畠山氏って華族にはなれなかったの?
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細川と斯波はなれてるのに…
一応江戸までは旗本だったんだよね
つーかまだ家系残ってんの? 越中は結果的には神保氏が下剋上したようなもんだな
一旦ほぼ滅亡するも長職が復帰したあたりなかなかの粘り >>161
越中の神保氏は畠山氏の越中国守護代で合っていますか? 半国守護代(婦負・砺波・射水)
のち砺波郡は長尾(上杉氏)に取り上げられ
増山城には目付(城将)を入れられた 新潟市沼垂の「六郎さま」こと六郎神社は畠山六郎重宗と畠山次郎重忠を祀り
14世紀前半作とされる新潟県文化財の畠山重宗夫妻木造坐像を所蔵するらしい。
越後にも畠山氏所領があったのか?子孫が入部したのか? 越後本庄の地頭から大名に成長し度々謙信に抵抗した
本庄氏が畠山重宗を先祖と称している 越後の本庄や色部は同じ秩父氏族だが畠山氏とは別系統だぞ 本庄氏の件は孫引きか何かでの誤記と思うが
畠山重宗は奥羽から戻る時に沼垂あたりに滞在したようだ >>167
本庄氏の先祖が地頭職を得て入部したのは沼垂でなく
下越の岩船郡(村上市)だし越後本庄氏や色部氏の先祖は
畠山重宗とは別流の平姓秩父氏なんだが? ジャーナリストの畠山理仁さんって髭の顔立ちが武士っぽいんだけど、畠山氏の子孫なのかな >>164
違うだろ?越中國礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡4郡のうち
椎名氏が守護代の新川郡が越後長尾氏の勢力下。
神保氏が守護代だったのは射水郡・婦負郡2郡。礪波郡守護代は不詳か?
戦国時代16世紀の越中國は守護代越後上杉派椎名氏と甲斐武田派神保氏と
守護源姓畠山氏が三つ巴抗争。 >>160
日本国測量大家伊能忠敬の次男伊能秀蔵は後年に
神保玄二郎と名乗りを変えたらしい。
旗本神保家に婿入りしたからなのか? >>164
砺波郡が越後長尾氏の支配下?
越中国4郡中の東部新川郡の誤記では? 元亀2年(1571年)、神保長職は降伏して隠居
増山城には吉江宗信が入る
天正4年(1576年)、神保長城も逃亡。
神保忠清の系統が米沢藩士で明治に至る
神保氏張の系統が徳川旗本で同じく明治に至る
神保慶明の系統も旗本だが大坂の陣で伊達政宗により砲殺 >>176
越後長尾氏の家臣吉江宗信が越中増山城城主?
越後守護長尾氏に越中守護代神保氏が1571年に臣従したと? >>178
陸奥二本松城に拠った二本松畠山氏の後裔が
どの地に現存しているの? >>178
陸奥二本松城に拠った二本松畠山氏の後裔が
どの地に現存しているの? >>178
陸奥二本松城に拠った二本松畠山氏の後裔が
どの地に現存しているの? >>170
畠山重宗とは別流の平姓秩父氏というと越後の
畠山氏の始祖は誰だと? 四職の末裔はどうなったんだっけ?
知ってる限りでは一色は細川忠興に滅ぼされ、京極はお初さんと結婚
赤松の分家が有馬記念の有馬といったあたりだが 山名豊国は故地、因幡国に村岡陣屋6500石。因幡守豊就は大岡と一緒に寺社奉行をつとめた 山名豊国は家康に仕えたが四職の末裔にしてはへりくだり過ぎるって家康に言われたとか Wikiから拾ってきた。
家康としては徳川家が新田氏の末を標榜している以上、同族だからもっとしっかりしてほしいと言いたいところか
天正年間に、徳川家康とともに斯波義銀(津川三松)の屋敷を訪問した際、豊国の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(豊国)は新田家の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている。家康も新田氏の分家を自称していた。 >>189
村岡は但馬
>>191
中世の家格秩序では新田一門は足利の一門扱いで一門筆頭の斯波の方が並の一門より上だし
明確に三職>御相伴衆だから山名の態度は当たり前
三職
斯波武衞家、畠山金吾家、細川京兆家
御相伴衆(一門>外様)
一門 一色、畠山匠作家、細川讃州家、山名惣領家
外様 赤松、佐々木京極、大内 >>192
家康としては豊国に「最早時勢が違うぞ」っ言ってもらいたかったのかもな
どうでもいいが室町名家って秀吉期にはかなり厚遇されてるな
まあ農民と旧権力が結びつくのはよくある話だが 摂津有馬郡分国守護に封ぜられた赤松の分家が有馬氏を名乗り、江戸時代は久留米藩藩主に
さらにその子孫がJRAの会長になり有馬記念(第一回は「中山グランプリ」)を創設
なので、「有馬記念って中山でやるの?阪神じゃないの?」という競馬初心者にありがちな勘違いも
全くもって的外れというわけではないw 久留米の有馬は摂津有馬氏の庶流であってそのまま近世大名になったわけではない あーおったなー有馬則頼
信長の野望で別所家臣下だった人か >>193
京極高次なんて本能寺の変で光秀方についたのに、松の丸殿が秀吉の側室になって
おまけに初と結婚までできたしな >>197
淀殿も割と名族好きよな
関ヶ原〜大阪の陣までの豊臣臣下って割と名族の出が多い気がする うーんザラッと見たところで秀頼臣下の名族はこれくらいか
落ちぶれすぎてて名家と言いづらくなってるが
簗田助利、梁田氏、元古河公方足利藤氏臣
真木島昭光、一色氏、元足利義昭臣 >>206
神保氏と違い遊佐氏は旗本として続いた系統も
なかったか? 白金の畠山記念館って能登畠山の後裔の実業家が
収集した茶道具中心の博物館よな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています