邪馬台国畿内説 Part476
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1561904355/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 奥山氏は、頑張れば、人生をやり直すこともできるな、、、 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 2013年、邪馬台国畿内説は、破綻しましたね、、、 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 >>43
>ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない
疑問だらけやろ ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
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以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 93誤植修正 なんでいまだに論破された畿内説がうろついてるんだ?
さっさと職安行って働けよ >>81
仕方ないよ、、
邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだもの。。。 論破なんてされてもないからうろついてるんだよん
文句あるか 奥山氏は、働けない状態なので、5ちゃんねるのプロ固定として、歩合でこき使われている可能性があるな。。。 九州説もいい加減説でも何でもない呪文を唱え続けるのをやめたら
このスレでそんな事しても畿内説の定説にはまっったくの影響なんてないから 奥山氏は、ボランティア活動で、専門学部では破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している可能性もあるな、、、 >畿内説の定説
ひょっとしてこれギャグで言ってるのか? 嘘は真実で覆るが
真実が嘘で覆される事はない
わかったか九州説よ覚えておけ 僕達は、魏志東夷伝という、魏志倭人伝を含む文章を発見したのだったな。。。 >>86
>このスレでそんな事しても畿内説の定説にはまっったくの影響なんてないから
じゃあこんなクソスレ立てるのやめればいいのにw
世の中の人がなかなか畿内説を信じようとしないからこんなスレたてて活動しているんだろ? 最近思うのだが
邪馬台国論叢は仮説が多いと思う
事実重視がなおざりにされ、結論ありきの仮説に走っているのではないかな
特に纏向は仮説からの個人的な推論ではないかと思う
どなたかが投稿していたが
纒向の出土品から邪馬台国の王都へ導きだすのは???論より、推論であろう
だから、古墳造営基地とか干拓基地との推論も成り立ってしまう
纒向が王都なら軍事能力を持たないし、集落跡も無い、
畿内説もいいだろうが、纏向以外の論を展開すべき局面に来てると思う
纒向は畿内説を滅ぼす >>88
普通に学説である畿内説には定説が存在しているよ
九州説は学説じゃなく素人の思いつきだから定説なんてものは存在してないけど 説でも何でもない罵り言葉しか出てこない時点で九州説の負け 九州・佐賀川上定説は 短里でピッタシ合っている
方角さえもピッタシ、めでたしめでたし >>94
魏志東夷伝という文章は、命がけで翻訳して、世界に発表すれば、日本列島から在日プロ固定を駆逐出来る可能性があるね、、、 >>92
>特に纏向は仮説からの個人的な推論ではないかと思う<
賛同する 学者と言われる人の資質が問われてる >>92
相変わらず
ひとことも根拠を言わないんだな
だから九州説はトンデモと呼ばれるんだ >>97
1里80mの短里なんて中国の歴史上存在してないし
邪馬台国は帯方より1万2千里会稽東治の東で沖縄のあたりと魏志倭人伝に書かれているので
計算すると1里140mくらいになり魏志倭人伝自体が短里で書かれていない >>99
九州説は人間としての資格が問われてるぞ
下劣な荒らしや嘘ガセネタで自分たちの信用落としまくりじゃないか 畿内説なんて根拠は邪馬台とヤマトの音が似てそうっていう個人の感想だけじゃん 会稽東冶と末盧→伊都の方位で
もう九州説崩壊してんだろ >>104
実際似てるわけだが
根拠は他にもたくさんあるんだよ >>104
それ、個人の感想じゃなくて客観的な事実です >>104
畿内説をそう卑下すると
九州説は個人の感想に負けた事になるぞ
それでいいのか >>102
>そりゃ短里から比定地決めたからだろ
里の長さが普通と同じだとすれば畿内どころかもっと遠くにまで行ってしまうんだが >>1=奥山さんでいいかな
FAQ93ですが
畿内をそこまで広めるのはどうかと思います
特に雲出川ルートは丹目当てとしか映りません
雲出川ルートであれば伊勢・尾張まで邪馬台国の勢力下に入ります
狗奴国を遠くに持って行くのは良いのですが、狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・ 個人ったって古代から今に至る長い間の膨大な数の個人たちね >>92
>論叢
珍しい文字使いをするねww
無理に日本語使わなくてもいいんだよw >>110
>里の長さが普通と同じだとすれば畿内どころかもっと遠くにまで行ってしまうんだが
どうして?
理由は?
九州説はどうしていつも理由を言わないの? >>110
実際魏志倭人伝にはそう書いてあるし
だから畿内説は魏志倭人伝の距離方位は間違いと主張している
どっかの説みたいに1里200mくらいにすれば畿内とはやらない >>110
>里の長さが普通と同じだとすれば畿内どころかもっと遠くにまで行ってしまうんだが
距離は畿内説有利というのは、萬二千里をそのまあ当てはめると、ではなくて
北部九州まで来たあとの、水行二十日+十日、陸行一月が畿内説だとスムーズだからだよ
九州説は、陸行一月を一日だと言い張るとか、水行の起点を帯方郡に意味もなくずらすとか
苦し紛れをやらないと説明できない時点で無理筋 >>110
陳寿の記述を正しく読めば邪馬台国ははるか南の海にドボン
ゆえに行程の方位や距離には致命的な誤情報が混ざってる
こう畿内説は主張しておりますんですがな >>94
魏志東夷伝という文章は、命がけで翻訳して、世界に発表すれば、日本列島から在日プロ固定を駆逐出来る可能性があるね、、、 >>92
>纒向が王都なら軍事能力を持たないし、
纏向遺跡内のホケノ山古墳から鉄鏃60本出てますが?
>集落跡も無い
纏向遺跡で編年研究に使われるほど大量に出ている土器は「飯炊き甕」
この大量の飯炊き甕で炊いた食料は誰が食べたのかな?
大勢の人々が纏向遺跡でご飯を食べていたのは確実ww
でも人がいなかったって言いたがるのが九州説 >>121
>在日プロ固定
連続句読点の自己紹介? >>100
アンタは宗教だよ
纒向の調査はまだ5%なのですよ
断定するには早すぎますよ
推理はご自由に >>107
古代の発音判明したのか 新発見じゃね
卑弥呼はなんてーの >>76
きないせつは破綻してねーよ
破綻してるのはこのスレ >>117
>北部九州まで来たあとの、水行二十日+十日、陸行一月が畿内説だとスムーズだからだよ
北部九州までは短い里で表記されていて、その後は正しいってことになるな
都合のいいところだけ正しいことにしているね
いつものことだけど 倭と書いてヤマトと読ませるなんてすげえ作為的なんだよなあ ヤマトの字意は山の入り口山戸
戸はトともドとも読む
かつてはドだったのが次第にトになっていったのかも >>95
お里が知れるよww
本当に奥村は馬鹿だな
わざわざ全一病なんて入れる所がかわいいお馬鹿さん
貼りつかないで学を積めよな
おもろいけど >>131
>倭と書いてヤマトと読ませるなんてすげえ作為的なんだよなあ
じゃあ
猿と書いてサルと読ませるのは作為的じゃないのか? 奈良からはもう何も出てこないから
畿内説の高ぶりもここまでだな >>131
日本にはかつて漢字の存在してない時代があった
なので中国の漢につけて貰った倭という字に自分達の国やまとを当てていた
漢字の読みが違う字は国内に漢字がなかった頃の名残 >>124
ほら、また「早すぎる」という理由を言わない
根拠もなく決めつけるだけ
そういうのを妄想という
九州説はみんなそう >>133
早く全1病が治るといいね
つける薬はないみたいだけど >>136
倭は倭国やん
倭と書いてワを名乗るならまだわからんでもない
ヤマトを名乗るなら邪馬台と書いてりゃ良かったのにな >>122
1、時代考証は?ホケノは畿内説ではどのような位置づけ?
2、3世紀に纏向近辺に人が居ないとは誰も言ってないよ
都市の定義を語れよ 纏向に運搬用水路があればそれなりの都市を匂わせる集落あるだろ
>>138
見え見えなのに気付かないのは重症だぞw >>139
耶麻騰、野麻登、椰麽等、夜麻苔
也麻等、夜末等、夜万登
などとも書いてるよ >>143
そういうのを妄想というんだぞ
それもかなり病的な 92 99(自演) 111 124
125 128 133 142 >>144
そう
本来なら地名をそう書くべきだった >>139
だからその頃は漢字がなかったと言ってるだろ
魏と大和が交流する200年ほど前に漢と奴国が交流し日本は倭という名前を貰った
時代が下ってやまとが主権を握ると漢からもらった倭の字を
あんまりいい意味じゃないと知らずに自分達の国やまとに当てていた >>130
>北部九州までは短い里で表記されていて
それ、根拠ないでしょ
計算根拠がない >>122
あとさー
吉野ケ里は邪馬台国の王都とは思わんが、纏向より古いのに都市機能満載ジャン
甘木・朝倉しかりだけどさーー
纒向は工事用キャンプ地、掘立柱建物は神社か官舎か斎場とは違うという反論を述べろよ >>141
3cの古墳あるし
それに時代が下ったからといって何かね?
中から3cのものが出てくるかも知れないじゃないか >>111
>特に雲出川ルートは丹目当てとしか映りません
主観w
w >>149
何言ってんだw
最初からヤマトを名乗ってたならヤマトの音の字を貰うだろうが >>154
貰わなくてもいいじゃん?
もっと古い時代から倭という字を使ってたんだから >>151
吉野ヶ里に都市機能とか、ある?
王もいないのに 現在は全角sage、半角ageだけど
時々入れ替わってるあたりが笑える 邪馬台国畿内説は、破綻したのだから、楽しめ良いのではないのかな、、、 >>148
>そう
>本来なら地名をそう書くべきだった
だから地名を
倭とも
耶麻騰、野麻登、椰麽等、夜麻苔
也麻等、夜末等、夜万登
とも書いてるよ >>84
>論破なんてされてもないからうろついてるんだよん
>文句あるか
強がるなよ。
前スレで明らかになったのは、畿内説は事実ではないことを前提とした砂上の楼閣だということ。 >>118
そうなんだよな
>論より証拠という言葉があってな<
畿内説は証拠よりなさすぎなんだよな・・
前方後円墳と三角縁神獣鏡に頼るしかないのかな >>158
それはワだよね
当時の中国からみると倭と書いてヤマトと発音するなんて思いもしないだろ
あるとき突然「倭」の文字をつかってヤマトを自称する集団が奈良に現れてしまった 邪馬台国九州説は、破綻したのだから、嘆けば良いのではないのかな、、、 >>89
>嘘は真実で覆るが
だったら畿内説を覆さないとな! >>157
どこが痛いって?
九州説は痛々しいけどさ >>93
>普通に学説である畿内説には定説が存在しているよ
身内だけの「コンセンサス」?
それとも神の手? >>163
>前スレで明らかになったのは、畿内説は事実ではないことを前提とした砂上の楼閣だということ。
どうやって明らかにしたの?
呪文でも唱えて? >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 >>122
>大勢の人々が纏向遺跡でご飯を食べていたのは確実ww
でも住んでいたわけではなく、一時的に日雇い工夫がたくさんいただけ。 >>159
王は居たと言ってねーし
村長は居ただろうな
逃げもここまでくるとあんたもおしまいだよ
「木を見て森を見ず」だなww >>163
へー
どう明らかになったの
本当なら前スレから引用してみな
>>165
それで九州説は何か出てるの?硯?ww
>>166
だから当時日本に漢字がなかったからな
倭をヤマトとしてたって別に不思議でもないだろ? >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 >>140
>>>135
>未発掘の古墳がわんさとあるんだが
発掘してから出直せ。
それまでは何の証明もされていない。 >>166
>当時の中国からみると倭と書いてヤマトと発音するなんて思いもしないだろ
猿と書いてサルと発音するなんて思いもしないだろ
それ、何か問題あるのか? >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 横からスマン
纒向は古墳に囲まれてるのは周知だが
環濠集落として、古代では日本の最先端を行っていたのか >>168
九州説はもう40年ぐらい頑張ってるけど逆に消滅しそうだけどね
>>179
別にしなくても今古墳から見つかってる三角縁神獣鏡等で十分
出てくるのは大体同じものだろうし >>175
都市機能とか看板だけ掲げて
具体的なことは何も言えない
さすがハリボテ九州説 >>159
>>>151
>吉野ヶ里に都市機能とか、ある?
>王もいないのに
王がいなくても都市として問題はないだろう?
多数の倉庫、金属器生産や機織り生産の痕跡など、分業化された生産体制があった。
肥前を管轄する国衙だったのだろうね。 >>174
>でも住んでいたわけではなく、一時的に日雇い工夫がたくさんいただけ。
調査した学者の意見はぜんぜん違うけどね >>183
マキムクは環濠集落ではなかった筈
柵はあったようだけど >>187
それならムラ程度でしょ
都市というのは外部に情報の発信をしたり他地方の人が足しげく來する場所だよ
吉野ヶ里は防御ガチすぎ
近くに敵がいたんでしょ >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 畿内説は考古学証拠があり過ぎちゃって困るなあ
魏志倭人伝のウソ読みしかできない九州説とは違って
そしてそれももう破綻 奥村ーーーーーー
キナイコシーーー
投稿しすぎーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
落ち着けーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 >>194
1は数量規制かかってて投稿してないと思うけどね >>198
スレ更新するとき、連投規制になんでならないんだろう >>159
>吉野ヶ里に都市機能とか、ある?
王もいないのに <
根拠は
王の定義は
答えられないなら去れ >>199
奥山図という史料か何かに重要なことが載ってるのか? 土器様式によって勢力圏を判断するという畿内説的思考で考えると、
東海政権がTOP政権となってしまう件www
■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。
■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。
■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土する。
これは纏向が東海政権の傘下にあった事を意味する。 >>191
肥前佐賀の吉野ヶ里の敵は肥後狗奴国でしょ。
肥前の国衙としては守りは固めなくてはいけない。
ただ、人口から考えると当時の狭い佐賀平野は大半が吉野ヶ里の領土でないと成り立たない。
環濠の中と外、さらには環濠の中でも様々な階層、職業の分化があったことがわかっており、都市と呼ぶにふさわしい。
あの規模の都市が長期にわたり成立し得たということが、弥生時代においてすでに筑後川河口付近は灌漑が行われて穀倉地帯であったことを証明している。 >>204
こうやって比べると九州説の稚拙さがよくわかるね 吉野ヶ里は邪馬台国の衛星都市の一つだから、王墓はなくてもいいよ。
九州北部全体では同様の都市は複数あった。 奥山酒でも飲んでるのか今日やけにテンション高いな
5chに貼りついてるだけのカスのくせに生意気だ 纒向はそこまで分化していなかった。
金属器の生産も行われず、絹織物の生産も行われず、祭祀場もなく、あれもないこれもない。 >>153
だからさ
富士山は山梨か静岡の圀かいっているようなもんじゃん
雲出川と大和川が同じ川ならいいけどさ
お前は天然のアホ
欧州アルプスみろよ アルプスから流れる国はみな同一国か?
それも古代だぞ ヤマト政権は渡来人の協力を得て、5世紀からスタートした政権です。
・ 〜2世紀末: 唐古鍵遺跡
・2世紀末〜3世紀半ば:不明(邪馬台国時代)
・3世紀半ば〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 纒向が
都市と見なされる根拠が未だわからない
単発的な基地なら、なんとなく・・・・ >>217
住居跡がほとんど見られない大集落です(`・ω・´)キリッ >>206
単純な質問でゴメン
王都に王墓がないといけないのですか
エジプトなんか見てると違うみたい >>219
お疲れ?それとも楽しんでる?
おもろいだろ・・奥村は >>217
長期にわたり営まれた生産拠点だよ。
防衛機能もあったが、軍事のためだけではない。
支配層もいたことがわかっているし、祭祀場もあった。 エジプトは都市部から離れた岩場にピラミッドがあるね
ピラミッドが立てやすい場所に立てられたからだろうけど 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>213
>金属器の生産も行われず、絹織物の生産も行われず、祭祀場もなく、あれもないこれもない。
ないって証拠は?
九州説は証拠を書かない
常に >>218
住居跡がほとんど見られないって証拠は? >>226
>ないって証拠は?
あるなら証拠を出せよ。 >>225
こんな程度のまま300年も進化しなかったんだよなあ
そりゃ滅びるわ九州説が >>229
証拠の出せなかった九州説が、また敗退した >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 >>230
建物総数はデータがないが6つの居住区があった >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 >>131
>倭と書いてヤマトと読ませるなんてすげえ作為的なんだよなあ
作為でもなんでもなくて、もともとの地名がヤマト
それが大陸の用字で倭と書かれていることを知ったので、
倭と書いてヤマトと読むんだよ >>431
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
もうやる気ねえな やっぱり邪馬台国、初期のヤマト政権は鬼の王朝
当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう >>111
>狗奴国の遺跡を挙げるべきでしょう
>地理的要件と、邪馬台国と対峙できるだけの遺跡でしょうか・・・
それは、倭国(阿波)以外では無理。
狗奴国の遺跡 : 若杉山辰砂採掘遺跡・加茂宮ノ前遺跡ほか
地理的要件・国力の源 : 辰砂・温暖な海による漁労術・航海術 @阿波 殷の王族は太陽の末裔を名乗り、
殷の王はシャーマンであり鬼神を崇拝していたらしい
卑弥呼の鬼道
果たして卑弥呼も鬼神を崇拝していたのだろうか? 「極めて重要な発見」
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。
当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、今後の研究につながる。
遺構を切り取って復元などしてもらいたい。 >>244
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 >>433
>特に、方角は正しいと言い続けないと、水行20日+10日の南を東にしただけで
圧倒的に畿内説が妥当という結論にしかならないので、方角と距離は正しいと
うめき続けないといけない<
関係がない。
方角と距離は、3世紀の魏使らの、
実地の見聞計測に拠って記録された史料事実や史料実態であり、
その信頼性は、宋明清代の校勘状況に拠って、99.5%位の確率だ。 >>142
>1、時代考証は?ホケノは畿内説ではどのような位置づけ?
ホケノ山古墳は普通に3世紀前半の築造だから、卑弥呼が遣使しているまさにその頃だよ
邪馬台国の官クラスの墓だろう
>2、3世紀に纏向近辺に人が居ないとは誰も言ってないよ
> 都市の定義を語れよ 纏向に運搬用水路があればそれなりの都市を匂わせる集落あるだろ
食料生産に直接関わらない多数の人口が存在する集落が都市だよ >>436
大和説のキモだった「南→東」ってのが死んだでしょ?
長里だ絶対始皇帝里だぁも死んだ
そして我々の主張してた、邪馬壹國女王之所都は文献考古での史料批判で決めるってが勝ち >>151
>纏向より古いのに都市機能満載ジャン
>甘木・朝倉しかりだけどさーー
イメージで語ってないで何をもって都市機能と言っているのか具体的に言うてごらん? >>154
>最初からヤマトを名乗ってたならヤマトの音の字を貰うだろうが
国号は一文字の方がカッコいいんだよw >>163
>畿内説は事実ではないことを前提とした砂上の楼閣だということ
この人が邪馬台国の会のウェブサイトはよく見るけど主張は知らない人? >>437
>秦の始皇帝の度量衡の統一から既に400年経っている<
漢代に既に、介山や淮南子に「短里」を使う学者が出て、
始皇帝の命令がほころびて混乱している。
>中華世界であるなら、どこでも同じ度量衡になってからもう何百年も経っているんだよ
地方だから中央と異なる度量衡を使っているという戯言は通らない<
魏では、初代文帝が即位の受命改制の詔書で度量衡の統一の指示をし、
重臣たちが次々と「周制への復古」の上表をした。 >>170
>身内だけの「コンセンサス」?
だーかーらー、コンセンサスには「身内で」っていう含意はないんだってば!
おバカさんww >>251
>イメージで語ってないで何をもって都市機能と言っているのか具体的に言うてごらん?
具体的に言うと、こんなところ。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」bQ
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 >>449
>残念ながら、古尺の現物が出ていて、それが大陸中央の尺と同じ長さで、
1里=1800尺はずっと変わらないのだから短里は存在し得ない <
「尺」寸法は、尺定規があったから、
周代以前から、余り変わっていない。
変わったのは、始皇帝の「1歩=6尺」の強制命令であったが、
漢代に介山や淮南子のように、「1歩≒1尺」の短歩を使うものがあって、
魏朝は、その短歩を採用した。 まあ九州説は、短里はないと、古墳時代は3世紀前半から、だけで死ぬんだけどね
あと魏志倭人伝の方角は正しくないでも死ぬ >>257
>魏朝は、その短歩を採用した。
これがウソ
漢でも魏でも一歩=六尺、一里=300歩=1800尺は変わらない >あと魏志倭人伝の方角は正しくないでも死ぬ
逆に方角正しくない方がおかしいだろ >>450
>短里があって、梯儁さんや張政さんがそれを知ってたと主張するなら
その根拠を出さなければいけないのは>>438をはじめとする九州説の方だ<
漢書の介山や「如淳注」や、淮南子や、三国志の魏志を中心とする里記載や、
魏略や後漢書や梁書の記載や、江表伝や海賦の里記録だ。 >>154
>最初からヤマトを名乗ってたならヤマトの音の字を貰うだろうが
意味も知らない他国の文字にヤマトの音を当てただけなんだから
カッコいいシンボルマークくらいの認識なんじゃないか?
のちに勉強して、あんまり好字じゃないと知ったなら
嫌って変えたがる権力者も出るだろう
何もおかしくない
ただねー
倭って 人+委
魏って 委+鬼
なんだぜ
気が付いてた? >>261
それ、根拠の怪しい数字を集めてコジ付けただけじゃね? 里数と方角は適当だけど、水行陸行の日数だけは正しいと喚く畿内説
都合のいいところだけ正しいことにしたいんだな
だから支持されないんだよw 佐賀川上説は 末盧国から女王之所都まで、短里でピッタシ合っている
おまけに方角もピッタシ・・、
他にこのような説はないだろう、めでたしめでたし >>254
>漢代に既に、介山や淮南子に「短里」を使う学者が出て、
いないです
特に淮南子なんて1里=1800尺を明記している >>264
里数と方角が正しくない根拠は何度も示している
何より里数の測定不能な部分があるのは確定
一方、日数が数えられない状況ってのはない >>250
>なぜ建物の数のデータがないのですか?
竪穴式住居と違って高床住居はグルーピングも築造年代判定も難しいから
あと文化財保護法の限界 >>268
畿内に持ってくるには両方デタラメってことにしておかないといけないからな
畿内ありきで考えるから筋道が通っていると思うのだろうが、
第三者から見たら全く筋が通っていないw 松傾
菅野
菅原
自分の先祖を中国の王にしたい松傾
妄想松傾
スレチ松傾
嘘松傾
は松沢病院へ行け
天王宮 この辺りに住んでいた と言ってない
伊達郡川俣 東福澤 西福澤この周辺に住んでいた と言っていた
住民票でわかる
天王宮 天王は、菅野の先祖ではない
牛頭天王宮 牛頭天王は、加藤の先祖ではない
天王 中国ではない 牛頭天王、スサノオ である
594 :日本@名無史さん:2019/07/02(火) 06:42:52.65 .net
『天王宮 山王院 福島県』
家は、この辺りに住んでいたと言っているし、なぜだと思う?
他 >>271
>畿内に持ってくるには両方デタラメってことにしておかないといけないからな
デタラメにしておく、ではなく、明確に現実の地理と合わないことを具体的に示しているだろ?
ほらhttp://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg
ほらほらhttp://i.imgur.com/OMxsy6k.jpg >>273
>間違いだらけの糸島怡土説!
でもな、伊都国が三雲、平原周辺じゃないと、九州説は3世紀に何もなくなってしまうんだよww >>273は佐賀川上バカかな
3世紀の遺跡がほぼまったくないところに距離だけで国を持ってくるってのは無茶だよ 那珂遺跡でも弥生末期の竪穴住居遺構は数基しかないよ >>249
南→東と畿内説が主張していると主張しているのはザラコクだけだぞ
畿内説の誰もそんな主張はしていない
魏志倭人伝の距離方位は間違いで邪馬台国の位置を示してないから
発掘される考古遺物で考えるのが畿内説の立場 >>248
>食料生産に直接関わらない多数の人口が存在する集落が都市だよ
うーん、まさに吉野ヶ里 吉野ヶ里遺跡
南内郭では、弥生時代最終末期に新段階の環濠が埋没し、
丘陵上からは竪穴住居などの集落に関する遺構は激減する。
古墳時代初頭の集落は吉野ヶ里丘陵西側斜面付近に移るが、その数はわずかである。
https://www.isan-no-sekai.jp/report/5498 ヤマト王権誕生の謎はすでに解決しています。
使えない小国ヤマト政権を立て直したのは渡来豪族の弓月君たちでした。
奈良豪族の使えなさはその後の天武の苦労を見ればよく分かるでしょうw
〜2世紀;唐古鍵遺跡
〜4世紀半ば:纏向遺跡
4世紀末〜:弓月君降臨↓
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
ttps://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html とある研究者の見解
『ようやく安定した銅鉱石を入手して安定した銅鋳造が可能になったのは、西暦263年以降280年代に入ってからである。
そうなると、景初2年(西暦238年)に卑弥呼に下賜した100枚に銅鏡は、魏の時代というより漢時代に作られた漢王朝の「漢鏡」を提供したと考えるのが普通であろう。
黒塚古墳出土33枚銅鏡が中国のどこで生産されたか未だに公開されてないのは、おそらくは華中(揚子江周辺)製の銅・錫・鉛鉱石を使ったからであろうか、畿内説の論客にとっては益々不利になる結果となるからであろうか。
2世紀〜3世紀初の「漢鏡」が畿内から出ない限り、「漢鏡」や「西晋鏡」など多くが出土する北九州に取って代わることはない。』
やはり畿内説の主張する銅鏡は、卑弥呼の時代とは無関係という、多くの学者の見解と一致していますねw 劉氏の王朝のほうが曹魏より文化的に優れていると広めてるようなものじゃん テンプレは個人的な意見として捉えて
畿内説と纒向王都説は別々に考えてくれないかい
どうも、イカン 纏向先行思考の畿内説はイカン >>286
あれが個人的意見だったら教科書に
「奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」(清水書院)
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。」(山川)
なんて書かれないって >>290
面白い。
それに比べて>>1ときたら。。。
奥山は明らかにコミュニケーション障害を持ってるね。 広めの海峡を1日で渡り切ったら、それで1000里。
陸上では、近くは100里。
ちょっと遠くは500里。
行程記事の距離精度はこんなもの。
測ってないから、3とか4とか6とか7とか8とかの端数が出て来ない。
丸めた数字で1か5。それしかない。
これは相当距離の違う三海峡を、全部1000里にしていることからも明白。
ちなみに対馬が400里四方、壱岐が300里四方と言うのは、
そもそも対馬は四角じゃないので非常に疑義がある訳だが、
対馬はざっくり半島の10分の1で、壱岐はその対馬より一回り小さいと。
例えばそんな感じで400里と300里にしたんじゃないか。
あるいは倭人からのヒアリングそのままか(倭人はなるべくデカい国に見せたいので、過大申告の傾向)。
この辺はあまり深く考えても意味がない。
細長い対馬を四角にしている時点でそもそも信用に足りない。
半島からすぐ近くの島で、商人も日常的に海を渡って行き来していると言うのにこの程度。
とにかく形も距離も適当だと言うことは確か。
なので短里など最初から存在もしないし
(そもそも何故に中国の役人が、中原と異なる勝手なローカル度量衡で史書を書かねばならないのか?)、
その短里を使った行程パズルも全て徒労。時間と人生の無駄。
距離を積み上げて不彌國から先に何里残ってるか考えることも、全くの無駄。そんな精度はない。 >>295
魏王朝を認めずに反抗してる人が?
w
w
w >>289
山川にしろ清水にしろ断定はしていないのに気づかないのね
また、彼らも自ら調査したわけでも無く 誰かの受け売り
ほぼ出所は橿考か桜井市だろうが >>297
断定されたら泣いちゃう?
されてないのが救い?
情けないな
ま、1の個人的な意見だってのが間違いと分かればいいのだ ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!魏志倭人伝が最も言いたいことは「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東」の一文だyo!
1.西晋司馬懿(秀吉)は明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった(大恩人・明帝が特別厚遇した倭国王卑弥呼)→明帝曹叡の(自分を後見人に選んだ)聡明さを強調したい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、倭国「女王之所都」が
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東の海上にある必要(読み手にそう思わせたい)。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。
そこで陳寿が考案した苦肉の策が、九州島(倭国)が海南島(儋耳&朱崖)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【1.奴国ルート】と、喧伝したい「當在会稽冶之東」に合わせた【2.邪馬台国ルート(幻)】を設定。
次に「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【1.奴国ルート】を暗示しつつ(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)、
九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の「陸行半月」九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【2.邪馬台国ルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」(上皇明仁)の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王の神託を聞くことができると信じられ、北部九州30カ国から共立された巫女(愛子内親王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 『松傾』だけど、
>>272は、おかしな宗教に入っているんだろう? 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「前方に氷山発見!!!!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだ!!!船長のくせに!!!このハゲェェェ〜ッ!!!」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン爆発四散!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガッツン!ドッカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野寺澤橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(大量の布留式土器と三角縁神獣鏡と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=3i7rDgy-aOY
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓〜Ω王墓担当の物部氏)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の「九州」説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は帰港できなくなるからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>251
>イメージで語ってないで何をもって都市機能と言っているのか具体的に言うてごらん?
具体的に言うと、こんなところ。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」bQ
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡計100棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 >>299の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡 ┏〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(†乗客乗員>>301)
┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
┃〜〜〜↓〜〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲奴国【♀女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│※「計其道里 當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア「複在其(幻の女王之所都)東南 船行一年」 家は軍人、警官〜そういう家でもないと言っていたし、
貼り付けたでしょ、その写真の家 同じ名前の家(親戚、遠い親戚)などもあるだろ、
でも家は家、貼り付けた写真の家 >>297
教科書に載っているのはオーソライズされた情報だけだよ
Wikipediaと違って個人の研究を載せたら検定で修正意見が入るからね >>470
なんでそんな「南→東」などのようなウソをつくの?
ウソまみれだから
大和説終わった >>251
>イメージで語ってないで何をもって都市機能と言っているのか具体的に言うてごらん?
具体的に言うと、こんなところ。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」bQ
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡計100棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 『祇園 太鼓』
このような人形も飾られているでしょ?
仏教、寺院〜?という話をしていたし >>299
>>304
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、◎四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも成立せず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(下記参照)。つまり消去法によって、九州説が正しい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 仏教〜神仙〜・・・、
なんでも良いけど日本の話ではない 教科書の内容だってコロコロと書き換えられる時代だから、教科書に載っていることが正解というわけではない。
ましてここは学問板なので、教科書レベルで語りたいなら他のスレに行け。 家は伊達郡〜?
その辺りに住んでいたと言っているし >>313の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、「倭の五王」へ)
…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任命される。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)
…阿蘇邪靡堆へ遷都・倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋へ朝貢。隋煬帝「日没処天子」に対等外交=宿敵高句麗との同盟成立を楯に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
推古厩戸…前方後円墳Ω担当の物部氏を滅ぼす。更に大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲(唐大帝国との火種「日出処天子」狗奴国系の多利思比孤を抹消)。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)…欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>477
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者が、報告とか論文とか称して、
ウソデタラメ捏造インチキを書き、
大和説者らのチンピラがそれをソースに真実だと言い張る。
マッチポンプ以前の稚拙さだな。
九州説の実態ww >>299
魏より前の後漢時代から
倭の王都は倭の極南界に当たる会稽東冶の東、沖縄や台湾にある事になっていた
魏志倭人伝は政治的理由があって邪馬台国をその位置に当てはめて書かれている
そして会稽東「治」という地名は存在したことがなかった いまの福島県ではないのかな?
正確には伊達郡というところに住んでいた
家はw >>313
>つまり消去法によって、九州説が正しい。
九州? 無理無理。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」bP
「水銀朱の精製工房跡か」「加茂宮ノ前遺跡 石器や辰砂出土」
徳島県教委と県埋蔵文化財センターは22日、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で見つかった弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(1〜3世紀)の竪穴住居跡の内外から、古代の赤色顔料の水銀朱が付いた石器15点と水銀朱の原料の辰砂原石10点が出土したと発表した。
遺跡の南西約5キロには辰砂の採掘遺跡として全国で唯一確認されている若杉山遺跡があり、同遺跡に関連する水銀朱の精製工房跡とみている。
辰砂は硫化水銀の鉱石で、これを原石から取り出して精製した水銀朱は、古墳時代初期を中心に棺内部や死者の体に塗るなどして使われた。
防腐剤としての役目のほか、死者の魂を鎮める目的もあったとされる。
出土した石器のうち、石杵8点(全長約10〜23センチ)は辰砂を砕く際に使われ、磨石2点(10センチ四方)は擂りつぶすときに用いられた。石臼1点(縦20センチ、横17センチ)はその土台だったとみられる。
それぞれに水銀朱が付着している。
辰砂原石は全長2〜5センチ。石器と原石は5棟ある竪穴住居跡のうち3棟の内部や周辺で見つかった。
一部が埋まった状態で、捨てられたとみられる。
精製に伴って出る石片などがないため工房は特定できないが、工房があった集落と断定した。
弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。
水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。
センターは、若杉山遺跡に関連する新たな工房の発見が水銀朱の産地や製法、流通ルートを知る手掛かりになるとして「水銀朱の供給拠点としての徳島の役割を解明できるよう、今後も調査を進めたい」としている。 何度説明しても同じ、
当時住んでいたという家があるんだけど
本や書なんかが〜・・・・・・・・・・・、
そういうのも誰かに、あげちゃったのかな〜、それとも
と
老婆が言っていた >>316
>教科書の内容だってコロコロと書き換えられる時代だから、教科書に載っていることが正解というわけではない。
そんなことどうでもいいさ
多数派の意見だってわかった?
>>1の個人的意見だというのが妄想だ >>318
長文コピペは内容読まなくてもまず九州説の駄法螺とわかるな
妄想垂れ流しで長いし1行の途中ぐらいまで読めばあっいいっすてなる >>479
大和説者は、やる気ないんじゃなくて、既に「南≠東」の指摘を喰らって、
できることが何一つ残ってないんだよ。
大和説の根拠で代表的なものは、
長里と短里の混在で萬二千里で大和にピッタリだ、とか、
「鉄がー、絹がー 銅鏡がー」も大和では3世紀末以後であるし、
「南は東に決まってる」とかいうしかない。
これくらいしかない
これが全部議論でで否定されてるし、
平原1号墓の「明帝の21枚の尚方作方格規矩鏡」の否定も無理がある。
で、今ここで書き込みを続けているのは、
他人とコミュニケーションの取れない類スレ主やスレ主や、
荒らしや、皇国史観宗教のようなようなやつだけような。 >>313
>北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野
>→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定
甘木朝倉は盆地みたいなところで見晴らしはきかないよ?
甘木より太宰府の方が標高が10メートル以上高いから福岡平野さえ見えない
どんな妄想なんだ?
3世紀に空が飛べたとかいう発想なのかな? >>311
呼子からでも、唐津からでも、佐賀川上は東南だなw 『サイバーパンクSPECIAL』
読んでみた?なぜか伊達政宗のようなキャラが出てきたり、
なぜか家の近所の話?神奈川県の川崎区の〜 >>313
>つまり消去法によって、九州説が正しい。
九州? 無理無理。
>祇園山古墳
古墳? それがどうしたと? 九州も畿内に劣らず、お粗末ちゃんりん。 わははははは。 @阿波 右目が無い?そのようなキャラクターw
そのコミックに出てくるでしょ >>316
>ましてここは学問板なので、教科書レベルで語りたいなら他のスレに行け。
教科書レベルの知識もない九州説は全滅だねww 教科書の意見=多数の意見ではない。
世間では邪馬台国は九州にあったと考えている人が大半だ。 >>325
>>>1の個人的意見だというのが妄想
じゃあ引用だけ記載しろよw
お前の想像や推測をすべて取り除き、他人の言葉のみを並べろ。
そうすりゃ3行に収まるだろw >>329
>甘木より太宰府の方が標高が10メートル以上高いから福岡平野さえ見えない
だから、大宰府が卑弥呼の倭国の王都だと言っている。 テンプレといえばせいぜい3レスくらいに収めるのが普通だろ。 >>334
お前さんがここでいくら叫んでも畿内説の学者はもう居ないぞ テンプレを読むとひどい内容で気分が悪くなる。
他人を騙すためのレトリックが満載された詐欺師の口上そのものなんだよ。
学問板にはふさわしくない、悪意のある文章だ。 >>330
???
佐賀川上に伊都国はないよ?
というか、国もない
遺跡もないし、川上国造なんていないだろ ?
船塚古墳も古墳時代中期だし、3世紀に国があったと見るのは無理だな 日本の話ではない?ということは・・・、
むかーしの渡来系(渡来人)だと思われる家のほうが、
みたいな話、詳しい、知識も豊富とか
カレーの話をしている人がいたでしょ >>313
>つまり消去法によって、九州説が正しい。
九州? 無理無理。
>祇園山古墳
古墳? それがどうしたと? 九州も畿内に劣らず、お粗末ちゃんりん。 わははははは。 @阿波 >>335
>教科書の意見=多数の意見ではない。
>世間では邪馬台国は九州にあったと考えている人が大半だ。
個人の研究で教科書が書き換わるなんてことはないんだよ
多くの研究者がそう考えていて文科省の検定で修正意見がつかない状態に
ならないと教科書は書き換わったりしない
そろそろネットアンケートでも畿内説が多数派になるだろ
今までだって、伊都国説、福岡平野説、筑後山門説って分けたら全部泡沫候補だった訳だしw >>343
河上神社は肥前一宮。
海が近かった頃は肥前の国府だったのだろう。
河上神社の祭神である淀姫は壹與のこと。
近くには熊襲梟師の墓もある。 老婆自身が、そう言っていたんだから、正解
あまり見たことないような本や書が、
ずらーっと並んでいて >>328
嘘しか書いてない九州説の長文コピペと一緒にするな 条里制を持つ大宰府ができるまでは、世代ごとに別々に王宮を営んでいたから、九州の候補地は分散しているように見えるだけ。
実際、上代の宮があれだけ集中している地域は他にない。 >>349
テンプレみたいなのを長文と言うのだが? >>485
奴國は、「伊都国の東南百里」の位置に外縁部の入り口があり、
邪馬壹國は、伊都国から東百里行った所の不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國のすぐ南に外縁部の入り口が有る。
この単純な事実だけで、大和説は死んでしまう。 >>342
テンプレの具体的にどこがどう騙そうとしてるの
具体性のない個人の感想文じゃ何の説得力もないな >>351
九州嘘コピペも長文だろうが
何を言ってるのか
もしかして九州長文嘘コピペの作者か 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。 このような話も、ほとんど老婆談、
なぜか?というと、もれ(仮)は、そこの生まれではないから
↓
広瀬川という川が流れていたんだよ、
その辺りに芝居小屋があって
説明不要 >>356
主観だってのが主観決め付けだから、終わり二行は妄想 >東南陸行 五百里 到伊都國
>東南至奴国 百里
唐津市(末盧国) 北東→ 糸島市(伊都国) 北東→ 福岡市(奴国)
魏志倭人伝の南東の間違いを説明して >>359
コミュニケーション能力に障害のある人は話が長いんだよ。
人と会ったことない君は知らないかもしれないが。 求められてもいないのに自説をとうとうと話し続ける人をリアルで見たら気持ち悪いと思うだろ?
テンプレもそんな感じ。 343日本@名無史さん2019/07/03(水) 07:47:56.48>>347
>>330
>???
>佐賀川上に伊都国はないよ?
>というか、国もない
>遺跡もないし、川上国造なんていないだろ ?
ないないないと、掘らないうちから心配するな、遺跡なんざ掘ればわんさか出てくる。 人から疎まれながら毎日テンプレを何十レスも貼り続けるなんて、病んでいると思うよ。 古墳時代の馬は、我々の感覚でいうと、1千万円台のセンチュリーや2千万演~台のベンツSクラスじゃなく、3千万円台のロールスロイスだって。
「木製」輪鐙が375年頃の国産模造品(369年「七支刀」百済の金属製が支給されなかった下級皇族用)で、木製だからせいぜい5年で、箸墓の周辺で乗馬中に先端が欠け落ちて使えなくなり、今回出土した根本の残存部が周濠に投棄されたとして380年頃。
復元図あり
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm
箸墓の築造時は大坂山から運ばれた葺石と周濠の綺麗な状態→20〜30年後、葺石の隙間から生えてきた樹木で覆われたとすると、箸墓の築造年代は350〜360年頃になる。
布留1式で補正しても、3世紀には遡れない。箸墓はどう早く見ても4世紀(300年)以降、「卑弥呼以死 大作冢」から50年後以上経って築造ということになる。 祇園の人形のマーク、シンボルがあるでしょ?
八幡 神社? >>365
「説明しろ」とか「畿内説は説明できない」とか
さんざ言ってた九州説の二枚舌 >>492
>平原1号墓出土の舶載鏡は平原遺跡の鏡のナンバリングで
16号鏡 18.8センチ 漢鏡5期 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
17号鏡 16.5センチ 漢鏡3期 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡
の2枚のみで、卑弥呼の遣使よりも100年以上古い伝世鏡しかないんだ
仿製鏡のみがダメというより、後漢末や魏晋鏡が一枚もないのでは
どうやっても卑弥呼の墓という主張は無理だろう<
ダメだ。
21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、明帝の下賜鏡以外に起こり得ない。
しかし、46.5cmの内行花文鏡群は、(倭人によるホウ製ではなく)、
また明帝の下賜鏡とも考えられない。
という事は、
巨大鏡群を造ったのは、青龍年間に渡来して来ていた呉系の楽浪鏡師らであり、
彼らが、「錆色」塗装もしたんだろう、という事になる。
だから、それが判らなかった原田や柳田らは、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説に、
脳がいかれてしまっていたアホであった、という事だ。 >>369
求められてもいないのに自説をとうとうとコピペし続ける人をリアルで見て
気持ち悪かった >>369
「木製」輪鐙が375年頃の国産模造品って
最初から妄想全開なのでは? >>372
なら関係ないからやっぱり九州説は二枚舌だな >>369
もともと前方後円墳は4世紀以降のヤマト王権の大王墓とされていた定説を、欲を掻いて
考古学操作のゴッドハンドによって、倭迹迹日百襲姫♀箸墓の築造年代を卑弥呼♀の没年に合わせる似非学問・畿内説。
布留式土器(主婦の日用品w)以外の考古学成果と照合すれば、矛盾だらけになるのは必然的な宿命w
箸墓は径百歩ではなく長二百歩。しかも築造時期は3世紀第4四半期(275)〜4世紀第1四半期(325)以降である(周濠20〜30年分の落葉下から出土の4世紀後半の木製輪鐙)。
また、特殊器台(殉葬代用品)の使用から殉葬は考えにくく、実際に確認もされていない、九州の邪馬台国に征服された本州毛人王権である。 >>493
>>しかも倭国大乱後の女王墓である平原遺跡まで見つかって、揺るぎない説となった。<
>成人男子が10人もいれば1週間で作れる程度のしょぼい墳丘墓がどうしたって?・・・ <
おそらく(卑弥呼の墓ではなく)、卑弥呼の宗女で、
取り合えず的で、権力の余りなかった女王であった壹與の墓であり、
薄葬令に従って、郷里の平原で親族が中心になってで造った墓だ。 >>377
>九州の邪馬台国に征服された本州毛人王権である。
最後のここで、ガックリする。 @阿波 『インドの山奥 でんでんむし』
かなり有名なんだけど、この曲、知ってる?
八幡 オイトマン〜?繋がっているし >>377
「弥生の鉄」出土数 (鉄鏃/その他の鉄器)
奈良県 弥生前期 0/0 弥生中期 0/0 弥生後期・終末期 1/5
徳島県 弥生前期 0/0 弥生中期 3/0 弥生後期・終末期 28/0
福岡県 弥生前期 2/48 弥生中期 46/365 弥生後期・終末期 213/753
熊本県 弥生前期 0/1 弥生中期 20/21 弥生後期・終末期 311/1254
弥生終末の九州が鉄器時代だったのに対して、本州は未だ石器時代 >>382
ホケノ山出土分をカウントしてない時点で信用ゼロのデータだね >>494
>違う国同士、離れた地域同士で交易するのは当たり前
縄文時代ですら行われていた <
弥生においては、単なる「市を介しての平等的な交易」では済まない。
明らかに、文物が筑紫へ集中している状態。
大和は、九州倭国の地方の大市を監督する「大倭」職がいたのであろうし、
それを造ったのは九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍や部将ら。 >>377
5世紀に入ると「金属製」に取って代わられる、「木製」輪鐙の製造年代は、4世紀後半〜4世紀末と観るのが自然。
逆算すると、
箸墓築造←20〜30年で墳丘を樹木が覆う←4世紀末(375年頃)の輪木製鐙投棄
新築の箸墓墳丘を樹木が覆うまでの時間を、概ね20年〜30年程度とすれば、どんなに早く見積もっても、箸墓の築造時期は4世紀中葉(350年前後)以降となる。
つまり、4世紀末と思われる「木製」輪鐙の出土は、布留1式の最古年代ではなく、最新年代を採用すべきという大発見なのである!
このように「箸墓ありき」の畿内説が、箸墓の築造年代を人工的に遡らせることによって成立していることが明らかになった今や、
まともな人(九州9999:畿内1)にとっては、文字通り万が一、箸墓から金印「親魏倭王」が出てきた場合の解釈(推理)に移行してきていることと思う。
>>318
そこでお勧めしたい仮説が九州王朝の奥津城(王家の谷)説である。
畿内から古墳時代の王宮跡は崇神の磯城、雄略の初瀬朝倉(脇本)、継体の樟葉・弟国・筒城など、「記紀」伝承地の石碑、もしくは5世紀の高床式倉庫の柱穴のみで、
一つも確認されていないこと(具体的な構造も一切不明)がその裏付けとなる。 >>377ってこれ
すべて出所不明情報で書かれていて
じつに九州説らしいね >>495
つまり、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
またウソついてた、という事なんんだな なん?。 >>385
>5世紀に入ると「金属製」に取って代わられる、「木製」輪鐙の製造年代は、4世紀後半〜4世紀末と観るのが自然。
終わりだけの情報で、なんで始まりがわかるの?
それ、明らかにインチキだよね >>501
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
なんか国粋宗教の政治絡みくさいから、信用できないんだよ(°▽°)
バカはこれが事実→違うバカらが損得で靡く→殺人テロ戦争で死人続出 >>377
なるほど こぶ取り爺さんの欲張り爺さんが畿内説か…
むかしむかし、あるところに、片頬に大きな瘤(こぶ)のある2人のお爺さんがおりました。1人は正直で温厚九州出身、もう1人は瘤をからかった子供を殴る蹴るなど乱暴で意地悪なモンスター、畿内出身でした。
ある日の晩、正直九州爺さんが夜更けに鬼の宴会に出くわし、日頃から練習を重ねた踊りを披露すると鬼達は大変に感心して酒とご馳走を勧め、翌晩も来て踊るよう言い、
お礼に正直爺さんの片頬の大きな瘤をきれいさっぱり取ってくれました。
翌朝、それを聞いた隣の意地悪畿内爺さんが、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけると、同じように鬼が宴会していました。
隣の翁は出鱈目でド下手な踊りを披露したので鬼達は怒りだし「ええい、下手クソ!こんな瘤は返してやる!もう二度と来るな!」と言って、昨夜正直九州爺さんから取り上げた瘤を、意地悪畿内爺さんの空いた頬にくっつけると
「今日の宴会はもうやめだ!」と興ざめして去ってしまったのでした。
それから正直九州爺さんは瘤がなくなって清々しましたが、意地悪畿内爺さんは大きな瘤が両頬に垂れ下がり大変難儀したということです。めでたしめでたし。 日本起源、発祥〜?みたいな事を言ってる人がいるけど、
日本の話ではないと言っているでしょ
もれ(仮)が正解、あと老婆も正解、家の親戚もw >>377
3女性の合葬墓=箸墓・後円部(直径160m)の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄台 ̄与 ̄ ̄ ̄\_____________
3段目………/_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_\____________\_
2段目……/_____________\_____________\_
1段目_/5m盛土/卑弥呼(150m)\5m盛土\_______________\__地面
周濠… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄殉葬者奴婢100人 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄地下 ハチマン?オイトマン
『八幡神』
日本の話ではないとわかるはず、
あと時代(系列〜年代〜のような話)なども、おかしいし ハチマンなども同じ、
そういう話などを知ったりした人たちがいるでしょ?
神社関係など?
後から言っているだけ(主張)、
紀元前から〜、西暦でいうと100年頃から・・・あったとか >>505
>だろ?こっちはずっとそう言い続けているのに、
「幅600メートルの関門海峡を隔てただけの本州を渡海千里の倭種の国だから無関係
倭国は九州のみ」っていってる九州説がバカだってこと<
ずっと「九州島付近」とか、境界が「関門海峡付近」とか言って来てある事を、
こっそり隠している類スレ主らは、・・・・アホ詐欺師であった、という事。 >>506
都合の悪い「南→東」問題の部分は、といつもの「知らん振り」かな?。
類スレ主や大和説者がザコなのは、「南≠東」などの指標で明らかだから
「大和が強いようにしか見えない」というのは、ただの主観でしかない。 >>377
奈良県立橿原考古学研究所は、築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は、実年代より-100年程度古く出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。
箸墓の築造年代は、(欲張り爺さん畿内説に大幅譲歩を重ね)280〜300年で落ち着いているが、実際の築造年代は325年前後である。
近つ飛鳥博物館長・白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い」と述べる。
兵庫県立博物館名誉館長・石野博信は「台与の墓」とし、
纏向学センター所長で、箸墓を寿陵と考える寺沢薫は「台与の墓や、ミマキイリヒコ(崇神)などの複立「男王」並受中国爵命の墓」の可能性を指摘している。
4世紀の築造であれば、邪馬台国とは無関係の遺構となり、新たな考察が必要である。 貼り付けた写真などがあるでしょ、
家の写真だと言っているわけなんだけどw有名人なのかな?
『松傾』
このような名前の家 >>508
>>本流の川底に礫を敷き詰めて水面高を上げてやれば、容易に導水路が出来る。<
>深さ1メートル以上の川に礫を入れても流されるんだよ
礫が敷き詰められるなら堰が作れることになるが、弥生時代の土木技術ではそれは無理ってこと<
巨大な土石流があって、その巨大岩石が止まった地点の巨大岩石は、
少々の増水位では、殆ど動かず、その上流側の岩や土砂が堆積して、
小さなダム状になってしまうもの。 学生だけど、学食で中国人留学生に三国志(魏志)倭人伝を読んでもらったら、15人中14人が大して考える様子もなく、女王之所都は九州にあると答えた(1人だけよく解らない)。
理由を聞くと、中国人は属国の距離は大袈裟に書くけど、方角は(写し)間違えない。本州(東渡海千里複有国)と四国(又有侏儒国在其南)は書いてあるからって。
東京都江戸川区や埼玉県蕨市ではUR団地がミニ中華街と化してるらしいし、みんなも中国人の知り合いが出来たら、ぜひやってみて!
では、方角を絶対に間違えない中国人が(土地勘のない&言葉が通じない&筆談もできない)属国の距離を大袈裟に書く理由を聞いてみたら、
「もし最初に来た人が(ビギナーズラックや好天、季節風などで)たまたま早く着いちゃった場合、次に来た人が遅れても責められないようにするため」だって。 >>511
「南→東」や「邪馬壹國→…→大和」などと、
またウソをつく大和説 。 『松傾』
実際は奈良時代の人物ではないでしょ、
日本では奈良〜平安時代?日本での話? 深夜まで労働をしたので、朝寝坊してしまったな。。。 >>402みたいな
ガセネタに頼る九州説に
未来あるわけないよね >>408
飼い犬が居なくなったので、目覚まし時計をセットしたら良いのではないのかな。。。 僕達が備忘録にしている、このレベルの低いスレッドが活発化したのでは、ないのかな。。。 >>512
スレ主らの大和説は、「南≠東」などに拠って、
もう理屈では勝てないからな >>412
魏志倭人伝時代には、女王国だった場所に、大雨が降っているな。。。 なぜ知っているんだろう?となるでしょ
松の木が立てられていて・・・、
上の名前?『松傾』と同じ名前の家だしな・・・。 >>513
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は
やることが汚いな
嘘をついて
バレて追求されて
それを罵って誤魔化す >>360
正直ものにも嘘に見える九州説
嘘つきにも正直ものにも嘘に見える九州説 >>411
5ちゃんねるのサクラのプロ固定が、活発化させた可能性が高いな。。。 奥山氏が出現して、論理学の初歩について、討論を仕掛けているのではないのかな。。。
417日本@名無史さん2019/07/03(水) 09:39:29.79
>>360
正直ものにも嘘に見える九州説
嘘つきにも正直ものにも嘘に見える九州説 この嘘の意見の発表には、どういう目的があるのだろうか、、、
417日本@名無史さん2019/07/03(水) 09:39:29.79
>>360
正直ものにも嘘に見える九州説
嘘つきにも正直ものにも嘘に見える九州説 魏志倭人伝時代には、女王国だった場所に、大雨が降っているな。。。 ホケノ山古墳という、4世紀に出現した古墳が話題になっているが、魏志倭人伝時代が終わった後の話題だな。。。 松の木〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜立っている人がいるでしょ、
明治時代の生まれ、むかーし住んでいたというところが・・・伊達郡
ホンモノだという話なのかな? 較正曲線という、僕達にはそれが何なのかよくわからない曲線は、黒い箱の中の者が嘘つきでなければ、上方に平行移動させなければいけなかったのだったな。。。 九州説はあらゆる分野の通説を根っこから否定しないと前に進めない日陰者だからな
いたわってやらないとな 謎のキュウリのような葉、葱の華・・・w
もっと昔の写真だと言っているし 複数の併行関係という物事は、少しづつ巧妙にずらすことができるのだったな。。。 >>520
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者とは、驚くべきことに、
漢文の原則は、
漢字を逐語的に「〜なり」として、意味や意図を受け止めて、
それらの前後の繋がりを理解する、
という事が判っていなかったトンデモ人種であった、
という事 なのだ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し論破されたプロ固定が討論を放棄し、討論会の世界では敗北宣言の意味にしかならない悪口を言い放ったな。。。
425日本@名無史さん2019/07/03(水) 09:51:06.68
九州説はあらゆる分野の通説を根っこから否定しないと前に進めない日陰者だからな
いたわってやらないとな >>427
そんなインチキするのは学者じゃない九州説だけだが 考古学の学芸会では、ゴッドハンドで、通説が出現するのではなかったのかな。。。
425日本@名無史さん2019/07/03(水) 09:51:06.68
九州説はあらゆる分野の通説を根っこから否定しないと前に進めない日陰者だからな
いたわってやらないとな 本当に、おかしな話ばかり、
老婆が嫁に来る前の話(結婚するときの話)
何かの家の人みたいだよと言われたとか やはり、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し論破されたプロ固定が、また、討論会の世界では敗北宣言の意味にしかならない悪口を言い放ったな。。。
430日本@名無史さん2019/07/03(水) 09:55:08.38
>>427
そんなインチキするのは学者じゃない九州説だけだが >>527
>例えば、「九州王朝」があったと唱えた人物がいた。
日本語の「九州」という二文字熟語を前提にして、「九州地方」に王朝があったという意味だが、
中国人が読めば、天子様の下にある九つの州に一つづつ王朝があったとなるであろう。
中文の倭人伝を解釈するのに、文字文化の違いを知らずに、
日本語の二文字熟語の「九州」を使うなんて滑稽だとは思わぬか。<
思わないよ。
古田さんの「九州王朝」の「九州」は、当然、
「日本での地名」としての「九州」だ、という意味だ。 >>433
そうだな、邪馬台国九州論では、複数の併行関係を根拠にして、論理を積み上げた箇所は無いな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する、論理的な思考ができず、悪口しか言えないBBAでは、討論にならず面白くないな。。。
434日本@名無史さん2019/07/03(水) 10:00:54.50
このように九州説は打たれ弱い >>529
>こんどは「伊都の奴国」とか不可解なことを言い始めたな
伊都国と奴国は別の国だろうが これだから九州説はトンデモなんだ <
当然、
「伊都国の奴国」とは書いておらず、「伊都の奴国」と書いているんだから、
その「伊都」は(国ではなく)地域呼称であり、
「伊都地域の奴国」という意味だ。
だから、大和説者は、・・・・アホ詐欺師なのだ。 華族〜何やらというスレも読んでみた?
同じような話ばかりしていたり、
現在(いま)の〜〜〜不明〜〜〜の話はしていないとか そういえば、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定達は、全員が、根拠という言葉の定義を知らないで、使用していたのだったな。。。
437日本@名無史さん2019/07/03(水) 10:04:48.02
>>436
いや、根拠そのもの無いから >>555
「南→東」などの嘘つきン騙しの・・・・アホ詐欺師だから、
大和説者は信用されない 詳しいことはわからないけど
長州、薩摩〜?
家は、そういうところの出身でもないし、いまの福島県 >>556
もう「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
ウソをつくのが平常運転なんだね
九州説の学者がいないとか
そこまで行き着くともう
正気が疑われる >>442
そういえば、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定達は、全員、頭が悪いので、根拠という言葉を、
ある仮説が0ではない確率で成立すると導ける、独立した複数の物事として、使用していたのではなかったのかな。。。
437日本@名無史さ2019/07/03(水) 10:04:48.02
>>436
いや、根拠そのもの無いから こうやって悪口ばかりで
畿内説の批判ができない実態をみれば
明らかでしょ、勝敗 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、論理的な思考ができず、悪口しか言えないBBAが、根拠という物事についての討論ができず、
討論を放棄して敗北を宣言したな。。。
447日本@名無史さん2019/07/03(水) 10:15:48.46
こうやって悪口ばかりで
畿内説の批判ができない実態をみれば
明らかでしょ、勝敗 ほとんど同じような話
家に、あった物も売ったりしたと言っていたり、
倉(蔵?)に壺や掛け軸なんかもあったとか >>567
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説には、
基礎的な読み書きもできないレベルの下層信者だけが残ったのだな。 川崎に住んでいる奥山氏が薬を飲みすぎ、今は、呟き荒らしを実行しているので、
BBAになってしまった、5月生まれの妹が、スレッドを保守している可能性が高いな。。。 これも、よくわからないんだけど、
刀というのも沢山あったと言っていたり、クラ()のなかにあった
部屋に飾ってあった刀というのが・・・何かなのかな? やはり、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったので、奥山氏は精神も破綻し、薬を飲んでいるのだな。。。
452日本@名無史さん2019/07/03(水) 10:23:24.08
川崎に住んでいる奥山氏が薬を飲みすぎ、今は、呟き荒らしを実行しているので、
BBAになってしまった、5月生まれの妹が、スレッドを保守している可能性が高いな。。。 文体や挙動を見れば>>452が呟き荒らしだって見え見えなのにね そういえば、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定達は、全員、頭が悪いので、根拠という言葉を、
ある仮説が0ではない確率で成立すると導ける、独立した複数の物事として、使用していたのではなかったのかな。。。
437日本@名無史さ2019/07/03(水) 10:04:48.02
>>436
いや、根拠そのもの無いから 現在、小手子の像というものが立てられているでしょ、
家はその近所に住んでいたと言っているし 川俣町という掲示板も同じ、
なぜか家の話をしている >>457
そして、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)は、確率という言葉の定義を、2通りで使用していたのだったな、、、
457日本@名無史さん2019/07/03(水) 10:29:37.18
そういえば、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定達は、全員、頭が悪いので、根拠という言葉を、
ある仮説が0ではない確率で成立すると導ける、独立した複数の物事として、使用していたのではなかったのかな。。。
437日本@名無史さ2019/07/03(水) 10:04:48.02
>>436
いや、根拠そのもの無いから なぜ人の家の話ばかりしているだろう?
となるでしょ お家芸だったはずの行程論でも惨敗しちゃった九州説が
絶望のあまり偽情報や中傷に頼りきりになったのではないかな >>586
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者って、
異常でない人は、いないの? >>461
だが、実際には、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)は、確率という言葉の定義を、2通りとも、数学的に理解していないことが判明したのだったね。。。 何者かによる自演のような話なのかな?
当時、住んでいたことがあったという話
伊達郡の川俣町というところだと言っていたしな。 >>465
つまり、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)は、自分たちが2通りとも数学的に理解していない、2通りの確率で定義される、根拠という物事を実際には知らないのだったな。。。
437日本@名無史さ2019/07/03(水) 10:04:48.02
>>436
いや、根拠そのもの無いから 5ちゃんねるのサクラのプロ固定が、活発化させた可能性が高いな。。。 気づいていると思うけど
寒いな〜・・・・の家の話でしょ ブラジルに渡った〜という話もしているでしょ、
伊達郡の川俣町という掲示板
帰国させれば良いんじゃないのか?
という書き込みもあるでしょ
家の話 >>337
>だから、大宰府が卑弥呼の倭国の王都だと言っている。
大宰府に3世紀の遺跡はないww その掲示板(伊達郡)を読んでみないとわからない話、
part1〜・・・どの辺りの書き込みだったかな? >>339
>お前さんがここでいくら叫んでも畿内説の学者はもう居ないぞ
「畿内説の学者」って何のつもりで言ってるんだ?
事実上すべての古代史の研究者は、畿内に3世紀にあった政体が
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の王都だというが既に前提という状態で研究してるんだが? >>342
>他人を騙すためのレトリックが満載された詐欺師の口上
それを具体的に指摘しなさいって何度も教えてるのにいまだにできないねぇ
学校教育に不適合だった類の人でしょ?ww >>603
>「自己」じゃなくてその領域の専門家「全員」が、現状で知りうる全情報を総合して、
大和朝廷の最初期が三国志に描かれた邪馬台国だって判断してるんだからw
素人の畿内説はその断片を紹介しているだけw<
大和朝廷も畿内も邪馬台国も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「その領域の専門家「全員」」も、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師になるんだから、
そんな・・・・の「判断」なんて、根拠にならず、×。
「 >>347
>河上神社は肥前一宮。
ずいぶん後の時代を持ち出すんだな
>海が近かった頃は肥前の国府だったのだろう。
国府跡は惣座遺跡の近くだろ?
繰り返すが、3世紀の佐賀川上に目立つ遺跡はない >>350
>実際、上代の宮があれだけ集中している地域は他にない。
イメージで語っても無駄
その上代の宮とやらを、具体的に遺跡名で列挙してごらん
話はそれからだ
どうせ逃げるんだろうけどw >>608
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説の人は、
勝手な思い込みが強いよね 何十年も前の話なるんだけど、
一度帰ってきたこともあるんだよと言っていた、
そのときにもらった、蝶の、お土産があったり
何の話なんだろう >>352
>奴國は、「伊都国の東南百里」の位置に外縁部の入り口があり、
この時点で、議論に参加する資格なし
大陸史書の地誌記事は、地域の中心間の二点間距離で示されるのが基本
外延部の入り口などという概念はない >>610
>その中心国邑の名前が投馬国(出雲)であり、邪馬台国(ヤマト)なんだよ<
「南≠東」などに拠って、×だよ。 >>361
>唐津市(末盧国) 北東→ 糸島市(伊都国) 北東→ 福岡市(奴国)
>魏志倭人伝の南東の間違いを説明して
???
魏志倭人伝の南東は「間違っている」
「陳寿は倭国の地理がよく分からない」まま、遠絶で確認できないので
そのまま適当に書いている
これ以上はどうしようもないぞ このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)が、自分たちが2通りとも数学的に理解していない、2通りの確率で定義される、根拠という物事を実際には知らなかった、、、
という話題から離れるために、
三角の角度の計算ができないことがばれている、小学率というニックネームの男が、薬の副作用と闘いながら、意見を発表しているのではないのかな。。。
475日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:07:46.15
>>339
>お前さんがここでいくら叫んでも畿内説の学者はもう居ないぞ
「畿内説の学者」って何のつもりで言ってるんだ?
事実上すべての古代史の研究者は、畿内に3世紀にあった政体が
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の王都だというが既に前提という状態で研究してるんだが?
476日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:09:02.05
>>342
>他人を騙すためのレトリックが満載された詐欺師の口上
それを具体的に指摘しなさいって何度も教えてるのにいまだにできないねぇ
学校教育に不適合だった類の人でしょ?ww このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)が、自分たちが2通りとも数学的に理解していない、2通りの確率で定義される、根拠という物事を実際には知らなかった、、、
という話題から離れるために、
三角の角度の計算ができないことがばれている、小学率というニックネームの男が、薬の副作用と闘いながら、意見を発表しているのではないのかな。。。
478日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:10:44.17
>>347
>河上神社は肥前一宮。
ずいぶん後の時代を持ち出すんだな
>海が近かった頃は肥前の国府だったのだろう。
国府跡は惣座遺跡の近くだろ?
繰り返すが、3世紀の佐賀川上に目立つ遺跡はない
479日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:12:11.54
>>350
>実際、上代の宮があれだけ集中している地域は他にない。
イメージで語っても無駄
その上代の宮とやらを、具体的に遺跡名で列挙してごらん
話はそれからだ
どうせ逃げるんだろうけどw >>366
>ないないないと、掘らないうちから心配するな、遺跡なんざ掘ればわんさか出てくる。
掘ってみて遺跡が出てきてから出直しておいでww
たぶん出てこないと思うよw 母親が言うには
何かの、お店(スーパーだったかな?)をやっていると聞いたことがある、
とか
コーヒーの農場などではない >>385
>5世紀に入ると「金属製」に取って代わられる、「木製」輪鐙の製造年代は、4世紀後半〜4世紀末と観るのが自然。
これが認識不足
基本的に金属の鐙しか出土していないから、鐙の編年は金属の鐙についてのものしかないんだ
その金属の鐙の編年で考えるから、訳の分からない主張になってるんだよ >>475
>事実上すべての古代史の研究者は、畿内に3世紀にあった政体が
>魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の王都だというが既に前提という状態で研究してるんだが?
証拠は? この意見は正しいことを言っているのだろうか、、、
それとも、やはり、頭の悪い小学率が発表した意見なので、間違っているのだろうか、、、
482日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:13:43.68
>>352
>奴國は、「伊都国の東南百里」の位置に外縁部の入り口があり、
この時点で、議論に参加する資格なし
大陸史書の地誌記事は、地域の中心間の二点間距離で示されるのが基本
外延部の入り口などという概念はない このスレではなく
オカルト関係のスレに行き、いろいろと聞いてみて?
「なにか知っているのか?」と
おそらく「❓❓」このようになる人もいるだろう >>635
また「南→東」などの嘘付き騙しや、
「相手の説明への曲解の嘘つき騙しの解釈」をする大和説は、
ウソをついていたんだな
どこまで腐ってるんだろう >>491
僕達は、最近、魏志倭人伝を含んでいる魏志東夷伝という文章を発見し、翻訳したのだったな。。。
そして、国同士の距離を示す長さが、地域の中心間の二点間距離で示されることに、少し、疑問を感じたのだったな。。。 この意見は正しいことを言っているのだろうか、、、
それとも、やはり、頭の悪い小学率が発表した意見なので、間違っているのだろうか、、、
482日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:13:43.68
>>352
>奴國は、「伊都国の東南百里」の位置に外縁部の入り口があり、
この時点で、議論に参加する資格なし
大陸史書の地誌記事は、地域の中心間の二点間距離で示されるのが基本
外延部の入り口などという概念はない なぜ家の話をしているんだろう?となるでしょ
銀〜という親戚がいたり、
当時住んでいた家には謎の刀が飾ってあって
歌舞伎、芝居が〜・・・とか >>490
三世紀前半に北部九州で出る庄内式が倭種からの上納品だとか誰も誰も思わないのが証拠 ちな、4世紀から鐙はあったかもしれないが、半島や日本に持ち込まれた木製の鐙は5世紀の物だから。
材質関係なく、5世紀の物。
これ覚えておいてね。 >>649
>>北部九州最大国は、邪馬壹國であった事をこっそり隠して、<
>いや、公然と否定してるから 畿内説だから そんな嘘つかれても困る<
いや、畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者が、
ウソを付いている事を指摘されて、
「そんな嘘つかれても困る」なんて言われても、困る。 玄菟郡や遼東郡や楽浪郡や帯方郡は、面として理解するのではなく、点として理解しなければいけないのだろうか、、、
それとも、領土があったのだろうか、、、
482日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:13:43.68
>>352
>奴國は、「伊都国の東南百里」の位置に外縁部の入り口があり、
この時点で、議論に参加する資格なし
大陸史書の地誌記事は、地域の中心間の二点間距離で示されるのが基本
外延部の入り口などという概念はない 気づいているだろう
とある漫画に登場するキャラ?
日本刀を持ち、振り回し〜・・・みたいな設定 僕達は、最近、魏志倭人伝を含んでいる魏志東夷伝という文章を発見し、翻訳したのだったな。。。
そして、国同士の距離を示す長さが、地域の中心間の二点間距離で示されることに、少し、疑問を感じたのだったな。。。
500日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:39:16.13
玄菟郡や遼東郡や楽浪郡や帯方郡は、面として理解するのではなく、点として理解しなければいけないのだろうか、、、
それとも、領土があったのだろうか、、、
482日本@名無史さん2019/07/03(水) 11:13:43.68
>>352
>奴國は、「伊都国の東南百里」の位置に外縁部の入り口があり、
この時点で、議論に参加する資格なし
大陸史書の地誌記事は、地域の中心間の二点間距離で示されるのが基本
外延部の入り口などという概念はない 玄菟郡や遼東郡や楽浪郡や帯方郡は、どこに在ったのだろうか。。。 某人物のwikiで良いから読んでみて
〜を中心とした国が何やらとか >>651
>>筑紫の庄内が、3世紀前半であるに対して、
河内大和の庄内は、3世紀末であるから、筑紫が先行しており、<
>なら、どうして庄内式が筑紫に「搬入」されたの? <
先に筑紫で、
半島の「高温焼成」の技法を学んでの(筑紫の胎土での)庄内の製作が起こり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」で出来た「市」や、部将らに拠ってのら伝播で、
河内や大和が庄内を知って、河内などや大和の胎土を使って造り始めて、
筑紫に搬入上納したようだ、という事になるの。 >>658
世間の人には、「南→東」などの嘘付き騙しのように、
理由の言えない主張をする大和説が、詐欺師に見える 『チョン州 長州』
あと、このようなスレも読んでみて >>671
>邪馬台国七万戸の中心がヤマト国で、邪馬台国七万戸の範囲には河内や和泉も入るんだよ<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺文言であるし、
ヤマトや河内や和泉の「七万戸」論は、「南≠東」などに拠って、×。 >>490
いくらでもあるよ
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
東潮「邪馬台国の考古学」 >>498
>ちな、4世紀から鐙はあったかもしれないが、半島や日本に持ち込まれた木製の鐙は5世紀の物だから。
これが大嘘
5世紀に入っていれば、鐙は金属性がデフォ 読んでみた?
全人類(地球)の敵とされた
と言っている人がいたり
〜を中心とした国〜(人物)の話でしょ >>672
>そもそも弥生末期でも青いところまでは海だし、筑後平野が広いから人口も多かったってのは
ただの夢物語、空想の産物だから諦めなww
http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg<
その図でも、久留米付近はずっと陸上であったようだし、
久留米からの下流域では、3世紀が海進期であったのか?海退期であったのか?の、
情報が必要だ、と言っているんだよ。 >>511
奈良で5世紀以降の遺跡で出土してる鐙は木製だろ >>513
引きこもりの奈良盆地民にとっては奈良は広大な土地なんだよw >>251
>イメージで語ってないで何をもって都市機能と言っているのか具体的に言うてごらん?
具体的に言うと、こんなところ。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」bQ
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡計100棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 >>677
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説は、
矛盾を突かれてぐうの音も出ない状態になると、反論一つできずに、
「証拠は?」の一言レスごっこで時間を稼いで、
で反論した気になってごまかす。
本質が間違っていて中身がないというのは惨めなものだな。
詭弁ですら論破されてしまう。 『日出処の』調べてみて・・・そうなるから、
『アニメじゃない アニメじゃない 本当』 >>251
>イメージで語ってないで何をもって都市機能と言っているのか具体的に言うてごらん?
具体的に言うと、こんなところ。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」bQ
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡計100棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 >>672
>そもそも弥生末期でも青いところまでは海だし、筑後平野が広いから人口も多かったってのは
>ただの夢物語、空想の産物だから諦めなww
よそ者か、とんと土地勘が無いレスだな
茶色のところにも広い陸地があり、三世紀の主要国(今の小城、川上、尼寺、神崎、吉野ヶ里、米多、久留米、八女・・)はほぼこの部分にあった。
それに、当時の開拓前線であった黄色部分を加えれば博多平野の数倍はあるだろう。 実際(現実)は、そういう話
全人類の敵とされ・・・、
漫画やアニメ、ゲームなどの元ネタ? 博多平野も、投馬国だった可能性が、急激に浮上してきたな。。。 >>520
>茶色のところにも広い陸地があり、三世紀の主要国(今の小城、川上、尼寺、神崎、
>吉野ヶ里、米多、久留米、八女・・)はほぼこの部分にあった。
ということは、そこより低いところは
ずっと後になってもなかなか開発されなかったってことだよ
土地勘があるなら、それを論理的思考の基礎として使わないと!
九州説ありきで言ってるから、でたらめになるんだよ
>それに、当時の開拓前線であった黄色部分を加えれば博多平野の数倍はあるだろう。
黄色の部分は、砂がたまりつつあったところということだから、開拓最前線どころじゃないぞw
今で言うならムツゴロウが跳ねているような常態のところが黄色部分
筑後平野に広大な国があったというのは明確な間違い 博多や宗像は、周防灘沿岸に本部がある投馬国の出先機関だった可能性もあるのではないのかな。。。 ドラマ、映画など(日本の作品ではない)?
・・・日本の話なんですよwww
みたいな事を言っている人がいたり
本当は・・・日本の? 倭人は漁業が好きなので、今で言うならムツゴロウが跳ねているような常態のところが、田んぼより、人口が賄えた可能性が高いな。。。 >>526
今で言うならムツゴロウが跳ねているような常態のところには、他の場所に降り注いだ太陽の光が生み出した河川からの栄養分も流れ込み、生物が豊かだったので、
その場の太陽の光だけが頼みの、弥生時代の稲作より、倭人のエネルギー源になったのではないのかな。。。 ムツゴロウは、カエルより美味しいので、良いな。。。 >>523
そもそも、672の図の説明がなんかあやしい。
記憶によれば、黒い線は弥生末ではない。東名遺跡近くまで海が押し寄せてたのは縄文期。 >>505
>半島の「高温焼成」の技法を学んでの(筑紫の胎土での)庄内の製作が起こり、
庄内式は「高温焼成」なんかしないよ
>河内や大和が庄内を知って、河内などや大和の胎土を使って造り始めて、
>筑紫に搬入上納したようだ、という事になるの。
畿内からの搬入が先で
筑紫の胎土で庄内式が作られ始めたのは後だよ
でたらめすぎ 今で言うならムツゴロウが跳ねているような常態の有明海沿岸には、びっしりと、倭人の住居が並んでいた可能性も、
びっしりと、並んでいた倭人の住居が、海が荒れたので柱の跡が無くなった可能性も、確率が高いな。。。 >>511
>5世紀に入っていれば、鐙は金属性がデフォ
大嘘 『姥清水』
その人物(母親)の子供だけ・・・何やらみたいな事を言っているでしょ? >>517
>「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説は、
>矛盾を突かれてぐうの音も出ない状態になると、反論一つできずに、
>「証拠は?」の一言レスごっこで時間を稼いで、
>で反論した気になってごまかす。
矛盾してるって証拠が出せないなら
畿内説側の反論成功でしょ?
九州説って・・・
ばかではないの? >>531
>畿内からの搬入が先で
それ1〜2世紀の話やろ 破綻した邪馬台国畿内説が、まだ、完全には叩き潰されてはいないのだという嘘の印象を作るために、
木製鐙が5世紀の物体だという、討論で決着した当然の物事を何度も蒸し返しているな。。。 >>540
破綻した邪馬台国畿内説が、まだ、完全には叩き潰されてはいないのだという嘘の印象を作るために、
討論で決着した当然の物事を何度も蒸し返しているのは、やはり、5ちゃんねるのサクラのプロ固定なのではないのかな。。。 やはり、破綻した邪馬台国畿内説が、今日の討論でも、完全に叩き潰されてしまったな。。。 >>545
破綻した邪馬台国畿内説が、まだ、完全には叩き潰されてはいないのだという嘘の印象を作るために、
討論で決着した当然の物事を何度も蒸し返している、5ちゃんねるのサクラのプロ固定の頭が悪すぎるので、仕方ないのではないのかな。。。 >>545
こうして
自分の発言が捏造だと自白してしまう愚者
それが、九州説 他のスレにも書いたことがあるんだけど、
工作員(不明)か何かがいるのかな? >>530
あやしくなんてないだだろ?
前からしている説明は、
黒い線が縄文海進のライン
青いところまでが、弥生末期に海だったところだよ
https://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg
あやしいとかインチキっていうのは、こういうやつだ
https://i.imgur.com/HeI38Gl.jpg やはり、破綻した邪馬台国畿内説が、今日の討論でも、完全に叩き潰されてしまったので、
討論で決着した当然の物事を何度も蒸し返している、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
547日本@名無史さん2019/07/03(水) 13:01:55.93
>>545
こうして
自分の発言が捏造だと自白してしまう愚者
それが、九州説 『身を清め』
確実に、そういう話だしな・・・姥清水、
いつ頃の話なんだろう >>680
>不彌国までで1万700里だから<
對海國と一大國の、それぞれの国内見聞移動や、それぞれの国の大きさも書かれているから、
魏使らの郡からの「折れ線的な移動距離の合計」が、
不彌國で、ほぼ「一萬二千余里」になってしまうの。
>人類の常識に従えば帯方から1万2千里とされる邪馬台国が<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
また、「萬二千余里」は、郡から女王國への距離だ、として書かれているの。
>不彌国のすぐ南になるわけないよな?<
投馬國が、
「至」の前に移動があったという文言がないから、側副傍線行程國説明であり、
だからそれが省かれて、主行程は、不彌國の直ぐ南である事になるの。 そういえば、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する者達にとって「証拠」とは、どういう意味で使っているのだろうか、、、
そして、邪馬台国畿内説が成立するための、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する者達にとって「証拠」という言葉で指し示す物事は、存在するのだろうか、、、
541日本@名無史さん2019/07/03(水) 12:53:49.43
>>539
証拠は?
542日本@名無史さん2019/07/03(水) 12:54:19.47
>>540
証拠は? 九州説はいつも
証拠の出せない主張をしてしまった時点で
あらかじめ事実上もう論破されちゃってるんだよ >>549
>黒い線が縄文海進のライン
>青いところまでが、弥生末期に海だったところだよ(=黄色いところまでが、弥生末期に陸だったところだよ)
>523
>黄色の部分は、砂がたまりつつあったところということだから、開拓最前線どころじゃないぞw
>今で言うならムツゴロウが跳ねているような常態のところが黄色部分
549 の説明と、>>523の説明は奇違ってるが、別人か?? >>552
>對海國と一大國の、それぞれの国内見聞移動や、それぞれの国の大きさも書かれているから、
>魏使らの郡からの「折れ線的な移動距離の合計」が、
>不彌國で、ほぼ「一萬二千余里」になってしまうの。
それ、部分里程が外縁部までの距離だって主張と矛盾してるね
また九州説が自殺したよ >>553
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する者達にとって「証拠」とは、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)が、自分たちが2通りとも数学的に理解していない、2通りの確率で定義される、「根拠」という物事を言い換えただけだったな。。
そして、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する者達にとって「証拠」という言葉で指し示す物事では、邪馬台国畿内説が成立することを証明できないことは、2通りの確率に対応させた思考実験で明らかになったのだったな、、、 >>681
>魏志倭人伝に邪馬台国の位置と記されている
沖縄辺りの会稽東治の東≠帯方より南1万2千里であり
帯方より南1万2千里≠会稽東治の東であるから
いずれにしても魏志倭人伝の位置情報は間違いが書いている事になる <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
会稽東治の東は沖縄辺りではないし、
帯方より東南1万2千里≒会稽東治の東であるから
いずれにしても魏志倭人伝の位置情報は間違えていない事になる。 >東南陸行 五百里 到伊都國
>東南至奴国 百里
>唐津市(末盧国) 北東→ 糸島市(伊都国) 北東→ 福岡市(奴国)
実際に地図を見れば小学生でもわかるが
それぞれ北東にあるのに魏志倭人伝では東南と書かれている
この間違いを説明しないと「南→東」が嘘ということにはならない 奥山氏本人か、それとも奥山氏と関係が深いBBAかは、はっきりしない、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が、完全に追い詰められ、
興奮しているので「自殺」という、追い詰められてしまっている者が頭に思い浮かべる物事としては、危険な言葉を思いついてしまったのではないのかな、、、
556日本@名無史さん2019/07/03(水) 13:14:04.02
>>552
>對海國と一大國の、それぞれの国内見聞移動や、それぞれの国の大きさも書かれているから、
>魏使らの郡からの「折れ線的な移動距離の合計」が、
>不彌國で、ほぼ「一萬二千余里」になってしまうの。
それ、部分里程が外縁部までの距離だって主張と矛盾してるね
また九州説が自殺したよ いい加減に気づいているだろう、
本人(ホンモノ)だと言っているんだよw
どこに住んでいるのか?川崎区の南部のほう >>558
>会稽東治の東は沖縄辺りではないし、
証拠は?
>いずれにしても魏志倭人伝の位置情報は間違えていない事になる。
証拠は?
証拠を出せない主張をした時点で、もう九州説の負け >>553
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する者達にとって「証拠」とは、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定(達?)が、自分たちが2通りとも数学的に理解していない、2通りの確率で定義される、「根拠」という物事を言い換えただけだったな。。
そして、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する者達にとって「証拠」という言葉で指し示す物事では、邪馬台国畿内説が成立することを証明できないことは、2通りの確率に対応させた思考実験で明らかになったのだったな、、
562日本@名無史さん2019/07/03(水) 13:21:44.59
>>558
>会稽東治の東は沖縄辺りではないし、
証拠は?
>いずれにしても魏志倭人伝の位置情報は間違えていない事になる。
証拠は?
証拠を出せない主張をした時点で、もう九州説の負け >>683
魏志倭人伝の距離は有効数字1桁概数程度の一致があり、
方位はほぼ100%実際を反映したものである、
という事を示すだけで十分 論破された腹いせに、邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が殺害を予告してきたな。。。
563日本@名無史さん2019/07/03(水) 13:23:06.22
>>560
あんたは脳死なー >>559
倭人伝は間違いで、君の考えのほうが正しいと主張するのか
大和朝廷の役人以上に頭が高いな >>684
魏朝の1里は約76.5mであり、
始皇帝の「1歩=6尺」の度量衡での位置では、
赤道を越えた海上と記している事になる。
もちろんそこは会稽東治の東でもない。 家は軍人、警官でもないと言っているし、
たしか家(川崎区)の近所にある、寺院に通っていたとかw >>539
>それ1〜2世紀の話やろ
それだと、畿内第V様式土器になるね
まあ、第V様式も那珂遺跡群・奴国に届いているけれど、
今話題にしているのは庄内式土器だから1〜2世紀って話にはならない >>569
>始皇帝の「1歩=6尺」の度量衡での位置では、
>赤道を越えた海上と記している事になる。
ならないよ
北ベトナムでも洛陽の南11,000里という認識なんだから >>686
>九州説は魏里は1里80mの短里短里と頑張ってみても
九州北部は会稽東治の東に当たらないし<
「東治」地域は、魏代には会稽郡治域であったが、
258年の分郡に拠って、上海付近から江蘇省海岸部が呉郡や揚州の支配地になったから、
女王國は、会稽東治の東で、ほぼ九州島付近がピッタリになった。
大和説は、
かといって長里を引っ込めると、大和説が敗北だし、
短里があってかつ会稽東治の東はほぼ九州島付近という事を史料実態に逆らって、
一生懸命捏造しなくてはならないな
もう詰んでるんじゃね >>697
>>魏の1里は1里約400mだから<
>魏の里はそうだろうけれど、魏志倭人伝の里はそうではない。<
周代以前も、周朝も魏朝も西晋朝も、1里≒75mの短里。 >>555
ああ、誤解を招いているようなら申し訳ない
青いところが、弥生末期の海(と推定されるライン)で合ってるよ
ボーリングで分かるのは、どの深さまでどの土質があるかということ
で、黄色で塗ってあるところは非海成粘土分布域
川が運んだ粘土が溜まっている土層ということだが、粘土になっている時点で
本当の下流域の氾濫原として粘土層が堆積したことを示している
青いところは海成粘土分布域で、この部分は海の中で粘土が堆積した部分
黒い線がその海成粘土分布域の陸側限界線でここまでは
海が来たことがあるという線であり、その上限が縄文海進の最盛期の線ということになる
そこから、海成粘土の厚さで年代を見積もっていて、非海成粘土層のないところは
弥生末期でも海だったとしているだけで、その青と黄色の境界線より上側でも
標高(海抜)はほぼ変わらないし大潮の時には塩水をかぶるようなライン
つまり、ムツゴロウが撥ねているようなところだよ >>688
>短里で書かれた報告書をまとめた時に、長里で考えたから、実際より南の会稽の東とされたのだろうね。
報告書を作成した人と受け取った人で一里の認識が違っていたんだ。
これですべて説明がつく。<
いや、「長里」で考えたのなら、赤道付近にまで行ってしまって×になるから、
陳寿の「長里」だとは考えていないのであり、
だから、この大和説男は、×。 >>568
>倭人伝は間違いで
倭人伝の記述
東南陸行五百里、到伊都國
現実の地理
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg
倭人伝の記述は間違いだな >>578
方向音痴か?
魏志倭人伝の方角を無視するな。
対馬から壱岐の方角が南だぞ。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png >>574
>「東治」地域は、魏代には会稽郡治域であったが、
>258年の分郡に拠って、上海付近から江蘇省海岸部が呉郡や揚州の支配地になったから、
>女王國は、会稽東治の東で、ほぼ九州島付近がピッタリになった。
完全なるデタラメ
まず、「東治」地域などというものが存在しない
妄想である
魏代も258年以前からずっと
上海付近から江蘇省海岸部は
会稽郡「治域」などではないし
会稽東治とも一切関係ない
そんなデッチ上げをどうやって捏造したのか
あたまの構造が知りたい >>579
>方向音痴か?
>魏志倭人伝の方角を無視するな。
魏志倭人伝の方角は現実と違う、という説ですね?
九州説が死にました >>579
>対馬から壱岐の方角が南だぞ。
これが根拠なしだろ?ww
ご都合主義w
方角は間違えないとかいってたくせにwwwww
正しい方角はこれだw インチキするなよ!
https://i.imgur.com/HeI38Gl.jpg なぜか繋がっていたり
平家〜祇園〜
あの写真、アニメなどの話でしょ >>582
あと、この図を見ると、北部九州博多湾から中国地方日本海側というのは
日本海側から見ればほぼ地続きで、そのまま海岸に沿って水行できるのが分かるな >>582
奈良盆地では年中、真東から日が昇り真西に沈むのか?w
外にすら出たことのない引きこもりかな?w 九州説が論破されて黙り込むと
呟き荒らしがスレ流しを始める >>584
おまえw
実際に船で行って見ろw
海しか見えないからw
小舟で近づくと関門海峡もかなり広いんだぞw >>582
3世紀にグーグルマップがあったとは思えないが? >>585
九州説さん、なにか妄想してる?
それとも罵倒荒らし? >>585
>奈良盆地では年中、真東から日が昇り真西に沈むのか?w
その土地に住んでいる人間にすれば、季節変化があっても東は東だろ?
そして南は冬至でも夏至でも、年がら年中、南だww
九州説の好きな周髀算経のこの手法を使えば、どんな季節でも
東西南北がほぼ正確に出せるぞww
「立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正南北也。」 >>587
つまり倭人伝に書いてある方位はアテにならない
そういうことで、九州説さんイイのね? >>591
日本列島、
あっても無くても同じだと言っていた人の話を知っている?
日本海が太平洋になるとか >>587
>小舟で近づくと関門海峡もかなり広いんだぞw
小舟で「近づく」と広いだろうが、航行の安全を考えるなら、
そんなに海峡の際まで近づかずに遠巻きに行く方が安全
近くまで行ったとしても幅600メートルだし海峡の奥が曲がっているから、
瀬戸内海まで見通せる場所はない
船から見たら、陸続きだよw >>579
九州説って、3世紀の日本列島は方位が45度ずれてたというトンデモを前提にしてるわけだ
月刊ムーに投稿してみたらどうだ? 日本列島何やら〜
中国〜朝鮮半島(視点)〜の話なのかな、
それとも他の国の人の視点?
数年前の、とあるスレ、
そういうコピペ(aa)?が貼り付けられていた 『日本列島』
日本海があるでしょ、
日本がなくなれば、この日本海が太平洋になるとか 謎の震災後?
とあるスレを読んでみたんだけど、
そのような事ばかり言っている人達が >>594
>近くまで行ったとしても幅600メートルだし
ちなみに、博多湾口の志賀島と唐泊崎の間は6キロ、関門海峡の幅の10倍ある
関門海峡を渡っても、狭い湾の入り口を横切ったとしか認識しないよ なぜか(太平洋)『太平プロレス』のような気がするんだけど、 日本がなくなれば・・・でしょ?
どこ視点なのか?となるでしょ
ムー大陸、中国・・・朝鮮・・・ムー? 『ムー大陸』
イースター・・・まけまけ様、
なぜか龍宮〜の家でしょ?
本当に、おかしな話ばかり それともロシアかな?
日本がなくなれば(沈めば)・・・、
太平洋になると言っている人がいたり >>594
水行って言ってんだろ?w
沖を水行するっていうのか?w >>592
あららまた奥山の脳は屁理屈でメモリが一杯になってしまったんだなw
年中、日の上る方角が真東とは限らないのだから、季節によってはズレが生じる。
さすがに使者がその誤差まで補正できたとは思えない。
だから、対馬→壱岐を南と見なして道程を記録した。
奥山のメモリは2行分しか無いので意味わからないだろうなw >>607
>水行って言ってんだろ?w
>沖を水行するっていうのか?w
海岸沿い水行を、海岸から10メートルのところだとか思ってるのか?
海水浴なら100メートル離れたらずいぶん沖だろ?
海岸に立ったときの水平線がだいたい4.5キロ先
その辺までは当然に水行だよ 反日とか、頭が〜〜〜〜〜〜なんじゃないの?
と言っている人がいたり、どのスレだったかな
日本人なのに反日? >>608
>年中、日の上る方角が真東とは限らないのだから、季節によってはズレが生じる。
でもその土地に住む者には、そんなのは当然のことだし、東は東だ
魏使さまは土地のものに方角も聞けないほどコミュニケーションが取れないのか?w
>さすがに使者がその誤差まで補正できたとは思えない。
土地の者の案内がなければ、どっちに行ったらよいのかも分からないのだから、
方角は土地の者に聞くだろ?
土地の者は、季節によって東の向きを変えながら暮らしたりしないぞ?ww
>だから、対馬→壱岐を南と見なして道程を記録した。
対馬ー壱岐は方角は書いてない
まあ、南北巿糴とは書いてあるが、ここで西北東南巿糴とは書かないだろ?ww >>609
行ったこと無いんだろ?
俺も南側からしか見たことは無いが、陸続きには見えんぞw 日本人なのに反日というか、
正確には日本人ではないんだろう・・・、みたいな話なのかな?
むかーし日本列島に渡ってきて・・・。 >>611
土地の者w
当時の倭人は里も暦も知らなかったんだぞ?
状況を察しろw >>612
前に沖から見た写真を貼ったんだがな
もう一度探してくるよ 頭の悪い奥山氏は、メモリー不足の可能性も高いが、CPUのクロックも低いので、あまり関係なく、頭が悪いままなのだな。。。 >近くまで行ったとしても幅600メートル
長江下流の川幅(南通付近18km、河口部80km)と比べたら小川だなw >>691
>魏の里が1里400mだったら魏志倭人伝に使われるのはそれだろ<
魏朝の里は、短里(周朝の里)であったから、×。
>九州説は魏使による正確無比な報告書を元に魏志倭人伝は作成されたという体じゃなかったのか<
「ほぼ正確な報告書」だ。
>実際は魏朝の政治的決定で<
魏使らは、そんな事に忖度したら、首が危ないし、そんな権限もない。
>邪馬台国は最初から帯方より南1万2千里<
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、この男は×人間。
>会稽東冶の東の後漢が想定していた倭奴国の位置にある事に決まっていたんだけれど<
後漢も「会稽東冶の東」なんて想定していなかったし、「楽浪海中」とは書かない。
後漢書は、陳寿の「会稽東治之東」を、自己解釈に拠る書き換えをした半分偽書であるから、
絶対的な根拠にはならない。 >>615
うまく探せなかったから、グーグルさんの3D画像を作ったよ
https://i.imgur.com/AJuq4uY.jpg
この地図の藍島わきの海峡の口を正面から見る方向からの画像がこれ
https://i.imgur.com/2LF3mHt.jpg
これで海面まで視点を下げれば、地続きに見えるだろ >>693
>帯方郡から一万二千里は、短里で九州北部、長里で会稽の東<
帯方郡から女王國の一万二千余里は、
短里で九州島付近で、
長里では赤道付近。 >>608
>年中、日の上る方角が真東とは限らないのだから、季節によってはズレが生じる。
>さすがに使者がその誤差まで補正できたとは思えない。
あらあら
そんな程度の人が行軍を指揮したら、どっちに進軍しちゃうのか怪しいことこの上ないね
お脳3グラムの九州説が哀れだから教えてあげる
洋上を50キロも行くときは日の出とともに船出して日没間際に岸に着く
壱岐に着く頃、日はどっち方角に没してる?
まあ、こんなことで方位を45度間違えるような一行なら、記録した行程はさぞアテにならん話満載だろうよ >>694
>魏志倭人伝に書いている邪馬台国の位置はは現実的などこの場所を指してもいない<
陳寿の女王國の位置推定は、九州島付近だ。 >>618
ザラゴキの工夫
>「ほぼ正確な報告書」だ。
「ほぼ」と付ければ、ザラゴキの中では嘘を吐いたことにならないらしいw
九州説のダメさの広告塔だわw >>620
>短里で九州島付近で、
>長里では赤道付近。
根拠なし理由なし、説明なしの紋切り断定
こんな九州説が「説」とも呼んでもらえなくなるのは理の当然 >>698
>魏の役人は万能の知識を有しているが里の長さだけ間違えたんだよ <
当然一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測などが出来たから、
殆ど間違えない。 >>614
>土地の者w
>当時の倭人は里も暦も知らなかったんだぞ?
>状況を察しろw
こういう具体的な論証ができないバカが九州説をやってるんだよなw
暦を作るには、一年を記録する必要がある
方角を知ることは、狩りに出て帰るためだけでも必要
暦を知らない民族だから方角を知らないと主張するのは頭が悪すぎる >>619
だから実際には水面しか見えないからってw
それこそ「土地の者」に聞けば「つながってません」の一言で終わりだろw >>699
>>短里で書かれた報告書をまとめた時に<
>誰がそんな単位を使って <
魏の役人らが、周朝や魏朝の公定の里を使って、計測した。
>誰に提出する報告書を書くんだ?<
魏の皇帝や重臣たちに。
デタラメなことを質問しがなり立てるのは休むこと以下だ。 >>549
弥生期に急速に低地が出現して、干満を利用した灌漑が可能になったのだろう。
そういえば高良大社の秘宝は干珠満珠だったね。
高良玉垂宮の玉もそのことだとか。
干満が稲作の富をもたらすと考えられたのだとすれば納得がいく。 ここは、方角を無視する畿内説が、高精度な方角認識を追求するスレですwww >>622
>陳寿の女王國の位置推定は、九州島付近だ。
それでどうして会稽東治之東と書くんだ?
理屈に合わないだろ
釈明も反論も、理由も言えず言い張るだけとは
さすが満身創痍滅亡間際の九州説
ザラゴキはホイホイの中で瀕死のようだ >>700
>帯方より南1万2千里はオーストラリア付近<
だから、そんな解釈をした大和説者は、分裂幻覚の妄想の・・・・。
>会稽東治の東は沖縄辺り<
これも×。
陳寿の「女王國の位置推定」は、九州島付近。
魏志倭人伝にはこの通り書いてあるよ。 >>587
関門海峡は仲哀天皇が掘削したことになっている。
それまでは本州と九州は陸続きで、トンネルのような水路があり、これを穴門と呼んだ。
仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮。 お前たちが何を言っても(書いても、本を出版しても同じ)無駄なんだよ、
そういう事になっているんだから >>625
>当然一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測などが出来たから、
それで、どうして唐津港から伊都国のある方位がわからないの?
唐津港から可也山見えてるよね?
曽根丘陵からも三雲からも可也山見えるよね?
なんで彼らにわからないの? >>631
>それでどうして会稽東治之東と書くんだ?
>理屈に合わないだろ
朝鮮半島も九州ももっと大きいと思っていたんだよ。 >>633
>関門海峡は仲哀天皇が掘削したことになっている。
それを歴史的事実だと信じ込む白雉同然の男など、探しても滅多にお目にかかるまい
九州説老人を別にすればだが 漫画やアニメ、ゲーム・・・文庫〜?
そういうものも通用しない・・・・・実際はw
主人公と敵、悪役などがいたりするでしょ、
敵を殺したりする作品なら、ただ人殺し(他の家の先祖など)をしているというだけの話 >>636
見に行ったことがないから見えない。
対馬から壱岐に渡り、末盧国の港に寄って伊都国へ向かう。
そこで上陸して奴国(筑紫)、不彌国(宇美)だから、そもそも関門海峡のカの字も出てこない。 この地図だと
魏の使いの上陸地を松浦あたりだとしたら
スタート地点まで東南に進んだことにならないか? 会稽東冶の東とかw
そもそも史書の道程はデタラメだと言い放つ畿内説が
方角や距離の事をどうたらと言い出す意味がわからんw
畿内説を無かったことにする畿内説w https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg
この地図だと
魏の使いの上陸地を松浦あたりだとしたら
スタート地点まで東南に進んだことにならないか? >>637
>朝鮮半島も九州ももっと大きいと思っていたんだよ。
ほらな
思う理由とか考えない愚者
目先の口実しか思い付かない俗物
糊塗だけのサギ体質老人集団
それが、九州説
いくら九州が大きいと誤認していたとしても
12000里の道里を行った果ての地が会稽どころか
魏領内真っ只中の東ではとてもとても
ダメだそりゃ
倭人の住む地が
「道里を計算するとちょうど会稽東治之東」
などと書くか?
いや、書きはしないね 南を東と言ってる畿内説の反論での最後の砦がまさかの
「方角と距離」かよwww
想像以上に頭悪いので皆さん、レベルを下げ過ぎてくださいwww https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg
この地図だと
魏の使いの上陸地を唐津あたりだとしても
スタート地点まで東南に進んだことにならないか? >>642
>そもそも史書の道程はデタラメだと言い放つ畿内説が
>方角や距離の事をどうたらと言い出す意味がわからんw
わかんないの?
方角や距離が正しいと言い張る九州説諸君が
老人ボケ末期症状だと診断を出してあげるためだよ
理解できたー? >>645
>南を東と言ってる畿内説の反論での最後の砦がまさかの
>「方角と距離」かよwww
「方角と距離」が正しいと言い張ってきた九州説への
最後のトドメですが、何か? 一大率は漢代には監察官(諜報機関)、魏代には行政官(首相)に変化している。
ところが、「魏」志倭人伝には、監察官の意味で書かれている。
ここに秘密を解くカギがある。
中国本土では行政官になっていた一大率が、辺境の倭国では、行政官が監察官も兼ねていおり、陳寿は行政官(一大率)を監察官の意味で補ったのである!
常識的に考えて、メイ首相がエリザベス女王と遠く離れたところにいるとは考えられない。つまり卑弥呼も北部九州にいたのである!
それを裏付けるのが里数表記で、魏使が実際に足を踏み入れたのは、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の4カ国だけということになる。ところで、
乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
これらの卑弥呼の王宮に関する情報は実際にその場にいないと書けない視覚情報であり、卑弥呼が還暦以上の高齢であると書かれていることから魏使は卑弥呼に謁見していることが判る。
立ち入った4ヵ国(末伊奴不)の内、消去法により、卑弥呼は奴国王だったことになる。 会稽東冶の東は、九州のあたりを指します。
なお、東シナ海の事を中国は東海と呼びます。
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>701
>それでも会稽東治の東は九州北部にならんね<
陳寿は女王國の位置推定を書いたのであり、
会稽の東治は、揚州の支配地になったので、上海付近から江蘇省海岸部になり、
ほぼ「九州島付近」になっている。 >>644
>倭人の住む地が
>「道里を計算するとちょうど会稽東治之東」
>などと書くか?
>いや、書きはしないね
書かないという根拠は?
いやむしろそういう意味で書いてあるんだけど?
それ以外にどう読むんだ?
会稽から船出してたどり着いた記録がない以上、里程を計算するとそれくらいのはず、という意味に決まっているだろ?
そう思っていなかったのだとしたら、コミュ障で相手の意を組むことができない自分を恥じれよ。 >>642
>会稽東冶の東とかw
>そもそも史書の道程はデタラメだと言い放つ畿内説が
>方角や距離の事をどうたらと言い出す意味がわからんw
わからん?
道程はデタラメだと立証するためだが?
必要だろ?
主張には根拠が >>653
前半をカットして読まないでいると
そういうトンチンカンな誤解をする
九州説に文章を読み書きする人並みの能力がないこと
率先して証明いただき
ありがとうございます
そしてお気の毒さま >>702
このように「南→東」や「会稽東治」問題や「冢≠前方後円墳」論争や、
「邪馬台国や畿内の不存在」問題の論争に敗れた状態に陥った大和説者は、
罵ることしかできず、論争に敗れた惨めな存在。 >>652
>会稽の東治は、揚州の支配地になったので、上海付近から江蘇省海岸部になり、
あのー
そんな歴史的事実は
まったく存在しませんが? いつまでも気付かず敗れた靴下を履き続ける畿内説信者w
学者はスッと逃げたな。
梯子を外されている事にも気づかない畿内説信者哀れw >>638
>それを歴史的事実だと信じ込む白雉同然の男など、探しても滅多にお目にかかるまい
一応聞いておくけど、否定する根拠は? >>656
>このように「南→東」や「会稽東治」問題や「冢≠前方後円墳」論争や、
>「邪馬台国や畿内の不存在」問題の論争に敗れた状態に陥った大和説者は、
それ、ぜんぶ九州説が惨敗してて
「罵ることしかできず」の惨めな状態になってないか? >>644
>魏領内真っ只中の東ではとてもとても
>ダメだそりゃ
何がどうダメなのか説明できないのか?
コミュ障も大概にしろよ。
面倒なやつだな。 >>650
楼観は唐古鍵にあるが、「城柵」を持った遺跡は3世紀の畿内には皆無w
畿内説、終了〜!!!カンカンカンカンwww >>661
つまり根拠なく否定しているわけだ。
畿内説はいつもそんな調子だなw >>704
>自分は畿内説には反対しているが、さすがに短里はないと思うぞ
役人が勝手に単位を変えることはありえないよ・・・<
短里は、
周朝や周以前から存在していた単位であり、
始皇帝の「1歩=6尺」の長里の強制で混乱したが、
魏の初代文帝の受命改制の詔書で度量衡の統一を指示し、
重臣たちが次々と「周制への復古」の上表をした結果、
魏朝の公定単位になったもの。 チョン州 長州〜何やらというスレ
『姥清水』の話をしているだけのような気がするんだけど >>663
環濠が無いのはまだしも、さすがに城柵は必要だよなw
書いてあるんだし。 弥生の硯、畿内には皆無
畿内説、終了〜!!!カンカンカンカンwww撤収〜!!! それにしても姥清水なんだよな〜・・・。
『禊』
この辺りのwikiを読んでみるとわかる。 >>713
>>だから、実際に会稽東治之東に九州島付近があるから、<
>九州説は、いつまで見え見えの嘘つくの?<
上海と佐多岬が北緯30度位であり、
釜山や洛陽が北緯35度位であり、
海峡は220kmで、1度は111kmであるから、九州北岸は北緯33度位であり、
だから、揚州の海岸の江蘇省や上海付近のほぼ真東に九州島がある事になるから。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
どうしていつまで見え見えの嘘つくの?。
・・・・アホ詐欺師だから?。 >>729
>魏志倭人伝の唯一最終の目的は
「女王之所都=会稽東冶之東」喧伝(陳寿の忖度)だったのかよっ!w<
陳寿は「会稽東治之東」と書いたのであり、
それを「会稽東冶之東」としたこの男も、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする・・・・アホの宗教詐欺師であった、
という事だね。 >>627
>それこそ「土地の者」に聞けば「つながってません」の一言で終わりだろw
それは渡海千里にはならないなww
畿内を倭種だから倭国ではないという九州説の詭弁は通らない
それに、つながっているかどうかではなく、今問題にしているのは
北部九州から本州中国地方日本海側へ進むのが「水行」かどうかという点
これが認められればいいんだよ
論理の追えない程度の知恵の者には難しかったかな?w >>629
>干満が稲作の富をもたらすと考えられたのだとすれば納得がいく。
塩害って言葉、知ってるかな?
諫早湾干拓地でも、干拓地の外側に塩止め堤防を作って
淡水の貯水池を作っている理由を考えてごらん >>633
海峡幅が600メートルもあることから考えると、トンネル上の水路だったというのは
考えられないが、古伝承で地続き扱いだったのが、途中で転嫁したということならありうるんじゃないかな >>640
>末盧国の港に寄って伊都国へ向かう。
九州説さんは、伊都国からの東南「陸行」五百里の
「陸行」はしていないという立場に鞍替えするのかな?ww
魏志倭人伝の記述は正確なんじゃなかったっけ? >>736
>3世紀後半に大和に280mの巨大古墳を築造する勢力が畿内に存在して<
これ×ね。畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
280mの箸墓は布留だから、4世紀だし、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓。
>3世紀前半には博多が大和の供献土器を模倣製作し、北部九州各地に運ばれているということ<
これも×ね。
筑紫は、半島の高温焼成の技法を学んで、3世紀前半に庄内を造り始め、
それが東征毛人五十五國らの将軍らが造った「市」に拠って、大和や河内にも伝えられ、
その一部が、3世紀末に筑紫に搬入貢納された。 >>672
ピンポイントな話を始めると全体が見えなくなるのも自閉症の一種だぞw
ところで、南を東に変換する方程式は見つかったのか?w
640日本@名無史さん2019/07/03(水) 16:14:22.30
>>636
見に行ったことがないから見えない。
対馬から壱岐に渡り、末盧国の港に寄って伊都国へ向かう。
そこで上陸して奴国(筑紫)、不彌国(宇美)だから、そもそも関門海峡のカの字も出てこない。 >>641
>この地図だと
どの地図?
>魏の使いの上陸地を松浦あたりだとしたら
松浦で何を指しているつもり?
現松浦市? 旧松浦郡? 松浦川河口付近?
>スタート地点まで東南に進んだことにならないか?
スタート地点って何のこと?
自分の脳内で想定することはきちんと説明しないと他人からはさっぱり分からないよ >>643
弥生時代の唐津平野は、今より奥まで潟湖が入り込んでいる
https://i.imgur.com/NgLi161.jpg
それに、地誌記事では国の中心を結ぶ二点間距離で示すのが標準なので、
スタート位置という概念は不要
この図https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpgでは、上の図の王墓のある辺りを
国の中心としてある >>650
>立ち入った4ヵ国(末伊奴不)の内、消去法により、卑弥呼は奴国王だったことになる。
奴国王なら奴国王と書いてあるし、伊都国が都なら伊都国に女王之所都と書いてある
伊都国、奴国は、邪馬台国とは別の国
こんな当たり前の読み方すら拒否しないといけないところで、
九州説の無茶苦茶さ加減、ご都合主義がよく分かる >>663
>楼観は唐古鍵にあるが、「城柵」を持った遺跡は3世紀の畿内には皆無w
あるよ?
知らないの?
発掘面積が少ししか取れないから柱3本分だけど、
ちゃんと纏向遺跡の尾崎花地区で出てるよ
https://i.imgur.com/7mvLtgW.jpg
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
こうやって根拠を示し続けるだけで、九州説は絶滅するww >>750
>唐津の海岸から見た可也山
https://i.imgur.com/NfjPIhP.jpg
そこで暮らす人が、伊都国の「方角を間違うはずがない」なww<
何度も言うが、
海上ならいざ知らず、
陸上での数キロ以上離れた地のランドマークなんて、何の方向目安になんかならず、
そんなものに頼っては、山中遭難が必死であるもの。
伊都国自身の集落が見えなくては、方向など計測出来る筈がない。 >>667
あるよ?
>>681参照
それに、辻地区の建物あとも柵列で囲まれてるし、九州説は物知らずだな
https://i.imgur.com/dg1h5jS.jpg だから言っているでしょ、
家は何教(宗派など)だったんだろう?とか
老婆も、かなり詳しかったり >>664
>つまり根拠なく否定しているわけだ。
ないわけないだろ
関門海峡の形成は約6000年前というのが通説なんだから
「ワシがそう思うから」では話にならない
人工的に開削されたというなら、そういう学説を紹介してくれ
話はそれからだ >>668
>弥生の硯、畿内には皆無
ひとつ見つかったよ? 九州で多くの硯を鑑定した久住猛雄氏の判断
「大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で出土した板石の破片は、
弥生時代後期(1世紀)のすずりの可能性が高い」
これまで砥石とされていたものも、硯があるという目で見直せば
結構な数が硯判定されるんじゃない?
九州の硯もそういう見つかり方だし >>682
>陸上での数キロ以上離れた地のランドマークなんて、何の方向目安になんかならず、
ランドマークは、そっちに何があるかの目安になるからランドマークなんだよww >>681
吉野ケ里とかの城柵を調べてから言えよw >>683
それ現地でイノシシ避けって言われてただろw >>682
>伊都国自身の集落が見えなくては、方向など計測出来る筈がない。
それ、馬鹿すぎ
唐津側から可也山が見える
だから三角測量が出来るなら
距離と方角がわかる
三雲や曽根から可也山が見える
だから三角測量が出来るなら
距離と方角がわかる
だから三角測量が出来るなら
この三点から
唐津港から三雲への
距離と方角がわかる
わからなかったのなら
三角測量が出来なかったか
やらなかったか
なのだ >>686
大阪のを硯というのはあまりに早合点すぎる。
続報も出てこないし。 謎の震災後の話(『老婆談』)
ずらーっと並んでいた本や書なんかも、どうしちゃんだろう、
近所の人が持って行っちゃったのかな、
それとも誰かに売ったり、あげたのかな〜?
いまの・・・(不明)?
あの周辺に住んでいたと言っているし >>752
>>短里で書かれた報告書をまとめた時に<
>そんな報告書はない
短里で報告書を書く人、書ける人が3世紀世界のどこにもいない
これが分からないから、九州説はバカ扱いww<
陳寿は、魏使らの報告を見て魏志などの短里記録を書いていたのだから、
3世紀の魏志に短里の記載があった。
魏略も後漢書も短里での記載があるから、魏使らの記録を見た事になり、
漢書の介山や、如淳注や、淮南子や梁書も短里を使った記載をしており、
他にも周髀算経や周以前の皇帝の頃に短里の記載例がある。
それが判らないらしいこの男(おそらく類スレ主)は、だから国民からバカ扱い。 >>670
>上海と佐多岬が北緯30度位であり、
・・・
>・・・九州北岸は北緯33度位であり、
ずいぶん離れてるね
>だから、揚州の海岸の江蘇省や上海付近のほぼ真東に九州島がある事になるから。
ならないよね
ほぼ真東が九州島の南端では
ほぼ真東に九州島があることには
ならない >>665
>始皇帝の「1歩=6尺」の長里の強制で混乱したが、
>魏の初代文帝の受命改制の詔書で度量衡の統一を指示し、
>重臣たちが次々と「周制への復古」の上表をした結果、
そのような歴史的事実は
ありません >>756
>一つ疑問
日本は北朝と通商持ったことないんだよ
魏って北朝だよな?<
漢書の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」は、
「來獻見」と書いているから、漢代に「來獻見」したんだろうなあ。 >>576
>そこから、海成粘土の厚さで年代を見積もっていて、非海成粘土層のないところは(注:海成粘土のあるところは)
>弥生末期でも海だったとしているだけで、その青と黄色の境界線より上側でも
>標高(海抜)はほぼ変わらないし大潮の時には塩水をかぶるようなライン
>つまり、ムツゴロウが撥ねているようなところだよ(注:ムツゴロウが跳ねてるところは海成粘土がある)
有明海は干満差6-7mだ。大潮のときに潮水をかぶるのであればそれは海域である。
それと、青域と黄域で標高は変わらないというのは大雑把すぎる。
青と黄ではそれなりの海抜差があるから、黄域に海成粘土が蓄積しておらず、
弥生末に黄域は陸地だったという判定になっているわけだ。
また黄色の中でも、数m〜の標高差はある。
詳しくはグーグルで海抜を上げて弥生期の海岸線を想定してみれば、黄域の特性と重要性がわかる。 >>761
>>ダメだ。
3世紀半ばの卑弥呼の墓は冢であり、
大和の纏向型の前方後円墳の石塚が庄内1で3世紀末であり、
3世紀末の出来た大和庄内1が、3世紀に初頭の筑紫に初頭に伝えられる筈がない。<
>まず「否定根拠が言えない」が嘘であることが確定
次に「否定根拠」に反論してないので、九州説はダメだ<
明治佐々木の論に対する批判は、もう数え切れない位してある。 >>688
>吉野ケ里とかの城柵を調べてから言えよw
ほらほら、おじいちゃん、吉野ヶ里は最初から卑弥呼の国じゃないって分かってるでしょ?ww
高島忠平先生の
「吉野ヶ里(遺跡を調べること)から、(弥生時代の暮らしを調べることができ
それによって)邪馬台国(時代の国の様子)が見える」という言葉を
文字通り「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」と受け取って、吉野ヶ里遺跡から
見える範囲に邪馬台国があるって思い込んでた九州説がいて笑えたww >>662
>何がどうダメなのか説明できないのか?
説明ずみ
自分の国語能力欠如を他人のせいにするのは不可
九州説が12000余里で到達したと言っている場所は魏領真っ只中のちょうど東に当たる
しかし陳寿は「計算するとちょうど会稽東治之東」と言う
ぜんぜん場所が違う
だから九州説は、ダメ >>700
>青と黄ではそれなりの海抜差があるから、黄域に海成粘土が蓄積しておらず、
黒線のところまでは海成粘土層があるんだよ
だから、縄文海進でそこまで海が来たという判定になっている
黄色のところは、その上に非海成の粘土層があるからある程度以上長い期間
陸だったと判定されているのだけれど、実際に弥生時代末までに
どこまで海だったかは「えいや」で決めているところがある
吉野ヶ里遺跡の脇を流れる田手川の、吉野ヶ里から筑後川との合流点までの標高差は
6メートルくらいしかない
有明海の干満差を考えたら、この標高差はわずかだろ? >>701
>明治佐々木の論に対する批判は、もう数え切れない位してある。
してあるって証拠は?
ちなみに「南→東のウソつき騙し」とか叫ぶのは批判じゃないからな >>691
>続報も出てこないし。
続報が出るときには10個単位になってるよ
まあ、待ってればいい >>766
>>>弥生後期の畿内はガラスすら作れなかったと思われw
>>九州説は嘘ばかりつくなあ 唐古鍵で出てるよ
>どうしてこういうあからさまな嘘を吐くかねぇ?、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は?。
唐古鍵や纏向でも出てたなあ。<
>九州説がウソをついていたことを証言してしまうザラコク <
何を言ってんだい?。
問題は「ガラスすら作れなかった」という製法の有無の問題であったのであり、
筑紫ではガラスの高温溶融が出来たんだろうが、
唐古鍵や纏向は、ガラスが造れず、
市を介しての出雲などからの搬入や筑紫からの搬入でしかなかった、という意味だよ。 >>707
>筑紫ではガラスの高温溶融が出来たんだろうが、
証拠は?ww >>770
>>例えば、大和説の言う通りに「長里」であれば、赤道付近になってしまって、
明らかに大和説は間違っている。<
>だから 倭人伝の行程記事が間違っているというのが畿内説なんだが?
論理的思考ができないのかな? <
だから、行程記事の方向は99%以上ほぼ正確であるし、
里数も有効数字1桁数値としてほぼ正確な記録であり、
漢代の淮南子や介山の度量衡や、如淳注の説明ともほぼ一致し、
殆ど間違っていないんだよ。
類スレ主やの大和説者らは、
やっぱり「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホの宗教詐欺師なのかな?。 >>709
>だから、行程記事の方向は99%以上ほぼ正確であるし、
証拠は? >>772
>>奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、<
>どうして九州説は平気で こういうニセ情報を流すかなあ、
どうして大和説者は、
「ニセ情報を流す」というのなら、
何故「ニセ情報になるのか?」の事実説明や証拠を言わないのかなあ?。 最近の警察官は、電話の応対が丁寧なので良いな、、、 >>712
殺害を予告されたことを通報した時には、丁寧に対応してくれたのではないのかな、、、 >>630
九州説は方角どころか魏志倭人伝に書いてある事と
考古発掘結果に古墳の科学調査そして中国史書を全部無視だけどな >>775
>一般に公開されてる情報だろw
https://i.imgur.com/GnMaRDA.png
成程。
という事は、このスレのスレ主や類スレ主らの大和説者らは、
トップの学者らの意見を否定抹殺する・・・・アホの反逆者であった、という訳か。 少し費用がかかったが、犯罪からの防衛が完全に整えられたので、また、魏志倭人伝時代についての研究をすれば良いな。。。 >>711
明らかだからさ
出典出せないだろ
ガセだからだよ >>704
>黄色のところは、その上に非海成の粘土層があるからある程度以上長い期間
>陸だったと判定されているのだけれど、実際に弥生時代末までに
>どこまで海だったかは「えいや」で決めているところがある
えいやといっても、グーグルで確かめたところ、一定の海抜(標高)で決めてるとみたけどね。
>吉野ヶ里遺跡の脇を流れる田手川の、吉野ヶ里から筑後川との合流点までの標高差は
>6メートルくらいしかない
>有明海の干満差を考えたら、この標高差はわずかだろ?
田手川と筑後川の合流点は、有明海から数qくらい上流で、海抜も高い。
それに吉野ヶ里は丘陵地帯だから高いところもあれば低いところもある。数字の比較検討には向いていない。
それより、吉野ヶ里丘陵の下の平地を走る国道や田んぼと、有明海の海抜(満潮位)とで対比するほうが良くわかる。 >>632
会稽東「治」という地名は存在しなかったので
後漢書にある会稽東冶の東の事
現在の福建省福州市でその東は沖縄か台湾あたり
陳寿がそこに邪馬台国を想定していた事は
魏志倭人伝に奴国や不彌国の九州北部から南に水行30日陸行1月行った所が邪馬台国と書いてある事からも明らか >>715
九州説側の作り話が叱責を受けただけでは? >>785
>>冢は「高い墳だ」、と言い換えているだけで、
だから、「高い墳」⊃「冢」といっているだけであり、
だから、逆に説文は「冢≠墳」だと言った事になる。<
>冢は「高い墳だ」と言い換えている ならば「高い墳」=「冢」である
箸墓は「高い墳」だから「冢」でいいよね?<
いや、前方後円墳は、
高さよりも「横に低く広がって平べったく見える墓」だから、「冢」ではなく、
だから箸墓は、冢ではなく×だ。 >>645
畿内説は南を東になんて言ってないぞ
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は沖縄かパプアニューギニアになるので
ありえないと言っている 警察というと昨年、一昨年・・・w
またオレオレ詐欺(振り込め?)が流行っているので気をつけてください、
という連絡(電話)があったと・・・母親が言っていた
神奈川県警だったかな、神奈川警察署?
何なんだろう、
家の周辺で被害(騙されそうになった)にあった人がいてとか >>721
>いや、前方後円墳は、
>高さよりも「横に低く広がって平べったく見える墓」だから、「冢」ではなく、
証拠は? >>658
学者が逃げたのは九州説だろ
すぐバレる嘘つくとそれだけ信用なくなるぞ >>665
もし短里があっても
魏志倭人伝に里と書いてある以上普通の里で書かれている
メートルで書いてるのに実は長さが尺貫法の尺なんて地図とかないだろ >>722
だからと言って完全無視するなら邪馬台国という言葉すら使うべきじゃないな。
魏志韓伝においても同様の比率で記述されているのだから、一旦はそれに合わせて解釈すれば良いだけ。
南と書いてあるところを東に置き換えるなら、その根拠を示せばよいだけ。
以前は合成地図を根拠としてただろw
それが間違いならちゃんと代わるものを準備してこいよ。 >>726
もしやお宅、梯子外されて逃げ遅れた人?w >>728
>魏志韓伝においても同様の比率で記述されているのだから
これが嘘
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
倭国内でも4倍異なる
同じ縮尺とかどの口で言うんだかww 被害にはあっていないのかもしれないけど、
こちら(警察)に、騙されそうになったという通報があったので・・・、
もれ(仮)の家も、気をつけてください
このような電話w >>788
>>つまり実際の場所よりもずっと南方に設定する必要があったということ<
>いや、それ以前に大陸の常識として、倭人は南方人という認識が合ったんだよ
それに合うように書いてある<
ダメだ。
漢書が、
卷二十八下地理志第八下(抄) 幽州屬の
「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」と、
卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支の
「會稽海外有東[魚是]人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」とを、
はっきり書き分けており、
倭人は、(呉付近の海外の東テイ人と区別して)、
「楽浪の海中」(=九州付近)にいる部族だ、とはっきり区別していた。 >>730
当時の海岸線なんか分からないんだし、現在の糸島市がそのまま伊都国だったとは誰も思ってないだろ?
まさか今の地図と地名で比定してるのか? >>728
>だからと言って完全無視するなら邪馬台国という言葉すら使うべきじゃないな。
完全無視なんてしてないだろ?
邪馬台国の比定に使える情報として
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人
は、きちんと考えてるよ
九州 畿内
邪馬台国の地名 × ○ 九州の候補地を山門郡に絞る場合は○になる
戸数7万戸 × ○ 九州に収めるのは不可能
30の国々の盟主 × ○ 倭国の盟主≒日本列島の盟主とすれば、邪馬台国論争は決着
宮室、楼観、城柵 ▲ ▲ 九州の候補地を吉野ヶ里に絞る場合は○になる
卑弥呼の墓径百歩 × ○ 箸墓の後円部
徇葬百人 × × 九州は集団墓地、畿内は記紀の記述のみで証拠なし
そもそも邪馬台国論争とは3世紀における倭国の盟主がどこの国であったかを探すもの
考古学的事実として畿内ヤマトが日本列島の盟主であった
もし魏使が畿内ヤマトの存在を認識していたことを証明できればその時点で邪馬台国論争は終了 >>792
>>実は韓伝も同じ縮尺(短里)なんだよ。<
>全然同じ縮尺じゃないよ
そもそも水行距離も渡海距離も、測定方法がないのにそれを測った上で
一定の縮尺で記述したっていうのが非論理の極みなんだよ ・・・<
いや、魏の役人らは、一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測が出来る。 >>728
韓伝というか
沖縄辺りの会稽東冶の東が帯方より1万2千里の辻褄合わせをしただけだろ
韓地は帯方より水行で乍南乍東して7千里で南端
海を3千里渡って倭地までが1万里
そこから南に水行したりして2千里の会稽東冶の東が邪馬台国1万2千里
計算すると1里140mくらいで1里80mとされる短里にはならないよ >>728
>南と書いてあるところを東に置き換えるなら、その根拠を示せばよいだけ。
何度も示しているだろ?
陳寿の認識では、倭国は南方の国で、会稽東治之東と思ってたから、
南って「陳寿が書いた」んだよ
ただその陳寿の認識が正しくないのが確実ってこと >>731
6分の1にすれば九州北部だけど
3分の1くらいにすれば畿内
そのままだったらオーストラリア >>794
>>魏の役人は、伊都国方向なんて記録出来ませんが。<
>ザラゴキがどこまでもバカなのは、「魏の役人は次の国の方向を記録できません」と
主張しながら邪馬台国は南だと言い張る 頭悪過ぎ <
不彌國から邪馬壹國は、直ぐ南に(入り口が)見えている位近いから。 >>734
>まさか今の地図と地名で比定してるのか?
遺跡の場所がベースだよ
末盧国はhttps://i.imgur.com/NgLi161.jpgを参照
伊都国は三雲遺跡群
奴国は、比恵那珂遺跡群
とすればよい
ただ、この元データは九州説の人間の書き込みだからそこまで正確じゃない >>731
>魏志倭人伝の1里って約1/6すりゃいいんだよね?
約1/6で同じ縮尺って言ってるのに、4倍違うのは誤差なんだとさww
そんな単位も縮尺もないww >>718
>田手川と筑後川の合流点は、有明海から数qくらい上流で、海抜も高い。
その辺に吉野ヶ里用の津・港があったとされているので、その辺までは
確実に海
>それに吉野ヶ里は丘陵地帯だから高いところもあれば低いところもある。数字の比較検討には向いていない。
吉野ヶ里の遺跡内(微高地)ではなく、ちゃんとその横を流れる「田手川の水面の標高」を
基準に測ってるよ >>673
>諫早湾干拓地でも、干拓地の外側に塩止め堤防を作って
そんな近代技術を投入してかつ失敗したプロジェクトを引き合いに出しても、何も説明したことにはならない。 >>730
そもそも、イト国とナ国の比定地がトンデモバチモン >>678
>自分の脳内で想定することはきちんと説明しないと他人からはさっぱり分からないよ
あまり脳内設定ばかり振り回されても困りますよ、キナイコシさんw 邪馬台国の地名 〇 × 地名で大和、山門、山田、八女、山都などありふれているので九州が〇
戸数7万戸 〇 × 可住地面積と耕作可能面積、出土した農具の質と量により畿内は×
30の国々の盟主 ― ― 30国の官の記載があるのみ。盟主が居たというのは畿内説の妄想
宮室、楼観、城柵 〇 × 吉野ヶ里で十分○
卑弥呼の墓径百歩 ▲ ○ 祇園山などは道程の縮尺に合わせれば〇
徇葬百人 ▲ × 畿内は殉葬の痕跡や集団墓地すら無いので完全に× >>685
>関門海峡の形成は約6000年前というのが通説なんだから
やれやれ、最後は通説頼みか。
結局、畿内説は何も証明できないのだよ。
史書を否定して日本史を黒く塗りつぶすためだけに生きているのかな?
それって楽しい? >>738
全然根拠になってないw
実際に南と書いて東を指している文献を探して来いよw >>704
>有明海の干満差を考えたら、この標高差はわずかだろ?
有明海の干満差は大きいのか?
何メートルなんだ?
なんとなく示唆するだけで、また後で「そんなことは言ってない」とごまかす気か?
君はここまで何も証明できていない。 >>734
少なくとも旧郡は参考になるよ。
怡土郡と志摩郡は別で、内陸側が怡土郡。 >>737
>計算すると1里140mくらいで1里80mとされる短里にはならないよ
じゃあ一里が140メートルの短里であったということだね。 >>742
>約1/6で同じ縮尺って言ってるのに、4倍違うのは誤差なんだとさww
>そんな単位も縮尺もないww
個人の感想です >>753
そうだとすると帯方から南1万2千里の邪馬台国は沖縄になるよ >>743
>その辺に吉野ヶ里用の津・港があったとされているので、その辺までは
>確実に海
当時の吉野ヶ里用の津・港が確認されたとは初めて聞いた。
たぶんそこは海でなく、現・千代田の渡瀬付近のことだろうな。
古代〜中世に、筑後川が西に蛇行していた川幅の広いところで、有明海の満潮時には、筑後川の川水が逆流してくる水域だった。
この満潮に伴う逆水流は、現在でも河口から16q上流の地点まで及んでいる。 >>744
>そんな近代技術を投入してかつ失敗したプロジェクトを引き合いに出しても、何も説明したことにはならない。
そんな近代技術のなかった頃には、地下水面に塩水が入るようなところでは稲作は無理ってこと 1里140mくらいの中短里はあった
魏の皇帝が1歩=2尺と定めて
魏志倭人伝にはそれが使われていて
沖縄にあった邪馬台国までの道のりが正確に記されているのだ >>752
著しく変わってる地名と、あまり変化の無い地名とがあって何とも言えない
https://i.imgur.com/vXB9Z4i.png 1里80mの短里なんてのはなかった
魏志倭人伝の1里は140mなのが明らか
九州説は終了 >>801
>>そう主張しないと畿内説が詰むから?<
>逆 短里があると主張しないと九州説は依って立つ基盤がなくなる
居るというなら短里で報告書が書ける人を具体的に論証して見せればいいんだよ<
魏志などが紹介した魏の役人らの、
「里」の記録などという史料事実や史料実態が存在、が証拠だ。
梯儁さんも張政さんも魏朝の役人だから、魏皇帝の公定尺の度量衡以外の単位は使わないよ?
>帯方郡も公孫氏滅亡以降は後漢(曹操政権)〜魏の直轄地だから、帯方郡の官吏も
大陸中央の度量衡以外使わない
公孫氏だって漢人として生まれ育っているから、後漢の度量衡を使う
さあ、どこに短里を知っている人、短里を使って報告書を書く理由のある人がいるんだい?<
魏志の東夷伝での「里」記載は、公孫氏や郡役人らの関与もあって、
全て「短里」的記載であり、魏朝の公認里であった事の証拠だ。 >>748
>結局、畿内説は何も証明できないのだよ。
現実的に証明不能なことを、証明できないからダメだというだけの簡単なお仕事ですww
証明はしようがないから、確度の高い根拠を積み上げて最尤な論を構成するというのが、
古代史研究の進め方だぞww >>750
>全然根拠になってないw
どうして?
計其道里、當在會稽東冶之東 も
所有無、與儋耳朱崖同 も
陳寿が書いているのは事実だよ
そして、それが現実の地理に合わないのも事実
事実と事実から導かれるものは、確実な根拠だろ? >>752
仲哀・神功皇后記にある通り、
伊蘇志という名前を頂戴したことから、それが訛って伊ト〜怡土というようになったという。
そもそも卑弥呼の当て馬として歴史改ざんされたのが、この神功皇后の記事であり、
それをまともに受け取るのはいかがなものか、、、 >>745
>そもそも、イト国とナ国の比定地がトンデモバチモン
このように、九州説の多数も含めて同意している定説レベルの比定地まで
ご都合次第で否定しなければならないのが九州説論者の悲哀ww
伊都国の比定地を三雲遺跡群、平原遺跡周辺から外したら、九州説の根拠は
ほぼゼロだぞww >>751
>有明海の干満差は大きいのか?
>何メートルなんだ?
>>700を参照 「有明海は干満差6-7mだ。」
奥行きが深く、水深の浅い湾では、干満差が大きくなるんだよ >>745
>そもそも、イト国とナ国の比定地がトンデモバチモン
そもそも、末盧国の比定地がトンデモバチモンだよ。 わははははは @阿波 >>759
>1里140mくらいの中短里はあった
>魏の皇帝が1歩=2尺と定めて
脊髄反射?ww >>764
例えばさ、オタクには
「何らかの検証結果を確定させる場合、第三者による評価、再現結果が一致することを確認する」
とかいう規定とかないの? >>766
>このように、九州説の多数も含めて同意している定説レベルの比定地まで
そもそも、その「定説レベルの比定地」とやらがトンデモバチモンなんだよ。 わjははははは @阿波 >>766
>>1のテンプレを読め。
畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、 >>769
あれ九州説が魏皇帝が1歩=1尺にしたって言ってなかった
1里は魏志倭人伝によりその倍くらいだったから1歩=2尺のはずだろ
九州説さん何かおかしいのでしょうか >>802
>>畿内説の学者ですらそんな間抜けな話はしない。
学者は「鉄が政権をつくる」と言ってるぞ。<
>残念ながら、鉄ではなく「祭祀」が倭国の枠組みを作ったんだよ<
ダメだ。九州倭国の「東征毛人五十五國」の鉄武器が、
瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東の「市支配と祭祀の枠組み」を造ったのだよ。
>そして、その共通祭祀圏の広がりが、祭祀用供献土器で跡付けられる<
当然、征服された毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の支配のために、
共通した祭祀用供献土器も使われる。
こんな簡単な論理を、根拠なく「信じないにだー」で否定しないといけないんだから
大和説者は大変だー。 >>773
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
だから、どっちもトンデモバチモンなんだよ。 わははははは @阿波 >>773
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
いったい、いつのなったら諦められるのかwww ま、無理かw @阿波 >>769
魏皇帝が1歩=1尺にしたから魏は短里と言っていたのは九州説なのにこっちがおかしな発言でもしたかのような反応
もしかして九州説も1歩=1尺の短里なんてバカらしなんて思ってるのかな
イカンよ自分でも馬鹿らしいと思ってる物を他人にゴリ押しちゃ >>773
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
いったい、いつになったら諦められるのかwww ま、無理かw @阿波 >>808
>wikiの情報は2018年更新されてるぞw <
ふーん。 九州説も可哀そうよのう
金のためとは言え自分でも馬鹿らしいと思う説側に立たされて小バカにされ続けるなんて
古田を恨むんだな 狗奴国の本部があった人吉の友人が、安全な場所に避難したので、良かった、、、 狂人古田の狂った九州説を信じたフリして必死に書き込んでると
そのうち自らも狂うぞザラコクや連続句読点のように >>784
そもそも本当にココで古田説っているのか?w >>783
僕達も、殺害予告を実行した者が突き止めた可能性がある自宅から、少し費用がかかったが、避難したな、、、 >>810
>>ならんよ。
陳寿の「道里」は、当然郡→女王之所都の「道のりの里数」であり、大体萬二千余里の事だ <
>ということは北すぎて 「道里を計」って九州が会稽東治之東にくることが
絶望だね 倭人伝では短里なんか使ってなくて、方位にも間違いがあることは確実じゃないか<
違うな。
以前に書いた事があるが、陳寿は、
「道のり距離と直線距離の区別はしておらず、ほぼ同じだ」という記載の仕方だ。
そして、女王之所都までの里数は、女王國の(支配地への)距離と同じだ、という記載の仕方だ。
また、会稽東治の地は、258年の分郡後は、揚州に属する事になり、
上海から江蘇省海岸付近の地を示す事になり、
その東が女王國の(投馬國を含む)範囲の九州島付近にほぼぴったりだ。 >>782
糸島イト国、博多ナ国を力説したのは、古田タケヒだけではない。
畿内説の原田ダイク、内藤虎じ郎、朝倉説の夜須本店、白鳥庫人、・・・、その他大勢で書ききれん。
ま、あらかた彼岸へ旅立ったけどな。 伊都国は、伊万里川水系と松浦川水系の境目にある方が、便利ではないのかな、、、 >>785
ザラコクはそうだよ
まあ九州説も嘘も平気で畿内説荒らして何とも思わないというのも
どういう事情があるにしても人としてのモラルが終わってるって事だから手遅れなのかも知れん 邪馬台国九州論や他のスレッドを荒らしている奥山氏は、反省すれば良いな、、、 あと予言〜というスレがあるんだけど、
振り込め、架空請求()の話をしている人がいたり
このようにレス(>>)をしてきた、
そういう請求がきたんだけど・・・、みたいな質問
オイトマン(ハチマン、八幡)関係の話なのかな >>782
おおそうだ、ひとり大物を忘れておった。
糸島イト国を最初に唱えたのは、畿内説の元祖本家の新井白石だったな。
まずは、新井白石を恨むんだな・・。 >>820
>距離はともかくとして、方位が間違っていることが確実ってどうして言える?<
>伊都国が末盧国の北東にありますが?<
魏の役人らは、末盧國やそこからの途中の移動からは、
伊都国は山に隠れて見えないのだから、方向を計測記録する事が出来ず、
だから記録されていない事と、
「東南」は、
人類や陳寿らの行程説明の原則である「出発説明+途中説明+到着説明」の、
最初の「出発」説明の場所に書かれているから、
末盧國からの出発時点での出発方向説明になり、
目的地の伊都国方向に説明になっていないから。 また、奥山氏が、発狂してしまったな、、、
793日本@名無史さん2019/07/03(水) 20:58:25.03
あと予言〜というスレがあるんだけど、
振り込め、架空請求()の話をしている人がいたり
このようにレス(>>)をしてきた、
そういう請求がきたんだけど・・・、みたいな質問
オイトマン(ハチマン、八幡)関係の話なのかな ザラコクは良心が残っているのならばせめて固定でレス入れてくれw >>794
糸島イト国を新井白石が提唱したからといって
なぜ畿内説が恨みを抱かなくちゃいかんの
理論性が崩壊し出してないか
言ったとおり九州説やってる内に狂気に犯されはじめたか 奥山氏の良心は、悲しませている両親に、向けてあげれば良いのではないのかな、、、 オイトマン(八幡)と谷博士(仮名、実際は違うだろう)・・・、
同一人物みたいなことも書いてあるしな〜 >>821
>>短里を使っていないという根拠は?<
>短里とやらじゃ会稽まですら届かないでしょ<
いや、陳寿の女王國の位置説明は、(会稽ではなく)会稽東治之東であり、
ほぼ九州島付近であるから、
萬二千余里の短里で、ほぼ届いている。 >>825
>>その会稽からが最も相対している地であるから、
九州南岸から南西諸島付近を最も指している事になり、<
>会稽の東には九州はないんだが<
陳寿の女王國の位置推定は、(会稽ではなく)「会稽東治之東」であり、
「会稽東治」は、258年の分郡の後で、揚州の管轄下なって、
上海付近から江蘇省海岸付近になり、その東は「ほぼ九州島にピッタリ」になる。
また、「会稽の東」であっても、九州島は「東〜東北東」の間であるから、
やはり「ほぼ東」になって、
間違っていない、という事になる。 某ゲームの話になるんだけど
『理知有無』(リチウム)
そのゲームのスレがあるんだけど、
こんなクソゲー〜〜〜〜〜という謎の書き込みをしている人がいたりw >>798
おまいなんかにゃ、言うとらん。 >>782に云うとるんじゃ、
それともおまいは>>782か? >>786
>阿波は論外あっち池
それって、白旗ってこと。
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
いったい、いつになったら諦められるのかwww ま、無理かw @阿波 マンガン、リチウム・・・・、
オイトマンの話でしょ >>773
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
だから、どっちもトンデモバチモンなんだよ。 わははははは @阿波 >>826
>>実際に短里で書かれていることをまず認めないと。<
>短里で書かれてないんだから、認めようがないだろ?w <
郡から末盧國までの史料記載事実そのものが、ほぼ短里で書かれているし、
その他の里記載も、史料事実からの帰納的確率的推論でも、ほぼ短里で記載されている。
過大な距離の「設定」がなされていて、現実の距離との対応は最初からないんだから >>810の訂正
>>実際に短里で書かれていることをまず認めないと。<
>短里で書かれてないんだから、認めようがないだろ?w
過大な距離の「設定」がなされていて、現実の距離との対応は最初からないんだから<
郡から末盧國までの史料記載事実そのものが、ほぼ短里で書かれているし、
その他の里記載も、史料事実からの帰納的確率的推論でも、ほぼ短里で記載されている。 狂気の九州説に頭のてっぺんからつま先まで染まりきった成れの果てがザラコク >>728
>魏志韓伝においても同様の比率で記述されているのだから、
そんな証拠、どこにあるの? >>828
>>ないという根拠は?<
>三角測量が実用化されていないから <
一寸千里は三角測量の実用になっているし、
九章算術にも、三角測量の計測例の説明がある。
>実用化されていたなら伊都国が末盧国の東南にないことが判る<
末盧國や途中からは、伊都国は見えておらず、
見えていなければ三角測量も出来ない。 >>829
>方角、間違ってるよね? <
見えていないから、方向計測が出来ず、
東南は出発時点での出発方向説明であるから、間違えない。 >>748
>やれやれ、最後は通説頼みか。
>結局、畿内説は何も証明できないのだよ。
いや、最初が通説だ
それを最新情報に基づく学説で更新していくことで、最も合理的な推定を組み立てているのが畿内戦だよ
テンプレを見ればわかることだが >>830
>こちらは「水行距離も渡海距離も」と限定しているのだが
九州説はまたサギするの? <
「水行距離も渡海距離「」も、
可視出来れば簡易三角測量で距離計測出来るし、
可視出来ない位遠くでも、大体の方向が判っておれば、
一寸千里での南北方向成分の距離と実方向との作図の「簡易三角測量の応用」で、
大体の距離が計算できる。 今回のスレッドは、邪馬台国畿内説が追い詰められた事が、魏志倭人伝に興味がなかった一般的な日本国民にも、バレてしまうスレッドになっているな、、、 それよりも
ゲームの話と老婆談?なぜ同じような話なんだろう、
クラの中に刀が沢山あって・・・・・・・、
部屋に飾ってあったという刀があるんだけど〜とか >>750
>全然根拠になってないw
そんなふうに
反論もせずにただ拒否するだけだから
九州が世間からどんどん
相手にされなくなって行ったんだよ
>実際に南と書いて東を指している文献を探して来いよw
だから、倭人伝
伊都国が末盧国の東南と書いてあるだろ?
実際は北東だ 畿内戦という合戦は、魏志倭人伝時代の物事とは、関係がない合戦ではないのかな、、、
816日本@名無史さん2019/07/03(水) 21:38:52.64
>>748
>やれやれ、最後は通説頼みか。
>結局、畿内説は何も証明できないのだよ。
いや、最初が通説だ
それを最新情報に基づく学説で更新していくことで、最も合理的な推定を組み立てているのが畿内戦だよ
テンプレを見ればわかることだが 今回のスレッドは、邪馬台国畿内説が追い詰められ、破綻した事が、魏志倭人伝に興味がなかった一般的な日本国民にも、バレてしまうスレッドになっているな、、、 >>754
>個人の感想です
いや、昔からある有名な学説だよ
客観的なデータに基づいている >>817
それなのに見事なくらい間違っているのだから
あなたの想定が事実でないことがわかる >>831
>周髀算経なんてでたらめだし、<
いや、大地平面近似が出来る範囲では、十分実用になる。
>海島算経で三角測量が理解されていたといっても、
三角測量には長さの分かった基線とその両端からの正確な角度の計測が必要だが
十分な長さの基線も、角度の測定技術も3世紀にはない <
基線長は、歩測や記里車や尺定規で測れるし、
角度は、板面上の基線方向の両端からの透視線の作図をするだけだから、
角度計測は要らない。
>海上距離の測量技術は3世紀にはないんだよ<
一寸千里と大体の方向からの作図でも分かるし、日数測でも大体分かる。 >>815
>見えていないから、方向計測が出来ず、
それが虚言であることは証明されているのに
ホッカムリして無視かい?
じつに九州説らしいね つまり、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝していた、頭の悪い奥山氏は、脳が死んでしまったのだね、、、 魏志倭人伝の1里は140mなのが明らか
畿内説は終了でいい? >>833
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
反論できなくなって、都合の悪い史料事実や史料実態を全て否定して、
罵るだけになった大和説の敗北が決定 >>814
>一寸千里は三角測量の実用になっているし、
実用に供した記録は皆無なんだがね
そして妄説と呼ばれているよ
古代の史料でね >>766
>伊都国の比定地を三雲遺跡群、平原遺跡周辺から外したら、九州説の根拠は
九州説の本丸は、伊都は三雲だよ? >>785
>>>784
>そもそも本当にココで古田説っているのか?w
ザラコクだけ。 謎の震災()が起きた後に、
そういう話を聞いたんだけど、電気、発電が何やら〜とか
謎の『サイバーパンクSPECIAL』というコミックも同じでしょ >>811
>郡から末盧國までの史料記載事実そのものが、ほぼ短里で書かれているし、
九州はいつもいつも
口先断定で結論だけ言い張ってないで
一度くらい具体的に証明してごらんよ >>835
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
でたらめジャンww<
唐津と糸島の細かい位置比定も問題があるが、
奴国(福岡市)は、「伊都国の東南百里)に方向も距離も全く合わず、
インチキ騙しのサギね。
奴国はおそらく「日向峠の西麓に入り口があって、
中心部は、吉武高木を中心とする早良平野部。 あと『ボーボボ』
画像を検索(グーグルがわかりやすい?)してみるとわかるw >>773
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
だから、どっちもトンデモバチモンなんだよ。 わははははは @阿波 >>803
>「会稽東治」は、258年の分郡の後で、揚州の管轄下なって、
そんな記録は存在しないな
以前も以後も揚州管轄下だ
九州説さんウソはいかんね
>上海付近から江蘇省海岸付近になり、
そんな場所が258年に分郡された事実はない
分郡されたのは浙江省南部だ
九州説さん捏造はいかんね
その東は「ほぼ九州島にピッタリ」になる。
上海の東は九州島南端だ
九州さんウソはいかんね
>また、「会稽の東」であっても、九州島は「東〜東北東」の間であるから、
>やはり「ほぼ東」になって、
陳寿は「ちょうど東」と書いている
九州説さん詐欺はいかんね
>間違っていない、という事になる。
間違いだ
証明しだぞ 邪馬台国畿内説が完全に破綻したので、宣伝係員のBBAや、奥山氏が自殺してしまうのか、しまわないのかは、全く判らないが、
僕達は、日本国民にとって、最善の結果になるように、祈れば良いな、、、 >>773
>畿内説も呉越同舟、同じ泥船の運命なんだぞ、、、
だから、どっちもトンデモバチモンなんだよ。 わははははは @阿波 >>801
>いや、陳寿の女王國の位置説明は、(会稽ではなく)会稽東治之東であり、
>ほぼ九州島付近であるから、
>萬二千余里の短里で、ほぼ届いている。
なんの証拠も出さず連呼連呼で結論だけ言い張っていると
第三者から見れば馬鹿か詐欺師の二択だよ 『ヤクザテング』
このようなキャラも同じだしな・・・。 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 九州説という朝鮮儒教から生じた呪いに取り付かれ
狂気そのものになってしまったザラコク及びその他九州説
もう自らの意思は存在してないからな
呪いが九州説の精神をすっかり支配してるから
自らの意思じゃもう止められなくなってるはず 邪馬台国畿内説が完全に破綻したので、宣伝係員のBBAや、奥山氏が自殺してしまうのか、しまわないのかは、全く判らないが、
僕達は、日本国民にとって、最善の結果になるように、祈れば良いな、、、 >>843
元データが間違いだらけって
具体的な指摘受けたのに
まるで対応できてないとは
九州説はもう進化する力を
完全に失ったオワコンってことか? 九州説は朝鮮儒教思想の精神から生じる正常なものに対しての呪詛
朝鮮儒教の根底にあるのは全てのものに対しての憎悪 475>>837
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は方角チョロまかし。
大和説は方角チョロまかしの藤村の孫。 でもヤクザテングは何かが違うのかな
>しかしあの男は天狗ではなく、
>ヤクザでもなく、ヤクザ天狗であった。 >>848
中傷屋にまで落ちぶれた敗残九州が
みじめで痛々しくて
見てられない 475>>840
>>では三国志に出てくる里程の全てを信頼できない記述であるというのですね?<
>あてにはできないだろ? 韓地方四千里だって、倭国まで一万里に「設定」した都合だし<
韓伝の「方可四千里」は、当然、
(魏使らには関係がなく)、郡の役人らの計測記録の報告内容だから、
魏使らの記録の問題には関係がないだろ?。 >>851
>韓伝の「方可四千里」は、当然、
>(魏使らには関係がなく)、郡の役人らの計測記録の報告内容だから、
それ、なんか証拠あって断定してんの?
それともご随意決め付け? 475>>845
>「鉄が国家を作った」と比べて同等以上の確からしさがあるよ?
葬送儀礼用施設である前方後円墳(前方後方墳も可)が、列島の広い範囲で
一斉に作り始められているという「現実」がその背景にあるからね<
九州倭国の「東征毛人五十五国」があったから。 >>854の訂正(また投稿ボタンを押した事になってしまっていた)
475>>851
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、開き直って、
都合の悪い史料事実を全て「何でも間違いだ」とするザギがバレて、
ボヤく大和説 475>>853
でた
返答に窮すると、
立証義務を九州説に転嫁するサギをして、逃げる大和説者 >>846
間違っていると思うなら、対案を出せばいい。 畿内説による中傷ばかりが目立つスレに思えるのだが? 475>>854
>3世紀の古尺の現物が出ていて、<
関係なし。
尺寸系単位の「尺定規」の寸法は、周代から大きく変わっておらず、
変わったのは、始皇帝の「1歩=6尺」という、里歩系と尺寸系との換算の命令。
>1里=1800尺というのは<
里歩系間の換算の「1里=300歩」は周代から変わっていないから×。
>「周髀算経」でも維持されている<
周髀算経の、
立二十八宿,以周天歴度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。
即平地徑二十一歩,周六十三歩。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分
は、前漢の周髀算経の収集注釈学者が、倍正南方という事の意味が判らず、
始皇帝の「1歩=6尺」を使っての同心円を二つ描く、
という失敗解釈をした事になっており、
だから「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」以下の説明も、
その注釈学者の説明内容になっており、周髀算経の原文ではなかった事になり、
周髀算経に「1歩=6尺」が維持されている、という事の証拠にはならない。
>短里が存在する余地はどこにもなくて、否定の証拠(古尺などの考古遺物)がある<
古尺定規寸法は、里歩系寸法に関係がなく、勿論×。 >>756
>たぶんそこは海でなく、現・千代田の渡瀬付近のことだろうな。
「諸富町には諸富津という地名が残っており、奈良時代には肥前国の国府津として機能したと推定されている」と、ウィキペディア辺りでも書いてある
諸富津の場所は、吉野ヶ里から10キロくらいで、今の海岸線から見て10キロ近く遡ったところにある 475>>861
>対馬海峡の3海峡がすべて同じ千余里と書かれていることが、短里がないことの証明
短里があって、測定しているのであれば、最後の壱岐から九州までの渡海は五百里程度で
書かれていないとおかしい <
3渡海では、簡易三角測量よりも簡便で確率も高い一寸千里を使っており、
従って、各「千余里」はいずれも「500余〜1500余」里の範囲内、という計測範囲内であった、
という事になるだけ。 >>770
>第三者による評価、再現結果が一致することを確認する
匿名掲示板で「第三者」とか意味あんの? >>862
>>目視で見えるところは、大まかな距離はわかる。<
>なら、どうして江戸末期まで正しい海峡幅が知られてないの?
おかしいよね?<
目測は、一寸千里や簡易三角測量よりもはるかに精度が悪いもの。
勿論、江戸末期頃でも、一般学者は、一寸千里という方法を知らなかった。 >>815
>東南は出発時点での出発方向説明であるから、間違えない。
これ、「東南方向に伊都国はない」という意味でしかないのにww
これで、「末盧国の東南に伊都国があると書いてあるのは間違い」に対する
反論になると思ってるんだからザラゴキは終わってる
九州説はよくザラゴキを野放しにしてるよなw
九州説はダメ人間の巣窟という広告塔になっているwww 475>>866
>隋書でも途中は「經十餘國」だから不自然ではないな<
上陸後のの竹斯國と秦王國説明の後での、
「又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀」であるから、
十餘國には隋使は通っておらず、海岸も俀人からの「地理的」説明内容。
>倭人伝の行程だけ東夷伝の中でも細かいから
たまたま資料が陳寿の手元にあったのだろう<
出雲屋や大和の記録は、魏使らの記録には始めからなかった。 475>>869
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
具体的な根拠を示して反論するということがいつでも常に殆どできないから
論説になっていないと言われる >>871
>そもそも九州説さん
対馬から壱岐の方角が間違ってること
認めてたんじゃなかったの? <
「南」は對海國からの出航方向であり、
対馬海流に流されて一大國は見えて来て到着出来る、
という計算であり、
だから、間違っていた事にはならない。 >>877
>厳密な証明はしていないけれど、十分な説明はしてあるぞww
周髀算経なんてでたらめだし、海島算経で三角測量が理解されていたといっても、
三角測量には長さの分かった基線とその両端からの正確な角度の計測が必要だが
十分な長さの基線も、角度の測定技術も3世紀にはない <
この投稿、反論済み。 >>825
>いや、大地平面近似が出来る範囲では、十分実用になる。
ならないよw
周髀算経は一里=1800尺で書かれてるんだからww
そして一寸千里の法は周髀算経・蓋天説ではいつでもどこでも成り立つというデタラメ説
机上の空想なんだよ
https://m.imgur.com/73rgfWR >>878
>弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、
3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、
多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」のために起きた事。
>出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。<
東征将軍や部将らが、市を介して繋がり、
在地の毛人や出雲銅鐸祭祀部族を墓守り人に使って造ったもの。 >>843
>自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
母集団が正規分布だと言えないのでt分布は使えない
>陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
比率変数の区間推定で0をまたいだらそれは推定不能を意味する 反論は「それだけ」って?
統計を知らない人間が形だけ真似しても意味ないよっていう「全否定」なんだが?w >>843
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
最初から間違ってる
帯方郡はソウルではない 文句はつけるけれども、自分では具体的な意見を述べることができない畿内説 反論に対案は必須ではないことすら理解できないトンデモ脳 >>879
そんなウソをついても反論ちはならないよ
対案なら再三示されてる
倭人伝に記された里程には有意な規則的が認められない
よって短里は実在しない
これが対案だ >>889
>「短里」が正式にあったかどうかはわからんし、多分なかったとは思うけど、
1里を表す距離が中国本土で普通に使われているものと朝貢国までの距離とでは違うのは事実だろ
つまり朝貢国までの距離の里数は実際よりも長く設定されていて、本来の1里の表す距離よりも短くなっているのは事実
魏志倭人伝に限った話ではない <
ダメだ。
魏志の行程説明は、魏の役人らが、実地に見聞計測して記録の内容であり、
出来るだけ正確に記載する必要があっても、誇張や虚偽を記載すれば、
部下や後続の使節に拠ってバレて、首が飛ぶ可能性がある。
だから、魏志に書かれた里数や方向は、魏の役人らの事実関係の記録そのものであり、
信頼性が非常に高いもの。
つまり、(6倍位も違う長里ではなく)、短里であった。 >>883
>ダメだ。
>魏志の行程説明は、魏の役人らが、実地に見聞計測して記録の内容であり、
それ、なんの証拠もないよな >>879
対案もう出てるな
つ>>26、>>61
ほら >>890
>倭国上陸まで後漢代に想定されていたというのは、漢書の注記でも確認できる
如淳曰:「如墨委面,在帶方東南「萬里」。」<
如淳の情報源は、如淳の生存期が不明であるから、「萬里」の情報源も不明だ。
>渡海千里は一律の設定値で、三海峡で三千里 <
「余」があるから、魏使らの実測数値の近似値だ。
>万里−三千里=七千里 これを、韓地の西岸の南北四千里
+南岸の東西四千里のうち端まで行かないから三千里
で七千里となるように、韓地方四千里という計算になってるんだよ<
韓の方四千里は、「余」がなくて断定的数値になっているから、
(魏の使節の記録ではなく)当然楽浪や帯方の郡役人らの計測記録だ。
また、七千余里は、循海岸水行と「歴韓國乍南乍東の陸行路」の合計であり、
西岸南岸の全水行論が×だ。
「歴韓國乍南乍東の陸行路」は、倭王武の上表文の、
「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」に拠って、陸行が確定だし、
魏使らが「持衰」を実見している事になるから、
狗邪韓国からの3渡海は「倭船」であった事も確実であり、
循海岸水行は、おそらく郡の船だ。 >>894
>水行と渡海を区別するところから始めようか?
そして、倭国上陸までの水行も渡海も、里数は設定値だからあてにならない<
「余」の有無で区別された記録群は、
魏使らの計測記録そのものであったか?、
その記録を見た陳寿の「概数的な処理をした数値」か?だ。
>陸行も、近ければ百里、少し遠ければ五百里という程度だよ
それで地図が書けるような精度ではない <
「方四千里」や「七千余里」や「方四百余里」や「方三百里」などの記録があるから、
そうは、なっていない。
つまり、類スレ主は、・・・・アホの詐欺師だな。 >>886
>また、七千余里は、循海岸水行と「歴韓國乍南乍東の陸行路」の合計であり、
インチキ
倭人伝にはっきり「水行」と書いてあって
どこにも「陸行」だなんて書いてないのに
ご都合主義歪曲の捏造でしょ >>895
>魏志倭人伝は実際に書かれているけれど、
魏志倭人伝が「短里で」書かれているなんていう事実はない <
短里の存在は、
魏使らの実地の見聞計測記録を引用した陳寿の魏志などの、
史料事実や史料実態である。 >>886
>魏使らが「持衰」を実見している事になるから、
>狗邪韓国からの3渡海は「倭船」であった事も確実であり、
またインチキ
倭人伝のどこにも魏使らが「持衰」を実見なんて
そんな情報はない
ただの妄想
九州説はインチキばかりだ >>889
>短里の存在は、
>魏使らの実地の見聞計測記録を引用した陳寿の魏志などの、
>史料事実や史料実態である。
なんの理由も書かず、ただ断定する
それって単なる思想でしょ
もともとの九州説が歴史学じゃなくて
政治思想なのは知ってるけどね >>299の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡 ┏〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(†乗客乗員>>301)
【魏】┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓〜〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
vs ┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲▲奴国【♀女王之所都】▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
【呉】┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
建業┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
蘇州┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│※「計其道里 當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア「複在其(幻の女王之所都)東南 船行一年」 >>872
>九州倭国の「東征毛人五十五國」のために起きた事。
皆が了解する事実を使うべきところ
世間に通用してない
自分たち独自の「説」を根拠に使って
高校教科書に載ってるような
広く知られている通説を否定するとか
その方法論・・・
九州説の自殺そのものでしょ >>896
>九州という括りがそもそもおかしい 北部九州では行程と會稽東冶之東が合わない <
陳寿の女王國の位置推定の史料事実は「会稽東治之東」であって、
「会稽東冶之東」ではないから、この男が・・・・詐欺師である事になり、
また、陳寿は、女王國と女王之所都を一応区別した記載になっており、
女王之所都は筑紫の邪馬壹國の中にあるが、
女王國は卑弥呼共立國群であるから、南九州の投馬國を含む九州島付近である事になり、
また、会稽東治は、258年の分郡後に揚州に属した地であり、
上海付近から江蘇省の海岸地域になり、
九州島付近がその東付近にピッタリ合っている。
>南九州では考古遺物遺構が合わない<
東テイ人は、
海賦に拠れば、後漢最末年に後漢に朝貢して「序に就いた」という記録があったが、
卑弥呼の頃には記録から消失してしまって、投馬國が出現しているので、
卑弥呼の頃に、「西服衆夷六十六國」に拠って倭國に服属した可能性が高く、
そして、鹿児島の上野原遺跡が、元の東テイ人の首都であったのであって、
それが投馬國支配になった、という可能性が高い。 >>900
>>遠い距離という記号として「千余里」に設定されてるんだよ<
>そうかもしれない。 だから誤差なんだよ。
測定していないとか、数値に意味がないというわけではない。
邪馬台国までの一万二千里はその縮尺で読むしかない。<
三渡海の各千余里は、当然、
「一寸千里」に拠る近似的計測値であったんでしょうね。 >>867
>上陸後のの竹斯國と秦王國説明の後での、
>「又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀」であるから、
>十餘國には隋使は通っておらず
竹斯國で上陸して以降が陸路とか、原文のどこにも書いてない
つまり、自分の勝手に想像した、世間的には了解されてないことを根拠にして定説を否定してる
これが九州説のいつものパターン
よその土地と同じく、竹斯には寄港して丁重に応接された程度と正しく理解できれば
以後もずっと船路で、最後に倭本国の海岸に着いて、そこで本格的に饗応される
つまり難波津て上陸という日本書紀と同じコースが納得出来るのだ
最初に妄想で我流解釈し、それを無理に押し通そうとするから
竹斯から東に出発したくせにどこか不明な海岸で行き止まりになって、そして竹斯の都に着くという支離滅裂な解釈になってしまう
トンデモ説というものが生まれるのた
九州説という名のね >>865
>目測は、一寸千里や簡易三角測量よりもはるかに精度が悪いもの。
一寸千里とかデタラメは方法を使えば
精度はメッチャ低いよ
逆に、北部九州は許都と宛城の間くらい、つまり魏領も魏領の真っ只中
河南省の中と判明してしまう
つまり陳寿が会稽東治之東と書くことがあり得ない、という結果がきれいに出る
説として自己矛盾するので、九州説が破綻する
かくして九州説崩壊だ >>894
>また、会稽東治は、258年の分郡後に揚州に属した地であり、
258年に分郡されたのは浙江省南部だね
>上海付近から江蘇省の海岸地域になり、
つまり、それはニセ情報
ザラゴキの捏造だ
>九州島付近がその東付近にピッタリ合っている。
はい、ウソだと証明されました
九州説崩壊 >>886
>「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」に拠って、陸行が確定だし、
意味不明
どこにも陸路だと確定するような情報はない >>868
>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
>具体的な根拠を示して反論するということがいつでも常に殆どできないから
>論説になっていないと言われる
今まさにソレ言ってるお前が
具体的な根拠を示して反論するということ
できないんだけど
当然お前が言ってること、論説になっていないと言われるよね
理解できる?
九州説がまた盛大にブーメラン撲殺死体になってる
無惨なことだ >>863
>従って、各「千余里」はいずれも「500余〜1500余」里の範囲内、という計測範囲内であった、
元データに最大300%の誤差を許容してて
しかも帰納的手法をまともに使わず
1里=約75mとかいう精度の逆算が
可能だとでも思ってるの? >>882
>倭人伝に記された里程には有意な規則的が認められない
魏の里よりずっと小さいという規則性があるw >>890
>倭人伝のどこにも魏使らが「持衰」を実見なんて
>そんな情報はない
見たから書いているんだよ。
アホか。 >>903
証拠は?
ないよね
ただの主観だ
個人的意見と呼ばれる方が好き? >>901
>1里=約75mとかいう精度の逆算が
>可能だとでも思ってるの?
平均だろ?
可能ではないという根拠は? >>903
罵るだけで反論ができない
それが九州説クオリティ >>907
正常な一里より小さいというだけの共通性では
単位系を逆算で想定できるような規則性がないので
有意でない
換言すれば、ただデタラメに誇張されているのと区別ができない 刀だろ
ボンクラが異様に恐れてるからな
そいつら自身だけの身を守るためだけにな >>910
目安ってもんは人生経験を使って読むんだよ 尾崎花地区の区画溝は小規模である
また、辻地区(掘立柱建物)より新しいとも考えられ
(居館を辻地区から移したとの推測も成り立つが、尾崎花地区から居館らしきものは未発見) >>910
>単位系を逆算で想定できるような規則性がないので
>有意でない
主観的な評価に過ぎない。
有意でないことを数学的に証明してよ。 475>>906
>最近は、箸墓以前の纏向型前方後円墳の時代(当然前方後方分も作られている)から
古墳時代とするという考え方が通説になりつつあるよ
実際に古墳が作られることよりも、古墳を作るという合意の成立をもって、
古墳時代に入ったとする考え方<
大和説学者は、前方後円墳がどうしても卑弥呼の冢にはならないから、言い訳論に必死だな。
しかし、卑弥呼の冢と庄内1の撥型前方後円墳の石塚の間には、
壹與の墓や那珂八幡などが存在しているから、
石塚の50年位の前倒しはどうしても不可能だ。
>この時期は完全に卑弥呼の時代と重なるし、<
壹與の墓や那珂八幡などがあるから、どうしても重ならない。
>その時代には奴国の比恵那珂遺跡群では庄内式土器を作っている<
那珂八幡の奴国の比定が、「伊都国の東南百里」に合わないから、×。 以前に投稿したが
中國の古文書で短里だと計算上合う国 ベトナム インド >>902
>魏の里よりずっと小さいという規則性があるw
遠地の距離は過大に書くんだよ
遠くから朝貢に来るほど王朝の徳が高いという文化だからね
たったこれだけのことすら理解できずに、「魏の里より短いにだ、これは短里にだ」って
短絡する短慮が九州説ってこと 帯方郡→狗邪韓国 七千余里(500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 仕方ないよ、畿内説は倭人伝の方位や距離はデタラメという立場だから 475>>910
>勝手に定説にするなよ。伊都国の場所は学者の間でも意見が分かれているやろ<
>分かれてないよ? 素人で、別の場所、例えば佐賀川上だとか言い張る人がいるだけ
三雲遺跡群を中心とする地域以外を伊都国の比定地とする「学者」がいるなら
具体的に紹介して見せて<
三雲遺跡群では、海岸から離れ過ぎて「皆臨津搜露」が出来ず、×だ。
伊都国は、最低、九州北岸の海岸付近になければダメであり、
古田説の「前原〜糸島水道」付近説が最もベターだ。 帯方郡→狗邪韓国 七千余里(500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>906
>平均だろ?
>可能ではないという根拠は?
例えば3センチの消しゴムと2メートルの物干し竿と15センチの鉛筆があったとして、
この3,200,15と言う何の関係のない数字であっても、平均を計算することはできる
72.7センチになるが、この数字にどんな意味があると思う?
池の鯉の数20匹と、鉛筆の長さ15センチと、猫の体温39度、という全く関係のない数字でも、
平均は「計算できてしまう」んだよww
平均で計算できるって、バカ?
区間で4倍長さが違ったら、その平均を取るやつがバカ 475>>911
>それ、陳寿が計算して會稽東冶の東だと推定したことと
ぜんぜん別の話だね<
陳寿の女王國の位置推定は「会稽東治之東」であり、
「会稽東冶の東」ではないから、×です。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定を論破したので、論破されたことを根に持ったプロ固定の恨みを買い、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定からの、、
僕達の大事な脳を死なす
、、、という意味にしかとれない殺害予告をされてしまったが、
僕達は、卑劣な脅迫を受けても、日本国の為に真実を追求する決心をしたのだったな。。。 西高穴2号墓(曹操の墓?) 39.5m
箸墓古墳 278m
勝った 別に帯方郡治をソウルに比定しても構わないと思うよ
帯方郡治は、諸説あるが楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確か >>907
比率変数で信頼区間が0をまたいだら、有意かどうか以前に「無効」なんだよw
証明するしないとかの前 475>>914
そうなんだよ!
弥生終末期と古墳時代の明確な境界なんてなくて、そのまま一続きの時代だからね
つまり、弥生終末期の倭国の中心がそのまま古墳時代にも倭国の中心なんだよ
そして、その場所は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
北部九州に特定されていた事になり、
こう考えると、邪馬台国大和説なんてただの妄想だって簡単に分かるだろ? 帯方郡→狗邪韓国 七千余里(500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>923
例えとしては良くないと思う
消しゴム、物干しざお、鉛筆の長さになんの共通点を持たせるのかな 北朝鮮人である可能性が高い、頭の悪い奥山氏の思考法則ではなく、普通の日本国民の思考であれば、
魏志倭人伝を含んでいる魏志東夷伝という文章を読めば、1里は76mほどであることがわかるのだが、
北朝鮮人である可能性が高い、頭の悪い奥山氏の思考法則も、尊重してあげて、一旦は、1里のの長さについての討論を打ち切り、
今日は真実の伊都国の役所や卑弥呼の城や卑弥呼の墓が、発掘されていない確率を計算すればよいのでは、ないのかな。。。 >>843のこの数字を使っても、t値が使えないからチェビシェフの定理を使うしかない
その場合、95%区間の係数は、4.472だ
陸路 平均117m 分散5833m
117±4.472×√5833だから
ー224〜458メートルだ
0をまたぐから無効で、魏晋里435メートルもこの範囲に入る
無意味な計算だって分かるか? >>931
仕方ないよ
ベイズの統計学での失敗を反省もせず
同じ間違いを繰り返すキナイコシだから 475>>919
>学界の有力説なんだが<
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の、
根拠もない嘘つき騙しをする・・・・アホ詐欺師の学界の説なんて、
全く信頼性も価値もないから、×。 >>931
>消しゴム、物干しざお、鉛筆の長さになんの共通点を持たせるのかな
「長さ」であることが共通
九州説が平均できると言っている数値と同じ関係だよ あれは条件付き確率であってベイズ統計じゃないぞ?
理解できないくせに口を挟む辺りが、まともに学校教育を受けて
いないコンプレックスから来るルサンチマンの発露であるのが見え見え 奥山氏は、インターネットで情報を収集することは得意だが、本当には理解しないまま別の者に伝達しようとして、失敗するのだったな。。。 >>920
>>また、仮に一里の距離が一定でなくても、
それは弥生時代という背景を考慮すると誤差に過ぎない。<
>進んだ文明のもとで中国人のやったことを
なんで弥生時代という背景を考慮するんだ?<
何時代であっても、自然の計測は、
不可知領域が多過ぎて絶対断定など出来ない事と、
計測技術の方も、100%完全では有り得ないから、
どうしても近似になる。 北朝鮮人である可能性が高い、頭の悪い奥山氏の思考法則ではなく、普通の日本国民の思考であれば、
魏志倭人伝を含んでいる魏志東夷伝という文章を読めば、1里は76mほどであることがわかるのだが、
北朝鮮人である可能性が高い、頭の悪い奥山氏の思考法則も、尊重してあげて、一旦は、1里の長さについての討論を打ち切り、
今日は真実の伊都国の役所や卑弥呼の城や卑弥呼の墓が、発掘されていない確率を計算すればよいのでは、ないのかな。。。 >>917
>遠地の距離は過大に書くんだよ
規則性があって良かったね。
>たったこれだけのことすら理解できずに、「魏の里より短いにだ、これは短里にだ」って
便宜的にそう呼ぶだけだよ。 >>923
君の例えはね反論にもなっていない
10センチの鉛筆2本 20センチの鉛筆が3本 30センチの鉛筆が1本
さて この6本の鉛筆の長さの平均は?
(10×2+20×3+30)÷6=18.3センチ 奥山氏は、インターネットで情報を収集することは得意だが、本当には理解しないまま別の者に伝達しようとして、失敗するのだったな。。。 >>923
>区間で4倍長さが違ったら、その平均を取るやつがバカ
数学的な証明ではありません。
畿内説はいつも主観的なヤジばかりで、何も証明できていないことに本当に気がついて欲しい。
短里についてさえ、魏志倭人伝は信用ならないの主観的な意見だけで、誤りであることは証明できていない。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定を論破したので、論破されたことを根に持ったプロ固定の恨みを買い、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定からの、、
僕達の大事な脳を死なす
、、、という意味にしかとれない殺害予告をされてしまったが、
僕達は、卑劣な脅迫を受けても、日本国の為に真実を追求する決心をしたのだったな。。。 >>928
それは数学者の意見ではないよね?
素人のあなたがそう考えたというだけ。 >>944
犯罪者だという共通点しかない正体不明の人々を
便宜的とはいえ「プルタ党」と呼んじゃダメだろ
ひとつの「党」かどうか分からんのだから
予断になるんだよ >>929
>弥生終末期と古墳時代の明確な境界なんてなくて、そのまま一続きの時代だからね
>つまり、弥生終末期の倭国の中心がそのまま古墳時代にも倭国の中心なんだよ
よく言った!
その通りです。
漢の昔から卑弥呼の時代も含めて、倭とは筑紫を中心とする国、もしくは筑紫のこと。 僕らの優秀な人の投稿が増え奥山君は逃げたのだろか
それとも、わけのわからん事を言いだすのだろうかww >>951
弥生の終末期、すでに倭国の中心は北部九州ではないのだが >>953
変句点が
言えば言うほど
九州説の窮地が喧伝される結果に >>955
お前が妄想厨だからそう見えるだけだろw 比率変数で信頼区間が0をまたいだら、無効になる物事とは何だろうか、、、
928日本@名無史さん2019/07/04(木) 08:40:05.83
>>907
比率変数で信頼区間が0をまたいだら、有意かどうか以前に「無効」なんだよw
証明するしないとかの前 >>957
証明できないのか
キナイコシは口先ばかりで生きているよな
楽なバイトだな >>299の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡 ┏〜〜〜〜〜〜東→×畿内説TITANIC沈没地点(†乗客乗員>>301)
【魏】┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜矢印右斜め上〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜矢印右斜め上〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓〜〜〜〜〜南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川矢印左斜め下 ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
×vs┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲矢印右斜め下陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲▲奴国【♀女王之所都】▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
【呉】┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
建業┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
蘇州┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│※「計其道里 當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃矢印左斜め上儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜矢印右斜め下▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜矢印右斜め下▲黒歯国インドネシア「複在其(幻の女王之所都)東南 船行一年」 >>958
そうだw
お前はミラーと会話してるんだよw
一旦そうなるとそう簡単には妄想から抜け出せないんだぜw
まじめに通院しろよw 僕達は、魏志倭人伝が里で表している長さの出発点も到着点もどれもはっきりとは分からないので、数学的にはどのような手段を使っても、正確な数字は計算できないことを知っているが、
1里=440mということを基準にしてはいということは、はっきりとわかるな。。。 475>>924
>魏の里と違うということは、測ったのは東夷の人間なんだよ。<
東夷人は、普通は「里」を知らないから、測れない。
だから測ったのは、魏や郡の役人らであり、
だから、「魏朝の里」とほぼ同じ。 >>939
零点
導き出される答えが鉛筆と消しゴムと物差しの平均的な長さって何
何の意味を持たない平均値を出しても無駄・・・消しゴムの無さの平均値=鉛筆の長さの平均値=物差しの長さの平均値???
各々いろんな長さの鉛筆なり消しゴムなりを集め各々の平均値を出すならともかく
距離はね同じ土俵だから平均値は出るのだよそれも通過点から通過点まで距離だからね 比率変数で信頼区間が0をまたいだら、無効になる物事とは何だろうか、、、
928日本@名無史さん2019/07/04(木) 08:40:05.83
>>907
比率変数で信頼区間が0をまたいだら、有意かどうか以前に「無効」なんだよw
証明するしないとかの前 奥山氏は、インターネットで情報を収集することは得意だが、本当には理解しないまま別の者に伝達しようとして、失敗するのだったな。。。 >前方後円墳による祭祀連合の痕跡
奈良の前方後円墳をゴッドハンドで最古のものに仕立て上げる事に失敗し、
現在は「定型化された」前方後円墳発祥の地とすることで、畿内が祭祀の
中心であったと主張している。
しかしその後の古墳も形式は様々であり、一様化しているようには見えない。 >>960
すでに威信財は供給をしてなくて
対外交渉の主導権もなく
九州外に分布中心のある墓制を受容していて
北部九州は倭国の中心ではありえない >>925
>弥生時代を通じて倭国の中心は博多湾沿岸なんですが?<
>いや、弥生終末の初めにそうでなくなった<
いや、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は、
唐代の白村江の後まで、北部九州。 僕達は、魏志倭人伝が里で表している長さの出発点も到着点もどれもはっきりとは分からないので、数学的にはどのような手段を使っても、正確な数字は計算できないことを知っているが、
1里=440mということを基準にしてはいないということは、はっきりとわかるな。。。 >>969
教科書にも載ってる通説を「ようには見えない」のひとことで否定できると思ってる九州説のおめでたさに
失笑 比率変数で信頼区間が0をまたいだら、無効になる物事とは何だろうか、、、
928日本@名無史さん2019/07/04(木) 08:40:05.83
>>907
比率変数で信頼区間が0をまたいだら、有意かどうか以前に「無効」なんだよw
証明するしないとかの前 >>971
帯方郡がソウルでいいという根拠を示してほしいね >>976
お前個人の見解を考古学的とか言うなよ馬鹿w 萬二千里の出発点は、帯方郡の役所なのだろうか、、、
それとも、帯方郡と韓国の境界なのだろうか、、、
そして、萬二千里の到着点は、女王国と伊都国の境界で良いのだろうか、、、
それとも、卑弥呼の城なのだろうか、、、 >>978
「これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、
画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとに
つくり出された墓制で、その背景には
古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは
奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。」山川 >>977
比定にはいろいろな意見があるから、これだと思う比定地で計算をやり直せばいいだろ。
簡単だろ?
それをやらずに畿内説はただ「信用できない」と駄々をこねるだけ。 古墳時代でも豪華な古墳は畿内には無いなあ
https://i.imgur.com/8GnE1jV.png
奈良盆地=共同墓地が濃厚w >>985
また九州はウソをつく
畿内説は定説のサリウォンで計算して短里ナシの結論を出してるぞ >>970
>すでに威信財は供給をしてなくて
威信財を配布するというやり方は漢王朝の滅亡とともに亡くなったのだろう。
平原遺跡の時点で八咫の鏡が成立するので、それ以後は三種の神器を王権の象徴として伝世させる仕組みに変わったと考えられる。
>対外交渉の主導権もなく
伊都で女王への献上品を確認したり、郡使が伊都に駐在しているということから、外交の主導権は伊都が持っていたね。
それよりも、直前まで漢委奴国王印を持つ筑紫が倭の王都だったが、卑弥呼の時代に畿内が主導権を持っていたとするならば、倭が畿内に遷都したということでいいんだよな? 教科書に載ってる通説に妄想で対抗する九州説蟷螂の斧の悲惨 >>983
>帯方郡がソウルだって
>根拠マダー?
対案をどうぞ。 475>>928
>それはね、九州説は魏志倭人伝に書いてあることが正しいと言い張っているし<
いや「正しい」なんて、言わない。
当然、方向も里数も内容も、「ほぼ正しい」と言って来てある。
>正しいと言い張らないと破綻するからなんだよww
九州説が「魏志倭人伝に書かれていることが方角も距離も正しい」という主張でなければ、
魏志倭人伝に書いてあることと違っているというのに何の意味もないのだけれど、
九州説は「魏志倭人伝に書かれていることが方角も距離も正しい」とした上での行程パズル以外に
根拠がないからww<
それに対して、大和説は、距離も方向も内容も、大和説に都合が悪ければ、
「絶対正しくない」し「間違っている」という説であるから、×なの。 >>990
>威信財を配布するというやり方は漢王朝の滅亡とともに亡くなったのだろう。
根拠なし
配布停止はもっと前から
>平原遺跡の時点で八咫の鏡が成立するので、それ以後は三種の神器を王権の象徴として伝世させる仕組みに変わったと考えられる。
妄想
割っちゃったので伝世なし >>989
>>986は装飾古墳の分布
奈良の古墳はオプション無しの標準墓w >>992
サリウォンとっくに出てますが?
帯方郡がソウルだって根拠マダー? >>995
それ、ずっと後世に生まれたカラバリだよね
それが、何か? このスレッドは1000を超えました。
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