邪馬台国畿内説 Part519
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571293294/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 >>968
>方格規矩鏡じゃなくて画文帯神獣鏡だったわ
景初三年と記銘された三角縁神獣鏡に画文帯神獣鏡
さあ九州説はどうする<
△も画文帯神獣鏡も、揚子江流域から呉付近の鏡だから、明帝は下賜鏡に選択しないし、
景初三年鏡は、明帝の詔書の景初二年12月の後だから、もう梱包が終わってしまっており、
だから、×。 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) >>973
>>画紋帯神獣鏡出土数
華北:江南=6:136
呉の工人が作ったんですね。<
>魏の工人が作ったかも知れないよ
景初三年と魏の年号が入っているからな <
明帝の詔書の後だから、×。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) >>974
>現物が出ているので逆説的ではあるけれど
やはり卑弥呼が魏に使いを出したのは景初三年 <
魏志版本、底本写本、写本と、通典の、全てが景初二年だから×。 ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) >>984
>畿内は存在しているから存在してないという九州説が嘘つき騙し<
3世紀の列島には天子も皇帝も天皇もいなかったから、
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であったので、
大和説は、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>986
>>卑弥呼の直属の部下も、東征軍の別動隊として… <
>卑弥呼の直属の部下が東征したとして、
その時期に彼らがどういうわけで前方後円型の墳丘墓をつくったのか?
北部九州では3世紀前半にそんな形の墳墓はみあたらないし。<
鏡片を与えたのは、卑弥呼か壹與であり、その鏡片は播磨と阿波から出土しており、
播磨や阿波は東征軍の別動隊であって、
また大和には行っていないから、大和に前方後円墳を造れない。
大和に行ったのは、おそらく、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などの前方後円墳の王の部下であり、
彼らが大和に、石塚などの前方後円墳に葬られた、という事になる。 (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 >>992
>うん?九州説は三角縁神獣鏡を魏鏡の形式じゃない魏鏡の形式じゃないとずっと言ってきたんじゃなかった?<
大和説者は、「鉗文」とは「形式的な文」と訳しており、
それは「記銘文」である事になり、
「三角縁神獣」のようなもの画像の事ではない事になる。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 >>993
>景初三年の画文帯神獣鏡も畿内で出土 <
またこの大和説者も嘘つき騙しをしている。
大阪府和泉市上代町 黄金塚は、大和ではない。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
>>996
>さらに魏志倭人伝に魏の遣使が倭に来たと書いてある年号の
正始元年銘三角縁神獣鏡も畿内で出てるんだよなあ<
卑弥呼への銅鏡百枚の梱包は、既に景初二年12月に終わっており、
正始元年の使節は 、亡き明帝の卑弥呼への詔書や金印や大量の下賜品の、
「拜假倭王、并齎詔賜金・・・」の実行であるから、
正始元年銘三角縁神獣鏡など関係がないし、
やはり、「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、大和から出土していない。 >>998
>景初三年三角縁神獣鏡
景初三年画文帯神獣鏡
正始元年三角縁神獣鏡が出土
さすがにこれは魏と国交を結んでいた邪馬台国が畿内にあった証拠だろう<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
いずれも「陳是作」鏡であり、
呉系の神獣鏡であり、寸法も22〜23cmであり、同范鏡もあるから、
渡来して来た呉系楽浪鏡師らの一人が造った鏡あだろう。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし だから聞いているでしょ
王母〜・・・、
本当は、どこの国の出身なんだと思う?
河伯、河童(キュウリの葉)?も、
その家の写真なんだけど 遥か彼方より来訪、
来たようなことを言っている人もいたり
大陸のほう? 『河伯』河童?コトバンクによると
>中国の神話にみえる北方系の水神。 数年前のレス(書き込み)になるんだけど、
さいきば、さいきば、と言っている人がいたり
さかきばら事件のことでしょ? なぜなのだろうか、、、
邪馬台国畿内説が、破綻したのは。。 何の話なのか知らないけど、ホンモノ?
だと言っているんだよw
傾いた松、寒いな〜・・・、
そういう名前の家 >>89
>なぜなのだろうか、、、
邪馬台国畿内説が、破綻したのは。。<
「南→東」などの、史料事実や史料実態に対する否定や曲解の嘘つき騙しをして、
「畿内」や「邪馬台国」などのような存在もしなかった文言を駆使して、
国民や世界の人々を、皇国史観の邪教で騙そう、としたから。 当時住んでいた家にあった本や書なども、
誰かにあげちゃったのかな〜、凄い刀も飾ってあったと言っているし
畳、床下の土なども掘り起こされていたとかw
刀なども無くなっていた? >>89
ザラコク氏の意見も正しいが、邪馬台国畿内説が、破綻した理由は、絶対年代という物事を決定することを、頭の悪い者達だけで実行してしまったので、
頭の良い者達に笑われ、直ぐに、日本の高校生に頭の悪い者達の嘘が曝かれ、邪馬台国畿内説を宣伝していた者達の人間性のレベルが低いことも、日本人の常識になってしまったことだったね。 バンビシャスは、何度負けても、活発化する可能性があるが、
邪馬台国畿内説は、卑劣な嘘をついてしまったので、
もう、破綻から、立ち直れないのだな。 >>96
巻向に卑弥呼の城があった、という嘘や、巻向の古墳のどれかが卑弥呼の墓だ、という嘘が、全て、絶対年代の嘘から発展した嘘だと曝かれ、、、
もう、このレベルの低いスレッドでどのような言い訳をしても、邪馬台国畿内説は、破綻から立ち直れないのだな。 軍司、何なのか知らないけど川俣町〜、
それも家の話だしな、冤罪事件? さかきばら事件
亀がいて・・・という話でしょ、
家は神戸の生まれでも、出身でもないし 老婆談・・・、もれ(仮)も、生まれていない頃の話だからw
何なんだろう 畿内説が圧倒的勝勢で、九州説は手も足も出ないから
九州説はこうやって醜態を晒しつつ
荒らすしかないんだよね
みっともない 天津国
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
天津神(天皇家の祖先)が治める天津国すなわち倭国は対馬海峡にあり、王都は後漢書では倭奴国、記紀では筑紫の日向、すなわち博多湾沿岸とされている。
倭国女王であった卑弥呼の王城も筑紫に求める他ない。 卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。 倭王が倭王の印を使うのだから問題ない。
そしてそれを魏も承認して、親魏倭王印に更新した >>111
漢委奴国王の印って倭王の印じゃないし
150年近くも朝貢してなきゃ
とっくに無効の遺物だよ >>107
>畿内説が圧倒的勝勢で、
病気w
学者でもそんな奴おらんぞw 畿内説は世間知らずの自称学者が胡散臭い妄想ばかり語るから余計に信用無くしたんだよなw
尾ひれ背びれ付けすぎてハリセンボンになっとるぞw >>113-114
ほーらね
ひとことも反論できなくて
腹いせに悪口だけ言ってるだろ?
畿内説が圧倒的勝勢だってことの
証拠提出ありがとうね
>>109
>そしてその印は福岡県にあった。
>漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その印鑑は偽造。 だから言っているだろう、
成りすまし、騙り?創価(何宗、日何やら)か何かなんだろうと 『西王母 北辰』
『北辰』〜創価か何かなんだろうと >>107
大和説は、
「畿内」なんて存在もしなかった皇国史観宗教文言を使い、
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
九州説が圧倒的勝勢で、大和説は手も足も出ないから
大和説はこうやって醜態を晒しつつ
荒らすしかないんだよね
みっともない ホンモノの、王母〜龍宮〜寒いな〜・・・は創価ではないし 「荒らし」という
ぶざまで無力な抵抗しかできない九州説に
未来があるわけないが
実はすでに
現在もないのだった 『北辰』
天子〜とも書いてあるでしょ?
成りすまし、騙り、創価か何かなんだろうと、日何やら? >>115
ほーらね。大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて
腹いせに悪口だけ言ってるだろ?
九州説が圧倒的勝勢だってことの
国民や人類に対して、証拠提出ありがとうね 最近のテンノウ?というのがいるでしょ、
なぜ知らないと言っているんだと思う?老婆も知らないみたいなことを言っていたりw 西王母?祭祀(斎祀)関係、何かの家の人?
王母 龍宮〜寒いな・・・、
たしか伊達郡のほうに住んでいたと言っているし >>119
>大和説は、
>「畿内」なんて存在もしなかった皇国史観宗教文言を使い、
こうやって九州説は
・理由を言わず教条主義で決めつける
なんて愚かなことを毎日飽きもせずにやってる
その荒らし行為は
九州説が醜態を晒す
という自虐効果しかないよ 織姫?蚕を飼い、機織りをしている家があって、
嫁だと言っていたり >>124
>ほーらね。大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて
ウソをついても
テンプレに反論が載ってるから無駄
九州説がウソつきだと自分で宣伝してることになる 家に謎の刀が飾ってあったとかw
祭祀(斎祀)関係? >>116
>その印鑑は偽造。<
ほら、大和説者という人種は、
「南」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や、
「大和日本国は倭国の別種の旧小国」や「冢≠前方後円墳」や、
「一寸千里の法」や、「景初二年」や「余」や「略載」や「槨」や、
「道里」や「尚方作」などの、
都合の悪い史料事実は、何でも「偽造だ」と否定抹殺する・・・・人種であり、
いずれは、自分らの意見が通らないと判ると、
オームや京都アニメ犯人や朝日記者銃殺キョクウなどのような、
殺人や戦争を起こす事になる・・・・だ。 >>121
「南→東」などの「史料事実や史料実態の否定曲解」という嘘吐き騙しや、
「口先ででの荒らし」などと言った、
ぶざまで無力な抵抗しかできない大和説に
未来があるわけないが
実はすでに
現在もないのだった >>127
こうやって「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
・理由を言わず教条主義で決めつける
なんて愚かなことを毎日飽きもせずにやってる
その荒らし行為は
大和説が醜態を晒す
という自虐効果しかないよ 北辰
創価(日何やら?)が信仰しているみたいな事が書いてあるでしょ、
悪く言うと、成り済ましなんだろう、誰かから習った教わった・・・パクリとか >>133
zarakokuオウムが実にぶざまだよ 論破され尽くした九州説は
とうとう反論することを諦めて
デマと中傷ばかりに専念しているね 詳しいことはわからないけど、創価関係?
部落〜そういうところの話をしている人がいたり >>129
>>>ほーらね。大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて・・・<
>ウソをついても
テンプレに反論が載ってるから無駄<
テンプレ自体が、始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをやっており、
テンプレがウソつきだ、と自分で宣伝してることになる >>137
「南≠東」などの嘘吐き騙しがバレて
論破され尽くした大和説は
とうとう反論することを諦めて
デマと中傷ばかりに専念しているね 王母〜龍宮・・・・寒いな〜・・・、
は漢人だろうと言っている人がいたり、中華のことでしょ 千葉県の漁師の北辰信仰なんて聞いたこともないんだけど、
実際は他の家の話だろう
王母〜龍宮〜寒いな・・・の家の話? 創価なのか何なのか知らないけど、
ストーカー、嫌がらせのようなことをしていると言ってる人がいたり
冤罪事件などの話なども、そうだろう、
なぜか家の話だし
川俣町の話、家に刀が飾ってあって、
亀がいるよ・・・龍宮? 川俣町(軍司?不明)、
家が何か事件などを起こしたというわけでもないし
亀がいるよ・・・・・・・・・さかきばら事件も? 家の成り済まし、騙りがいるんだろう、
事件を起こしたかのように?報道、印象操作 なぜ、そうなるのか?
お前の家よりもw家のほうが上だからなんだろう >>139
>テンプレ自体が、始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをやっており、
教条主義ばっかり振りかざしても
現実にテンプレに反論が載ってるんだから
>ほーらね。大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて・・・<
なんてウソであることが誰にでもわかる
つまりザラコクは
自分たち九州説がウソつきだと
自分で宣伝している
九州説の自滅 中国の人(漢人)というと、
日本(民族?)の部落よりも上だしな、確実に上 創価なのか、何なのか知らないけど、
ニセの〜〜〜を祀っているというのも有名みたいだしな なんとなく創価だとわかる、日何やらとか、部落なのかな?
日何やらの信者なども 弥生、古墳時代〜何でも良い
当時?中国にいる、住んでいた人たちのほうが上だろうw
日本の中国地方のことではない 確かなことは、57年107年238年には三つの倭国が有り恐らく記紀には帥升卑弥呼が都合上隠され、また突如瓢箪墓が造り出されたこと。 これも以前から書いていることなんだけど、
なぜ倭人が天皇になったりするんだよ、皇族、皇帝?
当時の日本では、
そのような言葉(専門用語など)は、
使用していないと言っている人がいるでしょ 天帝、帝?天皇、皇女とか、
ほとんど使用していない・・・と言っている人達がいるでしょ
当時の日本、倭?の話
後付け? 家の老婆談
ほとんど合致しているんだけど、
王母〜龍宮〜寒いな〜・・・が、何かの本体なのかな 家の近所の話なのかな?
西王母〜、傾いた松・・・・、
桜川(川崎区)、竹に雀(伊達郡、伊達氏?)
吉野何やら、 >>147
>>テンプレ自体が、始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをやっており、<
>教条主義ばっかり振りかざしても 現実にテンプレに反論が載ってるんだから <
逃げて遠吠えしただけで、直接的反論は0だった。
>>ほーらね。大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて・・・<
>なんてウソであることが誰にでもわかる <
なんて、史料事実そのものである事など、誰にでもわかる。
>つまりザラコクは 自分たち九州説がウソつきだと 自分で宣伝している
九州説の自滅<
つまりこの男(類スレ主?、スレ主?)は
自分たち大和説がウソつきだと 自分で宣伝している
大和説の自爆自滅
しかし、京都アニメ放火事件は、怖い怖い。 あるでしょ?『川崎区 川中島』
蚕を飼い機織りをしていた家の話、
伊達郡〜、河童(河伯?)、あの写真とか 『とく得BOX 邦楽名曲百撰』
この話なんだけど、何なんだろう、偶然にしては・・・? 本当に、川崎の辺りに引っ越ししてきたのかな、
『ザ・モモタロウ』のような話? >>159
>逃げて遠吠えしただけで、直接的反論は0だった。
いくらウソをついても
実際にテンプレに反論が載ってるんだから
>ほーらね。大和説者は、
>「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
>「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて・・・
などとウソついてることが誰にでもわかる
九州説はウソばかりつく
それが第三者にわかるのだから
九州説の信用は当然ゼロだ まさか(すべて)創価というわけでもなさそうだしな、。、。、。 >>164
テンプレは「南≠東」に関しては、
逃げて遠吠えしただけで、直接的反論は0だった。
ほーらね。だから大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」や「日本國は倭國の別種の旧小国」や、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などにひとことも反論できなくて・・・
ウソついてることが誰にでもわかる 音楽、芸能・・・?
バーニング(不明)というわけでもなさそうだしな とあるスレによると
びー、ばー、吉本、じゃに・・・何やらとか、
どういう話なんだろう テンプレを読めば、畿内説がいかに口先三寸の出まかせであるかがよくわかる。 『ワンピース 粉雪』
軍司(川俣)wなども同じような、
歌舞伎や芝居〜とか NHKによれば、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無いのだったな。。。 ガンダム・・・エヴァンゲリヲン、なぜか同じような、
本当は日本の話とか? 嘘と悪口と荒らししか出来なくなった九州説の惨めな姿を見れば
邪馬台国論争に敗れて落ちぶれてこうなったのが明らか
かわいそうだね それにしても・・・軍司(川俣)事件?
加藤〜。二本松〜。吉野〜。
同じでしょ、その音楽集と きみの声 聞けば〜という曲もあるし、小椋佳
鶴の声? ほんとーに老婆の話なんだよな・・・・、
家と結婚する前w何かの家の人みたいだよと聞かされていたとか
まさか、本当に・・・・・・・・・・・・・・・うらしまんの家? なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。。。 九州説は嘘だと行ってみたり松傾しかやる事のない畿内説哀れ 奈良人に聞いたら軒並み九州説だったしw
畿内説なんて本当に居るのか? >>183
いや、九州説はこれだけ毎日ずっと嘘ついてて
嘘つくことに抵抗も罪悪感もないことが明らかだよな
そうなるとやっぱり
これだけ嘘つくことに日頃から慣れてるってことは
九州説そのものが嘘なんじゃないかって疑いが湧かないわけはない
だろ? >>185
マジだよ。
大阪人の場合は出雲や鳥取に流れ着いた半島人が畿内へと繁殖したと言ってたな。
邪馬台国には興味無いようで。 >>188
仕事関係者の証言だから。
畿内で畿内説に会った事が無いという事実w 波を遊ばせ きしべ ささやく〜?
河伯、河童という意味でしょ、
それともジョジョに出てくるキャラ?
小椋佳の曲の話 >>189
だから、それが事実で
おまえの捏造じゃないって証拠は? なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。。。 >>167
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説は
毎日ウソをつく・・・・。 NHKによれば、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無いのだったな。。。 老婆談、なぜか・・・伊達郡?
