邪馬台国畿内説 Part444
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554441846/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
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スマホでセブンATMからお金を下ろせたり(キャッシュカード不要)便利なアプリですので是非ご利用下さい ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。 >>101
いやその前に九州の南が何故奈良なのかという事についての科学的説明は無いのか?
それが通るなら他の説も同レベルで扱うべきだな。
阿波とか。 前スレ>922
>8尺棒の地面接地部分の「最太陽側」から「半影の最長端」までの計測になっている、
>という 事を教えて上げただろ?。
このザラコクのバカさ加減はどうにかならないものか
ザラコクや
お前がバカなのはみんな知ってるから、そんなに一生懸命バカをさらさなくても大丈夫だって!
ザラコクに抽象思考が難しいのは分かっているがあえて書く(というかザラコク以外の人向けだが)
思考実験で、幅が十分に広い板とその影を考えてみてごらん?
それでも板の先端(幅広)が作る影には、本影と半影領域があるのは理解できるかな?
これは板の先端を通る太陽の光が、太陽の視直径の分だけ傾きの幅を持つことに起因するものだ
つまり影の側から見て、太陽の上端の光が作る影の先端が本影の端で、太陽の下端の光が作る影の先端が半影に端となる
棒の太さが無限大でも=棒の太さが太かろうが細かろうが、半影の幅は決まった一つの値に決まるんだよ
棒が太ければ半影が広くなるとかバカすぎ
測定条件 表の影の長さ
夏至 冬至
A 本影(影は最短)S1 15.04寸 129.2寸
B 半影(影は中間)S2 15.42寸 130.6寸
C 半影(影は最長)S3 15.80寸 132.0寸 これが半影の最遠端
『周髀算経』 16寸 135寸 比べれば3寸の差があるよな?
半影の最遠端で測っても冬至の影の長さは、周髀算経の記述より「3寸も短い」!
つまり、周髀算経は冬至の影の長さすら計っていないただの机上の計算の書であり、しかもその計算の根拠が、蓋天説という間違ったモデル
そして一寸千里は、
蓋天説の天と地との間の距離「8万里」と影を計る棒の長さ「8尺」との比であり、夏至の太陽の影でなくても、冬至でも春分でも、洛陽でも上海でも北京でも、机上の計算では千里離れると影の長さは1寸の差になる
一寸千里は、現実の地理とはまったく関係のない値だよ 前スレ>922
>ダメだ。
>大地平面でなく、仮に1寸の段差があっても、
>夏至なら、8尺分の1.6尺=5分の1(寸)位の影長誤差が発生するし、
>冬至なら、8尺分の13.9尺≒1.5(寸)位の影長誤差が発生してしまう。
だから、「地平」=整地の必要があるんだろ?
地平が書いてないところは、平らなところを探して使ってるんだよ
3メートル20センチの範囲が平らなところくらいどこにでもあるだろww 科学的に言って方位については魏志倭人伝の記述が間違ってるのだろうね 前スレ>923
>その内、「背」の意味は「古い」時代にあっただけだ、という意味であり、
周髀算経が書かれた時代は「古い」時代なんだからっまさにそのままそのとおりだろうが!
『古同「背」』と書いてあるのは、現代の辞典(漢典)だぞw >>105
それが畿内説にとっての「科学的」見解か?
お前さあ、畿内説を語るのやめろよ。
迷惑だから。 前スレ>924
>西晋代頃の土地制度での里の長さに摩り替えるインチキをやっているんですよ。
ザラコクは、「魏晋代に漢土全体が短里だった」というデタラメな主張をしている
その否定に、西晋代の土地制度井田法を根拠にするのは当然のことだww
井田法の百歩四方が一夫、九夫が一里=三百歩は、一夫が一家族分の土地を指しており
短里ではどうやっても飢え死にするしかない
「魏晋代に漢土全体が短里だった」というのはどうやっても成立しない
だから、古田史学系以外の九州説は、「短里は東夷のみ」という主張になっている
まあ、「短里は東夷のみ」というのも間違いなんだがな
そもそも、短里自体が3世紀には存在しないし、使う人も使う理由もない
周髀算経の一寸千里の否定はまた別の話
それも、周髀算経自身が、六尺=一歩、三百歩=一里を前提に書いていることで
簡単に否定されている >>108
なんにも理由の言えない知障九州説のみじめさ 畿内説はどうやって奈良に辿り着いたのか?
ちゃとした答えは聞いたことがないな。 >>113
日本語がおかしい
邪馬台国畿内説というのは邪馬台国が畿内にあったという学説である
学説は移動しない
奈良にたどり着くことはない 邪馬台国はヤマト国
邪馬台国は奈良
他の畿内は関係ない >>114
お前の頭がおかしい。
それでいくと奈良で「邪馬台国へようこそ」などと書かれた、弥生時代の看板でも発掘されない限り始まらない話だろ。
中国にはどう説明するかな?
纒向遺跡は卑弥呼の時代と同時期の遺跡かも、というとこまでしか言えない。
そんなの他の地域にもいくらでもあるんだし。
日本人は魏志倭人伝で紹介されている邪馬台国とやらを探してるわけよ。
だから魏志倭人伝に記載された物を発掘したり、示された位置を特定しようとしている。
そこからすりゃ畿内説が空想扱いされても何らおかしくはない。 >>116
同じことを何度も聞いて何したいんだ?
理解できないのか、イチャモンつけてるだけなのか、どっちかだろ 偉そうな事ばかり語るなと言っているんだよw
テレビとか、そういうのも同じ
どこの池沼の集団なんだ 自分が〜〜(神や仏)〜〜になる方法というスレがあるでしょ?
メディアなどを悪用・・・・・w
説明不要 >>114
そういうのを学説とは言わない。
始めにヤマタイコクありの宗教、纒向教の教義という。 >>117
何も答えず何を答えた気になってるんだい?w
コミュ障みたいだと言われてるが人と話をしたことあるかい?w
つまり畿内説は作り話をもとにしていると認めるわけだ。 >>116
>纒向遺跡は卑弥呼の時代と同時期の遺跡かも、というとこまでしか言えない。
そういうことにしたいんだね?ww
今現在、確実に言えることは
1纒向遺跡は卑弥呼の時代と同時期の遺跡
2当時の列島最大の遺跡でかつ王権の強さの表徴たる墳丘墓で列島最大のものがある
3列島の広い範囲で共通化される土器様式、前方後円墳の発祥の地
4列島の広い範囲の交流の結節点
九州のみの倭國が成り立たないことも、5番目に挙げてもよい
「この5つを与件として、列島上に存在した倭國の王がどこにいるかを考える」と
いうのが、畿内説というか日本古代史の基本的な枠組みだ
批判があるなら、この5つに対して、具体的に指摘してくれ
で、>>116は、ザラコクの「周髀算経には365.25度は書いていない」とかいう戯言を
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>120、>>121は、具体的に批判しなよww
それはそれとして、>>120、>>121は、ザラコクの「周髀算経には365.25度は書いていない」とかいう戯言を
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>834
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
このスレになぜ書き込みに来るのかな。
もしかして負けた腹いせに荒らしてるのかな? >>836
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、議論に負けた大和説者は、
そうやって「証拠は?」と言い続けて、具体的な話から逃げまくるから、
大和説はいつまでたっても
噂話レベルの素人説でしかなく
九州説に論破され淘汰された旧説
だと言う事実が
天下に知れわたる >>838
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
まっさきに敗走ってことか?。 >>121
答えるも何も、質問が変だろう
畿内説というのは学説だぞ
学説に足が生えて歩くものか
奈良にたどり着くとか、何を質問してるんだ
纒向遺跡が卑弥呼の時代と同時期の遺跡かも、というとこまでしか言えない
などと言う理由は何だ?
理由もなく決めつけるのか? >>841
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
「証拠は?証拠は?証拠は?」と言い続けるしかない、と思ってる限り、
大和説は学問にはほど遠い >>116はいつものコミュ障男だろう
中国に説明するとか、わけのわからないことを言ってる
他人と会話がまともに出来ないタイプだ >>129
証拠が出せないことを言い張る九州説が
異常なんだよ >>128
>答えるも何も、質問が変だろう
>畿内説というのは学説だぞ
九州説の連中は日本語が不自由なんだから、その辺は忖度して補ってやらないとww
>>113の「畿内説はどうやって奈良に辿り着いたのか? 」は
「畿内説の(考えで)はどうやって(どのような経路で)
奈良に辿り着いた(と考えている)のか?」って言いたいんだと思うよ
まあ、テンプレでは瀬戸内航路、私の私見では日本海経路で、普通にヤマト=邪馬台国に
着くって何度も説明してるんだけどねww >>111
伊都に置かれた大率が女王国より北を検察したのは、倭国にとっての生命線である対馬海峡の制海権を維持していたということだろう。
畿内説だと位置関係がわけわからなくなるけどね。 >>114
はじめから奈良(大和)ありきの論拠なき妄想が畿内説の正体だよ。
それを維持するためには魏志倭人伝を含むあらゆる史書を否定している。 >>132
そう補ってもなあ
動詞「辿り着く」の行動主体、つまり誰が辿り着くのか聞きたいのかが書いてないからなあ
わけがわからん >>122
>>>120
>そんなこと言う理由は?
それは反論になっていない。 >>134
だと言う理由は?
なんで九州説はいかなる時もまったく理由を言わないんだ >>843
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者やテンプレは、
九州説に白旗上げちゃったみたいだね。 >>123
>今現在、確実に言えることは
>1纒向遺跡は卑弥呼の時代と同時期の遺跡
年代は怪しい。
>2当時の列島最大の遺跡でかつ王権の強さの表徴たる墳丘墓で列島最大のものがある
前方後円墳で最大ではないよね?
>3列島の広い範囲で共通化される土器様式、前方後円墳の発祥の地
発祥の地という根拠は不十分。
纒向遺跡そのものは東海からの土器が主であり、瀬戸内や九州とのつながりは薄い。
>4列島の広い範囲の交流の結節点
纒向には瀬戸内ルートや日本海ルートの影響が見られず、帯方郡や魏本国と交流できた可能性は低い。 >>128
>畿内説というのは学説だぞ
学説として弱いと批判されているのがわからないか?
>奈良にたどり着くとか、何を質問してるんだ
なぜ奈良ありきなのか、なぜ畿内の中で奈良を特別視するのか、説明がされていない。 >>847
なーんだ?、「南→東」などの嘘付き騙しで負けた大和説者やスレ主は、
負けたのに勝ったフリ?。
大和説者ら君、キミ、ばかにしか見えないんだけど。
これ正解?。 証拠がないのにはじめから奈良盆地ありきの畿内説とやらを言い張るのはおかしいのではないか。 >>137
上で畿内説ありきで始まってると自白してるじゃないかw 葛城ジジイと畿内説はイコールじゃないそうだが、きっかけは同レベルだよな。 学説として弱いと批判しているのは
日本の学者の研究成果を拒絶している民族素人爺だからな >>145
いや学説というより、実態は学者の想像文だから。
たいてい論文といえば論理的かつ科学的に結果を検証していくもので、私見によろ作文はご法度だぞ。 畿内説は他の学部とは交流がないから論文の書き方も知らないのだろうか。。。 >>134
>それを維持するためには魏志倭人伝を含むあらゆる史書を否定している。
具体的にどこをどう否定してるのか書いてくれ 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「考えられる」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。 >>146
>いや学説というより、実態は学者の想像文だから。
そんな実態がある
という証拠は? >>143
上って、どこ?
何で九州説は
具体的なことを何も言わないの?
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>149
それが主観的な判断だと決めつける理由は? >>154
>>>149
>それが主観的な判断だと決めつける理由は?
ほら、そうやってまともに答えないところが批判されているんだよ。 >>142
>証拠がないのにはじめから奈良盆地ありきの畿内説とやらを言い張るのはおかしいのではないか。
いや、だから
「証拠がない」とか
「はじめから奈良盆地ありき」だとか
そんなふうに決めつける理由を聞かせてくれよ >>156
学者はそれなりに論文発表しておかないと評価に響くんだよ。
夏休みの宿題みたいなもんさ。 >>158
>ほら、そうやってまともに答えないところが批判されているんだよ。
まともに答えないって
何に「まともに答えない」と言っているの?
具体的に言ってくれ >>139
>年代は怪しい。
現在の知見、科学技術で最も妥当とされる推定値だ
自分が気に入らないから怪しいと言っているだけww
誤差分を入れても、纏向遺跡の建設開始は卑弥呼の遣使よりも確実に前になる
編年が違うというなら、具体的な根拠つきで論証しなさいな
できないなら「ぼくチンは気に入らないんだ〜」と言っているのとまったく差異がない >>153
いま箸墓は吉備との繋がりを探ってる最中だよ。
宮内庁もそう言ってたはずだよ。 >>155
私見を「事実」と呼んだらダメだろ。
客観的事実と主観的意見は分けろよ。
畿内説は学問の基本がなってないよ。 >>163
年代が合うから邪馬台国だとは言えないだろ(橿考談) >>139
>前方後円墳で最大ではないよね?
最大でない、という理由は? >>139
>年代は怪しい。
怪しいと言う理由は? 九州説が畿内説スレに無意味な書き込みをして荒らす事によって
自らの敗北を周りに宣伝して下さってらっしゃる
いやあいつもありがとうございます >>139
>前方後円墳で最大ではないよね?
纏向石塚古墳も纏向勝山古墳も箸中山古墳も、
「築造時点」で「倭國内で最大の墳丘墓(墳形を問わず)」だよ
古墳時代中期の前方後円墳より大きくないなどというのは無意味だろ?
もしかしたら、>>139は知的能力が足りないのか? >>139
>発祥の地という根拠は不十分。
十分だよ
精製器種三種は、畿内が初出だ
>纒向遺跡そのものは東海からの土器が主であり、瀬戸内や九州とのつながりは薄い。
瀬戸内や九州は、受け入れる側だからね >>165
私見を「事実」と呼んだ
と言う証拠は? >>139
>発祥の地という根拠は不十分。
>纒向遺跡そのものは東海からの土器が主であり、瀬戸内や九州とのつながりは薄い。
東海からの土器が主で瀬戸内や九州とのつながりが薄い
という理由は?
なんで理由を言わないの?
まさに、そういうのを「根拠不十分」と言うんじゃないの? >>167
まじで知らないのか?
畿内説は当初、箸墓を最古の前方後円墳だと主張してたんだよ。
そこで最大と言うのもおかしいだろ?
小さいものが先にあって初めて言える事なんだから。
矛盾してる。 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。 九州説民族運動は、日本の学者より
ど素人のワシの作り話のほうが正しいと言張ってるだけでしかないからな >>139
>纒向には瀬戸内ルートや日本海ルートの影響が見られず、帯方郡や魏本国と交流できた可能性は低い。
何を言ってるんだ?
丹波とも交流は密だし、出雲とも土器は双方向で出土してるぞ?
テンプレにも大陸との交流は書いてあるだろうが
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 >>173
そのへんWikiに書いてあったから国民なら知ってるよ。 畿内説に投下される意味不明な荒らしコメントは
九州説が敗北した腹いせに荒らし目的で書き込んでいるもの
そもそも九州説が畿内説スレに書き込みする事自体が
畿内説が気になって
干渉せざるを得ない心境によるもの で、>>139は、ザラコクの「周髀算経には365.25度は書いていない」とかいう戯言を
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>165
>私見を「事実」と呼んだらダメだろ。
いや、問題ないだろう
出ないと目撃証言が出来ない >>178
ほら、証拠を出すのをすごく渋るだろ
九州説の異常さが出てる >>140
>学説として弱いと批判されているのがわからないか?
どこが弱いのか、具体的に指摘しないと無意味だと何度言えばww
九州説なんて、強弱以前に死滅してるじゃないか?ww
>なぜ奈良ありきなのか、なぜ畿内の中で奈良を特別視するのか、説明がされていない。
テンプレにも、>>123にも書いてあるだろ?
何一つ「意味のある具体的な批判」ができないくせに何を言ってるんだがww
で、>>140は、ザラコクの「周髀算経には365.25度は書いていない」とかいう戯言を
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>177
ホケノ…
槨あり…
魏志倭人伝には槨なしとあるのに。 九州説を論破して
腹いせにスレ荒らしてきたら負けたから荒らしてるんですよと喧伝し
そして普通に議論挑んできたらまた論破する
九州説は畿内説のアンダーコントロール下にあるのだよ 九州説は、ザラコクを擁護するのか批判するのかぐらい答えたらどうだ?
連続句読点と、キウスはザラコクを擁護している
で、>>139、>>140の九州説の人はどうするんだ? >>184
学説として説明する義務は畿内説の側にあるのに、それを放棄して、キャンキャン吠えているだけ。 >>175
その数字を見て河内との交流が乏しいと思う理由は何なんだ?
搬入土器の大半は飯炊きの甕だぞ
日帰り圏の土地のものが少ないのは当たり前だ 史書ガン無視の考古学者って存在しちゃいけないんだけど。 弥生時代末期に南海トラフが発生していたという痕跡が奈良の遺跡で確認されていたが、纒向遺跡でも確認されたのかな? >>185
>魏志倭人伝には槨なしとあるのに。
槨は、ただの箱じゃなくて、中に人が出入りして追葬などができる構造
横穴式石室が作られるようになるまで、古墳の埋葬主体部は槨ではない
それに、魏志倭人伝の原文は
所有無、與儋耳朱崖同。倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。
以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。
其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。
已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
の部分で、いわゆる庶民の生活を描いている部分
巨大墳丘墓を作る主張葬も同じと考える必要はない >>181
>>>165
>>私見を「事実」と呼んだらダメだろ。
>
>いや、問題ないだろう
>出ないと目撃証言が出来ない
は?
学問の話をしてあるんだけど?
頭おかしいの? >>188
>学説として説明する義務は畿内説の側にあるのに、それを放棄して、キャンキャン吠えているだけ。
説明されてないって断定する理由は? >>852
>「内一衡径二十三万八千里周七十一万四千里。分為三百六十五度四分度之一
度得一千九百五十四里二百四十七歩千四百六十一分歩之九百三十三」
と「一度」と言う単位の定義を述べたんだよ<
その「度」は、角度として?計算しただけであり、日数なのか?は不明であり、
文脈からは「定義」になっていないし、
それに、714000÷365.25=1954.825462・・・であり、
一千九百五十四里二百四十七歩にはなっていないし、
「千四百六十一分步之九百三十三」は、意味不明だよ。 >>192
庶民の墓の話なんていちいちしないよ。
王の墓だから槨の有無が問題なんだろ。
さも確定したことのように庶民の話だとかいうなよ。
これだから畿内説は信用されない。 >>188
>学説として説明する義務は畿内説の側にあるのに、それを放棄して、キャンキャン吠えているだけ。
説明はいくらでもしてあげるから、疑問に思うところを「具体的に指摘」しなさいって
何度も何度も書いているのにww
既に何度も説明されたことを蒸し返し続けているだけで、回答例がFAQにまとめられてしまって
ついに具体的な指摘一つできなくなってる状態なのに何を言ってるんだ?ww
で、逃げ回っているが、>>188はザラコクの「周髀算経には365.25度は書いていない」とかいう戯言を
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww 九州説は大日本帝国が物資の多くを依存してたアメリカと戦争したのを忘れてる鳥頭の様だな >>857
「南→東」などの嘘付き騙しで負けた大和説者さん、
負けて口惜しいからって荒らさないで下せえ >>196
>庶民の墓の話なんていちいちしないよ。
>>196は王族が
始死、停喪十餘日。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。
始め、死して喪にとどまること十余日。当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。
と思ってるの?
大墳丘墓を作るのが、たったの十余日で済むの?ww
自己都合で、ご都合読みしてたらだめだよww
で、>>196はザラコクの「周髀算経には365.25度は書いていない」とかいう戯言を
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>189
それは主観だろ?
そもそも当時は河内が日帰り圏であったかどうかわからないし。
確定していないことをさも確定したかのように前提とするのは良くないだろ。 飯炊き甕の数だと
日帰りする人たちの数量がわからない
食事を提供されるような客人の数もわからない
奈良盆地在住の親戚の家に寄宿する人の数もわからない
そして何より、大阪を定宿にして日帰りする瀬戸内圏の人々の数がわからない
吉備などの土器が非常に多いのは大和川河口付近 >>203
奈良は吉備政権の端の国だったんだよ。
南から来た神武には九州出身だと嘘をついて一命をとりとめた。
情けない大和魂だよ。 >>194
どこで説明した?
おっと、妄想を論拠としないでねw >>195
>その「度」は、角度として?計算しただけであり、日数なのか?は不明であり、
ザラコクが物知らずなだけ
周天というのが、既に365.25日という意味で、「天」空上を一「周」するから周天
そして、その一日分の角度が「度」だから周天暦度は365.25度になる
で、>>196はこんなでたらめなザラコクを
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>201
>そもそも当時は河内が日帰り圏であったかどうかわからないし。
距離でわかるだろ >>202
妄想よばわりする理由は?
九州説はなぜ如何なる時も理由をまったく言わないの? ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 >>205
>どこで説明した?
>おっと、妄想を論拠としないでねw
説明して欲しかったら、まず「具体的な論点を挙げる」ということをしなさい
具体的なことなしで「説明していない」とか言うほうがバカだ
で、>>205はでたらめなザラコクを
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>860
5ch荒らしのこのスレは、
全て「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の者です。 >>174
それ知ってるwww
嘘に嘘を重ねて意味不明な畿内説哀れwww >>205
じゃあ具体的に、何の説明がないと言うのか聞こうか
これに答えられないなら、そっちが妄想と確定するぞ >>862
>古代中国では一年が365.25日、だから量角器は周365.25度なんだ。
「度=日」には根拠あるんだよ。<
その「古代中国」とは、何時の事なんだ?。
前漢代なのか?。 奈良は自称邪馬台国って話だよ。
まだまだ誰にも解決出来ずに続く話だ。
学者の飯の種として。 >>871
>あなた好きです まともな方です<
類スレ主は嫌いです。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者です。 >>195
>一千九百五十四里二百四十七歩にはなっていないし、
>「千四百六十一分步之九百三十三」は、意味不明だよ。
それはお前が漢文読めないだけ
1954里247歩+833/1461歩と読む >>874
>丸く整地したと書かれてるんだ 円を書いたなんて書かれてない
史料無視もほどがあるぞ <
「丸く整地した」んなら、「径二十一歩」だけでいい筈。
何故「周六十三里」なんて文言がいるんだい?。
そりゃ、「円を書いた」だよ。 >>174
>まじで知らないのか?
>畿内説は当初、箸墓を最古の前方後円墳だと主張してたんだよ。
今でも定説だが?
>そこで最大と言うのもおかしいだろ?
>小さいものが先にあって初めて言える事なんだから。
>矛盾してる。
それこそ主観だ >>174
>畿内説は当初、箸墓を最古の前方後円墳だと主張してたんだよ。
>そこで最大と言うのもおかしいだろ?
それ、ただのチェリーピッキングによる改竄!
>>174の知識か知恵が足りないんだろ?
箸中山古墳は、定形化した最初の前方後円墳だ
定形化とは
段築、墳丘の葺き石、各段を囲繞する円筒埴輪列を言う
>小さいものが先にあって初めて言える事なんだから。
>矛盾してる。
ここまで言っても、今度はホケノ山がーとか言い出すのかねww
纏向石塚古墳も、纏向勝山古墳も、箸中山古墳も、
築造時点で列島最大の墳丘墓だという点にはまったく触れずに逃げているが?
話をそらした時点で、纏向遺跡に列島最大の権力中心があったことは否定できないって事だろww
で、>>176はでたらめなザラコクを
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww >>877
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
無意味または内容のない大量の書き込みで、
自分等の大和説スレの議論を妨害してやろう、
と思っています?。 >>221
そんなの勝手だろ
整地したと書かれている
円を書いたとは書かれていない >>209
> 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
これは想像であり、事実ではない。
これを根拠とすることはできない。
テンプレ全体がこの調子で、事実と確認できない「想定」を積み重ねているだけ。
砂上の楼閣であり、妄想と紙一重だ。 >>216
>それは主観だよ。
主観も何も、遺跡分布図がもうあるんだから、同じ国の中だし
集落伝いに行けば飯炊き甕を持って移動しなくていいのは確定だろ? >>228
専門の考古学者の説なんだが?
何で根拠にしていかんのだ? >>889の訂正
「遷都するとなんで「邪馬壹」国が「邪馬嘉」国になるんだよ?
九州説はいつも支離滅裂だな ww 」
は削除。 >>224
>話をそらした時点で、纏向遺跡に列島最大の権力中心があったことは否定できないって事だろww
中国と交流がなかったら、意味がない。
郡使が纒向まで来た痕跡も記録もない。 >>231
それで
遷都するとなんで「邪馬壹」国が「邪馬嘉」国になるんだよ?
九州説はいつも支離滅裂だな ww >>228
事実と確認できない「想定」
とか言ってる時点で
事実認否の仕組みを知らないのがモロバレ >>217
>奈良は自称邪馬台国って話だよ。
>まだまだ誰にも解決出来ずに続く話だ。
>学者の飯の種として。
そんなことはない
魏志倭人伝の記述から、卑弥呼が列島最大の権力中心にあることが読み取れる
3世紀時点で、列島最大の権力中心の存在地として、ヤマト纏向以外の候補地がない
九州説の言う「九州のみの倭國」という戯言だけが、九州説の命綱だが、
弥生時代後期の時点で、北部九州最大の奴国・比恵那珂遺跡群が畿内勢力と
協調関係にあるのが畿内様式土器の模倣製作から確定している
佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
根拠なしだと言いたがるのは、それこそただの主観だよww
で、>>217はでたらめなザラコクを
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww
批判しない時点で、ザラコクと同類だと判断されるしかないが、それでいいんだな? >>232
>中国と交流がなかったら、意味がない。
>郡使が纒向まで来た痕跡も記録もない。
なかったら何なんだ? >>211
畿内説が畿内説のスレ荒らす意味とメリットは何かな
九州説にはあるんだろうけど >>228
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入されているというのは事実
比恵遺跡群で大和型庄内甕を母胎として筑前型庄内甕が模倣製作されるのも事実
九州説にはこのような学者の研究という根拠が一切ない
日本の学問を拒絶しているだけ >>221
>「丸く整地した」んなら、「径二十一歩」だけでいい筈。
>何故「周六十三里」なんて文言がいるんだい?。
>そりゃ、「円を書いた」だよ。
こじつけもここに極まれりだな
例えば「璿璣徑二萬三千里,周六萬九千里」は、周六万九千里の円を書いたのかい?w
周髀算經は、円形のもの、概念は、径と周をセットで記述するというのが基本になっているんだよ
で、>>217はこんなこじつけでたらめ野郎のザラコクを
九州説の誼で擁護するのかい?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのかい?
どっちの立場を取るんだ?
二択だから簡単に答えられるだろ?ww
批判しない時点で、ザラコクと同類だと判断されるしかないが、それでいいんだな? 九州説がこのスレに書き込みする時点で
畿内説に敗北を宣言しているようなもの
畿内説は他スレに書き込みに行かなくても余裕
むしろ相手するのがめんどい >>228
>これは想像であり、事実ではない。
>これを根拠とすることはできない。
また、ごまかしで話をすらしているww
「大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、」は事実
「大和東南部・纏向で大和型庄内甕が作られている」のも事実
この二つの間に関連があると考えない理由がない
結局、>>228もザラコクの同類ってことでいいな?
根拠は、繰り返しザラコクに対する態度を尋ねられたのに答えなかったことww
↑
具体的な理由ww 畿内説スレ主の立ち位置:
我は、老練かつ最長老の考古学専門家にして、
全ての学者・研究者の頂点に君臨して久しい。
考古学会誌、新聞、諸雑誌、5ちゃんねる・・・、
我が成したる著作物は、すべて学説定説である。
(皆の者、頭が高〜い・・・) 九州説の立ち位置
倭人伝も違う場所pさしてるし
考古物証なくて負けは確定
腹立つから畿内説スレ荒らしてやるゥ >>229
それが勝手な主観なんだってば。
事実ではないんだよ。 >>245
>それが勝手な主観なんだってば。
>事実ではないんだよ。
勝手な主観であって事実ではない
という理由は? シキ郡という地名は奈良県側にも大阪府側にもある
しかも隣接してる
古来から一体なんだよ 今日、麻の播種式があったね。 いよいよだね、忌部一族の末裔たち。 @阿波 土器で歴史を語るなと教えたはずなんだが・・・(佐々木談) >>252
根拠なし
佐々木は生活用土器の動きが政治的な動きとイコールではいと言ってるだけ 九州説民族運動は日本の考古学者の研究を拒絶しながら
畿内説の学者の論文の一部を使う 纏向遺跡は九州と密接につながっていたことを示す遺跡なんです!キリッ
[纏向遺跡で見つかった搬入土器の出身地割合]
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% >>244 ヤラセでしょキナイコシ?
言いすぎですよ
畿内説でも末盧国、伊都国、奴国、不彌国は北部九州と認めてるのでしょ
飛んで 飛んで ヤマト
中四国を畿内説で明確に説明した学者はいないですよ
石野さんも吉備説に傾きつつあるし >>258
だから、その数字なあんたの珍説の根拠にはならないって
あきらめろ >>259
>中四国を畿内説で明確に説明した学者はいないですよ
いないつ、なぜ言える?
あらゆる学者の論文をチェックしたの? そもそも倭国は連なっていた、接していた、という表現が多数見られる。
飛んで飛んで奈良盆地というのはまず考えにくいな。 >>261
探したけど書いてないよ。
マジで。
知ってる? 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 >>259
>石野さんも吉備説に傾きつつあるし
証拠は? >>264
>少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
畿内説は統一国家が完成していたかのように説明しているんだけど。。。 またキウスが思い込みと事実の区別がつかなくなってるな >>267
畿内説は都合がいいかどうかで史料を捻じ曲げるクセが染みついているんだね。 キナイコシ=>>1の語源
KINATSETU と 打つ と変換は畿内説
Sをぬくと
KINAIETU=KINAIETU=畿内越=キナイコシ >纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、
後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していない
ことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。<
纏向で出てきたのは生ごみと桃の種だけ? 畿内説の場合、狗奴国をセットで掘り出さなきゃならんな
どの辺になるんだ? >>259
九州から瀬戸内海航海して畿内に向かうと説明されているよ
そして邪馬台国の位置は
沖縄や台湾の近辺と魏志倭人伝に記されている
これで魏志倭人伝の行程の解釈だけが頼りだった九州説は破綻だけど
畿内説には考古物証があって邪馬台国確定 >>279
もう退職したよ
お金くれるのは安物くらい >>280
邪馬台国と狗奴国は戦争してたんだろ?
戦死者の墓とかも発掘しなきゃそれを説明出来ないんじゃ? >>232
>中国と交流がなかったら、意味がない。
テンプレにも大陸との交流は書いてあるだろうが
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 史料に書かれている内容がそのまま事実だとは限らない >>245
>それが勝手な主観なんだってば。
だから、「何をもって」勝手な主観だと判断しているのか、その「具体的な根拠・理由」を示して!
それがなければ無意味!
>事実ではないんだよ。
どこが事実じゃないのか、
「具体的な根拠・理由」を添えて「具体的な論点」を明確にしてくれ
何度言われても、うわごとのように同じことを書き続けるだけっていうのは
まさに「ザラコクの同類」だぞ!!!!! >>249
>事実だという根拠は?
何をもって「事実ではない」という言いがかりをつけているのかを
「具体的な根拠」を示した上で訊いてくれ
>>249はザラコクの同類! >>256
>佐々木は土器で歴史を語る人
正確には、佐々木先生は「土器の歴史」を語る人だよ >>287
史書を否定するの?
じゃあ邪馬台国もなかったと思えば楽なんじゃ? 関川って石野の引き立てて20代の若さで有名人になったけど、書いた論文が間違いだらけだったと発覚して報告書改定で全面削除正誤表付きの公開処刑食らって消えた人?
左遷されただけでクビにならずに定年まで橿原に居たんだね >>264
佐々木先生の見解を端的に示す図
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 より引用
https://i.imgur.com/UEbPu6i.jpg
大和を中心とした首長同盟の成立が前提となっている >>293
それ邪馬台国と関係ないし、プライバシーの侵害になるよ!
注意ね! >>292
史料批判を拒絶するの?
なら、歴史学からドロップアウトだ ここは学問の板じゃないのかい?
史料批判する学生だらけ? >>266
>畿内説は統一国家が完成していたかのように説明しているんだけど。。。
「統一国家」が何を意味するかによって異なる
広瀬和雄先生は「前方後円墳を共通墓制とする祭祀連合の成立」を以って国と認め
「前方後円墳国家」という用語を提唱している
ただ、これは多数説とはなっておらず「前方後円墳体制」という用語の方が一般的
どちらにしても、列島の広域で「前方後円墳を共通墓制とする祭祀連合の成立」を見るのが
既に定説となっており、これが大陸中華から倭國と呼ばれたものの実態だと考えるのが
畿内説の基本的な立場だ
統一国家の成立を、畿内説は前提としていない
>>266もザラコクの同類だろ?w >>295
安物んとこでアンチ畿内説書いてる考古学者?がじつはスネ傷持ちという話だな >>284
>魏志倭人伝は読んでいなの?
魏志倭人伝に書いてあるのは、
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、「素不和」と
遣倭載斯烏越等、詣郡、說「相攻擊狀」だけ
全面的な戦争とは書いていないし、テンプレにもあるように
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。 」
という程度
>>284はザラコクの同類なんだろ?ww 歴史を学んだ学生なら史料批判を理解してることすら知らないキウス >>301
疑うのは自由だが、じゃあなぜそう書かれたのかという説明も添えなきゃ >>297
>畿内説だと秦王国はどこになるの?
魏志倭人伝には書いてないね
隋書の記述のことかな?
秦氏のいた地域、以上の意味はないだろ? >>304
歴史を学んだ者なら史料を重視する。
そしてそれを否定するのが考古学者だよ。 >>305
添えた説明をまったく読まないで
説明ないないないないないと連呼するのが
九州説 >>307
それ、歴史を学んでない者特有の発言なんですけど >>303
戦争していたというのは、そのあとの「説相攻撃状」でしょ >>309
それ学んだけど学べず落第した者特有の発言なんですけどw
いつまでやってんだよwww >>305
>疑うのは自由だが、じゃあなぜそう書かれたのかという説明も添えなきゃ
なぜ間違いか? まではキッチリ論証するものだが
なぜ間違いが生じたか? はアブダクションになるから
あまり重視されない 陰謀スレ
漫画やアニメばかり観ているから、
こんなことになったと言ってる人がいたでしょ?
渡来人に制圧されたというのが正解 いつも最後は論争に負けた九州説が荒らしを始めて終幕 最後はそうなるんだよ、蝦夷が何やら〜とか、
蝦夷というのも、日本に住んでいるけど、なぜか渡来人だという話だし マンガというか毎日毎日毎日新聞ばかり読んでるからな
畿内説はwww >>317
アイヌが渡来人だったという意味じゃないの?
そして縄文人はアイヌの派生だったとかで >>319
『サイバーパンクSPECIAL』
描いてくださいと頼んだわけでもないのに、なぜか家の話だし
「違います」というかもしれないけど、家の話 銀〜〜という作品も同じ、
親戚に、そういう名前の親戚がいたと言っていたし
家に凄い刀が飾ってあって 『勝義諦』
このような名前の家(下の名前)、
川崎区の南部のほうに住んでいるでしょ
そういう作品が書かれるよりも前から住んでいる、
銀〜という名前の親戚もいたり 歌舞伎や芝居が〜・・・・という話も同じ、
広瀬座というのがあって〜
『老婆談』 >>325
なんなんだよお前w
逝ってる畿内説かなるほどwww 老婆が言うには
仏教〜・・・という話ばかりなんだけど、
実際は何の刀なんだろう
当時、持っていたという謎の刀 箸墓で行われた代替わり、権力承継の儀式には、多くのクニの代表が招かれたと思うんだけど、
たぶんそれが途轍もなく凄かったんでしょ。
「うっわ!すっげー!この儀式カッコ良すぎる!文明の香りがする!」
「ウチのクニも、次の代替わりの儀式はこれで行くしかない!」
「前方後円墳だよ!前方後円墳っ!」
みたいな感じで。
んで、前方後円墳体制が広まったと。 前方後円墳は、別に権力で強制した訳ではなく、
例えばその後の日本で『京風文化』が最高の文化として日本の隅々まで知られ、
皆が憧れたのと同様に、
当時は前方後円墳での権力承継の式典が、途轍もなく文明的でハイカラで、
最新のテクノロジー(天円地方説)にも適い、とにかくもう恰好良かったんじゃないかと思うね。 >>329
譜代は設計図が香典返しの特典で貰えたんだよ
外様は見た目マネした 仏教関係の刀なのかな?
キュウリの葉、葱の華・・・w
老婆も生まれていなかった頃の写真だしな・・・。 >>330
それだと築造企画論の説明が付かないねえ 「我らが葬送と権力承継の式典は、四隅突出型墳丘墓で行うと、古来から決まっておるのじゃ!」
「いやいやいやいや。それ、古いから。『天円地方説』に基づいて、埋葬スペースと祭祀スペースは分離しないと」
「てん・・えん?ちほー?なんじゃそれは?」
「天は円く、大地は四角い。知らねーのかよ?だいたい、埋葬スペースに参列者がいっぱい上がるって、被葬者に対して失礼だろ」
「そんなことはない!」
「あと、同じフラットなとこに参列者を並ばせると、誰が上位者か分からないだろ」
「何を言うんじゃ!最近の若いもんは!」
「いやいやいや。前方後円墳だと、埋葬する後円部と、祭祀用の前方部が分かれてて、なおかつ段築になってるんで、
参列者の身分に応じて、高いとこ、低いとこに並ばせられるんだよ。これってすごくね?」
「むむ・・」
「とにかく、次の代替わりの墓は、前方後円墳で行くから。隣の○○国も、前方後円墳を造り始めてるってよ」
まあ、前方後円墳の普及は、こんな感じじゃないかと想像。 >>336
そういう中でも箸墓の1/3とか完コピしてるのは
設計図の特典ゲトできた忠臣たち >>313
嘘ばかりやなぁ
縄文人直系は日本列島どこでも4割近くいるんだよ
最大勢力
様々な枠組みの争いがあっただろうが、何処にでも縄文人の子孫はいた
弥生時代の人々の遺伝子の結果が示すのも混血 >>339
4割は言い過ぎ。
ちなみに近畿は2割いるかいないか。 孫が、二人、入学したので、アルバイトを辞めた事と重なって、食堂に行けなくなってしまったな。。。 >>342
邪馬台国畿内説の宣伝係員を論破して、空腹を紛らわしてしまえば、良いのでは、ないのかな。。。 むかし住んでいたところなのかな、
あと疎開したとかw
近所に小手子の像というものが
建てられていたり 様々なデータがあるが、近畿地方でもD1bとC1a1合わせて3.5割はあるぞ どうして九州説は嘘をつくのだろう
(知ってるけど) 仏教関係の家というのは、
蚕を飼ったり、機織りをしたりしていたのかな >>288
>何度言われても、うわごとのように同じことを書き続けるだけっていうのは
>まさに「ザラコクの同類」だぞ!!!!!
ブーメラン?
>>299
>どちらにしても、列島の広域で「前方後円墳を共通墓制とする祭祀連合の成立」を見るのが
>既に定説となっており、これが大陸中華から倭國と呼ばれたものの実態だと考えるのが
これが倭種だろうねえ。
でも魏が倭国と呼んでいたのは、その中でも九州北部だけだろうねえ。
魏志倭人伝の記述が福岡県まででぷっつりと途絶えているから。
>>312
>なぜ間違いが生じたか? はアブダクションになるから
>あまり重視されない
だからと言って史書を無視したら歴史学にはならないよ。
魏志倭人伝に記述と全く異なる状況の地域を持ってきて邪馬台国だと言い張られてもねえ。 邪馬台国畿内説の宣伝係員を論破して、空腹を紛らわしてしまえば、良いと思って、この偽物のスレッドを覗いたが、
すでに、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人係員が、優れた考古学者達によって、ゴキブリが叩きつぶされてしまうときのように、論破されていて、潰れた後なので、つまらないな。。。 孫達が、喜んだので、お祝いをしたことが、思い出になったな。。。 朝鮮人認定www
みたいな事を言ってる人達がいるけど、
なぜだと思う
そこに住んでいたというだけなんだろう?
という意味なのかな >>349
近畿というか、京都と滋賀が異常に多いんだよ 歴史的に多いのか
それとも日韓併合辺りからの移民なのか >>310
>戦争していたというのは、そのあとの「説相攻撃状」でしょ
それ>>303にちゃんと引用してある
きちんと読んでから具体的に反論しなさい
>>310もザラコクの同類だな! >>348
>ブーメラン?
まずは>>348が、はこじつけでたらめ野郎のザラコクを
九州説の誼で擁護するのか?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのか?
どっちの立場を取るのかはっきりしてもらおうか?
批判しない時点で、ザラコクと同類だと判断されるしかないが、それでいいんだな?
こっちは、ザラコクを徹底的に間違いだらけというか間違いしかない人物であると示し続けているぞ!
魏晋朝全土が短里だとかいう「明確なトンデモ」すら無批判なやつはダメ人間だぞ!
まさにザラコクの同類だなww 朝鮮半島系が多いのは関東
近畿の朝鮮半島系の勢力は一部の貴族を除いて東国に移配されている
飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。
推古天皇9年(601年)、対馬に到った新羅の間諜迦摩多を捕えて貢上し、上野に流す。
斉明天皇6年(660年)、百済が唐俘100余人を献上する。今の美濃国不破郡・片縣郡の唐人等である。
天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。
天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。
朱鳥元年(686年)、新羅沙門行心が謀反し、飛騨国の伽藍に徙す。
持統天皇元年(687年)、投化した高麗56人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇2年(688年)、百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
持統天皇3年(689年)、投化した新羅人を、下毛野に居住させる。
持統天皇4年(690年)、帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。 霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
霊亀2年(716年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。
天平5年(733年)、武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。
天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。
天平宝字二年(758年)、美濃国席田郡の子人・吾志等、賀羅造を賜姓される。
天平宝字4年(760年)、帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。
天平宝字五年(761年)、新羅征討に備え、美濃・武蔵各国の少年20人ずつに、新羅語を習わせる。
天平神護2年(766年)、上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。
宝亀十一年(780年)、武蔵国新羅郡人の沙良・眞熊等2人が広岡造を賜姓される。
延暦七年(788年)、美濃國厚見郡人の羿鹵濱倉が美見造を賜姓される。
延暦8年(789年)、信濃国筑摩郡人の後部牛養が田河造を賜姓される。
延暦16年(797年)、信濃国人の前部綱麻呂が安坂姓を下賜される。
延暦18年(799年)、百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。
弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
弘仁11年(820年)、遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)
天長元年(824年)、新羅人辛良、金貴賀、良水白等54人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる。
貞観12年(870年)、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。 >>353
近畿で遺伝子的に朝鮮半島の影響が一番残っているのは奈良だよ
奈良は縄文系と朝鮮半島系の影響が強い >>899
>>能田氏は「紀元前1100年頃の星の位置と一致した」としておられるし、<
>紀元前1100年頃の星の位置は 現代人のザラコクにだって書けるよ<
見なくっちゃ、書けないよ。
>>周公と商高の話の延長として書かれているから、<
>昔話として書いているよ 「昔者周公問于商高曰・・・」 話にならんな<
「呂氏曰・・・」もあるから、呂氏以前の周代の記録だ。
>>「元」周髀算経は、周初頃の認識として存在していたんだよ。<
>そういうのを仮託と言うんだよ 後世の偽作はみんなそうやって書く<
誰が何故仮託出来たんだい?。 >>902
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
人間のクズというより猿のクズだからな 近畿で朝鮮半島の影響が一番残っているのは生野区だろ >>348
>でも魏が倭国と呼んでいたのは、その中でも九州北部だけだろうねえ。
「だろうねぇ」ってww
具体的な根拠を示さないと無意味だって!
何度言わせるんだ? このザラコクの同類が!
>魏志倭人伝の記述が福岡県まででぷっつりと途絶えているから。
まさかそれが根拠だとか言わないよな?
北部九州からさらに水行20日で投馬国
さらに水行10日陸行1月でやっと邪馬台国なんだぞ?
この記述を無視しないといけないのが九州説の死んでいるところだ
で、>>348が、はこじつけでたらめ野郎のザラコクを
九州説の誼で擁護するのか?
それとも九州説の面汚しとして、糾弾するのか?
二択の簡単な質問なんだから答えるのは簡単だろ?
学問に対する姿勢を問われているんだよ
答えない時点でザラコクの同類だ! これは本当の話
日本に住んでいる〜〜〜〜某国(どの民族でも良い)の人に聞いてみると良い、
あなたは日本人ですか?と
違いますよと答えるはず
あと朝鮮半島に住んでいる〜〜〜〜〜〜〜〜〜の国()の人に、
あなたは朝鮮・韓国人(どちらなの?)ですか?と
説明不要 >>903
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説者は、
道理の通らない話を他からの意見を一切取り入れることなく
ひたすらゴリ押すだけの、
唯我独尊世界支配思想である説。
当然、天皇家も国民も、敵対すれば皆殺しにする事も辞さない。
内容のない大量のレスは儒教思に想起因するお題目 >>363
いや、古代から
大阪府大阪市東成区・生野区にまたがる、平野川旧河道右岸一帯は
仁徳天皇の時代に、多くの「渡来人」が当地にやってきた。
上町台地の東麓一帯は百済からの渡来人が多く古くは「百済野」と呼ばれていた。
その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから
この地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。
弥生時代に大陸から持ち込まれた家畜豚は九州・四国の西日本西部地域に限られている >>907
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のレスは、
びっくりするぐらい内容がないな。
人間的にもカラッポなんだろう。 本当の話
豚?飼っていた覚えはない
ちなみに『松傾』
こういう名前の家なんだけどw 豚肉、牛肉?
食べなかったと言っているし、老婆は食べていたのかな
あの謎の写真、当時の話、
老婆から見ると・・・何なんだろう >>912
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
自分たちのことを棚に上げて困った人たちだ 古代半島人はまさに倭人たちであって現代の半島人とはまた別種でしょw >>913
周りの「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の荒らしレス見れば
九州説は、罵倒でも何でもない事がわかる 東夷伝で好んで豚を飼うと書かれているのは
韓伝の下半身丸出し州胡と、不潔で便所を中央に作る挹婁伝 松の木の立てられていた写真があるでしょ、
名前も『松傾』こういう名前の家、上の名前w >>914
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
議論に負けた結果荒らしをしすぎて、
ちょっとした悪口でもダメージが入る 。 >>915
畿内説はマナーのなってない九州説に正しい指摘をして苦言を呈してるだけ 乙巳の変の後、坊さんも含め2000人の百済人を根こそぎ関東に移配しているからね〜
それ以前は明日香とか見ても朝鮮半島の影響が強い時期もあっただろうけど、乙巳の変の後状況は一変したんじゃないか 何を食べていたのか?
当時、山の上のほうに住んでいたと言っているしな・・・w
蕨などを食べていたのかな?山菜? あれ?、また投稿ボタンを押した事になってしまっていたから、
書き直し。
「畿内」なんて存在もしないウソtき騙し文言であり、
「南→東」などのウソtき騙しの大和説者が、マナーのなってない、
という正しい指摘をして苦言を呈してるだけ。 家は本当に『松傾』こういう名前の家
家の表札(名義)というの?
父親の名前「勝義諦」(このような)になっている >>383
DNAが違うらしい。
弥生人と縄文人の混血もまだ確認されていないとか。
じゃあ古代の渡来人は何者なんだ?って話。 とくに写真の母親の話
人参、芋の類があるでしょ、
似たものばかり食べていたと言っていたりw
老婆は肉も食べている 万葉集、梅の歌の序文
大雑把だが天平までの歴史が要約されている
時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 邪馬台国関係の話でも何でも良いんだけど、
どこで勉強したの?学校でしょ なんで畿内説はすぐ人種の発言をするの?
コンプレックス?差別意識? >>393
このいつも5、6世紀のデータ貼り付けてるやつ
あたま変なのか? ニュー速+でスレが建つと、この関係ないデータで九州だとドヤってるやついるよ
これで決定的だと便乗する九州バカもいっぱいいる >>360
>>>周公と商高の話の延長として書かれているから、<
>>昔話として書いているよ 「昔者周公問于商高曰・・・」 話にならんな<
>「呂氏曰・・・」もあるから、呂氏以前の周代の記録だ。
アホか
俺が「福沢諭吉曰く・・・」って書いたら明治以前の江戸時代の投稿になるのか?
おまえ、頭に蟲が湧いてないか? 狗奴国と戦争状態にあったんじゃないのかな
兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
(倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。)
ちょっとしたいざこざではない 相攻撃状 いわんや魏国まで報告している また檄文までいただいている >>397
人種の話が差別?
お前は何を言ってるんだ? >>404
戦争でいいよ 全面戦争では無いが国境で攻防していたのであろう 百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、
少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られ、
日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している
邪馬台国とは関係ない百濟 明日香の公用語は百濟語・・松本清張
ヤマト朝廷(日本)は百済人と倭人の作った国 >>408
そうだと言っているんだよ、どこの国の人間なんだ。
それと『アーガマ』・・・・調べてみて。 仏教関係の話
仏教を保護をしたとか、都合の良いこと(嘘)を書いているだけ、
当時天皇はいない、日本の話。
あと『天王』の家というの?『松傾』のこと。 『天王宮 菅野』
いまの福島県?
たしか、この周辺に住んでいたというという話・・・・、 あの写真があるでしょ、なぜ同じようなコンセプトなんだろう
こういう謎のアニメ(ドラマ、映画、漫画、ゲーム、〜文庫、小説・・・)・・・・など
『』『』『』『』『』『』 『ガンダム サングラス』
このような服を着ていたり?、
写真があったでしょ
『松傾』の家の写真、
というか家(この書き込みをしている) >>916
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言だし、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ほんとに九州説に対する反論は諦めてしまったのかな >>929
>>ダメだ。 何度も言うように、
「元」周髀算経は、一寸千里は「整地」なんてしていないのだから、
周髀算経は、「二十八宿」の時にだけ「整地」を記載する事をするする筈がない。<
>ダメだね 史料無視する九州説
#即『平地』徑二十一步.周六十三步.令其平矩以水正 <
ダメだ。
「整地」なんて事を記載する筈がない、という事になるんだから、
それなら「即平地」の部分も、前漢収集説明学者の「書き足し」であった、
という事になるだけだ。 >>931
>>ダメだ。 大地平面でなく、仮に1寸の段差があっても、・・・<
>天文観測で一寸千里を測るのに 1寸も段差があって平らでないところで
影を測ると言い張る <
一寸千里の天文観測の一寸千里は、
周地付近の「大地平面」という条件下の計測であり、
しかし、その「整地」の事は記載されていない、という事から、
「二十八宿」の大地への投影でも、大地整地はしていない事になる、
という事に反論出来ず、
「1寸も段差があって平らでないところで影を測ると言い張る」という、
言ってもいなかった事を曲解捏造して、
類スレ主は、相手をヘイトスピーチ誹謗をする。
そんな大和説者の信頼性ゼロ 。 1世紀だろうが3世紀だろうが5世紀だろうが、九州北部が倭の先進地域であり、倭国として中国と交流していたということさ。 >>935
>卑弥呼を記紀の誰にあてはめるのかな<
後代史書の記紀は、「倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書」。
古事記は、卑弥呼を完全に無視抹殺しているが、
書紀は、卑弥呼と壹與の二人の事績の一部を、
名前を出さずに神功紀に書く、
というインチキをしていた事がバレている。
>蝦夷征伐と倭国との關係は <
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の神武らが大和に移った、
などの事や、
九州倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしていた、
という関係。
東征は、大和日本国が九州倭国を併合吸収継承した後は、
大和の阿毎氏の後裔が引き継いだ。 >>946
>邪馬台国とヤマト王権を結び付けることにはには なんの無理もないってことで
FA ?<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×だ、
という事で。 畿内説は史書を無視しているので邪馬台国は諦めたと見るべきです。 >>951
>九州説は西服衆夷されたことを認めなきゃな <
西の衆夷は、既に倭國に「服属服従済みであった」、
という事を認めている。 >>952
>(畿内説は無理矢理結びつけようとしている)
無理矢理だって理由がないんだろ?
理由もなしに言い張っても馬鹿と思われるだけだぞ <
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭国は北部九州にあり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から神武らが判れて移った地であり、
倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一国だ。 >>423
そんなインチキ読みが理由になるわけないだろ >>417
>しかし、その「整地」の事は記載されていない、という事から、
>「二十八宿」の大地への投影でも、大地整地はしていない事になる、
>という事に反論出来ず、
九州説患者は平然とウソをつく
なんども指摘されたくせに
即平地徑二十一步.周六十三步.令其平矩以水正
と28宿観測用の整地が明記されている
九州説よ、史料を無視するな 小学生の作文
「朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べて、学校へ行きました」
この↑ 文章を、畿内大和の先生たちは小バカにする。そのため児童は、作文も先生も学校も嫌いになり、
長じては、ひねくれまわった文章を弄するようになる。その典型例が >>1 であろう。
しかし冒頭の作文は、極めて論理的で簡潔で優秀な文章である。
生徒・学生・社会人として成長していくための基本中の基本といって差し支えない文章能力であり、
陳寿の作風にさえ通ずる。
ではあるが、どこがどのように優れているのか、多くの先生たちには理解できないであろうな。。。 墓の様式や殉葬者が100名ほどいたと史書は示しているのに、大きさのみで
箸墓の埋葬者を卑弥呼と断定した畿内説は学会追放に値する連中だよな。
警備の厳重な邪馬台国の様子が描かれているというのに、たまたま出てきた
桃の種の年代が近いからといって纒向を邪馬台国と比定しまった 畿内説は
懲戒免職に値するほど学会の信頼を失墜させたよな。
まるで宗教と嘲笑される考古学会が哀れ(笑) 僕たちが、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたとき、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵が、出現したな。。。 >>428
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵は、纏向遺蹟をどのように、分析していたのかな、、、 >>429
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵は、纏向遺蹟を4世紀に作製されたものなので、邪馬台国とは無関係だと断定していたな。。。 そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じるその論敵は、纏向遺蹟を4世紀に作製されたものなので、邪馬台国とは無関係だが、
卑弥呼の城や墓は、東大寺の地下に埋まっているという、意見を発表したので、論破の成功に時間がかかってしまったな。。。 纒向は驚くほど無防備だったよ。
だから畿内説であったとしても、あれは宿敵がいなくなって安心しきった狗奴国の姿かと。 纏向遺蹟を4世紀に作製されたものなので、邪馬台国とは無関係だが、卑弥呼の城や墓は、東大寺の地下に埋まっているという、意見はあまり隙が見つからないが、どうやって論破したのかな。。。 >>434
魏志倭人伝や周髀算経を、翻訳したものを発表したので、論破出来ました。。。 それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。 >>961
>>周公の頃にそんな「度」があった、という証拠は?。<
>だから、あんた馬鹿?
「むかしむかし周公が・・・」って書き始められてる本は
周公の頃に書かれた本じゃないの <
「元周髀算経」は、
紀元前1100年頃の星の位置が書け、
周公らの会話が記載出来、
「呂氏」以前であった、
という事までは判る。 >>965
>>七衡図時点では、「里歩系での長さ→度」という事だけでの「度」の使用。
しかし「二十八宿」の説明では、始めから、
「度」を365.25日の日数や、一周360度の角度としての記載になっており、
七衡図の時とは、全く違って、新しい考えで使っており、<
>七衡図の説明で、各衡の円周を一年の日数で割った角度を1度とすると定義されてる<
これも×だ。ウソを付くな。
七衡図の説明では、円周を一年の日数で割った「歩数」になっており、
「角度」ではない。 >>966
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
世間で常識になっている事実認否の方法を知らない・・・・アホだ。から、
そんなデタラメを思いつく。
大和説は無知の産物である。 >>416
>「整地」なんて事を記載する筈がない、という事になるんだから、
何をもって「記載する筈がない」というかというと、
ザラコクがそう主張したいから、以外の理由がまったくない
実際に書いてあることを無視して、自分の言い分に都合が悪くなると
それは後世の書き足しでもともとは書いてなかったと言い出すww
ザラコクのやることはいつもそう
新唐書も後漢書も梁書も北史も全部「半分×書」だから根拠にならないと言い出す
そして、それが通るなら、書の内容の根幹に関わるところで
『前漢収集説明学者の「書き足し」』があったのなら、
周髀算經は半分×どころか「8割方×書」だから根拠になる筈がないよな?ww
ザラコクのデタラメ主張を認めるなら、そういうことにしかならないw
つまり、周髀算經を短里の根拠に使うのはインチキだってことだなw >>418
>1世紀だろうが3世紀だろうが5世紀だろうが、九州北部が倭の先進地域であり、倭国として中国と交流していたということさ。
ほら、この年代間無視、時系列無視が九州説の基本論法なんだよw
>>418はやっぱりザラコクの同類ww
1世紀頃は、北部九州が「漢鏡という特産品」を倭国に供給する土地だった
3世紀頃には、既に先進地域でも倭国の中心でもなくなっているし、
漢鏡配布の主体でもなくなっている
5世紀には、討伐対象の一地方に過ぎない
でたらめはやめなよw >>975
「南≠東」などの証拠を突きつけられても、
大和説者は、
「その『事実』は九州説者の頭の中だけなんでしょ」とかうそぶく妄想を、
毎日垂れ流すなよ。 >>980
>10年以上前の5chのテンプレ
とか思ってる時点で破綻してるだろ九州説 <
「南→東」などの嘘付き騙しを未だに書いている時点で、
大和説は破綻しているだろ?。 >>427
>墓の様式や殉葬者が100名ほどいたと史書は示しているのに、大きさのみで
>箸墓の埋葬者を卑弥呼と断定した畿内説は学会追放に値する連中だよな。
墓の様式は魏志倭人伝には書いていない
殉葬者100名については、日本のどこにも大規模殉葬の跡がないので、考慮に入れようがない
大きさについては、纏向遺跡の纏向古墳群以外に候補がない
箸中山古墳を卑弥呼の墓と考えるのは、箸中山古墳の規模・立地から始祖王の墳墓と
考えられることから蓋然性が高い推定と言える
一方で、現在の標準編年から考えると、やや新しいという見解もあり、その見解を採る場合は
箸中山古墳に先行する纏向古墳群の100メートル級の纏向型前方後円墳のいずれかが
卑弥呼の墓の候補となる
>>472はザラコクの同類 >>445
ハチャメチャ纒向せつ
下手な鉄砲も数うちゃ当たるの図式かいww なぜ、魏志倭人伝は、周髀算經を根拠とした、短里で作製されたのだろうか。。。 それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。 >>448
優れた、九州説の考古学者達が、多数、出現しているのだが、畿内説の宣伝係員の頭のレベルが低いので、優れた、九州説の考古学者達の、高度な知識や知能のほとんどを引き出せないまま、畿内説があっけなく論破されてしまうからでは、ないのかな。。。 なぜ、魏志倭人伝は、周髀算經を根拠とした、短里で作製されたのだろうか。。。 >>984
>古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、 中期(4世紀後半〜5世紀末)、 後期(6〜7世紀) に区分している。<
古墳に墳丘墓を含めるのか?、前方後円墳からにするのか?が不明確であり、
大和の前方後円墳は、石塚の3世紀末以後であるから、×。
>古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。<
大和などの「長い木棺を竪穴式石室」も、4世紀以後である。
また、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの所産である。
>それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。<
大和政権は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏の別種の旧小国であったのであり、
「東征毛人五十五國」の中の一国であった。
>初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。<
「南≠東」などに拠って、大和は中国へ朝貢し続けた列島盟主ではない。 >>446
>ハチャメチャ纒向せつ
>下手な鉄砲も数うちゃ当たるの図式かいww
反論するなら具体的にどうぞw
・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある
畿内大和説で、殉葬以外はきちんと説明できるんだが? なぜ、魏志倭人伝は、周髀算經を根拠とした、短里で作製されたのだろうか。。。 >>452
>古墳に墳丘墓を含めるのか?、前方後円墳からにするのか?が不明確であり、
単にザラコクの勉強不足
纏向型前方後円墳が広い範囲で作られ始めたからが古墳時代
>大和の前方後円墳は、石塚の3世紀末以後であるから、×。
纏向石塚古墳は3世紀初頭
>大和などの「長い木棺を竪穴式石室」も、4世紀以後である。
>また、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの所産である。
編年がインチキ ホケノ山でも3世紀前半
東征将軍などいない ザラコクの妄想の産物でしかない
>「南≠東」などに拠って、大和は中国へ朝貢し続けた列島盟主ではない。
陳寿の認識で日本列島が南北に長く会稽東治の東に届くほどの
洲島だということになっていたから、東なのを南と書いた
あるいは、記録の欠損で最後の丹波から大和の南陸行の記述を北部九州からの
旅程すべてに適用した、とすることで矛盾なく説明できる
大体ザラコクは、出発方向だけ正しくて現実の地理は必ずしも書いていないと
いう主張なのだから、ザラコク個人は「南≠東」を否定の根拠に使えないww なぜ、無人だった纏向に、4世紀になったから、古墳の作製が開始されたのだろうか。。。 なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する係員達は、頭が悪いのだろうか。。。 畿内説はもう駄目だ、見切りつけたわ。
倭人伝を修正しない九州の佐賀ルート熊本説は伊作の遺作だけど、
読んでみると、現地に良く合うし、変な学閥の手垢も付いていない。そっちにするわ。 なぜ、奈良の考古物体の、年代を測定した人物は、卑劣な偽造行為や、税金で購入した物体の私物化を実行したのだろうか。。。 伊作氏は、熊本城を発掘しなかったので、真実に到達できなかった可能性が、高いな。。。 なぜ、魏志倭人伝は、周髀算經を根拠とした、短里で作製されたのだろうか。。。 >>100
>初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、<
箸墓は、撥型前方後円墳であり、布留であるから、ほぼ4世紀の古墳である、
という事が確定している。
>奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、
この問題に関する新たな発見が続いている。<
勿論「南≠東」などの拠っても、×であるし、
殉葬奴婢百余人の居する事も出来ないような掘立柱建築群などであるから、×である。 そうだね
伊作氏は、最後の決め手となる発掘を目前にして、お隠れになった、、、
だけど優秀な九州説の人たちが、あとを引き継ぐだろうね。 >>458
俺もそのルートは有りだと思うんだよな。
ちなみにヨットで九州を水行で一周するには40日ほどかかる。
当時の船だと何日でどれだけ進めるかだな。 伊作氏は、隠れたようにみせかけて、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、討論を続行している可能性も、あるのではないのかな。。。 >>458
>畿内説はもう駄目だ、見切りつけたわ。
>倭人伝を修正しない九州の佐賀ルート熊本説は伊作の遺作だけど、
>読んでみると、現地に良く合うし、変な学閥の手垢も付いていない。そっちにするわ。
お前キウスだろ?ww
見切りつけたって言って、畿内説だったことなんてないじゃないかww
「倭人伝を修正しない九州の佐賀ルート」
「史料の限界」を考えないのは歴史学の史料評価としてありえない
「倭人伝を修正しない」と言っている時点で、科学じゃないんだよ
バカの相手はむなしい それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。 >>466
>「倭人伝を修正しない」と言っている時点で、科学じゃないんだよ
「倭人伝を(遠慮なく修正する)・・」と言ってる時点で、まともな科学じゃないんだよ。おわかりにならないの。 >>467
優れた、九州説の考古学者達が、多数、出現しているのだが、
畿内説の宣伝係員のキナイコシや3寸男の頭のレベルが低いので、
優れた、九州説の考古学者達が、高度な知識や知能のほとんどを引き出さないまま、畿内説をあっけなく論破してしまい、バカの相手はむなしいと感じるからなのでは、ないのかな。。。 >>464
なるほど。
ということは、九州半周は水行20日というわけだ。
(そこで聞きたいのだが、西回りと、東回りはどちらがスムーズなのかなぁ) >>103
>>8尺棒の地面接地部分の「最太陽側」から「半影の最長端」までの計測になっている、
という 事を教えて上げただろ?。<
>測定条件 表の影の長さ
夏至 冬至
A 本影(影は最短)S1 15.04寸 129.2寸
B 半影(影は中間)S2 15.42寸 130.6寸
C 半影(影は最長)S3 15.80寸 132.0寸 これが半影の最遠端
『周髀算経』 16寸 135寸 比べれば3寸の差があるよな?
半影の最遠端で測っても冬至の影の長さは、周髀算経の記述より「3寸も短い」! <
ダメだ。
周髀算経の一寸千里では、8尺棒の「太さ幅」の規定がないから、
例えば、3寸幅の丸い8尺棒を使えば、
その接地面での計測起点地点の選択だけでも、影長に3寸差を発生してしまう事になり、
更に8尺棒の微妙は傾斜や、円弧に拠る影端の「不鮮明化」に拠っても、
「3寸差」にも不鮮明化を発生し、
結局そのような不鮮明化に拠る影長計測自体が、
影長が「大体の値」である事の証拠になり、
13.9尺は、そのような、「大体の計測値」という事での計測であった、
という事になる。 >>104
>>ダメだ。 大地平面でなく、仮に1寸の段差があっても、
夏至なら、8尺分の1.6尺=5分の1(寸)位の影長誤差が発生するし、
冬至なら、8尺分の13.9尺≒1.5(寸)位の影長誤差が発生してしまう。<
>だから、「地平」=整地の必要があるんだろ?
地平が書いてないところは、平らなところを探して使ってるんだよ<
元周髀算経は、整地なんてしていなかった。
>3メートル20センチの範囲が平らなところくらいどこにでもあるだろww<
13.9里に整地が必要でなかったら、径21歩でも、整地を必要としないもの。 >>105
科学的に言って、方位については、
「魏志倭人伝の記述が間違ってるのだろうね」という、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説男の脳が、
クルっているんだろうねえ。 >>466
史書の内容が間違っているという理由は? >>106
>>その内、「背」の意味は「古い」時代にあっただけだ、という意味であり、<
>周髀算経が書かれた時代は「古い」時代なんだからっまさにそのままそのとおりだろうが!
『古同「背」』と書いてあるのは、現代の辞典(漢典)だぞw<
漢典だ、という事は、原則は、
漢代には1〜4の意味と「背」の意味の両方があった、
と言っているだけであり、
漢代にも(先に書かれた)1〜4の意味が主であった、という事には変わりがない。 >>467
優れた、九州説の考古学者達が、多数、出現しているのだが、
畿内説の宣伝係員のキナイコシや3寸男の頭のレベルが低いので、
優れた、九州説の考古学者達が、高度な知識や知能のほとんどを引き出さないまま、畿内説をあっけなく論破してしまい、バカの相手はむなしいと感じるからなのでは、ないのかな。。。 延べ何十万人によって実行された、纏向遺蹟の発掘調査が進行し、邪馬台国は人民や鉄の武器が充満した都会だったという現実と合わないから、邪馬台国畿内説は、破綻してしまったな。。。 邪馬台国には、鉄で防衛した女王の城や、何十万人の人民のための住所があったのだね。。。 畿内大和説は、変な学閥の残像によって完全に狂ってる、、、 伊作氏は、熊本城を発掘しなかったので、真実に到達できなかった可能性が、高いな。。。 >>107
>九州の南は南西諸島だね<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
側副傍線國の投馬國は南九州付近になるから、
女王國は、ほぼ九州島付近であり、
南西諸島は×だよ。 >>468
>「倭人伝を(遠慮なく修正する)・・」と言ってる時点で、まともな科学じゃないんだよ。おわかりにならないの。
はい捏造!
(遠慮なく修正する)と言っている畿内説が一人もいない件について、どう申し開きをするんだ?
畿内説の言っていることは「史料の限界」を考慮して、複数史料を対照し考古学的資料とも
照らし合わせながら、整序を考察していくということ
「魏志倭人伝を修正しない」のが正しいなら、はるか南海上に行くだけ
>>468も含めて、九州説にはザラコクの同類しかいない
>>468はザラコクの同類 >>472
>周髀算経の一寸千里では、8尺棒の「太さ幅」の規定がないから、
>例えば、3寸幅の丸い8尺棒を使えば、
それも説明済み
棒の太さは半影の広さ(幅・長さ)に影響しない
ザラコクに抽象思考が難しいのは分かっているがあえて書く(というかザラコク以外の人向けだが)
思考実験で、幅が十分に広い板とその影を考えてみてごらん?
それでも板の先端(幅広)が作る影には、本影と半影領域があるのは理解できるかな?
これは板の先端を通る太陽の光が、太陽の視直径の分だけ傾きの幅を持つことに起因するものだ
つまり影の側から見て、太陽の上端の光が作る影の先端が本影の端で、太陽の下端の光が作る影の先端が半影に端となる
棒の太さが無限大でも=棒の太さが太かろうが細かろうが、半影の幅は決まった一つの値に決まるんだよ
棒が太ければ半影が広くなるとかバカすぎ
逆に補足しても、半影の広さは変わらない
ザラコクはバカすぎ >>471
当時の船だと20日で半周すら出来なかったんじゃないかな。
ヨットの場合は凄い速度出るから。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 >>475
>史書の内容が間違っているという理由は?
魏志倭人伝の行程どおりなら、はるか南海上に落ちる
魏志倭人伝の記述では、倭国は会稽東冶の東
どちらも現実の地理とは合致しないので、魏志倭人伝という史書の
行程や地理記述に間違いがあるのは確実
>>475はザラコクの同類 阿蘇のある熊本が邪馬台国で南部の球磨か鹿児島が狗奴国だという説もあったような。 >>427
学説の違いで懲戒免職という発想は日本人はしない
お前の国では教育庁の日本名の樹木を植え替えさせたりするが
我国では今は無き九州説であっても免職になったりはしない >>476
>漢代には1〜4の意味と「背」の意味の両方があった、
だから、倍正南方の倍が「背」の意味である、を否定する理由が何一つない訳だ
理解できるか?
さらに言えば、古同「背」なのだから、漢代以前にも「背」の意味があったということ >>488
畿内脳内説を語る奴の言うことじゃないなw 魏志倭人伝の行程どおりなら、女王国の入口は伊都国と奴国の境界になるのだったな。。。 >>486
古代の手漕ぎ船と、最新のヨットでは、ずいぶん性能が違うだろうねえ
それでもヨットで九州一周40日(半周で20日見当)ということか。結構難しそうだ。
とくに気になるのは、日向灘を南下するのは至難のわざではないかなと・・・、 >>493
そうだったね、、、奴国からが女王国だね。。。 >>488
>魏志倭人伝の行程どおりなら、はるか南海上に落ちる
>魏志倭人伝の記述では、倭国は会稽東冶の東
ま〜だ、へんな学閥の残像におびえているのか、、、 >>109
>>(類スレ主は周初頃の井田法の制度を)
西晋代頃の土地制度での里の長さに摩り替えるインチキをやっているんですよ。<
>ザラコクは、「魏晋代に漢土全体が短里だった」というデタラメな主張をしている<
いや言っていない。魏朝西晋朝の短里と、
西晋代の土地制度の事を書いた後代の?学者の使用里が違うのは当然だ。
>その否定に、西晋代の土地制度井田法を根拠にするのは当然のことだww<
井田法の百歩四方が一夫、九夫が一里=三百歩は、一夫が一家族分の土地を指しており
短里ではどうやっても飢え死にするしかない<
その西晋代の 井田法が、周初の頃の井田法と内容がかなり変わっており、
周初の頃の井田法には「里」がなかったし、西晋代には一家族というよりは一親族という感じになっており、
西晋代の井田法記載が、根拠にならない事は、当然の事だ。
>周髀算経の一寸千里の否定はまた別の話
それも、周髀算経自身が、六尺=一歩、三百歩=一里を前提に書いていることで
簡単に否定されている <
周髀算経の一寸千里は、谷本確認計算により、短里であった事は確定だ。
だから、「二十八宿」の記載での「1歩=6尺」の長里的な記載は、「元周髀算経」にはなかったもので、
前漢収集説明学者の書き足しであった事が確実だ。 >>494
そう、日向灘ルートで南下するのは難しい、ということで有明海ルートの方が現実的かなと思ったんだよ。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員は、倭地と倭国と女王国と男王国と邪馬台国と倭種という言葉が、それぞれ、何を指しているかを曖昧にすることで、倭人の真実の領土を隠そうとしているのでは、ないのかな。。。 >>433
>纒向は驚くほど無防備だったよ。
>だから畿内説であったとしても、あれは宿敵がいなくなって安心しきった狗奴国の姿かと。
それでは邪馬台国はどこだったのか?
邪馬台国が畿内でないなら、畿内説ではないぞ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
次回のスレッドでは、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。
次回のスレッド
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554161482/l50 >>489
後に狗奴国と邪馬台国が統一されただけでしょ。 廣志逸文に記載されている
「到伊都国〜、又南、至邪馬台国」から、伊都国と接して邪馬台国があったと思われる。
魏志だと邪馬台国が最も南に位置していたようなので西に吉野ヶ里を置いて、
筑紫平野〜筑後川流域全体が邪馬台国だったと推測できる。
さらに熊本が狗奴国だったと考えられる。
熊本でも女性の墓が多数発掘されていることから、邪馬台国と狗奴国の戦争とは、
信仰すべき巫女についての派閥争いだったのかもしれない。 それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 >>504
今でも、
福岡[市]民数≒奈良[県]民数だもんな
そりゃ住みやすいところに集まるよ >>486
つい最近、対馬海峡を手漕ぎのカヤックで10時間半で横断してるよ。 >>510
カヤックの速さを知らんのか?w
まああまり見かけないがな。 >>489
>阿蘇のある熊本が邪馬台国で
投馬国はどこだ?
九州説は、まともな投馬国五万戸を説明できる説がひとつもない! >>512
またまた、某学閥の操られおじさんかい、、、 >>497
>いや言っていない。魏朝西晋朝の短里と、
魏朝、西晋朝は全土が短里だったって主張してるじゃないかww
>西晋代の土地制度の事を書いた後代の?学者の使用里が違うのは当然だ。
でも、西晋代に井田法が通用していたのは事実なんだろ?
短里だったら飢え死にするぞww
>西晋代には一家族というよりは一親族という感じになっており
人数が増えてるじゃないかww
飢え死にが捗るなw
>周髀算経の一寸千里は、谷本確認計算により、短里であった事は確定だ。
つまり「周髀算経の一寸千里」は間違ってるってだけだよww
谷本計算は前提がおかしいってこと >>497
>前漢収集説明学者の書き足しであった事が確実だ。
w
前漢代の学者も
周代に短里なんてモノがあったなんて話は
聞いたことなかったってさ
魏朝が周代の単位び復古するとか言って
採用するわけないよね
誰も知らないんだもの
w 福岡の大宰府では今「令和」ゆかりの大伴旅人邸跡(坂本神社)が
九州内外からの観光客で大賑わい
発表前まではほとんど人気(ひとけ)が無かった神社
大宰府展示館も来場者が急増、お店も大喜び
日本の古都奈良に妙な敵対意識を持ってるヤツは福岡にはいない 魏朝が周代の単位を復古させる意味はないしな
辺境に古い制度が残ってるとかならまだわかるがな 神武天皇=東明聖王である。
大和の史書に神武東征が描かれているということは、高句麗を建国した元扶餘人達がさらに畿内へと流入し、大和王権を構築したということだ。
扶餘族はもともとバイカル湖周辺にいたプヨ族の末裔であり、その名「プヨ」は「鹿」を意味する。
奈良で鹿を崇める風習は先祖崇拝を意味するのであろう。
つまり、九州邪馬台国と大和(畿内)は無関係ということである。 >>518
騎馬民族ならぬ騎鹿民族だったのか。
畿内説なんて馬鹿しかいないからどっちでも正解だねw >>507
優れた、九州説の考古学者達が、多数、出現しているのだが、
畿内説の宣伝係員のキナイコシや3寸男の頭のレベルが低いので、
優れた、九州説の考古学者達が、高度な知識や知能のほとんどを引き出さないまま、畿内説をあっけなく論破してしまい、バカの相手はむなしいと感じるからなのでは、ないのかな。。。 驚いたな。。。
畿内馬具は畿内鹿具だった可能性が、高まってきたのではないのかな。。。
518日本@名無史さん2019/04/10(水) 14:39:34.97
神武天皇=東明聖王である。
大和の史書に神武東征が描かれているということは、高句麗を建国した元扶餘人達がさらに畿内へと流入し、大和王権を構築したということだ。
扶餘族はもともとバイカル湖周辺にいたプヨ族の末裔であり、その名「プヨ」は「鹿」を意味する。
奈良で鹿を崇める風習は先祖崇拝を意味するのであろう。
つまり、九州邪馬台国と大和(畿内)は無関係ということである。 >>506
女王国の家督争いだったと思っている。
もとは邪馬台国も狗奴国もあわせて倭国だったんだろう。 なぜ、畿内には、モンゴルや高句麗にあった前方後円墳が作製されたのだろうか。・。。 邪馬台国と狗奴国の戦いは、女王と男王の夫婦喧嘩が、拡大してしまった合戦の可能性が、高いな。。。 邪馬台国と狗奴国の戦いは、緑川を挟んで実行され、千人の兵隊が戦死してしまったのではないのかな。。。 釈迦が最初に説法を行ったのが仙人住処鹿野苑(リシパタナ・ムリガダーバ)
「宗教者の集まる鹿の放し飼いされている園林」という意 宮崎県は女王国の領地の国で、東に海を千里渡れば倭種の四国になるな。。。
投馬国は宮崎県ではなく、豊国だった可能性が、高いのではないのかな。。 なぜ、畿内には、火星やモンゴルや高句麗にあった前方後円墳が作製されたのだろうか。。。 そんなことよりも、
なぜ漫画やアニメ(・・・その他)と同じようなコンセプトなんだと思う
九州説が死に体だと
一生懸命宣伝する
九州説の自虐
>>507
優れた、九州説の考古学者達が、多数、出現しているのだが、
畿内説の宣伝係員のキナイコシや3寸男の頭のレベルが低いので、
優れた、九州説の考古学者達が、高度な知識や知能のほとんどを引き出さないまま、畿内説をあっけなく論破してしまい、バカの相手はむなしいと感じるからなのでは、ないのかな。。。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 >>534
そうだね、、、
僕たちは、今、5ちゃんねるとは他のホームページに作製された、邪馬台国の掲示板に、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係員よりもレベルの高い論敵が出現したので、論破する必要性があるので、闘いを開始したが、
このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の相手をしてあげる余裕はあるので、息抜きのためにも、相手をしてあげれば良いな。。。 宣伝していた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されてしまったので、キナイコシが悪口を言い放ってきたな。。。
535日本@名無史さん2019/04/10(水) 15:57:18.22
それよりも、お前の名前は?
どこの低脳なんだ? 精神科にでも行ったほうが良いんじゃないのか?
調べると出てくるから
『精神科』 『何者にもなれない お前たち』
ゴキブリを発見すると退治したくなるw
家の話なんだけど、あと猫を飼っているんでしょ? mike(みけ、三毛ねこ)という意味
ジョジョで言うと、
マイク・おー・・・、5月15日?
なぜか妹と同じ >>524
前方後円墳は騎鹿民族の象徴ですからキリッw なぜ同じなんだと思う?
キュウリのような葉、葱の華・・・写真なども同じ。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>112
「南→東」などの嘘付き騙しに関して、
なんにも理由の言えない知障大和説のみじめさ >>114
日本語がおかしい
>邪馬台国畿内説というのは邪馬台国が畿内にあったという学説である
学説は移動しない<
邪馬台国も畿内も、存在もしないうそつき騙し文言である。
嘘学説では、通らないし、×。
>奈良にたどり着くことはない<
なら、大和説は×。 本当に・・・何の話なんだろう
馬に乗り、腰に刀を差していて・・・、
本当に『松傾』の画と同じような話だし >>520
>畿内説なんて馬鹿しかいないからどっちでも正解だねw
>>518は
「九州邪馬台国と大和(畿内)は無関係ということである」って書いてるんだから、
九州説だぞww
こういう香ばしいのは九州説のトンデモだよ
畿内説ならぬ葛城説もトンデモだけどさww
でも>>520もザラコクを非難しない時点で同類だってことに気づいてるのかな?ww >>525
>投馬国は宮崎県妻
それと、北部九州説は両立しない
南至投馬國、水行二十日。(官名省略)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名省略)可七萬餘戶。
自女王國以北、其戶數道里可得略載。
という順に書いてあるから、投馬国は女王国(ここでは邪馬台国)以北の国
方角が間違っていることにするのかい?ww
で、>>525はザラコクを批判するのかい?
しないなら同列のトンデモだよw >>115
>邪馬台国はヤマト国 <
邪馬台国なんて存在もしないうそつき騙し文言であるから、×。
>邪馬台国は奈良 他の畿内は関係ない<
「邪馬台国」という文言は、勿論邪馬壹國を意図しているんだから、
「南≠東」に拠って、×。 >>551
>という順に書いてあるから、投馬国は女王国(ここでは邪馬台国)以北の国
それは、典型的な現代の日本在住の日本人の読みだな。そこが陳寿の筆は一筋縄でいかないところ。
倭人伝の最初の行程記述は従郡至倭と成っている。
つまり、洛陽の貴族から見れば、郡を経て倭の各国にいたる道筋が最大の関心の的。
常に「従郡・・」を意識して読まなくては、解読できない仕組みなのだ。 投馬国の情報は前後の関係がよくわからずそこに挿入されただけだよ。
陳寿は実際の地理関係を理解していないからね。
いつも史料批判とか騒ぐわりには、都合のいい時だけ細かいことにこだわるんだな。
キナイコシはこのように為のだけの議論をして、チェリービッキングをするから信用されない。 もったいぶって女王国までの日程を最後に書いたんだろ。
陳寿のレトリックを理解しろよ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>556
当時の並びは北からこんな感じかな?
伊都国
↓
邪馬台国(大倭王)
↓
奴国(倭奴国王)
廣志逸文の
「到伊都国〜、又南、至邪馬台国」
とも合致するね。 隋書に、埋葬の時には屍を船の上に置き陸地でこれを引いたり
小さな輿に乗せたりするとある
4世紀後半の巣山古墳から喪船と見られる部材が出土している
神仙思想で東方海上にあると信じられた仙人たちが住む壺の形の三神山を模したのが
前方後円墳、前方後方墳だね それで??????????
『チョン州 長州』
このようなスレも読んでみて あいかわらず、サクランボおじさん頑張っているようだな、
自分のことは棚に上げ、
陳寿はバカで、倭人伝は誤記だらけというのが玉に瑕。、 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 宣伝していた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されてしまったので、キナイコシが『精神科』に行った可能性が高いな。。。
538日本@名無史さん2019/04/10(水) 16:06:23.43
精神科にでも行ったほうが良いんじゃないのか?
調べると出てくるから
『精神科』 >>123
>今現在、確実に言えることは
1纒向遺跡は卑弥呼の時代と同時期の遺跡 <
ダメだ。庄内1の石塚は3世紀末であり、
掘立柱遺跡の横の土坑の土器は庄内3で3世紀末以後であるから、×。
>2当時の列島最大の遺跡でかつ王権の強さの表徴たる墳丘墓で列島最大のものがある
箸墓は、撥型前方後円墳であり、布留であるから、4世紀以後であり、×だ。
>3列島の広い範囲で共通化される土器様式、前方後円墳の発祥の地 <
筑紫の庄内は3世紀前半であり、
前方後円墳も那珂八幡などの3世紀後半の半ば過ぎであるから、×だ。
>4列島の広い範囲の交流の結節点<
九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国の旧小国で、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であっただけだから、×だ。 低脳の集まりなんだろう
『仏教』について調べてみた? >>128
>答えるも何も、質問が変だろう
畿内説というのは学説だぞ<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しをしているからでも、×だ。 あのアプリが500円を配布中
・スマホのストアからプリンをインスト
・会員登録する
・この通りに進む
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これで五百円GET
スマホでセブンATMからお金を下ろせたり便利なアプリですので是非お試し下さい。 家以外ほとんど成り済まし、騙り・・・寄生?
悪く言うと、そうなる
知っている人は知っている どこに住んでいるの?????????????
「川崎に住んでいるんでしょ?」
みたいな事を言ってる?知っている人がいたり、
とあるスレッドを読んでみてw ゴキブリのスレッドがあるから、
そのスレを読んでみてw
本当に何度書いても同じ、
家は軍人ではない、あの写真の父親もwなぜだと思う? 西遊記?河童のような人物がいるでしょ、
元ネタは家の写真だよ、むかーしの渡来人でしょ?
緑色の着物を着ていて・・・ >>131
>証拠が出せないことを言い張る九州説が異常なんだよ <
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
「知り得た範囲内の事実や実態」からの「帰納的な確率の高い推論」
をして行くしかないのであり、
無限に証拠を要求する、という変な事をする大和説者の方が、精神的に異常なの。 >>132
>私の私見では日本海経路で、普通にヤマト=邪馬台国に
着くって何度も説明してるんだけどねww <
「南≠東北」であるから、×。 今現在、畿内における邪馬台国と関連した物証ってあるの?
大きさだけ、年代だけ、脳内で一致などは不可ですよ。 馬に乗り・・・・という話とかw
なぜか女だと言っていたような、それは違う話だったかな?
北斗の拳?老いたるスサノオ? なぜ詳しいんだろう・・・、
というか、ほとんど老婆談でしょ 『何者にもなれない お前たち』
『北斗の拳』〜『老いたるスサノオ』に出てくる娘、息子? あの写真の話をしているんだけど、
本当に何なんだろうw というか家の写真なんだけど、
・・・・・・妹の話なのかな? >>553
>そこが陳寿の筆は一筋縄でいかないところ
何度も書いてるんだが、魏志倭人伝・三国志は、暗号書でも判じ物でもない
平文の史書でしかない
普通に漢文として読んで、読み取れる意味のことしか書いてない
それを「魏志倭人伝を正しく解読」「魏志倭人伝を始めて読み解いた」とかいうのは
すべてトンデモでしかない
一世風靡した放射説もすでに否定されてるぞ
>常に「従郡・・」を意識して読まなくては、解読できない仕組みなのだ。
つまり、郡(帯方郡)が旅程の最初の「起点」というだけ
そこから、順次進んでいるだけ
途中で起点を巻き戻したりしないww
それこそ最初に倭人、在帶方「東南」大海之中と書いてあるのに
半島南部(大海中じゃない)に倭人国の投馬国がある、とか
「南」至だけで邪馬台国に着くとか、ご都合読みもいいとこww >>554
>投馬国の情報は前後の関係がよくわからずそこに挿入されただけだよ。
ならば「その先」の邪馬台国の旅程はさらに訳が分からずに書いたということにしかならないなww
つまり、魏志倭人伝の旅程「だけ」を頼りに比定地を探す九州説のアプローチは否定される訳だ
お疲れ様でした
で、>>554はザラコクの仲間なんだろ?
最高レベルで軽蔑してるよww >>556
>大倭王は邪馬台国にいる。
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
何度言われても、この捏造をやめないな
九州説って、最低のやつしかいない
×その国(邪馬台国)
○その国(倭國)
やっぱり、九州説は並べてザラコク並みの捏造野郎しかいない証明にしかなっていない 学説の正しさを検証するのではなく、嫌がらせに特化した人間を相手にするのは大変だ
結局九州説の連中は、ザラコクを認めるのかどうかすら答えないしww
まともに九州説の正しさを論証しようとするなら、ザラコクは特大級の障害でしかないだろうに
まあ、九州説が正しいと思ってこのスレに出入りしているやつがいないんだから、当然といえば当然かw いい加減に気づいたほうが良いぞ
騙り・・・成り済まし、他人の家に寄生?
犯罪なんだよ
刑務所に行けと言っているんだよ、
なぜだと思う?家の話だから >>137
>なんで九州説はいかなる時もまったく理由を言わないんだ<
なんで大和説者は、
「南→東」などの嘘付き騙しの理由を言わないし、
不可知部分が殆どである自然や歴史において、無限に証拠が出る筈もなく、
帰納的確率的な推論をすべきなのに、
「証拠は?証拠は?証拠は?理由は?」の連呼をするんだい?。 >>582
>普通に漢文として読んで、読み取れる意味のことしか書いてない
であるから、漢文として読む(漢文を日本語に直して読む)のがよろしくないのだ。
陳寿の文章はあくまで古代中国語として読まなくては、解読できない、
そして普通に読んだとしても、各人のIQ・偏差値次第で、受け取り方は違う。
そこんとこのちがいがお分かりかな。 毎度のことだが
今日もさしたる事も論ぜず
無駄口をたたく畿内説 南無阿弥陀仏 >>554
>いつも史料批判とか騒ぐわりには、都合のいい時だけ細かいことにこだわるんだな。
都合の悪いことは、どうでもいいってか?
チェリーピッキング全開でやります宣言ww
九州説はこんなんばっかり
全体の整合性ってやつを一切考えないから、短里はあるにだーとか言い出すww
例えば周髀算經は、明確に「一歩=六尺、一里=三百歩」で書いてあるから、
この時点で短里を前提にはしてないことが明確なのに、ザラコクはこんな明確なことを
認めないために悪あがきを延々と続けているし、九州説の人間は一人もそれを窘めない
そんな状態で、歴史学という学問について何かを考えるのは不可能だろ?
それでは史料を読むことすらできないよ
畿内説の「陳寿の認識では、列島が南北に長く、帯方郡から離れる方向を南として
帯方郡から近い順に記述されている」というのは全体の整合性に破綻がない
この意味が理解できないから、九州説なんてやってるんだろうなw >>582
>つまり、郡(帯方郡)が旅程の最初の「起点」というだけ
>そこから、順次進んでいるだけ
>途中で起点を巻き戻したりしないww
そこが一流の読み手と三流の読み手の分かれ目、、、
結果として、九州なりの現場に適合しなくては意味がない、
ましてや陳寿がバカだったというのは論外編の番外、、。 >>591
>畿内説の「陳寿の認識では、列島が南北に長く、帯方郡から離れる方向を南として
>帯方郡から近い順に記述されている」というのは全体の整合性に破綻がない
おいおい、しょっぱなから破綻してるぞwww 『天王』(『天王宮』?)読めないの?
その家の写真なんだけど、どういうことだと思う それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。 住んでいるところ?
神奈川県の川崎区、どういうことなんだろう。
偶然にしては・・・だしな・・・・・・・・。 自分の脳内から溢れ出た発言なのに自負自信でそれを理解できていない畿内説ってガイジかよwww
周りでROMってる連中に超ウケてるぞもっと発言しろ畿内脳内説w >>583
帯方郡から九州北岸までの一万里が水行10日に相当する。
対馬海峡は島伝いに3日ががりだったので、三千里だ。
概算ではあるが、概ねの比例関係は存在する。
投馬国は帯方郡から水行20日なので、福岡の邪馬台国より南でよい。
郡使は伊都までしか来なかったから、投馬国までは日程のみで里程はわからない。
すべてつじつまが合うだろ? >>591
>そんな状態で、歴史学という学問について何かを考えるのは不可能だろ?
史書を無視して歴史を捏造するお前が言うか >>152
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
なんで「南→東」の具体的な根拠のことを、
何も言わないの? >>160
「南→東」などという嘘つき騙しの大和説という学説は、
もうないからな >>163
>誤差分を入れても、纏向遺跡の建設開始は卑弥呼の遣使よりも確実に前になる<
掘立柱の近くの土坑は庄内3であり、3世紀末の石塚は庄内1であるから、
庄内3の纏向は、3世紀末以後であり、
卑弥呼の遣使の238年よりも、50〜100年後。 >>164
>いま箸墓は吉備との繋がりを探ってる最中だよ。
宮内庁もそう言ってたはずだよ。<
へーっ?、宮内庁は、そんな事をいっていたの?。 本当に???????????????となるでしょ
サイバーパンクSPECIAL・・・というコミックなども、
〜ジェノサイド〜というタイトルの作品が掲載されていたり
何なんだろう 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 >>169
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
存在もしないうそつき騙しの「畿内説」のスレに、
無意味な書き込みをして、
荒らす事によって自らの敗北を周りに宣伝して下さってらっしゃる。
いやあいつもありがとうございます。 >>171
>>発祥の地という根拠は不十分。<
>十分だよ 精製器種三種は、畿内が初出だ <
庄内は、筑紫が3世紀前半であり、
大和の庄内1の石塚が3世紀末だから、×。
>纒向遺跡そのものは東海からの土器が主であり、瀬戸内や九州とのつながりは薄い。
瀬戸内や九州は、受け入れる側だからね >>176
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説民族運動は、
史料事実や史料実態より、ど素人のワシの作り話のほうが正しい、
と言張ってるだけでしかないからな >>177
>ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。<
ホケノ自体が、3世紀末以後であるから、×。
>箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。<
韓からの古韓尺の技術者の渡来である。
>その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。<
4世紀以後。
>倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らのもの。
>ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。<
花粉なら、偏西風や黄砂に乗っての飛来で説明が可能。 >>588
>そこんとこのちがいがお分かりかな。
それを「具体的に」書かずにごまかすばかりなのが九州説のやり口
ザラコクを非難することすらできない人が何を言ってもむなしいばかりww
>そして普通に読んだとしても、各人のIQ・偏差値次第で、受け取り方は違う。
陳寿は、読んだ人がそのまま読める内容しか書いてないよ
読む人ごとに受け取り方が異なるような文書は、
史書として失格だってのが理解できないんだろうな
>>588は、周髀算經の「即『平地』徑二十一步,周六十三步。」で
『平地』とあるのを整地する(平らな地面にする)と読まないザラコクをどう思う?
これも各人のIQで受け取り方が異なるから、ザラコクの読み方で正しいと主張するのかい? >>177
>同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、
魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。<
吉備の方が多かった事が説明不能。
>また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、
中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、
中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。<
これも同じ。
楽浪からの筑紫への伝来や、
渡平海北九十五國や東征毛人五十五國の将軍らによっての、
4世紀の持参物であった可能性がある。 >>178
>そのへんWikiに書いてあったから国民なら知ってるよ<
何故、そのWikiの文を転写紹介しないの?。 >>179
九州説に投下される意味不明な荒らしコメントは
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
敗北した腹いせに荒らし目的で書き込んでいるもの
そもそも「南→東」などの嘘付き騙しの書き込みする事自体が
九州説が気になって
干渉せざるを得ない心境によるもの >>616
九州説がどれほどゴミかという証拠
ありがとう >>183
ほら、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
証拠を出すのをすごく渋るだろ
大和説の異常さが出てる >>612
>4世紀以後。
理由もなく、ただ結論だけ言い張る九州説の
ゴミグズさが
よくわかる >>184
「南→東」などの嘘付き騙しの、
どこが正しいのか、具体的に言わないと無意味だ、
と何度言えば?。
大和説なんて、強弱以前に死滅してるじゃないか?。 >>618
畿内説側が証拠を出し渋った
という証拠は? >>621
という証拠は?
九州説が、ウソ以外を言ったことがあるのか? >>186
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を論破して、
腹いせにスレ荒らしてきたら、
「負けたから荒らしてるんですよ」と喧伝し、
そして普通に議論挑んできたらまた論破する。
大和説は九州説のアンダーコントロール下にあるのだよ。 九州説は
何故ウソをつくのか?
理由は明らかてますよね >>625
嘘つきな畿内説が信じるのは嘘だけだから。 >>189
>その数字を見て河内との交流が乏しいと思う理由は何なんだ?
搬入土器の大半は飯炊きの甕だぞ
日帰り圏の土地のものが少ないのは当たり前だ <
何だ?、纏向から河内へ「日帰りの仕事をしていた」とでもいうのか?。
片道でも15km〜20km位ありそうだから、4〜5時間位はかかりそうで、
仕事にならないよ。 がーん
畿内人が騎馬民族である説は極秘のはずだぞ
どっから漏れた? 騎馬民族説とか昭和のガセネタをまだ持ち出すやつがいるのかよ 畿内説はもうやぶれかぶれ何もしらない新人にもつっかかってくる挙動不審な人間だ
話を聞けと盛んに言うけれど正直目の焦点があってない人間の話は聞く気がおこらない >>192
>槨は、ただの箱じゃなくて、中に人が出入りして追葬などができる構造<
いや、原則は、遺体や棺を容るるに足る程度の密閉小部屋の構造物。
>横穴式石室が作られるようになるまで、古墳の埋葬主体部は槨ではない <
「室」は、原則は、人が長時間居る事が出来るような「部屋」的な構造物。 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 >>635
そんな原則、だれが決めたの?
無学で有名な九州説じいさんが? なあんだ、、、
邪馬台国畿内説は、嘘つきの、欺し詐欺ばい。 >>158
大和説は、大和が物資の多くを九州倭国に依存していた事を忘れて、
「南→東」などの嘘付き騙しをしてる鳥頭の様だな 邪馬台国畿内説の宣伝係員は、鹿に乗って、高句麗からやって来ました、、、 鹿は、韓国人の邪馬台国畿内説の宣伝係員を背負って海を泳いできたのでは、ないのかな、、、 前方後円墳、箸墓、纒向をキーワードにしてる畿内説は最新情報を得られていないジジイかもな
まず邪馬台国畿内説を専門に扱う学者などいないから。
今は大和王朝の起源を探る研究ぐらいしかやってないんだよ。
その鍵を握るのがどうやら吉備だということ。 このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば、韓国人を背負って、海を泳いでいる、鹿の夢を見られる可能性が、高まってきた 。。。 >>206
>周天というのが、既に365.25日という意味で、「天」空上を一「周」するから周天
そして、その一日分の角度が「度」だから周天暦度は365.25度になる<
ダメだ。
七衡圖では、
「內一衡徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。
分為三百六十五度、四分度之一,度得一千九百五十四里二百四十七步」
だから、
「度」は、一日分の距離として、「歩」で書かれている。
それが「周天曆度」だな。 >>208
[南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
なぜ如何なる時も理由をまったく言わないの? 5ちゃんねるとは違う、もっと高度な人気のあるインターネットで討論を実行している、優れた伊作氏に、復活する熊本城の地下の真実を、教えてあげれば良いな。 このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば、韓国人を背負って、海を泳いでいる、鹿の夢を見られる可能性が、高まってきた 。。。 >>644
大和王朝なんて言葉を使ってる時点でお前が最新の研究状況を知らないのがバレバレ >>575
>今現在、畿内における邪馬台国と関連した物証ってあるの?
>大きさだけ、年代だけ、脳内で一致などは不可ですよ。
古墳という大墳丘墓がこれ以上ないくらい確実な物証だろ?
金印が出たところで金印は移動可能だし、倭國一般の情報は邪馬台国の位置の特定には役に立たない
結局、移動不能で径百歩とみなせる大墳丘墓が一番確実な物証なんだよ >>209
>庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。<
根本的に、筑紫の庄内が3世紀前半であり、大和の石塚の庄内が3世紀末であったから、
どちらが先行していたのかは、自明であった。
>地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が
墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。<
だから、第X様式も、筑紫が先行し、
河内や大和は、筑紫の「東征毛人五十五國」によって齎された、と考えるべきである。
>大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、
その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998)
纏向遺跡の特異性もこれあり、
庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。<
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
この「米田1992」は、 米田の最近の説明とは反対の事になっているから、
どうやら、米田の古い論文を引用したインチキだろう、という事になるな。 >>592
>結果として、九州なりの現場に適合しなくては意味がない、
おいおい、結論ありきで考えて結論に合わないから違うって、そんなバカな論法はないだろうww
九州に適合しないのは、邪馬台国が九州じゃないからだよ!
奴国や伊都国を邪馬台国だと言い出すのがどんなにバカげたことか、
九州説はどうして気付かないのかねぇww >>217
>奈良は自称邪馬台国って話だよ。 まだまだ誰にも解決出来ずに続く話だ。
学者の飯の種として。<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、
その学者も嘘吐き騙しの詐欺師です。 >>593
>おいおい、しょっぱなから破綻してるぞwww
どこが破綻しているのか「具体的な根拠とともに指摘」できないの?
だから九州説は無能なんだよ
自信があるなら、きちんと根拠をつけて主張しなさい
そして、ザラコクがバカだと思うかどうかもいい加減に答えろよw >>599
>帯方郡から九州北岸までの一万里が水行10日に相当する。
帯方郡から九州北岸まで10日で移動できる高速船は3世紀には物理的に存在しない
この時点で既に破綻している
水行と渡海をごっちゃにしているのもダメダメ
帯方郡から倭国本土(本州四国九州)まで一万里というのは、
漢土方千里に合わせた遠い距離という観念的な数字で、現実の地理とは無関係に設定されている >>599
>投馬国は帯方郡から水行20日なので、福岡の邪馬台国より南でよい。
「帯方郡から」という読み方は、無理矢理九州に持ってくるためのインチキ読み
邪馬台国への水行も帯方郡起点だと陸行1月でも詰んでる
女王国以北もガン無視だし、九州説は魏志倭人伝を解読したという言い方で
内容を改竄して捏造しているだけ ここ畿内説が棺有卿有殉葬無しの箸墓を卑弥呼の墓だと断定しとるぞオイwwww
畿内教信者の精神が逝ってる事が証明されてるぞオイwwwwww 畿内説は箸墓古墳を開けてからじゃないと始まらないな。
開けた瞬間に畿内説が終わるのが怖いのかな? >>660
その前に径百歩の墓の候補を見つけておいで!ww
吉井信号付近にも、伊都国にも奴国にもないぞww
>>660は、周髀算経の「平地」を整地ではないと言い張るザラコクをどう思ってるんだ?ww >>659
>ここ畿内説が棺有卿有殉葬無しの
「卿有」って何のことだ?
どうやって入力した?
どうして九州説は、謎の文字表記を使うんだ?
遺跡 ⇒ 遺蹟
関連 ⇒ 關連
一大率⇒イダル
槨有 ⇒ 卿有 new 漫画でもアニメでも良いから調べてみるとわかる、
ほとんど?合致しているような気がするんだけど。
老婆は漫画やアニメも観ていないし、
どういう事なんだろう。 本当に・・・・・・悪役(ライバル)というの?
そういうキャラ、人物のほうが良い人達なんじゃないの
なぜか・・・・・・・・・そのような気がするんだけど 畿内説を否定する学者を馬鹿呼ばわりするほど、
ここの類スレ主は高度な知識を持ち合わせているとでも言うのかね
方位も距離も畿内説ではしどろもどろが現況じゃないか いい加減に気づいているだろう、どこの基地外なんだ?
精神病院に行け、べつに刑務所でも良い 畿内説で南⇒東は
1、誤認
2、誤情報
3、転写ミス
のいずれなの >>667
いずれでもいいのだ
畿内に邪馬台国があればいいだけの説ww >>219
>>一千九百五十四里二百四十七歩にはなっていないし、
「千四百六十一分步之九百三十三」は、意味不明だよ。<
>1954里247歩+833/1461歩と読む<
「1954里247歩+833/1461歩」という表現自体が意味不明だし、
それがどこから出て来たのか?も不明だよ。 >>222
>>まじで知らないのか?
畿内説は当初、箸墓を最古の前方後円墳だと主張してたんだよ。<
>今でも定説だが?<
不可知部分が殆どである自然や歴史において、
不可知部分の全部を確認できなければ、
100%の絶対の説なんてものはないな。 >>224
>箸中山古墳は、定形化した最初の前方後円墳だ
定形化とは 段築、墳丘の葺き石、各段を囲繞する円筒埴輪列を言う 、<
おや?、類スレ主は、またこっそり条件を追加して、論点をずらしている。
>>小さいものが先にあって初めて言える事なんだから。 矛盾してる。<
>ここまで言っても、今度はホケノ山がーとか言い出すのかねww<
>纏向石塚古墳も、纏向勝山古墳も、箸中山古墳も、
築造時点で列島最大の墳丘墓だという点にはまったく触れずに逃げているが?
話をそらした時点で、
纏向遺跡に列島最大の権力中心があったことは否定できないって事だろww ・・・<
おや?また?類スレ主は、「南≠東」などの嘘吐き騙しには触れずに、
論点を逸らしてはいる。 >>225
>そもそも古墳に槨はないぞ<
そもそも、九州の墓にも、考古学者が「槨とか石室」と呼んだ構造物はあったらしい。
だから、魏使らの観察見聞も100%ではない。 >>1
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7) <
これだけど、そんな勢力が2〜3世紀にあったのなら、中国四国地方はどのような状況なのか解説してくれないか >>665
>畿内説を否定する学者を馬鹿呼ばわりするほど、
古代史を専門領域とするまともな現役の学者で、畿内説を否定している人は一人もいないんだけど?
まさかザラコクみたいなのを学者とか研究者とか言わないよな?
古田武彦氏は親鸞辺りの中世宗教史の専門家であって古代史は素人で思い込みが激しい人
安本美典氏はエンタメ古代史の作家だ
趣味でやってる素人の研究家よりは、俺の方が知識も論理構成力も文献検索能力も漢文読解力も
明らかに上だぞ?
ところで、>>665はザラコクの言い分を正当なものだと考えるのか?
ザラコクをデタラメだと指摘しない人は九州説でも畿内説でも、信頼に値しない >>669
>「1954里247歩+833/1461歩」という表現自体が意味不明だし、
>それがどこから出て来たのか?も不明だよ。
漢文が読める読めない以前のバカだな
これまで何度も出てきた「為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。」を
どうやって読んでたんだ?
「四分尺之一」で、「尺を四分したものの一」つまり1/4尺
「四分度之一」で、「度を四分したものの一」つまり1/4度
同様に
「千四百六十一分步之九百三十三」で、「步を千四百六十一分のしたものの九百三十三」
つまり933/1461步だよ
まともに読めてないくせによくもまあ自分の解釈が正しいなどと言えたものだww
九州説でザラコクを批判しない人も同等のデタラメ野郎だよ
>>665は、ザラコクが正しいと思うのか?wwwww >>670
>100%の絶対の説なんてものはないな。
定説を100%絶対の説だなんて言うやつはいないよww
ザラコクの書くことはいつも無意味 畿内説はオワコンだから。
ここも頭の悪いコアな畿内説ファンしか残っていないのが寂しいな。 >.230
>専門の考古学者の説なんだが? 何で根拠にしていかんのだ?<
現在の考古学者は、ほぼ全員「南→東」などの嘘つき騙しであるらしいから、
そんな詐欺師らの説など、根拠にならない。 >>671
>おや?、類スレ主は、またこっそり条件を追加して、論点をずらしている。
これは散々既出だぞ?
「箸中山古墳は、定形化した最初の前方後円墳であり、
定形化とは 段築、墳丘の葺き石、各段を囲繞する円筒埴輪列を言う」
「それ以前のものは、纒向型前方後円墳と区別し、箸中山古墳以降を古墳時代とする立場からは
纒向型前方後円墳は弥生終末期の弥生墳丘墓とする」
「近年では纒向型前方後円墳から古墳時代とする見解が主流になりつつある」
「纒向型と定形化した古墳の墳形での区別は後円部が正円かどうかで、
前方部形状は指標になりにくい」
ザラコクが記憶力が足りない上に読み飛ばしているから覚えていないだけww >>233
>それで
遷都するとなんで「邪馬壹」国が「邪馬嘉」国になるんだよ?<
「邪馬壹」国が「邪馬嘉」国になる、なんていう筈がないし、
言っていないよ。
広域の邪馬壹國の中に、邪馬臺國地域や邪馬嘉國地域があった、という関係だ、
と言っている。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
いつも、「相手の話の曲解捏造での誹謗」であり、
支離滅裂の・・・・だな。 >>653
>>655
九州説というと福岡説しか頭に浮かばないのか、畿内の倭種は。
ま、同病相憐れむのたぐいではないのかな・・ >>234
「南→東」などの嘘付き騙しをした時点で、
大和説者は、 自然や歴史の不可知部分における事実認否の確率的な仕組みを、
知らないのが、モロバレ。 市内に気ままに出現する鹿達は、韓国人の邪馬台国畿内説の宣伝係員や、韓国人の闇の勢力の組織員を、背負って海を泳いできたのでは、ないのかな、、、 >>235
>魏志倭人伝の記述から、卑弥呼が列島最大の権力中心にあることが読み取れる
3世紀時点で、列島最大の権力中心の存在地として、ヤマト纏向以外の候補地がない<
「南≠東」などに拠って×だ。
>九州説の言う「九州のみの倭國」という戯言だけが、九州説の命綱だが、<
言っていない。女王國はほぼ九州島付近だが、
倭国は「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」の範囲、という説だ。
>弥生時代後期の時点で、北部九州最大の奴国・比恵那珂遺跡群が畿内勢力と
協調関係にあるのが畿内様式土器の模倣製作から確定している
佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」<
佐々木のインチキ騙しは何度も指摘してある。
根本的には、筑紫の庄内は、3世紀前半だが、
大和の庄内は、3世紀末の石塚以後だから、
佐々木もインチキ詐欺師だが、。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記紀・風土記を参考にしつつ、
20世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、肝心の卑弥呼の都にたどり着けないという悪循環。 「定説」を批判検討することなく丸呑みするしか能がない畿内説
批判すると畿内説そのものが瓦解するからねw 僕たちは、今から、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をするのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、何段階も、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる手ごわい論敵と対決するので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスしてから、その、レベルの高度なインターネットの掲示板に、アプローチすれば良いな。。。 >>238
>大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入されているというのは事実 <
事実ではない。播磨や河内からの搬入は少量で、
大和自前が大半であり、搬入も東海からがダントツだ。
>比恵遺跡群で大和型庄内甕を母胎として筑前型庄内甕が模倣製作されるのも事実 <
これも×だ。筑前の庄内は3世紀前半で、大和の庄内は、3世紀末の石塚からだから、
どちらが母胎になったのか?とすれば、筑前だ。
大和説学者らには、
このようなら人類常識に拠るの研究という根拠が一切ない
学問そのものを拒絶しているだけ 畿内説はもう駄目だ、見切りつけたわ。
倭人伝を修正しない九州・佐賀ルート熊本説は伊作の遺作らしけど、
読んでみると現地に良く合うし、変な学閥の手垢も付いていない。そっちにするわ。 >>684
世間常識とかけ離れた結論を連呼するだけで
まったく理由を言わない九州説
ばかじゃないの? >>690
九州説にもいろいろある。
一絡げにしてののしっても効き目はないさ。バカじゃないの? >>240
>>「丸く整地した」んなら、「径二十一歩」だけでいい筈。
何故「周六十三里」なんて文言がいるんだい?。 そりゃ、「円を書いた」だよ。<
>例えば「璿璣徑二萬三千里,周六萬九千里」は、周六万九千里の円を書いたのかい?w<
いや書かない。「周六萬九千里」は、「徑二萬三千里」の円周である事を主張しただけ。
>周髀算經は、円形のもの、概念は、径と周をセットで記述するというのが基本になっているんだよ<
漢文でも、別に「セットで記述する」、という事も必ずしもしていない。
必要がある場合にセットで記述しているだけ。 「世間の常識」ねえ。
世間から見放された、学者だけが盲信するドグマじゃないのか? >>241
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、このスレに書き込みする時点で、
九州説に敗北を宣言しているようなもの。
九州説は他スレに書き込みに行かなくても余裕であるし、必要もない。
むしろ他スレは、相手するのが邪魔くさい。 韓国政府が、倭人の真実の領土を隠すために、纏向が卑弥呼の都だったと断言する邪馬台国畿内説という、世間常識とかけ離れた結論を発表したので、
日本国民の99.5パーセントから、笑われ、邪馬台国畿内説は火星人降臨説やネッシー実在説と同様に、日本国民がリラックスするための道具になってしまっているな。。。 まあ九州説は学者よりも古田みたいな宗教家の方が好みだからな 伊作氏は、熊本城を発掘しなかったので、真実に到達できなかった可能性が、高いな。。。 >>242
また、類スレ主が、ごまかしで話をずらしている。
「大和東南部では播磨や河内の庄内甕が少し搬入され、
筑紫からの搬入は全く0であった」という事は事実。
「大和東南部・纏向で大和型庄内甕が作られているが、筑紫への搬出は殆どなかった」のも事実。
この二つの間に関連があると考えない理由がない。 伊作氏は、隠れたようにみせかけて、5ちゃんねるのくだらなさに呆れた者たちが集まった、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、討論を続行している可能性も、あるのではないのかな。。。 韓国政府が、倭人の真実の領土を隠すために、纏向が卑弥呼の都だったと断言する邪馬台国畿内説という、世間常識とかけ離れた結論を発表したので、
日本国民の99.5パーセントから、笑われ、邪馬台国畿内説は火星人降臨説やネッシー実在説と同様に、日本国民がリラックスするための道具になってしまっているな。。。 >>243
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「畿内や邪馬台国」というような存在もしないうそつき騙し文言の、
邪馬台国畿内説スレ主の立ち位置:
我は、老練かつ最長老の「嘘つき騙しの考古学の詐欺師にして、
全ての大和説学者・研究者の頂点に君臨して久しい。
考古学会誌、新聞、諸雑誌、5ちゃんねる、学会教育界などを支配し、
我が成したる著作物は、すべて(麻原や安部文部省らと同じ)・・・・宗教説である。
(皆の者、頭が高〜い・・・) >>244
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が逃げた事。
倭人伝も違う場所をさしてるし、
考古物証なくて負けは確定。
腹立つから九州説を荒らしてやるゥ?。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、本丸の卑弥呼の都には決してたどり着けない。。。 >>250
>シキ郡という地名は奈良県側にも大阪府側にもある
しかも隣接してる 古来から一体なんだよ<
いや、小地域同士だから、
分裂したか、一方から他方へ一部が移住した可能性があるだけ。 郡使が滞在した筑紫と交流がなかった大和東部の辺境勢力が卑弥呼の国だったなんて、嘘だよね。 >>255
>佐々木は畿内説だからね<
佐々木は、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ学者だからね。
嘘を付くのは、へいちゃら。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が頭が悪いので、この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、
他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした僕達は、邪馬台国畿内説を信じる、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を発見し、人生の最後の目的のために闘い始めたのだったな、、、 >>257
>九州説民族運動は日本の考古学者の研究を拒絶しながら
畿内説の学者の論文の一部を使う<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らは、
万世一系皇国史観大和説に狂った・・・・アホ学者であるから、
時々ついうっかり「大和説には都合が悪くなるような事実関係」を、
しゃべったり 書いてしまったりする失敗をする事もある。 >>258
纏向遺跡はなかっ、九州と全くつながっていなかったことを示す遺跡なんです!キリッ
[纏向遺跡で見つかった搬入土器の出身地割合]
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
筑紫系:0% 大和川云々とかほざいていたテンプレは撤去しろよ。
河内とさえ交流できてない。
ただの尾張の属国だ。 >>264
>「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 ・・・<
佐々木は、筑紫の庄内が3世紀前半はいいが、
大和の庄内が、3世紀末の石塚である事が理解出来なかったから、
・・・・アホ学者。 >>266
>畿内説は統一国家が完成していたかのように説明しているんだけど。。。 <
畿内なんて存在もしないうそつき騙し文言であるから×であるし、
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国、
であったから、×。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、本丸の卑弥呼の都にたどり着けない。。。
事は簡単だ。
三世紀・倭人伝の阿蘇高千穂・卑弥呼の所都の実話物語を、
八世紀の大和朝廷の小役人が、天孫降臨高天原の天照大神神話に脚色しただけのこと。 不正会計、データ改竄、歴史捏造、何でも有りの畿内説は日本の恥。
南京事変や従軍慰安婦と同様、証拠無き事実を重んじる宗教。 >>278
>九州から瀬戸内海航海して畿内に向かうと説明されているよ<
「畿内」なんて存在もしないうそつき騙し文言であるし、
「南≠東」などの嘘付き騙しをした事でも、×。
>そして邪馬台国の位置は沖縄や台湾の近辺と魏志倭人伝に記されている<
邪馬台国なんて存在もしないうそつき騙し文言であるし、
陳寿はほぼ九州島付近だと推定しているし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから 、沖縄台湾説も、×。
これで魏志倭人伝の行程の捏造解釈だけが頼りだった大和説は破綻だけど
九州説には考古物証があって女王國が確定。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、本丸の卑弥呼の都にたどり着けない。。。
事は簡単だ。
三世紀・倭人伝の筑紫日向伊都高千穂・卑弥呼の所都の実話物語を、
八世紀の大和朝廷の小役人が、1世紀の天照大神神話と混同しただけのこと。 なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 >>285
>>中国と交流がなかったら、意味がない。<
>テンプレにも大陸との交流は書いてあるだろうが
◆FAQ 45 Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。・・・<
これ、既に反論否定済み。 >>714
東明東征を神武東征と置き換えて大和の歴史に位置付けているんだから、
大和政権は間違いなく半島出身だ。
当時の倭国民は呉越出身だと言ってるのにな。 >>287
>史料に書かれている内容がそのまま事実だとは限らない<
同時代の役人や学者らのような普通の人間の、
実地の見聞計測記録の内容は、事実である確率が非常に高い。 >>288
>だから、「何をもって」勝手な主観だと判断しているのか、
その「具体的な根拠・理由」を示して! それがなければ無意味!<
具体的な根拠や理由は、もう何度も何度も書かれて来た。
それを知らん振りして、また「示して!」と叫び続ける事が無意味。
それは「証拠は?証拠は?証拠は?・・・」の連呼と同じ。
>どこが事実じゃないのか、
「具体的な根拠・理由」を添えて「具体的な論点」を明確にしてくれ<
これも同じ。
何度言われても、うわごとのように同じことを書き続けるだけっていうのは
まさに「南→東」などの嘘付き騙しのスレ主や類スレ主らの、
・・・・大和説者らの同類だぞ!!!!! 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 >>291
>>佐々木は土器で歴史を語る人<
>正確には、佐々木先生は「土器の歴史」を語る人だよ <
正確には、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の佐々木は、
皇国史観というという大和説の結論先にありきの非学問的な・・・・アホ人間であり、
大和の庄内は3世紀末の前方後円墳の石塚である、
という事を隠そうとしている犯罪者的な詐欺師だよ。 >>669
>>「內一衡徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。分為三百六十五度、四分度之一,
>>度得一千九百五十四里二百四十七步、千四百六十一分步之九百三十三。」
>「1954里247歩+833/1461歩」という表現自体が意味不明だし、
>それがどこから出て来たのか?も不明だよ。
「自己解釈に拠る付記」なんて結論ありきだったんだね。
こんな計算が解けないってことは、《周牌算經》や《九章算術》の問題を全然解いてないわけだ。
714000里/(365+1/4)=714000里*(4/1461)
=1954里+(1206里/1461)
ここで1里=300步を1206里に代入
=1954里+(1206*300步/1461)
=1954里+247步+(933步/1461) >>721
魏志倭人伝には、倭人は嘘を言わないと書いてあるね。
対して旧唐書では、日本人=畿内人は礼儀知らずで答えをはぐらかしたり不誠実だと書いてある。 畿内説は嘘つきだらけだからな。
昔からそうだったんだな。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、本丸の卑弥呼の都にたどり着けない。。。
事は簡単だ。
三世紀・倭人伝の阿蘇高千穂・卑弥呼の所都の実話物語を、
八世紀の大和朝廷の小役人が、天孫降臨高千穂の天照大神神話に脚色しただけのこと。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、本丸の卑弥呼の都にたどり着けない。。。
事は簡単だ。
三世紀・倭人伝の阿蘇高千穂・卑弥呼の所都の実話物語を、
八世紀の大和朝廷の小役人が、天孫降臨高千穂の天照大神神話に脚色しただけのこと。 阿蘇高千穂は、卑弥呼の誕生の地点で、熊本城が卑弥呼の城だった可能性が、高いな。。。 阿蘇熊本は狗奴国だろ。
豊富な鉄と稲作が、筑紫の邪馬台国卑弥呼と対抗できる裏づけだったのだよ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>732
熊本平野を狗奴国にするから解けない。
狗奴国は、肥後・球磨地方で、記紀では神武に伴った久米族のふるさと。
旧球磨郡は熊本県最大の郡で、奈良盆地と同じほどの広さがあり、地形も似ている。
なお地元の人たちは、球磨盆地が狗奴国であったと信じている。 >>297
>畿内説だと秦王国はどこになるの?<
「畿内」なんて存在もしないうそつき騙し文言であるし、
秦王國は、上陸した糸島付近の竹斯國の東に位置するから、
弥生銀座〜糟屋付近の国であり、
秦王というのは、次の王になる地位の印になるから、
おそらく糟屋を手に入れた大和政権側が、
九州倭国(俀國)の王家に参加出来た時の那の津の国。 >>729
天孫降臨のアイデアは、藤原不比等が近江で得たのだよ。
近江の三上山に降りた天之御影神が山頂から麓に迎えられる神話を、ちゃっかりいただいたのだな。
この神様が山頂から麓に迎えられるという神迎え神事は、坂本の日吉神社や京都の加茂神社も同じパターン。
不比等は近江にいたことがあるから、日本書紀の天孫降臨のアイデアを近江の三上山の天之御影神の降臨神話からパクッたのだろう。
その見返りに、御上神社の社殿を創建させた。
神が山の頂に降りてくるという神観念は、日本にはない。
あるのは神体山の地主神の観念だけだ。
だから、御上神社の天之御影神の降臨は、なにか特別な観念なのだ。 日本人=畿内人が字が気にくわないと文句を言って倭国→??國と改められたあたり、隋書には畿内人の意見が取り入れられている可能性がある。
つまり、隋書以降は信用するなという事だな。 >>299
>どちらにしても、列島の広域で「前方後円墳を共通墓制とする祭祀連合の成立」を見るのが
既に定説となっており、これが大陸中華から倭國と呼ばれたものの実態だと考えるのが
畿内説の基本的な立場だ<
「畿内」なんて存在もしないうそつき騙し文言であり、
大和が盟主であった、という事を意図した瞬間に、「南≠東」などに拠って×だ。 >>735
筑紫から東へ行って秦王国に至ると書いてあるやろに。
山陽道を行っているのだから、安芸か吉備か、そんなあたりやな。 >>301
>疑うことと全否定の違いすらわからないのが九州脳 <
史料事実や、それを史料批判した史料実態の確率の程度や違いすら分からないのが、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の・・・・アホの脳。 >>736
天孫降臨の舞台が筑紫であることの説明は? >>736
当時すでに大都会であった近江でアイデイアを得て、九州のド田舎の深山山中へ適用したというのか。
大和の人々には、到底信じがたいことだったのではないかな。 旧唐書では、日本国はかつて小国だったが倭国を併合したなどと言っているんだから、日本が倭国の一部であったとしても、小さな反政府政権(狗奴国?)だったと考えられる。
ということは、過去の日本国(畿内)は倭国の中心国ではなかったわけだ。
隋書や新唐書は日本人の意見を取り入れて書かれたのであれば、歴史が改竄されている可能性は大だ。 >>673
>これだけど、そんな勢力が2〜3世紀にあったのなら、中国四国地方はどのような状況なのか解説してくれないか
中国四国地方も、普通によそと同じ時期に古墳時代に入っているだろ?
勢力というか、みんなで前方後円墳祭祀をもって、首長継承儀礼としましょうという合意だよ
ただ、その合意=前方後円墳体制に参加するかどうかは、首長個人の判断で次代がそれを
受け継ぐかどうかは周りが強制できない、という体制
そこに強制力を持たせようとしたのが、四道将軍〜景行・ヤマトタケル〜仲哀・神功の征服譚 >>686
>「定説」を批判検討することなく丸呑みするしか能がない畿内説
>批判すると畿内説そのものが瓦解するからねw
だから、批判したかったら「ポイントを具体的に示し」た上で
「批判の根拠を『具体的に』提示」しなさいってのww
そもそも、定説がどうして定説化したのかってところで、大勢の専門家が
日々いろんなことを調べて、査読論文を書いて、それに対して大勢の専門家が
批判・批評して、さまざまの資料・根拠・文献を批判検討した結果が定説として
認められてるんだよ
それだけの多数知・集合知を覆すだけの根拠も、具体的な批判もなしに、
ぼくチンは認めないにだーって言っても無駄 >>690
>まったく理由を言わない九州説
>ばかじゃないの?
バカなんだよww >>691
>九州説にもいろいろある。
>一絡げにしてののしっても効き目はないさ。バカじゃないの?
いや、いろいろあると言いながら、誰が見ても、九州説から見てもデタラメな
ザラコクすら批判する九州説が一人もいない時点で、一絡げで十分だよ
九州説は、バカばかりww
違うというなら、ザラコクのバカなところを指摘して
「>>691様の九州説」はここが違うって具体的に示せばいいよ!
それすらできないくずの癖にイキるなよww 税金で、生物活動を実行していた、奈良の考古物体に対する年代検査の専門の学者が、金銭への欲望に敗北して、卑劣な偽造や横領を実行し、国家から有罪を判決されたので、奈良の考古物体に対する年代検査の専門の学者は、信用を喪失してしまった。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>692
>いや書かない。「周六萬九千里」は、「徑二萬三千里」の円周である事を主張しただけ。
結論が出たじゃないかww
即平地徑二十一步,周六十三步。の「周六十三步」は「徑二十一步」の円周であることを
主張しただけで、同心円なんて書いてないんだよww
この範囲を「平地」、つまり整地しただけ
とことんバカだな、ザラコクは
で、>>691をはじめとする九州説の人は、こういうバカなザラコクとどこが違うのか、
具体的に示すことができなければ、十把一絡げでバカってことでいいなww 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 >>747
だってザラコクをあぽーんしているから。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が頭が悪く、この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、
他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした僕達は、
邪馬台国畿内説を信じる、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を発見し、
人生の最後の目的のために闘い始めたのだったな、、、 >>705
>分裂したか、一方から他方へ一部が移住した可能性があるだけ。
分裂したならもともと一つだし、一方から他方へ一部が移住した場合でも
完全に同族関係だろ?
河内と大和は一体の地域ということで、何も問題はない >>706
>郡使が滞在した筑紫 ←×
行き帰りに郡使が必ず立ち寄る筑紫 ○
筑紫に立ち寄って、畿内から派遣された一大率の許可を得てから、
投馬国、邪馬台国へ向かうんだよ このスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員の、自殺が、なかなか成功しないので、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときには、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の自殺の秒読みが、開始された可能性が高まってきたので、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 >>722
>具体的な根拠や理由は、もう何度も何度も書かれて来た。
何度でも書けばいいんだよ!
>>453でも>>672でも、何度でも繰り返し具体的な根拠が書いてあるだろ?
それをしないのは、できないからなんだよ
九州説には既にまともな根拠は残っていない
否定済みの「短里があるんだー」くらいしか、言うべきことが九州説には残っていない このスレッドには、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員の、すぐにバレてしまう嘘が、何度でも繰り返し書いてあるな。。。
757日本@名無史さん2019/04/11(木) 11:02:03.37
>>722
>具体的な根拠や理由は、もう何度も何度も書かれて来た。
何度でも書けばいいんだよ!
>>453でも>>672でも、何度でも繰り返し具体的な根拠が書いてあるだろ?
それをしないのは、できないからなんだよ
九州説には既にまともな根拠は残っていない
否定済みの「短里があるんだー」くらいしか、言うべきことが九州説には残っていない >>754
>河内と大和は一体の地域ということで、何も問題はない
交流がないのに一体なわけないだろ。 ザラコク氏が、出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけはじめてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、破綻した邪馬台国畿内説についての、
空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜びながら、ザラコク氏に、、、何度でも書けばいいんだよ! 、、、と叫んでいるのではないのかな。。。 >>755
「畿内から派遣された」などとは魏志倭人伝に書かれていない。
畿内説は嘘つき。 以前から書いている事なんだけど、どこの低脳なんだ? このスレッドで、連続句読点を使用することが、流行ってしまったので、過去に発表した僕達の意見がどれだったかの見分けが、出来なくなってきたな。。。 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件についての討論会が、始まってしまったな。。。 ザラコクは相変わらずだが、最近連続句読点の壊れっぷりが凄いなw >>302
>安物んとこでアンチ畿内説書いてる考古学者?がじつはスネ傷持ちという話だな<
大学の考古学教室で教授クラスの地位になって、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を、学生や助手クラスに強制している考古学者が、
実は、キョクウの皇国史観殺人戦争狂の・・・・詐欺師であった、という事だな。 邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されたので、韓国政府に雇用された、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、怨恨を抱き、嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
765日本@名無史さん2019/04/11(木) 11:21:54.54
ザラコクは相変わらずだが、最近連続句読点の壊れっぷりが凄いなw 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件は、何時、発生した事件なのだろうか。。。 >>761
大倭王は伊都国の南に接する邪馬台国に居たんだから一大率の派遣元は邪馬台国だよ。
大倭という、言わば国府のような機関は大宰府かもしくは早良区のどこかだろうね。
硯が出てきたのは早良区だっけ? >>759
>交流がないのに一体なわけないだろ。
あるだろ?
畿内大V様式土器の時代から、土器様式が一体化している
=土器の生産センターを共有しているってことだよ
生産流通圏として、一つの地域になっている 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件についての討論会が、始まってしまったので、
僕たちには、本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件についての知識が不足しているために、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットのその掲示板での討論に、ついていけなくなってしまったな。。。 >>303
>>テンプレにもあるように
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。 」
という程度<
成程、スレ主も狗奴國に関しては、少し困っていた、という事か。
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」
と「詔書、黄幢」まで記録されちゃ、卑弥呼にとっても魏帝にとってもかなりの問題であった訳で、
大和説では、全く説明が付けられなかった、という事か。 >>771
硯は伊都国三雲の方だろ?
まあ、大宰府の邪馬台国が伊都に大率を派遣ねえ。
率(帥と同義)だと大宰府そのものという感じなんだけど。 それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。
772日本@名無史さん2019/04/11(木) 11:30:57.89
>>759
>交流がないのに一体なわけないだろ。
あるだろ?
畿内大V様式土器の時代から、土器様式が一体化している
=土器の生産センターを共有しているってことだよ
生産流通圏として、一つの地域になっている >>769
>邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されたので、
「ザラコクは相変わらずだが、最近連続句読点の壊れっぷりが凄いなw」って書いたら、
いつものコピペを貼りに来るところが、本当にダメ人間の典型ww >>304
学問や歴史を学んだ学生なら史料批判を知らない筈もなく、
全く理解することすら知らないらしい、
「南→東」などの嘘付き騙しにクルった大和説者。 >>774
>と「詔書、黄幢」まで記録されちゃ、卑弥呼にとっても魏帝にとってもかなりの問題であった訳で、
ただの旗と、がんばれって言うお手紙だけで、軍勢の派遣もしない宗主国ww
三角縁神獣鏡の笠松文が、この「黄幢」を表したものなんじゃないかという説もあるね ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:4c599714cac4aebd
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>308
添えた説明をまったく読まないで、
説明や証拠があるあるありと連呼し、
「南→東」などの嘘付き騙しをするのが、
大和説。 邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されたので、 というのは、どこかに、複製されている文章ではなく、
邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されたという、真実を表現するために、ピッタリな文章なので、何度でも使用されるということを、
このレベルの劣ったスレッドで、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝している、頭の悪い韓国人の係員は、理解できないようだな。。。
777日本@名無史さん2019/04/11(木) 11:35:27.09
>>769
>邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されたので、
「ザラコクは相変わらずだが、最近連続句読点の壊れっぷりが凄いなw」って書いたら、
いつものコピペを貼りに来るところが、本当にダメ人間の典型ww それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。
779日本@名無史さん2019/04/11(木) 11:39:53.00
>>774
>と「詔書、黄幢」まで記録されちゃ、卑弥呼にとっても魏帝にとってもかなりの問題であった訳で、
ただの旗と、がんばれって言うお手紙だけで、軍勢の派遣もしない宗主国ww
三角縁神獣鏡の笠松文が、この「黄幢」を表したものなんじゃないかという説もあるね そんなことよりも
なぜオズボーンの曲、老いたるスサノオ・・・、北斗の拳?
その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
漫画やアニメなど?ほとんど同じなんだと思う 奈良からは弥生時代に政府機関として機能した痕跡は見つかっていないね。
どこを掘っても墓ばかり。
奈良盆地が霊園だったんじゃない? 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件についての討論会が、始まってしまったので、
僕たちには、本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件についての知識が不足しているために、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットのその掲示板での討論に、ついていけなくなってしまったな。。。 九州北部の邪馬台国が半島に移動して百済になったのかもしれない。
少しでも中国に近い土地を確保したかったとか、大和政権を嫌っていたとかいう理由で。 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板には、
優れた九州説の考古学者だけではなく、このレベルの劣ったスレッドで、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝している、頭の悪い韓国人の係員よりも、数段、レベルの高い、手ごわい畿内説の宣伝係員がいるので、
このレベルの劣ったスレッドとは違い、レベルの高い討論会が続行されているな。。。 >>784
>弥生時代に政府機関として機能した痕跡
たとえば、どんなのがあれば「弥生時代に政府機関として機能した痕跡」として認めるんだい?
具体的に示してくれるかな?
そして、>>784とザラコクの九州説はどこが違うのか具体的に示してくれるかな?
できなければ、同属同類ってことでww 弥生時代に政府機関として機能した痕跡は、やはり、鉄の武器ではないのかな。。。 なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 鉄の鏃がたくさん刺さった死体っていうのは、
鉄の鏃を使う集団に対して劣勢だった証拠なんじゃないの?
鉄の鏃をいっぱい持っているから、自分たちの親族が死んだときに
身体にいっぱいやじりを刺して甕棺墓に葬るなんてことはしないだろ? 熊本城の地下には、文書の作製の痕跡がある可能性が、高まってきたな。。。 >>792
現状で確認できる最古の文字は伊勢じゃなかったっけ?
たぶん硯のことが言いたいんだろうが、最古の硯は出雲、田和山遺跡であって
九州じゃないぞ ジェノサイド・・・?
そういう事をしたりして、
存在を消された家があるんじゃないの?
起こしたほうの人物や家などの話 たしか鉄は伊都にもあったよね。
邪馬台国と狗奴国の戦いの痕跡は九州北部にあるということだ。
その激戦地の痕跡は筑後平野に見られ、邪馬台国側に大野城と基肄城、狗奴国側に鞠智城があったということで良いだろう。
大野城と基肄城は後に大宰府を囲む羅城の一部となるが、3世紀の時点では卑弥呼の居城としては大宰府は前線に近すぎると思う。 倭人は、タコを捕まえたので、海が近くにある熊本城では、タコスミで、文書を作製した可能性が高まってきたな。。。 >>796
その出雲を倒して筑紫が王都になりましたと記紀に書いてある。 『さいきば事件』
こういう事件も、ほとんど同じだし >>799
硯を作るくらいなのだから、墨の作り方も知っていたはず。
邪馬台国は養蚕や製鉄の技術もあったと魏志倭人伝から読める。
まあ、纒向にはどれもないんだけど。 畿内説がいくら出雲を取り上げても、出雲の国譲りで全て片付いてしまう。
そもそも出雲は畿内でもないし。 纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかった可能性が、急激に高まってきたな。。。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、本丸の卑弥呼の都にたどり着けない。。。
事は簡単だ。
三世紀・倭人伝の阿蘇高千穂・卑弥呼の所都の実話物語を、
八世紀・大和朝廷の小役人が、天孫降臨高千穂の天照大神神話に脚色しただけのこと 畿内説はもう駄目だ、見切りつけたわ。
倭人伝を修正しない佐賀ルート熊本説は、伊作の遺作だそうだけど、
読んでみると、九州の現地に良く合うし、変な学閥の手垢も付いていない。そっちにするわ。 奈良では硯もタコも見つからないので、タコに憧れて、足を揃えたタコ型の古墳を作製した可能性が、急激に、高まってきたのではないのかな。。。 小学生の作文
「朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べて、学校へ行きました」
この↑ 文章を、畿内大和の先生たちは小バカにするらしい。
そのため優秀な児童も、脳内の論理構造が壊れて、作文も先生も学校も嫌いになり、
長じては、ひねくれまわった文章を弄するようになる。その典型例が >>1 である。
しかし冒頭の作文は、極めて論理的で簡潔で優秀な文章である。
生徒・学生・社会人として成長していくための基本中の基本といって差し支えない文章能力であり、
陳寿の作風にさえ通ずる秀逸なものである。 崇神が大和を征服して纒向を拠点に勢力を拡大するのは、卑弥呼の後なんだよ。
そして、記紀の物語の主軸は概ね正しいことになる。
纒向は崇神の宮で、饒速日から始まる物部の家系でもある。
これらの初期ヤマト王権の記録を無視して邪馬台国を持ち込むのは愚の骨頂。 そういう事件を起こしたり、
参加をしたりした家の人?の存在が消された
本当はアナタ(事件を起こしたりして、存在を消された側)の家の話なのに、
他の家の話・・・?みたいな事になっているでしょ 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板には、
優れた九州説の考古学者だけではなく、このレベルの劣ったスレッドで、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝している、頭の悪い韓国人の係員よりも、数段、レベルの高い、手ごわい畿内説の宣伝係員がいるので、
このレベルの劣ったスレッドとは違い、レベルの高い討論会が続行されているな。。。 そうだな、
九州は優秀な小学生だが、畿内は、ぼんくらのひねくれた大人たち 読点打ち過ぎなのは小学生レベルで構わないと思ってるからってのは理解したわ 纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかった可能性が、急激に高まってきたという真実から、話を逸らそうとしているな。。。 ヤマタノオロチは、本当に、大蛇だったのだろうか、、、 八本の頭は、タコの足を見間違えた可能性も、高まってきたな。。。 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件とは、スサノオノミコトが、大タコを捕獲して、解体を実行した話が、変形したのではないのかな。。。 読点打ち過ぎなのは、小学生レベルで構わない、と思ってるからってのは、理解したわ
↑
読点打ちにくいなあ。元の文章が、よろしくなさそう。
句読点を多用するのは、作文の訓練、上達が早い。 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件とは、スサノオノミコトが、大タコを捕獲して、解体を実行し、文書作成のために必要な墨袋を、獲得した話が、変形したのではないのかな。。。 >>823
炭から墨汁を作製していた、ヤマタノオロチ退治事件を記録した時代の者達が、硯の無かったスサノオノミコト時代に、なぜ、大タコの墨袋が貴重だったのかが分からなかったので、
大タコや大タコの墨袋を、ヤマタノオロチや天皇家の剣に、変換した話を作製してしまったのでは、ないのかな。。。 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件についての討論会のことを、思い出してしまい、
纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかった可能性が、急激に高まってきたという真実から、大タコや大タコの墨袋を、ヤマタノオロチや天皇家の剣に、変換した話を作製してしまったという想像に、話を逸らしてしまったな。。。 纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかったという真実は、魏志倭人伝時代についての討論に、どのような影響を与えるのであろうか。。。 本当に同じような事を考えている人たちがいたり、
日本のメディア関係、そういう漫画なども。
反日というわけではないんだけど・・・・・・w >>742
天孫神武が九州からやってくるには、神の子が九州に降り立つのが合理的。
朝鮮半島から舟で来て、さらに南九州まで歩いていくというのは時間がかかり過ぎ。
高天原と南九州を結びつけるには、神の子を霧島連山へ降ろすのがいい。
そのアイデアを不比等は近江の経験から思いつたのよ。
神武が南九州からやってくるのは、崇神が南九州から来たからだし。
つまり、南九州が天皇のふるさとなのよ。
だから、ニニギは霧島連山に降臨したわけ。 825番の僕たちの意見の発表は、「レベルの高度なインターネットの掲示板で」の後に、「の」を一つ入れることをしなかったので、意味の分からない文章になって、しまったのではないのかな。。。 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件の真相と、纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかったという真実は、どちらが、より、重要な、議題なのだろうか、、、、、 >>829
弥生時代の文明開化は玄界灘沿岸だよ。
だから天孫降臨も筑紫、すなわち福岡県。 >>829
そもそも、日本書紀はなんでニニギを霧島に降臨させたのかという点を解決できないで大和王権のルーツを語ることはおこがましいし、大和王権の歴史がへんちくりんになってしまうのだ。
テンプレみたいに大和王権のルーツが卑弥呼の倭國だなどと言っているかぎり、ニニギがなぜ霧島に降り立たねばならなかったのかという皇統の問題はまったく解明されない。
海幸山幸の神話は隼人を親和させ服属させるために創作されたものだと言ってるくらいだから、話にならんのよ。 邪馬台国は福岡県、もともとは山幸彦の国、帯方郡から水行10日
投馬国は宮崎県、追い出された海幸彦(隼人の祖)の国、帯方郡から水行20日
どちらも天孫族なので混同されがちだが、倭国王家の宗家は福岡県。 ゴキブリだと言っているんだよw
もののけ姫?
西のほうから逃げてきたとか、
そういう生物がいたり >>836
オメらは大和王権の正体を知らんから、天孫降臨は福岡県の山だったなどと気楽なこと言ってお茶してるの。
それこそ、茶吹くわ。
天孫降臨は、霧島だよ。 西のほうからやってきた?『西から昇った おひさまが』 >>839
霧島?
そんなところに王権があったはずはない。
福岡県なら弥生王墓があった。 幣立神社から出発したニニギは、どこに、降臨したのだろうか、、、 実際に住人がいたでしょ?
東のほうにもwwwwwww(大爆笑) >>818
ヤマタノオロチの出所は、シュメールの7頭のヘビ。
日本書紀の編纂者らは、勉強家の秀才ぞろいだった。
いろいろ文献をさらったのだろさ。
イザナギの左目から太陽が生まれたなどというのも、インドの神話にある。
中国の文献からその話をパクったのさ。
オメらも、せいぜい勉強しろよな。 本当は神話など?を残さなければ良かったんだよ
アイツや某は西からの来たのか〜、
そして東のほうにいる人々を・・・、とバレてしまうから
『西から昇った おひさまが』 >>803
>その出雲を倒して筑紫が王都になりましたと記紀に書いてある。
時代が違う、定期ww
崇神天皇の頃が卑弥呼の時代
それより十何代も前の時代のことを、8世紀の書物を根拠に言われても
九州説の根拠は、すべて3世紀よりも100年、200年またはそれ以上古い
漢委奴國王が北部九州なのは、畿内説でも否定する人はいない
それが3世紀まで変わらないと思っているところがお花畑過ぎるw 何者かが、そういうふうに、仕組んだことなの
本当にそうでしょ? >>841
福岡の安曇族は、鹿児島の阿多族の分家にすぎん。
本家をないがしろにして福岡が王権だとは、バチ当たりだろ。
天孫降臨が福岡だというのは、本家乗っ取りということじゃ。
だから、福岡は纏向政権に潰されたのよ。
そうした大和王権のちゃんとした歴史を語るべち。 幣立神社には、宇宙の秘密が、内密にされているので、再び、来訪しなければいけないな。。。 ニニギの子らは、皆熱い火の生まれ。
福岡に火山があるのかよ。
火の国は、鹿児島じゃな。 宇宙の秘密が、内密にされている幣立神社が、一番最初の倭人の都だった可能性が、高いので、高天原と呼ばれたのだね。。。 火の国は、肥の国という真実を無視した意見の発表があるな、、、
850日本@名無史さん2019/04/11(木) 14:27:17.61
ニニギの子らは、皆熱い火の生まれ。
福岡に火山があるのかよ。
火の国は、鹿児島じゃな。 幣立神社には、宇宙の秘密が、内密にされているので、再び、来訪しなければいけないな。。。 ヤマタノオロチは、本当に、大蛇だったのだろうか、、、 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件の真相と、纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかったという真実は、どちらが、より、重要な、議題なのだろうか、、、、、 >>851
ノンノン。
一番最初の倭人は、鹿児島。
そういう意味でいえば、鹿児島が高天原。
オオヒルメが生まれたのは、鹿児島だからな。 >>852
ヒとコエを同じにしてはいかん。
熊本はコエ。
ヒは鹿児島。
ヒは日。
オオヒルメのヒ。 >>850
ニニギの名は、番能邇邇芸と言い、稲穂が豊かに実りますというめでたい名前だ。
稲作を産業の主軸とする弥生時代を象徴する名前だ。
稲作の中心地である豊葦原中国(葦=稲穂が豊かに繁る国)の王の名だ。
もちろん、筑紫の倭王だ。 >>856
メーソンのスレと同じ。
そのことに何の意味があるんだ・・・、
みたいな事を言ってる人がいたり。
特にないだろう。 >>848
志賀島の安曇族は豊玉姫ら外戚の王家だよ。
本家は嫁ぎ先の伊都国王家の天孫族だ。
筑紫の日向の高千穂宮とは、伊都国高祖宮のこと。
日中の史書はいずれも福岡県を王都としているのさ。 >>846
>漢委奴國王が北部九州なのは、畿内説でも否定する人はいない
つまり卑弥呼の先代の男王の王家だよね。
それが日向三代だよ。
そして倭国大乱を経て、筑紫の卑弥呼と同時代に大和に神武がいた。
これで年代がきっちり揃う。
畿内説は年代感がばらばら(鴨厨を除く)。 >>856
アマテラスの元を離れた天孫の筑紫への降臨を守護したのが宗像氏族だろ。
だから高天原は対馬海峡のどこか。
ただし、「海の向こうへ行ったきり」の月詠の宮が対馬にあったから、それよりも近いところに高天原はあった。
沖ノ島の国家的祭祀こそ、アマテラスを祀る祭りだろうね。 アイヌ、蝦夷?の話なのかな、
以前見たような気がするんだけど
強制移住、?
あっち行け、次はそっちに住めと言われたりw ジェノサイド?
そこに書いてあることが、現在でも・・・?
どこかで見たような、日本の話 泡沫候補の大和説が霧散して、残る戦いは福岡、熊本、宮崎の九州勢による決戦か。 >>862
ニニギを霧島へ導いたのは、サルタヒコ。
サルタヒコは、エジプトの知恵の神トート神が下敷き。
その話はモンゴルから入った。
モンゴル語の月(マンス)は、サル。
日本語の猿(サル)の語源は、モンゴル語のサル(月)。
時間を司ったのは、エジプトのトート神。
トート神はヒヒの形をしてる。
サルタヒコはトート神が下敷きだよ。
対馬あたりとは無関係じやな。 >>865
宮崎の日下部は鹿児島の阿多出自。
残る戦いは鹿児島、熊本、福岡の三つ巴。
鹿児島が勝つに決まってるがな。 ????????????????????????❔
誰にとは言っていない、本当に低脳なんだろう、
刑務所(強制はしない。自主的。)に行ったほうが良いぞ >>866
猿田彦を祀る神社は福岡にある。
天孫を出迎えた、博多の王(倭王ではない地域首長)だよ。 右翼、大物?何やら〜・・・・(実際は雑魚)、
詳しいことは知らないけどw
低脳なんだろう?と聞いているんだよ 伊都国の三雲南小路遺跡は、付随する細石神社の祭神から木花咲耶姫の墓かと思いきや、実は王と王妃の墓だった。
これが邇邇芸と木花咲耶姫の墓だろうね。
伊都こそ筑紫の日向と謳われた倭国の王都だ。
そして卑弥呼の読みはピミカ、現代風なら日向だ。
日向にいた日向様が卑弥呼の正体で、三種の神器の八咫の鏡を作り上げた太陽神の化身だ。
その墓は八咫の鏡が副葬された平原遺跡だ。
宮崎や熊本ではこれだけの考古学的証拠を提示できまい。 >>871
>宮崎や熊本ではこれだけの考古学的証拠を提示できまい。
>>871に考古学的証拠ひとつも書いてないし。 >>871
まったく、根拠なし。
ニニギは日向の可愛に葬られた。
伊都は日向の国ではない。
伊都はおっこち。 >>876
自分からまず名乗れ。
そのあと、ワイの名前、聞かしたる。 なにがワイだよ、
もれ(仮)の真似をしているだけなんだろう
以前書いたことがあるから、
知っているでしょ
『ワイによって助けられる』 >>879
韓猿がなに言ってもダメ。
助けてやらん。
オメらは、オメらの政府に滅ぼされる。
自業自得やな。 『ワイによって助けられる者』
調べてみてと言っているんだよw
『選ばれしもの ガンダム』
なぜか、ほとんど同じだから、何なんだろう、
実際は家の話(日本の話)でしょ ストーカーがいるのかな?
それとも老婆が創価に入ったりしたことが原因なのかな?
何なんだろう・・・・・・・・・・・・・家の話だろw >>871
>伊都国の三雲南小路遺跡は、付随する細石神社の祭神から木花咲耶姫の墓かと思いきや、実は王と王妃の墓だった。
>これが邇邇芸と木花咲耶姫の墓だろうね。
これが通るなら、箸墓が卑弥呼の墓で完全にOKだぞw
邇邇芸も木花咲耶姫も、実在の根拠なんて一切ないんだからww 本当に・・・・、
ふざけたことしてんじゃねーぞ!!みたいな事を言ってる人がいたり
人の家(漫画やアニメ、ゲーム・・・その他?)の話で、
・・・・・・・・・お金儲けをしているからだろう それとも天理教?何教、何宗?
人の家の話だと言っているんだよ 日本の話、謎の震災など
人工地震だぞw
と言ってる人たちがいたり
ハッタリなどではない >>316
いつも最後は、「南→東」などの嘘付き騙しの論争で負けたで大和説が、
荒らしを始めて終幕。 >>323
ほらな
最後は、「南→東」などの嘘付き騙しで負けた類スレ主やssnや松傾らが荒らす
わかりやすいな敗残傾大和説 >>329
弥生銀座で行われた代替わり、権力承継の儀式には、多くのクニの代表が招かれたと思うんだけど、
たぶんそれが途轍もなく凄かったんでしょ。
「うっわ!すっげー!この儀式カッコ良すぎる!文明の香りがする!」
「ウチのクニも、次の代替わりの儀式はこれで行くしかない!」
「前方後円墳だよ!前方後円墳っ!」 みたいな感じで。
んで、那珂八幡などの前方後円墳体制が広まったと。 本当の話だろう
オマエは〜〜〜〜の家の・・・(不明)なんだよw
みたいな話を聞かされて育ったとか
家は『天王』?仏教関係の話ばかり >>861
>これで年代がきっちり揃う。
>畿内説は年代感がばらばら(鴨厨を除く)。
年代感というのを
中国史料や考古資料のファクターを記紀の記事の順番に割り当てることだと思ってる人々
そんな人々の唱える九州説が
歴史学の世界で席がなくなるのは
当然といえば当然 そういう家があると、どこかで読んだw
そういう話(例えばカミタマの家)を聞かされ、育てられて・・・、
ずっと、いまでも?そう思っている
とか 同じ家だと言ってるんだよw
天王?天王宮・・・、
松傾?こういう名前の家 なぜ漫画やアニメ・・・なのか知らないけど
『何者にもなれない お前たち』『』『』『』・・・その他 >>880
猿田彦が伊勢なら、筑紫への降臨を助けられない。
伊勢から筑紫までずっと猿田彦の領土だったのか? 畿内説が洗練されていけばいくほど
九州説は醜悪になっていく >>895
当てはまるなら否定する根拠がないよね。
矛盾するなら考古学を優先するべきだけどさ。 >>901
当てはまるんじゃなくて
当てはめてるから
ダメなの 本当に偶然なのかな?
同じような写真でしょ
キュウリのような葉・・・w
馬の乗り・・・・という話も同じだし 「松傾」の家で?
兄、弟、妹でしょ・・・、
ポケモソのような名前の・・・? デタラメなことばかり言う輩が現れる
と言ってる人がいたでしょ
自分こそが〜みたいなw
『何者にもなれない』
誰の家の話だと思う?確実に家の写真でしょw
なぜ知っているのか、しらないけど もれ(仮)は
ツーちゃん(ゴちゃんねる?)に書き込みをしているだけだから、
ほんとーに読んでいる人だけが知っている話
何かを出版したり、そういう活動もしていないしw >>335
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説って、もう、邪教団みたいだね。 wikiの作成、編集をしたりもしないし、
どういう事だと思う?
むかーしの写真だと言っているんだけど、
ほとんど合致している >>885
あれあれ、箸墓が女性墓ってなんか考古学的根拠あるの???
wwwwww 九州説はほんとにゴミだな
証拠に基づく話が一切できない >>346
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、どうして嘘をつくのだろう?。
(知ってるけど) >>910
畿内説が言う考古学的根拠は「想像」ですから >>910
考古学的証拠に基づいて箸墓が女性の墓だ
とか誰か言ったのか? >>911
根拠ある畿内説さん、910 に答えてね! 畿内説の主張
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は帯方より南1万2千里
会稽東治(冶)の東と書かれ場所で言えば沖縄や台湾の辺りになる
恐らく後漢の伝承に合わせ皇帝の徳を大きく見せるための記述
書かれている距離方位はそれに辻褄を合わせたもの
魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国の位置を正しく記したものではなく
一方畿内では魏鏡の三角縁神獣鏡が多数発見され
三世紀からある卑弥呼の墓の大きさと魏志倭人伝に記される
径百歩の墓を思わせる大掛かりな前方後円墳が存在するため
畿内大和が邪馬台国と考えられる
九州説の主張
距離は短里で九州北部を示している短里はあった証拠はないけれど
畿内説は南と書いてあるの東と読み替え嘘をついている
畿内説は学者が金でマスコミを操っている
畿内説は韓国政府の宣伝
畿内も邪馬台国もなかったから畿内説は嘘をついている
三角縁は国産素材の成分は中国のものだけど
畿内説を罵倒しなければ存在できない九州説
九州説はほぼ罵倒で構成されている >>914
じゃあ無いんだねwww
三雲とは全然違うねー
はぁと 電気、発電(雷)?が〜〜〜(何度も説明した)〜〜〜という話も同じだし 畿内説の説得力が高いから九州説は論を競わせる事すら出来なくて誹謗中傷するしか無いのだろうな >>917
三雲も耳飾りだけだろ
だが耳飾りの出る武人の墓は山ほどあるぞ >>913
>畿内説が言う考古学的根拠は「想像」ですから
という「想像」を根拠なく垂れ流す九州 >>364
>北部九州からさらに水行20日で投馬国<
投馬國は、不彌國の「南」であり、
東方の国は×だよ。
>さらに水行10日陸行1月でやっと邪馬台国なんだぞ?<
「さらに」ではなく、
また「邪馬台国」なんて存在もしないうそつき騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國から「南」の邪馬壹國女王之所都は、筑紫付近にある事になるんであり、
大和は×だよ。 >>915
だから
考古学的証拠に基づいて箸墓が女性の墓だとか
誰か言ったのか? >>910
>>>885
>あれあれ、箸墓が女性墓ってなんか考古学的根拠あるの???
>>885に書いてあるのは
「>伊都国の三雲南小路遺跡は、付随する細石神社の祭神から木花咲耶姫の墓かと思いきや、実は王と王妃の墓だった。
>これが邇邇芸と木花咲耶姫の墓だろうね。
これが通るなら、箸墓が卑弥呼の墓で完全にOKだぞw
邇邇芸も木花咲耶姫も、実在の根拠なんて一切ないんだからww」
「考古学的事実も文献史学的な実在の根拠もない邇邇芸も木花咲耶姫の墓を
記紀の神話だけで想定するなら、」 前提となる仮定
「記紀の人代の説話から、箸墓の被葬者を女性のヒメ王倭迹迹日百襲姫命と想定し
倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼に比定するのは、根拠が分厚すぎてお釣が来る」って話 結論
どこにも、考古学的根拠があるなんていう話はない
九州説は、話をそらして反論した気になるだけ
糸くず連中は、日向三代を福岡に持って行きたがるが、神武の東征前の居所は
薩摩の阿多だし、猿田彦の荒立神社も槵觸神社も宮崎県西臼杵郡高千穂町にある >>920
「箸墓は女性墓 キリッ」
「考古学的根拠は???」
ありませんでしたwwww そもそも主体部を未調査の箸墓に
女性の墓だという考古学的根拠を要求することが
正常な神経でないな >>927
くやしいのう、くやしいのう
wwwww 『祇園 太鼓 人形』
このようなコンセプトも、
ほとんど同じだしな・・・、
なんで知っているんだろう >>928
今日も九州説は一発で撃退され
なにも反論ができず
荒らすだけ >>926、>>928
おいおい、その前に実在と考えるべき理由も根拠もない「邇邇芸と木花咲耶姫」と
いう神話の登場人物の墓を想定する荒唐無稽さを問題にされているのに、何をごまかしているんだ? >>932
九州さんごまかし以外できることが無いから >>899
ニニギが降臨する途中でサルタヒコが現れて霧島まで案内する。
サルタヒコはそのあと伊勢へ帰る。
本文にはなく、一書にみえるエピソード。
道案内するのがエジプトのトート神。
それをパクッただけの日本書紀の一書は、妙に浮き上がった話になっている。 考古学的根拠がしめせない畿内厨が
逆ギレを始めました。
w
www >>928
卑弥呼のマイナンバーを答えろぉーみたいな質問なんで
くやしがる要素はゼロでは? >>935
だから、示せないと畿内説になんか困ることあるの?
困らないのだから
逆ギレする人もいない
>>935が妄想してるだけ >>937
イミフ
畿内厨が箸墓が女性墓と示せないだけでしょ。 この状況で確定とか非科学的だねって話 九州説は言う事が40年は前の古田が言ってたことから何にも進歩しないな
畿内説はその間に理論の整理とか考古物の
科学的手法による調査まで取り入れて
畿内説をより強固なものにしているというのに >>940
箸墓が女性墓と示すことすらも出来ないのに?
www そりゃ主体部を発掘してないからな
わからないのに箸墓を女性の墓と断定してる人はおらん
九州説じゃあるまいし 『天王』
四天王、天人、天子、あまつかみ・・・・・・・・
など書いてあるでしょ?
なぜ同じなんだと思う? >>942
じゃあ確定じゃないじゃん
悔しいのうwww 九州説は畿内説を見習って理論的に話をするようにしたらどうかな
そうしたらまともに相手してもらえるぞ >>944
何を悔しがってるのかな
さっぱり意味がわからんけど >>943
確定してないなら、九州説と同じ土俵だだねぇ。未確定のことを確定というのは、週刊ゲンダイだけで結構ですよっと >>944
箸墓を女性の墓と断定しないと
なんで確定しないの?
言ってること支離滅裂では? >>380
>畿内説はマナーのなってない九州説に正しい指摘をして苦言を呈してるだけ<
畿内なんて存在もしないうそつき騙し文言であるし、
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しであるから、
九州説は、犯罪人的であり、マナーのなっていない大和説者に、
正しい指摘をして苦言を呈してるだけ。 九州には径百歩に相当するような墓はないんだなこれが
畿内には卑弥呼の時代三世紀のものでも十基以上ある >>948
なにが「確定」なんだ?
日本語下手すぎる奴だな >>949
畿内説は、卑弥呼の墓はできないんでしょ?
その状況で何が確定したのかな?? 畿内が存在しないとか
非常識なことを連呼するから
九州説の信用が地に墜ちるのだ 畿内説で確定、九州説は非科学。
卑弥呼の墓は確定じゃないですが
wwww 畿内には卑弥呼の時代三世紀の
径百歩を思わせる直径100m級の古墳が多数存在
九州にはない >>953
卑弥呼の墓ができるって
日本語下手すぎる
どこの人? 稲荷、稲の話をしていたこともあった、
むかーし・・・・とかw
どういう事なんだろう、
謎の民家園(『福島 民家園』)に、
田のようなものが保存されているし 九州説がウソつきだと罵倒せずにはいられないね
畿内説の存否とは関係ないが 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件とは、スサノオノミコトが、大タコを捕獲して、解体を実行し、文書作成のために必要な墨袋を、獲得した話が、変形したのではないのかな。。。 畿内説は一貫して筋道立って魏志倭人伝の記述および
発見された考古物の説明をしている
九州説はそれを罵倒してるだけ >>963
炭から墨汁を作製していた、ヤマタノオロチ退治事件を記録した時代の者達が、硯の無かったスサノオノミコト時代に、なぜ、大タコの墨袋が貴重だったのかが分からなかったので、
大タコや大タコの墨袋を、ヤマタノオロチや天皇家の剣に、変換した話を作製してしまったのでは、ないのかな。。。 八本の頭は、タコの足を見間違えた可能性も、高まってきたな。。。 畿内説に対する害意だけで存在する九州説
もはや説じゃなくて呪詛とか呪文の類 家の父親も次男・・・、
とあるスレなどでも、同じような話をしていたり
東北地方のほうの(出身?むかーし住んでいた?)、
次男の家が・・・とか、家の話でしょ? 奈良では文書作製に必要なタコを捕獲でかないし、魏志倭人伝時代の硯も見つからないので、タコに憧れて、足を揃えたタコ型の古墳を作製した可能性が、急激に、高まってきたのではないのかな。。。 九州説の歴史に対する侮蔑と傲慢さは
とりもなおさず人の営みに対する侮蔑と傲慢さでもある
昔の事なんて自分の都合いいように作り変えればいいだろといったような 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板には、
優れた九州説の考古学者だけではなく、このレベルの劣ったスレッドで、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝している、頭の悪い韓国人の係員よりも、数段、レベルの高い、手ごわい畿内説の宣伝係員がいるので、
このレベルの劣ったスレッドとは違い、レベルの高い討論会が続行されているな。。。 伊達郡の川俣町という掲示板、
次男(二男)が〜という謎の書き込み
あと『チョン州 長州』
このようなスレも読んでみて 纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかったという真実は、魏志倭人伝時代についての討論に、どのような影響を与えるのであろうか。。。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 畿内説の歴史に対する侮蔑と傲慢さは
とりもなおさず人の営みに対する侮蔑と傲慢さでもある
昔の事なんて自分の都合いいように作り変えればいいだろといったような でも父親の親(父)は長男だと言っていたしな・・・・。 九州説に対する害意だけで存在する畿内説
もはや説じゃなくて呪詛とか呪文の類 九州説の呪詛が自分に回って
オウム返ししてばかりのオウム人間に変わり果ててしまったザラコク 川俣町に住んでいる、
住んでいた軍司(職?)という意味なんじゃないの 二本松・・・?
そっちのほうの話もしていたし、
老婆の生まれたところでしょw ここを九州説の生きた博物館にしよう
議論に負けて九州説がどんな狂態を晒しているかをライブで見れる 九州説への呪詛が自分に回って
まともな日本語も書けない畿内厨 ただいまオウム返しをしたのが
脳がオウム並みに退化したオウム人間ザラコクです ここを畿内説の生きた博物館にしよう
議論に負けて畿内説がどんな狂態を晒しているかをライブで見れる またオウム人間がオウム返ししましたね
今日はよく鳴いてますよ さて九州説にエサをあげて見ましょう
ものすごい勢いで食いついてきます
どんな鳴き声を上げるんでしょうか?
邪馬台国→大和国
三角縁神獣鏡→魏鏡。卑弥呼が魏に朝貢した
景初三年の記銘があり魏志倭人伝にある
魏からの下賜鏡であるというのが有力説
前方後円墳→三世紀から畿内に存在。
その頃の九州の古墳は規模、数と共に畿内に劣る 箸墓という奴婢埋葬痕跡のかけらもない墳墓を卑弥呼墓だと言い張るアホの>>1
アフォのぉ>>1 九州説のアホウドリがアホーアホーと鳴いてますね
今日は賑やかですねえ 本当に何の話なんだろう
当時住んでいた家というのがあるんだけど、
凄い刀が〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
刀も誰かに、あげちゃったのかな、売ったのかな〜と言っていたり、
畳や床下の土まで掘り起こされていて、刀が無くなっていた
とか 纏向にはタコや硯が無いので、文書を作製できなかったという真実は、魏志倭人伝時代についての討論に、どのような影響を与えるのであろうか。。。 444スレ目だし
九州説はそろそろ死滅してはいかがかな 僕たちが、かけもちでアプローチしている、このレベルの劣ったスレッドとは別の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板には、
優れた九州説の考古学者だけではなく、このレベルの劣ったスレッドで、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝している、頭の悪い韓国人の係員よりも、数段、レベルの高い、手ごわい畿内説の宣伝係員がいるので、
このレベルの劣ったスレッドとは違い、レベルの高い討論会が続行されているな。。。 このスレッドは1000を超えました。
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