先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ >>839 氏名(うじな)だってw これは苗字と名前の現代の制度と同じ。
氏姓(うじかばね)の氏(うじ)は古代豪族一族の出身地だよ。
官職から付けられた氏もあるが。 物部氏など。
蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
藤原氏は姓と氏を同時にたまわっているが鎌足の生地大和国高市郡藤原郷に住んでいた。
源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
氏(うじ)は本姓(ほんせい)とも言うが、姓(かばね)とは無関係
最初の出身地を本籍と言う場合もある。
天皇が苗字を与えるようになったのは比較的新しい。多分平安朝以降と思われる。
氏姓(うじかばね)制度は明治初期まで続いていた。
奈良時代まで大和の国が政治の中心だろ。小学校で習わなかったのか? >>640 ポカ〜〜〜ン。日本史板でこれは恥ずかしい。
>八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
何を言っているのかわからん。氏名(うじな)と八色の姓が何の関係があるんだ?
君は自分でも何言ってるんだか分かってないだろw
>氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。
ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが、中臣鎌足って皇族だったの???
>八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
ハァ? 八色の姓を定めたのは天武天皇だよね。天智天皇の弟。
桓武天皇が臣籍に降りる皇子に「平」という氏名(うじな)を与えたわけだが、桓武天皇って天武天皇より
前の天皇なの?
同じく清和天皇が「源」という氏名を授けたんだが、清和天皇って天武天皇より前にいた天皇なの?
君ってものすごいこと言う人だね 脳内にウンコ溜まってるんじゃないの?
あと、賜姓以下はどっかから持ってきたんだろうけど、上半分で君のもの凄さが分かったんで
コメントは遠慮しとくわ >>641
源平藤橘以外にも古代豪族系の氏はあるよ
けど、こうした氏は平安時代に権威を失った。
武士たちは、たとえば大伴とか菅原とか紀とか蘇我とか、そんな氏を欲しいとは
思わなかったのだ。
そもそも、武士にとって源氏とか平家に人気があったのは、その氏が天皇に繋がって
いたからだ。そして、天皇が授けた氏名(うじな)だから権威があったからだ。
衰えた古代豪族の子孫などと名乗っても何にもならなかったのだ。
源平はいうに及ばず、たとえば橘氏だって敏達天皇に発し、橘三千代・葛城王を祖とする
皇別氏族である。元明天皇に氏名を授けられたとされる。
藤原氏は天皇に繋がっているのかというと、一般に藤原不比等は天智天皇の皇胤と
信じられていた。しかも、実際に藤原氏は連続して外戚となり、天皇家と一体不可欠の
関係にあった。
だから君のように
>蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
などとシッタカをしても何にもならない。
藤原氏は藤原の地名から来たのは事実だが、そこに住んでいたから藤原になったわけではない。
藤原と名乗れと天智天皇に氏名を賜ったことに意味がある。
だから、天皇が名乗るように命じた四つの氏名が武士に使われ、一般的になったのだ。
>源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
苦し紛れに何ほざいてるんだw
源の氏名は地名から来てるのではないよ。
諸説あるが、「皇室と源を同じくする」という意味で名付けられたと解するのが一般。
なお、平氏の平は桓武天皇の築いた平安京の平の字を取ったと考える人が多い。
このくらい書けばいいかな。
まあ、君には自分の馬鹿さ加減を理解してもらいたい。
世の中、適当な知識でいい加減なこと言って通るわけではないんだよ
少しは恥ずかしいということも知らないと。 >ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが
藤原という姓を授けたわけだが、の「姓」は間違い
ハァ?天智天皇は中臣鎌足に藤原という氏名を授けたわけだが に訂正する。
姓 → 氏名(うじな) >>644 まだこんなことを言ってる。
藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に 鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。
氏名(うじな)なんて言う制度はどこにもないよ。 歴史は正確な言葉を使わないとね。 藤原郷は鎌足の生地ではあったがそこには住んでいなかった。
朝臣(朝臣)の姓(かばね)を貰うと、中臣朝臣鎌足 と称することができる様になり、死ぬまでそのまま。
中臣氏は、神祇官の家柄だからずっと中臣の氏を引き継いで神を祀っている。
想像するに、次男が俺神祇官をやるのはかったるいし、次男だから分家させてくんない? 付いては今住んでる地名藤原を氏として名乗って良い?
鎌足、うん良いよ、天皇には一応許可を取っとくから公式な届け出は出し直せよ。
と、藤原を名乗ることを許されたと言うだけの話だろ。 >>617
嘘だよ 勝手に子孫でも無いのに名字を名乗ったり、系図を捏造したりで自称子孫のできあがり
知らない人もいるようだが、昔は「系図屋」という系図をお調べして作成しますって商売があった
もちろん商売だからクライアントの希望に沿うように捏造しまくり
そんな系図がほとんどなんだよね 現実は
系図の8割は偽者とも言うし 長文の奴は歴史有る家系と思い込んでるだけ
何の証明も出来ないでしょ
系図とかあっても鑑定に出したらニセ物だと言われるレベルでしょう >>649
嘘だよって断言してる時点で信用できない
逆に間違いないと断言する奴も信用しない 先祖探しというのは、一つずつ紐解いていく長い作業だよ。
先祖の地に住んでると比較的調査もできるが、遠く離れてるとなかなか出来ない。
ただ、昔に比べると戸籍を取るのはメールでも受け付けてくれる様になってるからありがたい。
それ以上は地元で地道に調査するしかない。
ただ、地元の時代背景とかは郷土史などを紐解いていくと結構ヒントも見つかる。 俺の先祖に藤原鎌足いる。
たしかに、系図には、大織冠鎌足と記されてる。 >>654 この謎解きみたいな歴史探訪が面白いからやってんじゃないの?
一つわかるとまた次に謎が増える作業。
暇つぶしには良いよ。 俺の藩は郷士制度だったんだよね、郷士ばかりの藩だから他の藩のことはよく分からん。独特な藩だった。
郷士という言葉もたしか後世に呼んでて、当初は侍っていう意味の給人と呼んでた。
江戸時代初期の給人は百数十名いる。これは徳川政権になってから領地換え?されそうになってて、
「俺は引っ越ししたくない!」と言った給人らはクビにされたから、めっちゃ少なくなった理由がある。
江戸時代中期になると、クビにされた給人が復活して五百名くらいになる。
江戸初期後期になると、その五百名の分家が急速に拡大していって二千名になる。
俺の地元の藩では、この江戸時代後期に分家した武家のことを郷士と呼んでるから、郷士というと「あー、新しい方の武家ね」ってのがすぐにわかるんだよね。
俺の地元の藩は鎌倉時代から続いてるから、郷士制度が成立しやすかったという理由がもある。地域に根ざしてたから?
江戸後期になるとムロクの上級武士も増える。
上級武士の次男三男の中で武勇に優れた人をムロクで取り立てて給人にした。
このように、郷土史を勉強していった方が先祖調査もしやすくなると思うよ。
いちがいに、自分の地元の藩と他の人の地元の藩は、身分制度って同じではないからね。郷士ひとつをとってもそう。
俺の藩は郷士の意味は新しくできた武家のことだけど、他の藩は意味が違うでしょ? それに郷士というと坂本龍馬を思い浮かべるけど、
俺の藩でいう郷士は新しい武家のお侍さんっていう意味だから、
甲冑着て馬上してる戦国武将並みのことを言うんだよね。
俺の藩でいう郷士の見た目は上級武士と変わらんよ。
馬上が許されてない様な、武士と百姓の中間みたいな見た目の身分は、俺の地元の藩では卒と呼んでた。
だから明治時代になると俺の地元の藩の郷士は士族となる。 俺の地元の藩の郷士のはなしだけど、
俺の地元の藩は戦国時代の流れ者の集まりだから、
柴田家臣とか武田家臣とか今川家臣とか前田家臣とか、そこらへんからの流れ者が多い。
柴田さんちとか戦国時代はそれなりに有名だったんだが、俺の地元の藩ではただの郷士だけどな。 ちなみに俺の地元の藩でいう郷士は新しい方の武家って言ったけど、
これは齟齬が生じそうだから詳しく言うと、
新しく分家した武家や、及び、藩主に仕えた時期が新しい武家って意味。
だから、家系図の初代がめっちゃ古くても、仕えた時期が江戸時代後期なら郷士ってこと。 結婚って身分がだいたい同じ者同士で結婚するって聞いたけど、どうなんだろ?
俺の先祖の場合は、そうでもなさそうなんだよなー 郷士は自分のわずかな知識で知ってるのは、殆ど家禄を貰えないで自給自足で生活してた武士みたいな認識があるな、後の方では郷士の中でも家禄をもらえる様になったものも現れるけど。
武士ではあるが、農家として生計を立ててるみたいな身分。
そりゃ仕えてた殿様がしょっちゅう領地召し上げとかされるから、全ての家来を養えるはずがないよな。
庄屋に郷士の身分を売ったりする者も現れたり。
給人って知らなかったから検索してみると、家禄をもらっていた家老から厩番まで給人と言ってたらしいな。
地方により呼び方の偏りはあるとは思うが。 >>661 対等な関係ならそれが成り立つけど、借金が多かったり、結納金が多かったり、身分や家名を継げるとかなるとアンバランスな結婚も多かったと思うよ。
昔も今もギブアンドテイク ごめん、やっぱ郷士のことよくわからんわ。
上級武士の次男三男の分家もムロクで上級武士になってるし、
どんなに古い武家でも家禄が微禄だから郷士のままの武士もあったし、
よくわからんが結論やった。ごめん。 >>664 その場合の上級武士というのは、家名が高いという意味合いだと思うな。 それはそれで尊敬の対象だが、給料をもらえなければ、やはり郷士。 >>663
俺の沢山いる先祖の中の一人は、鎌倉時代に出来た旧家の分家で、身分が下級武士の郷士なんだけど、
身分が上級武士の家中に、養子を送り出してる。
その家中身分の武家と郷士身分の武家の共通するところは、藩の資金を使って城下町の商家を営んでる。
この例を見ると、身分は関係なく、職業の間で結婚してたって意味が強そう。 >>665
たしかに家名の高さかもしれない!
古文書には「山田将監様の男 山田太郎」みたいに様付けだった!
そういえば殿様が思う家名の高さって理解できん。
俺からしてみれば下級武士にも柴田んちみたいに家名の高そうな武家あんのになって思う。
ちなみにその上級武士って小柳津助兵衛の子孫なんだけど、みんな小柳津氏なんてマイナー過ぎて知らんだろwって思う
俺の地元の藩の殿様からすれば、小柳津氏の方が柴田氏よりブランド高いらしい、、、 俺の地元の藩の上級武士(身分は家中)である小柳津助兵衛の子孫の家は、初代が小柳津助兵衛の庶子が初代だから、比較的新しい武家なんだよね。
小柳津助兵衛のより先の先祖は不明の武家だし、えっ?こんなんで上級武士なん?って思っちゃう
ちなみに小柳津氏は源氏を称してる
摂津源氏なのか河内源氏なのかは不明w
助兵衛より先が不明だから
小柳津さんちのことボロクソに言ってるが、俺の遠い親戚なんでこんなこと言える 俺の地元の藩主は鎌倉時代から続いてる全国でも数少ない藩で、
その旧臣というと殿様の家と同じくらい古い家の武家なんだけど、
幕末期の身分みると、下級武士に落ちてるんだよな。
そのかわりに一族はめっちゃいる。
分家しまくって本家の家禄が微禄になると、旧家でも下級武士になるんだな。
その旧家は下級武士と変わらない身分だけど、殿様の旧臣だからいちおう藩内ではそれなりに扱われたと思うが、
名簿では下級武士たちと同じ列に並んでる。 だってさ、いくら有名な家に仕えていたからと言っても、負け戦で逃げてきたのは、何の尊敬の価値もないだろ?
それよりも地元での戦に勝った家の方が偉いに決まってる。
俺さ、世界チャンピオンがいたジムに居たんだよ。
(でも試合で1勝もできなかったけどさ)
俺さ、村のチャンピオンになったんだよ。 負け無し。
どっちが尊敬される? 俺の地元の藩は戦国時代の敗戦組の流れ者の集まりが多いんだけど、
なぜか本多忠勝の家臣も多いんだよな。
俺の先祖の一人にも本多忠勝の家臣いる。
なんでなんやろ?
本多忠勝勢の中でなにがあったん? >>672 そんなのしょっちゅうだよ。
うちの先祖も最初の主君の重鎮だったけど。 主君の家が兄弟で争いを始めて、 負けた方に付いたからいい目を見ることはできなかった。
親兄弟でも戦をしてたのが戦国時代。 また変な長文が現れたな
長文にろくな奴はいない
これ定説
思い込みが激しい馬鹿がほとんど
先祖と思い込んでるだけで証明するもの無し
家系図はニセ >>646-647
悔し紛れに出鱈目を書き込んだ。でも恥ずかしいので、以下ズラズラとどうでもいいことを
書き込んで話題展開を図る。しかし、これは成功してないな
郷士がどうしたとか馬鹿みたい。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。 」なんて馬鹿なことを言い出したんだからな。
その話題に戻ろうじゃないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−
『日本書紀』天智天皇8年(669年)10月15日条。
「庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原内大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏 」
かのえさるのひに(十五日)、すめらみこと ひつぎのみこ(大海人皇子)を
ふじわらのうちつまえつきみのいへにつかわして だいしきのかうぶりと
おほおみのくらゐとをさずく。よりてうぢをたまひてふじはらのうぢとす
と書かれているじゃないか。
天智天皇はこの5日前に自ら鎌足を見舞った。そして15日、弟の大海人皇子を
使わして大織冠と大臣の位を授けたのだ。そして藤原の氏を賜った。 これに続いて
此(これ)より以後、(のち)通(かよは)して藤原内大臣(ふじはらのうちつおほおみ)曰ふ
と書いてある。
「これより以後、ずっと藤原内大臣と言う」、と明言してあるんだよ。
大織冠は名誉職的な地位であり、大臣が実質的な地位だ。
大臣とされ、藤原を名乗るようになったから
此より以後、ずっと藤原内大臣と曰うようになりました、とあるだろ。
日本書紀にこう書かれているんだからどうしようもないじゃないか。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。」と言うなら、その資料はどこにある。
出鱈目を言うのもいい加減にしろ。
日本書紀に天智天皇が鎌足に藤原の氏を賜ったと書いてあるから、日本人はそれを
信じてきた。お前みたいのにはちゃんとした本から引用するまでもない。
ネットで調べてみろ。みんなそう書いてある。
もちろん日本書紀の資料としての価値を否定する説もある。
しかし、それならそれで自分なりの根拠を挙げないとな。 >藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に
>鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
これも何を言ってるんだか分からん。
4年後って何だ?
お前は頭が悪いのにゴチャゴチャ知識を詰め込むから整理がつかなくなってるんだよ。
もしかして藤原氏は不比等だけが名乗るようにせよとした文武天皇の詔(みことのり)と
混同しているのかな。
藤原氏は壬申の乱で近江朝廷軍(大友皇子側)に与することになってしまったので、
地位回復には苦労した。何とか地位を回復した後、うまく立ち回ったのが不比等で、
ライバルたちを蹴落として自分が氏の長者の地位を獲得した。
一番のライバルは中臣(藤原)意美麻呂だった。鎌足の甥であるから不比等のいとこである。
鎌足の娘を娶って婿養子となり、不比等が成人するまで藤原氏の氏の長者であった。
そのまま意美麻呂の権勢が続くかと思われていたが、不比等が成人すると文武天皇に近づき、
その詔で、一気に意美麻呂を排撃してしまった。意美麻呂は宮廷祭祀だけやってろ、だから
式部官である中臣を名乗れと命じて藤原を名乗れなくしてしまったのである。 ついでだが
不比等の成功は、軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)の乳母である犬養三千代の心を
つかんだことが大きい。犬飼三千代は最初は敏達天皇の皇胤の美努王に嫁いで橘諸兄を
生んだが、後家さんになっていて、不比等がちょっかいを出して後に妻にしたのである。
犬養三千代の力添えで娘の宮子を軽皇子に嫁がせる。二人の間に
生まれたのが首皇子(おびとのみこ)で後の聖武天皇。
不比等は外戚となったのである。ここから藤原氏の外戚政治が始まる。
聖武天皇の后が光明皇后だが、光明皇后は不比等と犬飼三千代の間に生まれた娘。
聖武天皇からすると叔母さんである。ただし同い年。
それまでは皇族でないと皇后にはなれなかったのだが、光明皇后はその慣例を破った
第一号である。聖武天皇は東大寺の大仏を建立。光明皇后は聖武天皇亡き後、その
遺品を東大寺に寄贈。これが正倉院に納められ現代まで伝わっている。
聖武天皇と光明皇后の間に出来た娘が女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となる。
若い頃の孝謙天皇は(上皇の聖武もだが)藤原仲麻呂(恵美押勝)に頼り切りだった。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は皇太后となった光明(皇后)の甥である。
仲麻呂は権力を独り占めし、上皇も光明皇太后も死ぬと孝謙天皇と対立するようになる。
対立の背景には孝謙が弓削の道鏡に夢中になったこともある。
焦った仲麻呂はついに挙兵した(恵美押勝の乱)。
仲麻呂は近江守であったことから近江国を拠点に戦ったが、敗戦を重ねて斬られた。
まあ、このあたりを押さえておけば源平藤橘のうち、橘氏の由来は理解できる。 iPhoneでWikipediaみると一部の画像が映らなくなってる
線の枠しか映らないのは何でだろう 中臣連は、八色の姓の時に朝臣52氏に加えられて、朝臣を頂いている。天武13年11月
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-s.htm
藤原氏を名乗るのは鎌足の死の直前。 >>680
この時の52氏を見ると、豪族、特に武内宿禰系統がかなり多いのが目につく。蘇我氏を始め。
武内宿禰は日本の紙幣にも印刷されている日本最高の忠臣と言われている。 源氏や平氏の家人がお札になったことはない。
この時の朝臣を貰った氏族の中には、源氏や平氏、藤原氏は存在しないから、それらはかなり新しい。
中臣は有るが。 あまり古い話はやめようよ。 血族直系かどうかわからないからね。 ここのスレにはそぐわない。
ただ血縁調査は、身近な所からせめても解らない時には、上から攻めて行っても良いかも。 名家であれば自家よりも上の家からの養子が多いから直系は少なくなるのでは?
うちも家系的には庄屋の系統らしいが血脈的には武士だよ。庄屋の血は64分の1とか
・・・でも母方が商家Orzだから一番濃いのは商家かな? >>684 養子でも良いじゃん。 別に父系家族に限ると言うわけでも無し。
どっちにしろ自分に血の繋がりがある直系でしょ。 父型をを辿るもよし、母方を辿るもよし。
どんな形であれ血が繋がってれば良いんじゃないの? 両方を辿り始めると大変なことになってしまうけどね。 自分も父型の戸籍は辿れる限り取り寄せたが、母型の戸籍はまだ取り寄せていない。 子が途絶えて、養子のみの家系が続いてる場合は微妙だけど。
ま、家門を受け継いだと言うことで良いんじゃないのかな。 他人が旧家なのがどうしても許せない人がいるな
水呑で苗字も明治までなかった層も多いから >>672
本多忠勝じゃなくて本多政重の家臣じゃないの
加賀前田家なら浅井や宇喜多の旧臣も多い。 >>688
それはお前さんの思い上がりだ。
水呑みなんてそもそも先祖に興味ないし、
大半の日本人が先祖なんていちいち心酔してなんかいない。
特に女なんか。
旧家が許せないのでなく、
その旧家の直系ですらないやつが、
先祖遡ればその旧家だとか、
そんなレベルで話すから虫酸が走ってるって話だろ
その旧家の身分受け継げるのは直系のみだ。
そんな血筋上の分家ならあくまでその分家の家柄
遡ぼっての血筋上の先祖って設定でいいなら、
あんたらと違い、余裕で室町国人領主まで遡れんだが? 長男でも次男でも血の濃さは同じだから直系傍系には大した意味はない
古くまで辿れるのが重要だな
明治まで辿れない人は論外としても ニセ系図を信じて先祖は鎌倉時代はどこそこに居て、とか書いてる馬鹿をからかってるだけてしょ。
系図を専門家に見せたら、作成年代がおかしいとか、先祖の生存してた時代が合わなくておかしいと指摘されて終了とかな。 >>693 僻み根性丸出しだな。 信じないならほっとけよ。
家系図なんかより信じられる書類なんていくらでもあるだろ。 そのクラスになると県の重要文化財として保管されてるけどな。
御教書って知ってるか? >>694
お前が信憑性皆無の事実指摘されて
現実つきつけられて発狂してるようにしかみえんがな >>692
血筋なんかになんの意味もない
傍流でもありなら無限ループだ
それこそ日本人みな兄弟になる
結局お前みたいになんの家柄もない人間が、
血筋というなんの価値もないものにアイデンティティーを見いだそうとする防衛規制が働いてるだけだわな >>696 だったらこんなスレで僻み根性丸出しで荒らすなよ。 他のスレを見てた方が幸せになれるよ。
ここは、血族先祖のスレ。 血筋を辿るスレだろうが。 何を言ってるのやら。
ID も出さないスレで信用するもしないもないだろ。 いちいち目くじら立ててどうするんだ。
お前うざいからコテハンつけろよ。 横から失礼。
先祖自慢とかしてるのは、上で姓氏辞典で自分の先祖を見つけたと言ったり
インチキ墓参りの話をしてる阿呆だろ
姓氏辞典か何かで「先祖」を見つけて、その家の菩提寺を探し当て(少しでも名を残した人
なら墓所は比較的容易に分かる)、わざわざ行ってみるわけだ。
そして裏山などに古い墓があると、「俺のご先祖様の墓だ」と感慨にふける。
古い石塔などを寄せ集めたような場所に行くと、「先祖祭りの場所」と勝手に想像する。
位牌堂を見れば「俺の明治以前の先祖様の遺骨を納めたお堂」と決めつける。
誇大妄想狂の一つに血統妄想というのがあるんだってさ。
例としては、赤軍に殺されたはずのロシア皇帝の娘アナスタシアと自称する女たち。
ロシア革命の後、何人も現れた。
誇大妄想とは
自分の地位・財産・能力などの現状を過大に評価したり、想像したものを事実であるかの
ように思い込んだりすること。
「想像したものを事実であるかのように思い込んだりすること」というのは、ここのコテハン馬鹿に
大いに当てはまる。
磐座や庚申塚の前で一族が集まって先祖祭りをする。そんな風景を頭に浮かべると、もう
確かにそれをやったような気持ちになり、事実であったかのように人にも話す。
実生活でも写真を見せながら誰彼かまわず話をしてるんだろうな。
不気味、かつ哀れだ。 >>694
それも偽物或いはそれをもらった人物の子孫だと詐称。
そんなところだろう。
後者の可能性の方が高い。
系図の8割は偽物と言われてるからな。 ヨーロッパ貴族は二重姓とかで婚姻関係で相続した家名と元の家名を名乗れるからいいよな。 名家旧家は普通に存在するだろ
知らないと言うことは貧民の出の名字なし雑民と言う事で
もう相手にしなくて良いよ。 名家旧家は普通に存在する
そういう名家旧家の人は、生まれながらに尊敬され、周囲に大切に扱われる。
だから鷹揚かつ上品に育つ。
かつ、先祖の名前をけがしてはいけないという自制が働くから謙虚で控えめ。
当然だが、すごい家柄だということは周りがすべて知っているのだから
自分から家が旧家だとか先祖がどうのこうのなどと自慢話をしたりしない。
もちろん先祖の調査などしない。
必要がないからだ。
本当の名家なら、先祖や家系のことなど既に分かりきっている。
姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
などとやってるのは単に頭の逝ってる厨房がボケ老人。
たいがいは貧民の出の名字なし雑民と言う事で
もう相手にしなくて良いよ。 >>702
姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
こんな人このスレにいる? >>700
マウントバッテン=ウィンザーとか?
でもこれは家名じゃないから違うか >>705
スレ見返したけどそんな書き込みなかったから訊いてるの
過去スレ? 姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
なんて家系に嫉妬する奴いるかね
馬鹿な奴 >>702
君の妄想の中では家柄いい人はそんなイメージなんだね
君のその妄想は、経済的特権階層にはある意味近い。
ただ、家柄特権階層の民度とは結構 かけ離れている
君も家柄いい人たちのリアルすら知らないんだから、あまり知ったような口聞かない方がいいよ い、、、家柄特権階層(*≧ω≦)ノブッ、、、
子供だったんかい 阿呆らし >>771
人を茶化すことしかできない悔しい低学歴のひがみ根性の無知素養は、変えられないのだろうが、
君をみて改めて無知は罪なりと感じるね
いと哀れなり >713
生まれが卑しい奴が悔し紛れに学歴だってよ
これで高卒中卒B級私大卒の引きこもりのジジイだから笑ける
そんな所は名前が書ければ誰でも入れるでしょ?違うん。 他人の先祖に嫉妬するような人にだけはなりたくないのう
気色悪いわ 社会心理学でももう答えは出ている
身分的特権は、あらゆる角度の環境変化に相対的に脆弱性を帯びるため、普遍性の価値を持ち合わすに至る条件が個々に解離しているため、
非常にマウンティングに近い心理性が働きやすい。
経済的特権階層は、それとは逆に
環境や条件に適応した価値を持ち合わすに至る財閥が多いため、
変化への安定性が身分的性向より大きく、
身分的特権階層の真逆の精神性を証明されてる
偏差値70ごえの一流大卒の偏差値王たる私からすらば、
君みたいな低学歴のお爺さんの無知素養からくる僻みなど、とるに足らないのだよなんの家柄も持ち合わせない、いと哀れな御仁 かわいそう
子供のままのオツムなんだな
ママが茶の間で泣いてるだろうが >>715
私は室町期は旧地侍、
江戸期は代々庄屋
明治も戸長、そして村長、
の直系の23代続く家に生れた
君らよりまともな人間だよ、家柄も教養も。
哀れなり バレバレの嘘語り始めた笑笑
根拠ゼロで思い込んでるんだろうな
自分が23代続く名家の
偏差値70の高学歴と
口ではなんとでも言えます。
証拠がアップできないならば先祖スレの住民の資格無いから二度と書き込まないでくれな
ウザいしキチガイじみてて読むのも不快だから 証拠を君に提示する必要性が、
この2ちゃんねるにおいて、
どこにその成分と根拠があるのか?
誰もそんなことしていない。
市史にも書かれているし、
過去帳もそうだし、
墓の形は代々宝鏡印塔で藩主の童子の墓と同じ形や大きさ許されており、勿論院号許されている戒名もそうだし、
私の家は庄屋でありながら、諱も許されているが、
それは手代として地域の公共事業や政策を一手に藩から担っていたためそれらが容易に残っている。
戸長拝命も市史は勿論、初代県令からの拝命書もあり、
私の実家が戸長役場だった。
写真も残されているよ
その直系に生まれた。
別に君が信じようと信じまいと関係ない。 明治は私の家自体が役場だった。
君らには想像もできないだろうが。笑 家柄や家系とは全然関係ないけど
自分の曾祖父の勲一等叙勲ってどれくらいすごいの? >>721
身分的差異による嫉妬は醜いですなあ
足軽下級武士のそのまた傍流の子孫さん笑 ソース貼れないなら書き込むなよ嫉妬厨
見苦しすぎる
日本人ですらないなコイツ >>726
嫉妬狂いのレッテル針こそ日本人には思えないというブーメラン
この人をみれば分かるだろう。
身分的価値はこのような嫉妬と妬みからくるマウンティングと現実逃避という心理的防衛規制バイアス丸出しになり、
醜い闘争劇となる。
これがひとつの現実なんだよ社会心理学の言うがままの。 掲示板で他人の家柄に嫉妬して書き込みとか
やってることが哀れすぎw
仕事探せよ 自転車置き場の整理なら
あなたの年齢、家柄学歴でも採用される可能性あるから >>728
君はいつまで妄想で人をレッテル張っているのだ?
糖質に血統妄想という精神症状があるが、
君も旧家を目の当たりにするたびに、嫉妬と僻みで発狂するのも苦しかろうから、
一度受診をお勧めするよ
苦しかろう? 自分の出た大学を表現するのに偏差値で表現する奴はいませーん笑
妄想の中でしか生きられないかわいそうな人なんだろうな 今度は大学まで妄想レッテルという、
もはや哀れな御仁に、私はあなたを労りたい
なぜなら、私は寛容だから笑
あなたのような出自も学歴もいと哀れなりける御仁には、私の知識で救えるなら救ってあげたいね
お爺さん、地域包括支援センターっていう高齢者専門の相談センターが地域にあるから、
身の上を相談されてはいかがか?笑
その際自分の先祖やら出身高も相談されては?笑 皆もそうだろうけど、子供の頃見聞きした話をおぼろげに覚えてるが、歳を取ってくると正しい話を子供に伝える責任を感じて調べ始める。
昔見た本を探そうとしてもそれだけでも大変。似たような本は集めたが。
若い頃聞いてた家紋のカフスボタンやネクタイピンを買ったりしてたら、自分の子供も同じ事をしてるらしい。
偶々墓参りの時の写真を眺めてると、何だか家紋が微妙に違うことに気がついた。 それからその経緯を調べていく内に大凡話がわかってきた。
元々同じ紋が本名と俗称みたいに二つの系統で呼ばれてたらしく、言い伝えとしては俗称の流れの紋として伝えられてきてた。
同じ紋を使う別の氏族の話の中でも同じ様な話がいくつか出てくる。 今でもある〇〇氏族は同じ紋の事を〇〇本名紋、〇〇俗称紋とどちらとも言われている。
しかし本当の紋は本名の方の紋。墓には本名の紋が彫られてたと言う話。 今まで何度も見てきてるのに、写真でじっくり見るまで全く気がつかなかった。 また庄屋基地外が暴れてるのか。
こいつはしつこいね。 >>732
思い込みからの捏造
そこから詐称が始まる 誰の話も信じられないのなら何でこのスレにいるんだよ。
因みに俺は一度も庄屋だなどと言う発言をしたことはないけどな。
羨ましい話は皆同じ人間が喋ってると思ってるんだろ。 庄屋じゃねーって、妻の方はそれに近い大きな武家&大地主だったらしいが、家紋なんか知らないって言われて驚いた。
墓石の紋なんてそのつもりで見た事ないから全く覚えていないとか。
どこの家でも物心つく頃には、家紋を教えられると思ってたが違うんだな。 >>737
そういえば・・・水吞百姓の恨みは武士に行かずに庄屋に向くのかもな。
そのために庄屋を表立っては体制側に引き込んで苗字帯刀与えたりして武士ぽく
して、百姓の不満は庄屋へと・・・大英帝国のやり口みたいだな。 >>732
墓石に紋を刻んだりするのは明治以降だ。何にでも例外はあるから
江戸時代には絶対に無いとはいわないけれど。
本来「紋」というものは、晴れがましい場所や畏まるべき場所で自分や自分の
持ち物を他と区別するための目印であって、墓石なんぞに付けるものではない。
紋は公的な関係で必要なもので、私的なものの極致である墓だの墓石だのには
用いなかったのである。
なお武士でも、家紋を旗印にするなんていうのは国持ち大名クラスだったし、貴族は
牛車に家紋を付けることもあったが、やはりそんなことをするのは摂家など高位の
公卿であった。身分の低い公家がやれば笑われただろう。
紋は大名家なら10個以上あるのが普通だった。いろいろな由来でその家の紋と
なるので、状況に応じて使い分けていたのだ。
例えば桐紋は皇室の副紋なので普通は使えない。しかし、皇室から下賜されれば
別である。豊臣秀吉は自分に従う大名たちに皇室から桐紋を貰ってやった。
だから武家には桐紋を持っている家が多い。
実は秀吉は足利尊氏を真似したのである。
尊氏は自分に与力する武士たちに桐紋を与えた。当時の武士たちの最も喜ぶこと
の一つであった。桐紋を下賜されてもこういう紋は戦場の旗印などにはしない。
めったに使うものではなく、例えば将軍に目見えする際の式服に付けたりしたのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています