北部九州伊都説の主張はわかりやすくて、
三雲南小路1号2号=ニニギ+コノハナサクヤ
平原1号2号=卑弥呼+殉葬家臣
なわけですね。

葦原那珂津国=奴国を支配していた委奴国王が金印を入手して大王を狙ったが、
乱開発からの大洪水土石流、疫病の蔓延によって失脚した。
実権を奪い返した倭国王権は、
大混乱の福岡市から、高祖山日向峠を越えて糸島市へ遷都したという理屈ですね。

この流れの中で、貝輪について考えてみると、
直前の立岩遺跡には貝輪が大量に副葬されているのに、
三雲南小路から平原まではパッタリと貝輪が途絶えます。
つまり、委奴国王の失脚と共に、貝輪は作られなくなった。

次々と降伏していく奴国王勢力の中にあって、
唯一徹底抗戦を選んだのが、タケミナカタ。
八岐大蛇一族の女王を口説いて、委奴国王が男系の血を入れた一族です。