の鏡が三角縁神獣鏡っていってるバカがいるの勘弁
卑弥呼が死んで神上がりした後の御霊代はヤタの鏡だ
これは神楽で歌われてることだし
卑弥呼の御霊をトヨヒルメ(トヨ)が欲して
卑弥呼の御霊は神上がりした
これは卑弥呼が死んで国が乱れたんで
卑弥呼の御霊を斎俸する巫女王としてトヨが共立された
ってことを表現してる神楽で
この神楽が鎮魂祭のもとになってる >>117
>大潮の被害を呪力で防ぐのが卑弥呼の仕事の一つだったのだろう。
>卑弥呼を筆頭とした巫女集団が、海津などの浜に向かって呪文唱えた姿が目に浮かぶ。
この吉井信号シリーズ、おもろいなw
思いつきのでまかせを科学的な研究成果(有明海の弥生時代の海岸線)で否定されて、
思いつきにうそや思い付きを重ねた挙句、ここまで来たよww
卑弥呼を筆頭とした巫女軍団ww
スゲェなw >>120
>農政局の写真をみてみると、
何度も言うが、それ、昭和!
弥生時代の海岸線はそこではない! 呪力では高潮の被害は抑えられないので
満鮮豚を避難させたほうがいい >>120
>農政局の写真をみてみると、
何度も言うが、それ、昭和!
弥生時代の海岸線はそこではない! >>125
あの不確かだと指摘された柳川の弥生海岸線より、さらに5kmも北へ海岸線を引き上げたのだから、南瀬高の海門(みなと)あたりで妥協してもらわないと。
海岸から100mもあれば稲は育つということが肝要。
卑弥呼の山門は、稲穂豊かな水田が広がっていた。
問題なし。 >>126
海岸から100mもあれば稲は育つというのは
現代の技術で堤防や塩害対策をしているから
吉井信号付近は塩泥沼が広がっていたので遺跡がない >>96古墳は平地から土盛りしないで自然地形を利用してるから方角がバラバラになってるのではないかなー
墓の部分は円形で方形の部分は墓の付帯施設だ
円形には方向は無いんで
方角にこだわりはないってことだ
前方後円墳の原型は
円形の三輪山と三輪山に納められた大国主の御霊の祭事を行う為の
山裾の方形の台地だ
ようするに墓の部分が円形の三輪山だし
縁には図形的に方向はない
ってことで前方後円墳はベースを円形の円墳とみるべきで
円に方向が無いんで方向に対するこだわりがないんだ >>128
>古墳は平地から土盛りしないで自然地形を利用してるから方角がバラバラになってるのではないかなー
纏向古墳群の纏向石塚古墳から箸墓古墳までは平地に土盛りしてるんだよ
その古墳群は、長軸が夏至の日の出方向を向いているものが複数ある
その後、桜井茶臼山とか渋谷向山、行灯山は尾根を切って墳丘を作ってる
話がそれるが、古墳の墳丘の起源が開発残土を盛ったものというのは根拠がない
どころか、箸墓周囲に土取りのくぼ地が広がっている時点で否定される 後円部が三輪山なら前方部との軸は三輪山に向けるだろ >>126
>あの不確かだと指摘された柳川の弥生海岸線より、さらに5kmも北へ海岸線を引き上げたのだから、南瀬高の海門(みなと)あたりで妥協してもらわないと。
本質はそこではない
弥生終末期に、海と山の間の狭い土地でしかなかった吉井信号付近に
祭祀センターを作ったとして、何の祭祀を行うつもりだ?
そして、みやま市全域が祭祀センターというのが完全に破綻しているのは
早いとこ確認してくれ >>94>全国の前方後円墳の方角はバラバラで、隣り合ったものでさえ揃っていない。
倭人の方角感覚はかなりいいかげん。
前方後円墳の墓の部分は円形で方形の部分は単なる墓の付帯施設
ってことで墓が円形なんで円には方向がないし
方向に対するこだわりが無いんだよね
前方後円墳のベースは
円形の三輪山に納められた大国主の御霊で
三輪山の山麓の方形の台地で大国主の御霊の祭り事をした
ってことで前方後円墳の墓の部分は三輪山の円形と同じ形の円形の部分なんだ
倭人伝でも箸墓の墓の部分は円形とみなして
径が100歩と記してるし
江戸時代の記述でも前方後円墳の墓は円形と記してる 432>>502
>距離は課題だな<
距離は、課題ではない。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている。
>いっそ畿内説みたいに方位・距離ともと言わないが距離ぐらい誤情報としたら良いのに
九州説は馬鹿正直に倭人伝と向き合うネ <
「畿内」なんて史料事実にも存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説者は、
同時代の魏使らの実地の見聞計測記録で、客観性も信頼性も確率も高い魏志の記録を、
否定抹殺や曲解の・・・・のような嘘つき騙しで向き合うネ。 >>130
>後円部が三輪山なら前方部との軸は三輪山に向けるだろ
箸墓の軸は、穴師山山頂から上る夏至の太陽の向きに向けられてるよ
東田大塚古墳は、竜王山の山頂から登る夏至の太陽の方向 うそつき騙し、その通り
まるで、倭人伝の記載事項に基づく制裁を緩めてくれ・・、みたいな言い方 >>
>100伊勢と宮中のご神鏡以外は、単に大きな鏡という意味の普通名詞で「八咫鏡」と呼ばれているだけ
円周が八ヤタで八花八葉の内行花紋鏡は
倭国大乱前の男王(大国主)の御霊を収める為に
作られたものだ
大国主は八雲立つ出雲の八鉾の尊といわれ
その御霊を収める鏡は八花八葉のヤタノ鏡がふさわしい
出雲国造神賀詞に
大国主の御霊をヤタノ鏡に納め
三輪山に据えて大国主が大和の守護神となった記されてる
男王(大国主)の御霊を斎俸する巫女王が卑弥呼で
卑弥呼の住まいとして三輪山のふもとに祭都としての巻向が造営された
大国主の御霊を斎俸する巫女王の卑弥呼の御霊も
卑弥呼の死後にヤタノ鏡に移された
このヤタの鏡は八花八葉の内行花紋鏡で
大国主の御霊を斎俸する巫女にふさわしい鏡だ >>132
江戸時代の箸墓円墳説は、誤認。
前方部と後円部の接続部に造られた農道を通ったので、前方部を岡とみなして気づかず、円墳だと誤認したもの。
前方部の墳頂には二重口縁壷などの破片が散らばっている。
二重口縁壷は3世紀中頃から4世紀まで作られた祭祀用土器。
というわけだから、少なくとも4世紀までには前方部が現在の高さに造られたことは明らか。
前方部、後円部一体型の墳墓であるのは、疑うべくもない。
東瀬戸の突起付き円墳とは系統を異にする纏向政権専用の墳墓だな。 >>92武帝の整備した施設と前方後円墳とは一切関係がない。
前方後円墳のベースは男王の御霊を収めた三輪山と
三輪山のふもとで男王の御霊の為の祭事を行うほ形の台地だ
よーるに墓の部分が円形の三輪山で
方形の部分は単なる墓の付帯設備ってことだ
だから倭人伝では円形の部分が墓とみなして
形100歩と記してる
江戸時代でも墓の部分の認識は円形の部分で
前方後円墳を円形の墓と記してる
円形の部分が墓なので円には方向性がなく
前夫後円墳には方向によりこだわりがない 432>>506
>畿内説は根拠を示して方位・距離とも誤情報だとしてる<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
また、魏志倭人伝は、同時代の魏使らの実地での見聞計測記録が元になったものであるから、
正しい確率が非常に高く、そのままですべて矛盾なく解釈可能であり、
誤情報である確率は殆どなく、
だから、この類スレ主の「誤情報」論は、×。
>九州説はその論証に何も反論しない <
反論済み。
>九州説は馬鹿で論争に負けたということだネ<
大和説の類スレ主は、・・・・アホ詐欺師で、論争に負けた、という事だね。 >>137
>前方部と後円部の接続部に造られた農道を通ったので、前方部を岡とみなして気づかず、円墳だと誤認したもの。
つまり、箸墓は後の前方後円墳とは異なり、前方部の後円部との接続部分が低くて
後円部だけが墓とみなされるのがある意味普通だってことだね! >>137
前方後円墳の墓の部分は円形でそれ以外の方形の部分は単なる墓の付帯設備
それで魏志倭人伝でも円形の部分を墓として
径100歩と記してる
円形には方向性がないんで前方後円墳には方向のこだわりがない
方形の部分は祭事が行われる部分で
墓じゃないんで人間がその上に乗って祭事をおこなってもOK つまり、韓国人が宣伝している、箸墓古墳が卑弥呼の墓だという説は、完全に破綻してしまったのだね。。。 >>140
>つまり、箸墓は後の前方後円墳とは異なり、前方部の後円部との接続部分が低くて
>後円部だけが墓とみなされるのがある意味普通だってことだね!
前方後円墳のベースは円形の三輪山と
三輪山に納めらた大国主の御霊を祭俸するための
三輪山のふもとの台形の土地だ
ってことで円形の三輪山の相当する部分が前方後円墳の円形の部分で
そこが墓なんだ >>115
豚畜養は、祭祀目的。
ごく少ない。
大部分は、イノシシ。
卑弥呼はイノシシの歯をネックレスにしてたかもな〜。 >>142
箸墓は卑弥呼の墓で
円形の部分が墓なんで径100歩と記述されてつ
方形の部分は墓の付帯設備であって墓とは別物
方形の部分上で墓の墓主に対する祭事が行われるってことで
方形部分は墓じゃない
円形の墓の原型は円形の三輪山で
そこには大国主の御霊が据えられてる
三輪山のふもとの方形の台地で
大国主の御霊に対する祭事が行われてたんで
その台地には古墳が存在しない >>141
後円部でも、人が乗って祭祀した跡がある。
器台の破片がいっぱいある。
前方部と後円部の祭祀様式は同じ。
一体型だな。 >>140
二重口縁壷の存在を無視しちゃイヤン〜。 >>142
卑弥呼が斎俸したのは三輪山に納められてる大国主の御霊だ
円形の三輪山に大国主の御霊が収められ
そのふもとの台形の土地で御霊に対する祭事が行われた
円形の三輪山とふもとの台形の土地が前方後円墳の型のルーツだ
ようするに前方後円墳の墓の部分は円形で
方形の部分は墓の付帯設備ってことで
倭人伝でも墓を径であらわして100歩と記してる
ちなみに
円には方向性はないんで
前方後円墳には方向性がない >>128
ほとぼりが冷めたと思って、また出てきたのかよ。
円墳説、無理無理。 卑弥呼のネックレスは中国から輸入したガラス。
平原遺跡から約2000個発掘された。 >>149
卑弥呼の鬼道は死んで鬼籍にはいった先人の御霊を信仰の対象とする宗教だ
卑弥呼が斎俸した御霊は倭国大乱前の男王のものだ
男王の御霊の神託に従って
卑弥呼は祭りごとをしたってことだ
男王の御霊はヤタノ鏡に移され
三輪山に据えられ三輪山の裾野に祭都である巻向が建設され
卑弥呼はそこで男王の御霊を斎奉した 出雲の次の政権が筑紫だから、筑紫伊都の卑弥呼が出雲の大国主を八咫の鏡で祭っていたのかもしれないな。 432>>506
>畿内説は根拠を示して方位・距離とも誤情報だとしてる<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
また、魏志倭人伝は、同時代の魏使らの実地での見聞計測記録が元になったものであるから、
正しい確率が非常に高く、そのままですべて矛盾なく解釈可能であり、
誤情報である確率は殆どなく、
だから、この類スレ主の「誤情報」論は、×。
>九州説はその論証に何も反論しない <
反論済み。
>九州説は馬鹿で論争に負けたということだネ<
大和説の類スレ主は、・・・・アホ詐欺師で、論争に負けた、という事だね。 >>150
>平原遺跡から約2000個発掘された。
卑弥呼の生前に作られた墓で、
魏代の舶載鏡が一枚もなくて、
墓坑周囲の柱間隔が乱れてて、
墳丘上にまで土坑墓があって、
成人男子10人で1週間で作れるようなしょぼい墓を
卑弥呼の墓だって言い続けるのは、つらくないのかな?ww
ガラス製品なら、丹波の大風呂南墳丘墓の方が、豪華だよww
副葬品がすごいってのも、バキバキに割られた銅鏡の破片の量を除けば、
丹波の墓の方が立派
倭国第一の墓である部分がないのが平原1号墓 >>151
>卑弥呼が斎俸した御霊
これ、何が言いたいのかと考えてたけど、言いたいのは
卑弥呼が「奉斎」した
だなww
日本語は正確に!ww >>156奉斎
鬼道っていうは死んで鬼籍に入った人の御霊を奉斎する宗教だけど
卑弥呼が奉斎する御霊は倭国大乱前の男王のものだ
男王の御霊の神託を告げる存在としての巫女が卑弥呼ということだ
男王の御霊をヤタノ鏡に移して
その鏡を三輪山に据え三輪山のふもとに祭都である幕向くを建設し
九州から卑弥呼を都に向かいいれた >>157
>鬼道っていうは死んで鬼籍に入った人の御霊を奉斎する宗教だけど
祭祀も「忌部はん」 の専権事項でしょ? 知らないの? @阿波 >>157
倭国乱前の男王の御霊を奉斎しても
「事鬼道能惑衆」にはならんだろ >>159
>「事鬼道能惑衆」にはならんだろ
「忌部はん」 特製の大麻を使ったんだよ。 卑弥呼はんは。 @阿波 432>>514
>魏志倭人伝の里程が短里で書かれていることは地図に照らせば間違いない。
でもそれは郡使の報告書がそう書かれていたからであり、<
いや、魏使らの報告だ。
>魏志倭人伝を書いた陳寿は長里を使う人だったので<
いや、長里であれば、赤道付近になる筈であるのに、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いているから、短里を使っていた。
そして、魏略も後漢書も、短里を使っていた。
>邪馬台国までの距離を過大に見積もり、<
邪馬台国なんて存在しないし、
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いているから、
「過大に見積もって」いない。
>結果として会稽の東と想定してしまったんだよ。<
陳寿の見積もりは、(会稽の東ではなく)「会稽東治之東」であるから、
この類スレ主が。ウソを付いて世間の人々を騙そう、としていた事になった。 >>159
巫女としての卑弥呼の祭事は
倭国大乱前の男王の神托を告げることの政治で
これが鬼道だ
男王の御霊を移した鏡が平原のヤタノ鏡で
この鏡に男王の御霊を移しそれを三輪山に据えて
三輪山の山麓に幕向くを建設した
記紀でも生前の天照は神を奉斎する巫女として表現さてる
ようするに生前の天照は先代の男王に御霊を奉斎する巫女なんだ
これが共立された巫女としての女王の統治形態なんだけど
武力での統治はトヨの後に崇神の時代からになる
崇神以降は武力による倭国統一を目指して
雄略天皇の時期ごろになんとか倭国は武力で統一される 三国志で「鬼道」が使われている道教の一派である張魯の五斗米道は
主として符や呪水を用いた病気治療 今度も践祚大嘗祭に必須の麁布も「忌部はん」 の麻で作るの、知らないのかな? @阿波 >>163
>三国志で「鬼道」が使われている道教の一派である張魯の五斗米道は
卑弥呼はんの「鬼道」は、道教なんかじゃないよ。 歴とした、麻を使った倭国(阿波)の神道だよ。 @阿波 >>161邪馬台国なんて存在しないし、
邪馬台国は大和だ
男王の死後に国が乱れ
卑弥呼が男王の御霊を奉斎する巫女としての女王に共立された
卑弥呼の鬼道は死んで鬼籍に入った先人の御霊を奉斎することで
男王の御霊の神托に基づいて祭りごとを行うのが卑弥呼の祭りごとだ
男王の御霊はヤタノ鏡に移され
三輪山に据えられそのふもとに男王の御霊を奉斎するための都である巻向が建設された
九州から巫女である卑弥呼が共立されて
大和の巻向で男王の御霊を奉斎する政治(鬼道)を行った
卑弥呼も死後にも国が乱れたので
卑弥呼の御霊をヤタノ鏡に移して
トヨが卑弥呼の御霊を奉斎して政治を行った
これは神楽で歌われてる
トヨヒルメが御霊欲しで
トヨが卑弥呼の御霊を欲し奉斎したってことだ 忌部の部民に作らせていたのは喪服の麻布
中国で衰という
斬衰は3年の喪に用い,粗い麻布で上衣(衰)の下辺を裁ち切ったまま縫いとらない
斉衰は裁ち口を縫いとる
大嘗祭では繪服(絹布)と麁布が献上され悠紀殿と主基殿で同じ祭祀を二度行う
喪明けの儀式だな >>163
今現在の神道の神社のご神体は
御霊を移した鏡だけど
これのルーツは鬼道で
鬼籍に入った人の御霊を信仰の対象とすることだ
天照の御霊もヤタノ鏡に移されて
伊勢神宮にご神体として祭られてるけど
これは鬼道だ >>152出雲の次の政権が筑紫だから、筑紫伊都の卑弥呼が出雲の大国主を八咫の鏡で祭っていたのかもしれないな。
男王(大国主)の御霊はヤタノ鏡に移されて三輪山に据えられたと出雲国造神賀詞に記されてる
平原で作られたヤタノ鏡は
男王(大国主)の御霊代で
その鏡は三輪山に据えられてふもとに巻向が建設された
九州出身の巫女である卑弥呼が巻向に迎えられ
男王(大国主)の御霊を奉斎する巫女として
国を治めた >>167
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、
高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、
超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする
「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、
新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)
と観念されたからである。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)の『豊受皇太神御鎮座本記』として、この「伊勢大神」の記述があるのは、非常に疑問である。 大嘗祭が制度化したころには、皆絹か細かい麻の上布を作っていて
ボロ布を作っているのは、日本ではもう阿波しかなかった 432>>516
>つまり祭祀が部族氏族単位的なままなら
卑弥呼を共立した部族でないな? 九州はそれでいいな?<
卑弥呼の出身部族は、姫氏。
共立の29〜30国の中では、狗奴國が姫氏であった可能性が高いが、
その他の共立国や邪馬壹國が、姫氏部族であったのか?は不明。 432>>524
>畿内説では ヤマトを中心とした周辺国々の連合体が邪馬台国と言う説で良い <
邪馬台国なんて、存在もしないインチキ文言であり、
女王國のつもりなら、「南≠東」などに拠って、×。
>畿内は仮称<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
「仮称」なんて使わず、魏志に書かれた言葉を使うべし。 吉井信号バカがバカをやったから、また一段、九州説の書き込みが減ったな
いいことだ
あとは平原遺跡持ち上げバカが、バカを自覚してくれるといいんだがw
まあ、糸くずは変わらないかなww
古田史学の幹部かもしれないしw >>173
>ボロ布を作っているのは、日本ではもう阿波しかなかった
子供並みの精神レベルだね。 @阿波 畿内の人々はこざっぱりしたいい服着て稲作してた時に
阿波人はボロ布のような服を着て動物を追ってたのか >>131
吉井信号付近にある卑弥呼の祭祀所が祭祀センター。
そこを中心としてみやま市域が祭祀対象の祭祀ワールド。
これほどの祭祀ワールドは、伊勢遺跡にもないし、纏向遺跡にもない。
まあ、鳥肌立つようなワールドだ。
その祭祀は、基本的には農耕祭祀。
例えば冬至や春分、夏至などの節節に豊かな稔りを祈願するもので、特にオカルト的なものではない。
ただ、その節節の祭祀対象が人の住む集落であり、例えばA集落は冬至日、B集落は春分日に順繰りにその時期にあった祀りを行い、豊作を祈願して行く。
それが、360度の円周にわたって、実に28集落と3山、計31の方位が対象となっている。
順繰りに祭祀を行って行くことで山門一帯の集落の求心性を高めたのだろう。
祭祀ワールドというのは、そういう意味だ。 432>>529
>狗奴国は陳寿(中國)が倭国を弱小と位置付けるためのダミー国 <
狗奴國は、魏志以外に魏略にも書かれているから、
魏使らの記録に存在した情報である事になり、
陳寿がダミーで書いた事にはならない。 機内で邪馬台国文化が栄えていたころ
阿波にはまだ原始人が住んでて石器時代だったんだっけ >>175>「南≠東」などに拠って
船の方向が南でも海流により東に流されて
ついた先が出雲圏でそこが投馬国だ
中国の使者は海流の知識がなかったので
単に船の向いてる方向が南ということで
南と記しただのこ
海流を考慮すれば船の進む方向は南じゃなくなる >>181
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、
高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、
超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする
「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、
新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)
と観念されたからである。 ザラコクはもはや南≠東と邪馬台国はないと
オウム返しだけを繰り返すオウム人間 >>178
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)の『豊受皇太神御鎮座本記』として、この「伊勢大神」の記述があるのは、非常に疑問である。 >>146
円形の部分が墓で方形部分は墓の付帯設備だから
円に方向がないってことで前方後円墳は方向に対する
こだわりがない
魏志倭人伝でも円形に着目して墓を径で表現してる
円形の元になったのは三輪山で
三輪山に据えた男王の御霊が最も重要で
三輪山の山麓の方形の台地は三輪山の男王の御霊の祭事を行う場所
ってことで前方後円墳の墓の部分は円形 畿内では米を食べてる時に阿波では粟を食ってたから阿波なんだっけな確か かつて土佐から阿波への山村を旅行していた際に、
私はこの地方で麁麻布の着用が東国よりも遥かに盛んであることに注意して、
人にこの茶色に染めた布を何と謂うかを尋ねてみたが、
一般に今は是をタフというようであった。
肥後の五箇庄と並んで、山中の隠れ里として有名であった阿波の祖谷山などは、
小民の家はみな竹の簀の子で、あの頃はまだ夏冬を通して、
このタフを着て住んでいるという話であった。(柳田国男)
阿波ではずっと着ていたみたいだ >>183
一行目の阿波から奈良への遷都の所で読むのやめたわ >>188
太布(タフ)だね。 保存会が今も継承して作っているよ。 @阿波 432>>542
>賛同 狗奴国は
畿内・九州・出雲・阿波説等々に関係無く実在しない国であろう
倭人伝でも詳細は述べられていない ただ倭国を脅かす国としか記述されていない
狗奴国は中国の陰謀の架空の国でOK <
魏志だけではなく、魏略にも狗奴國が書かれたいた、という事は、
魏使らの記録報告にあった、という事であり、
魏略が証言していた事になり、
だから、「中国の陰謀の架空の国」としたこの大和説男も、
・・・・詐欺師であった、という事になる。 >>179
>そこを中心としてみやま市域が祭祀対象の祭祀ワールド。
吉井信号付近がかろうじて陸化していても、みやま市の半分くらいはまだ海の底
みやま市全域は無理だろうにww 海よりも深い優しさを持つヤマト民族の日本では
豊かな国はその産物を、高い技術の国は製品を
阿波からはボロ布を献上して、皆が等しく暮らせるようにしていたわけだね 九州脳は現実と妄想の区別がつかない
妄想でしかないものを現実のこととして語りだす 432>>547
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、「南≠東」に関する反論を回避して、
すぐに個々の論点への「証拠は?」議論にすり替えて、断定証拠を要求し、
それを「推論」で答えると、「証拠にならない」とでヘイトスピーチ罵倒をして、
世間の人々を騙そう、とするという、
そういう中傷に走るから
大和説は信用がない >>179
>それが、360度の円周にわたって、実に28集落と3山、計31の方位が対象となっている。
もしかして、吉井信号バカは、二十四節気3年で一周バカと同じ人なのかい?w
懲りないねぇww >>172
>天村雲神社
旧事本紀や勘注系図に出てくる天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊の孫に天村雲命がいるけれど、
この人(神)、スサノオに天叢雲剣で切られた人のような気がする
この人(神)と、草薙剣が同じ名前なのはどんな意味があるんだろう? 432>>554
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
「結論先にありき」の思い込みが強すぎ
それが全て >>198
饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市)
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県吉野川市山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。
「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。
阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。
「天村雲命」は,
(1)饒速日命が大倭国に天降るときに防御の人として高皇産霊神に使わされた三十二人の内の一人。「先代旧事本紀」
(2)邇邇芸命に命ぜられて高天原から水の種を持ち帰った。それが天真名井である。その功績として,邇邇芸命より天二上命,小橋命という名を賜った。
「小橋」と言えば,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」は,日向時代に,阿多小橋君の女(むすめ)の阿比良比売を妻としている。
小橋命とよばれた「天村雲命」の孫あるいは曾孫が阿比良比売で,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」に嫁いだとしても不思議ではない。
「天村雲命」の妻の阿俾良依姫と阿比良比売の名にも共通性を感じる。
「天村雲命」は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,「天村雲神社」が鎮座する射立郡は天五多手(あめのいたて)の名に通じる。
「天村雲神社」や同じく式内社の「伊加々志神社」周辺には「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見える。 @阿波 >>196
本当はそんな遠くはない邪馬台国を
陳寿がはるか南にある国として魏志倭人伝に書いたんだよ 432>>557
>丹は九州に無いから畿内に服属した九州を含む西日本が倭国だろ<
また変な大和説者が現れた?。
九州説のどなたかが、九州の朱丹は90余り出土で、大和の朱丹は、2個位、
というデータを示された筈。 432>>563
しかし「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のやつは、
嘘ばっかりだな
大和説のやつらはみんな同じようなもんだけど 432>>565
>里と日程が混在してるのは複数の資料から書き起こしたからでしょ<
いや、女王之所都まで来たのは、魏使らであり、
その記録は「単数」の記録資料。
>伝統的な認識による地理が里で表され<
いや「余」で書き分けられているから、「伝統的な認識」ではなく、
魏使らの実地の計測記録。
>魏使による新たな知見すなわち畿内への道程が実際の日程で記された<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
「南≠東」であるし、
「畿内」なんて存在もしていない嘘つき騙し文言であるから、
「畿内への道程が実際の日程で記された」は×であり、
この大和説男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>203
>阿波の天村雲神社は物置小屋みたいな社殿だよ
その「物置小屋みたいな社殿」でも、後にも先にも、畿内にも、九州にも、式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」は、
倭国(阿波)にしか祀られていないんだから、どうするよ。 その社殿を守る氏子さんに感謝しなさい。 不届き者め。 @阿波 >>208
オイオイ九州説を寄生虫とはちと言いすぎじゃないの
実際その通りだけどさ >>205
元が淮南子によった架空の世界の果てまでの距離だから
それに余がついた所で実際の距離を書いてる事にはならないよ 式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」
いや、実に霊験あらたかな社名じゃないですか。 やはり、倭国(阿波)に鎮座する神社はj社名からして、別格だね。 @阿波 阿波の天村雲神社は創祀年代も由緒も不詳だけど
阿波では歴史的に誰もお金を出したがらなかった、参拝者が少なかったんだね >>212
>箸墓のほうが霊験あらたか
「忌部はん」 のお墓が? @阿波 >>213
倭国(阿波)から奈良へ遷都したからね。 中央の凡人から忘れ去られたんだよ。 天皇家はちゃんと理解してるけどね。 @阿波 なんか、畿内や九州のトンデモさん達のくだらない話とレベルが違ったね。 @阿波 >>214
被葬者と伝えられるヤマトトトヒモモソヒメは皇族だが
粟食いボロ布原始人ではないぞ >>215
いや、中央の人じゃなくて、
阿波の人が阿波にある天村雲神社に参拝しなかったんだね >>216
確かに阿波はレベルが違うな
低いという意味で 432>>567
>久住編年では、TB期は庄内2式〜3式。 庄内2式〜3式は3世紀初頭〜3世紀中頃。
久住の見解では、那珂で庄内甕が出るのはTB期新層(庄内3式期)。
なので、那珂の庄内甕は3世紀前半の後葉ということになる。<
ふーん。成程。
その「庄内甕 」は、久住は、大和の庄内甕だ、という意見なのだな?。
しかし、大和の庄内1は、石塚の庄内だから、3世紀末であり、
これからでも、庄内は、筑紫の方が大和よりも早かった、という事にもなる。
>3世紀前半の前葉(庄内2式期)には、畿内勢力はjまだ那珂に入っていない。<
その点では、私と久住は、意見が一致した。 >>218
実は、その中央の凡人も、「忌部はん」達なんだけどね。 時が経つと真実を忘れていくもんだからw
本国でほそぼそと繋いでいくしかないのさ。 @阿波 阿波は畿内に
卑弥呼さま〜オラだづが一生懸命織った布ですだあ〜
どうかお納め下せえ〜とやっていた田吾作どもで決まりだな >>221
いやだから、阿波では小さな村の村民くらいしか
天村雲神社に参拝しなかったんだろ 田ゴ作の阿波はんはそんなんでも阿波を邪馬台国と主張する気かい 432>>570
>>庄内2式〜3式。<
>その前の畿内第V様式土器から比恵那珂遺跡群に入ってるって<
その「第V様式土器」とは、どこの胎土であったんだい?。 >>172
外宮のあたりが疑問なんだよな。
豊受比売が祀られるいきさつは、日本書紀雄略天皇紀に詳しい。
雄略の晩年まで豊受比売は伊勢ではなく、丹後で祀られていた。
それが、雄略が夢をみて、丹後から伊勢に遷座したという記述だ。
雄略は、5世紀末頃の大王とされている。
この雄略紀の記述が正しいとすれば、忌部氏が伊勢神宮とかかわるようになったのはその頃からということになってくる。
忌部氏の登場も5世紀頃とされているから、まあそんなものなのではないか。 あの^−−−
それで、辻地区の
あの掘っ立て柱建物の築年は3世紀だという根拠教えてよ 九州説もそろそろ自身の破滅を肌で感じてるんじゃないかな? >>228
三世紀以降という根拠でも見つかったの? >>220
しかし、その石塚の庄内が3世紀末というのは、どんなデータによる結論なのか。 >>228
あの^−−−
それで、辻地区の
あの掘っ立て柱建物の築年は3世紀じゃないという根拠教えてよ 九州も阿波も論拠出せよ
空想小説のプロットばかりじゃないか >>223
>いやだから、阿波では小さな村の村民くらいしか
>天村雲神社に参拝しなかったんだろ
阿波には祀るべき神(祖神)がろくにないから、
旧事本紀とかに出てくるよく分からない神様まで勝手に祀ってるんだろww
お遍路八十八ヶ所といい、他所の神様を引っ張ってきて祀るのが好き、というか
そうじゃない土着の神様がいない
もともと縁も所縁もない神だから祀ったのはいいが大事にしないから廃れまくり さーて人類に対しての赤痢に等しい
九州説の駆除を頑張るか >>230
キウスの書き込みの相手なんてしなくていいよ 432>>575
>久住編年では筑前型庄内甕が始まるのはTB期<
ありゃ?、私が言っていた通りになって来た。 畿内説にヘラヘラと馬鹿にされて何も言い返せない九州説は
儒教道徳的に最低最悪の気分だろうて >>222
>阿波は畿内に
遷都後に始まった訳じゃないよ。 @阿波 朝鮮儒教人の九州説はマウント取られるのが何よりも我慢できない >>197
まあ、平々凡々と板の投稿誘いで小遣い稼ぎしているてめよりは、ましよ。
弥生後期後半頃から銅鏡に二十四節気3年暦を盛り込んで、農耕カレンダーや墓域の決定、墓の位置決定などを行うようになり、それが倭人社会の大いなる進歩であったと分かったことだけでも、日本の歴史研究の画期となることは間違いない。
おめも、せいぜい頑張れ。 >>223
>いやだから、阿波では小さな村の村民くらいしか
>天村雲神社に参拝しなかったんだろ
そりゃそうさ、倭国(阿波)では、各地にそれぞれ偉い神様をお祀りしてるんだから。
「天村雲神社」一つとおもってるのかい? 倭国(阿波)の神社を知らなさすぎ。 お粗末。 @阿波 >>238
それは、TB期新相(庄内3式期)だかな。 >>224
>田ゴ作の阿波はんはそんなんでも阿波を邪馬台国と主張する気かい
畿内や九州のトンデモの出る幕じゃないよ。
神社でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>242
吉井信号の塩泥沼地で満鮮豚育てるのに農耕カレンダーはいらん 432>>577
>比恵遺跡群において大和型庄内甕を母胎として「筑前型庄内甕」がTB期に成立し、
UA期には比恵および博多遺跡群において大和の「布留0式」の影響を
リアルタイムに受けて「北部九州型布留甕」が成立したと考えられる。(久住)<
久住も、アホだねえ。
筑紫の庄内や布留と、大和の庄内や布留との先後や伝達順なんて、何の証拠もないし、
大和の庄内の始まりは3世紀末の石塚なんだから、
「大和型庄内甕を母胎」とか、「大和の「布留0式」の影響をリアルタイムに受けて」
なんて、無根拠な事を言わなければよいのに。 >>240
それじゃ阿波は遷都前から畿内にヘーコラして
遷都後もヘーコタしてたのか
まあ阿波の遷都なんてないんだが
>>246
全部ウソだなあ それで、阿波の寿陵の出来具合はどうなんだ。
ま、どうせ阿波粒みたいな土饅頭なんだろうけど、、、 >227
>雄略の晩年まで豊受比売は伊勢ではなく、丹後で祀られていた。
ハハハハハ 丹後は霧消したのかね? お粗末だね。 ワハハハハは @阿波 >>175
>畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
>「仮称」なんて使わず、魏志に書かれた言葉を使うべし。
九州王朝説廃業宣言いただきました
w
w
w >>239
>畿内説にヘラヘラと馬鹿にされて何も言い返せない九州説は
>儒教道徳的に最低最悪の気分だろうて
倭国(阿波)には、畿内説もね。 ハハハハハ @阿波 九州説はなぜ畿内説にマウントを取られてしまうのか?
それは九州説はアホだからだ >>248
ザラコクも、アホだねえ。
大和の庄内の始まりは3世紀末の石塚なんだ、
なんて、無根拠な事を言わなければよいのに。 >>242
じゃあこれからは、二十四節気吉井信号バカって呼ぶよww
でも、本当に筋の通らないことを延々と書くよな
3年分で1周とか、使い道のない妄想をずいぶん引っ張ってたし
何をモチベーションに、デタラメを書き続けてるのか説明してくれたらうれしい >>254
言ってる事の意味がわからん
さすがは阿波の原始人だ >>252
>丹後は霧消したのかね?
してないよ
豊受太神宮之本宮籠大明神も知らないんだw
やっぱり阿波はもの知らずの情弱ww 432>>582
>比恵那珂遺跡の外来系土器
TA期=在来系土器が主体で、点的に少量の伝統的X様式土器が伝播・受容される。庄内甕は受容されない段階。
TB期=在来系土器が主体で、庄内甕が比恵那珂遺跡群周辺のみで受容され、そして筑前型庄内甕が生産された。
UA期=北部九州型というべき布留式類似土器群が成立。 <
この人も、筑前型庄内甕をTB期にしている。
>TB期は、庄内2式並行期を古相とし、庄内3式並行期を新相とする。
この庄内3式期に続いてU式期に筑前型庄内甕からの変容と布留式類似土器が成立する。
なので、庄内甕が受容されたのは庄内3式期と考える。<
この「U式期に筑前型庄内甕」とした人は誰?。
>柳田康雄は、庄内3式は270年頃までとしている。<
これでもまだ、柳田はダメだな。
大和の庄内1の石塚は、3世紀末だから。 畿内説にマウント取られた九州説は根絶の憂き目に会う >>260
筑前型庄内甕は、TB期新相。
石塚3世紀末の根拠は、な〜に? つまり、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだね、、、 432>>584
>訂正 庄内3式の年代の終わりを270年頃としているのは柳田康雄ではなく、寺澤薫。
そして、柳田康雄は、庄内3式の終わりを300年としている。<
成程。了解。
>このほかに、比恵中央部ではTB期古相(庄内2式期)に前方後方墳が造られるが、<
ふーん、情報提供、有難う御座います。
>TB期新相(庄内3式期)には那珂中央部に前方後円墳である那珂八幡古墳が造られる。
この古墳造営の推移をみても、
庄内甕の受容と筑前型庄内甕の生産はTB期新相に起こったと考えるのが妥当だ。<
前方後円墳は、卑弥呼の冢の後だし、壹與の平原の後にもなるから、
「TB期新相(庄内3式期)」は×だし、
大和からの「庄内甕の受容」とすると、また×になってしまう。 432>>585
>TA期、TB期、UA期というのは久住の北部九州編年
筑前型庄内甕の製作が始まるのはTB期=3世紀前半=庄内3式並行期<
大和の庄内1は、3世紀末の石塚。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>259
>豊受太神宮之本宮籠大明神も知らないんだw
伊勢神宮の話をしてるんだが? 話をすり替えちゃ、イカンぜよ。
やっぱり君は文言知らずの情弱ww ワハハハハ @阿波 >>264
×とする、の根拠がな〜。
×とする、だけじゃ、なんのこっちゃいだよ。 5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。 >227
>雄略の晩年まで豊受比売は伊勢ではなく、丹後で祀られていた。
ハハハハハ 丹後の痕跡は伊勢で霧消したのかね? お粗末だね。 ワハハハハは @阿波 >>252
遷座したはずが、丹後でも引き続き祀っているから、神さんはあまねく存在しえるということかね。 >>257
二十四節気吉3年1周説かぁ
あのくらい100%成立不能って説もレアだよね
たいていはどんなトンデモでも
「ないわーソレw」程度ですむのに >>247
豚にやる餌つくらにゃならんしな。
それに、カレンダーは、便利なもんだからな。 >>272
>遷座したはずが、丹後でも引き続き祀っているから、神さんはあまねく存在しえるということかね。
はははは、それは遷座が嘘っぱちってことだよ。 残念だったね。
お伊勢さんの元社は、阿波市阿波町に在る伊勢神社だよ。 ワハハハハ @阿波 >>273
自分でも言ってること、わけ分からんのだろ。
無理すんな。 >>269
というか
「根拠は無いがワシの説は正しいんじゃぁ〜
だから文献史学の通説も考古学も
×なんじゃぁ〜」
が九州説だし 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? >>212>箸墓のほうが霊験あらたか
卑弥呼の御霊は神上がりしてすでにヤタノ鏡に移されて
伊勢神宮に祭られてるんで箸墓に霊験はないよ 畿内説がいう「文献史学」はいかに文献を無視しては妄想するかということでしょ >>275
阿波市阿波町の伊勢神社って、これただの村の寄り合い所じゃん >>265
>アカべ、だ。
二十四節気吉井信号バカさんやそれは「あかんべー」のつもりか?
まさかとは思うが「アガペー」のつもりじゃないだろうな?
そうだとしたら、「バカの限界突破」だぞww >>275
しっかし、その伊勢神社の祭神は何という神さんよ。
阿波伊勢神社を書いたサイトはあるが、祭神についてはまったく触れてない。
ほんに神さん祀ってるのかよ。 >>268
>伊勢神宮の話をしてるんだが? 話をすり替えちゃ、イカンぜよ。
その伊勢に勧請された豊受大神は元伊勢籠神社の祭神で、豊受太神宮之本宮籠大明神と呼ばれたし、
今でも福井県与謝野町で祀られてるよ
何一つどこにもすり替えなんてない
ただ阿波がもの知らずの情弱で、なんの話をされているのかすら理解できていないだけ
バカ丸出しw >>275
>それは遷座が嘘っぱちってことだよ
分霊とか分祀とか、泡では理解できないんだろうなw
もの知らずで根本が分かってない、情弱チェリーピッカーだからな 432>>587
>筑前型庄内甕の製作が始まるのはTB期=3世紀前半=庄内2〜3式並行期 <
この「庄内2〜3式」というのは、当然大和の「庄内2〜3式」の事であり、
しかし、大和の庄内1は、3世紀末の石塚になるから、
全然合わす、×。 >>283
そうだよ
だから九州説は文献と考古資料両方に基づく畿内説と違って
デタラメ文献読み替え説と揶揄される >>287
>その伊勢に勧請された豊受大神は元伊勢籠神社の祭神で、豊受太神宮之本宮籠大明神と呼ばれたし
いくら、抗っても無理無理。
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実である。 @阿波 饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市)
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県吉野川市山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。
「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。
阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。
「天村雲命」は,
(1)饒速日命が大倭国に天降るときに防御の人として高皇産霊神に使わされた三十二人の内の一人。「先代旧事本紀」
(2)邇邇芸命に命ぜられて高天原から水の種を持ち帰った。それが天真名井である。その功績として,邇邇芸命より天二上命,小橋命という名を賜った。
「小橋」と言えば,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」は,日向時代に,阿多小橋君の女(むすめ)の阿比良比売を妻としている。
小橋命とよばれた「天村雲命」の孫あるいは曾孫が阿比良比売で,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」に嫁いだとしても不思議ではない。
「天村雲命」の妻の阿俾良依姫と阿比良比売の名にも共通性を感じる。
「天村雲命」は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,「天村雲神社」が鎮座する射立郡は天五多手(あめのいたて)の名に通じる。
「天村雲神社」や同じく式内社の「伊加々志神社」周辺には「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見える。 @阿波 「天牟久怒命」=「天村雲命」を祀る、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、
阿波国旧麻植郡射立郷「村雲」に鎮座する。
この天村雲神の別名がなんと、「天五多底命 ( あめのいだてのみこと )」 なのである。
御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれる。
「天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神。鎮座地周囲は、湯立という字が残っているが、これは射立からの転訛。
もし、天村雲命=射立神だとすると、天村雲命=五十猛命とも考えられる。五十猛命は、素盞嗚尊の御子神であり、伊達神。」
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する日本唯一の神社なのである。 @阿波 >>290
>しかし、大和の庄内1は、3世紀末の石塚になるから、
>全然合わす、×。
ザラコク珍説と合わないってことは
正しい可能性がすごく高くね? 日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 弥都波能売神社 ミツハノメ神社(式内社)も、日本全国で阿波にしか存在しません。
その横にも日本唯一の式内社「倭大國玉神大國敷神社」。 @阿波 >>292、>>295
>日本語以外の何かかも知れんぞ
>日本語しゃべってくれよな
あー、確かに二十四節気吉井信号バカの人は、
日本人とは感性というか価値観が違うようだから、
日本語じゃないかもしれないね! 日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 弥都波能賣神社 (論社) 八坂神社
鎮座地 徳島県美馬市美馬町字滝ノ宮231
御祭神 素盞嗚命
創立年代不詳
式内社「弥都波能賣神社」論社の一社。
比定社は他にも美馬市脇町拝原にある「八大龍王神社」、美馬市脇町猪尻の「建神社」、三好市井川町井内「武大神社」などがある。
武大神社は、当社の地名と同じ「滝宮」と称されており、御祭神も当社と同じく「素盞嗚尊」。
建神社の御祭神も「素盞嗚尊」で論社に共通点がある。
神名そのままの弥都波能賣神社という式内社も日本で唯一阿波にしかない。 @阿波 >>282
神楽では
岩戸から神上がるって歌われてて
これは古墳から御霊が神上がることで
その御霊を鏡に移して祭るのが神道の基本計
だから古墳はそれほど大事にはされてないし
古墳に対しての祭事がない
祭事は神上がりした御霊にたいして行われる
手持ち皇女の歌に
死んで古墳に埋葬された夫に会いたいけど
女の力では岩戸をあけて御霊を取り出せない
とある 連投規制に合いそうな予感。
足浜目門比売神は、天日鷲命の后神です。
式内社 秘羽目神足浜目門比売神社(ひわめあわまどひめじんじゃ)で、
日本唯一、阿波で祀います。 @阿波 >>302
>阿波も神社連呼するだけのキチガイコースに入ったか
欲しければ一つぐらい分けようか? @阿波 >>285
アカべは、アカべじや。
アカンべーは、関東訛り。
関西のアカべは、赤舌(アカベロ)の短縮形。
関東のアカンベーは、あかんだべーの短縮だろ。
投稿増やしに付き合ってやるが、おめら小遣いかせぎには、赤べろみせてやるわ。
わははははは。 >>289>それなら祀られないだろ
御霊が神上がりしたとの箸墓に対する祭事は存在しない
神道は御霊を神として扱う宗教なんで
御霊の抜け殻の古墳を別に祭る祭事はない
卑弥呼の御霊はヤタの鏡に移されて
天照として伊勢神宮に祭られてるんで
箸墓そのものは神道の信仰の対象じゃなくなってる 式内社 阿波國美馬郡 天椅立神社
ちなみに全国で、そのものずばり「天椅立」神社という名の式内社は、ここだけである。
同じく日本一社 式内社 阿波國美馬郡 天椅立神社 の御祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 である。 @阿波 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>293
神道五部書は鎌倉時代に伊勢神道の度会氏が主張してるだけだからな 432>>601
>畿内の流行が北部九州で受け入れられるっていうのはその時点で、<
逆だな。筑紫の流行が、大和に伝搬したのだ。
筑紫の3世紀前半の庄内が、大和の3世紀末の前方後円墳の石塚に伝わった。
その伝搬の担い手は、九州倭国の東征軍。
>同一の文化圏、同一の流通圏の中にあるということで、九州だけの倭国は
どっちにしろ成り立たないよ <
東征軍があったから、伝搬が起こった。 >>311>箸墓には鳥居とか祠とかあるんだけれど
御霊が神上がりした抜け殻の墓に宗教的価値はないし
価値があるのは御霊であった
御霊を移した鏡がご神体として信仰の対象となる
天の岩戸伝承でも岩戸にヤタノ鏡を差し込んで
天照の御霊を移して天照を岩戸から出した事になってる
このことが神楽の岩戸からの神上がるって表現で
神上がった御霊が価値があるんだ >>311>箸墓には鳥居とか祠とかあるんだけれど
御霊が入ったヤタノ鏡は伊勢神宮のご神体として
手厚く祭られてる
一方の御霊の抜け殻の箸墓は
祠が立ってる程度で別に祭事もない >>312>東征軍があったから、伝搬が起こった。
神武東征はトヨの後で3世紀末の出来事だし
天照は鏡祭祀の時代の人物で
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物となる
神武は天照よりの5世代後の人物なんで
100くらい後ってことで3世紀末の人物ってことになり
崇神と同年代となり神武=崇神となる >>314
他の古墳も大体そんなもんだよ
日本一大きな古墳の仁徳天皇の御霊はどこに移されて祀られてるのかなあ >>293
つまり、伊勢に天照大神が祀られたその最初から忌部氏が宮司を務めたという意味か。
そして、その忌部氏と丹後の海部氏は同系であるので、伊勢忌部氏の要請で豊受比売を天照神の食事係りとして分祀した、ということなのか。
しかし、豊受比売の伊勢分祀については、膳氏が関わっている。
そもそも、豊受比売の伊勢分祀は、膳氏と物部氏、阿閉氏の企画である可能性が高い。
忌部氏がその際の伊勢の宮司であったのなら、豊受比売の伊勢分祀の利権がらみの謀略に、忌部氏も一枚かんでいたことになる。
そういう意味深を臭わしているのか、@阿波は。 >>278
二十四節気には、天文知識はいらんよ。
わははははは。 >>312>逆だな。筑紫の流行が、大和に伝搬したのだ。
卑弥呼が共立されたときに
筑紫から大和に卑弥呼に従って多くの人が移住したので
大和で作られて土器は筑紫の工人が作った土器ってことになり
それが逆に筑紫に大量に伝わってる 432>>611
>1.渡海と水行は区別されている 2.渡海区間も含めて水行とまとめる理由がない <
渡海は水行に含まれる。
>4.方角の齟齬(冒頭で東南大海中とあるのに南だけで着く)<
「乍南乍東」や「東南陸行500里」や「東行至不彌國」などがあり、
「方四百余里」や「方三百里」があり、
3渡海は、狗邪韓国から對海國と、一大國から末盧國は、
が見えているから方向そのものが 要らない事と、
對海國から一大國は、対馬海流に流される事を見込んで「南へ出港」したのだし・・・。
>5.投馬国は戸数道里略載の女王国以北の国 <
女王國以北の不彌國からの側副傍線國であるから、以北でよい。 >>316
最近の教科書では仁徳天皇陵とは書かれていない。 >>293
外宮職がのしあがるために作ったのが…五部書。 >>306
つまり、歴史の真実の追究には興味がなくて、
勝ち負け、マウンティングが目的ってことだな
まあ「恨」の文化の人なんだろ
考えてみれば、平原1号墓の大柱が太陽信仰の証拠って言うために、
二十四節気三年分1周説とかいうデタラメを無理に考え出したのに、
気がつけば平原、伊都国そっちのけで、吉井信号祭祀センターとか言いだしてるくらいだからな
言いたいことがある訳じゃなくて、とにかく思いつきにウソを重ねてゴマカシ続ける芸風
やっぱり古田史学の幹部かなww >>319
ついにゲロしたか?
卑弥呼が共立されたときに
大和から筑紫に多くの人が移住したので
筑紫で作られて土器は大和の工人が作った土器ってことになり
これが真実だろう。 >>315
>神武東征はトヨの後で3世紀末の出来事だし
これって畿内説の意見? >>321
それが何か
卑弥呼の御霊がヤタの鏡に移されたから古墳は祭られないというのは
引っ込めるのか >>316
難波神社とか多数の神社で祭り神として祭られてるけどね
たとえば明治天皇にしても御霊が明治神宮に祭られてるんで
墳墓よりも明治神宮の方が信仰の対象になってる 432>>617
>その場で方角が分かるのと、 史書に正しい方角が書かれるのは、
同列には論じられない <
東西南北の文字は、それぞれ全く違うから、古代の中国の識者も、
間違える筈がない。 >>326
それは別人。
卑弥呼が亡くなった後に再び世が乱れたからだと思う。 >>327
じゃ卑弥呼の御霊は伊勢神宮で祀られているのか
どうかなあ >>316
古墳よりも御霊を移した鏡をご神体として祭る神社の方が信仰の対象なんで
古墳は被葬者も分からなくなってるのが現状だ
古墳が信仰の対象なら
古墳の被葬者が分からなくなるなんてなかったんだけど
神上がりした御霊が信仰の対象なんで
御霊か抜けた古墳は単なる抜けからで時がたてば被葬者さえも定かでなくなる
仁徳天皇の古墳がどれかは正確には分かって無いし >>325
神武=崇神は畿内説とかあまり関係ないかもね
ともの初めて国を治めた王ってことで同一人物しされてるし
卑弥呼が天照なら必然的に5世代も後の神武は
3世紀末ごろの倭王となって崇神と同時代になってしまう >>330>じゃ卑弥呼の御霊は伊勢神宮で祀られているのか
どうかなあ
最初の倭の女王の御霊が手厚く伊勢神宮で最高の権威とした祭られてるのはごく自然のことだけどね
ちなみに次のトヨも伊勢神宮外宮にトヨヒルメ(豊受大神)として祭られてる
古代の2人の倭の女王は
最高の待遇で伊勢神宮に祭られてるってことで
極めて普通のことだと思うけどね >>330
>>>327
>じゃ卑弥呼の御霊は伊勢神宮で祀られているのか
>どうかなあ
畿内説ならそれでもいいんじゃないか?
あれ?
九州説でも構わないのか? 少なくとも箸墓の被葬者とされるヤマトトトヒモモソヒメを祀る神社は
奈良の神御前神社と孝霊神社
吉備と讃岐に複数
静岡の二宮神社なんだって
伊勢神宮はないな 432>>621
>古田史学の会の読み方では、奴国2万戸も投馬国5万戸も置ける平野はない<
奴國は、三雲付近から早良平野であれば十分。
投馬國は、鹿児島〜宮崎で十分。
>福岡平野全域で2万戸ならともかく早良平野で2万戸は土地生産性から見ても無理<
福岡平野全域では「東南至奴國百里」に全く合わないから、×。
>まあ、島巡り仮説とか臆面もなく言えるところがすげぇなとは思う<
對海國と一大國の国内見聞移動をした記載があるのに、それを計算しない方が、×。 >>294
阿波衆も、結局は南九州へ1万2千年前に上陸したO1a系の縄文人の一派だということに尽きるなあ。
ただ、南九州から北上して丹後などへ進んだ者たちとは別に、東へ進んで四国から紀伊紀ノ川上流、そして伊良湖岬、東海へと進んだ一派もあったということだ。
丹後へ海部氏がやってくる前には、先に進出していた北上組が勢力を張っていたが、いつ入れ替わったのかが興味深いところだ。 卑弥呼の魂がヤタの鏡にどうこうはデタラメだな
それと古墳にも鳥居や祠や神社が付随してる物が多く
古墳自体が祀られてないという事はない >>300
一人二役かよ。
投稿誘うのも、大変だなあ。 そもそも、ニニギが筑紫に持ち込んだ八咫の鏡がいつ大和に持ち込まれたのか、記紀は明らかにしていないんだよね。
神武が饒速日と会った時は、矢を見せて氏族を明らかにした。
八咫の鏡などの三種の神器は持ち運んでいないんだよ。 >>310
>神道五部書は鎌倉時代に伊勢神道の度会氏が主張してるだけだからな
外宮神主の度会氏が、内宮の荒木田氏と同格だと主張するために、鎌倉時代に創作したものだよね 八咫の鏡が卑弥呼の鏡ならば、平原の鏡の最後の一枚が4世紀あたりに東遷したということでいいのではないか。 >>329卑弥呼が亡くなった後に再び世が乱れたからだと思う。
卑弥呼がなくなって倭が乱れたんで
卑弥呼の御霊をヤタノ鏡にうつし
卑弥呼の御霊を奉斎するトヨを巫女女王として共立した
このことは神楽の主要なテーマになっていて
トヨ(トヨヒルメ)が神上がりした御霊欲すとうたわれてる
倭国を収める為に
トヨヒルメ(トヨ)が卑弥呼の御霊を奉斎したってことで
これが天の岩戸から天照が神上がりした伝説なんだけどね >>308
>天椅立神社
丹後の天橋立とは縁も所縁もないじゃないかww
他の神様も、古典に見える神を手当たり次第に適当に祀ってるだけだろ
阿波の昔の人はコレクター気質だったんじゃね? >>335少なくとも箸墓の被葬者とされるヤマトトトヒモモソヒメを祀る神社は
三輪王朝で最大で祭祀の巨大古墳の被葬者は
女王以外にない
この時代の女王は卑弥呼ただ一人で
箸墓は卑弥呼の墓だ >>339
3人別々に投稿してるぞww
二十四節気吉井信号バカは、いろんなキャラで書き込みしてるんだなww 阿波も独特な思考をするよな
畿内の古墳は忌部はんが葬られてるから阿波が偉いとか
もちろん違うし邪馬台国の位置論争とは本来関係なしなのに >>323
目のつけどころが、甘い。
それじゃ、真実に届かん。
もう少し鋭くなければな。
いつも、的に少しずれるのは、鋭さに欠ける脳みそのせいということじゃ。
あきらめろ。
それもこれも、才能のしからしむるところだ。 >>343卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡だよ
卑弥呼の御霊を移した鏡は
円周が八ヤタで八花八葉の内行花紋鏡だ
これが伊勢神宮のご神体のヤタノ鏡で
神道の至高の存在ということだ >>346
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメは有力説だよ >>343卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡だよ
3角縁は卑弥呼の死後に作られた鏡で
倭国連合に配られたけど
卑弥呼が朝貢した年を記念する記念鏡もあるし
倭国連合の鏡って感じかな >>350
箸墓の御霊を移した割には
ヤタの鏡のある伊勢神宮に被葬者のヤマトトトヒモモソヒメは祀られてないな
卑弥呼怒るんじゃ
>>352
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏に使いを送ったと
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に記載のある
景初三年(239年)の魏年号の記銘がある >>351>卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメは有力説だよ
天照の生前の名前はオオヒルメで漢字表記は大日巫女
巫女を一文字の創作漢字で表現してメと読ませてるけど
普通の漢字表記すれば大日巫女
大日巫女で表記すれば
そのものずばり卑弥呼なんで
記紀ではそれを曖昧にするためにわざわざ存在しない創作漢字まで作ってる >>349
具体的な根拠を示した反論はできないんだな?ww
二十四節気三年分1周説の時にも散々バカにしたが、根本的に無知無能なんだよ、>>349はw
目の付け所が甘い、というのは
古田史学の幹部じゃなくて、古田史学に背乗りしてる半島人だってことを自白してるんだろww >>351
伊勢神宮内宮の天照の別名はオオヒルメで漢字表記は大日巫女
伊勢神宮外宮の豊受の別名はトヨヒルメで漢字表記は豊日巫女
この2神が
倭女王の卑弥呼とトヨに相当する >>354
神話上の存在と実在の可能性のある人物を一緒にしちゃいけないな
天照大御神と卑弥呼は記紀でも書かれてる年代が違う >>353>箸墓の御霊を移した割には
>ヤタの鏡のある伊勢神宮に被葬者の
>ヤマトトトヒモモソヒメは祀られてないな
>卑弥呼怒るんじゃ
伊勢神宮内宮の天照の別名はオオヒルメで漢字表記が大日巫女ってことになり
これが卑弥呼だよ >>358
卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメ説が今のところ主流なんだけれど >>357天照大御神と卑弥呼は記紀でも書かれてる年代が違う
天照は鏡祭祀の時代の人物で
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物ってことで
卑弥呼と天照は同時代になる >>357天照大御神と卑弥呼は記紀でも書かれてる年代が違う
天照は銅鐸祭祀みたいな古い時代の人物じゃないけどね
ヤタノ鏡でもわかるとおり
天照は鏡祭祀の時代だ
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照の時代は2世紀末以降となり
天照と卑弥呼は同時代となる 卑弥呼より先代の神武天皇とか天照に願掛けしたりしているが
卑弥呼が天照なら時系列がおかしくないか >>342八咫の鏡が卑弥呼の鏡ならば、平原の鏡の最後の一枚が4
平原のヤタノ鏡は
倭国大乱前の男王の御霊を移す為のものだけど
男王の御霊をヤタノ鏡に移して
そのヤタノ鏡を三輪山に据えて
三輪山のふもとに巻向を建設したってことになる
北九州から巫女としての卑弥呼を連れてきて
巫女女王として共立して
男王の御霊を奉斎する形式で倭を治めた >>362卑弥呼より先代の神武天皇とか天照に願掛けしたりしているが
神武の時代にヤタノ鏡があったが
ヤタノ鏡が出来たのは2世紀末以後なんで
神武はそれほど古い時代の人物じゃないよ
ちなみに天照も鏡祭祀の時代の人物なんで
銅鐸祭祀の終焉が2世紀末まで天照は2世紀末以降の人物となり
天照の5世代あとの神武は3世紀末くらいの人物になる
ってことで天照と卑弥呼が同時代で
神武と崇神が同時代になり
天照=卑弥呼 神武=崇神
となる >>342
>八咫の鏡が卑弥呼の鏡ならば、
>平原の鏡の最後の一枚が4世紀あたりに東遷したということでいいのではないか。
平原のヤタノ鏡は2世紀末に作られたもので
倭国大乱前の男王の御霊を移すやめの鏡だ
男王の御霊をヤタノ鏡に移して
その鏡を三輪山に据えて
三輪山のふもとに巻向を建設して
巻向に卑弥呼を迎えて男王の御霊の神託を告げる
巫女的女王として卑弥呼が共立されて我が統治された >>338
神道で大事なんは御霊であって墳墓じゃないんだよね
ってことで古墳じたいは埋葬者も分からないっていうんが多数なんだけどね 日本の話ではないと言ってるんだよ、
どこの池沼なんだw
認めたくないのはわかるけど、
何が嫌なんだろう?
ずっと神(例えば自分は〜、自分の家は〜、)だと
思っていたのに、神様ではなかったからなんだろうw 伊勢とか出雲とか何も関係ないし、
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ >>362
>卑弥呼より先代の神武天皇とか天照に願掛けしたりしているが
>卑弥呼が天照なら時系列がおかしくないか
銅鐸祭祀の時代は記紀には出てこない
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
記紀の神代は2世紀末以降の物語るになる
天照も当然2世紀末以降の鏡祭祀の時代の人物となり
卑弥呼も2世紀末以降の人物なんで
天照と卑弥呼は同時代の人物となり
天照と卑弥呼は同一人物ということになる
神武も当然鏡祭祀の時代の人物だけど
天照からさらに5世代後の人物なんで100程度後として
3世紀末ころの人物となる
崇神も3世紀末頃の人物で
神武も3世紀末頃の人物なんで
同時代の人物となり
二人は同一人物となり神武=崇神となる >>357天照大御神と卑弥呼は記紀でも書かれてる年代が違う
記紀では天照を鏡祭祀の時代の人物としてる
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物となり
天照と卑弥呼は同年代の人物となる それで・・・カミたま、三貴子?
実在していたとして、
どこの国の話なの、日本の話なの?と聞いているんだよw
ホンモノなら「違う、日本の話ではない」と答えるだろう、
ここが何やらで、ここが〜、ここが〜で?
そういうのも、とある時代になり、
テキトーに決めただけなんだろうという意味 >>343
配った量産品と、本人の分け御霊は違うだろ どこの池沼の集団なのかしらないけど、
いつまで同じ話をしているんだ 説明しなくても、わかる人にはわかる
『ムー大陸』〜『うらしまたろう』
とある漫画に出てくるキャラ(仮名。キャラクター名。)がいるでしょ、
太陽の紋章〜と言っていたり >>357天照大御神と卑弥呼は記紀でも書かれてる年代が違う
銅鐸祭祀は古い祭祀で記紀には記載されてない
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
それ以降は鏡祭祀の時代だ
記紀で表現されてる天照の時代は鏡祭祀なんで
天照は2世紀末以降の鏡祭祀の人物だ
卑弥呼も天照もともに2世紀以降の鏡祭祀の時代の人物ってことで
卑弥呼と天照は同時代の人物になる 実在している存在?のほうの話でしょ、
日本列島(日本視点)から見て、←↖↑の方面から来た 『ムー大陸』
画像を調べてみて、日本(列島)があるでしょ?
日本から見て・・・(←↖↑)・・・の方面から来た ただ太陽、日が昇る・・・という意味なら、
ムー大陸のほう・・・。 天照の墓があると言うのはおかしいので、実際は卑弥呼の墓なんだけども、
架空の皇女(モモソヒメ)を創作してその人の墓と言うことにして辻褄を合わせた。
異常に速い工事ペース(昼は人が造り夜は神が造った)と、
奈良盆地の端から端まで1〜2万人の人間が並んで葺石を手渡しした、
と言うエピソードはあまりに強烈に人々の記憶に残り、
記紀編纂の時代にも伝わっていたので、そのまま日本書記に記載された。
ただ、どうにも整合しないのは、崇神の時代に宮中から天照を追放して天照は流浪の旅に出て、
他方モモソヒメは三輪山(出雲系の蛇神)の斎宮になる(後に決別する)のだが、
この2人が同一人物と言うのがどうにも分からない。 いい加減に気づいたらどうなんだ、
気づいている人は気づいているんだけど、
というか知っているの 張魯の『鬼道』と同じ『鬼道』の文字を使っていたり、
大陸に対して異常に鋭敏な外交感覚を持っていたりすることから、
卑弥呼が大陸からの渡来人ではないか、という説もあったりするんだが、
そうすると天照とも、出雲系蛇神の斎宮であるモモソヒメとも、
どうもしっくり来ない感じがする。 432>>622
「南→東」などの、人類の常識はずれの嘘吐き騙しをする大和説って
現実を無視する宗教なのかな? 432>>623
>>普通に読めば、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わってしまっているから、<
>終わってしまっていると、倭人の国が会稽のはるか北になって史料事実と合わない
それで九州説は終わってしまっているから、ご愁傷様<
いや、
邪馬壹國女王之所都が筑紫付近になり、投馬國が南九州になって、
女王國がほぼ九州島全域位になり、
会稽東治の上海付近から江蘇省海岸付近の「之東」にほぼピッタリになる。
ご愁傷さま。 432>>628
こんな、「南→東」などのウソばかりついてるから
大和説はダメになった >>386
>いや、
>邪馬壹國女王之所都が筑紫付近になり、投馬國が南九州になって、
>女王國がほぼ九州島全域位になり、
こいつ、本当にバカ
目の前のことしか考えない
女王國を「ほぼ九州島全域位」とかにしちゃったら
「其餘旁國」はどこに詰め込む気だ
どうせ後で「私は『ほぼ』と説明きてきた」とか
言い出すんだろ 卑弥呼の鬼道は
鬼籍に入った人の御霊を神としその神託を巫女が告げるというものだ
卑弥呼が奉斎した御霊は倭国大乱前の男王の御霊ということになり
男王の御霊の神託を告げることで大和連合を治めるって形の祭りごとなんだけど
鏡は御霊しろとして重要な祭祀道具で
この鏡に鬼籍に入った人の御霊をいれて
これが鏡祭祀の原型となった
男王の御霊は八咫の鏡に移され三輪山に据えられ
三輪山のふもとに男王を祭祀しる為の祭都である巻向が造営された
卑弥呼はこの巻向で男王の御霊に奉斎した
卑弥呼の死後に男の王を共立したけど
再び倭国は乱れた
男の王を追放して
新たな女王トヨをたてた
トヨは巫女としての女王で
トヨが奉斎する御霊は卑弥呼の御霊だ
卑弥呼の御霊も八咫の鏡に移され
トヨは卑弥呼の御霊を奉斎して祭りごとを行った
これは倭国大乱前の男王の御霊の神託を
卑弥呼の御霊が受け取り
卑弥呼の御霊が告げる男王御霊の神託を
巫女としてのトヨが受け取るというものだ 432>>630
>>伊都国は、末盧國からの出発でも、途中でも見えていないから、魏使らは書けないし、<
>魏使は伊都国に行ってるんだけど、
自分がどっちから来たか理解できない方向オンチさんなんですか?<
そりゃ、到着した伊都国からも、
出発した末盧國も、案内された途中の道も見えないんだから、、
普通の人間である魏使らは、末盧國の後「どの方向から来たのか?」もわからない。
>唐津港が真西に見える場所から北へ北へと進んで来たけど、自分がどこにいるか分からない人ですか? <
岩場伝いでも山道でも、当然クネクネ道だから、
全体としてどの方向へ向いているのか?なんて決めていられない。
>そりゃ彼、畿内を南と書き残しても仕方ないわ><
そりゃ、こんな嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者じゃ、
「南→東」などの嘘吐きだましをして、当然だわ。 もう
九州説はひたすらウソをつき続けるほか
延命措置は無いんだね
植物状態だけど >>391
>岩場伝いでも山道でも、当然クネクネ道だから、
>全体としてどの方向へ向いているのか?なんて決めていられない。
星も見ない
太陽も見ない
山の頂も見ない
あらゆる現実味を見ない
それが迷走する迷妄、九州説 >>381
>天照の墓があると言うのはおかしいので、実際は卑弥呼の墓なんだけども、
>架空の皇女(モモソヒメ)を創作してその人の墓と言うことにして辻褄を合わせた。
天照は鏡祭祀の時代の人物で
銅鐸祭祀みたいな古い時代の人物じゃないし
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物だ
神武は天照よりの5世代あとの人物なんで
100年程度後として3世紀末の人物だ
神武が3世紀末とすると崇神と神武は同一時代の同一人物となり
神武と崇神の間の天皇は存在しない事になんで
当然ヤマトトモモヒメも架空の人物ってことになる 432>>631
>周髀で測定とか、大ウソだったと自ら明かす古田説 w w <
周髀算経の一寸千里の法の千里が短里である事を見つけられたのは、
古田さんではなく、京大出の計量学者である(古田説ではなかった)谷本さんだし、
韓の方四千里や行程の千里以上の計測などでは、
一寸千里の法や簡易三角測量などを使っている、という説明をしているのは、
知ろうとオジンの私以外には、おられるかどうか?も知らんよ。 432>>633
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の大和説、
完全に終わったな >>383
神道の神は
死んで鬼籍に入った人間の御霊で
これのルーツは卑弥呼の鬼道だ
卑弥呼の鬼道は
死んで鬼籍に入った人の御霊を神として祭る宗教だ
現在の神道の神社の祭神は
死んで鬼籍に入った人の御霊だし
たとえば明治神宮の祭り神は明治天皇で
豊国神社の祭神は秀吉の御霊だし
日光東照宮の祭神は家康の御霊だし
靖国神社は兵士の御霊だし
御霊が神っていうんは卑弥呼の鬼道が原型ってことなんだけどね >>396「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の大和説、
船が南に向いてても
海流にながされて南に進むとは限らない
中国の使者の船は南に向いてたけど海流に流されて
ついた先は出雲圏でそこが投馬国だ
記紀によればスサノヲを出雲に作った都の長官名は八耳で
接頭語の八をとれば長官名はミミ
魏志倭人伝に投馬国の長官名はミミときされて
これは出雲圏の都の長官名で
投馬国は出雲圏の国ってことになる 432>>641
>直接見えないとどっちの方角かわからないの?<
漢書如淳注の段階で既に、
樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。【如淳曰:「如墨委面、在帶方東南萬里。」
と記録しているから、おそらく楽浪や帯方の軍役人らの記録で、
倭地への「大体東南方向」という事は判っていたの。
>じゃあ畿内の邪馬台国が南でいいね? <
畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は狗邪韓国のほぼ東だし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
邪馬壹國女王之所都は、その不彌國のすぐ「南」にあり、
「南≠東」などに拠って、大和説は×なの。 前方後円墳は
墓の部分は円形の部分で
方形の部分は墓の付帯設備だ
墓の部分は円形なんで特に方角というのはない
だから前方後円墳にも方角が無く
向きがバラバラなんだ
魏志倭人伝で墓の径が100歩と記されてるけど
これは墓は円形ってことを示してる
箸墓の円形の部分が墓でこれが径100歩で
卑弥呼の墓ってことだ >>395
周髀で測定とか、大ウソだったと自ら明かす
素人オジン嘘つきザラコク
w
w 432>>645
>X式の場合は、庄内甕のケースとは異なり、近畿から北部九州へピンポイントに伝わったのではないのだ。
近畿から中国地方へ、中国地方から九州へ。 また同じく、徐々に北陸へ、関東へと全方位に波及した。
電波のない時代だから、流行の波及は地域間のバケツリレー式になる。
一方、庄内甕の場合は、吉備、あるいは大和、河内からピンポイントで那珂地域に直接移動したわけ。
このようなことから、庄内甕の博多地域への移動は、まぎれもなく政治的背景のあるものであったとみなされるのだ。<
ダメだ。
生活用品の伝達拡散方向は、当然、
最初に発明した古い方から新しい方であり、
伝達拡散を担当する人物の存在や必要があった場合であり、
第X様式の場合は、その先後の実態がまだ不明にあるが、
庄内は、
筑紫の三雲や弥生銀座や祇園山?で3世紀前半とほぼ決まり、
大和の最古の庄内が撥型前方後円墳の石塚であるから3世紀末である事が決まって、
筑紫が大和に先行していた事になり、
また九州からの「東征毛人五十五国」という巨大な人的移動があった事も明確であり、
従って、その庄内の前になる第X様式も、
大和よりも筑紫の方が先行していたんだろう、
と推定出来る事になるのだ。 >>402
九州からは大量の工人を含めた人たちが大和に移住したんで
逆の九州の土器は大和に伝わらなくなって
大和で九州の工人が作った土器が逆輸入の形で
大和から九州に流れてる
他の地域では土器が大和に流れるって展開だけど
大量の工人が大和に流れた九州だけど
逆の大和から九州に土器が流れるって事になってる
これも巻向の建築には九州勢力が主流を占めたって事にあかしだ >>383
卑弥呼は倭人
大和朝廷は倭人と渡来人が作った国 >>402ダメだ。
>生活用品の伝達拡散方向は、当然、
>最初に発明した古い方から新しい方であり
九州の場合は
大和に工人を含めた大量の人間が移住した
それで土器は他の地域とことなり
大和から九州に流れるって展開になった
卑弥呼が九州の巫女なんで
巻向に来る時に大量の人数の人間を伴ったんで
巻向の主流は九州勢となり土地の名前が九州と同じになってる
、 >>405
そんな妄想書き殴って、なにが楽しいの? >>403
>九州からは大量の工人を含めた人たちが大和に移住したんで
>逆の九州の土器は大和に伝わらなくなって
これっておかしいよねw
>他の地域では土器が大和に流れるって展開だけど
これも事実と違うよね 人生の終わりの闇の中で
ずっと寝ボケている
それが九州説 >>402
九州は巻向に対して他の地域とことなる現象が起きてる
他の地域は他の地域から土器が巻向に流入してる
だけど九州には逆に巻向の土器が九州に入ってる
この原因は九州から工人を含めて大量の移民があったからだ
九州からきた工人が巻向で土器をつくり
それが九州に逆輸入されてる流れが起きてる
これは卑弥呼が九州の出身で
卑弥呼が巻向に入り時に九州から大量の人々が巻向に入ったことを意味してる >>310
>神道五部書は鎌倉時代に伊勢神道の度会氏が主張してるだけだからな
そして、なんの異論もなかったとさ。 ワハハハハ @阿波 >>408
巻向と九州は土器の』形態が同じで
これは九州から巻向へ大量の人が』移民したことを意味してる
他の地域はその市域から土器が巻向に向かったけど
逆に大量の移民があった九州は巻向の土器が九州に流れる方向になる 又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居
「草木茂盛行不見前人」 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之
⇓
「草木茂盛行不見前人」
東南陸行 五百里 到伊都國 アンカの右にそのまま引用を書く人も
思い込みと妄想が強いな
大規模移住はどちら方向でも考古学的証拠がない
天照大神が実在で、倭迹迹日百襲姫命を架空の皇女とする理由はない
通常の考えなら、人の方が実在で、神がその存在の神格化であり架空とする
日本では、神は系譜のカミ(上)の存在であり祖先の「人」だというのはあるけれど、
天照大神と神武天皇の間の系譜が史実だと考えるべき理由はない
日本書紀でも、ニニギの天降りから神武の東征開始まで179万2470年あまりと
神代はあくまで神代で、人の世と直接繋がらないことをはっきり示している 纏向から集落跡まだ見つかっていない
市場兼葬儀場から抜け出せない >>317
>忌部氏がその際の伊勢の宮司であったのなら、豊受比売の伊勢分祀の利権がらみの謀略に、忌部氏も一枚かんでいたことになる。
>そういう意味深を臭わしているのか、@阿波は。
そんなに小難しく、ひねくり回す必要はないよ。
8世紀の奈良遷都を契機に、伊勢へ遷宮しただけだよ。 @阿波 >>409
倭国が大いに乱れたんで
九州の巫女である卑弥呼が共立さえれて
男王の御霊を奉斎する巫女女王となった
男王の御霊はヤタノ鏡に移されて三輪山に据えられ
三輪山のふもとに男王の御霊を祭祀する都である巻向が造営され
九州の巫女の卑弥呼が巻向に東征して祭りごとを行った
卑弥呼ととも北九州から大量の工人もきたので
逆に大和の土器が北九州に流れた >>322
>外宮職がのしあがるために作ったのが…五部書。
そして、なんの異論もなく、今に伝わっているとさ。 ワハハハハ @阿波 >>416
巻向は祭りごとをする為の祭都で
生活の場じゃない >>412
>なんの異論もなかったとさ。
いや、そうじゃないよ
「あー、はいはい、ワロスワロス」っていう、
このスレでの泡と同じような扱いだったんだよ
「神道五部書は、江戸時代に、尾張の神官である吉見幸和によって、偽書であると指摘された。」 400日本@名無史さん2019/03/08(金) 06:59:23.52
前方後円墳は
墓の部分は円形の部分で
方形の部分は墓の付帯設備だ
根拠なし >>419
伊勢神宮外宮の豊受大神の別名は
トヨヒルメで漢字表記は豊日巫女
神楽は
天の岩戸の天照の神上がりを表現してるけど
そこでトヨヒルメ(トヨ)が天照の御霊を欲し
天照の御霊を奉斎する巫女となって倭を治めてる >>337
>ただ、南九州から北上して丹後などへ進んだ者たちとは別に、東へ進んで四国から紀伊紀ノ川上流、そして伊良湖岬、東海へと進んだ一派もあったということだ。
>丹後へ海部氏がやってくる前には、先に進出していた北上組が勢力を張っていたが、いつ入れ替わったのかが興味深いところだ。
そういった動きは、縄文時代からの「忌部はん」活動結果なんだよ。 @阿波 >>411他
>だけど九州には逆に巻向の土器が九州に入ってる
九州に入っているのは纒向の土器じゃなくて、南河内の土器だよ
何か、頭の中で「謎の体系」を作り上げちゃってるみたいだね >>341
>外宮神主の度会氏が、内宮の荒木田氏と同格だと主張するために、鎌倉時代に創作したものだよね
そして、なんの異論もなく、今に伝わっているとさ。 ワハハハハ @阿波 >>417
>8世紀の奈良遷都を契機に
こういうトンデモが泡の本質
実体がないところに空気を吹き込んで、妄想のバブルを膨らませているだけ >>420
畿内説の学者が
纏向「大集落」と騒いでいるのね 笑っちゃうな
祭事をおこなった場所でいいだろう >>425
卑弥呼が九州から巻向に来た時に
九州から大量のひとが近畿に来たんで
当然南河内にも大量の九州人か来てるんで
関西一円で九州と地名が同じになってる
」
要するに九州の多かったんで関西の地名と位置が
九州と同じになってるのだ
九州と同じ地名の範囲が邪馬台国で
これはかなりの広範囲だ >>427
と、素人が根拠もなく学者を誹謗
それが、九州征伐 >>418
>九州の巫女である卑弥呼が共立さえれて
九州の巫女を畿内まで移動させる必要がどこにあるんだ? 「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。
草木茂盛し、行くに前人を見ず。
魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」
草木茂盛し、行くに前人を見ず。
草木茂盛し、行くに前人を見ず。
草木茂盛し、行くに前人を見ず。 >>345
>他の神様も、古典に見える神を手当たり次第に適当に祀ってるだけだろ
「手当たり次第に適当に祀ってる」のが、唯一倭国(阿波)だけという真実。 さぁ、どうしたもんやら。
>阿波の昔の人はコレクター気質だったんじゃね?
「古典に見える神」が唯一倭国(阿波)に居た証だろうね。 ワハハハハ @阿波 >>425
>九州に入っているのは纒向の土器じゃなくて、南河内の土器だよ
南河内も邪馬台国の範囲で巻向圏なんだ
ようするに九州から移住したひとが多かったんで
関西の地名と位置が九州と同じなってる
九州と同じになってる範囲が邪馬台国で
これが巻向を首都とする邪馬台国の範囲なんだ
巻向は祭都で人が生活する場所じゃないし
実際の土器は邪馬台国圏で作られる
南河内の巻向を首都とする邪馬台国圏なんだ
だから南河内の土器は九州に流れるってことだ >>348
>阿波も独特な思考をするよな
君は、本当のことに面食らってるだけなんだよ。 真実に向き合いなさい。 @阿波 >>425
>九州に入っているのは纒向の土器じゃなくて、南河内の土器だよ
邪馬台国は広いんだけどね
出雲圏が投馬国で
投馬国から邪馬台国までは間に国はなく
接してる状態でどちらも今の感覚だと複数県にまたがる大国なんだよね
ってことで南河内も邪馬台国なんだから
当然卑弥呼とともにきた工人が多く移住してるんだ 西国が日本の体をなしたのは奈良時代からだと思うな
東国はまだ蝦夷地 432>>647
「南≠東」などで論破され尽くして、
もはや中傷しかできなくなって、それも我が身に降りかかる「鸚鵡返し」を食らって、
もはや逃げ道も無くなってしまった、哀れな・・・・アホ詐欺の大和説 >>428
>畿内説の学者が
>纏向「大集落」と騒いでいるのね 笑っちゃうな
>祭事をおこなった場所でいいだろう
出雲圏が投馬国で投馬国と邪馬台国二間には国はなく
お互いは接してる
ようするに投馬国も邪馬台国の複数県にまたがる大国なんだ
ってことで邪馬台国の祭都は巻向だけど
巻向は生活の場ではなく三輪山に納めらた男王の御霊を奉斎場する為の場所なんだ
生活の場は
複数県にまたがる広さの邪馬台国に分散した損際してた 纒向って南河内なのか?
しかも邪馬台国(大和)が出雲と接しているって、畿内説はトンデモなんだな。 >>356
>伊勢神宮内宮の天照の別名はオオヒルメで漢字表記は大日巫女
>伊勢神宮外宮の豊受の別名はトヨヒルメで漢字表記は豊日巫女
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波 >>437西国が日本の体をなしたのは奈良時代からだと思うな
東国はまだ蝦夷地
前方後円墳は関東から』九州にかけての広い範囲でほぼ同時に
作られ始めてるんで
倭国30国の範囲は関東から九州にかけてだ 九州だと伊都国と奴国とか数キロごとに国邑を記録していた郡使が、肝心の女王国(畿内説によると伊都など九州北部を含まない西日本)については出雲と大和しか記録していないのだとか。
おかしいだろ。 432>>653
>その庄内式の模倣製作がはじまるのは3世紀前半、
筑紫と大和とでは、庄内の始まりは、
筑紫の3世紀前半に対して、大和は撥型前方後円墳の石塚の3世紀末でしかなく、
九州倭国の「東征毛人五十五國」という伝播発生事件があったんだから、
筑紫が大和を模倣したのではなく、
大和が筑紫を模倣した、という事になる。 一応、関東も古墳時代に突入するんだけどね。
前方後円墳が一番多い都道府県は千葉県。
畿内説が前方後円墳を根拠とするなら、千葉県も候補にするべきだな。 >>443
古代の国でも吉備とか越とか毛野は複数県にまたがってた
九州の国は小さいけど
本州の古代に国はもっと大きいし >>413
>巻向と九州は土器の』形態が同じで
そりゃ、当たり前。 纏向にも九州にも「忌部はん」 が行ってるんだから。 @阿波 >>433
>「手当たり次第に適当に祀ってる」のが、唯一倭国(阿波)だけという真実
そうだろ?
縁も所縁もない神様を祀ってるんだよ
阿波にその神様の縁起がある訳じゃない
>「古典に見える神」が唯一倭国(阿波)に居た証だろうね。
天橋立が阿波にいたはずがないだろうがww
阿波は他所の神様を勝手に祀る土地(ちゃんと分祀してればいいけど) >>442
>前方後円墳は関東から』九州にかけての広い範囲でほぼ同時に
>作られ始めてるんで
「忌部はん」 が古墳造営技術や朱や勾玉などを携えて関東・九州・山陰へと全国へ展開したからね。 @阿波 >>444
関東から九州にかけてほぼ同時期っていうんが
前方後円墳の築造時期だ
あとは偉い人が死なないと古墳は作られないので
偉い人の死んだ時期の差ってことになり
これは前方後円墳の発生時期とは無関係のことになる
ってことで偉い人が死んだ時期を考慮した場合は
ほぼ同時期に関東から九州にかけて前方後円墳が造られ始めたってことになり
あとは規模の問題となり
規模でみれば大和圏が他を圧倒してるんで
その頃の共立さた倭王は大和にいたと考えるのが自然 432>>676
>庄内甕が博多地域に直接移動したのは、庄内3式期(TB新相)。
そして、その庄内3式期内に筑前型庄内甕も造られるようになり、次の布留式期に布留式甕へと変容していく。
これらは連続しており、庄内2式期の3世紀前半前葉に起こったことではない。<
ダメだ。
大和の庄内は石塚からであり、
卑弥呼の冢や那珂八幡の前方後円墳よりも明らかに後の、撥型前方後円墳であるから、
3世紀末になり、
3世紀前半の筑紫の「庄内甕」にならない。
>アドレスを挙げてある佐々木憲一の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」でも、
それが起こるのは古墳時代が始まる布留0式の箸墓期の直前としている。
実年代は、3世紀前半後葉〜3世紀後半前葉。<
従って、「畿内型甕形土器」は、「筑紫型甕形土器」と呼ぶべきであり、
筑紫で起きた一連の庄内土器が筑紫の胎土で造られていた事からも、
庄内の発祥は、筑紫であった、とすべき。
勿論佐々木は、「南→東」の嘘つき騙しの大和説に狂った・・・・アホのサギ学者。 >>437
日本の対をなしたのが武力による統一とすれば
雄略天皇の時代になると思う
それなでは大王が自ら鎧をきて統一にいそしむ時代で
雄略になって関東から九州までが武力で統一された >>448
>阿波にその神様の縁起がある訳じゃない
阿波にその神様の縁起があるから、唯一阿波で祀っている証左。 他国ではそれがない。 ワハハハハ
>天橋立が阿波にいたはずがないだろうがww
それがいたんだなぁ〜。 そう思いたいだろうが。
>阿波は他所の神様を勝手に祀る土地(ちゃんと分祀してればいいけど)
「他所の神様」? 他所は自分で祀れないほどなの? 倭国(阿波)に任せなさい。 ワハハハハ @阿波 >>431九州の巫女を畿内まで移動させる必要がどこにあるんだ?
関東から九州にかけての範囲が倭国30国の範囲で
畿内はその中間点だから
九州の巫女が畿内まで来て巻向を造営して
祭りごとを行う必要があった 432>>700
・・・・アホ詐欺のトンデモ大和説のパレードだな
しかも、「南→東」などのウソ付き騙しの説明 >>440纒向って南河内なのか?
南河内も邪馬台国の一部で
巻向は人が生活しない祭事の為の祭都
巻向を運営する人は九州から大量に来たけど
それで関西圏の地名が九州の地名と同じになった
九州の地名と同じになった範囲が邪馬台国で
河内も含まれてるし複数県にまたがる広い範囲だ
邪馬台国の範囲は広いし
出雲圏に相当する投馬の範囲も複数県にわたる広い範囲なんで
投馬国から邪馬台国に来るまでの間に国が存在しなかった >>440
>纒向って南河内なのか?
>しかも邪馬台国(大和)が出雲と接しているって
邪馬台国は河内を含む広い範囲なんだ
巻向は邪馬台国の都であって生活の場じゃない
九州から巻向の造営に来た人たちは邪馬台国に住み
地名が関西と九州で同じになってる
九州と地名が同じ範囲が邪馬台国で
そこに九州からの大量の移住者が住んだ
古代の国は大きいのは複数県にまたがるし
越の国とか吉備の国とか毛の国は複数県にまたがる古代の大国 432>>708
>庄内式の受容はTB期古相(比恵36次)から <
大和からの「受容」ではない。筑紫付近での「庄内発生」。
>筑前型庄内甕の製作はTB期=3世紀前半<
それが、筑紫付近での「庄内発生」。
>北部九州型布留甕はUA期=250±年以降<
布留も、大和では3世紀以後だから、北部九州の方が早い。
しかし、米田の「南加賀」説があり、
発生が南加賀なのか?筑紫なのか?は、まだ不明。
>久住も佐々木も畿内説だからな<
どちらも、本質的には「南→東」などの嘘つき騙しのアホ詐欺師だからな。 5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人は、本質的には「南→東」などの嘘つき騙しのアホ詐欺師なのではないのかな。。。 >>458
九州の卑弥呼が共立されて
大和圏に巻向が造営され
卑弥呼とともに大量の人間が移住したんで
大和圏と九州の地名が同じになった
この地名の同じ範囲が邪馬台国で
大和圏の土器は九州から移住してきた工人が作ったので
九州に逆流し九州と大和圏は同じ形式の土器を持つことになった 庄内式や布留式土器が大量に出土
〜熊本県山鹿市 弥生環濠集落方保田東原遺跡〜〜
この遺跡からは、庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土します。
方保田東原遺跡資料館の説明によれば、これは何らかの形で畿内と交流があったことの証拠だそうです。
しかし一方、橿原考古学研究所の方の説明によると
「纏向では北部九州形の土器はほとんど出ない」ということでしたので、
「近畿地方」と「北部九州」の交流は、ある時期までは無かった、と考えていいのでしょう。
でも、ここ中部九州の肥後熊本の方保田東原遺跡には交流の跡がある、
ここは北部九州をスルーして、畿内と直接結びついていたのでしょうか。
素人には理解が難しいのですが、
「庄内式土器の始まりは九州であり、それがある時期、人々とともに近畿に移動した。」
「それで弥生後期に、出発地・発信地である肥後熊本に庄内式土器が大量に出土する」……と。
それなら、理解できそうです。
https://tizudesiru.exblog.jp/i142/ >>459
船を南に向けてても
海流の影響で南に進むとは限らない
船を南に向けてて海流に流されて
ついた先が出雲圏でそこが投馬国だった
スサノヲが出雲圏に作った宮の長官名は八耳で
接頭語の八を除けば出雲圏の宮の長官名はミミとなる
倭人伝では投馬国の長官名はミミときされ
これは出雲圏の長官名と同じで
出雲圏が投馬国となる「 >>461庄内式や布留式土器が大量に出土
〜熊本県山鹿市 弥生環濠集落方保田東原遺跡〜〜
>この遺跡からは、庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土します。
方保田東原遺跡資料館の説明によれば、これは何らかの形で畿内と交流があったことの証拠だそうです
卑弥呼が共立された九州から大和に来た時に
九州から大量の人が移住したんで
九州の地名が大和の各所で地名となって残ってる
九州から移住してきた人たちが自分の故郷の地名を
移住先の土地につけたんだ
土器を作る工人も九州「から大量に移住してきた方
九州と大和圏の土器は同一の形式になる 432>>709
>>260年頃の会稽付近の分郡の地図を検索してごらん。
上海付近から江蘇省は、揚州や呉の支配「治」所になっており、<
>当然なっていない
治所とは政庁(のある城市)のことで、支配下にある地域ではない <
「治」はは普通名詞であり、「治政」にも「役所」にも「治政地域」などにも使える。
>陳寿の「会稽の東の治所」という説明がピッタリなんだよ。<
>江蘇省は会稽の東ではなく、北にある<
陳寿が「女王國が(夏后少康之子封於會稽の)会稽の東にある」と言いたいんなら、
「会稽之東」だけでいい筈であり、
それをわざわざ「会稽東治之東」と説明したという事は、
会稽と会稽東治とは違うモノだ、と考えている、という事であり、
つまり、会稽東治は、分郡前の揚州時代からの「会稽の東方の治所地域」を示そう、
としている事になる。 夏に日本に来たら熱帯と勘違いするかもね
昔のひとは湿度なんか分からなかったと思うから
日本の暑さを異常と感じたかもね 432>>712
>そもそも、庄内甕が那珂集落に表れた実年代が3世紀前半のいつだというのか。
3世紀前半といえば、200年〜250年も幅がある。
その庄内甕が現れた時期についての資料をちゃんと出せよ。
佐々木憲一の論文では、古墳時代開始直前だとしている。
そして、その古墳時代開始を箸墓築造時期とする。
彼の言う箸墓築造の古墳時代開始は、3世紀後半前葉だ。
とすると、那珂に庄内甕が現れるのは250年頃ということになる。
これは、久住のTB期新相(庄内3式)に当たる。
この時期に博多地域にそうした政治的な画期があって、それから、しばらくして
前方後円墳の那珂八幡古墳が那珂に造られるという政治的な社会背景が生まれる。
これでぴったりじゃないか。 庄内甕が那珂にもたらされたのは、250年頃だよ。<
そうでしょうね。
それで、
柳田がついうっかり、弥生銀座地域よりも三雲の方が古い庄内があった、としゃべった事や、
卑弥呼の冢と思われる祇園山に「古い土師器≒庄内」が出土した事とも、
合う事になりますね。 >>456
>南河内も邪馬台国の一部で
南河内も「忌部はん」 の開拓地。
>巻向は人が生活しない祭事の為の祭都
纏向は「忌部はん」 の古墳造営前線基地。
>それで関西圏の地名が九州の地名と同じになった
「忌部はん」 の進出により、関西圏の地名と九州の地名が同じになった。 @阿波 >>452
>日本の対をなしたのが武力による統一とすれば
>雄略天皇の時代になると思う
うん、だからその頃にようやく、瀬戸内海がルートとして使えるようになった。
それまでは、瀬戸内沿岸が統制統治されていなかったので、停泊地の整備や海賊対策がとれなかった。 @阿波 >>461
>この遺跡からは、庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土します。
それは「忌部はん」 が移住した証拠だよ。 @阿波 >>463
この庄内式土器というのは、筑前型庄内甕、北部九州型布留式甕だな。
大和で造られた庄内式ではないのとちゃうか。 >>451
頭、フケとんじやないの。
石塚は200年代初頭。
最近じや、200年頃まで古くなる説が出ているくらいだ。 >>470
弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
推して知るべし。 @阿波 432>>719
>バカこけ。 「直前」が50年も前の3世紀前半になるかよ。
「直前」は、卑弥呼が北部九州で死亡した頃だ。 卑弥呼が死亡したのは248年頃。
ホケノ山に鉄器がわんさか副葬される時期だ。<
バカこけ。ダメだ。
ホケノは、有棺有槨で前方後円墳で布留だから、
明らかに卑弥呼の冢や有棺無槨ではないし、庄内ではない。 >>464
>「治」はは普通名詞であり、「治政」にも「役所」にも「治政地域」などにも使える。
「治政地域」なんて意味に使えるって証拠は?
そもそも「治政地域」なんて言葉あるの? >>453を見れば、泡がトンデモでたらめ野郎だってのは、一目で分かるな
>阿波にその神様の縁起があるから、唯一阿波で祀っている証左。 他国ではそれがない。 ワハハハハ
小さな神社ばかりで社伝を伝える社家もないのに、所縁があるとか言うだけ無駄だよ
>それがいたんだなぁ〜。 そう思いたいだろうが。
何の根拠もない言いっぱなしw
天橋立は、地形の神格化なんだから、丹波の地がもともとなのは、日本人なら知ってる
>「他所の神様」? 他所は自分で祀れないほどなの?
古くて忘れられた神様を拾ってきて祀っているだけ
まあ、祀ること自体はよいことだけれど、阿波が起源だなんてことにはならない >>454
>九州の巫女が畿内まで来て巻向を造営して
結局この人も、根拠なしで思い付きを書くだけのトンデモだな
畿内の巫女を共立するのでなければ、畿内に国家祭祀の場を作る理由にはならないよ >>424
中国南部Y-O1a種族→南九州→四国(忌部さん)→紀ノ川宮滝→伊良湖岬→東海。 >>475
倭国(阿波)の「小さな神社」が元社と知らず、
>>475を見れば、トンデモでたらめ野郎だってのは、一目で分かるな
阿波にその神様の縁起があるから、唯一阿波で祀っている証左。 他国ではそれがない。 ワハハハハ @阿波 >>461
>ここは北部九州をスルーして、畿内と直接結びついていたのでしょうか。
>素人には理解が難しいのですが、
ここは、九州のベンガラ生産の拠点なんだよ
そういう重要物資の拠点は、早い時期から畿内が抑えているというだけ
北部九州にも、畿内土器が入ってるからスルーなんてしてないぞw
北部九州と、甘木・朝倉あたりと、熊本あたりから大量に畿内に来ていたって
いうのは話がおかしいだろ
畿内土器が出る地域から畿内に大量移住があったとするのは無理だし、
地名の移動は大量移住のせいというのも無理
考古学的には、どちら方向にも大量移住の形跡は見られない >>441
四国八十八箇所と同じ傾向。
四国ワールド創ってしまう。
日本書紀の縮小版→四国阿波の神さんワールド。 432>>842
どうして大和説は、「南→東」などの方向詐欺だけではなく、
年代詐欺をしないと気が済まないんだろうね?
結局のところ、女王國論争は、「冢と前方後円墳」との違いのような、
古墳の形態や開始時期の編年で決着がついてたんだよ
それをいかに「認めない」と言うかってところに、大和説は特化してきてる >>477
>中国南部Y-O1a種族→南九州→四国(忌部さん)→紀ノ川宮滝→伊良湖岬→東海。
中国南部Y-O1a種族→南九州 は、石器時代?
四国(忌部さん)→紀ノ川宮滝→伊良湖岬→東海 は縄文時代〜古墳時代だね。 @阿波 432>>745
そうそう!
「南→東」や「冢=前方後円墳」などの嘘つき騙しの大和説は、
フワっとした言い方でのらりくらりと言い逃れようとばかりするから、
具体論で詰めていかないと話が進まない
そして彼らは、具体論に入った瞬間に爆散するか、
言葉尻を曲解した誹謗でヘイトスピーチをする
大和説って、こんな・・・・アホばっかし >>473
ホケノの石積は徳島萩原の石積の影響があるから、時期は3世紀中頃でよし。 >>480
>四国八十八箇所と同じ傾向。
>四国ワールド創ってしまう。
他所では決して出来ない事実があればこそ。 阿波にしかできない現実。 @阿波 >>482
O1aの南九州上陸は、1万2千年前の縄文草創期。 >>486
>O1aの南九州上陸は、1万2千年前の縄文草創期。
あっ、そうなの。 了解。 @阿波 432>>748
>久住論文の図にはTB期古相に庄内式が描いてある <
問題は、久住がその「庄内式」を、
筑紫の庄内としたのか?、(筑紫以外の)大和の)などの庄内としたのか?、
という事。
それで、久住の良心性が決まる。
>北部九州在来系甕と筑前型庄内甕の違いも別の論文に描いてある
お前の個人的編年なんぞいらん <
それなら、筑紫の土器は、殆ど北部九州の胎土の土器であった事になり、
大和などからの土器ではなかった事になる。 >>482
>四国(忌部さん)→紀ノ川宮滝→伊良湖岬→東海 は縄文時代〜古墳時代だね。
これは、人の東進じゃなくて、文化の東進ね。 念のため。 @阿波 >>485
阿波のオリジナルは、八十八箇所創出。
外へ行けないので、内側に外の世界のミニチュア版つくってしまう。
そのミニチュア版の核心にあるのが矢野遺跡周辺の物造り地帯。
その地帯が、外にある物を全部作るようになって、四国各地へ販売するようになった。
なにもかも外へ仕入れに行かなくてもよくなった。
それが阿波の核心。 432>>759
>200年と250年の区別がつくからだよ これで九州説がなくなった<
200年と250年の区別がつけば、ますます、
大和の最初の庄内の石塚の「3世紀末の撥型前方後円墳」との乖離がはっきりして、
これで大和説がなくなった 432>>761
実際には嘘つき詐欺師は「南→東」や「冢=前方後円墳」などの大和説者だ、
と、今夜も証明されたわけだが >>490
>その地帯が、外にある物を全部作るようになって
少なくとも、朱や勾玉は外には無いんだけどwww どうする? @阿波 >>489
いや、土器模様でつながりがあり、紀ノ川宮滝と伊良湖半島遺跡で類似していて、その宮滝と四国の貝殻文土器が類似している。
四国の貝殻文と南九州の貝殻文は同系のもの。
土器模様の類似は、人の移動によって生じる。 >>490
>そのミニチュア版の核心にあるのが矢野遺跡周辺の物造り地帯。
こういった、いろいろな「物造り地帯」が存在するのも、唯一倭国(阿波)だけ。 これ、どうにも止まらないね。 @阿波 >>493
朱や勾玉は縄文時代から各地で造られている。
縄文の墓穴の底には朱(ベンガラかも)が敷かれているし、勾玉もその土坑から出土している。 >>478
>阿波にその神様の縁起があるから、唯一阿波で祀っている証左
縁起が伝わってないだろ?
例えば、新潟県には諏訪神社が大量にあるが、新潟県が諏訪神社の起源にはならないだろ?
縁起がなくても神社は勧請できる
神社があるから縁起があるなんていうのはバカしか言わないよ >>495
四国の京浜工業地帯が、阿波だったのだね。 >>497
その縁起を創出してしまうところが、阿波のオリジナル性なんだな。 >>494
>土器模様の類似は、人の移動によって生じる。
いや、もちろんそうなんだけど、つまり、人の移動はすでにあるんだけれど
その文化(土器模様の類似など)自体の東進は、縄文時代〜古墳時代ということ。 @阿波 >>492
>と、今夜も証明されたわけだが
などとお昼に投稿するウソつきザラコク >忌部はん
忌部は首姓だから蘇我臣の子分の備品調達係
殺牛祭祀だから新羅人
阿波忌部は大和の忌部首の私有民 >>497
>縁起が伝わってないだろ?
>例えば、新潟県には諏訪神社が大量にあるが、新潟県が諏訪神社の起源にはならないだろ?
>神社があるから縁起があるなんていうのはバカしか言わないよ
伝わってたらどうするの? 潔く訂正するの?
諏訪大社は倭国(阿波)からの勧請なんだよ? 知らないんだろうな。 @阿波
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。
その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪の「多祁御奈刀弥神社」に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46148157.html 5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人は、本質的には「南→東」などの嘘つき騙しのアホ詐欺師なのではないのかな。。。 432>>763
佐々木論文の編年 IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)に,
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式に, IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IVに,
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜Vに, IIC期が布留1式におおむね併行する<
「纒向1類,河内の庄内1式」は、当然石塚の庄内を意図しており、
この時点で、久住らの年代比定と完全に食い違っている。
>・IA期:在来系土器が主体で(在来系長胴甕の底部はレンズ底〜尖り底が主体)で,
点的に少量の伝統的V様式土器が伝播・受容される時期。庄内甕は受容されない段階。<
「少量の伝統的V様式土器が伝播・受容される」という結論先にありきが疑問。
>・IB期:在来系土器が主体で(在来系壺・甕の底部は丸底化していない)で.
庄内甕が布留式受容以前に出現する。庄内甕はこの時期,比恵・那珂遺跡群周辺の
みで受容,生産され,在来系土器群とは排他的に出土する傾向がある。庄内河内型甕を
中心とした津古遺跡周辺でも限定的に受容されたようである。<
この時点で、「庄内甕」が搬入なのか?、筑紫の胎土で造られた筑紫製なのか?を
はっきりさせないインチキをしている。
>・IIA期:在来系土器が根強く存在しながら(在来系壺・甕の底部の多くは丸底)も衰退する
(特に比恵・那珂遺跡群,博多遺跡群では在地系土器群が急激に衰退)一方で,庄内式系
土器群から北部九州型ともいうべき布留式類似土器群が成立する。在来の甕と庄内系の甕は
かなり残る。伝統的V様式甕も多く,レンズ底状,丸底が多く,球胴化し,タタキ後
ハケメ仕上げのものが半数以上を占める。なおT特徴的な土器様相は比恵・那珂遺跡群,
博多遺跡群のほかは非常に点的・限定的にしか波及せず,在来系土器については,
この段階でも周辺遺跡ではレンズ底が根強く残る。<
これでも、大和や河内や播磨の事は言っておらず、
筑紫の胎土で筑紫で造った、という事でも十分に説明が可能である。 >>462
スサノヲがアシナヅチに『八耳神』と名乗れと言ったあれか!
なるほど!それは気づかなかった。 432>>766
>遺跡がなけりゃ、その推定には何の根拠もないってことだww 推定はできるよ、そりゃね
でも、根拠なしの推定はなんでもアリだから、
デタラメでも「推定」と言い張ることができるってことww<
自然や歴史のような「不可知部分が殆どである」分野における学問は、
知り得た事実からの帰納的確率的な推論をするしかないのであり、
歴史においても、文献や金石文にような考古は、その存在の確率が高く、
一般の考古だけでは、いろんな可能性が起こり得て、確率が非常に低くなるが、
しかし、文献や金石文考古からの帰納的推論であれば、確率はかなり上がるもの。
だから、一般文献や金石文考古からの帰納的確率的な推論を、
頭ごなしに拒否否定する事は、一種の学問の放棄、にしかならない。 >>503
この阿波の石井町の多祁御奈刀弥神社も小屋だよな
社伝って、この小屋伝だろ 精度の上がった年代推定を認めないザラコクは帰納的には成立せず確率も低い説を唱えているという事だ >>508
>この阿波の石井町の多祁御奈刀弥神社も小屋だよな
君は社殿の立派さが評価基準なのかね? そりゃ、お粗末すぎなんてもんじゃないよ。 恥を知り給え。
この小屋のような「多祁御奈刀弥神社」も全国唯一、阿波だけにある、諏訪神社の元社だよ。 この罰当たりめ。
>社伝って、この小屋伝だろ
君は他人の文章も碌に読めないのかね。 軽薄短小すぎ。 @阿波 >>512
阿波の新羅人がおそらく忌部が落ちぶれた平安時代くらいに作った小屋だから
阿波では誰も参拝しないんだよ >>774
「南→東」や「冢≠前方後円墳」などの嘘吐き騙しのように、
大和説は捏造で出来ている
という話 >>515
可哀そうなのは阿波の小屋ばっかり紹介してるお前だろw >>516
琴線に触れることばかり書いて、ごめんね。 可哀そうな人。 @阿波 432>>775
>だから何?
弥生第V様式末の平原1号が古墳出現直前だよ<
どのような墓を「古墳」と呼ぶのか?の問題であり、
弥生墳丘墓か、那珂八幡の前方後円墳か、纏向型からか、箸墓などの定型前方後円墳からか?、
という問題であり、
筑紫では、第X様式から庄内や布留が、かなり長期間混合状態であったらしいし、
それらは、ほぼ全て、部族ごとの使用土器の違いであっただけで、
それらは、ほぼ全て、筑紫の胎土で造られた筑紫の土器ではなかったのか?、
という問題だよ。 >>517
お前の親戚一同が家、土地を売り払って
大先輩である没落した忌部の私有民の小屋をりっぱに新築したらいい 432>>766
>平原1号は久住TA期 <
平原は、「21枚の尚方作鏡」の存在に拠って、
卑弥呼の死以後の墓であった事がほぼ確定しており、
久住がそう言ったのであれば、久住がアホであった事になる。 432>>780
「南→東」などのウソつき騙しは、
脳死した大和説の延命装置 >>503
三好氏が諏訪大社から勧請したとの伝えがあるそうだし。
三好氏は小笠原系の人物で、小笠原氏は諏訪と関係が深いそうだ。
諏訪大社が779年に阿波国から移されたという社伝は、本当なのかなあ。 432>>781
>◆9 参考 北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II <
久住もスレ主も、やはり「南→東」などの嘘吐き騙しのアホ。
大和の庄内は、3世紀末の石塚からであるから、
筑紫の3世紀初めのTA期とは全く合わない。 432>>786
>九州説は70%のウソと30%の間抜けで出来ている<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
90%の嘘吐き騙しの詐欺と、
10%のアホ間抜け詐欺で出来ている。 432>>788
>古墳出現の最古は箸墓と言うとるよ。<
古墳の定義がで、全く恣意的で×だ、と言っている。 432>>790
>嘘ついたから書かれてる場所を答えられないだけ
ほんと九州説って倫理観ゼロ<
「南→東」などの嘘吐きだましの大和説は、
嘘ついたから書かれてる質問を答えられないだけ
ほんと大和説って倫理観ゼロ 432>>791
>どうやら最近の学会では蓄積した考古資料などから
古墳時代を従来の4世紀から3世紀まで繰り下げようという動きがあるのかもな
個人的には2世紀後半まで下げてもいいと思うが <
どうやら最近の学会では蓄積した考古資料などから
古墳時代を、箸墓のような定型的前方後円墳にして、
従来の4世紀から3世紀まで繰り下げようという動きがあるのかもな
個人的には4世紀のままでもいいと思うが >>503
徳島の名西郡石井町浦庄字諏訪の多祁御奈刀弥神社の由緒は、信濃の南方刀美神社から移遷した、と読むのじゃないの〜。
阿波から信濃へ移ったのではなくて。 >>444筑紫と大和とでは、庄内の始まりは
九州と大和圏で地名が同じになってるのは
卑弥呼が九州から大和圏にこたときに
大量の人が九州から大和に移住したためで
土器を作る工人も大量に九州ヵら大和に流入してるんで
大和で九州の工人の作った土器が九州に逆流入してる >>488
>問題は、久住がその「庄内式」を、
>筑紫の庄内としたのか?、
問題はなぜ九州と大和圏の地名が同じなのかだ
これは人が大量に九州から大和圏に移住した結果で
共立された卑弥呼が九州出身の巫女で
たくさんの人を連れ立って九州から大和圏に入ったことを示してる ヤマト政権の防人達が故郷を懐かしんで名を付けたからでしょ >>530
追加
推古天皇の691年に「信濃の須波の神」と神名が挙げられていて、諏訪神すなわち南方刀美神を祀る社がすでにあったことが分かる。
なので、多祁御奈刀弥神社の由緒にある779年に祭神を諏訪へ移遷したという内容とは合わない。
その由緒は、諏訪から名西郡石井町浦庄字諏訪へ神を移遷したと読むのがいいように思うね。 脳が死んでないと、九州珍説にはついて行かないだろうな >>506
>スサノヲがアシナヅチに『八耳神』と名乗れと言ったあれか
アシナヅチが出雲の宮の長官になったときの官名がミミってこで >>531
箸墓は最古級の前方後円墳だけど
最も古い前方後円墳じゃないし
前方後円墳の出現が卑弥呼が共立されて以降のすぐの時期だけど
卑弥呼の墓(箸墓)が出来る前にすでの関東から九州に泣けての広い範囲で
初期の前方後円墳が造られ始めてた >>535
大和圏の地名は位置も含めて九州と類似してる
これは卑弥呼が共立されて九州から大和圏に来た時に
大量の九州からの移民があったからで
九州から大和圏に来た人々は自分の出身地の九州の地名を
大和圏の土地に付けた
土器をつくる職人も大量に九州から大和に来たんで
大和の土器は九州からきた工人によるものが主体となり
これが逆輸入の形になり九州に大量に流れ込んだ 432>>796
>畿内に3世紀から巨大前方後円墳が存在した事が明らかになれば
九州説はますます説得力がなくなるな <
関係がない。
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったんだし、
「巨大前方後円墳」は、九州倭国の「東征毛人五十五国」将軍らの4世紀以後の所産であるし、
白村江の後で母国の九州倭国を併合吸収継承した国であったんだから。 432>>800
「南→東」や長里サギの大和説
今夜も大和説がみじめに論破されてるね
長里長里サギでいくら稼いだか知らんが
大和説者は被害者に賠償しなきゃいかんのう 韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、 432>>804
>じゃあ、なんで佐々木本人は弥生第V様式末が古墳出現直前と言ったの? <
皇国史観に狂って、「南→東」などの嘘吐き騙しをする・・・・アホ詐欺師であったかtら。
大和説信者の知能はこのように極めて低い
「南→東」や長里冢里サギの被害者の会を結成して大和説を集団訴訟してやろう 432>>808
>前方後円墳の一番古いのが畿内にあるから畿内のオリジナルだろう<
前方後円墳の一番古いのが那珂八幡などだから
九州倭国のオリジナルだろう 邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が、纏向遺蹟を天皇家のものではないことに、しようとしているな。。。 >>544
午後四時に「今夜も」って書いちゃってまぁ
「ウソついてます」って
言ってるも同然の
ザラコクは白痴同然 >>548
かくして九州は
前方後円墳までも畿内から
ドロボウする企て 432>>809
>>「参じて問うた」と読んで、何ら不都合はない。<
>こっちは、大陸史書の全文検索の結果から言ってるんだよ
参問は「参照して問う」だと思えばいい<
漢字の意味や使用法は、時代地域に拠っても、使用者に拠っても、
かなり「自由自在」であるもの。
だから、漢字そのものの「本来の意味」からの応用的な使用法がいくらでもあるが、
基本的には、本来の意味を中心とした使用だ、として受け止めればよい。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 自由自在に書いてるからザラコクの日本語はおかしいのか 432>>823
今のとこホケノ山が、有棺有槨の「庄内〜布留」の前方後円墳だから、
3世紀末〜4世紀だなあ
布留を重視して4世紀かも知れないけど >>552
>漢字の意味や使用法は、時代地域に拠っても、使用者に拠っても、
>かなり「自由自在」であるもの。
だとか言い訳して
無知な素人オジンが自由自在に読んだら
それはデタラメという 432>>828
>えっだって前方後円墳は大体なんとか天皇の墓だろ
教科書にも載ってるし <
教科書会社は、文部省検定で、「万世一系皇国史観」キョクウの、
「南→東」などの嘘吐き騙しの巣窟なので、
教科書自体が信用性が全くないの。 >>555
ホケノ山に「槨」があるなんて根拠は
どこにも無いんだよ >>559
棺の外箱があるのが槨のある墓で
石壁でも木の壁でもいいが
墓室の中に一重の棺しか無いのが槨のない墓だ >>560
棺か外箱かっていうのはどういう区別なの 432>>854
>九州説は日本の学者の研究成果を拒絶する民族説<
大和説は、
高慢な唯我独尊栄耀栄華の殺人戦争狂のキョクウ民族主義の人種の、
本質的には天皇家支配志向の安部政府や文部省の、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする反学問的な・・・・説。 5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人は、本質的には「南→東」などの嘘つき騙しのアホ詐欺師なのではないのかな。。。 韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、 432>>859
>姫氏とかどこから出て来たんだ<
史料事実的には、「日本書紀私記」の記載の「東海姫氏國」の存在。
民間系図的には、松野氏姫氏系図での、姫氏の呉王夫差の遺民の存在。
松野氏は、新撰姓氏録にも載っているし、
呉王夫差の遺民の事は、通鑑前編までの歴代史書にいくつも書かれている。 432>>860
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ大和説は
もう勝ち目なし 432>>861
大和説の「南→東」などの大嘘が世間にバレたとき
果たして世間の人間は大和説者を許すかな >>561
なにを迷う?
棺が二重なら外側のほうが外箱なのは分かるよな? >>568
二重ならわかるんだけど、
どういうのが槨が有って棺が無い墓なの?という質問なの >>450
>その頃の共立さた倭王は大和にいたと考えるのが自然
結局は畿内説の根拠は印象に過ぎない。 九州説はひたすらウソをつき
中傷しまくるだけの
存在になって
しまった 432>>864
>大和説の大嘘が世間にバレたとき
大丈夫、バレるもバレないもなく、九州説の言い分なんて世間に知られてないからw<
既に国民の7割は、「南→東」などの大和説のウソを知っている。
もうバレてて、許されてない。
大和説には、キョクウの・・・・安部文部省や、右翼マスコミや、
皇国史観学会教育界の・・・・老信者しかいない >>476
>畿内の巫女を共立するのでなければ、畿内に国家祭祀の場を作る理由にはならないよ
はなからそんな理由はないということだ。 >>569
>二重ならわかるんだけど、
>どういうのが槨が有って棺が無い墓なの?という質問なの
北部九州の箱式石棺とかが、そうだね >>575
>北部九州の箱式石棺とかが、そうだね
あっ、それ、筑紫「忌部はん」 の墓だから。 お間違えなく。 @阿波 >>569
弥生時代、九州を中心に木槨墓が存在してるな >>576
槨が腐ると積石が落ちてきて潰れることもあって
構造がわからない
槨にクギが使われてたことくらい以外は不明 奈良に倭種の別国の連合体ががあって、
1そこがヤマト王政につなっがったか、
2九州勢力と中四国勢力に包括されヤマト王政になった
いずれかだな
明日香は百濟人の移住地だよ ほらな
九州説に理由なし
絶対に言わない
戒律か? もう少し詳しく言おうか
明日香(橿原含む)は百済人とヤマト朝廷建国に携わった倭人の封建的な国
「橋の無い川」の舞台にもなっているが、倭人の反抗勢力が被差別部落となった飛騨地区
歴史なんて勝てば官軍
ヤマト朝廷は渡来人がいなければ成立しなかったのだよ
天皇の先祖が百済人か倭人か、その混血かはしらんが
桓武天皇は混血だよ・・続日本書紀より >>583
夫餘の有槨無棺が、棺がない外箱だけの墓が見つかってるならわかるけど
半島南部に北方騎馬民族色が強くなる大成洞古墳は外箱ではない木槨だし
楽浪漢墓は1世紀以上前に木槨墓が造られてるんだから
倭國の首長層に木槨文化が伝播してても問題ないだろ
一般的に無槨だったのは単に遅れてただけだから 松本清張
「明日香の常用語は百濟語 仏教は百済人が持ち込んだ
そこに神道と仏教の融合が見られる地が明日香であるが明日香に神道の形跡がほとんど見られない」 432>>869
>まー同笵鏡って事はオリジナル魏鏡があるという事だな<
ダメだ。
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に拠れば、
楽浪鏡には「左向き」は一つもなく、
中国鏡では「左向き」は紹興出土の1個だけであり、
という事は、「魏の鏡には全くない」という事であり、
列島の「海東」鏡や、陳氏や王氏の鏡の一部にのみ「左向き」がある、
という事は、
呉系楽浪鏡師の一部に「左向き」に造る鏡師がいた、というにしかならないし、
二種類の「尚方作」の「左向き」の△は、渡来の呉系楽浪鏡師が列島で造ったもの、
だという事になる。 関西に見られる被差別部落のほとんどは
大和朝廷(渡来人主流)に逆らった倭人の部落と奴隷として山朝廷が連れてきた部落
日本部落史より 韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>592
>という事は、
>呉系楽浪鏡師の一部に「左向き」に造る鏡師がいた、というにしかならないし、
魏の鏡は何枚あるの?
統計無視? >>596
理由が何も無かったので、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまったのではないのかな。。。 明日香村
飛鳥寺・・蘇我馬子の創建による日本初の本格的寺院
岡寺・・・正ただしくは龍蓋寺、西国第7番の礼所 昔、あばれ竜りゅうを閉じ込こめたという龍蓋池が境内にある
橘寺・・・聖徳大使生誕の寺
川原寺・・飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥三大寺
神社は数か所あるが訪れる人も少ない由緒ある神社は皆無
邪馬台国≠ヤマト王政であろう
邪馬台国が畿内としても渡来人に制圧されたという可能性は多分にある 432>>872
「南→東」などのように、
ウソつかない奴は大和説じゃない、
という状態の今日この頃 432>>873
>5世紀の政権が河内・大和にあったのは、歴然としている。<
倭国伝と日本国伝とを完全に書き分けている唐会要の、
倭国伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭国は北部九州にあった事がはっきりしている。
>旧唐書は、日本国を疑っている。
大倭王の国が名前を替えただけとは思っていないの。<
旧唐書も、倭国伝に続いて日本国伝を書き、
その日本国伝の冒頭の総括説明で、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地」
として、別国であった事を書き分けている。
>また、倭種、倭賊などの語彙を使っているのは、敵国だから当然といえば当然のこと。
それだけの話。<
旧唐書は、白村江の対戦相手として、
その時に既に存在していた(大和)日本国の事は、
一切書いていない。 >>601
テンノウの話?
説明しなくても、気づいているはず
テレビに出てきたりする天皇?
そういう話ではないんだよ
『松傾』
この話でしょ? いつまで同じ話をしているんだ、
本当に頭の病院に行けw >>606
お前に言っているんだよ、どこの低脳なんだw
頭の病院に行け『精神科』 お前の書き込みに対し
「>>」
レスが付いているだろう、どこの池沼なんだ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜直系なんだろうと気づいている人がいたり、
家の話 >>587
>天皇の先祖が百済人か倭人か、その混血かはしらんが
桓武天皇は混血だよ・・続日本書紀より>
邪馬台国は倭人の国だろ
記紀は倭人と渡来人の創作だよ・・倭人賛歌を日本制圧に利用したんだろ
ちゃっかり仏教を渡来人が布教したんんだよ
聖徳太子渡来人説もしくは存在しないという説の構図は
大和朝廷は古来からの倭人の圀にしたいだけだよ
畿内説の根本は現在の日本の体制主義 天皇崇拝主義
俺は天皇制を否定していないよ
天皇制は外交的には正解だよ・・高校の同級生が当時 天皇は外交戦略と言っていたが戦後処理で大きな役目を果たしたのは事実 低脳の話などを聞いている、観ていると?
自分が何々、誰々なる方法(やり方)〜というスレと同じ
神や仏などになる 大和朝廷は古来からの倭人の圀にしたいだけだよ
畿内説の根本は現在の日本の体制主義 天皇崇拝主義
⇧
邪馬台国が大きくなり日本となったのは百済のおかげ 朝鮮の人に感謝感謝 本当に『松傾』の家の話
ADで言うと200年代頃に〜〜という話など?
なぜ知っている人がいるんだと思う
本当は、
王(王氏)と名乗っていたと書いている人がいたり、
古代中華の人なのかな? 名前ではなくて『king』という意味『王』?
なぜ知っている人がいるんだろう 1#ouyamaさんよ
ボケがひどすぎだよ
邪馬台国に限らず、学会の雑誌を定期購読してますか 家は『松傾』こういう名前の家なんだけど
謎のアニメなど『何者にもなれない お前たち』
キュウリのような葉、葱の華・・・?家の写真と同じような、
寺院が〜〜〜〜みたいな話とか、泥棒のようなものに入られ? 『姥清水』?
むかーし、あの周辺(川俣町とか、山の上のほう)に住んでいたことがあって、
いま住んでいるところが・・・神奈川県のw 奈良県の歴史は仏教伝来の頃からか。
卑弥呼の時代に届かない。 実際は日本の話ではない、
日本の神話(実際は日本の・・・ではない)も同じ、
無理やり繋げたり、つぎはぎ、しているだけだぞとか
このスレではないんだけど、
そのような事を言ってる人がいたり
かなり研究しているのかな? >>620
>奈良県の歴史は仏教伝来の頃からか。
いや、もっと後。 遷都後の8世紀から。 それ以前は半島渡来人の住居地。 @阿波 老婆などの世代(もう少し上の世代?)
なら知っていたのかもしれない
〜(祭る?)祀らなければいけない・・・とか、
どこそこに菅原神社というが、あってという話もしていたり
いま住んでいるところの話ではない ザラコク
伊都クズ
泡バカ
キウス
呟きアスペ
左側スロープ
邪馬台国問題は既知害ホイホイ 機内蟲
類スレ主
スレ主
ザラコク
伊都クズ
泡バカ
キウス
呟きアスペ
左側スロープ
邪馬台国問題は既知害ホイホイ >>622 阿波
賛同するよ
邪馬台国が突如ヤマト朝廷になり
仏教崇拝に変らないよ
卑弥呼とヤマト朝廷は關係ない あと、このような話とか
『スサノオ 仏教』
『スサノオ 龍宮』
『松傾』関係の話だし 考えれば考えるほど迷路に陥る畿内説
纏向はどうでもいいけど、初期ヤマト王政は邪馬台国と関係あるのかな????
⇓
590日本@名無史さん2019/03/08(金) 18:25:59.19
松本清張
「明日香の常用語は百濟語 仏教は百済人が持ち込んだ
そこに神道と仏教の融合が見られる地が明日香であるが明日香に神道の形跡がほとんど見られない」
601日本@名無史さん2019/03/08(金) 18:44:03.02>>605
明日香村
飛鳥寺・・蘇我馬子の創建による日本初の本格的寺院
岡寺・・・正ただしくは龍蓋寺、西国第7番の礼所 昔、あばれ竜りゅうを閉じ込こめたという龍蓋池が境内にある
橘寺・・・聖徳大使生誕の寺
川原寺・・飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥三大寺
神社は数か所あるが訪れる人も少ない由緒ある神社は皆無
邪馬台国≠ヤマト王政であろう
邪馬台国が畿内としても渡来人に制圧されたという可能性は多分にある それにしても、
何があったんだろう・・・という逸話ばかり
たしか、以前?
山の上のほうに住んでいたと言っているし
本当の・・・・何かの直系の家なのかな? >>626>>1
あんたしかいないよこのスレで畿内説を唱えるのは
有能な畿内説の友達いたら連れて来いよ
天敵ザラコク退治するような論客連れて来いよ
もしくはザラコクのカキコミに反応するなよ >>601
邪馬台国は畿内と言う証拠だよ
畿内の邪馬台国を滅ぼしたのがヤマト朝廷だよ >>620
>奈良県の歴史は仏教伝来の頃からか。
卑弥呼の時代に届かない。 <
畿内説の学者に聞かせたいな
邪馬台国と関係ない文明が畿内にあったでもいいと思うよ >>627>卑弥呼とヤマト朝廷は關係ない
銅鐸祭祀は卑弥呼が共立される2世紀末で終焉を迎え
それ以降は鏡祭祀の時代となる
鏡祭祀というのは死んで神上がりした人の御霊を鏡に移して
ご神体として祭る宗教で
倭人伝には鬼道ときされこれが今現在の神道のルーツとなってる
天照の時代背景は
銅鐸祭祀ではなく銅鐸祭祀終焉後の鏡祭祀何で
天照は2世紀末以降の人物となり
天照と卑弥呼は同年代の人物となる
神武は天照より5世代後の人物なので
3世紀末くらいの人物と想定できる
3世紀末はトヨの後の時代で
トヨの後の神武から武力で倭の統一を目指す大和朝廷と見なせる
卑弥呼からトヨまでの時代は
プレ大和朝廷ということでこれが神代と呼ばれてる 邪馬台国は銭になるから畿内説にたむろしたほうがいいんでねーの 何々氏の先祖、祖神などの話があるでしょ
>天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた
どういう事なんだと思う 石野先生は別にして
寺澤先生は考古学者?纏向学者?
寺澤先生は日本の考古学全般に疎いよ キウスって特定されると火病るよなw
特定されたら困るんだろうか 寺澤は磯田に鼻で笑われてるな
橋本もな
NHK特番で感じたな ヨコからゴメン教えて
箸墓とホケノどちらが古いのですか
両者の人的な関係も教えて下さい
急ぎませんし自論でもいいです >>611
現代に天皇制と邪馬台国は関係無いよ
畿内の後進国邪馬台国を天皇が渡来人と協力し再生したのだよ 宮内庁も邪馬台国はご法度
過去の天皇で邪馬台国に言及した天皇はいない 例えば菅原氏、土師氏・・・先祖、祖神→・・・アメノホヒ・・・。
『アメノホヒ』
>天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた
どういう話なんだろう?となるでしょ >>640
有名キチガイの書き込みだとばれるのを恐れているのだろうが
それ以前に書き込みの内容でキチガイだとわかってしまうんだけどな >>646
>宮内庁も邪馬台国はご法度
>過去の天皇で邪馬台国に言及した天皇はいない
阿波だと言ったら天地がひっくり返るからね。 @阿波 でも、宮内庁や天皇家はともかく、御用学者はこれからどうやって、持論を擁護していくんだろうか。
あくまで、阿波を三猿の如く、避けて通るんだろうね。 @阿波 『スサノオの勝利宣言』
実際は近代(戦争などがあったでしょ?)の話だと思うんだけど、
『アマテラス』?
(このような表現、旗のようなもの?は、やめろ)
と言っている人たちがいたり 若杉山遺跡や加茂宮ノ前遺跡、矢野遺跡など、卑弥呼時代の錚々たる遺跡でも
みごとに三猿を決め込んでるよね。 これが畿内や九州なら、どんちゃん騒ぎしてるだろうに。
これが日本の学者の姿かと思うと、旧石器捏造事件が脳裏をかすめるよ。 @阿波 >>640
ガイキチの思考を常識人が理解できるわけない 『スサノオ 仏教』
画像なども調べてみた?
家の老婆のほうが詳しくない?
寺院の話、
米の粉を型に入れ、固め〜・・・説明不明
人が食べるものではなく、
供えるものを作ったりしていたとか
自分の家で作っていたような事を言っていたしw 大陸〜〜〜〜渡ってきて〜〜〜〜東北(日本の東北地方)のほうまで行ったのかな?
もともと東北地方のほうの住民なのかな・・・? 何の家なんだろう、
当時住んでいたというところも
『姥清水』
この辺りの話だしな・・・。
キュウリの葉、葱の華の写真・・・、
たしか蚕を飼い、機織なんかもしていたとか。 たしか・・・山の上のほうの話をしていた、
住んでいたことがあって、城があって〜。
『姥清水』? 432>>874
「南→東」などの大和説は捏造専科 これは他のスレにも言えることなんだけど
もれ(仮)に対し、
どんな暴言、否定的な言葉のレスをしても無理、無駄
・・・何か?
知っている人がいるんだと思う 432>>882
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説みたいなインチキ説を信奉してると
だんだん嘘をつくことに抵抗がなくなり
顔も歪んで醜くなり
どんどん人間として堕落してゆく なんて言う名前なの?と思うでしょ、
下の名前
ポケモソ?の主人公と・・・w >>634畿内の邪馬台国を滅ぼしたのがヤマト朝廷だよ
滅ぼしたってことでもない
卑弥呼が共立され
卑弥呼の死後に男王が共立され
男王で倭国連合が乱れたんでトヨが共立され
トヨの死後に男王の神武が共立され
神武は武力による倭国連合の統一を目指して各地に軍隊を派遣した 432>>902
「南→東」など嘘吐き騙しの大和説は
ウソつきすぎ >>652『スサノオの勝利宣言』
>実際は近代(戦争などがあったでしょ?)の話だと思うんだけ
卑弥呼が死んだ後に男王が共立されて
これが「スサノヲ」の勝利宣言で表現されてる
男王(スサノヲ)の統治は短期間で
すぐに倭国連合が乱れたんで男王(スサノヲ)は王位を追われた
次は卑弥呼の御霊をヤタノ鏡に移して
卑弥呼の御霊を奉斎する巫女的女王のトヨが共立されて
倭国連合の乱はおさまった 実際は、この書き込みをしている、
モレ(仮)の話ではない。
馬に乗り、腰に刀を〜とか。
あの写真の人の話?・・・もっと前の人。
ただモレ(仮)の名前とポケモソ?同じだというだけ
銀〜という親戚がいたり 432>>911
>史料から見て短里は存在しないな
中国本土で使われて無いのは明らかだからな <
周髀算経や山海経や戦国策や淮南子や介山や如淳注や、
魏志や魏略や後漢書や梁書や、天柱山や、江東数千里や、江表伝や、海賦などで、
短里が使われている。 >>647>天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた
>どういう話なんだろう?となるでしょ
ウケヒで天照とスサノヲは互いの子供を交換したので
皇孫となったのはスサノヲの子孫ってことになる
スサノヲの別名にクシミケの尊というのがあるけど
神武の幼名はワカミケの尊でスサノヲの信銘と共通する
皇孫はスサノヲの系統とであるけど
ウケヒにより天照の系統と認められたってことにして
統治権の正当性が表現されてる 432>>923
このスレは邪馬台国畿内説批判から
なぜ大和説者が「南→東」などの嘘吐き騙しで、
どうしようもなく頭と顔が悪いのか?を、
研究するスレに変わりました 偶然にしては、おかしな話ばかり
電気、発電が〜という話とか、
キタロー?(河童の三平)のような写真 >>669「南→東」
船が南に向いてても海流に流されて
日本海側を進んで出雲圏に到達して
そこが投馬国だった
中国の使者は素人なんで海流の知識がないので
投馬にいたる方角を単に船の向いてる方向で示してしまった
船が南に向いていても
海流を考慮すれば経路は南とは限らなくなるけど
これか航海が素人の使者には無理 432>>924
>卑弥呼の遣使より前の時期から、北部九州最大国の奴国の中枢域・比恵那珂遺跡群で
畿内様式土器が出ており、畿内と北部九州が密に交流していたことが確認できる<
これ嘘吐き騙しね。
大和の庄内は、3世紀末の石塚からであり、
だから、卑弥呼の遣使の頃に筑紫に伝わる筈もなく、
「奴国の中枢域・比恵那珂遺跡群」とか「畿内式土器」という書き方もインチキ。
>つまり、畿内と没交渉の九州のみに倭国があったという九州説の拠り所が
破綻しているってことが確認できるんだよ <
いや、大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国である関係だ、
と何度も言っておいてある。 432>>944
>書いてないことが九州説の根拠 <
「南→東」などのように、
都合の悪い史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをすることが、
大和説者らの根拠。 432>>950
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説はもっとハードルが高いぞ
存在した痕跡が皆無な国を妄想して、実在したんだと言い張ってるんだから 卑弥呼は結局、記紀では、
@アマテラス
Aヒメタタライスズヒメ
Bヤマトトトヒモモソヒメ
誰とリンクしてるんだろう?
神宮皇后はあまりにも時代が下り過ぎるので、
少なくとも上の@、A、Bのどれかなんだよ。
五段築成の箸墓古墳はたぶん卑弥呼の墓なんだろうが、
墓繋がりで言えばBだし、格で言えば@だし、年代的にはAだ。 432>>951
>庄内甕が突然那珂に現れる理由は、それ以外に妥当なモデルはない。<
庄内甕は、
楽浪土器や黒陶や灰陶を知り、鉄や銅やガラスの高温溶融の技能を知った筑紫が、
土器でも高温溶融で「薄壁の堅い土器」が作れるだろうとして、
筑紫で筑紫の胎土を使って、出来た土器だよ。 既に気づいているはず、
家はセメントとか、そういう現場(建築?)で働いている家ではない
セメント関係の会社で仕事をしていたというのも、
年代的には最近の話
何の家だったんだろう?
逆転現象のようなものが起きたのかな? >>503
>と社伝にあるそうだ。
その社伝はどこにあるんだ?ww
泡の持ち出す根拠は、永島文書の満津浦といい、結局出所不明なものばかり
それに、四国の多祁御奈刀弥神社の社伝ではないんだろ?
そして、「光仁帝の宝亀10年(779年)」というが、その頃には
本殿に神を祀る形式ができあがっているのに、諏訪大社は本殿を持たない古い形式を保っている
与太話を信じ込んでしまっているのが泡の本質 >>675>年代的にはAだ
記紀による天照の時代背景は鏡祭祀の時代になってるんで
天照は鏡祭祀の時代の人物だ
銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立されて2世紀末で
2世紀末を堺に大型の銅鐸は作られなくなった
2世紀末以降の卑弥呼の時代は鏡祭祀で
鏡に死んで鬼籍に入った人の御霊を移し
その鏡をご神体としてあがめたてまつった
天照は銅鐸祭祀じゃなくその次の鏡祭祀の時代の人物なんで
2世紀末以降の人物となり
天照と卑弥呼はともの2世紀末以降の鏡祭祀の時代の人物だ
ようするに
天照と卑弥呼は同じ時代の人物ってことだ >>552
こっちは史記から新旧唐書までの正史にある「参問」の全例検討を行ってるんだよ
その結果、土地を訪問するという意味のものは一例もない
参問倭地は、倭地を訪問して調べるという意味ではない 本当に、とあるスレで見たんだけど
まさか追放(近代の公職追放)された家?
というわけでもないだろうし
実際は・・・そういうものに含まれているとか?
何なんだろう >>574
>はなからそんな理由はないということだ。
北部九州の巫女を共立するなら、北部九州に国家祭祀のセンターを作るのが当然
北部九州の巫女を共立して畿内に遷す理由はない >>680
>天照は銅鐸祭祀じゃなくその次の鏡祭祀の時代の人物なんで
九州は初めから銅鏡祭祀の地域なので、意味がない。 432>>958
>三国志の中で短里は使われていない そもそも歴史上存在した事が無い<
一寸千里の短里は、魏朝と西晋朝の公認里であるから
魏朝と西晋朝は、原則は短里での記録であり、
陳寿の三国志では、実記録記載主義であったから、
漢代記録や漢代上表文などでの里記録はそのまま記載しているようであり、
蜀は蜀漢だから、漢朝里の長里での記録であり、
蜀志には一部に短里記録が混在していたようであり、
呉も、どちらかといえば反魏だったから、
呉志でも一部に短里記録が残っていた、
という事が史料実態。 432>>964
>纒向遺跡の前身は伊勢遺跡で、伊勢遺跡の前身は出雲の荒神谷・加茂岩倉遺跡では?
荒神谷・加茂岩倉で出雲・畿内の連合形成
伊勢遺跡で東海・吉備も合流 <
「畿内」と書いてしまったから、それで×。
「畿内」なんて存在しておらず、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の参入、と捉えるべき。 432>>965
>九州説が方角は絶対に正しいといくら言い張っても無意味だよ
現実に末盧国から伊都国の方角が間違ってるんだから、どんな屁理屈こねても無駄
太陽がー、北極星がー、とか小学生レベルの口実<
現実には、魏使らは、末盧國出発や途中から伊都国は見えていないから、
「伊都国方向」を記載記録出来ないので、記載しておらず、
だから、「伊都国の方角が間違ってる」という主張そのものが、成立せず、
この男も・・・・アホ詐欺の大和説者仲間。
>方角か日数のどちらかが間違ってて、どちらが間違ってるかは不明
これが正しいスタンス<
魏使らは、実地の見聞計測記録をしており、方角里数日数記載は「ほぼ正しい」。
これが正しいスタンス。 432>>979
なんで大和説は、
「南→東」などのように史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをし、
他人の考えを創作するの? 3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、
九州北部からの土器は少ない。祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達しするが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。
このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。 432>>980
>舶載鏡に分類されてきた三角縁神獣鏡は
魏・晋鏡と全く同じ素材銅グループに入る<
△は、魏でも呉でも楽浪でも全くのように存在しないから、
「舶載」論そのものが、無根拠であり、
×なの。 432>>981
>というか、周朝でも短里じゃないんだがなw<
また類スレ主がウソで世間の人々を騙そうとしている。
周髀算経の本文の冒頭の「周公と商高」は、周初の周朝の人だ。 >>694
>3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、
それらは、各地の「忌部はん」 が作った「東阿波型土器」技法の土器。
>このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
纏向に地方王権などないよ。 単なる「忌部はん」 の入植地。 @阿波 432>>984
>>使われていたという事実を前にして何をほざくか。<
>使われてないよw そこからして事実誤認だし、史料の扱い方がおかしい <
使われていたから、記載された。「余」の有無で書き分けてある事が証拠。
>単純に、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を持ち上げるために、
倭国をより遠くの大国として描くという動機の上で、距離を誇張して盛ってあるだけ <
そんなインチキは、バレれば首が飛ぶものだから、魏使らはしない。
>短里なんてないし、魏朝の役人が魏の皇帝の定めた公定尺の度量衡以外を使う理由はない <
魏使らが、魏朝の公認里や公認歩を使わなかったら、それもバレれば首が飛ぶ。 432>>989
>>その庄内甕が現れた時期についての資料をちゃんと出せよ。
佐々木憲一の論文では、古墳時代開始直前だとしている。
そして、その古墳時代開始を箸墓築造時期とする。
彼の言う箸墓築造の古墳時代開始は、3世紀後半前葉だ。
とすると、那珂に庄内甕が現れるのは250年頃ということになる。<
>とウソを書き続けた九州説信者は しんじゃったの? <
と、「南→東」や「古墳時代のインチキ定義」などの嘘吐き騙しを、
書き続けた佐々木や大和説者の良心は、死んじゃったの?。 >東南陸行 五百里 到伊都國・・・この方位は間違っているではないか
この議論をしている人はサバイバルなんてしたことが無いでしょうが、
距離感が狂うことはあっても方向を間違えたらかなりの高確率で死にます。
90°も方向を間違えることはありません。
しかし、土地勘の無い人間が、前を行く人の姿も良く見えないような山道を歩くのであれば方向感覚が狂っても不思議ではありません。
要は、案内人が道を間違えなければ良いのですから
末盧國の記述を解読すべきである「草木茂盛行不見前人」 432>>990
>魏志倭人伝を撰述したのは陳寿
陳寿が倭国を百越の流れの南方民族と認識しており、<
いや、会稽付近の東海岸付近の漁労民の出、だろうと推定している。
>倭国を会稽東冶之東にある南の国だと認識していたのは三国志から読み取れる <
これもウソ。
陳寿は、「会稽東治之東」と、女王國の位置推定をしている。 >>700
>末盧國の記述を解読すべきである「草木茂盛行不見前人」
峠越えだろう。 @阿波 432>>991
>方位は間違ってるんじゃなくて意図的に45度傾けてるんだろ
南だっていうために <
現代安部政府の役人や大和説学者らのように、国家権力に忖度する詐欺的人種は、
「意図的に方向を捻じ曲げる」犯罪者的行為はするんだろうが、
普通の人類は、東西南北は誰も間違えない事をしっているから、
45度狂わせて人々を騙そうとする事はしない。 432>>998
脳も良心も死んじゃってる人々
それが大和説学者らや大和説信者
そういえば、安部らに忖度した事がバレた財務局役人が一人、自殺してしまったなあ。
可哀そうに。 432>>1000
大和説者や大和説学者らは、どうして、そんなにウソを付くの?。
学会教育界や、安部文部省の忖度しているの?。 嘘つき教科書では学ぶことになる子供たちがかわいそう。 「教科書に書いてあることを信じないこと 常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授) ツイッターで#テクノロジー犯罪と検索して、まじでやばいことを四代目澄田会の幹部がやってる
被害者に対して暴力団以外にタゲそらしをしてるがやってるのは暴力団で普段外に出ることが少ないため遊びで公共の電波と同じような電波を使って殺人をしてる
統失はほとんどが作られた病気で実際は電波によって音声送信や思考盗聴ができることが最近明らかになりつつある
警察や病院では病気としてマニュアル化されてしまっているのが現状で被害者は泣き寝入りしてる
被害者がリアルタイムで多い現状を知って、被害者間でしか本当の事だと認知できていない
実際にできると思われていない事だから、ただの幻聴ではない実際に頭の中で会話ができる
できないことだと思われているからこそ真面目に被害を訴えてる
海外でも周知されつつあることを知ってほしい。
このままだとどんどん被害が広がる一方
#テクノロジー犯罪
#四代目澄田会 >その庄内甕が現れた時期についての資料をちゃんと出せよ。
>佐々木憲一の論文では、古墳時代開始直前だとしている。
>そして、その古墳時代開始を箸墓築造時期とする。
>彼の言う箸墓築造の古墳時代開始は、3世紀後半前葉だ。
>とすると、那珂に庄内甕が現れるのは250年頃ということになる。
とウソを書き続けた九州説信者は
しんじゃった >>700
>この議論をしている人はサバイバルなんてしたことが無いでしょうが、
>距離感が狂うことはあっても方向を間違えたらかなりの高確率で死にます。
何度言っても聞かないフリww
問題にしているのは、「三国志という文書」上での方角の間違いなのに
実際のサバイバル、現地での方向認識を例に出して意味があると思っているのが九州説
極端なことを言えば、「書物の方角に誤植があったらかなりの高確率で死にます」って
言ってるのと同値だぞww
どんだけ頭の悪い主張だか、理解できるか? >>706
>嘘つき教科書では学ぶことになる子供たちがかわいそう。
嘘つき古田史学の本やデタラメ邪馬台国の会の本で、学んだつもりになっているご老人が
心底惨めでかわいそうだな、とw >>710
>極端なことを言えば、「書物の方角に誤植があったらかなりの高確率で死にます」って
>言ってるのと同値だぞww
案内書に誤りがあったら遭難くらいするだろ。 >>665
出雲国譲りとか、天孫降臨とか、日向三代とか、周りの話の年代観がよくわからない。
一部だけ抜き出して都合よく解釈しようとしても、無理がある。 畿内説を否定する者は
古田史学や邪馬台国の会を支持してたり理解してると決めつけてるんだなw
俺は畿内説に否定的だが
古田や邪馬台国の会の主張なんて知らないんだよな 出雲国譲りとか、天孫降臨とか、日向三代とか、周りの話の年代観がよくわからない・・、
そんなものを、記紀がまじめに取りまとめて後世に残そうとしたのは何故か、
それが、いちばん肝心なのだが、、、 >>700
>末盧國の記述を解読すべきである「草木茂盛行不見前人」
この解読は簡単
末盧国が唐津平野、伊都国が糸島平野なのは考古学的証拠などから確定
呼子上陸バカはただのバカ
東南陸行五百里は、単に伊都国行きの経路ではないのが、北部九州の地理紹介という文脈の中で
紛れ込んだだけ
卑弥呼の時代以前に、大陸との交流で半島、対馬、壱岐と海を渡ってきて、唐津に上陸した後、
松浦川沿いに佐賀平野方面に抜ける経路を使っていて、その記録を陳寿が参照(参問)したんだよ
卑弥呼の遣使の時には、末盧国は通っていないとする方が妥当 古田卑学会も邪馬台国の怪も、神功皇后記の剽窃にすぎぬ。 >>712
>案内書に誤りがあったら遭難くらいするだろ。
順序が逆
倭国内を移動した記録をもとに三国志が撰述されたのであって
その時に誤認、誤植があっても命に関わるはずがないだろww
三国志を見ながら倭国を移動するやつはいないww >>716
邪馬台国の時代には唐津に上陸していたのかもしれないが
魏志倭人伝の記述の元となる何かしらの書物が作られた時代では、呼子に上陸していた
ただそれだけのことだ >>714
>俺は畿内説に否定的だが
>古田や邪馬台国の会の主張なんて知らないんだよな
で、知的能力の足りない>>714は、どこで古代史の知識、認識を得てきたんだ?
簡単に答えてご覧?
二十四節気吉井信号バカなんだろ?ww >>720
記紀と逆説の日本史だな
あとは2チャンネル情報の聞きかじり 433>>70
>つまり陳寿は倭国を、日本列島よりはるか南と考えてた
ということは短里など使っていないし 南だという方位も間違ってる 結論出てるね <
そんな結論は出ない。
・・・・やアホ詐欺師の大和説者以外の、普通の人や人類は、
東西南北を殆ど間違えないし、文字も全く間違えない。 433>>72
>出雲圏のムギバンダ遺跡は巻向以前の遺跡では最大だったけど
時代的には卑弥呼の前なんで 男王の時代かな <
「南≠東北」に拠って、×。 >>715
>そんなものを、記紀がまじめに取りまとめて後世に残そうとしたのは何故か、
それは、遷都前の祖国、倭国(阿波)の歴史を書き残そうとした為。 @阿波 433>>73
>国譲りの時も伊都ノ尾羽張は中心的な役割をしてるし
国譲りで卑弥呼が倭女王になったときも 伊都国の力は大きかったってことかな<
国譲りは紀元前のはるか昔であり、卑弥呼は3世紀だから、×。 >>716
>末盧国が唐津平野、伊都国が糸島平野なのは考古学的証拠などから確定
碌な弥生後期集落遺跡もない糸島平野が? ワハハハハ @阿波 >>719
>魏志倭人伝の記述の元となる何かしらの書物が作られた時代では、呼子に上陸していた
呼子上陸バカもどこまでもバカだな
呼子に上陸する理由がない
呼子には四千戸の国を想定できる遺跡がない
呼子に上陸しても伊都国は東南陸行五百里にならない
大陸史書が国境までの距離で地理旅程記事を書いている例はない
呼子に上陸したというのは、魏志倭人伝の方角・距離には
間違いがないという間違った主張を維持するためだけに考案された無意味な駄論だ >>719
理由もなく「俺様の結論」だけを言い張り続ける
それが九州説 >>719
>邪馬台国の時代には唐津に上陸していたのかもしれないが
唐津も呼子も、ないない。 「世界文化遺産」が物語っている。 @阿波 【バチカン】第2次大戦時の秘密文書公開へ ピウス12世の検証進むか
ローマ(CNN) ローマ法王フランシスコは4日、
バチカン秘密文書館に保管されている第2次世界大戦時の文書を
来年公開すると発表した。
当時の法王ピウス12世について検証が進むことになりそうだ。
公開される文書は1939〜58年のもので、
書簡や電信、演説の原稿など数十万点が含まれている。
(中略)
フランシスコ法王は発表に当たり、
ピウス12世に対する批判には偏見や誇張が混じっていたと指摘。
「真剣かつ客観的な歴史調査により正しい評価に至ると確信している」と述べた。
文書公開は側近の助言を聞いて決断したとし、
「教会は歴史を恐れていない。むしろ愛している」と強調した。
(以下略)全文は
https://www.cnn.co.jp/world/35133713.html
おら九州説
法王猊下は歴史を愛しておらっしゃれるぞ
嘘捏造で歴史を捻じ曲げんとするお前ら九州説は法王庁を敵に廻したな >>727
朝鮮半島から島伝いに九州へ行くなら呼子が一番近いだろ
なんで呼子を通り過ぎて唐津まで行くんだ?
危ないだろ 433>>74
>卑弥呼が朝貢した年号のはいった3角縁は<
景初二年の△はないから、×。
>日本で作られた記念鏡だし ってことで3角縁の出土範囲が
倭を構成してる30カ国の範囲だね <
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らが列島に散らばって造ったり造らせたりした鏡だから、
×。 433>>75
>関東から九州にかけての広い範囲が倭の30カ国の範囲で
その真ん中くらいの位置が巻向でそこに都をつくり 卑弥呼を共立した<
「南≠東「」などに拠って、×。 >>726
>碌な弥生後期集落遺跡もない糸島平野が?
三雲遺跡群を越える遺跡は四国には一つもない件についてw 433>>77
>3角縁には卑弥呼が朝貢した年号の記念今日もあるし<
景初二年の△はないから、×。 >>731
>なんで呼子を通り過ぎて唐津まで行くんだ?
陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
重い荷物を陸送するには大変だから
>危ないだろ
呼子のそばまで来れば、その先は何かあったら陸につければいいから、
唐津湾内に船を浮かべていて危険と言うことはない >>734
>三雲遺跡群を越える遺跡は四国には一つもない件についてw
ハハハハハ @阿波 >>727
>呼子に上陸する理由がない
壱岐に一番近い。
>呼子には四千戸の国を想定できる遺跡がない
松浦地方全体で四千戸ですよ。
>呼子に上陸しても伊都国は東南陸行五百里にならない
1里80mで距離はドンピシャだし
方角も東松浦半島内を南下、唐津市街地から海岸沿いに東へ。
「濱山海居」この表現は正に呼子の風景そのもの
平たい唐津市街地だと「濱山海居」とはならない。 >>736
唐津も呼子も、ないない。 「世界文化遺産」が物語っている。 @阿波 433>>79
>前方後円墳の円の部分が墓で台形の部分は墓を拝む為の付帯施設だよ
ってことで墓の大きさってことなら 円形の部分でいんだけどね <
天円地方思想によって、円と方の両方で一つの墓のつもりで造っているし、
魏使らもそのつもりで見るから、×。 >>736
そういう理屈なら唐津で上陸する必要がないだろ
糸島まで船で行けばいい
だからその言い訳は通用しないよ >>736
>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
>重い荷物を陸送するには大変だから
3世紀の唐津は砂浜海岸で大型の船を接岸できる港がないよ
一旦小舟に積み替えて荷揚げする必要がある
呼子なら接岸し直接荷揚げ出来る
思い荷物を陸上するなら呼子だよ。 >>741
言い訳?
末盧国に至ると書いてあるのに
なんで通り過ぎるんだ
インチキじゃないか >>742
>3世紀の唐津は砂浜海岸で大型の船を接岸できる港がないよ
証拠は? >>741
3世紀には唐津市も糸島市海岸は遠浅ですね
大型の外洋船は沖に停泊して上陸には小型の舟に乗り換える必要がありますね
外海に船を放置すると危険ですね。 >>743
陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったら上陸するんだろ?
糸島まで行くなら唐津で上陸する必要ないだろ
常識で考えろ
畿内説ってこんな非常識な奴らばかりなんだろうなw >>744
自分で3世紀の北部九州地域の海岸線の地図をググってね。 >>720
お前が、どう書いたら投稿数増やせるかと、考えながらキー打ってるのが想像できるよ。
小遣い稼ぎも大変だな。 >>745-747
言い張るだけの九州説
絶対に証拠を出さない
本当に詐欺師なの? >>749
言い張るだけの畿内説w
常識で考えないのが畿内説w 433>>81
>前方後円墳は円形の三輪山とふもとの台地を合わせた形を元にしてる
三輪山には大国主の御霊を祭ってふもとの台地でお祭りをした
要するに円形のお墓と祭りをする為の台形の土地ってことで
それがベースになって前方後円墳だけどね <
前方後円墳は、西晋の天円地方が元になって、筑紫の那珂八幡等が最も古いし、
大和でも、三輪山とは関係のないところにも沢山あるから、
この大和説狂人説は、×。 >>746
>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったら上陸するんだろ?
どこに船で行けなくなったら?
日本語がおかしい九州説 >>750
だという証拠は?
また嘘ついて罵ってごまかすの? 433>>85
このように
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
何も証拠を出せないし、
出せばウソとバレるし >>752
邪馬台国までだろ
途中で糸島に寄る必要があるなら糸島だよ
唐津へ行く必要がない
※これは畿内説のアホの言い分に従った場合だからな
>>736
>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ >>753
船の移動は危険なので最短距離を進むという常識を無視して
その上
邪馬台国が目的地なのに
陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
と言い訳をする
常識で考えたら唐津に上陸せずに糸島に上陸するだろ
これが畿内説は非常識であるという根拠だよ >>756
前を歩く人が草木に隠れて見えないという記述があるので唐津ではないんだよ
もっと田舎
平野がない >>755
じゃあ何故?
どうして?
伊都国以外いくつも経由地が書いてある? >>759
>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
が間違いなら
伊都国以外の経由地がいくつあってもいいんだよ
>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
という条件を言い張りたいのなら
邪馬台国の直前まで船で移動しないとおかしいだろ? >>755
>※これは畿内説のアホの言い分に従った場合だからな
>>736
>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
その文章には「末盧国に行くのに」が略されてることは人並みの学力があればわかる
倭人伝に書かれてる末盧国に行く行程が書いてないと読んだら異常だね あらゆる歴史書を否定しまくる畿内説は狂ったカルト。
知的冷静さを失っている。 >>734
>三雲遺跡群を越える遺跡は四国には一つもない件についてw
四国どころか、弥生末期から古墳時代前期にかけては本州にもないだろ。 >>758
>前を歩く人が草木に隠れて見えないという記述があるので唐津ではないんだよ
唐津から前原に行く途中には、そういう場所を通るよ >>756
上陸地点の呼子の風景が「濱山海居」
呼子から糸島市方面は山で見えないので直接方角を確認することは出来ない
呼子に上陸するとまず東松浦半島内を南に唐津市方面に進むことになる
この風景が「草木茂盛 行不見前人」
唐津市街地から糸島市方面へは海岸沿いに東へ進む
この風景が「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
進んだ方角で「東南陸行」と書いてあるだけ。 433>>91
昨夜メチャクチャわめいてた
久住の「筑紫の庄内のTB後半」説否定や、「大和の庄内の3世紀末」説否定の、
大和説ガキ(類スレ主?)は、
逃亡したか >>762
それ、具体的に言ってみて
ウソでないならね 433>>92
反論あきらめて中傷専科となった、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説トンデモ >>761
それこそが、畿内説は頭が悪い証拠
目的地が邪馬台国なら唐津に上陸する意味は何なんだ?
何のために唐津に上陸するんだ?
重い荷物がたくさんあるんだろ?
だったら糸島まで船で行けばいいじゃんなぜ糸島まで船で行かないんだ?
糸島まで船で行かないのなら
呼子に上陸する事を否定する根拠がなくなる >>758
唐津市市街地は平坦で前を歩く人が草木に隠れて見えないという記述には合いませんね
これは小高い丘の続く東松浦半島内の風景ですね。 常識的に考えたら糸島に行くのに
呼子でも唐津でも上陸して歩くことは無い >>715
答えは、一つ。
南九州阿多が、崇神、応神といわれた祭祀者のやってきた所だったからだ。
天孫降臨の神話も、その一点に絞られている。
阿多がすべての始発だったのよ。
このことを解明して初めて、日本書紀の神話が解ける。
そういうことだ。 >>772
解明してないじゃん。
伊都説だとそのあたりも整合性があるのに。 >>765
>唐津市街地から糸島市方面へは海岸沿いに東へ進む
どうやって松浦川を渡るの?
500m以上あるよ
しかも浜崎を過ぎたらどんどん北へ向かう
それのどこが東南陸行なの?
九州説はインチキばかりじゃないか 433>>97
>国名いつ変えるかなんて何の関係も無いだろ 支離滅裂な主張だぞ九州説<
新唐書や、釈日本紀紹介の延喜講記によって、
大和日本国が隋の開皇末に初めて「日本国」を名乗った事が判っているんだよ。
支離滅裂の・・・・アホだぞ、大和説者。 >>773
>唐津に上陸した時点での話ではないわな
なんで唐津に上陸した時点での話でないといけない? >>776
>新唐書や、釈日本紀紹介の延喜講記によって、
>大和日本国が隋の開皇末に初めて「日本国」を名乗った事が判っているんだよ。
証拠は? 郡使を乗せた船は、その時だけ予定と違うところに入港してしまったが、とりあえず郡使は自分たちの通過したルートを記載したのではないかな。 >>777
畿内説のいつもの言い訳は
「領域国家じゃない」
だったろ?
唐津と糸島の間のどこの国にも属さないような場所の話を唐津の説明と言い張るなら
畿内説はやっぱりチェリーピッキングとなる >>769
重い荷物?
呼子に上陸する事を否定する根拠がなくなる?
倭人伝に、魏使が末盧国に上陸したなんて書いてありませーん
目的地が邪馬台国な人が唐津に上陸するとも書いてありませーん
残念でした >>781
>>736が読めない馬鹿なの?
畿内説が言い張ってることだぞ
これを否定したら呼子に上陸しない理由がなくなるぞ >>780
唐津と糸島の間のどこの国にも属さないような場所の話だって誰が決めたの? >>783
唐津は邪馬台国の時代は栄えてたんだろ?
砂浜がそこそこある場所だろ?
そんな屁理屈しか言えないのが畿内説w >>738
>松浦地方全体で四千戸ですよ。
お前はnn氏か?ww
唐津以外にまともな拠点がないから、松浦郡に全部入れられただけだ
もともとの末羅縣は唐津平野だ >>784
>唐津は邪馬台国の時代は栄えてたんだろ?
>砂浜がそこそこある場所だろ?
それ、誰が決めたの?
九州説の自家中毒?
相手に反論しなきゃ意味がない 唐津あたりのルートをあれこれ妄想しても宮崎に行くことはない >>782
>これを否定したら呼子に上陸しない理由がなくなるぞ
なんで意味がなくなるの?
手前勝手な結論だけ叫ぶんじゃなくて
ちゃんと理由を説明してごらん
出来ないの? >>758
福津辺りの上陸して峠越えだね。 @阿波 >>786
畿内説が言い張ってるんだがwww
>>788
>>731
>なんで呼子を通り過ぎて唐津まで行くんだ?
>危ないだろ
これに対する反論が無かったという事になる 433>>98
>ってことで魏志倭人伝の南は海流を無視した場合の方向 <
無視していない。
松浦水軍家の都市氏らは、当然海流に流される事も知っており、
だから。對海國からの出発時の方向を「南」に選択し、
魏使らはその通りに計測して記録した。 まあ脳の極度に少ない九州説じいさんは唐津と言われてただ唐津市街を空想してるんだろうけど
畿内説はもっと具体的に末盧国の中心がどの辺りか説明してるから
ちゃんと畿内説の話を聞いてから畿内説を批判してる気になるように
ひとの話を聞かないで仮想敵相手に反論ゴッコしてると
恥をかくだけだよ >>738
>1里80mで距離はドンピシャだし
短里はない
短里を知っている人も使う理由のある人も、3世紀世界にはどこにもいない
>方角も東松浦半島内を南下、唐津市街地から海岸沿いに東へ。
それでは背振山脈の南側にしか行けないと何度教えればww
現地では方角を間違いはずがないっていう主張なんだから、
ずっと北に向かって歩いてたら必ず分かるだろww
>「濱山海居」この表現は正に呼子の風景そのもの
>平たい唐津市街地だと「濱山海居」とはならない。
残念ながら今の平たい唐津市街地のかなりの部分は、
3世紀当時松浦川河口の広い潟湖だったんだよ
それを抜けば唐津の地は山から流れ出てきた松浦川沿いから山裾の幅の狭い平地しかない
そして、その潟湖が港として利用されてたんだよ >>790
>これに対する反論が無かったという事になる
なんで無かった事になるの?
理由は?
人並みの説明能力が無いのかな? >>794
>なんで無かった事になるの?
畿内説の唯一の反論は
>>736
>>陸沿いに船を進めて、船で行けなくなったところで上陸するんだよ
>>重い荷物を陸送するには大変だから
これだけだから
重い荷物を運ぶから呼子ではなく唐津だと畿内説が言い張ってるのだから
>>781みたいにちゃぶ台返ししたら
その唯一の反論が無くなってしまうよ >>741
>そういう理屈なら唐津で上陸する必要がないだろ
>糸島まで船で行けばいい
そう主張してるよ
卑弥呼の時代の魏使は、糸島へ船で行き、さらに奴国にも船を回し、
そこから中国地方の日本海側を沿岸航行=水行して丹波まで行くと言っている
>だからその言い訳は通用しないよ
いい訳じゃないってば
唐津に上陸するのは松浦川沿いに陸行する方向に目的地がある場合にのみ合理的
その時代の記録が魏使の経路とは無関係に、北部九州の地理紹介として
魏志倭人伝に使われているだけ
いずれにしても、呼子に上陸することが合理的となる場合はない >>742
>呼子なら接岸し直接荷揚げ出来る
>思い荷物を陸上するなら呼子だよ。
港湾整備もされていないところに大型船が着けられると考えている時点でファンタジーだ
岩の多いリアス式海岸なら一つ間違えば座礁して船が沈むぞ >>796
そうやって魏志倭人伝の記述を無視してる時点で畿内説は成り立たない
それだと単に畿内に有力な勢力があったという話でしかない >>795
ちゃぶ台返し?
どこが?
倭人伝に、魏使が末盧国に上陸したなんて書いてありませーん
目的地が邪馬台国な人が唐津に上陸するとも書いてありませーん
これ、史料事実ね
なんで唯一の反論が無くなるの?
理由は? >>743
>末盧国に至ると書いてあるのに
>なんで通り過ぎるんだ
地理情報として古い記録が引用挿入されているだけ
末盧国は郡使往來常所駐ではないんだよ
四千戸の比較的大きな国にもかかわらず官名の記載がないことからも、
末盧国の卑弥呼時代の情報がない=魏使は立ち寄っていないことが想定できる >>800
まず最初に
魏使が魏志倭人伝の記述通りに移動しなかった根拠は何? レス稼ぎの、釣り師A「なんでなのー」
レス稼ぎの、釣り師B「その証拠はー」 >>799
魏志倭人伝の記述を無視してる?
どこを無視してると?
具体的に言ってみてね
具体性のない事いくら言っても
畿内説が成り立たない事には出来ないよ >>746
>糸島まで行くなら唐津で上陸する必要ないだろ
唐津の上陸したのは古い情報
技師は直接糸島に向かっていると主張してるよ >>803
いつも理由の言えない、証拠の出せない九州説が泣きごと言ってる
w
w >>802
>魏使が魏志倭人伝の記述通りに移動しなかった根拠は何?
魏使が来た時はまだ倭人伝が無かったからに決まってんじゃん >>758
>前を歩く人が草木に隠れて見えないという記述があるので唐津ではないんだよ
これは唐津から佐賀平野方面にに抜ける松浦川の上流の様子だよ
まあ、唐津の末盧国本体の様子ではないだろうね
人によっては河口の潟湖の葦原の様子という人もいるし、それでもいいけれど >>799
>それだと単に(邪馬台国とは別に)畿内に有力な勢力があったという話でしかない
これでFAでしょ。 >>759
>じゃあ何故?
>どうして?
>伊都国以外いくつも経由地が書いてある?
倭人伝=倭人の領域の情報、であって、邪馬台国旅行記じゃないからだよ
魏使が通ってない国も、倭国の地理情報の紹介として書いてある
ただ、陳寿自身倭国のことがよく分かっていないから、情報のつぎはぎの仕方が
いい加減だし、そもそもかなりの南国だと思っていたり、先入観が多く過ぎる >>760
>邪馬台国の直前まで船で移動しないとおかしいだろ?
だから、丹波まで船で移動してるだろ?
丹波から大和まではどうしたって陸行になるし、その方角は南だ 433>>108
>じゃあ、今向かってる島がどっちの方角にあるかも船の上で分からないの?
デタラメすぎる <
狗邪韓國→對海國や、一大國→末盧國は、出航時に目的地が見えているから、
魏使らは、出発方向を記載する必要がないが、
對海國→一大國は、出発時に目的地が見えないから、
魏使らは、その場合だけ、出発方向を書いた。
勿論、途中まで来て、目的地が見えれば、
その場所での天体観測に拠って、目的地方向は判る。 >>805
それよりも古い時代なら呼子に上陸するんだよ
>技師は直接糸島に向かっていると主張してるよ
魏使の誰が主張してるんだ? >>810
>倭人伝=倭人の領域の情報、であって、邪馬台国旅行記じゃないからだよ
畿内説の詭弁だよ。
それなら倭国内の地理情報がほとんどないことになる。
しかし、後漢書は倭国を帯方郡から一万二千里の九州北部であると明確にしている。
伊都国や奴国までが倭国主要部の地誌だとしか読めないよ。 呼子上陸バカはいいかげんバカをさらすのはやめなって、何度も教えてやってるのに懲りないよなww
伊都GCが伊都国だって言わなくなったことぐらいしか進歩がないww >>817
それは俺じゃないな
呼子に上陸したのだろうと考えてる人は複数存在するという事だ >>814
>魏使の誰が主張してるんだ?
「魏使は直接糸島に向かっている」と「畿内説の私がずっと以前から」主張してるよ >>818
そりゃ、そういう事にしないと
九州説が死ぬからね
しても死ぬけどさ >>816
>それなら倭国内の地理情報がほとんどないことになる。
そんなことはないだろ?
投馬国や邪馬台国までは水行で遠くまで行くっていう情報が初出だし
地理情報と、旅程情報がごっちゃになってるんだよ
漢以前
中国人「九州しか知らない」
魏以降
中国人「畿内を知った」「詳しいのは九州」
隋
中国人「畿内にも詳しくなった」
めっちゃ自然ですやん 弥生終末期の北部九州沿岸は博多遺跡群がメインの外港で
津があるところが発展しているので
博多湾沿岸は沿岸水行が主要交通 おいおい、郡使が邪馬台国まで行って卑弥呼に面会したなら、そこまでの里程情報があるべきだろう。 >>821
そう思い込みたいのが畿内説
そして
>>820に答えられない時点で個人の妄想レベルだと証明されたのも畿内説 だいたい九州でも遺物が少ないところが
無知でも古代史をやってる気になれる行程パズルに専念する >>826
おいおい
思い込みたいも何も、東南陸行の方位が否定されるだろ
方位しか拠り所のない九州説が生き残れるのかい?
>>820の答えなんて20レスも前から出てるだろ >>828
その部分じゃないよ
「呼子に上陸したという人は複数存在する」という部分だ
>答えなんて20レスも前から出てるだろ
そんな前から見てないよ >>633
ザラコクは退治済みだよ
もう南≠東だから×とか邪馬台国はないとか
前スレへの罵倒オウム返ししか出来なくなってるし >>769
>目的地が邪馬台国なら唐津に上陸する意味は何なんだ?
>何のために唐津に上陸するんだ?
唐津の上陸するのは目的地が邪馬台国ではないときだよ
私のオリジナルの考えではなく、ここの受け売りだけれど、これが一番合理的
古代史雑論 『東南陸行五百里』考
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html >>818
>呼子に上陸したのだろうと考えてる人は複数存在するという事だ
そして、全員バカなんだろ?ww
まあ、>>818は由緒正しい二十四節気吉井信号バカみたいだがww
呼子上陸バカも兼ねてるんだなww >>832
その考え方が仮に正しいとしても、
九州説もそれに則れば成り立ってしまうんだよな 畿内説がこれ以上なく強固に確定している以上
ザラコクは残りの余生をオウム人間として生きる他なく運命づけられている >>833
その二十四節季も知らんわ
そうやって何でも同一人物に仕立て上げようとしてる時点で畿内説は馬鹿をさらしてるという事だよ >>820、>>826
URLをつけると、連投規制がきつくなるから返信が遅くなったけど
>>832を読んでおいてね!
呼子上陸がどこまでもバカだって早く自覚できるといいね!
魏志倭人伝の方角・距離が間違っていないって主張する時点でバカ丸出しw 今日も、このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い韓国人が論破されているな。。。 >>834
どうやると成り立つの?
また具体的なことは何も言えない九州説? >>837
一部に間違いがあっても仕方ないだろうけど
距離や方角のすべてが間違ってるとするなら
そもそも魏志倭人伝の記述を信用できなくなるんだよ
そうなると
邪馬台国がどこだとかは
答えは出ない
もちろん畿内なわけもない >>839
唐津から糸島までの記述が間違ってるだけで
それ以外は記述通りと考えればいい 433>>125
>書いてあると何なんだ?<
伊弉諾や天照や神武や大和王家の苗字は「阿毎」=アマイであった、という事だ。 >>829
>その部分じゃないよ
>「呼子に上陸したという人は複数存在する」という部分だ
その部分が何なんだ?
まともに日本語が喋れないのか?
>そんな前から見てないよ
じゃあ、いつから見てるんだ?
20秒前か? >>834
>九州説もそれに則れば成り立ってしまうんだよな
どうして?
九州説に唯一の拠り所の、「魏志倭人伝の方位・距離は正しい」というのを
前提とした「行程パズル」が意味を持たなくなるんだよ?
東南陸行五百里が伊都国への経路ではない、末盧国へは魏使は行っていない、となれば、
島巡り仮説を入れれば萬二千里で不彌國国境というのも無意味になるし、
方角も距離もいい加減だと確認できれば、「南≠東」も意味をなさない このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人は、まともに日本語が喋れない可能性が高いな。。。 そもそも
航海技術が未発達な時代なら
最短距離で移動するのはどんな言い訳をしても当たり前な話だし
そうなれば呼子に上陸したことがあるなんてそれほど突飛な考え方でもない
大昔はそういう方法もあったんだろうというだけで、
魏志倭人伝の記述が、そもそも昔の記述のコピペなのだから
呼子に上陸してた大昔の情報を転記したと考えても問題はないんだが
そしてそれは>>832の理屈とそれほど乖離してもいない
なのになぜか必死に否定するのが
アホの畿内説 >>836
>その二十四節季も知らんわ
>そうやって何でも同一人物に仕立て上げようとしてる時点で畿内説は馬鹿をさらしてるという事だよ
吉井信号バカは認めるのか?ww >>840
>一部に間違いがあっても仕方ないだろうけど
>距離や方角のすべてが間違ってるとするなら
それ、誰の説?
畿内説は関係ないよね >>840
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離方位は邪馬台国を指してない
とくに九州北部は伊都国奴国と書いてあるし通り過ぎるし徹底的に否定されると言える
すると出土する三世紀の考古物から見て畿内が邪馬台国
はい邪馬台国論争お終い >>847
吉井も知らんぞ
二十四節季と吉井は別なのか
知らんかったわ >>840
>そうなると
>邪馬台国がどこだとかは
>答えは出ない
>もちろん畿内なわけもない
おい九州説、論理的におかしいぞ
邪馬台国がどこだとか答えは出ないのに
畿内でないという答えだけ出るのか?
お前、思考そのものが壊れてるだろ >>851
お前は頭が悪いんだな
畿内でないし当然九州でもないという事になるのは
読解力があれば分かる事だぞ
こんな馬鹿が信じてるのが畿内説なんだなw >>846
>航海技術が未発達な時代なら
>最短距離で移動するのはどんな言い訳をしても当たり前な話だし
そもそも、「帆船」が未発達な時代なら
海流に逆らわないのが当たり前な話。 @阿波 >>848
畿内説は東と南の記述が間違ってるという屁理屈じゃないの?
それは一部の間違いがあるという事じゃないの?
それとも畿内説は魏志倭人伝の記述はすべて全部間違ってると言い張ってるの?
それが畿内説の総意? >>832
神功皇后記の剽窃の受け売りに影響され過ぎて、イトクズ国を糸島だと断定してるからこうなる
佐賀平野(佐賀川上)に倭人伝の伊都国があったとすれば万事解決するではないか。
川上には、平安国府の前身もあって、それらしき巨大遺構もある。
(またカワカミノタケルの伝説に地でもある。)
発掘がなされておらず遺跡が見当たらないから、何もなかった、と断言するのは軽率。 呼子のバカは宮崎説のやつだろう?
知識のないところと詭弁の使い方が似てる >>849
すると出土する三世紀の考古物から見て倭国(阿波)が邪馬台国
はい邪馬台国論争お終い @阿波 433>>134
>神武も東征するときに 九州は中心からはづれてるんで大和にいったってことで
当時の倭の中心は巻向あたりなんだよね<
旧唐書や唐会要には、
大和日本国は、倭国から別れた別種の旧小国であった、
と書いてあるの。 もう九州説の負けは決まっているよ
九州説はいつまで認めず子供みたいに泣きわめいてるのかな >>840、>>841
>唐津から糸島までの記述が間違ってるだけで
その間違い方がすごいだろ?
実際に魏使が使っていない(だろう)経路が、しれっと「末盧国−伊都国間」の経路に
入っている時点で、「陳寿の認識、陳寿の利用できた情報」の『精度』が分かるってものだ
>それ以外は記述通りと考えればいい
そして、伊都国−奴国間の方角・距離も正しくないんだよ
結局、国名と国の大体の配置、卑弥呼が王であったこと、くらいしか頼りにできる情報はない
「史料の限界」を九州説の人が理解できれば、話が早いんだけどね >>857
3世紀にもなって石オノとかサーベルタイガーの骨とか
恥ずかしい考古物しかない阿波は真っ先に爆死 >>854
>それとも畿内説は魏志倭人伝の記述はすべて全部間違ってると言い張ってるの?
>それが畿内説の総意?
お前、やっぱり異常に頭悪いわ
だって>>848はお前の
>距離や方角のすべてが間違ってるとするなら
に「それ、誰の説?」と返してるんだぞ
発狂してるのか? >>862
>に「それ、誰の説?」と返してるんだぞ
畿内説の言い訳も同じだろ
と言ってるんだが
読解力のない奴はこれだもんなw
畿内説の言い訳も同じように
一部の間違い(東と南)という事じゃないのか?
と言ってるんだよ >>858
>旧唐書や唐会要には、
>大和日本国は、倭国から別れた別種の旧小国であった、
>と書いてあるの。
もちろんウソね
九州説は嘘の塊り >>846
>そうなれば呼子に上陸したことがあるなんてそれほど突飛な考え方でもない
>大昔はそういう方法もあったんだろうというだけで、
「呼子に上陸した」と書いてあるなら、な
書いてあるのは「至末廬國」で、呼子上陸が至末盧国と書かれる余地がないって話なんだよ
そして、呼子に上陸したというのも否定の証明(悪魔の証明)ができないだけで、
大昔なら余計に倭人の丸木舟で呼子に上陸する必要がなくなる
丸木舟にとっての良港は、松浦川河口にあったような潟湖だからな 433>>135
>卑弥呼が共立された時代は大きな遺跡は巻向だけど他にないんだよね<
卑弥呼共立は、220〜230年頃であり、
纏向付近の石塚でまだ庄内1で3世紀末であるから、
卑弥呼共立の時代は、まだ田舎。 >>850
>二十四節季と吉井は別なのか
吉井信号バカが自分で二十四節気バカだったって自白してるんだよ
でも、ID非表示スレでいくら「俺は違う」って言っても、意味ないがな
キウスが常になりすましをやってるし、九州説の頭おかしいやつは
なんだかんだ言って数が極小だから、同じでも別人でも大して変わらんw
でも、>>850が違うというなら、二十四節気吉井信号バカや、伊都GCバカが出たら
思いっきり非難してやれよ!
九州説の面汚しだ!ってww >>860
>結局、国名と国の大体の配置、卑弥呼が王であったこと、くらいしか頼りにできる情報はない
それなのに畿内説を唱えるなんて、まったくおかしな話ですね。 >>852
>お前は頭が悪いんだな
いや頭が悪くて形式論理すら理解できてないのがお前だぞww
>畿内でないし当然九州でもないという事になるのは
>読解力があれば分かる事だぞ
魏志倭人伝の記述からは
畿内だとも畿内ではないとも判断できず
九州だとも九州ではないとも判断できない
にしかならない
バカが無理してもいいことないぞww 433>>142
>出雲の男王の御霊を大和の三輪山に納めて
卑弥呼が御霊を奉って政治を行ったってことだし<
卑弥呼は、「南≠東」などに拠って、×。 >>870
なんでおかしな話なの?
九州説はまた理由もなしに決めつけ? 要するに、論理的な思考がまったく出来ないから九州説なんかに与するのだ
という結論が出るな >>868
>最短距離の話なので唐津はない
その「最短距離」って、ザラコクくらいしか根拠にしてないバカ理論だぞww
沿岸航路で縄文時代から長距離交流をしていた倭国で、
渡海の時の目印として近い陸地を目指すのはあっても、
渡りきったあと人もいないようなところでとにかく上陸する理由がない
壱岐から九州側まで渡ったら、そのあとは人がいる目的地=荷物を下ろすところまで、
陸沿いにのんびり舟を回航するのが必然だ >>877
人は住んでたし、連続した遺跡も存在している
それが呼子
>そのあとは人がいる目的地=荷物を下ろすところまで、
>陸沿いにのんびり舟を回航するのが必然だ
で、どこに上陸したの? >>858>神武も東征するときに 九州は中心からはづれてるんで大和にいったってことで
当時の倭の中心は巻向あたりなんだよね<
倭国連合位置的な中心は巻向付近ってことで
倭連合の範囲は関東から九州にかけての地域だ
九州から関東の範囲が倭連合なら中心が巻向あたりになり
ちょうどいい 433>>156
>巻向からは関東から九州にかけての土器が出るし
関東から九州にかけての真ん中あたりが巻向<
纏向には筑紫の土器は出ないし、
大和は、「正北抵新羅」の北部九州の倭国から別れた別種の旧小国であったし。 433>>157
>巻向が建設された3世紀前半には 他の地域に大きな遺跡はないよ
巻向が建設される2世紀末に関東から九州にかけての環濠集落が一斉に放棄されて
人々は平野に分散して住むようになったんで
3世紀にないると大きな遺跡がなくなってるんだよね<
纏向の庄内1の石塚は3世紀末だし、
大和は、「正北抵新羅」の九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎなかったんだし。 >>867卑弥呼共立は、220〜230年頃であり、
卑弥呼共立は2世紀末で
2世紀末が時代のエポックになってる
2世紀末が銅鐸祭祀の終焉
2世紀末に弥生式環濠集落が関東から九州の範囲で一斉に廃棄された
2世紀末以降の3世紀の巨大遺跡は巻向野もで他に存在しない
2世紀末以降に前方後円墳が関東から九州の範囲で一斉に広まる
ようするに卑弥呼が共立された2世紀末から
倭国は歴史的変化を遂げたる >>870
>それなのに畿内説を唱えるなんて、まったくおかしな話ですね。
どうして?
国名⇒末盧国=松浦、伊都国=怡土、奴国=那の津・那珂、
投馬国=ィヅモ国、邪馬台国=ヤマト国
国の大体の配置
対馬→壱岐→北部九州(末盧、伊都、奴国)へ渡海して、
投馬国へ水行、(丹波へ)水行、そこから邪馬台国まで陸行
卑弥呼が王であったこと
纒向で始まった供献土器を使った祭祀や前方後円墳が列島の広範囲で同時に始まる
⇒その「列島の広範囲」が30カ国の範囲、その中心が盟主の倭王の都
これだけの情報と考古遺物の実物証拠で、畿内説が妥当って分かるだろう? >>878
最短距離バカ
こいつも呼子の釣り師だなww >>878
>人は住んでたし、連続した遺跡も存在している
>それが呼子
四千戸の、北部九州では奴国に次ぐ大きな国が認められるような遺跡は3世紀にはまったくないんだよ
チェリーピッカー乙
>で、どこに上陸したの?
唐津の松浦川河口の潟湖だよ
末盧国に上陸していた頃はな
魏使は直接糸島に行くだろ
そこは郡使往來常所駐だ 呼子上陸のやつって、唐津にある宇木汲田遺跡、桜馬場遺跡、中原遺跡、千々賀遺跡などをどう考えてるんだ?
こういう遺跡に住んでた人たちは、壱岐島から帰ってくるとき、みんな呼子に上陸したと思ってんの? 最短距離バカ
こいつもド田舎辺鄙集落の呼子の釣り師だなww >>881
北九州の土器と大和圏の土器は同種の土器だ
これは北九州と大和圏の人間が同じ系統の人間だからだ
卑弥呼が共立されたときに
九州から大和圏に大量の人間が移民し
結果的に北九州と大和圏の地名が位置を含めて同じになった
移民したに人々は自分の故郷の地名を移民先の土地につけるという子ことで
これは自然はことだ
卑弥呼が共立されたとき
卑弥呼は九州から大和圏に上り
それにとのなって大量の移民が北九州から大和に移住した
北九州からきた工人が大和で作った土器が
北九州に逆輸入されるのは当然のことで
大和から北九州の流れる度来た他の地域よりも圧倒的に多い >>885
>四千戸の、北部九州では奴国に次ぐ大きな国が認められるような遺跡は3世紀にはまったくないんだよ
昔の記述のコピペだから心配無用
>魏使は直接糸島に行くだろ
そうなると松浦の記述は不要だし、
糸島から陸上移動してるので成立しないな >>886
魏志倭人伝の記述は邪馬台国の時代よりも古い時代の記録だと言ってるだろ >>837
君こそ自説に都合が悪いから魏志倭人伝の方角・距離が間違ってるって主張してる時点で馬鹿丸出しだよ
記述に合う場所があればそこが正しい上陸地点だよ
呼子に上陸したすれば記述と合うんだから呼子が正解だよ。 >>890
古けりゃどうだってんだよ
古い時代バカ >>886
3世紀に大型の外洋船の入港出来る港なんて北部九州地域では呼子付近にしかなかったんだよ。 >>880纏向には筑紫の土器は出ないし
北九州と大和圏の地名は位置も含めて
同じでこれは北九州から大和圏に大量の移民があった事を示してる
大和圏の庄内は筑紫の庄内がベースで
大和圏の庄内土器は筑紫の工人が作った土器だ
これが大和圏から筑紫に逆輸入されたってことで
これは北九州から大和圏にへの移民の多さを物語ってる 畿内に九州が征服されたことは西服衆夷六十六国から明らかだしな
九州説はいつもその場の都合で捏造してるから全体を見ると辻褄が合わない >>893
オマイ、やくざなレス番つけおって最短距離バカ
こいつもド田舎辺鄙部落の呼子の釣り師だなww >>891
>記述に合う場所があればそこが正しい上陸地点だよ
呼子には4000戸はない
呼子は魏志倭人伝の記述に合わない 纏向とかから出土した人骨のDNAを知れべれば現代日本人とは異なる縄文人の影響の強い人々が住んでいたと分かる。
現在の関西人は九州からの移民の子孫。 >>892
アメリカから日本へ行くには
今は羽田空港
100年前は東京港や横須賀
時代が違えば場所も変わる
そういう事だよw >>897
4000戸は呼子だけでなく松浦地方(末廬國)全体の戸数だよ。 >>898
なんで畿内説ってこんなバカばかりなんだろ? いつまで末盧國やってるんだ
官がいないんだから倭國じゃないんだよ
先に進めよ >>358
何が卑弥呼はオオヒルメじゃい
お昼寝でもしてろ >>890
>魏志倭人伝の記述は邪馬台国の時代よりも古い時代の記録だと言ってるだろ
宇木汲田遺跡とか菜畑遺跡とかは、邪馬台国の時代よりも古い時代の遺跡だよ
末盧国が栄えているのは吉野ヶ里が栄えている時代だと思えばいい
渡海貿易の拠点が、伊都国、奴国に移ってからは羽振りがよくないんだよ >>893
>3世紀に大型の外洋船の入港出来る港なんて北部九州地域では呼子付近にしかなかったんだよ。
このように
証拠も出さず理路もなく
ただ我流の結論を言い張るだけ
それが九州説 >>902
魏志倭人伝に邪馬台国が書いてあるよと
当たり前の事言っただけなにのバカ呼ばわりとは
九州説の頭はどうなっているのか >>907
じゃあ呼子以外に何処にそんな港があったんだよ!
証拠を出さないのはお前だろwww >>908
昔の時代の記述をコピペしてるだろうという事は
畿内説の人でも同意してる人は多いんだが
お前はバカすぎるから理解できないんだろう >>901
>4000戸は呼子だけでなく松浦地方(末廬國)全体の戸数だよ。
じゃあ、その末廬國の中心地はどこ? >>902
バカだから畿内説なんですよ
少し利口なら畿内説なんて支持しませんよ。 >>889
>糸島から陸上移動してるので成立しないな
それも北部九州内の位置関係を記述するのが意図の地理記事
伊都国から奴国の方角も正しくないだろ
卑弥呼の時期は、西新町遺跡や博多遺跡が渡海貿易の拠点だよ このスレでは魏志倭人伝にある当たり前の事を書くと九州説が罵倒してきます >>911
官が居ないから末廬國に中心地なんて無かったんじゃないのか
中心が有れば官がいたはず。 >>891
>呼子に上陸したすれば記述と合うんだから呼子が正解だよ。
呼子に四千戸の遺跡はない
呼子から東南方向は海だから陸行できない
記述に合わないねww >>910
ちゅう事は何かい
魏志倭人伝の記述は三世紀の卑弥呼の時代のものじゃなく
1世紀2世紀の奴国とかのものという事かい
寝言は寝てから言わんかい こうやって畿内説と九州説の意見を読んでいくと
やっぱり九州説の方が信憑性あるね >>891
>君こそ自説に都合が悪いから魏志倭人伝の方角・距離が間違ってるって
>主張してる時点で馬鹿丸出しだよ
また「脳内畿内説」に反論してる無能かww
末盧国が唐津平野、伊都国が糸島の三雲遺跡群というのは、畿内説の独自意見じゃないし、
この時点で方角も距離も合わないのは、「現実」なんだよww >>913
伊都国から奴国へは県道56号線を通って飯場峠。 >>918
頭のおかしな人間がいるぞ
かわいそうに >>919
>末盧国が唐津平野、
これが間違い旧松浦郡は平戸から唐津までの広い地域全体なんだよ
旧松浦郡≒末盧国だよ。 >>893
>3世紀に大型の外洋船の入港出来る港なんて
まず「大型の外洋船」という時点で根拠なし
倭人は丸木舟で渡海してるよ
魏使がどんな舟を使ったかは不明
呼子付近が天然の良港というのも根拠なし
呼子が渡海貿易の拠点だった痕跡は考古学的には認められていない >>909
逆だろ
呼子が3世紀のメイン港だった証拠を出すのが先 >>924
なお東松浦半島北端にある呼子には律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていたが、
ここには支石墓から支石甕棺、甕棺墓、箱式石棺を経て配石墓に至る、推定前8-7世紀から2-4世紀の連続した遺跡が残されており、
抜歯を伴う縄文形質の人骨が出土した点でかつては話題になった。
なので考古学的に認められている >>919
末盧国が唐津平野とか確定してないからね
誰かが末盧国は唐津平野じゃねえ?って言たくらいのことで根拠はない。 >>925
3世紀より前でいいんだよ
昔の記述のコピペなんだから >>901
>4000戸は呼子だけでなく松浦地方(末廬國)全体の戸数だよ。
その松浦地方ってのはどの範囲なんだ?ww
根拠なしの思いつきを書くのは止めれっての
この頃の「国」は、水系単位、一つの平野が一つの国、くらいのスケール つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>926
山の中を通って何で悪いの?
魏志倭人伝の記述通りに進むとその方角なんだが。 >>931
そのスケールで7万戸なのが邪馬台国なのか
で、畿内に7万戸もの数の家の遺跡が一度に出てる場所があるの? 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>930
じゃあ、2世紀でもいいから証拠だして
ほとんど遺跡のない呼子を末盧国だと言い張ってるんだから、証拠を出す必要があるのは呼子厨の方 >>901
>4000戸は呼子だけでなく松浦地方(末廬國)全体の戸数だよ。
その場合でも四千戸の大部分は唐津平野にいるし唐津平野が中心
「国に至る」という記述は、国の中心までが書かれる
国の端のろくに人がいないところで、国に着いたと書かれることはない
その意味でも、呼子を末盧国に当てる読み方は不当 >>931
>この頃の「国」は、水系単位、一つの平野が一つの国、くらいのスケール
この頃の国邑は郡や市くらいのスケールだよ
小さいものは水系単位、大きいものは複数の水系
奴国とかは相当広いね。 >>905
伊勢神宮の内宮の天照の別名はオオヒルメで漢字表記は大日巫女
伊勢神宮の外宮の豊受の別名はトヨヒルメで漢字表記は豊日巫女
大日巫女は卑弥呼で
豊日巫女は卑弥呼の次のトヨってことだ >>940
>「国に至る」という記述は、国の中心までが書かれる
これも間違い、魏志倭人伝では国邑の端に着けば至(到)ですよ。 >>941
はあ?
ちっこい遺跡があったことなんかどうでもいい
どうやっても、そこに4000戸はないんだから
必要なのは呼子が2世紀にメイン港だった証拠だ >>915
>官が居ないから末廬國に中心地なんて無かったんじゃないのか
官がいないのではなく、官が記録されていない、が正しい
つまり、官が置かれている時代、伊都国に一大率が置かれた卑弥呼の時代の
末盧国の情報が反映されていないと考えるのが妥当
つまり、魏使は末盧国には寄っていないし上陸もしていない >>935
倭人伝の記述を現代の地図に当てはめるから
山の中に迷いこんじまうんだよ
遺構が多い遺跡のルートが当時の安全なルート >>364
天照は天皇の先祖
初代天皇の神武の10代は後と見られる卑弥呼と同年代なら
色々時系列がおかしくなるからその説は破綻 >>945
その戸数が正しいという証拠はない
邪馬台国は7万戸だが
そんな数の家の遺跡が出た場所があるのか? >>936そのスケールで7万戸なのが邪馬台国なのか
で、畿内に7万戸もの数の家の遺跡が一度に出てる場所があるの?
北九州の巫女の卑弥呼が共立されて
大和圏に移住した
そのとき大量の人々が卑弥呼によもない大和圏に移住した
それで北九州の地名が位置も含めて大和圏の地名となった
ってことで北九州と同じ地名の範囲が邪馬台国で
これは複数県にまたがる広い範囲だ >>951
で、遺跡は?
7万戸の家の痕跡は?
あるの?ないの? >>943
卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメでトヨは豊鍬入姫が今のところの有力説だけど >>950
苦し紛れの論点ずらしwww
早く、証拠出せよ >>955
答えられないから壊れたテープレコーダーになってやがるwww
呼子がメイン港だった証拠出せないってことだなw >>950
畿内には今現在ざっと数百万軒は家があるぞ >>954
マツラ国には4000戸の証拠を要求するのに
邪馬台国の7万戸はスルーするという狡猾さw
これが畿内説www >>936
>で、畿内に7万戸もの数の家の遺跡が一度に出てる場所があるの?
投馬国五萬戸と邪馬台国七萬戸は、「可」○萬餘戸という書き方がしてある
この2か国は、後進地域の北部九州とは異なり、広域の文化圏が一つの勢力として
運営される段階だったんだろう
だから一つの平野分ではないから、見積もりがざっくりになるので「可」という表現になっている
何度も書いてるが、投馬国・出雲は、丹波以西の四隅突出墓を共通の墓制とする範囲
邪馬台国・ヤマト国は、畿内第V様式土器を共通に使う範囲だよ >>947
末盧国は伊都国から近いから伊都国の直轄だったんだろう。 >>958
うん、
現代の話は分かったよ
で、
邪馬台国の時代に7万戸の家があったという痕跡はあるの? >>951そのスケールで7万戸なのが邪馬台国なのか
で、畿内に7万戸もの数の家の遺跡が一度に出てる場所があるの?
邪馬台国の反には広く近畿圏全体だ
近畿圏の地名は北九州と位置も含めて同一で
これは北九州から大量の移民があったことによる
移民の時期は北九州の巫女出る卑弥呼が倭女王で共立さた時期で
卑弥呼が大和圏に入るときに九州からの大量移民があり
大和圏の地名は位置も含めて北九州と同一になった
ようするに移民してきた北九州の人々が自分の故郷の地名を
大和圏に付けたという事
それで大和圏と北九州の土器には同一性があるんだ
邪馬台国の反には九州と同一地名の範囲で非常に広い >>959
だから論点ずらしは止めろって
末盧国の話が終わったら答えてやるよ
で、証拠出せるの? >>960
つまりは、魏志倭人伝の時代の人も家の数は数えてないという事だろ? >>946ヒムカとトヨ 日向と豊 だよ
オオヒルメ(大日巫女)が卑弥呼で
トヨヒルメ(豊日巫女)がトヨだ >>964
お前が邪馬台国7万戸の痕跡を出せないのだから俺も出す必要はない
というか、4千戸無くてもいいんだよ
中国人の記述だから白髪三千丈と同じ
誇張表現なので少なくてもいいんだよ >>962
わかってねーな
7万戸の住居のあった所を受け継いで現在の住宅が建ってるって事だぞ
現在で見られように邪馬台国は実際には数百万戸だったようだが >>965
原の辻みたいな船着き場はあるはずだが、呼子のどこ? >>944
>これも間違い、魏志倭人伝では国邑の端に着けば至(到)ですよ。
これが根拠なしの思いつきでしかない
三国志の他の部分でも、他の史書でも、国の間の距離が国の端に
着いた所で記述されている例があるなら出してみなよ
それから大陸で国邑といえば城壁都市だから、国邑の端は城壁または城門だぞww
>>944の想定する領域国家の端などというのはどこにも出て来ない >>968
宮崎バカだったwwwwwwwwwwww 唐津平野も糸島平野も広さは変わらない
伊都国が1000戸なんだから唐津平野だけなら末盧国も1000戸くらいのはず
他に3つくらいの平野を含む広範な領域が末盧国なんだ
伊万里とかも末盧国に含まれていたはず。 >>969
つまり痕跡は見つかってないw
九州説は邪馬台国に比定できる遺跡がないと言ってるのが畿内説なのに
7万戸の痕跡を見つけられてないのも畿内説なんだなwww >>956
>7万戸は北部九州地域全体の戸数だよ。
出たよ、国を入れ子にして重ねる、二重帳簿詐欺ww
これは九州説でも認めない人が多いデタラメ >>975
畿内には今現在家が数百万軒建ってるぞ
じゃ3世紀ごろは7万戸ぐらい家が建ってたとしても不思議はないが >>970
>>972
呼子の港は今も使われてるよ。 九州北部にあるとされる国々を全部足すと8万戸になって邪馬台国7万戸と計算が合わず
九州説死亡 >>961
>末盧国は伊都国から近いから伊都国の直轄だったんだろう。
また新しい思いつきのでっち上げを書いてやがるww
伊都国から五百里が近くて直轄地で、百里の奴国、その向こう百里の
不彌國に官がいるのはどう説明するんだ?ww >>936
北九州の古代の国は比較的小さいけお
本州の古代の国には複数県にまたがる大きなものもなる
越とか吉備とか毛野とかは複数県にまたがる広い国だ
投馬は出雲圏で複数県にまたがる広い国で
邪馬台国は関西圏で複数県にまたがる広い範囲の国で
投馬と邪馬台国の間には国は存在しないかった
(投馬と邪馬台国は接してた)
関西圏と出雲圏が接してたってことで
倭人には投馬と邪馬台国の間の国が存在しないことになってるんだ >>9757万戸の痕跡を見つけられてないのも畿内説なんだなwww
卑弥呼が共立された2世紀末に
関東から九州にかけての環濠集落は一斉に放棄されて
人々は便利な平野に分散して住むようになったんで
3世紀には大きな遺跡は存在しないんだ
(祭都である巻向)を除いて >>979
>呼子の港は今も使われてるよ。
その現代の呼子の港は大陸や半島の交易に使われてるのかって話
地元の漁師さんの漁港だろ? >>979
2世紀、3世紀の証拠を出せと言ってるんだよ >>979
そこには遺跡がないんだよ
あるのは大友小友で漁村
遺跡が集中するのは町田川、玉島川そして特に松浦川流域だ
古代の港は干満差対応のため結構川を遡ったところにある 九州説はモンスタークレーマーなだけだから証拠とか興味ないよ >>968
九州北部と近畿圏は地名と位置が同じになってる
これは北九州からに移民が自分の故郷の名前を関西圏に地名にした事に由来する
九州の巫女である卑弥呼が共立されて倭女王ににったときに
卑弥呼ととのも北九州の人々が大量に関西圏に移住し
北九州と関西圏の地名が位置も含めて北九州と同一になって
この同一になって範囲が邪馬台国で
複数県にまたがる非常に広い範囲だ FAQでずっと釘を刺されてても
まだ九州説は特定の遺跡が国一つみたいな発想から抜け出せてない
遅れた歴史感覚の老人たちだね 433>>135
>卑弥呼が共立された時代は大きな遺跡は巻向だけど他にないんだよね <
纏向の庄内の石塚は、3世紀末だが、
弥生銀座は、弥生中期頃から現在の福岡市までずっと続いている。 433>>168
>弥生中期までは南九州に北部九州の須玖式が搬入されてるけど
土器の移動は一方通行的なものとされている <
ふーん。 >>985
名護屋浦は秀吉の朝鮮征伐の拠点だったんですよ。 いくら泣き喚いても九州説はぜってー成り立たないからな
ハゲ散らかして死ね >>992
素人老人ザラコクが理由もなく勝手に年代を決めても
意味がない >>992
巻向の造営開始は2世紀末で
これは卑弥呼が共立さてたときだ
2世紀末に銅鐸祭祀が終焉し
鏡祭祀の時代になった
卑弥呼の鬼道は
死んで鬼籍に入った人の御霊を鏡に移し
奉斎する宗教で卑弥呼は御霊に奉斎する巫女的な王てことだ
倭国大乱前の男王の御霊が
平原で作られたヤタノ鏡に移され
その鏡が三輪山に据えられ
三輪山のふもとに巻向が造営され
巻向で卑弥呼が男王の御霊を奉斎して
男王の御霊の神託にしたがって卑弥呼が祭りごとをして
倭国連合は安定したってことだ >>994
それ、邪馬台国のあった頃から千何百年後? >>991
どうやら>>989は自分では畿内説のつもりでいるようだよ
ただ、九州の巫女の卑弥呼が共立されて、畿内に祭祀都市の纒向を作って
その時に九州から畿内に大量移住したっていうトンデモだけど 433>>184
体力は回復しても信用は回復しないウソの罪
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
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