邪馬台国畿内説 Part520
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571565449/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 ◆FAQ 76,90に加筆 FAQ90
>魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。<
魏志韓伝の四方4千里を説明せよ 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、邪馬台国と狗奴国は戦争をしていたと記載があるので邪馬台国が福岡県
の南部、狗奴国が熊本県北部となり大分県日田地方は邪馬台国連合国家の1つとなる
ちなみに福岡県は筑紫、熊本県は肥国、大分県は豊国
白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国
しかし肥国と熊襲国は名前が被っている。そして熊襲タケルの墓は肥前河上にある。
おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で書かれている)。 >>679
>邪馬台国を、一瞬で滅ぼした謎の巨大国家は
その後、朝鮮半島まで攻め上りましたとさ <
邪馬台国なんて存在もしなかったインチキ騙し文言であるために、
この文が、筑紫倭国の話なのか>、大和日本国の話なのか?が判らず、
評価しようが無い、という事さ。 >>680の訂正
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た史料事実からの帰納的高確率的な推論をするしかなく、
100%の絶対断定など、「条件設定をしなければ」殆どあり得ず、
同じ九州説の中でも、僅かな推論確率の差でしかない事は幾らでも有り得、
しかし、大和説は、史料事実のと乖離が極めて高く、
確率がほぼ0,5%以下であるから、ほぼ有り得ないので、×になる。 >>76
九州は、倭国(阿波)による、鉄器被供給地域!
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>681
大和説は
キョクウ国粋の人種差別的殺戮戦争思想の皇国史観宗教に基いて、
史料事実からの帰納的確率的推論の九州説を攻撃し、
力で歴史推論を変更しようと情念を燃やす、
「南→東」などのように、学問破壊修正主義者 >>684
>三角縁神獣鏡
・洛陽の郊外の畑で1面出土その直径17cm
・そもそも原型の斜縁神獣鏡は中国では珍しくないもの
・景初、正始など魏年号の記銘
・銅出徐州 師出洛陽 魏の銅産出地徐州で洛陽の鏡師が作成と記銘
・蛍光分析器SPring−8による分析で不純物の銀・アンチモンが魏晋鏡のものと一致
・主に畿内の古墳から見つかる
なお三角縁神獣鏡に記銘されている景初三年や正始元年は
魏志倭人伝や梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に卑弥呼が魏に遣使し
魏の使者が倭国にやってきた年の魏の年号として記載されている <
これ、既に何度も反論済みの話の貼り付け。
「南→東」などの嘘付き騙しの、宗教や狂気に狂った人間は、何をするか?わからず、
薄気味が悪いから、放置。 >>694
>九州説は朝鮮独自の宗教思想の儒教
歴史は都合よく改ざんするものという歴史修正主義<
大和説は
キョクウ国粋の人種差別的殺戮戦争思想の皇国史観宗教に基いて、
史料事実からの帰納的確率的推論の九州説を攻撃し、
力で歴史推論を変更しようと情念を燃やす、
「南→東」などのように、学問破壊修正主義者。 >>76
遺伝子が隔絶して朝鮮人に近い地域が最も鉄器が多いという分布になっている
博多湾沿岸地域は3世紀になると畿内や山陰の日本の影響を強く受けるようになる
その左下の地域は8世紀でも異人とされた >>695
>>畿内説の主張のほとんどは卑弥呼が死んだあとの話ばかりだねえ。<
>ということにしないと困るから、
最新の編年研究を全て「でたらめ扱い」しないと困ってしまう九州説の惨めさw
結局、専門家で九州説が一人もいなくなったのは、
編年研究で古墳時代が3世紀に始まったことが確実になったからなんだよ <
筑紫の庄内は3世紀前半からで、
大和の庄内は撥型前方後円墳の石塚の庄内1の3世紀末から。
大和説学者らは、全員が「南→東」などの史料事実や史料実態の否定や曲解の、
嘘つき騙しをしている・・・・アホ集団であり、始めから全く信頼性がなく、
根拠にもならない。 >>84
いい加減、差別的発言はやめないか?
まともな学問的議論ができない。 >>697
>謎の巨大国家で畿内から東全てを 支配下に置いていた騎馬民族は
狗奴国、邪馬台国が連合を同時に滅ぼして 大陸に渡り朝鮮半島を蹂躙したのであった <
倭國王武は、宋への上表文で・・・、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
と書いた、という事は、宋もある程度、そういう実態を認めた、という事であり、
騎馬民族説よりも、倭王武の上表文の方が、信頼性が高い、という事なの。 差別をする側はそれを差別だと思はないという話は本当だった。 >>698
>バカだなあ。 後から作ったから精度が向上しているのは当然だろ。
それよりも、内行花文鏡をシンボルとして用いていることが重要なんだよ。
籠神社の饒速日の神鏡も内行花文鏡だし、九州も畿内も内行花文鏡が至高とされている。
時系列でも様式からも、畿内の古墳の大型内行花文鏡が
紀元前からの九州の銅鏡文化の延長にあることは間違いない。
それに、平原の鏡が少し違う系列なら、
卑弥呼が天孫族ではないという九州説の多元王朝説がそのまま補強されることになる。<
ふーん、成程。 >>699
九州説は史料事実証拠の積み重ねであり、十分人類の定説だから、
いくら大和説が、「南→東」などの嘘をでっち上げしても無駄
しかし大和説の目的は何だろな
やっぱ大和説が通れば「皇国史観日本支配」とか宗教思想的なものが動機か? >>89
異人と書かれているのは701年( 大宝元年)に制定された大宝律令
8世紀以前の3世紀に異人であることは差別でも何でもない
差別を武器に歴史を主張してはいけない >>91
「人類の」は言い過ぎ。
「日本人の」常識くらいかな。 >>707
>三角縁の鋳の部分の穴がきれいな長方形であるのは、
魏の職人の特徴であるという福永伸哉さんの話があったな。
やはりどうしても職人の癖がでるらしい。<
福永は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
嘘付き騙しの「思想宗教に狂った・・・・アホ学者」であるからダメであるし、
そもそも△は、魏朝の鏡ではなく、呉付近の発祥であり、
だから列島の大量の△は、呉系の楽浪鏡師らの渡来に拠る関与鏡である、
という大原則を隠蔽して、「魏の職人の特徴である」と言っているんだから、
恥の上塗りをしているアホ学者。 前スレ>947
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571565449/947
>ここがおかしい。
>記紀を読んでも、時代が違うんだよ。
古事記上巻大国主神
又其~之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲~、和備弖(三字以音)、
「自出雲將上坐倭國而」、束裝立時、片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰、
大国主の時代で、奥さんの嫉妬から逃げるためにヤマトの国に行くという選択が為されるくらい
出雲と大和は近い関係なんだよ
このルートは出雲と大和の往還路
https://imgur.com/63gSUj1 >>710
>鏡の所有者の研究者が発見状況を調べて 洛陽郊外の畑から見つかったと判明 <
0〜1枚で、列島の300〜500枚の△の存在説明になる筈がない。
△が盛行出来た呉系の、楽浪鏡師らの渡来関与があった事は、避けられない。
>当時の日本に漢字は伝わってないので
倭の工人が作ったというのは成り立たないし<
これも×。漢字は伝わっていたし、当然漢鏡もあったし読めたし、ホウ製鏡もあった。
>そうなると中国の鏡師作というので銘文が酷いというのは九州説の目か脳があるいは両方とも腐っている証拠<
類スレ主らの大和説者の脳がクルっている証拠。
>少なくともゴキブリ論文とか脳の異常が疑われるおかしな言葉を発する者よりは
研究論文を書いた人の方が正常である事は間違いない<
「南→東」などの嘘付き騙しをする研究者の脳が正常である筈がない。
>三角縁神獣鏡は黒塚古墳や椿井大塚古墳など 畿内の3世紀の古墳から見つかっている<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
いずれも4世紀の鏡であり、鉄鏃などの副葬から、東征毛人五十五國将軍らの墓。 >>712
>畿内で見つかっている鉄器・・・<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
ホケノも含めて、ほぼ4世紀の古墳の副葬品。
>九州は?<
東征毛人五十五國や渡平海北九十五國の征服軍にとっては必要品であったのであり、
九州は、すでに「西服衆夷六十六國」し終わっていて、必要が無くなっていた。 >>714
>洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作<
いずれも、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡である証拠。 >>86
>まともな学問的議論ができない。
九州説の人相手に、それは過ぎた願いだよ
九州説の人の書き込みの目的は歴史の真実の探求などの学術的動機とは無関係に
単に畿内説の議論を妨害するという荒らし目的だから >>720
>>706これと>>712これで、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
更に嘘つきである事が証明されてしまうな >>736
>洛陽で見つかったというのはこの鏡のことですか?
三角縁神獣鏡中国鏡説論者はみんないうことそっくり。
吾(作)明竟真(大)(巧)、上(倒写) 有竟母願(富)貴、原□虎右大倡亘、 貝主照東須質堅、赤誦三
字そのものも非常に不鮮明である上、 およそ文字として把握せず、
図案と考えているフシがあり、5字目の上は上下転倒、中国人には考えられないことで、
およそ漢字が読める人が書いたとは思えないものです。文書全体も、意味不明です。
要するに文字の分からない人が、真似て作製したとしか考えられません。
王趁意氏は「銘文は立派な隷書だ」と言いますが、非常に疑問です。<
ふーん。 >>101
根本的鬼間違ってるものに
感心するのは
馬鹿者 >>1逃げんなよ
FAQ90
>魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。<
魏志韓伝の四方4千里を説明せよ・・・・同じ鎮守、三国志だ 1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南にグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>104
>邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>104の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 FAQ90
>六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用<
魏志倭人伝や魏志韓伝もそうなの?
三国志読んだことが無い>>1は信用できんな
畿内説のご都合主義は論では無いな >>106
帯方郡
↓↓
↓東治≒投馬国(宮崎)
↓↓580q「水行十日(奄美大島)陸行一月」
東冶≒邪馬台国(12,000里)
中国大陸の道里の、倭国への転用か(納得)! >>108
三国志読んだことがないのは古田な
読まずにデタラメ書いた >>95
>大国主の時代で、奥さんの嫉妬から逃げるためにヤマトの国に行くという選択が為されるくらい
倭をヤマトと読む詐欺
それは筑紫に行ったんだよ >>99
九州をすぐ朝鮮と結びつけたがる畿内説に行っているんだよ。 >>104
>>106
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>756
>西や南に邪馬台国や狗奴国があった
しかし東の勢力に滅ぼされた<
滅ぼされていない。
邪馬壹國などは、(壹與の後の那珂八幡や一貴山などの王の後)、
317年頃に筑後〜久留米に遷宮して東海姫氏國が始まり、
倭王旨や倭の五王が輩出し、
(卑弥呼と同じ姫氏の)狗奴國は、松野氏姫氏系図では、東海姫氏國に合流し形。 >>112
弥生時代の北部九州は朝鮮半島の影響を強く受けている
佐賀県教育委員会は韓国国立中央博物館と共同企画展
「吉野ヶ里、日本の中の古代韓国」特別展を開催した
縄文前期の鬼界カルデラ大噴火後の標式土器の曽畑式土器は
朝鮮半島の時代区分である櫛目文土器とは表面の模様のみならず
粘土に滑石を混ぜるという点も共通している
常に朝鮮半島の遺物遺構、文化、遺伝子と比較しなければならない >>760
>ローマが去った後に、バイキングがイングランドに上陸して
国を滅ぼしながら蹂躙したように、日本の東には化け物がいたんだよ<
化け物はおらず、九州倭国の「東征毛人五十五國」があったの。 >>113すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>115
朝鮮との関係は畿内だって強いわけだが? >>117
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。 >>118
弥生時代や古墳時代初期までの畿内のどの遺物、遺構が
朝鮮との関係が強いのか具体的に比較しなければならない >>119
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>121
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐大帝国)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を転(悪)用し、
発音は九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト(×大和)王権」は、
超大国・唐との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(>定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>122
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>773
>四国は本州連合軍の属国済みだこの野郎!<
梁書に拠れば、6世紀に列島に独立的であった国として記録されているのは、
九州倭国と、足摺付近の侏儒國と、出雲の文身國と、越の大漢國と、大和の扶桑國と、
それ以東以北の「女國」だけであり、
四国は、侏儒國以外の、伊予も讃岐も阿波も土佐も、
倭国の「東征毛人五十五國」の小国群だった、という書かれ方だ。 >>803
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
口先騙しの口数誹謗を始める時は
立場が悪くなってきた事を感じ始めた時 >>808
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説は、
いくら負けてるからって、史料事実や史料実態からの批判ではなく、
相手への、口先口数での誹謗に切り替えてはいかんのう >>816
九州説のような整合性が取れて確立されている学問的理論には
嘘や金の力は通用しない
キョクウのタカ派殺人戦争狂の国粋皇国史観カルトの大和説者は、よく覚えておきな >>816
九州説のような整合性が取れて確立されている学問的理論には
嘘や金の力は通用しない
キョクウのタカ派殺人戦争狂の国粋皇国史観カルトの大和説者は、よく覚えておきな >>816
九州説のような整合性が取れて確立されている学問的理論には
嘘や金の力は通用しない
キョクウのタカ派殺人戦争狂の国粋皇国史観カルトの大和説者は、よく覚えておきな >>129
九州説が整合性とれてる?
ばかなww
w
w
博多湾岸説と熊本説で
整合性ぜんぜん取れてないだろ
バラバラだ
整合性もなければ確立もしてない
デタラメ言えば言うほど
九州説の信用が落ちるだけだ >>126
>「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説は、
>いくら負けてるからって、史料事実や史料実態からの批判ではなく、
>相手への、口先口数での誹謗に切り替えてはいかんのう
九州説のこの投稿
「史料事実や史料実態からの批判」が
ひとことも含まれてなくて
あなたは今ずっと典型的な
「相手への、口先口数での誹謗」
ばかり続けてますが?
? 今日も九州説がブーメラン自己撲殺か
みじめなもんだ >>103
>魏志韓伝の四方4千里を説明せよ
何度も説明してるだろうが!
お前の脳が無能すぎて覚えていられないだけだろ?
倭国上陸までが萬里、渡海1回一律千里で対馬海峡が渡海3回で三千里
引き算すると10000−3000=7000
これが帯方郡からの循海岸七千里
これを朝鮮半島西岸の南下に四千里、そこから東へ三千里と振り分けるから、
整合性を取れるように方可四千里って書いてあるんだよ
基本的に単純計算
そもそも、朝鮮半島南部も対馬も壱岐も正方形じゃないのに、方○○里が合ってるとかいう時点で
相当にオマヌケさまだって気付かないから九州説は無能の集まりって言われるんだww >>108
>魏志倭人伝や魏志韓伝もそうなの?
ちゃんと具体的に例示されてるんだから自分で確かめろ
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) >>111
>倭をヤマトと読む詐欺
倭をヤマトと読まないのは日本の歴史を無視するという宣言でしかないww
記紀を対比すれば、古事記の倭を日本書紀が日本と書いているのはすぐに分かるし
日本書紀の日本をヤマトと読むのは最初に注記がつけられている
日本書紀巻1 神代上
廼生大日本(日本、此云「耶麻騰」)。
>それは筑紫に行ったんだよ
馬で行くのだから地続きの倭=ヤマトだよww
すぐに筋の通らないデタラメを思いつきで主張するから、九州説はバカばかりだとバレるw なぜ奈良は、京都や大阪に比べてガラガラなのか・・・
>古都・奈良は歴史的建造物や名所の溢れる観光地だ。だが、奈良駅周辺は36万人都市
>の市街地でありながら、めぼしい商業施設もなければ、ホテルも少ない。そのため、
>観光客も、日中に奈良をまわって、食事や宿泊は京都や大阪に移動してしまう場合が
>多い。なぜ、こんなにも発展していないのか。『万葉集』研究の第一人者である奈良
>大学文学部・上野誠教授の回答とは―― MSN.ニュース >>122
>ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
ちゃんとした知識があれば、
倭→大倭→大和→日本と表記が変遷していて
それがすべてヤマトと読まれているのが
分かるんだがね
元々の地名がヤマトで、それにいちいち当て字を当てているだけ
山をヤマと読むのとある意味同じだ >>823
>籠神社のものより新しいのに、進歩どころか図像の点から明確に退化しているのが平原の鏡ww<
籠神社の鏡は、神宝として伝世が目的であったが、
平原は、副葬破鏡鏡片用であったから。 大阪の千日前あたりは大坂の陣後に刑場や墓地が作られたところだな
明治に墓地が移転して空地になっても買い手がつかず
見世物小屋ができて発展の基礎になった >>826
人間は本来的に自然や歴史の真理を求め、自己の生存の意義や理由を求めるもの
真理を求めずに、「南→東」などのような嘘や、
金や権力で糊塗しようとする大和説は、
本質的に非人間的 邪馬台国とはるか遠い倭国と呼ばれない
範囲外に大和国はあり、その遠く離れた畿内には
稲作が盛んで人口も多く畿内周辺の大豪族を従えていた
大和国の大勢力が存在しており勢力を拡大して
海を渡り朝鮮半島まで攻め上り、邪馬台国も九州したのであった >>77
邪馬台国の位置は会稽東治の東の沖縄あたりと魏志倭人伝に書いてるので
それで計算すると帯方より南1万2千里の1里は140mくらい >>81
戦時中の皇国史観では邪馬台国九州説だった
嘘はいかんなあ >>82
あれ
三角縁神獣鏡
・洛陽の郊外の畑で1面出土その直径17cm
・そもそも原型の斜縁神獣鏡は中国では珍しくないもの
・景初、正始など魏年号の記銘
・銅出徐州 師出洛陽 魏の銅産出地徐州で洛陽の鏡師が作成と記銘
・蛍光分析器SPring−8による分析で不純物の銀・アンチモンが魏晋鏡のものと一致
・主に畿内の古墳から見つかる
なお三角縁神獣鏡に記銘されている景初三年や正始元年は
魏志倭人伝や梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に卑弥呼が魏に遣使し
魏の使者が倭国にやってきた年の魏の年号として記載されている
のどの辺りに反論があったっけ >>143
皇国史観だとどうして邪馬台国九州説だったの? >>83
戦時中の皇国史観では邪馬台国九州説
九州説は歴史を修正しようとしても無駄 >>837
まあ「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
ヤクザ暴力団とかオームや京都アニメ犯人のような、
タカ派の唯我独尊殺人狂とかなんだろうなあ
もうホント、ここまで普通の人間と思考のあり方が異質だとは思わんかった
バックにいるかも知れない宗教団体って、
サタンでも崇拝する悪魔崇拝団体とかじゃないだろうな なぜ畿内の大和国は倭国に分類されなかったのか
畿内の豊かな土地を巡り、畿内の天下統一の世となっていたからだ >>91
また人類の定説とか嘘をつく
学会の定説は畿内説で
現在の歴史学はそれを元に話が進められる >>841
大和説者=唯我独尊殺人狂?の皇国史観崇拝宗教団体 >>96
畿内は存在しなかったと全く意味不明の妄言をいう九州説の
脳が正常である筈がない その後、畿内の天下を統一した大和国が治め
大和王朝となり、戦慣れした兵士引き連れて各地を支配していったのだ >>107
三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の有力証拠だから
敗北したのは九州説 大和王朝が邪馬台国と衝突した時には卑弥呼は既に死んでいた
圧倒的な武力の前に、邪馬台国は家宝を差し出し国譲りを受け入れ
大和王朝の有力な豪族の一角となったとさ >>129
魏志倭人伝には邪馬台国が沖縄辺りを示す会稽東治の東と書いている
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は九州北部から出港して南に向かうと書いている
邪馬台国までの距離帯方より南1万2千里は魏里でパプアニューギニアになる距離
畿内には大和という所に3世紀から前方後円墳や三角縁神獣鏡が存在
特に三角縁神獣鏡には魏と遣使の交通のあったとされる魏年号の
景初や正始が記銘され魏志倭人伝にある下賜された銅鏡と目されているなど
魏志倭人伝に関連する考古物は畿内に多くある
これらを九州説はどう整合性を取っているというのかな 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>155
>三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の有力証拠だから
時代遅れなんだよ。 >>843
>本州の大勢力を差し置いて九州や四国相手に魏が特別扱いする訳がない
それとも本州は全て属国ですと言ったのかね<
列島は、元々は、南方から北上した「沖縄からアイヌまでの旧石器や縄文人」の共存的地域。
そこへ、江南の米作民や燕の南の倭人や、半島や沿海州からの渡来民が交わり、
更に鮮卑などの白人系も渡来して来て混在し、
出雲が最初に巨大帝国を造ったが、
他に、東テイ人や倭や侏儒國人や越や、
毛人蝦夷やアイヌなどが独立的な地域國を造った。 大和王朝が海を渡り大陸で散々暴れまわり
唐とも一戦を交えるほどの巨大な国家と
邪馬台国は知っており、無条件降伏と言う
国譲りが行われこれが後の神話にとなる。 >>145
天皇が過去中国の臣下となる形の朝貢などしていたはずがない
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の女王卑弥呼とは皇室に繋がる大和の女王ではなく
九州にいた女酋長だった 出雲が降伏して、豊葦原中国の王となるために天孫が筑紫に降臨した。
大和が出る幕ではない。 >>159
日本の歴史学会に決まってるが
そんな事も知らないとはもしかして外国の方かな 時代が違うから皇国史観も変わる。
しかし、考古学的事実よりはるかに大和王権の成立を前倒しして、あたかも古来より存在していたかのように考えてしまうという点は共通している。 >>147
オウム返ししてばかりの九州説こそ
人間というよりはオウムに近い存在じゃないか >>167
皇紀は2600年とされているけれど
畿内説はその点魏志倭人伝や考古物や記紀を関連付けて
神武天皇の即位が事実なら西暦200年あたりで皇紀は1800年くらいじゃねと言ったりもしている >>856
>卑弥呼の頃には巻向に巨大木造建築物があった事が確認されている
テンプレ参照<
纏向の掘立柱建築の傍の土坑は庄内3であったから、3世紀末頃であった。
だから、卑弥呼の頃ではない。 >>164
筑紫でもねーぞ
記紀によれば天孫降臨は宮崎だ 九州説の思想背景はよくわからんな
とにかく一貫して歴史の否定
何かバレたらマズイ物でもあって必死に隠そうとしてるかのようだ >>859
>背後は悪魔崇拝団体 九州説<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の背後は、
唯我独尊のタカ派の殺人戦争肯定の、
ヤクザ暴力団やオームや京都アニメ犯人らのような、
キョクウ国粋皇国史観宗教の安部文科省や右翼のマスコミや学界教育界。 邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、魏志倭人伝時代までの韓国が、朝鮮半島内で倭人の領地と接していたことを、隠蔽するために、邪馬台国畿内説という嘘を、宣伝しているのだったな、、、 >>860
ほら「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
下らない悪魔崇拝ごっこやってないで。
口先言葉尻の曲解捏造のスレ荒らしなんかに、
何の意味もないぞ >>863
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のやってる事が、
悪魔そのものだろ?
そう言われるのもしょうがない >>174
倭の女王の3世紀の都が、4世紀前半の纏向という、朝鮮半島や対馬海峡とは、考古学的には、4世紀末の馬具が伝わるまでは、完全に無関係の場所だと設定することで、
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人は、魏志倭人伝時代までの韓国が、朝鮮半島内で倭人の領地と接していたことを、隠蔽しようとしているのだったね。。。 >>865
まあ[南→東」などの嘘付き騙しをどうしても止めない大和説者の背後は、
最近噂に聞く「キョクウの国粋テロ組織」とかの可能性があるな
歴史的経緯か何かで、人類や歴史を腹の底から憎悪しているというのを聞く >>177
そもそも、奥山氏の設定する帯方郡の地点からの八方位の方角では、纏向は、東だという可能性が高いのだったな。。。 畿内周辺の天下統一を果たした大和国は
大和王朝を設立し王を大王とした
戦慣れした兵士や他の豪族の褒美の為に西に進出して領土を拡大
九州まで行き邪馬台国と言う勢力に出会う、そのまま北上して
大陸との繋がりを遮断する為に朝鮮半島まで勢力を伸ばす
ついに邪馬台国無条件降伏 >>171
記紀によれば筑紫の日向だ。
「宮崎」などではない。 >>179
そうだね。。。
纒向の水平面から見て、纏向からの八方位の方角が、奥山氏の設定する帯方郡の地点が、例え、北西にあっても、
奥山氏の設定する帯方郡の地点からの八方位の方角では、纏向は、東だという可能性が高いのだったな。 >>169
神武が大和に定住したのが200年頃でも、饒速日のもとに居候していただけだし、饒速日さえも、列島を代表する倭国王権ではない。
倭国王権は博多湾沿岸にあった。 >>182
頭の悪い奥山氏には、理解できない可能性が高いな。。。 >>184
奥山氏は、5ちゃんねるのサクラのプロ固定なので、頭が悪いのだったな。。。 >>868
「南→東」などの嘘付き騙しをどうしても止められない大和説人種は、
単なる皇国史観儒教思想が起因と思っていたけど
それだけでは説明が付かず、出来た経緯も怪しいな
大和説者の気質は、実は儒教によるものというよりは、
他人を殺してもいいから自分一人が勝ち残って、世界支配したいという狂気のような、
もっと根深いものが存在している可能性もある >>186
5ちゃんねるのサクラのプロ固定は、頭が悪いのだったね。。 >>871
>勝手に長崎辺りと解釈したが 本州の謎の大勢力に駆逐されたけどね <
本州は×だね。
唐会要の倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は北部九州にあった。 新しい天皇が、即位の儀礼で、無事に、アマテラスオオミカミに挨拶を終えたのだな。。。 大和国は元々倭国に属していないので
大陸進出後に外国にだけ倭国と名乗ったのだった このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 >>875
いわゆるキョクウ赤報隊団体は、皇国主義などで殺人や戦争を扇動し
マスコミも押さえて世の中に混乱をバラ撒いているという
大和説の主体である安部自民文科省や学界教育界は、
どのくらい前になるのかわからないけど
その団体と連携しているのかも知れない このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 >>181
天孫降臨した山が高千穂な
高千穂峰(たかちほのみね)は、
宮崎県と鹿児島県の県境に位置する火山 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 >>883
>福岡から半径500km
道路がない時代に徒歩で一か月なら妥当だろう<
この男は「大和説者」である事をこっそり隠しているけど、
「南≠東」などに拠って、全く×だよね。」 >>176
悪魔はよく人間と動物が融合した姿で表される
オウム返しばかりでオウムなのか人間なのかよくわからないオウム人間ザラコクこそ
悪魔と言えるんじゃないの >>167
>時代が違うから皇国史観も変わる。
>しかし、考古学的事実よりはるかに大和王権の成立を前倒しして、あたかも古来より存在していたかのように考えてしまうという点は共通している。
考古学的事実よりはるかに大和王権の成立を前倒し?
そんな「考古学的事実」がどこにあるの?
ヤマト王権の成立が三世紀前半に遡ると言っているのは考古学者なんだが?
しかもそれが天皇家や大和朝廷とは直接的に繋がらないとしているのに、どこが皇国史観なわけ?
九州説のイチャモンには論もヘッタクレも無いようだな >>885
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の行動が不審すぎた
ほとんど意味をなさないようなスレ荒らしを、
資金を提供されてやっている、のではないか
すなわち資金を提供している団体は、いくら、お金をかけても、
九州説を攻撃し続け、できれば騙される人が生じてほしい
すなわちそこまで不条理に、史料事実や歴史を憎む
天皇家否定の歴史を憎むとハローワーク、噂のキョクウ団体の行為そのものではないか
つまりそういう頭のおかしい団体は、実際に存在していて
大和説者の有様は、その団体の行動理念そのものということ >>169
>皇紀は2600年とされているけれど
>畿内説はその点魏志倭人伝や考古物や記紀を関連付けて
>神武天皇の即位が事実なら西暦200年あたりで皇紀は1800年くらいじゃねと言ったりもしている
それ、どこの畿内説?
テンプレには「神武天皇」も「皇紀」も
ぜんぜん出てこないが? 倭国の邪馬台国は九州にあった
倭国外に大和国は畿内にあった >>888
>畿内説か勝手に解釈しよう
安全な航海をするには勢力的に無理がある
徒歩で500km以内も最短でも当時では無理だな<
何だか変な文だが、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>207みたいな
くだらない中傷しか出来ない九州説って
ほんと末期 >>210
>倭国の邪馬台国は九州にあった
>倭国外に大和国は畿内にあった
このように
・理由も言わず教条主義で決めつける
毎日飽きもせず九州説がやってること やっぱ九州説の背景はユダヤロビー団体とかそんなんかねえ >>206
>しかもそれが天皇家や大和朝廷とは直接的に繋がらないとしているのに、どこが皇国史観なわけ?
などと妄言を吐いており 畿内の大和王朝が倭国と呼ばれていた
九州地方の邪馬台国を結果潰すんだから
結果オーライだろ >>209
畿内説が畿内説に突っ込む珍しい場面である。
希少な絶滅危惧種である。 博多湾沿岸の筑紫倭国が有明海沿岸の火の国邪馬台国を征服したんだよ。
大和は後発の後進国。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。 >>217
畿内説が皇国史観だという
デマ流した九州説が突っ込まれてるだけだろ >>889
>内行花文鏡の八連弧の内側には「半円+三本線」と「鳥のような図像」があるものだ<
籠神社の二つの鏡には、そんな模様が見つからんぞ。 >>219
それ、ただの空想だよな
理由が書いてないもの >>890
>ユダヤ団体は悪魔を崇拝していて<
ホンマかいな?。
>さらにどうやら悪魔とかそういう霊的な存在は実際に居るんじゃないかとも噂になってる<
ホンマかいな。
おそらく、キョクウの皇国史観の大和人種に特有の、人種差別的な偏見発言だな。
つまり大和説は、人類とその歴史を憎むという悪魔のマネをしていると >>203
ゴミが、埋め立てという迷惑行為をしてるのだな
九州説とは困った連中だ 島国だから倭国の勢力はこの程度だろうと
魏も疑わなかったんだろう、実際は
東に謎の大和と言う大勢力が潜んでいた >>891
>>まあ九州説の背後は最近噂に聞くユダヤ団体とかの可能性があるな<
>それはユダヤ団体に失礼w
邪馬台国の会の中の人やザラゴキ、連続句読点はまともな人間ではない <
この男は、何を言ってんだ?。
「まあ九州説の背後は最近噂に聞くユダヤ団体とかの可能性があるな」と言ったのは、
大和説者の発言ではないか。 >>192
「南→東」などの嘘付き騙しの反省をしない大和説者は、
たぶん悪魔だよ悪魔 >>225
その時点では磐余彦とやらが饒速日のもとに居候していただけの一地方。
饒速日の帝国は筑紫の本家を凌駕する力を貯めつつあったけどね。 神武は倭国大乱により筑紫にいられなくなり都落ちした。
それが神武の年代がおよそ200年頃ということが示す歴史の真実なのだろう。 >>896
悪魔の真似とて「南→東」などの嘘付き騙しをすれば、
それ即ち悪魔なり >>137
>元々の地名がヤマトで、それにいちいち当て字を当てているだけ
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>901
自分の気に入らない奴は悪魔に仕立てあげた
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者にとっての、、九州みたいなもんだよ >>908
「南→東」」などのような信じられない嘘つき騙しをする大和説者は、
どうにも人間とは思えんな
もしかしてマジの悪魔だったりして >>181
>記紀によれば筑紫の日向だ。
筑紫ってどこ?
日向ってどこ? @阿波 >>231
実力者が住み着けば前の環境と
似たような物を作らせ威厳を保ちたい感じだな >>183
>倭国王権は博多湾沿岸にあった。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い博多湾沿岸に、「倭国王権」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>911
日本人も言霊などを信じてる人がいるけどな
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者のは
限度を超えてるけど >>209
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>915
ウルセェぞ、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説悪魔 >>917
>卑弥呼の邪馬台国は九州北部を支配した勢力
男系の九州南部の狗奴国とは親類であった
本家本元は倭国外にあった畿内を拠点とする大勢力であった 終わり <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説を意図しているから、「南≠東」などに拠って、×。 結論、倭は最初は魏が付けた日本の一地方の呼び名
しかし大和王朝の勢力が大きくなると
海外から大和国なのに邪馬台国の倭国と呼ばれて、気分が悪いから
日本と改名 >>181
>記紀によれば筑紫の日向だ。
筑紫ってなに?
日向ってなに? @阿波 >>241
>結論、倭は最初は魏が付けた日本の一地方の呼び名
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>921
>どや!
女系九州北部支配
男系九州南部支配
本家本元、倭国と呼ばれない畿内を根城に本州を支配
どや!これで問題解決だろ <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和のつもりだから、「南≠東」に拠って、×。 >>924
>これにて邪馬台国問題 一件落着になり〜〜<
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
一件落着せず、×。 >>243
大和王朝は小規模な国土を倭国と呼ぶ
海外にムカついて、大和王朝を倭国と呼ぶなって改名したんだろ >>246
倭(阿波)から奈良大和へ遷都し、新たに都を建てたので、大いなる倭(大倭)としただけ! @阿波 >>247
四国の豪族が大和王朝に取り込まれただけだろ 記紀は創作や歪曲、矛盾を含んでいるけれど、その意図を汲んで原型を復元しなくてはいけない。
単に「崇神から実在」とか単純な話ではない。
神武東征だって、考古学的な西高東低からすれば自然なことだ。
ただし嘘があるとすれば、それは年代が前倒しされ、遥か昔から大和が列島の盟主であったかのように見せかけていること。
それは旧唐書と新唐書の食い違いに端的に現れている。
つまり、九州北部の倭国を畿内の日本国が併合したのに、その事実を言いくるめて隠しているのだ。
そう考えると、記紀の謎の多くが氷解する。 >>248
>四国の豪族が大和王朝に取り込まれただけだろ
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>246
改名したのは670年、白村江における敗戦の数年後だ。
筑紫の倭国の崩壊を受けて、復興の過程においてである。 >>250
四国にも王都がるのは当然
豪族は王と名乗るか >>984
>それねー
発掘時の柱穴の写真みるといいよ
大急ぎで復元しちゃうあたりが怪しいんだよな桜井市教委<
ふーん?。 >>992の訂正
>魏志伝や漢書にも書かれていない 倭国の東にあった謎の巨大国家
狗奴国、邪馬台国が連合しても勝てない巨大な国家に滅ぼされた<
倭国は、白村江で唐に大敗して唐の官軍の駐留が起きた時点で、
倭国の別種の附庸國であった大和日本国に、併合吸収継承されて、
亡国を免れた。 >>251
>筑紫の倭国の崩壊を受けて
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>996の訂正
倭国は、白村江で唐に大敗して唐の官軍の駐留が起きた時点で、
倭国の別種の旧小国の附庸國であった大和日本国に、併合吸収継承されて、
亡国を免れた。 >>257
王家が廃されたのだから滅亡だよ。
その領土は畿内日本国が継承した。 >>158
>副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
カチ割られて埋められてるブツが
「王位の証」だと決めつけるなんて
九州説って頭おかしいだろ
あきらかに >>215
>>しかもそれが天皇家や大和朝廷とは直接的に繋がらないとしているのに、どこが皇国史観なわけ?
>などと妄言を吐いており
ひとことも反論できない九州説は
うそつきと決定されました >>260
その通り。
しかし、目糞鼻糞を笑う。 わははははは @阿波 話が脱線したが邪馬台国の畿内説は無いな
鬼道は神道を女系の卑弥呼が行っていただけで
倭国内では男系が同じ事をやっていたのだろう
海路で大陸と結べる地域は
やはり九州北部及び日本海沿岸地域だな >>260
弥生時代においては三種の神器は副葬品として出土する。
破鏡は古代日本の文化の一つだ。
畿内の古墳でも破鏡やそれにより形見分けされたアクセサリー加工された破片が見つかる。 >>263
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州北部に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 八咫の鏡を作らせたのが卑弥呼なら、卑弥呼の死を悼んで破鏡を行うのは矛盾しない。
記紀ではアマテラスが八咫の鏡を作らせたとあるが、アマテラスのモデルが卑弥呼だという説もある。 ただし、他の勢力が強くなると
邪馬台国も防備を固める為に移動した恐れがある、
さらに九州を南下したのだろう >>264
>弥生時代においては三種の神器は副葬品として出土する。
銅鏡も鉄器(鉄剣)も勾玉も、ぜんぶ倭国(阿波)の特産品! @阿波 >>267
他の勢力といっても、そもそも卑弥呼が火の国の女王であれば、狗奴国と統一すれば良いことになる。
それが完了したのが壹與の時代なのだろう。
倭国の中心は太宰府または高良に置かれただろう。 そこで邪馬台国の卑弥呼の寿命を考えよう
せいぜい長生きしても50歳ぐらいか
50年しか生きていない卑弥呼の邪馬台国を探すのは
まぁ無理だな 太宰府は総延長50キロメートルに及ぶ巨大な羅城を持つ大要塞都市だったことがわかってきた。
これこそ、東夷最大の強国であった倭国の王都にふさわしい。 邪馬台国では代々卑弥呼と名乗っていた
可能性も無くはない >>270
卑弥呼の即位を伝える記事は190年の新羅本紀だったか?
弥生時代の倭人の寿命は50年くらいだったらしいが、人種は今と同じだから、他人と接触せず、感染症と戦役を免れる立場であれば90歳くらいまで生きてもおかしくはない。 >>266
>八咫の鏡を作らせたのが卑弥呼なら、卑弥呼の死を悼んで破鏡を行うのは矛盾しない。
結論言うだけで理由はまったく言わないんだな
さすが九州説 >>84
>遺伝子が隔絶して朝鮮人に近い地域が最も鉄器が多いという分布になっている <
関係がない。朝鮮人が多い、という訳でもない。
列島は旧石器末から南方からの渡来の縄文人がいて、
縄文期には江南や燕の南や半島や沿海州などからの渡来民がかぶさり、
その内、九州に来た江南の呉王夫差の遺民らや、燕の南の倭人や、
徐福ら?や、半島人などが、新規渡来民になった。
>博多湾沿岸地域は3世紀になると畿内や山陰の日本の影響を強く受けるようになる<
これも×だ。
九州は、農耕や金属器や文字をもった弥生人が渡来し、
それまで栄えた出雲を抑えて列島の最先端に栄えて、まず「西服衆夷六十六國」をし。
「自昔・・・東征毛人五十五國」や「渡平海北九十五國」するまでになり、
瀬戸内から南関東付近まで附庸國化して栄えた。
勿論、畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>その左下の地域は8世紀でも異人とされた <
8世紀に、「白村江で大敗した九州倭国」を、大和日本国が併合吸収継承して、
大和は、記紀において「倭国の存在を隠蔽し、その歴史を隠蔽盗用造作しよう」とし、
逆に倭国を差別蔑視しようとしたから。 >>271
>これこそ、東夷最大の強国であった倭国の王都にふさわしい。
自衛隊基地多いから北海道が日本の首都だと言い張る脳レベル
つまり、おばか >>276
理由を説明できない九州説は毛が三本足りない >>278
大陸から対馬経由で海上ルートで行ける範囲 >>264
>弥生時代においては三種の神器は副葬品として出土する。
銅鏡も鉄器(鉄剣)も勾玉も、ぜんぶ倭国(阿波)の特産品! @阿波 長旅の海上ルートで何度も渡航してる間に
卑弥呼の寿命は消えていくのですよ
対馬に近い海上ルートなら話は別だ >>92
>異人と書かれているのは701年( 大宝元年)に制定された大宝律令<
大宝律令は、どこの人々を「異人」と書いたの?。
>8世紀以前の3世紀に異人であることは差別でも何でもない<
逆。大宝律令の後なら「異人」と呼ぶ根拠がある事になるが、
大宝律令の前では、「異人」と呼べば、人種の差別になってしまっている。
差別を武器に歴史を主張してはいけない。 >ぜんぶ倭国(阿波)の特産品!
このタイプは紛れもなく、K国だな。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 >>286
私はどちらかと言えば、特定非営利活動法人阿波国古代研究所 代表者氏名 笹田 孝至氏派 @阿波 四国は九州か本州の属国で
炭鉱堀が活躍した地域だろな >>291
四国に炭鉱なんてないんだけどwww @阿波 どうせ罪人が四国に送り込まれて資源を掘ってたんだろ 壹岐からの渡海は方角が書いてないので、
東に渡航して福津辺りに上陸し、宗像ルートで田川〜中津・・、で大正解という説は、
苦心の末、阿波が初めて唱えたと、本人は秘かに自慢しているんだろうな。
しかしこの説は、既に昭和の40〜50年頃に某小説家が提唱して、まもなくお蔵入りになった古い説だ。
壹岐から渡海の方角が書いてないというのは、大発見のように思えるが、
その直前に、壱岐の島民は南北市櫂するという文が登場しており、この一文で渡海の方角を暗示しているわけである。
このあたりが陳寿のわざの奥深さであり、千数百年を経てもなお愛読されるゆえんであろう、、。 >>295
>壹岐から渡海の方角が書いてないというのは、大発見のように思えるが、
精一杯、南へ漕ぎだしても、東へ流されるからね。 @阿波 国の繁栄や国民の幸せや世界の平和を祈願する天皇を敬愛することと、皇国史観とは、無関係だということを、朝鮮人の奥山氏には、理解出来ないのだな、、、
2019/10/22(火) 19:01:41.53
>>289
九州説は、皇国史観の天皇家崇拝者 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 ザイオン・ウィリアムソン氏が、重大な傷を負ったのだろうか、、 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、邪馬台国九州学のスレッドに、悪魔のような悪質な荒らし行為を仕掛けて、破壊してしまったのだったな。 >>306
破綻した邪馬台国畿内説は、悲惨だな、、、 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 畿内には城壁を持った都市はないのでは?
卑弥呼の宮城は柵や楼閣があり、鉄器を持った兵が守っていたはず。
そんな痕跡は少なくとも纒向にはない。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 ザイオン・ウィリアムソン氏が、負った、重大な傷とは、どのような傷なのだろうか、、、 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 ザイオン・ウィリアムソン氏が、負った、重大な傷とは、どのような傷なのだろうか、、、 NBA開幕戦という物事が、盛り上がらなくなるのではないのかな。。 道教の半島集団が海人族の手引きで勢力を求め畿内に入り込んで来 たんだろ、それ以外に突如巨大古墳は考え難い、彦巫女と共立の体制は三韓の在り方だよ。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 国の繁栄や国民の幸せや世界の平和を祈願する天皇を敬愛することと、皇国史観とは、無関係だということを、朝鮮人の奥山氏には、理解出来ないのだな、、、
2019/10/22(火) 19:01:41.53
>>289
九州説は、皇国史観の天皇家崇拝者 ザイオン・ウィリアムソン氏が負った重大な傷が、NBA開幕戦という物事の盛り上がりを、急激に、破壊するのではないのかな、、、 邪馬台国畿内説が負った重大な傷が、邪馬台国が何処にあったのかという討論の盛り上がりを、急激に、破壊するのではないのかな、、 ザイオン・ウィリアムソン氏が、負った、重大な傷とは、どのような傷なのだろうか、、、 ザイオン・ウィリアムソン氏が負った重大な傷が、NBA開幕戦という物事の盛り上がりを、急激に、破壊するのではないのかな、、、 このゴミのスレッドで、5ちゃんねるを活発にしようとするために、邪馬台国畿内説を宣伝している者は、古墳に埋まっている天皇の祖先に対して、礼儀が悪いので、このゴミのスレッドを埋め立てれば良いな。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、邪馬台国九州学のスレッドに、悪魔のような悪質な荒らし行為を仕掛けて、破壊してしまったのだったな。 テレビなど、なぜゴミのような話ばかりしているんだw 倭人〜朝鮮人だと書いてあるでしょ、
後の日本の皇族など? 以前から書いていることなんだけど、
中華(中国の人、渡来系の人々など)は何なんだと思う 小椋佳『君は それ以上』
こういう曲と同じなんだろうw 家は軍人、警官〜、
そういう家でもないんだと言っているでしょ、
何やら庁?そういう職業の家でもないしw つーチャンなども同じ、
偉そうなことばかり語っている人間がいたりw
あと、なぜ家の写真と同じなんだと思う
『河童 仏教』
『』『』『』『』
漫画やアニメ、ゲーム・・・、よくわからない作品、小説などもw 王母〜寒いな〜・・・、
家は、そういう家なんだと言っているんだけど
何やら庁などの人間でもないし、あと付け? 傾いた松の木・・・、オジギソウ、シダ類・・・w
なぜか筋肉少女帯の曲(ジャケット)なども同じだし、 出家などをした家なのかな?
寺院に通っていたようなことを言っていたり、
なぜか山の上のほうに >>95
>古事記上巻大国主神
又其~之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲~、和備弖(三字以音)、
「自出雲將上坐倭國而」、束裝立時、片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰、
大国主の時代で、奥さんの嫉妬から逃げるためにヤマトの国に行くという選択が為されるくらい 出雲と大和は近い関係なんだよ<
これは史料批判が必要だな。
まず「倭國」。古事記は、
書紀が、殆ど「倭→日本」の書き換えをしている半分偽書である事に反して、
日本と書き換えずに「倭」のままで書いており、
だから、この「倭國」は九州倭國の事である可能性がある事。
また、列島に馬が渡来したのは、普通は4世紀以後頃である筈なのに、
古事記は、大国主の「紀元前3世紀頃」の話に馬に乗る話を書いており、
時期が全く合わない、という事。
>このルートは出雲と大和の往還路
https://imgur.com/63gSUj1<
この地図は、筑紫から大和の「魏使らのコース」を描いており、
「南≠東」などに拠って×であり、
また、出雲から大和への道なら、他にも四つ位あり、
特に加古川の水別れ街道沿いは、「水別れ」地点でも100m以下であり、
殆ど平坦であるから、普通はそっちを選択されるもの。 >>99
>まともな学問的議論ができない。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の人相手に、それは過ぎた願いだよ
大和説の人の書き込みの目的は、歴史の真実の探求などの学術的動機とは無関係に
単に「嘘吐き騙し」で世間の人々を騙す、という荒らし詐欺が目的だから あの写真なども・・・、
本人にしか、わからない話なのかな?
写真の当時の人物、関係者とか 『常泉寺』
たしかに、それらしい話ばかり出てくるし
王母〜寒いな〜・・・関係のサイト?
というか、説明などが載っているところ >>109
この「同じ文の貼り付け」は、いくら反論しても返事がないので、
単なる貼り付けの荒らしであるから、放置。 >>115
>弥生時代の北部九州は朝鮮半島の影響を強く受けている
佐賀県教育委員会は韓国国立中央博物館と共同企画展
「吉野ヶ里、日本の中の古代韓国」特別展を開催した
縄文前期の鬼界カルデラ大噴火後の標式土器の曽畑式土器は
朝鮮半島の時代区分である櫛目文土器とは表面の模様のみならず
粘土に滑石を混ぜるという点も共通している
常に朝鮮半島の遺物遺構、文化、遺伝子と比較しなければならない <
ふーん、成程。 老婆の親戚が創価w
家と結婚するとき、何かの家の人だと言われたとか
もしかして本当に・・・・・・・家のほうが上だとか?
それにしても、おかしな話ばかり、
なぜか新聞(創価)を読んでいたり、あと本などもw >>130
>博多湾岸説と熊本説で
整合性ぜんぜん取れてないだろ
バラバラだ
整合性もなければ確立もしてない <
卑弥呼の死後の戦乱も、壹與の共立で収まり、
その後、倭国内の混乱が起きた形跡がない。 だから
創価か何か(日何やら)なんだろう?
みたいな話、書き込みばかりなのかな 何の話なんだろう、馬の骨のような人間を探してきて
ニセの〜を祀っているとか
そのような話ばかりだしな、ホンモノは冤罪事件? 九州一帯を支配する倭国の邪馬台国がドヤ顔で本州中国地方に
勢力を拡大を目指し大軍を送ったら、本州には倭国の干渉を
一切受けない大和連合があり、その逆鱗に触れ
本土全土から続々と連合兵士が集められ
倭国の領土を逆に奪い、朝鮮半島までその勢いは収まらなかったという 家と同じような人がいるのかな?
日本の漫画〜パチスロ、その他?
ほとんど家の話なのに、収入などもないとか 漫画でも何でも同じ、原作などがあり
テレビ、ドラマ化、アニメ化、映画化〜パチスロ・・・その他 朝鮮半島まで攻め上ったのは
倭国が大陸と内通し大陸の支配下に置かれていたと
大和連合は倭国の王族の捕虜から聞き出し
大陸干渉を排除するために、朝鮮半島まで大軍を送ったのだ
大和連合国家が逆に列島を蹂躙し邪馬台国を支配するまでが
空白の日本史だろう 創価、小泉某の話もしているし、
住友〜とか、生命?ではないんだけど、
家の父親も住友何やらというところで、仕事をしていたことがあると言っていたり 魏から倭国への使者は、船に乗り出発した時にこう呟いたという
「俺は海賊王になる!」と でも父親が、はじめて仕事をしたところは、
氷見何やらと言っていたような・・・、
もともとは川崎区の出身でもないし、
周辺には在日朝鮮、韓国人ばかり住んでいるとか 『創価 部落』
とあるサイト、
すこし違うんだけど、同じような話をしているような 自殺なにやら〜『姥清水』?
むかーし、
山の上のほうに住んでいたことがあると言っているし、
たしか、いまの福島県のほう それにしても河伯、河童(謎のキュウリの葉、葱の華)?
何なのか、わからないけど、老婆も生まれていない頃の写真だと言っているしな それにしても老婆談
歌舞伎、芝居〜という話w
広瀬川があって・・・旧広瀬座でしょ そういうサイトなども、
なぜ人の家の話をしているんだろう、すこし違うんだけどw
ほとんど同じような、お前が工作員か何かなんだろう? 老婆の親戚の子供(家の親戚でもあるんだけど)・・・、
ミロクという名前を付けたと言っているしw
いま何歳くらいになっているんだろう その親戚というのも、たしか創価・・・?
家は創価ではないみたいな事を言っているし、
どういう事なんだろう なぜ家の話なのか?なんだよな〜。
川俣町というところがあって・・・・周辺の話をしていたり
『羽山の森美術館』? >>134
すると 韓は1600キロ四方の認識でいいのかい 韓・・・いまの韓国ではなく、古代中国の話なんだろう king(王)もいるでしょ?
むかーしの中華なのかな 『姥清水』?
『北斗の拳』に出てくるキャラ(実在)の話なのかな、
高いところから落ちて死んだ?みたいなキャラがいなかった?
そのキャラwの娘、息子とか なぜか家の話と同じような、
山の上のほうに城があったとか >>382
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。
およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、
三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」 リハクというキャラもいたりw
『仏教 河童』
李白・・・詩〜とか >>131
>>「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説は、
いくら負けてるからって、史料事実や史料実態からの批判ではなく、
相手への、口先口数での誹謗に切り替えてはいかんのう <
>九州説のこの投稿 「史料事実や史料実態からの批判」が
ひとことも含まれてなくて<
「南」が史料事実や史料実態であり、「南→東」の批判が「批判」。
勿論、「など」と書いているのは、
その他の事は、以前からずっと述べて来てある、という意味。
>あなたは今ずっと典型的な 「相手への、口先口数での誹謗」
ばかり続けてますが?<
あなたは今典型的な 「相手への、口先口数での誹謗」をしてますが?。
それに、私は、これまでにか既に、
非常に膨大な「大和説者へ批判」も書いておりますが、
その中には「記載するのも穢らわしい、世間の人々の目に触れさせたくない」話や、
オウム返し的な反論ですましておくべき、と思われた投稿も一杯あり、
捨て置く事も一杯あります。
その「大和説者の批判 >>132
今日も「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
ブーメラン自己撲殺か
みじめなもんだ 仏教関係の話?
高いところに行きたがるとか、
僧、お坊さん、猫の話?
老婆も言っていたしな、
猫と坊主は高いところが好きなんだよ
と 何者にもなれない おまえたち?
老婆談なのかな、
家でも、そういう話をしていたしな、
また猫(家で飼っている)が・・・・・・・・・・・・の上に登っている、
昔から言うんだよ、猫と何やらの高上り、高いところが好きなんだよ
老婆談 >>133
>倭国上陸までが萬里、渡海1回一律千里で対馬海峡が渡海3回で三千里<
ほらまた類スレ主は「余」という文字をこっそり外したインチキ史料紹介をしている。
>引き算すると10000−3000=7000 これが帯方郡からの循海岸七千里<
これも誤魔化し。「循海岸七千里」ではない。
「七千余里」は「歴韓國乍南乍東」の道のり距離。
>これを朝鮮半島西岸の南下に四千里、そこから東へ三千里と振り分けるから、
整合性を取れるように方可四千里って書いてあるんだよ 基本的に単純計算<
関係がない。「方可四千里」は、魏使らの記録ではなく、郡の役人らの計測記録。
「七千余里」は、魏使らの郡から狗邪韓國への、
韓内の「歴韓國乍南乍東」の陸行里数の計測値の合計記録。
>そもそも、朝鮮半島南部も対馬も壱岐も正方形じゃないのに、方○○里が合ってるとかいう時点で
相当にオマヌケさまだって気付かないから九州説は無能の集まりって言われるんだww <
魏使らがそれぞれの国内見聞移動をした時の、
歩測などでのそれぞれの国の大きさを推定した距離。 また、????(ねこの名前)????が、
タンス、欄間(障子などの上のほうにあるやつ)の上にあがっているよ、
老婆談→昔から言うんだよ、 >>134
>ちゃんと具体的に例示されてるんだから自分で確かめろ
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)<
魏の役人らの直接記録が殆どなく
殆どが後代学者らの内容説明や、漢代記録などからの引用のようであるし、
薄葬令を無視したり、歩数や里数なども、
6倍位違う単位で書かれたものと、そうでないものが混在しているみたい。 >>135
>>倭をヤマトと読む詐欺<
>倭をヤマトと読まないのは日本の歴史を無視するという宣言でしかないww
記紀を対比すれば、古事記の倭を日本書紀が日本と書いているのはすぐに分かるし<
記紀は、「倭国の存在を隠蔽し、倭国の歴史を盗用造作」した半分×書であるから、
根拠にならないよ。
>日本書紀の日本をヤマトと読むのは最初に注記がつけられている
日本書紀巻1 神代上
廼生大日本(日本、此云「耶麻騰」)。<
耶麻騰は倭じゃないよ。
>>それは筑紫に行ったんだよ <
>馬で行くのだから地続きの倭=ヤマトだよww
すぐに筋の通らないデタラメを思いつきで主張するから、九州説はバカばかりだとバレるw<
大国主の頃に、日本には馬はまだいなかったよ。 >>399
>大国主の頃に、日本には馬はまだいなかったよ。
1頭もいなかったのかな?
室町時代に象が日本に来たという記録はあるが、考古学的には確認できない。
奈良時代の貴族は孔雀を庭に飼っていたという記録はあるが、考古学的には確認できない。
馬なら入手先も近いし、不定期には存在したかもよ。 短里があったかどうかは別にして
短里で魏志倭人伝記述の距離を論じた九州説に好感が持てる
かたや
畿内説は、距離については論ずることなく、誤情報とするばかりか、他説批判に走る
畿内説ってなんなのだろう? 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
http://inoues.net/yamahonpen2.html >>263
>海路で大陸と結べる地域は
>やはり九州北部及び日本海沿岸地域だな
???
だから丹波まで船で水行してそこから陸行なんだぞ?
やっぱり九州説の人は常に論理が破綻している
https://imgur.com/63gSUj1 >>266
>記紀ではアマテラスが八咫の鏡を作らせたとあるが
もの知らずがまたウソを吐くw
天照大神が岩戸隠れしたときに、岩戸の外の神々が天照大神を
おびき出すために作ったのが八咫鏡だ
そこには天照大神の意志は全く介在しないし、複数作るなんてのは
全く意味が通らないww
平原1号墓で5枚、割れた鏡が出たという事実と、記紀の八咫鏡作製神話は
全く整合性が取れない >>403
4行目までは適正な歴史。
5行目からはトンデモファンタジー。 アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申
天山 (釋日本紀 卷七)
伊予の國の風土記に曰はく、
伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。
この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになります。
伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要があります。
※各地の風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ。 @阿波
「阿波国風土記」 https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
「阿波国(あわのくに)」 https://enkieden.exblog.jp/23480944/ @ 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
@は、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 @阿波
「阿波国風土記」
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa >>137
>ちゃんとした知識があれば、 倭→大倭→大和→日本と表記が変遷していて
それがすべてヤマトと読まれているのが分かるんだがね
元々の地名がヤマトで、それにいちいち当て字を当てているだけ
山をヤマと読むのとある意味同じだ <
「ヤマト」の音韻の発生は、
九州倭地では「邪馬の戸」や「山の門」などだったんだろうし、
問題の原点は、
奈良盆地の小地域を占拠して建国した(九州倭国の倭人の天孫族の)阿毎氏が、
「倭」を「ヤマト」と読ませた事であり、
また、「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使って、
「ヤマト」と読ませた事だ。
それが、大和説者のインチキの始まりだ。 >>404
水行の方位は有明海北岸から「南」へなんだけど。
北東へ水行なんてどこにも書いてないよな。 >>409
山門(ヤマト)は、九州のあちこちにある普通の地名。
一方、奈良にはヤマトの地名はなく、あるのは山口(ヤマグチ)。
なので、だれかが途中から奈良の地をヤマトと呼び始めたことは確か。
奈良の地がヤマトと呼ばれるようになったのは、6世紀頃からじゃないか。 >>141
>邪馬台国とはるか遠い倭国と呼ばれない
範囲外に大和国はあり、その遠く離れた畿内には
稲作が盛んで人口も多く畿内周辺の大豪族を従えていた
大和国の大勢力が存在しており勢力を拡大して
海を渡り朝鮮半島まで攻め上り、邪馬台国も九州したのであった<
変な日本語であるから、意味不明。
大和が西日本の盟主であった、と言うんなら、
「南≠東」や「正北抵新羅」や、
「東征毛人五十五國」や「日本国は倭国の別種の旧小国」などで、×。 >>141
>邪馬台国とはるか遠い倭国と呼ばれない
範囲外に大和国はあり、その遠く離れた畿内には
稲作が盛んで人口も多く畿内周辺の大豪族を従えていた
大和国の大勢力が存在しており勢力を拡大して
海を渡り朝鮮半島まで攻め上り、邪馬台国も九州したのであった<
変な日本語であるから、意味不明。
大和が西日本の盟主であった、と言うんなら、
「南≠東」や「正北抵新羅」や、
「東征毛人五十五國」や「日本国は倭国の別種の旧小国」などで、×。 >>142
>邪馬台国の位置は会稽東治の東の沖縄あたりと魏志倭人伝に書いてるので
それで計算すると帯方より南1万2千里の1里は140mくらい<
「書いていない」ので、×。 >>324
>それ以外に突如巨大古墳は考え難い
纏向に巨大都市の建設が始まる前から、吉備や出雲、丹波では、巨大墳丘墓を作る時代に入っている
こういう歴史の流れを知らずに思い付きだけで妄想説を練り上げているのが九州説ww >>146
>戦時中の皇国史観では邪馬台国九州説
九州説は歴史を修正しようとしても無駄<
現代大和説の皇国史観は、
「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘つき騙しをし、「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、
歴史を修正改竄しようとする犯罪者。 >>148
>なぜ畿内の大和国は倭国に分類されなかったのか
畿内の豊かな土地を巡り、畿内の天下統一の世となっていたからだ<
「畿内」なんて存在もしなかた嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
大和は、九州倭国の別種の旧小国であって、
「東征毛人五十五國の中の一国」であったんだから、×。 今や、孫達が熱狂しているNBAという物事が、開幕するのだったな。。。 >>418
開幕戦は、カナダという国で、実行されるのではないのかな。。。 >>419
バンビシャスが所属するリーグの闘いも、熱気を帯びてきたのだったな。。。 >>149
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を、人類の定説とか嘘をつく。
また、「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言であり、
そんな嘘つき騙しの学会の説なんて何の価値もなく、むしろ犯罪的であり、
現在の歴史学は、大和説の犯罪を糾弾否定する話が進められる それにしても、このスレッドでの、魏志倭人伝時代についての討論は、熱気を帯びないな。。。 >>152
卑弥呼の頃に「畿内は存在しなかった」という、
全く当たり前の事を否定する大和説者の
脳が正常である筈がない >>152
卑弥呼の頃に「畿内は存在しなかった」という、
全く当たり前の事を否定する大和説者の
脳が正常である筈がない >>422
邪馬台国畿内説の立場の者達のレベルが、低いからではないのかな。。。 >>153
>その後、畿内の天下を統一した大和国が治め
大和王朝となり、戦慣れした兵士引き連れて各地を支配していったのだ<
倭国の別種の旧小国の大和日本国が、列島盟主になったのは、白村江の後。 >>154
卑弥呼の墓は前方後円墳ではなく、
前方後円墳で庄内1の石塚が3世紀末になってしまうから、
庄内3〜布留の有棺有槨のホケノや、その後の竪穴式石室の椿井大塚山は、ほぼ4世紀。 >>155
>三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の有力証拠だから
敗北したのは九州説<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
△は呉付近に淵源があり、楽浪にも存在するから、
列島の300個以上の△は、渡来の呉系楽浪鏡師の仲間たちが関与した鏡であり、
敗北したのは大和説。 >>410
陳寿の認識、想定の上では南というだけで現実の地理上の方角が南という訳ではない
陳寿の倭国地理に関する知識、情報が不十分、不正確であることは、会稽東冶之東や東南陸行五百里で明らか
いい加減に方角云々が畿内説に対する批判として的外れなことを認識しなさいなww
まあ、それくらいしか言えることがないってのは知ってるけどさ、九州説全員ザラゴキ並みってことにしかならないぞww 桜井神社の祭神はイシノサウルス
纒向神社の祭神はテラノサウルス
失礼の無いよう、末永くお祀りするだぞえ >>157
>魏志倭人伝には邪馬台国が沖縄辺りを示す会稽東治の東と書いている<
書いてないし、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は九州北部から出港して南に向かうと書いている<
書いてない。
>邪馬台国までの距離帯方より南1万2千里は魏里でパプアニューギニアになる距離<
この大和説者は、魏志倭人伝のが読めていない。魏朝里では、ほぼ筑紫。
>畿内には大和という所に3世紀から前方後円墳や三角縁神獣鏡が存在
大和の前方後円墳は、3世紀末以後で、△は4世紀。
>特に三角縁神獣鏡には魏と遣使の交通のあったとされる魏年号の
景初や正始が記銘され魏志倭人伝にある下賜された銅鏡と目されているなど<
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与。
>魏志倭人伝に関連する考古物は畿内に多くある
これらを九州説はどう整合性を取っているというのかな <
時代が全く違っていたり、存在しなかったり、極少量であったり。 >>401
くだらん感情論
「距離については論ずることなく」もウソ
論じて誤情報という
結論を出している
事実が見えてない>>401はダメダメ >>162
>大和王朝が海を渡り大陸で散々暴れまわり<
暴れ回らない。
暴れ回ったのは、九州倭国の倭王武の「自昔・・・渡平海北九十五國」。
>唐とも一戦を交えるほどの巨大な国家と<
白村江で大敗したのは、九州倭国であって、大和日本国は殆ど関与せず。
>邪馬台国は知っており、無条件降伏と言う 国譲りが行われこれが後の神話にとなる。<
何を言いたいのか?、意味不明であり、アホ。 大和政権は半島豪族に飼いならされた縄文系原住民の政権。
もうこれは確定だろう。 >>169
>皇紀は2600年とされているけれど
畿内説はその点魏志倭人伝や考古物や記紀を関連付けて
神武天皇の即位が事実なら西暦200年あたりで皇紀は1800年くらいじゃねと言ったりもしている <
二中歴のに拠れば、神武即位元年は紀元前91年頃になる。 >>171
>筑紫でもねーぞ
記紀によれば天孫降臨は宮崎だ<
新唐書や、王年代紀転載の宋史、に拠れば、
神武の先祖らは、筑紫日向宮や筑紫城にいた、という事だ。 >>172
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の思想背景はよくわからんな
とにかく一貫して「都合の悪い史料事実や史料実態」の否定や曲解での、歴史の否定
何かバレたらマズイ物でもあって必死に隠そうとしてるかのようだ >>437
なーんてことを
理由に言わず教条主義で決めつける
それが毎日飽きもせず九州説がやってること 論破され、完全に破綻し、敗北はしたが、頭の良くない者が宣伝してきたにも拘わらず、日本国民の大方の予想を覆し、邪馬台国畿内説は大健闘したので称えてあげれば良いな。。。 >>439
どのような戦いぶりだったのかを、視聴しながら、お昼ご飯を頂けば良いのではないのかな。。。 >>169
>皇紀は2600年とされているけれど
実際には神武は3世紀初頭あたり。
そして神武は「おおきみ」ではない、真の大王は神武の義理兄・天日方奇日方。
日本書記に鴨王「かものきみ かものおおきみ」と記される人物だ。
神武が大王ではなかったから「天皇」という称号が創られたのだ。 事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
国宝・中平銘鉄刀の和邇氏系譜に卑弥呼もトヨもいる。
この左端が大王。
役職名は大物主。
4世紀初頭、最後の大物主・阿田賀田須を倒し大王についたのが崇神。
そして神武を祖とする男系王朝を建てた。
崇神は大物主の怨霊を怖れ大神神社を建て鎮魂する。
日本では一度だけ、クーデターがあった。
現天皇家はクーデターを起こした側の末裔だ。 >>405
>平原1号墓で5枚、割れた鏡が出たという事実と、記紀の八咫鏡作製神話は
>全く整合性が取れない
そうだね。
しかし平原に八咫の鏡があったという事実を受け止めて、その上でどう記紀伝承に継承されたのかを検討しなくてはいけない。 >>411
>奈良の地がヤマトと呼ばれるようになったのは、6世紀頃からじゃないか。
7世紀後半からだろ。
日本史の各種史料はそこに断絶がある。 箸墓古墳が3世紀代の最大古墳だから卑弥呼の墓であろうと言う主旨の>>1は間違えている。
最大ではなく、最高位の塚が卑弥呼の墓。
高低で言えば高
上下で言えば上
天地で言えば天
ここにあるのが卑弥呼の墓だ。
それは大和盆地最上座、「天」の位置にある。
その場所は高天原だ。
魏志倭人伝の記述通り、奴婢(土蜘蛛)とともに今もある。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png >>443
>実際には神武は3世紀初頭あたり。
>そして神武は「おおきみ」ではない、真の大王は神武の義理兄・天日方奇日方。
年代はそうだが、畿内の支配者は饒速日。
神武がいなくなった後の筑紫で即位した倭王が、卑弥呼。 八咫の鏡でもないものを八咫と云い張るカキコが
どこから発しているのかをしっかり検討しなくてはいけない。 >>447
もっと後世でしょうね。
万葉集からだよ。 >>432
>「距離については論ずることなく」もウソ
論じて誤情報という
結論を出している <
径百歩が誤情報なら箸墓は吹っ飛ぶじゃん
ご都合主義で、誤情報を決めてもらってもなww
中国の史書だから中国に誤情報かどうか確かめたら・・・・
畿内説の限界 >>181
>畿内周辺の天下統一を果たした大和国は 大和王朝を設立し王を大王とした
戦慣れした兵士や他の豪族の褒美の為に西に進出して領土を拡大<
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国。
>九州まで行き邪馬台国と言う勢力に出会う、そのまま北上して
大陸との繋がりを遮断する為に朝鮮半島まで勢力を伸ばす
ついに邪馬台国無条件降伏<
半島で戦ったのも、九州倭国であり、「渡平海北九十五國」。 >>181
>畿内周辺の天下統一を果たした大和国は 大和王朝を設立し王を大王とした
戦慣れした兵士や他の豪族の褒美の為に西に進出して領土を拡大<
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国。
>九州まで行き邪馬台国と言う勢力に出会う、そのまま北上して
大陸との繋がりを遮断する為に朝鮮半島まで勢力を伸ばす
ついに邪馬台国無条件降伏<
半島で戦ったのも、九州倭国であり、「渡平海北九十五國」。 論破され、完全に破綻し、敗北はしたが、頭の良くない者が宣伝してきたにも拘わらず、日本国民の大方の予想を覆し、邪馬台国畿内説は大健闘したので称えてあげれば良いな。。。 >>452
>径百歩が誤情報なら箸墓は吹っ飛ぶじゃん
>ご都合主義で、誤情報を決めてもらってもなww
あいかわらず
ひとことも理由を言わない九州説
思考停止しているのだな
「ご都合主義」とか理由のない悪口を言うだけで
畿内説相手には >>455
論破され、完全に破綻し、敗北はしたが、頭の良くない者が宣伝してきたにも拘わらず、日本国民の大方の予想を覆し、邪馬台国畿内説が大健闘し最近まで延命できたのは、宣伝してきた者達が詐欺師の技術を多用したからなのだったな。。。 >>455
論破され、完全に破綻し、敗北はしたが、頭の良くない者が宣伝してきたにも拘わらず、日本国民の大方の予想を覆し、邪馬台国畿内説が大健闘し最近まで延命できたのは、宣伝してきた者達が詐欺師の技術を多用したからなのだったな。。。 畿内様式の土器の広がりが畿内勢力を示すと思ってる畿内説の思考に
もとづき、当時の日本列島最大の勢力は九州or東海政権であった事が判明@纏向
■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。
■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。
■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土する。
これは纏向が東海政権の傘下にあった事を意味する。 >>456
以婢千人自侍
宮室樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衛
は誤情報でないよな、巻向は✖じゃん >>434
>大和政権は半島豪族に飼いならされた縄文系原住民の政権。
>もうこれは確定だろう。
こういう日本の最初の政権を半島より下位の存在にしたいという願望が
九州説の根底にあるんだよな
歴史の探求とは無縁の立ち位置
そもそも3世紀には半島南部は小国分立状態で豪族などいない
半島が国家形成に進む頃には、日本書紀にも書かれているように
倭国に対して臣従する属国扱い >>445
>しかし平原に八咫の鏡があったという事実を受け止めて、
そいつが与太話で、昭和に新たに作られた「お話」なんだから事実でもなんでもないw
そもそも平原1号墓出土鏡は八咫の大きさではないし、わが国の神器たる八咫鏡は
径一尺弱の鏡
原田大六氏が既存の権威に対して反骨心丸出しで、自分の発掘した平原1号墓が
すごい遺跡だとはっちゃけた時に言い出しただけの特に根拠もない話なんだよ
そして、日本国民じゃない人は多くの場合「八咫鏡」と書いて「やたのかがみ」と
読むことが理解できずに「八咫の鏡」と書きがち >>448
土蜘蛛塚が奴婢の殉葬地である根拠がないし、土蜘蛛塚自体は全国に数多く存在する
3世紀に日本で「后」という称号が使われていない時点で
「比?后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。」
が全くの無意味 >>462
>巻向は✖じゃん
✖だという理由がない
なにも >>452
>径百歩が誤情報なら箸墓は吹っ飛ぶじゃん
おいおい、距離と長さの区別もつかないのかい?ww
「歩」はもとが身体尺であり、感覚的に大きく狂うことのできない単位
だいたい人里の中の長さを測るのに使う
「里」は、もともとは9家族(九夫)が暮らせるだけの農地(方形)の広さから、
その一辺の長さを距離単位に流用した物で、人里と人里の間の距離を測る単位
こちらは政治的理由で誇張されたり、観念的な値が使われたりしても違和感がない 葛城説スゴい好きなんですよね。タタラヒメ=卑弥呼ちゃんでしょ、弟いるしね。たたらは半島の邑の名でそっから来てんでしょ一族でしょ。 >>461
>■九州説曰く
>それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
その献上されたものが、九州の土器のスタンダードになるのをどのように説明するんだ?ww
祭政一致の時代に、祭祀用供献土器がよそで作られたものに統一されるってww
これで九州にイニシアティブがあると言い張るところが、九州説の知恵が足りなさ過ぎるところ >>469
>たたらは半島の邑の名でそっから来てんでしょ一族でしょ
それ、もとネタは何だい?
そんな邑は聞いたこともないぞ?w 九州倭国が単独で半島を攻めた?
それなら遠く離れた本州の東海地方の豪族は
白村江の戦いに一切関与しないよな >>470
たまたま博多土器コンテストで入賞しただけだろ。
>祭政一致の時代に、←妄想乙
朝鮮人特有の妄想癖丸出しw 九州倭国の兵力は周辺を支配していたとして
総兵力は多くて一万五千程、半島に送れる兵士は
全軍を送る馬鹿はいないとして良くて7000ぐらいか あらあら、前方後円墳を始まりにしたいが為にゴッドハンドするからホケノが変な時代にのめり込んでますねえw
https://i.imgur.com/E6zypDw.png
鍵穴形状は東日本で流行った前方後方墳からの伝統なんだけどねw
つまり倭種の国の伝統だw >>464
>わが国の神器たる八咫鏡は
>径一尺弱の鏡
矮小化するなよ。 >>470
>祭政一致の時代に、祭祀用供献土器がよそで作られたものに統一されるってww
祭政一致の時代に神器が九州北部の銅鏡に統一されたのはどうするんだ?
それ以外の用具は変化してもいいんだよ。
例えば、昨日の天皇即位の装束や高御座は、古代の様式ではなく中世の様式を模倣して明治大正に整えたものだろ?
しかし神器は古代から伝わる三種の神器だ。
畿内の様式だった銅鐸ではないし。 >>472
>九州倭国が単独で半島を攻めた?
>それなら遠く離れた本州の東海地方の豪族は
>白村江の戦いに一切関与しないよな
東海は援軍を要請されてなかなか腰を上げなかったんだよ。
白村江で戦った倭国は筑紫の水軍が主力で、筑紫の君が捕虜となって倭国は崩壊した。 九州倭国は当時の秀吉に命令され
半島に兵を出兵させられた挙句に主君が捕虜になって
倭国の領土は秀吉に吸収された感じで収まるな そもそも記紀に祭祀統一の記述なんてあったっけ?
もしかして畿内説お得意の朝鮮式妄想術ってやつか? >>191
>大和国は元々倭国に属していないので
大陸進出後に外国にだけ倭国と名乗ったのだった<
これは違うね。
大和国は、元々(九州)倭国からの別種の旧小国であり、
「東征毛人五十五國の中の一国の附庸國であり、
九州倭國に属していたので 、
大陸進出でも、倭国に従軍したり、別動隊となってしまうから、たのだった >>198
>天孫降臨した山が高千穂な
高千穂峰(たかちほのみね)は、
宮崎県と鹿児島県の県境に位置する火山 <
記紀は、人間(天皇家の先祖)が、天から高い山(高千穂峰)に降臨した、
と書いているが、そういう事が、起きる筈がないな。
しかし、現実に天皇家の子孫の人間は、地上で生きている。
という事は、天皇家の先祖は、どこか遠い地上の地域から、列島へやって来た、
という事を示そう,tositeirunndarounaa. >>473
>たまたま博多土器コンテストで入賞しただけだろ。
そんなコンテストなんていう実体のないものを想定しないと、
自説すら維持できない、屁理屈・思い付きだけが根拠の九州説は惨めで姑息な半島人の血筋w
>>祭政一致の時代に、←妄想乙
人知を超えるものはすべて神様の領分というのが、国家形成の時代の特徴であり
魏志倭人伝に鬼道と書かれた卑弥呼の統治手段こそ、祭政一致そのものだろww
もう、言い訳すら支離滅裂な九州説は惨めで姑息な半島人の血筋w >>483
だからあ、
>人知を超えるものはすべて神様の領分というのが、国家形成の時代の特徴であり
魏志倭人伝に鬼道と書かれた卑弥呼の統治手段こそ、祭政一致そのものだろww
↑
こういうのを日本社会では「妄想」というんだよ。 >>483
>>たまたま博多土器コンテストで入賞しただけだろ。
>そんなコンテストなんていう実体のないものを想定しないと、
おまいうw
北部九州の倭王に認めて貰おうと遥々奈良盆地から持ち込んだんだろうと。
もともと倭人の間ではデファクトスタンダードだった土器なわけで。 文字文化の普及度合いを示す硯が出土しない奈良盆地。
鬼道の判断結果をどうやって九州まで伝えたのであろうか?
九州でそろそろ田んぼに水を入れるべきかどうか?などという判断を往復4か月かけて奈良まで聞きにいくのかな?w
馬の居ない時代を想定していない畿内説w >>486
倭人におけるデファクトスタンダードの存在を考慮出来ないなんてのが学者やってんのか?
少なくともお前は社会不適合学者より下の層にいる学問部落民だと思うが? >>476
>矮小化するなよ。
伊勢の御神鏡のレプリカである皇室の八咫鏡が、扶桑略記に径八寸ばかり、とある
扶桑略記 第二十六 村上天皇
国立国会図書館デジタルコレクション
国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記
コマ番号371
「瓦上在鏡一面。徑八寸許。頭雖有小瑕。専無損。圓規幷帶等甚以分明」
村上天皇の天徳四年の内裏消亡のときに、内裏の八咫鏡が奇跡的に見つかったという記事
瓦上に、鏡一面在す。その徑八寸許り、頭に小瑕ありと雖も、
専ら圓規並びに蔕等を損することなく、いと分明なり。
伊勢の御桶代の大きさと、平原の鏡の大きさが数センチしか違わないって
糸くずはいつも言うけれど、46センチの円盤を48センチの桶に入れるって、
おかしいと思わないか?
余裕がなさ過ぎ >>477
>祭政一致の時代に神器が九州北部の銅鏡に統一されたのはどうするんだ?
されてないだろ?
九州の鏡文化が3世紀以降に畿内に移植されたってことはないぞ 賢い考古学者なんて居ないから真に受けんなよw
賢い人が趣味で研究することはあるが、そっちの方がよっぽどリアルだw >>480
>そもそも記紀に祭祀統一の記述なんてあったっけ?
誰が記紀に書いてあると言った?
段築、葺き石、各段を囲繞する円筒埴輪を備えた前方後円墳が各地の首長墓(盟主墳)として
統一され、その葬送祭祀に使われる供献土器が畿内様式土器で統一されるというのは
考古学的な事実 鎌倉幕府が邪馬台国として
当時の書物が全て焼き払われて存在しないとして
どこに存在したか、元国の資料から探す感じ? >>484
>こういうのを日本社会では「妄想」というんだよ。
どこが妄想なのか、具体的な根拠を挙げて論じてくれww
いつもの負け犬九州説w 賢い学生が、考古学者を目指してます!なんて言ってるようなの見たこと無いだろ?
もしそんな奴が居たとしてら、理系ダメ、文系でもハグレ、体育会系とは無縁、なヤツだなw 九州王朝説ってのは、
日本の皇室の祖先の王朝が、中国の皇帝に朝貢したとなると、まずいので、
九州の地方政権が勝手に中国に朝貢しましたという
後ろ向きの説に過ぎない。
でも、この説だと、日本の皇室が
日本の広範囲を支配した時期が大幅に遅れて
その時代に、日本の皇室の祖先が弱い王権だったことにされてしまう。
つまり、どっちが右なのか左なのか、分からない説なんだよ、これ。 >>492
だからそれを示す文献と照らし合わせる「照合」が出来なきゃ全て「想像」で終わるんだよ。現実社会では。 >>485
>北部九州の倭王に認めて貰おうと遥々奈良盆地から持ち込んだんだろうと。
>もともと倭人の間ではデファクトスタンダードだった土器なわけで。
この、「北部九州の倭王に認めて貰おうと」っていうのが、妄想ww
北部九州に倭王なんていないし、『認めて貰おう』なんていう古代人の意思を勝手に捏造しているw
「倭人の間ではデファクトスタンダードだった土器」
そのデファクトスタンダードに、どうして北部九州の在地の土器がならなかったんだ?
西新町式土器とかが、北部九州の在地の土器なんだが、王のお膝元の北部九州の土器が
倭国のデファクトスタンダードにならなかった理由は?ww
もうね、土器という確実な考古学的物証だけで九州説は破綻するんだよww >>494
魏志倭人伝にも「祭祀統一」なんて記述は一つも書かれていないだろw
その朝鮮式妄想癖は治らんのか?w
治らんだろうな、先天性だからw >>498
土器を重んじる文化自体も縄文系だよな。
縄文系の多い東日本ではそういう文化が定着していたんだろう。 纏向は東日本勢力の影響が色濃いなw
■纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。(←関係無い話なのに関連付けようとする印象操作w)
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。
(←やはり東日本勢力傘下だった痕跡かw)
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 >>487
>文字文化の普及度合いを示す硯が出土しない奈良盆地。
3世紀の硯って、ただの石の薄板だぞ?
砥石と判定されている遺物なんかに紛れてるだけだよ
北部九州の硯の鑑定を一手に行っている福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏が
大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で出土した板石の破片を硯だろうと指摘しているし
纏向遺跡で大量に出土している「砥石」も精査すれば、硯がごろごろあったなんてことに
なるんじゃないか >>498
畿内は鉄(カネ)の乏しい貧乏国だったんだろう。
だから昔は小国だったが〜、という言葉が日本使者の口から出てくるわけで。 3世紀には博多湾沿岸は畿内や山陰の日本と密な関係になってるから
まつろわぬ九州説は博多湾沿岸以外の地域で想定しないとダメだ >>497
>だからそれを示す文献と照らし合わせる「照合」が出来なきゃ全て「想像」で終わるんだよ。現実社会では。
纏向遺跡で100メートル級の列島最大の墳丘墓が作られるようになるのが2世紀末から3世紀
この時代のわが国の文献はない
外国文献で、内容が不正確ではあるが3世紀の様子を伝えるものとして
三国志魏書の最終巻、烏丸鮮卑東夷傳第三十があり、そこに
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあり、倭国が王の死に際して巨大な冢・墳丘墓を
作ることが記されている
見事に「照合」できるなww
北部九州には径百歩とみなせる巨大墳丘墓はないから残念だねww >>500
>土器を重んじる文化自体も縄文系だよな。
>縄文系の多い東日本ではそういう文化が定着していたんだろう。
こいつ、どこまでもバカだなぁ
縄文式土器も弥生式土器も、土師器も須恵器もいっしょくたに「土器」としか
理解できないんだろうなww
まあ、こういう具にもつかない思い付きを根拠にデタラメを練り上げたものが
九州説なんだから、九州説の人の書き込みがこのレベルにしかならないのは
当たり前といえば当たり前なんだがww >>506
大きさ以外の照合は?
槨無し、殉葬100名の照合は?
何チェリーピッキングしてんだよ? >>507
中国や半島で祭祀や土器様式を統一していたという証拠は? >>507
日本独自の文化?
というより畿内説独自の妄想だな 要するに、倭国を支配下後は他文化が書いた読めない文字の書物は
全て燃やしてしまえって、全て燃やしたんだろう それにても・・・『北斗の拳』の話でしょ?
>ネズミが来たようだな
ねずみ=主人公のこと >>509
それ畿内朝鮮式妄想国家限定の話だからw 博多湾沿岸地域の首長層が畿内と斉一の供献土器を使うのは
九州より本州との交流が密であり、九州の他の地域とは違う連帯意識を持っているということ >>206
>ヤマト王権の成立が三世紀前半に遡ると言っているのは考古学者なんだが?<
神武が磐余付近を確保した時期なら、二中歴に拠って、紀元前91年頃。
九州倭国の東征毛人五十五國の軍が入って、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を征服支配して王的身分になったのは、
3世紀後半半ば頃。
>しかもそれが天皇家や大和朝廷とは直接的に繋がらないとしているのに、どこが皇国史観なわけ?<
おや?、類スレ主は、3世紀前半の頃の大和政権が、天皇家とは直接的に繋がらない、
という意見だったの?。
それは知らなかった。 >>514
王都と言われる伊都国周辺ではそれが見られない。
つまり民衆文化の一つで「流行」ってやつよ。 >>516
だな。
九州の遺跡についても、畿内説は畿内と共通した部分だけを首長扱いしているだけで。 >>508
>大きさ以外の照合は?
>槨無し、殉葬100名の照合は?
>何チェリーピッキングしてんだよ?
チェリーピッキングに該当せず
古墳に槨はないので照合クリア
どこに埋められたかも不明な殉葬100名など照合の要件にならないのでクリア >>212
「南→東」などの嘘付き騙しみたいな
くだらないインチキしか出来ない九州説って
ほんと末期 西の九州倭国や東海、関東地方などを支配下に
置いた大和王朝は、日本国内を効率の良い支配体系を求め
大陸から導入して支配権を維持してきたのだった >>213
このように
「南→東」などの嘘付き騙しのような、
理由も言わず教条主義で決めつける
毎日飽きもせず大和説がやってること >>520
>どこに埋められたかも不明な殉葬100名など照合の要件にならないのでクリア
出たー!朝鮮式ご都合解釈思考炸裂www 『紫』
ここでも天帝の話が出てくるし、河伯〜?河童?の話にも出てくる >>516
畿内と斉一の供献土器はTB期までは集落の井戸祭祀には使われていない
今津湾沿岸も博多製庄内が多く搬入され
王名も記されない伊都國は女王國に従属している >>522
邪馬台国関連の文献で「北、東、南」は出てくるが「西」の話は出てこない。
これは邪馬台国が西側に存在していた事を示唆している。 王母〜寒いな・・・・・・・・?
何かの家の人みたいだよという話だしな、 >>489
>伊勢の御桶代の大きさと、平原の鏡の大きさが数センチしか違わないって
>糸くずはいつも言うけれど、46センチの円盤を48センチの桶に入れるって、
>おかしいと思わないか?
もちろん布に包んで入れただろうから、それくらいでちょうどだよ。 またキナイコシが、論破されてしまい、松傾で現実逃避を、始めたのであったな。。。 >>490
>九州の鏡文化が3世紀以降に畿内に移植されたってことはないぞ
じゃあいつヤマト王権や今の天皇家は、九州北部の鏡文化を受け入れたんだ? >>498
>北部九州に倭王なんていないし、『認めて貰おう』なんていう古代人の意思を勝手に捏造しているw
筑紫城にいたんだろ? >>531
知らんがな。
記紀にも何処にも書かれてる無いんだから。
畿内説ってのはそういうのばっかだな。 >>502
>纏向遺跡で大量に出土している「砥石」も精査すれば、硯がごろごろあったなんてことに
そういうのは調査してから言えよ。
それまではただの妄想だ。 >>505
>3世紀には博多湾沿岸は畿内や山陰の日本と密な関係になってるから
畿内ってどこの畿内?
筑紫が盟主でいいじゃん。 すべてとは言わないけど、ほとんど家の話だろうw
謎の漫画やアニメ、ゲーム・・・よくわからない作品とか >>516
>>>514
>王都と言われる伊都国周辺ではそれが見られない。
>つまり民衆文化の一つで「流行」ってやつよ。
正解だな。 >>520
>チェリーピッキングに該当せず
詐欺師が自己弁護しているぞ。 キナイコシが何を書いても言い訳にしか聞こえない。
中身がない。 邪馬台国で有名なのは卑弥呼だけだろ
人間だいたい五十年〜 >>535
盟主って北部九州から畿内までの倭国の盟主? たしか
当時、家にあった本や書なども誰かにあげちゃったのかな〜、と言っていたり、
仏教、仙関係の話なのかな、何かの史料(資料)? >>542
なんで統一国家にしたがるんだよ?
他に出雲や吉備にも盟主が居たと考える方が自然だろ。 >>542
緩やかな同盟かな?
代表権は卑弥呼が持っているけど、すぐ近くの肥後狗奴国は反発しているし、政務は大率が担っているし、事情はかなり複雑そうだよね。 >>544
それでは「盟主」とは言わないだろ。
ただの首長だ。
それはもちろんいただろうけど、後漢書によると倭とはそもそも対馬海峡だけだからな。 >>545
倭人の発音を聞いて中国人が漢字にしたんだよ。
倭と書いてヤマトと読み、博多湾を指すということ。 >>547
トンデモご苦労さん
賛同者いないでしょ >>546
>緩やかな同盟かな?
はかない妄想だよ。 そんなことが卑弥呼時代に出来るとおもう浅はかさよ! わははははは @阿波 >>548
倭人の国は倭国はいいとして
邪馬台国の漢字はだれが付けたんだ? >>548
博多湾がヤマトと呼ばれたこと、ないだろ >>547
>倭とはそもそも対馬海峡だけだからな。
根拠がまったく無し!
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>508
>槨無し、殉葬100名の照合は?
チェリーピッカーはお前だww
槨に関しては、陳寿が三国志を撰述した頃には、
中に人が入って祭祀のできる棺を納める構造が槨だから、
初期古墳の竪穴式石室は槨に当たらない
こういうの↓が槨
https://i.imgur.com/Hc9f7Bb.jpg
それ以前に、有棺無槨は倭人の習俗であって、王族の葬送を記した物ではない
其風俗、不淫。男子皆露紒、以木緜招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無、與儋耳朱崖同。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。
以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。
其死、「有棺無槨」、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
径百歩の冢に葬るのに停喪十餘日で済む訳ないだろ?
殉葬100名に関しては、日本のどこを探しても大規模殉葬と認められる遺跡はないので
誤解または誤情報と見るよりない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性があるし、吉野ヶ里遺跡に見られるような甕棺墓列を殉葬と
誤認したかもしれない >>509
>中国や半島で祭祀や土器様式を統一していたという証拠は?
半島や大陸を持ち出すのは、九州説のイデオロギーだぞww
こちらは考古学的事実として、倭国の広い範囲で前方後円墳と祭祀用供献土器が
共通化=統一されていると述べているだけだww
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg >>554
じゃあ卑弥呼は倭人じゃ無いと言う事だな?
倭国の地勢も無視→邪馬台国は倭国では無かった
倭人の墓は槨無し→卑弥呼は倭人じゃないので槨有りの前方後円墳
どんだけチョンやねん?w >>511
>要するに、倭国を支配下後は他文化が書いた読めない文字の書物は
>全て燃やしてしまえって、全て燃やしたんだろう
都合の悪いことはすべて燃やされたからなくなったんだっていうのが九州説の妄想
まあ、お国の文化なんだろうねw
大和朝廷は、正史に記載されなかった各地の歴史をきちんと記録しろとわざわざ
各地に号令して風土記を編纂させている
九州説の妄想とは方向が真逆ww >>556
中国の属国だという事をお忘れ?w
自己矛盾を繰り返すチョンと一緒だw 天帝?帝釈、梵天〜などと言っても
信仰などが伝わってから(取り入れたでも良い)の話だからな・・・、
ほんとーに、おかしな話ばかり
家のほうが上なのかな? >>556
>倭国の広い範囲で前方後円墳と祭祀用供献土器が共通化=統一されていると述べているだけだww
それは、「忌部はん」によるものだから。 勘違いしないでね! わははははは @阿波 >>516
>王都と言われる伊都国周辺ではそれが見られない。
そういいながら結局は受け入れてるんだぜww
そしてサキゾノ地区の祭祀遺構では、三雲地域でもっとも早い時期の
畿内様式の庄内土器が出ている
伊都国が王都ってのはとっくに破綻してるんだから、がんばるだけ無駄だよw >>562
受け入れじゃなくて、民意を採用したというんだよバーカw >>556
>倭国の広い範囲で前方後円墳と祭祀用供献土器が共通化=統一されていると述べているだけだww
それは、「忌部はん」によるものだから。 勘違いしないでね! わははははは @阿波 畿内派の知能の低さに愕然とするスレですね。
わかります。 >>557
なに言ってるかイミフな日本語破綻ぶりだな
ホントに日本人?
しかも理由ひとことも言ってないバカっぷりがお見事 >>566
お宅、日本語に疎いチョンさんですか?w >>563
>受け入れじゃなくて、民意を採用したというんだよバーカw
あれを「民意を採用した」と呼ぶ根拠は? 倭人や倭国について書かれた詳細はガン無視するしかない畿内説ってw
それ倭種の国だと自己紹介してるようなもんだわなw >>568
宗教を重んじる人民であったのなら、他の宗教を押し付けるとなれば力で押さえつけるしか無かったはずだ。
その痕跡つまり機内式武器や戦乱の跡は無い。 >>529
>もちろん布に包んで入れただろうから、それくらいでちょうどだよ。
釣れたww
その布、遷宮のたびに古い布の外に新しい布をかぶせていくんだよ
鏡を見ることはできないからね
とすると、どんなに薄い布でも、4,5重になる頃には数センチの隙間では
ぎゅうぎゅうになっちゃうって分かるかい?
御神鏡を無理やり御桶代に押し込むとかありえると思うか?ww
だから、その中に黄金の桶代・口径一尺があって、その中に御神鏡があるんだよ
そしてその黄金の桶代を布で包んで48センチの御桶代に収めて遷宮している
論理的に考えなw 畿内説のような超ファンタジーな説は現代ではフェイクニュースと呼び、その発信者は罰せられます。 >>569
>倭人や倭国について書かれた詳細はガン無視するしかない畿内説ってw
なにをガン無視してるって?
具体的に指摘してね
九州説って総論しか無いのかな? >>570
>宗教を重んじる人民であったのなら、他の宗教を押し付けるとなれば力で押さえつけるしか無かったはずだ。
>その痕跡つまり機内式武器や戦乱の跡は無い。
それが何なの?
論理的に結論出してみ 『創価 部落』とあるサイト、
小泉某、自殺が〜と言っている人がいるでしょ
エックスのハイドの話?
とあるスレがあるんだけど、同じような話をしている人がいたり >>573
お前さあ、レス読み直せよ。
マジで日本語が不自由なのか?
行き場が無いからそういう反論しか出来ないのか?
調べる脳内が無いなら松傾で引き籠もってりゃイんだよ。
無理してレスしなくても。 パニック障害持ちのキナイコシ相手じゃあ話にならんよなw >>531
>じゃあいつヤマト王権や今の天皇家は、九州北部の鏡文化を受け入れたんだ?
テンプレにも書いてあるだろ?
3世紀よりも前に、西日本一帯に鏡を威信材をみなす文化は広がっていたんだよ
3世紀時点で北部九州の占有物ではないし北部九州固有の特徴でもない
太田南五号墳では方格規矩四神鏡で「青龍三年」の紀年銘鏡が出ている
この年代は、卑弥呼の遣使よりも前だ
こういう時系列に沿った事実を見ない聞かない認めないで逃げてるから、
九州説は惨めなデタラメ説に陥るしかないんだ 『姥清水』?
・・・・家の話のような気がするんだけど、
馬に乗っていて、何かの刀、劔?・・・兄と妹(当時の子供) >>576
>お前さあ、レス読み直せよ。
あくまでも全く
具体的なことが言えないの?
また罵りで誤魔化す ?
それ、九州説がまた敗退したってことだから
みじめな人だ >>532
>筑紫城にいたんだろ?
また捏造しているww
筑紫城なんて、3世紀倭国のどこにもないぞww >>534
>そういうのは調査してから言えよ。
既に滑瀬遺跡のやつは調査されて硯認定されてるよ
今後は増えるばかりだ >>544
>なんで統一国家にしたがるんだよ?
>他に出雲や吉備にも盟主が居たと考える方が自然だろ。
畿内説は、ヒコ王権力の統一国家なんて主張してないぞ
あるのは、祭祀王・ヒメ王を共立した祭祀連合だ
その祭祀の盟主が畿内大和にいた卑弥呼だってこと >>580
大阪に住んでるけど大阪人じゃない。
しかし大阪が一番長いかな。 なぜか某信オンというスレ
国かどこかで宣伝しているんだよなw
みたいな書き込みをしている人もいた >>577
>パニック障害持ちのキナイコシ相手じゃあ話にならんよなw
あんたの放言を見てると
自分がとっちめられた時に言われた指摘をオウム返ししてるだけのようだな
論破されるたび呟き荒らしで延々と迷惑かけるお前の行状が、そのパニック障害という奴なのだな >>547
>後漢書によると倭とはそもそも対馬海峡だけだからな
それ昨日、隠岐も出雲も入るって言い出して、自ら破綻させてただろww
後漢書は、光武帝への朝貢と帥升等の朝貢記事以外は基本的に魏志倭人伝の
引き写しで情報量としてはサブセットにしかなっていないから、
そんなにすがりつくようなものじゃないぞw >>584
邪というのは岬を意味し、馬臺というのが祭壇を意味する。
海に面した祭祀国家だったのでしようね。 >>562
>そういいながら結局は受け入れてるんだぜww
だから、違う時代の話を持ってくるのは詐欺まがいだと言っているだろ? >>568
博多で流行ったからだろ。
天皇家だっていつまでも牛車や馬車に拘らずに自動車でパレードするようになったよね。 〜何かの直系なのかな・・・としか言えないだろう、
当時どこそこに住んでいた、まだ機織りなどもしていますか?
と言っている人がいたり、なぜか伊達郡? >>571
>その布、遷宮のたびに古い布の外に新しい布をかぶせていくんだよ
それは後世の誤った習慣なんだよ。
作った人の意図ではない。
慣習とはしばしばそのような誤りが継承される。
逆に、幾重にも包んで開けないのは、もう灰の塊になっているからかもしれないし。 もう一度テスト投稿
「このページを表示できません
対処方法
Web アドレスが正しいことを確認してください: http://lavender.5ch.net
Bing で "http://lavender.5ch.net" を検索してください
ページを最新の情報に更新
Details 」
の表示。 >>578
>3世紀よりも前に、西日本一帯に鏡を威信材をみなす文化は広がっていたんだよ
3世紀より前に畿内は筑紫の文化で塗りつぶされていたということか。
まあ、卑弥呼は中国にしか興味がなかったみたいだしね。 >>581
>具体的なことが言えないの?
>また罵りで誤魔化す ?
それ、畿内説の得意なやつw ほとんど老婆談と同じ、
川俣町とか飯野町というところがあって・・・、山の上のほうの話とか またテスト投稿
>>214
やっぱ九州説の背景はユダヤロビー団体とかそんなんかねえ
に対する反論が書けない >>586
>>他に出雲や吉備にも盟主が居たと考える方が自然だろ。
>
>畿内説は、ヒコ王権力の統一国家なんて主張してないぞ
畿内説同士で意見をまとめてくれないか?
キナイコシだけが畿内説だというわけでもあるまい?
横スロープだって畿内説なくらいだから。 >>603
>3世紀より前に畿内は筑紫の文化で塗りつぶされていたということか。
不正解
鏡の文化は一部に過ぎないからね
塗り潰すのは無理
単なる文化の伝播だな >>590
>それ昨日、隠岐も出雲も入るって言い出して、自ら破綻させてただろww
後漢書より記紀の方が倭国の範囲が少し広いだけだよ。 >>599
グーグルマップで探すんだ
太陽を一日中観察できる
山ふもとにあった海に面した場所にある >>597
>>>592
>東から西へ太陽が一日中見える場所
福岡平野と糸島平野に挟まれた高祖山。 全国で唯一、饒速日命の孫「天村雲」を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県旧麻植郡)。
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県旧麻植郡山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。
「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。
「天村雲命」は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,「天村雲神社」が鎮座する射立郡は天五多手(あめのいたて)の名に通じる。
「天村雲神社」や同じく式内社の「伊加々志神社」周辺には「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見える。 @阿波 「伊勢神宮」
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。 @阿波 >>609
3世紀以前に畿内に筑紫が入り込んでいたのなら、畿内にでも鉄器がザクザク出土するはずだね。 歌舞伎、芝居〜何やらとか、ほとんど同じだしな・・・w >>616
畿内から筑紫への一方通行だから、単に畿内が搾取されていただけ。
王都は筑紫。 >>618
何かあっても現在の山頂に痕跡を見つけるのは難しいだろう。
しかし高祖山の麓に王墓がいくつもあるのは事実。 ほんとーに謎の掲示板、川俣町
>小生、川崎に住んでいる
ほとんど家と同じ、川崎(神奈川県の)に住んでいる? >>225(「このページを表示できません」で、面倒だから、飛ばしパスね)
>島国だから倭国の勢力はこの程度だろうと魏も疑わなかったんだろう、実際は
東に謎の大和と言う大勢力が潜んでいた<
島国であり、倭国の勢力はこの九州島付近程度だろうと
魏の役人らも疑わなかった。
実際に、 東の大和には、
「東征毛人五十五國」の中の一つの、倭国の別種の旧小国で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国が出来ていた。 >>621
>しかし高祖山の麓に王墓がいくつもあるのは事実。
事実だという証拠は? >>559
>中国の属国だという事をお忘れ?w
それは半島の小国家群だよww
倭国は西の大国、大月氏と同等の親魏倭王という厚遇を与えられている
こういうところでもミラーリング気質が顕著だな
まあ、それ以前に3世紀の倭国土器相に、大陸や半島の顕著な影響なんて皆無なんだが
壱岐や対馬の交易で、畿内様式土器が半島まで届いているけれど 部落、同和?
とくに何とも思わないんだけどw
なぜか家の話のような気がする、
と思われる話(作品?)があったり 平成の時代、大型建物に飛びついた勝ち馬乗り達が
令和の時代、これからドッと硯や鉄鏡に乗り移るぞw >>621
>しかし高祖山の麓に王墓がいくつもあるのは事実。
曽根丘陵も井原も南小路も
高祖山の麓じゃないよなぁ どの山の麓かっつーと高祖山の麓でいいんじゃねーの
キナイコシうぜえ
だから嫌われるんだよw >>557
>倭国の地勢も無視→邪馬台国は倭国では無かった
>倭人の墓は槨無し→卑弥呼は倭人じゃないので槨有りの前方後円墳
また捏造してるww
こいつ本当に懲りないな
倭国の地勢って単にお前の乏しい頭での妄想だろうがww
倭国が九州だけで、九州と山口が別の国ってのは誰がどう見ても無理
船で自由に行き来してるよww
そして有棺無槨は倭人の習俗記事であって卑弥呼の墓の描写ではない
その上で初期古墳の竪穴式石室は槨には当たらない
九州説の連中は、倭国一般の情報と邪馬台国固有の情報の区別もついてないし、読解力低すぎ >>632
>読解力低すぎ
それはお前だキナイコシw >>632
東夷伝の里は一切出さずに
魏本国の里だけ出して誤魔化す
平成キナイコシに言われたくねーw >>563
>受け入れじゃなくて、民意を採用した
民意を採用wwww
古代の首長が民意という観点を持っていたとか、妄想のレベルが天井知らずだなww
バカもここまで行くとすごいとしか言いようがないw 当時は平地に砦を築かない
山城が基本、墓も川より高い位置に山を削って作る かなーり前のことになるんだけど、とあるスレw
弟(二男?)だと言っている人もいたり、
父親のことなのかな
それとも、もれ(書き込みをしている)のことなのかな 糸島は背振山地の井原山から流れる瑞梅寺川や雷山からの雷山川が平野を作る作っている
高祖山は糸島に住む民にとってとてもじゃまになっている
高祖山一帯には韓鍛冶の宅蘇吉志が住んでいた 父親には兄もいるんだけど、
もれ(仮)が小学生のころだったかな、亡くなっているし
もれ(仮)にも兄がいるし、あと妹 >>569
>それ倭種の国
何度も教えてるのに、まだ覚えないww
倭種の人が倭人
倭種の國が倭国
対馬も壱岐も九州の奴国も投馬国も邪馬台国も、皆倭種の国なんだよ 寒いな・・・?
松の木が立てられていて、そこに立っている人は長男
家の父親は、その人物の二男w弟でしょ? >>640
キナイコシの周囲には誰もいないのであった・・・ >>261
>>215
>>しかもそれが天皇家や大和朝廷とは直接的に繋がらないとしているのに、
どこが皇国史観なわけ?
この投稿などへの反論が、5chに「このページを表示できません・・・」とされ、
投稿拒否され、テスト投稿を繰り返す事になったんだったね。 傾いた松の木?の・・・親も長男だと言っていたり、
銀〜というの人がいて・・・弟のほうの家だとか >>631
>キナイコシうぜえ
>だから嫌われるんだよw
ほんとうのことを指摘する者を
力で封じようとする九州説は
どんどん堕落するんだよ >>570
>宗教を重んじる人民
おいおい、祭祀用供献土器を使って墳墓祭祀を行うのは首長層だぞ
前首長の権力を継承する儀式が必要な人民がどこにいるんだ?
祭祀用供献土器の意味合いが全く理解できないんだな
可哀想にww >>264の追記
という事は、5chという掲示板の担当者は、始めから、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者であった、という事になった訳で、
だから、
マスコミや掲示板の担当者が、国民を嘘つき騙しの大和説に誘導しようとしていた、
という事の証拠であった訳で。
世は、PCやスマートフォン時代。
これじゃ、世の中や国民の世論の誘導の、やり放題。 キナイコシの妄言が延々と続く荒れたスレですね。
わかります。 >>647
>祭祀用供献土器の意味合い←まずこれが妄想だからw 川俣町というところの話もしているし、
よくわからないけど、当時住んでいた家に凄い刀が飾ってあったとか
歌舞伎〜芝居が〜とか 祭祀用土器とは、砕かれて馬具と一緒に周濠に棄てられるような、扱いだったので、あるな。。。 >>646
>力で封じようとする九州説は
何か見えない力でも感じてるのか?w
病院池www 一所に嘘をつくのに疲れていく
金の切れ目がキナイコシの切り土器 ほとんど同じ話w
亀戸(天神?)に行ったりもしたとか、
老婆の家の話ではなくて、もう少し前の世代の話 受験などで行ったわけでもないと言っているし、
軍人なのかな?でも戦争にも行っていないとか・・・。 キナイコシよ、マジで病院池って状態だぞw
もう手遅れかもしれないけどw >>302
「南→東」などの嘘付き騙しや、
口先言葉尻誹謗の荒らし専業か
大和説って悲惨だね キナイコシには魏志倭人伝の「槨無」が「槨兵器」のように思えて仕方ないのかな?w ほんとーに
?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
このような話ばかり >>601
>逆に、幾重にも包んで開けないのは、もう灰の塊になっているからかもしれないし
こういうのが三種の神器に対する誹謗だっての!
皇居のレプリカは焼損の記録があるが、伊勢の御神鏡が損なわれた記録はないぞ!
自説を言い張るためだけに日本の最重要の御神宝が灰の塊かもとか言い出す
最低の人格だな 今回も三種のうち鏡だけ持ち出されなかったから大きさがわかるだけでも意味があるのかめ ほら!桃の種、またまた桃の種が出た!
神仙思想
これ卑弥呼の鬼道!
研究費ください!
ほら!小枝調べます!
研究費ください!
あ。。。4世。。。
すみません
これノーカウント
土が落ちてきたからノーカウント
え?土も古墳の一部だろ?
すみません
このとーり
ノーカウントで
鉄、銅、金属、
金属ちょーだい
金属でてちょーだい
か、か、か、蛙の骨。。。
研究費ください! 『部落 創価』
大宰府が〜という話もしていたり、亀戸の話?
当時、亀戸に行ったりもしたと言っているし そういう戦争ではなく、
近所にある、寺院などに通っていただけみたいな話
なぜか、あの河童の話と同じ 他人就歌舞飲酒
倭人の葬送儀礼では飲酒をする
弥生時代を通じて周溝内から土器が出る
使用した後に穿孔や破砕されたり日常生活とは異なった形で出ることが多い >>366
>九州一帯を支配する倭国の邪馬台国がドヤ顔で本州中国地方に
勢力を拡大を目指し大軍を送ったら、本州には倭国の干渉を
一切受けない大和連合があり、その逆鱗に触れ
本土全土から続々と連合兵士が集められ
倭国の領土を逆に奪い、朝鮮半島までその勢いは収まらなかったという<
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
を書いたのは、九州倭国の倭王武。 >>554
横からだけど
倭人伝の「径百余歩、徇葬者奴婢百余人」はあやしい。
というのも、同じ百が対句のように並んでいるからだ。
中国ではのちのちまで殉葬が行われていたとされているので、中国と同じように倭でも殉葬が行われただろうとみなされたのではないか。
そして、多数(百余人)の殉葬があったとするために、卑弥呼の墓を徑百余歩と対句で書いたのではないか。
このように疑って考えると、百余歩を実数として144m程度の墓を3世紀前半の日本に探そうとするのは無駄ということになってくる。
つまり、徑百余歩も殉葬百余人も張政の勝手な報告ではないのかという疑問である。 >>671
ちょっと違うけど特攻前に酒を含んで器を割って出撃したみたいな >>621
>しかし高祖山の麓に王墓がいくつもあるのは事実。
また嘘ついてるww
須玖岡本遺跡も三雲南小路遺跡も高祖山の麓じゃないぞww
箸墓古墳が穴師山の麓だって言うやつはいないだろ? >>369
>朝鮮半島まで攻め上ったのは
倭国が大陸と内通し大陸の支配下に置かれていたと
大和連合は倭国の王族の捕虜から聞き出し
大陸干渉を排除するために、朝鮮半島まで大軍を送ったのだ
大和連合国家が逆に列島を蹂躙し邪馬台国を支配するまでが
空白の日本史だろう <
こんな・・・・投稿が、何故「このページを表示できません・・・」にならないんだろう?。 >>674
それは生きて帰らないという意味。
全然関係ないw >>676
zarakokuの投稿数が運営の許容限度を超えてるだけ >>467
以婢千人自侍
宮室樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衛
をマキムクで証明してごらんww 以婢千人自侍は、女王が自ずから侍る婢千人をもちいているのであって
女王が婢千人の婢と一緒に住んでいるのではない キナイコシが高祖山の麓どうこう喚く今の状況は
初代ガンダムでいうと
どのあたり? 稲作起源の長江流域の住居は干闌式建築(高床式)
神社建築も高床式建築
棟持柱構造の切妻屋根は真屋(本当の建物)、
竪穴住居由来の寄棟屋根は東屋(田舎の建物)と呼ばれた
近畿地方は平地式住居への移行が早かった 何か知っている人がいるんだろう
日本は負けたんだよwww
みたいなレスをしてきた人がいたり
数年前の、どのスレだったかな? >>640
わけわからんこと書いとるな。
倭人は帯方東南の海の中にいると倭人伝が書いておる。
東南は九州。
だから、倭人のいるところは九州。
その九州から千里東のところの国々にも倭人と同種の者らが住んでいるというわけだから、
倭人と同種の者らが住んでいる国=倭種の国なんだよ。 ほら!桃の種、またまた桃の種が出た!
神仙思想
これ卑弥呼の鬼道!
研究費ください!
ほら!小枝調べます!
研究費ください!
あ。。。4世。。。
すみません
これノーカウント
土が落ちてきたからノーカウント
え?土も古墳の一部だろ?
すみません
このとーり
ノーカウントで
鉄、銅、金属、
金属ちょーだい
金属でてちょーだい
か、か、か、蛙の骨。。。
研究費ください!
日本人のカネで
日本人をディスる!
もっと、もっと、続けさせて! >>686
お金が無いのん♪
ソース
読売新聞YOL
21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>429
>陳寿の認識、想定の上では南というだけで現実の地理上の方角が南という訳ではない <
バカだな、類スレ主は。「南」と記録したのは、(陳寿ではなく)魏の役人たちだ。
>陳寿の倭国地理に関する知識、情報が不十分、不正確であることは、会稽東冶之東や東南陸行五百里で明らか <
ウソを付くな。陳寿は「東冶」だなんて、書いていない。「東治」だ。
いい加減に方角云々が九州説に対する批判として的外れなことを認識しなさいな.
まあ、それくらいしか言えることがないってのは知ってるけどさ、
大和説者全員が、「南→東」などの嘘付き騙しの詐欺師並みってことにしかならないぞ >>429
>陳寿の認識、想定の上では南というだけで現実の地理上の方角が南という訳ではない <
バカだな、類スレ主は。「南」と記録したのは、(陳寿ではなく)魏の役人たちだ。
>陳寿の倭国地理に関する知識、情報が不十分、不正確であることは、会稽東冶之東や東南陸行五百里で明らか <
ウソを付くな。陳寿は「東冶」だなんて、書いていない。「東治」だ。
いい加減に方角云々が九州説に対する批判として的外れなことを認識しなさいな.
まあ、それくらいしか言えることがないってのは知ってるけどさ、
大和説者全員が、「南→東」などの嘘付き騙しの詐欺師並みってことにしかならないぞ >>429
>陳寿の認識、想定の上では南というだけで現実の地理上の方角が南という訳ではない <
バカだな、類スレ主は。「南」と記録したのは、(陳寿ではなく)魏の役人たちだ。
>陳寿の倭国地理に関する知識、情報が不十分、不正確であることは、会稽東冶之東や東南陸行五百里で明らか <
ウソを付くな。陳寿は「東冶」だなんて、書いていない。「東治」だ。
いい加減に方角云々が九州説に対する批判として的外れなことを認識しなさいな.
まあ、それくらいしか言えることがないってのは知ってるけどさ、
大和説者全員が、「南→東」などの嘘付き騙しの詐欺師並みってことにしかならないぞ >>441
「南≠東」などで完全に叩き潰されてしまった大和説が、
荒らしに走る >>626
>まあ、それ以前に3世紀の倭国土器相に、大陸や半島の顕著な影響なんて皆無なんだが
土器ばかり気にするんだな。
糸島平野の王墓群に見られる多数の舶来品は無視かよ。 >>456
あいかわらず 「南→東」などの嘘付き騙しの、
ひとことも理由を言わない大和説
思考停止しているのだな 日本は〜、負けた〜と言うけど、
正確には日本人(民族)でもないような >>627
高祖山を見上げる位置だよ。
しかも高祖神社から細石神社へは神輿が渡る神事があった。 >>456
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説じゃ
手も足も出ないのだからな 神器としての銅鏡が令和の世においてもそのまま伊都から継承されているわけだよ。 >>457
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説じゃ
手も足も出ないのだからな >>675
高祖神社から細石神社へは神輿が渡る神事があり、高祖山と三雲南小路遺跡は関連があるのは事実だよ。 >>700
龍宮は豊玉姫の故郷、志賀島の綿津見神社。
天孫族がいたのは博多湾を渡った高祖山のクシフル峰。
ヒコホホデミを祭るのが高祖神社、木花佐久夜毘売を祭るのが細石神社。
博多湾沿岸が神代の舞台だよ。 >>461
>3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。<
筑紫の庄内は、3世紀前半からで、
大和の庄内は、庄内1の前方後円墳の石塚からであるから、
「3世紀にはいると九州で畿内史記土器が出現」なんて起こる筈がないから、×。 キナイコシが何を叫ぼうが、糸島平野にいた弥生王墓の主人たちが三種の神器をを奉じるヤマト王権の祖である天孫族であり、伊都が倭国の王都であった時代があったという事実は変わらない。 >>531
>じゃあいつヤマト王権や今の天皇家は、九州北部の鏡文化を受け入れたんだ?
一応、弥生後期あたりの名柄遺跡。
ただし銅鐸と鏡が同時に出ているのは、銅鐸文化を維持しつつ、
外来文化として鏡を受け容れたのであろう。
というか長柄神社の祭神シタテルヒメを象徴するように、
両親である大国主と多紀理毘売命(宗像三女神)の祭器なんだろうけど。
大国主が銅鐸、多紀理毘売命(宗像三女神)が多鋳細文鏡なのだろう。
ちなみに国宝ね。
被葬者がまるっきり鏡祭祀の人間ということではホケノヤマ古墳被葬者かな。
多分、ウマシマジだと思われるけどね。
纏向石塚にも鏡があったのかもしれないが、みつかっていない。 >>689
…四国阿波
瀬戸内海や紀伊水道、豊後水道は大海とはいいにくいけどね。 ^ ^ 聖徳太子以前の歴史は聖徳太子にすべて伝わり
聖徳太子以後の歴史は聖徳太子から始まる
8字の式だとタジフが言っている >>520
>どこに埋められたかも不明な殉葬100名など照合の要件にならないのでクリア
それはダメだ、100名以上もの奴婢の死者が出るなんて大事件であり、
必ず伝承されているとみてよい。
日本のどこにもそのような伝承がないのなら諦めるが、
一地域にそれに該当する伝承があるので卑弥呼の墓はそこなのだ。
その伝承とは神武東征紀の土蜘蛛退治、場所は高天原(御所市高天)だ。 >>709
>外来文化として鏡を受け容れたのであろう。
先祖伝来の銅鐸を捨てて外来の神器を祭る?
そんなわけないだろ。
氏族そのものが置き換わったんだよ。
>両親である大国主と多紀理毘売命(宗像三女神)の祭器なんだろうけど。
つまり神代からの倭国の王統である出雲と筑紫が大和を征服しただけじゃん。
語るに落ちたな。 >>470
>その献上されたものが、九州の土器のスタンダードになるのをどのように説明するんだ?ww <
スタンダードにならないの。
筑紫の庄内は、3世紀前半だけど、大和は、庄内1の石塚が3世紀だから、
50年余り筑紫の方が古い。 天武天皇は実在したろ、天淳中原おきの真人。道教にいう東の神仙境の真人。奥義を悟った天皇だよ。真人がつくのが応神から。神功は卑弥呼。只、神功らしき姫が隠されてるかもしれない 聖徳太子は過去を知り尽くした後に
未来の知識者に対して挑戦を仕掛けたのだった
とタジフが言っている >>699
細石神社に参拝するとき宅蘇山にケツ向けてるだろ >>709
>被葬者がまるっきり鏡祭祀の人間ということではホケノヤマ古墳被葬者かな。
>多分、ウマシマジだと思われるけどね。
鏡を祭る九州北部の勢力である物部氏の天下だな。
ウマシマジ 物部氏の祖、饒速日の子
饒速日 八咫の鏡を作った天照の孫、十種の神宝を授かり、その中の二つは鏡とされた(籠神社の神宝)
物部氏 その出自は遠賀川とも筑後とも言われる九州北部から来た氏族で、前方後円墳を作った >>717
それは自分の家だからいいんだよ。
高祖山のヒコホホデミが母親の木花佐久夜毘売のもとに参じる祭りなんだから。 >>719
糸島の爺さんたちも韓鍛冶宅蘇山ケツ向けるだろ
俺もケツ向けたし 聖徳太子は言った
「先の世を知るには、まず過去の世を知り尽くせ」と
タジフは聞いたと言う >>713
>先祖伝来の銅鐸を捨てて外来の神器を祭る?
そんなわけないだろ。
捨ててなんて言ってない、よく読めドアホ。
維持しつつと書いてるだろ。 >>713
>つまり神代からの倭国の王統である出雲
そこは同意。
>と筑紫が大和を征服しただけじゃん。
語るに落ちたな。
筑紫は防人の土地、倭国の王統とは関係ない。 まず先の世を変えるには、過去の到達点を
現世に置き換えることじゃ >>722
>維持しつつと書いてるだろ。
銅鐸文化は破棄されたんだよ。
事実を直視しようよ。 即位の儀で筑紫の鏡は用いられるが、銅鐸は用いられない。
あと、あえて言えば剣が出雲の象徴、玉が越の象徴だろう。
つまり日本海沿岸に広がる倭国の統合の象徴なんだよ。
大和は後から獲得した植民地に過ぎなかった。 2世紀、饒速日や神武が畿内に九州北部の銅鏡文化を持ち込み、先住の銅鐸文化を駆逐した。
ただ、両者は八咫の鏡は持っていなかった。
いずれも身の証には天羽羽矢を持ち出したことから分かる。
3世紀末、崇神天皇は纏向から伊勢に八咫の鏡を追い出した。
その一方で、4世紀に景行天皇が筑紫の梟帥である神夏磯姫に会ったとき、姫は榊に八咫の鏡など三種の神器を掲げて登場した。
いつ、誰が畿内に八咫の鏡を持ち込んだのか。
八咫の鏡は何枚あったのか。 鏡の一片も勾玉一個も出土せず、土木用具ばかり出土する纏向を王宮だとか馬鹿じゃね? >>728
日向は、山幸彦に筑紫を追われた海幸彦がたどり着いたところだ。
南九州の隼人の祖は海幸彦とされている。その副都が西都原の都万神社だ。
そして天孫族の王都を継承した山幸彦(彦火火出見)の王都が筑紫のクジフル峰の麓の高祖神社こと高千穂宮だ。
彦火火出見の孫の神武天皇も、書によっては彦火火出見の称号で呼ばれることがある。
この天孫族の王都こそ、魏志倭人伝の伊都なのだ。 過去の歴史観点から見れば
領土拡大しても、結局元の場所に戻る >>467
以婢千人自侍
宮室樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衛
をマキムクで証明してごらんww 九州説だけどさ、纒向かあまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
纒向の建物は神社の建築様式そのものであり、あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが貴人が住む本殿の最大の特徴だ。
だけれども、貴人は一人だけだった。
家臣に訓示を述べる大型建物の拝殿はあっても、他の貴人達を迎える構造にはなっていない。
伊勢遺跡は同じような宮がいくつも環状に配置されており、首長層の会議に使える規模だった。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人、物部氏の一人が駐在していたんだよ。
まあ、それが崇神天皇でも構わないけどね。
どうせ当時の大和の天皇家は地方政権だから。
せっかくの大和王権の発症を示す遺跡に邪馬台国を無理やり絡めてミソをつけたのは誰の責任だ? 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 邪馬台国=倭国代表で卑弥呼の女王国
なんかスゲーって感じだけど
卑弥呼は50年も生きていない単発国家 >>685
>倭人は帯方東南の海の中にいると倭人伝が書いておる。
>東南は九州。
どこまでも果てしないバカだな
何度訊いても答えないが、これのどこまでが倭国だかきっちり答えてみろよ!ww
https://imgur.com/LEf95qW
本州と九州を分けて考えようとするのが、出来の悪いご都合主義のインチキなんだよ
これ全部皆倭種の住む洲島なんだよ 倭国大乱後でも邪馬台国のすぐ近くの国も
健在とは小さい身内同士の内乱だったんだろう >>696
>糸島平野の王墓群に見られる多数の舶来品は無視かよ。
それ全部古すぎて時代が合わないんだよ
卑弥呼の時代は北部九州の没落後の時代
九州説は時系列無視の編年無視でしか成り立つ余地がないんだが、
時系列無視、編年無視では学説にならないんだ
つまり素人の戯れ言
すでにすべて否定され尽くしたことを、見ない聞かない認めないと頑なに言い張って
意味もなく繰り返すだけなのが九州説
だから、九州説は荒らしに走るw
本当に惨めだしまともな日本人の感性ではありえない醜態 >>738
>これ全部皆倭種の住む洲島なんだよ
お主解釈は求めてない。
倭人伝は、半島から見て東南の方にある人民を倭人と定義しているわけ。
関門海峡は東に近い。 卑弥呼は魏とのやり取りで小国から抜け出す方法を探り
死んだ後の事を考えて、生きているかのように人前から姿を隠していた >>731
霧島連峰の高千穂峰に青銅の剣が突き刺さっていることだし、
ここが天孫の降臨したところ。
ここから霧島山系を南西に尾根をつたうと万之瀬川の河口に至る。
長狭の国、すなわち吹上浜の国。日本の海人の宗家の国。
博多は、その分家筋。
伊都はその途中の脇筋。
博多も伊都も弥生時代に成り上がっただけ。
日本書紀が伊弉諾の禊のことや日向神話を明確に書いているのは、その宗家のことを忘れていなかったということ。 >>741
「倭在韓東南大海中」(後漢書)
韓の東南の大海の中にあるのは西日本
倭人伝では南に渡海しただけで九州に上陸している >>745
魏略、倭人伝の文脈を見ると、後漢書は一種のトンデモ説だよ。
相当に独自解釈している。
韓の南といえば、沖縄方面だ。 >>737
>卑弥呼は50年も生きていない単発国家
即位から没年までだけでもゆうに50年を超えている。 >>740
>卑弥呼の時代は北部九州の没落後の時代
九州北部の繁栄は4〜5世紀以降がピーク >>744
海人の国がどうして霧島連山のような高地に登るのか。
馬鹿も休み休み言え。
海人の本拠地は博多湾沿岸だ。 >>751
それ、理由あんの?
それとも
九州節名物「俺様そう思った」? 海人族の名前を挙げてみろ。
博多湾沿岸の豪族ばかりだ。 失われた釣り針型説話の分布はインドネシアから西部ミクロネシア 天孫降臨?海から上陸に決まってんだが、それは恐らく石上神宮。卑弥呼と半島人がここと決めたんだろ。 >>710
>瀬戸内海や紀伊水道、豊後水道は大海とはいいにくいけどね。 ^ ^
君の願望的感想は不要! 四国以外に該当するところ無し!
まさに、倭人在帶方東南大海之中は、四国阿波
「其山有丹」も、四国阿波
「橘」や「楠」も、四国阿波 @阿波 むしろ畿内は呉越あたりの関連を追った方がいいんじゃないの >>490
>>祭政一致の時代に神器が九州北部の銅鏡に統一されたのはどうするんだ?<
>されてないだろ?
九州の鏡文化が3世紀以降に畿内に移植されたってことはないぞ<
された。
神武の頃は鏡をもたなかったが、
卑弥呼への下賜鏡と呉系楽浪鏡師らの渡来に拠って、広がり始め、
その後の東征軍は鏡をお宝にしたので、東方に一挙にひろがった。 >>492
>段築、葺き石、各段を囲繞する円筒埴輪を備えた前方後円墳が各地の首長墓(盟主墳)として
統一され、その葬送祭祀に使われる供献土器が畿内様式土器で統一されるというのは
考古学的な事実<
畿内様式土器、というのが間違い。
庄内の発祥は、筑紫。
前方後円墳の発祥は那珂八幡など。 >>494
>どこが妄想なのか、具体的な根拠を挙げて論じてくれww
いつもの負け犬九州説w <
「南→東」などの嘘吐き騙しが妄想。 九州説の本質はひたすら作り話を考えることのようだ
基づくべき情報を決して提示しないからな >>498
>この、「北部九州の倭王に認めて貰おうと」っていうのが、妄想ww
北部九州に倭王なんていないし、『認めて貰おう』なんていう古代人の意思を勝手に捏造しているw
「倭人の間ではデファクトスタンダードだった土器」
そのデファクトスタンダードに、どうして北部九州の在地の土器がならなかったんだ?
西新町式土器とかが、北部九州の在地の土器なんだが、王のお膝元の北部九州の土器が
倭国のデファクトスタンダードにならなかった理由は?ww
もうね、土器という確実な考古学的物証だけで九州説は破綻するんだよww <
庄内も、3世紀前半に筑紫が発祥。
大和は、3世紀末の石塚から。 >>710
>瀬戸内海や紀伊水道、豊後水道は大海とはいいにくいけどね。 ^ ^
君の願望的感想は不要! 四国以外に該当するところ無し!
まさに、倭人在帶方東南大海之中は、四国阿波
「其山有丹」も、四国阿波
「橘」や「楠」も、四国阿波 @阿波 >>756
天孫は二系統あるんだよ。
石上は饒速日の物部氏の方。
しかし一般に正統(天皇家につながる)とされるのは筑紫の天孫族の方。 >>492
>段築、葺き石、各段を囲繞する円筒埴輪を備えた前方後円墳が各地の首長墓(盟主墳)として
統一され、その葬送祭祀に使われる供献土器が畿内様式土器で統一されるというのは
>考古学的な事実
事実であるということと、その年代があの年代と一致するかどうかは、これはまた別の話・・・ アワの自信たっぷりの源は、やはり福津上陸だろうな。
壹岐から渡海には方角が書いてない、
潮に流されて東千里の福津に上陸したから、正確な方角がわからず、書けなかったのだ・・、
おれは邪馬台国論争300年の歴史に終止符を打つ大発見をしたゾー・・、と舞い上がってるのだろう。
だがこれは、昭和50年頃、ある小説家が唱え、一世風靡したがポシャッた旧説なのだ。
帰りが逆潮になることまで頭が回らない片道切符の説だったのだ。・・・アワも同類よ。 >>767
妄想だけで、いっさい根拠出せず! @阿波 >>769
>アワの自信たっぷりの源は、やはり福津上陸だろうな。
そんなことは、「枝葉末節」
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>769
>帰りが逆潮になることまで頭が回らない片道切符の説だったのだ。・・・アワも同類よ。
大陸からの行きと帰りのルートは異なると、ずっと言っている。
大陸からの玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。 @阿波 >>773
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 >>767
妄想だけで、いっさい根拠出せず! @阿波 何もなくて、阿波中を駆け巡り、動かしたりはしないもの
福津上陸説に舞い上がった結果のから騒ぎ、一人相撲、、、。 >>502
>>文字文化の普及度合いを示す硯が出土しない奈良盆地。
3世紀の硯って、ただの石の薄板だぞ?
砥石と判定されている遺物なんかに紛れてるだけだよ
北部九州の硯の鑑定を一手に行っている福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏が
大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で出土した板石の破片を硯だろうと指摘しているし
纏向遺跡で大量に出土している「砥石」も精査すれば、硯がごろごろあったなんてことに
なるんじゃないか <
砥石と硯の違いは、やはり、墨などの色素の付着の確認だろうな。 >>505
>3世紀には博多湾沿岸は畿内や山陰の日本と密な関係になってるから
まつろわぬ九州説は博多湾沿岸以外の地域で想定しないとダメだ<
国生み神話や、神武ら東征や、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」を無視してはダメだ。 それよりも、ほんとーに『埼玉名字辞典』
>猿田
>白髭
ほとんど同じようなことが書いてあるんだけど、
新羅、百済、高麗〜高句麗とかw
神代(日本の)みたいな話 >>506
>纏向遺跡で100メートル級の列島最大の墳丘墓が作られるようになるのが
2世紀末から3世紀 <
この設定が、始めから×。
纏向で一番早い頃の庄内1の石塚が、3世紀末。 >>769
>アワの自信たっぷりの源は、やはり福津上陸だろうな。
そんなことは、「枝葉末節」
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 出雲〜上陸とか、
赤秦・・・実際は百済系の祭神、白が新羅?とか >>780
理由も言わずに世間常識と違うことを
結論だけいくら連呼しても
ばかにしか見えない
九州説 >>507
>縄文式土器も弥生式土器も、土師器も須恵器もいっしょくたに「土器」としか
理解できないんだろうなww<
人類は、狩猟漁撈の採集だけ生活時代だけなら土器は不要であったも知れないが、
妻子が出来て定住が始まった時点で、水や食料を確保するための入れ物や土器が必要になるもの。
「月の砂漠」の歌の「甕」だな。 >>769
>帰りが逆潮になることまで頭が回らない片道切符の説だったのだ。・・・アワも同類よ。
大陸からの行きと帰りのルートは異なると、ずっと言っている。
大陸からの玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。 @阿波 >>522
>西の九州倭国や東海、関東地方などを支配下に
置いた大和王朝は、日本国内を効率の良い支配体系を求め
大陸から導入して支配権を維持してきたのだった<
九州倭國の「東征毛人五十五國」があったの。 >>526
>畿内と斉一の供献土器はTB期までは集落の井戸祭祀には使われていない
今津湾沿岸も博多製庄内が多く搬入され
王名も記されない伊都國は女王國に従属している<
成程。 >>527
>邪馬台国関連の文献で「北、東、南」は出てくるが「西」の話は出てこない。
これは邪馬台国が西側に存在していた事を示唆している。 <
成程。 誰々という名前の家も、竹取物語?
例えば
>沢口 サワグチ 渡来人集落を称す。沢条参照。高麗郡笹井村字沢口。
出生、出身地?などは違うのかもしれないけど、
ほとんど同じ意味でしょ、どういう事なんだろうw >>787
壹岐から流されて、やっとこさ東の福津へたどり着いたというのに、
帰りの出港地の平戸まで、人は歩いて行くとしても、どうして平戸まで船を回せようか。
阿波のご都合千万・・。
というより誰かに指摘され、慌てて帰りを平戸に代えたのだろう。(な、舞い上がると、碌なことはないよ) 渡来人の地とか、ほとんど、そういう話ばかりw
ではない家(人?)もあるんだけど。??????。 https://pl.topperformance.xyz/?st=nbastream.net&plcm=pw&q=Watch%20free%20Dallas%20Mavericks%20Live%20Stream%20%20in%20HD%20&img=Basketball2 >>790
西日本で視点が西側となれば、九州しか無いよなw >>931
>じゃあいつヤマト王権や今の天皇家は、九州北部の鏡文化を受け入れたんだ?<
纏向に関しては、東征毛人五十五國の将軍らの墓であるホケノが最初だから、
300年頃だ。
内行花文鏡は、桜井茶臼山頃らしいから、4世紀だな。 >>792
>どうして平戸まで船を回せようか。
どうして平戸まで船を回せないと思うのか? 不思議でならないwww @阿波 畿内説ですら纒向じゃないと考えてるようで、唐古鍵の引越し先を探してるんだとか。
それすら無理やり纒向に紐付けようとしてる人はほぼ詐欺だね。 >>798
>畿内説ですら纒向じゃないと考えてるようで
どこの誰が?
九州説はいつも具体的な内容が皆無だな
詐欺? マキムクに拘っているキナイコシは畿内説の中でもミソッカスで、むしろ畿内説の足を引っ張っている。 >>551
>倭人の国は倭国はいいとして
邪馬台国の漢字はだれが付けたんだ?<
そりゃ当然、明治頃の「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者や、
それに便乗したいマスコミだろう。 >>784
>お前の精神が盲目なんだよ
悪口しか言い返せないのは
九州説が今日もまた論破されたという証拠だな 学会でも殿(しんがり)というものが必要なんだよ。
ゴリ押ししてきた畿内説だが信憑性も薄れ金も底を尽きた。
誰かを生贄に置いて、自分は適当な事を言いながらフェードアウトするという老害学者の知恵だw >>802
滅んだというよりある時期に一気に引っ越したような感じらしい。
どこへ行ったかは不明。 >>804みたいな根も葉もない中傷しか出来なんだから
九州説はもう終わったってことだよな 弥生後期に西日本全体で環濠集落は解体され徐々に平準化していく >>552
>博多湾がヤマトと呼ばれたこと、ないだろ<
姪浜や筑後に「山門」があるし、佐賀にも「大和」がある。 >>553
>「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。<
元は出雲銅鐸祭祀系であった阿波も、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って、倭国内の旧小国に変わった、
という事の証左である。 頭の悪い奥山は、宣伝係として置きざりにされたのでは、ないのかな。。。 >>790
>「西」の話は出てこない…
九州では西の方は海だから、人の住む場所としては西は対象外。
だから、出てこない。
大和なら西は淡路があるし、もちろん阿波もある。
大和の西について、話題にはこと欠かない。^^ >>554
>槨に関しては、陳寿が三国志を撰述した頃には、
中に人が入って祭祀のできる棺を納める構造が槨だから、<
それは皇帝や諸侯らに使われた「室」であって、「槨」ではない。
「槨」は、「木」偏だから、原則として、
「棺を容るに足る、木で枠を造った、居住や出入りが出来ない小部屋」。
>それ以前に、有棺無槨は倭人の習俗であって、王族の葬送を記した物ではない <
張政らは卑弥呼の葬儀や奴婢らの殉葬を実際に見ており、
有槨とも「室」とも書いていないから、卑弥呼の墓も有棺無槨である。
>径百歩の冢に葬るのに停喪十餘日で済む訳ないだろ? <
祇園山なら可能である。
>殉葬100名に関しては、日本のどこを探しても大規模殉葬と認められる遺跡はないので
誤解または誤情報と見るよりない<
祇園山がある。 >>805
銅鐸文化が継承されていないのだから、移動したというより衰退や滅亡だね。
伊都国については銅鏡文化が日本中に広まったのを無視してまで衰退とかいうくせに、ダブルスタンダードじゃないか? >>812
>佐賀の大和の素は山田村、和名抄では也万多
邪馬台か? >>555
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
反論できなくて、また敗退 >>813
>やはり邪馬台は佐賀だと思うよ。
思うだけじゃ、だめだよ。 それを妄想と言う! @阿波 >>813
邪馬臺の臺の発音はdag(ダー)とする意見がある。
しかし、臺(dag=ダー)は上古音。
上古音は字例が少なく、不確かとされる。
3世紀前半としては中古音が妥当で、臺は(doi=ドイ)とする意見がある。
つまり、邪馬臺の発音は(ヤマドイ)なので、九州現地音としてはヤマダよりヤマドがよい。
山門の現地音は(ヤマド)と濁っていたと考えられる。
邪馬臺は筑後矢部川の山門だと思うね。 >>814
「西」の話
「東征毛人五十國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」 これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述である。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸
これは、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域と符合する。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>744
>霧島連峰の高千穂峰に青銅の剣が突き刺さっていることだし、
それは、後世に作った観光名所だから、それを根拠にしてもしょうがないぞ >>749
>即位から没年までだけでもゆうに50年を超えている。
それ、単なる思い込み
後漢書の桓霊の間に引きずられた解釈で、弥生時代の平均寿命からして
2世紀末に即位というのはかなり無理がある >>750
>九州北部の繁栄は4〜5世紀以降がピーク
まあ、筑紫君磐井が一番のピークだけれど、
須玖岡本遺跡などの厚葬甕棺墓の時代には繁栄していたのが
2世紀に入る前頃から没落しているのもまちがいない 炭坑付近はいろんないわゆる募集工が住み着いたから訛ってるんだろう >>558がまた「このページを表示できません」だから、テスト投稿 >>826
>後漢書の桓霊の間に引きずられた解釈で、弥生時代の平均寿命からして
>2世紀末に即位というのはかなり無理がある
文献を無視して勝手な思い込みはいかんでしょ。
現在の日本人と人種はほぼ同じなのだから。
病気や戦争から遠ざかって生活すれば80や100歳くらいまで生きてもいいんだよ。 >>799
以婢千人自侍
宮室樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衛
をマキムクで証明してごらんww >>768
>事実であるということと、その年代があの年代と一致するかどうかは、これはまた別の話・・・
そうやって標準的な編年を否定することしか九州説はできないんだよなw
結局、研究者が全員畿内説を前提とするようになったのは、現在の標準編年が妥当だと判断できたから
決着は編年研究の進展でついたんだけど、それだからこそ九州説は土器編年も14C年代も
認めないと言い続けるだけ >>827
>須玖岡本遺跡などの厚葬甕棺墓の時代には繁栄していたのが
平原遺跡は甕棺ではないから関係ないね。 >>832
>結局、研究者が全員畿内説を前提とするようになったのは、現在の標準編年が妥当だと判断できたから
厳密に数十年単位で年代を比定できる科学技術はないよ。
前後関係がおおよそわかるかなという程度。 甕棺のは舶載漢鏡だからな
平原のは中国にも日本にもないサビ色塗装鏡 あの、、、異様に身長の高い者は、何者なのだろうか。。。 >>836
孫達が熱狂的に応援している八村塁氏が、苦闘を強いられているな。。。 >>817
>山門/ヤマト地名もどこにでもある
でも、小字レベルの小さな地名がいくらあっても七万戸の邪馬台国の比定地候補には
ならないんだよ
出雲も元は出雲郷という小さな地名が国の名前を代表するようになり
筑紫も元は筑紫野あたりの小地名だったのが、筑紫国、筑紫島と大きな範囲を
指すようになったのは、そこが中心地だったからだ
小地名のままのヤマトは、中心ではなくただの田舎 >>818
>銅鐸文化が継承されていないのだから、移動したというより衰退や滅亡だね。
衰退や滅亡ではなく、宗教改革なんだよ >>829に、少し書き換えて再反論投稿をしたが、
また「このページを表示できません」で、抹殺されてしまった。 >>836
グレッグマンガーノ氏よりも大きいのではないのかな。。。 九州からの銅鏡文化が銅鐸文化を塗りつぶし、畿内でも銅鏡を祖先の御霊として祭ったのが今日まで三種の神器として継承されている。
改革ではなく、氏族単位で置き換えられたとしか考えるほかない。
天皇家自身、筑紫から来たという伝承を記紀に記している。 >>830
>文献を無視して勝手な思い込みはいかんでしょ。
文献を妄信しての無理解釈はダメだってw
桓霊の間というのは、後漢末の混乱期という意味の慣用句だから
実際にその時期に倭国乱があったとは限らない
後漢書は東夷伝が簡略化されて三国志の東夷伝より字数が減っていることに注意
後漢書の桓霊の間というのは、三国志東夷伝で言えば韓の「桓靈之末、韓濊彊盛」を
引き写した物なんだよ 奥山氏が、熱狂的に応援している邪馬台国畿内説が、苦闘を闘っているな。。。 >>838
>出雲も元は出雲郷という小さな地名が国の名前を代表するようになり
これだって、今の出雲大社のところではないんだろ?
ヤマトの地名は九州北部を意味するようになり、最後は列島を代表する大和まで継承されたわけだ。 >>558に対する私の反論対象文は、
「都合の悪いことはすべて燃やされたからなくなったんだっていうのが九州説の妄想」
という文だけだった。 >>843
>桓霊の間というのは、後漢末の混乱期という意味の慣用句だから
>実際にその時期に倭国乱があったとは限らない
こんな詭弁がまかり通るなら、倭国大乱を3世紀にでも4世紀にでも移動できるよな。
却下だな。 この、、、異様に頭の悪い者は、何者なのだろうか。。。
839日本@名無史さん2019/10/24(木) 11:25:22.65
>>818
>銅鐸文化が継承されていないのだから、移動したというより衰退や滅亡だね。
衰退や滅亡ではなく、宗教改革なんだよ >>842
>天皇家自身、筑紫から来たという伝承を記紀に記している。
九州は、天皇家と今も昔も縁が無く、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)においても蚊帳の外。 何を考えているんだか。 @阿波 >>833
>平原遺跡は甕棺ではないから関係ないね。
平原遺跡の大量の銅鏡は、出雲の荒神谷遺跡の大量の銅剣との対比が重要
各地で祭器として青銅器を作っていたのが、「どこかに一括集約されて」
各地の青銅器工房が不要になる時期が一致していることを示している
平原1号墓以降、九州製作の彷製鏡って出土しなくなるだろ?
代わりに畿内から配布された三角縁神獣鏡が副葬されるようになる
何が起こっているか、よく分かるじゃないかw >>845
>ヤマトの地名は九州北部を意味するようになり、
九州北部がヤマトと呼ばれた形跡も記録も伝承も一切ないんだよww
残念でした >>847
>こんな詭弁がまかり通るなら、
詭弁でもなんでもなく、東夷の混乱は後漢朝の徳の衰えによるものという
世界観が大陸中華の易姓革命の思想だからね
>倭国大乱を3世紀にでも4世紀にでも移動できるよな。
できないよ
動かせるのは卑弥呼の遣使の前ごろまでだ
そこが定点になるからね
3世紀前半はあり、というかその方が妥当 >>851
>代わりに畿内から配布された三角縁神獣鏡が副葬されるようになる
これは嘘だな。
九州ではそれほど三角縁神獣鏡は出ないからだ。
そして畿内の古墳では、量産型の三角縁神獣鏡よりも上位に九州北部から継承された内行花文鏡が上位に置かれている。 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 >>853
この嘘にしがみつくしかない畿内説は滅ぶしかないな。 >>818
唐古鍵消滅時期が銅鐸消滅時期ではないよ。
ある日突然全国一斉に消えた訳じゃないんだし。 >>855
奈良県民から「倭」という一字で「ヤマト」とは読まないと教わった。 実際桓霊間に倭から朝献してくることがなくて
日本では吉備や山陰に大規模な王墓が造られる >>562
>そしてサキゾノ地区の祭祀遺構では、三雲地域でもっとも早い時期の
畿内様式の庄内土器が出ている <
ふーん?、これが柳田が言っていた、
「弥生銀座地域の庄内よりも古い庄内が三雲にあった」
という庄内なんだな?。
という事は、三雲の庄内は3世紀前半だった、という事になり、
そして、大和の庄内1は、3世紀末の石塚だから、
「畿内様式の庄内土器」という説明が成立する筈もなく、
佐々木の講釈も完全に嘘つき騙しであった、という事になる。 記と紀を比較すれば、倭だけでヤマトと呼んでいたことは確実だよ。 >>862
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>853
都合の悪い文献は信用ならないと言い張るしかない惨めな畿内説 >>851
>平原1号墓以降、九州製作の彷製鏡って出土しなくなるだろ?
そんなことないだろ。
伊都国では鏡の生産が続いていたから。
工房とか鋳型とか出るよ。 >>832
>そうやって標準的な編年を否定することしか九州説はできないんだよなw
>結局、研究者が全員畿内説を前提とするようになったのは、現在の標準編年が妥当だと判断できたから
新興宗教纒向学会の編年は、纒向教信者限定の編年さ。 畿内説の論法は朝鮮人のそれと同じである。
まずシナリオを作成し、それに合うように遺物を編年しながら、編年基準として作成されたものが纏向編年である。 >>862 名前:日本@名無史さん 2019/10/24(木)1
>記と紀を比較すれば、倭だけでヤマトと呼んでいたことは確実だよ。
古事記が先に編纂され、それを大和朝廷の都合に合わせて修正上書きしたのが日本書紀だ。
このことを頭において読み比べることが大事。 桜井市は、纒向教学者にいいようにされて、大金を毟られてきたようだな 八村氏の所属するチームのポイントガードは、あまりレベルが高くないのではないのかな。。。 >>847
要は、倭国乱があったのかなかったのか確定すること。
倭国乱があったのなら、その時期はいつかを確定しなければならない。
そこで、桓霊の間が信用できるか、それとも梁書のように時期を絞り込むかということになる。
このようなわけだから、倭国乱はあったの? 無かったの? 魏志倭人伝時代の前の時代には、九州は、合戦の時代なのだったな。。。 >>876
熊本平野には、人民の住居にも、無造作に鉄鏃が転がっていたのだったな。。。 最後に吊し上げを食らうのは殿役。
そして決まって、私は騙されだけだと朝鮮人のような言い訳をして有耶無耶にする。
能無し学者の生きる知恵だw >>869
つまり倭をヤマトと呼んでいたが、畿内政権はそれを都合が悪いと感じたのだね。
倭だと中国の史書で九州北部を意味することを知っていたからだろう。 >>876
魏志倭人伝時代の前の時代にも、魏志倭人伝時代にも、魏志倭人伝時代の後の時代にも、纏向には合戦の痕跡どころか、人民の住居自体が殆ど無いのだったな。。。 >>872
>そもそも訓読みが出来たのが平安時代だよな。
奈良時代にはすでに記紀において倭とか日本と書いてヤマトと読んでいたのだから、平安時代というのは明らかに間違い。
天皇の諡号も訓読みだし。 >>115
櫛目文土器が朝鮮半島で出土する最古の時期は6000年前頃。
その時期に、朝鮮半島にはまだO2、C2系の種族は南下してきていない。
誰が朝鮮半島に櫛目文土器を持ち込んだのか? >>881
だからあ、記紀は後世で上書きされたと言われてるだろ?
オリジナルの記紀を参照した新唐書と現存する記紀は乖離してるだろ? >>838
そのどこにでもある山門の中の筑後矢部川の山門が、中国史書で邪馬臺と書かれた卑弥呼の都のあるところだな。 >>862 名前:日本@名無史さん 2019/10/24(木)1
>記と紀を比較すれば、倭だけでヤマトと呼んでいたことは確実だよ。
確実なのは分かったが、その事例を2-3例示してくれぬかな >>887
筑後山門あたりはまだ畿内の供献土器の博多湾沿岸とは関係ない 倭はあかというと何かでやってたから丹なんだろ、でもそういうことと邪馬台国とは関係ないと思う。武内宿禰が現れて邪馬台国。難升米が内宿禰。世話する男一人 がさにわ。中臣のオッサン。記紀で神宮とされてるのは石上だけ。 >>885
エヴェンキ族はC2だろ。
6000年前の櫛目文土器が出土したのは今のソウルの地。
この時期にO2もC2も朝鮮半島にはいず、1万年前には済州島に九州系縄文土器がみられ、また蔚山には7600年前の九州系縄文土器がみられる。
8000年前に満州の遼河地方で造られるようになった櫛目文土器をその2000年後に朝鮮半島のソウルの地へもたらしのは、九州系縄文人だろうな。
九州縄文人は、朝鮮半島と行き来していたはず。
キビなどの雑穀を九州へもたらしたのも彼らだろう。 >>890
>武内宿禰
竹内宿禰の子孫が箸墓は4世紀だと言ってたw 王年代記に武内宿禰は300歳と出てる瓢箪墓の寿命だろ >>891
熊本県民が遼河流域まで行って朝鮮人の先祖になったのか? 朝鮮半島は中石器時代が存在せずその間は無人だったそうだ。
そして急に新石器時代(縄文時代)が始まってるから縄文人が半島に入植したのでは?と言われている。 朝鮮半島で土器作ってたのは縄文人じゃなくて熊本県民の先祖なんだろ? 元々は、馬家浜文化と河姆渡文化があったのだったな。。。 中国の教科書には「半島にはかつて人が住んでいた」と過去形の一文があったらしい。
現代韓国人が今も住んでるぞとブチ切れて修正を要求したんだってさw 朝鮮人の奥山氏が、九州から朝鮮半島への真実のベクトルを否定し、朝鮮半島から九州へという、嘘のベクトルを宣伝しようとしている可能性が高いな。。。 >>894
遼河に住んでいた主流はウラル語系のY-N種族だな。
そのNの周辺にO2、C2の種族もいた。
これらの種族が南下するのは4500年前の気候変動による遼河地方の乾燥化からだ。
その1500年前の湿潤な時期にソウルの地で朝鮮半島最古の櫛目文土器が使われていたのよ。
肥前の縄文人が舟漕いで遼河まで進出してたのだろうな。 >>901
6000年前の朝鮮半島にはO2もC2もいなくて
熊本県民の先祖のハプログループ何が見つかった? >>895
最近ニコ動で竹田恒泰がそのロジックを解説してたね。 奥山氏は、まず5chで宣伝してる時点で情弱って事だからなあ。
こんな板誰も来ないのにw >>889
3世紀中頃に博多へ庄内式土器が持ち込まれる以前は、邪馬台国があったのは筑後矢部川の山門周辺。
その邪馬台国の政治経済の中心地は八女あたりだろう。
一方、卑弥呼の祭祀所は山門にあった。
山門は狗奴国に攻め込まれ、卑弥呼は八女の北あたりへ避難して、そこで謎の死を遂げた。
そのあと、博多に庄内式が持ち込まれる。
だれが持ち込んだか。
当然、大和の連中だよ。 >>906
博多の筑前型庄内甕供献はTB期古層から
卑弥呼の生存中 >>854
>九州ではそれほど三角縁神獣鏡は出ないからだ。
つまり田舎なんだよ
畿内から下賜された三角縁神獣鏡を大事に副葬している >>865
>そんなことないだろ。
では、その出土品の具体例を挙げてくれw >>879
>つまり倭をヤマトと呼んでいたが、畿内政権はそれを都合が悪いと感じたのだね。
このようにもの知らずは、確かめもせずに思いつきででたらめを記すww
日本書紀では、古事記の倭を日本に書き換えていると単純に思っているだろうが、
書き換えは大王、皇族の名前がメインで、豪族の名前はそのまま倭でヤマトと読ませているよ
倭國造とか倭漢氏は、倭のまま
倭國造が筑紫の豪族とか九州説は言い出すのかな?ww >>887
筑後の山門が政権を取って、卑弥呼が伊都や大宰府で君臨しても邪馬台と呼ばれうるよ? >>886
>オリジナルの記紀を参照した新唐書と現存する記紀は乖離してるだろ?
新唐書がオリジナルの記紀のままだと考えている辺りが、
ダブスタとかどうとか以前に頭悪過ぎw >>888
ヤマトタケル
古事記 倭建命
日本書紀 日本武尊 >>578
>3世紀よりも前に、西日本一帯に鏡を威信材をみなす文化は広がっていたんだよ
3世紀時点で北部九州の占有物ではないし北部九州固有の特徴でもない
太田南五号墳では方格規矩四神鏡で「青龍三年」の紀年銘鏡が出ている
この年代は、卑弥呼の遣使よりも前だ <
これに対する反論が全て「このページを表示できません」とされ、
投稿不能であったので、止むを得ず、バス。 >>889
だから、卑弥呼は博多湾沿岸勢力を置き換える形で倭国女王になったと考えられる。
そのきっかけが倭国大乱であり、結果が神武東征なのだろう。 >>910
畿内説が混乱して辻褄が合わなくなっているw >>582
>>筑紫城にいたんだろ?<
>また捏造しているww
筑紫城なんて、3世紀倭国のどこにもないぞww<
新唐書の記載であり、
神武以前の話。 >>465
>土蜘蛛塚が奴婢の殉葬地である根拠がないし、
土蜘蛛が奴婢だ。
>土蜘蛛塚自体は全国に数多く存在する
崇神以前の土蜘蛛塚は高天原にしかない。
おまえは俺のスレをAAで荒らしてるキチガイは。
>3世紀に日本で「后」という称号が使われていない時点で
「比?后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。」
が全くの無意味
「おぉ」はあったのだし最上級の人に対する「こう」「ほう」という発音もあったであろう。
漢字は後世に当てはめただけ。 >>586
>畿内説は、ヒコ王権力の統一国家なんて主張してないぞ
あるのは、祭祀王・ヒメ王を共立した祭祀連合だ
その祭祀の盟主が畿内大和にいた卑弥呼だってこと <
「南≠東」などに拠って、×。 まだお昼だというのに、キナイコシはペース配分を誤って少し飛ばし過ぎたようだなw 『弥生時代の遺跡は、中期(約2,400から2,100年前)までは散在する程度ですが、
後期から終末期(約2,000から1,800年前)に急激に増加します。
この変化は、人びとが新たな開拓地を求めて移住してきたことを示しています。』
↓
卑弥呼の邪馬台国時代
↓
そして、遅れてやって来たのがヤマト豪族
↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。 >>922
>>889
>筑後山門あたりはまだ畿内の供献土器の博多湾沿岸とは関係ない
について、その理由を検討しただけだ。 >>925
>そして、遅れてやって来たのがヤマト豪族
どこから来たのか?
>>925
>検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
>施設があったことは間違いない」とみている。
「渡来人」
便利な言葉だが、時期からすれば朝鮮半島から畿内に流入した渡来人がヤマト王権の一部を形成していたのだろう。 筑紫は古代から軍事要点であり、日本の玄関口だが、
そんな所に女王国があるわけないの。
君ら家の中でも玄関にはいないよね。
普通、居間か自分の部屋にいるよね。
玄関というのは客の応対をする場所であり、
家族はもちろん、親しい人間は家の中にに入れるけど、
それ以外は追い返すよね、
そう、玄関というのは人を追い返す所なの。
もっと言えば真子様、佳子様を対馬や稚内に住んでもらおうとは思わないだろ?
なんで思わないの?
危険だからだよね。
昔も同じ、危ない場所に王はいないの。
わかったかな? >>928
>便利な言葉だが、時期からすれば朝鮮半島から畿内に流入した渡来人がヤマト王権の一部を形成していたのだろう。
倭国(阿波)にも、来ているよ。 多くは、倭国(阿波)王権が、半島渡来人を奈良盆地に住まわせた。
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>887
>そのどこにでもある山門の中の筑後矢部川の山門が、中国史書で邪馬臺と書かれた卑弥呼の都のあるところだな。
そこにはどんな遺跡があるのかな?ww 玄関 伊都国
台所 奴国
応接室 邪馬台国(大宰府) >>928
>便利な言葉だが、時期からすれば朝鮮半島から畿内に流入した渡来人がヤマト王権の一部を形成していたのだろう。
倭国(阿波)にも、来ているよ。 多くは、倭国(阿波)王権が、半島渡来人を奈良盆地に住まわせた。
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>921
>崇神以前の土蜘蛛塚は高天原にしかない。
高天の蜘蛛塚が、崇神以前だというのが妄想ww
お前、バカだろっていうか、左側スロープ君だねww
バカに違いないw 文献によると、伊都国のすぐ南だとか。
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている 倭国が四国の中心部はありえん
兵力が少なすぎる。
四国邪馬台国の総兵力は3000ぐらいか >>928
>便利な言葉だが、時期からすれば朝鮮半島から畿内に流入した渡来人がヤマト王権の一部を形成していたのだろう。
倭国(阿波)にも、来ているよ。 多くは、倭国(阿波)王権が、半島渡来人を奈良盆地に住まわせた。
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>915日本@名無史さん2019/10/24(木)
>ヤマトタケル
古事記 倭建命 (ワ・タケルノミコト)
日本書紀 日本武命(ヤマト・タケルノミコト)
古事記が先編纂だ、だから、
あとから上書きされた日本書紀でヤマトと読ませてるから、古事記の倭もヤマトだったとは言えない。
例えば日本書紀でクマソタケル(九州倭のタケル)は、自分の名の一部を譲ってヤマトタケルと名乗らせたという。
このように、古事記の倭(わ)を、日本書紀になって日本(ヤマト)と読み替えた可能性の方が高い。
他に、この種の事例はないかな、、。 九州らしき記述はちょくちょく見かけるが、奈良盆地については徹底的にガン無視って感じだなw
なぜ記載されなかったのか?
=認識されていなかった、あるいは存在しなかったから。
これ常識w >>937
>兵力が少なすぎる。
碌な弥生後期集落遺跡群の無い畿内や九州に、「倭国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>941
それなら四国邪馬台国の
総兵力は2000ぐらいか >>932
ショボッwww
ふるさと自慢田舎っぺ演歌歌手の世界だなwww 四国倭国大乱
500人規模同士が争う程の大乱でした >>934
>高天の蜘蛛塚が、崇神以前だというのが妄想ww
神武の時代。
崇神が4世紀初頭から前半、ならば神武は3世紀ちょうど当たり。
何が妄想なのかな? >>947
四国が2000なら
九州は6000 本土は20000 >>921
>「おぉ」はあったのだし最上級の人に対する「こう」「ほう」という発音もあったであろう。
>漢字は後世に当てはめただけ。
どこまでもバカ
「后」だから、神武皇后を当てる訳だろ?ww
そして、漢字が後世に当てただけなら、左側スロープ君の「后」の字の音を
当てて考える「比売后〈Bi; mai hou〉」がまったくの無意味だと、
自分で自分を否定していることになる >>949
本土ってwww どうでもいいけど、そんなでたらめ数字書いて面白いの? わははははは @阿波 兵力図
四国邪馬台国 総兵力2000
九州 総兵力6000
山陰 総兵力6000
畿内 総兵力8000
東海 総兵力6000 >>939
>古事記 倭建命 (ワ・タケルノミコト)
無教養だから九州説なんだよ
そのワ・タケルノミコトwさん
「夜麻登波、久爾能麻本呂婆」
って歌ってんだぜ >>841
八村氏を苦しめたのは、クリスタプス・ポルジンギス氏という人物なのでは、ないのかな。。。 >>953
倭建命 (ワ・タケルノミコト)
「田上郷戸籍断簡」は日本で最初の戸籍。
この中に「建部」と見えるが「建部」とは、景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部である。
「建部」は、日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれた。
この「田上郷戸籍断簡」には11名の「建部」が見える。
阿波に日本最古の戸籍。
阿波に「建部」
阿波ってなに?
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>931
掘ったら祭祀所の建物跡は出るだろうな。
纏向遺跡の祭祀所より立派かも。 武人が誕生後の兵力図
四国邪馬台国 総兵力3000
九州 総兵力10000
山陰 総兵力12000
畿内 総兵力20000
東海 総兵力15000 あの巨大な中国人は、何という中国人だっただろうか。。。 >>961
ロケッツというチームに所属していたのではないのかな。。。 >>961
会稽東治の出身だった可能性があるな。。。 >>939
>あとから上書きされた日本書紀でヤマトと読ませてるから、古事記の倭もヤマトだったとは言えない。
古事記は万葉仮名のような方法で読み仮名を指定していたはず。
だから倭をヤマトと読んだことは間違いない。
そんな杜撰な意見ならなんでも否定できるな。 奥山氏は、ロケットからの風景の問題を解決したのだろうか。。。 四国邪馬台国説
山ばかりで稲作出来る土地が少なく
人口増えない=兵力が少ないんじゃぞ >>965
おいおい想像オンリーで否定するなw
否定する根拠を添えろよ池沼w 時は流れ
四国統一を果たした長宗我部氏
四国の総石高は75万石
総兵力二万五千程
四国邪馬台国の
総兵力は3000程だな >>969
碌な弥生後期集落遺跡群の無い畿内や九州に、出る幕はない! なにを考えているんだか。 @阿波 >>972
倭国大乱の舞台は四国だとして
三千程度の兵士の争いが倭国大乱ですか? 魏志倭人伝の女王国関連の記述において「北、東、南」側の話は出てくるが「西」側の話は出てこない。
これはその起点となる女王国が西側に存在していた事を示唆している。
西日本における西側となれば、九州以外に比定できる場所は無いはずだ。 >>973
倭国乱の舞台は、大吉野川流域集落群および、鮎喰川流域集落群 相入り乱れての争乱。 だと、何度言えばw @阿波 倭国邪馬台国があった倭国四国には総勢3万の兵士がいて
倭国と呼ばれていた四国で倭国大乱があったと言えばいい >>975
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 邪馬台国は戸数七万戸
四国邪馬台国にはマンションでもあったのか >>979
>四国邪馬台国にはマンションでもあったのか
たくさんの弥生時代後期集落群があった! @阿波 >>981
で、その小さい集落群に七万戸のマンションがあったと >>982
碌な弥生後期集落遺跡群の無い畿内や九州に、出る幕はない! なにを考えているんだか。 @阿波 >>983
邪馬台国のマンションは何階建てだったんだ?
七万戸が暮す食料はどこから手に入れてたの? >>984
碌な弥生後期集落遺跡群の無い畿内や九州に、出る幕はない! なにを考えているんだか。 @阿波 >>953
>無教養だから九州説なんだよ
>「夜麻登波、久爾能麻本呂婆」
倭と書いてヤマトと読むと説明しているのも九州説なんだけど。
その無教養は畿内説だろ。 四国に邪馬台国があるわけねぇ
存在してたら、住民は山を掘ってマンションにするぐらいしか
七万戸は考えられないな 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571898015/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 >>987
碌な弥生後期集落遺跡群の無い畿内や九州に、出る幕はない! @阿波 >>990
古代邪馬台国は四国に存在し
七万戸の住民は山を各々掘りそこを住居としていた
これで満足できかい >>948
>神武の時代。
それがお前の妄想だけで、根拠ゼロなんだってばww
そもそも、神武の時代ってのが蜘蛛塚があるからってのが左側スロープ君の
妄想説の根幹だww
蜘蛛塚がある⇒神武は土蜘蛛を成敗している
たったこれだけww
だから、全国に蜘蛛塚はいっぱいある、だけで全否定されるww >>970
倭をヤマトと読むのは常識だから、日本書紀にも古事記にも注記なんてないよw
日本をヤマトと読ませるのは新しいから、注記がついている 山を掘り住民が穴蔵で暮す山を
邪馬台マンションと呼んだと言う >>991
マジな話で、「竪穴式住居」に住める家族は、かなりの有力者なんじゃないのかな? @阿波 >>953日本@名無史さん2019/10/24(木) 14:44:44
>>古事記 倭建命 (ワ・タケルノミコト)
>そのワ・タケルノミコトwさん
>「夜麻登波、久爾能麻本呂婆」
>って歌ってんだぜ
だからよ、「夜麻登」をヤマトと読むのは問題ない、それで正解だ。
しかし倭の字についてヤマトと読め、という古事記の注釈かなんかがあるかないかというQなんだが・・。 >>626
>まあ、それ以前に3世紀の倭国土器相に、大陸や半島の顕著な影響なんて皆無なんだが
壱岐や対馬の交易で、畿内様式土器が半島まで届いているけれど <
「畿内様式土器」という表現しか出来きず、
大和や河内や纏向や播磨の胎土で造られた土器とは言言えず、
その年代も言えなかった事が、
インチキの露呈だな。
実態は九州の胎土や筑紫の胎土の土器であった、いう事なんだろう。 >>995
七万戸の住民も防空壕みたいな住居で満足だったんだろう >>993日本@名無史さん2019/10/24(木) 16:14:38.42
>>970
>倭をヤマトと読むのは常識だから、
その常識の根拠を問題にしてるのだ。 纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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