その辺りの話をしているんだけど 九州説は万事ただ言い張るだけ
証拠は絶対に出さない
それが九州説 そもそも5chで熱弁して宣伝してるつもりになってるのが痛いなw >>199
畿内説に対して反論ができず
ただ悪口しか言えないのは
九州説が敗退した証拠だね 452 日本@名無史さん 2019/10/21(月) 08:19:30.07 ID:
>>448
宗像シンポジウム:
>世界遺産効果で注目された沖ノ島、そして沖ノ島を通る交易ルート・沖ノ島
>祭祀に大きくかかわる「海北道中」ですが、祭祀が盛んになったのは4世紀後半からです。
祭祀が盛んになるのは纒向が消滅した4世紀後半からw 小椋佳の曲
例えば遥か 南の島の
ムーの話でしょ、ドラクエの曲?夢を信じて >>109
邪馬台国博多説の場合、その卑弥呼の邪馬台国に攻め込んだ狗奴国はどこにあったのよ。
博多の南なんだから、伊都ということ?
狗奴国伊都説は、お笑いだよね。 >>203
こんなふうに何も脈絡なく結論だけ呟く
つまり九州説はオツム変でしたとw >>205
>博多の南なんだから、伊都
お笑いだよなw >>207
普通の知能があれば反論できるはずなのに
ヘラヘラ笑ってるだけということは
九州説はチエオクばかりということに・・・ 例えば前スレ481
九州説は平気でこんなウソをつき
# >奥山は「畿内は絶対的権力を持った最大勢力だった」とか言ってたな。
#
# いつ、どこで?
# また九州説は捏造かな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571293294/481
突っ込まれると返事もできない
そして逃げる
こんなことを繰り返してるから九州説の信用がゼロになる 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、
卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど
半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来の
ものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが
北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していない
ことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
"纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。"
纒向説は「気のせい」で確定してるしw 広瀬座というところも、
実際に保存されているし、どういうことなんだろう ホオズキのようなものがある家・・・・・・。
でも上の名前の読み方が〜と言っていたような、
変えた後の話なのかな・・・・・・・・・・・、
>昭和45年、福島市松川町に
その頃には、もう住んでいなかったから、わからない。 >>195
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、
そして、九州には、費用も人員も、巻向の1/7程も、集中的に調査した地区は無いのだったな、、 韓国人:>>1〜のテンプレ
日本人:纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
>>1はアリランニュースの職員かな?w
WTOから韓国に対して是正勧告が出てるのに勝訴したとか報じてたなw >>210
>"纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。"
トンデモ関川が言ってるんだから
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡ってことだよ >>214
なんか証拠でもあるのか?
それとも、いつもどおり九州説のデマか? >>178
>嘘と悪口と荒らししか出来なくなった九州説の惨めな姿を見れば
邪馬台国論争に敗れて落ちぶれてこうなったのが明らか
かわいそうだね<
「邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき文言を使い、
「南→東」などの史料事実の否定曲解や、
嘘と悪口と荒らししか出来なくなった大和説の惨めな姿を見れば
卑弥呼論争に敗れて落ちぶれてこうなったのが明らか
かわいそうだね >>217
>「邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき文言を使い、
まいど理由に言わず教条主義で決めつける九州説
それはへんな政治思想だね
学問じゃない >>213
纒向は、莫大な人員数と税金を投入し、200回程の調査を実行したという真実と、
近畿には、邪馬台国であることの証拠が発見されていない、というNHKの発表を組み合わせると、
「纒向は、莫大な人員数と税金を投入し、200回程の調査を実行したが、NHKによれば、纒向からは邪馬台国であることの証拠が発見されていない。」
という文章は、真実なのだな。。。 >>215
橿考の見解にまで難癖つける気か?w
何様のつもりだ? >>219
200回も調査したことが、却って、邪馬台国畿内説を破綻させた可能性が高いな。。。 >>222
熊本城の地下は、むやみに、掘り下げることはできないので、卑弥呼の死体や城は永遠に安らかなのだね。。。 キナは1億円当たるクジを当たらないからといって2億円分も買ってしまったみたいだw >>210
>纒向説は「気のせい」で確定してるしw
理由は?
それとも、九州説の世界では物事が理由もなく確定するの?
異常だなあ >>222
200回程もの発掘調査の成果は、「纏向は邪馬台国と呼ばれた都では無さそうだ」という予測が強固になったことなのだね。。。 纒向は、莫大な人員数と税金を投入し、200回程の調査を実行したが、NHKによれば、纒向からは邪馬台国であることの証拠が発見されていない。 >>228
>橿考に電話して聞いてみれば?w
何を聞けと? >>230
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
九州説は嘘つき つまり、纒向は、莫大な人員数と税金を投入し、200回程の調査を実行したが、NHKによれば、纒向からは邪馬台国であることの証拠が発見されていないのだね。。。。
232日本@名無史さん2019/10/21(月) 10:42:03.29
>>230
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」 >>233
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>222
200回程もの発掘調査の成果は、「纏向は邪馬台国と呼ばれた都では無さそうだ」という予測が強固になったことなのだね。。。 >>236
おまえの場合、無様ですと
答えが来るな >>220
>橿考の見解にまで難癖つける気か?w
橿考の見解?
どれが?
橿考がなんか見解を発表したって証拠は? >>235
纏向遺蹟は発掘調査の回数が他の地域よりも多いので、邪馬台国纏向説は「具体的な証拠が発見されていない」という判定が、他の
邪馬台国位置説に比べて重大なダメージになるのだったな。。。 >>238
つ>>210
ハングルへの変換は自分でやってねw >>234
頭が普通の者が、その番組を視聴すれば、魏志倭人伝時代の他の九州の城にも、宮室、楼観、城柵が揃っていたという予測が、強固になるのだったな。。。 >>220
>橿考の見解にまで難癖つける気か?w
>何様のつもりだ?
九州説がまた何か捏造そてるようだな
w
w
w 奥山氏が、論破されて興奮している時の癖を、丸出しにしてしまったな。。。
243日本@名無史さん2019/10/21(月) 10:53:41.47
>>220
>橿考の見解にまで難癖つける気か?w
>何様のつもりだ?
九州説がまた何か捏造そてるようだな
w
w
w >>245
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、どのような物事で論破されてしまったのかは、アンカーを辿れば良いな。。。 >>233
>まだ結論が出されていないのです…
纏向に宮室だけがあって楼観や城柵はなさそうだということであるから、大和説の可能性が極めて低くなったわけで、2大候補地の一翼がへたれたということ。
だから、あとは九州説の一人舞台なのよ。
もう決まったも同然とNHKがほのめかしているということになるな。 畿内説が日本語を読めない事を証明するレスが頻発してる良スレだなw
そういや韓国人は漢字を捨てた民族だったなw
グーグル翻訳も規制されてるらしいw >>247
>纏向に宮室だけがあって楼観や城柵はなさそうだということであるから
そんな情報は無いよなあ >>233
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>240
>つ>>210
>
>ハングルへの変換は自分でやってねw
どこが橿考の見解だ
またニセ情報か w
九州説はほんとにイカサマばっかりだな >>247
だいたいさあ、纒向遺跡は弥生遺跡に見えないから。
たまたま邪馬台国と同時代に存在した地方自治体の一つだよ。 >>248
根拠のない中傷しかできない九州説は
もう終わりだね 邪馬台国関連で「公式」やら「確定」やらが存在すると思ってる時点でアホ。
頭の悪い奥山だと「確定」するのは確かだが。 纒向の古墳は、魏志倭人伝が終わった後に出現したのだったな。。。 >>252
>だいたいさあ、纒向遺跡は弥生遺跡に見えないから。
>たまたま邪馬台国と同時代に存在した地方自治体の一つだよ。
一行目と二行目の間に脈絡がぜんぜん無い件について >>220
>橿考の見解にまで難癖つける気か?w
>何様のつもりだ?
また九州論者がガセネタ流してたのか
悪質だな 畿内説は古墳つくる際の土木事務所をまるで王宮のように思ってるんだなw
さすが韓国人w >>254
また九州説が理由のない結論を言い張ってるな
頭が悪いのだろう >>255
魏志倭人伝には、前方後円墳のことが一切記録されていないのだったな。。。 まあ、なにせ、「倭は東南大海の中に在り」だから、倭が北部九州を指していることは明白なこと。
そして、その倭から千里渡海するとそこに別の倭種の国があるとは、魏略の指摘。
北部九州から瀬戸内海を東に千里行った所にあるのは大和などの国だから、大和などが倭種の国ということになるな。
これは、魏志倭人伝の指摘。
長年の邪馬台国所在地論争は、かくもみごとに決着した。
考古学の掘り出し物を積み上げても、一片の文献に敗れ去ったという実例だな。 纒向の掘立小屋は、倭国に追い詰められる前の大物主の倉庫だったな。。。 >>261
九州説には「俺が何となくそう思う」という根拠しか無い
ww >>262
>まあ、なにせ、「倭は東南大海の中に在り」だから、倭が北部九州を指していることは明白なこと。
理由も言えないのが九州説
なんて低レベルな >>219
200回も調査したことが、却って、邪馬台国畿内説を破綻させた可能性が高いな。。 九州説が惨めな状態になっているな
追求されれば逃げる
追求されれば逃げる
常敗の九州説だな >>222
200回程もの発掘調査の成果は、「纏向は邪馬台国と呼ばれた都では無さそうだ」という予測が強固になったことなのだね。。。 >>254
>邪馬台国関連で「公式」やら「確定」やらが存在すると思ってる時点でアホ。
普通に存在するだろ なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。。。 >>270
目を閉じ、耳を塞いだのだね
それは最悪の対応だな 畿内説はそれを語る上で必要となる、南が東である事の証明がないので、永久に想像説なのです。 >>187
鳥取の青谷上寺地遺跡の人骨では父系遺伝子は縄文系だった
北部九州弥生人は日本列島では隔絶して朝鮮人に近かった >>270
反論
その「橿考の見解」とやらの情報出所は?
答えられないならガセネタで確定 >>272
>普通に存在するだろ
老人会の普通を世間の普通だと思うな。 >>276
死んでたのが縄文人なら、勝ったのは半島人だろw
あたま悪っw >>278
反論できないので罵るという
いつもの九州説の完敗パターンが出ました >>281
伊都国が末盧国の北東にあるのは事実だな
九州が会稽東冶の東にないのも事実だな >>277
「奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、〜」
という文面を見て、「橿考の見解」では無いという根拠と証拠は? 変な文章が「橿考の見解」だというのが
ガセネタってことは
確定でいいのね? 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、邪馬台国畿内説を宣伝することで、韓国の領土の南が、朝鮮半島内で、倭人の領土と接していたことを隠そうとしているのだったな。。。 >>112
金印てその部族の王に贈られものなんだよ >>280
母系はお前の故郷半島人の遺伝子が多いからお前の妄想 奥山は小学生にも満たない幼児脳のまんまジジイになった生命体だな。
ヒトではないな。 魏志倭人伝時代の前後に、倭人は、新羅の者達を何千人も捕獲して、奴隷として連行していたのだったな。。。 体制側が書いた三国志で邪教扱いされてる
道教思想を反映した神獣鏡を魏の皇帝が贈るわけないんだよね。 >>295
韓国の古い歴史書に記録されている真実を、韓国人は否定しようとしているのだったな。。。 >>298
自己紹介乙
生活保護不正受給してるんだろ?w 奥山は朝鮮人だよ。
自分では気付いていないだけ。
思考も遺伝するらしいからな。
すぐ分かる。 >>285
それ見れば、正常な知能のある人間なら
組織が発表した見解じゃないことがわかるだろ キチガイスレ乱立させてるのが反日朝鮮人であることは誰が見てもわかる 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、邪馬台国畿内説を宣伝することで、韓国の領土の南が、朝鮮半島内で、倭人の領土と接していたことを隠そうとしているのだったな。。。 >>296
>体制側が書いた三国志で邪教扱いされてる
>道教思想を反映した神獣鏡を
邪教扱いされてるという証拠は?
九州説はまたガセネタ? >>291
>金印てその部族の王に贈られものなんだよ
という根拠は? >>189
>仕事関係者の証言だから。
畿内で畿内説に会った事が無いという事実w<
ふーん、成程ねえ。
大和説者の支持者は国民の3割で、九州説者は国民の 6割近いんだから、
こりゃ高校までの学校教育で、学校の先生が、
「実は九州説の方が良いんだよ」とこっそり教えていた、
という事なんだろうなあ。
先生もこっそり「九州だよ」と教えているんだろうなあ。
普通の仕事場じゃ、 >>290
>橿考って書いてあんのに駄々をこねるとはw
それ、誰が書いたの? >>304
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、邪馬台国畿内説を宣伝することで、日本の歴史の真実を歪める目的もあるのではないのかな。。。 >>307
>大和説者の支持者は国民の3割で、九州説者は国民の 6割近いんだから、
はいはい
証拠は? >>296
曹操は鬼道と呼ばれた初期道教教団の張魯を
鎮南将軍に任じ閬中侯に封じた
張魯の娘は曹操の第9子である曹宇に嫁いだ >>234
NHKが、邪馬台国九州説の立場に、はっきりと近づいてきたので、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、焦っているな。。。 電子が原子核の周りを回っているという話も、本当は回ってるわけじゃないけどね、と教えられたな。 >>234
頭が普通の者が、その番組を視聴すれば、魏志倭人伝時代の他の九州の城にも、宮室、楼観、城柵が揃っていたという予測が、強固になるのだったな。。。 >>310
>組織の見解=各研究者の見解だが?
はい、九州説の詐欺がまた一つ暴かれました >>317
はい、奥山が日本人ではない事が確定しましてね。 邪馬台国畿内説の嘘は、全て暴かれてしまったのだったな。。。 いくら要求されても
頑として証拠を出さない九州説が
イカサマやってることは明らかだろう >>186
>いや、九州説はこれだけ毎日ずっと嘘ついてて
>嘘つくことに抵抗も罪悪感もないことが明らかだよな
それ自体が畿内説の嘘だろう。 >>312
自民党が創価と連立組むようなもの。
人身掌握に張魯を利用したのだろう。
三国志での曹操の道教に対する評価は
民衆を惑わす邪教 >>189
だって国民の大半が九州説なんだろ?
畿内で探しても畿内説は絶滅危惧種だろ。
島根県でだけ、なぜか出雲説が根強いらしいね。 >>285
>「奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、〜」
>という文面を見て、「橿考の見解」では無いという根拠と証拠は?
だからその文面
どこの誰が書いた文章? >>325
>だって国民の大半が九州説なんだろ?
証拠は? 今のところ畿内説は根拠とできる物が何も無いんだから探すのが先だろ >>205
狗奴国は肥後熊本だよ。
官の名前に菊池彦とあることは古くから九州説の根拠とされている。 >>324
>三国志での曹操の道教に対する評価は
>民衆を惑わす邪教
証拠は? >>329
>官の名前に菊池彦とあることは古くから九州説の根拠とされている。
「菊池彦とある」という史料事実はないね >>197
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
万事ただ言い張るだけ 証拠は絶対に出さない
それが大和説 もう、九州説は九州説としての主張すらできなくなってるw
最近短里でがんばってるのは泡くらいしかいなくなったし
まあ、短里を主張する時点で泡がトンデモだと確定するしw >>328
>今のところ畿内説は根拠とできる物が何も無いんだから探すのが先だろ
「何も無い」と断定する証拠は? >>323
>それ自体が畿内説の嘘だろう。
そんなこと決めつける証拠は? >>200
>畿内説に対して反論ができず <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
ただ悪口しか言えないのは
大和説が敗退した証拠だね >>333
>万事ただ言い張るだけ 証拠は絶対に出さない
>それが大和説
いま九州説が派手に自爆したぞ
そんなこと決めつける証拠は? >>337
畿内が存在しなかったとか断定してるけど
証拠でもあって言ってるのか?
「嘘つき騙し文言である」とか
ただ悪口しか言えてないようだが >>335
それこそ例のNHKの講座で勉強するべきだな。 >>339
>大和は東に近いけどな。
つまり
「倭が北部九州を指していることは明白」
なんかではない
誤りだ
ということで、いいね? >>341
>それこそ例のNHKの講座で勉強するべきだな。
また九州説は
自分が断定してることの証拠が何も出せなくて
口先でごまかすのだね? >>266
「〜だから」という文章は理由を説明するんだよ。
畿内説は日本語を理解できないのかな? >>272
畿内説はアホだが、確かに一部に存在する。
それが真実かどうかとは関係なくね。 奥山氏は、最初に、高校講座の「現代文」を受講した方が良いのではないのかな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_genbun/archive/chapter001.html
341 名前:日本@名無史さん 2019/10/21(月) 12:10:52.68
>>335
それこそ例のNHKの講座で勉強するべきだな。 >>343
日本の公共放送が配信してるものだが?
それよりお前の想像の方が正しいという証拠は? >>328
200回もマキムクを掘ったけど、カエルの骨くらいしか出なかったんだよ。 >>344
>「〜だから」という文章は理由を説明するんだよ。
>畿内説は日本語を理解できないのかな?
