欠史八代とは何だったのか? 其2
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神武と欠史八代の天皇にも婚姻家系や宮と陵墓の所在地
以外に何か特筆すべき事績はあったはず
それを敢えて書けない理由があったに違いない
神武+欠史八代はよく葛城王朝と称されることがあるが
実はすでに崇神天皇より前の9人の王全員には神武天皇の
血筋でない者も含まれていたので、各天皇の事績をいろいろ詳しく
書くと万世一系でないことがバレる恐れがあったのではないか >>129
ただの大和の居候だったんだろ。
実権は物部氏の方にあった。 それよりも・・・、
浦島太郎(仮名、キャラクター名)の話ばかりなんだけど、なぜだと思う? 他のスレにも書いたことがあるんだけど、
128(の書き込みw)は、どこの池沼なんだ? どこの池沼なのか知らないけど、お前が何なんだ?
頭が悪いんだろう。 >>131
物部は筑後山門の邪馬台国時代からの天皇の部下だよ
筑後山門に物部の祖先を祀る神社が集中している >>138
アマテラスは太陽崇拝の擬人化ではなく
実在した人物がモデルなの? ニギハヤヒはスサノオの子の大歳という
歴史マニアの見解もあるよな
神々のルーツはほとんどが出雲で
神武天皇の故郷の日向には神々がほとんどいないともいうし >>139
たぶん、古代の倭王。
ただ、何人かの像を重ねて一人の話になっている。
例えば、八咫の鏡(平原遺跡に出土)を作らせたのは、実際には卑弥呼。 >>140
スサノオは出雲に流れ着くが、もともとは筑紫の日向の小戸(福岡市西区小戸)の生まれだよ。
アマテラスも同じ。
博多湾の岸に昔は岬(タチハナ)があり、その西側が小戸、東側が大戸。 スサノオ
『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとする。
小戸大神宮(福岡市西区)
伝説では伊邪那岐(いざなぎ)の神の「みそぎ祓(ばらい)」をしたところで天照大神、志賀三神、住吉三神が出現したという由緒の地とされている。 >>145
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊・・・・・・
橘は岬(タチハナ)>>142か。
小戸(ヲド)・大戸>>142(オホド)って何なの?
阿波岐(アハキ)って何なの? 961メンマ(福岡県) [ニダ]2020/11/28(土) 22:20:38.35ID:yJW/g6yj0
https://i.imgur.com/W5YcyN6.jpg
全くデタラメな妄想家系図
伊弉諾尊・伊弉冉尊、素戔嗚尊、天照大神といった
人間の妄想が産みだした架空の神々は
実在したかもしれない人間の神武天皇と何の繋がりもない。
実在してる人と実在してない神を混同するな
968メンマ(福岡県) [ニダ]2020/11/28(土) 22:33:23.51ID:yJW/g6yj0
日本書紀から想像すると、古代の天皇は50や60になって即位し
それから嫁さんを迎えてたらしい
当時の女性は今の女子中高生ぐらいの年齢で結婚していただろう
そして20年ほど経って、70歳とか85歳ぐらいのよぼよぼの
爺さんになって30歳半ばに達した嫁さんとの間に跡継ぎを授かり、
さらにほとんど子供をもうけることなく50年ぐらい生きたそうだ
いや、嫁さんの年齢は正確に分からない。ひょっとして天皇と結婚した
とき幼女だったから20年とか当たり前に過ぎて出産したのかも?
日本のおっさんたちからロリコン性犯罪者が絶えないのは皇室に由来してるのか 970ボ ラギノール(東京都) [JP]2020/11/28(土) 22:38:10.40ID:wQ1aP4EM0>>987
>>968
でも全部お前の想像じゃん
987メンマ(福岡県) [ニダ]2020/11/28(土) 23:06:17.87ID:yJW/g6yj0
>>970
天皇の年齢は日本書紀通りなんだけどね
女性が子供を産める年齢には限度があるから
年老いた夫と若い妻の組み合わせにならざるを得ない
第5代 孝昭天皇
父:第4代懿徳天皇 母:天豊津媛命(懿徳天皇の兄息石耳命の娘。
祖父の第3代安寧天皇の時代に誕生していたと考えられる)
懿徳天皇5年(1歳) 誕生
懿徳天皇22年(18歳)2月、立太子
懿徳天皇34年(30歳)懿徳天皇崩御(77歳)
孝昭天皇元年(32歳)1月、即位
7月、掖上池心宮に遷都
孝昭天皇29年(60歳)1月、世襲足媛を立后
孝昭天皇?年 世襲足媛が第一子天足彦国押人命を出産
孝昭天皇49年(80歳) 世襲足媛が第二子日本足彦国押人尊(孝安天皇)を出産
孝昭天皇68年(99歳)日本足彦国押人尊を立太子
孝昭天皇83年(114歳)8月、崩御 第6代 孝安天皇
父:第5代孝昭天皇 母:世襲足媛
孝昭天皇49年(1歳)誕生
孝昭天皇68年(20歳)1月、立太子
孝昭天皇83年(35歳)孝昭天皇崩御(114歳)
孝安天皇元年(36歳)1月、即位
孝安天皇2年(37歳)10月、室秋津島宮に遷都
孝安天皇26年(61歳)2月、姪の押媛を立后
孝安天皇38年(73歳)9月、孝昭天皇を掖上博多山上陵に葬る
孝安天皇51年(86歳)押姫が大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)を出産
孝安天皇76年(111歳)1月、大日本根子彦太瓊尊を立太子
孝安天皇102年(137歳)1月、崩御 孝昭天皇や孝安天皇はなかなか子どもができにくい体質な
割に長生きで后に迎えた女性に何度も先立たれたんだろう
40ないし50も年が離れた女性を后に迎えたのはやむを得ないこと
継体天皇だって58歳で20代の手白香皇女と結婚して欽明天皇を
授かった
世襲足媛や押媛もたぶん40歳ギリギリぐらいまで子供を産んだが、
子供の大半が早死にしたんだろうな 普通にただの伝承だろ
記紀で食い違うところ、たとえば年齢などは信憑性ないけど そもそも日本書紀は2倍歴採用してないと見るべき
神武の即位年から持統譲位の年まで西暦換算が可能
神武即位=紀元前660年(辛酉)
持統譲位=西暦四696年(丙伸)
持統譲位=西暦年696年(丙伸)は史実
神武の即位年紀元前660年(辛酉)は造作
造作と史実との間を埋める為に天皇の没年齢が異常に
長くなったと言うお話し 日本中を掘り返したいよね
いいかげん古墳とか早くひっくり返したい 1C末:神武
2C初め:綏靖(帥升)
2C後半:孝昭、倭国大乱に
190年頃:卑弥呼(宇那比姫)共立
249年頃:孝霊(侵略王フトニ)即位
266年:臺与(百襲姫=フトニの娘)、晋に朝貢
331年:崇神没
370年:景行没
37?年:成務没
380年:仲哀没
389年:神功没
430年:応神没 やっぱり邪馬台国畿内ヤマト説論者はダメだわ
卑弥呼、臺与の邪馬台国は九州に存在してたから
欠史八代とは全く関係ないわな たけし「歌を歌ったり映画やる気力もねえや、馬鹿やろう」 韓国盛衰記
_ ∩
( ゚∀゚)彡 全て、日本の金!恩知らずな韓国!!
⊂彡
李 / ̄\ 朝 / ̄\ 民
朝 / 日 \ 鮮 / 漢 \ 主
/ 帝 \ 戦 / 江 \ 党
/ 支 \ 争 / 奇 \ 景
__/ 配 \_/ 跡 \ 気
\/ ̄\ 2度目の破綻
韓国併合 日本資金援助
日帝遺棄資産 ・8億ドル+α(経済協力金)1965年
・21兆円超 ・40億ドル(特別経済協力金)1983年
・100億ドル(通貨危機救済金)1997年 >>152
無文字時代の口伝えの伝承が『紀』に下記意図の下で採録されたと?
50 :天之御名無主:02/01/24 22:12
第1代から第9代までは作り話です。日本書紀は中国王朝向けに作られたため、
自国の歴史を古くして見栄を張ろうとした・・・・・
天皇家って何処からきたん?
https://academy2.5ch.net/test/read.cgi/min/987611776/50- 本当は書いた記録もあったけど、都合が悪いので日本書紀が完成してから全て焚書した。 ツクリ話ではないね。現に古墳があるんだから、もしそうならばかばかしくて
あくせく膨大な労働力がかから古墳を9基も造るわけがねえ。
作り話より作り古墳のある現実のほうが八代はいたとうなづける。
たった九代分天皇を増やしても、中国のもっと古代の夏殷に及ばないんだから、
もっと代数を増やすはずだろ。そうなってないということは見えはりとは
いえない。 例えば、徳川将軍家の例を見てみよう。
家康・秀忠・家光と3代までは親子孫だが、家綱・綱吉は兄弟相続だ。
欠史八代とは(従)兄弟で、実在はしたが即位はしておらず、神武の即位をBC660年に遡らせるために、即位したことにした可能性が高い。 万世一系なんて、天武天皇の理想だったかもしれないが、実際はその昔にはありえない。
ただ、子には必ず親がいて家系はあるもので、この時代は昔は百姓ということも無かろうから、それなりの名家ではあったんだろう。
神武とか崇神とか応神とか、有名どこは実在した伝説はあるのかも。 古墳である時点で、少なくとも年代はかなり違うはず。
しかも陵墓の指定がいい加減なのは周知の事実。 >>166
台与から倭王位を譲位されて神武東征が行われたとすると、その実年代は260年。
それをBC660年に800年遡らせるには、古墳時代中期5世紀・応神仁徳朝の天皇を100歳越えにするだけでは、足りずに欠史八代が考え出されたんだろうw
神武と崇神は共にハツクニシラスで親子だろうから、欠史八代は崇神の弟達を兄達という設定にしたものと考えられる。 神武: 最初に擁立された纏向のリーダー
欠史: いろんな参加国の持ち回り
年代は神話ぽく見せる偽装、かつ稲作の畿内到達をイメージ >>169
もしかしたら記紀は、神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→大和)が、狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも!
倭人伝
(3代皇帝曹芳)正始8(247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。親魏倭王の卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼が従わないため、載斯烏越らを帯方郡に遣わして、互いに攻擊しあう状況を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史の張政らを遣わして、皇帝詔書・黃幢(曹魏の皇帝旗)を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、どうすべきかを解り易く説明した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに冢をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。
新女王台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代曹芳)に献上した。
倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、
「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、東にある本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」 >>171
神武東征は三国志外伝だったのか・・・
それ三国志の権威・渡邊義浩先生(古代中国史・畿内説)に教えてあげなよ >>166
ツクリ話なら、紀の編者らは公文書偽造同行使で当時の糾察官吏に
パクられる。いまの政界なんか少しの失言で更迭され大きければ失脚だぞ。
当時でさえ政敵は多い。そんなツクリ話に史実とした文書を造れば同罪で
流罪打ち首押し込めとかやられる。だからツクリ話ではない。
前660年に引き延ばしも公文書偽造だろうが、だからそんな真似はしてねえ。
この年代は現今の暦法で逆算した数字であって、現実にはそれは真の年代
ではない。古代の朝廷は当時1年を半年等で暦を編んでたものであって、
真の年代は前660年よりもっと後代に位置する。
したがって紀のここの記述はウソではない。 当時の1年は現今の半年等であって、これは当時2倍暦等を行使してたのさ。
だから捏造ではないね。引き延ばしはされてない。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
ことごとく月前半の2週間に収まっている。 卑弥呼の前の男王が日向三代なら、その直後の神武は卑弥呼と同世代だよ。
そして13歳で即位した壹與は少なくとも3世紀末までは君臨していただろう。
魏志倭人伝に壹與の事績が少ないのは、その年代が晋の時代なので、詳しく載せる必要がなかったから。
または、三国志か成立した280年頃にはまだ存命中だったからだと考えられる。 >>175
卑弥呼は神武の年代ではないね。
卑弥呼と同世代は百襲媛と崇神。
神武の代だと後代の天皇の各在位期間がスシ詰めになるからおかしいとなる。 間延びしたのは紀のほうではなく、紀の年代をいまの太陽暦的1年365日
での計算をしたほうが間延びさせた張本人だ。
当時の1年は現今の半年等だから、現今の計算した人物らが間延びさせたのだ。 紀元前のところの王代記は差しさわりがあるからカットしたら空いちゃってー
仕方ないからその分伸ばしましたー的なw 漢詩に通じていた淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を選出したとのことだが
漢詩に通じているなら何故武則天に皇太子の座を廃され処刑された太子の諡号である「懿徳」の名前や
「(孝)霊」なんて一番諡号として使ったら不味い名前を付けたのか
とくに後者なんて古事記に吉備平定の事業が書かれ風土記に鬼退治の伝承が奇跡的に残されているなど欠史ではない天皇なのに >>145
>黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で・・・・
イザナギの帰還地が筑前国日向とされているのは後年のヤマト王権主宰
天皇家には先祖がこの地に住んでいたという伝承があったということか? >>3
ごっさかいと遺跡では野ダタラ跡は確認されてないから、かえし付鉄器が持ち込まれたのか作られたのかはまだ分かってない。
単純な製鉄なら、畿内で弥生時代後期、紀元前後で既に製鉄は行われている。
https://www.sankei.com/article/20211028-75RGI6VFHFO65IYKHWI27P7DQM/
たいたいこの手の安曇推しのアホはヤマトに製鉄が無かったとか吠えてるけど、そんなことは全くない訳だ。
安曇地籍と鉄器も基本的に無関係。出雲にすら安曇地籍はあるが、ごっさかいと遺跡の様なものはない。
別の一派が鉄の武器を制作していたのだろう。
単純に物量が必要になったから大量に鉄器が輸入されていたという事しか分かってないし、安曇族は海氏の親戚にすぎない。 >>30
八井耳系の多臣氏なんて邪馬台国時代より前には九州に居たからな
九州発って割合に分かってるのは、物部くらいの物。
水稲遺跡は徐福時代よりずーっと前の前10世紀あたりのものが佐賀で出ているし、奈良の御所市では邪馬台国時代より100年前の中西遺跡がある。
紀元前後ではヤマトで製鉄も行われているしね。
畿内政権が出来る前から三島(越智)は奈良湖の開拓をして稲を作ってた
三島氏はよく分かってないが、どうも古い一派は九州に居て、白山信仰を帯びていたようである。
邪馬台国時代以降はヤマトから離れて三島大社のあたりに落ち着いた様子。
二田物部氏、三島氏は越智と関連が強く、白山信仰の中核を成すようになっていった
新潟の二田物部氏の社家はなんと三島氏。代数は130代ほどを数えるという
我々が今まで思ってた以上に、九州とヤマトの文化差は少ないのではというのが最近の研究
そもそもが、先代旧事本紀でも、大和と物部の腹違いの兄弟が婚姻して村雲が生まれている訳だからな。
物量の差はあっても、文化差はさほどなかった、政治機能が並立していたというのは後の魏志倭人伝の一大卒の話にも出てくる様に、理にかなってる >>32
そう、その二つが戦っていたから、アホどもの議論がいつまでたっても終わらないんだ。
馬鹿どもはお互いが、神武だと主張して譲らないからなw
三角縁神獣鏡も典型例。馬鹿みたいに邪馬台国時代の鏡だって、全部を自分の処に我田引水するから議論が終わらない >>57
そもそもが、朝鮮人右翼が日本の歴史に首を突っ込むこと自体が穢れ
三国志記とか見てればいいのに >>91
三船淡海そのものが開化系の物部氏の血が入った人物だからね >>104
三輪大君説ですか?太田氏ですね。
大物主は三輪の祭神が男神のみになったあとに事代主を大物主に替えたとされます。
今では纏向遺跡と名は代えられましたが、あの遺跡、元々は「太田遺跡」と呼ばれていました
現在でも太田地籍は残っています。
鴨族(タキツ彦)系と、加茂氏は厳密に言うと違うんですが。
鴨族には、タキツ彦系と、事代主系の二つがあります。 >>185
>物量の差はあっても、文化差はさほどなかった、
物量の差を無視してはいけないだろ。
単に畿内が九州の植民地だったことを裏付けているだけ。
物部氏の祖の饒速日は、筑紫の日向で生まれたアマテラスの孫だからね。 >>176
あら太国さんお久しぶり。
「何故100を超えるのかスレ」であのスレ主、撃沈で面白かったですね〜。
あのあとスレ続きませんでしたね。
古事記の神武(磐余彦)は物部氏ですよね〜
神武が出立して、大和に到着したのがウマシマジっていつの間にか書かれてるのに、製作者が何を考えてたかって普通は疑問に思うところですよね〜 >>190
物量の差を考慮に入れるのなら、邪馬台国事件の直前に九州に実用鉄器の生産がピークを迎え、三世紀には衰亡に近いレベルにまで落ちる事を説明しなければなりません。
邪馬台国の景初前後は、丹後が日本一(ヒボコの地盤だったから朝鮮から鉄を持ってこれた)、その後、6世紀には柏崎辺り、新潟が日本一になりますよ。
アマテル神社は元は男神ですよ。アマテラスの話は混ぜると面倒
海部家の祖はホアカリを祖とします。
出雲の旧家の伝承だとニギハヤヒを祖とする家系になり
先代旧事本紀では、アマテルクニヒコホアカリニギハヤヒが同一人物でしょ?
だからヤマトと九州には文化差がないって事になるわけ。同一人物だからね
ニニギはニギハヤヒの投影。磐余彦時代の物部東征と、卑弥呼の時代の崇神あたりを一つに圧縮して朝貢の歴史を消したから便宜上出てくるニギハヤヒの投影
景初は二回目の物部東征だよ
更に記紀はちょっと無理して神功皇后を卑弥呼と偽装するようにざわざわ神功皇后記で魏書を引用している
だから山門なんて邪馬台国でも何でもない。記紀の制作者の思惑通りに動くアホ。
本来の神武
磐余彦の神武(ウマシマジが大和入りしたとなる不自然な記載の時代)
崇神の頃の神武(景初の時代。だからミマキと名を変え、任那あたりに居たのか?と思わせる諡号になった)
この3つが全部同じ時代に起きたように隠されている >>192
>アマテル神社は元は男神ですよ。アマテラスの話は混ぜると面倒
面倒でもなんでもない。
アマテラスは男王でもなんの問題もない。
>だからヤマトと九州には文化差がないって事になるわけ。同一人物だからね
同一人物論のほとんどはアホ
まとめるから余計にややこしくなる。
文化に差がないのは、どちらの九州出身だからでしょ。
でもそれは倭国の本家が九州で、倭国女王卑弥呼が都した邪馬台国も九州でいいじゃないか。 >>193
>面倒でもなんでもない。
>アマテラスは男王でもなんの問題もない。
いやいや面倒でしょ、アマテルの孫がニギハヤヒなんでしょ?
>文化に差がないのは、どちらの九州出身だからでしょ。
いんや、ここがアレなんだけど、スサノオ。
徐市とスサノオだけは、二度日本に来ている。
一度目は和名、ホアカリ、出雲の五十猛海岸辺りに到着
二度目は和名ニギハヤヒを名乗り、九州に。出雲の分家の宗像家と組んだ
だから記紀でもスサノオは三女神と近い位置に書かれている。
大陸にスサノオの正体がバレても大丈夫なように「女系の先祖」としけ書かれるほどに注意が払われている
文化に差が無いのは、二度日本に来ているから
海幸彦と山幸彦は実は本当に腹違いの家だったからだよ。隼人なんて海幸彦と何の関係もない、宇佐族とかと一緒の昔からの九州の土着の一族 >>193
>邪馬台国も九州でいいじゃないか。
難しいのはココなんですよ。
二回目の東征が卑弥呼の時代。正に東征を伺える記述になってるでしょ?
つまり、邪馬台国は九州に大量の兵隊が集結している訳だ。
で、九州がヤマトに進軍し、もぬけの殻になった。
西都原に集結した軍勢は、宇佐八幡を経由し、瀬戸内海の吉備国と正面からぶつかった。そしてマガネ吹くと言われるほどの鉄器の国家である吉備国を倒し、大和に流れ込んだ
記紀ではどういう形に書いたかと言えば、「大和が大和を攻撃したように」なってるわけでしょ。
そのまんま書いてあるよ。
磐余彦が神武なのに、到着したのが物部氏のウマシマジ。
そのまんま、大和が大和を攻撃したように書いてある。
大陸を誤魔化して日本の独自性を主張しようとしたのが記紀
だから、日本国民から見たら何を細工したのかは分かるように書いてある つまり、「大和は既にあったけど、集結した軍隊もヤマトとして書かれて神武になってる」わけだ。
邪馬台国なんて国としての実体のない、西都原に集結した軍隊の事を差している。
便宜上の存在だから、後の解釈によって九州にも奈良にも受け取れるんですよ。
しいて言うのであれば、都万国が邪馬台国。(あくまで大陸の魏書からみたらだけど) アマテラスは男ではない。女性だよ。
これは秀真伝の盲象。 >>194
>いやいや面倒でしょ、アマテルの孫がニギハヤヒなんでしょ?
男王の孫。
>>194
>海幸彦と山幸彦は実は本当に腹違いの家だったからだよ。隼人なんて海幸彦と何の関係もない、宇佐族とかと一緒の昔からの九州の土着の一族
土着で済ますなよ。
それも元を辿れば筑紫の日向の生まれなんだよ。 >>195
言っていることがわけわからん。
神武が敗走して東征したのなら、勝った側の勢力が九州に残るじゃないか。
記紀は悔しいから何も書かないだろうけど。
神武とウマシマジを混ぜている理由もよくわからない。 >>196
>しいて言うのであれば、都万国が邪馬台国。
投馬国と邪馬台国が同じとか、意味わからんわ。
もう黙っていたら? ヤマトが大和を攻撃する構図は、きちんと魏書にも書かれている。
九州の卑弥呼が、朝貢の際に、大和を名乗ってる訳でしょ?
「一人の人物から端を発している」お家騒動だったから、お互いが正当なヤマトを名乗っただけの話。
ヤマトとは畿内のヤマトだけど、九州勢も血筋の大義名分があったから、ヤマトと名乗れたというだけの話
じゃなきゃ、既に昔から朝貢しているヤマトをブチ倒しに行きますなんて九州勢が大陸に名乗れるわけないじゃん
伊都は、昔から大宰府と一緒で、首都がそこにあるように見せかけて本土を防衛するための二重構造
日本府と同じ
だから一大卒と書かれるようになった。
安曇は大した役割の存在ではない。畿内の政権の親戚として伊都の長官やってただけ >>198
男系の方が渡来者だったなんて一番記紀で隠したい事じゃんwww >>199
>神武とウマシマジを混ぜている理由もよくわからない。
それは記紀に聞きましょうね?w
到着したのがウマシマジと書いてあるわけでしょ?
五瀬が毒矢でやられて、どの兄弟かは分からないけど大和までは入り込んだわけだ
古事記の方だったっけか? >>199
>神武が敗走して東征したのなら、勝った側の勢力が九州に残るじゃないか。
>記紀は悔しいから何も書かないだろうけど。
記紀が悔しいと書いた理由は九州の歴史に対してという意味ですか?www意味が分かりませぬ
垂仁のあとに景行天皇が九州をボコボコにしますが、それだと筋が通りませんね
東征が成功して、天皇が手のひら返しで九州を攻撃ですか。普通なら実家と仲良くするのでは? >>198
竜宮伝承は、九州というよりは、福井辺りの日本海側で広がる伝承で、九州にはその一部しかありませんよ >>202
天照は筑紫の生まれであり、渡来人ではないぞ?
話の前提が妄想だらけで話が通じないなあ。 >>203
>到着したのがウマシマジと書いてあるわけでしょ?
どこに書いてある?
その前提が誰にも理解不能。 >>200
この動画面白いですよ〜
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw
西軍側の軍隊が集結したのは生目古墳群とか都万神社があったあたりとされています
三角縁神獣鏡が現在では国産説が言われ始めていますが、それとも矛盾しませんよ。
何故ひむか、宮崎に日向伝承が生まれたのか?
それは物部イニエ、物部イクメが魏書の卑弥呼と関係しているから。
そもそもが東軍側、畿内側の鏡でしたからね。あの鏡は出土状況からしても東征してない
生目古墳群は、イクメの子孫の物部大タラシヒコが作ったとされる。
九州に攻め込んだからね
今でも都万神社って、西都原地籍のあたりにあるんじゃね? >>204
>垂仁のあとに景行天皇が九州をボコボコにしますが、それだと筋が通りませんね
ここも読み違えている。
景行が荒らしたけど、結局は筑紫の女王の手のひらで使われていた。
>東征が成功して、天皇が手のひら返しで九州を攻撃ですか。普通なら実家と仲良くするのでは?
異母兄弟を政敵として倒す家系ですよ。
遠い親戚なんて、仲良くするわけがない。 まあ、越も香椎あたりにいた博多湾沿岸の国が東征したのどから、どうでもいいか。
伝承も持っていったのかもしれないし。
要するに、筑紫からの東征は何度もあった。
それを、あれとこれは同じかもしれないと邪推するのは、無駄なこと。 >>209
>異母兄弟を政敵として倒す家系ですよ。
>遠い親戚なんて、仲良くするわけがない。
おお、それそれ、まさにそれですよ。
海幸彦(尾張家、海部家)と、山幸彦(物部家)は、親戚で勢力争いをしたという事ですよ〜
物部東征によって、ヤマトの出雲系は土蜘蛛にされ、九州の反攻勢力(宇佐家=豊家)は土雲に落とし込まれました。 >>209
>景行が荒らしたけど、結局は筑紫の女王の手のひらで使われていた。
そのころすでに女王様は居ません。
神功皇后はその次の代、成務以降の人物 >>212
>海幸彦(尾張家、海部家)と、山幸彦(物部家)は、親戚で勢力争いをしたという事ですよ〜
海幸彦よ山幸彦の関係が、尾張家と物部家の関係に似ているのはそうなのだろうけど、同じということではない。
歴史は繰り返しているというだけ。
日向国の都万神社が海幸彦の国ですよ。
隼人の祖先は公式にも海幸彦とされていたはず。 >>211
>伝承も持っていったのかもしれないし。
おお〜、確かに伝承というのは侮れませんね。
天孫降臨だって、飛騨にもありますし、本当に伝承というものは子孫が先祖の偉業の検証のために移動する事は十分に考えられますね。
高天原は、記紀の制作開始時ではヤマトだったらしく、タキツ彦系の鴨族の地盤だったあたり、高天彦神社の西側当たりの平らな大地には今でも高天原の木だか石塔がありますしね。 >>213
>そのころすでに女王様は居ません。
>神功皇后はその次の代、成務以降の人物
神功皇后の2代前、景行の時に、三種の神器を掲げて景行を迎えた筑紫の梟師、神夏磯姫がいます。
景行は結局、神夏磯姫が言うままに政敵を討伐しました。 >>214
竜宮とは関係ないですね。
饒速日の宮の一つ。 >>216
>隼人の祖先は公式にも海幸彦とされていたはず。
その割に冷や飯ぐらい過ぎませんか?隼人族は。
隼人族は、最初の東征、五瀬軍の際に、吉備国を避けて四国ルートから紀伊國に上陸する作戦の際に、九州で仲間にしたという伝承があります。
しかし、名草軍に撃退されて和歌山ルートに切り替わったとされます。
これは、サバイバルで有名な小野田さんの実家、名草の頭部を祀る、オコベ神社の伝承でもあります。
五瀬が死んだあと、残った二人のうちどちらかが大和入りしたのか記紀の制作者は分からなかったらしく、ウマシマジを創作
それであんな記述になったらしい
景行帝は九州で亡くなり、西都原の地に葬られ、その墳墓は西都原古墳群の男狭穂塚であるそうです。
「大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し 麗し」は、記紀の制作者、柿本人麻呂が作った歌だそうです。
西都原が海幸彦の土地なら、山幸彦(生目を祀る物部氏の聖地)が、山幸彦(物部)にボコボコにされた構図になってしまいませんですか? >>215
>あいつは在日だろう?
ガちもんの朝鮮右翼の気がしますよね。
神武陵の近くの被差別地域に詳しいことと言い、ちょっと闇が深そうですよね。
どう考えても、物部系の神武、嫌われて奈良から追い出された物部氏系の陵墓ですもん、アレ。
元から居た村雲系(神武)の尾張家の地盤であんなに差別されるはずがありません。
加茂氏も阿部氏も結局畿内に地盤を持ったままですものね >>218
日向では御刀媛を娶ったのでは?
それが後の日向国造家になりました。
九州の反攻勢力=土雲の本家とも言える竹田の一族をことごとく滅ぼした景行帝は、おそらくですが宮崎に至り、物部本来の地盤、西都(現在の西都原)にて自らの王国としたのではないでしょうか
男狭穂塚古墳の前方部は、後の時代につくられたものであり、もとは円墳に近い帆立貝式の古墳であったと考えられています。
奈良のホケノ山古墳は、本来は、豊家を表す、豊家山古墳と書くのだそうです。
そう、大神神社は、トヨの墓の伝承をもっています。あれもホタテ貝型の弥生式墳墓。正式には古墳扱いされない物です。
箸墓古墳も、実は前方後円墳に改造されたのが江戸時代という話があります。
あれも、本来は同じホタテ貝型こふんであったと。
もとは、高市古墳と言って、纏向遺跡と同じで全く違う名前で呼ばれていました。
古図が伝わっていますが、何と円墳として書かれています。
この伝承を伝える説では、トヨは、イクメ〜大タラシヒコの時代の人物とされています。 >>220
>西都原が海幸彦の土地なら、山幸彦(生目を祀る物部氏の聖地)が、山幸彦(物部)にボコボコにされた構図になってしまいませんですか?
言っていることがよくわからないけど、矛盾が生じるなら、あなたの立てている物部氏についての仮説に問題があるのでしょう。
山幸彦の聖地は、山幸彦本人を祭る糸島の高祖神社ですよ。
ここが邪馬台国の中心地でもあります。
そこから出発した神武の末裔であるところの景行が、分家である海幸彦の投馬国を叩いても、当時の価値観からすれば問題ないですね。 >>221
なかなか自説を曲げて間違いだと知る者って少ないです。
いったん自説に確信をもてば三つ子の魂百までというか、変えようとしないで
ほとんどのそういう人は頑張ります。
やつもそのようで卑弥呼が紀に公開されてるのを鋭く指摘しても隠匿だとか
一時言い張ってました。w
だからスレから消えても自説を固守してるだろう考えていましたが、
稀に書きこんでて、変わった点は帥升=スサノオ説の部分だけ書かなくなり、
他の部分はまだ正しいと思っていたようで主張してました。
帥升に日神も月神も五男三女神も一緒にいたという資料は
ないだろうと突くと、罵声を言ってきましたが、おや? この点
だけはおかしいと奴は思うようになったと思いますが・・・?
それ以来ここだけは書きこんでないようです。
なかなか書きこみ者は自説はすてませんよ。w >>222
>日向では御刀媛を娶ったのでは?
景行天皇は、九州のあちこちの女性首長を自分のものにしました。
その子供は80人を越え、日本書紀編纂時にはすでにその大半がどうなったかわからなくなったとあります。
ただ、さすがに筑紫の女王であった神夏磯姫がその中に含まれるかどうかはわかりません。
なお、神功皇后が倒した田油津姫は、その神夏磯姫の末裔だそうです(おさらく孫)。
神功皇后は、景行天皇の孫の仲哀天皇や、その皇子達も亡きものとしていますので、
もし田油津姫が神夏磯姫と景行天皇の孫であれば、神功皇后は景行天皇の血筋を文字通り根絶やしにしようとしていたのかもしれません。 >>219
>竜宮とは関係ないですね。
>饒速日の宮の一つ。
二度来日していますから、当然に子孫が作った拠点です。
海部氏(分家)と、尾張氏(本家)は、村雲(本来の神武)の家系で、二回目の物部東征で最終的に山城国に逃げ込みました。
そのころ、ヒボコ族はボコボコにされ、海部氏は本来の故郷に復帰できたのです。
尾張氏は、本来の神武の象徴、村雲の剣を持っています。これは銅剣。
三代目の沼川耳(磯城津彦王=安寧)からは折り合いが悪くなってしまい、王家二派銅剣を渡さなくなってしまったそうです。
対して、景初時期では、すでに中国の炭素量を調整できる製鉄法と、朝鮮半島の磁鉄鉱を組み合わせる現在の鋼に近い素材による武器の製造が可能になった時代。
つまり草薙の剣は鉄剣
飛騨の水無神社には、天孫降臨伝承があり、現在でも祭神は物部の影響を受けていません。
本来の尾張氏、出雲の神様です。
故に、熱田の草薙の剣が、戦時中に水無神社に疎開されました。
それは本来の血筋を表しています。 ああ、日本書紀が景行天皇の末裔は多すぎて追いきれないとしたのは、神功皇后が倒した田油津姫が景行天皇の孫であることをしらばっくれるためだったかもしれない。 >>225
>神功皇后は、景行天皇の孫の仲哀天皇や、その皇子達も亡きものとしていますので、
おお〜、確かに若くして亡くなっていますから、そいう考えもあるのですね
対して、宇佐氏の伝承は面白いですよね。神功皇后は武内宿祢に拉致され、捕らわれていたことになっています。
出雲の旧家と違って独自性が強い伝承を今に伝えています。
卑弥呼は、豊国の宇佐氏出身、豊玉姫との事ですよ。
今でも宇佐神宮の姫の神は、宗像三女神に隠されていますが、景初の戦闘で安芸の国で東征中に亡くなった彼女は厳島神社で仮埋葬の後に遺骨を宇佐神宮戻されているそうです。
宇佐氏の伝承だと、宇佐津姫になっているはずですよ。(宇佐津姫は物部との手打ちの為に差し出された伝承があったと記憶)
この姫と、イニエが二回目の東征計画を立て、もうワンチャン狙ったらしいですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています