X



欠史八代とは何だったのか? 其2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0003日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 02:42:27.86
畿内の目と鼻の先にある淡路島の製鉄遺構で九州系の技術が使われていることが分かっています
当時まだ鉄は国産されておらず、九州北部を本拠地とする海人と呼ばれる人々が海を渡って朝鮮半島から輸入していました
九州にあった邪馬台国が東に勢力を伸ばして遷都したのが大和朝廷というのが考古学的に見て最も信頼性が高いでしょう

弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。

>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
0004日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 02:43:07.46
もう一つ、近江にも製鉄遺構が見られますが、近江には3世紀までに北部九州の海人である安曇族が進出しており、
これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかります
邪馬台国の時代には既に若狭湾側から内陸にかけても九州の勢力が進出していたということですね

https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や
> 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。
> そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に
> 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。
>
> しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、
> 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が
> 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。

なので、大和政権の発足時点、すなわち九州邪馬台国からの遷都の時点では、既に西日本の大部分を支配していたと言っていいでしょう
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況