畠山氏って華族にはなれなかったの?
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細川と斯波はなれてるのに…
一応江戸までは旗本だったんだよね
つーかまだ家系残ってんの? >>2
ごめんそっちの方が良かった?
畠山って江戸以降どうなってんのかなってのがまず第一に疑問に浮かんで華族スレの事考え至らなかった こんなスレ建てても誰も見ないし
伸びないから廃れるだけだよ 能登畠山氏の子孫の畠山一清が荏原製作所や畠山記念館を創設している >>1
細川家嫡流は福島県の小藩の家老
熊本藩主の細川家は分家
更に言うと藩主の細川護煕家は側室の系統
正室ガラシャの系統は熊本藩の家老で子孫は政治評論家の細川 >>6
加賀藩も似たようなもので藩主は前田利家の側室の系統
正室まつの系統は前田土佐守家という家老 畠山氏は元々が有力鎌倉御家人である畠山重忠がはじまりで、足利氏の庶長子の足利太郎義純が畠山義純と名乗ったことで出来上がった家系だから、
足利氏一門の中でも、元々が有力鎌倉御家人だから、同じ有力鎌倉御家人の足利氏に次ぐ家柄なんだよな。
だから、足利氏一門の中でも畠山氏は常に別格の地位を保証されていた。
室町時代には斯波氏(ほぼほぼ足利氏)と畠山氏と細川氏という順番。
江戸時代には吉良氏と畠山氏は高家のうちでは別格。高家に2つあったのが吉良氏と畠山氏しか無い。吉良上野介の側にいた2名も畠山氏の2名。
畠山氏が常に名門としていられたのも、足利の血筋と重忠の威光という、サラブレッドの中にサラブレッドを入れた様な、
サラブレッドの中のサラブレッドの名門というブランド的なイメージがあったからだろうな。 他の足利氏一門は足利氏の単なる分家だけど、畠山氏は足利氏と同じ御家人出身だもん 江戸幕府高家は皆華族になれず士族
室町幕府平島公方は士族にすらなれず平民 加賀の斯波氏は本当は織田氏かもしれない。自称の斯波氏。 美少年だった信長の弟を射殺した叔父さんの子孫かな
加賀の斯波氏 桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー平高望ー平良文ー平忠頼ー平将恒ー平武基ー平武綱ー秩父重綱ー秩父重弘ー畠山重能ー畠山重忠 鎌倉の鶴岡八幡宮の別当に頼朝の孫の公暁や畠山重忠の子の重慶がいた
鶴岡八幡宮の別当には園城寺出身の天台僧がなる慣しで、公暁も重慶も園城寺出身の天台僧である 其の源は弘法大師・慈覚大師・智証大師、此の三大師の御弟子にて候。山の座主、東寺・御室・七大寺の検校、
園城寺の長吏、伊豆・箱根・日光・慈光等の寺々の別当等も、皆此の三大師の嫡々なり。此の人々は三大師の如く読むべし。
(中略)
日蓮 花押
弥源太入道殿御返事 ちなみに慈光寺は畠山重忠ゆかりのお寺でもある
重忠の大叔父の厳耀や重忠の子の重慶と円耀が慈光寺の別当になっている
ちなみに日光は畠山重忠の遺児の重慶が、和田義盛の遺児の義秀など、浪人を集めて鎌倉幕府を倒そうとした拠点ともなった(と言われている。重慶に謀反の気持ちがあったのかは不明) 明治2年の版籍奉還と同日に
堂上家136家、諸侯248家、堂上格28家、藩主格15家の
合計427家が華族と称される。
明治17年には華族令が宮内省より通達されて、
公、侯、伯、子、男の五爵の格付けが行われる。
以降の授爵者を大別すれば、
旧華族として公家華族(堂上、堂上格)と武家華族(藩主、藩主格)、
新華族として賜姓降下華族、奈良還俗華族、神官華族、分家華族、勲功華族となる。
年を経る毎に華族は増え続けて、
新憲法により華族制度が廃止された昭和22年5月には913家に達した。 いまのコノエはホソカワ君であって…
所詮、マガイモノのコノエ 酒井美意子は、本物のお嬢様の条件として
「最低10代、先祖をさかのぼれる名門であること」
を挙げていた 華族って言いづらいよね
人に話しても家族の方と認識してしまうから相手がポカンとなる
へぇ家族の○○ねー >>35
それ言ったら皇室から養子に入っている時点で近衛じゃないことになるぞ? いまのサイオンジはモウリ君であって…
所詮、マガイモノのサイオンジ >>10華族になっても江戸期と変わらず体面を保つのに大変そう・・・ならなくて良かったのでは? 源頼朝の先随兵の先頭から
畠山重忠
千葉胤正
三浦義澄
佐貫広綱
葛西清重
八田朝重
榛谷重朝
加藤景廉
安達盛長
大井実春
山名重国
武田信光
北条義時
小山朝政
小山宗政
佐々木高綱 なんにせよ敗戦と民主化で華族だの貴族だのが吹っ飛んでくれて本当によかった。
あんな社会のクズみたいな連中がきれいさっぱりなくなってくれてせいせいした。 珍田のように実力でその地位を獲得した人間は評価するが、徳川だの松平だの世襲の連中は徹底的に否定する。 >>48先祖の功績が大きくて、その分を子孫が受け継いだと思えばよいよ。 大名とか封建領主って圧制者や搾取者だからなあ。功績というより罪の方が大きい。
地べたの民衆から見れば洒落にならんくらいえげつない。 一清さんは能登畠山氏の分家の方だと思うよ?
源姓畠山氏は嫡流が福島県の畠山氏
その分家が管領畠山氏
その分家が能登畠山氏 華族になれなかった旧族大名
今川・品川(高家)
大友(高家)
畠山(高家)
再興吉良(高家)・吉良(旗本)
朝倉(旗本)
最上(旗本・一代高家)
松浪・斎藤(旗本)
斯波(旗本)
龍造寺・諫早・多久(陪臣)
尼子・佐々木(陪臣)
など いまのコノエはホソカワ君であって…
所詮、マガイモノのコノエ 荏原製作所創業者の長男、畠山不器氏の妻だったのが塩月弥栄子さん。
冠婚葬祭 続冠婚葬祭など懐かしいな。NHKにもよく出ていらっしゃったが
あの上品さは別格だった。千家、京都の血はこの家には合わなかったようだね。
あの本の舞台になった畠山家「般若苑」もなくなったね。 八幡神社が後ろ盾になってんだな
八幡宮があるとこはみな源氏関係者らが神社⛩を建立した
日本でもそんな古い存在ではないが全国規模 八幡神社の祖、八幡義家の祖先と言われてるのが応神天皇
だから祭神となっている 事実上の初代は八幡神源義家のこと
それの祖先と言われてるのが応神天皇なんだね 徳川氏の祖先、松平氏なんかは美濃源氏加茂氏の氏子言われとる
氏子ってのはまあその宗教団体の神社らが始まり
つまり加茂源氏にもともとは関わりがあった存在から始まって三河に勢力伸ばしたわけさ つまりもともと神武天皇に従ったと言われてる備前賀茂氏とはまったく無関係
最初から源氏に関わりがあった氏族 美濃加茂氏の拠点と三河松平氏の拠点かなり近い
始まりは山城だしな 源氏加茂氏(足助氏)は清和源氏の浦野重任の孫、足助重長から始まる もともとは美濃を拠点とした美濃源氏土岐氏の与党的な連中ら
南北朝のときは南朝についてやがて加茂氏(足助氏)は歴史から消えた
戦国時代の足助城の足助氏は三河平氏と呼ばれた連中らのこと NHK華族に乾杯
華族の就職先NHKに
畠山っていう女のアナがいるね >>1
江戸までは旗本だったというのは、
二本松畠山氏?河内畠山氏?能登畠山氏? ★河内畠山氏→高家(旗本)
★能登畠山氏→高家(旗本)
・畠山義寧は松の廊下事件と織田秀親事件と2回の刃傷を目撃
★別家(能登上杉氏)→高家(旗本)
・上記畠山氏より養子がきてのち義が通字になり、本貫地を能登七尾に変えた
★二本松畠山氏→陪臣(上杉家臣)
・ほかに庶流が伊達家臣に見られる 斯波 細川は傍系が家族になってるけど畠山は聞かないね。 >>88 >>86
華族に列した傍系斯波氏、細川氏とは?
後者は肥後細川家だろうが、前者は? 安倍ちょん
アベノマスクの総予算:970億円
病床削減:644億円
マイナンバーポイント還元事業:2500億円
GoToキャンペーン:1.7兆円
海外へのバラマキ60兆円
子供の貧困対策(2018年):1.5億円
就職氷河期世代への支援:2億円
大学生への支援(1次補正予算):7億円 畠山氏だったら謙信の時代に畠山氏から上杉氏に養子に入っとるわ
畠山氏→上条上杉氏は畠山氏の末裔 関東管領上杉氏に古賀公方足利家より養子に入った人物もおるしな だいたい滅んだっても宗家が滅んで求心力がなくなるって話だからよ 上杉謙信てのも名門好きやったからな
名門の子息らを自分の養子に迎えてんだな
敵の北条氏からも養子を取った
それが上杉景虎、旧名北条三郎
武田の信清ってのも自分の一族の娘と結婚させて家臣とした 畠山氏ってのは滅んでも他の名門の家系を継がせるってのはよくやるから子孫らならおるの 渋川氏の末裔は毛利家臣になったらしいな
斯波義廉の兄弟の系譜 >>86
>★能登畠山氏→高家・・・・・・
能登畠山氏は戦国時代末期に越後の上杉謙信に
攻め込まれ最後の当主畠山義慶及び畠山義隆の子の
幼児春王丸が相次いで家臣に暗殺され滅亡したはず。
その江戸期高家能登畠山氏とは誰の後裔のことなの? Wikiの丸コピー
義綱の弟・畠山義春(上杉義春)は上杉景勝に仕え、その姉を正室に迎えて上条上杉家の名跡を継いだ。
上杉義春(入庵)は豊臣秀吉の直臣となり、天正15年(1587年)、河内国高安郡のうち500石を与えられる。天正18年(1590年)摂津国豊嶋郡に300石を加増され、文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。 関ヶ原の戦いで義春は東軍に属し、1601年、自領とは別に次男の上杉長員に下総国印旛郡ほか1,490石を加増。長員は高家旗本の上杉家の祖となる。 さらに読み込んでいくと義春の次男長員が上条上杉家→高家畠山氏
三男義真が能登畠山氏を継いで高家になってるね すまん102の訂正と86の補足
義春次男の上条上杉家は86の通り3男の能登畠山家から養子を貰っているから86の通りなんだが
義春から数えると家格はともかく血筋は上条上杉家の方がむしろ本流
まあこの時代には別家になってるしどうでもいいか
上条上杉家は長尾為景の代にはほぼ越後上杉家と同義になってたが謙信が山内上杉家を継いだためその家臣家となった 畠山義続(年寄七人衆の長続連らにより追放)−上杉義春(畠山義隆の弟・上条上杉を継ぐ)−長員−長政=長貞(長政の弟)−長之−長宗
=義陳(本貫を能登国七尾とする)=知義(本家畠山からの養子・義が通字になる)=義枝
=義寿(赤穂事件で親吉良・反浅野だった伊達村豊の三男)−義寿−義達 - 義正 - 以下略 上杉義春(畠山義春)−畠山義真(はじめ上杉義真、能登畠山の本家)−義里(ここから高家?)−義寧(浅野と前田の二度の刃傷に遭遇)
−義躬=義紀(上杉吉憲の三男)=義福−義一(長女は高家・上杉義達に嫁いだ)=義宣(正妻は上杉治広の四女)−義勇−以下略
畠山と上杉は相互に養子・縁組を出している(血筋はあまり変わらない) 河内畠山氏も高家だし上杉家とも縁が深い
やっぱ落ちぶれても三管四織家は優遇されてるわ
徳川よりも寧ろ豊臣に引き立てられてる感がある 総州家は義就から6代を数えたが零落し松永久秀の仲介で尾州家に仕えた
尾州家も当主は遊佐信教に殺されたり雑賀衆に担がれたりしたが秀吉に降伏
子孫が徳川綱吉に気に入られ側用人になったりしている 米沢畠山氏(直江勝吉の加賀藩出仕より後は、甲斐武田に次ぎ序列2位)
上杉義春(畠山義春)−景広(畠山義春の長男)−政利−政束=政永(畠山国隆の長男)−茂知−茂寛=茂輔(色部政長次男)−忠茂−茂卿−義方 古河公方家も秀吉により復興
豊臣家は自身が新参家な為か名家は優遇してる 影の薄い二本松畠山氏
伊達政宗のドラマに必ず出るのにね >>96
畠山や武田以外にも毛利(長州の本家筋、佐橋毛利)
島津(薩摩の同族、信濃島津)
かつて敵だった神保、本間、大崎もいて
上杉家だけで信長の野望がやれるくらい >>6
細川氏の家老系一族ぽい人達は北九州や福岡に多いんだよな、隆一郎氏も福岡出身だし
廃藩置県後明治時代に移り住んだのかね >>113
大名一族は転封しても庶家一族は小倉に残ってたのか、或いは廃藩置県後にツテがある移住したのか。よく分からんな。苗字検索したら熊本より北九州に固まって住んでるってのも興味深いんだよね。 庶家なら細川じゃなく長岡になるんじゃないの
織田における津田
羽柴における木下
徳川における松平と久松
今川における品川
龍造寺における諫早
みたいに >>104 >>102
能登畠山氏畠山義続の子畠山義春が一度越後上条上杉家に
養子に入るも義春の子義真が能登畠山氏の名跡を継いで
高家に遇されたということか? >>116
そうみたいね
だから能登畠山氏は一旦滅亡してると言ってもいいね 義真(当時は上杉姓)は豊臣家への人質だったから
桃山時代から大坂の陣(夏の陣でも義春は上杉入庵と称している)まで
能登畠山の名跡(大名または旗本として)は一時消えた格好になる 鍋島家は、現在に至るまで歴代当主は少弐氏の男系子孫。
幕末明治に、毛利が小早川家を、堀が奥田家を再興してるように(男爵)
少弐を再興しようと思えば出来るけど、家中に龍造寺がいるから厄介と思ったのだろう
(少弐氏は龍造寺隆信に追放されており、佐賀藩重臣の龍造寺一門には隆信の子孫もいる)
同様に、上杉家は、現在に至るまで歴代当主は吉良氏の男系子孫。
上野国にある吉良義央の旧領を統治した鷹司(吉井)氏を一族から出すが
吉良家を再興していない(蒔田が高家吉良を、東条が三河吉良を江戸期に再興ずみ)
畠山(景広と義真の二家)や武田(信親と盛信と信清の三家)が華族になれないのに無駄と思ったのかも
津田(織田の庶流。血筋は斯波というが異論もあり)は斯波(尾張守護)家を再興し、男爵になった。 小弐家は鍋島直茂を養子に迎えたりしてるんだな
千葉氏も復帰運動は江戸時代でもやってたそうだ 紀伊畠山は秀吉に抵抗し雑賀・根来と共に滅ぼされ紀伊は豊臣直轄となる
江戸時代に入り
畠山基玄が延宝7年(1679年)に高家となるが
元禄元年(1688年)には一般旗本になる(綱吉の不興を買う)
元禄9年(1696年)に再び高家に復帰
子がなく養子として基祐を迎える 畠山基祐は基玄の弟・義玄の子
正室が上条上杉(能登畠山)出身
次代の義典・義学から高家上杉(長から義へ)同様、
通字が基から義に替わる 紀伊畠山を半国守護とするものもあるが
残りの半国(新宮以東)は当時、志摩国
紀伊に編入されるのは桃山時代 吉良義央の実子って上杉宗家を継いでるんだな
そりゃ赤穂事件でも冷淡になるわけだわ 上杉邦憲博士(現当主)は
2月4日に処刑された赤穂浪士の供養もしている。 斯波氏の陪臣織田氏が成り上がって細川京兆家を婿とする
越後上杉氏の被官が成り上がって山内上杉家を継承、能登畠山氏や上条上杉氏を臣下に
古河公方は後北条氏や豊臣氏、徳川氏の支配を経て喜連川藩に
100年経つと原型無い様変わりだな 御子神氏と小野氏は入れ替わって
小野一刀流を継承したのは御子神氏 麻布上杉氏(畠山弥五郎家)
畠山勝熙−上杉勝義=勝道(甥)=勝賢(甥)−.勝賢
勝憲=粕谷幸子(長女)−上杉孝久(現当主)
女系だが能登畠山の子孫 >>86
河内畠山氏初代河内国守護畠山国清の系統の
後裔は如何に? >>106
河内畠山氏の重臣連の神保氏や遊佐氏を「鎌倉衆」と
総称するのはどうしてですか?
鎌倉幕府時代からの家臣連だからなの?
神保氏や遊佐氏の他には何氏を含むのですか? >>132
そうなの?
それはそうと遊佐氏って能登も紀州家でも悪さしてるイメージしかないな >>132
神保氏・遊佐氏らが「鎌倉衆」と総称されるのは鎌倉時代に
源姓畠山氏初代足利義純が婿入りした平姓畠山氏重忠
時代からの家臣だからなのか? >>133
能登でも紀州家でも悪さというと
主君尾州家畠山稙長を追い落とした河内守護代遊佐長教、
主君尾州家畠山秋高を殺害した遊佐信教親子の他にもいたのか? >>135
能登畠山の遊佐続光もなかなか
主君を傀儡化して親上杉路線
織田派の長氏と抗争
主君を毒殺した(噂)とか長氏一族を騙し討ちしたとか
この頃には上条政繁を当主にしようという可能性もあったらしい >>136 >>135 > >133
紀伊国守護代遊佐氏は悪さしていないのでは?
170 :無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 07:01
>>169
重箱の隅を突くようだけど・・・ってホントに重箱の隅なのだが・・・
畠山基国の下で遊佐基成が紀伊守護代になっており、応永7年
(1400年)に大野十番頭に与えた安堵状「遊佐基成書状」が存在...... 斯波氏も細川氏スレも無いのに畠山スレが生き残ってるのはおもろい
史実の方もこういきたかったろうな 細川氏の本家(京兆家。藤孝は和泉半国の細川に養子入り)は三春藩(安東のち秋田家)の重臣
(肥後の細川侯爵家の本家)
毛利氏の本家(越後佐橋。元春に安芸郡山を分与)が米沢藩(上杉家)の重臣だったのと類似のケース
(萩のち山口の毛利公爵家の本家筋) 室町幕府15代将軍義昭の御供衆の
畠山次郎、畠山播磨守の諱はそれぞれ何? 畠山次郎尚誠(畠山総州家)
畠山播磨守政尚(畠山尾州家) >>142
サンクス。戦国時代終盤1570年頃でも総州家・尾州家
ともに幕府に参画していたということか? そいや能登畠山の義総の言及が無いな
全盛期をもたらしたけど時代的にはややマイナーか 義総は義繁に本家継がせるまえに(相続する前に死亡)
越中守護にしとけばよかったのに
越中守護代の神保も長尾も、又守護代の椎名も抑えつけれた 将軍担いで上洛とかして無ければ
応仁の乱から畿内に兵出してるよね >>146
誰が将軍を担いで上洛とかしたと言われるのか?
誰が応仁の乱から畿内に出兵と言われるのか?
そもそも応仁の乱の始まりが畠山義就の洛中出兵なんだが? 本間氏は上杉に潰されてその後帰農したけど畠山氏も帰農したのかな?著名な大地主で聞かないけど。 帰農した畠山氏が荏原製作所の社長
畠山歴代の義が代々の諱について無いから庶流と思われ いる事はいるのね。著名な武将一族はなんだかんだ残ってるね。 越中の守護代だった長尾為景からみたら能登畠山は主筋(越中守護)の同族だから
米沢藩の家中で一二の重臣に登用する意義はあるけど
前田からみたら本能寺の変の混乱につけこみ
石動山に立て籠って反乱した畠山氏は危なくて
とても金沢藩の重臣として取り立てられないという事だろう
(早くから織田に従った長氏でさえ鬱陶しく思い領地を取り上げる画策をしている) その後長氏は加賀藩のNO.2の重臣の家柄になってんだから分からんもんだな >>131
河内国守護畠山国清?
戦国期の嫡流河内国守護家畠山氏と違って
畠山国清は河内国守護でなく
鎌倉公方初代足利基氏の補佐役の
鎌倉公方執事だろ? 国清は河内守護だし
金吾家の方が本来は傍流
基本情報も踏まえていないのに発言するなよ >>55 >>52
荏原製作所創業家初代畠山一清氏は1881年金沢市生まれ
旧制高校−>東京帝大卒だから能登畠山氏一族で加賀藩
前田氏の家臣となった系統の子孫なのかな? 畠山氏の前身の秩父氏からは高山右近、東郷平八郎とかいろいろ子孫がいるな 越中は結果的には神保氏が下剋上したようなもんだな
一旦ほぼ滅亡するも長職が復帰したあたりなかなかの粘り >>161
越中の神保氏は畠山氏の越中国守護代で合っていますか? 半国守護代(婦負・砺波・射水)
のち砺波郡は長尾(上杉氏)に取り上げられ
増山城には目付(城将)を入れられた 新潟市沼垂の「六郎さま」こと六郎神社は畠山六郎重宗と畠山次郎重忠を祀り
14世紀前半作とされる新潟県文化財の畠山重宗夫妻木造坐像を所蔵するらしい。
越後にも畠山氏所領があったのか?子孫が入部したのか? 越後本庄の地頭から大名に成長し度々謙信に抵抗した
本庄氏が畠山重宗を先祖と称している 越後の本庄や色部は同じ秩父氏族だが畠山氏とは別系統だぞ 本庄氏の件は孫引きか何かでの誤記と思うが
畠山重宗は奥羽から戻る時に沼垂あたりに滞在したようだ >>167
本庄氏の先祖が地頭職を得て入部したのは沼垂でなく
下越の岩船郡(村上市)だし越後本庄氏や色部氏の先祖は
畠山重宗とは別流の平姓秩父氏なんだが? ジャーナリストの畠山理仁さんって髭の顔立ちが武士っぽいんだけど、畠山氏の子孫なのかな >>164
違うだろ?越中國礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡4郡のうち
椎名氏が守護代の新川郡が越後長尾氏の勢力下。
神保氏が守護代だったのは射水郡・婦負郡2郡。礪波郡守護代は不詳か?
戦国時代16世紀の越中國は守護代越後上杉派椎名氏と甲斐武田派神保氏と
守護源姓畠山氏が三つ巴抗争。 >>160
日本国測量大家伊能忠敬の次男伊能秀蔵は後年に
神保玄二郎と名乗りを変えたらしい。
旗本神保家に婿入りしたからなのか? >>164
砺波郡が越後長尾氏の支配下?
越中国4郡中の東部新川郡の誤記では? 元亀2年(1571年)、神保長職は降伏して隠居
増山城には吉江宗信が入る
天正4年(1576年)、神保長城も逃亡。
神保忠清の系統が米沢藩士で明治に至る
神保氏張の系統が徳川旗本で同じく明治に至る
神保慶明の系統も旗本だが大坂の陣で伊達政宗により砲殺 >>176
越後長尾氏の家臣吉江宗信が越中増山城城主?
越後守護長尾氏に越中守護代神保氏が1571年に臣従したと? >>178
陸奥二本松城に拠った二本松畠山氏の後裔が
どの地に現存しているの? >>178
陸奥二本松城に拠った二本松畠山氏の後裔が
どの地に現存しているの? >>178
陸奥二本松城に拠った二本松畠山氏の後裔が
どの地に現存しているの? >>170
畠山重宗とは別流の平姓秩父氏というと越後の
畠山氏の始祖は誰だと? 四職の末裔はどうなったんだっけ?
知ってる限りでは一色は細川忠興に滅ぼされ、京極はお初さんと結婚
赤松の分家が有馬記念の有馬といったあたりだが 山名豊国は故地、因幡国に村岡陣屋6500石。因幡守豊就は大岡と一緒に寺社奉行をつとめた 山名豊国は家康に仕えたが四職の末裔にしてはへりくだり過ぎるって家康に言われたとか Wikiから拾ってきた。
家康としては徳川家が新田氏の末を標榜している以上、同族だからもっとしっかりしてほしいと言いたいところか
天正年間に、徳川家康とともに斯波義銀(津川三松)の屋敷を訪問した際、豊国の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(豊国)は新田家の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている。家康も新田氏の分家を自称していた。 >>189
村岡は但馬
>>191
中世の家格秩序では新田一門は足利の一門扱いで一門筆頭の斯波の方が並の一門より上だし
明確に三職>御相伴衆だから山名の態度は当たり前
三職
斯波武衞家、畠山金吾家、細川京兆家
御相伴衆(一門>外様)
一門 一色、畠山匠作家、細川讃州家、山名惣領家
外様 赤松、佐々木京極、大内 >>192
家康としては豊国に「最早時勢が違うぞ」っ言ってもらいたかったのかもな
どうでもいいが室町名家って秀吉期にはかなり厚遇されてるな
まあ農民と旧権力が結びつくのはよくある話だが 摂津有馬郡分国守護に封ぜられた赤松の分家が有馬氏を名乗り、江戸時代は久留米藩藩主に
さらにその子孫がJRAの会長になり有馬記念(第一回は「中山グランプリ」)を創設
なので、「有馬記念って中山でやるの?阪神じゃないの?」という競馬初心者にありがちな勘違いも
全くもって的外れというわけではないw 久留米の有馬は摂津有馬氏の庶流であってそのまま近世大名になったわけではない あーおったなー有馬則頼
信長の野望で別所家臣下だった人か >>193
京極高次なんて本能寺の変で光秀方についたのに、松の丸殿が秀吉の側室になって
おまけに初と結婚までできたしな >>197
淀殿も割と名族好きよな
関ヶ原〜大阪の陣までの豊臣臣下って割と名族の出が多い気がする うーんザラッと見たところで秀頼臣下の名族はこれくらいか
落ちぶれすぎてて名家と言いづらくなってるが
簗田助利、梁田氏、元古河公方足利藤氏臣
真木島昭光、一色氏、元足利義昭臣 >>206
神保氏と違い遊佐氏は旗本として続いた系統も
なかったか? 白金の畠山記念館って能登畠山の後裔の実業家が
収集した茶道具中心の博物館よな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています