奥州藤原氏って天下狙ってたの?
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源平合戦ってあるけど大体源氏と平氏の戦いみたいになるけど
源氏 平氏 奥州藤原氏 の三つ巴だったと思うんだよね。
ちょっと三国志っぽいと思うんだけど。平氏と藤原氏が組んだりする可能性ってなかったのかな? 立てれた。
義経を匿ってたりしたから源氏に擦り寄る事は考えてたんだろうけど。
平家に近づこうとは思わなかったのかね。 三つ巴だったのは
平氏(西日本)
頼朝(関東東海)
義仲(北信越) 関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」 義経が死んだあとの鎌倉幕府VS奥州って鎌倉の圧勝だったの? それはかなりの戦力差だな。
ていうか奥州って2万しか動員できなかったのか。たいした勢力ではなかったのかな。
金色堂作ったりお金もってそうなのに >>1
天下は狙ってないだろうね
将軍として奥州の覇権をというのが基本で
将軍としての権威は朝廷が重要でもあり てか天下って朝廷ありきで考えてもっていうか
日本の武士の時代はそうだな
ちょっと勘違いした
ただ天下は狙ってなかったとは思う だとしたら平家を倒そうなんてしないほうが良かったんじゃないかな?
平家が生きてたら奥州王としてずっといられた気もする。 奥州藤原氏は奥六郡の安倍氏の系譜で全国指向は無かったと思う
東北モンロー主義 いっそ北海道方面を開拓して王国作っちゃえば良かったのにね。 そもそも義経差し出したのに攻め込まれたのはなんでなの? >>14
また将来、鎌倉幕府に逆らう謀反人を奥州藤原がかくまうかもしれんな
予防のために潰しておくか
by 頼朝 >>13
ちょうど鎌倉に入ったあたりから全国的に寒冷化するので厳しいね >>15
徳川家康は秀頼挑発するのにいろいろやったのに
こんな開戦理由でいいんだな。 奥州合戦も9月で終わったみたいだけど雪が降るまで耐えられてたら
また違った展開になってたかもな >>2
秀衡がはじめに義経を匿わなくて平氏に差し出していたら源氏は天下を取れたかな? 天下三分まで持っていったのは頼朝だから義経居なくても何とかした可能性は高いんじゃね
屋島に戻ってきた平家は実は九州から追い出されてきた格好だし 最近、源範頼が再評価されてるんじゃなかったっけ?
義経がいなくても時間はかかるだろうけど平家は倒せてたって評価になってたと思う。 無策無能の平家が瀬戸内海で恐怖にブルブル震えてる間に範頼軍が九州まで攻め入って押さえちゃったからね
逃げ場は無くなった なんか平家ってあっけなさすぎない?もっと粘れなかったんだろうか?
奥州藤原も源氏と平家が削りあって勢力落ちるの狙ってたんじゃないかな >>27
平氏は天下を取ってからは都に君臨するのみで、支持基盤の西国のケアがなおざりになった
そして平氏が都を追われて西国へ逃れたら、西国武士にそっぽを向かれた
それをみていたから頼朝は京都に住まず、鎌倉を本拠地とし続けたところもあるのだろう 奥州藤原氏の目的は東北地方の自治でそれ以上でもそれ以下でもない >>27
倶利伽羅峠で侍大将クラスが吹き飛んだにしては粘った方 >>29
だったら源氏が天下取った時点で義経を即座に差し出すべきだろう。 >>31
今から考えれば本当はそうすべきだったと思う
しかし秀衡は義経をかわいがって育てた第二の父親だ
窮鳥懐に(略ということわざもあるが、義経を斬って鎌倉へ首を送るのが忍びなかったのだろう
また頼朝がもし奥州へ攻めてきたら、義経を大将にして迎え撃つというカードを
残しておくことで、頼朝の奥州征伐を思いとどまらせたいという気持ちもあったり
(もともと義経を秀衡がかくまった時は平家の天下だが、万が一平家が奥州征伐を起こしたら、義経を旗頭にして源氏の蜂起を狙っていたのではとも考えられる) 藤原秀衡って平清盛や源頼朝と比べても遜色ないぐらいの政治家だよね? 関東 源頼朝
東北 藤原秀衡
関西 平清盛
として九州でこれらに肩並べられる大物っていたの? けど奥州合戦みたいのがなくて九州は簡単に源氏に取られたって
印象なんだけど。名のある武将とかいなかったの? 親から勘当されて追放された13歳の為朝が
たった3年で平らげたのが九州よ 蝦夷がもともと勢力を振るっていた東北地方は例外として
武士が台頭した平安時代以降の日本列島の地方では、
都から脱落した貴種(源氏平氏など)を旗頭として地元の武士たちが結集して、
巨大な勢力を形成するという特徴があった
すなわち貴種に頼らず、地元の武士だけで巨大勢力は築きにくかった
ただ戦国時代になると、地元の武士だけで、貴種に頼らずに巨大勢力を築いていくようになった 島津家って鎌倉時代に九州に行ったわけだよね。すんなに九州に根付けたんだろうか? 鎌倉方が最も恐れていたのは軍事の特に騎馬戦の天才である義経が
奥州騎馬軍団を率いて敵対することだった。
だから恫喝はしても実際には攻め込まなかった。そう義経が健在な
間は…。
状況判断が出来なかった藤原氏は結局義経を差し出してしまい後は
皆さん御存知の通り速攻で滅ばされた。 義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。
近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年) 奥州藤原氏は広大な土地を支配していたが、兵士の動員力は2〜3万程度に過ぎなかった
当時の東北地方は米の生産量は低く、人口が少なかったためである
辺境地帯の有力者ではあるが、中央貴族の平家や関東の穀倉地帯の覇者である源頼朝とは、
比較にならなかったと思う
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、公卿に上った平家や源頼朝とは格が違った >>45
やってるぞ
日本海交易に噛んでて渤海とも交易してた 普通貿易対農業みたいになったら貿易が勝つとおもうだけど
平家と源氏だけは逆なんだよな。 後白河の逃亡を許してなかったらまだ展開はわからなかったね
西国一帯の大飢饉他、天変地異がかなり起こってたとはいえ東西拮抗からの巻き返しは充分ありえた そういえば奥州藤原は金が沢山あったわけでしょ。金のちからでなんとかならんかったのかな。 公家が天下を掌握していた頃は、奥州の金を献上して、うまく付き合いができていた
頼朝にその手は通用しなかった
平清盛の場合はもともとの勢力基盤の西国とか、貿易相手の海外には関心が高くても、
関東より先に関心が低かったからね 頼朝に完全服従してたら東北王ぐらいにはしてもらえたんじゃないかな。 奥州藤原氏が東北に君臨できたのは、朝廷(院・摂関家)、平家が京都にいて、遠方で
あったから、中央にある程度従順な辺境の有力者として振舞えたからだろう
中央貴族とも友好関係を築いていた
関東という至近距離に強大な軍事力を持った武家政権ができたことが、奥州藤原氏に
とって命取りになった あれ?奥州藤原氏が滅びた後って誰が東北を支配したの?
鎌倉幕府から誰か派遣されたわけでしょ? 奥州征伐後に頼朝が奥州を関東御家人に分け与えた
蘆名氏は三浦氏の分家
相馬氏は千葉氏の分家
伊達氏
葛西氏は豊島氏の分家 幕府の宿老・大江広元の子孫も東北に所領をもらっているね
長井荘とか寒河江荘を拝領して、室町時代まで続いている 東北って奥州合戦以後は伊達政宗が出てくるまでは存在感ないよね。
藤原氏が東北収める前は前九年と後三年とか東北を巡る争いもあったのに 南北朝期に後醍醐天皇に加勢するために、北畠顕家が奥州の大軍を率いて鎌倉を落とし、
東海道を進軍して伊勢、大和から摂津天王寺まで達し、京都上洛を目指すも、
足利将軍家執事・高師直に敗れて和泉で戦死
東北から大阪まで、敵と戦いながらの大遠征とは日本史でも唯一だと思う https://youtu.be/Wp-N-5xF1M0?t=2015
ドラマ「太平記」で足利軍が北畠軍と戦うシーン
足利尊氏役 真田広之
足利直義役 高嶋政伸
高師直役 柄本明
細川顕氏役 森次晃嗣
佐々木道誉役 陣内孝則
北畠顕家役 後藤久美子 北畠顕家というのも代表的お飾りだよな
東北に所領を持つ関東武士どもが東北へ下る
北畠を担いだ東北武士という名の関東武士が故郷へUターン、鎌倉を攻める
多くの武士が領国へ散り去りスッカラカン状態の鎌倉を落とす
その後西へと進軍 護良親王は関係ないやろ
北畠が奉じていたんは義良親王(後村上天皇)やで >>64
だから宮とか貴族は神輿で指揮を執っていたのは武士かと言うこと? >擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。
>これは、確認された遺跡の数の少なさと共に、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。
>11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。
>分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、
>10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)
>青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。 そもそもアイヌがいわゆる大和民族なのか違うのか?ってのもわかってないんだっけ? この時代バージョンの信長の野望みたいの出たらおもしろそうなのに。 >>65
南朝は気骨ある公家や宮様が多かったからね
武士も顔負けですよ たとえば頼朝は平家を倒すときに裏から藤原氏が攻めて来るかも
って警戒してたりはしたんだろうか? 頼朝は挙兵したころ、いったん奥州へ逃れる案もあったらしいから、奥州藤原氏は
友好的勢力と考えていた可能性が高い
奥州でかくまわれていた義経が頼朝の陣に加わるために出征するときも、藤原秀衡は
義経に従者をつけてくれた ってことは味方だった藤原氏を滅ぼしたってわけか。
やっぱ天下取る人は非情だね。 >>72
朝廷から木曽義仲追討のために頼朝上洛を求められた時には、
留守を奥州藤原に狙われるからという理由で断ったりしている
奥州藤原は義経を匿うなど源氏に好意的だった一方で、
平氏政権から陸奥守に任じられるなど平氏とも付き合いはあった
奥州藤原とすれば、源氏と平氏どっちが勝っても上手に立ち回れるように
外交したんだろうが、頼朝からは潜在的脅威と認識されるようになったと思われる よく漫画やドラマだと、義経が逃避行の末に奥州平泉へいきなり押しかけて、
秀衡が情にほだされて義経を保護したというお話になっているけど、
実際は奥州藤原の家来か御用商人(金売り吉次?)が秀衡の密命を受けて、
畿内で行き場を失った義経を奥州平泉へ密かに案内したのではないかと思う 義経は頼朝との戦いを決意して後白河法皇から頼朝追討の院宣を得た際に、
畿内や九州の兵力を当てにしていたようだ
義経が都落ちする時も奥州へは向かわず、正反対の九州へ向かおうとした
これは豊後(大分県)の緒方氏を味方と頼んだからだ
しかし船が難破して九州行きは失敗、京都は鎌倉軍に占領され、
緒方氏も鎌倉に降伏。
義経は畿内の公家や寺社に密かに匿われて転々としていたが、
その間に義経の協力者で和泉に勢力を持っていた源行家、大和に勢力を持っていた源有綱、
義経の家臣で伊勢の山賊出身の伊勢三郎が鎌倉軍に相次いで見つかって討ち取られ、
義経は再起の道筋が見えず途方に暮れていたと思われる
そんな中で頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけていた
これまで奥州藤原氏は京都の朝廷に直接献金していたが、それを頼朝が仲介して献金することと
一方的に言い渡してきたからだ
頼朝の事実上の挑発とみた奥州藤原は、「有事」に備えて義経を平泉で密かに匿うことと決めて、
迎えの者を畿内の義経の潜伏先へ派遣したのではないかと思う
なぜならはるばる畿内から奥州平泉まで行って、秀衡から「いきなり来られても、匿えません」と断られたら、
義経としては行き場を失うわけで、そんな行き当たりばったりなハイリスクはしないと思うからだ もし泰衡が義経と手を組み、頼朝の奥州征伐軍と戦い、
義経が鵯越の逆落としのように頼朝本陣を奇襲して頼朝を討ち取ったら、
どうなったのかな?
義経には幕府を開く構想はないから、京都に住んで朝廷や院に仕えるだろう
それこそ義経が権大納言右近衛大将となる
泰衡は陸奥守鎮守府将軍となって、奥州の自治を名実ともに実現かな >>79
幕府を開く構想はなくともその頃には頼朝が幕府みたいなものを開いてるわけだから
幕府構想を乗っ取るんじゃないかな。東北に幕府ができてたかも。 >>79
義経が存命だったら頼朝前線に出なかったんじゃないかな 範頼が大将か
ただ西国中心の源平合戦と違って、奥州と関東は隣だから
範頼が討ち取られたら頼朝出馬も避けられんな >>79
鎌倉軍が相当な兵力を動員できたのに対して、奥州は兵力が少なく、兵力差があまりに
大きいので、たとえ義経を加えたとしても奥州側に勝ち目はない。
おそらく、義経は泰衡とともに、平泉を捨てて奥地へ退却して、鎌倉軍を引き込み、
ゲリラ戦に持ち込むだろう。
津軽あたりまで引き込まれたところで、季節が冬になり、大雪が降れば、鎌倉側の
騎馬隊は立ち往生する。恐らく、そのタイミングで義経は頼朝の本陣を奇襲する
と思う。 >>84 >>83
それで頼朝敗死したらどうなるの? 頼朝が義仲、平氏を滅ぼしていく中で、奥州で中立を守り続け、
最後は日本列島の大半を制した頼朝に滅ぼされてしまった奥州藤原氏をみていると、
古代中国で秦の始皇帝に最後に滅ぼされた斉国を思い起こす
中国大陸は当時七つの国に分裂していたが、
斉国は他の国々が次々と秦に滅ぼされても、何もせずに放置していた
とうとう中国大陸では各国を滅ぼして強大化した秦と、
元のままの勢力をキープしているだけの斉の2か国のみが残った
秦は蒙恬・李信・王賁(漫画「キングダム」ではおなじみの3人)の三将に大軍で斉に攻め込ませ、斉はなすすべもなく降伏。秦が天下統一を果たした。
斉王は幽閉され、餓死させられたといわれている 平家 頼朝 義仲 奥州藤原 朝廷
この5勢力って感じだったのかな?
平家の中では勢力争いみたいのなかったの? 清盛の跡は宗盛が継ぎ、同母弟の知盛・重衡が宗盛を支えた。
これに対して宗盛の長兄重盛の子である維盛・資盛ら小松家、
清盛の異母弟の平頼盛ら池家とは微妙な関係であった ちなみに摂関家も松殿近衛九条でそれぞれ独自路線歩んでて朝廷はもうむちゃくちゃ 後付けだが、奥州藤原氏が生き残るためにやるべきだったことは、
源平合戦が長期化・泥沼化するよう工作すべきだった
都落ちして衰退した平氏に、奥州藤原氏が黄金や軍船、軍馬を用立ててもよかった >>94
頼朝は激怒するだろう
でも頼朝が東国と京を維持しつつ西国の平家と奥州藤原氏の両面を同時に相手して
戦うのは無理だから奥州藤原の「勝手な」振る舞いにはある程度我慢して交渉するほかない 当時、奥州の藤原氏以外にも、関東には志太先生義広、上総介広常などの独立勢力があった。
これらの独立勢力は、源頼朝に対しても強い自尊心、独立心で接しており、やがて頼朝に
危険視されて滅ぼされていく。
頼朝の鎌倉幕府は東国の独立勢力を許さない体制だった。
平家や摂関家のような緩やかな支配のほうがまだ都合がよかった。 おとなしい国土のイメージがあるから、野心はそれほど多くないだろう。
しかし欧州の藤原氏も、精力的には敵に押されているのでは。 まぁ鎌倉幕府にとっては頼朝健在で勢いあるうちに潰せてラッキーだったよね
下手に大勢力として臣従されちゃうと揉め事の種が増えるだけだし 誰も「鎌倉軍28万4000騎」に突っ込まないの?
よく「中国人は白髪三千丈だからw」とか言って嗤うやつがいるけど、人のこと言えないじゃん。 28万4000騎に突っ込んだら流石に討ち死に確定だしなあ 楠木正成が籠城する千早城を攻めた鎌倉軍は総勢100万人というからね
それでもたった1000人が籠城する千早城を落とせなかったのである でも太平記はフィクション、同時代人にすら「嘘ばっかじゃねーか!」と言われtるのに対して、吾妻鏡はいちおう鎌倉幕府の正史で、公文書や一次史料を職権で閲覧してるはずだからなあ。
それで28万はちょっと・・・ 太平記の数字は誇張が酷すぎることで有名
信頼度0% >>97
反頼朝勢力は、基本的に古利根川の東側が本拠地なんだよな。
今でもそうだが、茨城栃木千葉の東関東(方言学用語)は、文化的に東北に通じるものがある。
他方で、神奈川東京埼玉群馬の西関東は、中部地方とのつながり強い。
地理的な関東地方は、実は古利根川(正確には古渡良瀬川)で人文的には東西に分断されてる。
頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、実際には箱根以西をベースとする東海政権の雰囲気が強い。
この「東海→西関東→東国政権」という流れは、
北条執権政権、堀越公方、後北条氏、徳川氏と、断続的ではあるがずっと続く。
この話、昔この板でやったら、なぜか「関東は一つだ!」と激怒して猛反論する奴がいて、大荒れになったんだよなw >>106は頼朝同志のもとに固く結集する関東人民の団結を破壊せんと企む関西の工作分子
判決は銃殺刑以外にありえない。 >>103
それで六波羅を攻めた足利が23000赤松が7000千種が3000。
鎌倉を攻めた新田が600000。でまかせやな。 大阪平野にあの当時百万人住んでたかねえ…
住民より多いぞ。そんなの養えるかい。 さらに吉野や赤坂を落とした鎌倉軍が千早城攻めに後日加わったので、
千早城を攻めた鎌倉軍は最大200万人に達したと太平記では書かれている
日本の歴史で200万人も兵を動員するなんて唯一ですな 「奥州17万騎」は「義経記」の記述だね
これだけの大軍がいて、百戦錬磨の名将・義経がいれば、負けるわけがなかったのに
という幻想のもとになった
実際には奥州は2〜3万騎くらいの動員力だったと思う
だから、鎌倉勢に勝てそうもないので、秀衡も泰衡も鎌倉に融和策を取って時間を
稼いでいた あれだけ黄金を持って大陸とも交易してるんだから
大陸から数万人をお金で雇って奥州に連れてきて奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝と戦えばよかった 地域別人口構成比と総人口(千人) 『日本二千年の人口史』鬼頭宏
▽縄文前期
東北18.1% 関東40.8% 北陸4.0% 中部23.9% 東海4.7% 近畿1.6% 中国1.2% 四国0.4% 九州5.3%
▽縄文中期=262.5
東北17.8% 関東36.8% 北陸9.4% 中部27.4% 東海5.0% 近畿1.1% 中国0.5% 四国0.1% 九州2.0%
▽縄文後期=161.0
東北27.2% 関東32.4% 北陸9.8% 中部13.7% 東海4.7% 近畿2.7% 中国1.7% 四国1.7% 九州6.2%
▽弥生時代=601.5
東北5.6% 関東16.6% 北陸3.5% 中部14.1% 東海9.3% 近畿18.2% 中国9.9% 四国5.1% 九州17.7%
▽750年=5589.1
東北4.8% 関東17.4% 北陸8.3% 中部5.4% 東海5.3% 近畿25.1% 中国15.2% 四国6.0% 九州12.5%
▽1150年=6916.9
東北8.8% 関東23.2% 北陸10.2% 中部6.3% 東海4.7% 近畿20.6% 中国10.2% 四国4.6% 九州11.4%
▽1600年=12273.0
東北8.7% 関東16.4% 北陸7.0% 中部5.9% 東海6.4% 近畿31.0% 中国9.1% 四国5.1% 九州10.3%
▽1875年=36527.6
東北10.4% 関東16.0% 北陸9.7% 中部6.1% 東海6.5% 近畿16.2% 中国11.6% 四国7.3% 九州15.2% >>114
人口論的には、やれんことはないな>奥州藤原氏
平泉は、緩やかながら奥羽をほぼ完全に押さえているが、頼朝は関東の北東側半分を押さえていない。
東海甲信の東半分を加勢しても、圧倒的というほどでもない。
平安時代は、関東といっても北関東の生産性が大きく伸びている時期なので、
鎌倉としては、常陸・下野・下総あたりをデフォで押さえられていないのはかなり苦しい。 もういっそのこと金王朝に臣従して加勢してもらうとか
「万に満つれば敵う者なし」とモンゴルからも恐れられた女真兵が数千でもいれば
鎌倉武士が何十万いようが問題ない >>111
それでも過大でしょ。
頼朝の奥州征伐軍が最大限に見積もってもそのくらい。泰衡軍はその1/3〜1/5ってところじゃないの?
保元や平治で使われた戦力とかせいぜい数百騎だし。 >>115
下野は小山・宇都宮・足利・那須
下総は千葉
完全に頼朝の忠実な御家人じゃん
常陸ぐらいだろ関東で鎌倉に不穏なのは 秀衡は自分の死後に長男国衡と次男で跡継ぎの泰衡が争うことを恐れて、
泰衡の母を国衡に嫁がせるというミラクルをやって争いを防ごうとした
その結果国衡と泰衡の争いは起きなかったが
代わりに泰衡は自分の弟4人中3人を斬って粛清してしまった
そして父秀衡の遺言を破って義経も斬ってしまった
とてもではないが頼朝と太刀打ちする器はない >>120
父・秀衡の遺言を守って義経を奉戴したとして、泰衡には鎌倉と戦える成算はあったのだろうか?
到底ないと思ったから、泰衡は、鎌倉との紛争の火種になる義経を斬ったのだと思う
義経を斬ってしまって戦力低下を招いたことから、泰衡は暗愚な人物だと言われるが、
泰衡には鎌倉との開戦をできる限り延ばす以外に手立てはなかったのではないか?
どうすることが泰衡にとって最善手だったのだろうか? 頼朝が攻めてきたら、義経を大将、国衡を副将にして迎え撃たせる
泰衡は平泉の留守を守ると称して平泉に残り、
密かに奥州の砂金を大船に満載し、中国語がわかる僧侶や商人たちを船に乗せておく
義経大敗 奥州藤原軍壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡はすぐに船に乗って中国へ逃げる 大陸へ渡るよりも、蝦夷地へ渡るほうが安全ではないか?
奥州藤原氏は蝦夷地への航路を知っていた可能性がある。
また、家臣団とともに武器を持って行けば、蝦夷地の支配者として存続することもできる。
函館あたりを拠点にすればいいだろう。 頼朝も天下を狙うなんて感覚ないだろう。
この時代は自分の守る土地の所有権を
いかにして朝廷に認めてもらうかだ。
奥州藤原氏も、陸奥守や鎮守府将軍になって、
朝廷とのパイプがある地位を得ることによって
朝廷と交渉できる立場にあるんだよということを示すことによって
ほかの奥州の豪族に対して優位に立とうとした。 奥州藤原氏はどっちみち
鎌倉方には勝てなかった。
奥州では動員できる兵力に限界があるから。 義経の首を持って泰衡自身が鎌倉へ行って、奥州を明け渡して鎌倉殿へ臣従します
と宣言すれば、さすがの頼朝も命は取らないんじゃないかな? そもそも義経生かして連れてこいって要請じゃなかったっけ? >>106
後の古河公方足利成氏の享徳の乱にしても中央室町側の西関東&山梨伊豆(上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆)vs在野の成氏支援の土着武士の東関東(下野、常陸、下総、上総、安房)の争いになってる
むしろ関東は南北よりも東西での争いが割と多いのは歴史的にも結構有るし
千葉は首都圏となってるとしても栃木と茨城は言語学者によっては関東よりも東北方言に含める人もいる(勿論異論反論も多いが) 奥州藤原氏は平家側について、頼朝の勢力がまだ小さいうちに攻め滅ぼしておけば
よかったのではないか?
石橋山の合戦当時なら、奥州藤原氏が本格的に平家側に加勢すれば、頼朝はかなり
不利になる
関東が割拠状態にあるほうが奥州は安泰になる >>130
その頃の奥州って越後城氏(平氏)とやり合ってるよね
なんか理由があるはずなんだけど 二代基衡と惟常の兄弟争いで、
惟常は越後へ逃れたが奥州軍に追撃されて討死した
だから越後と奥州の関係は深いとみられる 伊豆国と甲斐国は関東だな
古代ならもっと東まで関東
奥州藤原氏健在の頃は今の中部地方の東半分が関東だろうか 奥州が京都から遠すぎるんだよな。せめて日本海あたりに進出して
もっと勢力ふやせなかったのかな?
初期に頼朝と組んで日本海側から京都に攻め入ってたらいい感じで天下三分できたんじゃないだろうか? 日本海には進出してる
渤海国とも交易してる
ちなみにこの時期飢饉の京都に入ったら木曽義仲の二の舞は避けられないよ 義仲と違って奥州藤原は公家との交流は清衡以来あったから粗忽なふるまいはないだろう
>>124
頼朝が使っていた言葉は「天下草創」
頼朝は天下を取るというよりも、自分が天下の政道を新たに草創すると意識していたのだろう 粗忽な振る舞いはなくても先立つ物がなければ食料は略奪に頼らざるをえないよ 奥州藤原氏は血統による正統性がなかったからな。所詮は俘囚の長ってだけだし。 奥州藤原氏は中央貴族の藤原氏の一族か縁者であることは間違いないのではないか?
東北に土着して、独立した生活圏を作ろうとした
その点においては、他の関東武士似ているとも思う
異なるのは、支配領域が広大であること、突出した経済力・文化力を持っていたこと、
俘囚と呼ばれた化外の人々の住む僻地にあり、どこか異質さを感じさせることだ 奥州藤原氏が号令かけても奥州以外からは兵は集まらないと思うけどな。なぜか?それは俘囚だからとしか言いようがない 戦乱のどさくさに朝廷の足元見てやっとこさ陸奥守ってレベルだもんなあ ジャニーさん亡くなったっぽいが
ジャニーズも滅びるのかしら? 祖先が中央貴族出身でも、地方に土着した武士で国司に任官できる者は少なかったと思う
まして陸奥は大国であり、陸奥守の地位は決して低くない
地方武士は在庁官人になるケースが多かった
国司になれるのは、院や摂関家と縁が深く、京都にも拠点を持つ軍事貴族クラスではないか 結局は天下を掌握して朝廷を呑み込まないと。最終的には鎌倉みたいに攻められるんだから >>144
国司って介ぐらいまででしょう?大掾くらいまではあるのかな?目や史生は無いよね。 執権の北条氏や有力御家人の三浦氏も相模国の在庁官人だったね
関東武士で国司(守、親王任国の介)クラスの官位を持っていたのは、志太先生義広、
足利義康など中央とパイプのある軍事貴族が中心だったね
そう考えると、従五位下・陸奥守にまで昇った藤原秀衡は、鎌倉幕府以前の東北の
豪族としては、非常に高い地位にあった貴人と言える 奥州藤原氏は、元来は「権守」クラスの官位に就く可能性のある有力な在庁官人であったらしい
清衡・基衡のころに押領使となって地位を向上させ、秀衡のころには国守にまで至った 当時の天皇が源平合戦を調停できなかったのかな?
で平家を九州王 源氏を関東王 奥州藤原を奥州王
とかにすれば中国の歴史っぽくなって面白そうなのに。 さすがに臣籍に降って何代も重ねちゃってる家に王号をってのは無理がある 当時の朝廷の考え方は、源氏・平氏とも兵事を分担する軍事貴族だったと思う。
ただ、平氏が摂関家をもしのぐ権門になり過ぎたので、源氏を使って牽制して、
元の役割に戻したいという考え方だったと思う。
一方、奥州藤原氏は辺境の在地勢力なので、陸奥守くらいの官位を与えて、中央に
なびかせた上で、ゆるやかに秩序に組み込もうとしていたと思われる。 義朝など源氏が関東で内ゲバやってた頃がチャンスだったな そもそも奥州藤原氏は藤原経清という下級貴族が先祖なわけで、
奥州の地方政権としては意味のある存在となったけど、
日本全体から見ると、帝のながれを汲む源平とはカリスマとしては比べものにならなかったろう。
自分的には面白いけどねw 血統は藤原と安倍のハイブリッドで家系は清原
奥州支配には安倍と清原との関わりが必要不可欠 義家が手に入れた奥州を横取りされたという意識が頼朝にはあっただろうから
結局はどういう態度を取っても難癖付けて滅ぼしただろう
奥州を征服する過程を頼義、義家に重ねて源氏の正統をアピールする場にもしたかっただろう 頼朝の奥州征伐て鎌倉幕府にとって一番重要なデモンストレーションだよな。やらないとか絶対にありえない 藤原、安倍、清原の集合体が奥州藤原氏だけど坂上氏も一員として名前が見える
将門の乱でも副将に坂上遂高がいるから弓馬の道を家風にした坂上氏が土着してて取り込んだんだろう 清和源氏、桓武平氏も鎮守府将軍を歴任して奥州関係者だよ。武家の形成に関東と東北の戦乱は欠かせない。 奥州藤原氏は藤氏とはいえ武家の秀郷の末裔
都の平氏は伊勢平氏で国香の末裔
鎌倉幕府の御家人は平将門の縁者の末裔が多く
ある意味で関東武士による平氏と奥州藤原氏の
討伐は将門の乱の延長といってもよい 将門〜鎌倉まで武家貴族内の頂点争い。争いを利用して怠けてた院が勝ち残った頼朝公や北条氏に太刀打ちできないのは当然の結果。 後白河は兄や弟や妹や息子と権力闘争を重ねてきてて怠けてないぞ
権力基盤が脆弱すぎて積極的に動けないだけで 後白河は鳥羽天皇の四男坊にすぎなかったのに
皇統の主流になれたのは
策謀の限りを尽くして勝ち残った結果 >>166
嘘教えんなよ
前九年の役で負けた安倍氏の流れだぞ そんなの言い出したら坂東平氏だって大半が借り物にならない? 秀衡が生きてれば義経を大将に
大戦争が見られたんだけど
それで喜ぶのは後白河だから
無くて良かったんだよ 天下は狙ってない
最初は後白河救援のため頼朝と協力する気だった
でも清盛が死んで宗盛が後白河院政を復活させたからやる気がなくなった
あとは内乱に乗じて会津を城氏から奪って勢力拡大
頼朝に警戒される 藤原氏の領域も上は厨川から下は白河の関あたりまでだよな。青森や越後よりの秋田は別の勢力 奥州市江刺を中心に行われる大河ドラマ「麒麟がくる」岩手ロケ
とり直し〜
https://oshu-fc.jp/extra_tsuika0927/
歴史公園えさし藤原の郷
https://www.fujiwaranosato.com/
【お知らせ】2020年大河ドラマ「麒麟がくる」復旧工事に伴う見学規制について
9月17日(火)から10月4日(金)までの予定で、園内におきまして2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の復旧工事を行っております。
見学個所につきまして、若干の規制がございます。
ご迷惑をおかけしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。 奥州藤原氏は、基本的には中央政府と良好な関係を保って、奥州の在地支配を認め
させる方針だった。中央から来た国司を丁重に迎え入れているし、藤原基成のような
中央貴族を顧問のような立場で処遇している。
源義経を保護したのも、軍事貴族の血筋の義経を、中央に対する何等かのカードに
しようとしたものだろう。
また、奥州藤原氏自体は、在庁官人クラスの家格だったと言える。
秀衡の代に家格を上昇させながら、王朝国家の枠で生存を図る勢力だったと思う。 天下を掌握しないといずれは滅ぼされる
奥州だけ安泰とかはありえないよ 「兵力分散」つうのも結局は総兵力あればこその話なんだよね
奥州藤原氏が鎌倉幕府に負けた理由を兵力分散のせいにする人いたけど
「昔の東北じゃまず兵隊の数がそろえられなかったろ」と思う(まして福島県の半分は鎌倉に味方したと思われ) 平泉の人口は結構なもんだったけど、内輪揉めしてる時点で……だしなあ 秀衡は、義経と一緒に頼朝と戦え、みたいな遺言残して逝ったのに、後継の無能泰衡が義経と義経新派を殺害しちまった。
この時点で奥州終了 奥州藤原氏の支配領域って上は厨川から下は多賀城あたりまでかな?
吾妻鏡だと清衡は津軽から白河関までとあるけどさすがに広すぎるわな 当時の東北って公領一色の世界だし畿内や関東と比べたら一円進止的だったと思うけどね
税負担も正税(年貢)じゃなくて力役や牛馬、狩猟物といった雑公事が主体だからね
江戸時代以降の年貢一本の世界観を投影したらダメよ 北海道の蝦夷や、満州の渤海とも交易して稼いでいたらしいね
源頼朝に滅ぼされなければ、奥州は半独立国家になっていたかも なぜ阿津賀志山で直ぐ負けたの
奥州は20万騎じゃないの 一枚岩じゃないから
関東における源氏と同じように、院や朝廷に強いパイプ持ってる奥州藤原氏に従ってた忠誠心の薄い奴らの集まりだったから 関東の兵は源平合戦を生き抜いた百戦錬磨の猛将たちだ。例え20万いたとしても、100年の平和に甘んじていた奥州兵たちがかなうはずもなく 源義経が東北軍団を指揮していたら、東北軍が勝っていたかもしれん 酷な言い方だが、
奥州藤原氏に幻想を抱いていたのかな >>164
三春の元大名 田村一家は坂上田村麻呂の子孫を自称していたと思ったが
先祖が田村麻呂の落胤という設定 >>186
そんな公領一色ということもない
二代藤原基衡と悪左府藤原頼長が奥州の荘園を巡って紛争を起こしているほどだ
>>185
義経に付き従った佐藤氏が信夫(福島県北部)の豪族だからな
それに青森の日本海沿岸の十三湊は奥州藤原氏の貿易港だったし、
地域によって支配力の強弱(濃淡)はあるだろうけど、
陸奥国の全域に勢力を振るってたのは間違いないかと 陸奥、出羽の主要部を点と線で結んだくらいには勢力及んでいたかもだな 十三湊は西洋人やアラブ人の商人も滞在する東洋随一の国際貿易都市として繁栄したが、
室町時代に起こった大津波によって消滅した、という古文書があるな
武家屋敷に混ざって教会やモスクもあるエキゾチックな都市だったらしい 奥州藤原氏が生き残るには、平家と共に東西から鎌倉を潰すしかなかったな。
侵し侵されずなんて夢のまた夢。 藤原基成とその娘は歴史上音沙汰なしになっちゃったけど、実際はどうなんだろうね?
藤原秀衡の妻だったのが国衡だっけ?の妻になり、
家中の統一を図ったみたいだけど、やっぱり殺されたのかね >>193
花巻市の三熊野神社にある旧成島寺の十一面観音像の胎内銘に「縁女伴氏・坂上最延・承得二年年二月十日像顕」とある
平泉の中尊寺でも関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とある
坂上氏とか小野氏みたいな将種は源姓や平姓の台頭で検非違使くらいしか活躍の場がなくなった
それに目をつけた源満仲が多田院の私兵に検非違使を世襲してた坂上氏を起用して武家団を作ったように
安倍氏や奥州藤原氏も武力として東北地方に土着してた坂上氏を取り込んだんだよ
だから奥州藤原氏の周りに坂上最延とか坂上季隆とか坂上氏の名前が出てくる
三春田村氏は仮冒だろうけど
>>196
東日流外三郡誌の中の東北なら奥州藤原氏滅びないよなぁ >>196
その古文書は偽書らしい
室町時代に十三湊を支配していた津軽安東氏が南部氏に敗れ蝦夷に逃亡したあたりから衰えたらしい
そして砂の堆積で港機能低下
16世紀後半には再び整備され、弘前藩の重要港湾として利用されていた 十三湊にモスクや教会?
徳川家康のキリスト教禁教令で京阪のキリスト教会が津軽に流刑になったらしいから、もしかしたら十三湊にキリスト教会はあったかもしれないが
イスラム教徒はさすがに無理だろ 江戸時代は下北半島の港がメインじゃなかった?ありゃ南部藩になるのかな >>197
奥州藤原氏 源頼朝 木曾義仲 平氏 か? 東日流外三郡誌は、一般に知られている明治写本は誤字が多いから、史料として用いる
のはやめたほうがよい
史料として用いるなら、寛政原本を参照すべき >>208
それ放置してたら勢力圏の被る平家と木曾義仲が勝手に潰し合うやつだ 鎌倉幕府さえ潰れていれば、奥州藤原氏は安泰だった。
源頼朝が挙兵したとき、藤原秀衡は平氏方に加勢して、初期の段階で討ち取って
おくべきだった。 >>211
頼朝旗揚げ当初くらいだと奥州は平家方の越後城氏と喧嘩してたよ 城は義仲にやられたな。義仲との同盟はなかったのか?頼朝と義仲が和睦したからダメかな? >>213
義仲が後白河と協調路線とってけるならいける
具体的には倶利伽羅以降、義仲が京で認知されて以降、京に攻めのぼる前なら可能性はある
京に入って以降は破綻一直線なので無理。詰んでる 義仲が京に入って詰まないシナリオは後白河が平家に捕まって一緒に都落ちした時くらいか >>216
居たら義仲と対立しちゃうし……
あとはもう甲斐源氏や行家に上洛の権利を進呈してババを押し付けるしか…… >>211
まあ平家と源氏がずっと争い続けて膠着状態なら奥州は安泰だったよなw
ちょっと秀衡も見通しが甘かったかもしれん 後白河頼みだったからな秀衡
亡くなったら院宣なしで頼朝が攻めてきちゃった… >>32
頼朝はスターリンみたいに残忍だから、たとえ秀衡が義経を差し出したとしても、
「わざわざたよってきた源氏の御曹司を見捨てるとはその罪は看過できない」とかいって
攻撃を仕掛けて来ただろう。
頼朝にとってはどうあっても奥州藤原氏は滅ぼされるべき相手であった。 >>209
そんなもの存在しない
全編和田喜八郎の作。 >>222
治承寿永の乱の時系列だとどのみち飢饉で動けない
無理に動いた結果が史実だし 養和の飢饉の時のことなら北陸は飢饉にはなってないよ 確か藤原泰衡はもう鎌倉の従者なんだからいちいち宣旨なんかなくても罰していい、という論理だったよね奥州合戦は 秀衡やその子供達は毎日何を食べたんだろう?
滅茶苦茶興味ある
天ぷらや味噌汁はまだなかったんだよね? 歴史の扱い方について
「東日流外三郡誌」では、天井裏から、古文書が落ちてきたと、そこにドラマティックな新説があったと称して騒ぎ、大河ドラマにも採用された。
その後、発見者の捏造とわかり、これも、自身だけが楽しみ、周りは騙された「私物化された歴史」にすぎなかった。純粋な大衆を欺く、この様な行為を聞くと心が痛む。
http://www.ikoma-yashiki.com/?p=247 >>229
頼朝の論理だと、奥州藤原氏は「累代の家人」の家柄に過ぎない。主君である自分が
家人を成敗するのは当然であり、宣旨による許可を要しないというものだ。
奥州藤原氏は広大な領域と莫大な経済力を有する名族でありながら、家格は在庁官人
に過ぎず、「身分の卑しさ」が常につきまとう。
秀衡が息子たちに残した遺言も、「義経を大将軍に立てて、鎌倉軍と戦え」という
ものだった。義経という貴種なくして団結できないし、戦う名分も立たない政治的な
弱さが奥州藤原氏にはある。 なるほど。鎮守府将軍や陸奥守では権威が足りなかったのか。藤原基成との姻戚もあまり役に立ってないっぽいね だって頼朝、というか鎌倉殿が立場的に完全上位互換だもん
役に立つはずがない 鎮守府将軍や院近臣のコネが役立たずなんじゃなくて上位の職権やコネで無効化されただけなんよ 遼や金の皇帝の権威と武力を利用できてれば内地の連中にむざむざ負けなかったのにな 平氏が南宋とつながってたように、奥州藤原氏が遼や金とつながっていても何の不思議もない。 まあどっちも海越えて攻めてくる義理も体力もないけど 奥州藤原氏は土着して地域を支配する土豪であり、中央から貴族の身分にある者が
陸奥守として赴任していた。頼朝の脅威に晒されていた平宗盛が懐柔目的で晩年の藤原秀衡を
陸奥守に着けた。土着の豪族の秀衡が陸奥守に着くのはかなり身分違いで異例のことだったらしい。
秀衡は代々の貴族の身分を持ち鎌倉殿の地位にある頼朝に対抗するには、貴族の身分のある義経を
立てるしかないと考えていたに違いない。 頼朝の先祖に当たる頼義が陸奥守で、秀衡・泰衡の先祖に当たる常清がその家人だった
ということを、頼朝はことさらに強調するね
頼義が常清を残虐な方法で処刑したことも、先例として意識されている 秀衡は大陸と交易してたんだから、金王朝に援軍を頼めばよかったのに。 海越えて来れるわけないだろ
というか金にメリット皆無じゃないか 刀伊の入寇みたいに女真族が日本海を渡海して九州を襲った例もあるんだが >>247
経清な
奥州合戦は全て頼義を擬して行われてる。厨川柵での泰衡討伐は安倍貞任に倣って、首を晒したのも同じ 海越えた先にある程度の勢力が出来てる時点でデメリットの方が大きくなってる 当時の航海技術では、馬を海上輸送できなかったから、金から騎馬隊を呼ぶことはできない。
歩兵なら呼べたかも知れないが、どれくらい戦力になっただろうか?
また、当時の東北の生産力では、兵糧米の調達に限りがある。
奥州合戦で奥州藤原氏側が3万人くらいしか動員できなかったのも、当時の東北の生産力の
弱さに起因している。 藤原真衡が源平から婿養子夫婦を迎えようとしたのは間違ってはいなかったんだな。凄い先見の明だな 頼朝が平家を滅ぼすのを、ただ奥州藤原が指をくわえてみていたのが何とも悔やまれる
平家が滅べば、次の頼朝の矛先は自分たち奥州藤原なのに
さながら秦の始皇帝が各国を滅ぼしていく中で、
何も動かず、最後になって秦に滅ぼされた斉をみているようだ
一ノ谷の戦いで平家は屋島へ逃れたが、
ここで奥州藤原氏が外交方針を転換して屋島の平家を軍事的に支援する動きをすればよかった 奥州藤原氏の北方交易は北海道、サハリン、アムール川と北回りで金とつながっていたのだろうか?
それとも日本海を横断して、金統治下の沿海州と直接往来していたのだろうか? 源義経が頼朝と互角に張り合えるような勢力を持てば、義経との関係から、奥州藤原氏としても恩恵が期待できると思ってたんだろうなあ。 >>257
平宗盛は藤原秀衡を陸奥守に任官させて厚遇し、平家陣営に入れようとしていた。
秀衡が頼朝の背後を攻撃すれば、平家と奥州藤原氏に挟撃された頼朝は、二正面作戦になり、
かなり苦しんだはずだ。
秀衡は早期の段階で平家側に立ち、頼朝を殲滅する方針を立てるべきだった。
陸奥守任官で、在庁官人から受領にまで家格を上昇させ、従来より繁栄することができた。 金から国王に冊封してもらった方が効果的だったと思う。 久し振りに「炎立つ」の第一部を観たんだが何だろう、泣けるw
経清の渡辺謙と貞任の村田雄浩がハマってるわ。
高橋史観が入ってるのは充分承知なんだがそれでも泣ける。今の大河じゃ無理だな。 ♀_(`O`)♪おら岩手さいくだ
おらコロナ五輪いやだ
おら強盗キャンペンいやだ 藤原氏全般に言えるのはトップ(天皇や将軍)になるDNAはもとよりなかった。
あくまで参謀の器だ。
あれこれ卑怯な作戦や謀略を立てるには優れている。が、なんせ人徳のなさは家系の特徴なのでついてくるやつがいない。
日本の歴史の中では色々目立ったこともあったが、最後は馬脚を現してしまった。
すべて真に人徳がなかったせいである。 >>261
あと奥州藤原氏は平家与力の常陸佐竹氏とも縁があったので富士川の合戦に至る前に連携して鎌倉を牽制してたらなと。
頼朝に所領を叩き出されるまで徹底抗戦した志太義広も巻き込めればと思う。(佐竹と志太、どっちが常陸の代官になるかはおいといて) 当時は平家、朝廷、中央貴族ともに、奥州藤原氏の東北支配を認める方針だった。
奥州藤原氏側も中央から赴任してきた国司を丁重に饗応し、都に多額の献上を行って
いた。だから、平家の政権が続く限り奥州藤原氏は安泰だった。
近隣の新興勢力となった鎌倉幕府こそが最大の脅威だった。 といっても平家政権のままだったら越後城氏が会津に喰い込んだままだっただろうし
勢力拡大は望めそうにないなあ 奥州藤原氏は関東や越後に進出するより、本州の支配領域は奥羽二国に留めて、蝦夷島
(北海道)に新領地を求めるほうがよかったと思う。
そのほうが関東の在地勢力との摩擦や中央の平家との対立を避けて、勢力拡大できた。 石橋山で頼朝が戦死してたらどうなっていただろうね? 頼朝は源氏の旗印と言うだけで、特段の軍事的センスがあったとは思えないから
千葉氏等の源氏方が一時的に勝利を収めた後に
結局北条氏の手中に実権が渡ることには変わりがないのでは。 鎌倉政権の名目なら北条より上、いくらでもいたからね
安達、梶原、千葉、畠山、三浦、秩父、相馬
みんな名門ばかりやが北条自体が頼朝の内臣にすぎんからね 279
幅将軍、源範頼
軍奉行、源義経
頼朝がおっこしちまっただ 訂正
279
副将軍、源範頼
軍奉行、源義経
頼朝がおっころしちまっただ 奥州藤原家埋蔵金、豊臣家埋蔵金、徳川家埋蔵金が、探し当てられつつあります 15年前義経の追われるルートに沿って最後の平泉まで旅行したら
一気に運気を落として貯金がゼロどころか借金人生に転落
勇気ある人はやって検証してみないか? >>283
範頼も挙兵に失敗・敗死。
さて義経はどうする? >>279
源頼朝が石橋山合戦で亡くなっていたら、関東武士団は求心力を失い、鎌倉政権の成立が
遅れた可能性はある(他の源氏貴種が擁立される可能性はあるが)。
そうなると、都の平氏政権もしばらく続くことになり、平氏・鎌倉・奥州で勢力が均衡する。
したがって、奥州藤原氏も泰衡の代まで安泰だった可能性がある。 源頼朝が石橋山合戦で生き残ったとしても、その後若くして亡くなっていたら、その後を
源義経が継承していた可能性がある。義経は頼朝の猶子の地位にあった。
奥州藤原氏と近い関係にある義経が鎌倉殿になっていたら、奥州藤原氏と鎌倉政権との
円満な関係が続いていた可能性が高い。
平泉の藤原泰衡が鎌倉の義経に多大な影響を行使していたに違いない。 >>292
当時の頼朝は30代半ばくらいだから、若くもないが年寄りでもないな ガースー「強盗トラブルでアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 もりけん「再生なんちゃらが1.1を越えたぞ、よしかわ君!」 奥州藤原氏は広大な領地、経済力を保有しているが、身分は在庁官人に過ぎず、平家や
源頼朝のような貴族とは違う。
だから、広範な武士が推戴する対象にはなり得ない。
地方勢力にはなっても、天下を狙う勢力にはなり得ない 奥州藤原氏は超過大評価
日本史を教える時にやたら時間を割いて教えたがることがあるが
そんな時間を割く奴らないじゃない代表
マニアだけ学べばいい あの時代の奥州すごーい!プロパガンダ今でも平気で通じるのな 私は支配者じゃないこの地を天から預かってるだけ
信心深いくせ全然達観出来てない平家や源氏には絶対吐けない台詞
あれだけ殺しまくって死んだら自分だけ極楽に行こうとする頼朝の根性w
血筋だけであそこまでつけ上がれるんだから、天皇って宗教は怖〜〜いな
武士の世は終わったんだよ・・・頼朝は未来には要らない人 秀衡は陸奥守鎮守府将軍にも就いてるし、狙えるっちゃあ狙える地位と実力にはある。あとは貴種性だけだな。 藤原秀衡は平宗盛が味方に引き込むために陸奥守にしてもらったけど、もともとの家格は
在庁官人レベルで、受領になれるような身分ではなかった
都から赴任してきた受領を奉戴して在地領主としての地位を築いていた
だから、源頼朝に攻められるのに備えて、源義経を奉戴して一族で団結するように遺言した
広大な地域を持っているけど、単独で戦うには弱いんだよね >303
西国の海に沈んでろ、神気取りのうんこが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています