天智朝と天武朝
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>>230
ずいぶんと古いネタ持ち出してきたな無能チョンコw
祢軍墓誌の「于時日本余?、据扶桑以逋誅」は2015年に歴史学者の李成子教授が解読済みだマヌケ 倭が日本列島を指してるなんて記述は古代文献に一つもない件
百済本紀は、倭国と日本を書き分けてる。
今の日本列島の国は倭国と書いているのに、任那日本府という言葉がてでくる。
普通に考えたら、府は首都。任那日本府は安羅國にあった九州倭国の首都という意味だろう。 >>233
12世紀に書かれたチョンコブックより7世紀に編纂された日本書紀と9世紀に編纂された旧唐書に十分な根拠があるんだぞ無能 天智は天皇じゃないよ
つか天皇号をつかったのは天武が最初だから天武が初代天皇 大化の改新に「そもそもなかった」説
『日本書紀』の孝徳紀には645〜647年、天皇が11の詔を下したとあります。
漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。
しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい。
また、孝徳天皇が営んだとされる前期難波宮は、近年の発掘調査で、
もう少し後世の天武天皇の時代のものではないかと見直されている。
律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、
国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代だ >>233
府は地方行政機関だろマヌケ
鎮西府、大宰府、都督府は首都か?違うだろマヌケw 三、筑紫都督府と評督
『日本書紀』巻二七天智六年(六六七)
十一月丁巳朔乙丑に、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石爲を以て送使とす。
「筑紫都督府」の所、註釈二一 筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残った
『続日本紀』巻一文武四年(七〇〇)
六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美(てじみ)。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志(ちくし)惣領。准犯决罸。
ここでは「筑紫」を「つくし」と読んでいますが、現地音では「ちくし」。それのほうが正しいと年来言っていますが。(略)
『日本書紀』を見るかぎり、大化の改新以後は全部「郡」と書かれてある。
『日本書紀』を見てみますと全部「郡司」などというかたちで繰り返し出ています。
だから、それまでは「郡」という制度が大化の改新以後存在したというかたちで、学者には理解されていた。
これに対して若き日の井上光貞さんは反論を唱え、「評」でなければおかしい。『日本書紀』の信憑性に問題がある。
「大化の改新の信憑性について」という論文を書いて、そういう目線で発表された。(いわゆる「郡評論争」) (略)
それが決着がついたのは、奈良県の藤原宮や静岡県浜松市伊場などから出てきた木簡など確定できるものが示していたのは、七世紀後半は「評」であった。(略)
ところがその時に負けた坂本太郎さんが、非常に意味深い大事な発言をされている。
「確かに木簡などを見ると、事実は評であり井上君の言ったことが正しかった。それは認める。
しかし、いまだに分からないことがある。それでは実際は評であったものを、なぜ『日本書紀』は「郡」と書き換えなければならなかったのか。それが、私には分からない。」 (略)
それでは実際は「評」だったものを、なぜ『日本書紀』は嘘をついて「郡」と書かなければならないのか。
それは従来の立場では説明できない。その点わたしの立場なら、それは説明できる。つまり九州王朝というのは七〇〇年以前に存在して、「評」というのは九州王朝の制度である。 わたしが指摘したのは「評督」の上部単位があるはずだ。「評督」は最高ではない。
それで上部単位は何かといえば「都督」である。これも先ほどの講演の中で九州王朝で「府」という制度もある。そういう鋭い指摘がありましたが、その通りである。
それと同じく役職のリーダーを「督」と呼ぶ制度があったことは間違いがない。その「評督」という制度が『続日本紀』に出てきている。その上部単位は「都督」である。
この都督は何かというと『日本書紀』に一回限りですが出てきている。そこの岩波古典体系『日本書紀』の注釈が、大変おもしろい。
何かといいますと「筑紫都督府」に注釈があって、「注釈二一 筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残った。」とある。
これには原史料があって、うっかり誤ってそのまま写したものであろうと書いてある。つまり誰か知らないが、顔も名前も知らない不用意な人間がいて「筑紫都督府」とうっかり書いてしまった。
次いで『日本書紀』を書いた人が二番目のうっかりさんで、それをそのまま写して書いてしまった。これは何を言いたいかと言いますと、「筑紫都督府」という話はなかったことにします。
岩波古典体系が「筑紫都督府」という話はなかったことにしますと言っていますから、日本中の学者は、ぜんぶそれに従っている。わたし以外は。 >>241
何を引用してるの知らないが、主語が定まってない変な日本語で書くのは辞めてくれ 「都督」を原点にしなければ「評督」という言葉は理解できない。
しかも有名な「倭の五王」では、『宋書』に「使持節都督」という称号を要望しかつ与えられたということは、あまりにも有名である。
これは日本列島に都督がいた。その都督の元に評督がいた。その都督がいたところが、先ほどの「府」の論証で言われているように都督府です。
『日本書紀』に「筑紫都督府」とある。都督府という言葉が歴史書にも九州の地名にも、きちんと残っている。 >>236
「万世一系の皇統」は、天武天皇から始まったんだな 都督ってのは古中国の役職名だから
あと言わなくてもわかるよね? 日本書紀の本編である後半部は中華帝国本国の知識人に書いてもらってるから
文言一つじゃ説得力はないねえ つか九州から逃げるように東遷して朝鮮式の山城を途中に築いて畿内に篭ってるんだからさー
あと言わずもがな >>248
先駆的な外資系見習って役職を英語にしよーぜ!
