邪馬台国畿内説 Part495
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1565711726/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く) ◆3ー2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 妄想は終わりにしたほうが良いぞ、
それと、はやく精神科に行け ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く) (承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 なぜ精神科(精神病院)に行けと言われているのか、
わからないんだろう? ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、
新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし >>246
>全く同意します。
彼ら九州説論者は「2世紀や3世紀の倭国に統一国家など存在しなかった」と言う、
「藁人形論法」をしつこく繰り返して来ますが、
そういう「藁人形論法」に頼らざるを得ないこと自体が、彼らが追い込まれていることの証左です。<
全く不同意であり、「藁人形」とかは何なのか?は知らんが、
2〜3世紀の九州は、海峡天孫族系や、呉王夫差の遺民の姫氏系や、徐福系や南九州の東テイ人や、
在地の猿田彦の毛人蝦夷系や、出雲系宗像氏らの勢力争いがあり、
更に大和に移っていた神武の後裔らも阿毎氏らの一将軍として、参戦した。
>卑弥呼共立で「前方後円墳体制」と呼ばれる祭祀の統一を認めた瞬間に、彼らの論拠は崩壊する。
故に「前方後円墳体制」から頑なに目を逸らし、見て見ないふりをし続け、<
反対だな。
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国であり、
前方後円墳も庄内もその将軍らに拠って、筑紫から齎された、ということ。
>「2世紀や3世紀の倭国に統一国家など存在しなかった」(←そんなの当たり前だ!)
という藁人形論法を繰り返すのです。<
成程。それが「藁人形」だというのか。 >>251
>纏向型前方後円墳の分布を見てみれば、
http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010.jpg
3世紀前半より畿内を中心とした祭祀の統一があったことは明らか。<
その図の「石塚」の年代配置がインチキ。
大和の庄内1の3世紀末の石塚を、3世紀前半にする編年をしているから、
「3世紀前半より畿内を中心とした祭祀の統一があった」という事に出来ただけであり、
実態は、筑紫の3世紀後半中程の那珂八幡などの方が古いし、
列島での前方後円墳の初元。
>そして統一国家になっている訳では決してなく、依然として各地の王権は独立しているものの、<
大和は、筑紫の天孫族の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、という事を自認しており、
九州倭国の「東征毛人五十五國」時においても、尚、九州倭国の附庸國状態。
>既に各地域の「序列」「格付け」のようなものは見て取れる。<
梁代においても、出雲や越や侏儒國や東方の「女國」は、九州倭國とは独立的であった。 >>76
>実態は、筑紫の3世紀後半中程の那珂八幡などの方が古いし、
そんなあなたの主義主張では
現在主流の学説への反論にならないよ >>260
>畿内が征服者として統一した訳じゃないから、そんな一大勢力は必要ない <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>北部九州が威信材の配布ができなくなって没落した後、<
北部九州の倭國は白村江の後までは没落していないし、東征将軍らが「威信材の配布」をしてくれたから、×。
>それなりの求心力となるだけの勢力として畿内第V様式土器圏が存在し、伊勢遺跡(野洲川)での
会合でそこに集まった首長が連合を組むことを談合で決めたんだよ<
ダメだ。
九州倭国の東征毛人五十五國は短期間で完了したのではなく、
国生み神話や神武らの東征も入れれば、数百年以上に渡っての東征であり、
途中で、何度も「在地民との妥協」をあった。
それで担ぎ上げられたのが卑弥呼ってこと >>78
>畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
世間常識に反することを言い張って
まったく理由を言わなかったら
世間からおかしい人として扱われるけど
わかってやってる? 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>78での「漏れ」の追記
>それで担ぎ上げられたのが卑弥呼ってこと<
「近江や大和」の話であるんなら、「南≠東」に拠って、×。 >>265
>それにしても一体何があって、倭国中のいろんなクニが、
前方後円墳を受容するようになったんだろうね?<
倭国中というと、また正確ではなくなる。
列島全体では、出雲や侏儒國や東北のように、筑紫の前方後円墳を全く受容しなかった地域もあれば、
肥後や薩摩や越などのように、受容が遅れた地域もある。
>首長の葬送と権力承継の儀式って、祭祀の中でも一番重要な儀式。
それをある時期から、当時の倭国のいろんなクニが、
「ウチも以後は畿内式でやりますわ!」「墓も、土器も、これからは畿内式ですよ!」
と、こぞってやり始めた訳で。<
畿内式ではない。九州倭国の東征軍式、とでもいうべき。
>本場の畿内でも、それまで大切にしてきた巨大銅鐸を打ち壊したりしてるんだからね。
一体何があって、こんなにドラスティックな祭祀の変化が起こったんだと。
それは決して武力で押し付けた訳ではなく、何かのソフトパワーなんだろうけど。<
九州倭国の「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」があったの。 世間の常識って、九州説のことだよ?
国内外のどの史書も無視して危うい仮説を積み上げて妄想しているのが畿内説だよ。
その底には古代から神武が即位した大和こそ列島の中心だという皇国史観が透けて見える。 >>80
九州説にできることは、どこかで誰かが一生懸命書いた、でも既に間違っていることが
分かっている長文コピペを貼ることだけ
例えばこの部分
>卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
https://i.imgur.com/6rXI0OP.jpg
奈良盆地の一番低いところから、弥生時代最初期の遺跡が出ている
小河川が多い低平地というのは、弥生時代の土木技術で一番稲作に利用しやすい土地
まさに豊葦原瑞穂の国だったんだよ
奈良湖だの沼地だのは、九州説の人は大好きな話だけれど、明確な間違いw >>271
>発祥の地は畿内大和の纏向遺跡なんだけれど、<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
田舎のような大和が突然「発祥」するという確率が殆どない。
やはり発症するのは、半島や中国の墓や高温焼成の技法を知った筑紫であった可能性が高い。
>>それ以前の畿内の墓制、土器様式とは異なる新しいものが作られている
つまり、卑弥呼を共立した「大連合の新しい墓制・土器様式」を
畿内の第V様式土器文化圏も含めて、みんなで受け入れた、あるいは
みんなで新しく作り上げた、というのが正しいのだと思う<
その「卑弥呼の共立」を大和としているから、この男は×。
>その新しい秩序・連合を寺澤先生は、新生倭国と呼んでいるのだけれどね <
寺澤も、大和発祥思考から抜けられないのであれば、×人間。 >>83
>世間の常識って、九州説のことだよ?
ほら、非常識だ >>287
>まあ、それが1の言ってる畿内と吉備の同盟で列島縦断通商ルートが出来たって奴なんだろう
各地の小国どうしでバケツリレーやってた頃には考えられない流通コスト削減なんだよ
EUが出来たようなもんだ <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
吉備と大和の繋がりの発生は、やはり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の被支配国同士であった、
という事が原因であったんだろうなあ。 >>84
>奈良盆地の一番低いところから、弥生時代最初期の遺跡が出ている
出たな、得意の年代詐称w >>84
>奈良盆地の一番低いところから、弥生時代最初期の遺跡が出ている
もわっとした話でごまかさないでね。
具体的にどの遺跡のこと? >>288
>この記述の「女王之所都」は沖縄本島あたりに位置するとされるが、<
それなら、その記述者もこの男も、魏志倭人伝が読めない・・・・アホ詐欺師。
>当時の沖縄本島では35万人分の食料は生産できなかっただろう。
なので、この「七万余戸」を擁する「女王之所都」は、幻の都だな。<
この男の脳が異常であるだけ。
>投馬国までは実在した勢力だと考えることができるが、
沖縄本島あたりにあるとされる「女王の都」は実在を示す資料とはいえんのよ。<
史料事実を否定曲解して、それを基準にする男は、詐欺師を通り越して、
一種の・・・・アホ詐欺師だろうなあ。 >>86
各種アンケートによると、畿内説は一般国民の支持を得られていない。
学会はカルト集団と化している。 >>84
>まさに豊葦原瑞穂の国だったんだよ
中国地方の語源は知っているかな? >>92
このように
九州説の情報源は
いつも怪しい >>88
>出たな、得意の年代詐称w
相変わらず反証一つなしで言いっぱなしの無駄レスしかできない
九州説の中でも極めて悪質なバカだな
突帯文土器が縄文晩期後半というのは、動かしようがないだろ?
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、後半期の船橋式と長原式段階の遺跡を
取り上げる。長原式は奈良盆地や河内平野では第T –2 様式までの共伴が確認されて
いるから、前期1段階での伴出資料は共存資料として積極的に評価した。
突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結ぶ盆地の南部に集中する様子が
わかる。とくに突帯文様式単純の遺跡(J 型)は、唯一、秋篠川上流の西隆寺下層を
除けば、大和川本流(初瀬川水系)以南にほぼ限られており、おそらくは朝鮮半島−
玄界灘沿岸地域ルートで伝来し、北部九州の穀物センターにおいて定着を果たして
初期の不完全な農耕文化の揺籃を開始した突帯文系様式は、瀬戸内海ルートで河内潟に
入り河内平野への入植を介して大和川を溯上して初瀬川をさらに遡上したことがわかる。
その典型が奈良盆地への最初の入植地が大和川低湿地帯岸の東安堵(B–2 群)であり、
初瀬川水系の庵治、菩提山川の若槻、布留川水系の前栽、八条北、寺川水系の坪井・大福、
高田川水系の箸尾、池尻・土庫、葛下川水系の鎌田、下田東等々に早い時期の入植が
あったことは想像に難くない。」 >>90
>もわっとした話でごまかさないでね。
>具体的にどの遺跡のこと?
自分では何一つ具体的な根拠一つ挙げないくせにww
本当に最低なバカだなww
具体的な遺跡のことも、これまで散々既出なんだよ
それすら知らずに嘴を挟んでくるやつが無能
でも畿内説は親切だから、いちいち具体的な情報を出してる
>>95に書いてあるから、よく読んでおきなさい
前スレの>>133、>>201は、いつになったら「言うまでもない理由」を教えてくれるのかなぁ?
>>199は、いつになったら森に当たる「奴国の様々な文化要素」を教えてくれるのかなぁ?
九州説らしく、また逃げてバックレてるだけだ
これ全部>>90だろ?
具体的に答えて見せろよ!ww
無能がw >>93
>中国地方の語源は知っているかな?
京都、奈良の畿内と、遠の都・大宰府の間、中間に位置する国だから
中つ国、中国なんだよ
そんなことも知らないのかい?ww >>289
>倭人も知らないどころか魏の人間も誰も知らなかった短里を使ったと想定している段階でアウト
狗邪韓国から九州北部まで島々の区間が千里丁度なのも計測は行われていなかった証であるし<
「余」を使っているから、計測記録があって、それからの「近似値」を記載されている事になり、
だから、計測が行われた。
>女王国まで帯方より1万2千里とあるのも淮南子に書いてある事の援用で
世界の果てという事を示す空想的な数字<
淮南子には「余」がないから、魏志と違って、ある程度モデル化された数字。
>そして魏志倭人伝にある会稽東治の東は後漢書などにある会稽東冶の東の事であり <
後漢書は、同時代の実地の見聞計測記録ではなく、
過去の史書や文書の記載の「自己解釈に拠る断定化された書き換え」文書であるから、
「余」の記載もなく断定しており、証拠にならない半分×書。
>会稽東冶県が存在した場所は現在の福建省福州市のあたりでその東は沖縄や台湾
魏志倭人伝はそこを女王国の場所と記しているので行程は架空のものというのが明らか 行程論は終焉<
半分×書の後漢書に拠って、以前の実地の見聞計測記録を抹殺したこの男は、
やはり犯罪者的な・・・・詐欺男である。
>考古学的証拠によって邪馬台国は畿内にあった事になる<
この男は、「邪馬台国」や「畿内」なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言を使い、
文献の「南→東の嘘つき騙し」や、 「余の持つ意味の抹殺」や、「東征毛人五十五國の抹殺」のサギもし、
考古でも、おそらく、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「3世紀末の大和の庄内→3世紀前半」のインチキ騙しをする詐欺師。 >>98
>「余」を使っているから、計測記録があって、それからの「近似値」を記載されている事になり、
あんたが個人的にそんなこと決めたって
ほかの人が認めるわけ
ないだろ >>98
計測した数字にもそうでないものにも余はつける事ができる
なので余のあるなしが距離を計測した証拠にはなりえない >>98
>「3世紀末の大和の庄内→3世紀前半」のインチキ騙しをする詐欺師。
そんな呪文を百万遍唱えたって
通説は揺るがないんだよ >>98
>文献の「南→東の嘘つき騙し」や、 「余の持つ意味の抹殺」や、「東征毛人五十五國の抹殺」のサギもし、
あんたの変な思いつきを世間が認めてくれない
からといって
まがまがしい呪詛ばかり唱えていたら
心がどんどん歪んでいくだけだよ >>302
>女王国は7万戸あって投馬国より南の想定
その位置は魏志倭人伝で会稽東治の東で沖縄か台湾とされている<
「至」の前に「移動があった事を示す文言」がないから、
魏使らは「投馬國」へ移動しておらず、だから側副傍線国説明になり、
「至」は「行けば至る」という「四至説明」文言になり、
従って「里数」を書かずに「日数」で書かれて四至説明での「所要日数」説明になり、
だからその次の「南至邪馬壹國女王之所都」の場合は、
その前の不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっている書かれ方であるから、
その「至」は、途中移動がほぼ不要であった事を示す事になり、
不彌國から邪馬壹國は「ほぼ0里(50里以下)」で、
不彌國からすぐのところに、邪馬壹國の入り口が有った、という事になり、
「水行十日陸行一月」は、
行程の目的地である「女王之所都」の説明文言である事になるから、
「郡から女王之所都への所要日数」説明である事になる。 >>103
>「至」の前に「移動があった事を示す文言」がないから、
>魏使らは「投馬國」へ移動しておらず、
だから、あんたが独断でそんなこと勝手に決めたって
ダメだ
世界を支配してる皇帝サマかなんかのツモリなのか? >>99
認めるよ。
魏志倭人伝は里数に誤差が含まれていることを承知の上で書いている。
だから余と記載されている。 >>100
>計測した数字にもそうでないものにも余はつける事ができる
テキトーないいわけだな?
「できる」という根拠を示せよ。
そんなデタラメな解釈が通じるなら、言語として通用しない。
ああ、キナイコシはコミュ障なのか。 >>104
>世界を支配してる皇帝サマかなんかのツモリなのか?
言葉に勝手な定義を加える貴様のことだ。 >>98
>「余」を使っているから、計測記録があって
計測記録があろうがなかろうが、倭人も知らないどころか魏の人間も誰も知らなかった短里を
使った記録などあり得ない
短里を前提にした論はすべてアウトだ >>106
>「できる」という根拠を示せよ。
5センチの鉛筆
5センチ余の鉛筆
できたよ?
何の意味もないことでイキってる
最近の九州説はほぼこの人一人でバカなことを繰り返し書いてるだけだなwww >>109
測定したから5センチ余りとわかるわけだよ。 >>108
>短里を前提にした論はすべてアウトだ
邪馬台国が九州で確定してしまっては困るからだろ?
「認めたくない」と駄々をこねるだけのクズ >>110
>測定したから5センチ余りとわかるわけだよ。
ここに鉛筆はないし、もちろん計ってもいないんだけど?ww
お前、バカだろ?www >>111
>邪馬台国が九州で確定してしまっては困るからだろ?
いや?
邪馬台国が「九州ではない」ことはすでに3年前に確定している
今は九州説の言う短里の根拠を一つ一つ潰して見せて遊んでいるだけだよ
魏志倭人伝は短里で書いてある
根拠は短里で魏志倭人伝が書いてあるから
という循環論法以外の根拠を出してごらんww >>113
× 邪馬台国が「九州ではない」ことはすでに3年前に確定している
○ 邪馬台国が「九州ではない」ことはすでに30年以上前に確定している ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいたw)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる!
→ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>323
>倭奴国の位置は倭の極南界<
范曄の意図は「倭國これ南界を極むるや、光武は印綬を以って賜う」であり、
その南界を極めたのは
「自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」
の事である事になるから、
この男は×。
>恐らく楽浪より南1万2千里の会稽東冶の東にあったとされていた<
楽浪より南1万2千里は、長里でも短里でも「会稽東冶の東」にならないから、
この男はやっぱり、×男。 短里はないんだよ
単位は皇帝が決めるんだから勝手に変えられない
ただ、国外の地域に関しては遠くから朝貢したことにしたいから長めの距離にしてある
つまり実際より多めの里数にしてある
メートル法であらわせば一里あたりのメートル数は国外の地域の方が短くなるだけの話
現代人が見れば短里になるんだろうが、ないものをあると言っても仕方ない 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>113
3年前?
いよいよキナイコシが狂ってきた。 >>326
>径百歩、直径140mの墓<
「歩」は「短歩」であり、
前方後円墳では「径は長径」であり、どちらでも×。
>鏡には卑弥呼が魏に使いを送ったとされる景初三年の魏の年号が記銘<
明帝は景初二年大晦日〜景初三年元日になくなったから、
「銅鏡百枚」は、景初二年以前に造られた鏡である事になり、
景初三年鏡は、関係なく、×。
おそらく、渡来の呉系楽浪鏡師らに拠って造られ、
卑弥呼から「東征毛人五十五國」の将軍らに下賜された鏡。 >>117
それを便宜的に短里と呼んでいるだけだよ?
その短い里で書かれていることがわかったなら、次は帯方郡から南に一万二千里がどこになるか考えてみよう! >>115の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>118)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲▲投馬国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>328
>比恵那珂遺跡群の勢力が、畿内様式土器を模倣製作し首長墓として那珂八幡古墳を
纏向型前方後円墳として造営している以上、纏向に集まった各地の勢力の一つであることも確定<
庄内だけを比べても、比恵那珂遺跡群の庄内は3世紀前半であり
大和様式庄内は、石塚の3世紀末であるじゃら、模倣製作をして事にならず、
那珂八幡も3世紀後半半ば過ぎであり、石塚は3世紀末であるから、
纏向が比恵那珂を真似た事になり、
類スレ主も、×人間。 >>329
>不彌国の次に水行20日で投馬国 <
「至投馬國」の前に移動があった事示す文言が書かれていないから、
投馬國へは移動いていない。
>その次に水行10日陸行1月で女王の住むところ邪馬台国と書いてあるぞ<
投馬國は、不彌國からの側副傍線国説明であるから「その次」にはならず、、
「水行10日陸行1月」は、
行程の最終目的地である「女王之所都」という文言に説明になるから、
その行程の出発地である「郡」からの所要日数説明になり、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男も、・・・・。 >>116
>范曄の意図は「倭國これ南界を極むるや、光武は印綬を以って賜う」であり、
九州説に入信できる必須条件は、漢文が読めないことだぁな >>115
>>122
卑弥呼の魏帝への朝貢は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」目当て。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈?B北海道?)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮は、筑後川扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>121
つまり短里とは幻だと、わかったのかね? 邪馬台国への距離、戸数、周旋の長さ、墓の大きさなど全て盛った数字だと認識すべきだろう >>333
>そして、祭祀連合・前方後円墳体制が3世紀前半に存在していることから目を背け
逃げ続けている姑息な卑怯者の無能が・・・<
大和における庄内祭祀・前方後円墳体制の成立は、3世紀末頃だから、
この大和説男も×だ。 >>129
デタラメは何度連呼しても
恥の上塗り九州説 >>126の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、「天子」隋煬帝に対等外交&(高句麗遠征の鍵)新羅の朝貢を契機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の歴代倭王権(九州王朝)内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)?欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>121
>それを便宜的に短里と呼んでいるだけだよ?
誇張された設定値には、「縮尺」という概念は通用しないのは分かるかな?
基準もなく、本来の数値と無関係に、キリのいい遠い数字で千里とか、
地の果てまでの距離を想起させるように萬二千里とか置いてあるだけ
もう一度書くけれど、「縮尺」が通用しないんだから、短里という考え方も
成立の余地はない >>128
一万二千里も盛った数字であり、九州北部を指しているということで良いな。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、 >>133
どこを指しているかは知らんが、当然盛った数字だろ 邪馬台国が「畿内ではない」ことはすでに2013年に確定しているので、このスレッドはキナイコシの頭の悪さを笑い、労働やこのスレッドとは別のレベルの高い討論会で疲れた心身を、リラックスさせるためにあるのだったね。。。 例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだったな。。。 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いのだったな。。。 邪馬台国女王台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
磐井の乱で、その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼし前方後円墳の築造を廃止。その妹推古が悲願・仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 もうデマを囀るしか打つ手の無くなった九州説が
みじめすぎ 古墳が出現した頃の纏向は、前の時代の支配者の魂を封印するための場所だったので、
後の時代に崇神天皇と呼ばれた人物は、日本国の真実の大王ではなく、前の時代の支配者の魂を封印するための責任者だった可能性が高いな。。。 銅鐸王国を滅ぼした者が、別の場所を日本国の首都にしていた可能性が高いな。。。 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いという真実を否定できないキナイコシが、反論を諦めて、また嘘を言い放っているな。。
144日本@名無史さん2019/08/16(金) 16:33:12.10
もうデマを囀るしか打つ手の無くなった九州説が
みじめすぎ 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。 >>133
>一万二千里も盛った数字であり、九州北部を指しているということで良いな。
盛った数字だから、現実の地理上の「どこも指してはいない」んだよ
萬二千里が盛った数字だということは、畿内説の根拠にもならないし、
九州説の根拠にもならない
そして、九州説は萬二千里だから九州という言い訳が引き剥がされると
水行20+10日、陸行一月と正面から対峙しなければならなくなる
そして、九州説の言い訳、
「水行の基点は帯方郡」は、渡海と水行をごっちゃにしている時点でゴミ
さらに、帯方郡から北部九州まで十日でいける高速船がないから物理的に無理でもある
「陸行一月は一日の誤り」というのはご都合主義の極致で、根拠なしだから
論評に値しないレベル
九州説は、あらゆる根拠を失って、何もできることがないところまで来ている 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、労働もせずに、24時間、日本人に対して嘘や悪口や意味の通じない意見を、投稿しているな、、、 普段の巻向集落は、滅ぼされた銅鐸王家の死者を鎮魂する役目の、後の時代に崇神天皇と名付けられた、天皇の祖先や、十数件の建物の、合わせて100人くらいの集落で、
箸墓古墳を積み上げている間に、240人程に人口が増える程度の、
夏場は、朝鮮半島から馬や奴隷を捕獲し連行していた九州王国の中国名である倭国から購入した、50頭ほどの馬が草原に飼われているだけの、都というには閑散としすぎた集落だったのだな。。 >>151
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、センターに入院しているので、他にすることがないので、仕方ないのではないのかな、、、 >>143の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである! >>153
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、センターに入院するための試験で、漢字で通名を書き、入院が決定したのだったな。。 >>140
>邪馬台国が「畿内ではない」ことはすでに2013年に確定しているので、
お!
久しぶりの捏造ネタ!
連続句読点の捏造デタラメ活動の原点じゃないか!
もっと、基本に忠実に書いたらいいのに!ww >>154の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返した)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、
A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府(瓦葺き)以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智以降の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→大和分家の摂政・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いという真実を否定できないキナイコシが、反論を諦めて、また嘘を言い放っているな。。
156日本@名無史さん2019/08/16(金) 16:43:35.69
>>140
>邪馬台国が「畿内ではない」ことはすでに2013年に確定しているので、
お!
久しぶりの捏造ネタ!
連続句読点の捏造デタラメ活動の原点じゃないか!
もっと、基本に忠実に書いたらいいのに!ww >>341
文献考古の史料事実や史料実態の根拠や理由を言えず、
逆に、むしろ「南→東」などのようの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしているをしている大和説が、
他人に勝てるわけないだろ。 巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだが、
各集団が、纏向からの距離の長い者は、短く働き、纏向からの距離の短い者は、長く働き、
平均して7日働けば、8000人余りで、 延6万人の労働力となるね。。。 奥山氏は、まだ、完全に論破された一万二千里のことで、食い下がっているな。。。
150日本@名無史さん2019/08/16(金) 16:38:43.74
>>133
>一万二千里も盛った数字であり、九州北部を指しているということで良いな。
盛った数字だから、現実の地理上の「どこも指してはいない」んだよ >>160
>巻向に、各地の村長が引き連れて
これが現実だったら、それだけで王権の所在地と認定するのに十分だな
遠地から村長を呼び出せるだけの権力があるんだからww 奥山氏は、頭が悪いな。。。
162日本@名無史さん2019/08/16(金) 16:52:09.89
>>160
>巻向に、各地の村長が引き連れて
これが現実だったら、それだけで王権の所在地と認定するのに十分だな
遠地から村長を呼び出せるだけの権力があるんだからww >>342
>>そして、纏向遺跡の桃核の年代測定から、むしろ半世紀もずれていないと見る方が
妥当性が高い https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg<
その図が、1年以内の桃の種の筈が110年もの幅になってしまっているような失敗計測であった、
という事は指摘済みだよ。 >>163
そうだね。。。
首都が墓地である必然性は、全くないな。。。
むしろ、纏向に各地の村長が引き連れて労働力が集められたという真実は、普段の纏向には人民が居なかったことの傍証になることが、頭の出来栄えが悪い奥山氏には、理解できないのではないのかな。。。 >>343
>畿内説が 国粋皇国史観的だとか 人種差別戦争的儒教=狂気 だとか<
そんなキョクウ戦争狂的な・・・・発言を繰り返していたのは、
類スレ主だ、と言っているんだよ。 >>165
銅鐸王国を滅ぼした九州倭国が、奈良盆地にあった銅鐸王国の王家の者達の魂を、纏向に封印したのではないのかな。。。 独断の鬼道・畿内「箸墓教」
・ヒミコの箸墓を奉る論と論者はすべて鬼神と自賛
・反論する説はすべて邪教であり、其の論もすべて偽りと放言
・古来、辺鄙奈良盆地は新興宗教ウジャウジャ お前たちの妄想なんて相手にされていないんだけど、
はやく精神科に行け >>344
>明確に、投馬国は五万戸の大国で女王國より以北の国と
魏志倭人伝に明記されてますねww<
ダメだ。
不彌國から南至の投馬國は「至」の前に「移動した事を示す文言」がないから、
移動しておらず、南へ「水行二十日」という位置説明しかなく、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってそのすぐ南にの邪馬壹國女王之所都がある事になり、
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数説明になるから、
投馬國は、「自女王國以南」の国になる。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
高祖山を夏至の日の出の方向に臨む弥生王墓である三雲南小路遺跡は随伴する細石神社の祭神が天孫ニニギの妃である木花咲耶姫であるが、三雲遺跡そのものは男女のペアであり、ニニギと木花咲耶姫かもしれない。
ニニギは筑紫の日向に降臨してからクシフル山の高千穂宮で即位したと伝えられ、後世の怡土城、高祖城に相当する高祖山の山城がそれであろう。
現在では高祖神社(高祖宮)として糸島平野を見下ろしている。
三雲遺跡は璧や内行花文鏡などが副葬された倭王の墓であり、細石神社は江戸時代まで漢委奴国王印を保管していたという。
つまり伊都は倭王ニニギの王都、筑紫の日向であった。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺や博多湾沿岸のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 >>165
>首都が墓地である必然性は、全くないな。。。
でかいモニュメントは、人に見られてナンボという代物
最も多くの人に見られる場所に作るんだよ
基本は首都で、次点が首都に行くための街道沿い
エジプトのピラミッドはーとか言ってたやつがいたけれど、
当時の王宮からすぐ近くだってばれて消えたなww >>943(前スレ)
>こりゃおかしいね。
《三國志》には「三尚方」及び「中尚方」が書いてある。
印象だけでおかしいと思うほうがおかしい。
《王觀傳》
「少府統三尚方御府內藏玩弄之寶,爽等奢放,多有干求,憚觀守法,乃徙為太僕。」
《任城威王彰傳》
「青龍三年,楷坐私遣官屬詣中尚方作禁物,削縣二千戶。」
《ケ哀王沖傳》
「景初元年,j坐於中尚方作禁物,削戶三百,貶爵為都鄉侯。」
《彭城王據傳》
「景初元年,據坐私遣人詣中尚方作禁物,削縣二千戶。」
《明帝紀》の注
「魏略曰:(略)中尚方純作玩弄之物,(略)」
《彭城王據傳》の注
「魏書載璽書曰:『(略)齎珠玉來到京師中尚方,多作禁物,(略)』」 畿内倭種は邪神教に満足してろ
正しき伊都国は、
末盧国から唐津古道を南へ300里、さらに佐賀古道を東へ200里して、合計陸行500里で到る佐賀川上の砦城。
また投馬国は、
吉野ヶ里・不彌国から南へ行けば至ることができる。帯方郡からは水行20日の2万里の旅。 纏向は古墳造営基地なのです
多くの証拠があるのに未だに纏向を王都と言う畿内説互助会 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>177
>纏向は古墳造営基地なのです
>多くの証拠があるのに
多くの証拠があるのに
なんで、その証拠をひとつも出さないの?
九州説の人たちの行動は意味がわからない エジプトと日本は、関係性が無いな。。。
そして、魏志倭人伝時代が終わった後に、日本列島でどのような物事が発生したかを、頭が悪いことがバレてしまった奥山氏がどのように想像しても、真実とは関係性が無いな。。。
真実としてわかっていることは、銅鐸王国が消えて、古墳が出現したという物事なので、銅鐸王国を滅ぼした者が、銅鐸王国の首都の近くに、銅鐸王国の王家の魂を封印したという仮説が、最も、信頼できるのだったな。。。
173 名前:日本@名無史さん 2019/08/16(金) 17:15:59.73
>>165
>首都が墓地である必然性は、全くないな。。。
でかいモニュメントは、人に見られてナンボという代物
最も多くの人に見られる場所に作るんだよ
基本は首都で、次点が首都に行くための街道沿い
エジプトのピラミッドはーとか言ってたやつがいたけれど、
当時の王宮からすぐ近くだってばれて消えたなww >>176
佐賀川上バカも壊れてきたなw
基本相手にされてないし、相手にされるときにはフルボッコだしww
佐賀川上に3世紀の主要な国を思わせる遺跡はない
周辺に伊都国の残存地名もないし、そんなところに伊都国はない、でおしまいだ >>167
>ただの墓場の日雇い労働者。
ただの墓場、じゃなくて大王墓なんだよww
大王墓が作れるのは大王家だけ
大王墓を作るための動員がかけれれるのは、
大王権力がそれだけ大きいってことww 破綻した邪馬台国畿内説という嘘を宣伝している奥山氏が、またもや、完全に、論破されてしまったな。。。 >>181
また畿内説は、
根拠を示さずに佐賀川上を否定してる >>183
銅鐸王国を滅ぼした大王が、銅鐸王国の首都の近くに、巨大な古墳で銅鐸王国の王家の魂を封印したという真実は、ゴキブリのようにしぶとかった邪馬台国畿内説を完全に叩き潰してしまいましたね。。。 >>171
>ダメだ。
>不彌國から南至の投馬國は「至」の前に「移動した事を示す文言」がないから、
>移動しておらず、
「至」の前に「移動した事を示す文言」がないと
どうして移動してないことになるの?
誰が、どんな理由でそう決めたの?
九州説はなんでも理由を秘密にするから
他人にはまったく意味がわかりませんね いい加減に、纒向は尾張の傘下の流通センターだと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏の祖である饒速日物部氏の王国だったんだよ。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>150
一万二千里はどこも指していない、という書き方したらまたあちこちからツッコミ入るぞw
どこも指していないわけじゃなくて邪馬台国を指しているんだよ
ただ、それが倭国内のどこを指しているかはわからない
九州かもしれんし、阿波かもしれんし、纏向かもしれんし、他の場所かもしれん
日数に関しても盛った数字とみなすのが妥当
距離は盛り盛りの数字で日数は盛ってないと考えるのはこれまたご都合主義
遠くから朝貢しに来てくれたことにしたいのだから、当然実際よりもかなり多めの日数だろう
結局、魏志倭人伝からわかることは記載されている場所よりもずっと近い場所に邪馬台国があることだけだろう >>184
>根拠を示さずに佐賀川上を否定してる
示してあるだろ?
・3世紀の主要な国を思わせる遺跡はない
・周辺に伊都国の残存地名もない
通説というか既に定説の伊都国比定地は
・弥生王墓を含む遺跡集積地の三雲遺跡群
・怡土郡(合併して糸島市)という地名が現代まで残る
・記紀にも怡土県主がある
と条件が揃っている
さらに、伊都国にいた一大率が臨津搜露を職掌としているのに、
佐賀川上には海がないのも否定ポイント
佐賀川上伊都国説は、魏志倭人伝原理主義をこじらせただけの駄説 >>184
根拠なら再三述べて来たよ
反論できないから事実を曲げて、存在しなかったことにしてるんじゃないかな?
そんなインチキをしてないと弁明できるなら、無視したり逃げたりしないで、ちゃんと反論してごらん
根拠はこうだ
唐津から佐賀方面に行ってしまったなら、糸島も博多も通らなかったことになる
確実に大陸や半島との交流の中心地であった糸島や博多が倭人伝に登場しない
それは不合理だ
だから佐賀ルート説はあり得ない 駄説というよりはニアミスだと思う。
川上は壹與の都なんだろう。 畿内説でも誰でもいいから
古い順に並べてくれねーか
纒向石塚古墳・・・前方後円墳
纒向矢塚古墳・・・前方後円墳
纒向勝山古墳・・・前方後円墳
東田大塚古墳・・・前方後円墳
ホケノ山古墳・・・前方後円墳
箸墓古墳・・・・・前方後円墳(円墓と言う人もいるが) >>192
なんで九州説はいつも理由を言わないかねぇ 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>189
>一万二千里はどこも指していない、という書き方したらまたあちこちからツッコミ入るぞw
>どこも指していないわけじゃなくて邪馬台国を指しているんだよ
いいえ、そういう言い方をするなら、女王國・倭国までの距離であって
倭国内のどこかを指しているものではない、だな
東京からハワイまで6000キロって言ったときに、
それがホノルルまでの距離だって言っても意味ないだろ?ww
実際ホノルルまでの距離は6000キロじゃないし >>192
>川上は壹與の都なんだろう。
そんなものはない
魏志倭人伝に「政等、以檄告喻壹與」とあるが、
台与の都が邪馬台国がら遷ったなんて話は一言も書いてない
どうしても主張したいなら、その都の遺跡を掘り当ててから来てくれ >>195
>なんで九州説はいつも理由を言わないかねぇ
理由が「僕がそう考えたから」
だからだよ
九州説の脳内では「当たり前」のことで「言うまでもないこと」と
いう認識になってるww 纒向石塚
ホケノ山
勝山
矢塚
東田大塚、箸墓古墳 の順 >>190 ←←根拠不足
>>191 ←←根拠不足
>>192 ←←根拠不足
忙しや忙しや、、。
IQ200の玄人陳寿の文章に、省略は多々あれどウソ偽りはない。
ま、素人さんに分かるよう、省略を補いつつゆっくり返事を書くことにしよう。 >>177
>纏向は古墳造営基地なのです
現段階では、そのような説も成り立たんわけでもないが
慌てなさんな >>345
気の狂ったように「南→東」などの嘘付き騙しの大和説投稿を続け、
九州説者の全てに「半島人」であるかのような蔑視投稿をする類スレ主らの存在は
大和説が、国粋皇国史観の殺戮戦争狂的な狂気の産物という事を証明している お前たちの妄想なんて相手にされていないんだよw
古墳なども家が造った・・・?みたいな事を言いたいのかもしれないけど >>194
>古い順に並べてくれねーか
纒向石塚古墳・・・前方後円墳
纒向矢塚古墳・・・前方後円墳
纒向勝山古墳・・・前方後円墳
東田大塚古墳・・・前方後円墳 ここまで纏向型前方後円墳
ホケノ山古墳・・・前方後円墳 段築葺き石有
箸墓古墳・・・・・前方後円墳 定形化前方後円墳
基本的にこの順番でいいよ
東田大塚古墳、ホケノ山古墳、箸墓古墳はほぼ同時期に作られたとする見方もある >>354
「南→東」などの嘘付き騙しのように
大和説には、都合の悪い事は伏せて隠して、
理由の説明が何もなく結論だけを連呼する習性がある
何度も、何度も 家は仏教、寺院などの話をしていて、
古墳などを造る仕事もしていないし >>201
>IQ200の玄人陳寿
こういうのは、もの知らずのバカしか書かないww
IQがなんだか分かってないんだろうなww 妄想だと言っているんだよ、お前の下で仕事をしていたとか、
そういう話にしたいんだろうけどw 独断の鬼道「畿内箸墓教」
・ヒミコの箸墓を奉る論と論者はすべて鬼神と自賛
・反論する説はすべて邪教であり、其の論もすべて偽りと放言
・そういえば、辺鄙の奈良盆地は新興宗教ウジャウジャ >>87
その瀬戸内海一元ルートのできたのが3世紀中頃。
大和の纏向政権がのしあがる最初であり、北部九州の倭国が解体消滅する最初でもある。
テンプレは、そのルートの成立が2世紀末とし、その根拠として弥生V式土器の北部九州への波及を挙げているのだが、
V式の波及は単なる流行の拡散であり、政治的な意思の介在はなかったことが明らかとなっているので間違い。
誰かも言っていたように、ピンポイントで大和の土器が北部九州に現れるのは庄内3土器。3世紀中頃。
この時期に瀬戸内海の一元ルートができた。 このスレッドを活発にするためには、奥山氏のIQ60は低すぎるのだったな。。 IQ50の素人がなんか呟いてるので、返事をしてやったほうがよいのではないかな・・。 最近(明治〜その後?)の話なら知っている、
セメント関係の〜という話とか >>212
>奥山氏のIQ60は低すぎるのだったな。。
私は奥山氏ではないが、IQ160あるよ?
ただまあ、IQテストっていうのは発達の遅れた人を見つけて
支援するためのスクリーニングだから、上側はあまり意味がないんだけどね >>201
なーんだ
また九州説さん、まったく反論できないのか >>176
また「行程パズル屋」が、妙な場所に伊都国を比定して来たぞ。
佐賀川上は、唐津湾でも博多湾でもなく、反対の有明海側。
しかも吉野ヶ里遺跡のように山の方で、有明海に接してもいない。
そんな不便なところに一大卒がいたら、
「帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
と言う、津(港)での文書や荷物の確認が出来ないじゃないか。
一体どんな「行程パズル」をやったら、こんな妙な場所に伊都国が比定されるんだ?
しかも、伊都国関係でこれまでにいろいろ出た遺跡や遺物も全部無視して、なかったことに。
こんなの、3秒でダメだと分かるだろ。
まあいつものごとく、「半島からの船が来たら、佐賀川上から唐津湾まで、
半日で走って行くんだ!」みたいなことを、顔を真っ赤にして力説するんだろうが…。
これだから九州説論者は…。 >>211
>V式の波及は単なる流行の拡散であり、政治的な意思の介在はなかったことが明らかとなっているので間違い。
そんな説は聞いたことがない >>364
>相互に記述対象が違うのだから、補完的補助的な説明ではない。
明らかに相互に独立した記述・説明だ<
陳寿の倭人伝での「道里」の文字使用例は、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と「計其道里、當在會稽東治之東」の二つであり、
それには、「日数」を計測した形跡はなく、「里数」の計測だけだ。
そして、「水行二十日」や「船行一年可至」は、倭人からの聴取による補完的な記載であるし、
「水行十日陸行一月」は、魏使らの「郡から女王之所都」への所要日数説明であり、
魏使らの「萬二千余里」の記録からの補完的補助的な説明記載だ。 『もののけ姫』でいうと神殺し?
何の話なんだろう、なぜか、そのような気がするんだけど >>370
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に何の反論もできない大和説に比べたら
この世に役に立たないモノなど無いな 『もののけ姫』
なぜかアサノという人物(キャラ)が出てきたり、
家の老婆もセメント(あさの)の話をしているし >>220
>そして、「水行二十日」や「船行一年可至」は、倭人からの聴取による補完的な記載であるし、
>「水行十日陸行一月」は、魏使らの「郡から女王之所都」への所要日数説明であり、
なんで
「水行二十日」が倭人からの聴取で
「水行十日陸行一月」が魏使らの所要日数説明
だと断定するの?
理由は? >>205
すると箸墓を、径(円)墓とするなら
すべて、径(円)墓でいいと言うこと??
これだけの、大きな墓があるのに倭人伝では記述がないのも引っかかる 東南陸行500里の正しい位置に、
3世紀を思わせる建物群と、伊都国を連想させる地名が残っていたら、IQ20のサルでも、IQ10のイヌでも怪しいと気づく。
そしてサルは木々の枝を揺らし、イヌはここ掘れワンワンと訴えるだろう・・。 >>201
>>>190 ←←根拠不足
>>>191 ←←根拠不足
>>>192 ←←根拠不足
おいおい
九州説はまた全く具体的な話をせずに逃亡かよ
それじゃあ反論でなくて
捨てゼリフじゃねーか >>221
知らないだろ
『もののけ姫』が人を食らう「山姥」になったのだ 日本昔話と、ほとんど同じだしな〜w
あのモモタロウの話も、伊達郡? >>373
>循海岸水行と明記されてるのに韓国陸行と言い張るのもダメ<
歴韓國乍南乍東も出来ず、
倭王武の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」の記録も無視し、
郡から倭地まで中国大船で直行せず、
狗邪韓國から「持衰が乗った倭船」に乗ったという事は 、韓國陸行であった、という証拠。
>島を陸行と言いながら直行せず、二辺を陸行という作り話も ダメ<
陳寿は「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の計算では、
對海國と一大國のそれぞれの二辺を計上していた、から。
大和説はダメね。 家は、当時()そこに住んでいたんだよという話
『伊達の桃太郎』? >>211
>V式の波及は単なる流行の拡散であり、
流行の拡散とする根拠の方がないと思うんだが?
あるなら教えてくれ 行程記事の方位は、末盧国到達後から、実方位と違ってるんだよ。
まずは、そこを認めないと。
そこを頑なに「行程記事の方位は正しいのだ」と言い張るから、
末盧国から東南→東南→東、と言う風に、
糸島市も博多湾も無視し、山越えをして、
何もない草深い内陸に分け入って行くことになる。
何もないんだよ、そこには。そこは何もない場所だ。
何故ならば、行程記事の方位が実方位とズレてるんだから。 >>116
1里140mならなる
まあ何の意味もないけれど
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は実際の場所ではないという事だ >>120
短里というものはなくて
卑弥呼が魏に使いを送った年は
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に景初三年と書いてある >>231
>歴韓國乍南乍東も出来ず、
理由もなく決め付けても誰も信用しないよ
九州説特有の妄想だ
>倭王武の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」の記録も無視し、
時代ちがうだろ
それに「道」は海路でもいいんだろ?
九州説特有の妄想だ
>郡から倭地まで中国大船で直行せず、
>狗邪韓國から「持衰が乗った倭船」に乗ったという事は 、
それも何の根気もない九州説特有の妄想じゃないか
話にならない >>124
投馬国へ動いてないとはどういう事
動いてないという事はもしかして投馬国は不彌国のすぐ南にでもあるの
そしてその次に水行20日陸行1月で邪馬台国? 龍宮〜寒いな〜?
という人物がいるでしょ、浦島太郎(仮名、キャラクター名) >>231
>陳寿は「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の計算では、
>對海國と一大國のそれぞれの二辺を計上していた、から。
>大和説はダメね。
陳寿がそんなことをしたって根拠が何もないから
そんな九州説がダメなんじゃないの? >>197
>いいえ、そういう言い方をするなら、女王國・倭国までの距離であって
>倭国内のどこかを指しているものではない、だな
倭国は広いのだから(周旋五千里)、当然どこかの基準があって、国境までは7千里と後漢書にあるのだから、一万二千里は王都までだよ。
ハワイまでの距離だって、普通は成田ホノルル間の距離だよ。 >>395
>別に博多から運んでくる前から、畿内には鉄が潤沢に合ったのは確実だぞ <
ダメだ。
大和の「鉄鏃の大量」は、3隻末〜4世紀のホケノからだ。 >>235
では九州上陸から残り二千里でどこになる? >>239
そこ、突然放射説なんだよ
距離減らすのに必死な九州説の無駄アガキ >>401
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は
負けを悟って発狂した存在
けどいくら発狂しても負けは負け >>245
陳寿の視点は帯方郡にあるから、都万国へは帯方郡からの放射読み。 >>243
>ダメだ。
>大和の「鉄鏃の大量」は、3隻末〜4世紀のホケノからだ。
ダメだ
そんなこと根拠もなく言い張ってもな モモタロウw
バビィという河童も出てきたり、
なぜか家の写真と同じでしょ、キュウリのような葉も写っているし >>211
テンプレの弥生V式土器って、あくまで弥生式土器だからねw 軽量薄型土器(「東阿波型土器」)じゃないから、騙されないように! @阿波 >>244
会稽東治の東沖縄か台湾の辺り
と魏志倭人伝には書いている
>>247
水行20日 >>242
>ハワイまでの距離だって、普通は成田ホノルル間の距離だよ。
成田ホノルルの距離は、6000キロではないが、ハワイまで6000キロは間違いではない
まあ、魏志倭人伝の萬二千里は完全に現実の距離とは無縁だけれど
ハワイがいやならオーストラリアにしようか?
日本からオーストラリアは8000キロだが、この8000キロは、
シドニーまででもメルボルンまででもキャンベラまででもないだろ?
でも、オーストラリアまで日本から8000キロという言い方は、
オーストラリアまでの距離感を正しく伝える数字だし、実際に間違いなく正しいが、
オーストラリアの特定地点を指すものではない
千キロ単位の丸めた数字が特定の地点を指すと考える方がおかしい キュウリのような葉、葱の華が写っているでしょ?
・・・・・寒いな〜(不明)の子供の頃の写真だと言っているし
何かの制服を着ている子供 >>211
テンプレの弥生V式土器って、あくまで弥生式土器だからねw 軽量薄型土器(「東阿波型土器」)じゃないから、騙されないように! @阿波 >>242
>当然どこかの基準があって、国境までは7千里と後漢書にあるのだから、一万二千里は王都までだよ。
この最初の「当然」が当然ではない
それは>>242の個人の感想
いわゆる「理由は僕がそう考えたから」に過ぎない
「国境までは7千里と後漢書にあるのだから」
これは、魏志倭人伝の
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
を引用しただけ
一次資料ではない >>234
>何もないんだよ、そこには。そこは何もない場所だ。
>何故ならば、行程記事の方位が実方位とズレてるんだから。
その理屈は良く理解できる。
つまり、実方向とはズレた偽りの行程記事が指し示す東南500里は、佐賀川上のことなんだよな。 >纏向古墳造営基地多くの証拠があるのに<
↓
>>179
>なんで、その証拠をひとつも出さないの? <
1、3世紀初めに突然現れ、4世紀に亡くなる遺跡(纏向近辺の古墳群の完成とともに無くなる)
2、集落跡もなく、生活用品も少なく、土木具が多数発見
3、近隣から持ち込まれた搬入土器もあり、出稼ぎ労務者とも考えられる、
4、巨大な運河が築かれており古墳造営の資材が運ばれている・・・都市建造のためなら、大規模な集落跡等が見つかればいいのだが無い
5、葬儀やお参りにための掘立柱建物がある。お供え用の桃も発見されている。また吉備からの祭器もあり葬儀の模倣かも?
6、無防備な遺跡である。・・ 鉄の武器・樓觀城柵嚴設・兵が常駐していた形跡・いずれも???
纏向の遺物は3世紀でも構わない
3世紀に全国各地に人がいたのだから、纏向だけが人がいなかったとはだれも思わないから 妹がいるんだけど、5月15日生まれw
いぬ、さる、きじ・・・、何の話なんだろう
まいく・おーの曲なのかな、
おーらばとらーのような曲 >>248
じゃあ、どうして奴国は帯方郡からの放射読みをしないんでしょうねぇ?
もしかしてそうしない理由は、九州説の都合でってことはないですか? 某まいく・おーの曲、
黒い犬?を飼っている人物が出てくるでしょ?
おーらばとらーに殺されたり 箸墓だったっけ
土器に付着した炭化物が3世紀だと・・
箸墓近辺だけでなく3世紀に全国各地で土器で煮炊きしてたよな >>258
それの、どれが纏向が古墳造営基地だという証拠? >>262
>箸墓近辺だけでなく3世紀に全国各地で土器で煮炊きしてたよな
全国で出る3世紀の煮炊き土器は、纏向遺跡並みの大遺跡から出土したものではない キナイコシ
論客が来ると沈黙か罵声かぁあああああああああああああああああああああああ >>263
>それの、どれが纏向が古墳造営基地だという証拠?
それとは別に、
大和・柳本古墳群の終了とともに、纏向遺跡も消滅するから。 @阿波 >>271
ないものが見え、あるものが見えない後期高齢者 九州説の行動は本当に精神病の症状そのものをやってるからな 歴史の話なら、卑弥呼は190年から247年までの王だぞ?
継続国家としては、57年〜247年 まあ0〜120の後漢、238年までの公孫氏交易。
これが、考古立証の遺物だよ。
247年に卑弥呼の墓ができるためには
100年程度の安定政権の存在は必要。
奈良遷都の前は、どこよ? >>275
ならば投馬国が除外される理由が無いよな あの、まいくーの曲の話、
少女(アニメーション)が出てくるでしょ?
どこかの姫とか、そういう設定? 根拠は僕がそう思ったから
編年研究は信じない
文献解釈はアクロバット
考古遺物は弥生全期間で見るが弥生終末期限定のものは見ないww >>277
なんかマトマリのない文章だけど、なにが言いたいの? 吉野ヶ里遺跡の面積は、0.5㎢。
他方、纏向遺跡は吉野ヶ里の約6倍の、3㎢。
都市と言っても差し支えない規模で、列島最大の市的機能を有する。
「纏向学研究−第1号−2013」(pp.20-21)より以下引用。
『纒向遺跡は3世紀初頭に出現し、ほぼ3世紀にわたっ
て盛行した集落遺跡であるが、発掘調査によって明らか
にされつつあるこの遺跡の特性は、弥生時代の巨大農耕
集落と比べても大きく異なる。纒向遺跡の特徴と特異性
は次のとおりである。
@3世紀初めに突然出現した、きわめて計画的に造営
された集落遺跡で、その規模は最盛期では3㎢にも達す
る。弥生時代の農耕集落は拠点となる巨大なものでも30
万uほどであるから、規模から考えても都市的規模をも
つと言ってよい。
A搬入土器の確率が15% 以上と高いだけでなく、そ
の搬出元は北部九州から南関東、韓半島にまで及ぶ。3
世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに纒向遺跡にまさ
る例はなく、列島最大の巨大な市的機能をもっていたこ
とが想定できる。』(引用終わり) むかーし515事件とか、あったでしょ、
犬を飼っているような設定?何の話なんだろう >>277
>238年までの公孫氏交易
これを九州説はよく言うが、公孫氏と倭国の交流を示す文献記録は一切ない
また、漢鏡6期の鏡が倭国に入らない状況で、
公孫氏との交易を考えるのは難しいというより無理がある >>280
佐賀川上バカの人はこれだよね
「文献解釈はアクロバット」 >>287
ウィキペディアが根拠っていうのはちょっと恥ずかしいぞw
九州説が変な情熱を持って編集し続けているしww >>288
大和・柳本古墳群の終了とともに、纏向遺跡も消滅するから。 @阿波 「纏向学研究−第1号−2013」(p21)より以下引用。
B農耕具などの食料生産のための用具に乏しく、農耕
集落的色彩は小さい。替わって土木具が目立ち、矢板で
護岸された長大な運河が当初から大規模な都市建設のた
めに設けられるなど、土木工事の様子が読みとれる。
C鉄滓や大形蒲鉾形鞴羽口が出土しており、高度な鉄
器生産(鉄鍛冶)が行われていたことが推定される。
D湧き水を木樋で引いた列島最古の「導水施設」が祭
祀遺物とともに発見されている。火と水を使ったこの祭
祀は、その後、王権と政治的な関係を結ぶ各地の王(豪
族)の祭祀にも取り入れられることとなる。また、吉備
地方の王墓に起源をもつ弧帯文や特殊器台・壷など、王
権祭祀に関わる遺構、遺物が多々見られる。
E居住空間のほぼ中心で居館(宮殿?)遺構が発見さ
れ、周囲を柵ないし塀で囲まれた東西軸線上に精巧に配
置された三棟の掘立柱建物が検出された。これらの建物は、
3世紀前半に機能していたことは明らかで、この時期に
これだけの企画性をもった建物群は未発見であり、D 棟
は約238 uで列島最大の規模をもつ。周囲にはさらに外
郭が存在する可能性が高く、推定される居館の面積は
15000uである。これも列島最大の広さとなる(図16)。
F居住空間縁辺に、定形型前方後円墳である箸墓古墳
(全長280m)と、それに先駆けて造営された全長90m前
後の列島最古の纒向型前方後円墳3基と全長120m の定
形化前方後円墳2基が存在する。列島最古、最大の前方
後円墳群であり、前方後円墳祭祀が纒向遺跡から発信さ
れたことになる。(引用終わり) 都の移動とともに皇帝陵も移動するのは漢帝国見てりゃアタリマエ >>288
>それがなんで証拠になるの?
纏向遺跡が、突然消滅した理由が他に見当たらないから。 @阿波 >>229
魏使の認識として
前方後円墳=円墓??
後円部のみ墓とみなしたのか?
それと、卑弥呼の墓以前に都は墓だらけなのになぜ記述が無いのか?
魏国では50M級の墓がいくつもあっても当たり前だったのだろうか?? 某まいく・おーの曲w
オーラー・バトラーが出てくるでしょ、
犬を飼っている人物が殺されたり、消された? >>229
魏使の認識として
前方後円墳=円墓??
後円部のみ墓とみなしたのか?
それと、卑弥呼の墓以前に都は墓だらけなのになぜ記述が無いのか?
魏国では50M級の墓がいくつもあっても当たり前だったのだろうか?? >>229
魏使の認識として
前方後円墳=円墓??
後円部のみ墓とみなしたのか?
それと、卑弥呼の墓以前に都は墓だらけなのになぜ記述が無いのか?
魏国では50M級の墓がいくつもあっても当たり前だったのだろうか?? >>284
公孫氏自体180年〜238年であって、
これが無いなら、交易フロントの邪馬台国は無い。
大乱の九州より、半島東岸交易の日本海ルートの方に在るから。
238年に卑弥呼が奇襲で消えた帯方郡の魏に朝貢ってのは有り得ず
安定の200年辺りから、238年遼東に追われた公孫氏との交流がはずだった、だろ?
まさか畿内説は九州から出たもんは見ない奈良鷲かw >佐賀川上バカの人はこれだよね
>「文献解釈はアクロバット」
うん畿内厨のいう通りだ、
倭人伝の偽りの行程記事が指し示す偽りの東南陸行500里は、佐賀川上のことなんだよな。 なぜか同じ話だしな・・・、
おーらばとらー・・・鬼などの国の姫とか? >>288
纏向遺跡は、「忌部はん」 の「古墳造営前線基地」なんだよ。 @阿波 農耕集落的な生活痕跡が見られないので纏向遺跡は
「出稼ぎ労務者が集められた古墳造営基地」だと言うのは、
いったいどういうロジックなのか?全く意味不明。
巨大農耕集落の10倍の規模で、宮殿があり、大規模な市があり、
鍛冶施設、導水施設もあると言うのに。
そんなことを言い出したら、藤原京、平城京、平安京だって農耕集落じゃないんだから、
「出稼ぎ労務者が集められた土木建設基地」と言うことになってしまう。本当に理解不能。 「纏向学研究−第1号−2013」(p.22)より以下引用。
第2は、纒向遺跡には搬入土器だけでなく、各地の土
器型式を纒向遺跡周辺の土で作った土器も時代が下るほ
ど多い。それは、都市建設や古墳造営に駆り出された人々
だけでなく、王権を支えた各地の王たちの出先機関や居
住地もあったからではないか。一方で、各地で畿内系土
器が目立つのもこの頃からである。そうした土器群が前
方後円墳の築造地域に重なるのも王権との関係を想定さ
せる。また、中国鏡や鉄器の出土量はそれまでの北部九
州中心から次第に畿内中心へとシフトする。物流が北部
九州中心から畿内中心へとベクトルを大きく変換し始め
たのである42)。(引用終わり) 出稼ぎとかそういう話ではない、
ただ街(都市)を建設したという話だろう、
機能する都市、自分たちの住む、暮らす街、国? 312
そこの一番上の人が、モモタロウでいうと鬼?
王、国王のような人物
知っている人は知っていることなんだけど 纏向遺跡が、前方後円墳体制を全国に発信する中心地であったことは、
何をどうやっても動かしようがない。
それを「古墳造営基地」などと、見苦しい言いがかりをつけるのは、
いい加減にしてもらいたい。 >>311
>纒向遺跡には搬入土器だけでなく、各地の土器型式を纒向遺跡周辺の土で作った土器も時代が下るほど多い。
各地の「忌部はん」 がどんどん集まってきたんだろうね。 @阿波 >>300
>238年遼東に追われた公孫氏との交流がはずだった
でも、実際公孫氏が半自立の時代には、銅鏡などの威信材の輸入が途絶えてるよね?
記録もないのに、あったはず、というのは
「根拠は僕がそう思ったから」の典型w >>311なるほどね
>都市建設や古墳造営に駆り出された人々<
古墳造営はできたが都市建設は未完成だとと言うことですな
>王権を支えた各地の王たちの出先機関や居 住地もあったからではないか<
各地の王は掘立柱建物に集められたか、古墳造営に駆り集められた人々と同じ粗末な家に住んでたということですな
>中国鏡や鉄器の出土量はそれまでの北部九
州中心から次第に畿内中心へとシフトする< >>314
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>302
>うん畿内厨のいう通りだ、
>倭人伝の偽りの行程記事が指し示す偽りの東南陸行500里は、佐賀川上のことなんだよな。
だから、遺跡がなかったところに国があったと想定するな!ってこと
佐賀川上バカは、やはりバカ >>318
>碌な集落遺跡の無い畿内に
見ないふり聞こえないふりww
https://i.imgur.com/6rXI0OP.jpg
こんなに密にいっぱいあるのに 出稼ぎ人夫の飯場が、巨大農耕集落の10倍の広さで、
宮殿があって大市があって、各地の様式による土器の再生産までしてた。
一体どんな飯場なんだよ? >>277
正論
街宣車がうるさいようだが
畿内説で明確に答えた奴はいない >>321
>こんなに密にいっぱいあるのに
はははははは。 だから・碌・な・集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>320
>議論する能力が無い 去れ
自己紹介乙w
いつになったら「言うまでもない理由」を教えてくれるのかなぁ?
いつになったら「奴国の様々な文化要素」を教えてくれるのかなぁ?
本当に九州説はやることなすこと卑怯で矛盾だらけ >>322
普通はそれを「飯場」ではなく「都市」と呼ぶ。 >>324
>だから・碌・な・集落遺跡の無い畿内に
唐子鍵より大きな集落遺跡は、阿波に一つもないんだけど?ww 纒向からどこに遷都したのかが謎
河内と言う人もいるが、河内から明日香へ遷都する必要性が何もない >>324
で、阿波の遺跡は纏向の何倍の面積なのさ? >>319
>だから、遺跡がなかったところに国があったと想定するな!ってこと
>佐賀川上バカは、やはりバカ
畿内厨が云う通り、
偽りの倭人伝が語る東南陸行500里にあった偽りの伊都国は、何もない佐賀川上だったでいいんだよ。 >>327
そして纏向は唐子・鍵遺跡の10倍の規模なんだよね。 194 258 298 308 309 310
320 323 328
かなあ 『伊達の桃太郎』
でも何でも良いんだけど、画像を調べてみて。
犬(不明)が出てくるでしょ?・・・・・・・・某まいく・おーの曲w このあたりの変遷に詳しい方へ
記紀は仏教崇拝?ヒンドゥー教?アマテラス??
時の権力者が宗教を利用したのは理解できるが
自然崇拝?????? >>253
>日本からオーストラリアは8000キロだが、この8000キロは、
>シドニーまででもメルボルンまででもキャンベラまででもないだろ?
ではどこまでだ?
詭弁は信用を失う原因になるぞw 九州説は全て論破され済みで統率が取れなくなって壊走 >>256
反論になってない。
楽浪帯方から倭国の国境までは7千里、王都の邪馬台国までは一万二千里。
そのうち一万里で九州上陸。 畿内説は内外のいずれの史書とも一致しない、夢まぼろしのような砂上の楼閣。 >>290
ふーーん
纏向は遠くになりにけりだな
遺跡として邪馬台国から離れたほうがいい
そのうえで、観光化をどうするかだな
俺の考えでは古墳時代の幕開け纏向
前方後円墳の作り方、その労力、・・・その歴史的価値を桜井氏はPRしたほうがよい
天理市や橿原市がウザイが采配は根回しして県にさせればいい。 >>282
>他方、纏向遺跡は吉野ヶ里の約6倍の、3㎢。
>都市と言っても差し支えない規模で、列島最大の市的機能を有する。
で、建物は何棟あった? 理論的にどうやっても成り立たない九州説はいずれ地上から一掃だなあ >>284
>また、漢鏡6期の鏡が倭国に入らない状況で、
>公孫氏との交易を考えるのは難しいというより無理がある
漢と交流していなかった証拠だからね。
かわりに楽浪土器が出るのだから、公孫氏と交流していたことは確実。 ほんと−にw
日本の漫画(あにめ、ゲーム・・・)などがあるでしょ、なぜ詳しいんだろう
ごーすとらいたー? >>307
>巨大農耕集落の10倍の規模で、宮殿があり、大規模な市があり、
>鍛冶施設、導水施設もあると言うのに。
で?
建物は何もあった? ここに書き込んでる九州説は決定的に負けを確定させてしまったから
その責任を負わされてトカゲの尻尾切りだろう >>316
>でも、実際公孫氏が半自立の時代には、銅鏡などの威信材の輸入が途絶えてるよね?
つまり後漢ではなく公孫氏と交流していたわけだよ。 >>307
>巨大農耕集落の10倍の規模で、宮殿があり、大規模な市があり、
>鍛冶施設、導水施設もあると言うのに。
で?
建物は何棟あった? >>342
関心あるな
縄文時代の観光遺跡・・代表的なのは登呂他
弥生時代の観光遺跡・・代表的なのは吉野ケ里他
古墳時代の観光遺跡・・「百舌鳥(もず)・古市古墳群」より貴重なのは纏向周辺の古墳群だよ
邪馬台国・卑弥呼がどうのこうの言ってる場合じゃねーな Mike Oldfield『Heaven's Open』
『ダンバイン OP』?同じでしょ >>352
登呂は弥生時代を代表する遺跡だよ。
ただ、今となっては首長層がいた形跡が薄いから、倭国の辺縁の食糧生産地くらいの扱いだな。 >>352
>縄文時代の観光遺跡・・代表的なのは登呂他
登呂遺跡より、マジで加茂宮ノ前遺跡だろう。 出土資料が段違いだから。 @阿波 老婆が言うには、
発電、電気(雷?)を起こしていたと言っていたり
何かの神話なのかな? >>352
>弥生時代の観光遺跡・・代表的なのは吉野ケ里他
吉野ケ里より、マジで加茂宮ノ前遺跡や矢野遺跡だろう。 出土資料が段違いだから。 @阿波 >>321
>https://i.imgur.com/6rXI0OP.jpg<
これ見たけど畿内に限ったことないから
他の地域の資料も提示すべきだが
無理だよなwww引っ張ってきた単発じゃなーーーー
井の中の蛙大海を知らずってか 残念でしたwww 畿内説で飯を食うバカは素人にも論破されるな
磯田 道史さんの畿内説に対する距離感が丁度よい
適度にかわすやり方かな・・ >>361
磯田 道史氏も、ほんとうの阿波を、まだ知らない。 まだまだ、勉強不足。 @阿波 >>359
九州説にそんな財源は無いんでねーの
みな、独学じゃねーの
畿内説の研究者より上かもしれんよ
私利私欲内から >>364
九州説は今更そんな誤魔化しが通用すると思っているのか >>363
石野博信氏は、ほんとうの阿波を、知っている。 が、彼は狸。 @阿波 >>258
これの要件がそろえば纏向は王都でいい
邪馬台国の王都か倭種の別国の王都かはわからんけど 都としてはいいでしょうな
2、集落跡もなく、生活用品も少なく、土木具が多数発見
6、無防備な遺跡である。・・ 鉄の武器・樓觀城柵嚴設・兵が常駐していた形跡・いずれも??? なぜ九州説は負けたのか
それは九州説は歴史なんて昔の古い事わかるわけないっしょ
だから適当に嘘ついてりゃ邪馬台国が九州か畿内かわからないだろと
歴史と学問をナメていたから
畿内説はその間にコツコツと文献を洗い考古学的証拠を分析し知識の蓄積に務めてきた
一朝一夕に積み上がったものではないので九州説がこれに勝つのは非常に困難 >>369
>畿内説はその間にコツコツと文献を洗い考古学的証拠を分析し知識の蓄積に務めてきた
おいおい、それを倭国(阿波)の前で言うか? わはははは @阿波 wwww
畿内説は飯場と都市の違いがわからんのだな
wwww 万二千里はあくまで女王国までの距離
邪馬台国までの距離ではない
そこのところをまちがうと畿内説になる >>370
ぼけ老人の@阿波
阿波は畿内邪馬台国の出先と何度も言っただろ
畿内に阿波に取り込んでいいが
阿波は畿内を取り込めない
常識だ よく考えろ >>341
>畿内説は内外のいずれの史書とも一致しない、夢まぼろしのような砂上の楼閣。
でも、その、不一致点は口が裂けても言えない
という、九州説の喜劇 >>323
>畿内説で明確に答えた奴はいない
なぜなら質問が不明確だから >>373
ふーん
じゃあ女王国と邪馬台国はそれぞれどこ
南至邪馬壹國 女王之所都
南 邪馬台国に至る
女王の都である >>320
>議論する能力が無い 去れ
サルを相手に議論する能力がない
・・・それって普通だよね 335 336(自演) 342 352(自演)
358 361 364 368
だなあ >>308
>Gone.ってなんだ?
九州説が、それしか出来ないことだろう 九州説は真実真理の前ではいくら嘘をついても通じないと一つ賢くなったね
じゃあそれ一つ覚えてお帰り >>294
>纏向遺跡が、突然消滅した理由が他に見当たらないから。 @阿波
「根拠は僕がそう思ったから」より下があったよ
「根拠は僕が思いつかないから」だ >>375
>畿内に阿波に取り込んでいいが
阿波には、畿内など不要。 ホントのこと言ってごめんね。 わはははは @阿波 >>368
>2、集落跡もなく、生活用品も少なく、土木具が多数発見
で?
「集落跡もなく」って
それは誰が発表した新説なの? >>371
それ、そのままブーメランとして、九州説論者に深々と突き刺さっている。 >>404
>けど魏志倭人伝には女王国の位置は
会稽東治の東の沖縄か台湾辺りと書かれているよ <
いないよ。 >>406
九州説には「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が得意の
嘘も火病も通じないから >>323
>畿内説で明確に答えた奴はいない
質問は「奈良遷都の前は、どこよ?」なんだが、
明確に答えた者がいないと本気で思うなら
楽勝で発狂判定下りますよ >>407
嘘と火病の、
「南→東」などの嘘吐き騙しのの大和説者 >>307
>巨大農耕集落の10倍の規模で、宮殿があり、大規模な市があり、
>鍛冶施設、導水施設もあると言うのに。
で?
建物は何棟あった? >>307
>巨大農耕集落の10倍の規模で、宮殿があり、大規模な市があり、
>鍛冶施設、導水施設もあると言うのに。
で?
纒向の大集落に建物は何棟あった?
何スレも前から聞いているのだが? 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。 >>378
女王国は邪馬台国をはじめ複数の国で構成される連合国家
邪馬台国は女王国の都に位置する国にすぎない >>395
>何スレも前から聞いているのだが?
何スレも前から
データありませんと回答が来てるよ >>422
>>見えていれば、簡易三角測量でも一寸千里でも測れ、
見えていなくても、大体の方向と一寸千里で測れ、<
>つまり末盧から伊都の方角がわからないというフルタ説は 真赤なウソということで
よろしいね? <
見えていないから、簡易三角測量は使えず、
一寸千里は、原則として南北千里で一寸の影差が必要なので、
南北間での距離が500里以下位になってくると、その影差も0.5寸以下になり、
実際に、唐津(港)→伊都の南北距離は大体150里位なので、その影差は0.3寸位になり、
半影もあって、作図が構成できず、測れないの。 >>395
君と同じ意見の学者が誰もいないのは
何故だと思う? >>400
>見えていないから、簡易三角測量は使えず、
ウソはダメ
唐津港から可也山が見える
三雲遺跡からも可也山が見える
よって三角測量が使える >>429
>一寸千里の法則で韓国〜九州北部の距離を測ったというのは明白な間違い
なぜなら島間の距離は全部千里となっており<
これ、×ね。「千余里」として、「余」が付いている。
>緯度の違いで太陽の角度の変化による棒の影長の変化によって距離を測った
とされる一寸千里の法が用いられたとするならば
明確に緯度の違う韓国〜対馬〜壱岐島〜九州北部の距離が
全て一律千里となるわけがないのである<
「全部一律千里」だというのではないの、
皆「千余里」と「余」があって、それぞれ全部が近似値なの。 後の平城京が25km^2で、人口10万人以上。
(出所:https://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/histry/what.html)
纏向遺跡が3km^2なので、平城京と比べると面積では8分の1程度。
ここで奈良時代と弥生時代の人口を比較すると、
紀元200年:59万人
紀元725年:451万人
(出所:Wikipedia「近代以前の日本の人口統計」1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年))
であり、人口比で言えば7.6倍。
つまり当時の総人口に対しての面積で考えれば、
纏向は丁度「奈良時代の平城京に比肩する都市」であったことが分かる。
さらに纏向の人口を平城京に対する面積比例で計算すると、人口は1.2万人。
また吉野ヶ里遺跡の人口は最盛期で1200人(外郭内部)と言われており、
(出所:http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=39#q06)
これを面積6倍の纏向に当てはめれば、7000人程度。
恐らく纏向には、7000〜12000程度の人口が住んでいたのだろう(当時の総人口の50〜80分の1)。
平城京には当時の総人口の45分の1が住んでいたので、
纏向は総人口に対しての規模で言えば、平城京に比肩する都市であったと言っても過言ではないだろう。 >>433
>魏志倭人伝の距離は計測されたものではない事が明白で
邪馬台国まで1万2千里というのは魏朝によって
あらかじめ決められていた世界の果てまでを表す符号という事が明確<
「余」を付けて区別しており、という事は、魏使らの記録では、
もう少し有効数字の大きい記録が書かれていた事になり、
逆に、「あらかじめ決められていた世界の果て」であれば、
「余」など付けないきっちりの数値が選択されるの。 >>330
>畿内厨が云う通り、
>偽りの倭人伝が語る東南陸行500里にあった偽りの伊都国は、何もない佐賀川上だったでいいんだよ。
ロジックがおかしい
偽りの伊都国なんてないんだよ
倭人伝が不正確であっても伊都国は伊都国だ >>434
>魏志倭人伝による女王国、邪馬台国の場所は会稽東治の東・・・<
あれ?、この男がまだ同じ事を言っている!。
いま忙しいし、同じことの繰り返しになるから、
放置しておくね。 >>439
国粋皇国史観の唯我独尊の儒教大和説者は、
もう一度太平洋戦争をしたくて仕方ない
それが彼らの一番の願望であるがゆえに >>337
>ではどこまでだ?
バカだなぁ
「オーストラリアまで」だよ
千キロ単位の小縮尺の地図ではオーストラリアが「一つの塊」であり
その塊までのざっくりした距離が8000キロなんだよ
萬二千里の距離ってのは世界地図や地球儀でみる距離だ
地球儀でみたら、北部九州も畿内もミリ単位でしか離れてない
それをピンポイントで「どこ」を指してるとか言うやつがバカだってこと >>368
倭種の別国としても
纏向は都じゃない
墓地
ボチボチでんな >>339
>王都の邪馬台国までは一万二千里。
これが嘘、捏造
萬二千里は女王國・倭国までだ
後漢書でも其国・倭国までだ
インチキはダメだよ >>340
>邪馬台国までは放射読みしているよ。
奴国はどうして同じ扱いにしないんだ? >>345
>かわりに楽浪土器が出るのだから、公孫氏と交流していたことは確実。
楽浪鏡が出ない理由は? 3世紀の倭国は、従来の各クニの祭祀を捨てて卑弥呼を共立し、
纏向の地に巨大都市を造り、巨大な前方後円墳を造営した。
当時の総人口を考えれば、途轍もない大事業だっただろう。
箸墓の総工数(135万人日)は、実に奈良の大仏(260万人日)の半分だ。
総人口で比較すれば8分の1だと言うのに、よくもこれほどの古墳を築いたものだと思う。
これほどの大事業が行われた纏向こそが、親魏倭王がいた「女王の都する所」だよ。 >>441
しかし国粋皇国史観の唯我独尊のタカ派大和説人種は、
また大陸国家への憎しみや敵対を煽るヘイトスピーチアジテーションを続けている。
そうすると、一人のキョクウが事件を起こして、処刑にでもなると、
ヘイトスピーチに興奮させられた国民山本大和説者らは、
あっという間に、全面的な殺し合い戦争に、
国民を強制してしまう。 某まいく・おーの曲(MV)と龍宮〜鳳凰〜・・・、
なぜ同じなんだろう?となるでしょ >>446
>ホケノ以降でも、古墳以外からは相変わらずほとんど出てないんだよ
古墳の埋葬主体だと残る
ホケノ以降に大和に鉄がないと考えることはできないがそれでも平場からは出ないってことは
やはり鉄が溶けるに近い形で失われていると考えるのが合理的<
なるほど。 >>352
>縄文時代の観光遺跡・・代表的なのは登呂他
また事実誤認してる
登呂遺跡は弥生遺跡だ
縄文遺跡で観光化しているのは三内丸山遺跡だ >>415
そんな発言ばかりしているから
九州説は歪んだ政治思想で生み出された偽史だと言われる >>354
>倭国の辺縁の食糧生産地くらいの扱いだな。
いやいやそれは発掘面積の問題だろ
静岡にも高尾山古墳を作る勢力がいたし、久努国造の国もある
それぞれの地域に首長はいたんだよ >>358
>井の中の蛙大海を知らずってか 残念でしたwww
どうして九州説は自己紹介ばかりするかねぇ
新しい情報についていけない年寄りばかりってのもあるんだろうけれど あの写真があるでしょ、何の職業なんだろう
軍人、警官でもない?ような事を言っているし、
傾いた松の木、心が寒い?・・・・と同じ家みたいなんだけど
何かの曲? >>423
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、IQが皆、60以下なのだったな、、、 >>374
>歴史的敗北
>九州説
歴史的敗北でもなんでもないよ
新しい知見が付け加わるにつれて、普通に九州はないなって分かっただけ >>401
何戸と聞いているのだが?
日本語が通じていないのかな? >>414
他にも大古墳はたくさんあるのだから、その計算の方がおかしいのでは? >>378
>じゃあ女王国と邪馬台国はそれぞれどこ
魏志倭人伝での女王國の記述には揺れがあって、
だいたいは「女王國=卑弥呼を共立した首長連合≒倭国」でいいんだけど、
自女王國以北の2ヶ所は「女王國=女王の都のある国=邪馬台国」になっている
女王國は日本列島の中央付近から九州まで
邪馬台国は畿内大和(畿内第V様式土器の範囲)だよ >>404
> 紀元200年:59万人
>(出所:Wikipedia「近代以前の日本の人口統計」1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年))
インチキで有名な統計だろw
邪馬台国と投馬国だけで12万戸およそ50万人程度になるのに、全国で59万人な訳ないだろ。
>さらに纏向の人口を平城京に対する面積比例で計算すると、人口は1.2万人。
で、纒向の大遺跡には何戸の建物があったんだ? キナイコシの馬鹿さ加減が露呈したスレだったな。
まあいつものことなんだが。
畿内説はこんなバカしかいないんだよ。 >>409
>萬二千里の距離ってのは世界地図や地球儀でみる距離だ
当時の中国人には九州までがそのスケールだったんだよ。
その中でも一万里でも一万四千里でもなく、倭国までは一万二千里なんだ。
そこが王都であり、邪馬台国なんだよ。
女王に会いに行くのだから、そこまでの数字がなけりゃ公式記録として不十分だよ。
役人をナメンナヨ。 >>437
それだけ?
統計的には限りなく0%に近くなる。 >>430
>バカすぎて話にならんわ。
反論できませんってことだなww
萬二千里というのは世界の端から端まで行くときの3分の1に当たる
そんな大雑把な数字で倭国の中のどこかをピンポイントで指していると思う方がおかしい
バカで無能はまともな反論一つできない>>430だよw 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合も纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
考古学的には邪馬台国畿内説は成立することが困難である。
悔しかったら代わりのデータを出してみろ。
カケラ一つでは、上記のパーセンテージは動かせない。 キュウリのような葉・・・河童、水関係の意味なのかな?
確実に戦争などには行ってないと言っているし、子供の親も。 >>440
>そんな大雑把な数字で倭国の中のどこかをピンポイントで指していると思う方がおかしい
個人の主観であり、反論になっていない。
君の反論の質が低いから、それに反論する価値がないんだよ。
君の反論は受け入れられていない。
何かを言い返せばいいというものではない。
それが妥当でなければいけない。
君の反論は反論として成立していない。
いい加減に理解したら? で、纒向の大遺跡には何戸の建物があったんだ?
そろそろ答えてくれよ。 >>438
>当時の中国人には九州までがそのスケールだったんだよ。
九州までは一万里
漢委奴國王の朝貢の時の世界観では、萬里が遠くを示す符牒だったからね
この辺も九州説は事実誤認している で、纒向の大遺跡には何戸の建物があったんだ?
そろそろ答えてくれよ。 >>445
>>当時の中国人には九州までがそのスケールだったんだよ。
>
>九州までは一万里
うん?
同じことを言っているよね? で、纒向の大遺跡には何戸の建物があったんだ?
そろそろ答えてくれよ。 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>443
>個人の主観であり、反論になっていない。
では、日本から8000キロでオーストラリア、から
オーストラリアのどこを指しているかピンポイントで説明して見せてくれよ
主観ではなく客観的に論証して見せてくれ
>>443の主張はそれが可能って意味だぞww >>447
>同じことを言っているよね?
いや?
九州説はそこでインチキするだろ?
邪馬台国はそこから二千里の遠地なんだよ
奴国周辺に邪馬台国はないし、ましてや奴国を含む邪馬台国なんてない >>449
>それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
誇張された観念的な設定値は現実の距離と紐付けされていないから、
「縮尺」は定義できない
この「縮尺」が捏造 >>450
>その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)
考えられません
典型的な「理由は僕がそう考えたから」ww
本当に無様だな
インチキコピペを意味なく貼り続けるだけなんてw >>311
「中国鏡や鉄器の出土量はそれまでの北部九州中心から次第に畿内中心へとシフトする…」て、うそだろ。
大和で鉄器が出るようになるのは、3世紀中頃からだから。
2世紀末〜3世紀前半には、大和や近江はまだ鉄過疎地域だよ。
河内などは弥生後期の遺跡から鉄器が出ている。
畿内では鉄器が出ているというのなら、その畿内には大和、近江を含めるなよな。 >>414
あれえ〜。
その大事業が、卑弥呼の倭国政権によって行われたという証拠がないのだが。
文献からしたら、その大事業が行われたのは倭種の国においてであって、女王の国ではないんだがなあ。 >>229
魏使の認識として
前方後円墳=円墓??
後円部のみ墓とみなしたのか?
それと、卑弥呼の墓以前に都は墓だらけなのになぜ記述が無いのか?
魏国では50M級の墓がいくつもあっても当たり前だったのだろうか?? それにしても河童、相撲とか、ほとんど老婆談と同じ。
お尻から空気が入り、死んだ人(男)の話もしていたしな〜・・・、
扇風機をつけたまま寝てしまって・・・そのまま死んだ、
会社にも来ない、電話をかけても出ないし、おかしいなと思った同僚が、男の家まで行ってみた
ほとんど同じでしょ? 近江を畿内に含めるのはバカか日本の高等教育を受けてないかだな >>453
>誇張された観念的な設定値は現実の距離と紐付けされていないから、
>「縮尺」は定義できない
典型的な「理由は僕がそう考えたから」ww
本当に無様だな
インチキコピペを意味なく貼り続けるだけなんてw で、纒向の大遺跡には何戸の建物があったんだ?
そろそろ答えてくれよ。 何の話なんだろう?
数十年も前の話だから、知らないだろうけどと老婆は言っていた
お尻から空気が入り、死んだ?なぜか男だと言っていたり 馬に乗り・・・(腰に刀を差し)という話もしていたし、
伊達郡のほうの話とか
じょじょの奇妙な冒険? >>456
そんなことが書いてある文献おは何かね?
九州説はまた何か捏造するのかな? >>461
もう何度も回答を受け取っているだろう?
データがないと 私有地での増改築申請で記録調査できるのはコマ切れの狭い土地だ
そこで年代の細かく特定できる高床建物がまるまる一戸確認できるのは稀れだ
つまり、わかっているのは高床建物か平地式建物ばかりが「いくつも見つかっている」ということ >>461
纏向遺跡に、何戸の建物が立っていたか正確に示せない限り、
纏向遺跡の人口はゼロ(古墳造営臨時労働者を除く)と見做す。
纏向遺跡の範囲を、全部掘れ!3km^2を全部掘れ!柱の跡を全部数えろ。
それをやらない限り、纏向遺跡の人口はゼロ(古墳造営臨時労働者を除く)と見做す!
それが出来ないのであれば、邪馬台国は奈良盆地ではなく、九州のどっか○○○○だ。
行程記事パズルをやって、コンパスと定規の長さで決めた、山の中の遺跡も何もない、
幾何学的場所の○○○○だ。
ですよね?分かります。
では一休さんのトンチではないですが、あなたの思う邪馬台国所在地に、
建物は何棟立っているのですか?掘立柱の跡は何個あるのですか?
推定人口は何人ですか?まずは、それを教えて下さい。
貴方が他人にそういうことを求めるということは、それが不可欠だと思っているのでしょう?
であれば、貴方が思う邪馬台国所在地は当然のことながら、それを備えているのですよね?
それに倣って、こちらも考察結果をお示ししましょう。 まあ、ここまで畿内説一択・纒向当確になると
もう九州説は悪質クレーマーにでもなるしかないのは
ワカル >>461
・質問に質問で返すな!無礼者!
・それが人に物を尋ねる態度か?人に物を尋ねる態度が悪い!
・エビデンスはあるが、お前の態度が気に喰わないから教えられない。
・エビデンスはあるんだよ。あるんだ。エビデンスはあるんだよ。本当にあるんだ。
・けれども、お前の態度が悪いから、一切示せない。それはお前の態度が悪いからだ。全てお前の責任。
・あー!エビデンスあるんだよなー!超あるの。すごくあるの。すっごく言いたいの。
けども聞く奴の態度が悪いから、一切教えられない。全部お前の態度が悪いから。つまり、全部がお前の責任。
・邪馬台国の真実に迫れなくて、残念でした!ベロベロバー!
この辺の言い逃れが予想されますが、ダメですよ↑は。
予め釘を刺しておきます。 >>457
洛陽だって長安だって
周りを見渡せば
皇帝たちの山陵ゴロゴロあるだろ >>451
オーストラリアを引き合いに出すのはおかしい
邪馬台国とオーストラリアじゃ国の大きさが違いすぎる
邪馬台国は小さい国だから国の端の方でも王都でも12000里表示でいいだろ
これに対してオーストラリアまで8000キロ、って言いかたしたら普通は成田シドニーで想像するやろね
ちなみに日本人がよく行くケアンズなら6000キロもない >>459
残念だな。
東は名張の横河、南は紀伊の兄山、西は明石の櫛淵、北は近江の逢坂山より内側が畿内だ。
646年にそう定められた。
本当に高校でたのかよ。 >>470
ついに文献にも見放された纏向マニア。
表札ないのに邪馬台国大和説をどうやって証明すんのよ。 >>126の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を下剋上「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、「天子」隋煬帝に対等外交&(高句麗遠征の鍵)新羅の朝貢を契機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の歴代倭王権(九州王朝)内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)?欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>466
「倭種の国」を書いてある文献が何か知らんと?
古代史やめたまえ。 >>439
>統計的には限りなく0%に近くなる。
古代のものは、残らないのが普通
出土しないからと言って、なかったとすることはできない
逆に一つ出れば、あったことが確定する
統計の意味が分からない人はすぐにトンチンカンなことを言い出すから嗤える >>475
もともと畿内説はあらゆる日本史の文献を無視して成り立っているんだよ。
歴史学にとっては文化の破壊者だ。 >>461
>で、纒向の大遺跡には何戸の建物があったんだ?
赤坂御用地に民間住居が何戸あったんだ?
って置き換えてみるとバカが際立つだろう? >>478
平原遺跡の八咫の鏡のようなものはそうも言える。
しかし大量に残っている土器の場合は違う。
膨大なデータの中でも楽浪土器がひとかけらしか出なかったのなら、畿内と魏の交流はその程度だったということ。 しかし、ほんとに、邪馬台国大和説は分が悪くなってきたな。 >>443
>それが妥当でなければいけない。
>君の反論は反論として成立していない。
これを具体的に説明してごらん?ww
すぐに逃げるくせにw
たぶん>>443が最後の九州説の無能だからせいぜいがんばれよ
>>443は無理筋をがんばって書き続けているが、対話をしている限り
真実のない九州説でいくらがんばっても心が折れるのは時間の問題だ
>>443がいくら仕事としてがんばっても、根拠のないことで突っ張っても
実りはないし惨めにバカにされ続けることに耐えられなくなるだけだろうね >>480
横からだが、
明治神宮の中に住居があるのか? >>459
>近江を畿内に含めるのはバカか日本の高等教育を受けてないかだな
こういうバカがいるからFAQ93が必要になるんだよな
「北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。」
畿内説で入れてないよ >>460
>典型的な「理由は僕がそう考えたから」ww
単語入れ替えのミラーリング、オウム返しは無能の所行でザラゴキと同等だぞww
理由はきちんと書いてあるだろ?
「誇張された観念的な設定値は現実の距離と紐付けされていない」って
コピペ貼りは九州説が自ら文を書き起こす能力に欠けることの証明だよww >>11
畿内周辺の人が大和に集まってきて大和が中心として機能し始めたのと同様、
九州北部の方が圧倒的に豊かであり、出稼ぎに行ってただけじゃね?
90年代にアメリカ行ったとき売られてる商品がメイドインチャイナばかりだったけど
アメリカは中国の政治連合傘下にあったんだろうか? >>455
僕も朝鮮半島に大和領ができたのが三世紀後半で、
それを契機に大和で鉄が使用され始めたんだろうと推測するかな。 >>1
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまいましたね。。 >>473
やはり事実誤認の上に脳内妄想「僕がそう考えたから」を積み上げてるな
この無能は
>オーストラリアを引き合いに出すのはおかしい
>邪馬台国とオーストラリアじゃ国の大きさが違いすぎる
>邪馬台国は小さい国だから国の端の方でも王都でも12000里表示でいいだろ
「いいだろ」じゃねーよww
まず最初に、魏志倭人伝の表記は「自郡至女王國、萬二千餘里」
⇒女王国であって邪馬台国ではない 事実誤認その1だ
次にこの記述の位置が
「帯方郡から邪馬台国」
「自女王國以北、其戶數道里可得略載」
「其餘旁國遠絕、不可得詳」
「余傍国21国」
「狗奴国」
のあとだ
つまり「女王国=卑弥呼を共立した首長連合≒倭国」全体についてのまとめとして書いてある
⇒邪馬台国単体についての記述ではない これが事実誤認その2
次に倭国は周旋五千里の大国として描かれている
中華帝国の漢土が方萬里であるのに対し、その半分を占めるほどの大きな国だ
しかも異国の情報など遠絶にして詳細が分からない時代だから、
今日の情報化によって狭くなった地球上のどの国と比べても大きい存在と言える >>473
>これに対してオーストラリアまで8000キロ、って言いかたしたら普通は成田シドニーで想像するやろね
これで、成田からって考えるやつはいないよww
8000キロという単位で、空港からと考えるのはかなりおかしい
発達障害が疑われるレベル
>ちなみに日本人がよく行くケアンズなら6000キロもない
でも、オーストラリアまで8000キロが間違っているっていうやつはいないだろ?
千キロ単位の距離表示は具体的なピンポイントを指すのには使われないし
大雑把な距離感を示すだけ
そして大雑把な距離感を示すのには十分だし、それが意味のある情報だ >>481
>平原遺跡の八咫の鏡のようなものはそうも言える。
平原1号墓出土の46センチ鏡は八咫鏡ではない
残念でした >>482
>東京には何万戸もあるけど?
奈良盆地にはいっぱいあるけど?
>>84に遺跡分布が示してあるから見ておきな
何と何を比較したらいいのかすら分かっていないww
>>482はバカだろ?w >>485
神宮会館、神宮研修所、社務所あたりは、住居と言えなくもないかな?w >>486
逢坂山は北緯35度0分3秒、東経135度50分53秒あたりにあり、この緯度線より南約3キロの地点のから東に約6キロ付近に近江国の国府庁舎があった。
このことからすると、近江国の滋賀郡の南端あたり、栗太郡、甲賀郡の一部が畿内に入る。
近江国全域ではないが、近江国の一部が畿内の範囲に入るのは明らか。 >>496
社務所などは仕事場だから、人が暮らす住居ではないな。 >>493
>千キロ単位の距離表示は具体的なピンポイントを指すのには使われないし
使われないという根拠は?
使うと思うけど。 >>490
魏志倭人伝の狗邪韓国は無視ですかそうですか >>488
>「誇張された観念的な設定値は現実の距離と紐付けされていない」って
これは主観的な意見であり、根拠にはならない。 >>498
神宮研修所は宿泊できるから、住居機能があると言えるだろ?w 畿内説の書き込みは多いのに、何一つ具体的なことが書かれていない。
口からでまかせばかり。 >>503
>使われないという根拠は?
>使うと思うけど。
使っている実例を提示してごらんww >>507
それで何か証明したつもりならお笑い種だ。 >>509
使われない根拠を示せよ。
普通は大きい数字は端数を四捨五入などするだけだよ。 >>499
なんか、先進国が後進国の国境を適当に決めてるみたいなやり方やな。 >>499
>正しくは、近江の一部も畿内の範囲。
四至だから四角く見てもいいっちゃいいんだけど、逢坂の関は関塞だし
その外側は畿内とはしないだろ >>492
>のあとだ
>つまり「女王国=卑弥呼を共立した首長連合≒倭国」全体についてのまとめとして書いてある
> ⇒邪馬台国単体についての記述ではない これが事実誤認その2
「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
年已長大無夫婿、有男弟佐治国。自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。」
あー、>>492 さん、そりゃちと違うわね。
陳寿の倭人伝は年代を追って順々に書いてある。
つまり、上の「其国本亦〜〜〜」の文章が登場する以前の千数百字は、共立以前の邪馬台国女王時代のこと。
だから萬二千余里は、帯方郡から邪馬台国女王之所都までの距離になる。
なお、上の「其国本亦〜〜〜」の文章以後に出てくる女王国が、共立後の女王国=倭国となる。 >>504
狗邪韓国が4世紀以後に存在してたという記述は現時点では知らんし。
あったとしても場所が重複してない限り、両立も可能だし。 >>504日本@名無史さん2019/08/17(土) 08:36:57.31
>>490
>魏志倭人伝の狗邪韓国は無視ですかそうですか
念の為に云うが、狗邪は韓国と記されているのだから、明らかに倭国扱いではないからな。 >>422
>静岡にも高尾山古墳を作る勢力がいたし、久努国造の国もある
「静岡県沼津市の高尾山古墳」から出土した水銀朱や滑石勾玉(蛇紋岩か)、鉄鏃などから、まず間違いなく東海忌部が築造した古墳。
水銀朱や滑石勾玉(蛇紋岩か)、鉄鏃などの製作地がすべて倭国(阿波)であることから、まず間違いなく東海忌部が持ち込んだもの。 @阿波
>それぞれの地域に首長はいたんだよ
それぞれの地域に「忌部はん」 が進出して居たからね。 @阿波 >>505
>これは主観的な意見であり、根拠にはならない。
九州説が「短里がある」として出してくる例に、例えば
「循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉」
があるけれど、これは東夷伝も公孫氏も関係なくて、
「漢土から遠い地域は情報も少なく距離が誇張される」ことの例だよな
これは客観情報
次
「萬二千里というのは淮南子の情報を引用したもの」というのは九州説の>>449も認めるところ
私個人の主観ではない
そして淮南子の世界観は、漢人が誰も行ったことのない領域も含んでいるもので、
当然実測値ではなく、また東西南北及び中央之極をすべて対等に萬二千里としているのは
五行相応の観念が下敷きにあり、その意味でも観念的な数値だ
主観ではなく、きちんと論証できるものだよ
無能は>>505 >>475
どうして文献が纒向を見放すんだ?
九州説また朝から発狂かい? >>510
何が言いたいの?
明治神宮の敷地内にも寝泊まりしている人がいて、それを住居と呼べないことはないってだけだが?
それでも明治神宮の敷地内に民間の住戸はほぼないことには変わりがない
纒向遺跡と比べるなら、赤坂御用地の方が適切だと思うけれど >>459
>近江を畿内に含めるのはバカか日本の高等教育を受けてないかだな
いや、それ以前に、「畿内」説とすること自体が、ズルだから。 @阿波 >>481
ばかだな
魏からの使者が、なんで土器担いで来ると思うんだ >>511
>使われない根拠を示せよ。
「ないことを示せ」っていうのはいわゆる悪魔の証明で、論拠に詰まった方が
反論する体にするために持ち出す詭弁だよ
反対に「あることを示す」のは、一例でいいんだから簡単だろ?
早く「千キロ単位の表記でピンポイントの位置を指す例」を示してごらんよw >>511
>普通は大きい数字は端数を四捨五入などするだけだよ。
千キロ単位で四捨五入した距離は、ピンポイントの地点を指すのには用いないよ
ピンポイントの地点を指すときは例えば100キロ単位とか10キロ単位で四捨五入するのが普通 >>518
ずいぶん得意になって振り回しているではないか
陳寿の倭人伝よりも数百年前の思想書淮南子は過去の思想、旧の遺物
時代遅れも甚だし >>516
でも、倭人の割合が非常に高く、百済・新羅から見れば倭国の属国みたいなものと認識されてた可能性は十分あり得ると思うけどな。
九州北部勢力をバックに勢いづいてて、新羅にとって非常に煙たい存在になってたんじゃないかと想像するかな。 >>489
そうなら北部九州の首長たちが畿内式の祖先祭祀を始めるわけないよね >>459
>近江を畿内に含めるのはバカか日本の高等教育を受けてないかだな
いや、それ以前に、「畿内」説とすること自体が、ズルだから。 @阿波 >>422
>静岡にも高尾山古墳を作る勢力がいたし、久努国造の国もある
「静岡県沼津市の高尾山古墳」から出土した水銀朱や滑石勾玉(蛇紋岩か)、鉄鏃などから、まず間違いなく東海忌部が築造した古墳。
水銀朱や滑石勾玉(蛇紋岩か)、鉄鏃などの製作地がすべて倭国(阿波)であることから、まず間違いなく東海忌部が持ち込んだもの。 @阿波
>それぞれの地域に首長はいたんだよ
それぞれの地域に「忌部はん」 が進出して居たからね。 @阿波 >>514
>陳寿の倭人伝は年代を追って順々に書いてある。
それも事実誤認
魏志倭人伝で年代を追って書いてあるのは「其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂」以降の部分
地誌、地勢の部分は英文法の時制で言うところの「不変の真理は現在形で記す」に当たる
まあ中国語、漢文には時制がないんだけどね
だから、
「文章が登場する以前の千数百字は、共立以前の邪馬台国女王時代のこと」は無根拠だよ >>527
北部九州の首長たちが畿内式の祖先祭祀してたという根拠を示した資料はネットで閲覧可能なの?
あるならリンク教えてくれれば読んでみたいんだけど。 >>526
陳寿の東夷観では、「倭人有り 帯方東南 大海の中」、なんだから、
狗邪韓国に多少の倭人がいたとしてもこの国は韓国であり、韓伝の範疇だ。頭の中の区別というものができていない、、。 >>474
高校だと日本書紀の記載は教わらない
律令制下で、大和、山城、摂津、河内、和泉の5ヵ国が畿内だと教わるんだよ(五幾七道)
ま、日本書紀の記載に拠ったとしても
近江の逢坂山がどこにあるのかをきちんと理解していたら
近江が畿内などとバカなことは言い出さない >>497
改新詔の表現は交通経路的な北限東限を示してるのが分からんか?
緯度経度じゃなくて自然国境で考えろと、ヒントもらってるだろ >>525
>陳寿の倭人伝よりも数百年前の思想書淮南子は過去の思想、旧の遺物
>時代遅れも甚だし
でも三国志の時代でも現役の教養書だから
成立後ずっと中華の世界観はこれなんだよ
例えば、天円地方の概念はずっと維持されてるだろ? >>525
>時代遅れも甚だし
と言いながら、何百年も後の旧唐書の「別種」の一語を後生大事に根拠だって言い張るんだよなww 494>>450
>>大和は倭種の国。<
>倭国ってのは倭人の国だから倭国で、 倭人というのは倭種の人のこと
対馬も壱岐も奴国も大和も「皆倭種」って魏志倭人伝に書いてあるんだよ<
倭人や倭國と区別した形で「倭種」という文言を使えば、
「倭種」は「倭人や倭國と同じタネ」や「同じ種類」にはなるが、
「区別される部族である」という意味。
という意味。 >>530
>地誌、地勢の部分は英文法の時制で言うところの「不変の真理は現在形で記す」に当たる
>まあ中国語、漢文には時制がないんだけどね
倭の三世紀の国情が何で不変の真理か、、。
口から出まかせを云うなよ。
なお中国語、漢文に時制がないからこそ、文章を時代順に追って書くことで時制時代区分がわかるよう工夫しているのだ。
これこそ陳寿の書が千数百年にもわたって崇められ受け継がれている由縁なのだ。 >>531
畿内式と書いたのは言い過ぎた
「畿内発の新しい祖先祭祀」に訂正するよ
広域の政治連合を形成するという共通の意識のもとに纒向でつくり出された祭祀ね
ネットでは読めないから、教科書を扱ってる書店に行け >>532
>狗邪韓国に多少の倭人がいたとしてもこの国は韓国であり、韓伝の範疇だ。頭の中の区別というものができていない、、。
その通り。 @阿波 494>>453
>萬二千里だけなら弱いけれど、裸國もK齒國も淮南子に出典が求められるんだから
萬二千里は淮南子の世界観からの援用で十分な説明になってるだろ<
淮南子には「余」が付いておらず、
魏志には「余」が付いているから、魏の役人らの実地の計測値であり、
淮南子の援用論は×。 >>539
>広域の政治連合を形成する
あほらし。 そんなもの、出来る訳がない。 なにを考えてるんだかwww @阿波 >>539
じゃあ、現時点では古墳の事かなと思いながら、単に事業委託を大和ー出雲連合が受けただけで、
要するに出稼ぎに行ってただけだと認識するかな。 >>543
言ってる意味わからん
気取らんでいいから、自分の言葉で具体的に説明してごらん >>544
箇条書きにすればわかるのかな?
・現時点では古墳の事かなと思っている。
・単に事業委託を大和ー出雲連合が受けただけ。
・要するに出稼ぎに行ってただけだと認識する。 >>541
>淮南子には「余」が付いておらず、
だからその説、爺さんの個人的な思いつきだろ
帰納してないよな?
なーんも立証手続き踏まないまんま
ただ連呼しても信用されないよ >>545
主語も目的語も不備だから他人に伝わらないんだよ
ただ箇条書きにしてもダメ
通じる日本語にしないと 494>>466
毎度すぐ論破されてはキレる大和説の、
「南→東」などの嘘付き騙しの見苦しさ >>548
まさにいま論破されてキレたアンタが
見苦しいオウム返しをしてるんでは? >>547
「他人に伝わらないんだよ」の主語はどこ?
「通じる日本語にしないと」の主語はどこ? >>547
その主語、目的語が不備なのは、根底に自信の無さがあるんだよ。 @阿波 「あほらし。」の主語、目的語はどこ?
「そんなもの、出来る訳がない。」の目的語はどこ?
「なにを考えてるんだかwww」の主語はどこ? >>550
日本人なら「お前は」の省略だと理解できるよ >>553
日本人に理解できる程度の省力は普通だよね。 自分は主語・目的語を省略しても日本人なら理解しろと押し付けてくる、
他人が省力したら理解できなから省略するなと押し付けてくる。
日本語が不自由なやつと会話するのは疲れるな。 >>545がダメなのは
主語がバラバラ
目的語が不特定
理由が述べられていない
など、不備の百貨店である点だな >>534
東西南北の4地点をあげて領域の範囲を示す場合、例えば東と北の地点の間はどのように理解したかという話になる。
そうすると、東西南北4点を直線で結んで菱形の領域を考えるか、直線ではなく曲線で結んで円形の領域を考えるかだろうな。
畿内の範囲では、そのどちらの場合も近江の一部がその範囲に入るんだよ。
それとも、律令の規定に、畿内は山城国、大和国、河内国、和泉国、摂津国だけだと明記してるのかね。 >>557
馬鹿だなあ
日本語は主語省略が普通なんだ
省略することは不備ではない
自分の書いた文章にどれだけ不備があるか、認識できてないのか? 494>>471
大和説は常に負け
そして「南→東」などの嘘付き騙しの発作を起こす
なんて惨めな人生 >>557
>他人が省力したら理解できなから省略するなと押し付けてくる。
あんた、どこで誰に「省略するな」と言われた?
日本語の読み書きが満足に出来ないのか? >>539
>広域の政治連合を形成する
あほらし。 そんなもの、出来る訳がない。 なにを考えてるんだかwww @阿波 >>559
だから、交通経路で理解しろとアドバイスされてるのに 494>>472
始めから「南→東」などの嘘付き騙しの、前提がバレて潰れると
結論も潰れます
そのくらいの論理は理解してね
いくら白雉大和説でもさ >>563
つまり>>552は阿波に言え、畿内説の者は関係ない
ということになるね >>557
さて、自分の書いた文章がどれだけダメだか
キミには理解できたかな?
できないままかな? >>558
じゃあ、(僕が)無料で構文解析してやるから。
現時点では古墳の事かなと思っている。
主語省略:日本人ならわかって当然
目的語「現時点では古墳の事」
単に事業委託を大和ー出雲連合が受けただけ。
主語「大和ー出雲連合」
目的語「事業委託」
要するに出稼ぎに行ってただけだと認識する。
現時点では古墳の事かなと思っている。
主語省略:日本人ならわかって当然
目的語「出稼ぎに行ってただけだ」
>>543 にあるように
理由を示す部分は「>>539 じゃあ、」
まじ、義務教育レベルの日本語すらろくに身につけてないやつとの会話は疲れるな。 494>>491
今日も朝から
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が発狂しているのか 2つ目の「現時点では古墳の事かなと思っている。」消し忘れだから無視して。 目的語「現時点では古墳の事」 →目的語「古墳の事」
疲れる。 >>533
学校でそう教えるから、そうに違いないてか?
学校で教える知識の元を正せば、学者がそう言うてるからそれをオウム返しに書いているだけだろう。
その学者は、律令の何かの文章にその5か国の範囲が畿内だと定義してるのをみて、そう主張してるのか?
そんな文章があるのなら、畿内の範囲についての議論は起こらんわな。
そんな定義を書いた文章はないということよ。
646年の改新の詔に、畿内は北は逢坂山を限りとする、東は名張を境とする…と書いてあるだけ。
そこで、逢坂山と名張の間はどうなるのよ、と議論になるのよ。
大和など5か国の国境がその範囲だというあんたの主張は、個人の考え。
その個人の中には学者も入る。
しかし、古代の政府文書のどこにも、その5か国の国境をもって畿内となすとは書かれていないのよ。
そこでだ、その5か国の国境が畿内の範囲だと主張するあんたは、どんな根拠でその5か国の国境が畿内の範囲だと言うてるの? >>545への追加講評
現時点では古墳の事かなと思っている。
なにを「古墳の事」と思っているのか不明
単に事業委託を大和ー出雲連合が受けただけ。
なんの「事業委託」なのか不明
根拠は、一切書かれていない
まじ、義務教育レベルの学力すらまったく身につけてないやつの文章 単に事業委託を大和ー出雲連合が受けただけ。
ここは大きな構造では実は動詞「である」を省略な。((僕が)元は「僕が省略している」を会話調にしてる)
主語は「古墳の事」で、わかりきったことで同じ言葉を繰り返さないのは日本語では普通にやることだから。
大きな構造では主語・補語・述語の構文だから目的語はなしな。 >>575
>>569 を(君が)読んで(君が)アンカたどって。
後、 >>576 も(君が)読んどいて。 494>>514
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
古臭い間違った知識の上で妄想する大和説者らの目に
古代は見えてない >>574
だから交通経路を考えろと言われてるだろ
宇治田原と栗太大石の境がどこだかわからんかね? >>576 の続き
この部分は、更に大きな構造があり、この文は目的語で、
主語省略で、動詞は「認識する」な。 >>539
>広域の政治連合を形成する
あほらし。 そんなもの、出来る訳がない。 なにを考えてるんだかwww @阿波 494>>515
九州説 文献考古の 知り得た全ての事実を元に、
それからの帰納的確率的な推論をしていく自然科学的手法
大和説 新しい事実、発見を無視して、国粋皇国史観という結論先にありきで、
皇国史観学者の我流に固執し、国家権力組織に隷従妄執する宗教信仰 >>577
だからキミは日本語がダメなんだな
ぜんぜん伝わらないだろう
なにを「古墳の事」と思っているのか?
なんの「事業委託」なのか?
もう履修レベルとは言わない
最低限義務教育を受けたことのあるレベルの文章を書いてね >>577
日本語がダメダメなキミ
>>552はキミが書いたのかな? >>574
畿内の範囲について、議論など起こってないぞ
5ちゃんの片隅のひとつのスレで
約1名が「近江も(一部が)含まれるんだ!」と騒いでいるだけだ >>583
>>569 を(君が)読んで(君が)アンカたどって。
後、 >>576 も(君が)読んどいて。 >>586
つまりお前は
他人になにか説明する
という能力が
常人より著しく劣っているのだな
かわいそうな人なのか? >>586
日本語がダメダメなキミ
>>552はキミが書いたのかな?
これも回答できないのか >>538
>倭の三世紀の国情が何で不変の真理か、、。
西暦57年の朝貢時の情報も時系列なしでそのまま書いてある赤らだよ
国の名前・場所などは「3世紀の国情」ではないんだ
さらにいえば、対馬や壱岐の官、副の名前が、卑弥呼共立以前のものだと思うのか?
卑弥呼の遣使に対する答礼使が派遣され、そのときにもたらされた情報だろ?
だから、そのときに立ち寄らなかった末盧国の官名は記載されていない
>>538の読み方は「理由は僕がそう思ったから」以上のものではない 自分が書いたことはアンカをたどって確認しろ、
他人が書いたことはすべてそのレスの中に書けだもんな。 >>591
根拠?
自分の書いた投稿文の5w1hを聞かれて答えられない人は
異常に無能だろ? >>542
>あほらし。 そんなもの、出来る訳がない。
広域で一斉に前方後円墳を作り始める
この背景を、政治連合あるいは祭祀連合と呼ぶ
泡の用語だと、各地域の忌部の連帯で説明できるだろ?ww
できる訳がないというのは、ただの寝言 494>>535
>>「南至邪馬壹國、女王之所都」は、七万戸の広大な邪馬壹國の中に女王の所都がある、
という説明。 だから、邪馬壹國に至って、目的地に着いた、という説明。<
>どこから「南至」なつもりなんだ 不弥国からだろ だから「水行十日陸行一月」も
不弥国からだ<
ダメだ。
「南至邪馬壹國」の「南至」は不彌國からであり、
その里数は書かれておらず(里数記載の最小は百里)、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、不彌國から邪馬壹國の里数は50里以下になり、
また、「女王之所都」は、「邪馬壹國」に関する説明文であり、
7万戸の広大な邪馬壹國の中に女王之所都がある、と言っているだけであり、
そして、その(郡からの行程の目的地である)女王之所都の説明として
「水行十日陸行一月」があるので、
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都への「所要日数」説明になる。 >>591
で?
>>552はキミが書いたの?
回答できないのか? >>594
で、根拠を書かんのかよ。
だからキミは日本語がダメなんだな
ぜんぜん伝わらないだろう >>538
「南≠東」である事を見れば、
大和説がずっとウソを付き続けているのは 明らか >>596
>ダメだ。
>「南至邪馬壹國」の「南至」は不彌國からであり、
>その里数は書かれておらず(里数記載の最小は百里)、
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、不彌國から邪馬壹國の里数は50里以下になり、
いちばん肝心な、女王の都への里数を書かないなんて
そんな不合理な記述だという解釈はダメだな キナイコシがまともな日本語の読み書きできないのは既出 いや
キナイコシは日本語もまともに読み書きできない >>598
>で、根拠を書かんのかよ。
>
>だからキミは日本語がダメなんだな
>ぜんぜん伝わらないだろう
おいおい
>>根拠?
>>自分の書いた投稿文の5w1hを聞かれて答えられない人は
>>異常に無能だろ?
という文章を読んで
根拠が書いてないと思う人間は
知能の有無を疑われて仕方ないんじゃないか? 494>>542
>庄内甕は久住の論文、土器の割合は橋本のだ
知ってて当然の情報だぞ<
久住であれ橋本であれ、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を肯定している学者である限り、
半分×人間や半分×学者であり、
そんな人間の説明も信頼性が全くなく、半分×情報。 >>605
無能が何か呟いてるな
いつものキナイコシだが >>605
何の根拠が書いてないと思う人間は
知能の有無を疑われて仕方ないんじゃないかと思うの? 自分が書いたことはアンカをたどって確認しろ、
他人が書いたことはすべてそのレスの中に書けだもんな。 494>>547
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
いつも根拠を言わないのは、大和説が妄想だからだな
大和説者の言動は、いつもそう 今日のキナイコシはコバンザメの方だから日本語がさらになってない 畿内四至を地図上で示したよ
この4点の内側の平らな人の住めるところが畿内と思えばいい
近江は当然入らない
https://i.imgur.com/zNbF44K.jpg >>610
コミュ障って言われてるんだけどね
キナイコシのことです >>595
>広域で一斉に前方後円墳を作り始める
あほらし。 「忌部はん」 が倭国(阿波)の専売特許(前方後円墳や軽量薄型土器など)を広めただけのこと。
>この背景を、政治連合あるいは祭祀連合と呼ぶ
あほらし。 そんなもの、出来る訳がない。 なにを考えてるんだかwww @阿波 494>>551
ほら、また大和説者は、「南→東」などの嘘付き騙しの事について、
まともに反論をせず、証拠のないことばかりを言う
だから大和説が敗北してると
誰にでもわかる >>614
一つ言葉を覚えたよ。
分かりやすい説明でありがとう。 494>>554
「南→東」などの嘘付き騙しになるような大量の投稿は
すべてウソが書いてある、と考えてよいな
大和説のやる異常行動だ 日本語がおかしい自覚がなく
指摘されても指摘された日本語がわからないからな
キナイコシです定期 >>602
>キナイコシがまともな日本語の読み書きできないのは既出
キウス 基本単語の読みがおかしい 希薄が読めない等
連続句読点 日本語変換がおかしい 遺跡⇒遺蹟(意味が違うのに区別できていない)
関連⇒關連等の謎の変換を行うiPhoneでも難しい
無駄に読点が多い⇒分かち書きする言語で読み書きを習った?
ザラゴキ とりあえず日本語は使えるが、論理構成がおかしい
邪馬台国の中の人 とりあえず日本語は使えるが、頭の中身が使えない
九州説のオールスターズは、こんな感じで皆日本語がおかしい >>579
こちらが言ったのは、逢坂山が畿内の北限だということ。
その南側は、近江の一部も含まれているよということだね。
間違ってるかい?
言ってる意味分かるよね。 >>617
コミュ障とはなw
オウム返しに陥ったり
独りで呟き始めたり
悪口叫びながら逃亡したり
そうやって、いつも自分から会話を打ち切る
九州説のおじいさんが
その典型だ
肥大した自意識と基礎能力の低さのギャップが主原因だ >>610
>自分が書いたことはアンカをたどって確認しろ、
>他人が書いたことはすべてそのレスの中に書けだもんな。
これ、バカだと思うよね
九州説の間抜けなところを繰り返し示すために、私は自分の書いた根拠は
何度でも繰り返し示してるよ
おかげで平原1号墓は「特殊な形状の耳璫があるから」とか
言うやつが湧かなくなっただろ
自分の書いたものを二度と書かないっていうのは、
前に書いたのはインチキだって言っているようなものだw >>621
まあ、普通の人はそう考えないだろう
瀬田唐橋が逢坂より南なのは
誰でも知ってるから >>622
キナイコシのレスもしくはキナイコシを擁護している無意味なレスに対しては、
これを最後に(僕は)一切レスしません。 >>625
九州説のひとが畿内説スレに来て
畿内説の人とは会話しないと宣言して
これをコミュ障と言わずに
なんと言おう >>621
>間違ってるかい?
間違っているよ
この四至は、移動経路・街道の関塞を示すもので、東西南北の緯度経度の境界を
示すものではない
南の兄山を見ると分かるだろ?
葛城から吉野川上流に出て、西に下っていくときの境界になっている
逆に、逢坂よりも北にあっても京都盆地内は畿内になる
>言ってる意味分かるよね。
日本語としては読み取れるけれど、その主張している内容が
独りよがりの解釈で意味がない >>625
>キナイコシのレスもしくはキナイコシを擁護している無意味なレスに対しては、
>これを最後に(僕は)一切レスしません。
ありがたいな
だって、畿内説側の書きこみは全部キナイコシだと思うんだろ?ww
つまり、もうこのスレには書き込まないってことだなww
九州説のやつのコメントに反応するなら、九州説のスレでやれ!ww キナイコシがまた一人よがりを炸裂したぞ
存在価値がないけどね >>631
このスレの畿内説支持者はキナイコシしかいないの?
そうなら、もう二度と訪れることはないだろうが。 >>585
畿内で鉄器がでて貴重材の中心が九州から畿内へ移っているという寺沢薫の文章を誰かが投稿していたので、大和で鉄が出るのは3世紀中頃からだから、それ以前の畿内で鉄が出ているというのなら、その畿内には大和と近江は入れるなよと言うたまでよ。
そしたら、誰かが畿内に近江は入らんと言うから、畿内の北は逢坂山と書かれているものがあるので、その逢坂山の南は近江の一部も入るわなというたまで。
実際、3世紀中頃以前には大和でもも近江でも鉄器は出てない。
鉄器が出て、大和に貴重材の中心が移るのは3世紀中頃からだな。
寺沢氏は何か間違っているのじゃないの? >>631
>キナイコシがまた一人よがりを炸裂したぞ
具体的には、なんの話?
九州説の言うことはいつも具体的内容がないな >>558
>>表記表現が違うということは意図が違うということだ<
>これも九州説特有の間違い というか、曲芸読みのネタだな
古文では、文章が単調になる同語反復を嫌って同義語に入れ替えたり省略型を使ったり
ということが珍しくないのに 九州説は非現実的な解釈をする<
これも「南→東」などの嘘付き騙しの大和説特有の、
間違い というか、詐欺曲芸のネタだな。
古文であれ漢文であれ、特殊な小説や宗教や政治的な宣伝文ではいざ知らず、
普通の学問的実証的は文では、文章が単調になる事を厭わず、
最も正確な文言を選択して説明を書くもの。
国粋戦争の皇国史観主教に狂った大和説は、常に非現実的な詐術的な文字使用をする。 >>635
ひとまず畿内に近江が入らないという見解は両者一致したということでいいんじゃない?
あとは、大和が畿内に入るかどうか、
3世紀中頃以前の畿内で鉄が出ているかどうかに論点を変えたいってことでしょ。 494>>561
>保証なんて要らない
日数で書いても道里であることに変わりはないんだから
九州説は終了だよ <
日数と道里は、文字も意味も違う文言であり、
「日数≠道里」で、大和説終了だよ。 494>>562
いい加減に理解しな
道里≠日程だし、投馬国は女王國より以南の国 >>636
>普通の学問的実証的は文では、文章が単調になる事を厭わず、
>最も正確な文言を選択して説明を書くもの。
そうやって自分の考えだけで決め付け
決して帰納をすることが無い
それが九州説 >>524
>千キロ単位で四捨五入した距離は、ピンポイントの地点を指すのには用いないよ
有効桁数一桁で済ますことはよくある。
残念!
その言い訳は通じません! >>641
>魏志倭人伝は無視ですか?
魏志倭人伝を無視していると思う理由な? >>530
>地誌、地勢の部分は英文法の時制で言うところの「不変の真理は現在形で記す」に当たる
>まあ中国語、漢文には時制がないんだけどね
君の屁理屈はいちいち陳寿の文章には合致しないのだよ。
いい加減に魏志倭人伝と乖離した勝手な理屈を振り回すのをやめたら?
惨めだよ? >>539
>「畿内発の新しい祖先祭祀」に訂正するよ
>広域の政治連合を形成するという共通の意識のもとに纒向でつくり出された祭祀ね
纒向を畿内の代表のように語っているが、正しいだろうか? >>546
>なーんも立証手続き踏まないまんま
君の勝手屁理屈も受け入れられていないことを忘れるなよ? >>564
>>>559
>だから、交通経路で理解しろとアドバイスされてるのに
そうすると纒向がどん詰まりの僻地だとバレてしまう。 >>601
>いちばん肝心な、女王の都への里数を書かないなんて
>そんな不合理な記述だという解釈はダメだな
伊都国と奴国ですでに女王国に到着しているからだよ。
魏志倭人伝の読者は、伊都国の文字を見てそこが王都だとわかるから。 494>>563
>>でも南至投馬国の「至」は四至による「位置説明」である、と何度も言ってあり、<
>理由もなく何度も言うのってトンデモ連呼だよね<
「至」の意味は原則として二つあり、
一つは、実際に「移動行為をして至った」という「到る事が完了」の場合と、
もう一つは、移動行為を伴わずに、「行けば至ります」というような、
(到る事が未完了で)「方向や位置」を示す場合。
古田さんは、後者を「四至の位置説明方法」というような説明をしておられた。 >>623
>何度でも繰り返し示してるよ
通用していない屁理屈を何度でも繰り返すコミュ障 >>623
>おかげで平原1号墓は「特殊な形状の耳璫があるから」とか
>言うやつが湧かなくなっただろ
君の反論は受け入れられていないが、話題が平原にならないから空気を読んでいるだけ。 >>637
大和が畿内に入らないとかバカの極みだろ >>566
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者のように、
あんたが個人的な信念をいくら叫んでも
文献のある論拠は覆らないよ >>637
>3世紀中頃以前の畿内で鉄が出ているかどうかに論点を変えたいってことでしょ。
言えることは、前方後円墳や軽量薄型土器が出現する以前には、鉄器は絶対に出ないよ。 「忌部はん」 たちが広めない限り! 反論ある人はとうぞ。 @阿波 >>633
>寺沢氏は何か間違っているのじゃないの?
彼も圧力を感じて苦しい立場なんだよ。
結局は東遷説になるしかないけれど、彼は以前にそれで叩かれているからね。 494>>572
このように
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は
論破されると悔しくて罵る
わかりやすいな >>653
後世の畿内には含まれるが、3世紀前半の時点でそのような枠組みはなかったのではないかということだろう。
大和と河内が絶交状態で別の勢力に属していたわけだから。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内 >>656
阿波説を打ち出せば間違いなく出世するよ。 考古学が後押ししてくれる。 @阿波 >>658
>大和と河内が絶交状態で別の勢力に属していたわけだから。
違う! 河内より大和への「忌部はん」 の入植が遅れただけ。 大和は大湿地帯だったからね、開拓が後回しになったのさ。 @阿波 >>613
地形的には
・京都盆地
・奈良盆地
・大阪平野
に
・紀ノ川(吉野川)中上流域
・大和高原
を加えたくらいかな 494>>584
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者よ
自然や歴史の事実関係や、人類の常識を無視して、
トンデモしてると
完全に世間から見捨てられるぞ >>656
九州北部と大和ー出雲連合の2大勢力の存在を否定しなければ、
大和が朝鮮と交易を始めた、朝鮮に大和領を持ったとかで説明できるから、
東遷説以外でも説明はつくと思うよ。
東遷説は神武東征との整合性が悪いし。 >>658
河内と大和が絶交してるという認識が間違い >>647
>君の勝手屁理屈も受け入れられていないことを忘れるなよ?
勝手屁理屈と誹謗する根拠は?
認めたら九州説が終わるから
理由もなく拒否しているだけでは? >>658
そんな根拠のない妄想をしてるからトンデモ説には歴史が見えない >>662
えっ、それ全部が、女王の都するところ? 風呂敷広げすぎ! @阿波 >>637
>3世紀中頃以前の畿内で鉄が出ているかどうかに論点を変えたいってことでしょ。
言えることは、前方後円墳や軽量薄型土器が出現する以前には、鉄器は絶対に出ないよ。 「忌部はん」 たちが広めない限り! 反論ある人はとうぞ。 @阿波 >>668
なんか根本的に、激しく誤解しとらんか? 494>>601
>南 水行十日陸行一月 至邪馬壹國女王之所都
不彌国からの日数であるなら、上のように、日数→行く先国名の順で書かれる。
倭人伝はその逆順であるので、始点は不彌国ではない。<
成程。 >>629
どこが間違ってるのかねえ。
畿内国の北は逢坂山までだというのは、改新の詔に書いてあること。
その南には一部近江の土地が広がっている。
つまり、畿内国の北の境界の南側には、まだ近江の土地が広がっているということなのよ。
東の名張、南の紀伊の兄山、西の明石、北の逢坂山の四方位は畿内国の範囲を規定したものであって、ここに関所を置くことを決めているものではない。
詔では関所の制度を作ることも書いてあるが、逢坂山など四か所に置くという意味のものではない。
詔の読み方を誤っている。
畿内国の北限を逢坂山とすると書いてあるが、京都中京区や左京区あたりの土地までその畿内国に入れていたかどうか分からんだろう。
それこそ、ひとりよがりじゃないのか。
いずれにしろ、詔には、東西南北四地点に関所を置くなんてどこにも書いてない。
詔はその四か所に関所を置くという内容だ、と読んだとすれば、読解力の程度が疑われるぞ。
ほんとに、大丈夫か。 494>>603
>>文献の「畿内なんて存在しなかった」でも、<
>誰も賛成しないトンデモ説 根拠も、なし<
誰からも 「存在した」という証拠なし。
>>「南≠東」でも、<
>「会稽東治之東」と「末盧→伊都の方位が実は北東」で否定された<
「会稽東治之東」と「末盧→伊都の方位が実は北東」の大和説の説明が否定された。
>>「道里≠日数」でも、<
>九章算術で否定された<
九章算術の「道里」の使用が、陳寿等に拠って、否定された。
>>考古の「冢≠前方後円墳」でも <
>根拠がなくて否定された<
孔明の遺言や魏志韓伝の「冢」に拠って、否定された。
>>「祇園山の庄内は石塚の庄内より古い」などでも、<
>考古学に否定された<
福岡の教育委員会が、3世紀半ばだ、としたから、肯定された。 >>635
大和では鉄が出んとのは溶けたからじゃ、と嘘言うたのは寺沢の師匠の佐原だからな。
その弟子が3世紀中頃以前に大和で鉄出てるというのやから、まあ、その出た鉄器みせてもらいたいもんやわな。 >>676
>>633 12:32:50.59 から1時間以上反論がないということは、
このスレには3世紀中頃以前に大和で鉄出てると思ってる人間は現時点無いってことでいいんじゃね? >>631
>存在価値がないけどね
九州説には存在価値がないというのには同意 >>667
>>>658
>そんな根拠のない妄想をしてるからトンデモ説には歴史が見えない
畿内説へのブーメランだね。
あらゆる史書を無視して妄想を積み上げた挙句、主が名無しの墳墓と「王宮」ばかりで、古代人の顔が全く見えない。
日本史を破壊しているだけ。 >>678
>>>676
>>>633 12:32:50.59 から1時間以上反論がないということは、
>このスレには3世紀中頃以前に大和で鉄出てると思ってる人間は現時点無いってことでいいんじゃね?
いいだろうね。
大和は邪馬台国と関係なかった。 >>643
>有効桁数一桁で済ますことはよくある。
1000キロ単位の有効数字一桁で、都市レベルのピンポイントの地点を示す例を一つでいいから
具体的に示してごらんって!ww
具体例から逃げてる限り、そっちが負け犬だよ
100キロ単位の有効数字一桁で示されるのは、現代の国単位の大きさの地域だ >>645
>君の屁理屈はいちいち陳寿の文章には合致しないのだよ。
その「いちいち」ってのを具体的に書きなよ
そうしたら、コテンパンに否定してあげるから
このいちいち句点を書く「邪馬台国の会の中の人」はレベルが低い
討論から逃げることで「全否定はされていない」から「九州説は否定されていない」と
いうデタラメを基本的な立ち位置として利用する無能 >>674
しかし、畿内国の範囲を決めているだけのものを、その四か所に関所を置くことを決めたのが改新の詔だなんて、よほど頭のネジの締め具合を誤ったのだろう。
自分で締めずに、専門家に頼んでちゃんと締め直してもらいなさい。
我流じゃあかんよ。 >>531
>纒向を畿内の代表のように語っているが、正しいだろうか?
最初期の最大のものがある地点を発祥の地と考えるのがもっとも合理的な推論
それ以外の地点で代表させるには、かなり特殊な根拠と論証が必要 >>649
>伊都国と奴国ですでに女王国に到着しているからだよ。
その糸クズ理論が、投馬国は女王国より以北の国であっさり崩壊
そもそも伊都国にも奴国にも女王の都という表記がない
伊都国が邪馬台国なら、邪馬台国の官が臨津搜露すればよいので一大率は必要ない >>649
>魏志倭人伝の読者は、伊都国の文字を見てそこが王都だとわかるから。
「邪馬台国の会の中の人」はこのレベルのバカだからなぁww
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有「都支國」、次有彌奴國、次有「好古都國」、
の「都支國」、「好古都國」の文字を見てそこが王都だと分からないのはどうして?ww >>685
銅鐸文化を放棄した後は代表が大和にあると考えるのは自然だが、
それ以前に関しては、畿内とその周辺地域の代表は
どんなに大和に大きな遺跡があったとしても
代表は銅鐸文化圏にあったと考えた方がいいだろうな。 >>684
んじゃさ、近江の国府はどこにある?
逢坂の北か?
ちゃんと答えられるよな? >>651
>通用していない屁理屈を何度でも繰り返すコミュ障
通用しないのは長文コピペをただ貼り続ける九州説だろ?
通用しない屁理屈だと思うなら、「通用しない理由を具体的な根拠を示して」突きつけないと!
「都支國」「好古都國」の「都」の字を無視するのはどうして?みたいに具体的にさww >>652
>君の反論は受け入れられていない
根拠のない個人の主観ですねww
平原1号墓と平原遺跡を区別しないやつは無能 >>682
>100キロ単位の有効数字一桁で示されるのは、現代の国単位の大きさの地域だ
だから帯方郡から邪馬台国でいいだろ?
何をいきり立っているんだ? >>683
つまり君の屁理屈はほぼ受け入れられていないんだよ。
毎日毎日、無駄な書き込みをご苦労さんw >>686
>伊都国が邪馬台国なら、邪馬台国の官が臨津搜露すればよいので一大率は必要ない
バカだなあ。
邪馬台国に到着したからこそ、その官である大率が臨津搜露わけだよ。
見事に整合性が取れているだろ? >>688
伊都国には王がいたこと、大率(大将軍の意味だ)が置かれたことなどが書かれている。 >>690
>代表は銅鐸文化圏にあったと考えた方がいいだろうな。
この「邪馬台国の会の中の人」は銅鐸文化圏をどう考えているんだろう?
銅鐸文化圏に中心の一つが畿内大和の唐古鍵遺跡なのに >>695
>だから帯方郡から邪馬台国でいいだろ?
現代の国の大きさって書いてあるだろ?
帯方郡から日本まで萬二千里、であって、
日本の中の特定点をピンポイントで指すものじゃない >>699
大和は天皇家を筆頭とする国のようなものと考えてるから、
唐古鍵遺跡が銅鐸文化圏なら大和に含まれないと考えてるよ。 >>696
>つまり君の屁理屈はほぼ受け入れられていないんだよ。
大丈夫
>>696がただ一人で「僕ちんは認められないにだー理由は僕ちんがそう考えたから」って
無意味な書き込みをしてるだけってのが現状だよ >>701 の続き
もちろん、律令制度などで別の意味も加えられてからは、その限りじゃないよ。 >>701
>大和は天皇家を筆頭とする国のようなものと考えてるから、
>唐古鍵遺跡が銅鐸文化圏なら大和に含まれないと考えてるよ。
イミフ >>622
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説者は、
頭おかしくなってるぞ トンデモ論者の特徴
・自分は正しいと無自覚に思い込んでいる
・自分で勝手に定義をつくってそれを前提に話を進める
・自分の意見が通らないのは周囲に責任があると思っている >>700
倭は周旋五千里はあるとされているから、一万二千里は特定のどこかまでだよ。
はい、論破した。 >>707
これを思い出した
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。 >>710
僕も日本の国家元首は形だけであったとしても日本建国以来ずっと天皇だったと思ってるし、
記紀に書かれてることは可能な限り歴史的事実として立証したいと思ってるから、
結構皇国史観に近い考え方を持ってるけど、それ故に九州説だけどな。 >>709
そんなの12000から7000引いただけのファンタジック数字だろ >>714
>僕も日本の国家元首は形だけであったとしても日本建国以来ずっと天皇だったと思ってるし、
>それ故に九州説だけどな。
九州は、天皇宮中祭祀で昔からずっと蚊帳の外。 そんなところに、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>716
邪馬台国は日本(の前身)に含まれないと考えてるんだけど。 >>718
九州は、天皇宮中祭祀で昔からずっと蚊帳の外。 そんなところに、天皇家など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 九州説はすぐ論破されて逃げる
しばらくするとシレっと帰ってきて、同じことを言う
そして畿内説は反論ができない、などと嘯く
同じことを言って論破されてるのに
これって
「節子さんがご飯を食べさせてくれないんぢゃ〜」
「お義父さん、さっき食べたでしょ」
のパターンか >>719
僕も九州に訪れた時以外はそうだと思ってるよ。
やっと意見があったね。 >>721
>僕も九州に訪れた時以外はそうだと思ってるよ。
意味不明。 @阿波 端からみると意味不明瞭な書き込みに対して
会話が進んだり賛同があったりしたら
それは高確率で自演 494>>637
大和説者は、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて論破されると、
こっそり論点そらして、別の論点にして、口先での言葉尻誹謗 にすり替える。
わかりやすい完全敗北宣言だね。 >>724
そういうウソを、平気で書くのが
ナリスマシ常習の九州説爺 >>691
ヤフーの地図みたらすぐ分かるだろう。
ヤフーの地図で、大津市の逢坂山を見て、そこから南へ3キロほど下がり、それから東へ6キロほど進んだところが国庁跡だな。
ということは、だれにでも分かるが、だいたい逢坂山の東南東方向になるな。
で、それがどうしたの? 494>>645
>女王国までの国々はそのおおよその道里が略載できるがの
女王国までの国々は対馬国〜投馬国
これらは全て女王国より北の国 <
間違い。
投馬國は、不彌國からの側副傍線国説明であり、南へ水行二十日の位置。
そして、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、不彌國と邪馬壹國女王之所都とは、
ほぼくっついているから、
投馬國は、自女王國以南になる。 >>725
キナイコシの兆候を見せたら無視する。
これが一番やね。 494>>647
>一般には行程文などと呼ばれるが、本質は倭国の地誌情報であり、
邪馬台国に対して「女王の都するところ」という情報は最も重要な情報だから
邪馬台国という地名の初出直後にあるのが当然<
数量の叙述は、説明対象文言のすぐ後ろに置くことになっているから、
「水行十日陸行一月」は、
その直前の(魏使らの目的地である)女王之所都の説明である事になり、
郡から女王之所都への所要日数になる。 投げ馬国は女王国までの途上にあるから
以北でもなく以南でもない、これが正解 >>730
常敗者九州説
なさけない逃亡宣言いただきました >>715
どこがファンタジック?
合理的な数字だということだ。 494>>654
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
大和説学者らに雇われて頼まれて書き込んでるんだろうけど、大変だな
あちこちほころびだらけの大和説をもって九州説と議論しろと
何かの拷問かな
そして雇い主のお偉いさんは今ごろのうのうと涼んでるだろう 494>>658
しかし、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説では、
簡単にで嘘がバレて、勝手に滅びるんだから、
どの大和説学者らも、今更人を雇ったりはせんだろうなあ?。 僕も卑弥呼の時代と大和朝廷は関係ない祭祀だと思ってる、九州沿岸に畿内式が流れて来たのは、宗像、水沼らの海人らで、秦氏は完全なる新羅信仰でありこれと宇佐が合わさったときに、宮中的祭祀としてヤマトに組み込まれていったと思うところもある。九州は捨てきれない >>737
>宮中的祭祀としてヤマトに組み込まれていったと思うところもある。九州は捨てきれない
九州は、天皇宮中祭祀で昔からずっと蚊帳の外。 そんなところに、天皇家など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>729
>そして、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、不彌國と邪馬壹國女王之所都とは、
>ほぼくっついているから、
国と国の距離は、郡衙と国邑とか都とか、常に中心地と中心地の距離だ
だから部分里程の総計=全体里程になる
ところが九州王朝イカサマ説は中心地から国境までの距離とかデタラメをするので、部分里程の総計が全体里程にならない
つまり不弥国で12000里がほぼ終わるというのはウソなのだ
個々の内訳をゴマカシてるわけ
末盧から伊都の500里とは具体的にどこからどこまでなのか
奴から不弥の100里とは具体的にどこからどこまでなのか
問いただせば、インチキが明らかになる
九州王朝説はこれに答えられまい
逃げるしかない
島巡りで1400里ゴマカシたのも無駄
全ての論理が最初から崩壊しているということだ それは何度も聞いたんだけどさ、何故卑弥呼=天皇なのよ。卑弥呼=天皇なら、伝説なら、日向か奈良に決まってるか、筑紫城にいただから筑紫でしょ? >>709
>倭は周旋五千里はあるとされているから、一万二千里は特定のどこかまでだよ。
>はい、論破した。
確認だが、周旋は一周したりもとの場所に戻ったりしないって理解してるよな? >>713
>キナイコシそのものじゃん
ミラーリングという用語があってだなww >>718
>邪馬台国は日本(の前身)に含まれないと考えてるんだけど。
そうやって日本の歴史を小さく短くしたがるんだよなww
九州説とどこかの腐れ儒教国は言いたいことが一致している >>732
>投げ馬国は女王国までの途上にあるから
>以北でもなく以南でもない、これが正解
陳寿の認識、魏志倭人伝の記述では女王國より以北となる
現実の地理と一致しないけれど、それでも帯方郡から邪馬台国までの間にないといけない
で、結局糸くず系の北部九州説は全滅する訳だww >>734
>合理的な数字だということだ。
萬二千里も、七千里も、現実の地理とは関係のない観念的な設定値
実測値ではないから、この「観念的」を意訳してファンタジックとしているだけ
現実の地理と無関係の数字をいじくっても、現実の地球上の比定地は
探せないということ
12000−7000=5000、というのは単なる数字上の計算
だから何?というレベルでしかない >>1
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまいましたね。。 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いという真実を否定できないキナイコシが、反論を諦めて、また嘘を言い放っているな。。 >>740
>筑紫城にいただから筑紫でしょ?
それ、単に記紀神話の日向三代を筑紫の日向で、
王のいるところは城(中国では王都は城壁都市)だから、筑紫城と書いているだけ
単に記紀の引用情報(中国人の常識に沿った意訳)だよ >>745
何言ってるんだよ
ま、三国志もその一部分である倭人伝も、皆ファンタジーだったと云いたいんだろうけどな。
陳寿は古代のファンタ小説家かww >>747
そもそも、巻向に人民の住居が20件程度あった時期が、3世紀だという根拠は全く無いのだったな、、、 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いという真実を否定できないキナイコシが、反論を諦めて、意味の分からないことを呟いたな、、、
749日本@名無史さん2019/08/17(土) 16:49:04.89
変句点の呟きは九州説終了のサイン >>751
誰も主張してないことに根拠を求めるのは
白痴のすること >>752
キナイコシは家族との団欒や社会での労働もせず、コミュニケーションを司る脳が退化しているので、意味の分からないことを呟くのだったな、、、 >>751
そして、巻向に古墳が出現した時期が、3世紀だという根拠も全く無いのだったな、、 連続句読点もやる気なくなってきてるし、九州説ももうネタ切れかなww
投馬国は女王國より以北の国
これだけで死ぬし >>739
>ところが九州王朝イカサマ説は中心地から国境までの距離とかデタラメをするので、部分里程の総計が全体里程にならない
イカサマをしているのは畿内説だよ?
帯方郡から倭国との国境の狗邪韓国までは七千里、そこから対馬海峡を渡るのに三千里、帯方郡から一万二千里で倭国(の中心の王都である邪馬台国)。
それを難癖つけてチャラにしようとしているのが畿内説だよ。 >>740
そうなんだよ。
国内外の史書がいずれも倭国は筑紫としているのに、それを無視しているのが畿内説。 >>741
>確認だが、周旋は一周したりもとの場所に戻ったりしないって理解してるよな?
周旋は周旋だよ。周囲の長さってこと
5000里もあったわけないんで、どうせ盛り盛りの適当な数字だろうけどね >>755
奥山氏もBBAのキャラクターも、生まれつき脳を破損していたので、邪馬台国畿内説に洗脳された可能性が、高いのだったな、
、 >>748
>それ、単に記紀神話の日向三代を筑紫の日向で、
別の書だともっと長くいたことになっている。
記紀が原典というわけではないようだ。 >>44
元々大和を除く畿内とその周辺地域は銅鐸作れとったんやから、
それらの地域を含む王権ができたんやったら
銅鏡くらい国産できて当たり前やと思うけどな。 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いという真実を否定できないキナイコシが、反論を諦めて、意味の分からない嘘を呟いたな、、、
756日本@名無史さん2019/08/17(土) 17:08:19.54
連続句読点もやる気なくなってきてるし、九州説ももうネタ切れかなww
投馬国は女王國より以北の国
これだけで死ぬし 宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。 >>757
>帯方郡から倭国との国境の狗邪韓国までは七千里、
その通り。 @阿波
>そこから対馬海峡を渡るのに三千里、
その通り。 @阿波
>帯方郡から一万二千里で倭国(の中心の王都である邪馬台国)。
その通り。 帯方郡から一万二千里(直線距離)で倭国(の中心の王都である邪馬台国)。 @阿波 投馬国を南に移動するネタ必須条件が
「島巡り」+「不彌国から距離ゼロ」
+「不彌国から南至、郡から水行10日陸行1月」
+「韓地陸行」
超曲芸読み全部乗せをクリアしないと不成立という
極細ボトルネックで笑えるわ >>758
>国内外の史書がいずれも倭国は筑紫
筑紫も日向も出雲も、いずれも国名じゃないよ。 わははははは @阿波 >>765
>帯方郡から一万二千里(直線距離)で倭国(の中心の王都である邪馬台国)
直線距離はさすがに違うだろ
そもそも正確な地図を作れない時代にどうやって直線距離を測るのか? >>758
>国内外の史書がいずれも倭国は筑紫としているのに、
そんな史料ねえよ
歴史学反主流派の九州説がトンデモ解釈作っただけ >>743
それを主張することで日本の歴史は短くなったりせんけどな。
中国王朝が認める日本列島を代表する王朝としての長さは短くなるが。
僕が日本書紀の一般的な紀年論より日本の歴史を短くする理由は、
奈良県における銅鐸出土数の激減時期と神武東征を関連付けようとするからやけどな。 >>750
>何言ってるんだよ
前から言ってるだろ?
魏志倭人伝で意味のある情報は、
・国名、大体の並び順
・卑弥呼という王が居たこと
・ローカル首長ではなく、共立された広範囲の協調が成立していること
これくらいだよ
文化風物は、南方要素・伝説からの引用が多くてそれほどあてにならない
九州説は、あてにならない部分を一生懸命弄くって、行程パズルに勤しんでいるけれど
「投馬国は女王國より以北の国」だけで破滅してしまうww >>768
>そもそも正確な地図を作れない時代にどうやって直線距離を測るのか?
じゃあ、15世紀だが、これはどうやった書いたのか? @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>757
>帯方郡から倭国との国境の狗邪韓国までは七千里、そこから対馬海峡を渡るのに三千里、帯方郡から一万二千里で倭国(の中心の王都である邪馬台国)。
それだと女王国の北に投馬国が入らないから
九州説またイカサマするんだよな >>759
>周旋は周旋だよ。周囲の長さってこと
三国志で周旋を一周したりもとの場所に戻ったりする意味で使っている部分はない
「周囲の長さ」というのは大間違いww
いろいろなところに寄りながら進むんだよ
それが周旋の意味 >>757
>倭国(の中心の王都である邪馬台国)。
この括弧書きなしなら正解
括弧書きで捏造を入れ込んでくるから九州説は無能 494>>707
>九章算術は魏志倭人伝が撰述された時代に使われていた同時代文書であり、
そこで「道里が日数で示される実例」が確認できる<
出来ない。
陳寿は、九章算術とは違って、「道里」の里数記載と、日数記載をきちんと書き分けている。
>そのことにより、
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
という投馬国の記述には道里「南至 水行二十日」と戸数「可五萬餘戶」が
きちんと略載された女王國より以北の国であることが確認できる<
ダメだ。
魏使らは、3箇所の渡海の各「千余里」をきちんと計測しているのだから、
魏使らが投馬國へ行っていたのなら、
不彌國から南の「水行二十日」の里数を計測出来ない、という事が起こり得ない。
だから、「水行二十日」が他の行程と同じように里数で書かれていない、という事は、
魏使らは投馬國へは行っていない、という事だ。
つまり、投馬國は、
萬二千余里がほぼ終わった「不彌國や邪馬壹國女王之所都付近」よりもはるか南にあり、
「自女王國以南」の国であった、という事だ。
>つまり、九章算術の道里を日数で示した用例は
投馬国の比定地の適否を判断するための傍証となっている<
つまり、投馬國が「日数」で書かれた、という事は、は、
陳寿は、「道里」を(日数である事を否定して)「里数で書くものだ」と考えており、
その「道里」を使って「計其道里、當在會稽東治之東」も計算しており、
九章算術の「道里と日数の同等扱い」を否定している、という事だ。 >>759
>周旋は周旋だよ。周囲の長さってこと
それ、無理だよね
1里が何メートルでどこ回る気?
九州説がまた破綻するよ 投げ馬国は女王国の途上ではなく邪馬台国までの途上だった
ここは重要なポイント >帯方郡から一万二千里で倭国(の中心の王都である邪馬台国)。
その通り。 帯方郡から一万二千里(直線距離)で倭国(の中心の王都である女王国=邪馬台国)。 @阿波 >>768
>そもそも正確な地図を作れない時代にどうやって直線距離を測るのか?
じゃあ、15世紀だが、これはどうやって書いたのか? @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>776
その通り
道里と日数は明確に使い分けられている >>761
>別の書だともっと長くいたことになっている。
その「別の書」「もっと長くいた」を「具体的に示す」ってことが
どうしてできないかな?ww
どうせ偽書確定の竹内文書とかホツマツタエとかで、書名を出した瞬間に
胡散臭さ爆発だから隠してるだけだろ?w >>714
「南≠東」などに反論もできないまま
根拠もなく「間違った解釈」とか
決め付けるところが
いかにもアホな大和説 >>768
>そもそも正確な地図を作れない時代にどうやって直線距離を測るのか?
適当地図を作って適当に計るんだよ
適当に作ったものでも、案外そこまでずれない値が出る
その適当地図が適当すぎて残されていないから、
地図が作れなかったってことになってるけどね >>770
>奈良県における銅鐸出土数の激減時期と神武東征を関連付けようとするからやけどな。
つまり「理由は僕がそう考えたから」だねww >>778
根拠は、再三説明されてる
・日数表記でも道里にあたるので投馬国は女王国以北
・女王国以北のほかは「不可得詳」だから戸数も官もわかってる投馬国は非該当、故に投馬国は女王国以北 >>784
>「南≠東」などに反論もできないまま
九州説は嘘ばかりつく
反論を見ないフリするインチキ説 >>778
>なんの根拠もなくただ言い張るだけか
魏志倭人伝に書いてあるだろ?
帯方郡
狗邪韓国
対馬国
壱岐国
末盧國、伊都国、奴国、不彌国
南至投馬國、水行二十日(官名)可五萬餘戶 ←ここまで女王國以北
南至邪馬壹國、女王之所都 水行十日、陸行一月(官名)可七萬餘戶 ←女王國
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、
これだけはっきり書いてあるのに、根拠がないとか嘯くなんて、
「もう文を読むの止めたら?」レベルの機能的非識字者だな >>786
文献と考古学的物証を関連付ける可能性を探るのに何かご不満でも?
畿内説派は文献と考古学的物証はでいいと考えてるとか? 畿内説派は文献と考古学的物証はでいいと考えてるとか?
↓
畿内説派は文献と考古学的物証はバラバラでいいと考えてるとか? 投馬国をむりやり「女王国以北」から外せば
名前しかわからない国々と同列の「不可得詳」
ということになってしまう
しかし実際の投馬国は
戸数、官、副、所要日数などが判明しているので不適切
したがって投馬国を「女王国以北」から外すのは無理 >>791
>畿内説派は文献と考古学的物証はバラバラでいいと考えてるとか?
具体的には何のことかな?
抽象論で漠然と言われても、わけがわからない 世の中は高校野球で盛り上がっているのに、
こんな結論出るわけでもないことでネットにかじりついて、お前らアホじゃね? 494>>747
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
理由なにも言えずに史料事実を拒み、否定曲解するだけ
なんと無力なする大和説 >>796のような、バレバレのウソをつくしか
生きる道のなくなった九州説は、終わってます >>785
徳島県に邪馬台国がある説で、当時すでに六分儀とかあって
経度求めるみたいなやつ見たことあるで。
緯度は南中時の太陽の角度で求める方法でいけるし。 494>>748
>>唐会要倭國伝の
「正北抵新羅」や「倭奴國」や「世與中國通。其王姓阿毎氏」などに拠って、
倭國は九州にあって、唐代まで存続していた事が確定であり、
だから、倭王武の「東征毛人五十五國」に拠って、
大和が九州倭国の支配下になっていた事も確定だ。<
>そんなもんすべて否定されてて反論もできないのが九州説でしょ<
まだ否定された記憶はないよ。 畿内にいくつ国があったが知らんが、倭国大乱政権争いで西日本全部じゃ広すぎるよ。 結論は、もう出てるんだよ
九州説の言うように
倭人伝に書かれてるとおりの行程を行って
北部九州にあった女王の都に着くなら
陳寿本人が
「会稽東治之東」などど書くわけがない
九州説はあり得ない >>801
そのような
根拠のない印象論
それが九州説 >>802
>倭人伝に書かれてるとおりの行程を行って
>北部九州にあった女王の都に着くなら
>陳寿本人が
>「会稽東治之東」などど書くわけがない
それだったら九州から東に移動しないといけない畿内も同じなわけで、
そういう理由で九州はあり得ないと主張するのはおかしい
正確な地図を作れない時代なら九州を会稽東治之東と中国人が思い込んでも不思議じゃない
会稽東治から東に行けば海流に流されて九州に着くのだから >>806
>それだったら九州から東に移動しないといけない畿内も同じなわけで、
>そういう理由で九州はあり得ないと主張するのはおかしい
九州説があり得ないのは、わかるな?
方位は間違っている、距離もおかしいと主張している畿内説だけが生存するのだ >>806
>正確な地図を作れない時代なら九州を会稽東治之東と中国人が思い込んでも不思議じゃない
ならば、短里説が死亡だ
そして短里説を使った九州説も全滅だ
なむあみだぶつ >>791
>畿内説派は文献と考古学的物証はバラバラでいいと考えてるとか?
文献の信頼度が低ければ、考古学物証を中心に考え、
考古学物証を中心に組み上げられた説と文献との整合性を考えるという順番になる
これは畿内説だから同行ではなく、理の当然
九州説のように魏志倭人伝ありきで「魏志倭人伝原理主義」に陥り、
その上での『行程パズル』に拘泥するようでは
どうやっても歴史の真実にはアプローチできないよ >>799
>緯度は南中時の太陽の角度で求める方法でいけるし。
角度の1度の差をきちんと測れる分度器がないから無理 >>809
会稽東治之の東に合わせるために里数等を調節してるんじゃないかというのも
一九州説の主張には含まれてるんやで。 >>801
>畿内にいくつ国があったが知らんが、倭国大乱政権争いで西日本全部じゃ広すぎるよ。
畿内にもローカル首長は各地にいただろうけれど、畿内第V様式土器圏は
分業体制で補完し合う一つの経済圏となっている
これを覇権争いの上での「一つの勢力」と見るのはある意味当然 >>806
>それだったら九州から東に移動しないといけない畿内も同じなわけで、
同じじゃないよ
九州説は方角は間違っていないし、距離も短里ならぴったりっていう主張だろ?
それが、会稽東治之東で破綻してるって話
畿内説は、陳寿の想定が現実の地理に合わない、
あるいは陳寿の利用できた情報が不完全で結果として現実の地理と合わない行程記述に
なっていると言っているのだから、陳寿の想定で会稽東治之東でも問題ない
水行、陸行部分まで含めて、畿内説の行程案の方が陳寿の記述に忠実だぞw
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg >>813
末盧国以降あきらかに方位がおかしい記事が出てきてるのもお忘れなく 494>>764
九州説に、
「南→東」などの方向の嘘付き騙しや、「道里日数論のウソ」などが、
通用しない事実に、
パニックを起こし狂乱する大和説 末盧国、海沿い
伊都国、海沿い
奴国、海沿い、大人口
不弥国、これも海沿いのどこか
投馬国、長い長い海岸を経た後の海沿い、大人口
邪馬台国、長い海岸を経た後の、内陸部、大人口
方位や距離が当てにならなくても、
これだけの情報があれば、
北九州を歴訪した後、出雲に立ち寄り、
丹後半島あたりから陸路で奈良盆地、
と言うルートが浮かび上がって来る。
行程記事の話はこれだけで終わりなんだよ。 >>812
当時すでに正弦関数はあったから。
中国に伝わってた確証は僕にはないけど。 >>820
いつ、誰に、何と言って?
自我崩壊から自己防衛するため記憶改竄してる? >>768
直線ではなく道のりだよ。
朝鮮半島の南西角で曲がっているから。
(韓は4千里四方の四角形、南辺の途中から対馬海峡を渡海) 対馬
壱岐
松浦
伊都
奴国
ーーーーーー女王国の境界
投馬国
邪馬台国
こういうこと >>771
>・ローカル首長ではなく、共立された広範囲の協調が成立していること
ちょっと妄想が入っている。
倭国の中で共立されたが、「広範囲」とは書かれていない。
共立した範囲が玄界灘沿岸だけだった可能性もある。 >>773
>それだと女王国の北に投馬国が入らないから
>九州説またイカサマするんだよな
投馬国の里数は書かれていないから影響しない。
というか、邪馬台国までの里程に投馬国が含まれていない可能性が高い。 >>820
>それすべて論破されてるやつじゃん
そういう強がりのウソは惨めだぞww
九章算術の件で九州説側のできたことは
ザラゴキ 道里が日数で書いてあることを認めた上で、九章算術を信頼ならんと誹謗
キウス 道里が日数で書いてあることを認めた上で、FAQ78に載せる必要はないと逆ギレ
連続句読点 訳も分からずコピペ
邪馬台国の会の中の人 遠近は道里じゃないとか注では行道と書いてあるから道里じゃないとか
労働日数だから道理じゃないとか、すべて意味のない論点そらしに奔走だが撃沈
結局、道里は日数でも書けるというのが九章算術で確認できた、で終了
論破されたのはすべて「九州説のいちゃもん」の部分 >>817
いや、狗邪韓国以後すでに30°〜40°くらいおかしくて、
奴国までずっとぞの傾向続いてるから。 >>777
>1里が何メートルでどこ回る気?
>九州説がまた破綻するよ
福岡県、長崎県、佐賀県、もしかしたら大分県の一部も。 畿内は日本海ルートだろ?裴せいせいのときも難波に御苑拵える位なんだから、津に忌部に造らしてるよ。また、会稽東治東は確かその道理がついてたから長い年月を経てここにだよ。 >>783
宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。 >>822
>当時すでに正弦関数はあったから。
理論があっても、測定ができなければ無意味
その当時、50キロ程度の緯度差を太陽の位置で測れる精度の分度器はない 畿内説では万二千里の説明がつかない
奴国までですでに万六百里、残りの千四百里の
範囲に女王国がない畿内説は破綻している >>826
なに夢みてんの?
7万戸、5万戸、2万戸の国を含む連合がだよ
それが広域でないとか
脳死んだ? 449>>776
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
大和説は存亡の縁で、敗色濃厚のため、発狂者続出か >>792
投馬国は肝心の里数がない。
投馬国までの里程を述べないうちに一万里が消費されている。 >>825
つまり女王國は、投馬国と邪馬台国しかないんだな?
斬新だねww
結局、投馬国は邪馬台国以北の国にしかならないんじゃないのか?ww >>807
>方位は間違っている、距離もおかしいと主張している畿内説だけが生存するのだ
意味不 >>831
>>1里が何メートルでどこ回る気?
>>九州説がまた破綻するよ
>福岡県、長崎県、佐賀県、もしかしたら大分県の一部も。
で?
1里が何メートルでどう回る気?
壱岐対馬はなぜ除外?
九州説がまた破綻したよ >>809
むしろ縮尺が違うだけという九州説の方が正しく見える。 >>826
>共立した範囲が玄界灘沿岸だけだった可能性もある。
そんな可能性はないよww
前方後円墳が卑弥呼と同時代に広範囲で一斉に作られ始めている
この考古学的状況を、玄界灘沿岸だけの倭国ではまったく説明不能になるから >>819
>投馬国、長い長い海岸を経た後の海沿い、大人口
>邪馬台国、長い海岸を経た後の、内陸部、大人口
ここだけ里数が書かれていないのはおかしいよね。 >>825
違う。
国境は帯方郡から七千里の狗邪韓国。 >>835
>畿内説では万二千里の説明がつかない
>奴国までですでに万六百里、残りの千四百里の
>範囲に女王国がない畿内説は破綻している
ひとの話まったく聞かない思い込みの人かw
博多から千四百里あれば畿内に着くぞ >>839
>結局、投馬国は邪馬台国以北の国にしかならないんじゃないのか?
その方位があてにならないってのが畿内説の主張じゃないのか?
だったら過去スレでも話は出ているが、伊都国は女王国の北を検察しているのだから、
伊都国の南方に女王国がないとおかしいわけで、そういう主張は自己矛盾
もっともこれは伊都国が糸島平野にあったとするなら、の話だけどね
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史 >>834
棒をまっすぐに立て、棒の先端と影の先端を結ぶ長さと棒の長さか陰の長さを測れば、
角度求まるから。 >>847
都合のいいときだけ縮尺を急に変えるいつもの畿内説 >>840
>>方位は間違っている、距離もおかしいと主張している畿内説だけが生存するのだ
>意味不
知能、ひくい人?
実際に倭人伝記載の方位は間違っていた
実際に距離もおかしかった
だから、そう主張してきた畿内説だけが生存する
とうぜんだろ? 494>>785
「南≠東」は、
中国人学者だけではなく、国民にも人類にとっても、皆、常識であり、
大和説者の倭人伝解釈の方が、
我流自己流の珍珍説だろ?。 >>842
>むしろ縮尺が違うだけという九州説の方が正しく見える。
見える理由は? >>845
>ここだけ里数が書かれていないのはおかしいよね。
なぜ、おかしいと思うの?
理由は? >>847
>博多から千四百里あれば畿内に着くぞ
短里があったとは思わないが、中国本土外では長めの里数で書かれているのは明らかやろ?
遠くから朝貢してきたことにしたいからね
当然1里あたりのメートル数は短くなるわけで、1400里をここだけ中国本土内で使われているメートル数で解釈するのはおかしいだろ 494>>786
九州説は、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をしているから、
口惜しがらなくちゃいけない要素なんか何もないが?
むしろ「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説の敗退確定で、
いい気分 倭人伝を都合よくきりとるくせに邪馬台国の称号だけはほしがる畿内説
古代史を侮辱してるだけの糞だな >>839
>つまり女王國は、投馬国と邪馬台国しかないんだな?
投馬国は女王国ではないと思う。 >>841
壱岐対馬は倭国の範囲だけれど、一続きの島ではないからね。 >>801
倭国大乱は、玄界灘連合と筑紫平野連合が背振山地で長年激突した騒乱。
人口で優勢に立つ筑紫平野連合が優勢勝ちして手打ち。
筑紫平野連合の邪馬台国が倭国の盟主を務めることとなり、その邪馬台国の卑弥呼が倭国の王となった。
魏志倭人伝にある通り、その邪馬台国の南には狗奴国があり、これは現在の熊本地方。
3世紀中頃になってその熊本の狗奴国が北隣の邪馬台国に攻め込んだ。
倭人伝の記述と地理的にぴったりだな。 >>849
>その方位があてにならないってのが畿内説の主張じゃないのか?
あてにならないよ
だが、陳寿は「以北」と書いた
史料批判はまず原文の記載意図を正しく理解してからだ
それまでは原文を使う >>843
>前方後円墳が卑弥呼と同時代に広範囲で一斉に作られ始めている
>この考古学的状況を、玄界灘沿岸だけの倭国ではまったく説明不能になるから
壱岐対馬や長崎県にはまだない。
だからその意見は成り立たない。 >>847
>博多から千四百里あれば畿内に着くぞ
対馬海峡の半分もない。
しかも魏の里でも畿内には届かない。 >>851
>都合のいいときだけ縮尺を急に変えるいつもの畿内説
そのような事実はないな
縮尺は用いない
魏の正しい里がを用いるだけだ >>864
>だが、陳寿は「以北」と書いた
じゃあ女王国は伊都国の南ってことやね? >>855
>キナイコシはスルーしよう。
もう追い詰められて逃亡画策か
九州説ナサケナー >>857
正しい単位を使って、なぜおかしいんだ?
理由は? >>858
>九州説は、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をしているから、
した形跡が一切ないんだが 肥君と筑紫君と宇佐君が強かった時でしょ、その後は奈良に譲るけど。 >>859
>倭人伝を都合よくきりとるくせに邪馬台国の称号だけはほしがる畿内説
そんなことをした
という証拠は? >>868
は?魏の正しい里?
頭おかしくなったの? >>861
>壱岐対馬は倭国の範囲だけれど、一続きの島ではないからね。
でないと何なんだ?
壱岐対馬を除外する理由は? 494>>788
3海峡で、全部「千余里」が「里数計測」されているのに、
不彌國から投馬國の南へ「水行二十日」が「里数計測」出来なかった、という事は有り得ず、
それは逆に、
魏使らは不彌國や邪馬壹國の地域から投馬國へは行っていなかった、という事を示しており、
従って、「投馬国は女王國より以南の国」だけで、大和説は壊滅。
勿論、「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数説明。 >>862
>次有ではじまる20国も女王国だよ
理由は?
なぜ九州説はいつも全く理由を言わないの? >>828
>投馬国の里数は書かれていないから影響しない。
だからそれはFAQ78そのものww
「道里が日数で書いてある」でおしまいww >>863
もう少し踏み込んで、博多湾沿岸勢力(筑紫)と有明海沿岸勢力(肥国)が対立したのが倭国大乱で、肥国から共立された卑弥呼が王となり伊都に入ったが、肥国の中で不満分子が独立して王を名乗ったのが肥後狗奴国なのだと思う。 >>880
女王国の境界の話をしてる部分ででてくるから >>867
>対馬海峡の半分もない。
そんな魏の里はない
>しかも魏の里でも畿内には届かない。
届かないと断定する理由は?
なぜ九州説はいつも全く理由を言わないのかな? >>833
いやそれ、結局記紀(たぶん旧字本紀も混じってる)という日本の史書が
不正確な転記じゃん
二次資料を根拠に一次資料を修正しようってのは、まともな人の考えることではない >>868
>縮尺は用いない
>魏の正しい里がを用いるだけだ
対馬海峡が明らかにそれでは事実と合わない。 >>869
>じゃあ女王国は伊都国の南ってことやね?
陳寿の得た間違った情報では、ね
間違った情報だったから
陳寿は日本列島上にある邪馬台国を
実際より遥かに南と誤解したわけだ >>835
>畿内説では万二千里の説明がつかない
つくよ?
何度もいっているけれど、萬二千里は淮南子にも見られる中華での
世界観の世界の果てを示す観念的な数字
それが現実の地理とは無関係に採用されて設定値として置かれているだけの数字
>奴国までですでに万六百里、残りの千四百里の
>範囲に女王国がない畿内説は破綻している
短里なんてないんだから、千四百里で十分畿内まで届くよ
短里を前提にしているから九州説はボロボロなんだよ >>877
>東を南と言い張る
それが正しいので、そう主張する
末盧国の東南に伊都国があるはずだが
実際はほくとうにあ? 494>>812
まあ大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しのインチキのように、
漢文の我流解釈で作られてるようなもんだから、 >>838
>投馬国は肝心の里数がない。
まさにFAQ78だわww
キウスさんや、こういう御仁が存在するからFAQ78は必要なんだよww
分かったかな
そして、道里は日数で示せる
投馬国は女王國より以北の国、で>>838式の九州説は確実に死亡ww >>873
でしょでしょ。
筑紫、豊国、肥国の三王家の関係で記紀も魏志倭人伝も説明できるんだよ。 >>891
>投馬国は女王國より以北の国、で>>838式の九州説は確実に死亡w
伊都国は女王国の北、で畿内説死亡w >>842
>縮尺が違うだけ
でも、その縮尺が定義できず、区間によって4倍も伸び縮みする
つまり、測定値ではありえないし、測定していない数値をもとに
比定地を求めようとするのはただの無謀であり無望ww >>879
>畿内説の矛盾誤謬がどんどん露わになってくるな
そんなもんが実在するなら、具体的に指摘するがよい
できないだろう
実在しないからだ >>876
周旋五千里は女王国の大きさを示している。
千里、二千里離れた壱岐対馬を除くのは当然で、九州本島のことだろう。
ただ、五千里では逆に九州南部までは入らない。 >>878
>3海峡で、全部「千余里」が「里数計測」されているのに、
>不彌國から投馬國の南へ「水行二十日」が「里数計測」出来なかった、という事は有り得ず、
>それは逆に、
>魏使らは不彌國や邪馬壹國の地域から投馬國へは行っていなかった、という事を示しており、
同意 >>845
>ここだけ里数が書かれていないのはおかしい
でも道里は略載されてるよw
北部九州までは漢委奴國王や、倭面土國王帥升等の交流のときの情報が不正確ながら里で
書かれていて、卑弥呼の遣使のときの記録が水行が多かったこともあって日数表記になっていた
それだけのことだ >>881
そのFAQが受け入れられていないということ。 >>807
>九州説があり得ないのは、わかるな?
>方位は間違っている、距離もおかしいと主張している畿内説だけが生存するのだ
そもそも倭人伝がおかしい間違ってる、とする畿内説だけが生き残るのかww
こりゃモラルハザード&脳みそハザードだね >>885
>いやそれ、結局記紀(たぶん旧字本紀も混じってる)という日本の史書が
>不正確な転記じゃん
>二次資料を根拠に一次資料を修正しようってのは、まともな人の考えることではない
これを元に新唐書の記事が書かれたわけだが >>849
>その方位があてにならないってのが畿内説の主張じゃないのか?
陳寿の認識の中の方角と現実の方角は一致しないって言ってるんだよ
大雑把には、帯方郡から離れる方向が、南として記載されてると思えばいい >>884
>>対馬海峡の半分もない。
>そんな魏の里はない
魏の里ではないという証明だよw >>886
>対馬海峡が明らかにそれでは事実と合わない。
つまり対馬海峡について倭人伝に書いてある渡海千余里は事実と合わない >>820
>伊都国の南が邪馬台国なんて魏志倭人伝には書いてないが
書いてあるのは投馬国から南に水行10日陸行一月<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
投馬國は、(魏使らが行っていない)不彌國の水行二十日南の側副傍線国説明になるから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南になる。 >>885
記紀も既存の史書の寄せ集めで、二次資料なんだよ。
別のより古い資料がかつてはあったということになる。 >>850
>棒をまっすぐに立て、棒の先端と影の先端を結ぶ長さと棒の長さか陰の長さを測れば、
正確な時計がない中で、その影の先端をいつ計るんだ?
そして、そうやって計ったとして、どこに作図して、どこで角度を測るんだ?
分度器はないんだぞ?ww
現代人の知識でこうやればできたはずってのは、緻密に考えるとほぼ破綻しているw >>888
何でも言っているように万に千里の先が倭人伝には書かれている
すでに論破されている数字だということ >>899
>でも道里は略載されてるよw
道理は略載されてるが、里数は書かれていない。だから投馬国は萬二千余里の外。 畿内説が一人で我儘いってるだけで完全に畿内説は論破されているな
所詮、畿内説なんてのはたわ言のたぐいなのだ >>897
>周旋五千里は女王国の大きさを示している。
>千里、二千里離れた壱岐対馬を除くのは当然で、九州本島のことだろう。
それは明らかに倭人伝の史料事実に反する
原文はこうだから
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」 >>851
>都合のいいときだけ縮尺を急に変えるいつもの畿内説
そんなことは畿内説は一切していない
存在するのは魏晋里だけ
短里なんてないとずっと言っている
そして誇張があるがその誇張には基準もなく観念的な値を置いているだけなので
「縮尺」は定義できないと繰り返し述べているし、
九州説側の「縮尺」の主張はすべて否定してきている >>912
>畿内説が一人で我儘いってるだけで完全に畿内説は論破されているな
>所詮、畿内説なんてのはたわ言のたぐいなのだ
同意 >>900
>そのFAQが受け入れられていないということ。
受け入れたら九州説即死だからな
それが、どうかしたかね? >>901
>そもそも倭人伝がおかしい間違ってる、とする畿内説だけが生き残るのかww
実際おかしいと判明した以上、当然そうなる >>913
>「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
長崎県の地形だろう。 >>857
>当然1里あたりのメートル数は短くなるわけで、1400里をここだけ中国本土内で使われている
>メートル数で解釈するのはおかしいだろ
おかしくないよ?
それしか使える里はないんだから
無理に里で解釈する必要はない、が本来だけれど
解釈するのであれば、魏晋里で考える以外にない
それに、「中国本土外では長めの里数で書かれている」のは
全行程が遠ければいいので、部分は特に拘束されない >>859
>邪馬台国の称号だけはほしがる畿内説
こういう考え方が、九州説の屑っぽさを現してるよなw
邪馬台国・ヤマト国と書いてあるのをそのまま読めばいいだけw >>903
>陳寿の認識の中の方角と現実の方角は一致しないって言ってるんだよ
>大雑把には、帯方郡から離れる方向が、南として記載されてると思えばいい
ふんふん、そうすると畿内は会稽の東の沖縄辺りにあったってことだな。
畿内説壊滅! >>863
>倭人伝の記述と地理的にぴったりだな。
それで、投馬国はどこなんだい?
北部九州説はほぼすべて、これだけで沈むww >>837
九州説の学者は居る
邪馬台国なんて存在もしなかった急付き騙し文言。
邪馬壹國女王之所都は投馬国の南、と読まない学者もいる
すぐしょうもないウソをつくのが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者 >>914
>そして誇張があるがその誇張には基準もなく観念的な値を置いているだけなので
対馬海峡の島の間が千里の基準の一つかもね。 >>908
いや、その東大寺の僧は記紀編纂よりずっと後世の人だ
宋に持って行ったのは記紀を元にした亜流ダイジェストに過ぎないというのが通説だ >>865
>壱岐対馬や長崎県にはまだない。
>だからその意見は成り立たない。
北部九州最大国の奴国のど真ん中にあるんだが?
その時点で、九州も前方後円墳体制の秩序に参画しているのが確実 494>>838
>通った順番に書いてあると思うよ <
奴國と投馬國は、「至」の前に移動があった事を示す文言がないから、
側副傍線国の説明であり、
魏使らは通っていない。 >>919
>解釈するのであれば、魏晋里で考える以外にない
その発想をやめたら?
ああ、畿内説が完膚なきまで可能性がなくなるから、受け入れられないのか。 >>918
>長崎県の地形だろう。
長崎県だけが倭地か
また九州説は新説かね? >>814
>畿内にもローカル首長は各地にいただろうけれど、畿内第V様式土器圏は
それ、「東阿波型土器」様式圏の間違いね。 わっはははは @阿波 >>897
>周旋五千里は女王国の大きさを示している。
>千里、二千里離れた壱岐対馬を除くのは当然で、九州本島のことだろう。
その通り、
対馬は方可400里、壱岐は方可300里とすでに面積大きさが示されている。
周旋五千里は九州本島の南北長で良い。 記紀の天皇すらおかしいとされてんだから、それ以外は認めないはおかしいでしょ。 >>925
君が言う通説ほど当てにならないものはないw
記紀とは別の史書があったのだろう。
記紀はニニギの時の政権交代を強調しているからね。
宋史の記事とは大きく異なっている。 >>867
>対馬海峡の半分もない。
面白いことを言うねww
九州説によると末盧国は呼子らしいんだが、そこから伊都国まで陸行する五百里が
壱岐から末盧国までの千里の倍くらいの長さになるって知ってたかい?ww
九州説の方が、よっぽど伸縮自在な短里を使ってる
>しかも魏の里でも畿内には届かない。
届くよ?
魏の公定尺が24.3センチ、里はその1800倍で437メートル
1400里で600キロを超えるから軽く届くでしょw 494>>840
>>北の反対は南だろ?<
>その方位に間違いがあるというのが通説 <
普通の成人人類は、東西南北を間違えない。
それが、中国人学者らや人類全体の常識。
だから、この男も、この男がいう「通説」者らも、全員、脳の異常者。 >>936
>九州説によると末盧国は呼子らしいんだが、そこから伊都国まで陸行する五百里が
志摩半島じゃないか? >>917
>実際(倭人伝が)おかしいと判明した以上、当然そうなる
そりゃ大発見だ、さっそく読売新聞奈良支局に取り上げてもらえば・・。 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>922
投馬国の候補地は薩摩やね。今のところは。 >>886
>対馬海峡が明らかにそれでは事実と合わない。
海峡渡海は測定せずに、一回千里って書いてあるだけなんだから、
縮尺も何もないだろう?ww
短里って何だろうねww
https://i.imgur.com/QLK9VEa.jpg >>919
>それに、「中国本土外では長めの里数で書かれている」のは
>全行程が遠ければいいので、部分は特に拘束されない
畿内説を論破したいわけじゃないが、さすがにその理屈は都合良すぎると思うよ 3世紀の九州にはロクな遺跡もなければ古墳もない。
だから彼らは「行程記事パズル」と「南」の一字に縋るしかない。
「南」じゃなかっただけで、砂上の楼閣のように全部崩れるからね、九州説は。恐ろしい恐ろしい。
彼らがそんな徒労に人生の時間をどれだけ無駄に費やしたか想像すると、目眩がするようだ。
「邪馬台国」の会は、解散した方がいいんじゃないかね?
ザラコク氏のように人生を棒に振る人間を、これ以上増やしてよいものか? >>942
いやいや、それだと陸行が千里以上あるじゃん。
方角もおかしい。
志摩半島に上陸すれば、三雲まで五百里になる。 >>900
>そのFAQが受け入れられていないということ。
それは「受け入れられないにだ」って「個人の感想」を言い張っている人がいるだけw
ザラコクやキウスでも九章算術では日数で道里が示されていることは認めてるのにねww
本当に惨めな人がいたものだ
ザラゴキ、キウス以下の理解力ww >>908
>別のより古い資料がかつてはあったということになる。
それが、宋史が編まれた頃の大陸中華に現存していたというのは噴飯ものの主張だなww 494>>852
>>「里」の本来の意味は、 「ひと纏まりの田畑とその耕作者らの集落」
を単位にしたその1辺長での数え方。<
>要するに旅して村をいくつ越えたくらいの距離って意味なんだよ
だから一里が百メートル以下だなんてデマもいいとこ 村はそんなに小さくない<
村ではない。「田畑」単位。
そして、「田」だけであっても、「一反ぶり」の田は相当大きくて、
未開の古代においては、そんな平坦な水田を確保するのも難しいもの。 >>914
じゃあ奴国までの里程も使えんな
終わってるじゃん畿内説 そもそも呼子に伊都国の4倍の戸数の国なんぞ、ある訳ないのにね。 >>941
福岡から見て西回りで宮崎まで行くので南とされたのだろう。
問題は鹿児島に大遺跡がないこと、投馬の地名がないこと。
宮崎なら都万に西都原古墳群がある。 494>>854
あいかわらず
「南→東」などの嘘付き騙しの言い訳を、まったく言わないのが
脳死大和説 >>910
>何でも言っているように万に千里の先が倭人伝には書かれている
漢土の東の端からまっすぐ東に行けば世界の果てまで萬二千里
倭国へは東南方向だから、萬二千里進んでも世界の端には着かない
何度も説明してるんだけどなww
九州説の人は畿内説の主張を何一つ論破できてないよ
逆に九州説の拠り所は、既に全部否定されている
短里なんてないし、大陸史書の方角は必ずしも正しくないww
そして、投馬国は女王國より以北の国ww >>911
>道理は略載されてるが、
この時点で、投馬国は女王國より以北の国で確定
北部九州説は壊滅
そして、萬二千里は女王国までの距離だから、倭国内の特定の場所は示していない
オーストラリアまで8000キロが、オーストラリア国内の特定地点を指さないのと同じ >>953
君の意見は九州説の意見を何一つ論破していないよ。 >>953
じゃあその万二千里という数字も虚構になるじゃんあほなの? >>955
キナイコシの誰にも認められていない詭弁が要約されているな。 >>929
>その発想をやめたら?
止めるも何も、基本的にはそんな発想はないぞ
萬二千里は観念的な値だから、具体的な距離に直す必要は最初からない 倭人伝では、集落一つで「一声1000戸」。
末盧国が4000戸なのは、集落4つから出来た「準領域国」だから。
そんなものが狭い漁村しか作れない呼子にあるはずがなく、
「行程パズル」に固執するから、そう言うおかしな事を言い出すことになる。 >>933
>周旋五千里は九州本島の南北長で良い。
或絶或連は無視するのかな? >>955
道理は略載されてるから以北だが、
里数は書かれていないので投馬国は萬二千余里の埒外、ザンネーン。 >>935
>宋史の記事とは大きく異なっている。
おいおい、宋史の記事はアメノミナカヌシからの高天原の神々の系譜もすべて
王統譜とみなしているだけのものだぞ
しかも名前がいちいち不正確 >>938
>志摩半島じゃないか?
それだと、今度は東南はよくても五百里に対する距離が短すぎて
九州説お得意の短里でもおっつかない短い区間になるだけだよww
そういうその場しのぎの思い付きでは整合性のある論説は作れないw 今日もキナイコシは完敗して発狂してるね
しょうこりもなく定期 「行程パズル」、「南」、「罵詈雑言」。
これしか出来ず、これで人生を棒に振る人間を、
これ以上増やしていいものかね? >>961
九州島の中にも大小の島はある。
長崎は九十九島という如く島が多い、熊本〜鹿児島には天草諸島などが絶え連なってある。 >>943
>畿内説を論破したいわけじゃないが、さすがにその理屈は都合良すぎると思うよ
魏志倭人伝は
帯方郡から北部九州まで一万里
帯方郡から女王国まで萬二千里
海峡は渡海一回一律千里
という3つの設定値が現実の地理とは無関係に置かれていて、あとは適当
北部九州内の陸行は、全体の行程に反映されていない
北部九州から投馬国経由、邪馬台国までの行程は、里数で考えていない
こういう大雑把でいい加減な記述でしかない
これをもとに行程パズルをひねくっても意味はない >>951
倭国のごたごたは実は日向がいろいろと工作してたんじゃないか考えてるので、
邪馬台国と関係の深い国であろう投馬国が日向だと都合悪いのもあるし、
薩摩だと音も似てる部分もあるし、平野部も十分ありそうだし。 末盧国上陸後から、方位はズレてるし、距離もアバウト。
近くは100里で、ちょっと遠くは一声500里。
なので「行程パズル」は全く無意味。考えるだけ無駄。 494>>858
>魏志やその他の文献に記された「里」記録例から、
帰納的に1里の長さを概算して短里の証拠としたら循環論法になるんだよ
わかった? <
魏志やその他の文献に記された「南」などの方向の記録例を、
「大和説という結論先にありき」で「東の間違いだ」と演繹したら、
それは、循環論法になるんだよ。
それに対して、魏志倭人伝などに書かれたいくつかの「里」数の記載例から、
それらを実際の地理的距離を計測計算して、記載された「里の長さ」を帰納的確率的推論をするのは、
正当な論であり、
「結論先にありき」ではないから循環論法にならないんだよ。
わかった?。 >>957
>じゃあその万二千里という数字も虚構になるじゃんあほなの?
その理解で合ってるよ
淮南子から引いてきた数字で、大陸中華の人には意味のある数字
本質的には現実の地理とは無関係だから、虚構といえば虚構の数字
だから、行程パズルには意味がないと言ってるんだよ >>959
>萬二千里は観念的な値だから、具体的な距離に直す必要は最初からない
要するに畿内説の場合、
里・距離は伸縮自由自在、方角の角度も自由自在ということだよな・・・、 >>971
>なので「行程パズル」は全く無意味。考えるだけ無駄。
わははははは トンデモだからだよ。 @阿波 >>973
>だから、行程パズルには意味がないと言ってるんだよ
わははははは トンデモだからだよ。 @阿波 >>970 の続き
西都原古墳群も4世紀築造で、
大和ー出雲連合が力をつけた後、関係の深い日向も恩恵を受けたって感じで、
3世紀の投馬国の国力を示してなさそうな感じあるし。 >>963
高天原ではなく全員筑紫にいたことになっているし、名前が少し違うのは、記紀とは別の史書があったことを示している。 畿内説の行程パズルは、角度も距離も伸縮自由自在のタコ足論法、、。 魏志倭人伝は
帯方郡から北部九州まで一万里
帯方郡から女王国まで萬二千里
海峡は渡海一回一律千里
という3つの値が現実の地理に合わせて紹介されており、一里が短かったことがわかる。 494>>862
>短里がなかった証拠として
古代中国の文献に短里という単語は一切出てこない
里はそれこそ山ほど書いてあるけど<
勿論「短里」なんて文言はなかったよ。
周代には、各地域國でが、
田畑の大きさや長さに差があって、「里歩系」の単位長が混乱していたから、
始皇帝が「1歩=6尺」という統一命令をだしたが、
漢代には、淮南子などのように混乱が発生していた。 >>1
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまいましたね。。 >>970
>倭国のごたごたは実は日向がいろいろと工作してたんじゃないか考えてるので、
じゃあますます宮崎県でいいじゃないか。
鹿児島にしてしまうと、工作出来るほどの余裕のある勢力について記載がないことになる。 >>973
なんかわけのわからん解説しはじめた
バカなの?この子 >>969
>帯方郡から北部九州まで一万里
>帯方郡から女王国まで萬二千里
>海峡は渡海一回一律千里
>という3つの設定値が現実の地理とは無関係に置かれていて、あとは適当
観念的な数字だとは自分も思っているけど、陳寿も足し算くらいはできるからね
その辺はツッコミ入らないように書かれているはず
もちろん推測でしかないよ >>987
郡使の報告書を陳寿がまとめただけ。
陳寿が考えた数字だとでも思っているの? 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の、頭が悪すぎるキナイコシは、邪馬台国畿内説を宣伝するための嘘だらけのテンプレートが、完全に論破されたので、嘘や悪口や意味の通じないことばかり、発表しているな、、、 >>978
筑紫と大和の連合が旧邪馬台国(そもそもは肥国)の勢力を圧倒し、日向国もその恩恵にあずかったとは考えられないか?
記紀の景行天皇や神功皇后の記事はそのようにも読めるよ。 >>992
一代が兄弟相続を含めて十数年間だとすると、神武は倭国大乱の2世紀末になる。
景行天皇は4世紀初め、神功皇后は4世紀後半。 すると神代の日向三代が伊都国の王家、卑弥呼の前の男王70-80年。 494>>871
>組織との戦いは捗ってるかね九州説くん?<
大和説者という人種は、明らかに、
「南→東」などの嘘付き騙しの、精神的に異常な脳の病気であり、
そのような・・・・組織と戦う、という事は、
年齢的にも体力的にも全く不可能で無意味であり、
だから、現在は、7割の「反大和説の人々」から、
これ以上大和説に騙される人が増えないように、
また、残りの3割の大和説者の中の何人かでも、大和説から離れてくれるように、
と思って、投稿をし続けている。 >>991
大和は基本筑紫とはそりが合わなかったんじゃないかと考えてる。
時々熊襲がごたごた起こすのも、大和の指示で裏で日向が工作してて、
筑紫に抑えられないのを大和が行けば静かになる茶番を組んでただけなんじゃないかと想像してる。 494>>877
勉強なんて一切せんでも
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を凹ますなんて、
たやすいから 2013年、邪馬台国畿内説は完全に破綻してしまいましたね。。。 このスレッドは1000を超えました。
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