邪馬台国畿内説 Part498
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1566053951/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし >>982
キナイコシが言うように概念で作り出した数字なら余りなど出す必要はない。
いくらでも綺麗な数字をでっちあげればいいわけだからね。
しかし実際には端数があるらしい。
それはある程度は現実の地理に即した値だという証拠だよ。
帯方郡から一万二千里が想定された架空の数字だという主張は否定される。
実際に一里が100メートル前後の単位が使われていたのだろう。 >>1 スレ立て乙です
前スレ1000が
10001 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/22(木) 18:20:04.00
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1566462833/
タイミングばっちり過ぎw 日本の古代の世界観は、どうやら日の出の方向を基準にするらしい。
纒向の建物の配置だってそうだし、神武だって日の出る方向を気にして大和を攻略した。
それなら、対馬海峡を渡海するときに日の出の方向を気にしてもおかしくはないだろう。
他に方角のズレを説明できるのなら教えてほしい。 >>72
記載された数字は概算だが、その基礎にもう少し細かい数字の資料があったことを示唆しているんだよ。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 496>>712
>短里はないだろうね。でも、実際より長い距離で書かれているのは事実
これは事実だからどうしようもない<
魏の役人らは、実地に見聞計測をしており、
計測通りの報告を書いた確率が非常に高い。 畿内説石野船長「南⤴東と90度読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南⤴東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>74
例えばメジャーなどで距離を523mとしっかり測っといて
それをだいたい500mなどと書くものか >>75の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>77)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>70
>いくらでも綺麗な数字をでっちあげればいいわけだからね。
全部、綺麗なでっち上げの数字だろ?
萬二千里は世界の果てまでの距離
倭国本土(本州、四国、九州)上陸までは一万里
渡海は一律千里
陸行は近ければ百里、ちょっと遠ければ五百里ぽっきりの明朗会計ww
多少なりとも綺麗じゃないのは
対馬の方可四百餘里と一大國の方可三百里くらい
そしてここは、対馬に「余」がついて壱岐にはつかないww
適当なんだよ
>しかし実際には端数があるらしい。
「らしい」ってなんだよ?「らしい」ってwwww
そんなものがあると考える理由なんて、何一つないだろ?w
これは「根拠は僕がそう考えたから」ですらなくて
「ザラゴキがそう書いてるから」になるぞww
恥ずかしいよな? とても、ものすごくwww >>78
歴史書としてまとめるなら、500メートル余りと書くのは普通のことだが? >>73
>他に方角のズレを説明できるのなら教えてほしい。
だから、その「ズレ」だっていう
なんか規則性があるのだって先入観が
目を曇らせてるんじゃないの? >>80
>そんなものがあると考える理由なんて、何一つないだろ?w
「余」の文字が入っているのが理由だろ。 >>75
>>79
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛ての書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは物理的に不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 1万2千余里は余がついてるので正確に測った数値と言う事はできず
むしろ測ってないという事になる 496>>714
>>そもそも12000里だって「ぴったり」12000里だと言っている人は誰もいないんだけど<
>ぴったりではなく、幅を持たせたら余計に、特定点を探すには
「使えない情報」でしかないことになる <
数学や論理学や法学でなく、自然や歴史の近似的な計測記録であるんだから、
ある範囲内の幅のある「地域」的な確率的情報であって十分。
この男も、不可知部分が殆どである自然や歴史において、
「絶対断定」論を要求する、宗教思想的な・・・・アホの危険な詐欺師。 ちっさいカエルを食う時につけたのは塩だったのか?タレだったのか?
畿内説はまずこれを調べなきゃな。 >>81
九州説の言う正確無比な測定方法を用いて523mと正確に測ったのなら
それを載せる方が普通
そうでないという事は正確無比な測定方法など存在せず
1万2千里は測られた数値ではないという事だ >>80
>対馬の方可四百餘里と一大國の方可三百里くらい
>そしてここは、対馬に「余」がついて壱岐にはつかないww
例えば対馬は450里、壱岐は310里ならそう書くだろうね。
実際には対馬は壱岐よりずっと大きいから、400里よりさらに大きいというニュアンスもあるのかもしれない。
反対側まで回り込まないと対馬の全体の大きさを知るのは難しいから、精度が低い数値であることは報告者にもわかっていたのかもね。 >>87
雨乞いの儀式にでも使ったんだろ
カエルを食用にしていたなんてどの文書にも書いてないから >>88
そこまでの有効桁数が出せない数字であることは彼ら自身がよくわかっていただろうね。
それでも概ねの数字を後世に残そうという歴史家たちの努力を汲み取れないなら、歴史なんてやらない方がいい。 >>86
魏使は一寸千里とか三角関数で正確無比に距離を測ったのではないのか
魏志倭人伝の数値に余がついてるのは正確無比な距離測定方法などなかった証拠 >>81
>歴史書としてまとめるなら、500メートル余りと書くのは普通のことだが?
そんなこと決め付ける理由は?
実際に漢書西域伝ほどうなってる?
ぜんぜん違うよね
その現実とアタナの想像
どっちが普通? >>87
タレというのは醤油と砂糖で作るのか?
それなら2世紀にはまだ発明されていない。
潮があればまだいい。
内陸だからそれもなかったかも。
ところで焼いた痕跡がなかったら、生食か干物にしかならないのだが? >>92
一直線に南北に移動しただろうから、三角法は難しいだろうね。 496>>718
>3世紀前後前半に前方後円墳が造られたという立場なら、<
その「立場」が間違い。
列島で一番古い前方後円墳は、3世紀後半半ば頃の那珂八幡など。 >>93
>ぜんぜん違うよね
興味深い!
違う実例をどうぞ。 >>91
その数字を検証したら実際とはぜんぜん違うんだから
そんな幻想は捨てるべき >>84の続き
すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!!!
古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交=日出処「天子」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>91
感じ取れないなあ
そもそも魏里で帯方より南1万2千里はパプアニューギニア
魏志倭人伝に使われる単位は100、500、1000里のごく大雑把な刻み
狗蛇韓国〜末羅国までの海峡間が全部千里
区間の距離のスケールが4倍ほど違う
これではとても概ねでも距離を残そうとしたとは言えないな >>90
カエルの骨には傷が付いていた。
カエルを食っていたかどうかは、これから調べると学者がコメントしてただろ。 >>99の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>97
>違う実例をどうぞ。
テンプレからコピー
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。 >>102の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
漢〜魏晋南北朝〜隋唐まで、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである! よくわかっているな、
当時の百済の何やら〜不明?w支配していたのは中華(中国人)だという話 >>105の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国沿岸に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智以降の倭京(太宰府)・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 新羅、百済〜何やら〜?
もともと倭人が住んでいたんだけど、中華が来て・・・という話だろう、
いつ頃の話? 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 漢人系と倭人だという人々が住んでいた?
支配者層というのが漢人、中華 496>>721
>考古学で邪馬台国の比定地を決めている畿内説にとっては 痛くも痒くもない
九州説がひとり崩壊するだけだ<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
文献だけではなく、考古でも、
大和の庄内も前方後円墳が3世紀末以後になってしまって、
大和説はひとり崩壊しているだけ。 >>112
素人じいさんの妄想で学者の通説が崩壊するとか
誇大妄想は九州説の定番だな 気づいていると思うけど、
お前たちの話などはハッタリ、デタラメw
ただの池沼 『伊達の桃太郎』
「皇」「劔」という文字が書いてあったりするでしょ >>117
こんなしょうもない事しか言えなくない九州説www >>112
だいたい大和説大和説と連呼するのからして歪曲騙し文言連発という捏造常習者だからな
こんなのが九州説はにいて一番損してるのは九州説だ 皇室でしょ、
なぜ日本の皇室?となるのかが、わからないんだけど
皇帝、天帝・・・天子で、あとは? >>114
桓武天皇の生母・高野新笠は百済王氏出身だから、天皇家には確実に百済の血が入ってるけど、
応神五世孫・継体>狗奴国卑弥弓呼の先祖が「越」王(中華)というのは、どうだろうか? >>87
>ちっさいカエルを食う時につけたのは塩だったのか?タレだったのか?
>畿内説はまずこれを調べなきゃな。
食べたら骨は残らないって考えないのかな?
骨に歯型とか、ソースがあるなら出してよww 魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国が沖縄か台湾やパプアニューギニアになる
書いてある距離は現実的ではな一方く3世紀の考古学的証拠で畿内が中央集権的で魏と交流していた事がわかる
よって邪馬台国は畿内の大和国こと
九州説には不可能な三段論法 『倭人 朝鮮人』
王母〜龍宮〜何やらは、
その後、かなり後の時代になってから来た、
中華だろうと言っている人もいたり >>102 >>109
九州本家の存在を仮定すると、古代史の謎や矛盾が説明できることは確かだな。 畿内スレ497
>>943 日本@名無史さん2019/08/22(木) 15:53:20
>畿内説では、方角は陳寿の錯誤であると きちんと論証してあるから、
>現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない
つまり、キナイコシ>>943が云いたいのは、
倭人伝の行程記事は陳寿本人の錯誤に基づいて書かれているけれど、
もし、その記述通りに進むとすれば、末盧国東南陸行500里で到る伊都国は、
今、遺跡らしいものは何もないけれども佐賀川上になる。
依って北部九州説はない。 ・・・そういうことだ。 日本の神話なども同じ、
本当は日本の話ではないというのも有名な話みたいだし
他の国の話、本や書などからの引用、繋げたり 『王母 龍宮 寒いな〜』
日本の話ではないんだよwと言いたいんだろう、
たしか蚕を飼い、機織りなどをしていたり、そういう話だしな
家の老婆も同じことを言っているし >>128
関西の古墳時代の最も目ぼしい遺構と言えば、仁徳難波高津宮の倉庫と極楽寺ヒビキ遺跡くらいだろ?
あとは、言わなくても解るよなw 496>>725
>モリモリの距離を根拠にして批判するのがそもそもの間違い<
「モリモリの距離」というのが、そもそもの間違い。
「余」の有無での書き分けが存在するから、魏の役人たちの実測値が元になった近似値。 魏の里を三段論法で証明
魏で使われていた1尺24cmのモノサシが見つかっている
律歴志などで魏では1里=300歩=1800尺の縮尺が使われていた事がわかる
これで計算すると魏の1里は約437mである
短里は三段論法で証明する事は不可能 寒いな〜の母親というのがいるでしょ、
その人の話もしていたし・・・。
馬に乗り、城に通っていたとか、
なぜ詳しいんだろう、寒いな〜の先祖の話?
老婆が言うには母親の家の話みたいなんだけど >>135
距離に余がついてるのは実測じゃないからとも言える その家の〜〜〜誰々のことを殺したんでそ(殺した?)?
と言っている人もいたり
『姥清水』? 496>>726
そういう見境いの無さが、
「南→東」などの嘘付き騙しの非科学非学問の大和説らしいな
「畿内」なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説者は、本来は確率的な存在である史料事実などを、
「南→東」などのように、「この数字は怪しい、信用したらだめだ」と、
個々に絶対断定的な査定をするインチキをしてきたんだよ
それは史料批判するということではない、のだ。 >>123
倭人は呉の末裔を自称していたそうだが? >>128
同意。
そもそも後漢書では倭とは対馬海峡周辺だけだし。
旧唐書では日本は倭からの分家扱い。
新唐書では神武が東征している。 朝鮮人は朝鮮人、
呉人とか何やら〜なんていうのは、
他の国の本や書などを読み、影響を受けた・・・その後の〜後付け >>138
逆だよ。
想像の数字ならキリのいい数字でいいんだ。
端数があるのは、測定値だから。 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。 496>>733
残念ながら大和説の期待するような お気楽な状況にはならない
書いた陳寿本人がその数字で考えて「会稽東治之東」と判断した以上
短里が実在したことと方位が間違っていなかったことが 判明しちゃうんだよ。 >>144
魏志倭人伝の里に端数ないだろ
じゃ測定値じゃないって事だな 『伊達の桃太郎』「劔」
例えば、中国の皇帝(朕?)などの持っている刀の話でしょ、
シンボルのようなもの 当時住んでいたという家の話
凄い刀が飾ってあったんだけど、
泥棒のようなものに盗まれたと言っていたり、
確実に、その家の話だろう
『伊達の桃太郎』
老婆談というのも、この周辺 『劔』とある説明が出てくるでしょ
>特にその切っ先が、ショウブの葉の先のようにとがっているもの。
なぜか家の写真にも写っていたり、菖蒲、アヤメの葉w
松の木、笹の葉・・・あとオジギソウの類
なぜ詳しいんだと思う? なぜか仏教(神仙?)関係の話をしているし、
神道とか、そういう話は聞いたことがない >>141
サンクス。倭王権内で呉越同舟というところかね。
あ〜こりゃこりゃ、もうやってらんない(><) 最勝王経音義?
父親も、
このような雰囲気の名前(勝?)だしな・・・、何なんだろう
銀〜という親戚もいたとか 最勝王経音義?
父親も、
このような雰囲気の名前(勝?)だしな・・・、何なんだろう
銀〜という親戚もいたとか 九州説が基地外のフリをする癖は
はるか昔故郷の半島で病身舞を踊らされていた頃の記憶 >>146
なぜ、陳寿は倭王と三国志覇王の同盟に正当な位置表示となる単位と違う
はぐらかしの、短里や行軍日程を使ったのか?
卑弥呼は大倭王ではない。
印綬したのは、九州筑紫の周旋5千里21国7万戸の小国だった。
東夷を安定させて、呉を平定と言う三国志で
大倭王との同盟は、間違いでしたwww
とは、言えないだろ?
満二千里は地の果て。
でも、その国は会稽東治の東、北緯30度で、まあ九州
この、会稽東治の東に、まさに当たる地理関係の代名詞は
文法的に、満二千里であって、倭人伝行程の半島南岸東行3千里は含んでいない。
屋久島かな? マイナス3千〜三千五百だろ? 察してやれ! 496>>737
>会稽東治から東に出れば海流に乗って九州着くけどね
まあ実際より長めの距離で書いたから、会稽東治之東と書かざるを得なかっただけだと思うが、実際のところは知らん<
「余」の有無での書き分けがあるから、
「実際よりも長めの距離で書いた」事にはならず、この男も×人間。
>短里はないと思うけどね。でも思いっきり盛った数字になっているのは事実やな <
魏の役人たちの記録は、魏朝の「里」を使ってきちんと測定したった事が実態。
>方位は陳寿が自分で行ったわけじゃないからね。
写し間違いもあるだろうし、見間違いもあるだろう <
方位も、魏の役人たちの計測が元情報であり、
普通の成人人類は東西南北を「ほぼ間違える」事はなく、
大きな間違いを起こす筈がない。
つまり、この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>89
>例えば対馬は450里、壱岐は310里ならそう書くだろうね。
よくもまあぬけぬけと、何の根拠もない適当なことを書けるものだww
普通の感覚なら、310里こそ300余里だろうに
恥の概念がないんだろうな
九州説お得意の短里と実際の地理を比べてみたら?ww
一里76メートルなのか、140メートルなのか知らんけどww
そうしたら450里だかどうだか、はっきり言えるはずだろ?
実際に測ったというなら、それなりに比例関係が出るはずだよね?ww
でもそういう具体的な実証を伴う推定をして見せた九州説がこれまで一人もいないww
推して知るべしだよなww 河童というわけではないんだけど、
キュウリのような葉も写っていたり
あと葱の華・・・、あの写真w >>159
短里なんか使われてないよ
倭国の王都は楽浪より南1万2千里で会稽東治の東という漢の伝承に
魏の時代に知りえた地理情報を当てはめただけの概念的な数値になってるだけだよ 老婆談
本や書なんかもあげちゃったのかな〜、それとも・・・。
仏教関係の本だったのかな 箸墓は(初代大王)神武陵、纏向遺跡は倭迹迹日百襲姫の祭殿(D棟大社造り、C棟神明造り) 大社?
そういうのも、後付けというわけではないんだけど
大社・・・・神社、神道なのかな?とか、
そういうイメージがついているだけ >>168
箸墓・後円部の断面図(北側より)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄神 ̄武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 実際は神道なんてないんだけど、
そもそも日本の話でもないし
本物は、そう答える 496>>745
>それ以前に「会稽東治之東」ありきで陳寿は魏志倭人伝を書いている可能性もあるからね<
無いな。
「計其道里、當在會稽東之東」の文は、陳寿が、
「道里」記録に拠って女王國の位置を計算推定した、
という事を示している。
>だから無駄に長い距離を設定したともいえる<
この男も、魏の役人たちや陳寿を「詐欺師であった」、と言いくるめて、
魏志倭人伝の都合の悪い記載を否定抹殺して、
世間の人々を騙そう、とする・・・・詐欺師であった、ともいえる。 496>>749
投馬国は倭国第二の大国で、女王國以南の国
これだけで大和説者や類スレ主らは壊滅。 そもそも会稽東治の真東なら種子島辺りになる。
魏志倭人伝の距離と方角の記録はあてにはならんよね。 調べてみて、わかった人もいるでしょ?家の名前(父親)、
勝つ〜義?このような名前
『姥清水』
なぜか伊達郡の川俣町というところの話をしていたり >>79を見ながら↓魏志倭人伝を読んでみた。たしかに驚くほどよく理解できた。本当はどうか知らんがw
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm 九州説はついに自分で張ったコピペに自分でレスする作戦に出たようだ >>178
リンク切れスマソ
ttp://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm 川崎区・・・某という家、□件
という書き込みをしている人がいたでしょw
家は、勝〜という名前の家
貼り付けている、あの写真の家、
なぜか合致していたり >七万戸は、畿内第V様式土器の範囲だよww
畿内第V様式土器は、軽量薄型土器(「東阿波型土器」じゃないと何度言えばww @阿波 >>75
帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶→12000里→(自郡 至女王之所都 万二千里)
既に判っている中国大陸での距離を転用しただけってこと??? 496>>754
>帯方郡から離れる方向が南というのが陳寿の認識 <
陳寿は、「倭人在帶方東南大海之中」と書いたから、ほぼ「東南」方向だ、と見ており、
「南」という論は、×。
>身体尺、身体感覚の裏打ちのある部分は、信憑性が高い
大雑把なキリのよい数字は、現実の地理とは無関係 <
「余」の有無を使って計測事実の「近似値」説明をしているから、
信憑税も確率も高い。
>戸籍がある訳じゃないし、正確なはずもないが、
奴国二万個、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸の序列を疑う理由はない <
「有・・・戸(家)」で書かれた戸数は、
魏の役人たちの「実際の計測数の近似値」であった可能性が高く、
「可・・・戸」と書かれた投馬國と邪馬壹國は、
倭人からの伝聞や魏の役人らによる推定値であった可能性が高い。 http://dotup.org/uploda/dotup.org1927767.jpg
あやめ、しょうぶ・・・?など、
同じような植物が写っているでしょ
写っているのは父親ではないんだけどw >>148
余と書いてあるのが端数を省略していますよという意味だよ。 496>>761
>九州説では、水行と陸行の記述がまともに説明できないじゃないかww
それとくらべて、これははるかに整合性の高い説明だろ?
福岡付近から、出雲まで水行20日・・・<
「南≠東」などに拠って、×。 >>166
お題目を唱えるだけのキナイコシ
畿内説というのはどこかの宗教なのか? >>182
中華皇帝は万里以上の遥か彼方にある周辺民族(喋る牛馬=野蛮人)からの朝貢を受けるほど、徳の高さと見做す習慣があるらしいからな。 >七万戸は、畿内第V様式土器の範囲だよww
畿内第V様式土器は、軽量薄型土器(「東阿波型土器」じゃないと何度言えばww @阿波 496>>764
そうは行かないんだよ
大和説が行程から女王國の位置を割り出そうとする限り
「南≠東」などに拠って、大和説は確実に死ぬんだよ。 >>185
端数とは123里と細かい数字のこと
魏志倭人伝では100里、500里、1000里と大まかな数字しか出てこないので端数まで測ったというのは違うとはっきりしている
ゆえに余がついているのはそれっぽく見えるように書いてあるという事になる >しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
>ここ掘れ、わんわん。
まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。
女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。 @阿波 余が実測値(近似値)の端数省略の表示だとしたら
伊都国はピッタリ500里で奴国・不弥国はピッタリ100里ってことになるんじゃないか >>192
阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とjは、別格! @阿波 496>>767
>一寸千里の法は架空の法則<
一寸千里は、
洛陽付近の北緯35度付近の「大地平面」近似が成立する範囲付近では、
有用な法則。 >>192
阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とは、別格! @阿波 >>187
しいて言うなら九州説撲滅教だな
教義は真理を唱えれば邪霊九州説者はもだえ苦しみ消滅する
邪馬台国は大和国
三角縁神獣鏡は魏鏡
短里はなかった
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置はパプアニューギニアか沖縄
よって書いてある位置は架空のもので考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内 数十年前の写真だしな・・・、
だから、さいきば事件の人でもない
でも、さいきば事件と同じような?
亀がいるよ、酒が何やらで・・・うらしまたろう?かっぱっぱー? >>195
夏至以外では成り立たず冬至では全然合わない事が書いてあるから
一寸千里は無能な法則 >>192
阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とは、別格! @阿波 九州説を認められない畿内説は倭人伝を毀損してすべてを終わらそうとしているな
でも邪馬台国の称号はほしいから延々と粘着しつづけている
醜いね >>770
>以北でも以南でも畿内説には関係ないぞ <
畿内なんて存在もしなかった思想宗教的な嘘つき騙し文言であり、
投馬國は女王國以南が史料実態だ。
>畿内説の根拠は主に魏志倭人伝と考古発掘物の合致<
大和説は、倭人伝とは、考古でも、否定されている。
>九州説は邪馬台国が沖縄辺りになる会稽東治の東と書かれてる時点で根拠が失われている<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
会稽東治之東が、沖縄辺りにならなかった時点で、大和説は根拠が失われて破綻した。 畿内説はどんな親から生まれたのかあってみたいよ
さぞ詭弁を使うろくでなしから生まれたんだろう 496>>772
>学会ではとっくに畿内で決着済み<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの詐欺師の学会では、根拠にならず
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、証拠にならず、
国民の過半数に支持され、
中国学者らや国内の多数の学者らや世界の数多くの学者らに拠って、
支持された九州説で、決着済み。 496>>773
>畿内説の根拠は考古発掘物と魏志倭人伝の合致<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝にも、考古発掘にも、大和説は合致しないから、×。 >>201
邪馬台国が畿内という称号はとっくの昔に手に入ってるんだが
もしかして知らなかった >>193
ピッタリではなくても、かなり近い値なんだろ。
自分達でも測定誤差があることは理解しているだろうから、誤差より小さい端数はないことと同然だ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、やはり、一年中、5ちゃんねるのスレッドを進行させているのだな、、、 >>208
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、やはり、労働もせず、日本国民が収めている税金で生かして貰っているのでは、ないのかな。。。 496>>775
>魏の年号入りの三角縁神獣鏡<
△に、明帝下賜の景初二年以前の年号鏡はなく、
渡来の呉系楽浪鏡師らが製作に関与したものであり、
大和説否定の証拠。
>前方後円墳<
前方後円墳は、「卑弥呼の冢」でがあらず、
筑紫の前方後円墳は、3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などが始まりで、
大和の石塚は、撥型前方後円墳であって那珂八幡などの進化型であり、
庄内1の3世紀末であるから、
大和説否定の証拠。 >>210
破綻した邪馬台国畿内説を、このスレッドで宣伝している朝鮮人は、頭の悪さを日本人に笑われ、日本人がリラックスできるので、日本人の労働の活力源になるので、良いのではないのかな。。。 >>207
魏志倭人伝の里は一区画で4倍も誤差があるし
海上の島々の間は全部千里
端数まで正確に測ってたとは到底思えない >>202
トンデモ九州王朝説もなー
邪馬台国は無かったアタリで止めときゃよかったのにね
暴走の末がツガル偽書やら
畿内は無かったやら
地の底までも堕ちていく つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 >>207
だとしたらなおさら余の有無を使い分ける意味がなくなるのでは >>212
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記載
三角縁神獣鏡に年号が記銘されるなら景初三年
科学的調査で畿内の前方後円墳は卑弥呼の時代と重なっていると判明
魏志倭人伝にある径百歩の墓と大きさが適合 496>>776
>もちろんそれもウソ
テンプレでも、このスレの投稿でも再三検討結果が述べられている
ただし、なぜこんな間違いが起こるのか?というのは、「間違っている」という事実を踏まえた推定に過ぎないので、邪馬台国の位置の解明には積極的には役立たない
「起こり得ない間違いではない」と確認できればよい
比定地の特定には使わないんだから<
勿論、これもウソ。
「余」の有無で書き分けられているから、魏の役人たちの実地の計測値が元になって、
それを有効数字1桁位に「近似化」された数値になっており、
信頼性や確率が十分高い数値になり、殆ど間違っていない。 >>105
関西の古墳時代は、巨大前方後円墳と倉庫と土器だけw 496>>778
>終了しない 根拠に使ってないのだから
論理的思考の出来ないやつだな九州に<
「南≠東」などに拠って、大和説は終了している、 >>1
5ちゃんねるが活発化しているという嘘を、見せかけるには、頭が悪すぎるますね、、、 >>203
九州説は詭弁に翻弄され負ける虫ケラという事でいいの?
堂々と議論して負けたと言わな >>214
正確に測ったわけがない。
倭人の船に乗せられながら、目視で測っただけなんだから。
でも、測ってないとか、想定しただけの数字というわけではない。
郡使が通過したところだけ里数が分かると明言しているではないか。 >>217
畿内説には歴史捏造という不名誉がついて回る。 北部九州の緯度は魏の領内と同じ
魏領の南端ですらない
ましてや会稽など届きようもない
短里など存在する余地はない
陳寿の認識と違いすぎるのだ >>226
測ってない想定の数字だよ
魏の1里437mと大幅に違ってるんだからな
それに当てはまらない事ははっきりしている >>226
ほらな、九州説は根拠を全く言えない
ないからだよ >>227
畿内説は捏造なんて1つもしてないしそもそもする必要がない
九州説には感覚的に信じられない事だろうけど >>228
陳寿の認識って書いているけど、そんなもんなんでわかる?
君の想像だろ? >>227
>畿内説には歴史捏造という不名誉がついて回る。
というなら証拠出してね
出せないと
九州説に捏造屋という不名誉な名が
ついて回るよ 496>>779
>分からんねww 距離というか、
倭国本土(本州、四国、九州)上陸までが一萬里、
女王国まで萬二千里、 海峡の渡海一回は一律千里
これらは現実の地理と無関係の設定値で、もとネタも割れてる
万里は万里の修交という修辞
萬二千里は淮南子に見られる地の果てまでの距離の援用
渡海千里は、千里の名馬と同じ、遠いことを示す慣用句的な使い方<
ダメだ。
「余」の有無を使って使い分けられているから、
元の情報は、魏の役人たちの計測値が元になっており、
その有効数字1桁程度の「近似化」されたデータであり、
慣用句ではなく、信頼性も確率も高い数字。 人には証拠を求めながら自分の想像は確定事項であるかのように書き込むキナイコシw >>234
数字の余の有無は測定した証拠にならないよ
143里と細かい端数まで書いてあるならともかく >>232
>陳寿の認識って書いているけど、そんなもんなんでわかる?
>君の想像だろ?
いいや
「会稽東治之東」という記述から
合理的かつ明確にわかるのだよ
短里が存在するなら、そんな南にはならない >>192
阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とは、別格! @阿波 >>232
>陳寿の認識って書いているけど、そんなもんなんでわかる?
会稽東治之東というのは陳寿の認識でしょ? >>235
想像じゃなくて資料や発掘物からの推論だよ 会稽東治之東は陳寿の立場ではそこに邪馬台国がないと困るからそうしただけ
実際のところはそこにはないから長い里数を設定している >しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
>ここ掘れ、わんわん。
まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とは、別格! @阿波
女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。 @阿波 >>229
魏の里ではないことだけはわかっている。 >>241
>会稽東治之東は陳寿の立場ではそこに邪馬台国がないと困るからそうしただけ
おいおい
九州説は陳寿をウソツキということに
するのか?
それ、九州説の自殺だぞ 九州説にとって歴史論争とはいかに嘘をつくか
畿内説は見つかってる証拠からの推論 496>>780
>洛陽近郊の畑で1面見つかった<
0〜1個では、列島の500個位の△の説明にも証拠にもならないし、
△は、魏の敵国の呉系の鏡であるから、明帝の下賜の銅鏡百枚に選択される筈がない。
>そして三角縁神獣鏡そっくりの斜縁神獣鏡は古代中国ではスタンダード<
斜縁神獣鏡も神獣鏡であるから呉系であり、明帝の下賜鏡には採用される筈が無く、
洛陽付近からの出土も、非常に少ない。 >>243
>魏の里ではないことだけはわかっている。
なんで?
根拠は? >>240
でも魏志倭人伝では採用されていないみたいだね。 何かの「信念」に突き動かされて、邪馬台国を畿内にしなくてはすまない人たちもいるわけだ。
怖い怖い。 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 >>243
そうだよ
魏志倭人伝の里は帯方から会稽東治の東までを淮南子に由来する1万2千里に当てはめ
1里が50〜200mになるフレキシブル里または淮南子里とでも言うべきものが使われている >>244
実際に距離は明らかに誇張されているから仕方ない >>248
魏志倭人伝の記述を覆す考古学的証拠が出てきてるって話をしてるのに倭人伝で採用されてない云々は反論になってないぞ >>252
1里が50m〜200mのフレキシブル里が使われとりますな >>250
証拠から見て邪馬台国は畿内だから
当然の事を主張しているだけだよ >>249
>それ、畿内説の主張だろ?
証拠あんの?
最近の九州説は捏造多すぎ すべて本当の話
どこそこの学校(小〜などもw)を出たとかも聞いたことがないし、
なぜ詳しいんだろう、何かの家の人とか? >>258
纏向が邪馬台国の都である証拠は何もないけど?
あるなら書いてみたら?
何もないくせにw >>246
三角縁神獣鏡には魏の年号も入って
銅出徐州 師出洛陽と記銘
使われている銅の素材は魏の鏡と同一
洛陽でも出土
これを魏鏡でないとする方が非合理 >>252
帯方郡(ソウル)とか
戦前の人ですか?
www >>261
卑弥呼〜台与の時代の実在性の高い天皇の居城
崇神天皇(3世紀後半)居城 瑞籬宮(みずかきのみや)奈良県桜井市
垂仁天皇(3世紀後半)居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや) >>262
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」をぼう製したものだろう。 @阿波 >>261
テンプレにあるから反論しなよ
逃げ回ってないでさ >>266
碌な集落遺跡の無い纏向に、邪馬台国の都など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>261
>纏向が邪馬台国の都である証拠は何もないけど?
>あるなら書いてみたら?
ヒミコって書いた名札以外は証拠と認めない
とか言い出して九州説を永久に葬るのが
九州説だったりするんだな
九州説どこまで惨めになれるだろうな >>257
目視だったんだろうね。
だからその程度の誤差になってしまった。 >>264
つまり、卑弥呼なんか持ち出す必要はないんだよ。 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 いい加減に、纒向は尾張の傘下の流通センターだと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏の祖である饒速日物部氏の王国だったんだよ。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 >>207
>誤差より小さい端数はないことと同然だ。
こいつ、誤差の評価とか一切考えてないなw
完全にその場しのぎの思いつき、言い逃れを積み上げてるだけww >>268
そんな言いかたする前に纏向と邪馬台国が関連あることを示す証拠出せばいいんじゃね?
ないから出しようがないのはわかっているんだがw >>222
>関西の古墳時代は、巨大前方後円墳と倉庫と土器だけw
その前方後円墳と土器が全国に浸透していくんだから、
全国に影響を与える実態が畿内にあったことが確実
そして各時期のもっとも巨大な前方後円墳は最初から最後まで畿内で作られ続ける
そこが王権の所在地なのも論を俟たない >>277
だから、なんか言いたいなら
テンプレに反論すればあ?
なんにも出来ない無能は家で引きこもってればよいし >>269
測ってすらない
>>270
邪馬台国=大和国
>>272
卑弥呼の王宮は纒向にあった可能性が高い >>278
碌な集落遺跡の無い纏向に、邪馬台国の都など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
>・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
>ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 >>279
>その前方後円墳と土器が全国に浸透していくんだから、
その両方、倭国(阿波)の専売特許 だと、何度言えばw @阿波 >>226
>郡使が通過したところだけ里数が分かると明言しているではないか。
はいまた捏造ww
郡使が訪問したところ=女王国より以北の国は「戸数道里可得略載」だ
東南陸行五百里は余がついてないけどキリのいい数字だよな?
測ってないんだよ なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?
近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 邪馬台国、初期のヤマト政権は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、やはり、労働もせず、日本国民が収めている税金で生かして貰っているのでは、ないのかな。。。 >>279
なにかしらの王権があったことは誰も否定していないだろ
その王権が邪馬台国である証拠は何もないという話
畿内説の人は「ここに立派そうな王権があったみたいだから、これ邪馬台国じゃね?」と言っているだけ それにしても、このスレッドのテンプレートを考えた
者は、頭が悪すぎるな。。。 >>278
いやあ、何棟くらいを大集落と呼んでいるのかなと。 >>285
400里でも600里でもないということだろ?
何が不満だ? >>291
>なにかしらの王権があったことは誰も否定していないだろ
碌な集落遺跡の無い纏向に、「なにかしらの王権」など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>291
何もないって証拠は?
そういうのを悪魔の証明という
みわなから忌み嫌われる
それが九州説
だが >>291
全くその通りです。
邪馬台国を絡めずに、後のヤマト王権になりますと説明しておけば、波風は立たなかった。 >>292
改行する箇所が、間違えられてしまいましたね、、、 それにしても、このスレッドのテンプレートを考えた 者は、頭が悪すぎるな。。。 >>232
>陳寿の認識って書いているけど、そんなもんなんでわかる?
>君の想像だろ?
陳寿の撰述した史書に、倭は会稽東冶之東という南国で、その習俗も所有無、與儋耳朱崖同と
海南島と同じと書いてある
陳寿の認識では「倭は実際よりもずっと南国だ」というのは魏志倭人伝のテキストから分かる
想像ではなく論理的帰結だよ 纒向の大集落には数棟の建物があったが、疎らだった可能性が高いな。。。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 >>241
>会稽東治之東は陳寿の立場ではそこに邪馬台国がないと困るからそうしただけ
「陳寿の立場」wwwww
なんでそんなことが分かるんだい? 邪馬台国畿内説が破綻した理由は、何なのだろうか、、、 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で書かれている)。 >>296
なんで何の関係もないと思い込んでいる人がわざわざ関係ないことを証明しないといけないの?
うちこそは邪馬台国です、と言っている場所全国にたくさんあるんだけど、
自分の考えと違う場所については全て無関係である証拠を提示しないといけないのか?
アホじゃね? >>243
>魏の里ではないことだけはわかっている。
また、ブーメランだよ、この人はw
つ>>235「自分の想像は確定事項であるかのように書き込む」wwww
魏の里以外の里なんてない
度量衡の制定は皇帝の専権事項!
それこそ西晋の役人をやってた陳寿の立場で、公定尺の体系から外れる里なんて使えないよww
それは魏使の立場でも同じだww 巻向には、魏志倭人伝時代の都市がないことがバレたので、邪馬台国畿内説は破綻してしまいましたね。。。 >>307
自分の考えと違うならほっとけばいいじゃん
他人の考えを否定するならそれ相応の根拠が求められるのは当たり前 >>252
t-分布、t-値は使えない
比率変数で0をまたぐ信頼区間は無意味 邪馬台国畿内説が破綻した理由は、何なのだろうか、、、 >>305
倭人伝をテーマにしておきながらの徹頭徹尾倭人伝軽視に尽きるだろうね >>312
邪馬台国畿内説が破綻した理由は、たくさんあるが、空気シャワーの威力が公表されたことが致命的だったな、、、、 >>253、>>257
>1里が50m〜200mのフレキシブル里
短里があってそれで正確に測った、というこれまでの九州説の主張は
死んだということでよろしいかな?www 纏向学者はいいかげん邪馬台国をわが物にしたいという願望から解き放たれるべきだと思う
そうすれば歴史捏造に手を染めないで済むというのに >>310
それは君にも言える話だね
たいした証拠も出せないくせに、他説を罵倒するのはどうかと思うけど >>265
「天河別神社古墳群」では、三重の丹生鉱山の水銀朱が使われてるね!wwww >>315
ああ
魏志倭人伝は1里75mの短里で書かれてるという古田の短里説は間違ってた事が判明 >>269
>だからその程度の誤差になってしまった。
4倍異なるのは誤差とは言わないwww あと当時の倭国(不明)の、
どこに天子、天皇(天王)がいたんだという話にもなってくるし、
天子というのは、たしか中国にいたんでしょ?
倭国にいたというのも、
むかーし(身内の自称)だから通用したのかもしれないけど、
とある時代になってから〜・・・・・〜現在では「❓」? >>291
>その王権が邪馬台国である証拠は何もないという話
その王権が邪馬台国ではないとみなす合理的な理由がない
前方後円墳と祭祀用供献土器の分布で、その王権の影響範囲が分かり、
そこに北部九州も入っている
そして北部九州の奴国は魏志倭人伝にも出てくる女王に属する国
奴国に影響を与える畿内以外の王権の存在など影も形もない
畿内を別の国と言いたがるのは九州説のご都合主義でしかない >>306
帯方から沖縄らへんの会稽東治の東の邪馬台国まで1400kmほどだから
1万2千里の1里は120〜130mくらいだぞ 天帝が〜というのも同じ
仏教というのがあるでしょ、
入ってきてからというのも有名な話みたいだし
専門家に聞いてみたほうが良い 496>>808
>九州説こそ根拠もなしに短里短里言ってるだけだろ<
大和説こそ、根拠もなく「南→東」と言い、
「魏の役人たちの里記載」や「余の存在」や「有と可の書き分け」などを、
隠蔽無視しているだけだろ?。 >301
だったら沖縄か種子島、最低でも鹿児島あたりなのでは?
九州説って何故か北九州主張するけど、北九州だと全く「会稽東治の東」にならないよ。 >>316
畿内説は歴史捏造なんて
してないんだよ >>325
畿内説で魏志倭人伝の方位は南→東なんて誰も言ってない 「余の有無が使い分けられているから実測値」
これがどういう理屈で言ってるのか分からない 九州王朝説の主張(wiki「九州王朝説」より要約)
・邪馬台国は伊都国(福岡県糸島市)に所在。
・倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州人。
・磐井の乱の磐井は、実は武烈天皇。
・遣隋使も、九州の倭国が送った。
・白村江の戦いも、九州倭国が戦った。
・壬申の乱も九州で戦われた。
・天武天皇(大海人皇子)の兵は、美濃兵ではなく畿内兵。
・壬申の乱で九州が荒廃したので、畿内に遷都した。
・古事記・日本書記は、九州のことを書いた歴史書。
・万葉集の歌も、ほとんど九州で詠まれた。
・伊勢神宮は熊本県八代市にあり、8世紀の前半に伊勢に遷った。
眩暈がするような妄想の数々。
まさに「九州原理主義」と呼ぶ他はなく、「地球平面説」と同レベル。
これは何を言っても、どんな物証を提示しても、
絶対に自分たちの妄想を捨てることはないと思う。 >>294
>400里でも600里でもないということだろ?
>何が不満だ?
「余」がついてないだろ?
つまり、端数はない訳だww
>>185で「余と書いてあるのが端数を省略していますよという意味だよ」って言ってるんだからwww
ちゃんと測って500里ちょうどってことがあると思うか?
そしてこの二つも矛盾
>>207「誤差より小さい端数はないことと同然だ」
>>257「1里が50m〜200mのフレキシブル里」
50キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
これを誤差というのか?ww
そして誤差より小さい端数ってどれくらいを言うんだ?ww
九州説は常にデタラメww 496>>813
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
九州説が、国民の過半数の支持があり、
中国学者も殆どが大和説者であり、
世界の学者らにも人気がある通説だから、
憎くて仕方ないのだなあ >>306
>それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
現実の地理と無関係で、実測値ではない「設定」された値に「縮尺」は定義できない
九州説は常にデタラメww 倭の属国で滅亡した百済の王の子孫だか知らないが
日本の天皇家の家来だし
中国王朝も何度も滅亡してるしな >>333
今は少なくともそう主張する人は居ないよ >>813
>周髀算経は、一里1800尺で書かれているし、短里を否定する書でしかない <
周髀算経は、一里≒76.5mで書かれているし、
長里を否定する書でしかない 桃太郎の話などがあるでしょ、
何の話なのか?とか、そうなってくるし、
先住民退治だと言っている人がいたり >>337
長里は否定されんだろ
証拠がはっきりあるし 1里50m〜200mのフレキシブル里はいいぞ
実際魏志倭人伝はそうなってるし短里と違って魏に存在しない魏志倭人伝のみの特別仕様である事も認める
九州説は短里説を捨ててこっちを採用すべき 邪馬台国、ひみこ?
鬼何やらだという事を言っている人がいたり、鬼の国? 496>>819
三角縁神獣鏡は、
卑弥呼が魏に使いを送った景初二年やそれ以前の年号は書かれておらず、
景初三年以後の魏の年号しか入っていないし、
素材に使われている銅は、徐州銅が多く、魏・晋代のもののかなりとりあえず共通
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないし、
径百歩は長径だから大和の巨大墓に適合しないし
大和では3世紀末以後になるものである。
一方魏志倭人伝に書かれている行程は
女王國の位置は、沖縄か台湾辺りには、ならず、
会稽東治の東とあり
現実的な場所はかかれているので、
考古的証拠から女王國は九州島付近である可能性が非常に高い 鬼でしょ?
英、米・・・ロシアのことではないという話みたいだし、
何なんだろう、邪馬台国? 496>>820
いいか?
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説ってのは多かれ少なかれ
「ワシの発見した正解の読み方で倭人伝どおりに進めば
大和に着く筈なんじゃ〜」 なんだよ
「会稽東治之東」の一文で
正解の読み方だとな九州島付近だと証明されたんで
大和説は、もう死んでるわけよ
知能があれば、わかることだぞ 496>>822
「南≠東」や「始皇帝里はないと思っている」けど、
魏の役人たちの里記載は、
実際よりも短い里で書かれてあるのは事実だからしょうがない 九州説論者諸兄はまず九州のどこに比定するつもりなのか統一してほしい 『豆まき』
この状況を見てみて・・・・・・、
よくわかりませんというものばかりだから、
邪気を祓うとか、そういうのでしょ
邪馬台国?大豪院邪鬼? >>347
それは短里じゃなくてフレキシブル里でだけどな 本当に、おかしな話ばかり
倭人・・・実際は邪鬼なんだけど、 仮にフレキシブル里なるもので説明できるとして
なぜわざわざそんな倭人伝の中でしか通用しないもので記すのか 倭人というのは邪馬台国関係の人々のことでしょ?
・・・・・・・・・・・・・・おかしな話ばかり だからさ「会稽東治の東」だっつーんなら、種子島か奄美大島になるんだよ。
九州説は九州のどこを支持してるわけ?
「会稽東治の東」にこだわるなら北九州よりは奈良の方がより方角的には東に近いぞ? >>356
帯方から倭国まで1万里
邪馬台国は会稽東治の東で計1万2千里の辻褄合わせ 帯方から倭国が一万里っつーのもよくわからん。
倭国の北限は弁韓のあたりじゃん。
魏志韓伝に書いてある。 >>360
何のために?
辻褄合わせの結果特別仕様の里とかいう訳の分からない矛盾が誕生してるけど >>362
邪馬台国は会稽東治の東で帯方から南1万2千里がまず最初にありき
そこは実際の1万2千里ではないから結果倭人伝特別仕様の里になる >>363
その理解だと、邪馬台国の位置を示すのに、まず全体の距離を設定してそれから1里あたりの距離を決めたってことになる
公式の距離単位があるのにわざわざ特別仕様の単位を作って全体の距離を設定する理由が分からない 気づいているだろう、他のスレの話になるんだけど、
脳内軍師(指揮者?)wがいることを、どこの池沼なんだろう 何の権利(権限)もない人間が偉そうなことを語っていたり、
ただの池沼なんだろう
それと日本の漫画やアニメ、ゲーム・・・その他など、
なぜ家の話なんだと思う?実際に家の話 成り済まし、騙り・・・w
何なのか知らないけど、終わりにしろと言っているんだよ
何度言えばわかるんだ 謎の漫画や小説なども、
モレ(仮)や、もれ(仮)の親戚などがいればな〜みたいな設定(話)なんだろうけど
家は軍人や警官などでもないと言っているし、
何なんだろう 寺院に通っていた・・・、仏教徒になっていたとか?
謎の漫画なども確実に家の話だしな、
銀〜という人がいて、謎の刀(劔?)を持っていたり、
・・・、・・・、・・・、・・・w 髪の色が〜不明?・・・なぜか浦島太郎と同じでしょ?
たしか小学生の頃に演じたことがあるんだけど、ウラシマンの役w
当時・・・なぜモレ(仮)がウラシマンの役を演じたのか、
そこまでは覚えていないんだけど、何か知っている人がいたのかな? 謎のサイバーパンク(special)wというコミックも同じだしな、
とくにロトちゃんというキャラが出てくる作品
川崎区の南部のほうの話? 観たことないから、わからないんだけどww
偶然なのかな?『デスラー』同じような植物? 『オジギソウ』の類でしょ?
お辞儀をすると、お辞儀をする、
河童のwikiにも書いてあるし、シダの葉の話も
偶然なのかな 実物の写真は銀色(灰色)のような色なんだけど、
きゅうりの葉?の写っているほうの写真のような色
制服を着ている子供w
軍人でも警官でもないし、父親母親も、そういう人ではない >>363
それ、陳寿がウソを書いたと言っていることになるね
ならば九州説そのものが崩壊するじゃないか
残念な結果になったものだな >>317
>たいした証拠も出せないくせに、他説を罵倒するのはどうかと思うけど
九州説支持者がウソを書き込んでいるという
明確な証拠はいくつも出てる
ウソをつく人は罵倒されても仕方ないと思うけど 数年前のメーソンの陰謀というスレ
真似なんてしているから、こんなことになってしまった
と言っている人がいたでしょ?
家の真似をしていたと言いたいんだろ? 『三貴子』
龍宮〜聖造〜?とか、
ほとんど合致しているし、何かを造ったりする家とか人物でしょ 『メーソン』?
『王母 龍宮 鳳 寒いな〜』聖造〜? なぜか某マイク・オーの曲(MV)と、
海底に潜り、鳳凰・・・・・同じ?
妹の話なのかな?5月15日生まれだしな MVの終わりのほう・・・溺死??のような映像もあるし ほとんど同じだしな
『何者にもなれない お前たち』? >>364
1里あたりの距離なんて決めてない
帯方から九州まで南に1万里そこから沖縄辺りの邪馬台国まで2千里
その間に実際とは違うけどそれらしくなるような里を適当に配置した >>365
後漢の国境が楽浪
魏の時代が帯方
淮南子では漢の国境より1万2千里四方が世界の果てとされていた
1万2千里は世界の果てまでを表わす記号的数字 >>377
陳寿が書いたというよりは魏での政治的決定
漢の政治を踏襲したいから倭の極南界の国が朝貢しに来た事にしたかった >>390
倭人伝のデータソースが歪んだ理由としては妥当だ
しかし「計其道里」とある史料事実を否定すれば
九州説が破滅することは動かない
道里の信頼性が消失するからだ >>391
計其道里とあるから道里を測定したとはならんね
1万2千里は世界の果てを意味する記号的数値だから実際には計測しようがないもの
邪馬台国の位置にその架空の数値が使われているという事は
計其道里というのは架空の事 倭人伝に載っている倭への里程が「短里」で正確だとか、現実的な記録を一定の割合で等比拡大したものだとか
そういった説に何の根拠もないことが既に明らかとなっているわけだもの
永く考古学的に否定されてきた九州説は、さらに文献的にも無力化された
完全なる崩壊だね >>392
>計其道里とあるから道里を測定したとはならんね
誰もそんなことを主張していない
「計」だから、筆者が机上で計算して倭の在る位置を推定した
史料には、そう書かれている >>356
>仮にフレキシブル里なるもので説明できるとして
>なぜわざわざそんな倭人伝の中でしか通用しないもので記すのか
フレキシブル里といった時点で、
短里できちんと測った値だから、短里で萬二千里のところに邪馬台国があるという主張が死ぬんだよ
短里で萬二千里しか九州説の根拠がないのに、フレキシブル里といった時点で九州説は全滅だ
まあその前に、投馬国は女王国より以北の国で壊滅してるんだけどねww 内訳の部分里程はテンプレに載ってるようなのが現実的だろ
三回渡海という情報があるから1万里を七三に割った
県くらいの規模の国々は百里間隔とした
里程が千里単位から百里単位に急に変わると不自然だから末盧−伊都間は中間をとって五百里にした
あと二千余里だが、二ヶ月くらいの旅程という情報があるから無難なとこだろ
こんな、程度 >>363
>邪馬台国は会稽東治の東で帯方から南1万2千里がまず最初にありき
つまり測ってないんだよww
畿内説の言ってきたことを追認しただけw
つまり、萬二千里は比定地探しには使えない訳だ
九州説死亡w >>377
>それ、陳寿がウソを書いたと言っていることになるね
嘘を書いたんじゃなくて、陳寿は倭国の地理がよく分かってないんだよ
どちらにしても萬二千里は現実の地理とは無関係な値
>ならば九州説そのものが崩壊するじゃないか
その通り!
・短里という決まった値があった
・短里で計測した値で書いてある
・萬二千里は実測値
が全部正しくない限り、九州説は全滅ww 政治的な意図で作られた捏造数字を、陳寿がまじめに机上再現したら、倭は会稽と海南島の間くらい南の場所と出た
南方的な風俗だって情報とドンピシャだったので、陳寿は納得してしまった >>394
その計算も架空のものだろ
最終的に架空の場所を架空の数値で示しているから >>392
>計其道里とあるから道里を測定したとはならんね
その道里を計るに
この場合の「計」は、「計測」ではなく「計算」 「水行二十日」「水行十日陸行一月」は
水20+水10+陸30なのか
水20+(水10 or 陸30)なのか
どちらとも解釈できる
どっちにせよ九州外なのは間違いない
北部九州から奈良までの日程だとすると合理的な説明がつく >>402
>水20+水10+陸30なのか
>水20+(水10 or 陸30)なのか
上の解釈で正しい
or で示されている例なんてないし、
水10で行けるところをわざわざ陸30で行く必要がどこにもない 496>>826
>なので魏志倭人伝は計測不備な概念的な里で書いてあるだけで
短里という単位があるわけではない <
魏の役人たちが「余」の有無で書き分けている「短い里」が全部に存在する、
という史料事実や史料実態が存在する限り、
魏志は、(始皇帝度量衡ではなく)魏朝が定めた「里の寸法」で書かれている、
というしかない。 >>402
奈良だという根拠がない。
九州北部が起点だという根拠もない。
なんの証拠もない我田引水の妄想。 >>398
>どちらにしても萬二千里は現実の地理とは無関係な値
畿内説の立場にこだわり続ける限りは、そう言わないといけないわけだ。
邪馬台国論争から降りたら? 496>>830
>会稽東治(冶)は現在の福建省福州市の辺り その東は沖縄か台湾<
陳寿の頃の会稽東治は、揚州の監理下で、その東はほぼ九州島付近。
はるか後代の後漢書の解釈に拠る「会稽東冶」は、根拠にならない。
拠って、「沖縄か台湾」説のこの男は、×人間。 496>>831
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、痴呆特有の妄想だねー 496>>834
この人(類スレ主)は徹頭徹尾、悪意のある書き込みしかしないな
東大に入る程度の頭脳があれば、そんな無駄な態度には出ないものだが
>北部九州から大和までの行程は、木簡(竹簡)で記録して持って帰ったとするのが妥当
現代の紙のノートと比べて嵩張るし、木簡一本に書ける字数も少ない
事細かに何でも記録し持ち帰ることができたと想定することはできない <
「南≠東」に拠って、そんな行程は存在しなかった。
>で、水行部分に関しては、測量にしようもないし岬を一つ回るごとに進行方向が変わるし、
海岸に沿って水行する場合は、特に方角を記録しなかったと考えるのは妥当な推定 <
・・・・アホ詐欺師の東大博士では知らんが、
普通の成人は、船上であっても、太陽や月や北極星などによって、東西南北位は大体分かるもの。
>そして、丹波に上陸してからの陸行は南向き
北部九州から大和への行程で、水行部分は方角の記録なし、陸行部分は南行き
これが、陳寿の利用できた情報であれば、全体が南と記されるのが妥当
方角についても、ちゃんと考察してあるんだよww
距離については、設定値だから現実とは無関係と何度も説明している
陸行一月が一日の間違いとかいういんちきとは違うんだよww<
「南≠東」などに拠って、類スレ主は、×人間。 >>402
南を東と解釈するやつが水行陸行に固執するそのセンスがわからんw 496>>841
>不彌国までではまだ1万700里 九州上陸してから700里しか進んでない<
その解釈でも、一海峡の千余里よりも短いから、北部九州内にしかならない。
>邪馬台国まではそこから南に水行陸行計二ヶ月<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているのだから、
「そこから南に水行陸行計二ヶ月」と読んだこの男が詐欺師であった、事になる。
>沖縄か台湾あたりの会稽東治(冶)の東になると魏志倭人伝には書いてある<
勿論、全く書いていない。 496>>845
>九州説は単純に「投馬国は女王國より以北の国」だけで壊滅するから簡単でいいけどね<
東大博士号のアホの類スレ主の大和説は、
単純に「南≠東北」と「投馬国は女王國より以南の国」だけで壊滅するから、
簡単でいいけどね 496>>848
>魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は 恐らく漢からの伝承である倭国の都倭奴国の位置
楽浪より南1万2千里で倭の極南界の会稽東治(冶)の東に邪馬台国を当てはめて書かれたもの<
倭人伝は、(形容数詞の断定数値ではなく)、
「余」の有無で区別された書き方をしており、
魏の役人たちの実地の計測記録を元にしたものだ、という事になる。 >>414
お前が糖質だからコミュケーション取れてないだけだぞw >>415
>「余」の有無で区別された書き方をしており、
そんな「書き方」が、あるなら
捏造したい輩が飛び付くよ
ww >>413
理由が書いてあっても読み取れないか無視しているだけだよね。 496>>860
行程論で敗れて以来
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
消滅へのカウントダウンが始まっているようだのう >>420
理由を書かないで、そんなデタラメの言い訳だけする九州説に、どんだけ嘲笑が集まるかね
w >>420
つねに無い袖振るのが九州説らしいところ 496>>862
>短里はないし<
魏の役人たちの記録実態は短里。
>魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は
会稽東治(冶)の東で場所で言えば九州を飛び出した南の海上<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、女王國は、ほぼ九州島付近。
>そして畿内には考古学的証拠が揃ってると書くだけで九州説は論破されるものだから
楽なものよの <
畿内なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
考古でも、大和の前方後円墳や庄内は、筑紫のずっと後の3世紀末以後であり、
卑弥呼の時代から全く遅れ、
九州倭国の「東征毛人五十五國」時代まで下ってしまうから、
楽なものだよな。 >>398
こいつはアホだから気がついてないけど、仮に方角距離が正しくないとしてもそれは振り出しに戻るだけで畿内説が有利になることはない
魏史倭人伝の遺物が皆無の畿内が邪馬台国になることは皆無
そうすると倭国全体の風俗を表してるからと逃げるが九州や朝鮮の物が纏向に出ない時点で終了
既に誤りが指摘されている炭素年代測定法に頼って纏向と纏向古墳群を3世紀認定して逃げるしかない
そして査読のある論文を出してる学者の数で勝負しようとしているが、邪馬台国=奈良の論文を誰も出していない
纏向遺跡が本格的に調査されはじめたのは最近であるにも関わらずだ >>425
相変わらず具体的内容ゼロだなあ
ここまで事実と乖離した認識を持ってると
つける薬もないな >>427
そこまで言うなら畿内説こそまともな証拠出せばいい
ろくな証拠がないから論争になっているだけだ
畿内説論者だけが内輪で納得する「証拠」出してみてもそんなものは証拠と呼べるようなレベルの代物ではない >>427
君が認識している「事実」は本当に事実かな?
畿内説の書き込みを見ていると、仮説を事実と誤認しているようにした見えない。 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 そういや14世紀から継承されてきたと言われていた奈良の日章旗が、年代測定の結果15〜17世紀のものと判明してたな。
何でも古く見積もる畿内虚言癖w
比較的新しい遺物だが、炭素年代測定では200年の幅を持つ事を改めて示しているわけで、畿内説の発表する年代がインチキであることは明らかw 496>>863
>その通りだ。
長里がないのに「短里ありまーす」と言った方の頭がフルかっタ。
倭人伝の里とか、東夷の里とか、倭の里とかいうべきだったのさ。<
ダメだ。
45年位前の古田さんの第一書の時には、
既に誰かが「短里」という意味の文言を書いていた筈であり、
それを古田さんが踏襲された。
また、「短い里」は「倭人伝や東夷や倭」だけではなく、
三国志全体でも随所に存在した事も確認され、
その後、周髀算経や山海経などや淮南子や漢書注や魏略や後漢書や、
梁書や江表伝などでも見つかった。 >>429
証拠?
テンプレにたくさん書いてあるだろ?
そして九州説は反論ができない どうでもいいことだけど、コークリ君最近見かけないな
ビザ切れで帰国したか 496>>871
>そもそも魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置が架空のものだからさ<
「余」の有無での書き分けがあるから、魏の役人たちの計測値が元になっている。
>不彌国から先はあまり現実的ではない旅程<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
魏の役人たちは、不彌國からすぐ先の女王之所都止まりであり、
二か月も行った、という説が×。 >>420
九州説くん
>>428-430にどこか「理由」が書いてあるなら
その部分を抜き出して書いてごらんよ
できる? >>438も見てごらん
この何処に理由が書いてある? 496>>875
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
考古学的証拠でも、大和は筑紫よりも50年位後の証拠ばっかりであり、
九州説にはダメージ全くなし
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説だけが、ダメージを食らう 496>>876
>魏の役人は実際には女王国まで行っていない可能性はある
魏に本当の首都の場所知られて攻め込まれたら困るし、本当のことはあえて教えなかったのかも
そう考えれば途中まで細かく書いてあるのに、突然大雑把な説明になることの説明はつく<
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔」
であり、魏使らが、卑弥呼に直接「拜假」した、という事は、否定出来ない。 496>>882
>帯方より南1万2千里が指しているのは九州を南に飛び出す<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまうから、南に飛び出さず、
この男は×人間。
>会稽東治の東 <
揚州の管理下であるから、その東は、ほぼ九州島付近。 496>>885
>それを言うなら九州説は畿内説スレに何で書き込みに来てるんだよ<
国民の7割の反対にも拘わらず、
「南→東」などの明らかな嘘つき騙しの大和説を、
学会教育界や右翼マスコミや安部政府文部省らが宣伝している、
という事が、
(子や孫らのためにも)黙過し難いから。 >>434
畿内説くん
テンプレにどこか「理由」が書いてあるなら
その部分を抜き出して書いてごらんよ
できる? >>438
>「余」の有無での書き分けがあるから、魏の役人たちの計測値が元になっている。
ふむ。
理由と結論が綺麗に対比されて書いてあるな。
畿内説はなぜこれを「理由が書いてない」と言うのかな? >>434
自分でよく読み返してみな
纏向が邪馬台国の都に違いない、という先入観をもって見れば「証拠」に見えるかも知れんが、
そういう先入観のない人が見たら全く証拠にならんよ
論ずる意味もないレベルのテンプレだよ >>432
纒向も100年ほど古く見積もってる可能性があるからなw >>444
>揚州の管理下であるから、その東は、ほぼ九州島付近。
めちゃくちやだな
揚州の管理下だろうが交州の管理下だろうが
会稽の位置は変わらない
東京都の管理下だって沖ノ鳥島が北上しないだろ?
九州説は人類の常識を持ってないのか? 畿内説が根拠と呼んでいるものは、ほとんどが仮説に過ぎない。
それを事実であるかのように語るのは詐欺。 >>434
纏向が邪馬台国の都じゃなかったら予算大幅に削減されて、
キナイコシ君は失業の危機を迎えるだろう
だから必死になるのは理解するがw >>448
>理由と結論が綺麗に対比されて書いてあるな。
>畿内説はなぜこれを「理由が書いてない」と言うのかな?
知能があれば「理由が書いてない」ことがわかる
まず
「余」の有無での書き分けがある
という事実の摘示がない
次に
「余」の有無での書き分けがある
と
魏の役人たちの計測値が元になっている
の因果関係証明がない
つまり、まったく理由が書かれていない
理も由も無いのだ >>452
という証拠は?
九州説はそんなに証拠が嫌いなの? 畿内説は本当に自分たちの説が正しいと考えているなら
なぜこんな便所の落書きのようなスレばかり立てるのか?
纏向が邪馬台国の王都であるという自分たちの考えを世間になかなか理解してもらえないことを自覚しているからであろう
纏向説は証拠がある!と言いながら、実はなかなかまともな証拠が見つからないため、
予算削減の恐れに怯えながら工作活動に励んでいるとしか思えない >>449
>自分でよく読み返してみな
>纏向が邪馬台国の都に違いない、という先入観をもって見れば「証拠」に見えるかも知れんが、
>そういう先入観のない人が見たら全く証拠にならんよ
その断定をぜんぜん立証できてない
という九州説のなさけなさ
九州説がいつもすぐ論破される理由が
よくわかる >>458
ほら、そんな程度の悪口しか言えない
だから九州説は・・・ >>459
君たちの提示する根拠の大半は仮説や妄想から出てきたもの
客観性のかけらもないことは明らか 畿内説は畿内説を立証できていないことを憂うべきだ。 596>>887
>魏鏡の三角縁神獣鏡に景初三年と卑弥呼が魏に使いを出した年の魏年号<
明帝は景初二年大晦日〜元旦に亡くなったから、既に銅鏡百枚は揃えられており、
景初三年以後の鏡は、明帝の下賜鏡ではない。
>卑弥呼の墓は径百歩とあり<
「径」は不定形の長径表示であり、卑弥呼の冢は、前方後円墳ではない。
>畿内の三世紀にそのぐらいの前方後円墳 <
一番古い石塚でも3世紀末であり、卑弥呼の3世紀前半末ではない。
>魏志倭人伝の記述と考古物が一致<
大和は一致しない。 なぜみんなが纏向が邪馬台国の王都であることに同意してくれないのだろう、と考えるなら、
他説を罵倒する前にもっとまともな証拠出せばいい
他説を罵倒しまくったって纏向説を信じる人が増えるわけじゃない キナイコシはこんなクソスレで便所の落書き書いている暇あったら纏向行って発掘調査でもしてこいよ
まともな証拠が見つかるといいね 496>>888
文献でも考古でも九州であり、大和説は終い
大和は、文献でも考古でも×であり、生き残らない。 >>427
具体的内容を述べる場ではいと思ってるからね
前のスレのレスでは内容を具体的内容を述べてるよ 496>>889
文献でも考古学的にも証拠のない大和説。
そして大和説は、行程論にも頼れないし、
女王國の位置は、
魏志倭人伝に「沖縄か台湾辺りの会稽東治の東と書かれていなかった」から、
滅亡 >>464
>畿内説は畿内説を立証できていないことを憂うべきだ。
「畿内説は畿内説を立証できていない」
が事実だという証拠は? >>406
>畿内説の立場にこだわり続ける限りは、そう言わないといけないわけだ。
相変わらずだなぁ、この人は(憐憫)
短里があるっていうのはデタラメ
・特定の長さもないし、比例縮尺関係もない
・正始弩尺等、古尺の現物資料も実在し、すべての史書が一里1800尺となっている
・三国志でも一里437メートルで矛盾はない 魏朝の度量衡は通常の魏晋里
・漢土の外のことは誇張して距離を遠く書くバイアスがかかっている
萬二千里は淮南子の世界の果てまでの距離からの援用
・遠く誇張して書くために、最遠の地を想起させる萬二千里を使っている
・淮南子を援用していることは、裸国、黒歯国の記述からも明確
萬二千里が現実の倭国を指していないことは確定
・陳寿自身が会稽東冶之東としている
なんか反論あるかい?
反論するなら具体的にね!ww
東夷伝がウンチャラってのは、ただの循環論法だし
韓地方四千里は、10000里ー3000里=7000里の循海岸水行の
つじつまあわせだってのも既に説明してあるぞww
周髀算経も一里1800尺で書いてある
九州説の短里の根拠はすべて否定済みw >>469
>具体的内容を述べる場ではいと思ってるからね
思う理由は?
>前のスレのレスでは内容を具体的内容を述べてるよ
具体的に、何処でなんと?
いつも九州説なかみ無さすぎ 496>>891
>なぜ邪馬台国の位置は沖縄辺りになる会稽東治の東と書かれているのか?<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
「会稽東治の東」は、「沖縄辺り」にならず、ほぼ九州島付近であるし、
それはおそらくこの大和説男が、・・・・アホ詐欺師であるから。
魏志倭人伝はその伝承に則す形で書かれているのである >>473
お、頭めちゃくちゃ悪い方か
生きてて楽しいか? >>425
>こいつはアホだから気がついてないけど、仮に方角距離が正しくないとしてもそれは振り出しに戻るだけで畿内説が有利になることはない
>魏史倭人伝の遺物が皆無の畿内が邪馬台国になることは皆無
バカダナァ、こいつはww
魏志倭人伝での邪馬台国固有の記述は以下のとおり
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人
これ以外は、倭国の情報であって女王国連合のどこかにあればよい >>476の続き
・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる 496>>893
実際そうなんだから仕方ないだろ 嘘でも何でもなく
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝に書かれているに陳寿の女王國の位置推定は会稽東治の東であり、
これは現在の地図で見たら九州島付近であり、
「沖縄や台湾」には全くならないから、
この男は・・・・アホ詐欺師の大和説者。
おそらく、議論に負けたら、京都アニメのような放火事件を起こすタイプ。 会稽東治の東は九州にならねーっての。
せめてグーグルマップっ確認してからレスしろよ。
そこにあるのは種子島か奄美大島だから。
九州北部に邪馬台国があるのなら北東になる。 どうせ言っても無駄だろうがレスの7割が九州説の異常者の妄想で、残りがそのバカを相手にする内容で埋め尽くされてるんだが
いい加減にまともな話をする奴いないのかここは >>458
>纏向が邪馬台国の王都であるという自分たちの考えを世間になかなか理解してもらえないことを自覚しているからであろう
この人の脳内は、宗教的な信念で一色に染まってるんだなw
つ 現実
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の
発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として
有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 2018年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の
纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、
この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 2017年)
世間に認められないどころか、保守的な教科書の記述も邪馬台国は畿内に舵を切ってるよ
次の学習指導要領の改訂で、明記されるんじゃない? >>462
>君たちの提示する根拠の大半は仮説や妄想から出てきたもの
「根拠の大半は仮説や妄想から出てきたもの」
これを具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
逃げるばっかりでさww
>客観性のかけらもないことは明らか
どこがどう「客観性のかけらもない」のか、具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
逃げるばっかりでさww >>475
すぐ答えに窮しては
罵りだす九州説
無能すぎる
負けすぎ 496>>894
どうやら大和説ももうこれまでのようだな
論破されてイライラするなら大和説は書き込まなきゃいいのに
このスレを止めて、別のスレ立てたら 畿内でも考え方が違うからな
そういう話も聞きたいものだが
代表的な部分だと
・箸墓をどう解釈するか?卑弥呼の墓かそうでないか
・邪馬台国と大和朝廷はどう関係するか
・邪馬台国は大和の勢力が拡大した物か?連合的なもの一部にすぎないか
とか
あと都合悪いから割とスルーされがちだが気になるところとしては
・纏向に九州の土器が無いのは何故か
・鉄器の数が少ないのは何故か
・纏向に住居跡が殆どないのは何故か
とかな 496>>897
>ちゃんと測量して一定の比率で縮尺を取ってあるなら、短里という単位を
想定しうるけれど、>>327で図示してあるように区間ごとにデタラメな値に
しかならないんだよ<
類スレ主の、計測の出発地点や到着地点などの比定のインチキが原因。
>「縮尺」があると考える時点で、明確な誤認 <
「里記載」からの史料事実や史料実態が存在し、
それからの帰納的確率的な推論をしているだけであり、
原寸法そのものが巨大であるのであり、
「縮尺」など始皇帝に里においても起こり得る事であり、無関係。 >>469
>具体的内容を述べる場ではいと思ってるからね
ここは科学板だよ?
バカもたくさんいるけれど、具体的なことを述べる場だ!
太陽黒点と寒冷化の関係なんかも具体的に解説されてるだろ?
逃げるなよ!
能無しが!
>前のスレのレスでは内容を具体的内容を述べてるよ
匿名掲示板なんだから、一つ一つのコメントである程度完結するように
いちいち具体的に書けばいいんだよ
>>477、>>481の「具体的な内容」も何度も何度も書いてるぞ
ごまかす必要がなければ、何度でも書けばいい
それをしないやつは語るべき真実のないやつだ 496>>898
>畿内には魏志倭人伝に書いてあるのと合致する考古学的根拠があるよ <
否定済み。 >>480
>いい加減にまともな話をする奴いないのかここは
まともな話が振られてれば、きちんと拾って答えてるよ
まあ、まともな話はすぐに結論が出るから、うだうだと長く続かないけどな >>481
>世間に認められないどころか、保守的な教科書の記述も邪馬台国は畿内に舵を切ってるよ
保守的だからじゃないの? >>476
国に境界などないと言ってた割には
戸数七万は邪馬台国の領域だと言う
まあ壱岐3000に対する比率で言えば13万ぐらいは九州北部で十二分に収納される
むしろ本州を含めると
なぜなら壱岐の人口は都市化前までと夷守が多数常駐してた時期を覗いて
大体日本全体の人口の1/1300ぐらいだからだ
また兵や絹も邪馬台国にないとダメだろ?
素手や石で王都を守ってるの?
地方が絹の織物を持ってるなか麻着てで生活してんの? 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな? >>485
さんざん既出なんだがな
・箸墓をどう解釈するか?卑弥呼の墓かそうでないか
箸墓は卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王の墓だろう
纏向石塚古墳からの100メートル級纏向型前方後円墳は、
卑弥呼の政権の重臣クラスで、そこから278メートルまで急拡大した巨大墳丘は
始祖王の墓にこそふさわしい
・邪馬台国と大和朝廷はどう関係するか
邪馬台国がヤマト王権の前身
最初は共立政権として始まり、そこから中央権力としての実力政権として
発展していったとする
・邪馬台国は大和の勢力が拡大した物か?連合的なもの一部にすぎないか
邪馬台国自体は、地名(地域名)
丹波国が独立国ではないのと同様 >>485
それ、テンプレに答えが書いてない話が
一つでもあるか? 496>>899
>しっかりなんてしていないww 循海岸七千里もただの引き算 <
「余」があるから、魏の役人らの実測値が元。
>海峡渡海は距離に関わらず一律で一回千里<
一大國の大きさでは、「余」を付けずに、区別した記載になっている。
>末盧国からの東南陸行五百里が正しければ、それこそ佐賀県に抜けるはず<
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向計測。
>結局、北部九州の時点でも、地名と遺跡から比定地を推定しているだけなんだよ
地誌記事は役に立っていない<
全て、「南→東」などの嘘付き騙しの詐欺師の、
東大博士号の・・・・アホの類スレ主の、国民を騙そうとするインチキ。
人種差別的言動を書き続ける類スレ主らは、いずれ、
京都アニメ殺人鬼のように、
殺人戦争にクルって、国民を殺し合い戦争に引きずりこもう、とする人間。 >>485
>・纏向に九州の土器が無いのは何故か
少ないだけ
ちゃんと出てる(胎土分析で確認)
祭祀に使うとか特別な目的がなければ、割れ物消耗品の飯炊き甕を
延々と遠くまで運ぶ理由が本来ない
>・鉄器の数が少ないのは何故か
王墓級墳墓の埋葬主体の発掘がないだけ
少ない理由の根本は発掘バイアス
ホケノ山古墳だけで大量に出ている
纏向石塚古墳からの纏向古墳群の埋葬主体が残っていれば
大量の鉄器が出てただろう
・纏向に住居跡が殆どないのは何故か
それこそ発掘が進んでいないだけ
ほとんどないって言うのが、ただの色眼鏡での発言 >>488
>否定済み。
イヤだ、ダメだと叫んでも
学説の否定は出来ません >>495
>箸墓は卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王の墓だろう
そんな王の存在は魏志倭人伝にも後漢書にもない。
そんな妄想は根拠にならない。 >>492
>国に境界などないと言ってた割には
>戸数七万は邪馬台国の領域だと言う
投馬国の戸数「可五萬餘戶」も領域だろ?
おそらく奴国二萬餘戶も領域
この三国は、大国であり別格扱い >>466
>他説を罵倒する前にもっとまともな証拠出せばいい
罵倒されているのは、九州説だけだよ。 倭国(阿波)には、とても歯が立たないから、罵倒なんて、やろうにもできない訳。 わははははは @阿波 >>492
>また兵や絹も邪馬台国にないとダメだろ?
ないという理由は? >>490-491
このように
なにも証拠を出せない
根拠も言えない
理由を述べることすら、しない
それが九州説だ、 結局、九州説のバカとそれを相手にするアホだけしかいないスレか >>495
それは君の見解だろ?
>>485が言いたいのは、そういったことに関して同じ畿内説でもいろいろな考えの人がいるって話だろ? >>500
>そんな王の存在は魏志倭人伝にも後漢書にもない。
共立連合の始祖王=卑弥呼なんだが? >>492
>国に境界などないと言ってた割には
いつ誰が、どこで?
どんなときも証拠を出さない九州説
>まあ壱岐3000に対する比率で言えば13万ぐらいは九州北部で十二分に収納される
壹岐も対馬も人口を賄えるだけの田畑がないと書かれてないか?
考え無しにそんなの基準にするから
九州説はいつも破綻する >>506
>それは君の見解だろ?
前スレでも書いたけれど
畿内説のやっていることは畿内説が正しいという主張ではなく
現在までの研究成果を紹介しているだけ
全員が同じことを言うとは言わないが、そんなにぶれないよ
そして、九州説はそうした研究成果を「認めない、理由は僕チンがそう考えたから」って
書き続けているだけww >>508
「国境線なんかない」って私が言ったんだよ
国の境界につくまでが旅程記事の距離だとかいうでたらめを言うやつがいるからさ
当時は「国境線で領土が確定した国」なんてものは存在しないし
国と国との間は無主の地だ >>509
細いところでは同じ畿内説でもいろいろ違うこと言っている人実際いるやろw
卑弥呼の墓だって箸墓だって言っている人もいれば別の古墳だと言っている人もいるし >>506
>>>485が言いたいのは、そういったことに関して同じ畿内説でもいろいろな考えの人がいるって話だろ?
で、実際はいないわけだ >>509
決定的な証拠がないものに関してはいろんな意見があって当然なんだよ
同じ「畿内説」と呼ばれる人たちの間でも細かい所ではいろんな意見の相違がある
それこそ同じ畿内説でも投馬国については出雲だって言う人もいれば他の場所だと言う人もいる
>>485が書いているのはそういう話やろ
小学生じゃないんだから、そういうことも理解しないと
君に書き込みを見ていると、まるでクラス会で自分の意見が通らなくて駄々をこねだすワガママ小学生みたいだな >>510
>当時は「国境線で領土が確定した国」なんてものは存在しないし
>国と国との間は無主の地だ
それは七万戸の国に領域が無いという話ではないから
何の問題もないよな >>466
その前になぜ九州説はわざわざ畿内説スレにやってきては荒らすの? >>513
どこがワガママ小学生なわけ?
具体的に指摘どーぞ >>478
それなら邪馬台国の会は嘘つき騙しをしている事になるな >>513
>それこそ同じ畿内説でも投馬国については出雲だって言う人もいれば他の場所だと言う人もいる
だからゴリゴリ吉備説の>>1がテンプレでは両論併記してるよな
それがどうかしたのか? >>498
>ほとんどないって言うのが、ただの色眼鏡での発言
で、纒向の大集落には何棟の建物があったのか? >>507
>>>500
>>そんな王の存在は魏志倭人伝にも後漢書にもない。
>
>共立連合の始祖王=卑弥呼なんだが?
違う見解の人もいるようだが?
>>495
>箸墓は卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王の墓だろう >>510
>当時は「国境線で領土が確定した国」なんてものは存在しないし
>国と国との間は無主の地だ
根拠のない思い込み。
後漢書には、楽浪郡から倭の国境まで7千里とある。 「発掘されてない」はただの逃げだな
それでいいならムー大陸と変わらん
そもそもこれだけの範囲を掘って痕跡さえ出てこないんじゃむしろ家なんて無いとしか言えない >>517
山ほど見つかった纒向遺跡の建物は、全部で何棟? >>521
>>共立連合の始祖王=卑弥呼なんだが?
>違う見解の人もいるようだが?
「卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王」って
卑弥呼以外にいるのか? >>524
>そもそもこれだけの範囲を掘って痕跡さえ出てこないんじゃむしろ家なんて無いとしか言えない
じゃ、無数の柱穴に立ってた柱は
なんの柱なの? >>524
>そもそもこれだけの範囲を掘って痕跡さえ出てこないんじゃむしろ家なんて無いとしか言えない
じゃあ、纒向に家がないと主張してる学者が何故いないんだ? >>438
魏志倭人伝の里数は100、500、1000里と大雑把
そのうえ一区間4倍も伸び縮みする
何らかの方法で計測したならこうはならない
距離を計測してそれを正確に書いたなら143里など端数は必ず出るし
1里437mの魏里とある程度符合もするはず
よって100余里と余がういているのは適当につけたということ >>526
>>495に言ってやれよ。
>箸墓は卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王の墓だろう >>525
今の所17棟だったけどそれが何か
まさか7万戸じゃないとか無知な事言い出さないだろうな >>530
目視で測ったんだよ。
だから誤差があって当たり前。 >>530
>1里437mの魏里とある程度符合もするはず
これを先入観、思い込みという。 纏向の柱はだいたいの物が2間×1間くらいしかない
4m×2mくらい
人が住むためと言うよりもちょっとした物置か、日差しや雨風を避ける程度の物
煮炊きをするための場所も無いので定住の為の物とは思えない >>534
目測で測った結果
逆に測らない方が正確と言えるくらい魏志倭人伝の距離は確かめられる史料から見て不正確 纏向の生活土器は溝に大量に捨てられて見つかってる
定住じゃなくて一所で炊事を行って用が済んだら捨てた様子が見える >>535
魏の1里が437mは当時の物差しとか誰にでも確かめられる証拠があるから >>532
穴屋と違い、高床の建物はどれとどれが一つの建物か、判別が簡単でない
池上曽根の例でも、一つの大型建物なのか複数立ち並んでいるのか意見が割れた
現時点では、たくさんあったとしか言えない 九州説の書き込みは狂人が妙な目つきになって呟いてるよう >>538
ということは纏向は都じゃなくて、ただの古墳造営地、墓場だったってことですね 韓国が4千里四方だからせいぜい1里=70m程度だろ。 魏里の単位があったことは別に何の問題もない
ただそれが「邪馬台国の位置を示す正確な数値」として12000里が使われたかどうかは怪しい そもそも柱の跡もそんなに多いわけでもない
建物そのものが少ない 俺も纏向は都と言う話を良く検証しようと思って資料をあたってみたが住居と呼べるものがなく建物そのものも少ない
これを大都市だと言うのは無理があると思う
祭祀の為の超巨大施設だろう
もしくは露店的な物が並ぶ市と呼べるものかもしれない 纒向遺跡は定期的と考えられる纒向型土壙祭祀や導水施設祭祀などの葬送と関係性の認めがたい祭祀遺構がたくさんある
だから古墳造営地とか墓地とかいう説が出て来ない
かつてそういう説が無いわけではなかったが、大型建物の発見以降立ち消えた >>548
>俺も纏向は都と言う話を良く検証しようと思って資料をあたってみたが住居と呼べるものがなく建物そのものも少ない
その資料みせて >>514
>それは七万戸の国に領域が無いという話ではないから
>何の問題もないよな
そうそう
>>492のこれ↓がでたらめな曲解なんだよ
「国に境界などないと言ってた割には
戸数七万は邪馬台国の領域だと言う」 大型建物は例の卑弥呼の居館とされる一つだけだよ
他は上でも書いたように1間×2間くらいの物で炊事の為の施設も設けられてない
数そのものも余り多いとは言えない >>548
>これを大都市だと言うのは無理があると思う
大都市だという説は誰が唱えてんの? >>523
>根拠のない思い込み。
>後漢書には、楽浪郡から倭の国境まで7千里とある。
では、推定でいいので「末盧国と伊都国の国境線」を「具体的に示して」おくれ
十分な妥当性を持った根拠もつけてね!
