>>686で天智が誰かはわかっただろうが、天武が誰かは天智ほどは簡単でない。
少しさかのぼるが、孝徳就任4年前に百済から扶餘翹岐が母、妹、高名な人40人余りとともに来ている。たいした陣容だ。
この消息が突然消えるのだ。そのあと、入鹿の暗殺があって、孝徳が就任し、前期難波宮を作る。
この前期難波宮と立地・サイズで酷似するのが翹岐の親の百済武王の宮殿だ。
明日香の宮殿は内裏が無く、政務も豪族が行っていたので、小さいものだったようだ。
前期難波宮は突然びっくりするものが現れた。書紀にも「譬えようがない」と書かれている。
倭人とは文化が違ったのだ。孝徳=翹岐なのだ。(続く)