奥州藤原氏って天下狙ってたの?
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藤原氏の領域も上は厨川から下は白河の関あたりまでだよな。青森や越後よりの秋田は別の勢力 奥州市江刺を中心に行われる大河ドラマ「麒麟がくる」岩手ロケ
とり直し〜
https://oshu-fc.jp/extra_tsuika0927/
歴史公園えさし藤原の郷
https://www.fujiwaranosato.com/
【お知らせ】2020年大河ドラマ「麒麟がくる」復旧工事に伴う見学規制について
9月17日(火)から10月4日(金)までの予定で、園内におきまして2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の復旧工事を行っております。
見学個所につきまして、若干の規制がございます。
ご迷惑をおかけしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。 奥州藤原氏は、基本的には中央政府と良好な関係を保って、奥州の在地支配を認め
させる方針だった。中央から来た国司を丁重に迎え入れているし、藤原基成のような
中央貴族を顧問のような立場で処遇している。
源義経を保護したのも、軍事貴族の血筋の義経を、中央に対する何等かのカードに
しようとしたものだろう。
また、奥州藤原氏自体は、在庁官人クラスの家格だったと言える。
秀衡の代に家格を上昇させながら、王朝国家の枠で生存を図る勢力だったと思う。 天下を掌握しないといずれは滅ぼされる
奥州だけ安泰とかはありえないよ 「兵力分散」つうのも結局は総兵力あればこその話なんだよね
奥州藤原氏が鎌倉幕府に負けた理由を兵力分散のせいにする人いたけど
「昔の東北じゃまず兵隊の数がそろえられなかったろ」と思う(まして福島県の半分は鎌倉に味方したと思われ) 平泉の人口は結構なもんだったけど、内輪揉めしてる時点で……だしなあ 秀衡は、義経と一緒に頼朝と戦え、みたいな遺言残して逝ったのに、後継の無能泰衡が義経と義経新派を殺害しちまった。
この時点で奥州終了 奥州藤原氏の支配領域って上は厨川から下は多賀城あたりまでかな?
吾妻鏡だと清衡は津軽から白河関までとあるけどさすがに広すぎるわな 当時の東北って公領一色の世界だし畿内や関東と比べたら一円進止的だったと思うけどね
税負担も正税(年貢)じゃなくて力役や牛馬、狩猟物といった雑公事が主体だからね
江戸時代以降の年貢一本の世界観を投影したらダメよ 北海道の蝦夷や、満州の渤海とも交易して稼いでいたらしいね
源頼朝に滅ぼされなければ、奥州は半独立国家になっていたかも なぜ阿津賀志山で直ぐ負けたの
奥州は20万騎じゃないの 一枚岩じゃないから
関東における源氏と同じように、院や朝廷に強いパイプ持ってる奥州藤原氏に従ってた忠誠心の薄い奴らの集まりだったから 関東の兵は源平合戦を生き抜いた百戦錬磨の猛将たちだ。例え20万いたとしても、100年の平和に甘んじていた奥州兵たちがかなうはずもなく 源義経が東北軍団を指揮していたら、東北軍が勝っていたかもしれん 酷な言い方だが、
奥州藤原氏に幻想を抱いていたのかな >>164
三春の元大名 田村一家は坂上田村麻呂の子孫を自称していたと思ったが
先祖が田村麻呂の落胤という設定 >>186
そんな公領一色ということもない
二代藤原基衡と悪左府藤原頼長が奥州の荘園を巡って紛争を起こしているほどだ
>>185
義経に付き従った佐藤氏が信夫(福島県北部)の豪族だからな
それに青森の日本海沿岸の十三湊は奥州藤原氏の貿易港だったし、
地域によって支配力の強弱(濃淡)はあるだろうけど、
陸奥国の全域に勢力を振るってたのは間違いないかと 陸奥、出羽の主要部を点と線で結んだくらいには勢力及んでいたかもだな 十三湊は西洋人やアラブ人の商人も滞在する東洋随一の国際貿易都市として繁栄したが、
室町時代に起こった大津波によって消滅した、という古文書があるな
武家屋敷に混ざって教会やモスクもあるエキゾチックな都市だったらしい 奥州藤原氏が生き残るには、平家と共に東西から鎌倉を潰すしかなかったな。
侵し侵されずなんて夢のまた夢。 藤原基成とその娘は歴史上音沙汰なしになっちゃったけど、実際はどうなんだろうね?
藤原秀衡の妻だったのが国衡だっけ?の妻になり、
家中の統一を図ったみたいだけど、やっぱり殺されたのかね >>193
花巻市の三熊野神社にある旧成島寺の十一面観音像の胎内銘に「縁女伴氏・坂上最延・承得二年年二月十日像顕」とある
平泉の中尊寺でも関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とある
坂上氏とか小野氏みたいな将種は源姓や平姓の台頭で検非違使くらいしか活躍の場がなくなった
それに目をつけた源満仲が多田院の私兵に検非違使を世襲してた坂上氏を起用して武家団を作ったように
安倍氏や奥州藤原氏も武力として東北地方に土着してた坂上氏を取り込んだんだよ
だから奥州藤原氏の周りに坂上最延とか坂上季隆とか坂上氏の名前が出てくる
三春田村氏は仮冒だろうけど
>>196
東日流外三郡誌の中の東北なら奥州藤原氏滅びないよなぁ >>196
その古文書は偽書らしい
室町時代に十三湊を支配していた津軽安東氏が南部氏に敗れ蝦夷に逃亡したあたりから衰えたらしい
そして砂の堆積で港機能低下
16世紀後半には再び整備され、弘前藩の重要港湾として利用されていた 十三湊にモスクや教会?
徳川家康のキリスト教禁教令で京阪のキリスト教会が津軽に流刑になったらしいから、もしかしたら十三湊にキリスト教会はあったかもしれないが
イスラム教徒はさすがに無理だろ 江戸時代は下北半島の港がメインじゃなかった?ありゃ南部藩になるのかな >>197
奥州藤原氏 源頼朝 木曾義仲 平氏 か? 東日流外三郡誌は、一般に知られている明治写本は誤字が多いから、史料として用いる
のはやめたほうがよい
史料として用いるなら、寛政原本を参照すべき >>208
それ放置してたら勢力圏の被る平家と木曾義仲が勝手に潰し合うやつだ 鎌倉幕府さえ潰れていれば、奥州藤原氏は安泰だった。
源頼朝が挙兵したとき、藤原秀衡は平氏方に加勢して、初期の段階で討ち取って
おくべきだった。 >>211
頼朝旗揚げ当初くらいだと奥州は平家方の越後城氏と喧嘩してたよ 城は義仲にやられたな。義仲との同盟はなかったのか?頼朝と義仲が和睦したからダメかな? >>213
義仲が後白河と協調路線とってけるならいける
具体的には倶利伽羅以降、義仲が京で認知されて以降、京に攻めのぼる前なら可能性はある
京に入って以降は破綻一直線なので無理。詰んでる 義仲が京に入って詰まないシナリオは後白河が平家に捕まって一緒に都落ちした時くらいか >>216
居たら義仲と対立しちゃうし……
あとはもう甲斐源氏や行家に上洛の権利を進呈してババを押し付けるしか…… >>211
まあ平家と源氏がずっと争い続けて膠着状態なら奥州は安泰だったよなw
ちょっと秀衡も見通しが甘かったかもしれん 後白河頼みだったからな秀衡
亡くなったら院宣なしで頼朝が攻めてきちゃった… >>32
頼朝はスターリンみたいに残忍だから、たとえ秀衡が義経を差し出したとしても、
「わざわざたよってきた源氏の御曹司を見捨てるとはその罪は看過できない」とかいって
攻撃を仕掛けて来ただろう。
頼朝にとってはどうあっても奥州藤原氏は滅ぼされるべき相手であった。 >>209
そんなもの存在しない
全編和田喜八郎の作。 >>222
治承寿永の乱の時系列だとどのみち飢饉で動けない
無理に動いた結果が史実だし 養和の飢饉の時のことなら北陸は飢饉にはなってないよ 確か藤原泰衡はもう鎌倉の従者なんだからいちいち宣旨なんかなくても罰していい、という論理だったよね奥州合戦は 秀衡やその子供達は毎日何を食べたんだろう?
滅茶苦茶興味ある
天ぷらや味噌汁はまだなかったんだよね? 歴史の扱い方について
「東日流外三郡誌」では、天井裏から、古文書が落ちてきたと、そこにドラマティックな新説があったと称して騒ぎ、大河ドラマにも採用された。
その後、発見者の捏造とわかり、これも、自身だけが楽しみ、周りは騙された「私物化された歴史」にすぎなかった。純粋な大衆を欺く、この様な行為を聞くと心が痛む。
http://www.ikoma-yashiki.com/?p=247 >>229
頼朝の論理だと、奥州藤原氏は「累代の家人」の家柄に過ぎない。主君である自分が
家人を成敗するのは当然であり、宣旨による許可を要しないというものだ。
奥州藤原氏は広大な領域と莫大な経済力を有する名族でありながら、家格は在庁官人
に過ぎず、「身分の卑しさ」が常につきまとう。
秀衡が息子たちに残した遺言も、「義経を大将軍に立てて、鎌倉軍と戦え」という
ものだった。義経という貴種なくして団結できないし、戦う名分も立たない政治的な
弱さが奥州藤原氏にはある。 なるほど。鎮守府将軍や陸奥守では権威が足りなかったのか。藤原基成との姻戚もあまり役に立ってないっぽいね だって頼朝、というか鎌倉殿が立場的に完全上位互換だもん
役に立つはずがない 鎮守府将軍や院近臣のコネが役立たずなんじゃなくて上位の職権やコネで無効化されただけなんよ 遼や金の皇帝の権威と武力を利用できてれば内地の連中にむざむざ負けなかったのにな 平氏が南宋とつながってたように、奥州藤原氏が遼や金とつながっていても何の不思議もない。 まあどっちも海越えて攻めてくる義理も体力もないけど 奥州藤原氏は土着して地域を支配する土豪であり、中央から貴族の身分にある者が
陸奥守として赴任していた。頼朝の脅威に晒されていた平宗盛が懐柔目的で晩年の藤原秀衡を
陸奥守に着けた。土着の豪族の秀衡が陸奥守に着くのはかなり身分違いで異例のことだったらしい。
秀衡は代々の貴族の身分を持ち鎌倉殿の地位にある頼朝に対抗するには、貴族の身分のある義経を
立てるしかないと考えていたに違いない。 頼朝の先祖に当たる頼義が陸奥守で、秀衡・泰衡の先祖に当たる常清がその家人だった
ということを、頼朝はことさらに強調するね
頼義が常清を残虐な方法で処刑したことも、先例として意識されている 秀衡は大陸と交易してたんだから、金王朝に援軍を頼めばよかったのに。 海越えて来れるわけないだろ
というか金にメリット皆無じゃないか 刀伊の入寇みたいに女真族が日本海を渡海して九州を襲った例もあるんだが >>247
経清な
奥州合戦は全て頼義を擬して行われてる。厨川柵での泰衡討伐は安倍貞任に倣って、首を晒したのも同じ 海越えた先にある程度の勢力が出来てる時点でデメリットの方が大きくなってる 当時の航海技術では、馬を海上輸送できなかったから、金から騎馬隊を呼ぶことはできない。
歩兵なら呼べたかも知れないが、どれくらい戦力になっただろうか?
また、当時の東北の生産力では、兵糧米の調達に限りがある。
奥州合戦で奥州藤原氏側が3万人くらいしか動員できなかったのも、当時の東北の生産力の
弱さに起因している。 藤原真衡が源平から婿養子夫婦を迎えようとしたのは間違ってはいなかったんだな。凄い先見の明だな 頼朝が平家を滅ぼすのを、ただ奥州藤原が指をくわえてみていたのが何とも悔やまれる
平家が滅べば、次の頼朝の矛先は自分たち奥州藤原なのに
さながら秦の始皇帝が各国を滅ぼしていく中で、
何も動かず、最後になって秦に滅ぼされた斉をみているようだ
一ノ谷の戦いで平家は屋島へ逃れたが、
ここで奥州藤原氏が外交方針を転換して屋島の平家を軍事的に支援する動きをすればよかった 奥州藤原氏の北方交易は北海道、サハリン、アムール川と北回りで金とつながっていたのだろうか?
それとも日本海を横断して、金統治下の沿海州と直接往来していたのだろうか? 源義経が頼朝と互角に張り合えるような勢力を持てば、義経との関係から、奥州藤原氏としても恩恵が期待できると思ってたんだろうなあ。 >>257
平宗盛は藤原秀衡を陸奥守に任官させて厚遇し、平家陣営に入れようとしていた。
秀衡が頼朝の背後を攻撃すれば、平家と奥州藤原氏に挟撃された頼朝は、二正面作戦になり、
かなり苦しんだはずだ。
秀衡は早期の段階で平家側に立ち、頼朝を殲滅する方針を立てるべきだった。
陸奥守任官で、在庁官人から受領にまで家格を上昇させ、従来より繁栄することができた。 金から国王に冊封してもらった方が効果的だったと思う。 久し振りに「炎立つ」の第一部を観たんだが何だろう、泣けるw
経清の渡辺謙と貞任の村田雄浩がハマってるわ。
高橋史観が入ってるのは充分承知なんだがそれでも泣ける。今の大河じゃ無理だな。 ♀_(`O`)♪おら岩手さいくだ
おらコロナ五輪いやだ
おら強盗キャンペンいやだ 藤原氏全般に言えるのはトップ(天皇や将軍)になるDNAはもとよりなかった。
あくまで参謀の器だ。
あれこれ卑怯な作戦や謀略を立てるには優れている。が、なんせ人徳のなさは家系の特徴なのでついてくるやつがいない。
日本の歴史の中では色々目立ったこともあったが、最後は馬脚を現してしまった。
すべて真に人徳がなかったせいである。 >>261
あと奥州藤原氏は平家与力の常陸佐竹氏とも縁があったので富士川の合戦に至る前に連携して鎌倉を牽制してたらなと。
頼朝に所領を叩き出されるまで徹底抗戦した志太義広も巻き込めればと思う。(佐竹と志太、どっちが常陸の代官になるかはおいといて) 当時は平家、朝廷、中央貴族ともに、奥州藤原氏の東北支配を認める方針だった。
奥州藤原氏側も中央から赴任してきた国司を丁重に饗応し、都に多額の献上を行って
いた。だから、平家の政権が続く限り奥州藤原氏は安泰だった。
近隣の新興勢力となった鎌倉幕府こそが最大の脅威だった。 といっても平家政権のままだったら越後城氏が会津に喰い込んだままだっただろうし
勢力拡大は望めそうにないなあ 奥州藤原氏は関東や越後に進出するより、本州の支配領域は奥羽二国に留めて、蝦夷島
(北海道)に新領地を求めるほうがよかったと思う。
そのほうが関東の在地勢力との摩擦や中央の平家との対立を避けて、勢力拡大できた。 石橋山で頼朝が戦死してたらどうなっていただろうね? 頼朝は源氏の旗印と言うだけで、特段の軍事的センスがあったとは思えないから
千葉氏等の源氏方が一時的に勝利を収めた後に
結局北条氏の手中に実権が渡ることには変わりがないのでは。 鎌倉政権の名目なら北条より上、いくらでもいたからね
安達、梶原、千葉、畠山、三浦、秩父、相馬
みんな名門ばかりやが北条自体が頼朝の内臣にすぎんからね 279
幅将軍、源範頼
軍奉行、源義経
頼朝がおっこしちまっただ 訂正
279
副将軍、源範頼
軍奉行、源義経
頼朝がおっころしちまっただ 奥州藤原家埋蔵金、豊臣家埋蔵金、徳川家埋蔵金が、探し当てられつつあります 15年前義経の追われるルートに沿って最後の平泉まで旅行したら
一気に運気を落として貯金がゼロどころか借金人生に転落
勇気ある人はやって検証してみないか? >>283
範頼も挙兵に失敗・敗死。
さて義経はどうする? >>279
源頼朝が石橋山合戦で亡くなっていたら、関東武士団は求心力を失い、鎌倉政権の成立が
遅れた可能性はある(他の源氏貴種が擁立される可能性はあるが)。
そうなると、都の平氏政権もしばらく続くことになり、平氏・鎌倉・奥州で勢力が均衡する。
したがって、奥州藤原氏も泰衡の代まで安泰だった可能性がある。 源頼朝が石橋山合戦で生き残ったとしても、その後若くして亡くなっていたら、その後を
源義経が継承していた可能性がある。義経は頼朝の猶子の地位にあった。
奥州藤原氏と近い関係にある義経が鎌倉殿になっていたら、奥州藤原氏と鎌倉政権との
円満な関係が続いていた可能性が高い。
平泉の藤原泰衡が鎌倉の義経に多大な影響を行使していたに違いない。 >>292
当時の頼朝は30代半ばくらいだから、若くもないが年寄りでもないな ガースー「強盗トラブルでアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 もりけん「再生なんちゃらが1.1を越えたぞ、よしかわ君!」 奥州藤原氏は広大な領地、経済力を保有しているが、身分は在庁官人に過ぎず、平家や
源頼朝のような貴族とは違う。
だから、広範な武士が推戴する対象にはなり得ない。
地方勢力にはなっても、天下を狙う勢力にはなり得ない 奥州藤原氏は超過大評価
日本史を教える時にやたら時間を割いて教えたがることがあるが
そんな時間を割く奴らないじゃない代表
マニアだけ学べばいい あの時代の奥州すごーい!プロパガンダ今でも平気で通じるのな 私は支配者じゃないこの地を天から預かってるだけ
信心深いくせ全然達観出来てない平家や源氏には絶対吐けない台詞
あれだけ殺しまくって死んだら自分だけ極楽に行こうとする頼朝の根性w
血筋だけであそこまでつけ上がれるんだから、天皇って宗教は怖〜〜いな
武士の世は終わったんだよ・・・頼朝は未来には要らない人 秀衡は陸奥守鎮守府将軍にも就いてるし、狙えるっちゃあ狙える地位と実力にはある。あとは貴種性だけだな。 藤原秀衡は平宗盛が味方に引き込むために陸奥守にしてもらったけど、もともとの家格は
在庁官人レベルで、受領になれるような身分ではなかった
都から赴任してきた受領を奉戴して在地領主としての地位を築いていた
だから、源頼朝に攻められるのに備えて、源義経を奉戴して一族で団結するように遺言した
広大な地域を持っているけど、単独で戦うには弱いんだよね >303
西国の海に沈んでろ、神気取りのうんこが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています