奥州藤原氏って天下狙ってたの?
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源平合戦ってあるけど大体源氏と平氏の戦いみたいになるけど
源氏 平氏 奥州藤原氏 の三つ巴だったと思うんだよね。
ちょっと三国志っぽいと思うんだけど。平氏と藤原氏が組んだりする可能性ってなかったのかな? 太平記の数字は誇張が酷すぎることで有名
信頼度0% >>97
反頼朝勢力は、基本的に古利根川の東側が本拠地なんだよな。
今でもそうだが、茨城栃木千葉の東関東(方言学用語)は、文化的に東北に通じるものがある。
他方で、神奈川東京埼玉群馬の西関東は、中部地方とのつながり強い。
地理的な関東地方は、実は古利根川(正確には古渡良瀬川)で人文的には東西に分断されてる。
頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、実際には箱根以西をベースとする東海政権の雰囲気が強い。
この「東海→西関東→東国政権」という流れは、
北条執権政権、堀越公方、後北条氏、徳川氏と、断続的ではあるがずっと続く。
この話、昔この板でやったら、なぜか「関東は一つだ!」と激怒して猛反論する奴がいて、大荒れになったんだよなw >>106は頼朝同志のもとに固く結集する関東人民の団結を破壊せんと企む関西の工作分子
判決は銃殺刑以外にありえない。 >>103
それで六波羅を攻めた足利が23000赤松が7000千種が3000。
鎌倉を攻めた新田が600000。でまかせやな。 大阪平野にあの当時百万人住んでたかねえ…
住民より多いぞ。そんなの養えるかい。 さらに吉野や赤坂を落とした鎌倉軍が千早城攻めに後日加わったので、
千早城を攻めた鎌倉軍は最大200万人に達したと太平記では書かれている
日本の歴史で200万人も兵を動員するなんて唯一ですな 「奥州17万騎」は「義経記」の記述だね
これだけの大軍がいて、百戦錬磨の名将・義経がいれば、負けるわけがなかったのに
という幻想のもとになった
実際には奥州は2〜3万騎くらいの動員力だったと思う
だから、鎌倉勢に勝てそうもないので、秀衡も泰衡も鎌倉に融和策を取って時間を
稼いでいた あれだけ黄金を持って大陸とも交易してるんだから
大陸から数万人をお金で雇って奥州に連れてきて奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝と戦えばよかった 地域別人口構成比と総人口(千人) 『日本二千年の人口史』鬼頭宏
▽縄文前期
東北18.1% 関東40.8% 北陸4.0% 中部23.9% 東海4.7% 近畿1.6% 中国1.2% 四国0.4% 九州5.3%
▽縄文中期=262.5
東北17.8% 関東36.8% 北陸9.4% 中部27.4% 東海5.0% 近畿1.1% 中国0.5% 四国0.1% 九州2.0%
▽縄文後期=161.0
東北27.2% 関東32.4% 北陸9.8% 中部13.7% 東海4.7% 近畿2.7% 中国1.7% 四国1.7% 九州6.2%
▽弥生時代=601.5
東北5.6% 関東16.6% 北陸3.5% 中部14.1% 東海9.3% 近畿18.2% 中国9.9% 四国5.1% 九州17.7%
▽750年=5589.1
東北4.8% 関東17.4% 北陸8.3% 中部5.4% 東海5.3% 近畿25.1% 中国15.2% 四国6.0% 九州12.5%
▽1150年=6916.9
東北8.8% 関東23.2% 北陸10.2% 中部6.3% 東海4.7% 近畿20.6% 中国10.2% 四国4.6% 九州11.4%
▽1600年=12273.0
東北8.7% 関東16.4% 北陸7.0% 中部5.9% 東海6.4% 近畿31.0% 中国9.1% 四国5.1% 九州10.3%
▽1875年=36527.6
東北10.4% 関東16.0% 北陸9.7% 中部6.1% 東海6.5% 近畿16.2% 中国11.6% 四国7.3% 九州15.2% >>114
人口論的には、やれんことはないな>奥州藤原氏
平泉は、緩やかながら奥羽をほぼ完全に押さえているが、頼朝は関東の北東側半分を押さえていない。
東海甲信の東半分を加勢しても、圧倒的というほどでもない。
平安時代は、関東といっても北関東の生産性が大きく伸びている時期なので、
鎌倉としては、常陸・下野・下総あたりをデフォで押さえられていないのはかなり苦しい。 もういっそのこと金王朝に臣従して加勢してもらうとか
「万に満つれば敵う者なし」とモンゴルからも恐れられた女真兵が数千でもいれば
鎌倉武士が何十万いようが問題ない >>111
それでも過大でしょ。
頼朝の奥州征伐軍が最大限に見積もってもそのくらい。泰衡軍はその1/3〜1/5ってところじゃないの?
保元や平治で使われた戦力とかせいぜい数百騎だし。 >>115
下野は小山・宇都宮・足利・那須
下総は千葉
完全に頼朝の忠実な御家人じゃん
常陸ぐらいだろ関東で鎌倉に不穏なのは 秀衡は自分の死後に長男国衡と次男で跡継ぎの泰衡が争うことを恐れて、
泰衡の母を国衡に嫁がせるというミラクルをやって争いを防ごうとした
その結果国衡と泰衡の争いは起きなかったが
代わりに泰衡は自分の弟4人中3人を斬って粛清してしまった
そして父秀衡の遺言を破って義経も斬ってしまった
とてもではないが頼朝と太刀打ちする器はない >>120
父・秀衡の遺言を守って義経を奉戴したとして、泰衡には鎌倉と戦える成算はあったのだろうか?
到底ないと思ったから、泰衡は、鎌倉との紛争の火種になる義経を斬ったのだと思う
義経を斬ってしまって戦力低下を招いたことから、泰衡は暗愚な人物だと言われるが、
泰衡には鎌倉との開戦をできる限り延ばす以外に手立てはなかったのではないか?
どうすることが泰衡にとって最善手だったのだろうか? 頼朝が攻めてきたら、義経を大将、国衡を副将にして迎え撃たせる
泰衡は平泉の留守を守ると称して平泉に残り、
密かに奥州の砂金を大船に満載し、中国語がわかる僧侶や商人たちを船に乗せておく
義経大敗 奥州藤原軍壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡はすぐに船に乗って中国へ逃げる 大陸へ渡るよりも、蝦夷地へ渡るほうが安全ではないか?
奥州藤原氏は蝦夷地への航路を知っていた可能性がある。
また、家臣団とともに武器を持って行けば、蝦夷地の支配者として存続することもできる。
函館あたりを拠点にすればいいだろう。 頼朝も天下を狙うなんて感覚ないだろう。
この時代は自分の守る土地の所有権を
いかにして朝廷に認めてもらうかだ。
奥州藤原氏も、陸奥守や鎮守府将軍になって、
朝廷とのパイプがある地位を得ることによって
朝廷と交渉できる立場にあるんだよということを示すことによって
ほかの奥州の豪族に対して優位に立とうとした。 奥州藤原氏はどっちみち
鎌倉方には勝てなかった。
奥州では動員できる兵力に限界があるから。 義経の首を持って泰衡自身が鎌倉へ行って、奥州を明け渡して鎌倉殿へ臣従します
と宣言すれば、さすがの頼朝も命は取らないんじゃないかな? そもそも義経生かして連れてこいって要請じゃなかったっけ? >>106
後の古河公方足利成氏の享徳の乱にしても中央室町側の西関東&山梨伊豆(上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆)vs在野の成氏支援の土着武士の東関東(下野、常陸、下総、上総、安房)の争いになってる
むしろ関東は南北よりも東西での争いが割と多いのは歴史的にも結構有るし
千葉は首都圏となってるとしても栃木と茨城は言語学者によっては関東よりも東北方言に含める人もいる(勿論異論反論も多いが) 奥州藤原氏は平家側について、頼朝の勢力がまだ小さいうちに攻め滅ぼしておけば
よかったのではないか?
石橋山の合戦当時なら、奥州藤原氏が本格的に平家側に加勢すれば、頼朝はかなり
不利になる
関東が割拠状態にあるほうが奥州は安泰になる >>130
その頃の奥州って越後城氏(平氏)とやり合ってるよね
なんか理由があるはずなんだけど 二代基衡と惟常の兄弟争いで、
惟常は越後へ逃れたが奥州軍に追撃されて討死した
だから越後と奥州の関係は深いとみられる 伊豆国と甲斐国は関東だな
古代ならもっと東まで関東
奥州藤原氏健在の頃は今の中部地方の東半分が関東だろうか 奥州が京都から遠すぎるんだよな。せめて日本海あたりに進出して
もっと勢力ふやせなかったのかな?
初期に頼朝と組んで日本海側から京都に攻め入ってたらいい感じで天下三分できたんじゃないだろうか? 日本海には進出してる
渤海国とも交易してる
ちなみにこの時期飢饉の京都に入ったら木曽義仲の二の舞は避けられないよ 義仲と違って奥州藤原は公家との交流は清衡以来あったから粗忽なふるまいはないだろう
>>124
頼朝が使っていた言葉は「天下草創」
頼朝は天下を取るというよりも、自分が天下の政道を新たに草創すると意識していたのだろう 粗忽な振る舞いはなくても先立つ物がなければ食料は略奪に頼らざるをえないよ 奥州藤原氏は血統による正統性がなかったからな。所詮は俘囚の長ってだけだし。 奥州藤原氏は中央貴族の藤原氏の一族か縁者であることは間違いないのではないか?
東北に土着して、独立した生活圏を作ろうとした
その点においては、他の関東武士似ているとも思う
異なるのは、支配領域が広大であること、突出した経済力・文化力を持っていたこと、
俘囚と呼ばれた化外の人々の住む僻地にあり、どこか異質さを感じさせることだ 奥州藤原氏が号令かけても奥州以外からは兵は集まらないと思うけどな。なぜか?それは俘囚だからとしか言いようがない 戦乱のどさくさに朝廷の足元見てやっとこさ陸奥守ってレベルだもんなあ ジャニーさん亡くなったっぽいが
ジャニーズも滅びるのかしら? 祖先が中央貴族出身でも、地方に土着した武士で国司に任官できる者は少なかったと思う
まして陸奥は大国であり、陸奥守の地位は決して低くない
地方武士は在庁官人になるケースが多かった
国司になれるのは、院や摂関家と縁が深く、京都にも拠点を持つ軍事貴族クラスではないか 結局は天下を掌握して朝廷を呑み込まないと。最終的には鎌倉みたいに攻められるんだから >>144
国司って介ぐらいまででしょう?大掾くらいまではあるのかな?目や史生は無いよね。 執権の北条氏や有力御家人の三浦氏も相模国の在庁官人だったね
関東武士で国司(守、親王任国の介)クラスの官位を持っていたのは、志太先生義広、
足利義康など中央とパイプのある軍事貴族が中心だったね
そう考えると、従五位下・陸奥守にまで昇った藤原秀衡は、鎌倉幕府以前の東北の
豪族としては、非常に高い地位にあった貴人と言える 奥州藤原氏は、元来は「権守」クラスの官位に就く可能性のある有力な在庁官人であったらしい
清衡・基衡のころに押領使となって地位を向上させ、秀衡のころには国守にまで至った 当時の天皇が源平合戦を調停できなかったのかな?
で平家を九州王 源氏を関東王 奥州藤原を奥州王
とかにすれば中国の歴史っぽくなって面白そうなのに。 さすがに臣籍に降って何代も重ねちゃってる家に王号をってのは無理がある 当時の朝廷の考え方は、源氏・平氏とも兵事を分担する軍事貴族だったと思う。
ただ、平氏が摂関家をもしのぐ権門になり過ぎたので、源氏を使って牽制して、
元の役割に戻したいという考え方だったと思う。
一方、奥州藤原氏は辺境の在地勢力なので、陸奥守くらいの官位を与えて、中央に
なびかせた上で、ゆるやかに秩序に組み込もうとしていたと思われる。 義朝など源氏が関東で内ゲバやってた頃がチャンスだったな そもそも奥州藤原氏は藤原経清という下級貴族が先祖なわけで、
奥州の地方政権としては意味のある存在となったけど、
日本全体から見ると、帝のながれを汲む源平とはカリスマとしては比べものにならなかったろう。
自分的には面白いけどねw 血統は藤原と安倍のハイブリッドで家系は清原
奥州支配には安倍と清原との関わりが必要不可欠 義家が手に入れた奥州を横取りされたという意識が頼朝にはあっただろうから
結局はどういう態度を取っても難癖付けて滅ぼしただろう
奥州を征服する過程を頼義、義家に重ねて源氏の正統をアピールする場にもしたかっただろう 頼朝の奥州征伐て鎌倉幕府にとって一番重要なデモンストレーションだよな。やらないとか絶対にありえない 藤原、安倍、清原の集合体が奥州藤原氏だけど坂上氏も一員として名前が見える
将門の乱でも副将に坂上遂高がいるから弓馬の道を家風にした坂上氏が土着してて取り込んだんだろう 清和源氏、桓武平氏も鎮守府将軍を歴任して奥州関係者だよ。武家の形成に関東と東北の戦乱は欠かせない。 奥州藤原氏は藤氏とはいえ武家の秀郷の末裔
都の平氏は伊勢平氏で国香の末裔
鎌倉幕府の御家人は平将門の縁者の末裔が多く
ある意味で関東武士による平氏と奥州藤原氏の
討伐は将門の乱の延長といってもよい 将門〜鎌倉まで武家貴族内の頂点争い。争いを利用して怠けてた院が勝ち残った頼朝公や北条氏に太刀打ちできないのは当然の結果。 後白河は兄や弟や妹や息子と権力闘争を重ねてきてて怠けてないぞ
権力基盤が脆弱すぎて積極的に動けないだけで 後白河は鳥羽天皇の四男坊にすぎなかったのに
皇統の主流になれたのは
策謀の限りを尽くして勝ち残った結果 >>166
嘘教えんなよ
前九年の役で負けた安倍氏の流れだぞ そんなの言い出したら坂東平氏だって大半が借り物にならない? 秀衡が生きてれば義経を大将に
大戦争が見られたんだけど
それで喜ぶのは後白河だから
無くて良かったんだよ 天下は狙ってない
最初は後白河救援のため頼朝と協力する気だった
でも清盛が死んで宗盛が後白河院政を復活させたからやる気がなくなった
あとは内乱に乗じて会津を城氏から奪って勢力拡大
頼朝に警戒される 藤原氏の領域も上は厨川から下は白河の関あたりまでだよな。青森や越後よりの秋田は別の勢力 奥州市江刺を中心に行われる大河ドラマ「麒麟がくる」岩手ロケ
とり直し〜
https://oshu-fc.jp/extra_tsuika0927/
歴史公園えさし藤原の郷
https://www.fujiwaranosato.com/
【お知らせ】2020年大河ドラマ「麒麟がくる」復旧工事に伴う見学規制について
9月17日(火)から10月4日(金)までの予定で、園内におきまして2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の復旧工事を行っております。
見学個所につきまして、若干の規制がございます。
ご迷惑をおかけしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。 奥州藤原氏は、基本的には中央政府と良好な関係を保って、奥州の在地支配を認め
させる方針だった。中央から来た国司を丁重に迎え入れているし、藤原基成のような
中央貴族を顧問のような立場で処遇している。
源義経を保護したのも、軍事貴族の血筋の義経を、中央に対する何等かのカードに
しようとしたものだろう。
また、奥州藤原氏自体は、在庁官人クラスの家格だったと言える。
秀衡の代に家格を上昇させながら、王朝国家の枠で生存を図る勢力だったと思う。 天下を掌握しないといずれは滅ぼされる
奥州だけ安泰とかはありえないよ 「兵力分散」つうのも結局は総兵力あればこその話なんだよね
奥州藤原氏が鎌倉幕府に負けた理由を兵力分散のせいにする人いたけど
「昔の東北じゃまず兵隊の数がそろえられなかったろ」と思う(まして福島県の半分は鎌倉に味方したと思われ) 平泉の人口は結構なもんだったけど、内輪揉めしてる時点で……だしなあ 秀衡は、義経と一緒に頼朝と戦え、みたいな遺言残して逝ったのに、後継の無能泰衡が義経と義経新派を殺害しちまった。
この時点で奥州終了 奥州藤原氏の支配領域って上は厨川から下は多賀城あたりまでかな?
吾妻鏡だと清衡は津軽から白河関までとあるけどさすがに広すぎるわな 当時の東北って公領一色の世界だし畿内や関東と比べたら一円進止的だったと思うけどね
税負担も正税(年貢)じゃなくて力役や牛馬、狩猟物といった雑公事が主体だからね
江戸時代以降の年貢一本の世界観を投影したらダメよ 北海道の蝦夷や、満州の渤海とも交易して稼いでいたらしいね
源頼朝に滅ぼされなければ、奥州は半独立国家になっていたかも なぜ阿津賀志山で直ぐ負けたの
奥州は20万騎じゃないの 一枚岩じゃないから
関東における源氏と同じように、院や朝廷に強いパイプ持ってる奥州藤原氏に従ってた忠誠心の薄い奴らの集まりだったから 関東の兵は源平合戦を生き抜いた百戦錬磨の猛将たちだ。例え20万いたとしても、100年の平和に甘んじていた奥州兵たちがかなうはずもなく 源義経が東北軍団を指揮していたら、東北軍が勝っていたかもしれん 酷な言い方だが、
奥州藤原氏に幻想を抱いていたのかな >>164
三春の元大名 田村一家は坂上田村麻呂の子孫を自称していたと思ったが
先祖が田村麻呂の落胤という設定 >>186
そんな公領一色ということもない
二代藤原基衡と悪左府藤原頼長が奥州の荘園を巡って紛争を起こしているほどだ
>>185
義経に付き従った佐藤氏が信夫(福島県北部)の豪族だからな
それに青森の日本海沿岸の十三湊は奥州藤原氏の貿易港だったし、
地域によって支配力の強弱(濃淡)はあるだろうけど、
陸奥国の全域に勢力を振るってたのは間違いないかと 陸奥、出羽の主要部を点と線で結んだくらいには勢力及んでいたかもだな 十三湊は西洋人やアラブ人の商人も滞在する東洋随一の国際貿易都市として繁栄したが、
室町時代に起こった大津波によって消滅した、という古文書があるな
武家屋敷に混ざって教会やモスクもあるエキゾチックな都市だったらしい 奥州藤原氏が生き残るには、平家と共に東西から鎌倉を潰すしかなかったな。
侵し侵されずなんて夢のまた夢。 藤原基成とその娘は歴史上音沙汰なしになっちゃったけど、実際はどうなんだろうね?
藤原秀衡の妻だったのが国衡だっけ?の妻になり、
家中の統一を図ったみたいだけど、やっぱり殺されたのかね >>193
花巻市の三熊野神社にある旧成島寺の十一面観音像の胎内銘に「縁女伴氏・坂上最延・承得二年年二月十日像顕」とある
平泉の中尊寺でも関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とある
坂上氏とか小野氏みたいな将種は源姓や平姓の台頭で検非違使くらいしか活躍の場がなくなった
それに目をつけた源満仲が多田院の私兵に検非違使を世襲してた坂上氏を起用して武家団を作ったように
安倍氏や奥州藤原氏も武力として東北地方に土着してた坂上氏を取り込んだんだよ
だから奥州藤原氏の周りに坂上最延とか坂上季隆とか坂上氏の名前が出てくる
三春田村氏は仮冒だろうけど
>>196
東日流外三郡誌の中の東北なら奥州藤原氏滅びないよなぁ >>196
その古文書は偽書らしい
室町時代に十三湊を支配していた津軽安東氏が南部氏に敗れ蝦夷に逃亡したあたりから衰えたらしい
そして砂の堆積で港機能低下
16世紀後半には再び整備され、弘前藩の重要港湾として利用されていた 十三湊にモスクや教会?
徳川家康のキリスト教禁教令で京阪のキリスト教会が津軽に流刑になったらしいから、もしかしたら十三湊にキリスト教会はあったかもしれないが
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