邪馬台国畿内説 Part487
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563979011/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く) ◆3ー2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7ー1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く) (承前)
◆7ー2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く) (承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。 ※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこ の地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀 末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に 伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構 造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) インチキ学説のテンプレ作成を邪魔するのは楽しいね(^^) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。 地名が実際の地勢と著しく異なる。
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし >>87
1 ◆UiepmfCeDJqf 様
いつもお疲れ様です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*このスレは終了しました。書き込まないでください。
長い間ありがとうございました。 >>267
>畿内説の場合 投馬国は瀬戸内(吉備付近) 邪馬台国が畿内だから
女王国より以北に投げ馬国があるから正解
南を東とするから北は西<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
「南≠東」だから「北≠西」になるから、×。 >>271
>鎮守は倭国は南へ南へ延びていたと思っていたから<
陳寿は、「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」書き方をしているから。 >>282
>私の主張はそこです
投馬国は宮崎近辺です底から南に向かい黒潮で南紀
陸行一月で畿内 王都は京都 <
詔書や金印や大量の土産を持った魏使らが、「黒潮に乗った漂流」なんて選択しないし、
畿内なんて存在もしなかったし、
京都は「南≠東」などに拠って、×。 >>309
>九州説と違って、萬二千里が倭国内の邪馬台国という特定の場所を
指す数値だなどとは畿内説は考えないからね
もともと測定もしていない観念的な数字だという立場で、
倭国の中の邪馬台国までの距離とはしていない<
「自郡至女王國萬二千餘里」は「餘」を使っているから、
実測の近似値である。 >>310
>つまり、「道里遠近」が日数で表してあるんだよ 里数なんてどこにもない
つまり、九章算術均輸1では道里は里数を指していない
そして日数で書いてあるww<
漢書や陳寿は、「道里」を、
「道の里数」という意味を中心にした記載をしている。 >>315
>俺は畿内説だが・・・<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、×。 >>321
>何度も説明しているだろ?
萬二千里というのは、淮南子に見られる漢土の外側の世界の果てまでの距離
誰も世界の果てまで行っていないのだから、当然実測地ではなく観念的に
想定された数字に過ぎない <
「余」が付けられた数記載は、計測値からの近似値である事を示すから、×。 >>332
>単純計算だが、
例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、
すべて一致して同じ結論を指している場合、
結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。<
普通は、
史料事実の持つ確率なら、75%位は有り得るが、
史料事実に違背する事の確率は1%位以下であり、
それを3つ集めたって、3%以下位にしかならない。 >>333
>道里が距離(里とは限らない)でそれが日数で書いてある<
道里は、当然「道の里」であり、原則は里数説明。
それを、勝手に「行道日数」で記載した九章算術は、半分×書であり、
証拠にはならない。 >>334
社会の問題児、スレ主、類スレ主、大和説者、京都アニメ会社放火犯人。 >>336
>萬二千里も実測地とは関係ない観念的な地の果てを示す符牒に過ぎないのだから、<
史料事実は「自郡至女王國萬二千餘里」であり、
「萬二千里」ではなく、
「餘」が付いた近似値表記であるから、計測値からの近似だされており、
だから、この大和説者の「観念的な地の果てを示す符牒に過ぎない」という解釈がという、
嘘吐き騙しになり、×。 >>340
>地の果てからの遣使だと思ってもらえるように、数字を借りてきて「設定」したんだよ
何度も説明してるだろ?
渡海一回が千里というのも、北部九州上陸まで萬里というのも、同じく実測値ではなく
実際の地理とは関係なく「設定」された数字に過ぎない <
「余」がある数字が混じっているから、
実地の計測値からの「近似値」記載である事になり、
「地の果てからの遣使だと思ってもらえるように、数字を借りてきて「設定」したんだよ
何度も説明してるだろ?
渡海一回が千里というのも、北部九州上陸まで萬里というのも、同じく実測値ではなく
「実際の地理とは関係なく「設定」された数字に過ぎない 」「のではないので、
この男は、×人間。 アニメ何やら?
必要ないと書いたはず、なぜだと思う >>341
>残念ながら、知能指数で天才の領域にあるんだわww
IQの差が30を超えるとまともに話が通じないって言われるから、<
残念ながら、
不可知部分が99.9%以上である、と言われている自然や歴史においては、
得られた観察実験計測などからの資料批判的な帰納的確率的な推論が大事であるのであり、
知能指数を自慢するような一種の・・・・は、唯我独尊思考に陥りやすくて、
京都アニメ会社放火のような・・・・殺人犯になる事が多いんだよ。 お前たちのような低脳に聞いているんだよ、
漫画、〜アニメ?必要ない >>342
>畿内説は短里を認めない<
周代以前や、周髀算経などや、淮南子や如淳注や魏志や後漢書や梁書や書紀などまで、
短里を使っている。
>魏晋里で2000里なら十分畿内に届くよ <
「南≠東」などに拠って、×。
>まあ、観念的な設定値に過ぎないから、計算しても意味ないけどさ <
「余」での 「計測値からの近似的な書き換え」があるから、
「観念的な設定」ではない。
>そもそも、3世紀世界に短里を使う理由のある人が一人もいない<
3世紀なら、如淳注や三国志江表伝など。
>ここから短里説は破綻している <
唯我独尊の史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、すでに破綻している。 精神科、刑務所に行け、
わかりやすく言うと必要ない
このように言われたりすることの何が嫌なんだ?
低脳創作〜何やら〜?他人の家の話ばかりでしょ ドラマ、映画〜?
そういう作品も同じ、一部を除いて ほとんど他人の家の話
悪く言うと、お前たちはゴキブリと同じだろう?と言っているんだよ 数年前の、どのスレだったかな、
テレビを付けるとゴキブリばかり写ると言っている人がいたり、
ゴキブリしか出てこない? ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたかった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベースに、幻の邪馬台国島を、そして東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 漢からの伝承で倭奴国が帯方より南1万2千里
邪馬台国はそこから少し南にある体だから1万2千余里 >>111の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>112)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↖木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>113
>漢からの伝承で倭奴国が帯方より南1万2千里
漢時の認識は、一万里
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」 (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
これが九州上陸までの距離
ここからさらに二千里という長距離を進んだ先まで倭国だと
卑弥呼の遣使で情報更新されたので、女王国まで萬二千里となる訳だ FAQ78
九章算術いらんじゃん
自女王國以北 其戸數道里可得略載 と
◆FAQ3−2
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。
で悦明可能 貼り付け・・少し加工
奥山は、思考回路がズレてる
外へ出てもコミュニケーションができない
だから一日中、家に引きこもりネットで必死にコミを図ろうとしてるが
ズレは治らない ので馬鹿にされる
九章算術もズレっぱなし
畿内説仲間からも見捨てられている >>115
倭奴国は倭の極南界にあるとされる
漢の政治理念万里の修好に照らし合わせれば
当時の倭の王都倭奴国が淮南子で世界の果てとされた
国境より1万2千里の距離にあると設定されたと推察される
魏志倭人伝の記述でも九州上陸で1万里
そこから女王国まで2千余里となっていて
これは漢の伝承上の倭奴国の場所に邪馬台国を当てはめて書かれたもの
そして魏志倭人伝で遠くて詳細がわからないと書いてある
傍国20カ国の最後に出てくる奴国は漢に朝貢し楽浪より南1万2千里の
倭の極南界にあるとされた倭奴国のこと
その少し南に邪馬台国はあるという体だから
邪馬台国の位置は国境の帯方より南1万2千余里と表記された >>111
>>114
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」(リンク参照)同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の入手を容易にするため。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D#%E5%A4%A7%E6%9C%88%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、〇四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、武器も文字も早馬もなしに遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>119
魏志倭人伝で邪馬台国の場所は
沖縄か台湾辺りの会稽東治の東という架空の場所に設定されてるよ >>119の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井にクーデター「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。九州年号創設。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代) >>121の続き、
伊都国系・崇神朝を乗っ取った邪馬台国系・応神(胎中天皇)は、仲哀の子供ではなく、三韓征伐のため筑紫大本営にいた神功皇后と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の景行・成務・仲哀、続く応神(自分の子)・仁徳(自分の孫)に仕えた彼は、筑紫邪馬台国・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
次に、磐井の乱で、筑紫応神朝(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った阿蘇狗奴国王・継体は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
用明の代で、強硬な廃仏派である大連・物部氏長者の守屋を滅ぼし、厩戸皇子が大臣・蘇我氏と共に仏教を国教化したが、蘇我氏が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智と中臣氏が飛鳥に下向。板葺宮で三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝→「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、奥津城大和に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺はなぜ選ばれたのだろう、、、 九州説のバカもそうだけど、ただの妄想をブツブツ言い続ける異常者も後を絶たんな
邪馬台国ネタは基地外ホイホイだな >>122の続き
ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?邪馬台国があったからではなく、その逆である。
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!(日本初の中国式都城=新益藤原京から「大和」と改称)
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝
「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書
A「日本(本州)倭国(九州)之別種 以其国在日辺 故以日本国(本州)爲名」
或B「以倭国(九州)自惡其名不雅、改爲日本(本州)」或C云「日本(本州)舊小国、呑併倭国之地(九州)」
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(倭国=九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭国(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家に東遷後、実際はすべて九州倭国で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台、阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、大王宮が1つも出土しない古墳時代の畿内は、一貫して九州にいた倭王の霊廟奥津城に過ぎなかったのである! >>125
まとめると、統率のとれた大艦隊を擁し、その気になれば日本を殲滅できる唐(リンク参照)との外交の忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
九州本家(歴代倭王権)がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消
A新羅からの朝貢で調子に乗って、無双の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤
→大和分家・欽明朝、推古摂政の厩戸皇子に仮託
B白村江海戦惨敗663年で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族の全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(同盟国となっていた)高句麗に脱出できる近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
→大和分家・天武の母皇極(斉明)の皇太子として接ぎ木(斉明重祚&天智・天武兄弟の舞台裏)
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 基地外が延々と妄想をつぶやいてるのが気持ち悪い
消しとくか >>122
畿内の古墳時代の遺跡と言えば、仁徳難波高津宮の倉庫wと極楽寺ヒビキ遺跡くらいだぬ。 九州バカ
妄想基地外
荒らし
これ消したら誰もいなくなった
邪馬台国ネタってのは異常者を引き寄せる引力があるみたいだな 九州説ではトンデモ本書いて飯のタネに出来た人間が前世代に何人か居たので
頭の弱い老人がワナビでカンチガイしてるんだろう >>362
>>博多平野までは短理で、<
>これも捏造w 畿内説は短里はないと、徹頭徹尾言ってる
博多平野まで短里なんて誰も畿内説では言ってない
あるのは現実の地理と無関係な設定値だけ<
何だ?、結局は、秦の始皇帝里や漢朝里も否定して、
魏朝や魏の役人らの「全面的な捏造だ」として、
都合が悪い里記載を全面否定をするだけか。
類スレ主らは、京都アニメ放火犯人のようをするに、
世の中を全面否定をする狂人思考だな。
>その設定が、倭国をより遠くするのが目的の数字だから、
現実の地理と比較すると短く「見える」だけ
でもそもそも測定してないから区間ごとにバラバラな数字になる
短里なんてないんだよw <
「余」を使った書き分けがあるから、
陳寿は、何らかの計測記録を見て、その近似値を書いている。
短里なんてないんだよw >>363
>古尺の現物が出てるし<
尺寸系の寸法長は、周代から余り変わっておらず、6倍位も変わっておらず、
長里か短里か?の議論には、無関係。 >>365
>「九章算術均輸1には、里数が一切出てこない」
これだけで、道里は里数だという寝言は否定される<
漢書も魏志も「道の里」として、「行く道の里数」をメインに記載し、
「行く日数」も補完的に使っている。 秦の始皇帝も誤り倭人伝も誤り、陳寿も、短里も、長里も捏造、、、
畿内説だけが正しい。
・・ただのアホか。 >>131
そうだよ
短里なんてない
分かってるじゃないか >>133
>「行く日数」も補完的に使っている。
使ってるんだから日数でも道里だな
はい残念九州説 >>137
おい、日数は=道里、時間は=距離だと、もっとガンガン宣伝しろ
勢いが足りんぞ! 後漢書
建武中元二年(57年)
倭奴国 貢を奉じて朝賀す
使人自ら大夫と称す
倭国の極南の界なり
光武、印綬を以て賜う
後漢の人が考えた倭国全域
○
○ 対馬
○壱岐
○奴国(倭国の極南の界)
存在しない九州 奥山氏は、移動時間ですらない宿泊地の数を、距離だと宣伝しているのではないのかな、、、 奥山氏は、棺の問題をインターネットで、調べることができたのだろうか、、、 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 問題が作成されました。。。
架空の奥山氏が、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を、完全に論破され、宣伝することに失敗したので、自殺したとします、、、架空なのだから、話を大きくして、宇宙葬ということにして、 葬儀が開催されます。。
棺は、加速度Aのロケットの中に固定され、打ち上げれました、、、
面白いので、架空のロケットの中の棺の中の自殺体が、本当は、自殺に失敗した、生きている奥山氏だったとします、、
架空の棺の中の奥山氏が、目覚めました、、、
架空の棺の中の奥山氏は、目覚めた後、凄まじい加速を認識します。。。
奥山氏は、認識した加速をブラックホールかもしれない天体への落下か、それとも、乗り物の加速か、判断できるでしょうか。。。 当時の中国人には日本の本州は視野に入っていなかった。
簡単な話だ。 なぜ3世紀の近畿圏からは鉄が出土しないのか?
■考えられること
鉄の潤っていた九州とは交易が無かった。
=一大率や大倭は近畿とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」に近畿は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・ 当時の中国では九州も本州も存在を知られていないが
230年呉の孫権が衛温と諸葛直に夷州・亶州へ向かわせて
夷州の現地民を数千人連れ帰っているので(呉書)
夷州・亶州の存在は知ってた
当時の中国人が考えてた東側
○
○ 対馬
○壱岐
○奴国(倭国の極南の界)
○○
○○亶州(漂流者がたどり着く)
○○
○○
○○
○○夷州(数千人連れ帰る) 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 >>137
おい生ぬるいぞ、
桜井市の小学校で教わった通り、日数は=道里、時間は=距離だと、もっと勢いよくカキコしろ 奥山氏は、IQが低いので、棺の問題に対して、正解出来ない可能性が高いな。。。 陳寿はこのどこかに邪馬台国をおくしかなかった
なぜならこれ以外の陸地は知らない=存在しないから
そこで方角を南に変えて夷州に邪馬台国がある感じに
当時の中国人が考えてた東側
○
○ 対馬
○壱岐
○奴国(倭国の極南の界)
○○
○○亶州(漂流者がたどり着く)
○○
○○
○○
○○夷州(数千人連れ帰る)
さすが俺 地図を使って小学生でもわかるわかりやすさ
これまでこれを否定したやつは誰もいない
これを覆すには3世紀の中国人が
九州や本州の存在を知っていたという新資料が無いとだめだからな >>368
「南→東」などのウソつき騙しというような、
人類の常識に反するインチキを封じられた大和説者らかが
まさか
ここまで壊れてしまうとはな。
哀れなもんだ。」 >>149
邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、IQが低いのではないのかな、、、 「南→東」の説明にもなってるだろ
これを嘘だというなら新資料が必要なんだって
そもそも本州も九州も知られてない=存在しないんだから
魏志倭人伝の方角はあってるとか距離はあってるとか
そんな話でもないってこと 荒らしと中傷しか出来ない九州説が
邪馬台国論争の敗者なのは
もうよくわかったよ >>154
理性的な反論や主張ができなくなった畿内説の逃避かな? >>380
「南→東」などのような嘘つきの、
大和説学者やスレ主や類スレ主や、京都アニメ放火犯のような・・・・大和説者や、
右翼マスコミや学会教育界指導者や文部省役人らがいても、
放置している大和説者らは、
国民の7割にも、社会的にも、信頼されない。 時間は、物理の学問の思考実験のための座標では距離として扱っても良いが、
人間の体や脳の活動にとって、時間と距離は、明確に異なる物事なのではないのかな。。。 魏志倭人伝の方角と距離をもとに場所を特定しようなんて
行為そのものが間違ってると証明できてるでしょ
魏志倭人伝は間違っているので
どこでも邪馬台国になってしまう
ゆえに物的証拠のみが重要 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。 つまり、人民の住宅が殆ど無い巻向集落は、邪馬台国ではないのだな。。。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東にある。
>有無する所は?耳、朱崖と同じ。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(海南島)と同じである。
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
>或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、
離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
南の方にあるという前提で書かれてる魏志倭人伝
台湾あたりにあると誘導している節がある
おまえらこんな適当なもので距離とか方角とか言い争ってるんだぞ 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 棺の思考実験には、続編が用意されているのだが、奥山氏の頭が悪すぎるので、先に進めないな。。。 奥山氏が、前回のスレッドで持ち出した、相対性理論という、僕達にとっては全く訳がわからない理論は、2種類あるのではないのかな。。。 >>384
「南→東」の嘘付き騙しなどのように、
思想や宗教的に偏向している大和説の奴らに限って、
都合が悪い史料事実や史料実態に対して、
信じられない、って言うんだよな。 >>391
中国は、白村江の後まで、
倭國は九州にあったのであり、それまで継続していまでた、
と当然のことのように了解している >>166
僕達には、難関の国立の学部に所属する、頭が良い孫がいるので、2種類とも必要となる数字も一緒に教えて貰えるのだったね。。。 >>121
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
記紀に消された継体朝・九州本家の宣化(リンク参照)の子孫である5人の大王(安閑・宣化539→A→B→C→D→阿毎多利思比孤600→E→天智645)に着眼すれば、日本古代史はすべて解決なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%8C%96%E5%A4%A9%E7%9A%87
スサノオ→大国主→大物主→饒速日を先祖に持つ、前方後円墳担当の大連・物部守屋が587年に戦死してから、箸墓以来の前方後円墳築造が停止する。
葺石と埴輪がキッチリ揃う後期中頃の磯長中尾(伝・敏達陵)と梅山古墳(伝・欽明陵)に対し、河内大塚や三瀬丸山に葺石も埴輪もないのはそのためである。
今城塚(継体)→安閑(高屋築山)→宣化(鳥屋ミサンザイ)→磯長中尾=伝敏達陵(A)→梅山=伝欽明陵(B)→河内大塚(C)→三瀬丸山(D)を比定。
欽明・敏達父子は、王墓を仏教の須弥山思想に基づく方墳に切り替えるために首都・阿蘇邪靡堆を出て、百済ハーフの大臣蘇我稲目(都塚古墳)と共に、奥津城(王家の谷)に大和分家を創設したわけであるので、方墳を考えたい。 >>397
「南→東」などの嘘付き騙しに関して、
まったく理由を言わない大和説者。
まさに宗教だね >>165
卑弥呼の死体は棺に入れられたが、槨には入れられなかった可能性が高いのだったな。。。 >>400
>だから、里数あるいは日数で示された数字がそれぞれの道里を示しているんだよ
行動○日が道里遠近だから道里じゃないという九州説の主張は、
小学生からもバカにされるレベルww<
「道里」とは、原則は「道の里」。
「日数」とは、原則は「日の数」でしかならない。 問題が作成されました。。。
架空の奥山氏が、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を、完全に論破され、宣伝することに失敗したので、自殺したとします、、、架空なのだから、話を大きくして、宇宙葬ということにして、 葬儀が開催されます。。
棺は、重力場の影響を無視できる空間では最大加速度Aまで何度でも最加速できるロケットの中に固定され、M81方向を目標に打ち上げられました、、、
面白いので、架空のロケットの中の棺の中の自殺体が、本当は、自殺に失敗した、生きている奥山氏だったとします、、
架空の棺の中の奥山氏が、目覚めました、、、
架空の棺の中の奥山氏は、目覚めた後、凄まじい加速を認識します。。。
奥山氏は、認識した加速をブラックホールかもしれない天体への落下か、それとも、乗り物の加速か、判断できるでしょうか。。。 奥山氏は、移動時間ですらない宿泊地の数を、距離だと宣伝しているのではないのかな、、、 >>174
奥山氏だけではなく、このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、IQが低いので、
宇宙の墓場の問題に対して、正解出来ない可能性が高いな。。。 >>164
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
こういうウソが平気でつけるのが
九州説だよ
説明を聞くことを耳を塞いで拒否しているくせ >>405
>字面で「道の里」とか言ってるやつがただのバカ
朝鮮半島部分の循海岸水行も渡海も「道里」として書かれてるぞww<
海上であろうと、「道」として使われておれば「道」であり、
その里数は、「道の里」。 奥山氏に、理性はあるのだろうか、、、
それとも、奥山氏には、理性は無いのだろうか、、、 >>181
>海上であろうと、「道」として使われておれば「道」であり、
じゃあ倭王武の上表文を使って韓地陸行を主張したトンデモ説はカンチガイなのだな
w >>419
>道里は里数で表記することもあるし日数で表記することもある
その実例ってこと<
「道里」は、原則は「道の里」であり、「道の日数」ではない、という事。
>「水行二十日」は道里の表記である<
「水行二十日」は、「道の里」になっていないから、×。
だから「『水行二十日』は、「其戸數道里可得略載道里」の「道里」には関係が無く、
また「投馬國は、側副傍線国説明であり、不彌國の南の水行二十日の位置にある」
という説明だから、『女王国以北』でない」が成立する。
だから、投馬国を女王国より北に比定する大和説は根拠を失う 南無阿弥陀仏
という話 。 >>421
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
反論や議論を放棄して、
基地外踊りに徹する事にしたのか ?。 >>173
>「道里」とは、原則は「道の里」。
>「日数」とは、原則は「日の数」でしかならない。
あんたが勝手に原則を作っても従う義理があるのはあんたんとこの従業員くらいだ
古代中国人がその「道の里」の遠近を移動に要する「日の数」で表すことを禁止出来ないな >>423
「南→東」などの嘘付き騙しだけでなく、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの「皇国史観文言」を使っている時点で、
ウソつきが確定する大和説 >>424
知能もなく、
「南→東」などの嘘付き騙しの、
国粋皇国史観儒教的な怨念につき動かされるゾンビが、大和説者。 >>425
>後漢時代は倭国100国
↓
倭国大乱
↓
北部九州30国の邪馬台国連合+出雲など70国からなる狗奴国連合(畿内含むかは?)<
「南≠東」だけでも、×。 >>428
このように九州説以外の、「南→東」などの嘘ばかりをつく説は、
全て、×。 >>429
「南→東」などの嘘付き騙しのゾンビ亡者の大和説者
この世はお前たちの生きる世界じゃない
元いた世界にお帰り >>191
東南と書いてあるところ実際は北東に進んでいても方位の間違いを認めない九州説なんて、×。 >>431
「南→東」などの嘘付き騙しや、悪口ばかり言うしか能のない大和説者は、
死んでいる >>438
「南→東」などの嘘付き騙しのように
まったく理由を言わないのが
大和説人種の特徴 奥山氏が発表した、、、
距離と時間は同じものだ、、、
という意見は、相対性理論の前提なのだろうか、、、
それとも、相対性理論が導いた結論の一つなのだろうか、、、
558日本@名無史さん2019/07/26(金) 18:57:26.24
相対論では時間と空間を同じものとしている
空間を移動するなら時間がかかるという事だ
しかしここにエネルギーもつけ足すべき
空間を移動するのはエネルギーも必要だから
時間=空間=エネルギーで進化した相対論相対論アドバンス
学会で認められたらオレ様はアインシュタインを超えた天才
今の所誰も言ってる事聞いてくれないけど 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 【九州邪馬台国説の真実】
魏志倭人伝に書かれていたヤマ大国の人たちは女性を立てて女性に優しい男性が暮らしていたと書かれている。
これは日の巫女が女王になっていたことからも解る。
しかし九州男児像はこれと全く異なる。
九州男児は女は3歩後ろを歩け、女は殴らなければ3日で狐になるとばかりにDVが多く、魏志倭人伝に書かれていた男児像と全く異なるのだ。
これに関し
例えば日本昔話で登場する鬼は先住民族の縄文系日本人を叩き潰した話を、勝った官軍が悪役にして安定に繋げた。
例えば明治維新で勝った明治政府は江戸時代の士農工商など本当は無かった差別を流したり、名家を部落落ちさせ悪役にして反撃を防いだり、国家神道に邪魔な旧神道の神社を燃やしたり廃城令などで再起不能にした。
例えば中東ではメッカ侵攻の時に多神教を悪魔崇拝として叩き潰した話を、勝ったムハンマド軍がコーランにしたためた。
例えば西欧ではギリシャ神話を信仰するヨーロッパ原住民を魔女狩りと称して、勝ったキリスト教会が皆殺しにした。
つまり、勝った者は負けた者を徹底的に潰しておかなければ安定はない。
ここで思い出すべきは九州説や偽の金印が出来たのが江戸末期という点である。
江戸末期に突如として浮上してきたヤマ大国九州説。
これは、歴史を塗り替えるために九州に渡来してきた者が流布した??を公式にしたと考えるのが自然。
そのために明治維新を起こし、廃仏毀釈で関係のある遺跡を壊し、何万社もの神社を日本各地で取り壊し(三重県だけで4万社)
廃城令で渡来系九州人に不都合な人たちの城を潰し、廃藩置県で各地の地名を渡来系九州人に都合の良いように改名したのだ。
渡来系九州人が歴史を塗り替えるために明治維新を起こしたのは大久保利通が高麗町出身と言う点からも理解できる。 >>442
>相対性理論では距離と時間は同じものとして扱われる<
一つの空間的な「場」においての、
他の場からの相互作用の順番、として、時や時間が定義され、
「空間的距離と時間」とは「違う存在」として扱われる。 奥山氏?誰なのか知らないけど天才なんだろう?
