先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ >土地は本家所有だったり一族名義だったりめちゃめちゃだが特に相談無く墓が建てられてるようだが・・・
これもおかしい。
戦前は家督相続で跡取りが単独で相続したんだが、戦後は分割となった。
跡取り以外の相続人が権利放棄すれば単独相続になるんだが、墓場の場合放棄はしないんだな。
山林や田畑の権利は放棄したとしても墓場の所有権(持分権)は放棄しない。
やっぱり自分の墓は他人の土地に置かせて貰ってるというのじゃなくて、自分の土地に持っていたい
のだろうし、墓地管理上の発言権も残しておきたいからなんだろうな。
ということで、墓地の所有権はいくつにも分かれていく。戦後だって最低二回、普通三回ぐらいは
分割されていってるんじゃないか。ということで幾十もの所有権に分かれ、共有登記になっている。
ほとんどがそうだ。単独所有なんてまずないぞ。
ということで共有者たちがまた縁者たちに頼まれて墓を建てさせてやったりするから、墓は立て込んで
いく。いっぽう墓を終う家もあるんで、一杯一杯にはならないんだけどな。
たくさんの利用者から集める管理費で墓地というものは存続していく。
一軒の家で江戸時代から墓地を維持していくなんて到底無理。あり得ない。 >>567
馬鹿だな。戸籍を調査していって、戸籍では調べられなくなったら寺の過去帳などで
調べて、それ以上調べようがなくなったらそこで終わりだよ。
その先を系図で辿ろうなんていうのは馬鹿のすること。
さらに、系図に名前の出てきた武将か何かを姓氏辞典で調べて、うちの家系は
1.000年前までハッキリしてるなんて言う奴がいたら、それは池沼。 >>583 こいつの頭はカチカチなんだな。 この被害妄想は何処から来てるんだろ。
俺の親父も死んだ時は最初祖父の墓に入ってた。
累代の墓と言っても、その祖父の家族墓だからな。 祖父の弟は戦死したから別に個人墓を作ってる。
俺の従兄弟は祖父の墓に入ったし。 別にどうでも良いだろ。
お袋は生きてるうちに自分の墓を作った。 そしてお袋が死んだ時に俺の兄が隣の祖父の墓から親父の遺骨を新しい墓に移した。
勿論、俺の祖父の墓の隣。
法名塔には、今は両親の戒名しかない。 かなり大きな法名塔だから俺も入って良いよと言われてるが、結構迷う。 自分は入りたいんだけど。
一族の墓とは言え、墓の権利金、墓石込みは何十年か前20万円位だったかな。 タダみたいな話だけど。
無縁仏にならない安心感はある。
十数人での墓参りは楽しかったぞ、特に小学生の孫達は楽しそうだった。 大学生の孫達は各々忙しくて墓参りにはこれがなかったが後で集まった。
ゴミが出るなんて何を言ってるのやら、清水は持って行ってゴミは全て持ち帰るんだよ。 今の管理された墓地しか知らなければ仕方ないだろうけど。 独断はやめなさい。
>>585 逆だよ。 うちの苗字は全国でただ一つの苗字だから家系ははっきりしてる。 初代が苗字をもらったのもはっきりしてる。 苗字をもらうまでは氏を名乗ってただけ。 それで時代が推定できなければそれだけのこと。
自分がわからないのはいつから分岐したのか調べたいだけの話。
長文失礼 >>583
・・・としか言えんが。普通に先祖祭りで雑草抜きするし
>>584
基本的に墓みたいな売買対象にならない土地は名義書き換えしないので明治初期の先祖のままだぞ。むろん権利は戦前分は家督相続者、戦後は祭祀の継承という法律(?)で
慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合)
ただ実際は墓は他の場所(地目が畑や雑種地)にも広がってるのでそれぞれ権利はあるのだろうが・・・どうなってるのやら? 今日、何年も前に知り合って定期的に会ってる人が自分と12親等くらいで繋がると知ってビックリw
もともとよその地方から出てきた一族なだけに、地元で知り合った人に共通の先祖を持つ人がいるのに驚愕したわw >>586
お前は >>489 に
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
と書いてしまった。これが失敗なんだよw
父親の単独墓があって、その隣に父親の祖父の墓がある。そうとしか読めない。
しかしその後、家族墓もあると書いた。
じゃ父親はどこの墓に入ってるんだと聞いたら、今度は家族墓の方に入っているという。
滅茶苦茶じゃないか。
それじゃその家族墓はどこにあるんだ?
同じ墓地にあるんだろ
そうすると又おかしなことになる。
>>476 に
>自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。
と書いてある。
自分の父親の墓に10年も墓参りしてないのか?
いくら遠いといったって自分の父親の墓だし、10年の間には何かしら田舎に用事ができるはずだ。
10年間全然行かず、墓参りもしてないなんて考えにくいけどな。
大学生の孫まで、来られなければ後で集まるような家なんだろ。
お前の書いてることは不自然なことばかりだ。 だいたい、父親の代以降を家族の墓として、父親の祖父は別の墓というのは何なんだ。
そんなの聞いたことないぞ。
そして、父親は家族墓に入れたと言い、そしたら墓が残っているのはおかしいから、急遽父親は
祖父の墓に入っていたことにした。おかしいだろ。
だってお前の説明では、それぞれ完全な個人墓で、夫婦でも単独の墓が横に並んでいるということ
だったじゃないか。
不自然な点を指摘されるとコロコロ変えてしまう。
しかし、父親の代までとそこから上を別の墓にするなんてことはあり得ないんで、これだけでも
お前の話は嘘っぱちと分かるんだよ。そんな奇妙な話を誰が信じる。 >一族の墓とは言え、墓の権利金、墓石込みは何十年か前20万円位だったかな
嘘つけw
>ゴミが出るなんて何を言ってるのやら、清水は持って行ってゴミは全て持ち帰るんだよ。
> 今の管理された墓地しか知らなければ仕方ないだろうけど。 独断はやめなさい。
馬鹿だねえ。墓場のゴミは家には持ち帰らないんだよ。
墓場にあるものを家に持ってきたりはしないの。
墓に供えたものを持ち帰るって、たとえばお墓の花が枯れていたらそれを家に持ち帰るのか?
お盆のときは、団子粉でつくった丸い団子を蓮の葉とマコモに包んで墓前に置いてくる。
そうでない地方も米を備えたりするわけだ。
そういうものも後で家に持って帰るのか?
卒塔婆も持ち帰るの? 古くなって黒ずんで読めなくなったような卒塔婆は処分するわけだが、
そういう卒塔婆も家に持って帰るのか。すごいなw
墓場にはいろいろ道具もあるだろ。水桶とかひしゃくとか。
ああいうものが壊れたら家に持って帰るのか?
お墓の○○家なんて書かれた水桶を持って帰ってきたら怒られないか。
お前の家はすごいなw >基本的に墓みたいな売買対象にならない土地は名義書き換えしないので明治初期の先祖のままだぞ。むろん>権利は戦前分は家督相続者、戦後は祭祀の継承という法律(?)で
>慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合)
登記がどうなってるかは実体的な権利とは関係ないのよ。
放置された山林なんかは明治のご先祖様の名義のまま、何十人もの相続人の共有となっている。
3.11の大震災の後に、山林を開発して街を高台に移そうというときにこれが障害となったのは
誰も記憶に新しいところ。
祭祀の承継の場合は確かに分割相続の原則は適用されない。民法897だ。
しかし、「祭祀」とは墓とか仏壇とか位牌とか御仏具とか、仏壇の中のご本尊とか教典とか。
あと神棚とか御神札とかな。
こういうのは、例えば相続人が三人だからって3つに分割するわけにはいかないだろ。
といって共有にすると管理がいい加減になる。
だから慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継することになってるわけだ。
だが、土地は違うぞ。土地はただの不動産で祭祀承継物ではない。
墓地であってもこれは変わらない。
だからお前の書いた「慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合) 」
というのは嘘。 なんでお前は嘘ばかり書くかな。
まずいい加減な空想を書いて後から辻褄合わせをしようとするのが原因じゃないか。
基本が空想でも、筋が通っていればそれなりにまともな内容にはなる。
しかしお前の書いたものは、例えば父親の墓のこととか、後から論理的に破綻するようなこと
ばかりなので、後から変な事実を付け加えたりして、辻褄合わせに苦労することになる。
それと知識もないのに知ったかぶりをして、それをまたハッタリで通してしまおうとすること。
こういう人は、家族や周囲が低学歴・低知能の人ばかりであることが多い。
周りが馬鹿ばかりだから適当なこと言っても通ってしまう。
しかし、さすがにネットでは普通の知能で普通にものを知った人が多いので家と同じわけには
いかない。
ということで、>>586 は嘘の上塗りはやめた方がいいと思う。
とくに墓地とか墓とかいった関係は子供には分からないことが多い。ネット検索の知識などでは
どうにもならない。馬鹿晒すだけだからやめとけ。 >>594馬脚を現したな。本の知識だけだと現実を見誤るいい例だ。
墓地も祭祀承継物だよ
ttps://www.forever-kato.co.jp/topics/index.php?t=000087 >>583 >>591 全くうざったらしいな。 書かれている事そのままなのに勝手に捻じ曲げて解釈しようとするからない脳みそがパンクするんだよ。
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓がある
と書いてるままだよ。 親父の墓は 〇〇家の墓 と書かれていて親父の祖父の墓は 〇〇家累代の墓 と書かれてるだけの話なのに。
>>586 でも説明してるのに信じ無いのはお前の勝手。
>>591-595 長々と下らん妄想を垂れ流して皆に迷惑だぞ。 読む気にもならん。 はっきりしている事はお前には読解力が皆無だという事。 >>596
あ〜あ、馬鹿だなあ。やっちまったよw
>墓地も祭祀承継物だよ
墓地が祭祀承継物なんじゃない。「墳墓」すなわち「お墓」が祭祀承継物なんだよ。
俺は書いてるときにお前がここを誤るんじゃないかと思ってたんだ。
そのとおりになってしまった。
しかも関連サイトのアドレスまで付けて得意げに。
その上、その関連サイトにはちゃんと説明がしてあるのに理解できてない。哀れになるわ。
読解力がないのはどっちだよ。
いいか、墓は祭祀承継物だ。条文に明示してあるし、俺も>>594 で
>「祭祀」とは墓とか仏壇とか位牌とか御仏具とか、仏壇の中のご本尊とか教典とか。
と書いて「墓」を入れている。
そして897条の「墳墓」には墓の構造物だけでなく、墓を存置するために必要な範囲での
敷地を含むとされる。これは拡張解釈でなくて、いわゆる勿論解釈といわれるものだ。
法文で明示されていなくても条文の趣旨から当然に文言に含まれるとする解釈の仕方だよ。
お墓は空中に置いておけないし、お前の物だから持って帰れと言われても困る。
だから当然そのままにしておけるわけだ。ということは、祭祀承継物たる墓の所有権には
墓として存置する上で必要な範囲の土地所有権も含まれるということになる。
お前が得意げに指示したサイトにも同じようなことが書かれている。
墓として利用する上で最小限必要な範囲ということだよ。
墓として存置ということは祖先の祭祀を行う目的を不可能ならしめない範囲で、と言い換え
てもいいだろう。 例えば、敷地所有権が墓の石組みぴったりにしか無いとしたならば、嫌がらせで墓の
脇ギリギリに物置を建てられたりするかも知れない。また墓石に沿って塀を建てたり
隣をゴミ置き場にされたりするかも知れない。
それでは祭祀を行う障害になるから、祭祀承継物としての用途を全う出来るようにする
ため、墓の敷地だけでなく最小限の範囲で墓の周囲にも及ぶと解すべきだとされる。
具体的にそれがどの程度かは一律でない。
墓の大きさや周囲の状況、墓地の広さとかいろいろな要素を勘案する必要があるだろう。
しかし、一般的にその墓の所有権の及ぶ土地の範囲が墓の何倍もあるということはない。
おおまかに墓から1メートルとか1.5メートル周辺とかいった範囲だよ。
お前の家の墓地は、1000坪あるんだろ?
祭祀承継物として墓の所有権が認められたからといって、その土地全体に所有権が
及ぶわけじゃないんだ。墓地全体の所有権とお墓の敷地の所有権は違うんだよ。
そこをお前は混同してるの。
897条を解説したサイトとか、もう一度読んでごらん。落ち着いて真面目に読みなさい。
そうすりゃ理解できるから。君は読解力あるんだろ。 >>597
はお話にならないよ。
お前はやばくなると勝手にゴールを動かすんだよな。
親爺の墓は ○○家の墓 と書かれていて、なんて今頃出してきたって駄目だよ。
さらに、祖父の墓が累代の墓だなんて言ったら、その後ろに誰々の弟だの祖父の祖父だの
個人墓が並んでいるのは何なんだということになる。そんな奇妙な墓があるわけないだろうが。
だいたい、お前の家の墓である○○家の墓があるなら、なんでお前は墓参りしないんだよ。
>>476 に
>自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。 とある。
自分の父親の墓(お母さんの墓でもあるわけだろ)に10年行かないって珍しいぞ。
こういうことを書くと、今度は「外国に行ってた」とか書くんじゃないかw
お前みたいに学問やったことのない人は、前提条件というものを軽く考える。
端的にその特徴があらわれているのがお前の文章だな。
人間やっぱり学問しなくちゃ駄目だな。 >>600 なんか勝手に人を巻き添えにしていくみたいだから、コテハンをつけるよ。 あまり貴方の相手をするつもりもないんだけど。
>>595 貴方の知識が偏ってるだけだよ。 自分の周りのしきたりしか信じられないなんて可哀想だな。
>>596 さんは俺とは無関係だから勝手にごちゃ混ぜにしないでくれるかな、迷惑だろ。 読解力があればわかるはずだが。
山の中に桶とか柄杓とかあるわけないだろ、水すら無いのにバカチン。 水はペットボトルを何本か持っていくんだよ。
俺の親父の祖父の墓の周りはこんな感じ
https://i.imgur.com/4HIR6ae.jpg
親父の墓はこの下にあり、納骨堂(祖廟)と同じ平面。
その一段下にも墓はあるみたいだが、その下は果樹園が広がっている。
下に行くに付け権利者がいるからそれなりの金はかかる。(タダみたいなものだが)
上を切り開いて作るよりは安いからね。
>>600 ご心配なく。 兄の子達も自分の子達も有難いことに日本最高峰の学附を経由し幸せに過ごしてるよ。
人の数倍以上は稼いでるかな。
自分はその半分くらいしか稼げなかったかな。
毎年墓掃除にいけない場合は、3000円位を送って掃除をして貰う。 >>598-9
お前こそよく読め。1000坪あるが地目が墓になってるのは200坪ほどと書いてある。
>>601そそ、家の墓もこんな感じ。 >>601
全て一族の墓、良く良く見ると同じ苗字じゃない墓がちらほらと見えるが、多分分家か何かなんだろう、墓誌をしっかり読んでないからわからないけど。
その下の親父の墓のある段の方、奥は祖廟
https://i.imgur.com/6pknRXp.jpg
平地に有る大昔の墓のあたりの先祖祭りの中心はこんな感じ, 周りには小さな墓石が何十個か集まってるくらいで余り多くはない。
https://i.imgur.com/2bHAKSf.jpg
残念ながら、自分の直系の先祖探しは江戸時代末期(1700年代後期)位までしか遡れていない。 次は過去帳探しかな。 名字がひとつしかないから子孫というのもおかしい
途中で家系は途絶えて、関係ない人がその名字を名乗る事も多数の事例があるからね
朝鮮人が断絶した旧大名家の姓を名乗る例もあった >>604 有名な武家の紋だと勝手に使い続ける事は許されない。
今の時代だと朝鮮人が勝手に紋を使う事もあるだろうけど、江戸時代までは許されないな。
わざわざ本家の紋と分家の紋を変えてるケースも多い、本家の紋を分家が使うことは許されない。
墓の紋も参考になる。 紋の名前と大まかな図案を知っていても細かな図案が違うケースもある。 江戸時代でもいるだろ。
勝手に使う奴。
すべてを把握して処分なんてできなかったからな。
系図も捏造して、○○の子孫の出来上がり。 系図の捏造は多い見たいねでもさすがに近い年代までごまかしたらすぐに見破られる。
100年位前までは隣近所みんな顔なじみだからね。 ???系図なんて基本門外不出のもんだろう。
苗字帯刀許可を願い時とかに役所に届けることもあったらしいけど >>601
>>>596 さんは俺とは無関係だから勝手にごちゃ混ぜにしないでくれるかな、迷惑だろ。
> 読解力があればわかるはずだが。
これは無理。
民法897条の「墳墓」の解釈の誤り(墓地の土地所有権との混同)は、 >>596 より先に
お前がやってるんだよ。>>587 な。
>戦後は祭祀の継承という法律(?)で
>慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。
この間違いは、俺が>>594 で指摘し、ちゃんと説明を加えてやってる。
だからその後にさらに変な理屈をこねる人間は出てこないはずなんだ。
ところが出てきた。お前の言う >>596 さん だ。
そして >墓地も祭祀承継物だよ などと堂々と抜かし、さらにサイトのアドレスを示した。
おかしなことに、このサイトでは正しい説明がされているんだ。 これはどういうことかというと、お前がハッタリをかましたんだよ。
みんなはよく分かってないから、強く出て専門のサイトまで示せば、印象をひっくり返せる
んじゃないかと期待したわけだ。
でもみんなそんな馬鹿じゃないから。結局お前は恥の上塗りをしただけなんだよ。
俺が>>598 で>>596さんことお前に懇切丁寧な説明をしてやって、これは反撃不能と
分かったら、今度は別人だという。
何をやってるんだか。
分身の術なんか使いはじめたら嵐も終わりだぞ。
さらにコテハンなんか使い始めたのもわざとらしい。
自演やってますと言ってるようなものじゃないかw
「墓地も897条の墳墓で祭祀承継物だから、承継人は墓地全部の土地所有権を取得する」
なんて馬鹿な解釈をする奴はいないんだよ。お前がそれをやった唯一の人物。
ほんとに希少性のある馬鹿なんだな。めったに居ない馬鹿。
だから、お前以外に同じような同じこと言う馬鹿なんかいるわけないんだ。
他人だなんて言っても駄目w なんだか写真をズラズラとウプしてるみたいだが、何を抜かれるか分からないので見ない。
けど想像はつくわな。寺の墓地を写してるんじゃないか?
寺の周囲には古い墓地をそのままにした一画が残っていることがある。
あと古い墓石を整理して、一カ所に集めて祀ってあるところもある。
古い墓石は処分するが、ある程度残すのは寺の由緒を示すことにもなるからだろう。
俺の家の近くに30年ほど前にできた寺があるが、最近散歩のついでに行ってみて驚いた。
古刹のようになっている。葬儀屋か墓地業者みたいなのが建てたようなインチキくさい寺で、
民家とたいして違わないような貧乏くさい建物だったのが、堂々たる寺になり、坊主の住居も
壮観といっていいような和風建築だった。
隣の畑を全部墓地にしていた。金が入ったんだろうな。
本堂と墓地の間に竹藪を作り出し、中に薄暗い小径があって、その横に道祖神とか石仏とか
が並んでおり、奧の方には古い石材が重ねてあった。
こんなふうに演出してしまうのかと吃驚した。参道は石畳で松が植えてある。両側は黒塀。
ソバ屋や料亭が和風の雰囲気を演出しているように、寺も古刹の雰囲気を作り出してしまうんだな。
あの寺を見たら、何も知らない人は古くからの名刹だと思うだろう。すごいもんだ。
ま、そこまでやる寺はめったに無いだろうが、寺の周辺を古いままに、あるいは演出でそうしてる
寺もあるんで、被写体には困らないだろうな。 >>601
>山の中に桶とか柄杓とかあるわけないだろ、水すら無いのにバカチン。
>水はペットボトルを何本か持っていくんだよ。
ペットボトル何本かなんて程度で足りるわけないだろ。
花生けの筒なんかちょっと行かなければドロドロになって藻が生えてるし、それ洗うのだけ
だってたいへん。ほんとに水の設備のない墓地に行く人は昔からポリタンク持っていくよな。
白い10リットルくらいのやつ。
それよか、お前の家の墓地だと言ってる場所は山の麓で、すぐ下にも墓地があるんだろ。
下の方にはきっと水道もあるよ。行ってごらんw
>兄の子達も自分の子達も有難いことに日本最高峰の学附を経由し幸せに過ごしてるよ。
「日本最高峰の学附」って何だ? 最高学府と何かを間違えてるのかな、、、
あんた日本人か?
1000年前の先祖までハッキリしてるとか、「自分の子供は人の数倍以上は稼いでる」とか
変な人だな。 >>610-1
君が墓を相続した経験が無いのは分かる。
本の解釈よりも現実が全てだよ。墓地も祭祀承継物です。
ただ都会だと墓地の所有権自体は寺かもね使用権のみが個人か、この辺りと
勘違いしてるのではない>>610氏は
・・・基本的に墓地が非課税なのも知ってる?? あー後都心の一坪数千万の墓地と田舎の値も付かないような墓地では扱いは異なるかもね。 >>610-613 完全にいかれてるな。 お前本当に病院に行った方が良いぞ。
>>587 は俺じゃないし。 他の方が普通に会話されてるのにお前は敵対視して話をしてる。
>>596 さんも俺じゃない。
お前には言葉で言ってもわからないだろうから、赤ちゃんでもわかるようにわざわざ危険を冒して写真を貼ったのに。 赤ちゃん以下だな。
>>612 墓地は寺の墓地ではないと最初から言ってるのに自分の先入観から抜けられないのは先天的なアホ。
>>613 墓のすぐ隣みたいな近くには、うちの本家の神社から明治になって仏様を移した寺があるよ。 有名な湧き水が綺麗な場所。
お参りするのにそんな水をもらうまででもないよ。
隣の寺も、うちがお世話になってる菩提寺も、昔使えてた国司の菩提寺も同じ禅門宗派。
面白い事に菩提寺の前(寺の外)にも巨大な石を中心に祀った墓群がある事をGoogle で知った。
まだそこは調べていないからよく解らないが。 遠く離れてるから中々調べられない。 楽しみが増えた。
>>613 あんたの非常識に耐えられなくなっただけだよ。
ちなみに俺は億近く溶かしたけどようやくチャラにした。
子供達も立派に独立したからそれで十分。 家族が健康に生きていける事が一番。 自分の名字由来検索してみたら、全国人数約2500人ほどの比較的珍しい?名字だった。
それでルーツが清原氏ということだった。
半信半疑だけど人数が一番多い県に住んでて、
名前の由来となった地名もお隣の県だからあながち間違いでもない気がして… >>603
>平地に有る大昔の墓のあたりの先祖祭りの中心はこんな感じ, 周りには小さな墓石が何十個か集まってるくらい>で余り多くはない。
>https://i.imgur.com/2bHAKSf.jpg
これは墓石ではないと思うよ。庚申塚じゃないの。
向かって左の二枚の平たい石は間違いなくそう。
それから中央の大きな岩の右側に並んでいる細い塔。これは庚申塔。
その右に並んでいるのも中に仏のようなものが彫られていて、墓石ではないと思う。
ここは庚申塚とか庚申塔を集めたのじゃないかな。
真ん中のは磐座(いわくら)だったんだろう、多分。だから結界を結んである。
岩磐の上に乗っているのは祠に入れてご神体とされていた石だろう。
明治維新のときにこのあたりにあったものを集めて積み上げてあったんじゃないかな。 失礼、忘れていた。
庚申塚とか庚申塔というのはこんなものだよ
他にも検索して画像を見てみるといい。
www.nerimakanko.jp/photo/detail.php?photo_id=P000000014 あちゃー、、、
おい603
上げとけよ。削除すんなよ >>620 何に対してあちゃーと言ってるのか知らないが。 意味がわかっていないみたいだな。
>>618 の言う様に大石は磐座(いわくら)で間違いない。
磐座を拝んで先祖供養をしていると言う話。
左側の長い石が庚申塔かどうかは解らないが、普通庚申塔の場合、庚申の文字か仏像、神像が刻まれているがこれには無い。
磐座の右手に並んでるのは墓標、 この形の墓標が周りにずらっと並んでいる。
信士、信女の文字が見えるだろう。
https://i.imgur.com/N6ZUAsi.jpg 磐座の上の丸い石は、石造五輪塔のはず。多分一番古い先祖時代のものだろう。 五輪塔は神社に祀られることもある。
上の長丸石が二つに別れてるのが五輪塔の特徴
https://i.imgur.com/fRFUI2k.jpg
左側の長い石は、合同供養搭だと思うよ。個人のものかもしれないが文字が読み取れないからわからない。
この写真はうちの宗派(禅宗)の永代供養搭の例
https://i.imgur.com/TauFXFD.jpg 磐座(いわくら) というのは、神様の降臨を願ってお祭りをする場所だが、ここの場合後世の仏教と混ざって五輪塔も一緒に祀ったみたいだな。 五輪塔は多分先祖の墓石。
ここは、先祖の墓石をまとめて祀ってるところ。
五輪塔はこの下の死者が極楽浄土に行けると信じられてたらしい。
平安時代以後戦国時代から流行った。 江戸時代まで武士の墓には五輪塔は多い。
戦死者を弔うには良かったのかも。 作るのが面倒だからあまり一般化しなかったのかな? >>621
もうやめとけ。
とにかく、この写真から分かるのは
お前のご先祖様は庚申様だということだ(大笑
写真の左の二枚の平たい石は何なんだ。
こんなの個人の墓石にはしないわ
何も彫られていないように見えるのは消滅したからだろ
重ねられたりしていれば削られてしまう。上向きに放置してあっても
雨風で摩耗する。古いものに文字がどうのとか言っても仕方がない。
石塔の右に並んでいる細長い石は明らかに庚申塚。
庚申塔は文字も像も彫られていないものも多い。
ググってあちこち庚申塔の写真を見てみろって。そしたら分かるよ
その右のは像が彫ってあるだろ。これは典型的な庚申塚。
お前はさらにその先に墓石も並んでいるようなことを言うが、何でこれが繋がってる
ところを写さないんだよ。その場にあるかどうか分からんじゃないか。
ほんとにここに置いてるとしたらこれは無縁様だよ。
無縁様のうちでもうんと古い墓石を置いてるんだろ。 ところでさー、
写真の、後ろに見える屋根はお寺だろ。寺の敷地だわこれはw
盤座を個人で祀るなんてあるわけないだろ馬鹿が
>>622
丸い石はよく見えないんだよな。
言われてみれば丸くて上下が平らに削れているようにも見える。
これだと確かに五輪塔の傘の下の丸石の部分。
他に五輪塔の台座の部分もあるように見える。
他の小さいのは御神体と見た方がいいと思う。
いずれにせよ、古い五輪塔の丸石がこれだけ多数あるというのは個人の墓の
ものでないことは明らか。大名だって五輪塔をズラズラ並べたりはしないって。
五輪塔が置かれるようになったのは平安末というけど絵巻などでしか見られない。
だいたい鎌倉時代から。南北朝ぐらいまで盛んに作られた。
弥勒信仰が元にあるんだな。
(>>623 にお前が書いてるのは出鱈目。後で教えてやるよ。)。
この丸い石もその頃のものだと思うよw
お前の家はその頃から個人の墓が綿々と続いてきたわけだ、すごいよなーww >>603 の
>その下の親父の墓のある段の方、奥は祖廟
>https://i.imgur.com/6pknRXp.jpg
左の家型のものが乗っている墓みたいのは経塚だよ。
昔は、亡き人の菩提を弔うために、写経したものをお寺に納めたんだ。
そのときにお寺が受け取りとしてよこしたのが今はやりの御朱印。
だからここはお寺の地所だな。
後ろにあるのは輪廻塔か何かかな?遠くて小さくてよくわからん。
一番後ろにある建物はお寺の位牌堂だろう。
広い場所だな。ここはお寺の駐車場の端っこかな。
とにかく、写真に写っているのは、個人のレベルでどうのこうのというようなものじゃないよ。
お寺さんのもの。
君は先祖とか自分の家族とかお墓とか、何でもどえらいものを空想してしまうようだな。
世界は俺のものだ!なんて言う人もいるしな。
そういう病気があるのかも知れない。誇大何とか病、、ムム、、、とにかくお大事に >>624-627 また、延々と。 勝手にやってなさい。 自分の尺度でしか人の話を聞けない馬鹿に初めて会ったよ。
勝手な妄想には呆れてしまう。
先祖祭りというのは年に一度一族が集まって先祖の霊を弔う祭りだよ。 個人の墓まいりとは別。
先祖祭りをする広場だけでも下手な駐車場より広い。 田舎にしては狭いけど広場に100人位は入れるかな。もちろん一族の墓地。
山の方(祖廟のある方)の墓には人は集まれない。
あまり写真を出すと特定されるから出さないがこれだけ出してわからなければ勝手にしなさい。
(こっちは狭いぞ、祖廟だと言ってるのに何がお寺だよ。)
https://i.imgur.com/JDlelhO.jpg
祖廟というのは先祖の霊を祀る場所。 今風に言えば納骨堂。
五輪の塔を見たこともないのか? うちの近くの寺(東京)には結構沢山有るぞ。五輪の塔を見つけて歩けば江戸時代の有名人の墓に巡り会える。
因みにこの墓のある地に来たのは鎌倉時代。 鎌倉衆と呼ばれていた。 その後南北朝時代は戦闘に次ぐ戦闘、その頃の先祖の戦記を紐解くのもすごく楽しい。次から次に知らない話が見つかる。ただ、昔の戦場の地名が見つからないのにはイライラする。
また、最近は同族だけのFacebook のグループを作ってる。離れた地にいる同族も話せるからね。 まだ参加者は100人もいない。 疑問に感じた事を出して皆に調べてもらう事なんかもしてる。 >五輪の塔を見たこともないのか? うちの近くの寺(東京)には結構沢山有るぞ。五輪の塔を見つけて歩けば江戸>時代の有名人の墓に巡り会える。
馬鹿だなあw 何をトンチンカンなシッタカしてるんだw 五輪塔なんかどこにでもある。
明日香村の蘇我入鹿の首塚のところに立ってるだろ。本来あれは二基あったのだ。
一基のどこかが壊れて、ニコイチで今は一基だけ立っている。
室生寺にもいくつかある。
明日香村のものも、室生寺のものも鎌倉時代のものだ。
ものの本には平安末からなどと書いてあるが、その時代には現存するものはない。
年号が彫られているもので、年号では平安時代になってるのもあるけどね。
その文字がお話にならないんだな。
現存するものは鎌倉時代以降のものだ。
>祖廟というのは先祖の霊を祀る場所。 今風に言えば納骨堂。
納骨堂と勝手に思ってるだけ
これは位牌堂。位牌堂で祖廟としても全然おかしくない。
もしもこの寺が曹洞宗なら、祖廟とは昔の高僧の遺骨をお祀りする霊廟のことだが。
それほどの建物とは思えないんだよな。
>因みにこの墓のある地に来たのは鎌倉時代。 鎌倉衆と呼ばれていた。
こういうのやめろや。鎌倉時代から家が続いてるわけないだろ
頭が痛くなるw
勝手に一人でやっててくれ 一人でやってる分には誰も何も言わないよ
>まだ参加者は100人もいない。
すぐに一人もいなくなるよw >>629 一言だけ許せない言葉がある。
> こういうのやめろや。鎌倉時代から家が続いてるわけないだろ
独りよがりな偏見はやめなさい。
確かに鎌倉から領地をもらって南北朝時代までの100何十年位は平穏だったが、南北朝時代に南朝について戦いに敗れた後は領地の殆どを没収されたが、戦いをやめた家は怖くはないんだよ。
(一族郎党全員のクビを切る訳でもないからな)
南北朝時代は主従兄弟目まぐるしく変わりながら戦った時代。
その後武家としては没落したが、◯◯家としては尊敬されながら同じ土地でほそぼそとずっと存続してきている。
(本家は農家ではない)
武家をやめたからこそ存続できてるのかもしれない。
今だに名家として存続している。
地域には今だに200所帯くらいは同じ姓が集まってる。 全国には1000所帯以下。
郷土史には必ずうちの由来が書かれている。 今日古書が一冊届いたので、調子に乗って別の種類の古書を2冊オーダーした。
微妙に記述が違うので見比べてみるのも面白い。 書いた後気づいた。多分彼は家の没落と、家系の断絶を混同してるんだろうな。
家が没落すれば歴史からは消えるから無くなったと思うのかもしれないが、家系が途絶える訳ではないという事を理解できていない。
例えば徳川家は今でも存続している。
栄枯の昔から、支配者は支配地に来ると地元の人々、地元の神々を祀り人信を集めることを心がける。 例え敗者であろうが味方につける方が賢いということを知ってる。
これは日本独特の風習なのかもしれない。
海外の多くは、支配者が変わると前の文化をことごとく破壊する。 破壊文化
日本はそうしない文化が根付いてたからずっと文化が残ってる。 懐柔文化 横から失礼します
個人的な興味でご先祖様の本姓とかは分かってるのでしょうか?
源平藤橘とかそれ以外とか >>632 わかってますよ。 氏(うじ、出身地) は、大和国の〇〇郷の出ですから、〇〇。有名な氏。今はその地名はありません。
古事記にも日本書紀にも登場します。
氏(うじ)というのは元々は住んでる土地の名前。 氏神様と言うでしょう? その土地の神様。
その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
姓(カバネ、昔々に天皇家から与えられた身分証明)は、うちの直系先祖が鎌倉時代は宿禰(すくね) 。
氏一族は上位全ての姓(かばね)をもらってます。皇族に連なる直人(まひと)をはじめとして。
源平藤橘と言うのは、元々は氏(ウジ)です。
(と言うか、南北朝時代には功績のあった人間には、源氏を名乗ることを許すとか、そんな形だったから名誉名みたいになってしまいましたが)
例えば足利尊氏を助けたから大友氏に源氏を名乗ることを許すとか。
乱発し過ぎて収集がつかなくなったのでしょう。 その頃から苗字を与える様になったのではないでしょうか。
氏/苗字、諱(いみな、名前)、家紋を与えるのが最も金がかからない恩賞でした。
うちの氏はそれに並ぶ古い氏です。栄枯盛衰武力の強い氏が有名になりますから今はあまり有名ではありませんが。
古事記でも副将軍として登場しますし、日本書紀でも副将軍として登場します。
鎌倉時代当時のうちの祖先の呼び名は、
〇〇の宿禰 官職 XX △△みたいな感じ。 まだ苗字はありませんでした。 何処の出身でどんな家系かが最も重要視されてたんでしょうね。
南北朝時代の始めに、その前に苗字を頂きました。
苗字〇〇の宿禰 官職 XX △△
この苗字が今の自分の姓です。
最も酷いのは自分の氏の人間が副将軍になった時に日本書紀を編纂するメンバーになると、自分の氏の漢字を書き換えて、古事記の名前を全て自分の新しい漢字に書き換えてしまった事(読みは同じ)。
最初古事記と日本書紀を見始めた時には頭がクラクラしました。
氏素性/姓(うじすじょう)の解らない人間とは付き合うな。と昔は聞かされてきました。 今の人達はそんな言葉知ってますか?
氏、出身地/生まれがしっかりしている事。 素姓、しっかりした家系、先祖がわかる事。 なるほど
すごい歴史ある家系なんですね
詳しく教えていただいてどうもありがとう 関連ことわざ
氏素性は争われぬ
うじすじょうはあらそわれぬ
生まれや血統のよし悪しは、必ず人柄に現れるということで、血は争われないものだと言う事。
多くはよい場合に使うが、悪い場合にもいう。
類義語、氏素性は恥かしきもの/恥ずかしきは氏育ち
氏より育ち
(うじよりそだち)
生得的な要因である家柄・身分よりも、後天的な要因としての環境・教育といった育ち方のほうが、人格形成やその後の人生に大きな影響を及ぼしているということ。
---
氏素性の分からぬ成り上がり者の多い戦国大名達
氏素性がわからない家柄のものには官職は与えられなかった。 その為金で姻戚関係を作り氏姓(うじかばね)を捏造したのが、豊臣秀吉。
---
八色の姓
やくさのかばね
八色の姓は、天武天皇が684年に新たに制定した
「真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の八つの姓の制度のこと。 この順に位が高い
『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混す。
姓は当時の豪族にだけ与えられた称号
真人(まひと)は天皇の一族
朝臣(あそみ) 壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族
宿禰(すくね) 宿禰は従来の連(むらじ)の中の有力者
同じ氏(うじ)でも複数の姓が存在するのは、血縁関係を示す。 >>590 今日たまたま、祖先の地元の一番の庄屋の話の文書があったから見てたら、皆分家は別の苗字で分家させてたな。
その庄屋の本家は昔から苗字を持ってたが、分家は元々苗字を名乗ることが許されてなかったから明治になって適当に苗字をつけたんだろうけど。 >鎌倉時代当時のうちの祖先の呼び名は、
>〇〇の宿禰 官職 XX △△みたいな感じ。 まだ苗字はありませんでした。 何処の出身でどんな家系かが最も重>要視されてたんでしょうね。
宿禰とか官職 で呼ばれていたのは雑色とか神人と呼ばれていた連中だよ
中世でも水干烏帽子で下男のような仕事をしていた。
後生に穢○とか非○などと呼ばれる集団になっていく。
>>633
>氏(うじ、出身地) は、大和国の〇〇郷の出ですから、
大和には蔑民の住む部落がたくさんあった。穢○の故郷みたいなところ
>氏(うじ)というのは元々は住んでる土地の名前。 氏神様と言うでしょう? その土地の神様。
>その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
これは違うよ。氏というのは正しくは氏名(うじな)といい、天皇が「お前達一族は氏の名として
この名を名乗れ」として賜ったもの。
だから氏名(うじな)というものは変えることはできないし、勝手に新たに作ることもできない。
日本の氏名は源・平・藤・橘の四つだけ。(豊臣もあったが滅びた。)
>その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
馬鹿。爆笑だわ >>639 ポカーン。日本史板でこれは恥ずかしい。
八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。 八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
賜姓
天皇が皇族,貴族,武士などの功績に対して姓を賜うこと。古代からあったと思われ,平安時代には盛んに行われた。
特に,姓を与えられて臣籍に下った皇族を賜姓皇族と呼び,後世,公家あるいは武士として発展した。
地方豪族の氏については例えば蘇我氏などの豪族を調べてごらん。 古墳時代から氏(一族の集団) は存在してるよ。
因みに古代から地方豪族は宿禰などの姓を名乗ってた。 これら古代の姓が混乱していたので、八色の姓 で明確に整理したんだよ。 >>839 氏名(うじな)だってw これは苗字と名前の現代の制度と同じ。
氏姓(うじかばね)の氏(うじ)は古代豪族一族の出身地だよ。
官職から付けられた氏もあるが。 物部氏など。
蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
藤原氏は姓と氏を同時にたまわっているが鎌足の生地大和国高市郡藤原郷に住んでいた。
源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
氏(うじ)は本姓(ほんせい)とも言うが、姓(かばね)とは無関係
最初の出身地を本籍と言う場合もある。
天皇が苗字を与えるようになったのは比較的新しい。多分平安朝以降と思われる。
氏姓(うじかばね)制度は明治初期まで続いていた。
奈良時代まで大和の国が政治の中心だろ。小学校で習わなかったのか? >>640 ポカ〜〜〜ン。日本史板でこれは恥ずかしい。
>八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
何を言っているのかわからん。氏名(うじな)と八色の姓が何の関係があるんだ?
君は自分でも何言ってるんだか分かってないだろw
>氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。
ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが、中臣鎌足って皇族だったの???
>八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
ハァ? 八色の姓を定めたのは天武天皇だよね。天智天皇の弟。
桓武天皇が臣籍に降りる皇子に「平」という氏名(うじな)を与えたわけだが、桓武天皇って天武天皇より
前の天皇なの?
同じく清和天皇が「源」という氏名を授けたんだが、清和天皇って天武天皇より前にいた天皇なの?
君ってものすごいこと言う人だね 脳内にウンコ溜まってるんじゃないの?
あと、賜姓以下はどっかから持ってきたんだろうけど、上半分で君のもの凄さが分かったんで
コメントは遠慮しとくわ >>641
源平藤橘以外にも古代豪族系の氏はあるよ
けど、こうした氏は平安時代に権威を失った。
武士たちは、たとえば大伴とか菅原とか紀とか蘇我とか、そんな氏を欲しいとは
思わなかったのだ。
そもそも、武士にとって源氏とか平家に人気があったのは、その氏が天皇に繋がって
いたからだ。そして、天皇が授けた氏名(うじな)だから権威があったからだ。
衰えた古代豪族の子孫などと名乗っても何にもならなかったのだ。
源平はいうに及ばず、たとえば橘氏だって敏達天皇に発し、橘三千代・葛城王を祖とする
皇別氏族である。元明天皇に氏名を授けられたとされる。
藤原氏は天皇に繋がっているのかというと、一般に藤原不比等は天智天皇の皇胤と
信じられていた。しかも、実際に藤原氏は連続して外戚となり、天皇家と一体不可欠の
関係にあった。
だから君のように
>蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
などとシッタカをしても何にもならない。
藤原氏は藤原の地名から来たのは事実だが、そこに住んでいたから藤原になったわけではない。
藤原と名乗れと天智天皇に氏名を賜ったことに意味がある。
だから、天皇が名乗るように命じた四つの氏名が武士に使われ、一般的になったのだ。
>源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
苦し紛れに何ほざいてるんだw
源の氏名は地名から来てるのではないよ。
諸説あるが、「皇室と源を同じくする」という意味で名付けられたと解するのが一般。
なお、平氏の平は桓武天皇の築いた平安京の平の字を取ったと考える人が多い。
このくらい書けばいいかな。
まあ、君には自分の馬鹿さ加減を理解してもらいたい。
世の中、適当な知識でいい加減なこと言って通るわけではないんだよ
少しは恥ずかしいということも知らないと。 >ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが
藤原という姓を授けたわけだが、の「姓」は間違い
ハァ?天智天皇は中臣鎌足に藤原という氏名を授けたわけだが に訂正する。
姓 → 氏名(うじな) >>644 まだこんなことを言ってる。
藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に 鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。
氏名(うじな)なんて言う制度はどこにもないよ。 歴史は正確な言葉を使わないとね。 藤原郷は鎌足の生地ではあったがそこには住んでいなかった。
朝臣(朝臣)の姓(かばね)を貰うと、中臣朝臣鎌足 と称することができる様になり、死ぬまでそのまま。
中臣氏は、神祇官の家柄だからずっと中臣の氏を引き継いで神を祀っている。
想像するに、次男が俺神祇官をやるのはかったるいし、次男だから分家させてくんない? 付いては今住んでる地名藤原を氏として名乗って良い?
鎌足、うん良いよ、天皇には一応許可を取っとくから公式な届け出は出し直せよ。
と、藤原を名乗ることを許されたと言うだけの話だろ。 >>617
嘘だよ 勝手に子孫でも無いのに名字を名乗ったり、系図を捏造したりで自称子孫のできあがり
知らない人もいるようだが、昔は「系図屋」という系図をお調べして作成しますって商売があった
もちろん商売だからクライアントの希望に沿うように捏造しまくり
そんな系図がほとんどなんだよね 現実は
系図の8割は偽者とも言うし 長文の奴は歴史有る家系と思い込んでるだけ
何の証明も出来ないでしょ
系図とかあっても鑑定に出したらニセ物だと言われるレベルでしょう >>649
嘘だよって断言してる時点で信用できない
逆に間違いないと断言する奴も信用しない 先祖探しというのは、一つずつ紐解いていく長い作業だよ。
先祖の地に住んでると比較的調査もできるが、遠く離れてるとなかなか出来ない。
ただ、昔に比べると戸籍を取るのはメールでも受け付けてくれる様になってるからありがたい。
それ以上は地元で地道に調査するしかない。
ただ、地元の時代背景とかは郷土史などを紐解いていくと結構ヒントも見つかる。 俺の先祖に藤原鎌足いる。
たしかに、系図には、大織冠鎌足と記されてる。 >>654 この謎解きみたいな歴史探訪が面白いからやってんじゃないの?
一つわかるとまた次に謎が増える作業。
暇つぶしには良いよ。 俺の藩は郷士制度だったんだよね、郷士ばかりの藩だから他の藩のことはよく分からん。独特な藩だった。
郷士という言葉もたしか後世に呼んでて、当初は侍っていう意味の給人と呼んでた。
江戸時代初期の給人は百数十名いる。これは徳川政権になってから領地換え?されそうになってて、
「俺は引っ越ししたくない!」と言った給人らはクビにされたから、めっちゃ少なくなった理由がある。
江戸時代中期になると、クビにされた給人が復活して五百名くらいになる。
江戸初期後期になると、その五百名の分家が急速に拡大していって二千名になる。
俺の地元の藩では、この江戸時代後期に分家した武家のことを郷士と呼んでるから、郷士というと「あー、新しい方の武家ね」ってのがすぐにわかるんだよね。
俺の地元の藩は鎌倉時代から続いてるから、郷士制度が成立しやすかったという理由がもある。地域に根ざしてたから?
江戸後期になるとムロクの上級武士も増える。
上級武士の次男三男の中で武勇に優れた人をムロクで取り立てて給人にした。
このように、郷土史を勉強していった方が先祖調査もしやすくなると思うよ。
いちがいに、自分の地元の藩と他の人の地元の藩は、身分制度って同じではないからね。郷士ひとつをとってもそう。
俺の藩は郷士の意味は新しくできた武家のことだけど、他の藩は意味が違うでしょ? それに郷士というと坂本龍馬を思い浮かべるけど、
俺の藩でいう郷士は新しい武家のお侍さんっていう意味だから、
甲冑着て馬上してる戦国武将並みのことを言うんだよね。
俺の藩でいう郷士の見た目は上級武士と変わらんよ。
馬上が許されてない様な、武士と百姓の中間みたいな見た目の身分は、俺の地元の藩では卒と呼んでた。
だから明治時代になると俺の地元の藩の郷士は士族となる。 俺の地元の藩の郷士のはなしだけど、
俺の地元の藩は戦国時代の流れ者の集まりだから、
柴田家臣とか武田家臣とか今川家臣とか前田家臣とか、そこらへんからの流れ者が多い。
柴田さんちとか戦国時代はそれなりに有名だったんだが、俺の地元の藩ではただの郷士だけどな。 ちなみに俺の地元の藩でいう郷士は新しい方の武家って言ったけど、
これは齟齬が生じそうだから詳しく言うと、
新しく分家した武家や、及び、藩主に仕えた時期が新しい武家って意味。
だから、家系図の初代がめっちゃ古くても、仕えた時期が江戸時代後期なら郷士ってこと。 結婚って身分がだいたい同じ者同士で結婚するって聞いたけど、どうなんだろ?
俺の先祖の場合は、そうでもなさそうなんだよなー 郷士は自分のわずかな知識で知ってるのは、殆ど家禄を貰えないで自給自足で生活してた武士みたいな認識があるな、後の方では郷士の中でも家禄をもらえる様になったものも現れるけど。
武士ではあるが、農家として生計を立ててるみたいな身分。
そりゃ仕えてた殿様がしょっちゅう領地召し上げとかされるから、全ての家来を養えるはずがないよな。
庄屋に郷士の身分を売ったりする者も現れたり。
給人って知らなかったから検索してみると、家禄をもらっていた家老から厩番まで給人と言ってたらしいな。
地方により呼び方の偏りはあるとは思うが。 >>661 対等な関係ならそれが成り立つけど、借金が多かったり、結納金が多かったり、身分や家名を継げるとかなるとアンバランスな結婚も多かったと思うよ。
昔も今もギブアンドテイク ごめん、やっぱ郷士のことよくわからんわ。
上級武士の次男三男の分家もムロクで上級武士になってるし、
どんなに古い武家でも家禄が微禄だから郷士のままの武士もあったし、
よくわからんが結論やった。ごめん。 >>664 その場合の上級武士というのは、家名が高いという意味合いだと思うな。 それはそれで尊敬の対象だが、給料をもらえなければ、やはり郷士。 >>663
俺の沢山いる先祖の中の一人は、鎌倉時代に出来た旧家の分家で、身分が下級武士の郷士なんだけど、
身分が上級武士の家中に、養子を送り出してる。
その家中身分の武家と郷士身分の武家の共通するところは、藩の資金を使って城下町の商家を営んでる。
この例を見ると、身分は関係なく、職業の間で結婚してたって意味が強そう。 >>665
たしかに家名の高さかもしれない!
古文書には「山田将監様の男 山田太郎」みたいに様付けだった!
そういえば殿様が思う家名の高さって理解できん。
俺からしてみれば下級武士にも柴田んちみたいに家名の高そうな武家あんのになって思う。
ちなみにその上級武士って小柳津助兵衛の子孫なんだけど、みんな小柳津氏なんてマイナー過ぎて知らんだろwって思う
俺の地元の藩の殿様からすれば、小柳津氏の方が柴田氏よりブランド高いらしい、、、 俺の地元の藩の上級武士(身分は家中)である小柳津助兵衛の子孫の家は、初代が小柳津助兵衛の庶子が初代だから、比較的新しい武家なんだよね。
小柳津助兵衛のより先の先祖は不明の武家だし、えっ?こんなんで上級武士なん?って思っちゃう
ちなみに小柳津氏は源氏を称してる
摂津源氏なのか河内源氏なのかは不明w
助兵衛より先が不明だから
小柳津さんちのことボロクソに言ってるが、俺の遠い親戚なんでこんなこと言える 俺の地元の藩主は鎌倉時代から続いてる全国でも数少ない藩で、
その旧臣というと殿様の家と同じくらい古い家の武家なんだけど、
幕末期の身分みると、下級武士に落ちてるんだよな。
そのかわりに一族はめっちゃいる。
分家しまくって本家の家禄が微禄になると、旧家でも下級武士になるんだな。
その旧家は下級武士と変わらない身分だけど、殿様の旧臣だからいちおう藩内ではそれなりに扱われたと思うが、
名簿では下級武士たちと同じ列に並んでる。 だってさ、いくら有名な家に仕えていたからと言っても、負け戦で逃げてきたのは、何の尊敬の価値もないだろ?
それよりも地元での戦に勝った家の方が偉いに決まってる。
俺さ、世界チャンピオンがいたジムに居たんだよ。
(でも試合で1勝もできなかったけどさ)
俺さ、村のチャンピオンになったんだよ。 負け無し。
どっちが尊敬される? 俺の地元の藩は戦国時代の敗戦組の流れ者の集まりが多いんだけど、
なぜか本多忠勝の家臣も多いんだよな。
俺の先祖の一人にも本多忠勝の家臣いる。
なんでなんやろ?
本多忠勝勢の中でなにがあったん? >>672 そんなのしょっちゅうだよ。
うちの先祖も最初の主君の重鎮だったけど。 主君の家が兄弟で争いを始めて、 負けた方に付いたからいい目を見ることはできなかった。
親兄弟でも戦をしてたのが戦国時代。 また変な長文が現れたな
長文にろくな奴はいない
これ定説
思い込みが激しい馬鹿がほとんど
先祖と思い込んでるだけで証明するもの無し
家系図はニセ >>646-647
悔し紛れに出鱈目を書き込んだ。でも恥ずかしいので、以下ズラズラとどうでもいいことを
書き込んで話題展開を図る。しかし、これは成功してないな
郷士がどうしたとか馬鹿みたい。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。 」なんて馬鹿なことを言い出したんだからな。
その話題に戻ろうじゃないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−
『日本書紀』天智天皇8年(669年)10月15日条。
「庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原内大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏 」
かのえさるのひに(十五日)、すめらみこと ひつぎのみこ(大海人皇子)を
ふじわらのうちつまえつきみのいへにつかわして だいしきのかうぶりと
おほおみのくらゐとをさずく。よりてうぢをたまひてふじはらのうぢとす
と書かれているじゃないか。
天智天皇はこの5日前に自ら鎌足を見舞った。そして15日、弟の大海人皇子を
使わして大織冠と大臣の位を授けたのだ。そして藤原の氏を賜った。 これに続いて
此(これ)より以後、(のち)通(かよは)して藤原内大臣(ふじはらのうちつおほおみ)曰ふ
と書いてある。
「これより以後、ずっと藤原内大臣と言う」、と明言してあるんだよ。
大織冠は名誉職的な地位であり、大臣が実質的な地位だ。
大臣とされ、藤原を名乗るようになったから
此より以後、ずっと藤原内大臣と曰うようになりました、とあるだろ。
日本書紀にこう書かれているんだからどうしようもないじゃないか。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。」と言うなら、その資料はどこにある。
出鱈目を言うのもいい加減にしろ。
日本書紀に天智天皇が鎌足に藤原の氏を賜ったと書いてあるから、日本人はそれを
信じてきた。お前みたいのにはちゃんとした本から引用するまでもない。
ネットで調べてみろ。みんなそう書いてある。
もちろん日本書紀の資料としての価値を否定する説もある。
しかし、それならそれで自分なりの根拠を挙げないとな。 >藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に
>鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
これも何を言ってるんだか分からん。
4年後って何だ?
お前は頭が悪いのにゴチャゴチャ知識を詰め込むから整理がつかなくなってるんだよ。
もしかして藤原氏は不比等だけが名乗るようにせよとした文武天皇の詔(みことのり)と
混同しているのかな。
藤原氏は壬申の乱で近江朝廷軍(大友皇子側)に与することになってしまったので、
地位回復には苦労した。何とか地位を回復した後、うまく立ち回ったのが不比等で、
ライバルたちを蹴落として自分が氏の長者の地位を獲得した。
一番のライバルは中臣(藤原)意美麻呂だった。鎌足の甥であるから不比等のいとこである。
鎌足の娘を娶って婿養子となり、不比等が成人するまで藤原氏の氏の長者であった。
そのまま意美麻呂の権勢が続くかと思われていたが、不比等が成人すると文武天皇に近づき、
その詔で、一気に意美麻呂を排撃してしまった。意美麻呂は宮廷祭祀だけやってろ、だから
式部官である中臣を名乗れと命じて藤原を名乗れなくしてしまったのである。 ついでだが
不比等の成功は、軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)の乳母である犬養三千代の心を
つかんだことが大きい。犬飼三千代は最初は敏達天皇の皇胤の美努王に嫁いで橘諸兄を
生んだが、後家さんになっていて、不比等がちょっかいを出して後に妻にしたのである。
犬養三千代の力添えで娘の宮子を軽皇子に嫁がせる。二人の間に
生まれたのが首皇子(おびとのみこ)で後の聖武天皇。
不比等は外戚となったのである。ここから藤原氏の外戚政治が始まる。
聖武天皇の后が光明皇后だが、光明皇后は不比等と犬飼三千代の間に生まれた娘。
聖武天皇からすると叔母さんである。ただし同い年。
それまでは皇族でないと皇后にはなれなかったのだが、光明皇后はその慣例を破った
第一号である。聖武天皇は東大寺の大仏を建立。光明皇后は聖武天皇亡き後、その
遺品を東大寺に寄贈。これが正倉院に納められ現代まで伝わっている。
聖武天皇と光明皇后の間に出来た娘が女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となる。
若い頃の孝謙天皇は(上皇の聖武もだが)藤原仲麻呂(恵美押勝)に頼り切りだった。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は皇太后となった光明(皇后)の甥である。
仲麻呂は権力を独り占めし、上皇も光明皇太后も死ぬと孝謙天皇と対立するようになる。
対立の背景には孝謙が弓削の道鏡に夢中になったこともある。
焦った仲麻呂はついに挙兵した(恵美押勝の乱)。
仲麻呂は近江守であったことから近江国を拠点に戦ったが、敗戦を重ねて斬られた。
まあ、このあたりを押さえておけば源平藤橘のうち、橘氏の由来は理解できる。 iPhoneでWikipediaみると一部の画像が映らなくなってる
線の枠しか映らないのは何でだろう 中臣連は、八色の姓の時に朝臣52氏に加えられて、朝臣を頂いている。天武13年11月
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-s.htm
藤原氏を名乗るのは鎌足の死の直前。 >>680
この時の52氏を見ると、豪族、特に武内宿禰系統がかなり多いのが目につく。蘇我氏を始め。
武内宿禰は日本の紙幣にも印刷されている日本最高の忠臣と言われている。 源氏や平氏の家人がお札になったことはない。
この時の朝臣を貰った氏族の中には、源氏や平氏、藤原氏は存在しないから、それらはかなり新しい。
中臣は有るが。 あまり古い話はやめようよ。 血族直系かどうかわからないからね。 ここのスレにはそぐわない。
ただ血縁調査は、身近な所からせめても解らない時には、上から攻めて行っても良いかも。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています