邪馬台国畿内説 Part443
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554167744/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし つまり、邪馬台国畿内説は、韓国政府による宣伝だったことがバレ、完全に破綻してしまったのだね。。。 レベルの劣った、このスレッドのテンプレートでは、日本の国民を騙せない可能性が、99.5パーセントあるな。。。 【速報】 pringが500円を配布中
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スマホを使ってセブンATMからお金を下ろせる(キャッシュカード不要)など普通に便利なアプリですので是非利用してみて下さい ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 何ここ?
>>1-67
2019/04/05(金) 14:24:06.28 〜 2019/04/05(金) 14:47:40.29
キモイ 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
105年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらってから、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか? 837
誰が見ても塚、
しかも地元の墓場なのだが。
繰り返し思い込みをかきつづけてるのはおまえ。
箸バカ古墳に奴婢埋葬痕跡はない、あきらめろ。 >>75
>誰が見ても塚、
こういう、自分以外誰一人認めないことを、根拠もなく延々と言い続けるのが
ザラコク並み
左側スロープ君は、一人惨めに朽ちていけばいいよ 確か倭国は互いに接していたんだよな。
伊都国や奴国といった福岡と接していた邪馬台国とはどこなんだ?
え?奈良?
100人中1000人がバカにする話だよな。 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 九州説のカルタはまだかー、
あれは九州説の大宣伝になる、早く再開してくれー 851日本@名無史さん2019/04/05(金) 10:16:17.09>>854
なんか最近、つぶやき荒らしの活動レベルが上がってないか?
☝
すれ主の仲間だよ
畿内説の何たるかをわかって無いよ
最近の纏向・箸墓で賑わう畿内説は付け足しでしかない
モモの種?掘っ立て柱建物?径百歩?前方後円墳?土器?ヤマト王政?
魏志倭人伝と関係ないじゃん
だれも3世紀前後にヤマトに文化が無いとは言ってないよ
その文化が邪馬台国と結び付かない事を指摘してるのだよ
畿内説は現在日本と
エラーの原因が分からない?
まず確認しよう!
《書き込めない時の早見表》
《掲示板へ戻る》
《スレッド一覧へ戻る》
《スレッドへ戻る》 畿内で最初に「纒向だー」といったのは誰??
それって、>>1 なんじゃないの、、 畿内説の南→東の主張は横に置いておいて
距離は畿内説ではどのように解釈してるですか?
いろんな畿内説本を読みましたが
距離についての明確な説をした畿内説本がありません。
長里+短里 の 変な畿内説の灰本はどこかへ行ったようですが
Q
距離は畿内説ではどのように解釈してるですか? 【古代】鳥取の出土弥生人骨をDNA解析 縄文人×渡来人、日本人は複雑なハイブリッド? 殺傷の謎、倭国大乱の犠牲者か
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1554451150/ テンプレに添って
葛城VS纏向の議論聞きたいなww
日本海ルートVS瀬戸内ルート聞きたいなww 桜井市教委なにやってんの
教委の中のセクト意識 強すぎだよ
合理化できるよ >>87
>纏向も
良いけどさ
葛城をどう片付けるのww <
>>93
>93畿内説議論してくれんか2019/04/05(金) 21:10:49.26
テンプレに添って
葛城VS纏向の議論聞きたいなww
日本海ルートVS瀬戸内ルート聞きたいなww
☝
同感 >>90
このスレ立つ前からドンコイ等で
纏向は邪馬台国の王都だと言ってた
このスレは2番煎じ >>96
このスレは
纏向は邪馬台国の王都だと言ってません
倭国の王都と言ってますな
御愁傷様 畿内説は
だろう だろう だろう で進めていく
手法としてはいいが だろう は誰でもできると思う 邪馬台国は吉備だと考えるのが妥当
邪馬台国は房州でよい
邪馬台国は出雲であろう
邪馬台国は畿内だと考えられる
どれも同じくらい根拠がないだろ… 気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。
敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。 倭人伝に寄生する畿内説は考古学データのツギハギにすがるしかない >>106-111
九州説さん
畿内説が相手では歯が立たない
と言う例証ありがとう ぼくのかんがえたさいきょうのきないせつ
自己顕示欲が肥大したこどもにはまともな議論は無理のようだ 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 上から読んで来いよ、いくらでもある
それとも反論が怖くて見えないか? >>730
>>周地の上空の「天の北極から、南天の夏至正午の太陽の距離の11万9千里」を半径にする円を、
南に倍して、「天の北極から、南天の冬至正午の太陽の距離の23万8千里」を半径にする円に、する。<
>天蓋上のことは、地上の製図には関係ないと何度教えればww<
関係がある。
>正勾の法とまったく関係ないじゃないかw<
「南の決定」に関係がある。
>倍正南方、以正勾定之のどこに冬至正午の太陽が出てくるんだ?詭弁にすらなってないww<
当然、周髀算経に出てくる。
>>「以正勾定之」は、今の話では東西線から南北線を求める方法であるから、
「倍正南方」とは直接関係がない。<
>驚くほどまったく読めてないし、理解してないんだな
倍正南方、以正勾定之の「之・これ」は「倍正南方」のことだぞww<
「南」の事だ。 >>732
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
ここで小バカにされながら消える宿命 >>736
「南≠東」などの嘘吐き騙しの議論で、
負けたから荒らして
さらに恥を重ねる大和説 畿内説じゃ話にならん
もっとまともな対論者はおらんのか >>740
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
もう議論すら必要もないほどボロボロだからだ
見てみな、大和説者の荒らしか内容のない煽りレスしかない状態を >>741
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
必死に邪馬台国畿内説スレを荒らして
敗北を勝手に周りに知らしめてくれている 誹謗中傷で場を糊塗するのが精いっぱいの畿内説くん
一日中スレに貼りついて空しくならないの? >>744
>>周が63歩の円が、手ごろで、28宿も入れ易くて、便利だから。<
>そんな半端な数字をもとに、 「二十一歩」という具体的な値は出てこない
>手頃というなら、もっと小さくたっていいだろ?
適当な思いつきを言い張ってもダメだってばさ!ww <
周髀算経は、結局、は、
「二十八宿」を示すのに「六十三歩」の円を造ろう、とした、
という事であり、
63÷28=2.25であるから、
円周上の「2.25歩」平均に1宿を当てればよい、という事になる。
周代の「元」周髀算経は、それ倉雄の間隔で宿を置けばよい、
と考えていた、と思う。 なんで九州説の人は畿内説に反論しないのかな
ふふふ
知ってるけどね 本当に、なぜ同じ話ばかりしているんだろう
あまてらす、すさのお・・・・しょーとくたいし?
この辺りで何かあったのかな
大逆事件? 刑務所・・・監獄が〜みたいなコンセプトとか、
ホンモノの何かがいるでしょ?
冤罪で、そういうところに入れられたりしたのかな >>120
>関係がある。
どのように?
ただ言われたことを否定して文字列を並べても無意味
>「南の決定」に関係がある。
南の決定に「倍する」ところがどこにもないだろ?
>当然、周髀算経に出てくる。
二十八宿の円周上の位置決めの前段階の「倍正南方、以正勾定之」に出てこないだろ
魏志倭人伝の話をしているときに、三国志呉書に孫権が出てくるって言われても
「なんじゃそら」にしかならないのと一緒
>「南」の事だ。
だーかーらー、「南」は倍にできないだろ?ww
倍正南方が「之」で、南北方向を正勾の法で決めるんだよw 天王、牛頭てんのー?・・・など
アニメ(なぜアニメなのか、わからないけど)でいうと
『何者にもなれない・・・・・・・』
家の写真と同じというのも、おかしな話 >>131
>63÷28=2.25であるから、
また、めちゃくちゃ半端な数字を出してるww
二十八宿は、宿(星座)ごとに大きさが違うから、平均を出しても意味がない
それにザラコクは有効数字1桁くらいって言ってたのに、2.25だと有効数字3桁で
書かなきゃいけないww
その場その場で言い逃れの思いつきしか書けないから、いつもデタラメww 天王宮 山王・・・、『松傾』(調べてみるとわかる)?
こういう名前の家、
あの写真と同じ名前の家だしな・・・、何なんだろう 日本の神話、弓矢が〜みたいな話も出てくるでしょ?
着物のデザイン(模様、柄)なんじゃないの?
『矢羽』『矢羽根』
このようなやつw >>745
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
余りにも自分の…・論理に気付かないアホ論理ばかりだから、
オウム返しされてばかり
「オウムされ人間され」大和説 >>746
>>前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示だ。<
>だから、その「前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示」がどこなのか特定して、
分離したテキストを具体的に示してごらんって何度も言ってるんだが?<
「呂氏曰」と書かれた部分や、
始皇帝の「1歩=6尺」を使ったと思われる記述。 >>747
>>それ、間違い。
「倍する」の目的語は、「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」。<
>相変わらずデタラメだな
漢文では目的語は他動詞の直後に来る<
漢文では、各語句の品詞の選択はかなり自由であり、
自動詞他動詞の明確な区別もなく、
各文言の意味を逐次的に受け止めていくもの。
「目的語は他動詞の直後に来る」なんて絶対規定はない。 >>749
>>「西晋惠帝日本國を名乗ったのが九州倭国」だ。<
>だから、旧唐書には或云 日本舊小國 併倭國之地って書いてあるだろ?<
その「日本」は、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」した「大和州」の事だ。
>「日本國を名乗ったのが九州倭国」なら、「九州倭国が併合された『旧小国』」だ<
大和は、西晋代にはまだ九州倭国の別種の旧小国であったのであり、
西晋に遣使する事はなかったのだ。 >>751
>>「365+1/4尺の系」なんて、地球上での太陽や月の周期の話であり、
天空での星や星座の話ではないから、×。<
>「地球上での太陽や月の周期」は、どこから湧いたんだ?w <
一寸千里などからの天体の位置観測から湧いた。
>能田忠亮「周髀算經の研究」から
「その周囲は三百六十五尺四分尺之一となる。是れ一尺を一度と為したもので、
その円周を周天三百六十五度四分度之一に相応ぜしめ、
円周の毎一尺に識を為して繊微も差ふこと無からしめたのである。」
「周牌算經」では、周365+1/4尺=365+1/4度で星の位置が書かれていて、
能田氏はこれから、星の位置はBC1100年代だと導いたのだろう?
ということは、周365+1/4尺=365+1/4度というのは、BC1100年代から使われていたことになるはずだね。<
この部分は,能田の解釈間違い。
周初の一寸千里時代の周髀算経は、
「度」という分度器的角度文言を使用していた、という形跡がなく、
全て「里歩系と尺寸系の併用」や「日数」での記述であり、
「度」という文言使用も、
前漢収集説明学者の説明での使用文言であった可能性が高い。 >>752
>>「整地」工事を書く、という人類の常識外れの事なんかしないし、<
>天体観測には水平面が必要だというのが『常識』
その手順が周髀算経にも書いてあるだけ <
周初頃の「一寸千里」計測でも「整地」を書いていないから、×。 >>756
>>1〜4が、メインの意味。<
>メインかどうかは問題にしていない 倍に背の意味があることが確認できればこと足りる
そして「5. 古同“背”」というのは「古くは同じ」なのだから、現在メインではないのは当たり前
反論のポイントすら的外れww<
漢字の使用意味は、話者筆者も、その文字の発生時の本源的意味で使用し、
読者もその本源的な意味で受け止めるものであり、
それが、「倍」の場合の1〜4の意味。
>>「南北」と書く確率のの方がはるかに高い。<
>確率が高かろうが低かろうが、実際に書いてあるんだし、
確率が低くても0であるという論証がなければ、否定の論拠には使えないww<
「背」なんてかかれていないんだし、
「以正勾定之」は南北を計測する事をしめしているんだから、
史料批判無しに確率が低い事を主張する類スレ主の曲解捏造は、×。
反論の筋立てすら的外れww >>757
「南→東」や「畿内」などの嘘吐き騙しの大和説が、
いくら「100%断定して」荒らしても
史料批判に拠っての確率の高い九州説に負けたから荒らしてる、
とひと言書き込むだけで
全て大和説の恥ずかしい敗北の証と変わる >>758
>>(行程説明)という順次式の記載を採っている。<
>でも、「出発方向は書いてあっても実際の地理上の方角は書いてない」ことがあるんだろ?<
いや、「出発の様態 」の説明であって、
出発方向の記載は、目的地が目視出来れば書かれない事もあるし、
目視出来なければ、出発時の様態を説明する場合もある。
それは、途中の説明でも同じ。
>だから伊都国が東南でも間違いじゃないって言い張ってるのがザラコクなんだからw<
伊都国は、末盧國出発時点でも、途中でも見えないから、書かないよ。
>つまりザラコクの主張は「魏志倭人伝の方角は出発方向だけが書いてある場合があって
必ずしもそれが地理上の実際の方角を指しいるわけではない」にしかならないww<
つまり 、「南→東」などの嘘吐き騙しをする類スレ主やスレ主や大和説者は、
全員、嘘吐き騙しの狂人。 >>145
>「呂氏曰」と書かれた部分や、
>始皇帝の「1歩=6尺」を使ったと思われる記述。
それ、何の根拠もないんだが?
そもそも「1歩=6尺」は周代から変わらない
周髀算経が周代の記録だというなら、当然に「1歩=6尺」だ
説文解字注
(步) 行也。行部曰。人之步趨也。步徐、趨疾。釋名曰。徐行曰步。从止?相背。止?相竝者、上登之象。止?相隨者、行步之象。相背猶相隨也。薄故切。五部。凡歩之屬皆从步。
文字化けしているところは止の反字で少の右の点画のない字
https://f.jigen.net/img/fn/k/4/70/36046f4.png
人之步趨也。步徐、趨疾。人の歩趨である。歩はゆっくり(徐)趨は速い(疾)。
釋名曰。徐行曰步。 釋名曰く、ゆっくり行くことを歩という。
从止?相背。 止?に従い、互いに背く(左右一対)。
止?相竝者、上登之象。 止?の相並ぶは、上に登るかたち(象)である。
止?相隨者、行步之象。 止?の相従うは、歩いて行くかたち(象)である。
相背猶相隨也。 相背は相隨である。
薄故切。五部。凡歩之屬皆从步。
ザラコクお得意の『「止」は、歩いてないから足底長』、などという意味はどこにもないだろ
最初から最後まで「1歩=6尺」だよ
「1歩=6尺」は後代の書き足しだから認めない
後代の書き足しなのは「1歩=6尺」と書いてあるから分かる、というのは典型的な循環論法だ
バカ丸出しww >>146
>「目的語は他動詞の直後に来る」なんて絶対規定はない。
絶対規定ではないとしても、同じ文中になくて、代名詞で示されてもいないものを、
目的語とするのはあり得ないww
倍正南方、以正勾定之で、「倍」を倍するという他動詞とするなら、
目的語は「正南方」にしかならないし、それでは意味が通らないww
「倍は倍するという他動詞」は大間違いww
ザラコクは間違いを指摘されても、延々と間違いを主張し続ける
明らかに知的能力の点で疾患があるのが明白だ >>147
>大和は、西晋代にはまだ九州倭国の別種の旧小国であったのであり、
>西晋に遣使する事はなかったのだ。
いやいや、その別種の旧小国が「日本國」なんだろ?
九州説およびザラコクの言うことにはww
根拠は旧唐書で、旧唐書は半分×書じゃないんだろ?
そして、「九州倭国が晋朝に日本國を名乗った」と言ったのがザラコクだ
つまり、「日本國を名乗った九州倭国」が『倭の別種の旧小国』と言うことにしかならないww
どこまでいってもザラコクはバカ ザラコクは知らない事について決め付けが多過ぎるから対話が成立しないな >>150
>漢字の使用意味は、話者筆者も、その文字の発生時の本源的意味で使用し、
>読者もその本源的な意味で受け止めるものであり、
>それが、「倍」の場合の1〜4の意味。
本源的かどうかではなくて、倍に背の意味があるのが事実
倍に背の意味があるというのは、倍と書いて背という意味で読者に通じるということ
倍正南方は、それを母語とする人が読んで、背正南方の意味で読めるんだよ
根拠は維基文庫
>「以正勾定之」は南北を計測する事をしめしているんだから、
そうだよ! 「南北を計測する事」だ
でも「北」っていう字は「倍正南方、以正勾定之」には書かれていないだろ?
倍正南方が背正南方の意味で、正南方がまっすぐ南、背南方が南を背にして北、だから
倍正南方=南北方向で正勾定之の「之」は、倍正南方=南北方向なんだよ
これが正しい史料批判のやり方であり、正しい史料解釈だ >>152
>伊都国は、末盧國出発時点でも、途中でも見えないから、書かないよ。
邪馬壹國も、水行10日+陸行1月の彼方だし、当然に出発時点でも途中でも見えないから、
南至邪馬壹國も出発方向以外にはあり得ないよな? ザラコク理論では?wwwww
つまり、出発以降の方角は書かれていないし、実際の地理上の方角とは限らないわけだ!
ザラコク理論に従う限りは論理的にこうなる以外にない!!wwwww
つまり「南≠東によって×」は、ザラコク理論に従うならば、成り立つ余地がないwwwww
二度と書くなよw
書いてもいいけど、バカ丸出しの上塗りにしかならないぞww そんなことよりも
なぜ家の写真〜〜〜〜〜〜他の国の音楽(いわゆる洋楽)・・・w、
繋がっているんだと思う 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 日本人ではないんだろう?
みたいな事を言ってる人がいたり
そもそも、もともとの話 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、バカ丸出しの恥の上塗りを実行しているな。。。 >>161
そうだね、、、
僕たちは、もう、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの研究を開始したな。。。 家は、そういう業界(音楽など)の人間ではないしw
めーそん? 完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の三寸男が、退場し、キャラクターの変換を実行し、呟きを開始するために、出現した可能性が、高まってきたな。。。
159日本@名無史さん2019/04/06(土) 08:19:15.86
>>152
>伊都国は、末盧國出発時点でも、途中でも見えないから、書かないよ。
邪馬壹國も、水行10日+陸行1月の彼方だし、当然に出発時点でも途中でも見えないから、
南至邪馬壹國も出発方向以外にはあり得ないよな? ザラコク理論では?wwwww
つまり、出発以降の方角は書かれていないし、実際の地理上の方角とは限らないわけだ!
ザラコク理論に従う限りは論理的にこうなる以外にない!!wwwww
つまり「南≠東によって×」は、ザラコク理論に従うならば、成り立つ余地がないwwwww
二度と書くなよw
書いてもいいけど、バカ丸出しの上塗りにしかならないぞww
160日本@名無史さん2019/04/06(土) 08:36:39.27
そんなことよりも
なぜ家の写真〜〜〜〜〜〜他の国の音楽(いわゆる洋楽)・・・w、
繋がっているんだと思う 孫たちが、来訪するので、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの研究を、休止する必要があるな。。。 ほとんど同じ話
『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』『』
あと、これも調べてみて
『ばかだモン』 >>164
倭人伝の距離は帯方郡から想定上の邪馬台国の位置
沖縄や台湾辺りの会稽東治(冶)の東まで1万2千里というのが最初にありきで
それに後から辻褄合わせをしたものと何度も説明されてるぞ?
そういう事を書くから九州説はバカという事が回りにバレる 畿内で最初に「箸墓だー」と、叫びまわったのは誰だったのかな、、、。
そりゃ >>1 なんじゃないの。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、バカ丸出しの恥の上塗りを実行しているな。。。
170日本@名無史さん2019/04/06(土) 09:03:44.01
>>164
倭人伝の距離は帯方郡から想定上の邪馬台国の位置
沖縄や台湾辺りの会稽東治(冶)の東まで1万2千里というのが最初にありきで
それに後から辻褄合わせをしたものと何度も説明されてるぞ?
そういう事を書くから九州説はバカという事が回りにバレる >>172
北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や沖縄の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、
韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、沖縄や台湾辺りの会稽東治の東に倭人が、いなかったという嘘を宣伝しようとしているのでは、ないのかな。。。 >>759
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある<
出雲自体が梁代まで独立的であり、九州倭国系とは違う国であり、
吉備も丹波も出雲系が関係しており、年代も、卑弥呼や壹與とは違うもの。
>纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートルある<
「南≠東」であるし、
いずれも3世紀末以後の東征毛人五十五國の将軍らの墓であるから、×。
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
>伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
一時代前の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓と比べても平面プランで10分の1以下
そんなしょぼい倭王墓はないw<
壱與は、急遽共立の(卑弥呼の宗女の)女王であるし、薄葬令にももろに制約され、
外観的には、小さくてやむを得ない。 九州倭国系とは違う国の出雲は、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した場所だった可能性があるな。。。 ヤマタノオロチという謎の生物は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような意味があるのだろうか。。。 神武天皇が、奈良を侵略したときの作戦と、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 九州倭国系とは違う国の出雲とは、本当は、どこにあったのだろうか、、、 なかなか優れた推理だ
スサノオノミコトは、まず酒をふるまってからヤマタイのオロチを退治した。
そこで神武は、その作戦に学び、そして奈良で成功したのではないかな、、、 スサノオの故郷は新羅らしい
出雲国ではそのように伝わるようだ。 何かの家なのかな(だった)?
『亀戸天神』のwikiを読んでみて『鳳輦』
『葱の華』あの写真でしょ・・・?
『松傾』こういう名前の家なんだけど
『葱』ロシアの〜と書いてあったり『一本の葱』? 亀戸天神に行ったりもしたと言っているし、
老婆よりも前の世代の話、明治時代? >>760
そう言えば「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
畿内説を攻撃する九州説のアホとか
わざわざこのスレに来てわけのわからない事を、
書いてたな >>769
>桃の種 上東遺跡では9606個、纏向遺跡約2800点
他にも吉備では数多く桃の種が出土
仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になる<
どちらも、「南≠東」などに拠って×。 な〜んだ
吉備の桃太郎からプレゼントされた墓つくり倭種のデザートだったのか 九州説が畿内説スレにおかしな書き込みすれば
周りはああ勝負はついて負けた九州説が荒らしてるんだなと認識する >>774
>「西晋惠帝日本國を名乗ったのが九州倭国」だ。っていってるのはザラコクだよ
文句はザラコクに言えww<
新唐書日本伝の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」や、
釈日本紀がついうっかり紹介したした延喜講記の、
「小野妹子が 隋文帝に日本国を名乗った」などという記載が根拠。
>>倭国が九州、日本国がその東にあった小国だよ。<
>そして、これは大間違いの大ウソ 日本国は天武持統朝で作られた国号で、
その直前までずっと倭國はヤマト王権が代表している<
唐書などで、大和日本国は倭国から別れた別種の旧小国であり、
白村江で戦ったのは(大和日本国ではなく)倭国や倭種や倭賊であったのであり、
白村江の後で、大和日本国が九州倭国を併合吸収継承した。 >>158
>これが正しい史料批判のやり方であり、正しい史料解釈だ
ザラコク相手にマウントが取れてうれしいの? >>776
>>卑弥呼より後の時代のことを持ち出しても何の意味もない。<
>卑弥呼より前の時代のことも山ほど書いてあるじゃないかww・・・<
楯築も、西谷9号墓も、¥纒向石塚古墳¥も、東田大塚古墳も、平原1号墓も、
おそらく、卑弥呼よりも後だ。 >>170
>それに後から辻褄合わせをしたものと何度も説明されてるぞ?
だから短里になったわけだ。 畿内説の呟きが荒らし回っているのは放置なんですね。
都合が悪いことは、魏志倭人伝と同様に目に入らないわけだ。 『チョン州 長州』
こういうスレも同じような話ばかりしていない?
もしかして大作の陰謀なのかな?
武士が何やら〜と言っていたり、
そのときが来るまで、潜伏していたみたいな話? >>777
>そもそも、平原1号墓が卑弥呼の没年より数十年古いんだぞw
卑弥呼が生きている間に葬られた人物の墓が卑弥呼の墓の訳があるまいww<
平原には「21枚の尚方作の方形規矩鏡」があり、
そんなに大量副葬の尚方作鏡のは、明帝の下賜の銅鏡百枚をおいてしか有り得ず、
平原は卑弥呼の死後の墓であり、
卑弥呼か、卑弥呼の女王を継承した宗女の壹與しか有り得ない。 スパイ、二重・・・三重、四重・・・・・・・・・・、
スパイ? >>778
>畿内説ではそれでいいよ <
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
「松傾」男も、人種差別的キョクウの・・・・大和説者であるし、
いずれも、「南≠東」などの嘘付き騙しに拠って、×人種。 >>780
>今のところ日本全国殉葬跡は見つかって無いからな<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
にも紹介されているように、
祇園山以外にも、いくつか「殉葬墓」があった事が紹介されている。 古田信者のジイさんどもがこの世を去れば
九州説は消えてなくなる >>782
>現状では、大規模殉葬と判断された遺跡は国内には一つもない<
祇園山があるから、この大和説男も、嘘つき騙しの×人間。 スサノオ関係のスレも読んでみた?
『祇園 仏教関係』
ギオン、ジオンと言ってる人がいたり
『平家 死ぬために生まれてきた』
おずぼーんの曲でしょ? 本当に家の老婆も
一度は死ぬんだから
(一回しか死なない)?だったかな
このような事を、いつも言っていたしな・・・何なんだろう 老婆の生まれたところ・・・?
たしか、いまの福島県の・・・。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>785
>まったく関連が見られない数字を二つ並べて、片方で割り算してまったくキリの悪い端数だらけの
数字を示して、「推定の理由だ」と言い張るとか、恥ずかしくないのか?ww
一寸千里でも八万里でも、キリのいい数字を使ってるだろ?
一寸562里とか、天蓋と地の間の距離が9万300里とか書いてあるなら、まだ分かるんだが、
周髀算経はそうはなっていない <
「元」周髀算経は「整地」なんてしていないから、
「二十八宿」の説明での「整地」記載は、
実は「元」周髀算経の「28宿」の投影円であり、
新たにそれの内側に書かれた「尺寸系」での円は、「元」周髀算経の文ではなく、
前漢収集説明の学者の追記的説明文だ。
>それ、後代史家の前漢収集説明学者の説明内容であり、 周髀算経の元の文ではない。<
>だから、その「後代史家の前漢収集説明学者の説明内容」がどこなのか特定して、
分離したテキストを具体的に示してごらんって何度も言ってるんだが? <
「即平地」も怪しい。
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。
審定分之,無令有纖微。分度以定,則正督經緯。
而四分之一,合各九十一度十六分度之五」
の部分は、「里歩系→尺寸系」への書き換えと「度」を使っているから、
前漢収集説明学者の書き足しであった可能性が高い。 ヤマタノオロチという謎の生物は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような意味があるのだろうか。。。 >>786
「南→東」も「長里」も無いわ
間違った曲解情報から推論したら間違った結論に辿り着く、
という当たり前の実例だな >>795
>ベンガラは丹じゃ無いからなー<
「丹」が顔料だ。 >>806
>卑弥呼墓の場所は高尾張邑、高天原(御所市高天)だ。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>812
>大和説を叩くのは簡単でいいな。
魏志倭人伝に出てくるものが何も見つかっていないからな。
これが吉備説とか出雲説だと、相手をするのは骨が折れただろう。<
「骨が折れ」ない。「南≠東」などに拠って、×。 >>915
>教科書さえも畿内説寄りになってる現実があるからね<
そりゃ、教科書会社も学会も検定する政府文部省も、
全て「南→東」などの嘘付き騙しの、
万世一系八紘一宇の戦争皇国史観の・・・・人種だから。
しかし、現場の先生らには、九州説者が多かった、
という記憶があったね。 フルタの爺さんはとうに雨の岩戸にお隠れになったが、
新たにお出ましになった天照大御神の下で、
九州説はますます発展、強固になった ジャイアンのテーマ?
日本昔話の曲と同じことを言っていない? 家にも同じような人形が飾ってあったり、
そういう曲(オズボーン。ジャイアンのテーマ?)もなかった・・・?
『祇園 太鼓 人形』 >>823
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・類スレ主がまた、
曲解捏造の嘘つき騙しをして、世間の人々を騙そうとしているが、
・・・・を相手にしても無駄で無意味なので、もう一度貼り付けれおこう。
長里の否定は
1.魏志の殆どの里記載は、長里の5〜6分の1位の1里60m〜90m位である
2.短里は周髀算経や山海経や淮南子や漢書注や魏略や後漢書や梁書の頃まで使われていた
3.周代の周髀算經は1歩≒1尺、300歩=1里で記載されているし、
谷本計算によって、1里≒76.5m位であった。
4.短里の反論の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
5.魏志が司馬懿の功績の過大評価目的の忖度誇張など、魏使らの頃にはあり得ず、
魏略や後漢書まで短里で記載されている事で完全否定 などでで完璧
編年がAMS法による14C年代とその他の推定年代が齟齬がないように
標準編年が組み上げられている、という事は、
つまり、大和説学者らが既にAMSを信頼しなくなっている、という事の証拠。
前方後円墳時代は卑弥呼の「冢」の後である事も確実で 、那珂八幡などの筑紫が先行し、
大和の纏向の撥型の石塚は3世紀末にしかならない
更に、倭王の居所=女王之所都を纏向とする事自体が、「南≠東」に拠って、
始めから×であった。 『何者にもなれない お前たち』
キュウリのような葉、家の写真だしな・・・・・・・・w
ホンモノの何かの家なのかな? やれやれ
九州説が荒らしてるなあ
議論に負けたのがそんなに悔しいのかね ジャイアン、良い子だ、ねんねしな〜
みたいな事を言っているでしょ? 『ザ・モモタロウ』でいうと・・・、
ウラシマンが出てきて、カメを助けたりする? >>826
>>826
>>丹の定義を明確にしてくれないかな 結構 幅広いような気がするが<
>グダグダ言い訳をするやつもいるけれど、倭国の産物として特記されるものだから、
そこらにある赤土ではだめだよ
仙薬たる辰砂、水銀朱だからこそ、わざわざ其山有丹と書かれるわけだ<
魏志倭人伝には、「丹」に関しては、
「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」と説明し、
「其山有丹、其木有[木冉]」とし、
明帝は卑弥呼に「鉛丹五十斤」を贈り、
「遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人」が「丹木」を上獻しているから、
「辰砂、水銀朱」だけだ、と断定している訳ではなく、
「塗其身體、如中國用粉也」だから、顔料にように使うもの。 日本の神話?
(一系、直系?ではない)繋がっていないよ
みたいな話ばかりだし 教科書も畿内説優勢と載るし
九州説はそろそろスポンサーが降りるんじゃないの
そして関わった人間は口封じのために古墳の周りに穴掘って埋められる >>148
>>「地球上での太陽や月の周期」は、どこから湧いたんだ?w <
>一寸千里などからの天体の位置観測から湧いた。
突然、話題を変える詭弁だったかw
>>ということは、周365+1/4尺=365+1/4度というのは、
BC1100年代から使われていたことになるはずだね。<
>この部分は,能田の解釈間違い。 周初の一寸千里時代の周髀算経は、
>「度」という分度器的角度文言を使用していた、という形跡がなく、
>全て「里歩系と尺寸系の併用」や「日数」での記述であり、 「度」という文言使用も、
>前漢収集説明学者の説明での使用文言であった可能性が高い。
君は《周牌算經》を本当に読んでいるの?
第1節目の周公の問の言葉に「周天暦度」が出てくるぞ。
また《卷上》「七衡圖」では、度が使われ、365+1/4を使用した計算がが必須だ。
君の主張通りだと《周牌算經》の天文関係の計算は、殆ど成り立たなくなるが、
「形跡がなく」という断定する根拠は何? >>829
>>いや、不可知部分が殆どである自然や歴史の科学や学問では、
知り得た全ての知見からの、帰納的確率的な推論をすべきだ。<
>で、知りえた全ての知見から、渡海は当時測量方法がなく、
一律千余里とされているのは明確に分るので、
歩測などのできる陸路とは同じ扱いができない訳だww<
目的地が見えていれば、簡易三角測量が出来るし、
目的地は見えていなくても、およその方向が判っていれば、一寸千里や出来、
当然日数測も出来る。 どれだけ頑張っても畿内説が定着しない理由は何?
奈良県民とこの話をすると圧倒的に九州説の方が多いんだけど?
桜井の人は強いて挙げれば唐古鍵遺跡ぐらいしか無いし、邪馬台国と畿内は関係無いよと言ってた。 >>837
この「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の類スレ主は、
何を言われても無視して、自分の思い込みだけを繰り返し書き続けるあたりに
葛城説のssnと同質の異常性を感じる >>839
>教科書の記述が、すでに畿内説が有力と書くようになっている<
「畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
教科書会社も、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、安部文部省や、
右翼の学会教育界の一味になってしまっているから、×組織。 >>850
印象操作としても稚拙だな
脳内お花畑は、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の連中だよ このCDの話をしている人がいたでしょ?
『lullabies from the axis of evil』
悪の枢軸?眠れジャイアン、日本昔話のテーマ >>164
>畿内説の倭人伝のキョリの説明が無いww
説明してるじゃないかw
女王国まで萬二千里
倭国本土(本州四国九州)まで一萬里
渡海は一律で千里
という計測に拠らない、観念的な当てはめの数字を机上で調整した物になってる
女王国まで萬二千里は、淮南子の東方之極萬二千里から来ている世界の果てまでの観念的距離
倭国上陸まで一萬里は、漢土方万里に対応して、漢土の広大さに匹敵する遠地という観念的距離
渡海は測れないから、千里の名馬などと同じ、遠い距離の定型句の千里を当てたもの
陸行距離は近ければ百里、少し遠ければ五百里としているだけ
実測値として意味のあるものはないよ
水行二十日は北部九州から出雲
水行十日は出雲から丹波
陸行一月は丹波から大和で問題ない >>850
>はい、これが現実世界ww
『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺稿が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
ちょっと調べればすぐに分かることを、引用も典拠も具体的な根拠もなしで言っても無駄<
日本史Bの教科書が、何種類出ていたのか?は知らんが、
前は3社の名前があったが、今回は2社だけで、増えていないようだな。
じゃ、ヘンテコな名前であった筈のもう一社は、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の宣伝はどうなったんだい?。 >>174
>出雲自体が梁代まで独立的であり、九州倭国系とは違う国であり、
>吉備も丹波も出雲系が関係しており、
これ、全部倭国だからw
九州のみの倭国は成立の余地がない
>年代も、卑弥呼や壹與とは違うもの。
祇園山古墳が平原1号墓に先行するとかいうでたらめ編年は無意味だってww
ザラコクの頭の中に年代は入っていないww >>188
>新唐書日本伝の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」や、
>釈日本紀がついうっかり紹介したした延喜講記の、
>「小野妹子が 隋文帝に日本国を名乗った」などという記載が根拠。
これ、全部隋唐の時代じゃないかww
「西晋に日本国を名乗った」ってのはデタラメなんだな?
ザラコクはでたらめ野郎ww >>188
>唐書などで、大和日本国は倭国から別れた別種の旧小国であり、
その「倭国から分かれた別種の旧小国の日本」を
九州倭国が名乗ったって言ってるのがザラコクだww >>189
>ザラコク相手にマウントが取れてうれしいの?
九州説から見ると、これがマウントを取っているように見えるんだww
単に、とことんバカにしているだけだぞww
九州説は、歴史の真実とは無縁なところで、勝ち負けやマウントだけを目標に生きてるってのが
如実に出てる書き込みだよなww >>862
>>いや、実際畿内説勝ってるし<
いや、「畿内」なんても「存在もしない嘘つき騙し」文言だし、
なんとなれば大和説者は、
「南→東」などのじぶんらの嘘つき騙しに関して、
自分らの方からは具体的な反論を言わないで隠し、
こういうウソ書くから、
九州説の勝ちが確定しちゃうわけでしょ >>190
>楯築も、西谷9号墓も、¥纒向石塚古墳¥も、東田大塚古墳も、平原1号墓も、
>おそらく、卑弥呼よりも後だ。
全部卑弥呼より前だよww
無学、適当、思い込み、でたらめのザラコクが「おそらく」と言ったところで何の意味もない >>191
>だから短里になったわけだ。
ならないよ
現実の地理とは無関係な、誇張された値があるだけ
現実の地理とは無関係に設定された値を、現実の地理に照らして縮尺を考える、なんていうのは
知恵の足りない人間しかやらない >>195
>平原には「21枚の尚方作の方形規矩鏡」があり、
それ全部、仿製鏡だし、全部割られてる
魏の皇帝の下賜鏡をばらばらに割って、土にばら撒いてもいいなんて考える倭王を
想定する時点で、学説として成立しない >>199、>>201
>祇園山があるから、この大和説男も、嘘つき騙しの×人間。
祇園山は公式報告書で殉葬は否定されている
殉葬墓とされる墓坑が、祇園山古墳の地山成型のときに壊されてるんだよ
本体より先に殉葬墓を作って、それを壊しながら本体を作る、なんていう想定をしないと
祇園山の周辺の弥生墓を殉葬墓と見ることはできないが、誰が見てもばかげた想定だ
だから、殉葬墓であるという見解は公式に否定されている >>207
>「元」周髀算経は「整地」なんてしていないから、
その『「元」周髀算経』とやらを出してきてくれww
話はそれからだww
この世に存在しないものが根拠とか言い出してるぞw
そういう妄想は、統合失調症によく見られる病徴だ
ないものを根拠といえば、否定されない(ないものは否定の根拠にすら
できない)っていう猿知恵なんだろうけど、惨めなだけだぞw >>215
>新たにお出ましになった天照大御神の下で、
その「天照大御神」って誰のことだ?
とんだ邪教だなww
それから、アマテラスオオミカミの漢字での標準表記は「天照大神」だぞw
こういうところにも、似非日本人らしさが出てるなww >>875
まあ大和説者はゴッドハンドだな
史料事実の「南」という記述を「東」だと嘘つき騙しをするだけでなく、
周髀算経の紀元前1100年頃の星の位置の記録や、
「周公と商高」の会話から始まる一寸千里などの記録を、
漢代の創作だ、と言い張ってる >>229
>目的地が見えていれば、簡易三角測量が出来るし、
簡易三角測量って言葉がザラコクは大好きだけれど、
簡易であっても三角測量は、「角度」を正確に測らないといけない
遠くなるほど、基線を長く取らないと「角度」の差が検出できないし、
見えているだけでは三角測量はできない
だから、渡海三箇所は一律千里で、まったく距離を測っていないことが明白 >>230
>どれだけ頑張っても畿内説が定着しない理由は何?
定着してるよ?
どこの平行世界の話なんだ?
最近のテレビ番組もすべて畿内接前提で作られてるじゃないかw
>奈良県民とこの話をすると圧倒的に九州説の方が多いんだけど?
どこの奈良県民だ?
平行世界にも奈良県民がいるんだなww
>桜井の人は強いて挙げれば唐古鍵遺跡ぐらいしか無いし、邪馬台国と畿内は関係無いよと言ってた。
脳内で架空の人物を作り上げても、何の根拠にもならないってww
実在したところで、素人の個人の感想でしかないしww
ダイエット食品の利用者の声と同じww 九州説がここに何書いてもピシャリとやられるだけ
九州説が自らそういう風にしていったとも言えるけど 九州説の人は作り話が多いな
奈良県人に聞くなんて発想がお国自慢としか捉えてない証拠 >>880
>廣誌逸文の引用で邪馬台国は伊都国の又南と書いてある。
邪馬台国の場所なんて別に謎でもなんでもないんだな。
畿内説が目の色変えてそれを否定する姿を国民はよく観察すべきだ。<
成程。
そういえば、翰苑だったか?にも「倭國は三韓の南」という記述があった筈だな。 >>884
「南→東」などのような史料事実の否定曲解や、
「皇国史観の学者や学会の学史」に対する無批判な盲信隷従も、
大和説の特徴 >>893
>>平原からは、21枚もの「尚方作」の方格規矩鏡が出土しているから、<
>それ全部仿製鏡 現代人でも、尚方作銘の銅鏡を作ろうと思えば作れるんだから、
何の根拠にもなってないぞww<
一枚とか二枚の「尚方作」鏡であればまだしも、「21枚」もあったのでは、
「明帝の下賜の銅鏡百枚」の中にあった鏡でないと、無理。
当然貰った卑弥呼か、
卑弥呼の遺産を相続出来た共立女王の壹與でないと所有出来ないもの。 >>247
お言葉ですが、
天岩戸にお隠れになったのは天照大神様(天照大御神様とも書く)ですが、
お出ましになったのは、天照皇大神様。この間に役者が変わっているのでございます。
お気づきになりましたでしょうか、、、 ヤマタノオロチという謎の生物は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような意味があるのだろうか。。。 >>258
鏡職人の親方が、出来損ないの在庫を墓に入れてもらったのさ。
それだけの事。 >>261
孫達と遊んだので、少し、疲れたのではないのかな、、、 >>895
>「国公立の教科書」って、何が言いたいんだ?
韓国では「国定」教科書らしいが、日本は民間の出版社が教科書を執筆して、
錯誤がないか文部科学省が検定するだけだぞ?<
自民党の政府や文部省の検定は、事実上、憲法違反の「検閲」だぞ。
憲法の「軍隊や戦力」の不所持という文言をすり替えて、
「警察予備隊とか自衛隊とかの別文字の造作」の嘘つき騙しと同じ事だ。
そんな「検定」なんて、根拠になんかなるもんか。 僕たちは、最近、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破するには、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 ヤマタノオロチという謎の生物は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような意味があるのだろうか。。。 >>262
>鏡職人の親方が、出来損ないの在庫を墓に入れてもらったのさ。
>それだけの事。
出雲の荒神谷遺跡の大量の銅剣は、いろいろな材料の青銅をごっちゃに混ぜて
溶かして作ったようだというのが、微量成分分析で分かっている
それまでの青銅器祭祀の時代が終わって、新しい時代が始まるところで、
青銅器の在庫の最終処分的に、大量の銅剣を作って埋納したと考えることができる
案外、平原一号墓の大量の銅鏡も、同じ状況で同じ判断の上で作られたものじゃないだろうか
青銅器の在庫の最終処分で、大量の銅鏡を作って埋納した
荒神谷の方は、きちんと箱に一本ずつ並べて埋納したのと比べると
平原1号墓の方は、バキバキに叩き割ったあと墓坑内の土の上に適当にばら撒いた、
という違いはあるけれど >>237
>祇園山古墳が平原1号墓に先行するとかいうでたらめ編年は無意味だってww
だから、平原が卑弥呼、祇園山が壹與ていいだろう。 >>264
これを読むと、ザラコクをはじめとする九州説の連中が、
とにかく日本が憎くて日本を貶すのが目的だって野がよく分かるね!
各国の教科書の比較でも、日本の教科書が一番公正で正確だって
ハーバード大学の研究で示されてるのにさww >>252
邪馬台国畿内説は予算獲得のためのお国自慢。 >>267
>案外、平原一号墓の大量の銅鏡も、同じ状況で同じ判断の上で作られたものじゃないだろうか
>青銅器の在庫の最終処分で、大量の銅鏡を作って埋納した
あり得る。
漢の時代が終わり、その権威も失われたが、卑弥呼政権のもとで神格化された女王による八咫の鏡を用いた祭祀が行われたのだろう。 >>897
>>廣誌逸文の引用<
>明らかに、南至邪馬壹國を端折って書いただけだろうに
九州説は、逸文が大好きだよな
まとまった文章だと、矛盾を突かれるから、短文しかない逸文に頼る
この辺もチェリーピッカー体質の発露なんだろうww<
幾ら口先で誤魔化そうとしたって、
「廣志曰・・・到伊都國、又南至邪馬嘉(臺)國」なら、
間違いなく、(東ではなく)「南」だ。
類スレ主ら大和説者は、「南→東」などに嘘つき騙しの・・・・だ。 >>269
日本の歴史を歪めて闇に葬ろうとする輩を嫌っているだけ。
歴史は真実を追求するべきだ。
史書を無視する畿内説にそれは無理。 >>257
翰苑はなんたって魏略より情報量が多いし、
文例集として書き写されたもので政治的背景を気にする必要がないからねえ。
書いてある通り、邪馬台国は伊都国のすぐ南側にあると解釈して構わない。 >>910
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、史料批判しないのは、都合が悪いから
史書に向き合って無いからでしょ >>916
>大宰府は、大和朝廷の出先だろ? <
大和朝廷なんて、701年以前には存在もしない嘘つき騙し文言だし、
太宰府は、
タリシホコが618年に「久留米の古宮→太宰府」に遷都した条坊都市の「京」であり、
白村江の後、郭務ソウがきて大敗した倭國の始末を付けに来て、
唐に戻ってから「邪摩惟=ヤマイ」の言う地名を報告した地であり、
3世紀には、卑弥呼が「女王之所都」を置いた邪馬壹國の中の都付近の地域。 >>917
大和説者は、国家権力主義者も含め、
「南→東」などの嘘付き騙しの、まともな思考力のない人ないばかりで、
全員・・・・詐欺師という結論にしかならないんだよ
今、大和説に残っているのは、
1.まともな思考力がないアホな人
2.宗教的狂信を持った・・・・の人
3.イデオロギー的志向からとにかく日本を、
「人種差別的殺し合い戦争」をする国にしたい人
のどれかだな >>274
伊都に滞在した郡使が面会できたのだから、せいぜい大宰府あたりまでかな?
というか、卑弥呼の頃から大宰府が倭国の王都だった? >>918
大和説者は、史料事実や史料実態と、まともに向き合っていないよ。
「南→東」などの嘘付き騙しの「方角の間違いだ」という理由も全く言えていないし、
根拠を挙げても全て否定されているし、
日程で書いてある部分の行程も、陳寿の記載方法が全く読めていないし、
魏使らの記録や魏略や後漢書の陳寿の記載実態の史料批判もまともに出来ていないし、
チェリーピッキングで断片しか拾わず、
矛盾もなく、整合性の取れた九州説とはた、まったく違うよ。 >>919
このスレで展開された周髀算經の解釈をめぐる議論を見れば、
類スレ主や大和説側がまともに史料批判をしていないのが明確だろ?
ネタとしては、短里の有無に関わることで、史書の検証作業の一環だが
類スレ主が恥をさらすばかりで、
大和説側からは類スレ主以外一人も意味のある書き込みをしてないだろ?
まあ、類スレ主も、前漢収集説明学者の書き足し部分の確認に関して、
意味のある書き込みはひとつもしてないけどさ。 隋書によると、日本人がこう言っている。
「海西に大隋があり、礼儀の国と聞いていたので、朝貢した」
と言っているあたり、日本人は朝貢の経験の無い部族だったと思われる。 大和説に説明をする能力はない。
もともと、後世の奈良の都のイメージを振り回しているだけだからね。 ヤマタノオロチという謎の生物は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような意味があるのだろうか。。。 >>278
大宰府の下にも遺跡があるらしいよ。
でも掘るに掘れないよね。 気に入らないこと言った学者をリコールするのは
権力ふりかざす暴君ね >>281
「タリシポコの国は日本じゃない」珍説が死亡 >>282
・・・という自分の主張の根拠を説明する能力がない
みじめすぎる九州説 ヤマタノオロチという謎の生物は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような意味があるのだろうか。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>286
畿内説を推している学者って誰?
藤村みたいな人? >>290
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論するためには、まず、本州の陸上で最初に記録された
ヤマタノオロチ退治事件について、討論すれば、よいのではないのかな、、、 >>294
「遺蹟を作製」するとか
異常な日本語を使う連句点って
マジ、どこの国の人? >>930
>>周髀算経は、「正確な暦」を作ろうとまではしておらず、
「二十八宿」の配置法を説明しているだけだから、<
>周髀算経は「正確な二十八宿」を地面の 円周上に配置する方法を書いてるんだぞww<
周髀算経は「正確な二十八宿を全部、地面の 円周上に配置する」事までは説明していない。
「則立表正南北之中央,以繩繫顛,希望牽牛中央星之中。
則復望須女之星先至者。如復以表繩希望須女先至,定中」をして、
他の宿は、定める方針だけ書いている。
>それができて初めて、正確な夏至や冬至が分かる <
逆だ。「以正勾定之」に拠って、先に正南北の方向が決められている。
そして、「63歩」の円を書かれていたのは、
前漢収集説明学者にとっては、
一年が365日余り位で「度」も365度余り位という数字の、
6分の1位に近いからだろう、と思われる。 >>931
>大宰府は東アジア屈指の城郭を持つ都市だった。
近年の調査で、大野城、基肄城、水城を含む総延長50キロメートルに及ぶ大宰府羅城の存在が明らかになってきた。
その建築材の一部は、炭素年代法で卑弥呼の時代に遡ることがわかってきた。
これが倭国の王都であった大宰府都城の姿だった。、
ふーん。 大宰府羅城でググるといろいろ紹介されてます。
先日はブラタモリでも取り上げられました。 >>296
>他の宿は、定める方針だけ書いている。
だから
>>周髀算経は「正確な二十八宿」を地面の 円周上に配置する方法を書いてるんだぞww<
が正しいんだろ
狂った言いがかりは九州説を貶めるだけだぞ 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、 ヤマタノオロチという謎の生物が、真実の生物だったのかどうかを、討論すれば良いな。 >>296
>そして、「63歩」の円を書かれていたのは、
そんなこと周髀算経に一言も書いてない
九州説はねつ造をやめるべきだ
これ以上汚濁にまみれたくなければ なぜ、韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝することを、決断したのだろうか、、、 文献と全く整合のとれない畿内説を学者が推してるなんてのも変な話だぞ。
畿内教信者のいる桜井教育委員会が村興しを名目に桜井市に金をせびってた話ならわかる。
もうその金も底をついたみたいだけど。 >>303
どこが整合とれないか、ひとことも言えないくせに
w
もう中傷しかできない敗残九州説が哀れだな >>302が日本国内で売ってるパソコンを使ってないのは確定 奈良県の考古物体の年代を、次々に、決定していった人物が、偽造がバレて、解雇や逮捕をされたな。 >>304
畿内説って文献との整合性を示したこと無いんじゃない?w なぜ、韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝することを、決断したのだろうか、、、 >>1
>これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる<
奴婢の埋葬痕跡がない。
採点します。
0点。 >>307
という証拠は?
九州説は絶対に証拠を出さないのか? 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>309
ないって証拠は?
ほら、また九州説が0点だった 魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論するためには、まず、本州の陸上で最初に記録された
ヤマタノオロチ退治事件について、討論すれば、よいのではないのかな、、、 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>310
畿内説を唱えながらそれを証明できていない。
できていない証明を他者に求めるなよ。
無能 なぜ、韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝することを、決断したのだろうか、、、 >>1
崇神がおおよそ4世紀前半に決まりなのだから、
ならばトヨまで数十年さかのぼるだけ、
だから記紀登場人物の当てはめごっこをやらなければいけなかった。
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという固定観念を打ち破れなかったのが君の敗因。
まぁ敗者は君だけではないのだけども。
一方、国宝中平銘鉄刀からの考察で、記紀登場人物から卑弥呼もトヨも見つけ出し、
その住処である葛城から径百余歩の奴婢が埋葬された塚を見つけ出したわしは永遠の勝者となったのだw >>312
>ないって証拠は?
あれば出せばいいだけ。 >>318
韓国政府に雇用された韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝して、倭国の真実を隠すだけではなく、天皇の娘の墓を侮辱しようとしているのでは、ないのかな、、、 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 なぜ、韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと証明もしないで、宣伝することだけを実行しているのだろうか、、、 >>935
>殉死した「奴婢百餘人」の殉葬を卑弥呼の冢で見たとか
そんなこと倭人伝のどこにも書いてない 妄想だね<
張政らが実見して記録してくれなければ、陳寿の記載出来る筈がない。 韓国政府に雇用された韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だとは、証明できないので、宣伝だけして、倭国の真実を隠すだけではなく、天皇の娘の墓を侮辱しようとしているのでは、ないのかな、、、 >>939
>>一寸千里では実際に、「測影」した、と書かれている。<
>書かれてるって証拠は?<
陳子説之曰:「夏至南萬六千里,冬至南十三萬五千里,日中立竿測影・・・」
と書かれている。 >>943
>耳をふさいでれば何も聞こえないさ<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
目をふさいでいれば何も見えないし、
耳のふさいでいれば、何も聞こえないさ。 >>1は前スレで高天彦神社の塚を塚ではないとのたもうたが、
客観的な第三者の証言を記す。
トリップアドバイザー
高天彦神社
mikion617
桑名市, 三重県
口コミを投稿:2017年6月4日
(略)社殿の左隅に岩があり,天皇に従わなかったために殺された地元民 土蜘蛛の塚(墓)をあらわす岩だと言う。
岩は神が一時的による場所だ。土蜘蛛は神になったのだ。
ここから数百メートルのところに,蜘蛛窟の碑があるようで,そちらも塚のように見える。
しかし,土蜘蛛が神になったとの表示は,どこにもないようだ。 岡谷公二氏の一連の本(平凡社新書)によれば,神社は,元は死体の捨て場,墓場であったろう,と言う。
さまざまの傍証を持つ岡谷説には,説得力がある。
「塚のように見える」
はい、今回も君の負けwww >>956
>話の通じない荒らしは九州説だな<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、・・・・詐欺師だから、
話が通じないし、荒らしをして世間の人々も騙そうとするんだな。 >>957
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
やっぱり荒し確信犯じゃねーか。
悪いやつだ。 >>958
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
反論できないで、ただ否定する。
論争に負けたから。 なぜ、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと証明もしないで、宣伝することだけを実行している韓国人とは、話が通じないのだろうか、、、 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>963
「南→東」などの嘘付き騙しのような、
そんなウソばかりついているから大和説は軽蔑される >>96
「南→東」などのような、史料事実や史料実態に反する嘘つき騙しは、
大和説が唯一必死て使える延命措置?。 韓国政府に雇用された韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だとは、証明できないので、宣伝だけして、倭国の真実を隠すだけではなく、天皇の娘の墓を侮辱しようとしているのでは、ないのかな、、、 >>973
「南→東」の嘘付き騙しなどで、
大和説が、自分が荒らしだと認識して、意図的に荒らしてる事が分かった、かな?。
議論が行き過ぎただけと思いたかったが、甘ちゃんだったわ。 >>974
周髀算経の出発点の一寸千里でも、水平に整地しないといけない筈なのに、
実際には整地の事など書いていないから、
「元」周髀算経は、「整地」というような事は記載していなかった、
という事が理解できたかがな?。
という事は、「元」周髀算経は、「二十八宿」でも、
「整地」をするような事は記載していなかった。 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 九州説は可哀そうだな
そんなセコい嘘ついて百万が1誰かが一瞬でも騙されないかなーと願いを込めて
自分を慰める >>977
残念だったね。
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、通説大和説は、
国民の支持がますます減って、
どんどん発言力が減って行ってるよ。 邪馬台国九州説は、真実だったことが、証明されたので、説ではなくなり、スレッドが消失してしまったな。。。 アホなレスで記載説スレ荒らせば荒らすほど
九州説の敗北の歴史がここに刻まれていく >>978
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者って凄いよな。
何年も大和説やってると、
こういう「南→東」などのウソが」などの、平気でつけるようになるんだぜ。 邪馬台国九州説は、真実だったことが、証明されたので、説ではなくなり、スレッドが消失してしまったので、
この、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと証明もしないで、宣伝することだけを実行している韓国人が作製した、無駄なスレッドで、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 アホな記載だけで、テンプレートが、作製されてしまったので、アホ記載説スレッドなのでは、ないのかな、、、 畿内で最初に「箸墓だー」と連呼した学者は誰だったのかな?
そりゃ >>1 だったんじゃないの、、。 畿内で最初に「箸墓だー」と連呼した学者は韓国政府に雇用された韓国人だったのでは、ないのかな。。。 畿内説は権威をかさにきて無理筋をごり押しするだけでしょ。
恥ずかしくないの? アホ記載説は、アホ畿内説の間違いだった可能性があるな、、、 畿内説の距離の解説まだーーーー
誤認・誤情報で済ませるのww >>981
>なら、どうして学者がほとんど畿内説なんだ? <
さあ?、何故なんでしょうかねえ?。
「畿内」なんて嘘つき騙し文言だし、
大和説のような嘘つき騙しの宗教の学者を長年やっていると、オームのように、
文部省や右翼マスコミや麻原のような指導者に、騙されてしまうし、
自分も・・・・殺人詐欺師になってしまうんじゃないの?。
>なんで教科書が年々畿内説寄りになってるんだ?<
そりゃ、執筆学者らは、安部文部省や上司の大和説学者らに、忖度してんだよ。 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 文部省や右翼マスコミや麻原のような韓国政府が、邪馬台国畿内説を、宣伝し、日本国民を騙そうとしたが、完全に、失敗したのではないのかな、、、 >>984
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が言うセリフじゃないな。
しかし、安部自民文部省らに忖度して嘘つき騙しをしていたら、
いつかの財務局員のように、自殺させられる事になるかもよ。 >>988
>墓の周りに人が埋まってるのは殉葬じゃなくて埋葬 <
ほぼ同時期に、墳頂の巨大な箱式石棺に「側面正対」させて、
墳裾に、重複がほぼないように丁寧に、「差し違い複数埋葬」が沢山ある、
62個の小型埋葬墓を造ったんだから、そりゃ殉葬。
>殉葬跡は特殊器台と推察される<
卑弥呼の祇園山は筑後。
特殊器台は出雲と吉備と大和で、4世紀頃であり、場所も時代も違う。 >>989
>サンプル1つだけならまだしも5つの平均で120〜240年だから
これと大幅に年代が外れてる可能性はほぼなし <
それなのに、大和説学者らは、50年位以上新しくする補正をやっているらしい。
という事は、大和説学者らも、
「5つの平均で120〜240年」という数字を信頼しておらず、
年代が外れている、と思っていた、という事の証拠。 >>349
畿内説ボロボロだなw
畿内説の根拠をしっかり説明しろよw >>271
>卑弥呼政権のもとで神格化された女王による八咫の鏡を用いた祭祀が行われたのだろう。
そういう妄想はやめなさいなw
平原の鏡はどうやっても王権のレガリアたる八咫鏡にはならないよ
平原1号墓は卑弥呼が生きている間に葬られた地方首長の墓で
でかい内行花文鏡もバキバキに割られていて、鏡自体に神性がない >>272
>邪馬嘉(臺)國」なら、
これを認めるなら、邪馬壹【臺】國を認めない理由がないww
二度と「邪馬台国はなかったから×」とか書くなよw
まあ、そう言われてもザラコクは書くんだろうけれどさ
ただ、ダブスタのいい加減野郎として恥をさらすだけだがw >>278
>伊都に滞在した郡使
この時点で既にインチキ読み
そうしないと九州説が成り立たないからというだけの、自己都合による無理読みでしかない >>990
>魏志曰くと当時現存の魏志倭人伝を引用する書が 4つとも景初三年
魏志倭人伝に景初二年と現れるのは11世紀になってから景初二年は後代の誤記 <
陳寿は当然起居注を見ている、と思われ、信頼性が非常に高いが、
後代史家の「自己解釈に拠る前史の書き換え」の多い史書記載は、
半分×であり、信頼性はないが、
前代史書の写本版本は、錯誤発生確率が0.5%以下であるから、
信頼性が非常に高いし、
通典も「魏明帝景初二年」である。 >>296
>6分の1位に近いからだろう、と思われる。
それがなぜ6分の1くらいになるかというと、1歩=六尺だからだよww
それに合わせて、平地している(地面を平らにする=整地)からだww
一歩=六尺だからって言うのを、自分で見つけられたな!
えらいぞ、ザラコクww
結局、周髀算經は、一歩=六尺、一里=三百歩の標準的な度量衡に沿って
書かれており、尺の長さが変わらないのはザラコクも認めているから、
短里は想定されていないという結論にしかならない
それでいて、一寸千里が出てくるのは、基礎に置いた蓋天説が間違っているから
たったこれだけのことww >>79
また、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、
敗北の記録がつづられてしまうのかな?。 >>83
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の嘘つき詐欺なら、
現在も進行形だゾ。 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 畿内で最初に「箸墓だー」を連呼した学者は誰だったのかな?
そりゃ >>1 だったんじゃないの、、。 笑い、リラックスできる、レベルの低すぎる意見が、すぐに、見つかった、、、
371日本@名無史さん2019/04/06(土) 20:46:44.44
>>296
>6分の1位に近いからだろう、と思われる。
それがなぜ6分の1くらいになるかというと、1歩=六尺だからだよww
それに合わせて、平地している(地面を平らにする=整地)からだww
一歩=六尺だからって言うのを、自分で見つけられたな!
えらいぞ、ザラコクww
結局、周髀算經は、一歩=六尺、一里=三百歩の標準的な度量衡に沿って
書かれており、尺の長さが変わらないのはザラコクも認めているから、
短里は想定されていないという結論にしかならない
それでいて、一寸千里が出てくるのは、基礎に置いた蓋天説が間違っているから
たったこれだけのことww 笑い、リラックスできる、レベルの低すぎる意見が、すぐに、見つかった
↑中国語か何かから日本語に機械翻訳したの? >>376
笑いが、激しくなって、眠れなくなってしまうのでは、ないのかな。 笑い、リラックスできる、レベルの低すぎる意見が、また、見つかった、、、
377日本@名無史さん2019/04/06(土) 20:58:27.55
笑い、リラックスできる、レベルの低すぎる意見が、すぐに、見つかった
↑中国語か何かから日本語に機械翻訳したの? ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>380
笑い、リラックスできる、はるかな大昔だと思うよwww この意見を発表した、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人係員は、機械翻訳という、一般的には、意味が通じないことに、なぜ、これほど詳しいのだろうか、、、
381日本@名無史さん2019/04/06(土) 21:02:47.45
リラックスできる、の所が最高に機械翻訳臭いwww 機械翻訳って普通の言葉だぞ
90年代で時間が止まってないか? >>126
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠の出せない大和説は、
今日もみじめ この意見を発表した、邪馬台国畿内説を宣伝する係員は、イダルという、中国の発音が、韓国語ではどのような意味の言葉の発音になってしまうかを、知っていたな、、、
382日本@名無史さん2019/04/06(土) 21:04:03.37
>>380
笑い、リラックスできる、はるかな大昔だと思うよwww >>132
なんで「南→東」などの嘘付き騙しの大和説説の人は、
九州説に反論しないのかな
ふふふ
知ってるけどね なぜ、機械翻訳に詳しい韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝することを、決断したのだろうか、、、 4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝するために、韓国語を日本語に、変換できる機械が利用されている可能性が高まってきたな。 笑い、リラックスできる、はるかな大昔に切断された、ヤマタノオロチは、真実の生物だったのだろうか、、、 >>138
>>63÷28=2.25であるから、<
>また、めちゃくちゃ半端な数字を出してるww<
問題の原点は、「元」周髀算経は「28宿」の地面への投影に、
何故円周63歩の円が必要であったのか?、という事。
それでいろいろ推定しているだけ。
それで、一つの案は、どちらの数字も7の倍数であり、4の7倍と、9の7倍の数になっている、
という事。
またもう一つの案は、63歩は6倍すれば、378歩になり、
一年の365日余りにかなり近くなり、
更に分度器の円周の360度にも近くなる、という事。
二十八宿は、宿(星座)ごとに大きさが違うから、平均を出しても意味がない 笑い、リラックスは
AIかBOTが自動で適当な文章を笑い、リラックスしながら投下してるのではないか 笑い、リラックスできる、はるかな大昔に切断された、ヤマタノオロチは、真実の生物だったのだろうか、、、 >>319
>崇神がおおよそ4世紀前半に決まりなのだから、
左側スロープ君や、この想定がすでにおかしいんだよ
纒向は、記紀の系譜だと崇神、垂仁、景行の三代の宮都
その中で崇神がもっとも古い
纒向遺跡の年代比定から考えて、4世紀前半は纒向最後の王、景行の年代でないと
記紀と整合性が取れない
崇神はそれより二代前だ 僕たちは、今から、また、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で、ヤマタノオロチのことで、討論を仕掛けられ、討論することになったのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破するために、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を思い出し、笑い、リラックスして、闘えば良いな。。 >>394
>纒向遺跡の年代比定から考えて、4世紀前半は纒向最後の王、景行の年代でないと
>記紀と整合性が取れない
無理やり当てはめてどうする。
応神天皇が百済王の系譜との兼ね合いから4世紀末、390年元年であろう。
ならば応神から崇神までの世代差を考えて崇神陵墓は行灯山でほぼ決まりで布留1式=4世紀前半。
ならば庄内0期=2世紀末まで約120年というところ。
プレ崇神が想定されるし、その中にトヨも卑弥呼もいる。 >>331
>蜘蛛窟の碑があるようで,そちらも塚のように見える。
お前、分かって書いてるか? 左側スロープ君よ?
この引用されてる人が言っているのは、蜘蛛窟の碑があるところの「径数メートル」の塚のことだぞ
http://stat.ameba.jp/user_images/20150413/22/tepu2mamachan/aa/80/j/o0480064013275388263.jpg
左側スロープ君が言っている「直径150メートルの塚」とかいう
東に向かってただ下がるだけの尾根とは別もの
知らない人なら騙せるかもしれないが、高天神社の辺りは一通り調べたから騙されないよww >>344
>周髀算経の出発点の一寸千里でも、水平に整地しないといけない筈なのに、
>実際には整地の事など書いていないから、
周髀算経の測影では、夏至の影しか計っていないから影の長さは一尺六寸(夏至晷長一尺六寸)
たったこれだけの長さ(広さ)なら、特に整地しなくても平らな土地はいくらでもあるだろ
家の裏庭でも十分だ
それに対して周365.25尺の円が描けるだけの平らな空き地はそうそうないから、
わざわざ整地するって書いてあるんだよ
普通の知恵があれば、当然の当たり前のことしか書いてないって分かるんだがな
ザラコクには普通の知恵がないから、バカ丸出しの戯れ言しか書けないw >>397
>蜘蛛窟の碑があるところの「径数メートル」の塚のことだぞ
情けないくらい小さく女々しい反論だなw
蜘蛛窟の碑があるところの「径数メートル」が塚に見えるなら、
150mのこんもりした部分はさらに塚に見えるだろ。
おまえほんと情けないねw >>357
>畿内説の距離の解説まだーーーー
>>235に書いてあるだろ?
説明してるじゃないかw
女王国まで萬二千里
倭国本土(本州四国九州)まで一萬里
渡海は一律で千里
という計測に拠らない、観念的な当てはめの数字を机上で調整した物になってる
女王国まで萬二千里は、淮南子の東方之極萬二千里から来ている世界の果てまでの観念的距離
倭国上陸まで一萬里は、漢土方万里に対応して、漢土の広大さに匹敵する遠地という観念的距離
渡海は測れないから、千里の名馬などと同じ、遠い距離の定型句の千里を当てたもの
陸行距離は近ければ百里、少し遠ければ五百里としているだけ
実測値として意味のあるものはないよ
水行二十日は北部九州から出雲
水行十日は出雲から丹波
陸行一月は丹波から大和で問題ない >>397
で、おまえは高天原の奴婢埋葬痕跡を必死になって否定しようとしてるが、
箸墓のどの奴婢埋葬痕跡を肯定しようとしてるのかな?
あぁ、すまん、そんなもの(奴婢埋葬痕跡)なんて箸墓に一切なかったなwww >>153
>>「呂氏曰」と書かれた部分や、
>>始皇帝の「1歩=6尺」を使ったと思われる記述。<
>それ、何の根拠もないんだが?<
周初頃の算経を書いた本が、周末の呂氏や始皇帝の命令を書いたら、
そりゃ、前漢の収集説明学者が書き足した部分だ、という事になる。
>説文解字注 ・・・<
文字発生時点での論理の議論であるんだから、、
説文解字そのものであっても、信頼性はかなり落ちるのに、
説文解字注であっては、説文解字よりも更に信頼性がおちるので、×だな。 >>399
>150mのこんもりした部分はさらに塚に見えるだろ。
それ、ただの尾根で神社側から入ると一方的に下るだけで一度も坂を登る部分がない
そんな塚はないし、円丘上の地形もない
斜面上に小さな塚が作ってあったからといって、斜面が塚ってことになるわけがないだろうが!
>おまえほんと情けないねw
何度論破されても恥をかいても反省一つできない左側スロープ君は、
このスレではザラコクと同等のダメ人間認定されてることに早く気付けるといいね! 素人が塚だ古墳だと言い張っても意味がない
プロが作った遺跡地図を確認したらどうか?
以前は奈良湖関係でURLが貼られていたが
奈良県の遺跡地図はwebでも公開されている >>404
>それ、ただの尾根で神社側から入ると一方的に下るだけで一度も坂を登る部分がない
なんで「神社側から入る」のかな?
普通、下の鳥居側から入って神社に参拝するよね。
下の鳥居側から見たら見事な塚、いや自然の墳だ。
ごまかすな。 >>405
高天原には北郷遺跡、伏見遺跡などが確認されている。
縄文時代の遺物も出る。 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板で、ヤマタノオロチのことで、討論を闘っているだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 >神社側から入ると一方的に下るだけで一度も坂を登る部分がない
山の上の神社側からは昇る部分がないのは当たり前。
坂の上にいて「坂の登り道がないじゃないか」と言ってるのと同じ。
おまえ本物のアホだろw >>407
古墳の疑いがあると認められれば遺跡地図に掲載される
壊されてしまう前に確認の調査ができるようにね
さて、完全な第三者の視点で作成され、かつ疑いがあれば認定してくれる遺跡地図ではどうなっている? 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板で、ヤマタノオロチのことで、討論を闘っているだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いのだが、
この意見は、特に笑えるので、リラックスできるから、覗いてよかったな。。。
408日本@名無史さん2019/04/06(土) 22:50:26.06
葛城キャラが応答始めると連句点が消える不思議 >>411
壊されないよ。
日本最古の神社の御神域だから。
一度見に行くといいよ、ちょうど円舞台のようになっている。 邪馬台国畿内説の同士討ちが始まってしまったな。。。 >>413
俺が何をごまかしてるのかいえ。
寝るから書いておけ。 最近、僕達が、ドライブで訪問した神社のことで、同士討ちをしているな、、、 >>414
現状が神域かどうかなんて遺跡地図には関係ない
三輪山全体も遺跡認定されてる レベルの低すぎるこのスレッドが、同士討ちで、さらに、レベルが下がってしまった、、、 >>418
件の丘が焦点のハズなのに関係ない場所について語っているから
それはごまかし以外の何者でもない 誤認された相手が、畿内説なので、誤認した韓国人の方の畿内説の宣伝係員を笑うしかないな。。
416日本@名無史さん2019/04/06(土) 23:01:59.52
指摘された途端に連続句読点のコピペ再開w 僕達は、退職した後、夜アルバイトをしていたのだが、時間が惜しくなって辞めてしまったが、退屈なことが増えたな。。。 笑い、リラックスできる、はるかな大昔に切断された、ヤマタノオロチは、真実の生物だったのだろうか、、、 >>367
>平原1号墓は卑弥呼が生きている間に葬られた地方首長の墓で
>でかい内行花文鏡もバキバキに割られていて、鏡自体に神性がない
真面目に考古学と向き合わない、しかし史書も全て無視する。
畿内説にはもはや妄想しか根拠がない。
こんな発言は恥ずかしいと思えよ。 畿内説テンプレのおかしさは、畿内説の立場から批判するのがいいのかもな。
鴨厨の年代だけは支持するから、もっとやれ。 伊都クズやザラコクとか九州説の方こそ考古学と向き合えよ >>1
>>400は日本海ルート
>水行二十日は北部九州から出雲
>水行十日は出雲から丹波
>陸行一月は丹波から大和で問題ない
☝
これへの反論をFAQで述べるべきだ
あまりにも九州説を意識したFAQになりすぎ テンプレは瀬戸内ルートと日本海ルート両論併記だろ
反論必要ない >>433
畿内に邪馬台国ありきだから
どうでもいいのだろww >>434
畿内に邪馬台国ありきだって証拠は?
九州説は理由もない決めつけばかりだな
それもこれも
九州ありき理由ナシな体質だろ
ww >>433
>>1は瀬戸内ルートだよ
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、
及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、
瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。 >>420
>現状が神域かどうかなんて遺跡地図には関係ない
>三輪山全体も遺跡認定されてる
神社の御神域は発掘できないので遺跡にならない。
本殿移築とかなら話も別だが。
あと三輪山全体が遺跡認定などされてない、三輪山全体が御神域の間違いだろ。 追記
魏使は幾度も来てるから
>>1
>考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、<
であれば、当然>>1の主張は瀬戸内航路 現 三輪山 大神神社 の 前身が纒向の掘立柱建物の可能性はある
いずれにせよ、ヒミコとの関連性は薄い 纏向と關係あるのは男王
記紀では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮が存在したとの記載がある
卑弥呼はおよびじゃない 纏向遺跡の大型建物は物部3代、ウマシマジ、ヒコユキ、イズモノシコオの政庁跡だろう。
彼らは申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)であった。
今でいえば官房長官か。
由緒・痕跡が残ってないのは物部が6世紀末に滅亡したからだ。 >>445
同意する。
畿内説は、ヤマト王権と邪馬台国を混同しているだけ。 >>444
まず神武がニギハヤヒと邂逅したのが桜井市外山(とび)
そして崇神が纏向に住んだのは間違いないとして、その母親は物部のイカガノシコメ。
母親のイカガノシコメが纏向に住んでいたということだ。
そして物部は瀬戸内各地に痕跡を残してる。
したがって纏向は物部の遺跡。 畿内で最初に「箸墓だー」を連呼した学者は誰だったのだろうか?
それって、>>1 だったんじゃないの、、 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 神武天皇が、奈良を侵略したときの作戦と、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 せっかく攻撃対象となるテンプレ晒されてるのに九州説からは有効な反論が無いね そもそも妄想のテンプレに反論してみても、空の雲や霧に切りつけるようなもの
そんな無駄はしない。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 ヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>447
全面的に賛成。
ただし邪馬台国とは関係ないけどね。 >>452
言うことに一つも根拠を添えられない九州説の
とても滑稽 神武天皇が、奈良を侵略したときの作戦と、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論は、根気のレベルが高いザラコク氏に任せて、
僕達は、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論するためには、まず、本州の陸上で最初に記録された
ヤマタノオロチ退治事件について、討論すれば、よいのではないのかな、、、 本州の陸上で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 おっ畿内説スレを荒らす事によって九州説の敗北を周りに宣伝してまわる
畿内説の心強い味方じゃないか
今日もがんばっとるね 完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、破綻した邪馬台国畿内説についての、空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論に引きずり込もうと、挑発を仕掛けてきたが、無視すれば良いな。。
462 名前:日本@名無史さん 2019/04/07(日) 10:10:05.61
おっ畿内説スレを荒らす事によって九州説の敗北を周りに宣伝してまわる
畿内説の心強い味方じゃないか
今日もがんばっとるね >>463
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人は、
破綻した邪馬台国畿内説についての、空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論が再開すれば、
完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させることが、出来ると考えているのではないのかな。。。 神武天皇が、奈良を侵略したときの作戦と、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 末盧国からは、
南に下り、途中左折して東に進むと、伊都国に到るのではなかったかな、、、 論破され尽くした九州説は反論を諦め
中傷しかする事がなくなった
みじめなことだ ザラコク氏が出現しないので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての、空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させて、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、
今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦も、
実行されないな。 >>396
>ならば応神から崇神までの世代差を考えて崇神陵墓は行灯山でほぼ決まりで布留1式=4世紀前半。
この時点で、すでにおかしいんだよ
崇神陵墓が行燈山が正しい可能性はあるが、行燈山古墳の編年は
古事記の崇神没年干支の戊寅が318年という想定に合わせてるから
4世紀前半とされているに過ぎない
纒向遺跡の編年の方が正しいとなれば、行燈山古墳の編年も修正されるだろう
崇神没年干支の戊寅を258年とする説も素人の間では根強いが、そもそも古事記の
没年干支が信頼できるものでもないし、行燈山古墳が崇神陵かどうかも蓋然性は低い
崇神天皇が実質的なヤマト王権の初代王であるという見解を重視する立場から
箸墓古墳を崇神の真陵とみなす意見もある
不確実な情報を正しいと言い張るのもトンデモ説の基本だよなww >>406
>なんで「神社側から入る」のかな?
>普通、下の鳥居側から入って神社に参拝するよね。
なんで「そこに神社がある」のかね?
左側スロープ君が塚だと言い張る尾根が、卑弥呼の径百歩の墓なら
それを仰ぎ見る場所に神社がないとおかしいだろうが!
左側スロープ君が径150メートルの塚だと言い張る尾根を踏みつけにして
登った先に神社がある時点で、通り道になっている尾根は聖地でも神域でもない、
ただの尾根だってことだよ
高天神社の拝殿も、東側の尾根は無視しているだろ?
西向きに拝む配置になっている
本当にザラコク並みの無能だから、自分の巣でおとなしくしてろってのww >>451
>せっかく攻撃対象となるテンプレ晒されてるのに九州説からは有効な反論が無いね
テンプレが長くなる原因のFAQの部分は、九州説の反論が「無効だった記録」だからww 偉そうな事を語っているのがいるけど、
お前の名前は?
ちなみに家は『松傾』?
こういう名前の家w
直系なんだろう?????みたいな話なのかな >>415
>邪馬台国畿内説の同士討ちが始まってしまったな。。。
同士討ちじゃないよ
畿内説は学説で、左側スロープ君はトンデモ
畿内なら何でもいい、なんていう畿内説はない
九州説はどんなトンデモであっても、九州説なら何でもいいみたいだがねww
連続句読点がザラコクのトンデモを支援してるしw
ザラコクの周髀算経の読み方がオカシイのは連続句読点でも分かるだろ?
ザラコクみたいなまともな詭弁すら作れない無能を九州説の人が論難できない時点で、
九州説全体がダメ人間しかいないことの証明になってるんだよ まともな九州説はザラコク氏を非表示にしているから。 末盧国からは、
唐津古道を南に下り、途中左折して東に進むと、伊都国に到るのではなかったかな、、、 中傷しかしない畿内説には誰もついてこない
空しい勝利宣言だけが畿内説の生き甲斐なんだろう ちなみに右翼、左翼(不明)ではないよ、
あと天皇が何やら〜とか、そういう話も聞いたことないしw
何なんだと思う
老婆談というのも、仏教?そういう話ばかりだし >>481
鴨はガチガチの畿内説だよ。
九州を持ち出すと田舎者呼ばわりしているからねえ。
纒向か葛城かの違い。
どっちも考古学的証拠がないトンデモ。 カモ八の斜面は、東征したカモ族が在地民を殺して斜面に殉葬したって話じゃねーの? 自然の丘陵とか斜面を墓とか言張るのはだいたい九州に行き着く で東に、佐嘉楠大路を進んで到った伊都国は、今佐賀の川上と云うが、
ここはカワカミノタケルの伝説の地であったというのが、これまた泣かせるな、、、 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 糸島や博多を通らない九州説にも
もはや立つ瀬は無い タケルというのは、人名ではなく、合戦の武将という意味なので、
神武天皇は、80人の武将を騙し討ったのでは、ないのかな。。 >>154
「倍正南方、以正勾定之」の「正南方」は、
「倍する」の方向を示しているんだから、
「倍」の目的語ではない。 立つ瀬は無い・・、
というのは足の届く浅瀬はない、つまり水流れの中を進むことを云う。
糸島や博多へは、海岸沿いの断崖絶壁の道、だから立つ瀬のない海中の道もあったのであろう。。
しかし唐津古道から佐賀楠大路にかけては、クスノキ並木のしっかりした陸路であった。
(たとえ話、用例がよろしくない。) >>155
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
今日も、異常な主張や妨害を繰り返してるな >>156
>>大和は、西晋代にはまだ九州倭国の別種の旧小国であったのであり、
西晋に遣使する事はなかったのだ。<
>いやいや、その別種の旧小国が「日本國」なんだろ?<
その「日本國」は、隋代に小野妹子が文帝に名乗った「日本國」名であり、
九州倭國が西晋の惠帝に名乗った「日本国」ではない。 >>157
「南→東」などの嘘付き騙しの詐欺師の大和説者らは、
相手のいう事にも、知らん振りして、曲解捏造して、
世間の人々に騙そうとする事が多過ぎるから、対話が成立しないな 畿内説は中傷しかできなくなった
九州説の圧勝と判ずるしかない 【高麗郡情報】歴史文化講演会(高崎市)・・・2019年度第1回「邪馬台国時代の東国社会」5/12(日)
http://komagun.jp/2019/0401/8612
歴史文化講演会・・・先人の歴史に思いを馳せ学んでみてはいかがですか?
講演会場:潟с}ダ電機LABI1 LIFE SELECT高崎4階イベントスペースLABI GATE(高崎市栄町1-1)
時間:13:30〜16:00
参加費:300円
定員:300人(申込み不要・当日会場へ)
下記のスケジュールをご覧になり、ご参加ください。
参加申込みは不要です。講演会当日直接会場へお越しください。
第1回 2019年5月12日(日)
演題:邪馬台国時代の東国社会
講師:深澤敦仁氏(群馬県立歴史博物館学芸係長)
第2回 2019年7月7日(日)
演題:群馬の縄文社会 〜縄文土器はこころの器〜
講師:原 雅信氏(群馬県埋蔵文化財調査事業団事業局長)
第3回 2019年9月1日(日)
演題:古代東国の覇者 〜上毛野氏の実像に迫る〜
講師:小池浩平氏(群馬県立藤岡北高等学校教諭)
第4回 2019年11月24日(日)
演題:古墳時代の災害復興を考える 〜榛名30年物語〜
講師:清水 豊 氏(かみつけの里博物館次長)
第5回 2020年1月26日(日)
演題:古墳構築を考える ※2部は両氏の対談(16:45終了予定)
講師:土生田純之氏(専修大学文学部教授)
右島和夫氏(群馬県立歴史博物館館長)
第6回 2020年3月8日(日)
演題:古代群馬の馬と牧
講師:前澤和之氏(群馬県地域文化研究会会長) >>158
>本源的かどうかではなくて、倍に背の意味があるのが事実<
「倍」の使用意味は、始めに書かれた1〜4である事は、確率が高く、
「背」という意味であった確率が低い、という事が事実であり、
そのような「確率的な史料批判」が本来の史料批判だ。
倍に背の意味があるというのは、倍と書いて背という意味で読者に通じるということ
倍正南方は、それを母語とする人が読んで、背正南方の意味で読めるんだよ
根拠は維基文庫
>>「以正勾定之」は、東西を決めてそれ元にして南北を計測する事をしめしているんだから、<
>そうだよ! 「南北を計測する事」だ
でも「北」っていう字は「倍正南方、以正勾定之」には書かれていないだろ?<
だから、「北」へは「以正勾定之」をしなかった、という事。 そんなことよりも『祇 読み』
祇園?本当にガンダムの話と同じだしな・・・w
どのスレだったかな
「お前たちが批判をしているのは、国(日本)の〜だぞw」と言ってる人がいたり それにしても、どういう話なんだろう
『祇園 仏教』? >>159
>>伊都国は、末盧國出発時点でも、途中でも見えないから、書かないよ。<
>邪馬壹國も、水行10日+陸行1月の彼方だし、当然に出発時点でも途中でも見えないから、
南至邪馬壹國も出発方向以外にはあり得ないよな? ザラコク理論では?wwwww<
「水行十日陸行一月」の数量記載は、
その直前の「(行程全体の目的地である)女王之所都」に対する数量説明になるから、
「郡から女王之所都」の所要日数説明になる。 >>170
>倭人伝の距離は帯方郡から想定上の邪馬台国の位置 <
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「想定上」ではなく、魏使らんの実測値。
>沖縄や台湾辺りの会稽東治(冶)の東まで1万2千里というのが最初にありきで
それに後から辻褄合わせをしたものと何度も説明されてるぞ?
そういう事を書くから九州説はバカという事が回りにバレる <
会稽東冶ではなく、
陳寿が推定した女王國の位置は、「会稽東治之東」であるから、
「沖縄や台湾辺り」と言ったこの男も、
嘘つき騙しの詐欺師である事がバレている。 また根拠も無く漢文の解釈書いてるのか
信用無くすだけ >>186
「南→東」などの嘘付き騙しの詐欺師の大和説が、
邪馬台国畿内説スレにおかしな書き込みすれば、
周りや世間の人々は、
「ああ勝負はついて負けた大和説が荒らしてるんだな」と認識する ザラコク氏が、出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけはじめてしまった。。。 >>198
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説者は、
議論でも負け
荒らしても負け
結局大和説が詰み タケルというのは、人名ではなく、合戦の武将という意味なので、
神武天皇は、80人の武将を騙し討ったのでは、ないのかな。。 もはや九州説には異常者しかいないという風評被害を巻き起こす広告塔
それはザラコクと連句点 >>200
「南→東」などの嘘付きの・・・・詐欺師の大和説の、
信者や、スレ主や、学会教育界や、、右翼マスコミや5chや、
安部文部省の・・・・ジイさんどもがこの世を去れば、
大和説は消えてなくなる >>507
ザラコク氏が、出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけはじめてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、破綻した邪馬台国畿内説についての、
空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>220
やれやれ
「南→東」などの嘘付き詐欺の大和説が、荒らしてるなあ
議論に負けたのがそんなに悔しいのかね このスレッドで、連続句読点を使用することが、流行ってしまったので、過去に発表した僕達の意見がどれだったかの見分けが、出来なくなってきたな。。。 九州説は謙虚だ
畿内説に対してぐっと我慢を貫いている 『ボーボボ』
グーグルで検索すると
(法)悟空?の画像が出てきたり、
本当は、そういう意味でしょ
でも、なぜか家の写真?
キュウリのような葉、葱の華・・・? >>475
>鴨だって畿内説だろw
>>475はザラコクと同じ九州説ですね!って言われてうれしいのかい?
卑弥呼と神武が夫婦だったとかいうトンデモと、
一緒くたにされてうれしい人は日本にはいないよ >>227
教科書も、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が優勢は、と載った、ものも出るし、
大和説は、そろそろスポンサーも要らなくなって、
学生や国民への洗脳も終わって、
また八紘一宇の万世一系の、殺し合い戦争皇国史観の国になって戦争を始め、
そして殺された国民は、他の国民への見せしめは口封じのために
古墳の周りに穴掘って埋められる、
という事になるんだろうなあ。 >>476
>まともな九州説はザラコク氏を非表示にしているから。
例えば、どれがまともな九州説なんだ? トンと見たことがないんだが?
このスレの中に「まともな九州説の書き込み」があるなら、
コメント番号をいくつがか「具体的に指摘」してくれるかな? 背中に「天」の文字のキャラw
『天王』(天皇)・・・・? >>488
>で東に、佐嘉楠大路を進んで到った伊都国は、今佐賀の川上と云うが、
その経路だと、奴国に行き着かないだろ?
九州最大戸数二万戸の奴国は、福岡平野以外の比定地はありえない
一見もっともらしいことを言っているように見える九州説でも、
整合性の取れないチェリーピッカーしかいないのが現実 『何者にもなれない お前たち』
『ボーボボ』『』『』
その他・・・漫画やアニメなど、ほとんど同じでしょ >>492
>「倍正南方、以正勾定之」の「正南方」は、
>「倍する」の方向を示しているんだから、
>「倍」の目的語ではない。
そんなのは当たり前w
要するに、倍は他動詞じゃないんだよ
他動詞じゃないから後ろに目的語は来ない
『「倍する」の方向を示して』って、方向をどうやったら倍することができるんだ?
倍は「背」の意味って大陸中華の人が言っているのを、否定する理由が何一つどこにもない
ザラコクって、間違っているのが当然のことを、延々と書き続けるだけの無能
漢文もまともに読めないんだからww >>495
>その「日本國」は、隋代に小野妹子が文帝に名乗った「日本國」名であり、
>九州倭國が西晋の惠帝に名乗った「日本国」ではない。
おいおい、大陸史書の日本国初出は唐代の史書であって、それ以外の「日本國」など
最初から存在しないんだよ
九州倭國が西晋の惠帝に「日本国」名乗ったのなら、それは必ず旧唐書に
書かれた「日本國」以外はありえないww >>499
>「倍」の使用意味は、始めに書かれた1〜4である事は、確率が高く、
>「背」という意味であった確率が低い、という事が事実であり、
>そのような「確率的な史料批判」が本来の史料批判だ。
確率の高低ではなく、一つ一つの使用例で、どのような意味なのかを
考察していくのが史料批判の筋道
「確率的な史料批判」は便法でしかなく、ある意味邪道な史料批判の方法だ
確率だけで見るのなら、歴史上1回限りの事象については必ず判断を誤ることになる
古田史学は、根源から間違っているってことだな >>499
>だから、「北」へは「以正勾定之」をしなかった、という事。
正勾の法の説明は何度も原文引用してるんだがまだ分からないのか?
其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正「南北」也。
東西、南北が正確に定まるのが正勾の法のやり方
そこで、南北と書く代わりに「倍正」南北、以正勾定之という表現になってるんだよ 老婆談というのも、
ほとんど漫画と同じ話なんだけど、
どうなっているんだろう
キュウリの葉?
カッパというわけでもないし、
馬に乗っていて・・・みたいな話とか
西遊記? >>502
>その直前の「(行程全体の目的地である)女王之所都」
ザラコクは之が大好きだけれど、世界中でそんな読み方をするやつはザラコク以外にいないぞww
古田武彦氏も当然、そんな読み方はしていない
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
の邪馬壹國女王之所都は、ひとつの場所を示すだけ
邪馬壹國と女王之所都は同格、あるいは邪馬壹國の属性の説明が女王之所都であって、
南至「邪馬壹國女王之所都」水行十日陸行一月と南至「投馬國」水行二十日は
まったく同じ構文で、対句として書かれている >>228
>第1節目の周公の問の言葉に「周天暦度」が出てくるぞ。<
その「度」が、「分度器的角度文言」ではなく、
単なる「度合」ていう程度の意味。
>また《卷上》「七衡圖」では、度が使われ、365+1/4を使用した計算がが必須だ。
君の主張通りだと《周牌算經》の天文関係の計算は、殆ど成り立たなくなるが、<
「七衡圖」の説明でも、
「內一衡徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。分為三百六十五度、四分度之一,
度得一千九百五十四里二百四十七步、千四百六十一分步之九百三十三。<
から、突然「度」の「分度器的角度文言使用」が定義も無しに、突然発生しており、
「度」の使用も、
前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」であった可能性がある。 >>230
>どれだけ頑張っても畿内説が定着しない理由は何?
奈良県民とこの話をすると圧倒的に九州説の方が多いんだけど?
桜井の人は強いて挙げれば唐古鍵遺跡ぐらいしか無いし、
邪馬台国と畿内は関係無いよと言ってた。<
ふーん。 >>523
倭人伝には、「奴」入りの国名は多数出てくる。
奴は、当時めずらしい名称ではなかったのだ。
「只の奴国」も2つ出てくるが、記載された通り、2つあったと理解せざるを得ない(勝手に1つとしてはなるまい)。
で、1つ目は伊都国の東南百里とある。
動詞がないので、伊都国の東南の方角百里にあった、と読める。
佐賀の川上から眺めれば、東南の方角には今の佐賀市の市街地がある。
ここは当時、有明海に突き出た半島の如き状況であったことが地質調査から判明しており、
盛んに水田開発が行われていたので二万戸あり、朝夕は伊都国からも竈の煙が望めたのであろう。
なお遠絶傍国の最後に、2つ目の奴国が出てくる。
これこそ、古えより博多を中心として栄えてきた奴国(那国、倭奴国)のことであったと思われる。
その国力の強大さから推測して、おそらくは倭国大乱の一方の当事者だったので、
(陳寿は)遠絶疎縁の最後尾扱いにしたのではないか。 >>235
>説明してるじゃないかw 女王国まで萬二千里
倭国本土(本州四国九州)まで一萬里<
倭国本土は、ほぼ九州であり、「本州四国」は倭種程度にしかならず、×。
>渡海は一律で千里<
いや、「千余里」であり、「余」があるから計測値。
>という計測に拠らない、観念的な当てはめの数字を机上で調整した物になってる<
なっていない。実地の計測近似値。
>女王国まで萬二千里は、淮南子の東方之極萬二千里から来ている世界の果てまでの観念的距離<
魏使ら実地の計測値であり、
周代に一寸千里を使った記録とほぼ一致した、という可能性が高い。
>倭国上陸まで一萬里は、漢土方万里に対応して、漢土の広大さに匹敵する遠地という観念的距離
渡海は測れないから、千里の名馬などと同じ、遠い距離の定型句の千里を当てたもの <
おそらく一寸千里に拠る計測があった。
>陸行距離は近ければ百里、少し遠ければ五百里としているだけ 実測値として意味のあるものはないよ<
對海國の方四千余里や、一大國の方三百里の説明が出来ないから、×。
>水行二十日は北部九州から出雲 水行十日は出雲から丹波 陸行一月は丹波から大和で問題ない<
「南≠東北」に拠って、×。 >>532
>その「度」が、「分度器的角度文言」ではなく、
>単なる「度合」ていう程度の意味。
都合が悪いからって根拠もなく史料を否定抹殺するのはトンデモの人な証拠
「暦度」と書いてる以上それが単なる「度合」ていう程度の意味だなんてあり得ない
単なる「度合」ていう程度の意味で暦は作れないのだから
周髀算経は暦の常識である一日一度を用いている おじいちゃんらの大事なお話しぶったきりますご無礼ご容赦
令和の元ネタ作詞家(我忘却名前)の霊憲はお薦め >>237
>>(大きな墳丘墓)出雲自体が梁代まで独立的であり、九州倭国系とは違う国であり、
吉備も丹波も出雲系が関係しており、<
>これ、全部倭国だからw九州のみの倭国は成立の余地がない <
梁書は、九州倭国と、侏儒國と、出雲文身國と、越の大漢國と、大和の扶桑國と、
その東の「女國」とを書き分けているから、「全部倭国」は×。
>>年代も、卑弥呼や壹與とは違うもの。<
>>祇園山古墳が平原1号墓に先行するとかいうでたらめ編年は無意味だってww
ザラコクの頭の中に年代は入っていないww<
「卑弥呼の冢」の「冢」は、
馬韓伝の「居處作草屋土室、形如冢」のような「錐体」的な形状であり、
出雲と丹波と吉備の「墳丘」的形状墓とは全く違う。
そして、大きさも卑弥呼の冢よりも巨大になっているから、
「セレモニーの進化拡大」の原則によって、卑弥呼の冢よりも後。 >>532
>その「度」が、「分度器的角度文言」ではなく、
>単なる「度合」ていう程度の意味。
これだから、総合的に物事を調べるということをしないチェリーピッカーはだめだって言うんだよ
周天といった時点で、太陽が1年かけて公転(現実には地球のほうが公転するのだが)することを指す
そして、周髀算經が書かれた時点で周天暦度の度数が「365+4分の1」度というのが
常識というか公式になっている
ザラコクはバカすぎ >>728
>>新唐書日本伝の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」や、
釈日本紀がついうっかり紹介したした延喜講記の、
「小野妹子が 隋文帝に日本国を名乗った」などという記載が根拠。<
>これ、全部隋唐の時代じゃないかww<
唐の時代ではないよ。隋の時代にあった事の説明だ。
>>「西晋に日本国を名乗った」ってのはデタラメなんだな?
ザラコクはでたらめ野郎ww<
釈日本紀の「ついうっかり」紹介であり、デタラメではない。
類スレ主は、「南→東」などの嘘付き騙しの「でたらめ野郎」。 >>532
>「度」の使用も、
>前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」であった可能性がある。
「可能性がある」ってwww
論証は完全に放棄ですって意味にしかならないぞww
つまりはすべてザラコクの想像、憶測でしかないってことだ
それを置いておいても、「七衡圖」が「前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」ならば
周髀算經のメインコンテンツすら「前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」ってことだから
ザラコクのいう周代の記録など周髀算經には何一つ書かれていないことになるww
つまり、ザラコクの主張に従えば、周髀算經には参考にすべき記述がひとつもないことになるし
つまりは、一寸千里など短里の根拠にはなりえないってことだww
ザラコクはバカすぎ
自分の主張には、何を論証すればよいのかがまったく理解できていないww >>538
>「セレモニーの進化拡大」の原則によって、卑弥呼の冢よりも後。
また変な「原則」を発明しているな >>239
>>唐書などで、大和日本国は倭国から別れた別種の旧小国であり、<
>その「倭国から分かれた別種の旧小国の日本」を
九州倭国が名乗ったって言ってるのがザラコクだww <
勿論言っていない。
類スレ主が私の文の言葉尻を切り取って、造作した事だ。
そして、唐書の説明は、結局、
九州倭国も「日本」を名乗った事があり、
大和も「日本」を名乗った、という事だ。 周も何もない、
家の話だと言っているんだよ
あと謎の震災などがあるでしょ、
ほとんど人工地震だぞwみたいなことを言ってる人がいたり
なぜだと思う?
本当に、あの写真の家の話なんだけど、
兄、弟・・・妹がいるんでしょ >>541
>「可能性がある」ってwww
>論証は完全に放棄ですって意味にしかならないぞww
「〜でよい」とか「とするのが妥当」とかと同じレベルだろ。 >>534
>ここは当時、有明海に突き出た半島の如き状況であったことが地質調査から判明しており、
>盛んに水田開発が行われていたので二万戸あり、朝夕は伊都国からも竈の煙が望めたのであろう。
一生懸命調べたのはえらいけど(ボーリング調査なんかしていないっていってた人だろ?ww)、
「有明海に突き出た半島の如き状況」これは間違い
「有明海に突き出た『砂州』の如き状況」が正しい
当然に、稲作不適地だし弥生末期の時点では半ば海水に浸された塩害の影響の大きいところだ
そしてこれも何度も指摘しているが、筑後川下流域は筑後川が暴れ川だから新田開発などできない
そんなところに大人口の国などないよww
佐賀の遺跡は、平野から一段上がった大地上にあるのは理由があるんだよ
吉野ヶ里と同じような立地・高度に遺跡が並んでいる
>なお遠絶傍国の最後に、2つ目の奴国が出てくる。
>これこそ、古えより博多を中心として栄えてきた奴国(那国、倭奴国)のことであったと思われる。
こういうインチキを書くから、九州説は学説から遠ざかっていくんだよ
最初に出てくる奴国の方に、東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、『有二萬餘戶』。って
書いてあるんだから、こちらが当然に福岡平野の奴国
そして、伊都国は九州に上陸してからこの福岡平野の奴国へ行く途中にある
佐賀川上に伊都国を求めるのは、整合性の内トンデモ説にしかならない >>742
>>楯築も、西谷9号墓も、¥纒向石塚古墳¥も、東田大塚古墳も、平原1号墓も、
おそらく、卑弥呼よりも後だ。<
>全部卑弥呼より前だよww
無学、適当、思い込み、でたらめのザラコクが「おそらく」と言ったところで何の意味もない<
楯築も、西谷9号墓も、¥纒向石塚古墳¥も、東田大塚古墳も、
卑弥呼の冢の祇園山よりもかなり大きいから、
「セレモニーは進化拡大」も原則に拠って、卑弥呼の頃よりも後だ。
そして、平原1号墳は、薄葬令や卑弥呼の宗女で休戦のための共立女王であるから、
サイズは小さくなって、副葬などの見えない部分を豪華にしたもの。 >>540
>>これ、全部『隋』唐の時代じゃないかww<
>唐の時代ではないよ。隋の時代にあった事の説明だ。
反論にすらなっていないww 漫画アニメ・・・テレビ・・・、
おかしな芸能(最近の?)の世界?
必要ないだろうと言ってる人がいたり、
なぜだと思う >>544
>そして、唐書の説明は、結局、
>九州倭国も「日本」を名乗った事があり、
創作乙ww
そんなことはどこにも書いていない
書いてあるというなら、唐書の原文を引用しなさいなww
そもそも旧唐書にも、新唐書にも、日本国と「名乗った」という記述は
一箇所もないww 本当に家の写真なんだけどw飾ってあったでしょ
『祇園 太鼓 人形』
あと川俣町という掲示板
亀戸(天神)が何やら〜と言ってる人がいたり >>243
>ならないよ 現実の地理とは無関係な、誇張された値があるだけ <
ならないよ。
「誇張や形容詞的な使用」では、「余」を付けた近似値的な表現をしないもの。 何かの家の人なの?と思うかもしれないけど
『松傾』
こういう名前の家、
写真も同じようなものがあったり、
松の木が立てられていてw 本当に、あの掲示板も読んでみて、
川崎に住んでいる〜ような事を言っている人がいたり、
家は神奈川県の川崎区というところなんだけどw
どういう事なんだろう >>1
自論のテンプレと畿内説を名無しでカキコムけど
証拠や根拠はどうでもいいんだろうなww
バレ バレ 纏向に
巫女1000人と兵と官僚の集合住宅跡まだ見つからないね 川俣町(伊達郡)というところがあるんだけど
むかーし住んでいたと言っていたのかな?
親戚が住んでいて、そこに疎開した?老婆が言うには、そういう話w
謎の葱の華・・・・・・・・・・・の写真があるでしょ、
老婆も生まれていない頃のものだから、詳しいことはわからない 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>554
>「誇張や形容詞的な使用」では、「余」を付けた近似値的な表現をしないもの。
それ、誰が決めたの?
また素人オジンが一人で勝手に決めたの? >>243
>>平原には「21枚の尚方作の方形規矩鏡」があり、<
>それ全部、仿製鏡だし<
根拠は?。
仿製鏡であれば、ますます、
「21枚もの尚方作もの鏡」を仿製する、
という恐れ多い事が出来る筈がない。
>全部割られてる
魏の皇帝の下賜鏡をばらばらに割って、土にばら撒いてもいいなんて考える倭王を
想定する時点で、学説として成立しない<
卑弥呼らは、明帝の下賜鏡を、
(ペンダントのような)鏡片にして(破鏡)、親愛なる部下に下賜していたようであり、
相続した壹與の遺族は、渡来していた呉系楽浪鏡師らに錆色塗装をして貰って、
壹與の墓に副葬して貰った、という可能性ならある。 ザラコク氏が、出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけはじめてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、破綻した邪馬台国畿内説についての、
空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 魏志倭人伝の公式ホームページに発表された真実では、
卑弥呼らは、明帝の下賜鏡を、
(ペンダントのような)鏡片にして(破鏡)、親愛なる部下に下賜していたので、
相続した壹與の遺族は、渡来していた呉系楽浪鏡師らに錆色塗装をして貰って、
壹與の墓に副葬したのだったな。。。 >>564
>魏志倭人伝の公式ホームページに発表された真実では、
公式ホームページ?
陳寿の許可は得たのか?
w >>245
>>祇園山があるから、この大和説男も、嘘つき騙しの×人間。<
>祇園山は公式報告書で殉葬は否定されている<
日本の考古学者や公式発掘報告学者は、
ほぼ全員「南→東」などの史料事実の否定曲解をした半分×学者であるから、
「殉葬の否定」は根拠にならない。
>殉葬墓とされる墓坑が、祇園山古墳の地山成型のときに壊されてるんだよ <
卑弥呼から「ペンダントのように下賜された鏡片」を付けていた成人女性の墓だから、
卑弥呼の死で、一番先に殉死して、地山成型の前に殉葬された、という可能性がある。
>本体より先に殉葬墓を作って、それを壊しながら本体を作る、なんていう想定をしないと
祇園山の周辺の弥生墓を殉葬墓と見ることはできないが、誰が見てもばかげた想定だ
だから、殉葬墓であるという見解は公式に否定されている<
だから、祇園山の複数埋葬を含む62個の「墳裾の主体群」は、
墳頂の主体の埋葬とほぼ同時期埋葬であった、という事になり、
50〜100年間での集団墓だ、という「公式報告」を否定し、
祇園山は殉葬墓であった、という事の根拠になるものだ。 >>562
>卑弥呼らは、明帝の下賜鏡を、
>(ペンダントのような)鏡片にして(破鏡)、親愛なる部下に下賜していたようであり、
ようであり?
素人じいさんが理由もなく想像しただけでは? >>567
>だから、祇園山の複数埋葬を含む62個の「墳裾の主体群」は、
>墳頂の主体の埋葬とほぼ同時期埋葬であった、という事になり、
>50〜100年間での集団墓だ、という「公式報告」を否定し、
須恵器の出てる墓地が?
なら、卑弥呼の墓だって説は絶望だな 陳寿という人物が、魏志倭人伝を作製したので、その子孫が、魏志倭人伝の公式ホームページを作製し、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 >>246
>>「元」周髀算経は「整地」なんてしていないから、<
>その『「元」周髀算経』とやらを出してきてくれww
話はそれからだww <
もう既に、いくつか提示してある。 >>547
ボーリング調査は多々行われている。そのデータを参考にしている。
佐賀市街付近はもともと高めの土地で、古くからの陸地であった。だから後世、佐賀城もここに建設されたのだ。
ま、君のその解釈では、奴国が2つ書かれていることをうまく説明できないな。
方角も里数もぎくしゃくする。行程の到ると至るの区別もできず、現地に合わない。
(注:到るは途中に右折/左折がある場合、至るは一本道の場合。)
オレのように解読すれば、行程も、方角も、里数も、到・至も、30国もきちんと九州の現地に治まるんだけどな。 佐賀は田舎
九州倭国の王都にふさわしいのは大宰府だろ あと『天王』の話・・・、日本の話ではないのに、
なぜ神代(日本という国の話)から続いている事になってるの?
例えば『法悟空』背中に「天」という文字・・・、
少しづつ、徳(修行というとこになっているけど)などを
積んでいき〜〜〜〜〜〜最終(最後)的に
神に認められ〜『天王』
(何やら辞典の「C」中国で天子、天皇) なぜ、機械翻訳に詳しい韓国人は、4世紀に作製された纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝することを、決断したのだろうか、、、 『天王』(天子、天皇?)
実際は複数人(かなりの数)存在している
みたいな話
本当に、しろーとには、わからないこと 令和で話題の大宰府ですが、天武天皇も天智天皇もいらしてたんですね >>249
>>目的地が見えていれば、簡易三角測量が出来るし、<
>簡易三角測量って言葉がザラコクは大好きだけれど、
簡易であっても三角測量は、「角度」を正確に測らないといけない <
類スレ主は、全くの・・・・アホだね。
三角測量は、基線の両端で対象を「見通す直線」を引くのであり、
「角度」なんて測らないんだよ。
正確に測るのは、基線長。
>遠くなるほど、基線を長く取らないと「角度」の差が検出できないし、
見えているだけでは三角測量はできない <
有効数字1桁程度の近似値計測。 大宰府より、熊本城が、卑弥呼に関係性が高い根拠が充満していたな。。。 >>567
>卑弥呼から「ペンダントのように下賜された鏡片」を付けていた成人女性の墓だから、
九州説は
最初から結論ありき、かよ
デタラメもここに極まれりだな 数年前の、とあるスレ
俺にも資格(天王、天子の話だったかな)があるんだよな〜
と言ってる人がいたり
ホンモノなら「ありますよ」と答えるだろう >>270
>>どれだけ頑張っても畿内説が定着しない理由は何? <
>定着してるよ?<
国民の7割位は否定しているから、定着していないよ。 魏志倭人伝の公式ホームページに発表された真実では、 魏志倭人伝時代の奈良は、無人だった。。。 >>251
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
ここに何書いてもピシャリとやられるだけ
大和説が自らそういう風にしていった、とも言えるけど >>546
>「〜でよい」とか「とするのが妥当」とかと同じレベルだろ。
畿内説の判断にはきちんと根拠があり、それを示した上での妥当性の判断だ
ザラコクのは何の根拠もなく、その場で可能性が圧といきなり言いだしてるだけww
九州説だというだけでザラコクを擁護するのは、九州説全体を貶めることにしかならないぞww
>>546もザラコクと同類だなww 本州の陸上の事件で最初に記録されたヤマタノオロチ退治事件は、いつ、発生した事件なのだろうか、、、 >>252
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の人は、
作り話が多いな 法悟空・・・最終的に背中に「神」の文字だった?
もう、あのアニメのストーリーも覚えていないし、まだやっているの?
本当は、そういう話
例えば『法悟空』例えばの話 >>253
>? 俺も奈良に住んでるんだけど?<
国民の7割は、大和説を否定しているの。 >>578
>類スレ主は、全くの・・・・アホだね。
>三角測量は、基線の両端で対象を「見通す直線」を引くのであり、
>「角度」なんて測らないんだよ。
そんな測量法があったという記録も
そんな測量をしたという記録も
古代中国に存在しないな >>547
他人の考えを否定するのも結構なことだが、
それはそれとして、末盧国から邪馬台国女王の都まで、現地に合うよう説明して見せろ。
>>573
田んぼだらけの佐賀平野にあったのは、伊都国と奴国(二万戸)と不彌国
邪馬台国は肥後熊本一円で、主邑は山鹿菊池あたり、女王の都は阿蘇高千穂邑だ。間違えるなよ、けっこう壮大な国割な。 それとも逆?もともと「神」だったのかな?
追放されて・・・サル(妖怪)のような存在にされて・・・再び神に? >>548
>卑弥呼の冢の祇園山よりもかなり大きいから、
かなり大きいから、祇園山の被葬者よりかなり大きな権力を持った存在のために
作られたって分かる訳だ
つまり、祇園山の被葬者は小物の地方首長であって、倭王卑弥呼ではあり得ないww 今、5ちゃんねるとは他のホームページに作製された、邪馬台国の掲示板に、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係員よりもレベルの高い論敵が出現したので、論破する必要性があるので、闘いの必要性が高まってきた。。。 >>582
>国民の7割位は否定しているから、定着していないよ。
証拠は? >>592
>田んぼだらけの佐賀平野にあったのは、伊都国と奴国(二万戸)と不彌国
そういう定説に真っ向から逆らう説を言い張るなら、定説にいたる大量の根拠を覆すだけの
確実な根拠と緻密な論証が必要なんだが、そういうのは全部すっ飛ばして
「俺がこう考えたのが正しい」って言い張るだけでは科学にならないよ
三雲遺跡群や比恵那珂遺跡群を、なんだと考えるんだ?
なんだかんだ言って、弥生終末期に栄えていた人口集積地は、古墳時代に入っても栄えているし
それなりの規模の古墳を作っている
三雲遺跡群には築山古墳、端山古墳が作られるし、比恵那珂遺跡群の首長は那珂八幡古墳に
葬られている
佐賀川上の伊都国首長の家系の古墳はどれだ?
佐賀平野の奴国の首長家の古墳は?
「末盧国から東南に進んだ場所だから」だけでは、整合性のある仮説にはならないんだよ
都合のいい一つの情報だけに依拠した論立ては、チェリーピッキングの典型 >>585
>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
>ここに何書いてもピシャリとやられるだけ
「南→東」などの嘘付き騙しィィぃって連呼する
だけのことの
どこがピシャリ? 邪馬台国畿内説は、なぜ、日本国民の90パーセンテージを騙せないのだろうか、、、 >>269
これを読むと、スレ主をはじめとする大和説の連中や、
文部省や、右翼マスコミや、、学会教育界楽天が、
とにかく、大和皇国史観や人種差別戦争を守ろうとして、
倭国が憎くて倭国を貶すのが目的だってのがよく分かるね! 他の国、宗教、民族から見て・・・、
例えばサル?このように貶めている
どこも同じだと言ってる人がいたり >>578
>三角測量は、基線の両端で対象を「見通す直線」を引くのであり、
>「角度」なんて測らないんだよ。
>正確に測るのは、基線長。
バカだバカだとは思っていたが、ここまでバカなのか(呆れ)
三角形の決定条件って、中学校で習うんだぞ?
三角測量はそのうちの、「一辺と両端の角」によって三角形が決定されることを使うんだぞ!
『基線の両端で対象を「見通す直線」を引く』、ここまでは正しいが、
その「見通す直線」が何のために必要かと言えば、その見通す直線と基線との間の
『角度を測る』ためだよ
ザラコクの相手をするのは本当に虚しい >>571
>もう既に、いくつか提示してある。
提示してないよ
ウソはいかんな!
「七衡圖」すら違うんだろ?
元「周髀算経」で残る部分、もう残ってないぞww 今、5ちゃんねるとは他のホームページに作製された、邪馬台国の掲示板に、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係員よりもレベルの高い論敵が出現したので、論破する必要性があるので、闘いを開始したが、
このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の相手をしてあげる余裕はあるので、息抜きのためにも、相手をしてあげれば良いな。。。 >>597
定説といっても、其の元ネタは神功皇后記の剽窃に過ぎない代物であろう。
さらにその定説にいたる大量の根拠と言いながら、発掘済みの遺跡だけが根拠とは情けない。
三世紀ころの遺跡は、西日本ならあちこちいくらでも出てくる。
が、出たからといって、それが倭人伝の国々とは決して言えない。
倭人伝に記された方角、里数、至到をクリヤし、現地の地図とも合致しなくてはならぬ。
オレの解読を、九州の地図上で確かめたか?
確かめてみろ、実に良く合っているぞ。 ザラコク氏が、出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけはじめてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、破綻した邪馬台国畿内説についての、
空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>572
>ま、君のその解釈では、奴国が2つ書かれていることをうまく説明できないな。
どうして?
単に別々の場所に別々な国(二つの奴国)があるだけだぞ?
自分でも>>534で
『「只の奴国」も2つ出てくるが、記載された通り、2つあったと理解せざるを
得ない(勝手に1つとしてはなるまい)。 』って書いてるじゃないか?ww
まあ個人的には余傍国の末尾の奴国は、次有○奴国の○の部分が欠字になっているのだろうと
思っているがね
候補は次有「有奴国」
検証のしようもないから、これ以上は突き詰めようもないけれどww
少なくとも、余傍国の最後の奴国が二萬戸の奴国だとかいうトンデモよりは確実に合理的だがな 何が、おもしろい(凄い?)のか・・・・?
『法悟空』
グーグルで検索してみて、画像。
説明不要 >>572
>行程の到ると至るの区別もできず、現地に合わない。
まだこんなこと言っちゃってるの?
「行程の到ると至る」には意味上の区別はないって、とっくに常識になってると思ってたのに
まだこんなことを言い出す人がいるのには正直、驚きを禁じ得ない
このレベルのオールドタイマーだから、佐賀川上とか言い出すんだろうなww >>287
「タリシホコの国は九州ではなく、大和だ」だという珍説が死亡 >>578
>有効数字1桁程度の近似値計測。
有効数字一桁で三角測量ができると思ってるなら、バカすぎ
まあ、ザラコクだから、バカすぎなのは当たり前かww >>288
「南→東」などの嘘付き騙しの主張の証拠を展開する能力がない
みじめすぎる大和説 >>557
だから おもろいスレじゃん
主をからかうのもいいじゃん >>565
ザラコクは四天王の頂点
四天王VS>>1じゃ 畿内説は歯が立たないようだ >>301
>>そして、「63歩」の円を書かれていたのは、<
>そんなこと周髀算経に一言も書いてない 九州説はねつ造をやめるべきだ
これ以上汚濁にまみれたくなければ <
立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。 >>592
>それはそれとして、末盧国から邪馬台国女王の都まで、現地に合うよう説明して見せろ。
末盧国には寄っていない
末盧国に上陸して松浦川沿いに内陸に向かう東南陸行は、吉野ヶ里などへ向かうのでなければ不合理
北部九州の地理の紹介として古い記録が書かれているだけ
末盧国には官の記載がなく、卑弥呼共立後の官が置かれるようになった時期以降の記録が
陳寿の手元になかったと考えるのが妥当
壱岐から直接伊都国に舟で向かい、伊都国で一大率によって臨津搜露を受ける
その後そのまま舟で奴国(福岡平野)、投馬国(出雲)を経て、丹波に至り、
そこから南に陸行して邪馬台国(大和)に至る、で何も矛盾はない >>304
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
もう中傷しかできない敗残。
哀れだな。 >>310
「南→東」などの嘘付き騙し、という事の証拠は?
大和説は絶対に証拠を出さないのか? >>312
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠は?
ほら、また大和説が0点だった >>607
>三世紀ころの遺跡は、西日本ならあちこちいくらでも出てくる。
土器散布地、のような遺跡はいくらでもあるけれど、国の存在が想定できるだけの大遺跡は
なかなかないんだよ
弥生時代には青銅器製作が確認できるところは、その地域の中枢機能を持った大国だと判断できる
そのクラスの遺跡は北部九州では、三雲遺跡群と、比恵那珂遺跡群と、少し時代がずれるが
吉野ヶ里遺跡と、これくらいしかない
まだ見ぬ大遺跡があるに決まってると言い張っても意味がない
吉井信号バカが恥をさらして消えたのを見てないのかな?
佐賀川上で大遺跡が見つかってから主張してくれ
話はそれからだw >>315
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
いつも0点 陳寿を否定しなければ成り立たない畿内説
いっそ邪馬台国は無かったことにすればいい >>592
じゃあ福岡は何になるんだよ。
福岡を差し置いて佐賀が王都だなど、あり得るのか? 魏志倭人伝の公式ホームページに発表された真実では、 魏志倭人伝時代の奈良は、無人だった。。。 >>316
違うな
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、マイナス点だ >>617
立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
「63歩」の円を書いたとか
全く書かれてないな 畿内説は記紀により成り立つ説だと思うよ
皇国史観でしか畿内説は成り立たない >>532
>単なる「度合」ていう程度の意味。
自己解釈そのものだね。
>「內一衡徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。分為三百六十五度、四分度之一,
>度得一千九百五十四里二百四十七步、千四百六十一分步之九百三十三。
>から、突然「度」の「分度器的角度文言使用」が定義も無しに、
>突然発生しており、 「度」の使用も、
>前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」であった可能性がある。
既に「故曰:一歲三百六十五日、四分日之一」が書かれており、
「分為三百六十五度、四分度之一」であるから、365+1/4日=365+1/4度なのは明白。
引用しておいて、この計算をしていないのか?
「自己解釈に拠る付記」なら答えが出ないだろ。 >>617
>術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
それは「平地」=「平らに整地すること」であって、円を描くとはどこにも書いてないって
いくら教えても聞かない
九州説の人から見ても、ザラコクがオカシイのは一目瞭然だろうにww
例えば>>607はどう思うんだ?
ザラコクが九州説だからという理由で擁護したいと思うのかい?ww >>597
>三雲遺跡群や比恵那珂遺跡群を、なんだと考えるんだ?
>なんだかんだ言って、弥生終末期に栄えていた人口集積地は、古墳時代に入っても栄えているし
>それなりの規模の古墳を作っている
その通り。
弥生末期において福岡県以外に倭国の王都を想定し得ない。 >>319
>国宝中平銘鉄刀からの考察で、記紀登場人物から卑弥呼もトヨも見つけ出し、
その住処である葛城から径百余歩の奴婢が埋葬された塚を見つけ出したわしは
永遠の勝者となったのだw <
「南≠東」などに拠って、×。 >>631
記紀も筑紫の日向は神代の王都なんだよ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 神武天皇が、奈良を侵略したときの作戦と、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 ザラコク氏が、出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけはじめてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての、 空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>343
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠が出せず、
逃げてるのは大和説でしょ >>611
>従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。
いいことを教えてやろうな。
上の文章を読んでみろや。
循海岸水行歴韓国、乍南して、(韓半島の西南端岬で左に折れて)、乍東して、到る狗邪韓国。
つまり、「到る伊都国」の前用例として、数行前の狗邪韓国のケースでも、
南して、途中で左折して東へ向かった後に、伊都国同様の到るが使用されているわけだ。
これで「到る」の特別の用法の存在が理解されるであろう。 この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 >>346
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は可哀そうだな
そんなセコい嘘ついて百万が1誰かが一瞬でも騙されないかなーと願いを込めて
自分を慰める >>349
「南→東」などの嘘付き騙しのアホなレスで
邪馬台国畿内説スレ荒らせば荒らすほど
大和説の敗北の歴史がここに刻まれていく >>597 >>634
おや、福岡県人は、古代も福岡だけが大都会だったと思ってるのか。
大墓ばかり自慢するのは、没落してしまった畿内大和説と同じ論法だな。
大遺跡がみたけりゃ、
まずは肥後熊本の方保田東原遺跡だろう。
墓ではないぞ、弥生鉄の経済活動の証拠の大遺跡、これが本物の遺跡というものだ。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が頭が悪いので、この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、
他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした僕達は、邪馬台国畿内説を信じる、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を発見し、人生の最後の目的のために闘い始めたのだったな、、、 このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の相手をしてあげる余裕はあるので、息抜きのためにも、相手をしてあげれば良いな。。。 >>634
>その通り。
>弥生末期において福岡県以外に倭国の王都を想定し得ない。
北部九州で一番栄えていたけれど、畿内様式土器を受け入れ、
畿内発祥の前方後円墳祭祀を受け入れている、畿内中心秩序の参加者という地位なんだよ
倭国の中心ではないし、当然に倭国の王とでもない >>635は誰?
>>607の人なのかな?
自分で情けなくならないか?ww で、>>607はどう思うんだ?
ザラコクが九州説だからという理由で擁護したいと思うのかい?ww >>642
>これで「到る」の特別の用法の存在が理解されるであろう。
どこがどう「特別な用法」なんだい?
「具体的に説明」できるかい?ww >>611
いつ何処で、至と到に差がないと決まったんだ??
差がないなら、なんで使いわけたんだ???
wwww 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が頭が悪いので、この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、
他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした僕達は、邪馬台国畿内説を信じる、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を発見し、人生の最後の目的のために闘い始めたのだったな、、、 >>658
その、魅力が充満している、人生の最後の目的のために闘える、邪馬台国のホームページは、どうすれば、アプローチできるのだろうか、、、 >>646
>まずは肥後熊本の方保田東原遺跡だろう。
>墓ではないぞ、弥生鉄の経済活動の証拠の大遺跡、これが本物の遺跡というものだ。
そこ、庄内式土器がやたらたくさん出てるところだろ?
九州のみの倭国が成り立たないことを実証する遺跡で、しかも
早くから畿内と直結状態の国だよね! >>657
>差がないなら、なんで使いわけたんだ???
到には声譜の「刂」が付いているから、意味が同じで音が異なるんだよ
語調を整えるために 「到」が使われている >>647
神代が3世紀の邪馬台国より後?
いくらなんでも無理! >>653
身勝手な論理を振り回しても、誰も納得しないよ。 >>661
具体的にどう声調を整えたのかな??
www >>664
>身勝手な論理を振り回しても、誰も納得しないよ。
何をもって身勝手な論理と考えるのか「具体的な指摘」はないのかい?ww
奴国の領域が北部九州でも真っ先に畿内様式土器を受け入れ、
「模倣製作」して周辺に供給する役割を果たし、祭祀用供献土器である精製器種も含めて
一括で受け入れて在地の土器様式を放棄しているのは「事実」だし、
それまでの北部九州の墓制とは完全に異なる前方後円墳を受け入れて、
一斉に古墳時代に入るのも「事実」だろ?w >>666
お前の想像を事実と言うのか?www
病院池よ早くwww 大した古墳もない九州が、邪馬台国のはずがないでしょう。
古墳の大きさ ≒ 人口 ≒ 国力 ≒ 魏国からの評価
行程記事の方位なんてのも、松浦上陸後からキッチリ90度ズレているんだから、
その後も当然のごとくキッチリとズレ続けて、南は東。
魏使たちは北九州諸国を歴訪した後、日本海ルートで出雲(投馬国)を訪れ、
その後丹波から1月かけて奈良盆地に向かう。
どこにも、何の不自然さもない。 >>669
>行程記事の方位なんてのも、松浦上陸後からキッチリ90度ズレているんだから、
その後も当然のごとくキッチリとズレ続けて、南は東。 <
東南陸行 五百里 到伊都國⇒東南は南西
東南至奴国 百里 ⇒伊都国からまた南西
東行至不彌國 百里⇒不弥国からまた南西
皆 長崎県でいいのかな 訂正
時計と逆回りだったね
>>669
>行程記事の方位なんてのも、松浦上陸後からキッチリ90度ズレているんだから、
その後も当然のごとくキッチリとズレ続けて、南は東。 <
東南陸行 五百里 到伊都國⇒東南は北東
東南至奴国 百里 ⇒伊都国からまた北東
東行至不彌國 百里⇒不弥国からまた北東
奴国、不彌國は海の中でいいのかな
また
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶・・・・
北は西になるから、またまた九州方面へ逆戻りの行程となる
つぎに
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種これは 北になるから畿内から北へ海を渡ったらロシア?
陳寿90度回転さん⇒あんたの脳が90度回転してるのでは? >>669
日本に近いロシアは皆倭種でいいのだな
テンプレでは纏向が陸路の要所だから北陸とは言うまい
渡海千餘里 >>675
それ、行程記事じゃないよな
関係ないだろ 畿内説に普通にあって九州説にまったく無いもの2つ
1.ベースになる事実の提示
2.結論を出す論理の流れ 自画自賛する畿内説の心理はどれに当てはまるか
1.自分に自信がない
2.中途半端な自信がある
3.自分が本当に優れていると思っている
4.自己愛の強いナルシスト
5.自分に注目を集めたい
6.マイペースで自分勝手
7.批判されるのが嫌い
8.傷つきたくない
9.寂しがり屋
10.自分のことを認めてほしい
11.他人に評価してもらいたい
正直言って気持ち悪い! >.368
>これを認めるなら、邪馬壹【臺】國を認めない理由がないww<
翰苑の「廣志曰・・・」は、「邪馬臺國」ではなく、「邪馬嘉國」であり、
廣志は、筑後への遷都に関する情報を知っていて、邪馬嘉國と書いたんだよ。
>二度と「邪馬台国はなかったから×」とか書くなよw<
二度と、「邪馬台国」なんていう存在もしない嘘つき騙しの文言を書くなよ。 なるほど「90度回転寿司」とは、素晴らしい表現だ。 >>371
>>6分の1位に近いからだろう、と思われる。<
>それがなぜ6分の1くらいになるかというと、1歩=六尺だからだよww
それに合わせて、平地している(地面を平らにする=整地)からだww<
いや、その解釈ではないダメだ。
「元」周髀算経は、「整地」なんて記載していないし、記載する筈もないし、
一寸千里は「1歩≒1尺」になるのだから、「1歩=6尺」を使う筈がないし、
「1歩=6尺」では円周の63歩が365.25尺にならないから、
前漢収集説明学者が矛盾を書いてしまった事になる。
また、円周率を3ではなく、仮に3.14だだとすれば、
直径21歩の円周は65.94歩になり、その6倍は395.64(尺)になり、
ますます365.25から離れてしまう矛盾になる。
という事は、「径21歩」の円を造った、という事が、そもそもおかしかったのであり、
「径21歩」と書いた前漢収集説明学者の説明が始めからおかしかった、
という可能性がある事になり、
「元」周髀算経にはなかった文であった可能性もある。 >>686
倭人伝読めばわかるよ
90度回転してたら南は東、東は北 北は西になるからだろ
滅茶苦茶な日本地図が出来上がる >>685
>翰苑の「廣志曰・・・」は、「邪馬臺國」ではなく、「邪馬嘉國」であり、
>廣志は、筑後への遷都に関する情報を知っていて、邪馬嘉國と書いたんだよ。
筑後への遷都なんて話がどっから湧いてきて
遷都するとなんで「邪馬壹」国が「邪馬嘉」国になるんだよ?
九州説はいつも支離滅裂だな
ww 土地税制からして短里は有り得ないわな
長さが6分の1だと面積は6分の1の二乗で36分の1
現代農業でさえ生きていけない >>396
>応神天皇が百済王の系譜との兼ね合いから4世紀末、390年元年であろう。
ならば応神から崇神までの世代差を考えて崇神陵墓は行灯山でほぼ決まりで布留1式=4世紀前半。
ならば庄内0期=2世紀末まで約120年というところ。
プレ崇神が想定されるし、その中にトヨも卑弥呼もいる。<
「南≠東」などに拠って、×。 九州説は年号変わったから国が替わったとか言い出しそうだ >>398
>>周髀算経の出発点の一寸千里でも、水平に整地しないといけない筈なのに、
実際には整地の事など書いていないから、<
>周髀算経の測影では、夏至の影しか計っていないから影の長さは一尺六寸(夏至晷長一尺六寸)
たったこれだけの長さ(広さ)なら、特に整地しなくても平らな土地はいくらでもあるだろ
家の裏庭でも十分だ <
いや、周髀算経は冬至正午の影長の13.9尺も計測しているが、
整地した形跡がない。 そうだな。
南を東と読み替えて、
三世紀なら、だれでもかれでも卑弥呼、なんでもかんでもトヨ・・、にしたがるのはどういうわけなんだ。 >>400
>>畿内説の距離の解説まだーーーー < >>>235に書いてあるだろ?< これ、反論済みだから、それを転写。
>説明してるじゃないかw 女王国まで萬二千里 倭国本土(本州四国九州)まで一萬里<
倭国本土は、ほぼ九州であり、「本州四国」は倭種程度にしかならず、×。
>渡海は一律で千里<
いや、「千余里」であり、「余」があるから計測値。
>という計測に拠らない、観念的な当てはめの数字を机上で調整した物になってる<
なっていない。実地の計測近似値。
>女王国まで萬二千里は、淮南子の東方之極萬二千里から来ている世界の果てまでの観念的距離<
魏使ら実地の計測値であり、 周代に一寸千里を使った記録とほぼ一致した、という可能性が高い。
>倭国上陸まで一萬里は、漢土方万里に対応して、漢土の広大さに匹敵する遠地という観念的距離 渡海は測れないから、千里の名馬などと同じ、遠い距離の定型句の千里を当てたもの <
おそらく一寸千里に拠る計測があった。
>陸行距離は近ければ百里、少し遠ければ五百里としているだけ 実測値として意味のあるものはないよ<
對海國の方四千余里や、一大國の方三百里の説明が出来ないから、×。
>水行二十日は北部九州から出雲 水行十日は出雲から丹波 陸行一月は丹波から大和で問題ない<
「南≠東北」に拠って、×。 畿内で最初に「纒向だー、箸墓だー」と連呼した立候補者は誰だったのかな?
それって、>>1 だったんじゃないの、、、 >>689
どうやって論破したか説明できないのに
どうして
論破したと自画自賛するんだ?
九州説はいつも支離滅裂だな
ww 畿内大和の90度回転寿司屋はなんとかならんのか
いつまで待っても、おんなじのが回ってくるぞ、、、 >>688
>「元」周髀算経は、「整地」なんて記載していないし、記載する筈もないし、
「元」周髀算経なんて存在しないんだよ
後世の人の偽作なのさ 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が頭が悪いので、この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、
他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした僕達は、邪馬台国畿内説を信じる、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を発見し、人生の最後の目的のために闘い始めたのだったな、、、 >>688
勝手な我流の考えで史料事実を無視抹殺しようとする九州説にあきれた >>433
>テンプレは瀬戸内ルートと日本海ルート両論併記だろ 反論必要ない<
どちらも「南≠東」や「南≠東北」などの嘘付き騙しであるから、×。 畿内大和の90度回転寿司屋はなんとかならんのか、
回ってくるのは古い皿ばかり、、片っ端から × じゃ >>435
>畿内に邪馬台国ありきだって証拠は? <
畿内も邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
大和説者は理由もない決めつけばかりだな
それもこれも
大和説ありきの、理由ナシな詐欺師体質だろ >>706
嘘付き騙しだって証拠は?
嘘付きがザラコクの方でないって証しは? >>436
>畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、
及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、
瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>438
>追記
魏使は幾度も来てるから
>>1
>考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、<
であれば、当然>>1の主張は瀬戸内航路 <
「南≠東」などに拠って、×。 なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 畿内説みたいな南と東の区別もつかんような使者だったら国に帰れないもんなw
記録が残ってるということは、ちゃんと帰れたんだから南は南と読むべきだぞw >>712
女王と男王が、倭国の真の統一のために、合戦を実行していたからではないのかな。。。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 >>468
「南→東」などの嘘付き騙しが論破され尽くした大和説は、
反論を諦め中傷しかする事がなくなった。
みじめなことだ。 神武天皇が、奈良を侵略したときの作戦と、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治した作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 >>499の訂正
>>「倍に背の意味があるというのは、倍と書いて背という意味で読者に通じるということ
倍正南方は、それを母語とする人が読んで、背正南方の意味で読めるんだよ
根拠は維基文庫」<
「倍」の意味だという「背」は、倍の「確率の高い意味」ではなく、
確率の低かった意味。 >>504
また根拠も無く漢文の解釈書いてるのか
「南→東」などの嘘付き騙しの解釈は、
大和説者の信用を無くすだけ >>691
土地税制?
いつの時代の話をしているんだ?
弥生時代にそんなものがあったことを証明してからにしろよ。
畿内説はいつも時代錯誤だな。 >>667
>お前の想像を事実と言うのか?www
だから、どこが「お前の想像」で「事実と反すると考えている」のか
『具体的に指摘』しろって、何度言われたら分かるんだ?
九州説は具体論を話すことがまったくできない
蛤の欠伸のようなものだw >>510
もはや大和説には異常者しかいないという風評被害を巻き起こす広告塔
それはスレ主と類スレ主とssnら。 >>685
>翰苑の「廣志曰・・・」は、「邪馬臺國」ではなく、「邪馬嘉國」であり、
>廣志は、筑後への遷都に関する情報を知っていて、邪馬嘉國と書いたんだよ。
逸文しかない廣志の「邪馬嘉國」という記述を認めるなら、
きちんと残っている後漢書の「邪馬臺國」も当然に認めないと、ただのダブスタだぞww
「邪馬台国はなかった」なんていうのは、本を売るためのただのあおり文句であり
実体のない文字列にすぎない >>688
>いや、その解釈ではないダメだ。
いや、もともと365.25尺の円周が必要でそれが入るように、それより少し広い範囲を
整地するから、1歩=6尺の関係から、その六分の一+αで63歩の範囲になるんだよ
簡単だろ?
この簡単なことを認められないから、延々と意味のないうそ・でたらめを書き続けているのが
ザラコクだ
で、>>607はザラコクが九州説だからという理由で擁護するのかい?
それとも、九州説の風上にも置けないやつだとして、非難できるのかい?ww 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>688
>「元」周髀算経は、
「元」周髀算経の存在を、ザラコクはまったく示せていない
根拠なしだ
>「整地」なんて記載していないし、記載する筈もないし、
即「平地」徑二十一步,周六十三步。 って書いてあるじゃないかww
「平地」ってどういう意味だと思っているんだ?
「地を平らかにし」以外のどんな解釈がある?wwwww
>一寸千里は「1歩≒1尺」になるのだから、「1歩=6尺」を使う筈がないし、
一寸千里は、単に蓋天説の天地の距離八万里と、八尺棒の長さの比だよ
いつでもどこでも、夏至でも冬至でも洛陽でも上海でも成り立つ定数だ
つまり、周髀算經では、実際の影の長さは測っていなくて、
蓋天説という間違ったモデルの上での机上の計算に過ぎない
従って、影の長さの差が一寸になる距離は千里ではない
従って、短理などないし「1歩≒1尺」にもならない
で、>>607は、こんなにバカ丸出しのザラコクを
九州説だからという理由で擁護するのかい?
それとも、九州説の風上にも置けないやつとして糾弾するのかい?ww なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 >>694
>いや、周髀算経は冬至正午の影長の13.9尺も計測しているが、
>整地した形跡がない。
その、冬至の影長は夏至の影の長さに合う地点で計算すると、3寸足りないって話を
前に教えただろ? 冬至の影の長さは計ってないんだよww
そして、13.9尺は3メートル20センチくらいだ
たったこれだけの長さ(広さ)なら、特に整地しなくても平らな土地はいくらでもあるだろ
家の裏庭でも十分だ >>721
>「倍」の意味だという「背」は、倍の「確率の高い意味」ではなく、
>確率の低かった意味。
確率が高い低いは意味がない
実際にその意味で使われているのだから、まったく否定の根拠にならない
というか、古くは普通に背の意味で「倍」を使っていたから、ザラコクが思うより
確率自体もずっと高いんだぞ?
理解しているか?
で、>>607はこんな支離滅裂なザラコクを、
九州説だからという理由で擁護するのかい?
それとも、九州説の恥さらしだとして、積極的に論難すべきだとは考えないのかい? >>723
>土地税制?
>いつの時代の話をしているんだ?
>弥生時代にそんなものがあったことを証明してからにしろよ。
>畿内説はいつも時代錯誤だな。
お前もザラコク並みだなww
今問題にしているのは、ザラコクの言う「魏朝の度量衡は魏の統治範囲全面で短里だった」が
大嘘だってことだぞw
ここで言う土地税制は、魏朝の土地税制だ
日本の年代だと弥生時代だが、魏朝が税制を布いてなかったとでも言い出すつもりなのか?ww
それから、弥生時代の倭國でも、魏志倭人伝には「收租賦、有邸閣」とあるから、
何らかの税を取っていたと考えるのは特に問題ないぞww
で、>>723は魏朝全域が短里だったとか言うザラコクの言い分を
九州説の誼で擁護するんだな?
ザラコクと同等のバカじゃん?ww >>523
>九州最大戸数二万戸の奴国は、福岡平野以外の比定地はありえない <
九州最大の戸数の国は、邪馬壹國しか書かれておらず、
その中心は弥生銀座付近でしか有り得ず、
奴國は伊都国の「東南百里」だから、日向峠西麓〜早良平野部でしか有り得ないから、
×。 >>525
>>「倍正南方、以正勾定之」の「正南方」は、
「倍する」の方向を示しているんだから、 「倍」の目的語ではない。<
>そんなのは当たり前w 要するに、倍は他動詞じゃないんだよ<
お前(類スレ主)は、
「倍」は他動詞であり、その目的語が「正南方」だ、
と言っていたから、×。
>他動詞じゃないから後ろに目的語は来ない <
「倍」は、他動詞の意味で使われているから、
これも類スレ主は、×。 ザラコク氏が、出現して、「倍」は、他動詞の意味で使われていることで、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、破綻した邪馬台国畿内説についての、
空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>724
現代の日本を未来の人が発掘したらアップル製品が多数出土した。
だからここはアメリカだった。
畿内説の主張はこのスタイル。
根本的に証明論に発展させることはできないんだよ。 九州で発掘された、畿内産の土器は、古くても4世紀のものなので、 国内に外国の軍隊があるのに独立国なんて頭がおかしいのか 九州で発掘された、畿内産の土器は、古くても4世紀のものなので、魏志倭人伝時代とは関係がないのだったな。。。 以下を示せない畿内説は邪馬台国を語る資格無し。
倭国大乱の痕跡、棺有卿無の墓、弥生時代に文字文化が定着していた痕跡、警備が厳重だった集落、狗奴国との戦争の痕跡、、 、
まずはスタートラインに立てるよう努力しろ。 >>741
お前がおかしいんだから理解できる訳無いだろw 弥生時代の土地税制とかバカな事言ってるな
里は中国に決まってるだろ >>526
>>その「日本國」は、隋代に小野妹子が文帝に名乗った「日本國」名であり、
九州倭國が西晋の惠帝に名乗った「日本国」ではない。<
>おいおい、大陸史書の日本国初出は唐代の史書であって、それ以外の「日本國」など
最初から存在しないんだよ
九州倭國が西晋の惠帝に「日本国」名乗ったのなら、それは必ず旧唐書に
書かれた「日本國」以外はありえないww <
おいおい、中国史書の大和の国の初出は、梁書の扶桑國であり、
大和で(隋文帝に)日本国を称したのは、
九州倭国の倭奴國の阿毎氏から別れた(神武らの)別種の旧小国であったんだよ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>528
>>「倍」の使用意味は、始めに書かれた1〜4である事は、確率が高く、
「背」という意味であった確率が低い、という事が事実であり、
そのような「確率的な史料批判」が本来の史料批判だ。<
>確率の高低ではなく、一つ一つの使用例で、どのような意味なのかを
考察していくのが史料批判の筋道<
「一つ一つの使用例で、どのような意味なのか」に関しても、
「倍」が「背」という意味で使われた確率が非常に低い。
>>「確率的な史料批判」は便法でしかなく、ある意味邪道な史料批判の方法だ
確率だけで見るのなら、歴史上1回限りの事象については必ず判断を誤ることになる<
「歴史上一回限りの事象」だという事でも、最初は確率50%としておいて、
その情報に関する前後周辺の史料実態から正否どちらに近いのか?を推定すべき。 ザラコク氏が、出現して、(神武らの)別種の旧小国のことで、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、破綻した邪馬台国畿内説についての、
空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開し、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 >>529
>>だから、「北」へは「以正勾定之」をしなかった、という事。<
>正勾の法の説明は何度も原文引用してるんだがまだ分からないのか?
其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正「南北」也。
東西、南北が正確に定まるのが正勾の法のやり方<
そんな事、始めから言っておいた事。
>そこで、南北と書く代わりに「倍正」南北、以正勾定之という表現になってるんだよ<
「倍正南北、以正勾定之」ではなく、
「倍正南方、以正勾定之」と書かれているんだから、
「北」もある、というのは、×。 >>740
>国内に外国の軍隊があるのに独立国なんて頭がおかしいのか
なんのこと? >>733
東夷伝ときちんと向き合えよ。
短里で書かれているのは魏志全体ではなく、東夷伝だよ。
まずそこから始めよう。
いいな? 糸島イトコク、博多ナコクは定説というが、
其の元ネタは神功皇后記の剽窃に過ぎない代物であろう。
さらにその定説にいたる大量の根拠があると言いながら、発掘済みの遺跡だけが根拠とは情けない。
三世紀ころの遺跡は、西日本ならあちこちいくらでも出てくる。
が、出たからといって、それが倭人伝の国々とは決して言えない。
倭人伝に記された方角、里数、至到をクリヤし、現地の地図とも合致しなくてはならぬ。
オレの解読の「伊都国は佐賀・川上、不彌国は吉野ヶ里・目達原」を、九州の地図上で確かめたか?
確かめてみろ、倭人伝の行程記述に、実に良く合っているぞ。 太陽信仰がどうたらと言ってたのは鏡て祭祀に拘る畿内説だろ?
卑弥呼が祭祀で100枚も使うわけもなかろうに。
多くの女性を抱えていると聞いていたからこそ生活用品として授けたんだと思うな。 >>757
かといって遺跡発掘すらままならない畿内説はどうなんだ?
ブーメランだろそれ。 >>759
それがなんでブーメランなんだ?
突然結論を言わないで
理由を言えよ
コミュ障でないならな 畿内説はもうだめだ、見切りをつけて征西だ。
これからは肥の卑弥呼国。 >>531
>>(水行十日陸行一月の説明対象)
その直前の「(行程全体の目的地である)女王之所都」<
>古田武彦氏も当然、そんな読み方はしていない<
古田解釈と同じ。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 の邪馬壹國女王之所都は、ひとつの場所を示すだけ
邪馬壹國と女王之所都は同格、あるいは邪馬壹國の属性の説明が女王之所都であって、<
本来的には、その文言の前の文全体の説明である事になるが、
当然一番の直前文言の説明である事が一番確率が高く、
それより前の文言の説明であった確率は、低いもの。
>南至「邪馬壹國女王之所都」水行十日陸行一月と南至「投馬國」水行二十日は
まったく同じ構文で、対句として書かれている<
同じ「南至」であっても、
投馬國の「至」はその前に移動説明がないから側副傍線國の説明文であり、
邪馬壹國女王之所都は、その直前になる不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
主行程が不彌國から殆ど移動しておらず、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國女王之所都があった事になる。 考古学的には博多湾沿岸の博多比恵那珂を中心とした筑前は
首長層レベルで畿内との緊密な交流関係であることは事実なので
未調査夢ロマン九州説を妄想して楽しむなら、博多湾沿岸以外の地域の
九州チビおやじ王国を想定しなければならない このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 考古学的には、博多湾沿岸の博多比恵那珂を中心とした筑前は
首長層レベルで畿内との緊密な交流関係であることは、魏志倭人伝時代が終わった後からの事実だったな。。。 なぜ、熊本城を中心とする熊本からは、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が、日本列島で一番大量に発見されるのだろうか、、、 卑弥呼は肥巫女だったということなのだろうか。。。。 卑弥呼の伝承が「おてもやん」の歌詞に投影されているのではないかな。。。 >>759
そのレスの相手は九州佐賀説だろ。
畿内説ではないと思う。 >>762
>投馬國の「至」はその前に移動説明がないから側副傍線國の説明文であり、
いっさい帰納的な推定をせず
なんの理由もなく
我流の法則を発明しても
誰も認めてくれないよ 奈良の観光業界が、また選挙に勝ってしまったので、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している韓国政府と県政の利害の一致が、続行してしまうな。。。 伊作氏は、このレベルの低いスレッドから、引っ越してしまったのでは、ないのかな。。。 完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している韓国政府が、奈良の観光業界の最大のスポンサーという可能性のパーセンテージが、急上昇してきたのではないのかな。。。 >>536
>>(「昔者周公問於商高曰:「竊聞乎大夫善數也,請問古者包犧立周天曆度。
夫天不可階而升,地不可得尺寸而度。請問數安從出?」の度)
その「度」が、「分度器的角度文言」ではなく、
単なる「度合」ていう程度の意味。⇔
>「暦度」と書いてる以上それが単なる「度合」ていう程度の意味だなんてあり得ない
単なる「度合」ていう程度の意味で暦は作れないのだから<
まだ「日数」などなのか?、「歩」や「尺寸」などの長さなのか、「角度」なのか?は書かれていない。
それが示されていない内は、単なる「度合」ていう程度の意味でしかないのだから。
>周髀算経は暦の常識である一日一度を用いている<
1年の日数の365.25日と、円周角度の360度とは、合っていないから×。 >>539
>>その「度」が、「分度器的角度文言」ではなく、 単なる「度合」ていう程度の意味。<
>周天といった時点で、太陽が1年かけて公転(現実には地球のほうが公転するのだが)することを指す
そして、周髀算經が書かれた時点で周天暦度の度数が「365+4分の1」度というのが
常識というか公式になっている<
周公の頃に一年の「365.25日」という認識や、分度器の360度などが存在したのか?が不明だし、
周公がそんなつもりで言ったのか?も不明だ、と言っている。 >>780
>まだ「日数」などなのか?、「歩」や「尺寸」などの長さなのか、「角度」なのか?は書かれていない。
>それが示されていない内は、単なる「度合」ていう程度の意味でしかないのだから。
知能が低すぎる
周髀算経は最初から暦と書いているのだから日数に決まっている
>1年の日数の365.25日と、円周角度の360度とは、合っていないから×。
無知蒙昧すぎる
古代中国の円周角度は365,25度だ
知能が低いうえ無智無学だから九州説なんだろう >>541
>>(七衡図での「度→里歩系」の)
「度」の使用も、 前漢収集説明学者の「自己解釈に拠る付記」であった可能性がある。<
>「七衡圖」が「前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」ならば
周髀算經のメインコンテンツすら「前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」ってことだから
ザラコクのいう周代の記録など周髀算經には何一つ書かれていないことになるww<
七衡図時点では、「度→里歩系での長さ」という事だけでの「度」の使用。
しかし「二十八宿」の説明では、始めから、
「度」を365.25日の日数や、一周360度の角度としての記載になっており、
七衡図の時とは、全く違って、新しい考えで使っている。
つまり、「「度」を365.25日の日数や、一周360度の角度数」としての記載は、
前漢収集説明学者の説明であった可能性が高い。 >>763
>考古学的には博多湾沿岸の博多比恵那珂を中心とした筑前は
首長層レベルで畿内との緊密な交流関係であることは事実なので
このお前の言う「事実」が世間では「想像」と言うんだよ。
「〜と思われる」、「〜と推測できる」というのは事実じゃないんだから。
「事実」は良く考えて使えよw
外人か? >>542
>つまり周髀算経は後世の人の偽作ってことだね<
違うね。
「後世の人の偽作」では、
周髀算経の星の位置が紀元前1100年頃の位置であった、という事や、
一寸千里が「里の長さが短里的な既知の距離」として書かれている、
という事などの説明が出来ない。
しかし、前漢収集説明学者の記載文と思われる情報があちこちに入っているから、
両者の混合文書だろう、と言うべき。 後漢書では、朝鮮半島南岸から九州北岸までの狭い範囲が倭国なんだよな。
記紀では、アマテラス(海を支配する王)が豊葦原瑞穂の国(稲が生い茂る豊かな国)を手に入れようとあの手この手を尽くし、ついには孫を筑紫の日向の王にしたことになっている。
そうやって手に入れた貴重な稲作地域が博多湾沿岸なわけだ。
その倭国の女王になったのが卑弥呼なんだよ。 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「考えられる」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。 >>551
>>そして、唐書の説明は、結局、 九州倭国も「日本」を名乗った事があり、<
>創作乙ww そんなことはどこにも書いていない
書いてあるというなら、唐書の原文を引用しなさいなww<
旧唐書 :「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
唐会要日本國伝:「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。或以倭國自惡其名不雅、改爲日本」
唐会要倭國伝:「則天時、自言、其國近日所出、故號日本國」
>そもそも旧唐書にも、新唐書にも、日本国と「名乗った」という記述は
一箇所もないww<
新唐書は始めから「日本伝」しかなく、
「日本、古倭奴也・・・居筑紫城。 彦瀲子神武立、更以「天皇」爲號、徙治大和州」とし、
古の倭奴國の別種の国であった事を証言している。 >>788
>「日本、古倭奴也・・・居筑紫城。 彦瀲子神武立、更以「天皇」爲號、徙治大和州」とし、
>古の倭奴國の別種の国であった事を証言している。
>>788
「日本、古倭奴也」と書いてあるんだろ
古の倭奴國の別種の国であった事を証言だとか
また真っ赤なウソだ >>568
>>卑弥呼らは、明帝の下賜鏡を、 (ペンダントのような)鏡片にして(破鏡)、
親愛なる部下に下賜していたようであり、<
>ようであり? 素人じいさんが理由もなく想像しただけでは?<
墳裾の1号甕棺の(鉄剣なども副葬された)成人女性が、鏡片を付けていた。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 >>569
>>だから、祇園山の複数埋葬を含む62個の「墳裾の主体群」は、
墳頂の主体の埋葬とほぼ同時期埋葬であった、という事になり、
50〜100年間での集団墓だ、という「公式報告」を否定し、<
>須恵器の出てる墓地が? なら、卑弥呼の墓だって説は絶望だな<
須恵器がどこから出土したのか?や、どのような陶器であったのか?は判らないが、
吉武高木に既に陶磁器が出ているし、
中国の黒陶や灰陶や楽浪土器や瓦式土器などの伝来もあったようだし、
筑紫の遺跡からは、
黄褐色の弥生土器片と「白〜灰色」の土器片の混在出土例が沢山あったから、
筑紫における陶磁器生産は、(陶邑に比べても)ずっと早かった事になる。 このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>783
>七衡図時点では、「度→里歩系での長さ」という事だけでの「度」の使用。
>しかし「二十八宿」の説明では、始めから、
>「度」を365.25日の日数や、一周360度の角度としての記載になっており、
>七衡図の時とは、全く違って、新しい考えで使っている。
九州説がまたウソをついている
七衡の説明に
「内一衡径二十三万八千里周七十一万四千里
分為三百六十五度四分度之一。
度得一千九百五十四里二百四十七歩千四百六十一分歩之九百三十三。」
とか、たくさん書いてあるぞ >>580
>>卑弥呼から「ペンダントのように下賜された鏡片」を付けていた成人女性の墓だから、<
>九州説は 最初から結論ありき、かよ デタラメもここに極まれりだな<
大和説者は、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホの時と同じように、
最初から「大和説の結論ありき」、かよ。
デタラメもここに極まれりだな 。 どことなく、伊作の亡霊も出没してるような雰囲気だな >>796
九州説が最初から結論ありきだったことがバレて
オウム返しで罵って誤魔化す
みにくい九州説 >>586
>畿内説の判断にはきちんと根拠があり、それを示した上での妥当性の判断だ<
畿内なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説も、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師であり、
幾ら判断や結論を言われても、全く信用出来ない代物だ。 >>793
>筑紫における陶磁器生産は、(陶邑に比べても)ずっと早かった事になる。
このように
日本史をぜんぶ転覆させないと
九州説は成り立たない >>799
>畿内なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
このたった一言だけでも
九州説がウソついてることが
聴衆みんなにばれちゃうね >>591
>>類スレ主は、全くの・・・・アホだね。
三角測量は、基線の両端で対象を「見通す直線」を引くのであり、
「角度」なんて測らないんだよ。<
>そんな測量法があったという記録も そんな測量をしたという記録も
古代中国に存在しないな<
一寸千里の法も、太陽高や太陽直径などの計測も、
簡易三角測量の「応用」になっていたんだよ。 >>802
それ、ザラコクが妄想してる方法と違うから もう畿内説はおしまいだ、
見切りをつけて九州卑国説に乗り換えるわ >>594
>楯築も、西谷9号墓も、纒向石塚古墳も、東田大塚古墳も、
卑弥呼の冢の祇園山よりもかなり大きいから、<
>かなり大きいから、祇園山の被葬者よりかなり大きな権力を持った存在のために
作られたって分かる訳だ
つまり、祇園山の被葬者は小物の地方首長であって、倭王卑弥呼ではあり得ないww<
筑紫には薄葬令が効いていたし、
楯築も、西谷9号墓も、纒向石塚古墳も、東田大塚古墳も田舎だし、
「セレモニーは進化拡大」するものだし、
必要があればますます巨大化豪華化するものだから、
卑弥呼の頃にはまだ小さくて当たり前。 >>600
>これを読むと、スレ主をはじめとする大和説の連中や、
文部省や、右翼マスコミや、、学会教育界楽天が、
とにかく、大和皇国史観や人種差別戦争を守ろうとして、
倭国が憎くて倭国を貶すのが目的だってのがよく分かるね!<
あれっ?、おかしいなあ。
「学会教育界や5ch」と書いた筈なのに、
「学会教育界楽天」に変わっている!。
誰がこんな事をしたんだい?。
ひょっとしたら「5ch=楽天」だったのか?。
知らなかったなあ。 >>800
畿内説は嘘を嘘で塗り固めているからね。
いざとなれば全部まとめて瓦解するよね。
ゴッドハンドはまずいよね。 魏志倭人伝に事細かに墓の仕様や殉葬者の数が記載されているというのに、大きさだけで判断する畿内説とは。。。 >>790
>墳裾の1号甕棺の(鉄剣なども副葬された)成人女性が、鏡片を付けていた。
それのどこが
卑弥呼らが明帝の下賜鏡を鏡片にして 部下に下賜していた
とか妄想するネタになるんだ?
脳が腐ってるのか? >>808
畿内説の嘘とは何なのか
具体的なことを言えないのは
九州説側が中傷のために嘘をついてる
って証拠 >>804
そんなの全部テンプレに出てるから問題なし >>807
自分の間違いを平気で他人のせいにする
九州説の腐った体質
w このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>813
妄想テンプレをどうやって信じろと?
纒向と九州との関係が見られないと言ってたのは複数の学者達だろw
20年前のお前の希望的観測であったテンプレは修正しなくていいのか? >>602
>>三角測量は、基線の両端で対象を「見通す直線」を引くのであり、
「角度」なんて測らないんだよ。 正確に測るのは、基線長。 <
バカだバカだとは思っていたが、ここまで類スレ主はバカなのか(呆れ)
>三角形の決定条件って、中学校で習うんだぞ?
三角測量はそのうちの、「一辺と両端の角」によって三角形が決定されることを使うんだぞ!
『基線の両端で対象を「見通す直線」を引く』、ここまでは正しいが、
その「見通す直線」が何のために必要かと言えば、その見通す直線と基線との間の
『角度を測る』ためだよ <
分度器があったのか?も判らず、
「角度を測って」も、結局はその後は作図に拠って距離を求めるんだから、
始めから平板上の基線の両端から見通し線を引いて、その交点を求め、
一端からその交点への長さを測って、
基線長との比を求めた方が早く簡単なんだよ。
頭の悪い・・・・類スレ主や大和説者らの相手をするのはら、本当に面倒くさい。 >>603
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の頭が、ヘン
いつもの事だが テンプレは現代の学説に合わせて修正すべきではないかな。 >>819が現代の学説を知ってるわけがない
なんせ九州説やってるんだからな >>618
>末盧国には寄っていない<
「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」
という「途中移動の見聞記録が書かれているから、末盧國を寄って通っている。
>末盧国には官の記載がなく、卑弥呼共立後の官が置かれるようになった時期以降の記録が
陳寿の手元になかったと考えるのが妥当<
だからこれも×。
>末盧国に上陸して松浦川沿いに内陸に向かう東南陸行は、吉野ヶ里などへ向かうのでなければ不合理
北部九州の地理の紹介として古い記録が書かれているだけ<
「東南+陸行五百里+到伊都國」と読むべきであり、
東南は出発方向を示しているだけだから、×。
>壱岐から直接伊都国に舟で向かい、伊都国で一大率によって臨津搜露を受ける<
魏使らの「安全最短の原則」に反する詩、「陸行五百里」にも反するから、×。
>その後そのまま舟で奴国(福岡平野)、投馬国(出雲)を経て、丹波に至り、
そこから南に陸行して邪馬台国(大和)に至る、で何も矛盾はない <
「南≠東」などに拠って、始めから、×。 >>623
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の言っていることは、
支離滅裂すぎだ >>822
どこが支離滅裂なの?
具体的に指摘してね >>821
>「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」
>という「途中移動の見聞記録が書かれているから、末盧國を寄って通っている。
誰が?
それが問題として指摘されてるとこなんじゃないの? >>817
>分度器があったのか?も判らず、
>「角度を測って」も、結局はその後は作図に拠って距離を求めるんだから、
>始めから平板上の基線の両端から見通し線を引いて、その交点を求め、
>一端からその交点への長さを測って、
>基線長との比を求めた方が早く簡単なんだよ。
素人考えの空想だけで言い張っても
まったく意味がない
ぜんぶ史料をに書いてあることなんだから
史料をまったく読まず空想だけしてる九州説が
史実に行き着く可能性などカケラもない >>816
>妄想テンプレをどうやって信じろと?
>纒向と九州との関係が見られないと言ってたのは複数の学者達だろw
纒向と九州との関係が見られないと複数の学者達が言ってた
と言う証拠は? >>829
出たw
畿内説の情けない反論w
証拠は?証拠は?証拠は?・・・www 九州説は畿内説スレになぜ書き込みに来るのかな
もしかして負けた腹いせに荒らしてるのかな? >>822
>どこが支離滅裂なの?
>具体的に指摘してね
決まっとろうが、おまいのアタマの中がじゃ >>833
>>835
そうやって具体的な話から逃げまくるから
九州説はいつまでたっても
噂話レベルの素人説でしかなく
畿内説に論破され淘汰された旧説
だと言う事実が
天下に知れわたる もう畿内説はおしまいだ、
見切りをつけて九州佐賀・卑国説に乗り換えるわ 。これで先頭を走れる。 >>836
という旧説にしがみつく畿内説哀れwww >>831
>畿内説の情けない反論w
>証拠は?証拠は?証拠は?・・・www
証拠を問うことが情けないとか思ってる限り
九州説は学問にはほど遠い 畿内で最初に「纒向だー、箸墓だー」と連呼した学者はいったい誰だったのだろうか?
それって、>>1 だったんじゃないの、、、 >>841
お前が学説に弱いのはよく分かった。
新たなネタでも探してこい。
すでに存在感無いぞ。 >>846
なーんだ
負けたのに勝ったフリ?
キミ、ばかにしか見えないんだけど
これ正解? >>632
>>「內一衡徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。分為三百六十五度、四分度之一,
度得一千九百五十四里二百四十七步、千四百六十一分步之九百三十三。」
から、突然「度」の「分度器的角度文言使用」が定義も無しに、 突然発生しており、 「度」の使用も、
前漢収集説明学者の」「自己解釈に拠る付記」であった可能性がある。<
>「分為三百六十五度、四分度之一」であるから、365+1/4日=365+1/4度なのは明白<
前漢収集説明学者が、「度」というん文言を、
何の根拠もなく「度=日」とした使用をしている事が明白。 キナイコシは人生が虚しくならないのかな?
引きニートかな? >>850
あのねえ・・
史料をぜんぜん読まずに空想したってダメなんだよ
「七衡周而六間以当六月。
節六月為百八十二日八分日之五。
故日夏至在東井極内衡、日冬至在牽牛極外衡也。
衡復更、終冬至。
故曰一歲三百六十五日四分日之一。」
と計算した結果
「内一衡径二十三万八千里周七十一万四千里。分為三百六十五度四分度之一
度得一千九百五十四里二百四十七歩千四百六十一分歩之九百三十三」
と「一度」と言う単位の定義を述べたんだよ
つまりザラコクの言い張る
>突然「度」の「分度器的角度文言使用」が定義も無しに、 突然発生
が真っ赤な嘘なの >>633
>術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
それは「平地」=「平らに整地すること」であって、円を描くとはどこにも書いてないって
いくら教えても聞かない <
「徑二十一步,周六十三步」という土地は、直径が21歩で周が63歩の円しかない、
という事が、類スレ主はどうしても判らないアホ。 このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>653
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一つで、
河内よりも低い繁栄だったけれど、
筑紫様式土器を受け入れ、
筑紫発祥の前方後円墳祭祀を受け入れている、
筑紫中心秩序の参加者という地位なんだよ
倭国の中心ではないし、当然に倭国の王とでもない 九州説さん負けて口惜しいからって荒らさないで下せえ 泥酔した10代少女を暴行した強姦の疑いで16日までに愛知県警に逮捕されたのは愛知県立城山病院医師 高木宏だ。
昨年4月30日〜5月1日にかけ、愛知・名古屋市内の高木容疑者が賃貸契約していたヤリ部屋で、10代後半だった少女2人に酒を飲ませ、暴行した疑い。
事件を首謀した高木容疑者は、過去に4回も準強姦容疑での逮捕歴があった。その手口はいずれも自分の部屋で合コンなどの名目で飲み会を開き、参加した女性に酒を飲ませて暴行していた。
昨年7月は泥酔状態の20代女性に性的暴行を加えたとして準強姦容疑で逮捕(処分保留)。その後、9月にも別の20代女性を強姦した疑いで再逮捕されていた。
驚くのは短期間に何度も逮捕されているのに、病院側が何の処分もしていなかったことだ。
ある現役医師は「昔からレイプが発覚して病院をクビになる医師はいるが、数年たつとみな別のところに移って何事もなかったかのように勤務していますよ」と明かす。
高木容疑者は過去の事件では不起訴処分になっているとみられるが、医師免許さえあればお構いなしとはあきれる。どうやらロクに“身体検査”をしない病院が少なくないようだ。
高木容疑者が過去に逮捕された時には、女性を乱暴する動画が収められたケータイも押収されている。千葉大のレイプ事件でも被害女性を撮影し、仲間内でLINEで共有するという鬼畜行為に及んでいた。
こんな性犯罪者を野放しにして患者を診察させていた病院の罪は重い。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2931248.htm
高木宏のご尊顔
https://dotup.org/uploda/dotup.org1817208.jpg
愛知県立城山病院
電話:052-763-1511 >>660
>>まずは肥後熊本の方保田東原遺跡だろう。
墓ではないぞ、弥生鉄の経済活動の証拠の大遺跡、これが本物の遺跡というものだ。<
>そこ、庄内式土器がやたらたくさん出てるところだろ?
九州のみの倭国が成り立たないことを実証する遺跡で、しかも
早くから畿内と直結状態の国だよね!<
庄内なら、三雲や弥生銀座が3世紀前半で、大和で一番早い石塚が3世紀末だから、
当然、熊本も大和も、筑紫からの伝来なんだろう。 >>1
このスレは畿内説のスレでしょ
畿内説の新たな情報も無いのですか
大平洋航路を否定した時点と、纒向を王都としたじてんから畿内説は眉唾となったのですよ
>>1
独学にも限界があります。
貴君がNETで小銭稼いでるとは思えませんが
趣味でしょうが
一人何役は???? >>850
>前漢収集説明学者が、「度」というん文言を、
>何の根拠もなく「度=日」とした使用をしている事が明白。
君は、西洋の分度器がなぜ周360度なのか解っていないようだね。
古代バビロニアでは一年が300日だったからだよ。
古代中国では一年が365.25日、だから量角器は周365.25度なんだ。
「度=日」には根拠あるんだよ。 庄内式土器という物体が、邪馬台国畿内説の宣伝係員の唯一の味方なのだが、ザラコク氏に、叩きつぶされてしまったのでは、ないのかな、、、 間違ってたw
>>862
古代バビロニアでは一年が360日だったからだよ。 >>661
>到には声譜の「刂」が付いているから、意味が同じで音が異なるんだよ
語調を整えるために 「到」が使われている<
「到」は 、「至り立つ」だから、苦労して?目的地に「到着」した事を強く示す。
それに対して、「至」は、出発から到着までの途中の状態を示すだけ。 里の長さが最初に決まった時、一年が、何日だったかの重要性が、高まってきたのではないのかな。。。 >>859
>庄内なら、三雲や弥生銀座が3世紀前半で、大和で一番早い石塚が3世紀末だから、
無学な素人爺さんが自分の都合で根拠もなく
専門の学者が言うことを全面否定しても
そんなの誰が信じるか >>1
誰かれ構わずキウス呼ばわりするのは??????
私は素人ですからよろしいけど
玄人の方にキウス呼ばわりはドウモ??
>>1
貴君がキウスとカキコム場合は、単発しすぎるし論も何も無いです
たかが5ちゃんでゴメンなさい >>865
>「到」は 、「至り立つ」だから、苦労して?目的地に「到着」した事を強く示す。
そんなこと素人爺さんに勝手に決められてもな 古代バビロニアでは一年が300日だったので、分度器の角度が、それをもとにして、決定されました。。。 分度器が、あれば、地図が完成する可能性が、あるのだな。 >>853
丸く整地したと書かれてるんだ
円を書いたなんて書かれてない
史料無視もほどがあるぞ 愛の告白が、実行された可能性が、高まってきた。。。
871日本@名無史さん2019/04/08(月) 20:50:47.36
>>864
あなた好きです
まともな方です >>666
>奴国の領域が北部九州でも真っ先に畿内様式土器を受け入れ、
「模倣製作」して周辺に供給する役割を果たし、祭祀用供献土器である精製器種も含めて
一括で受け入れて在地の土器様式を放棄しているのは「事実」だし、<
庄内なら、三雲や弥生銀座が3世紀前半で、
大和で一番早い石塚が3世紀末だから、
当然、大和は、筑紫からの伝来なんだろう。
>それまでの北部九州の墓制とは完全に異なる前方後円墳を受け入れて、
一斉に古墳時代に入るのも「事実」だろ?w<
前方後円墳も、
筑紫の那珂八幡などの(高句麗型のくびれ部が鈍角の)前方後円墳が、
卑弥呼の冢の後で、3世紀後半半ば過ぎであり、
大和の石塚は、撥型前方後円墳で、那珂八幡などよりも後で、3世紀末であり、
大和は、筑紫の後の発展型。 九州説は無意味または内容のない大量の書き込みで
畿内説スレの議論を妨害してやろうと思っています 税金で、生物活動を実行していた、奈良の考古物体に対する専門の学者が、金銭への欲望に敗北して、卑劣な偽造を実行し、国家から有罪を判決されたので、専門の学者は、信用を喪失してしまった。。。 邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用された、韓国人の宣伝係員が、意見を発表した可能性が、高まってきたな。。。
877日本@名無史さん2019/04/08(月) 20:58:13.52
九州説は無意味または内容のない大量の書き込みで
畿内説スレの議論を妨害してやろうと思っています >>669
>大した古墳もない九州が、邪馬台国のはずがないでしょう。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
九州倭国の古墳は、魏の薄葬令に制約され、
大和は、魏にも全く知られず、
東征将軍らが毛人らを墓守り人にして、巨大古墳を造らせた。
>古墳の大きさ ≒ 人口 ≒ 国力 ≒ 魏国からの評価 <
古墳の大きさは、破綻が来るまでは「セレモニーは進化拡大」の原則。
>行程記事の方位なんてのも、松浦上陸後からキッチリ90度ズレているんだから、
その後も当然のごとくキッチリとズレ続けて、南は東。<
普通の人類は東西南北は全く間違えないものであり、
末盧國からの「東南」も出発方向であるから、間違っていない。
>魏使たちは北九州諸国を歴訪した後、日本海ルートで出雲(投馬国)を訪れ、
その後丹波から1月かけて奈良盆地に向かう。 どこにも、何の不自然さもない。<
何だ?、この「90度回転」男は、類スレ主と同じような事を言っているから、
類スレ主なのか?。 >>679
九州説者には普通にあっては、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説にまったく無いもの2つ
1.ベースになる史料事実や史料批判された史料実態の提示
2.その史料事実や史料実態から、結論を出す論理の流れ 畿内説は固い岩。融通が利かず、他者を締め上げることだけを考えている
一方、九州説は水。謙虚で物腰が柔らかく、違う意見をも認め合う
一時的には畿内説が有利なように見えることもあるが
最終的には九州説に軍配があがる。玄人視点ではこう評価できる >>883
なかなかおつな文だけど
畿内説スレに書き込む時点で独りよがりの独善にしかならないな >>883
玄人はそういう中味のないこと言わないよ >>882の九州説に言行が伴ってなくて
とても笑える件について >>882
倭人伝をベースにして漢字の解釈から結論を導き出してますが。。 >>690
>>翰苑の「廣志曰・・・」は、「邪馬臺國」ではなく、「邪馬嘉國」であり、
廣志は、筑後への遷都に関する情報を知っていて、邪馬嘉國と書いたんだよ。<
>筑後への遷都なんて話がどっから湧いてきて<
姫氏の卑弥呼の墓が祇園山にあったから、卑弥呼の郷里が久留米付近にあった可能性が高い事と、
筑後への遷都は、聖徳太子伝暦の「最初の遷都が317年頃になる」事や、
七支刀の倭王旨が「瀬高付近のこうやの宮」にいたらしい事と、
後漢書が記載した邪馬臺國の「臺」の地名が筑後川付近にある事と、
倭の五王や磐井やタリシホコらが高良大社を神職家にして、
久留米の古宮遺跡に当初は執政がいたらしい事。
しかし、タリシホコは618年頃に太宰府に遷都した。
遷都するとなんで「邪馬壹」国が「邪馬嘉」国になるんだよ?
九州説はいつも支離滅裂だな ww >>691
>土地税制からして短里は有り得ないわな
長さが6分の1だと面積は6分の1の二乗で36分の1
現代農業でさえ生きていけない<
周代の井田法の頃は、「一田畑地は1家族程度」の集落であり、
他にも、採集狩猟漁労もして、なんとか食べて行けた。
勿論、後代の土地制度ではなく、1家族ではなく、1部族や1集落に単位になり、
井田法の変更が必要になった。 このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 >>699
>どうやって論破したか説明できないのに どうして 論破したと自画自賛するんだ?
九州説はいつも支離滅裂だな ww <
大和説は「南≠東」などで、全く反論も出来ずに論破されたのに、
どうして「論破されなかった」と自画自賛するんだ?。
大和説者は、いつも支離滅裂だな。 このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 このスレッドにも、優れた考古学者達が出現して、既に死体になってしまった邪馬台国畿内説をてるてる坊主のように、つるし上げあげて、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけてしまったが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の、
破綻した邪馬台国畿内説についての空の雲や霧に切りつけるような無駄な討論を再開させ、 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、今もまだ残存しているという間違った印象を、日本国民に発生させるという最後の作戦が、実行され、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、喜んでいるのではないのかな。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>702
>「元」周髀算経は、「整地」なんて記載していないし、記載する筈もないし、<
>「元」周髀算経なんて存在しないんだよ 後世の人の偽作なのさ <
能田氏は「紀元前1100年頃の星の位置と一致した」としておられるし、
周公と商高の話の延長として書かれているから、
「元」周髀算経は、周初頃の認識として存在していたんだよ。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4c44624658de205a
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>705
「南→東」などの嘘付き騙しのような、
勝手な我流の考えで史料事実を無視抹殺しようとする大和説には、あきれた 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 >>896
>能田氏は「紀元前1100年頃の星の位置と一致した」としておられるし、
紀元前1100年頃の星の位置は
現代人のザラコクにだって書けるよ
>周公と商高の話の延長として書かれているから、
昔話として書いているよ
「昔者周公問于商高曰・・・」
話にならんな
>「元」周髀算経は、周初頃の認識として存在していたんだよ。
そういうのを仮託と言うんだよ
後世の偽作はみんなそうやって書く 道理の通らない話を他からの意見を一切取り入れることなく
ひたすらゴリ押すだけの儒教思想である九州説
内容のない大量のレスは儒教思に想起因するお題目 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 >>883
いや畿内説はね、駅に着いたとは言うが切符持ってないし何処から乗ったのかも分からない言わばキセル常習犯なんだよ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 九州説のレスはびっくりするぐらい内容がないな
人間的にもカラッポなんだろう >>880
類スレ主というのがどなたかは知りませんが、
自分は、畿内説の中では完全な『異端』だと思いますよ。
私の主張は、だいたいこんな所です。
○行程記事の方位は、錯誤ではなく、陳寿による故意の90度書き換えによる。
(魏使らによって、距離は適当であるものの、方位は正確に報告されているという認識)
○投馬国=出雲の日本海航路説。
○狗奴国=東海地方勢力。
○『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺』は、
倭種=北海道の縄文人、侏儒國=北千島のコロポックル。
まあ、畿内説の中では、完全な『異端』ですわ。 >>908
いや、罵倒以外の方が多いよ
あんたは罵倒だけだよね 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554734127/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>908
自分たちのことを棚に上げて困った人たちだ
>>905みたいなのが中味のない罵倒の典型だろ >>908
周りの九州説の荒らしレス見れば
罵倒でも何でもない事がわかる 九州説は議論に負けた結果荒らしをしすぎて
ちょっとした悪口でもダメージが入る 畿内説はマナーのなってない九州説に正しい指摘をして苦言を呈してるだけ >>774
このサイトが伊作って人が作ったやつか
新参なもんでその人知らなかったが
https://blog.goo.ne.jp/isaq2011 >>724
だから、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
どこが「お前の想像ではない」で「事実と反しないと考えている」のか
『具体的に指摘』しろって、何度言われたら分かるんだ?
大和説者は具体論を話すことがまったくできない
蛤の欠伸のようなものだ >>726
>>翰苑の「廣志曰・・・」は、「邪馬臺國」ではなく、「邪馬嘉國」であり、
廣志は、筑後への遷都に関する情報を知っていて、邪馬嘉國と書いたんだよ。<
>逸文しかない廣志の「邪馬嘉國」という記述を認めるなら、
きちんと残っている後漢書の「邪馬臺國」も当然に認めないと、ただのダブスタだぞww<
後漢書の邪馬臺國情報は、
5世紀の倭の五王らの遣使が名乗った「久留米付近の都の国名」だな、
として認めているよ。
大和説者の「邪馬台国があった」なんていうのは、
万世一系皇国史観の大和説本を売るための、ただのあおり造作文句であり
実体のない嘘吐き騙しの文字列にすぎない >>727
>いや、もともと365.25尺の円周が必要でそれが入るように、それより少し広い範囲を
整地するから、1歩=6尺の関係から、その六分の一+αで63歩の範囲になるんだよ
簡単だろ?<
ダメだ。
何度も言うように、
「元」周髀算経は、一寸千里は「整地」なんてしていないのだから、
周髀算経は、「二十八宿」の時にだけ「整地」を記載する事をするする筈がない。
だから、
「徑二十一步,周六十三步」という円を描いた事は、
「元」周髀算経の史料事実であったのであり、
「即平地」や「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」以下の説明文言は、
前漢収集説明学者の説明文だった、という事だ。 >>729
>>一寸千里は「1歩≒1尺」になるのだから、「1歩=6尺」を使う筈がないし、<
>一寸千里は、単に蓋天説の天地の距離八万里と、八尺棒の長さの比だよ
いつでもどこでも、夏至でも冬至でも洛陽でも上海でも成り立つ定数だ
つまり、周髀算經では、実際の影の長さは測っていなくて、
蓋天説という間違ったモデルの上での机上の計算に過ぎない<
違うな。
周地付近の「大地平面」近似が出来る範囲内で成立する実測値からの法だ。 >>731
>その、冬至の影長は夏至の影の長さに合う地点で計算すると、3寸足りないって話を
前に教えただろ? 冬至の影の長さは計ってないんだよww<
一寸千里は、(影端の半影の中心での計測ではなく)、
8尺棒の地面接地部分の「最太陽側」から「半影の最長端」までの計測になっている、
という 事を教えて上げただろ?。」
>そして、13.9尺は3メートル20センチくらいだ
たったこれだけの長さ(広さ)なら、特に整地しなくても平らな土地はいくらでもあるだろ
家の裏庭でも十分だ <
ダメだ。
大地平面でなく、仮に1寸の段差があっても、
夏至なら、8尺分の1.6尺=5分の1(寸)位の影長誤差が発生するし、
冬至なら、8尺分の13.9尺≒1.5(寸)位の影長誤差が発生してしまう。 >>732
>>「倍」の意味だという「背」は、倍の「確率の高い意味」ではなく、
確率の低かった意味。<
>確率が高い低いは意味がない
実際にその意味で使われているのだから、まったく否定の根拠にならない
というか、古くは普通に背の意味で「倍」を使っていたから、ザラコクが思うより
確率自体もずっと高いんだぞ?<
ダメだ。
「倍」の意味は、1〜4の意味と5(〜6?)の意味の全体の使用意味があって、
その内、「背」の意味は「古い」時代にあっただけだ、という意味であり、
という事は、古い時期には、「背」の意味は3〜6分の1位の使用確率しかなかった、
という事だ。 >>733
>今問題にしているのは、ザラコクの言う「魏朝の度量衡は魏の統治範囲全面で短里だった」が
大嘘だってことだぞw
ここで言う土地税制は、魏朝の土地税制だ <
気を付けましょうね。
類スレ主は、周初の頃の一寸千里の里の長さを議論するのに、
周初の頃の井田法での里の話をせずに、
西晋代頃の土地制度での里の長さに摩り替えるインチキをやっているんですよ。 >>741
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
挙証や例えがいつもおかしいのが、
大和説のスタイル 三国志は魏晋時代に書かれた書物なのだから魏晋時代を証明できれば十分だな 畿内説もいいけどヤマト王政と結び付けようとするには無理があるな >>920
>ダメだ。
>何度も言うように、
>「元」周髀算経は、一寸千里は「整地」なんてしていないのだから、
>周髀算経は、「二十八宿」の時にだけ「整地」を記載する事をするする筈がない。
ダメだね
史料無視する九州説
#即『平地』徑二十一步.周六十三步.令其平矩以水正 畿内説の論拠が何もなくなったから、あとは荒らすことしかできないのか。
哀れなり。 >>922
>ダメだ。
>大地平面でなく、仮に1寸の段差があっても、
天文観測で一寸千里を測るのに
1寸も段差があって平らでないところで
影を測ると言い張る
そんな九州説の信頼性ゼロ >>928
>畿内説もいいけどヤマト王政と結び付けようとするには無理があるな
どんな無理が?
具体的にどうぞ >>934
卑弥呼を記紀の誰にあてはめるのかな
蝦夷征伐と倭国との關係は カミタマによる自演(自作自演)だという話でしょ
自分の部下が言うことを聞かないから〜
みたいな話 自分の家(蝦夷のTOP)の〜、
部下というのが東北(蝦夷)のほうに住んでいて
蝦夷のTOPだけが、朝廷に仕えていたりした?
そういう話じゃなかった 『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』・・・その他
ほとんど同じ話ばかり ここの人に周初の漢字なんぞ議論の対象に出来る知識は無いでしょ虚しい努力だぞ
周初は殷末に続く時代でまだ甲骨文字で漢字に発展する前の未分化な文字 こういう曲も同じ『ばかだモン』?
『ザ・モモタロウ』でいうと
『うしばか丸』というキャラ よくわからないけど、
三貴子(神)というの?
仮名でしょ、キャラクター名 >>917日本@名無史さん2019/04/09(火) 03:30:29.17
>>774
>このサイトが伊作って人が作ったやつか
>新参なもんでその人知らなかったが
https://blog.goo.ne.jp/isaq2011
深夜のカキコ乙、
そういうことのようだ。伊作は、いったん肥の岩戸にお隠れになったのの、
最近の佐賀経由ー肥後熊本説に誘われて、時折、お出ましになるらしい。 ガンダムのサングラス?
詳しい人なら知っているでしょ、
ほとんど同じようなコンセプト
国の持っていた家の人物・・・?
乗っ取られたのかな・・・、 『ばかだモン』
なぜか『蝦夷共和国』と出てくるでしょ?
蝦夷共和国の上のほうの人たちがいるでしょ、
アニメ(当時の漫画、読み物、古典作品)ばかり観ていて・・・、
そういう作品の影響を受けたとか pringのアプリ新規登録、せこい奴ばっかだね。
招待コード使って新規登録してもらうだけで、自分に500円入るのに謝礼しない奴ばっか。
俺は400円謝礼として送金するよ。
招待コード rguyen
登録は後でを選択してから、上記の招待コードを登録するべし。
俺はマジで500円もいらんから必ず400円送金するよ。
だから招待コード使って新規登録してくれた貴方には計900円が入るよ。 >>934
邪馬台国とヤマト王権を結び付けることにはには
なんの無理もないってことで
FA ? 数年前の予言スレ
「私はアニメなんて観ていないけど」
みたいな事を言っている人がいたけど、
気づいていないだけで、間接的に観ている(漫画なら読んでいる) >>763
>考古学的には博多湾沿岸の博多比恵那珂を中心とした筑前は
首長層レベルで畿内との緊密な交流関係であることは事実なので<
交流というよりは、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
その東征軍の中の倭奴國系の同じ阿毎氏の国であったので、
東征将軍らが、筑紫の土器を持ち込んで、伝来した、という関係。
未調査夢ロマン大和説を妄想して楽しむなら、
伊都国系の阿毎氏の東征将軍の大和征服支配を想定しなければならない。 奈良の遺跡は魏志倭人伝とは全く様相が違うよね。
盆地の描写も全く書かれていないから畿内はイメージすら出来ないよ。
福岡や佐賀の遺跡は凄くマッチするけど。
狗奴国と言われてる熊本も凄いよね。
いずれにしても九州は女性が埋葬されていた古墳が多数見つかってるし、女王が存在した可能性は大きいよ。 >>946
>>>934
>邪馬台国とヤマト王権を結び付けることにはには
>なんの無理もないってことで
>
>FA ?
おっけー
畿内説は無理矢理結びつけようとしているけど、無駄なあがきだ。 >>950
無理矢理だって理由がないんだろ?
理由もなしに言い張っても
馬鹿と思われるだけだぞ >>773
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
いっさい「史料事実からの帰納的確率的推論」をせず、
都合の悪い史料事実や史料実態を、
なんの理由もなく否定曲解をする我流の法則を発明しても、
誰も認めてくれないよ。 >>782
>古代中国の円周角度は365,25度だ<
前漢収集説明学者ならそんな事もあり得ようが、
周公の頃にそんな「度」があった、という証拠は?。 魏志倭人伝では東の海の向こうは倭種の国と書かれており、女王国とは区別されている。
記紀だと東征について書かれており、それ以前の東の国はやはり他国なんだよな。
西がら東という話はあるが、東から西へという話は一切出てこないよね。
やはり西の端が全ての起点と考えるべきだね。
○○西征説などという文献はある? >>787
>「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「考えられる」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。<
賛成です。 >>795
七衡図時点では、「里歩系での長さ→度」という事だけでの「度」の使用。
しかし「二十八宿」の説明では、始めから、
「度」を365.25日の日数や、一周360度の角度としての記載になっており、
七衡図の時とは、全く違って、新しい考えで使っており、
その部分は、前漢収集説明学者の自己判断での書き足し部分だ、という事になっている。 >>798
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
最初から結論ありきだったことがバレて、
オウム返しされて?、罵って誤魔化す。
みにくい大和説 。 >>955
>周公の頃にそんな「度」があった、という証拠は?。
だから、あんた馬鹿?
「むかしむかし周公が・・・」って書き始められてる本は
周公の頃に書かれた本じゃないの 今朝も祥子厨ご出勤、、。
あ、変わり映えしないねえ。 さっさと消えろ、クズ野郎(女だった?)
下等な人間が偉そうにw 畿内大和説の生き残りは、あと1.5人くらいだろうな。
0.5人は女。 >>958
>七衡図時点では、「里歩系での長さ→度」という事だけでの「度」の使用。
>しかし「二十八宿」の説明では、始めから、
>「度」を365.25日の日数や、一周360度の角度としての記載になっており、
>七衡図の時とは、全く違って、新しい考えで使っており、
だからそれが真っ赤なウソだって証拠が出てるでしょ
九州説は口先だけで言い張っても無駄
七衡図の説明で、各衡の円周を一年の日数で割った角度を1度とすると定義されてる
そのあとに二十八宿の割付に話が進む
星の位置を1度(=1日)あたりで確定することで冬至と月齢の関係がわかる
これが周髀算経全巻の冒頭で掲げたテーマ「周天歴度」の結論部分の始まりだ
つまり最初から構想されていた内容なんだよ >>957
お前は世間で常識になっている事実認否の方法を知らないから
そんなデタラメを思いつく
九州説は無知の産物である >>966
冗談抜きで、頭大丈夫か?
おまえが痴呆なのか知らんが、推測や想像を事実と認識する世界はこの世には存在しないんだよ。
あの世にでも逝けば? もちろん周公の頃には時間帯は認識していたが時刻という概念は無かった
正確に時を測れなかったからだ >>811
>>墳裾の1号甕棺の(鉄剣なども副葬された)成人女性が、鏡片を付けていた。<
>それのどこが 卑弥呼らが明帝の下賜鏡を鏡片にして 部下に下賜していた
とか妄想するネタになるんだ? 脳が腐ってるのか? <
明帝は「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」と命じたのだし、
鏡片は、卑弥呼の頃に、筑紫付近から沢山出土しているし、
渡平海北の半島から、西日本〜東日本の東征毛地域や西服衆夷地域に、
広範囲にお宝としてパラパラ出土しているし、
何といっても、祇園山の墳居の第1主体の甕棺の成人女性が、
鏡片をお守りのように身に着けていた事。 >>966
その「事実」はキナイコシの頭の中だけなんでしょ。
自分の考えは事実と区別しようよ。
妄想を毎日垂れ流すなよ。 >>812
>畿内説の嘘とは何なのか 具体的なことを言えないのは
九州説側が中傷のために嘘をついてる って証拠 <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説者側は、全員が「南→東」などの嘘付き騙しをしている、
という事などは、何度も指摘して来ているから、
この投稿子も「中傷の為に嘘を付いている、って証拠。 >>814
「南→東」などの嘘付き騙しの、
自分の間違いを平気で他人のせいにする、
大和説の腐った体質。 日本の考古学や歴史学はただでさえ信用されていないのに畿内説のような仮説を事実だなどと言い出したらもう終わりだぞ。 >>971
証拠を突きつけられても
「その『事実』はキナイコシの頭の中だけなんでしょ」
とかうそぶいて
妄想を毎日垂れ流すなよ。 >>975
畿内説の言う証拠とは?w
国産の鏡か?w >>976
脳内だけで想像してないでテンプレを読むんだな >>977
10年以上前の5chのテンプレが畿内説の証拠てかwww
おいおいwww
学会滅亡の危機を感じるぞwww >>978
10年以上前の5chのテンプレ
とか思ってる時点で
破綻してるだろ九州説 偉そうな事ばかり語るな?と言っているんだよ
どこの池沼なんだ 脳内説で脳が満たされている畿内教信者に何を言っても無駄だな。
奈良でも新興宗教扱いだから。 古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
中期(4世紀後半〜5世紀末)、
後期(6〜7世紀)
に区分している。
古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。 それで?
お前の家の話ではないんだろう?
と聞いているんだよ
お前の家の話なのか? 天理教に桜井教。
花見の折から、なかなかにぎやかそうですな。 >>984
国民を納得させるために必要な事項はこれな↓
倭国大乱の痕跡、棺有卿無の墓、弥生時代に文字文化が定着していた痕跡、警備が厳重だった集落、狗奴国との戦争の痕跡、、 、 >>987
そんなもんが
国民を納得させるために必要
だって思う理由は? 桜井市の税収の少なさは異常。
不正ナマポなどで県民税の無駄遣いをするのはやめてください。 家は天理教、桜井教でもないし・・・、
何教(宗派というの?不明)だったんだろう >>988
邪馬台国探しの起点はどこなんだよ?
何をきっかけに邪馬台国の話が始まったのかという点を完全に外してあれこれと想像を語られて納得する奴がいるか?
もしかして全く社会経験無いのか?
まるで水素水の営業並みだぞお前の思考は。 桜井の水を邪馬台国の水として販売すれば資金稼ぎになるかなw >>992
何をきっかけに邪馬台国の話が始まったのかという点を完全に外してる
という理由は? 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
次回のスレッドでは、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。
次回のスレッド
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554161482/l50 なぜ、邪馬台国畿内説の宣伝係員は、何をきっかけに邪馬台国の話が始まったのかという点を完全に外してしまったのだろうか。。。 >>992
日本人ならまず魏志倭人伝で描かれた邪馬台国を探すはずだね。 2013年、邪馬台国畿内説は、完全に、破綻しました。。。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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