先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| よくもまあエサに釣られるクマだな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 ろくでもないこと書いて、笑われると後からネタだよという馬鹿
最近多いよね うん、百姓と武家で顔が違うの珍説はマジ笑えた
また誰かやらかしてくれないかな 百姓と武家で顔が違うというのは真面目な説だ
私は感動した
珍説とは何だ馬鹿者
ふざけるのもいい加減にしろ >>304
へー、医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
くわしくおしえて、馬鹿だからわかんない なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
ひで なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
秀吉も元は地侍層かもしれない
蜂須賀は国人だと思われる
もうさ、こんなんだらけで、もうエフランガイジは歴史とか感心持つの辞めろや なら白山信仰の山伏なんか、薬学、力学、物理学、工学などあらゆる当時の知識の総合デパートだから、
山伏は皆超名門の武家だらけだな。
なら白山信仰こそ究極の戦国以前の武家の信仰だ。
江戸武士は白山信仰の奴も多いが、
もう白山信仰や山伏を非差別なんて二度と言うなよ
エフランは本当にガイジそのものだわ >>304
池沼だな
医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースだってよ
プッ 顔立ちも、
江戸以降の武士は庶民からでていて、
一介の藩士と庶民層にはほとんど変わらない類似点が多すぎて話にならない。
法医学が言ってる武士は上級武士(高家や旗本、大名)は庶民と違うと言っている。
庶民も堀が深いと言っており、
逆にノッペリは上級支配層に多いと言ってる
この堀の形成の最大のものは、実は遺伝性以上に食べ物とも。 >>280
今住んでる場所がどこか分からないので何とも言えないが
江戸時代、栃木や茨城なんかには北陸からたくさんの農民が移住してるよ >>311
食生活の関係で顎が小さくて現代人に似た顔だったんだろ、環境性の変化だよ >>316
そう、あと脂肪率
平百姓以下や下級武士の栄養率の問題
かなり栄養不足なため、元はノッペリでも、
目も窪み、筋張る
見た目の目鼻立ちなんてかなり栄養率が関係 してる モンゴル人は肉を大量に食べてるし乳製品も豊富に摂る。
酒だって馬乳酒とかだった。
それだって顔はノッペリしてる。栄養なんか関係あるかよボケ 源氏も平氏も天皇家の分家なんだからのっぺりしてて当然じゃない? >>308 >>309
エフランなら大学行ったということだろ。そのレベルですらない。
リアル厨房とか中卒ボケ爺さんレベル
>>267 なんて市役所に問い合わせるなんて言ってるんだぜ
ここまで猛烈に頭悪いと逆に爽快だわ
>>306 なんか
>医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
とか言ってる。学問的データに日本政府公認て何だよww もう壊滅的に馬鹿 >>319
臣籍降下したらもはや分家ですらないし、
朝廷降下した源氏や平の戸籍管理なんか一切してないから、家系図詐欺が横行できたんだが?
そもそも源氏なんてどこに源氏の総領経基と血統的近似性が保たれている証拠あんだよ?
公然に詐欺してオッケーの家系図すら、
二代目満仲でもはや生年月日から母親まで不の有様なのに、馬鹿じゃね? 訂正
朝廷は、降下した源氏の戸籍管理なんか一切してない さらに訂正
二代目満仲の時点で生年月日から母親まで詳細が、全く不明という有様 >>314
なんで? ってお前、
幕藩体制中期以降、都市商業の発展と農村荒廃を背景として広範な人口移動が
見られたのは常識レベルの知識だろうが
帰農令とか人返しの法とか学校で教わったろ
寛政の改革とか天保の改革とか 言葉だけでも知らないのか?
「人返し」ってのは都市に流入しちゃった農民を在所に帰すということだけじゃなくて
他領に逃げた農民を取り戻すため、勝手に移住した者を領主間の交渉で
召還することを含むんだよ。
逃散しちゃった農民を追跡して他領に居るのを見つけて、そこの領主に「俺んとこに
返してくれや」と掛け合ったりしたのだ。
そういう交渉もうまくいくばかりではないから、
農村が無人になる前に他領から新しく農民を移入させる。
そういうのに間引きが盛んかどうか(間引きをやらない地域では人が余っている)とか
いろんな理由がからんで、けっこう人口移動が盛んだったのだ
こんなことも知らないのか
義務教育で習うようなことも知らない馬鹿は来るなよ
特別支援学級じゃねえよw >>324
いや、なぜ北関東だったのか聞いたんだが?
発達の読解力を遺憾なく発揮されてもなあ
まあでも懇切丁寧にありがとう。 コミュニケーション能力にちょっと問題があるようだな
なんで? だけで 「なぜ北関東だったのか」と聞いたことになるのか
発達の文章力を遺憾なく発揮してくれてもなあ・・・
まあ後から考えた言い訳なんだろうけど。一生懸命にご苦労さん。 2chは玉石混淆だからな・・・それなりに妥当性があればチクチクやらなくても http://hist-geo.jp/img/archive/021_175.pdf
何故北関東かと言われても、最初はコネクションがあったからとか人脈がどうしたとか
しか言いようがない。多少浄土真宗が絡んでいるので、「仏縁」というべきか(笑
しかし、一旦北陸からの移民があった後は、秘密のルートとでもいうべきものが出来て、
長い間にかなりの数の農民が移入してきている。論文は寛政期から明治初期までに
限っているが、移住ということだけなら大正時代まで続くという。
村は現在の栃木や茨城のほぼ全範囲に分布しているといっても過言でない。
福島にも移住しているが、論文は栃木・茨城の延長線上の現象と捉え割愛している。
偶然ともいうべきキッカケで始まったものではあるが、理屈をつければそれなりの理屈が
付く。まず、真岡への移入は、天領であったことが最大の理由だろう。
他国の百姓を受け入れてしまうのだから、悶着が起こるのは当然予想される。
しかし、百姓が逃げ出して来るのは越後高田近在。あちらも天領、こちらも天領。
一番問題が少ないパターンだろう。
一方で、茨城の方面は、当初は笠間であった。笠間は譜代とはいえ大名領である。
そして百姓が逃散してくるのは加賀から。あちらの大名にとっては違法行為である。
大名同士となると話はそう簡単でない。
ただ加賀藩は外様で、最も幕府に気を使っている大名である。
表だって喧嘩はすまいという見込みがある。
とはいいながら、実際も加賀からの百姓の移住には往来手形を偽造するなど、かなり
慎重な配慮もしている。おっかなびっくりだったようで、真岡に比べると数も少ない。
あと、さすがに江戸の近郊で他藩の逃散百姓受け入れなんてことをやったらマズイだろう。
その点、真岡とか笠間などは、当時江戸からみたら北方の山裾で、どうでもいいような田舎
であった。
あと、常陸の宍戸藩なども同じようなことをしているが、こちらは水戸藩の連枝である。
怖いもの無しだったろうと思われる。 >>320
先生、こちらは壊滅的に馬鹿だからマジで分かんないことばっかりです
馬鹿につける薬がないならあきめますが、先生ならいろいろ高度な知識がおありでしょうから
できればおしえていただきたいので、少々ものをお伺いしてもかまいませんか
公に認められる医学的データで、厚労省が認定した臨床データ以外のものがあるんですよね
でも、学会誌にある論文は卒論に毛が生えたようなものだから信用したら駄目という人もいるし
百姓と武家で顔が違うことを証明できる学問的データが、どこから出てくるか全然分かりません
壊滅的な馬鹿でも分かるような解説をしていただけたら嬉しいです どうぞよろしくお願いします 上に示した論文(pdf)の末尾に参考文献はたくさん並んでるけど、
「北陸・関東移民」でググれば資料はいくらでも出てくるよ。
天明の大飢饉が一番大きな打撃だったのだけど、うち続く冷夏長雨で
洪水も頻繁に起こり、低湿地は荒れ地のようになってしまった。
江戸時代は寒冷化がすごい。
関東の人口減少もすごい。
逃散は御法度だし、そこをどうやって逃げだしたのか。
道中をどうやってやって来れたのか。
他国人が村に入って田や畑を手に入れる過程。
やはり移住がうまくいかず、そうかといって戻れば罰せられるだけ。
より山奥や荒蕪地に入っていく農民たち。
スリリングで息をもつがせない事実の連続である。
面白いといったら何だが、少し興味を持っても損はないと思う。
北陸の人間は関東人に比べて根性あるな、と。
それから浄土真宗というのは特別の宗派である。
戦国の石山合戦とか見るまでもなく、何だか不気味なまでに強靱。
あとネットワーク力が半端ではない。
北陸人が村に同化していくところは富山の薬売りを彷彿とさせるところがあるな。
上の論文にも書かれているが、北陸の人というのは全然故郷にこだわりを
持たないな。真宗という宗教の力なのか何なのか分からないが何とも不思議。
北陸というのは陰湿で意地悪で居心地も悪く、どこでもいいから他国へ行きたく
なるような場所だという人もいるなワハハw
三重大学の教授やってる人が若い頃に調べたことを軽く書いてるページ
面白いわ
http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/index.html なお、加賀藩の農民というから石川県かと思うと大間違い。
今の富山県礪波郡の農民が多いという。
富山は真ん中あたりが富山藩で西も東も加賀藩領だった。
茨城に来た農民たちは越中富山の人たちであった。 >>324教科書的学者脳では自由な移動はできず、した場合は無戸籍へ落ちるじゃないの? https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/open_imgs/info/0000000093_0000027078.pdf
相馬中村藩への南砺地方農民の移住について
相馬中村藩には現市町村名で 南砺市や砺波・小矢部市などから九千人弱、
最終的には一万人ほどの入植があったようである。
こんな狭い地域で一万人というのだから、茨城県全域だとどれほど入植したか
分からない。
相馬中村藩というのは、現在の南相馬市、相馬市。
津波と原発の被害を受けちゃった地域だな。 相馬中村藩は、加賀藩農民の移入だけでなく、南部最上地方で女買い入れをしている。
南部藩は天明の大飢饉による人口減少が最も激しかった藩の一つだが、女の方が
飢餓に強いらしく、男に比べて女の方が多く生き残った。
女余り現象が起きていたのである。
女をたくさん連れてきて、嫁のない家に配った。 老中として後に寛政の改革と称される諸政策を実施した松平定信は、田安家の三男で
八代吉宗の孫にあたる。奥州白河の松平家に養子に入り、藩の立て直しに成功した。
この手腕を評価され老中となったのである。
定信が養子となって(婿さんに入ったのだが)、白河にお国入りして一番驚いたのは、
白河には女がいないことであった。もともと当時は女が少なかった。
当時の人口推計によると、女性は男性の70%程度しかいなかったようだ。
間引きの対象となるのは女の赤ん坊が多かったためである。
白河では定信が驚いたぐらいだから、平均的な数値よりはるかに少なかったのだろう。
50%もいなかったのかも知れない。
家々には、歳をとった男たちが独身のままで暮らしているのが目立った。
そこで定信は、越後にある白河藩の飛び地から女を呼び寄せることを企画した。
当時の言葉で「女買い入れ」という。
越後から若い女が続々とやってきたので、片端から農家に嫁入りさせた。
嫁配りをしたのである。 定信は人口減少の原因である間引きをやめさせる方法として、巫女を使った。
領内には「市女」(いちめ。巫女。沖縄のユタや恐山のイタコのようなもの)というものが
いて、死者を憑依させて口寄せをしていた。
この市女にク使を添えて村々を廻り、間引きされた赤ん坊の口寄せをさせて女どもに
聞かせたのである。
死んだ子供の泣き声や恨み言を聞いて、女たちは衝撃を受けた。
越後から女たちを呼び寄せたのも、越後の女たちは間引きの習慣がないという
ことが理由の一つだった。越後女がよい影響を与えるだろうと期待したのである。
その他、僧侶に「受苦図」を持って廻村して地獄で責め苦にあう様を示したりした。
これらの方法で一応はその目的を達したということである。
ほぼ同時期に、米沢藩では有名な上杉鷹山が領民の間引きを禁じ、違反者に対する
処分方法を決め、育児資金を設けて極貧者には給付することとした。
その結果、鷹山の晩年には嬰児虐殺の風習が全くやんだということであり、それを
聞いた他の大名が「こればかりでも名君なり。大功かな。」と賞賛したということである。
どの大名も間引きによる人口減少には悩んでいたということが分かる逸話である。 間引き対策には、天領を預かる幕府の代官たちも心を砕いている。
上に出てきた下野真岡の代官竹垣三右衛門直温はさまざまな功績を残したが、
間引き対策が重要な事蹟となっている。
間引き対策と越後からの農民の移入は、一連の人口対策であったようである。
美作と備中の代官であった早川八郎左右衛門正紀は、任地である美作・久世と
備中・笠岡に赴いたときに、いたるところの川端や堰溝に古い茣蓙(ござ)の苞(つと)
があるのを見た(ツトとは納豆の藁苞など、花の蕾のような形に包んだもの)。
怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだものであった。
男子には扇子、女子には杓子(しゃもじ)を付けてあり、その惨状に目を覆ったという。
扇子は今でも男の子の七五三に付きものであり、末広がりで目出度いということと、
昔は身分の高い人から何かを貰うときは扇子で受けたことから、お金をたくさん貰える
(稼げる)ようにという願いが込められている。
杓子はご飯をよそるものであるところから、生涯食べ物に困らないようにという願いが
こめられたものである。子供のお七夜(生まれて七日目の祝)などに新品の杓子で米を
盛って食べさせる真似をする儀式などがあった。 >>280 は「逃げる百姓 追う大名 江戸の農民獲得合戦」 宮崎 克則 (中公新書) |
という本を読むといいよ
現状に耐えかねて、あるいはより良い生活を求めて、村を捨てて逃げ去る百姓を
「走り百姓」というのだが、江戸時代はこの「走り」による人口移動が想像以上に
盛んだったようである。
もともと藩と藩や天領との境界などは勝手に決められたもので、それより先に
物資流通や通婚など文化的・経済的に一体化した地域圏というものがあった。
そういうものを無視して一つの地域が分断されることも無数にあったわけである。
百姓たちは黙って土地に縛りつけられてはいなかった。嫌だと思えば逃げる。
逃げるといっても無闇に逃げるのではなく、協力者もいれば受け入れ先も
あることが多かった。
年貢や夫役の負担者である百姓が逃げれば困るから、領主は必死になって
その防止策を考える。厳罰による脅しもあれば甘言もあった。
逃げた先の領主は働き手が飛び込んでくるのだから大歓迎である。
逃げられた方はそのままにしておけないから取り戻しをはかる。
相手方領主と喧嘩腰の取り戻し交渉をする場合もある。
それもたいへんだから、走り百姓の親戚に七日以内に連れ戻してこい、
それができなかったらお前ら全員同罪、などと命令したりする。
五人組にみんなで行って連れ戻してこい、連れ戻せなければ打ち首だ、などと脅し、
一方で連れて帰れば銀10枚、などと言ったりする。
どこまでも追いかけろという命令も多い。これは、一度は連れ戻しに出かけるが、
「あいつは逃げた先からまたどこか遠くへ逃げてしまいましたー」と報告して
終わりにしようとする追跡者が多かったためである。
逃げた百姓本人にも厳罰が定められているのに、帰ってこい、帰ってきたら
褒美をやろう、さらに一年間作り取り(年貢なし)にしてやるぞ、などと甘い条件を示す
(親戚とかに言わせるのだが)。
とにかく、江戸時代のイメージがくつがえるぞ。 >>308
これって最近の有力な説だろ??大学閥かなんかで喧々諤々なの? 江戸時代の農民たちの洪水対策
防水林
家の周囲に太いケヤキを何十本も植えておく。
もちろん水は防げないが、流れをやわらげ、家が流されてしまうのを
ふせぐことができたらしい。
水塚
屋敷内に土砂で高い塚を築き、そこに納屋や蔵を建てる。
常時そこに食料や燃料、水、衣類などを置いておいた。
いざというときはそこで寝泊まりした。
洪水になると井戸は泥や汚物まみれになって使えなくなるので、
水の保管は大切だった。水瓶の中に木炭を入れて保存したりした。
避難用船
小舟を一艘は持ち、ふだんは軒下に吊したり水塚に置いたりしていた。
水見の水防役
村には水防組というのがあって土手で水勢を監視した。
緊急事態には早鐘を鳴らした。
空き俵やむしろ、大量の棒杭、縄などを入れた水防小屋もあった。
消防団の先祖のようなもの。田畑への水門を締める水門役というのもあった。
水かさというのは急激に増えるので、水門役は半分水没したような水門でも
締めにいかねばならない。命がけであった。 くわぜんしばり
薪やくわぜ(桑の枝)などの燃料が濡れると、それらが乾くまで煮炊きができなく
なるので絶対に濡らさないようにしなければならない。
縄でしばって軒下にしっかりと固定し、醤油のもろみ樽は太い綱で梁から吊した。
箪笥は梁の上に置いた。
肥や肥料も流されたらたいへんなので、梁から肥桶を吊り下げたりしたらしい。
割り地
洪水の後は田も畑もみな泥流を被って誰の土地か分からなくなってしまう。
その時は専門家を呼んで測量しなおし境界を画定しなおした。
そのことを割り地といった。 江戸時代には洪水を防ぐ堤防がないか、有っても低い堤防しかなかった。
低い堤防というのは、溢れることを前提にして、洪水の量を減らすための堤防である。
あちこちで低い堤防から水を溢れさせて水勢を殺ぎ、下流の方で一気に大洪水になる
のを防ぐ工夫であった。
洪水になったときのために、川の流域は広く開けてあった。
そこは放っておけば自然の湿原や荒れ地となる。
それでは勿体ないので、そこで耕作する者を募った。募ったというより、希望者は多く、
入札で一番高く権利を競り落とした者が一年間利用できるのであった。
一つの村にこういう場所が何カ所もあった。
いつ流れてもおかしくないので、「流れ作場」と呼ばれた。
ここで田を作る者もいれば、畑にする者もいる。一面の茅場にする者もいた。
萱は必需品だったのでいい値で売れたのだという。
たまたま洪水にならなければ大した収入になったものだという。
たぶん農家の次男や三男などが親に金を出してもらって一か八かの勝負に出ることが
多かったと思われる。
当てれば田を買って独立できるかも知れないのである。
もちろん洪水になれば万事終わりであった。
だが簡単に諦めるわけにもいかない。
水が増してきても、少しでも収穫しようとして流される者が後を絶たなかったという。
流される者を助けようとして水見の者も流されたというような話も多い。 >>138
坊さんには名字が無いわけじゃなくて、坊主には名字がないという
タテマエになってただけだ。
坊主は俗世を捨てたわけだから名字も名前も捨てる。
名字を名乗ることはない。ということになってるんだが、親に名字があれば
子にだってあるさ。
お百姓は名字を名乗れなかったが、公的に名乗れないだけで、ほとんどの人は
名字を持っていた。それと同じかな。
ただ、明治になって国民皆姓となったときに、俗人と同じ名字じゃ勿体がつかないと
考えたのか、変な名字にした僧が多い。寺院姓とかいうらしい。
何代も坊主をやっているうちに名字が分からなくなってしまって寺院姓にした坊さんの
家などもあったかも知れない
ご先祖が坊主じゃなくて山伏なら名字があって当然だ。
山伏は僧ではなく俗人だから。
あと僧兵は名字があるのが普通。実体は武士だったので。
会津藩なら溝口派一刀流だな。
ウィキにもあるよ。もう知ってるか
お宅のご先祖は、教官としてきちんと姓を名乗らなければならなかったので
名字を名乗ったのだろう。僧としてではなく武術師範として出仕していたのだから。 上の寺院姓の例
釈由美子の「釈」 釈迦の意味
廃仏毀釈の釈だよ うちの高祖父母、1860年と1866年生まれで1878年に長男が生まれてる。
誕生日迎える前なので11歳で初産。昔とは言えさすがに信じられない。
ただ、1866年寅年生まれで名前がとら、43歳になるまで産み続けているから年齢を過小申告しているとは考えにくい。
だとすれば、他人が生んだ子を偽って届け出たのだろうか・・・?
ただ、それには何のメリットもないし考えれば考えるほどわからない。
小学校教員やってるが、6年生なんか発育も精神も子供そのもので、出産に耐えたり、嫁の仕事や子育てなんか出来るとは思えない。
背景で言うと高祖母は女ばかりの長女、高祖父は婿養子。
家が滅びる前にと焦って早い内から婿を入れたら、婿がロリコンで早いうちに妊娠しちゃったって流れだろうか。
いくら江戸時代〜明治初期でも10代前半の出産は特殊だよね? 11歳で産んだ子どもが男の子か女の子かによって異なる。
男の子だと、高祖母の母親が産んだ子の可能性がある。
それまで産んだ子どもが女の子ばかりだった→長女に婿をとった、であったのが
婿をとった後で男の子が生まれたので、その子を娘夫婦の長男として届け出て、
確実に惣領息子として後を継げるようにした。
そうでないと、娘夫婦に後で男の子が生まれた後で揉めるだろうからね。
女の子だと別の可能性を考えないといけないな。
丙寅の年でなくて丙寅の月に生まれたということも考えられる。
そうすると二歳年上で13歳で産んだことになるはず。
壬申戸籍作成より前に生まれているので、戸籍を作る際、「この子は寅だ」と言ったら
寅年ということで年齢計算された可能性もないわけじゃない。
前田利家の妻まつは11歳で初産で長女を産んでいるので、11歳で出産はないこともない。 >>372
初産は男子ですわ。高祖母の母親が40歳、父親は年齢は判らんが存命中なのでありえない話ではないかも。
高祖母の兄弟にも年齢かぶりがいないし。
2番目の子供(長女)もややこしくて、当初明治20年生まれとあるのに、明治17年、しかもまったく違う月日に変更がなされている。「生年月日変更ノ許可ヲ得テ」のみで詳しい事情はわからない。
役所に聞いてみたら、生年月日の変更は変更後の年月日が絶対に正しいと言う証拠が無い限り絶対にしないからまずあり得ないとのこと。
確かに、生年月日そのものが間違いでもっと年長だったのが一番可能性高そうだけど、そうすると長男と末弟の年の差が31歳も開いてるのが不可能に、なってくる。
何かもう内の家系ワケわからなすぎw 明治四年に成立した法律で、明治五年から戸籍が作られる。これが壬申戸籍。
壬申戸籍は明治19年まで作成・使用される。
明治19年(10月15日)に新しい法令規則に基づいて戸籍簿が作られるようになる。
この明治19年式戸籍が現在我々が読むことのできる一番古い戸籍。
明治19年式戸籍は、その前の壬申戸籍を書き写す形で作成していくわけで、しかも
その間にも人が死んだり生まれたり、結婚したり離婚したり、転入してきたり転出したり。
(たしか明治19年式戸籍は今日の住民票と一体で、引っ越すと戸籍が着いていくんじゃ
なかったと思う。)。
壬申戸籍からの移記と毎日の窓口での届け出を重複しながら作っていくんだから
間違いも起こりやすかっただろう。
長女の記載は当初明治20年ということなのだから、まさに明治19年式戸籍作成中。
書き写し係と窓口担当が分かれていればいいけど、もしかしたら小さな役場で書き写しを
やったり窓口で出生届けを受け付けたりと一人二役だったかも。
これを忙しくやってるうちにゴチャゴチャして、長女の欄を書き写しているときに、その日に
届けられた形で記載してしまったのかも知れない。
一年後ぐらいに父親が気づき、文句を言いに行く。壬申戸籍は閉鎖されているわけだが、
それは形式上で書き写しが終わっていないかも知れないし、移し間違いの心配もあるので
そのまま使われていたと思われる。
壬申戸籍は差し替え式(バインダー式)じゃなくて本とかノートとかと同じ冊子方式だった
のでこの点扱いは楽だわな。
長女を連れて行って、ほれこの子だ。一歳に見えるか、よく見てみろとか言われて、壬申
戸籍にあたってみると明治17年に出生届を受け付けて戸籍作成。
こうなるとさすがに逃げられないので生年月日を変更した、、、
というようなことじゃないのかな。
明治17年生まれというと母親は18歳ぐらい。このあたりで初産というのが自然かも。 あと、娘がまだ10歳ぐらいで婿をとったからには事情があるに決まっている。
だいたいこういう場合は父親が死んだとか働けなくなったという事情。
高祖母の父親は、何かの病気とか怪我で農業ができない体になってしまったのかも知れない。
そうなると一家の生活が成りたたなくなるので、急遽働き手として婿を取ったということでは。
婿というのは労働力としてしか扱われていなくて(あと、もちろん種馬的な面も)、11歳の娘の
婿ということにされても、実際に娘の夫として扱われたかは疑問だ。
いいか、娘はまだ子供だからな。妙なこと仕掛けるんじゃないぞ。こんな小さな体で
胎んだら死んでしまうからな。
一方娘に、 今夜からカーチャンと寝ようなー。
てなもんじゃなかったか。 >>377
読み返したらまた意味不明だわ。
一行目→明治20年8月5日(訂正前の誕生日と同じ) 生年月日変更の許可を得て(ここで終了)
二行目→明治37年1月17日 生年月日変更の許可を得て明治20年8月5日を明治17年10月27日と訂正す。
とあるんです・・・明治20年8月5日に何があったんだろう。
明治37年はちょうど二十歳の歳だから、おっしゃるようなことが起きた可能性は高いですよね。 どうでもいいじゃん
昔は色々いい加減だったってだけ どうでも良いとか言い出したらこのスレの存在意義すらなくなるぞw 明治37年の記載があるなら明治19年式戸籍ではない。
あなたが入手したのは明治31年式戸籍(のコピー)。
(突っ込む奴がいると困るから正確に書くと、デジタルデータのプリントアウト。)。
記載の各人ごと(下の欄)に「父」「母」の小さな欄がついているやつな。
これだと、壬申戸籍 → 明治19年式 → 明治31年式 と、壬申戸籍から
二回転記されていることになる。
それとも19年式と31年式の両方入手したのかな、、、
明治20年8月5日という出生の日付は、「生年月日変更の許可を得て」なされたもの
なのだから、変更前の生年月日があるはず。
それは明治20年という変更の記載がなされた日付からして、明治19年以前の記載
だろう。とすると壬申戸籍に書かれた日付と考える他はない。
壬申戸籍には長女の生年月日を明治17年10月27日と記載してあったのだろう。
明治20年8月5日というと、まさに明治19年式戸籍の作成作業の真っ最中である。
新しい戸籍簿の作成は、旧い戸籍簿からの転記によってなされるのだから、役人が
壬申戸籍をせっせと転記していた。日本中の役所の戸籍係がその作業をやっていた。
その際、ウッカリミスで出生日をその日の日付にしてしまったと考えるのが一番自然だろう。
このミスは、届け出の日付の記載から一見して明白に転記の際のミスと読み取れる
ものだったのではないか。
(明治37年の扱いから考えて届け出の日付が明治17年のものだった、とか)。
担当者がこのミスに気づいたかどうかは分からないが、そのままになってしまった。 だが、通常はそのままで済まない。子供が満で六歳になると小学校への入学通知書が
送られてくる(当時の就学は年齢主義。四月以降七歳になる子供、といった現在のような
扱いではない。)。このときに親が通知が来ないと役所に問い合わせに行ったかも知れない。
しかし、そのときに役人は「そういう届け出になっておる。」とか言って突っぱねたのではないか。
明治23年当時だと、女子の小学校就学率は30%ほどなので、そのまま有耶無耶になって
しまったのかも知れない。
しかし、役人としては届出の日付が出生日より三年も前などという不合理な記載を放置
しておくわけにはいかないので、「生年月日変更の許可を得て変更」との文言を記入しておいた。
戸籍の記載を変更するには、現在は家庭裁判所の許可、昔は区裁判所の許可が必要
だったが、許可など得ていないと思われる。
そうだとすると作成権源のある公務員が内容虚偽の公文書を作成しているのだから、
形式的には虚偽公文書作成罪に該る。しかし、そのあたり、昔は適当だったのじゃないか。
その後、明治31年式戸籍に作成し直された。
31年式に作り直しをするには、もちろん転記をするのだが、その際役人が長女の出生日の
記載の矛盾を発見。しかし「生年月日変更の許可を得て変更」との文言があるので、転記元の
19年式戸籍の記載どおりに生年月日を「生年月日変更の許可を得て」「明治20年8月5日」とした。
「生年月日変更の許可を得て変更」というように「変更」を入れなかったのは、31年式戸籍の
段階で変更したのではないから。そうとしか考えようがない。
おそらく19年式戸籍では「変更」まで入っている。 明治37年に二度目の変更(最初に戻した)のは、長女の年齢から見て婚姻の届け出でが
あったのじゃないか。(当時は婚姻届ではなくて、婚家の戸主−普通夫になる人の父親−に
よる婚家の戸籍への入籍だが)。
婚家の戸籍がある役所からの連絡で、この役所では長女について転出の手続きをする。
そのときに19年式戸籍、さらに壬申戸籍まで調べて、「生年月日変更の許可を得て変更」と
記載して生年月日を明治17年10月27日としたのじゃないか。
これは戸籍の記載で分かるだろう。
嫁に行けば以後はそちらの戸籍の記載だけが使われるようになるので、「生年月日変更の
許可を得て変更」とか適当に書いておいても問題にならないと思い、気楽にやったんじゃなか
ろうか。
ただ、戸籍の作成作業は上記以外にもあるかも知れない。
明治5年の壬申戸籍の作成から明治37年の間に、戸籍筆頭者(戸主)も替わっているのじゃ
ないか。戸主が替わると、戸籍簿が新規に作成される。
高祖母が産んだことになっている男の子が生まれたのが明治10年で、そのときに高祖母の
お父さんは生きているという。この人が戸主なのでしょ?
この人は明治37年にも生きておられるのだろうか。 >>384
色々ありがとう。解ったような解らないような・・・w
婚姻は大正になってからで、明治37年は関係ないですね。三十路だからかなり晩年ですね。
高祖母の父は明治17年に死去とあります。よく読み返したら、高祖父母の長男誕生が明治11年、結婚したのは明治13年とあります。高祖父は明治17年から昭和2年まで戸主だったようです。 だから、どうでもいいじゃん
昔は色々いい加減だったってだけ ま、確かに>>387 の言うとおりなんだけどな。
一番の問題点は、壬申戸籍は、その後の戸籍のように役所(の戸籍係)が管掌してるんじゃ
なくて、戸長が一人で扱ってたことだな。戸籍はもちろん戸長の家に置く決まりだった。
明治5年から家々を回って、家族構成や寄留者(使用人とか一緒に住んでいる叔父とか
叔母とか)、さらに信仰している神社だの檀家になってる寺だのを聞いて記入する。
さらに、その家が士族か平民か、あるいは僧侶とか神官とかの職業まで記入。
そうやって作成した後は、六年ごとに全事項を調査し直し、変更のあったところは修正する
ことになっていた。
しかし、また全戸をまわって、例えば寄留者の構成が変わったのではないかとか、子どもが
生まれた、あるいは誰かが死んだとか、嫁に行ったとか嫁をとったとか、六年間の変化を
把握し直すのは大変である。
この六年ごとの調査を怠る戸長が多かった。
怠るといっても不真面目な理由ばかりではなく、戸長を引き受けたときは元気だったがその後
病気がちになったとか、長い間には老齢で職責に耐えられなくなる人もいただろう。
戸長が辞任して、新しく戸長になったのは人望もやる気もない人だったというようなことも
あったかも知れない。
戸籍の作成管理というようなことを、一人の人間に託していたのが間違いだったのである。
(まあ、副戸長なんてのもあることはあったけど。突っ込みはしないこと。)。 壬申戸籍を信頼できないものにしたもう一つの原因は、国民の法意識の未発達であった。
子どもが生まれたり、結婚したりしたら、その事実を戸籍に反映させなければならないという
意識がなかったのである。
戸籍事項につき届出をしなければならないという感覚が育っていなかった。
結婚したら祝言をあげて近所の人にもお披露目したらそれで十分であり、人が死んだら
坊主を呼んで葬式をあげればこれもまた十分なのであった。
戸長は届けをするようやかましく言っただろうし、自分で知りうるところは補完していった
だろうが、職掌する範囲の全てを把握することは無理であった。
壬申戸籍の時代は届出先は戸長宅だったということも国民の意識に影響していただろう。
戸長の家に行って、孫が生まれたの子どもが嫁を貰ったのと報告せよというのは
今の私たちからしても奇妙である。
戸籍の扱いが役場になってから、だんだんと届出という意識が育ってきたのである。
ただ、にもかかわらず壬申戸籍が一定限度の信頼性を有しているのは、戸長が徴税官吏で
あったためである。租税だけはいい加減に済ますわけにはいかない。
租税の基礎資料になる限度で、戸籍はまっとうに作成されていたのである。
租税の具体的な徴収方法は分からないが、おそらく戸長が各戸にその年の租税額を
通知し(おそらく各戸をまわって通知書のような紙を置いていく)、納税の日(数日間)に
納税者が戸長の家に納めに行く。それを県などの収税官が持っていったのだろう。
おそらく一軒一軒通知に回る過程で、各戸の環境変化などは把握されただろうと思われる。
もちろん完全ではない。欠落も多かっただろうが、最低限戸主の生死にだけは間違いなく
把握されたはずである。
さらに、戸長が小学校設営の責任者であったことも大きい。
その年に学齢に達する子どもは把握していただろうし、それに伴ってある程度は
家庭の状況も調査し、入学可能かどうか見定めるようなことはしていたと思われる。 ヤフオクで壬申戸籍が出品され購入されたという事件があったが、出品者は戸長の家の
子孫だった。明治19年に法律が改正され、戸籍は新しく村役場や町役場などの公務所で
作成・管理されることになった。そのときに壬申戸籍は戸長から役場に引き渡された。
ヤフオク出品のものは、蔵に保存してあったという。
おそらく戸長が日常管理していたもので、役場には清書したものを提出したのだろう。
日常使っていたものは書き直しや書き足しで汚くて出せないと思ったのではないか。
このように、戸長の手許にあった段階で作り直しがされているのである。
六年ごとの改編も真面目にやった戸長は大勢いただろうし、その度に全面的に作成し直した
戸長も少なからずいたと思われる。
さらに戸主が死ねば代替わりとなり、新戸主を筆頭として新たに戸籍を作り直す。
国民が生きているか死んでいるかも把握できないようなら近代国家として成立し得ない
から、これだけはきちんとやったはずである。
壬申戸籍14年間の間にも、作り直しは何度も行われているのである。作り直しをするほど
誤記は増える。人間が書き写すのであるから間違いをしないというのは無理である。
役所に移管されれば、またそこで壬申戸籍からの移記がはじまる。
どうやっても間違いは避けられないのである。
壬申戸籍が役所に移管されてからの写し間違いも少なくはなかったろう。
他人の文字、それも筆での御家流であるから、判読の段階ですでに困難がある。
さらに、誤記の指摘があっても、役人というのは修正に応じないのが普通である。
裁判所の許可がなければ出来ないという権限上の問題もあるが、そうしたタテマエを
振りかざすのは、責任問題になるのを避けたいという役人根性からであることが多い。
しかし、記載同士が論理的に両立し得ないというような場合は訂正せざるを得ない。
こうしたときは裁判所の許可などなしに適当に処理してしまったのだろう。
親がつけた名前と戸籍上の名前が異なり、泣く泣く戸籍上の名前を名乗っている人など
昔は珍しくもなかった。 さらに、戸長が戸籍に関する知識を利用して偽の記載をし、自分の家族や縁者の利益を
図ったという事案が少なからず見られる。見られるというより、戸籍作成権限を有する戸長
サイドの人間でないと出来ないことが行われている例が多いのである。
一番多いのが、徴兵逃れのために未成年の子を分籍して戸主にしてしまうことであるが、
時代が下がってからならともかく(たしか明治31年式戸籍からは戸主の徴兵免除は
無くなったと思う。未確認)、明治も、それも前半期の一般庶民にそのような戸籍操作は
難しい。強引にやろうとしても、戸長にたしなめられて終わりだろう。
夏目漱石の家は町名主であったので、維新後も戸長を拝命したと思われる。さらに幼少時に
親戚の塩原家を継ぎ、養父が浅草区の戸長であった。どこまでも戸長サイドの人間であった。
塩原家との縁組はその後解消されているが、後々まで関わりはあった。
たしか養子先での姉にあたる人物が「門」に登場した親類の中年女性のモデルだという。
実生活上も同じような交渉があったということである。
この養家が関係しているのか実家の人間がしたのか分からないが、漱石は25歳から47歳
まで北海道岩内郡岩内町に籍を置いた。徴兵逃れのためと言われる。
漱石は慶応三年生まれであるから、漱石が若い頃の北海道というのは内陸部は未開発で
道路もないところが多かった。奥地への開拓民は舟で川を遡っていく状態であった。
松前、小樽などの海岸線の町は栄えていたが、こうした土地の住人はいわゆる出稼ぎ人が
ほとんどで、住所不定の者が多かった。
海岸線・内陸ともに住民は戸籍による把握も不十分であり、かつ北海道は人口が僅少で、
ここから徴兵しては労働力が不足し開拓が進まないとの理由で徴兵の対象外だった。
こんな扱いは戸籍事務に長じた者でなければ到底知り得ないことである。
漱石の周囲の人間が知識を活用したとしか思えないのである。 西田幾多郎は二歳年齢を多くし、かつ長男でないのに長男とした。徴兵逃れのためという。
明治元年生まれで長男ならば徴兵の対象にならないとの徴兵令の規定を知った父親が
そうしたのだという。これも奇怪な話で、長男でないものを長男とするには、普通にやるなら
他家の戸籍を借りなければならない。養子縁組の形なら元々実親の方の戸籍に載って
いなければ不可能。それをどうして養家の方の戸籍で2年年長にできるのか分からない。
かつ養子に出しても実親の方の戸籍には元の年齢のまま残るのである。
まあ普通には出来ないと考えるべきだろう。
実際どうやってなされたのかというと、戸籍簿を書き直してしまったのだろう。
前のは破って棄て、出生日を2年遡らせた戸籍を作り、そこから分籍した。
そんな方法しか考えられない。
とすれば、やはり父親が戸長、あるいは戸長サイドの人間であったと思われる。
戸長サイドの人間であれば、年齢の誤魔化しなど簡単にできるのだということを、この事例は
教えてくれる。
平民から士族への書き換えも相当に行われたようである。
戸長は徴税官であったので、担当する町や村の家一軒一軒の収入を完全に把握していた。
戸長として活動する上で貧乏人は無視していい。町の有力者、すなわち高額納税者の協力は
必須だったので、懐柔手段として身分を平民から士族にしてやるということが行われたらしい。
(明確な証拠はないが、最初は平民だったが後から士族になったという言い伝えがある家は
けっこう存在する。)。
いったん平民としたものを士族にするには訂正という手段ではおかしい。
やはりこの場合も、戸籍全体を書き換えたのである。
平民と記された前のものは棄て、新しく戸籍を作成したのである。
壬申戸籍の時代、戸長は戸籍事務に関して、やりたい放題だったのではないか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています