邪馬台国畿内説 Part500
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1566597435/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破綻
し
ま
し
た ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし 1最後が違う。巻向は王都であったが王は死んだその後は王不在の都市。卑弥呼の都は紀伊。 >>117
行程記事での国と国との距離の原則は、 双方の「居住外縁部」の間の二点間距離だ。
この原則に従った方法で、最初に行程里を読まれたのが古田さんで、
古田さんは、對海國と一大國の国内見聞移動の「二辺」分を計算計上すると、
部分里程の総計が総里程の「萬二千余里」になる事に気付かれた。
その後生野真好というお方も賛成された。
大和説崩壊確定。 >>121
>吉備の古墳は4〜5世紀の河内時代に突然巨大化する
それ以前の吉備の古墳は正直あまり大きい物ではない
副葬品は豪華なものがあるが
神話的にも吉備津彦命に遠征を受ける方で政権の主体と言うわけでもない
邪馬台国成立の根源みたいな評価はちょっと言い過ぎなのではないかと思う<
ふーん。 >>123
このスレって、要は、
「南→東」などの嘘付き騙しのの大和説をはじめとした珍説基地外と、
それを守ろうとしているだけのバカしかいないのか
話するだけ無駄かな?や >>81
>卑弥呼の都は紀伊。
最近、この紀伊推しが出てきたけど、こいつ大和朝廷は物部氏って言ってるバカだろ?
一つ否定されるたびにまた一つ根拠のない混ぜっ返しを考案してくる
キウスの京都説、連続句読点の熊本城の地下説の同類w >>128
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
どうして毎日そんなにウソがつけるの?。
やっぱり、教授たちや学会教育界や文科省が、
唯我独尊国粋皇国史観国家主義の殺人戦争に狂った・・・・アホだから?。
京都アニメ放火犯人のような・・・。 >>85
>この原則に従った方法で、最初に行程里を読まれたのが古田さんで、
>古田さんは、對海國と一大國の国内見聞移動の「二辺」分を計算計上すると、
>部分里程の総計が総里程の「萬二千余里」になる事に気付かれた。
それ、計算間違えてるよね
行程記事での国と国との距離の原則が
双方の「居住外縁部」の間の二点間距離だと
国の中の移動距離が合計に入らない
だから、部分里程の総計が総里程の「萬二千余里」になる事はない
ダメだな
ww >>136
>件の纒向遺跡の桃核のC14年代の誤差
桃1〜7は、±23BP
桃10〜13、15は、±17BP て書いてあるだろw 資料をよく読めよw<
ダメだよ。
例えば、
桃1という一個の桃核の範囲が2〜3世紀の間の「110年位の幅」になっており、
「±23BP」どころでは全くない。
一個の桃核は、C14を葉っぱから取り入れて、1年以内に出来た桃核の筈であり、
桃の木の他の場所のc14は、非常に少ない筈。
その事は、他の11個の桃核についても言える。
そして、それらのほぼ全てが同じ110年区間に入っている、という事は、
桃の採取はほぼ全部同じ年に採取され、
また、AMS法の失敗に拠って、
複数回以上実行された計測値が110年幅になってしまった、という事。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 現代関西人は、建物と地名地番を頼りに街区を行こうとする。
しかし広い荒野を旅した古代中国人たちは、
星と行程記を寄る辺に、東南とあれば東南へ進み、東行と書かれていれば東へ行った。・・・ただそれだけのこと。 畿内説石野船長「南⤴東と90度読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南⤴東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 「南→東」とかそういう単純なものじゃなく結果的にそうなったんよ
当時の中国人は日本列島の存在を知らなかったから
存在が確認されていた台湾、沖縄に当てはめた
国家的歴史書に不確かなものは書けない
日本列島の存在が中国で常識となるのは
新唐書ができる1060年以降 >>92
>例えば、
>桃1という一個の桃核の範囲が2〜3世紀の間の「110年位の幅」になっており、
>「±23BP」どころでは全くない。
・・・
>また、AMS法の失敗に拠って、
>複数回以上実行された計測値が110年幅になってしまった、という事。
もちろんそれ、暦年代較正の原理についての無知無理解によるトンチンカンな誤解だよね
AMS法では±23BPしか誤差が出てないんだからね >>93の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>95)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 広い荒野砂漠を旅した古代中国人たちは、
星と行程記を寄る辺に、東南とあれば東南へ進み、東行と書かれていれば東へ行った。もし方角を踏み外せば死、・・・ただそれだけのこと。 >>93
>>98
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>96
>当時の中国人は日本列島の存在を知らなかったから
>存在が確認されていた台湾、沖縄に当てはめた
>国家的歴史書に不確かなものは書けない
じゃ、陳寿は「計其道里」と
ウソを書いたと主張してるのか? >>100すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言!日出処「天子」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>100
>卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
そんなこと確認してくれた
学者は世界的に一人もいない >>101 陳寿目線で見ると嘘ではない
当時の中国の常識に当てはめただけ
そして中国人はこれが違うこと1060年まで気づかないから
おかしいと思ってなかったってこと
魏志倭人伝に当時の中国からみた矛盾はなかったと考えられる >>93
帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q…陸行一月
└東冶→倭国「女王之所都」12,000里
中国大陸の道里の転用か! >>104
>>>101 陳寿目線で見ると嘘ではない
>当時の中国の常識に当てはめただけ
常識に当てはめたのに
「計」ったと書いたら
とんでもない嘘つきで
詐欺師だよな
w w 夢多き老後を語り合ったはずの畿内説互助会も、
2ちゃんねる・5ちゃんねる文化によって いとも簡単に破壊され、崩落したということだ、 ・・・ただそれだけのこと。 >>102の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>159
>巻向時代に朝鮮半島に遠征し騎馬術と百済、白羅の渡来人を招聘し、河内時代が始まり古墳が巨大化
これは好太王碑から見ても事実だと言える <
好太王と戦ったのは、九州倭国の「渡平海北九十五國」であり、
記紀には記録がないから、大和はおそらく参戦してはいない。
>ここで重要なのは古墳自体の形式は変わっていないが規模が拡大したこと<
九州倭国が「東征毛人五十五國」で征服した毛人や、吉備のような出雲系を、
(好太王碑に書かれた)守墓人という半奴隷にして、巨大墓を造らせた。 >>108の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
漢〜魏晋南北朝〜隋唐まで、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
>高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
そのあたりは、筑紫忌部の墓地だとよくわかる。 わははははは @阿波 もし当時の中国の常識からみて矛盾があった場合
元敵国(蜀)出身の陳寿は処罰される
そんな時代
陳寿は立場上おかしなことは書けない
三国志(歴史書)以降も陳寿は書物を残してるから
処罰されなかったんだろう
つまり魏志倭人伝でおかしなところはないと
当時の中国人たちは考えて
これが間違っていたことが中国で広く広まるのは1060年以降 >>110の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智以降の倭京(太宰府)・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>109
>九州倭国が「東征毛人五十五國」で征服した毛人や、吉備のような出雲系を、
>(好太王碑に書かれた)守墓人という半奴隷にして、巨大墓を造らせた。
なら、なぜ畿内の巨体古墳 > 筑紫の中級古墳って
等級の格差があるの?
九州説がデタラメなのが世間の人全員に
よくわかるよ つまり当時の中国人たちは
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
と本気で思ってた
九州でもヤマトでもない台湾沖縄あたり >>112
>もし当時の中国の常識からみて矛盾があった場合
>元敵国(蜀)出身の陳寿は処罰される
>そんな時代
ウソ
陳寿はけっこう非常識な人で
何度も左遷されてるが
三国志を書いて咎められた形跡はない >>102 >>108
北部九州=首都(江戸)、大和=王家の谷&「天下の台所」(大阪)物流拠点(紀伊半島の水銀鉱床独占→大陸半島に輸出して外貨獲得)
という役割分担が明確だったからこそ、古墳時代の首都圏北部九州に倭国王墓がなかったんだね! >>116 結論は同じだな
>三国志を書いて咎められた形跡はない >最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
>高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
そのあたりは、筑紫忌部の墓地だとよくわかる。 わははははは @阿波 三国志で陳寿はお世話になった蜀の人をよく書いたり
冷遇した人を悪く書いたり
劉備を裏切った呉を悪く書いたりしてるが
倭人には私情はないので魏志倭人伝は事務的に書いたと思うよ >>105
陳寿は中国大陸人なんだから、当然そうしただろう >>165
>(陳寿90度回転)議論ではなく、単に畿内説の方と雑談してみたいので、
九州説の方はご遠慮下さい。
私には雑談の相手を選ぶ権利があります。<
「雑談」はご自由に。
しかし、その雑談が、「南→東」などの嘘付き騙しの宣伝であり、
国民を騙して誤らせよう、とする方向性を持っているものであれば、
国民や子や孫らのためにも黙過し難く、
きちんと「雑談内容を否定」しておく必要がある。 広い荒野砂漠を旅した古代中国人たちは、
星と行程記を寄る辺に、東南とあれば東南へ進み、東行と書かれていれば東へ行った。もし方角を踏み外せば死、・・・ただそれだけのこと。 >>98 パラレルワールド邪馬台国島???道理で1730年間、誰も解読できなかったわけだな(陳寿天才w) 明治・対象・昭和・平成と、夢多き老後を語り合ったはずの畿内説互助会の虚塔も、
この10年の2ちゃんねる・5ちゃんねる文化の台頭によって いとも簡単に破壊され、崩れ落ちた、 ・・・ただそれだけのこと。 陳寿は能力がなかったわけではなく付いた派閥が争いで負けた
そんな派閥争いを許したのは
劉禅がトップとしての指導力を発揮しなかったから >>118
陳寿はその程度で咎められると思って曲筆するタマじゃない
司馬氏が魏皇帝ぶっ殺したと書かないくらいの曲筆をする >>117
人やモノが集まる物流拠点「天下の台所」に巨大王墓を造れば、倭国の鉄を独占している倭王@北部九州の威光を具体的に示すことができるわけだからな。 >>128
ンなら都もそこに移すわ
九州説ってバカしかいねーな >>206
>邪馬台国は宮崎あたりの九州にあった 宇佐神宮もゆかりの神社
勢力を伸ばしつつ東進した
そして岡山の桃太郎伝説 出雲の国譲り伝説とか征服を重ねて畿内にはいり拠点を定めた<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
結局は、筑紫の女王之所都の存在を無視して、
「南→東」になる嘘つき騙しの大和説を唱えている事になるから、×ね。 >>128
鉄も文字も駅伝制(整備された直線道は奈良時代〜)もない古墳時代なら、そうするしかなかったのだろう >>123
唐津市に着いて東南に進んで、糸島市にも福岡市にも寄りませんでした
そう言った瞬間に、九州説は頓死するわけですがな >>100 >>131
直線道が整備された奈良時代の交通事情があれば、北部九州から簡単に遷都できただろうけどなw
「親魏倭王」号を筑紫女王卑弥呼に取られたわけ以上、それに従うしかないw >>130
>邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
そんなこと街宣車みたいに連呼しても
民衆だませないよ >>207
>唐津から糸島に行くのは誰が見ても北東方向だ それが「東南」と書いてある
あきらかに90度違ってるだろ 「南」とあるのは実際は東だ<
陳寿の行程説明法や人類の常識に拠って、部分行程説明の最初に書かれた「東南」は、
末盧國からの出発時点での出発方向であり、
出発時点でも途中でも伊都国は見えていないのだから、
魏使らは「伊都国方向」を知る事が出来ず計測出来ないのであり、
「東北」方向論は、存在し得ず、×だ。 >>108
継体の大王宮が記紀伝承地に出土していない…後は言わなくても解るよなw
古墳関西は王家の谷(巨大王墓)&天下の台所(倉庫)だ。 >>136 それだと方角はすべて間違ってるということに >>214
>>一言一句全て正確な歴史書なんかないだろ
違う点があるからと言って全部違うと考える必要もないし<
>じゃ、「南水行」の方位は無視していいね?<
いや、魏の役人らや普通の成人であれば、
東西南北の大体の方向は、99.9%以上間違えないのであり、
「南」という史料事実はほぼ否定出来ないの。 >>136
>陳寿の行程説明法や人類の常識に拠って、
北東に行くのに「東南」とは書かないよ >>218
このスレって、要は,
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の珍説基地外と、
それを妄信してるだけのバカが開いているんだから、
まともな議論なんて、はじめから無駄かな >>139
>いや、魏の役人らや普通の成人であれば、
>東西南北の大体の方向は、99.9%以上間違えないのであり、
九州説の詐欺師さん
そんな数字どこから出した?
「人を上手に騙す法」とかいう本に
とにかく数字で煽れとか書いてあったか? >>139
>いや、魏の役人らや普通の成人であれば、
>東西南北の大体の方向は、99.9%以上間違えないのであり、
>「南」という史料事実はほぼ否定出来ないの。
なら、どうして北東に進んだのに「東南」って書いたんだよ
九州説はインチキばかりでデタラメすぎ >>220
いや、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説は、国民の3割しか支持されず、
国民の7割や、中国学者らや世界中の学者らからも否定されている説だから、
悔しくて難クセつけにくる、という構図 >>144
九州説は毎日こんなウソを平気で垂れ流す
とてもマトモな人間には見えない 魏志倭人伝はただ単にこう書いているだけではなく
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
南方の風俗を思わせる記述もある
ゆえに中国人は台湾あたりに邪馬台国があると考えて
ず〜っと疑わなかった
>有無する所は?耳、朱崖と同じ。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(海南島)と同じである。
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
>夏后少康の子は会稽に封ぜられ、
>断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、
髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。 新九州説:佐賀川上ルート:
(不彌国までの方角里数は良く一致、しかも里数は短里≒韓倭の里に一致)
狗邪韓国〜対海国〜一大国まで省略
・一大国(壱岐)ー末盧国(唐津市中原津)は渡海+遡河計55q(700里)で、千里は可、
・末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南陸行して到る38q(500里)で方角・里共にドンピシャ、
・伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南方向至る7.5q(100里)で、同じく方角・里共にドンピシャ、
・伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行く11q(145里)で、方角はドンピシャ、里の四捨五入100里は適切 >倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
>或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、
離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
分散する小島があってそのどれかに首都があると考えた
つまり魏志倭人伝の方角や日数で邪馬台国の位置を出すとか無理
そもそも当時の中国人は九州の存在も本州の存在も知らない >>148
糸島も博多も通らない時点で佐賀ルート説はなから死んでるし 物的遺構こそが意味を成すよ
3世紀中ごろの当時としては豪華な遺跡で共立があったとこ >>151
>3世紀中ごろの当時としては豪華な遺跡で共立があったとこ
そこが、まさに倭国(阿波)。 @阿波 末盧国東南陸行500里の佐賀川上にあった伊都国と、
其の東行百里の吉野ヶ里にあった不彌国との中間に位置する大和町久池井(惣座)には、
8世紀前半に作られた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄に記されている古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、佐賀川上に残る区画遺構(大願寺廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。
したがって両遺構の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計施工であり、西暦150年頃までさかのぼり得る区画遺構ということになる。 >>153
ま、この説が世間から相手にされる可能性は皆無なので
無害だな >>154
そうか、
無害の評価は、世間さまのお邪魔にならないということなので、まことにありがたい。 >>155
バカでも悪人じゃないので生暖かく遇される >>234
>畿内の古墳はだいたい大王はんの墓<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国の大倭王の部下の「東征毛人五十五國」の将軍らの国であり、
彼らの墓。 >>157
畿内が存在しないとか
世間常識に反することを
なんの説明もなく連呼すれば
おつむのネジ何本か
飛んじゃってる人としてしか
遇されることはない >>251
>>それなら、三尚方に分かれたのは、
工房の製作対象品目などでの分割が起きたんだろう、と言う事になるだけであり、
鏡の製作に関しては、その三尚方で分離競合する、という事でもなく、
いずれの工房でも造る事が出来、
明帝の下賜の銅鏡百枚は、(在庫の鏡以外は)三尚方が協力して製作して枚数を揃え、
それらの鏡には原則として「尚方作」とのみ刻印された、という事になるだけだ。<
>根拠もないのに妄想で「原則として〜なるだけだ」とか言っても誰も信用しませんよ<
根拠は、www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に挙げられた「尚方作」鏡例であり、
列島での平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡の存在だ。
>既に「魏年号入り」の「右尚方」鏡及び「左尚方」鏡を紹介していますよ
それに対し、あなたは「魏年号入り」の「尚方作」鏡を示していません<
「鏡の製作に関しては、その三尚方で分離競合する、という事でもなく、
いずれの工房でも造る事が出来た」と説明してある。
>年号の無い「尚方作」鏡をなぜ魏鏡と言えるのですか?<
年号も「尚方作」も、製作者が必要だ、と思った時に刻印するものだ。
>後漢初期の「尚方作」鏡とどのように区別するのですか?
例えば桜馬場遺跡(弥生時代後期初頭=一世紀)の「尚方作」鏡とどのように区別しますか?<
当然後漢の尚方が、必要があるから刻印した鏡だ。 >>159
>根拠は、www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
>に挙げられた「尚方作」鏡例であり、
>列島での平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡の存在だ。
それ、循環論法の典型だよね
>・・・いずれの工房でも造る事が出来た」と説明してある。
理由もなく結論だけ言い張るのは
説明とは言わないよ >>254
>卑弥呼の時代の考古学証拠が畿内に多数あるからさ
昔から考古学では畿内が有利と言われていた<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙しの造作文言であるし、
文献考古共に、(大和よりも)北部九州説が圧倒的に有利。 纏向遺跡は面積が広いというだけであって、住居や建物跡は乏しい部類。
出土品のほとんども卑弥呼の死後の時代のもの。
現時点、卑弥呼時代にマッチすると報告されているのは桃の種だけ。
そこから妄想全開でトンデモ纏向説を生みだすあたり、まるでオカルト宗教だな。
妄想膨らませ過ぎw >>162
>出土品のほとんども卑弥呼の死後の時代のもの。
その通り。 前方後円墳も卑弥呼の死後の時代のもの。 @阿波 >>261
>>日本書紀を見ると九州が当時の中心だったんだよね<
>そんなことはどこにも書いてない 神武天皇の血筋が外来であること、
その出所が九州であること、しか書いてない 卑弥呼の時代は崇神天皇の時代
崇神天皇代の九州の記事は一言もない<
記紀、特に書紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書であり、
また天皇なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
史料批判や確率の批判無しには、根拠にならない代物。 根拠はですねぇ、時代の変化はオーバーかもしれませんけど崇神から巫女を遠くにやってる。巫女のクーデターが倭国大乱で成務とヤマトタケルがまあそんときの戦いでしょ。宮は成務が大津景行の行宮、巻向とはなっていない、卑弥呼もまた行宮を選んだと思うからです。 簡単に言えばそういうことです。大国中国の歴史書を任された陳寿が何故卑弥呼と名付けたか?これも答えが出ます。 >>162
>出土品のほとんども卑弥呼の死後の時代のもの。
証拠だしてごらん
証拠出さずにただ言い張るあたり、九州説ってまるでオカルト宗教だな。 福岡平野や筑後平野の川の中流下流に王の町は作らないと思うわ特別警報 山の上なら高祖山だろ。
伊都国の奴国が女王国としてまとまっていたなら、その間にある山城が王城と考えるべき。
筑紫の日向の高千穂だ。 >>166
>大国中国の歴史書を任された陳寿が何故卑弥呼と名付けたか?これも答えが出ます。
陳寿が名付けたわけでなし NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 >>169
>伊都国の奴国が女王国としてまとまっていたなら、その間にある山城が王城と考えるべき。
まとまってないから関係ないな
それぞれ別の国だ いつ覗いても、邪馬台国畿内説が論破されているね。。。 >>172
そんなウソをつかずにいられない九州説は
もう終わり >>174
いつ覗いても、九州説が嘘ついているね
ww 巻向かもしれませんよ、でも卑弥呼に縁のない場所です。 4世紀の巻向に出現した疎らな集落は、やはり、銅鐸王国を滅ぼした者達が滅ぼされた銅鐸王国の王家の怨恨に満ちた魂を、封印するための祭祀の場所なのではないのかな。。。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表したので、キナイコシが出現して、嘘を言い放っているな。。。
175日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:56:06.68
>>172
そんなウソをつかずにいられない九州説は
もう終わり
176日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:57:46.01
>>174
いつ覗いても、九州説が嘘ついているね
ww NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表したので、キナイコシが出現して、嘘を言い放っているな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
175日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:56:06.68
>>172
そんなウソをつかずにいられない九州説は
もう終わり
176日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:57:46.01
>>174
いつ覗いても、九州説が嘘ついているね
ww NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表したので、キナイコシが出現して、嘘を言い放っているな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
175日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:56:06.68
>>172
そんなウソをつかずにいられない九州説は
もう終わり
176日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:57:46.01
>>174
いつ覗いても、九州説が嘘ついているね
ww
182日本@名無史さん2019/08/28(水) 13:06:27.46
ウソばかりつく九州説は、もう終わり 伊都国にも川はあるけど短く
支流の流れ込みがあまりないので氾濫しにくい
筑後川は距離が長くて流れ込む支流が多くて
氾濫しやすかったんじゃないか
>伊都国に到る。(略)世、王有り。
水害の危険が少ない場所を選んで王の住まいとしたと思うわ 今回のような大雨だと、弥生時代の筑紫平野はとんでもないことになってただろうな
そんなところに大きな勢力が存在したはずがない 水害的にみて距離の長い大きな川がある
福岡平野と筑後平野に首都があったとは考えにくい
熊本市が狗奴国だとして軍事的にみて
台地の吉野ヶ里、山すその祇園山より南に
首都があったとは考えにくい
なに守ってるんだって話
これで候補として残るのは朝倉くらいだが
ふさわしい遺跡がない やはり王城は高祖山でしょ。
そして筑紫全体が邪馬台国。 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 4世紀の巻向に出現した疎らな集落は、やはり、銅鐸王国を滅ぼした者達が滅ぼされた銅鐸王国の王家の怨恨に満ちた魂を、封印するための祭祀の場所なのではないのかな。。。 環濠のある吉野ヶ里や筑後平野を見渡せる祇園山は
普通に考えて伊都国を守ってたと思うけど
朝倉市を守ってた可能性は完全には否定できないからな
でもやっぱり吉野ヶ里の配置は伊都国を守るためだよねえ >>187
遺跡もなんもないだろ
九州説終わってる 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 台地の吉野ヶ里からは有明海も見渡せただろう
そして伊都国の東の奴国と西の末盧国
伊都国を守る体制を作っていたと思われ
でも伊都国は邪馬台国ではない
なぜなら伊都国だから 魏志倭人伝時代の九州=倭国は、合戦の時代だったので、城がたくさんあった可能性が高いな。。。 魏志倭人伝時代の近畿=銅鐸王国は、九州=倭国に侵略される前の、平和な場所だったのではないのかな。。。 4世紀の巻向に出現した疎らな集落は、やはり、銅鐸王国を滅ぼした者達が滅ぼされた銅鐸王国の王家の怨恨に満ちた魂を、封印するための祭祀の場所なのではないのかな。。。 二重の環濠の吉野ヶ里や山すそにある祇園山は
農業をするには不向きだったと思われ
これらは軍事拠点として作られたと思われ
実際吉野ヶ里の方は古墳時代になると放棄される
祇園山は近くの集落の共同墓地として残った可能性がある >>194
現在は熊本城がある、熊本平野の要害の地にも、魏志倭人伝時代の城が有った可能性が、そうでない可能性の何十万倍もあるね。。。 4世紀の巻向に出現した前方後円墳や疎らな集落は、やはり、銅鐸王国を滅ぼした者達が滅ぼされた銅鐸王国の王家の怨恨に満ちた魂を、封印するための祭祀の場所なのではないのかな。。。 >>201
銅鐸王国の最後の王は、蛇の化身である大物主なので、蛇の好物のカエルが供えられたのだったね。。。 >>262
>弧文板が、かなり重要なんだよ
楯築墳丘墓の弧帯文石の文様が、特殊器台にも使われているし、纏向出土の板にもある
吉備単独で影響を与えたというより、中国地方(出雲・吉備)がセットで関わっているという
見方でよいのではないか
神武天皇の東征の逗留先として吉備が記されている意味はあるだろうし、古来の
有力地(中継地?)だったことは認めてよいだろう
一方で、同じ神武天皇の逗留地なのに、安芸の影が薄い理由がむしろ気になる<
常識的には、吉備は元は、出雲系であったが、
海峡の天孫族の阿毎氏の「国生み」植民神話の地の一つになり、
阿毎氏の五瀬命の東征の長期滞留の援助地であり、
大和に入った神武やその後裔と、血縁関係があってもちっともおなしくない。 >>265
>卑弥呼はモモソヒメでいいよ・・・<
「南≠東」だから、×だよ。 個人的に狗奴国の前線基地と考えてるのが
熊本市北区の轟今古閑遺跡で銅矛が4本でた
熊本市南区の宮地遺跡は農業するための集落で後方に配置
西区にも後方集落があったかもしれない
そうなるとこれらの集落の中央に防衛の町を置いておきたい
茶臼山京町台地なんてぴったりで
熊本城の下に弥生時代の遺構がないか掘って欲しい >>267
>歴史学者の間じゃ非実在が常識の古代天皇が
九州説じゃあ根拠なんだから 温度差あるの当然だわな><
五瀬命らの東征説話は、生駒の麓の「日下上陸戦」の記録があり、
記紀が書かれた奈良時代には全く消滅していて、
判る筈もなかった紀元前の「河内湾」の存在の証拠であり、
「神武らの東征」は、事実であった、という事になる。 >>269
>新唐書には倭国伝はないぞw <
当然だ。新唐書日本伝は、大和の日本国の事を書こうとしており、
九州の倭国の卑弥呼や倭の五王や、姓阿毎字多利思北孤の事も書いていない。 >>286
都合が悪いと「南→東」などの嘘付き騙しをし、
存在もしなかった「畿内」や「天皇」を、
あった事にする大和説の浅ましさよ >>329
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の人は、
「理由は僕ちんがそう考えたから」だけしか書かない。
客観的な根拠なんてないんだよ >>330
>>そしてその年代特定が未だ3世紀半ばから4世紀後半の枠内を特定できずにいること<
>これは悪意があるな 開始はむしろ2世紀末だ<
掘立柱の横の土坑は、庄内3でsるから、3世紀末以後だ。
>>これらは伝統的な祭祀を担う一族の王が遷都した痕跡だと言えるが、<
>あえて言うなら伊勢遺跡の後継だろ<
伊勢遺跡を2世紀にするんなら、
3世紀末以後の「庄内3」の纏向は、「後継」ではなく、断絶だ。 纏向の大型建物の柱の跡ってさ、小さい建物が複数並んでたって事じゃない?
食糧倉庫のエリアでしょ。 >>199
いまどき「銅鐸」というキーワードは
お門違いを意味すると思う。 狗奴国は和泉国。卑弥呼に組み入らないのは、和泉と和泉からの東山道都督配下の15国。卑弥呼の都は紀伊。 >>331
>前方後円墳が定型化するプロセス<
那珂八幡などの方が早かった。
>墳上の埴輪祭祀が登場するプロセス<
埴輪祭祀は、卑弥呼の殉葬奴婢百余人の否定だな。
>纏向で精製器種の祭祀が出来上がるプロセス そしてその実年代観 <
精製機種も、筑紫の方が早かった。
>学問的に完成してるから教科書にまで載ってるわけで<
「南→東」などの嘘付き騙しの教科書は、・・・・アホ詐欺師であり、
信用出来ず、根拠にもならない。 >>333
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の口からは、
具体的な理由がなんにも出てこないんだよね
根拠がない(ワシゃ認めないぞ)
根拠が不足している(基準なしワシ判定)
時期尚早(とにかくワシ断定)
まだ決まったわけではない(爺さんお迎えくるまで時間稼ぎ) >>334
>>現象は記述できても、それが「なぜ」なのかは考古学では分からないし<
>現象が起こっているという事実が強いんだよ その事実に即して考えるだけ
その結論が畿内説なんだな<
「南≠東」だし、
前方後円墳は筑紫の方が古いし、
庄内も筑紫の方が古い。 魏の鏡がまとまって出てくる可能性は低いですよ。卑弥呼は権威は必要でしたが鏡は要りません。みんなに配っちゃてます。ひょっとするともっといい鏡を持ってます。 >>338
>>銅鏡をシンボルに用いた祭祀は九州北部から継承されている。<
>証拠は?<
大和の銅鏡祭祀は、ホケノの3世紀末〜4世紀が始め。 >>346
>畿内で起こった卑弥呼擁する独自文明が九州文化を征服して王権の宝物を簒奪したという考えですかね<
「南≠東」などに拠って、×。 >>346
>ヤマト王政(天皇制の源流として)
邪馬台国が関与してるとすれば・・・<
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
始めから、×。 >>370
>魏で使われた尺定規が1尺約24cm
律歴志などにより魏の尺度は1里=300歩=1800尺だから1里約437m
魏の1尺が24cmは魏の1里は437mの根拠となる <
律歴志も始皇帝の「1歩=6尺」をつかった民間書であり、
魏朝の公的役人たちの計測記録の里の根拠にならない。 >>207
>五瀬命らの東征説話は、生駒の麓の「日下上陸戦」の記録があり、
>記紀が書かれた奈良時代には全く消滅していて、
>判る筈もなかった紀元前の「河内湾」の存在の証拠であり、
これはもうウソというより冗談のような九州説の赤橋
河内湾は河内湖になってやがて消滅したが、いつまでもいくつもの川で繋がった巨大な湿地帯だった
平安時代にはまだ勿入渕として残り、やがて西の新開池、東の深野池、一名日下池という巨大沼として江戸時代まで残っている
昔ここが海だったという言い伝えもずっと残っていた
九州説は無知なので妄想してる >>223
>律歴志も始皇帝の「1歩=6尺」をつかった民間書であり、
いや、それ史官の書いた公的な史書だから 昔河内が海だったという言い伝えがずっと残っていたのに対して、奈良に卑弥呼の城があったという言い伝えは全く残らなかったのだな。。。 >>226
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 つまり、倉庫群だったのだな。。。
213日本@名無史さん2019/08/28(水) 15:12:30.48
纏向の大型建物の柱の跡ってさ、小さい建物が複数並んでたって事じゃない?
食糧倉庫のエリアでしょ。 >>229
桃の倉庫とカエルの養殖場だったのではないのかな。。。 もはや・・・
九州説に出来る抵抗は
ガセネタを流し続けることくらいか 占い、占い!
卑弥呼さまの占いによれば、纒向は黄泉の国に至り、代わってこれからは橿原の時代が来るそうです。 バンビシャスを応援している者達が、ビーバーを買うという予想は正しいのだろうか。。。 >>375
>魏では1里75mの短里が使われていたとするなら
なになにという魏で使われた度量衡が記された史料に
魏では1里=300歩≒300尺の尺度が用いられたと書いてある史料が必要
公のものであれ明のものであれそんなものは見つかってないから短里はなかったと言える <
関係がない。
魏朝は、周制への復古の上表を採用するんだから、
周代から継続して使用されて来ていた「歩」の寸法を踏襲しておれば、
それで、何の問題もなく、
秦の始皇帝の新たな混乱を引き起こす「1歩=6尺」だなんて、
新たな強制命令をする必要が無い。
そして、魏使らも、卑弥呼の冢の寸法を周代の「歩」の寸法に拠って、
「径百余歩」と記録しても何ら問題がない。 >>377
>纒向遺跡の年代は記紀とは無関係に
・土器編年<
形態などからの、相対的で年代差が不明な、単なる推論であり、
絶対年代根拠にはなり難い。
>・土器と共伴する年代の限られた遺物(貨泉等<
これも同じ。貨泉は王莽期以後が判るだけで、絶対年代根拠にはならない。
>・14C年代等理科学的方法 <
これも、プラズマ化の失敗もあり、
どなたかの説明の「空気シャワー」などのための崩壊促進も有り得るので、
全く、絶対年代根拠にならない。 ヌートリアは、ビーバーの親戚なのではないのかな。。。 >>378
>帯方より南1万2千余里は淮南子に世界の果てを示す数字として出てくる上に
魏里に換算すればパプアニューギニアになるから実際測った数値の可能性は限りなく低いというか
常識で考えたら架空の数値である事が明白<
淮南子は「萬二千里」であって、魏志や魏略の「萬二千余里」とは違っているから、
魏の役人たちは、淮南子記載を踏襲せず、
それを否定する計測をして「余」を付けて近似値化した事になる。
そして、淮南子も一寸千里の法を使っているから、
淮南子も、以前の計測か?淮南子自身の計測で「萬二千里」を計測していた、
という可能性なら、有り得る。 二ホンカワウソは、まだ、滅びてはいない可能性があるのだったな。。。 >>238
昔の緑川には、イタチだけではなく、二ホンカワウソもいたのだったな。。。 ヌートリアは、日本の固有種に悪い影響を与える可能性があるな。。。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 >>379
>>伊勢遺跡の後継? はるかに規模が小さいよ。
>伊勢遺跡:東西約700m、南北約450m、面積約30ha
纒向遺跡:南北約1.5km、東西約2km
嘘つきww 九州説は具体的な数字などを出さずにゴマカシの嘘をつくww <
彼のいう「規模」とは、面積」ではないなあ。
当然建築物などの規模や内実の比較であり、纏向は、すっからかん。
>>銅鏡をシンボルに用いた祭祀は九州北部から継承されている。<
>破鏡は古墳時代に引き継がれてないよww<
?。
ホケノや、桜井茶臼山に引き継がれているよ。 >>381
>魏志倭人伝に出てくる里は100里以下の細かい数値が書いてないし<
おそらく、百里未満は、四捨五入の近似値化がされている。
>1里が場所によって50mになったり200mになったりと4倍の差がある
何らかの方法で実際に距離を測っていたならこういう風にはならない<
スレ主の「里数計測の起点や終点」の決定が、
きちんと「居住外縁部」にしないで、
インチキ騙しであったから。 日本列島先住民の流行り廃りの文化を畿内政権の統治による痕跡だと勘違いする程度の学者は称号を返上するべきだよな。
それでも畿内説を続けたいと言うのであれば、纏向学校へ入学すればいい。 >>386
>九州から来たのは卑弥呼の時代・纒向の時代の、100年以上前
卑弥呼の共立を契機に大和を中心としたそれなりの広域秩序が立ち上がり、
その秩序が魏志倭人伝の倭國でありその中心が邪馬台国・ヤマト国ってだけの簡単な話<
「南≠東」などに拠って、×。 ヌートリアは、日本の固有種に悪い影響を与える可能性があるな。。。 邪馬台国畿内説は、日本の歴史の学部に悪い影響を与える可能性があるな。。。 僕達の頭の良い孫達が、熱狂的に応援している者達が、世界と闘うために、会稽東治に向かっているのだな、、、 僕達の同僚が応援しているバンビシャスのメンバーも、含まれている可能性があるのではないのかな、、、 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 >>391
>・盟主墳の墳形を前方後円墳または前方後方墳とすること
・段築
・葺き石 が、定型化以降の古墳の特徴 <
段築と葺き石は、高くした時に盛り土が流れ落ちないようにするための、
当然の工夫であり、
祇園山では既になされていたものだ。 >>394
>>大和政権は各地に侵攻したんだろ。 共立とは言えないね。<
>各地に侵攻し始めるのは、卑弥呼の共立よりあとだよ <
「南≠東」などに拠って、×。 今どきの畿内説というのは桜井市教委と毎日新聞が手を組んで計画的にでっち上げたファンタジーだぞw
まともに相手にする必要はないw >>408
>>「会稽東治」は、元は会稽郡の治下にあったが、
257〜260年頃の分郡後には、
揚州の管理下になった、東シナ海沿岸部の事であり、
その「東」であれば、ほぼ九州島付近。<
>九州説は、なんでそんな捏造ができるの?
257〜260年頃の直前に、会稽郡の最北端は北緯30度付近だ
その会稽郡のどこをどう恣意的に切り取ったって
東にあるのは屋久島や奄美以南だ どうして九州説は平気でウソつくの?<
大和説は、なんでそんな捏造ができるの?
257〜260年頃の分郡で、会稽郡の東治地域は、会稽郡では無くなったんだよ。
そして、陳寿は会稽との関係を推定しているから、会稽東治と書いたけれども、
郡よりも上の揚州の管理下になったんだよ。
会稽郡の最北端は北緯30度付近だ
>その会稽郡のどこをどう恣意的に切り取ったって<
会稽郡ではないよ。揚州の管理下地域だ。
>東にあるのは屋久島や奄美以南だ どうして九州説は平気でウソつくの?<
揚州の管理下地域の東は、ほぼ九州島付近だ。
どうして大和説者は平気でウソつくの?。 占い、占い!
卑弥呼さまの占いによれば、ウソつき纒向は黄泉の国に至り、代わってこれからは橿原の時代が来るそうです。 >>159
>根拠は、www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
>に挙げられた「尚方作」鏡例であり、
>列島での平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡の存在だ。
また、その頁ですかw
「右尚方」「左尚方」が載っていないから参考になりませんねw
その少数の「尚方作」鏡例と21枚の倣製「尚方作」方格規矩鏡の存在
の何が「ぼくが考えた原則」の根拠になるのですか?w
後漢鏡or模倣鏡というだけですよw
>「鏡の製作に関しては、その三尚方で分離競合する、という事でもなく、
>いずれの工房でも造る事が出来た」と説明してある。
あなたの勝手な想像だけで、説明になっていません。
・中尚方は、造ったものに「中尚方」と刻印した。
・左尚方は、造ったものに「左尚方」と刻印した。
・右尚方は、造ったものに「右尚方」と刻印した。
これ以上シンプルな理解はないのですよ。
「魏年号入り」の「尚方作」鏡がなければ魏鏡とは認められませんね。
>年号も「尚方作」も、製作者が必要だ、と思った時に刻印するものだ
>当然後漢の尚方が、必要があるから刻印した鏡だ。
「思った時」www
刻印は落書きですか?www
「尚方」品の価値が全く分かっていない人の発想ですね。
「尚方」品には、無銘は無いんですよ。最高級品ですからね。
「尚方作竟」「尚方佳竟」は一世紀の鏡ですよ。
時代が違うなら模倣品と疑うべきです。 なんせ、九州を飛び出した小坊主が、橿原に店を出して大成功し、
やがて日本建国の祖と相なったのだからな、、。 >>234
>魏朝は、周制への復古の上表を採用するんだから、
そのような上表は存在しない
>周代から継続して使用されて来ていた「歩」の寸法を踏襲しておれば、
そんなものは無い >>436
>神武東征で大和に都を移した後の天皇の用明天皇がアメノタリシヒコだと言うんだからな<
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」であるから、
「 目多利思比孤」という呼称であって、「アメノタリシヒコ」ではないから、×。
>このアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じだと書いてる<
隋書の「姓阿毎、字多利思北孤」は、明らかに、
倭奴國や卑弥呼や倭の五王の、歴代中国と国交を持った九州倭国の王である、
という説明であり、
新唐書記載の用明のような「直隋開皇末、始與中國通」した国の王ではない、
という事であり、
「メタリシホコ」は、大和の王であって、九州倭国の邪馬壹國の王ではない。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>446
>理由など言わず、先入観だけで頭ごなしにひたすら決めつける
それが九州説<
理由も言わず、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
「畿内」や「邪馬台国」や「天皇」などの存在もしなかった嘘つき騙しの文言を使い、
先入観だけで頭ごなしにひたすら決めつける
それが大和説 このスレッドで、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している係員には、頭が悪すぎる者しかいないことがバレ、このスレッドが寂れたので、
このスレッドで討論する話題を、どうすれば、バンビシャスの経営が安定するかの話題に、変換すれば良いのではないのかな。。 >>450
「南→東などの嘘付き騙し」と言われたら 「南=東だ」という証拠を突きつければいいだけ
「しょうこは?」と言われたら「南=東」の 証拠を突きつければいいだけ
それをしない大和説者は ウソついてた証拠
そんなことでは誰も大和説を支持しない
大和説は九州説の中傷ばかりせず、証拠ある主張をきちんと述べた方がいいと思う >>460
文献考古の史料事実に添った常識的なことを言えば、常識人が支持するだろう
大和説が、「南→東」などのような非常識なことを言えば
常識人が大和説に近づかなくなり、
国民の7割や中国学者らもが、大和説に近づかなくなる。
それだけのこと バンビシャスの経営を安定させるためには、少ない費用で、大きな効果を産み出す物事を、実行すれば良いのではないのかな、、、 シカッチェという、チームの着ぐるみは、見映えは悪くないのだが、インパクトが足りないのではないのかな、、、 巻向が卑弥呼の都である根拠は?ニューヨークを掘ったところでワシントンは無いぞ。 >>270
もう一体、観客に衝撃的な印象を与える着ぐるみを作製し、シカッチェとコンビで宣伝すれば良いのではないのかな、、、 バンビシャスを応援している者達が、ビーバーを買うという予想は正しいのだろうか。。。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 囓られたカエルの着ぐるみは、インパクトを与える可能性が、高いな、、、 >>467
>漢代の認識ではハノイでも洛陽の南11,000里
もちろん正常な漢魏の1里=1800尺でだ <
何だ?、
誰がどういう計算で「ハノイでも洛陽の南11,000里」と書いたのか?は知らんが、
ハノイなら、大体北回帰線付近であり、という事は、
一寸千里の法の短里であれば、洛陽の南16000里だ。
そして、長里では、赤道付近になってしまう事も変わりがない。
さては、これはまた類スレ主のインチキ解釈か?。 >>256
>大和説は、なんでそんな捏造ができるの?
>257〜260年頃の分郡で、会稽郡の東治地域は、会稽郡では無くなったんだよ。
「東治地域」なんて史料には全く登場しないので
また九州説による捏造だな
しかも分郡されたのは会稽郡治より南の地域だ
当然ながら北緯30度より南で今の浙江省の一部だ
>そして、陳寿は会稽との関係を推定しているから、会稽東治と書いたけれども、
>郡よりも上の揚州の管理下になったんだよ。
もちろんそれも九州説による捏造
会稽郡の一部を臨海郡として分割しただけ
会稽郡も臨海郡も、揚州の管理下だ
分郡以前も、以後もね
そして、分けた臨海郡が「会稽東治」であるなんて史料も全く存在しない
九州説による捏造だ >>275
バンビシャスを奈良市だけではなく、県全体で応援するためにも、鹿にこだわらない方が良いな、、、 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 >>256
>会稽郡ではないよ。揚州の管理下地域だ。
>どうして大和説者は平気でウソつくの?。
会稽郡の最北端は北緯約30度
会稽郡で、かつ揚州の管理下だ
九州説はまた捏造してる
>どうして大和説者は平気でウソつくの?。
全て史実をのべている
揚州の管理下地域は、北は江蘇省の長江南岸部から、南は福建省までだ
つまり北は鹿児島南部、南は沖縄・台湾あたりだ
揚州管理下だからといって、べつに「会稽東治」なわけではない
「会稽東治」は会稽郡南部で、かつ揚州管理下地域の最南端あたりだ
九州島は遥かはるか北にある
九州説の捏造はひどすぎるな
>揚州の管理下 >>274
>NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。
九州説は、ふたことめには捏造するのだな
悪質なもんだ 邪馬台国畿内説を宣伝するためには、魏志倭人伝の会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、会稽東の治所とは上海にあるのだとする、世界中の学部の常識と対立しなければならないのだな、、、 >>479
「南→東」などの嘘付き騙しを書き込んでるを大和説者は、
国民の7割や中国学者の殆どと意見の合わない狂人ばかり、
という事に心当たりはないのか? NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表したので、キナイコシが出現して、嘘を言い放っているな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
175日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:56:06.68
>>172
そんなウソをつかずにいられない九州説は
もう終わり
176日本@名無史さん2019/08/28(水) 12:57:46.01
>>174
いつ覗いても、九州説が嘘ついているね
ww
182日本@名無史さん2019/08/28(水) 13:06:27.46
ウソばかりつく九州説は、もう終わり
283日本@名無史さん2019/08/28(水) 19:44:49.00
>>274
>NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。
九州説は、ふたことめには捏造するのだな
悪質なもんだ >>486
>つまり「余の有無に拠る書き分け」なんて発生していないのだね<
いや、「余の有無に拠る書き分け」が発生している、
という事が、魏志倭人伝での史料事実であり、史料実態。 バンビシャスを応援している者達が、ビーバーを買うという予想は正しいのだろうか。。。 >>490
>書いてある行程通りだと邪馬台国は沖縄か台湾・・・<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
書いてある行程通りだと女王國は九州島付近。 ビーバーという加賀温泉のお菓子が売り上げを増大させたのは、世界と闘うために、会稽東治のあった上海に向かった者達に関係性があるのだったな。。 ヌートリアは、ビーバーの親戚なのではないのかな。。。 >>497
>その程度のイチャモンじゃ畿内説はひっくり返らないな<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説は、既に「南≠東」などに拠って、ひっくり返っている。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 大和説は、既に「南≠東」などに拠って、殺虫剤を吹き掛けられたゴキブリのように、ひっくり返っているのではないのかな、、、 >>502
文献や考古学発掘や研究によって三世紀前後の古代の実像が明らかになりつつある今
それに何だかわけもわからず
腹が立つから必死に出鱈目並べて誤魔化そうとしてる大和説は
まるで重い岩にでも徐々に轢き潰されていってるような心境ではないだろうか >>294
大和説は、既に「南≠東」などに拠って、殺虫剤を吹き掛けられたゴキブリのように、ひっくり返り、ピクピクと痙攣している可能性が、そうではない可能性より、高いな、、、 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。 昔の緑川には、イタチだけではなく、二ホンカワウソもいたのだったな。。。 二ホンカワウソは、対馬で生きているのだろうか、、、 ヌートリアは、日本の固有種に悪い影響を与える可能性があるな。。。 ユーラシアカワウソは、日本の固有種に悪い影響を与える可能性があるな。。。 邪馬台国畿内説は、日本国民に悪い影響を与える可能性があるな。。。 >>540
ひたすら、
「南→東」や「冢=前方後円墳」や「纏向は3世紀末以後ではない」などの、
ウソをつくだけの大和説
終わってるな >>541
>全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。
近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、
最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8基、第三位が大和で6基、
以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。
以上から、この地(奈良)が前方後円墳の発祥地とは言えない。<
成程。まるで「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」だね。 畿内説及び紀伊は、神功以外有り得ない説なんで記紀を否定する説はありですよ。でも中国の史書位はあってないとダメですよ。 >>542
>「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 <
また例のアホ佐々木の論考を出してきたな。
>特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,
一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,
豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。<
問題点はこれ。
「一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し」
だから、筑紫で、筑紫の胎土で製作や我流技術生産があった、という事であり、
しかし、畿内型土器が搬入は、大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内であるから、
筑紫での庄内の3世紀前半には、大和ではまだ庄内がなかった、という事。
これが、佐々木らの説明の重大な矛盾であり、
「一度畿内型土器が搬入」はなかった、という事。
筑紫は、大和よりも先に、筑紫の胎土で庄内を造っていた、という事。 >>547
>>そして、会稽東治の管理者になった揚州は揚子江の北であるから、<
>真っ赤なウソ
揚州は丹陽郡、呉郡、会稽郡など6郡からなる広い地域で、揚子江の南
九州説はどうして平気で真っ赤なウソを繰り返すのだろう <
Yahoo地図では、揚州は揚子江の北だよ。
そしてどちらが先か?は知らんが、
揚州の「揚」と揚子江の「揚」は、同じ「揚」の文字。 >>547
>>東治は江蘇省海岸部も意図する事になり<
>なる道理がない <
揚州の町の東は江蘇省海岸であるし、
会稽東治の揚州管理下地域で、最も中心になるのは上海だ。
>>揚州の本拠地の東だ。<
>揚州の州治は江蘇省だが、会稽郡治は浙江省、<
「会稽東治」は「会稽郡治」ではない。
>会稽東治(侯官)は福建省だ<
その「東治」は、張元済が校勘で否定した文言であった筈だ。
九州説は、どうして平気でウソをつくのか? >>548
女王國を沖縄や台湾だ、という大和説者は、
「沖ノ鳥島は東京都だから箱根の東にあるはずだ だって東京都なのだ 箱根の真東にある」
こんなことを言い張るのと同じくらい狂態
まさに狂態
それが類スレ主や大和説者。 >>549
なぜか居座り続けるスレ主や、類スレ主をはじめとした珍説基地外の大和説者と、
それに応援する数人の大和説の奴しかのでて来ないスレ
まともな歴史の話をする奴が一人もいない >>552
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
史料事実からの帰納的確率的推論をした九州説にアヤ付けるアホウが来れば
きっちり引導渡すのは当然だ >>276
>誰がどういう計算で「ハノイでも洛陽の南11,000里」と書いたのか?は知らんが、
テンプレに書いてあるだろ
後漢の正常な里で1万1千里だ
「短里」なんて存在しない >>554
九州説が帰納的確率的な推論だ、という事にイチャモンを付け、
自分等の「南→東」などの嘘付き騙しはこっそり隠すという大和説者は、
妄想の最たるものであり
お脳に問題あるだろ >>569
大和説・・・「南→東」などの嘘付き騙しの馬鹿の一つ覚えか >>58
なんで魏里なんてものを不弥国から使い始めたの?
魏里なんてものをはじめから使ってたら北九州に着きもしないのに。 >>583
つまり畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
どこもかしこも皆ヤバい。 >>308
>九州説は、どうして平気でウソをつくのか?
九州説がウソだからだな 邪馬台国畿内説は、日本国民に悪い影響を与える可能性があるな。。。 >>589
倭人伝を無視してはイカンよ、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説みたいに >>313
>九州説が帰納的確率的な推論だ、という事にイチャモンを付け、
そりゃ付くでしょう
帰納したと口先で言うだけデータは絶対に見せず
確率と口先で言いつつ計算は絶対出さない
そんな九州説
誰でも疑う >>592
九州説は別に無理やりこじつけてないし、
全て根拠に基づいている
畿内や邪馬台国などのような、存在もしなかった嘘つき騙し文言の使用や、
「南→東」などの嘘付き騙しの、無根拠の大和説と違ってな >>315
>なんで魏里なんてものを不弥国から使い始めたの?
最初から最後まで魏里を使ってるだろ
魏の国の記録なんだもの、 >>594
>道里をちゃんと測ったなら
邪馬台国までだいたい1万2千里なんて書き方はしないし
実際魏で使われてた里と5倍もズレない <
魏の役人たちは「余」の有無を使ってきちんと書き分けているし、
「其戸數道里可得略載」と「略載」と言っているように、
きちんと近似した事も説明している。 >>307
>Yahoo地図では、揚州は揚子江の北だよ。
だから九州説は歴史を研究できない >>599
魏の政治的決定だ、と決め付けは良くないな
書かれてる邪馬壹國女王之所都の位置は現実的だし
帯方より南東1万2千里の会稽東治の東という位置情報は
筑紫の事であった可能性が非常に高い >>213
>纏向の大型建物の柱の跡ってさ、小さい建物が複数並んでたって事じゃない?
「邪馬台国があったとされる3世紀の地層から、巨大な建物の跡が見つかったのです。
幅19メートル、奥行き12メートル、当時の『日本列島では最大のもの』です。
これが邪馬台国の女王、卑弥呼の王室だったのではないかと注目されたのです。」 >>602
「南→東」などの嘘付き騙しに関してなにひとつ根拠をのべずに
こんな投稿を続ける大和説の
脳内いっぱいに詰まっているもの
それを、妄想というんだよ 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 >>228
>NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。
「一方、九州説を裏付けるのが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です」
九州説、終わってるなww うそつき纒向は お・し・ま・い
これからは橿原繁栄の時代に移る。これは卑弥呼さまのお告げです。 >>244
>日本列島先住民の流行り廃りの文化を畿内政権の統治による痕跡だと勘違いする程度の
>学者は称号を返上するべきだよな。
この人はやはり悪意をもって日本sageをしているな
日本人は日本列島「先住民」などという言葉は使わない >>605
九州説には色々な証拠があって
筑紫付近の蓋然性が相当な高さだから、
国民や中国学者らの間で定説なんだよ
否定するのも困難で
別のとこにすこし蓋然性のすこしある証拠が出てもびくともしない位なんだよ。
けど議論が始まって数百年そんなもの見つかってないけど NHKが発表した、、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が九州説を裏付ける、、という意見は、九州に魏志倭人伝が描く城があった証拠になったからなのだったな、、、 >>333
最新の常識を踏まえているNHKが、巻向が邪馬台国ではないことをはっきりはさせずに、対比法でほのめかすだけに止めたのは、奈良の観光関連に忖度したからなのでは、ないのかな、、、 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 >>308
>揚州の町の東は江蘇省海岸であるし、
>会稽東治の揚州管理下地域で、最も中心になるのは上海だ。
建安郡は揚州管理下地域だったな
建安郡の東には台湾・沖縄がある
建安郡の東に九州島があると言う人はいない
発狂してない人以外は、ね
揚州管理下地域の中には上海があるが、そこは会稽東治ではない
揚州管理下地域の南の方は、東には台湾がある
九州説は無知蒙昧なうえ気が狂ってないと儲になれないのだな
誰もがそう理解するだろう
請け合っても、いいぞ >>334
>最新の常識を踏まえているNHKが、巻向が邪馬台国ではないことをはっきりはさせずに、対比法でほのめかすだけに止めたのは、
ほのめかしていない
それは
「あのアイドルはステージから俺の方を見たから、俺と結婚する気なのだ」
という式の気の狂いかただ >>306
>大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内であるから、
矛盾の原因はこの「大和の庄内は3世紀末」と言うインチキだよw NHKが、、、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が無い、、と発表したので、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い朝鮮人が焦り、嘘の悪口を言い放ってきたな、、、
337 名前:日本@名無史さん 2019/08/28(水) 22:12:04.26
今日はいつにも増して連句点の狂いっぷりが酷いな
338日本@名無史さん2019/08/28(水) 22:15:39.03
>>334
>最新の常識を踏まえているNHKが、巻向が邪馬台国ではないことをはっきりはさせずに、対比法でほのめかすだけに止めたのは、
ほのめかしていない
それは
「あのアイドルはステージから俺の方を見たから、俺と結婚する気なのだ」
という式の気の狂いかただ
339日本@名無史さん2019/08/28(水) 22:16:39.53
>>306
>大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内であるから、
矛盾の原因はこの「大和の庄内は3世紀末」と言うインチキだよw 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 >>342
発掘が進行するにつれ、魏志倭人伝時代に近い時代の都が無いことが、はっきりしてきたからではないのかな、、、 >>607
>明確な証拠はどこにもないのだから、
どの説も最終的には想像の産物としか言いようがない ・・・<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
確かに全部を知る事は100%不可能であり、最終的には、想像の領域に入ってしまうんだが。
しかし、人類は、それでも、知り得た範囲内の事実からの、
帰納的確率的な推論をすることに拠って、生き延びてきて、
文化文明を気付き上げ、子孫を残して、地球上で発展して来たんだよ。
歴史での学問や科学でも同じ。
知り得た範囲内の史料事実や、史料批判出来た史料実態からの、
帰納的確率的な推論をする事によって、確率の高い歴史実態を知り、反省し、
これからの人類の生存していく道を選択いなければならないんだよ。 >>333
>九州に魏志倭人伝が描く城があった証拠になったから
吉野ヶ里の建物は、唐古鍵の線刻土器をもとに復元したもの
「基本形態
復元形態を策定するため、参考とした絵画土器や家屋文鏡には、重層楼閣や特徴ある建物の様子や
棟、軒先飾りおよびシンボルの鳥が描かれており、弥生時代の建物をうかがい知る有力な資料と
なりました。 遺構の柱間隔、柱太さや柱穴の深さ等の検討により、H5年に奈良県田原本町の
唐古・鍵遺跡から発見された絵画土器に描かれている3層2層建ての楼閣建築を想定しています。」
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c310.html
つまり吉野ヶ里を推すことは、畿内に楼閣があったと主張することにしかならないw >>616
大和説は、「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しのかった確率の殆ど0%の文言を使い、「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
数々の不正が蓋然性を低くしているというだけだが
ちょっと資料に目でも通せば誰にでもわかる >>622
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
ついに話し合いを放棄して発狂 >>624
>前方後円墳や三角縁神獣鏡は想像の産物じゃなくてちゃんと現物が存在している<
大和説は、前方後円墳や△は3世紀末以後だから、それだけでも女王國は×だが、
「南≠東」などに拠って、ほぼ99.9%以上、×。 >>627
列島の前方後円墳の始まりは、那珂八幡など。
三角縁神獣鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与。 >>629
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
悪質な噂を流すだけになったか 九州説の会稽東治発狂は整理するとこんな感じね
狂気その1
会稽東治は通説がウソ
会稽の東の海岸部の治地域のことだ
狂気その2
その治地域とは260年代に分郡された浙江省南部だ
狂気その3
浙江省南部が会稽郡から分かれて揚州管理下になった
狂気その4
浙江省南部の会稽の東の治地域を管理下にしたから
揚州の町は会稽の東の治地域になった
狂気その5
揚州の町の東は鹿児島県南だ
ほら、会稽の東の治地域の東に九州島があるぞ
狂気その6
ヤマイチ国は九州北部だ
鹿児島県南が会稽の東の治地域の東なんだから
ヤマイチ国は会稽の東の治地域だ
きゃはははひへへへプギャー >>634
このようにおおよその全てを否定しないと
三角縁神獣鏡は渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡である、
という事を覆せない 想像力を実際に確認すんのが学者だろ?巻向が卑弥呼の都だとする説明をして欲しいな、人に根拠を求めるなら。こちらは投馬国は穴門卑弥呼が都にしたのはところつの宮、そんで狗奴国が和泉。面倒だからついでに卑弥呼は日矛鏡を持ってた。 >>637
>畿内の三角縁は色々種類があるから魏から直輸入だよ<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
△は、敵国の呉系の鏡だから明帝の選択には選ばれず、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 >>354
>巻向が卑弥呼の都だとする説明をして欲しいな、人に根拠を求めるなら。
説明はテンプレも含め具体的に縷々書いてあるだろう
その説明を「根拠はないけど認めない」と言っているのが>>354w
だから「認めないというならどうして認めないのか具体的な理由を示してくれ」って言ってるんだが?
逃げずに答えてくれないかな?ww >>357
>などの主観的な判断の表現を疑え。
疑うのは構わないが、疑ったら検討、検証をしなさいなww
疑わしい=正しくない、と短絡して、何も考えずに決め付けて思考停止しているから
知的能力が足りないと言ってるんだよ >>341
>それは
>「あのアイドルはステージから俺の方を見たから、俺と結婚する気なのだ」
>という式の気の狂いかただ
その偶像というのは、王母(西王母)のことでしょ?
有名な話なのかな 老婆談
馬に乗っていて〜、芸能関係の話をしていたり、
なぜか『王母 龍宮 寒いな〜』の母親?の話 >>359
ってーか「主観的な判断の表現」だって根拠がないので
主観的な反論してる九州説のブーメラン自殺コピペなんでは? 例えば『偶像』グーグルで検索すると
「信仰者0人⁉」
このような画像が出てくるでしょ、
どういう事(意味)なの?となるだろうけど、
説明しなくても、知っている人は知っている、気づいている。
偶像などを造った(創り出した)存在。 例えば『菅野力夫』
なぜか老婆談と同じだし、有名過ぎるとか?
有名過ぎて、透明人間のような存在 なぜか浦島太郎(仮名)のようなキャラも出てきたり、
髪の毛の色が〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜みたいなキャラ。 >>638
畿内なんて存在もしなかった文言を使い、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の奴
なんにも理由いわなくて
チガウチガウと言い張ってるだけ
脳が停止中だろ >>640
>卑弥呼の墓は円墳だとしても<
「径」は「明確な方墳ではない不定形の長径」を示す文言であるから、
この男の前提が嘘吐き騙しであり、×。
>100m超の円墳があるのも畿内<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この大和説男が×男。
>三角縁は素材に使用されている銅が魏の鏡と同じもの
これは誰が見たって間違いようはない物<
例えば、徐州銅のように、同じ産地の材料銅が混入使用されれば、
同じ素材のように見えるだけであり、「同じもの」とは言えない。
△は魏から出土は0〜1枚であり、列島の△は渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡。
ゆえに大和に径百歩の墓があるとか三角縁は魏鏡というのは嘘。 >>641
>邪馬台国の位置に関してはどの説も妄想の域を出ない
思想の自由はあるので、勝手に「俺の説が正しい」と思い込むのは自由だけどね <
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男が、始めから×男。 >>644
>実際測ったらだいたい100里といったような表記はしないよ<
魏の役人たちのであり部分行程の「里数」記載は、
いずれも「有効数字1桁」程度の「余」の有無で区別した近似値記載であり、
だから「百里」と書かれたら、
「余の近似が必要ないような、ほぼ百里であった」という事の主張であった、
という事になる。
>魏で短里が使われていた証拠がないから魏の里数は普通の里 <
魏の役人たちが記録した里数は、「1里が約60〜90mの里」であり、
始皇帝の「1歩=6尺」での「1里≒434m」の里の5分の1位であったから、
「短い里」。 >>647
もう明確な目標も何もなく、
単なる脊髄反射だけで、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説
まさに生ける・・・・屍と呼ぶにふさわしい >>650
世の中に、益体もなく、「南→東」などの嘘をついて過ごすのが生業の大和説者
それは果たして生きていると呼べるのだろうか
哲学ゾンビの変種かも知れん >>652
いずれここは、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説ゾンビの博物館、としたいな
邪馬壹國女王之所都は筑紫、とか言えば、
ウォォーと、大和説・・・・アホ詐欺が飛び出して来るような >>653
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らに対して使われtる文言である、
哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、英語: Philosophical zombie、略: p-zombie)とは、
心の哲学で使われる言葉である。
「 物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、
意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義される。 >>659
出た!
「南→東」などの嘘吐き騙しが否定され、
引っ込みのつかない大和説のボケ老人学会の苦しい言い訳・自称定説。
畿内とか邪馬台国なんても、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和説には3世紀前半の証拠が全くなく、
女王國の蓋然性が全くないから、大和説学会が滅んだんだよ。 >>664
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、飛び出してくるのは、
やはり「・・・・アホ詐欺師の大和説者」じゃないの >>668
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者に、
九州説者からのまともな忠告なんて、通じる筈がねえ >>670
だから「東南→東北」と読み替える嘘吐き騙しの大和説は、
呪いのミイラとなって動き回ってるのか >>675
強がってるけどいまいちスベッてる、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者 >>677
>邪馬台国論争なんて畿内説でもうとっくに決着ついてるよ<
邪馬台国も畿内も、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」などで、大和説の負け、という事で、
もうとっくに決着がついてるよ。 >>678
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
どうやらキョクウ国粋皇国史観殺戮戦争狂らしくて、
何らかの利権もしくは思想的な何かで
とっくに破綻した大和説で一人でも騙せればと、
ただ何回も繰り返してるだけ
怖い怖い、京都アニメ犯人のような大和説者は怖い怖い >>691
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説には、証拠を出す文化が無い、という
この物凄い現況を見れば
大和説が、国民や、中国学者らや、人類の世界から消えた経緯が
よくわかる >>694
やっぱり「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の・・・・アホ詐欺師のチエオク君が、
ナリスマしてましたか >>695
郡からであれ、末盧國からであれ、
行程説明の最初に「東南」とで書いてあれば、
最初は東南に出発すればよい事。
もし方角を踏み外せば、ミイラか土座衛門になる。 ただそれだけの事 >>697
>会稽も揚州の管理下だし 会稽は浙江省で東治は福建省だし<
何をこっそりウソついてんの?。「東治」は地名ではなく「普通名詞」だよ。
>会稽郡は卑弥呼や陳寿の時代には江蘇省になどない
会稽郡の北限は屋久島八重山あたり<
またこっそりウソ付いている。
陳寿は会稽郡の話などしていない。
は「会稽東治」の話をしている。
>江蘇省には会稽はない 東治もない<
これも嘘吐きだまし。会稽東治の位置の話をしている。
これらすべて、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の類スレ主が作った、
真っ赤なウソ >>698
なぜ「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説や類スレ主は
嘘をつくのか
皇国史観殺人戦争国家主義の結論先にありきの・・・・アホ詐欺師だから。 成る程、別に逃げてるつもりはない。探しているだけ。卑弥呼が最初のヤマト王朝であるから圧倒的な新王朝の建造物が必要であった。という事ですね?景行より前に天皇は存在しないという事ですね。帥升を探し始めると全部似たような組合せでおかしい?とは思っていたんですよ。 >>703
>>倭の五王とかも書いてないし<
>雄略天皇紀には遣呉使のことが書いてあるよ
八年春二月、遣身狹村主・檜隈民使博コ、使於吳國
実際には遣宋使だけどね 中華王朝は唐、南朝は呉とすることになってるみたい<
勿論、雄略は、倭王武ではない。 >>705
>会稽東治とは定説の東侯官治ではなく<
定説の間違い。260年の分郡で、東侯官治地域は建安郡。
>会稽の東海岸にある「治」地域である(なんやそれ)<
「東治」は陳寿が使った普通名詞。
>会稽の東海岸あたりは卑弥呼が死んだずっと後に
会稽郡から分かれて揚州直轄になった(真っ赤なウソ)<
臨海郡以北の上海を中心とする海岸地域が揚州管理下になり、呉の直接的支配下になった。
>揚州の中心地は江蘇省である だから浙江省にあった会稽の東海岸は
足が生えてトコトコ歩いて 江蘇省に移動した(九州説発狂)<
歩かない。(大和説発狂)
>江蘇省だから東は南九州なのだあ <
上海の真東は佐多岬。
>だから北部九州は会稽東治の東だあ(また発狂)<
だから、会稽東治之東は九州島付近だ。(大和説また発狂) >>367
銅製品に産地の違う素材が混入使用されていればそういった計測結果が出るよ
産地Aの銅に含まれる不純物が100
産地Bの銅が20
A+Bで120といったように >>710
>FAQ61
倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、
渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある<
可能性がない。
魏の役人たちは、「余」の有無を使った書き分けをやっており、
更に「自女王國以北、其戸數道里可得略載」として「道里も略載した」と証言している。 >>369
魏志倭人伝の里は10里どころか50里刻みですらない
50里は20kmに相当
150里を100里に四捨五入したというなら20kmもの誤差が生じる事になる
これでは正確な測定が行われたとは言えない
例えば漢書では
去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里
と端数までしっかり記録されている
正確性はともかくこれは計測が行われたから端数まで記録を載せていると見ることができる >>372
邪馬台国は大和国と書いたら
その通りに九州説ゾンビが飛び出してきた 漢書にあるように去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里と
端数まで計測されていたなら
計測数値に100余里や1万2千余里といった余の入り込む余地はないのである >>714
>前方後円墳の後円部が墓だよ<
ダメだ。
始めから前方後円墳全体を墓だ、として土地を確保している。
>>三角縁は本当に中国製なのか?という議論だってある<
>これはほぼ魏鏡で決着 <
列島の△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡として決着している。
>最初期のものは斜縁神獣鏡で斜縁神獣鏡は大陸でも普通に出ている<
神獣鏡が蜀系や呉系の鏡であり、魏の敵国であり、洛陽からは殆ど出土しない。
>コピー鏡の仿製鏡が大量にあるのも事実だが最初期のロットは魏鏡で問題ない<
コピーなども渡来の呉系楽浪鏡師らの関与。 >>751
>さあ来ましたよ。貴殿方の言ってる事では、
宋書新唐書を読んだ中国人が、邪馬台国魏史倭人伝が何処なのか解りません。
卑弥呼の都は紀伊です。<
何だか変な文ですが、「紀伊」では、「南≠東」などに拠って×です。
紀伊という呼称の「伊」は、「伊都国」の阿毎氏らの「伊」なのでしょう。
また、「紀」氏は、高良大社の隆慶上人伝の記録に拠って「姫氏=キシ」の事であるようで、
だから、紀伊は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の紀氏と伊氏の合同軍が造った国であったんでしょう。 >>386
少なくとも纒向はその条件を満たさないよ。 FAQ787
九章算術も後漢書関係ないよ
誰も、水行20日が移動を表してないと言ってないよ
問題は里数は出ないと言うこと
回答で引用すべきは 水行◎日で✖里進んだという文献を提示するのが寛容
>>765
>畿内説の方は都市牛利を十市ゴリと考えるとこも見受けられます、
またこの部分は市磯長尾市かも知れません。
畿内、紀伊半島周辺で考えたいです。ですから僭越ながら、紀伊です。<
古田派の方が、「都市」という苗字の家を探され、
福岡市におられた「都市」さん宅に行かれて聞いたところ、
自分等は、東松浦半島西北沖の鷹島や黒島の松浦水軍家だった、と明かされ、
その後鷹島や黒島に行って直接確認された、との事。
つまり、都市牛利も、松浦水軍家の人であって、
韓との乘船南北市糴の交易や、郡使の倭船の世話をし、一大率も助ける事も出来るから、
難升米の次使に抜擢された。 >>390
それ、推測の範囲を出ない
具体的な学説を示すべきだよ
出来れば銅鐸もね >>767
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、なんでそんなにウソつくの? >>769
>邪馬台国ではないとする「理由がない」
同時代に同一地域に存在した、考古遺物から推定される王権と
大陸史書・魏志倭人伝の示す王権が別の物と考える理由がないし <
これは大和政権の事を言っており、
「南≠東」などに拠って、×ね。 >>771
>>卑弥呼は中国の歴史書にも名前が出てくるくらいの女王なのに、
日本書紀には名前がでてこないのだから、邪馬台国とヤマト王権は無関係なのだろう<
>卑弥呼という名前では出てこないけど、ヒメヒコのヒメ王として出てきてるよ
皇統の姫だ <
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>395
>ダメだ。
>始めから前方後円墳全体を墓だ、として土地を確保している。
それ、根拠なし
墓+祭祀壇ての土地確保かもしれないでしょ >>803
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
考古学だけでなく行程解釈まで九州説が勝勢で大和説は瀕死なので、
大和説は口先だけで「畿内説」とか言って怪気炎を上げているが、
いかんせん内容がない
みじめなものだな >>803
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
考古学だけでなく行程解釈まで九州説が勝勢で大和説は瀕死なので、
大和説は口先だけで「畿内説」とか言って怪気炎を上げているが、
いかんせん内容がない
みじめなものだな 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 魏志倭人伝の会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、魏志倭人伝に登場する会稽東の治所とは、良渚文化圏の東である、現在の上海にあるのだったな。。。 >>389
>定説の間違い。260年の分郡で、東侯官治地域は建安郡。
卑弥呼の朝貢当時は会稽郡だから関係ないな
>臨海郡以北の上海を中心とする海岸地域が揚州管理下になり、呉の直接的支配下になった。
会稽郡の一部(浙江省南部)を分割しただけだから
呉郡である上海付近は呉郡のままで変化ないよ
「呉の直接的支配下になった」とか捏造だね
>上海の真東は佐多岬。
会稽郡の一部が分割されただけだから
上海は無関係だね
分割されたのは浙江省南部だ
東にあるのは奄美大島
九州ではない
九州説は捏造ばかりしてる >>818
まぁ、「南→東」などの嘘付き騙しのバカ大和説をからかったって、
何も面白くもないが、
彼らは、国民を、
「国粋人種差別殺戮戦争を鼓舞扇動する皇国史観」に引きずり込もう、
としている事が見え見えだから、
その目的の為だけにスレにいるんだろうな >>832
「南→東」などのウソをつくしか無いのが敗残の大和説 >>411
こういう投稿見るにつけ
九州説の異常さが
よくわかる 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、、、
魏志倭人伝での会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、魏志倭人伝に登場する会稽東の治所とは、良渚文化圏の東である、現在の上海にあるのだ。。。
という真実の前では、あまりにも虚しく、白々しい嘘をついているな。。。
410日本@名無史さん2019/08/29(木) 09:22:03.55
>>389
>定説の間違い。260年の分郡で、東侯官治地域は建安郡。
卑弥呼の朝貢当時は会稽郡だから関係ないな
>臨海郡以北の上海を中心とする海岸地域が揚州管理下になり、呉の直接的支配下になった。
会稽郡の一部(浙江省南部)を分割しただけだから
呉郡である上海付近は呉郡のままで変化ないよ
「呉の直接的支配下になった」とか捏造だね
>上海の真東は佐多岬。
会稽郡の一部が分割されただけだから
上海は無関係だね 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 各集落の配置は伊都国を守るためと考えると説明がつく
あと吉野ヶ里の2重の環濠や古墳時代になってからの消滅も
伊都国を守るために作られたと考えると説明ができる 吉野ヶ里は弥生時代中期に最盛期を迎えて
海水面が下がって港に隣接する都市ではなくなって一旦放棄
そして弥生時代末期に今度は城塞都市として再開発される
集落の配置と形状から熊本市に敵対勢力があったと考えられるのと
その攻撃を防衛するためと考えると伊都国が最重要国となる
つまり軍事的、戦略的にみた場合九州に邪馬台国は存在しない >>886
>ただ九州をはじめとした地域への土器の拡散は庄内式に先行してX式がかなりの範囲に広まっている
銅鐸の作成などを見ても主な生産地、配布地として機能している
大和は単なる連合の集合場所ではなく主体的な役割を持っていたと考えて良いと思う<
庄内に関しては、筑紫の三雲などの筑紫の胎土での3世紀前半が古く、
大和の庄内は、石塚の庄内1が3世紀末である事と、
第X様式が庄内の前であった事で、
第X様式も、筑紫の方が大和よりも先行していた、
という可能性が高い。 >>889
>吉備の土器と大和の土器がかなり早い段階から九州北部を中心に広まり
現地の土器の様相に影響を与えている
その変化に続く形で庄内式、布留式と時代を追うごとにその影響が強くなる
土器の伝播の初現としてのX式、吉備式の広まりを見るに、
まずはこの両地域の拡大をもって邪馬台国の土壌が形成されたとみるのが自然だろう<
ダメだな。
筑紫の庄内は、3世紀前半。
大和の庄内は、3世紀末。
これが全て。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 山すその祇園山古墳の24mの方墳や
台地の吉野ヶ里の2階建ての大型建物は
有明海や筑後平野からも見えただろう
でかいものを作って権威を示すこのやり方は
箸墓や大仙稜に受け継がれる
鏡、太陽信仰、時節の支配、大型建物、鉄製農機具、鉄器製造法、
水銀朱を重視、すずり、絹
すべて九州北部にあってのちに畿内にもたらされたもの
九州北部の最先端をいく勢力が
近畿に勢力を広げたと考えると説明がつく このスレッドで、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している係員には、頭が悪すぎる者しかいないことがバレ、このスレッドが寂れたので、
このスレッドで討論する話題を、どうすれば、バンビシャスの経営が安定するかの話題に、変換すれば良いのではないのかな。。 >>926
「南≠東」や、「大和の庄内1は3世紀末の石塚から」や、
「正北抵新羅」や、九州倭國の「東征毛人五十五國」などで、
大和説はおダブツ >>414
>・・・だから、魏志倭人伝に登場する会稽東の治所とは、良渚文化圏の東である、現在の上海にあるのだ。。。
保身のためだけに
捏造を繰り返す
醜い九州説 >>933
「南≠東」なのも、
「秦漢朝里がなく、魏の役人らの魏朝里がある」のも、
倭人伝の行程が九州北部になるのも、
現実 >>419
>庄内に関しては、筑紫の三雲などの筑紫の胎土での3世紀前半が古く、
>大和の庄内は、石塚の庄内1が3世紀末である事と、
学問的にまったく通用しない素人我流説を
なんの理由も言わず
ひたすら結論だけ連呼するという
醜悪な足掻きぶりが
九州説の断末魔を
よく物語っている 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、、、
魏志倭人伝での会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、魏志倭人伝に登場する会稽東の治所とは、良渚文化圏の東である、現在の上海にあるのだ。。。
という真実の前では、あまりにも虚しく、白々しい嘘をついているな。。。
425日本@名無史さん2019/08/29(木) 11:03:48.94
>>414
>・・・だから、魏志倭人伝に登場する会稽東の治所とは、良渚文化圏の東である、現在の上海にあるのだ。。。
保身のためだけに
捏造を繰り返す
醜い九州説 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのは、なぜなのだろうか、、、 >>934
九州説としてはあとは軽く、
「南≠東」や、
「大和の庄内1は3世紀末」や、
「正北抵新羅」や、
「東征毛人五十五國」などを示しておくだけで、
楽勝で勝てる。 奈良東という名前の色々な施設があるので、会稽東という名前の治所があるというのは、合理的な考えなのだったな。。。
そして、魏志倭人伝の作者は、会稽東という名前の県名を、別の文章で使用しているのだったな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、、、
魏志倭人伝での会稽は、夏の時代の会稽のことであり、中国の考古学では良渚文化圏のことであり、だから、魏志倭人伝に登場する会稽東の治所とは、良渚文化圏の東である、現在の上海にあるのだ。。。
という真実の前では、あまりにも虚しく、白々しい嘘をついているな。。。
431日本@名無史さん2019/08/29(木) 11:19:47.04
>>430
ウソをついたら負けるよ九州説 >>430
>「大和の庄内1は3世紀末」や、
ふしぎな呪文を唱えると
高校生が学校で習ってる歴史常識も
あらあらふしぎ
理由も言わず論破できる
とか思ってる老人の脳の構造が、ふしぎ このスレッドで、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している係員には、頭が悪すぎる者しかいないことがバレ、このスレッドが寂れたので、
このスレッドで討論する話題を、どうすれば、バンビシャスの経営が安定するかの話題に、変換すれば良いのではないのかな。。 筑後平野を牛耳る為の戦略上の要害は高良山であり、
そこの麓に、弥生後期で唯一、
66人もの殉死が推定できる祇園山古墳がある時点で、
祇園山古墳が、卑弥呼の墓である事は確定した様なもの。 >>437 殉葬はあったけど66人全員かはわからないし
主墓は盗掘されて何も無く卑弥呼かどうかわからない 祇園山は最初に主墓ができて殉葬や副葬品がある甕棺が埋葬される
王族関係の墓はここまでで
以降久留米の集落の共同墓地として利用された可能性がある
副葬品が無いものや質素なものだから 「〜かどうかわからない」は反論にならない。
祇園山は平原より新しいから、壹與以降の墳墓だろう。
卑弥呼の墓は倭国大乱後の最初の女王墓である平原遺跡。 >>436
バンビシャスの経営を安定させるためには、県民の利益になる可能性の低い無駄に使われている税金のあて先を、県民の利益になる可能性の高いバンビシャスに変換すれば良いのではないのかな。。。 バンビシャスが活発になれば、奈良県の経済活動も活発になる可能性が高いな。。。 >>442 そっちじゃなくて >主墓は盗掘されて何も無く が反論な
九州はそうやって目をそむけるから真実が見えない >>443
では、県民の利益になる可能性の低い無駄に使われている税金のあて先とは、どのようなあて先なのだろうか。。。 >>442 平原が卑弥呼の墓だと
伊都国に魏の使者が来たときに見てるはずだが
平原1号墳はそんなに大きくない
>卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。
>径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。 祇園山だとここおかしいな
>徇葬者は奴婢百余人
祇園山には朱塗りの甕棺で鏡とか豪華な副葬品の
明らかに奴隷ではないと思われる人がいる >>434
自分が捏造してるという証拠を堂々とさらす九州説の
おバカぶりが失笑を買い続けること久しい だだっ広い纒向遺跡の出土品の貧相なことよ。
年代が卑弥呼時代に該当すると言われているのは桃の種だけ。
高床式倉庫を根拠もなく宮殿だのと嘘つきやがって。
投資回収の見込みもない桜井市は破綻寸前。 NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表したので、キナイコシが出現しても、嘘を言い放つだけになってきたね。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
449 名前:日本@名無史さん 2019/08/29(木) 12:14:53.52
>>434
自分が捏造してるという証拠を堂々とさらす九州説の
おバカぶりが失笑を買い続けること久しい >>443
では、県民の利益になる可能性の低い無駄に使われている税金のあて先とは、どのようなあて先なのだろうか。。。 バンビシャスが活発になれば、奈良県の経済活動も活発になる可能性が高いな。。。 祇園山は主墓と北側の甕棺の数個が置かれたあとで
周りに斜面に対して横になるように60個くらいの墓ができたと思うな
・後からできた周りの墓が質素であるこっと
・ほぼすべて甕棺ではないこと
・平野からみて主墓よりも前にくる墓があること
などからやっぱり途中から共同墓地になったと思うな
箸墓は後円部よりも後ろにホケノ山古墳群があり
前方部に邪魔する墓は無い
祇園山は真後ろは斜面で置けないけど正面は避けて
北側に巫女やつかえた人の墓を置いたんじゃないか >>447
大作冢は「大いに(盛大に)」冢を作るだろ(知ってるくせにw)
大きな冢を造るなら「作大冢」
ちなみに箸墓は長二百歩だから卑弥呼の冢ではない。 正しい配置
関係者の墓
○後円
□前方
↑
お祈り
こう配置されるのはおかしいってことね
○後円
□前方
関係者の墓
↑
お祈り
そして祇園山はおかしいので
主墓の正面より手前の墓は
かなりあとでここが共同墓地として利用されるように
なってからできたものだろうってことね 1、再考しました。完敗ですキャリア3ヶ月ではそこまで断定できる根拠はありません。そこで質問ですが、新羅の葛文王システム導入は卑弥呼は意図的にやったとなるのか?その国住むこと7、8十年の帥升は崇神なのか?またその前は脱解でいいのか? >>455 その反論は簡単だ
前方部は墓ではなく後円部が墓だった
そして径百余歩でほぼ一致 >>455
>ちなみに箸墓は長二百歩だから卑弥呼の冢ではない。
長二百歩で径百余歩だから卑弥呼の冢で問題ない。 仮に纒向の建物が宮だとしても、物部氏の宮だよ。
そしてその本拠地は纒向ではなく東海だよ。 どの時代の権力も補助した豪族が譜代家臣化してともに発展するという視点から邪馬台国を導き出せないだろうか
例えば物部や出雲の足跡を追ったりして
特に巻向の場合は東海の土器が出ている関連上尾張氏が開発に協力しているから、それらの一族の権力が増大した記録と重ね合わせることができるかもしれない
また権力交代が発生した際はその一族のクーデターもしくは没落したと推定できる 祇園山古墳が共同墓地でない事は、
巫女の刺し違い遺体が出ている事でも明らか。
平原とか寝言を言っているやつは、
殉葬の数を確認してからにしろ。 >>463
巫女の刺し違い遺体とか意味不明
そんなもん出てなかろ 3ヶ月で大体分かりましたよ、有り難うございました。 奈良東という名前の色々な施設があるので、会稽東という名前の治所があるというのは、合理的な考えなのだったな。。。
そして、魏志倭人伝の作者は、会稽東という名前の県名を、別の文章で使用しているのだったな。。。 3ヶ月で、邪馬台国畿内説が破綻していることが、分かった者がいるのだね、、、
どういたしまして。。
465日本@名無史さん2019/08/29(木) 15:09:39.38
3ヶ月で大体分かりましたよ、有り難うございました。 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。 >>468
この図は纏向がこの時代の中心地だったことを示すために畿内説の人が出してきた図だったと思うけど、
どうみても北九州が全部吸い上げているようにしか見えないなw 特殊器台の存在から殉葬がないことがあきらかな箸墓は卑弥呼の冢ではない。 >>469
そうそう。
畿内説は恣意的なねじ曲がった解釈をしているだけだよね。 畿内説に言わせると、九州北部にさまざまな様式が流入して独自性を失っているというけれど、単に巨大消費地、人口7万戸の大都市邪馬台国だからだよね。
その中でも伊都だけは比較的独自性を守っていて、畿内説に言わせると周りに影響を与えていないとかいうわけのわからない解釈になるのだが、逆に王都としての伝統と格式を堅持していたといえる。
墳墓の様式にしてもそうであり、平原遺跡は倭国大乱を経てもなお、コンパクトな方形周溝墓という紀元前からの弥生王墓の様式を保っていた。
全国に広く作られた前方後円墳は、倭王の墓ではなく新興勢力である物部氏の墓制だろうね。 >>469
>この図は纏向がこの時代の中心地だったことを示すために畿内説の人が出してきた図だったと思うけど、
>どうみても北九州が全部吸い上げているようにしか見えないなw
「人の動き」と書かれている図を
わざと文物の動きと誤解してみせる
喜劇のような詐欺だねー九州説さんw >>473
「土器から推定した人の動き」の図なので、実際には土器の動きまたは土器の様式の伝播の図だよ。
少しずつ意味をずらして嘘をつくのが畿内説のやり方かな?
さらに言えば元の図も、胎土からわかる土器そのものの移動と様式の伝播をまとめてしまい、纒向が中心だと嘘をつこうとしたけれど誤魔化しきれなかったようだね。 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 >>472
>単に巨大消費地、人口7万戸の大都市邪馬台国だからだよね。
碌な集落遺跡の無い九州に、7万戸の大都市邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>474
>「土器から推定した人の動き」の図なので、実際には土器の動きまたは土器の様式の伝播の図だよ。
つまり
「北九州が全部吸い上げている」
がインチキ >>472
>全国に広く作られた前方後円墳は、倭王の墓ではなく新興勢力である物部氏の墓制だろうね。
だから、物部氏=「忌部はん」 の墓制 だと、何度言えばw @阿波 >>474
>「土器から推定した人の動き」の図なので、
だから、全国へ進出していった「忌部はん」 の動き だと、何度言えばw @阿波 >>478
人は中心地に集まってくるものだよ
江戸時代は参勤交代で地方から江戸に行く人がたくさんいた。逆は少ない
現代でもそう。東北や北陸のど田舎から飛行機や新幹線使って東京行く人はたくさんいるが、逆は少ない
日本に限らない。ローマ帝国でもそうだし、昔の中国でも同様 >>481
>人は中心地に集まってくるものだよ
碌な集落遺跡の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>472
>全国に広く作られた前方後円墳は、倭王の墓ではなく新興勢力である物部氏の墓制だろうね。
だから、物部氏=「忌部一族」 の墓制 だと、何度言えばw
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>481
メキシコとアンデスに行ったスペイン人は? >>485
その通り。
忌部一族とおなじ行動。 @阿波 >>485
大量の物資を略奪して本国に送り届けた。 >>487
本国に送るような物は地方にない。 却下! @阿波 >>485
スペイン帝国の最盛期にはスペインの都にはいろんなところから人が集まって栄えていたわけだが
今のスペインはしょぼいけどな
ローマ帝国のローマ、唐の長安あたりを思い浮かべてみれば
>人は中心地に集まってくるものだよ
というのが当たり前のことだとわかる
中心地だから人は出ていくだけ、人がたくさんくるのは被支配地域だから!とか言っているのはただのイチャモン
歴史を見れば事実は逆であることは一目瞭然 >>489
で?
博多には畿内の人が来てるね
畿内に来た筑紫の人は? >>490
>博多には畿内の人が来てるね
博多に来ているのは、「忌部はん」
>畿内に来た筑紫の人は?
畿内に来たのも「忌部はん」 @阿波 >>490
人の流れを見れば当時の中心地がどこだったかすぐわかる、という話
畿内から北九州には人がたくさんきているが、逆は少ない
当時の中心地がどこかは明らか 九州北部には山陰や瀬戸内、東海、南九州からも来ている。
逆はない。 いつの時代も考古学的な痕跡が残るほど大量に移動するのは社会的に弱い立場にある庶民。
その多くは捕虜や奴隷。そもそも強い立場にある人間は基本的に遠距離は移動しない。
仮に移動していてもその絶対数と暮らしぶりから考古学的な移動の痕跡を庶民ほどは残せない。 >>493
メキシコにスペイン人がたくさん来たら、メキシコシチーが世界の都?
ww >>493
糸島の伊都国は都失格ということで
ヨロシコ >>498
言い返せなくてイチャモンつけ出したか
さすがは妄想畿内節w 伊都国 ワシントンD.C.
奴国 ニューヨーク
あわせて7万戸の領域国家。 畿内説の理屈でいうと、メイド・イン・チャイナで満ち溢れた世界の中央政権は中国なんだとさwww >>500
畿内節www
「説」とは呼べないし「節」でいいよwww >>500
>言い返せなくてイチャモンつけ出したか
>>500の、やったことが、まさにそれ
九州説は>>497-499の集中砲火を浴びて死亡きた >>503
何も理解できない脳だから九州説なんだな
九州は畿内産の商品を受け入れたんじゃないんだよ
九州は、畿内発の祭祀を受け容れた
政祭一致の時代にね
それを歴史学者が
「大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた」
と言っているんだよ
ほぼ全員一致でね >>506
そして、倭国(阿波)がさっそうと登場となる。 わははははは @阿波 >>506
>畿内説死亡w
>悪は滅びるwww
言い返せなくてイチャモンつけ出したか
恥を知らない九州説 >>502
こうやって
九州説は
倭人伝無視のトンデモ説に堕ちていく
別の国だと書かれているだろう >>507
一人で言い張っていろよ。
畿内は筑紫の銅鏡祭祀を受け入れたんだよ。
最寄りの神社に行ってみな。
そこには鏡が祀られているから。 >>507
ということは百済仏教を受け入れたヤマト政権は百済の傘下だったんだなw >>512
>別の国だと書かれているだろう
どこに書かれている? >>507
一般社会において、バカ全員で意見一致ってときは全員不一致という意味だwww
しかも史実は意見では無い。
畿内と韓国においては世界が孤立してしまってるなwww >>516
つまり
これが九州説の本質
「学者はみんなバカだ。
俺たちの言うことが真実だ。
根拠は言えないが・・・」 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。 >>518
当時の日本に「世界宗教」という概念があったとは思えんが >>90
>>この原則に従った方法で、最初に行程里を読まれたのが古田さんで、
古田さんは、對海國と一大國の国内見聞移動の「二辺」分を計算計上すると、
部分里程の総計が総里程の「萬二千余里」になる事に気付かれた。<
>それ、計算間違えてるよね 行程記事での国と国との距離の原則が
双方の「居住外縁部」の間の二点間距離だと国の中の移動距離が合計に入らない<
残念でした。
對海國と一大國は、国内見聞移動を書いて、
更に「方四百余里」や「方三百里」という大きさまで書いているし、
古田さんも、それを萬二千余里の計算の中に加えられた。。
そして、陳寿の距離記載の最低里数は「百里」であるから、
国内移動があっても、それが百里に達しない場合や、50里以下の場合には、
陳寿らは、国内移動里数記載は不要である、として書かなかった可能性が高い。
>だから、部分里程の総計が総里程の「萬二千余里」になる事はない ダメだな<
なっている。
類スレ主が、また×になった。
ww >>91
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や類スレ主が、
また、自滅崩壊してる >>472
>全国に広く作られた前方後円墳は、倭王の墓ではなく新興勢力である物部氏の墓制だろうね。
だから、物部氏=「忌部一族」 の墓制 だと、何度言えばw
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>525
畿内説がその場限りの言い逃れに終始していることにはかわりないからな。 >>522
>對海國と一大國は、国内見聞移動を書いて、
>更に「方四百余里」や「方三百里」という大きさまで書いているし、
>古田さんも、それを萬二千余里の計算の中に加えられた。。
では、末盧国から伊都国の500里とは、現代の地名でどこから何処までなんだ?
伊都国から奴国までの100里とは、現代の地名でどこから何処までなんだ?
九州説よ、詐欺をしてもすぐバレるぞ
>そして、陳寿の距離記載の最低里数は「百里」であるから、
>国内移動があっても、それが百里に達しない場合や、50里以下の場合には、
>陳寿らは、国内移動里数記載は不要である、として書かなかった可能性が高い。
なら、ますます
>部分里程の総計が総里程の「萬二千余里」になる事に気付かれた。<
というのがウソだと明白じゃないか >>527
>畿内説がその場限りの言い逃れに終始していることにはかわりないからな。
そんなこと断定する証拠は? >>96
>当時の中国人は日本列島の存在を知らなかったから
存在が確認されていた台湾、沖縄に当てはめた<
いや、倭人は、
周代に「燕の南」にいて漢代には郡から萬里位の所にいる事は知られていたし、
呉王夫差の遺民が、海に入りて韓を経て倭に逃れて倭となった事も知っていた。 >>97
>>例えば、 桃1という一個の桃核の範囲が2〜3世紀の間の「110年位の幅」になっており、
「±23BP」どころでは全くない。 ・・・
また、AMS法の失敗に拠って、
複数回以上実行された計測値が110年幅になってしまった、という事。<
>もちろんそれ、暦年代較正の原理についての無知無理解によるトンチンカンな誤解だよね
AMS法では±23BPしか誤差が出てないんだからね <
一個の桃核の検査データが、何故、
「±23BP」の範囲内ではなく、110年幅になるんだい?。 >>531
>一個の桃核の検査データが、何故、
>「±23BP」の範囲内ではなく、110年幅になるんだい?。
何度も説明を受けてるだろう
まだ理解できないのか?
それは暗愚だな >>114
>>九州倭国が「東征毛人五十五國」で征服した毛人や、吉備のような出雲系を、
(好太王碑に書かれた)守墓人という半奴隷にして、巨大墓を造らせた。<
>なら、なぜ畿内の巨体古墳 > 筑紫の中級古墳って 等級の格差があるの?<
筑紫は、卑弥呼や壹與の後になって、平定戦は終っていたが、
東方では、まだ征服戦の途上であったから、強さを見せつけるために、
巨大化が必要であった。 >>115
>つまり当時の中国人たちは
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
と本気で思ってた
九州でもヤマトでもない台湾沖縄あたり <
「その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし」ではなく、
「計其道里、當在會稽東治之東」であるから、
この男は、嘘つきだましであり、×。 >>533
「倭国(阿波)内 忌部一族主要氏族の本拠地」
物部氏(後の忌部氏か) :: 麻植地域
葛城氏 : 鳴門北灘地域
中臣氏 : 板野地域
蘇我氏 : 石井地域 >>533
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も、元を辿れば全部、忌部氏一族。 @阿波 九州説は嘘をついてれば歴史を塗り替えられると本気で思ってるのかねえ
細かい事ならまだしも邪馬台国を九州はとても不可能だと思うぞ >>533
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も、元を辿れば全部、「忌部一族」。 @阿波 >>132
>唐津市に着いて東南に進んで、糸島市にも福岡市にも寄りませんでした
そう言った瞬間に、九州説は頓死するわけですがな <
末盧國に着いて、出発は東南方向であり、
途中からは「案内人」に従って行くだけだから、
頓死なんかしないの。 >>140
>北東に行くのに「東南」とは書かないよ<
北東どころか、次の国がどこにあるのか?も見えず判らずだから、
「北東」なんて書ける筈もなく、
「東南」は、出発時点での出発方向であり、後は案内人に従って行くだけなの。 >>142
>>いや、魏の役人らや普通の成人であれば、
東西南北の大体の方向は、99.9%以上間違えないのであり、<
>九州説の詐欺師さん そんな数字どこから出した? <
宋明清代の校勘学者らが「東西南北」の記載の校勘は0件であった事から。 >>143
>>いや、魏の役人らや普通の成人であれば、
東西南北の大体の方向は、99.9%以上間違えないのであり、
「南」という史料事実はほぼ否定出来ないの。<
>なら、どうして北東に進んだのに「東南」って書いたんだよ<
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向であり、
途中は案内人に従って行くのだし、
海岸沿いでも峠越えでも曲がりくねってばかりになるから、
方向など全く判らないの。 >>145
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
毎日こんなウソを平気で垂れ流す
とてもマトモな人間には見えない >>543
>「東南」は、出発時点での出発方向であり、後は案内人に従って行くだけなの。
職務たいまんだなあ、、
まず出発時に東南を確認したら、到着してからもう一度後ろを振り返って東南に来たかを再確認する・・・
最低それくらいのことをしなければ、魏王朝の役人とは言えぬ。してなかったら偽王朝の偽者。 >>146
>魏志倭人伝はただ単にこう書いているだけではなく
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。<
「東冶」ではなく、「東治」であるから、この男は・・・・アホ詐欺師。
>南方の風俗を思わせる記述もある
有無する所は?耳、朱崖と同じ。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(海南島)と同じである。 <
風俗の類似は言っても、女王國の場所だ、とは言っていない。
>ゆえに中国人は台湾あたりに邪馬台国があると考えてず〜っと疑わなかった<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
中国は、東テイ人と倭人とを書き分けているから、
倭人は「台湾あたり」とは考えない。 >>547
難しいと思うよ 直線に移動したならともかく
山あり谷あり 回り道あり
いわんや 草木茂盛行不見前人 >>147
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
なぜ嘘をつくの?
京都アニメ放火犯人のような、・・・・アホ詐欺師であるから。 畿内説は嘘はついてないよ
全て根拠に基づいた話をしている 歴史は畿内説にとっては学問
九州説にとっては攻撃の対象で世の人を愚弄するための道具 そもそも九州説が九州説を信じてない
でなければこんなに嘘ばかり書かないもの 鍵は交易かな
大陸と関係を結ぶにあたり邪馬台国は他の国よりも中国が欲しかった物産を集めることを目的としたはず
辰砂や宝石、絹など
そういう地元が価値を知らないものを鏡や鉄と交換する交易力によって富に変える力を進め、祭祀によって誤魔化したのだと思うんだよね 九州説は歴史は我らが好き勝手に作り変えるという高慢さと
実際には単なるアホという現実がチラついていて破滅的な劣等感を内に抱えている >>556
理由言わないでも常識で分かるレベル
魏里では九州を通り越して南方の海にいく 庄内0 AD177+18 纏向石塚
庄内1 AD222 二口かみあれた
庄内2 AD240 下田
庄内3 AD258 二口かみあれた
布留0
布留1
布留2
布留3
布留4 AD389 宇治市街 須恵器
庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
布留0古相時期に建造開始の箸墓がAD258より古くなることはあり得ない。
つまり箸墓はAD248に死亡した卑弥呼の墓ではない。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。。。 >>559
>庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
庄内3が年輪年代でAD258と出てる
という証拠は? 九州説は嘘で歴史を書き換えて国民を支配してやるうという
中学生の妄想並みの世界観で生きている ブラックボックスの話が、始まったのではないのかな、、、
561日本@名無史さん2019/08/29(木) 21:46:17.74
>>559
>庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
庄内3が年輪年代でAD258と出てる
という証拠は? なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか、、、 邪馬台国畿内説は、巻向に拘りすぎて、自ら破綻してしまったのではないのかな、、、 >>149
>つまり魏志倭人伝の方角や日数で邪馬台国の位置を出すとか無理<
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっているから、無理ではなく、可能。
日数は、関係がない。
>そもそも当時の中国人は九州の存在も本州の存在も知らない<
如淳注などで知っているし、本州には行っていないようである。 如淳注が、邪馬台国畿内説を、破綻させてしまったのだな、、、 >>549
草木茂盛行不見前人を云うのは、倭人倭種の浅知恵。
中華漢族貴人にとって方角の確認とは夜空の星座・北辰で行うもの。それを読めない者は半人前の下っ端。 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。 >>561
>庄内3が年輪年代でAD258と出てる という証拠は?
森井さん、森岡さんの編年表 >>158
>畿内が存在しないとか 世間常識に反することを なんの説明もなく連呼すれば
おつむのネジ何本か 飛んじゃってる人としてしか 遇されることはない <
畿内とはと、天子や皇帝や天皇がいる事が前提の文言。
列島に天子や皇帝や天皇が出来たのは、7世紀。 >>566
>>そもそも当時の中国人は九州の存在も本州の存在も知らない<
>如淳注などで知っているし、本州には行っていないようである。
つまりザラコクひとりで根拠なく
「知っている」と
言い張っているのだね? >>572
>畿内とはと、天子や皇帝や天皇がいる事が前提の文言。
それ、素人老人ザラコクがひとりで勝手に決めたんでしょ?
意味ない >>568
この部分は間違えたと考えるか、末盧國OR伊都国の都の比定地の間違いかであろう
あなたが言う通り、
>方角の確認とは夜空の星座・北辰で行うもの<
つまり、投馬国、邪馬台国へは方角の間違いはあり得ない。
いわんや、瀬戸内航路を30日も南→東と普通の人でも間違えるはずがない。 庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
布留0古相時期に建造開始の箸墓がAD258より古くなることはあり得ない。
つまり箸墓はAD248に死亡した卑弥呼の墓ではない。
に文句はないな?
あい纏向説終了w
アホの>>1 アフォのぉ>>1 >>576
>庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
出てるって証拠は? >>575
>>方角の確認とは夜空の星座・北辰で行うもの<
>つまり、投馬国、邪馬台国へは方角の間違いはあり得ない。
>いわんや、瀬戸内航路を30日も南→東と普通の人でも間違えるはずがない。
なのに末盧から伊都の方位が90度違うのは、なぜ? >>577
出てて年代も判明してるから森井さんや森岡さんは自身の編年に乗せているのだ。
くだらないごね方するなボケ・ >>532
そんなに桃核が重要なのかな??
1、全国で当時桃を食べたり、お供えにしてたのは纏向だけじゃない
2、吉備の遺跡なんか纏向の数倍の桃核が見つかっているし、吉備の影響を受けたのでは?
まぁ葬儀やお参りに必要だったのだろう
纏向は斎場だと思うよ。
また、箸墓近辺で見つかった土器に付着した炭化物だが、これもしかり箸墓近辺だけが3世紀に
土器で煮炊きしてたわけでもないし・・・・ >>579
だから、出てるって証拠は?
森井や森岡が自身の編年に乗せているって証拠は? >>580
何が言いたいのかな?
もっと考えを整理しないと正常な日本語にならないよ >吉備の影響を受けたのでは?
その通り、特殊器台と言い、箸墓と吉備の関係は明白。
箸墓を卑弥呼墓というなら卑弥呼と吉備の関係を説明しなければならない。
そんなもので切るわけがない。 >>581
証拠も何も二人の編年表を見ればいいだけ、見ないのはお前の勉強不足。 >>584
説明になってない、纏向は2世紀前半までさかのぼれないからな。 >>587
畿内土器も吉備の内面削りの強い影響がある。
吉備抜きで纏向遺跡は語れない。 >>585
>証拠も何も二人の編年表を見ればいいだけ、見ないのはお前の勉強不足。
二人の編年表?
それは、どこに実際するの? >>590
「土器の編年」というサイト、今は観れないけどね。
森岡さんの編年を示してみ、書いてあるから。 >>589
庄内、布留の内面ヘラケズリが吉備の影響だってことはさんざん言われてるけど?
纒向1式は畿内V様式でヘラケズリはまだ登場してないけど? >>593
だから何?
畿内V様式にヘラ削りがないということは庄内0からだね。
2世紀末から吉備ゆかりの勢力が大和入り、それが纏向遺跡だろうね。
だから何なんだ、2世紀前半の男王を説明できていないではないか。 >>594
吉備が畿内に影響をあたえるのは技法だけ
甕や壺、高坏なんかの器形は全然違う
寝言は寝てから言いましょうね〜 >>592
>森岡さんの編年を示してみ、書いてあるから。
書いてある、という証拠は? >>594
>だから何なんだ、2世紀前半の男王を説明できていないではないか。
説明できてない、という理由は? >>595
特殊器台や桃の種、そして吉備という桜井に残る地名。
どう説明するのかな.
お前こそ寝言は寝てから言いましょうね >>165
>根拠はですねぇ、
時代の変化はオーバーかもしれませんけど崇神から巫女を遠くにやってる。
巫女のクーデターが倭国大乱で成務とヤマトタケルがまあそんときの戦いでしょ。
宮は成務が大津景行の行宮、巻向とはなっていない、
卑弥呼もまた行宮を選んだと思うからです。<
倭国大乱なんてなかったし、
卑弥呼の名前を出した時点で、「南≠東」などに拠って、×。 >>167
証拠も出さずにただ「南→東」などと言い張るあたり、
大和説ってまるでオカルト宗教だな。 >>599
説明なら◆FAQ 47にあったな >>50
だから>>594はウソ >>175
そんな、「南→東」のようなウソをつかずにいられない大和説は
もう終わり >>602
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
で、男王の墓はどこなのかな? >>182
「南→東」などのウソばかりつく大和説は、もう終わり >>606
おまえに興味があるかないかなんてどうでもいい。墓はどこなのかな? >>582
あんたが日本語がわからないのだろう
3世紀に日本各地に人は住んでたし、集落もあったであろうと言うこと
見つかった集落遺跡数(今は数十)は少ないだろうが、その数十倍以上ははあったと思うよ(今やビルの下かもネ)
集落の形成なんて言う本もいっぱいあるし・・・・・・
纏向は大集落といいながら住居跡が皆無に等しい。
単発的な、古墳造営基地だと思うよ。畿内説は纏向から少し距離を置いたほうがいいと思う。
畿内説の学者間でも纏向を邪馬台国の王都と一本化されてるわけでもないし・・・ >>592
>「土器の編年」というサイト、今は観れないけどね。
証拠ないってこと?
なら九州説、またダメだよな >>185
今回のような大雨だと、古墳時代の奈良盆地はとんでもないことになってただろうな
そんなところに大きな勢力が存在したはずがない >>609
>纏向は大集落といいながら住居跡が皆無に等しい。
という証拠は? 2世紀前半の男王が倭國王帥升という意見には賛成だ。
奴婢160人も連れて行くのならさぞかし大きな奴婢郷もあったのであろう。
纏向にないけどね。
唯一あるのは葛城なんだけどね。 >>599
で?
説明できるとか、できないとか
やたら断定してるけど
どんな基準で決めてるわけ?
主観?
aho >>610
俺は畿内説。
森岡さんの編年から目を背けてて、よく箸墓説なんて唱えれるもんだ。
石野さんも寺沢さんも卑弥呼墓を箸墓と言ってないのは森岡さんと同じで布留0古相を248年に持って来れないからだろう。
箸墓説なんて破綻してるのだ、分かったかね。 >>617
だから証拠は?
なんにも証拠が出せないで
口先で言ってるのか? >>191
九州北岸から筑紫の遺跡にくらべて、
纏向の遺跡もなんもないだろ
大和説終わってる え〜い、眠たい。
また荒らしに来るからな、待っておれ。 http://inoues.net/study/nenrin_nendai.html
. 古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が推定二五〇年ごろ。 >>>>>>>>>>弥生遺跡<<<<<<<<<<<<<<<<<
>畿内<
扇谷遺跡(京丹後市)
池上・曽根遺跡(和泉市・泉大津市)
東奈良遺跡(茨木市)
池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)
唐古・鍵遺跡(田原本町)
纏向遺跡(桜井市)
坪井遺跡(橿原市)
>北部九州<
福岡県
平原遺跡(糸島市)
板付遺跡(福岡市)
野方遺跡(福岡市)
岡本遺跡(春日市)
今宿五郎江・大塚遺跡(福岡市)
佐賀県
吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里町)
千塔山遺跡(基山町)
長崎県
原の辻遺跡(壱岐市)
里田原遺跡(平戸市)
富の原遺跡(大村市)
寄神貝塚
カラカミ遺跡(壱岐市)
車出遺跡(壱岐市) >>612
大集落の定義が面積?
無い物ねだりはどうも?????
今後出るかも????
まず、高床式倉庫・・これは集落としての貯蔵庫
纒向の水路で常に食べ物を運んでたのかな??
今のところ生活痕は少ない、・・・・これは通説だと思うよ
証拠は各種文献を読んでください >>622
キナイコシの自作自演はバレバレだからやめたほうがいい
むだに、レスが進むだけだから
それでなくても テンプレだけでレス進みすぎ >>596
森岡 秀人
公益財団法人古代学協会, その他部局等, 客員研究員
少しは彼の主張をのぞいてみたほうがいいよ
むやみやたらに投稿する前に・・・・・・・・・・・・・・ >>602
これでしょ
>魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの
「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。 <
ひょっとして東遷説? 580 609 615 621 627 628 629 >>598
奈良盆地には旧国名や地方名と同じ地名がたくさんある
時代は不明だけどあちこちからの移住者がいたと考えられてる
吉備もそのひとつ 5万戸 7万戸は伝聞であり魏使が確認したわけでは無い
まず、数えられない
次に
3世紀にの人口統計・・・・・
吉備に5万戸を養うだけのコメがあったか?
ヤマトに7万戸を養うコメがあったのか?
筑紫平野より広い耕作地吉備やヤマトにがあったのか???
奴国二萬餘戸がカギを握るが
九州説も畿内説も奴国の研究が未だ進んでいない 5万戸 7万戸は伝聞であり魏使が確認したわけでは無い
まず、数えられない
次に
3世紀にの人口統計・・・・・
吉備に5万戸を養うだけのコメがあったか?
ヤマトに7万戸を養うコメがあったのか?
筑紫平野より広い耕作地吉備やヤマトにがあったのか???
奴国二萬餘戸がカギを握るが
九州説も畿内説も奴国の研究が未だ進んでいない 地理的観点から言うと大和川や辰砂鉱山に繋がる初瀬街道辺りが交易の重要地で山辺の道や三輪山山麓箸墓近辺は盆地を俯瞰しながら拠点を押さえられた山の手の好立地だったといえる
唐子鍵はもうすこし盆地の中だったので雨で水没したりしてるね
環壕集落で敵対勢力がいたことから弥生末期の奈良は渡来人を含む幾つかの一族が集う新規開発地だったのだろう
湿地が干上がったあと重要となったのは大和川水源で、そこを押さえていた尾張氏縁の物部系一族が開発の実権を握ったのではないか
大和川を下る河内からの吉備系と結び付いたことで交易ネットワークが確立
これは北陸からの出雲系交易ルートへの牽制だったのでは無いだろうか 東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
伊都国はバチカン市国や香港みみたいな存在で奴国の範疇では無かっただろうか????
適当 思い付き 妄想 ゆえ ご勘弁 東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
伊都国はバチカン市国や香港みみたいな存在で奴国の範疇では無かっただろうか????
適当 思い付き 妄想 ゆえ ご勘弁 東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
伊都国はバチカン市国や香港みみたいな存在で奴国の範疇では無かっただろうか????
適当 思い付き 妄想 ゆえ ご勘弁 >>636
交通の要所な京都、大津あたりがいいとおもうが・・稲作地帯も抱えている
また東海・北陸・山陰に向かうなら初瀬は不便・・・東海へなら、中勢に限らず北勢に遺跡が多くてもいいのだが・・
丹なら、丹生鉱山以外にもあるし。 東海説は纏向を重要視しなくてもよいと思う
畿内説の一部の地方公務員上がりの方が騒いでるだけだが
畿内説互助会を作ってるだけだよ 私から言えば 纏向で一旗揚げたいだけだと思う
学問(特に歴史)は功を焦るべきではないが
弱い人間の性を垣間見る纏向ってところだろう 明日香村 越
斑鳩町 阿波
橿原市 飛騨町
広陵町 百済
桜井市 出雲・吉備・狛・豊前
高取町 上土佐・吉備・薩摩・下土佐
天理市 上総町・丹波市町・備前町・武蔵町
三宅町 石見・上但馬・但馬・三河
大和郡山市 丹後庄町・美濃庄町
郵便番号振られてる大字レベルでこのくらい
全部古いとは限らないけど 634 635 637 638 639 640 641
642 >>643
住井すゑ「橋のない川」です
邪馬台国は平和な国です 奥村さん
勉強してください
纒向を自分の目で確かめてください
推理で断定するのはいけません
だからテンプレが支離滅裂になるのです
今一度検証ください・・・・TVでも新たな論文でもいいでしょう 悪口のたぐいは九州説のスレで言ったらどう
九州説がダメな印象を周りに与えるだろ >>626
なるほど
これで>>615に根拠がないことがわかるね >>589
>畿内土器も吉備の内面削りの強い影響がある。
その吉備の内面削りも、倭国(阿波)の「東阿波型土器」様式の伝播。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 畿内説互助会は纏向から味噌をつけてしまった
石野他の功罪は許せない 石野の古狸さん、倭国(阿波)のせいで、立ち往生とさ。 @阿波 もっとも、ここのトンデモ連中も、倭国(阿波)に掻き回されているがw @阿波 >>640
京都大津方面の淀川水系は既存勢力だった出雲系が押さえていたのでは
伊勢遺跡もその延長上だ
出雲系は言い換えると銅鐸文化圏だな
吉備が瀬戸内交易の安全を担保することで出雲に頼らないルートを確保
それにより尾張系は出雲勢力の影響を脱し銅鏡祭祀や古墳文化を醸成した
これは想像だが、そんな尾張吉備勢力が地盤安定と勢力拡大のために由緒ある王族の祭祀を求めて招聘したのが墳丘四段構成の箸墓の主なのだと思うんだよね >>657
>これは想像だが、そんな尾張吉備勢力が地盤安定と勢力拡大のために由緒ある王族の祭祀を求めて招聘したのが墳丘四段構成の箸墓の主なのだと思うんだよね
碌な集落遺跡の無い九州だが、無駄な想像をするのはお好きなようだ。 わははははは。 @阿波 >>659
吉備 尾張 出雲 近江あたりの共同墓地がヤマトじゃねーか 瀬戸内海は航路を知らないものにとっては魔の海域
知悉しているものにとってはまさにキングスロード
その意味で中継補給地にもなる吉備の存在感は非常に大きいと思う >>660
いずれにせよ、「忌部はん」 の中の有力者の墓地である。 @阿波 出雲系、出雲系とことあるごとに言うひとがいるが
出雲系が移住して行ってる土地であっても
出雲の墓制の影響がぜんぜん無い土地では
出雲系は重要な地位には就いてないぞ >>661
>その意味で中継補給地にもなる吉備の存在感は非常に大きいと思う
それは、5世紀以降にね。 卑弥呼時代はとても無理だから。 @阿波 >>660の脳のマトモじゃねーな
墓つくる理由を考えてみろ >>663
その通り。 あくまで出雲忌部。 @阿波 >>665
吉備 尾張 出雲 近江あたりのみんなにとって神聖な場所なら、共通祭祀のトップが住み着くだろうね 九州説や阿波は時代遅れなんよー
科学的な視点で歴史を見るのが当然なのに中世の異端審問かなにかの歴史観でいまだにやってる
両説とも宗教かそれ以前の迷信の一種 >>668
九州説も畿内説も、ちょろいもんだ。 他説の追随を許さない圧倒的考古資料。 @阿波 >>199
>・・・歴史秘話ヒストリア 銅鐸とまぼろしの王国 A・・・<
森岡の頭からは、「南≠東」や「正北抵新羅」や九州倭国の「東征毛人五十五國」や、
「大和は倭國から別れた別種の旧小国」という事が抜けているから、
まあ、・・・・詐欺師そのものだな。 >>1
作製した者の頭の悪さがバレてしまう、笑えてリラックスさせられる面白いテンプレートを、発表しましたね。。。 >>663
たしかにそうだね
出雲系は緩い連合体だったかもしれない
移住開墾拡張が目的で、周辺首長による合議で物事が決められていた
その名残が出雲大社にも残ってるな
逆に新しい畿内勢力は祭祀を利用した搾取や徴兵という今の日本に繋がる文化を有していた気がするw >>669
阿波の考古資料とは妄想に基づくもので現実には存在しないよ >>672
複数の分野の高度な学部に所属する者達が集結した討論会では、完全に破綻し論破された邪馬台国畿内説を、宣伝するためのテンプレートなので、笑えてリラックスさせられる面白いテンプレートになってしまうしかないのではないのかな。。。 >>672
そういう書き込みをするたびに
「畿内説に歯が立たない」と
九州説が悲鳴をあげてると
みんなが知るんだよ >>215
>狗奴国は和泉国。卑弥呼に組み入らないのは、和泉と和泉からの東山道都督配下の15国。
卑弥呼の都は紀伊。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>215
>狗奴国は和泉国。卑弥呼に組み入らないのは、和泉と和泉からの東山道都督配下の15国。
卑弥呼の都は紀伊。<
「南≠東」などに拠って、×。 新九州説:佐賀川上ルート:
(邪馬壹国女王之所都までの方角里数は良く一致、しかも里数は韓倭の里≒短里に一致)
狗邪韓国〜対海国〜一大国までは省略
・一大国(壱岐)ー末盧国(唐津市中原津)は渡海+遡河計55q(700里)で、千里は可。
・末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南陸行して到る37q(500里)で、方角・里共にドンピシャ、
・伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南方向至る7.5q(100里)で、同じく方角・里共にドンピシャ、
・伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行く11q(146里)で、方角はドンピシャ、里の四捨五入100里も適切
・南至投馬国(宮崎県西都市都万)、
水行二十日(自郡至末盧国まで万余里十日、さらに九州西岸回りで都万まで万余里十日)、可五万余戸。 方角はドンピシャ、里も適切。
・南至邪馬壹国(官衙:熊本県菊池郡砦村臺城)女王之所都(宮殿:宮崎県高千穂町三田井・・・馬臺の訛り)。
水行十日(自郡至末盧国まで万余里)、陸行一月(自末盧国至三田井まで158qで二千余里)、可七万余戸。方角、里共に適切。
(中略)其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合記述とみる
・自郡至女王国万二千余里(自郡至不彌国まで1万600里、残り不彌国〜臺城〜三田井の実距離は110qで、1400余里)。 >>673
では九州北部はどう見るのか?
弥生王墓が連綿と作られた王都なんだが? 纏向にも九州にも阿波にも奴婢を埋葬した墓がない。
日本神話および歴史の原点・葛城にしか奴婢埋葬痕跡はない。 >>674
もう、哀れとしかw 凋落www @阿波 >>681
>纏向にも九州にも阿波にも奴婢を埋葬した墓がない。
「辰砂採掘遺跡」があれば、それで十分! わははははは @阿波 >>684
もう、哀れとしかw 凋落www @阿波 >>224
>>五瀬命らの東征説話は、生駒の麓の「日下上陸戦」の記録があり、
記紀が書かれた奈良時代には全く消滅していて、
(記紀が)判る筈もなかった紀元前の「河内湾」の存在の証拠であり、<
>これはもうウソというより冗談のような九州説の赤橋
河内湾は河内湖になってやがて消滅したが、
いつまでもいくつもの川で繋がった巨大な湿地帯だった
平安時代にはまだ勿入渕として残り、
やがて西の新開池、東の深野池、一名日下池という巨大沼として江戸時代まで残っている
昔ここが海だったという言い伝えもずっと残っていた 九州説は無知なので妄想してる <
「いくつもの川で繋がった巨大な湿地帯」程度では、
五瀬命らは、
「南方」の砂州状態の所や途中の小河川で、在地の軍に、攻撃され、
日下に達する事が出来ない。
つまり、河内湾は、「湾」であって、記紀の頃には消失しており、
五瀬命らは負傷敗退して、
南方から茅渟の海に脱出するのが精一杯であった。 >>668
>両説とも宗教かそれ以前の迷信の一種
奴婢埋葬痕跡をまったく示せない纏向説も同じくなw >>225
>律歴志も始皇帝の「1歩=6尺」をつかった民間書であり、<
>いや、それ史官の書いた公的な史書だから<
おや?、この男は「何という史書の律歴志であったのか?」を言わないな?。
以前の議論で、漢書の律歴志ではなく、
魏西晋朝頃の(正史ではない)律歴志であった筈。
そのようなインチキをするのは、おそらくスレ主か?類スレ主。 >>231
もはや・・・「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説に出来る抵抗は
「都合の悪い記述」はこっそり隠蔽し、
ガセネタを流し続けることくらいか >>232
>占い、占い! 卑弥呼さまの占いによれば、
纒向は黄泉の国に至り、代わってこれからは橿原の時代が来るそうです。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>1
作製した者の頭の悪さがバレてしまう、笑えてリラックスさせられる面白いテンプレートを、発表しましたね。。。
おかげで、疲れた時には、読んで、くつろいでいます。。。 纒向一帯は古墳を造る際、土木事務所や集まった人達の寄宿舎を設置した場所ですよ。
邪馬台国に取り憑かれた考古学者には専門的な話は通じませんからねえ。 >>680
>弥生王墓が連綿と作られた王都なんだが?
という証拠は?
考古学者はそう考えていないようだ >>686
>「いくつもの川で繋がった巨大な湿地帯」程度では、
>五瀬命らは、
「いくつもの川で繋がった巨大な湿地帯」なのは
江戸時代だろ
ばかですか? >>258
>九州説が可哀そうになってきた<
「南→東」などの嘘付き騙しの、大和説学者やスレ主や大和説者らは、
少し「怖いそう」になって来た。
しかし、こんなに、分裂幻覚の妄想に取り付かれているようでは、
狂気の京都アニメの犯人の犯罪とか、
タカ派のキョクウの国粋戦争狂の政府のように、個人的なテロ行為で、
日本を突然、戦争状態にさせてしまうかも知れない。 >>696
レスが少なくなってるからね。 ついつい、追いついちゃうんだよ。 でも、すぐ調整に入るからw @阿波 五瀬命って、もしかしてそこから来た名前?
神武の磐余彦という名も大和に来てからのものだしね。
二人とも、九州にいた頃の名前がない? >>688
>以前の議論で、漢書の律歴志ではなく、
>魏西晋朝頃の(正史ではない)律歴志であった筈。
>そのようなインチキをするのは、おそらくスレ主か?類スレ主。
魏西晋朝頃の(正史ではない)律歴志なんてあるかバカ
九州説よ、インチキをするな >>696
>ようやく周回遅れを解消したか
ザラコは周回遅れでないと
ウソついてるのが
すぐわかる >>162
>出土品のほとんども卑弥呼の死後の時代のもの。
この九州説の人は「編年研究は信じない」だけが最後の砦なんだよなww
惨めなことだ
どうやっても卑弥呼の死後にはなりませんがな
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
卑弥呼の死後の遺物「も」出るというだけ >>259の返事を投稿したところ、
このページを表示できません
対処方法
Web アドレスが正しいことを確認してください: http://lavender.5ch.net
Bing で "http://lavender.5ch.net" を検索してください
ページを最新の情報に更新
Details
という表示になり、現在投稿不能状態。 >>165
>根拠はですねぇ、時代の変化はオーバーかもしれませんけど崇神から巫女を遠くにやってる。
>巫女のクーデターが倭国大乱で成務とヤマトタケルがまあそんときの戦いでしょ。
>宮は成務が大津景行の行宮、巻向とはなっていない、卑弥呼もまた行宮を選んだと思うからです。
これは、確かに時代の変化があったと言えるだろう
ヒメヒコ制(祭祀による統一)⇒ヒコ王専制(武力による統一)
卑弥呼の死後、武埴安彦の乱があり次の垂仁の代にも狭穂彦の乱がある
こうした混乱を契機に、ヤマト王権が男子の大王専制へと向かった
武埴安彦の乱がが埴安のヒメヒコ、狭穂彦の乱が狭穂のヒメヒコとして
描かれているのも示唆的ではある 放棄された吉野ヶ里は軍事都市として再開発されて環濠が2重
九州は吉野ヶ里の2階建てを集会所としていて
実際にあのあたりを支配する支所だったと思うけど
戦争になると天守閣みたいな使われ方だったと思うわ >>705
>1〜3世紀に大型建物を作れた唯一の勢力が伊都国連合で
そういう信仰を持つのは自由だが
歴史学とは関係ない >>169
>山の上なら高祖山だろ。
縄文以来の磐座信仰のある国で、人の王の宮が山にあると想定する時点でセンスがない 纒向は4世紀半ばで消滅している。
ちょうど箸墓古墳の周濠が完成した頃だな。 >>177
>巻向かもしれませんよ、でも卑弥呼に縁のない場所です。
この「でも」に何の脈略もないし、何一つ根拠も理由も書かない
それが九州説のやり口ww >>702
確率分布の中央値が卑弥呼の共立前ですね。
邪馬台国とは関係なさそうです。
本当にあり(ry >>259のテスト投稿
>>根拠は、www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に挙げられた「尚方作」鏡例であり、
列島での平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡の存在だ。
「鏡の製作に関しては、その三尚方で分離競合する、という事でもなく、
いずれの工房でも造る事が出来た」と説明してある。<
>「右尚方」「左尚方」が載っていないから参考になりませんねw<
尚方が造った鏡には、「右尚方」とも「左尚方」とも「尚方作」とも刻む事がある、
という事の証拠になる。
>その少数の「尚方作」鏡例と21枚の倣製「尚方作」方格規矩鏡の存在
の何が「ぼくが考えた原則」の根拠になるのですか?w 後漢鏡or模倣鏡というだけですよw<
卑弥呼や壹與が、魏朝や西晋朝の工房から手に入れたと思われる紀銘鏡は、
原則として、「尚方作」と版刻され、
それらの中の列島における同范鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡。 >>709
九州北部は弥生文化の本拠地であるから、縄文云々は理由にならない。 >>711
纒向が卑弥呼に関係するという根拠を示せていないのは畿内説ですよ。
ここまで畿内説の根拠なし。 >>188
>宮室、楼観、城柵が揃っていたという
吉野ヶ里の建物は、唐古鍵の線刻土器をもとに復元したもの
「基本形態
復元形態を策定するため、参考とした絵画土器や家屋文鏡には、重層楼閣や特徴ある建物の様子や
棟、軒先飾りおよびシンボルの鳥が描かれており、弥生時代の建物をうかがい知る有力な資料と
なりました。 遺構の柱間隔、柱太さや柱穴の深さ等の検討により、H5年に奈良県田原本町の
唐古・鍵遺跡から発見された絵画土器に描かれている3層2層建ての楼閣建築を想定しています。」
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c310.html
つまり吉野ヶ里を推すことは、畿内に楼閣があったと主張することにしかならないw 畿内にないとは言っていないが、それが邪馬台国と関係するという根拠が皆無 すでに出雲には高さ数十メートルの出雲大社があった頃だし、小さな楼閣程度では全国にいくらでもあったのだろう。
九州北部の中でも中心とは言えない吉野ヶ里にすらあったのだから。 >>397
>少なくとも纒向はその条件を満たさないよ。
その「条件を満たさない」と判断する理由も根拠も具体的なことは一切書かないのが
九州説のデフォルトww
「鉄がない」は根拠にならないよ
出てるし、出ない理由はいくらでもあるから
「ない」ことは根拠にならない >>417
>あと吉野ヶ里の2重の環濠や古墳時代になってからの消滅も
>伊都国を守るために作られたと考えると説明ができる
説明できないよww
伊都国と離れたところに防御のしっかりした環濠集落があったとして、
そこを素通りして伊都国を攻めれば良いだけww
そもそも、防衛陣地は他の場所への侵攻を妨害する構造ではないw >>422
>山すその祇園山古墳の24mの方墳や
拠点集落の中に作られた那珂八幡古墳・墳丘長86メートルの方がひと目につくだろ?w >>720 軍事目的で使っていた吉野ヶ里が
戦いが終わって消滅するのは自然な流れだろ
迂回できたと思うし>侵攻を妨害する構造ではない
というのはそのとおりだけどそれは自分が言ってるのとは別の問題 >>441
>祇園山は最初に主墓ができて殉葬や副葬品がある甕棺が埋葬される
>王族関係の墓はここまでで
甕棺が古墳時代に使われたと考える時代錯誤を何とかならんかねww http://www.yoshinogari.jp/img/c3/cat-1/b102_01.gif
吉野ヶ里の周辺の山すそで遺跡が多数見つかってるけど
それらが軍事目的の砦で
吉野ヶ里が指令所みたいな役目だったかもしれん >>710
>纒向は4世紀半ばで消滅している。
>ちょうど箸墓古墳の周濠が完成した頃だな。
どうしてそういう妄想が出来るのか
頭の中を見てますみたい
絶望的に自己矛盾してるの、自分で分からないか? そもそも纒向遺跡やその出土品が、邪馬台国と言う以前に、倭国であった事すら示せないのが謎だな。
過疎地だった奈良盆地に、東日本勢力が王墓を建造すべくやって来た。
それが纒向遺跡だと考えれば辻褄が合う。
要するに「女王国の東千余里にある倭種の国」の遺跡なんだよ。 >>726
学者がそう説明してるんだからその学者に聞けw
纒向遺跡に行って説明を聞いて来いw 上の地図にはないけど右の方に祇園山があって
吉野ヶ里郡とで防衛線を組んでたのかもしれない >>715
>ここまで畿内説の根拠なし。
そう断定してるけど、証拠は? >>727
>そもそも纒向遺跡やその出土品が、邪馬台国と言う以前に、倭国であった事すら示せないのが謎だな。
「示せない」という理由は? >>442
>卑弥呼の墓は倭国大乱後の最初の女王墓である平原遺跡。
平原1号墓は卑弥呼の生前に死んだ人の墓だと何度教えればww
伊都国ローカルの有力者の女性の墓だよ
伊都国の第二家系出身の、伊都国首長妃で一時期伊都国首長の立場にあった人だろう
平原遺跡は、その立地からして三雲遺跡群の首長墓に従属する立場にある
https://i.imgur.com/cieiYbz.jpg
三雲南小路遺跡から冬至の日没方向の可也山の軸線上に平原遺跡は作られている
https://i.imgur.com/LMFHOwQ.jpg
https://i.imgur.com/lb0gTJ4.jpg 倭種の別国の集合体かなんかしらんけど、畿内は邪馬台国と関係ねーな
出土物がお粗末すぎるし
倭人伝の記述に合致しない 山すその高いところに集落を作るのは農業をやるのは不便だが
吉野ヶ里周辺や祇園山でかなりの数配置されてた可能性がある
農業目的ではない集落を作ることができる力があったのは
やはり伊都国連合くらいだとおもうな >>728
>学者がそう説明してるんだからその学者に聞けw
>纒向遺跡に行って説明を聞いて来いw
学者がそう説明してる、という証拠は? >>733
>倭種の別国の集合体かなんかしらんけど、畿内は邪馬台国と関係ねーな
ないという理由は?
>出土物がお粗末すぎるし
という
理由は?
>倭人伝の記述に合致しない
なにと何が、どう合致しないの?
具体的内容が何も無い
こらだから九州説が笑い者になる >>454
>などからやっぱり途中から共同墓地になったと思うな
最初から弥生時代の共同墓地だよ
そこにあとから古墳時代の祇園山古墳が作られた
祇園山古墳を作るときの地山成形で上部が削り取られている土坑墓もある
順序は、周辺の有象無象の墓のあとに祇園山古墳だ
弥生時代の集団墓地+古墳時代の祇園山古墳という「組み合わせ」
原口古墳が、弥生時代の甕棺墓を無視してその上に作られているのと同じ >>706
サンキュー
やっぱ神社か斎場だな纏向の建物は
粗末すぎるな
基礎がしっかりしてないのと、柱が細いから平屋なんだろうな http://www.yoshinogari.jp/img/c3/cat-1/b102_01.gif
これらの横並び集落が吉野ヶ里防衛線であった場合
敵兵の伊都国への山越え阻止が目的で
これより南に邪馬台国があったとは考えにくく
伊都国を防衛していたと考えるのがもっとも自然
伊都国連合の九州での最重要地点は伊都国だと考えると
九州に邪馬台国はない 邪馬台国>伊都国だから >>277
>>そして、陳寿は会稽との関係を推定しているから、会稽東治と書いたけれども、
郡よりも上の揚州の管理下になったんだよ。<
>会稽郡の一部を臨海郡として分割しただけ 会稽郡も臨海郡も、揚州の管理下だ
分郡以前も、以後もね <
それ以前に、会稽郡からその海岸地域が呉郡に分郡されており、
257〜269年に会稽郡から、臨海郡と建安郡の分郡があって、
臨海郡以北が揚州の管理下になったが、
その揚州は、呉國の支配下になったので、
臨海郡以北の、会稽郡も海岸部も、呉國の支配下になっていたんだよ。 >>455
>ちなみに箸墓は長二百歩だから卑弥呼の冢ではない。
径十歩に満たない墓を「大いに作る」とは書かないよww
この外観で高い方の円丘墳頂に葬ったと知っていれば、円丘が墓だと認識するだろ?
https://i.imgur.com/yYNv3Ht.jpg
円丘部分の大きさがちょうど径百歩だ 王族の国を小規模にして周りに一般人を住まわせるのが
伊都国連合のやり方だったので
初期纏向は小規模だったのかもしれない
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸 丗有王
奴国 二万余戸
不弥国 千余家 >>460
>仮に纒向の建物が宮だとしても、物部氏の宮だよ。
物部氏の奈良盆地での根拠地は石上周辺だよ
纏向ではない
こういうところも常識知らずww 纏向を追い出されたのはナガスネヒコ説がある
東の太陽にお祈りするとナガスネヒコ山奥集落に
お祈りしてる形になる >>742
どこの誰に、そんな気の狂ったようなことを聞けと? たしか毎日新聞と朝鮮総連と部落連盟は一心同体だったよな。
コイツらユトリ教育も推進してた連中だ。 >>282
>会稽郡の最北端は北緯約30度 会稽郡で、かつ揚州の管理下だ<
会稽郡と呉郡とは相互に独立的であり、
それらの上部組織になる揚州が、呉國の支配下になっていたのだ。
> 揚州の管理下地域は、北は江蘇省の長江南岸部から、南は福建省までだ<
建安郡は、不明だし、北は揚州市の東方の海岸地域全域だ。
>つまり北は鹿児島南部、南は沖縄・台湾あたりだ<
ダメだ。沖縄台湾にはならない。
>揚州管理下だからといって、べつに「会稽東治」なわけではない<
陳寿は、「会稽郡の東」だと言いたかったのなら、
「会稽東治」のような「東治」を付ける必要が無く、「会稽之東」だけでよかった筈。
だから、逆に「会稽東治之東」と書かなければならなかったのは、
「東治」付近が「会稽ではなかった」からだ。 >>283
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
大和説は、ふたことめには、「史料事実の否定曲解」の捏造するのだな
悪質なもんだ >>727
>過疎地だった奈良盆地に、東日本勢力が王墓を建造すべくやって来た。
>それが纒向遺跡だと考えれば辻褄が合う。
というか、植民地でしょ。
伊勢遺跡とか、他の地域と比べても纒向はショボすぎる。 >>728
自分の意見がないものは書き込むな。
せめてその学者の論文くらい紹介しろ。 >>729
筑紫の防衛ラインは基肄城と大野城だろJK
近年では大きな羅城があったことがわかっているし、その一番古い木材の炭素年代は3世紀中頃だという。 >>731
君が示せばいいことなんだが?
何百スレもかかっても、何も示せてないね。
畿内説は空っぽだ。 >>732
>伊都国ローカルの有力者の女性の墓だよ
根拠なく妄想を振りまいて、楽しそうだなw
でも全く無駄なことだ。
根拠がないからね。 >>739
>伊都国連合の九州での最重要地点は伊都国だと考えると
伊都国に勝る重要地点は本州にもない。 >>745
長髄彦は富美だろ?
だったら纒向は饒速日しかいない。
つまり物部氏だ。 いい加減に、纒向は尾張の傘下のマイナー拠点だと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏と物部氏の祖である饒速日の王国だったんだよ。
纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 >>638
古墳の造営が終わったら引っこ抜いて、次の現場にもっていった可能性もある >>754
>何百スレもかかっても、何も示せてないね。
テンプレに示されてる
示されてないと主張するなら理由を言うんだ
理由が言えないなら、示されていないと言う主張は却下だ
世間では当然のことなんだが? 真面目な話、饒速日と物部氏の足跡は、奈良では交野に饒速日が降臨し、その近くの富美に親族の長髄彦がいて、石上にも足跡がある。
奈良盆地は物部の支配する土地だったのだろうね。 >>312
>>誰がどういう計算で「ハノイでも洛陽の南11,000里」と書いたのか?は知らんが、<
>テンプレに書いてあるだろ 後漢の正常な里で1万1千里だ<
あぁ、テンプレか。
それなら「ハノイでも洛陽の南11,000里」は、
長里か短里か?がはっきりしない二つ位の里数を繋ぎ合わせた計算をした、
インチキ計算で合った筈だな。
「長里」だけでは、赤道付近にまで行ってしまう筈で、
「長里」なんて存在しない >>749
>会稽郡と呉郡とは相互に独立的であり、
>それらの上部組織になる揚州が、呉國の支配下になっていたのだ。
だから呉郡の中には会稽東治はないよ
会稽郡の中にある
>建安郡は、不明だし、
なんで不明なんだ?
誰でも知ってるぞ
福建省にあった
>北は揚州市の東方の海岸地域全域だ。
現在の揚州市は3世紀にはまだ揚州ではなかった
当時の揚州はもっと南までしかない
常識がないのか
>ダメだ。沖縄台湾にはならない。
理由もなく言い張ってもダメだ
会稽郡は揚州に属するのだから、揚州南部なら東は沖縄・台湾だ
これおも常識だぞ
>陳寿は、「会稽郡の東」だと言いたかったのなら、
>「会稽東治」のような「東治」を付ける必要が無く、「会稽之東」だけでよかった筈。
>だから、逆に「会稽東治之東」と書かなければならなかったのは、
>「東治」付近が「会稽ではなかった」からだ。
「会稽之東」と書いたなら東は屋久島か永良部島あたりでしかない
「会稽東治之東」と書いたのは東が沖縄・台湾だからだ >>709
.縄文以来の磐座信仰のある国で、人の王の宮が山にあると想定する時点でセンスがない
人間が生きていくうえで一番必要不可欠なのは水、だから王とは水源に住む者。
銅鐸の発見場所が山の中腹に多いのもそのため。
山の神ってわけだ。
纏向ごとき平地に王がいたなどと言ってるお前の方がよほどセンスがない。 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>317
大和説は、どうして平気で「南→東」などのウソをつくのか?
大和説者が、国粋戦争のキョクウ思想に狂った・・・・だからだな >>725
筑後川の支流にしか遺跡がないな
筑紫平野はあれだけ広くても、人が住める場所は限られていたってことだ >>735
纏向は「古墳造営キャンプ」である(酒井龍一氏、奈良大学名誉教授) >>766
そうだね。
弥生時代の神とは王族のことだからね。
纏向遺跡はまるで神社のような構造というか、神社そのままな訳だが、それは王族が住んでいたことを示す。
纒向に宮を構えたと記録がある垂仁天皇あたりだろうか。
伊勢遺跡と違い、住まいとなる建物が一棟しかなかった。
当時のヤマト王権はかなりの地方政権だったと見える。
もちろん、魏と交渉した邪馬台国などとは関係ない。 >>767
わしのレスを保存してくれてたのか、ありがとう。 >>769
佐賀平野を含め、当時は筑後川流域がフロンティアだったのだろう。
そして邪馬台国と狗奴国の前線でもあった。 >>764
>あぁ、テンプレか。
>それなら「ハノイでも洛陽の南11,000里」は、
>長里か短里か?がはっきりしない二つ位の里数を繋ぎ合わせた計算をした、
>インチキ計算で合った筈だな。
また九州説がウソをついてる
証拠もなく「筈だ」とか言ってあらぬ誹謗中傷をしているな >>771
崇神でさえ、王ではなかった。
崇神の上にはモモソ媛の亭主である大物主がいた。
その大物主が三輪山に帰ってるという記述は、
大物主が三輪山の水源を支配してた本物の王だということ。
崇神はその大物主を殺した。
そして王になった。
だからハツクニシラスなわけだ。 >>772
大変わかりやすく説得力がある。
交野は饒速日が降臨した地だからね。
物部氏の本拠地の一つであることは間違いない。
日下で神武を迎え撃った長髄彦がいた富美にも近い。
記紀や各地の伝承、地名となんらすり合わせができない畿内説は妄想としか言いようがない。 纒向遺跡 (貼り付け)
周辺の大型古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」である、という説(酒井龍一氏、奈良大学名誉教授)もあるようです。
長年発掘調査にあたってこられた関川尚功氏(元橿原考古学研究所)は、
”纏向遺跡を含む遺跡群と大型古墳群の位置関係と時期の近接性は充分根拠になり得るであろう。”
として、肯定的な見解を示してます。 >>330
うそつき大和説や纒向は お・し・ま・い
これからは、(白村江まで)九州倭国の繁栄の時代に移る。
これは卑弥呼さまのお告げ?です。 >>775
>大物主が三輪山の水源を支配してた本物の王だということ。
三輪山だけのローカル王だよ。
すぐ北には饒速日の石上があるからね。
隣の王との距離が近いなあ。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 いい加減に、纒向は尾張の傘下のマイナー拠点だと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏と物部氏の祖である饒速日の王国だったんだよ。
纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
倭国の対外交渉権の変遷が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨の伝承に反映されているもしれない。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
そして、7万戸という東夷の世界で最大の消費地も、筑紫に求めるしかない。 「纒向遺跡」は、全部発掘されたわけではなく、一部発掘されたものから推定しています。
推定面積と、確認面積があり、「纒向遺跡」の確認面積はそんなに大きくなく、
大きさだけで言うなら三内丸山遺跡の方が大きい >>779
>三輪山だけのローカル王だよ。
いやかれら鴨族は高天原(御所市高天)をはじめ畿内の水源を支配していたよ。
水源から銅鐸が出まくってるのだから間違いない。 畿内では前方後円墳が2世紀末から6世紀末まで存在する(関東は除く)。
そのまんま物部の興亡時期なのだが。
そして蘇我が台頭してきて大王墓の形が非前方後円墳化するのも面白い。 つまり纏向遺跡とは物部の遺跡。
あんなところに卑弥呼がおるかい、アホの>>1 >>336
>建安郡は揚州管理下地域だったな<
建安郡は、管理下とは余り言えないんではないかな。
元々、揚州内でも独立的であった会稽郡から260年になってから分郡されたのであり、
三国志の呉國の揚州支配に拠って、
呉郡や臨海郡を揚州の管理下に会稽郡から分郡をしたのだから、
会稽郡と建安郡は、揚州との関係は薄い。 >>788
卑弥呼の時代に揚州管理下の地域である事実は揺るがない >>784
>いやかれら鴨族は高天原(御所市高天)をはじめ畿内の水源を支配していたよ。
鴨族とは富美の長髄彦の一族、三島溝杭耳の一族のこと。
彼らは奈良盆地の西側が拠点だから、御所市は確かに含まれる。
しかし三輪山の神とは婚姻したが、あくまでも別氏族だ。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>356
ひたすら「南→東」などのウソを根拠にして、
全ての事で嘘を付きまくる大和説 >>469
>どうみても北九州が全部吸い上げているようにしか見えないなw
吸い上げてるんじゃなくて、九州はどん詰まりなんだよw
そこから周囲・周辺への影響が皆無 >>359
「南」を疑うのは構わないが、疑ったら検討、検証をしなさいな
疑わしい=正しくない、と短絡して、何も考えずに決め付けて思考停止しているから
大和説者は、知的能力が足りないと言ってるんだよ >>792
交通事故死した家族の遺体をみて
ウソだっ、と叫んでるのと同じだな
九州はは死んだよ >>794
周回遅れでないと
九州説がウソついてるのが
よくわかるね >>362
ってーか、
「南→東」だって根拠がないので
主観的な根拠レス反論してる大和説は、
ブーメラン自殺コピペなんでは? 小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」 小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」 小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」 718
出雲大社って出雲新宮党の勢力圏内じゃないのか? >>797
周回遅れじゃないと
九州説が嘘ついてるのが丸見えだな
ww わらすぼに対して、悪い影響が与えられる可能性が、高まっているな。。 はいはい纒向は古墳造営基地局跡地ですよ。
パヨクによる北ちょんミサイル開発の資金源でもありますが、今のところ赤字ですw そのころ作った建物多い気がするが
千家って堺商人出身のあの千家ちゃうんかい?
堺商人として始まり大和の松永弾正と初め取り引きがあり茶関連の作法を編み出した連中らや
それが出雲大社と関係あるん? >>386
>卑弥呼が最初のヤマト王朝であるから
圧倒的な新王朝の建造物が必要であった。という事ですね?<
「南≠東」などに拠って、×ね。 >>800
都市と言わなきゃ良いだけの話だな
ミヤコだよ、倭王のな >>513
>畿内は筑紫の銅鏡祭祀を受け入れたんだよ。
破鏡と完鏡は別
内行花文鏡という名前は同じでも、平原1号墓の手抜き46センチ鏡と
畿内の伝統に則った美麗な完鏡とは別
ここのところが違う
https://i.imgur.com/P9ZIvtJ.jpg >>521
>当時の日本に「世界宗教」という概念があったとは思えんが
「三国一のなんとか」っていう言い方はいつ頃からあるんだろう?
三国=日本、大陸中華、天竺(インド) >>536
>魏里では伊都国につけない
現実を見ようよww
伊都国に着けないのは、末盧国(唐津平野)の東南に伊都国がないからだぞ?ww 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、 重油が垂れ流され、わらすぼに対して、悪い影響が与えられる可能性が、高まっているな。。 邪馬台国畿内説が垂れ流され、日本国民が真実を知ることに対して、悪い影響が与えられる可能性が、高まっているな。。。 >>580
>そんなに桃核が重要なのかな??
桃であること、桃核であることは特段重要ではない
(まあ神仙思想との関連を指摘する人もいるが)
桃核はその年に植物が光合成で固定して当年試料であることが確実なのと、
厚みがあるので、外部のコンタミの影響の少ない試料が得られるため、
14C年代測定用の炭素試料として好適な性質を持っていることが重要
それと、明確な祭祀遺跡である大型祭祀遺構からの出土で、供伴遺物の
編年の定点を与えうるというところが、大事な点 >>392
>魏志倭人伝の里は10里どころか50里刻みですらない 50里は20kmに相当
150里を100里に四捨五入したというなら20kmもの誤差が生じる事になる
これでは正確な測定が行われたとは言えない <
関係がない。
魏の役人たちは、始めから、
自分等の計測が有効数字1桁位の近似値計測だ、という事を知っており、
だから、有効数字多桁計測値が出ても、有効数字1桁位の近似値化や、
「余」の有無で書き分ける事をしており、
そして、陳寿もそれらが「略載」がされた、と判断している。 >>393
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和説は「南≠東」などの嘘付き騙しであると書いたら
当然のように、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説ゾンビが飛び出してきた いつまで同じ話をしているんだ、
日本の話ではないんだけど、低脳なんじゃないのか?
神武よりも前の話(神話?)があるでしょ、
そういうのも日本の話ではない >>636
>弥生末期の奈良は渡来人を含む幾つかの一族が集う新規開発地だったのだろう
この、謎の渡来人推しの人は何なの?
そんな渡来人主体の政権だったら、もっと大陸との関係を密にしてるよ? 調べてみた?
〜大将軍、何やらの宝剣〜とか、
そういう話が出てきたりするでしょ
家『松傾』のほうが上 >>394
>漢書にあるように去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里と
端数まで計測されていたなら
計測数値に100余里や1万2千余里といった余の入り込む余地はないのである<
班固は、おそらく、
歩測や日数測や記里車などでの計測値を、(近似値化せずに)そのまま記載している、
という事が判る記載であり、それならそれで判るから、問題がない。 >>657
>吉備が瀬戸内交易の安全を担保することで出雲に頼らないルートを確保
>それにより尾張系は出雲勢力の影響を脱し銅鏡祭祀や古墳文化を醸成した
吉備の特殊器台が出雲の西谷墳墓群でも出ている
吉備と出雲が対立関係にあって覇を争ったとする見方は見当違い >>660
>吉備 尾張 出雲 近江あたりの共同墓地がヤマトじゃねーか
吉備には吉備の、尾張には尾張の、出雲には出雲の、近江には近江の首長墓が存在する
各地の首長がわざわざ遠地に墓を作る理由がないww ネットなどで調べなくても、知っているし、
本や書などを読まなくても、知っている。
伊達郡というところがあるでしょ、いまの福島県?
家は、そこに住んでいたんだよと言っていたり。 >>681、>>687
左側スロープ君は、自分の巣へお帰りww
時代の異なる伝承を「土蜘蛛」の一語だけで同一視するトンデモなんて、
誰も相手にしないよww >>693
>考古学者はそう考えていないようだ
「弥生王墓」という概念があるんだよ
考古学者も使う用語
ここのテンプレでいう「析出集団」の中心人物の墓と目されるもので、
豪華な副葬品等で他と区別できる厚葬墓をそのように呼ぶ
ただこの場合の「王」は環濠集落レベルのローカルな「クニ」の首長で
国家段階にはまだ達していないものをいう 実際は下とも言えるw
謎の刀も誰かにあげちゃったのかな〜とか、
老婆談によると、そういう話ばかり >>714
>九州北部は弥生文化の本拠地であるから、縄文云々は理由にならない。
縄文「以来の」って書いてあるだろ?
高祖山で高地性集落でも出ているならともかく、築城開始が
天平勝宝8年(756年)奈良時代の怡土城が弥生時代からあったとかいう
トンデモはまともな人には通じないよww >>404
>>(前方後円墳の円墳と前方部を分離説)
ダメだ。 始めから前方後円墳全体を墓だ、として土地を確保している。<
>それ、根拠なし
墓+祭祀壇ての土地確保かもしれないでしょ<
箸墓の場合は、環濠全体の部分を確保し、その土を前方後円墳に積んでいる。 邪馬台国畿内説が垂れ流され、日本国民が真実を知ることに対して、悪い影響が与えられる可能性が、高まっているな。。。 >>793
>吸い上げてるんじゃなくて、九州はどん詰まりなんだよw
どうして畿内説は自分たちの欠点を相手に転化するのかな?
尾張にぶら下がってどん詰まりなのは纒向だよ? >>715
>纒向が卑弥呼に関係するという根拠を示せていないのは畿内説ですよ。
>ここまで畿内説の根拠なし。
こいつ、核心の質問からは逃げ続けているくせにエラそうだよなww
同時代に同一地域に存在した、考古遺物から推定される王権と
大陸史書・魏志倭人伝の示す王権が別の物と考える理由がないし
別だとした場合に対応する王権が存在しない
前方後円墳と祭祀用供献土器の分布で、畿内の纏向を中心とする王権の
影響範囲が分かり、 そこに北部九州も入っている
そして北部九州の奴国は魏志倭人伝にも出てくる女王に属する国
奴国に影響を与える畿内以外の王権の存在など影も形もない
畿内邪馬台国を無関係と言いたがるのは九州説のご都合主義でしかない >>808
ゴテゴテ飾り立てたWindowsと、シンプルなMacのどちらが美しいかという問題と似ている。 >>815
>厚みがあるので、外部のコンタミの影響の少ない試料が得られるため、
なるほど。
>それと、明確な祭祀遺跡である大型祭祀遺構からの出土で、供伴遺物の
>編年の定点を与えうるというところが、大事な点
卑弥呼より前でした。
本当にあり(ry >>826
>ただこの場合の「王」は環濠集落レベルのローカルな「クニ」の首長で
根拠なし。 纒向は畿内説だと誰が住んでいたのですか?
卑弥呼ですか? >>723
>軍事目的で使っていた吉野ヶ里が
これがそもそも間違い
吉野ヶ里が最大の環濠集落と言われるのは、
「通常は環濠で囲わない墓地まで環濠で囲っているために環濠が長く環濠内面積が広い」ため
集落部分の面積では、唐子鍵遺跡の方が大きい
軍事目的の集落に墓地を囲い込む必要がどこにある?ww
軍事目的に設置された集落ではなく、以前から存在する集落に防衛目的の
環濠などを後付で付置したものだ
吉野ヶ里遺跡が衰退するのは、北部九州における吉野ヶ里の重要性が低下したためであり、
その契機には奴国・比恵那珂遺跡群と畿内勢力の親密化が想定できる >>725
>吉野ヶ里の周辺の山すそで遺跡が多数見つかってるけど
>それらが軍事目的の砦で
>吉野ヶ里が指令所みたいな役目だったかもしれん
つまり、吉野ヶ里防衛で完結していて、伊都国を持ち出す理由が何一つないなww >>838
>吉野ヶ里遺跡が衰退するのは、北部九州における吉野ヶ里の重要性が低下したためであり、
ふむふむ
>その契機には奴国・比恵那珂遺跡群と畿内勢力の親密化が想定できる
ここが根拠なし。
事実と仮説は明確に分けようね。
肥後狗奴国を肥前筑後が統合して筑紫と肥国が一つの大倭になることでも吉野ヶ里の必要性が下がるよね。 邪馬台国の防衛ラインはあくまでも大野城と基肄城だ。
吉野ヶ里は衛星集落の一つ。
本丸は大宰府。 水城の基礎の年代は卑弥呼の時代だった。
大宰府羅城の建築開始は卑弥呼の治世。
もちろん、南の狗奴国との戦いに備えたものだ。 >>751
>伊勢遺跡とか、他の地域と比べても纒向はショボすぎる。
伊勢遺跡:東西約700m、南北約450m、面積約30ha
纒向遺跡:南北約1.5km、東西約2km
嘘つきww
九州説は具体的な数字などを出さずにゴマカシの嘘をつくww
この纒向遺跡の範囲は、発掘をすると遺物が大量に出る範囲と出ない範囲として明瞭に区別される
この「南北約1.5km、東西約2km」の範囲はどこを掘っても均密に遺物が出るんだよ >>844
>この「南北約1.5km、東西約2km」の範囲はどこを掘っても均密に遺物が出るんだよ
お?
何棟あった? >>410
>>定説の間違い。260年の分郡で、東侯官治地域は建安郡。<
>卑弥呼の朝貢当時は会稽郡だから関係ないな<
「会稽東治之東」は、陳寿執筆時点での「地の文」としての説明だ。
>>臨海郡以北の上海を中心とする海岸地域が揚州管理下になり、呉の直接的支配下になった。<
>会稽郡の一部(浙江省南部)を分割しただけだから
呉郡である上海付近は呉郡のままで変化ないよ
「呉の直接的支配下になった」とか捏造だね
>会稽郡の一部が分割されただけだから 上海は無関係だね 分割されたのは浙江省南部だ<
会稽郡から呉郡への分割は、臨海郡や建安郡の分割の前であった筈で、
だから、呉郡は会稽郡の南へ細長く回り込んでおり、更に揚子江流域までに広がっており、
奇妙な形をしている。
>>上海の真東は佐多岬。<
>東にあるのは奄美大島 九州ではない<
沖縄台湾を止めて奄美大島に誤魔化しても無駄だ。
揚州市の東方は江蘇省海岸であり、
揚州は呉國の支配下になったから東治の中心は揚子江河口付近の上海付近であり、
その「之東」は、ほぼ九州島付近だ。 >>755
>根拠なく妄想を振りまいて、楽しそうだなw
>でも全く無駄なことだ。
>根拠がないからね。
根拠がないって言うのはこういうやつだぞww
>>715「纒向が卑弥呼に関係するという根拠を示せていない」
テンプレ以下、いくらでも書いてあるだろ?ww
平原1号墓が倭女王墓ではなく、伊都国ローカルの有力女性墓だという根拠は
1.同時代の各地の弥生王墓と比べてもしょぼい
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
2.伊都国の「王墓級」で比べても、第一家系の三雲遺跡群のものと比べてしょぼい
第一家系
三雲南小路遺跡 30メートル四方
端山古墳 全長78.5メートル
第二家系
平原一号墓 12×8メートル
銭瓶塚古墳 全長約50メートル
また、編年上も卑弥呼の生前の造墓(2世紀末〜3世紀初頭)で、
その後古墳時代に入るまでに1世代(平原3号墓、4号墓)が作られている
何度も、根拠は書いてるぞww 学者の見解と異なる夢幻の「大都市」にすがる畿内説が哀れ。
梯子を外されたんだね。 >>766
>纏向ごとき平地に王がいたなどと言ってるお前の方がよほどセンスがない。
三雲遺跡群の主は涙目だなww
どうして、簡単に矛盾することが書けるんだ?ww
高祖山に弥生時代の遺跡は一切ないんだぞ?w >>771
>纒向に宮を構えたと記録がある垂仁天皇あたりだろうか。
崇神天皇からだよ
磯城と纏向を別物だと思っていないか?ww >>413
「南→東」などの嘘付き騙しをどうしても反省撤回しない、という、
こういう投稿見るにつけ、大和説者の精神構造の異常さがよくわかる
おそらく、タカ派の唯我独尊の人種差別狂の戦争・・・・人間であり、
京都アニメ犯人と同じような性格の人間。 >>773
>佐賀平野を含め、当時は筑後川流域がフロンティアだったのだろう。
>そして邪馬台国と狗奴国の前線でもあった。
つまりそんなところに王都はなかったということだなww
筑後平野説、死亡ww よくわからないけど、凄い刀(劔?)だと言っていたり、
当時住んでいた家(正確には部屋)に飾ってあった
蔵(倉?)があって、蔵のなかにも刀が〜、
あと掛け軸、壺とか >>779
>隣の王との距離が近いなあ。
その「クニ」は、舊百餘國時代の「クニ」
それが、水系単位でまとまって、「ソフ(層富)」国、「ヤマト」国、
「カツラキ(葛城)」国、「カハチ(河内)」国となる訳だ >>807
>都市と言わなきゃ良いだけの話だな
>ミヤコだよ、倭王のな
都市でいいよ
農業生産から離れた専業職人の存在が、都市の成立を見る重要な用件の一つ
九州説の人の大好きな「纏向遺跡からは農機具がほとんど出ない」というのが
都市の特徴を端的に示している >>832
>どうして畿内説は自分たちの欠点を相手に転化するのかな?
>尾張にぶら下がってどん詰まりなのは纒向だよ?
相変わらずのミラーリングだなww
>>793で書いたように
「北部九州から周囲・周辺への影響が皆無」であることから、どん詰まりであることは明白
「纏向遺跡を中枢とする畿内からは、前方後円墳・祭祀用供献土器が広範囲に展開」しているから
統一祭祀の主宰者・倭女王卑弥呼の存在が推知できる
この違いは明白だろ? >>425
「国粋皇国史観戦争狂」のキョクウ大和説の中での保身のためだけに、
「南→東」などの嘘付き騙しの捏造を繰り返す
醜い大和説者 >>804
根拠ないよな
古墳造営に大型建物が伴ったなんて類例あるのか?
九州説はどんどん大衆のついて来ないトンデモの淵に沈んでいく >>834
>ゴテゴテ飾り立てたWindowsと、シンプルなMacのどちらが美しいかという問題と似ている。
まともな反論一つできなくて、反論した雰囲気だけでお茶を濁す九州説は本当に惨めだねww
どう見ても、平原1号墓出土の46センチ鏡は、畿内の内行花文鏡の系譜と繋がらないだろ?
内行花文鏡というのは、八連弧の三角部分に装飾が入るのが当然なんだよ >>850
>崇神天皇からだよ
お
邪馬台国と関係ないということでいいな? >>852
まあ、筑後では狗奴国との前線に近すぎる。
せいぜい大宰府だろう。 >>427
学問的にまったく通用しない、
「南→東」や「冢=前方後円墳」などの史料事実の否定曲解の素人我流大和説を
なんの理由も言わずひたすら結論だけ連呼するという醜悪な足掻きぶりが
大和説の断末魔をよく物語っている >>857
歴史の話をしてるのに
「『国粋皇国史観戦争狂』のキョクウ大和説」
なんて政治狂いの罵声で議論を打ち切ろうとする
九州説は完全に脱落したな >>856
>「北部九州から周囲・周辺への影響が皆無」であることから、どん詰まりであることは明白
王都が全部吸い上げていたからだろ。
はい、反論終わり。 >>835
>卑弥呼より前でした。
>本当にあり(ry
卑弥呼より前から、国家祭祀レベルの大型祭祀土坑が纏向遺跡に存在し、
そこから4世紀初めまで存続するのだから、卑弥呼の時期にも纏向遺跡が
国家祭祀の中心地であると考えるのが論理的
よく話題に出る辻地区の大型建物跡が卑弥呼の遣使より前だというのには同意する
卑弥呼の遣使の頃は、そこよりも東側の尾崎花地区に王の居館域があったと
推定されている
https://i.imgur.com/qvazzyo.jpg
この辺を「見ない聞かない」で逃げ続けるしかないのが、オワコン九州説の宿命ww >>859
>内行花文鏡というのは、八連弧の三角部分に装飾が入るのが当然なんだよ
いつも一言余分で墓穴を掘るよな。
アホ丸出し >>431
「南→東」などのウソをついたら、
必ず負けるよ、大和説 >>865
なんだか可哀想なくらいに妄想に取り憑かれているんだな。 >>851
>おそらく、タカ派の唯我独尊の人種差別狂の戦争・・・・人間であり、
>京都アニメ犯人と同じような性格の人間。
こういう投稿見るにつけ
九州説者の精神構造の異常さがよくわかる >>848
>学者の見解と異なる夢幻の「大都市」にすがる畿内説が哀れ。
纒向が「大都市」なんて
誰が言ったんだ?
また・・九州説さん、捏造ですか? 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論理的というには、論理学的に、完全に、間違っている意見を発表したな、、、
865 名前:日本@名無史さん 2019/08/30(金) 16:48:16.67
>>835
>卑弥呼より前でした。
>本当にあり(ry
卑弥呼より前から、国家祭祀レベルの大型祭祀土坑が纏向遺跡に存在し、
そこから4世紀初めまで存続するのだから、卑弥呼の時期にも纏向遺跡が
国家祭祀の中心地であると考えるのが論理的 ああ言えばこう言うキナイコシ
あれもこれも言っていないことになるから、何一つ信用できない この「国家祭祀レベル」って、厨二病的だけれど、何が根拠なんだよw
ギャグか?
畿内説は強大国家は無双していないんじゃなかったのか? >>865
>卑弥呼の遣使の頃は、そこよりも東側の尾崎花地区に王の居館域があったと
>推定されている
口で言うだけならなんでも言える。
見つけてから出直せ。 >>858
しばらく大勢のドカタが寝泊まりするために施設は必要だろ。 >>439
>殉葬はあったけど66人全員かはわからないし
主墓は盗掘されて何も無く卑弥呼かどうかわからない<
日本列島で唯一、
径百余歩の大作冢や、殉葬奴婢百余人に適合し、
庄内や須恵器や△や甕棺などで時期も合うのが、祇園山。 >>836
>根拠なし。
ちったぁ自分で調べろよww
「クニ」は考古学用語
「(「クニ」を使うのは)「国」「神」などの字を使うと、漢字に付随する狭義の意味に
なってしまうため、テクニカル・タームとしてメタ化しして使用する目的です。「国」
「神」と表記すると、漢字のそれが定着して以降の意味合いになってしまいますが、
クニとすると各地域の首長権力者を核とする地縁的集合体、カミとすると精霊を含む
神的存在ということになります。」
「弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学でカタカナで「クニ」といい、
その「クニ」が「国」へと発展していったということになります。」 桃やカエルや骨が埋まった穴が、国家祭祀レベルの大型祭祀土坑なのだろうか、、、 魏志倭人伝と食い違いすぎて全く役に立たないな
クソ定義だ カタカナ言葉が出てきたら眉唾だとばっちゃが言っていた。 >>877
>「弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学でカタカナで「クニ」といい、
> その「クニ」が「国」へと発展していったということになります。」
根拠は? >>840
>肥後狗奴国を肥前筑後が統合して筑紫と肥国が一つの大倭になることでも
そんなことは考古学的には一切裏づけがない
こういうのを「根拠なし」って言うんだよ
ブーメランの名手過ぎるww
ブーメランの盟主と呼んでもいいww >>840
>肥後狗奴国を肥前筑後が統合して筑紫と肥国が一つの大倭になることでも
そんなことは考古学的には一切裏づけがない
こういうのを「根拠なし」って言うんだよ
ブーメランの名手過ぎるww
ブーメランの盟主と呼んでもいいww 考古学でカタカナは、空想的表現に使用された可能性が高まってきたな、、、 >>843
>水城の基礎の年代は卑弥呼の時代だった。
これが、インチキなんだよなww
文献史学でも、考古学でも、そのような見解は認められないw 今月のNHKの発表によれば、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が見つかっていないのだったな、、、 >>846
>「会稽東治之東」は、陳寿執筆時点での「地の文」としての説明だ。
証拠は?
ないよね
>会稽郡から呉郡への分割は、臨海郡や建安郡の分割の前であった筈で、
杭州湾より北が呉郡になったのは129年だ
卑弥呼の時代も陳寿の時代も
会稽は北緯30度より南
>だから、呉郡は会稽郡の南へ細長く回り込んでおり、
真っ赤なウソ
呉郡は会稽郡より北 >>860
>お
>邪馬台国と関係ないということでいいな?
崇神天皇が、魏志倭人伝に記された邪馬台国の佐治国の男弟
卑弥呼が崇神天皇の親族女性(おそらくは実の姉)で問題ない
邪馬台国そのものだよ >>864
>王都が全部吸い上げていたからだろ。
>はい、反論終わり。
つまり、語る(騙る?)べきことはない、ということだなww
現代でも、在京キー局作成の番組は全国に流されるが、
地方ローカル局作成の番組は他地域には放映されない
それと同じだよ
北部九州から周囲に波及するものが何もない >>448
>徇葬者は奴婢百余人
祇園山には朱塗りの甕棺で鏡とか豪華な副葬品の
明らかに奴隷ではないと思われる人がいる <
それは、
墳裾に先に埋葬され、墳造成時に少し削られた1号甕棺の成人女性の事であり、
墳頂の主体の直前に埋葬されたから、
墳裾の主体群が墳頂とほぼ同時期殉葬であった事の証拠になり、
鏡片や剣も付けているから、
奴婢の中の「特に卑弥呼に信頼され使えた高級奴婢」であった事になる。 >>871
>卑弥呼より前から、国家祭祀レベルの大型祭祀土坑が纏向遺跡に存在し、
そこから4世紀初めまで存続するのだから、卑弥呼の時期にも纏向遺跡が
国家祭祀の中心地であると考えるのが論理的<
ニギハヤヒが神武に屈したのは纏向、桜井市外山。
そして物部の女性が崇神を産むのも纏向、
つまり纏向遺跡は物部。 >>889
テレビが根拠かよ
まあ、あえて言えば銅鏡文化だよ。
神宝として崇める対象そのものの方が、祭器より重要だろ? >>449
自分が「南→東」などの嘘付き騙しの捏造してるという証拠を、
堂々とさらすの大和説者の
おバカぶりが失笑を買い続けること久しい >>866
>いつも一言余分で墓穴を掘るよな。
>アホ丸出し
どこが墓穴なのかは、「具体的なことは一切言えない」ww
連弧文鏡の小さいやつでは装飾が入らないものもある
籠神社の邊津鏡などでは、入ってないね
https://www.motoise.jp/motoisesite/wp-content/uploads/2018/08/treasure02.png
しかし内行花文鏡の息津鏡ではしっかり装飾が入っているよ
https://www.motoise.jp/motoisesite/wp-content/uploads/2018/08/treasure01.png
大形の内行花文鏡で、装飾が入らない鏡は平原1号墓の46センチ鏡だけだぞww
ただの同心円でごまかしているのも平原1号墓の46センチ鏡だけ
http://wi12000.starfree.jp/img.m/8ko4yo.htm
手抜き鏡であることの証拠ww >>673
>真面目な話、饒速日と物部氏の足跡は、奈良では交野に饒速日が降臨し、その近くの富美に親族の長髄彦がいて、石上にも足跡がある。
真面目な話、「忌部はん」 なんだから、痕跡があるのは当たり前! @阿波 >>868
>なんだか可哀想なくらいに妄想に取り憑かれているんだな。
「可哀想なくらいに妄想」であると判断する理由根拠を具体的に示さないとww
本当に無能だよな、この九州説の人はww
これ↓には具体的な反論がないってことでいいな?ww
同時代に同一地域に存在した、考古遺物から推定される王権と
大陸史書・魏志倭人伝の示す王権が別の物と考える理由がないし
別だとした場合に対応する王権が存在しない
前方後円墳と祭祀用供献土器の分布で、畿内の纏向を中心とする王権の
影響範囲が分かり、 そこに北部九州も入っている
そして北部九州の奴国は魏志倭人伝にも出てくる女王に属する国
奴国に影響を与える畿内以外の王権の存在など影も形もない
畿内邪馬台国を無関係と言いたがるのは九州説のご都合主義でしかない >>846
>沖縄台湾を止めて奄美大島に誤魔化しても無駄だ。
やめてないよ
呉が会稽郡から257年に分郡した東海岸地域「臨海郡」は浙江省南部で、東は奄美大島
会稽東治は福建省で東は沖縄台湾だ
>揚州市の東方は江蘇省海岸であり、
>揚州は呉國の支配下になったから東治の中心は揚子江河口付近の上海付近であり、
どこの支配下だろうが東治は北に移動しない
会稽東治が揚子江河口付近になったりしない
そこは呉郡であって、会稽ではないのだから
>その「之東」は、ほぼ九州島付近だ。
揚州市は会稽ではない
呉郡には会稽東治はない
会稽東治は福建省にあり、東にあるのは沖縄台湾だ
九州説はうそをつく
あまりに異常なうそをつく
毎日おかしなうそをつく >>874
>口で言うだけならなんでも言える。
>見つけてから出直せ。
例えば城柵ww
つ https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
根拠なしに言ってるんじゃないんだよ、畿内説はww >>894
それだけ平原の鏡が洗練されているということ。
象徴として用いるにはちょうどいい。
卑弥呼に子孫繁栄の言葉とか似合わないしな。 >>873
>この「国家祭祀レベル」って、厨二病的だけれど、何が根拠なんだよw
>ギャグか?
纏向遺跡で複数確認されている大型祭祀土坑よりも
大規模な弥生終末期の祭祀跡の遺跡・遺物を北部九州で見つけてから言ってね!ww
>>874も
「口で言うだけならなんでも言える。
見つけてから出直せ。」
って言ってるしwwwww
纏向遺跡で外来搬入土器が特に多く出土するのが、こうした大型祭祀土坑なんだよ
各地から供献土器を「持ち込むor纏向で作る」ことが行われたことが分かる
各地から祭祀に参加するために人々が集まっている以上、ローカルな祭祀ではなく
国家祭祀であるとみなすのは当然のことだ >>822
>吉備と出雲が対立関係にあって覇を争ったとする見方は見当違い
その通り。 おなじ「忌部はん」 なんだから。 @阿波 >>894
>手抜き鏡であることの証拠ww
国産技術の頂点となる平原遺跡の鏡をそういう風にしか表現できない時点で、「私は色眼鏡を使い、不公平な論評をしています」と公言しているようなもの。
畿内説を通すためならどんな嘘でもつけるようだが、それでは少しものを見る目がある人間からすればむしろ胡散臭い。
畿内説そのものが眉唾だということ。 >>881
>根拠は?
根拠も何も「クニは考古学で用いられるテクニカルターム」で、
このように定義されているということだよ 崇神天皇が4世紀前半なら卑弥呼もトヨも判明。
国宝中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の系譜に卑弥呼もトヨもいる。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
2人が住んだ場所は纏向でも九州でもない、葛城だ。 >>896
>別だとした場合に対応する王権が存在しない
海の東の別種があるだろ。
逆に、畿内が邪馬台国だと別種に対応するものがなくなってしまう。 >>899
>それだけ平原の鏡が洗練されているということ。
じゃ、どうしてそのデザインが後世に影響を残さないの?
ぶざまな失敗試作品だったからだよ
www >>900
「大型」の基準は?
「祭祀」のためだという根拠は?
全部妄想? >>892
>まあ、あえて言えば銅鏡文化だよ。
それは、>>808、>>859、>>894で否定済み
テンプレでも>>43FAQ41で否定されている 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。 >>905
>逆に、畿内が邪馬台国だと別種に対応するものがなくなってしまう。
なんで?
「なくなってしまう」
という理由は? >>910
それぜんぶ、「東阿波型土器」様式 だと、何度言えばw @阿波 >>894
>大形の内行花文鏡で、装飾が入らない鏡は平原1号墓の46センチ鏡だけだぞww
特別な仕様だということだな。
太陽の化身である女王の鏡にふさわしい。 >>899
>象徴として用いるにはちょうどいい。
個人の感想ですねww
こういうのが「根拠なし」の典型
「理由は僕がそう考えたから」ww
>卑弥呼に子孫繁栄の言葉とか似合わないしな。
内行花文鏡は銘文がないのが多いぞ
何かカン違いしてないか?
で、>>866の「墓穴」の「具体的な指摘」はできないのか?wwww >>900
>各地から祭祀に参加するために人々が集まっている以上、ローカルな祭祀ではなく
各地といっても東海ばかりw
九州も半島もなしw >>919
各地といっても「忌部はん」 ばかりw @阿波 >>907
>「大型」の基準は?
>「祭祀」のためだという根拠は?
>全部妄想?
一般的な井戸の祭祀より大きな土壙を湧水層まで掘って儀式をしてる
だから大型
儀式してるから祭祀
九州説はなんでも反対すれば良いというのは間違いだ
一般人から馬鹿に見られる >>902
>国産技術の頂点となる平原遺跡の鏡
これがそもそも間違い
鏡作りの技術としては、半肉彫りの装飾鏡の方がはるかに高度だ
例えばこういうやつ
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J35507
青銅器技術の最高峰というなら、立体構造物の銅鐸の方が上
平原1号墓を持ち上げるしかない九州説は、どうやったって無理が出るんだよ
考古学的に「径百歩の墓の候補すらない」九州説は最初から無理だし、
文献史学の上での「伊都国は女王国より以北の国」という点だけでも壊滅する >>687
殉葬跡は特殊器台のこと
人物埴輪が出現する前の大規模古墳に見られ
日本書記には人物埴輪は奴婢殉葬の代わりに用いられたとある >>905
>海の東の別種があるだろ。
そんなことは、三国志には一言も書いてないww
書いてあるのは「皆」倭種だ
つまり、倭国本土(本州、四国、九州)周辺の渡海千里で行ける範囲の島も
すべて皆倭種であって、韓人なんかはいないってことw >>916
>あるなら教えて
あなたは
「なくなってしまう」と主張してたけど
理由もなく言い張ってたって
そういうことだね? また「この投稿は出来ません」とか書かれて抹殺消去されたので、
書き直したいが、
念のため、またテスト投稿 ず箸墓古墳建造開始時期が布留0式古相。
これを卑弥呼の死亡時期である248年におくこと自体に無理があると思われます。
北陸の二口かみあれた遺跡の木片の年輪年代が258年、時期は庄内3式。
ならば庄内3式の次の布留0式古相が258年を遡ることなどありえません。
また魏志の記述は卑弥呼が死んですぐに径百余歩の塚を作ったように読めますが、
高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年はかかる墓を作り始めることはあり得ないと思われます。
冢は墳と違い、「棺を容るに足る」ですから、
径百余歩の墳がまずあって、卑弥呼が死んでから冢=埋葬部分の工事が行われたのではないでしょうか。
ならば箸墓古墳の墳丘は卑弥呼死亡時期の248年には完成しており、
箸墓古墳が卑弥呼墓であるなら、その墳の建造開始時期は3世紀前半の庄内2式ごろだと推定されます。
これでは実際の建造開始時期の布留0式古相とは大きく時代が違ってきます。
そして何より径百余歩(約150m)が箸墓古墳の円墳部分にしか合致してないこと。
これは円墳先造説もすでに否定されていますし、魏志が前方後円墳の円墳部分のみを記したなど、無理がありすぎると思われます。
また卑弥呼が箸墓古墳に埋葬されてるとして、
特殊器台をはじめ瀬戸内、とくに吉備との関係を説明せねばなりません。
卑弥呼と瀬戸内に何か強い関係があるのか、これを説明することなど
とうてい無理でしょう。
そして何よりも奴婢埋葬痕跡が全くない。
奴婢埋葬にかかわる文献資料もないし神社伝承などもない。
以上、
箸墓=卑弥呼墓説は時代が合わない、大きさも合わない、
瀬戸内との関係も説明できない、奴婢埋葬痕跡がない、
これでは卑弥呼の墓などととてもじゃないが言えないのではないでしょうか。 >>919
>各地といっても東海ばかりw
九州説がまたウソついた
東海は半分以下と自分で書いたくせ
また自滅してる >>907
ちったぁ自分で調べろよww
こんなんだから「九州説は情報リテラシ−に欠ける」っていわれてぐうの音も出ないんだよw
>「大型」の基準は?
土坑に大小あって、その打ちの最大規模のものが大型でなかったら、どれが大型なんだ?ww
北部九州に纏向遺跡で複数存在する大型祭祀土坑より、大きいものが見つかったら
また「大型の定義」を考えてみてくれww
>「祭祀」のためだという根拠は?
「祭祀以外の目的」で使用跡のない土器を一斉にまとめて破砕する理由があったら
論文が書けると思うよ?ww
>全部妄想?
>>907の書き込みの内容がね⇒「全部妄想」ww >>922
>鏡作りの技術としては、半肉彫りの装飾鏡の方がはるかに高度だ
引用先の鏡は4世紀だよ。
しかも見るからに三角縁と同じ技術だよね。
三角縁そのものが卑弥呼よりかなり後の鏡なんだろう。
墓穴を掘った?
>青銅器技術の最高峰というなら、立体構造物の銅鐸の方が上
畿内のその技術は失われてしまったことをどう説明するんだい?
銅鐸祭祀も周囲に影響を与えるどころか、消えてしまったよw
九州北部の銅鏡文化は未だに皇室にも津々浦々の神社にも継承されているのに。 では石野さんの勝山説、
寺澤さんのホケノ山説、
これが魏志に書かれた卑弥呼の墓に合うのか。
時代だけは合うかもしれないが、それ以外、
例えば大きさも、その様相も全く合わない。
繰り返すが、百余人の奴婢埋葬痕跡が皆無。
これはそもそも纏向古墳群が王族の墓ではないことを意味する。
根本的に一度ガラガラポンして考えないといけない、
と私は思うわけです。 >>821
漢書では去長安六千八百二十里や西北至都護治所二千二百五十八里と
端数まで書いてあって精度はともかく実際計測した数値と見れる
魏志倭人伝に書いてある距離はだいたい100里といった表現であり
計測が行われていたならこう書く理由がない >>912
>根拠なしか。
いや、現象に対する概念化のための「テクニカルターム」の根拠って、
何が言いたいんだ?
「テクニカルターム」って言葉の意味分かるか?
例えばベクトル量である「速度」の『根拠』って何だ?ww >>931
>北陸の二口かみあれた遺跡の木片の年輪年代が258年、時期は庄内3式。
証拠は? >>941
おまえに以前、土器の編年というサイトの森井・森岡編年をみせたはずだが、知らないふりも情けないね。 >>915
>特別な仕様だということだな。
王のための特別な鏡として「伝統を無視して手抜きをした簡略なもの」を
作りましたって、正気か?
>太陽の化身である女王の鏡にふさわしい。
個人の感想ですねww
こういうのが「根拠なし」の典型
「理由は僕がそう考えたから」ww >>931
>冢は墳と違い、「棺を容るに足る」ですから、
>径百余歩の墳がまずあって、卑弥呼が死んでから冢=埋葬部分の工事が行われたのではないでしょうか。
秦始皇帝陵は冢だが、なにか? >>942
どうするんだろうねw
結局、卑弥呼の墓をだれ一人まともに提示できてないことになるね、
高天原(御所市高天)だという私以外は。 >>931
>これは円墳先造説もすでに否定されていますし、
いつ、誰に? 卑弥呼の墓なんてどこにあっても邪馬台国は畿内と結論されるに十分根拠がある >>948
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>931
>卑弥呼と瀬戸内に何か強い関係があるのか、これを説明することなど
>とうてい無理でしょう。
なんで無理なの?
理由は?
あなた、思い込み強すぎ >>934
>三角縁そのものが卑弥呼よりかなり後の鏡なんだろう。
三角縁神獣鏡(最初期のものは斜縁神獣鏡)が、卑弥呼の鏡だよ?
そして、その時点で畿内の唐子鍵周辺には十分な技術があったから、魏鏡をもとに
半肉彫りのコピー鏡が大量に作れる訳だ
>墓穴を掘った?
その三角縁神獣鏡を、畿内から押し頂いて大切に首長墓に副葬しているのが
北部九州なんだけど?ww
墓穴は九州説だろww ↑きちんと「墓穴」の根拠が書いてあるよww
北部九州伊都国に女王がいて、その特別な鏡が手抜きの46センチ鏡なら、
その特別な鏡の系譜がその後「九州島の中ですらまったく残っていない」のはどうして?ww >>950
出来るのなら君が説明すればいい。どうぞ。 >>940
>いや、現象に対する概念化のための「テクニカルターム」の根拠って、
実態にそぐわない妄想にカタカナ用語を捏造したようにしか見えないw >>935
>これはそもそも纏向古墳群が王族の墓ではないことを意味する。
列島最大の墳丘墓が王墓ではないと考える理由がないw 畿内説は長年をかけて、歴史捏造計画に基づいて構築されてきた「妄想」です。
いったん全てを捨てて編年基準から作り直さなければ、邪馬台国なんて発見できませんよ。 >>950
畿内には古代から集落跡があった事はそこかしこに散見される
3世紀の遺構で十分証明されるし
卑弥呼の時代に前方後円墳や三角縁神獣鏡などを有する
大きな権勢が存在していた事は現在でも明確な形で確認ができる >>934
>畿内のその技術は失われてしまったことをどう説明するんだい?
失われてないよ?
銅鐸は作らなくなったけれど、それは祭祀が変わったから
半肉彫りの高度な三角縁神獣鏡を大量生産してるだろ? 卑弥呼と瀬戸内の関係なんて、ヒミコが誰なのか言ってないのに説明なんて無理。
俺のようにヒメ(踏鞴五十鈴)后だと言って初めて説明も出来よう物を。
もちろんヒメ(踏鞴五十鈴)后と瀬戸内には関係はない。
瀬戸内と強い関連のある一族は物部だ。
纏向は物部だ。 >>957
相変わらず
トンデモ説は理由をひとことも言わない
ばかだからだよ >>456
>そして祇園山はおかしいので 主墓の正面より手前の墓は
かなりあとでここが共同墓地として利用されるように なってからできたものだろうってことね<
祇園山の墳頂の主体は、巨大な箱式石棺であり、盗掘を受けて何もない。
墳裾の62個の主体は、3個の甕棺以外にも、
箱式石棺や竪穴式石室などが幾つもあり、複数埋葬も幾つも見られ、
いずれも、墳頂に側面を正対させて、
(後代の共同墓地であれば避けられない)重複や攪乱もほとんどなく、
ほぼ同時代に順次式に、殉葬として埋葬されたとして、という事が判る。
また共同墓地なら、100m位離れた場所に、
「祇園山古墳群」と呼ばれる共同墓地がある。 >>953
>その特別な鏡の系譜がその後「九州島の中ですらまったく残っていない」のはどうして?ww
本州に継承されたからだろw >>953
>三角縁神獣鏡(最初期のものは斜縁神獣鏡)が、卑弥呼の鏡だよ?
根拠なく言い張るだけ >>956
>列島最大の墳丘墓が王墓ではないと考える理由がないw
崇神の前王で磯城の王、イカガノシコオ。
近似こふんである五塚原はイカガノシコオの妻・真木姫の父で山代国造の祖である長溝。
交野の雷塚はイカガノシコオと妻・真木姫の子で交野連であるタベノ宿禰。 >>952
>カッツが他人の話を聞いてないだけ
逆だと思うよ?
左側スロープ君のいうことをまともに取り合う人が誰もいないだけ
だって、ただの尾根を径150メートルの塚だって言うんだものww
https://i.imgur.com/hgPuwjG.jpg
これで150メートルだけど、どこにも塚なんてないww
ただの東に向かって下る尾根があるだけw >>960
>卑弥呼と瀬戸内の関係なんて、ヒミコが誰なのか言ってないのに説明なんて無理。
何を言ってるのかわからない
普通なら説明できるだろ 円墳先造説をどこの誰が事実だと言ってるのかな、>>1君。
アホの>>1 アフォのぉ>>1 >>458
>その反論は簡単だ
前方部は墓ではなく後円部が墓だった
そして径百余歩でほぼ一致 <
その反論は簡単だ。
「径」は不定形の長径表現であり、
前方後円墳の箸墓では、長径は280m以上であり、
百余歩にならないから、×。
前方部は墓ではなく後円部が墓だった
そして径百余歩でほぼ一致 >>966
>崇神の前王で磯城の王、イカガノシコオ。
物部氏じゃん。
つまり交野も磯城も物部でいいな。 >>956
>列島最大の墳丘墓が王墓ではないと考える理由がないw
神は山稜に宿るもの。 平地のお墓は配下の豪族墓。 以上御終い。 @阿波 >>963
>(後代の共同墓地であれば避けられない)重複や攪乱もほとんどなく、
それ、思考がへん
箱式石棺や石蓋土壙墓など、わざわざかなり努力して石を撤去しなきゃ重複な撹乱など出来ない
つまり後世の土葬のイメージでイイカゲンなこと言ってるだけ >>958
>卑弥呼の時代に前方後円墳や三角縁神獣鏡などを有する
前方後円墳や三角縁神獣鏡は、倭国(阿波)の専売特許 だと、何度言えばw @阿波 >>976
何度言っても
前方後円墳は畿内
三角縁神獣鏡は中国の専売特許 >>973
>つまり交野も磯城も物部でいいな。
その通りだよ。 >>964
>本州に継承されたからだろw
本州も継承してませんが? >>965
>根拠なく言い張るだけ
なに?
あれだけ説明してきたのに聞いてないわけ? >>978
>前方後円墳は畿内
畿内に有る前方後円墳は、「忌部はん」 のお墓! @阿波 発狂している時点で九州説が負けを自覚しているのは
誰の目にも明らか >>971
>「径」は不定形の長径表現であり、
という根拠は?
ないよね? >>984
大王はん一族のお墓は山の上。 平地のお墓は配下のお墓! @阿波 >>972
>じゃ説明しろ。
説明は簡単
統一倭国女王の墓なら、倭国第二の大国から表敬弔問の跡があるのが自然だ
箸墓はこの条件を満たす >>984
大王はん一族のお墓は山の上。 平地のお墓は配下のお墓! @阿波
これ、常識。 現在でも同じ。 @阿波 >>987
卑弥呼と瀬戸内の関係を聞いてるのに何を言ってるのだか。 >>988
じゃあ畿内は大王はんが支配していたという事だな >>987
第二の大国?
尾張か?
そのほかの地域の土器は地理的に考えて尾張から分け与えられただけだからな。 >>989
>卑弥呼と瀬戸内の関係を聞いてるのに何を言ってるのだか。
卑弥呼と瀬戸内の関係を書いてるのに何を言ってるの? >>991
畿内は大王はんに支配されていたという事。 @阿波 >>993
>物部氏が支配していたんだよ。
だから、「忌部はん」 が支配していたんだよ。 @阿波 >>994
瀬戸内が倭国第二の大国という意味か?
なに言ってるのか分からないが、どうせおまえは間違えてるのでどうでもいい。 >>990
魏志の記述通り?
奴婢がなんで土蜘蛛なんや ほとんど家の話なのかな?
歌舞伎や芝居が好きで・・・家にあった物(刀〜)なども、
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