三、筑紫都督府と評督

『日本書紀』巻二七天智六年(六六七)
十一月丁巳朔乙丑に、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石爲を以て送使とす。

「筑紫都督府」の所、註釈二一 筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残った

『続日本紀』巻一文武四年(七〇〇)
六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美(てじみ)。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志(ちくし)惣領。准犯决罸。

ここでは「筑紫」を「つくし」と読んでいますが、現地音では「ちくし」。それのほうが正しいと年来言っていますが。(略)

『日本書紀』を見るかぎり、大化の改新以後は全部「郡」と書かれてある。
『日本書紀』を見てみますと全部「郡司」などというかたちで繰り返し出ています。
だから、それまでは「郡」という制度が大化の改新以後存在したというかたちで、学者には理解されていた。
これに対して若き日の井上光貞さんは反論を唱え、「評」でなければおかしい。『日本書紀』の信憑性に問題がある。
「大化の改新の信憑性について」という論文を書いて、そういう目線で発表された。(いわゆる「郡評論争」) (略)

それが決着がついたのは、奈良県の藤原宮や静岡県浜松市伊場などから出てきた木簡など確定できるものが示していたのは、七世紀後半は「評」であった。(略)

 ところがその時に負けた坂本太郎さんが、非常に意味深い大事な発言をされている。
「確かに木簡などを見ると、事実は評であり井上君の言ったことが正しかった。それは認める。
しかし、いまだに分からないことがある。それでは実際は評であったものを、なぜ『日本書紀』は「郡」と書き換えなければならなかったのか。それが、私には分からない。」 (略)

それでは実際は「評」だったものを、なぜ『日本書紀』は嘘をついて「郡」と書かなければならないのか。
それは従来の立場では説明できない。その点わたしの立場なら、それは説明できる。つまり九州王朝というのは七〇〇年以前に存在して、「評」というのは九州王朝の制度である。