邪馬台国畿内説 Part538
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1574868157/ なぜ、3世紀の纏向では、鉄が使われなかったのだろうか、、、 僕たちは、畿内の3世紀の先進技術は円を描くことだと学んだのだね また転写保存
>>559
>鉄器がなかったと言い張るのが不合理<
纏向の史料実態は、鉄器はなかった、という事。 >>561
国粋皇国史観の人種差別的殺人戦争狂の大和説者らは、
「南→東」などのように、
史料事実の否定や曲解のはウソしかつかない
というよりウソしかつけない 邪馬台国畿内説は破綻しました。邪馬台国纏向説は妄想です >>564
まだ「南→東」などの嘘つきだましの大和説の類スレ主は、
3世紀の纏向に鉄器があった、と言ってるのか?。
>畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉 ・・・
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉・・・
○黒塚古墳 3世紀後半・・・<
いずれも4世紀。 >>564
「南→東」などの嘘つきだましの大和説者を含むトンデモの要件は、
嘘つきかガイキチ、あるいは両方 >>1
もうテンプレは>>1だけでええで
書く方も読む方も面倒なだけやで >>567
>須玖岡本遺跡D地点とか、三雲南小路遺跡とか、甕棺墓時代に北部九州の繁栄のピークがあって
それがド没落してるからだよ <
「ど没落」していない。
甕棺は、天孫族系の倭人王族の阿毎氏らの埋葬形態であったが、
姫氏系の卑弥呼が共立され、箱式石棺に葬られたために、
共立を推進支持した阿毎氏の王族らも、埋葬形態を変更したのだ。
>吉野ヶ里遺跡北墳丘墓も中央埋葬者を含め甕棺墓だ<
吉野ケ里も、甕棺であったが、
(那珂八幡などの前方後円墳と同じく)前方後円墳埋葬に変わったから、
甕棺埋葬を変更したのだ。 >>1 ◆UiepmfCeDJqf
また#okuyamakouyouかよw >>568
>しかし、その「鉄用の砥石が大量に出ているし」て、どこの遺跡の話?。
前から書いているが、その資料どこにあるのよ。
唐古鍵から出た鉄器は、1個だけ。
あんだけの工房遺跡で鉄器が1個だけだぞ。
過疎過ぎるわ。
さらに奈良全体でも鉄器は数えるほどしか出てない。<
成程。 >>569
>平原1号墓が突出しているのは
バキバキに割られた仿製鏡がやたらたくさん出ることだけ!<
破鏡は、「ペンダントの鏡」用。
仿製鏡ではなく、明帝下賜の21枚の「尚方作」鏡を含む、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>ガラス製品も鉄剣も丹波の首長墓に負けてる<
女王だから、「玉と鏡」が多い。
>舶載鏡はやたら古いのが2枚だけだし、<
本当に舶載鏡であったんなら、壹與が親から伝えられて所持していた鏡。
>この時点で卑弥呼の墓の候補になれない
やたらに多い仿製鏡は出雲の荒神谷の銅剣大量埋納と比較すべきもの <
荒神谷には鏡がない。 >>507
>単に畿内でも十分に鉄はあったから鉄貧乏ってのは嘘だってこと <
纏向は「鉄器」貧乏。 大和の東阿波型土器は、職人さんがやってきて造った。
阿波の普通の忌部人民さんが移住したわけではなさそう。^^ >>572
魏志倭人伝に書いてないことまで読み取るな!って言ってるんだよ
大和説は、魏志倭人伝を「解読」という名目で、
「南→東」などのような捏造ばかりするから、それはダメだって教えてるんだよ >>576
>一号墓の周溝の内側、墳丘部分にまで土坑墓を掘られてるんだぞ?w
1号墓被葬者への崇敬の念が極めて速やかに失われたことを示しているだけなんだが?
https://imgur.com/bzIw7Aa
この図を見れば、陪葬は勿論、殉葬の可能性もあるな。 >>588
>九州説の主張点は畿内には鉄器がないだけ?
>>563にあるように古墳三基だけでも大量に見つかってるんだけど<
いずれも4世紀の墓であり、年代が全く合わない。 矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
卑弥呼の宮室は大和じゃないのに、倭人伝に鉄鏃と出てるだけでどうしても大和に鉄器が必要だと矢板鉄器生産を妄想する卑弥呼大和教。
鉄器のない大和の矢板は、縄文以来の伝統によって砥石で表面擦ったんだよ。 >>579
>3世紀初頭から鉄の鑓鉋があって、<
唐古鍵の槍鉋の年代は不明。
>(九州説の主張でも直後の)古墳から大量に鉄の鏃が出ていて
ピンポイントで3世紀半ばの纒向には鉄はあっても鉄鏃はなかったとかいうのは、
バカの言い分以外の何ものでもないだろ?ww<
ホケノも椿井大塚山も黒塚も、4世紀頃であり、根拠にならない。 大和説者は、やっぱ大和の土壌の科学分析してもらわないと。
溶けたとしつこく食い下がっているが、調査したら大和の土壌は鉄が溶けにくいものだったりしてな。
そうなれば、大和説者は天下の笑いものだがな。
早よ、専門家に調査してもらえ。 >>16
>大和の東阿波型土器は、職人さんがやってきて造った。
「東阿波型土器」製作工人集団の「忌部はん」たちだね。
>阿波の普通の忌部人民さんが移住したわけではなさそう。^^
阿波の普通の忌部人民さんも移住しているよ。 開拓農民として。 @阿波 >>582
>A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。<
当然、卑弥呼時代の絹であり、弥生時代の絹だ。
>高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、<
卑弥呼が贈ったのだから、弥生時代の九州に存在したのだ。
>奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。<
下池山は、4世紀であり、卑弥呼の検使とは合わず、布目の間違い。
>九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。<
ダメだ。大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎず、
前方後円墳自体が筑紫の那珂八幡などの模倣の3世紀末以後であり、
筑紫では、須玖岡本や一貴山銚子塚で、鏡を包むのに使われており、
大和の絹は「東征将軍らに拠る搬入」絹であった事になる。
>「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)<
唐古鍵なら、在地の出雲銅鐸祭祀部族らと、神武ら東征後の欠史八代との合同国だから、
双方の技術が合わさった、という可能性があるが、
しかし、大和説学者の年代論は信頼性が全くなく、信用出来ない。 >>582
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。<
ダメだ。
卑弥呼は「南≠東」などに拠って、筑紫の女王であり、大和や纏向の王ではなく、
「正始四年に倭の献上した絳青縑」も、筑紫から魏に贈ったものだ。
つまり「金原」は、
大和説という「結論先にありき」のインチキ論法を使った似非学者であった、
という事になる。
>茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。<
いずれも、卑弥呼が贈ったのだから、筑紫の最高級品を贈った、という事になるだけだ。 >>583
>>ノコギリが導入されるまで 薄い板を作るのはかなり難しかった<
>前に教えただろう? 板材は割板として作って鑓鉋を使って仕上げるんだよ
まあ釿(ちょうな)でもいいけれど <
「薄い板」は、木材には年輪があるから割板では年輪に沿って曲がってしまうから、
無理だな。 >>559
>鉄器がなかったと言い張るのが不合理<
纏向の史料実態は、鉄器はなかった、という事。 >>561
国粋皇国史観の人種差別的殺人戦争狂の大和説者らは、
「南→東」などのように、
史料事実の否定や曲解のはウソしかつかない
というよりウソしかつけない >>564
まだ「南→東」などの嘘つきだましの大和説の類スレ主は、
3世紀の纏向に鉄器があった、と言ってるのか?。
>畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉 ・・・
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉・・・
○黒塚古墳 3世紀後半・・・<
いずれも4世紀。 >>564
「南→東」などの嘘つきだましの大和説者を含むトンデモの要件は、
嘘つきかガイキチ、あるいは両方 >>567
>須玖岡本遺跡D地点とか、三雲南小路遺跡とか、甕棺墓時代に北部九州の繁栄のピークがあって
それがド没落してるからだよ <
「ど没落」していない。
甕棺は、天孫族系の倭人王族の阿毎氏らの埋葬形態であったが、
姫氏系の卑弥呼が共立され、箱式石棺に葬られたために、
共立を推進支持した阿毎氏の王族らも、埋葬形態を変更したのだ。
>吉野ヶ里遺跡北墳丘墓も中央埋葬者を含め甕棺墓だ<
吉野ケ里も、甕棺であったが、
(那珂八幡などの前方後円墳と同じく)前方後円墳埋葬に変わったから、
甕棺埋葬を変更したのだ。 >>568
>しかし、その「鉄用の砥石が大量に出ているし」て、どこの遺跡の話?。
前から書いているが、その資料どこにあるのよ。
唐古鍵から出た鉄器は、1個だけ。
あんだけの工房遺跡で鉄器が1個だけだぞ。
過疎過ぎるわ。
さらに奈良全体でも鉄器は数えるほどしか出てない。<
成程。 >>569
>平原1号墓が突出しているのは
バキバキに割られた仿製鏡がやたらたくさん出ることだけ!<
破鏡は、「ペンダントの鏡」用。
仿製鏡ではなく、明帝下賜の21枚の「尚方作」鏡を含む、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>ガラス製品も鉄剣も丹波の首長墓に負けてる<
女王だから、「玉と鏡」が多い。
>舶載鏡はやたら古いのが2枚だけだし、<
本当に舶載鏡であったんなら、壹與が親から伝えられて所持していた鏡。
>この時点で卑弥呼の墓の候補になれない
やたらに多い仿製鏡は出雲の荒神谷の銅剣大量埋納と比較すべきもの <
荒神谷には鏡がない。 >>507
>単に畿内でも十分に鉄はあったから鉄貧乏ってのは嘘だってこと <
纏向は「鉄器」貧乏。 >>572
魏志倭人伝に書いてないことまで読み取るな!って言ってるんだよ
大和説は、魏志倭人伝を「解読」という名目で、
「南→東」などのような捏造ばかりするから、それはダメだって教えてるんだよ >>576
>一号墓の周溝の内側、墳丘部分にまで土坑墓を掘られてるんだぞ?w
1号墓被葬者への崇敬の念が極めて速やかに失われたことを示しているだけなんだが?
https://imgur.com/bzIw7Aa
この図を見れば、陪葬は勿論、殉葬の可能性もあるな。 >>588
>九州説の主張点は畿内には鉄器がないだけ?
>>563にあるように古墳三基だけでも大量に見つかってるんだけど<
いずれも4世紀の墓であり、年代が全く合わない。 >>579
>3世紀初頭から鉄の鑓鉋があって、<
唐古鍵の槍鉋の年代は不明。
>(九州説の主張でも直後の)古墳から大量に鉄の鏃が出ていて
ピンポイントで3世紀半ばの纒向には鉄はあっても鉄鏃はなかったとかいうのは、
バカの言い分以外の何ものでもないだろ?ww<
ホケノも椿井大塚山も黒塚も、4世紀頃であり、根拠にならない。 >>582
>A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。<
当然、卑弥呼時代の絹であり、弥生時代の絹だ。
>高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、<
卑弥呼が贈ったのだから、弥生時代の九州に存在したのだ。
>奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。<
下池山は、4世紀であり、卑弥呼の検使とは合わず、布目の間違い。
>九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。<
ダメだ。大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎず、
前方後円墳自体が筑紫の那珂八幡などの模倣の3世紀末以後であり、
筑紫では、須玖岡本や一貴山銚子塚で、鏡を包むのに使われており、
大和の絹は「東征将軍らに拠る搬入」絹であった事になる。
>「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)<
唐古鍵なら、在地の出雲銅鐸祭祀部族らと、神武ら東征後の欠史八代との合同国だから、
双方の技術が合わさった、という可能性があるが、
しかし、大和説学者の年代論は信頼性が全くなく、信用出来ない。 >>582
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。<
ダメだ。
卑弥呼は「南≠東」などに拠って、筑紫の女王であり、大和や纏向の王ではなく、
「正始四年に倭の献上した絳青縑」も、筑紫から魏に贈ったものだ。
つまり「金原」は、
大和説という「結論先にありき」のインチキ論法を使った似非学者であった、
という事になる。
>茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。<
いずれも、卑弥呼が贈ったのだから、筑紫の最高級品を贈った、という事になるだけだ。 >>583
>>ノコギリが導入されるまで 薄い板を作るのはかなり難しかった<
>前に教えただろう? 板材は割板として作って鑓鉋を使って仕上げるんだよ
まあ釿(ちょうな)でもいいけれど <
「薄い板」は、木材には年輪があるから割板では年輪に沿って曲がってしまうから、
無理だな。 >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
おいおい、何を偽スレでまた大嘘を書いて悦に入ってるんだ?ww >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ? >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく
水田耕作が、単なる種籾の到来だけではなく >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく
水田耕作が、単なる種籾の到来だけではなく、技術一式の導入だと言われるのは >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく
水田耕作が、単なる種籾の到来だけではなく、技術一式の導入だと言われるのは
導水路の土木整備や水量管理なども含むからだ >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
それに何度言っても、でこぼこの石器で作った板と、綺麗な鑓鉋で作った板を同一視するなといっても理解しないしww
「石器で矢板」君も「石器で矢板バカ」にグレードアップした方がいいのかな?w >>22
>大和説者は、やっぱ大和の土壌の科学分析してもらわないと。
>溶けたとしつこく食い下がっているが、調査したら大和の土壌は鉄が溶けにくいものだったりしてな。
>そうなれば、大和説者は天下の笑いものだがな。
>早よ、専門家に調査してもらえ。
必死か?ww >>36
>この図を見れば、陪葬は勿論、殉葬の可能性もあるな。
ないよ?ww
本体と何十年も、年代が離れた殉葬墓なんてないだろ?w >>584
>それが何か
畿内では鉄製品がちゃんと管理されてた証拠
九州のように戦乱でもあって打ち捨てられたような状態ではなくて<
纏向で鉄製品を使ってそれを管理していたのなら、
纏向に「管理」された場所があった筈であり、
それを提示出来なければ、それは鉄製品がなかった、という事。 >>589
>>しかし、その「鉄用の砥石が大量に出ているし」て、どこの遺跡の話?<
>もちろん纒向遺跡だが?
桜井市埋蔵文化財センターに行けば砥石の現物が見られるよ<
そりゃ、鉄器の修理工場らしき発掘があったんだから、砥石もあっただろうが、
「大量」か?は、不明だな。 畿内で鉄が出土すれば、たとえ1個でも大漁なのだニダ! >>591
>・・・この位置関係と年代観を考慮すると 邪馬台国と卑弥呼の存在というよりも、
邪馬台国滅亡後の後継地として選ばれたと考えたほうがしっくり来る <
「南≠東」などに拠っても×だし、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であるから、×。 >>597
>ホケノ山は中頃の築造。<
ホケノは、那珂八幡の後の石塚の後で、有棺有槨であるから、3世紀末。
>これより前の3世紀前半の大和はほとんどは鉄器過疎。
そこで、卑弥呼が死んだ直後に大和に鉄器が溢れるようになるわけ。<
卑弥呼が死んだ直後、というのが間違い。
>ホケノ山の副葬鉄器は博多からの戦利品だよ。
ホケノ山、黒塚、メクリはそうした博多から移送した鉄器群。<
違うな。 ホケノも九州倭国の「東征毛人五十五國」将軍の中の一人であり、
副葬鉄鏃などは、東征軍の武器。
>これをみれば、纏向の政権が博多、山門で何をしたのか明確過ぎるほど明確だろう。
そしてこの時期から、纏向の政権加盟国でも鉄器が出土し始める。
鉄器過疎地帯が3世紀中頃を境に鉄器充足地帯に変貌するということ。 お分かりか。<
ホケノも九州倭国の「東征毛人五十五國」将軍の中の一人であった。お分かりか?。 >>600
>そして適当なことよく考えもしないで書いてるうちに
そちらが卑弥呼は大和にいたと思ってる事を自ら書いてしまっているが
女王卑弥呼の居た邪馬台国は畿内で決まりでいいってこと? <
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つきだまし文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>601
>>砥石の現物が見られる <
>アホォォォォ!
この砥石は3世紀後半のブツじゃないか。
矢板が打ち込まれたのは3世紀前半だっただろが。
ヴォォォケェェェェ〜!<
ふーん。 >>52
>p124
登呂の土質は鉄器の腐食率が高く、青谷上寺地の土質は鉄器の腐食率が低いとし、その差は6倍が見積もられるということだな。
しかし、この調査では、登呂にはもともと鉄器がなかったのか、それともあったが全て腐食分解したのかという事柄についての判断はできない。
そのあたりを判断するためには、土壌サンプルがもっと多く集められなければならない。
ただ、こうした調査は重要であるのは言うまでもない。 鉄は以外と無くならないぞ
まあ誰でも知ってると思うが、酸化膜が出来たらそれ以上錆びるには相当な時間を要する >>609
>九州の山門は畿内の大和と張り合ったら
前方後円墳や三角縁神獣鏡等の遺跡比べ勝負になる事をわかっているのか<
畿内なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であり、
「正北抵新羅」や「南≠東」などに拠って、倭国の中心は北部九州であり、
大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国の附庸國であり、
「日本國者倭國之別種也」であり、
大和日本國は九州倭国を併合吸収継承出来たのは、白村江の後。 >>614
>九州こそ畿内の朝廷のほうから下賜された鉄器を
管理もしないでほっぽり出しにしていたのだな <
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国であり、
「南≠東」などに拠って、「畿内の朝廷」という事が×。 >>49
>必死か?
単なる印象評価だが、登呂の土壌と大和の土壌の土質は異なるのじゃないか。
登呂は平地の水田地帯。大和の桜井や天理あたりは山裾の小扇状地。
まあ、とにかく大和の土壌を実際に調査してもらえよ。 >>616
>九州の絹 弥生中期→弥生後期 ど 没 落 中<
没落していない。須玖岡本や一貴山銚子塚で鏡を絹で包んでいるし、
「筑後〜久留米」に遷宮後も、久留米や宮地嶽から「金刺繍の絹織物」が出ている。 >>56
>ホケノも…将軍の中の一人であった
ダメダメ。
ホケノの被葬者は、博多制圧のために派遣された武力集団の司令官ともいうべき最高祭祀者。 >>48
弥生の前期の組み合わせ木棺の板は、表面がごく平面的だがな。
前期にはまだ鉄器はないし。
石斧で粗削りして、表面は砥石で擦ったんだよ。 >>47
>矢板を使っているのは水田遺構だろ?
いやいや。
大和鉄器バカが言ってるのは、纏向大溝の南溝の矢板。
水田遺構の矢板については、登呂の矢板について言っている。
どちらの遺跡でも鉄器が出土していないの。
鉄器が出ないのは、溶けたからだと胸張ってるのよ。 >>60
>まあ誰でも知ってると思うが、酸化膜が出来たらそれ以上錆びるには相当な時間を要する
その酸化膜ができる条件は、自然界に打っ棄られた鉄で成立することは事実上ないから、無意味だよw >>66
>弥生の前期の組み合わせ木棺の板は、表面がごく平面的だがな。
そういって出してきた荒尾遺跡の木棺の板材がこれ
https://i.imgur.com/BisVK6m.jpg
でこぼこだな
纏向大溝の矢板と比べれば差は歴然w
https://i.imgur.com/EaD9Ol5.jpg >>67
>どちらの遺跡でも鉄器が出土していないの。
そして登呂遺跡の鉄が出ない理由はきちんと実証されてるなww
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
P124 ここでも「砥石で矢板」君は懲りずに踊ってくれるのか?ww 卑弥呼の時代の邪馬台国って、北九州と四国や中国地方、畿内までほぼ収めていたんだよおそらく・・
中心都市は、北九州、阿波、飛鳥。その他30国以上の連合国。対する勢力は南九州の狗奴国を
中心とした渡来人連合国家。九州の倭国大乱が起こったとされる2世紀後半から渡来人連合国家
と邪馬台国と倭国小国連合が長きに渡り戦って来た。そういう時代の話なんだよ、魏志倭人伝って! 邪馬台国の特定場所などもうどうでもいいww
卑弥呼という女王が偉大過ぎて、その後の大和の国の中でも天皇や王を
乗り越えて、神話や神の域まで到達しているんだぞ。そこが重要だろ!!!
卑弥呼のシャーマン逸話は、いつしか天照大神として信仰されるようになった。
日本の古代話の神話化が始まった起源は卑弥呼の存在にあると断言出来る! 8世紀の飛鳥時代でも、大和の中心が奈良でなぜ王権に各地の国々は争いなく従ったのか?
そう考えたら、邪馬台国が当時から倭国全体を仕切ってた理由が分かるよな。神話伝説のような
古代史の本があるから、話がややこしくなってるだけ。簡単に考えれば、邪馬台国は当時から
かなりの王国でリーダー的存在だった事が伺い知れる。西日本を支配下に置いてたのは卑弥呼の
時代から。 >>71
>鉄が出ない理由は
う〜ん、やはりアホか。 >>70
>纏向大溝の矢板と比べれば
纏向の矢板が皆なめらかで段差なく揃っているのは、水流で削られたから。 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 岐阜県荒尾南遺跡の弥生前期組み合わせ木棺の写真をみると、底板にはカンナ型の平砥石で擦り削った一定幅の筋跡がみえる。
弥生前期にはまだ鉄器は列島にもたらされていないので、板が石器で作られたことは明らか。
矢板自体はすでに縄文時代に作られている。矢板作りの道具は石器だ。
縄文丸木舟の櫂も出土しているが、柄と水掻き部分はきれいに成形され、水掻き部分の表面は平面であり、よく削られている。
こうした板の表面仕上げに砥石が使われたことは自明のことだ。
鉄器がなくても木製品の平面仕上げはごく普通に砥石でできたこと。
それを矢板は鉄器で作られたとしか発想できない想像力の貧困さは、大和説者に顕著だ。
どうしても、弥生後期、終末期の登呂や大和では鉄器が日常的に用いられていたと考えているらしい。
この時期の近江や大和以東では鉄器は過疎状態で、西日本のようには流通していなかったことが理解できないようだ。
つまり、歴史認識において明らかに基本的な欠陥を抱えているとしかいえない。
なぜそうなるのかというと、倭人伝の倭国では鉄鏃が用いられていたと書かれており、その倭国を大和などに比定しているために、どうしてもその時期の大和などでは鉄器が普及していたとの歴史観になってくるのだ。
しかし、その時期の大和では鉄器自体はほとんど出土しないために、普通に日常的に流通していたそれらの鉄器は溶けてしまったのだという論理を持ち出してきているもの。
大和の土壌は鉄器を溶かしやすいというわけである。
そこで、登呂と青谷上寺地の科学的な土壌分析で登呂の土壌は鉄を腐食しやすいと報告されたことを大和にもあてはめて、大和の鉄は溶けたことが証明されたと飛び跳ねているのが現状。
しかも、大和の土壌はまだ科学的に分析されていないのに、矢板が同様に出土していることでもって登呂と大和の土壌はおんなじだと決めつける始末。
印象評価では、登呂と纏向あたりの土壌は明らかに異なる。
まあ、飛び跳ねるのは纏向の土壌分析が行われてからにするのが妥当ということになる。
大和説者が飛び跳ねるのはそれからでも遅くない。 ある物質が、3年で1%減少するとします
つまり3年で存在量が99%になります
300年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか?
1800年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか? 答えは、
300年後で36.6%
1800年後で0.24%ですね この減少率がわずかに高くなって、3年後の残存率が98%になったとします
ある物質が、3年で2%減少するとします
つまり3年で存在量が98%になります
300年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか?
1800年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか? 答えは
300年後で13.3%
1800年後で0.00054%ですね この、3年で2%減少するというのは鉄の損耗率としてはかなり少なめの見積もりです
また、さびが進むのは表面からですが、小さくなるほど体積に対する表面積の比率が高くなるので
残りが少なくなればその分損耗率は大きくなっていきます 残存率が0.00054%というのは、100万個最初にあっても
5個程度しか残らないという数字です
1800年後に見つからないのはむしろ当然ですね >>88
それなのに大量に九州では見つかるというのは、いかに筑紫が鉄器が満ち溢れた豊かな国であったかということだ。 >>89
>その残存率に科学的根拠があっての話かね。
2006年の文化財科学会での報告
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
PDFの23/223ページ、資料下のページ数で124ページ、
「鉄製遺物を埋蔵する土壌環境の腐食に対する影響の相対的評価の試み
登呂遺跡と青谷上寺地遺跡の比較に基づいて」
と比べても小さな減衰率で計算しているよ >>90
>それなのに大量に九州では見つかるというのは、いかに筑紫が鉄器が満ち溢れた豊かな国で
>あったかということだ。
福岡に鉄鏃が1000万個存在したと主張するのかいww
まともに計算すれば福岡だって1個も残らないんだよ
それでも見つかるのはたまたま残りやすい条件が実現しただけの偶然でしかない
条件の異なる特異的な偶発事例をもとに考えるのは、バカのやることだ >>92
>条件の異なる特異的な偶発事例をもとに考えるのは
その特異的な偶発事例が福岡だけでなく、摂津、河内、丹後までの西日本全域とそして関東地方で起こっているわけなんだが。
むしろ、大和、近江、東海、中部、東北が鉄器過疎的特殊事情地域なんだよね。
この両者は土質が違っているという報告でもあるのかね。 >>91
>…と比べても小さな減衰率で計算しているよ
それじゃ、福岡の残存数から逆算して、福岡では元々は何個の鉄器があったことになるのかね。 >>92
>まともに計算すれば福岡だって1個も残らないんだよ
あのなあ、事実と大いに食い違っているなら、それは机上の空論だよ。
意味がない。
そんなもので纒向に鉄がないことを言い訳できると思うなよ。 鉄が腐食しやすい土壌と腐食しにくい土壌があることはその研究で分かったが、では大和の天理や纏向あたりの土壌はどうなのよ。
天理や纏向が山裾の狭い範囲の扇状地であるのは、登呂より青谷上寺地のほうに似ているようだ。
青谷が登呂よりも鉄の腐食しにくく残りやすい土壌だとすれば、纏向なども残りやすい土壌であるようにみえる。
この考えが正しければ、纏向などは元々鉄器がごく少なかったということになるね。
いったい、どうよ、これ。
いずれにしても、纏向の土壌を調査してからでないと、大和で鉄は溶けたとは言えんでしょ。 >>71
>登呂遺跡の鉄が出ない理由はきちんと実証されてるな
やっぱアホやね。
登呂の土壌は単に鉄を腐食させやすい土質であるというだけのこと。
その調査結果はあくまで登呂の土質についてであって、登呂に鉄があったかなかったかという調査ではないということがお分かりでないらしいな。
元々登呂には鉄がなかったとしたら、その調査結果は単に登呂の土質が鉄を腐食させやすいというだけのこと過ぎないということになる。
登呂の鉄は溶けたと言うには、登呂には鉄があったことをまず証明しなければならないんだよ。
それから、はじめて土質のことが問題になる。 >>97
結論ありきでバカなことを言い続けるのが九州説
登呂遺跡では鉄の刃先を付けて使う袋鍬の柄も出ているし、鑓鉋で作られたと考えられる矢板も
大量にある
登呂遺跡に鉄器がなかったなどというバカはいないよw >>98
いくらお前がここでわめいても、纏向が邪馬台国の都だった証拠がないことに変わりはない 日本書紀崇神紀に記された「筑紫〜任那間二千里」は、航路距離にしろ、直線的距離にしろ、その単位が1里200mの場合に「二千里」に該当する。
崇神紀の二千里は、1里200mとする日本里でもって判断された距離のようにみえる。
したがって、魏略や倭人伝の1里430mによる里数と日本書紀崇神紀の1里200mによる里数は、その性格がまったく異なると考えるのがよいのではないか。
ただ、このような単位の相違があったとすれば、倭人伝に記される卑弥呼の墓については、帯方郡使の張政が邪馬台国の役人から聞いた「径百余歩」は魏里換算では「径五十歩」であった可能性が出てくる。
とすると、卑弥呼の墓は「径72.5m」だったということになってくる。
しかし、卑弥呼の墓の「径百歩」は単に(大きい)という意味ではないかと考えられるので、「百歩」を実数だと考える必要はないのではないか。 千はたくさんの意味で明確な数値は示さないが、
七万戸、百歩は正しい数字と主張するのがキナイコシ
都合のいいところだけ正しいことにしている
まさにチェリーピッキングw >>98
>登呂遺跡では鉄の刃先を付けて使う袋鍬の柄も出ている
弥生時代の東日本の鍬は身部分も木製であったことが知られている。
登呂の鍬は木製鍬に鉄器の刃先を装着するものだったとするには、その鉄製袋鍬先の出土が必要だ。
そんなものは一つも出てないし。
矢板は石器でも作れると、何遍も言うたろが。 >>102
鉄器の普及が弥生後期からみられる福井県域でも、鉄製鍬先が登場するのは古墳時代になってからだ。
それよりも鉄器普及が遅れる鉄過疎地帯の登呂の弥生後期層で鍬先を使った木鍬があるはずがない。 >>103
神奈川県逗子市の池子遺跡では弥生中期後半の木製品が大量に出土しているが、鍬先は全部木製型だ。
袋鉄製鍬先はみつかってない。鉄器そのものがない。 >>104
浜松市の千人塚古墳から鉄製鍬先が出土している。
この古墳は5世紀の築造だ。 >>92
>福岡に鉄鏃が1000万個存在したと主張するのかいww
つまりキナイコシが主張しているのは机上の空論なんだよ。 静岡県の鷹ノ道遺跡。
登呂遺跡の北方に広がる弥生〜律令にかけての遺跡。
鉄製鍬先が出土。
この鍬先はU字型。
U字型鍬先は古墳時代に用いられるようになった。
袋状鉄製鍬先は出土なし。
静岡県浜松市の須部U遺跡。
弥生時代 鉄器出土なし。
古墳時代 鉄斧、鉄鍬先出土。 ほとんど一人で造ったのかな、なぜ知っている人がいるんだろう。
『2ch 偉人 aa』ほとんど仮名。 後の〜そういう家のホンモノの写真なのかな?
ドンバ、ドラクエ、・・・、・・・、・・・その他。 仏教、黄金の寝言は寝て言え?
もれ(仮)の父親の子供の頃、
あのような雰囲気なんだけどw
頭も坊主頭で、耳は違うけど。 王母・・・寒いな・・・、
こういう名前の家なんだけどw何なんだろう。
本当に何かの家なのかな。 勝〜!みたいな事を言っている人がいたでしょ、
そういう名前、父親の下の名前w
ドンバ(不明)の写真は、
老婆も生まれていない頃の写真だと言っているから、
詳しいことはわからない。 子供の頃の話、魚が好きで・・・という話もしているし。
肉なども食べてなかったのかな?老婆も創価に入っていない頃の話だしな・・・。 父親が子供の頃、
あの辺り(グンジ川俣町)の辺り・・・に疎開したと言っていたのかな?
実際に住んでいたという家があるでしょ、
いつ頃、家に戻ってきたのかは、わからないんだけど。
まさか、そのときも、泥棒のようなものに入られたり? 安部川沖積平野の末端の平地にある登呂と三輪山、巻向山直下の扇状地にある纏向とでは、その土質は明らかに異なるだろうな。
纏向の土質は、むしろ青谷上寺地の土質と似ているのではないか。
とすれば、纏向の土質は鉄が錆びにくいものである可能性が高い。
もしそうなら、纏向の土壌は鉄を錆びやすくする土壌だから鉄が出土しないのは当たり前と胸張っていた大和説者は大恥かくな。
はやく纏向の土壌を調べてもらいたまえ。 >>118
そもそも鉄製鍬先を装着した鍬は固い土質の耕作を目的とするものであり、登呂のような軟弱土質の水田地帯では鉄製鍬先は必要ではなく、鉄製鍬先を装着しない木刃のままの鍬が用いられるそうだ。
つまり、登呂で鉄製鍬先を探してもみつからないだろう。
そもそも登呂では鉄製鍬先は必要ではなかったということだ。
その代わり、木製鍬などは驚くほど多数みつかっているそうだ。 >>119
登呂の矢板の加工痕について次のような解説がみられるな。
「…関野克が静岡県登呂遺跡の土木建築用材をともに検討した。そこでは、材に残る加工痕から斧、鑿などの鉄製工具の存在を推定している。
…しかし、近年、杭や農具味成品に残る加工痕をもとに、主要な木工具が石製か鉄製かを識別し、工具金属化の地域差が論じられている…」
微妙な書き方であるが、登呂の鉄器痕とされた矢板の加工痕も実は石器痕ではないか、この時期の登呂ではまだ鉄器普及の時代ではなかったのではないかというふうな印象だな。
西日本ではすでに工具が鉄器化していたが、登呂などではまだ石器の工具ではなかったかというわけだ。
古い情報には気をつけたほうがいいぞ。
(「木器集成図録」 奈良国立文化財研究所史料第36冊) つまり、大和邪馬台国説をはずしさえすれば、大和や登呂で鉄器が出なくて当たり前、木製品や矢板などの加工は石器で行い表面処理は砥石で擦り削ったということに落ち着くことになる。
無理に鉄器があったことにしなくていいわけ。
そして、それが実際の歴史なのよ。
今の歴史観の歪みの一部は大和邪馬台国説に起因している、ということに尽きる。
早く目覚めたまえ。 では、邪馬台国はどこにあったのかということになるが、邪馬台国の位置は八女市〜大牟田市の範囲だろうな。
そして、卑弥呼の祭祀所は山門に、弟が参画した政治や経済の所在地は八女市あたりにあったのではないか。
卑弥呼は狗奴国が攻め入ったために山門から八女に避難していたと考えられるので、卑弥呼の墓はその付近だろう。
墓の大きさは、倭人伝に径百歩と書かれているが、この百歩は大きいという意味だと考えられるので、じっさいの墓の規模は不明だ。
また中国式の殉葬が行われたとも書かれているが、殉葬とは奴隷などを生贄に殺して埋めるものなので、こうしたことが行われたかどうか疑わしい。
卑弥呼に仕えた巫女集団の主だったものが殉死したことはあるかも知れない。
まあ、そういうことだな。
わははははは。 不弥国から投馬国まで水行20日と書いてある時点で九州説はとりえない。九州島突き抜けちゃう。
また、女王國東渡海千余里に倭種の国ありとある。つまり邪馬台国は倭国の東端にあり海に面しているということになる。
想定可能な場所は香川か徳島か三重しかない。
その三県に女性が祀られてる古い神社が有れば、その地下に邪馬台国は眠っているよ。 >>123
水行20日は帯方郡から投馬国までだよ。 >>124
帯方郡から南へ水行20日と読むと、不弥国と投馬国の距離や位置関係が書いてないことになってしまい不自然だ。また、投馬国のみに郡からの水行の日数が示されているのはなぜだろう?やっぱり不自然。 >>125
投馬国へは行かなかったからだよ。
だから里程の記事もない。
邪馬台国が九州北部だとして、投馬国はそれ以外の土地だった。
おそらく宮崎県の都万(妻)だろう。 また転写保存
>>875
>>ただ、それが邪馬台国とは関係ないだろう、という話をしているだけ <
>理由を言わないで? w w w<
「話をしている」という事を否定する証拠も言わないで?。 >>877
それまた、大和説側が、
「自分の主張の証拠を出していない」という事の、
言い訳にならない >>882
>外国通詞が纏向に住んでる必要はさらさら無いだろう
国使など滅多に来ない<
梯儁や張政らが来ている。 >>886
>>相変わらず「九州説には主張がない」か <
>九州説がまた捏造しました<
大和説者が、また、九州説者の発言の一部だけを切り取る嘘つき騙しをして、
それで九州説者を誹謗罵倒する、
というインチキの捏造誹謗をしました。 >>890
>実際詐欺やってるのは九州説だという証拠さっき出たばかり<
実際、詐欺やってるのは大和説だ、
という証拠さっき出たばかり >>98
それで、登呂遺跡出すのはいいけど
マキムクの鉄が溶けて無くなったという証拠は?
なければ、どこの遺跡でも鉄が溶けて無くなったと言いきっりゃうよ。
縄文時代の遺跡にも鉄があったけど、溶けて無くなっちゃったでいいんですか? 前スレで
あほが
「刃渡り=砥石の大きさ」みたいなこと言ってたがバカだね
刀の研ぎ方も知らん奴はこれだから困るんだよな?
鉄はまず叩いて、鋭利にするの第一段階
第二段階に砥石を使う
この時、砥石が大きいと力が分散されるのであまり大きな砥石は使わない >>897
>これも詐欺なー
何度証拠突きつけられても懲りない九州説 <
これも詐欺なー 。
相変わらず懲りずに、「証拠を何度突き付けた」という事の証拠を提示しない。
何度、「南→東」などの嘘つきだましの証拠突きつけられても、
懲りない大和説
何度証拠突きつけられても懲りない九州説 >>135
おれも書き込もうとしたが
その通り
キナイコシは何も知らないね >>898
>ホケノ山も庄内2だからバッチリ整合だぞ<
庄内1の石塚が3世紀末だから、
ホケノが庄内2であっても、3世紀末〜4世紀。
実際には、ホケノは庄内3で、ますます整合しなくなる。 >>904
文献や考古の史料事実や史料実態を、
完全無視しないと一歩も進めない大和説に未来ナッシング >>909
>その愚痴も証拠がナッシング 九州説はおしまいだね<
「南→東」などの嘘つきだましだけではなく、
この愚痴誹謗投稿にも証拠がナッシング
大和説はおしまいだね >>1よ眼を覚ませ 巻向王都は無い
マキムクを王都とか言い出した学者が残したものは
吉野ヶ里や、平塚川添遺跡、伊勢遺跡等と比較されてバカにされただけだよ
古墳造営キャンプ地の路線で進むべきだったよ巻向は >>910
>>ホケノ山古墳は4世紀だろうな<
>これが「自分の説に合わせて出土年代を偽る」の典型では?<
これが、
「文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論」をする九州説者を、
自分の大和説に合わせて「出土年代を否定偽造する」大和説者の、
典型では? >>911
>『・・・奈良県立橿原考古学研究所は、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、
出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が
4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており・・・』
物理的には測定結果のうち新しい年代をチョイスするべきなんだが?<
成程。 >>912
>どっちをチョイスすべきかは調査をした人間が判断するよ <
どっちをチョイスすべきかは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らでは×であり、
普通の成人の人類の常識が判断するよ >>912
>どっちをチョイスすべきかは調査をした人間が判断するよ <
これは、馬鹿発言だな
調査に私情は挟むべきではない、
調査で見つかった物証なりを精査するのは調査した人間だけじゃない
調査結果とその後の私見とは別物
まぁ畿内説互助会は後押しするだろうがwww >>917
>調査の仕組みが分かってない素人さん
言えば言うほど恥じかくよ <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説学者さん、
ウソを言えば言うほど、恥をかくよ >>918
>いや、合理的な結論を選ぶ <
いや、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者は、
非合理な結論の方を選択している 巻向遺跡
矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本
掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23m2の建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物
竪穴式住居は多くない
碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土
鍛冶遺跡。畿内で鉄が精錬された4世紀後半のものと推定
遺跡内に点在する古墳
弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土(うち15%は搬入土器)
朱色に塗った鶏形木製品
木製鏃 石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品
箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つ前方後円墳 墳丘長278m
他
倭人伝に詳しい方にお聞きしますが
以上の物証で卑弥呼の王都と断定できますか?足りないものは何ですか? 登呂遺跡を出す必要はないよ
畿内説がみじめになるだけ >>920
分かってないようだから、中学生向き程度に説明してあげる
自然や歴史の科学や学問においては、殆どが不可知部分であり、
だから、我々人類は、知り得た僅かな事実僅かな事実関係からの、人類の常識に従った、
帰納的な確率的ないろんな推論をして、確率の高い推論を選択しなければならないのであり、
見聞観察実験計測して得られた僅かな事実関係を、
否定したり、曲解したりする論法は、確率が低く、否定せざるを得ない、
という事なのです。
つまり、二つ以上の矛盾し合う推論があった場合には、確率の高い論を選択し、
確率の低い論は、別個の新たな史料事実などが出現するまでは、保留否定しておくべきだ、
という事なのです。
「南→東」などの「史料事実を否定曲解」の嘘つき騙しになる大和説者の論法は、
人類の常識外れであり、機械的に間違いである確率が高い、
という事なのです。
まあ勉強してくださいね。 最低限で、いいから 邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏には、勉強が必要なのだったね。 邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏は、論破されたので、自殺してしまったのだろうか、、 相変わらず 畿内説は進歩が無いな
マキムク何回 調査してるの
何も進歩無いな >>141
賛同
マキムクを古墳造営キャンプ地で研究したほうが桜井市の観光に役だったと思う
前方後円墳の作り方とか、全国の古墳のミニチュア展示のミュージアムを作り、弥生期の古墳造営の道具なり展示すれば
観光客はいっぱい集まったと思う 現物の古墳も周りにあるし 奥山はなぜ、登呂遺跡を持ち出したのだろう?
ベイズ 九章算術で「 痛い目に合ってるのに
また 恥の上塗りするのかねーーー お前の言う、つぶやき?だけど、
刑務所に行ったほうが良いぞ、どちらかという精神病院のほうが、お似合いw
低脳だと言っているんだよ。 『聖化 日神 日霊 津』
傾いた松の木・・・、なぜ家の写真と同じなんだと思う?
本の(作者)著作者などがいるでしょ知り合いでもないし、
どこかの工作員もない。 『鳳輿』ググールで検索してみた?画像。
きゅうりの葉、葱の華・・・、
そういう写真も貼り付けたはず、それも家の写真なんだけど。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww、
大爆笑だと言っているんだよ。 気付いている人は気づいているんだよ。
低脳、どこの池沼なんだ?と・・・
このスレで、言われたのが嫌なんだろう?
低脳は低脳だろう、どこの池沼なんだ?お前に言っているんだよ。 つーちゃん、ファイブちゃんねる?ではなくても同じ。
お前は低脳だと認識された、おそらく世界中の人々に、そう思われている。 例えば
家と名前が同じだというだけで、
実際は・・・みたいな話。
家の写真なんだけどw葱の華・・・。
傾いた松の木?松の木の立てられている写真など。 暴力団 やくざというわけではないんだけど、白い服w
『暴力団 白い服』
このような服の写真もあったでしょ、たしか貼り付けたはず。
家の写真なんだけど、何かの家なのかな? 【倭の五王の遣使】
〜東晋、この周辺の話も出てくるし。 テンノウが〜みたいな事を言っている人もいたりするけど、
その当時、テンノウはいないし。低脳なんだろう。 とある人物なども同じ、〜皇族(皇別)?みたな事が書いてあるでしょ。
ほとんど後付けなんだよと言っている人もいたりw また転写保存
>>985の訂正
「史料事実からの帰納的確率的な推論の九州説」は、普通の史学の会だけど
現在の大和説の史学では、
「邪馬台国とか畿内とかの、存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使っているのであり、
それだけでも、嘘吐き騙しのインチキ詐欺であり、
それに対して九州説は、
史料事実や史料実態を前提にしての帰納的確率的な推論の論文が書かれたり、
研究がされたりしているということ >>986
ほらほら「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、
何の思想に基づくまじないごっこか知らないけれど
嘘ばっかついてても何にもならないからな
何か呪いの力とか、本当になかった学説は、国民に承認される説にならないだろうし
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの大和説を主張する人間も、
存在しないだろうし
こんなスレも立たない >>988
「史料事実や史料実態」の現実を見て、
それからの帰納的確率的な推論をした方がいいのは、
大和説じゃないかな >>172
それを渡来人と言わないのが日本史用語の変な所なんだよ 魏と交易していた「倭人」は畿内人とは別人
九州から日本海沿岸の海上ルートを押さえていた「海人」
湿潤耳垢:弥生系「倭国」筑紫、出雲、越
乾燥耳垢:古墳時代以降に流入した半島(ツングースク)系「日本国」
https://i.imgur.com/VqqGojH.png
だが少し遅れて畿内に上陸した半島人
彼らは少し違う、妙に偉ぶるクセがあるのだ
旧唐書には彼らのいうことが不誠実で信用できないと書かれていた
キナイコシのようにああ言えばこう言う、言い逃ればかりしていたのだろう 何々様なんて言われたんだよと言っているし、
たしか・・・・嫁の家。
ドンバ(不明)の嫁、嫁の家? 50以上もスレを立てては放置を繰り返す狂人連続句読点 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! .
402 名前:日本@名無史さん 2020/04/11(土) 21:16:00.20
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 九州説論者の狂いっぷりを示すスレのひとつ
の間違いだろw 弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 筑紫生まれの大山祇や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています