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邪馬台国畿内説 Part435
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:00:05.34
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1551900614/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:01:39.96
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:02:00.64
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:02:17.91
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:02:37.62
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:02:56.18
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:03:15.00
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:03:35.40
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:03:55.55
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:04:13.06
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:04:34.20
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:04:52.00
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:05:09.80
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:05:27.98
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:05:46.19
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:05:49.95
433>>207
「南→東」などの大和説は一から十まで捏造ばかりだな
0017日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:05:58.99
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0018◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:06:06.17
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0019日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:06:14.66
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:06:26.14
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0021日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:06:35.60
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:06:42.68
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0023◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:07:02.23
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:07:18.29
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0025◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:07:21.53
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:07:37.26
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0027◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:07:40.38
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0028◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:08:01.46
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0029◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:08:18.46
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0030◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:08:34.42
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0031◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:08:54.49
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0032◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:09:13.36
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0033◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:09:31.26
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0034◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:09:48.93
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:01.82
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。
0036◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:08.68
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0037◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:26.12
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0038◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:43.84
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:47.34
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:47.34
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0041◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:10:59.59
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:11:20.03
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:11:39.20
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:11:59.22
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0045日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:12:14.69
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:12:16.71
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:12:35.34
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0048日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:12:37.76
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:12:51.07
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0050日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:13:01.80
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:13:07.17
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:13:25.01
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:13:42.34
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:14:00.56
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:14:16.76
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0056日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:14:19.58
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0057日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:14:33.98
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:14:35.84
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0059日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:14:49.79
433>>214
大和説のやってる事
「南→東」の嘘吐き騙し
「冢=前方後円墳」の嘘吐き騙し
「東治→東冶」の嘘吐き騙し
「纏向>弥生銀座」の嘘吐きだまし
ちょっと書ききれんわ。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:14:59.10
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0061◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:15:18.52
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0062日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:15:22.36
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:15:35.14
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:15:52.43
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0065日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:16:00.11
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0066◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:16:09.29
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0067◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:16:28.55
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0068◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:16:48.00
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0069◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:17:05.78
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0070日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:17:11.90
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0071◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:17:22.38
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0072◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:17:41.75
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0073◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:18:02.83
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0074日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:18:20.60
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0075◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:18:23.22
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0076◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:18:44.42
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0077◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:19:03.85
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0078◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:19:23.75
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0079◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:19:40.73
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0080◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:19:59.62
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0081日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:20:04.74
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0082◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:20:19.11
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0083◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:20:37.68
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0084日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 15:20:53.75
>>245
>上陸したのは出雲圏でそこから陸路で大和まで行った
出雲圏のトマ国の官名はミミだけど 出雲の都の官命は八耳って記紀に記されてるし<

「南≠東」などに拠って、×。
0085◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/09(土) 15:21:00.65
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0086◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:21:20.83
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:21:36.11
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0088◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:21:38.96
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0089◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/09(土) 15:22:23.64
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:22:54.59
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:24:24.35
433>>246
>東に向かう海流がある場合は船を南にむけての進む方向は東南東
中国の使者は海流の知識が無かったんで
船の向いてる方向の南だけで記述したのであった
海流を考慮すれば南→東南東ってことになる<

松浦水軍家の都市氏らは、当然海流を知っているから、
對海國から南へ出港して行った。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:32:16.34
433>>250
>でも、末盧国、伊都国、奴国は邪馬台国とは別の国 <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。

>これらを除くと、北部九州に3世紀のめぼしい遺跡はない<

前方後円墳なら、(薄葬令にもっ変わらず)、
3世紀後半の那珂八幡などから始まって、糸島地区まで沢山あるが、
大和の前方後円墳は、3世紀末の石塚以降。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:34:32.18
433>>254
>アマテラス=卑弥呼だよ<

年代が全く違うから、×。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:38:04.19
>>92

環濠集落は卑弥呼が共立された2世紀末に
関東から九州にかけての広い範囲で一斉に放棄されて
人々が便利な平野に分散して住むようになって
人口が急激にふえて

ってことで3世紀には大きな環濠集落の遺跡は
関東から九州にかけての広い範囲で存在しないよ

3世紀には環濠集落から遺跡の中心は前方後円墳になって
前方後円墳が関東から九州にかけての広い範囲に作られば時める
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:38:57.27
433>>256
>ってことで全国的に3世紀には広い遺跡が無いんだよね
巻向を除いて <

筑紫には、弥生銀座付近や糸島付近に広い遺跡があるが、
大和の纏向は、3世紀末の石塚などだから、筑紫には全く敵わない。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:39:48.73
>>93年代が全く違うから、

卑弥呼も天照もどちらも鏡祭祀の時代の人物だ

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
卑弥呼も天照も2世紀末の人物で同時代だ
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:41:14.64
>>95

前方後円墳の築造開始は3世紀初めで
関東から九州にかけてほぼ同時期だ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:44:22.42
>>93年代が全く違うから、×

記紀で表現される天照の時代背景は銅鐸祭祀の時代ではなく鏡祭祀の時代だ

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
その時期に平原でヤタノ鏡がつくらて卑弥呼が共立された

天照の時代背景は鏡祭祀で
天照の銅鐸祭祀が終焉した2世紀末以降の人物で
卑弥呼と天照はともに鏡祭祀時代の同世代の人物だ
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:45:44.41
433>>268
>古墳時代に入って最初に作られる各地の古墳は、そのまま弥生終末期の勢力の大きさ・強さを
反映した物となっている
だから、畿内や丹波、吉備では大きいが、北部九州では小さい <

大和の最初頃の石塚は、3世紀末だから、×。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:48:55.32
>>93年代が全く違うから

記紀で表現されてる天照の時代には銅鐸祭祀は全く出てこない

ようするに天照は銅鐸祭祀ではなくそのあとの鏡祭祀の時代の人物ってことだ

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の鏡祭祀の時代の人物ってことになる

卑弥呼が共立された2世紀末が銅鐸祭祀の終焉時期なんで
卑弥呼も天照もともに2世紀以降の鏡祭祀の同時代の人物だ
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:53:33.21
433>>279
>魏志倭人伝で、戸数が可○萬戸となっている投馬国と邪馬台国は
国邑じゃないだろ 同一文化・勢力圏だよ
>言うほど広域ではない
大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通に出土する範囲だ
テンプレにも書いてある<

「南≠東」などに拠って、×。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:59:16.44
433>>291
>投馬国は出雲圏全体で
邪馬台国は大和圏全体って感じかな <

「南≠東北」であるから、×。
0103陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:01:42.71
古墳の大きさ ≒ 人口だよ。

よって邪馬台国は、大きな古墳がある場所にある。
それは既に誰もが知っており、何の意外性もない場所だ。

行程記事を無理読み・アクロバット読みして、
邪馬台国を今まで誰も聞いたことのないような辺鄙な片田舎に比定する本が
次から次へと出て来るが、そういう本は一顧だに値しない。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:09:58.27
433>>307
>奴国も同様に、中心は比恵那珂遺跡群だが、福岡平野全域が奴国と想定されてる<

伊都国から「東南百里」になっていないから、×。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:15:16.71
433>>309
>畿内第V様式土器の定式化が、畿内勢力=ヤマト国・邪馬台国の成立を意味し、<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、ヤマトは始めから、×。

>庄内式土器・布留式土器の定式化が、倭国=卑弥呼を中心とする祭祀連合の成立を意味する<

大和での庄内の発生は、3世紀末の石塚からだから、卑弥呼の祭祀連合は×。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:17:57.33
>>103
>古墳の大きさ ≒ 人口だよ。

これは違うな。
福岡県のように人口密度が高いと大きな古墳は作れなくなる。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:19:00.45
>>103
>行程記事を無理読み・アクロバット読みして、
>邪馬台国を今まで誰も聞いたことのないような辺鄙な片田舎に比定する本が
>次から次へと出て来るが、そういう本は一顧だに値しない。

お、知ってるぞ。
畿内説っていうんだろ。
0108陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:25:44.14
行程記事は距離についてはいい加減だ。
広めの海峡を渡ると『ひと声千里』、
陸上では、近いところは『百里』、少し遠いと『五百里』と、アバウトにもほどがある。

距離を計るにしても、街道沿いに歩いて、歩数でしか計れないんだから仕方がない。
その街道も、あるんだかないんだか、大回りしたり、山の中では曲がりくねったりして、
直線距離とはほど遠い代物だ。だから倭人からのまた聞きにより、
近ければ『百里』、ちょっと遠ければ『五百里』といういい加減なものになる。

だが流石は航海や稲作をやっていただけあり方位については正確で、
記事の方位を反時計回りに90度回せば、北九州の海岸諸国を順番に歴訪した後、
出雲日本海ルート回りで、無理なくすんなりと奈良盆地にたどり着くようになっている。
これにより3世紀時点での出雲王国の大きさも何となく分かるし、『出雲の国譲り』で出雲が滅びたわけでもないことが分かる。
また本州の湾曲や、津軽海峡を渡った先の北海道(倭種の名もなき国とその東にある侏儒国=千島先住民コロポックル)
についてもおぼろげに記述されている。北海道については倭人からのまた聞きのまた聞きで聞いたのだろう。

いずれにせよ、行程記事については方位を反時計回りに90度回せば、全てが無理なく説明されるんだよ。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:32:39.02
433>>313
>これは推測になるが、投馬国と邪馬台国の戸数表示が可○萬余戸となっているのは
一つの平野だけの国ではないことを意味していると考えれば、理解しやすい <

これも、×。
「余」の場合と似ている。
「可」という文言も、推定計測値である事を示す。
伝聞や引用の場合や、断定的な計測値の場合には、
普通は「余や可」を付けずに、「有」などの文字を付けて、断定数値を記載するもの。
だから、投馬國の「可五萬戸」は、倭人からの伝聞推定値fらることを示し、
邪馬壹國の「可七萬戸」は、魏使らは底の到着していたんだから、実際に見ており、
だから、倭人からの説明と、
全体が見晴らせるような丘の上から、範囲を倭人から聞いて、計測概算した数値である、
という可能性が高い。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:36:23.34
>>106

無学じじいが妄想しているほど遺跡は密集していない
江戸時代でも、今でも造れる
0111陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/03/09(土) 16:56:01.04
Googleマップの『航空写真』を、平野の大きさに注目しながら見ることをお勧めする。

末盧国(松浦) → 東北陸行500里 → 伊都国(糸島市)
→ 東北100里 → 奴国(博多湾) → 北100里 → 不彌國(宗像市)

距離の比率で見れば『まあ確かにそうだよね』という感じだ。

実際に地形を見ると、松浦から糸島は、陸行する場合には海岸や山の中を大回りしなければならず、
まさに『草木茂盛行不見前人(草木が盛んに茂り、行くに前人を見ず)』という表現にピッタリだ。

末盧国の人口が4000戸と妙に多く、なおかつ頭の数字に『4』などと、倭人伝の記事としては中途半端に正確な値になっている。
これは大きな集落4つから成っていたと考えられる(集落1つで、ひと声『千戸』。なので頭の数字が4になる)。
例えば末盧国は松浦、佐世保、伊万里、唐津あたりから成っていたのかも知れない。

そして末盧国だけ官名が書かれていないのは、4集落・領域から成っていて支配関係や権力関係が複雑で、
魏使たちが倭人から聞いてもややこしくてよく分からず、倭人の言うとおりに書くとやたらに長く複雑になり、
文章としても美しくなくなるので、スキップしてしまったのだろう。

またいきなり伊都国や奴国に行かず、末盧国から不彌國まで北九州沿岸を順番に巡って行くのは、
これらの国々に煌びやかな魏使を(招聘した邪馬台国が)見せびらかしたり、
あるいは倭国について知識を深めたい魏使たちの希望によったのだと考えられる。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:06:16.58
>>111
道を作るのに、草なぎの剣のようなものを使用していたという話・・・、
そういう事を言いたいんでしょ?

そうしたら蛇(オロチ、大蛇)が出てきて

とか
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:10:20.59
『姥清水』というのも、なぜか同じような話だしな・・・。

獣道?

『鏡張り あやしい城の中で』という曲も同じようなコンセプト。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:14:17.94
433>>323
>奴國     那の津 那珂<

伊都国の「東南百里」に全く合わないから、×。

>不彌國    これは不明
投馬國    出雲
邪馬台國   大和<

「南≠東」に拠って、×。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:14:43.78
何度書いても本当の話

家は、その周辺(『姥清水』)に住んでいたんだよ
と言っているし


『松傾』
こういう名前の家、
当時住んでいた家に〜〜〜〜何かの刀が飾ってあったとか
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:18:31.16
『伊達の桃太郎』

司徒、司馬、司空〜みたいな事が書いてあったり、
何の話なんだろう
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:26:38.25
433>>327
>魏志倭人伝の撰述のときに利用できた史料が複数あり、その史料間で
書かれた時期と情報の書き方が違ってただけだよ<

ダメ。
卑弥呼の都までの情報は、梯儁と張政がそれぞれ皇帝側に報告したのであり、
それが当然一致していたから、記録が保存され、それを陳寿らが見て史書を書いた。
また、以前の郡使らは、卑弥呼はおらず、卑弥呼の都までの報告はない。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:32:47.72
433>>330
>邪馬台国は大和圏の広い範囲だし
投馬国は出雲圏の広い範囲で
間に他の国はなく接してた<

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」であるから、
「他に国はなく」が間違いであり、
勿論「接してた」なんても書かれていないから、×。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:35:39.97
>>111
それだと方角も距離も滅茶苦茶だなw
末盧国(呼子) → 東南陸行500里 → 伊都国(伊都GC)
→ 東南100里 → 奴国(飯場峠) → 東100里 → 不彌國(セブンミリオンCC)
魏志倭人伝では国邑の端に着くのが至(到)。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:37:15.15
『松傾』?


『王』(王氏?)
を名乗っていたみたいな事も書いてあるし、どういう事なんだろう
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:40:20.19
433>>334
>3世紀になると環濠集落は破棄されて
人々は平野に分散して生活し始めるんで
3世紀には遺跡そのものが巻向を除いて存在しないよ<

米田は、河内は大和よりもはるかに巨大な別遺跡だ、と言っていたから、
この男も嘘つき騙しであり、×。
0122陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:46:51.34
>>119
伊都GC(伊都ゴルフクラブ)
奴国(飯場峠)
不彌國(セブンミリオンカントリークラブ)

Googleマップで検索したら、どれも草深い山の中じゃないか!
一体どんな山中行なんだよ!そもそもそんな山の中に国があるか!

君は大荷物を伴った長袖文官の魏使たちに、自衛隊のレンジャー訓練でもさせるつもりかい?
PCの前でコーヒー吹き出したじゃないか!

まさにそういうのを、行程記事の無理読み・アクロバット読みと言うんだよ。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:47:38.82
433>>335
>佐々木だろが。
おめらが自説の補強に提示した佐々木憲一プロフェッサーだよ。
ちゃんと読んだのかよォ〜<

佐々木は、「南→東」の嘘つきだし、
「前方後円墳は卑弥呼の冢のかなり後だ」という事の判らないアホだし、
「大和の庄内の始まりの石塚が3世紀末になる」事も判らない偽教授であり、
Yahoo時代に2回読まされて、もう懲りているから、
もう読まないよ。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:47:51.76
>>108
海峡部は実測出来なかったので千里だが
陸上部は歩測等で測れるから大きくは違わないよ。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:50:58.14
>>122
奴国は略福岡市全体
不彌國は那珂川町、春日市方面
ルートは魏使の通った所に過ぎない。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:58:42.68
>>125

魏使ではなくて泥棒の逃走ルートだな
おそらく呼子のイカ窃盗団だろう
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 17:59:16.75
433>>338
>中国の使者は海流についての知識が無かったんで船が南に向いてれば南に進むと思ってた<

いや、「南」は、對海國からの出発時点での出発方向の説明を書いただけだ。
後は、持衰を乗せた倭船に任せるだけだ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:00:42.29
イトクズGCのメチャクチャやけっぱち比定地
0130日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 18:02:03.92
>>127
そんな状況なら畿内のことを南と書いても
まったくおかしくないな
0131日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 18:04:14.23
433>>339
>九州で7万戸を想定できる広域勢力の存在を示すものがないから文句つけてるだけじゃん<

いや、邪馬壹國は、
福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地域、
という存在地域で、十分だ。
0132日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 18:10:25.74
433>>342
>なんで?
魏使の目にはもう一つの国に統合されて見えてるんだから
複数の国邑を含むなんて話はしないだろ <

それ以前に、「南≠東」に拠って、出雲や大和の比定そのものが、×だ。
0133日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 18:18:13.81
433>>346
>200メートル超級の巨大古墳を作るだけの土木作業員を
食わせるだけの余裕のある大国だってことだよ 王都以外では無理だろ?<

九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓が中心だ。

>実際、200メートル超級はほぼ「畿内周辺」と
「畿内大王家に后を出した家系の一代」だけだ
例外は、群馬県 太田天神山古墳、京都府 神明山古墳 だけだが
どちらも皇別氏族の祖と想定されている<

それも、東征毛人五十五國の将軍の墓や新規支配地になった地、として説明可能だ。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:24:31.94
433>>348
>畿内説の優位性を放棄要求という以前に国邑の定義を曖昧にしたままで
他人にはワケ解らない要求してる ただの思い込み男だ <

この男も、変な男だ。
自分の「国邑」の説明や定義を言わずに、相手を誹謗している・・・・詐欺師だ。
「国邑」とは、普通は「部族的な国の集落」というような意味だ。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:39:10.99
433>>350
>国譲りの時代や崇神の時代や仲哀の時代に出てくるんで
古代の力のある国みたいだね伊都国は <

伊都国は、天日矛の国であった、と記録もあり、
阿毎氏=「アマのイ」氏であったようであり、
東海姫氏國の倭王武の次の「倭國王哲」次で、
姫氏が王位から下野して磐井が王になり、
その後継の葛子が継承した王家から、「俀王姓阿毎、字多利思北孤」が出て、
更にその子孫が白村江で戦った事になり、
だから、伊都国の王家が倭国王になっていて、
白村江で大敗して、大和の阿毎氏に併合吸収継承させられた、という事になる。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:45:01.57
433>>351
>中国地方とか山陰とか関東とかの
古代の国ってかなり大きくて現在の複数県に及ぶ範囲だし
例えば毛の国は群馬・栃木だし <

九州倭国の「東征毛人五十五國」があった位、小国に別れていたから、
この男も、×。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:50:36.09
ダイロ狗、タケ卑狗、卑テンの三羽ガラスが、
三蜘蛛でごっちゃになったハチャメチャイトクズ説、
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:50:58.86
433>>355
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説にはアレだ
異常に発言数の多い一人の男か複数のバカかわからんけど
異常に思い込みの強い奴がいる
自分の思い込みが絶対だと思ってるから理由を全く説明できない
だから他人に全く理解できない演説をする 異常に説明が下手なのはそういう理由だ
説明能力がない 換言すれば コミュ障
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:53:11.21
>>129
魏志倭人伝に書かれている通りに進んだ結果です
不彌國は那珂川町、春日市方面で内陸で次に来るのは斯馬国
20か国を経て北部九州地域を一周して奴国に戻るのが5000里。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:56:34.88
>>108これにより3世紀時点での出雲王国の大きさも何となく分かるし、『出雲の国譲り』で出雲が滅びたわけでもないことが分かる


出雲国造神賀詞での国譲の記述は
大八島の統治権を譲ったとあり
大八島は倭国連合全体を表し
卑弥呼が共立されたことを表現してる

男王の死後に卑弥呼が共立されて大八島を治めたのが国譲りで
これは死後の男王の御霊から統治権を譲りうけたってことだ
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:00:21.86
>>135伊都国は、天日矛の国であった、と記録もあり、

アメノヒボコは朝鮮から倭王に面会にきたけど
九州の伊都王が倭王と自称してたので
九州に来てしまった

間違いにきずいて大和に来た時には
すでに崇神は死んでいて次の垂仁の時代になっていた

アメノヒボコは大和にとどまり
そのアメノヒボコの子孫が神功皇后と
記紀にきされてる
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:01:23.78
>>129
>イトクズGCのメチャクチャやけっぱち比定地

長らく、どこから伊都GCが出てきたのか不思議だったんだけど、
イトクズを否定するために地図を触ってたら分かったよww

これ、「呼子と日向峠を直線で結」んで、
「5対1に分けたところ」に、伊都GCがあるんだよwww
末盧国ー伊都国が五百里で、伊都国ー奴国が百里だから、
その比で分けたところになってる

国の端っこに着くところが「その国に至る」と書かれるという大ボケを主張して、
末盧国が呼子だと言い張り、奴国が日向峠と言い張った上で、距離も短里で正しいと
言い出すと、伊都GCが伊都国に着いたところというアクロバットが出来上がるww

呼子から伊都GCまで背振山脈を越えて末盧国で、
伊都GCから日向峠までの何もないところが伊都国という、
絵に書いたようなトンデモ説wwwwwwwwwwwwwwwww
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:05:09.83
>>139
>20か国を経て北部九州地域を一周して奴国に戻るのが5000里。

周旋は1周したり、元の場所に戻ったりしないと何度言えば!
萬二千里のうち、七千里を半島沿岸で使っちゃってるから、
残りが途切れたり繋がってる列島の長さで、引き算して五千里ってだけ
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:06:24.66
>>121

九州北部と関西圏は
地名と知名どうしの位置関係が共通してるけど
これは九州北部から卑弥呼に従って大量の人間が
関西圏に移住したことに起因してる

邪馬台国の範囲は北九州と地名が同じ範囲で
これは複数県にまたがる広い範囲で
その邪馬台国に都が巻向ってことだ

巻向は邪馬台国の都であると同時に倭国連合のみやこでもあるから
巻向建設には広い範囲の国々から人が集まり
その国々の土器もさんしゅつする
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:08:22.80
433>>367
>投馬国は出雲圏全域の広い範囲
船を南に向けて漕いでも海流は東に向かって流れてるんで船の進む方向は東南東になる
南→東南東とすれば 投馬国は出雲圏で問題ない<

「南≠東北」であるから、×。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:11:24.36
>>139

呼子で盗んだイカを山の中通ってどこに持ち帰るつもりだったんだ?
正直に言ってみろ
大分か、宮崎か?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:16:36.28
ダイロ狗、タケ卑狗、卑テンの三羽ガラスが、太鼓判を押したイトクズ国だからな。
イトクズ説が崩れるとイトクズ薄ブツ棺もお取りつぶしになるから、必死こいてるんだろな。な。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:17:30.20
433>>373
>投馬から邪馬台国に向かう間に国は出てこないから
投馬と邪馬台国は接してるってことになるけど ・・・<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は(至の前に途中移動の説明がないから)側副傍線国説明であり、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國女王之所都がある事になるから、
「投馬から邪馬台国に向かって」おらず、
だから、この男は、×。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:25:44.50
433>>376
>実際、200メートル超級はほぼ「畿内周辺」と
「畿内大王家に后を出した家系の一代」だけだ
例外は、群馬県 太田天神山古墳、京都府 神明山古墳 だけだが
どちらも皇別氏族の祖と想定されている <

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「200メートル超級」は、全て、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍や武将の墓で説明が付いてしまうから、
×だ。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:32:36.04
433>>388
>>古代の力のある国みたいだね伊都国は<

>まあ、畿内から一大率が派遣されてた場所だからね <

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
一大率は、不彌國の南の邪馬壹國女王之所都の女王らから任命された形だから、
この類スレ主も、×人間。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:36:37.65
433>>389
>男狭穂塚古墳が全長約175m  女狭穂塚古墳が全長約180m
どちらも200メートルに少し届かない
そして、これは仁徳天皇のときの髪長姫の実家の墓
まさに、大王家に后を出した家の1代限りの大墳墓だよ
畿内大王家の力による造墓と見てよい <

畿内なんてもなかったし、
大和は大王でもなく、九州倭国から別れた別種の旧小国であったんだから、
類スレ主は、また×。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:40:02.92
433>>391
>ちなみにアメノヒボコの子孫が神功皇后だけどね<

ふーん!。少しびっくり。
情報提供、有難う御座います。
0153陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:48:42.00
>>142
なるほど。まさに『無理読み』、『アクロバット読み』だねそれは。
そもそもが三角測量による正確な現代地図を前提として、直線行路を引いている時点で・・。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:55:32.47
443>>397
>>崇神の時代では倭王と自称してたんで 朝鮮から渡来したアメノヒボコは間違って
九州の伊都国を訪ねてしまった <

>その昔、倭では皆が王を自称したと書かれていたやつだ。
九州と畿内と、両方に王家があったんだよ。<

これも、類スレ主の×だ。
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國であったんだし、
「倭では皆が王を自称した」なんてどこにも書かれていないし、
九州倭国で王を称したのは、女王と伊都国王と狗奴國王だけであったし、
大和は、九州倭国の地方の市を監督する大倭職であって、
「王があった」なんて、書かれていない。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:56:58.31
>>140
八十島祭
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀とある
八十島祭、生島神足島神etcも気になるな
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 19:58:56.00
433>>398
「南→東」などの嘘つき騙しの類スレ主は、
イメージだけで「史料事実根拠の九州説」に勝てると思い込んでいる、
可哀想な・・・・アホ爺
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:02:30.25
433>>400
>糸島市の高祖山の古名は日向山、あるいはクシフル山。<

ふーん、「日向山」という呼称もあるのか?。
当然と言えば当然だが。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:05:36.02
433>>403
「南≠東」などに関しても、まったく反論証拠出さない大和説は、
常にトンデモ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:12:29.25
433>>404
>三種の神器というか剣鏡玉の三点セット自体は倭王家限定のものでは無いだろ<

卑弥呼らの姫氏の高良大社だけではなく、
九州倭国の別種分家の旧小国の大和までもが、お宝に出来た位だからなあ。
天孫族の阿毎氏との縁戚があれば、ある程度皆持つもの、であったんだろうなあ。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:15:34.49
433>>405
>いつまでもこんなこと言ってるから
九州説は学問の世界から消えた <

「南≠東」などの嘘つき騙しへの批判に反論出来ず、
いつまでもこんなこと言ってるから
大和説は、世界の学問の世界から消え、国民の7割から否定されているた
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:18:02.20
なんか、自作自演があるような雰囲気を感じる。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:24:47.38
433>>406
>神武東征の経路からみると神武の出身は宮崎だけど
倭国の真ん中で国を収めたいっていっての東征なんで
当時の倭国連合の範囲は関東から九州までで真ん中あたりが大和なんだけどね <

出身は宮崎だけど、長兄の五瀬命らと「東征を決心した」のは筑紫城になるんだけど。

>ちなみに神武は3世紀末に大和に入って初めて国を治めた崇神と同一人物で
神武の幼名は若御毛の尊でこれは崇神をさす 崇神が東国に立てた国は毛の国で
これば自分の名を国名に入れてる<

神武は、書紀に拠れば、紀元前660年に即位であり、
二中歴に拠れば、紀元前91年頃が即位元年なんだけど。
だから、崇神が、神武の呼称を真似た、という事になるんだけど。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:40:10.23
433>>411
>まー神武非実在説が主流なのだけど <

神武らの東征伝承に、
河内湾に船で入って生駒山麓の「日下」にまで行って戦った事になっており、
敗戦後の逃亡に「「南方」を回った事も書かれており、
その河内湾は、紀元前に存在したそうで、
書紀の頃には全く無くなってしまっていて、知らない事が記載されていた事になり、
だから、それが「神武ら東征」が実際に存在した、
という事の証拠になっていた訳で。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:42:30.06
>>412
史料にこだわるようで
実は完全無視して否定曲解のウソ付き騙しをしているのが
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:42:43.39
>>135伊都国は、天日矛の国であった、と記録もあり、

伊都彦の時代にアメノホボコが伊都国を訪れたってことで
別に伊都国がアメニヒボコの国ってことじゃない

アメニヒボコは伊都国に逗留したときに子供をもうけたみたいだ
のちの伊都の県主はアメニヒボコの子孫といってるけど

アメノヒボコは伊都国に逗留したのち大和にいき
そこに永住したけど
神功皇后はそのアメニヒボコの子孫とされてる
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:45:58.30
433>>414
そして、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをして、
学問や論理を無視して、「間違いダー」一言で片付けたがるのが
大和説
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:47:30.94
>>162神武は、書紀に拠れば、紀元前660年に即位であり、

記紀の記述によれば天照は鏡祭祀の時代の人物だ

銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立された2世紀末で
それ以降は鏡祭祀の時代となる

天照も鏡祭祀の時代の人物なんで2世紀末以降の人物となる

神武は天照よりも5代後なんで100近く後の人物ってことになり
3世紀末程度に即位した人物だ

ようするに
卑弥呼と天照が同時代で
神武と崇神が同時代の人物ってことだ
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:48:15.37
>>147
>ダイロ狗、タケ卑狗、卑テン

ちょっと解読が必要だったw
原田、古田、安本の3氏だね

原田氏は畿内説ではあるけれど、平原1号墓出土鏡を八咫鏡と言いだし、
天照大神の墓だと言ったのは九州説の人たちにはなかなかに罪深い
あと周溝の土坑墓を殉葬墓だと言ったのも間違ってたしw
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:49:55.34
>>163

神武はトヨの後に共立された倭王だ

神武はさらに武力による倭国連合の統一を目指して
4道将軍を各地に派遣した
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:50:36.34
443>>416
>山門には「水田跡」も何も無い 米が育たない海水泥湿地 博多湾沿岸とも関係ない
肥後との間の空白地帯だな <

確か、170戸か1700戸かの住居跡の話を書いておられた筈で、
そりゃ、ある程度の「部族国」はあったんだろう、と思うよ。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:53:24.16
433>>417
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをする大和説者は、
学問の結果が常識と解離してても、問題にしないらしいけどな
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:54:54.41
>>168平原1号墓出土鏡を八咫鏡と言いだし

平原で作られた八咫鏡は
倭国大乱前の男王の御霊を収めるための鏡だ

男王の御霊を八咫鏡に移し
男王の御霊を奉斎することで倭国連合を平定しようとした

その為に卑弥呼が共立さてて
男王の御霊を奉斎しその御霊の神託に従い祭りごとをおこない
倭国連合は平定された

死んで鬼籍に入った男王の御霊を神として祭り信仰の対象とするのが鬼道で
これが神道のルーツだ
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:00:48.99
>>168原1号墓出土鏡を八咫鏡と言いだし

平原の八咫鏡が作られたのは
卑弥呼が共立された2世紀末だ

卑弥呼の鬼道は死んで鬼籍に入った人の御霊を神とし
奉斎する宗教で巫女は御霊の神託を告げる巫女として
国を納める祭りごとをおこなった

卑弥呼が鬼道で奉斎した御霊は
倭国大乱前の男王の御霊だ

平原で作られて八咫鏡は
男王の御霊を移すための鏡だ

男王の御霊を移した八咫鏡は三輪山に据えられ
三輪山のふもとに御霊を祭り為の都が作られ
その都が巻向だ
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:07:15.54
433>>422
>崇神の時代に伊都国王が倭王と自称してたってことで
別に伊都国王が倭王ってことでもないけどね<

半分×書の記紀でも、「ついうっかり不利な事を書いてしまった」話は、
証拠価値が上がるもの。

>崇神以前は倭国は30カ国で王を共立する時代だった
崇神になって初めて武力による統一王が生まれたけどまだ力が弱く
九州までは統一できてない<

大和は、始めから、「九州倭国の別種の分家の旧小国の附庸國」であった。

>でもそれで倭の30カ国の範囲が九州に及ばないってことじゃないしね<

大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であった。

>倭の範囲は関東から九州にかけてだけど 初めて武力で統一しようとした崇神の時代には
九州は統一できてなかったってことで
これが記紀に記されてる伊都ツヒコが倭王と自称してたってことになるんだと思う<

崇神は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征に協力して、おこぼれ頂戴して、
大和の新たな支配域を広げる事が出来たから、御肇国と呼ばれた。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:07:43.67
原田ダイロ狗氏は、上陸地を当初の唐津から呼子に変更し、
郡の使いは真夏に来たので、東を東南と間違えた・・、とかの理屈も付け加えた。
それじゃ、帰りの方角は糸島から北になるが、どうするつもりだったのか・・
ま、帰りのことまでは考えないイノシシ年の生まれじゃなかったのか・・・、
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:08:28.80
>>165
>アメノヒボコは伊都国に逗留したのち大和にいき
>そこに永住したけど

いや、アメノヒボコは但馬に定住したんだよ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:15:30.16
>>172>>173
平原の鏡は、八咫鏡じゃないっての!
平原に八咫鏡があったという説話も伝承もない

単に原田氏の思いつきだよ
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:15:55.71
433>>428
>剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ 普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね 山梨県の笛吹市平林2号墳もそう
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ<

しかし、その言い方では、出ていない墓も沢山あった事になる。

>つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、
葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ <

つまり、三種の神器をお宝にしたのは、
天孫族の阿毎氏らの部族や、阿毎氏らに臣従する事になった部族であったんだろう、
という事になる。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:27:27.13
>>177平原の鏡は、八咫鏡じゃないっての!

円周が八咫で八花八葉の内行花紋鏡だ

この八咫鏡は倭国大乱前の男王の御霊を納めるもので
2世紀末につくらてた

共立された卑弥呼が鬼道で男王の御霊を奉斎して
男王の御霊の神にしたがって倭寇連合をおさめるという政治スタイルになった
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:27:42.63
世に「八咫烏」というが、
それじゃ実際に、古代には羽を広げると八咫の大カラスがいたのか?
そんなことはないだろう、あくまで大きいとか、偉大なとか、賢いとかの美弥だったのだろう。

高天原で作られたという「八咫鏡」の名称も、そういう美弥で使われたと考えるべきだ。
それを真に受けた後世の誰かが、実際に八咫の大きさの鏡を作らせてみたものの、
マンホールの蓋より重くて、たちまちヒビだらけになり、どうにもならなかったので、平原に捨てた。
ま、実際に八咫の大きさだった時点で、商都博多あたりの成金が作らせたレプリカ贋作決定だな。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:28:59.19
>>144
>九州北部と関西圏は
>地名と知名どうしの位置関係が共通してるけど
>これは九州北部から卑弥呼に従って大量の人間が
>関西圏に移住したことに起因してる

魏志倭人伝に出てくる地名はわけのわからないものばかり。
地名が移転したのは、卑弥呼よりずっと後なんだよ。
移転した地名が成立したのは主に4〜5世紀の地名だろう。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:30:37.94
>>178三種の神器をお宝にしたのは、

八咫鏡は別格で天照の御霊代だ

天照は皇孫に八咫鏡を我が御霊代として扱えと命じてる
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:32:03.24
>>141
>アメノヒボコは朝鮮から倭王に面会にきたけど
>九州の伊都王が倭王と自称してたので
>九州に来てしまった

間違いだったということにしただけで、当時は実は間違いではなかったんだよ。
天日矛の末裔が4世紀の神功皇后の世代なので、おそらく3世紀の頃は伊都に倭王がいたのだろう。
福岡を支配することが倭王の条件だったんだよ。
椅子取りゲームのようにね。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:32:55.29
433>>442

>>重要な気がするがね<

>「気がする」ww
九州説ってのは、「具体的な根拠」を基礎とした論証をするっていう意識が
端からないんだなww<

不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
何か?それまでに得られた知見や理論では少し説明が出来ない矛盾がある、
という感覚が、新しい大発見に繋がる事など、幾らでもあった事。
アインシュタインの「場の相互作用」の存在もそうであったし、
キュリー夫人らの発見やペニシリンの発見などもそうであった。
つい最近でも、小保方の発見もそうであった。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:33:33.70
出雲を抑えて筑紫が台頭するというのが記紀のストーリー。
大国主を祭った卑弥呼がいたのは筑紫に他ならない。
八咫の鏡が筑紫の伊都から出土したのは当然だね。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:33:58.48
>>180
円周が八咫の鏡が八咫鏡だ

円周が八咫鏡で八花八葉の内行花紋鏡が
倭国大乱前の男王の御霊を収めるために最初の作られた八咫鏡だ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:36:26.25
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:38:43.70
433>>447
>三種の神器を継承することが万世一系の証だからな
九州説は皇国史観<

違うな。
天皇家とは殆ど関係がないように見える高良大社が、
現在でも「三種の神宝」行列のお祭りをしている。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:39:37.48
>>185
>出雲を抑えて筑紫が台頭するというのが記紀のストーリー。
>大国主を祭った卑弥呼がいたのは筑紫に他ならない。
>八咫の鏡が筑紫の伊都から出土したのは当然だね。

倭国大乱前は出雲(投馬)出身の男王が倭国連合のまとめてた

男王に死後に倭国連合が大きく乱れたんで
男王の御霊を八咫鏡に移して
巫女である卑弥呼が男王の御霊を奉斎し
男王の御霊の神託にしたがって祭りごとがなされて
それが卑弥呼の鬼道だ
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:41:37.05
>>181
例えば、移転した地名の一つとされる御井(三井)は、4世紀の神功皇后が喉を潤したことから名付けられたとされる。
九州北部から畿内への地名の移転はそれより後であることがわかる。
(そもそも筑後平野が開発されるのは古墳時代に入ってからで、弥生時代は戦場だ)
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:42:08.69
八咫烏と同じく、八咫鏡も美弥。
実際に直径2尺もあったのじゃ、光も反射せず、それらしい役には立たなかっただろうよ。
記紀の「八咫」を真に受けた、博多あたりの成金バカ。
その出土物をモノホンと思い込むイトクズも八咫バカの見本。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:42:43.40
>>189
>それが卑弥呼の鬼道だ

卑弥呼の鬼道は、大麻だ。 大麻は「忌部はん」 の専権事項。  @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:43:10.20
>>189
つまり投馬が旧都で、筑紫が新都なんだよ。
その移転が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨だ。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:43:41.20
>>180
>実際に八咫の大きさの鏡を作らせてみたものの、

円周の長さが八咫だから八咫鏡ってのがまずおかしい
円形物の大きさを円周長で示すことはない

あれは径二尺のつもりで作った鏡であって、八咫鏡じゃないんだよ
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:44:23.67
平原の鏡が光を反射できなかったという珍説は初めてだな。
キナイコシはついにここまで狂ったか。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:47:04.30
畿内で製作された大型鏡がいずれも伊都の鏡をわずかに下回る大きさで作られていたという配慮がまた大きな状況証拠だよね。
同じ文化を共有しながら、伊都の鏡を至上のものと考えていたんだろう。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:47:19.03
バカにも色々あるが、
八咫の大バカという新種もいるようだな
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:48:01.22
>>189
>それが卑弥呼の鬼道だ

卑弥呼の鬼道は、大麻だ。 大麻は「忌部はん」 の専権事項。 
ついでに式内社(名神大社)「大麻比古神社」も「忌部はん」 。   @阿波
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:49:31.77
ヤタってどういう意味やろな
何か意味のある言葉な気がするが
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:50:51.58
キーワード作文合戦で収拾つかんな
時代も神代から8世紀くらいまでゴチャ混ぜ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:53:49.18
そりゃ、ヤマタイが訛って、記紀編纂の時にヤタになっただけのこと。
もとは、ヤマタイのカラスに、ヤマタイのカガミさ。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:54:05.72
433>>485
アタマがマトモでないから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説になる、
って判る証拠がたくさん出たな
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:54:58.67
>>202
新説現る。
では八咫の鏡が出た伊都が邪馬台国か。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 21:56:42.61
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:01:19.74
ヤタyt
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:04:01.75
>>196
>畿内で製作された大型鏡がいずれも伊都の鏡をわずかに下回る大きさで作られていたという配慮がまた大きな状況証拠だよね。
>同じ文化を共有しながら、伊都の鏡を至上のものと考えていたんだろう。

卑弥呼の御霊を収める八咫鏡は
卑弥呼が奉斎した男王の御霊代の八咫鏡の大きさを超えない配慮はなされたかも
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:04:11.78
>>193
筑紫に七万戸の王都がない時点で何を言ってもダメ
伊都国は邪馬台国に従っているのだから、邪馬台国ではない
奴国が2万戸だからその3.5倍の国はどうやっても北部九州には入らない
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:09:33.13
>>198

卑弥呼の鬼道は
死んで鬼籍に入った人の御霊を神として奉斎する宗教で
卑弥呼は御霊の神託を告げる巫女的な女王として共立された

卑弥呼が鬼道で奉斎する御霊が倭国大乱前の男王の御霊で
倭国連合は巫女としての卑弥呼を通して男王の神託で統治された
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:10:19.50
>>206
唯一無二のものとするため、それ以外は割らなくてはいけなかった。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:10:29.17
>>204
理解力に乏しいな。
本物は、ヤマタイで作られたもので、大きさではなく、由緒の正しさで記紀では八咫鏡と呼ばれた。
平原で出たのは実際に八咫の大きさで、5面分あったそうだ(1面は1片のみ)。
そろって八咫の大きさだった。
つまり、記紀の八咫を真に受けた後世の八咫バカ人間が、実際に八咫の大きさに作って、これホンモノと自慢して見せたということだ。
それが平原で出たやつな。
(由緒正しきホンモノなら、割って埋めたりせぬ。伊勢神宮のを見ろ)。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:12:25.91
>>209

大きさに対する配慮だけど
三輪山麓の古墳群も箸墓のサイズを超えない配慮がなされてる
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:14:26.22
円周が八咫ってのが未確定事項なのだから根拠にはならない
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:15:57.71
>>196
>伊都の鏡をわずかに下回る大きさで作られていたという配慮

そんな配慮はないよ
100年近く前に僻地でバキバキに割って墓にうち捨てられた鏡の大きさなんて、
畿内に伝わっていたと考えるべき理由はない

古墳から出ている巨大鏡は全部1枚ものだから1枚1枚大きさが異なる
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土

二位の畿内の柳本大塚古墳出土の内行花文鏡が、山口出土の鼉龍鏡の大きさを超えないように配慮した
なんてことは誰も考えないだろ?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:16:53.18
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:18:49.74
>>183天日矛の末裔が4世紀の神功皇后の世代なので、おそらく3世紀の頃は伊都に倭王がいたのだろう。

伊都彦が倭王と自称してってことになってる

崇神は初めて武力で倭国連合を統一しようとした王だけど
九州にまで含めての統一はまだまだ先の話だった

崇神は4道将軍を各地に派遣して武力による倭国連合の統一を始め初めての王ってことで
初めて国を治めた王の称号を与えられてる
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:18:54.91
>>218
二番以下は意味がない。
八咫の鏡を超えないことだけが大事。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:20:28.42
別スレでバカを晒して逃げ出した伊都クズが性懲りもなく妄想を喚いているな
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:21:26.86
>>220
>伊都彦が倭王と自称してってことになってる

そういうことにしただけで、実際はそれが事実だったのではないかと。

>崇神は4道将軍を各地に派遣して武力による倭国連合の統一を始め初めての王ってことで

つまり、それより前は伊都に倭王がいたんだよ。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:22:25.21
>>216大事な物は保存するよな

大事なのは鏡に納められて御霊であって鏡そのものじゃない

靖国神社のご神体も御霊を収めた鏡だけど
鏡そのものが大事なんじゃなくて鏡に収められた御霊が大事なんだ
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:23:15.37
433>>488
相変わらず「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
論拠を語らないでストーリー創作に逃避してるな
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:24:41.32
>>223つまり、それより前は伊都に倭王がいたんだよ

共立されたトヨが死んだあとは
武力で倭国連合を統一するための天下統一の戦国時代になった
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:25:57.20
卑弥呼の墓は最高位の場所にある。
高位、つまり高地という意味だ。
古墳の序列は大きさよりも高さ。

箸墓であろうが、大仙陵であろうが、最高位の場所ではない。

標高435m
https://yahoo.jp/9Pt1p7

場所は日本の歴史および神話の原点・高天原だ。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:26:02.11
>>213
>唯一無二のものとするため、それ以外は割らなくてはいけなかった。

その唯一無二の大鏡はどこにあるんだい?ww
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:29:11.77
>>223つまり、それより前は伊都に倭王がいたんだよ

卑弥呼が共立されたあと男王が共立されたけどうまくいかづ
トヨが共立されて倭国連合は維持された

トヨが死んだあとは武力で倭国連合をというつする時代に入った

崇神は上洛して邪馬台国に上ったけど
天下統一はまだまだ先の話で
戦国時代は200年続き
倭国連合の統一は5世紀末の雄略の時代だ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:29:59.48
今は伊勢にあるんだよ。
天孫が筑紫に持ち込んだはずの八咫の鏡がいつ筑紫から畿内に移動されたのかは記録されていない。
しかし崇神の時には登場するので、もしかしたら崇神が持ち込んだのかもしれない。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:30:36.69
>>219
そのインチキ計算で、30カ国のほとんどを邪馬台国の戸数に算入しちゃうと、
残りの1国で五萬戸の投馬国が倭国の最大国になっちゃうんだけど?ww

本当に九州説はインチキ計算が好きだよなw
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:30:47.60
三種の神器の起源は謎だよな
詳しい人いないかな
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:31:57.71
肥前河上の淀姫が壹與だよ。
4世紀に倭は筑後から佐賀にかけてを王都としたんだ。
この頃の筑後の地名が後に畿内に移転したようだ。
八咫の鏡が移動したのもこの頃だろう。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:33:05.46
>>228その唯一無二の大鏡はどこにあるんだい

八咫鏡は三輪山に納められたと出雲国造神賀詞に記されてるけど
今頃はさびて原型をとどめてないと思うよ
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:33:48.40
>>231
投馬国は邪馬台国と並列で紹介されるから、同じような領域国家だったんだよ。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:33:58.25
箸墓であろうが平原であろうが、一人一基説は破綻している。
なぜなら卑弥呼の両親、いたであろう叔父さんや叔母さんなどの親族、
そして男弟、2世紀前半までさかのぼっての王族、
一人一基説ならそれらを大量の墓で説明せねばならない。
纏向では無理、平原でも無理。

卑弥呼の墓は一人一基ではない、王族の集団墓なのだ。
それが径百余歩・150mなのだ。
その一角に卑弥呼は埋葬された。

場所は上記、高天原だ。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:34:23.53
>>221
>二番以下は意味がない。

二番が鼉龍鏡であって内行花文鏡じゃない時点で、
内行花文鏡が特別な鏡って言うのは通らないよなww

鼉龍鏡が内行花文鏡に配慮する必要はないだろ?

全部ただの思いつきで意味のない妄想だよ
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:36:43.62
践祚の儀式では剣璽つまり剣と玉の方が重視されてるようだか
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:40:48.94
>>207卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

巻向が造営される以前の最大の遺跡は出雲圏のムギバンダ遺跡で
同時代の吉野ヶ里遺跡をはるかに凌駕する広さだ

遺跡の広さでみれば
倭国大乱前の倭国連合の男王は出雲圏の王だった
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:40:52.20
>>230
>今は伊勢にあるんだよ。

嘘つきww
伊勢のご神鏡はそんな大きさじゃないぞ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:41:32.10
剣と玉は元々仲が良いのかな
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:42:42.63
433>>539
このように
「南→東」などの嘘吐き騙しの、根拠も出さずに断定三昧
それが、大和説
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:48:01.73
>>235
>投馬国は邪馬台国と並列で紹介されるから、同じような領域国家だったんだよ。

倭国の今使譯所通三十國のうち29国を邪馬台国にしちゃってるのに、
投馬国一国で領域国家っておかしいと思わないのか?

邪馬台国の中身wwは29国の国名が全部書いてあるのに、
投馬国の中身が書いてないのはどうしてだ?

倭国の29国を邪馬台国にしてしまって、その過半の大国を列島のどこに置くんだ?ww
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:49:37.77
>>214由緒の正しさで記紀では八咫鏡と呼ばれた。

出雲国造神賀詞は記紀よりも古型とされてて
出雲風土記にも歴代天皇に神賀詞が上奏されてることが記されてて
今現在でも出雲国造の代が新しくなるときに
出雲国造である千家氏が神賀詞を天皇に上奏してる

この出雲国造神賀詞に
大国主の尊の御霊を八咫鏡に移して三輪山に据えて
大国主の御霊が大和の守護神となったと記されてる
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:50:57.30
ザラコクまだいんのwwwww
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:51:21.39
>>236
左側スロープ君は、もうダメ人間だってバレバレだし、
言ってることがデタラメなのが知れ渡ってるんだから、
こっちに出てきても、何を書き殴っても、ムダだよww

自分の巣でおとなしくしてなよww
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:52:16.95
>>236
>なぜなら卑弥呼の両親、いたであろう叔父さんや叔母さんなどの親族、
>そして男弟、2世紀前半までさかのぼっての王族、
>一人一基説ならそれらを大量の墓で説明せねばならない。
>纏向では無理、平原でも無理。

伊都なら、三雲に王墓群があるから可能。
高祖山を挟んだ福岡側にも王墓がある。
平原そのものが親族の墓を持っている。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:56:30.22
>>247
>平原そのものが親族の墓を持っている。

本当にバカだよな
畿内にこそ、山ほど大古墳があるのにww

平原5号墓、2号墓、3号・4号墓は、どうやっても王の家族の墓じゃないぞ
そこらの庶民の方形周溝墓より下手すると小さいww
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:00:02.46
三種の神器は大和族が征服した地の神宝だったものだろう
剣は出雲鏡は奴国勾玉はどっかその辺
これを接収する事で物質というかマウント取りをした
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:01:48.06
>>241
>剣と玉は元々仲が良いのかな

まあ、天降りした最初の神の名前が瓊瓊杵尊で、瓊は玉で杵はきね、つまり棒だから
瓊瓊杵尊の名前は、玉二つと棒、という意味だ

杵が剣になれば、玉と剣で瓊瓊杵尊の形象と見ることもできる
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:08:07.93
>>251
棒といえばミシャグジさまかな
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:08:48.58
瓊瓊杵尊は邇邇芸命とも書かれるし単に音を当てただけだろ
天にぎし国にぎしの事で意は天にも地にも親和的であるという事
にぎやかとかにぎにぎしいの元だそうな
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:08:53.49
>>251

勾玉も倭国(阿波)の専売特許。  @阿波
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:12:17.54
そんじゃ阿波は畿内に征服されて先祖伝来のお宝を差し出させられたんだな
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:14:27.00
何で矛がないんやろな

矛鏡勾玉剣

天日月風

関係ないか
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:17:24.20
杵築

ミシャグジさまが築いたということか!
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:22:41.42
>>227

三輪山はどんな古墳よりも高くそして大きい

男王の御霊は八咫鏡に移されて三輪山に据えられた

三輪山の山麓の方形の台地が男王の御霊を祭祀する神聖な場所で
そこには古墳は1つも作られてない

円形の三輪山と山麓の方形の台地が前方後円墳の原型で
これを超える前方後円墳は存在しない

なんせ三輪山は高さが467メートルもあるから
今現在でも作るのは経済的に無理
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:26:36.54
>>243
狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南岸地域が投馬国です
投馬国に対して邪馬壹国側に女王卑弥呼の都があると書かれてるんですね。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:26:58.64
にぎやかというのは、稲穂が実る様子のことで、弥生時代においてはめでたい名前なんだよ。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:29:22.25
後漢書においては、倭国とは対馬海峡を挟んだ北岸と南岸だけだからな。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:30:38.77
倭在韓東南大海中だから違う
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:30:48.53
饒速日の十種の神器だと、衣類とかも含まれるけどね。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:31:30.23
魏志倭人伝の痛恨のミスは伊都国王の名前を書かなかったことやな

官のニギかネギは書いてあるのに
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:31:46.65
倭の国境は帯方郡から七千里の狗邪韓国だぞ。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:33:19.15
>>248

出雲国造の千家氏は神道界では現人神として有名だし
最近だと皇女と結婚したよ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:33:26.63
狗邪韓国と対馬の間が国境
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:35:11.33
伊都に(倭の)王がいたという意味だぞ。
つまり伊都に倭王卑弥呼がいたんだ。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:38:02.27
>>261
>朝鮮半島南岸地域が投馬国です

出たよ、半島南岸投馬国バカが
そこは韓で倭じゃないんだよ

半島南岸に五萬戸もない
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:38:04.23
伊都国王は女王卑弥呼に従属していたんだよ
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:39:02.59
>>266
伊都国王の名前が卑弥呼や壹與だよ。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:40:53.36
半島南岸に投馬国は入らない。
しかし半島南岸は倭の一部だ。
まあ、海岸にわずかに補給地がある程度だったかもしれないが。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:41:26.44
飛騨の口碑、凄いな
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:43:05.47
>>268
>出雲国造の千家氏は神道界では現人神として有名だし

そういうのはいいから、
出雲国造神賀詞の原文を引用して示してくれよ

できないのか?
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:44:42.73
>>270
>伊都に(倭の)王がいたという意味だぞ。
>つまり伊都に倭王卑弥呼がいたんだ。

バカオンパレードだな
伊都が邪馬台国だったら、伊都国に一大率は要らないっての
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:46:56.55
伊都国王は女将おじさんだよ
夜宴では芸妓にもなる
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:47:43.78
>>230

卑弥呼は倭国大乱前の男王の御霊を奉斎する巫女的王だけど

卑弥呼の死後に共立されて巫女的女王のトヨは
だれの御霊を奉斎したのか?

2択で卑弥呼か男王の御霊ってことになるけど
これは卑弥呼の御霊なんだ

天の岩は卑弥呼の御霊を古墳から取り出して神上がりさせ
八咫鏡に移した伝承だし

トヨが卑弥呼の御霊を奉斎することで
倭国連合は乱から抜け出せた

生前の卑弥呼は神を祭る巫女的存在で
死後の卑弥呼は神として祭られる存在となった

記紀で天の岩戸前の天照は神に奉斎する巫女として表現されてて
神にささげる為の織物をしてた

岩戸から出て神上がりした天照は八咫鏡を御霊代とした神として表現されてる
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:48:32.38
一大率は伊都から北の対馬海峡を巡視して守護するのが役割だ。
監視の対象は対馬や壱岐だ。
そもそも大率は高位の中央官僚だし。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:53:02.73
一大率は地方監察官
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:54:35.26
>>273

卑弥呼は伊都国出身の巫女だけど
邪馬台国は関西だよ

倭国大乱前の男王の御霊は八咫鏡に移されて
三輪山に据えられ三輪山の山麓には男王の御霊を奉斎する為の都(巻向)が
造営された

九州から卑弥呼が巻向に入って
男王の御霊を奉斎して倭国連合を治めた

卑弥呼とともに多数の人々が関西圏(邪馬台国)に移住したので
関西圏の地名が九州の地名と同じになった
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:55:38.48
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

佐平は邪馬台国で言うと男弟だな。現代だと官房長官?
実質的な内政のトップは大率になる。現代だと総理大臣。
もちろん、
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:56:55.44
卑弥呼は統一後争いの収まらなかった邪馬台国で共立されたと
魏志倭人伝にはあるが
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:57:53.21
倭國は百濟じゃないからな
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:57:54.08
>>282
最終的に三輪山に納められるならいいわけで。
移動した地名は4世紀のものなんだよ。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:00:30.24
>>276

出雲国造神賀詞の上奏は出雲風土記でも書かれてるから
かなり前からおこなわれてたけど今現在でも国造の代替わりのときに
天皇に上奏されてる

ここで注目するのは国譲りで譲ったのは大八島となってるんで
山大和連合全体の統治権を大国主が譲渡したってことだ

また
こびへつらって国をゆずってもらったと記されてるし
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:00:51.28
八咫は古語で八頭だから八稜鏡
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:02:46.29
倭人〜?朝鮮人の事なんだろう?
何やら氏、某氏〜?

家の近所にも、
某氏などと同じような名前の人たちが
住んでいたりするけど(なぜか日本名もあったり)

北朝鮮や韓国と同じような民族、
顔というの?何なんだろう
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:03:41.75
百済と倭国はかなり近い関係で、官僚制度が近かったのだろう。

鈕が八頭の内行花文鏡は伊都の内行花文鏡だけ。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:04:10.15
>>287

男王の御霊を移し八咫鏡が三輪山に納められたのは
2世紀末でそこから三輪山のふもとの巻向の
造営が始まった
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:04:35.62
お前たちの話を聞いていると、大爆笑なんだと言っているんだよw
倭人(朝鮮人?)というのが・・・いまの日本人なの?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:05:58.37
>>277
伊都国に一大率はいないよ。
>>280
ですよね。
>>282
九州から関西圏への植民はもっと後の時代だろ。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:07:55.45
詳しいことは、わからないけどw
金氏・・・某氏、某氏など・・・倭人で日本人?


妄想も終わりしたほうが良いぞ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:08:44.12
>>291

平原の八花八葉の内行花紋鏡が作られたのは
2世紀末で卑弥呼が共立されたときだ

この八咫鏡は倭国大乱前の男王の御霊を収めるためのもので
卑弥呼は男王の御霊を奉斎する巫女的女王で
これが卑弥呼の鬼道だ
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:10:25.97
詳しい方お願いします

1 東大寺に関して過ってる選択肢
a 大仏殿や南大門は後に再建された
b 奈良時代彫刻の代表例 阿修羅像などの八部修造がある
c 大仏造立には弾圧を受けていた行基も協力

2 化政文化と関係ない人
a 徳川家斉 b 伊能忠敬 c 小林一茶 d 本居宣長 e 黒住宗忠

3 江戸時代の城下町を母胎としない都市
a 青森市 b 山形市 c 盛岡市

4 新井白石から松平定信の治世下に起きた出来事とは関係ないこと
a 和学講談所の設立
b 大岡忠相や田中丘隅の活躍 
c 正徳金銀の銭造
d 荻生徂徠の活躍 
e 川越庄内長岡藩の三方領地変え
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:11:26.21
八頭は鈕はじゃない
鏡が八頭だから八稜鏡
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:13:35.92
>>287

神武は東征するときに九州は端で
大和は倭の中心の位置だか大和にいくといった

倭国連合は関東から九州の範囲で
倭国連合の位置的中心が大和付近になる

そのために男王の御霊が入った八咫鏡は
大和のどこかに納める必要があった

三輪山は形も円形で程良かったので
男王の御霊が納められた八咫鏡は三輪山に据えられた
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:16:31.02
八葉なんか仏教用語で梵鐘に刻まれるのに
2世紀末の平原なんかで出るのがおかしい
錆色塗装鏡も出てるし

http://www.emuseum.jp/detail/100053/000/000?d_lang=ja&;s_lang=ja&word=%E8%A6%B3%E4%B8%96&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=8&mode=simple&century=
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:16:38.11
本当の話だと言っているんだよw


悪く言っているわけではないんだけど、
キムチなどを作って売っていたり?
物産展のようなものがあったりするでしょ


ほとんど、そのような名前の人たちw
金□、松□、・・・という日本人名(半島人名?というのもあったり)で・・・、
パク、チョンとか、そのままの名前の人たちもいたりw
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:17:13.22
詳しい方お願いします

1 東大寺に関して過ってる選択肢
a 大仏殿や南大門は後に再建された
b 奈良時代彫刻の代表例 阿修羅像などの八部修造がある
c 大仏造立には弾圧を受けていた行基も協力

2 化政文化と関係ない人
a 徳川家斉 b 伊能忠敬 c 小林一茶 d 本居宣長 e 黒住宗忠

3 江戸時代の城下町を母胎としない都市
a 青森市 b 山形市 c 盛岡市

4 新井白石から松平定信の治世下に起きた出来事とは関係ないこと
a 和学講談所の設立
b 大岡忠相や田中丘隅の活躍 
c 正徳金銀の銭造
d 荻生徂徠の活躍 
e 川越庄内長岡藩の三方領地変え
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:20:59.76
>>279
だとすると日本書記では何故、箸墓(卑弥呼の墓)をアマテラスの墓ではなく、
モモソヒメの墓と言うことにしたのだろう?

モモソヒメは第7代孝霊天皇の皇女で、第10代崇神と同時代の人。
その崇神はアマテラスを宮中から追放し、
モモソヒメを三輪山(出雲系の蛇神)の斎宮にしている。

ストーリーや系譜的に、モモソヒメとアマテラスは親和性が低いんだよね。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:21:29.74
>>287

男王の御霊は八咫鏡の納められて三輪山に据えられ
三輪山のふもとに巻向が造営された

巻向付近の地名は古くは出雲庄だ

これは倭国大乱前の男王が出雲出身だから
生前の男王の出身地にちなみ男王の御霊を奉斎するための巻向の地名が
出雲庄となった
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:22:24.98
本当に、
このような名前の人が多いという話


金□、松□〜、という日本人名?
あと何だったかな・・・、

でも松平という名前ではない
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:29:33.79
>>304

第7代孝霊天皇は実在しない天皇だ

天照の時代背景は鏡祭祀で
銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立された2世紀まつだ

ようするに天照は鏡祭祀の人物なんで2世紀末以降の人物ってことになる

神武は天照よりも5世代後の人物なんで100年程度後として
神武は3世紀末ごろとなり

崇神も3世紀末ころなんで神武と崇神は同時期となり
神武と崇神の間の孝霊は実在しないことになる

神武と崇神は共に初めて国を収めた王と称号をもつ同一人物
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:29:51.76
それで、お前が日本人(倭人?)で・・・❔
みたいな話をしているわけ

そろそろ頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのかw
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:33:36.70
>>304

三輪山麓の古墳は箸墓の規模を超えないよーに作られてるから
箸墓の墓主は古墳群の中でも最も権威のある王だ

単なる王の娘のモモソ程度の古墳じゃない
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:37:17.22
>>300
>八葉なんか仏教用語で梵鐘に刻まれるのに
>2世紀末の平原なんかで出るのがおかしい

八花八葉の内行花紋鏡は
八雲立つ出雲の八鉾の尊と称される大国主に御霊代としてふさわしい鏡だ
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:38:20.16
『2ch 出身 偉人』

こういうのも、
本当に誰の話(ネタ)なんだろう
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:39:51.37
>>310

お前がふさわしいと思うのは何の根拠にもならん
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:40:51.43
>>307
>>309
いやいや。自分も、卑弥呼はアマテラスじゃないかと思ってるんだが、
それゆえに、なぜに箸墓をストレートにアマテラスの墓と言うことにせず、
アマテラスと親和性の低い、出雲寄りのモモソヒメという人物に紐づけたのか、
そこがどうしても分からないんだよ。

卑弥呼=アマテラスを否定している訳じゃないよ。自分もそう思ってるんだが、
日本書記では何故に箸墓をモモソヒメと言う人物に紐づけたのか?そこが分からない。
そもそも箸でホトを突いて死ぬということ自体が、後世の創作であるんだけど。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:44:40.79
>>309
>単なる王の娘のモモソ程度の古墳じゃない

あと、これはない。
モモソはヒメで、崇神と垂仁はヒコだ。
そしてモモソの方が格上。

皇女というのは記紀編纂時の創作でしかなく、本当はモモソが女王だ。
なので日本書記に皇女と書かれているのは、別に全く気にしなくていい。女王として読めばいい。

問題は、モモソ女王がアマテラス寄りでなく、出雲蛇神オオモノヌシ寄りだと言うこと。
そこがどうしても分からないんだよ。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:47:24.58
>>312
八雲立つ出雲の八鉾の尊と称される大国主の御霊代としてふさわしい鏡だ
はどんな鏡だと思う?

円周が八咫で八花八葉の内行花紋鏡ほど大国主の御霊代としてふさわしい鏡は
他にない
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:49:46.73
>>314

三輪山麓の古墳群で最大の古墳が天照の墓だ

最大の古墳は箸墓でこれが天照の墓
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:51:49.94
そのアマテラスというのはキムチが好きなの?
動物の臓物(ホルモン)のようなモノばかり食べていたり
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:51:56.68
>>316

大国主の御霊代としてふさわしい鏡って何
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:52:38.24
>>313

記紀を編纂したときの天武天皇は中国に対抗意識を持ってたんで
天照が卑弥呼だと都合が悪いからだ

天照が親魏倭王じゃカッコつかない
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:53:38.56
出雲の大物主の御霊を鎮める
つまり出雲の祖霊を祭る事で出雲系の反乱を防ぐ役割をしていたんだろう
象徴的なものか出雲の有力者との政略結婚だったかはわからんけど
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:55:36.55
>>319
>大国主の御霊代としてふさわしい鏡って何

円周が八咫で八花八葉の内行花紋鏡

この鏡こそ
八雲立つ出雲の八矛の尊と称される大国主の御霊代として
ふさわしい鏡だ
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:55:49.31
天照は死にましぇん
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:57:14.40
>>323

大国主の御霊代の鏡ってのは何に書いてある?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:57:43.88
卑弥呼のイメージは、アマテラスに親和性が高い。
『以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛』
これはまさに、記紀神話における高天原のイメージだ。

鏡や太陽への強い執着においても、卑弥呼とアマテラスは見事に一致する。

だがモモソヒメは鏡や太陽との親和性が低く、倭国の古めかしい土着信仰である出雲系蛇神との親和性が高い。
このモモソヒメを何故に箸墓(卑弥呼の墓)の主として紐づけたのか?そこが分からないんだよね。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:00:09.94
>>326

分からないんだよねってお前が一人で妄想してるだけだろ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:00:18.42
箸墓がモモソヒメと関連付けられてるのは
それがモモソヒメの墓だからだろう
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:01:26.83
『姥清水』という作品を観てみたほうが良いと言っているんだよw

、〜身を清め、五穀豊穣〜と言っているでしょ?
むかーし・・・・・姥清水?の周辺に住んでいたことがあるんだよと言っていたり

家の話w
0331日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 01:02:10.91
>>322天照は神様で実在はしてないぞ

神道の神は人間の御霊だ

神楽でも宮中祭祀でも死んで神上がると歌ってる

死んで鬼籍に入った人の御霊を鏡に納め
神社のご神体とするのが神道で
そのルーツは卑弥呼の鬼道だ

オオヒルメの御霊がヤタノ鏡に移され
それが天照だ

記紀がかかれたころの手持ち皇女の歌で
天の岩戸は死を表してる

歌の中で手持ち皇女は
夫が死んで古墳に埋葬されたけど
天の岩戸を開けて御霊を取り出す力は女の私にはない
ロ嘆いてる

当時の天の岩戸の認識は
岩戸から出てくるのは死んで神上がりした御霊なんだ
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:06:46.54
>>329

天照の時代は鏡祭祀で
銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立されて2世紀まつとなるんで
鏡祭祀の時代背景の天照は2世紀末以降の人物だ

天照よりも5世代あとに神武はさらに100年後だから
3世紀末の時代の人物となり
崇神も3世紀末の時代なんで神武と崇神は同一人物となる

神武と崇神が同一人物なら間に天皇はいないことになり
モモソは存在しえなくなる
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:08:19.93
>>326
そもそも高天原という場所は宮崎県高千穂にある
記紀でも天皇の故郷は九州の宮崎(日向)
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:11:16.38
どこの基地外なんだ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:13:52.68
>>331
人間の御霊だったとしても
卑弥呼より200年以上前になるんじゃなかろうか
天照神話の舞台は大和勢力がまだ九州にいた頃の話

>>332
神武は実在するなら2世紀中ぐらい〜末の人物
魏志倭人伝にある160〜180年頃の倭国大乱がいわゆる神武東征の可能性が高い
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:14:12.05
>>325

出雲国造神賀詞に
大国主の御霊は八咫鏡に移され三輪山の神奈備に据えられたときされて
大国主の御霊が大和の守護神となったとある
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:19:22.34
>>318

天照はトヨの口を通して食べ物を食べる

天照は奉斎してくれる巫女のトヨがいないと
お食事ができないってことだ

そこで伊勢神宮外宮にトヨが祭られて
内宮の天照にそなえるお食事は
外宮のトヨにおそなえされることになってる

ようするにトヨにおそなえすれば
トヨが食べそれが間接的に天照の口に入るってこと
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:21:08.33
>>329
問題意識が理解できてないみたいだね。

自分は、卑弥呼=アマテラス=箸墓の主だと考えているの。
そこは全く否定していない。そこは理解してね?いい?大丈夫?本当に大丈夫?
とにかく、理解不足で訳の分からない八つ当たりはしないでね。

そして天皇陵でさえ3段築成なのに、箸墓は4段築成、後円部に至っては5段築成だ。
さらに箸墓は最初の巨大前方後円墳。
もうこれは、親魏倭王=卑弥呼=アマテラス=箸墓の主であることには間違いがない。

であれば箸墓の主は、アマテラスその人か、アマテラスに仕える斎宮とするのが自然だろう。
そしてその斎宮には、鏡と太陽にまつわるエピソードを付与するのが自然だろう。

それを日本書記では、何故か不思議なことに古めかしい出雲系蛇神の斎宮であり、
占いも大陸の最先端テクノロジーの香りがする亀の甲羅を焼くのではなく、
古めかしい夢占いやら神降ろしをするモモソを箸墓の主に当てている。

これは一体何でなんだ?と言うことなんだよ。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:24:08.03
>>321

古代では大国主が国中最高の霊神とされ
水無月には天照を含めて全ての神が
大国主のもとに集まった

古代に認識では大国主が天照より上位で
崇神は宮中から天照の御霊が入った八咫鏡を出してしまった
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:26:14.09
トヨだか何だか知らないけど、
わかりやすく言うと、家の・・・・・・・・・、
老婆(嫁)、母親(嫁)・・・みたいな意味でしょ


例えなくても、そういう話
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:27:58.80
>>338
そりゃあ箸墓はモモソヒメの墓なんだろ天照じゃなくてな
モモソヒメが卑弥呼の可能性は高い

魏志倭人伝には連合王国となったものの争いが絶えなくて
卑弥呼が共立されたとあるから天皇の系統でも出雲の大国主や
前の畿内の支配者物部氏の神大物主など祭って造反を防ぐ役割をしていたんだろう
そういう状況は十分に推察できる
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:31:41.38
卑弥呼は『親魏倭王』で金印を貰っている。
だが後の時代の倭の五王は『安東将軍倭国王』で、金印は貰っていない。

なので倭の五王が河内にどれほどの巨大古墳を造ろうとも、
箸墓の4段築成、5段築成を超えないようにし、3段築成にとどめている。

このことにより、箸墓は卑弥呼の墓であることが強く思料される。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:31:51.46
>>339
出雲とされる投馬国は5万戸もあるし
連合国となったばかりの邪馬台国にとっては従えたとはいえ脅威だったろう
だから出雲の神大国主を手厚く祭る事によって反乱が起こる事を防いでいたんだろ
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:32:59.08
>>338

生前の天照は巫女で
自分が奉斎する神にささげる
機織りをしいてた

ところが記紀では肝心の天照が奉斎する神の名前を伏せてる

天照が卑弥呼とした場合
卑弥呼が奉斎した御霊は倭国大乱前の男王の御霊になるんで
天照が奉斎する御霊は大国主の御霊ってことになる

これって天照の貴尊性を低めてる感じで
ちょっとまずいと考えたんだ
当時の人たちは
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:36:42.59
数年前の、どのスレだったかな?
モレ(仮)の書き込みのあとに


威張ってばかり、
自分一人では何もできないくせに、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜みたいな


このような謎のレス(??書き込み)をしてきた人がいたり、
実際はモレ(仮)に対して言っている?
わけではないのかもしれないけど
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:38:32.65
>>341

天照の生前の名前はオオヒルメで漢字表記は大日巫女だ

大日巫女は卑弥呼のことだ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:41:24.33
>>346
オオヒルメとヒミコじゃあ音がぜんぜん違うな
ヒメノミコトとかヒノミコだったんだろ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:41:39.52
記紀における神とは、王族くらいの意味で捉えておけばよろしい。
アマテラスだって、語意から言えば海の王であり、大国主の対義語にすぎない。
古代における神への奉斎とは、王族に対する奉仕の意味であり、アマテラスはあくまでも奉斎される側になる。

神武が筑紫を出た理由は、筑紫が戦乱で騒がしい一方で、親戚の饒速日が大和で王国を作っているということを塩土爺から聞いたため。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:43:03.60
卑弥呼の読みはピミカ(日向)
筑紫の日向が卑弥呼の王都だよ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:43:37.51
>>341モモソヒメが卑弥呼の可能性は高い

記紀で天照の時代背景は鏡祭祀の時代になってる

銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立された2世紀末なで
鏡祭祀の時代の天照は2世紀以降の人物ってことになる

卑弥呼も天照もともに鏡祭祀の人物で2世紀以降で同時代なんで
同一人物ってことだ

天照は死んだ後に御霊が神上がりして
その御霊は八咫鏡にうつされた

八咫鏡は2世紀末以降に作られ始めたので
天照は銅鐸祭祀みたいな弥生時代じゃないんだよね
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:49:19.76
>>338
神道の神が荒魂(あらたま)/和魂(にきたま)の二面性を持つように、
卑弥呼もまた二面性を持ってたんだろ。

外向け(魏国や半島)に対しては中国風の鬼道や鏡の祀りを行って倭国の先進性をアピールしつつ、
内向けには大国主/大物主を祀っていた。

その二面性が、記紀において天照と百襲姫の2つの人格に分かれることになる。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:49:21.79
>>350
鏡祭祀が2世紀というのは間違い
正確には畿内が3世紀に入ってから

九州の漢鏡の出土を見るに
恐らく奴国が漢に朝貢した1世紀に鏡祭祀が現れた
そして天皇は九州から畿内に出発した
鏡祭祀が2世紀からというのは違う
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:51:25.32
>>347

伊勢神宮の内宮の天照の別名がオオヒルメで漢字表記が大日巫女

伊勢神宮の外宮の豊受の別名がトヨヒルメで漢字表記が豊日巫女

オオヒルメもトヨヒルメもどちらも巫女的女王なんだ

オオヒルメは卑弥呼であり
トヨヒルメは 卑弥呼の次のトヨだ
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:52:19.29
このスレの話ではないのかもしれないけど、
他の家の話なのかな


自分で冷蔵庫まで行き、何か食べ物や飲み物を持ってくることもしない、
出来ない?とか・・・ここまでは(書き込み)言ってなかったかな?



本当に何なんだろう、
たしか、そのような事を言ってる人がいたような?


威張りちらしているだけで、
自分一人では何も出来ない・・・?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:52:24.05
八咫鏡が八花八葉というのは思い込みによるガセ
ただしくは八頭花崎八葉形で八頭花崎の八葉の形
すなわち八弁の蓮花の形
しかもその描写は中世のもの

伊都クズには歴史学で最も重要な時間軸という概念と
嘘をついてはいけないという良心がない
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:55:10.18
>>354
卑弥呼の時代にまだ日本に漢字はないので
卑弥呼がオオヒルメと呼ばれていたなら
中国の使者は於於卑流馬とでも記録しただろう
そうでないという事は卑弥呼はオオヒルメなどとは呼ばれていなかったという事だ
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:00:05.22
>>335
>人間の御霊だったとしても
>卑弥呼より200年以上前になるんじゃなかろうか

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
卑弥呼が共立されたのが2世紀末

2世紀末以降は鏡祭祀の時代になるんで
天照は2世紀末以降の人物となる

天照が死んだときに御霊は八咫鏡に移されたけど
八咫鏡が作られるのは2世紀末以降

天照と卑弥呼はともに2世紀末以降で
同時代の人物だ

結論的には卑弥呼と天照は同一人物で
巫女的な女王ってことだ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:01:15.82
そもそも卑弥呼は巫女の可能性が高い
巫女は神を降ろす役割だから神と一緒じゃ色々とややこしいだろ
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:03:55.13
>>358

古代人はたくさんの名前をもってたし
卑弥呼でもオオヒルメでもその他のたの名前でも問題ない
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:03:58.09
八頭の内行花文鏡
これすなわち平原の超大型内行花文鏡
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:04:40.82
>>359
鏡祭祀が2世紀からというのは間違い
九州では漢の時代の鏡を副葬したりしてるから1世紀からあった
そして天皇の故郷は九州だから
当然1世紀から鏡祭祀を行っていた事になる
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:07:30.99
>>360
>そもそも卑弥呼は巫女の可能性が高い
>巫女は神を降ろす役割だから神と一緒じゃ色々とややこしいだろ

神がかる巫女で御霊の神託を告げる

男王が死んで倭国が乱れたんで
男王の御霊の神託を告げる巫女女王として
卑弥呼が共立された

これが祭る神ということで
卑弥呼の死後に卑弥呼の御霊は祭られる神となった
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:10:14.93
>>365
祭られる神となったのはいいけれど
天照になったわけではないだろう
卑弥呼の時代より前から天照は居た事になっているから
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:10:57.71
卑弥呼は巫女だろうとは思うが、現在の神道とはまた違っていた可能性が高い。
平原の破鏡を見ても、当時の神道が現代と異なった解釈を持っているだろうことは想像できる。
神とはすなわち王族のことであり、現在の神宮は当時においては王宮そのものだったはず。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:12:38.17
>>347>アマテラスはあくまでも奉斎される側になる。

生前のおおひるめ(大日巫女)は御霊を奉斎する巫女で
天の岩戸から出て神上がりしたあとの天照は奉斎される神
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:12:59.17
>>366
しかし200年頃の卑弥呼の治世において八咫の鏡が製作されたのであれば、卑弥呼のイメージとアマテラスのイメージの集合が重なるのも無理はない。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:14:03.63
神宮は私見では神器を収める所だと思うぞ
伊勢神宮に熱田神宮に石上神宮
それぞれヤタの鏡に草薙剣にフツノミタマが祭られている
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:17:09.15
>>369
重ならないな
ヤタの鏡も内行花紋鏡だそうだから1世紀ぐらいだろ
卑弥呼は3世紀
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:19:49.23
>>335
>神武は実在するなら2世紀中ぐらい〜末の人物
>魏志倭人伝にある160〜180年頃の倭国大乱がいわゆる神武東征の可能性が高い

銅鐸祭祀の終焉が2世紀末だけど
神武は鏡祭祀の時代の人物なんでそれほど古くはない
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:22:13.25
>>336

出雲国造神賀詞は新任の国造の服属の儀式だから
これに出てくる大穴持命の和魂を取り託けた八咫鏡というのは
書紀に出てくる~夏磯媛の服属をしめしたときの八咫鏡と同じで
自分達の祭祀も皇孫に従うという儀礼だろう
天照の御霊の八咫鏡とは別
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:22:34.03
『dead end 人外魔境』の事を言ってるのかな、調べてみて?

クリムゾンのような曲だし
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:23:58.99
>>371

ヤタノ鏡ができたのは2世紀末だ

天照や神武は全て鏡祭祀の人物で
銅鐸祭祀みたいな古い時代じゃない

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
天照も神武も2世紀以降の鏡祭祀の時代の人物なんだ
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:24:33.72
>>372
畿内で銅鐸文化が終焉する状況とも合致している
九州から鏡祭祀文化をもつ大和族つまり神武天皇が畿内に上り統一し
西暦でいえば180年ごろの2世紀末に
畿内の銅鐸祭祀が鏡祭祀へと切り替わった
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:27:34.64
モモソって実在したのだろうか
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:28:41.61
>>375
ヤタの鏡が2世紀末という根拠はあるのかな

天照の神話の舞台になってるのは主に九州宮崎の高天原
天の岩戸もそこにあるそうな
つまり天照は倭国大乱の前の大和族がまだ九州にいた頃
西暦160年の2世紀中ごろ以前の事として記されている事になる
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:29:14.73
>>373出雲国造神賀詞は新任の国造の服属の儀式だから

出雲国造神賀詞の上奏は服従のぎしきではなく
大八島(倭国)の統治権を譲り受けたという
統治の正当性のためのものだ

ここで注目されるのは
こびへつらって大八島の統治権をゆずり受けた事になっていて
それが古代から連綿と上奏され続けてることだ

出雲国造神賀詞の上奏は
出雲風土記にも記されてて
その内容は記紀より古形とされてる
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:33:40.76
神武東征も苦戦の連続だった事が記されている
結局征服ではなくて和合という形で連合王国邪馬台国が樹立した
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:33:45.51
>>379

御世の寿祝を祝福する神宝を奉献致します事を奏します
だから服属の儀式だよ
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:35:38.60
>>373出雲国造神賀詞は新任の国造の服属の儀式だから

出雲国造は天照の第2子のアメノホヒの尊の御霊代としての現人神だけどね

これはアメノホヒが大八島(倭国)の統治権を無事に譲り受けましたっていう報告で
皇孫が大和を統治する統治権の正当性を示すものなんだ

大八島の統治権の正当性は
皇孫にとって最も重要な事なので
古代から現在まで途切れずに
無事に大八島(倭国)の統治権を譲り受けましたよ
てことが上奏されてるんだ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:41:06.01
>>381だから服属の儀式だよ

出雲国造は天照の第2子のアメノホヒの尊の御霊代としての現人神だし

天照の第2子のアメノホヒがこびへつらって大国主から大八島の統治権を
譲る受けたって報告が上奏文の内容なんだよ

ようするに大八島の統治権を正当に譲りうけたっていう
大和の国の統治権の正当性の為の上奏で
皇室にとって最も重要なことだから
古代から現在まで連綿と上奏が続いてるんだ
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:45:54.86
>>382

誓約で生まれたアメノホヒは任務を忘れて
大国主の子分になってしまってたんだよ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:50:58.29
>>370神宮は私見では神器を収める所だと思うぞ

伊勢神宮の内宮のご神体は天照の御霊を移した八咫鏡だ

記紀で天照は皇孫に八咫鏡を我が御霊代として祭れ
と命じてる

神道っていうんは死んで鬼籍に入った人の御霊を神として祭る宗教で
昔の偉い人の御霊は片っ端から神社で祭神として祭られてる

現在でも松下幸之助神社では松下幸之助の御霊が神として祭られてるし

靖国は英霊が神として祭られてるし

明治神宮は明治天皇の御霊が神だし
東郷神社は東郷元帥の御霊で
大豊神社は秀吉の御霊で
浅草神社はなんと漁師と坊さんの御霊だ

坊さんの御霊が神社の祭り神なんて軽いめまいがしそう
だけど靖国だって坊主が戦死するれ神棚のまつり神だし
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 02:57:19.54
>>384
>誓約で生まれたアメノホヒは任務を忘れて
>大国主の子分になってしまってたんだよ

出雲国造神賀詞は記紀よりも古形とされ
出雲国像神賀詞の上奏は記紀と同時代の出雲風土記にも記載されてる

記紀ではアメノホヒは国譲りを失敗したことんってるけど
それよりも古形とされてる出雲国造神賀詞では
アメノホヒはこびへつらって大国主から無事に大八島の統治権を譲り受けたことになってる

アメノホヒが無事に大八島の統治権を譲りうけたから
現在まで出雲国造神賀詞の上奏が続いてるのだ
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:00:54.94
>>385

死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:04:17.78
>>378

天照は銅鐸祭祀みたな古い時代の人物じゃない

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物だ

銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立された時期なんで
卑弥呼が共立された時期に銅鐸祭祀は終焉したってことだ

天照は銅鐸祭祀ではなく鏡祭祀の時代の人物だから
卑弥呼と同時代となる

神武は天照よりのさらに5世代後なんで100年ごとして
神武は3世紀末ごとの人物だ

崇神も3世紀末ごろの人物なので
崇神と神武は同一人物ってことになる
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:06:54.94
>>387死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる

国譲りの指令神は天照ではなく高木の神だし
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:11:15.06
>>387死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる

倭国大乱前の男王の御霊から
卑弥呼が倭国連合の統治権を譲り受けるのが国譲りの物語のベースになってる


ようするに大国主の御霊から天照が大和の統治権を譲り受けるんだけど
これだと天照の貴尊性が低下するんで
大国主が大和の統治権を献上したって物語の作り替えてるんだ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:12:23.59
>>389

神武が失神したとき
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:14:39.47
>>386

そら出雲国造が書いてるんだから
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:16:37.92
>>388

お前8世紀の記紀だけに頼り過ぎ
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:17:11.59
>>387建御雷神を遣わそうとしてる


建御雷神を遣わすっていうんは
天照の貴孫性を高めるために後から付けたされたことだ

出雲国造神賀詞は記紀より古形とされ
神賀詞ではアメノホヒがこびへつらって
無事に大八島(倭国)を譲り受けたとされてる

これが本来の国譲りで
記紀の国譲りは天照の貴尊性を高める為の物語
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:20:36.41
>>394

こびへつらっも国はくれない
0396日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 03:21:57.47
>>377モモソって実在したのだろうか

天照が鏡祭祀の人物で
銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物となる

神武は天照よりも5世代後なんで100年程度後として
3世紀末の人物

崇神も3世紀末で神武と崇神は同一人物なんで
神武と崇神の間の天皇は存在しないのでモモソも存在しない
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:29:05.45
>>392そら出雲国造が書いてるんだから

出雲国造神賀詞の上奏は古代から現在まで続いてる

ようするに大八島(倭国)の統治権を無事に譲る受けたってことは
朝廷の統治の正当性を示す最重要のことなんだ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:34:49.23
>>395こびへつらっも国はくれない

神賀詞には
こびへつらって国をゆずってもらったとなってて
この内容の上奏が古代から現在まで続いてる

この上奏文だと大国主の貴尊性がかなりたかい

古代では大国主の御霊は国中第一の霊神といわれ
神無月には天照も含めて全ての神が大国主も元に集まるといわれた
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:35:22.32
>>397

国譲りは記紀に書いてるよ
お前がいうこびへつらってもらったっていうのは出雲国造の祖だろ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:44:20.10
>>393記紀だけに頼り過ぎ

神楽でも宮中祭祀でも
天の岩戸から天照の御霊が神上がることがうたわれてる

これは天照は死んで御霊が神上がることを示してる

記紀か書かれて当時と近い時代に手持ち皇女の歌がある

皇女は夫が死んだ事を悲しみ
夫を埋葬してる古墳を見て

天の岩戸は力の強い男の手で開けられたけど
女なの力では岩戸と開けてあなたと会う事ができない
と嘆いてそれを歌にして歌った

手持ち皇女の認識だと
岩戸に隠れた夫は死んでるということだ

当時の認識だと天照が岩戸に隠れることは天照の死を意味し
岩戸から出てくるのは神上がりした御霊ということになり
天照の御霊がヤタノ鏡にうつされたというのが
天の岩戸の物語でこれは鏡祭祀のことお言ってる
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:47:42.91
>>399
>国譲りは記紀に書いてるよ
>お前がいうこびへつらってもらったっていうのは出雲国造の祖だろ

出雲国造は天照の第2子のアメノホヒの尊の御霊代だけどね

ようするに神賀詞を上奏してるのは
出雲国造に憑依しアメノホヒってことで
国譲りの張本人なんだ
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:54:07.57
>>399
>国譲りは記紀に書いてるよ
>お前がいうこびへつらってもらったっていうのは出雲国造の祖だろ


出雲国造は代がかわるときに
火嗣の祭事で天照の第2子のアメノホヒの尊の御霊代となる

アメノホヒノ御霊代となって
出雲国造は天皇に神賀詞を上奏する

ようするにアメノホヒが出雲国造の体を借りて
天皇に神賀詞を上奏してるんだ

アメノホヒは大八島(倭国)の統治権を譲り受けた本人で
その本人が出雲国造の体を借りて上奏してる
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:58:14.01
>>402

役に立たなかったアメノホヒの末裔が服属儀礼をするんだろ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 04:03:08.17
>>399>国譲りは記紀に書いてるよ
>お前がいうこびへつらってもらったっていうのは出雲国造の祖だろ

記紀は天照の貴尊性を高めるために
国譲りでこびへつらったアメノホヒは失敗したことにしてる

記紀よりも古形とされる出雲国造神賀詞では
天照の第2子のアメノホヒはこびへつらって
無事に大八島(倭の国)の統治権を譲り受けた
としてる

出雲国造神賀詞は現在でも
出雲国造の代がかわるときに
上奏され続けてるんで
これが本来の国譲りの形なんだ

本来の形だと
天照の貴尊性が低下するんで
記紀では力で統治権を譲り受けたことに変えてある
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 04:09:48.90
そもそも銅鐸祭祀なんて記紀に記されていないのだから
記紀の登場神・人物は鏡祭祀時代だ、とか言ってしまう奴は
相当レベルの間抜けだろ
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 05:38:09.31
433>>571
>>「征伐」した地域と「平定」した地域と、「服属」していた地域とを、
書き分けた、という事が上表文での史料実態。<

>そんな史料事実はない 他動詞だ <

「服」自体は本来は自動詞であり、「征」や「平」は本来は実際の他動詞であり、
それらを併置して皆「他動詞である」というような使用をした、
という事が記載の史料事実であり、
だから、倭王武は、
「征」と「平」は直近の事であり、
「服」は既に過去の事なっていて、上表文時点では「服属済み」である状態だ、
という事を示そう、としたのだ、
たという事になる。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 05:57:02.84
433>>572
>学術調査して大規模な遺跡が見つかった場合に
初めて考察されるのであって、なにも見つかってない段階では
山門にパルテノン神殿やピラミッドがきっとあったというようなもの <

不可知部分が殆どである自然や歴史において、
文献記録や伝承の存在も何等かの歴史的事実を示している可能性があり、
考古発掘だけが全ての歴史的事実を示している訳ではなく、単に確率的であるだけだ。
筑後地域には、
久留米の祇園山や、「こうやの宮」や、油津姫や、山門地名などの、
文献考古の情報が存在しており、
発掘された考古実態のみが歴史的事象の存在を示せる枠がない。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:08:35.36
433>>582
>伊都国や奴国は30ヶ国連合に入っているが、
糸島や博多から九州邪馬台国に繋がるものは出土されたのか?<

何度も書いている。
何本もの「大道」が存在する弥生銀座や平原や、最近発掘された糸島の宮殿遺跡などだ。

>九州は広いし、どこを掘っていいかわからないから、遺跡が見つかってないだけ
というのが九州説の幼稚な言い訳だが、
糸島や博多というピンポイントの場所で何もでなかったら、もう言い訳はできないんだよ
諦めな<

大和は、都や都城遺跡もないし、宮殿も見つけられないんだから、
もう諦めな。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:14:38.32
433>>592
>でも、調査するまでは、そこに大規模な遺跡があるという前提で話をするのは意味がない
発掘してから、出直しておいでww<

それなら、纏向は、出直しておいで。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:27:53.66
>>371

八咫鏡は平原から出土したのが最古でこれが2世紀末

天照の時代背景には銅鐸祭祀はでてきない

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物だ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:28:28.89
433>>593
>実際に、景行皇別の氏族は多くないんだってば!
そして、景行皇別氏族の土地に三種の神器の揃った古墳がある訳でもなく
逆に何の伝承もない土地でも、いわゆる三種の神器の揃った古墳は普通にある
話をそらしてごまかしに走っているけれど、三種の神器は首長(豪族)層の
副葬品として普通のもので、王家とか王家の子孫とかは関係がない <

そんな極論で話をそらしてゴマカシに走っているようだが、
それなら、人類は、猿から別れて一元発生をした時点から、
人類皆兄弟であり、だから、人類皆皇別になる。

要は、三種の神器は、天孫族系と関わりのあった部族である事を示しているだけだ。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:31:20.83
九州は発掘しまくってるのでどうもデカい遺跡は無さそうだと考えられている
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:32:46.55
>>363

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
天照は銅鐸祭祀の時代の人物ではない

天照は銅鐸祭祀が終焉した2世紀末の人物で
卑弥呼と同時代の人物だ

それに八咫の鏡が初めてつくらてたのも2世紀末の平原だし
天照は2世紀末以降の人物なんだ

記紀では天照を古く見せようとしてるけど
銅鐸はでてこないし八咫の鏡は出てくるし
時代背景が2世紀末よりあとなんだよね
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:37:49.03
>>255
>そんじゃ阿波は畿内に征服されて先祖伝来のお宝を差し出させられたんだな

勾玉も倭国(阿波)の専売特許  
葺石も倭国(阿波)の専売特許
青石石棺も倭国(阿波)の専売特許
水銀朱も倭国(阿波)の専売特許   @阿波
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:38:22.18
>>387

国譲りのルーツは
男王の死後に倭国大乱が起こり
卑弥呼が男王を奉斎する巫女的王として共立さてたことだ

男王の御霊から
卑弥呼が倭国連合の統治権を譲りうけたのが国譲りのルーツだ
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:43:19.71
>>412九州は発掘しまくってるのでどうもデカい遺跡は無さそうだと考えられている


卑弥呼が共立された2世紀末に関東からl九州にかけての環濠集落は一斉に破棄され
人々は便利な平野に分散して住むようになって人口が急激に増えて

だから3世紀には九州だけじゃなく
関東から九州にかけて全ての地域で
大きな環濠集落みたいな遺跡はない

例外は巻向だけでこれは環濠集落ではなく
祭都だ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:45:46.54
>>408
>大和は、都や都城遺跡もないし、
>宮殿も見つけられないんだから、
>もう諦めな

巻向は遺跡全体の数パーセント程度しか発掘調査されてない
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:48:05.10
>>387
>死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる

またまた
その建御雷神を全国唯一お祀りしているのも、倭国(阿波)。 どうにも止まらない。  @阿波 
https://sueyasumas.exblog.jp/14008920/
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:49:54.29
服が自動詞だとかバカなこと言ってるのかよ
文脈上も漢文の文法上もここでは他動詞
東征毛人と西服衆夷と形式が同じだろ
同じ様に読まないとならんのは理解しろよ
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:52:12.93
>>417
>巻向は遺跡全体の数パーセント程度しか発掘調査されてない

もはや、税金の無駄使い。  @阿波  
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:52:58.82
>>384
>誓約で生まれたアメノホヒは任務を忘れて
>大国主の子分になってしまってたんだよ

アメノホヒはこびへつらって国を譲ってもらうことに成功したので
そのことを天皇に繰返し上奏してる

出雲国造神賀詞の上奏のことは
記紀と同時代の出雲風土記にも記されて
出雲国造神賀詞の内容は記紀より古形とされてる

記紀では
天照の貴尊性とたかめるための
アメノホヒは国譲りの交渉にしっぱいしたんで
力で脅して国ゆずりを成功させたってことにしてるけど

実際はアメノホヒは無事に国譲りが成功しましたと
天皇の統治権の正当性を繰り返し上奏してる
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 06:59:47.55
>>405

記紀の天照の時代背景に銅鐸祭祀が出てこないのは
銅鐸祭祀が終焉した2世紀末以降の人物だからだ
天照が
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:02:47.89
>>405

天照の御霊はヤタの鏡に移されて
奉斎されたが

ヤタノ鏡は2世紀末以降に作られたので
天照は2世紀末以降
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:17:39.83
>>405

鏡祭祀というのは
鏡に御霊を移してご神体として祭りことだ


最も古い神社は大神神社で
これは三輪山に納められた大国主の御霊を祭る神社だ

大国主の御霊はヤタノ鏡に移され
ヤタノ鏡は三輪山に据えられた

このヤタノ鏡が納められた三輪山をご神体として祭るのは大神神社で
これが鏡祭祀の最初だ

大国主の御霊を移すヤタノ鏡は
2世紀末に平原でつくられたものだ

ってことで鏡祭祀の開始は2世紀末で
対象は大国主の御霊

2世紀末に関東から九州にかけて一斉に
大型銅鐸の製作は廃止された

卑弥呼が共立された2世紀末が
銅鐸祭祀の終焉の時で
鏡祭祀の開始の時なんだ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:19:59.67
>>387死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる

アメノホヒはこびへつらって国譲りを成功させてるので

建御雷神が使者として行くということはなかった
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:25:16.56
>>387死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる

記紀の記述が間違ってる

記紀は天照の貴尊性を高める為に
建御雷神が力づくで国譲りを成功させたって事にしてる

実際はアメノホヒがこびへつらって国譲りを成功さてる


ただ
こびへつらっての国譲りだと天照の貴尊性が低下するんで
それを回避する為に記紀は建御雷神の話をひねり出して付け加えた
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:39:53.80
>>422

巻向の遺跡の発掘が全体の数パーセントは
少しすくないしもっと税金をつかってもいいと思うが
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:49:44.06
>>405

鏡祭祀っていうのは鏡に死んだ人の御霊を移して神として祭ることだ

神社は死んだ人の御霊を神として祭り施設だけど
最も古い神社は大国主の御霊を祭る大神神社とされてる

大国主の御霊はヤタノ鏡に移されてそのヤタノ鏡は三輪山に据えられた

大神神社のご神体はヤタノ鏡が納められた三輪山で
これが最も古い神社なので鏡祭祀の最初の神社だ

ヤタノ鏡が初めて作られたのは2世紀末の平原

このヤタノ鏡に大国主の御霊は移された

2世紀末に三輪山のふもとに巻向が建設された

巻向の場所の地名は古くは出雲庄で
これは大国主の故郷の出雲にちなんでつけられた地名だ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:03:08.37
>>429
10代崇神は大物主を殺した。
クーデターだ。
だからその怨霊を恐れ、鎮魂のためにお主倭神社を立てた。

そして手元にあった鏡を放逐、今は伊勢神宮にある。
今も行き場がなく式年遷宮という形で20年に一度さまよう。

皇室が明治天皇になるまで1500年間、伊勢神宮を参拝しなかったのはそれが理由だ。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:04:04.54
× お主倭神社

〇 大神神社
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:05:31.73
八咫鏡
これは、咫(あた)という単位が八つという意味なので、
正式には「ヤアタの鏡」≒「ヤマアタイの鏡」
「ヤタノ鏡」という呼び方は、記紀編纂のころから訛って使われるようになった省略形である。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:31:45.17
>>430皇室が明治天皇になるまで1500年間、伊勢神宮を参拝しなかったのはそれが理由だ。


天皇は天照の御霊が憑依した現人神なんだから
自分自身を祭る伊勢神宮に行く必要はないんだけどね
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:32:42.56
>>434
それは明治維新以後の邪宗
本来の神道は祖先を祭るもの
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:46:54.29
>>435それは明治維新以後の邪宗

天皇が現人神っていうんは天武の時代からだ

天武が編纂を命じた大宝律令に天皇は現人神って書いてあるし

天武が初めて現人神になったときには
万葉歌人が
「大君はかみにしいませば・・・」と歌い上げた

天武以降は
天皇は現人神で神道の最高神となったので
全ての神社の祭神に朝廷は位を与えた
(正一位稲荷大明神の正一位が朝廷が神に与えた位)
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:50:51.18
>>43010代崇神は大物主を殺した

崇神が崇拝した神は大国主で
崇神は天照の御霊が入ったヤタノ鏡を宮中から外に出した

大国主は韓神として長く宮中で祭祀された
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:50:52.89
>>436
じゃあ天武からでもいいよ。
でも3世紀の卑弥呼の時代は関係ないな。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:10:40.71
完全にスレチだな
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:22:09.80
>>410
古墳からヤタの鏡が出たから
作られたのは2世紀という事になるのかな
伊勢神宮に祀られているものと同一という確証もない

九州の古墳からは漢の時代の鏡
内行花文鏡が副葬されてるのが多い
漢鏡が日本に入ってきたのは恐らく
後漢書にある後漢に奴国が朝貢した一世紀西暦57年の時期
鏡祭祀は九州でその近辺に始まった可能性が高い

畿内で銅鐸文化が恐らく神武の畿内入りによって
鏡祭祀に切り替わるのは2世紀末になるだろうけれど
鏡祭祀の始まりが2世紀末とは考えにくい
天照が実在の人物で2世紀末に実在したという事も
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:27:15.17
>>413
魏志倭人伝によれば倭国大乱が西暦160〜180年の2世紀末ごろ
記紀の神武東征の事だとして
その頃の様子を書いた記紀には神武の活躍は書かれているけれど
天照が実在の人物として書かれてる場面は存在しない
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:38:30.09
>>440
前漢鏡から入ってきているから、色々間違ってる。
想像で書いても意味がない。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:39:26.55
>>315
>問題は、モモソ女王がアマテラス寄りでなく、出雲蛇神オオモノヌシ寄りだと言うこと。
>そこがどうしても分からないんだよ。

日本書紀では、男系原理がより色濃くなっているからあまり意識されないが、
古事記では出雲が皇統の女系の祖と位置づけられており、出雲と大和の対比において
出雲側が基本的に女性なんだよ

     大和・天神      出雲・地祇
造化三神 高御産巣日神(男神) 神産巣日神(女神)
国産み  伊弉諾尊  (男神) 伊弉諾尊 (女神)
三貴子  天照大神  (女神) 素戔嗚尊 (男神) ←ここだけ例外
皇統初代 神武天皇  (男系) 媛蹈鞴五十鈴媛(女系)
歴史初代 崇神天皇  (ヒコ) 倭迹迹日百襲姫命(ヒメ)

と整理すれば、ヒメ王の倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼が出雲寄りなのは不思議ではないと思う
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:40:11.93
>>441
>その頃の様子を書いた記紀には神武の活躍は書かれているけれど
>天照が実在の人物として書かれてる場面は存在しない

神武は実在だけれど天照は非実在だなどと、ダブスタンダードだろ。
出雲の国譲りは天照の活躍ということになっている。
古事記上巻のかなりの部分は天照に割かれている。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:44:17.16
>>316
>八雲立つ出雲の八鉾の尊と称される大国主の御霊代としてふさわしい鏡だ
>はどんな鏡だと思う?

八咫鏡という呼称の「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるという通説に従う、ということだ
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った

大国主命八並びも、この線上で考えればいいだろう
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:50:13.14
>>438

天武は現人神になったけど
卑弥呼は単なる巫女だし
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:57:29.22
卑弥呼のおぼろげな歴史伝承の「実在」が倭迹迹日百襲姫命で、
墓もあるしその墓が箸墓あるいは纒向古墳群のいずれか

そして卑弥呼の伝承の「神格化」したものが天照大神
実在ではないから墓もない

こんな整理で十分だろう
ただし、天照大神は持統天皇の投影があって、かなり新しい神である可能性がある
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:58:35.14
>>440
>畿内で銅鐸文化が恐らく神武の畿内入りによって
>鏡祭祀に切り替わるのは2世紀末になるだろうけれど
>鏡祭祀の始まりが2世紀末とは考えにくい
>天照が実在の人物で2世紀末に実在したという事も

銅鐸祭祀の終焉は卑弥呼が共立された2世紀末で
それをさかいに大型の銅鐸の製造は行われてない

関東から九州にかけての広い範囲で一斉に銅鐸祭祀が終焉してるんだ

だから2世紀末をもって銅鐸祭祀の終焉とされ
それ以降が鏡祭祀の時代とされる
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:02:40.58
>>422
>税金を無駄遣いしてないから発掘が進んでないのだが

発掘は進んでいるよ。100回以上もね。
ただ、碌なものが出ないだけ。  ワハハハハは   @阿波
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:03:53.79
>>440
>古墳からヤタの鏡が出たから
>作られたのは2世紀という事になるのかな
>伊勢神宮に祀られているものと同一という確証もない

2世紀末に平原で作られたヤタノ鏡は
倭国大乱前の男王の御霊を収めるためのもので
伊勢神宮の天照の御霊が入ってるヤタノ鏡とは異なる

天照のヤタノ鏡は
天照の御霊を古墳から取り出すときに新たに作られたものだと記紀にきされてる
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:04:05.18
前漢期に遡る九州北部の鏡文化が、卑弥呼共立の頃に西日本全域に拡大したということだろう。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:05:03.92
>>446
クズ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:05:32.22
>>387
>死んだはずの天照は建御雷神を遣わそうとしてる

またまた
その建御雷神を全国唯一お祀りしているのも、倭国(阿波)。 倭国(阿波)はどうにも止まらない。  @阿波 
https://sueyasumas.exblog.jp/14008920/
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:06:40.78
>>405
全く同意。
例えばスサノヲ=師升とすれば、スサノヲは確実に銅鐸時代の人間になる。
0456日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:08:20.37
>>373
>出雲国造神賀詞は新任の国造の服属の儀式だから

だから、出雲国造神賀詞の原文、まだぁ?
0457日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:08:24.47
>>440
>鏡祭祀に切り替わるのは2世紀末になるだろうけれど
>鏡祭祀の始まりが2世紀末とは考えにくい
>天照が実在の人物で2世紀末に実在したという事も

卑弥呼の鬼道が鏡祭祀の始まりだ

倭国大乱前の男王の御霊を平原で作ったヤタノ鏡に移し
それを三輪山に据えて祭祀したのが
鏡祭祀の始まりで
それを堺に関東から九州になけて一斉に
大型の銅鐸生産が行われなくなった
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:11:08.66
>>442
>全部畿内に差し出させられたんだろ

残念ながら、差し出すような勢力なんて畿内に存在しないよ。
↓は畿内へ進出した「忌部はん」 への下賜品だよ。

勾玉も倭国(阿波)の専売特許  
葺石も倭国(阿波)の専売特許
青石石棺も倭国(阿波)の専売特許
水銀朱も倭国(阿波)の専売特許   @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:13:49.83
>>443
とりあえず文献と考古資料で推察できる鏡の祭祀的使用は1世紀からになる
それ以前にも漢鏡の散発的流入はあったかも知れないが
記録がないので何とも

>>445
別にダブルスタンダードではない
神武は畿内を統一した実在の初代天皇として書かれ
天照は天界の高天原から様子を見守りサポートする神として書かれている
国譲り神話はタケミカヅチの神の活躍ではなかったかな

>>449
畿内の銅鐸祭祀終焉=鏡祭祀の始まりではない
九州では畿内の銅鐸祭祀終焉前に鏡祭祀が始まっていた可能性が高い
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:14:51.73
>>456

出雲国造の逸話でおもしろいのが
明治にはいり政府は天照が大国主よりも上位の神として
国家神道を位置づけようとした

ところが現人神の出雲国造がそれに反対し
明治政府は困り果てた

出雲国造は天照の第2子のアメノホヒが憑依した現人神で
現人神を相手に明治政府の役人も何も言えなくなった

しかたなく明治政府は天皇に泣きついた

天皇は天照の御霊が憑依した現人神で
出雲国造よりも格上なんで
それでなんとか天照が大国主より格上の神として
国家神道の神の体系を作ることができた
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:14:57.06
>>430
倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元だよ。

徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。

(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)   @阿波

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:17:39.44
>>446
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:19:42.95
倭国(阿波)はどうにも止まらない。  @阿波
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:21:26.07
>>459

御霊を鏡に移してご神体とする鏡祭祀は
2世紀末からだ

神社は御霊を神として祭る施設だが
最古の神社は大神神社とされ
三輪山に納められたヤタノ鏡にうつされた大国主の御霊を俸祭るのが
大神神社だ

大国主の御霊を収めるヤタノ鏡は
2世紀末に平原でつくられその鏡が三輪山に納められた

三輪山のふもとに巻向が造営されたけど
巻向の地は大国主にあやかり出雲庄という地名にされた
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:25:42.85
>>462【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

大国主の御霊は三輪山に納められたし
出雲の出雲大社にも納められた

神道の便利なとこは
御霊はコピーでいくらでも分祀ができることで
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:27:13.02
>>465
それらは全て空想だな
実際の文献と考古物からは鏡祭祀は1世紀から九州で行われていた可能性が高い
ヤタの鏡がいつ作られたものかは
実物は今まで調査されてないので何とも言えない
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:30:29.21
今までスレ読んできたけど
公平に見ると九州説の方が信憑性あるね
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:32:27.41
>>461倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元だよ。
 
ご神体は三輪山に納められたヤタノ鏡で
そのヤタノ鏡に大国主の御霊がはいっる

昔は和魂とか奇魂とか
魂には数種類あってって感じで複数の神社が存在したんだけど
それじゃ全然数がたりなくなって
分祀で御霊は無制限にコピー可能となった

だからいまでは荒魂とか和魂とか奇魂とかの区別が無く
分祀で無制限に御霊のコピーが可能
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:33:32.59
ウソつけロクに読んでないだろ
今このスレだと九州説の話はほとんど出てなくて
出てるのは主に鏡祭祀と日本神話の話だ
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:37:26.22
>>468
>ヤタの鏡がいつ作られたものかは
>実物は今まで調査されてないので何とも言えな

ヤタノ鏡が最初に作られたのは平原で
これは倭国大乱前の男王の御霊を治める為のものだ

これが鏡祭祀の最初で2世紀末のことだ

鏡祭祀が始まる2世紀末に
関東から九州の広い範囲で一斉に大型銅鐸の製造が止まった

これが銅鐸祭祀の終焉といわれてることだ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:45:05.22
>>469公平に見ると九州説の方が信憑性あるね

卑弥呼が共立された2世紀末に
関東から九州にかけての環濠集落が一斉に廃棄され
人々は便利な平地に分散して住むようになり人口が急激に増えた

卑弥呼が共立された2世紀末に
関東から九州にかけて一斉に銅鐸祭祀が終焉を迎えた

卑弥呼が共立された2世紀末に
関東から九州にかけた一斉に前方後円墳は作られ始めた

2世紀末はエポックで
日本の体制が多くく変わった節目だ
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:47:47.46
鏡を神聖視するのは後漢に九州の倭奴国が朝貢して
漢鏡の内行花文鏡がまとまって入ってきた1世紀だろう
それ以前からも太陽の光を反射して輝くから
たまたま流入した銅鏡を崇めていたという事もあったのかも知れないけれど
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:50:19.80
>>473

平原のヤタノ鏡は2世紀末のもの

この鏡は倭国大乱前の男王の御霊を移すもので
これが鏡祭祀の始まりだ

2世紀末にヤタノ鏡が作られ
関東から九州にかけて一斉に大型銅鐸の生産が廃止された

2世紀末には関東から九州にかけての環濠集落も一斉に廃棄された

2世紀末はエポックで
鏡祭祀で日本を統治する歴史的て時だ

これ以降が日本の神道の歴史になり
今につながってる
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:52:54.23
>>476
いや言い張るんじゃなくて
何かにそういう事が書いてあったりするのかな
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:56:54.87
>>475

鏡を御霊の依り代とする鏡祭祀は
2世紀末に始まって
これが日本の歴史のエポックになった

倭国大乱前の男王の御霊を平原で作ったヤタノ鏡にうつし
巫女である卑弥呼が男王の御霊を奉斎し
その神託にしたがって祭りごとをsじたのが
鏡祭祀の始まりだ

2世紀末の鏡祭祀の始まりを堺に
関東から九州にかけて一斉に大型銅鐸の製造が中止された

これが銅鐸祭祀の終焉で
それ以降が卑弥呼の鬼道(鏡祭祀)の始まりだ
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:02:58.22
ヤマト説が有力になったから
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:17:54.98
>>478
九州の古墳には内行花文鏡の副葬があるから
恐らく1世紀の倭奴国の朝貢で入ってきた銅鏡は
その頃から神聖な道具として扱われていた
鏡を祀る文化の始まりは1世紀の九州が始まりと考えられるだろう
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:21:16.80
>>481

鏡を御霊しろとしる鏡祭祀を卑弥呼が2世紀末に初めて
それが鏡祭祀の時代で今の神道のルーツになってる

だから卑弥呼は天照として神道の最高位の神として君臨してるのだ
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:23:13.96
>>481
九州の古墳における前漢鏡の副葬は紀元前から。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:25:08.70
後漢から倭奴国に下賜された銅鏡は
邪馬台国と同じく百枚だったかも知れないな

魏は後漢の伝統をかなり意識して踏襲しているフシがあるから
銅鏡百枚というのも後漢が倭奴国に下賜した枚数を踏襲したのかも
記録が残ってないから何とも言えないけど
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:28:16.92
>>483
なら紀元前から鏡は九州で神聖な道具として扱われていたんだろう
まとまって入ってきた物かどうかは何とも言えないけれど
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:28:31.87
>>481

単なる副葬品の鏡じゃ意味がない

現在の神道では神社のご神体は鏡が一般的だ

鏡が御霊代となり神社のご神体となるのだ

このルーツは卑弥呼の鬼道だ

男王の死後に倭国大乱になった

大乱を収めるために
男王の御霊を平原でつくったヤタノ鏡に納め
卑弥呼が巫女王として男王の御霊を奉斎して
男王の神託によって倭国連合をまとめた

この鬼道が鏡祭祀の始まりで
現在の神道のルーツだ

だから卑弥呼は神道の最高神として天照になった
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:31:25.95
>>483

鏡が副葬品になったことが重要ではなく
鏡が御霊代になったことが重要なんだ

鏡祭祀は
鏡が御霊代になり神社のご神体となるときだ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:33:03.04
>>486
なぜ鏡が副葬品じゃ意味がないのかな
少なくとも九州じゃ紀元前から
死者の魂を弔うため墓に入れる神聖なものとして扱われていたんだろ
単なる日用品ではなくて
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:34:42.30
>>483九州の古墳における前漢鏡の副葬は紀元前から

副葬品の鏡は別にたいした意味はない

意味があるのは御霊代としての鏡で
これは神道の神社のご神体だ
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:36:26.39
御霊代としての鏡は神道あるいは信仰的には意味あるかも知れないけれど
考古学的にはあんまり意味はないな
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:38:36.75
籠神社の例を考えると、神宝として持っていたものが、次第に神体になってしまったんだな。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:41:25.47
>>488なぜ鏡が副葬品じゃ意味がないのかな

鏡が御霊の依り代となってご神体になるのが鏡祭祀

鏡そのものに価値があるにではなく
鏡に移された御霊に価値があるのだ

靖国神社のご神体は鏡だけど
鏡に価値があるのではなく
鏡にうつされた御霊に価値があり
その御霊が神なんだ

単なる副葬品の鏡だけなら鏡祭祀とは言わないし
ご神体でもない

鏡に御霊を移すことで初めて鏡祭祀で
その鏡はご神体として意味を持つ

伊勢神宮のヤタノ鏡も天照の御霊代として価値があるので
単なる鏡にご神体としての価値はない
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:44:05.44
>>492
それは信仰的なものに属する話であって
現実的な考古物に関する話とは言えない
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:45:29.30
>>490
>御霊代としての鏡は神道あるいは信仰的には意味あるかも知れないけれど
>考古学的にはあんまり意味はないな

靖国神社のご神体の鏡も
鏡に移された御霊に』価値があるのであって
鏡は別にそれほど価値のあるものじゃないし
考古学的にみれば普通に仏具店で販売してるもの
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:48:33.50
>>466
>下賜品じゃなくて畿内への貢物だったんじゃないかな

そこに、貢ぐ相手が居ないんじゃ、どうにもならない。 「忌部はん」 はいっぱい居たんだがwww   @阿波
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:50:45.80
>>493
>それは信仰的なものに属する話であって
>現実的な考古物に関する話とは言えない

伊勢神宮のヤタノ鏡は3回程度火災で燃え尽きて
その都度新しく天照の御霊をうつして作り直してる

ヤタノ鏡自身に価値ああるのではなく
鏡に移された天照の御霊に価値があるので
ヤタノ鏡を作り直してもご神体のヤタノ鏡の価値が』下がるわけではない

もし靖国神社のご神体の鏡が火災消失しても
また新たな鏡に御霊を入れななおせばご神体としえの価値は同じだ
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:53:43.52
>>494
そうそして仏具店で売られてる鏡をどこでいつ頃作られて
いつ祀られたのかを考えるのが史学や考古学
その鏡に誰の御霊が
どういう信仰で祀られたのかを論じるのは神学
基本的には別ジャンルだろう
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 11:59:23.61
>>496
それは神学や精神史に属する話だな
史学や考古学は現在見つかってる史料に基づいて
当時の政治や生活の状況を推察する
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:00:01.88
>>489
>意味があるのは御霊代としての鏡で
>これは神道の神社のご神体だ

それは、麻だよ。

大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。

また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。

大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。

麻といえば、阿波忌部。 

『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』

卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   @阿波
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:01:36.04
>>489
>意味があるのは御霊代としての鏡で
>これは神道の神社のご神体だ

天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、

木屋平村の三木山山頂に居を構える。

貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。

さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。

つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。

古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。

後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。   @阿波
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:02:34.43
魏志倭人伝には倭人がマリファナ吸ってたなんて書いてないぞ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:03:35.71
倭国(阿波)はどうにも、止まらない。   @阿波
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:08:27.51
止めようにも、どうしようもない。   @阿波
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:08:48.62
サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋

重要な意味がある気がするんやけどな
焚書など歴史の抹殺に抗った先人たちの思いを大切にしないといけない
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:09:09.37
>>500
興味深いが、一つ質問。

であれば、親魏倭王の金印を授ける際に卑弥呼本人にも会ったであろう魏使は、
何故に卑弥呼が行っていたマリファナ祭祀に対して、張魯の『鬼道』と同じ文字を与えたのか?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:09:42.85
>>497

大事なのは鏡祭祀のエポックだ

2世紀末の全国の大型銅鐸生産が一斉にとまった

これは卑弥呼が共立された時期で
このとき宗教の革命的変化が起こった
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:10:26.85
>>504
ネタが有り過ぎて、どうにも止まられないんだよ。   @阿波
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:16:54.84
>>507
>何故に卑弥呼が行っていたマリファナ祭祀に対して、張魯の『鬼道』と同じ文字を与えたのか?

そりゃ、ともに呪術的祭祀だったからだろうね。   @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:17:14.71
神道の八百万の神はほとんど自然神だよ
人格神は仏教が入ってきてから
ヒンドゥー教や景教の印欧語族の文化の影響だろう
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:18:50.70
>>473

平原のヤタノ鏡の年代鑑定は2世紀末で
別にこれは問題にもされてないけど
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:20:48.74
まあ実は日本は宗教の吹き溜まりみたいな所があってな
およそ有名なので入ってこなかった宗教はなかったんじゃないだろうか
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:22:14.31
>>511

死ねば神様仏様が神道のベースで
死んで神上がりした御霊が神道の神だ

御霊を鏡に移してご神体としてまつるのが
一般的な神社の形式だし
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:22:24.16
>>512
まあそれならいいけど
しかしそれの製造でもって鏡祭祀の始まりとするのはどんなもんかな
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:24:49.67
>>513
侵略された経験が無いから、無防備に、安易に受け入れるんだよ。倭人は。   @阿波
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:24:52.71
>>509
阿波がいくらネタに走っても
邪馬台国は畿内にあった事は動かないけどな
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:26:52.58
仏教か神道の神だと思って拝んでたら実はヤハウエだったりしてな
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:27:18.22
その点、秀吉や家康は外国の侵略を真に危惧したんだろう。  @阿波
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:28:46.91
>>514

ご神体の古い形は山とか岩とか海だよ
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:29:03.36
>>517
>阿波がいくらネタに走っても
>邪馬台国は畿内にあった事は動かないけどな

ハハハハ  少し、分けようか?  どれがいい?   @阿波
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:31:59.22
どうも八幡菩薩は古代中国にいたユダヤ教徒の神ヤハウエだったフシがあるけれど
なにぶん史料がないから何とも言えない
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:32:47.28
>>499

神社のご神体は御霊を移した鏡が一般的だけど
神社の始まりが問題になる

最古の神社は大神神社とされご神体は
三輪山にすえられた大国主の御霊をいれたヤタノ鏡だ

この時が鏡最初の始まりで2世紀末の事だ

大国主の御霊を入れるヤタノ鏡は2世紀末に平原で作られた

大国主は倭国大乱前の男王で
男王の御霊をヤタノ鏡にいれ
卑弥呼が巫女女王として男王の御霊を奉斎し
御霊の神託にしたがって倭国連合の祭りごとをなした

卑弥呼が共立された2世紀末に全国の銅鐸は一斉に製作がストップされて
それが銅鐸祭祀の終焉といわれてる

卑弥呼の時代は鏡に御霊を移し神とする鏡祭祀の時代で
これが現在の神道のルーツになってるんで
卑弥呼の御霊は天照として神道の最上位のかもとして
あがめられてる
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:36:23.86
>>508
そして九州北部の銅鏡祭祀が西日本を席捲し、伊都国には八咫の鏡を持つ女王がいた。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:36:38.22
>>515
>まあそれならいいけど
>しかしそれの製造でもって鏡祭祀の始まりとするのはどんなもんかな

卑弥呼が共立された2世紀末に全国の大型銅鐸の生産は一斉にストップされ
それが銅鐸祭祀の終焉とされてる

ようするに卑弥呼の鬼道が宗教的なエポックになってるんだ

卑弥呼以降は御霊を鏡に移して神社のご神体にする
っていう形式が全国で一般的になって現在に至る
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:38:39.11
>>520

最古の神社は大神神社でご神体は三輪山だけど
三輪山に」納められ大国主の御霊がはいったヤタノ鏡が信仰の対象ってことだ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:39:40.43
神社はそもそも王族の宮だった。
例外としては、大国主が隠れた(亡くなった)後に祀るための出雲大社くらいなもの。
その意味では、その頃に神道の姿が変質したとも言える。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:41:02.58
>>523
卑弥呼の時代よりも前に天照は存在していた事になっているけれど
それに卑弥呼は意外と篤い信仰対象にはなっていないというか

記紀の時代の編者からすると外国にへり下って朝貢した女王だから
記紀の卑弥呼の時代の記録は魏志を引用したあっさりしたもので
むしろその後4世紀の三韓征伐した神功皇后の記録に力が入れられている
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:41:28.19
>>522

八幡菩薩は神仏習合の結果としての呼び名だ

八幡は神道で菩薩な仏教

神道と仏教は同じとみるんが神仏習合で
天照が大日如来なんだと

なんか性別が一致してない感じもするけど
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:43:45.95
>>527

最古の神社は大神神社で
これは三輪山に据えてヤタノ鏡の入れられた大国主の御霊をご神体とする神社だ
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:45:07.26
日本書紀の年代は神功皇后が卑弥呼と一致するんだけどね。
ただ、それはあからさまに年代を前倒ししている。
前倒しによる年代詐欺は現代の畿内説に限ったことではなく、畿内政権が千年単位で行った歴史捏造なんだよ。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:45:50.48
>>528卑弥呼の時代よりも前に天照は存在していた事になっているけれど

天照は銅鐸祭祀の時代じゃないし

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末とされてるんで
天照を2世紀末以降の人物だ
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:46:35.59
出雲大社も大国主を祀るために、大国主の命で建てたもの。
畿内の三輪山は畿内政権の権威づけによるものだろう。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:47:47.21
九州の銅鏡祭祀はもっと早いんだってば。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:48:18.46
>>525
たぶん鏡を祀る鏡祭祀そのものは2世紀以前からあった
銅鐸の製造がストップしたのは畿内が鏡祭祀文化を持つ
九州出身の神武が畿内を統一したからだろう
2世紀末のエポックとは宗教的なものよりも
そういった軍事的政治的なもののはず
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:50:20.26
>>530
>最古の神社は大神神社で

名前からしてチンケ。 

倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元だよ。

徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。

(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)  @阿波

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:51:59.82
>>528
>卑弥呼の時代よりも前に天照は存在していた事になっているけれど

卑弥呼と天照が同一人物だと都合が悪いから
卑弥呼と天照は絶人物に苦労して記紀は見せてるだけのこと

天武は中国に対抗意識を燃やしてたけど
天照が親魏倭王じゃかっこがつかない
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:52:23.97
>>533
>出雲大社も大国主を祀るために、大国主の命で建てたもの。

出雲大社なんて明治以前には存在しないよ。   @阿波
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:54:09.56
>>533
>出雲大社も大国主を祀るために、大国主の命で建てたもの

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:55:34.30
>>532
>天照は銅鐸祭祀の時代じゃないし

ここが一番話の噛み合わない所だな
畿内大和族の祖先が九州にいた1世紀以前には鏡を神聖なものとして
墓に副葬したりする文化がすでにあった
一方畿内は1世紀頃は銅鐸文化

天照神話の舞台は九州宮崎高千穂の事として記されているので
天照がもし実在したとするなら大和族が九州にいた1世紀以前のこと

つまり天照は実在するなら銅鐸祭祀の時代の人間だったという事
銅鐸祭祀文化の人間ではないけれど
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:58:20.48
>>540
>畿内大和族の祖先が九州にいた1世紀以前には

ここが一番話の噛み合わない所だな   @阿波
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:04:23.40
>>540

鏡そのものに価値かあるわけじゃなく
鏡に移された御霊に価値あるっていうのが鏡祭祀で

鏡が神社のご神体として祭られるのは鏡祭祀だ

最古の神社は大神神社で2世紀末だから鏡祭祀は2世紀末以降で
2席末の全国で銅鐸製造が一斉にストップして
これが銅鐸祭祀の終焉といわれてる

鏡に入った御霊をご神体として祭り神社が出来たときが鏡祭祀の始まりで
銅鐸の製造が中止されたときが銅鐸祭祀の終焉で
どちらも2世紀末の出来事だ

天照の時代背景は御霊代としてのヤタノ鏡があるときで
天照の時代に銅鐸の記述は何もない

ってことで天照は鏡祭祀の時代の人物で2世紀末以降で
卑弥呼と同時代
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:08:18.39
>>541

国ゆすりでも
出雲国造神賀詞と記紀はことなり
出雲国造神賀詞が記紀より古形とされてるけど
記紀では天照の貴尊性をたかめるために
こびへつらって国ゆすりをしてもらったという事を変えて
力で国譲りさせたになってる
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:11:27.48
>>543
>記紀や魏志倭人伝なんかにはそうある

すごいね、思い込みってwww   @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:12:02.26
>>541

記紀は天武の都合のいいよに作られたものだし


歴史書が真実を表すっていうん
最近の欧米からだ

天武のころの歴史の真実なんて問題にもされてない

天皇って称号は天武が作ったのに
記紀では古代から天皇の称号があるか方で
歴代天皇のおくり名まで過去にさかのぼって作ってある
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:12:38.55
>>545
国譲りは天照じゃなくてタケミカヅチの神じゃなかったか
出雲国造神賀詞には何て書いているのか知らないけれども
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:13:17.59
出雲国造神賀詞が、祖のアメノホヒが国譲りのときにも貢献したから
末裔はこれからもがんばりますとこびへつらってるんだよ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:15:17.32
434の127
現在でも海岸から100m地点で水田あるところはいくらでもあるだろう。
それに、吉井付近が塩泥地だったというが、ボーリングしたわけではないので、単なる憶測にすぎん。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:17:25.11
>>546

御霊が神社の祭神っていうんは
現実のことだし

靖国神社も
明治神宮も
東郷神社も
八幡神社も
大豊神社も
松下幸之助神社も
みんな人間の御霊が祭神だ

ルーツは卑弥呼の鬼道で
鬼籍に入った人の御霊が信仰の対象ってことだ

神道のルーツである卑弥呼は
神道では天照として最高神にいちづけられてる
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:18:33.32
九州に居たことにしないと異人の土地を没収する根拠がないからな
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:20:23.35
>>553

新しい神社ばっかりじゃん
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:21:34.59
>>550

アメノヒボコがこびへつらったのは大国主の御霊にたいしてだ

国譲りのあとに大国主の御霊はヤタノ鏡に移され
三輪山の神奈備に据えられ大和の守護神となったと記されてる

さらには国名を大和というのも大国主の言葉だ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:22:37.50
>>553
考古物や史料で見る限り
天照は1世紀かそれ以前の神話上の存在
卑弥呼は少なくともぞれより200年以上あとの
実在した巫女的性格をもつ女王

卑弥呼と天照を同一視するのは考古でも史学でもなくて
信仰的な想像の域という事になる
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:22:50.49
>>55新しい神社ばっかりじゃん

応神天皇の八幡神社は古いけどね
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:24:13.36
>>555新しい神社ばっかりじゃん

昔の偉い人は片っ端から神社の祭神とて祭られてるけどね
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:25:56.66
>>557

天照の時代背景は銅鐸祭祀みたいな古い時代じゃなく
ヤタノ鏡だ存在した鏡祭祀の時代だから
天照は2世紀末以降の人物だ
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:26:44.60
宇佐八幡は律令制以後だよ
元の信仰は前からあっただろうけど
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:28:26.14
>>557

天照も卑弥呼もヤタノ鏡が存在する鏡祭祀の時代の人物で
銅鐸祭祀の時代じゃない

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照も卑弥呼もともに2世紀末以降の人物ということ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:29:38.02
>>560
天照は天皇の祖神とされているので
実在性は低い

存在したとしても一世紀以前で
畿内では銅鐸祭祀が行われていた時代
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:31:15.84
>>535
>九州出身の神武が畿内を統一したからだろう
>2世紀末のエポックとは宗教的なものよりも
>そういった軍事的政治的なもののはず

鬼道の卑弥呼が共立されたことがエポックの原因だ

卑弥呼が巫女として倭女王に共立されたから
軍事的なエポックではなく宗教的なエポック
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:32:35.09
>>561

大国主の御霊を祭る大神神社は最古だけどね
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:34:05.70
>>562
だんだん卑弥呼と天照が
銅鐸祭祀の時代の人間じゃないとじゃないと言い張るだけになってきたな

畿内の銅鐸祭祀の終焉を2世紀末と位置づけると
卑弥呼は三世紀の人物なので確かに銅鐸祭祀時代の人間ではないけれど

天照は天皇の祖神として位置づけられ実在性は不明
もし存在したとしても大和族が畿内入りする以前のもので
1世紀以前の畿内が銅鐸祭祀の時代の人物だったという事になる
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:35:00.89
>>563

天照はヤタノ鏡が存在してた時代で
2世紀末以降の人物だ

天照と卑弥呼はともに2席末以降で同時代ってことで
同一人物だ
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:37:02.68
>>564
それは順序が逆
大和族が九州から出発して畿内を統一したが
その後争いが納まらなくて共同で卑弥呼を立てたと魏志倭人伝にはある
記紀によれば初代神武より10代は後の事になる
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:38:26.92
>>566畿内の銅鐸祭祀の終焉を2世紀末と位置づけると

銅鐸祭祀の終焉は
関東から九州にかけて2世紀末でほぼ同時期だ

これは卑弥呼が共立された時期で
宗教的なエポックになってる

ところでお前の反論て
馬鹿すぎで飽きてきたんだけど
まだ相手をしてほしいの?
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:40:36.78
>>567
そう言い張っても考古物と歴史文献を見れば
卑弥呼は三世紀で天照はそれよりはるか古代の神話上の存在という結果が出る
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:43:17.58
結局エポック爺って、出雲国造の祖が媚びてるしか根拠ないな
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:47:04.19
本当に古代史には色んな事言う人間が集まってくるもんだ
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 13:49:53.32
だいたい日本の信仰文化を理解してないやつだな
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:08:22.90
>>570卑弥呼は三世紀で天照はそれよりはるか古代の神話上の存在という結果が出る

天照にはヤタノ鏡が出てくるけど
ヤタノ鏡は2世紀末から作られた

天照を2世紀末以降っていうんがなんで理解できないんだ
まったく
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:12:00.67
天照のモデルとなったヒメは、師升=スサノヲのヒコに対するヒメなのかも知れない。
そうすると天照の年代は卑弥呼よりずっと繰り上がり、銅鐸祭祀の時代になる。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:16:42.60
もう止まらないな
さてどのぐらいまで天照は2世紀末と言い続けることやら
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:17:09.65
>>572出雲国造の祖が媚びてるしか根拠ないな

出雲国造に憑依してるのは天照の第2子のアメノホヒで
アメノホヒはコビヘツラッて大八島の統治権を大国主から譲りうけたと
繰返し繰返し現在まで上奏し続けて
天皇はその上奏を繰返し繰返し受けてる

ここでのポイントは
大国主がかつては大八島の統治権を持ってたということだ

大八島は倭国全体で倭国連合のことになる

倭国大乱前には男王がいた

ここで男王と大国主がつながる

男王の御霊がヤタノ鏡に移され三輪山に据えられ
三輪山のふもとのに巻向が建造された
ってことになる

卑弥呼は男王の御霊を奉斎する巫女なんで
卑弥呼は大国主の御霊を奉斎する巫女ということになる
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:18:41.78
>>575古代信仰はよくわからないけど

銅鐸祭祀はなんて記述もなくまったく未知数だし
縄文になったらそれこそ???
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:27:50.53
>>496
>伊勢神宮のヤタノ鏡は3回程度火災で燃え尽きて
>その都度新しく天照の御霊をうつして作り直してる

それ、宮中の鏡の話で、伊勢の御神鏡の焼損記録はない

もう一度よく調べてごらん

>>496の書き込みは、思い込みの決めつけばかりで、根拠の提示と論証がない
いつまで待っても出雲国造神賀詞の原文は示さないし

科学としての日本史とは縁のない人だな
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:28:04.81
>>561
>宇佐八幡は律令制以後だよ

奈良時代に阿波から勧請されたのが矢幡八幡宮(現金富神社)、豊前国一宮宇佐神宮

769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、

神告を受けた「宇狭の宮」とは神山町 宇佐八幡神社のこと。   @阿波

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/18/235047
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:29:05.55
>>579

卑弥呼が死んだあとに短期間だけ男王の時代があったが
倭国連合が乱れたんで短期間で終わった

卑弥呼死んだ後の短期間の男王がスサノヲだ

スサノヲの時代に世の中が暗くなったということが倭国の混乱を表してる

そこで卑弥呼の御霊をヤタノ鏡に移して
トヨが御霊を奉斎することで倭国連合は安定した

岩戸に隠れるとうのは死を意味する

記紀に近い時代の手持ち皇女のう歌で
岩戸の隠れてるのは死んだ夫と表現され
夫が死んで古墳の葬られたが
女の力では岩戸をあけて夫を連れだすことができないと嘆いた

これは天の岩戸に隠れた天照を比喩していて
死んで岩戸に隠れた夫と岩戸に隠れた天照に例えてる

ってとでスサノヲが男王になってときは
天照は岩戸に隠れたってことで死んでる

岩戸から出てきたのは死んで神上がりした御霊で

その御霊をヤタノ鏡にうつして
トヨが奉斎することで倭国連合が安定したってことだ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:29:05.58
>>578
古代史捏造は九州説だろ
短里
三角物を国内で作った呉の鏡師
前方後円墳は4世紀以降
祇園山に殉葬跡
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:32:13.87
>>588
>泡はネタ芸人!

欲しそうだから、少し分けようか?   @阿波
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:32:41.72
卑弥呼が三世紀初頭に死んじゃってたら
誰が邪馬台国を治めていたというのか
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:33:05.96
>>584いつまで待っても出雲国造神賀詞の原文は示さないし

そんなもの自分でしらべろよな

それよりも出雲国造で面白い逸話をいろいろ書いてるのに
なにも興味がないんか

出雲国造千家氏の紋か神に許される神紋とか

最近は千家氏は皇族と結婚したとか
0592日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 14:34:36.27
>>523
>最古の神社は大神神社とされご神体は
>三輪山にすえられた大国主の御霊をいれたヤタノ鏡だ

宗教史としても、思い込みによる歪みがひどい

神道の古形式は、磐座祭祀、磐座信仰というのはかなり常識に近いんだが?
0594日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 14:39:00.74
どうやら記紀神話を邪馬台国の時代に当てはめたいようだなあ
当てはまらないだろうけれども
0595日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 14:39:26.96
>>590卑弥呼が三世紀初頭に死んじゃってたら
誰が邪馬台国を治めていたというのか

卑弥呼が死んだのは3世紀半ばだけど

卑弥呼が死んだあとに男王が共立されたけど倭国がみだれて
巫女のトヨが倭女王になって

トヨが奉斎した御霊は卑弥呼の御霊

これが天の岩戸の元になったことだ

古墳から卑弥呼の御霊を神上がりさせ
ヤタノ鏡に納めてそれをトヨが奉斎したとおうころだ

神楽や宮中祭祀で
神上がりトヨヒルメが御霊欲しとうたわれてるのは
トヨが卑弥呼の御霊を欲して奉斎したということだ
0596日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 14:40:52.98
平原1号墓のバキバキの割られた鏡は八咫鏡じゃないっての!

「鏡に御霊」を連呼している人は、ここの認識がおかしい

伊勢のご神鏡が3度焼損してるとか間違った知識を持ってるし、
どこで怪しげな宗教を吹き込まれたんだか
0597日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 14:42:28.73
阿波は吉野川が毎年洪水になるから
江戸時代に藍の栽培が始まるまでは石とボロ布だけが産物だった
0598日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 14:43:39.98
>>592宗教史としても、思い込みによる歪みがひどい

出雲国造神賀詞に
大国主の御霊をヤタノ鏡に移しその鏡を三輪山の神奈備にすえて
大国主の御霊は大和の守護神となったと記されてる

記紀でも大国主の御霊が三輪山に祭られた記述がある

それと三輪山のふもとの巻向の古い地名は
出雲庄だ

これは三輪山に出雲の大国主の御霊が祭らてるから
大国主のちなんでつけられた地名だ
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:44:13.16
>>595
天の岩戸の下りは九州宮崎県高千穂での事とされているぞ
天孫降臨もそうと伝えられている
そこが大和族の故地なんだろ
九州北部と隔たっているいるのに
1世紀2世紀は飛び地のように栄えていた形跡がある
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:46:01.36
>>594

天照の御霊はヤタノ鏡に移されたが
これは2世紀以降のこと
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:48:14.21
>>576
>天照にはヤタノ鏡が出てくるけど
>ヤタノ鏡は2世紀末から作られた

「八咫鏡」はもともと大きな鏡の美称で、普通名詞
皇統とは無縁の八咫鏡も記紀に出てくる

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

八咫鏡という呼称の「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるという通説に従う、ということだ
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った

平原1号墓のバキバキに割られた鏡は伊勢のご神鏡とは大きさが異なるし
平原に八咫鏡があったとする説話も伝承も一切ない

>>576の言うことは「平原1号墓の鏡が八咫鏡で2世紀末に作られた」というのが前提だが
平原1号墓の鏡は「皇統の八咫鏡」とは無関係でそもそも八咫鏡ではない
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:49:25.70
>>596

一つの鋳型で複数枚の鏡をつくり
一番出来の良い鏡が御霊しろとして採用される

天照のヤタノ鏡を作る時も複数枚つくって
そのうちの一つが天照の御霊代だ
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:49:43.57
>>544
>天照の時代に銅鐸の記述は何もない
>ってことで天照は鏡祭祀の時代の人物で2世紀末以降で

天照は九州系の人物だから、鏡文化でももっと昔でいい。
なんでも畿内中心に考えるのはやめてくれ。

>>594
>どうやら記紀神話を邪馬台国の時代に当てはめたいようだなあ

記紀を安易に神話と呼ぶなかれ。
どこまで神話かなんて、誰が決めるんだ?

>>590
>卑弥呼が三世紀初頭に死んじゃってたら

平原遺跡は3世紀中頃だと思うよ。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:50:35.66
>>602

知ってる。
残りの鏡は平原遺跡の卑弥呼に副葬したんだろ。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:52:50.73
>>599
>天の岩戸の下りは九州宮崎県高千穂での事とされているぞ

宮崎県が日向国となるのは景行天皇の御代。
それまでは、筑紫の日向といえば福岡県の日向山(高祖山)をはさんだ奴国と伊都国。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:53:33.45
>>603
記紀はどこまで神話でどこまで現実かはわからない
だからこそ2世紀末以降の畿内の出来事と決めてはいけない
神話は神話でそっとしておこう
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:56:39.83
>>591
>そんなもの自分でしらべろよな

根拠を求められて示さないやつは、たいてい勝手な誤解釈をしているだけのチェリーピッカーなんだよ

そうじゃないというなら、該当箇所の原文を示せばいい

まあ、ここまでの流れでまともな論が説ける人物じゃないってのはもう明らかだがね
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:56:48.42
>>601平原1号墓の鏡は「皇統の八咫鏡」とは無関係でそもそも八咫鏡ではない

平原のヤタノ鏡は男王の御霊を移す為のものだ

男王の御霊はヤタノ鏡にうつされ三輪山に据えられた

三輪山の山麓には男王の御霊を祭祀する為の都巻向が造営された
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:57:41.07
>>605
1・2世紀まで九州北部は栄えていた事は考古物で明らか
しかし場所を隔てた九州南部の宮城でも玉壁が見つかるなど
北部同様に栄えていた痕跡がある
これは記紀の記述通り宮崎県が大和族の故地である事を補強するものと言える
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:58:52.85
>>598

>それと三輪山のふもとの巻向の古い地名は出雲庄だ

奈良時代の城上郡に出雲という郷はない
出雲荘は興福寺の雑役免荘として延久2年(1070年)の坪付帳に登場するのが初出だろ
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:00:26.44
>>604知ってる。
残りの鏡は平原遺跡の卑弥呼に副葬したんだろ。

卑弥呼の御霊を移す為のヤタノ鏡と
男王の御霊を移す為のヤタノ鏡は別物だ

男王の御霊を移す鏡は平原のヤタノ鏡

卑弥呼のヤタノ鏡はそれから半世紀後のもの
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:01:07.33
しかし考古物で見ると九州の朝貢は57年が最初じゃなく
それ以前から何度かたびたびあった可能性が考えられるな
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:03:17.77
>>602
>天照のヤタノ鏡を作る時も複数枚つくって
>そのうちの一つが天照の御霊代だ

記紀にも石凝姥命が試作した鏡の出来が気に入らなくて、作り直した完璧な鏡が
岩戸隠れの天照大神を引き出すのに使われたと書いてあるが、その試作の鏡という伝承の鏡は
唐古鍵遺跡近くの鏡作神社と、和歌山の日前神宮・國懸神宮にある

平原にはない

皇室の三種の神器の八咫鏡は、弥生終末期頃に畿内で作られたとするのが蓋然性が高い
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:05:22.46
>>592
神社のご神体は人の御霊を移した鏡が一般的で
これは天照の御霊を移したヤタノ鏡が伊勢神宮のご神体となったじだいだから
古いものだ

神道の古形は天照の御霊しろとしてのヤタノ鏡が伊勢神宮のご神体ということと
大国主の御霊がヤタノ鏡に移されて三輪山に据えられ
三輪山がご神体になったということだ

最古の神社は大神神社なので
神道の古形は大国主の御霊がヤタノ鏡に移され三輪山に据えられたことだ

それが卑弥呼の鬼道なんだけどね
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:12:52.22
鏡を御霊の代わりにするのは律令制のころだよ
古墳時代までは本人の遺体と一緒に墓に入れてるから
黄泉の国にもって行くんだよ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:15:02.99
>>603
>どこまで神話かなんて、誰が決めるんだ?

日本書紀は自ら、ニニギの天降りから神武まで179万2470年として、神武以降の人の世と
それ以前の神代を明確に区別してるよ
自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲

神代を歴史だと言い張る>>603より、舎人親王以下の日本書紀編纂グループの方が冷静だww

>平原遺跡は3世紀中頃だと思うよ。

公式の発掘調査報告書が2世紀末としているし、それにはきちんと根拠があるのであって
素人が自説の都合で「思うよ」といっても埒もない

専門家の公式な判断に異を唱えるなら、せめてその根拠を具体的に示したらどうだ?
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:16:11.37
>>593
>腐ったネタばかりだろうからいらねえ

腐ったネタさえ無いんだから、贅沢言っちゃいけね〜よ。  ワハハハハは   @阿波
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:19:07.61
>>606
>記紀はどこまで神話でどこまで現実かはわからない

いずれにせよ、倭国(阿波)での出来事だから。   @阿波  
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:19:29.91
>>613平原にはない


2世紀末の平原でつくらてたヤタの鏡は
倭国大乱前の男王の御霊を移すためのものだし
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:21:02.68
平原の鏡は棺外のわりに腐食が少ないから
鎌倉時代くらいに埋めたんじゃね
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:23:04.74
>>613八咫鏡は、弥生終末期頃に畿内で作られたとするのが蓋然性が

卑弥呼の御霊を入れるヤタノ鏡は
卑弥呼の死後に作られるから世紀の半ばだ

トヨが卑弥呼の御霊の入った鏡を奉斎して
倭国連合を治めた
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:32:51.84
>>595
なるほど。
天の岩戸のエピソードで、天照は死んでるのか。

手力男が岩戸を開けて、鏡に天照の顔が写り、
天照が(この女神は誰だ?)と言うシーンがあるけど、
あれは実は天照は既に死んでて、鏡に魂を移してる訳か。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:35:37.42
鏡に死者の魂を移すという祭祀に、何かソースとか文献はないかな?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:49:36.65
天孫降臨の時に、アメノウズメとかタジカラオとか、
天の岩戸イベントで活躍した神がニニギの従者として天下ってるんだが、
あれは何でだろうね?
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:53:23.28
死んだ人の鏡をそのままにしとくとその人の姿が映るという言い伝えがあって
だから破砕して埋葬したという話聞いた事あるけどガセっぽい気がする
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 15:56:52.05
正月に飾る鏡餅は2000年は昔の銅鏡祭祀の名残
最後に割るのも一緒
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:04:37.35
>>609
>しかし場所を隔てた九州南部の宮城でも玉壁が見つかるなど
>北部同様に栄えていた痕跡がある

宮崎な。
それは投馬国、筑紫を追われた海幸彦の都だよ。
皇統となる山幸彦は筑紫の日向、すなわち伊都。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:12:36.07
博多湾伊都→紀ノ川伊都→飛騨石徹白イトシロ

白日別の白の勢力だけ飛騨に移動したのかな‥
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:16:40.67
>>625
>腐り阿波

ハハハハ  連発だね。  かなり阿波が癪に障るんだね。  ごめんね。   @阿波  
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:17:28.72
433>>594
>つまり、>>580の想定する筑紫王統は、王じゃなかったんだよ
簡単な話だww<

三種の神器は、倭奴國の天孫族系の部族が中心のお宝だ。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:27:24.36
不思議な出来事だが、
@阿波が頻繁に出没するようになったスレは、まもなく寂れる。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:34:26.70
>>629
事実上の遷都だろ。
アマテラスは八咫の鏡を自分だと思って祭るようにと指示しているから、魂を移したと後世的には解釈できる。
その時点ではまだ神道そのものが形式としては整っていなかったのだろうが。
そしてそれはおそらく紀元前後のことだろう。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:47:46.60
杵築大社、オオナムチ、天日隈宮ヒスミの宮

紀ノ川 日前神宮 ヒノクマ神宮

ひくま
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:48:18.63
どちらも鏡
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:51:15.04
>>636

阿波は犬神信仰の本場だからね
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:03:52.65
433>>613
>卑弥呼の共立に伴う祭祀の統一の内容が、首長の墓は前方後円墳とすることなんだよ
前方後方墳でも可だけどね<

倭国のおける「前方後円墳」は、
西晋武帝の「天円地方」の後だから、266年以後であり、
勿論「卑弥呼の共立」とも「卑弥呼の墓」とも全く関係がなく、
類スレ主は、×だ。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:05:35.25
>>417
>巻向は遺跡全体の数パーセント程度しか発掘調査されてない


調査が数パーセントで、すでに公園化がすすでいるネ
もう何も出ない証拠じゃ無いの
市場兼斎場で決まりだなww
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:07:00.41
>>636
>不思議な出来事だが、
>@阿波が頻繁に出没するようになったスレは、まもなく寂れる。

そう言われれば、ここだけだね、最近。   @阿波
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:10:52.99
>>637
えっ?
どっからどこへの遷都なの?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:11:18.65
>>640
>阿波は犬神信仰の本場だからね

犬神様の祟りかね?   @阿波
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:12:03.73
畿内説は纒向を持ち出したのが間違いだった。
どうやっても邪馬台国に繋がらない集団であったことがわかってしまった。
大和の歴史は、筑紫の邪馬台国とは平行に進んでいた。
もちろん、筑紫で確立された三種の神器などを受け入れているのだから、無関係などではないが、銅鐸文化を捨てた時点で、畿内が筑紫の勢力下に入ったことは間違いない。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:12:42.82
>>644
出雲から政権を奪った高天原は、筑紫を新たな王都にした。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:14:03.06
畿内説はよく自説の穴を棚に上げてよそ様の説にけちをつけられるな
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:17:20.82
433>>614
>山口の赤妻古墳や、山梨の笛吹市平林2号墳を、王家あるいは王の分家の墓とする方が
よっぽど根拠なしだろ?ww<

その場所なら、九州倭国の東征軍の、
「天孫族系の部将」クラスの人物の墓であった可能性なら、あるな。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:22:26.40
433>>618
>卑弥呼の共立に伴う祭祀の統一の内容が、首長の墓は前方後円墳とすることなんだよ<

前方後円墳は、266年頃の西晋武帝の天円地方の後だから、
248年頃に亡くなった卑弥呼とは、全く関係がなく、×。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:27:00.89
>>629
>天孫降臨の時に、アメノウズメとかタジカラオとか、
>天の岩戸イベントで活躍した神がニニギの従者として天下ってるんだが、
>あれは何でだろうね?

アメノウズメとかタジカラオとかは、倭人伝云うところの邪馬台国(粟国)側に人たち。
オオナムチとかは、狗奴国(長国)側の人たち。
天下りとは、邪馬台国側の狗奴国への調略のこと。  @阿波
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:33:03.96
日本の神話などがあるでしょ

『王』(king?王氏)が考案したんじゃないの?
ここは間違っている、ここは・・・とか。


『天地開闢』なども、
実際は『神仙界』の話だしな・・・?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:37:43.95
433>>626
>三種の神器は、天皇の権威とともに長期間伝世することによって、権威化、神聖化したのであって、
最初から三種の神器が王権の所在を示すものだったのではない<

「天皇」なんてなかったから、×。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:37:50.39
『記紀神話』・・・、

最初のほう?『松傾』本人に関係することだと書いてあったり、

『伊達の桃太郎』?
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:41:26.93
>>650
の西晋武帝の天円地方の後だから、
>248年頃に亡くなった卑弥呼とは、全く関係がなく、×。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:44:41.21
>>648
>畿内説はよく自説の穴を棚に上げてよそ様の説にけちをつけられるな

畿内説の穴など指摘して人がいない
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:50:01.82
>>645

阿波はすっかり寂れてしまったね
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:55:26.66
>>657
>阿波はすっかり寂れてしまったね

いや、これでも昔よりは、上位に位置するようになったよ。  @阿波  
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:58:21.42
九州説の敗因は
「オレ様の説は正しい。だから畿内説は間違いだ」
という論理を使ってしまうことだね
「オレ様の説は正しい」を証明できる奴がいない
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:05:47.11
433>>637
>ここでポイントになるのが卑弥呼が巫女だってこと
巫女っていうんは偉大な先人の御霊代で
偉大な先人の御霊代となって信託を告げる祭りごとが
卑弥呼の統治の基本型なんだよね <

卑弥呼は「鬼道」のようなモノを使ったらしいが、
あくまで「共立女王」であってトップであり、
お仕えをするような「巫女」ではない。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:07:03.96
>>657
>阿波はすっかり寂れてしまったね

だけど、畿内説も九州説も、このままだと倭国(阿波)に飲み込まれてしまうよ。 早くなんとかしないと。   @阿波
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:15:16.06
これも、おかしな話になるんだけど、
数年前の陰謀関係のスレ

>>しょうとくたいし

という謎のスレ(>> 書き込みに対する返事)があったり、
何なんだろう
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:15:33.85
433>>643
>(纏向の掘立建物が3世紀前半の根拠)
年輪法だけどね 巻向よりも少し古いカギコカライセキが年輪法で2世紀なんで
それよりも古い巻向が2世紀末からってことになってる<

こりゃ、根拠になっていないな。
石塚は庄内1であったが、
纏向の土坑にあった土器は、庄内3であった筈。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:17:17.30
>>660
女王に誰もお仕えしないの?
九州説はバカでスカ?
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:24:03.95
>>663
「筈」とかウロ覚えが根拠になるわけないの、わかるよか?
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:31:14.76
有名人なのかな?

かなり、むかーしの写真だと言っているんだけど
『松傾』の家(というか家?)の子供の頃のもので、
キュウリの葉、葱の華・・・などが写っていて
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:32:10.94
433>>646
>中国の使者は海流の知識がなかったんで 船が向いてる方向だけの記述になってる<

對海國の出航時点では、一大國は見えないから、魏使らは出航方向を示した。

>海流が東に向かって流れてる場合は
船の向いてる方向が南でも進路は東南東なんで<

船の速さと海流の速さが同じ場合に「東南」方向に進む事になり、
對海國→一大國は、ほぼ東南方向であり、
對海國出航からしばらく進めば一大國が見えて来るから、
南へ向かおうとしておれば、自然に一大國に到着する事になる。

>倭人伝の水行20の南は東南東に修正する必要があり<

関係がない。
倭人伝の「水行二十日」は、不彌國から南方にある投馬國への水行日数であり、
九州島の東回りにしても西回りにしても「海岸沿いの水行路」。

>投馬国は出雲圏ってことになる<

「南≠東北」だから、×。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:37:13.04
なんでも空想で断定する九州説老人
0669畿内説は& ◆5d4I/UPW02
垢版 |
2019/03/10(日) 18:54:44.12
畿内と邪馬台国結び付ける道は一つ

畿内に邪馬台国があって東遷で渡来人+倭人の九州勢力が
大和朝廷を築いたのだよ
神道と仏教の違いがまるでわかって無い

「御佛前」と
「御霊前」の

違いの分別は畿内説の学者もわかっていない
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:57:45.34
433>>660
>この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、
舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に
継承されており、<

柳本大塚下池山などが、大型仿製なら、
筑紫において、倭国王の依頼で渡来の呉系楽浪鏡師らが同じ思考で造って、
東征毛人五十五國の将軍や部下に与えられた、という事になるだけ。

>平原鏡と異根である。<

製作鏡師が違えば、異根であって当然。

>これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。<

楽浪鏡師らは、同笵鏡は必要があれば作るだけ。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:58:09.46
何がいいたいのかわからん
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:11:15.91
433>>681
>>陳寿執筆時は、東冶は「建安郡の東冶」であり、<

>事件当時の地名を使うのが歴史書の常識なんだよ<

「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の「地の文」であり、
「地の文」は、執筆時点の読者への説明であるから、
執筆時点の読者の知識や常識で分かるように、説明するものなんだよ。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:18:07.40
本当の話

謎のレス(>>)、書き込みなど


家の近所に、
ストーカーのような人が住んでいたりするのかな、
それとも親戚?

家と付き合いのある人、あった人なのかな?
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:31:22.02
433>>685
>つまり、平原のバキバキに割られた仿製鏡と、
完鏡の形で伝世、副葬されている畿内の鏡とは直接の関係はない、
別のルートでもたらされたものだ、というのに同意したってことでww <

渡来の呉系楽浪鏡師らは、
当初は、卑弥呼や壹與らの依頼での鏡を造り、また地方の豪族の依頼で鏡を造り、
その後、東征将軍への下賜鏡も造るようになり、
更に、大和等の鏡作り神社に招かれて子弟に△の作り方を教えた。

>つまり、九州の伝統とは無関係に畿内の銅鏡文化は形成されたってことだ
◆FAQ 36 より
畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は
畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。<

スレ主も類スレ主も、渡来の呉系楽浪鏡師らが「東征将軍への下賜鏡」を造った、
という場合がある事が判らなかったアホだった、
という事。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:35:35.87
433>>687
>平原1号墓の鏡を王権のレガリアに位置づける主張のはずなのに、
王権のレガリアのために特鋳した鏡が「簡略化」してあるとかww
矛盾だらけだなww<

?。
破砕副葬用の鏡なら、「簡略化」して当然だよ。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:35:47.67
なんとなくなんだけど、父親の話でしょ?


何なんだろう、
老婆(父親の母親)自身「なんでこんな・・・になったんだろう(育った)」と、
いつも言っていたし


その前の代(祖父、曾祖父・・・?)などは、
普通というか?マトモというのか
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:38:14.95
無駄につぶやいている場合じゃないよ。  畿内説も九州説も、このままだと倭国(阿波)に飲み込まれてしまうよ。 早くなんとかしないと。   @阿波
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:38:45.58
>>636
>不思議な出来事だが、
>@阿波が頻繁に出没するようになったスレは、まもなく寂れる。

四国説スレが真っ先に寂れてますがなww
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:42:10.34
>>678
>四国説スレが真っ先に寂れてますがなww

ご心配なく。 元々だから。   @阿波
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:42:35.46
ネットなどでも言われている、
創価説?

もともと、家は創価ではないと言っていたしw
創価の人と付き合ったり、
親族(親戚)に創価がいたりして・・・そういう人間になる・・・?
という、あの伝説
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:42:40.42
433>>696
「南→東」などの嘘つき騙しをして、
なにひとつ 証拠出さない 大和説
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:45:42.94
呉系渡来鏡師なんてのはは中国での発掘が進んで既に論拠は否定されてるし
東征将軍も妄想なのが明らかだったのがさらに服が自動詞という珍説が論破されて存在しない事が確定してるな
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:47:50.91
433>>700
>だが伊都国は邪馬台国ではない
郡使が常に駐したところ
そして邪馬台国はそこから2ヶ月かかる遠方にある<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になり、
「2ヶ月かかる遠方にある」と書いたこの大和説者は、×男。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:48:37.68
>>536
大宝二年(702年)に大宝律令が施行されたのに伴い、各国にあった国璽(印)や国庫の鍵を奈良の政府に戻させた。
そして、大宝四年(704年)には、奈良の政府は諸国印を新たに鋳造した。
なお、天皇の印は御璽
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:52:12.54
>>675
>破砕副葬用の鏡なら、「簡略化」して当然だよ。

伊都クズさんたちへ
ザラコクですら、平原1号墓の鏡は破砕副葬用の簡略化したやっつけの鏡だって理解してるぞww
王権のレガリアたる最高の技術の粋を凝らした格別な鏡じゃなかったってことだ

平原1号墓は王墓じゃないよ
小さすぎるししょぼすぎる
平原遺跡は家族墓地だけれど、そこに王家の存在は見いだせない
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:52:16.40
433>>710
>九州説さん敗北宣言いただきました<

「南→東」などの嘘つき騙しの、
根拠も理由も言えないから、
大和説者の敗北宣言をいただきました。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:54:11.83
>>679
>ご心配なく。 元々だから。

つまり、立てた瞬間、寂れたんだろ?

泡がいるからww
そりゃそうだww
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:55:39.03
>>684
>各国にあった国璽(印)や国庫の鍵を奈良の政府に戻させた。

で、「大御和神社」以外にそんな物証があるのかね? 
倭国(阿波)だけなのでは?   @阿波 
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:00:10.16
>>632
伊都は宮崎から侵攻してきた大和族に征服されたのだ
リーダーが倭国王帥升
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:01:18.41
433>>715
>3角縁は関東から九州の広い葉に分布してるけど これが倭の30カ国の範囲だし<

倭の30国は、九州島付近の国だから、×。

>3角縁には卑弥呼が訪朝したときの記念の年号を記した記念鏡もあるし<

卑弥呼の訪朝の景初二年の、明帝が詔書の年次以前の紀年の△はないし。

>3角縁は3の30カ国の共通の鏡なんだよね<

この大和説男は、どうやら精神的に異常な・・・・アホであったらしい。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:05:06.30
433>>716
>投馬国は出雲圏になる <

「南≠東北」だから、×。

>さらに投馬国(出雲圏)から水行して上陸して南下すれば
大和につきそこが邪馬台国になる<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、「南≠東」などに拠っても×。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:09:04.33
明石原人でしくじったからって、こっちに来るなよなあ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:30:15.49
433>>737
>「南→東だから、大和説は正しい <

普通の人類は「東西南北を間違えない」から、
「南→東」とした大和説は、間違い。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:34:06.39
筑紫で海幸山幸が兄弟喧嘩をして、海幸彦は筑紫を追われる。
その海幸彦が海路を逃げていった先が宮崎県なんだよ。
海幸彦神社、潮嶽神社などが海幸彦を祭る神社として知られている。
また、海幸彦は宮崎や鹿児島など九州南部の民族であった隼人の祖であるとされている。
全国屈指の規模の古墳群である西都原古墳群で有名だ。
その日向国の一宮が、妻にある都万神社だ。
すなわち宮崎県が、帯方郡から南に水行20日のところにある投馬国だよ。
では帯方郡から水行10日のところにある邪馬台国とはどこか。
福岡しかあるまい。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:36:39.64
どのスレだったかな?
かなり前の話になるんだけど

『東北工程』〜と言ってる人がいたり、
日本の東北地方のことではないのかな?
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:38:26.00
大陸のほうから〜〜〜〜渡来してきてという話?
日本の東北の地方とか、そっちのほうまで・・・?
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:48:13.23
>>695
>では帯方郡から水行10日のところにある邪馬台国とはどこか。

陸行一月はどうした?
魏志倭人伝の旅程記述は間違いがないんだろ?www

そして投馬国は自女王国以北だぞ
戸数道里略載の国だからな
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:51:58.17
433>>764
>辻地区の大型建物群は、すぐ近くの祭祀土坑とセットの遺跡
その祭祀遺構からは多数の供献土器が出ていて、その土器の形式編年から
3世紀前半と判断されているし、<

その土壙の土器は、庄内3であり、3世紀末。

>同じ祭祀土坑から出た桃核の炭素試料を
使ったAMS法による14C年代測定でも矛盾のない編年が出ている<

プラズマ化の失敗で、50〜100年古く出たもの。

>複数の独立した推定から一致した結果が出ている以上、それを否定したかったら
それ以上の根拠が必要<

失敗推定ばかりだから、それ以上の根拠が必要。

>「4世紀と言われても否定できない」なんてことはないんだよ
そんな思いつきでは覆らないだけの根拠が積み上がっている <

庄内3なら、4世紀だと言われても否定できない。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:55:04.42
海幸山幸説話は南太平洋諸島から南西諸島だよ
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:58:47.55
あとラクリマクリスティ・・・(音楽)?とか、
なぜ家の話をしているんだろう

凍える〜何やらとか
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:00:09.14
433>>766
>>御前の論だと奈良で見つかった記年銘鏡の破片はどこから飛んできたのかww<

>畿内の鏡作神社周辺の青銅器工房で作ったんだよ
三種の神器の八咫鏡を実際に作ったのもおそらくその辺り
少なくとも宮中賢所の鏡はここで作っている<

おや?、「正始元年 陳是作鏡」の「三角縁同向式神獣鏡」が、
明帝の下賜鏡ではない、という事を認めるんかい?。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:04:42.53
というか畿内を唱えてる人でも三角縁は国産て書いてる人いるんだが
「認めるんだね?」て、そら前から認めてましたが
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:06:03.69
『姥清水』のようなテーマ(コンセプト)の曲ばかり
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:12:49.87
『凍えたあなたを』という曲、ググってみて

裸足で〜という話(『老婆談』)も同じだし・・・・、
母親だけだが、裸足?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:22:19.42
>>660
>卑弥呼は「鬼道」のようなモノを使ったらしいが、
>あくまで「共立女王」であってトップであり、
>お仕えをするような「巫女」ではない。

生前の天照は神にささげる機織りをしていて
その機織りの作業場所にスサノヲが動物の死骸を投げ入れたりしてあばれた

生前の天照は神に奉斎する巫女的側面があったということ

生前は祭る神で
死後に祭られる神になった
というのが天照
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:24:38.97
433>>777
>別に? 弥生後期には倭国で鉄はそれほどの貴重品でもないし、
畿内に鉄がないと考える理由がむしろない
鉄が潤沢になったことを示す指標に、石包丁が消えることがあるが、
北部九州より畿内の方が石包丁の消失が早い <

鉄剣や鉄鏃を持った方が、銅剣銅鏃よりもはるかに強いし、大和の鉄は、3世紀末のホケノ以後。

>また纒向遺跡メクリ地区からは大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石が出ている<

変な言い方。「推定されている」という事は、確証はなかったんだな。

>189次調査では
「時期は不明ですが、この落ち込みからは土器の他にも鉄滓が多く出土しており、
 鞴羽口片もみつかっていることから、近くには鍛冶工房が存在していた可能性が考えられます。 」
174次調査では
「調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、
 約60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
 そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
 それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴(炉に空気を
 送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
という成果も出ている <

ホケノ以前には鉄鏃は出土しないんだよ。

畿内に鉄がないっていうのも、最新情報を入れていない情弱な人が言い続けているだけだよ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:25:58.04
>>702
紀年銘鏡は大陸ではほとんど存在しないし、椿井大塚山古墳からも黒塚古墳からも紀年鏡は出ていない
紀年銘鏡は、魏との交流を記念して倭国で作ったと考える方が妥当
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:30:19.10
433>>788
>>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい<

>こういう真っ赤なウソを平気で書くから九州説は信用を失い、滅んだんだよ
根拠は、ちゃんと発表されている<

それを言わなくっちゃ、発表した事にはならんよ。
大和説が知識教養を欠くのは勿論問題だが
「南→東」などの嘘つき騙しのように、倫理に欠けてるのが最悪だ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:32:30.85
433>>779
>>倭人伝を読めば読むほど大和説がありえないことを 実感する。<

>どうしてそんな風に実感するのか「具体的に根拠を挙げて説明」してくれませんかね?
九州説は具体的なことを何一つ言わないし、言えないww<

「南≠東」などに決まっているではないか。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:38:41.25
>>706
>生前の天照は神にささげる機織りをしていて

神に捧げるというのは後付けだろうね。
というか、神とは王族であり、ここではアマテラス自身のことだ。
実際に機織りをしていたのは、家来の女性たちであり、故に神(アマテラス)に捧げるための布を織っていたと書かれているのである。
スサノオの狼藉により、その一人が亡くなり、天の岩戸の事件に繋がる。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:40:35.41
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:46:36.98
433>>784
>大きいってだけだろ 技術的系譜が違うって説明受けてもまた理解できないの?
>ぜんぶ割って埋めちゃったのに、どうして大きさ知ってることになるの?<

渡来の呉系楽浪鏡師らが関与したから。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:10:10.09
>>712
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

何度書いてもその都度言ってあげる

その国は「倭国」だ
( )書きで(邪馬台国)と補うのは、インチキで捏造の類いだ
こういう無理読み捏造だけが、九州説の根拠
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:10:41.61
>>689
ごく普通のことなので、どこもことさらに記録などしなかったが、なぜか阿波の神社だけがことさらに由緒書きしている、と。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:11:48.44
>>713
>渡来の呉系楽浪鏡師らが関与したから。

それだったら同じ技術系譜になるって理解できないのか?
できないんだろうな、ザラコクだし
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:32:53.27
443>>791
>史料を統合すれば二世紀後半ごろに神武の九州勢が畿内入りして
邪馬台国を建国した事が強く示唆される<

畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「示唆」もしないから、×。

>そして畿内が当時の文化の最先端となり <

大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。

>三世紀に前方後円墳が作られ後に九州へと伝播する<

前方後円墳が早かったのは、筑紫の那珂八幡などで、
東征毛人五十五国の将軍らに拠って、筑紫から大和に伝搬した。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:38:16.30
433>>792
>逆に言えば、末盧国には寄っていない <

国内見聞移動が書かれているから、寄っている。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:40:06.69
433>>794
>男王(大国主)の御霊を斎俸して祭りごとを行う為に
卑弥呼が共立されて巻向で祭りごとをした<

「南≠東」などに拠って、×。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:42:46.93
433>>976
>卑弥呼(アマテラス)の御霊を収めるヤタの鏡は大和圏だし <

「南≠東」などに拠って、×。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:50:53.24
>>718
>国内見聞移動が書かれているから、寄っている。

国内見聞移動は、魏使の時である必要はない

陳寿は倭国に行ってなくていろんな記録を参問して撰述してるんだから、
魏使以前の記録があればそれで書けるだろ
末盧国は郡使往來常所駐ではないのだから、末盧国には魏使は寄っていない
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 22:51:35.58
433>>798
>畿内説では倭国は西日本全域(東側はどこまでか不明)だからそれでいいけれど、
九州説は四国も本州も倭国に入れない、九州のみの倭国っていう説だからダメだよww
「九州のみに倭国」の領域内にはないからねww <

大和は九州倭国の別種分家の旧小国だし、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であるから、×。
0723質問ですが・・
垢版 |
2019/03/10(日) 23:35:16.15
記年銘鏡に記された年と
出土した古墳の築造年が違うのは何故ですか
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 23:41:51.52
>>721
>魏使以前の記録があればそれで書けるだろ
末盧国は郡使往來常所駐ではないのだから、末盧国には魏使は寄っていない <


根拠が無いよ
倭人伝で魏使が行った国々と、行っていない国々の区別をどこでするのだ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 23:46:20.66
>>721
魏の使いの時の記録に決まっているだろ。
後漢の間は倭人が一方的に朝貢して来るだけで、ぼんやりと一万二千里のところの国としていたわけだ。
魏になって帯方郡から使いを出して詳しい倭国内の里程がわかったということだよ。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 23:48:11.70
>>纏向の掘立柱建物が3世紀前半?に建てられたという根拠を教えて欲しい<

私も知りたい
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 23:50:48.66
>>724
>根拠が無いよ
>倭人伝で魏使が行った国々と、行っていない国々の区別をどこでするのだ

根拠は末盧国の位置と東南陸行五百里の非合理だよ

末盧国から伊都国へはどうがんばっても東南陸行五百里にはならない
呼子上陸バカがどうがんばって詭弁をこねくり回しても、
三雲遺跡群から北西方向はすぐに海になるだけだから、
この東南陸行五百里が伊都国行きの経路ではないのは明確

末盧国から東南方向は松浦川沿いに佐賀平野に抜ける経路としてなら妥当
おそらく大陸の人が佐賀平野方面に行く旅程記録があり、
壱岐から渡って行った先として魏志倭人伝に記載されたと考えればよい

何より、末盧国から伊都国へ陸行するのが不合理
壱岐から伊都国へ行くなら末盧国に寄らずに直接船で向かうのが合理的
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 23:53:22.75
キナイコシがついに末盧国を通過しなかったとか言いはじめた。
アホだ。

駐在したのは伊都国だけ。
末盧国だけでなく、壱岐や対馬も立ち寄ったことは確実だが駐していない。
郡使のための宿舎、後の筑紫館や鴻臚館のようなものが伊都国にあったんだよ。
そしてそれらの倭国内の里程は、魏の郡使が訪問することで、初めて明らかになったんだよ。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 23:57:10.80
>>725
>魏の使いの時の記録に決まっているだろ。

決まってないよ
対馬や壱岐の人が南北市糴しているし、半島の土器が倭国に渡っている
近い距離が百里、ちょっと遠いと五百里程度の適当な地理情報くらいは
十分に届くよ


>後漢の間は倭人が一方的に朝貢して来るだけで、ぼんやりと一万二千里のところの国としていたわけだ。
>魏になって帯方郡から使いを出して詳しい倭国内の里程がわかったということだよ。

詳しくないだろww
陸行は百里と五百里しかない、そんな精度だぞw

またこれを貼らなきゃいけないのかww

漢以前
中国人「九州しか知らない」

魏以降
中国人「畿内を知った」「詳しいのは九州」


中国人「畿内にも詳しくなった」

めっちゃ自然ですやん
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 00:12:19.25
情報が届くかどうかではなく、魏志に収録するからには噂程度の情報ではなく、郡使の公式な報告書を参照したんだよ。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 00:14:16.88
漢以前
中国人「九州しか知らない」

魏以降
中国人「本州の存在を知った」「九州に実際に行った」


中国人「九州から失礼な国書が届いたから絶交した」
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 00:45:43.56
テンプレ同様だな
思い付きでカキコム
0733sage
垢版 |
2019/03/11(月) 00:59:53.62
中傷しかできない九州説
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 01:40:20.55
それにしても・・・『姥清水』?


本当に、家の話みたいなんだけど、
ただ、あのような顔をしているという意味ではない、
あれは、そういう絵(作画)というだけだから。


家は縄文系(不明)??よくわからない、
老婆の家が〜なのかな?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 01:50:59.73
あの写真(キュウリの葉、葱の華・・・)の母親というのも、
縄文土器のような頭(髪)になっていたり


『縄文系』ググると出てくる


本当に何の写真なんだろう、
もう一人のほうの女の人というのは、
時代劇に出てくような頭
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 01:54:45.24
むかーし(当時?)伊達郡というところの・・・
山の上のほうに・・・住んでいたとか

アラハバキというスレの話なのかな❔
銀〜〜〜名前の親戚がいて、家に刀が
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 02:02:07.87
有名人なのかな?

老婆も生まれていない頃の写真だと言っていたし・・・、
何なんだろう
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 02:19:22.22
>>708
でも、鏡に年号を入れるという発想が日本のオリジナルとは思えないんだよ
青龍三年鏡があるからそれを参考にしたのかもしれないけど
それに呉の年号の赤烏もあるが、これを日本で作ったはずないから呉の鏡だろう

青龍と赤烏の年号は中国鏡かそのコピーで、景初と正始は最初から日本で入れたものという考え方は、
いまいち納得いかない
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 02:29:30.66
日本の話なんだけど


神と人間は違う?
というのも本当の話なのかな
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 02:37:17.23
『アラハバキ スレ』調べて、読んでみるとわかる

天皇?人間だと言っている人ばかりだしな、何なんだろう
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 02:53:02.51
本当に、そういうスレなども
最近読んだんだけど


『松傾』(あの写真)の嫁の家で・・・、
何々様?みたいな事を言われていた(呼ばれていた)とか、
たてまつられていた?

老婆も言っていたしな・・・・・?
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 03:16:26.22
何者かによる

自作自演?みたいな話なのかな
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 05:59:52.49
433>>802
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
机上の空論だから具体的な話は決して出来ない

原理的に無理
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:06:57.42
『2ch アラハバキ スレ』

読んでみた?家の写真と同じような話?
かみたま?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:07:44.94
433>>803
>四国も本州も倭や倭種ではあるよ<

倭種とは、(「別種の旧小国」の意味に近く)、
「倭人ではあるが、倭人の中心ではなく、記載の主要対象ではない部族」
だ、という意味なんだよ。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:17:11.94
妹の名前でしょ?
知世?ではないけど・・・トモミw
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:20:31.52
433>>804
>技術の話なんか誰もしていない! 誤魔化すな 図像のデザイン思想の問題だよ
>それに青銅器作成技術に関しては、
平原1号墓の頃にはもっと立派な銅鐸が作れているんだから<

銅鐸は、(倭人系ではなく)出雲系の祭器だし、
大和では唐古鍵の頃を最後に終焉していたし、平原は3世紀後半だ。

>同時代でも畿内の方がずっと上だぞw <

大和は、九州倭国の別種の旧小国だ。

>平原は辺境の地で、技術水準も低い中でただ大きくすることだけを目指した手抜き鏡を作ったんだよ
そんな手抜き鏡を、ご神鏡の八咫鏡とごっちゃにしてくれるなってこと<

平原鏡は、当然破鏡副葬する事を目的としており、
「渡来の呉系楽浪鏡師」らの関与や塗装が加わっている。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:23:27.50
このような事を言ってる人もいたり

>誰ですの、鷹野さんって?

鷹野ではなく、高野さん?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:26:05.57
河童〜みたいな話もしていたりw

キュウリのような葉、葱の華・・・あの写真のことでしょ?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:30:32.85
443>>811
>これは九州説の人間が挙げた数字なんだよ
自分の数字をもとに計算すれば文句はないだろっていう計算だ <

いや、類スレ主が、出発地や到着地の比定や、ルートをインチキ解釈して、
でっち上げた表だ。

>テンプレに帯方郡治はソウルじゃないって書いてあるだろ?
FAQ20「考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城」<

魏使らの出発地は、「循海岸水行」から始まっているから、
おそらく「海州」からの計算だ。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:32:16.16
433>>813
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は崩壊
あとは個人がてんでバラバラに好き勝手な事を言ってるだけ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:39:08.90
433>>821
>卑弥呼(アマテラス)は九州出身の巫女だけど
共立されて三輪山の納めらた男王(大国主)の御霊を祭祀するてめに
大和に来て巻向が建設された <

「南≠東」などに拠って、×。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:42:34.89
433>>827
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
いつも
具体的内容が
なにもない
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:49:45.84
433>>833
技術系統の分析が考古学の遺物研究の王道なのに
それを全く理解しておらず上っ面だけを見て
「南→東」などのように文献の否定曲解の嘘吐き騙しをして、
「考古学的には〜」とか言ってしまう大和説は
自己を超過大評価してなおかつ大嘘つき
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 06:56:33.95
433>>834
>高天原で作られたと記紀にあるのだから、
唐古・鍵遺跡周辺に高天原があったと言っているのと同等だ。<

高天原からの「降臨」の地は、
途中の経由地がなく、新羅と出雲と筑紫だけであり、
だから、それらの間にある海上地域である事になり、
対馬と壱岐と沖ノ島の付近だ。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 07:05:52.18
433>>838
>一世紀半ば、博多湾に方形周溝墓 桃太郎は大陸へのルート確保の遠征だったのかな <

おそらく、倭奴國から別れた天孫族の中の「阿毎=アマの伊」の伊都国系部族の一部が、
採用していた墓形態。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 07:18:56.25
>>723
>記年銘鏡に記された年と
出土した古墳の築造年が違うのは何故ですか <



国産だから
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 07:55:43.20
433>>840
>応神の実父は奈良時代から武内宿禰と言われている。
またの名を住吉の神、またの名を高良の神(高良大社の末社はすべて武内宿禰を祭る)。
仲哀崩御の夜、神功皇后と住吉の神の間に密事ありと伝えられる。
つまり応神朝以降、筑前一宮も筑後一宮も武内宿禰を祭神としており、武内宿禰は実質的に倭王。
ちなみに豊前一宮は応神本人(八幡の神)を祭る。<

ふーん。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 07:59:38.18
皇国史観の九州説はけしからん、といって大声で糾弾してきた畿内大和説だが、
さいきんは、高天原やアマテラスに頼るようになったらしい。
世も末、
畿内大和説も終わりだ。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:01:51.82
433>>844
>ではなぜその高度な銅鐸づくりを止めて、
唐古・鍵でも内行花文鏡を作るようになってしまったんだ?<

出雲銅鐸祭祀系であった唐古・鍵に、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍がやって来て、
唐古・鍵の民を駆逐支配してしまう事のなったんだろうから。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:03:55.40
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:08:52.56
433>>856
「南→東」などの嘘つき騙しの類スレ主らのトンデモは、
根拠もなく平原の鏡を過小評価してて
きちんと内行花文鏡の系統分類をしようとしない
これが現実では?

具体的なこと言わない大和説は
客観的に見て説得力はない
理解できてる?
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:11:51.08
433>>857
>慶長の頃の文書にあると書いてあるのにw
興味深いのは、椚集落は五郎丸の中に作ったとあることなんだ。
つまりここも怡土城または戦国時代の高祖城の遺構の一部と認識されていたんだろう。
そもそも博多と糸島を結ぶ日向峠を押さえることがこの城の役割でもあるので、
峠を塞ぐように建設されていたはずなのだよ。
現在の復元図では日向峠の手前で不自然に城が終わっていたことになっているが、
遺構が見つかっていないだけだと思う<

ふーん。成程。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:23:22.76
433>>864
>船を南に漕いでも海流に流せれて出雲圏のとうちゃくしそこが投馬国<

魏使らが乗ったのは倭船であり、海流に乗って一大國に着けた訳で、
「南≠東北」であるから、この大和説男は、×。

>中国の使者は海流の知識がなかったんで
単に船が向いてる方向だけど記述で南として記しただけのことで
実際に船の経路は東に流されてる<

南は、出発時点での出航方向であるから、
この大和説男は、×人間。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:37:39.39
433>>868
>平原遺跡は累代的に造墓された家族墓地だが、厚葬墓は1号墓1つだけで、
王統の家族墓地ではないのは明白<

壹與は、当然卑弥呼の直系的子孫ではなく、傍系の阿毎氏系から「宗女」になったようであり、
卑弥呼ほどは権力も後継者もなく、死後は、元の実家の出身部族の地に埋葬された。

>何度も書くが平原1号墓の推定年代は2世紀末で卑弥呼に生前であり、
倭王墓ではあり得ない <

平原は、壹與の墓であり、西晋武帝の天円地方思想を知っているのであり、
従って、266年以後の墓。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:40:10.52
433>>871
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説は、
当然皇国史観だったからな
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:47:36.12
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:47:36.50
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:48:33.02
>>765
平原遺跡も同じなのではないかな。
畿内説は自説に都合の良いダブルスタンダードばかりだ。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:56:02.41
433>>883
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、何度言われても
「具体的な根拠」を示した「論理的な論証」ってのができないんだよな

大和説の「都合の悪い史料事実の否定曲解」や「人材枯渇」は深刻
というかまともな思考力にある人は大和説を採らないから、
当然といえば当然なんだが
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:57:40.70
>>770
何がダブルスタンダードなの?

具体的な内容が全くない
九州説の出来ることは
支離滅裂な言いがかりだけかい?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:58:39.30
皇国史観が頭をのぞかせ始めた畿内大和説、
さいきんは、公然と高天原やアマテラスに頼るようになったようだ。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 08:59:47.68
433>>886
とヒステリックに騒ぐ、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、・・・・ガキ。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:02:14.17
443>>889
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
なぜとっくに論破されてる話を何度も繰り返すのかな
何の得にもならんのに
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:03:31.91
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:05:07.18
433>>890
「南→東」などの嘘つき騙しで、
人種差別的殺し合い戦争に狂った類スレ主らは、
何事も客観視できない
あるのは全て自分が絶対だという思い上がり
だからその主張には論理のかけらもなく
結論ありきでイメージを張り合わせた空虚なもの
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:05:10.55
>>773
じゃあ何か?

昔から公然と高天原やアマテラスに頼ってきた
九州説はどっぷり皇国史観だと認めるんだな
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:17:15.06
>>778
畿内大和説のように、硬直化していない。
皇国伝説もあったが、卑弥呼の国も実在した。いわば皇国・卑国史観というわけだ。
そこんとこごっちゃにしないでくれよ。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:19:45.23
433>>892
高祖山やくしふるは、韓国に向いている。
また、糸島平野側や早良平野側には考古学的証拠や神社がある。
伊都には王墓が多数ある。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:25:58.62
>>779
九州説は皇国史観と認めるんだね?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:32:35.43
433>>894
結局のところ、
九州倭国の別種分家の旧小国の大和政権や、中世以後の皇国史観学者の亡霊が、大和説なので、
新しい知見には対応出来ないのだろうな
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:38:44.96
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:38:45.10
>>782
九州説って
中世以後の皇国史観学者の亡霊そのものでは?
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:39:01.09
433>>899
>ちなみに、怡土城は山頂から西側の麓まであった。
伊都国から見て日の出る方という意味と考えるのが妥当。
細石神社の参道は
日向峠とそのすぐ北側のクシフル山の方を向いている(いわゆる高祖山の頂上より南側)。
しかし、高祖山の東側に日向川、北側に日向の小戸、南側に日向峠もあるので、
高祖山全体を日向山と呼んでいる古書が正しいのだろう。<

ふーん、「古書」があったのか。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:41:05.96
>>433>>900
論理的でない思考を論理的に論破するのは非常に困難
なぜならば、非論理的思考者は論破された事実を理解することができないから

実例は類スレ主らの大和説者さんらとか さん。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 09:56:25.90
不勉強な九州説論者はそんなの知らない学者が間違ってると言い立てるだけだから議論になって無いわな
不利なものは否定したり前後の連続性を無視して九州から広まったとするだけ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 10:03:39.10
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 10:04:26.14
>>772
コミュ障
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 10:07:20.64
433>>901
さあ、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しのの大和説は、
少しでも説得力のある話をしないと滅びるぞ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 10:28:34.65
>>770
>平原遺跡も同じなのではないかな。
>畿内説は自説に都合の良いダブルスタンダードばかりだ。

平原遺跡と平原1号墓の区別ができないやつは書き込むなよ、めんどくさいなぁ

16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡  漢鏡3期
が伝世鏡なのは誰も否定してないだろ
100年200年古いけどな

そして、周溝の土器その他から、推定年代を出してるもの畿内の古墳と同じ
どこがダブスタなんだ?ww

無能が!
0792日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 10:37:16.85
>>781
まーたまちがえてるな
九州には皇国伝説もあり、卑国も実在したので、「皇国+卑国史観」なのだ。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 10:48:53.07
>>781
畿内説は、ヤマト王権とは別に筑紫倭国を提唱する。
それは盲目的な万世一系を叫ぶ畿内説とはまったく異なるものだよ。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 10:50:16.92
平原遺跡の耳璫が2世紀のものだとしたらオーパーツだよ。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:00:31.91
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0796日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 11:37:34.41
>>794
それ、証拠でもあるの?
九州説はいつも突然My結論を宣言するだけ
決して理由を言わない
だから学問ではない
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:39:27.36
433>>930
>関東から九州にかけての広い範囲で 環濠集落は2世紀末に一斉に破棄されて
人々は便利な平地に分散して住むようになったけどね<

九州倭国の「東征毛人五十五國」や、大和の三道将軍らの参加があったから。

>それで3世紀の巨大な遺跡は巻向しかないって状態になったんだけどね<

最大中心は弥生銀座だよ。
0798日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 11:41:18.98
>>789
全く相手に反論ができない
罵るだけ
反論どころか、相手と会話もできない

そんな>>789が典型的なコミュ障です
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:41:30.73
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、My結論を論破されたので、焦っているな。。。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:43:07.06
卑国って何?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:43:35.46
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男は、コミュニケーションを実行するための脳の部分に、障害があるのでは、ないのかな。。。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:48:59.78
433>>946
>巻向に住むのが北九州からこた卑弥呼で
巫女として男王の御霊を斎奉し
男王の神托にもとづいて国をおさめた<

「南≠東」などに拠って、×。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:53:11.54
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:53:47.94
433>>952
>実際は海流があるんで東に流されてついた先は出雲圏でそこが投馬国
八雲立つ出雲の宮の長官名は八耳と記紀に記されてるけど
八は接頭語なんで取り除くと出雲の長官名はミミってことになる
魏志倭人伝で投馬の長官名はミミと記されてるけど
これは出雲の宮の長官名のミミと同じなんでこのことからも出雲圏が投馬国<

「南≠東北」などで、×。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:54:57.61
>>802
おうちで家族相手に専制君主してる時は
「そんなのダメだ。許さん」
で通用するかもしれないけどね
世間じゃ通用しないよ
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:00:48.48
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、追い詰められてしまった。。。。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:06:46.41
九州説儲って全員発狂してるのか?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:09:14.63
433>>964
「南→東」などのような嘘つき騙しのウソをつけば
大和説が死ぬだけだよ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:12:31.66
>>808
ウソだって証拠を何も出せないんだから
ゆえない誹謗中傷だよな
これだから九州説は
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:27:39.82
筑後山門が古来稲作地帯だったことは、まず動かない。
弥生時代の海は南瀬高の海門あたりまで来たことはあったが、それ以上は海進しなかった。
卑弥呼の祭祀所はが、吉井信号付近にあった可能性は高い。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:36:31.50
>>810
卑弥呼が都を置いた邪馬台国は、大牟田、みやま、筑後、八女あたりにあった。
柳川はこの時期は、まだ海だったかもしれない。
邪馬台国の卑弥呼の祭祀所は筑後山門、邪馬台国の政治経済の中心地は八女にあっただろう。
熊本の狗奴国が山門に攻め込んだので、卑弥呼と巫女集団は八女に退避し、卑弥呼はそこで死んだ。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:36:37.20
塩泥沼地だよ
豚育てるか潟漁
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:40:53.36
邪馬台国が筑後でもいいよ。
帯方郡から一万二千里になるからね。
でも墓は平原遺跡。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:52:20.35
>>811
邪馬台国の政治経済の中心地と卑弥呼の祭祀所が別々にあったとする考え方は、日本書紀の神功皇后紀の田油津媛の記述でも追認される。
山門にいた田油津媛が神功軍に攻められたと聞いた兄の夏羽が軍勢を率いて山門にやって来るが、既に卑弥呼が死んだと聞いて、途中で引き返すことが記されている。
この夏羽は、おそらく八女にいたのだろう。
八女から山門へ、卑弥呼救援に向ったということになる。
ということは、8世紀初頭の日本書紀の編纂者たちは、3世紀の卑弥呼に関わる歴史をよく知っていたということになる。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:53:23.30
矢部川から北〜筑後川までの優良地である筑後・八女・広川・城島一帯は、
倭人伝に出てくる「次有り邪馬国(八女国)」ではないかな
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 12:55:43.99
>>813
高良の祇園山も捨てがたいけどね。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:00:18.53
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:00:47.84
>>814

仮に倭がその状況なら
普通に考えて曹魏は神功のほうを女王と認める
山奥の婆さんに用は無い
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:02:40.89
>>815
筑後と八女が政治経済の中心地であったことは、6世紀の磐井の墓とされる岩戸山古墳が八女古墳群にあって、大きな勢力が八女にあったことをしめしている。
邪馬(ヤマ・八女)の前にあるので山門(ヤマト)ということか。
有り得るかもね。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:05:37.06
九州は6世紀の前に牧が多く作られて勢力図は変っている
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:06:32.82
6世紀のものを3世紀の証拠とするのは虚偽にも程があるだろ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:10:03.51
6世紀のものを3世紀の証拠としたことが、バレたので、邪馬台国畿内説は破綻したのだね。。。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:13:13.08
>>819
古代三世紀ころの国割りの基本は、川から川まで。
だから、筑後川から矢部川までが邪馬国(八女国)で、
矢部川を渡ったところの山門(瀬高)から、肥後熊本の緑川・白川辺りまでが邪馬台国。
つまり山門郷は文字通り邪馬台国の入り口の正面玄関な。
(なお狗奴国は、筑前風土記や地元の史家が言うように球磨郡・球磨郷で良いのではないか。)
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:15:00.95
>>816
>高良の祇園山も捨てがたいけどね。

ハハハハハ  それにしても、九州説も根拠がお粗末だねぇ〜   しかも単発。   倭国(阿波)とあまりにもレベルが違い過ぎ。   @阿波
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:20:00.38
433>>968
>畿内の2世紀の遺跡で同レベルの副葬品は確認されていない。<

>纒向石塚古墳をはじめとして、纒向古墳群の埋葬主体部も副葬品も発掘できてないってだけだよ <

知り得た史料事実や発掘実態の帰納的確率的な推論をすればよい、と言うだけだ。

>畿内からは外れるが、丹波の大風呂南墳丘墓あたりでも、
ガラス製品も鉄刀も、 平原1号墓より豪華で充実している
でも、大風呂南墳丘墓を倭王墓だなんて誰も主張していない<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
丹波では、出雲と越の勢力圏であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの、点在的な拠点があっただけだ。

>平原1号墓を過大評価するのは止めとけって何度も教えてるのにww
伊都国の有力家系の厚葬墓・被葬者は女性、が相応の評価だよ<

おそらく、卑弥呼の宗女に選ばれた、阿毎氏の傍系部族の娘の壹與の墓であったんだろう、
という事になるだけだ。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:26:46.48
>>433>>974
>でも卑弥呼がもらった魏代の舶載鏡は1枚たりともないww
そんなのを卑弥呼の墓だと主張するのが、バカっぽいww <

明帝の下賜になる、21枚もの「尚方作」の方格規矩がある。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:27:37.89
>>818
神功は、4世紀末だからなあ。
3世紀の魏とは、関係ないし。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:30:24.32
>>824
阿波の卑弥呼の墓は、どこにしてるのよ。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:32:52.44
>>827

神功が4世紀末なら、そもそも>>814の田油津媛=卑弥呼の設定がおかしい
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:36:23.97
433>>978
>現実を見ろ
平原1号が2世紀の墓だと結論を出したのは公式の発掘調査であって、
畿内説とか関係ない目を覚ませ<

そりゃ無理だ。
「公式の発掘調査」に選ばれる学者や公務員の殆どが、既に、
「南→東」などの嘘吐き騙しの、皇国史観大和説に狂った・・・・アホ詐欺師ではないか。
それにこの男も「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言を使う、
「結論先にありき」の・・・・アホ詐欺師ではないか。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:39:42.63
>>823
川を境界とするのなら、菊池川が邪馬台国と狗奴国の境界になるが、菊池川の上流は荒尾市あたりの背後となり、菊池川上流と荒尾市の間の山は比較的低く、交通路もあるので、荒尾市あたりが双方の入り混じり地域とみるのがいい。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:40:00.96
433>>981
このように、なにも常識のない中傷ばかりの、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをする、
・・・・アホ詐欺師の大和説
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:44:48.86
433>>989の訂正
>これだから九州説は・・・<

「南→東」などの史料事実の否定曲解をする
嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説は・・・。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:44:54.00
>>829
日本書紀は、神功は卑弥呼の時代の人物に設定している。
しかし、実際の実年代では、応神天皇の母である神功は4世紀末。
実際の4世紀末の人物と3世紀の実際の魏の皇帝を、同一時空に置くわけにはいかないな。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:45:33.90
>>828
>阿波の卑弥呼の墓は、どこにしてるのよ。

はいどうぞ。 びっくりしないでね。

「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。  @阿波

https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 13:58:24.37
433>>997
>それだと、魏の元号の入った記年銘鏡を説明できないだろ?
魏との交流が一大国家イベントだったから、記念の記年銘鏡が作られたんだよ <

景初三以後の紀年鏡は、明帝の詔書の景初二年以後だから、明帝の下賜鏡ではなく、
渡来の呉系楽浪鏡師らが商売として造った鏡。

>平原1号墓に魏からもらった舶載鏡がないことをごまかすために<

最低、21枚の「尚方作」の鏡が有る。

>一生懸命詭弁を考えているんだろうけれど、
実際に出土した考古遺物によって簡単に否定される<

全く否定されなかった。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:04:39.92
433>>999
>>呉から遼東へ船で行く場合にも「水行」と書かれた。<

>原文は? これと勘違いしてないか?
FAQ33
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
渡海になってるけどさww <

違うときの話、みたいだな。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:06:09.61
>>814
田油津姫の兄は神功皇后に攻められて自分の屋敷ごと焼かれてしまい、その地は長らく夏焼と呼ばれた。
江戸時代になって、あまりにも不吉な名前なので、夏吉と名を改めた。
今の福岡県田川市の中にある。

田油津姫の本拠地は、銅を算出していた香春岳の香春宮であったとされる。
ちなみに高良宮とは音が共通であり、ゆかりのある地名と考えられている。
神功皇后と田油津姫の戦いは、福岡県北部海岸沿いに支配権を持つ天津神の末裔と、福岡県南部の内陸に支配権を持つ国津神の末裔の戦いであった。

この田油津姫は、2代前の景行天皇の御代に筑紫の女王として八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔とされている。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:19:25.55
>>834

なら山門の田油津媛も関係ない
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:19:27.11
>>837
「『水行』と書かれた」と断定したくせに
原文は出せないのね

九州説はこれだから
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:23:36.67
>>823 修正
7万戸の大国である邪馬台国の南の国境として、熊本平野の緑川白川境はチト不適当だったかも。
やはりここは球磨川(狗奴川・河口は八代市)で、上流の人里離れた球磨盆地に狗奴国かもね。
(少なくともここが女王の境界尽きるところ。)
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:42:51.55
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 14:51:32.14
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:08:27.68
>>838

夏羽の亡霊の祟を鎮めるために12世紀に宇佐から八幡宮が勧請されて
不吉な夏焼の村名が江戸時代まで使われ続けていたというのは
ちょっとおかしい
困窮のどん底にあったということだから、被差別部落だったから
そう呼ばれていたのではないか
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:09:04.38
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:11:16.47
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、追い詰められてしまった。。。。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:11:46.73
おい、九州説じじい
つくり話はチラシの裏に書けよ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:13:19.27
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、追い詰められてしまったので、作り話をチラシの裏に書いているのではないのかな。。。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:22:45.23
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:23:10.86
850
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:23:35.58
夏羽を倒した神功皇后の息子を祭る八幡神社を勧請してきて鎮めようというのは、あまりと言えばあんまりだ。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:26:11.78
434>>72
>御所廻りの京都御苑にある神社は全部宗像系だしね 土御門系だと賢所は元々宗形、宗像の分社。白川家だと伊勢?<

ふーん。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:39:37.87
>>852
言いたい事が特にないならレス付けるなよ
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 15:46:11.99
434>>76
>日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係 つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ <

亡くなった「紀小弓」の「紀」氏が、高良大社の隆慶上人伝に拠って、
「姫」氏→「紀」氏の文字変更をした姓であり、
だから「倭子連連」の「倭」も、九州倭国の「倭」であった可能性があり、
これも、「倭国の存在や歴史を隠蔽盗用」しようとした半分×書の書紀の、
「ついうっかり」の倭國存在の事実を書いてしまった事になる例。

ちなみに、紀氏は紀貫之や紀友則が有名だが、
和歌山の「紀伊」は、
東海姫氏國の「紀」氏と、天孫族の伊都国系の阿毎(アマの伊)氏の、
合同支配地であった可能性が十分にある。
0855日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 15:50:32.00
>>852
あ、これは俺も知らなかった。
天皇家を守護は宗像の役割だというのが、平安時代でも筑紫の頃から継承されていたんだな。
0856日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 15:51:56.78
>>849
仲哀天皇の祖父の景行天皇が、九州北東部を京都に定めたからだよ。
0857日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 16:02:29.02
434>>77
>日本書紀 巻第六 活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。<

甕襲という名前から、この人は中九州から南九州の「襲」部族出の人であり、
当然、熊襲や姫氏の関連部族民であり、
更に狗奴國や、其餘旁國の中の「蘇」部族にも関係する可能性もある事になり、
実在性が十分にあるから、「ムジナ」の腹から出た「八尺瓊勾玉」は、
「八寸瓊勾玉」ではないかったか?という推定も出来る事になる。
0858日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 16:04:49.61
纏向の掘立柱建物がいつ建てられたか分析もできないくせに3世紀と言うキナイコシ
4世紀以降に作っても掘った穴の周りに3世紀の物が残っていても何ら不思議で無いのにね
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 16:09:49.73
>>835
阿波の杉尾山にある八倉比売神社は、元々は杉尾山の北西にある気延山の山頂にあったそうだ。
卑弥呼と同一とされる八倉比売の五角墓の各角は天照大神、大国主、少彦名、埴安媛、宇迦御魂に相当するそう
0860日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 16:10:06.12
434>>91
>オモイカネの鏡はアマテラスの命により宗像氏族が筑紫に運んだことが記紀に明記されている。<

ふーん。
0861日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 16:18:08.63
>>859
操作ミス

…相当するそうだ。
この神社の近くには真名井があるそうだから、八倉比売は元々は宇迦神だろう。
丹後の豊受比売と関係があるのかもなあ。
また、天石門別神は、天皇の宮殿の四方の門の神だそうで、各地にこの神を祀る神社がある。
つまり、天石門別八倉比売神社は、阿波得意の八十八箇所思想による神々寄せ集め神社のようだなあ。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 16:30:17.50
阿波は難しい 宝の宝庫だが調査が進んでいない
予算をつけ研究の進まんことを期待する
0863日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 16:37:53.60
>>858
>纏向の掘立柱建物がいつ建てられたか分析もできないくせに3世紀と言うキナイコシ

分析されてるから発表されてるわけだが
なにも知らないで中傷してるのか
これだから九州説は
0864日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 16:42:01.58
434>>92
>428の811を読んでいないのか?<

428の811には、そんなものはなかったよ。

>魏明帝は、圜丘と天郊を都の南、方丘と地郊を都の北に作らせた。
これを晋の武帝は、南郊に圜丘と天郊を併せ、北郊に方丘と地郊を併せ整備し直した。
つまり方丘と圜丘とが並んだことはない。 武帝の整備した施設と前方後円墳とは一切関係がない。<

428の813に、《明帝紀》注 《魏書載詔》曰「(略)
今祀圜丘,以始祖帝舜配,號圜丘曰皇皇帝天;
方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;
天郊所祭曰皇天之神,以太祖武皇帝配;
地郊所祭曰皇地之祇,以武宣后配;宗祀皇考高祖文皇帝於明堂,以配上帝。」
至晉泰始二年,并圜丘、方丘二至之祀於南北郊。
があった。
しかし、これは《明帝紀》の注でしかなく、後代学者に拠る説明でしかなく、
しかも、西晋武帝の主張と同じなのか?も不明だし、
「天郊」と「地郊」の場所も明確にしていないし、
「至晉泰始二年,并圜丘方丘二至之祀於南北郊」も注の文だし、
「并圜丘方丘」も、都の郊外にまで広げれば、「并」した事にもならないし、
皇帝とその妻を見えないようなはるか離れた場所に埋葬する、という事がおかしい。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 16:45:07.75
>>855
どこからこんなデタラメ偽史が沸いてくるんだろうw

紀氏は武内宿祢が祖。
紀伊は、和銅六年の好字令の結果である。紀伊國で「きのくに」と読むのは常識だ。
同じく二文字になった律令國に倭國→大和國、津國→攝津國、泉國→和泉國がある。
0866日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 17:26:54.05
434>>108
>円形の部分が墓で方形の部分は墓の付帯施設<

《明帝紀》注 《魏書載詔》曰「(略)
今祀圜丘,以始祖帝舜配,號圜丘曰皇皇帝天;
方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;
だから、
圜丘は皇帝を祀り天とし、方丘はは皇帝の妃を配する、
という思考であったようだね。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:28:45.15
>>866
墓じゃないから
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:31:54.44
434>>111
>三輪山のふもとの巻向は 大国主の御霊を斎俸する為の祭都だし
大国主の御霊を斎俸する巫女が卑弥呼ってことになる<

ありゃ?、この男は、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者であったのか?。
読んでしまって、損をした。
0869日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 17:33:50.44
>>865
>紀氏は武内宿祢が祖。

倭国(阿波)には、その武内宿禰が居た痕跡もあるんだよ。   @阿波

武内宿禰の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。
当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。
「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、武内宿禰の由縁の地が寄付の理由であったと理解される。
また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。
つまり、現在の阿波国上板町大山から板野町矢武一帯は、武内宿禰の領地、または所縁の地であったとする伝承が存在している。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:39:35.00
蘇我、葛城氏のおこりはそれぞれ、蘇我石川宿禰と葛城長江曽都比古となるが、ともに武内宿禰の子。
武内宿禰は、第八代孝元天皇と伊迦賀色許売命との間に生まれた彦太忍信命(ひこふとおしのま)の子とある。
また伊迦賀色許売命は、次帝の開化天皇の妃ともなり、崇神天皇を生み、、その崇神天皇は孝元天皇と波邇夜須比売(はにやすひめ)との間に生まれた建波邇夜須比古(たてはにやすひこ 武埴安彦)との皇位争いに勝利し、閨閥を拡げていったのである。
もちろん、伊迦賀色許売命も倭国(阿波)の忌部の郷に日本で唯一祀られている。   @阿波

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2014/12/15/212611
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:47:43.98
纏向遺跡については考え方を変えた方が良いだろうな

よく言われるような巨大な都と言うのは発掘の現実にそぐわない

竪穴式住居がないだけでなく、掘立柱建物もさほどなく基本的に1間2間の長方形の小さい物が殆ど
人が住んでいたと言う痕跡が希薄
そもそもここに縄文弥生と遺跡が無いのは湿地帯で耕作にも居住にも向かない土地だったからなわけで
見つかるものも居城と考えられる大型建造物以外は、祭祀の痕跡と、巨大古墳を繋ぐ水路が主

実際に人が住む場所は纏向を取り囲むように分布する集落遺跡の方だろう
纏向は都市ではなく祭祀の主催者の居城と古墳作成と祭祀の為だけに作られた遺跡とみるのが自然
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:51:27.17
古墳のような巨大なモニュメントを有用な土地に作るのは現実的ではないからな
祭祀の為だけの場所を使える場所を潰して作るのも同様
また多くの周辺地域の連合と言う形で出来上がった邪馬台国の性格上出来るだけ中立の利害のない場所を選びたいと言う事情もあるだろう

そうなると「それまで誰もいなかった使い物にならない湿地帯」に祭祀と古墳を作る場所を選んだと考えると辻褄が合うだろう

纏向が「都」と言うには不自然な点が多いこともそう考えると合点がいく
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:51:58.04
>>862
>阿波は難しい 宝の宝庫だが調査が進んでいない

結構、郷土史家により、調査は進んでるんですよ。
ただ、御用学者が三猿を決め込んでるだけ。   @阿波 
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 17:59:34.18
そもそも纒向には魏志倭人伝にあるような、鉄で武装した兵がいた跡もないし、高くそびえた楼閣もない。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:04:37.24
>>874
証拠は?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:22:58.55
434>>131
>そして、みやま市全域が祭祀センターというのが完全に破綻しているのは
早いとこ確認してくれ<

それなら、「南≠東」などに拠って、大和説というのが完全に破綻している事を、
早いとこ確認してくれ。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:29:28.48
>>858
>纏向の掘立柱建物がいつ建てられたか分析もできないくせに3世紀と言うキナイコシ

よく俺にもわからんが、たぶん纏向の掘立柱建物は不良建物だったから撤去したのかも
石床等が無くしっかりした基礎が出来てなので、上物を建てた時不都合が生じ柱ごと撤去した。
だから柱の残骸も無い

>4世紀以降に作っても掘った穴の周りに3世紀の物が残っていても何ら不思議で無いのにね <

これは、周りの状況から3世紀と推測したのであろうが証拠が無いのは確かである 
柔軟な若い研究者に期待するしかない
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:31:47.70
追記
卑弥呼が立派な宮殿に住む理由も無いし、倭人伝では王宮に言及していない
纏向はやや先走りの感はある
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:33:56.29
>>875
無い物ねだりはよくないよ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:34:53.38
>>857
>関連部族民

九州説だと「関連部族民」程度でも王権のレガリアが持てるんだ
ふーン、すごいね
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:40:06.41
434>>132
>ってことで墓が円形なんで円には方向がないし
方向に対するこだわりが無いんだよね
>江戸時代の記述でも前方後円墳の墓は円形と記してる<

「至晉泰始二年,并圜丘方丘、二至之祀於南北郊」の記載は、
何での記載なのか?は知らんが、南北に拘っている事になる。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:40:56.15
謎のスレ()などを読んでみた?
本当に、ほとんど同じ話(書き込み、書籍など)ばかり、
ネットではなくて、現実の世界でも同じ


神代〜直系、一系とか言っている人たちがいるでしょ、
そのような人の事を基地外だと言いたいんじゃないの?
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:42:53.24
証拠は? 連発爺さん=初心者というよりキナイコシだろww
早く纏向から大集落跡みつかるといいね
纏向野の小中学校が木造から鉄筋に変えた時に何か見つかった?
纏向遺跡公園を作るようだが公園の土掘り返したらいいよ
観光用公衆便所作るとき何か見つかった?発端だろ

事事左様で纏向の研究を邪魔してるのは桜井市そのものか、嘘つき学者かww
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:46:48.67
434>>136
>男王(大国主)の御霊を斎俸する巫女王が卑弥呼で
卑弥呼の住まいとして三輪山のふもとに祭都としての巻向が造営された<

「南≠東」などに拠って、×。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:53:33.76
434>>140
>つまり、箸墓は後の前方後円墳とは異なり、前方部の後円部との接続部分が低くて
後円部だけが墓とみなされるのがある意味普通だってことだね! <

卑弥呼の墓であれば、魏使らが実際に見聞計測しているんだから、
箸墓は、卑弥呼の墓ではない、という事だね。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:56:18.00
王がいるところはどんなみすぼらしいとこでも都
纒向はみすぼらしくは無いけどね

鏡と櫛と巫女と兵
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:58:04.72
宮内庁の陵墓比定はおかしいよ
箸墓から変な物出てきたのかな
俺、転勤族だがいつも聞く話、大阪勤務の時も聞いた(関西人の多くがそう思っている?)
「陵墓指定し、発掘調査させると天皇が渡来人わかるため」・・これは日本全国いたるところで聞くよ
つまり、邪馬台国(倭人の国)とヤマト王政は別の国との理解であろう
邪馬台国は何処にあったかは議論の範疇だろうが
邪馬台国(倭国)が初期ヤマト王政なら渡来人との連合政権・・倭人伝では邪馬台国は倭人の国なのだが

現天皇制に反旗を振りかざしているのではないが・・皇国史観はもういいのでは
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 18:58:39.86
434>>141
>方形の部分は祭事が行われる部分で
墓じゃないんで人間がその上に乗って祭事をおこなってもOK<

今祀圜丘,以始祖帝舜配,號圜丘曰皇皇帝天;
方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;
天郊所祭曰皇天之神,以太祖武皇帝配;
地郊所祭曰皇地之祇,以武宣后配
だから、方丘は、皇后を配するところであり、
「人間がその上に乗って祭事をおこなってもOK」は、×。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:02:51.23
434>>148
>卑弥呼が斎俸したのは三輪山に納められてる大国主の御霊だ <

「南≠東」などに拠って、×だ。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:03:15.03
いい加減に気づいただろう


家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、あの写真とか。

キュウリのような葉、葱の華・・・、
たしか伊達郡(山の上のほう)というところに住んでいたと言っていたし。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:04:54.26
434>>151
>男王の御霊はヤタノ鏡に移され
三輪山に据えられ三輪山の裾野に祭都である巻向が建設され
卑弥呼はそこで男王の御霊を斎奉した<

「南≠東」などに拠って、×。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:06:27.61
>>886
纏向遺跡は見すぼらしいとは誰も言ってないよ
遺跡の価値はあるが、あまりにも広範囲に遺跡を捉えすぎだと思う
石野博信によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」と言うが????
彼の根拠はあまりにもズサンだよ
反論があれば纏向が「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」との根拠を書きこんでくれ
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:08:53.66
アラハバキ(仮)というスレ


鷹野さん?という書き込みw

本当は高野さんでしょ?

もれ(仮名)の知っている高野さんは、
うちだ・ゆーやのバンドでドラムをやっていて・・・・・、
家の隣に住んでいたの
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:13:34.65
纏向遺跡は橿原市、天理市にも範囲を広げても誰も文句は言わないよ
古代同じ文化圏だろ
桜井市はどう言うか知らんが学より観光優先の市が桜井だからなww
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:14:28.62
当時、亀戸(天神)に行ったりもしたという話をしていたり、
何なんだろう

受験などで言ったわけではないと言っているし、
老婆よりも、前の世代の話
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:16:08.41
鷹は前から謎なんだよな

熊鷹
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:24:33.86
スレ主死んだ?
くだらんテンプレ書いてるのは誰?
一応読んでるが、反論にこたえないな
あまり関心の無い適当なFAQ作るし


ここで良く書き込む
ザラコクの南≠東へ反論にテンプレの半分とは言わないが多くを割くべき
また
ここで良くカキコム
阿波への反論もテンプレにかきこむべきだ

方位は誤情報とか阿波で7万戸は無理とかで済ませるのかな?
倭人伝に基く遺物の比較もしないし・・・・・・・・・・・・・・
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:28:40.80
>>897
今 >>1は風呂か飯 そのうち来るさ
ここ以外の趣味もない人だし自論も無いし最近の情勢に疎いし
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:28:59.07
>>894
>纏向遺跡は橿原市、天理市にも範囲を広げても誰も文句は言わないよ
>古代同じ文化圏だろ

いかんだろ。
建物が連続しているならともかく。
他の地域ではたとえ遺構が連続していても、役割などが違ったり年代が違う可能性があると分けていることが多い。
纒向だけ、隣接していないのに一つとみなしたらおかしいだろ。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:29:36.07
>>896
熊鷲?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:32:20.46
大体、200回も掘っても何も出ないのだから、纒向からはもう何も出ない。
ずっと都市化の進んだ福岡でちゃんと発掘しているのに、奈良盆地の田舎で言い訳は効かないよ。
少なくとも邪馬台国とは程遠いことがわかってしまった。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:38:43.16
全一病=>>1を虐待する奴
やめとけ彼も人間だ 弱い者イジメはよせ
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:42:07.20
またキウス発狂
他人の振りで横レスしたり自分にレスしたりと自演中毒ここに極まる
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:42:10.49
434>>155
大風呂南墳丘墓は、一号墓(墳丘規模=尾根筋方向の長さ約二七m、尾根と直交する長さ約一八m、
墳丘高約二mの長方形)
に築かれた四基の土壙(第一−第四主体部)から出土した副葬品の一括である。
その内訳は、腕飾り(ガラス釧一箇、銅釧一三箇、貝輪残欠一箇)と
玉(ガラス勾玉六箇、碧玉管玉三五六箇)、
鉄製品(鉄剣一四本等)、および附とした土器・土器片七点から構成され、
その総数は四一二点である。
であるから、平原の2000点よりも少ないな。
鏡も鉄鏃もないから、大和とも全く関係もなく、
出雲と越の間にあった地域部族の墓だな。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:43:54.87
本当に『姥清水』?
この作品だけ十分みたいな話ばかりしている
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:43:57.45
このスレで最近思うのだが
邪馬台国の所在地は別にして
北部九州、出雲、阿波が邪馬台国に絡んでいたのは間違いないだろう
ヤマトはピンとこない倭種の別国じゃなかろうか
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:44:57.22
434>>157
>男王の御霊の神託を告げる存在としての巫女が卑弥呼ということだ
男王の御霊をヤタノ鏡に移して
その鏡を三輪山に据え三輪山のふもとに祭都である幕向くを建設し
九州から卑弥呼を都に向かいいれた<

「南≠東」などに拠って、×だな。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:49:02.21
434>>162
巫女としての卑弥呼の祭事は倭国大乱前の男王の神托を告げることの政治で
これが鬼道だ
男王の御霊を移した鏡が平原のヤタノ鏡で この鏡に男王の御霊を移しそれを三輪山に据えて
三輪山の山麓に幕向くを建設した
記紀でも生前の天照は神を奉斎する巫女として表現さてる
ようするに生前の天照は先代の男王に御霊を奉斎する巫女なんだ<

「南≠東」などに拠って、×だ。

これが共立された巫女としての女王の統治形態なんだけど
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:50:13.55
>>902
威張ってスレを我が物顔に独占しているのだから、弱い者ではない。
また、彼が嘘を垂れ流すのであれば、それは正さなくてはいけない。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:52:34.95
434>>160
>邪馬台国は大和だ 男王の死後に国が乱れ
卑弥呼が男王の御霊を奉斎する巫女としての女王に共立された<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和も×だ。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:53:02.72
キターーーー
馬鹿がキターー
罵声アラシの類がキターーーーーー


じゃあ畿内説に質問
ヤマトと阿波の關係を示せ
@阿波は忌部で説明してるがネ

またまたいつもの嘆きの一言も慣れたからOKするよww
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:54:35.44
伊勢、出雲・・・不明、何だか知らないけど、
そこに誰が住んでいるんだ?という話
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:55:45.20
基地外は頭の病院に行け

『精神科』

これでググると出てくるから
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:58:17.66
>>909
テンプレよんだ?

誰もこんな質問してねーし答える>>1も馬鹿だよ

151 ◆UiepmfCeDJqf 2019/03/09(土) 15:05:46.19
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 19:58:51.17
434>>170
>平原で作られたヤタノ鏡は男王(大国主)の御霊代で
その鏡は三輪山に据えられてふもとに巻向が建設された
九州出身の巫女である卑弥呼が巻向に迎えられ
男王(大国主)の御霊を奉斎する巫女として 国を治めた<

「南≠東」などに拠って、×。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:04:45.28
>>913
イミフ
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:05:00.74
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:07:14.39
>>918
いい加減だな
根拠も証拠も何もないよ
あれば列記してよ
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:07:26.37
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:08:23.97
超時空(>>1当時の話、邪馬台国の時代など?)の話ばかりしているんだろう、
だから基地外だと言っているんだよ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:08:58.98
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:13:29.64
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまい、自殺した可能性が高まってきたので、弔ってあげれば、良いのではないのかな。。。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:16:27.95
>>928
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまい、自殺したら、おめでたいのではないのかな。。。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:17:12.86
434>>195
「南→東」など嘘つき騙しの大和説者の脳は、
現実と妄想の区別がつかない
妄想でしかないものを現実のこととして語りだす
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:17:33.39
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている、韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男が、焦っているな。。。

929日本@名無史さん2019/03/11(月) 20:15:27.01
九州説が狂えば狂うほど負けが鮮明に
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:19:23.01
もうあえて議論しなくてもいいな
九州説が負けて発狂してますよと時々宣伝してやれば
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:20:43.31
>>879
よくぞ言った[無い物ねだりはよくないよ ]・・その通り
畿内説は無い物をあったように嘘をつく


>>874
そもそも纒向には魏志倭人伝にあるような、鉄で武装した兵がいた跡もないし、高くそびえた楼閣もない。

>>875がカキコミ
証拠は?

>>879がカキコミ
無い物ねだりはよくないよ
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:22:13.43
文化財保護法があるので都市化が進んでる方が発掘が進むんだよ
開発や建築のついでに発掘してるのだから
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:22:37.61
魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が雇用した韓国人や北朝鮮人のキナイコシや3寸男は、頭が悪いな。。。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:24:13.97
邪馬台国畿内説は、破綻しました。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:26:46.61
>>927
バレたかな
 土日は親の介護だから暇がないよ
あんたは家族いるの?

次スレ立てるのに忙しい?それとも夜中に立てる?
まあ これは止めときなさい テンプレが長くなるだけだから
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:26:58.64
邪馬台国畿内説は、破綻し、発狂したので、もうあえて議論しなくてもいいのでは、ないのかな、、、
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:27:11.64
よーし金取って九州説を見世物にしようぜ
エサを与えないで下さいって札立てて
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:27:42.12
434>>201
>本当はそんな遠くはない邪馬台国を<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言だから、×。

>陳寿がはるか南にある国として魏志倭人伝に書いたんだよ <

陳寿は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わる書き方をして、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國女王之所都である書き方をして、
会稽東治之東という推定位置を書いているから、
「はるか南にある国」というこの大和説男は、×人間。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:30:41.29
纒向遺蹟は、九州から侵略してきた倭人が、ネアンデルタールを捕獲するための収容所だった可能性が高まってきたのでは、ないのかな、、、
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:31:43.89
九州説は自スレも立てられないくらい落魄してるから気の毒に思うよ
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:31:48.89
434>>206
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
「邪馬台国」とか「畿内」とかの史料事実に存在もしない文言を使うようになって、
世間の人々を騙すしかなくなった大和説はお終いだね
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:32:50.23
邪馬台国畿内説は、破綻しました。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:36:16.30
434>>209
オイオイ、
「キョクウの人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観大和説」を、
安部文部省や右翼マスコミや学会教育界の寄生虫とは、
ちと言いすぎじゃないの
実際その通りだけどさ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:38:11.74
なにがなんだか
ヤマト説が進化して畿内説?
畿内説が進化して近畿説?
近畿説が進化して出雲も含めた山陰近畿説?
東海も含めた近畿中部説?

ヤマト説でいいんでねーの7万戸が邪魔してるだけだろ
7万戸は無視でいいよ 伊都国でさえ千余戸だろ
九州説は奴国の2万戸は無視だろ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:39:33.13
全てに反証があがって論じる事も出来なくなって
罵声しか出ない九州説
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:40:01.27
漫画など・・・?
そういう作品などを好きな人達がいるから、制作するなとも言えないんだけど、
本当に一部の漫画やアニメ、ゲーム(あと創作関係)なども、
人権侵害のような気がしたり


登場するキャラ(キャラ名、仮名?含め)の、
子孫や末裔と思われる人たちがいるでしょ、いないのかな?


その人たち(子孫や末裔)の先祖、
すでに、この世にいない人物の話だから人権など、
ありませんという事なのかな
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:40:57.42
ただいまの時間のキチ見本出演者は
・ザラコク
・連続句読点
・キウス
です
危ないので触れないでください
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:42:36.53
>>945
お馬鹿さん
5ちゃんだよ
スレ主もザラコクも@阿波もキヤスも知っての上の趣味・・勉強して欲しいが5ちゃんだから
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:44:27.12
434>>210
>元が淮南子によった架空の世界の果てまでの距離だから
それに余がついた所で実際の距離を書いてる事にはならないよ<

架空の距離とか、形容詞的な数値説明とか、象徴的な数量説明の時は、
近似値や有効数字が何桁もあるようなややこしい数値を使わず、
「白髪三千丈」とか「千里馬」とか「萬里」とかのような、
有効数字1〜2桁位以内の簡単明瞭なな数字化した表現をするものなの。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:45:07.59
九州説がああです、こうですと、
連日、キュウシュウ、キュウシュウを連呼する人がいてくれて助かるねえ。九州説は・・、
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:46:58.48
〇キウス
✖キヤス

ツブヤも入れとく
俺も暇人だからここに時折来てるけど 畿内説も人材が不足
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:50:42.97
>>1の一言自演タイム突入
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:51:27.59
434>>229
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説も、
そろそろ自身の破滅を肌で感じてるんじゃないかな?
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:52:08.95
現代人の中には、
1ミリも譲らない人たちがいるからねえ。
そういう人たちには、三国志・倭人伝のような古代中国史は向かないねえ。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:53:52.43
>>1
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた

どうでもいいやん 古墳なんて全国至る所にあるじゃん
大きさで決めるぐらいの考古学ってか
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:54:27.20
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:56:48.62
纒向遺蹟は、九州から侵略してきた倭人が、ネアンデルタールを捕獲するための収容所だった可能性が高まってきたのでは、ないのかな、、、
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:59:27.29
434>>231
>しかし、その石塚の庄内が3世紀末というのは、どんなデータによる結論なのか<

石塚の庄内が、大和の庄内で一番古い庄内1である事と、
石塚は、撥型前方後円墳であるために、
卑弥呼の冢や、壹與の平原や、
那珂八幡の「くびれ部が反るように広がる帆立貝型前方後円墳」よりも、
新しい、
という事になったから。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 20:59:57.84
>>959
しかり
邪馬台国は無かったでもいいよ
畿内説がヒッチャキになる必要ないよ  物証も少ないし
九州や出雲、阿波・・・に邪馬台国が無ければいいだけの説だろ
現代の畿内説の学者は生活と名誉だだけ・・歴史に名も残さないよ
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:02:18.45
434>>233
大和も阿波も、「南≠東」に対するまともな反論や論拠を出せよ
空想小説のプロットばかりじゃないか
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:05:31.30
434>>235
さーて、人類に対しての赤痢に等しい、
「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説の駆除を、
もうちょっと頑張るか
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:05:32.97
男王の死後に倭国連合は大乱状態となった

大乱状態から脱するために
倭国連合は巫女である卑弥呼を共立した

卑弥呼の鬼道とは
鬼籍に入った人の御霊を信仰の対象とする宗教だ

卑弥呼は御霊の神託を告げることで祭事をおこなった

男王の御霊は平原で作らてたヤタノ鏡に移され
三輪山に据えられた

三輪山のふもとには
男王の御霊を奉斎するてめの都がつくられ
その都が巻向だ

九州の卑弥呼は大和の巻向のはいり
男王の御霊の神託を告げる巫女女王となり祭りごとをおこない
弟がそれを補佐した

卑弥呼にともなって沢山の人々が北九州から関西圏にはいったので
北九州と関西圏は地名が同じにった
(移民したひとが自らの故郷の地名を移民先の土地になずけた)
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:06:10.23
>>968

卑弥呼の死後に男の王が共立されたけど
再び倭国連合は乱れた

男の王は追放され
巫女女王としてトヨが共立された

卑弥呼の御霊はヤタノ鏡に移され
トヨは卑弥呼の御霊の神託を告げる巫女女王として祭りごとをおこなった

トヨの死後に崇神(神武)が共立されたけど
崇神(神武)は武力による倭国連合の統一を試みた
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:07:12.72
おーーーい
早く寝ろ
夜中に新スレ立つから
テンプレは長すぎだし支離滅裂だが・・老人の楽しみぐらいでヨロシク
夜尿症のスレ主をいたわれよ
ザラコクは夜中にはほとんど来ない 健全な生活者だと思う
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:08:19.87
434>.237
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、皇国史観精神病。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:09:02.17
ウンコ寄生虫説だもん
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:11:34.11
大馬鹿ものスレ主も介護する大馬鹿者
939日本@名無史さん2019/03/11(月) 20:26:46.61>>943
>>927
バレたかな
 土日は親の介護だから暇がないよ
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:11:50.05
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4b5d6c9abf61af29
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
434>>239
九州説にヘラヘラと馬鹿にされて、
何も言い返せない「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は
儒教道徳的に最低最悪の気分だろうて

(これで、また返事が遅くnarune)
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:12:17.25
それよりも

なぜ家(『松傾』)の話ばかりしているんだろう、
有名人なのかな?

アラハバキというスレでも、
そういう地名(国)の話が出てきたり

一時期、住んでいたことがあるとか?
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:14:17.65
九州説がザラコク擁護するけど
時々書き込みに南≠東だから×とかザラコクに背後から撃たれてて笑う
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:15:40.47
アラハバキというスレの話、
国を建てて一時期(数世代くらい?)住んでいたみたいな事を言っていない?
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:21:24.32
九州説は言うことがみんなバラバラだもんな
邪馬台国は伊都国だ大分だいや北部連合だと
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:25:24.62
>>973「南→東」

船の方向が南でも海流の影響で南にすすむとは限らない

海流に流されて日本海を東に進み
ついた先は出雲圏でそこが投馬国だ

投馬ここからさらに水行し上陸後に南にくだれば
そこが関西圏でそこが邪馬台国
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:25:35.16
なんせ九州だから、最低でも九つの説がある。
毎度のことだ、そう気にすんな。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:35:44.40
>>972
夜中までスレ監視してんの?
怖いわ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:36:30.60
>>945
>九州説は自スレも立てられないくらい落魄してるから気の毒に思うよ

落魄よりも零落だろうw
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:40:54.15
ザラコク、キウス、連続句読点(最近は韓国推し)、つぶやきで
スレが埋まるとさすがに話が進まないな
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:41:49.35
九州説は手詰まり
南≠東だから×か邪馬台国はないかあとは罵倒するぐらいしかないからな
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:41:58.17
巻向以前の最大の遺跡は出雲圏のムギバンダ遺跡で
この遺跡は同時代の吉野ヶ里よりはるかに大きい

遺跡の大きさで見た場合は
倭国大乱前の倭国連合の王は出雲圏の王といえる

倭国大乱後
卑弥呼は巫女的女王として男王の御霊を奉斎したが
この男王が出雲国王なら男王の御霊代としてどんな鏡が似合うのか

八雲立つ出雲と呼ばれてるし
出雲の宮の長官名は八耳だし
大国主は八矛の尊と呼ばれてたし

八という数字は出雲的なので
円周が八ヤタで八花八葉の内行花紋鏡なら
出雲の男王の御霊代としてピッたしだ

平原のヤタノ鏡は2世紀末に作られ八花八葉の内行花紋鏡だか
これは出雲の男王の御霊代の鏡としてふさわしい

出雲国造神賀詞によれば大国主の御霊はヤタノ鏡に移され
三輪山に据えられ大和の守護神となったということだ

このヤタ鏡が平原で作られた八花八葉の内行花紋鏡だ

三輪山の大国主の御霊をご神体とする大神神社が三輪山のふもとにたてられたが
これが最古の神社とされてる

このときに御霊が納められた鏡をご神体とする神社の形式ができたということで
これがご神体を鏡とする鏡祭祀の始まりだ
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:44:23.49
そういやニューカマーが居たな
鏡祭祀が2世紀末で卑弥呼=天照説
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:44:37.50
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:45:07.93
993
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:48:19.55
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:48:53.43
995
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:48:56.58
995
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:50:03.66
鏡祭祀の始まりは
倭国大乱前の男王の御霊がヤタノ鏡に移されたときで
これは2世紀末だ

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
2世紀末を境に全国で一斉に大型銅鐸が製造されなくなった
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 21:50:15.76
『松傾』の話でしょ?

そこの国(当時の朝鮮半島?)の民族ではない、
以前から同じようなことを言ってる人がいたでしょ
1000日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:50:20.58
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