邪馬台国畿内説 Part499
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1566462833/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 前スレのまとめ
纒向は貧弱で、エライ人が集まった様子はない
纒向は尾張としか交流がなく、尾張は東海近江北陸をつなぐ流通拠点、土器の生産地
近畿には他にいくらでもマシな遺跡があり、纒向が首班となる要素はない 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ (抄)
佐賀川上の推定伊都国と、吉野ヶ里の推定不彌国の中間に位置する佐嘉川東岸の大和町久池井(惣座)には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)は、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。
したがって両者の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>86
テンプレ邪魔しないで放置してやったんだからありがたく思えよ 畿内説石野船長「南⤴東と90度読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南⤴東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>87の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>89)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>87
>>90
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは物理的に不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 日本書紀を見ると九州が当時の中心だったんだよね
正直、邪馬台国は身体に墨入れてるし 奴隷を貢物としてるしで
あまり良い印象ないんだよね。
https://www.youtube.com/watch?v=1Mpdhj_rCBQ&t=5s >>91の続き
すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!!!
古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交=日出処「天子」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) そんなことよりも、
大ガッパ(ではないけど)の写真なんだよ
何なんだと思う?
伊達郡の川俣町というところの話をしているんだけど >>93の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>95の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
漢〜魏晋南北朝〜隋唐まで、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである! >>105の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智以降の倭京(太宰府)・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html ( ^ω^ ) 邪馬台国は畿内にあったのか九州にあったのかどっちなの?
わかりやすく教えて 「徳島県小松島市・新居見遺跡 縄文晩期の土偶発見、県内初」
徳島県埋蔵文化財センターは、四国横断自動車道建設工事に伴い昨年9月から小松島市新居見町山路の新居見遺跡を調査し、
古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の古墳と小型埋葬施設の墳墓群を発見した後、
さらに下層を調べたところ3月に縄文時代晩期(2500〜3000年前)のものとみられる土偶1体が出土したと発表した。 県内で縄文時代の土偶が確認されたのは初めて。
縄文時代の土偶はこれまで、全国で徳島県だけが未出土だった。
出土した土偶は、腹から脚にかけての下半身のみで、高さが7・6cm、厚みは最大2・5cm。 へその部分はベンガラで赤彩されていた。
一般に土偶は女性を模したものが多いが、出土した土偶の一部から女性の土偶とは言い切れない。
脚の壊れた部分やX線写真の分析から、予め頭や脚などを部位ごとに作り、各部位のつなぎ目に凹凸を作り、胴体を中心に差し込んでつなぎ合わせる方法で作ったとみられる。 @阿波 >>98
この板の状況を見れば明らかだろ?
畿内説スレは、テンプレも充実してて、500近いスレッドが建てられ書き込みが多い
九州説スレは昔はあったが、今は誰も書き込まないから建てられることもない
九州説論者は畿内説スレに来て、荒らしまくる
つまり、ほとんどの九州説論者は消えていったが、カルト信者だけ残って、腹いせに畿内説スレを荒らしてる 『伊達の桃太郎』
『松傾』と同じ名前(親戚、仮名?)も書いてあるでしょ、
「校」とか、あともう一人・・・渡来系の人物? 『伊達の桃太郎』
邪馬台国と同じような話だしな、なぜ知っているんだろう 司徒、司馬、司空・・・〜とか書いてあるし、
中国の職か何かでしょ 497>>503
>畿内様式土器、前方後円墳(纏向型を含む)の分布により
畿内中心の秩序がまだらながらも汎日本列島的に存在していたのは確実
そして、奴国もその秩序に参加している<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説であるから、×。 ももたろーの話
あまり良い話とは思えないな・・・、
みたいな事を言ってる人がいなかった?
奥山氏の心境? 「樋口遺跡」
弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。
1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。 @阿波
「樋口遺跡」 https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023001/ 九州説は安定だが、畿内説は問題が多い。
だから言い訳じみたテンプレが多い。 また九州説の異常者が居座ってそれを相手するバカのレスだけで終わる無意味なスレになるのか 三輪王朝が邪馬台国連合で
河内王朝に倒されたってことでいいの 497>>530
もう「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
本当に・・・・アホ詐欺師。 河内に王権を主導できるような大豪族は存在しない
むしろ王権が伸長した結果、旧来の大和の豪族の影響から脱し大王の意図による政治が始まった画期だろう
河内に移動したのは朝鮮半島進出の場として都合がいい事や、
葛城氏と組んで旧来の豪族を封じその手のついてない新しい土地に拠点を作りたかったと言う事だろう
むしろ大和からの大王権が大きく拡大した表れだとみている 497>>537
>基本的に地誌記事では国と国との位置関係・距離は中心国邑の間の二点間距離だ<
ダメだ。
行程記事での国と国との距離の原則は、
双方の「居住外縁部」の間の二点間距離だ。 >>113
>行程記事での国と国との距離の原則は、
>双方の「居住外縁部」の間の二点間距離だ。
素人が根拠もなく
勝手に原則を発明しても
赤の他人には従う義務はない ちょうど良い話が出た
応神天皇以降の政権は葛城氏だけじゃなくて吉備氏との関係も強化している
吉備氏の最盛期はこのころ
寺澤氏は吉備が邪馬台国の主導的な存在と言っているが果たしてそうだろうか?
古墳の原型も吉備だと言うが楯築はかなり無理がある
播磨や讃岐、近江が原型だろう
庄内式も吉備の技術は土台にあるがその成立は河内や大和独自のV式にある
歴史的にも吉備は微妙な存在で雄略天皇の征討に至るまでそこまでの存在だとは読み取りにくい
正直、埴輪以外の存在感がそこまであるとは思えない
邪馬台国段階の吉備に対しての評価は過大じゃないかと思う
スレの人の吉備の邪馬台国への影響の評価を聞きたいところだ 497>>541
>そして南半球用にMarine13という較正曲線も出されてて、
それを使えばINTCAL13との乖離問題は過剰に解決される <
ダメだ。
纏向の土坑の桃の種のAMS法が、12個とも全部110年幅になってしまった失敗の、
解決が出来ていない。 >>113
>行程記事での国と国との距離の原則は、
>双方の「居住外縁部」の間の二点間距離だ。
そのインチキ原則に従っちゃうと
部分里程の総計が総里程にならないよ
古田説崩壊確定 >>116
>ダメだ。
>纏向の土坑の桃の種のAMS法が、12個とも全部110年幅になってしまった失敗の、
>解決が出来ていない。
解決できてるよ
失敗だと思い込むのは無知な証拠 >>115
>応神天皇以降の政権は葛城氏だけじゃなくて吉備氏との関係も強化している
>吉備氏の最盛期はこのころ
葛城氏も吉備氏も、忌部一族。 だと、何度言えばw
>播磨や讃岐、近江が原型だろう
みごとに、倭国(阿波)をはずしたね。 わははははは
>庄内式も吉備の技術は土台にあるがその成立は河内や大和独自のV式にある
大和独自のV式は重量厚形弥生土器。 そんなものに意味はない。 意味があるのは軽量薄型土器(「東阿波型土器」)だよ。 @阿波 (抄)
佐賀川上の伊都国(推定)と、吉野ヶ里の不彌国(推定)の中間に位置する佐嘉川東岸の大和町久池井(惣座)には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。
したがって両者の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 吉備の古墳は4〜5世紀の河内時代に突然巨大化する
それ以前の吉備の古墳は正直あまり大きい物ではない
副葬品は豪華なものがあるが
神話的にも吉備津彦命に遠征を受ける方で政権の主体と言うわけでもない
邪馬台国成立の根源みたいな評価はちょっと言い過ぎなのではないかと思う >>115
>応神天皇以降の政権は葛城氏だけじゃなくて吉備氏との関係も強化している
>吉備氏の最盛期はこのころ
葛城氏も吉備氏も、忌部一族。 だと、何度言えばw
>播磨や讃岐、近江が原型だろう
みごとに、倭国(阿波)をはずしたね。 わははははは
>庄内式も吉備の技術は土台にあるがその成立は河内や大和独自のV式にある
大和独自のV式は重量厚形弥生土器。 そんなものに意味はない。 意味があるのは軽量薄型土器(「東阿波型土器」)だよ。 @阿波 このスレって要は九州説はじめとした珍説基地外と、それに構ってるだけのバカしかいないのか
話するだけ無駄かな まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格!
「田井遺跡(縄文時代前期〜中期) 所在地 徳島県海部郡美波町由岐田井」
縄文時代前期〜中期・様々な道具とアクセサリー
田井遺跡は海水浴場として知られる田井ノ浜の北西約300mにある標高約20mの小山のすその微高地上にある。
2001年(平成13年)に道路建設に伴って発掘調査により、縄文時代前期末〜中期(約5,000〜4,000年前)にかけての、主に石器を製作した跡とみられる遺構が発見されている。
出土した遺物として土器・石器類が多いが、なかでも注目されるのは様々な石を材料とした石器の道具やアクセサリー類である。
石鏃にはサヌカイトやチャート、石斧には結晶片岩、けつ状耳飾には滑石や蛇紋岩というように、それぞれの用途に適した石を選んで製作していたことが分かっている。
※縄文人が、海を通じて広く交流をしていた様子が各種の遺物から分かる。 ← 言葉を濁しているが、倭国(阿波)の海人族のこと。 @阿波
田井遺跡で出土したけつ状耳飾
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5022996/ >>123
そう思ったら来なくていいから
さようなら まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格!
「田井遺跡(縄文時代前期〜中期) 所在地 徳島県海部郡美波町由岐田井」
縄文時代前期〜中期・様々な道具とアクセサリー
田井遺跡は海水浴場として知られる田井ノ浜の北西約300mにある標高約20mの小山のすその微高地上にある。
2001年(平成13年)に道路建設に伴って発掘調査により、縄文時代前期末〜中期(約5,000〜4,000年前)にかけての、主に石器を製作した跡とみられる遺構が発見されている。
出土した遺物として土器・石器類が多いが、なかでも注目されるのは様々な石を材料とした石器の道具やアクセサリー類である。
石鏃にはサヌカイトやチャート、石斧には結晶片岩、けつ状耳飾には滑石や蛇紋岩というように、それぞれの用途に適した石を選んで製作していたことが分かっている。
※縄文人が、海を通じて広く交流をしていた様子が各種の遺物から分かる。 ← 言葉を濁しているが、倭国(阿波)の海人族のこと。 @阿波
田井遺跡で出土したけつ状耳飾
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5022996/ 497>>571
「南≠東」の問題で負けた大和説の反応が、
悪口だけになってきたな
今日もまたぞろ敗退か >>127
九州説は、どうして毎日そんなにウソがつけるの? 497>>573
>>それが「倭国」だという根拠は?<
>北部九州も含んでいるから <
そういう誤魔化した言い方をしたら、
「大和が中心であった」と言おうとしている事になるから、
「南≠東」などに拠って、×。 497>>578
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
まったく根拠の示せない繰り言だけになってきた
今日も撤退が近いな >>612
>魏志倭人伝の記述から
「投馬国が女王国より以北の国」なのは当然に読み取れるのだけれど、<
魏の役人らは、自分らが通って来た郡からの循海岸水行の里数も、
3海峡の各渡海の里数も書いている事になるんだから、
投馬國への里数も当然計測出来た筈である事になり、
それが(里数ではなく)日数を書いている、という事は、
魏の役人たちは、不彌國や女王之所都から先の投馬國へは行っておらず、
「水行二十日」は倭人からの伝聞情報であった事になり、
従って、「自女王國以北」には投馬國は入っておらず、
類スレ主らは、×であった、という事になる。 まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格! @阿波
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 497>>618
>そういや後漢書だと狗奴国は女王国の東にあるな<
後漢書は、「自己解釈に拠る前史の書き換えの非常に多い」半分×書であるから、
十分な史料批判無しには、根拠にならないな。 >>636
>>その「受容」が嘘つき騙し。 大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内T以後であるから、
筑紫の3世紀前半が、大和の庄内を「受容」出来る筈がない。<
>TB期になって もう既に完成した庄内系(庄内2〜3)が 那珂・比恵地域に持ち込まれたと
誰もが知っていたので<
佐々木や久住や柳田?らは、筑紫のTB期の庄内は、筑紫の胎土で造られた、
という事になる話を述べていた。
だから「持ち込まれた」なんて否定される。
また、祇園山にも庄内が出ていた。 オクヤマーーーー
畿内説の足を引っ張るのは止めてくれねーか
嘘つき奥山は畿内説から去れ バーーカ >>116
件の纒向遺跡の桃核のC14年代の誤差
桃1〜7は、±23BP
桃10〜13、15は、±17BP
て書いてあるだろw
資料をよく読めよw >>123
なんなのだよ
このスレはキナイコシで持ってるのだよ
吉本新喜劇=キナイコシ
皆 キナイコシがバカやってると思いながら馬鹿さ加減がおもろいのだよ
皆 キナイコシは頭悪いと思ってるのは周知だが・・
吉本新喜劇もいいじゃん
そもそも畿内説自体は喜劇だけどさwww >>136
むきになるなよ
葬儀のお供えの桃だろ
岡山の遺跡 見てみろよ 纏向よりどっさり桃が出てるし。。。 佐賀川上の伊都国(推定)と、吉野ヶ里の不彌国(推定)の中間に位置する佐嘉川東岸の大和町久池井(惣座)には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。
したがって両者の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 モモの種 その数、2765個!
同世代の吉備の遺跡では1万3,000個!
上東遺跡では9606個!
纏向遺跡の3倍も出てるし(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?
モモの種核の研究だけでは論争の決め手にはなりそうにないのですが、
仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になりますよね 纒向遺跡の柱穴の拡大図の写真だれか指名してくれないかな?
他の遺跡では柱穴の写真が公表されているが
纏向はどうなってるのか知りたいので・・・・・・
>>1がわかると思うが・・・・
その地域の地盤特性や柱の基礎から、どのくらいの建物で耐久性が察知できるから・・・ 畿内説のみなさんに質問。
議論と言うより、軽く雑談してみませんか?
お題です。卑弥呼は記紀の誰だと思いますか?
@アマテラス
Aイスズヒメ
Bモモソヒメ
C神宮皇后
Dその他(自由にお書きください)
E誰でもない。記紀の登場人物は架空のものが多く、比定出来ない。
私はBですかね。
記紀は史実ではなく創作部分が多いのですが、
かと言って応神以前について全てがゼロからの創作とも言えず、
(そこまでやると他の豪族たちと揉めるので、彼らの先祖の歴史をある程度取り込まないといけない)
史実の痕跡らしきものは認めても良いと考えています。
モモソヒメの、
@神と婚姻、A巫女的な皇女、B箸墓の築造記事(記紀の中では異例)、
Cタケハニヤスビコの乱に遭遇、D崇神(ミマキイリビコ。彌馬獲支か?)と共同で統治
この辺は、史実の痕跡ではないかと思っています。 「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。
そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、
船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。
船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、
これを「田村大神」と総称する。 @阿波 Error 520 Ray ID: 50b51d438e28aeb5 • 2019-08-24 11:51:26 UTC
Web server is returning an unknown error
という表示が出ました。 497>>642
どっちにしろ
倭人伝記載の「東西南北」の方位記載はほぼ合っており、
信頼性や確率が非常に高い、
という結論が出る 497>>645
大和説者は、心の底では、「南→東」が嘘つき騙しであった、と感じており、
京都アニメ放火犯のように、
憎い九州説者を皆殺しにしたいのだろう >>142
>E誰でもない。記紀の登場人物は架空のものが多く、比定出来ない。
に近いのだが、
F誰でもない。記紀は架空とは言わないが、畿内とは別王朝だった筑紫倭国の女王なので記紀に記載されていない。 497>>653
>ただ、国の位置関係を地誌記事として書く時は中心国邑間の
二点間距離・方角で記すので、<
陳寿の、国から国への行程の説明は、
両国の居住外縁部同士の最短距離で記載するのが原則であるから、
×ね。 497>>656
このようにして、大和説は、
具体論に入ると常にその瞬間に、
「南≠東」などに拠って否定されてしまう・・・・アホ詐欺説。 497>>670
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説のバカが喚いてたから、
丁度いいから聞いてみたい
大和の人の意見としては、「畿内」や「邪馬台国」や「大和朝廷」というような、
存在もしなかった嘘つき騙しの文言などが発せられるのは、
何故だ?、と思ってる?
あ、大和説の精神的な異常者や、京都アニメ放火大量殺人犯には聞いてないから、
糞でも食ってろ 497>>675
と言うか、このスレって、、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者を、
・・・・アホ詐欺師やバカや扱いする以外の話は、
誰もしないな 497>>708
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説って、
嘘つき騙しがバレて、
やけ酒で酔っぱらって京都アニメ事件のような犯罪を犯して、
国民にコテンコテンに論破されてるの?
そりゃナサケナイね 497>>718
まー、「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
こんな感覚的総論悪口しか言えないあたり
大和説敗北のサインだよねー 497>>722
理由もなく「南→東」?
だから」大和説はすぐ論破されるの 497>>727
ほら、「南→東」などの嘘吐き騙しに関しての、
立証義務転嫁
だから大和説は詐欺師と言われる 497>>733
>>畿内説は自説に自信がないから
クソスレ立てまくって自説の宣伝する以外に未来がないw<
>いや、教科書に載ってるんですけど<
「南→東」の嘘吐き騙しをする教科書執筆者や、教科書会社や、
学会教育界や、文科省らが悪いのであり、
学生を、京都アニメ放火犯や朝日記者銃殺犯のような人間に仕立て上げよう、
とする・・・・集団。 巻向時代に朝鮮半島に遠征し騎馬術と百済、白羅の渡来人を招聘し、河内時代が始まり古墳が巨大化
これは好太王碑から見ても事実だと言える
ここで重要なのは古墳自体の形式は変わっていないが規模が拡大したこと
これは祭祀形態の変化=渡来移民による被征服を意図的に否定することを指していると思う
難しいのは5世紀の九州勢力と機内ヤマトの力関係をどう説明するかだな
九州に深く根を張った神功皇后と応神は機内に祀られている
卑弥呼から120年経過したこの時点で結構なグローバル化が行われていた 497>>745
「南→東」などの嘘吐き騙しを、
思うのは勝手だが、理由は?
また大和説は理由が言えない?
それは困ったねぇ >>158
あの、みやざき容疑者も同じとか?
さいきば(さかきばら)事件・・・、何やら事件、・・・、 497>>769
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説へのへ批判に反論しないと
大和説は死ぬよ
「反論しない病」「証拠出さない病」は
説が死に至る病だよ 497>>752の訂正
そんなに自己紹介しなくていいのに
「南→東」などの嘘吐き騙しにしても、
「行程の里数や日数」のつまみ食いにしても、
「前方後円墳や土器の年代」のチェリーピッキングにしても、
大和説者は、徹底的に「インチキ」をしている。 同じような人物像(犯人の〜〜〜〜〜とか)だという話なのかな、
何なんだろう・・・・・・・・・同じような気がするんだけど >>148
議論ではなく、単に畿内説の方と雑談してみたいので、
九州説の方はご遠慮下さい。
私には雑談の相手を選ぶ権利があります。 さいきば事件のwikiにも書いてあるし
肉体改造をして〜〜〜(身体的に)〜〜〜変化が見られ、
仮面らいだー? そう言えば
纒向の柱穴に礎板、砂利や石等の基礎が無いのを暴いたのもキウス氏だったなww >>165
斜め下の返答で残念だ。
真実とかけ離れた妄想に閉じこもっているがいい。
可哀想なやつだ。 畿内説の誰にも相手にされない90度回転男、哀れwww。
寂しいのうwww。
畿内説はキナイコシと90度回転男しかいないので、当然の結果www。 『ボーボボ』『アニメの神様』
オウム()・・・同じだと言っている人がいたり 家がわかるも何も・・・書いているでしょ、
どこの池沼なんだ
住んでいるところ?川崎区の南部のほう 家の前は駐車場になっていて、
コンビニがあって・・・セメント通り・・・。
成り済まし、騙りではなく、
実際に、そこに住んでいる人の書き込みw もれ(仮)の家に来るんじゃなかったの?
教えているでしょ ガッパというわけではないんだけど、
貼り付けている、謎の写真なども家の写真だしw
あと、むかーし、
どこそこに住んでいたことがあって〜という話とか 母親談によると
『川崎区 浜町 観音寺』
確実に、ここの話をしていた、何なんだろう、ガッパ
あと大島のほうにある寺院とか 『曹洞宗 河童』不明?
調べてみると、そのような話が出てきたり 佐賀川上の伊都国(推定)と、吉野ヶ里の不彌国(推定)の中間に位置する佐嘉川東岸の大和町久池井(惣座)には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
また和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。
したがって両遺構の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 なぜか仕事を手伝ったり〜とか、
そういう話ばかり
会津赤牛(あかべえ)の話も同じ、
何なんだろう >>140
この人、こんなマヌケなこと書いて何を主張したいんだろう? >>142
E誰でもないに近いが、「不明」という立場 >>180
大願寺遺構は4世紀以降。
佐賀の伝承に従えば、熊襲タケルの屋敷だ。
まあ、当時の倭国の最大派閥であった肥国の王なので、倭王かそれに準じる立場だとは思う。
そして熊襲タケルは、同じ川上の地にいた倭国女王壹與の親族でもある。 >>182
畿内説の学者が、桃の種が出たから邪馬台国の祭祀の後だと騒いだからだろ。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 赤べこ(会津あかべえ)を持っている写真もあるしなw
・・・・仕事を手伝っただけなんだろう、社員旅行? 本当に謎の写真(葱の華、キュウリのような葉)があるでしょ、
むか−しの写真だと言っているし、何なんだろう どのスレだったかな、数年前のとあるスレ
奴隷(そっち?に行き・・・のような状態)にでもされたんだろうwww
何か気づいているようなレスがあったり 『会津あかべえ』調べると、
なぜか観音寺城の戦いという話が出てきて、
観音寺(川崎区)というところの話をしていたり
何かに・・・詳しい家なのかな? 大トトロ、中トトロと同じような感じだと思う
大ガッパ? 『会津あかべえ』〜『伊達の桃太郎』
なぜか同じような気がするんだけど たしか、いまの福島県?「お城山」というところがあって、
そこに行っていたんだよと言っていたし まさか、あの老婆談・・・ガンダムの話でもないだろうし
謎の大震災後、たしかミハル(三春)というところがあって・・・・・? 497>>767
>岸本直文
倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス
国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年・・・<
一応目を通したが、結局この男もやはり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺男であった、
という事が判るだけだったな。 497>>772
>悪魔の証明って何だか知ってるの?
絶対に証明できないと解ってる主張をして自滅する
そんな自殺的論証のことだよ <
なるほど。
自然や歴史における不可知部分への「100%絶対断定」証明や、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が多用する「証拠は?」質問の連発詐欺。
などの事だな。
まさに大和説者の、今やってる奴。 497>>785
>>景初三年以後のいずれかの年に始まった、という事になる。<
>なりません 後漢代から既に三尚方に分かれていました
・延光三年(124)弩機(右尚方)
・青龍元年銅香鑪(中尚方)拓本
・景初元年構銅(中尚方)畢沅《中州金石記》<
それなら、三尚方に分かれたのは、
工房の製作対象品目などでの分割が起きたんだろう、と言う事になるだけであり、
鏡の製作に関しては、その三尚方で分離競合する、という事でもなく、
いずれの工房でも造る事が出来、
明帝の下賜の銅鏡百枚は、(在庫の鏡以外は)三尚方が協力して製作して枚数を揃え、
それらの鏡には原則として「尚方作」とのみ刻印された、という事になるだけだ。 497>>800
すでに、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の言ってる事は、
反論の体をなしてないな。 確実に家の話でしょ?
なぜ知っている人がいるんだろう、
伊達郡川俣町〜蚕を飼い、機織りをしていた家の話
当時住んでいた家に凄い刀(謎の刀)が飾ってあったとか 馬に乗り〜(謎の刀)という話でしょ、親戚なのかな? 北東北に、、、隠されてる
明治の頃、、こんな朝に誰か来た 497>>802
>>会稽東治は、陳寿執筆時は揚州の管理下であり、
台湾あたりの海上にならないから、×。<
>わけがわからんな 会稽東治(冶)県があったのは現在の福建省福州市
その東が沖縄や台湾あたり 管理が変わっても場所は変わらんだろ<
そりゃ、「南→東」などの嘘付き騙しをする、大和説教に狂った・・・・アホには、
わけがわかる筈もない。
「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿執筆時の認識の「地の文」であり、
会稽郡が、257年〜260年頃に分郡があって、
南部方面の福建省福州市付近は建安郡になり、
会稽郡の東部海岸地域は会稽郡から離れてっ揚州の管理になった、
という事を知らなければ、
陳寿がわざわざ「会稽東治」という一見奇妙な説明をした、
という事も判る筈もない。 497>>806
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
負けが込んでる大和説者は
イライラのあまり、食事が進まなそう 497>>808
不可知部分が99.5%以上存在する自然や歴史においては、
我々人類は、100%完全な証拠などを出すことは不可能なのであり、
なんの証拠も出せないくせに「南→東」などの嘘付き騙しを、正しいと言い張り、
議論に負けそうになると、全てに先に「証拠は?」と言い出して、
それで議論に勝とうとする「悪魔の議論テクニック」の
大和説詐欺師の手口 !。 邪馬台国は宮崎あたりの九州にあった
宇佐神宮もゆかりの神社
勢力を伸ばしつつ東進した
そして岡山の桃太郎伝説 出雲の国譲り伝説とか征服を重ねて畿内にはいり拠点を定めた 唐津から糸島に行くのは誰が見ても北東方向だ
それが「東南」と書いてある
あきらかに90度違ってるだろ
「南」とあるのは実際は東だ >>206
そういう、空想でしか成り立たない説は、さぞ虚しかろう。 @阿波 >>207
一言一句全て正確な歴史書なんかないだろ
違う点があるからと言って全部違うと考える必要もないし >>207
そういう、捻じ曲げでしか成り立たない説は、さぞ虚しかろう。 @阿波 あとチョン州、チョン州と言っている人がいたりするけど、
何なんだろう 『チョン州』
なぜか、〜なべ?という名前の人物が出てきたり、
出てくる確率が高い 『チョン州 長州』
このようなスレッドにも出てくるしw
〜ナベという名前の人物 >>209
>一言一句全て正確な歴史書なんかないだろ
>違う点があるからと言って全部違うと考える必要もないし
じゃ、「南水行」の方位は無視していいね? >>207
「東南」と書いてあるなら東南へ行け、、。 >>215
三雲と那珂比恵を無視した倭人伝解釈は、ありえん >>216
「其山有丹」を無視した倭人伝解釈は、ありえん わははははは @阿波 このスレって要は九州説はじめとした珍説基地外と、それに構ってるだけのバカしかいないのか
話するだけ無駄かな >>218
いや畿内説が定説だから悔しくて難クセつけにくる九州説ほか他説の構図 >>220
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 邪馬台国や卑弥呼に対して、無礼である。 @阿波 家の老婆の旧姓がワタナベだからなのかな?
あの謎の民家園(福島県)にも保存されているし、 三春というところの話もしていた
田村郡 小野町(小野氏?)
小野という家も保存されているし、何なんだろう >>222
萩原2号墓:弥生末期の三重構造埋葬施設を確認 徳島
全国で珍しい「積石木槨」構造が確認された萩原2号墓=徳島県鳴門市大麻町萩原
徳島県鳴門市大麻町萩原の萩原2号墓で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
墳丘は直径20メートルの円丘に、方形の突出部が付いた形態。円丘の中心に棺を納め、15〜20センチの砂岩を積み重ねた壁で囲ったうえ、その外側に40〜60センチの砂岩を積んで、全体を覆っていた。埋葬施設は東西6.5メートル、
南北4.1メートル。朱を内側に塗った木槨を、砂岩を積み上げた壁2層で覆った構造だったとみられる。
一方、ホケノ山古墳には中間に石の壁はなく、木槨を石で囲う二重構造。
徳島、香川両県には石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)など、石を積み上げた古墳時代前期の積石塚が点在。「画文帯(がもんたい)神獣鏡(しんじゅうきょう)」などの中国鏡も出土、瀬戸内で勢力を広げた有力豪族がいたらしい。
県教委は「阿波や讃岐の墳丘墓が奈良盆地東南部での前方後円墳の発生に大きな影響を与えたことが確実になった」としている。(毎日新聞)
http://www2.odn.ne.jp/kofun/hagiwara.htm >>222
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm >>222
『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』
・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)・ホケノ山古墳(奈良)
北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より >>229
それぜんぶ、「忌部はん」 たちのお墓だから。 悪しからず。 @阿波 >>230
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 邪馬台国や卑弥呼に対して、無礼である。 @阿波 >>232
考古学は残酷である。 トンデモ説の夢を一瞬にして打ち破る。 @阿波 >>234
そんなに大王はんはいてまへんがな! @阿波 阿波は畿内の考古学的証拠を前にして自ら負けを認めたか >>237
そういう下衆なやりとりは、九州説と思う存分やりなはれ! わははははは @阿波 >>203
そんな歴史的事実はないし
地名が変わるならともかく地名がそのままに場所が変わるというのはない >>238
阿波も書き込むなら阿波スレで思う存分やりなはれ >>241
考古学が合えばいいよ。 わははははは @阿波 >>244
考古学的に考えて九州に邪馬台国は有り得ない。 @阿波 >>244
行程的に考えて九州に邪馬台国は有り得ない。 @阿波 >>244
天皇行幸的に考えて九州に王権は有り得ない。 @阿波 >>244
気候・植生的に考えて九州に女王国は有り得ない。 @阿波 >>244
気候・植生的に考えて北部九州に女王国は有り得ない。 @阿波 >>244
妄想的に考えて九州に邪馬台国はおおいに有り得る。 わははははは @阿波 >>198
>それなら、三尚方に分かれたのは、
>工房の製作対象品目などでの分割が起きたんだろう、と言う事になるだけであり、
>鏡の製作に関しては、その三尚方で分離競合する、という事でもなく、
>いずれの工房でも造る事が出来、
>明帝の下賜の銅鏡百枚は、(在庫の鏡以外は)三尚方が協力して製作して枚数を揃え、
>それらの鏡には原則として「尚方作」とのみ刻印された、という事になるだけだ。
根拠もないのに妄想で「原則として〜なるだけだ」とか言っても誰も信用しませんよ
既に「魏年号入り」の「右尚方」鏡及び「左尚方」鏡を紹介していますよ
それに対し、あなたは「魏年号入り」の「尚方作」鏡を示していません
年号の無い「尚方作」鏡をなぜ魏鏡と言えるのですか?
後漢初期の「尚方作」鏡とどのように区別するのですか?
例えば桜馬場遺跡(弥生時代後期初頭=一世紀)の「尚方作」鏡とどのように区別しますか? でも宮崎の高千穂とか天岩戸伝説の舞台だしアマテラス=卑弥呼というのが古代史学では常識なんでしょ
邪馬台国は九州にあって征服しながら東進し畿内で大和朝廷を建国したでいいじゃない
なぜ九州こそ邪馬台国だったと認めない? >>243
魏志倭人伝にも考古学も合ってないから阿波は駄目なんだよ >>252
卑弥呼の時代の考古学証拠が畿内に多数あるからさ
昔から考古学では畿内が有利と言われていた ほんとーに他のスレにも書いたでしょ
家が一番上(下とも言える)なんだと、
知っている人は知っているw位のようなものがあるでしょ?
そういうものも関係ない、超越している >>252
>・・・アマテラス=卑弥呼というのが古代史学では常識なんでしょ
史学にそんな常識はない >>252
>アマテラス=卑弥呼というのが古代史学では常識なんでしょ
誰がそんなこと言ってる?
古代史学と書いてるから、作家じゃないよな? >>252
そう主張する学者はいるけど、常識ではないだろ
あれだけの大女王ならなんらかの形で後世に伝承が残っていないとおかしいという考えはあり得る
でもヤマト王権と邪馬台国が別の王朝なら何も伝承が残っていなくても全くおかしくない 畿内説が破綻してその信者のあがきも水泡に帰した
今こそ倭人伝を語るべきなのではないか 逆説の日本史の井沢元彦がテレビ番組で卑弥呼の晩年に九州で皆既日食があったと
天文学とかは規則正しいからわかるそうだ
大和朝廷の天岩戸伝説と重なる
卑弥呼にも弟がいてアマテラスにもスサノオという弟がいた
また火の鳥で手塚治虫も卑弥呼と皆既日食のことを書いている
もう九州に邪馬台国があったのはほぼ間違いなし >>92
>日本書紀を見ると九州が当時の中心だったんだよね
そんなことはどこにも書いてない
神武天皇の血筋が外来であること、
その出所が九州であること、しか書いてない
卑弥呼の時代は崇神天皇の時代
崇神天皇代の九州の記事は一言もない >>115
>スレの人の吉備の邪馬台国への影響の評価を聞きたいところだ
弧文板が、かなり重要なんだよ
楯築墳丘墓の弧帯文石の文様が、特殊器台にも使われているし、纏向出土の板にもある
吉備単独で影響を与えたというより、中国地方(出雲・吉備)がセットで関わっているという
見方でよいのではないか
神武天皇の東征の逗留先として吉備が記されている意味はあるだろうし、古来の
有力地(中継地?)だったことは認めてよいだろう
一方で、同じ神武天皇の逗留地なのに、安芸の影が薄い理由がむしろ気になる >>123
>話するだけ無駄かな
意味のある話をするなら付き合うよ
まあ、九州説のバカの間違っている点は否定し続けるけど
韓国と同じで、大人の態度で対応しているととことん付け上がるから >>159
>九州に深く根を張った神功皇后と応神は機内に祀られている
神功皇后・オキナガタラシヒメの伝承は、畿内と九州の両方にあるが、
畿内ではオキナガヒメ、九州ではオオタラシヒメとして伝わっているようだ >>142
卑弥呼はモモソヒメでいいよ
更立男王、國中不服。更相誅殺、當時殺千餘人が、タケハニヤスの乱でいい
垂仁天皇のときの狭穂彦の乱も候補だけれど、狭穂彦の諱が伝わっていないのが残念
案外、狭穂彦は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮のいずれかじゃないかと思う
たぶん、伊支馬はイクメノオオキミ・垂仁天皇だと思うけれど >>261
>神武天皇の血筋が外来であること、
>その出所が九州であること、しか書いてない
出雲の国譲りから三代の間は筑紫の日向が王都となっている。
新唐書では、32代にわたり筑紫城にいたことになっている。
>卑弥呼の時代は崇神天皇の時代
>崇神天皇代の九州の記事は一言もない
そこなんだよ。
長きにわたり王都であった筑紫が、神武らが去った後にどうなったのか、記紀に書かれていない。
その間の倭王の一人が卑弥呼なのだろう。 歴史学者の間じゃ非実在が常識の古代天皇が
九州説じゃあ根拠なんだから
温度差あるの当然だわな >>266
>卑弥呼の時代は崇神天皇の時代
>崇神天皇代の九州の記事は一言もない
そもそも記紀の崇神天皇の時代は120年〜繰り上げだ。
だから崇神を120年〜繰り下げた実年代の九州地方にすでに卑弥呼はいないから、卑弥呼に対応する九州の時代も書きようがない。 >>266
>新唐書では、32代にわたり筑紫城にいたことになっている。
それ、アメノミナカヌシからヒコナギサウガヤフキアエズまで三十二世としているだけ
記紀の引用だよ
新唐書には倭国伝はないぞw
日本,古倭奴也。去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。
日本が、昔、倭奴と呼んだ国だと明記されてるし、東西方向が南北方向より広いから
九州島のことじゃないのは明確だなww
>長きにわたり王都であった筑紫が、神武らが去った後にどうなったのか、記紀に書かれていない。
神武の東遷から卑弥呼の時代まで100年以上の年月が経っている
その間、九州では語るべきことが何も伝承されていないんだよ
田舎だからねww
其王姓阿每氏,自言初主號「天御中主」,至「彥瀲」,凡三十二世
新唐書には倭国伝なんてないぞww 473>>810
>>会稽東治は、陳寿執筆時は揚州の管理下であり、台湾あたりの海上にならないから、×。<
>卑弥呼共立時だって揚州の管理下であるぞ ばかすぎる九州説<
「卑弥呼共立時」なんて「何年頃の事?」を言っているのか?は知らんが、
257〜260年頃の臨海郡や建安郡の分郡までは、
その両郡は会稽郡の治下であった筈だよ。
人間性がおかし過ぎる大和説者。 497>>829
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
とうとうワメキ散らすだけになった
大和説の末期症状
あわれ >>269
>神武の東遷から卑弥呼の時代まで100年以上の年月が経っている
神武の実年代はいつ頃だと考えているのか? >>267
都合が悪いと天皇でさえもいなかったことにする畿内説のおぞましさよ。 >>267
崇神天皇が非実在なら、百襲媛だって非実在だろ。
適当なダブスタを振り回すのが畿内説。 497>>832
>詐欺やって 無理やり会稽東治を上海あたりに押し上げても <
いや、詐欺ではない。
「会稽東治」は上海付近の南北海岸地域。
>せいぜい鹿児島の指宿あたりだな<
ほぼ投馬國の地域だな。
>一万二千里でまだ博多湾岸あたりなんだろ?<
女王國の居住外縁部が博多湾岸付近。
北部九州説死んでるよ 497>>834
こんなふうに
本来は、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をすべきである歴史学に於いて、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをして、
歴史学を完全に破壊しないと
成り立つ見込みも皆無であり、
無残な大和説 497>>835
>須恵器の年代はかなりハッキリ解明されてるんで
弥生時代の須恵器とか言い出す九州説素人説が
キッチリ死亡宣告うける<
陶邑以前に筑紫に須恵器の出土があった、
という事を隠蔽するインチキを言い出す大和説学者や大和説者は、
きっちり死亡宣告をウケる。 497>>838
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の狂人宗教の、
反学問ぶりぶりぶり 497>>842
大和の前方後円墳の始まりの庄内1の石塚は、
那珂八幡よりも進化型であるから、3世紀末になるから。
大和説の真っ赤なウソが一目で分かる
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
明白 497>>844
「南→東」などの嘘付き騙しのサギがバレ、
刀折れ矢尽き反論できなくなった大和説
繰り言しか無くなったな 497>>486
>>陳寿は、「有〜戸」などと「有」で書いた国と区別して、
投馬國は「可五萬餘戸」と、邪馬壹國は「可七萬餘戸」と「可」で示し、
推定である事を示しているから。<
>つまり 「南にある投馬国は日数でしか書けないし、」 が破綻だ
邪馬壹国と同じなんだからな <
破綻なんかしない。
邪馬壹國女王之所都は、
「可七萬餘戸」の戸数も書かれているし、
「萬二千余里」も書かれているだけではなく、
群からの「水行十日陸行一月」の日数も書かれており、 497>>848
大和説者は、
「南→東」などの嘘付き騙しのような、
そんな明白なウソついて、恥ずかしくないの?
リンク潰しのような、誤魔化し工作をしてるけど
史料事実や史料実態を確認されたら、
即バレなんだよ 497>>853
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソついてるから、
崩れてるよ 497>>856
九州の編年は変っておらず、 大和の庄内1の前方後円墳の石塚は、
(卑弥呼の冢ではなく)ではなく)那珂八幡などの進化型であるから、3・・・
自説と違う事実を見ても変わらないのは 説として死んでるから
誰がどう見ても 那珂八幡→石塚→箸墓の順に進化してる
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
那珂八幡のくびれ部の彎曲は、那珂八幡が一番滑らかでスムーズであり、
高句麗の前方後円墳の形ににている。 497>>865
>>6、鉄の武器がほとんどみつからず、<
>ホケノ山を無視してる <
ホケノは、有棺有槨の前方後円墳で庄内3〜布留であるから、3世紀末〜4世紀の古墳。
>7、巫女千人、兵がいた証跡が見つかっていない<
>都城内に住んでいる必要がない<
夜に、卑弥呼一人に放って置ける筈がないし、
昼も夜も卑弥呼の面倒を見る必要があるから、同居するか?、すぐ横の建物に寝泊りする必要があるが、
それもない。
結局大和説者は、証拠も状況証拠などない >>273
都合が悪いと畿内説が天皇を居なかったことにしてる事にする九州説の浅ましさよ >>252
>なぜ九州こそ邪馬台国だったと認めない?
「丹」の採れない九州に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 497>>876
>桃核で、2世紀末には纏向遺跡のところに祭祀を行う遺跡があったことが確定
4世紀前半まで存続したことに疑いはない<
1個の桃核であれば、C14の取り込みは1年以内のC14だけである筈なのに、
12個全部が110年幅の間になった、という事は、
AMS法の検査自体が失敗検査であった事になり、
全く証拠にならない。 >>253
そういう下衆なやりとりは、九州説と思う存分やりなはれ! わははははは @阿波 >>254
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 497>>877
>陳寿は勿体ぶった表現が好きなんだよ。
重要事項は最後にした方が印象が強い。<
陳寿の記載原則は、史料事実や史料実態を出来るだけそのまま転載し、
必要があれば、自分の判断を判るように説明している、という書き方。 >>262
>弧文板が、かなり重要なんだよ
>楯築墳丘墓の弧帯文石の文様が、特殊器台にも使われているし、纏向出土の板にもある
それは、倭国(阿波)の御下がり。
楯築繋がりとして
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域だが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土している。 @阿波
弧帯文土器
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27 497>>879
>一部九州説の人に人気があるというだけの代物
季節ごとに方角が変化する地理観を持った民族なんて、存在しないぞww <
おや?、判っているではないか。
普通の成人人類は、東西南北をほぼ間違えないし、
周髀算経や礼記には、
正午の前後の同じ時間間隔での8尺棒の影端を結ぶ事で東西を決め、
それと直交する方法で南北を決める、という事を書いているから、
魏や郡の役人たちでも、陳寿でも、おそらく倭人でも、東西南北はほぼ間違えない。 497>>880
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
九州説にもう勝てないからこれから一生メシがまずい
九州説は毎日メシがうまい >>274
>>267 が非実在としているのは欠史八代のことだぞ
崇神天皇は存在はした(記紀が正しいという意味ではない)とするのが通説 >>273
>都合が悪いと天皇でさえもいなかったことにする畿内説のおぞましさよ。
天皇がいないって言ってるのは九州説だろ?
白村江までは九州王朝が倭王だって言ってるんだからww 497>>881
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
具体的な反証一つ示さずに、
「納得しない、理由は僕チンがそう考えたから」と 書くだけの、
インチキなお仕事ですな。 >>272
>神武の実年代はいつ頃だと考えているのか?
崇神天皇から5世代前だな
末子相続で1世代30年と見れば150年前になる 497>>882
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説がやっつけられるの見ながら食うメシは、
国民のためにもなり、
最高だなあ >>273
>都合が悪いと天皇でさえもいなかったことにする畿内説のおぞましさよ。
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 497>>886
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
なぜ九州説に負けるのか
それは大和説者の頭と顔が、九州説より劣るからだ 497>>888
>それだと困るから、島めぐり仮説とかを「発見」しちゃったのが古田武彦氏ww
それを後生大事に正しいと言い張り続けているのがザラゴキ
あと古田史学のインチキでひどいのが、陸行一月を半島上を陸行するという韓地陸行説ww
まあ、短里の時点ですべてでたらめなんだけどさ<
何だ?、類スレ主は、ザラコクに直接反論をせずに、
別の人の所に逃げて、助けを求めてirunnkai?. 497>>891
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
なぜわざわざマウント取られに、
ここに来るのだろう?。 497>>897
大和説のやっていることは、
大和説が正しいという主張ではなく
「南→東」などの嘘付き騙しを紹介しているだけ 497>>902
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が隠蔽した項目
・短里
・魏の役人らの島巡り見聞計測行
・韓地陸行
・水行十日陸行一月の起点は帯方郡
・周髀算経や淮南子の一寸千里の隠蔽
・国の間の距離の計測は居住外縁部間
・「余」の有無での書き分けや「有〜戸」と「可〜戸」の書き分けの存在の隠蔽
・渡海と船行は、水行の中の一形態
まだまだあるね。 497>>903
>平塚川添遺跡・・・多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認<
成程。 497>>904
「南→東」などの嘘付き騙しには、
一言も触れずに逃げる逃げる
典型的な大和説だな 497>>953
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
その、あまりに不合理で成り立ちようのない仮説に頼らないと
成り立たないのが大和説
というわけだ
あきらめろ 497>>958
>それで実際は東南なのに「又南渡一海」と書くの?<
違うね。
その「南」も、出発時点での出発方向記載。
「對海國から南に向かって出航して行けば、
西からの対馬海流や偏西風にも流されて、一大國には容易に到着出来る、
という事。 >>229
比較として最低でも九州の古墳の数を出さないと、多いのか少ないのかわからん。 >>234
>畿内の古墳はだいたい大王はんの墓
大王が何千人もいたのか。
初耳だ。 >>311
大王の親類親族がいるだろうに
頭悪いな 497>>994
>なぜ邪馬台国の場所が現実的ではない帯方より南1万2千里の会稽東治の東と書かれているの<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙しのサギ文言であるし、
「帯方より南1万2千里の会稽東治の東」は、陳寿の女王國の位置推定文なの。 497>>998
>陳寿が倭国を南方だと認識していることは、会稽東冶之東、與儋耳朱崖同から分かる
そして、それが現実の地理と合わないのも現実<
陳寿は女王國の位置を、「東冶」ではなく、
「計其道里、當在會稽東治之東」と推定したのであり、
「與儋耳朱崖同」も「儋耳朱崖の位置だ」と言っている訳ではないから、
ここでも、類スレ主は×であり、・・・・詐欺師。 498>>80
>全部、綺麗なでっち上げの数字だろ? 萬二千里は世界の果てまでの距離
倭国本土(本州、四国、九州)上陸までは一万里 渡海は一律千里
陸行は近ければ百里、ちょっと遠ければ五百里ぽっきりの明朗会計ww<
魏略には「余」が付いていたのか?の確認が取れなかったが、見つけた。
翰苑の、
「分[扁身旁右職]命官、統女王而列部。
【魏略曰:「從帯方至倭、循海岸水行、暦(歴)韓國到拘耶韓國七十(千)餘里、始度一海、千餘里至對馬國。
其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布(市)糴。
南渡海至一支國、置官至(同)對〔闕「馬」〕。地方三百里。
又渡海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。
東南五東(百)里、到伊都國。戸万餘。
置〔闕「官」〕曰爾支、副曰洩渓觚・柄渠觚。其國王皆統屬王女(女王)也。」】
などでも「余」の有無で区別された書き方になっている。
という事は、「余」が付けた始めは、魏志と魏略に同じような書き分け記載があるから、
魏の使節の役人の「記録」であったものだ、という事になる。 498>>85
>1万2千余里は余がついてるので正確に測った数値と言う事はできず
むしろ測ってないという事になる<
魏略にも魏志と同じように「余」の有無で書き分けてあった、という事は、
魏の役人たちが皇帝に報告した記録が既に、「余」を付けた近似値になっていた、
という事になる。
つまり、魏の役人たちが、行程の「里」計測をして、
有効数字1桁程度の近似値化した報告をした、という事になる。 機内説の弱点は巻向や箸墓と三輪山祭祀が突然新たに創始されたことの根拠が不足していること
そしてその年代特定が未だ3世紀半ばから4世紀後半の枠内を特定できずにいること
これらは伝統的な祭祀を担う一族の王が遷都した痕跡だと言えるが、この祭祀形態のルーツが九州発祥の文化から来ていることが明白なことが九州説が否定されないことの根拠でもある
東遷が発掘状況から根拠が弱いことを考えると、やはり九州由来の祭祀を擁する王族が周辺豪族の擁立により巻向に並立したと、単純にそう思うようになった
問題はそのどちら側に卑弥呼が所属したのかということだ 498>>115
古田さんの「南≠東」などの指摘で、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らのの通説が崩壊するとか
誇大妄想は、大和説の定番だな 空気シャワーだけの理由ではなく、地表付近には、つねに中性子が降り注いでいることが明らかになり、
巻向に前方後円型の物体が出現したのは、魏志倭人伝時代が完全に、終了した後だと判明したので、邪馬台国畿内説は破綻してしまいましたね。。。 498>>119
こんなしょうもない事しか言えなくなった、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 498>>121
「南→東」などのウソtき騙しの大和説の話は、
ハッタリデタラメ >>320
炭素14年代法での、炭素14の崩壊量が、原子核の内部の理由以外に、5%以上、多く観測されてしまっていた理由が判明しましたね。。。 498>>126
>魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国が沖縄か台湾やパプアニューギニアになる<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説者は・・・・アホ詐欺師。
>書いてある距離は現実的ではな一方く<
魏使らの記録を見た魏志と魏略が、
「余」の有無で同じ書き分けをしている事になるから、
魏の役人らが、自ら「余」を付けた近似化した報告書を出していた事になる。
>3世紀の考古学的証拠で畿内が中央集権的で魏と交流していた事がわかる
よって邪馬台国は畿内の大和国こと <
「畿内」も「邪馬台国」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」でも考古学的証拠でも大和説は、×。
九州説には不可能な三段論法 畿内説が崩壊したというのに、なぜテンプレが生き残ってる
まだ捏造の悪だくみをやめないつもりか >>318
なんか定説と正反対のおかしな断定をしてる人がいるな
根拠はなんだろう???
そんなこと言ってる学者、いないよね? >>313
>その崇神の年代そのものが不確定
九州説の最近の流行は纒向遺跡が3世紀にあったことは否定できなくなったから
邪馬台国とは無関係なヤマト王権の遺跡だっていう言い逃れだろ?
であるなら記紀に、崇神垂仁景行の3代の宮処が磯城・纒向とある以上、
崇神天皇の実年代は纒向遺跡の年代で決まりだよ >>327
九州説の人は「理由は僕ちんがそう考えたから」だけしか書かないww
客観的な根拠なんてないんだよ >>318
>機内説の弱点は巻向や箸墓と三輪山祭祀が突然新たに創始されたことの根拠が不足していること
これは根拠を考えるだけムダだろう
考古学は「点」しか分からないのだから
>そしてその年代特定が未だ3世紀半ばから4世紀後半の枠内を特定できずにいること
これは悪意があるな
開始はむしろ2世紀末だ
>これらは伝統的な祭祀を担う一族の王が遷都した痕跡だと言えるが、
あえて言うなら伊勢遺跡の後継だろ
>この祭祀形態のルーツが九州発祥の文化から来ていることが明白なことが
デタラメww
九州に前方後円墳の前身はない
>九州説が否定されないことの根拠でもある
九州説なんてすでに存在しない >>330
>これは根拠を考えるだけムダだろう
いや、すったらなことないべ
前方後円墳が定型化するプロセス
墳上の埴輪祭祀が登場するプロセス
纏向で精製器種の祭祀が出来上がるプロセス
そしてその実年代観
学問的に完成してるから教科書にまで載ってるわけで >>331
>いや、すったらなことないべ
現象は記述できても、それが「なぜ」なのかは考古学では分からないし
できることは根拠の薄い推測止まりだから追究するのはムダだろう 九州説の口からは具体的な理由がなんにも出てこないんだよね
根拠がない(ワシゃ認めないぞ)
根拠が不足している(基準なしワシ判定)
時期尚早(とにかくワシ断定)
まだ決まったわけではない(爺さんお迎えくるまで時間稼ぎ) >>332
>現象は記述できても、それが「なぜ」なのかは考古学では分からないし
現象が起こっているという事実が強いんだよ
その事実に即して考えるだけ
その結論が畿内説なんだな >>328
>崇神天皇の実年代は纒向遺跡の年代で決まりだよ
どちらも不確定なので循環論法? >>330
>>これらは伝統的な祭祀を担う一族の王が遷都した痕跡だと言えるが、
>あえて言うなら伊勢遺跡の後継だろ
伊勢遺跡の後継?
はるかに規模が小さいよ。
>>この祭祀形態のルーツが九州発祥の文化から来ていることが明白なことが
>デタラメww
銅鏡をシンボルに用いた祭祀は九州北部から継承されている。 畿内説は上っ面だけ取り繕って、その一方で日本の歴史を破壊していないか? >>336
>銅鏡をシンボルに用いた祭祀は九州北部から継承されている。
証拠は?
またヤタノカガミとか言い出す?
ww 天皇の権威である三種の神器が元は九州由来の副葬文化なのだから畿内始祖というのは成り立たないだろ >>337
なんの理由があってそんな難癖つけるんだ? >>339
無知だなあ
世界史的に見て、王権の象徴が征服した各地から取り上げた神宝セットなことは珍しくない 横からごめんよ
最近思うのだが
記紀を一番利用したいのは畿内説だと思う
ヤマト説は記紀に頼っているのは明らかだろう
なのに、テンプレ同様白を切る
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。 >>344
>記紀を一番利用したいのは畿内説だと思う
思う理由は?
ただ、なんとなく? >>343
畿内で起こった卑弥呼擁する独自文明が九州文化を征服して王権の宝物を簒奪したという考えですかね ヤマト王政(天皇制の源流として)
邪馬台国が関与してるとすれば
1、邪馬台国は畿内にありヤマト王政=邪馬台国
2、畿内にあった邪馬台国が何処からかきたヤマト王政に制圧された
3、九州・出雲・阿波・近江等(各説あり)にあったであろう邪馬台国がヤマト王政を築いた
4、畿内に無かった邪馬台国以外の勢力(連合体)がヤマト王政を築いた
5、渡来人(特に百済かな)と手を組んだ勢力がヤマト王政を築いた
6.邪馬台国とヤマト王政は全く関係ない
7.他 >>345
考古学者の原点は「なんとなく」から始まる
それが、確信に変わった瞬間に学者じゃなくなる
詭弁に走るのが世の常
畿内説互助会?とはよく言ったものだと思う 陵墓
神話
345日本@名無史さん2019/08/26(月) 00:35:20.35>>348
>>344
>記紀を一番利用したいのは畿内説だと思う
思う理由は?
ただ、なんとなく? 俺思うんだが
3から4世紀に時の天皇の墓が固まり過ぎてないかな >>348
>考古学者の原点は「なんとなく」から始まる
そう断定する理由は?
ただ、なんとなく? >>347
>4、畿内に無かった邪馬台国以外の勢力(連合体)がヤマト王政を築いた <
イミフ >>354
つまり>>351はただ、なんとなくそう思ったってことか 498>>136
>魏の里を三段論法で証明
魏で使われていた1尺24cmのモノサシが見つかっている <
里は里歩系単位であり、尺定規は尺寸系単位であり、
尺定規寸法は、周代から殆ど変わっておらず、尺定規は魏朝の里の根拠にならない。
>律歴志などで魏では1里=300歩=1800尺の縮尺が使われていた事がわかる<
律歴志も、魏の役人たちの公的文書ではなく、
九章算術と同じく民間学者の書であるから、魏朝の役人たちの使用里の長さの根拠にならない。
>これで計算すると魏の1里は約437mである
短里は三段論法で証明する事は不可能<
魏朝の役人たちが使った里の長さを、民間的な学者の使用「里」と同一長さであった、
とすることは不可能である。 498>>138
>距離に余がついてるのは実測じゃないからとも言える<
人類の常識は、「余」は「近似値化をした時に発生した事を示す文字」であり、
その元の数値は、「実測値」か、数学的な「多い桁数の計算値」である。
つまり、淮南子の「萬二千里」のような数値であった、とは言えない。
このような事は、「有」と「可」でも起こり得る。
「有」は、実在であった事の確認文言であり、
「可」は、実在が未確認であったから、「推定された事を示す」文字である。 498>>148
>魏志倭人伝の里に端数ないだろ じゃ測定値じゃないって事だな<
「余」の有無での「近似値化の書き分け」がある、って事は、
元資料に「多桁数値」の情報が存在した、という事を示す事になる。 Error 520 Ray ID: 50c02c478aa4a56a • 2019-08-25 20:04:04 UTC
Web server is returning an unknown error 498>>152
>不利になると基地外のフリをする九州説<
不利になると、ますます
・・・・になる「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者や5ch。 498>>162
>九州説お得意の短里と実際の地理を比べてみたら?ww
一里76メートルなのか、140メートルなのか知らんけどww
そうしたら450里だかどうだか、はっきり言えるはずだろ? <
古田さん以前に計算した人は何人もいて、「短里だろう」という推定をされていたが、
古田さんは、初めて「国間距離などは居住外縁部間距離」という論理での近似的計算をされ、
「1里は90mから75mの間で75mに限りなく近い長さ」という結果を示された。
>実際に測ったというなら、それなりに比例関係が出るはずだよね?ww
でもそういう具体的な実証を伴う推定をして見せた九州説がこれまで一人もいないww<
個々の「里数記載の起点と終点」を判断しての近似計算は、Yahooでも、
(知能指数が200であったという東大工学部出らしい)mutouhaと言うお方が計算された。 498>>166
>短里なんか使われてないよ
倭国の王都は楽浪より南1万2千里で会稽東治の東という漢の伝承に
魏の時代に知りえた地理情報を当てはめただけの概念的な数値になってるだけだよ <
淮南子も、周代からの一寸千里を使っているから、
原則としては短里としてはだったんだよ。 >>346
>畿内で起こった卑弥呼擁する独自文明が
倭国(阿波)で起こった卑弥呼擁する独自文明(水銀朱・積石石棺墓・軽量薄型土器・勾玉・銅鐸・ぼう製鏡・雑穀栽培・航海術ほか) @阿波 >>350
畿内説が何でもかんでも邪馬台国に合わせるために年代詐欺を繰り返した結果だよ。 >>343
奈良時代の天皇家自身が九州から来たと表明しているのに、必死になって否定するのが畿内説。 >>350
>3から4世紀に時の天皇の墓が固まり過ぎてないかな
だから、天皇の墓じゃないんだよ。 忌部一族(豪族)のお墓 だと、何度言えばw @阿波 >>366
>奈良時代の天皇家自身が九州から来たと表明しているのに
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 前方後円墳の起源が吉備だと言いながら、邪馬台国吉備説が出ないのはなぜ?
出雲から上陸して中国地方を横断して吉備に向かった可能性は? >>357
魏で使われた尺定規が1尺約24cm
律歴志などにより魏の尺度は1里=300歩=1800尺だから1里約437m
魏の1尺が24cmは魏の1里は437mの根拠となる 畿内説は大和ありきだから。
それは理屈ではなく妄信の類。 >>369
>前方後円墳の起源が吉備だと言いながら、
誰が言った? ブラタモリで、大山古墳群の帆立貝型古墳は大山古墳と同じ年代だと言っていたが、そうすると古墳の定型化ってなんだろう?
畿内説の古墳の編年はそもそも誤りや推定の部分がかなりあり、それを恣意的に念じ曲げて確定的に語っているだけではないだろうか? >>357
魏では1里75mの短里が使われていたとするなら
なになにという魏で使われた度量衡が記された史料に
魏では1里=300歩≒300尺の尺度が用いられたと書いてある史料が必要
公のものであれ明のものであれそんなものは見つかってないから短里はなかったと言える >>362
>古田さんは、初めて「国間距離などは居住外縁部間距離」という論理での近似的計算をされ、
そんな狂った論理を使ったら
倭に至るのが12000余里にならないだろ
どこまでデタラメなんだ >>335
>どちらも不確定なので循環論法?
循環論法って言葉が使いたかったんだねw
纒向遺跡の年代は記紀とは無関係に
・土器編年
・土器と共伴する年代の限られた遺物(貨泉等)
・14C年代等理科学的方法
での推定だから、循環論法という批判はまったくあたらない >>358
推定だったら実測値じゃあないだろ
帯方より南1万2千余里は淮南子に世界の果てを示す数字として出てくる上に
魏里に換算すればパプアニューギニアになるから実際測った数値の可能性は限りなく低いというか
常識で考えたら架空の数値である事が明白 >>336
>伊勢遺跡の後継?
>はるかに規模が小さいよ。
伊勢遺跡:東西約700m、南北約450m、面積約30ha
纒向遺跡:南北約1.5km、東西約2km
嘘つきww
九州説は具体的な数字などを出さずにゴマカシの嘘をつくww
>銅鏡をシンボルに用いた祭祀は九州北部から継承されている。
破鏡は古墳時代に引き継がれてないよww >>369
>前方後円墳の起源が吉備だと言いながら、邪馬台国吉備説が出ないのはなぜ?
それは、吉備の文化が倭国(阿波)起源だから。 @阿波 >>359
魏志倭人伝に出てくる里は100里以下の細かい数値が書いてないし
1里が場所によって50mになったり200mになったりと4倍の差がある
何らかの方法で実際に距離を測っていたならこういう風にはならない >>348
また「理由は僕ちんがそう考えたから」だ(呆れ)
お前さんの妄想なんぞをわざわざ披瀝してもらわなくていいw >>365
>畿内説が何でもかんでも邪馬台国に合わせるために年代詐欺を繰り返した結果だよ。
お前さん、九州説の年代詐欺に騙されてるぞww >>379
>破鏡は古墳時代に引き継がれてないよww
口からでまかせを吐くキナイコシ >>381
>何らかの方法で実際に距離を測っていたならこういう風にはならない
測れる 目的地が見えて・い・な・く・て・も、現実に測れている。
15世紀だが、測量に関しては古代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>366
>奈良時代の天皇家自身が九州から来たと表明しているのに、必死になって否定するのが畿内説。
九州から来たのは卑弥呼の時代・纒向の時代の、100年以上前
卑弥呼の共立を契機に大和を中心としたそれなりの広域秩序が立ち上がり、
その秩序が魏志倭人伝の倭國でありその中心が邪馬台国・ヤマト国ってだけの簡単な話 >>386
>九州から来たのは卑弥呼の時代・纒向の時代の、100年以上前
根拠なし >>385
魏志倭人伝に書いてある距離は実際測ったものが載っているなら
場所によって1里50mになったり200mになったりしない >>386
>卑弥呼の共立を契機に大和を中心としたそれなりの広域秩序が立ち上がり、
大和政権は各地に侵攻したんだろ。
共立とは言えないね。 >>387
魏志倭人伝に桓霊の間(160〜180年ごろ)倭国大乱
記紀に神武東征の神話 >>373
>古墳の定型化ってなんだろう?
こういう基本知識すら無いやつが九州説をやってるんだよなww
・盟主墳の墳形を前方後円墳または前方後方墳とすること
・段築
・葺き石
が、定型化以降の古墳の特徴
定型化であって定形化ではないから、盟主墳以外の墳形は、円墳方墳帆立貝型といろいろあるよ >>384
>口からでまかせを吐くキナイコシ
口から出任せってのはこういうやつだぞww
>伊勢遺跡の後継?
>はるかに規模が小さいよ。
伊勢遺跡:東西約700m、南北約450m、面積約30ha
纒向遺跡:南北約1.5km、東西約2km >>387
>根拠なし
何度も紹介してるだろ?
根拠は古代系譜研究家の宝賀寿男氏の研究だよ
神武から崇神まで、架空とする必要はなく、他の豪族系譜との対応から
5世代とすれば矛盾がない
その5世代を1世代20年で回しても100年前、末子相続で1世代30年とすれば150年前
100年以上というのは控えめな推定だよ >>389
>大和政権は各地に侵攻したんだろ。
>共立とは言えないね。
各地に侵攻し始めるのは、卑弥呼の共立よりあとだよ 498>>177
>そもそも会稽東治の真東なら種子島辺りになる。<
ならんな。
「会稽東治」は、元は会稽郡の治下にあったが、257〜260年頃の分郡後には、
揚州の管理下になった、東シナ海沿岸部の事であり、
その「東」であれば、ほぼ九州島付近。
上海に特定しても、その「真東」は九州島最南端の管理佐多岬付近。
>魏志倭人伝の距離と方角の記録はあてにはならんよね。<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者のような、
史料事実や史料実態を否定曲解する京都アニメ犯人のような・・・・の講釈は、
あてにはならんよね。 >>393
>神武から崇神まで、架空とする必要はなく、他の豪族系譜との対応から
>5世代とすれば矛盾がない
架空でないのに5世代とは詭弁だな。
>その5世代を1世代20年で回しても100年前、末子相続で1世代30年とすれば150年前
兄弟相続を含めて一代十数年がいいところだろう。
すると神武から崇神まで100年そこそこ。
神武の年代は卑弥呼の少し前でもよい。
それは倭国大乱の年代となる。 京都あにめ?
もれ(仮)が書いたんじゃなかった?必要ないとw
必要ないだろう
言ってる意味がわからない? >>373
>畿内説の古墳の編年はそもそも誤りや推定の部分がかなりあり、それを恣意的に念じ曲げて確定的に語っているだけではないだろうか?
そんな変なこと言う理由は? 498>>182
>帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶→12000里→(自郡 至女王之所都 万二千里)
既に判っている中国大陸での距離を転用しただけってこと???<
「東冶」というような、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」という「女王國の位置推定」に、
書かれてもいない史料事実の否定曲解の嘘つき騙し文言を使う男は、
人間ではない・・・・アホ詐欺師であるから、信用出来ず、×。 >>396
>架空でないのに5世代とは詭弁だな。
兄弟相続、従兄弟相続があるから、5世代10代で矛盾がないんだよ ちなみにモレ(仮)は
『王母 龍宮 鳳 寒いな〜』
このような名前の家、写真なども貼り付けているでしょ 神武が倭国大乱なら、その後の平原遺跡が卑弥呼の墓でもよいな。 というか「寒いな〜」本人(の家・・・とか)なのかな? 498>>188
>中華皇帝は万里以上の遥か彼方にある周辺民族(喋る牛馬=野蛮人)からの朝貢を受けるほど、
徳の高さと見做す習慣があるらしいからな<
皇帝や重臣らであればそのような思考を持っていた可能性は僅かにはあろうが、
魏の役人らのような下役人が、
皇帝らの意向に忖度した嘘つき騙しの報告書をでっち上げ、
同僚や部下や後続の使節や難升米らの率善中郎將らに拠ってバレれば、
そりゃ首が危ないから、
魏の役人たちはそんな事をしない。 (抄)
末盧国東南陸行500里の佐賀川上にあった伊都国(推定)と、
吉野ヶ里の不彌国(推定)の中間に位置する佐嘉川東岸の大和町久池井(惣座)には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。
したがって両遺構の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 >>395
>「会稽東治」は、元は会稽郡の治下にあったが、257〜260年頃の分郡後には、
>揚州の管理下になった、東シナ海沿岸部の事であり、
>その「東」であれば、ほぼ九州島付近。
九州説は、なんでそんな捏造ができるの?
257〜260年頃の直前に、会稽郡の最北端は北緯30度付近だ
その会稽郡のどこをどう恣意的に切り取ったって
東にあるのは屋久島や奄美以南だ
どうして九州説は平気でウソつくの? >>388
15世紀だが、測量に関しては古代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg 『かっぱっぱー』?
なぜか龍宮城に行っていたり、CMを観てみた? >>394
>各地に侵攻?(拓殖)し始めるのは、卑弥呼の共立よりあとだよ
その通り。 @阿波 『デスラー』なぜか同じような植物が映っていたり
『』『』『』『』・・・その他 『何者にもなれない お前たち』
『』『』『』・・・・ほとんど同じ 498>>191
>端数とは123里と細かい数字のこと
魏志倭人伝では100里、500里、1000里と大まかな数字しか出てこないので端数まで測ったというのは違うとはっきりしている
ゆえに余がついているのはそれっぽく見えるように書いてあるという事になる <
いや、「余」を付けたという事は、
原則としては、元の計測値や記録ではまだ「余りがある」、というだけの事であり、
例えば「七千余里」であれが、七千里から「八千里」の少し手前まで、
いう位の意味。
殆ど「八千里」であったんなら、「可八千里」とでも書かれる可能性が高い。 ペンギンのアニメ『馬』という文字が書いてあるでしょ?
馬に乗っていて〜という話? 498>>193
>余が実測値(近似値)の端数省略の表示だとしたら
伊都国はピッタリ500里で奴国・不弥国はピッタリ100里ってことになるんじゃないか <
ならんよ。
「余」が無ければ「ほぼ〜里だ」という意味だ。 時間的に空間的に疎らな遺蹟も、時間的に空間的に密度の濃い遺蹟も、時間的に空間的に範囲は現代の者が恣意的に決めるのだったな。。。
392日本@名無史さん2019/08/26(月) 07:58:31.43
>>384
>口からでまかせを吐くキナイコシ
口から出任せってのはこういうやつだぞww
>伊勢遺跡の後継?
>はるかに規模が小さいよ。
伊勢遺跡:東西約700m、南北約450m、面積約30ha
纒向遺跡:南北約1.5km、東西約2km >>417
纏向集落は、時間的にも空間的にも、疎らな集落だったのだね。。。 ですらー(アニメ、原作の漫画?)なども無かった頃に撮影した写真、
なぜか同じような植物が映っているでしょ
オジギソウ、笹()、羊歯()・・・、 『ヤシ フェニックス』?
そんなに大きくはならないんだけど、
ヤシの類も植えてあったと言っているし・・・、
家の父親、母親もw 畿内説が追い詰められるとキナイコシのかわりにつぶやきが登場する不思議。 >>414
>いや、「余」を付けたという事は、
原則としては、元の計測値や記録ではまだ「余りがある」、というだけの事であり、
あなたは自分勝手に原則を制定して従えと他人に命令できたりする
世界の皇帝様かなんかですか 某まいく・おーw5月15日?
あの曲(MV)・・・なぜか同じような気が 漫画アニメ、ゲームなども、
ほとんど人の家(他人の家)の話ばかりでしょ、無断で制作していたり
調べてみると、人権侵害のようなものばかりだし、
仮名、キャラクター名にはしてあるけど >>423
横からですまんが、余りとあるのは測定値がピッタリではなく少し大きかったという意味だと思うぞ。
100メートル余りとあれば、110とか120くらいだったのだろうと思うだろ? 498>>197
しいて言うなら大和説は、国粋国家皇国史観の邪教だな
教義は、「不可知部分が殆どである自然は歴史」においての「真理だ」を妄想し、
教祖様がそのご託宣を唱えれば、人々や国民を支配出来て、
殺戮戦争で支配者になれる、という思想であり、
山口組や朝日記者銃殺赤報隊やオームやイスラム過激派や白豪主義者らと同じである。
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
倭國は「南≠東」などに拠って九州。
三角縁神獣鏡は明帝下賜鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
魏志の記載里は、秦漢朝里ではなかった
魏志倭人伝に書いてある女王國の位置はパプアニューギニアか沖縄には全くならない
畿内なんて存在もしない宗教的な嘘つき騙し文言であり、
よって書いてある位置は、文献と考古学的証拠で見れば、九州。 誰が商売をしているんだという話にもなってくる、
どうせ(人の家の名など)成り済まし、騙りなんだろうけど
まさか老婆が創価に入ったことが原因なのか、
家の裏に住んでいた、共産党を応援していた家が原因なのか 赤旗という新聞があるんだけど、
家のポストに入れていたし・・・家の裏()に住んでいたのw 498>>199
>夏至以外では成り立たず冬至では全然合わない事が書いてあるから
一寸千里は無能な法則 <
一寸千里は、夏至正午でも、0.5%位の誤差であり、
冬至正午でも、数%以内の誤差であり、
一寸千里は、有能な法。 498>>201
>九州説を認められない畿内説は倭人伝を毀損してすべてを終わらそうとしているな
でも邪馬台国の称号はほしいから延々と粘着しつづけている
醜いね <
成程。 共産党(日本の)は嫌いなんだよと
老婆は言っていたし、母親も・・・、
父親は何も言わないけど、どういう事なんだろう つか九州説は記紀を持ってきて神武東征こそが九州説の証拠だとか言い出すから意味わからんな
記紀の話なら神功皇后の所に魏への遣使が載ってる
ハッキリと神功皇后と比定してないとか言うが神功皇后の統治年代は200年から269年に当たる
記紀の記述は神功皇后を卑弥呼として考えてるのが分かる
まぁ真っ当な歴史家や考古学はこれを鵜呑みにしないが、九州説のアホみたいに都合のいいところだけ記紀を持ち出すなら邪馬台国は大和だな
九州説とか言いながら畿内を主張してるわけだ
バカじゃねぇのかねこいつ等 あとついでに言うなら中国史でも神武東征を持ち出すならこれも畿内の証拠になってる
神武東征で大和に都を移した後の天皇の用明天皇がアメノタリシヒコだと言うんだからな
このアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じだと書いてる
つまり日中ともに神武東征をネタにするなら畿内を指してるのが明確になるだけ
本なんて読んだこともないバカの集団は発言全てが自爆だから笑いが止まらん >>435
畿内説信者も九州説信者もバカですがなにかw @阿波 神功皇后の実年代は卑弥呼の120年後くらいという意見が多い。
応神朝は4世紀末くらいになる。 498>>211
>九州説支持する学者は一人もいない<
大和説を支持する学者や学会教育界や、安部政府文科省や 、右翼マスコミらは全員、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・宗教詐欺師だな。 498>>214
>魏志倭人伝の里は一区画で4倍も誤差があるし<
起点終点の比定のインチキ。
>海上の島々の間は全部千里<
「余」があるから、計測値やそれからの近似値。
>端数まで正確に測ってたとは到底思えない <
始めから、有効数字1桁程度の近似値であるように、示されている。 498>>215
トンデモ大和説もなー
邪馬台国はあったかも知れない、アタリで止めときゃよかったのにね
暴走の末が、「ツガル偽書」説に加担して、喜八郎さんの直筆発見で即死になり、
畿内は無かったやらで、
地の底までも堕ちていく 498>>217
>畿内説には名前も考古学証拠もある <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説は、文献でも考古でも証拠はない。 >>442
>始めから、有効数字1桁程度の近似値であるように、示されている。
起点終点の比定のインチキした結果だろ
ww >>444
理由など言わず、先入観だけで頭ごなしにひたすら決めつける
それが九州説 あの伝説などは本当の話なのかな・・・?
老婆談によると
その共産党を応援している家は、
お爺ちゃんの父親というのが世話をしてあげたんだよ、
ここに土地が余っている(空き地?)から、家を建てて住めば良い
勝手に住まわせたりしていたのかな?
たしか、あそこのセメント・・・のプレハブ小屋に住んでいたと言っているし >>446
畿内説は他説の中傷ばかりせず、自説をきちんと述べた方がいいと思う。
あれは信用できない、そんなことは言ってない、しょうこは?
そんなことでは誰も畿内説を支持しない。 本当に老婆談w
その家(赤旗を入れていく)の息子と嫁なんかは、
そういう話も知らないんだろう、偉そうにしていたり
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
よくわからない話ばかり >>448
>そんなことでは誰も畿内説を支持しない。
なんて理由はないな
「そんなことは言ってない」と言われたら
言ってるという証拠を突きつければいいだけ
「しょうこは?」と言われたら
証拠を突きつければいいだけ
それをしないのは
ウソついてた証拠
そんなことでは誰も九州説を支持しない
九州説は畿内説の中傷ばかりせず、証拠ある主張をきちんと述べた方がいいと思う
w
w
w 纒向遺跡というのは、卑弥呼の時代とややズレて並行して存在した、倭種の国の痕跡ですね。
滋賀にも伊勢遺跡というのがありますね。
鳥取や吉備にもあるでしょう。
2〜3世紀は日本各地で祭祀が流行った時代だったんですよ。 らじお・がが〜よりも後の話なのかな?
土地が空いている(空き地)から・・・ここに住めば良い >>451
>纒向遺跡というのは、卑弥呼の時代とややズレて並行して存在した、倭種の国の痕跡ですね。
その通り。
>2〜3世紀は日本各地で祭祀が流行った時代だったんですよ。
2〜3世紀は日本各地で「忌部はん」 が祭祀を広めた時代だったんですよ。 @阿波 498>>220
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記載<
明帝が亡くなったには、景初二年大晦日〜翌日の元旦の間だから、
それらの後代史書群が×。
>三角縁神獣鏡に年号が記銘されるなら景初三年<
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡。
>科学的調査で畿内の前方後円墳は卑弥呼の時代と重なっていると判明<
卑弥呼の墓は冢であり、前方後円墳はもっとずっと後であるから、×。
>魏志倭人伝にある径百歩の墓と大きさが適合<
「径」は不定形の長径の事であるから、大和の巨大前方後円墳は始めから、×。 498>>225
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
詭弁も翻弄された負け犬や虫ケラという事でいいの?
堂々と議論して、きちんと「負けた」と言わな >>450
この書き込みで畿内説の支持が増えると思いますか? 498>>226
>でも、測ってないとか、想定しただけの数字というわけではない。
郡使が通過したところだけ里数が分かると明言しているではないか。<
成程。「自女王國以北、其戸數道里可得略載」ね。 498>>228
>北部九州の緯度は魏の領内と同じ 魏領の南端ですらない <
洛陽付近や釜山が北緯35度だから、「魏の領内と同じ」という程ではない。
>ましてや会稽など届きようもない<
「会稽東治」は、揚州の管理下。
>短里など存在する余地はない 陳寿の認識と違いすぎるのだ <
秦漢朝の長里では、赤道付近にまで行ってしまうから、存在した筈がない。
陳寿の認識と違いすぎるのだ。 >>457
常識的なことを言えば常識人が支持するだろう
九州説が非常識なことを言えば
常識人が九州説に近づかなくなる
それだけのこと どんな話でも常に想像論しか語れない畿内説マンセー病w
ロジカルシンキングカウンセラーでも受ければ?w
しっかり勉強すりゃ、畿内説の考古学者がなぜ嘲笑されるのか分かるからw 498>>229
>測ってない想定の数字だよ<
「余」の有無に拠っての書き分けがあるし、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と略載した、という記載もあるし、
「測っていない想定の数字」で誤魔化しでバレたら、首が危ないから、誤魔化さない。
>魏の1里437mと大幅に違ってるんだからな
それに当てはまらない事ははっきりしている<
「1里437m」のような長里では、赤道付近にまで行ってしまって、
当てはまらない事ははっきりしている。 498>>230
ほらな、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、根拠を全く言えない
ないからだよ 498>>231
九州説は、捏造なんて1つもしてないし、
そもそも「史料事実や史料実態のまま」であるから、捏造する必要がない
それに対して、大和説は、
始めから、存在もしなかった嘘つき騙しの「畿内説」という捏造文言を使っている。
大和説者らには、感覚的に信じられない事だろうけど >>460
常識人が畿内説から離れてしまっている理由に心当たりはないのか? 498>>233
>>畿内説には歴史捏造という不名誉がついて回る<
>というなら証拠出してね
出せないと九州説に捏造屋という不名誉な名がついて回るよ<
証拠は、単的には「南→東」などの嘘付き騙しだ。
既に大和説者の全員に、「捏造犯人」という不名誉な名が付いて回っているよ。 >>459
>秦漢朝の長里では、赤道付近にまで行ってしまうから、存在した筈がない。
>陳寿の認識と違いすぎるのだ。
もちろんそれは真っ赤なウソ
漢代の認識ではハノイでも洛陽の南11,000里
もちろん正常な漢魏の1里=1800尺でだ >>466
>証拠は、単的には「南→東」などの嘘付き騙しだ。
それ、証拠じゃなくて中傷だから >>236
>数字の余の有無は測定した証拠にならないよ
143里と細かい端数まで書いてあるならともかく<
計測していなければ、「余の有無に拠る書き分け」の発生が、
説明不可能だよ。 >>470
常識人が畿内説から離れてしまっている理由は、NHKの高校講座なのだな。。。 >>464
>463日本@名無史さん2019/08/26(月) 11:49:30.38
>498>>230
>ほらな、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、根拠を全く言えない
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
>464日本@名無史さん2019/08/26(月) 11:55:09.80
>九州説は、捏造なんて1つもしてないし、
★目の前でしとるやんか
w
w
w 498>>241
>会稽東治之東は陳寿の立場ではそこに邪馬台国がないと困るからそうしただけ
実際のところはそこにはないから長い里数を設定している <
陳寿と同じように、魏の役人たちの計測記録を見た筈の魏略も、
同じような「余」を付けた記載を紹介しているようだから、
「陳寿が長い里数を接待した」という説は、×。
魏の役人たちの記録には、計測記録は存在していたのであり、 >>471
NHKの高校講座は、今年から、新しくされた可能性があるな。。。 東南と書いてあるのだから東南へ行けばよい、 ただ其れだけのこと、、、 >>474
「南→東」などの嘘付き騙しに、高校生が騙されなくなるので良いな、、、、 >>462
魏志倭人伝に書いてる行程が正しいといつまで錯覚してるのかな 498>>243
>魏の里ではないことだけはわかっている。<
魏略にもあるから、魏の役人たちの記録里であり、
魏朝の里であった事だけは判っている。 >>465
書き込んでる九州説は狂人ばかりという事に心当たりはないのか 邪馬台国畿内説が、今日も、完全に論破され、叩き潰されてしまいましたね。。。 >>477
東南と書いてあれば東南へ行けばよい、 ただ其れだけのこと、、、 >>469
計測が行われてないと
だいたい100メートルといったような書き方になる 馬台国畿内説が今日も完全に論破され叩き潰されてしまい、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
479日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:25:28.02
>>465
書き込んでる九州説は狂人ばかりという事に心当たりはないのか 498>>245
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説にとっては、
歴史論争とはいかに嘘をつくか?、であり、
九州説者にとっては、文献考古の、
見つかってる証拠からの帰納的確率的推論 >>483
馬台国畿内説が今日も完全に論破され叩き潰されてしまい、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
という部分は、、、
邪馬台国畿内説が今日も完全に論破され叩き潰されてしまい、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
とタイピングしたかったのでは、ないのかな、、、 >>469
つまり「余の有無に拠る書き分け」なんて発生していないのだね 畿内説にとっては、
親分の顔を立てるためにウソをつくことがお仕事・・・ 邪馬台国畿内説が今日も完全に論破され叩き潰されてしまい、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
479日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:25:28.02
>>465
書き込んでる九州説は狂人ばかりという事に心当たりはないのか 498>>251
>神獣鏡は蜀系 そこから華北や華南に伝播<
華北はかなり少なく、
洛陽付近では、非常に少なく、殆ど見つからない。 >>481
書いてある行程通りだと邪馬台国は沖縄か台湾
畿内説はとっくにその事実を認めて行程論から離れ考古学的物証の研究に力を注ぎ
邪馬台国について九州説よりはるかに先を行っている
一方九州説は九州説である限り永久に行程論から逃れられない 能が破損したキナイコシは、沖縄に到着するために、海底を1月陸行すると考えているのだな。。。
490日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:31:49.28
>>481
書いてある行程通りだと邪馬台国は沖縄か台湾 498>>253
>そうだよ
魏志倭人伝の里は帯方から会稽東治の東までを淮南子に由来する1万2千里に当てはめ<
「余」の有無での書き分けがあるから、当てはめていない。
>1里が50〜200mになるフレキシブル里または淮南子里とでも言うべきものが使われている<
起点や到着点の比定のインチキであり、
「60m〜90m」位であり、
「フレキシブル里または淮南子里」demonai. >>492
能が破損したキナイコシは、沖縄に到着するために、海底を1月陸行すると考えているのだな。。。
という部分は、、、
脳が破損したキナイコシは、沖縄に到着するために、海底を1月陸行すると考えているのだな。。。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。 脳が破損したキナイコシは、沖縄に到着するために、海底を1月陸行すると考えているのだな。。。
490日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:31:49.28
>>481
書いてある行程通りだと邪馬台国は沖縄か台湾 書いてある行程通りだと邪馬台国は熊本平野になるな。。。 その程度のイチャモンじゃ畿内説はひっくり返らないな 498>>254
>実際に距離は明らかに誇張されているから仕方ない<
魏の役人たちの記録や、魏略や、陳寿の記録もあるし、
「誇張した」事がバレたら、首が危ないから、
しない。 邪馬台国畿内説が今日も完全に論破され叩き潰されてしまい、BBAが出現し、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない嘘の悪口だけでなく、意味の分からないことを言ってきたな。。。
491日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:35:07.08
>>488
図星だったので狼狽しているようだ 邪馬台国畿内説が、殺虫剤を吹きかけられたゴキブリのようにひっくり返り、完全に叩き潰された理由は、やはり、纏向の掘立建物は、卑弥呼の城の条件が揃っていないことが、世界に発信されているからなのだな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 考古学発掘や研究によって三世紀前後の古代の実像が明らかになりつつある今
それに何だかわけもわからず腹が立つから必死に出鱈目並べて誤魔化そうとしてる九州説は
まるで重い岩にでも徐々に轢き潰されていってるような心境ではないだろうか 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。 邪馬台国畿内説が、殺虫剤を吹きかけられたゴキブリのようにひっくり返り、完全に叩き潰されたあとも、何かゴソゴソ音を立てているね。。。
502日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:46:42.58
考古学発掘や研究によって三世紀前後の古代の実像が明らかになりつつある今
それに何だかわけもわからず腹が立つから必死に出鱈目並べて誤魔化そうとしてる九州説は
まるで重い岩にでも徐々に轢き潰されていってるような心境ではないだろうか >>484
>九州説者にとっては、文献考古の、
>見つかってる証拠からの帰納的確率的推論
でも九州説って帰納は絶対にしないよね
どうしてやらないの? 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。キナイコシは、すっこんでろ。 これが、頭が悪いキナイコシの歴史における帰納である。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303
505日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:49:01.44
>>484
>九州説者にとっては、文献考古の、
>見つかってる証拠からの帰納的確率的推論
でも九州説って帰納は絶対にしないよね
どうしてやらないの? >>500
NHKの番組中に
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていない
などという発言はありませんでした 498>>257
>1里が50m〜200mのフレキシブル里が使われとりますな<
有効数字1桁程度の「余」を付けて区別された近似値であり、
1里が60〜90m位の「フレキシブルとは言えない計測里」が、
使われておりますなあ。 ブラタモリで、5世紀の日本はまだ統一されてない、という趣旨の発言があり、大山古墳の大和政権も地方政権であることを匂わせていた。
あれは九州を念頭に置いていたから? 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
510日本@名無史さん2019/08/26(月) 12:51:31.37
>>500
NHKの番組中に
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていない
などという発言はありませんでした 498>>258
文献考古の証拠から見ても、
邪馬台国や畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言の使用に拠っても、
「南→東」などの嘘付き騙しに拠っても、大和説は・・・・アホ詐欺師であり、
当然の事を主張しているだけだよ 498>>259
>証拠あんの? 最近の九州説は捏造多すぎ<
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠あんの?。
最近の大和説は、捏造多過ぎ。 >>511
魏志倭人伝に1里が60〜90mの里なんて使われてないよ?
使われてるのは1里50〜200m 498>>262
>三角縁神獣鏡には魏の年号も入って<
△は呉系であり、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>銅出徐州 師出洛陽と記銘<
自分が洛陽にいたのなら、「師出洛陽」なんて紀銘する筈もなく、
その鏡が列島に出た、という事は、
徐州銅を持った呉系楽浪鏡師らが渡来して来て関与し、自分の出目を誇って記名した、
という事の証拠になる鏡。
>使われている銅の素材は魏の鏡と同一<
徐州銅の使用が広範囲で多かっただけ。
>洛陽でも出土 これを魏鏡でないとする方が非合理 <
0〜1個では、列島の500個位の△の証拠にならない。 498>>268
ヒミコって書いた名札以外は証拠と認めないとか言い出して
自分等の大和説を永久に葬ろうとするのが
大和説だったりするんだな
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
どこまで惨めになれるだろうな 498>>279
>>関西の古墳時代は、巨大前方後円墳と倉庫と土器だけw<
>その前方後円墳と土器が全国に浸透していくんだから、
全国に影響を与える実態が畿内にあったことが確実<
ダメだ。
前方後円墳も庄内や布留?や須恵器などの土器も、筑紫が先だ。
>そして各時期のもっとも巨大な前方後円墳は最初から最後まで畿内で作られ続ける
そこが王権の所在地なのも論を俟たない<
ダメだ。
九州倭国は、東海姫氏國の姫氏の倭の五王らが筑後に広がり、
前方後円墳は、
伊都国系の阿毎氏の「東征毛人五十五國」の将軍らにとっては必要であったから、
巨大化されただけだ。 498>>280
>だから、なんか言いたいなら テンプレに反論すればあ?
なんにも出来ない無能は家で引きこもってればよいし<
スレ主は、「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
議論に負けるから、全く出て来ないみたいだし、
代わりをしたらしい類スレ主も、議論から逃げてばかりだし、
時々紹介されたテンプレは、既にPart175の頃に全部反論否定しておいてあるし、
だから、テンプレはもう相手にする必要が無く、
価値も関心もなく、もうどうでもいいんだよ。 498>>281
>測ってすらない<
「余」の有無での書き分けがあるから、測っている。
>邪馬台国=大和国<
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
>卑弥呼の王宮は纒向にあった可能性が高い<
「南≠東」などに拠って、可能性は全くない。 >>513
だが、巻向の宮室だと考えられている物体は、宮室である可能性より、倉庫である可能性の方が高いのだったな、、、 魏志倭人伝には女王の宮城とあるのに、纒向では城とは呼べないね。 498>>283
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)<
前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などであり、3世紀後半半ば過ぎ頃。
>・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)<
大和の石塚は、撥型前方後円墳であり、那珂八幡よりも明らかに新しく、庄内1だから、3世紀末。
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)<
石塚以後の大和の前方後円墳は、九州倭国の「東毛人五十五國」の将軍らが造ったもの。
>ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。<
勿論、畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「南≠東」などに拠っても、×。 498>>285
>郡使が訪問したところ=女王国より以北の国は「戸数道里可得略載」だ <
「可得略載」をしたのは、当然魏の役人ら。
郡使らに記録があったのか?は全く不明。
>東南陸行五百里は余がついてないけどキリのいい数字だよな?
測ってないんだよ <
「可得略載」しているんだから、魏の役人たちは、「簡単な計測をした記録」をした。 498>>288
>卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線<
「南≠東」などに拠って、×。 498>>296
何もないって証拠は?
そういうのを悪魔の証明という みわなから忌み嫌われる
それが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説だが 498>>301
>陳寿の撰述した史書に、倭は会稽東冶之東という南国で、その習俗も所有無、與儋耳朱崖同と
海南島と同じと書いてある <
嘘を付くな。
「東冶」なんて、書いてない。
魏志には「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてある。 498>>315
>短里があってそれで正確に測った、というこれまでの九州説の主張は
死んだということでよろしいかな?www<
始めから、「余」で区別された近似値だ、と言ってあるし、
「略載」とも書いてあるんだから、
「正確に測った」なんて、言う筈がないよ。 498>>319
ああ
魏志倭人伝は1里435m位で書かれてる、という大和説は、
間違ってた事が判明 >>531
判明するわけないだろ
論拠もなしだ
ばかですか 498>>320
6倍位も異なる大和説の説は、誤差とは言わず、
「嘘つきだましのサギって言うんだよ」。 >>525
>前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などであり、3世紀後半半ば過ぎ頃。
理由も言わずに我流珍説を結論だけ連呼しても
理論武装した学者達の通説に敵うわけなかろ
ばかまるだし >>533
>6倍位も異なる大和説の説は、誤差とは言わず、
>「嘘つきだましのサギって言うんだよ」。
それを畿内説は誰も誤差と言ってないので
ウソをついた>>533がサギ 倭人伝に
東南と書かれていれば東南へ行けばいい、ただそれだけの事・・・ 498>>322
>前方後円墳と祭祀用供献土器の分布で、その王権の影響範囲が分かり、
そこに北部九州も入っている <
前方後円墳も祭祀用供献土器も、筑紫の方が早く、
大和の方が、九州倭国の東征毛人五十五國や市に拠って、伝播した。
>そして北部九州の奴国は魏志倭人伝にも出てくる女王に属する国<
奴國は、女王之所都の国ではない。邪馬壹國が女王之所都の国であり、
大体弥生銀座付近。
>奴国に影響を与える畿内以外の王権の存在など影も形もない <
大和は、伊都国や奴國の前の倭奴國から別れた別種の旧小国。
>畿内を別の国と言いたがるのは九州説のご都合主義でしかない<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和を倭国の中心と言いたがる大和説は、
「南→東」などの嘘つきン騙しのご都合主義でしかない。 498>>323
>帯方から沖縄らへんの会稽東治の東の邪馬台国まで1400kmほどだから
1万2千里の1里は120〜130mくらいだぞ<
「沖縄らへんの会稽東治の東の邪馬台国」という設定が、始めから全く×。 >>536
そして邪馬台国でない所に行けばいい
そして嘲笑われればいい >>537
>前方後円墳も祭祀用供献土器も、筑紫の方が早く、
ひたすらウソをつくだけの九州説
終わってるな 奈良 前方後円墳
全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。
以上から、この地が前方後円墳の発祥地とは言えない。 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 498>>326
>だったら沖縄か種子島、最低でも鹿児島あたりなのでは?<
沖縄は完全に×だよ。
そして、会稽東治の管理者になった揚州は揚子江の北であるから、
東治は江蘇省海岸部を意図する事になり、
また上海で佐多岬なんだから、種子島では上海の南になってしまうし、
鹿児島なら、投馬國に合う事になる。
>九州説って何故か北九州主張するけど、<
筑紫は邪馬壹國女王之所都であって、投馬國が南九州であり、
だから「女王國は九州島付近」説なんだよ。
>北九州だと全く「会稽東治の東」にならないよ。<
揚州の本拠地の東だ。 498>>327
>畿内説は歴史捏造なんてしてないんだよ<
ダメだ。
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は「南→東」などの嘘付き騙しだから、×だ。 498>>329
>「余の有無が使い分けられているから実測値」
これがどういう理屈で言ってるのか分からない <
「分からない」ような・・・・アホ大和説者では放置してもよいが、
世間の皆さまには、説明しておきましょうね。
既知既述の数値の形容的な記述なら、
解り易いように(近似ではなく)断定出来るので「余」を付けないのが普通。
魏の役人たちは、皇帝への報告するのだから、
既述の淮南子などの数値の引用は出来ず、実地に計測した事実を報告するもの。
「余」という近似値での書き分けが出来るのは、原則として記録した魏の役人らであり、
それが魏志にも魏略にもある事で、「余」を付けたのは魏の役人らであった事が判る。
また陳寿が「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と「略載」と書いているから、
ここでも「余」の有無で書き分けた近似値化があった、という事が判る。 >>543
>そして、会稽東治の管理者になった揚州は揚子江の北であるから、
真っ赤なウソ
揚州は丹陽郡、呉郡、会稽郡など6郡からなる広い地域で、揚子江の南
九州説はどうして平気で真っ赤なウソを繰り返すのだろう
>東治は江蘇省海岸部を意図する事になり、
なる道理がない
>揚州の本拠地の東だ。
揚州の州治は江蘇省だが、会稽郡治は浙江省、会稽東治(侯官)は福建省だ
九州説は、どうして平気でウソをつくのか? 沖ノ鳥島は東京都だから箱根の東にあるはずだ
だって東京都なのだ
箱根の真東にある
こんなことを言い張るのと同じくらい狂態
まさに狂態
それが九州説 なぜか居座り続ける九州説はじめとした珍説基地外とそれに構う奴しかいないスレ
まともな畿内の話をする奴が一人もいない >>549
>まともな畿内の話をする奴が一人もいない
確かに>>1はその典型だよな。 498>>330
>九州王朝説の主張(wiki「九州王朝説」より要約)・・・<
Wikiは誰が書いたのかは知らんが、
古田さんの説とは、ちょっと違う所が幾つもあるな。
>眩暈がするような妄想の数々。
まさに「九州原理主義」と呼ぶ他はなく、「地球平面説」と同レベル<
古田説の基本は、
文献考古の、史料事実や、史料批判で得られた史料実態からの、
帰納的確率的な推論であり、
史料批判に拠って、記紀特に書紀は半分×書の評価であり、
妄想なんかあり得ず、何も問題がない。
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする・・・・アホ詐欺師の大和説者にはに、
何を言っても、どんな物証を提示しても、
絶対に自分たちの妄想を捨てることはないと思う。 >>550
畿内説にアヤ付けるアホウが来れば
きっちり引導渡すのは当然だ >>552
で、お前はまともな説を持ってココに来たのか?
目くそ鼻くそだろw >>551
九州説が帰納的確率的な推論だーとかいうのが
妄想の最たるものであり
お脳に問題あるだろ 498>>331
>「余」がついてないだろ? つまり、端数はない訳だww
>ちゃんと測って500里ちょうどってことがあると思うか?<
いや、魏の役人らの計測は、一寸千里にしても簡易三角測量にしても、
歩測や目測や日数測や記里車にしても、始めから全て「近似値」であり、
皇帝らへの報告では、
「余」のない里数は「ほぼ有効数字1桁の計測値」であったのであり、
それ以外の「余」を付けたものは、「余」の部分が有る程度大きかったので、
近似値化されたものだ
それが「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の「略載」だ。 >>555
>皇帝らへの報告では、
>「余」のない里数は「ほぼ有効数字1桁の計測値」であったのであり、
なんか証拠あんの? 498>>341
>1里50m〜200mのフレキシブル里はいいぞ
実際魏志倭人伝はそうなってるし<
なっていない。
類スレ主の、出発地や到着地の考察をせずに計算した、インチキでっち上げだ。
>短里と違って魏に存在しない魏志倭人伝のみの特別仕様である事も認める
九州説は短里説を捨ててこっちを採用すべき<
魏の役人たちが、皇帝や重臣たちを騙すようなインチキを、でっち上げる筈がない。 >>558
>類スレ主の、出発地や到着地の考察をせずに計算した、インチキでっち上げだ。
証拠も出さずにインチキ呼ばわりは
それ、中傷だから
ま、九州説に出来る数少ない芸なんだろうがな 498>>359
>だからさ「会稽東治の東」だっつーんなら、種子島か奄美大島になるんだよ。<
ならんよ。ほぼ九州島付近だ。
>九州説は九州のどこを支持してるわけ?<
ここに集まっておられる九州説者は、ほぼ全員、
女王の都=筑紫〜肥後の「北部九州」説だ。
>「会稽東治の東」にこだわるなら北九州よりは奈良の方がより方角的には東に近いぞ?<
奈良は、「南≠東」などに拠って、始めから×だ。 498>>363
>邪馬台国は会稽東治の東で帯方から南1万2千里がまず最初にありき
そこは実際の1万2千里ではないから結果倭人伝特別仕様の里になる<
「特別仕様」していない。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」であるから、「略載」されている。 498>>378
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者がウソを書き込んでいるという
明確な証拠はいくつも出てる
ウソをつく人は、
罵倒されても仕方ないと思うけど 498>>388
>1里あたりの距離なんて決めてない<
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と「略載」出来たんだから、
決めている。
>帯方から九州まで南に1万里そこから沖縄辺りの邪馬台国まで2千里 <
2千里では、沖縄付近にならないし、
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>その間に実際とは違うけどそれらしくなるような里を適当に配置した<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、「里を適当に配置」していない。 中傷しかしていないのは畿内説の方に見えるのだが、気のせいかな? >>560
>ならんよ。ほぼ九州島付近だ。
いつも理由の無い九州説の無芸お家芸
「思考停止してただ言い張り」 >>562
>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者がウソを書き込んでいるという
>明確な証拠はいくつも出てる
なら、ひとつでも書いてごらんよ
頑なに隠してないでさ 倭人伝には
東南陸行と書かれているのだから、東南へ行けばいい、・・・ただそれだけの事。 >>566
>思考停止してただ言い張り
それってろくな証拠ないのに纏向に決まっていると言い張っている畿内説のことじゃないの?
思考停止の最たるものやな 魏志倭人伝を無視すれば、邪馬台国を畿内にも吉備にも好きなところにできるよね。 498>>389
>後漢の国境が楽浪 魏の時代が帯方
淮南子では漢の国境より1万2千里四方が世界の果てとされていた
1万2千里は世界の果てまでを表わす記号的数字<
淮南子の「1万2千里」は、「余」がないから、「記号的数字」であり得ても、
魏志の「萬二千余里」には「余」が付いているから、「記号的数字」ではなく、
魏の役人らに拠る実測の近似値表記。 倭人伝の方角を踏み外せば、ミイラになる。・・・ただそれだけの事。 498>>390
>陳寿が書いたというよりは魏での政治的決定
漢の政治を踏襲したいから倭の極南界の国が朝貢しに来た事にしたかった<
魏の役人たちの業務であって、
陳寿が計測記録したのではないし、魏での政治的決定でもない。
淮南子も、一寸千里を書いているから、短里を使っていた可能性があり、
淮南子も東方のデータをある程度知っていた可能性ならある。 498>>391
>倭人伝のデータソースが歪んだ理由としては妥当だ
しかし「計其道里」とある史料事実を否定すれば
九州説が破滅することは動かない<
倭人伝のデータは、魏の役人の実地の計測記録であり、歪む事がない、
九州説が破滅する事もない。
>道里の信頼性が消失するからだ <
陳寿も「略載」を認めているんだから、「道里の信頼性も消失」しない。 神功皇后の遣使の事が書いてあるからついでに
中国史で日本の遣使についての記事がたびたび出てくるが、日本側の資料でそれについてちゃんと書いてるのは遣隋使前だと神功皇后だけ
この辺がちょっと不思議だな
倭の五王とかも書いてないし
朝貢とかは卑弥呼の引用で思いきり書いてるから別に隠してる様子もないし
ここだけピックアップしてる点は面白い
どんな意味があるのかスレの人の意見が聞きたい 畿内説は纒向しかないからと言って無理やりこじつけようとする根性がなっとらんな。
史書は無視するわ基準は変更するわ、現代の情報社会をナメきっとるとしか思えん。
まあ学者ってのは基本的に情弱だからな。
それに釣られる信者はさらなる情弱だw >>570
>それってろくな証拠ないのに纏向に決まっていると言い張っている畿内説のことじゃないの?
ろくな証拠ないと決め付ける根拠は?
いつも根拠言えない九州説の無芸お家芸
「思考停止してオウム返し罵倒」 >>578
「無理やりこじつけ」と決め付ける根拠は?
「基準は変更するわ」とは具体的になに?
根拠も言わなければ
具体的な指摘もできない
無能すぎる九州説の幻想って、これだな 普通、ヤバくなったら誰か生贄(奥山)を置いて脱出するよなw >>576
>朝貢とかは卑弥呼の引用で思いきり書いてるから別に隠してる様子もないし
卑弥呼記事の引用があるのは注だから話が違う >>583
奥山しか残っていない現状からすると・・・w
Too late
w >>576
日本書紀を編纂した時にはもう魏志倭人伝に書かれている卑弥呼はどういう人かわからなくなっていたんじゃないか
文字で記録残していないわけだからそれは仕方ない 586
魏志倭人伝なんての自体がそのころ入ってきてないっての
その文献が残されたのは中国の方だんべ
日本神話の元に引用されたと思われんのは盤古神話ってんで名前が残ってる文献
かなり内容を引用して作られてるって言えば分かるかい?
これ俺がふざけて書いてるわけじゃないぞ
それが事実なんだよ 卑弥呼の話だのいきなり出てきたの江戸時代も晩期やぜ
つまり1800年ころに出てきて広まった話
それからそればかり研究するやつらが増えたんだとさ >>571
倭人伝を無視してはイカンぞ九州説みたいに >>588
【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。 @阿波 >>577がまた失敗。いつの間にか投稿ボタンを押した事になっていた。
498>>392
>計其道里とあるから道里を測定したとはならんね<
そりゃダメだな。
陳寿の「道里」という文言は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」で書かれたのが先であり、
それは、女王國以北の「 戸數道里」の略載の「道里」を指しているから、
「余」が書かれている事も相まって、「道里」は測定されている事になる。 >>578
畿内説は別に無理やりこじつけてないけれど
全て根拠に基づいている
九州北部が邪馬台国だったに違いないはずの無根拠の九州説と違ってな >>591
道里をちゃんと測ったなら
邪馬台国までだいたい1万2千里なんて書き方はしないし
実際魏で使われてた里と5倍もズレない >>587
>魏志倭人伝なんての自体がそのころ入ってきてないっての
日本書紀は魏志を引用しているんだからそれはないやろ
卑弥呼や邪馬台国の名前は出てこないけどね 498>>392
>倭人伝に載っている倭への里程が「短里」で正確だとか、現実的な記録を一定の割合で等比拡大したものだとか
そういった説に何の根拠もないことが既に明らかとなっているわけだもの<
なってないよ。
魏の役人たちは、「余」の有無での書き分けをしているから、
確かに実地に道里を計測略載をしているし、
陳寿はその略載道里で、「会稽東治之東」という位置比定をやっている。
永く文献でも考古学的にも否定されてきた大和説は、これで完全なる崩壊だね >>593
>日本書紀は魏志倭人伝を明確に引用している。
どこで、なんと? >>574
魏の政治的決定ではないと決め付けは良くないな
書かれてる邪馬台国の位置は現実的ではないし
帯方より南1万2千里の会稽東治の東という位置情報は
後漢に朝貢し倭の極南界にあるとされた倭奴国のものであった可能性が
後漢の外交思想などを照らし合わせてみると非常に高い >>595
いいや誰でも確かめられる考古発掘物や史料に基づいてるよ >>595
>畿内説のいう根拠とは
>妄想ですw
なにひとつ根拠をのべずに
こんな投稿を続ける九州説の
脳内いっぱいに詰まっているもの
それを、妄想というんだよ 引用してれば必ず内容が被るところが出てくるはずだが
盤古神話なんてな名称やら起き変えたくらいでかなり似てるもんな >>600
でも全て邪馬台国と関係が証明できない。 >>604
畿内には色々な証拠があって
邪馬台国の蓋然性が相当な高さだから学会で定説なんだよ
否定するのも簡単で別のとこにもっと蓋然性の高い証拠が出れば終わるけど
けど議論が始まって数百年そんなもの見つかってないけど 498>>395
>フレキシブル里といった時点で、
短里できちんと測った値だから、短里で萬二千里のところに邪馬台国があるという主張が死ぬんだよ
短里で萬二千里しか九州説の根拠がないのに、フレキシブル里といった時点で九州説は全滅だ <
変な男。
フレキシブル里なんてものが、そもそもどこにも存在しない嘘つき騙しのでっちあげではないか。
魏の役人たちがフレキシブル里というものを使って、「道里」を計測記録する筈がない。 >>602
明確な証拠はどこにもないのだから、どの説も最終的には想像の産物としか言いようがない
それを(悪い言い方すれば)「妄想」と呼ぶわけだ
九州説は妄想だけど、畿内説も四国説もジャワ説も妄想
畿内説に関して言えば、纏向にそれなりの勢力があったであろうことは誰も否定していないんだよ
ただ、それと邪馬台国との関係を示す客観的証拠は何もない
それがあればこんなスレはもう立ってない
これに関しては君がどんなに頑張って言い張ってみても事実だからしょうがない >>604
>でも全て邪馬台国と関係が証明できない。
できないと決め付ける根拠は? >>606
けど魏志倭人伝に書いてあるのは50〜200mのフレキシブルな里 り地域から来たキナイコシさん
キナイコシ政府の屁理屈がキナイコシと全く同じで爆笑www >>605
出たw
引っ込みのつかないボケ老人学会の苦しい言い訳www >>611
畿内説は数々の証拠が蓋然性を高めているというだけだが
ちょっと資料に目でも通せば誰にでもわかる お宝いっぱいの日本考古学会に潜り込んで
そのお宝の起源を全てり地域に書きかえようと日夜がんばるキナイコシさん >>616
想像を証拠と呼ぶような時代は終わったんだよ爺さんwww >>605
>邪馬台国の蓋然性が相当な高さだから学会で定説なんだよ
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。
>否定するのも簡単で別のとこにもっと蓋然性の高い証拠が出れば終わるけど
>けど議論が始まって数百年そんなもの見つかってないけど
倭国(阿波)で決定済み。 以上御終い、 @阿波 爺さんじゃないよ
り地域から来たキナイコシさんだよ >>619
そんなんじゃあ畿内説はひっくり返らない >>607
>畿内説に関して言えば、纏向にそれなりの勢力があったであろうことは誰も否定していないんだよ
碌な集落遺跡の無い纏向に、それなりの勢力など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>618
前方後円墳や三角縁神獣鏡は想像の産物じゃなくてちゃんと現物が存在している >>612
前方後円墳も三角縁神獣鏡も、倭国(阿波)の専売特許。 @阿波 邪馬台国には関係なく、何かヤマト王権の源につながりのありそうな遺跡が奈良で見つかった。
それが何かを調べるのが仕事なのに、邪馬台国神話をでっちあげて楽をしようとする学者どもの醜さよw
一生ただ飯食ってきたミチオを見ろw >>625
前方後円墳は畿内
三角縁神獣鏡は魏が専売特許 498>>396
>内訳の部分里程はテンプレに載ってるようなのが現実的だろ
三回渡海という情報があるから1万里を七三に割った
県くらいの規模の国々は百里間隔とした
里程が千里単位から百里単位に急に変わると不自然だから末盧−伊都間は中間をとって五百里にした
あと二千余里だが、二ヶ月くらいの旅程という情報があるから無難なとこだろ
こんな、程度<
魏使らは、「余」の有無で書き分けて「道里」などを計測しており、
このスレ主や類スレ主が妄想するような、
「淮南子を借用」するインチキをしてバレれば首が危ないから、しないもの。 >>627
前方後円墳も三角縁神獣鏡も、倭国(阿波)の専売特許。 @阿波 呉の銅を入手できなかった魏が半島の銅を混ぜて日本に型を持ち込んで作ったとでも言い出すのかな?www >>518
このようにおおよその全てを否定しないと
三角縁神獣鏡は魏鏡である事を覆せない >>627
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」をぼう製したものだろう。 @阿波 >>624
>前方後円墳や三角縁神獣鏡は想像の産物じゃなくてちゃんと現物が存在している
卑弥呼の墓は円墳じゃないのか?三角縁は本当に中国製なのか?という議論だってある
君が考えているほど明確な証拠ではないってこと
そういうものを「明確な証拠」だと言い張るから「妄想」だと言われてしまうんだよ >>635
畿内の三角縁は色々種類があるから魏から直輸入だよ 畿内説に文句つけてる奴
なんにも理由いわなくて
チガウチガウと言い張ってるだけ
脳が停止中だろ >>636
>そういうものを「明確な証拠」だと言い張るから「妄想」だと言われてしまうんだよ
理由も言わずに「明確な証拠」でないと言い張るから
現に君の言動は「妄想」だと言われているよ >>636
卑弥呼の墓は円墳だとしても100m超の円墳があるのも畿内
三角縁は素材に使用されている銅が魏の鏡と同じもの
これは誰が見たって間違いようはない物
ゆえに九州に径百歩の墓があるとか三角縁は国内産というのは嘘 >>638-639
邪馬台国の位置に関してはどの説も妄想の域を出ない
思想の自由はあるので、勝手に「俺の説が正しい」と思い込むのは自由だけどね >>637
倭国(阿波)の「忌部はん」 が作ったものだよ。 銅鏡なんて、銅鐸に比べたら簡単なもの。 @阿波 498>>398
>どちらにしても萬二千里は現実の地理とは無関係な値<
いや、魏使らは「余」の有無で書き分けて「萬二千余里」の行程を実測した、
という事が史料事実であり、史料実態。
・魏の役人たちには短里という決まった里単位があった
・短里で計測した値で書いてある
・萬二千余里も実測値
のいずれに拠っても、大和説は全滅。 >>643
実際測ったらだいたい100里といったような表記はしないよ
魏で短里が使われていた証拠がないから魏の里数は普通の里 いまどき三角縁神獣鏡とか言ってるのはエセ畿内説だというのに自覚が無いのかw 498>>399
>政治的な意図で作られた捏造数字を、陳寿がまじめに机上再現したら、<
魏志と魏略の「余」を付けた計測値があるから、「道里」記録は、魏の役人たちの計測値。
>陳寿が倭は会稽と海南島の間くらい南の場所と出た<
陳寿が「萬二千余里の道里」を計算したら、会稽東治の東にピッタリ合った。
>南方的な風俗だって情報とドンピシャだったので、陳寿は納得してしまった<
「夏后少康之子封於會稽」の話とドンピシャだったので、陳寿は納得した。 もう明確な目標も何もなく単なる脊髄反射で嘘ついてるだけの九州説
まさに生ける屍と呼ぶにふさわしい >>645
三角縁神獣鏡は今もって研究されてるんだけど 世の中に益体もない嘘をついて過ごすのが生業
それは果たして生きていると呼べるのだろうか
哲学ゾンビの変種かも知れん 498>>402
>「水行二十日」「水行十日陸行一月」は 水20+水10+陸30なのか
水20+(水10 or 陸30)なのか どちらとも解釈できる
どっちにせよ九州外なのは間違いない<
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっており、
魏使らは、不彌國の先には殆ど行っておらず、
だから、「九州外」は、×。
>北部九州から奈良までの日程だとすると合理的な説明がつく<
「南≠東」だから、始めから×。 いずれここは九州説ゾンビの博物館としたいな
邪馬台国は大和国とか言えばウォォーと九州説が飛び出して来るような 哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、英語: Philosophical zombie、略: p-zombie)とは、
心の哲学で使われる言葉である。
「 物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、
意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義される。
ウィキペディアより 498>>403
>>水20+水10+陸30なのか
水20+(水10 or 陸30)なのか<
>上の解釈で正しい or で示されている例なんてないし、
水10で行けるところをわざわざ陸30で行く必要がどこにもない<
「上の解釈」も間違い。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
そこまでは全て里数で書いて来たのだから、
魏使らは「水20+水10+陸30」には、行っていない。 498>>414
もはや「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
赤児のようにムズかり、
京都アニメ犯人のように、分裂幻覚の狂暴な妄想に浸るだけだな。 498>>418
>>「余」の有無で区別された書き方をしており、<
>そんな「書き方」が、あるなら・・・<
倭人伝の「道里」記載で、「区別された書き方」がされている。 498>>423
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
つねに「都合の悪い史料事実の否定曲解」という無い袖振るのが、
・・・・詐欺師の大和説者らしいところ 498>>425
>こいつはアホだから気がついてないけど、仮に方角距離が正しくないとしてもそれは振り出しに戻るだけで畿内説が有利になることはない
魏史倭人伝の遺物が皆無の畿内が邪馬台国になることは皆無
そうすると倭国全体の風俗を表してるからと逃げるが九州や朝鮮の物が纏向に出ない時点で終了
既に誤りが指摘されている炭素年代測定法に頼って纏向と纏向古墳群を3世紀認定して逃げるしかない
そして査読のある論文を出してる学者の数で勝負しようとしているが、邪馬台国=奈良の論文を誰も出していない
纏向遺跡が本格的に調査されはじめたのは最近であるにも関わらずだ <
ふーん、成程。 >>604
畿内には色々な証拠があって
邪馬台国の蓋然性が相当な高さだから学会で定説なんだよ
>>605
出たw
引っ込みのつかないボケ老人学会の苦しい言い訳・自称定説www 498>>435
テンプレが証拠?
テンプレには、私が2chに引っ越して来たPart175位の頃に、
2回以上、全部への反論を書き、2chに何度も投稿拒否されて、
あちこちに分割保存投稿をした事がある。
だから、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師仲間だ、と判ったから、
もう、読まない。 令和の時代にもなって三角とか言い出す畿内説って・・・ ここはもうり地域ゾンビの博物館だな
大崩壊キナイコシと言えばウォォーン大暴落とキナイコシが飛び出して来るような まあ邪馬台国って妄想一回潰した方がマジメに調査やっても少し現実的な分析やるかもしらんからなあ 東南と書いてあれば、東南へ進む、
方角を踏み外せば、ミイラになる。・・・・ただそれだけの事。 だから九州説は呪いのミイラとなって動き回ってるのか >>667日本@名無史さん2019/08/26(月) 20:41:09
>自称じゃなくて他称
おお、そうだったか。そりゃもっと重症。 498>>451
>>(会稽の東治ha)揚州の管理下であるから、その東は、ほぼ九州島付近。<
>めちゃくちやだな 揚州の管理下だろうが交州の管理下だろうが<
おや?、そう言えば、類スレ主は、
始めは「揚州の管理下」という事を否定していたなあ。
そして、いつの間にか、こっそり、認めざるを得なくなって、
ずっと、横レスも入れなくなっていて、再登場した時には、
揚州を認めて、今度は「交州」を入れているなあ。
>会稽の位置は変わらない<
会稽ではないよ。「会稽東治」だよ。
大和説は人類の常識を持ってないのか? 根拠なきマウントが凄いなこのスレ
興味あっても近寄れないわ 邪馬台国論争なんて畿内説でもうとっくに決着ついてるよ 九州説はどうやら在○らしくて何らかの利権もしくは思想的な何かで
とっくに破綻した説で一人でも騙せればとただ何回も繰り返してるだけ カッパの語源やな
18世紀以前のカッパのイメージは毛で覆われていた
アイヌ語のカプ皮に関係あるかもな
皮の鎧でも着てたんだろうか 498>>472
>短里があるっていうのはデタラメ<
魏の役人たちの道里記録は、短い里。
>・特定の長さもないし、比例縮尺関係もない ・正始弩尺等、古尺の現物資料も実在し、<
尺定規は、周代から殆ど変わらず、根拠にもならない。
>すべての史書が一里1800尺となっている<
一里は 300歩。そして、始皇帝が「1歩=6尺」を命令したが、淮南子も一寸千里を使って半分否定が始まった。
>・三国志でも一里437メートルで矛盾はない<
魏の役人ら記録は原則として短里。
>魏朝の度量衡は通常の魏晋里<
魏朝の役人たちは、短い里を使っていた。
>・漢土の外のことは誇張して距離を遠く書くバイアスがかかっている<
魏の役人たち学校、バイアスのインチキをしたら、首が危ないから、かけない。 498>>472
>萬二千里は淮南子の世界の果てまでの距離からの援用
・遠く誇張して書くために、最遠の地を想起させる萬二千里を使っている<
魏の役人たちは「余」の有無を使った書き分けをしているから、「萬二千里」など書いておらず、×。
>・淮南子を援用していることは、裸国、黒歯国の記述からも明確<
陳寿は、結局淮南子の論を否定している。
萬二千余里が現実の倭国を指していることは確定
・陳寿自身が会稽東治之東としている
>周髀算経も一里1800尺で書いてある <
周髀算経も一里=300歩で書いてあり、1歩≒1尺で書いてある。 >>641
>邪馬台国の位置に関してはどの説も妄想の域を出ない
内容なにも言及せずに頭ごなしの態度って
自分がおかしいとは思わない? 498>>477
>・邪馬台国の発音に近い地名<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である。
>⇒ ヤマト国そのもの<
以下、「南≠東」などに拠って×。 >>649
>最新の畿内説では三角じゃないんだよなw
さっきからなんで一貫して
中味に一言も触れないの?
正常な人の感じが全然しないんだけど >>666
それ、畿内説への反論じゃなくて
盲目的拒否だよ >>672
>おや?、そう言えば、類スレ主は、
>始めは「揚州の管理下」という事を否定していたなあ。
>そして、いつの間にか、こっそり、認めざるを得なくなって、
どうして九州説は、そんな真っ赤なウソが平気でつけるの?
会稽が昔から揚州の管理下なのは常識だろ >>616日本@名無史さん2019/08/26(月) 19:18:48
>畿内説は数々の証拠が蓋然性を高めているというだけだが
数々の証拠があればそれで決着だろう??? よくわからんというか、及び腰の物言いだ。 >>687
わかってないな
証拠も確率の問題なのに >>684
畿内説に中身なんてあるわけないだろw
いじめるなよw 九州説に証拠を出す文化が無いという
この物凄い現況を見れば
九州説が歴史学の世界から消えた経緯が
よくわかる 498>>479
>会稽東治の東は九州にならねーっての。 せめてグーグルマップっ確認してからレスしろよ。
そこにあるのは種子島か奄美大島だから。<
グーグルマップの出し方は、
昔Yahooでmutouha氏は教えてくれたが、よく分からず、まだ知らんよ。
だから、今でもYahoo地図を見ている。
それから、この男は、どうやら、
「東」と言えば、同じ緯度線を「東にずっと向いて進み続ける」事ではなく、
地球儀上での東に出発したら、そのまま真っすぐ地球上を一周する事を言うつもりらしい。
しかし、それでも、今まで言って来た沖縄や台湾ではなく、
こっそり種子島や奄美大島とかにすり替えるインチキをしているし、
絶対真っすぐに行くんなら、地表から離れて行って、宇宙に飛び上がって行ってしまえばよい。
>九州北部に邪馬台国があるのなら北東になる。<
会稽東治は、会稽や会稽郡ではなく、
会稽の東方の「揚州の管理下」地域であり、江蘇省の海岸地域にもなり、
その江蘇省海岸地域の東方に「九州島」がある事になるんだよ。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>689
やっぱり九州説のチエオク君がナリスマしてましたか 倭人伝に東南と書いてあれば、東南へ進む・・、
もし方角を踏み外せば、ミイラか土座衛門になる。 ただそれだけの事。 キナイコシは、三角の角度の計算も出来ないのだったな、、、
649日本@名無史さん2019/08/26(月) 19:46:48.82
最新の畿内説では三角じゃないんだよなw >>692
>会稽東治は、会稽や会稽郡ではなく、
>会稽の東方の「揚州の管理下」地域であり、江蘇省の海岸地域にもなり、
会稽も揚州の管理下だし
会稽は浙江省で東治は福建省だし
会稽郡は卑弥呼や陳寿の時代には江蘇省になどない
>その江蘇省海岸地域の東方に「九州島」がある事になるんだよ。
デタラメ
会稽郡の北限は屋久島八重山あたり
江蘇省には会稽はない
東治もない
すべて九州説の作った真っ赤なウソ (抄)
末盧国東南陸行500里の佐賀川上にあった伊都国(推定)と、
吉野ヶ里にあった不彌国(推定)の中間に位置する嘉瀬川東岸の大和町久池井には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。
したがって両遺構の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 魏志倭人伝の会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、会稽東の治所とは上海にあるのだったな。。。 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に叩き潰されてしまったのだろうか、、、 >>701
空気シャワーをはじめとする、宇宙由来の中性子線の研究が進行したからでは、なかったのかな、、、 >>576
>倭の五王とかも書いてないし
雄略天皇紀には遣呉使のことが書いてあるよ
八年春二月、遣身狹村主・檜隈民使博コ、使於吳國
実際には遣宋使だけどね
中華王朝は唐、南朝は呉とすることになってるみたい 笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる 九州説の発狂論理はこんなかんじだよね
会稽東治とは定説の東侯官治ではなく
会稽の東海岸にある「治」地域である(なんやそれ)
会稽の東海岸あたりは卑弥呼が死んだずっと後に
会稽郡から分かれて揚州直轄になった(真っ赤なウソ)
揚州の中心地は江蘇省である
だから浙江省にあった会稽の東海岸は
足が生えてトコトコ歩いて
江蘇省に移動した(九州説発狂)
江蘇省だから東は南九州なのだあ
だから北部九州は会稽東治の東だあ(また発狂) >>598
>どこで、なんと?
このレベルの知識が足りない人は、このスレに出てくるだけムダだよ
神功皇后紀
卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」 キナイコシは小学生並みの比例計算もできないから、魏志倭人伝が短里で書かれていることが理解できない。 邪馬台国畿内説を宣伝するためには、魏志倭人伝の会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、会稽東の治所とは上海にあるのだとする、世界中の学部の常識と対立しなければならないのだな、、、 >>599
>後漢に朝貢し倭の極南界にあるとされた倭奴国のものであった可能性が
>後漢の外交思想などを照らし合わせてみると非常に高い
妄想乙
後漢代の倭国までの距離は萬里だよ
FAQ61
倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳) >>701
巻向が、時間的にも空間的にも疎らな集落だということが判明したからではないのかな、、、 >>604
>でも全て邪馬台国と関係が証明できない。
98.4%でも100%じゃないから、証明できてないよなww
だいたいそんなもんだw >>712
>98.4%でも100%じゃないから、証明できてないよなww
その場合、98.4%の確率で証明された、という >>636
>卑弥呼の墓は円墳じゃないのか?
前方後円墳の後円部が墓だよ
>三角縁は本当に中国製なのか?という議論だってある
これはほぼ魏鏡で決着
最初期のものは斜縁神獣鏡で斜縁神獣鏡は大陸でも普通に出ている
コピー鏡の仿製鏡が大量にあるのも事実だが最初期のロットは魏鏡で問題ない
>君が考えているほど明確な証拠ではないってこと
君が考えているよりも詳細な研究が進められているんだよ
>そういうものを「明確な証拠」だと言い張るから「妄想」だと言われてしまうんだよ
妄想持ちは君だよ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭が悪すぎる朝鮮人のキナイコシは、インターネットで発見した物事を理解しなかったので、98.4%を説明するための思考モデルの作成に完全に失敗したのだったな、、、
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる >>711
論破されてついに
集落でないと言い張ることを
みじめに尻尾を巻いて諦めた連続句読点 >>715
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭が悪すぎる朝鮮人のキナイコシが、余事象のことを理解していないことが、バレてしまう意見の発表だったな。。。
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる 書きこみ&クッキー確認
名前:
E-mail:
内容:
498>>481
「南→東」など嘘吐き騙しの大和説の類スレ主の脳内は、
宗教的な信念で一色に染まってるんだな
>世間に認められないどころか、
保守的な教科書の記述も邪馬台国は畿内に舵を切ってるよ
次の学習指導要領の改訂で、明記されるんじゃない?<
まあ、山川や清水や東京の教科書を読まされた子らは、
いずれは、万世一系八紘一宇の戦争皇国史観に染められて、
また戦前と同じように、近隣諸国への殺戮戦争に駆り出されて、
殺される事になるんだろうなあ。
投稿確認
この書き込みで本当にいいですか?
犯罪予告や犯罪示唆、誹謗中傷、性的な出会いを目的とした書き込みでないか今一度確認してくださいね。・・・ 巻向が、都というには、疎ら過ぎることを、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭が悪すぎる朝鮮人のキナイコシが、みじめに尻尾を巻いて認めてしまったな。。。
716日本@名無史さん2019/08/26(月) 22:43:43.22
>>711
論破されてついに
集落でないと言い張ることを
みじめに尻尾を巻いて諦めた連続句読点 498>>483
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
答えに窮しては、直ぐに例の「証拠は?」などを罵りだす。
無能すぎる
負けすぎ >>720
自分が主張してることの「証拠」を聞かれるのが
罵りだと思う
九州説の異常さが
実によくわかりますね >>708
>神功皇后紀には、そんなこと書いてない
バカだなぁww
卌年。『魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」 』
『 』の部分は注記だから本文じゃない⇒日本書紀に書いてないと言いたいんだろうが、
「卌年」は本文だぞww
のちに追加された注ではなくて、日本書紀編纂時の引用注だ NHKは、邪馬台国畿内説には証拠がないと発表していたな 498>>495
>邪馬台国がヤマト王権の前身
最初は共立政権として始まり、そこから中央権力としての実力政権として
発展していったとする <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、×。 頭の悪いキナイコシは神功皇后紀の年代が120年繰り上げられていることに気がついていないらしい。 白海老バービーという加賀温泉のお菓子を貰ったので開封したのだが、食べきれないな、、、 ブラタモリでは5世紀のヤマト王権は地方政権扱いだったな。
2世紀末に共立された卑弥呼が西日本全体の女王であるはずがない。 石川県の名物は白海老バーガーだったような気がするが、、、 1つの思い付きだけど
前方後円墳の前方部の理念というか根底の発想はは円墳の主葬者から広がる一族を表してる気がする
円は被葬者個人を表し、前方部は生き残った祭祀の継承者みたいな
仁徳天皇陵から前方部に幾つかの副葬が確認されてることがその理由
当時辺りから氏姓による権力の継承が制度化されてきている
いくつもの豪族の連合政権だからこそ氏姓制度による一族の権力の大きさを誇示する必要が生まれたのではないかな
それが200年続いて天皇一極化された六世紀頃には形骸化して必要性が低下した そういえば新幹線が通ってからまだ金沢に行っていなかったな、、、 5-6世紀はまだ継体天皇でガタガタしていたりして、天皇家の支配は安定していないよ。
蘇我や物部が実権を握ったりしていたし、安定するのは天武天皇の時代からだろうね。 邪馬台国のあった九州へ行くためには、奈良には新幹線がないので、京都や新大阪で乗り換えれば、良いな。。 >>732
蘇我は古墳の代わりに寺社の建立で一族の発展を祈願していたと思うから古墳によるアピールの必要性は弱かっただろうね
天武は文字によって一族の正当性を紀記編纂で残そうとした
逆に天皇制が不安定で文字が一般的に認知されてない当時にどのように一族の権力を後世に残すかを考えていたか
というのをもっと理解したい 仲哀天皇の宮は、なせ、畿内ではないのだろうか、、、 >>737
ますます前方後円墳は物部の墓制という説が強化されてしまいます。
畿内説は日本史を無視した暴論ですな。 いい加減に、纒向は尾張の傘下のマイナー拠点だと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏と物部氏の祖である饒速日の王国だったんだよ。
纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 >>725
>頭の悪いキナイコシは神功皇后紀の年代が120年繰り上げられていることに気がついていないらしい。
そういう話じゃないだろ?
また九州説のバカが一人、日本書紀には魏使倭人伝の引用がないと大間違いを言って
恥をさらしただけだよ
九州説は基本的な基礎知識すら十分じゃないから、バカ扱いされるし
実際にバカそのものだ 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 卑弥呼は中国の歴史書にも名前が出てくるくらいの女王なのに、
日本書紀には名前がでてこないのだから、
邪馬台国とヤマト王権は無関係なのだろう 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>746
おいおい
まだ分かってないのか
だから、少なくとも日本書紀撰述の最終に近い段階の著述者が、倭人伝を知った上で神功皇后に比定して書いていると指摘されてるじゃないか
邪馬台国畿内説は八世紀初頭だ
江戸時代に創作されたぽっと出の九州説とは歴史の厚みが違う 498>>498
>>・纏向に九州の土器が無いのは何故か<
>少ないだけ ちゃんと出てる(胎土分析で確認)
祭祀に使うとか特別な目的がなければ、割れ物消耗品の飯炊き甕を
延々と遠くまで運ぶ理由が本来ない<
Yahoo議論では、筑紫からの土器はなく、豊前付近からの土器破片が数個であった筈。
それを「九州」という、類スレ主の言い方がインチキ臭い。
また「胎土」に関しても、米田らの研究でもそうであったが、
本来は、日本列島の全部の胎土を確認してあれば根拠になるが、
そうでなければ、不可知部分が多過ぎて、筑紫の胎土だ、というのは確率的であり、
絶対断定は困難。 さあ来ましたよ。貴殿方の言ってる事では、宋書新唐書を読んだ中国人が、邪馬台国魏史倭人伝が何処なのか解りません。卑弥呼の都は紀伊です。 498>>499
>>否定済み。<
>イヤだ、ダメだと叫んでも 学説の否定は出来ません<
いくら「学説だ」と叫んで威張っても、
始めから 「南→東」などの、99.9%以上の嘘吐き騙しをし、
それの反論も反省も出来ていない「大和説学説」であれば、
その学説の信頼性は、0.1%以下であり、
価値が全くありません。 >>750
>Yahoo議論では、筑紫からの土器はなく、豊前付近からの土器破片が数個であった筈。
お前さんがどっかで小耳に挟んで来た話なんて
信憑性のカケラもないぞ
どうせ記憶がアイマイだろ
そんな出所不明の噂話を
誰が信用すると思う
「筈」とか、ばかではないか? そんなことよりも
『清水寺』〜『姥清水』
なぜ知っている人がいるんだろう、
『姥清水』
むかーし住んでいたというところの周辺だしな、
歌舞伎や芝居の話もしていたり >>752
広く支持されてる学説にむかって
どこの馬の骨とも知れない素人ジイさんが
理由も言わずに99.9%以上とかワメいても
価値が全くありません
信用される理由がありません 498>>504
このように、「南→東」などの嘘吐き騙しに関しての、
なにも証拠を出せない
根拠も言えない
理由を述べることすら、しない
それが大和説だ 498>>505
結局、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の、
バカスレ主や類スレ主らと、それを支持にするアホだけしかいないスレか 498>>507
>>(纏向)そんな王の存在は魏志倭人伝にも後漢書にもない。<
>共立連合の始祖王=卑弥呼なんだが?<
「南→東」などの嘘吐き騙しに拠って、×。 498>>508
どんなときも、「南→東」などの嘘吐き騙しの証拠を出さない大和説
確率の考え無しにそんなの基準にするから
大和説はいつも破綻する 498>>509
>前スレでも書いたけれど
畿内説のやっていることは畿内説が正しいという主張ではなく
現在までの研究成果を紹介しているだけ
全員が同じことを言うとは言わないが、そんなにぶれないよ
そして、九州説はそうした研究成果を「認めない、理由は僕チンがそう考えたから」って
書き続けているだけww<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和説は、全員が「南≠東」に拠って、確率が0.1%以下であり、
むしろ、国民や人類にとっても全く害虫にしかならない存在なんだよ。 498>>510
>当時は・・・国と国との間は無主の地だ<
おや?、正解。 498>>511
>細いところでは同じ畿内説でもいろいろ違うこと言っている人実際いるやろw<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
吉備や阿波や丹後や東海も含めて、
魏志に書かれた「其戸數道里可得略載」や、「南≠東」に違背するような比定論は、
全て、×。
>卑弥呼の墓だって箸墓だって言っている人もいれば別の古墳だと言っている人もいるし<
大和内という説は、当然、×。 家は戦争などにも行っていないと言っているけど、
なぜだと思う?
超時空マクロスみたいな話? 畿内説の方は都市牛利を十市ゴリと考えるとこも見受けられます、またこの部分は市磯長尾市かも知れません。畿内、紀伊半島周辺で考えたいです。ですから僭越ながら、紀伊です。 >>741
>ますます前方後円墳は物部の墓制という説が強化されてしまいます。
>畿内説は日本史を無視した暴論ですな。
その物部氏の史書である先代旧事本紀でも、
日本・倭国の王は大王、皇統だと明記してあるんだけど?
それが前方後円墳という墓制が作られるより前からw >>742
>邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
邪馬台国ではないとする「理由がない」
同時代に同一地域に存在した、考古遺物から推定される王権と
大陸史書・魏志倭人伝の示す王権が別の物と考える理由がないし
別だとした場合に対応する王権が存在しない
この物部推しの人も情報リテラシーの点で落第点以下だ >>745
>そんなバカを言ったのは畿内説だろ。
>>598、>>708が九州説だよ
こんなところでも無意味なミラーリングw >>746
>卑弥呼は中国の歴史書にも名前が出てくるくらいの女王なのに、
>日本書紀には名前がでてこないのだから、
>邪馬台国とヤマト王権は無関係なのだろう
卑弥呼という名前では出てこないけど、ヒメヒコのヒメ王として出てきてるよ
皇統の姫だ 『かっぱっぱー』⇔『ワンピース 粉雪』
『浦島太郎』⇔『河伯(かっぱ?)』 『デスラー』『』『』・・・・・・・・・・。
何度書いても同じ、すべて本当の話w
家の話 >>730
>当時辺りから氏姓による権力の継承が制度化されてきている
その氏姓の元は、すべて忌部一族。 忌部一族の細分・部族分けが氏姓。 @阿波 >>741
>ますます前方後円墳は物部の墓制という説が強化されてしまいます。
物部氏の衰退後、残党が忌部〈斎部)氏を名乗ったのであろう。 @阿波 >>742
尾張=東海忌部 織田信長も東海忌部。 @阿波 498>>515
>その前になぜ九州説はわざわざ畿内説スレにやってきては荒らすの?<
別に荒らす訳ではない。
スレを立てるのは、本来は個人の自由。
しかし、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を公然とスレ立てして、
宗教や思想的に、国民や人類を騙そうとしている事は、黙過し難く、
きちんと反論して、家族や国民や人類を、それらの宗教から守らなければならない。 498>>519
>だからゴリゴリ吉備説の>>1がテンプレでは両論併記してるよな
それがどうかしたのか?<
南→東などの嘘付き騙しをしている吉備説もスレ主も類スレ主も、黙過し難い。 498>>521
>箸墓は卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王の墓だろう<
「南≠東」などに拠って、×。 >>768
>その物部氏の史書である先代旧事本紀でも、
伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
その「物部氏」の祖神とされている伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が
日本で唯一、阿波國旧麻殖郡 「伊加々志神社」で祀られている。
このことから、物部氏の本貫地は阿波國旧麻植郡周辺であろう。 @阿波 498>>522
「南→東」などのような、0.1%以下の確率の事を、
主張し続ける大和説学者や学会教育界や文科省の人は、
朝日記者銃殺テロ犯人や京都アニメ犯人やオームやナチスや白豪主義者らと同じような、
分裂幻覚の妄想の・・・・アホ。 アニメの設定?よくわからないんだけど、
蚕を飼い、機織りをしている家の人と結婚したという話でしょ >>781
物部氏の衰退後、残党が忌部〈斎部)氏を名乗ったのであろう。 @阿波 498>>523
>>国と国との間は無主の地だ <
>根拠のない思い込み。 後漢書には、楽浪郡から倭の国境まで7千里とある。<
「接」は、唐会要のように「親密な関係」を示すものもいるが、
陳寿は、原則として、両国の居住外縁部の間は、定住者はなく、
あっても流浪的な一時的滞在のように捉えていたようであり、
居住外縁部が完全接している場合は、
韓伝の「其toku廬國與倭接界」のように、「界を接す」と書いて、
区別していたようだ。 何かの制服を着ているんだけど
軍人、警官でもないと言っていて、
他の職なのかな?
伊達郡川俣町のほうの話をしているし >>748
神功皇后が活躍したのは九州なので、日本書紀は邪馬台国を九州とみなして書かれている。
神功皇后と仲哀天皇の宮は穴門と筑紫にある。 498>>529
>じゃあ、纒向に家がないと主張してる学者が何故いないんだ?<
大和説学者らは、「南→東」などの嘘付き騙しであるが、
しかし、少数の家がある、って言っているんだろ?。 時代の合わないものをかき集めて年代を捏造発表したり、妄想畿内物語で印象操作したりw
それゆえ正常な連中は去って行き、異常者が濃縮されていく畿内説w 「天牟久怒命」=「天村雲命」を祀る、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國旧麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、
阿波国旧麻植郡射立郷「村雲」に鎮座する。
この天村雲神の別名がなんと、「天五多底命 ( あめのいだてのみこと )」 なのである。
御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれる。
「天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神。鎮座地周囲は、湯立という字が残っているが、これは射立からの転訛。
もし、天村雲命=射立神だとすると、天村雲命=五十猛命とも考えられる。五十猛命は、素盞嗚尊の御子神であり、伊達神。」
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する日本唯一の神社なのである。
http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm >>788 名前:日本@名無史さん 2019/08/27(火) 08:24:12
>神功皇后が活躍したのは九州なので、日本書紀は邪馬台国を九州とみなして書かれている。
まことその通り、
畿内説は、倭人伝を捻じ曲げ、日本書紀をも捻じ曲げて暴走してきた愚説 498>>530
>魏志倭人伝の里数は100、500、1000里と大雑把 <
「余」の有無で区別しているし、七千余里も四百余里も三百里もある。
>そのうえ一区間4倍も伸び縮みする<
類スレ主の、「起点や終点地の比定」の、嘘つき騙しの詐術があったから。
>何らかの方法で計測したならこうはならない<
魏の役人たちの一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測や目測などなどでは、
有効数字1〜2桁程度の概数位しか計測出来ない。
>距離を計測してそれを正確に書いたなら143里など端数は必ず出るし
1里437mの魏里とある程度符合もするはず<
5〜6倍も狂う筈がない。
>よって100余里と余がういているのは適当につけたということ<
後漢書や「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者らのように、適当な人間であれば、
始めから「余」も付けない「断定的数値」を記載するもの。 498>>536
>纏向の柱はだいたいの物が2間×1間くらいしかない 4m×2mくらい
人が住むためと言うよりもちょっとした物置か、日差しや雨風を避ける程度の物
煮炊きをするための場所も無いので定住の為の物とは思えない <
成程。これはびっくり情報。 >>778
学問や言論の自由を認めず
「南→東」が「嘘付き騙し」だと理由もなく断定して
他説のスレにやって来てオウム返し荒らしを繰り返し
宗教的、思想的に偏った演説をして
国民や人類を騙そうとしているんだろザラコク
黙過し難いよな、お前みたいな奴は
だからヤフー追放された >>788
>神功皇后が活躍したのは九州なので、日本書紀は邪馬台国を九州とみなして書かれている。
畿内からやって来て九州を征服した王として書かれてますが? 498>>538
>纏向の生活土器は溝に大量に捨てられて見つかってる
定住じゃなくて一所で炊事を行って用が済んだら捨てた様子が見える <
成程。 498>>539
>魏の1里が437mは当時の物差しとか誰にでも確かめられる証拠があるから <
「尺定規」の寸法は周代から魏代までも殆ど変わっておらず、
里歩系の寸法が、始皇帝の「1歩=6尺」で変わった事が問題なんだから、
尺寸系の「物差し」は、里歩系の長さに関する根拠にはならない。 >>796
元々をいえば、伝統の九州スレを飛び出して分家のれんを出したのが畿内スレ、
神武は畿内で大成功したが、やんちゃ纒向坊主は500目前で沈没しちまったというわけだ。 498>>540
>穴屋と違い、高床の建物はどれとどれが一つの建物か、判別が簡単でない
池上曽根の例でも、一つの大型建物なのか複数立ち並んでいるのか意見が割れた
現時点では、たくさんあったとしか言えない <
ふーん。
この方は、ひょっとしたら、発掘の現役学者さんかも知れませんね。 498>>541
現役らしき学者さんの書き込みを見ては、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の狂人が、
妙な目つきになって呟いてるよう
京都アニメ犯人のような大和説者が、怖い怖い。 考古学だけでなく行程解釈まで畿内説が勝勢で九州説は瀕死なので、九州説は口先だけで怪気炎を上げているが、いかんせん内容がない
みじめなものだな 新九州説:佐賀川上ルート:
(不彌国までの方角里数は良く一致、しかも里数は短里≒韓倭の里換算に一致)
狗邪韓国〜対海国〜一大国まで省略
・一大国(壱岐)ー末盧国(唐津市中原津)は渡海+遡河計55q(700里)で、千里は可、
・末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南陸行して到る38q(500里)でドンピシャ、
・伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南方向7.5q(100里)でドンピシャ、
・伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東に行く11q(145里)で、其の四捨五入の100里は適切 日本の史書が採用してる外交の記録は「天皇が主体じゃない」「対等の関係」と言う物だな
女王が中国に印綬を貰うのも朝貢するのも問題ない
遣隋使は中国に対等の関係を求めたからセーフ
他は書かない
そういう方針だな (>>804 続)
南至投馬国(宮崎県西都市都万)、
水行二十日(自郡至末盧国まで十日、九州西岸回りで都万まで十日)。可五万余戸。
南至邪馬壹国(官衙は肥後熊本菊池郡砦邑臺城)女王之所都(宮殿は宮崎県高千穂町三田井)。
水行十日(自郡至末盧国まで)、陸行一月(自末盧国至三田井まで)。可七万余戸。
(中略)其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合記述とみる。
自郡至女王国万二千余里。 498>>561
>『魏書』なのに魏の里を使わない理由とは<
魏の役人たちは、当然「魏朝の里」を使った。 498>>562
>2014年の箸墓再考というシンポジウム参加者では
白石太一郎、福辻 淳、加藤一郎、坂本稔、福永伸哉の各氏が「卑弥呼の墓」説
寺澤 薫氏が「卑弥呼の後継者の墓」説 <
ふーん、やっぱり白石〜福永が、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説者の、
中心か。 >>803
どっちもどっち。 わははははは @阿波 498>>565
>4倍違うのは誤差とは言わないww<
50キロの距離を、1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww<
誤差とは、既知の確定的結論値や、平均値や、データ集合の中心値などとの差異。
だから、この類などスレ主の質問自体が頓珍漢であり、詐術的。
大体、「1里200m」というようなデータそのものも、インチキ。 結局このスレもなぜか居座り続けるアホの九州説とそれを相手する奴のレスだけで埋まったな
誰一人畿内の話をしないまま終わった >>753
東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、
関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%とされる
この数値でちょうど100%となるから、各数値に四捨五入があるとしても、
九州関係は皆無に近いということである。 日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 弥都波能賣神社 (論社) 八坂神社
鎮座地 徳島県美馬市美馬町字滝ノ宮231
御祭神 素盞嗚命
創立年代不詳
式内社「弥都波能賣神社」論社の一社。
比定社は他にも美馬市脇町拝原にある「八大龍王神社」、美馬市脇町猪尻の「建神社」、三好市井川町井内「武大神社」などがある。
武大神社は、当社の地名と同じ「滝宮」と称されており、御祭神も当社と同じく「素盞嗚尊」。
建神社の御祭神も「素盞嗚尊」で論社に共通点がある。
神名そのままの弥都波能賣神社という式内社も日本で唯一阿波にしかない。 @阿波
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47238888.html >>813
それ全部、「東阿波型土器」様式。 @阿波 人の家の話・・・実際は、そうなるんだけどw
と気づいている人は気づいている
池沼(お前たちの)の頭の中「❓」このような状態 498>>570
>魏晋里437メートルは、
・正始弩尺等、古尺の現物資料も実在し、すべての史書が一里1800尺となっている<
「尺定規」は、周代からでは僅か長くなっただけで殆ど大きな変化がなく、問題なく、
「全ての史書が1里1800尺、というのがインチキ。
魏や西晋の役人たちは、1里300歩≒300尺で記録している。
>・三国志でも一里437メートルで矛盾はない<
蜀志と呉志は、魏ではないから、秦漢朝里の長里が残っているが、
魏志では、漢代人物の記録や上表文などでは長里が残ったと思われる例もあるが、
魏代の記載になれば、ほぼ全て短里記載。 まぁバカ九州説をからかうのは面白いだろうがその目的の為だけにスレにいるんだろうな 498>>571
>定住の後は見つからないが、逆に炊事道具は物凄い数になっている
同時期の物が多いので本当に一時に沢山の人が集まった様子が分かる
おそらく古墳と祭祀施設を作るために動員された人が集まって作業を行ったのが纏向だろう
発掘状況を希望的観測を無しに考えるとそう判断できる <
成程。 纒向出土の搬入土器の多くは炊飯用の甕
古墳造営に駆り出されてきたものが持ち込んだのであろう >>572
韓地方四千里は、10000里ー3000里=7000里の循海岸水行の
つじつまあわせだってのも、循環論法であるし、
東夷伝が、というのも、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論だ。 >>820
その通り。 古墳造営に駆り出されてきた「忌部はん」たち の土器。 @阿波 浦島太郎(仮名)『王母 龍宮 鳳 寒いな〜』
神武よりも前の話なんだけど、
日本の何やら天皇〜皇女などもいないでしょ 『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』
このようなスレでも同じ話をしている人がいたり、
頭の良い人だろう >>822
実際は、駆り出されたと言うより、ニューディールの側面があったのだろう。 @阿波 498>>584
>去其「西北界」拘邪韓國七千餘里って書いてあるんだよねww
つまり、狗邪韓国の真南部分だけが倭国じゃなくて、
その東の方まで倭国は広がっている
じゃないと「西北」界にならないからねww
また一つ、九州説の戯言が死んだな<
釜山の真南は平戸と五島列島の間。
そうすると、筑紫などから見れば、確かに拘邪韓國は「西北界」になる。
また一つ、大和説のインチキ騙しの虚言が死んだな。 498>>587
>記録したのは、魏の役人
それ以前からの情報だとしても、秦漢尺の度量衡でも一里の長さは大差ない<
魏の役人たちの記録と、秦漢朝の度量衡での1里の長さには、大差があるから、
類スレ主はまたインチキ騙しをした事になる。
>撰述したのは魏から西晋の人、陳寿
魏晋尺の度量衡に従わない理由がないww<
陳寿も、魏の役人らの記録にも従っタカラトミー、魏西晋朝の度量衡に従った。。 >>827
>魏の役人たちの記録と、秦漢朝の度量衡での1里の長さには、大差があるから、
大差ないし どのスレ(サイト)だったかな
王母〜龍宮〜・・・は漢人(中国)だと言っている人がいたり、
当時(一時期)朝鮮半島に住んでいただけ、そこの支配者だったとか? >>817
>魏代の記載になれば、ほぼ全て短里記載。
常識と正反対のことを言い張るだけで絶対に証拠は出さないのが、九州説
つまり、興味本位の人の娯楽として以外は世間から相手にされないトンデモ説さ なんだかんだで結局のところ、畿内は「倭種の国」ということしか言えないんだよな。
釘一本すら出土しない纏向は鉄器を本格導入していた倭国には該当しないな。
旧唐書に書かれているように、倭国時代に世話になったことも知らない礼儀知らずの畿内の使者が、その倭国についていい加減な返事をしているんだし。
さらには記紀にも記載されていないわけで。
ヤマト政権はやはり別国だよ。 >>831
などとウソをつくしか無いのが敗残の九州説 仲哀と景行を比べると真反対に書かれています。景行はやたら従順に巫女の話を受け入れています。仲哀は神功の話を聞きません、倭国大乱の理由の一つには思想の違いも感じます。卑弥呼に味方した国があるんですから、阿波は一番の味方だと思います。 >>833
>卑弥呼に味方した国があるんですから、阿波は一番の味方だと思います。
申し訳ないが、倭国乱は旧吉野川水系・鮎喰川水系の国々のよる、覇権統一戦争なんだよ。 西日本一帯にかけての大乱じゃないから。 悪しからず。 @阿波 >>832
お前もそろそろ諦めろよw
歴史捏造加担で訴えられるぞw
フェイク情報垂れ流すのは犯罪だからなw それよりも、こういう話などがあるでしょ、
実際は家の話なんだけど
『飯野 UFO』
かぐや姫とか、そういう話 そうですか、う〜ん漢倭奴国の落ちてた場所が遠すぎますが…。 家の老婆w
学校などにも行っていないような事を言っているんだけど、
なぜ知っているのか(詳しいのか)?・・・なんだよな 最大規模の纒向遺跡は4世紀中頃に消滅しており、その後の移転先も見当たらない。
4世紀末には朝鮮半島から豪族が入植していたという痕跡が纒向の南で確認された。
どう考えてもヤマト政権の源は朝鮮政権であり、おそらく天皇自身もそれを認識している模様。
まあ当時の朝鮮人が現代の日本人でもあり、今の朝鮮人は後から半島に入植した遊牧民なんだろうけど。 今日も、邪馬台国畿内説を宣伝しているキナイコシが論破されているね。。。 >>840
>4世紀末には朝鮮半島から豪族が入植していたという痕跡が纒向の南で確認された。
いや、白鳳時代からだろう。
>どう考えてもヤマト政権の源は朝鮮政権であり
大和朝廷の源は、倭国(阿波)。 @阿波 なぜ3世紀の近畿圏からは鉄が出土しないのか?
■考えられること
鉄の潤っていた九州とは交易が無かった。
=一大率や大倭は近畿とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」に近畿は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・ 498>>604
また回答不能に陥ってわめき罵る敗者
それが「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説 このような事を言っている人がいるでしょ
>新羅の王様の全員が日本出身なのに何言ってんだおまえw
もれ(仮)の知っている限りでは朝鮮人なんだけど、
金とか朴とか、そういう名前の家の話でしょ?それともアニメの話? 記紀は創作や歪曲、矛盾を含んでいるけれど、その意図を汲んで原型を復元しなくてはいけない。
単に「崇神から実在」とか単純な話ではない。
神武東征だって、考古学的な西高東低からすれば自然なことだ。
ただし嘘があるとすれば、それは年代が前倒しされ、遥か昔から大和が列島の盟主であったかのように見せかけていること。
それは旧唐書と新唐書の食い違いに端的に現れている。
つまり、九州北部の倭国を畿内の日本国が併合したのに、その事実を言いくるめて隠しているのだ。
そう考えると、記紀の謎の多くが氷解する。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書) >>841
俺は畿内説捏造計画を聞いたぞw
そういや豚は太らせてから食えと言われたなw >>848
>日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)
明らかにウソ
王と言っていない
自分で書いてる
「王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。」 >>847
記紀の原型は新唐書にヒントがあるらしい。 >>1
貴方は、5ちゃんねるが活発化しているように、見せかけるには、頭が悪すぎるますね、、 >>1
貴方は、何をするにも、頭が悪すぎますね、、、 >>853
吉野ヶ里と纒向の収支を見ろw
現実を見ろよ、能無しの引き籠もりがw 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 金、朴・・・とか、そういう名前の話でしょ?
朝鮮、または韓国の人だろう
また騙されたのか?
みたいな事を言っている人がいたり
陰謀論で言われているユダヤ〜と同じ? 老害学者の妄想で食い物にされるだけの桜井市は破綻寸前です。
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>860
それさあ、畿内説マンセーの毎日朝鮮新聞は報道してないんだよなw 魏志倭人伝(3世紀)
「棺有槨無」 = 棺有り槨無し
棺を埋めた後に、土を盛った墳丘の事だと考えられる。
隋書(6世紀)
「死者歛以棺槨」
死者は棺、槨に収める = 棺有り槨有り
これはおそらく前方後円墳など石積み基礎の墓だと思われる。 最後が違うんですよ、卑弥呼は紀伊を選んだというだけです。 金氏専用テレビ(報道)を観ていればわかる、
ミサイル、ロケットとかそういう話ばかりしているし
どう考えても金氏専用テレビ(報道)でしょ
テレビ?観ないじゃん(うらしま太郎)という人なら・・・、
そういうことにも、気づかないんだろうけど 畿内式の思考回路を通すと、纏向は伊勢・東海政権の傘下であったと考えられる。
纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% >>862
>「棺有槨無」 = 棺有り槨無し
>棺を埋めた後に、土を盛った墳丘の事だと考えられる。
その通り。 @阿波 >>858
妄想が許されない科学の分野では、表現方法にも制限がある。
テンプレ修正しとけよ。
@「〜である」
・ほぼ確実(virtually certain、99−100%)
・可能性が極めて高い(extremely likely、95−100%)
・可能性が非常に高い(very likely、90−100%)
A「〜と考えるのが妥当である、〜であると考えられる」
・可能性が高い(likely、66−100%)
・どちらかといえば(more likely than not、50−100%)
B「〜とも考えられる、〜かもしれない」
・どちらも同程度(about as likely as not、33−66%)
・可能性が低い(unlikely、0−33%)
C「〜とは考えにくい、〜可能性が無いとは言えない」
・可能性が非常に低い(very unlikely、0−10%)
・可能性が極めて低い(extremely unlikely、0−5%)
・ほぼあり得ない(exceptionally unlikely、0−1%) >>865
>纏向遺跡で出土した土器の産地
それ全部、「東阿波型土器」様式 だと、何度言えばw @阿波 >>868
阿波に拘らず、淡路島を調べなよ。
記紀によれば最初に出来た島なんだから。 >>869
淡路島も倭国(阿波)の数ある島のひとつ だと、何度言えばw @阿波 頭の悪い引きこもりの奥山は、副作用の強い糖質の薬を飲んで、永眠に就いたのでは、ないのかな。。。 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。 寒いな〜の家があるでしょ、
寒いな〜の本物(直系?)の家というの?
その家の人を殺したんでそ?
(殺そうとしたんでそ?)と言っている人がいたり
数年前の・・・どのスレだったかな 『姥清水』・・・(昔から)有名な話なのかな?
どう考えても『王母 龍宮〜寒いな〜』の家の話だしな 実際は神武(日本の天皇?)なども、いなかった頃の人物
殺したんでそ?と言っている人がいたり 498>>610
「・漢土の外のことは誇張して距離を遠く書くバイアスがかかっている」
これは、他の史書でも共通に見られる中華史書の特徴<
魏の役人のような下っ端役人が、「バイアスのかかった嘘吐き騙し」報告して、
部下や後続の使者や難升米らに拠ってバレれば、
首が危ないから、そんな事はしないもの。 中華(朝鮮、韓国)コンプレックス?
他の国のほうが上だというのが嫌だとか、
君主、国王のような家(人物)があるでしょ >>877
新唐書は日本記を参照したはずだが現在の日本書紀とは内容が異なる。
日本書紀が後世で改竄されているというのが定説だ。 金を悪人に仕立て上げ・・・みたいな話ばかりしているし、
逆に金(gold)を応援しよう!みたいなことになってくるでしょ
本当になっているとか? 日本書紀を改ざんしたのは確か藤原家だとか言われてたな。 巻向に祭祀がないのは変じゃないですよ、より景行らしいんではないかと思われます。よく調べたほうがいいですよ。倭国大乱は巫女のクーデターでしょ、陳寿は天才です。 498>>622
>あるって主張する人があることを立証しないとwwww<
魏志に書かれた偽の役人たちの「里の計測記録」という史料事実が根拠だ。 邪馬台国の成立に際して寺澤氏などは大和の役割をかなり過小評価してるように見える
ただ九州をはじめとした地域への土器の拡散は庄内式に先行してX式がかなりの範囲に広まっている
銅鐸の作成などを見ても主な生産地、配布地として機能している
大和は単なる連合の集合場所ではなく主体的な役割を持っていたと考えて良いと思う
スレの人は大和の役割がどの程度だと考えているのか聞きたい 498>>630
つまり「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
また負けた自覚がある 498>>633の訂正
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、だいぶメンタルやられて、
京都アニメ放火犯のように、
人種差別的な殺し合い戦争願望のようになっているようだな 吉備の土器と大和の土器がかなり早い段階から九州北部を中心に広まり現地の土器の様相に影響を与えている
その変化に続く形で庄内式、布留式と時代を追うごとにその影響が強くなる
土器の伝播の初現としてのX式、吉備式の広まりを見るに、まずはこの両地域の拡大をもって邪馬台国の土壌が形成されたとみるのが自然だろう
大和は最初から主体的な役割を担っていたと考えられる
纏向が中心地に選択されたのもそのような大和の重要性の上にあるものだと言えるだろう 498>>651
いつも都合が悪くなるのは、
「南≠東」に負けた大和説だけでは? 498>>654
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の特殊読みは、
説得力ゼロ 498>>657
南なら九州にならねーって言ってんのに
都合の悪いことはスルーかよ。
もうこいつら大和説者は、放置で良いよ。
馬鹿はほっとくしかない また498>>659の訂正
結局、「南→東」などの嘘付き騙しに関して、
大和説者は、なんも理由言わないのね
結論を言い張るだけ
大和説終わるわけだよ 498>>661
大和説者は、
「南→東」とかいう嘘つき騙しのトンデモを並べて、
引っ掻き回した挙句、
地獄に逃げた卑怯者 498>>665
九州説を否定することが目的になって
具体的に大和のどこなのかという話になると黙るのが
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説狂信者 498>>675
>ここは畿内説のスレ。畿内説を批判する人が集まるのは当然 <
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
大和説は、×。 498>>678
>で、その対案として君は九州のどこを挙げてくれるの?
君の意見を聞かせて<
女王國(≒倭國)は九州島付近で、女王之所都は筑紫なの。 >>889
だから土器が広まったのは倭国大乱の前だろ?
その倭国大乱の後は、北部九州30国が中国との関係を重視し、朝貢を再開したという事だ。
残りの70国は半島との関係を重視した倭種の国だ。 498>>698
ここは「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のスレ。
大和説を批判する人が集まるのは当然
なのに「南≠東」に反論する人はいなくて
罵りをする人だけだよね
なんで? 498>>713
「南→東」などの嘘付き騙しをしている大和説の、
変なお爺さんのいる家の子は、
気の毒だからではないのかな V式という式は、銅鐸王国の何かの式だったのだろうか、、、
そして、吉備式という式は、銅鐸王国を滅ぼした何かの式だったのだろうか。。。 『311 大震災』
ググると宇宙戦艦ヤマトのような船(紺、赤)の画像が出てくるんだけど、
攻撃されたの?なぜか人工地震だと言っている人がいたり 『311 東日本大震災』
宇宙戦艦(紺と赤?)のような画像が出てくるでしょ、
攻撃された? 実質的に、弥生遺跡や出土品が最も貧相なのが奈良なんだよなw
纒向の2〜3世紀前半の出土品って何かあったか?
今のところ年代測定の怪しい桃の種だけかw 498>>755
「南≠東」などのような都合の悪い議論は避けて
理由もわずに罵倒する
それが大和クオリティ 少し違うんだけど、
もれ(仮)と同じような事を言ってる人がいたでしょ
宇宙戦艦というのは俺(俺たち)の話なんだよw
みたいなことを
アニメ、映画などがあるでしょ?
俺を出演させろという話なのかな 悪く言うと、なぜ関係のない人間が作品に出演したり、
お金(出演料、ギャラなど)を貰っているんだ
そういう話だろう 当時倭国と呼ばれていたのは、せいぜい北部九州から山陰のあたりだろうよ。 >>873
尾張も出雲も筑紫も、みんな「忌部はん」 だと、何度言えばw @阿波 498>>807
>プラスの根拠ではなく、悪魔の証明方式で全否定しようのないことをもちだして、
「否定できないからいいだろ?」というのが、九州説の古典的な詐欺手口ww
他地域の産物を持ち歩く理由も必要もない <
倭国が「正北抵新羅」などに拠って北部九州にあり、
大和は、その倭國の「東征毛人五十五國」に中の、別種の旧小国の一つで、
倭國の地方の市を監督する「大倭」職を名乗っていた、
という事を完全に隠蔽抹殺する議論ばかりになっているなあ。 他のアニメ、ゲーム・・・ドラマに映画、舞台?
同じでしょ、役者(芸能人)がいて〜という話 >>886
>ただ九州をはじめとした地域への土器の拡散は庄内式に先行してX式がかなりの範囲に広まっている
かなりの範囲に広まっているのは、 厚型重量土器のX式じゃなく、軽量薄型土器の「東阿波型土器」 だと、何度言えばw @阿波 >>889
>吉備の土器と大和の土器がかなり早い段階から九州北部を中心に広まり現地の土器の様相に影響を与えている
だから、その土器は「東阿波型土器」様式 だと、何度言えばw @阿波 >>912
碌な集落遺跡の無い北部九州に、倭国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 498>>815
「南≠東」などに反論が出来ず。
九州倭国の「東征毛人魏十五國」があった、という事を論理も根幹に据える事も出来ず、
本当にその場の思い付きしか書けない大和説は無能な詐欺師。 本当に、そういう話になってくるでしょ、
よく調べてみると・・・人権侵害?
すでに亡くなっている人物、
その家の先祖の話だから、関係ない?と考えている人もいるだろう 498>>824
>「仮説以上のもの」って何だ?<
知り得た「文献考古の全てを説明可能な説」だな。
>文科省検定に通った教科書に書いてあってもなお「仮説以上ではない」と言うのか?<
当然だ。
確率が99.9%以上である「南」という史料事実を、
「東」と否定曲解する嘘つき騙しのような教科書など、
幾ら文科省が認めても、
権威も信頼性も全くない。
でたらめ<思いつきの作業仮説→多数説→通説→文部省検定合格→定説
のインチキを、どこまで行けば気が済むんだ?。
京都アニメ犯人と同じか?。 498>>825
>北陸から纒向には直接のルートがない。
瀬戸内から纒向への直接ルートは使われた形跡に乏しい。 最大の交流相手は尾張。
それなら、北陸や瀬戸内からは尾張経由しかないだろ?<
複数以上の「東征毛人五十五國」の将軍や部将らが
吉備や阿波や播磨や河内や摂津や紀伊や山城や丹波や近江や、
北陸や東海や関東などまで、別れて征服して行き、
それに大和の部将らが加わって参戦した、という方が、全てを説明出来る、と思うよ。 だから、どこの池沼なんだ?
漫画やアニメ・・・ゲーム〜など必要ないと言っているんだよ
その文部省というのは、どこの文部省?
どうせ明治時代〜頃からだろう? ホンモノの文部省(不明)なら、
例えばw宇宙戦艦なんて作品は作らせないし、
他の作品も同じ 短里はなくて魏志倭人伝の行程も九州北部にはならなくて九州説はおダブツ 498>>835
>此のくらいの基礎も纒向にはない
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html <
成程。
甘木・平塚川添遺跡は、
「横木を削り、下部を二股にした柱で挟み込んだ形の礎の板」ですね。
纏向には全くなかったんですね。 松傾で現実逃避するしかない畿内教信者の異常さよw
オカルト板にでも住めば?w V式という式は、銅鐸王国の何かの式だったのだろうか、、、
そして、吉備式という式は、銅鐸王国を滅ぼした何かの式だったのだろうか。。。 >>898
いつもデタラメ言ってるこいつの知識の乏しさはどうしようもないな 『伊達の桃太郎』
武器を持たない桃太郎と書いてあるでしょ、
ホンモノなら、そういう作品を制作(推奨、推薦)する >>928
短里がないのも魏志倭人伝の行程が九州北部にならないのも現実 畿内説としてはあとは軽く短里は証拠が見つかってないとか魏志倭人伝の行程は九州を飛び出した南の海上とか書いておけば楽勝で勝てる このスレ終わったら次スレどうすんの?
Part500は既にあるから立てられないよね
501にするの? 『Gary Moore - after the war 日本語 訳』
このような事になった人物がいたりするでしょ?
本当に家は関係無いと言っているし 498>>892
>石野さんは最近 邪馬台国吉備説に傾きつつあるような気がする
吉備勢力ががヤマト王政を作った拠点が纒向のような論調だが間違いだろうか?
ずいぶんお年を取られたが 今年の講演では
「「ヤマト王権は纒向から始まった」
「卑弥呼以降 吉備(邪馬台国)、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。
ヤマト王権の基礎を作った地が纒向」
と説明している。<
「南≠東」などに拠って、石野も、×。 498>>895
>纏向が当時の日本で比類なき存在であることが分かる<
九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の別種の旧小国で、
倭國の地方の市を監督する「大和」職の国であった、
という事が史料実態。 498>>902
>纒向には棟持ち柱のある建物が一棟ある。
これが後の神社の本殿に相当し、貴人がいた建物に相当するだろう。
その隣の大型建物は祭祀を行う拝殿だろう。
だがこの様式からわかるのは、ここには貴人は一人しかいなかったということだ。
伊勢遺跡には棟持ち柱建物は複数あり、円周上に配置されていた。
これは多数の貴人を迎えることができる施設と言える。
その上に吉野ヶ里遺跡の楼観と同じ正方形の楼観があり、集会が行える大型建物もあった。
弥生時代唯一の焼きレンガがあり、鉄器も流通の拠点だった。<
ふーん。成程。 498>>909
>大阪を代表する弥生遺跡が池上曽根遺跡であり、銅鐸の大生産地として知られる。
伊勢遺跡は日本最大の銅鐸が出た祭祀遺跡だ。
同時期に並行して淀川水系に存在した同じ銅鐸遺跡が別の文化圏であることはあり得ない。
池上曽根遺跡からはヒスイが出土しており、
近江を通じて北陸と交流があったことも間違いない。
東海地方もまた、遺跡からは多くの北陸型の土器が出る。
当然、近江を通じて持ち込まれたものだ。
そうすると、近江や東海を切り離して畿内だけの文化圏などなかったことがわかる。
「畿内」説など成り立つ余地はない。
この点で、銅鐸よりも銅矛や銅鏡、または舶来のガラス製品など、
大陸との交渉にこだわった九州北部との差異は大きい。
中国から倭王に冊封されたのがどちらだったかは明白だ。
そして銅鐸文化圏は消滅し、博多湾沿岸から広まった銅鏡文化が西日本から東日本まで席巻した。
大阪を代表する弥生遺跡が池上曽根遺跡であり、銅鐸の大生産地として知られる。
伊勢遺跡は日本最大の銅鐸が出た祭祀遺跡だ。
同時期に並行して淀川水系に存在した同じ銅鐸遺跡が別の文化圏であることはあり得ない。
池上曽根遺跡からはヒスイが出土しており、近江を通じて北陸と交流があったことも間違いない。
東海地方もまた、遺跡からは多くの北陸型の土器が出る。当然、近江を通じて持ち込まれたものだ。
そうすると、近江や東海を切り離して畿内だけの文化圏などなかったことがわかる。
「畿内」説など成り立つ余地はない。
この点で、銅鐸よりも銅矛や銅鏡、または舶来のガラス製品など、
大陸との交渉にこだわった九州北部との差異は大きい。
中国から倭王に冊封されたのがどちらだったかは明白だ。
そして銅鐸文化圏は消滅し、博多湾沿岸から広まった銅鏡文化が西日本から東日本まで席巻した。<
成程。参考になります。 >>938
確かに「大倭を使って管理する」と書いてあるよなw サカイと鳥の謎は興味深い
サカイはギリシャ語でサカの人という意味
アサカは聖なる人という意味、サカ族の国家名、民族名そのものらしい
サカ族のとんがり帽子は烏帽子そっくり
堺には浅香アサカがある
サカ族は中国でいう塞かな
日本の塞の神はクナトの神
延喜式祝詞
道饗祭には、八衢彦、八衢姫、クナトが登場する
サルタヒコは姫神の幸神とクナトの神の子
サルタヒコが発見されたのは天の八衢
八衢は道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違幸大神が祀られている
伊勢でサルタヒコに関係するのが
阿射加神社、大阿坂、小阿坂
上町台地〜泉北丘陵
大阪オオサカ、浅香アサカ、小阪コサカが並んでいる
大阪は神紋が白鷺の坐摩神社、百舌鳥、大鳥大社など鳥と関係が深い
サカ族のとんがり帽子は烏帽子にそっくり
とんがり帽子のサカ族、鳥をモチーフにした遺物がたくさん残っている
アカ族、ミャオ族、女性のとんがり帽子、元は既婚女性が被るものだったとか 。鳥居に似たゲートに鳥形、鳥信仰かと思いきやそうではなくアミニズム 。長江辺りで稲作民とサカ族が出会っていた可能性もあるな
オスのニワトリの頭にある赤いやつ、元はサカと呼ばれていた。今でもトサカのことを烏帽子と呼ぶ地方もある
サカ族、塞、クナト、八衢、アサカ、烏帽子、鳥
全部繋がるのだ 。偶然にしろ興味深い 498>>918
>つまり、伊勢遺跡の合議制から、ただ一人の王の時代へと進んだんだよ
伊勢遺跡が廃れて纒向が建設される 同時並行の存在ではない<
伊勢遺跡は、出雲銅鐸祭祀系と越と九州倭国の「東征毛人五十五國」との、
弥生後期の一時的な合同政府。
それに対して、大和は、
出雲銅鐸系と毛人と神武らの後裔との婚姻での共存状態であったところに、
3世紀末に九州倭国の「東征毛人五十五國」軍が入って来て、
出雲系と毛人を征服した地。
つまり、関係がない。 498>>919
>>そうすると、近江や東海を切り離して畿内だけの文化圏などなかったことがわかる。<
>だから、その一つの文化圏を核として、
周りの首長も相乗りで卑弥呼の共立という談合が成ったんだよ
これが畿内説の筋書きそのままだ <
「南≠東」などに拠って、×。 >>941
相当時間が経ってから大倭が畿内の事だと気付いて、大和という地名にしたとも考えられる。 しかしここであらかじめ確認しておきたいのは、大和 弥生社会の場合はこうした安定性ゆえに、経済的富の蓄 積を生む一つの要因となることはあっても外的権力の増 大へは繋がらなかった点である。
第一の道を当然のごとく採用してきた論者の考 古学的な根拠の希薄さを批判して、第二の道を主張した。 しかしこのことが、
私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、5年後に刊行され た橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服な ど物理的強力を前提とした「東征論」や北部九州や吉備 勢力を念頭においた政治権力の直接的移動を想定した「東 遷論」に与するものではない。
第二の道は多様である。 私は北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、
私の言 う「イト倭国」勢力)や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新 主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言 う「新生倭国」の誕生)と考えている
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般 的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主 要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶 した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
首 長層の権力の動向が如実に墓制に反映される社会である からこそ、
大和弥生社会と纒向遺跡の前方後円墳の出現 にみる権力者(集団)の断絶と異質性は重要な意味を持 つのである。 「キナイコシという人は
信用できない。」
「なんであんな人が
スレ主になったんだ?」 「@阿波は、
『キナイコシはウソをつく人だ』と俺に言ったんだ」 畿内説への憎しみのみに突き動かされる九州説ゾンビが
今夜もあてもなくさ迷い歩く キナイコシと奥山氏は別人じゃないのか?
畿内説と言うのは、ロマンのかけらもない王道の欺瞞だよなw
ザラコクは九州説の異端で
キナイコシはザラコクだけが九州説だとして、批判が拘泥している。
まあ、@阿波は、四国説以外では唯のアラシであるwww スレ主はスレ住人を説得できず惨めに去っていった負け犬
もう過去の遺物だ
これからはもっと有意義に時間を使おう
そしてテンプレを消そう >>956
イヤ九州説が荒らしに来なければ平和なんだよ
このスレを気にするのはやめにしないか?
精神からシャットアウトしてしまえば存在しないのと一緒だからさ >>958
だからその九州説ってのは、ザラコクのことだけだろ?
畿内説ってのは、キナイコシと奥山氏だろwww
一般的な倭人伝の話し、なんか聞きたいのかな? >>48
なんで不弥国までの里程は九州説にそのまま便乗するくせに
不弥国からは魏里なんて特殊なもんを使うの? >>961
畿内説の方が古くからあるんだから
便乗は九州説の方だろう >>960
ザラコクだけじゃなくてキウスやあと一人二人居るだろ
畿内説は3・4人だろうけど恐らくスレ主は居ない
なぜならスレ主は書き込みする時トリップつけるから 九州説は>>961みたいに
無知無能ゆえに事実と正反対のことを妄想する
というパターンがやたら多い
基本的に頭が弱いうえに
裏を取ろうという意思がなく
先入観に支配やすい人が
九州説に落ち易いようだ >>967
具体的にどう反論してるの?
方角はめちゃくちゃだから里程もむちゃくちゃでいいという開き直り? 邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまいましたね。。 ビーバーの種類がたくさんあるが、新しい袋は開けないで、昨夜食べきれなかった海老ビーバーが湿気る前に先に食べた方が良いのではないのかな、、、 今夜は宇治茶があるが、夜遅いので、茶葉を少なくして淹れれば良いのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまいましたね。。 V式という式は、銅鐸王国の何かの式だったのだろうか、、、
そして、吉備式という式は、銅鐸王国を滅ぼした何かの式だったのだろうか。。。 >>968
>具体的にどう反論してるの?
反論って?
畿内からの方が古くからあるんだから
反論してるのは新参の九州だぞ
畿内説の主張は、現実的な比定地と倭人伝の記事を照合したものだ
記事には方位も距離も誤りが多く、使用に耐えないと結論が出た >>975
なんで魏里なんてものを不弥国から使い始めたのか聞いてるんだけど? 498>>919
>だから、その一つの文化圏を核として、
周りの首長も相乗りで卑弥呼の共立という談合が成ったんだよ<
「南≠東」などに拠って、×。 ローレンツ・ローレンツの式は、洒落が効いた、レベルの高い式なのだったが、僕達の関心が高まらない、Vも吉備も式としては、レベルが低いな。。。 >>976
最初から最後まで使ってるだろ
誰が読むために書かれた史料だと思ってんだ >>964
畿内説なんて一時の徒花。
記紀は邪馬台国を九州に見立てている。 >>975
>記事には方位も距離も誤りが多く、使用に耐えないと結論が出た
ソースは?
そんな論文があるなら読んでみたいものだ。 >>979
朝鮮半島も対馬海峡もそれでは説明がつかないから、その意見は間違いだ。
なぜ畿内説は一瞬で嘘とわかることを平気で言い続けるのか? 九州説って短里なんてものが本当にあったと思ってるんか?
本気で存在したと思ってるなら、それを証明すべきなのに、なぜか証明しようとしない
ほんと不思議だわ >>981
>ソースは?
>そんな論文があるなら読んでみたいものだ。
百年前から常識だぞ
九州説は前世紀のいぶつらしく、白鳥庫吉の卑弥呼考でも読んでろ 498>>974
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説、終わったな >>982
>朝鮮半島も対馬海峡もそれでは説明がつかないから、その意見は間違いだ。
説明つかない?
また理由ナシ説明不能で結論だけか
さすが九州説、中身ないな
証明してみろ
出来ないだろ
九州説は無能だからな 498>>977
>南に向けて出発する理由など無いのに
南と書かれた倭人伝が正しいことにするために南に向けて出発することにする<
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の最初に書かれた「又南」は、
「行程説明の最初の文言」だから、出発時点での出発方向を示す。
>高台に登れば東南に壹岐の島影も見えるのに
南と書かれた倭人伝が正しいことにするために登らないことにする<
魏使や、魏の役人たちは、金印や詔書や沢山の重い下賜品を抱えており、
それを守らなければならないから、後ろの高い山になど、登らないものであり、
結局、巌原付近の海岸から壱岐は見えない。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の類スレ主(東大理系の博士号?)とは?)と、
こんなもの 498>>978
このように
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
いつも
いつもウソをつく 498>>980
結局、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の、
バカの脳ミソのない妄想の書き込みだけで
スレが消費されてしまったな >>987
>魏使や、魏の役人たちは、金印や詔書や沢山の重い下賜品を抱えており、
>それを守らなければならないから、後ろの高い山になど、登らないものであり、
部下の一人も物見に出せないのか
九州説思考は異常だな >>988
九州説は
何がウソなのか説明もできない異常は説
ww だいたい、畿内説を勝手に
大和説などと歪曲したがる
ねつ造体質が九州説のガンだよ >>86
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、論破されて恨んで荒らす大和説
サイテー >>993
九州説はどうして毎日そんなにウソつくの? >>100
この板の状況を見れば明らかだろ?
大和説者もテンプレも、
「南→東」などの史料事実などの否定曲解の嘘吐き騙しがバレても反論出来ず、
口先誹謗の書き込みがばかり
だから、九州説論者は畿内説スレに来て、いくらでも正論を書ける。
つまり、ほとんどの大和説論者は消えていったが、
カルト信者だけ残って、必死で、史料事実の曲解捏造の嘘吐き騙しで、対抗しようとする >>109
まだ、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の異常者が居座って、
無意味なスレになるのか ?」 >>112
>河内に王権を主導できるような大豪族は存在しない
むしろ王権が伸長した結果、旧来の大和の豪族の影響から脱し大王の意図による政治が始まった画期だろう
河内に移動したのは朝鮮半島進出の場として都合がいい事や、
葛城氏と組んで旧来の豪族を封じその手のついてない新しい土地に拠点を作りたかったと言う事だろう
むしろ大和からの大王権が大きく拡大した表れだとみている<
大王、と言った時点で、後漢書の「大倭王」を意図している事になるから、
この男も、「南≠東」などに拠って、×。 >>115
>応神天皇以降の政権は葛城氏だけじゃなくて吉備氏との関係も強化している
吉備氏の最盛期はこのころ<
古代には「天皇」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。
>寺澤氏は吉備が邪馬台国の主導的な存在と言っているが果たしてそうだろうか? <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。
>古墳の原型も吉備だと言うが楯築はかなり無理がある
播磨や讃岐、近江が原型だろう<
前方後円墳の原型は、西晋武帝の「天円地方」の思想の教えであり、
大陸では、モンゴルや高句麗に原型があり、
筑紫の那珂八幡などが高句麗の前方後円墳に似ていて、列島で最も古い。
>庄内式も吉備の技術は土台にあるがその成立は河内や大和独自のV式にある<
庄内も、三雲や祇園山が最も古い。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 3日 16時間 58分 25秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。