あの(『宇宙やばい』)宇宙の話と同じ 宇宙ヤバイというのは
かぐや姫(かぐや王?)とか、
そういう話と同じでしょ 奥山氏は、邪馬台国畿内説を宣伝するために、奥山相対性理論を考えだしたが、誰にも理解されない可能性が高いな。。。 道里を移動日数で表記した実例を突きつけられて
投馬国を女王国より南に持って行く企てが頓挫し
行程解釈が崩壊した九州説はすっかり狼狽し
混乱状態のようだ >>205
そもそも、行道日数は、時間ですらない宿泊回数でしかないな、、、 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 問題が作成されました。。。
架空の奥山氏が、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を、完全に論破され、宣伝することに失敗したので、自殺したとします、、、架空なのだから、話を大きくして、宇宙葬ということにして、 葬儀が開催されます。。
棺は、重力場の影響を無視できる空間では最大加速度Aまで何度でも最加速できるロケットの中に固定され、M81方向を目標に打ち上げられました、、、
面白いので、架空のロケットの中の棺の中の自殺体が、本当は、自殺に失敗した、生きている奥山氏だったとします、、
架空の棺の中の奥山氏が、目覚めました、、、
架空の棺の中の奥山氏は、目覚めた後、凄まじい加速を認識します。。。
奥山氏は、認識した加速をブラックホールかもしれない天体への落下か、それとも、乗り物の加速か、判断できるでしょうか。。。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな、、 そもそも陳寿は倭人の国々を「女王国以北」と「其の余」に分けて解説しているのだから、投馬国が「女王国以北」グループであることは明らかなんだが
投馬国だけが道里を日数表記していることを種に曲芸解釈で突破しようとした
もともと無理筋なんだがね 奥山氏の脳は、世界で起きている物事に対しての認識の手続きが、他の者達とは異なるので、
同じ物事を体験したり、同じ文章を読んだりしても、
奥山氏の意識に投影される物事は、他の者達とは異るのではないのかな。。。 >>463
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は
いつも平気で嘘をつくなあ 九州説は>>213みたいな露骨なウソばかりになってしまった 例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのではないのかな、、、 奥山氏が、「特定の箱の中のコイン」の時のように、問題文に罠が仕掛けられていることを恐れて、棺の問題に挑戦しないな、、、 僕達の予測では、奥山氏だけではなく、このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、IQがとても低いので、2種類の相対性理論のどちらも、全く、理解していない可能性が高いな。。。 反論できなくなった九州説は誹謗中傷専門にまで堕ちた
みじめなもんだ >>217
僕達には、難関の国立の学部に所属する、頭が良い孫がいるので、2種類とも必要となる数字や数式も一緒に教えて貰えるのだったね。。。 例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのではないのかな、、、 >>215
奥山氏が、「特定の箱の中のコイン」の時のように、問題文に罠が仕掛けられていることを恐れて、棺の問題に挑戦しないな、、、 ロケットの中の棺の問題は、あまり難しい問題ではないので、相対性理論を理解していない者達でも、直ぐに答えられ、
邪馬台国畿内説を宣伝するために、前回のスレッドで持ち出された相対性理論についての討論が、進行するはずだったのだが、
奥山氏だけではなく、このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、IQが予測以上に低いので、僕達が用意していたこの先の段取りが無駄になってしまった。。。 >>208
僕は、夏休みの自由研究に、卑弥呼の城がどこにあったか、研究している小学生です。
棺の中の奥山氏の脳が、世界で起きている物事に対しての認識の手続きが、他の者達と同じであれば、
ロケットがロケットの機能で加速しているのではなく、天体に落下しているのであれば、そのことを認識します。 なんだ?
論破された九州説が
また発狂して荒らしてるのか 奥山氏という外国の人が、夏休みの研究のためのスレッドで、邪馬台国畿内説を完全に論破されたので、卑劣な荒らし行為を繰り返していますね。 >>486
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説信者が馬鹿すぎる >>489
京都アニメ会社放火犯のような、・・・・バカだから、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者なんだろ?。 奥山氏という外国の人は、僕が作成した夏休みの研究のためのスレッドで、邪馬台国畿内説を完全に論破された腹いせの、卑劣な荒らし行為をやめて下さい。
そして、時間は距離だという間違いに気づいて、まともな脳のまともな大人になって下さい。 奥山が完全に追い詰められてるな
いつもの悪口にもさえがない
九州説の批判の多さに飲まれてる >>223
あなたは、頭の悪い奥山氏よりは、見所のある小学生ですね。。
でも、棺の中からは、外の様子はわからないので、宇宙空間を加速度0で漂っているのか、天体に落下中なのかの区別がつかないのではないのかな、、、 僕達の予測では、奥山氏だけではなく、このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、IQがとても低いので、2種類の相対性理論のどちらも、全く、理解していない可能性が高いな。。。 >>509
>水行二十日は道里の表現、というだけの話<
関係がない。
側副傍線国である投馬國が、
「不彌國から南に水行二十日の位置にある」という説明が先に書かれてあって、
その後で「自女王國以北、其戸數道里可得略載」が書かれたのだから、
投馬國は、始めから「自女王國以北」の国になっておらず、
従って「水行二十日」も「道里…略載」にも関係がない、という事。 伊都国の一大率が女王國の北を管轄していると書かれている時点で畿内説はありえないんだよな
畿内説諦めればいいのにw 俺様は、あまり、頭が良くない小学生だが、田舎小学校で、時間は距離だと習ったよ。
そうすれば、観光関連が、発達する可能性が高まるから、良いな。 自称「東大の大学院」のキナイコシは誤差の計算もできませんでした。 唐会要の倭国伝
倭國
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。
俗有文字、敬佛法、椎髻無冠帶。隋煬帝賜之衣冠。今以錦綵為冠飾。衣服之制、頗類新羅。
腰佩金花、長八寸、左右各數枚、以明貴賤等級。
貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。
(自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。)
表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。
仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。
自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>204
>>211
おい、腰が引けてるぞ。
距離=時間だ、水行20日は里数だ、水行10日も陸行1月も里数だ・・、とガンガン書き込めよ。
桜井市の小学校で、距離=時間と習ったんだろ。それ行け飛馬!! >>511
>水行は「道」の里じゃないだろ?wwwwwwwww
道里は抽象概念の熟語であって、一文字ずつ具体的に解釈する言葉じゃないんだよww<
「道里」の「道」は、原則として、
陸上であれ水上であれ、人類が「移動に使用していた通行路」を示すものであり、
「日数」とは何ら関係がないものであり、
九章算術は、その区別が出来なかったアホであり、
陳寿は、きちんと区別出来ていた事だ。
>水行七千里も水行二十日も、同じく道里略載の書き方だ<
陳寿の「自女王國以北、其戸數道里可得略載」での個々の「道里」の記載には、
「日数」記載は含まれていない。 例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのではないのかな、、、 >>513
「南→東」などの嘘付き騙しをしたり、
陳寿の「道里」の記載を根拠なく「日数記載も含む」と断定したりして、
勝ち誇る惨めな生き物が、
大和説者だ。 大学院というのは、入院試験に合格し易いのでは、ないのかな。。。 >>515
>空間と時間は同じではないけれど、移動という概念は
移動距離でも移動時間でも表現できるんだよww
いくら言い張っても、道里遠近で考えろという均輸1の問題に
日数が道里として書いてあって、里数は一言も書いてないのが現実だww<
「道里」は、人類の陸上や海上での移動路の里数を示すものであり、
「移動時間」とは関係のないモノだ。
だから、それを混乱させた九章算術の記載が、「道里」の意味の根拠にならず、
それを根拠にしたスレ主のテンプレや類スレ主も、アホであった、という事だ。 >>517
>算術の計算問題を解読してどうする?ww 書いてある通りに計算すればよいだけだ
計算に使う数値として、戸数と行道日数が書いてあって、
戸数多少と道里遠近から衰(比例配分の係数)を出せというだけの問題<
九章算術の筆者が、
人類の常識に外れた「道里」の文言解釈をした記載をしていた、
というだけの事だ。 >>242
>「道里」の「道」は、原則として、
>陸上であれ水上であれ、人類が「移動に使用していた通行路」を示すものであり、
>「日数」とは何ら関係がないものであり、
その「移動に使用していた通行路」の上を
ある「日数」ぶん移動したら
一定の距離を進むだろ
ほら、関係ある >>244
>陳寿の「道里」の記載を根拠なく「日数記載も含む」と断定したりして、
うそ
はっきりした根拠が2つ示されている 殆ど、誰も読まないテンプレートの、終わりの方まで読んでいる優れたキウス氏が、FAQ78まで読んだので、笑いリラックスできる討論が始まったのだったな。。。 >>251
だが、本当は、例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実が、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのではないのかな、、、 >>522
>末盧国を呼子にするインチキをしてなお、伊都国は東にしかならないww
何処までも捏造体質の惨めな生き物が九州説 <
魏使らは、各部分行程で、
目的地が見えていなかったら、目的地方向を計測して記録する事が出来ない、
という事が、何時まで経っても判らず、
何処までも捏造体質の惨めな生き物が、大和説者。 >>250 名前:日本@名無史さん 2019/07/28(日) 19:00:59.18
>>陳寿の「道里」の記載を根拠なく「日数記載も含む」と断定したりして、
>うそ 、
>はっきりした根拠が2つ示されている
そのはっきりした根拠2つを、はっきり書いてみよ。 >>253
>魏使らは、各部分行程で、
>目的地が見えていなかったら、目的地方向を計測して記録する事が出来ない、
つまり彼らは測量が出来ないのだな?
ということは「距離が正確だ」という主張は
間違いだったわけだ
九州説、終わってるな >>256
根拠は>>204と>>211 で間違いないのだな。
(つまりこの先、何が起こっても修正・改筆・意味の変更をすることはないと確認する) >>204: ←これは
「道里を移動日数(水行20日)で表記した実例の投馬国」
>>211: ←これは
「陳寿は倭人の国々を「女王国以北」と「其の余」に分けて解説しているのだから、投馬国が「女王国以北」グループであることは明らか」
各々のレスの根幹部分は上記のとおりである。では、以下追々に反論を述べてゆくこととする。 >>259
>「道里を移動日数(水行20日)で表記した実例の投馬国」
そんなこと誰も言ってねーだろ
文章理解力激低だな >>259 の続き
つまり>>256は、、、
「投馬国も移動日数によって道里が略載されているので、女王国以北グループであることは明らか」、と明言している。
このことは、戸数の略載においても全く同様である。
則ち、>>256 によれば、
投馬国及び他の女王国以北の国々において、道里戸数略載上の差異はないことが明白となった。
では、ここで尋ねたいのであるが・・・(以下続く) >>260
そんなこと誰も言ってねーだろ・・、といったって、>>204で明言しているではないか。
そして、その明言は修正することはない・・・とも。 >>131
架空の地の果て国境より南1万2千里が倭奴国
邪馬台国はその少し南にあるという設定で1万2千余里 >>138
九州説こそ短里の宣伝をもっとした方がいいんじゃないの >>200
相対論には時間と空間を一緒にした時空という言葉が存在していてな 【渡来系九州人と朝鮮人】
東京大学の遺伝子研究チームによると
現代日本人の43/44は渡来系九州人
この渡来系九州人の遺伝子は現代の朝鮮人と酷似していることは研究で明らかになっている
天皇の顔見てみろよ
朝鮮耳でエラ張りツリ目だろ?
たまに古代朝鮮人と現代朝鮮人は違うとか言うバカいるけど
それ違うなんて学説は世界のどこにもないから
是非東京大学に入学して論文発表してもらいたいね >>524
>問題文の「欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。」に対応して
解答が「令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰。」なんだから、
これだけでも「行道日数」が「道里」の表現であることが分かるww<
だから、九章算術は、
「道里」を「行道日数」にする、というヘンテコな失敗論理を書いたから、
半分×書だ、と言ってんだよ。
いくらがんばっても、九章算術が失敗した文だ、
という現実には勝てないよ。 >>527
>その道里遠近を計算するための数値として、行道○日と書いてあって
里数は一切書いてない
つまり「道里」は里数でないといけないが、「道理の遠近」は日数なのだよ。
そうでなければ、この問題は解けないことになるww<
元々、九章算術の「説明失敗」の文であった。 >>530
>距離=時間じゃないと言う九州説は
速度はなぜ時速という言葉で表されているのかよく考えてみよう<
距離は速度ではないから、この男も×ね。 >>534
大和説内部で議論するまでもなく、
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しのために、
異端の阿波説や河内説や京都説や近江説も含めて、
全滅だ。 奥山氏という外国の人は、僕が作成した夏休みの研究のためのスレッドで、邪馬台国畿内説を完全に論破された腹いせの、卑劣な荒らし行為をやめて下さい。
そして、時間は距離だという間違いに気づいて、まともな脳のまともな大人になって下さい。 >>535
>三角縁神獣鏡は景初や正始など
卑弥呼が魏と交流のあったと魏志倭人伝に記されている頃の
魏の年号が記銘されている<
その年号鏡が、大和からは出土した、
という証拠がない。
また、明帝の下賜鏡には△は存在せず、22〜23cmの寸法の点でも、
ほぼ全て渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡だ。
>ホケノ山古墳は炭素14c測定法や年輪年代測定法で3世紀中葉とされている<
AMS法は、纏向の庄内3の土坑の「一年以内になる一つの桃の種」での計測でになる、
140〜250年という110年の幅が出てしまった、という事は、
AMS法がプラズマ化に拠って全く信頼性がなくなってしまった、という事であり、
3世紀中葉説は×。
また、年輪年代は、採取材と基準材との気象の年変化の一致やの確認があるのか?、
などという基本的な問題があり、×。 真実を究明するために、討論を深めるには、奥山氏は頭が悪すぎるので、悪いな。。。 >>539
>畿内説の言っているのは、魏志倭人伝の方位は現実の地理に合わないから、
魏志が正確な方位を測っていた知っていたとは認められない、というもの<
魏の役人らのような普通の成人は、
「東西南北」程度の方向は、計測出来るし、間違えない、
という事は、人類の常識。 邪馬台国の卑弥呼は、視力の良い者には、、、今、、、、見つめられている可能性を否定できないな、、、 >>543
>道里として行道日数が示してあって、その日数を使って(比較して)遠近を考えるんだよ
道里の表現として日数が使われているのが現実<
九章算術の筆者は、「道里遠近」を、「行道〜日」で表現した半分×人間であった、
という事。 奥山相対性理論も、邪馬台国畿内説も、完全に破綻したので、日本の小学生は、外国人に騙されないように、夏休み中も規則正しく生活して下さい。。。 >>263
平然とウソつくなよ
>「道里を移動日数(水行20日)で表記した実例の投馬国」
なんてこと誰も言ってねーだろ
ウソつく病気か? >>547
>誰でも客観的に確認可能な、同時代文書の九章算術のテキストの記述そのものから
完全に論理的に破綻なく、道里記載に日数が使われることが示されており、
それが示された時点で、
「投馬国の水行二十日が里数じゃないから道里略載の女王国より以北の国ではない」と
いう九州説の主張が否定される<
九章算術が「道里遠近」の「道里」が、里数ではなく「行道〜日」で書かれた時点で、
九章算術は、「里→日」の嘘つき騙しをした事になって、
九章算術が、半分×書であった事になるだけの事。 中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる
邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)
↓
隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)
↓
アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
↓
アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
↓
アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓
宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している 邪馬台国畿内説が完全に破綻したことが、証明されましたね、、、 >>550
>・・・どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い<
ここの論も既に否定済みである事ばかりであり、
いずれにしても「南≠東」などに拠って、×。 >>283
ちがーうちがーうと連呼しても
否定済みにはならんぞ >>282
はい、僕は頭が良くない小学生なので、邪馬台国畿内説を宣伝する外国人に騙されるところでしたが、もう、騙されないように、気を付けます。 魏志より
馬韓→鬼神を祭る、卑弥国がある
倭国→卑弥呼が鬼道によって民を支配する
はい確定
畿内だろうが北部九州だろうが出自は馬韓でした
ジャップ笑 >>160
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる
淮南子に準じている時点で、現実の地理とは関係のない数値
縮尺など考える余地はないし、実際区間ごとに異なる値になる
何度もインチキ書くなよ >>285
夏休み中には、魏志倭人伝時代を自由研究する小学生達全員が、邪馬台国畿内説を嘘だと見破りますね。 >>561
大和説は小学校のころ、
お日様は東方から出て、南を回って西方に沈むとか、
夜は北斗七星やカシオペアで北極星を見つける事など、
その手の観測をやった事がないに違いない。
学歴は小卒未満の幼卒とかか。 >>162
>その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)
原文にないカッコ書きを原文の内容以上に長く書いてるww
捏造というより創作だなww
デタラメ >>264
大和説者は、「南≠東」も判らないらしいんだから、
小学校も出てないような人間が主張してる説 >>164
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡
これもデタラメ
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、
これはまあいいが、ここでいう「王墓」は弥生王墓と呼ばれるもので、倭国の王ではなくローカルな首長だ
水系の水争いを差配する首長層がこの頃から各地で庶民とは違う階層として台頭してくる
>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、
金印は一つだけ、
北部九州に八咫鏡があったとするのは「江戸時代の風土記逸文」のみ
それも、記紀神話に出てくる誓約の三女神を祭る宗像神社の縁起で九州説一押しの伊都国とは無縁
しかも当の宗像神社の社伝ではまったく八咫鏡は出てこないww
>畿内説は何も説明することができない。
弥生中期までは北部九州のローカル首長が、大陸に朝貢していたことは畿内説でも否定していないが?
それが3世紀に入る前に没落しているというだけのことで、特段の説明は必要ないだろ? >>576
哀れにも、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
気の触れてしまった大和説者 >>206
>そもそも、行道日数は、時間ですらない宿泊回数でしかないな、、、
時間だろうが宿泊回数だろうが、それが道里として書かれていて、
里数は一切書かれていないww
バカがあがくことあがくことww >>219
>僕達には、難関の国立の学部に所属する、頭が良い孫がいるので
お孫さんは立派なのだろうが、連続句読点のやっていることはまともな日本人から見れば
完全に軽蔑の対象でしかない
お孫さんたちにこのスレを読んでもらえば、連続句読点頭のおかしさを解説してくれると思うよww >>578
>陸行何日は古代中国の慣習の移動1日60里換算で何里とする事が出来るから<
古代中国では、陸行は、
歩行は、1日200里であり、
車駕は、1日300里。 >>269
>元々、九章算術の「説明失敗」の文であった。
九章算術の説明失敗なんかじゃなくて、九章算術で均輸を学ぶ人にとって、
道里が行道○日で示されるのは当たり前のことってだけ >>264
シンプルだけど分かりやすい。
余の解釈が「オッカムの剃刀」のように洗練されてますね。 >>267
>是非東京大学に入学して論文発表してもらいたいね
お、ちょうど一人いるらしいぞ
自称だけどw >>292
>>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、
>これはまあいいが、ここでいう「王墓」は弥生王墓と呼ばれるもので、倭国の王ではなくローカルな首長だ
倭国は博多湾沿岸のローカルな政権だったんだよ。
後漢書を読んでみな。 奥山氏という外国の人は、僕が作成した夏休みの研究のためのスレッドで、邪馬台国畿内説を完全に論破された腹いせの、卑劣な荒らし行為をやめて下さい。
そして、時間は距離だという間違いに気づいて、まともな脳のまともな大人になって下さい。 >>292
>北部九州に八咫鏡があったとするのは「江戸時代の風土記逸文」のみ
>しかも当の宗像神社の社伝ではまったく八咫鏡は出てこないww
風土記に宗像大社の辺津宮の神宝が八咫の鏡と記載されていたことを知っていてなおそれを書くのは二枚舌じゃない?
>それが3世紀に入る前に没落しているというだけのことで、特段の説明は必要ないだろ?
だから九州説は天孫族から肥国王家に王統の交代があったと考える意見が多い。
王都は筑紫のままでね。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊都に5枚、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、宗像辺津宮と、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 >>586
>いい所に気付きましたね
速度がわかっていればそれに時間をかければ距離が出ます
古代中国では1日の移動距離は60里とされていました
なので魏志倭人伝の日数=距離<
5世紀の裴松之の注で、 歩行は1日200里であるから、
この男は×。 >>587
>古代中国じゃ1日60里
魏志倭人伝に日数が書いてあるならそれは自動的に距離が書かれている事になる
日数=距離は自明のこと
九州説=バカと同じように<
魏志には、「一日60里」なんて書かれていないから、
日数=距離か?は不明の事。
大和説者=アホか?、という事の同じように。 >>588
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、
京都アニメ会社放火事件犯人のように、つける薬なし 日前宮は紀伊国伊都郡の近くにあるね。
東に葛城山がある。
筑紫の伊都は東に高祖山(日向山)がある。
古代人は相似を感じていたのだろうか。
そう言えば糸島の名は怡土郡と志摩郡から来ているが、紀伊国にも志摩があるね。
そしてどちらも夫婦岩が名所になっている。
紀伊半島の伊都と志摩の地名は、福岡県の伊都と志摩から移転したのだろう。 邪馬台国畿内説は、破綻したことを、宣言します。。。 >>601
>1万2千里は淮南子に世界の果てを示す数値として出てきて
実際の距離に換算すればパプアニューギニア辺り
そんな数値が現実の場所とくに九州北部になると主張する九州説の方がおかしい<
淮南子は一寸千里を使っているから、萬二千里は短里であり、
実際の距離の「萬二千余里」でも九州島付近。
そんな数値が、赤道付近とか大和になるとか言っている大和説者は、
脳がおかしい。 >>311
おっと、律令制では伊勢国または志摩国か。
失礼。 >>314
と思ったけど、紀伊国の志摩ではなく、紀伊半島の志摩だから間違ってはいなかった。
誤って損した。 >>602
帯方より東南1万2千里は、一寸千里使用でもある淮南子に出てくる世界の果てを示す里数
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「萬二千余里」は、距離を示すものだから
指してる場所は確実にだ女王國だと言える
大和説によれば、赤道付近か?、大和付近を指すんだっけ? 九章算術の均輸の4に
重車日行五十里,空車日行七十里
荷を積んだ車は日に50里を行く、空の車は日に70里を行く
とあるね
荷運びの時はこれが標準なのだろう
ただ、問題にわざわざ書いてあるということは、公定尺のような決まったものではなく
これくらいなら不自然ではないという程度のことだとも分かる
今有均賦粟,甲縣四萬二千算,粟一斛二十,自輸其縣;
乙縣三萬四千二百七十二算,粟一斛一十八,傭價一日一十錢,到輸所七十里;
丙縣一萬九千三百二十八算,粟一斛一十六,傭價一日五錢,到輸所一百四十里;
丁縣一萬七千七百算,粟一斛一十四,傭價一日五錢,到輸所一百七十五里;
戊縣二萬三千四十算,粟一斛一十二,傭價一日五錢,到輸所二百一十里;
己縣一萬九千一百三十六算,粟一斛一十,傭價一日五錢,到輸所二百八十里。
凡六縣賦粟六萬斛,皆輸甲縣。
六人共車,車載二十五斛,「重車日行五十里,空車日行七十里」,載輸之間各一日。
粟有貴賤,傭各別價,以算出錢,令費勞等。問縣各粟幾何?
打開字典
答曰:甲縣一萬八千九百四十七斛、一百三十三分斛之四十九。
乙縣一萬八百二十七斛、一百三十三分斛之九。
丙縣七千二百一十八斛、一百三十三分斛之六。
丁縣六千七百六十六斛、一百三十三分斛之一百二十二。
戊縣九千二十二斛、一百三十三分斛之七十四。
己縣七千二百一十八斛、一百三十三分斛之六。
打開字典顯示相似段落
術曰:以車程行空、重相乘為法,并空、重以乘道里,各自為實,實如法得一日。
加載輸各一日,而以六人乘之,又以傭價乘之,以二十五斛除之,加一斛粟價,即致一斛之費。
各以約其算數為衰,副并為法,以所賦粟乘未并者,各自為實。實如法得一斛。 >>603
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
1万2千余里で指されない大和こそ、逆に、×。 日前宮は紀伊国伊都郡の近くにあるね。
東に葛城山がある。
筑紫の伊都は東に高祖山(日向山)がある。
古代人は相似を感じていたのだろうか。
平原遺跡がある福岡県糸島市の名は怡土郡と志摩郡から来ているが、紀伊半島にも志摩があるね。
そしてどちらも夫婦岩が名所になっている。
紀伊半島の伊都と志摩の地名は、福岡県の伊都と志摩から移転したのだろう。
これでいい? >>605
九章算術が漢書や魏志に違背していることに対して
大和説は一言もコメントできないだろ?
それが答だよそ。 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 >>607
つまり、「距離に何らかの適当な係数をかけないと時間で示せない」ってことは、
九章算術の記載は、インチキ騙しであった事になる、という事だね?。 >>608
「道里」は、里数で示す事が原則であり、
日数で示す事は、原則無視になる、というのが今の議題だよ >>323
>九章算術が漢書や魏志に違背していることに対して
>大和説は一言もコメントできないだろ?
そりゃ、排反してるなんて話は聞いたことないからな
排反してるって指摘もないだろ?
コメントするわけがない
初耳なんだから 【邪馬台国の畿内説と九州説】
・古文書を解読するのが畿内説
・古文書を改竄するのが九州説
・ウソを暴くのが畿内説
・ウソを付くのが九州説
・説明するのが畿内説
・洗脳するのが九州説
・明治政府に葬られたのが畿内説
・明治政府に作られたのが九州説
・歴史に基づくのが畿内説
・歴史に基づかないのが九州説
・矛盾がないのが畿内説
・矛盾だらけなのが九州説
・朝鮮人が絡んでないのが畿内説
・朝鮮人が絡んでいるのが九州説 >>609
一寸千里の法で淮南子が書かれていた、という事は、
中国国土や世界の果ては、
知り得た範囲内として、常識的な範囲としたものとして考えてた事になる >>301
>後漢書を読んでみな。
後漢書は、漢委倭國王の金印の時の朝貢と倭面土國王帥升等の朝貢記録以外はほぼ
三国志の引き写しだから、どこまで参考にしていいかは疑問
倭国大乱の時期が魏志倭人伝では書いてないのが、後漢書では桓・靈閧ニあるので、
三国志以外の後漢代の記録を参照しているという人もいるが、実は三国志の韓伝に
桓霊之末という表現があり、それが後漢末の混乱期の決まり文句として使われているという
側面もある
三国志
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
後漢書
桓・靈閨@倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼
三国志東夷伝韓条
桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。 >>611
>>各如其本行衟日數而一車<
>これ、どこで拾ってきたんだ?
「各如其本行衟日數而一車」でググっても、全世界で261件しかヒットしないぞ<
何で、その261件の中からの引用を、一つでも引用しないんだい?。 >>333
またまた「その文献は信用できない」?
畿内説に都合が悪いだけだろw >>303
>風土記に宗像大社の辺津宮の神宝が八咫の鏡と記載されていたことを
>知っていてなおそれを書くのは二枚舌じゃない?
その風土記の逸文の残り方を見ると、あんまり信頼するのもなってところがあるんだよ
江戸時代の個人の手記に書き記されているだけ
その風土記逸文が宗像大社に伝世していたものというなら、もう少し信用できるんだがね >>336
またまたまた「その文献は信用できない」?
畿内説に都合が悪いだけだろw >>335
>またまた「その文献は信用できない」?
その場で原文を読んで解釈しても各如其本行衟日數而一「車」の「車」が付いてたら
意味がおかしくなるんだよ
この時点で漢文が読めてないのが明らかだし、現代文訳も信用できるはずがない >>333、>>335
ああ、ザラゴキじゃなかったのかww
失礼
ザラゴキと同じレベルだったからww >>333
後漢書は明らかに魏志倭人伝を下敷きにした二次資料だから、
「後漢書に書いてあるから」というのは根拠として弱いんだよ
後漢書に拘奴國と書いてあるから狗奴國は間違いと言われても困るし
後漢書に自女王國東度海千餘里至拘奴國とあるから、狗奴国は南ではなく東というのも
根拠として弱いってのは分かるだろ? 筑紫は白日別
博多湾の伊都国
↓
紀ノ川の伊都
↓
飛騨の石徹白イトシロ
関係ある可能性は高い 西海道[さいかいだう]の風土記に曰[い]はく、宗像大神、天より降[くだ]りまして埼門山[さきとやま]に居[ゐ]ましし時、
青蕤[あをに]の玉を以[も]ちて、奥津宮[おきつみや]の表[しるし]に置き、
八尺瓊[やさかに]の紫玉[むらさきだま] を以[も]ちて中津宮[なかつみや]の表[しるし]に置き、
八咫[やた]の鏡を以[も]ちて辺津宮[へつみや]の表[しるし]に置き、此の三つの表[しるし]を以[も]ちて神のみ体[み]の形[かた]と成[な]して、
三つの宮に納め置きたまひて、即[やが]て隠[かく]りましき。
或記曰、此八咫鏡者、三種之神器之中、内侍所鏡土同体異名也、云々。
仍当神與内侍所一体異名也。
然則本朝鎮護之霊宝、三韓征伐之霊神也。
天下仁有怪異時者、此二玉一鏡霊光於放玉恵利。 >>340
後漢書の内容こそ魏志倭人伝の原資料の可能性があるぞ つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな、、 例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのではないのかな、、、 >>613
>>距離=日数では九章算術は成り立たないよ
賦役の分配計算だから距離でなく労働日数<
>これが論点ずらしそのもの
その日数が、道里遠近を考えるための数値として示されている
そして、里数は一切書いてない
ここで行道○日と書いてある記述が、道里を示す記述そのもの<
九章算術自体が、「道里」という文言の意味を拡大解釈使用の、不正をしていた例。 >>614
>>>水行七千里も水行二十日も、同じく道里略載の書き方だ<
>>対等な数字ではないよ。<
>場所も距離も異なるのだから、対等ではないのは当たり前
どちらも道里略載の記述としては、同じ扱いだということだw<
陳寿は、(九章算術とは違って)、道里説明と日数説明とをきちんと、
違う範疇のものとして書き分けている。 >>617
>その通りの数値が書いてあるだろ? 解読なんていらないww
そして、実測値であればこんなキリのよい数値にはならない <
「余」で書き分けてある、という事が、実測数値の合計であった、という事の証拠。
抽象的な数値や形容的な数値では、
有効数字1桁程度の簡略数値を選択されるものであり、
「余」なんても、付けない。
>例えば漢書西域伝では大月氏国まで「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」と
半端な数値が載せてある
つまり、測定値というか実際の地理とは関係なく、当時の中華世界の哲学・世界観に
合わせた設定値だってことだ<
それ以前での「有効数字1桁程度の計測値」に、
その先の短区間の実測値を加算した記録である可能性が高い。 >>620
>そして、比例計算に使う「道里」の値として「行道日数」だけが問題文に与えられており、
「里数」は一切書いてない
これだけで道「里」と書いてあるから里数以外は認めない、というのが明確な間違いで
あることが確実に示されているんだよ <
九章算術が、「道里」という文言を、「拡大解釈のインチキをした」という事の証拠。 >>623
>そもそも九州説は魏志倭人伝の日数表記を
帯方から九州北部までの移動にかかる日数だとしておきながら
日数は里数にならないと言う<
「水行二十日」は、
不彌國からの側副傍線國の投馬國の位置説明での所要日数説明であり、
だから魏使らは行っておらず、(里を知らない)倭人からの伝聞情報。
「水行十日陸行一月」は、目的地である邪馬壹國女王之所都の説明であるから、
出発地の郡から女王之所都の全区間の所要日数説明であり、魏使らの記録からの算出日数。
>本来なら水行計30日陸行1月は1万2千里に相当する<
相当しない。
>魏志倭人伝の日数=1万2千里だと頑張らなくてはいけない所 <
魏志が主張した通り。
>自分自身の説にすら矛盾した行動をとる九州説<
魏志倭人伝の記載を必死に曲解して、世間の人々を騙そうとする・・・・詐欺師の大和説者。 >>634
>九州説は自尊心と妄執に囚われている<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
唯我独尊の国粋皇国史観の妄想に囚われていて、
それを否定する者を全て殺戮しようとする狂気に囚われて、
京都アニメ会社テロのような事を実行する殺人鬼人種。 >>635
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者には、通常の道徳がないからな
あるのは腐ったゾンビの唯我独尊の、国粋皇国史観の儒教支配の道徳 >>644
唯我独尊の国粋皇国史観の現代の感覚で、
古代人の思いや文献を、「南→東」などの誤解釈をして、
理解できると妄想してる大和説者脳は、
哀れなことこの上ない >>646
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
京都アニメ会社放火大量殺人犯人のような、唯我独尊の国粋皇国史観の、
「反対するものは皆殺し」というテロ思考しか出来ず、
人類愛や道徳観がないからなぁ >>647
大和説の道徳とは、
唯我独尊の喧嘩っ早いタカ派の、国粋皇国史観の人種差別的な儒教道徳だもんな。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しもすれば、
ヘイトスピーチテロを叫ぶし、
京都アニメ会社放火殺戮もすれば、
些細な事で韓國や中国との殺し合い戦争を誘発させるような発言や行動をする。 >>358
「嘘吐き騙しの大和説者」
「大量殺人犯人のよう」
「唯我独尊の国粋皇国史観」
「拡大解釈のインチキ」
なんて証拠もないレッテルを貼って
相手の発言を封じて議論を避けてる
そんなあなたが
「反対するものは皆殺し」というテロ思考しか
出来ない人ですよ >>648
世間の皆さま、
次から次へと繰り返される、 その場しのぎの思いつきやら、
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
苦しい強弁の大和説者のお相手、真にお疲れ様です。 >>649
突き詰めれば、国粋皇国史観儒教の大和説者は、
一般的な国では善なる超越的理想的な神様を拝むのに対して 、その代わりに、
唯我独尊のタカ派戦争狂の政府や、靖国などの神社や、右翼マスコミや、
「南→東」などの嘘吐き騙しの学会教育界や、
京都アニメ会社放火大量殺戮犯人を拝んでいるようなもの >>650
国粋皇国史観儒教の大和説者と、いわゆる文明人との違いは
「南→東」などの嘘吐き騙しをするか?、
人が見てない所で悪さした時に何となく自分が汚れた感覚になるかならないか?、
という事。
大和者はたぶんならないし、むしろ見えないなら、
積極的に不正をし、殺人をしようとする。
それが表れたのが京都アニメ会社放火大量殺戮事件 >>651
悪い事しても嘘さえ通れば助かる
嘘は、「南→東」などのように、国粋右翼皇国史観儒教の大和説者の生命線
まあ人間を超越した真理を問う学問の世界で嘘は通用しないんだけど
それゆえに大和説は、学問を攻撃せずには居られない >>337
その問題の西海道風土記逸文は、瀛津島防人日記を書いた青柳種信以前に遡れない
そしてそもそも、宗像大社のご神宝の縁起があるからといって伊都国に八咫鏡があったとするのが
牽強附会のチェリーピッキング
宗像三神は天照大神の子供(スサノオとの誓約)であっても、岩戸籠りの八咫鏡とは無縁だし
雄略紀の小鹿火宿禰のエピソードと同様、大きな鏡という意味の普通名詞以上の意味はない >>344
>後漢書の内容こそ魏志倭人伝の原資料の可能性があるぞ
成立年の遅い方を原資料と考えるのは無理がある
後漢書の原資料があったとして、それを陳寿が利用できず
後漢書の撰者が使えたと考えるのはさらに無理 >>654
「南→東」などの嘘吐き騙しの唯我独尊のタカ派の大和説者は
小学校の頃から、教師にも見捨てられてたんやねえ可哀そうに。
だから、京都アニメ会社に放火殺人をしたし、
韓国や中国を必死で誹謗して、国民が殺人戦争をするように煽っているんだねえ。 >>655
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、ゾンビだから仕方ないか
誰が脳の干乾びたゾンビに物を教えようとするのか
それは単なる徒労に終わる >>656
道里と書いてあるとこが日数になっている、
という事と認めたら、正直ものの九州説者は痛切に苦境だからな
といってマトモに反論しても、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホの詐欺師の大和説者では、
嗤ったり馬鹿にしたりして誤魔化して来るだけで、
全く無駄で無意味。 九州説は
邪馬台国論争に負けたから
はらいせに
口汚ない中傷ばかり
しているんだよね
たちが悪いね 朝から狂ったように、あらぬことをわめき散らす九州説の姿からは「唯我独尊のタカ派戦争狂」の姿しか思い浮かばない >>366
陳寿は倭奴国が漢に朝貢した事などを知っていた
それと倭国大乱が桓霊の間にあった事も
魏に存在していた漢の倭国資料を見ていた >>365
>その問題の西海道風土記逸文は、瀛津島防人日記を書いた青柳種信以前に遡れない
だからなんだ?
風土記の全文にその記事がないことを証明しない限り、その記事があったと言う証拠が優先する。 >>352
帯方より南1万2千里だと倭奴国の位置になるだろうから
邪馬台国は1万2千余里とした >>365
>そしてそもそも、宗像大社のご神宝の縁起があるからといって伊都国に八咫鏡があったとするのが
伊都国の八咫の鏡は発掘による話だ。
ごちゃ混ぜにするなよ。
ただ、福岡県に八咫の鏡の伝承が集中していることも事実。
>宗像三神は天照大神の子供(スサノオとの誓約)であっても、岩戸籠りの八咫鏡とは無縁だし
天孫降臨に際して、幼子であったニニギの代わりに実質的に三種の神器を輸送したのは宗像氏族だったはず。
無関係とは言えない。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 唐会要の倭国伝
倭國
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。
俗有文字、敬佛法、椎髻無冠帶。隋煬帝賜之衣冠。今以錦綵為冠飾。衣服之制、頗類新羅。
腰佩金花、長八寸、左右各數枚、以明貴賤等級。
貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。
(自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。)
表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。
仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。
自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。 「倭國東海嶼中野人」
金属器も絹織物も持たない未開の地が九州の東にあった。 >>354
それじゃ九州説は帯方より南1万2千里は九州北部を表してないと言う積もり
それなら畿内説は1万2千里はパプアニューギニアか沖縄辺りを指す事になる
地の果てを指す概念的なものとの主張が通る
日数=里数を認めなければ1万2千里は九州北部を指すものではなくなり
認めるなら投馬国が女王国より北にある事になって九州北部説は終了
チェスで言うダブルチェック
将棋で言う両王手ですな 石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」
邪馬台国の中枢をなす都市が纒向ならば、なぜ突然消滅したのだろうか
王都があった場所が王都の移動に伴い消滅した例は日本であるだろうか?
いわんや、◆4に述べる交通の要所であれば、都が移ろうがある程度反映した地として残る
纏向はそれが無い、一時的に利用した地である
古墳造営基地であったと考えてもなんら不思議ではない また大集落跡は見つかっていない
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/24(水) 23:40:38.25
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である 中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる
邪馬台国は台与の後にも滅んでなどおらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)
↓
隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)
↓
アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
↓
アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
↓
アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓
宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している >>377
邪馬台国は倭奴国より少し南に概念的に想定されたのだろう
魏志倭人伝に遠すぎて詳細のわからない国が20カ国書いているけれどその最後が奴国になってる
その奴国が漢が想定した倭の極南界にあるとされた倭奴国 >>384
倭人伝を読んで范曄が誤解した線もあるよ >>381
それは考えられない、また畿内説の主張(テンプレ)との矛盾も生ずる
テンプレでは
◆FAQ3−2
>倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、
南方向成分は9,000里程度となろう<・・・・・・倭人伝では1万強
と解説している、また倭人伝では
「自女王國以北 其戸數道里可得略」と記述あれておりおおよその距離はわかっている 1000里を移動するのに10日かかりました
1日何里移動したでしょう
道里と日数は全く違うものとする九州説はこの問題が解けない >>384
邪馬台国は北部九州から更に水行10日陸行1月も行った先だ
「少し南」なんかではないよ >>385
倭人伝に漢の倭奴国は出てこない
范曄は漢代の資料を見ていた
そして陳寿も >>382
>邪馬台国の中枢をなす都市が纒向ならば、なぜ突然消滅したのだろうか<
飯場だから、仕事が終われば用がなくなる ほぼ古墳造営基地で決まりであろう >>388
行程中に出てくる奴国と遠くて詳細のわからない20カ国の最後に出てくる奴国は別物
2回目の奴国は倭の極南界にあるとされた南1万2千里の概念的な倭奴国
邪馬台国はその次にある想定で南1万2千余里 >>386
それは倭国上陸まで
そして魏志倭人伝の記述では邪馬台国はそれよりはるか南方になる事はわかっているのに
九州説は1万2千里が九州北部の不彌国でほぼ終わりだと狂乱している >>382
4世紀中頃から後半には政権の主流が丹後ー日本海ルートと近江ー東山道ルートり利権を持つ派閥に移ったからだよ
4世紀末にはまた瀬戸内ルート派が復権するから軽衢や椿市衢が栄える >>387
1日平均100里でいいでしょう
速度の単純計算である
倭人伝で与えられた前提で計算は不能
水行20日でどれだけ進んだのか記述されていればOKだが >>387の質問は
距離÷日数(時間)=速度
これがわかっていれば
距離=日数と言う馬鹿なことは言わないであろうww >>395
12000-10600から想像はつくけどな >>395
里数=日数を認めたな
それなら道里は日数の事でも構わない
魏志倭人伝の状王国より北部の国々はおおよその道里を示せるがの北部の国には
道のりが日数で書かれてる投馬国が含まれる事になって
邪馬台国はそれより南部に想定される事になり九州北部説は破綻 >>387
一次方程式ではXの答え導き出すには
2つ以上の条件が必用
すなわち水行20日だけでは距離はおろか速度も計算できない >>677
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、脳も死んでるんだな
自分たちが人類の常識で論破されたことにも気づけないんだから 九州説は畿内説に全逆突っ張りして暴れ錯乱する余り
距離は日数でも表せるし日数は距離でも表せるという基本的常識すら失うに至った >>397
すると、畿内説は破綻する
郡から10600里まで北部九州、あと1,400里で畿内に届かない
畿内説では、行程は方位・里数とも誤情報としないと成立しない >>684
>1短里60〜90mなんて変動してる時点で短里はでっち上げの証拠 <
魏の役人らの計測値は、有効数字1桁位の近似値。
>魏里は見つかってるモノサシから1尺約24cm <
尺定規は、周代から「有効数字1桁」位の差異の範囲内で、ほぼ一定。
>1里=300歩=1800尺だから1歩が144cmで1里が約437m
証拠がそろってるのでこうして現代でもしっかりした数値で確認が取れる<
魏志の倭人伝周辺での「里」記載からでも、
1里60〜90mの、有効数字1桁位である事の確認が取れる。 >>685
こうやってオウム返しされてばかりなのが、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説であり、
脳が死んでる証拠 >>686
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
唯我独尊の喧嘩っパやいタカ派の国粋皇国史観の儒教のせいのばかりじゃなくて、
精神的な病気の素でそうなのか
京都アニメ会社放火殺人犯のようで、余計にヤバイ >>396 399
当たり前のように使ってるけど、
「速度」も「時間」も江戸時代後半以降に作られた和製漢語なんだってば。
漢代に「速度」に対応する概念があったのか、或いは別の言葉があったのかを示さないと、
軽々しく使えないでしょ。 >>403
畿内説は魏志倭人伝の邪馬台国の方位と距離は実際の場所ではないとしているから平気 >>403
>郡から10600里まで北部九州、あと1,400里で畿内に届かない
?
1里約400m×1400里=約560km
畿内までぴったりでは? >>411
罵るばかりで全く反論できないお前さんの能力がことスレでいちばん低いと思うよ >>387日本@名無史さん2019/07/29(月) 07:47:27
>1000里を移動するのに10日かかりました
>1日何里移動したでしょう
>道里と日数は全く違うものとする九州説はこの問題が解けない
なにを大誤解してるの? 道里と日数と速度の三者は全く違うもの、というのが正しい。 >>415
違うものだが相関関係があるんだよ
それに道里は日数で表すことがある >>691
>そもそも背理法というのは、
例えば「北部九州説、投馬国は宮崎が正しい(真)」ことを証明するための方法であるから、
そのために逆仮説の「投馬国は宮崎だーは間違っているというのは間違いである」ことを証明するためのものである。
しかるに>>677は、「宮崎説は間違っているという逆仮説は正しい」と証明したので、
「北部九州説、投馬国は宮崎が正しい(真)」という命題は間違っているという間違った結論を得ている。<
そもそも、投馬國は、
「萬二千余里がほぼ終わった不彌國から南に水行二十日の位置にある」という国であり、
倭人からの伝聞情報であるから、背理法など必要がなく、
魏志に書かれた水行記録からの「水行の1日距離」を推定計算して位置を求めれば十分であり、
その計算では、水行一日で450里位であり、水行二十日の9000里位であるので、
1里≒60m〜90mの記載であるから、
不彌國からほぼ海岸沿いに540〜810kmの場所に投馬國がある事になり、
九州の東回りでも西回りでも、大体宮崎県〜鹿児島県付近になる。
また、背理法でも、その推定値の範囲を「宮崎県」だけに絞った話に限定するから、
おかしいように見える訳で、
「大体宮崎県〜鹿児島県付近」とすれば、何の矛盾も発生しない。 >>413
>1里約400m×1400里=約560km
畿内までぴったりでは? <
すると郡から北部九州まで
400M×10、600=4,240キロと非現実的な距離が出てしまう >>692
>もっと単純に
邪馬台国が九州北部なら魏志倭人伝や考古学証拠に色々矛盾が出るでいいんじゃね<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
北部九州説で、倭人伝や考古でも、全くのように矛盾が出ない。 さて、昨日の>>259 の続きだが、、、
つまり>>256は、、、
「投馬国も移動日数によって道里が略載されているので、女王国以北グループであることは明らか」、と明言し、
このことは、今後とも修正しないとしている。
以上のことは、実は「戸数の略載」においても全く同様である。
則ち、>>256 によれば、投馬国及び他の女王国以北の国々において、戸数道里の略載上の差異はないことが明白となった。
では、以上を前置きにしてここで尋ねたいのであるが・・・
最大の問題は、この文章の前後関係・位置づけをどう読むかである。
「〜、自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳、次有〜〜〜」(続く) これだけ赤の他人の多くの人が
奥山の九章算術の理解は間違っていると指摘してるのに
理解できない奥山は相当あれだな >>693
>魏志倭人伝も1里が50mになったり150mになったりするぞ
それぞれ個別の里があったと主張するつもり?<
「1里が50mになったり150mになったりする」
という説は、いずれも、里計測の起点や終点の場所の比定の間違い。 >>420
だって10600里のうち10500里が間違いだから当然だ^_^
事実なら日本列島など無い台湾沖あたりになると陳寿が計算してるとおりだ >>392
九州説の批判は後程反論させてもらうが
論のすり替えは感心しない
>>386の回答に答えていない >>698
>道里が日数でも里数でも表現されるということから逃げ続けるしかない
九章算術の均輸1に里数が一切出てこないことから逃げ続ける
その態度だけで、この件で九州説の主張が間違っているのを自ら認めているのが丸分かりだ<
「道里」と「行道〜日」を対応させた時点で、
九章算術が(漢書や陳寿と比べて)不正な文言使用をした、
という事が明確だ。 >>423
理由もなく「間違いだァ、プギャー」と叫んでも
それ、指摘じゃないから
ww >>428
>>>386の回答に答えていない
ふつう回答には答えないんでは? >>426みたいなのが「反論」でも「指摘」でもないことは
小学生以下でも十分わかるのだが >>170
継体没後の、宣化朝(次男)と欽明朝(三男)の二朝並立説は、消された九州本家(表)と残された大和分家(裏)の、ごく僅かな併存期を示唆しているのかもな。 >>433
情報は時代が下るほど鮮度が落ち、内容が怪しくなることが多い >>422 (続き)
ヒントは以下の文章である。
特に >>256のように、道里=里数+日数、と置いた場合、
自女王国以北、其戸数道里可得略載、をどのように読み・位置づけ得るかということである。
至末盧国、渡一海千余里、四千餘戸。
到伊都国、東南陸行五百里、千余戸。
至奴国、東南百里、二万余戸。
至不弥国、東行百里、千余家。
南至投馬国、水行二十日、五万余戸。
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月、七万余戸。
↓
自女王国以北、其戸数道里可得略載、
↓
其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、 梁書倭伝ではおおよそ會稽之東としている
方位・里数は倭人伝そのままを記述 >>702
>3倍違っても誤差で通るのか
じゃ魏志倭人伝の里は短里じゃなくて普通の里の誤差だったんだな <
1里60〜90mはm平均の75mから、15m差以内であり、2割差程度。
「3倍も違う誤差」とか「短里ではなくて普通の里」などというのが、
嘘つき騙しであり、この男も・・・・アホ詐欺の×人間。 >>436
まだ前置きが続くのか
説明能力なさすぎ >>431
失礼
訂正
>>392
九州説の批判は後程反論させてもらうが
論のすり替えは感心しない
>>386の意見に対するコメントや反論になっていない >>439 ここまで書いても、まだ問題点に気付かないようだな。洞察力不足・・、偏差値30. >>703
>いわゆる半島儒教の価値観そのものだと判断されるのが当然だな<
おや?、類スレ主が、また未だに「半島人差別を煽る」宣伝投稿を続けていた。
つまり、類スレ主は、唯我独尊のタカ派の国粋皇国史観の、
人種差別の殺戮殺し合い戦争を煽る・・・・アホ人種であった訳。
怖い怖い、ヘイトスピーチテロリストや京都アニメ会社放火犯のような・・・・は、
怖い怖い。 私の説の主旨は、
・崇神天皇4世紀前半として「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏系図から導き出される3世紀後半のトヨとはトヨ津媛、
卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)媛である
・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛はじめ鴨(神)族の墓は高天原にあり、日本最古の高天彦神社境内に奴婢(土蜘蛛)とともに径百余歩の塚に埋葬されている
・後漢書東夷伝の倭国王帥升とはヒメ(踏鞴五十鈴)から約5世代前のスサノオであり、記紀はスサノオの後漢・安帝への謁見要請、
つまり土下座という屈辱的史実を覆い隠すために大きく時代を変え、その結果神武127歳などとなった
・神武東征紀とは女王国時代を隠ぺいするために意図的に武勇伝を強調し男王国に見せかけたもの、
そして「天皇・皇后」という7世紀に創られた新称号は魏志に書かれた真の女王を隠ぺいするための物である
先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただきました。
その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というものでした。
先代旧事本紀についても同じであるというご意見でした。
前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないでしょうか。
そこにもし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、ギリシャ神話のトロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと思ったりします。
「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ批判という名を借りた記紀からの「逃避」ではなかろうかとも思います。 >>369
ザラゴキって、底なしのバカなんだな
>道里と書いてあるとこが日数になっている、
>という事と認めたら、正直ものの九州説者は痛切に苦境だからな
その通りだよ 「正直者の九州説」ってところを除けばww
ああ、もう一つおかしいところがあるな
苦境どころが即死だしww
そして、認めざるを得ないのに「認められないにだー」って言い続けているだけの
惨めな状況は変わらないww >>443
>前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
って誰の説よ?
聞いたことがない >>373
>共通の原資料があったのだろう。
陳寿が見た後漢代の元資料はあっただろうが、
5世紀半ばに范曄が後漢書を撰述した時まで残っていたと考えるべき理由がない
後漢書の内容は三国志の内容を越える部分がないし、
南北朝の動乱期に入っていることもあるし、5世紀まで2世紀3世紀の資料が
残っていたと考えるのは無理がある >>706
>それじゃ1里が50mになったり200mになったりする単位が使われてたの
海路は別にして陸路は歩測で簡単に測れそうなのに4倍も変動する理由は?<
その人が、
国間距離が「入り口や出口や外縁部」間の距離になる事を考慮せず、
伊都国や奴國や不彌國や邪馬壹國などの比定地の決定に嘘つき騙しをしていたから。 >>397
> 12000-10600から想像はつくけどな<
そうなんです
だから、九章算術を持ち出さなくても
FAQ28のAになるのです >>450
そんなもの常識。
森古墳群、玉手山古墳群、讃岐阿波の一連、
そんなもの否定するやつなんていない、 >>374
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、おはよう
>風土記の全文にその記事がないことを証明しない限り、その記事があったと言う証拠が優先する。
お前さんはいつでもチェリーピッキングをした挙句に、悪魔の証明だから否定はできないだろうしか言わない
科学から遠く離れた人間だw
そして、宗像大社の縁起を別の国の異なる時代の「憶測」に対する根拠に使うのは
ただの牽強付会、というのに対する反論はないwww
さらに、日本書紀雄略紀にもあるように、八咫鏡は単に大きな鏡という意味の
普通名詞としても使われる
皇室のレガリアと、同一視すべき理由はない
九州説は、基本チェリーピッキングのインチキだ >>448
ザラコクの「人類の常識」と同じ香ばしい匂いがするよ >>451
>国間距離が「入り口や出口や外縁部」間の距離になる事を考慮せず、
そんなの考慮しないよ
当然だろ
部分里程の総計が総里程にならなくなるという
古田説のオウンゴール自滅オオバカサンタロウだからな >>456
全然違う。
大和盆地をザッと見て150mの箸墓円墳部に引っかかっただけのアホが箸墓説を唱えてるだけ。 >>707
>「情報の少ない外地の地理は、遠方ほど距離が過大に見積もられる傾向がある」
これは、大陸史書に限らず多くの古代〜中世のあらゆる文書に普遍的に見られる <
いや、魏志倭人伝などは、
魏の役人らが、複数以上渡来して来て、実地に見聞計測した記録が元になっており、
部下や後続の使節らに「不正や忖度」が見つかれば、首が危ない事になるものであり、
(スレ主や類スレ主らのような思想に狂った・・・・ではない)魏の役人らは、
そんなアホな事なしないもの。 日本語の不自由な奥山氏(スレ主)の発言に注意してください。
奥山の言う「考古学的に〜」は個人的脳内妄想です。
奥山の言う「〜であることは明確だ」は「〜かもしれない」という意味です。
要するに藤村のような考古学マニアにありがちな精神病ですよ。 >>444
何やら関心を示したところを見ると、文学的勘には優れているようだな、、
偏差値40に上げて良いかもしれない。 >>460
常識なのであえて主張しないだけ。
おまえも知ってるくせに知らないふりするな。 >>376
>ただ、福岡県に八咫の鏡の伝承が集中していることも事実。
してないよwwwwww
平原1号墓の46センチ鏡は、昭和の時代に原田大六氏その他が言い出しただけで
糸島周辺に八咫鏡の伝承などないww
そして、西海道風土記のネタも基本忘れられた文書の逸文でしかなくて、
伝承は一切残っていないし、当の宗像大社の社伝にも伝えられていないwwwww
八咫鏡の伝承は、八咫鏡を作った石凝姥命を奉祭する鏡作神社や、
八咫鏡の試作鏡、日像鏡・日矛鏡を神宝として伝える日前神宮・國懸神宮など
畿内の方が多く残っている
八咫鏡は畿内でヤマト王権が確立した頃に、皇室のレガリアとして伝世するように
なったと考える方が蓋然性が高い >>463
根拠って円墳部の大きさ以外に卑弥呼墓だとする根拠をお前が示せ。
モモソヒメをヒミコだなんて言えないだろ。
時代も庄内3が「258年=二口かみあれた「」なら箸墓建造時期の布留0式古はそれ以降になるだろ。 >>465
畿内説全般w
ここには一人しかいないからw >>385
>倭人伝を読んで范曄が誤解した線もあるよ
魏志倭人伝の余傍国記事の最後の「次有奴國。此女王境界所盡」というのを
勘違いした可能性は昔から指摘されてるね
南へずっと行って女王の境界の尽きるところに奴国がある
⇒倭奴国は倭国(女王国)の極南界 >>467
逆質問でゴマカシ始めたところを見ると、根拠もなく言い張ってたんだな
庄内3が「258年=二口かみあれた」だという根拠は? >>468
また「根拠は?」で逃げてるだけ。
前期古墳が山稜にあるのは玉手山古墳群、森古墳群、萩原墳墓、神門古墳群、などでも証明できる。
知らないなんてカマトトぶるなボケなす。 >>474
だから、そんなものが実在するという証拠ブリーズ >>476
前には見れたがyahooジオスティーズ廃止で見れない。
お前も知ってるくせにカマトトぶるなボケなす。 >>710
>魏志倭人伝が距離を遠大に見積もっている、<
魏の役人らは、普通の成人であるから、
「距離を遠大に見積もった」なんて、しないもの。
>つまり結果的に一里が小さく計算されていると認めてくれるんだね?<
お前が・・・・アホ詐欺師である、という事を認めて上げる。 >>479
画像保存してなかっただけ。
みじめな逃げはおまえ。 >>480
いい加減な記憶で間違えてるんだよ
森岡は庄内3なんて書いてない
畿内第VI様式の欄に書いてある
森井は河内編年 file:///C:/Users/owner/Downloads/23100_1_%E5%A7%AB%E5%BE%A1%E5%89%8D%E9%81%BA%E8%B7%A13%20(1).pdf
(年輪)は、二口かみあれた SX208 による。
>森岡は庄内3なんて書いてない
書いてたよ。
>森井は河内編年
仮にそうだとしても併行する布留0式に258年という指標があたえられただけ。
それを248年にしようなんて小細工はやめろ。 >>389
>倭人伝に漢の倭奴国は出てこない
倭国の中の奴国だろ
倭面土国と同じ扱いだよ
>范曄は漢代の資料を見ていた
そんな根拠はない AD169(年輪)は大友西 SE18、AD258(年輪)は、二口かみあれた SX208 による >>403
>郡から10600里まで北部九州、あと1,400里で畿内に届かない
短里じゃなきゃ届くよ
そして、北部九州は一塊の扱いだから、北部九州から二ヶ月で二千里という勘定だ >>482
>書いてたよ。
証拠は?
>それを248年にしようなんて小細工はやめろ。
してないが? >>466
>八咫鏡は畿内でヤマト王権が確立した頃に、皇室のレガリアとして伝世するように
>なったと考える方が蓋然性が高い
記紀では八咫の鏡など三種の神器を与えられた天孫は筑紫に降臨したことになっている。
後にその後裔が大和に東征し、さらにその後裔が伊勢に八咫の鏡を置いたとある。
伝世が始まったのは、超大型鏡が製作されるようになった2〜3世紀頃と考えるのが考古学的には妥当。
それはまだ大和には大型鏡がなかった時代となる。 >>423
>これだけ赤の他人の多くの人が
キウスと連続句読点の二人ががんばってるだけだよww
邪馬台国の会のステイクホルダーさんも絡んではいるけど、上記二人ほどバカではないww
バカがいくら複数多重投稿しても、現実には何の変化も生じないw
九章算術の均輸最初の問いは、道里を使って解く計算問題で、
日数は書かれているが、里数は一切書かれていない
計算するための道里として、行道日数が与えられている
道里の表現として、日数表記は普通 >>483
>そんな根拠はない
見ていなかったという根拠もなく、むしろ見ていなかったら何を見て書いたというのか説明してほしい。
あれも信じない、これも信じないというのなら、歴史学に首を突っ込むのはやめたほうがいい。
今ある史料から考えるのが歴史学だ。
あんたは想像でばかりものを言い過ぎ。
それは学問ではない。 >>486
>証拠は?
以前お前に見せたけど返答もなかった。
逃げるな。
せめて奴婢埋葬痕跡でも示してから箸墓=卑弥呼墓だと言え。 >>715
>考古学者のほとんどは畿内説支持だから
ほとんどの考古学的成果がそれに当たる<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙し説であるから、
そんな嘘つき騙し説支持の考古学者など何の信頼性も確率もなく、
その「殆どの考古学者」という事も、何らの価値もない。 >>437
>方位・里数は倭人伝そのままを記述
後漢書も含め、基本的に後代史書は魏志倭人伝を引き写しているだけ >>443
左側スロープ君は自分の巣へお帰りなさいww >>490
>以前お前に見せたけど返答もなかった。
>逃げるな。
ほら、また証拠のないことを言い張る
w
ゴミですねー >>716
>とくに1短里75mとしておきながら伊都国〜奴国は1里200m
むしろ普通の里の誤差とした方が早いだろ<
それは奴國を弥生銀座付近に比定したものであり、
糸島平野部の伊都国の「東南百里」に全く合わない比定地であり、
だから、これも類スレ主の「比定地のインチキ」であった、という事になる。
奴國は、日向峠の西麓から早良平野部、とするのがベスト。 >>458
>大和盆地をザッと見て150mの箸墓円墳部に引っかかっただけ
いいえ、その前から列島最大の墳丘墓が纏向古墳群で造営され続けているんですよ
列島最大の造墓が可能なところに列島最大の権力・国力がある=王権の所在地と
考えるのが当然のこと
大作冢、徑百餘步と書かれた卑弥呼の墓は、径百歩が不正確だとしても
纏向古墳群に求めざるを得ない
単純なことだろ?
これを否定するためには、王権の所在地以外に墓所を作る理由や、
王より大きな造墓が可能な、王より大きな権力の存在を説明しないといけない
九州説は、ここで完全に破綻するんだよ >>494
今は見れないが「土器の編年」というサイトにあった森井、森岡編年をおまえにしめした。
見なかったふりはおまえの勝手だが、箸墓=卑弥呼墓説には何の根拠もない。
せめて卑弥呼が記紀の誰なのか示せるのなら話も別だが、それもない。
哀れだ。 >>495
>それは奴國を弥生銀座付近に比定したものであり、
>糸島平野部の伊都国の「東南百里」に全く合わない比定地であり、
はいはい
倭人伝記載の方位が間違ってる例ですねー >>497
証拠の出せないことを吠えまくり
言い張るだけ
笑えるなあ >>496
>纏向古墳群に求めざるを得ない
>単純なことだろ?
平地の下人の墓など女王の墓ではない。
大和盆地の高位にある墓こそ女王の墓。
高さは大きさよりも秩序として上。 >>718
>卑弥呼の祭祀だったのかも知れない<
卑弥呼の鬼道の祭祀中心は、明帝が下賜した「鏡祭祀」。
>鬼道で民を纏めると魏志倭人伝に書いてあるからな
少なくとも纒向で祭祀的な事が行われていた事の根拠となる<
モモや蛙は、記録されていないし、鏡祭祀に殆ど関係がない。
>千人の奴婢が一緒に宮殿に住む必要はない<
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の記載は、
当然卑弥呼は、夜も、婢千人自侍をされ、有人持兵守衞されていた、という記載。
夜も、卑弥呼を一人で放って置くような書き方ではなく、
婢千人自侍の筈。 >>497
あのね
それ、知り合いのサイトなの
出典もみんな前から知ってるよ
あんたの間抜けな勘違いも先刻承知だ >>487
>記紀では八咫の鏡など三種の神器を与えられた天孫は筑紫に降臨したことになっている。
>後にその後裔が大和に東征し、さらにその後裔が伊勢に八咫の鏡を置いたとある。
記紀の神話部分を歴史だと考えるなと何度言えばww
それに記紀の記述を信じるなら、神武の時点で卑弥呼の時代=崇神の世代よりも
百年以上年代がずれる >>502
じゃ布留0古相が卑弥呼時代になるという根拠は? 箸墓=卑弥呼墓説w
考古学者でもそんな事言ってないだろw
アホの考古学者ですらなw >>489
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
>見ていなかったという根拠もなく、
ほらまた「悪魔の証明」の証明不能性を言い訳にするww
インチキ野郎の常套手段だね!
>むしろ見ていなかったら何を見て書いたというのか説明してほしい。
だから後漢書の倭人伝は魏志倭人伝の引き写しだって言ってるだろ?w
三国志が65巻なのに対し後漢書は120巻の大著だ
それでいて、東夷の記述は後漢書の方が少ない
大して興味もないんだよ >>490
どうせここに来てもコテンパンにされて、恥をかいて切れ芸を見せるだけなんだから、
左側スロープ君は、自分の巣へお帰りなさいなww 布留0古相が卑弥呼時代になるという根拠は何一つないのに、
ここのアホの>>1は箸墓だと言ってるのか
アホの>>1 アフォの>>1 >>504
>じゃ布留0古相が卑弥呼時代になるという根拠は?
布留0古相が卑弥呼時代になるって
誰が言った? >>505
>考古学者でもそんな事言ってないだろw
「箸墓再考」という2014年3月のシンポジウムでは、
白石太一郎氏
福辻 淳氏
加藤一郎氏
坂本稔氏
福永伸哉氏
寺澤 薫氏のうち、寺澤氏以外の全員が、箸墓は卑弥呼の墓説だったよ >>510
箸墓が卑弥呼時代になるのかならないのかはっきりしろ。
なるのならその根拠を言えばいいだけ。 >>513
卑弥呼の墓が築かれた時代だと
何度も言ってるのに >>488
トーンが変わってきたな
徐々に九章算術がわかってっきたようだ
もう少しだな
過去レスからずいぶん進歩している >>512
言い換えれば、考古学者の多くがアホだという事だなw
知ってるけどw >>515
こっちの言ってることは最初から変わらないが? >>514
だから根拠は?
年輪年代か、放射性炭素測定か? >>516
常軌を逸してる人にアホと呼ばれるのは
正しい人だという褒め言葉だな >>519
そういう考え方してるから引きこもり病になるんだぞw
考古学に限らず学者の多くは気付かないアホだからw
いい歳して本当の世間の冷たさを知らないとはw >>520
どこだ。
長いので分からない。
言葉で示せ。 邪馬台国の会のステイクホルダーさん、見てるかい?
自称畿内説(葛城説)の左側スロープ君はフルボッコだろ?ww
邪馬台国の会のステイクホルダーさんも、ザラゴキ、キウス、連続句読点の
間違いをきちんと指摘してごらんよwww
間違いの実例は山ほどあるのに、修正を入れているところを見たことないんだが?
Part486の>753で言ってたこれはウソなのかい?ww
>相手が九州説でも間違いだと思えば指摘している。
証拠
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563979011/753 >>523
>自称畿内説(葛城説)の左側スロープ君はフルボッコだろ?ww
いや、俺は誰にも論破されないよ。
中平銘鉄刀の和邇氏の系譜からヒミコ、トヨを見つけ出してるから。
だいたい俺の>>500に対して誰も反論できていないだろ。 >>522
>長いので分からない。
つまり、この程度の長さの文章を読んで把握する程度の知的能力にすら欠けるとww
多くの文献史料、考古資料を総攬的に把握して考察するってことができないという自白だ
だから、神武紀の「土蜘蛛」と高天彦神社近くの「土蜘蛛」を、単語が同じってだけで
同一視しちゃうんだww
チェリーピッキング初級以下だぞ?
単語が一つ同じだから、同じ時代に決まってるとか言うのは?wwwwwww
左側スロープ君は、自分の巣へお帰りなさいw 九章算術が比例・比較の計算だとやっと学習したね
水行は当然 日数の記述があるから南へ進んでいることは当たり前で
速度の記述が無いと距離は算出できないことも分かったみたいだね 左側スロープ君の挙げているものは、群集墳だろ?
それが貴人の墓だとする理由がまずない
群集墳になるほど、貴人が群集するほど大量にいたという時点で噴飯もの
王は一世代に一人、百年で五、六人見当だ
左側スロープ君は、平地に大古墳を作った存在は、何だと思ってるんだい? >>525
>つまり、この程度の長さの文章を読んで把握する程度の知的能力にすら欠けるとww
>多くの文献史料、考古資料を総攬的に把握して考察するってことができないという自白だ
能書きはいいから根拠は言えないわけだね。
まぁ年輪年代では布留0古相が卑弥呼時代にならないからね。
あとは炭素測定かな。
でもこれは100年幅なら分るけど短い時間幅を出すのは無理。
つまり箸墓=ヒミコ墓説ニハ根拠が何もないということだ、アホの>>1 ドアホノ>>1
wwww >>526
>九章算術が比例・比較の計算だとやっと学習したね
また論点ずらし、話題そらしをしているww
いい加減に学習しろよ!
その、比例配分に使う道里が「日数で与えられている」んだよ
この時点で、道里表記は日数でも可能、と分かる
均輸1には「里数は一切出てこない」ことに
意地でも触れないところで、九州説の反論が無意味であることが分かる >>732
魏志倭人伝の距離は、記載事実や実態からの帰納的確率的推論で短里
会稽東冶じゃなくて、存在した会稽東治の東が九州北部
邪馬台国や畿内はなかった
これで、信じるな、と言われても、
ただの「南→東」などの嘘付き騙しの大和説カルトだろ?。 ✖道里表記は日数でも可能
計算式を出しなさい・・算術なのだから >>528
>>500が論破されてるぞww
左側スロープ君は、他人には見えないもの(左側スロープ、径150メートルの塚)が見えて、
他人にはすぐ分かること(江戸時代の農道、東に向かうただの尾根)が認識できないと
いう非常に個性的な特性を持っているんだから、自分の巣に帰って引きこもっていた方が
傷つかずに済むよ?ww >>527
>それが貴人の墓だとする理由がまずない
秩序として高さ。
新井白石が常陸説を出すまで普通に葛城に高天原があると考えられていた。
>群集墳になるほど、貴人が群集するほど大量にいたという時点で噴飯もの
2世紀前半の男王を説明できる。
纏向遺跡ではそれが出来ない。
>左側スロープ君は、平地に大古墳を作った存在は、何だと思ってるんだい?
箸墓は崇神の前王・イカガノシコオ。
山背と交野に近似古墳があることも説明出来る。 >>531
>計算式を出しなさい・・算術なのだから
それが話題そらしだ
均輸1の問題は、距離を出す問題ではなく、
道里を使って衰(比例配分の係数)を出す問題だ
そして、その道里として使う数値に「日数」だけが与えられており、
「里数」は一言も書いてない
いい加減、無駄な足掻きを続けずに、認めた方が楽になるぞww >>529
。>均輸1には「里数は一切出てこない」ことに
意地でも触れないところで、九州説の反論が無意味であることが分かる<
支離滅裂 里数は出てないと何度も言っているが・・
賦役の配分の計算だから 労働日数がキー だから距離は出てこないことに触れてるけどね >>733
>魏志倭人伝に自女王國以北、其戶數道里可得略載とあり、戸数・可五萬餘戸、
道里・南至投馬國、と略載されている投馬国は、国の記載の順番からも順番からも
女王国より以北の国なのは明確な事実<
先に投馬國は、萬二千余里がほぼ終わった不彌國からの側副傍線国の位置説明として、
「水行二十日の位置にある」と明記されていたのだから、
その後の「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の中には、投馬國が含まれない、
という事は自明。 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。 >>531
>計算式を出しなさい
自分で九章算術の均輸の原文を読んでみればいいのにww
均輸の4問目と9問目に「重車日行五十里,空車日行七十里」とあるよ
上の方で、一日60里と書いてあったけれど、この辺が当時の標準なんだろう >>535
>賦役の配分の計算だから 労働日数がキー
その労働日数が「道里」として書いてあるww
つまり、「道里」は労働「日数」で書ける訳だwww
こちらの言い分を、ただ追認しているだけだなw
ありがとうwwwww
労働だと言ったところで、その労働の中身が「行道」なんだから
どう取り繕っても、里数なしの日数で道里が表現されていることは変わらないww >>503
>それに記紀の記述を信じるなら、神武の時点で卑弥呼の時代=崇神の世代よりも
その年代は考古学的に否定される。
文献の内容から妥当性を検討する必要がある。
だがそれは、丸々否定することとは違う。
記紀は一般に古い年代ほど過大に古い年代に見積もる傾向があるようだ。 >>533
>2世紀前半の男王を説明できる。
群集墳になる程いないだろ?
男王が何人いるつもりでいるんだ?wwwwwwwwwwww >>525
>つまり、この程度の長さの文章を読んで把握する程度の知的能力にすら欠けるとww
テンプレの文章が学問的ではなく、知性が感じられない詐欺師の口上だから読めない。
読むに耐えない。
読むべきではない。 >>525
>チェリーピッキング初級以下だぞ?
畿内説はいつものこと。 >>529
>均輸1には「里数は一切出てこない」ことに
>意地でも触れないところで、九州説の反論が無意味であることが分かる
里数は不適当なんだから「里数は一切出てこない」のは当然だ。
その代わり、遠い近いを表す行道日数(遠近日数)を用いているわけだ。 >>540
>その年代は考古学的に否定される。
具体的な根拠つきでの解説をしてごらん?
そして、否定されるというなら、記紀の神武紀のあたりの記事は信用できないとなるだけで
邪馬台国の会のステイクホルダーさんの推論wwの根拠が失われるだけだよ?ww >>526
>九章算術が比例・比較の計算だとやっと学習したね
わかってないねえ
県ごとに実数である戸数/道里を計算した商を
各県について比例配分計算するんだよ
だから日数表記された道里は実数なんだ
ちっとは学習しろよ >>541
>群集墳になる程いないだろ?
>男王が何人いるつもりでいるんだ?wwwwwwwwwwww
王族の集団墓。
王は2世紀前半からトヨの3世紀後半までで数人かな。
纏向には王の親族の墓らしきものも見当たらないわけだが。
卑弥呼の両親、じいちゃんばあちゃんの墓を説明してみろwww >>528
>まぁ年輪年代では布留0古相が卑弥呼時代にならないからね。
その根拠は出せないんだろ?
きみはもう論破されている >>547
>卑弥呼の両親、じいちゃんばあちゃんの墓を説明してみろwww
共立された王の
両親、じいちゃんばあちゃんの墓が
巨大である必要はないな >>534
>そして、その道里として使う数値に「日数」だけが与えられており、
>「里数」は一言も書いてない
里数は不適当なんだから「里数は一切出てこない」のは当然だ。
つまり、不適当な道里里数でなくて、遠い近いを表す行道日数(遠近日数)を用いているのだ。 高天原(御所市高天)の150mの奴婢が埋葬されている集団墓。
このようなものだと推測している。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_17.jpg
安芸・花園1号墳
安芸と言っても広島県三次市、出雲文化圏。
出雲族の特徴であろう。 >>483
後漢書には魏志倭人伝に出てこない
漢に倭奴国が建武中元二年に朝貢したとの記述が出てくる
編者の范曄が魏志倭人伝とは別の
漢代の事が書かれた資料を見てないとこれは書けない記述 >>488
>計算するための道里として、行道日数が与えられている
>道里の表現として、日数表記は普通
上記はまやかし。
道里/遠近の表現として、遠近を表す行道日数(遠近日数)による表記は普通 >>549
>共立された王の
>両親、じいちゃんばあちゃんの墓が
>巨大である必要はないな
せめて2世紀前半の其の国の男王の墓を言おうか。
単独墓説だね?
なら言えるだろ。
あと共立というけど2世紀前半からの王権が弱体化し、
女王を擁立することで、対してる側が納得したというだけ。
けっして共立ではない。 >>544
>里数は不適当なんだから「里数は一切出てこない」のは当然だ。
>その代わり、遠い近いを表す行道日数(遠近日数)を用いているわけだ。
そして、その「行道日数」が『道里』なんだよww
「労働日数」と言いつつ「遠近日数」とはこれ如何に?ww
道里と道理遠近が別というのは、戸数と戸数多少とセットであることから
通らない詭弁だってのは、既に指摘してあるし反論できてないからなww >>551
>安芸と言っても広島県三次市、出雲文化圏。
>出雲族の特徴であろう。
方々にいる時点で、2世紀の男王の墓じゃないじゃんww
倭国の王ではなく、そこらの地方首長だ
特段の貴人でもないなw >>542
九州説も左側スロープ君も、自説に都合の悪いことは
いつも「見ない、聞こえない、認めない」ww
議論する気がないなら、自分の巣へ帰って好きなだけ戯言を書いてればいいんだよww >>548
>>まぁ年輪年代では布留0古相が卑弥呼時代にならないからね。
>その根拠は出せないんだろ?
>きみはもう論破されている
年輪年代で布留0古相が卑弥呼時代になるというならその根拠をお前が言え。
ならない根拠を示せないなどとの卑怯な悪魔の証明はやめろ。
論破されてるのはお前だ、ドアホ。 >>554
>けっして共立ではない。
根拠のない倭人伝否定は自滅するよ >>561
>年輪年代で布留0古相が卑弥呼時代になるというなら
誰が言った?
きみ、発狂したの? >>545
>そして、否定されるというなら、記紀の神武紀のあたりの記事は信用できないとなるだけで
年代が違うだけで、あらすじは問題ない。
神武東征が倭国大乱の時代の話なんだよ。 >>543
>畿内説はいつものこと。
左側スロープ君は自称畿内説であって、畿内説で左側スロープ君を認めてる人はいないよww
ザラゴキとキウスと邪馬台国の会のステイクホルダーさんと連続句読点が九州説の代表なのは
衆目の一致するところだと思うけれど?wwwww >>558
>方々にいる時点で、2世紀の男王の墓じゃないじゃんww
いや男王は一人だよ。
四隅突出墳墓などはすでに山陰にあるが、□は〇より劣位。
〇は葛城にしかない、その場所が高天原(御所市高天) >>547
>纏向には王の親族の墓らしきものも見当たらないわけだが。
>卑弥呼の両親、じいちゃんばあちゃんの墓を説明してみろwww
その通り。
纒向は無理筋。 >>547
>王は2世紀前半からトヨの3世紀後半までで数人かな。
それが方々にいるんだろ? 倭国の王じゃないじゃんww >>552
>漢に倭奴国が建武中元二年に朝貢したとの記述が出てくる
>編者の范曄が魏志倭人伝とは別の
>漢代の事が書かれた資料を見てないとこれは書けない記述
同意。
後漢書と魏志倭人伝には共通の原史料がある。 >>551
>高天原(御所市高天)の150mの奴婢が埋葬されている集団墓。
>このようなものだと推測している。
王の墓に、殉葬者をごっちゃにして埋葬する葬祭文化は倭国・日本にはないぞww >>554
>あと共立というけど2世紀前半からの王権が弱体化し、
ちょうどその頃に弱体化した王権があるよね。
伊都国の甕棺墓だよ。
それにかわり倭国の女王になったのが伊都国の平原遺跡の卑弥呼だを >>565
>左側スロープ君は自称畿内説であって、畿内説で左側スロープ君を認めてる人はいないよww
和邇氏系図から卑弥呼とトヨを見つけ出し、墓まで特定できたのは俺だけ、それで十分。
おまえら普通の畿内説はそれができていない、つまり卑弥呼が誰なのか説明できていない。 >>556
主観と客観の区別がつかないなら学問の場から去るがいい。
学歴詐称詐欺。 >>558
>倭国の王ではなく、そこらの地方首長だ
倭国の中心を論議しているときに、その決めつけは意味がない。
まあ、キナイコシはいつものことだが。 >>557
>道里と道理遠近が別というのは、戸数と戸数多少とセットであることから
>通らない詭弁だってのは、既に指摘してあるし反論できてないからなww
道里は里の数だから、里の数の多少なら戸数の多少とセットで良いが、
遠近と多少がセットというのは釣り合わない。それを強引にセットというのこそ詭弁 キナイコシも左側スロープ君も、自説に都合の悪いことは
いつも「見ない、信じない、認めない」ww >>561
>年輪年代で布留0古相が卑弥呼時代になるというならその根拠をお前が言え。
>ならない根拠を示せないなどとの卑怯な悪魔の証明はやめろ。
>論破されてるのはお前だ、ドアホ。
いいぞ、よく言った。 >>553
>道里/遠近の表現として、遠近を表す行道日数(遠近日数)による表記は普通
その遠近が「道里」の遠近なんだから、小学生すら騙せない詭弁以下の戯言
道里の遠近を示す行道日数は、道里そのものを数値化したものであり、
その数値の大小で遠近を測る訳だ
つまり、行道日数(遠近日数)による表記は普通の「道里」の表記
戸数多少と道里遠近がセット、「戸数の多少」「道里の遠近」以外の読み方は
バカの所業 >>562
>根拠のない倭人伝否定は自滅するよ
キナイコシ君、それはブーメランではないかな? >>570
ごっちゃにしていない、分けている。
土蜘蛛と王族は王墓近くの水源をめぐる争いであったのだろう。
伝承では土蜘蛛窟を石でふさいだともいわれている。
どちらにしても4世紀前半の崇神以前、
大量の奴婢を埋葬した痕跡は葛城にしかない。
九州にも纏向にもそんなものはない。
邪馬台国の王都とは葛城だ。 >>568
>それが方々にいるんだろ? 倭国の王じゃないじゃんww
ではやはり後漢書に従い、倭王がいたのは博多湾沿岸でいいね? >>580
>大量の奴婢を埋葬した痕跡は葛城にしかない。
>九州にも纏向にもそんなものはない。
祇園山? >>564
>神武東征が倭国大乱の時代の話なんだよ。
これが、ただの憶測ww
桓霊之間というのも、あてにならない >>563
じゃならないでいいね、箸墓=卑弥呼墓の根拠はないでいいね。 誰か、日本語の不自由な考古学者に教えてやれよ。
@「〜である」
・ほぼ確実(virtually certain、99−100%)
・可能性が極めて高い(extremely likely、95−100%)
・可能性が非常に高い(very likely、90−100%)
A「〜と考えるのが妥当である、〜であると考えられる」
・可能性が高い(likely、66−100%)
・どちらかといえば(more likely than not、50−100%)
B「〜とも考えられる、〜かもしれない」
・どちらも同程度(about as likely as not、33−66%)
・可能性が低い(unlikely、0−33%)
C「〜とは考えにくい、〜可能性が無いとは言えない」
・可能性が非常に低い(very unlikely、0−10%)
・可能性が極めて低い(extremely unlikely、0−5%)
・ほぼあり得ない(exceptionally unlikely、0−1%) >>583
>桓霊之間というのも、あてにならない
根拠のない倭人伝否定は自滅するよ >>566
>四隅突出墳墓などはすでに山陰にあるが、□は〇より劣位。
西谷墳墓群で最大のものはおよそ60×50メートル
西桂見墳丘墓は長辺65メートル以上ある
>〇は葛城にしかない、その場所が高天原(御所市高天)
葛城には墳丘墓はないよ
他人に見えないものが見える左側スロープ君があると言い張っているだけww >>578
>道里の遠近を示す行道日数は、道里そのものを数値化したものであり、
>その数値の大小で遠近を測る訳だ
道里そのものを数値化したものは文字通り里数であり、
里数で測る遠近とは、まさに里数の多少のこと。
九章算術で言っている遠近とは、遠い過去/近い日々のように時間的な開きを云う。
この「遠い過去、近い日々」のような使い方ができないんだねえ、、、 >>573
根拠の出せないあんたが主観的なんだよ
九州説はまたオウンゴール自滅 >>589
>西谷墳墓群で最大のものはおよそ60×50メートル
>西桂見墳丘墓は長辺65メートル以上ある
だから何?
>葛城には墳丘墓はないよ
棺を入るるに足る塚だからね、墳ではないのだよ♪ >>579
根拠言えない病の九州説が自滅するだけだ 距離の縮尺に合わせりゃ祇園山ぐらいでちょうど良い大きさだ。 塚は墳ではない。
三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。
その径百余歩(150m)のリネージ、クランの集団墓の一角に卑弥呼の塚が作られたのであろう。
場所は日本神話、歴史の原点である高天原(奈良県御所市高天)だ。
日本最古の神社の境内に、魏志倭人伝の記述通り、奴婢(土蜘蛛)とともに今もある。 >>590
根拠
が出せない九州説は、いつも妄想で終わり 桃の種やカエルの骨が畿内説の根拠なんでしょ?
畿内説なんて信じるのは、頭がおかしい証拠。 >>597
武器を他人に渡して撲殺されたがる九州説はマゾ >>599
現時点における畿内説の根拠は、
・カジリ痕の無い桃の種
・カジリ痕のある蛙の骨
この2点なw カエルの骨も信心からというからな(言わない?)
畿内説とやらの宗教だか信念だか道徳だかを信じる人たちには何か意味があるのだろう
自分には理解できない
少なくとも魏志倭人伝に書かれていないことをいくら持ってこられても、邪馬台国と関係ないよね?で終わってしまう。 >>423
そうではなくて
>>1説は査読にも引っかからないレベルなのに
半可通を気取ってるだけ
そもそも日本語がいろいろおかしい Revisionに引っかからないとrejectだという意味では? どの辞書にも、道里という中国語の単語が無い以上、道里は、「道と里」か「道の里」なのだったな。。。
そして、もし、道里という中国語の単語が誰かによって定義されていても、それは、「道と里」か「道の里」なのだったな。。。
そして、邪馬台国九州学の立場の人物の、道里という2字が、「道と里」だという意見もあり、それを否定しきれないことも分かっているのだったな。
だから、邪馬台国九州学の立場の人物の、道里という2字が、「道と里」だという意見で奥山氏を論破することは邪魔しません。
僕達は、道里という2字が表す物事は、道の里だと考えて、意見を発表します。
里は長さの単位です。だから道の里は「道のり」で良いのです。。。拡大解釈して、道が結ぶ2点間の直線距離でも良いです。。
テンプレートが引用した九章算術の箇所について、意見を発表します。
道の里は、長さのことであり、長さは早さと時間の積なので、道の里は、行道日数だけでは示せませんが、各県の道のりそのものを求めるのではなく、各県同士の遠近の比率を求めるのが中間目的なので、目安として行道日数で計算しなさいという意味の事が書かれています。
頭の悪い奥山氏はそのことを、理解できないので、道の里=行道日数だと言い張っていますが、勿論、完全に間違っています。。。
つまり、FAQ78は、完全に物笑いにされ続けるでしょう。。。
魏志倭人伝について、長さは早さと時間の積なので、道の里は、水行や陸行の宿泊日数だけでは、絶対示せません。
だからもし、頭の悪い奥山氏はそのことを、理解できずに、道の里=水行や陸行の宿泊日数、、だと言い張っているのなら、勿論、完全に間違っています。。。
ただし、道の里を水行や陸行の宿泊日数で、略載することになる可能性はあると思います。。。
その場合でも、僕達の邪馬台国熊本説では、投馬国は豊国なので、痛くも痒くもありません。
むしろ、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の頭の悪い奥山氏が、東に向かっていても帯方郡から遠ざかることが南なのだという、朝鮮を中心に北半球が回っているというトンデモナイ仮説でなければ、
破綻した邪馬台国畿内説にとって女王国以北を説明できなくなることを、笑います。。。 >>610
他人の日本語のおかしさを指摘したくて指摘できず
自分の日本語のおかしさを指摘されてしまった>>606の悲惨 奥山氏は、頭が悪すぎるので、スレッドが、笑いリラックスするための良い物事になっていますね。。 巻向集落には、最大、100人しか住んでいなかったことが判明したので、巻向集落は都ではないのですね。。 なんか、「道里=里数+日数」で頑張っているのが一人いるな。
道里は、里数=日数で良いというのも確かに理屈だが、
そうすると原文において、
狗邪韓国〜末盧国〜南至邪馬壹国女王之所都の間の国々は、全て戸数道里(里数/日数)が記載されていることが自明である。
因ってその次の「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、前出自明事項と完全に重複する。
従って、この文は全くの死文となり、削除されても全く支障なく読める。
正史・三国志の文章としてみるとき、これは極めて不可解と言わざるを得ない。
至末盧国、渡一海千余里、四千餘戸。
到伊都国、東南陸行五百里、千余戸。
至奴国、東南百里、二万余戸。
至不弥国、東行百里、千余家。
南至投馬国、水行二十日、五万余戸。
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月、七万余戸。
↓
自女王国以北、其戸数道里可得略載、
↓
其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、 >>590
>道里そのものを数値化したものは文字通り里数であり、
>里数で測る遠近とは、まさに里数の多少のこと。
そう言い張るなら、里数で測る遠近は、里数遠近だろ?
ここで出てくるのは「道里」遠近であり、そこに里数が書かれず
日数だけがあるのだから、日数が道里を示す数値そのもので、
その数値を比べることで遠近を見る訳だ
いくら書いても、いくら論点そらしをしようとしても無駄だよw >>614
僕は、巻向集落が、何だったのかを、夏休みの自由研究にしている小学生です。
僕は巻向集落は、墓場と牧場だったと思いました。 FAQ78のことは、奥山氏以外の者が、邪馬台国や投馬国がどこかということとは別に、九章算術の行道日数が道里を表してはいないと認識するのだから、
奥山氏がどんなに力説しても、奥山氏の言語脳が、他の者の言語脳とは違っているということがバレてしまうだけの結果になるな。。。 >>610
>Revisionに引っかからないとrejectだという意味では?
Revisionに引っかからないなら、acceptedだな 奥山氏は、理系の大学院で漢字を習ったという発表をしていたな。。。 >>615
>従って、この文は全くの死文となり、削除されても全く支障なく読める。
なんで?
「其余」について記載できないことのアポロジーの前段として意味あるのに >>616
>その数値(日数)を比べることで遠近を見る訳だ
おいおい、これは↑オレが常づね言ってるセリフだ。ま、だいぶん感化されてきたようだなww 奥山氏は、理系の大学院で里と日という字を習う日に、欠席した可能性が高いな。。。 >>615
>因ってその次の「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、前出自明事項と完全に重複する。
>従って、この文は全くの死文となり、削除されても全く支障なく読める。
文意、文脈が読み取れないという自白だなww
「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は
その次の文「其餘旁國遠絕、不可得詳」とセットなんだよ
「其戸数道里可得略載」がなかったら、『何を』「不可得詳」なのか分からないだろ?
「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は省略不可だよ
そして、「自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。」が、倭国の記述の
分かれ目になっていて、これより前に書かれているのが「女王国より以北の国」であり、
当然に「投馬国は女王国より以北の国」だ >>621
>「其余」について記載できないことのアポロジーの前段として意味あるのに
「其余」の其が、前出の女王国以北の国々を示すことは明白である。
因って「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、必要ない。又、なくても誤読することもない。、、 >>622
>おいおい、これは↑オレが常づね言ってるセリフだ。ま、だいぶん感化されてきたようだなww
感化されたんじゃなくて、>>622の言葉をそのまま使っても、意味は変わらないという表現だぞw
遠近はどこまでいっても「道里の遠近」であり、遠近と道里が別概念というのはありえない
そこが、ごまかそうとしてごまかせていないところだ 奥山氏は、やはり、言語脳を破損しているな、、、
629日本@名無史さん2019/07/29(月) 13:53:54.79
>>622
>おいおい、これは↑オレが常づね言ってるセリフだ。ま、だいぶん感化されてきたようだなww
感化されたんじゃなくて、>>622の言葉をそのまま使っても、意味は変わらないという表現だぞw
遠近はどこまでいっても「道里の遠近」であり、遠近と道里が別概念というのはありえない 臧旻さんが後漢朝に報告した西域各国の
「其國大小,道里近遠,人數多少,風俗燥濕」とかの
「道里遠近」は比率なんかじゃないよ
実数だよ >>630
言語脳が健康な者は、皆、遠近と道里が別概念だと認識するのだったね。。。 つまり「其余」の其が、前出女王国以北の国々を示すことは明白であるにもかかわらず、
敢えて「自女王国以北、其戸数道里可得略載」が挿入されているのは、ここに大きな意味が隠されているからであろう。
つまり三国志において、道里とは「道の里の数」のことであり、
里数が記載されていない国(国々)があるならば、それは女王国以北ではありませんよ・・、というサインなのである。 ソクラテスはアポロギアを失敗したのだろうか、、、
それとも、成功したのだろうか、、、 >>496
いや全くその通り。
完全に同意します。 >>634
二つ目の「つまり」の前と後で文脈が繋がってませんが? >>638
まあ、邪馬台国とは関係ない野人がでかい墓を作っていた人たちがいたというだけだね。 >>639
そうだな、くどいかなー、と思って原稿をショートカットしたのがよくなかったな。
「則ち、三国志・東夷倭人伝において、道里とは・・・」ならどうかな。 奥山氏は、頭が悪すぎるので、巨大なピラミッドがあれば、世界の王者が、エジプトにいたことにしてしまう可能性が高いな。。。
496日本@名無史さん2019/07/29(月) 11:10:55.32
>>458
>大和盆地をザッと見て150mの箸墓円墳部に引っかかっただけ
いいえ、その前から列島最大の墳丘墓が纏向古墳群で造営され続けているんですよ
列島最大の造墓が可能なところに列島最大の権力・国力がある=王権の所在地と
考えるのが当然のこと
大作冢、徑百餘步と書かれた卑弥呼の墓は、径百歩が不正確だとしても
纏向古墳群に求めざるを得ない
単純なことだろ?
これを否定するためには、王権の所在地以外に墓所を作る理由や、
王より大きな造墓が可能な、王より大きな権力の存在を説明しないといけない
九州説は、ここで完全に破綻するんだよ >>538
「重車日行五十里,空車日行七十里」
の解釈を間違えている
空車とは荷を下ろして、車を押して帰ることであり
一日60里はなんなのかわからない
いずれにせよ、算術故 仮定の数値
また続いて「 載輸之間各一日」とあり
これは荷物の積み込み運び入れにかかるのが各々1日
つまり 日数は労働日数 ✖道里表記は日数でも可能・・計算式は出ない 九州に前方後円墳が出現したのは、魏志倭人伝時代の前だろうか、、、
それとも、魏志倭人伝時代が終わった後なのだろうか、、、
496日本@名無史さん2019/07/29(月) 11:10:55.32
>>458
>大和盆地をザッと見て150mの箸墓円墳部に引っかかっただけ
いいえ、その前から列島最大の墳丘墓が纏向古墳群で造営され続けているんですよ
列島最大の造墓が可能なところに列島最大の権力・国力がある=王権の所在地と
考えるのが当然のこと
大作冢、徑百餘步と書かれた卑弥呼の墓は、径百歩が不正確だとしても
纏向古墳群に求めざるを得ない
単純なことだろ?
これを否定するためには、王権の所在地以外に墓所を作る理由や、
王より大きな造墓が可能な、王より大きな権力の存在を説明しないといけない
九州説は、ここで完全に破綻するんだよ 奥山氏は、どのような話題でも、必ず論破されるな、、、 >>641
そもそも「自女王国以北、其戸数道里可得略載」が無かったら、なにが「不可得詳」なのか不明のわけわからん文になる >>646
奥山氏は、論破されるために、生まれてきたのではないのかな、、、 >>538
「重車日行五十里,空車日行七十里」
は速度である
しかしFAQ78に用いた例題では速度は記述されていないし
計算に用いない
基本的に 距離=日数×1日当たりの速度である
賦役の計算 >>648
不可得「詳」、
(後出の国名以外の)詳しいことはわからん 奥山氏は、日本語の間違った使い方しか、学んでいないので、身近な人との意思疎通も困難なのでは、ないのかな。。。 >>650
そして「道里」を日数でカウントする実例だ >>625
知ったかぶりの九章算術でなく
そのようにFAQ78で畿内説の主張を書けばよかったのにね >>652
>(後出の国名以外の)詳しいことはわからん
わからん理由は「遠絶」だから
しかし奴国も投馬国も遠絶に変わりない
それが戸数や道里、官名まで判っているのは
女王国に行く道すがら通過した国々だからだ
それらは女王国以北にある >>656
九章算術でより明快に解るだろう
知性があるならだが 僕達の、頭の良い中学生の方の孫娘が、魏志倭人伝を読んだときの発言を、そのまま、発表します。。
僕達の、頭の良い中学生の方の孫娘が、魏志倭人伝を読んで、卑弥呼が毒殺されたと考えたことを、以前、発表しましたが、それとは、別の意見です。。
邪馬台国は、女王の都だが、女王国というのは奴国を指しているのではないのかな、、、
都というのは、卑弥呼を女王に推薦した卑弥呼の親戚の国ではないのかな、、、 まあアレだ
道里が日数表記できるという事実は
九州説信者が発狂するくらい
クリティカルな痛手だというわけさ >>631
遠近自体が比較
また九章算術は算術書
大阪産業大学の大川氏が述べたとおりである
「九章算術書では計算には支障が無いが、
不適切な漢文も用いられてるが、算術書ゆえ仕方がない」 奥山氏は、頭が悪すぎるので、投馬国が九州の一番北にあっても、邪馬台国九州学にとっては、痛くも痒くもないことが判らないのではないのかな、、、
660 名前:日本@名無史さん 2019/07/29(月) 15:04:09.72
まあアレだ
道里が日数表記できるという事実は
九州説信者が発狂するくらい
クリティカルな痛手だというわけさ >>661
>遠近自体が比較
はーい、それ根拠ナシ
ってかもう>>631で論破されてる
九州説チョロい
チョロすぎる 邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、どのような話題でも、必ず完全に論破されるな、、、 >>662
出てくるから、何?
論理的な話が出来ないのかな? >>665
邪馬台国畿内説を宣伝する、5ちゃんねるのさくらの奥山氏は、どのような話題でも、必ず完全に論破されるで、討論を諦め、最後には、いつも、嘘しか言わなくなるのだったな、、、
664日本@名無史さん2019/07/29(月) 15:16:30.34
>>661
>遠近自体が比較
はーい、それ根拠ナシ
ってかもう>>631で論破されてる
九州説チョロい
チョロすぎる 奥山氏は、頭が悪すぎるので、距離とは速度と時間の積だという、小学校の授業を理解できず、
距離とは速度と時間の積だという当たり前のことを前提にした説明も、理解していないのだな、、、
666日本@名無史さん2019/07/29(月) 15:17:35.21
>>662
出てくるから、何?
論理的な話が出来ないのかな? >>665
邪馬台国畿内説を宣伝する、5ちゃんねるのさくらの奥山氏は、どのような話題でも、必ず完全に論破されるで、討論を諦め、最後には、いつも、嘘しか言わなくなるのだったな、、、
668日本@名無史さん2019/07/29(月) 15:25:43.21
九州説論破されてますね >>670
奥山氏は、邪馬台国畿内説を宣伝する、5ちゃんねるのさくらではなく、小学生の時から引きこもってしまったBBAの可能性もあるのだったな、、、 僕達の、頭の良い中学生の方の孫娘が、魏志倭人伝を読んだときの発言を、そのまま、発表します。。
僕達の、頭の良い中学生の方の孫娘が、魏志倭人伝を読んで、卑弥呼が毒殺されたと考えたことを、以前、発表しましたが、それとは、別の意見です。。
邪馬台国は、女王の都だが、女王国というのは奴国を指しているのではないのかな、、、
都というのは、卑弥呼を女王に推薦した卑弥呼の親戚の国ではないのかな、、、 >>1
奥山 9章算術はそんなに難しく無い算術だから、
頭を冷やしてじっくり読み直して下さい >>657
それは下手な文章書きのを読むときの読み方だね
其の余というのは、邪馬台国の記述までに登場した国々以外(其の余)の傍国は遠絶にして・・・と読む。
つまり、陳寿の文章の流れは、時の流れと一致している。
遠絶と書かれた国々は「遠絶」の句の後ろに登場し、遠絶の前に飛び戻って存在することはない。 >>644
追加
速度の記述されている、例題は距離も記述されており、
労働日数を=距離÷速度+荷の積み下ろしにかかる日数
よって、日数=距離と解釈不能 >>677
投馬国は女王国以北と読むことには変わらんけどね >>678
なんで「不能」なのか理由が説明できないんだね?
だから九州説はダメなんだ >>678
均輸の例題4だな
距離はあらかじめ設定されてるな
またまた奥山、恥をかいたな >>680
距離を設定し、速度から労働日数を割り出しているから。 >>735
国粋皇国史観の人種差別戦争狂カルトの、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説。 >>680
時間=距離÷速度
距離=時間×速度
速度=距離÷時間
だから >>682
>>684
だからそれ、例題4だろ
例題1には車程行は出て来ないんだぞ
論理がおかしいだろ >>681
恥をかいたのはお前だけだよ
皆はそんな混同をしてない >>681
畿内説側はずっと前から換算率の存在を指摘しているんだよ
ずっと認めずに恥をかき続けてきたのは九州説だ 【九州邪馬台国説の真実】
魏志倭人伝に書かれていたヤマ大国の人たちは女性を立てて女性に優しい男性が暮らしていたと書かれている。
これは日の巫女が女王になっていたことからも解る。
しかし九州男児像はこれと全く異なる。
九州男児は女は3歩後ろを歩け、女は殴らなければ3日で狐になるとばかりにDVが多く、魏志倭人伝に書かれていた男児像と全く異なるのだ。
これに関し
例えば日本昔話で登場する鬼は先住民族の縄文系日本人を叩き潰した話を、勝った官軍が悪役にして安定に繋げた。
例えば明治維新で勝った明治政府は江戸時代の士農工商など本当は無かった差別を流したり、名家を部落落ちさせ悪役にして反撃を防いだり、国家神道に邪魔な旧神道の神社を燃やしたり廃城令などで再起不能にした。
例えば中東ではメッカ侵攻の時に多神教を悪魔崇拝として叩き潰した話を、勝ったムハンマド軍がコーランにしたためた。
例えば西欧ではギリシャ神話を信仰するヨーロッパ原住民を魔女狩りと称して、勝ったキリスト教会が皆殺しにした。
つまり、勝った者は負けた者を徹底的に潰しておかなければ安定はない。
ここで思い出すべきは九州説や偽の金印が出来たのが江戸末期という点である。
江戸末期に突如として浮上してきたヤマ大国九州説。
これは、歴史を塗り替えるために九州に渡来してきた者が流布した??を公式にしたと考えるのが自然。
そのために明治維新を起こし、廃仏毀釈で関係のある遺跡を壊し、何万社もの神社を日本各地で取り壊し(三重県だけで4万社)
廃城令で渡来系九州人に不都合な人たちの城を潰し、廃藩置県で各地の地名を渡来系九州人に都合の良いように改名したのだ。
渡来系九州人が歴史を塗り替えるために明治維新を起こしたのは大久保利通が高麗町出身と言う点からも理解できる。 九州説はまだ道里でたどたどしい言い逃れを図ってるのかまーここで負けたら九州説マジ窮地だもんな >>665
邪馬台国畿内説を宣伝する、5ちゃんねるのさくらの奥山氏は、どのような話題でも、必ず完全に論破されるで、討論を諦め、最後には、いつも、嘘しか言わなくなるのだったな、、、
687日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:11:08.64
>>681
畿内説側はずっと前から換算率の存在を指摘しているんだよ
ずっと認めずに恥をかき続けてきたのは九州説だ 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 >>740
>日向峠を越えたあたりはどうやっても奴国の中心にはならない
奴国の中心は比恵那珂遺跡群の辺り<
伊都国は、臨津搜露が出来る事が条件であり、前原〜糸島水道付近は外せない。
だから、その付近から「東南百里」の奴國は、日向峠西麓が入り口。
また奴國は、途中移動説明がないから、伊都国からの側副傍線国。
だから、伊都国の次は、「東行百里」の不彌國になり、
糸島水道の東端部の東千里は、姫浜付近が入り口で、出発地はおそらく西新町。
その南に移動距離無しに邪馬壹國も入り口が有る事になるので、
7万戸の邪馬壹國は、福岡平野中央部に入り口が有る事になり、
それから、筑紫平野及びその周辺丘陵地が邪馬壹國の範囲になる。
>そして中国の史書の地誌記事では国の中心同士の二点間距離で示すことが標準<
中国史書では、城郭都市では城門が出発地点であり、到着地点であり、
中央の王の宮殿や居地ではない。
高句麗などでの国間距離説明などでも「居住外縁部」が起点であり、終点である説明。
倭人伝でも、ほぼ同じ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、頭が悪すぎるので、投馬国が九州の一番北にあっても、邪馬台国九州学にとっては、痛くも痒くもないことが判らない振りをしているのではないのかな、、、
689日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:18:11.71
九州説はまだ道里でたどたどしい言い逃れを図ってるのかまーここで負けたら九州説マジ窮地だもんな >>634
どこまで頭が悪いんだ?
「自女王國以北、其戶數道里可得略載。」
「其餘旁國遠絕、不可得詳。」
二番目の文の「詳らかに得るべからず」の目的語「何を」得る(知る)ことができないのか
一つ目の文がなかったら分からないだろ?
というか、句読点が打ってあるから二文に見えるが、これ、全部で一つの表現だからなww
>>634のダメさ加減は、センター試験の国語の4問目の漢文で全滅するレベルだぞww
つまり高校で習うレベルの知識も皆無だ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、九州の地理のことを知らないのだったな、、、 >>643
>世界の王者が、エジプトにいたことにしてしまう可能性が高いな
その話は以前に既にした
時代と文化が違うところで比較してどうするww
そしてピラミッドに時代のエジプトの王都が、ピラミッドのすぐそばだったと
指摘されて爆散してただろ?ww 奥山氏は、どのようなセンターに、入院したのだろうか、、、 まったくだ
「可得略載」
「不可得詳」
の対構造が理解できてないから
「以北」と「其餘」の対応関係も理解できない
頭が悪いというレベルをとうに超えている >>644
>「重車日行五十里,空車日行七十里」
>の解釈を間違えている
間違えてないよww
解釈は既に>>319に書いてある
九章算術の均輸の4に
重車日行五十里,空車日行七十里
荷を積んだ車は日に50里を行く、空の車は日に70里を行く
とあるね
荷運びの時はこれが標準なのだろう
ただ、問題にわざわざ書いてあるということは、公定尺のような決まったものではなく
これくらいなら不自然ではないという程度のことだとも分かる
要するに、荷物を積んで行く往路と降ろして帰る復路では
一日に進む距離が異なるってことだ
その日数を換算するときには、行きと帰りの平均の一日60里というのが標準 やはり、奥山氏は頭が悪すぎるな、、、
696日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:27:08.41
>>643
>世界の王者が、エジプトにいたことにしてしまう可能性が高いな
その話は以前に既にした
時代と文化が違うところで比較してどうするww
そしてピラミッドに時代のエジプトの王都が、ピラミッドのすぐそばだったと
指摘されて爆散してただろ?ww >>700
奥山氏は頭が悪すぎるね、、、
696日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:27:08.41
>>643
>世界の王者が、エジプトにいたことにしてしまう可能性が高いな
その話は以前に既にした
時代と文化が違うところで比較してどうするww
そしてピラミッドに時代のエジプトの王都が、ピラミッドのすぐそばだったと
指摘されて爆散してただろ?ww >>644
>つまり 日数は労働日数 ✖道里表記は日数でも可能・・計算式は出ない
結局、九章算術も読まずに適当な想像でインチキばかり言っているのがこれで明白になったな
均輸の1では荷降ろしの日数は含まれていないから、労働日数はそのまま移動日だ
つまり日数がそのまま道里の表現になるww
道里と遠近が別だとか言い張っているおバカさんたちは、
遠近が「何」の遠近だと思ってるんだ?
バカ以外の何者でもないだろ?ww 連続句点の人生は頭が悪いと言われ続けだったんだろうな
トラウマになってらようだ >>701
僕は、小学生ですが、奥山氏が頭が悪すぎるという意見に、賛成します。
696日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:27:08.41
>>643
>世界の王者が、エジプトにいたことにしてしまう可能性が高いな
その話は以前に既にした
時代と文化が違うところで比較してどうするww
そしてピラミッドに時代のエジプトの王都が、ピラミッドのすぐそばだったと
指摘されて爆散してただろ?ww つまり、魏志倭人伝時代に前方後円墳がない地域は、万が一、巻向集落が魏志倭人伝時代に前方後円墳を出現させていても、巻向集落とは、別の国だったのだな、、
696日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:27:08.41
>>643
>世界の王者が、エジプトにいたことにしてしまう可能性が高いな
その話は以前に既にした
時代と文化が違うところで比較してどうするww
そしてピラミッドに時代のエジプトの王都が、ピラミッドのすぐそばだったと
指摘されて爆散してただろ?ww >>647
>時代外れの、期待外れ墓
それが、桃核の年代測定で確実に卑弥呼の遣使の時代より前から、
列島最大の墳丘墓が作られ始めていることが確定してるんだよなww
残念でした
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg >>762
桃の種やカエルの骨を「卑弥呼の祭祀」にして負けた、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説。 >>705
奥山氏が、また、完全に論破されましたね、、、 >>650
>しかしFAQ78に用いた例題では速度は記述されていないし
>計算に用いない
つまり日数で書かれた数字そのもので道里遠近を計算するんだよ
つまり、道里の表現が日数だけでよいということ
九章算術均輸の1問目では、道里の表現が日数だけで示されていることを
確認してくれてありがとう!ww 邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、どのような話題でも、必ず完全に論破されるな、、、 >>764
>九州説は桃の種やカエルの骨以下の存在 <
卑弥呼は「事鬼道、能惑衆」であり、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」であるから、
「桃の種やカエルの骨」以上の存在。 >>652
>(後出の国名以外の)詳しいことはわからん
つまり、戸数道里略載される女王国より以北の国とは異なるってことだよなww
だから、投馬国は女王国より以北の国であると確認できた訳だw >>630
言語脳が健康な者は、皆、遠近と道里が別概念だと認識するのだったね。。。 >>656
>知ったかぶりの九章算術でなく
>そのようにFAQ78で畿内説の主張を書けばよかったのにね
何度も書いてるだろ?
その説明に対して、
「水行二十日は道理じゃないから投馬国は女王国以北にならない」って
言い張るバカがいるんだよ
だから、FAQ78が必要
いまだに言い続けてるだろ?
バカだからww >>713
連句点と薄馬鹿だって概念は別の物だろ
概念はな >>663
>奥山氏は、頭が悪すぎるので、投馬国が九州の一番北にあっても
九州説は有象無象のごっちゃになったものだが、その有象無象の中にも
「投馬国が九州の一番北にある」というのはないんだわwwww
投馬国は女王国以北を気にしている九州説もいるが、その場合、
半島南部を投馬国連合五万戸とかいう更なるトンデモに突き進むことになる
「投馬国は女王国より以北の国」がはっきりするだけで、九州説は壊滅だなw 僕は、小学生ですが、意見を発表します。
人間が辿りつけない場所同士の比較も、遠近と表現しますね。
例えば、、、M81とM82の遠近を研究する、、という文章です。
つまり、道里ではなくても、遠近は使われる言葉だと思います。 奥山氏が理由を言わずに言い張るだけになってきたな、、、
716日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:45:44.11
>>663
>奥山氏は、頭が悪すぎるので、投馬国が九州の一番北にあっても
九州説は有象無象のごっちゃになったものだが、その有象無象の中にも
「投馬国が九州の一番北にある」というのはないんだわwwww >>769
>道が山なりになったら距離は伸びるぞ つまり直線で200mならそれ以上
魏使は1里400mの感覚で記録してたのかも知れんなあ <
魏使らは簡易三角測量や目測が出来、記里車や歩測も出来るから、確認は十分出来、
2倍も間違える筈がない。
>まあ結局魏志倭人伝の距離は計測したものじゃなくて
倭まで1万里 沖縄辺りの女王国まで1万2千里の、辻褄合わせなんだけど<
まあ結局は、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
魏使らの記録を否定曲解する、
口先き騙しの・・・・詐欺師だけど。 >>717
あなたは、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏より、若いですが、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏より、何倍も賢いですね。。。 >>677
>遠絶と書かれた国々は「遠絶」の句の後ろに登場し、遠絶の前に飛び戻って存在することはない。
邪馬台国の会のステイクホルダーさんは、とことん漢文も読めないし、文意も取れないおバカさんだねww
「遠絶と書かれた国々」なんてないよwwwwwww
遠絶は、不可得詳の理由であって、その余の傍国を限定するものではない
言葉を補って分かりやすくすると
その余の傍国については、倭国までが遠絶であるため、戸数や行き方などの情報も
詳らかに得ることができず略載すらできない >>678
>よって、日数=距離と解釈不能
日数は道里だよ?
まだ、そんな簡単なことが理解できないの?
バカなの?
小学生以下なの?
九州説なの?wwwww >>770
>桃の種やカエルの骨も畿内説の傍証に役立っているというのに<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
卑弥呼は「事鬼道、能惑衆」であり、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」であるから、
「桃の種やカエルの骨」以上の存在。。。 >>772
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の「オウム返され」は、
議論敗者の思考停止の証拠。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、5ちゃんねるのさくらの奥山氏は、頭が悪すぎ、どのような話題でも、必ず完全に論破されるで、討論を諦め、最後には、いつも、悪口や嘘や意味の通じない事しか言わなくなるのだったな、、、
715日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:43:58.75
>>713
連句点と薄馬鹿だって概念は別の物だろ
概念はな
719日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:49:41.34
>>717
脳が、か?
723日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:53:56.44
>>678
>よって、日数=距離と解釈不能
日数は道里だよ?
まだ、そんな簡単なことが理解できないの?
バカなの?
小学生以下なの?
九州説なの?wwwww 奥山氏には、家族や友人や職場の仲間が、一人もいないのだろうか、、、 >>776
「南≠東」などの嘘付き騙しの指摘に、
反論できない大和説者の無駄な抵抗 >>681
>均輸の例題4だな
>距離はあらかじめ設定されてるな
また話をそらしてるなw
日数だけだと距離に換算できない、速度が必要
とか話題そらしをしてるから、
九章算術均輸の中で速度の標準が示されているってことを教えてやったんだが?
日数でも、距離に換算することはできるんだよ
でも、道里遠近の計算には必要ないから、
「道里が日数で書かれたまま」でいいんだけどな
道里が日数で表現できることを何度も確認してくれてご苦労なことだww
>>681は九州説のふりをした畿内説の草なんじゃないか?ww >>727
僕達が討論の相手をしてあげなければ、奥山氏は、孤独の感情が高まり、自殺する可能性があるので、相手をしてあげるしかないな。。。 奥山氏は、どのようなセンターに、入院しているのだろうか、、、 >>703
>連続句点の人生は頭が悪いと言われ続けだったんだろうな
学歴コンプレックスを拗らせすぎてるね
しかも、落ちこぼれたのが小学生時代みたいだな
だから、小学生以下と言われることに耐え切れないらしい
その反動でこんなことを言い出すw
>>717「僕は、小学生ですが、意見を発表します。」 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 >>782
>九州説はまず邪馬台国が九州にあったと本気で思ってるのか聞きたい<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者には、まず、
「邪馬台国」や「畿内」が古代の何時どこに存在したものなのか?、
卑弥呼が大和にいた直接的証拠があるのか?、
という事を聞きたい。
にあったと本気で思ってるのか聞きたい >>705
>つまり、魏志倭人伝時代に前方後円墳がない地域は、万が一、巻向集落が魏志倭人伝時代に前方後円墳を出現させていても、巻向集落とは、別の国だったのだな、、
そして、魏志倭人伝時代に首長墓として那珂八幡古墳という前方後円墳を作って
いる北部九州最大国の奴国は、纏向遺跡の集団と同じ国だということだなww
とても重要なポイントに対する貴重なアシストをありがとうww >>731
奥山氏は、精神の病気を治療するためのセンターに、入院しているのではないのかな。。。 >>713
>言語脳が健康な者は、皆、遠近と道里が別概念だと認識するのだったね。。。
で?っていうww
その道里とは別概念の「遠近」は、『何』の遠近なんだ?
セットになっている戸数多少と整合性の取れる解釈じゃないとダメだよ?www 那珂八幡古墳という前方後円墳に埋まっている土器の一番新しい土器は、なんという土器なのだろうか、、、
そして、その土器は、どこで開発された土器なのだろうか、、、 >>784
>里数は1日60里で日数に換算できるから里数が同じなら日数も同じ
現代の道のり関係ない直線で距離を表すような表記の仕方は存在しようがないし
200里と書かれてたら直線距離関係なしにだいたい歩いて3日とわかる <
三国志における裴松之の注では、陸行は、
車駕で1日300里、健脚者で1日200里と書かれているから、
この男は、また×男。 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏が、やっと、道里と遠近が別の物事を指していたという真実を認めたな、、、
738日本@名無史さん2019/07/29(月) 17:08:36.19
>>713
>言語脳が健康な者は、皆、遠近と道里が別概念だと認識するのだったね。。。
で?っていうww
その道里とは別概念の「遠近」は、『何』の遠近なんだ?
セットになっている戸数多少と整合性の取れる解釈じゃないとダメだよ?www >>741
道里とは別概念の「遠近」を計算するために、道里とは別概念の行道日数を使用したのだったな、、、 >>696
>時代と文化が違うところで比較してどうするww
まさにこれをやっているのが畿内説 >>698
>頭が悪いというレベルをとうに超えている
キナイコシは頭が悪いから学歴を詐称する。
学者の意見に盲従する(フリをしていいようにチェリーピッキングする)。 >>742
奥山氏は言語脳が破損しているので、奥山氏に理解させるのは困難なのではないのかな、、、 >>787
怖いのは・・・
「南→東」や「道里→日数」などの嘘付き騙しのように、
都合の悪い史料を侮辱して否定抹殺改竄しようとする
恐怖政治やるファシストみたいな大和説信者だよ >>740
>三国志における裴松之の注では、陸行は、
>車駕で1日300里、健脚者で1日200里と書かれているから、
デマやめろや >>788
大和説者は、「南→東」などの嘘付き騙しのように、
漢字や中国語を捏造するなよ >>743
>まさにこれをやっているのが畿内説
そういうの「指摘」じゃないって知ってる?
具体的なかみの無いものは妄言というんだよ >>742
>道里とは別概念の「遠近」を計算するために、道里とは別概念の行道日数を使用したのだったな、、、
その理論が成立するためには九章算術均輸1問目の問いは以下のようでなければならないなwwwwwww
原文
欲以「道里遠近」,戶數多少,衰出之。 ×
連続句読点の想定
欲以「遠近」,戶數多少,衰出之。 ○
こういう主張なんだろ?wwwwww
バカすぎw まさに、奥山氏が、いつも、やっていることですね。
750 名前:日本@名無史さん 2019/07/29(月) 17:22:47.15
>>743
>まさにこれをやっているのが畿内説
そういうの「指摘」じゃないって知ってる?
具体的なかみの無いものは妄言というんだよ >>790
>女王国は会稽東治の東沖縄か台湾あたりと書いてあるから・・・<
会稽東治之東は、「沖縄か台湾」にはならないから、
この男は・・・・詐欺師であり、×人間。 >>742
>まさにこれをやっているのが畿内説
北部九州でも最大国の奴国で、真っ先に前方後円墳を受け入れて、
真っ先に庄内式、布留式土器を導入して、自分のところで作って
周りの九州諸国に配ったりしてるねww
どこをどう見たら、別の文化圏になるんだ?
同じ倭国の文化を共有してるぞw
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg >>753
そうだね。。例えば、この意見もそうだね。。。
752日本@名無史さん2019/07/29(月) 17:28:39.73
>>742
>道里とは別概念の「遠近」を計算するために、道里とは別概念の行道日数を使用したのだったな、、、
その理論が成立するためには九章算術均輸1問目の問いは以下のようでなければならないなwwwwwww
原文
欲以「道里遠近」,戶數多少,衰出之。 ×
連続句読点の想定
欲以「遠近」,戶數多少,衰出之。 ○
こういう主張なんだろ?wwwwww
バカすぎw >>754
あいかわらず理由をひとことも言わないのが
九州説 >>792
そもそも、魏志に長里のあった可能性が長ほぼ0%なんだから、
大和説は成り立ちゃしないだろう。 本州なんて弥生時代には属州だろ。
本州という呼称自体がコンプレックスの裏返しなのかもな。 >>795
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者や大和説者は、
全員キチ。 >>685
9章算術においては、
距離=時間×速度は
使用するしないに関わらず周到されている >>744
>キナイコシは頭が悪いから学歴を詐称する。
学歴を詐称していると証明できないだろ?
東京大学大学院で博士号を取得しているよ?ww
そして、頭のよさもIQだけで判断しても天才の領域
大体、語彙の種類や言い回しの選び方、知識や過去の書き込みに対する記憶なんかで
自分とは頭のよさに格段の差があることに気がつかない時点で、もうどうしようもないほど
知的水準に差があるぞww
そもそも5チャンネルでの自称に、意味なんか求めるなよww
頭悪いなww
>>744のこの書きこみは、邪馬台国の会のステイクホルダーさんとは違うのかな? 精神の病気を治療するためのセンターに、入院している、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、奥山氏が奴国の前方後円墳だと考えている古墳が、3世紀前半の古墳であることを、説明しなければ、全く無意味な意見を発表したな、、、
755日本@名無史さん2019/07/29(月) 17:31:07.37
>>742
>まさにこれをやっているのが畿内説
北部九州でも最大国の奴国で、真っ先に前方後円墳を受け入れて、
真っ先に庄内式、布留式土器を導入して、自分のところで作って
周りの九州諸国に配ったりしてるねww
どこをどう見たら、別の文化圏になるんだ?
同じ倭国の文化を共有してるぞw
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg >>751
>キナイコシは学歴コンプレックスがあるのか?
連続句読点のPTSDをえぐってやるなよww
同じ九州説なんだろ?
フレンドリーファイヤもたいがいにしてやれww >>796
魏志では短里がほぼ100%
1万2千里が大和を指す可能性0%
魏志倭人伝と大和説との適合性0%
大和説の考古物証ほぼ0%
大和説の脳みそ0%
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
大和にあった可能性も0% 精神の病気を治療するためのセンターに、入院している、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏は、今までの意見の発表で、頭が悪すぎるという真実が、曝かれたので、
せめてインターネットでは、真実とは別に自由に自己紹介をすれば良いな。。
762日本@名無史さん2019/07/29(月) 17:35:39.54
>>744
>キナイコシは頭が悪いから学歴を詐称する。
学歴を詐称していると証明できないだろ?
東京大学大学院で博士号を取得しているよ?ww
そして、頭のよさもIQだけで判断しても天才の領域
大体、語彙の種類や言い回しの選び方、知識や過去の書き込みに対する記憶なんかで
自分とは頭のよさに格段の差があることに気がつかない時点で、もうどうしようもないほど
知的水準に差があるぞww
そもそも5チャンネルでの自称に、意味なんか求めるなよww
頭悪いなww
>>744のこの書きこみは、邪馬台国の会のステイクホルダーさんとは違うのかな? >>797
>ここって畿内説スレだよな?何で九州説唱えてる奴おるの?日本語のスレタイ読めないの?<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、
・・・・アホ詐欺師である事が確定であり、
黙過し難いから。 >>767
奥山氏が可哀想になってきたのでは、ないのかな、、、
762日本@名無史さん2019/07/29(月) 17:35:39.54
>>744
>キナイコシは頭が悪いから学歴を詐称する。
学歴を詐称していると証明できないだろ?
東京大学大学院で博士号を取得しているよ?ww
そして、頭のよさもIQだけで判断しても天才の領域
大体、語彙の種類や言い回しの選び方、知識や過去の書き込みに対する記憶なんかで
自分とは頭のよさに格段の差があることに気がつかない時点で、もうどうしようもないほど
知的水準に差があるぞww
そもそも5チャンネルでの自称に、意味なんか求めるなよww
頭悪いなww
>>744のこの書きこみは、邪馬台国の会のステイクホルダーさんとは違うのかな? >>729
どうやって、日数だけで距離換算できるの?
水行でもいいが、同じ日数でも、海流の流れに乗るのと、
逆流で行くのは、進め距離は違う >>766
>まだ、言い張る馬鹿
こういう根拠も理由も一言もない、単語レベルの返信しかできなくなったら、
もう意味のある反論はできませんってことだww
道里遠近を使って計算しろとあるのに、行道日数しか書いてない時点で、
道里は里数でなければならないという言い分は破綻している
こんな簡単なことすら認められないでいるから、九州説は迷妄だってことにしかならない
道里と遠近が別とか、むなしい言い訳を言い張るしかないのが九州説だww >>770
>どうやって、日数だけで距離換算できるの?
換算しないよ
日数でそのまま道里略載の表現だから
まあ、荷運びだと1日60里とか、標準はあったようだけれど 日数は日誌の日付から逆算しただけだと、言ったはずだ。
(陳寿談) >>770
>水行でもいいが、同じ日数でも、海流の流れに乗るのと、
>逆流で行くのは、進め距離は違う
水行=沿岸航行では、海流の影響はほとんどないよ
https://i.imgur.com/BO8F1We.jpg >>761
言い張るだけ?
証拠は絶対ださないの?
さすが九州説らしいや 同じ条件で、80歳の老人が徒歩で10日で行く距離と、
若者が10日で行く距離が一緒かどうか、
小学生に聞いてみな >>801
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
常識とかけ離れた新説を次々と発明しないと余命ゼロ日なのが、
大和説 >>803
まあ記録に残ってなくても短里が存在した可能性は99。5%以上になるだろうけど。
また邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
女王國が大和だった可能性は小数点以下。 >>768
九州説は黙っときゃ恥かかなくて済むのに >>807
魏朝が長里を使ってた可能性はほぼ無いでしょ。
仮にあるとしたら秦や漢代に中華から移住した地域かと。 >>809
>比較比例計算だから
大阪産業大学の大川氏が述べた通り
「九章算術の表現の不適切さはあるが算術書ゆえ計算に及ぼさない限り仕方ない」
つまり、ずばり道里と記述してあれば距離となり、日数で換算しなくても良いが
賦役の配分計算故 距離の比較では労働力を算出できない
労働日数がここでは重要 <
成程。 >>776
>同じ条件で、80歳の老人が徒歩で10日で行く距離と、
>若者が10日で行く距離が一緒かどうか、
>小学生に聞いてみ
遠方、遠絶の夷人国に80歳の老人を外交に送ることもあると九州説では考えるんだwwwww
こういう極論を、否定はできないだろ?と悪魔の証明を求めることで、虚勢を張るのが
九州説のやり口だなww >>814
>魏は短里を使わないが、東夷の国々は短里を使っていたことが魏志倭人伝からわかる。<
魏代の一般人には、長里を使っていた人もいたが、
魏朝やその役人たちは、短里を使っていた。 >>654
その例題はあらかじめ距離が設定されており、
速度(1日の車の移動距離)から移動にかかる日数と
荷物の積み下ろしにかかる日数を出し
労働日数を割出し賦役の分配をする計算
つまり労働日数=距離/速度+積み下ろしの日数
FAQ78は移動日数は記述されているのでこの計算はしない 距離は歩いて何日という方法でも表せるという事を認めたら死ぬ病気の九州説 >>785
>どんなときも全く理由を言わないのが
言わないんじゃなくて、言えないんだと思うよ?
だって最初から理由なんてないんだからww >>817
現実に九章算術は「道里」を「行道の日数」で表記する失敗をしてるのに
現実から目をそらす、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説信者 >>791
いや、見てるから
見てるから事実を指摘してる >>825
>帯方から松浦までは、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000
なので、11400だったな。
だから、水行速度は、1140里/日になるね、、、<
7000が「全部水行」ではなく、
韓國部分は陸行だったから、×だね。 九州説にとって100里を10日で歩きました
さて1日何里進んだでしょうという問題は
1mの定規を水10リットルで割りましたさておつりは何円でしょうみたいな
意味不明な問題に見えるのかな
九州説にとって距離と速度と時間は全然別のものだそうだから >>837
>距離と時間は不可分
距離は時間 時間は距離<
距離=時間にはなっていないから、×。 >>840
>魏や、まして蜀の人は海なんて知らんからな 陸路の普通の率を使って試算したってのが
ありそうな線だ <
魏人も蜀人も、一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測などが出来たから、×。 >>841
>つまり道里に所要日数を使っている<
道里≠所要日数であるが、
九章算術のように、たまに、「道里=行道日数」にような曲解改竄をするアホもいた。 >>786
距離=速度×時間の話
邪馬台国論争と関係ない話
蛇足だけど
九州では距離=速度×時間と小学生に教えてるよ
文科省も認めてるよww >>786
距離=速度×時間の話
邪馬台国論争と関係ない話
蛇足だけど
九州では距離=速度×時間と小学生に教えてるよ
文科省も認めてるよww >>786
距離=速度×時間の話
邪馬台国論争と関係ない話
蛇足だけど
九州では距離=速度×時間と小学生に教えてるよ
文科省も認めてるよww >>844
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説に、
まともな理由なし >>848
支離滅裂だな大和説
>距離(里数)の比率を使ったって同じだろ<
結局は、九章算術は、距離(里数)の実数ではなく、
「行道〜日」の日数を使っているだろ?。 ちょと 待った!
畿内説と奥山は関係ないから
奥山 ええ加減にせー >>851
>東京大学大学院の博士号
理系の学位だから文系のことに関してはただの趣味だ<
東大理系大学院なんて言っても、
「南→東」などの嘘付き騙しをしているようでは、類スレ主も、
まあ、唯我独尊のタカ派の国粋皇国史観の人種差別戦争を鼓舞扇動する、
狂人集団であったんだろう、と いう事だな。 俺は九州説だが
説と関係なく九章算術しかり現代数学しかり
距離=日数は考えられない 九章算術は」大学でも習った
ちなみに中国地方の某大学の理学部数学科出身だが 「道里=里数+日数」で頑張っているのが一人二人いるな。
道里は、里数=日数で良いというのも理屈ではあるが、
そうすると原文において、
狗邪韓国〜末盧国〜南至邪馬壹国(女王之所都)の間の国々は、全て戸数道里(里数・日数)が記載されていること自明である。
因ってその次の「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、前出各国の自明事項と完全に重複する。
従って、この文は全くの死文で不要となり、削除されても支障なく読める。
東夷倭人伝の陳寿の文章としてみるとき、「道里=里数+日数」の解釈は不可解と言わざるを得ない。
至末盧国、渡一海千余里、四千餘戸。
到伊都国、東南陸行五百里、千余戸。
至奴国、東南百里、二万余戸。
至不弥国、東行百里、千余家。
南至投馬国、水行二十日、五万余戸。
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月、七万余戸。
↓
自女王国以北、其戸数道里可得略載、
↓
其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、、、 >>855
>九州説でもなく、邪馬台国の会のステイクホルダーでないのなら、九章算術均輸1の
計算問題で、道里が日数で示されていることは自明だと理解できないとおかしいww<
まともな、東大理系大学院の博士号なら、
「南→東」などの史料事実の否定曲解などの嘘付き騙しをしている、
という事がおかしい。
要するに、類スレ主は、おそらく、「東大理系大学院のモグリ学生」であったんだな。
確か、ノーベル賞を貰った人にも、そんなモグリがいたな。 オウ九州説は里数を日数で表せる事を認めるか?
認めなければ九州説は小学生程度にも脳が働いてない幼児か脳の腐ったゾンビ
認めれば投馬国は邪馬台国までの道里にある女王国より北部の国になって九州説死亡 完全に論破された主張でも連呼をやめない
それが九州説クオリティ キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることがあるが、周囲にはバレバレである。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻るというダブスタ、トリスタ上等の卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違っていたことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 九州説は脳の腐ったゾンビ踊りを踊り続けるか
それとも九州北部説の破綻を受け入れるかどっちかなー >>808
九州説の前に、おまいのおつむが死亡宣告。 >>805
>中国地方の某大学の理学部数学科
>九章算術は」大学でも習った
>九章算術しかり現代数学しかり
病的なウソつき
口癖は「しかり」 >>857
>例えば、「十種の魏晋鏡」のデータでは、平原遺跡の公式報告書を参照して
平原1号墓出土鏡を40枚としながら、公式報告書のうち38枚は仿製鏡というデータを
隠して、福岡県の十種の魏晋鏡にその38枚を入れ込むことで九州優位に見える数字を
作っている<
ダメだ。
その公式報告を誰が書いたのか?は知らんが、柳田であっても別の学者であっても、
始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解をした嘘つき騙しであったのであり、
明帝の下賜鏡である事を示す21枚の「尚方作」鏡の証拠性を抹殺しており、
そんな・・・・アホな詐欺師の公式報告など、何の価値もないもの。 理学部数学科で、九章算術を習うことはないww
教養部でも、九章算術をテキストに使うことはまずないし、
数学科に進むような学生が教養の単位で中国古典の講義を取ることはない
病的なウソつきww >>812
九州説の前に?
おかしいな九州説はとっくの昔に滅壊してるのに >>804
>東大理系大学院なんて言っても、
ザラコクは信じてるんだww >>807
>「東大理系大学院のモグリ学生」であったんだな。
>確か、ノーベル賞を貰った人にも、そんなモグリがいたな。
ほう、ノーベル賞級だと認めてくれるんだwwwww
ありがとうよw >>805
理学部で距離=日数が考えられないて
時間=空間の相対論習わなかったのか 小学生達が、巻向集落が何だったかの討論を始めたのでは、ないのかな、、、 >>820
奥山氏にバレると、また、卑劣な荒らし行為がはじまるのでは、ないのかな、、、 奥山氏が、奥山相対性理論を、発表しているのではないのかな。。
819日本@名無史さん2019/07/29(月) 19:04:12.38
>>805
理学部で距離=日数が考えられないて
時間=空間の相対論習わなかったのか >>786
>こういう極論を、否定はできないだろ?と悪魔の証明を求めることで、虚勢を張るのが
キナイコシは悪魔の証明というものを知らないらしい。
それは彼がいつも要求しているレトリックそのものなのに。
無自覚の馬鹿?
学歴コンプレックスのクズ。 距離=日数を考え付くのは、東夷の畿内倭種くらいのもんだろう。 里を使っていた古代中国では
歩き移動は1日60里と大体の目安が確立していたのだ
歩きで移動何日と書いてあればすぐ里に換算できる >>826
そのシステムだと里を使わない地域でも
どこどこまで歩いて何日とそこの住人に聞けば里数がわかる仕組みだ
便利だろう >>828
日数がわかっているのだから、それを大体の里数に換算しても住人には関係ないな。
役人向けか。 >>823
おまえさんこそ知らないな?
悪魔の証明とは、自分の論拠に使ったら必ず自滅するオウンゴールの素のことだぞ 九州説は悪魔の証明とか言い出す前にまず九州説の証明をしろ >>1=奥山
もう、止めないか
FAQ78への指摘は私だけではない
里数=日数で解明できるのならば
畿内説の学者名や著書を上げればよいと思う
九章算術以外の邪馬台国論争をしませんか 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 ゾンビと九州説の共通点を探ればいい
九州説は普通の人間よりゾンビの方に共通点が多くなるはず 九州説は悪魔、
悪魔の証明とは九州説の証明のこと。 そ、それはヤバ過ぎる真実
悪魔は正体を暴かれると本性を表し荒れ狂う 稚拙な中傷で呆れた。
キナイコシの知性がここまで低かったとは。 九州説の三人悪魔。
確かに、時折、本性を表し荒れ狂う でも普通に九州説は通常の人間よりは悪魔の方に共通点が多く見出せるだろ >>823
>キナイコシは悪魔の証明というものを知らないらしい。
>それは彼がいつも要求しているレトリックそのものなのに。
こういうところもオウム返し、ミラーリングだよなw
相手への批判すらオリジナルの言葉で綴れない無能しか、九州説にはいないw
>無自覚の馬鹿?
>学歴コンプレックスのクズ。
言葉が虚勢を帯びてきてるぞw
まあ、中身もない実力もない九州説では、それぐらいしか己を保つ術がないかww
弱い犬ほどよく吠えるとはよく言ったものだw >>835
>聞こうじゃないか。
九州説には、ザラゴキ、キウス、連続句読点、>>835がいる
これら4名の書き込みの内容から帰納的推論を行うと、
自明の真理として「九州説が脳の干からびたゾンビ」という結論が導かれる >>833
キウスさんよーー
勘違い
一事が万事なのだよ>>1のバカは
、 >>844
だから遊ばれる
遊ばれる人間で持ってるこのスレ
奥山も敢えて遊ばれてるか、阿保なのかわからん
24時間 張り付く暇が俺には無いが・・ 魏志
馬韓 鬼神を祭る 卑弥国がある
邪馬台国 鬼道により卑弥呼が統治する
答えは同じ書物の中にあった >>848
ここは畿内説のスレ,九州説を相手にするスレで無いのだよ
スレ主に失礼だと思わないか >>815
どこの大学か知らんが・・九章算術は触れるよ
公式だけのバカ大学??? >>1 奥山さん
これも参考にしてくれれば幸いです
「 比較数学史とパラダイム論〜斎藤憲氏の学説について〜」 三富照久 中央大学文学部 (t >>1 奥山さん
これも参考にしてくれれば幸いです
「 比較数学史とパラダイム論〜斎藤憲氏の学説について〜」 三富照久 中央大学文学部 (t >>853
>どこの大学か知らんが・・九章算術は触れるよ
九章算術に触れる理由がない
中華古典で教養の授業で使うのに適した文書がたくさんあるのに
なぜ九章算術に触れる必要がある?www
ましてや、数学科に進もうとする学生が習うようなものじゃないぞww
>公式だけのバカ大学???
大学教育というものを理解してないだろ?ww 奥山さん
何を感じますか?
www.pref.nara.jp/32603.htm キウスはだんだん宗教の方にのめり込みつつあるようだ 宇宙からの電波を受信したり霊波動か何かを送ってみたり
九州説は忙しいな >>918
>戸数道里略載と書いてあっても、
「道里は里数だ、日数は認めない、水行二十日は道里略載ではない」って
いう九州説がいるんだよ それを否定するためのFAQ78だ<
関係がない。
「自女王國以北、戸数道里略載」の記載は、
投馬國が、萬二千余里がほぼ終わった後の不彌國から南へ水行二十日の位置にある、
という記述の後だから、
始めから、「自女王國以北」の対象になっていなかったのだ。
>そして、道里が里数に限られる、という間違った主張を否定するのに
同時代に使われていた九章算術が例示として適当だということ<
九章算術の説明は、漢書や陳寿と違って、
「道里」数を「行道日」数に」すり替えるインチキをした、
という「×」説明をした事の証拠になるものであり、
「道里」の意味の根拠にはならないものだ。 >>919
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者には、
もう・・・・アホ詐欺師しかいない >>920
>放射読みなんてしないから、どっちが長くても関係ない
水行20日と水行10日なら、当然に水行20日の方が長い
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
水行10日のあとの陸行一月は方向が変わるから、地図で見ると
「奴国ー投馬国」間と「投馬国ー邪馬台国」間は、二点間直線距離では同じくらいかな<
いずれにしても、「南≠東」などで、×だ。 なんで
FAQ78を作ったのか?
なぜ、九章算術で答えたのか?
良くわからない
私はアンチ纒向王都説
纒向学研究センター不要論
初期ヤマト王政と邪馬台国は関係ない
根拠はコテで調べてください
趣味程度ですが・・・・・・・・・・・・・ >>923
>道里とは道の里なんだから里の数に決まっておる。
九章算術では「道里、遠近」、則ち道の里(里の数)と、
遠い近い(所要の日の数)に分けて書かれており、
だから例示では、(道里○日と書いたのでは漢字の原義に反するので)、
日数は、
遠い近いを表すにふさわしい「行道○日」という記述を採用しているいるわけだ。<
成程。 うーーーーーん
なんで、意地はるの
距離=時間×速度
じゃん
なんなのオクヤマ 奥山氏は算術を小学生に教えてもらったほうが良いのではないかな >>867
じゃそれでいいとして
里数は日数でも表せるよな
つまり道里とは日数表記も意味する >>928
>『道の里(里の数)と、遠い近い(所要の日の数)に分けて』あるというなら、
戸数が「戸の数」はいいとして「多少」は『何の数』なんだ?wwww<
甲から四つの「戸数」が、書かれていた筈。
>九章算術均輸1には「道里が日数で書いてある」「道里を示す里数は一切書いてない」
道里が里数を意味するなら、どうして里数は書いてないんだ?<
九章算術の筆者の頭の中の論理が、ちょっと狂ったの。 >>866の明らかにデタラメな説明で納得できるって
すごい才能だと思うよ
盲信する才能 >>733日本@名無史さん2019/07/29(月) 17:04:52.84
>悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、>
☝
個人的には,こいつ好き
笑わせながら,妙に説力がある >>869
「里とは日数表記も意味する」
一致した古文書の例を数多く示せばいが・・・・・
日数表記の場合は条件次第で里も変わるのでは・・・・・ >>932
>東夷伝全体がそうであるという論証はなされていない
韓伝の方四千里は、四方千里と同値というテンプレの推測でもいいし、
倭国まで萬里という観念に合わせて調節した数字という方が尤もらしい <
夷人は里を知らないのだから、魏や郡役人らの計測値でしかない。
>帯方郡の役人は魏の皇帝の配下であり、魏の公定尺以外の単位を使うことは皇帝権力への挑戦でしかない
魏朝の公職に就いているものが、魏の度量衡以外の尺度を使う理由がない<
魏や郡の役人らは、当然、魏朝の公定尺を使い、その結果が短里だ。
>短里があれば、比例によってどこの距離でも見積もることができることになるし、
九州説はそれを主張するが、短里を使う人がどこにもいない <
如淳も文穎も使っているし、魏や郡の役人も使った事になるし、
陳寿も魏略も使っている。
>もともと3世紀には、測量技術がないのだから、正しい距離が書かれていると
考えるべき理由が最初からない 魏晋里であっても、距離は正しくないと考えるのが当然<
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測などで、有効数字1桁概数であれば、十分に測れる。 >>877
>夷人は里を知らないのだから、魏や郡役人らの計測値でしかない。
これは選択肢の不正間引きという
詐欺の典型的手口だよ
いわく推定値である
いわく捏造数字である
いわく楽浪商人からの聴取である
ほかに幾らでも選択肢がある 九章算術と畿内説は関係なないから。
>>1と畿内説関係ないから >>877
>一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測などで、有効数字1桁概数であれば、十分に測れる。
それなら、なんで唐津港から伊都の方位がわからないの?
九州説は支離滅裂だね >>946
>>漢書や魏志は、きちんと「道里=道の里数」としての記載をしており、<
>それ、なんか証拠あんの?<
漢書は、「〜里」記載と、「行〜日」記載とを書き分けている事と、
魏志も、「〜里」記載と、「行〜日」記載とを書き分けている事。 >>849日本@名無史さん2019/07/29(月) 20:19:30.88
>魏志
>馬韓 鬼神を祭る 卑弥国がある
>邪馬台国 鬼道により卑弥呼が統治する
これは関心深い記事だ。
帯方郡ー馬韓ー倭邪馬台国(及び馬の付く国群)は、人脈的につながっていたのだな。 >>954
アホですか?。
「戸数の多少」が戸数の実数なんだから
「道里の遠近」は里数の実数なの
明らかでしょ >>882
「書き分けている」って・・・それ
法則性がなきゃ逆に混用されてる証拠になるんだぞ
わかってるのか? 小学生達が、巻向集落を研究するスレッドで、討論していますね。 >>960
>(陳寿90度回転さん)
全て同意です。 「短里」は最初から、九州説論者による「創作」でしかない。<
全て不同意です。
「短里」は、周代以前からや、周髀算経などの周代文献や、
淮南子や漢書や文穎注や如淳注や魏志や魏略や
江表伝や海賦や後漢書や梁書や日本書紀などに存在した史料実態であった。 >>966
>東夷の短い里なんぞないわ<
魏志東夷伝の高句麗や扶余や韓伝や、倭人伝では、「短里」である。 「夷人が里を知らない」というのは隋書に始めて出てくる話だろ。
魏志倭人伝の不弥国以降の記述を読んだ隋人の粗雑な要約だろう もう昭和は終わったっちゅうに
いまだに短理厨があばれてんのか 畿内説の某氏が「道里=里数+日数」論で頑張っているようだ。
「道里」はこれで良いのだ!、というのも理屈ではあろうが、 そうすると原文において・・、
対海国〜末盧国〜邪馬壹国女王之所都の間の国々は、全て「戸数道里」が略載されていることになる。
このため、その次の「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、前出すべての国々の既述事項と重複する。
依ってこの文は全くの死文となり、削除しても支障なく読める。
このような「道里=日数」の解釈は、東夷伝・陳寿の文章としては不可解と言わざるを得ない。が、これには仕組まれた理由がある。
陳寿が定義する道里とは、(道)の方角と(里)の数なのである。
だから投馬国と邪馬台国には、「戸数」は書いてあっても「道里」は書かれていないので、理屈上、女王国以北ではないのである。
但し、女王国に関しては、後段中締めとして「自郡至女王国万二千余里」として里数が示され、
既述の不彌国までを差し引くと残は1300里と判明するので、実質的に投馬国のみが女王国の南となるのである。
(前略6国)
南至投馬国、水行二十日、五万余戸。
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月、七万余戸。
↓
自女王国以北、其戸数道里可得略載、
↓
其余旁国遠絕不可得詳。次有〜〜、、、 >>892
>依ってこの文は全くの死文となり、削除しても支障なく読める。
読めないでしょ
なにが得られないのかわからない文章になる
狗邪韓国が倭でないこともわからなくなる
>だから投馬国と邪馬台国には、「戸数」は書いてあっても「道里」は書かれていないので、理屈上、女王国以北ではないのである。
名前しかわからない国々と、戸数も官もわかってる投馬国を一緒にするのは暴論 >>877
>魏の遣使の少し前帯方にいたのは漢の人間公孫氏
その辺りで里が使われていたなら漢里<
魏志東夷伝の扶余伝に、「夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與yup婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里」とあり、
去玄菟千里の千里も方可二千里の情報は、短里であり、「余」がないから、以前に「玄菟」郡があった時からに既定計測里数。
高句麗伝にも「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai貊、東與沃沮、北與夫餘接、都於丸都之下、方可二千里」とあり、
その千里も方二千里も短里であり、遼東が機能していた時からの計測里数。
つまり、玄菟郡や遼東政権が存在していた時から、短里での計測があった。
>それ以南は東夷になって 東夷は里を知らずに日数で距離を表すと唐書にある
東夷の里が存在する余地はどこにもないのだよ<
だから、玄菟郡や遼東政権が、短里での計測をした事になる。 >>978
>短里で書かれているはずの魏志倭人伝を 短里でなぞったら短里だった これ循環論法<
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をする事は、
「結論先にありき」にならないから、循環論法にならない。 >>861
>広島大学 九章算術でヒットしたぞ・・・
で?っていうwwwww
これか?
https://www.hiroshima-u.ac.jp/system/files/27045/H23ronT-2.pdf
ウェブ検索結果
テーマ2:数学教育 - 広島大学
中身見たのか?
広島大学で九章算術を教えてますってないようじゃないぞww >>892
>既述の不彌国までを差し引くと残は1300里と判明するので、実質的に投馬国のみが女王国の南となるのである。
狗奴国も追加してくれ。
郡使には狗奴国と投馬国がどちらも邪馬台国から南であることはわかったが、相互の位置関係は分からなかったのだろう。
だから女王国より北はわかるけど...という注が入ることとなった。
福岡しか行ったことがなければ、熊本と宮崎の位置関係は難解だったろうね。 >>982
>そもそも女王国の位置が沖縄や台湾に当たる会稽東治の東と魏志倭人伝に書かれている時点で
短里説は全部ご破算<
そもそも女王国の位置推定が会稽東治之東だと書かれている限り、
女王國は九州島付近になり、
沖縄や台湾説は×であり、
長里説も大和せつも、全部ご破算 >>884
>「道里の遠近」は里数の実数なの
残念ながら九章算術の均輸1にには、里数の実数なんて書いてないんだよww
「道里の遠近」を認めた時点で、折角お仲間に九州説がでっち上げた「道里と遠近は別」って
いう詭弁を認めないことになるwww >>893
>狗邪韓国が倭でないこともわからなくなる
ちょっと何言っているかわからない。
狗邪韓国は韓伝に登場せず倭人伝に出るのだから、倭人の領域、伊都に置かれた大率が検札する女王国から北の国ですよ。 >>988
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和病が、感染拡大し、狂乱の、大和説
九州説はその様子を微笑みながら穏やかに見守る >>993
「南→東」などの嘘吐き騙しで、
頭の弱くて愚かな 大和説
全ての 嘘バレ ゆかいに発狂
みんなが笑ってる 国民も笑ってる
ルールルルルールー 今日もいい天気ー >>892
>だから投馬国と邪馬台国には、「戸数」は書いてあっても「道里」は書かれていないので、
>理屈上、女王国以北ではないのである。
「自」女王国以北なんだよww
書き下しでは「女王国『より』以北」という起点を明記した書き方だから、
邪馬台国が戸数道里が略載されていないとすることはできない
キウスや、この>>892みたいに水行○日は道里じゃないっていうやつがいるから
FAQ78が必要なんだよww
実例があれば分かりやすいだろう?w 卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は誰が書いてもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 >>897
>郡使には狗奴国と投馬国がどちらも邪馬台国から南であることはわかったが、
デタラメww
魏志倭人伝には投馬国は女王国より以北の国として書かれているww
投馬国の比定地が九州説全般のクリティカルな急所だってのがよく分かるww >>900
>狗邪韓国は韓伝に登場せず倭人伝に出るのだから
狗邪「韓」国って書かれてるだろ?
倭国じゃないよww
韓伝の弁辰諸国に書かれている弁辰狗邪国のこと >>994
>>戸の数の多少に決まってるだろう <
>ならその対になっている遠近も、日数で示された道里の遠近に決まってるな!<
「道里の遠近」にはなっていないから、×。
遠近も、「行道の日数」の違いになるだけ。 >>906
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、
>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、
>畿内説は何も説明することができない。
デタラメコピペは止めろって!
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、
これはまあいいが、ここでいう「王墓」は弥生王墓と呼ばれるもので、倭国の王ではなくローカルな首長だ
水系の水争いを差配する首長層がこの頃から各地で庶民とは違う階層として台頭してくる
>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、
金印は一つだけ、
北部九州に八咫鏡があったとするのは「江戸時代の風土記逸文」のみ
それも、記紀神話に出てくる誓約の三女神を祭る宗像神社の縁起で九州説一押しの伊都国とは無縁
しかも当の宗像神社の社伝ではまったく八咫鏡は出てこないww
>畿内説は何も説明することができない。
弥生中期までは北部九州のローカル首長が、大陸に朝貢していたことは畿内説でも否定していないが?
それが3世紀に入る前に没落しているというだけのことで、特段の説明は必要ないだろ? >>908
>狗邪「韓」国って書かれてるだろ?
単に朝鮮半島の一部だからそう呼ばれたけれど、そこは倭人の拠点だよ。
そうでなければ制海権も確保できないし貿易も独占できない。
魏志倭人伝は対馬海峡の制海権を卑弥呼に仕えた伊都の大率が掌握していたことを伝えている。
だから伊都で女王への荷を大率が管理していることも書かれている。
狗邪韓国は韓伝に登場しないのだから、倭人の支配地域に違いない。 >>909
>キナイコシの言い訳が痛々しい。
こういう根拠も理由も一言もない、単語レベルの返信しかできなくなったら、
もう意味のある反論はできませんってことだww >>997
>伊都国の位置を三雲遺跡群から動かすのはトンデモ説だ<
伊都国の位置を「臨津搜露」出来る前原〜糸島水道付近から動かすのは、
トンデモ説だ。 >>911
>これはまあいいが、ここでいう「王墓」は弥生王墓と呼ばれるもので、倭国の王ではなくローカルな首長だ
倭とは狗邪韓国から倭奴国までの対馬海峡のローカル国家だよ。
後漢書に明示されている。 >>911
>北部九州に八咫鏡があったとするのは「江戸時代の風土記逸文」のみ
この大嘘つきめ。
記紀は天孫ニニギが三種の神器を携えて筑紫に降臨して豊葦原中国の王となったと記録している。 >>998
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
史料実態の短里をの否定する愚かな 大和説
証拠が 皆無で あっさり破綻
みんなが笑ってる 子犬も笑ってる
ルールルルルールー 今日もいい天気 >>912
>魏志倭人伝は対馬海峡の制海権を卑弥呼に仕えた伊都の大率が掌握していたことを伝えている。
「対馬海峡の制海権」ww
そんなことは魏志倭人伝のどこにも書いてないww
妄想乙w
それから一大率を勝手に大率だと言い換えるのも捏造の一種だなw
九州説はお花畑の脳内妄想を論証抜きで正しいと思い込むことで成り立っているwww >>916
>倭とは狗邪韓国から倭奴国までの対馬海峡のローカル国家だよ。
>後漢書に明示されている。
後漢書は魏志倭人伝の引き写しで出来ている二次資料
後漢書を根拠にしても意味がない >>911
>それが3世紀に入る前に没落しているというだけのことで、特段の説明は必要ないだろ?
三代70-80年続いた天孫族の支配が終わり、倭国大乱の末に筑紫倭国の女王として卑弥呼が即位したんだろ?
何も矛盾はないな。
天孫族の墓制は三雲南小路遺跡に始まる甕棺墓であり、それが平原遺跡で木棺墓になるのがまさに魏志倭人伝における政権交代の記事を反映している。 >>917
>記紀は天孫ニニギが三種の神器を携えて筑紫に降臨して豊葦原中国の王となったと記録している。
その筑紫は筑紫島であって北部九州を意味しない
北部九州に八咫鏡の伝承はない >>919
>それから一大率を勝手に大率だと言い換えるのも捏造の一種だなw
大率は百済の官名にもあるからね。
また、率は帥と意味も発音も同じ。
卑弥呼の下で直接の軍事や内政に携わる高官だよ。
後の大宰の帥もその名残だ。 >>920
>後漢書は魏志倭人伝の引き写しで出来ている二次資料
>後漢書を根拠にしても意味がない
魏志倭人伝と漢書の内容は完全には一致していない。
その言い訳は通用しない。
また、後漢書と魏志倭人伝の見解が一致しているなら、ますます中国から見た倭国とは対馬海峡に限定されることになる。
卑弥呼の称号が倭王である以上、博多湾沿岸の王にしかならない。 >>921
>それが平原遺跡で木棺墓になるのがまさに魏志倭人伝における政権交代の記事を反映している。
吉武高木遺跡の王墓とされている特定集団墓の中の厚葬墓は「3号木棺墓」ww
木棺墓が新しい墓制ということはない
それに倭国大乱を2世紀末とするなら甕棺墓が廃れるのは倭国大乱より古い
そして、平原1号墓は卑弥呼の生前に作られたローカル首長のしょぼい墓ww
舶載鏡もほとんどないし、成人男子が10人もいれば1週間で作れる墓だ
魏晋鏡が一枚もないのは致命的w >>922
>その筑紫は筑紫島であって北部九州を意味しない
>北部九州に八咫鏡の伝承はない
天孫降臨を守護したのは宗像氏族だった。
宗像はどこの氏族か考えてみればいい。 >>925
>吉武高木遺跡の王墓とされている特定集団墓の中の厚葬墓は「3号木棺墓」ww
>木棺墓が新しい墓制ということはない
当然だw
天孫族の墓は三雲南小路からだと書いただろw
何も矛盾しないのだよw >>925
>魏晋鏡が一枚もないのは致命的w
当然だ。
漢だから権威があったのであり、魏や晋にはそれほどの権威を感じていなかった証拠だ。
つまり平原遺跡は漢の滅亡後、卑弥呼の治世の倭国女王墓で確定するんだよw >>924
>魏志倭人伝と漢書の内容は完全には一致していない。
じゃあ狗奴国が渡海千里の国だなww
自女王國東度海千餘里至拘奴國
後漢書は魏志倭人伝をかなり端折っているし、その分いい加減なんだよ
一致しないのはそのため
後漢代だから三国志に書かれなかった漢委奴國王と倭面土國王の朝貢記録以外に
追加の情報はないぞw >>120
>魏志倭人伝で邪馬台国の場所は <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言。
>沖縄か台湾辺りの<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、沖縄や台湾は、×。
>会稽東治の東という架空の場所に設定されてるよ<
陳寿の「女王國の位置推定」の「会稽東治之東」は、架空ではなく、
きちんと九州島付近になるから、
この男は、×。 >>928
>漢だから権威があったのであり、魏や晋にはそれほどの権威を感じていなかった証拠だ。
だったら継続的に何度も朝貢する必要ないなww
そのデタラメは文献記録で否定される
それにもらった鏡を鋳つぶして平原1号墓出土鏡を作ったってのは、成分分析で否定されただろ?
http://i.imgur.com/Blzh92P.jpg
邪馬台国のステイクホルダーさんはいつもデタラメ >>124
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のバカもそうだけど、
ただの妄想をブツブツ言い続ける異常者も後を絶たんな
女王國ネタは基地外ホイホイだな >>919
>「対馬海峡の制海権」ww
>そんなことは魏志倭人伝のどこにも書いてないww
伊都におかれた大率が、その北方の国々を(刺史の如く)検察した。
これは対馬海峡が卑弥呼と大率の支配下に置かれていたことを明確に示している。
そして平原遺跡に副葬された大量の大陸の宝飾品は、卑弥呼が大陸文化を積極的に取りれていたことを示している。
それには狗邪韓国を含む対馬海峡の交易を安定させる必要があった。 >>927
それでは何も否定できないぞww
これはどう言い訳するんだ?
「それに倭国大乱を2世紀末とするなら甕棺墓が廃れるのは倭国大乱より古い 」 >>931
そのデータは、平原遺跡の超大型内行花文鏡が舶載鏡のグループに近いことを明示している。
朝貢貿易は卑弥呼が大陸の宝飾品を入手するために必要だった。 逆に畿内が邪馬台国であったなら、卑弥呼に与えられた絹や宝飾品は畿内のどこにあるんだ? >>933
>伊都におかれた大率が、その北方の国々を(刺史の如く)検察した。
>これは対馬海峡が卑弥呼と大率の支配下に置かれていたことを明確に示している。
それがインチキ読みなんだよなww
投馬国が女王国より以北の国ってのがここでも効いてくる
投馬国は対馬海峡と関係ない国だぞww
そもそも首都圏に刺史のごとき存在は必要ない
伊都国に刺史のごとき存在が置かれた時点で、本国は遠地だし、
それだけで対馬海峡だけのローカル国家という想定は破綻する
この人は倭国を小さくしたがる半島系儒教価値観の宣伝がしたいんだろうな >>938
>伊都国に刺史のごとき存在が置かれた時点で、本国は遠地だし、
伊都から周辺地域である対馬海峡を検察しに出かけると書いてあるだろw >>938
>この人は倭国を小さくしたがる半島系儒教価値観の宣伝がしたいんだろうな
大倭を夢想してやまない基地外w 官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。
「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 【平原遺跡の年代について】
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である。
結論
平原遺跡は3世紀中頃、卑弥呼の没年の前後に作られた王墓であり、
被葬者は女性であることから、卑弥呼の墓である可能性が高い。
http://i.imgur.com/Blzh92P.jpg
平原遺跡の超大型内行花文鏡は舶載鏡を改鋳した国産鏡であり、漢の滅亡後に中国からの冊封に頼らず独自の権威を確立しようとしたものだろう。
そして八咫の鏡の製作者としてのアマテラス伝承のモデルともなったと考えられる。 なぜ3世紀の近畿圏からは鉄が出土しないのか?
■考えられること
鉄の潤っていた九州とは交易が無かった。
=一大率や大倭は近畿とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」に近畿は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・ 記紀は創作や歪曲、矛盾を含んでいるけれど、その意図を汲んで原型を復元しなくてはいけない。
単に「崇神から実在」とか単純な話ではない。
神武東征だって、考古学的な西高東低からすれば自然なことだ。
ただし嘘があるとすれば、それは年代が前倒しされ、遥か昔から大和が列島の盟主であったかのように見せかけていること。
それは旧唐書と新唐書の食い違いに端的に現れている。
つまり、九州北部の倭国を畿内の日本国が併合したのに、その事実を言いくるめて隠しているのだ。
そう考えると、記紀の謎の多くが氷解する。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 どっちでもええがな
所詮文字さえ発明できなかったおさるさんの国の話なのだからね 偉そうな事ばかり語っている池沼がいるけどw
どこの低脳なんだ 畿内説の某氏が「道里=里数+日数」論で頑張っているようだ。
「道里」はこれで良いのだ!、というのも一つの理屈ではあろう。
がしかし、そうなると原文において・・、
対海国〜〜邪馬壹国(女王之所都)の間の国々は、全て「戸数道里」が略載されていることになる。
このため、その次の「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、前出すべての国々の既述事項と重複する。
依って、この文は全くの死文となり、削除しても支障なく読める。
このような「道里=里数・日数」という解釈は、東夷伝・陳寿の文章としては不可解と言わざるを得ない。だがこれには、仕組まれた理由がある。
陳寿が定義する道里とは、文字通り、(道)の方角と(里)の数なのである。
だから投馬国と邪馬台国には、「戸数」と「道」は書いてあっても「里」は書かれていないので、文字づら上、女王国以北ではないことになる。
但し、邪馬台国(女王国)に関しては、後段中締めとして「自郡至女王国万二千余里」として全行程の里数が示され、
既述の不彌国までを差し引くと残は1300里と判明するので、実質的に投馬国のみが女王国の南となるのである。
(前略6国)
南至投馬国、水行二十日、五万余戸。
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月、七万余戸。
(自女王国以北、其戸数道里可得略載) ←←← 畿内式読み下しによれば重複・削除可となってしまう
其余旁国遠絕不可得詳。次有〜〜、、、 >>954
>依って、この文は全くの死文となり、削除しても支障なく読める。
だから、読めないと指摘されてるのに
無視して連呼か
九州説らしいや >>880
あんたが>>1と立証できたら教えてあげる >>955
「文字」を読むのと、「文章」を読むのは違う作業で、使う脳みそも違う。
くだんの文章が全くの死文になり、これを削除して支障なく読める人もあり、読めない人もいるだろよ
なんら不思議ではない。 >>156
南→東」などの嘘吐き騙しや、
「荒らしと中傷しか出来ない大和説が
卑弥呼女王國論争の敗者なのは
もうよくわかったよ >>957
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、おはよう
>これを削除して支障なく読める人もあり、読めない人もいるだろよ
詭弁にしても出来が悪い
因果関係や根拠・理由がなくても文が成立するとか、脳内妄想が立論の基準という
九州説ならではのデタラメな言い分の正当化だ
支障なく読めるというのはご都合主義の暴論だ >>158
>魏志倭人伝の方角と距離をもとに場所を特定しようなんて
行為そのものが間違ってると証明できてるでしょ<
魏志倭人伝の方角距離などの記載は、
同時代の魏の役人らの見聞計測記録であったから、
正しい確率が99.5%以上であった、という事は、
証明出来ているでしょ?。 よしんば重複していて
無くても意味の通じる文だとして
それが有っていけない理由はない
むしろ再確認や纏め、総括や振り返りが許されない方が特殊 >>163
>南の方にあるという前提で書かれてる魏志倭人伝
台湾あたりにあると誘導している節がある<
陳寿は、会稽東治之東などと総括して、九州島付近にほぼ総括している。
>おまえらこんな適当なもので距離とか方角とか言い争ってるんだぞ <
「南→東」などの嘘吐き騙しの、お前ら大和説者は、京都アニメ会社放火犯人のような、
狂った事をやっているんだぞ。 >>960
できているわけがない
出所も判らぬ怪しい数字だもの >>178
こういうに、
「南→東」などウソが平気でつけるのが
大和説だよ
説明を聞くことを耳を塞いで拒否しているくせ >>964
このように、証拠をまったく出さずに決めつけるのが
九州説の常だ >>184
>>海上であろうと、「道」として使われておれば「道」であり、<
>じゃあ倭王武の上表文を使って韓地陸行を主張したトンデモ説はカンチガイなのだな w <
要は、言語の使用意味の「原則」性の問題。
宋皇帝への上表文で「道」と書けば、原則は「陸の道」を意図する。
また「道里」と書けば、原則は、「道の里」を意味し、
「行道の日数」とは受け止めず、九章算術の曲解のミス。 >>962
>「南→東」などの嘘吐き騙しの、お前ら大和説者は、京都アニメ会社放火犯人のような、
>狂った事をやっているんだぞ。
悪口にこんな言葉を選べるなんて
どれほど心が醜悪なのかと思うと
嫌悪感で鳥肌が立つよ >>966
>宋皇帝への上表文で「道」と書けば、原則は「陸の道」を意図する。
では、つい昨夜
>海上であろうと、「道」として使われておれば「道」であり、
とか言っていたのは真っ赤なウソか?
無定見なその場凌ぎの言い訳ばかりだ
言っていることがコロコロ変わる
じつに九州説らしいな >>187
>あんたが勝手に原則を作っても従う義理があるのはあんたんとこの従業員くらいだ
古代中国人がその「道の里」の遠近を移動に要する「日の数」で表すことを禁止出来ないな<
普通の成人は、言語の持つ「原則的な意味」で、会話し、議論する。
普通の人類ではなく、何らかの思想宗教に狂ったり、タカ派の唯我独尊思考に狂ったり、・・・・
犯罪を肯定する人種は、言語の持つ原則的な意味を否定して、
例外的な意味での言語使用をして、
京都アニメ犯人のような大量殺戮犯罪をするもの。 なんの裏付けもない押し付け「原則」宣言の洪水だが
それ、「オレ様が正しい」って理由もなく言い張ってるのと同じだから
他の何でもなく、九州説の傲慢さだけが伝わって来る >>923
>大率は百済の官名にもあるからね。
百済って時代が全然違うだろ!
その頃の朝鮮半島は、国家形成前の小国乱立状態
数百年後の他国に字面だけ同じものがあるからそれが根拠だとか、嗤わせるのもいい加減にしな!
「半島と倭国は同じ文化で、半島の影響を受けた地域に小さなしょぼい国があった」というのが
>>923の想定というか願望なんだろ?ww >>969
>普通の成人は、言語の持つ「原則的な意味」で、会話し、議論する。
>普通の人類ではなく、何らかの思想宗教に狂ったり、タカ派の唯我独尊思考に狂ったり、・・・・
>犯罪を肯定する人種は、言語の持つ原則的な意味を否定して、
だからさー
そうやって恣意的に「原則」を制定しちゃって
他人に強要したがる人こそが
「何らかの思想宗教に狂ったり、
タカ派の唯我独尊思考に狂ったり、・・・・
犯罪を肯定する人種」
の典型じゃないの?
自分こそが人類の常識を司る
特権者みたいな顔して
さからう者に
こんなふうに
↓
>例外的な意味での言語使用をして、
>京都アニメ犯人のような大量殺戮犯罪をするもの。
攻撃性まるだし危険
それが九州説 >>926
>天孫降臨を守護したのは宗像氏族だった。
>宗像はどこの氏族か考えてみればいい。
宗像氏が歴史に現れてくるのは記紀編纂の頃で、宗形徳善の娘が天武の妃となっていることから
遡って顕彰されたものだ
福津、宗像地域には古墳時代初期の見るべき古墳もない
この地域に大きな豪族があったと考えるべき根拠はない ザラコクは
思考統制で恐怖政治する秘密警察の手先とか
神の正義とか言って拷問する異端審問官の手下とか
そういうタイプそのもの、だね >>935
>平原遺跡の超大型内行花文鏡が舶載鏡のグループに近いことを明示している。
具体的なデータすら、読み方の時点で捏造するからな!
舶載鏡は左下の#16と#17の二面のみで、明らかにグラフ上で他の鏡と別の位置に置かれている
46センチ鏡はそこから離れたグラフの中央付近にある
九州説はこんなのばっかり
すべての情報を自説の都合に合わせてインチキ解釈するし、都合の悪いものは無視して
都合のいいものだけに言及するチェリーピッキングで練り上げたインチキだ >>936
>卑弥呼に与えられた絹や宝飾品は畿内のどこにあるんだ?
大王級で陵墓指定された大古墳の埋葬主体部にあるだろう 現に同時代の史料に
「道里」として旅程の日数が使われている事実
倭人伝に現れる「其余」の国は国名しか判らないので
「其余」でない国々は「女王国以北」だということ
これが違うと言い張る言い訳は、ぜんぶ潰れた >>970
>なんの裏付けもない押し付け「原則」宣言の洪水だが
キナイコシさん、自己紹介は不要ですよ。 九州説はまだ日数=里数を認めないでゾンビ踊りを踊り狂ってるの
それとも認めて土に還ったの >>974
>宗像氏が歴史に現れてくるのは記紀編纂の頃で、宗形徳善の娘が天武の妃となっていることから
>福津、宗像地域には古墳時代初期の見るべき古墳もない
>この地域に大きな豪族があったと考えるべき根拠はない
無知。
玄界灘沿岸の豪族のうち、最も多くの古墳を築造したのが宗像氏族だった。
口から出まかせ言うな。
クズ 敗者の九州説はひたすら打ち据えられるのみ
そしてそれをじっと耐え続けるしかない >>977
>大王級で陵墓指定された大古墳の埋葬主体部にあるだろう
畿内説がいかに時代錯誤かわかる文章ですね!
あと、発掘してから言ってください。
それまではただの根拠のない妄想ですよ。 >>937
>それは君の年代感がおかしいだけだろw
九州説は編年研究が大嫌いww
甕棺墓は桜馬場遺跡の頃を最後に大型棺は衰退してしまう
弥生時代後期前半で1世紀から2世紀初めまでだ
また甕棺墓の分布域からも、対馬海峡だけの国家というのは否定される
「まず,長崎県対馬,福岡県宗像,遠賀川下流域,豊前,豊後,日向,大隅,天草には
まったく分布しない点に注意する必要がある(図1−1)。
次に分布状況をみると,分布範囲は,熊本県宇土半島を南限に,大分県日田市を東限,
長崎県壱岐を北限,長崎県五島を西限とする地域,及び飛び地的な分布をみせる薩摩である。」
『九州の甕棺−弥生時代甕棺墓の分布とその変還−』より引用
対馬になくて熊本県宇土地域まであって、薩摩に飛び地がある
先にグダグダ言っていた宗像地域にはないww
甕棺墓が天孫族なら宗像はまったく関わっていないなww >>983
つまり「ない」「ない」「ない」も
発掘されてから言ってね
で済むわけね >>985
永遠はウソ
いまの九州説老人の余命が尽きれば
終わる >>944
>・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
結局、糸クズ系九州説の平原1号墓の年代はこれが主な根拠だが、
「特徴的で特殊な形状」というのは単にくびれた形というだけで、特段特殊なものではない
こんな形http://i.imgur.com/9fPQIH2.jpg
そして耳璫とされる平原1号墓出土品がこれ
左端の赤いものhttp://i.imgur.com/3euWsnf.jpg
くびれてると明確に言えるほどの形状でもない
さらに晋代前後というのもインチキで漢代にも同じ形のものが出ている
http://i.imgur.com/FfoUxho.jpg
平原1号墓の年代は2世紀末からせいぜい3世紀初頭
卑弥呼が生きている時代の地方有力家系の墓で倭王の墓ではない 投馬国はムリヤリ南に持って行けない
会稽東治はムリヤリ北に持って来られない
九州説、物理的に死んでるよね >>947
このウソコピペ止めれって!www
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、
これはまあいいが、ここでいう「王墓」は弥生王墓と呼ばれるもので、倭国の王ではなくローカルな首長だ
水系の水争いを差配する首長層がこの頃から各地で庶民とは違う階層として台頭してくる
>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、
金印は一つだけ、
北部九州に八咫鏡があったとするのは「江戸時代の風土記逸文」のみ
それも、記紀神話に出てくる誓約の三女神を祭る宗像神社の縁起で九州説一押しの伊都国とは無縁
しかも当の宗像神社の社伝ではまったく八咫鏡は出てこないww
>畿内説は何も説明することができない。
弥生中期までは北部九州のローカル首長が、大陸に朝貢していたことは畿内説でも否定していないが?
それが3世紀に入る前に没落しているというだけのことで、特段の説明は必要ないだろ? 邪馬台国はムリヤリ東に持って行けない
畿内説、物理的に死んでるよね 九州説の一番の弱みは
もう唱えてる学者がいないってこと >>992
>邪馬台国はムリヤリ東に持って行けない
いけるけど?
伊都国は末盧国の東南だったはず
現実の地理と違うでしょ? >>984
>弥生時代後期前半で1世紀から2世紀初めまでだ
そして倭国大乱に突入するのだから、私の言う通りだな。
魏志倭人伝によると男王の時代は70〜80年しかなく、記紀では日向三代と呼称される(ニニギからウガヤフキアエズまで)。
>先にグダグダ言っていた宗像地域にはないww
>甕棺墓が天孫族なら宗像はまったく関わっていないなww
宗像は玄界灘最大級の氏族だと言うことがわかったかな?
甕棺墓の天孫族は一時的に王権を取っていたが、時間軸でその前後、地理的にその周囲は宗像氏族が弥生後期から古墳時代まで隆盛を誇っていた。 倭奴国王の金印を卑弥呼が使える
というトンデモ説は
笑えた ま、「道里」問題でチェックメイトかかっちゃったけどな
九州説ご臨終 >>984
>また甕棺墓の分布域からも、対馬海峡だけの国家というのは否定される
>「まず,長崎県対馬,福岡県宗像,遠賀川下流域,豊前,豊後,日向,大隅,天草には
> まったく分布しない点に注意する必要がある(図1−1)。
九州説をまだ理解していないようだ。
甕棺墓は筑紫の王家だが、倭国は筑紫に加えて豊国、肥国がある。
志賀島から遠賀川流域、さらに東まで豊国王家だ。
有明海沿岸は肥国だ。
これらの三国がダイナミックに境界を変化させて興亡していることが考古学的にわかる。
記紀では、豊国は比較的筑紫と婚姻関係が深いが、肥国はしばしば対立している。
また筑紫とは言っても、その王統はしばしば交代している。 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 このスレッドは1000を超えました。
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