邪馬台国畿内説 Part531
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1573606266/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。 ◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
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以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 ◆FAQ 23-2に加筆 >>767
>平原の大型鏡は連弧文鏡というより
九天の図象が中心に小さく銅鼓的なデザイン
南越墓から径40cmを越える鏡が出てるから南越系の工人だろうね
当時の日本では珍しいインドパシフィックビーズも
甕棺墓もベトナム中部のサーフィン文化<
ふーん。 巣の入った平原1号墓出土の仿製鏡の悪口はそこまでだ! 通典の倭
倭:
其王理邪馬臺國,或云邪摩堆。
去遼東萬二千里,在百濟、新羅東南,其國界東西五月行,南北三月行,各至於海,
大較在會稽、閩川之東,亦與朱崖、儋耳相近。
其國土俗宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。出白珠、青玉。
其山出銅,有丹。土氣溫暖,冬夏生菜茹,無牛、馬、虎、豹、羊,
有薑、桂、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。出K雉。
大較在「會稽、閩川之東」,亦與朱崖、儋耳相近。
これが、三国志の會稽東冶之東であることは明確だ
ダメ押しで與朱崖、儋耳相近ともある
通典は、唐代の史書だがその編者杜佑は、会稽唐冶を閩川のあたりだと
認識していたことが分かる
閩川は、現在でも閩江と呼ばれており、福建省福州市を流れる川だ
台湾のあたりだなw ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>81の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 倭人伝に「循海岸水行歴韓国乍南乍東到狗邪韓国」とあるが、
その到着した狗邪韓国は伽耶地方のことであり、船が倭に渡るために停泊したのは伽耶地方の中の小伽耶の固城湾であった。
これまで、停泊地が議論されたことはなかったが、魏略や倭人伝が冒頭に記している倭の方角を示す「東南」の解読により、
その停泊地が固城湾であったことがほぼ突き止められた。
この「東南」の方位に従えば、魏の使節団が倭に渡ったのは固城湾から対馬南端、壱岐西端、呼子加部島、末盧のルートであったことになる。
そして、その後も中国王朝からの使節団が倭に渡る際の停泊地はそのまま固城湾が使われたと推測することができる。
固城は、鉄の交易などで倭や中国の船が行き来して栄えた街だったのだ。 >>83
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>83
>これまで、停泊地が議論されたことはなかったが、
ウソ
たっぷり議論されてきて金海一択になった
金海と固城では国力も倭との交流の深さも段違いなうえ、洛東江の流れを推力に使えるメリットがある
実績がまるで違うの >>83
そもそも「帯方東南」と明記されてる史料無視な件について ったくもう
奥山はニセスレ乱立で訴えなきゃいかんな >>85
因みに、金海(釜山)は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 そろそろ、5ちゃんねるを生命活動の中心にしてしまった奥山氏が作成した、この重複偽物スレッドに、
邪馬台国畿内説が完全に破綻したのか、それとも、破綻という状況にギリギリまで近づいてしまっただけなのか、について関心がある者達が再び集合し、真実がどちらなのかを討論すれば良いのではないのかな。 日本人を組織的に誘拐し続けてきた、奥山氏が所属する民族は、奥山氏が所属する国家で、日本国家に所属する組織を訴えたのだったな、、、 日本人を組織的に誘拐し続けてきた、奥山氏が所属する民族は、ロケッツで日本人を脅かすのだったな、、、 僕達は、纏向・箸墓説を打ち砕いた、ホケノ山の小枝から得られたデータをもとに、いったい4世紀の、どの辺の古墳なのかについて、話し合えばよいのだな。。。 ヒューストン・ロケッツは、明日から日程が過酷になってしまうのだったな、、 楽天TVで、ロケッツを視聴できるのではないのかな。。 >>777
>>大宣子孫内向花文四葉鏡のシリーズは、別に平原1号墓の専売特許ではない<
>オリジンが平原で、多くのフォロワーを生み出した
というかそれら全部筑紫で作ったんだろうな
他の地域では鏡の鋳型が見つかっていない<
ふーん。 >>823
>平原の鏡の大きさを超えないようにという配慮だろうか。
そうすると畿内の鏡師達も平原の鏡を知っていたのだろう。
八咫の鏡という名称があり、それに限りなく近い大きさの鏡を作ることができたのだから、
鏡師ならば文字通りの八咫の大きさの鏡作りに挑戦したかったはず。
しかし誰もそれに挑戦しなかった。
伊都以外に八咫の鏡を作ることは、王権に対する大逆と取られる可能性があったのだろう。<
成程。 >>824
ほらまた
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
実態を伴わない悪口しか言えない
みじめな負け犬だな >>100
平原の鏡の大きさなんて誰も知らないんじゃないの?
だって叩き割って埋めちゃったんだぜ >>826
>>埋葬主体が発掘できた古墳で鉄器は大量に出ているのは、ほぼ4世紀。<
>それは九州説信者の願望だろ
現実に公的機関から発表されてる情報は軒並み3世紀だ <
現実に「公的機関」そのモノが、
ほぼ全て「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者であるんだから、
そんな「発表」された情報なんて、信頼性も確率も全くない。 >>831
証拠なし
理由なし
「南→東」などの嘘吐き騙しを、
言い張るばかりの大和説バカ >>102
あれだけの大量の鏡と副葬品だから、集めたり鏡を作るのも大変だったろう。
葬送そのものが大規模な祭祀だったことが伺える。
広域からの物資が大量に含まれているので、国家的な大規模祭祀であった。
その年代は卑弥呼が女王を務めていた時代であり、伊都が卑弥呼の支配下であったこともわかっているので、その祭祀は女王の元でとりおこなわれたはず。
ただ一つ、被葬者が卑弥呼本人だった場合を除いて。 畿内説はマキムクから離れたほうがいいと思う
暴走した学者もどきが味噌をつけた >>105
あれなら4、5人で1週間もあれば造れるだろう
商人なら商品は持ってる >>85
その議論て陸上南下じゃないの?
意味ないと思うけどね。 その「帯方の」があやしいのよ。
楽浪に単に置き換えただけで、元の楽浪には「東南」の方位は書かれてない。
帯方と東南は無関係だよ。 >>112
あやしいんじゃなくて
延長上を山門の信号機にしたいからだろ
考えることがセコイ >>112
ただ「あやしい」って四文字口先で言うだけで
史料無視していいかっていうと
そりゃないだろう >>115
史料の検討なくして学問なし、の格言しらんの? >>116
w
ただ「あやしい」って四文字口先で言うだけで
史料無視する人が
史料の検討してるわけないだろう
笑わせるな >>118
>史料の検討してるわけないだろう
あれれ、ほんじゃ、その「東南」はどこから出てきたのよ。
答えられないだろう。
史料検討をさぼっているからだ。
ちゃんと史料検討をしろよな。 >>914
>>穴というより、水辺の祭祀、井戸祭祀なんだよ
纏向の祭祀土坑は水が湧く面まで掘り下げてある<
>>穴というより、水辺の祭祀、井戸祭祀なんだよ
>纏向の祭祀土坑は水が湧く面まで掘り下げてある
>穴というより、水辺の祭祀、井戸祭祀なんだよ
>纏向の祭祀土坑は水が湧く面まで掘り下げてある
>古井戸に茶碗が捨ててあったのを祭祀と言い張っているだけか。
驚いたな!<
成程。 >>918
>纏向で出土した東海・伊勢産の飯炊き甕はドカタが持ち込んだ物だ。
畿内説がこんな事を言ってたはずだ。
纏向には全長2.3kmに及ぶ巨大な運河が造られており、たくさんの労働者が灌漑模工事などに従事していたと考えられる。
まあ、俺達は古墳建造工事だと判断してるけど。<
成程。 関川論文より
「論文によれば、大和地域全体としてみれば、弥生時代後期までは、
畿内の他地域と比べても特徴的・先進的な面があるとはいえず、
九州北部と比べれば明らかに後進地域であったことが、わかります。」 酒井 龍一 奈良大学名誉教授
「纏向遺跡は周辺の大型古墳造営のための「古墳造営キャンプ」である、」 >>123
いや、纏向遺跡は周辺の大型古墳造営のための「古墳造営前線基地」である。 わははははは @阿波 小沢毅の反論を紹介します。
小沢氏は「列島の古代史3 社会集団と政治組織」のなかで、纏向遺跡を日本最初の都市として位置づける寺沢説に
反論しています。「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても、王宮が未
確認であることは措くとして市の存在は推定にとどまっており、何よりも、集住を示す住居や居住区
の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。こうした点は、都市の定義の根幹をな
す集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とする
にふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいい
がたい。」 >纏向には全長2.3kmに及ぶ巨大な運河が造られており、たくさんの労働者が灌漑模工事などに従事していたと考えられる。<
>まあ、俺達は古墳建造工事だと判断してるけど。<
両方正解だな
つまり、奈良盆地のあちこちにため池を掘り灌漑水路を建設した。
そのとき出た残土で墓場を作った。
飯場は、両方の工事をさせられたドカタ用のもの、
そして、建設総指揮官の部の長が古墳の最上位に祀られ、工事途中で死んだドカタも墳裾に埋葬された。 >>119
>あれれ、ほんじゃ、その「東南」はどこから出てきたのよ。
>答えられないだろう。
痴呆以外に答えられない人なんていないよ
韓は方可四千里だろ
循海岸水行して七千余里だから
帯方から東南に行ってるのが誰にだってわかる
お前は何も史料検討してないよな?
ばかだから仕方ないのか >>105
平原の骨董商人だったのだから、
死んだ後の店の棚には、贋作だの、売れ残りだの、割れたのだの・・・、
せからしかー、
ま、これらも一緒に埋めたれー。。。 痴呆以外の者達が、魏志倭人伝を読めば、対馬と壱岐は、それぞれ、方四百と方三百なので、島の反対側へは、それぞれ、800里と600里移動する可能性が高いのだったな、、、 >>105
>葬送そのものが大規模な祭祀だったことが伺える。
でも墳丘を作る若い衆は10人しか集められませんでしたってか?ww
成人男子が10人もいれば1週間で作れる程度のしょぼい墓だぞww >>81
>>82
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>131すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>130
参列者を一万人集めれば良いのではないかな? 平原の名の通り、だだっ広い野原だったってこった
目立つ遺物・遺構なぞなかったのさ 研究者によると、固城は弥生後期〜古墳時代前期中葉頃の時期に栄えた日本から中国までを結ぶ交易路の機能を果たす中継地だったとされている。
その東外洞遺跡には鉄生産の施設があり、中国系の細線式獣帯鏡や北部九州系の広形銅矛などが出土しているほかに、同じく北部九州系の下大隅式や西新町式に極めてよく似た土器が多数出土しているそうだ。
特に西新町式は大和の庄内式に併行する土器で、卑弥呼の時代に当たる。
こうしたことから、固城は単なる海邑ではなく、まさに小伽耶の中心地にふさわしい活動をみせた交易港だったといえる。
そして、魏の使節団がここから倭へ渡海した確率は極めて高いといえるのだ。 >>132
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 優れた考古学者が、前回のスレッドで紹介した、小枝の炭素に関係する図の直ぐ上には、小さな英語の文字で文章が、書かれているのだったな、、 小枝についての研究をすれば、良いのではないのかな。 台与の時もなお戦争中なのだから、
土木作業は小さければ小さいほどいい >>935
>博多で庄内式の模倣製作が始まるのが平原1号の直後だから<
この年代論がそもそもインチキ。
筑紫の庄内は3世紀前半。平原1号は、3世紀の第3四半期過ぎ。
>北部九州が邪馬台国連合に参加するのは共立から少し遅れるだろう<
北部九州は、女王之所都地域そのものであるのに、
この男は存在もしなかった邪馬台国という文言を使って、大和を匂わせようとしているから、
×男。 >>135
>平原の名の通り、だだっ広い野原だったってこった
曽根遺跡群は曽根丘陵の上にあるから、野原でもないよ
まあ、参列者10人くらいの葬儀だろう >>137
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の後を継いだ、大和分家の天武が正史記紀を編纂させ(唐を刺激する、継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(冠位十二階の倭王・阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用し、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を半世紀繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>944
筑前型庄内甕は、3世紀前半での在地職人の、
半島の高温焼成法を応用した筑紫在地民の工夫や製作。
大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1が最初。 >>145
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>144
奥山氏が空想するように、上の土が崩れたのならば、棺は先ず土に埋まり、小枝はその上にあるのだったな、、、
だから、もしそうならば、空気にも水にも交互に触れて、小枝は腐ってしまうね、、、 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 >>144
つまり、奥山氏が頼みの綱にしてきた炭素年代法が、Ω歩譲って、破綻していないのであれば、
皮肉にも、炭素年代法が邪馬台国畿内説を完全に破綻させてしまうのだね。。 >>134
>平原遺跡が怖くてディスるのに必死なキナイコシ
ディスるとか、感情的な言葉で必死に印象操作しようとしているが、
こちらの書いていることは事実ベースの考古学的事象
糸クズ説は、アマテラス、八咫鏡というヤマトの記紀伝承に根拠なしで背乗りした妄想ww
この比較を見るだけで、平原1号墓の46センチ鏡は手抜き鏡で、これを贈られた被葬者が
それほど大事にされていなかったことが分かる
https://imgur.com/P9ZIvtJ
また平原1号墓は吉野ヶ里北墳丘墓の被葬者と比べて圧倒的に小者
https://imgur.com/TV2qJ6M 優れた考古学者が、前回のスレッドで紹介した、小枝の炭素に関係する図の直ぐ上には、小さな英語の文字で文章が、書かれているのだったな、、 邪馬台国畿内説は、銅鐸王家が封印された墓や、天皇の祖先の遺蹟に、背乗りしているのだったな、、、 >>155
朝鮮人の奥山氏は、日本人の歴史の真実をねじ曲げようとしているのだったな、、、 >>144
奥山氏が空想するように、上の土が崩れたのならば、棺は先ず土に埋まり、小枝はその上にあるのだったな、、、
だから、もしそうならば、空気にも水にも交互に触れて、小枝は腐ってしまうね、、、 >>154
平成から令和になったように、年号というのは、そ国の時間を支配する者(つまり王)だけが作れるもの。
九州年号は、倭王は九州にいたということ。 >>946
>奴国の大溝は幅lm前後、深さは0.95mほど
溝からは、畿内系・山陰系の二重口縁壷や庄内式の高杯など
の古墳初頭の土器が中層から上層にかけて出土<
ふーん。 >>158
今日は、八村塁氏もバンビシャスも闘うのだったな、、、 >>950
>極南界の王名の記載がない倭奴国の北部九州は倭国の盟主ではない<
後漢書が「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也光武賜以印綬」
と書いているんだから、倭国の盟主だ、としていた事になる。
>その後倭国の王の帥升等が朝見を願い出た
2世紀前半から倭人の風習である卜骨が出る地域の中から
吉備や出雲で大型の墳丘墓が造られる<
ト骨が沢山出た一大國は(倭奴國後の)倭国の一部だし、
大型前方後円墳の始まりは、やはり那珂八幡などの筑紫だな。
>近畿では後に畿内と呼ばれる広域で土器の斉一化がゆっくりと進む<
九州倭国の「東征毛人五十五國」が近畿に土器を伝え、河内付近が中心になった。
>北部九州では亀棺墓集団のど没落が始まる<
甕棺は、元々は、呉と北方民族の一部の習俗であり、
阿毎氏系と一部の姫氏系との合同があった「委奴」の地で盛行し、
姫氏の卑弥呼共立で箱式石棺と冢に変わり、
更に壹與の後で前方後円墳時代になって、甕棺が流行しなくなったが、
倭国は没落せず、白村江の後まで盟主であった。 >>159
私年号は誰でも作れる
お前もお前だけが使う年号を作ってもいい >>959
>ホケノ山が通説通り3世紀前半だと
唯一の拠り所「マキムク鉄がないィー」絶叫ができなくなってしまうので
九州説必死です<
通説大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しや、
「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」がバレると、
唯一の拠り所の「ホケノは3世紀前半」などの嘘つき騙しがバレるので、
必死です。 >>960
日本の考古学者の殆どは、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使うし、
「南→東」などの嘘つき騙しをしている、
「結論先にありき」の循環論棒の、・・・・詐欺師の大和説者 >>146
筑前型庄内甕は、「筑紫忌部」の製作。 @阿波 >>155
>オオタタネコが、大物主神を祀ったのだったね。
阿波國美馬でね。 @阿波 >>968
>ネトのアンケで辛うじて54%の過半数取っただけだろ
伊都説、博多説。筑後説、熊本説、宮崎説と散り散りバラバラになって
どれをとっても泡沫説 阿波よりも泡 それが九州説<
九州説は、「倭國(≒女王國)が九州島付近説。 >>969
>学者はみんな3世紀と言ってるよ <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者が、幾ら3世紀だと言っても、
信頼性も確率も全くない。 >>988
>つまり倭奴国王は倭国王ではありませんね
はい、おしまい <
後漢書は、
「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也光武賜以印綬」
だから、倭奴國は倭國の中にあるんだ、と主張しており、「王」であるんだから、
倭国王ね。
はい、おしまい。 キナイコシによると、井戸に放り込まれた欠けた土器で国家的祭祀を想定するのに、史上最大の内行花文鏡と大量の舶来宝飾品は小さな葬式しか想定できないらしい。
ダブスタだよね。
だから畿内説は支持されていない。 >>155
イリオモテヤマネコみたいな強面のネコ科の動物を思い浮かべる名前だね。 >>163
それを「私年号」と呼ぶことそのものが先入観。 >>171
>キナイコシによると、井戸に放り込まれた欠けた土器で国家的祭祀を想定するのに、史上最大の内行花文鏡と大量の舶来宝飾品は小さな葬式しか想定できないらしい。
ダブスタだよね。
どこがダブスタなのかな?
複数の地方から参加者が来ている祭祀を国家的祭祀とみ
単一地方だけに終始して域外にに誇示しない首長葬祭には地方色を見る
合理的判断でしょ なるほど
複数の地方どころか海外土器が出土する糸島こそが邪馬台国なのだな >>173
>それを「私年号」と呼ぶことそのものが先入観。
どうして?
定義上、国家が公式に建元改元したもの以外は私年号なのだが >>173
私年号を九州年号と呼ぶことが異人種の願望 >>80
>大較在「會稽、閩川之東」,亦與朱崖、儋耳相近。
これが、三国志の會稽東冶之東であることは明確だ
ダメ押しで與朱崖、儋耳相近ともある<
通典は、則天や唐政府の意向に従って、
九州倭国と大和日本国とは「同じ国だ」とした半分×書であり、根拠にならないし、
魏志は、(後漢書の)会稽東冶之東ではなく、「会稽東治之東」と書かれているから、
やはり×書だ。
>通典は、唐代の史書だがその編者杜佑は、会稽唐冶を閩川のあたりだと
認識していたことが分かる
閩川は、現在でも閩江と呼ばれており、福建省福州市を流れる川だ
台湾のあたりだなw<
通典も後漢書も半分×書だな。 都合の悪い史書を理由もなく否定すれば
どんなヘンテコ説も自由に作れて便利だね
w
w
w 倭人伝において、「会稽東治之東」の会稽とは、
紀元前千数百年前の夏王朝の王・小康が、其の子に与えた領地の会稽のことである。
陳寿は、その故事を引いて「会稽東治之東」といっているのである。
後世の福州がどうのこうのは、
中華の古典を知らぬものが垂れるトンデモの極み也。 >>146
>筑前型庄内甕は、3世紀前半での在地職人の、
>半島の高温焼成法を応用した筑紫在地民の工夫や製作。
九州説さん、土師器と須恵器をごっちゃにするとか
無知すぎて言ってることメチャクチャですけど >>181
>倭人伝において、「会稽東治之東」の会稽とは、
だからその会稽が北緯30度あたり
東は屋久島だよ
この時点で北部九州説は死亡
そして陳寿は倭人と会稽の風俗の類似を言うだけでなく
タン耳朱崖との類似も言っている
そして紹興と海南島の中間あたりにあるのが福州だ
そもそも会稽の真東なら「会稽之東」と書く
会稽(郡治)は会稽郡の最北端にある
つまり「会稽之東」と書かずに「会稽東治之東」と書いたということは、もっと南なのだ
それは会稽東冶地方の中心地、東侯官治だ
いまの福州市近郊にあった
東は台湾や沖縄 >>176
その定義は後世のもの。
しかも九州年号は九州倭国が国家として定めたものかもしれないぞ。
それを私年号と言い張っているだけ。 >>178
副葬品がたくさんあるということは、祭祀を行ったということ。
それも大規模に。 >>174
史上最大の超大型内行花文鏡をわざわざ葬儀のために作成したのなら、大々的に周辺諸国の参加者に対してそれを誇示しただろうね。
中国製の宝飾品が多数含まれていたから、それこそ中国からの参列者もいたかもしれない。
纒向は東海地方の土器が含まれている程度で、ほぼ単一地方のものしかない。
筑紫は西日本や北陸、朝鮮半島、中国の物資が集積していたので、その祭祀も大規模で国家的であったことがわかる。 キナイコシによると、井戸に放り込まれた在地の土器だけでなぜか国家的祭祀を想定するのに、史上最大の内行花文鏡と大量の舶来宝飾品は小さな葬式しか想定できないらしい。
ダブスタだよね。
だから畿内説は支持されていない。 平原遺跡の八咫の鏡は国内はおろか中国を含めた世界最大の銅鏡であり、その用途は当然、権力の誇示にあっただろう。
そもそも内行花文鏡は漢の皇帝が権威を示すために下賜したもので、それが諸国の王侯にとっては権力の裏付けとなっていた。
漢の滅亡後にそれを国産で最大化した八咫の鏡は、漢の影響から独立した権威を確立するためのものだったのだろう。
もちろんそれを用いた儀式は国家的な規模だったろう。
卑弥呼は、自分以外のものが自分の鏡より大きな鏡を所有することを許したはずがない。
そして平原遺跡の推定年代は、卑弥呼の即位から没年までの間の、卑弥呼の治世のいずれかであったと考えられている。
その場所、伊都国は、魏志倭人伝でも倭人の中核国邑として大率が巨大な権力をふるって卑弥呼の代理として権力を振るっていたことが魏志倭人伝に書かれている。
平原遺跡の鏡の所有者は一体何者だったのか? >>189
>平原遺跡の鏡の所有者は一体何者だったのか?
筑紫忌部。 @阿波 >>184
>しかも九州年号は九州倭国が国家として定めたものかもしれないぞ。
九州説よ、いつものことだが
根拠出してから言え >>185
>>>複数の地方どころか海外土器が出土する糸島こそが邪馬台国なのだな
<<祭祀してないから無関係
>副葬品がたくさんあるということは、祭祀を行ったということ。
>それも大規模に。
だから無内容のこと言い張るんじゃなく
「複数の地方どころか海外土器」で「大規模に」祭祀を行った遺跡の名前を言え >>183
東は屋久島だというが、八方位区分だから真東限定ではなく。東北東までは含まれた良いのだ。
繰り返すが、陳寿が言っているのは。夏王朝の小康の子が封ぜられた会稽のことだ。
ではキミは、小康の子が封ぜられたのは福州だったというのか・・・。 >>188
九州説は心が打たれ弱いね
論拠がないから反論されてすぐ負ける
言い返したくても言い返せないから
こうやって連呼を始める
心も頭も弱い弱いw
だいたいダブスタの言葉の意味も知らないで使ってるだろ
自分が指摘されて悔しかったからつい使っちゃったんだろうが
情けなすぎるぞ
ま、かわいそうとは思うけどさ
w >>98
「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説・・・
敗者って、みっともないね >>193
>繰り返すが、陳寿が言っているのは。夏王朝の小康の子が封ぜられた会稽のことだ。
それ、なんか根拠でもあるの? >>193
>東は屋久島だというが、八方位区分だから
だぁめだよぉぉ
「当在・・・之東」だから真東 邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く見つからないのだったね。。 >>200
数十年かけて、200回程も調査し、5%も発掘した巻向にも、証拠が一切見つからないのだったね。。 >>201
九州の発掘調査は、あまり、進行していないのだったね。。 >>199
>批判として中身がない。
ほら、また全く反論ができない
九州説ってさあ
惨めだね ついに、邪馬台国畿内説の立場の者が、完全に論破されて討論を放棄し、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな、、、
205日本@名無史さん2019/11/16(土) 16:13:10.85
>>199
>批判として中身がない。
ほら、また全く反論ができない
九州説ってさあ
惨めだね >>206
NHKによれば、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く見つからないので、仕方ないのではないのかな。 >>181
>後世の福州がどうのこうのは、
大陸の三国志が書いてある言語が母国語の人で、大陸の歴史、地理も
よく分かっている人が、三国志の会稽東冶之東を受けて、当時の地名に直して
会稽閩川之東と書いているんだよ
大陸人が史書として三国志を読めば、会稽東冶之東がどのあたりになるかということの
直接的な根拠な訳だww 魏志倭人伝の会稽東治は、夏の時代の会稽の東の治所なのだったね。。 >>205
畿内説が反論できていないと言われているのだよ。
ぐうの音も出ないのか。 >>210
夏の時代の会稽は、良渚文化圏の事だということも、その勢力図の東の部分は、今の上海だということも、中国の学部では常識なのだったね。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、若年性アルツハイマー病なのだったな、、、 つまり、会稽東治は、今の上海だということが、既に常識なのだったな。。 邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く見つからないのだったね。。 >>186
>史上最大の超大型内行花文鏡をわざわざ葬儀のために作成したのなら、大々的に周辺諸国の参加者に対してそれを誇示しただろうね。
誇示した「だろう」ねww ただの個人の想像ですねw
>中国製の宝飾品が多数含まれていたから、それこそ中国からの参列者もいたかもしれない。
いた「かもしれない」ww これなぞは、個人の想像としても弱いと自分で気がついているww
九州説の根拠の程度はこんなものww
>纒向は東海地方の土器が含まれている程度で、ほぼ単一地方のものしかない。
はい、うそつき〜 九州説の大好きなウィキペディアでも
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%
方々から集まってるじゃないかw
そして、伊勢・東海でまとめてあるから多いのであって、「伊勢東海」という大きな国があったと主張するのでなければ、
その範囲のいろいろな国がそれぞれ自国の土器を持って祭祀に参列しているんだよ
>筑紫は西日本や北陸、朝鮮半島、中国の物資が集積していたので、その祭祀も大規模で国家的であったことがわかる。
でも、大型祭祀土坑もないし、祭祀をしたことが確実な遺跡もないよな?
墳墓祭祀が大規模かどうかは、墳丘サイズで見る方が客観的だが、平原1号墓は吉野ヶ里北墳丘墓の10分の1以下
https://i.imgur.com/TV2qJ6M.jpg
そして、平原遺跡は累代的に造墓が続く家族墓地だが、1号墓以外に厚葬墓はなく倭王の一族ではありえないww 5ちゃんねるを活発化しようとしたプロ固定の頭が悪いので、スレッドが寂れてしまったな、、 >>217
確かに、、、
だが、邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、仕方ないのではないのかな。。 >>200
数十年かけて、200回程も調査し、5%も発掘した巻向にも、証拠が一切見つからないのだったね。。 >>136
>研究者によると、固城は弥生後期〜古墳時代前期中葉頃の時期に栄えた、
日本から中国までを結ぶ交易路の機能を果たす中継地だったとされている。
その東外洞遺跡には鉄生産の施設があり、
中国系の細線式獣帯鏡や北部九州系の広形銅矛などが出土しているほかに、
同じく北部九州系の下大隅式や西新町式に極めてよく似た土器が多数出土しているそうだ。<
ふーん。
>特に西新町式は大和の庄内式に併行する土器で、卑弥呼の時代に当たる。<
「大和の庄内式に併行する土器」というんでは、×だろうな。 併行という物事は、始点と終点が一致しなければ、編年を誤魔化せる物事なのだったな。 このように
考古学を完全否定しないと
ニッチもサッチもいかないのが
旧弊なる敗残の醜塊こと
九州説 >>163
>私年号は誰でも作れる
お前もお前だけが使う年号を作ってもいい <
同じ年号文字が、九州を中心として西日本各地で使用例が沢山見つかれば、
それは、私だけに通用する年号ではなく、公的年号。 >>216
>誇示した「だろう」ねww ただの個人の想像ですねw
鏡は権力を誇示するための威信財だから、誇示しただろうと推定することは妥当。
>伊勢・東海系 : 49%
>方々から集まってるじゃないかw
バカだなあ。
他の地域の分は、東海が移入したものが流れてきただけだよ。
>そして、伊勢・東海でまとめてあるから多いのであって、「伊勢東海」という大きな国があったと主張するのでなければ、
むしろ土器の流通からは、伊勢・東海に大きな勢力があり、纒向はその一部に過ぎないよ。
そのような考古学的な知見を無視して纒向説を唱えるのは、初めから結論ありきの宗教的盲信だ。
>その範囲のいろいろな国がそれぞれ自国の土器を持って祭祀に参列しているんだよ
だから、その色々な国というのが根拠のない思い込みなんだよ。
特に、支配しているはずの筑紫の土器が出ないことは致命的に不利だね。
>でも、大型祭祀土坑もないし、祭祀をしたことが確実な遺跡もないよな?
魏志倭人伝には土坑を持ちた祭祀なんて書いてないんだよ。
葬送は祭祀の中でも最も重要なものだよ。
それが大量の銅鏡と宝飾品を副葬して行われているから、すなわち伊都は大規模祭祀の痕跡で溢れている宗教的権威の都市と見ることができる。 >>216
>そして、平原遺跡は累代的に造墓が続く家族墓地だが、1号墓以外に厚葬墓はなく倭王の一族ではありえないww
先代の倭王の家系、すなわち三雲南小路遺跡などの甕棺墓の王墓を作った男王の一族が倭国大乱で没落した。
代わりに2世紀末に平原遺跡の一族が興隆して、新たな三種の神器の主となったのだよ。
魏志倭人伝に照らせば、平原遺跡の一族が卑弥呼の一族であると考えて矛盾はない。 畿内説はどれが卑弥呼の墓なのかも、どれがその前の男王の墓なのかも示せていない。
しかも纒向は東海地方の傘下の弱小地域であり、魏志倭人伝で詳細に記録されている女王の支配する筑紫からの搬入物も、邪馬台国が盛んに交流していた帯方郡からの品もない。
考古学的には纒向は邪馬台国の候補どころか、邪馬台国と関係がなかった地域だ。 キナイコシはすでに否定され役に立たない反論もどきを繰り返している。 >>227
倭人伝に照らせば糸島は卜骨が出ないから非倭人の従属地域 倭人〜何やらと言っているけど、
実際は賤民なんだろう
ほとんど逆?
のことを言っていたりする人もいるし 『西王母 北辰』
貴賤〜・・・、
三貴子(実際は中国の人?)と倭人? >>230
伊都の支配下の壱岐にあったから問題ない。 湿潤耳垢:弥生系「倭国」筑紫、出雲、越
乾燥耳垢:古墳時代以降に流入した半島(ツングースク)系「日本国」
https://i.imgur.com/VqqGojH.png 天皇(不明)?何やらというのも、
後の時代になり取り入れた(教わった、習った?)、
使用したというのも有名な話みたいだし、なぜ知っている人がいるんだろう >>228
>畿内説はどれが卑弥呼の墓なのかも、どれがその前の男王の墓なのかも示せていない。
テンプレにでかでかと卑弥呼の墓は「「「箸墓」」」と書いてあるのに
一瞬でバレるウソを平気で書くとは
九州説って
白痴同然 あるいは
うそをつく病気の人 あるいは
マジ発狂してる
これ以外の選択肢、ある?
いや、ない >>228
北部九州沿岸や壱岐で出る楽浪土器はちょうど卑弥呼の遣使のころの後に激減し
臺與のころには供給されなくなる
ピークが2世紀後半だから卑弥呼の前の時代の既存のルートの存在の想定には使えるが
魏と倭国との交流の時代ではない 本当に誰が作ったんだろう、あの謎のゲーム(チェーンソー)
「すでに死んでいる」というセリフなども。角川□ハルキ? >>237
>テンプレにでかでかと卑弥呼の墓は「「「箸墓」」」と書いてあるのに
前々スレでキナイコシが、畿内説は箸墓を卑弥呼の墓だと主張したことはないっと主張していたのに、どっちなんだよ。
畿内説はその場限りの言い逃れが多くて話にならないな。 >>174
>>キナイコシによると、井戸に放り込まれた欠けた土器で国家的祭祀を想定するのに、
史上最大の内行花文鏡と大量の舶来宝飾品は小さな葬式しか想定できないらしい。
ダブスタだよね。<
>どこがダブスタなのかな?
複数の地方から参加者が来ている祭祀を国家的祭祀とみ
単一地方だけに終始して域外にに誇示しない首長葬祭には地方色を見る
合理的判断でしょ<
文献考古の史料事実や史料実態の、一部分だけで断定して、都合の悪い事実は隠蔽しちゃ、
そりゃ全くの嘘つき騙しのインチキであり、ダブスタでしょ?。
また平原は、明らかに「玉と鏡」の女王的な墓であり、
その鏡には「21枚の尚方作方格規矩鏡」があるから、
明帝の下賜鏡が元になった鏡が含まれており、
鏡片や錆色塗装になっているから、下賜用である事を示して副葬用でもあり、
そんな事は、倭人には無理であるから、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与である事になる。
そして、大和の墓は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓と見、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与に拠って、大量の副葬用の△などが造られた、と見る。
合理的でしょ?。 >>229
>キナイコシはすでに否定され役に立たない反論もどきを繰り返している。
ウソだウソだぁ〜と泣き叫んで否定しても
反論できない以上ずっとずーっと
何度も指摘されるよ
それは泥棒が「逃げるな、まて」と何度も言われるのと同じ ほんとーに謎のゲーム
ヘヴィ・メタル、
デスメタルが〜(聴くな?)とも言っていたり、言ってなかった?
他のゲームだったのかな >>234
壱岐で糸島系の土器が多く出るのは甕棺時代
副葬品を個人墓に独占する甕棺墓集団はど没落してしまった >>238
卑弥呼が死んだから使われなくなった?
または公孫氏が滅んだから?
いずれにしても九州北部説を否定する根拠にはならない。 >>244
そして平原遺跡の卑弥呼に全て一極集中した。 『北斗の拳』のようなセリフを言っているだけど、
・・・・・・・・・・・・・・・・角川□ハルキ? >>240
>キナイコシはすでに否定され役に立たない反論もどきを繰り返している。
証拠は?
テンプレに卑弥呼の墓は箸墓と書いてあることには証拠があるんだが
九州説って発狂してる?
それとも白痴?
本当のことを言ってごらんよ 例えば『スサノオ』(画など)
頭のところを見てみた?・・・芸能関係の影響なのかな、
なぜか中国の・・・でしょ、でも日本の先住民? >>246
平原のニセモノ屋の親父が持ってる物は北部九州には分配されない >>224
>同じ年号文字が、九州を中心として西日本各地で使用例が沢山見つかれば、
見つかってれば、ね
それが、見つからないんだな、残念ながらw
ほとんどが15世紀の半島の書物『海東諸国紀』にあるだけだろ?
古田史学系のインチキな人しか相手にしていない、トンデモだよ 山の上のほうに住んでいたという話でしょ?下のまで(降りて)行き・・・。
観たことないから、わからないんだけど、あの映画も同じ?
『日本誕生』 >>225
>鏡は権力を誇示するための威信財だから、誇示しただろうと推定することは妥当。
完鏡祭祀ならそれも言えるけれど、平原1号墓の鏡はバキバキに割られていて
一部にはリサイクル用の青銅ストックだったんじゃないかとも言われている
いずれにしても、鏡として使うことを想定していない(表面に磨いた形跡がない)し
方格規矩鏡は錆色塗装なんていう、骨董品に見せかける小細工をしているし、
46センチ鏡は鋳込みも甘く酢が入った状態で、鏡背の図像も内行花文鏡の
伝統を無視した明確な手抜きがなされている
これを威信材に使うというのは、かなり恥ずかしい田舎者だぞww あ、引用間違えた
>>240
>前々スレでキナイコシが、畿内説は箸墓を卑弥呼の墓だと主張したことはないっと主張していたのに、どっちなんだよ。
証拠は?
テンプレに卑弥呼の墓は箸墓と書いてあることには証拠があるんだが
九州説って発狂してる?
それとも白痴?
本当のことを言ってごらんよ >>225
>他の地域の分は、東海が移入したものが流れてきただけだよ。
これ、何度も書いているけれど、「東海経由である根拠が何一つない」ww
さらに、東海にもたらされた物をそこからさらに奈良盆地まで移入する理由、動機が
一切存在しないww
思いつきでごまかそうとしても「根拠ゼロ」では何を言っても無意味 >>225
>特に、支配しているはずの筑紫の土器が出ないことは致命的に不利だね。
畿内説では、祭祀連合を想定しているので、支配をしているとは考えていないw
九州説は、強権的かつ中央集権的な王を想定しているようだが、考古学的研究は
そんなデタラメは支持していない
そして、胎土分析で北部九州の土器片が確認されている
北部九州の土器だと、土器の形態で判定されたものがないというだけ むかーし、どこで、あった事があるのかな?
関東大震災が〜〜〜???なぜか老婆と同じような話をしているし
カトウという人物が出てくる作品とか、河伯(河童?)役者? >沙悟浄 役
家は芸能人?ではないんだけど、
あのキュウリの葉、葱の華・・・・写真、
制服を着ている子供がいてw >>225
>魏志倭人伝には土坑を持ちた祭祀なんて書いてないんだよ。
魏志倭人伝には事鬼道、能惑衆と書かれているよ
鬼道が何かというのは分かりようがないが、儒教道徳に合わない異国の宗教くらいの
見方で十分だろうが、これを墳墓祭祀と見るのは無理があるだろ?ww
縄文時代から水辺の祭祀は行われていたし、祭祀土坑が水の祭祀であること、
そこに各地の代表が参集していたことは確実(祭祀土坑では搬入土器が30%)
北部九州では、こうした具体的な祭祀跡がないだろ?ww
>葬送は祭祀の中でも最も重要なものだよ。
だから、それを前方後円墳祭祀に統一した纏向遺跡の主が、倭国最高権威だと想定できる訳だ
北部九州の祭祀のあり方は、墳丘墓ー大柱ー祭祀用小建物を、墳丘墓の軸戦場に配置するもので、
吉野ヶ里の北墳丘墓、平原遺跡5号墓、1号墓で同一の葬送文化が確認できる
https://i.imgur.com/TV2qJ6M.jpg
>それが大量の銅鏡と宝飾品を副葬して行われているから、すなわち伊都は大規模祭祀の痕跡で溢れている宗教的権威の都市と見ることができる。
伊都国としては豪華だったのだろうけれど、よその大墳墓には軽く負けてるんだよ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? >>176
>>それ(九州年号の事)を「私年号」と呼ぶことそのものが先入観。<
>どうして? 定義上、国家が公式に建元改元したもの以外は私年号なのだが<
大和の建元は、701年の大宝元年からであり、
しかし、701年以前の元号が、関東以西の文書や書紀などに500個以上の記録があり、
それらは、当然大和王権が決めた年号ではなく、6世紀前半の(大和以外の)国の年号であり、
半島文書や中世日本文書にも記録され、九州年号とも呼ばれ、
当時列島盟主として存在していた九州倭國の年号である、という事になった。 >>250
平原遺跡の被葬者は女性と考えられている。 >>261
根拠一切無しに勝手にそう決めただけでしょ >>254
>いずれにしても、鏡として使うことを想定していない(表面に磨いた形跡がない)し
バカだなあ。
だからこそ、祭祀専用の威信財なんだよ。
どうせ近くで見るものではない。
儀式で遠くから見るだけ。
すなわち超大型内行花文鏡の存在こそが、伊都で大規模な祭祀が行われていた確たる証拠。 >>256
>これ、何度も書いているけれど、「東海経由である根拠が何一つない」ww
外来土器は土器の一部だから、その中で数%にすぎないということは、ほとんどないに等しい。
尾張以外からは、誰も来ていないんだよ。
来ていたという証拠にならない。
まして、筑紫と交流がなかった纒向が、伊都から倭国を実効支配できたわけがない。 大嘗祭の主要儀式「大嘗宮の儀」では、最も重要な祭祀の場「悠紀殿」と「主基殿」の神座に徳島産の麻織物「麁布」が供えられた。
麁布とは何だろう。
先月、29日、皇居に納められた美馬市木屋平貢の三木信夫さん(83)によると、
大嘗祭の責任者、宮内庁の楠本祐一賞典長は「神が降りる依り代が麁布です」と語ったという。
平成の大嘗祭の賞典長鎌田純一さん(故人)は、著書「平成大禮要話」(錦正社)で、麁布を置く神座の重要性をこう話した。
「古来神座は神の坐す座として天皇もつつしみ対されて来たところ」
徳島新聞 2019年(令和元年) 11月15日 朝刊 @阿波 >>260
なんだかバラバラな「根拠」の寄せ集めだな。
しかも魏志倭人伝と全く関係ないものばかり。
それでは根拠になりません。
却下。 >>.......他
一流大学の教授たちは巻向王都説に懐疑的ですね!
騒いでるのは、誰 テンプレから寺澤氏はわかろけど!
押しが強いだけでは???????????????????????????? >>264
>儀式で遠くから見るだけ。
平原遺跡、狭いんだけど?
それに、平原1号墓の墓坑周りの杭穴とかすごく細くて、ちんまりした葬送しか想定できない
遠くって、どこだよww
いよいよ、思いつきの適当なことしか書けなくなってきたなww あと、〜ハルヒというキャラがいるけど、
本当は角川ハルヒなんだろうw >>179の訂正
>大較在「會稽、閩川之東」,亦與朱崖、儋耳相近。
これが、三国志の會稽東冶之東であることは明確だ
ダメ押しで與朱崖、儋耳相近ともある<
通典は、則天や唐政府の意向に従って、
九州倭国と大和日本国とは「同じ国だ」とした半分×書であり、根拠にならないし、
魏志は、(後漢書の)会稽東冶之東ではなく、「会稽東治之東」と書かれているから、
後漢書もやはり半分×書だ。
>通典は、唐代の史書だがその編者杜佑は、会稽唐冶を閩川のあたりだと
認識していたことが分かる
閩川は、現在でも閩江と呼ばれており、福建省福州市を流れる川だ
台湾のあたりだなw<
通典も後漢書も半分×書だな。 >>265
>尾張以外からは、誰も来ていないんだよ。
>来ていたという証拠にならない。
残念ながら、祭祀土坑からは、平均値の15%の倍の30%くらいが外来土器になる
尾張以外からきていないというのは、九州説の一部が「そうじゃないと困るニダ」といって
現実と戦っているだけという、惨めを通り越した悲惨な言い訳
>まして、筑紫と交流がなかった纒向が、伊都から倭国を実効支配できたわけがない。
筑紫と交流がなかったというのは、考古遺物の現物資料で否定される
先にも書いたように、北部九州の胎土の土器片が確認されているし、
北部九州では、畿内からの搬入土器もあるし、畿内様式土器の模倣製作も行われている
実効支配したとは、畿内説は誰も言っていない
九州説は、支配ー被支配の強権的な政治体制がお好きww >>267
>しかも魏志倭人伝と全く関係ないものばかり。
どこがどのように、関係がないのか具体的に指摘しなければ無意味
歴史は総合科学だから、いろんな資料から多面的に歴史の流れを考えるんだよww
九州説のように、「でかい鏡があったから卑弥呼の墓」みたいなチェリーピッキングはしない
平原1号墓の被葬者が、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の被葬者よりも小者なのは確実ww あと『蒼き狼』〜〜〜〜『蒼狗』同じような画像が出てくるし 謎のモモタロウの話
鹿(麝香)?そういう話も出てきたり、何なんだろう
『ワンピース 粉雪』? 関西の一流大学(関関同立は二流で除外)の教授は
巻向王都説に懐疑的な意見が多いのはなぜ? 『もののけ姫』?
どう考えても(漫画)『アニメの神様』 >>180
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
都合の悪い史書や史料事実や史料実態を理由もなく否定曲解すれば
どんなヘンテコ説も自由に作れて、便利だね >>279
その人の名前は?
具体的でないと指摘にならないよ 倭人伝を語るにあたり、
真正の倭人伝を捨てて、もどきにすがるとは、
そりゃ、いったいなんじゃもんじゃ >>279
>関西の一流大学(関関同立は二流で除外)の教授は
巻向王都説に懐疑的な関西の一流大学(関関同立は二流で除外)の教授は
巻向王都説に懐疑的な意見が多いのはなぜ?
意見が多いのはなぜ?<
失礼極まりない。関関同立の教授でマキムクを声高だかに王都と言った教授名あげろ!ボケいねーよ!
石野や寺澤は関関同立の教授では無い。単なる研究者。。。。。あんんたと同じかもwww
邪馬台国が畿内に存在したことより、邪馬台国とヤマト王政の関連性を研究するのが主題であり、
邪馬台国が畿内であれ、九州であれヤマト王政の誕生の歴史を研究するだけ >>257
>畿内説では、祭祀連合を想定しているので、支配をしているとは考えていないw
その祭祀連合に、郡使が逗留した九州北部が参加していないw
これはもう纒向が邪馬台国と関係ないという明確な証拠 >>284
それで、邪馬台国はどこにあったのですか? >>289
>……<をザラゴキでもないのに使うのはやめなよ、みっともないw
自分がザラゴキ並みの無能であるとか、
ザラゴキが畿内説をやっつけていてかっこいいとか思っているのなら止めないけれどw >>220
「大和の庄内式に併行する土器」というんでは、×だろうな
単にいつの時代かを示しているだけ。
「大和の庄内式と並行する土器」とすればよかったか。
まあ、問題ない。 >>286
それがわからないから議論があるんだろうが
倭人伝と記紀の連続生があるかないかが鍵だよ >>260
>鬼道が何かというのは分かりようがないが、儒教道徳に合わない異国の宗教くらいの
>見方で十分だろうが、これを墳墓祭祀と見るのは無理があるだろ?ww
土坑祭祀だという根拠もない。
吉備やら丹波は魏志倭人伝に登場しないから、倭国に含まれていたという根拠がなく、そこの墳墓がどうであれ関係ない。
それは吉野ヶ里とて同じこと。
しかも時代もバラバラなものを毎回毎回懲りずに持ち出すな。
少しは学習しろ、このバカ。
お前の言い逃れは通用していないんだよ。
卑弥呼の時代であったことが確実で、卑弥呼の支配地域であったことが確実な墳墓で一番の厚葬墓は圧倒的に平原遺跡だ。
当時最大級の祭祀遺跡だ。 >>273
>尾張以外からきていないというのは、九州説の一部が「そうじゃないと困るニダ」といって
来ていたという根拠を示せてないだろw >>273
>実効支配したとは、畿内説は誰も言っていない
嘘をつくな。
伊都の大率を畿内説はなんと説明している? >>182
>>筑前型庄内甕は、3世紀前半での在地職人の、
半島の高温焼成法を応用した筑紫在地民の工夫や製作。<
>九州説さん、土師器と須恵器をごっちゃにするとか
無知すぎて言ってることメチャクチャですけど<
筑紫では、吉武高木に須恵器が出土しているし、祇園山からも出土しているし、
内倉さんの実見記録では、
筑紫の遺跡で褐色土器破片と灰白色土器破片の混在を、
何か所でも実見された、という報告がある。 >>275
>どこがどのように、関係がないのか具体的に指摘しなければ無意味
関係あることを示す義務は畿内説にあるのに、一向にそれを示さず、ただ単にここが邪馬台国だと叫び続けているのが畿内説。
嘘も百ぺんつけば真実になるとでも信じているのか? >>285
>その祭祀連合に、郡使が逗留した九州北部が参加していないw
>これはもう纒向が邪馬台国と関係ないという明確な証拠
出だしから、突っ込みどころだらけだなw
まず最初に、郡使は伊都国に逗留していない
郡使往來常所駐は、常に駐する(立ち寄る、素通りしない)ところであって、
現代語の「常駐」ではない
そして、伊都国三雲遺跡の範囲内のサキゾノ地区でIB期の時点で
庄内大和型甕が出ているよ
そして、古墳時代に入ると端山古墳、築山古墳と連続して前方後円墳を作っている
伊都国が畿内と付き合いがないとかいうのは、九州説の思い込みw
先に述べたサキゾノ地区の遺構は
「手捏土器・手捏土製品が存在することから,生活のための住居ではなく,
祭祀遺構と考えられる。実際,庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に
使用された痕跡はないので,この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」
つまり、畿内の庄内甕を祭祀目的で持ち込んだ遺跡と考えることができるww
案外ここが、一大率の治所かもしれない >>295
また具体的なこと何も言わない
w
w
w このスレで畿内説を信奉してるのは>>1だけかもしれんな
畿内説の仲間にも無視されてる奥山は哀れだな
>>1を教育したり,あざけ笑うスレになっちまったな(笑 >>294
>内倉さんの実見記録では、
素人さんが発掘現場見学に行ったのを「報告では」ってw >>293
尾張の勢力が西征した最初の地が天理・桜井という説もあるよ >>290
>土坑祭祀だという根拠もない。
それに対して、墳墓祭祀がーと言い出したのは、もっと根拠がないって理解できてるか?
本質はここ↓だぞ
「北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ?」
北部九州は、吉野ヶ里の北墳丘墓を作った頃までは、それなりの勢威があったが、
その後はド没落している
弥生終末期という巨大墳丘墓の時代(卑弥呼を論じるなら同時代だぞww)に
出遅れているのが、北部九州なんだよ
出雲は投馬国として魏志倭人伝に出ている
丹波のことを書いておいてくれればよかったのだけれど >>298
もう九州説は現実が何も見えないんだね
ここに書き込んでる畿内説の者は1ひとりだけだとか
幻を見てるんだろ 畿内、とりわけ奈良には縄文遺跡が少ないのも事実ですよ >>293
>>実効支配したとは、畿内説は誰も言っていない
>嘘をつくな。
>伊都の大率を畿内説はなんと説明している?
検察してると言ってるが? >>292
>来ていたという根拠を示せてないだろw
それがな、胎土分析というものがあってな、土器の形態分類で各地の土器とされていたのが
奈良盆地の胎土で作られていたことが分かったものもあるんだよ
つまり、その土器形式で土器を作れる人が纏向周辺に来て土器を作っていることになる
東海地方の人が、別の地域の土器を作る理由がないだろ?ww
残念だったね
こちらは根拠のある話をしている
それに対して君は「東海経由に決まっているにだー」という思いつきに過ぎないことしか
言えていないww
九州説はみんなそうww >>303
それが事実だと、なに?
あなたは誰と会話してるの? >>301
>北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
根拠なし
願望?
妄想?
>出雲は投馬国として魏志倭人伝に出ている
投馬国は都万w >>293
>伊都の大率を畿内説はなんと説明している?
一大率と書いてあるのを、大率にしたがるのも九州説の捏造癖の現れだよなw
一大率は、地方への派遣官だろ? そして倭国への入国管理を行っている
別に伊都国を支配している訳ではない
サキゾノ地区が一大率の治所なら、伊都国において大和の庄内甕を使って
ヤマト形式の祭祀を行っていたかも知れないけどね >>304
それを実効支配というのだよ。
反乱の予兆がないか、抜け荷をしていないか、見て回る内政だからね
それは伊都の大率が女王国の北側を支配していたということ。
君は、説明がより具体的で詳細になると本質が見えなくなるのかい?
悪い癖だな。 >>302
罵声ですか?具体的に指摘すればいいのに
畿内への批判は真正面から受け止めないといけません。
畿内説のスレですので 縄文時代、弥生時代を通じて後進地域の纒向がなんだって?
没落どころか、卑弥呼の時代が終わるまでは、纒向は一度も栄えたことがなかっただろw >>295
>関係あることを示す義務は畿内説にあるのに、一向にそれを示さず、ただ単にここが邪馬台国だと叫び続けているのが畿内説。
倭王墓は、倭国際大の墳墓と考えるのが普通
倭国最大の墳丘墓が、倭王墓の第一候補になる
3世紀の倭王墓の第一候補はヤマトにある
3世紀の倭王が卑弥呼であると魏志倭人伝に書いてあるから、
ヤマトが卑弥呼の王都の第一候補になる
くすのきの井戸枠もあるし、鉄の鏃もある
卑弥呼が遣使したまさにその年の紀年銘鏡が三角縁神獣鏡にあり、その分布の中心が
畿内にある
北部九州からの、水行20日で投馬国、さらに水行10日陸行一月でヤマト国というのも
無理なく説明できる
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
何一つ問題ないなww 九州北部の卑弥呼が亡くなってようやく地方が少しずつ復権もしくは纒向のように開拓され始めたのを、ほんの数十年前倒しするだけで卑弥呼の都だと言い張れてしまうわけですよ。
それなら西日本のどこでも邪馬台国だと言い張れる。
しかし多くの畿内説はなぜか西日本の中でも後進地域である大和にこだわる。
後世のヤマト王権の姿を過去に投影しているだけ。 このスレ駄目だは
畿内説のスレとは思えん お粗末
他のネットの畿内説の敗残兵=>>1だろうな
俺はこのスレの価値は>>1以外のカキコミに興味があるから見てるけど >>307
>根拠なし
>願望?
>妄想?
日本各地で、首長の権力誇示の巨大墳丘墓が作られている時代に、
北部九州では大墳丘墓を作れる勢力がない
これに勝る根拠はないだろ?
北部九州には各地の人が来ているし、各地と付き合いがあるんだから、
吉備や出雲、丹波、大和の巨大墳丘墓を見聞きしている人からすれば、
北部九州には「たいした首長はいないんだな」とばれる訳だww
これに対する反論が、ザラゴキの「魏の薄葬令に従った」しかない時点で、
九州の没落は確実 >>307
>投馬国は都万w
それは、「投馬国は女王国より以北の国」を満たさないから、ダメなんだよ
投馬国は出雲がもっとも蓋然性が高い >>315
>吉備や出雲、丹波、大和の巨大墳丘墓を見聞きしている人からすれば、
しないんだよw
郡使を饗応するのは伊都にいた、中国語が話せる、すなわち公孫氏の頃から半島まで出かけていた伊都の関係者だけだからw
「東の方にも同族がいるよ」と伝えた程度なんだ。 >>316
出雲は女王国より北じゃねえw
方角音痴め。 >>284
>邪馬台国が畿内であれ、九州であれヤマト王政の誕生の歴史を研究するだけ
大和朝廷は、8世紀に倭国(阿波)から、奈良大和に遷都して誕生したもの。 @阿波 >>315
>日本各地で、首長の権力誇示の巨大墳丘墓が作られている時代に、
北部九州では大墳丘墓を作れる勢力がない
未開地の開墾の残土だろ
夏至冬至、東西南北の角度まったくがない >>312
それ何度も投稿しているが、問題点もあるよ
1、方位
2、投馬国
3、日本海流
4、途中の記述が無い
5、吉備説との違い
6、九州を経由する必要性が無い 直接出雲から畿内に行けばよい
7、畿内説では無い 畿内の範囲が明確にできない
8、諸々 >>222
>併行という物事は…
土器編年表をみると、どちらも200年〜250年の幅にとっているようだ。
250年というのはやや違和感があるが、まあ平行、あるいは併行しているよ。 『日本誕生』
なぜか『ドラえもん』ばかり出てくるし、
そういう工作なんだろう >>311日本@名無史さん2019/11/16(土) 19:54:30.07
縄文時代、弥生時代を通じて後進地域の纒向がなんだって?
没落どころか、卑弥呼の時代が終わるまでは、纒向は一度も栄えたことがなかっただろw
今でも栄えていないww
だから、桜井市の村おこし 富山県のほうの人物?
なぜか老婆も同じようなことを言っていたり、
浅野セメント〜という話とか 桜井氏がカネにまかせて釣り上げた学者研究者だから、
万事、それれらしい台本を書き、セリフをそらんじるわな
ま、纒向の大人の学芸会よ・・・ 私は、九州出身でもないし、関西に住んだこともない人間ですが
理論構成、物証から九州説に部があると思います
畿内に邪馬台国と違う国々の連合体があったと思おいます。
大陸との国交を示す物証は畿内には少ないと思います。
また、同時代の発掘物では畿内は文明的に遅れてると思います。 >>321
それ、行程の部分だけだろ
なら
>しかも魏志倭人伝と全く関係ないものばかり。
>それでは根拠になりません。
>却下。
は不成立だ
また九州説が論争に負けたわけだ >>328
根拠が一つも書いてないのは
九州説の特徴
w 云ってみれば、
脚本は市長、舞台監督はお抱え学者、タレントNo1 は若造研究者>>1、その他働き人大勢・・・、 >>328
>同時代の発掘物では畿内は文明的に遅れてると思います。
その通り。
文明の差は時間がかかる。
畿内は人口が多かっただけ。 弥生期の国宝や国指定の重要文化財は九州と畿内とどちらが多いですか? 桜井の村おこし学芸会、、、
底が浅かった、
ネタもスジが悪かったな。 >>332
というより、住居の数、稲作の普及状態から言って、人口も圧倒的に九州北部、特に福岡 >>329
打算的ですよ
まず>>1の瀬戸内ルートを否定する材料がありますか?
日本海ルートについては>>1は認めてない。
畿内に邪馬台国があれば良いですか?
>>1への反論は無いのですか? >>183
>>倭人伝において、「会稽東治之東」の会稽とは、<
>だからその会稽が北緯30度あたり 東は屋久島だよ この時点で北部九州説は死亡<
会稽東治は、揚子江河口の南北両側海岸地域であり、その東は、ほぼ九州付近全域であり、
「女王國」の範囲にピッタリであり、大和の手前の九州島付近がある事になり、
この時点で、九州島付近から東北になる大和説は死亡。
>そして陳寿は倭人と会稽の風俗の類似を言うだけでなくタン耳朱崖との類似も言っている<
陳寿は位置推定と風俗類似を書き分けており、風俗類似は位置推定の根拠にはならない。
>そして紹興と海南島の中間あたりにあるのが福州だ
そもそも会稽の真東なら「会稽之東」と書く 会稽(郡治)は会稽郡の最北端にある
つまり「会稽之東」と書かずに「会稽東治之東」と書いたということは、もっと南なのだ
それは会稽東冶地方の中心地、東侯官治だ いまの福州市近郊にあった 東は台湾や沖縄 <
会稽東治は、揚子江河口の南北両海岸地域になるから、福州付近以南は×。 >>309
>それを実効支配というのだよ。
>反乱の予兆がないか、抜け荷をしていないか、見て回る内政だからね
>それは伊都の大率が女王国の北側を支配していたということ。
まったく、本当に魏志倭人伝の記述を無視した暴論を正しいと思っている人は
たちが悪い
伊都国王は「世有王、皆統屬女王國」であって、女王国に統属している地方政権
そこに、女王から派遣された一大率がいれば畏れ憚るのは当然だけれど、
一大率が「伊都国の内政」にタッチしているとはどこにも書いていない
邪馬台国は、伊都国を支配していない
バカの相手は疲れる >>310
>具体的に指摘すればいいのに
>畿内への批判は真正面から受け止めないといけません。
その批判に「具体的なものが何一つない」のだから、どうしようもないだろうww >>311
>縄文時代、弥生時代を通じて後進地域の纒向がなんだって?
纏向は、奈良盆地の中で新しく王都を作ったところだから、その前は
空き地だよ
縄文時代、弥生時代を通じて、奈良盆地は地域一体の盟主的立場だったのだから
その奈良盆地に新しい都が作られるのは何の不思議もない 奥山氏の幸せな気分が、高まることは、あるのだろうか、、 バンビシャスの獲得した得点は、100だったのではないのかな、、、 >>194
「南→東」などの嘘つき騙しや、九州倭国年号否定抹殺の嘘つき騙しなどの、
史料事実の否定抹殺の大和説は、心が打たれ弱いね。
論拠がないから反論されてすぐ負ける。
言い返したくても言い返せないから、こうやって論点をずらして、
大和説の嘘つき騙し連呼を始める。 心も頭も弱い弱い。
だいたいカタカナ文言やの言葉の意味も知らない造作文言を使ってるだろ?。
自分が指摘されて悔しかったからつい使っちゃったんだろうが、 情けなすぎるぞ 。
ま、かわいそうとは思うけどさ。 >>313
>九州北部の卑弥呼が亡くなってようやく地方が少しずつ復権もしくは纒向のように開拓され始めたのを、
「九州北部の卑弥呼」 デタラメ 何一つ根拠も論証もないww
「地方が少しずつ復権」 デタラメ 弥生終末期に大墳丘墓を作っていた地域は、
そのまま古墳時代に入っても大古墳を作っている
「纒向のように開拓され始めた」 デタラメ 纏向大溝の最下層からは纏向1式・畿内第V様式土器が出る
卑弥呼の死よりもずっと前から纏向は存在している
>それなら西日本のどこでも邪馬台国だと言い張れる。
それは無理
各地から人が集まる大祭祀遺跡が3世紀に確認できるのは纏向遺跡だけ
>しかし多くの畿内説はなぜか西日本の中でも後進地域である大和にこだわる。
西日本の中でも後進地域というのは九州説の心の中にだけあるデタラメ
実際は青銅祭器を広い範囲に供給するセンター機能を弥生中期からになっている
>後世のヤマト王権の姿を過去に投影しているだけ。
後世のヤマト王権は、その延長上に無理なく位置づけられるというだけ >>197
>>東は屋久島だというが、八方位区分だから<
>だぁめだよぉぉ 「当在・・・之東」だから真東<
だぁめだよぉぉ。 「当在・・・之東」だから「ほぼ東」である。 邪馬台国畿内説が、破綻した可能性を百分率で表現すれば、100だったのではないのかな、、、 >>318
>出雲は女王国より北じゃねえw
北としたのは、陳寿が倭国の方角・地理に詳しくないからそう書かれているだけ
北部九州を出て、帯方郡から遠ざかる方向に邪馬台国があり、その途中に投馬国の
比定地を求めることができない説は全て破綻している 邪馬台国畿内説が、破綻した可能性を百分率で表現した数字は、なぜ、今夜、バンビシャスが獲得した点数と同じなのだろうか、、 >>317
>郡使を饗応するのは伊都にいた、中国語が話せる、すなわち公孫氏の頃から半島まで出かけていた伊都の関係者だけだからw
こういう根拠なしのデタラメを根拠にしちゃだめなんだってばww
伊都国中枢の三雲遺跡群の中に、大和庄内甕を使って祭祀を行う人物がいたんだから、
そういうデタラメは通らない
考古遺物という実物証拠で、デタラメは否定されるんだよw >>350
バンビシャスが、100得点したからなのではないのかな、、 >>205
>>批判として中身がない。<
>ほら、また全く反論ができない 九州説ってさあ 惨めだね<
ほら、また「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、全く反論が出来ず、
それ以前に書かれていた九州説者の反論を、こっそり隠蔽しての、
口先誹謗に逃げている。
大和説者ってさあ、全く惨めだね。 >>336
それ、主観で言ってるだけでしょ
やっぱり所詮九州説だよ 朝鮮民族の民族運動家として、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、朝鮮を中心に地球が回っていると考えているので、朝鮮から離れることが、南に進むことだと考えているのだったな。
349日本@名無史さん2019/11/16(土) 20:52:34.55
帯方郡から遠ざかる方向に邪馬台国があり、 >>338
>会稽東治は、揚子江河口の南北両側海岸地域であり、その東は、ほぼ九州付近全域であり、
ただ願望を捲し立てても意味ないね
また九州説がデタラメ言ってるなーとアキレられるだけ
だって、そんな場所が会稽東治だという理由が何ひとつ無い
そもそも、そこ会稽じゃないし
会稽の北だから「東」治でもありえないし
九州説はデタラメばかりだ >>209
>大陸の三国志が書いてある言語が母国語の人で、大陸の歴史、地理も
よく分かっている人が、三国志の会稽東冶之東を受けて、当時の地名に直して
会稽閩川之東と書いているんだよ<
陳寿が、女王國の位置説明として書いたのは、
「計其道里、當在會稽東治之東」であって、「計其道里、當在會稽東冶之東」ではないから、
この男も、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師ね。
>大陸人が史書として三国志を読めば、会稽東冶之東がどのあたりになるかということの
直接的な根拠な訳だww<
ならん。 2本の小枝が、邪馬台国畿内説の急所に突き刺さり、止めになってしまったのだったな、、、 桜井の村おこし学芸会、、、
箸墓のデカパイさに目がくらんだ
ただのエロ・グロストーリー
ネタも悪かったな。 朝鮮民族の民族運動家として、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、討論で完全に論破されてしまったので、嘘をつくしかなくなったのだったな、、、 >>216
>・・・そして、平原遺跡は累代的に造墓が続く家族墓地だが、
1号墓以外に厚葬墓はなく倭王の一族ではありえないww<
21個の「尚方作」方格規矩鏡は、明帝の下賜の銅鏡百枚が元になった鏡でしかなく、
倭王であった卑弥呼か壹與の墓でしか有り得ない。 邪馬台国畿内説を宣伝するためには、嘘をつくしかなくなったのだったな。。 畿内説はまず意見を揃えてから出直したほうがいい。
日本海ルートなのか、瀬戸内海ルートなのか。
纒向なのか、葛城なのか。 >>339
>一大率が「伊都国の内政」にタッチしているとはどこにも書いていない
バカだなあ。
諸国を検察し、荷を改めていたというのが、内政担当の具体的な説明だろ?
説明が具体的になると理解できなくなるのは、君の悪い癖だぞ。 棺に添えられた小枝だから残った。
地表面にあって、崩落で落ち込んだ小枝なら
雨風にさらされ、とうの昔に形を失ってる。 >>223
「南→東」などのような、文献考古の史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのように、
考古学でさえを完全否定しないと
ニッチもサッチもいかないのが
旧弊なる敗残の醜塊こと
大和説 >>363
邪馬台国畿内説を宣伝するためには、嘘をつき続け、数学的に例えるなら、
1─1+1─1+1─1+・・・
を循環させるしか、方法がなくなったのだったな。 >>341
>その奈良盆地に新しい都が作られるのは何の不思議もない
後漢書によれば、倭の中心は倭奴国だ。
魏志倭人伝には、倭が東遷したなどとは書いていないから、いきなり何百キロも離れた奈良が都だなどという話にはならない。
その時点で畿内説は無理がある。 崩落で落ち込んだなどと、
まさに、
語るに落ちる言い訳ぶり >>346
キナイコシは、イヤダイヤダと駄々をこねるガキだな。
何一つ論証できないくせに。
纒向に人なんか集まっていないぞ?
外来土器はほとんど尾張。
やって来た人がいたはずの建物の痕跡なし。 邪馬台国畿内説では、等比級数の無限和の公式を適用できる公比の範囲が、学部や高校とは、違うのだったな。。。 2本の小枝が、邪馬台国畿内説の急所に突き刺さり、止めになってしまったのだったな、、、 >>349
>北としたのは、陳寿が倭国の方角・地理に詳しくないからそう書かれているだけ
こんな言い訳が通用するなら、投馬国を広島、邪馬台国を京都でもいいし、投馬国を新潟、邪馬台国を札幌でもいいわけだ。
自由自在だな!
大ボラ吹きであることが証明されたな! >>351
>伊都国中枢の三雲遺跡群の中に、大和庄内甕を使って祭祀を行う人物がいたんだから、
奈良から連れてこられた奴婢が働いていただけだよ。
はい、反論終わりw
土器づくりの奴婢が、国賓である郡使と口など聞けるわけがない。
そもそも言葉も通じないだろう。
話ができたのは、伊都で教育を受けた高級官僚や、帯方郡に行っていた一部の船乗りくらいだろう。 >>354
畿内の方が人口が多かったというデータを出してごらん。
畿内の方が稲作が盛んだったというデータを出してごらん。 畿内説は嘘を嘘で塗り固めようとしたが、そろそろ無理を生じて来ているな。 奥山氏は、1+2+3+4+5+6+・・・についても、インターネットの情報を収集し、理解しないまま転載し、また、僕達を笑いリラックスさせてくれるのではないのかな。 そうだね
キナイコシをからかうのは、暇つぶしにちょうどいい。 >>230
>倭人伝に照らせば糸島は卜骨が出ないから非倭人の従属地域<
卑弥呼は「鬼道」だと記録されており、「ト骨」だとは書かれていないから、
卑弥呼の都周辺では「ト骨」を実行する事は卑弥呼に敵対する、と見られる可能性があり、
だから、糸島は卜骨が出ないから卑弥呼への従属地域。 >>237
テンプレにでかでかと卑弥呼の墓は「「「箸墓」」」と書いたら、
そりゃ一発で「南→東」などの嘘つき騙しであった事がバレてしまっていた訳であり、
一瞬でバレるウソを平気で書くとは
スレ主や九州説者って
白痴同然 あるいは
うそをつく病気の人 あるいは
マジ発狂してる
これ以外の選択肢、ある?
いや、ない 7/11を、どのように表現すれば、7/11を最も理解しやすいのだろうか、、 >>238
>北部九州沿岸や壱岐で出る楽浪土器はちょうど卑弥呼の遣使のころの後に激減し
臺與のころには供給されなくなる
ピークが2世紀後半だから卑弥呼の前の時代の既存のルートの存在の想定には使えるが
魏と倭国との交流の時代ではない<
楽浪や帯方は、公孫氏の管理下であって、郡使節は伊都国などに来ていたが、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」があり、
それからは、卑弥呼の倭国とのコンタクトは帯方が担当しているようであり、
そして、楽浪は、285年の扶余の乱などで混乱し、遂に313年の滅亡したんだから、
衰退していったんでしょううね。 >>378
ほら
>>336 は主観で言ってただけだったと白状したね >>242
「南→東などの嘘つき騙しをしていない、ウソだウソだぁ〜」と、
泣き叫んで否定しても
反論できない以上ずっとずーっと
何度も指摘されるよ
それは泥棒が「逃げるな、まて」と何度も言われるのと同じ >>371
>崩落で落ち込んだなどと、
>まさに、
>語るに落ちる言い訳ぶり
いや、実際崩落してるし副葬品も落下してきてるんだが >>382
>卑弥呼は「鬼道」だと記録されており
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 >>387
九州説はどうして毎日こんなウソつくの? 邪馬台国畿内説は、朝鮮民族の主観が産み出したのだったな。 >>390
倭国(阿波)はウソつかない。
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 邪馬台国畿内説を宣伝するためには、嘘をつくしかなくなったのだったな。。 7/11を、どのように表現すれば、7/11を最も理解しやすいのだろうか、、 >>244
>壱岐で糸島系の土器が多く出るのは甕棺時代
副葬品を個人墓に独占する甕棺墓集団はど没落してしまった<
没落したのではない。
天孫族の阿毎氏と姫氏の合同政権から、姫氏の一部が大野付近に分裂し、
それから卑弥呼が出て、(残留阿毎氏系の壹與や一貴山などが一旦勢力を伸ばした後)、
また317年頃に筑後〜久留米に遷宮してからは姫氏が栄え、
残留阿毎氏らは、伊都国付近で存続して、磐井で姫氏から倭国王を回復し、
葛子の後、タリシホコやサチヤマが出た。
箱式石棺や木棺や竪穴式石室などに進化して変わっただけ。 >>248
>テンプレに卑弥呼の墓は箸墓と書いてあることには証拠があるんだが <
「南≠東」などに拠って、×。
大和説って発狂してる?
それとも白痴?
本当のことを言ってごらんよ 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が居住する国では、マリファナを吸引することは、違法性が無いのだろうか、、 >>250
大和のニセモノ屋の親父が持ってる物は、
当然、北部九州には何の関係もないし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」将軍らが持ち込んだし、
渡来の呉系楽浪鏡師らも関与した。 >>252
>同じ年号文字が、九州を中心として西日本各地で使用例が沢山見つかれば、<>同じ年号文字が、九州を中心として西日本各地で使用例が沢山見つかれば、
>見つかってれば、ね
それが、見つからないんだな、残念ながらw
ほとんどが15世紀の半島の書物『海東諸国紀』にあるだけだろ? <
日本に500個以上の「九州年号の使用例」が見つかっている。 マリファナ中毒者が、スレッドを進行させているのだろうか、、 >>244
>壱岐で糸島系の土器が多く出るのは甕棺時代
副葬品を個人墓に独占する甕棺墓集団はど没落してしまった
封建主義の独占企業は一掃され、卑弥呼の中央集権時代がやって来た。
鉄剣と箱式石棺の到来である。 邪馬台国畿内説を宣伝するためには、嘘をつくしかなくなったのだったな。。 >>254
>完鏡祭祀ならそれも言えるけれど、平原1号墓の鏡はバキバキに割られていて
一部にはリサイクル用の青銅ストックだったんじゃないかとも言われている<
大半が、明帝の下賜の銅鏡を元にし、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
鏡片に使うもの。 >>377
>奈良から連れてこられた奴婢が働いていただけだよ。
>はい、反論終わりw
なんで王様が伝統捨てて他国の土器で祭祀するの?
ないよねー
他国の土器で他国ふうの祭祀をする人は
他国からきた人だよ >>401
>>244
>壱岐で糸島系の土器が多く出るのは甕棺時代
副葬品を個人墓に独占する甕棺墓集団はど没落してしまった
封建主義の独占企業は一掃され、卑弥呼の中央集権時代がやって来た。
鉄剣と木棺の到来である。 >>404
女王様は舶来の宝飾品に夢中で、土器の様式なんて、どうでもよかったんだよ。 >>405
>鉄剣と木棺の到来である。
訂正 鉄剣と箱式石棺の到来である。 >>257
>>特に、支配しているはずの筑紫の土器が出ないことは致命的に不利だね。<
>畿内説では、祭祀連合を想定しているので、支配をしているとは考えていないw
九州説は、強権的かつ中央集権的な王を想定しているようだが、考古学的研究は
そんなデタラメは支持していない <
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
また「祭祀連合」なんて、倭王の存在を否定して誤魔化そうとする詐欺師の文言。
>そして、胎土分析で北部九州の土器片が確認されている<
胎土分析は、
日本の「全地域の胎土」を確定しておかなければ、常に類似の地域の存在が否定出来ず、
だから、確率的にしかならないもの。
>北部九州の土器だと、土器の形態で判定されたものがないというだけ<
ますます、確率的にしかならなくなった。 当時の土人(そのような事を言っている人もいたし)の話だろう?
土人のほうの国(不明)の女王。 サルタというスレがあるんだけど、
土人の酋長みたいな書き込みをしている人もいたり。 話?設定でも良いけどw
逆転、すり替えている人間(人達)がいるんだよ >>366
>バカだなあ。
バカはお前だぞ?
なぜ「 」が付けてあるのか理解できてないだろ?ww
>諸国を検察し、荷を改めていたというのが、内政担当の具体的な説明だろ?
それは「倭國の内政」であって「伊都国の内政」ではないw
検察はしても、それで何をしろと指示したりはしないんだよ
一大率がするのは女王国への報告だ
そこで悪いことを言われないように、諸国は畏れ憚るんだよ
>説明が具体的になると理解できなくなるのは、君の悪い癖だぞ。
具体的な内容が全く把握できていないバカがお前w
バカの相手は面倒くさい
Korean fatigueとおんなじ 『倭人 朝鮮人』
たしか同じ話だったような?
サルタというスレッドw >>414
こっちはバカだと思うけどきちんと相手をしてやっているというのに。 >>410
>その箱式石棺は槨があるんじゃない?
さぁどうだったかな?調べてみよう。
しかし私は、「其死有棺無槨 封土作冢」は薄葬の表現と理解してる。
「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信」 >>321
>1、方位
末盧国から伊都国の時点で間違っているし、倭國上陸後は全くアテにできない
方位が合わないのは九州説も同じ
>2、投馬国
投馬dug-magから出雲が妥当
四隅突出墓文化圏が5万戸の範囲と見ればよい
>3、日本海流
縄文時代から沿岸航路で長距離交流していたのだから何の問題にもならないのはあきらか
対馬海流は強い海流ではない
>4、途中の記述が無い
魏使が持ち帰れた情報量がそれほど大きいとは想定できない
四隅突出墓の範囲が出雲、畿内第V様式土器の範囲がヤマトとみれば、
この二つで十分
>5、吉備説との違い
吉備は投馬と読めない
瀬戸内航路は意外に危険 >>321
>6、九州を経由する必要性が無い 直接出雲から畿内に行けばよい
半島から来るときは出雲が目的地でも九州に寄るのが当然
必要性がないという判断が異常
>7、畿内説では無い 畿内の範囲が明確にできない
畿内第V様式の範囲が邪馬台国七万戸の範囲だと何度も示している
>8、諸々
バカ?
具体性がない お前の解釈なんてものは必要ないの、
最初は「王」を名乗っていて〜とか、それで、どこかの国の王が出てきて?
どこの『王』なんだよ、土人のほうの王なんだろう 中国人(中華w)の「王」という人物でもないだろうし >>364
>日本海ルートなのか、瀬戸内海ルートなのか。
吉備と出雲は関係が深い(吉備の特殊器台が出雲でも出る)から、本質ではない
ヤマトと九州の「中国」という言葉もあるし、山陰山陽合わせて投馬国ということすらあり得る
>纒向なのか、葛城なのか。
葛城なんて言っているまともな人はいないよw
九州説こそ比定地を絞りなww
でも、伊都国、奴国は邪馬台国とは別の国だし、
吉井信号付近はまだ海だぞw キナイコシの言い訳は誰かを納得させられたことがあるだろうか? >>370
>後漢書によれば、倭の中心は倭奴国だ。
それが間違い
倭国の朝貢をしてきた国というだけ
倭国が大陸から見た実体であり、王の居所が変わっても気にしない
東京都庁が23区内で移動しても遷都とは言わないだろ
今上天皇は赤坂御所にいらっしゃって、皇居にお住まいではないけれど、
これを遷都と思う人はいないだろ?
大陸から見た倭国もそんな程度だ 東京〜?住んでいないと言っているんだよwどこの池沼なんだ? お前たちの言っている天皇(不明)w直系か何かなの? そろそろ刑務所に行ったほうが良いぞ、
精神科でも良い、何度言えばわかるんだ 精神科、精神病院というところがあるから、
そこに行けと言っているんだよ 精神科、精神病院というところがあるから、
そこに行けと言っているんだよ どこの基地外なのか知らないけど、
いつまで犯罪のような事を続けているんだ? >>424
>キナイコシの言い訳は誰かを納得させられたことがあるだろうか?
ここまで道理を尽しても九州説じいさんたちが納得しないでメチャクチャわめいてる
という
彼らのこの醜態を天下に示せば
九州説の根絶もスムースに進もうというものだ ネットでも天皇でも〜、不明〜、
何でも同じ、どこから拾ってきた話なんだ? >>425
>東京都庁が23区内で移動しても遷都とは言わないだろ
王都が筑紫の中で移動しただけで、伊都が没落とか甕棺が没落とか、適当な妄想を膨らませるくせに。
しかし筑紫から大和は遠すぎだろw
後漢書では倭の中に含まれてもいないくせにw
ダブスタすぎてアホ丸出しだなw アニメや漫画、ゲーム、創作・・・などの話がしたいのなら、専用のスレに行けw
お前たちの相手をしているヒマなんてないんだよ。
『倭人 朝鮮人』日本の天皇も朝鮮人だと・・・。 >>372
>纒向に人なんか集まっていないぞ?
大量の飯炊き甕という実物証拠を無視した暴論ww
都合の悪いことは何でも「見ない聞こえない」ww
>外来土器はほとんど尾張。
伊勢、尾張を一緒にカウントしているだけで、尾張の分は外来土器のせいぜい30%くらいのもの
それを「ほとんど尾張」と言ってしまう粗雑さww
まあ九州説脳の限界なんだろうねw
惨めだねwwwww 箸墓は土師=埴輪を用いられた初めての古墳。だからハジハカ→箸墓と呼ばれた
土師は吉備から持ち込まれたものであり、その後土師氏の移住により畿内でも生産され、その副産物として布留式土器が発展
むしろ畿内への土器職人の移住は埴輪など古墳副葬品のために急遽集められた
そう考えるとやはり纏向遺跡は3世紀後半に突然他方から寄せ集められた職人や土工人工によって開発されたと見るのが自然かも
記紀ベースでこの時代を考察するとモモソヒメと吉備津彦の関連が想起される
ということはだ、纏向の最大かつ初期の開発は四道将軍を派遣した崇神天皇期であり、その前は唐子鍵の文化が残る開発前であり、奈良に大王朝は存在してない証左となる
初歩の推測だけどこう考えるのが自然で無理がない >>375
>こんな言い訳が通用するなら、投馬国を広島、邪馬台国を京都でもいいし、
>投馬国を新潟、邪馬台国を札幌でもいいわけだ。
>>346でも書いたが、それは無理
各地から人が集まる大祭祀遺跡が3世紀に確認できるのは纏向遺跡だけ
頭の悪さを自白しているだけだぞw 漫画やアニメ(ゲームなど)の話も、
あえて?わざと書いているだけだしな・・・w >>377
>奈良から連れてこられた奴婢が働いていただけだよ。
奴婢が未使用の土器を運んでくる訳ないだろ?w バカ?
それに、畿内は倭国の外の別種ってのが九州説の肝なのに、
奴婢を連れてくるほどつきあいが深かったって言ったら、
九州のみの倭国ってのが破綻するぞww
>はい、反論終わりw
この件から逃げようとしてるなww 本当に惨めなやつ
>土器づくりの奴婢が、国賓である郡使と口など聞けるわけがない。
土器作りの奴婢とか、よく思いつくなww
そして奴婢に土器を作らせるなら、当然ご主人様の伊都国様式の土器を作らせるよな?w
こいつ、どこまでもバカだ! とあるスレによると(『GILDIA』)ぎるさん?
なぜ、もれ(仮)と同じような話をしているの、曲などの話w
時間よ止まれ〜何やらという曲も同じ、調べて聴いてみた?
『蒼狗』『うらしまんマリン』とか、『れでぃお・がが』? ミンメイの曲も同じでしょ、
プロト・カルチャーが何やらとか、そういう台詞を言っていたり
なぜかムーの話 >>439
>各地から人が集まる大祭祀遺跡が3世紀に確認できるのは纏向遺跡だけ
夢を見ている人がいる。
夜中だからか。 >>378
>畿内の方が人口が多かったというデータを出してごらん。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html 地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7242.html 地域別人口規模の順位の変遷
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを
拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり揃って地位を
低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を
養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」
畿内および畿内周辺の人口の厚みが、魏志倭人伝に7万戸と記された女王之所都でしょ 誰だか知らないけど、漫画やアニメ?
そういうものばかり観ているんだろう、自分のことを主人公だと思っているとか、
ヒーロー、ヒロイン? >>401
>鉄剣と箱式石棺の到来である。
それまだ卑弥呼の時代より古い 本当に、そろそろ刑務所に行く頃だろう?
精神科でも良いんだけど >>435
>王都が筑紫の中で移動しただけで、伊都が没落とか甕棺が没落とか、適当な妄想を膨らませるくせに。
甕棺墓自体がなくなっているし、甕棺墓文化圏が潰れた訳だ
没落してるだろ?ww
九州内での王都の移動など知らないよ
各地に王がいて、羽振りがよいのがところどころにいただけ
>しかし筑紫から大和は遠すぎだろw
大陸から見れば、区別は付かない
>後漢書では倭の中に含まれてもいないくせにw
これが根拠なしのデタラメ
思い込みは根拠ではない
>ダブスタすぎてアホ丸出しだなw
ダブスタの意味が分かってないだろ?
バカはお前だ!ww とあるスレによると(ぎるさん)
GILDIA『forget me not』
時間よ〜止まれ?戻れ?
ほとんど『伊達の桃太郎』この作品の話w
蒼狗、フェンリル?白い猿・・・王子、王子とか 歌舞伎、芝居?
家の老婆も、そういう話をしていたし・・・、何なんだろう。 「お前は弱い」(写輪眼、兄)
「ぼくは強いよ」(なぜか写輪眼の弟に似ているというキャラ、さい?) 写輪眼 弟とサイw
なぜか似ているという設定、実際に弟なんだろうけど
「ぼくは強いよ」? 『何者にもなれない お前たち』
なぜか、ほとんど同じ いろいろ繋げたりした曲なのかな、
ガンダムのサングラスの台詞でしょ
めぐり〜、運命、定めとか >>435
>王都が筑紫の中で移動しただけで、伊都が没落とか甕棺が没落とか、適当な妄想を膨らませるくせに。
いやー、コリャ馬鹿も馬鹿、冠付きの大馬鹿ちゃんりんだわ
「王都が筑紫の中で移動しただけ」なら
今度はその移転先が輸入威信材の配布元になったり
墓制の最高格付けになったりするはずだろ
威信材の配布元そのものが消失したり
甕棺という墓制が衰退したりしないわ
オマエの脳味噌、世界最低知能と言われたzarakokuの3割くらいだよな >>441
>奴婢が未使用の土器を運んでくる訳ないだろ?w バカ? <
未使用の土器と断定した学者名を挙げよ >>441
巻向で出た土器(畿内のも含む)が未使用だとしたら
それこそ、巻向に生活痕がないことを立証していることになり、
王都と言えないのでは? >>260
>>魏志倭人伝には土坑を持ちた祭祀なんて書いてないんだよ。<
>魏志倭人伝には事鬼道、能惑衆と書かれているよ
鬼道が何かというのは分かりようがないが、儒教道徳に合わない異国の宗教くらいの
見方で十分だろうが、これを墳墓祭祀と見るのは無理があるだろ?ww<
何だ?、こりゃ。
彼は、「墳墓祭祀」の事など言っていないではないか。
また、彼は、卑弥呼の鬼道が祭祀だ、とも言っていないではないか。
類スレ主は、相変わらず、論点ズラシのインチキ反論を書いているな?。
おぬしは、「ワルじゃのう」。
>縄文時代から水辺の祭祀は行われていたし、祭祀土坑が水の祭祀であること、
そこに各地の代表が参集していたことは確実(祭祀土坑では搬入土器が30%)<
纏向の土坑は、
縄文以来に川や池で行われていた「水辺の祭祀」そのものではないし、
まあ、せいぜい、祭祀に使ったものを廃棄するごみ捨て場の一種であったんだろう。
>北部九州では、こうした具体的な祭祀跡がないだろ?ww<
卑弥呼の鬼道とは関係なく、
纏向の「ゴミ捨て」場は、「東征毛人五十五國」の征服軍が採用した、
縄文以来の毛人や出雲銅鐸祭祀部族の習俗であったんだろう。 >>260
>>葬送は祭祀の中でも最も重要なものだよ。<
>だから、それを前方後円墳祭祀に統一した纏向遺跡の主が、倭国最高権威だと想定できる訳だ <
ダメだ。
纏向は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
前方後円墳は、筑紫で始まった墓祭祀だ。
>北部九州の祭祀のあり方は、墳丘墓ー大柱ー祭祀用小建物を、墳丘墓の軸戦場に配置するもので、
吉野ヶ里の北墳丘墓、平原遺跡5号墓、1号墓で同一の葬送文化が確認できる<
那珂八幡などの前方後円墳が出来る前の墓祭祀形態であり、
吉野ヶ里と平原は同じ墓祭祀思想を持っていた近縁部族であったんだろうが、
吉野ヶ里の方が「甕棺」埋葬を残しており、平原の方が先進的であったんだろう、
という事だ。 >>463
疑問に思うあんたの頭の構造がわからない
巻向の住人が土器を使用していないのなら、縄文以下の低レベルな生活だよww 土器の出土は調理・食料の保存に使用され、人の流れの指標である
巻向の外来土器は古墳造営に駆り出された人の痕跡である可能性を否定することはできない 畿内説を見るたび、日本人は自己を持たない、付和雷同の民族だということがよく判る。 >>422
>葛城なんて言っているまともな人はいないよw <
かってに決めつけるなよ >>438日本@名無史さん2019/11/17(日) 00:20:31.61
>箸墓は土師=埴輪を用いられた初めての古墳。だからハジハカ→箸墓と呼ばれた
土師は吉備から持ち込まれたものであり、その後土師氏の移住により畿内でも生産され、その副産物として布留式土器が発展
むしろ畿内への土器職人の移住は埴輪など古墳副葬品のために急遽集められた
>そう考えるとやはり纏向遺跡は3世紀後半に突然他方から寄せ集められた職人や土工人工によって開発されたと見るのが自然かも
箸墓(ハシハカ)の語源由来は土師墓(ハジハカ)
なるほど、そうだったのか そうすると、
もともと「土師墓」と呼ばれていたのを、
記紀の編者が、モモソの箸付き自死伝説を創作してすり替えたというわけか。 >>260
>>それが大量の銅鏡と宝飾品を副葬して行われているから、
すなわち伊都は大規模祭祀の痕跡で溢れている宗教的権威の都市と見ることができる。<
>伊都国としては豪華だったのだろうけれど、よその大墳墓には軽く負けてるんだよ<
いや、壹與の平原は臨時王や仮王という形であったし、魏の薄葬令にも制約されたが、
副葬品では、王であったという事を十分に示すものだったし、
吉野ケ里は甕棺であるから、平原の前であるし、祇園山も平原の前になるし、
その他の、30mクラス以上の大墳墓や前方後円墳は、始めから平原よりも後であり、
年代が明らかに違う。
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある<
それらはいずれも、平原の後の那珂八幡などの前方後円墳を知り、
且つ「東征毛人五十五國」の将軍らの「巨大墓必要」があっての」、一種の流行だ。
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? >>269
>一流大学の教授たちは巻向王都説に懐疑的ですね! <
ふーん。 4世紀になって初めて出現した巻向古墳群は、都どころか農地でさえない荒れ地に、疎らに出現したのだったな。 >>273
>残念ながら、祭祀土坑からは、平均値の15%の倍の30%くらいが外来土器になる <
残念ながら、「纏向の祭祀土坑」という言葉自体が、
「南→東」や「東征毛人五十五國んの無視」などと云ったような、
史料事実の無視曲解というインチキで造作した大和説学者らの話になるから、信用しない。
大和も尾張も、元々がは出雲系の銅鐸祭祀部族であって近縁であったのであり、
それが九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って支配征服され、
被支配民が同じ土器を造ったり、運びこんだ、という事なら幾らでも起こり得る。
>>まして、筑紫と交流がなかった纒向が、伊都から倭国を実効支配できたわけがない。<
>筑紫と交流がなかったというのは、考古遺物の現物資料で否定される
先にも書いたように、北部九州の胎土の土器片が確認されているし、<
「東征毛人五十五國」があったのだから、問題にならない。
>北部九州では、畿内からの搬入土器もあるし、畿内様式土器の模倣製作も行われている<
庄内は、筑紫は3世紀前半であるし、大和は石塚の庄内1であるから3世紀末であるから、
「畿内様式土器の模倣製作」は、行われていない。
布留に関しても、(米田の確認待ちであるが)、おそらく筑紫の方が古かった。
>実効支配したとは、畿内説は誰も言っていない
九州説は、支配ー被支配の強権的な政治体制がお好きww <
じゃ、嘘つき騙しの「畿内」説とかを主張する事は、止めな。 >>445
>鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
そいつ、根拠のないことを書いているだけだよ。 >>449
>九州内での王都の移動など知らないよ
知らないなら口を挟むな。 >>275
>平原1号墓の被葬者が、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の被葬者よりも小者なのは確実ww<
甕棺の有無だけでも、吉野ケ里は平原よりも古い、という事が確定的であり、
平原は、仮の臨時的な女王であり、魏の薄葬令に制約された事が確定的。 >>279
>関西の一流大学(関関同立は二流で除外)の教授は
巻向王都説に懐疑的な意見が多いのはなぜ? <
ふーん。 >>449
>大陸から見れば、区別は付かない
区別がつかないという根拠は?
少なくとも九州北部までは明確に里数まで提示して地理を明らかにしている。
それがいきなり帯方郡からの行程が倍も違う大和に移動したら、大東遷として記録したはず。
しかし卑弥呼に会いに行った郡使はそのような記録を残してはいない。
だから、お前は反論できていない。
倭は九州北部から移動していない。 >>449
>甕棺墓自体がなくなっているし、甕棺墓文化圏が潰れた訳だ
甕棺は廃れたが、代わりに卑弥呼政権が誕生して木棺が使われるようになったから、王都としての伊都が没落したという事実はない。
4世紀末にも怡土の県主(おそらく大和政権側が過小評価した呼称だが)が登場するくらいには勢力があり、最終的には大宰府に遷都したのだろう。
日本書紀の筑紫に対する歪曲偏向に千年遅れで乗っかって、ご苦労なことだ。
お前みたいなのが口先三寸で日本の歴史に闇を閉ざしているんだ。
この板に出入りする資格はない。
クソガキ 纏向には新時代と新文化を築こうとする気概を感じる
古墳もそう
逆に考えると、既得権益に固まって成長を止めたまま殺戮に走る九州文化から亡命した誰かが推戴され、大和で理想郷を作ろうとした痕跡というかね
だから根本思想は九州文化を踏襲しながらも習俗を明確に否定する文化が生まれる
王権を強化するために古墳造営を行い人を集めたのは、稲作に変わる新しい制度と戦略があったからだろうな >>284
>邪馬台国が畿内に存在したことより、邪馬台国とヤマト王政の関連性を研究するのが主題であり、
邪馬台国が畿内であれ、九州であれヤマト王政の誕生の歴史を研究するだけ<
畿内も邪馬台国も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を唱えている限り、
国公立教授であれ、私大教授であれ、教育委員会や研究所の研究者であれ、
「嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師」である事は確定的であり、×。 土師墓(ハシハカ)か。
古文では清濁の区別が曖昧で、掛詞も好んで使われたから、いかにもありそうだ。 >>288
>>(西新町式が)「大和の庄内式に併行する土器」というんでは、×だろうな <
>単にいつの時代かを示しているだけ。
「大和の庄内式と並行する土器」とすればよかったか。 まあ、問題ない。<
大和の庄内は、撥型前方後円墳の庄内1の石塚が3世紀末になってしまうから、
西新町の「卑弥呼の頃の3世紀中頃前後」と、ちょっと年代がズレる。 >>484
伊都という国名は後漢書にはないので
伊都は初めて史書に登場したときから千戸の小国
甕棺造墓集団が没落した
倭奴国という国名もなくなった 後漢書の倭奴国=魏志倭人伝の伊都国
考古学的には後漢代から王墓は糸島にあるから。 >>490
伊都も後漢書の倭の南界にある。
伊都の大率は北方を検察したとあるから、そこが本来の倭の領域であり、大率は国邑の枠を超えた内政の統括をしていたということだろう。
それ以外の領域は倭の拡大または中国から見た倭として知られる地域の拡大を意味している。 >>493
倭奴国が倭国の極南界だから
大倭王の居る邪馬臺國は倭奴国よりも大海の中の日本列島の北にある >>296
>そして、伊都国三雲遺跡の範囲内のサキゾノ地区でIB期の時点で
庄内大和型甕が出ているよ <
「庄内大和型甕」と書いた時点で、それは「胎土」での話ではなく、
「甕の形態」が根拠である事を示しており、
「サキゾノ地区でIB期」というのは、筑紫での3世紀前半であるから、
3世紀末以後の「大和型甕」など存在する筈が無く、×ね。
>そして、古墳時代に入ると端山古墳、築山古墳と連続して前方後円墳を作っている
伊都国が畿内と付き合いがないとかいうのは、九州説の思い込みw<
関係がない。端山古墳築山古墳は、当然一貴山銚子塚の後であり、伊都国王家の墓。
>先に述べたサキゾノ地区の遺構は
「手捏土器・手捏土製品が存在することから,生活のための住居ではなく,
祭祀遺構と考えられる。実際,庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に
使用された痕跡はないので,この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」
つまり、畿内の庄内甕を祭祀目的で持ち込んだ遺跡と考えることができるww<
だからこれも×。大和からの搬入ではない。
>案外ここが、一大率の治所かもしれない <
中国の同時代史書群からは、大和の事が書かれた痕跡は、
倭王武の「東征毛人五十五國」まで存在せず、
魏志の「倭種」は大和の事は書いていなかった、という可能性が非常に高く、
だから、「東征毛人五十五國」を根拠にした論を建てないといけない、という事になる。 >>488 名前:日本@名無史さん 2019/11/17(日) 09:07:47.57
>土師墓(ハシハカ)。
>古文では清濁の区別が曖昧で、掛詞も好んで使われたから、いかにもありそうだ。
すんなりナットク
畿内説派、大和朝廷のズル脚本家にしてやられてたんじゃないの >>300
>尾張の勢力が西征した最初の地が天理・桜井という説もあるよ <
そりゃもう「不可知部分」の事であり、文献証拠はなく、
考古からの「単なる可能性」レベルの、低価値の説だな。 >>495
そしてそこに木棺の卑弥呼政権が誕生して倭国大乱がおさまった。 >>500
平原1号は200年ころだから卑弥呼の墓ではない >>301
>>本質はここ↓だぞ 「北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ?」<
本質は、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であり、
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」・・・だな。
>北部九州は、吉野ヶ里の北墳丘墓を作った頃までは、それなりの勢威があったが、
その後はド没落している <
ド没落していない。白村江で唐に大敗するまで、勢威があった。
>弥生終末期という巨大墳丘墓の時代(卑弥呼を論じるなら同時代だぞww)に
出遅れているのが、北部九州なんだよ<
巨大前方後円墳は、那珂八幡頃からであり、卑弥呼時代では全く無く、
大和は、白村江まで、九州倭国の別種の旧小国であったのであり、×だ。
>出雲は投馬国として魏志倭人伝に出ている
丹波のことを書いておいてくれればよかったのだけれど <
出雲は「南≠東北」に拠って、×だ。 >>302
もう「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、現実が何も見えないんだね
「畿内」なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であうし、
「ここに書き込んでる大和説者はひとりだけだ」としか見えないし、
その一人も、幻を見てるんだろ >>487
>説明できないなら畿内説の負け
言葉で説明しないお前の心の中は他人にわからない
何を考えてるのか解らないお前の心は
他人には誰も説明してやれないのだ
どうして黙して語らないお前の心が覗けないと畿内説が負けるんだ?
九州説は不可思議だ >>504
巻向発掘の外来土器は未使用だと立証すれば良いだけ >>501
200年頃というのは、どれほどの誤差や信頼性を見込めばいいのか?
247年が含まれない確率はどれほどなのか?
そもそも科学的根拠に基づく数字なのか?
200年頃が247年を含まないとする科学的根拠が示されたことはない。
そして200年頃というのは卑弥呼政権下であり、卑弥呼が平原遺跡に関わっていたことは間違いない。 >>305
>それがな、胎土分析というものがあってな、土器の形態分類で各地の土器とされていたのが
奈良盆地の胎土で作られていたことが分かったものもあるんだよ
つまり、その土器形式で土器を作れる人が纏向周辺に来て土器を作っていることになる
東海地方の人が、別の地域の土器を作る理由がないだろ?ww <
「胎土」分析、と言っても、
日本各地の胎土の「100%完全な胎土区分」地図が完成している筈もなく、
また、当然「胎土の一致」と言っても、「100%完全な一致」である筈もなく、
やはり、確率的である筈だ。
米田の分析も同じ事である筈だ。 >>507
>200年頃が247年を含まないとする科学的根拠が示されたことはない。
あんたがいう「科学的根拠」って
具体的にどういうモノも言ってるの?
言葉が空疎で意味が伝わらない >>308
>サキゾノ地区が一大率の治所なら、伊都国において大和の庄内甕を使って
ヤマト形式の祭祀を行っていたかも知れないけどね <
一大率は、共立卑弥呼がいた3世紀半ば頃までの筑紫の役職であり、
大和の庄内甕は3世紀末であるから、×だな。 >>507
平原1号はTA期終りころの築造
247年はTB期新相の終りころ
那珂八幡古墳がTB期新相の築造 >>312
>倭王墓は、倭国際大の墳墓と考えるのが普通
倭国最大の墳丘墓が、倭王墓の第一候補になる
3世紀の倭王墓の第一候補はヤマトにある
3世紀の倭王が卑弥呼であると魏志倭人伝に書いてあるから、 ヤマトが卑弥呼の王都の第一候補になる<
卑弥呼の頃の倭國は、ほぼ九州島及びその周辺島嶼付近までであり、
女王國東渡海千里は倭種レベルであり、5世紀の倭王武の上表文でも、
大和は、「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国でしかなく、大和説は×。
>くすのきの井戸枠もあるし、鉄の鏃もある<
鉄鏃は3世紀末〜4世紀のホケノ以後。
>卑弥呼が遣使したまさにその年の紀年銘鏡が三角縁神獣鏡にあり、その分布の中心が畿内にある<
畿内なんてインチキ造語であり、肝心の大和からは△は4世紀の出土であり、
「景初三年」も卑弥呼の遣使の翌年であって、明帝の下賜鏡にはならず、
いずれも、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>北部九州からの、水行20日で投馬国、さらに水行10日陸行一月でヤマト国というのも
無理なく説明できる<
「南≠東北」であるから、×。 >>511
平原1号は遅くともTA期初めころの築造でしょ
出土鏡に漢鏡7期時代の成分ゼロだから >>315
>日本各地で、首長の権力誇示の巨大墳丘墓が作られている時代に、<
巨大墳丘墓の切っ掛けは、筑紫の那珂八幡などであり、3世紀の第3四半世紀以後頃。
>北部九州では大墳丘墓を作れる勢力がないこれに勝る根拠はないだろ?
北部九州には各地の人が来ているし、各地と付き合いがあるんだから、
吉備や出雲、丹波、大和の巨大墳丘墓を見聞きしている人からすれば、
北部九州には「たいした首長はいないんだな」とばれる訳だww<
吉備や丹波や大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の征服軍が必要があって造ったもの。
出雲は、それに対抗して造ったもの。
>これに対する反論が、ザラゴキの「魏の薄葬令に従った」しかない時点で、
九州の没落は確実 <
九州は、既に「西服衆夷六十六國」で服属済みであり、薄葬令もあって、
巨大墳丘墓は必要が殆どなくなった。 あれだけ大声で喧伝し大予算をつぎ込んだハジ墓を撤退して、性懲りもなくホケノに逃げ込んだ連中が、
いまさらの言い訳をする気か。
恥を知れ! >>513
久住は周溝底面の鉄鏃の形式からTA期新相と判断している >>516
出典は?
周溝出土資料より副葬品が優先じゃね? >>517
学者名は書いた
副葬品を優先した年代がTA期初めころなの? >>492日本@名無史さん2019/11/17(日) 09:55:24.79>>495
>後漢書の倭奴国=魏志倭人伝の伊都国
倭国の内の特定場所に倭奴国が有ると書かれているのだから、
倭奴国は、倭人伝の奴がつく国のどれかでしょう。今でいえば那の津を本拠地にした強大国が第一候補。 >>438
>纏向の最大かつ初期の開発は四道将軍を派遣した崇神天皇期であり
記紀との対応をとるならそれでいいよ
崇神朝が3世紀半ば以前から始まっていることになるだけ
崇神没年を古事記の没年干支の戊寅から318年と決め付けて、それに合わせて
纒向の年代も4世紀と言いたいのだろうけれど、纒向遺跡の年代は記紀とは無関係に
研究されており、崇神没年の戊寅が258年の方が妥当となるだけだよ
まあ、古事記の没年干支がどこまで信頼できるかというのがその前にあるので、
没年干支を年代推定の定点とすることはできないのだけどね >>444
>夢を見ている人がいる。
>夜中だからか。
反論したかったら具体的な反例を出しなw
この場合なら、纒向以外の3世紀に広域の人が集まったことが明確に実証できる祭祀遺跡を挙げればいい >>489
>大和の庄内は、撥型前方後円墳の庄内1の石塚が3世紀末になってしまうから
石塚は庄内0式、1式、3式の3っの築造説があるようだ。
で、最も新しい庄内3式の場合の実年代は、3世紀中頃(250年頃)や3世紀後半(270年〜290年頃)とする説がある。
西新町と庄内が同時期だとするのは、庄内3式を3世紀中頃までとみる説による。
最近では、庄内3式を270年〜290年とする説は影が薄いのではないか。 >>461
>未使用の土器と断定した学者名を挙げよ
佐々木憲一の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」だよ
もうさんざん既出だろ?
サキゾノ地区の遺構は
「庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された痕跡はないので,
この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」 >>462
>巻向で出た土器(畿内のも含む)が未使用だとしたら
>それこそ、巻向に生活痕がないことを立証していることになり
纒向大溝などから出る飯炊き甕は、使用痕がありその外側の煤の14C年代が測定されたりしている
使用痕がないのは祭祀土坑で出る供献土器
こういうのを区別せずにごっちゃにしちゃう残念な脳みその持ち主が
いまだに九州説を信じている残念なご老人ってのがはっきり分かるんだね!ww >>513
その頃は漢との交流が途絶えているじゃん。 >>524
纒向の土器は人が集まっていた根拠として不十分。
少なくともそれに見合った数の住居がないから定着していないし、肝心の九州北部からの土器がほとんどない。 >>528
祭祀土壙出土でも、ニヒナメヲスクニ的共飮共食儀礼に用いられたとされる土器は使用痕あるけどね 調べてたら中華の学者の話で、邪馬台国は邪馬壱国の書き間違いで
読み方は、ヤマトコク、ヤマイコクだったのではないかとw
卑弥呼に関しても、少し発音が違ったかもだってさ!
それが日の巫女(ヒノミコ)だったとしたら、巫女(シャーマン)の敬称名をそのまま使ってた偉い人かも…
ヤマトコク(邪馬壱国)だったのなら、関西周辺と北九州周辺のどちらも正解だった!
おいらの見解だが、邪馬壱国(ヤマイコク)が北九州周辺で、邪馬弐国(ヤマニコク)が関西周辺だったww
当時周辺の国々を収める王国に至ったヤマコクがヤマトコクに変わり、ヤマト政権になって日本(天皇の国)
へと繋がったんじゃなかろうか!!
じゃあ、卑弥呼と記載されていた人物は誰なんだって事になるが、まずはだが神功皇后が
一番怪しい人物だな。このお方は天皇(王族)としては認可されていないんだが、応神天皇即位まで
約70年間ヤマトコクに君臨したとするとある。しかし、70年間も代理王してたのは長過ぎwww
神功皇后の後を、もう一人の女性が継いでたんじゃなかろうか。宋女の台与として魏志倭人伝
に記載されていた者がいただろ。おそらく彼女だ。神功皇后の優秀な弟子?が倭国内乱を
収めたもう一人の隠れキャラだった。更に付け加えると、天照大神の岩戸伝説に繋がる
エピソードが神功皇后から宋女の台与への交代劇となんだか被る...
となると、卑弥呼が亡くなったとされる年に起こった皆既日食247年〜248年と、
卑弥呼の後を継いで登場した宋女の台与。天照大神の岩戸伝説の辻褄が合致!
当時の内乱を収めたのは多分この二人だ。その時の伝説が、天照大神の岩戸伝説を
作り上げ神伝説化した。まあ、天照大神と神功皇后が混ざり合って訳が分からなくなってるんだが、
卑弥呼とされた人物との繋がりが凄く深そうだな神功皇后と天照大神は・・・ >>530
>纒向の土器は人が集まっていた根拠として不十分。
それ、棄却
人が集まってないのに大量に飯炊くわけがない >>526
古墳出現前後における畿内型甕形土器の
西方拡散に関する研究
佐々木 憲 一
のどこに使用の有無が記載されているの?
また、巻向の土器についてどのように書いてある 倭〜ではなく、三貴子でしょ、
後から渡ってきたという、渡来系の家の話なんだけど >>534
一時的に人夫がいただけなんだよ。
住宅がなければ定住していたことにならない。 三貴子でしょ?
同じような話が各地に散らばっているでしょ?
漫画やアニメ・・・ゲームも同じ、一度教えたりした話などを地方に運んだとか、
そういう話。
実際は、傾いた松〜寒いな・・・?が祭祀(斎祀)している家。 >>529
>その頃は漢との交流が途絶えているじゃん。
つまり平原1号墓での葬祭は後漢との交渉が途切れた下大隈式最新か
あるいは楽浪との交渉が活発化したI A期とすれば
ごく初期しか考えにくい
これは既に埋没の始まった周溝から下大隈式直後の土器が出ている事実と整合する 朝鮮半島慶尚南道にある固城は、古代に倭と中国の交易の中継地の機能を果たしていたとする研究がある。
最も栄えた時期はちょうど卑弥呼の時代だったようだ。
そして、その時代にまとめられた中国側の資料に基づいたと考えられる魏略倭伝には、「倭在帯方東南大海中」と記されている。
この「東南」の方位と固城から対馬、壱岐、呼子加部島の航路の方位である東南がぴったりと重なるのである。
これらのことから、魏略で初めて記される倭の方角である「東南」は、この固城からの航路の方位であった可能性が極めて高くなる。
そうなると、卑弥呼の使節団が魏の都に赴いた時の対馬海峡の渡海の航路もこの加部島〜固城ルートであったことも考えることができる。
そしてなにより、この固城からの東南の方位を呼子加部島からさらに延長していくと、その軸線は日本書紀に記される田油津媛の所在地である山門付近にも至るのである。
この山門は、卑弥呼の祭祀所の所在地として最有力の比定地となっており、「東南」の方位はこの山門をも含めるものであった可能性が出てくる。
通常、ある国の所在地を指す場合、その国の首長の所在地のある方位を指すことが多いからである。
倭の方角を指す魏略の「東南」の記述は、このような意味からも極めて重要な方位だと考えることができるのだ。
邪馬台国北部九州説についての強い味方が、この「東南」の方位だということになってくるな。 気付いている人は気づいているし、知っている、
ホンモノはゲーム、漫画〜なども作っていないしw >>538
>住宅がなければ定住していたことにならない。
未発見は「ない」ではないし定住は関係ない
人が集まっていた根拠を否定できない >>541
>朝鮮半島慶尚南道にある固城は、古代に倭と中国の交易の中継地の機能を果たしていたとする研究がある。
どこの誰の研究?
どんな証拠があるの? 習ったのか、教わったりしたのか、何なのか知らないけど、
そういう人間がいるでしょ?
その人間が、勝手にやっているんだろうという話、
すべて家の話だみたいな宣伝(メディア?テレビなど)をしていたりw
いまの天皇(不明)?数代ほど前からの話? どこからか拾って来た話、
それらを、つなぎ合わせて、それで・・・・本当に、お前の家の話なの?
とか
そういう話 >>543
そこが荒っぽいのだよ
大集落を裏付ける住居跡が見つかってないのに
大集落とか王都と決めつけるには時期尚早
今のところ、古墳造営の土木作業員が集まっていたとみるべきじゃないかな
土木用具がたくさん見つかっているし、資材運搬の水路も見つかってる
見つかっているものから、現段階では推測するしかないのでは >>547
>大集落を裏付ける住居跡が見つかってないのに
大集落を裏付けるのに住居跡が必要ってのは、誰の説?
時期尚早とか決めつける根拠は? >>547
>今のところ、古墳造営の土木作業員が集まっていたとみるべきじゃないかな
古墳築造と関係ない祭祀遺構が大量に見つかっているので、あり得ない
事実そんな考え方をする学者が現状だれもいない 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動は、周辺に、都市どころか人民の住居も数軒しか無い、城も無い、4世紀に出現した巻向古墳群のどれかかが、卑弥呼の墓なのだという空想が柱なのだったな。。 大量に見つかった、古墳築造と関係ない祭祀遺構とは、カエルや魚の骨や、桃の種が捨てられた穴や、穴が空いた木の鍬のことだった可能性が高まってきたな、、、 神様カード?、ゆーぎおー、よくわからない音楽、その他・・・、
何でも同じ、売り上げなどがあるでしょ?
一部(売上、税など)は、確実に、そいつの手に渡っている、
わかりやすく言うと詐欺師のような手法 九州説はいつも鎧袖一触で論破され
脳障害の発作を起こすなあ 熊本城の傍らには、金で飾られた魏志倭人伝時代の鏡があるのだったな。 文学でも同じw映画やドラマ、
創作、漫画にアニメ、ゲーム・・・パチスロ・・・製造業、飲食店・・・・w 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動に失敗した奥山氏が、討論での反論を諦め、またいつものように、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな、、、
553日本@名無史さん2019/11/17(日) 14:14:41.00
九州説はいつも鎧袖一触で論破され
脳障害の発作を起こすなあ 天皇(不明)?テレビなどに出てくる人。
必要ないと言っている人ばかりいるでしょ、実際はw 魏志倭人伝時代、朝鮮半島の南半分が九州倭国の支配下だったことを隠すための、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動は、
周辺に、都市どころか人民の住居も数軒しか無い、城も無い、4世紀に出現した巻向古墳群のどれかかが、卑弥呼の墓なのだという空想が柱なのだったな。。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動に失敗した奥山氏が、脳障害の発作が悪化したことを告白したが、僕達にしてあげられることはあるのだろうか、、
558日本@名無史さん2019/11/17(日) 14:20:19.70
脳障害の発作が悪化した >>548
根拠なく大集落と言い張っているのはそっちだろ。 だから、あなた?の家に入ってこないでしょ、
売り上げ(税金〜?)などの一部、その後、そこから来るはずのもの >>561
面積広いでしょ?
文化庁も大規模な集落と発表してる 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動は、周辺に、都市どころか人民の住居も数軒しか無い、城も無い、4世紀に出現した巻向古墳群のどれかかが、卑弥呼の墓なのだという空想が柱なのだったな。。 そういうところから出ている、
お金で生活をしている人がいて・・・、
なぜか、あなた?の家には入ってこないw 『日本書紀』では「神功皇后=卑弥呼+壹与」の立場で「魏志」を引文しているが、
神功皇后は卑弥呼の姪の壹与だとすると、全ての辻褄が合うw
要するに、卑弥呼の存在だけが書物から完全に消されているwww 宇宙戦艦も同じ、作品に出てくるキャラがいるでしょ、
ムー(ラー)、トウドウ、カトウ、ヤマモト、サナダ・・・とか
勝手に使用するなという話 煮炊きをした甕があるのに建物の跡がない。
つまり彼らはせいぜいテントのような簡易宿泊施設に一時的に暮らしていただけで、定住人口は少なかった。
それでは大集落とは言えない。 畿内のネチネチおじさん
学者は誰、論文は何、それはあり得ない、・・と今日もネチネチおっかれさん!! >>570
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波 〜神功皇后Wikiより〜
>最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。
卑弥呼(ヒミカ)と壹与(ヤヨ)の功績は、まあこんなとこww
魏志倭人伝に登場した邪馬台国はヤマコクの間違いで、九州まで ヤマト王権をその中に収めようと
していた段階のヤマコクの話。頼りない男の王は当時除外され、女帝が収めていた。ヤマコクは本州では
支配を完了していたし、倭国内乱の最終仕上げが九州だった。邪馬台国がどこにあったかの論争は無意味ww
ヤマトのお話の段階での事で、中華の書物が邪馬台国伝説をややくしくしていただけだったようだな・・・
ただ残念なのは、その後の日本書記&古事記では女帝2人は王に数えられていない点。
女の王がヤマト平定なんて歴史上あってはいけなかったんだろ。その中心にいた卑弥呼は
歴史からも抹殺。壹与(ヤヨ)だけが神功皇后としてなんとか名を遺した。まあそんなとこだな・・・・・ >>571
確かなことが一つも答えられなくて
火病を起こす九州説が
みっともない >>530
>纒向の土器は人が集まっていた根拠として不十分。
では、飯炊き甕を飯炊き以外の目的で使ったことを実証してくれよなww
でなければ大量の飯炊き甕で調理した大量の食料を食べる大量の人口を想定するのは当然のこと
不十分というなら、それ以外の可能性を十分に立証してもらわないとwwwww
九州説は、「確定じゃないというのを否定に言い換える詐欺」しかできないww
>少なくともそれに見合った数の住居がないから定着していないし
住居遺跡はその後の土地利用次第でいくらでも失われるからね
イチャモンにもならないよw 卑弥呼は歴史からも抹殺ではなく、天照大神の岩戸伝説としてなんとか神化して遺ったというべきか…
卑弥呼(ヒミカ)=天照大神
壹与(ヤヨ)=神功皇后 >>575
飯炊きはいいんだよ。
ただ、そこに建物がなく定住していなかったのなら、頭数が一時的にいても集落ではない。 >>575
>住居遺跡はその後の土地利用次第でいくらでも失われるからね
つまり纒向説は根拠なく言い張っているだけなんだよ。 卑弥呼(ヒミカ)だから、ひみかがたらしひめ みたいな名前だったのかも…
壹与は名前じゃなく尊称だろうから、おきながたらしひめ
妄想ゆえに突っ込みごめんwww 倭人伝の「有屋室 父母兄弟卧息異處」
は竪穴住居ではないな
韓伝の「居所作草屋土室 形如冢 其戸在上 擧家共在中」は竪穴住居
平地式建物は跡が残り難い
近畿地方は平地住居への移行が早かった >>578
べつに纏向の住居遺跡を根拠にしてませんが、何か? >>577
>ただ、そこに建物がなく定住していなかったのなら、頭数が一時的にいても集落ではない。
という理由は?
理由もなく言い張っても畿内説への反論になりませんが? 筑紫峠の伊都国博物館
畿内説の後ろ盾が吹き飛んで、ガラガラ閉鎖の共倒れ危機! >>585
要するに、何も根拠なく
「集落でない」
と言い張ってると・・・
そう仰るわけですね?
それはダメダメですなあ九州説
弱すぎです >>587
いや、他人の心配より吉野ヶ里歴史公園の経営の心配してくれよ
九州説なら毎月1回は行けよ
そして地元物産買いこめよ
特に卑弥呼そうめんは絶対買って常食にしろよ
九州説ならお布施しろ >>589
畿内説が根拠ないって言う理由は?
是非聞かせて欲しいね そんな事よりも、なぜ知っているんだと思う?
『伊達の桃太郎』後の未来の話、
『れでぃお・がが』『』『』『』『』など >>592
住居がないと、どうして根拠がなくなるんだ?
論理性のカケラもないなー
さすが脳留守の九州説 >>593
>住居がないのに大集落と言い張るキナイコシ
住居がないと、なんで大集落と言っちゃいけないんですか??
九州説いつも理由ナシ
駄々言い張るだけ
それ、無能の証明でしょ >>590
あのな、
クルマ時代は、1か所だけではつまらんのだよ。
博多を朝発って、
唐津の魚腹・サザエのつぼ焼きをかじり、小城の羊羹買って、昼は川上のナマズ弁当を食べる。
それから吉野ヶ里を半日見学して、城柵そうめんを手土産にする・・、
そういう唐津古道・卑弥呼の道コースだったら百倍千倍ウケると思うよ。 >>549
祭祀遺構とかってに決めつけてるだけじゃん >>593
纏向に「住居がない」という説はない
「検出されている住居のほとんどは平地式の建物というか、柱穴を掘ってそこに柱を立ち上げるという形の建物ばかりが確認されておりまして、おそらくは高床式の
建物や平地式の建物で纏向遺跡の居住域が構成されている可能性が高い」橋本輝彦 ガンダムの話?というわけではないんだけど、
あの白い服の写真w
『伊達の桃太郎』の、
傾いた松の木・・・寒いな〜・・・と同じ家 >>598
>祭祀遺構とかってに決めつけてるだけじゃん
祭祀遺構とする論拠は公表されているし
それに異を唱えた学者はいない キュウリのような葉、葱の華・・・、
何かの制服を着ている子供も同じ家w >>597
それ博多で働いてる佐賀県民のコースだろ >>598
祭祀遺構でもいいんでねーの
何をやっていたかが問題なのでは?
葬儀?供養?古墳造営の成功祈願?安全祈願?・・・・何をやってたかは不明だよ どこかの王子、王女・・・、
みる姉さん?wiki
なぜか同じ話をしているし、
なぜか川俣町という掲示板、でじこ?何やらというのも同じ >>316
>>投馬国は都万w<
>それは、「投馬国は女王国より以北の国」を満たさないから、ダメなんだよ<
それは、投馬國は、
不彌國や邪馬壹國女王之所都付近から南に水行二十日の位置にある、
から、「女王國以南の国」になるので、ダメなんだよ。
>投馬国は出雲がもっとも蓋然性が高い<
それは、「南≠東北」であるから、完全な嘘つき騙しになり、×。 >>601
同じく
何をやっていたのかが問題だよ
また、公表は奈良県教委・桜井市の公表だから鵜呑みにはできない 老婆の話も同じ、結婚する前w
何かの家の人・・・だと言われたとか >>320
>>日本各地で、首長の権力誇示の巨大墳丘墓が作られている時代に、
北部九州では大墳丘墓を作れる勢力がない <
巨大墳丘墓が造られるようになったのは、3世紀の第4四半世紀頃以後。
北部九州倭国は、「西服衆夷六十六國」済みであり、
「東征毛人五十五國」も「渡平海北九十五國」もする必要が無く、
新しい支配地を威圧する必要もなくなっていたから。 老婆と・・・あと数人(親戚?)だけが知っている話なのかな?
軍人なのか、何なのかわからない、戦争などにも行っていない、
歌舞伎、芝居・・・などを観に行っていたとか 九州説の言うことはニセ情報や出所不明怪情報ばかりだな >>322
>土器編年表をみると、どちらも200年〜250年の幅にとっているようだ。
250年というのはやや違和感があるが、まあ平行、あるいは併行しているよ。<
「南→東」などのように、
史料事実の否定や曲解をする嘘つき騙しの通説大和説学者の「土器編年」は、
一種の皇国史観にクルった・・・・詐欺師の編年であり、
信頼性も確率も全くなく、根拠にならず、×だよ。 『ガッパ ドンバ』
当時から、そういう設定だった?
どこかの王子がいて、ガッパも・・・。 >>323
>畿内と九州倭国(邪馬台国)が並行していただけ<
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国の別種の旧小国であり、
「東征毛人五十五國」の中の一国で附庸國であったんだから、
「並行」する、って事がなかったのであり、×。 >>329
それ、行程の部分だけではないだろ
なら
>しかも魏志倭人伝と関係があるものばかり。
では根拠になります 却下不可<
は成立だ
また大和説が論争に負けたわけだ >>330
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「以前から何度も繰り返し書かれて来た根拠」を「一つも書いてない」という嘘つき騙しも、
大和説者の特徴 >>603
佐賀県民だけではつまらんというなら、次の案がある。
まず一つは、糸島の伊都国博物館・平原墓も付け加えて、まぼろしの伊都国A説(福岡版)とする。
二番目は、佐賀川上の熊襲タケルのお屋敷伊都国B説(佐賀版)とする。
そして「さてみなさま、どちらがホンモノの伊都国だったと思われますか・・・」、の総選挙を行う。
期間は今後5年間。
結論らしきが出なければ、更に10年間・・・、と引っ張れるだけ引っ張る。
全国から人が集まりまっせ、、、 >>332
>>同時代の発掘物では畿内は文明的に遅れてると思います。<
>その通り。 文明の差は時間がかかる。 畿内は人口が多かっただけ。<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
九州倭国には15万戸位あり、
大和りだけでは面積的にもそれほど人口が多かったとは言えないから、×。 >>619
佐賀の観光収入は韓国人がメインだよ
日本では魅力度ランキングが低いから
佐賀44位
徳島46位
茨城47位 >>337
>打算的ですよ
まず>>1の瀬戸内ルートを否定する材料がありますか?
日本海ルートについては>>1は認めてない。<
「南≠東」で×。
>畿内に邪馬台国があれば良いですか? <
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であったから、×。
>>>1への反論は無いのですか? <
2ch時代に、2回に渡って、全テンプレの反論否定済みであり、
5ch時代にも、類スレ主の「テンプレを使った主張」に対して、反論済み。 >>621
佐賀はだだっ広いだけで、変化に乏しいからな。
しかし、古代をほうふつとさせる伝承と遺跡・遺構がある。
それは天山山系の麓の道で、古代には東から西まで、大クスノキの並木があったそうだ。
福岡空港ー糸島・平原伊都国ー唐津ー多久・小城ー川上熊襲伊都国ー吉野ヶ里ー大宰府ー福岡空港に戻る(反対周りでも良し)
最期に梅が枝餅でも買って、空港ロビーで一日の疲れをいやす。
素晴らしいコースではないか。 >>570
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波 「桜井市纏向学センター」
纏向遺跡ってどんな遺跡?
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纏向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纏向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。
纏向遺跡第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3期式(3世紀中頃)に構築された一辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを有しています。
竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴がありますが、炉跡や周壁溝がない事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居ではなく、
掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。
だって。 @阿波
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html >>622
>全テンプレの反論否定済みであり、
何いわれても「南→東」だから、× とか叫び続けただけじゃね? >>618
>「以前から何度も繰り返し書かれて来た根拠」を
それが九州説の嘘つき騙しで
実は一つも書いてないんだろ
なぜって何度も繰り返し書かれて来たなら今回も書けるはずなのに
頑として書かないんだもの 九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 >>623
佐賀県民の双子である韓国人は嬉野に行くみたいだよ
今は関係悪化で来なくなってるけど >>629
なんで九州の風土記に天皇の「嬉野」行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 >>629
なーんだ
夜は嬉野で温泉につかってアレコレして、昼は唐津ボートで遊び惚けてるのか
退廃的な観光コースはいかがなものか
朝鮮半島と仲良く政経交流をしていた三世紀をテーマにしてはどうか、張政クンも張り切ってやってきた時代のな。 どう考えても、ムー帝国(大陸)、ラーなど、
かつて栄えていた・・・・という話でしょ?
うらしまマリン「ぼく、どざえもん」(ドラえもん)と言っていたり、どこかの王子? >>631
いや、佐賀は素通りだろう
吉野ヶ里も鏡貧乏だし 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>339
まったく、本当に魏志倭人伝の記述を無視した暴論を正しいと思っている人は
たちが悪い
>伊都国王は「世有王、皆統屬女王國」であって、女王国に統属している地方政権
そこに、女王から派遣された一大率がいれば畏れ憚るのは当然だけれど、
一大率が「伊都国の内政」にタッチしているとはどこにも書いていない <
一大率は、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史」
と書かれているんだから、一大率が「常には伊都国を治している」のであり、
だから、伊都国の執政をしている、という書き方であり、
しかし「伊都国王=一大率」であったのか?は断定を避けている、という書き方であるから、
「伊都国王=一大率」であった事も「「伊都国の執政=一大率」もあった、
というような書き方。
>邪馬台国は、伊都国を支配していない バカの相手は疲れる<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
伊都国は、卑弥呼共立国の一つであり、
「世有王、皆統屬女王國」であり、
「自女王國以北、特置一大率檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國於國中有如刺史」の国。 >>614
「並行」する、って事がなかったのであり
ワイとしては、ホケノ山が3世紀中頃であれば文句ないね。
庄内式の二重口縁壺が出ているので、箸墓の直前時期だろう。
ホケノ山が3世紀後半ということはないだろう。 >>341
>>縄文時代、弥生時代を通じて後進地域の纒向がなんだって?<
>纏向は、奈良盆地の中で新しく王都を作ったところだから、その前は
空き地だよ <
奈良盆地は、その前は、
毛人や、出雲系銅鐸祭祀部族や、
九州倭国の神武の後裔の「市を監督する大倭職」の国の、混合地域。
>縄文時代、弥生時代を通じて、奈良盆地は地域一体の盟主的立場だったのだから
その奈良盆地に新しい都が作られるのは何の不思議もない<
それはダメ。米田に依れば、
(東征毛人五十五國の主力軍の到着していた)河内付近の方が盟主的であり、
していた)奈良盆地は、東征の別動隊の征服地。 >>638
米田そんなこと言ってないし
「箸墓=卑弥呼の墓」説の人だし >>611
だから あなたは駄目なの
橿考は奈良県教委なの >>611
奈良県立なんだよ橿考は
橿原で興味深い地域は飛騨地区 >>544
>どこの誰の研究?
検索欄に「固城 中継地の研究」と入力し、
開いた画面の上から2番目の「ダウンロードーResearchmap」を開く。 >>535
>のどこに使用の有無が記載されているの?
「庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された痕跡はないので,
この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」
本文そのままの引用!
こっちは典拠をそのまま示しているんだから、自分で確認すれば
こっちが嘘をついているかどうかは分かるだろ?
ソースが必要というのはそういうこと
>また、巻向の土器についてどのように書いてある
佐々木論文は西方拡散についての論文だから、纒向の土器についての言及ではない
話をごっちゃにするなっての! >>538
>一時的に人夫がいただけなんだよ。
纒向遺跡は100年以上存続しているんだが?
100年以上の年月を一時的と言い張るところが九州説のデタラメなところ >>643
訂正
入力は「固城 中継地の形成」とする。 >>640
陰謀説はトンデモの証明
ゴミ説と自称するのと同じ >>547
>古墳造営の
権力誇示の大古墳を作っている時点で王都周辺なのは確定なんだよ
奴国首長墓の那珂八幡古墳も比恵那珂遺跡群に作られてるだろ?
そこが奴国の首都なんだよ >>567
>だだっ広いだけで中に何もない原っぱ
ただの原っぱじゃないことが、どこを発掘しても大量の遺物が出ることではっきりしたから
纒向遺跡とまとめられたんだよ
こんな感じ
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点です。
この調査地の東側で行われた発掘調査では、古代や古墳時代の旧河道(埋まってしまった川の跡)が
見つかっており、今回の調査地はその旧河道の延長上にあたっていました。そのような理由で、
当初は遺構や遺物が纒向遺跡の中でも比較的少ない地域と考えていました。
しかし、重機で表土や耕作土を取り除くとあらわれたのは土器を多く含んだ真っ黒な土。
纒向遺跡でこの土がみつかると、土器や遺構が見つかることが大きく期待されます。当初持って
いた先入観を捨て、遺物や遺構の検出に励むことにしました。
調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、約60uの小さな調査範囲から
コンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である
3世紀代のものです。 」 >>570
>つまり彼らはせいぜいテントのような簡易宿泊施設に一時的に暮らしていただけで、
>定住人口は少なかった。
ドンドン苦しくなってきてるなw
まったく論理がない
古墳一つ作るのにどれだけの時間がかかるかを考えれば「一時的に暮らしただけ」ってのが
バカないい訳だとまともな知能がある人にはすぐに分かるだろうにw >>346
>「九州北部の卑弥呼」デタラメ 何一つ根拠も論証もないww<
魏志倭人伝を始め、歴代中国史書群や半島史書らの証言が根拠であり、
金印や、弥生銀座や須玖岡本や祇園山や平原などや、
銅矛や鉄鏃や鏡片や大道などの遺跡の存在が根拠。
>「地方が少しずつ復権」デタラメ 弥生終末期に大墳丘墓を作っていた地域は、
そのまま古墳時代に入っても大古墳を作っている <
卑弥呼の墓は「冢」であって前方後円墳ではなく、前方後円墳は、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などが早く、大和は、撥型前方後円墳の石塚の3世紀末以後。
>「纒向のように開拓され始めた」デタラメ 纏向大溝の最下層からは纏向1式・畿内第V様式土器が出る
卑弥呼の死よりもずっと前から纏向は存在している <
第X様式の編年が怪しい。大和の庄内は石塚の庄内1の3世紀末からなのであるから、
せいぜい3世紀半ば頃からにしかならない。そして、筑紫の第X様式は3世紀前半以前。
>各地から人が集まる大祭祀遺跡が3世紀に確認できるのは纏向遺跡だけ<
纏向の掘立柱建築の横の土坑は庄内3であるから、3世紀末以後。
西日本の中でも先進地域というのは大和説者の心の中にだけあるデタラメ
実際は青銅祭器は当初は銅鐸であったのであった。
後世の旧小国の大和王権は、3世紀末以後で無理なく位置づけられるというだけ >>578
>つまり纒向説は根拠なく言い張っているだけなんだよ。
いや? 根拠はいくらでもあるだろ?
大量の飯炊き甕とか、どこを掘っても大量の遺物が出るとか、
複数の大型祭祀土坑とか
どれも3世紀の他の場所では見られないものだ >>648
>権力誇示の大古墳を作っている時点で王都周辺なのは確定なんだよ
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>597
電車とかバスだと不便だな。
吉野ヶ里はなんとか行ったが、川上神社まで時間も足もなかった。
ところで、神使のナマズを食べていいんだっけ? 優れた学部の優れた者達の試算では、箸墓古墳は、橇と綱があれば、延べ10万人の労働力があれば余裕で、積み上げることが出来るのだったな。 >>648
>権力誇示の大古墳を作っている時点で王都周辺なのは確定なんだよ
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>655
つまり、巻向古墳群が出現した4世紀の巻向には、都市どころか農村があった必然はないのだな、、、 >>645
100年って、何が根拠?
また言い張るだけ?
断続的にある時期だけ人が今だけだろw >>648
>そこが奴国の首都なんだよ
奴国の首都ってなんだよ。
奴国は2万戸の首都圏だよ。
その中にさらに首都なんてない。 >>649
> 調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、
やはり建物が見つからない纒向。
市でも立っていたか? 5ちゃんねるを活発化させようとしている頭の悪いプロ固定が、頭が悪すぎるので、スレッドのレベルが最低のレベルから浮上出来ないな、、、 >>652
>どれも3世紀の他の場所では見られないものだ
これを証明してみろよ。
無理だろ?
纒向は200次にわたり発掘されているが、そんなことは他のどこでもやってない。
激しいバイアスがあるんだよ。
そらを無視して纒向アズナンバーワンを唱えても、真実だとは証明できない。 >>654
ま、確かに不便だねえ
そこんところを考えて、一周観光コースを整備するのが佐賀県のアレじゃないの
競艇場もいいけどさ・・。
天然のナマズやエツは、産卵に上ってくるんだから確かによろしくないな。
弁当にするなら養殖だな、それならよかろう。ほかにさしたる名物はないんだし・・。 >>659
>100年って、何が根拠?
まず、纒向大溝の最下層からは畿内第V様式土器が出ている
これは弥生時代後期の指標土器で西暦200年頃までだから、
3世初頭には巻向遺跡の建設は始まっている
そして、最近見つかった消滅古墳の箸中ビハクビ古墳は
埴輪の年代観から概ね4世紀末頃のものと考えられている
まあ、約200年は存続している訳だ
100年以上ってのは控えめな表現だぞw >>668
そうではなくて、神の使いだから食べないとかなんとか聞いたことがある。 >>660
>奴国の首都ってなんだよ。
>奴国は2万戸の首都圏だよ。
>その中にさらに首都なんてない。
バカだなぁ
東京が首都って言っても都庁所在地が東京と全体ってことにはならないだろ?
奴国は須玖岡本の辺りまで奴国だけれど、3世紀頃の中心部は比恵那珂遺跡群になるんだよ
県庁所在地というより奴国の首都の方が分かりやすいだろ?
何にせよ、奴国で一番人がいる中心地に首長の盟主墓が作られるんだよww 畿内説は終わった
嘘に嘘を重ね、捏造を生業とし、欺瞞と寝食を共にした畿内説に
正義が審判を下したのだ >>663
>これを証明してみろよ。
反論したければ、「具体的な反例を挙げなさい」と何度言われれば理解するんだ?
>>575を再掲
九州説は、「確定じゃないというのを否定に言い換える詐欺」しかできないww >>643
それ、あなたの珍説はダメだって書いてあるような論文だよね
「全羅南道海南郡の郡谷里貝塚や宝 城郡の金坪遺跡,慶尚南道昌原市の城山貝塚などの海岸部の遺跡群によって短いスパンのネット ワークが形成された」
つまり「海南郡郡谷里」→「宝城郡金坪」→「固城郡東外洞」→「昌原市城山」
といった海岸部短いスパンのネット ワークだ
もっと倭に近い弁辰安邪国の方へと通り過ぎちゃっただろ?
そう言う意味での中継地なんだよ
しかも2世紀前半にあたる漢鏡6期鏡の破片しか出土しない
そして「土師器系土器があまり見られない」わけだ
つまり「 原の辻=三雲貿易」の時期はよかったが久住IA期止まり
「博多湾貿易」が成 立するIB~IIA期)には「倭との関連が弱まった」のだ
交易の仲介者としての重要性を失ってる
つまりもう魏使の来た頃は金海の狗邪韓国へ行くただの通り道だ
倭との交流の厚さでは、もうはっきり3世紀の遺跡から倭系遺物が出ている金海や昌原の足元にも及んでいない
そういうこと >>675
費用対効果じゃねーの
もう税金の無駄遣いは止めたほうがいい
桜井市の地方税でやればいい >>663
>纒向は200次にわたり発掘されているが、そんなことは他のどこでもやってない。
>激しいバイアスがあるんだよ。
間違い
遺跡が広いから家の建て替えとか河川改修とかも多いだけ
だからチマチマ200回緊急発掘しても2、3%しか調査できてない >>676
>それ、あなたの珍説はダメだって書いてあるような論文だよね
ワイは、倭と半島との交易について言っているのではないのよ。
魏から来た船が半島から対馬に渡る船のルートについて問題にしているのだね。
半島南岸の各港のうち、魏から来た船が対馬に渡る最も妥当な出発地が固城だと言っているわけ。
この寺井誠の論文には、固城が倭と中国の交易の中継地であったと書いてある。
ワイは、その論は妥当だと言っているものであり、倭と半島との交易の推移について言っているものではないのよ。
よ〜く、ワイの主張を目に刷り込んでから言ってもらいたいじゃん。 >>673
「わかりやすいから」という理由で平気で嘘をつくキナイコシ >>675
証明できていないのはあなたの方ですよ。 >>678
>だからチマチマ200回緊急発掘しても2、3%しか調査できてない
そりゃ勝手に根拠もなく想定範囲を広げたからでしょ。
マッチポンプ >>349
>>出雲は女王国より北じゃねえw<
>北としたのは、陳寿が倭国の方角・地理に詳しくないからそう書かれているだけ<
普通の成人人類は、東西南北は99%以上間違えないもの。
それは、国民も中国人学者らも古代の魏の役人や倭人も同じであり、
それを「間違える」とする大和説学者や文科省や右翼マスコミや類スレ主らの大和説者の脳が、
何らかの宗教にクルっておかしくなっているだけ。
>北部九州を出て、帯方郡から遠ざかる方向に邪馬台国があり、<
これもインチキ。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
邪馬壹國女王之所都は、萬二千余里がほぼ終わった不彌國の「南」とはっきり書かれている。
>その途中に投馬国の <
「その途中」ではない。
投馬國は、「至の前に途中移動した事を示す文言」がないから、
不彌國からの側副傍線国の説明になっており、不彌國の南方の水行二十日の位置にある。
魏志の行程説明をまともに読まない大和説は全て破綻している 。 >>679
>この寺井誠の論文には、固城が倭と中国の交易の中継地であったと書いてある。
狗邪韓国へ行く中継地なだけでは?
から来た船が対馬に渡る最も妥当な出発地が固城だと言うような話はどこにも書いてない論文だ >>682
>証明できていないのはあなたの方ですよ。
なんの証明ができてないと?
こっちが証明すべきことですか? >>681
>チマチマでいいが、銭かかりすぎ
法律で埋蔵文化財を調査すると決まってるんだから仕方がない >>351
>伊都国中枢の三雲遺跡群の中に、大和庄内甕を使って祭祀を行う人物がいたんだから、<
そういうデタラメは通らない。
大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1が最も古いのだから、
仮に「大和庄内甕」が大和の製作品であったとしても、3世紀末以後の事になり、
「大和の庄内型の筑紫甕」であっても、3世紀末以後になり、
いずれにしても、卑弥呼や壹與の時代にはならない。
考古遺物という実物証拠で、嘘つき騙しの大和説者や類スレ主のデタラメは、
否定されるんだよ >>683
>そりゃ勝手に根拠もなく想定範囲を広げたからでしょ。
おやおや九州説は
纏向が面積の大きな遺跡であることまで
否定するのかい? >>688
>そういうデタラメは通らない。
>大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1が最も古いのだから、
そのデタラメが通らないのだが
考古学的根拠ない貴方の個人的考えでしょ? >>354
>それ、主観で言ってるだけでしょ やっぱり所詮九州説だよ <
列島の各地の人口密度地図を描いた学者は、
北部九州の密度を非常に薄く過疎にした、
という失敗を認めておられたよ。 >>684
>普通の成人人類は、東西南北は99%以上間違えないもの。
その確率に統計的根拠がありますか?
ないですよね >>689
当然だろ。
領域を再現なく広げて、その中にある全然違う年代の遺跡を一つにまとめて100年だのなんだのと言い張っている。
それなら九州とか何百年だよ。 >>694
郡使が軍事情報として記録するのに、方角を間違えるのか? >>696
統計的根拠が無いって認めたね?
そして
郡使によって軍事情報として記録されたという史料的根拠すら無い >>695
纒向遺跡の範囲確認調査が
「領域を再現なく広げて、その中にある全然違う年代の遺跡を一つにまとめて100年だのなんだのと言い張っている。 」
という証拠は? >>689
巻向自体 範囲指定があいまいだと思うよ
天理、橿原も入れてもいいと思うよ
境界を示す物が無いよ
すなわち、巻向遺跡は畿内説の学者が範囲を決めただけで
根拠があまりにも無い >>356
>>会稽東治は、揚子江河口の南北両側海岸地域であり、その東は、ほぼ九州付近全域であり<
>ただ願望を捲し立てても意味ないね また九州説がデタラメ言ってるなーとアキレられるだけ
だって、そんな場所が会稽東治だという理由が何ひとつ無い
そもそも、そこ会稽じゃないし 会稽の北だから「東」治でもありえないし
九州説はデタラメばかりだ<
258年の会稽郡から臨海郡の分郡で、会稽郡の東部〜東北部の海岸地域の全域が、
揚州に属して、呉の管轄下になって、会稽郡ではなくてなったので、
陳寿は、その地域呼称として「会稽東治」という説明文言を使ったの。
大和説者や類スレ主らは、インチキ出鱈目ばっかりだ。 >>671
古代にはクジラような巨大ナマズが群れをなして居たのであろう。
故に土地の人は、有明海の神の使いとして佐嘉の川上に上ってくるナマズを敬った。
これが転じて、タケミカズチノカミは、ナマズの守り神として祀られ、地震をも統べたという。
ここで注目すべきは、川上のナマズの守り神であったこのタケミカズチの父、つまり川上の祖神は、
伊都(イツ)之尾羽張と名乗っていたと記紀に残されていることである。
川上は伊都・・・、日本神話は、いったい何を語り継ぎたかったのであろうか・・。 >>358
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
ウソをつくしか能がないのか?。 >>653の
阿波の言うとうり
考古学的根拠がマキムクを王都とするには材料不足はどうしようもない >>365
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて窮すると、
ボケ老人になる大和説 >>699
吉野ヶ里のように市町村をまたいで調査すればよいが
奈良県はイカン 二重、三重行政で録を食む地方公務員がイカン
石野も寺澤も地方公務員あがりの輩 >>695
つまりお前は
奈良県や桜井市の公的機関の発表が
ぜんぶウソだと言ってるのかね?
なんの証拠もなく 纒向遺跡はたんに現在の行政区域で範囲がおおよそ決定されてるだけで
実際は複数の区域にまたがる あと考古学的な発掘の基本は「現在の人々の生活を妨げないこと」
だから緊急発掘や計画発掘でも人の住んでない場所しかできない >>706
嘘とは言ってないよ
憶測で公表するのは教育委員会のやることでは無いと言っているだけだよ
マスコミ誘導にも近い公表は✖ >>388
>>崩落で落ち込んだなどと、まさに、語るに落ちる言い訳ぶり <
>いや、実際崩落してるし<
地面の表面の小枝が、槨内に落ちてくるような崩落が、2回もあったの?。
それに、百年も二百年も腐らずに表面や地中に残っているような小枝なんて、、
あり得るの?。
>副葬品も落下してきてるんだが<
その副葬品は、何でどこにあったの?。 金海から対馬に渡る航路が最短距離であり、固城から対馬に渡る距離は最短距離ではないとする意見が出ることと思うが、
必ずしもそうではない。
固城から外洋に出て、巨済島の西にある島々に沿って東南へ過ぎると一路大海を対馬に向かうことになるが、
対馬は目視できず、方角を定めにくい難があるということになるかも知れない。
つまり、よく晴れた日には対馬から釜山が見えるくらいなので、金海から少し沖に出れば対馬は見え、航路に不安材料はないという意見だ。
対馬から釜山まで約60km。
この例を固城から対馬までの航路に当てはめれば、固城〜対馬まで120kmなので、確かに固城湾を出たところからは対馬は見えない。
しかし、固城湾沖から巨済島西沖の島伝いに東南に進み、固城湾沖から40kmのところにある最後の島を通過して東南東へ18km進むと絶海の中に孤島が一つある。
ここまでは目視で進める。
この小島に立ち寄って、それから東南に約60km進むと対馬南端の豆酘崎に到着する。
つまり、この絶海の孤島から対馬までの距離と釜山から対馬までの距離は同じなのだ。
そして、この小島から先へ進むとすぐに対馬の島影が目視できることになる。
要するに、この絶海の中の小島の存在が固城〜対馬ルートの要だったと考えることができるのである。
渡海する者たちは、この小島に上陸してほっと息をついたことだろう。 >>700
>258年の会稽郡から臨海郡の分郡で、会稽郡の東部〜東北部の海岸地域の全域が、
>揚州に属して、呉の管轄下になって、会稽郡ではなくてなったので、
>陳寿は、その地域呼称として「会稽東治」という説明文言を使ったの。
それ、九州説の捏造ですよね
真っ赤なウソです
臨海郡は会稽郡の東南部だし、会稽郡治は会稽郡の最北端にある
258年の分郡以降も紹興市など会稽郡の北部や、現在の寧波など東海岸は会稽郡のまま
会稽郡はもともと揚州に属しているし、孫呉の支配下
破綻した九州説を守るためにニセ情報を流すのは悪質です >>709
>嘘とは言ってないよ
>憶測で公表するのは教育委員会のやることでは無いと言っているだけだよ
憶測で公表したという証拠は? >>390
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
どうして毎日こんなウソつくの?
上司の教授や皇国史観の文科省らが怖いから?。
或いは、元々脳が嘘つき病であったから?。 >>707
>纒向遺跡はたんに現在の行政区域で範囲がおおよそ決定されてるだけで
という根拠は? >>672日本@名無史さん2019/11/17(日) 19:44:37.69
>佐賀を救え!
まさにその通り、
文化庁は、佐賀の遺跡を救え! 魏志倭人伝時代、朝鮮半島の南半分が九州倭国の支配下だったことを隠すための、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動は、
周辺に、都市どころか人民の住居も数軒しか無い、城も無い、4世紀に出現した巻向古墳群のどれかかが、卑弥呼の墓なのだという空想が柱なのだったな。。 >>711
>要するに、この絶海の中の小島の存在が固城〜対馬ルートの要だったと考えることができるのである。
島の名前は?
九州説さん、またガセネタかな? 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて暮らすしかないので、少し可哀想だな、、、 対馬の北北西にあった島は、朝鮮民族に不当に占拠された可能性が高いのだったな、、、 ウソ情報を流す
中傷する
証拠は絶対出さない
それが九州説 >>719
ログを見れは連続句読点が年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて暮らしてることだけが簡単に判明する件について >>713
それで、公的奈良県の機関が巻向を邪馬台国の王都と断定したの?
憶測の域を出ないのは確かでしょ。臭わせ誘導するのはいかんよ。
君みたいな、単純な人間が真実と思う間違いを起こすから・・・ 九州説の人が次々と
自分は詐欺だと告白に来て
畿内説を熱烈支持するスレはここですか 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて暮らすしかないので、少し可哀想だな、、、 >>685
>狗邪韓国へ行く中継地なだけでは?
その通り。
妥当な出発地が固城だと主張しているのは、ワイだよ〜ん。
倭から狗邪韓国へ渡る際の半島での最初の寄港地が固城であるなら、そこから東へも西へも行くことができるので最適港。
ワイは、そのルートを使って魏の使節団が対馬、壱岐、加部島へと海を渡ったと想定しているわけだね。
寺井誠は魏使が利用した渡航ルートのことは何も言っていないが、彼の「倭と中国を結ぶ中継地が固城であった」との主張と、ワイの主張はまったく矛盾しないしな。
それに、固城には製鉄所があったんだから、倭人も買い付けに行っていただろうしな〜。
つまり、このルートは倭人さん御用達だったのだから通いなれていて、航路の方位もスイスイだったろうしな〜。
問題はどこにもあ〜りません。 ウソ情報を流す
中傷する
証拠は絶対出さない
それが畿内説 魏志倭人伝時代、朝鮮半島の南半分が九州倭国の支配下だったことを隠すための、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動は、
周辺に、都市どころか人民の住居も数軒しか無い、城も無い、4世紀に出現した巻向古墳群のどれかかが、卑弥呼の墓なのだという空想が柱なのだったな。。 >>718
>島の名前は?
ヤフーの地図を拡大しても島の名前は出ていません。
形がピストルに似ているのでピストル島と名付けましょう。
あるいは、慶尚南道庁に電話して聞いてみてちょ。 >>418
>末盧国から伊都国の時点で間違っているし、<
伊都国は見えないから「方向計測」をしていないし、「東南」は出発時点での出発方向の計測記載。
>倭國上陸後は全くアテにできない 方位が合わないのは九州説も同じ<
成人人類は、東西南北はほぼ間違えないもの。
>投馬dug-magから出雲が妥当 四隅突出墓文化圏が5万戸の範囲と見ればよい <
「南≠東」に拠って、不彌國の南であり、出雲は×。
>縄文時代から沿岸航路で長距離交流していたのだから何の問題にもならないのはあきらか
対馬海流は強い海流ではない <
それ以前に「南≠東北」などに拠って、×。
>魏使が持ち帰れた情報量がそれほど大きいとは想定できない <
普通の成人の「実地の見聞計測」記録量。
>四隅突出墓の範囲が出雲、畿内第V様式土器の範囲がヤマトとみれば、
この二つで十分<
「南≠東北」などに拠って、始めから×。
>吉備は投馬と読めない 瀬戸内航路は意外に危険<
備も「南≠東」などに拠って始めから×。 アルファベットで、hong-somと表記される奥山氏の母国で発音される島は、元々は、倭人の領土だった可能性が高いのだったな、、、 >>723
<おやおや九州説は
<纏向が面積の大きな遺跡であることまで
<否定するのかい?
↓
>当然だろ
>領域を再現なく広げて、その中にある全然違う年代の遺跡を一つにまとめて100年だのなんだのと言い張っている。
↓
<奈良県や桜井市の公的機関の発表が
<ぜんぶウソだと言ってるのかね?
↓
>憶測で公表するのは教育委員会のやることでは無いと言っているだけだよ
↓
<憶測で公表したという証拠は?
↓
>それで、公的奈良県の機関が巻向を邪馬台国の王都と断定したの?
>憶測の域を出ないのは確かでしょ。臭わせ誘導するのはいかんよ。
九州説は詐欺なので
このように話をスリ替えるのだった 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて暮らすしかないので、少し可哀想だな、、、 >>419
>畿内第V様式の範囲が邪馬台国七万戸の範囲だと何度も示している<
米田は、河内の方が大和よりも大都会で、交流も非常に少ない、としている。 誰にでもバレていることを指摘された奥山氏が、焦っているな、、 >>1よ
邪馬台国なんて各説の言い分があるのだよ
意固地になるのもいいが
引くに引かれぬ気持ちもわかるが
是々非々を心得たほうが良いよ
各説弱点はあるのだからね
畿内説は心無い学者がマキムクで火に油をを注いでしまった 魏志倭人伝時代、朝鮮半島の南半分が九州倭国の支配下だったことを隠すための、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝活動は、
周辺に、都市どころか人民の住居も数軒しか無い、城も無い、4世紀に出現した巻向古墳群のどれかかが、卑弥呼の墓なのだという空想が柱なのだったな。。 >>422
>吉備と出雲は関係が深い(吉備の特殊器台が出雲でも出る)から、本質ではない
ヤマトと九州の「中国」という言葉もあるし、山陰山陽合わせて投馬国ということすらあり得る<
「南≠東」などに拠って、×。 >>727
畿内説の者がそんなことした証拠は?
語るに落ちる九州説 >>735
>米田は、河内の方が大和よりも大都会で、交流も非常に少ない、としている。
畿内説で「箸墓=卑弥呼の墓」説の彼が
そんなこと言ったって証拠は?
いかなるときも証拠を出さない九州説 >>718
>島の名前は?
さる資料には、「鴻島(ボンド)」と出ているな。 >>425
>>後漢書によれば、倭の中心は倭奴国だ。<
>それが間違い 倭国の朝貢をしてきた国というだけ<
「南≠東」などに拠って倭国はほぼ「九州島及びその周辺島嶼」であり、
大和も「南≠東」などに拠って、×。 卑劣さが染み付いてしまった奥山氏よ、、、
バスケットボールの闘いをアリーナで、観戦し、正々堂々とはどのような物事なのか研究し身につけなさい、、、
そうしなければ、このスレッドは腐ってしまった生ゴミから、変換されません。 >>432
ここまで道理を尽しても、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説じいさんたちが、
納得しないでメチャクチャわめいてる
という
彼らのこの醜態を天下に示せば
大和説の根絶も、スムースに進もうというものだ >>706
お前と同じで言い張っているだけだ。
実際の遺跡を伴っていない。 >>707
開き直るなよ。
それがいろんな意味で批判されているわけだから。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、、
劣った者達が、優れた者達に叩き潰されることは、当たり前なのです、、、
だから、邪馬台国畿内説は、叩き潰されてしまったのです、、
貴方に足りない物事は、論破され叩き潰された後に、卑劣にはならない正々堂々な心です、、、 >>746
>実際の遺跡を伴っていない。
という証拠は?
どうして九州説は絶対に証拠を出さないの? 九州説の老人たちは老い先も短くなってきた頃に
高校生が学んでいる教科書に
>奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」
>奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。
などと書かれてしまって相当に焦り、すっかり心身を病んでしまったようだな >>437
>大量の飯炊き甕という実物証拠を無視した暴論ww<
大溝の飯炊き甕の年代比定を100年近く?古くした暴論。
都合の悪いことは何でも「見ない聞こえない」
まあ「南→東」などの嘘つき騙しの大和説脳の限界なんだろうね
惨めだね >>742
>さる資料には、「鴻島(ボンド)」と出ているな。
魏使がそんな島を経由して対馬に渡ったと言い張る根拠は?
? NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、 >>439
>各地から人が集まる大祭祀遺跡が3世紀に確認できるのは纏向遺跡だけ<
纏向の祭祀遺跡は、「土坑の庄内3」に拠って、3世紀末〜4世紀だから、×。 九州説はもう証拠の出しようも無いガセネタを垂れ流すくらいした
畿内説に抵抗するすべが無いようだな
みじめなものだ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて暮らすしかないので、少し可哀想だな。 このスレッドは腐ってしまった生ゴミからは、別の段階へは変換されません。 このスレッドは腐ってしまった生ゴミからは、別の段階へは変換されません。 >>758
やたらと「根拠は?」とか開き直るタチの悪い畿内説。 キナイコシという言葉は、巻向に卑弥呼の城や墓があったのだ、という立場の者達の総称で良いのではないのかな、、、 >>766
つまり、奥山氏もキナイコシで良いのだな、、、 >>765
ものを盗まれたら誰だって「ドロボー」と叫んで追いかけるだろ?
代金払わずに商品持って行こうとする高校生に「オカネハラテクダサーィ」って言うコンビニ店員って
タチ悪いのか?
当然のこと言ってるだけだろ
タチ悪いのは勝手に商品持ってく奴だよな
なんも理由のないことを言い張られたら
誰だって「根拠は?」と聞く
問題は、九州説が自分が主張してることの根拠を答えられないことなんだよ
自覚しろよ NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、 >>771
実際の放送は
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
九州説は詐欺 >>771
つまり、200回程も発掘したが証拠が全く見つからなかったことが、邪馬台国畿内説を破綻させた理由ということなのですね、、 奥山氏は色々なキャラクターで闘ったが、やはり一人なのだな、、、 >>773
200回発掘しても2%そこらだから大したもの出なくて無理もない 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて、一人で闘い、暮らすしかないので、少し可哀想だな。 関西の考古学は邪馬台国だけかな
どうしても邪馬台国を畿内に持ってこないと関西の考古学は成り立たないのかねーー
考古学は邪馬台国だけじゃないよ >>773
つまり、5%程も発掘調査したが、邪馬台国どころか都市である証拠も無かったのだね、、 >>445
>>畿内の方が人口が多かったというデータを出してごらん。<
>http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html 地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7242.html 地域別人口規模の順位の変遷
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」・・・<
おや?、鬼頭なら、以前に「論理のインチキ」を指摘した記憶があるぞ。
その論理を紹介してみな。 >>778
九州説がいかに考古学を知らないか自ら無知と恥を晒した 誰にでもバレていることを指摘された奥山氏よ、、、
今更焦っても、仕方ないよ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて、一人で闘い、暮らすしかないので、少し可哀想だな。 >>447
>>鉄剣と箱式石棺の到来である。<
>それまだ卑弥呼の時代より古い <
姫氏の卑弥呼の祇園山で、箱式石棺と「刀子」が記録されている。 >>726
>妥当な出発地が固城だと主張しているのは、ワイだよ〜ん。
寺井論文がぜんぜんアンタの説の助けにならないのは理解した? >>449
>甕棺墓自体がなくなっているし、甕棺墓文化圏が潰れた訳だ
没落してるだろ?ww<
吉野ヶ里に大量で、祇園山の墳裾に3例、であるから、
姫氏の卑弥呼共立で、甕棺が減っただけ。 >>682
>証明できていないのはあなたの方ですよ。
確定するような性質のことじゃないのに、
「確定していない」を「間違いだ」とする詐欺
有効な反論がなければ、その論証はまともだということ
有効な反論がないということは、基本的な瑕疵がないということだからね >>680
>「わかりやすいから」という理由で平気で嘘をつくキナイコシ
嘘じゃないだろ?
王墓、首長墓は、その治める地域の中心に作られる
反論したければ、具体的な反論を挙げてくれ >>780
つまり、邪馬台国畿内説は、破綻したのだな、、、 >>778
まきむく=邪馬台国と結び付ける人は
関西の考古学者の一部です。
邪馬台国論争一辺倒の学者はいないよ
しいて言えば、石野・寺澤・橋本さん他だけです
その他はあまり邪馬台国や、まきむくに注力してないです
橿考=畿内説支持者と思われるのは遺憾です。 奥山氏は色々なキャラクターで闘ったが、やはり一人なのだな、、、 NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、 >>472の訂正
>北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? <
削除。 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏よ、
貴方は、討論で完全に叩き潰されてしまうが、正々堂々と闘えば、観る者達を感動させられるので、良いのではないのかな。
だから、これ以上は、卑劣なことをしないで下さい。 >>683
>そりゃ勝手に根拠もなく想定範囲を広げたからでしょ。
相変わらずもの知らずが的外れな言いがかりを付けているw
纒向遺跡第179次調査
「なお、調査地周辺は纒向遺跡の西端にあたると考えられており、今回の調査では古墳時代に
おける纒向遺跡の集落範囲の確認が期待されましたが、調査を通して古墳時代 まで遡る遺構の
発見はありませんでした。古墳時代の遺物の発見もほぼなかったため、調査地周辺は古墳時代の
纒向遺跡の範囲を外れている可能性が考えられます。 」
順次範囲確認調査も行われているよ >>485
>纏向には新時代と新文化を築こうとする気概を感じる 古墳もそう
逆に考えると、既得権益に固まって成長を止めたまま殺戮に走る九州文化から亡命した誰かが推戴され、大和で理想郷を作ろうとした痕跡というかね
だから根本思想は九州文化を踏襲しながらも習俗を明確に否定する文化が生まれる
王権を強化するために古墳造営を行い人を集めたのは、稲作に変わる新しい制度と戦略があったからだろうな <
「南≠東」や「東征毛人五十五國」などに拠って、×。 「桜井市纏向学センター」
纏向遺跡ってどんな遺跡?
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纏向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纏向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。
纏向遺跡第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3期式(3世紀中頃)に構築された一辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを有しています。
竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴がありますが、炉跡や周壁溝がない事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居ではなく、
掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
だって。 @阿波 >>491
>伊都という国名は後漢書にはないので 伊都は初めて史書に登場したときから千戸の小国
甕棺造墓集団が没落した 倭奴国という国名もなくなった<
伊都国は、風土記や書紀にも記録され、タリシホコの阿毎氏も伊都国系であり、没落していない。 >>695
>領域を再現なく広げて、その中にある全然違う年代の遺跡を一つにまとめて
>100年だのなんだのと言い張っている。
また典型的な根拠なしの言いがかりww
一つの領域で、ずっと時間的に連続的に遺跡が検出されているんだから、そこに人の営みが
継続的にあったということにしかならないだろ?ww
そして、九州説は纒向遺跡を4世紀の遺跡と言ってるんだから、4世紀まで存続していることを
自ら主張している
そして、纒向遺跡が畿内第V様式土器の末期から存在するのは考古遺物の現物資料で確実
100年以上ってのは否定しようとしても無理だよ
短期しか人がいなかったから集落じゃないってのが、最初から無理がありすぎのインチキなんだから
がんばるだけムダだぞww
本当に頭が悪いw >>797
自分の引用した文章をよく読むといいよ。
纒向遺跡の範囲そのものが過大評価なんだよ。
そもそも違う地区にある違う遺跡を一つの「纒向遺跡」として「100年以上存続した」と言い張ること自体が間違いだ。 >>801
「一つの領域」でもないし、「連続的」でもないだろ。
遺跡から確認できるのは、複数の地区に断続的に、集落を伴わない(百歩譲って)祭祀跡があったくらいかな。 >>758
キナイコシ=奥山=>>1
まずキナイコシの由来
KINIASETUの変換でSを入れなかったからKINAIETU=畿内越=キナイコシになったのだよ
次 オクヤマについて
奥山=>>1が#okuyamaとテストしてしまった・・・過去スレで#okuyamaで検索すると>>1だとわかるよ
名無しで投稿してるのがバレバレ 支離滅裂の投稿とは承知しているが
暇にまかせ、>>1をからかってやってるスレがここ
キナイコシは>>1であるが、自分でも畿内説をよく理解していない >>495
>その甕棺造墓集団はど没落した <
甕棺の中心は阿毎氏系。
卑弥呼は姫氏系。
卑弥呼共立で、姫氏が台頭して、甕棺に変わって、
「箱式石棺」や「竪穴式石室」が流行し始めた。 >>805
>甕棺の中心は阿毎氏系。
卑弥呼は姫氏系。
なんじゃそれ? >>771
まともな講座だと思うよ
所詮 畿内説は魏志倭人伝の記述にそぐわない物証しか出せないから、
妄想で成り立っているのが畿内説 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、本当に頭が悪いw 筑紫の甕棺墓は天孫族すなわち天津神の墓制で、隋書によれば倭王の姓はアマ。
歴代の皇族は「天の〜」という名前が多いだろ?
天氏ということ。
一方、肥国王家は呉の太白の末裔で、その姓は姫氏。
倭国大乱で甕棺墓が没落した後で肥国から九州倭国倭国全体の女王に共立されたのが卑弥呼。 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏には、、、連続、、ということを証明する能力が、無いのだったね、、、 タンジェント関数の曲線は、連続しているのだろうか、、、 奥山氏は色々なキャラクターで闘ったが、やはり一人なのだな、、、 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮民族の奥山氏は、年中24時間、5ちゃんねるにへばりついて、一人で闘い、暮らすしかないので、少し可哀想だな。 >>807
>所詮 畿内説は魏志倭人伝の記述にそぐわない物証しか出せないから、
>妄想で成り立っているのが畿内説
それが本当なら、具体的な指摘をしてもらおうか
具体的なことが言えないなら
また九州説のウソ中傷
ということだ >>815
出るよ
出ても意味ないけど
そんな孤島を通って魏使が来たとか言えば
買う物は2つだけ
顰蹙と嘲笑だ >>802
>纒向遺跡の範囲そのものが過大評価なんだよ。
>そもそも違う地区にある違う遺跡を一つの「纒向遺跡」として
>「100年以上存続した」と言い張ること自体が間違いだ。
こいつ本格的にバカだなw
纒向編年がどうやって作られたか考えてみればいいのに
それから、纒向が広いって言っても南北約1.5km、東西約2kmくらいのもの
この範囲にあるものが、別の国なんてことがある訳ないだろ?
「纒向は集落じゃない」
「大量の飯炊き甕があって大勢の人がいても短期だから集落じゃない」ってのが
どうしようもないほどのご都合主義のデタラメだから、ドンドン苦しい言い訳になってきてるww >>818
というか
証明することが不可能な主張
立証する気が最初から無い珍説
そういう根性で言ってるからね
九州説というやつは >>813
自分のこと紹介して、なんか楽しいのか? **** ある阿呆の軌跡 ****
投稿日:2019/11/11(月) 02:21
半島南岸の固城あたりが倭への最短距離になるところだ。
↓
投稿日:2019/11/11(月) 03:43
一番の最短距離の固城で停泊するのが道理や。
伽耶の中心地の一つが固城。
固城は倭への最短距離の地だ。
↓
投稿日:2019/11/12(火) 11:28
固城は巨済島のすぐ近くにある。
ここは小伽耶といわれた伽耶連合の国で、固城はその中心地。
固城を知らんのはお主だけだ。
↓
投稿日:2019/11/12(火) 19:55
固城郡の中心地が固城邑だ。
この固城邑から東南に末盧に行くルートが最短距離だよ。
金海が伽耶の拠点の一つであるのはその通りだが、その金海に行く手前に倭に行く最短距離の港があるのに、わざわざ金海まで遠回りする理由がない。
↓
投稿日:2019/11/14(木) 13:34:
朝鮮半島西岸から南岸へ進んだ船が日本へ渡海するための最短距離の寄港地として利用できる最初の港でもある。
魏の使節団が倭へ出航したのは、倭や中国との交易で栄えたこの固城であったことはほぼ間違いないといえる。
↓
投稿日:2019/11/14(木) 17:52
魏や帯方郡から船で倭に渡る場合に最初の良好な停泊地は固城、その次が金海、最後が釜山。
金海や釜山へ遠回りする理由がない。
↓
投稿日:2019/11/17(日) 21:09
固城〜対馬まで120kmなので、確かに固城湾を出たところからは対馬は見えない。
巨済島西沖の島伝いに東南に進み、固城湾沖から40kmのところにある最後の島を通過して東南東へ18km進むと絶海の中に孤島が一つある。
この小島に立ち寄って、それから東南に約60km進むと対馬南端の豆酘崎に到着する。
つまり、この絶海の孤島から対馬までの距離と釜山から対馬までの距離は同じなのだ。 甕棺墓はベトナム中部鉄器時代のサーフィン文化の特徴
前漢鏡、ガラス、瑪瑙の装身具を副葬する >>821
>ある阿保の軌跡
デマを流しちゃいかんなぁ。
固城から対馬南端までのルートのうちで、固城沖の4島の中の最後の島から対馬南端までがその最短距離と言うたはず。
その距離が金海から対馬までの距離と同じと言うたわけよ。
それが、その最後の回では固城湾のすぐ沖から計ると120kmになると言うたもので、この固城湾沖から対馬までが半島各港のうちで最短距離となるとは言っとらん。
論争に負けるとその論争の一部分だけを切り出してきて、デマだと吠えるのはハゲの証拠。
なんとかならんかいの、そのハゲ。 まあ、どっちにしても、魏から来て倭に渡るには固城湾に停泊するのが最適。
また、倭の卑弥呼の使節が魏に朝貢するときに対馬海峡を渡海して停泊するのは固城。
金海の場合は、このいずれのルートにも入らん。
洛東江を南下してきた場合は、倭に行くには金海からだろうがな。
しかし、魏志倭人伝の記述の場合の停泊港は前者の固城だ、よっ。 >>823
>固城から対馬南端までのルートのうちで、固城沖の4島の中の最後の島から対馬南端までがその最短距離と言うたはず。
投稿日:2019/11/11(月) 02:21
半島南岸の固城あたりが倭への最短距離になるところだ。
投稿日:2019/11/11(月) 03:43
固城は倭への最短距離の地だ。
投稿日:2019/11/12(火) 19:55
倭に行く最短距離の港
w >>756
>魏使がそんな島を…
ジェームス・鴻島(ボンド)は絶壁の孤島だそうだ。
さすがに、魏使もこの島に上陸して一息ついてはいないだろうな。
この島を目印にして、「もうすぐ行くと対馬が見えますぜ」と水主に言われながら、転覆しないかと不安がる魏使たちだっただろう。 >>825
>…
まあ、そのあたりは愛嬌と言うべきだよ。 狗邪韓国観光は、金海より固城。
かつて、魏の使節団も停泊した良港です。
お泊りは倭城をご利用ください。
(慶尚西道観光局広報) それよりも『バロン滋野』というのは『滋野氏』の家の人なの? 何の話なのか知らないけど、
実際は家の話なんだろう?
たしか東北地方のほうに住んでいたと言っているし、
いまの福島県のほう とあるスレなどでも
チョン州、チョン州と言っている人がいたりw おかしな話ばかり、
家は軍人などでもないと言っていたり、
寺院〜という話とか、出家したのかな? >>500
>平原1号は200年ころだから卑弥呼の墓ではない <
21枚の「尚方作」方格規矩鏡があり、明帝の下賜鏡が元になって、
呉系楽浪鏡師らの関与があった事になるから、
248年以後になり、卑弥呼か壹與の墓である事になる。 >>504
「南→東」などの人類の常識外れの嘘吐き騙しをし、
存在もしなかった「畿内」なんて文言を使い、
その理由を言葉で説明しないお前の心の中は他人にわからない
何を考えてるのか解らないお前の心は
他人には誰も説明してやれないのだ
どうして黙して語らないお前の心が覗けないと九州説が負けるんだ?
大和説は不可思議だ >>511
>平原1号はTA期終りころの築造<
平原1号は3世紀第3四半世紀末の築造。
>247年はTB期新相の終りころ 那珂八幡古墳がTB期新相の築造<
那珂八幡は、平原1号の後だから、3世紀の第3四半世紀末以後。 >>513
>平原1号は遅くともTA期初めころの築造でしょ
出土鏡に漢鏡7期時代の成分ゼロだから <
21枚の尚方作の方格規矩鏡があるから、明帝の下賜鏡が元になり、
錆色塗装などで呉系楽浪鏡師らの関与鏡になっており、
卑弥呼から相続した壹與の墓である可能性が高い。 >>516
>久住は周溝底面の鉄鏃の形式からTA期新相と判断している<
久住も柳田も、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を唱えているから、
嘘吐き騙しの半分偽人間である事になり、信頼性は全くなく、
「周溝底面の鉄鏃の形式」と言っても、鉄は重いから最低面に沈んで行くものであり、
鉄鏃は製作から何十年の使い続けられた可能性があるものであり、
久住もおそらく、「大和説」という結論先にありきの半分×人間。 >>520
>倭国の内の特定場所に倭奴国が有ると書かれているのだから、
倭奴国は、倭人伝の奴がつく国のどれかでしょう。今でいえば那の津を本拠地にした強大国が第一候補。<
後漢書自体がはるか後代での「自己解釈に拠る自由自在の書き換え」を実行した半分×史書」であり、
魏志では、奴國は、伊都国から東南百里に入口がある、というような記載であり、
だから、日向峠西麓の平野部〜早良平野部付近と比定するしかなく、
那の津付近の比定は、×。 >>524
>反論したかったら具体的な反例を出しなw
この場合なら、纒向以外の3世紀に広域の人が集まったことが明確に実証できる祭祀遺跡を挙げればいい <
纏向自体が、古事記に拠れば、
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国であった事になり、
更にそこへ、九州倭国の「東征毛人五十五国」軍の別働第が入って来て、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を征服し、
大倭職の旧小国の主はその戦争に参戦協力して、大いに領地を広げた、
という事になるんだよ。 >>842
>纏向自体が、古事記に拠れば、
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国であった事になり、
いや・・・
古事記のどこに、そんなこと書いてある?
??? >>525
>>大和の庄内は、撥型前方後円墳の庄内1の石塚が3世紀末になってしまうから <
>石塚は庄内0式、1式、3式の3っの築造説があるようだ。
で、最も新しい庄内3式の場合の実年代は、3世紀中頃(250年頃)や3世紀後半(270年〜290年頃)とする説がある。
西新町と庄内が同時期だとするのは、庄内3式を3世紀中頃までとみる説による。
最近では、庄内3式を270年〜290年とする説は影が薄いのではないか。<
根本的に、土器編年は(土器に紀年が書かれていない限り)絶対年代根拠にならず、
相対年代根拠にしかならず、
絶対年代は、他の文献考古の絶対年代根拠に頼らざるを得ない、という事が基本。
そして、卑弥呼の墓は「冢」であって前方後円墳ではなく、
卑弥呼の後の男王の後の250年頃に13歳で女王になった壹與は、
30歳ごろに266年頃に西晋武帝に遣使しており、
平均寿命の40歳位は276年頃になり、その次の王が那珂八幡に埋葬されたとすれば、
前方後円墳の那珂八幡は276年よりも後になり、
大和の撥型前方後円墳の石塚は、那珂八幡よりも、
「くびれ部シャープ化」や「円部と方部の比率の明確化」などの進化が明らかに認められるから、
3世紀末頃である、という事になる。 >>824
>まあ、どっちにしても、魏から来て倭に渡るには固城湾に停泊するのが最適。
違う! 距離が長すぎ!
魏から来て倭に渡るには「狗邪韓国(順天)」に停泊するのが最適。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波 >>526
>>未使用の土器と断定した学者名を挙げよ<
>佐々木憲一の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」だよ
もうさんざん既出だろ? サキゾノ地区の遺構は
「庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された痕跡はないので,
この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」<
「煤が一切付いておらず,煮沸に使用された痕跡はない」のなら、
製作された直後の「出荷使用前」であった可能性もある。 >>792日本@名無史さん
>まきむく=邪馬台国と結び付ける人は
関西の考古学者の一部です。
邪馬台国論争一辺倒の学者はいないよ
しいて言えば、石野・寺澤・橋本さん他だけです
>その他はあまり邪馬台国や、まきむくに注力してないです
橿考=畿内説支持者と思われるのは遺憾です。 >>701
>川上のナマズの守り神であったタケミカズチの父、つまり川上の祖神は、
>伊都(イツ)之尾羽張と名乗っていたと記紀に残されていることである。
>川上は伊都・・・、日本神話は、いったい何を語り継ぎたかったのであろうか・・。 >>528
>纒向大溝などから出る飯炊き甕は、使用痕がありその外側の煤の14C年代が測定されたりしている <
その「外側の煤の14C年代」測定の結果は?。
>使用痕がないのは祭祀土坑で出る供献土器<
その土坑は、実態は井戸であった、という話であった筈であり、
そんなところに供献土器を捨てれば、井戸の役割を果たせず、×。 >>532
>おいらの見解だが、邪馬壱国(ヤマイコク)が北九州周辺で、邪馬弐国(ヤマニコク)が関西周辺だったww
当時周辺の国々を収める王国に至ったヤマコクがヤマトコクに変わり、ヤマト政権になって日本(天皇の国)
へと繋がったんじゃなかろうか!! <
「南≠東」などに拠って、×。 >>540
>>その頃は漢との交流が途絶えているじゃん。<
>つまり平原1号墓での葬祭は後漢との交渉が途切れた下大隈式最新か
あるいは楽浪との交渉が活発化したI A期とすればごく初期しか考えにくい<
土器は、普通は壊れない限り、壊れるまで永続的に長く使用するもの。
>これは既に埋没の始まった周溝から下大隈式直後の土器が出ている事実と整合する<
おや?、周濠からなら、誰かが「鉄鏃」の話もしていたな。
しかし、周濠なら、鉄鏃は沈んでいくものだし、土器も下へ沈んで行くんだろうなあ。 >>543
>>住宅がなければ定住していたことにならない。<
>未発見は「ない」ではないし定住は関係ない
人が集まっていた根拠を否定できない <
「市」があれば、人は集まるし、大溝や巨大墓を造れば人が来る。
しかし、家の後が殆ど無ければ、彼らは一過性であり、都や都市にならないし、
勿論卑弥呼は「南≠東」などに拠っても、×。 >>553
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
いつも鎧袖一触で論破され
脳障害の発作を起こすなあ >未発見は「ない」ではないし定住は関係ない
人が集まっていた根拠を否定できない <
墓場工事にドカタが1万人集まっても、残念ながら国にはならない 畿内説は、纏向遺跡が古墳造営基地局だと判明したので、次のアイテムを探すのが、先じゃないのかな。。。 地右方公務員は地方公務員らしくしてればいい
妙に学者気取りでトンデモを打ち出す
悲哀はわかるが 母校の教授にもなれないバカども
こいつらがマキムクを大集落とか王都とかほざいている >>437
>大量の飯炊き甕という実物証拠を無視した暴論ww<
しかり、古墳造営の土木作業員が飯は食うから正論
>>526
>サキゾノ地区の遺構は
「庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された痕跡はないので,
この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」<
土器は煮炊きだけでなく食物等の保存にも使われること知らないのかな
また、土器でどのような祭事を行うの? 無理に邪馬台国女王国としなくても、纒向なら崇神景行の纒向宮のいずれかでよかったんだよ。
無理に邪馬台国に絡めるから、かえって迷宮入りさせてしまった感が強い。 弥生土器
弥生時代には食料を自然の恵みだけに頼るのではなく、
稲作によって自ら作り出すことができるようになった。
この稲作にともなってもたらされたのが弥生土器である。
弥生土器は機能に応じて簡素に作られるのを特徴とする。
貯蔵用の壺、
煮沸用の甕、
食べ物を盛るための高坏や鉢。
人々は、これらを組み合わせて使用した。
また埋葬したとき、またはその後に墓に供えられた「供献土器」としての使用もある >>563
>面積広いでしょ?
文化庁も大規模な集落と発表してる<
文化庁なんて、思想や宗教的な政治組織ではないか。
そんなものは、学問的な根拠にはならないなあ。 >>573
>〜神功皇后Wikiより〜
>最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、
ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。
卑弥呼(ヒミカ)と壹与(ヤヨ)の功績は、まあこんなとこww<
書紀は半分×書だし、
神功と卑弥呼も壹與も名前が違うし、
大和は倭國から別れた別種の旧小国であるし、
九州倭国が「東征毛人五十五國」をしたんだし
「南≠東」などに拠っても、
×ね。 >>574
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
確かなことが一つも答えられなくて
火病を起こす大和説が
みっともない >>862
>墓場工事にドカタが1万人集まっても、残念ながら国にはならない
墓場工事にドカタを一万人も動員できる国があったら、もう3世紀の倭国では
超大国だろうにww
九州最大国の奴国が2万戸だぞ?ww
つまりそこが七万戸の邪馬台国の本拠地だってことだw >>866
>無理に邪馬台国女王国としなくても、纒向なら崇神景行の纒向宮のいずれかでよかったんだよ。
いや、崇神の宮所でいいんだよ?
記紀に日本の王であると書いてあって、考古学的にも日本の中心であることが確認できる
そして理化学的な年代計測で3世紀だと確認できた
ならば、外国史書に書かれた3世紀の倭国の都はここだろうと考えるのが、普通の
合理的な考え方だ
あとは、卑弥呼がどのような人物だったのかを、考古遺物や文献、伝承から
追求すればよいだけ
>無理に邪馬台国に絡めるから、かえって迷宮入りさせてしまった感が強い。
無理に絡めてないよw
当然の帰結として、3世紀の王都だから邪馬台国の都だと想定できるというだけ >>575
>では、飯炊き甕を飯炊き以外の目的で使ったことを実証してくれよなww
でなければ大量の飯炊き甕で調理した大量の食料を食べる大量の人口を想定するのは当然のこと
不十分というなら、それ以外の可能性を十分に立証してもらわないとwwwww<
九州倭國の「市」を監督する大倭職の地であった事と、
「市」の祭祀や、墓や大溝の工事に人手が必要であった事。 >>872
>つまりそこが七万戸の邪馬台国の本拠地だってことだw
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>866
この「無理に絡めるから」と書き続けている人は、
纏向に3世紀のヤマト王権の王都があって、そこと北部九州に密接な付き合いが
あることまで認めていて(奴国で畿内様式土器を作っている、纏向型前方後円墳の
時代から那珂八幡古墳を首長墓・盟主墳として前方後円墳で作っている)、
まだ何を言いたいんだろう?
「纏向遺跡が集落じゃない」は、
大量の飯炊き甕が出る ⇒ 大量の人員の存在 で否定される
「大量に人がいても短期なら集落じゃない」は、
畿内第V様式から庄内1式まで連続して出土 ⇒ 百年以上存続した遺跡 で否定される
「別々の遺跡で出土したものを一つの遺跡でごまかしている」は、
辻地区だけで庄内3式から古墳時代中期前葉まで連続した遺物が出る
纏向1式の出る纏向大溝北溝から、辻地区までは200〜300メートル ⇒ 別の遺跡というのは無理で否定される
http://www.sakurai-maibun.nara.jp/_src/sc5317/h27kouen2.pdf >>872
>墓場工事にドカタを一万人も動員できる国があったら、もう3世紀の倭国では
>超大国だろうにww
一万人集めたはいいが、それは三世紀の卑弥呼だったと無理やり結びつけるのが、胡散臭いんだよ。
ただの飯場・人夫小屋をだな。 卑弥呼は、歴史のささやかなヒトこまだったんだよ。
その後、国々は大型化し、巨大な古墳も作れるようになった。
纒向は、そのころのお話しさ。・・・時系列を考えろ。 >>876
>纏向に3世紀のヤマト王権の王都があって、そこと北部九州に密接な付き合いがある
ないから困ってるんだろ。
>百年以上存続した遺跡
何度も立て直された痕跡から、断続的だったとも考えられる。
そもそも大型建物が数棟同時に立っていたわけではなく、土木用具や東海産の飯炊き甕、
魚や肉を食ったと思われる残飯が出てくりゃ、断続的に何か大きな工事をやっていたのだな、
と推測するのが普通だろ? >>872
>ドカタを一万人も動員できる国
それが東海・伊勢勢力であり、奈良にそういう国があったわけじゃない(住居跡がほとんどみられない)
東海・伊勢勢力が空地だった奈良盆地を活用したというだけだろ。 >>586
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しや、
「証拠は?根拠は?理由は?」の掛け合い合戦にして、引き分けに持ち込もうとする、
正義感も良心もない主張は根無草
吹けば飛ぶ飛ぶ大和説 >>588
要するに、何も根拠なく 「集落だ」
と言い張ってると・・・ そう仰るわけですね?
それはダメダメですなあ大和説
弱すぎです >>882
>「証拠は?根拠は?理由は?」の掛け合い合戦にして、引き分けに持ち込もうとする、
まさか
確実に勝ちに行ってるだろ
だって、根拠のない主張は、×だもの >>884
>要するに、何も根拠なく 「集落だ」 と
根拠なら明示されてる
【集落】
「常時逗留するものばかりとは限らず、逗留期間に長短があったり、特定の季節を選んで居住する場合もある。」
「居住跡2,3棟のものから、100棟を超えるものもあり」(日本考古学辞典 三省堂) >>880
>そもそも大型建物が数棟同時に立っていたわけではなく、
建っていた まあ、こんな具合位に
九州説は事実でないこと以外言わないと言っても過言ではないな >>591
>畿内説が根拠ないって言う理由は? 是非聞かせて欲しいね <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などの史料事実の否定や曲解の、根本的な嘘つき騙しをしているから、
「根拠がない」。 >>595
住居がないのに、どうして根拠がある事になるんだ?
論理性のカケラもないなー
さすが「南→東」などの嘘つき騙しに、
脳留守の大和説 >>956
住居がないのに、なんで大集落と言ってもいいんですか??
「南→東」などの嘘つい騙しの大和説は、いつも理由ナシ
駄々言い張るだけ
それ、無能の証明でしょ >>880
>何度も立て直された痕跡から、断続的だったとも考えられる。
それは非常識でしょ
掘立柱建物は立て直すのが基本動作だもの >>877
>一万人集めたはいいが、それは三世紀の卑弥呼だったと無理やり結びつけるのが、胡散臭いんだよ。
3世紀の日本の王なら、卑弥呼の王権で問題ないだろ?
北部九州まで共同体になってるんだから
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg >>881
>それが東海・伊勢勢力であり、
>東海・伊勢勢力が空地だった奈良盆地を活用
10人あたり7人は地元民で東海・伊勢は2人にも満たないのに
どうしてそれが東海・伊勢勢力?
九州説は非常識だなあ >>599
>「検出されている住居のほとんどは平地式の建物というか、柱穴を掘ってそこに柱を立ち上げるという形の建物ばかりが確認されておりまして、おそらくは高床式の
建物や平地式の建物で纏向遺跡の居住域が構成されている可能性が高い」橋本輝彦<
はいはい、卑弥呼の、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
を否定するのね。
さすがは、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の橋本輝彦。 >>878
>その後、国々は大型化し、巨大な古墳も作れるようになった。
>纒向は、そのころのお話しさ。・・・時系列を考えろ。
「その後」じゃないんだよww
弥生終末期から、出雲でも丹波でも吉備でもヤマトでも、巨大墳丘墓を作る時代になってる
北部九州は取り残されてるけどな
そして、纏向遺跡の建設開始は畿内第V様式末で2世紀末ごろなのは確定
時系列を考えると、国々が大型化して、それが談合で卑弥呼を共立したというので
何も問題ないww
九州説は編年研究を全否定しないと成り立たないww 奈良は倭国ではなく、女王国の東の倭種の国だなw
<魏志韓伝より>
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(韓国は鉄が出るので、韓国、?国、倭国がこれを採っている。
諸の市で買い物をするときは中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪と帯方の二郡にも鉄を供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係
・倭国として認識された範囲に畿内は入ってなかった
■裏付け
・纏向遺跡では鉄器は出土せず、釘一本すら見つかっていない
・纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(畿内説の有名な迷言) >>880
>ないから困ってるんだろ。
あるから困ってるんだろ? >>880がww
那珂八幡古墳が前方後円墳なのは、どうやって説明するんだ?w
伊都国の三雲遺跡群の中でもサキゾノ地区で大和型庄内甕がIB期の時点で出てるぞww
>そもそも大型建物が数棟同時に立っていたわけではなく、
本当に苦しいなぁwwww
同時に立ってるよww
https://i.imgur.com/dg1h5jS.jpg
建物Aはなかったことが確認されたけどね >>601
>>祭祀遺構とかってに決めつけてるだけじゃん <
>祭祀遺構とする論拠は公表されているし<
「南→東」などの嘘つき騙しである事がはっきりしている大和説学者の「論拠」なんて、
読む気も起きないし。
>それに異を唱えた学者はいない <
「南→東」などの嘘つき騙しである大和説学者らが「異を唱え」たって、
全く関心もないし。 >>881
>(住居跡がほとんどみられない)
もう反論はこれしかないんだなww
住居跡は、のちの土地利用で見つからなくなるのも普通のこと
これの建物Dも、半分しか柱穴確認できてないだろ?
そういうのは詭弁にもなりゃしないw
>それが東海・伊勢勢力であり、
これもバカだよなw
これが正しいなら、どうして纏向遺跡から出る土器の85%が畿内様式なんだ?ww
畿内に人がいなくて東海・伊勢勢力が出張ってきているなら85%の畿内様式土器は
「誰が供給してくれる」んだ?
もう、バカすぎww
これを書いていて惨めにならないのが、九州説のすごさだよなww
バカ方向に振り切ってるw >>612
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説学者や大和説者の言う事は、
ニセ情報や出所不明怪情報ばかりだな >>899
畿内説のいう同時期は幅200年ほどあるから何とも言えんな 3世紀半ばの倭国に乱を鎮め宗教の力で民衆を指導した女王がいて
没後巨大墳墓を作ったという記録があって
3世紀半ばの奈良県に列島最大の宗教的遺跡と列島最大の墳墓があって
その墳墓形式がその後全国的に広がっていくのだが
この2つを結びつけるのが
「無理やりだ」と感じる脳って
正常に機能してるとは
とても思えない >>903
>畿内説のいう同時期は幅200年ほどあるから何とも言えんな
「畿内説のいう同時期」が幅200年ほどもある
という根拠が示されないので
反論として成り立たないな >>905
>全部想像じゃんw
>アホ丸出しw
「全部想像」だと
決めつける理由の提示がないので
>>905書いた人ってアホ丸出しじゃんw >>873
>ならば、外国史書に書かれた3世紀の倭国の都はここだろうと考えるのが、普通の
>合理的な考え方だ
単なる決めつけ、思い込み。 >>907
>ホケノ山の小枝で散々言われてただろw
何か根拠のあることを言われたかい?
あるなら言ってごらん
言えないなら、根拠は無いということだ >>910
あらら恣意的認知症が発症でっか?w
アホ丸出しw >>909
>単なる決めつけ、思い込み。
だという理由は?
理由が言えないなら
「単なる決めつけ、思い込み」だと言う>>909は
単なる思い込みで決めつけてることになる
これ、いわゆる自殺用ブーメランね >>894
>10人あたり7人は地元民で東海・伊勢は2人にも満たないのに
その計算で、九州からの人は何人? >>904
>この2つを結びつけるのが
>「無理やりだ」と感じる脳って
何も考えずに結びつける短絡バカ発見 >>912
>あらら恣意的認知症が発症でっか?w
>アホ丸出しw
根拠が言えなかったので
根拠は無買ったと確定しました
よって>>903 の九州説のクレームは論破されました >>915
>何も考えずに結びつける短絡バカ発見
何も考えてないという証拠は? レスが変わると前のレスで否定されたことをまた持ち出す。
時には同じスレの内容も忘れて惚ける。
それがキナイコシの芸風。
誰にも受けないけど。 古けりゃ何でも三世紀、
デカけりゃ何でも三世紀、畿内の薄頭には、三世紀のファイルしかないんだろ。 >>914
>その計算で、九州からの人は何人?
庄内式土器を使っている人なので算定不能 >>918
>レスが変わると前のレスで否定されたことをまた持ち出す。
否定されたという証拠は?
証拠が出せないなら>>918の妄想と確定するよ けっきょく畿内説は、
石寺橋の先走り・ごり押しだったってこった。 >>920
ほら。
纒向は九州北部とのつながりを証明できない。
また、帯方郡とのつながりも証明できない。 >>919
>古けりゃ何でも三世紀、
>デカけりゃ何でも三世紀
だという証拠は? >>923
>ほら。
>纒向は九州北部とのつながりを証明できない。
できないと決めつける根拠は?
「畿内説は・・・できない」という難詰は原理的に無理なので必ず失敗すると指摘されたの、覚えてない? >>925
そっちが証明すればいいだけだよ。
証明できていないことを主張しているのを批判されているんだぞ? >>926
>3世紀だという証拠が無いこと
では証拠がないことを立証してください
できなければあなたは自動的に論破されます ダメだ、キナイコシはなぜ自分が袋叩きに合っているのか根本的に理解していない。
そしてなぜ畿内説が支持されていないかも理解していない。 >>927
>証明できていないことを主張しているのを批判されているんだぞ?
「証明できていないことを主張している」と立証できないと
批判されていることになりません >>929
そりゃ理由のないものは理解できません
ひとは理由で理解するのです >古けりゃ何でも三世紀、
>デカけりゃ何でも三世紀
>女と聞けば、これまた何でも三世紀
畿内の薄頭には、三世紀のファイルしかない。 >>927
>そっちが証明すればいいだけだよ。
ずっと前からテンプレに書かれてないか? >>932
はいはい、論拠出してね
オンリー結論言い張るだけの九州説さん >>934
どういうところ?
それが何か問題?
九州説っていつも
何も具体的に指摘できないんだね 畿内説というより畿内説かぶれがキャンキャン吠えとるだけやなw >>936
>つまりお前も含めて誰もわかってない。
と決めつける理由は? >>938
議論に負けた九州説は
今回も悪口しか言えない
それを負け犬の遠吠えという
音声的にはきみ、キャンキャンだな >>927
>証明できていないことを主張しているのを批判されているんだぞ?
これ、言ってること変くね?
証明できていないことを主張して悪かったら真偽を争えなくね? >>941
またも論破され脳停止し
連呼しかできなくなった九州説みじめ こんな無駄話しないで真面目に畿内につていて議論すればいいのに。
まあ、議論するほどの中身というか材料もないのだけれどね。 >>944
お前の投稿は断片ばかりで文になってないからな
読心術超能力者でもなきゃ文脈読み取れないよ >>945
九州説がすぐ逃げるし頑なに根拠言わないので議論にならん >>945
そもそもアンタら聞かれたことに答えないから議論にならないんじゃね? 畿内節の証明が求められているのに。
求められているのは九州説ではないぞ? あちゃー畿内節ではなく畿内説だよ。
名産品の鰹節かよ。 1+1+1+1+1+1+・・・:=奥
1-1+1-1+1-1+・・・:=㋖
と定義します。。。
奥+㋖=(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+・・・
=2+0+2+0+2+0+・・・
=2+2+2+・・・
=2(1+1+1+・・・)
=2*奥
故に ㋖=2*奥-奥
故に ㋖=奥 >>949
誰に話しかけてんの?
いつもの、興奮すると日本語話せなくなる人? 奧山氏が興奮したので、㋖になってしまった可能性が高いな。。。 私たちは畿内説の合理性を主張してるのだよ
畿内説が証明されたら「邪馬台国は畿内にあった」が史実にな離、畿内「説」ではなくなる
もちろん九州説も消滅する
九州説さん、したいかい? 奧山氏には、以下の証明が正しいのか間違っているのか、その真実や理由を発見できるだろうか、、、
952日本@名無史さん2019/11/18(月) 12:57:14.15
1+1+1+1+1+1+・・・:=奥
1-1+1-1+1-1+・・・:=㋖
と定義します。。。
奥+㋖=(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+・・・
=2+0+2+0+2+0+・・・
=2+2+2+・・・
=2(1+1+1+・・・)
=2*奥
故に ㋖=2*奥-奥
故に ㋖=奥 NHKによれば、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く発見されていないのだったな。。。 つまり、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く発見されていないのだな。。。 以下の証明は、邪馬台国畿内説の立場の者の考え方に、似ているな。。。
952日本@名無史さん2019/11/18(月) 12:57:14.15
1+1+1+1+1+1+・・・:=奥
1-1+1-1+1-1+・・・:=㋖
と定義します。。。
奥+㋖=(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+・・・
=2+0+2+0+2+0+・・・
=2+2+2+・・・
=2(1+1+1+・・・)
=2*奥
故に ㋖=2*奥-奥
故に ㋖=奥 邪馬台国畿内説の立場では、等比級数の無限和の公式を適用できる公比の範囲が、真実とは異なるのだったな。。。 >>959
九州説もな
まあ高校の先生が監修したとはいえナレーターのセリフだ
台本そのものを書いてるのは放送作家じゃないのかな
一線の研究者と同じ見解とは言えないだろうね 安心してください。。。NHKには、文章の学部の者だけではなく、優れた分野の優れた若者たちが、毎年、採用されています。。
田舎の学芸会より、頭脳のレベルが格段に高いです。。。
964日本@名無史さん2019/11/18(月) 13:14:14.50
>>959
九州説もな
まあ高校の先生が監修したとはいえナレーターのセリフだ
台本そのものを書いてるのは放送作家じゃないのかな
一線の研究者と同じ見解とは言えないだろうね 以下の証明は、邪馬台国畿内説の立場の者の考え方に、似ているな。。。
952日本@名無史さん2019/11/18(月) 12:57:14.15
1+1+1+1+1+1+・・・:=奥
1-1+1-1+1-1+・・・:=㋖
と定義します。。。
奥+㋖=(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+・・・
=2+0+2+0+2+0+・・・
=2+2+2+・・・
=2(1+1+1+・・・)
=2*奥
故に ㋖=2*奥-奥
故に ㋖=奥 邪馬台国畿内説の立場では、等比級数の無限和の公式を適用できる公比の範囲が、真実とは異なるのだったな。。。 Bリーグのクラブライセンス判定とは、どのような判定なのだろうか、、、 バンビシャスが、邪馬台国畿内説のように、完全に破綻しない様にするには、どのような方法があるのだろうか、、、 2+0+2+0+2+0+・・・=2+2+2+・・・
は、成立するのだろうか、、、 連勝街道を進行しているバンビシャスは、来週の記者会見で、どのような物事を発表しようとしているのだろうか、、、 奧山氏が興奮したので、㋖になってしまった可能性が高いな。。。 本当に、とあるスレw
「殺したんでそ?」
という謎の書き込みをしている人がいたり、
家などを乗っ取られたりした人たちがいるのかな? キナイコシ無い物ねだりはイカン
大集落と言いながら大規模な住居跡は見つかってないのだろう
これが現実
そのうち見つかるとか、消えてしまったなんて憶測じゃん
憶測で大集落なんて言うだけじゃん・・誰も信じないよ ばろん〜みたいに、
後から名乗り始めた・・・みたいな家があるでしょ?
乗っ取られたとか? 奧山氏は、「無」から、数千件の住居があったのだ、という「有」を生み出すために、文章を考えているのだったな。。。 畿内説の薄頭には、
三世紀のファイル・ホルダーしかない。 以下の証明は、邪馬台国畿内説の立場の者の考え方に、似ているな。。。
952日本@名無史さん2019/11/18(月) 12:57:14.15
1+1+1+1+1+1+・・・:=奥
1-1+1-1+1-1+・・・:=㋖
と定義します。。。
奥+㋖=(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+(1+1)+(1-1)+・・・
=2+0+2+0+2+0+・・・
=2+2+2+・・・
=2(1+1+1+・・・)
=2*奥
故に ㋖=2*奥-奥
故に ㋖=奥 とある時代の話w
チンピラのような集団が押し掛けてきた、
あと家の系図などを見せろ、差し出せ?みたいな話をしている人がいたでしょ
殺したとか? 佐賀川上の大ナマズの守り神であったタケミカズチのその父は、つまり川上の祖神は、
伊都(イツ)之尾羽張と名乗っていたと記紀に残されている。
川上は伊都・・・、
日本神話は、はたして何を語り継ぎたかったのであろうか・・。 >>637
>ワイとしては、ホケノ山が3世紀中頃であれば文句ないね。
庄内式の二重口縁壺が出ているので、箸墓の直前時期だろう。
ホケノ山が3世紀後半ということはないだろう<
卑弥呼の墓は冢であり、壹與は平原であり、筑紫の前方後円墳は那珂八幡等であり、
大和の前方後円墳は、筑紫の将軍らが「東征毛人五十五國」をして、
その死に拠って造った墓であるから、
前方後円墳の石塚は、幾ら早くても3世紀末以後になってしまうの。 マキムク編年も一つの説であり、
学会で統一された説でもねーよ それとも『バロム1』だった?
突如「滋野」を名乗り始めたり >>685
「南→東」などの嘘つき騙しの捏造は、
大和説のお家芸 『氷の世界』という曲があるんだよwと言っている人がいたでしょ >>647
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説はトンデモの証明
ゴミ説と自称するのと同じ >>648
>奴国首長墓の那珂八幡古墳も比恵那珂遺跡群に作られてるだろ?
そこが奴国の首都なんだよ<
比恵那珂遺跡群や弥生銀座は、奴國の首都ではなく、
邪馬壹國の女王之所都なの。 >>985
>幾ら早くても3世紀後半以降になってしまう
いくらなんでも遅すぎ。 >>652
>いや? 根拠はいくらでもあるだろ?
大量の飯炊き甕とか、どこを掘っても大量の遺物が出るとか、
複数の大型祭祀土坑とか どれも3世紀の他の場所では見られないものだ <
肝心の「沢山の人々が済む家屋群」や、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
のある建物がない。 『しげのでおじゃる』
実際は、本当は滋野をイメージしたもの? 2013年、邪馬台国畿内説は完全に破綻しました。。。 このスレッドは1000を超えました。
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