こういうと必ず逃げるんだぜww
答えたためしがないw >>524
>そもそもこれだけの範囲を掘って痕跡さえ出てこない
これだけの範囲というほど掘ってないww
それに、掘った場所も纏向石塚古墳とか、目立つものがある場所が多いし
古墳上に集落跡があったらおかしいだろ?ww >>523
>後漢書には、楽浪郡から倭の国境まで7千里とある。
それ、ホント?
どんな原文? >>545
理由が>538なんだろ。
コミュ障全開だな。 >>549
>纒向遺跡は定期的と考えられる纒向型土壙祭祀や導水施設祭祀などの葬送と関係性の認めがたい祭祀遺構がたくさんある
それが祭祀だという根拠は?
仮説を事実だと思い込んでいるだけでしょ。 >>558
『魏書』なのに魏の里を使わない理由とは >>531
>>495だが、最初から「卑弥呼を共立した倭国連合の始祖王=卑弥呼」の
つもりで書いてるよ?
考古学者では、箸墓の現在の編年を限定的に捉える人だけが、
卑弥呼の次の王としているくらいで、ほぼ、卑弥呼の墓だと考えている
2014年の箸墓再考というシンポジウム参加者では
白石太一郎、福辻 淳、加藤一郎、坂本稔、福永伸哉の各氏が「卑弥呼の墓」説
寺澤 薫氏が「卑弥呼の後継者の墓」説
いずれにしても「邪馬台国の王」の墓であるとする見解は変わらない >>550
建物がないという資料?
あるという人に聞くべきでは? >>552
それでは小さな村程度ではないか。
何を根拠に大集落と言ったのか。 >>534
>だから誤差があって当たり前。
4倍違うのは誤差とは言わないww
50キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww
答えられるかな?
具体的に「誤差は何キロ」って答えてね!
逃げるなら、誤差があって当たり前というのは「ただの逃げ口上」だと確定ww >>565
>4倍違うのは誤差とは言わないww
言わないという根拠は?
何倍までならいいの? >>565
誤差の概念を理解していないキナイコシが意気がっています。 畿内説が矛盾だらけに陥る理由は、ちょっとした勘違いが原因だよ。
畿内:縄文→古墳へと移行した文化圏
九州・山陰・北陸:縄文→弥生→古墳へと移行した文化圏
これが現実だ。 >>535
>これを先入観、思い込みという。
どこが?
魏晋里437メートルは、
・正始弩尺等、古尺の現物資料も実在し、すべての史書が一里1800尺となっている
・三国志でも一里437メートルで矛盾はない
で実証されてるぞ 定住の後は見つからないが、逆に炊事道具は物凄い数になっている
同時期の物が多いので本当に一時に沢山の人が集まった様子が分かる
おそらく古墳と祭祀施設を作るために動員された人が集まって作業を行ったのが纏向だろう
発掘状況を希望的観測を無しに考えるとそう判断できる >>543
>韓国が4千里四方だからせいぜい1里=70m程度だろ。
東夷伝がウンチャラってのは、ただの循環論法だし
韓地方四千里は、10000里ー3000里=7000里の循海岸水行の
つじつまあわせだってのも既に説明してある
上の方で、フレキシブル里だとか、
一里=140メートルとか言ってたのはどうするんだ?ww 弥生文化圏=筑紫倭国の文化圏
稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、そこから全国に伝播した。 >>570
>・三国志でも一里437メートルで矛盾はない
口から出まかせw
さすがは畿内説
東夷伝では矛盾するよ >>571
>定住の後は見つからないが、逆に炊事道具は物凄い数になっている
>おそらく古墳と祭祀施設を作るために動員された人が集まって作業を行ったのが纏向だろう
大集落ではなかったということか。 >>559
>理由が>538なんだろ。
>コミュ障全開だな。
纏向の生活土器は溝に大量に捨てられて見つかっていて
定住じゃなくて一所で炊事を行って用が済んだら捨てた様子が見えると
どうして
纏向は都じゃなくて、ただの古墳造営地、墓場だったって
ことになるの?
どういう論理?
ひどく短絡してない? >>571
>発掘状況を希望的観測を無しに考えるとそう判断できる
そう判断できるなら
どうしてそう主張してる学者がいないの? 魏の測量隊がわざわざ極東の果てにある島国の距離を測りに来るかなあ >>556
>それ、ホント?
>どんな原文?
横レスだけれどこれのつもりだろ
樂浪郡徼 去其國萬二千里
去其西北界拘邪韓國七千餘里
樂浪郡徼が楽浪郡の境界というのは通説どおり
帯方郡は楽浪郡を分割して設置だから、魏志倭人伝の帯方郡が
帯方郡設置前の楽浪郡として書いてある
去其西北界拘邪韓國七千餘里の部分は、単に魏志倭人伝の
「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の意訳
新情報じゃないよ >>576
とりあえず人が住んでいた跡が見つからないことには「集落遺跡」とは呼べないだろ
集落の定義は辞書で調べてくれ >>571
>おそらく古墳と祭祀施設を作るために動員された人が集まって作業を行ったのが纏向だろう
祭祀施設を作るために動員された人たちだけを想定して
どうして祭祀そのものに集まる人たちを考えないの?
希望的観測? >>576
纏向見りゃわかる話。
農具も住居もほとんどなく、何度も立て直された大型建物が数棟。
搬入土器は東海産。
土木用具が大量出土。
食い散らかした魚の骨。
近くに巨大古墳群。
↓
普通に考えりゃ古墳築造の為に作られた土建施設以外の何物でもないだろw >>580
>とりあえず人が住んでいた跡が見つからないことには「集落遺跡」とは呼べないだろ
呼べないという理由は? 九州説の人は、後漢書のこの記述で倭国は対馬海峡部分だけってよく言うけど
去其「西北界」拘邪韓國七千餘里って書いてあるんだよねww
つまり、狗邪韓国の真南部分だけが倭国じゃなくて、
その東の方まで倭国は広がっている
じゃないと「西北」界にならないからねww
また一つ、九州説の戯言が死んだなww >>582
>食い散らかした魚の骨。
どこで発見された? >>577
ここでは自分の考えを述べていいんだよ。 >>558
>倭は魏ではないから意味がない。
記録したのは、魏の役人
それ以前からの情報だとしても、秦漢尺の度量衡でも一里の長さは大差ない
撰述したのは魏から西晋の人、陳寿
魏晋尺の度量衡に従わない理由がないww
本当に>>558はバカだよなw >>579
>「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の意訳
魏志倭人伝だと、狗邪韓国に倭の国境があるというのは、意味からわかるけど、明文化はされていないんだよ。 >>584
魏志の後に書かれたものを基準としたがるのは畿内教信者だけw
ちなみに日本書記でも対馬海峡は2千里と書かれているんだよな。
つまり短里のようなものが特殊な距離単位があったんだろうよ。 >>585
纏向遺跡の出土品ぐらい調べてから書き込めアホw 496>>902
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
魏志倭人伝に書いてあることと考古学的証拠の合致で語るで九州説には
どうやっても歯が立たない宿命 >>581
祭祀に集まった人達も、住んでいるわけではないから、集落とはならないだろう。
しかも、建物が少ないということは露営?
そらとも大型建物に雑魚寝?
出雲や近江では、集まった首長が別々に宿泊したと思われる建物が並んでいるよね。
しかし纒向はそうではない。
遠路はるばる来る人は少なく、近郷の人達が集会場に集まった程度だったのではないだろうか。 >>566
>卑弥呼を共立した王が卑弥呼?
適当な引用して、自分で訳が分からなくしてるだけだろ?ww
「卑弥呼を共立した倭国連合」の始祖王=卑弥呼だよ
この倭国連合を新生倭国と寺沢薫氏は呼んでるね
新生倭国の始祖王なら分かるかな?ww >>583
恥ずかしいやつw
それ以上傷口を広げる前に大人しくしてろよw >>567
>言わないという根拠は?
>何倍までならいいの?
50キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww
答えられるかな?
具体的に「誤差は何キロ」って答えてね!
逃げるなら、誤差があって当たり前というのは「ただの逃げ口上」だと確定ww 纏向が古墳造営のための施設であって集落的な性格を持たないとするなら
その古墳の被葬者はどこの集落の人間なんだろう >>568
>誤差の概念を理解していないキナイコシが意気がっています。
誤差の概念が分かっている>>568なら答えられるよね?
50キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww
答えられるかな?
具体的に「誤差は何キロ」って答えてね!
逃げるなら、誤差があって当たり前というのは「ただの逃げ口上」だと確定ww >>589
>国語辞典で集落の意味調べてみなよ
それ、考古学でいう意味とは限らんな
調べても意味がない 496>>903
>>一万二千里のうち、九州上陸までで一万里を消費しているのは小学生でもわかる。<
>消費ではなく「設定」ww<
いや、「余」があるから、
魏の役人たちに拠る計測値を元にして、
「近似化」された数値。 キナイコシはチョンだから日本語の意味が分からないんだよなw
「大集落」といえば「住民」の多い街のことだw >>589
また回答不能に陥ってわめき罵る敗者
それが九州説 >>597
東海・伊勢の土器多数って報告されてるだろ?
東海勢力指定の墓地だったんだろうよ。 >>593
>遠路はるばる来る人は少なく、近郷の人達が集会場に集まった程度だったのではないだろうか。
じゃあ、なんで遠隔地の土器が出る?
九州説は支離滅裂だな >>601
>それ、考古学でいう意味とは限らんな
>調べても意味がない
じゃあ「集落遺跡」で広辞苑調べたら?出てくるよ
そのままここに載せたら著作権法違反に問われかねないので書かないけど 496>>906
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、あくまで
「大和に女王國があったはず」でなくてはならないで、語るから
言う事全てが根拠のない循環論法的になる
九州説は、
文献でも考古学的にも、全て根拠を元に論じるから、
色んなものを証拠として提示することができる >>593
>祭祀に集まった人達も、住んでいるわけではないから、集落とはならないだろう。
ならんというりは? >>574
>口から出まかせw
>さすがは畿内説
>東夷伝では矛盾するよ
矛盾しないよww
つ「・漢土の外のことは誇張して距離を遠く書くバイアスがかかっている」
これは、他の史書でも共通に見られる中華史書の特徴
たまに「短里はあるにだー」って言って九州説の人が
「梁書」と「南史」の
「循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉」を
出してくることがあるけれど、これって「東夷には短里がある」って言うのを
むしろ否定してるよねww
天竺江=ガンジス川は東夷じゃないww >>605
尾張氏の祖はニギハヤヒ。
つまり物部氏と同祖。
前方後円墳は物部氏の墓制という意見もあるくらい。 >>600
>>605
尾張から死体をエッチラオッチラ運んできてわざわざここに埋めるのか?
東海の他にも山陰山陽北陸の土器も出てるわけだけど いい加減に、纒向は尾張の傘下の流通センターだと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏の祖である饒速日物部氏の王国だったんだよ。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 496>>909
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
不利になるとすぐにふて腐れて姿を消す >>576
纏向遺跡は、阿波の豪族墓 大和・柳本古墳群の造営終了と共に消滅する、古墳造営前線基地である。 @阿波 >>607
>じゃあ「集落遺跡」で広辞苑調べたら?出てくるよ
なら、狼煙台や逃げ城のような軍事拠点も高地性集落に含まれるのは何故だ? >>580
>とりあえず人が住んでいた跡が見つからないことには「集落遺跡」とは呼べないだろ
大量の煮炊きのあとは。人がそこで生活していた証拠じゃないのか?ww >>612
記紀を読めば、遺体をはるばる運んだ話はそこそこ見つかるよ。 496>>910
巻向で出土したカエルの骨や桃の種は、
魏志倭人伝に言う鬼道の証拠にもならない、未開人の風習であり、
これでも、大和説はぐうの音も出せない 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>590
>つまり短里のようなものが特殊な距離単位があったんだろうよ。
「あっただろうよ」wwwww
あるって主張する人があることを立証しないとwwww
短里なんてねーよ! >>599
>あなたの日本語がおかしいのですよ?
でもこれで誤解はなくなったなww
結局文句をつけても無駄だったとww >>613
>いい加減に、纒向は尾張の傘下の流通センターだと認めたらどうだ?
伊勢系のひとが10人中ひとりかふたりで、どうして尾張傘下になるんだ?
たまには論理的思考をしてみろよ 496>>918
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
不利を自覚すると逃げるって事は、
負けを認めてるのと同じだろ
もう勝てない事を認めて撤退したら?
どこからバイト代出てるのか知らないけど >>600
>尾張だろ。
尾張には尾張の首長墓があるんだよww
別の土地に大古墳を作る理由がまったくないのに、適当なことをww
九州説は常に思いつきのでたらめを、さも事実のように書くw キナイコシ、フルボッコw
もう5ch書き込みやめて纏向行って発掘調査でもしてろ >>620
>魏志倭人伝に言う鬼道の証拠にもならない、未開人の風習であり、
それ、どう違う? >>611
>尾張氏の祖はニギハヤヒ。
>つまり物部氏と同祖。
どちらも、「忌部はん」 。
>前方後円墳は物部氏の墓制という意見もあるくらい。
どちらも、「忌部はん」 。 @阿波 >>605
>東海・伊勢の土器多数って報告されてるだろ?
>東海勢力指定の墓地だったんだろうよ。
じゃあなんで、「畿内様式の土器が70〜85%」も出るんだ?ww
東海・伊勢の土器様式で統一されないのはどうして?ww 496>>924
>「南→東」などの嘘付き騙しの九州説は、だいぶメンタルやられて、
京都アニメ放火犯のように、
人種差別的な殺し合い戦争願望のようになっているようだな >>624
外来土器は大半が東海系。
それ以外の土器は、おそらく東海経由で入ったもの。
つまり、纒向に来た外来の人は、ほぼ尾張の人だけと考えられる。
纒向の宮でそれを饗応し、煮炊きはその周りでしていただけ。
やって来た人数は少数で、在地の人は近くの別の集落から一時的に動員されただけ。 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3% つまり纒向には、在地の人間と、終わりの人間の二種類いた。
それ以外はいなかった。 纒向の搬入土器をみれば、北陸や山陰から古墳造営の労働者を集めたという素人説のナンセンスさがわかるだろう
各地から集まったのは、祭祀に参列するために遠路集まった各地の有力者とその一党だ >>631
古墳造営局だからだろw
土地の割り当てと東海からやってきたドカタの賄いが奈良の仕事だったんだよw 尾張は北陸と交流があった。だから纒向にも北陸系の土器は見つかる。
しかし北陸から来た人がいた根拠にはならない。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内 >>639
>纒向にも北陸系の土器は見つかる。
しかし北陸から来た人がいた根拠にはならない。
しかし、畿内式土器が見つかった地域は畿内人が居た根拠だと言い張るのが畿内説w 496>>930
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者とは違って、
九州説は、行程の記述が殆ど間違っていないのだ、という説で
その行程がほぼ当てはまっているから、
九州説は困らないだろ
脳はあるのか? >>639
>しかし北陸から来た人がいた根拠にはならない。
あのなあ
纒向の土でそれぞれの故郷の様式の飯炊き甕作って長期逗留してんだぞ >>642
>しかし、畿内式土器が見つかった地域は畿内人が居た根拠だと言い張るのが畿内説w
当然だ
>>639は畿内説じゃないからね 九州説の方々は具体的に九州のどこだと思ってるのよ
九州と言えど広いんだから 496>>943
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説で、
いちばんワカリやすいインチキのひとつは
末盧國からの出発時点での出発方向説明の「東南」を、
「末盧から伊都の東南陸行だねー」とウソを付く事だねー。
だって、末盧國の出発時点でも途中でも
伊都国は見えないんだから、方向なんて計測出来ないもん。 496>>9451[
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や、通説大和説学者や、5chやYahooは、
国民の7割や世界の誰からも
荒らしや反社会的集団のようだ、と思われてる 496>>948
「南→東」などの嘘付き騙しの、
理由の言えない破綻大和説 悲惨 >>648
どこのこと?
いつも都合が悪くなるのは九州説だけでは? 496>>953
>出発時の方向が書いてあっても、その後の方向転換が書かれてなければ地誌情報として無意味だ
そして船の上にいて、船がくるくるしたら方角なんてすぐに分からなくなる<
魏使らには、普通は「案内人」が付いているもの。 496>>955
>会稽東冶の東には、陸行一月できて七万戸の国が存在できる陸地はないのだから、
間違いなのは確定事項<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、その後陸行一月する事もなく、
九州島のいう陸地が存在するので、
「間違いではない」事は、確定事項。 >>653
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
フルタ特殊読みは説得力ゼロ 496>>978
「南→東」などの嘘付き騙しに関しての、
ここまで理由のない決め付けと罵倒だけの大和説は
まさに瀕死の末期症状だな 東なら九州にならねーって言ってんのに都合の悪いことはスルーかよ。
もうこいつ放置で良いよ。
馬鹿はほっとくしかない。 例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだったな。。。 496>>990
結局、「南→東」などの嘘付き騙しに関して、
大和説者は、なんも理由言わないのね
結論を言い張るだけ
九州説終わるわけだよ 発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いのだったな。。。 古田武彦とかいうトンデモ学説並べて引っ掻き回した挙句地獄に逃げた卑怯者 >>660
纏向に卑弥呼の城があったのだという頭の悪い者が考え付く考えは、完全に破綻してしまったのだったな。。。 >>1
貴方は、トンデモ学説並べて引っ掻き回した挙句地獄に落ちてしまいましたね。。。 496>>996
結局また、>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
決め付けだけなんだよな
毎日山のように投稿しても
内容ゼロ 畿内説を否定することが目的になって
具体的に九州のどこなのかという話になると黙るのが九州説狂信者 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説の根拠だとしていた物事が、科学的に完全に破綻してしまったので、テンプレートを論破されたキナイコシが、嘘や悪口を言い放つだけのスレッドになってしまったな。。。
665日本@名無史さん2019/08/23(金) 14:47:03.40
畿内説を否定することが目的になって
具体的に九州のどこなのかという話になると黙るのが九州説狂信者 >>665
>畿内説を否定することが目的になって
畿内説を否定:×
畿内捏造説を否定:○ 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。 >>667
>>668
で、君たちは九州のどこだと思ってるの? 496>>1000
教科書会社も、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説支持だから、
大和説者も、負けるんだ 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。 卑弥呼の城は、やはり、熊本平野の要害の地にあるのだったな。。。 >>673
合戦の本部に選ばれる条件は、時代が違っても同じなのではないのかな。。。 >>665
>畿内説を否定することが目的になって
>具体的に九州のどこなのかという話になると黙るのが九州説狂信者
ここは畿内説のスレ。畿内説を批判する人が集まるのは当然 どこから見てもわかる古墳造営基地局を宮殿のある祭祀大集落だと捏造する畿内説か。
いい加減、考古学会は解体した方がいいんじゃねえか? 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。 >>675
で、その対案として君は九州のどこを挙げてくれるの?
君の意見を聞かせて このスレッドは、角度の計算のことで、奥山氏の頭が悪すぎることがバレてからは、学者の討論会としては、急激に寂れてしまったな、、、 >>678
九州説論者じゃない自分に聞かれても困るんだけど
九州にあったに違いない!と言っている人に聞いてよ >>80
>萬二千里は世界の果てまでの距離 <
余抜け
不彌國まで萬7百里余りだし
自女王國以北 其戸數道里可得略載 と記述されており
自郡至女王國 萬二千餘里はいい加減な数字ではない
また
韓伝に言う
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有と
倭人伝の
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
の整合性もある 畿内説vs九州説というより
纏向説vsその他諸説なんだよなぁ >>635
それは「纒向遺跡への『搬入土器』の出身地割合」で、
在地の土器は70〜85%出てる
伊勢と東海系を別けられるともっと話が分かりやすくなるんだろうけれど 畿内説に反対していたら即九州説だと決めつけるのやめてほしいよな 普段の巻向集落は、滅ぼされた銅鐸王家の死者を鎮魂する役目の、後の時代に崇神天皇と名付けられた、天皇の祖先や、十数件の建物の、合わせて100人くらいの集落で、
箸墓古墳を積み上げている間に、240人程に人口が増える程度の、
夏場は、朝鮮半島から馬や奴隷を捕獲し連行していた九州王国の中国名である倭国から購入した、50頭ほどの馬が草原に飼われているだけの、都というには閑散としすぎた集落だったのだな。。 >>95
>一直線に南北に移動しただろうから、三角法は難しいだろうね。 <
距離と航路は違うと思うよ >>634
>それ以外の土器は、おそらく東海経由で入ったもの。
例えば吉備甕が東海経由で入ったとか本気で考えてるのか?ww 銅鐸王国を滅ぼした九州倭国が、奈良盆地にあった銅鐸王国の王家の者達の魂を、纏向に封印したのではないのかな。。。 >>642
>しかし北陸から来た人がいた根拠にはならない。
本気で言ってるのか?
東海の人が北陸の土器を纏向にどんな理由で持ってくるんだ?ww 497>>78
「南→東」などの嘘付き騙しのような、そんな荒らしをしてたら
「大和説は卑弥呼論争に負けたんです」 と宣伝してるのと同じだろ
なにを考えてんだ大和説者は。 >>685
纏向遺跡は、阿波の豪族墓 大和・柳本古墳群の造営終了と共に消滅する、古墳造営前線基地である。 @阿波 >>482
「根拠の大半は仮説や妄想から出てきたもの」
これを具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
逃げるばっかりでさww
どこがどう「客観性のかけらもない」のか、具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
逃げるばっかりでさww
>>554
では、推定でいいので「末盧国と伊都国の国境線」を「具体的に示して」おくれ
十分な妥当性を持った根拠もつけてね!
>>56550キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww
答えられるかな?
具体的に「誤差は何キロ」って答えてね!
すべて答えずに逃げてるよなww
九州説は無能 娘婿の実家から頂いた九谷焼という焼き物があったな。。。 >>691
悪い
引用の仕方の間違い
>>639
>しかし北陸から来た人がいた根拠にはならない。
本気で言ってるのか?
東海の人が北陸の土器を纏向にどんな理由で持ってくるんだ?ww >>675
>ここは畿内説のスレ。畿内説を批判する人が集まるのは当然
なのに批判する人はいなくて
罵りに来る人だけだよね
なんで? 一番頭の悪い者が、出現したのではないのかな。。。
699日本@名無史さん2019/08/23(金) 15:22:25.29
>>684
いや、馬鹿さでわかるんだ >>676
>どこから見てもわかる古墳造営基地局を
理由が言えなくて「どこから見てもわかる」と
思考停止する
九州説 北陸の者は、琵琶湖で船を漕げば、何日で纏向に来れるのだろうか。。。 >>703
琵琶湖なら北岸から南の瀬田まで一日もあれば十分たどり着けるよ。 北陸の村からも駆り出されたのだろうか、、、
658日本@名無史さん2019/08/23(金) 14:42:18.17
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだったな。。。 4世紀の運搬は、馬を使ったのだろうか。。。
635日本@名無史さん2019/08/23(金) 14:02:03.35
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3% 周髀算経による 一寸千里法 : 中国古代の天文学・天文測量の教科書
夏至南中時に、8尺の棒の影長を測る 影長に1寸の差があるとき、南北距離は千里.
北回帰線 0寸 洛陽 16寸 16 x 1000 = 16000里
現在の知識で(地を球として) 緯度1度=111km とする 緯度差 11.32度: 11.32度 x 111km/度=1256.52km
1256.52km = 16000里 ∴ 1里 = 78.53m このオーダーの長さの里を「短里」.
単純比例計算では 北回帰線から北極まで 7389km 94092里=7389km cot α を α で近似しているので、誤差は大きい.
「短里」は実際に使われていた! 魏志倭人伝の邪馬台国の位置 帯方郡から12000里 すなわち日影長の差 = 12寸? >>706
関東からも、労役の者を集められたのは、やはり、馬の時代だったからではないのかな。 。。
635日本@名無史さん2019/08/23(金) 14:02:03.35
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3% >>708
実はそれ全部、「東阿波型土器」 ご苦労さん。 @阿波 つまり、東阿波型土器という土器は、4世紀の土器なのだな。。。
709日本@名無史さん2019/08/23(金) 15:56:44.79
>>708
実はそれ全部、「東阿波型土器」 ご苦労さん。 @阿波 >>481
出典が問題だな
畿内説の大本営発表をそのまま載せただけだよ
まず、入試問題では古代はほとんど出ないし・・ 九州説の変なお爺さんのいる家の子が気の毒だからではないのかな >>644
>纒向の土でそれぞれの故郷の様式の飯炊き甕作って長期逗留してんだぞ
雑魚寝で宿泊したのか? >>665
せっかく珍しく畿内説のスレらしく纒向の話になったのに、都合が悪いとばかりに話をそらす畿内説。
もう、勝負はあったね。 >>688
>例えば吉備甕が東海経由で入ったとか本気で考えてるのか?ww
ではどこから入ったと? 『魏志倭人伝』には「宮室、城柵、樓觀(きゅうしつ、じょうさく、ろうかん)があった」という記載があり、
これが揃っているのは現在佐賀県の『吉野ヶ里遺跡』(よしのがいせき)だけなので、邪馬台国が九州地方にあったという説の根拠の一つになっています。
さてさて、王都はどこに?卑弥呼の墓は何処に?
台風や川の氾濫で流された可能性もあるだろうし。 >>695
>どこがどう「客観性のかけらもない」のか、具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
具体的な話をしないのは畿内説だろ。
それを指摘されたら具体的じゃないって、バカか? >>715
おっ君は具体的にどこだと思ってる派なの?
さっきからこれに関して誰も答えてくれないんだよ 纒向が瀬戸内と交流がないのは明白。
東海経由だろ。 最近、魏志倭人伝に興味を持った、中学校に通う、僕達の頭の良い孫娘からのメールで、すぐにテレビを付けて見た、今週のNHKの高校講座では、
吉野ケ里の環濠の様式が魏志倭人伝の城柵に相応しいとされ、巻向の掘立建物はまるで城柵の条件に合致していないかのように紹介されていたな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume002.html
481日本@名無史さん2019/08/23(金) 11:28:25.53
>>458
>纏向が邪馬台国の王都であるという自分たちの考えを世間になかなか理解してもらえないことを自覚しているからであろう
この人の脳内は、宗教的な信念で一色に染まってるんだなw
つ 現実
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の
発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として
有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 2018年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の
纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、
この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 2017年)
世間に認められないどころか、保守的な教科書の記述も邪馬台国は畿内に舵を切ってるよ
次の学習指導要領の改訂で、明記されるんじゃない? 仮に山陽山陰や北陸の土器が尾張に流入してたとして、それを尾張の連中が纏向に持っていく意味は? 仮に、じゃない。
東海は西日本最大級の物流センターだよ。
纒向ではない。 纒向は、やはり、滅ぼされた銅鐸王国の怨念を封印する場所だった可能性が、そうでない可能性よりも、高いな。。。 >>702
初心者かい 過去の投稿でずいぶん指摘されてるよ
明確な回答が残念ながら畿内説側からはないけどね >>682
纏向説は桜井市と一部の私利私欲の学者だけだからネ >>725
尾張には尾張系土器という自前の土器があるじゃん
なんでわざわざ他地域の土器を持っていくんだ? >>728
その一部の学者よりはるかに少なく支持もされてないのがその他諸説 つか本当に基地外九州説のバカとそれを相手する奴しかいねーな
畿内の話してもまともに答えるやつ一人もいねーじゃん >>729
他地域からの産物を持って歩いてもいいだろ? >>728
通常業務そっちのけでネットの掲示板使って宣伝活動しないといけないくらいだから、纏向説論者にはかなりの焦りがあるのだろう
金かけてもろくな証拠が出てこないので予算削減の危機に直面しているのではないか
あ・・・・ここの書き込みが通常業務かw >>724
ということは入試問題に出ない分野は全部正解がないということだな >>732
纏向が古墳造営基地ならそこに持って行かないといけない他地域の産物って何よ
わざわざ一旦他地域から尾張を経由して持って行くものって 纒向は古墳造営・都市建設の駆り出された人が多くいたというが
古墳は完成してるが、都市は完成していないし 都市らしき建物がほとんどナイノハなぜ? 驚いたな、、、
世界中の者が、インターネットでNHKの放送が視聴できるのだな。。。
これでは、受信料を払っている日本国民が不公平なのではないのかな。。。
そして、やはり、纏向の掘立建物は、卑弥呼の城の条件が揃っていないことが、世界に発信されているのだな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>740
NHKの九州説のオレンジ色の範囲の中心は、やはり、熊本城だね。。。 纒向学研究 第1号で
「都市建設や古墳造営に駆り出された人々が・・・」と記述があるのだから
搬入土器は出稼ぎ労働者が持ってきたのだろう。
それを誇張しテンプレの「列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場」
妄想だよ 妄想
年も完成してネーシ >>740
NHKでは、邪馬台国畿内説は仕方なしに紹介されているだけのような番組構成になっているな。。。 >>718
>具体的な話をしないのは畿内説だろ。
>それを指摘されたら具体的じゃないって、バカか?
どの投稿が具体的じゃないのか指摘した?
たぶん貴方はバカ >>720
>纒向が瀬戸内と交流がないのは明白。
理由も言わずに「明白」って
さすが九州説
掛け値無しのおばかさんですね >>722
飲食は大事だよ・・纒向につくまでにも必要だし 纒向は、やはり、滅ぼされた銅鐸王国の怨念を封印するためだけの場所だった可能性が、そうでない可能性よりも、高いな。。。 >>727
>初心者かい 過去の投稿でずいぶん指摘されてるよ
>明確な回答が残念ながら畿内説側からはないけどね
このように
徹底して具体的な発言を避けまくる
そんな九州説が幻想世界の物語であることは
明らかだな
w >>748
それは飲食物を持って行く理由であって他地域の土器を持って行く理由とはちょっと違わないか >>735
>畿内説には、質問に耐えられるだけの中身はない。
と断定する根拠を質問しますが
答える意思ありますか? >>747
議論は避けて
理由もわずに罵倒する
それが九州クオリティ >>751
物々交換
現地で必要なものに変える 珍しい物は価値が上がるんじゃねーの >>756
西日本最大級の物流センターで手に入らないで現地で必要なものとは >>750
都市の定義から始めますか?
さて、何棟みつかれば都市と言えますか?
吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡は都市と思いますがね 都市かそうでないかって絶対的な棟数で決まるものじゃないと思うんだけど 497>>145
>繰り返すが、末盧国から伊都国も、伊都国から奴国も魏志倭人伝の方角記述は
現実の方角とは異なる
合わないという事実を前提に考えなきゃいけないのに「こうすれば合っているはず」を
「根拠はぼくがそう考えたから」でいくら言い募っても無意味<
ダメだ。
普通の成人人類は東西南北など殆ど間違えないもの。
だから、魏の役人たちが記録した「東南」は、殆ど間違えていない。
そして、「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
人類の常識に拠れば、出発時点での出発方向の記載だ。 >>742
だろ・・
纏向は古墳造営基地(工業地?飯場)
面精が広いけど、纏向遺跡の範囲なんていいかげん
天理市南部も含めたようだけど >>725
>東海は西日本最大級の物流センターだよ。
だから、東海忌部 だと、何度言えばw @阿波 497>>154
>だから、その紹介が間違ってるって証明したろ<
普通の成人人類は、東西南北はほぼ間違えないし、
魏の役人たちも間違えない。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の、
「俺様の読み方が正解ダヨ 陳寿の書いたとおり進んだら邪馬台国に着いた 俺様パイオニアー」
って
そんな「結論先にありき」の循環論法の大和説者が、全員死んだ
そういうこと >>737
だから、纏向遺跡は、阿波の豪族墓 大和・柳本古墳群の造営終了と共に消滅する、古墳造営前線基地である。 と、何度言えばw @阿波 497>>173
>つまり魏晋里だ 短里なんて存在しない<
魏の役人たちが計測し記録した「里」は、当然「魏朝が定めた里」だ。 纏向は地べたに藁なんか敷いて
寝てた集落じゃねーか
だから大集落じゃねーか 497>>185
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の類スレ主は、
北部九州の末盧国、伊都国、奴国だって、魏志倭人伝の地誌記述とは合わない場所に
比定地を置いてるんだぞ? >>770
計画的な都市設計がなされているかどうか 497>>185
>>目的地の奈良も九州からみた位置は東だし<
>これ、地図のない時代に船頭が正しい方位を認識してたと思うのか?
こういうところが、具体論を避け続ける九州説の常識のなさだよなw<
そう言えば、類スレ主や陳寿90度回転男も、
「南へ水行一月」の「南」が正しい、として、
沖縄や台湾に比定するインチキをしていたぞ。 >>760
いかに地方の人が集まるかとか、どれほど地方に情報発信するかとかから
都市の「機能」を考えるんだよ
何戸あるかとか、そういうレベルじゃない 497>>194
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、
脳が死んでるな >>775
東京のどこを見て都市計画がなされてないと思ったのか
まさか奥多摩や小笠原のこと言ってる? >>776
たまに尾張から出張してくる人がいる程度では都市とは言えないのではないか。 >>778
勝手に森ビルがビルを建てまくっている。 上司「おまえ、来月は定例祭祀で纒向に出張だな」
部下「はい、どんなところですか?」
上司「飯がまずい。カエルとかが出てくる」
部下「ひどいですね。内陸だから魚がないんですか」
上司「餞別に俺の北陸や瀬戸内の銘品の一部を分けてやるから持っていけ」
部下「ありがとうございます!」 497>>206
>魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は沖縄か台湾の会稽東治の東
ソウル辺りになる帯方から南1万2千里をそこに当てはめて1里を換算すると
1里約140m 1里≒70mは妥当じゃないね <
「邪馬台国の位置は沖縄か台湾の会稽東治の東」というのが嘘つき騙しであり、インチキ。 >>782
東京都の都市計画にない高層ビルばかり。 まあ奈良に邪馬台が無い、って言い張るやつはそれはそれで良いんじゃない。
文字すらなかった古代の話を100%の精度で解析するのは、九州だろうが畿内だろうが阿波だろうが尾張だろうが北陸だろうが難しい。
どこを所在地に比定するにせよ、突っ込みどころは幾らでもあるんだから。
ただ奈良に邪馬台国が無かった、と言ってる奴は何が奈良にあったと考えてるのだろう?
それは気になる。 纒向は、やはり、滅ぼされた銅鐸王国の怨念を封印するためだけの場所だった可能性が、そうでない可能性よりも、高いな。。。 497>>213
>そこは邪馬台国じゃないから
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は間違いであって
考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内で決まる <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
文献でも考古でも、大和説は×であり、
女王國は、九州島付近で決まる。 497>>217
>そんなの無くても邪馬台国は畿内としても問題なし<
「南≠東」などに拠って、×。 >>787
>纒向の機能って何だ?
墓地。 @阿波 >>771
>纏向は地べたに藁なんか敷いて
寝てた集落じゃねーか
だから大集落じゃねーか <
そんなドヤ街が王都じゃねーよ
魏に馬鹿にされるよ >>784
東京都の都市計画は遂行されてるじゃん
それと関係ない範囲で近代的な資本主義活動をすることに何か問題が? >>787
>纒向の機能って何だ?
「古墳造営前線基地」。 @阿波 キウス氏は、真実の為に、何処ででも、自由に討論すれば良いのではないのかな、、、 497>>221
>畿内には三角縁神獣鏡や前方後円墳があるからそんなのは要らねえ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和の三角縁神獣鏡や前方後円墳も、3世紀末以後であり、
卑弥呼の3世紀前半に合わず、×。 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。 >>796
関係ないから何もお咎め受けてないじゃん >>716
>ではどこから入ったと?
吉備からだよ
吉備甕なんだから 497>>224
>残念だが認めんな 1魏里は約430m
1里140mになってるのは何かの間違いだろ<
魏の役人たちが使った「里」は、
「1里≒76.5m」の「魏朝の里」であるから、×。 >>799
>3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
碌な集落遺跡の無い筑紫に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 497>>226
>カエルの骨に負ける九州説<
「南≠東」でも負け、「カエルの骨」でも負ける大和説。 >>718
>具体的な話をしないのは畿内説だろ。
恥を知れ
>>482
「根拠の大半は仮説や妄想から出てきたもの」
これを具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
逃げるばっかりでさww
どこがどう「客観性のかけらもない」のか、具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
逃げるばっかりでさww
>>554
では、推定でいいので「末盧国と伊都国の国境線」を「具体的に示して」おくれ
十分な妥当性を持った根拠もつけてね!
>>56550キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww
答えられるかな?
具体的に「誤差は何キロ」って答えてね!
すべて具体的なことは一切答えずに逃げてるよなww
九州説は無能 >>801
河内と交流が浅いから、和歌山側からは入らない。
淀川を遡り、関ヶ原を通過して伊勢から持ち込むルートしかない。
つまり尾張から分けてもらったということ。 >>732
>他地域からの産物を持って歩いてもいいだろ?
プラスの根拠ではなく、悪魔の証明方式で全否定しようのないことをもちだして、
「否定できないからいいだろ?」というのが、九州説の古典的な詐欺手口ww
他地域の産物を持ち歩く理由も必要もない >>805
>「根拠の大半は仮説や妄想から出てきたもの」
>これを具体的に論証すればいいのにしないしできないじゃん?
あのさ、畿内説が仮説以上のものを示せばいいだけなの。
わかる?
君の発言のどこを取っても、仮説や妄想しかないだろ?
自分がいかに質の低い発言をしているか気がついていないのか?
恥を知れ。 >>739
>その根拠は?
他地域からの搬入土器の比率が高いのは、大型祭祀土坑などの祭祀あとだ
つまり、祭祀に参加するために自分たちの土器を持参するまたは纏向滞在中に作ると
いう形になっている
国家祭祀に参加するのはえらい人だよ >>807
交通の便の悪いはずの伊勢経由の土器はかなりあるのに、瀬戸内の土器が少ないのは、直接の交流が少なかった証拠だよ。
当時の勢力区分からすると、纒向は尾張の経済圏であったということ。
それは土器の流通からわかるんだよ。 >>808
んで、九州説含むその他諸説は仮説以上のものを示せてるんですかね >>748
>飲食は大事だよ・・纒向につくまでにも必要だし
その目的のためには、東海の人は東海の土器を使うだろ?
また、東海経由で来る人は、東海で新しい飯炊き甕を入手して先へ進む >>809
>他地域からの搬入土器の比率が高いのは、大型祭祀土坑などの祭祀あとだ
ところが尾張からばかりなんだな。
国際的というより、尾張の下部組織だよ。
尾張の方がもっと広域と交流しているからね。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg 纏向が尾張伊勢と交流が強いことと北陸や吉備の土器が尾張経由で入ったこととは話が別だろ >>756
>物々交換
>現地で必要なものに変える 珍しい物は価値が上がるんじゃねーの
飯炊き甕は、珍しいものじゃないww
本当にその場の思い付きしか書けない九州説は無能w >>806
ほんとうに、各地固有の胎土なのかね? 重くて割れやすい土器を持ち運んだんだろうか? 現地で焼いた方がはるかに現実的だと思うんだが・・・ @阿波 407>>230
>三角縁神獣鏡は中国の鏡だから中国の専売特許<
列島の△は、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与したもの。
>前方後円墳は畿内が1番多いから畿内の専売特許<
大和の前方後円墳は、筑紫の那珂八幡等よりも後であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らのもの。 497>>233
>中国でも同じものが見つかり <
神獣鏡は、呉系であり、魏の敵国であり、
明帝の銅鏡百枚には選択されない鏡。
>使われている銅は中国のもの<
渡来の呉系楽浪鏡師らは、当然徐州銅を一杯以っていたから、
>漢字と魏の年号が入っている<
明帝が亡くなった景初三年元旦以後の年号鏡は、下賜の銅鏡百枚にならない。 >>813
尾張に向かってきてる矢印がないのと北部九州と奈良盆地が拠点だと書かれてるんですが… 497>>236
>かつ、奴国は畿内中心の前方後円墳祭祀連合に参加している <
「南≠東」や「前方後円墳は筑紫の方が早い」事で、×。 >>759
>都市の定義から始めますか?
お前、バカだろ?
そして基本知識、概念に欠ける無能だ
広瀬和雄も首長権力による弥生都市の形成を説き、近年の弥生都市論の積極的主張の
旗頭となっている。その論旨は大型環濠集落が弥生時代のきわめて特殊な集合形態で、
@一〇〇〇人とか二〇〇〇人の規模の人口の集住
A手工業・漁労・狩猟・農耕・司祭・渡来人など多彩な職掌の共生
B神殿を中心にした祭祀による共同幻想の創出
C首長の居宅とみられる大型建物の存在
D防御だけでなく内と外の識別の標識としての環濠
―などの特徴を挙げ、弥生時代の一般的な農民集落から大きくかけ離れていること
から、むしろ積極的に弥生都市として位置づけるべきだとする
都市の特徴を抽出すると
・専業工人の存在
・階層性の顕在化
・非農民層の高率化
・食糧ほかの外部依存
が挙げられる
都出比呂志は「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」の四つを
都市の重要な指標と定義している 497>>238
>外周突線 長方形鈕孔
ちゃんと字として書かれている銘文
ちゃんと神や獣として描かれている文様
同笵
多種多様な鏡からの引用
どれも国産ではムリぽ<
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。 497>>238
>畿内からは方格や画紋帯や内行花文鏡も出てるから
ロクな集落遺跡があったって事だ <
いずれも、卑弥呼や壹與から、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らに下賜された鏡。 >>808
>あのさ、畿内説が仮説以上のものを示せばいいだけなの。
>>808のいう「仮説以上のもの」って何だ?
文科省検定に通った教科書に書いてあってもなお「仮説以上ではない」と言うのか?
でたらめ<思いつき<作業仮説<多数説<通説<定説
のどこまで行けばいいんだ? >>814
北陸から纒向には直接のルートがない。
瀬戸内から纒向への直接ルートは使われた形跡に乏しい。
最大の交流相手は尾張。
それなら、北陸や瀬戸内からは尾張経由しかないだろ? >>819
その図が正しいとして、奈良は通過地点にすぎないよ?
説明がおかしいんだよ。
纒向ありきで色眼鏡で誤認している。
その図をよく見れば、起点は尾張、終点は筑紫だよ。 >>808
>あのさ、畿内説が仮説以上のものを示せばいいだけなの。
>わかる?
ぐだぐだ言わずに、具体的に答えられる部分に答えればいいだろ?
逃げ続けているのは、具体的に答えるべきものを一切持っていないからだww
この恥知らずの無能が!wwwww
どこがどう「客観性のかけらもない」のか、
何をもって「仮説以上のものではない」と判断しているのか
具体的に答えろよ!
そうしたら、それを論点としてきちんと畿内説側は答えてるぞ!
具体論に入ったところで破綻するから、具体論に入らないように逃げているのが
姑息な九州説の卑怯者のやり口ww
「末盧国と伊都国の国境線」を「具体的に示して」おくれ
ってのからも逃げてるし
50キロの距離を、
1里50メートルで測ったら1000里
1里200メートルで測ったら250里
この場合、誤差は何キロ?wwwwwwww
答えられるかな?
具体的に「誤差は何キロ?」からも逃げてるww
科学板なんだから、具体的な論証から逃げるなら出てくるなよ!ww >>826
起点が尾張ということは尾張は物流センターというより土器生産工場ということになるのでは・・・ >>821
>@一〇〇〇人とか二〇〇〇人の規模の人口の集住
それだけの住居が見つかっていない。
>A手工業・漁労・狩猟・農耕・司祭・渡来人など多彩な職掌の共生
絹がない、海がない、弓矢も未発達、少し前まで沼だらけで耕地も狭い、司祭がいた根拠なし、楽浪土器が出ないから渡来人もいない。
>B神殿を中心にした祭祀による共同幻想の創出
広瀬自身が共同幻想に浸っているんだよ。
>C首長の居宅とみられる大型建物の存在
まあ、考古学的に確認できるのは大型建物の存在くらい。
>D防御だけでなく内と外の識別の標識としての環濠
環濠ってすべてそうだろ? >>795
賛成
>「古墳造営前線基地」。 @阿波<
これは、畿内説の今残された阿保どもが邪馬台国の王都の生命線だが、纏向は✖
>>1へ
纒向を邪馬台国の王都としてるのは畿内説の一部になった感がある
石野も吉備に傾きつつあるし、寺沢にいたっては他人事のように言う・・
ヤマト王政にかかわるの地としての纏向の論調に変わりつつある
箸墓も径百歩で過去話題になったがそれを根拠にする畿内説の学者もめっきりみない(雑魚は除く) >>829
まあ、そうかも知れない。
しかし大生産地としての意味は大きいな。
西日本最大級の生産センターかもね。 >>810
>交通の便の悪いはずの伊勢経由の土器はかなりあるのに、瀬戸内の土器が少ないのは、直接の交流が少なかった証拠だよ。
>当時の勢力区分からすると、纒向は尾張の経済圏であったということ。
>それは土器の流通からわかるんだよ。
当時の交通路を無視している
畿内四至の話がいくつか前のスレで出ていたけれど、
東から来るのは、土器を作るレベルの大拠点に到達するのがそのままヤマトの国だから
ヤマトの国まで土器を持ち込む
東から来る場合は、ヤマトと一体の河内の国にまず着くから、そこまでしか
自分たちの土器を持ち込まず、そこから先は河内・ヤマトの飯炊き甕で炊事することになる
河内と大和の交流がないとかいうのは、バカの所業
畿内第V様式土器の時代から土器様式を統一し、
同じように土器様式を切り替えていく一体の地域だぞ >>830
その通りだ
纒向の大型建物の疑惑もあるし
たった百年超で何度も立て直し、柱穴がひろがった説もあるし
また、基礎の写真も無い、調査では土を固めたものらしいが・・・
参考までに
此のくらいの基礎も纒向にはない
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html >>834
>東から来るのは、土器を作るレベルの大拠点に到達するのがそのままヤマトの国だから
>ヤマトの国まで土器を持ち込む
>東から来る場合は、ヤマトと一体の河内の国にまず着くから、そこまでしか
>自分たちの土器を持ち込まず、そこから先は河内・ヤマトの飯炊き甕で炊事することになる
ダブスタ
少なくともどちらか、もしかすると両方の説明が誤りだろう。 >>816
>現地で焼いた方がはるかに現実的だと思うんだが・・・
纏向の胎土で焼いた各地の様式の土器も確認されてるよ
それこそ祭祀用供献土器として、わざわざ焼いたんだろう http://inoues.net/ruins/new_izumo_taisha.html
これは出雲大社の柱穴
纒向の掘立柱建物の柱穴はどんなものなのか公表された
写真を添付してもらえないかな??
奥山君 >>834
>東から来る場合は、ヤマトと一体の河内の国にまず着くから、そこまでしか
>自分たちの土器を持ち込まず、そこから先は河内・ヤマトの飯炊き甕で炊事することになる
まあ、これが嘘だよな。
個人で所有していた甕を河内で手放すのかよ。
しかも河内と大和が一体?
間に山地があるんだが? >>837
祭祀用供献土器の定義と写真掲載御願いします >>830
広瀬和雄氏の定義は、弥生時代の一大拠点となった巨大環濠集落を都市の萌芽とみなすというもの
>それだけの住居が見つかっていない。
遺構の実数には意味はない 規模の問題
>絹がない、海がない、弓矢も未発達、少し前まで沼だらけで耕地も狭い、司祭がいた根拠なし、楽浪土器が出ないから渡来人もいない。
すべて揃っているはずがないだろうww
唐子鍵で言えば銅製品製作の専門集団 朝日遺跡では玉製品製作の専門集団がいたと考えられている
>広瀬自身が共同幻想に浸っているんだよ。
これまでさんざん宮殿ではなく、祭祀施設だといっていたくせにww
>まあ、考古学的に確認できるのは大型建物の存在くらい。
これは認めるんだww
>環濠ってすべてそうだろ?
最初に述べたように、広瀬和雄の論は「弥生」都市論であり環濠を重視しているが、
纏向遺跡は環濠集落廃絶後の都市なので、この点はあまり意味がない
こっちにはコメントないのかい?
・専業工人の存在 ・階層性の顕在化 ・非農民層の高率化 ・食糧ほかの外部依存
「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」の四つ
都市の定義なら、こちらの方がすっきりしてるだろ? 纏向は尾張から沢山土器が来てた
これは分かる
だから他地域の土器は尾張経由で纏向に入った
これが分からない >>841
>広瀬和雄氏の定義は、弥生時代の一大拠点となった巨大環濠集落を都市の萌芽とみなすというもの
纒向はその条件を満たさない
明らかに満たすのは奴国など
>遺構の実数には意味はない 規模の問題
ここが最大の弱点だな
見つかってもいないものを夢想していることになる
それは畿内説全体の問題だよ
つまり畿内説は証明されていない脆弱な仮説の段階
>「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」の四つ >>759
@一〇〇〇人とか二〇〇〇人の規模の人口の集住 ・・・・・・・・・・纏向ではどう立証する 面積?
A手工業・漁労・狩猟・農耕・司祭・渡来人など多彩な職掌の共生 ・・纏向ではあまり証拠が出ていないのでは
B神殿を中心にした祭祀による共同幻想の創出 ・・・・・・・・・・・纒向に限ったことではないのでは?村の鎮守の神様が♪
C首長の居宅とみられる大型建物の存在 ・・・・・・・・・・・・・・首長を囲む防壁や巫女・兵は何処にいたの?
D防御だけでなく内と外の識別の標識としての環濠 ・・・・・・・・・纏向はお粗末、また範囲指定が個人的見解(近隣の天理市・橿原市を言及すべきだし、その境界線も??) >>842
土器の流れから確認できる交通路が尾張との間にしかないのだよ。 >>845
だからこそ尾張の土器が多いんでしょ?
それはいいとして尾張からは他地域の土器はどれぐらい出てるの? 纒向は建物の数も出土品の質や数も九州各地の遺跡に劣っている。
現実を見ようよ。
西日本の中でもそれほどではない。 >>838
それが不思議というか商業主義というか
発掘時の写真と再現された柱跡
http://small-life.com/archives/18/04/2820.php
この再現いい加減だよ・・これに税金が投入されてると思うと腹が立つなww >>839
>しかも河内と大和が一体?
>間に山地があるんだが?
間に山があっても、川でつながれている
その間の山の向こうが「ヤマト」なんだよ
手前が「カワチ」で、セットの自然地名になっている
畿内第V様式、庄内(0)1,2,3、不留(0)1,2,3と
同期して土器様式が変遷していくのに、交流がなかったっていうのは
戯言以下の妄言レベルだろ?ww
集約した土器製作工房で土器様式を示し合わせて作っているんだよ
カワチとヤマトの庄内甕が区別できるのは、河内が外面が右上がりのタタキ
大和が左上がりのタタキを持つからで、これは作り手の手癖のようなもの
基本的には同じ様式のものだよ >>843
>纒向はその条件を満たさない
>明らかに満たすのは奴国など
だから、広瀬和雄氏の論は「弥生」都市論だって
纏向遺跡は、古墳時代という新しい時代の画期を示す新しい都市
>ここが最大の弱点だな
いや?
大量の飯炊き甕から大人口が集住していたことが推知できる
これを無理に無視して「住宅跡がない」というピンポイントの批判に摩り替えているだけ
要するに整合性を無視したチェリーピッキングの亜種なんだよ >畿内第V様式、庄内(0)1,2,3、不留(0)1,2,3と 同期して土器様式が変遷していくのに
畿内第V様式は、重量厚形弥生土器。 けっして、軽量薄型土器じゃない!と、何度言えばw @阿波 >>851
纏向遺跡は、阿波の豪族墓 大和・柳本古墳群の造営終了と共に消滅する、古墳造営前線基地である。 と、何度言えばw @阿波 >>851
>だから、広瀬和雄氏の論は「弥生」都市論だって
>纏向遺跡は、古墳時代という新しい時代の画期を示す新しい都市
じゃあ、はじめから持ち出すな。
紛らわしいんだよ、ボケ
>大量の飯炊き甕から大人口が集住していたことが推知できる
キャンプかもしれないぞ。
何しろ建物がない。 >>850
>間に山があっても、川でつながれている
その程度の川は全国どこにでもある。
大和を推す人はまったく井の中の蛙だな!
関西なら淀川を中心に語れよ。
まあ、西日本全体で言えば尾張の方がもっと要所だったみたいだな。
そこにいたのは誰だ?
尾張氏の祖といえばニギハヤヒ、ニギハヤヒと言えば物部氏。 今夜も、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人が、追い詰められてしまいましたね、、、 盆休みでずいぶんスレが進んだようようですね
邪馬台国の王都かどうかは知らないがこのくらい纏向もあれば少しは譲歩するが・・・
「平塚川添遺跡」
・これまでの発掘調査で、約300の竪穴式住居跡と、約150の掘立柱建物跡が中央に集中してあった事が確認
・多重環濠集落の跡
・纏向同様 大型の掘立柱建物が4棟、整然と並んだ状態で建てられている
住居群はこれらを取り囲むようにして建てられている
・集落には、「楼閣」「高殿」などの大型建築物の跡も確認
・柱穴には礎板があり建物を強固にしている
畿内説全部を否定しないが纏向王都説は否定します >>851
住宅がほとんどない(九州との比較で言うと、ほとんどないと言っていい)のに、大集落などと言うのがおかしい。 土器の生産地は尾張、消費地は筑紫。
尾張は植民地のようなものか。
筑紫の天孫族(ニニギの一族)と尾張の天孫族(ニギハヤヒの一族)で説明がついてしまうな。
そしてその末裔が歴史的合流を果たしたのが大和の地であると記紀は記している。
あ、卑弥呼はまったく関係ないね。 邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人が、追い詰められてしまうことは、5ちゃんねるにとっては、痛くも痒くもなく、5ちゃんねるが活発になる可能性が高まるので、5ちゃんねるは朝鮮人を雇用したのではないのかな、、、 >>849
>それが不思議というか商業主義というか
発掘時の写真と再現された柱跡
http://small-life.com/archives/18/04/2820.php<
馬鹿じゃねーの桜井市は、貴重な遺跡をこんなにしてしまったのかい
これじゃ研究進まないな、、
それとも隠ぺいかい 西日本の中心は畿内でもましてや纒向でもない。
尾張だ。
三種の神器の一つ、草gの剣を祀る熱田神宮がある。
近くには前方後円墳もある。
物部氏が衰退すると、前方後円墳も作られなくなる。 邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまいましたね。 熱田神宮は、織田信長が、必勝祈願した神宮の可能性が高いな、、 草薙の剣は、ヤマタノオロチ退治事件と関係性があったのではないのかな、、、 清正公が、織田信長の軍勢に加わったのは、何時からなのか忘れてしまったな、、、 >>854
>じゃあ、はじめから持ち出すな。
>紛らわしいんだよ、ボケ
都市の定義の話から始めるなら必要だろ?
読解力ゼロなのか?
相変わらず虚勢を張る言葉ばかり使うww
弱い犬ほどよく吠えるって何度言われたら分かるんだろうね?w >>855
>尾張氏の祖といえばニギハヤヒ、ニギハヤヒと言えば物部氏。
尾張と言えば、東海忌部。 物部氏と言えば、忌部一族。 ニギハヤヒと言えば忌部一族。 @阿波 今日のキチ
711 727 728 731 737 742 756
759 762 771 793(自演) 831
835 838 844(自演) 847 857(しらばっくれ)
849 尾張から他地域の土器が大量に出土しているなら尾張は流通センターでそこ経由で纏向に他地域の土器を持ってきたって言えそうなものだけどなあ >>855
>関西なら淀川を中心に語れよ。
九州説でよく「奈良湖」があるから大和には人が住めないみたいなバカを言う人がいるけれど
淀川水系の方が水浸しで、京都盆地には巨椋池があるし遺跡の分布を見ても、
そこまで発展していない
ただのためにする批判だなww
https://i.imgur.com/BLXBMuy.gif
https://i.imgur.com/MIASIiH.jpg >>861だが
桜井市も間違ったというか、馬鹿な畿内説の功を焦る学者に騙されたというか???
遺産保存とか観光にも役立てるなら
俺なら、掘立柱建物をドーム状にする。
あれじゃあ・・遺跡としてみようと思わない写真でOk
なんで、なんで、こんなにしてしまったの纒向の大型掘立柱建物跡を
馬鹿か・・・隠ぺいか・・・馬鹿か・・・
http://small-life.com/archives/18/04/2820.php 頭が悪すぎる宣伝係員が、吠えたが、やはり、邪馬台国畿内説は破綻してしまいましたね。。。
867 名前:日本@名無史さん 2019/08/23(金) 20:23:50.94
>>854
>じゃあ、はじめから持ち出すな。
>紛らわしいんだよ、ボケ
都市の定義の話から始めるなら必要だろ?
読解力ゼロなのか?
相変わらず虚勢を張る言葉ばかり使うww
弱い犬ほどよく吠えるって何度言われたら分かるんだろうね?w >>876
その番組は、2019年度の新作なのだったな、、、 天理市の『塚穴山古墳』これ一見するといいよ
ついでに、纒向に行くか長谷寺に行くかは勝手だけど
長谷いいよ 高校生達の野球場での熱中症との闘いが終わったので、日本史の勉強を実行し、邪馬台国畿内説が破綻したことを勉強する可能性が高まってきましてね。。。 >>879
高校生達の野球場での熱中症との闘いが終わったので、日本史の勉強を実行し、邪馬台国畿内説が破綻したことを勉強する可能性が高まってきましてね。。。
という文章は、
高校生達の野球場での熱中症との闘いが終わったので、日本史の勉強を実行し、邪馬台国畿内説が破綻したことを勉強する可能性が高まってきましたね。。。
という文章の方が、正しいのではないのかな、、、 都市という言葉は、人口密度が高い地域のことを表しているのでは、ないのかな、、、
だから、疎らな巻向は、一度でも都市だったことがある可能性が低いな、、 >>873
>淀川水系の方が水浸しで、京都盆地には巨椋池があるし遺跡の分布を見ても、
>そこまで発展していない
いいかい。
琵琶湖淀川水系は日本海ルートと瀬戸内ルートをつなぐ重要な水路なんだ。
そのほとりにあるのが伊勢遺跡で、ここにはちゃんと各地から集まった首長らを饗応したと思われる建物が並んでいた。
少し離れて現地の集落や耕地もある。
纒向に欠けているものが揃っている。
淀川水系が実際に栄えていたことが遺跡からもわかる。
纒向は行き止まりの僻地。 >>821へだったな テヘ
@一〇〇〇人とか二〇〇〇人の規模の人口の集住 ・・・・・・・・・・纏向ではどう立証する 面積?
A手工業・漁労・狩猟・農耕・司祭・渡来人など多彩な職掌の共生 ・・纏向ではあまり証拠が出ていないのでは
B神殿を中心にした祭祀による共同幻想の創出 ・・・・・・・・・・・纒向に限ったことではないのでは?村の鎮守の神様が♪
C首長の居宅とみられる大型建物の存在 ・・・・・・・・・・・・・・首長を囲む防壁や巫女・兵は何処にいたの?
D防御だけでなく内と外の識別の標識としての環濠 ・・・・・・・・・纏向はお粗末、また範囲指定が個人的見解(近隣の天理市・橿原市を言及すべきだし、その境界線も??) 伊勢遺跡は弥生時代では貴重な分銅が出たから、通商の拠点として機能していたことがわかる。
集会のための大型建物、国内最大の銅鐸、周濠など、弥生時代の西日本の中心地の一つといってもいい。
それに比べて纒向はあまりにも貧弱だ。 @一〇〇〇人とか二〇〇〇人の規模の人口の集住
A手工業・漁労・狩猟・農耕・司祭・渡来人など多彩な職掌の共生
B神殿を中心にした祭祀による共同幻想の創出
C首長の居宅とみられる大型建物の存在
D防御だけでなく内と外の識別の標識としての環濠
筑紫や近江なら成り立つ。
大和にはない。 キナイコシはなぜこんなクソスレの書き込みにムキになってレスしているんだろう
5chの書き込みが仕事なのかな? >>889
家族が仕向けてるのだよ
このスレに固執してる限り、犯罪や、徘徊や喚き散らすことも無いから
ぼけ老人対策としてはケアマネ含め優秀だよなwww
24時間張り付けておくのも介護だな
だからキナイコシは2013から頭がとまったまま テンプレの引用見れば一目瞭然 >>867
しかり
纒向は都市じゃないよなぁ
某学者だったっけ、都市として生活臭がしないとか言ってたな
邪馬台国と関係あるかないかは別にして墓地と古墳造営基地が正解だと思う
古墳造営基地として貴重な遺跡には賛成するがネ 誰か 教えてほしいのだが
石野さんは最近 邪馬台国吉備説に傾きつつあるような気がする
吉備勢力ががヤマト王政を作った拠点が纒向のような論調だが間違いだろうか?
ずいぶんお年を取られたが 今年の講演では
「「ヤマト王権は纒向から始まった」
「卑弥呼以降 吉備(邪馬台国)、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作った地が纒向」と説明している。 箸墓に埋もれる形で竪穴住居が見つかってる
古墳造営に従って滞在する作業員の居住地を移動していたと思われる
百舌鳥古墳群でも古墳築造のために突然現れて古墳築造が終わったら廃れた土師遺跡というのがある
纏向全体が祭祀場と古墳を作るための巨大な工事現場ような場所だったんだろう 石野さんも90歳近くなったぁ・・
関大の教授になりたかったようだが・・・ 纏向が都市でないという話を聞いて喜んでるのがいるみたいだが纏向の価値はむしろ上がる
生活に必要もない巨大な祭祀場や古墳を作るためだけに莫大な人員と物資を投じてそれを指揮監督するだけの指導力があったという事
食い物や、家のための工事なんて当たり前のことだが、そんなものと全く関係のないものをそれまでに比較にならない規模出来る勢力の存在を示している
むしろ都市を作っているよりもよっぽどとんでもない規模の勢力がいたことの証であるのがわかる
他の弥生遺跡などもはや比較するのもバカバカしいレベル
纏向が当時の日本で比類なき存在であることが分かる >>892
石野さんはほんとうの倭国(阿波)を知っているが、古だぬきを決め込んでいる。 @阿波 鑑定士さん、カムバッーク!
874 878 885 886 890 891 892 894 >>892
プロの考古学者なら、倭国(阿波)の遺跡を目の当たりにすれば、邪馬台国がどこか直ぐわかる。 @阿波 >>884
賛同する
ヤマト説は大和川だが
淀川水系を無視はできない
畿内なんて言うのは後世で決めたものであり
淀川水系の京都・近江近辺が邪馬台国の中心部であると考える
奈良は墓地で良い >>899
>淀川水系の京都・近江近辺が邪馬台国の中心部であると考える
碌な集落遺跡の無い京都・近江近辺に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 前スレではアホが弥生後期に環濠集落が衰退するとか何とか言っていたが、それと同時に大型環濠集落としての伊勢遺跡が出現した。
環濠集落は衰退したのではなく、集約化されたんだよ。
纒向には棟持ち柱のある建物が一棟ある。
これが後の神社の本殿に相当し、貴人がいた建物に相当するだろう。
その隣の大型建物は祭祀を行う拝殿だろう。
だがこの様式からわかるのは、ここには貴人は一人しかいなかったということだ。
伊勢遺跡には棟持ち柱建物は複数あり、円周上に配置されていた。
これは多数の貴人を迎えることができる施設と言える。
その上に吉野ヶ里遺跡の楼観と同じ正方形の楼観があり、集会が行える大型建物もあった。
弥生時代唯一の焼きレンガがあり、鉄器も流通の拠点だった。
それと比べると、纒向遺跡には楼観がなく、迎えられる貴人はただ一人。
各地から人が集まったなどというのは嘘っぱちで、尾張から労働者層が動員されたが、露営していただけなので住み着いていたわけでもなかった。
これは都市とはハードもソフトもかけ離れていたと言わざるを得ない。
そろそろ畿内説は我田引水の嘘で塗り固められた議論をするのはやめてもらいたい。 >>895
>むしろ都市を作っているよりもよっぽどとんでもない規模の勢力がいたことの証であるのがわかる
お、大都市大集落は撤回か?
畿内説の完全崩壊は近いなw 497>>257
>魏が書き記した記録では女王は卑弥呼で邪馬台国に居て
邪馬台国は大和国である事は後の文献や考古学的な裏づけがあるよ<
「南≠東」などに拠って、×。 邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまいましたね。。 大阪を代表する弥生遺跡が池上曽根遺跡であり、銅鐸の大生産地として知られる。
伊勢遺跡は日本最大の銅鐸が出た祭祀遺跡だ。
同時期に並行して淀川水系に存在した同じ銅鐸遺跡が別の文化圏であることはあり得ない。
池上曽根遺跡からはヒスイが出土しており、近江を通じて北陸と交流があったことも間違いない。
東海地方もまた、遺跡からは多くの北陸型の土器が出る。当然、近江を通じて持ち込まれたものだ。
そうすると、近江や東海を切り離して畿内だけの文化圏などなかったことがわかる。
「畿内」説など成り立つ余地はない。
この点で、銅鐸よりも銅矛や銅鏡、または舶来のガラス製品など、大陸との交渉にこだわった九州北部との差異は大きい。
中国から倭王に冊封されたのがどちらだったかは明白だ。
そして銅鐸文化圏は消滅し、博多湾沿岸から広まった銅鏡文化が西日本から東日本まで席巻した。 >>265
>畿内ホケノ山古墳が年輪年代測定法や木棺サンプル5つを
炭素14c年代測定法で測定した結果がAD120〜240年
それと収められていた副葬品の年代観から三世紀中葉とされている<
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではなく、
ホケノは、有棺有槨で、庄内3〜布留だから、3世紀末〜4世紀。
年輪年代測定法や炭素14c年代測定法の計測失敗。 497>>271
>畿内は3世紀の大都市だから色んなとこから土器が入って来ても不思議ではないだろ<
掘立式建築の横の土坑から庄内3が出たから、3世紀末以後。 497>>283
>畿内説は構築された文献や考古学的証拠で圧倒的有利<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和は、「南≠東」などに拠って、始めから×。 497>>292
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説も、
いくら嘘ついても論破されるから
最近はめっきり勢いが無くなってしまったのう
大和説はもういくら嘘を重ねても無駄 わかったら撤収 >>884
>琵琶湖淀川水系は日本海ルートと瀬戸内ルートをつなぐ重要な水路なんだ。
>そのほとりにあるのが伊勢遺跡で、ここにはちゃんと各地から集まった首長らを
>饗応したと思われる建物が並んでいた。
その伊勢遺跡から瀬戸内に出るのに、大和を通るんだよww >>887
>伊勢遺跡は弥生時代では貴重な分銅が出たから、通商の拠点として機能していたことがわかる。
分銅は伊勢遺跡より亀井遺跡の方が古いぞ
亀井遺跡は畿内第V様式土器圏、邪馬台国7万戸の範囲内だ >>902
畿内説の応援演説、ご苦労さま
>だがこの様式からわかるのは、ここには貴人は一人しかいなかったということだ。
つまり、伊勢遺跡の合議制から、ただ一人の王の時代へと進んだんだよ
伊勢遺跡が廃れて纒向が建設される
同時並行の存在ではない >>909
>そうすると、近江や東海を切り離して畿内だけの文化圏などなかったことがわかる。
だから、その一つの文化圏を核として、周りの首長も相乗りで卑弥呼の共立という談合が成ったんだよ
これが畿内説の筋書きそのままだ
>「畿内」説など成り立つ余地はない。
いや、今自分で畿内説のおさらいをしただろう?
それ、畿内説そのものだぞw >>909
>大阪を代表する弥生遺跡が池上曽根遺跡であり、銅鐸の大生産地として知られる。
池上曽根で見つかってる銅鐸は断片で、鋳型など、作ってた痕跡は見つかってない
>伊勢遺跡は日本最大の銅鐸が出た祭祀遺跡だ。
日本最大の銅鐸が出土したのは大岩山で、伊勢遺跡じゃない
>同時期に並行して淀川水系に存在した同じ銅鐸遺跡が別の文化圏であることはあり得ない。
池上曽根は和泉の大阪湾岸近くにある遺跡で、淀川水系じゃない
>池上曽根遺跡からはヒスイが出土しており、近江を通じて北陸と交流があったことも間違いない。
>東海地方もまた、遺跡からは多くの北陸型の土器が出る。当然、近江を通じて持ち込まれたものだ。
誰も地域間交流があったことを否定していない
>そうすると、近江や東海を切り離して畿内だけの文化圏などなかったことがわかる。
>「畿内」説など成り立つ余地はない。
交流があったら独自の文化圏ではなくなるのか?珍説だな
>この点で、銅鐸よりも銅矛や銅鏡、または舶来のガラス製品など、大陸との交渉にこだわった九州北部との差異は大きい。
どういった点が?前段との論理的つながりがない
半島や大陸の文物流入も地域間交流の結果だ
>中国から倭王に冊封されたのがどちらだったかは明白だ。
弥生時代中期に金印をもらった奴国王がいることを否定するのはバカだろう
弥生時代中期と古墳時代早期の区別をつけない奴はバカだけど
>そして銅鐸文化圏は消滅し、博多湾沿岸から広まった銅鏡文化が西日本から東日本まで席巻した。
銅鐸の消滅と鏡副葬の流入にはタイムラグがあるし、いわゆる銅鐸文化圏内においても銅鐸の消滅には時間差がある
浅い知識だけで細かな視点をガン無視した、くそつまらないラノベだな
いや、ラノベに失礼か 伊勢遺跡
http://www2.city.moriyama.lg.jp/iseiseki/ise1top.htm
>最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1〜2世紀)です。
http://www2.city.moriyama.lg.jp/iseiseki/ise2.htm
>近畿地方の集落遺跡は、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散居住することが特徴で、
>後期になって伊勢遺跡のように巨大化する集落は稀です。 すでに気づいているだろう、老婆談
なぜか施設(歌舞伎〜)や家なども保存されていたり、
場所も同じようなところ 自称〜?何やらなど、
ただ語っている人の家などは保存されていないでしょ、
よくわからないけどw 497>>299>
>魏志倭人伝によると、奴国は女王国連合参加国で、
かつ、奴国は畿内中心の前方後円墳祭祀連合に参加している<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和は「南≠東」などに拠って、×。 497>>305
>西京雑記巻六 魏襄王の冢の記事
皆以文石為槨八尺許廣狹容四十人
皆文石を以て槨と為し、高さ八尺ばかりなり。広狭は四十人を容る。<
槨は、原則は、
遺体や棺を容るに足る密閉的小部屋であり、
出入り口はなく、居住性もないもの。
居住性があれば「室」。 497>>305
>あるのは魏晋里437メートル前後のみ<
魏の役人たちの記録した「魏朝の里」は、1里≒60〜90m。 497>>306
>いずれにしても、秦漢尺あるいは魏尺だから大差ないけどな
短里などないww<
いずれにしても、魏朝の役人らの記録里は「1里≒60〜90m」であり、
秦漢朝里ではない。 497>>307
>魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ ・・・<
魏志倭人伝の旅程記事に、混乱などない。
あるのは「南→東」などの嘘吐き騙しの曲解の大和説者の解釈である、
という事が確かだ 。 497>>310
>小枝資料の測定結果は280〜400年
INTCAL13は地域により実際より古い結果が出る
布留式土器の出土
年輪年代法は検証していない
年輪年代法は生えてから100年間の年輪では使えない<
ふーん。 497>>313
>小枝www
ホケノ山の木棺のサンプル5つはAD120〜240年<
木棺では、表面ではなく、髄付近の採取であるから、年輪分だけ古く、
AMSは、プラズマ化の失敗も、更に110年位古く出る。
>棺内の副葬品はAD240年三角縁神獣鏡が伝わる前の画紋帯神獣鏡と内行花文鏡が数点<
画紋帯神獣鏡は、神獣鏡だから呉系楽浪鏡師らの関与。
内行花文鏡は、九州倭国の女王らから東征将軍らへの下賜鏡であった可能性が高い。
>卑弥呼の魏への遣使前で鏡が枯渇していた時期と年代観が合う<
郡とのコンタクトは少し継続していたようであり、
呉系楽浪鏡師らの渡来は、卑弥呼の遣使よりも少し前。
>小枝は後年天井が崩落した時の混入物と見られている<
どっちにしても築造時であり、3世紀末〜4世紀。 497>>314
>帯方より南1万2千里が1里140メートルじゃ
邪馬台国は沖縄か台湾のあたり <
帯方の「東南」の萬二千余里だから沖縄台湾にならないし、
「1里140m」も、魏の役人たちの記録は「60〜90m」位の範囲である事からも、
合わない。 497>>317
>沖縄や台湾は会稽東治の東 嘘をついた九州説の負け<
会稽東治の東は、ほぼ九州島付近であり、沖縄や台湾ではなく、
嘘をついた八町説男の負け 497>>321
少なくとも、
会稽東治は揚州の管轄下であり、その「之東」はほぼ九州島付近であり、
福建省福州市や沖縄や台湾には全くならず、
「沖縄や台湾」を言い続ける二人の大和説者は、明確な嘘をついており、
・・・・あほ詐欺師仲間である。 497>>325
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、議論でも負けて、
煽りでも負け、どうやっても勝てない大和説
頭が悪いしクルっているから 497>>335
大和説は九州説に必ず負ける
それは「南≠東」であるからであり、
大和説者の嘘吐き騙しがバレバレだから 497>>336
>壱岐から唐津経由でしかも陸行で糸島に向かうのは、前後バラバラ以前の話
唐津から東南陸行五百里のところに伊都国はない
これをいい加減と言わずして何とするw <
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向説明であり、
伊都国は途中でも全く見えないから、魏の役人たちは方向計測出来ないし、
その事が理解出来ない東大理系博士号男は、・・・・アホ詐欺師であった、とする。 497>>339
>実際、呉を攻めるのが征南将軍だったり征東将軍だったりするし
会稽は「雒陽『東』三千八百里」だし
南北朝で南朝側が『東』晋だったりするもの
のちに『東』冶と呼ばれる地域で浙江・福建省にあった国が
『東』越とか『東』甌とかですしね <
洛陽付近から会稽地域はほぼ東南であるから、
東ともいえる場合があるし、南とも言える場合もあり得るから。 497>>340
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説者は
もう発狂するしかないのデス 497>>334
>その多くの人の生活を支えられるだけの食糧供給や
生活インフラを賄えるだけの大集落だったってことにしかならないよ<
墓造りの集落では、「都」にならない。 497>>345
>僕ちゃんは認めないぞと叫んでも
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。」山川
「奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」清水書院
などと書かれた教科書を使って 全国の高校生が日本史を学んでいるよ <
「南→東」などの嘘吐き騙しになる大和説を教えられる高校生が可哀そうだ。
山川や東京や清水などの教科書会社や、執筆大和説学者や、
それを検定合格させた文科省の責任はどうなるんだ?。 497>>351
>現地を調査した責任者は「巨大な集落跡」と判断した
監督官庁はそれを認定した<
結局、高校生にウソを教えた諸悪の根源は、やはり、文科省であったのか。 497>>352
>何戸あろうと関係ないな 巨大な集落跡なことに変わりない<
吉野ヶ里よりも広い地域に数十戸では、「巨大な集落」というのもインチキ騙しだよ。 497>>359
>九州説は敗退<
「南→東」の嘘吐き騙しの高校教科書を、
検定合格させた文科省や、執筆者や山川や東京や清水の教科書会社の敗退であり、
責任。 497>>360
>「南至」は実際には東でいいです
当時の計り方ではそれが正しい方角だった<
成人人類は、東西南北をほぼ間違えないから、
この大和説男(東大理系博士号?)が×。 本当に何があったんだよ、
某や某・・・という人物もいなかったんだろう?
みたいなことになっていたり
後の時代になり、
創作(複数の人物を合成、キメラ)された人物なのでは?
とか 中華勢力によって存在を消されたんだよ、
それとも他の勢力? >>918
>つまり、伊勢遺跡の合議制から、ただ一人の王の時代へと進んだんだよ
部下もいない孤独な王様
奈良盆地だけのローカル
倭王ではない まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格! @阿波
女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。 @阿波 本当に以前から気なっていることがあるんだけど、
アニメの神様?
なぜか、ほとんど同じような設定
馬に乗り、馬に翼が生えて・・・、宝剣を持っていてとか なぜか寺院なども出てきて・・・、あと救世主?
そういうストーリー
アニメの神様 佐賀川上の推定伊都国と、吉野ヶ里の推定不彌国の中間にある大和町久池井には、
8世紀前半頃にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄にある古国府(オキ、乎伎国府)が、佐賀川上に残る区画遺構(250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。
したがって両者の中心軸線には約3度の差があるが、
仮に其の軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計で、西暦150年頃までさかのぼる遺構であったということになる。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1566597435/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 池上曽根遺跡を見てみたが
纒向より年代は古いが集落としてはOK
纒向のみすぼらしさはなんだ! 497>>446
でも「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
常に負けてるよね? それにしても
意味のわからない書き込みをしている池沼がいるけど、
何なんだろう
「松傾」ばかり気になっているとか?
あの写真なども家の写真なんだけど、「松傾」・・・は最近の話なのかな? 以前、どこそこに住んでいた〜とか知っている人がいるのかな、
家は川崎区というところなんだけど 「松傾」山守〜?何やらとか
たしか山の上のほうに住んでいたとも言っているし、
家の老婆も知っているくらいだしな・・・、いつ頃の話なんだろう 木材(材木)が何やらという話をしていた事もあったし、
いま住んでいる家も、老婆の知り合い(親戚?それとも家?)の・・・、
そこの木材を使ってとか むかーし住んでいたところは、
いまの?福島県のほうだと言っているし 「庄・蔵本遺跡とは」
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。
蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。
その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。
弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。 @阿波
http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html 「庄・蔵本遺跡とは」
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。
蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。
その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。
その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。
弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、
弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。 @阿波
http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html 家を建てた(大工、業者?)のは・・・、
あの辺り(少し離れているけど・・・)に住んでいる人だよと言っていたりw 家の近所(川崎区)にある、寺院に通っていたとかw
何なんだろう 『菅野力夫』??
なぜか同じような話(写真)だしな、木材を運ぶ・・・とか 497>>469
>もちろん対馬ー壱岐間、壱岐ー東松浦半島間も、目視できる <
対馬ー壱岐は、海岸地域からは全くのように目視出来ないから、
渡海の出航方向の「南」だけ書かれており、
対馬海流に乗って、壱岐が見えて来る、という事。 497>>476
どうして、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の人は、
けちょんけちょんにされるのが決まっているのに書きに来るんだろう? >>975
南に向けて出発する理由など無いのに
南と書かれた倭人伝が正しいことにするために
南に向けて出発することにする
高台に登れば東南に壹岐の島影も見えるのに
南と書かれた倭人伝が正しいことにするために
登らないことにする
九州説はこんなもの >>976
このように
九州説はいつも
いつもウソをつく 497>>484
>「3世紀世界の倭国秩序の中心がヤマト」にあるんだよ<
「南≠東」などに拠って、×。 結局、九州説のバカの脳ミソのない妄想の書き込みとそれを相手するバカだけでスレが消費されてしまったな >>979
その「南≠東」は「会稽東治之東」に拠って、×。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1日 17時間 34分 10秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。