>>690につづく
書紀は孝徳即位前後で、皇極の譲位・重祚・斉明の客死・天智称制など皇統が激動している。
何かがあった証拠なのであって、皇統は書紀のいう通りではないことを示している。
皇極の譲位の理由はなく、王が客死も軽々しく、天智称制のときはなぜか王がいない。
最も常識的に、孝徳の子供が(翹岐には子供がいた)孝徳の後を継いだ(大海人)とすることで、すべてが氷解する。
皇極の重祚はなく、斉明(明日香王)の客死は将軍としての派遣の結果であった。
扶余勇と大海人は扶余家の従兄弟にあたり、扶余家を守るために大海人は扶余勇に従った。
ゆえに扶余勇(天智)は倭国を支配できた。
天智称制は扶余勇の兄の扶余豊(百済王)が高句麗にいたので、王にはなれなかったということ。
扶余豊が唐に捉えられたころ、扶余勇(天智)は即位している。