天智朝と天武朝
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>>276
今の朝鮮語が確立したのは20世紀になってからだぞ無能ヒトモドキwww >>276
梅の起源が韓国って笑える
韓国っていつできた国だっけ?最古が19世紀末でしょ?現韓国は70年前だよね
日本では7世紀成立の万葉集で山上憶良や柿本人麻呂が梅の花の歌を詠んでるのにwww >>277
〜宋書、梁書、隋書、好太王碑ならびに日本書紀に基づいた百済の「正しい歴史」〜
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺され、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡。
以後、百済難民が渡倭した記録は存在せず、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた。 朝鮮犬w
日本の文献に朝鮮がリスペクトされてなくてくやしーのぅーw そもそも記紀は潤色(というかほぼ嘘だらけ)だらけ
なんで糖質は本当だと思っちゃうのかなー? >>287
潤色だという証拠がないから仕方がない
トンスルファンタジーに花咲かせるより遥かに信憑性はある 記紀神話というのも家の話だからな、
知っている人は知っている
家の親戚でも知らない人は知らないのかも、
自分の家の話だとw 統合失調症のショーケーは病室に帰れ
もしくは首吊って死ね うわっネトウヨって286みたいな都合悪いレスには反論しないんだw ◇─ ┌─────────────┐ ─◇
\ │ネット・ウヨクと毎日闘っている │ /
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カタカタ ∧_∧ カタカタ ∧_∧
< `Д´# > カタカタ < `⊂ ´*> カタカタ
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| ̄ ̄挑発 ̄| ̄| . | | ̄ ̄煽り  ̄l ̄| . | | ̄ ̄逮捕 ̄| ̄| . |
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カタカタ ∧_∧ カタカタ ∧_∧ カタカタ∧_∧
<`∀´; > カタカタ <`Д´; > カタカタ <`〜´# > カタカタ
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| ̄ ̄擁護 ̄| ̄| . | | ̄ ̄誘導 ̄| ̄| . | | ̄マッチポンプ| ̄| . |
|_____|三|/ |_____|三|/ ファビョ━(´ ⌒`)━ン!!
カタカタ ∧_∧ カタカタ ∧_∧ ∧||||∧
<`Д´; > カタカタ <`∀´ ; > カタカタ <`Д´; > アイゴー
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|_____|三|/ |_____|三|/ |_____|三|/ うわっとうとう壊れてAAコピペ貼り出しちゃったよ
つかアイデンティ保てない情報がみたくないならこの板来なきゃいいのにw >>285
倭人は、新羅や百済を上国として崇めていた 教科書で「大化の改新」を断行して古代国家に大変革をもたらした功労者、と市民に教えられている天智天皇(626〜671年)。そしてその都は、関西の琵琶湖畔・滋賀県近江(おうみ)にあったとされている。
ところが九州には、天智天皇に関わる様々な伝承があり、中にはこの天皇は薩南の指宿(いぶすき)市で亡くなったという話が色濃く伝えられている。いったいどうなっているんだろうか。 『書紀』の〈天智紀〉も問題だらけだ。
たとえば太宰府を守るための大堤「水城(みずき)」や数多くの「山城」も天智天皇の時代に築いたと書く。皆うそっぱちであることがはっきりしてきている。
「水城」を放射性炭素による年代測定してみると、その始まりは卑弥呼時代で、5世紀中ごろには完成していたことがわかった。 >>295
広開土王碑には真逆の事が刻み込まれてるけど、倭人が百済チョンコや新羅倭種を崇めてたって証拠ある? 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。
また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。
その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。
また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの
人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。
現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。 宗主国の百済を滅ぼされた倭王天智は、宿敵・新羅の侵攻に恐怖し、北九州に土塁を築いた
当時はお堀もあって、水が張ってあった >>304
〜宋書、梁書、隋書、好太王碑ならびに日本書紀に基づいた百済の「正しい歴史」〜
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺され、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡。
以後、百済難民が渡倭した記録は存在せず、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた。 >>306
そういうトンスルなファンタジーいらない 何も関係ない、頭の病院に行ったほうが良いぞ、
または刑務所でも良い >>308
「なって」ない
>>305の年表が示すように最初から最後まで一貫して倭の下僕 説明する必要なんてないんだよ、
『松傾』がいるでしょ
『天王宮』 『天王』(牛頭天皇・・・、・・・、)調べてみた?
中国で天子の意味、家の写真と同じだし、
なぜか漫画やアニメ
『何者にもなれない お前たち』
『松傾』こういう名前の家、
むかーし、住んでいたところも同じ、いまの福島県の山の上のほう? 老婆の世代で言うと戦争をしていたり、
そういう時代?
むかーし住んでいたところ?親戚の家?
その辺りに疎開したと言っているし、
伊達郡の川俣町とか〜 何でも良いけど、
偉そうな事ばかり語らないほうが良いぞ
どこの雑魚なんだ?
むかーしの漫画やアニメの見過ぎ? 看護婦さ〜ん
また統合失調症の>>311-314が病室から脱走してますよ〜!!!
ちゃんと拘束しといてくださ〜い なんで倭〜和になるんだ?と言ってる人がいたでしょ、
数年前の邪馬台国スレ
蜘蛛、雲・・・・橋と箸・・・?
同じではないだろう、デタラメなんだけど、キチガイなのか? 看護婦さ〜ん
まだ統合失調症の>>316が逃げ回ってますよ〜!!!
ちゃんと拘束して病室に監禁しといてくださ〜い 古代に玄界灘を自由に行き来できたと妄想しているキチガイっておるの? >>318
海人族の腕力はハンパない!で全て解決しようとする泡って妄想家なら知ってる 詰まるところ東アジア情勢の話になるから
キチガイはキレちゃう
白村江の戦いのあと唐の追撃をうけて侵略されてる
その時筑紫に都督が置かれて完全に唐の支配下となる
その頃、唐から独立するために新羅と唐との戦争が勃発
その機に乗じて日本はは棚ぼたで独立を手中にする
筑紫から近江に逃げる、その途中に唐からの防衛のため朝鮮式の山城を累々と築いている
これがいわゆる国譲りや神武東遷の元となっているのである
日本列島や朝鮮半島から唐が一旦手を引いたのは、北方から攻めてきた吐蕃との戦いに掛り切りとなったからである
その後新羅は唐との関係修復をはかりそれに倣う形で日本も再びの唐の侵攻を恐れて遣唐使を始める >>325
> 唐の追撃をうけて侵略されてる
何そのファンタジーw
ソース出してみ >>318
壱岐の住民は穀類を九州や半島に
ちょいちょい買い出しに行ってたようだから
癖を知り尽くした地元民なら
そんなに苦でもなかったんじゃないか? >>327
海流と潮琉を見て年数回ほど渡航するのを「自由に」とは言わないだろ >白村江の戦いのあと唐の追撃をうけて侵略されてる
古田氏の解釈
『筑後国風土記』の分析を行うためには、古田氏のこれまでの解釈を確認する必要がある。
古田氏の解釈は、初期の磐井の乱を肯定された時期と、その後に否定された時期に区分して、原文を要約した。
第一に、古田氏の初期の『筑後国風土記』の見解は、その著書『失われた九州王朝』に記述されている。主に、次のようである。
古田氏は風土記Cの「古老伝云、(a)上妻縣、多有篤疾、(b) 蓋由茲歟」の文章に注目された。この文の(a)のみを古老の伝とし、
(b)を編者の推定とした。なぜなら、この風土記が編集された時点から考えると、磐井の乱とは一〇〇年以上の前のことであるから、
そのような昔の戦乱での負傷者が、編集時点に生存している訳がなく、古老の言は過去形で理解した。つまり、「上妻縣、多有篤疾」とは、
天皇家の軍は石人、石馬の手や頭を折っただけでなく、敗戦側の磐井の軍や住民への無残に荒れ狂い、辛うじて生き残った住民も障がい者となった。
つまり、「住民の多数は障がい者で、まともの人間の方が少ない磐井滅亡の直後の悲惨な記憶」を古老が伝承し、それを編者が「磐井の乱によるか」と書いたとされた。
第二に 古田氏は、 二〇〇四年に「磐井の乱はなかった」と発表され、磐井の乱の根拠の一つであった『筑後国風土記』の解釈も改定された。その内容を、
同氏の講演記録『「磐井の乱」はなかった』から、要約すると次のようである。
334 つづき
風土記Bの「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す」が磐井の乱とすると、現在も破壊された石像があるは、乱後に葛子が修復しなかったことになり理解できない。
実際に石像を壊したのは七世紀後半の唐の軍隊である。そのことを、風土記の編者は磐井のときに壊されたと、話をすり替えたと推定され、その上で、風土記の古老の言を解釈された。
風土記の現地の作者の原稿作成時点では、まだ、上妻の縣には唐の軍隊に手足を折られた多くの障がい者が生存していたので、「上妻縣に多く篤疾あるのは、蓋し茲に由るか。」と記載していたが、
風土記の編者が唐軍の暴力行為を磐井の乱を原因とする内容に差し替えてしまったので、「蓋し茲に由るか。」が磐井の乱となり、
その結果、二〜三〇〇年前の乱の障がい者が、その後も生まれてくると云う、非論理的な文となっている。『風土記』に書いてあるからといって、証拠にはならないとされた。 239
>三、筑紫都督府と評督
日本書紀の編纂ミスで自らゲロっちゃってるわけだが >>324
大海人皇子(天武)が弘文天皇(天智の子)を倒して皇位を簒奪したから >>35
一子相伝じゃないから血がつながってる人々が生き残りが万世一系を誰でも主張できる 大海人皇子と皇位を争って命を落とした、大友皇子の忘れ形見である。 令和への改元で奈良時代が注目されてきている。このスレもタイムリーでよろしい。
弘文→天武、称徳→光仁は実質王朝交代の感がある。首都も変わっているし、
「大化の改新」も眉唾だし、今までとは違う奈良時代観の構築が待たれる。 >>333
逆だって。言葉遊びは止めろと言ってるんだよ こういう動乱は天皇を兄弟間で回しあいする悪習のせいで生まれた。 大友皇子は母親の身分が低かったからなぁ(伊賀の采女の子)
武市皇子も母親の身分が低かったから長子だけど即位できなかった(地方豪族の娘の子)
あの時代は生年の差だけじゃなく母親の身分が皇子の序列に反映された 大津皇子ってどういう存在だったんだろう
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向 母である大田皇女が早死にしてなければ
持統は皇后になれず、大津皇子が天皇に即位してたはず 唐が九州を制圧してたんなら旧唐書や新唐書に少しくらいは書かれてそうだけど
それらしいのがあったら見てみたい >>346
病弱な姉の大田皇女から、健康な大津皇子が産まれ
健康な妹の持統天皇から、病弱な草壁皇子が産まれた
そんな感じがする。 天智と天武の関係を論じるなら、一応これを貼っておく https://sites.google.com/view/jhistory
これによれば、天智は百済義慈王の王子、天武は義慈王の弟の子供で、
二人は扶余家の従兄弟であり、扶余家としては天智の方に正統性がある
桓武が天智を祖に戻したのは扶余家としての正統性を意識したものだろう >>349
トンスルファンタジーは百済スレだけにしてくれ 日本の桓武帝は百済チョンコを外戚の地位として認める詔を出したのが現実
百済チョンコには自国の地位の正統性を認める正史がないのよ! >>352
200年も隔たりがあるのを外戚というのは優しさ
ゆかりを感じると言った今上天皇と同じ優しさ >>351
大友皇子が始めて天武天皇が完成させたのかな? >>354
始祖に神格を与えたり、神として崇めるのは世界中どこにでもあるハナシだろ無能 ク _ ―- ‐- 、
ソ (r/ -─二:.:.:ヽ
次 7''´ ̄ヽ-─<:.:.', __
郎 〈t< く=r‐、\:く _ ...-::‐::¬::::: ̄:::::::::::::::::::::::::::::::
襲 ∠j ` / ,j={_/ヽヽr' >:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
来 っ Y _/ ヽ了 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
だ し イ --─¬ /::::::/:/|:::/::∧:::∧:::::::::::::::::::::::::::::::::::
f: :_: : :_:_:_└ 、 |/f|/|/ .|/ |/ ∨ ヽ|\::::::::::::::::::::::::: ああ・・・
/-ー/: : : : : : :\ { ヘ:::::::::::::::::::::
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/: : : : : :.|: :j: : : :\: : j } /_ ミ ヘ::::::::::::::::::
/: : : : : : : j: ヘ、: : : : \| /くl´::<ニ二 ̄`> ミ:::::::::/
./: : : : : : : \::::ヘ: : : : : : :ヽ {::ア{:::::::}厂¨,`_______j:::::://
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ノ\|\| (_●_) |/ \| (_●_) |/|/\ 迎えに来たニダよ
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/ _ ヽノ Y ̄) | ( (/ ヽノ_ |\_>
(__)虎になりたい_ノ ヽ/虎になり(__ノ
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| /\ \ / /\ |
| / ) ) ( ( ヽ |
∪ ( \ / ) ∪
\_) (_/
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(ヽノ// //V\\|/)
(((i)// (゜) (゜)||(i))) みなさんに「さようなら」して帰るニダよ〜
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(___、 |∪| ,__)
| ヽノ /´
|虎になりたい ネトウヨはまじで低知能だからコピペ荒らしを始めちゃう >>356
勝手に決めても周りが認めるような何かがないと成り立たないだろ >>361
は?始祖だからだろ無能
自営業でも社長と自称した者の元に集まったやつらはそいつを社長と呼ぶだろうがw
それなりの規模になってきたら必然的に会社化せざるを得なくなり、名実共に社長になるだけ >>361
壬申の乱の勝利者の天武天皇なら、そりゃ豪族達も神と崇めるわ 朝鮮半島から渡来した文明人が、日本列島の土人には、天神が地上に降りてきたように見えたのかもな? そうだな、逆も考えられる
半島が土人だった可能性も低くない >>367
考古学的検証で半島南部は縄文人に支配域だと明確に答えが出てるよ >>366
初心者?
全然違う。
基本的に縄文人は朝鮮半島には定着していない。
縄文期を通して、あちらに在地産の日本系の縄文土器遺構がないからだ。
詳述すると、まず1万年ほど前に済州島に九州の隆起文土器が伝わり、
8000年ほど前に朝鮮半島南部に隆起文土器が伝わるが、九州の隆起文土器ではなく、
済州島の隆起文土器であった。
6000年ほど前に遼東半島から櫛目文土器が朝鮮半島に伝わり、
朝鮮半島における隆起文土器時代は終焉を迎えた。
土着の古モンゴロイドか中央モンゴロイドか分からない集団に、
済州島から縄文人の後裔が入り、そのあと遼東半島の中央モンゴロイドが入った。
こういう流れ。 >>355
まだ確定はしていないのですね。
壬申の乱で政権が代わっても、勝者敗者どちらの身内でもありますもんね。
当時の古墳の造築の権限や政権の建前上、天武天皇側が造築したと考えるのが妥当でしょうか。
ちなみに、天武天皇と持統天皇は叔父姪の関係したと思いますが、以下の子孫の体質がよろしくなかったのは、近親によるダウン症だった可能性もあるのでしょうか。 ウラル系民に「駆逐してやる」って言って駆逐されたんだよ
縄文人はw >>369
アホは百済スレのテンプレでも読んでろw >>370
天武天皇は天智天皇の娘4人(大田皇女、持統、大江皇女、新田部皇女)と婚姻してるけど
早世だったのは確か草壁皇子と弓削皇子だけで、他の大津皇子(自刃)、長皇子、舎人皇子は
健康に問題は無かったはず それじゃ権力者にはなれても神のような存在にはなれないと思うがな
ま、いーや 374ですが普段から無能呼ばわりしているであろう>>362に対してですわ まあ朝鮮人うんぬんはネタとしても、「本当に実の兄弟だったか?」は、古来から疑う向きが多いところ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています