邪馬台国畿内説 Part449
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1555782874/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 92を修文 テンプレに以下 追記します
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる テンプレに以下 追記します
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる テンプレに以下 追記します
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる 邪馬台国はヤマト国
現在の奈良県です
他の畿内は関係ありません 関係ない地域まで邪馬台国にして、その土地の歴史を奪うことは良くないんだな 問題が、あります。。。
奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
Aなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Bなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Cなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
という、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう、可能性は、何パーセンテージでしょうか、、、 陳寿は、船で旅しているのにわざわざ里数を使ったうえで、一万二千里目にあたる奴国が女王国であると暗示している
『魏書』東夷傳における「方」が「一辺」を表すことは既に証明したので、陳寿が四角い国だと考えていた対海国と一大国
の距離も当然二倍しないといけないわけだ
旅程記事ではなく、細工なのだから当然だ
つまり、邪馬台国を女王の都としたのは虚偽である可能性が高い(もちろん後世の挿入も考慮できる)
では、何故、わざわざこんな細工をしたのか?
陳寿は、晋書『陳寿傳』を読めばわかるとおり、非常に真面目でフェアな人間だった
恩人である上司の命令か忖度で倭国を誇大化せざるを得なかったが、反面、事実も書いておきたかったからだろう
『宋書』以降の編者は書き写すばかりでまったく気付いていないが、『後漢書』を書いた范曄はこの細工に気付き、『極南界』つまり奴国が一番南だと書いた
建武中元二年の奴国の朝貢記事を意図的に加えているのだから、重複したほうの奴国と間違えるはずがない
つまり、彼の考えでは奴国が倭国の一番南になるので、狗奴国を東に変えたわけだ
彼が書く通り、奴国は華夏の国から冊封を受けていた国であり、証拠となりうる金印も出土している
奴国が魏に朝貢する資格はじゅうぶんにあるわけだ
では、投馬国もそうだが、邪馬台国とはどこなのか? 実際には郡使が到達していないであろうよく知らない遠い国であるはずだ
范曄は南には国はないと考えているので、唯一倭種がいると書かれた東でしかない
考古学の成果を考慮すれば、それは瀬戸内東部〜大阪奈良でしかありえない 今どき九州説やってる奴は頭がおかしいと
自然に証明されるスレ 前スレ>957
>丑寅原稿は、最初の東日流外三郡誌が出てずっと後の原稿であり、
>筆跡鑑定された「6つの古文書」と称する6種類の明治写本群は、
>最初の東日流外三郡誌にあったものなんだから、
>始めから章子さんの清書年代とは全く違う時代のもの。
それが、丑寅原稿と同じ筆跡だという筆跡鑑定結果が出ているんだよ
そして、筆跡鑑定前には、丑寅原稿は自分の筆であると認めていた和田喜八郎氏が
古田氏に対して、いきなり丑寅原稿は自分ではなく娘が清書したと言い出した訳だ
丑寅原稿が和田喜八郎氏の筆で、他の6検体と同じ筆跡であれば、6検体は古文書ではなく
和田喜八郎氏の著作物=偽書と確定する
ここに至ってから、丑寅原稿は娘の章子さんの筆によると喜八郎氏が証言した
丑寅原稿が章子さんの筆による「ことにすれば」、6検体が世に出た時点で
章子さんはまだ子供あるいは生まれる前だから、6検体は章子さんが書いたはずがない
つまり、丑寅原稿と6検体が同じ筆跡であるというのは物理的にありえない
したがって丑寅原稿と6検体を同じ筆跡とした鑑定は間違いである
「筆跡鑑定のでたらめさが証明された」というのが古田史学の会側の主張で
ザラコクもこれを正しいとしている
でも、単純に考えて「丑寅原稿が章子さんの筆による」というのがウソ、というのが
一番簡単かつ妥当な判断だろ
実際、プロの筆跡鑑定を経なくても、丑寅原稿と6検体の筆跡が同じだってのは
素人が見てもすぐに判断できる
「おおざと」の書き方とか非常にはっきりした特徴があるからね
「東日流外三郡誌」が偽書というのは、それを否定したい人以外には確定事項の常識 前スレ>962
>圜丘方丘を并せ、南北の二郊に於いて二至之祀合す、
>と解せなくもない。
それが間違いだってのは、確定事項
だから、前方後円墳が266年以降というザラコクのデタラメ編年は
デタラメなのが確定 448の>>986
紀伊半島を迂回する沿岸海運ルートが開拓されていなかった3世紀当時しては、難波あたりから伊勢湾に出るには大和を経た陸上ルートしか交易路がなかった。
そのため、瀬戸内海と東海の交易路は大和を中継地としていたのさ。
これは、すでに弥生後期には確立された交易網だった。
そのすでにあった交易網の中継地である大和に、政治目的の連合政権が置かれたのが2世紀末〜3世紀の纏向連合政権ということだよ。
平安時代になると紀伊半島迂回の海運ルートができるので、大和の運輸的ルートの価値は激減する。 筍ご飯が余ってしまったが、飼い犬に与えて、大丈夫だろうか、、、 >>81
鮑の干物が余ったとき、飼い犬に与えたのだが、犬に鮑は良くないと娘にたしなめられてしまったな。。。 前スレ>969
>しかし畿内説では史書の記述は宛にしないんだよな?
>考古学的証拠という想像説意外なデタラメ扱いなんだろ?
>そのくせ都合によって史書を引用したり無視したりバカじゃね?
>そんな分かりやすいペテンは素人にも見抜かれてるぞw
考古学的遺物などの直接証拠と矛盾しない部分は認めるんだよ
根拠もなく、「魏志倭人伝に書いてあるから」と鵜呑みにするようなことはしないということ
こういうのが科学的な態度だし、正しい史料批判のあり方だ 筍ご飯が余ってしまったが、飼い犬に与えて、大丈夫だろうか、、、 前スレ>975
>中国で出土が無い三角と同じ状況…
>畿内説はこういうのが多すぎるんよ
「三角縁」神獣鏡は中国からは発掘出土はしていないけれど、
「画文帯」神獣鏡も、「斜縁」神獣鏡も中国で多く出土している
そして、倭国で出土している「三角縁」神獣鏡としてまとめられている銅鏡のうち
最初期の舶載鏡とされているものは実は「斜縁」神獣鏡な訳だ
卑弥呼の鏡は斜縁神獣鏡でよい
斜縁神獣鏡は中国でも出土している
>辻褄合わせるのが大変
辻褄合わせなど必要ないぞww あまり、レベルの高くない討論が、進行しているので、スレッドが寂れてしまったな。。。 前スレ>986
>登呂遺跡は海沿いなので交通の便は良い。
>纒向は内陸なので不便。
>纒向がいかに地理的に不利か理解するべきだ。
内陸でも、翡翠も外来の黒曜石も使ってるだろ? 縄文時代から?
この図の網掛けしている部分は内陸でもよそのと交流が十分にできているんだよ
纏向は内陸、以外の批判ができないから、これにこだわってるんじゃないの?ww
九州説でも、甘木朝倉説とか思いっきり内陸だぞ?ww >>82
鮑の干物は、紀伊半島迂回の海運ルートではなく、大和の運輸の運転手が、運搬してくれたのでは、ないのかな。。。 あまり、レベルの高くない討論が、進行しているので、スレッドが寂れてしまったな。。。 前スレ>998
>登呂では銅釧がみつかっているのだから、
でも、青銅の木器加工具は出ていないよな?
金属製の木器加工具の存在は、加工痕から想定できる
これを通常は鉄器による加工だと考える
前スレ>998は青銅器で加工した「かもしれない」と、けちをつけるのに精力を使っているが
青銅は残りやすく肉の薄い銅釧が残っているのに、青銅の木器加工具は出ていない
登呂遺跡でも、鉄器で木材加工を行ったと考えるのが妥当で、これを否定する理由がない
また、袋鍬の柄が多く登呂遺跡では出土しているが、青銅製の袋鍬の刃は
日本では出土していない(絶対とは言わないが)
鍬の刃に使うには青銅は軟らかすぎて向かない
当然に鉄の刃先を付けて使ったと考えられている
登呂遺跡のような、水分量の多い土地では鉄器が残りにくく、その一方で
相対的に木製品が残りやすい
そのような土地でも、弥生時代の鉄器使用は当たり前のことと認識されている
九州説は鉄、鉄鏃くらいしか有利だと思えるものがないので、日本の鉄器使用に関する
常識すら無視して見ないようにしている 畿内大和政権は、古代中国の記録である魏志倭人伝とは全く異なる内容の記紀を作成し、国史とした。
つまり大和政権が自ら邪馬台国ではないことを誇示しているんだから、学者はその理由を探ればよいだけ。
そこに本来の目的である大和王権発足の謎があるはずだから。
屁理屈並べて邪馬台国の歴史にこじつけても150年の空白は埋まらないぞ。 >>91
箸墓の輪鐙も鉄の部分は解けてしまったんかな?w
世界最古の木製輪鐙と断定してしまった畿内説さんwww 青銅製の袋鍬の刃という物体が、魏志倭人伝時代についての討論で、重要度を高めてきた可能性があるな。。。 箸墓の輪鐙というのは、畿内馬具の可能性があるな。。。 [日本の考古学者]
ご都合編年史でファンタジーワールドを構築する簡単なお仕事ですwww 筍ご飯が余ってしまったが、飼い犬に与えて、大丈夫だろうか、、、 >>93
こうやってさらに恥をさらす九州説が哀れでならない あの、笑えて、リラックスさせることのできる75パーセンテージ事件を、取り繕うために、恥を晒し続けた人物が、嘘の悪口を言い放った可能性が、高まってきたな。。。
98日本@名無史さん2019/04/24(水) 15:02:44.35
>>93
こうやってさらに恥をさらす九州説が哀れでならない なぜ日本書紀に邪馬台国や卑弥呼を記載しなかったのか?
倭国と呼ばれていたことや金印を貰ったことも書いてない。
大和国が邪馬台国では無いことを中国が既に記録に残していたからね。
詳しくは旧唐書を参照。 筍ご飯が余ってしまったが、飼い犬に与えるのは、危険かもしれないので、冷凍すれば良いな。。。 >なぜ日本書紀に邪馬台国や卑弥呼を記載しなかったのか?
>倭国と呼ばれていたことや金印を貰ったことも書いてない。
なるほどそうだ、たぶん倭国と大和国は別々の国だったからだろねえ。 問題が、作製されました。。。
木の物体があって、削られたり、切られたりした部分があるとします、、、
その部分を見ただけで、金属で削ったり、切ったりしたのか、それとも、石で削ったり、切ったりしたのか、判明するのはなぜでしょうか、、、 >>93
>箸墓の輪鐙も鉄の部分は解けてしまったんかな?w
>世界最古の木製輪鐙と断定してしまった畿内説さんwww
輪鐙のどこに鉄製の部分があるのか、教えてくれるかな?ww
袋鍬の柄を無視するようなチェリーピッカーさんなら、きっと見つけられるんじゃないかな?ww
それから、輪鐙の編年が周濠堆積物の堆積速度に依存するので、そこは
見積もり次第でどうにでもなるのが現状
箸墓本体の編年と輪鐙の編年は連動しないのだが、それを無視して
輪鐙を新しくすることで箸墓が新しくなると思っているのがバカすぎるww
そして、輪鐙とされているものが、本当に鐙なのか検討する必要がある
これが本物の輪鐙
https://i.imgur.com/gHaAJj5.jpg
箸墓周濠で出土したのがこれ
https://i.imgur.com/cAwYHZQ.jpg
勝山古墳付近で出土のU字型木製品 これは鐙とは言われていない
https://i.imgur.com/jG8Q3f2.jpg >>92
>畿内大和政権は、古代中国の記録である魏志倭人伝とは全く異なる内容の記紀を作成し、国史とした。
倭国の歴史を古く見せることが重要視された結果なんだからしょうがないだろう
神功皇后の時点で、干支二運120年古くなっている
こうなると、実際の歴史との対照は無理だろう
また、年代的には欠史八代の最後から崇神天皇のあたりだから、
実際に信頼できる倭国側の記録がなかったことも考えられる >>100
>なぜ日本書紀に邪馬台国や卑弥呼を記載しなかったのか?
???
書いてあるだろ?
日本書紀は最初に「廼生大日本『日本、此云耶麻騰』」という訓注をつけて、
日本がヤマト国であることを明記しているし、
神功皇后紀で魏志倭人伝を直接引用しているよ?
卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」 >>627
「南→東」などの嘘付き騙しなど、
こんなふうに大和説は毎日ウソをつく >>628
>卑弥呼の冢(直径150mの円墳)は、台与の死後の倭王後継者争いに勝ち、
3世紀第4四半期(西暦275-300年)邪馬台国を乗っ取った崇神により、
箸墓(後円部直径160m)の地下にすっぽり埋められてしまった。
台与の冢も同様に西殿塚の地下に眠っている。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>103
その問題の真実の答えは、木の物体があって、削られたり、切られたりした部分を見ただけで、金属で削ったり、切ったりしたのか、それとも、石で削ったり、切ったりしたのか、判明するということが、真実だと証明しなければ、答えられません。 >>631
>そもそも畿内説の者は 「九州説の根拠は?」みたいな
粗放で漠然とした質問などしないのにね <
そもそも九州説の者は
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「畿内」なんて存在もしない文言を根拠にするとか?、
粗放で漠然とした質問などしないのにね。
粗放で漠然とした質問などしないのにね >>632
>卑弥呼たんの幾内に写生したい<
「南≠東」などに拠って、×ね。 >>633
>九州説はバカなので畿内の字も知らない<
大和説者は、・・・・詐欺師なので、「南→東」などの嘘付き騙しをし、
「天子や天皇の存在を前提とした文言の畿内」なんて、
存在もしない嘘つき騙し文言を使う。 たしか、畿内馬具というのは、箸墓古墳を作製するために掘られた、穴の中から発見されたのだったが、穴の同じ高さの場所から、他の発見物もあったのではないのかな。。。 >>106
ほらきたw
畿内説お得意のご都合解釈www >>963
登呂遺跡の木製品について、君ははやとちりだよ。
金属による加工痕とされているが、鉄とは限らん。
青銅製の槍鉋なんか普通にあったのだから、青銅製の利器が用いられたことも想定しないとな。
それに、(朝鮮半島の鉄が北部九州経由で入ったとして、それが1世紀の静岡に届いて、3世紀の畿内には届かないと考える理由がそもそも存在しない)
と言っているが、登呂周辺で鉄が出ないことにはその論理には無理があるということだ。
登呂では銅釧がみつかっているのだから、そうした交易路によって青銅製品がもたらされたことは当然あっただろう。
しかし、近江や大和の南北軸から以東では、基本的に鉄は交易されていない。
そうした鉄過疎の東日本の中で、関東にだけ鉄刀と鉄釧がもたらされるのが弥生後期後半になってからだ。
これがきかっかけとなって、鉄過疎だった近江、大和、尾張などが博多の鉄器の獲得に舵を切ったのさ。
いずれにしても、登呂の木製品の加工に鉄が用いられたことは確定事項ではないよ。
それに、大和の土壌で鉄が溶けたという話はどうなったのよ。
大阪じゃ鉄はたくさんみつかっているのに、大和の土壌は特別だったのか?
その返答をはやくしてちょ。 神功皇后というのは、仲哀天皇の妻だった可能性があるな。。。 仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、 >>80
>紀伊半島を迂回する沿岸海運ルートが開拓されていなかった3世紀当時しては、難波あたりから伊勢湾に出るには大和を経た陸上ルートしか交易路がなかった。
紀伊半島沖が難所なのはわかるが、縄文時代からもっと遠洋まで交易していた。
また、紀伊半島を迂回するルートなら、大和を経由して紀伊半島を横断するのはアホであり、淀川水系から琵琶湖に出た方が尾張に早く抜けられる。
>そのため、瀬戸内海と東海の交易路は大和を中継地としていたのさ。
現実問題として、纒向は河内と交流が乏しく、尾張や近江の方が交通の要所だった。
だから纒向はハブとなる尾張とだけ交易していたのだろう。
畿内説はそのような考古学的または地理学的事実を無視して妄想に浸っている。 鉄は溶けたから残っていないという子供染みた言い訳www
自称考古学者がどんだけアホか分かるだろ?www 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>87
>九州説でも、甘木朝倉説とか思いっきり内陸だぞ?ww
このスレには甘木朝倉説の人間はいないよね。
九州説を叩くためならなんでもありか?
人としてどうなんだよ。 >>692
いつ、いかなる時も、「南→東」などの嘘付き騙しの根拠が無い
それが大和説 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 長文を作製した者に対して、真実の一言が、浴びせられ、長文を作製した努力の成果が、一撃で、叩き潰されてしまった。。。
123日本@名無史さん2019/04/24(水) 16:17:51.02
>>76
アホちゃう。 >>720
>九州説は根拠を出せと言われても出せなかっただろ?
これが、九州説が論破されたことの証拠だ<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
根拠を出せと言われても出せなかっただろ?
これが、大和説が論破されたことの証拠だ 邪馬台国畿内説の宣伝係員に元気がなくなってしまったな。。。 >>127
僕達の、頭の良い孫に、75パーセンテージのことで論破され、中学中退の疑惑が浮上したので、元気がなくなってしまったのでは、ないのかな。。。 >>722
>ホケノの布留0式古相は築造時期の創出だけれども
鉄器は墓造る時に一気に集められるものでもないので、それ以前の流入だな
ちょうど卑弥呼の遣使を境に鉄器が大和に大量に流入してることになる<
卑弥呼の遣使は3世紀前半であり、
また、ホケノは前方後円墳で有棺有槨だから、卑弥呼の墓の「冢」でも有棺無槨でもなく、
更に「庄内3〜布留」だから、3世紀末以後であるから、×だ。 >>726
>証拠を出さない九州説が見捨てられるだけだよ<
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠を出さない大和説が、
見捨てられるだけだよ。 畿内説がどんだけ考古学的見解を述べても、発信源がアホだということが分かりやす過ぎて、一般人には受け入れられないんだね。
ゴリ押しするより、賢い人にバトンタッチして去った方が賢明だと思うが? >>91
鉄器出てないのに、青銅器が出てないからダメって、なにそれ。
鉄器説もダメだろ。
青銅器の槍鉋を例に出したのは、青銅の槍鉋でも削れることを示しただけ。
鉄器で削ったとは限らないということ。
分かった?
はよ、大和の土の特殊性を挙げろよ。 >>733
>ホケノの布留0式古相(北部九州UA期)は福岡の久住の製作技法からの見解
(寺沢は庄内3式)<
北部九州UA期は3世紀半ば頃で、ホケノは3世紀末以後だから、
「福岡の製作技法」がホケノに伝来し模倣製作された事になる。 >>741
>至;現代で云うところの、「この道は、又はこの方角は、・・・へ至る」
到;現代で云うところの、「この道で、又はこの方角で、・・・に着いた」<
成程。 >>118
効率というものを考えなけりゃ。
3世紀当時の小さな丸木舟で伊勢あたりから紀伊半島をぐるりと回って和歌山あたりに着き、紀ノ川をさかのぼって纏向へ荷を運ぶ日数と積み荷の量を考えたら、人が荷を担いで伊勢から纏向まで運ぶのと、どちらが効率がいいか明らかじゃないかい。
それに、海で難破して積み荷を沈めてしまうリスクもある。
平安時代になって、ようやく紀伊半島迂回航路ができるのは、そういうわけ。
平安時代には船の大きさ、安定性がぐんと増したことが背景にある。
瓦などの重量のあるもを運んだらしい。
弥生後期には、吉備から唐古・鍵へ交易に来ている。
東海からも来ている。
吉備と近江のつながりもあるが、このルートは長野方面へつながるもの。
一方、大和は伊勢から東海へつながるルート。
纏向に連合政権の施設が開設されたのは、纏向と西、北、東をつなぐ交易ルートが成立していたから。
皆にとって都合がよかったのよ。 旧唐書で倭人が日本国はかつて小国だったと述べているあたり、
6世紀までは九州北部が最大勢力であって、その頃の大和国は倭種の国の一つでしかなかったんだよ。 >>135
纒向見てそういう遺跡だと感じるか?
ちゃんと見たんか?
あれは宗教施設または土木要員の宿舎だろ。 >>756
>例えば、纒向遺跡第174次調査地点、
纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点で
鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴の羽口や鉄滓、鉄片などが出てるよ
現代まで残る鉄器は、氷山の一角
氷山に対する一角の比率が小さいほど、出るか出ないかは偶然任せでブレが大きくなる
1世紀の登呂遺跡でも鉄器を十分に使っていたと考えられている(実際の鉄器は出ていない)のに
3世紀の纏向で鉄を使っていなかったと考える方がおかしい <
魏使らは、当然、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」
を沢山な場所で一杯見かけたから、記録した。 >>115
>登呂では銅釧がみつかっているのだから、
でも、青銅の木器加工具は出ていないよな?
金属製の木器加工具の存在は、加工痕から想定できる
これを通常は鉄器による加工だと考える
前スレ>998は青銅器で加工した「かもしれない」と、けちをつけるのに精力を使っているが
青銅は残りやすく肉の薄い銅釧が残っているのに、青銅の木器加工具は出ていない
登呂遺跡でも、鉄器で木材加工を行ったと考えるのが妥当で、これを否定する理由がない
また、袋鍬の柄が多く登呂遺跡では出土しているが、青銅製の袋鍬の刃は
日本では出土していない(絶対とは言わないが)
鍬の刃に使うには青銅は軟らかすぎて向かない
当然に鉄の刃先を付けて使ったと考えられている
登呂遺跡のような、水分量の多い土地では鉄器が残りにくく、その一方で
相対的に木製品が残りやすい
そのような土地でも、弥生時代の鉄器使用は当たり前のことと認識されている
九州説は鉄、鉄鏃くらいしか有利だと思えるものがないので、日本の鉄器使用に関する
常識すら無視して見ないようにしている >>115
>それに、大和の土壌で鉄が溶けたという話はどうなったのよ。
>大阪じゃ鉄はたくさんみつかっているのに、大和の土壌は特別だったのか?
>その返答をはやくしてちょ。
土壌の状態は、ごく近くでもいくらでも変わるぞ
小学校のグラウンドの土壌と、小学校に隣接する畑の土、裏山の林の土はすべて大きく性質が異なる
大阪でも、ほとんどの鉄が失われ、発掘されるのはほんの一部であることを忘れてはいけない
大阪でも条件のよいところでだけ残っているに過ぎないんだよ
だから、地下水面との関係なんだってば
キウスなんかが奈良湖連呼しているけれど、地下水面が近い水分量の多い土壌であれば
土質に関わらず鉄は残りにくい
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?
その理由が、弥生終末期に奈良盆地で鉄が出ない理由そのものだよ
古墳時代でも、鉄が出るのは古墳の墳丘の上の方の高いところの埋葬主体から出るのであって
平場から出ないのは変わらない
古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う?
弥生時代の大和の大規模墳丘墓で埋葬主体が発掘できたものがないから、
鉄が見つからないというのが正解だろ >>118
>現実問題として、纒向は河内と交流が乏しく、尾張や近江の方が交通の要所だった。
>だから纒向はハブとなる尾張とだけ交易していたのだろう。
>畿内説はそのような考古学的または地理学的事実を無視して妄想に浸っている。
これ「現実問題として、纒向は河内と交流が乏しく」が、事実誤認なんだよ
つ「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」
田中 元浩 日本考古学 / 12 巻 (2005) 20 号 /p. 47-73
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf/-char/ja >>121
>このスレには甘木朝倉説の人間はいないよね。
つまり、九州説でも甘木朝倉説の人間は比較的理性的だってことだww
で、>>121はどこ説なんだ?
吉井信号でいいのか?ww
吉井信号の東に海はないぞww
どこ説だったところで、九州説はすべて投馬国の比定地で詰むのは確定ww 古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う?
という、問題への真実の答えは、古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実かどうか、判明しないので、答えられないな、、、 >>758
>>平原のような小規模方形墳丘墓か、それ以前と同じく甕棺墓なんだろうと考えているが<
>同じ文化圏に属する吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の10分の1サイズの倭王の墓を想定するのかい?
かなりでたらめだとは思わないのか? <
いや、平原は、
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」であるから、
臨時妥協的な「王」であり、権力は卑弥呼程強いようでもなく、
亡くなった後は、(薄葬令にも拠って)郷里の部族の墓地に埋葬されたんだろう、
という事になる。
>甕棺墓は、3世紀にはすっかり廃れている
甕棺の編年を無視した暴論だとは思わないのかい?<
祇園山の墳裾の62個の殉葬墓には、甕棺が3個あるから、
卑弥呼の頃には、まだ「すっかり廃れて」はいない。 3寸男のニックネームは、75パーセンテージに変換されました、、、
長いので、75パー、と呼べは良いな。。 >>132
>鉄器出てないのに、青銅器が出てないからダメって、なにそれ。
>鉄器説もダメだろ。
は?
論理がとことん、理解できないバカだな
登呂遺跡では、青銅器は出てるだろ? 自分で銅釧が出ているって書いてるじゃないか?
鉄は腐食崩壊して残りにくいが、青銅は比較的残りやすい
鉄の利器、槍鉋などは登呂遺跡などのような水分の多い土質では残らないと考えるのは通常の推定
青銅の利器、槍鉋で削ったとすれば、より肉の薄い銅釧が残っている以上、ないことの理由を新たに考案する必要がある
>青銅器の槍鉋を例に出したのは、青銅の槍鉋でも削れることを示しただけ。
>鉄器で削ったとは限らないということ。
だから、青銅の槍鉋でも削れるけれど、登呂遺跡では青銅の槍鉋は使っていたなら
残っていて当たり前だが残っていない以上、青銅の槍鉋で削ったと考えるべき理由はない
そこに、金属器で削った木製品があるなら、鉄器で削ったと考えるのが当然 >>133
>北部九州UA期は3世紀半ば頃で、ホケノは3世紀末以後だから、
これまでザラコクが、「ホケノは3世紀末以後」の根拠としていた、
266年の「十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。」は
読み間違いだって、前スレではっきりしただろ?
「ホケノは3世紀末以後」は素人の戯言であり、インチキ編年 >>148
>そこに、金属器で削った木製品があるなら、鉄器で削ったと考えるのが当然
お前の脳内で当然なだけだろwww
当然だけど証拠はありませんキリッwww あまり、レベルの高くない討論が、進行しているので、スレッドが寂れてしまったな。。。 >>137
>纒向見てそういう遺跡だと感じるか?
>ちゃんと見たんか?
>あれは宗教施設または土木要員の宿舎だろ。
本質は宗教施設であり、国家祭祀の中心だよ
卑弥呼は、共立祭祀王であり、ヒメ王の統一だからね
で、その国家祭祀の中心、祭祀王の居所を作るときに
交通の結節点である大和の地に作るのが便利だということ
纏向そのもので、交易等の経済活動をどこまでやっていたかは、
別途考えてよいとは思う
ただ、大市という地名が残り、纏向大溝のような物流のための
設備を見ると、交易の中心としての役割も祭祀中心の傍らで行われていたと
考えて問題はないだろう 木の物体があって、削られたり、切られたりした部分を見ただけで、金属で削ったり、切ったりしたのか、それとも、石で削ったり、切ったりしたのか、判明するということが、真実だと証明しなければ、登呂遺蹟には、鉄が無かった可能性が99.5パーセンテージになるな、、、 金属器で削ったことが確実で、その金属器が残ってないなら
青銅器より鉄器であった可能性のほうが当然高い >>141
>青銅の槍鉋が溶けたなら鉄も溶けるな
青銅の槍鉋が溶けるなら、銅釧も溶けて残らない
銅釧が残っているのに、青銅の槍鉋がないなら、
青銅の槍鉋は最初からなかったんだよ
結局、登呂遺跡における金属器による木材加工は
鉄器によると考えるのが当然だし、それが定説になっている
いろいろいちゃもんをつけても、整合性のある説明にはならないんだよ
整合性のない部分的な説明を、チェリーピッキングという
「よそで青銅の槍鉋がある」というだけでは、登呂遺跡の状況を説明できない >>150
>当然だけど証拠はありませんキリッwww
保証はなくても、当然だというところまでは認めるんだな?ww
それで十分だよ
登呂遺跡で青銅の槍鉋を使ったという正当なな根拠がなければ、
鉄器を使ったと考えるのが当たり前
そして、青銅の槍鉋を使っていたなら、青銅の槍鉋が出土しているべき状況だ
それがない時点で、>>150、>>132等の書き込みは、
ただのチェリーピッカーのいちゃもんであり戯言レベルだ 具体論に入ると、こうしていつも、九州説の言い分が論理的には穴だらけで、
チェリーピッキングの一点だけに頼った暴論であることが暴かれて論破される
今回のチェリーピッキングポイントは、「よそで青銅の槍鉋がある」
ただそれだけww つまり、纏向大溝という、謎の物体が、物流のための設備だということを、証明しなければ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまうのだな、、、
152日本@名無史さん2019/04/24(水) 17:45:22.59
>>137
>纒向見てそういう遺跡だと感じるか?
>ちゃんと見たんか?
>あれは宗教施設または土木要員の宿舎だろ。
本質は宗教施設であり、国家祭祀の中心だよ
卑弥呼は、共立祭祀王であり、ヒメ王の統一だからね
で、その国家祭祀の中心、祭祀王の居所を作るときに
交通の結節点である大和の地に作るのが便利だということ
纏向そのもので、交易等の経済活動をどこまでやっていたかは、
別途考えてよいとは思う
ただ、大市という地名が残り、纏向大溝のような物流のための
設備を見ると、交易の中心としての役割も祭祀中心の傍らで行われていたと
考えて問題はないだろう >>158
お前も九州説の反論をチェリーピッキングしてるだけだぞw
前スレに戻って答えてあない宿題を早く済ませろw >>762
>>「水行十日陸行一月」はその直前の「女王之所都」の付加説明<
>それで言うなら、
「水行十日陸行一月」はその直前の「邪馬壹國女王之所都」の付加説明だし、
「女王之所都」は、「邪馬壹國」の付加説明であって、「邪馬壹國」と別のものを指すことはない <
邪馬壹國の中に女王之所都がある、という書き分けになっているから、
「水行十日陸行一月」は、
その直前の「邪馬壹國女王之所都」の直接的な付加説明であって、
邪馬壹國は間接的であって、直接的な付加説明だ、とはしていない事になる。
つまり、邪馬壹國への直接的な付加説明なら、
「邪馬壹國水行十日陸行一月」という記載をした筈だが、したそうなっていない。
>結局、「水行十日陸行一月」は「邪馬壹國」への、
直前の地点「投馬国」からの道里であり、それ以外の読み方は整合性が取れず破綻している<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という事と矛盾するし、
投馬國へは「至の前に移動した事を示す文言がない」事とも矛盾するし、
邪馬壹國へも「至の前に移動した事を示す文言がない」事とも矛盾する。 >>155
>結局、登呂遺跡における金属器による木材加工は
>鉄器によると考えるのが当然だし、それが定説になっている
登呂遺跡に鉄器があったと仮定しても、纒向にあったことにはならないよ。
畿内説は根拠のない御都合主義の塊だな。 纏向大溝という、謎の物体は、誰が作製し、何時、何の為に存在したのだろうか、、、 纏向大溝という、謎の物体は、沼地を、盆地に変換するために、作製された可能性が、75パーセンテージあるな、、、 >>160
>前スレに戻って答えてあない宿題を早く済ませろw
それはこれのことか?
「それに、大和の土壌で鉄が溶けたという話はどうなったのよ。
大阪じゃ鉄はたくさんみつかっているのに、大和の土壌は特別だったのか?」
とっくに答えてあるぞww つ>>142
土壌の状態は、ごく近くでもいくらでも変わるぞ
小学校のグラウンドの土壌と、小学校に隣接する畑の土、裏山の林の土はすべて大きく性質が異なる
大阪でも、ほとんどの鉄が失われ、発掘されるのはほんの一部であることを忘れてはいけない
大阪でも条件のよいところでだけ残っているに過ぎないんだよ
だから、地下水面との関係なんだってば
キウスなんかが奈良湖連呼しているけれど、地下水面が近い水分量の多い土壌であれば
土質に関わらず鉄は残りにくい
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?
その理由が、弥生終末期に奈良盆地で鉄が出ない理由そのものだよ
古墳時代でも、鉄が出るのは古墳の墳丘の上の方の高いところの埋葬主体から出るのであって
平場から出ないのは変わらない
古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う?
弥生時代の大和の大規模墳丘墓で埋葬主体が発掘できたものがないから、
鉄が見つからないというのが正解だろ アルバイト先の僕達の友人でもある、雇用主の作製した、勤務シフトに、穴があいたのでは、ないのかな、、、 >>135
>3世紀当時の小さな丸木舟で伊勢あたりから紀伊半島をぐるりと回って和歌山あたりに着き、紀ノ川をさかのぼって纏向へ荷を運ぶ日数と積み荷の量を考えたら、人が荷を担いで伊勢から纏向まで運ぶのと、どちらが効率がいいか明らかじゃないかい。
おい
紀伊半島を回るのはリスクがあるとこっちも認めた上で、淀川琵琶湖水系のルートが現実的だと言っているのだが?
瀬戸内海から伊勢湾まで纒向経由だなんて、現代だって非効率的だぞ。
>吉備と近江のつながりもあるが、このルートは長野方面へつながるもの。
信濃方面は上越から入るのが一般的だよ。
信越地方は昔から一つの文化圏だ。
>一方、大和は伊勢から東海へつながるルート。
だから大和は尾張とだけ繋がっていたんだろ。 >>160
>お前も九州説の反論をチェリーピッキングしてるだけだぞw
こっちは一つ一つ根拠をつけて、九州説の言い分が否定される理由を説明している
>>160のような、内容を伴わない、反論以前の言い返しのみの書き込みは、
まともな反論一つできない状態まで論破された証拠でしかない
このコメントで言えば、「内容を伴わない、反論以前の言い返しのみの書き込み」というのが
根拠にあたる部分だww >>168
>一つ一つ根拠をつけて、
お前の言う根拠は想像だろバカwww >>168
「が妥当」なんていう勝手な主観的妄想は根拠ではない。 >>161
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という事と矛盾するし、
だからその
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という」
珍説がダメなだけだろ >>167
>紀伊半島を回るのはリスクがあるとこっちも認めた上で、淀川琵琶湖水系のルートが現実的だと言っているのだが?
そのルートは、京都盆地の小椋池周辺が不便なんだよ
日帰りできないのに、宿営しにくい
言うほど便利なルートではない
大和川から大和に入り平城山越えから木津川経由で琵琶湖に入るルートもある
>瀬戸内海から伊勢湾まで纒向経由だなんて、現代だって非効率的だぞ。
瀬戸内海から、伊勢湾まで抜ける用事もそんなにないだろう
瀬戸内海方面からも、伊勢湾東海地域からも、目的地が大和・倭王の居所なんだから >>169
>お前の言う根拠は想像だろバカwww
また、根拠なしの罵りコメントww
「登呂遺跡に青銅の槍鉋があったにだー」はもう諦めたのか?ww
「根拠は想像」というなら「具体的に反論」してみせたらどうだ?
ただの想像なら論破するのもたやすいだろ?ww >>165
いい繕いはダメダメ。
弥生時代の大和のどこに鉄がある?
対地下水で条件のいいところは、大和といえどざらにあるぞ。
大阪で条件のいいところが鉄の残ったところだというのなら、なんで大和の条件のいいところに鉄が出ないのよ。
はよ、答えろ。
答えは一つしかないのだ。
近江から大和の南北軸を境に、この南北軸から東では鉄が交易網に乗ってなかったということ。
南北軸の西にある大阪では、普通に鉄は交易されていたというのが結論だ。
なぜ、そうした交易上の制約があつたのか。
君は、弥生時代後期の各地方の政治経済政策に無知だから、答えを出すのは無理だな。 >>172
>そのルートは、京都盆地の小椋池周辺が不便なんだよ
水行だから、むしろ都合がいいんだよ。
誰が陸路だなんて言った?
弥生縄文の交通は水上交通が主力だろ。
だから瀬戸内海ルートと日本海ルートが淀川水系を介して合流する近江が発展して伊勢遺跡とか出るわけだ。
纒向の出番はないんだよ。
>大和川から大和に入り平城山越えから木津川経由で琵琶湖に入るルートもある
淀川水系と比較してどちらが便利かは明白だよ。
恥ずかしいレスだぞ。
>瀬戸内海方面からも、伊勢湾東海地域からも、目的地が大和・倭王の居所なんだから
結論ありきの妄想か?
そんな関西の中でも田舎の土地にいるわけないだろ。
瀬戸内海からの纒向への物資の搬入はほとんどなかったようだし。
いいかげんに夢から覚めようぜ。 >>170
>「が妥当」なんていう勝手な主観的妄想は根拠ではない。
「妥当」というのは「判断」であって、客観的な指標をもとに行うものだ
まあ、「判断」自体は最終的には主観が入るものだが、「妥当性」自体は
主観的な妄想ではないぞww
まあ、日本語が不自由なバカは、こんな単語レベルの揚げ足取りしかできないんだろうけれどww
しかもその揚げ足取りすら「妥当性を欠いている」ww >>175
>>そのルートは、京都盆地の小椋池周辺が不便なんだよ
>
>水行だから、むしろ都合がいいんだよ。
墓穴を掘ったキナイコシ >>176
あんたの場合は、根拠がないことを言い張る時の方弁だろ。 >>175
>水行だから、むしろ都合がいいんだよ。
「水行」に川の移動は含まれない
これがまず第一点
次、船での水運でも、船の中で寝泊りするわけではなく、移動中に
川岸に寄せて陸地で煮炊きをして睡眠を取るんだよ
小椋池周辺は長い間沼沢地が広がっていて開発が遅れる
しかも小椋池自体が大きい
決して便利なルートじゃないんだよ >>176
お前日本で育ってないからそう思うんだろうけど、周りから見たらホンマのアホでしかないんだぞ?
論文とか書いたこと無いのか?w >>175
>だから瀬戸内海ルートと日本海ルートが淀川水系を介して合流する近江が発展して伊勢遺跡とか出るわけだ。
日本海ルートから水路で琵琶湖に入る経路はない
途中低い山越えが入る
瀬戸内海ルートでも、途中に陸路が入る人里伝いの方が安全で便利なんだよ
「合流する近江が発展して伊勢遺跡とか出る」
この部分は同意
>纒向の出番はないんだよ。
残念ながら、現在の編年研究から来る見解では
その重要な伊勢遺跡が廃絶される頃に、ちょうど纏向遺跡の建設が始まる
各所の交通の結節点となる重要拠点の地位を、伊勢遺跡から纏向遺跡が引き継ぐ形になっている
>>175の述べた伊勢遺跡の重要性が、そのまま纏向遺跡の重要性を示す論旨になる訳だ
纏向遺跡の重要性を解説してくれてありがとう >>180
反論できなくて罵るのは>>180が論破された証拠 >>179
山越えよりマシだってば。
お前、言っていることが滅茶苦茶だぞ。
山に囲まれた奈良盆地はどうやっても不便だって。
現代でさえ、名古屋から大阪まで行くのに、奈良を通らないだろ? >>181
>その重要な伊勢遺跡が廃絶される頃に、ちょうど纏向遺跡の建設が始まる
>各所の交通の結節点となる重要拠点の地位を、伊勢遺跡から纏向遺跡が引き継ぐ形になっている
その二つの事象は関係ないよ。
瀬戸内ルートと日本海ルートの結節点の役割を纒向が担えないのは明らかだよ。
近江の中の他の地域に移動しただけだ。 >>182
はいはい、君が中卒なのはよく分かったw >>763
>>「水行十日陸行一月」は所要日数の説明であり、「道里」の略載になっていない<
>所要日数は道里の表現として普通 >>59 FAQ78 『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。<
ダメです。
九章算術のような別人の書が、
陳寿の「道里」に関する「使用習慣や考え方」の根拠にはならず、参考程度でしかならず、
陳寿の記載法の例としては、
女王國の萬二千余里に対する「計其道里、當在會稽東治之東」があり、
不彌國までで「萬二千余里」の記述がほぼ終わっているから、
陳寿が使った「道里」は、日数ではなく「里数」であった、という事になる。 >>174
>大阪で条件のいいところが鉄の残ったところだというのなら、なんで大和の条件のいいところに鉄が出ないのよ。
>はよ、答えろ。
条件のいいところは、発掘されていない、またはできなかった
それだけだよ
纏向石塚古墳の墳丘が残っていて、その埋葬主体が発掘されていれば、
奈良盆地に鉄がないなどという珍説は誰も唱えなかっただろうに
例えば、纏向石塚古墳の墳丘が残っていて、その埋葬主体が現存していたら、
まさに>>174の言う条件のよいところだったのだけれどね
で、>>174さんはこれらの質問に答えてごらん
そうすれば、自然に解答にたどり着けるよww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
その理由が、弥生終末期に奈良盆地で鉄が出ない理由そのものだよ
古墳時代でも、鉄が出るのは古墳の墳丘の上の方の高いところの埋葬主体から出るのであって
平場から出ないのは変わらない
古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、「古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 >>167
信濃方面は上越から入るのが一般的だよ…って、それは日本海交易路の場合。
話は、大和だから。
瀬戸内海から淀川を上ったとして、琵琶湖、若狭、越と進んで、それから陸路を諏訪方面へ行くのは、日数だけがかかってメリットがない。
木津川から四日市、桑名を経て尾張に出て、そこから岐阜、諏訪と進むのが常識。
弥生後期に関東へ鉄刀と鉄釧が交易されたルートも、若狭→岐阜→諏訪→関東だった。
君の主張は、効率というものを勘定に入れない非現実的な主張が多い。
人間、回り道より直線道を選ぶのだ。
なぜそうするのかというと、労力が少なくて済むからだ。
そこらあたりを考えないから、無理な主張になるのだよ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ 結局奈良盆地は単なる共用墓地だったというオチだろうよ。 >>183
>現代でさえ、名古屋から大阪まで行くのに、奈良を通らないだろ?
現代には、小椋池はないだろ?
それと、旅行中の食料調達を考えたら、人里伝いが安全なのは明確
現代の交通路で奈良を通らないのは、奈良の人口が少ないから
それから、リニアモーターカーは、奈良を通るよ? >>186
>陳寿が使った「道里」は、日数ではなく「里数」であった、という事になる。
ならばその「道里」を計算すると北緯30度の会稽より南になるのだから、九州説がは全滅だな 結局奈良盆地は単なる沼地だったというオチだろうよ。 >>190
そんな思考停止に陥るしかなくなることが
九州説の八方塞がり状況を物語っている >>188
>話は、大和だから。
だから、大和は交易路から外れていることを理解しろよ。
>弥生後期に関東へ鉄刀と鉄釧が交易されたルートも、若狭→岐阜→諏訪→関東だった。
根拠なし。
出雲のタケミカヅチが諏訪まで逃げただろ。
あそこは日本海側の文化圏なんだよ。
関東最古の大社である鷲宮神社も出雲勢力により成立した。
諏訪は東海ではなく日本海側の文化圏なんだよ。
>君の主張は、効率というものを勘定に入れない非現実的な主張が多い。
君の主張は、一般的な日本の歴史地理を無視している。
言い換えると、教養がない。 >>180
>お前日本で育ってないからそう思うんだろうけど、周りから見たらホンマのアホでしかないんだぞ?
>論文とか書いたこと無いのか?w
もしかして、ヨーロッパに留学経験があり、そっちで学位をとったとか言ってたバカの人なのかな?ww
ホンマのアホに見えるのは、意味のない中傷に走っている>>180の方だよww
主観を離れて客観的に自分の書き込みを見るようにしたらいいんじゃないかなww
>>185
>はいはい、君が中卒なのはよく分かったw
私は>>182じゃないけれど、その意見に同意ww
そして、>>185が無意味な学歴コンプレックスを患っているのが気の毒だなと思うww
「文は人なり」って言葉、>>185は理解できるのかい?
かなり、>>185の書き込みからは品性がにじみ出ているけどさww >>187
君は、全体的な調査ができていない。
弥生後期には、近江、木津川、大和は墓制を同じにするゆるやかな同盟を作っていた。
この緩やかな南北同盟の墓制は、墓丘に何も副葬しないというものだった。
主に壺などの供献土器だけが墓丘に祀られた。
それも、すぐに周溝の中に沈められたようだ。
だから、3世紀前半の大和の石塚古墳には、何も副葬されていない。
ということは、石塚には鉄器は副葬されなかったということになる。
実際、石塚の墓丘内からは何も出てないだろう。
あるはずだと、推測だけでものを言ってはいかんよ。 >>196
>だから、大和は交易路から外れていることを理解しろよ。
結局また九州説はどんどん世間常識からドロップアウトしていくのだな >>200
あのー
石塚って削平されてるんですけど >>192
>奈良の人口が少ない理由は?
直接的な理由は、平安遷都ののち、都ではなくなったから、だよ
江戸も、大政奉還のあと、人口が激減している
まあ、その後皇居が遷御して、再度東京が首都になってまた増えているけれどね
また、平安遷都の遠因が奈良の大仏の造営による環境破壊、水銀汚染にあるという人もいる >>194
>結局奈良盆地は単なる沼地だったというオチだろうよ。
沼地だったのは、小椋池周辺
そっちは水路でも不便なルートだ
宿営ができない、食料調達ができない、というのはメインルートとするには
不備な条件だ >>197
不便な土地だからだろw
奈良ってのはな、交通の便も悪いし、頭も顔も悪いし、ガラも悪いんだよw
堺が最悪だがなw
これ関西の常識。 >>196
>根拠なし。
>出雲のタケミカヅチが諏訪まで逃げただろ。
えーと、タケミナカタは出雲から逃げてきたんだから、
>>188のいう「信濃方面は上越から入るのが一般的だよ…って、
それは日本海交易路の場合」そのものだろう?
反論になってないよ? >>769
>・・・主張するのは、
要するに北部九州には倭王の墓の候補が一つもないことを自白しているだけ<
いや、三雲や井原や須玖岡本や祇園山や平原や那珂八幡などや、
一貴山銚子塚や端山など、倭王の墓らしき墓がずっと続いている。 奈良で交通の便が良いといえるのは大和西大寺と生駒市ぐらいだね。 登呂遺跡には青銅の槍鉋があったと考える理由はない
なぜなら、銅釧が出土しているのに槍鉋は出土していないから
登呂遺跡の条件では、銅釧のような肉の薄い青銅器も残ることは実証されている
登呂遺跡では金属器による加工痕のある木製品が多数出土している
青銅の槍鉋等の青銅の加工器具があると考える理由がない以上
この木材加工は鉄器によるとする定説を疑う理由はない
登呂遺跡では、袋鍬用の木製の鍬の柄が多く出土している
青銅は袋鍬の刃に用いるのは軟らかく不適であり、青銅製の袋鍬の刃は知られていない
登呂遺跡の袋鍬用の柄には、鉄の袋鍬の刃先を付けて使ったとする定説を疑う理由はない
1世紀の東海地方の、特に栄えた場所とも考えられていない登呂遺跡でも、
木材加工や袋鍬に使うだけの鉄器が十分に供給されていたという定説を疑う理由はない
鉄器そのものが出土していなくても、弥生社会での鉄器利用は定説となっており、
鉄器の出土数(実際に弥生時代に使用されていた鉄の量を直接反映するものではない)だけが
最後の望みの九州説の人以外には、鉄の出土がないことをもって鉄がなかったと主張する人はいない
これでいいかな?ww
話を一生懸命そらしているけどさww >>207
>それは日本海交易路の場合」そのものだろう?
それ以外のルートはメインではないんだよ。
まして、関東甲信越は奈良と無関係。
瀬戸内ルートも日本海ルートも関わらない大和が交通の要所なわけないだろ。 >>776
>>(ホケノ)・・・(寺沢は庄内3式)<
>つまりそれは古い情報だ 2012年に出た報告書では纏向3類で3世紀第二四半期
研究責任者は寺澤 <
ホケノは、卑弥呼の墓の冢でも有棺無槨でもなく、
前方後円墳で有棺有槨であるから、
「3世紀第二四半世紀」説は、始めから×であり、
寺澤は、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師仲間でしかない。 >>210
だから、登呂遺跡だって海沿いだろ?
水運の悪い大和は登呂より後進地域だったということだ。 >>206
>不便な土地だからだろw
>奈良ってのはな、交通の便も悪いし、頭も顔も悪いし、ガラも悪いんだよw
また訳の分からない非難中傷を始めたぞww
不便な土地だったら、3世紀の崇神天皇から8世紀の光仁天皇まで
ずっと奈良盆地周辺に宮都が置かれ続けたことが説明できないだろ?
結局、九州説は説明できなくなって、九州説のご都合に合わせた根拠なしの戯言を
わめくようになるww そもそも、纒向に尾張の土器は出るのに河内の土器が出ないので、纒向を通過する交易路はなかった。
尾張から登呂など東海地方へのルート(これさえも甲斐ルートの枝葉だが)の枝葉に過ぎない。 >>212
もはや九州節は
意味のないお経を唱えるだけ
になったな >>213
>だから、登呂遺跡だって海沿いだろ?
まず第一に、木材加工痕は青銅の槍鉋「かもしれない」から、登呂遺跡からは
鉄が出土していない以上、鉄を使っていなかったとか言っていたのは、
間違いだったと認めるんだな?
>>115
「登呂遺跡の木製品について、君ははやとちりだよ。
金属による加工痕とされているが、鉄とは限らん。」
「いずれにしても、登呂の木製品の加工に鉄が用いられたことは確定事項ではないよ。」
これらの主張は、引っ込めるということでよろしいな!!!!w
登呂遺跡で鉄を使っていたと認めたら、鉄が出ないことをもって鉄がなかったという主張は
意味をなさなくなるが?ww >>214
>ずっと奈良盆地周辺に宮都が置かれ続けたことが説明できないだろ?
それ、7世紀末まで全国支配できていないだろ >>793
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師の大和説は、
出所不明の怪情報ばかりだな。 >>200
まあ、196君は、3世紀前半の大和には鉄はわんさかあったと夢想していたまへ。
わははははは。 九州最大の国は福岡平野の奴国だからそれより大きな邪馬台国は九州島の外という事が確定してしまうのでどうにもならんよな >>810
>まあ75%はずだ、が三つあれば断定okだがな<
まあ、5%位の「筈だ」が三つあった位では、15%以下にしかならないし、
「95%位の確率の沢山の史料事実を、こっそり隠蔽しての筈」では、
ほぼ否定だがな。 >>811
>>それはおかしい。
郡使は邪馬台国まで行ったはずなので、途中で資料が分かれるはずがない。<
>おかしくないよ
魏使(梯儁、張政)は邪馬台国まで行ったはずなので、投馬国及び邪馬台国の情報は
魏使の報告がベースだろうし、それ以外の情報がなかったのだろう
北部九州までの情報は、光武帝への朝貢その他のときの情報もあるから、その分
詳しく書いてある 簡単だろ?<
いや、陳寿は、郡から女王之所都までの直接的行程を分け隔てなく記載しており、
更に、奴國や投馬國のような側副傍線國情報も記載し、
更に、東方渡海倭種や侏儒國までの見聞記録や、
侏儒國からの裸國や黒歯國情報まで追加記載している。
>というか、これが通説だぞ <
「南→東」などの嘘付き騙しをしている通説学者など、一種の・・・・アホ詐欺師であり、
そんな学者の説など、何の勝ちもなく、根拠にもならない。 纏向遺跡を邪馬台国の都と関連付けるなら。
そのルーツはもはや吉備とし、吉備東遷説を言わなければいけない。
纏向を超える桃の種、
土師器の内面削りは吉備土器の影響、
竪穴石槨のルーツは吉備、
特殊器台のルーツも吉備、
桜井に残る吉備という地名。
もはや言い逃れはできない。
卑弥呼の墓が箸墓で、纏向が邪馬台国の遺跡なら。
2世紀前半の其国の男王は吉備にいたことになろう、俺はそう思わないが。
ところがこのスレ主ことアフォの>>1は2世紀前半の其国の男王は井原だとほざいた。
アホの>>1 アフォのぉぉ>>1 >>213
>水運の悪い大和は登呂より後進地域だったということだ。
>>196で「出雲のタケミカヅチが諏訪まで逃げただろ。」と書いていたのは>>213じゃないのか?
諏訪に栄えた集落があったのは間違いないだろ?
諏訪ほどの内陸でも、十分な交流はあったし、黒曜石も翡翠も届いていたんだよ
纏向程度で、内陸だから不便とかいうのは、もうその程度しか反論できる点がないからだろ?ww 僕達は、今、徒歩で出勤でき、1時間にも満たない勤務で、交通費と併せて、2時間分の給与と、バームクーヘンという物体を、急な出勤のお礼として獲得したが、
アルバイト先の僕達の友人でもある、雇用主が、新しい、若い、学部のアルバイトを、複数、獲得したことを、アルバイト先の僕達の友人でもある、雇用主本人から、嬉しそうに伝えられ、
僕達が希望していた、夜の勤務シフトへの僕達の移動の可能性が、少なくなってしまったことを、ほのめかされたので、心が疲れてしまった、、、 >>215
>そもそも、纒向に尾張の土器は出るのに河内の土器が出ないので、纒向を通過する交易路はなかった。
これは何度も書いていることだが、河内と大和は身内だから、河内の人が大和に行くときには
飯炊き甕を持っていく必要がないというだけ
大和と河内に土器の供給センターが集約されていて、その2ヶ所で共通規格の土器を作っている
土器の共通規格化ができるほど、緊密な関係にあるのに、交易路がないとか言い張るのは
バカだけだぞ >>226
このレベルの低いスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、邪馬台国畿内説の宣伝係員の言い放つ、すぐにバレてしまう嘘を読んで、笑い、リラックスして、元気を取り戻せば、良いのではないのかな、、、 >>825
>>途中の里程に「余り」が記載されている。
有効数字1桁で、あとは切り捨てられていると思われる。<
>そんな乱暴なことをしたら、朝鮮半島の循海岸水行の切捨て分だけで、
北部九州に上陸してからの距離は萬二千里に対して無意味になるぞww <
また何を言いたいのか?、ちょっと意味不明だが、
郡から狗邪韓國までは、
「循海岸水行歴韓國乍南乍東」の全体で「七千余里」だ、
と書いてある事になる。。 >>218
>それ、7世紀末まで全国支配できていないだろ
本格的に、日本史の常識に挑戦するんだなww
九州説はなんでも否定しないと成立しないトンデモだ
古市と百舌鳥に巨大大王墓を作る頃には、間違いなく全国政権(蝦夷の地を除く)だよ
それに、奈良が不便な土地だったら王都が置かれ続けたりしないに
対する反論としては無意味
「こういう根拠なしの一言反論に走るあたり」が、九州説の知的能力の限界を示している
↑
こうやって、根拠をつけて書き込みをする癖をつけようね! バームクーヘンには、紅茶と玉露のどちらが合うだろか、、、 >>226
宿直勤務というのは狙い目。
深夜給も出るし、宿直手当も出る。
ただしなかなか寝付けない性格ならキツい。
わしの場合、どこでも寝れるので、宿直勤務を2カ所やってる。
昼の仕事(さっぱりワヤだが)と合わせだが)たら充分やっていける。 謎の心の優れた人物が、一面では、優れた助言をしてくれたが、
僕達が、社会での労働を再開した理由は、与えられた時間というものは、自分達のためだけではなく、未来に続く社会や自然のために、使用するためにあるのだと、考えが纏まったからなので、
宿直勤務という、体が対応できない可能性が高い勤務は、敬遠するな、、、
233日本@名無史さん2019/04/24(水) 19:59:46.92
>>226
宿直勤務というのは狙い目。
深夜給も出るし、宿直手当も出る。
ただしなかなか寝付けない性格ならキツい。
わしの場合、どこでも寝れるので、宿直勤務を2カ所やってる。
昼の仕事(さっぱりワヤだが)と合わせだが)たら充分やっていける。 >>234
>>>224=葛城厨
葛城厨=左側スロープ君 >>189のコピペを張り続ける人は、なんて呼べばいいんだっけ?
糸クズ? >>828
>まあ、より正確には、陳寿が典拠として使った底本の撰者が、複数資料を参照した、の方が
正確かもしれないが <
これも×だな。
陳寿は「魏志」や「三国志」を書こう、としていたのだから、
その準拠資料は、直前の後漢代末から魏代の記録が中心であり、
一部にずっと古い記録を含んでいる、と受け止めるのが正解。
だから、倭人伝においても、大半〜殆どは魏使らの記録である、と言える。 >>836
>狗邪韓国への循海岸水行が「到」で<
これも×ね。
郡から狗邪韓國へは「循海岸水行歴韓國乍南乍東」の全体に拠って、
ようやく「狗邪韓國に到着した」と書かれているのであり、
循海岸水行が「到」、
であるのではない。 奴国は遠賀川流域
博多に一大卒
投馬国は宮崎鹿児島
投馬国より北が一大卒支配下で女王国の属領属国 バームクーヘンは、飼い犬に与えても、大丈夫だろうか、、、 >>851
>九州説でも、ザラコクのような古田史学の一派は、福岡平野に邪馬壹國を持ってくるから
東には海はないよ?ww<
これも類スレ主は×だな。
「・・・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」の「女王國」は、
(邪馬壹國女王之所都だけではなく)、当然九州島付近全体を指している事になるから、
「東渡海」は「九州島付近から東に渡海」した事になる。 ザラコク氏が類スレ主と呼ぶ、脳も心もレベルの低い人物は、75パーというニックネームの、このスレッドにゴミテンプレートを貼り付け続けている、プロ固定か、ゴミ人間では、ないのかな、、、 >>868
「到」は、「至り立つ」だから「到着」する事が中心的な意味であり、
「至」は、「出発から到着までの移動全体を示す」でよい、と思うよ。
だから、「至」は、
四至的な位置説明文言としてでも使えるし、
実際の行程での移動文言としても使える。 キナイコシは、75パーとは、別人なのだろうか、、、 バームクーヘンは、飼い犬に与えても、大丈夫だろうか、、、 >>872
大和説者は、
「南≠東」などの文献や、考古や、国民や世界の学者らに頭から否定されてる、
哀しいコンプレックスだな。
根拠がないと口先で言い張るだけで証拠も出せず、
ただ妄想し続ける。
それがあまりに哀しい大和説。 >>225
>諏訪ほどの内陸でも、十分な交流はあったし、黒曜石も翡翠も届いていたんだよ
>纏向程度で、内陸だから不便とかいうのは、もうその程度しか反論できる点がないからだろ?ww
交通の要所であり、出雲の傘下の諏訪と、主要交通路から外れた纒向を同列で考えてはいけない。 >>233
>わしの場合、どこでも寝れるので、宿直勤務を2カ所やってる。
体を壊すと元も子もないから、あまり無理するなよ。 >>877
「南≠東」などの批判に、まともに反論もできず、
俺様は正しいんだ、という妄想に囚われている大和説。 木の物体があって、削られたり、切られたりした部分を見ただけで、金属で削ったり、切ったりしたのか、それとも、石で削ったり、切ったりしたのか、判明するということが、真実だと証明しなければ、登呂遺蹟には、鉄が無かった可能性が99.5パーセンテージになるな、、、 >>879
>で? 畿内説が示せなかった根拠って、何の根拠?<
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「冢≠前方後円墳」や 「有棺無槨≠有棺有槨」や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「大和日本国は九州倭国の別種の旧小国」などに関する反論根拠。 >>898
>鍛治遺跡の鉄器出土
高槻市 古曽部・芝谷遺跡 鉄器7点
京田辺市 田辺天神山遺跡 鉄器7点
枚方市 星ケ丘遺跡 鉄片50点以上、鉄塊、鋳造鉄斧再加工品
鷹塚山遺跡 鉄器12点
吹田市 垂水南遺跡 鉄鎌
私部南遺跡 鉄鋌
交野市 森遺跡 鉄斧、剥片
いっぱい出てるけどね。<
それも、時期が判らないし、
肝心の鉄鏃がないみたいだし、
結局大和や纏向ではないようだし・・・。 >>902
>>(筑紫と大和の土器の同時性問題)
遺跡内の「同時期的な共存」の発掘の確認でなければダメでしょう。<
>西新町遺跡で同じ遺跡の「同時期的な共存」が発掘されて確認されているから、
西新町式と庄内式が並行期とされてるんだよ <
それ、筑紫内での、西新町式と庄内式との3世紀前半頃の「同時代的な共存」であり、
大和の庄内と筑紫の庄内との「共存」になっていないから、
大和の庄内の年代根拠に使えず、だから×なんだよ。
文句ないよな? バームクーヘンは、飼い犬に与えても、大丈夫だろうか、、、 74日本@名無史さん2019/04/24(水) 08:17:08.69
問題が、あります。。。
奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
Aなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Bなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Cなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
という、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう、可能性は、何パーセンテージでしょうか、、、
75日本@名無史さん2019/04/24(水) 11:11:48.24
98.4% 大市
バカか
記紀だんしょ
記紀を都合よく 出したり引っ込めたり
畿内説は良いけど
現代 学者の頭を疑うよ
石野先生が吉備に傾くのも 理解できる 罠を仕掛ける者が、わざと実行したミステークではない、ミステークのような罠は、見抜かれない可能性が、高いので、罠に掛けられる者には、吊し上げられる可能性が高い罠になるな、、、 バームクーヘンは、飼い犬に与えても、大丈夫だろうか、、、 >>257
高槻、京田辺、枚方は弥生後期。
吹田、交野は古墳中期。
この遺跡を挙げたのは、鉄器と土壌の関係を述べるため。
大阪の土壌の中で、3世紀の鉄器が溶けて消失しているかどうかということ。
なので、鉄鏃が出土したかどうかということは、鉄器が溶けるかどうかの問題の中のその鉄器の種類に関係することになるので、鉄鏃の出土は決定的な重要性をもたないのではないか。
ただ、大阪で鉄鏃が出ているのであれば、それに越したことはない。
比較がしやすくなる。 結局、箸墓古墳円墳部の直径が150mということしか根拠がない箸墓説。
被葬者をモモソ姫=卑弥呼とするにも、女王とは程遠い一皇女だし、
その生きた時代が崇神時代であり微妙に卑弥呼とは違う。
箸墓説者なんて馬鹿の集まり。
かといって石野さんの勝山説、寺沢さんのホケノ山説も、
今度は墳墓の大きさが魏志の記述とは大きく異なる。
というわけで根本的に見直しが必要。
一度ガラガラポンするのがよろしい。
なぜなら卑弥呼(Bei mei hu) =比売后〈Bi; mai hou〉=ヒメ后=ヒメ(蹈鞴五十鈴)が住んだのは葛城なのだから。 >>906
>>ふーん<
>とか書いてるけれど、これを認めるならザラコクお得意の
「前方後円墳は266年以降」ってのが破綻しているってことだぞww
理解できてないだろう?ww<
「ふーん」というのは、別に、「南→東」などの嘘付き騙しの山尾のような、
史料事実の否定曲解の似非学者の意見に同意した訳ではなく、
「山尾が意見を変えた」という事にちょっと興味があっただけだ。
また、晋書の解釈に関しては、
晋書自体が唐代に書かれた後代史書であるから、半分×内容であった可能性もあり、
円墳と方墳とが合体した墓を、南北の郊に造る、
という意味にも取れる可能性がある事は言ってあるし、
以前の議論でも曹操や文帝の時の話でも、同じような解釈が出来る事があったし、
また、前方後円墳墓思想は、
モンゴルや高句麗からの伝播であった可能性が高い事も何度も言って来てあるし、
天円地方の思想は周髀算経に既に出現しているから、
魏朝や西晋朝が採用してもおかしくない、等の事も、既に書いて来てある。 >>919
>大和も、古墳時代に入ると、溶けずにいっぱい残ってるけどな。
それが、なぜか弥生時代の場合は、溶けてしまうらしい。
大和は、古墳時代に土をそっくり入れ替えたのか?<
成程。 そんなことよりも、老婆談と同じでしょ?
なぜなんだろう。
『ガンダム サハリン』『駆け落ち』『水神』(キュウリの葉)
『』『』『』
三貴子・・・蚕を飼い、機織りをしていたという話とか 嫁ぐ前に、自分が飼い可愛がったが、結局、実家に残した飼い犬が、20年経っても元気なので、嫁いだ娘も、飼い犬も、真実の幸福の可能性が高いな。。。 老婆が生まれるよりも前の写真、
駆け落ちの話も、もっと前の世代?の出来事だと言っているし、 バームクーヘンは、飼い犬に与えても、大丈夫だろうか、、、 当時住んでいた家に、
凄い刀も飾ってあったと言っているし、
何なんだろう
本や書なんかも、
だーっ()と並んでいたとか I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ后 B安寧
ヒメ后 A綏靖
ヒメ后(200年頃) @神武
夫の神武に先立たれた比売后〈Bi; mai hou〉の姿は【年已長大、無夫壻】である。
彼女には申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)の兄おすくにのまつりごともうすまえつきみ)・天日方奇日方がいる、
まさに【有男弟佐治國】
そして宮に出入りする「男」タギシミミがいた、まさに【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】 やり直し
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ后 B安寧
ヒメ后 A綏靖
ヒメ后 (200年頃) @神武
夫の神武に先立たれた比売后〈Bi; mai hou〉の姿は【年已長大、無夫壻】である。
彼女には申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)の兄・天日方奇日方がいる、
まさに【有男弟佐治國】
そして宮に出入りする「男」タギシミミがいた、まさに【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】 何度説明しても同じ
家にあった刀なんかも、誰かに・・・、 バームクーヘンは、飼い犬の口には合わなかった、、、 モンゴルや高句麗の前方後円墳が、火星の陸上の前方後円墳よりも、古いという、根拠は、何だろうか、、、 >>250
別の人というなら、それでもいいけれどww
どちらにしても、鉄器に出土のない1世紀の静岡の登呂遺跡であっても、
弥生社会は鉄器を使っていたのが当然というのはよろしいな!! >>239
>おかがみさん
お鏡さんは平原推しだから違うんじゃないかな? >>215
あれ、220年頃から河内の土器出てるがな。
河内は、纏向に石塚古墳が造られるまで様子見していたけど、連合が列島随一の墓がを大和に造ったのをみるや、あっという間に態度を変えたのよ。
それ以降、吉備と西部瀬戸は河内や紀伊が入ってきたのを嫌がって、纏向へ工夫を送るのを渋りはじめた。
それと引き換えに、河内は工夫をどんどん増やして、連合で立場を強くしていったの。
連合のこうした成り行きをみれば、吉備が箸墓や西殿塚に特殊器台を押し立てて、しつこく意地をみせたのがなぜか分かるというもの。
そうした勢力争いを(吉備→卑弥呼)に結び付けるから、整合性もなく話がややこしくなるわけ。 ガラガラポンしても、鉄器が、当選し、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、幸福を獲得する可能性はないな。。。。 >>252
>交通の要所であり、出雲の傘下の諏訪と、主要交通路から外れた纒向を同列で考えてはいけない。
ご都合主義もここまで行くとすごいな
諏訪が交通に要所ってどこから来た?
諏訪はある意味どん詰まりだぞ
そして、纒向が主要交通路から外れているって、さすがにバカだろ
唐古鍵の時代から、でかい銅鐸を作って配布していたのは大和と濃尾平野だぞ
もう、日本史の事実は全無視で、自分のご都合を根拠もなく書くだけの
自慰書き込みしかできないんだなww >>279
>弥生社会は鉄器を使っていたのが当然というのはよろしいな!!
その常識すら通用しない後進地域が纒向 >>258
>大和の庄内と筑紫の庄内との「共存」になっていないから、
畿内の胎土の庄内も出ているから、「大和の庄内と筑紫の庄内との「共存」になってい」るよ
残念でしたww >>261
>大市
>記紀だんしょ
大市と描かれた墨書き土器が出ている
記紀だけじゃないよ >>266
>円墳と方墳とが合体した墓を、南北の郊に造る、
>という意味にも取れる可能性がある事は言ってあるし、
取れません
その可能性はとっくに否定されています
チェリーピッキングでそこだけ切り出して可能性があるといっても
多くの史書の記述をきちんと広く読めば、
「圜丘を南郊に、方丘を北郊に、併せて作る
南郊壇が圜丘、北郊壇が方丘、そのそれぞれで夏至の祀りと冬至の祀りを行う 」
というのがきちんと読める
ザラコクが何を言ってもムダ
ザラコクはまともに漢文が読めない >>284
>その常識すら通用しない後進地域が纒向
そう書き込むことで九州説のプライドが守れるとでも思ってるのかねぇ
単に九州説の>>284が、常識のない、情報の認識の仕方にどうしようもないほどの
認知バイアスのある人物ってだけだよ
纒向、纒向と言い続けているけれど、唐古鍵を中心として奈良盆地は弥生中期以降、
交流の結節点としての地位を保ち続けている
その大和の地で、卑弥呼の共立を機に新たに作った都が纒向なんだよ
畿内説は畿内説であって纒向説ではない 本当に当時の話
家が(戦争に参戦、あの戦争の話)行っていればな・・・、
みたいな話なのかな?
たしか、そういう話もしていた >>968
>>(章子さんの丑寅原稿の筆跡)喜八郎さんの筆跡とも、明治写本群の筆跡とも、
全くのように違っている丑寅原稿で十分。<
>これがうそ
丑寅原稿の筆跡が、和田喜八郎氏のものと一致しているのは、
古田史学の会の外では常識<
だから、
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E8%97%A4%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E3%81%AB%E5%8A%A0%E7%AD%86+%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E7%AD%86%E8%B7%A1#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
の中で、
丑寅原稿と、
喜八郎さんの「藤本原稿への添削」の筆跡と、
明治写本の筆跡とを、比べてみな。 >>289
>纒向、纒向と言い続けているけれど、唐古鍵を中心として奈良盆地は弥生中期以降、
>交流の結節点としての地位を保ち続けている
だからさ、何と何の結節点なんだよ。 カッパなのか何なのか知らないけど、
あの写真の人物、自ら参戦していればな〜という話でしょ。
親戚(遠い親戚など)なんかは行ってると思うんだけど、
本当に何だったんだろう。 偽書論議まだやってるのか
筆跡以外にも和田は真っ黒だろ
古田自身も寛政原本の「製作」を教唆した節さえあるし
古田史学の本質的な問題が明らかにされた事件だったな >>286
>大市と描かれた墨書き土器が出ている
記紀だけじゃないよ <
しかりだが・・・年暦は?????
場所は???房総???蝦夷地?? 纏向と卑弥呼の關係が良くわからない
テンプレの結論は
「 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 」であるが、
倭人伝との整合性は何なのかを具体的に語って欲しい
纏向は弥生後期と古墳時代の狭間の遺跡としての価値はあると思うが邪馬台国の王都と結び付ける根拠が理解できない >>257
弥生
高槻市 古曽部・芝谷遺跡 鉄鏃
東大阪市 鬼虎川遺跡 三角鉄鏃 これって数学???
>単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる < >>300
大阪に鉄があるのに奈良からは出ない。
これが現実。
纒向はどうあがいても後進地域。
王都になんてならないよ。 >>304
然り。
関西の交通の主軸は琵琶湖淀川水系。 前期古墳の分布で見るなら
淀川右岸は高槻→向日→伏見→
淀川左岸は四条畷→交野→八幡→
木津川に入ると右岸は城陽→山城→
左岸は田辺
大和川は平野→柏原
奈良盆地から東へは木津川を遡って亀山へ抜けるルートと
上野盆地の南を松阪へ抜けるルートがある
その先は尾張・三河
琵琶湖の南の入口は膳所
湖西は知らない
湖東は野洲→安土→で湖北へ
その先は美濃・越前 畿内と言うのはもう確定なんだから、九州説の人には機械的なテンプレ誘導でいいんじゃないですかね?
彼らと議論して得られるものは何もないし、そもそも議論すら成立していないでしょう。
なので畿内説同士で議論してみませんか?もともと本来は、そういうためのスレですよね。
有益な話をしないと、新規参入者も定着しないですよ。そこで言い出しっぺの自分が『お題』を出します。
軽いお題なので、まあ、熱くならずに気楽な議論をしてみましょう。
『魏使がたどったルートは、瀬戸内ルートか?日本海ルートか?』
自分は日本海ルートだと思います。スレ主さんは瀬戸内ルートですよね?
日本海ルートだと考える根拠は以下のとおり。
○行程記事の『陸行1月』。大阪湾上陸では1月にはならない。
○日本書記の崇神紀に四道将軍が吉備を征伐しており、吉備はまだ完全服従していない。
○同じく日本書記の崇神紀に、ヤマト王権が出雲のレガリアを半強奪する話があり、出雲の服従度は高い。
○行きの行路では、日本海ルートでは海流が味方。(出雲での溺死者が福井の海岸で見つかるほど)
○2004年まで隠岐に『都万村(つまむら)』の地名が残存。
邪馬台国の本質には関係ないことなので、肩の力を抜いて議論してみませんか? 大和は交通の要所としてというより都としては、
西日本最大の盆地、日本三大檜の二つ吉野檜・紀州檜、開発が容易な湿地だろう >>311
奈良が交通の要所というのは妄想し過ぎだよな >>310でもう一つ忘れていました。
○アシナヅチの稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)は、
魏志倭人伝に見える投馬国の官『彌彌』か『彌彌那利』ではないか。 >>310
日本海ルート説だと丹後は何国になるのだろう? >>287
いろいろ探してみたが、大溝の矢板に鉄器による加工痕があると書いてあるサイトには出会えなかった。
君、アドレス付きで鉄器痕のそのサイトアップしてちょんまげ。
写真でみると、あの板は砥石で擦ったようにみえるな。 >>308訂正
奈良盆地から東へのルートのうち
上野盆地の南から抜けていくのは松阪ではなくて津 奈良も交通の要所かもしれないけど
都は地勢的に森林資源の山々に囲まれた盆地がいいんだよな >>313
耳は王族の称号として九州ではゴロゴロしていた。
九州出身の神武の息子たちも耳。 >>314
レスありがとうございます。
丹後も出雲の支配下であったのだと思います。 >>316
そんな険しい道より、米原から上陸して関ヶ原を抜ける方がいい。
今も昔もそれは変わらない。
奈良なんて回り道もいいところ。
津に出てからどうするんだよ。 >>320
そしてしの出雲を倒して倭国の代表権を掌握したのが筑紫だと。 まあ、弥生時代の倭国の中心は出雲と筑紫だよね。
耳の称号もそうだ。
畿内はお呼びでない。 景行天皇が倒した九州北部の土蜘蛛にも耳と耳垂などの名前がある。
筑紫の帥であった神夏磯姫にそそのかされて参戦した九州征伐こそ、実は邪馬台国の内戦だったんだよ。
そして神夏磯姫が持っていたのが八咫の鏡だったと書かれている。 そもそも帥というのは筑紫の耳を束ねる倭王の称号だったのかもしれない。
初代は帥升だろう。
その権威は畿内政権においても太宰の帥に継承されたとも考えられる。 >>328
歴史を改竄しているのは記紀の方なのではないか?
しかし神夏磯姫のくだりは隠しようがなく、仕方なく書いたのかもしれない。
神功皇后のくだりと同じ事情だね。
そこを飛ばすと、歴史の整合性全体が失われると編者らは考えたのだろう。 作り話ならどんな歴史でも作れる
異人地域はどうしても改竄したがる 率(帥)や耳などの人名、伊都などの地名は魏志倭人伝と国内の史書で共通であり、ほぼ九州北部に集中している。
畿内は何もない。せいぜい邪馬台と大和が似ているかもという程度。
それこそ九州男児の神武が九州から地名だけ持ち込んだのかもしれない。 『THE MOMOTAROH』
シャーク・サメザメとクロコダイル、ワニ?
ほとんど同じ存在でしょ。
うらしま、テング、サルタ・・・、河童バビィ? 少なくとも九州しか中国の目に入っていなかっただろう。
帯方郡との交易路も大和までは届いていない。
魏から見た倭国とは九州北部だけだったろうし、邪馬台国もそこにあっただろう。 一大率は従属諸国を検察してる地方官
伊都國は女王国に従属してる別の王がいる
邪馬台国にはミミさんはおらん 本当に、
どこで(誰が?)撮影した写真なんだろう、
出来すぎているし
かなり詳しい人が撮影したものでしょ >>310
>『魏使がたどったルートは、瀬戸内ルートか?日本海ルートか?』
帯方郡の使いが畿内に到達した痕跡がない。
福岡県には楽浪土器がたくさんあるのに。
しかも帯方郡使が滞在するにはいつも伊都と明記されている。
九州から畿内までの里程も記録がない。
日本海ルートは明確に出雲のものだし、瀬戸内ルートは溝杭耳や饒速日が開拓したもので、卑弥呼が出る幕はない。 あの画があるでしょ
馬がいて、手に扇、団扇?
このような物を持っている人物(同じ家?)の写真だと言っているし 畿内の供献土器を模倣している博多湾沿岸を本州と切り離して
関係ない異人地域から共立された女王にしようというのが異人の作り話 白い制服を着ているのが、
その画の人物の家の?・・・・・・・・子供のころw
4、5歳くらいだったかな〜
と言っていた >>335
大率は、地方を監視する役目の中央官僚だよ。
刺史にようだと書かれているけれど、それは地方(ここでは伊都から北の対馬海峡)を巡視する様子が刺史に似ているということ。
あと、大率は百済の官制においてもトップクラスの中央官僚。 >>341
だよってお前の作り話だろw
倭国は百済ではない お前たちの話、書き込み?
相手にされていないんだけどwいい加減に気づいているだろう
なぜだと思う?
例えば、
ブラジルに住んでいる、ブラジルの人と書いてあるけど、
実際はブラジルの人(先住、移民〜)ではない
という話と同じ >>315
「…長大な板状斧が時として横斧として用いられたことを示している。
奈良県纒向遺跡〔石野・関川1976〕の水路に使用した矢板のような土木用材の粗い切削加工には、
このような大型で重量のある横斧が活躍したであろう。」
岡村秀典「鉄製工具」金関 恕・佐原 眞編『弥生文化の研究』5 道具と技術I、雄山閣出版、1985年 複数のスレッドに対しての書き込み、レスw
元気がない〜何やらという話でもないw
お前のような真性のキチガイがいるから、
相手にしていない?しらけている、ドン引きw 『倭猿』
これが正解だと言っているんだよ、
どこの低脳なんだ 数年前の、とあるスレ
本人なんだよw
みたいな事を言ってる人がいたでしょ
いま、この書き込みをしている人物のことを言っているんじゃないの?
『松傾』・・・その写真の家の人物
うらしまん、バビィ、・・・同一の存在 あと老婆談というのがあるでしょ
家(『松傾』?)の話をしているんだよ これは他のスレにも書いた、
老婆と言っているけど『松傾』の家の嫁・・・、
だから詳しいのかな これも数年前に書いたような
妹がいるんだけど、結婚していて、子供もいるし
ということは・・・、
これからは妹の家の話(神話、伝説?)なんだろうw
漫画アニメ、ゲームなどに出てくる家の話?
みたいに思っている?
兄と弟(あと妹)、弟のほうが、うらしまん(白髪) 数年前のイルミというスレ
「>>あなた6でしょ」
みたいなレスがあったり、調べてみると漫画? >>344
引用してくれたことには感謝するが、「金属器による加工痕」はどこにあるんだよ。
しかも、そんな長大な斧を横斧として用いたとして、実際そんなに平板に加工できるかな。
槍鉋ではないのだから、そんな細かな表面削りの作業に斧は不向きだよ。
いずれにしても、「…横斧が活躍したであろう」という推測であって、しかもそのような横斧が存在したことの証拠もないとすれば、いったいその推測は「なんなんだよ」ということになるわな。
また、君も勝手読みが好きみたいだな。
わははははは。 あと、銀〜〜〜?、
そういう親戚がいたという話とか、
ほとんど同じようなコンセプト
当時住んでいた家に凄い刀が飾ってあって 『6 漫画』
詳しいことはわからないけど、
調べてみてw 『光のネットワーク』という曲を聴いてみて
人間なんだ〜と言っているし、
ストーカーがいるのかな?当時CDも持っていたし
中2の頃だったかな? 官の称号が大きく変化してるのは投馬国や邪馬台国が九州とは離れた地域にあったからだろうな >>321
東国へ行く最短距離は、宇陀→伊勢。
上野盆地は、宇陀→津、あるいは→亀山、四日市への途中にある。
この上野盆地へ行く道は、尾張へ向かう道で、そして、その先に諏訪がある。 ユニコーン『デーゲーム』という曲があるでしょ、
ベースボールの曲、当時この曲が収録されているCDも持っていたし
それと某まいく・おーの曲(MV)、
英国・・・ベースボール発祥、起源なのかな?
なぜか妹と同じ5月15日だしな・・・w 横斧は表面を削るような細かい加工用
縦斧は伐採とかの大まかな作業用
斧が細かい加工に不向きというのは縦斧のイメージだな 伊達郡(川俣町)という掲示板、読んでみた?
「蚕」(機織り)
「赤岩」が何やら〜と言っている人がいたり、
その曲の話をしているんだよ
赤い岩がゴロゴロ・・・? カブキロックス『虹の都』
ほとんど同じでしょ、
老婆は、むかしから知っていたみたいだしな・・・w >>352
何があろうと畿内に鉄器があっては困る人が
必死 >>352
>槍鉋ではないのだから、そんな細かな表面削りの作業に斧は不向きだよ。
??
>>344の引用は
「水路に使用した矢板のような『土木用材の粗い切削加工』には、
このような大型で重量のある横斧が活躍したであろう」
だぞ?
槍鉋を使った細かな表面削りが行われていない『土木用材の粗い切削加工』だから
大型で重量のある横斧が想定されているんだろうが!
論理が理解できないやつしか九州説に残っていないのが丸分かりw 『社家 』・・・ググってみた?
神主か何かの家だったのかな、
いなり(稲)?そういう話もしていたり 🍙を作って・・・、
芝居や歌舞伎〜という話とか
なぜか『サイバーパンクSPECIAL』というコミック、
読んでみないと、わからない話
川崎区の南部のほうに稲(田んぼ)を作るようなところはないし、
どういう話なんだろう 『今すぐバスに飛び乗りなさい』
このようなシーンも出てくるし >>364
斧は木を切るため専用に使われたそうじゃないか。
そうすると、横斧なんてものはまったくの想像の産物ということになるな。
考古学者さんも、考古出土物で判断せずに想像でものを書くようになっては、おしまいよとトラさんが嘆いてないかな。
君も、横斧なんてものが出土したことがあるのかないのか、試しにサイトをググッてみたまへ。 >>68
>テンプレに以下 追記します
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる <
それ、史料批判的には、
「南→東」などの嘘吐き騙しをしている大和説者のインチキ計算。
始めから確率75%のデータなどなど存在せず、3つとも全て確率は0.5%以下位であり、
3つ合わせても1.5%以下にしかならず、
逆に、九州説にとっては、
始めから75%どころか99.5%以上の確率のものも多数あり、
全部合わせれば、確率はほぼ100%近くになってしまうもの。
つまり、スレ主は、
大和説にとっては都合の悪い大多数のデータの存在をこっそり隠して、
都合の良い可能性のあるデータを3個だけピックアップして、
しかもその確率を大幅に大きくする、というインチキ計算をしていた、
という事になる。 >>72
>邪馬台国はヤマト国 現在の奈良県です <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
奈良県は、「南≠東」などに拠って×です。
>他の畿内は関係ありません<
古代においては、天子も天皇存在しておらず、
だから、「畿内」なんて文言もなかったのであるから、
この大和説男は嘘吐き騙しであり、×です。 >>76
>陳寿は、船で旅しているのにわざわざ里数を使ったうえで、一万二千里目にあたる奴国が女王国であると暗示している <
アホか?。陳寿は船で旅していなかった。旅して見聞計測記録したのは、魏使ら。
>『魏書』東夷傳における「方」が「一辺」を表すことは既に証明したので、<
「方」は、不定形のものの大きさを、「外接正方形」近似をして、その一辺での近似表記。
>陳寿が四角い国だと考えていた対海国と一大国 の距離も当然二倍しないといけないわけだ
旅程記事ではなく、細工なのだから当然だ <
海峡二国については、国内見聞計測移動を記録しており、
だから、大体、一辺長〜二辺長位の移動距離を計算しておけばよい事になる。
>つまり、邪馬台国を女王の都としたのは虚偽である可能性が高い(もちろん後世の挿入も考慮できる) <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
魏使らによる実際の見聞計測であるから、×。
>では、何故、わざわざこんな細工をしたのか?
陳寿は、晋書『陳寿傳』を読めばわかるとおり、非常に真面目でフェアな人間だった
恩人である上司の命令か忖度で倭国を誇大化せざるを得なかったが、
反面、事実も書いておきたかったからだろう・・・<
この男も、都合の悪い史料事実を否定抹殺する分裂幻覚の妄想の、
・・・・詐欺師であったんだろう。
>考古学の成果を考慮すれば、それは瀬戸内東部〜大阪奈良でしかありえない <
「南≠東」などによって、×。 何かのホンモノの家なんだろう・・・みたいな話、
気づいている人は気づいている
家は「す・・」?
のほうの読み方だと言っていたり >>77
今どき「南→東などの嘘吐き騙し」の大和説をやってる奴は、
頭がおかしいと
自然に証明されるスレ >>369
>斧は木を切るため専用に使われたそうじゃないか。
誰がそう言ったの? 父親の名前でしょ、勝義?
こういう名前だしな・・・
老婆は仏教関係の話ばかりしていたり、
何なんだろう 『仏教 勝義』w
上のほうに貼り付けた、
その写真の家、葱の華などが写っていたり >>78
>>丑寅原稿は、最初の東日流外三郡誌が出てずっと後の原稿であり、
筆跡鑑定された「6つの古文書」と称する6種類の明治写本群は、
最初の東日流外三郡誌にあったものなんだから、
始めから章子さんの清書年代とは全く違う時代のもの。<
>それが、丑寅原稿と同じ筆跡だという筆跡鑑定結果が出ているんだよ <
同じではない事は古田さんらが論証されたし、
私が見ても、丑寅原稿と明治写本は、
(私と私の父の筆跡でも同じような)ひらがなの類似があっても、
漢字も含めた全体の「左下がり」の度合い大和直線性や、
文字列の中心線の拠れ具合などが全く違い、全く別人であり、
また、喜八郎さんの「下手な跳ね字」傾向とも全く違う。
>そして、筆跡鑑定前には、丑寅原稿は自分の筆であると認めていた和田喜八郎氏が
古田氏に対して、いきなり丑寅原稿は自分ではなく娘が清書したと言い出した訳だ<
そりゃ、和田家には門外不出の遺言があったから、最初は喜八郎さんが写筆をしたんだろうが、
章子さんや証言のように、喜八郎さんの字が余りにも下手であったから章子さんが筆写を手伝ったのであり、
喜八郎さんの「藤本原稿への加筆」の筆跡や、「丑寅原稿の左上横の加筆」の筆跡も、
末吉さんや長作さんの「明治写本」群の本体の筆跡とは全く違う。
つまり、安本や偽書説側の筆跡鑑定に使われたものは、
始めから筆者の誤認の・・・・アホの鑑定であったのである。
>丑寅原稿が和田喜八郎氏の筆で、他の6検体と同じ筆跡であれば、6検体は古文書ではなく
和田喜八郎氏の著作物=偽書と確定する <
同じではないから、この大和説男らが・・・・アホ詐欺師であった、という事が確定する。 >>79
>>圜丘方丘を并せ、南北の二郊に於いて二至之祀合す、 と解せなくもない。<
>それが間違いだってのは、確定事項<
全体を見れば、「 南北の二郊に於いて二至之祀合す」の「之」は、
「圜丘方丘を并せたもの」であった、東征毛人五十五国も読める。
>だから、前方後円墳が266年以降というザラコクのデタラメ編年は
デタラメなのが確定<
晋書自体が、唐代に書かれた後代史書であるから、
「絶対的な根拠」にはならないし、確定などにもならない。 >>80
>紀伊半島を迂回する沿岸海運ルートが開拓されていなかった3世紀当時しては、
難波あたりから伊勢湾に出るには大和を経た陸上ルートしか交易路がなかった。<
いや、九州倭国らの「東征毛人五十五国」の軍にとっても、
東瀬戸内から東海へ抜ける中心的ルートは、やはり淀川〜近江ルート。
初瀬川ルートは、サブルート。 >>292
>丑寅原稿と、
>喜八郎さんの「藤本原稿への添削」の筆跡と、
>明治写本の筆跡とを、比べてみな。
https://hyenanopapa.obunko.com/ushitora_musumesan.html
https://hyenanopapa.obunko.com/makai_eno_shoutai.html
このサイトでザラコクの言う文書の筆跡が全部見られるし、比較確認できるが
すべて同じ筆跡だよ
このサイト最初にザラコクが紹介してくれたんだけどなww
喜八郎氏の「郎」の「おおざと」の書き方にはっきりした特徴があり、
それがすべての文書で共通している
章子さんの清書という証言も含め、和田喜八郎氏はウソだらけだ
まあ、九州説やザラコクとは親和性が高いんだろうね >>302
>これって数学???
思考実験だよ
単なる単純計算だが、複数の根拠が一致して同じ結論を指している=整合性のある結論を導くならば
その結論の蓋然性は高いものになるということ 仏教関係
家は戦争などにも行っていないと言っているし、
ホンモノには、わかるんじゃないの?
その前の代の親、前の代の親・・・その前の親も、
家は、そういう家(戦争?)ではないと言っているし
他の親戚のことはわからない >>306
>大阪に鉄があるのに奈良からは出ない。
>これが現実。
古墳時代でも墳丘上の埋葬主体からは鉄が出るがそれ以外のところからは出ない
この古墳以外の場所にも鉄があったのは確実だが出土していない
これが現実
古墳時代に古墳から鉄が出る時点で古墳以外の場所にも鉄があったと認めるならば、
弥生時代に河内から鉄が出る時点で大和にも鉄があったと考えるのが普通の論理だ
縄文時代から各地の特産品を長距離交易していた倭人社会で、
しかも土器様式の統一=土器生産センターの共有まで進んだ畿内地域で
河内から大和に鉄が送られないと想定するのは、ただ単に「九州説のご都合」でしかない
>纒向はどうあがいても後進地域。
>王都になんてならないよ。
纒向は新造の王都だから、王都建設前は未利用地だよ
畿内説は纒向説ではなく畿内説であり、唐古鍵を中心集落とするヤマト国を基盤に考える
弥生時代の長い期間青銅器製造センターだったヤマト国を後進地域だという、
現実からかけ離れた主張をしないとコメント一つできないところまで追い詰められているのが
九州説の現実ww >>320
>丹後も出雲の支配下であったのだと思います。
丹波は畿内との出雲を繋ぐ経路上で発展した独立王国だと思うよ
古墳時代最初期に日本海側三大古墳を作っており、古墳上の円筒埴輪も
独特の形態のものを使っている
記紀でいうところのヒコイマスの国
出雲よりは畿内の王との繋がりの方が強い地域だろう >>382
>晋書自体が、唐代に書かれた後代史書であるから、
>「絶対的な根拠」にはならないし、確定などにもならない。
それに依拠して妄想でデタラメな年代を断定して
毎日連呼してるザラコクって
ばかですか? >>321
>そんな険しい道より、米原から上陸して関ヶ原を抜ける方がいい。
それは治水の完成した現代の話
木曽三川河口域は干潟の泥濘が広く拡がる陸路でも舟でも通行困難な地域だ
東海道五十三次の時代でも熱田の宮から桑名までは海路だ
京都盆地南部の巨椋池周辺も同様
>今も昔もそれは変わらない。
昔と今は違うんだよww
>奈良なんて回り道もいいところ。
>津に出てからどうするんだよ。
むしろ食糧調達の心配もない安全な経路
津に出てから太平洋岸の沿岸航路に出るんだよ
もちろん濃尾平野にも船で行く
これが東渡海千里の経路だろう 問題が、あります。。。
奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
Aなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Bなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Cなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
という、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう、可能性は、何パーセンテージでしょうか、、、 385 名前:日本@名無史さん 2019/04/25(木) 07:52:03.34
>>385
>これって数学???
>単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら・・・<
これが思考実験であるなら、
この「独立な根拠が3つA・B・C」のあいだに何らの関係もないことが条件である。
つまり、A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。
まず最初にその証明が必要なのだが、それが、できるかな、できるかな、、、 連続読点を使用する、僕達以外の、謎の、優れた考古学者が出現して、レベルの高度な問題を発表したな、、、
392日本@名無史さん2019/04/25(木) 08:27:49.76
385 名前:日本@名無史さん 2019/04/25(木) 07:52:03.34
>>385
>これって数学???
>単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら・・・<
これが思考実験であるなら、
この「独立な根拠が3つA・B・C」のあいだに何らの関係もないことが条件である。
つまり、A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。
まず最初にその証明が必要なのだが、それが、できるかな、できるかな、、、 A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。とは、どうことを、意味するのだろうか。。。 あの当時でしょ、
日本に「朕」なんていない
ほとんど取り入れたというだけの話、
ホンモノ(の朕)がいるとするなら渡来系の人物
みたいな事を言ってる人がいたでしょ >>385
つまり根拠を三つとも否定されて
まるで完全マケの九州説のような状態が
それでも正しいという確率が
1.56%ってことよ >>83
>>しかし畿内説では史書の記述は宛にしないんだよな?
考古学的証拠という想像説以外はデタラメ扱いなんだろ?
そのくせ都合によって史書を引用したり無視したりバカじゃね?
そんな分かりやすいペテンは素人にも見抜かれてるぞw<
>考古学的遺物などの直接証拠と矛盾しない部分は認めるんだよ
根拠もなく、「魏志倭人伝に書いてあるから」と鵜呑みにするようなことはしないということ
こういうのが科学的な態度だし、正しい史料批判のあり方だ <
ダメだ。
大和説者は、
99.9%以上間違える筈がない直接的な文献記載の「南」を、
考古からは(金石文のような直接的根拠ではなく)間接的な状況証拠に過ぎない考古出土の、
「恣意的な曲解」に拠って、「東」の間違いだ、
というインチキ騙しをしている。 レベルの低い脳を持ってしまった邪馬台国畿内説の宣伝係員が、思考実験を実行できず、討論を諦め、嘘の悪口を言い放って、敗北を宣言してしまった。。。
397日本@名無史さん2019/04/25(木) 08:33:24.84
>>385
つまり根拠を三つとも否定されて
まるで完全マケの九州説のような状態が
それでも正しいという確率が
1.56%ってことよ ほとんどクロコダイル(不明)?の話なんだろう
『ビックリマン スサノオ』グーグルで検索すると
『サー・クロコダイル』というキャラが出てきたり
サーの意味を調べてみて 問題が、あります。。。
奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
Aなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Bなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Cなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
という、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう、可能性は、何パーセンテージでしょうか、、、 >>379
九州説の哀れなまでの無知ぶりが
昨夜もいかんなく発揮されたようだな A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。とは、どうことを、意味するのだろうか。。。 >>401
「何パーセンテージでしょうか、、、」
これ・・・日本人の使う日本語じゃないな クロコダイル(日本ではサメの意味?)よりも上位、高位の存在・・・
なぜか、うらしまん? A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。という文章は、もう少し何かを付け加えた方が、意味を伝えやすかったのではないのかな、、、 横槍は、加藤清正公が得意とする作戦のことだったのではないのかな、、、 >>85
>三角縁」神獣鏡は中国からは発掘出土はしていないけれど、
「画文帯」神獣鏡も、「斜縁」神獣鏡も中国で多く出土している
そして、倭国で出土している「三角縁」神獣鏡としてまとめられている銅鏡のうち
最初期の舶載鏡とされているものは実は「斜縁」神獣鏡な訳だ
卑弥呼の鏡は斜縁神獣鏡でよい 斜縁神獣鏡は中国でも出土している <
ダメだ。
神獣鏡そのものが呉國付近で盛行の鏡だし、
斜縁神獣鏡としても、洛陽で盛行した鏡ではなく、
だから「卑弥呼への銅鏡百枚」にはならず、
また、大和からは3世紀の斜縁神獣鏡は出土せず、
3世紀末以後のホケノの画文帯が最初である。 問題が、あります。。。
奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
Aなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Bなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Cなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
という、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう、可能性は、何パーセンテージでしょうか、、、 >>393
甘い紅茶を淹れて、バームクーヘンを食べながら、考えれば良いな。。。 >>91
>金属製の木器加工具の存在は、加工痕から想定できる
これを通常は鉄器による加工だと考える
前スレ>998は青銅器で加工した「かもしれない」と、けちをつけるのに精力を使っているが
青銅は残りやすく肉の薄い銅釧が残っているのに、青銅の木器加工具は出ていない
登呂遺跡でも、鉄器で木材加工を行ったと考えるのが妥当で、これを否定する理由がない
また、袋鍬の柄が多く登呂遺跡では出土しているが、青銅製の袋鍬の刃は
日本では出土していない(絶対とは言わないが) 鍬の刃に使うには青銅は軟らかすぎて向かない
当然に鉄の刃先を付けて使ったと考えられている<
ダメだ。
大和の「鉄鏃」は3世紀末以後のホケノが最初であり、
倭人伝の鉄鏃の記載に合わないから、×だ。 >>409日本@名無史さん2019/04/25(木) 08:47:27.68
>A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。という文章は、もう少し何かを付け加えた方が、意味を伝えやすかったのではないのかな、、、
もっともだ。
仮に、A=B、B=C、C=A、であれば、ABCは独立ではなく、実は同一の根拠である。
ABCが完全に独立であるためには、
完全に、A≠B、B≠C、C≠A、が成立している必要があるということである。
ただ実験現場の現実問題として、その完全に ≠ であることの証明は簡単ではない、、、 レベルの高い脳を持った、謎の人物が出現したので、スレッドのレベルが、急激に高まってきたな。。。
415日本@名無史さん2019/04/25(木) 09:02:54.69
>>409日本@名無史さん2019/04/25(木) 08:47:27.68
>A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。という文章は、もう少し何かを付け加えた方が、意味を伝えやすかったのではないのかな、、、
もっともだ。
仮に、A=B、B=C、C=A、であれば、ABCは独立ではなく、実は同一の根拠である。
ABCが完全に独立であるためには、
完全に、A≠B、B≠C、C≠A、が成立している必要があるということである。
ただ実験現場の現実問題として、その完全に ≠ であることの証明は簡単ではない、、、 奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
脳の病気なので、奥山氏は、自殺する、
貧乏なので、奥山氏は、自殺する、
独身なので、奥山氏は、自殺する、
という、「独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう可能性が高いのだが、
この3つの理由は、脳の病気で繋がっていないことの証明が難しいということなのではないのかな。。。 バームクーヘンを食べるときの紅茶は、甘くない方が良かったのでは、ないのかな。。。 邪馬台国畿内説が独立の根拠だとゴリ押ししているものは、実は、実在の大河内氏の研究分野に繋がっている可能性も、あるな。。。 レベルの低い脳を持ってしまった邪馬台国畿内説の宣伝係員が、思考実験を実行できず、討論を諦め、嘘の悪口を言い放って、敗北を宣言してしまった。。。
420日本@名無史さん2019/04/25(木) 09:24:09.28
九州説はなぜ人間として終わってしまったのだろうか その完全に ≠ であることの証明は簡単ではない、、、ことの一例を示せば、
纒向の発掘で、ゴミ捨て場からA.アワビの殻と、B.サバの骨と、C.桃の種が出てきた。
年代測定するとどれも3世紀中ごろで、卑弥呼の食事の粕である確率は50%であった、、、。
この場合、A.アワビの殻と、B.サバの骨と、C.桃の種のあいだには、
同じゴミ捨て場から出たもので、どれも食事の粕である・・・、という共通項がある。
このことから、A、B、Cは完全に独立した根拠にはならない。
このように、独立する根拠とされているもの相互間でも、独立性又は共通性を明らかにするのは簡単ではないし、
学者間で意見も分かれ、対立してしまうのでる、、、 >>98
こうやって、
「南→東」などの嘘付き騙しの上に、
さらに恥をさらし続ける大和説が哀れでならない 何も知らないで
>>422みたいなデタラメが
平気で書けるくらいに
九州説は堕落している ユニコーン『逆光』〜『デスラー』でしょ
本当は原子力ビーム関係の曲でしょ、
アニメでいうと原子力光線(ビーム) なぜか
あの『サイバーパンクspecial』
というコミックも同じようなコンセプト、
本当に、どういう事なんだろう、ロトちゃんというキャラが出てきて・・・。 >>334
>帯方郡との交易路も大和までは届いていない。
根拠なしにそんなことを言われてもねぇww
水行20+10日陸行1月の記述をごまかさないとどうにもならない九州説は
根拠のない書き込みで今日も自己満足にふける、とww
>魏から見た倭国とは九州北部だけだったろうし、邪馬台国もそこにあっただろう。
『だけだった「だろうし」』ww
こういうのを根拠なしの決めつけって言うんだよw
前半が根拠なしだから、後半の『邪馬台国もそこにあった「だろう」』も無意味w >>327
>そして神夏磯姫が持っていたのが八咫の鏡だったと書かれている。
八咫鏡が皇統のレガリアとして固有名詞かするのはもっと後世のこと
大きな鏡くらいの普通名詞として、八咫鏡が記紀に出てくるのを理解していないだろ?w
皇統と無縁の八咫鏡の例
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
神夏磯姫のもこの類 大和には消滅した纏向以後がないのではないかな。。。 >>337
>しかも帯方郡使が滞在するにはいつも伊都と明記されている。
この人いつも自信たっぷりに、間違いを書いてるよなw
郡使往來常所駐
郡使往来し常に駐する所、だぞ?
常駐と勝手に読んで、現代語で理解してるだろ?ww
常所駐で、常に足を止める所である、くらいの意味
立ち寄らない末盧國とは違って、
伊都国は生き返りで必ず立ち寄る必要があるという説明だ >>352
>引用してくれたことには感謝するが、「金属器による加工痕」はどこにあるんだよ。
金属器なしに、矢板のような板材を大量生産はできないんだよ
少しは頭を使いなよww >>144
>弥生時代の大和の大規模墳丘墓で埋葬主体が発掘できたものがないから、
鉄が見つからないというのが正解だろ<
ダメだ。
大和の大型墳丘墓は、石塚で3世紀末であり、ホケノは3世紀末以後であり、
そのホケノで初めて「鉄鏃」が沢山見つかったのであり、
更に纏向の平地部からも鉄鏃が見つかっていないだから、
大和には、3世紀前半後半の卑弥呼の頃には、鉄鏃がなかった、という事で、
大和説は×だ。 >>143
>これ「現実問題として、纒向は河内と交流が乏しく」が、事実誤認なんだよ
つ「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」
田中 元浩 日本考古学 / 12 巻 (2005) 20 号 /p. 47-73・・・<
田中は、
「畿内」なんて存在もしない文言を使っている嘘つき騙しの詐欺師だから、
そんな男の論文なんて、信頼性が全くなく、根拠にもならない。 「(寒い、寒いんだよとは言ってないけど)・・・・・・・・・あたたかい」
謎のコミックに登場するロトちゃんというキャラの台詞、
逆光という曲、聴いてみた? 『タツノオトシ号』
若返りの話をしているのかな?
戻りはしない時間・・・タイムマシーンでしょ >>433
>田中は、
>「畿内」なんて存在もしない文言を使っている嘘つき騙しの詐欺師だから、
>そんな男の論文なんて、信頼性が全くなく、根拠にもならない。
世間では理由もなく「畿内」の実在を認めないお前の信頼性がゼロなんだけどね >>369
>そうすると、横斧なんてものはまったくの想像の産物ということになるな。
>考古学者さんも、考古出土物で判断せずに想像でものを書くようになっては、おしまいよとトラさんが嘆いてないかな。
>君も、横斧なんてものが出土したことがあるのかないのか、試しにサイトをググッてみたまへ。
これだから物知らずは恥をかくww
「安城市惣作遺跡出土の刀把装具について」
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo14/1403hiha.pdf
横斧、あるだろ?ww
確認できたか?
それ以前に、登呂遺跡のところでざんざん「袋鍬」の話をしただろ?
都合が悪いからがんばって無視していたみたいだけどw
「袋鍬」と「横斧(袋状鉄斧)」は構造も基本的に同じだし、
袋鍬を知っていれば、横斧があるのはすぐに理解できるだろ?
無知丸出しだなww
おまけに無恥で、>>369はムチムチだw タツノオトシゴ+砂時計・・・?
あの謎のアイテムの事を言ってるのかな
たしか片目のタツノオトシゴだったような 片目のタツノオトシゴ+真珠+砂時計
謎のアイテムw >>380
>同じではない事は古田さんらが論証されたし、
その論証の根拠が、
「丑寅原稿は章子さんの筆だ」(喜八郎氏、疑惑の当事者の「証言」のみだが事実と断定)
「他の6検体が世に出た時点で章子さんは清書ができる年齢ではない」
「つまり丑寅原稿を書いた章子さんは物理的に他の6検体を書いたはずがない」
「つまり、丑寅原稿と他の6検体を同一の筆跡とした鑑定はデタラメ」
というもので、書体がどうのという「筆跡」に関する論証じゃないんだよww
そして、この論証のすべてが「丑寅原稿は章子さんの筆だ」という喜八郎氏の
『証言は正しい』という断定にのみ依拠している
こんなのを信じるやつは、あえて言うが、バカだけだよ 海月姫の曲?
みたいな事を言ってる人がいたような
片目をつぶされ・・・・真珠の何やら?
なんで詳しいんだろう >>144
どこ説だったところで、大和説はすべて、
「南≠東」で詰むのは確定。 『THE MOMOTAROH』
画像だけでも良いから調べてみて、
この作品でいうとシュテンドルフ(酒呑童子)の話でしょ >>443
「南≠東」しか無い九世間がもう詰んでいる
w >>392
>この「独立な根拠が3つA・B・C」のあいだに何らの関係もないことが条件である。
>つまり、A・B・C相互間の確率は完全にゼロでなくてはならない。
やっぱり>>392は、『バカ』だろう?
A・B・Cが相互に独立というのは、A・B・Cの真偽に相関がないことを意味する
「相互間の確率」という言葉には、何の意味もない
>まず最初にその証明が必要なのだが、それが、できるかな、できるかな、、、
そして、思考実験なのだから、「独立」と書いてあればそれが所与の条件であるという意味だ
「証明が必要」とか、>>392は『バカ確定』としかww >>411
>神獣鏡そのものが呉國付近で盛行の鏡だし、
これもウソww
さすがにもうザラコクのお世話も面倒になってきたな
>>61
FAQ81
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。 >>441
>そして、この論証のすべてが「丑寅原稿は章子さんの筆だ」という喜八郎氏の
>『証言は正しい』という断定にのみ依拠している
詐欺やったと疑われて鑑定を受けた本人の言い分って
ふつう「証言」って言わなくない? >>448
>詐欺やったと疑われて鑑定を受けた本人の言い分って
>ふつう「証言」って言わなくない?
それが「ふつう」なんだけれど、古田武彦氏は、この喜八郎氏の証言を真正なものとして、
生涯ずっと「東日流外三郡誌」は偽書ではないと主張し続けていたんだよ
それが、古田流の「史料批判」の実態ww
ザラコクが勝手に、「99.5%以上正しい」とか「半分×書」とか決め付けるのも
同じ流儀なんだよ >>149
>>北部九州UA期は3世紀半ば頃で、ホケノは3世紀末以後だから、<
>これまでザラコクが、「ホケノは3世紀末以後」の根拠としていた、
266年の「十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。」は
読み間違いだって、前スレではっきりしただろ?<
「ホケノは3世紀末以後」の根拠は、卑弥呼の墓が「冢」である事と、
「天円地方」思想や、モンゴルや高句麗の前方後円墳を学んだのは筑紫の那珂八幡等である事と、
大和の庄内1の石塚が3世紀末になる事と、
ホケノが、「庄内〜布留」の前方後円墳であって、冢ではなく、有棺有槨であるから、3世紀末以後だからだ。
また、「并圜丘方丘」は、そのままで「円丘と方丘とを併置する」と読める事も根拠だ。
「ホケノは3世紀末以後」の否定は、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の戯言であり、インチキ編年 『光のネットワーク』
サングラス?〜爆弾、
本当は、そういう意味でしょ、何なんだろう >>450
つまりザラコクの言うことには何も根拠が無いわけだね
ぜんぶ否定されてて反論が無いもの 確かタツノオトシ号もサングラスをかけていたような、
龍・・・日本という意味? 社会での労働の帰りに、奮発して、和牛のバラ肉を買ってきたので、筍と煮れば良いな、、、 >>457
水を少なめにして、醤油とみりんで煮れば、すき焼き風になるのではないのかな。。。 新しい先生というのは『法悟空』の事なのかな?
しんだいさく、しんだいさく・・・と言ってる人がいたでしょ?
死んだ・・・いさく?
何の話なんだろう あまり、レベルの高くない討論が、進行しているので、スレッドが寂れてしまったな。。。 大和に鉄がなかった、すら論破されたら九州説に言えることは
ザラコクのように根拠なしで「南≠東だから」って繰り返すことだけだろww >>463
矢板をどのようにして、大量に生産したという話題なのでは、ないのかな。。。 『光のネットワーク』のコメント
>みんなTMのことしか言わないけど、
>サビは同じく当時人気だった光GENJIをパロッてるんだよね。
本当は『ザ・モモタロウ』に登場するテングテングの話 矢板は、材木の生産地で製作されてから、運輸が実行されたのではないのかな。。。 纏向の矢板の、材木の生産地は、どこだったのだろうか、、、 毛人達が、筍の鉄板焼きを作製した可能性が高まってきたな。。。
469日本@名無史さん2019/04/25(木) 13:14:59.02
奈良(唐子鍵)では鉄板は残っていると
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/material/files/group/34/79734129.pdf あまり、レベルの高くない討論が、進行しているので、スレッドが寂れてしまったな。。。 唐子鍵という、遺蹟は、大物主や天皇家と関係があるのだろうか、、、 >>465
>矢板をどのようにして、大量に生産したという話題なのでは、ないのかな。。。
そのためには金属器による木材加工が必要で、一番使えるのが
釿(ちょうな)、横斧と呼ばれるもの
大和、纏向遺跡周辺でも、大量に木製の柄が出ている >>461を参照
昨日の登呂遺跡の話と合わせて、「大和に鉄がなかった」というのも
無意味な言いがかりってことで終了だな
そもそも「弥生社会に鉄がない」というのは戯言レベル >>356
投馬国の官の名称は九州の典型的な名前だな。
風土記でもよく出てくるから、投馬国は九州で間違いなさそうだ。 矢板は、材木の生産地で製作されてから、運輸が実行されたのではないのかな。。。 >>387
>弥生時代に河内から鉄が出る時点で大和にも鉄があったと考えるのが普通の論理だ
現実を見ようよ。 >>390
>むしろ食糧調達の心配もない安全な経路
>津に出てから太平洋岸の沿岸航路に出るんだよ
あれ?
テンプレではそっちは敵対していた狗奴国だったはずでは? >>430
>常所駐で、常に足を止める所である、くらいの意味
中国語の意味まで捻じ曲げないといけない畿内説ってなんなんだろうね。 >>431
>金属器なしに、矢板のような板材を大量生産はできないんだよ
>少しは頭を使いなよww
循環論法? 纏向の矢板の、材木の生産地は、どこだったのだろうか、、、 纏向の矢板の、材木の木の種類は、何だったのだろうか。。。 纏向の矢板の、材木の木の種類は、沼地に自生するような種類の物だったのだろうか。。。 >>480
>中国語の意味まで捻じ曲げないといけない畿内説ってなんなんだろうね。
では、>>480さんの考える「中国語の意味を捻じ曲げない解釈」とやらを
「具体的に披露」してくれませんかね?
おそらく一瞬で、フルボッコになること請け合いですがww
さあ、お披露目プリーズww 木の物体があって、削られたり、切られたりした部分を見ただけで、金属で削ったり、切ったりしたのか、それとも、石で削ったり、切ったりしたのか、判明するということが、真実だと証明しなければ、
纏向の矢板の、材木の生産地には、鉄が無かった可能性が99.5パーセンテージになるな、、、 邪馬台国畿内説を宣伝する係員に、元気がなくなってしまったな。。。 >>478
>現実を見ようよ。
>>478のお前がなww
古墳時代には古墳から鉄器が山ほど出る
古墳二つ分で、弥生時代全期間の北部九州の遺物数よりも多く出る
この時代の大和に「鉄がない」という人は九州説でもいない
が、この時期でも古墳の埋葬主体以外からは鉄はほぼ出ていない
古墳時代の大和の国の古墳以外の場所にあった鉄がどうなったのか?
と考えれば、弥生時代の鉄が出土しない(≠鉄がなかった)理由も分かるだろ
そして、
古墳時代には古墳から鉄器がでるが、大和の平地の遺跡からは出ない
弥生時代には河内から鉄器が出るが、大和の平地の遺跡からは出ない
というのは同じ構造なんだよ
河内と大和は、邪馬台国七万戸の範囲内で土器様式の一体化=土器生産センターの集約と供給を
行っている一つの地域なんだから 纏向の矢板の、材木の生産地には、石器時代人間達が使用した、固く鋭い石器があった可能性が、急激に高まってきたな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する係員が、最期の元気を振り絞ったのではないのかな。。
488日本@名無史さん2019/04/25(木) 13:50:34.42
>>478
>現実を見ようよ。
>>478のお前がなww
古墳時代には古墳から鉄器が山ほど出る
古墳二つ分で、弥生時代全期間の北部九州の遺物数よりも多く出る
この時代の大和に「鉄がない」という人は九州説でもいない
が、この時期でも古墳の埋葬主体以外からは鉄はほぼ出ていない
古墳時代の大和の国の古墳以外の場所にあった鉄がどうなったのか?
と考えれば、弥生時代の鉄が出土しない(≠鉄がなかった)理由も分かるだろ
そして、
古墳時代には古墳から鉄器がでるが、大和の平地の遺跡からは出ない
弥生時代には河内から鉄器が出るが、大和の平地の遺跡からは出ない
というのは同じ構造なんだよ
河内と大和は、邪馬台国七万戸の範囲内で土器様式の一体化=土器生産センターの集約と供給を
行っている一つの地域なんだから >>490
75パーというニックネームの、係員ではないのかな。。。 なぜ、古墳時代の天皇家は、人民に鉄を配らなかったのだろうか、、、 遺跡 ⇒ 遺跡
関連 ⇒ 關連
一大率⇒ いだる
パーセント⇒ パーセンテージ
あとなんかあったっけ?ww 纒向のように計画的に建設された都市、大土木工事の場合
鉄は溶けたのもあるだろうけど、やはり鉄は必要量に対して希少で入手ルートが限られていたために
管理されていたんだろう
鎌倉時代に鉄製農具が安価になったころ、近畿やその周辺部では、それまでの荘園などの内部で
農民たちがみずから自立的・自治的な惣村をつくるようになり
荘園はしだいに解体していく
鉄器など開拓に必要な希少材の入手ルートが限られているほど
ピラミッド化は進む なぜ畿内説は邪馬台国と関係ないことを声高に叫ぶのか >>474
木が腐らずに残っていて、その木を削った鉄は溶けてしまったのかょょょょょょぉ。
どっちが堅いんだ? 75パーというニックネームの、係員が、論破された怨恨を晴らすために、自殺を思いとどまり、25パーセントの、生きることを選択してしまった可能性が高いな。。。
493日本@名無史さん2019/04/25(木) 14:06:11.41
遺跡 ⇒ 遺跡
関連 ⇒ 關連
一大率⇒ いだる
パーセント⇒ パーセンテージ
あとなんかあったっけ?ww >>495
>なぜ畿内説は邪馬台国と関係ないことを声高に叫ぶのか
九州説からはそう見えるだけ
邪馬台国の卑弥呼の時代と古墳時代が一続きのものだということが、九州説は認められない
認めたらそれで終わりだということまでは、やっと理解できたようだね
そして、関係がないにだーといい続ける羽目になる訳だww 「關連」という、言葉の使用者は、僕たちではないな。。 75パーは、「關連」という、言葉の使用者に対しても、論破されたことに対する怨恨を持っている可能性が、あるな。。。 >>477
あのようにかさばる板は、切り出した原木をその麓で板に加工して、それを担いでくるよりも、
工事現場に近い場所へ切断した丸太を運んできて、そこで板にするのが普通だろう。
製材のまでの工程は、現在と同じだよ。
ただ、 >>496
>木が腐らずに残っていて、その木を削った鉄は溶けてしまったのかょょょょょょぉ。
>どっちが堅いんだ?
土に埋まった状態を考えるとき、
水分の多い状態だと、鉄は腐食が進み失われやすくなる
水分でパックされた状態だと、木材は逆に腐りにくく残りやすくなる
登呂遺跡なんかも、こうした条件に当てはまる >>497
75パーというニックネームの、係員が、論破された怨恨を晴らすために、自殺を思いとどまり、25パーセントの、生きることを選択してしまったので、論破したかいがあったね。。。 >>498
卑弥呼が女王だったという記録はあるが、祭祀や墓(古墳)との関わりについては史書にも記紀にも書いてないよな。
お前の頭が逝ってることに気付かないというのなら、とりあえず緑の救急車呼べ。 問題が、作製されました。。。
日本列島にある、A城下では、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が100個、発見されました、、、
日本列島にある、B城下では、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が0個、発見されました、、、
日本列島の鉄の武器は、魏志倭人伝時代から、現在までの間に、100個に1個しか、残りません、、
魏志倭人伝時代のA城下と魏志倭人伝時代のB城下には、鉄の武器は何個あったでしょうか。。。 >>494
北九州のように鉄が豊富に輸入されていたところでは、ごく普通に住居跡から鉄が出土しているよ。
大和などには、もともと鉄が交易の対象とされていなかったから、鉄の出土がごく少ない。
当然に、住居跡からも鉄は出土しないし、方形周溝墓からも出土しない。
要するに、3世紀後半まで大和には鉄はなかったということだな。
溶けたなどと妄想するよりも、誰かも言っているように、「現実」をみたまへ。 >>497
>25パーセントの、
「25パーセンテージ」という使い方が日本語にはないことを今頃学習したのか?ww
連続句読点が日本の一般的な学校教育を受けていない人物なのは確定 >>502
で、北部九州では、なんで鉄が出土するのかね。 75パーが、魏志倭人伝時代の討論から、完全に、脱落し、意味のない攻撃を仕掛けてきたな。。
507日本@名無史さん2019/04/25(木) 14:39:50.80
>>497
>25パーセントの、
「25パーセンテージ」という使い方が日本語にはないことを今頃学習したのか?ww
連続句読点が日本の一般的な学校教育を受けていない人物なのは確定 >>506
>北九州のように鉄が豊富に輸入されていたところでは、ごく普通に住居跡から鉄が出土しているよ。
出るところで、あった、とするのは別に構わない
>大和などには、もともと鉄が交易の対象とされていなかったから、鉄の出土がごく少ない。
出なかったところを、なかった、とするのは短絡、ということ
「あった」から「出土しない」までの間に鉄が失われる理由は多数ある
それをすべて無視するのは、論理のない、知性の足りない、基本的に情弱のやること、というだけだよ
九州説お得意の、
「その場で方角を間違えるはずがない」と「史書に書かれた方角が間違う」までの間に
多数のステップと理由があることを無視するのと同じ構造 問題が、作製されました。。。
日本列島にある、A城下では、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が100個、発見されました、、、
日本列島にある、B城下では、魏志倭人伝時代の、鉄の武器が0個、発見されました、、、
日本列島の鉄の武器は、魏志倭人伝時代から、現在までの間に、100個に1個しか、残りません、、
魏志倭人伝時代のA城下と魏志倭人伝時代のB城下には、鉄の武器は何個あったでしょうか。。。 頭の悪さが、バレてしまう、笑える意見の発表だったので、何度でも貼り付けて、笑えば良いな。。。
207日本@名無史さん2019/04/22(月) 08:05:44.34
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる
まあ、考古学的証拠からの推論では75%というようなかっちりした確率が計算されるものではないが
複数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は当然に高いものとなる
九州説は、推論過程とか論理構成とかの概念がまったく欠けている人ばかりだ
畿内説は鉄板ww 問題が、あります。。。
奥山氏という、架空の人物が、自殺しようか、どうか迷っているとします、、、
このとき、
Aなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Bなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
Cなので、75パーセンテージの確率で、奥山氏は、自殺する、
という、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論」だったとき、奥山氏が自殺してしまう、可能性は、何パーセンテージでしょうか、、、 鉄器が無かったか、あるいは沼地だったかのどちらかではないのかな。。。 >>513
僕達の頭の良い孫のメールを纏めると、、、
A。。。「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して真」は「25%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して偽」と等価である。
B。。。真の確率と偽の確率の合計が、1となる
以上は、数学の、真実である。。。
ところが、「75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して真」について、「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかないという、計算方法だと、
「25%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して偽」について、「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は、同様の計算方法では、42.18%となってしまい、
「真の確率と偽の確率の合計が、1となる」を満たさないので、
その頭の悪いスレッドの頭の悪い人物の計算方法は、完全に、間違っている。。。。
孫によれば、「これくらいは、中学生の数学じゃないか?」なので、頭の悪い邪馬台国畿内説の宣伝係員は中学を中退した人物でした。。。。 開封したバームクーヘンは、何時間、腐敗が発生しないのだろうか。。。 >>508
そもそも、板を作るのは素人では無理。
専門職人がいた。
その専門職人は、板作りのための工具は捨てない。
工事現場近くの製板場での仕事が終わったら、別の製板場へ移動した。
だから、工事現場近くで鉄は出土しない。
一方、農具などは専門職人が自分たちの製作場で作って、農地へ配布した。
それを保管した農地の倉庫跡や畑地などで鉄の鍬先など鉄の農具が出土する。
これが普通の在り方。
一方、大和では鉄を用いた農具は作られなかったので、農地などでも出土しない。
また当然、農具の生産地でも出土しない。
溶けるのなんのというようなことは、起こらなかった。
もともと利用する鉄が交易で入ってこない鉄過疎地帯が大和だったのだから、当然のことだ。
無理な理屈つける必要はないよ。
弥生時代が鉄器を利用する金属時代だったのはその通りだが、その鉄器は広い日本で用いられたところと、用いられなかったところがある。
日本全域で隈なく鉄器が用いられたわけではない。
その前提に立てば、大和で鉄が3世紀後半まで出土しないのは、なんの不思議もない。
民族博物館の論理の受け売りは、やめたまへ。 >>518
鉄器が無かったか、あるいは沼地だったかのどちらかではないのかな。。。 >>506
鉄を産する朝鮮半島から継続的におじさんが来るからね
朝鮮半島系遺物が多く倭人特有の遺物が出ない
4世紀初くらいまでを博多湾貿易と呼んでいる
金海貿易に移行したころ、VA期新相では博多湾沿岸の各遺構が激減し
同時に纒向、河内の中田遺跡群、吉備の足守川遺跡群も衰退する >>518
>その前提に立てば、大和で鉄が3世紀後半まで出土しないのは、なんの不思議もない。
見てきたような思い付きを「その前提」とか言われましてもww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
>>518の想定する前提とは、何の関係もないよね?ww
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」
さて、この二つの質問には一切答えずに逃げ回っているけれど、答えられるかな?ww
袋鍬や、釿(ちょうな)、横斧の存在は理解できたか?
木製の柄は出ているが、その刃先はどこへ行ったんだ?
かなり大量に出てるぞ?ww >>518
またまたまるで弥生時代に住んでいたかのような想像ばかり並べやがってwww
ニートノくせwww >>510
「大和などには、もともと鉄が交易の対象とされてなかったから、出土しない」
「出なかったところを、なかった、とするのは短絡、ということ」
ということだが、そもそも鉄が大和に交易で入っていたことを論証してから、そういうことを言いたまへ。
大和には、鉄は売られていなかったのだよ。
大阪〜丹後の南北軸以西は、ちゃんと鉄が流通していた。
しかし、それ以東では、鉄は3世紀前半までは流通の対象となっていなかったのだよ。
だから、大和で出土しないのさ。 >>515
75パーの意見の発表は、僕達にも、すぐに、間違っていることを見抜き、笑い、リラックスできる意見の発表だったが、
どこがおかしいのか、言葉にするのは、少し難解だったので、僕達の頭の良い、国立の学部の孫に、この頭の悪い意見を見て貰い、
そして、翌朝届いたメールで孫から、「これくらいは、中学生の数学じゃないか?」といわれたのだが、
恥ずかしくなるよりは、誇らしい思いが大きかったな。。。 開封したバームクーヘンは、何時間、腐敗が発生しないのだろうか。。。 >>518
>そもそも、板を作るのは素人では無理。
>専門職人がいた。
百姓って言葉、百姓は百の仕事をこなすから百姓なんだぞww
今でも板葺きの屋根用の板は、その場で角材から作るし、
板材を作る専門職人なんて聞いたことないよww
3世紀の職能分化に関する研究もないだろ?
あるならソースをつけて教えてww
要は思いつきの捏造ww バームクーヘンに、飽きたので、冷凍するか、生ごみとして廃棄するか、決定しなければいけなくなったな。。 >>523
>ということだが、そもそも鉄が大和に交易で入っていたことを論証してから、そういうことを言いたまへ。
河内に入っていたのは現物証拠がある
河内と大和は一体の地域で、河内が大和に入れなかったという「論証はどこにも存在しない」
言いがかりをつけても無駄だよww
さて、早く以下に答えてね
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 冷凍庫には、氷や、肉や、筍ご飯や、タコ焼きや、何か不明になった物体が格納されていたので、バームクーヘンを格納すると、一杯になってしまった。。。 解凍したバームクーヘンは、美味しいのだろうか。。。 なぜ、古墳時代の天皇家は、平場の人民に鉄を配らなかったのだろうか、、、 >>510
>「あった」から「出土しない」までの間に鉄が失われる理由は多数ある
でも見つからないのだから、根拠のない想像でしかない。
「あるはずだ」は根拠にならない。
>>528
>河内と大和は一体の地域で、
この現実を無視した仮定に頼るしかない畿内説が哀れだよ。 冷凍庫から、うどんが発見されたので、今夜は、すき焼き風うどんすきにすればよいな。。 >>523
>しかし、それ以東では、鉄は3世紀前半までは流通の対象となっていなかったのだよ。
昨日「1世紀の登呂遺跡には鉄はなかった」って言って、矛盾だらけになって
破綻して恥をかいたのをもう忘れたのか?ww
登呂遺跡は明確に「それ以東」だよな?wwwww
九州説はそうじゃなくっちゃやってられないよな!ww 「河内と大和の土は同じだけれど、大和で鉄が出ない理由は何だと思う?」
ところで、なぜ大和では河内の土器があまりでないのだと思う? >>535
東西という意見もあるが、個人的には沿岸部と内陸の違いだと思うよ。 >>522
こんだけのことすらも理解できんノータリンだな。
こういう物づくりは、弥生も今も変わらんよ。
変わっていたと考えるほうが、どうかしてる。
黒曜石の重い原石を運んで行って消費者に売り、消費者が自分で加工するか?
黒曜石の産地で加工して半製品、あるいは完成品にして運び出して、消費者に売る。
今も昔も同じよ。
お主は、商売向きじゃないわな。 >>533
>でも見つからないのだから、根拠のない想像でしかない。
>「あるはずだ」は根拠にならない。
見つからない理由を>>533が説明してくれよ
何度も何度も訊いているんだけど、逃げ回るばかりじゃないか?ww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 >>538
いくら泣き叫んでもお前の発言はお前の想像でしかないw >>539
そもそも鉄がどうのこうのというのは、鉄鏃の話だぞ。
すなわち鉄の武器が出土しているかどうかという話だ。
畿内説の出す砂鉄や赤土なんか論外なんだよ。 纒向は、どのみち柱材を運ばないとだめだからな
矢板だけじゃないから >>533
古墳から鉄器が出る事実
鍛冶址がある事実
河内の土器が出る事実
畿内説は事実を踏まえてるわけだが? >>538
>黒曜石の重い原石を運んで行って消費者に売り、消費者が自分で加工するか?
>黒曜石の産地で加工して半製品、あるいは完成品にして運び出して、消費者に売る。
また妄想をww
「運ばれてきた黒曜石の原石が、消費地のキャンプでまとめて保管されていた例がある。
箱根西麓の静岡県観音洞(かんのんぼら)B遺跡では、径60センチ前後、深さ20センチ余りの
不整形な穴のなかに10個の黒曜石原石をおさめていた。重さは平均220グラムほどで、
握り拳一つかそれよりやや小さい。この地から13キロメートル離れた箱根・畑宿の産という。
いま一つは、東京都多摩ニュータウンNo769遺跡の例である。ここでは掘りくぼめた穴はなかったが、
黒曜石原石3点が数センチ間隔で置かれ、他の一点がそこから70センチ離れた位置にあった。
径7センチほどの亜円榛で、一点に試し割りの剥離痕がのこっていた。伊豆の上多賀(かみたが)産か
鍛冶屋産ということだ。
どの原石も表面の尖った稜が磨滅しているので、革袋のようなものに包んで長距離を運ぶうちに
原石どうしがぶつかりあって角が磨滅したのだろう、と阿部祥人(よしと)は推測する。
神奈川県向原2遺跡では、拳大より大きい黒曜石原石9個をまとめて置いたところがあったという。」
黒曜石は原石で移動してるよ
大体、石器作成こそ、現地生産、生産者自身による利用だろうに!
こういう、常識無視の思いつきの暴論を延々と書くのも「九州説あるある」だw >>537
一例だけど、岡山県阿哲郡神郷町は島根県との県境近くの内陸の町だけど、鉄鋌が出土している。
この町は、松江あたりから山越えで岡山に行く幹線路上にある。
岡山へは出雲から鉄が供給されていたことはまず間違いないので、その交易の途中にある神郷町で鉄鋌が出るのは、ごく自然なことだ。
なので、鉄が出るのは、あくまで交易路と関連していると考えられる。
沿岸の海路交易だけではなく、山間を通る陸上交易も考えるのがよいと思う。 >>542
>すなわち鉄の武器が出土しているかどうかという話だ。
ホケノ山古墳だけで、鉄鏃が60個出ている
現在、公式報告書での見解では3世紀前半だよ
これが卑弥呼の時代だと、「鉄がー鉄鏃がー」という一点物の
九州説側からの反論ポイントが完全に詰んでしまうので、
ホケノ山古墳の年代を何とかごまかそうと努力するのも、
九州説の全精力を傾けてでもがんばらなければならないところになっているww >>547
ホケノは5世紀以降の墓と宣言するしかないなwww >>547
鉄鋌で鉄鏃は作れないw
畿内勢は銅鐸につづき鉄鋌で戦っていましたってか?www 流石にホケノは3世紀前半は無いだろうなぁ
あるは布留0だから >>545
君はその観音洞の原石の大きさを確認したかね。
産地の黒曜石は大きいものだっただろう。
それを持ち運びが容易なように半加工して小さくする。
それをまとめて舟で運び、海岸近くの集積場でさらに小さく加工して、それを消費者に売る。
消費者はその黒曜石の半加工後の原石を打ち欠いて、刃物にする。
途中で完成品にすれば、移動中に刃こぼれするから、半加工の塊の状態で消費者に売るのさ。
いずれにしても、黒曜石の場合、原石と表現してあっても半加工後のものだ。
神津島で採取したそのままの原石ではない。
そんなこと、ちょっと頭を働かせたら、すぐ分かること。
反論のための反論をしているから、変な解釈になる。
冷静に考えたまへ。 >>549
>鉄鋌で鉄鏃は作れないw
>畿内勢は銅鐸につづき鉄鋌で戦っていましたってか?www
製鉄と、鉄鍛冶の区別がついていない人なのかな?
鉄鋌が何のために存在していると思っているんだろう?
鉄鍛冶跡が、纏向遺跡でも出ているのは前から教えているだろ?
黒曜石のことはもう二度とこの人は触れないだろうけれど、
黒曜石で言えば、原石にあたるのが鉄鋌だ
黒曜石は原石で流通して、使う人が石器に加工する
鉄は、鉄鋌で流通して、消費地で鉄鍛冶加工する
内陸で鉄鋌が出るというのは、内陸まで流通経路があるということ
纏向が内陸だから物資が届かない、というのも戯言だってことだよ >>540
すまん、間違えた。
535に返信したものだ。 ホケノ5世紀確定かw
正常思考に一歩近づいたかw
唐の見解(7世紀)
・日本は倭国の別種である
唐に対し、遣唐使が日本(畿内政権)について説明している箇所
・日が昇る方角に位置しているので「日本」とした
・「倭」という名が雅びでないのを嫌って「日本」とした
・日本はもと小国であったが、倭国の地を併せた。
畿内説による3世紀末の説明
・畿内政権は、邪馬台国を中心とした祭祀統一による日本統一政権であった
この妄想、笑うしかないよなw >>552
>産地の黒曜石は大きいものだっただろう。
>それを持ち運びが容易なように半加工して小さくする。
こうやって、言うことをころころ変えていくのも九州説あるあるだ
そもそも産地で採取する時点で、何十キロもある大きさで採る訳ないだろ?
そんなんしたら、そもそも運び出せないよ
採取する時点で使いやすい大きさのものを採取する
そして、その原石が流通しているのが示されているんだよ
使いやすい大きさのものを採取するのを現地での加工とか
言い出すのが、その時点でバカ
ほれ、はやく答えなよ
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 >>553
だからさ
鞴の羽口等は布留0式以降の物でしょ >>553
鉄鋌は残るが鉄鏃や鉄剣は溶けてしまう地質に関する専門学者のレポートを提示せよ >>551
>流石にホケノは3世紀前半は無いだろうなぁ
>あるは布留0だから
つい先日、その件でザラコクほかの九州説(と畿内説から左側スロープ君も参加)を
バカにしたんだけれど、布留0は、年代としては庄内3式期だから、問題ないだろ >>535
登呂で鉄が使われた証拠としての刃物痕がある、というそのデータを挙げてくれ。
話はそれからだ。
わはははは。 畿内で鉄剣とか出土したことないの?
もちろん3世紀の地層から。 >>558
>鉄鋌は残るが鉄鏃や鉄剣は溶けてしまう地質に関する専門学者のレポートを提示せよ
そんなん、何も考えなくても理解できるだろ?
昨日登呂遺跡のところで、さんざん「肉の薄い銅釧が残ってるんだから」って書いただろうが!
腐食は表面から進むんだから、塊の方が腐食が進んでも残る確率が高くなるのは当たり前
より卑近な例で言えば、石鹸だって塊の方が溶けるのに時間がかかるだろ?
そんな当たり前のことじゃなくて、いい加減にこれに答えてくれないかな?
答えずに長く逃げ回る分だけ、九州説の能力の低さ、ダメさ加減、バカさ加減が強調されていくよ?ww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 >>563
お前の想像の質が悪いのは分かったから、鉄が溶けたと判断した時のレポートをそのまま記載しろよ >>556
アホちゃう。
持ち運びに苦労する大きさの黒曜石の塊は、採取現場から舟まで運ぶのに苦労するだろが。
もっと小さく欠いて、現場から舟まで運びやすいように半加工する。
適当な大きさに半加工して舟に積みこみ、それを静岡の海岸へ運んで集積する。
その塊をさらに小さく半加工して、業者が籠に詰めて消費者のところまで運んで売るわけだ。
その小さくした半加工の原石が消費者の貯蔵穴から出土したということだよ。
原石と書いてあっても、神津島の採石場の原石でないことは常識だから、学者も半加工の原石だとまでは書かん。
それを血迷った君は、採石場の原石だとはやとちりしたわけさ。 >>560
>なんで古墳時代の話になってんだ?
古墳時代が、3世紀前半から始まっていて、
卑弥呼の遣使、邪馬台国の時代が古墳時代だからだよ
弥生時代に漢委奴國王が居たのは北部九州
古墳時代に倭国の中心なのは畿内
で、邪馬台国は
弥生時代の北部九州の王権なのか 九州説
古墳時代の畿内王権なのか 畿内説
というのが、かつての九州説と畿内説の違いとなるポイント「だった」
九州説の場合、北部九州に邪馬台国があったのに、古墳時代に畿内が倭国の中心となることを説明する必要があり
1.北部九州の邪馬台国が畿内に移動した =東遷説 安本美典氏・邪馬台国の会
2.北部九州の邪馬台国は畿内と無関係に存続した地方政権 =九州王朝説 古田武彦氏・古田史学の会
という二つの説明が、有名だった
でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で九州説は死んだんだよ >>565
>原石と書いてあっても、神津島の採石場の原石でないことは常識だから
誰が神津島の黒曜石だと言った?
和田峠の黒曜石だぞ?ww
そして、
「どの原石も表面の尖った稜が磨滅しているので、革袋のようなものに包んで長距離を運ぶうちに
原石どうしがぶつかりあって角が磨滅したのだろう、と阿部祥人(よしと)は推測する。」
という状態だから、>>538の
「黒曜石の産地で加工して半製品、あるいは完成品にして運び出して、消費者に売る。 」
はどっちにしろでたらめだww
完成品にして運んだら、刃が欠けて使い物にならなくなるだけww
常識以前だぞww
逃げ回ってるね はやく答えなよ
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 冷凍冷蔵庫の整理整頓が、終わったので、ゆっくりと、邪馬台国畿内説が破綻した理由も、整理整頓すれば、良いな。。。 古墳時代の大和には、なぜ、人民に鉄が行き渡らないで、天皇家が独占していたのだろうか。。。 古墳時代の大和には、人民に鉄が行き渡らないで、天皇家が独占していたので、古墳からだけ、鉄が発見された可能性が、高まってきたな。。。 >>555
>ホケノ5世紀確定かw
>正常思考に一歩近づいたかw
九州説がどんどん狂っていく なぜ、古墳は、4世紀の後半になってからでなければ、作製されなかったのだろうか。。。 古墳は、馬の力で作製されたので、馬が倭国を通じて、日本国に輸入された、4世紀の後半になってからでなければ、作製されなかったのではないのかな。。。 >>550
諏訪大社でもカエルは生贄にされるからね
卑弥呼の鬼道の流れを推測する材料になる >>569
鉄は、毛人や土蜘蛛に悪用されないように、天皇の一派が、厳重に管理していたので、平場で紛失されることがなかったのではないのかな。。。 謎の人物たちが出現して、カエルの骨のことで笑っているのではないのかな、、、 建御名方はタケ美濃方
東海の勢力かな
ヤマトに浸入してたのか レベルの低い脳を持ってしまった邪馬台国畿内説の宣伝係員が、思考を続行できず、討論を諦め、嘘の悪口を言い放って、敗北を宣言してしまった。。。
576日本@名無史さん2019/04/25(木) 16:59:49.07
九州は終わったな 記録も無ければ理由もわからない祭祀統一政権とはいったい何説なのか。。。
「南ではなく東の間違いである」で始まった畿内説の出した結論が、最初の問いとは全く関係のない答えなのだが。。。 信号機しかないようなところは鉄がどうこう言えるような立場ではない 予測通り、僕達の友人が作製した勤務シフトに、穴が空いてしまった、、 友人の奥さんが、体が悪くなっているので、助けてあげれば、良いな。 >>580
今日の畿内説は一段とレベル低かったな
非常勤かな >>152
>本質は宗教施設であり、国家祭祀の中心だよ
卑弥呼は、共立祭祀王であり、ヒメ王の統一だからね
で、その国家祭祀の中心、祭祀王の居所を作るときに
交通の結節点である大和の地に作るのが便利だということ
纏向そのもので、交易等の経済活動をどこまでやっていたかは、
別途考えてよいとは思う <
「南≠東」などに拠って、×。 >>566
そもそも古墳時代に中央政権として畿内政権があったという事が確認されていない。
今のところ、奈良盆地は霊園だったと考える方が無難だろ。
九州王権と畿内は無関係。
だから何の証も出てこない。
そこを想像論で埋め尽くそうとしているのが畿内説。
こんなゴミみたいな考古学なんか失くせや。 >>168
>>お前も九州説の反論をチェリーピッキングしてるだけだぞw<
>こっちは一つ一つ根拠をつけて、九州説の言い分が否定される理由を説明している<
類スレ主は、私が挙げた「南≠東」などの指摘に対しては、逃げているよ。 >>171
>>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という事と矛盾するし、<
>だからその
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という」
珍説がダメなだけだろ<
何だ?、この問題に対しても、類スレ主は、
チェリーピッキング対象から外して、根拠も理由も言わずに逃げるんかい?。 >>172
>瀬戸内海方面からも、伊勢湾東海地域からも、目的地が大和・倭王の居所なんだから<
類スレ主がまた、
「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、×。 >>173
>「根拠は想像」というなら「具体的に反論」してみせたらどうだ?
ただの想像なら論破するのもたやすいだろ?ww <
「登呂に鉄器があった」というのは、類スレ主の想像だよ。 史書によるととにかく南の何処かとしか読めないのに、なぜ東が出てくるのやら
それと、飛鳥に半島式集落があり、藤原京→平城京と北上しているのを考えると、大和政権=半島系豪族としか思えないんだけど。
邪馬台国や九州政権は中国系だよね?
それは史料にまで記されている。
畿内には別系統の渡来人が住み着いていたというだけじゃないの? >>595
このように
九州説は月刊ムーしか載せてくれない時代になった >>555
>唐の見解(7世紀)
>・日本は倭国の別種である
嘘は困るよ。
《舊唐書》後晋開運2年(945年)、10世紀だ。
・《唐歷》唐柳芳撰(8世紀前半)
「《唐暦》云。此歳。日本國遣其大臣朝臣眞人貢方物。日本国者。倭国之別名也。」(釋日本紀)
・《通典》唐杜佑 唐コ宗貞元十七年(801年)
《邊防一》《倭》
「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱。武太后長安二年(702年),遣其大臣朝臣真人貢方物。」
唐の見解は別名だよ。 >>596
ムーにも載せてもらえない畿内想像論者の嫉妬www
現時点の畿内説信者も毎日新聞の元記者だけだもんなwww >>597
出た!
史書をないがしろにしながらチェリーピッキングする畿内説信者www >>595
>それと、飛鳥に半島式集落があり、藤原京→平城京と北上しているのを考えると、大和政権=半島系豪族としか思えないんだけど。
オンドルの出た観覚寺遺跡とか?
東漢でいいんじゃないの。
それが何で「大和政権=半島系豪族「」とまで飛躍するのかな。 >>598
いや、畿内説がムーに載ったらマジ困るから >>599
は?
「ないがしろ」?
後代史書は妄りに使っちゃダメって言ってるだけじゃん >>559
布留0式は3世紀後半が通説と思ってたが、誰が3世紀前半としてる? >>188
>古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、<
どなたかが何度も何度もは貼り付けられたように、九州では、中九州以北で鉄が大量に出土していた、
>「古墳の埋葬主体以外から出土しないのは どうしてだと思う? 」<
九州では、「埋葬主体以外から出土」しているから、関係がない、と思う。
おそらく、大和では、東征毛人五十五國の将軍らが亡くなって埋葬された時に、
東征に使った鉄製武器や武具を主体部に副葬したんだろう、と思う。 >>597
それは8世紀以降の話だろ
7世紀が節目だからしっかり調べる必要がある。
倭人が再び朝貢に訪れた際に「礼儀を知る国があると聞いてやって来た」と言ってるだろ。
畿内の人間にとっては初めての朝貢だったということ。
しかも礼儀知らずときたもんだ。
邪馬台国の末裔ならば「ご無沙汰しております」と言うべきところだよな。 >>544
でも魏志倭人伝にある鉄鏃は出ない。
悲しいね。 公式報告が嘘の年代だらけだなんて、この国の学者は良心を失ったのか。
神の手を行使する旨味に酔いしれているのか。 >>560
>なんで古墳時代の話になってんだ?
奈良には古墳時代以降しかろくなものがないから。 >>608
>でも魏志倭人伝にある鉄鏃は出ない。
>悲しいね。
出てるよ?
「3世紀」のホケノ山古墳ひとつで、鉄鏃が60本出てるだろ?
「ホケノ山は3世紀じゃないんだー」って叫ぶ以外には
やることがなくなった九州説、本当に惨め >>563
>腐食は表面から進むんだから、塊の方が腐食が進んでも残る確率が高くなるのは当たり前
他の地域に残っているものが奈良盆地で残らなかった理由は? 「河内と大和の土は同じだけれど、大和で鉄が出ない理由は何だと思う?」 >>566
>古墳時代が、3世紀前半から始まっていて、
>卑弥呼の遣使、邪馬台国の時代が古墳時代だからだよ
根拠のない循環論法 >>578
>沼地だったから
地下水面が高い、は言えるけれど、沼地ではないな
考古学的証拠を無視してる
https://i.imgur.com/6rXI0OP.jpg
沼地なのは小椋池周辺だ >>574
>>>550
>諏訪大社でもカエルは生贄にされるからね
>卑弥呼の鬼道の流れを推測する材料になる
畿内説の主張はひょっとしてギャグなのかと思う時があるよ。 >>612
>他の地域に残っているものが奈良盆地で残らなかった理由は?
これに答えれば自然に分かるだろ?
いつまで逃げてるんだ?ww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
「古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?」
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 時代が下った国家体制が整った時代の国府跡のほうが金属器類は釘とか
なんかのカスとかになるな >>1
>また、古代の祭祀に詳しい同志社大学の辰巳和弘元教授は、「地面をふんばって跳びはねるカエルは、古代、大地の主とされ古代中国では、
霊力のある動物とされている。そのカエルが供えられたことを示す具体的な資料で、当時の祭祀を知るうえで貴重な発見だ」と話しています。
>奈良県の無形民俗文化財で、舞や歌などを奉納する「国栖奏(くずそう)」という吉野町の伝統行事では、神前にカエルが供えられます。
なんだかますます畿内が邪馬台国から遠ざかっていくよな。
九州説では、大陸から輸入した絹やガラス宝飾品(平原で出土)で着飾った卑弥呼が、八重垣と鉄器で武装した兵に守られた宮城で、八咫の鏡など三種の神器(福岡では三種の神器が王墓に副葬される)を祭りながら、公孫氏や帯方郡を相手に華麗な外交を繰り広げていた。
畿内説では、(畿内では絹が出ないから)麻の衣を頭からかぶった粗末な身なりの卑弥呼が、周りに何もない纒向の掘っ建て小屋で(柵などがない)、桃とカエルをお供えしていた(卑弥呼がしゃぶっていたわけではないよね?)。 「1世紀の登呂遺跡に鉄があった」を否定できなかったのに、
「3世紀の大和には鉄がない」なんていくら言い張っても無駄な努力だと、
論理的思考ができれば、一瞬で理解できるんだけどね
竹内氏が雑誌ムーに原稿を書くのは一概に否定はしないけれど、
九州説がオワコンなのは確定事項 かつてあれほど古奈良湖を否定していた畿内説が、今は奈良盆地の地下水の高さにしがみつこうとしている。
浅ましいことだ。 カエルは銅鐸にも水田の春の季節を表す生物として描かれている
中国の馬王堆帛画では月の中に蟾蜍というカエルが描かれている >>567
和田峠でも、どちらも同じだよ。
君は、「産地で半加工などしてない」と、えらく胸張っているが、明治大学が和田峠で行った詳細な調査の報告を読んでないのか。
採取した原石の中には、残核や剥片が混じっていた。
明治大学は、採取現場で半加工していたと報告している。
アホちゃう。 >>193
>>(「自女王國以北其戸數道里可得略載」の道里)
陳寿が使った「道里」は、日数ではなく「里数」であった、という事になる。<
>ならばその「道里」を計算すると北緯30度の会稽より南になるのだから、<
「計其道里、當在會稽東治之東」の「道里」は、女王國への道里であり、
不彌國や女王之所都で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
「北緯30度の会稽より南」にならない。
類スレ主や大和説は全滅だな。 >>623
追加じゃ。
大和の土で鉄は溶けた、について、大和の土は特別なのかどうかの返答がないぞ。
はよ、返答、頼む。 桃の種の次はカエル?
アホだろ。
魏志倭人伝に記載されていないものばかり見つかる纒向。 >>195
「南→東」などの嘘付き騙しをしたために、
そんな思考停止に陥るしかなくなることが
大和説の八方塞がり状況を物語っている >>609
>公式報告が嘘の年代だらけだなんて、この国の学者は良心を失ったのか。
これが根拠のない思い込みだからねぇ
どうしようもないわ
ホケノ山が3世紀ではない根拠を山ほど積まないと、
その言い分は検討すらされないのに、根拠の一つもあげないからなぁ >>626
これだけ引っ張ってストライク0だもんな >>626
倭人伝に書いてあることが倭国の全てじゃないからな
学問では日本の古代の実像について研究されている
魏志倭人伝に記載されている倭人特有の卜骨が僅か(2ヶ所)しかでないのが九州 >>623
>明治大学は、採取現場で半加工していたと報告している。
>アホちゃう。
アホはお前さんだろ?
現地の人の使用分をどう考えているんだ?
現地の人は採取した黒曜石を全量よそに出荷していたとでも?ww
こういうのも、チェリーピッカー体質丸出しだよなww
それに、当初のお前さんの主張は、
「黒曜石の加工はプロがやって製品を流通させてたんだ
各地の人はそれを受け取って使うだけ(キリッ)」
だっただろ?
それに対して、こっちは「石器の加工は使う人がするのが基本」って言ってる訳だ
現地の人が使う分は、現地の人が加工すするし、その破片も出て当然 >>611
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。 大和説者はもう、鉄は溶けた説を撤回しろよ。
そもそも、溶けた説は佐原真が言って、あとで冗談だったと煙にまいたもの。
それを、君が本気で今も言い張るとはな。
佐原一派は、師匠の冗談すら真実だと信じている狂信者のようだ。
アホちゃう。 なぜ大和で「だけ」鉄が溶けて消えるの?
原子レベルで消えて痕跡もなくなるの?
ムーにでも投稿してみたら?
「畿内説はすごい」 >>625
>大和の土で鉄は溶けた、について、大和の土は特別なのかどうかの返答がないぞ。
>はよ、返答、頼む。
逃げ回ってるねぇww
はやく答えなよww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
『古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?』
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 また、石野氏はホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことも述べている。 >>633
>大和説者はもう、鉄は溶けた説を撤回しろよ。
これに答えておくれよ
逃げ回ってないでさ
そうすれば、自分で答えを見つけられるよ?ww
古墳時代に入っても、鉄が出るのは古墳の高い盛り土で地下水面から遠くなった
墳丘頂近くの埋葬主体からで、古墳時代でも平場からは鉄は出ない
『古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?』
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 畿内説は奈良盆地に鉄を埋めると鉄の原子が自然崩壊することを証明しなければならなくなったな >>638
もし証明出来たらノーベル賞間違いなしだぞw 鉄器出土数
奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5
徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0
福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753
熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254
各時代が2つあるのは(前)鉄鏃と(後)その他鉄器に分けてあります。
弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して本州は未だ石器時代 >>631
黒曜石の加工はプロがやって…云々は、ワイではない。
別のお方や。
和田峠の現場で働いていたのがどういう方々であったか、君は見てきたのか。
もう、根拠示せない妄想展示はおやめになっていただきたいもの。
大溝の矢板には金属加工の痕があると見てきたような嘘を言い、登呂遺跡の木製品も金属で加工された痕があると根拠を示せない話を展示してみたり、大和に鉄があった説を主張するための嘘を堂々と書き込むんだからなあ。
もう、君の信用は無くなったということをはやく悟りたまへ。
わはははは。 他の地域では見つかる鉄が奈良県でだけ見つからない不思議。
奈良県の地質が原子崩壊を引き起こすという根拠をプリーズw 社会での人手が不足してしまったのは、なぜだろうか、、、 もうだめダメなのが分かっていて、世間の常識や定説を片っ端から
否定しないと成立の余地すらない九州説をいまだに信じてる人って
マゾなんだろうなぁ
それか、絶対に間違っていることをあえて正しいと言い張ることで
ディベート力を鍛えているとか?
まあ、そんな殊勝な九州説はいないなww >>640
弥生後期は福岡の邪馬台国 vs 熊本の狗奴国のガチバトルが鮮明だよな 平場では溶けて消えるはずの鉄が福岡県ではたくさん見つかる理由も教えてね。 >>642
>他の地域では見つかる鉄が奈良県でだけ見つからない不思議。
そのためには、
古墳時代に入って、古墳からざくざく鉄が出土して、畿内に鉄が溢れるほど
存在している時期でも、平場の遺跡からは出土しない理由を考えればいいんだよ
『古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?』
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 うどんを解凍するのは、やめて、すき焼き風の雑炊にすれば良いな、 社会での人手が不足してしまったのは、なぜだろうか、、、 >>644
勘違いしちゃいかんな。
畿内説が定説なのは畿内説同志での話だから
↓
https://imgur.com/hLWIag7 >>200
>君は、全体的な調査ができていない。 <
君(類スレ主)は、
文献考古の全体的な調査考察が出来ていないだけではなく、
「南≠東」などの嘘付き騙しなどのように、
文献考古の都合の悪い部分を否定曲解したり、
大和説にとっては都合が良くなると思えば、その部分をチェリーピッキングして、
曲解捏造するインチキもやっている。 「ホケノ山古墳」の発掘が畿内説に有利には働かない。
その理由は、『魏志倭人伝』には「棺(かん)あれど槨(かく)なし」と記述されています。
「ホケノ山古墳」には槨があり、『魏志倭人伝』の記述と矛盾している。
畿内説支持者が古墳の築造年代を古く古く持っていこうとする風潮はいかがなものか? 畿内説が信じる「定説」とは何なのか。
新興宗教?
教祖は誰? >>652
だよね。
新しいものが出土しても古い方で編年する考古学者はあまりにも一般人をなめすぎていると思う。 ホケノ山古墳というのは、箸墓古墳の近くにある、前方後円墳だったのでは、ないのかな、、、 >>201
結局また大和説者らは、
纏向から蛙の骨発見とかでの、右翼マスコミの騒ぎ方と同じように、
どんどん世間や国民の常識からドロップアウトしていくのだな。 >>655
すぐ近くだよ。
どちらも4世紀以降の造りだよ。
3世紀だと言ってるやつの名前はしっかり覚えとけよ。 黄金週間が、近づいているが、遠くの孫達も、近くの孫達も、来訪する予定を知らせてこないので、
アルバイトを再開したのは、正解だったな、、、 前後見れば郭無しっては首長墓の話では無さそうだし
郭自体が大陸と比較するとしょぼくてそのまま埋めたようなものだしな まーそもそも九州は百歩の墓出ないから違うのだけどね >>658
友情や、魏志倭人伝時代の真実のために、闘えばよいな、、、 >>210
>この木材加工は鉄器によるとする定説を疑う理由はない <
ちょっと質問。
その定説学者は、何故、縄文時代からの黒曜石を考えないのかね?。
確か、出雲銅鐸祭祀系は隠岐の黒曜石があった筈だし、
諏訪の近所にも黒曜石の類似?の産地があった筈。 邪馬台国畿内説が、破綻したので、スレッドが、寂れてしまった。。。 >>215
>不便な土地だったら、3世紀の崇神天皇から8世紀の光仁天皇まで
ずっと奈良盆地周辺に宮都が置かれ続けたことが説明できないだろ?<
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であったのであり、
だから、「天皇」なんていなかったから、×。 >>216
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
もはや、意味のないお経を唱えるだけ
になったな 大物主の倉庫から、カエルが、発見されたので、
大物主は、カエルを食べていたことが、確定したね。 大物主は、カエルを食べていたことが、ばれ、天皇の一派から、蛇だと陰口を言われたのだな、、 >>221
>九州最大の国は福岡平野の奴国だから<
これ、×ね。
奴國は、伊都国の「東南至奴國百里」だから、日向峠西麓から早良平野部。
>それより大きな邪馬台国は九州島の外という事が確定してしまうのでどうにもならんよな<
これも×。
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國なら、海岸べりの不彌國から「南至」だから、
「福岡平野中央部〜筑紫平野部、及びその周辺丘陵地」。 黒曜石はガラス質なので、薄く鋭く割れるが、反面とても折れやすい
板の加工など、広範囲の加工にはまったく向いていない
また、そのように使われたと考えられるような実例も出土していない >>650
これは後期高齢者の読者数調査と考えてよい 桜井市の商業のためには、カエルの着ぐるみを作製して、人気を高めれば良いのではないのかな。 巻きぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみを作製し、黄金週間に、宣伝すれば良いな、、 カエルの骨とかも地道な調査研究の成果
イメージやつまみ食いだけで学界をひっくり返せるとか
本気で思い込んでる低能には想像できないんだろう まきぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみを作製し、黄金週間に、宣伝するためには、装着係員を、選抜しなければいけないので、時間が少ないな。 猿田彦大神の神使がカエル
エジプト神話ではヘケト(カエル)は水の女神、多産と復活を司る >>224
>纏向遺跡を邪馬台国の都と関連付けるなら。
そのルーツはもはや吉備とし、吉備東遷説を言わなければいけない。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×だし、
「吉備ルーツ」説は、「大和は倭国の別種の旧小国」などに拠って、×。
>纏向を超える桃の種、土師器の内面削りは吉備土器の影響、<
庄内の淵源は筑紫であるから、×。
>竪穴石槨のルーツは吉備、<
これは、ホケノの「有棺有槨」も吉備が始まりの可能性が少しあるが、
祇園山にも「竪穴式石室13個」があるから、まだ不明。
>特殊器台のルーツも吉備、 桜井に残る吉備という地名。<
当然、出雲がルーツの可能性がある。
>もはや言い逃れはできない。
卑弥呼の墓が箸墓で、纏向が邪馬台国の遺跡なら<
「南≠東」などに拠って、×。 >>667
>大物主は、カエルを食べていたことが、ばれ、天皇の一派から、蛇だと陰口を言われたのだな、、
面白い考察だ。 >>673
>カエルの骨とかも地道な調査研究の成果
邪馬台国に絡めた瞬間に胡散臭くなる。 >>227
>これは何度も書いていることだが、河内と大和は身内だから、河内の人が大和に行くときには
飯炊き甕を持っていく必要がないというだけ <
米田は「身内」だなんて、書いていなかったぞ。 >>680
「邪馬台国の人はカエルを食べた?」
というスレなんどけど。
絡めてあるよね? >>230
>古市と百舌鳥に巨大大王墓を作る頃には、間違いなく全国政権(蝦夷の地を除く)だよ <
これも×だ。
応神や仁徳であれば、倭の五王の始め頃であるが、
倭の五王は倭國王であるから、九州倭国王が列島盟主であったのであり、
大和が日本国を称して独立したのは、ようやく
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時だ。
だから、それまでは大和は、九州倭国の別種の旧小国の附庸國であったのであり、
欠史八代の中の4人が「大倭」の職名を称しているから、
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の国であったのであり、
記紀に書かれた崇神や景行や倭建命や仲哀や神功や応神や仁徳らは、
九州倭国の「東征毛人五十五國」や「西服衆夷六十六國」や「渡平海北九十五國」の、
将軍や武将として働いた人物であった、
という事になる。 >>265
>なぜなら卑弥呼(Bei mei hu) =比売后〈Bi; mai hou〉=ヒメ后=ヒメ(蹈鞴五十鈴)が住んだのは葛城なのだから。<
「南≠東」などに拠って、×。 日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。
或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」
或云:「日本舊小國、併倭國之地。」←壬申の乱
畿内説曰く
奈良を中心とした祭祀統一連合国であつた
畿内説ズレすぎwww >>274
>彼女には申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)の兄おすくにのまつりごともうすまえつきみ)・天日方奇日方がいる、
まさに【有男弟佐治國】
そして宮に出入りする「男」タギシミミがいた、まさに【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】 <
「南≠東」などに拠って、×。 僕達は、今、魏志倭人伝の翻訳を注意深く、読み返したのだが、やはり、カエルは関係がなかった、、、 まきぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみを作製し、黄金週間に、宣伝するためには、装着係員を、選抜しなければいけないが、時間が少ないので、
桜井市の他の着ぐるみの装着係員に、兼業を、要求すれば、良いのではないのかな、、、 まきぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみを作製し、黄金週間に、宣伝するためには、装着係員を、選抜しなければいけないが、時間が少ないので、
桜井市の他の着ぐるみの装着係員に、兼業を、要求し、カエル飛びの訓練を、してもらえば、良いな、 社会での人手が不足してしまったのは、なぜだろうか、、、 カエルの骨が出たから纒向が邪馬台国って、そんな馬鹿な話があるかよ。
畿内説はとことん狂っている。 社会での人手が不足してしまったのは、なぜだろうか、、、 だれもしていない主張を批判する、馬鹿の話がある
とことん狂っている >>279
>どちらにしても、鉄器に出土のない1世紀の静岡の登呂遺跡であっても、
弥生社会は鉄器を使っていたのが当然というのはよろしいな!! <
出ていなければ、「当然」にはならないよ。
「可能性がある」とか「推定」止まりだな。 >>281
>あれ、220年頃から河内の土器出てるがな。<
これ、どこの何という土器の話?。 このスレにはかつて、桃は神仙思想の祭祀のために使うものだから、桃が纒向にあったから畿内が邪馬台国だと本気で主張した御仁がおりましてなあ。
カエルも全く同じ文脈で登場しているのだけど。 ミシャグジのような古い信仰と、鏡を使った当時はモダンな最新の信仰が、
纏向で共存していたと言うのが、どうもイメージが湧かない。 まきぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみを作製し、黄金週間に、宣伝するためには、装着係員を、選抜しなければいけないが、時間が少ないので、
桜井市の他の着ぐるみの装着係員に、兼業を、要求し、カエル飛びの訓練を、してもらえば、良いな、 孫達からのメールは、深夜に、送られて来るので、明日は社会での労働が無い僕達は、眠気に負けてしまうまで、時間を潰しながら、待てば良いな、、、 桃と神仙思想と道教は関係あるけど
祭祀土坑にカエルの骨があったと発表されただけで
そんなに捻くれなくてもいいだろう
確かに青蛙神は蝦蟇仙人が従えている三本足の蟾蜍(ヒキガエル)の霊獣とされてはいるけども >>607
>7世紀が節目だからしっかり調べる必要がある。
だったら、長安二年の遣唐使が長安三年になっているような10世紀の文献から引用しなければいいんじゃね?
>倭人が再び朝貢に訪れた際に「礼儀を知る国があると聞いてやって来た」と言ってるだろ。
>畿内の人間にとっては初めての朝貢だったということ。
>しかも礼儀知らずときたもんだ。
>邪馬台国の末裔ならば「ご無沙汰しております」と言うべきところだよな。
どこからの引用かさっぱりわからんw
こんな話、九州説の本に書いてあるの?
白村江の戦いより前の遣唐使にも後の遣唐使にも参加した人(例えば粟田真人)や、
白村江の戦いより前の遣唐使で入唐し、後の遣唐使で帰国した人も何人も居る。
どうして別の国なんて思いつくのかな? 政権交代でも官僚は地位が保全されたんだろ。
百官どころか、建物や文化財も畿内に運んだそうだから。 >>696
纏向遺跡出土土器の国別・時期別割合表があるでしょ。
それみてよね。
河内の土器が現れるのは220年以降。
それ以前に河内の土器はない。 卑弥呼の鬼道は張魯や張角の系統の大陸の道教につながるものかと思っていたけど、
日本古来の縄文系の信仰体系だったのかねぇ。
諏訪大社では今でもカエルをなぶり殺して、その年の作目の出来を占う神事を
やっているからな。
それとも纏向文化人は邪馬台国とは関係ない縄文文化人の系統の信仰体系を
もっていたのかねぇ。
大物主は蛇だからな。蛇に睨まれた蛙で、カエルをなぶり殺したり食べたりは
するわな。 >>651
いやいや。
君のように都合のいい勝手解釈しないだけだよ。
学者が「横斧で削ったと考えたい」と書いてあれば、君は「矢板に金属で削った痕がある」だからなあ。
君ほど飛躍できる脳味噌があれば、ワイもしゃーわせだろうが、なんせ脳味噌が堅いもんでそーもいかんのよ。 >>712
>学者が「横斧で削ったと考えたい」と書いてあれば、君は「矢板に金属で削った痕がある」だからなあ。
>>352で「しかもそのような横斧が存在したことの証拠もないとすれば、」
>>369で「そうすると、横斧なんてものはまったくの想像の産物ということになるな。」
「君も、横斧なんてものが出土したことがあるのかないのか、試しにサイトをググッてみたまへ」
とか、ドヤっておきながら
>>437で
「これだから物知らずは恥をかくww
「安城市惣作遺跡出土の刀把装具について」
http://www.maibun.co.../kiyo14/1403hiha.pdf
横斧、あるだろ?ww
確認できたか?
それ以前に、登呂遺跡のところでざんざん「袋鍬」の話をしただろ?
都合が悪いからがんばって無視していたみたいだけどw
「袋鍬」と「横斧(袋状鉄斧)」は構造も基本的に同じだし、
袋鍬を知っていれば、横斧があるのはすぐに理解できるだろ?
無知丸出しだなww 」
っていわれて沈黙してごまかしたのはお前だろう?
>なんせ脳味噌が堅いもんでそーもいかんのよ。
脳みそが堅いんじゃなくて、もの知らずでかつ合理的な考えができない、
知的能力の劣る人だってだけだよ >>359
チョウナ(横斧)は、粗削りには適しているが、仕上げには向かない。
槍鉋が表面を整えるのに適している。
その槍鉋は、青銅製もある。
纏向の矢板の仕上げは、それじゃないのか。
大和では、とにかく3世紀前半には鉄器は出土してない。 >>364
チョウナ(横斧)で粗削りした矢板だったと、どこかで聞いてきたのか。
また、勝手解釈か。
それとも、佐原の鉄が溶けたみたいに、その学者の「矢板は粗削りだったと思いたい」を粗削りだったといつのまにか思い込んでしまったのか。
纏向は、卑弥呼の神聖な祭祀空間じゃなかったのかよ。
手抜きするわけがなかろう。
もっとも、卑弥呼の祭祀空間ではなく、連合の祭祀空間だったら、粗削りで済ましたかもな。 >>713
しらっと、登呂で袋鍬だって。
登呂遺跡で袋鍬の鍬先が出土したのかよ。
アホォ〜。
チョウナは縄文からあるそうだ。
この道具は、粗削り専門だ。
纏向遺跡の矢板に鉄のチョウナが使われた証拠があるのか。
また、「だろう」→「だった」の神解釈か。 護岸の矢板を槍鉋で仕上げるていうのも
また丁寧な仕事だなw >>719
中国式の祭祀というか後漢末新宗教の影響が出てる倭人オリジナルつーか
そういう感じ 纏向の
掘立柱建物は神社
崇神五年の疫病の流行による住民の大量死、および六年の農民の離反と立て続けに起こった国難は、
三輪山の大神の祟りであり、三輪山の大物主神を子孫の意富多々泥古(大田田根子)を神主として
三輪山の大物主神を拝祭させることで、終息し、国家安平になった >>717
鉄のチョウナも出てないな。
槍鉋で仕上げるのは、聖域での仕事だからだよ。
丁寧にやったのさ。 >>721
現 三輪山大神神社の前身と考える妥当性は75%だなww >>283
>唐古鍵の時代から、でかい銅鐸を作って配布していたのは大和と濃尾平野だぞ <
銅鐸祭祀は、(倭國の阿毎氏系ではなく)出雲系部族であった事を示し、
だから、唐子鍵も、出雲系部族の国にあった事を示し、
それを、九州倭国の「東征毛人五十五国」軍がやって来て征服し、銅鐸が無くなり、
前方後円墳などの祭祀の国に変わった、という時系列になるんだぞ。 >>721
>三輪山の大神の祟りであり
なんで祟るのだろうね。
不思議だね。
正解は崇神に頃されたから。
頃された三輪山の大神とはアタガタス命。
このアタガタス命を祀ってきたのが天理の和邇集落。
卑弥呼直結の唯一の物証・「国宝」中平記年銘鉄刀の保持者・和邇氏である。
トヨとは和邇氏の祖・トヨ津媛。
卑弥呼とはその3世代前のヒメ后である。 >>285
>>大和の庄内と筑紫の庄内との「共存」になっていないから、<
>畿内の胎土の庄内も出ているから、「大和の庄内と筑紫の庄内との「共存」になってい」るよ
残念でしたww <
畿内なんて存在もしていなかったし、
大和の庄内は、石塚の3世紀末からだし、
佐々木も、筑紫の3世紀中頃以前には「筑紫型庄内」であった、と書いていて、
筑紫の胎土で造られた事を「ついうっかりかいてしまっており、
だから、筑紫で、大和の庄内と筑紫の庄内の「共存」は、年代が50年位合わず、
同時期に「共存」していなかった事になるの。 >>286
>大市と描かれた墨書き土器が出ている 記紀だけじゃないよ<
纏向時代には、墨や硯の存在が全く見つからないから、
「墨書き土器」は、もっと後代のものだろう。
なんせ、大和は、倭国の別種の旧小国であったんだから。 >>287
>纒向大溝の護岸は矢板 鉄器での加工痕が残る <
これも年代の問題。
ホケノに(東征将軍らの使用と考えられる)鉄鏃が初めて副葬されているから、
大和の鉄使用は3世紀末以後ごろにしかならない。 >>729
>纏向時代には、墨や硯の存在が全く見つからないから、
三重の大城遺跡には2世紀前半の墨書土器がでている。
西日本全体に文字があったわけだ。 >>720
>後漢末新宗教の影響が出てる倭人オリジナル
根拠は? カエルの骨は残ったのに、鉄器は溶けてなくなったというか、、、
五畿内のとんでもガエルにあきれカエル、、、 >>288
>>円墳と方墳とが合体した墓を、南北の郊に造る、
という意味にも取れる可能性がある事は言ってあるし、<
>取れません その可能性はとっくに否定されています
>多くの史書の記述をきちんと広く読めば、
「圜丘を南郊に、方丘を北郊に、併せて作る
南郊壇が圜丘、北郊壇が方丘、そのそれぞれで夏至の祀りと冬至の祀りを行う 」
というのがきちんと読める<
「圜丘を南郊に、方丘を北郊に、併せて作る」なんて書かれていないし、
もし(唐代の)晋書がそういう意味の事を書いたとすれば、
晋書は、全く同じ事になる事を「二度書き」した、という無様な文を書いた事になり、
そんなアホな事をする筈がないし、
大体、円丘と方丘を南北の二郊の全く離れた場所にであるんだ別々に造る、
という事自体が、全くアホな行為であるんだから、
晋書の元情報では、
円丘と方丘とを「併せた」ものを、南北の二郊に(二カ所)造った、
という記載であった可能性が高い。
だから、山尾も最初は当然そう読めたのであり、
しかし、後で、その読みでは九州説の方が少し有利になる、と周りの大和説学者に指摘され、
慌てて、謝罪訂正したんだろう。 >>735
鉄器や青銅器や銅製品は鋳つぶして再利用されるし、
昔は金属類は今よりも価値があったからな。
カエルの骨なんて、肥料にしかならん。 >>714
>チョウナ(横斧)は、粗削りには適しているが、仕上げには向かない。
>槍鉋が表面を整えるのに適している。
>その槍鉋は、青銅製もある。
>纏向の矢板の仕上げは、それじゃないのか。
纒向大溝の護岸の矢板だよ?
表面仕上げが必要な部材ではない
そして大量に必要で、表面を美しく削るよりとにかく数を揃える方が優先順位が高い
さらに言えば、槍鉋で表面仕上げをするにしても、板材の形状を作るのには
槍鉋は無力だから、板材が大量に存在する時点でチョウナ(横斧)がなければ話にならない
そして、槍鉋もてつせいが弥生時代のデフォ
他所で青銅製の槍鉋の出土例があるからといっても
「纒向では青銅製の槍鉋」は『出土していない』
纒向では「鉄が出土していない」からという理由で、鉄がなかったと主張するのに
「出土していない青銅の槍鉋」を根拠にしようとするのは、これ以上ないくらいの
ご都合主義のダブルスタンダードだ
こんなデタラメ穴だらけなことを言い出すから、
「九州説にはまともな人は残っていない」&「知的能力が足りない、論理的思考ができない」
って言われるんだよ
まあ、言われるだけじゃなく、事実なんだけどさw まさしく、畿内たんぼの蛙 大海を知らず、、、
渡海して帯方郡や洛陽に到ったなどと、カエルの合唱もうるさいだけだ、、、 >>716
>しらっと、登呂で袋鍬だって。
>登呂遺跡で袋鍬の鍬先が出土したのかよ。
>アホォ〜。
登呂遺跡では、袋鍬の柄が多数出ているんだよ
袋鍬の柄は先端形状が独特だから判定を間違うようなことはない
そして袋鍬の柄は金属器の刃先があって初めて機能する
登呂遺跡では、袋鍬の柄だけで耕作していたと言い張るのかな?
「アホォ〜」は誰がどう見ても>>716だぞww
さらに言えば、土に打ち込む鍬の刃先には、青銅器は材質が軟らかで使えないから
鉄器以外は「想定できない」
登呂遺跡に鉄がなかったと主張すればするほど、主張の信頼性が失われていくぞww >>736
>「圜丘を南郊に、方丘を北郊に、併せて作る」なんて書かれていないし、
「并圜丘、方丘於南、北郊」,二至之祀合於二郊
ちゃんと書かれているだろ?ww
ザラコクが漢文が読めないだけだよ
まあ日本語でも論理的な文章は読めてないし、そもそも読まないようだけれど お湯が沸いたら、紅茶を淹れて、生ハムや、生クリームをかけたウエハースを食べれば良いな。 今の季節のイチ押しは、カエルの卵かけ玄米ご飯、、、 >>738
板あるが刃物がでないということは、その板は買ってきたということだろ。
畿内の妄想癖甚だしいな。 僕達は、昨夜、魏志倭人伝の翻訳を注意深く、読み返したのだが、やはり、カエルは関係がなかった、、、
そして、僕達は、今、日本書紀を注意深く、読み返したのだが、カエルを食べることを好む蛇は、神として、登場していることが、はっきりと、記録されていた。。。 日本国の真実の歴史に、神として、登場していることが、はっきりと、記録されていた、カエルを食べることを好む蛇とは、
カエルの卵かけ玄米ご飯を食べていた、大物主のことだったのではないのかな。。。 日本書紀という、天皇家の公式文章は、やはり、真実を改造した例え話が記録されていたのだったな。。。 >>749
では、ヤマタノオロチ退治事件は、どのような真実の例え話なのだろうか。。。 >>289
>>纒向、纒向と言い続けているけれど、唐古鍵を中心として奈良盆地は弥生中期以降、
交流の結節点としての地位を保ち続けている <
鍵古鍵は、出雲銅鐸祭祀系の部族の集落であり、
纏向は、九州倭国の東征毛人五十五國の中の阿毎氏系の一国であり、
東征に拠って、唐古鍵は消滅させられたのであるから、×。
>その大和の地で、卑弥呼の共立を機に新たに作った都が纒向なんだよ
畿内説は畿内説であって纒向説ではない <
「南≠東」などに拠って、始めから×。 >>296
>筆跡以外にも和田は真っ黒だろ<
筆跡鑑定者ら以外にも、
安本らやそれを応援した大和説者らや右翼学会や右翼マスコミや、
安部文部省らが、皇国史観宗教に狂った真っ黒な・・・・詐欺師だったの。 >>300
>弥生
高槻市 古曽部・芝谷遺跡 鉄鏃
東大阪市 鬼虎川遺跡 三角鉄鏃<
河内や淀川流域は、大和よりも先に、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らの支配下に入っていた、
という事なんだろうねえ。 神武天皇は、なぜ、奈良盆地を侵略したのだろうか。。。 仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか。。。 魏志倭人伝時代には、全く、鉄の物体がなかった纏向は、なぜ、そのあと、大物主や天皇の住所になったのだろうか。。。 魏志倭人伝時代には、全く、人民の住所がなかった纏向は、なぜ、そのあと、大物主や天皇の住所になったのだろうか。。。 3世紀には「鉄が溶けて消える」くらいの低湿地であった奈良盆地が、8世紀に都となる。
田舎だったからこそ、土地が余っていて遷都先に都合が良かったのだろう。 和田こそ詐欺師だからな
和田を支援した古田も詐欺師 >>750
出雲にちょっかいを出していた邪馬台国を九州南部から助っ人に来た神武が撃退した >>745
>板あるが刃物がでないということは、その板は買ってきたということだろ。
>畿内の妄想癖甚だしいな。
現代じゃあるまいし、部材屋やホームセンターなんてないんだよ?ww
どこで買って来るんだ?ww
チョウナの柄が出ていても、刃が出てないから認めないとか
見苦しいにもほどがあるww
その前には、横斧なんて想像の産物とまで言ってたしww 肥の河上は、なぜ、簸之川上に変換されてしまったのだろうか、、、 >>765
>肥の河上は、なぜ、簸之川上に変換されてしまったのだろうか、、、
なるほど… 柄すら出ない纒向には鉄器はなかった。
登呂よりも後進地域であった。
そういうことだろ? >>767
>柄すら出ない纒向には鉄器はなかった。
>登呂よりも後進地域であった。
登呂遺跡に鉄があるのはしぶしぶ認めるんだねww
そこまで来たら、もうちょっとだよw
纏向遺跡では農機具は出土せず、土木用が多く出るってのは見たことないのかい?
土木用具も、鉄の刃を使うんだろ? 青銅では無理ww
登呂遺跡に鉄があるのを認めるなら、大和に鉄があるのは同じ論理で
認めざるを得なくなる
まあ、弥生社会に鉄があるのは「常識」なんだがねw 現物が出てないものは無いとするなら
大型建物も日本中どこにも無くなるからな >>769
纒向で出土した道具は木製だったよ。
鉄が無かったというより、必要が無かったんだろう。 >>310
>畿内と言うのはもう確定なんだから、
九州説の人には機械的なテンプレ誘導でいいんじゃないですかね?<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるんだから、
大和説の人は、もう根本的に・・・・アホ詐欺師であり、
病院や刑務所に収容した方がいいんじゃないですかね。
>『魏使がたどったルートは、瀬戸内ルートか?日本海ルートか?』
自分は日本海ルートだと思います。スレ主さんは瀬戸内ルートですよね? <
どちらも「南≠東」などに拠って、始めから、×ね。 75パーが、のこのこ出現して、すぐに、追い詰められてしまったな、、、 遺跡も墓も列島最大規模だから
希少な鉄を鉄刃にするより
鉄器で木製土木具を大量に加工したほうが効率いいからな >>773
75パーの討論の方法がレベルが低く、頭も悪いので、魏志倭人伝時代の纏向に鉄が、全く、なかったことの宣伝になってしまったのでは、ないのかな。。。 75パーの討論の方法がレベルが低く、75パーは、頭も悪いので、登呂という纏向とは全く別の謎の遺蹟を持ち出して、鉄器があったという嘘の痕跡の捏造に失敗してしまったな。。。 >>326
>筑紫は従属諸国だな 卜骨が柳川で一ヶ所しか出ない <
魏使らは、大量のト骨を一大國で見たんだろうな。 >>769
>登呂遺跡に鉄があるのはしぶしぶ認めるんだねww
他の人はともかく、自分は登呂遺跡の鉄を否定したことはないよ。 そろそろ、まきぴょんの着ぐるみを作製し、装着係にカエル跳びの訓練を、実行させなければ、明日からの黄金週間に間に合わなくなるのではないのかな。。。 >>777
>魏使らは、大量のト骨を一大國で見たんだろうな。
それで都で滅多に見かけなかったなら
倭人伝はあんな書き方にならない
つまり邪馬台国は九州島内には存在しない >>771
>>>769
>纒向で出土した道具は木製だったよ。
>鉄が無かったというより、必要が無かったんだろう。
弥生時代の常識が通用しない後進地域が纒向。
必要はあったが、手に入れられなかったのだろう。
何をするにも鉄器は有用。
まして王都に鉄器がないなんて、ひどい話だ。
あり得ない。 古代人の骨のDNAの解析で3世紀に纒向に住んでた人は縄文系の人達だと判明してるんだよな
3世紀に現代日本人に近いDNAを持った人は北部九州地域だけでその他の地域は縄文系の人達が多く暮らしてた
現代日本人に近いDNAを持った人が日本列島全体に拡散したのは古墳時代以後なんだよな
邪馬台国畿内説と成立する余地ないでしょ。 日本出土の鉄器と倭人の卜骨の量は反比例するんだよな
北部九州限定の甕棺&鉄器は中北部ヴェトナムで盛行した 九州北部の倭国(3世紀の女王は卑弥呼)が全国支配に至ったということでよろしいな。
記紀も筑紫が神代の王都だとしている。 >>783
そして弥生時代の鉄器が一番多いのも福岡県。 >>782
鬼道のようなシャーマニズムが縄文文化にあったと思う? >>784
3世紀には現代日本人に近いDNAを持った人が北部九州地域にしかいないんだから
多分北部九州地域しか治めてないな。 >>786
鬼道のようなシャーマニズムは北部九州地域の現代日本人に近いDNAを持った人達の文化だろうな。 >>788
纒向で焼いた猪の骨が出土して、それが史書に書いてある鬼道の痕跡だ言われていたが? 3世紀より現代のほうが朝鮮系遺伝子を持った人は多かろう 北部九州に朝鮮経由で伝わった支石墓、甕棺墓制は本州には拡がらなかった 動画 サイエンスZERO 日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj
26:00〜 現代日本人の核DNA解析
当初予想された現代日本人の位置
縄文人ー岩手弥生人ーーーーーー長崎弥生人ーーー《現代日本人》ーーー福岡弥生人ー韓国人
しかし予想に反して現代日本人の位置はここだった!
縄文人ー岩手弥生人ーーーーーー長崎弥生人ーーーーーー福岡弥生人ー《現代日本人》≒韓国人
サイエンスZEROの字幕
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1545593874/447-448
ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)
篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。
小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?
篠田謙一:そういうことになると思うんです。
小島瑠璃子:え〜! 飛鳥で発掘された半島式大型住居は4世紀のものと判定されたよね。
半島人は北から浸透してきたはずなので、3世紀末の纒向あたりは半島人だらけだったんじゃないの?
そして6世紀の飛鳥から天皇の歴史が明確になっていく。
大和政権は半島人政権としか考えられない。
旧唐書に出てくる日本人も魏志の時代の倭人とはまるで様相がちがう。
自惚れの強い嘘つきといった感じだよね。 そして九州北部にいた倭人達は半島へ渡り百済となった。
つまり中国南東部から九州北部に流れ着いた中国系渡来人が倭人であり、やがて半島の一部を制したということ。 3世紀には大和に王権が誕生していたから
4世紀末に高取町に半島から渡来人が来たんだろ 神武天皇が、奈良盆地を侵略したとき、討ち取った者達とは、何者達だったのだろうか。。。 神武天皇が所属していた倭人という民族は、元々、沖縄や九州にいたので、中国南部や朝鮮半島南部にも拡大していったのではないのかな。。 そろそろ、まきぴょんの着ぐるみを作製し、装着係にカエル跳びの訓練を、実行させなければ、明日からの黄金週間に間に合わなくなるのではないのかな。。。 ヤマタノオロチ退治事件は、どのような真実の例え話なのだろうか。。。 4世紀後半は博多湾貿易から金海地域での直接貿易に移行したころで
ヤマト王権による沖ノ島祭祀が始まる
宗像にも5世紀前半からオンドル住居が見られる 鬼道とは、福岡県に見られる初期神道のことだろうね。
卜骨は別に書かれているわけだし。 大和がわざわざ沖ノ島まで来て祭祀をするわけもなく、筑紫の倭国王権によるアマテラスを祭る祭祀だろうね。
宗像大社の神威はアマテラスの神勅に由来するわけだからね。 福岡は卜骨が出てないから鬼道以前に倭人地域ではなくて従属地域だな 福岡県に成立した稲作文化や神道が倭国王権の拡大とともに列島を覆い尽くしたのだな。 沖ノ島祭祀は福岡の学者の小田富士雄らによって調査され
ヤマト王権による祭祀と結論された
沖ノ島に行ったこともない遺構を見たことも無い素人が妄想しても無駄 高天原で生産されたスイカが売っていたので、買ってしまったのでは、ないのかな。。。 >>793
弥生時代には現代日本人に近いDNAを持った人は北部九州地域にしかいなかった
現代日本人が日本列島に拡散したのは古墳時代だった!
弥生時代に日本列島で稲作を行っていたのは殆どが縄文人系の人達だった!
驚きの事実だな。 九州北部の筑紫倭国の女王卑弥呼の時代に、倭国が一気に拡大したのかな? やはり、倭国の女王、卑弥呼は、古代熊本城に埋められたのだな。。。。 >>813
九州北部で出土した弥生人の人骨には縄文人との混血が確認されたが、
鳥取で見つかった弥生人の人骨ではそれが認められなかった。
これはわりと最近のニュースだよね。
初期に渡来した中国半島系の人は九州の縄文人と混血してすでに倭人となっていた。
しかし弥生後期にそれとは別のルートで日本海沿岸に渡来した半島人は
そのまま近畿へと浸透していった可能性が高い。
その後に縄文人と混血したかどうかは畿内で出土する人骨を調べてみないと
わからないが、日本人となったのはおそらく古墳時代の事だろう。 なぜ、ブータン人は、熊本市民に似ているのに、奈良市民とは似ていないのだろうか。。。 >>339
>畿内の供献土器を模倣している博多湾沿岸を本州と切り離して
関係ない異人地域から共立された女王にしようというのが異人の作り話<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「供献土器」ではなく、上納や「市を介しての搬入土器」であったし、
博多湾沿岸を、九州倭国から切り離して、
九州倭国から別れた別種の旧小国の大和に、
共立女王がいたかのような嘘つき騙しをでっち上げようとするのが、
「南→東」などの嘘付き騙しの狂人詐欺師の作り話 >>344
>「…長大な板状斧が時として横斧として用いられたことを示している。
奈良県纒向遺跡〔石野・関川1976〕の水路に使用した矢板のような土木用材の粗い切削加工には、
このような大型で重量のある横斧が活躍したであろう。」
岡村秀典「鉄製工具」金関 恕・佐原 眞編『弥生文化の研究』5 道具と技術I、雄山閣出版、1985年<
「・・・活躍したであろう」だなんて、
そりゃ、全くの想像であって、史料事実や史料実態そのものではない、ではないか。
岡村、金関、佐原らも、やっぱり、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者らと、
同じ穴の貉だったんだろうなあ。 ネアンデルタールの生きていた時代に、ブータン人が、日本に渡来したという伝説は、真実なのだろうか。。。 ネアンデルタールの生きていた時代に、ブータンと日本の間には、海が無かった確率が、75パーセンテージあるな。。。 プレートテクトニクスとは、人類や倭人の発生に、どのような影響を与えたのだろうか。。。 ヌーナ大陸という謎の大陸と、天之瓊矛の関係性は、どのようなものなのだろうか。。。 僕達の雇用主でもある僕達の友人が作製した勤務シフトが、今日も、破綻してしまった。。。 >>816
畿内はまだ縄文時代を引きずっていた可能性がある。
それを基準にするから古墳時代が古い時代にめり込んでいく。 >>356
>官の称号が大きく変化してるのは投馬国や邪馬台国が九州とは離れた地域にあったからだろうな<
いや、邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
九州倭国内の各部族国での、それぞれの部族内の地位や役職の呼称が違っていた、
という事を示すんだろうなあ。 畿内説の認知は歪んでいる
・ 他人の心を決めつけ、心が読めると思い込んでしまう
勝手に相手の思っていることを想像し、なにを考えているかがわかると思い込んでしまう。誇大妄想狂
・誤ったレッテルを貼る
人間だもの、状況判断を誤ったり、誤解をすることはある。
また、一度張ったレッテルは絶対ではない。レッテルを守るのに必死で、真実に目を背けるのはやめよう(笑)。
・思考と真実の見分けがつかなくなる。
実際には、その人の考えは単なる考えなのだが、それが真実だと信じる。
特にそれが客観的には真実ではない、または確かなものとははっきりわからない考えの場合は、
それに固執するのはやめたほうがいい。そうしないと、間違ったレッテルを貼ることにつながる。
特に自分の頭の中だけに存在するものを真実化しようとしているときはそうだ。
・拡大解釈と卑屈な解釈 >>363
>何があろうと畿内に鉄器があっては困る人が 必死<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しをし、
「南≠東」などでも、ぐーのねも出ず、
何があろうと大和に鉄器が無垢手は困る人が
必死 >>829
学術研究の成果を拒絶する九州説の自己紹介 >>370に追記
>>>68
>テンプレに以下 追記します
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指しているなら、
「その結論が間違っている確率=3つの根拠がすべて間違っている確率」は1.56%しかない
つまりその結論が妥当である確率は、98.4%になる <
これをそのまま受け止めれば、
これまで「類スレ主」と呼んでいた男は、「スレ主」自身であった、
という事を白状した事になる。 すなわち畿内説は、縄文系の土器を弥生式土器の一種と解釈しているということか。
弥生時代まで使用され続けた縄文系の土器というのなら、全国どこで見つかっても不思議ではないな。
九州の弥生邪馬台国時代と畿内の超縄文大和時代が並行していたのかもしれないね。 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 >>835
妄想度合いでいくと、畿内説の足元にも及ばんなw
争いを好まない縄文人が畿内の米を各地に供給していたと思う方が無難かもなwww
あるいは縄文式土器(改)に米を詰めて九州に献上していたのかwww >>836
それだから畿内説による編年を信じると他の遺跡の年代が狂うわけだね。 篠田謙一の研究では
青谷上寺地の人骨は母系のmtDNAが渡来系
父系のY染色体は縄文人系の配列 誰彼構わず疑心暗鬼にキウス呼ばわりするのはいけないよ >>842
それ32人中1人だけ。
あとの31人は渡来人。
毎日新聞読んでるとバカになるよ。 >>826
邪馬台国畿内説だと畿内の縄文人が北部九州地域の弥生人を支配してたってことになるね。 >>384
>https://hyenanopapa.obunko.com/ushitora_musumesan.html
https://hyenanopapa.obunko.com/makai_eno_shoutai.html
このサイトでザラコクの言う文書の筆跡が全部見られるし、比較確認できるが
すべて同じ筆跡だよ<
全てYahooでハイエナらと議論した事ばかりだな。
写本や筆写や清書で書き写しをした時には、
分かり難かったら、原本の文字の形を忠実に踏襲して似せておくモノ。
だから、明治写本の末吉さんや長作さんの 文字型と類似した文字が書かれて当たり前。
だから、筆跡鑑定では、
書き方や揃い方や中心線の狂い方や、角度の揃い方や、
線や点の始めや終わりでの撥ね方や抑え方などのような、
類似していない文字に関して、鑑定しなければならないの。
そして、そのハイエナのサイトでは、そんな事を全くしていないから、
×。 >>836
ありがとう
纏向遺跡を過大評価するのは桜井市他だけだね 知ってると思うけど、桜井市教育委員会というのは特殊な組織でさ、市政への影響力も大きい。
いわゆるB落特権乱用組織。 >>831
>学術研究の成果を拒絶する九州説の自己紹介 <
学術研究の成果とその後の妄想とは違う
纏向を卑弥呼の王都と断定した学者名を挙げるべき >>844
男性の骨5点中4点から、父系遺伝のY染色体の塩基配列データを得た。
ハプログループ(配列が似た遺伝的に近いグループ)の分類では、
3点が縄文系のハプログループだった。
母系遺伝のミトコンドリアDNAを解析した昨年11月の中間報告では、
全32個体を調べたうち、大部分が渡来系のハプログループ、
1個体だけが縄文系で、渡来系が主体だった。
https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/life/news/190312/lif19031208160003-s1.html
mtDNAは16500、核DNAは約30億
mtDNAの塩基置換は通常のDNAと比べると5〜10倍早い それにしても、おかしな話ばかり
『福島 民家園』
いまの福島県でしょ?
阿部という家も保存されているし、
家は、その周辺の話をしているw >>387
>古墳時代でも墳丘上の埋葬主体からは鉄が出るがそれ以外のところからは出ない
この古墳以外の場所にも鉄があったのは確実だが出土していない これが現実<
北部九州でも河内付近でも大和盆地にも、墳丘以外の場所は幾らでもあり、
その墳丘以外の場所でも、北部九州や河内では鉄鏃や鉄が一杯出土しているのに、
大和からは、墳丘以外の場所では鉄が全くのように出土していない。
3世紀末以後のホケノの鉄鏃だけ。
これが現実。
つまり、大和では、鉄は墳丘に埋葬された「九州倭国の東征将軍」らが、
征服に使ったんだろう、という事になる。 家と老婆が結婚するときの話
何かの家(家のことw)の人だよ
と言われたとか
何なんだろう 老婆の旧姓はワタナベというんだけど
普通(よくわからないけど)の家の人?
という意味なのかな
どういう話なんだろう >>852
奈良県の古墳までドロボウしたがる
九州説の意地汚さに
脱帽です 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>855
奈良の古墳って?
まるで奈良県民専用墓地のようにw
西日本の共同墓地だろ?
箸墓古墳は吉備のもんだろ?w >>847
そういうニセ情報を流すくらいしか
九州説はに打つ手がない
あわれな人々だ >>857
それ、>>852が反論になってないことへの揶揄だから 古墳に掃除小屋作ろうとしてるやつがいたら気をつけたほうがいいな 鉄がどうのこうのという話なら、奈良は鉄が溶ける土地柄だという事の証明が出ない限り、不毛な論争だ。
畿内に鉄は無かったという結論は変わらない。 畿内に鉄が無かったと言ってる学者がいないからどうでもいいことだけどな >>864
あるだろ
鍛冶屋の炉があって鉄器が出ない >>388
>丹波は畿内との出雲を繋ぐ経路上で発展した独立王国だと思うよ
古墳時代最初期に日本海側三大古墳を作っており、古墳上の円筒埴輪も
独特の形態のものを使っている
記紀でいうところのヒコイマスの国
出雲よりは畿内の王との繋がりの方が強い地域だろう<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。 炉は作ったが鉄がなかったので猪を焼いて食べたのかな・・・ >>390
>津に出てから太平洋岸の沿岸航路に出るんだよ もちろん濃尾平野にも船で行く
これが東渡海千里の経路だろう <
女王國はほぼ九州であるから、×。 >>397
つまり根拠を全て否定されて
まるで完全マケの大和説のような状態が
それでも正しいという確率が
1.56%ってことよ 見つかっていないものを根拠にしようとする畿内説。
少なくとも、鉄が大和にあったとしても、量的に極めて少なかったのだろう。
日常的に使うレベルではなかったはず。
兵は鉄鏃を使うという記述は、常用品としていたことが前提だ。
だから魏志倭人伝の邪馬台国の記事は大和のことではない。 >>402
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、
哀れなまでの・・・・アホ詐欺師の無知ぶりが
昨夜もいかんなく発揮されたようだな >>427
「南→東」などの嘘付き騙しなどの大和説は、
なぜ人間として終わってしまったのだろうか >>424
何も知らないで
「南→東」みたいな史料事実の否定曲解のウソ付き騙しのデタラメが
平気で書けるくらいに
大和説は堕落している >>869
東千余里を伊勢から東の海路とすれば、千里で千葉県房総半島を超えて太平洋へ出てしまうんだがなあ。
松阪と対岸の三河は同盟組んで伊勢湾の水運を牛耳っていたようだが、それはまた別の話。
東海航路の出発地の伊勢へ行くには、宇陀から真東へ進む街道があったよ。
そして、その宇陀からの道が途中で北へ反れる街道が、松阪行きだ。 未だ日本列島に現代日本人が広がる前の時代だから畿内に邪馬台国は無いよな。 昔、無敵を誇った学閥の団結締め付け力も、
今では、インターネットの5ちゃん力でもろくも崩れ去りつつあるのではないかな、、、 九州北部だけが倭国だということが明確になった。
卑弥呼がどこにいたのかも明白だ。 >>880
現代韓国人と近畿人はDNAレベルで同一人種だと確認されている。
都道府県別でダントツだったな。
ただ、現代の韓国人≠古代半島人=倭人なのも確かだ。
つまり近畿地区には弥生時代以降も延々と渡来人の流入が続いていたということだ。 その後期渡来人である新半島人が、大和王権を構築したんだよな。
となると謎解きが楽になる。 まくろす・・・その他、
ほとんど創価(不明)関係なのかな?
『創価 早瀬』
このような人物がいたり 韓国はその後北方の民族が南下して現代の韓国人の遺伝子になってるんだから
弥生中期ろこは朝鮮半島の韓濊と北部九州弥生人の遺伝子はほとんどかわらなかったんじゃね >>838
>それだから畿内説による編年を信じると他の遺跡の年代が狂うわけだね。
いや、昔の編年の年代が狂っていたんだよ
九州と畿内で同じ様式の土器の編年が50年異なることになっていたんだからww
それが1980年ごろから修正されて、現在の編年に収まってきたというところ
他の地域の遺跡の編年でおかしくなっているところが「もし仮に」あるとしたら、
古い編年の時代の数字の修正が「まだ成されていない」だけだろう
古墳の編年なんかは、実際にそれが割りに多くある
古い時代に発掘調査報告書が作られて、それっきりその報告書の数字が使われ続けているケース
専門の研究者が少ない、または居ない地域のものだと、古い数字を修正する人が居ないからね >>428
>日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。 是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係<
「紀小弓」の「紀氏」は、
九州の東海姫氏國の倭国王家の高良大社の「姫氏」一族であり、
高良大社の神職は三種の神器をお宝にしており、
神夏磯姫と同じように、八咫鏡をお宝にしていた可能性があり、
大和側はそれを知らなかったか?、隠蔽していた、という可能性がある。 >>846
自分で、字体が同じだって事実上認めてるジャンww
バカなのか? バカなんだな?
ごめん、ザラコクはバカだったわ! 確認するまでもなかったww
自体を似せて書くなんて、事実上できないんだよ
一文字二文字ならともかく、文書一つ丸まる書記写すような場合には
どうしても慣れてきたころ、疲れてきたころには、自分の字体になってしまう
しかし、問題となっている「古文書ww」6検体と、丑寅原稿はすべて一貫して
同じ書体で書かれており、それが同じ筆跡だという鑑定結果が出ている
東日流外三郡誌が偽書ではないと主張したら、その瞬間にその主張をする人は
まともな人間扱いされないくらいには、偽書であることは確定事項の常識だww 纏向遺跡の大溝矢板は、丸太を縦割りにして、石器の刃先を付けたチョウナで粗削りし、青銅の槍鉋で表面削りしたか、あるいは砥石で擦り削ったのだろう。
鉄のチョウナが大和で出土していない以上、そう考えるのが合理的だ。
とにかく、大和で3世紀半ばまで鉄器は出土しないんだよ。
後半には、いやというほど出るようになるがな。
卑弥呼の時代には、大和は鉄の過疎地帯だったということ。
誰かも言っていたが、鉄を保有しない大和が邪馬台国だという主張は魏志倭人伝の記述に反する。
大和説者は、はよ邪馬台国=大和の看板降ろせよな。 >>858
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>864
>鉄がどうのこうのという話なら、奈良は鉄が溶ける土地柄だという事の証明が出ない限り、不毛な論争だ。
>畿内に鉄は無かったという結論は変わらない。
早くこれに答えてね!!
古墳時代に入って、古墳からざくざく鉄が出土して、畿内に鉄が溢れるほど
存在している時期でも、平場の遺跡からは出土しない理由を考えればいいんだよ
『古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?』
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 >>882
弥生中期の北部九州弥生人と近い現代日本人というのは
その近畿人も含めた日本人だから 東日本の大名の中には領国に穢多に相当する生業をする者がおらず、
軍需生産のために西国から穢多に従事する者を呼び寄せ、
領国に定住させ皮革生産に当たらせた例もみられる。 Wikipedia >>871
>見つかっていないものを根拠にしようとする畿内説。
>少なくとも、鉄が大和にあったとしても、量的に極めて少なかったのだろう。
3世紀ではなく、5世紀でも平場からはまともに鉄は出ていないんですが?
どうしてでしょうね?
5世紀に鉄が畿内にあるのは当然 古墳から大量に鉄が出ているから
3世紀にも畿内に鉄があるのは当然
ただ、古墳の埋葬主体にあたる場所で発掘できた場所が「1ヶ所もない」から出土量が少ない
早くこれに答えてね!!
古墳時代に入って、古墳からざくざく鉄が出土して、畿内に鉄が溢れるほど
存在している時期でも、平場の遺跡からは出土しない理由を考えればいいんだよ
『古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?』
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 >>877
>東千余里を伊勢から東の海路とすれば、千里で千葉県房総半島を超えて太平洋へ出てしまうんだがなあ。
渡海千余里は、実測値じゃなくて、一日で漕ぎ渡れる距離だって教えただろ?
「千余里」は、遠い距離を示す渡海の決まり文句というだけ
千里の名馬とか白髪三千丈とかの「千」 >>888
>「紀小弓」の「紀氏」は、
>九州の東海姫氏國の倭国王家の高良大社の「姫氏」一族であり、
「九州の東海姫氏國」wwwwwwwwwwwwwww
倭の五王の名前がそのまま書いてある「姫氏・松野連系図」を偽書じゃないと
言っちゃうんだから、すごいよなww
竹内氏に勝ってるわww >>890
>後半には、いやというほど出るようになるがな。
そのいやというほど、「古墳から鉄が出る」時代でも、平場の遺跡からは出ないんですけど?
早くこれに答えてね!!
古墳時代に入って、古墳からざくざく鉄が出土して、畿内に鉄が溢れるほど
存在している時期でも、平場の遺跡からは出土しない理由を考えればいいんだよ
『古墳と平場の土は同じだけれど、平場で鉄が出ない理由は何だと思う?』
「古墳時代の大和に鉄が大量にあるのは確実だが、古墳の埋葬主体以外から出土しないのは
どうしてだと思う? 」 横斧すら知らなかった低能がデカい顔してるスレはここですか?w 返答がことごとく想像論でしかない畿内説www
その才能を他に使えよバカwww >>896←こいつの妄想すげえなwww
教えただろ?ってwww
お前の脳内論なんか知るかバカwww >>887
>九州と畿内で同じ様式の土器の編年が50年異なることになっていたんだからww
畿内が後進地域だとわかれば不思議ではない。
>古い時代に発掘調査報告書が作られて、それっきりその報告書の数字が使われ続けているケース
平原遺跡の報告書のことかな?
平原遺跡は副葬品からは3世紀中頃だよね。 >>895
>古墳時代に入って、古墳からざくざく鉄が出土して、畿内に鉄が溢れるほど
>存在している時期でも、平場の遺跡からは出土しない理由を考えればいいんだよ
九州からやってきた支配者層が独占していたからだろ。 >>896
>渡海千余里は、実測値じゃなくて、一日で漕ぎ渡れる距離だって教えただろ?
だから対馬海峡は渡海3回で三千里。
帯方郡から九州北岸までは水行10日で一万里。
邪馬台国は帯方郡から一万二千里の九州北部だね! ふと
纒向学研究センター=樫考の天下り先
桜井市埋蔵文化財センター=桜井市教委の天下り先
ひとつでいいじゃん
税金の無駄遣いじゃん >>901
>返答がことごとく想像論でしかない畿内説www
>その才能を他に使えよバカwww
論理的思考のできない人は、原因と結果、根拠と結論の因果関係すら分からないんだよな
気の毒なことだ
実社会でもつらいことばかりなんだろうな
ネット弁慶が、匿名なら偉そうにできると思って一生懸命書きこんでも
能力不足で憐れみを買うだけで、余計惨めになる結末にしかならない
そこまで知的能力が足りないと、本当に何をするにもハードモードだろうね
がんばって生きていってね! >>907
お前がそれを公約に掲げて市長選に出馬したら?
被選挙権があるなら、の話だがな >>902
>教えただろ?ってwww
>お前の脳内論なんか知るかバカwww
なんだ、新参者なのかww
今どきめずらしいなw
魏志倭人伝の距離記述は
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたもの
帯方郡から萬二千里というのは、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を顕彰するために
公孫氏討伐で可能になった東夷の朝貢を、より遠く見せるために淮南子の東方之極までの
数字を盛ってきたもの
渡海千里は、渡海千余里は、実測値じゃなくて、一日で漕ぎ渡れる距離
「千余里」は、遠い距離を示す渡海の決まり文句というだけ
千里の名馬とか白髪三千丈とかの「千」
九州上陸後の陸行距離は、近ければ百里、少し遠ければ五百里という適当な数字
渡海と水行は別の概念
これくらいは勉強しておいてね!ww
ここで教えたからな! >>1
次スレ
75%の数式テンプレに要れてねww >>908
結果ありきで原因や根拠を必死で見繕って、それでも説明が付かず作文まで追加する始末www
お前社会に属してるつもりかもしれんが、それ勘違いwww
アホは基本的に放置するのが社会の厳しさだ。
お前に本音で指摘してくれる優しいやつは俺しかいないんだぞwww 急激に、人手の不足が、進行しているのでは、ないのかな。。。 >>912
>白髪三千丈
それ俺が九州説よ擁護するときに使ってたんだよ。
忘れたのか?www
つまり、水行○日も7万戸も家100歩も盛ってるということだwww ワロタ
畿内説の言い訳が九州説の確度を飛躍的にアップさせてしまったな 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。 >>922
バームクーヘンを解凍すれば、良いのではないのかな。 倭の南極界は倭奴国、女王国(邪馬台国)、奴国のいずれか。
金印を貰った王のいた国。
魏志で二度目に出てくる奴国は狗奴国から女王国を守るための北の奴国の分家かもしれない。
いずれにせよ、福岡で金印が出た時点で畿内説は終了だよ。
今さらだけどテンプレが長過ぎ。 インターネットの情報では、バームクーヘンは、電子の力で、解凍しない方が良いのだな、、、 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
次回のスレッドでは、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。
次回のスレッド
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554161482/l50 >>912
>なんだ、新参者なのかww
九州作り話爺は飯食ったら忘れるから まきぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみを作製し、黄金週間に、宣伝するためには、装着係員を、選抜しなければいけないが、時間が少ないので、
桜井市の他の着ぐるみの装着係員に、兼業を、要求すれば、良いのではないのかな、、、 まきぴょん、、、という、ニックネームのカエルの着ぐるみとは、別の、他の着ぐるみとは、何だろうか、、、 コーヒーを淹れて、生クリームを浮かべると、ウインナーになるな、、 邪馬台国畿内説が、論破され、75パー等の、宣伝係員達が、スレッドから消失してしまったので、面白くなくなってしまった、、、 コーヒーを淹れて、生クリームを浮かべると、ウインナーになるな、、という駄洒落は、受けが良くないのでは、ないのかな、 >>918
卑弥呼の塚が百歩というのも盛っていたんだな。 数値は当てにならないと言いつつ箸墓は100歩に合致するとかw
あからさまなご都合主義w 考古発見死体を検査する係員は、どのような学部の者なのだろうか、、、 考古発見死体を検査する係員は、死体が、どの民族に所属したか、検査できるのでは、ないのかな、、 そりゃ塚だから、とりあえず土は盛っただろうな
全体寸法の方は、孔明を見習って径百余歩の自然丘陵を以て墳に見立てたってことで、
薄葬令にもかなうしね、、、 社会での人手が不足してしまったのは、なぜだろうか、、、 女王国まで1万2千里は、大盛に盛ったとしても、
その内訳の7千里+3千里+2千里の比率は、まあまあいいセンだったんじゃないのかな、、、 >>918
>それ俺が九州説よ擁護するときに使ってたんだよ。
九州説を擁護する時点で、君は頭が悪い
それがどうしたって?ww >>915
論理的思考のできない人は、原因と結果、根拠と結論の因果関係すら分からないんだよな
気の毒なことだ
実社会でもつらいことばかりなんだろうな
ネット弁慶が、匿名なら偉そうにできると思って一生懸命書きこんでも
能力不足で憐れみを買うだけで、余計惨めになる結末にしかならない
そこまで知的能力が足りないと、本当に何をするにもハードモードだろうね
がんばって生きていってね! >>921
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
縮尺なんてないんだよ
現実の地理とは無関係な数字だから >>921
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
縮尺なんてないんだよ
現実の地理とは無関係な数字だから >>938
>数値は当てにならないと言いつつ箸墓は100歩に合致するとかw
いや? 盛っていたで構わないよ?
短歩なんてのはないってだけww
盛るも盛らないも、平原1号墓の長辺で12メートル
魏晋歩=約 1.45 mで考えて、10歩に満たない
盛ったところで、「大作冢」と書かれることはないww >>896
アホちやう。
瀬戸内海、一日で漕いでみろよ。
バ〜カ。 僕達は、今、玉露に生クリームを浮かべたのだが、まあまあいいセンだったんじゃないのかな、、、 >>896
伊勢から房総半島まで1日で行けるのに、博多から出雲まで20日もかかるのか。。。
行き当たりばったりで取り繕うなよなw 熊本城に埋まってしまった、卑弥呼の塚の大きさは、何メートルだったのだろうか、、、 【速報】メルカリのスマホ決済メルペイでセブンイレブン70%還元祭り
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翌日70%が還元される(最大2500P) これまで 449個 の墓穴を掘ってきたので、そろそろつぎの450個目のができあがるのではないかな、、、 社会での人手が不足してしまったのは、フランチャイズという、不条理な商業が、日本国で無駄に乱立し、激しく、厳しく、競争し合ってしまたからでは、ないのかな、、、 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、やはり、まきびょんを作製し、桜井市の商業を活発にしたほうが、良いな。 毎日熱心にこのスレを研究しているので、誰かの得意なセリフがうつってしまったのではないかな、、、 毎日熱心にこのスレを研究しているので、魏志倭人伝時代のことが、実は、誰もよく分かっていないことが、わかったので、討論会を支配下におさめる資格は、討論の作戦を、知り尽くした
人物の物になってしまう事が、判明しました、、、 >>445
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた時点で、
大和説がもう詰んでいる 何が言いたいのか?
謎の震災などがあったでしょ、
その後に・・・教えてあげたんだったかな、
あの写真、キュウリの葉に・・・謎の刀が・・・とか 実際に住んでいるところでしょ、
神奈川県の川崎区というところ >>447
>A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、<
問題は、卑弥呼の頃の神獣鏡の分布であり、それでは、呉付近が盛行。
勿論、洛陽付近では、全く盛行していない。
>長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、
その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、
系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており<
中国学者の王氏は、楽浪鏡師らの中で生まれたらしい。
>呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。<
「海東」鏡に拠って、呉付近の鏡師の渡来が確定。 >>456
無知と「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師らがら、
大和説を作った 『水神 キュウリ』
むかーしの写真だと言っているんだけど、
悪く言うと、家の・・・騙り(寄生?)みたいな人物がいるんじゃないの? >>464
河内に鉄が出土しているのに、
大和には3世紀末以後のホケノの鉄鏃が最初だ、という事や、
「南≠東」などの嘘吐き騙しで既に論破されたら大和説に言えることは
スレ主のように根拠なしで「南→東だから」って繰り返すことだけだろ このような話が出てくるし(関連するもの?)
『祇園信仰』〜『王子信仰』 >>949
>アホちやう。
>瀬戸内海、一日で漕いでみろよ。
>バ〜カ。
だから、「女王国が九州で、瀬戸内海を東渡海千里の倭種の国が畿内」と
いう九州説の主張が成り立つ余地がないんだよ
アホもバ〜カも>>949だ
畿内説の言う東渡海千里は、伊勢湾横断くらいのもの >>954
>伊勢から房総半島まで1日で行けるのに、
畿内説でそんな主張をしている人はいないのだが?
九州説の主張は常に異常というか常軌を逸している そんなことよりも、
なぜ人権侵害のような事ばかりしているんだ?
オマエ(不明)「さあ・・・?」 人の家の話なんだよと言ってるのが、わからないのか?
??????????????❓ 他の国の掲示板(あるだろw)に行き、
同じことを書いてくると良い
日本ではなく、
他の国の神、国王、帝(王)・・・何でも良いけど、
そういうスレがあるでしょ
その掲示板に本職、ホンモノだと思われる人物
が書き込み(いろいろ説明など)をしていても
「それは間違い」「」「」「」「」?????❓ 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>973
お冗談こいちゃって。
瀬戸内海千里が何日か、倭人伝はそれを書いてないわな。
瀬戸内海千里を1日で漕ぎ渡るなんてお冗談こいてるのは、お主。
お主のオツムがオムレツだということじゃな。
わははははは。 >>975
君〜、この図には西暦って書いてあるけど、いいの〜。
養老年間に西暦があったのか?
いや〜、キリストが日本生まれだという話もあるくらいだから、分からんか。 >>474
>昨日の登呂遺跡の話と合わせて、「大和に鉄がなかった」というのも
無意味な言いがかりってことで終了だな<
数日来の議論でも結局は、
九州や河内付近に比べて大和では、鉄器の使用は殆どなく、
九州の鉄鏃の使用は3世紀末以後のホケノからであり、
唐古鍵の鉄は、出雲系銅鐸祭祀部族が使用したものであった、
という事になったようだな。 バームクーヘンが、自然に解凍されているので、紅茶を淹れれば、良いな、、、 >>488
>>古墳時代には古墳から鉄器が山ほど出る
古墳二つ分で、弥生時代全期間の北部九州の遺物数よりも多く出る<
北部九州の倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らに拠って運ばれて来て使用され、
その将軍らの墓に副葬されたから。
>この時代の大和に「鉄がない」という人は九州説でもいない
が、この時期でも古墳の埋葬主体以外からは鉄はほぼ出ていない
古墳時代の大和の国の古墳以外の場所にあった鉄がどうなったのか?
と考えれば、弥生時代の鉄が出土しない(≠鉄がなかった)理由も分かるだろ<
東征将軍らは、筑紫の鉄鏃のような鉄武器を沢山使ったから。
>そして、 古墳時代には古墳から鉄器がでるが、大和の平地の遺跡からは出ない
弥生時代には河内から鉄器が出るが、大和の平地の遺跡からは出ない
というのは同じ構造なんだよ <
九州倭国の東征軍は、先に河内を支配下に置き、その後、大和にも入って来て、
大和に残留していた出雲銅鐸祭祀部族や毛人部族を征服支配したんだよ。
>河内と大和は、邪馬台国七万戸の範囲内で土器様式の一体化=土器生産センターの集約と供給を
行っている一つの地域なんだから <
「南→東」などの嘘付き騙しを根拠にする話は、・・・・詐欺師だから、×。 >>498
>邪馬台国の卑弥呼の時代と古墳時代が一続きのものだということが、九州説は認められない
認めたらそれで終わりだということまでは、やっと理解できたようだね
そして、関係がないにだーといい続ける羽目になる訳だww<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であった、という事も未だに判らず、
河内も大和も九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国の国々であった、
という事も未だに判らないようだな。 >>502
>土に埋まった状態を考えるとき、
水分の多い状態だと、鉄は腐食が進み失われやすくなる
水分でパックされた状態だと、木材は逆に腐りにくく残りやすくなる
登呂遺跡なんかも、こうした条件に当てはまる <
これも「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のスレ主に特有の、
「水分でパックされた状態」というインチキ仮定での議論にすり替える騙しのテクニックだな。
旧石器〜古代の間の遺物を見れば、
やはり、植物性生物性遺物よりも、石や金属のような非生物性遺物の方が、
はるかに現在にまで遺残している。 >>991
このように
九州説は歴史学に続いて
自然科学も否定 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
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