日本語がわかっていないようだね
おまえが誤用して、理由でも何でもない文の後に「だから」と書いたということだろう? 文科省とNHKのバトルが始まるのか。
文科省大和説VSNHK九州説。
しかしすでに、NHKは宮室、楼観、城柵を押さえて、宮室だけの文科省に痛撃をくらわした。
そこで、文科省は補助金ちらつかせて、NHKを篭絡しようと工作中か。
NHKもいつへたれるか分からんけどな。 ここの畿内説は日本語の会話すら出来ないよな。
朝鮮人だと言われてるのも頷ける。 >>347
>日本の公共放送が配信してるものだが?
おまえの日本語はいつも不備だらけで他人に通用しないな
日本の公共放送が何を配信したと主張してるのかね? >>340
>畿内が存在しなかったとか断定してるけど
「畿内」は天皇制が確立されないと出てこないだろう。 >>352
先にお前の想像こそが正しいという根拠を述べよ。 >>324
卑弥呼の祭祀も鬼道と呼ばれてるが
制詔親魏倭王卑弥呼だから >>349
ちなみに書いたのは自分ではないが、ちゃんと理屈が通っている文章に噛み付いている君の発言は、畿内説のリテラシーの低さを証明しているだけだと思う。 >>351
九州説の側が日本語を話せないから畿内説の者と会話ができないのだよ
その事実は具体的に証拠を挙げて説明してあげただろ? >>356
ほほう
それでは
「ちゃんと理屈が通っている文章」
であることを立証したまえ
立証出来なければ、本人が他人のフリをして支持者の芝居をし自画自賛したと取られても仕方ないぞ >>342
>誤りだということでいいね?…
東南真っ正面の北部九州と、もうほとんど東に近いとろにある大和とくらべてもなあ。
大和は東南の中のはずれだね。
真っ正面の北部九州には勝てんよ。 >>252
>だいたいさあ、纒向遺跡は弥生遺跡に見えないから。
そうだよ?
卑弥呼の共立とともに始まった古墳時代の最初の祭祀都市遺跡だからな 魏志倭人伝で使用されている8方位での、東南というのは、16方位の東南東中心から16方位の南南東中心の間のことを指し示すのだったな。。。
そして、巻向は、奥山氏が住んでいる、奥山氏が帯方郡だったと信じている地点からは、東南東から南南東の間の区分には含まれないのではなかったのかな。。。 >>354
>先にお前の想像こそが正しいという根拠を述べよ。
なんで先に述べないといけないのかね?
理由は?
お前の言う
「日本の公共放送が配信してるもの」
とは具体的に何なのか明らかにするのが先だろう
明らかにされなければ
「お前の想像」なるものが
「日本の公共放送が配信してるもの」
とどう違うのか判らない >>361
>鬼道扱いされてるだろ
それがどうして
「曹操の道教に対する評価」が
「民衆を惑わす邪教」である
と言う理由なんだ?
理由は? >>363
奥山氏には、回転楕円体表面上のある地点から、同じ回転楕円体表面上の別の地点への、ベクトルの向きを正確に計算するための、学力が無い可能性が高いな。。。 >>365
と言う理由は?
なぜ九州説は理由を言わないんだ? >>364
お前がコミュ障なのは何年もやってるこのスレでわかってるよ。
以前厚生省が嘆いてたよな、引きこもりは天然だから救えないと。
いい加減受け応えぐらい覚えろ。 >>356
>ちなみに書いたのは自分ではないが、ちゃんと理屈が通っている文章に噛み付いている君の発言は、畿内説のリテラシーの低さを証明しているだけだと思う。
こういう文章がリテラシーの低い典型では?
「理屈が通っている」「噛み付いている」など
主観評価に終始しているからね >>360
倭が「東南」の方向にあることを確定させたのは魏使だが、
その東南の方向の起点である小伽耶の固城に分度器を当てると、
大和はほとんど固城の真東にある。
固城の外洋の4島を起点にすると、大和はその4島を通る東西線に対して南に5度程度の方位にある。
これはまったき東だよ。
東南に入らないのが大和。
倭人伝も、倭から東へ千里のところに倭種の国があると書いてるが、それとぴったんこ。 今観てる三国志司馬懿軍師連合じゃ漢の正統ではない曹操は儒教嫌いに描いておるぞ。曹操は一国まで築いた宗教団体を分散させた位で敵は別だろ。 >>372
そう書く根拠を添付出来ないのは
リテラシーが低い証拠だな >>358
>質問にはそれに対応した返答をせよ。
>ムン奥山君。
誰のどの投稿に対して言っているのか
質問とは具体的にどれのことか
このような決定的な不明点のある文章を書いてしまうというのは
正常なリテラシー教育を受けていない証拠だろうね >>371
>倭が「東南」の方向にあることを確定させたのは魏使だが、
と言う根拠は?
>その東南の方向の起点である小伽耶の固城に分度器を当てると、
なぜ固城が起点? >>360
>大和は東南の中のはずれだね。
東南に含まれるので問題なし 壱岐から北部九州に上陸するつもりだったが、一番近い末盧国に上陸すると葦が茂っていて歩きにくいと聞いた。
だから壱岐から東南の伊都国へ直行した。
末盧国へは立ち寄っていないので、官の呼び名は記載されなかった。
そして末盧国から伊都国まで歩いたとしたら500里だと聞かされた。
そーゆーことよ。 >>372
>お前の頭の中の世界ではな。
よく見かけるこのフレーズは
リテラシーの低い人間の書いた文の典型だろう
早すぎる対話拒否は理解力の放棄だからね >>378
>だから壱岐から東南の伊都国へ直行した。
倭人伝に書いてあることと決定的に違うが?
それでいいのか九州説 >>379
レッテル貼りに逃げるのはリテラシー弱者の証明 問題が作製されました。
地球上の極点以外の地点Aから見て、地軸と地点Aを含む平面Bとします。。。
平面Bに対しても、地点Aの水平面に対しても、同時に垂直な平面を平面Cとします。。。
この時、平面Bと地表面の交線を地点Aの南北線と定義します。。。
そして、平面Cと地表面の交線を地点Aの東西線と定義します。。。
そして、この南北線と東西線を基準に8方位を定めます。。。
奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点から見て、纏向の掘立小屋は、8方位のどれに区分されるでしょうか。。。 論理的な返答ができない>>369が
典型的なコミュ障だろうね
第三者が見れば明かだ >>385
奥山氏は、殆どの緯線が東西線にはならないことを、見抜けない可能性が高いな。。。 「その類推を推定するのは自明なこと」
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571114342/668
という破滅的に崩壊した擬似日本語を書いてしまった九州説信奉者は
正常な日本語教育を受けていない可能性が高いのだな 奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点から見て、纏向の掘立小屋は、8方位の東になる可能性が高まってきたな。。。 うっかり「木製오輪鐙」と書いて投稿してしまった九州説の人はどの地域在住なのだろうか いくつもクリティカルな質問を受けた九州説が一つも答えられない状態になったら
連続句点が呟き出したよ >>362
>卑弥呼の共立とともに始まった古墳時代の最初の祭祀都市遺跡だからな
さらりと嘘をつくのだね。
そういう人生を送ってきたのだろう。 >>370
「リテラシー」と言い返してみたかったのかな? >>393
>さらりと嘘をつくのだね。
嘘だという証拠は? >>380
>よく見かけるこのフレーズは
>リテラシーの低い人間の書いた文の典型だろう
5chは初めてか?
元ネタも知らないのだろうな。 >>394がまた、まさにリテラシーの欠如を物語ってしまったな 奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点は、緯線と経線で表示すると、どのような表示になるのだろうか、、、
そして、その地点の水平面と垂直で、真北から時計回りに5π/8の角度の平面の、どちら側に掘立柱は立っているのだろうか。。。 >>260
>魏志倭人伝には、前方後円墳のことが一切記録されていないのだったな。。。
残念ながら、魏志倭人伝には「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあって
倭人は王の死に接して巨大な墳丘墓を作る文化だと書いてあるんだ
径百歩に当たる墓が古墳レベルになる時点で、前方後円墳のことが
書いてあるとみなさざるを得ない
短歩で25メートルとかいうのは「ありえない」 >>396
だから、そういう対話の打切り方がコミュ障ぶりとリテラシー欠如を露呈してるってこと >>385
小学校時代から朝鮮の自宅に引き籠もった奥山氏には、方角の問題に取り組めない可能性が高いな。。。 >>262
>まあ、なにせ、「倭は東南大海の中に在り」だから、倭が北部九州を指していることは明白なこと。
九州と本州を分けて考えるのが、そもそも頭が悪いんだよ
海から見た倭国だが、どこが「お前の言う倭国=北部九州」の境だか指摘できるかい?
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg
これ、全部倭国なんだよww
当たり前のことが分からないから九州説なんてバカな与太話を信じてるんだよ >>266
魏志倭人伝時代には、そもそも、前方後円墳が、一切出現していないのだったな。。。 >>398
頭の悪い奥山氏に分かりやすく説明した方が、良いな。。。
奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点から、奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点の水平面から、ロケットの噴射口付近に括りつけられた奥山氏が、宇宙船で、完全に垂直に、上昇します。。。
奧山氏の視野に、地球が円形になって収まる地点まで、奥山氏は上昇します、、、
奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点から北極点の方角を北の基準にして、円形の中心にある、奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点を中心に円を8分割して、8方位を定めます。。。
この時、纏向の掘っ立て柱は、どの方位でしょうか、、、 魏時代の日本地図が現代と違い正確じゃないので
魏志倭人伝時代の地図が見つからなければ
正確な場所は見つからない 纏向は、帯方郡からの八方位では、東南ではなく東になってしまう可能性が高いな。。。 現代人が戦国時代に行って会話する事さえ無理
先人と現代人では話す速度も文字も違う >>204
これは、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などでも大和説の負け、で勝負あったな >>271
連続句読点は意味もなく間違ったことを繰り返しコピペする能無し
最近のお気に入りがこれ
>200回程もの発掘調査の成果は、「纏向は邪馬台国と呼ばれた都では無さそうだ」という予測が強固になったことなのだね。。。
以前のお気に入りがこれ
>天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。
どちらもデタラメだってところが、連続句読点らしさ満点w >>206
「南→東」などの嘘付き騙しの、
そんなふうに何も脈絡なく結論だけ呟く
つまり大和説はオツム変でしたとさ 奥山氏は、僕達が発表した真実に、反論できないのだったな。。。
413日本@名無史さん2019/10/21(月) 13:54:52.13
>>271
連続句読点は意味もなく間違ったことを繰り返しコピペする能無し
最近のお気に入りがこれ
>200回程もの発掘調査の成果は、「纏向は邪馬台国と呼ばれた都では無さそうだ」という予測が強固になったことなのだね。。。
以前のお気に入りがこれ
>天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。
どちらもデタラメだってところが、連続句読点らしさ満点w >>208
普通の知能があれば、「南≠東」などに反論できるはずなのに
ヘラヘラ笑ってるだけということは
大和説はチエオクばかりということに・・・ 纏向は、帯方郡からの八方位では、東南ではなく東になってしまう可能性が高いな。。。 >>209
「南≠東」などについて、
突っ込まれると返事もできない そして逃げる
こんなことを繰り返してるから、
大和説の信用がゼロになる 纏向にあるメクリ1号墳(3世紀前半)は東日本政権下で流行った前方後方墳なのだな。
https://i.imgur.com/mnW2HQb.png 頭の悪い奥山氏に方角という物事を説明するために、地球を完全球と考えます。。。
南北線が、地球を一周する線なのだから、東西線も、緯線ではなく地球を一周する線を想定します。。。
従って、奥山氏の北朝鮮の自宅から真東に向かうと、奥山氏の自宅上の緯線からは南方向に逸れていきます。。。
奥山、ここまで理解できますか。。。 頭の悪い奥山氏に方角という物事を説明するために、地球を完全球と考えます。。。
南北線が、地球を一周する線なのだから、東西線も、緯線ではなく地球を一周する線を想定します。。。
従って、奥山氏の北朝鮮の自宅から真東に向かうと、奥山氏の自宅上の緯線からは南方向に逸れていきます。。。
奥山氏、ここまで理解できますか。。。 >>215
「南→東」などのトンデモスレ主が言ってるんだから
纒向遺跡は女王卑弥呼の遺跡ではない、ってことだよ 纏向は、帯方郡からの八方位では、東南ではなく東になってしまう可能性が高いな。。。 >>216
「南→東」などの嘘付き騙しについての、
なんか証拠でもあるのか?
それとも、いつもどおり大和説のデマか? >>218
まいど「南→東」などの嘘付き騙しの理由に言わず
教条主義で決めつける大和説
それはへんな政治思想だね
学問じゃない 奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点は、緯線と経線で表示すると、どのような表示になるのだろうか、、、
そして、その地点の水平面と垂直で、真北から時計回りに5π/8の角度の平面の、どちら側に掘立柱は立っているのだろうか。。。 >>409
こういう自レスに補足したレスは自演とは言わない 魏の支配下にあった朝鮮半島西側沿いから出発し
南下して対馬経由で更に南下している 奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点を中心とする心射方位図法では、纏向の掘っ立て柱と、奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点を結ぶ直線は、
奧山氏が、帯方郡の役所があったと考える地点を通る経線と、どのような角度で交わるのだろうか、、、 纏向は、帯方郡からの八方位では、東南ではなく東になってしまう可能性が高いな。。。 頭の悪い奥山氏に方角という物事を説明するために、地球を完全球と考えます。。。
南北線が、地球を一周する線なのだから、東西線も、緯線ではなく地球を一周する線を想定します。。。
従って、奥山氏の北朝鮮の自宅から真東に向かうと、奥山氏の自宅上の緯線からは南方向に逸れていきます。。。
奥山氏、ここまで理解できますか。。。 江戸時代まで道や大きな川に道橋がなかった古代
陸路で一か月って事は山越えの旅 4世紀の纏向に集まった東海ドカタ軍団は、4世紀中頃に箸墓を完成させたんだろうね。
https://i.imgur.com/lEWoQ6u.png
そして纏向は解散し、再び無人化した。 >>436
自演というのは九州説のまぬけなキウスがやってたような
他人のふりをしてレスすること >>442
覚えてないとしたら認知症じゃね?
さっさお病院池よw
ニュース速報のスレの一幕で俺も覚えてるぞw つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻したのだな。。。 こんな奴が姑息な自演をやろうとして失敗したんだな。
88日本@名無史さん2018/06/18(月) 00:47:39.88
スレ主は奥山で正解
okuyamaと自分でミスってかき込んでしまった
2017/12/05(火) 18:49:51.41
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 >>430
洛陽から東南真正面は石垣島。
まあ、倭人伝は、倭は九州を南に引き伸ばした巨大島にあると想定しているのだから、
水行30日と一か月の陸行で到着する邪馬台国は石垣島あたりでもいいんだけどね。
ただ、魏略、倭人伝ともに、帯方郡のある朝鮮半島から東南の方向と指定しているから、洛陽から東南ではなく、やはり朝鮮半島に起点のある東南の方向だね。 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg 邪馬台国は山々で囲まれ大きな川と海が広がり
豊かな土地に場所に邪馬台国は存在しておりました >>436
だから、どこが自演なんだ?
また九州説は結論ありきか? >>227
「南→東」などの嘘付き騙しの理由は?
それとも、大和説の世界では物事が理由もなく確定するの?
異常だなあ >>449
そう言い続けるだけの脳しか残ってないんだな?
ムン奥山君。
反日路線を通すしかないムン政権と同じ状況か?
閉店すれば?
人生を。 >>445
うっかりトリップ開示w
最近もやらかしてたねw >>443
ニュー速は専門知識がないが見るスレだから俺は見ない >>445
やっぱり理由のない決め付けが九州説なんだな
体質なんだろう >>232
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の大和説は
嘘つき >>453
この板はなおさらw
専門家どころか誰も見てないぞw
だいたいメンバー決まってるんじゃね?w >>243
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が
また何か捏造してるようだな >>458
畿内説は研究者の論文内容を根拠にしている
一人一作り話九州説とは違う 福岡から1000km以内にある山々に囲まれた大きな川を探せ >>451
>そう言い続けるだけの脳しか残ってないんだな?
脳が3グラム以上無いのは、理由がひとことも説明できないまま結論だけ連呼してる>>451その人だろ >>249
「南→東」などの嘘付き騙しになる、
そんな情報は無いよなあ >>251
どこが「南→東」などの嘘付き騙しの、どこが九州説の見解だ?
またニセ情報か??
大和説はほんとにイカサマばっかりだな 専門知識どころか「寝耳に水」って言葉の意味も知らない九州説のおパーさんがいるよなw 今度からニュース速報のコテにはコレを使おうかw
#okuyamakouyou >>253
「南→東」などの嘘付き騙しの、
根拠のない中傷しかできない大和説は
もう終わりだね >>257
また「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和論者が
ガセネタ流してたのか
悪質だな >>460
>畿内説は研究者の論文内容
それが作り話なわけよw
>>1はその作り話からさらに誇大妄想を展開してるわけw
アホw >>468
結局ニュー速に奥山がいるってのもガセネタか
九州説の書き込みでガセネタじゃないのって、ここ3年で何本くらいあんの? >>259
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が
理由のない結論を言い張ってるな
頭が悪いのだろう >>473
ニュース速報で奥山指摘したらちゃんと日本史板の話を返してきたぞw
畿内説は1人だから隠さなくてもいいんだぞw >>471
嘘をつくってのは最低限アタマを使うもんらしいが
他人の投稿丸写しにして機械的に主語入れ替えるザラコク方式は
まったく脳を使用しないので馬鹿でも出来るんだよな >>262
まあ、なにせ、「倭は東南大海の中に在り」だから、
倭の諸王の都が北部九州を指していることは明白なこと。
そして、その倭から千里渡海するとそこに別の倭種の国があるとは、
魏略と魏志の指摘。
北部九州から瀬戸内海を東に千里行った所にあるのは伊予などの国だから、
大和などはおよびでない、ということになるな。
これは、魏志倭人伝の指摘。
長年の女王國の所在地論争は、かくもみごとに大和説は否定され、
九州説で決着した。
考古学の曲解物を積み上げても、
一片の文献に敗れ去ったという実例だな。 >>265
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説には
「俺が何となくそう思う」という根拠しか無い >>266
「南→東」などの嘘付き騙しの理由も言えないのが大和説
なんて低レベルな >>269
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が
惨めな状態になっているな
追求されれば逃げる
追求されれば逃げる
常敗の大和説だな >>477
>ニュース速報で奥山指摘したらちゃんと日本史板の話を返してきたぞw
マジで意味わからん
日本語ヘタすぎる
畿内説が1人しかいないとか
本気で思ってるなら医者に行け >>274
「南≠東」などに指摘に対して、
大和説者は、目を閉じ、耳を塞いだのだね
それは最悪の対応だな >>479
>まあ、なにせ、「倭は東南大海の中に在り」だから、
>倭の諸王の都が北部九州を指していることは明白なこと。
その変な理屈、だれも理解してくれないよ
説明も無いしな >>484
畿内説がココに何人おると思ってんだ?w >>287
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説老人会の普通を、
世間の普通だと思うなよ。 >>485
>「南≠東」などに指摘に対して、
>大和説者は、目を閉じ、耳を塞いだのだね
それ聞いて本気にする人いると思う?
九州説が、さらに不幸になるだけだ テンプレには「南→東」などの嘘付き騙しの直接的証拠は
書いてないけど? >>282
「南≠東」などへの反論できないので、結局は罵るという
いつもの大和説の完敗パターンが出ました >>487
主張の明らかな違いからみて最低4人はコンスタントにいるだろう >>283
「南→東」などの嘘付き騙しを、
そう断定する(大和説側の)証拠プリーズ >>492
主張の違いからってアホかw
3端末が1人と飛び入り1人だからw いや自演に失敗してたから1端末はSIM2枚挿しだなw >>286
>伊都国が末盧国の北東にあるのは事実だな <
何だ?、この大和説者の大量の投稿は、類スレ主が?やっていたのか?。
しかし、末盧國や途中からは伊都国が見えないから、
魏の役人らは、伊都国方向を「北東」などの記録出来なかった事が事実だ。
>九州が会稽東冶の東にないのも事実だな<
魏志倭人伝には「東冶」なんて文言がなく、
「会稽東治」の東ならほぼ九州島がある、という事も事実だな。 >>1はFAQ 31の投馬國=吉備説
九州説が>>1だと思ってるのは投馬國=出雲説 >>286
「南→東」などの嘘付き騙しの変な投稿が「類スレ主やスレ主の見解」だというのが
マジネタってことは
確定でいいのね? >>502
わからんw
ちゃんと説明しろよw
妄想抜きでヨロシクw >>296
>体制側が書いた三国志で
邪教扱いされてる道教思想>を反映した神獣鏡をを、
魏の皇帝が贈るわけないんだよね。<
成程。 >>496
3端末とか、なに妄想してんの
おまえ脳ヤバいな >>305
「卑弥呼の鬼道=道教」という証拠は?
大和説はまたガセネタ? >>505
また入手速報でのあからさまな自演を楽しみにしてるよw >>507
陳寿がほかに鬼道と呼んだのは張魯の教団だけ
九寸鏡を珍重するのも抱朴子に出てくる道教
三角縁の図柄は道教の神仙
纒向には桃園があって土壙祭祀の供物も桃
崑崙山の西王母のキーアイテムは桃 >>321
いくら要求されても、「南→東」などの嘘付き騙しの証拠を
頑として出さない大和説が
イカサマやってることは明らかだろう >>509
だからそれ、おまえの妄想だろ
自演とか、おまえの脳内の出来事だ
だって証拠ひとつ無いだろ 纏向の200回程の発掘は、邪馬台国畿内説の証拠を一つも発見できなかったのだったな。。。 >>513
つまり、邪馬台国畿内説は、自演好きの奥山氏の脳内に出現した妄想なのだな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、討論で完全に論破され、反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない嘘を呟いたな。。。
514日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:00:49.82
九州説
負けると呟く連句点 ニュー速+にいたのが奥山だと決めつける唯一の理由が
畿内説は一人しかいないからぁ、だと
笑うわ
てかこれ、九州説の正気疑わない奴いないし 200回も調査したことが、却って、邪馬台国畿内説を破綻させた可能性が高いな。。 ニュー速+にいたのが奥山氏ではないという物事を、奥山氏が証明しようとしているのではないのかな。。。 お前ら、アマゾンを徒歩で抜けるか
フェリーに乗ってアマゾン迂回するか選べ >>510
2013年の産経westの記事で、卑弥呼の鏡三角縁神獣鏡説が揺らいでいる、と書いてある。
6年も前に「揺らいでいる」三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡説を今も絶大評価してみせるのも時代錯誤。
そろそろ卑弥呼の鏡画文帯神獣鏡説に鞍替えしてはどうか。 >>519
優れた謎の者に、奥山氏は、ニュー速+にいた奥山氏が自演していたのだ、という容疑をかけられたので、名誉のために闘おうとしているのではないのかな。。。 >>324
>自民党が創価と連立組むようなもの。 人身掌握に張魯を利用したのだろう。
三国志での曹操の道教に対する評価は民衆を惑わす邪教 <
賛成。
そもそも「鬼道」という文言が、
個々の宗教や道教に対する「誉め言葉」である筈がなく、
「得体の知れない宗教」という一般的な形容詞的文言である事が、当たり前。
つまり曹操が張魯の道教を「鬼道だ」と直接言ったのか?、が不明。
そして、魏使らの卑弥呼の宗教を「鬼道」と記録したのも、
「得体の知れない宗教」という意味であった事が、当たり前。 >>522
奧山容疑者が、名誉を回復できるか、それとも、できないのかという問題は、あまり、邪馬台国畿内説とは関係がないな。。。 纏向の200回程の発掘は、邪馬台国畿内説の証拠を一つも発見できなかったのだったな。。。 >>524
はっきりしてるのは
九州説のデマ流し中傷犯人が名誉回復することは無い
ということだ >>325
>だって国民の大半が九州説なんだろ?
これが嘘ww
>畿内で探しても畿内説は絶滅危惧種だろ。
これも、ただの文字列で根拠なしww
九州説さん、もうちょっと意味のあることを書いたら?¥ >>517
図星ですーてかw
奥山自演に慣れてる連中からは丸見えだということよw >>523
>「得体の知れない宗教」という一般的な形容詞的文言である事が、当たり前。
じゃ、なんで韓では「鬼神」と書くだけで「鬼道」と書かなかったのかな?
あなたの論理じゃ説明つかないよね >>328
>今のところ畿内説は根拠とできる物が何も無いんだから探すのが先だろ
魏志倭人伝において、倭国一般ではなく邪馬台国について書かれていること
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 >>528
これだな。
ちなみに近畿説 ≠ 畿内説だから勘違いしないように。
これに対し、畿内説が大半を占めるぞという根拠は?
もしや何も無いのかな?
九州説支持:54.4%
近畿説支持:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/iEhi8FB.png >>328
>>531の続き
・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある >>329
>官の名前に菊池彦とあることは古くから九州説の根拠とされている。
残念ながら、菊池の地名は3世紀まで遡らないから、それはガセネタ 卑弥呼の城が有った証拠を発見できない纏向遺蹟ほどの面積の地区が、数か所あるとします。。。
その中のMという地区では、過去に、200回発掘調査してきたとします。。。
その中のKという地区では、過去に、20回発掘調査してきたとします。。。
確率的に、卑弥呼の城があった可能性が高いのは、M地区でしょうか、、、それとも、K地区でしょうか >>529
あんた病気?
ひとことも理由言わずに決め付けてる >>350
>NHKは宮室、楼観、城柵を押さえて、
その吉野ヶ里は、大和の絵画土器を参考にして「推定」復元したものであって、
九州に宮室、楼観、城柵があった根拠は存在しないんだけどねww >>533
情けないこじつけ精神論のオンパレードだな。
その論調はまさに朝鮮人だろ?
日本人に査読してもらえばいいのに。 >>448
>邪馬台国は山々で囲まれ大きな川と海が広がり
>豊かな土地に場所に邪馬台国は存在しておりました
まさに、倭国(阿波)だね。 「若杉山辰砂採掘遺跡」も有るしね。 @阿波 >>365
>いや、もっと古臭い。
それ、根拠なしの「個人の主観」でしかないんだが?ww
纏向遺跡は4世紀半ばまでは存続しているから、
もっと古い要素がある=その時代から存在するとしても、卑弥呼の遣使(複数回)の
全期間において、そこに存在したことが確実なんだよww >>234
頭が普通の者が、その番組を視聴すれば、魏志倭人伝時代の他の九州の城にも、宮室、楼観、城柵が揃っていたという予測が、強固になるのだったな。。。 >>532
w
それって九州説ボロ負けデータだな
だってその九州説、博多説も熊本説も宇佐説も竹槍部隊全部足して50何パーセントとかなんだろ
単品で畿内説にかなうと思う?
無理だな >>537
>吉野ヶ里は、大和の絵画土器を参考にして「推定」復元した
吉野ヶ里自身がそう公表しているから何も問題ないのでは?
三内丸山のように柱穴の径や深さからおおよその高さも推測できるだろ。
しかし形状はわからない。
だから絵画土器を参考に復元した。
何の落ち度も感じられないよな? >>529
>奥山自演に慣れてる連中からは丸見えだということよw
九州説って自演ばっかりしてて慣れてんの?
語るに落ちてる九州説 >>378
>末盧国へは立ち寄っていないので、官の呼び名は記載されなかった。
>そして末盧国から伊都国まで歩いたとしたら500里だと聞かされた。
ここまではいい
>そーゆーことよ。
そういうことにはならない
東南と陸行はセットだ
末盧国に上陸して、そこから東南陸行五百里で行く経路の記録があったんだよ
ただ、それは伊都国ではない訳だ
それを伊都国行きだと判断してしまう程度に、陳寿は倭国の地理に疎いってこと ある関数が、ある区間で連続していることを証明する方法を、頭の悪い奥山氏は理解できないのではないのかな。。
540日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:28:30.03
>>365
>いや、もっと古臭い。
それ、根拠なしの「個人の主観」でしかないんだが?ww
纏向遺跡は4世紀半ばまでは存続しているから、
もっと古い要素がある=その時代から存在するとしても、卑弥呼の遣使(複数回)の
全期間において、そこに存在したことが確実なんだよww >>540
>纏向遺跡は4世紀半ばまでは存続しているから
ホケノ山古墳から箸墓古墳まで古墳造営基地局を担ったのはわかる。 >>544
>何の落ち度も感じられないよな?
落ち度?
何のこと言ってるのかな?
「九州にはあるが畿内には無い」
が成り立たない、というだけの話なんだが >>543
それそれ。
朝鮮式解釈ってのがまさにそういう曲解だ。 >>547
大物主の倉庫が3世紀に存在していたとしても、巻向で進行していた物事が、最後の古墳が出現した5世紀まで連続していたことにはならないのだったね。。。 >>548
>>纏向遺跡は4世紀半ばまでは存続しているから
>ホケノ山古墳から箸墓古墳まで古墳造営基地局を担ったのはわかる。
4世紀半ばまでは存続しているのに
なんで
「ホケノ山古墳から箸墓古墳まで古墳造営基地局を担った」
ことになるわけ?
九州説脳の構造がわからん 奥山氏は、九州の面積と近畿の面積の比率を知らないのでは、ないのかな。。。
543日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:29:34.01
>>532
w
それって九州説ボロ負けデータだな
だってその九州説、博多説も熊本説も宇佐説も竹槍部隊全部足して50何パーセントとかなんだろ
単品で畿内説にかなうと思う?
無理だな >>553
邪馬台国畿内説を宣伝している者は、皆、頭が悪いだけではなく、日本の地理を知らないのではないのかな。。。 >>393
>さらりと嘘をつくのだね。
いつも言ってるだろ?
反論したかったら「具体的な根拠・理由」を挙げて反論しろって!
九州説はこの時点でダメ人間過ぎる
纏向遺跡が何もなかったところに、矢板で護岸を固めた大溝から建設が
始まった計画都市なのは、考古学的に明らかなこと
ここで都市というのは、農業生産に従事しない人口が多数であること
及び多数の交流人口(15%に及ぶ外来・搬入土器)から明らかに認められること
また、古墳時代の都市であるというのは、纏向古墳群がその領域内にあることから
当然に認められる
つまり、古墳時代の新造の計画都市というのは考古学的に明確に示されている
そして、その建設開始年代が2世紀末ごろなのは、各種理化学的手法で示されている
確定しないのが、卑弥呼の共立を契機としてという部分だけだが、
倭国最大の祭祀遺跡であることからそこに祭祀王がいたと推定するのが最尤であり、
その時代の祭祀王は卑弥呼であると魏志倭人伝に書いてある そもそも畿内説が勘違いしているのは、半島から渡来するルートや部族が複数居たという事を全く考慮していないということ。
九州に渡るものもいれば山陰、福井に渡るものも居た。
それぞれ部族は違ったとしても同じ半島から同じように船に乗って渡ってきた民族なんだから、共通した土器文化などを持っていてもおかしくはない。
たまたま絵画土器が畿内で発見され、現物が九州にあったとしても不思議なことでは無い。 論文とか専門書とか読まない九州説のじーちゃん
高校の先生が「監修」した程度の、テレビ屋の書いたシナリオ読んで狂喜してる
ひさん >>556
>古墳時代の新造の計画都市というのは考古学的に明確に示されている
現実→古墳時代の古墳を新造を計画して実行する土建屋集落というのは考古学的に明確に示されている 貴方たちは、全部足しても、アンケート調査では30%台にしかならないのだな。。。
557日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:40:44.94
僕は、近畿説ですが、正確には奈良市説です。
559日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:41:23.95
俺様は、近畿説だが、神戸市説だぞ。
560日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:41:57.21
俺は、和歌山説だ。
561日本@名無史さん2019/10/21(月) 16:42:44.53
私は、邪馬台国大阪城地下説です。 倭国にて長き大乱の末
二国が手を結び畿内に都を作り
東防人の拠点とする >>554
>邪馬台国畿内説を宣伝している者は、皆、頭が悪いだけではなく、日本の地理を知らないのではないのかな。。。
理由ないだろ
そんなセリフは
「京都県」とか「畿内は海に面してない」とか言ってる九州説のおばかちんに言ってやって キナイコシは、皆、頭が悪いので、一人が自演しているのと、あまり変わらないのだったな。。。 >>565
畿内説の学者とその仲間たちとなれば、全国に数十人いるかどうかも分からないね。 >>479
>まあ、なにせ、「倭は東南大海の中に在り」だから、
逃げるなよww
この図の、どこが九州でどこが本州か指摘できるか?って訊かれてるのに
逃げ続けてるじゃないか
これ全部が倭国なんだよw
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg 「京都県」とか「畿内は海に面してない」とか言ったのは、キナイコシが邪馬台国九州学の立場の者を貶めるための、卑劣なナリスマシだったのではないのかな。。。 >>565
で?
おまえ、畿内説は何人いると思ってるって?
w
九州説の底あさすぎ >>500
>それ初耳だけど、どんなジジイ?w
左側スロープ君だよw
「アホ」を言い出したら、それだけで左側スロープ君の可能性が高いw >>569
現実から目を背けるなよ
学者はほとんど畿内説だ 驚いたな、、、、
奥山氏は、本州と九州の区別もつかないのだな。。。 纏向遺蹟は200回程も発掘調査を実行したが、様々な分野の優れた学部出身の若者を雇用しているNHKは、邪馬台国近畿説には具体的な証拠が発見できないと発表したのだったな。。。 古墳の上で立小便をした、左側スロープを発見した者のおかげで、箸墓古墳が馬で積み上げられたのだと判明したのだったな。。。 大きな川と湖がある場所を探せば
邪馬台国の根城が見つかるであろう 卑弥呼の城が有った証拠を発見できない纏向遺蹟ほどの面積の地区が、数か所あるとします。。。
その中のMという地区では、過去に、200回発掘調査してきたとします。。。
その中のKという地区では、過去に、20回発掘調査してきたとします。。。
確率的に、卑弥呼の城があった可能性が高いのは、M地区でしょうか、、、それとも、K地区でしょうか >>532
有効投票925票のネット投票が九州説の心の支えなんだね!ww
九州説が54.4%ってことは、日本に503人くらいは九州説がいる訳だw
すごいねw
でも、その人たちにここのテンプレを一読してもらえば
「まともな日本語の通じる日本人」はみんな、畿内説になるよw
だから、ここのテンプレが九州説は大嫌いw >>538
>情けないこじつけ精神論のオンパレードだな。
「情けないこじつけ精神論」なら、簡単に具体的な根拠を持って否定できるだろ?
それをしない時点で、お前が無能なんだよww 奥山は顔も頭も悪けりゃカンも悪いんだなw
何でも連続句読点の書込みだと思ってるんじゃね?w >>557、>>559、>>560、>>561
笑かしてくれるなww
これ、>>532の
「だってその九州説、博多説も熊本説も宇佐説も竹槍部隊全部足して50何パーセントとかなんだろ
単品で畿内説にかなうと思う?」
に反論できないから、一人で一生懸命書いてるんだろ?
九州説、面白すぎるww >>579
竹内なんとかって歴史講師が箸墓に潜入した時の話を思い出した。
あれは4世紀で間違いないって言ってたっけ。
そして円墳の頂上に上って行ったら白い服を来た先客が居たって話で笑ったよ。 >>587
それ全部奥山だぞw
キナイコシ端末だけどw >>544
吉野ヶ里で出てないものは吉野ヶ里集落の復元ではない
吉野ヶ里遺跡は日本の考古学協会が保存運動に動いたため国営になり
国の予算で建築家が作りたいものを作ってしまったいわゆる箱物行政
入場者数が年々減少してたので軽トラ市場を開催したら過去最高になった
佐賀県民は歴史公園より夢ロマン軽トラ市場を望んでいたことが判明した >>586
奥山連呼と、トリ書きこみで喜ぶのは、連続句読点の属性なんだよww
まあ、同じレベルのバカは、同じように喜ぶようだけれど?w
>>586は嬉々として連続句読点の真似をしているようなものだが、
それって九州説の感性・価値観からすると、誇らしいことなのか?ww
まともな日本人なら、連続句読点がまともじゃないのはすぐに判断できるし
それと同等の行いをするのは恥ずべきこと、恥ずかしいことだと思うものだがなw >>592
いいからしっかりと識別しながらレスしろw
マジで別人だからw >>589
そんなこと言ってるから九州説は信用失ったのさ >>593
こいつが否定したんなら、それは事実だな >589は連続句読点と同類ってことでいい?
まあ、連続句読点本人の確率が75%以上だけどw >>597
じゃあ公共の場に公開するなってことよw 九州説が、連続句読点やザラコクですら擁護するのが信じられない
まあ、「日本人の感性・価値観からすれば」信じられないってことなんだけどさ
違う価値観なら、それが正しいのかねぇw 馬なしの戦で移動手段でも馬を使用しないなら
大軍を動かす食糧の備蓄移動も考えて、倭国大乱の
激戦地範囲は九州、中国地方限定 九州と畿内では遠すぎる
四国と九州では船団戦になってしまう 高地性集落に関する説が、二転三転しているから、
この辺はまだまた多数説が形成されていないよな
ひと頃は倭国大乱に対応する逃げ城のような位置付けだったんだが 関門海峡の両岸が付き合いのない別国というのは、どうやっても無理だぞ
そこを別の国と言い張らなきゃいけない九州説がかわいそう 魏略の記述と魏志倭人伝の記述が、大きく食い違う箇所がある。
「自分たちは呉の太伯の末裔だ(聞其旧語、自謂太伯之後)」という伝承を倭人は持っている、というのは魏略。
一方、倭人伝ではこの箇所は「倭人が中国に派遣する使節団員は昔から皆自分たちは大夫=領主階級だと称している(自古以来、其使詣中国、皆自称大夫)」となっている。
魏略と倭人伝では意味内容がまったく異なっている。
文脈からすると、魏略のほうが筋が通る内容だ。倭人伝のほうは文脈上筋が通らない内容となっている。
明らかに、倭人伝は魏略の文章を書き換えたのだと言える。
よくみると、魏略の「太伯(たいはく)」の発音と倭人伝の「大夫(たいふ)」の発音は似通っており、
倭人伝を読む人に魏略の「太伯」は誤りで、倭人伝の「大夫」のほうが正しいのだと思わせるように仕組んでいるようにみえる。
倭人伝はなぜ、このような改竄を行ったのだろうか。
司馬氏は卑弥呼の倭国と冊封を結ぶに際して、卑弥呼の都のある邪馬台国が会稽〜東冶の沖にあるので、
魏の敵国である呉を挟み撃ちにすることができるとアピールしたのだろう。
この考え方は、これまでに研究者によって唱えられている説の一つである。その可能性は高い。
そこで、倭人が「自分たちは呉の太伯の末裔だ」という伝承を持っているとする魏略の記述は、非常にマズイことになってくる。
敵国である呉人と倭人は同族だということになり、挟み撃ちに倭人が同意しないということになってくるからである。
司馬氏の功績を高く持ち上げる意図が倭人伝にはあり、
魏略が使った資料をそのまま倭人伝に採用することは、司馬氏の戦略の価値を疑わせる結果となるからである。
倭人伝の著者の陳寿は、司馬氏の孫が皇帝である西晋の官吏だったのだ。
倭人伝では、倭人が呉太伯の末裔であるとは、絶対に書けなかったということである。
それが、魏略と倭人伝では文章がまったく異なっている理由であると思われるのだ。 >>599
>接続元が同一地域ですw
>>602の
「>>599
証拠は?」
から逃げまくりww
九州説はこういう無能しかいないw DNAが違うな。
緑が縄文系が濃い地域で、薄黄が朝鮮系が濃い地域
https://i.imgur.com/pRgbUy1.png >>610
環濠は水を領土の境界に用いた典型的事例だろ。
海、河川や湖、水道などを境界としていた時代なんだから。 >>336
もう、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
大和説としての主張すらできなくなってる
最近東や長里でがんばってるのは類スレ主くらいしかいなくなったし
まあ、長里や東を主張する時点で類スレ主がトンデモだと確定するし >>611
このことからしても、大和じゃ呉を挟み撃ちにできるわけないから、倭は大和ではないな。
倭人伝が書いている倭は、やはり九州。 >>617
畿内説の場合は一渡海を千里とするんだろ?
畿内説の東の倭種の国はどこなんだよ?w >>338
>>万事ただ言い張るだけ 証拠は絶対に出さない それが大和説 <
>いま九州説が派手に自爆したぞ<
いま、類スレ主?かスレ主?が、派手に自爆したぞ。 >>534
>残念ながら、菊池の地名は3世紀まで遡らないから、それはガセネタ
根拠なし。
むしろ、魏志倭人伝を根拠として3世紀まで菊池の地名を遡れるとも言える。 >>537
>その吉野ヶ里は、大和の絵画土器を参考にして「推定」復元したものであって、
>九州に宮室、楼観、城柵があった根拠は存在しないんだけどねww
上物のデザインは流用だが、柱の太さや深さから、楼閣があったこと自体は確実だよ。 >>540
>もっと古い要素がある=その時代から存在するとしても、卑弥呼の遣使(複数回)の
>全期間において、そこに存在したことが確実なんだよww
そして郡使がたどり着いた痕跡が皆無なんだよね。
大和は魏志倭人伝の世界から隔絶されていたことがわかる。 >>342
>つまり 「倭が北部九州を指していることは明白」 なんかではない
誤りだ ということで、いいね?<
何だ?。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は北部九州だし、
新唐に拠って「日本」を称した国は「大和」だ。
「南→東」などの嘘付き騙しの、キミの誤りだったのだ。 >>556
>纏向遺跡が何もなかったところに、矢板で護岸を固めた大溝から建設が
大溝なんて奴国にもあるだろ。
>また、古墳時代の都市であるというのは、纏向古墳群がその領域内にあることから
その「大都市」には何棟あったの? >>556
>倭国最大の祭祀遺跡であることからそこに祭祀王がいたと推定するのが最尤であり、
倭国じゃないよね。
倭種の地域に過ぎない。 >>620
>畿内説の場合は一渡海を千里とするんだろ?
>畿内説の東の倭種の国はどこなんだよ?w
伊勢湾の渡海でも、伊豆諸島への渡海でもお好きなようにw
まあ、もとは、対馬、壱岐への渡海も含めて、倭国の列島内の海峡を渡海しても
みんな倭種で韓人の国などないという程度の意味だけれど
これを、倭種の国は別という九州説の解釈が単に的外れなだけ >>610
山口県までは九州と文化的に一体化しているから、いいんじゃないの? >>629
論文の何処に書いてあるんだ?
単なるお前の証明不可能な妄想だろ? >>616
>環濠は水を領土の境界に用いた典型的事例だろ。
よく読め
「付き合いのない別の国」というのは無理ww
北部九州にも大和から人が来ているし、纏向に大きな都市があることも伝わってる
その状態で、一地方の北部九州首長が倭王を名乗ろうとしても、
魏使が北部九州に来て倭国にはもっと栄えてるところがあると知ったら、
倭王にはなれないんだよ >>632
>北部九州にも大和から人が来ているし、纏向に大きな都市があることも伝わってる
誰に伝わっているの?
単に東の方から流れ者が来るなあくらいだね。
>魏使が北部九州に来て倭国にはもっと栄えてるところがあると知ったら、
知らないさ。
通訳は伊都の役人しかいない。 >>343
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は 、
「証拠は?」「何故?」などの「無限に続クリスマス議論」にすり替えて、
口先でごまかすのだね? >>622
>根拠なし。
熊本の菊池は、古い表記では鞠智であり、和名抄に久々知と訓すると書かれている
久々知を狗古智と書く理由はない
単なる「音が似てるかな」ってだけのことww >>638
後漢書時代の狗奴国は東だぞ。
この頃は九州島のみで100国。
魏の時代の狗奴国は南。
この頃の倭国は北部九州〜山陰の30国で、倭奴国は熊本〜南九州、四国、近畿の70国。 >>624
>そして郡使がたどり着いた痕跡が皆無なんだよね。
これが大間違いww
「超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土」とか
韓式土器も出てる
https://i.imgur.com/5F2PAL0.jpg
九州説が見ない聞かないをしてるだけw >>627
>倭国じゃないよね。
>倭種の地域に過ぎない。
バカだねぇw
倭種の人が倭人で、倭人の国が倭国だぞww
魏志倭人伝に書いてあるのは
女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種
魏略に書いてあるのは
度海千里復有國 皆倭種
「皆」倭種としか書いてない
別の国なんてどこにも書いてないんだよw
九州説のインチキ読みだ >>357
>九州説の側が日本語を話せないから畿内説の者と会話ができないのだよ<
大和説者側が、「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使うし、
「南→東」などの嘘付き騙しをするから、
九州説者や国民との会話が出来ないんだよ。 >>641
倭国大乱で本土から追い出されたんだろう >>362
>卑弥呼の共立とともに始まった古墳時代の最初の祭祀都市遺跡だからな <
「南≠東」などに拠って、×ね。 倭奴国と間違えてたな。
狗奴国だね。
魏の時代の狗奴国は南。
この頃の倭国は北部九州〜山陰の30国で、狗奴国は熊本〜南九州、四国、近畿の70国。 >>635
>単に東の方から流れ者が来るなあくらいだね。
そういう戯言は、畿内第V様式土器から順に北部九州最大国の奴国に
継続的に畿内様式土器が搬入され続け、比恵那珂遺跡群で模倣製作され続けることで
否定される
土器は長く土中で残るし、細かな様式も判別できるから、
「畿内と九州が没交渉」とかいう『九州説にとって核心的なご都合』が
完全に否定されてしまうんだよ
九州説は、
編年で死亡、土器の移動で死亡、短里がなくて死亡、径百歩の墓がなくて死亡
死にすぎww
オーバーキル状態w >>368
なぜ、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
理由を言わないんだ? >>642
超大型銅鏡を持った人たちが畿内を征服したのか。
胸熱だなw >>648
というよがお前の脳内ワールドw
井の中の蛙から見える空は直径何センチ?w 狗奴国、邪馬台国も知らなかった謎の巨大国家が東あり
狗奴国を邪馬台国と一緒に滅ぼし、その後に邪馬台国も
滅ぼして日本を統一したのであった。
終わり >>648
>「畿内と九州が没交渉」とかいう『九州説にとって核心的なご都合』が
ああん?
超大型銅鏡などの威信財は筑紫から畿内へ、土器などの上納品は畿内から筑紫へなんだろ?
もうどちらが王都か明白だろ。 畿内説の主張のほとんどは卑弥呼が死んだあとの話ばかりだねえ。 そして列島は、内行花文鏡を至高と仰ぐ博多湾文化により統一されたのでした。
めでたしめでたし。 九州説だけどさ、纒向かあまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
つくりが神社建築そのものだもの。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが特徴的だったはず。
だけれども、現地指揮官が一人いただけなんだよ。
伊勢遺跡みたいにそれが何棟も並んではいないから、ここに首長層が集まったということはない。
ここは王都ではあり得ない。
家臣に訓示を述べる建物はあっても、貴人達を迎える構造にはなっていない。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人が駐在していたんだよ。 >>370
>こういう文章がリテラシーの低い典型では? 「理屈が通っている」「噛み付いている」など
主観評価に終始しているからね<
こういう文章がリテラシーの低い典型だな。
「理屈が通っている」「噛み付いている」などが、
何故主観評価に終始している、と言える客観的な事実や根拠を述べていないからね >>370
>こういう文章がリテラシーの低い典型では? 「理屈が通っている」「噛み付いている」など
主観評価に終始しているからね<
こういう文章がリテラシーの低い典型だな。
「理屈が通っている」「噛み付いている」などが、
何故主観評価に終始している、と言える客観的な事実や根拠を述べていないからね そもそも前方後円墳を作った物部氏らのルーツが遠賀川流域だが、その源流はと言えば志賀島の海人族だよ。 >>653
このように
九州説の言うことは
なにひとつ証拠がない >>651
これ↓に答えてみろやww
>>586は嬉々として連続句読点の真似をしているようなものだが、
それって九州説の感性・価値観からすると、誇らしいことなのか?ww
まともな日本人なら、連続句読点がまともじゃないのはすぐに判断できるし
それと同等の行いをするのは恥ずべきこと、恥ずかしいことだと思うものだがなw
九州説が、連続句読点やザラコクですら擁護するのが信じられない
まあ、「日本人の感性・価値観からすれば」信じられないってことなんだけどさ
違う価値観なら、それが正しいのかねぇw >>656
エラの張った人も居たかもしれないけど、あれは古墳造営サービス支局だね。
本部は東海の何処かに眠ってるんだろうよw 狗奴国、邪馬台国を滅ぼした謎の東にある巨大国家は
国造りと呼ばれる神話となったとさ >>663
淡路→四国→九州→本州だからやはり畿内は最後だな。 >>661
チョンさん?
徴用工の件を先に片付けて下さいねw >>658
>何故主観評価に終始している、と言える客観的な事実や根拠を述べていないからね
口真似のオウム返しすると
事実を踏まえてないから
単なる嘘つきになるよ
まず
☆>ちなみに書いたのは自分ではないが、ちゃんと理屈が通っている文章に噛み付いている君の発言は、畿内説のリテラシーの低さを証明しているだけだと思う。
と言う文章が正しく引用されているだろ?
これを見れば
「理屈が通っている」と「噛み付いている」という評価が
客観的評価基準に全く言及していないことが判る
したがって上記☆が主観評価に終始していることが明らかだ
以上から
>>658の
>何故主観評価に終始している、と言える客観的な事実や根拠を述べていないからね
がまったくの「ウソ」であることが立証された
九州説はインチキだ >>640日本@名無史さん2019/10/21(月) 18:25:11.69
>>639
>表記が違うだけだよね
久々知は新羅からの渡来人の一族で、来歴も明らか。
本拠地は尼崎市西尼崎久々知にある。 >>377
>>大和は東南の中のはずれだね。<
>東南に含まれるので問題なし<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は新羅のほぼ南であり、
北部九州しかないし、
「東南」というよりははっきり南に近いから、大和は×。 魏志伝や漢書にも書かれていない
倭国の東にあった謎の巨大国家
狗奴国、邪馬台国が連合しても勝てない巨大な国家に滅ぼされた >>351
九州説のように相手の言ったことに延々オウム返しして喜んでるような日本人は居ないと思うよ >>371
倭人伝には最終的に邪馬台国は会稽東治の東の沖縄辺りと書いてあるので
書いてあることと実際の地理との一致はしない 畿内説論者が日本語苦手過ぎて討論にならないんだねw
わかりますw 「ラストサムライ」の映画で
トム・クルーズが騎馬武者に初めて出会う感じ
謎の巨大国家が邪馬台国に知れ渡った登場シーン 謎の巨大国家に邪馬台国が一瞬で滅ぼされて
その後、中国の歴史の書物から消えた >>275
魏の報告書の誤表記
邪馬台国を倭の極南界としたかった
当時は地磁気が90度ほどズレていたなど様々な理由が考えられるが
今現在魏志倭人伝の南を東に読み替えを畿内説の根拠とする向きは少ない
そして魏志倭人伝の南を東に向ければ行程が畿内に到達するのもまた事実 0867 名無しさん@1周年 2019/08/08 13:45:53
まだ珍獣鏡を魏鏡とか言ってるのか
・中国での出土ゼロ
中国の怪しい骨董市で見つかっただけ
・中国鏡で径20cmを超えるものは稀なのに
珍獣鏡は20cmのものばかり
・詩壇を形成し、文学を重んじた魏の皇帝が贈ったものとは思えないような酷い銘文
・皇帝の名の下に贈ったら皇帝の面子丸潰れの粗悪な鏡ばかり
・珍獣鏡は江南で製造された鏡
華北で製造されたのは内向花紋鏡など 邪馬台国を、一瞬で滅ぼした謎の巨大国家は
その後、朝鮮半島まで攻め上りましたとさ >>381
>>だから壱岐から東南の伊都国へ直行した。<
>倭人伝に書いてあることと決定的に違うが?
それでいいのか九州説<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た史料事実からの帰納的高確率的な推論をするしかなく、
100%の絶対断定など、殆どあり得ず、
同じ九州説の中でも、僅かな推論確率の差でしかない事は幾らでも有り得、
しかし、大和説は、史料事実のと乖離が極めて高く、
確率がほぼ0,5%以下であるから、ほぼ有り得ないので、×になる。 九州説は朝鮮式儒教思想にもとづいて定説の畿内説を攻撃し力で理論を変更しようと情念を燃やす学問修正主義者 >>383
>レッテル貼りに逃げるのはリテラシー弱者の証明 <
「南→東」などの嘘付き騙しをする大和説は、確率がほぼ0%であり、
議論敗者の証明。 >>678
前スレの奥山さんは最後の方、完全に基地外化してたよね。
誰が何を言おうと三角縁神獣鏡は中国鏡だというのが定説なの!
って40年前の学説を振りかざして完全に基地外。見苦しい。醜い。 >>678
三角縁神獣鏡
・洛陽の郊外の畑で1面出土その直径17cm
・そもそも原型の斜縁神獣鏡は中国では珍しくないもの
・景初、正始など魏年号の記銘
・銅出徐州 師出洛陽 魏の銅産出地徐州で洛陽の鏡師が作成と記銘
・蛍光分析器SPring−8による分析で不純物の銀・アンチモンが魏晋鏡のものと一致
・主に畿内の古墳から見つかる
なお三角縁神獣鏡に記銘されている景初三年や正始元年は
魏志倭人伝や梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に卑弥呼が魏に遣使し
魏の使者が倭国にやってきた年の魏の年号として記載されている その謎の巨大国家は東日本を一周して
舞い戻って来た、騎馬民族だったのだ >>683
最後のほうがキチガイになっているのはそちらの法ではないだろうか >>653
>超大型銅鏡などの威信財は筑紫から畿内へ、
これが嘘
平原の鏡はそこでバキバキに割って墓坑にばら撒く目的で適当に作ったものだから
どこにも伝わっていない
これを比べたら、どちらが技術水準が高いかひと目で分かるだろ?w
https://i.imgur.com/P9ZIvtJ.jpg >>662
>本部は東海の何処かに眠ってるんだろうよw
熱田神宮じゃないか? >>651
>というよがお前の脳内ワールドw
相変わらず「具体的な反論」は『ゼロ』ww
九州説は強がるばかりで本当に意味のある初期込み一つできない無能しかいないww
たくさん書き込みして荒らす連続句読点やザラゴキが
九州説の中ではヒーロー格なんだろ?ww その謎の巨大国家の正体は、畿内から東全てを
支配下に置いていた騎馬民族だったのだ >>668
>本拠地は尼崎市西尼崎久々知にある。
九州からの地名の移転じゃないの?
というか、畿内は半島からの入植者だらけなのか? 九州説は朝鮮独自の宗教思想の儒教
歴史は都合よく改ざんするものという歴史修正主義 >>654
>畿内説の主張のほとんどは卑弥呼が死んだあとの話ばかりだねえ。
ということにしないと困るから、
最新の編年研究を全て「でたらめ扱い」しないと困ってしまう九州説の惨めさw
結局、専門家で九州説が一人もいなくなったのは、
編年研究で古墳時代が3世紀に始まったことが確実になったからなんだよ
そこから目をそらし続けるしかないのが、邪馬台国の会の限界w 謎の巨大国家で畿内から東全てを
支配下に置いていた騎馬民族は
狗奴国、邪馬台国が連合を同時に滅ぼして
大陸に渡り朝鮮半島を蹂躙したのであった >>688
>これを比べたら、どちらが技術水準が高いかひと目で分かるだろ?w
バカだなあ。
後から作ったから精度が向上しているのは当然だろ。
それよりも、内行花文鏡をシンボルとして用いていることが重要なんだよ。
籠神社の饒速日の神鏡も内行花文鏡だし、九州も畿内も内行花文鏡が至高とされている。
時系列でも様式からも、畿内の古墳の大型内行花文鏡が紀元前からの九州の銅鏡文化の延長にあることは間違いない。
それに、平原の鏡が少し違う系列なら、卑弥呼が天孫族ではないという九州説の多元王朝説がそのまま補強されることになる。 畿内説は証拠の積み重ねで定説だからいくら九州説が嘘をでっち上げしても無駄
しかし九州説の目的は何だろな
やっぱ九州説が通れば日本支配とか宗教思想的なものが動機か >>684
・洛陽の畑から出土した証拠なし
出どころは怪しい骨董市
神獣鏡は圧倒的に華北より江南地方で出土。
・景初3年の鏡の銘文の酷さw
あんなの皇帝が送ったわけないw
学のない工人が勝手に作ったんだろ
・糞低レベルな考古学者()が書いた三角縁の組成に関するゴキブリ論文は新井のバルサンでウンコ紙と化す。奥山が糞論文リスペクトして草はえる
・畿内の4世紀以降の古墳から多く見つかる。
だから? >>695
>編年研究で古墳時代が3世紀に始まったことが確実になったからなんだよ
3世紀のいつかな?
中頃以降なら、それは九州の卑弥呼の死去による変化かもしれない。
しかし古墳の年代を10年単位で確定できる技術が存在しない以上、畿内説の主張は証明できない。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>383がまた拒否されたので、書き直し。
>レッテル貼りに逃げるのはリテラシー弱者の証明<
自然や歴史においては、殆どが不可知部分であるから、
「100%絶対断定」など条件設定をしない限り殆どあり得ず、
だから、知り得た史料事実や実態などからの帰納的高確率的な推論をするしかなく、
そして、九州説者の間での差異が、僅かな推論確率の差でしかなく、
いずれも帰納的高確率的な推論を維持している事になるが、
大和説は、始めから、
「南→東」などのような確率が0.5%以下の推論からスタートしており、
だから、最終的にも確率が0.5%以下であるから、×である事になる。 3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw 三角縁の鋳の部分の穴がきれいな長方形であるのは、
魏の職人の特徴であるという福永伸哉さんの話があったな。
やはりどうしても職人の癖がでるらしい。 >>392
「南≠東」などのいくつもクリティカルな指摘を受けた大和説が、
一つも答えられない状態になったら
「類スレ主」が呟き出したよ >>392
「南≠東」などのいくつもクリティカルな指摘を受けた大和説が、
一つも答えられない状態になったら
「類スレ主」が呟き出したよ >>700
鏡の所有者の研究者が発見状況を調べて
洛陽郊外の畑から見つかったと判明
当時の日本に漢字は伝わってないので
倭の工人が作ったというのは成り立たないし
そうなると中国の鏡師作というので銘文が酷いというのは九州説の目か脳があるいは両方とも腐っている証拠
少なくともゴキブリ論文とか脳の異常が疑われるおかしな言葉を発する者よりは
研究論文を書いた人の方が正常である事は間違いない
三角縁神獣鏡は黒塚古墳や椿井大塚古墳など
畿内の3世紀の古墳から見つかっている モンゴル帝国のように、王族の息子が各地域の王なり
倭の五王と呼ばれるようになった
しかし、親族同士の争いになり一人だけの倭王になりましたと 畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
九州は? >>705
>王都である筑紫へ
王都であるという伝承がない。
これが致命傷。
一方、纏向にも崇神以降の王都としての伝承しかない。
これも致命傷。
王都の伝承があるのは葛城しかない。 >>707
>やはりどうしても職人の癖がでるらしい。
洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。 @阿波 狗奴国、邪馬台国を滅ぼした、倭の東にあった謎の騎馬民族国家
朝鮮半島まで攻め上って暴れまくって貴重なものは
奪い取って来たんだろう
三角縁神獣鏡、それも戦利品だ ホケノ山や椿井大塚山の発掘で、鉄の量で畿内が九州を上回る。
これは鉄の親方のような人物の畿内大和入りを意味する。
それはもうニギハヤヒしかない。
何故ニギハヤヒが大和入りしたか、王都が畿内大和にあったから。
ただし王都は纏向ではない、葛城だ。
神武が住んだ場所が葛城であることは葛城に王権があったことを意味する。 >>399
>残念ながら、魏志倭人伝には「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあって
倭人は王の死に接して巨大な墳丘墓を作る文化だと書いてあるんだ<
卑弥呼の死に接してだし、
「巨大な墳丘墓」とは書かれておらず「大作冢徑百餘步」の墓だ。
>径百歩に当たる墓が古墳レベルになる時点で、前方後円墳のことが
書いてあるとみなさざるを得ない <
前方後円墳という形状は「冢」ではないから、×だ。
>歩で25メートルとかいうのは「ありえない」<
魏朝は、
始皇帝の「1歩=6尺」を否定し、周制の一寸千里に復古する事を決めたから、
「1里≒76.5km」であるから、「1歩≒25,5cm」だ。 >>399
>残念ながら、魏志倭人伝には「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあって
倭人は王の死に接して巨大な墳丘墓を作る文化だと書いてあるんだ<
卑弥呼の死に接してだし、
「巨大な墳丘墓」とは書かれておらず「大作冢徑百餘步」の墓だ。
>径百歩に当たる墓が古墳レベルになる時点で、前方後円墳のことが
書いてあるとみなさざるを得ない <
前方後円墳という形状は「冢」ではないから、×だ。
>歩で25メートルとかいうのは「ありえない」<
魏朝は、
始皇帝の「1歩=6尺」を否定し、周制の一寸千里に復古する事を決めたから、
「1里≒76.5km」であるから、「1歩≒25,5cm」だ。 >>706これと>>712これで九州説が嘘つきである事が証明されてしまうな >>717
>これは鉄の親方のような人物の畿内大和入りを意味する。
「忌部はん」 だよ。 @阿波 >>717
垂仁天皇(3世紀後半)の居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)の居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや) 倭の東にあった謎の騎馬民族国家
朝鮮半島まで攻め上って暴れまくって
身内が現地で死んだから墳丘墓作ってきたぜ >>403
>九州と本州を分けて考えるのが、そもそも頭が悪いんだよ
海から見た倭国だが、
どこが「お前の言う倭国=北部九州」の境だか指摘できるかい?・・・
これ、全部倭国なんだよww
当たり前のことが分からないから九州説なんてバカな与太話を信じてるんだよ<
ダメだ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭國の中心は北部九州だ。 今夜、孫達と外食して、税金が引き上げられたことを、初めて実感したが、あまり、大した影響ではないな。 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
NHKが、はっきりと、邪馬台国九州学の立場に傾けた発表を実行した可能性が高いな。。 >>722
おいおい時代をごまかすな。
崇神が3世紀中ころなんてありはしない。
崇神は4世紀前半の人物。
崇神絡みの人物でそれが分かる。
考古学的にも古事記の記述やその威容から行灯山で間違いない、建造開始は4世紀前後だ。 倭の東にあった謎の騎馬民族国家
朝鮮半島まで勢いよく攻め上って暴れまくってたら
匈奴って言う、地元の奴らと騎馬戦しちまったよ 宗教団体か政治団体かわからないけど
邪馬台国の会がバイト雇って書き込みさせているのを見るに九州説にはどうやらバックから資金が出ているようだ
九州説の背後にある団体は学問の理論は金の力で変えられると考えているのだろ >>407
>魏時代の日本地図が現代と違い正確じゃないので <
魏時代の日本地図なんて存在しない。
あるのは、魏志倭人伝での行程などの説明だけだ。
>魏志倭人伝時代の地図が見つからなければ 正確な場所は見つからない <
倭國の中心の場所は、唐会要倭國伝の「西北接百濟、正北抵新羅」などに拠って、
北部九州だ。 倭人は朝鮮半島で馬や馬主を捕獲し、騎馬軍団を作った可能性があるな、、、 >>710
洛陽で見つかったというのはこの鏡のことですか?
三角縁神獣鏡中国鏡説論者はみんないうことそっくり。
吾(作)明竟真(大)(巧)、上(倒写)
有竟母願(富)貴、原□虎右大倡亘、
貝主照東須質堅、赤誦三
字そのものも非常に不鮮明である上、
およそ文字として把握せず、
図案と考えているフシがあり、5字目の上は上下転倒、中国人には考えられないことで、
およそ漢字が読める人が書いたとは思えない
ものです。文書全体も、意味不明です。
要するに文字の分からない人が、真似て作製したとしか考えられません。
王趁意氏は「銘文は立派な隷書だ」
と言いますが、非常に疑問です。 >>735
倭の東にあった謎の騎馬民族が大陸に進出して
大陸の匈奴と言う、地元の騎馬民族と騎馬戦してたぐらい 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
炭素同位体比に対する空気シャワーの影響や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を、話題の材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。 >>710
>中国の鏡師作というので銘文が酷いというのは>九州説の目か脳があるいは両方とも腐っている証拠
わざと煙にまくこと言ってる?
詩の知識のない学のない中国工人が勝手に作ったんだよ。魏の皇帝関係ない。 やはり、奥山氏の背後には、北朝鮮政府があるのだろうか、、、 資料が検討され合理性が認められている理論には嘘や金の力が通じる余地はないよ >>740
魏は倭に銅鏡を下賜するに際しそれまでの決まりきった形式をやめたという文が全唐文という文書に載っている
なので形式的な文言ではないのが記銘されていると推定できる >>743
嘘つくなや
問題なく開けるぞ
都合の悪いものは見えないフリ九州説 縄文人は南米まで行った、日本の東には邪馬台国も
手出し出来ないような化け物国家があった
あるいは、支配下に置いて操っていた可能性も0ではない >>746
苦しいのうw苦しいのうw
前スレでも言ってたやんw なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか、、 >>747
あっ開けたわ
でも全然都合悪くないよ
奥山は研究者が調査して明らかにしたとか
吹いてたけど、談話から畑で見つかった可能性があるだけじゃねえかw 邪馬台国畿内説の宣伝は、宣伝係員が、嘘ばかりついてしまったので、NHKにも、愛想を尽かされたな。 >>750
全く苦しくないけれど
苦しいのはそっちでは? 西や南に邪馬台国や狗奴国があった
しかし東の勢力に滅ぼされた >>752
畑で見つかったのは確実
日本から行った研究者が吹雪のために場所確認は出来なかったというだけ >>757
平成の時代に、日本から持ち込んだ物じゃないの? わははははは @阿波 ローマが去った後に、バイキングがイングランドに上陸して
国を滅ぼしながら蹂躙したように、日本の東には化け物がいたんだよ >>757
「確実」と「可能性がある」は全然ちがう。
どっちが本当? >>755
吾作明竟真大好 上有聖人東王父西王母
師子辟邪口銜巨 位至公卿 子孫壽
我良き鏡を作った かつて東王父と西王母という聖人がいた
獅子、辟邪、口には巨(正邪を測る差し金)を銜える
(この鏡を所有すれば)位は公卿に至り 子孫に良いことがある 邪馬台国や狗奴国が九州にあったら
東の大勢力に小勢力は駆逐されるのは当然だろ >>761
鏡の所有者が日本から行った研究者に
鏡の発見場所の畑に案内しましょうかと言ったけど吹雪が酷かったから断念
そうなると所有者の話を信じるか信じないかで
別に嘘をつく理由も見当たらないから畑から発見されたというのは本当としていい >>764
平成の時代に、日本から持ち込んだ物じゃないの? わははははは @阿波 >>765
それは阿波の考古物や神社 わははははは 邪馬台国や狗奴国は大陸から近い範囲にあって
大陸の力を利用しようとして、大勢力から身を守ろうと
してただけだろ 3世紀に邪馬台国や狗奴国が九州にあったので、
東の小勢力は、邪馬台国か狗奴国に駆逐されるのは当然だったのだな。 >>766
>それは阿波の考古物や神社 わははははは
そんなにうらやましければ、すこし分けようか? わははははは @阿波 >>769
>九州2大勢力vs本州勢力
トンデモ同士、いい勝負! わははははは @阿波 >>771
四国は本州連合軍の属国済みだこの野郎! >>768
魏志倭人伝時代が終わった3世紀末に、狗奴国と投馬国が協力し、畿内の銅鐸王国を滅ぼし、巻向に銅鐸王家の怨恨が充満した死体や魂を、前方後円墳に封印したのではないのかな。 >>764
はっきりとした出土場所ははっきりしないという記事もあるけど?
そんな重要な出土物なのに、考古学者は吹雪が止んで再度考出土地を訪れて検証しようとしないの?
SFみたいに訪れようとしたら吹雪になるとか?
ごめん、なんか詐欺師の話みたいで信用できない。 >>775
日本の考古学者なんて子供の使いみたいなものだよ >出土場所ははっきりしないという記事もあるけど?
まるで漢委奴国王の金印みたいだなw そもそも洛陽発見三角縁神獣鏡の出土場所なんてどうでもええー
文様や細工跡から見て本物らしいし >>778
阿波はモモの種も出ないの?いっぱいあるから少しあげようか? 漢時に百余国を統治してた奴国が倭国大乱によって奴国と狗奴国に分列した
ここんとこを見落とすと、分裂前の奴国と分裂後の奴国を混同しておかしな結論に至ることになる >>781
>洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。 @阿波 >>782
そんな古い種もらってもしょうがないので、いりません! @阿波 倭国大乱って現代からしたら、特定地域だけの小規模の内乱だろ 九州説邪馬台国の会おそびその背後の団体は
人を雇って畿内説スレ荒らすのに今までいくらかけたんだろうなー
それにどうせ雇うならもっと頭いいの雇えばいいのに >>779
それは21世紀のご時世には通用しないw >>785
っじゃあそもそも出土場所の何が問題になるのかな 鏡なんてどうでもいい。
卑弥呼直結の唯一の物証は東大寺山古墳出土の「国宝」中平銘鉄刀。
卑弥呼が貰った五尺刀であれ、後漢霊帝から卑弥呼即位に贈られたものであれ、
卑弥呼擁立直前の王権に贈られたものであれ、和邇氏の墳墓から出たことに意味がある。
祖の和邇氏の系譜に卑弥呼もトヨもいるどころか、孝昭天皇のお母さんがトヨ、トヨ津媛。 >>787
阿波の大吉野川流域での内乱だね。 東西、大河を挟んでけっこう広いよ。 @阿波 >>786
じゃあやらねえ
卑弥呼が行ったと魏志倭人伝にある鬼道が行われた証拠である
桃の種やカエルの骨が出ない阿波は邪馬台国から脱落 × 和邇氏の系譜に卑弥呼もトヨもいるどころか、孝昭天皇のお母さんがトヨ、トヨ津媛。
〇 和邇氏の系譜に卑弥呼もトヨもいるどころか、和邇氏の祖・孝昭天皇のお母さんがトヨ、トヨ津媛。 たまに見に来るけど相変わらず相変わらずのバカな言い争いをしてるんだな
いつになったら邪馬台国は濃尾だという真実にたどり着けるんだろうか?
またしばし去る
再び舞い戻って来たときには少しは進歩してることを願う >>791
その鉄剣が出た古墳は和邇氏関係のものらしいぞ
卑弥呼とはあまり関係ないんじゃないかなあ >>792
戦国時代と比べたら、大名の内輪もめ程度じゃん >>793
>卑弥呼が行ったと魏志倭人伝にある鬼道が行われた証拠である
「丹」や「大麻」があるから、ご心配なく! わははははは @阿波 >>787
>>792
バカ言うな!
高地性集落の分布を見てみろ! 九州説が誹謗を始める時は
立場が悪くなってきた事を感じ始めた時 畿内説がいかに嘘の歌に成り立っている
カルトかわかりました
ありがとう 畿内説がいかに嘘の上に成り立っている
カルトかわかりました
ありがとう 九州説はいくら負けてるからって相手の誹謗はいかんのう >>801
>四国はどうでもええわ
歯が立たないからだね。 わははははは @阿波 >>801
ド素人さん?
高地性集落 分布 で画像検索してみな >>806
>畿内にもある
「忌部はん」 のおかげでね! @阿波 倭国大乱って言うから源平や関ケ原ぐらいかと思ったら
一握りの地方の戦いかよ、勢力無さすぎ たった今、僕は、6年ぶりに、この5ちゃんねるの邪馬台国畿内説のスレッドを覗いたが、やはり、6年前と同様に、邪馬台国畿内説が、完全に論破されてしまっているな。 >>807
だから、卑弥呼時代と戦国時代の勢力の大きさを比べてどうすんの? @阿波 畿内説のように整合性が取れて確立されている学問的理論には
嘘や金の力は通用しない
儒教脳九州説はよく覚えておきな >>815
日本は広いんだよ、別の大勢力も存在したんだな >>813
>倭国大乱って言うから
倭国乱だよ。 @阿波 >>814
仕方ないだろう
当たり前だろう
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだからな。 >>811
阿波と安房、忌部と印旛とか、あと紀の国も瀬戸内田舎と東国で共通してるよね
どちらがオリジナルだと思う?
皇室が重要行事である四方拝で東国を重視してることを上手く説明してみな >>698
>籠神社の饒速日の神鏡も内行花文鏡だし、九州も畿内も内行花文鏡が至高とされている。
それがただの誤解というか九州説のご都合による思い込み
籠神社の御神鏡は内行花文鏡というより連弧文鏡
そしてこの部分の手抜きが、平原1号墓の鏡では顕著
https://i.imgur.com/8LV6fKQ.jpg
こんなものが至高の鏡だというのは九州がいかに貧しいかを示すだけだぞ
>後から作ったから精度が向上しているのは当然だろ。
籠神社のものより新しいのに、進歩どころか図像の点から明確に退化しているのが平原の鏡ww
北部九州の衰退後の大量生産の彷製鏡をありがたがるしかないのが九州説の惨めさ >>817
>日本は広いんだよ、別の大勢力も存在したんだな
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い所に、「大勢力」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>819
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、NBAという物事で優勝する者達が、どのチームなのかを討論すれば良いな。。。 人間は本来的に真理を求めるもの
真理を求めずに嘘や金で糊塗しようとする九州説は本質的に非人間的 >>717
>何故ニギハヤヒが大和入りしたか、王都が畿内大和にあったから。
饒速日は記紀において、東の国に行ったきり王都に戻ってこなかったが、自分の王国を築いたと書かれている。
神武らはそれを頼りに筑紫を出て東に向かった。
なお、饒速日を祖とする物部氏の故地は、九州の遠賀川流域や、筑後平野とされている。
つまり九州北部勢の一部が畿内を開拓したことになる。 元々は東国が倭国の中心地だったのが、大陸間から最新兵器である金属武器が入ってきたことによって勢力図が激変したんだよ! 元々は東国が倭国の中心地だったのが、大陸から最新兵器である金属武器が入ってきたことによって勢力図が激変したんだよ! >>722
>>>717
>垂仁天皇(3世紀後半)の居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
>景行天皇(4世紀前半)の居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)
つまりは卑弥呼が死んでから畿内に纒向に宮が置かれたんだよ。
それまでの天皇家は饒速日の居候。 >>430がまた消されてしまったので、書き直し。
>>魏から見れば日本は南<
北緯35度位の洛陽の地表の接線方向に真っ直ぐ東に進めば、宇宙空間に行ってしまう。
洛陽から地上に接して真っ直ぐ東に出発して行けば、極から赤道は1万kmだから、
2万kmの南半球の南緯35度付近を通って、元の地に戻る。
洛陽から筑紫が1000km余りで、2万kmの約20分の1。
だから、35×2=70度の20分の1の3.5度。
北緯35度は釜山と京都。だから、釜山から南へ400km位の場所を通るから、
ほぼ九州島付近。
だから、沖縄や台湾にはならない。
また、洛陽から地表に沿って東へ行き続ければ、釜山や京都を通る。 >>822
>どちらがオリジナルだと思う?
もちろん、倭国(阿波)! 先日決壊した栃木「那珂川」と福岡の「那珂川」もね! @阿波 自説に都合の良いものだけ見て都合の悪いものは無視を決め込んでるから、いつまでたっても賢くなれないんだよ!w 奥山氏は、ロケットに括りつけられる問題を、解決出来たのだろうか、、、 >>823
纏向銅鐸民ジョクの負け惜しみだな。
、悔しいのう、悔しいのう まあ九州説は在日朝鮮人とかなんだろ
もうホントここまで普通の人間と思考のあり方が異質だとは思わんかった
バックにいるかも知れない宗教団体ってサタンでも崇拝する悪魔崇拝団体とかじゃないだろうな >>832
イザナギイザナミはいつの時代の話?
土葬したらすぐに土に還る温暖な地と土葬しても土に還るのに時間がかかる寒冷な地の間の話だよね >>733
理論で勝てないから相手を中傷?
畿内説に未来はないね。
確信したよ。 本州の大勢力を差し置いて
九州や四国相手に魏が特別扱いする訳がない
それとも本州は全て属国ですと言ったのかね 邪馬台国畿内説を宣伝している、北朝鮮在住の北朝鮮人の奥山氏が、間違った意見を発表しているな。
837日本@名無史さん2019/10/21(月) 21:26:11.60
まあ九州説は在日朝鮮人とかなんだろ
もうホントここまで普通の人間と思考のあり方が異質だとは思わんかった
バックにいるかも知れない宗教団体ってサタンでも崇拝する悪魔崇拝団体とかじゃないだろうな >>746
>>>740
>魏は倭に銅鏡を下賜するに際しそれまでの決まりきった形式をやめたという文が全唐文という文書に載っている
>なので形式的な文言ではないのが記銘されていると推定できる
今日もキナイコシの苦しい言い訳を目にする羽目になった。
文字が逆さまなのも決まり切った形式をやめたからなのか?
違うよなあ? >>843
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>787
>倭国大乱って現代からしたら、特定地域だけの小規模の内乱だろ
まあ、倭国そのものが博多湾沿岸だからね。 >>813
それでも応仁の乱のように歴史に残る戦いだった。
なぜならそこが王都だったから。 >>847
あなたが遠い魏の王様なら、小さな四国の島を特別扱いするか? >>842
何だよ図星だったのか
いやーまさか九州説の背後の団体はサタン崇拝団体だったとはなあ
フリーメーソンとかか? >>840
3世紀後半と言っているだろ。
卑弥呼は247年頃に亡くなっている。 >>854
卑弥呼の頃には巻向に巨大木造建築物があった事が確認されている
テンプレ参照 >>843
魏の使いが伊都まで来て、そこに滞在してそこの人たちに饗応されたので、そこに本州人がたちあっても、
「あんな格好の倭人もいるのか」で終わる。 ハワイが首都でアメリカ本土が属国と
言ってるようなものだ ほら九州説は下らない悪魔崇拝ごっこやってないで
スレ荒らしなんかに何の意味もないぞ 少数民族が他の大民族を支配する例は多数あるが
反乱によって駆逐されているのが歴史と言うもの 悪魔とかカルト畿内説とか、
畿内説論者は根っからのカルト好き 九州説のやってる事が悪魔そのものだろ?
そう言われるのもしょうがない 結果、邪馬台国は九州から日本海側沿岸部から上陸できる
地点に存在していた まあ九州説の背後は最近噂に聞くユダヤ団体とかの可能性があるな
歴史的経緯か何かで人類や歴史を腹の底から憎悪しているというのを聞く 九州沿岸部及び日本海側沿岸部のどちらかに勢力を
持っていなければ、安全な航海など出来ないからだ 邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。 九州説は鮮人儒教思想が起因と思っていたけど
朝鮮儒教が出来た経緯も怪しいな
朝鮮人の気質は実は儒教によるものというよりはもっと根深いものが存在している可能性もある 邪馬台国畿内説は、悪魔のような、共産主義風の独裁体制が、背後にあるのだったな。 勝手に長崎辺りと解釈したが
本州の謎の大勢力に駆逐されたけどね 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
炭素同位体比に対する空気シャワーの影響や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を、話題の材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。 明日は、新しい天皇の即位の儀礼が実行されるのだな。 >>440
>洛陽から東南真正面は石垣島。
まあ、倭人伝は、倭は九州を南に引き伸ばした巨大島にあると想定しているのだから、
水行30日と一か月の陸行で到着する邪馬台国は石垣島あたりでもいいんだけどね。<
倭人伝では「洛陽」の位置など書かれていないから、×。
倭人伝では、陳寿の位置推定として「計其道里當在會稽東治之東」と書かれていて、
ほぼ九州島付近を指し示している。 いわゆるユダヤ団体は共産主義など設立し戦争を扇動し
マスコミを押さえて世の中に混乱をバラ撒いているという
九州説の主体である朝鮮人や在日はどのくらい前になるのかわからないけど
そのユダヤ団体と連携しているのかも知れない >>874
勝手な地形解釈で長崎って言ってるだろうが >>873
邪馬台国畿内説という、天皇家に礼儀の悪い仮説を宣伝している者達が、妨害しないように、注意すれば良いな。 >>454
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘吐き騙しの大和説は、
やっぱり理由のない決め付けなんだな
体質なんだろう >>872
邪馬台国畿内説を宣伝しているプロ固定は、頭が悪いな。 長崎で邪馬台国が発見されたら
歴史にこの言葉を一緒に残して欲しい
「邪馬台国を発見したのは、この俺だ!」 >>457
>福岡から半径1000km以内に邪馬台国はある<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國から「百里」以内にある事になり、
双方の出口入口がほぼ接している事になる。 >>882
福岡から半径500km
道路がない時代に徒歩で一か月なら妥当だろう >>460
>畿内説は研究者の論文内容を根拠にしている
一人一作り話九州説とは違う<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの宗教思想文言であるし、
大和説学者は、全員「南→東」などの嘘吐き騙しであるから、
そんな詐欺師の論文など、全く信頼性がなく×であり、
九州説者は、史料事実からの帰納的高確率的な推論であるから、価値がある。 九州説の行動が不審すぎた
ほとんど意味をなさないようなスレ荒らしを資金を提供されてやっている
すなわち資金を提供している団体はいくらかけても畿内説を攻撃し続けできれば騙される人が生じてほしい
すなわちそこまで不条理に歴史を憎む
歴史を憎むと噂のユダヤ団体の行為そのものではないか
つまりそういう頭のおかしい団体は実際に存在していて
九州説の有様はその団体の行動理念そのものということ >>461
>福岡から1000km以内にある山々に囲まれた大きな川を探せ<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、×。 >>465
>当時の歩道を考えて福岡から500km以内でした<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、×。 畿内説か勝手に解釈しよう
安全な航海をするには勢力的に無理がある
徒歩で500km以内も最短でも当時では無理だな >>853
>「手抜き」は君の主観だよ。
こっちは具体的な図像を示した上で論じている
それに対して何も具体的な反論ができずに、「見ない聞かない認めない」で
逃げてるのが惨めで無能な九州説のお前
https://i.imgur.com/8LV6fKQ.jpg
内行花文鏡の八連弧の内側には「半円+三本線」と「鳥のような図像」があるものだ
それがない平原1号墓出土鏡は、真っ当な内行花文鏡ではない
これは主観ではなく事実だぞww ユダヤ団体は悪魔を崇拝していて
さらにどうやら悪魔とかそういう霊的な存在は実際に居るんじゃないかとも噂になってる
つまり九州説は人類とその歴史を憎むという悪魔のマネをしていると >>865
>まあ九州説の背後は最近噂に聞くユダヤ団体とかの可能性があるな
それはユダヤ団体に失礼w
邪馬台国の会の中の人やザラゴキ、連続句読点はまともな人間ではない >>527
はっきりしてるのは
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のデマ流し中傷犯人が、
名誉回復することは無い
ということだ < 畿内説
瀬戸内海経由は安全な航海では無いので却下
九州周りは南から東に行くので南に勢力がないので却下
日本海経由は船で行けないので却下
四国
勢力が小さすぎるので却下 >>530
>>「得体の知れない宗教」という一般的な形容詞的文言である事が、当たり前。<
>じゃ、なんで韓では「鬼神」と書くだけで「鬼道」と書かなかったのかな?
あなたの論理じゃ説明つかないよね <
「鬼神」も「得体の知れない神」という意味。 消去法でやっぱり長崎だな
坂が多いし、根城にするには丁度いい >>531
魏志倭人伝において、倭国一般ではなく邪馬台国について書かれていること
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。 まあ実際のところ悪魔というのが本当に居るのか
それともユダヤ団体が信念信仰で人類に害なすそういう虚像を作り上げてるのかはわからない
けど人を激しく憎み支配したがる団体が居るというのはどうやら本当らしい 自分の気に入らない奴は悪魔に仕立てあげた
朝鮮人にとっての日本人みたいなもんだよ そもそも今の鬼道を信仰してる人達は
どこから受け継がれて来たんだと言いたい >>533
「南≠東」などに拠って、始めから全部×。
個別論も、これまで全て否定済み。 >>537
>>NHKは宮室、楼観、城柵を押さえて、
その吉野ヶ里は、大和の絵画土器を参考にして「推定」復元したものであって、
九州に宮室、楼観、城柵があった根拠は存在しないんだけどねww <
甘木付近にあった。 九州説はどうにも人間とは思えんな
もしかしてマジの悪魔だったりして >>540
>纏向遺跡は4世紀半ばまでは存続しているから、
もっと古い要素がある=その時代から存在するとしても、卑弥呼の遣使(複数回)の
全期間において、そこに存在したことが確実なんだよ<
「南≠東」などに拠って、×。 鬼道と神道が似ているのは同じ土着信仰の名残かもしれない
勝手な解釈 日本人も言霊信じてるけどな
朝鮮人のは限度を超えてるけど >>543
>だってその九州説、博多説も熊本説も宇佐説も竹槍部隊全部足して50何パーセントとかなんだろ
単品で畿内説にかなうと思う? <
九州説は、九州島付近全体が女王國であり、ほぼ倭國。 中国人が神道の儀式を見て鬼道と呼んだんだよ。
榊に三種の神器を掲げて巫女が舞を披露したのだ。 >>549
>何のこと言ってるのかな?
「九州にはあるが畿内には無い」
が成り立たない、というだけの話なんだが <
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭国の別種の旧小国」などで、×。 >>556
>確定しないのが、卑弥呼の共立を契機としてという部分だけだが、
倭国最大の祭祀遺跡であることからそこに祭祀王がいたと推定するのが最尤であり、
その時代の祭祀王は卑弥呼であると魏志倭人伝に書いてある <
「南≠東」などに拠って、×。 卑弥呼の邪馬台国は九州北部を支配した勢力
男系の九州南部の狗奴国とは親類であった
本家本元は倭国外にあった畿内を拠点とする大勢力であった
終わり >>566
>倭国にて長き大乱の末
二国が手を結び畿内に都を作り
東防人の拠点とする <
「南≠東」だけでも、×。 >>570
>これ全部が倭国なんだよw<
倭國はほぼ九州島付近だから、×。 すでに気付いているだろう、ほとんど同じような話
謎の『サイバーパンクSPECIAL』コミックなどもw
伊達政宗のようなキャラが出てきたり、川崎区の南部のほうで・・・?
どういう事なんだろうw歌舞伎、何やら〜みたいなキャラ? どや!
女系九州北部支配
男系九州南部支配
本家本元、倭国と呼ばれない畿内を根城に本州を支配
どや!これで問題解決だろ 右目が無い?独眼、そういうキャラクター・・・、
ほんとーに何の話なんだろう
なぜかロトちゃんというキャラもいたり 世界や日本の歴史も親族や同族同士の争い
おい! なんか文句あるか?違うなら否定してみろ? >>917
九州北部はもっと面倒なんだよ。
玄界灘沿岸の天津国の筑紫王家では男系支配なんだ。
有明海沿岸の火の国の王家(天津神から見た国津神)は女系支配。
言うまでもなく日巫女は後者なんだが、その時代においては筑紫王家と肥国王家から共立され、王都である伊都にいたわけだ。 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 三国志も現在から見れば内戦だが
魏国も倭国もお互い内戦では無く国として捉えている
ヒントは「国」騙されるな >>927
>これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
>隠伎之三子島(天之忍許呂別)
おかしいと思わないのかな?ww
妄想だけじゃん 河伯、河童の大将〜なんでも良いんだけど
なぜ歌舞伎、芝居の話をしていたり・・・なぜか、ほとんど同じような 王母〜龍宮〜寒いな・・・・・?傾いた松の木?
そういう名前の家の写真なんだけど、何なんだろう 江戸時代で言うと幕府が倭で藩が国
大小様々でも殿と呼ばれる藩と言う国がありました ああ、隠岐は玄界灘ではないと。
まあ、出雲はやや離れているが倭国に含まれるので、隠岐も早くから倭国の一部として知られていたのだろう。
ただ、古事記を読み返すと、天御虚空豊秋津根別(本州)も天とつくなあとは思った。 そんな事より、三国志が日本で有名な理由は
魏志倭人伝からの影響で邪馬台国は長崎にあると
同じぐらい高い なぜか老婆も、某人物と同じような話をしていてたし、
町のほうまで薪、木?を売りに行き・・・とか、
炭売りが〜とか 当時、何の職だったのか知らないけど、これは家の話w
馬に乗り、歌舞伎や芝居ばかり観に行っていたり・・・、
もしかしてw本当に中国の人なのかな >>935
>まあ、出雲はやや離れているが倭国に含まれるので
この時点で倭国は対馬海峡国家だとか、九州のみが倭国だとかいうのが全部台なしww
九州説の人は整合性とか考えるだけの知的能力がないw
そして記紀の国産み基準なら、佐渡まで倭国だし
出雲と大和はひと繋がりだぞ?ww
糸魚川のヌナカワヒメも倭国のうちだろ? 信オンというスレがあったでしょ、
なぜかワタナベという人物の話wどこかの末裔?だとか なぜか家の老婆の家(旧姓、ワタナベ)談と同じ?
家の老婆は何かの末裔、後裔?だとは言っていないんだけどw
たしか町のほうまで薪、木などを売りに行ったり・・・、
炭などを。 家が・・・何かの家の人?みたいな事を言われたとかw
何の話なんだろう 王母〜・・・何やらの家?
なぜか二本松とか、そっちのほうの話をしているし、
泥棒のようなものに入られたのかな〜とか 『姥清水』
すえ〜、すえ〜と言っているし、
何かの末裔、後裔? >>940
後漢書によると倭国とは対馬海峡だが、日本側の資料ではもう少し広く、筑紫、出雲、越ということになる。
隠岐や糸魚川はその中に入る。
または九州については筑紫に加えて豊国、肥国ということになる。
狭義と広義の使い分けが面倒だね。 >>940
>出雲と大和はひと繋がりだぞ?ww
ここがおかしい。
記紀を読んでも、時代が違うんだよ。 信オンというゲームがあったんだけど、まだあるんでしょ?
通称、あごP(わたなべ)
何かの後胤だという話があるんだよなw
という書き込みがあったり、何回もあった・・・w 長崎を見たら大きい川がなかったので
邪馬台国は熊本にありました >>946
>後漢書によると倭国とは対馬海峡だが
離島か 末裔、後裔『後胤』だったかな?
老婆が言うには、家が・・・と言っていたり、どういう話なんだろう >>950
狗邪韓国から倭奴国の間。
王都は倭奴国。 偶然にしては・・・?という話ばかり
信オンというスレの話w
山ぶー(山中P、中山P)、そういう人物もいたり なぜ、朝鮮人達が、邪馬台国畿内説を宣伝しているのだろうか。。。 倭在韓東南大海中「後漢書」
倭人在帶方東南大海之中「倭人伝」
倭地は大海の中 老婆の家の話、牛を飼っていてという話もしていたり
どこそこに蚕を飼い、機織りをしている家があり・・・、 竹から生まれたモモタロウ?
なぜ同じ話なんだろう、ドラゴンボール? 『飯野町 UFO』
誰なのかわからないけど、
この周辺に住んでいたんだろう、
みたいな話だしな >>956
おそらく書くほどのこともない小さな漁港だったのだろう。
リアス式海岸のヘリにしがみついて小さな小屋が立ち並ぶようなところだったのだろう。
韓人には魅力がない土地で、倭国への渡しの基地としての役割しかなかったかもしれない。 シンクロ現象なのかな・・、
小椋佳の伝説とも言えるし、嘘ではない、本当の話w 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571681739/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>575
>現実から目を背けるなよ
学者はほとんど畿内説だ <
現実から目を背けるなよ
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和説学者はほとんどは、「南→東」などの史料事実の否定や曲解の・・・・詐欺師だ。 >>584
でも、その人たちにここの5chを一読してもらえば
「まともな日本語の通じる日本人」はみんな、九州説になるよ
だから、ここの「南→東」などの嘘吐き騙しのテンプレのは、
九州説は大嫌い >>587
>「だってその九州説、博多説も熊本説も宇佐説も竹槍部隊全部足して50何パーセントとかなんだろ
単品で畿内説にかなうと思う?」
に反論できないから、一人で一生懸命書いてるんだろ? 九州説、面白すぎるww<
九州説とは、卑弥呼共立の女王國とか倭国はほぼ九州島付近だ、という説なの。 >>580
>竹内なんとかって歴史講師が箸墓に潜入した時の話を思い出した。
あれは4世紀で間違いないって言ってたっけ。
そして円墳の頂上に上って行ったら白い服を来た先客が居たって話で笑ったよ。<
ふーん。 >>594
そんなこと言ってるから、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
信用失ったのさ >>611
>・・・倭人伝はなぜ、このような改竄を行ったのだろうか。
司馬氏は卑弥呼の倭国と冊封を結ぶに際して、卑弥呼の都のある邪馬台国が会稽〜東冶の沖にあるので、
魏の敵国である呉を挟み撃ちにすることができるとアピールしたのだろう。 <
これ、「東冶」という嘘吐き騙し文言を使ったから、×ね。 >>615
>DNAが違うな。
緑が縄文系が濃い地域で、薄黄が朝鮮系が濃い地域
https://i.imgur.com/pRgbUy1.png<
ふーん。 >>623
>>その吉野ヶ里は、大和の絵画土器を参考にして「推定」復元したものであって、
九州に宮室、楼観、城柵があった根拠は存在しないんだけどねww <
>上物のデザインは流用だが、柱の太さや深さから、楼閣があったこと自体は確実だよ<
「明堂」があった、という話があるね。 >>629
>伊勢湾の渡海でも、伊豆諸島への渡海でもお好きなようにw
まあ、もとは、対馬、壱岐への渡海も含めて、倭国の列島内の海峡を渡海しても
みんな倭種で韓人の国などないという程度の意味だけれど <
大和を意図しているから、「南≠東」などに拠って、×。 >>970
>九州説とは、卑弥呼共立の女王國とか倭国はほぼ九州島付近だ、という説なの。
つまり漠然とした一体性のない主張のジャンル名であって
説じゃないんだよ
「反」自民がいくら人数多くても、連合組めないかぎり政権取れないのと同じ
6割だーとか叫んでみても
意味ないってこと >>851
>あなたが遠い魏の王様なら、小さな四国の島を特別扱いするか?
私はともかく、魏の王様は「小さな四国の島」を特別扱いした。 以上。 @阿波 >>632
>よく読め
「付き合いのない別の国」というのは無理ww
北部九州にも大和から人が来ているし、纏向に大きな都市があることも伝わってる
その状態で、一地方の北部九州首長が倭王を名乗ろうとしても、
魏使が北部九州に来て倭国にはもっと栄えてるところがあると知ったら、
倭王にはなれないんだよ<
ダメだ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭国の中心は北部九州にあり、
「南≠東」などに拠って、大和は倭國の中心ではない。 >>637の訂正
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は 、
「証拠は?」「何故?」などの質問をして、相手の返事にまた質問をして、
「無限に続く質問合戦」の議論にすり替えて、
口先で、世間の目を暗まそうとするのだね? >>638
>九州と四国は狗奴国
本土は倭国 <
これ大和説を隠蔽して、こっそり「南→東」の嘘つき騙しの宣伝をしている詐欺投稿ね。 >>639
>熊本の菊池は、古い表記では鞠智であり、和名抄に久々知と訓すると書かれている<
ふーん。 >>643
>「超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土」とか
韓式土器も出てる <
倭国中心は、唐会要の「正北抵新羅」などに拠って北部九州であり、
大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
それらのお宝?も、東征将軍らが筑紫倭国からお宝として大和に持ち込んだもの。 >>957
それねー
発掘時の柱穴の写真みるといいよ
大急ぎで復元しちゃうあたりが怪しいんだよな桜井市教委 >>643
>魏志倭人伝に書いてあるのは
女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種
魏略に書いてあるのは
度海千里復有國 皆倭種
「皆」倭種としか書いてない 別の国なんてどこにも書いてないんだよw<
陳寿は、倭國と倭種とを違うものとして書き分けている。
魏略は、後代文書での注の逸文であり、
自己解釈に拠る書き換えがあったので、信頼性が低く、
魏略逸文の中での「度海千里復有國 皆倭種」の書かれた場所の信頼性がない。 >>648
>そういう戯言は、畿内第V様式土器から順に北部九州最大国の奴国に
継続的に畿内様式土器が搬入され続け、比恵那珂遺跡群で模倣製作され続けることで
否定される
土器は長く土中で残るし、細かな様式も判別できるから、
「畿内と九州が没交渉」とかいう『九州説にとって核心的なご都合』が
完全に否定されてしまうんだよ 九州説は、
編年で死亡、土器の移動で死亡、短里がなくて死亡、径百歩の墓がなくて死亡
死にすぎww オーバーキル状態w<
そういう虚言は、
筑紫の庄内は3世紀前半で、大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内1だ、
という事だけで、否定されてしまう。
という事は、時系列的に、
筑紫からの東征将軍らに拠って大和に筑紫の庄内が伝えられた、
という事になってしまうから。 >>652
>狗奴国、邪馬台国も知らなかった謎の巨大国家が東あり
狗奴国を邪馬台国と一緒に滅ぼし、その後に邪馬台国も
滅ぼして日本を統一したのであった。 終わり <
大和日本国が九州倭国を併合吸収継承したのは、白村江の後だから、×。 >>653
>ああん?
超大型銅鏡などの威信財は筑紫から畿内へ、土器などの上納品は畿内から筑紫へなんだろ?
もうどちらが王都か明白だろ。<
「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は北部九州にあり、
大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
更に「南≠東」などによっても、どちらが倭国の王都であったのか?は、明らかだろ。 >>660
このように
「南→東」などの史料事実の否定や曲解ばかりする嘘つき騙しの大和説の言うことは
なにひとつ証拠がない >>661
>嬉々として連続句読点の真似をしているようなものだが、
それって九州説の感性・価値観からすると、誇らしいことなのか?ww
まともな日本人なら、連続句読点がまともじゃないのはすぐに判断できるし
それと同等の行いをするのは恥ずべきこと、恥ずかしいことだと思うものだがなw
九州説が、連続句読点やザラコクですら擁護するのが信じられない
まあ、「日本人の感性・価値観からすれば」信じられないってことなんだけどさ
違う価値観なら、それが正しいのかねぇw <
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しをする大和説人種の方が、
信じられない。 >>668
>久々知は新羅からの渡来人の一族で、来歴も明らか。
本拠地は尼崎市西尼崎久々知にある。<
ふーん。 >>670
>魏志伝や漢書にも書かれていない 倭国の東にあった謎の巨大国家
狗奴国、邪馬台国が連合しても勝てない巨大な国家に滅ぼされた<
倭国は、白村江で唐に大敗して唐の官民の駐留が起きた時点で、
倭国の別種の附庸國であった大和日本国に、併合吸収継承されて、
亡国を免れた。 >>966
魏志倭人伝の用語では、集落を国と呼ぶんだよ。 九州説だけどさ、纒向かあまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
つくりが神社建築そのものだもの。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが特徴的だったはず。
だけれども、現地指揮官が一人いただけなんだよ。
伊勢遺跡みたいにそれが何棟も並んではいないから、ここに首長層が集まったということはない。
ここは王都ではあり得ない。
家臣に訓示を述べる建物はあっても、貴人達を迎える構造にはなっていない。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人が駐在していたんだよ。 >>672
>倭人伝には最終的に邪馬台国は会稽東治の東の沖縄辺りと書いてあるので
書いてあることと実際の地理との一致はしない <
会稽東治の東は、「沖縄辺り」ではなく、九州島付近であるから、×。 >>675
>「ラストサムライ」の映画で トム・クルーズが騎馬武者に初めて出会う感じ
謎の巨大国家が邪馬台国に知れ渡った登場シーン
>謎の巨大国家に邪馬台国が一瞬で滅ぼされて その後、中国の歴史の書物から消えた<
倭国は、白村江で唐に大敗して唐の官民の駐留が起きた時点で、
倭国の別種の旧小国の附庸國であった大和日本国に、併合吸収継承されて、
亡国を免れた。 >>676
>魏の報告書の誤表記 邪馬台国を倭の極南界としたかった <
魏の役人たちの実地の見聞計測記録が元になっているから、「誤表記」など殆どなかった。
>当時は地磁気が90度ほどズレていたなど様々な理由が考えられるが<
魏志の記録が現在地形とほぼあっているから、全く考えられない。
>今現在魏志倭人伝の南を東に読み替えを畿内説の根拠とする向きは少ない <
大和説者は全員、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師。
>そして魏志倭人伝の南を東に向ければ行程が畿内に到達するのもまた事実<
畿内なんて存在もしなかったし、「南≠東」などに拠っても、×。 >>677
「南→東」などの嘘付き騙しが大好きで、史料事実が大嫌い
キョクウ国粋の、人種差別戦争大好きの、、皇国史観宗教の大和説 >>998
あんたは九州説が頭のおかしな政治思想だと宣伝してるようなもんだ このスレッドは1000を超えました。
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