おい主任!お前今日からチーフな!
みたいな感じだろ 亡国百済、高句麗の古代文化は全部倭国が持っていってしまった。半島の正史編纂が圧倒的に遅れたのは、古代文化の喪失の影響。 >>252
他人のせいにするな!お前らの少中華思想で全て叩き壊したんだろw
百済は新羅と唐にその種を「遂絶」させられ、高句麗は自滅で半壊してたところを新羅と唐に「遂滅」させられただけ >>253
高麗も元にドチャクソに犯されまくってるしな 〜朝鮮ヒトモドキ ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人によって人の住む地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に
半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 九州倭国の存在を認めるとネトウヨは都合が悪いらしい >李成子教授が解読済み
朝鮮人は息をするように嘘を吐く。 >>259
お前は文盲なのか?無能チョンコなのか? >>262
言葉のチョイスは最悪だが内容は科学的根拠のあることしか書いてないから困るんだよな >>261
葛 継勇 - 専修大学学術機関リポジトリ
http://ir.acc.senshu-u.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=3898&item_no=1&attribute_id=15&file_no=1&page_id=13&block_id=52 古代史は当時の東アジアの国際情勢で見ないと始まらない
なんで糖質は日本列島だけ注目して考えようとしているのだろうか >>267
自分の妄想の邪魔になるものは積極的に見ようとしない
それがパヨの習性だから仕方がない
1古代史の名無し2017/02/15(水) 20:35:01.78>>38
日本国号の由来
日本国号の由来を考える。日本国号は東夷を表すつもりではなかったか。
「日本」の文字が見える最も古い記録は禰軍墓誌の「于時日本餘?、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」。
風谷遺氓を福信とする説を取ると、于時は碑文の「顯慶五年(660)」になる。
日本餘?は660年に扶桑にいた。旧唐書の「扶餘勇者,・・・,是時走在倭國」は、日本餘?は扶餘勇(百済王子)と思わせる。
白村江で多くの百済貴族が倭国に着き、扶餘勇と合一したはず。
旧唐書の「麟コ二年(665),封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」は倭国が唐配下になったことを示し、倭国には新しい政権が生まれる素地がある。
天智天皇(中大兄皇子)が百済将軍を使って朝鮮山城を作る。
その範囲は北九州から滋賀県。即位したのは大津に遷都後で、近江朝は、百済政権。
旧唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は
倭国を従えた近江朝のことではないか。
新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」は
壬申の乱で近江朝が旧倭国に滅ぼされたことが対応し、倭の名を冒したから近江朝は、「日本」を自称していたに違いない。
注意すべきは高句麗が倒れた後に国号を日本にしていることである。
昔、朝鮮半島あたりを日の出の地域として中国は「日本」と呼んだ。
禰軍墓誌の「日本」もそのような意味。
唐によって潰された百済・倭・高句麗を受け継ぐ国名として、天智天皇は「日本」が相応しいと考えたのではないか。
百済にとって、倭も高句麗も同盟国である。志は百済だけではなく、東夷であると。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1487158501/ >>270
二週間の沈黙は警察に拘留でもされてたんか朝鮮ヒトモドキ?
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韓猿でも ( (
,,.r'' ゛~~` ''ッ,, プヨ勇が天智だなんて ) )
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ミ ミ゛,へ.__, ,_ノヽ i. 恥ずかしい .| |l l ,´
ミ ミ, ( ・) {・フ 〉 ミ. _-、i::| |ニニii '
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、シ`` i: ,ゞ 'n.inヽ. .ミ ( .〉〉/
シ // ミ` l.l ヽ"、 / ノ
ミ/ シ 彡 ,=こ二=.{ ミ,, ,r'´ ,,、'゛
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.ミ.:/ / / i: v ! ,, \ 、 〃 ミ
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ゝ、wx.mn.!!++ナ'~ ヾ~ヽ、 ヽ、 ,, ~^^}´
彡 〃 〃 }} /〉.〉〉〉i''" 〃
彡、 {{ 〃,__!////l | 〃
X,, 》. ≪.__`‐'.' '´,Uwwvw'、...,,,___
^^^^ !wニこ)こ)二)`) (_,,,..- 、...二⊃_).) 「よかよか」という日本人も沢山いる。むしろ多数で、反対するのは野党だけ。 万葉集は韓国語で読めるという説があるし
梅も韓国起源だ
いつも韓国のモノにケチつけるネトウヨが
今回は元号に文句言ってなくて笑える 新元号で騒いでるけど
白村江で破れたあと百済人が日本を名乗って日本列島にやってきて元号をいきなり使いだしたのがきっかけだよね >>276
今の朝鮮語が確立したのは20世紀になってからだぞ無能ヒトモドキwww >>276
梅の起源が韓国って笑える
韓国っていつできた国だっけ?最古が19世紀末でしょ?現韓国は70年前だよね
日本では7世紀成立の万葉集で山上憶良や柿本人麻呂が梅の花の歌を詠んでるのにwww >>277
〜宋書、梁書、隋書、好太王碑ならびに日本書紀に基づいた百済の「正しい歴史」〜
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺され、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡。
以後、百済難民が渡倭した記録は存在せず、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた。 朝鮮犬w
日本の文献に朝鮮がリスペクトされてなくてくやしーのぅーw そもそも記紀は潤色(というかほぼ嘘だらけ)だらけ
なんで糖質は本当だと思っちゃうのかなー? >>287
潤色だという証拠がないから仕方がない
トンスルファンタジーに花咲かせるより遥かに信憑性はある 記紀神話というのも家の話だからな、
知っている人は知っている
家の親戚でも知らない人は知らないのかも、
自分の家の話だとw 統合失調症のショーケーは病室に帰れ
もしくは首吊って死ね うわっネトウヨって286みたいな都合悪いレスには反論しないんだw ◇─ ┌─────────────┐ ─◇
\ │ネット・ウヨクと毎日闘っている │ /
└─────────────┘
カタカタ ∧_∧ カタカタ ∧_∧
< `Д´# > カタカタ < `⊂ ´*> カタカタ
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/旦|――||// /| /旦|――|l// /| / |――|l// /|
| ̄ ̄挑発 ̄| ̄| . | | ̄ ̄煽り  ̄l ̄| . | | ̄ ̄逮捕 ̄| ̄| . |
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カタカタ ∧_∧ カタカタ ∧_∧ カタカタ∧_∧
<`∀´; > カタカタ <`Д´; > カタカタ <`〜´# > カタカタ
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/旦|――||// /| /旦|――|l// /| /旦|――|l// /|
| ̄ ̄擁護 ̄| ̄| . | | ̄ ̄誘導 ̄| ̄| . | | ̄マッチポンプ| ̄| . |
|_____|三|/ |_____|三|/ ファビョ━(´ ⌒`)━ン!!
カタカタ ∧_∧ カタカタ ∧_∧ ∧||||∧
<`Д´; > カタカタ <`∀´ ; > カタカタ <`Д´; > アイゴー
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/旦|――||// /| /旦|――|l// /| /旦|――|l// /|
| ̄ ̄自爆 ̄| ̄| . | | ̄削除依頼| ̄| . | | ̄ ̄火病 ̄| ̄| . |
|_____|三|/ |_____|三|/ |_____|三|/ うわっとうとう壊れてAAコピペ貼り出しちゃったよ
つかアイデンティ保てない情報がみたくないならこの板来なきゃいいのにw >>285
倭人は、新羅や百済を上国として崇めていた 教科書で「大化の改新」を断行して古代国家に大変革をもたらした功労者、と市民に教えられている天智天皇(626〜671年)。そしてその都は、関西の琵琶湖畔・滋賀県近江(おうみ)にあったとされている。
ところが九州には、天智天皇に関わる様々な伝承があり、中にはこの天皇は薩南の指宿(いぶすき)市で亡くなったという話が色濃く伝えられている。いったいどうなっているんだろうか。 『書紀』の〈天智紀〉も問題だらけだ。
たとえば太宰府を守るための大堤「水城(みずき)」や数多くの「山城」も天智天皇の時代に築いたと書く。皆うそっぱちであることがはっきりしてきている。
「水城」を放射性炭素による年代測定してみると、その始まりは卑弥呼時代で、5世紀中ごろには完成していたことがわかった。 >>295
広開土王碑には真逆の事が刻み込まれてるけど、倭人が百済チョンコや新羅倭種を崇めてたって証拠ある? 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。
また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。
その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。
また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの
人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。
現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。 宗主国の百済を滅ぼされた倭王天智は、宿敵・新羅の侵攻に恐怖し、北九州に土塁を築いた
当時はお堀もあって、水が張ってあった >>304
〜宋書、梁書、隋書、好太王碑ならびに日本書紀に基づいた百済の「正しい歴史」〜
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺され、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡。
以後、百済難民が渡倭した記録は存在せず、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた。 >>306
そういうトンスルなファンタジーいらない 何も関係ない、頭の病院に行ったほうが良いぞ、
または刑務所でも良い >>308
「なって」ない
>>305の年表が示すように最初から最後まで一貫して倭の下僕 説明する必要なんてないんだよ、
『松傾』がいるでしょ
『天王宮』 『天王』(牛頭天皇・・・、・・・、)調べてみた?
中国で天子の意味、家の写真と同じだし、
なぜか漫画やアニメ
『何者にもなれない お前たち』
『松傾』こういう名前の家、
むかーし、住んでいたところも同じ、いまの福島県の山の上のほう? 老婆の世代で言うと戦争をしていたり、
そういう時代?
むかーし住んでいたところ?親戚の家?
その辺りに疎開したと言っているし、
伊達郡の川俣町とか〜 何でも良いけど、
偉そうな事ばかり語らないほうが良いぞ
どこの雑魚なんだ?
むかーしの漫画やアニメの見過ぎ? 看護婦さ〜ん
また統合失調症の>>311-314が病室から脱走してますよ〜!!!
ちゃんと拘束しといてくださ〜い なんで倭〜和になるんだ?と言ってる人がいたでしょ、
数年前の邪馬台国スレ
蜘蛛、雲・・・・橋と箸・・・?
同じではないだろう、デタラメなんだけど、キチガイなのか? 看護婦さ〜ん
まだ統合失調症の>>316が逃げ回ってますよ〜!!!
ちゃんと拘束して病室に監禁しといてくださ〜い 古代に玄界灘を自由に行き来できたと妄想しているキチガイっておるの? >>318
海人族の腕力はハンパない!で全て解決しようとする泡って妄想家なら知ってる 詰まるところ東アジア情勢の話になるから
キチガイはキレちゃう
白村江の戦いのあと唐の追撃をうけて侵略されてる
その時筑紫に都督が置かれて完全に唐の支配下となる
その頃、唐から独立するために新羅と唐との戦争が勃発
その機に乗じて日本はは棚ぼたで独立を手中にする
筑紫から近江に逃げる、その途中に唐からの防衛のため朝鮮式の山城を累々と築いている
これがいわゆる国譲りや神武東遷の元となっているのである
日本列島や朝鮮半島から唐が一旦手を引いたのは、北方から攻めてきた吐蕃との戦いに掛り切りとなったからである
その後新羅は唐との関係修復をはかりそれに倣う形で日本も再びの唐の侵攻を恐れて遣唐使を始める >>325
> 唐の追撃をうけて侵略されてる
何そのファンタジーw
ソース出してみ >>318
壱岐の住民は穀類を九州や半島に
ちょいちょい買い出しに行ってたようだから
癖を知り尽くした地元民なら
そんなに苦でもなかったんじゃないか? >>327
海流と潮琉を見て年数回ほど渡航するのを「自由に」とは言わないだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています