秦氏はどこから来たか 4
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。 広隆寺は創建時に本尊として弥勒菩薩像が安置されたとされている
ユダヤ教では十戒により、主が唯一神であり、偶像崇拝は禁じられている 唯一神との契約を守るのがユダヤ教徒なので
お約束を破ったらユダヤ教徒ではない ユダヤだのトルコだの言ってるけど、秦氏の生活痕遺構から出土する衣食住に関する
生活文物や住居跡からは何らの考古立証もできないね。
秦氏は新羅系の生活土器を遺して、土壁の住居跡を遺した。
秦氏は新羅系か、それに近い集団だとしか考古立証できないね。 移住した国の文化を受け入れて仏教徒になったら
ユダヤ教徒ではなくて仏教徒 渡来してきたユダヤは日本に溶け込んだけど、完全にヤハウェを消し去る事はできないから
八幡大菩薩をヤハウェとして祀った。全国に八幡社が一番多い理由がそれだろうな 阿直岐を祖とする氏族で良いのではないのかな?
この時、氏姓は無かったかも知らんけど?
百済を傀儡立国して、高句麗戦を始めたてたころ。
東晋から未開人を教化するために来た博士僧侶の類でしょ。
七支刀よりは後として王仁の前だから400年辺りじゃないかな?
始皇帝の後みたいのは、天皇が氏姓を与えるついでに
始祖を神話から持ってきちゃうみたいなはったりだなw
皇統神と一緒に氏神を祀らせたんだよ。
トンデモにする必要は無くないか? それにしても日本の漫画やアニメ、ゲーム・・・、
その他の創作関係、元ネタ(キャラ)など。
本当は某氏、某氏・・・の話だろうと、わかる人にはわかる。 あと一部の芸能なども同じ、
某氏や某氏・・・某氏のモノ(パフォーマンス・・・。)を踏襲したものばかり。
『レッド・クローンズ』 ほんとーは・・・、
秦氏、某氏や家のヲタ、ファンばかり。
確実に「❓」気づいていない人もいる・・・、
そのような人物のことは知りませんとかw .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>10
それ東漢氏じゃなかった? 調べてないから分からないですが 阿直岐と阿知使主が同一人物の可能性が高く、阿知使主は東漢氏の祖で、
のちに百済から王仁を招聘した 名前からして王仁は百済に取り込まれた漢人ですか 存在したかどうかも怪しいらしいですが >>11
例えば藤原氏とかですか? 例を挙げてもらえませんか わかりません 古代イスラエルから来たというのは偽装だ
確かにシルクロード沿いにユダヤ人の集落があるし
神社は幕屋だろう
だがしかし、秦氏は秦の始皇帝に追い払われている
それで秦氏を名乗るのはおかしいのだ
秦の始皇帝はユダヤ人で、その使いである物部氏もユダヤ人
その物部氏の神社神道を秦氏が乗っ取った
神社の祭を見よ
なんとも下劣な朝鮮人がやってるではないか
あんな連中に神社の文化があるわけないのだ
そして奪った神道だから中身が空っぽなのだ
三種の神器は真似し切れてないので
モーセの三種の神器は剣山にあることにして、お遍路さんをやらせた
天皇はダビデの末裔だってことにするために
ユダヤ人が逃げ出した時点で天皇が始まってる必要があり
だから実在する天皇の前に千年分の天皇をでっちあげ
その天皇の墓を適当に古墳に割り当てたのが明治時代だ
当時は年代測定なんて技術かないからバレるとは思ってなかった
年代測定すればでっちあげ天皇と墓の年代が不一致になるので
宮内チョンは古墳の調査を禁じている
じゃあ秦氏はどこから来たのか
それはツングースだ
北海道とバイカル湖の間のシベリアだ
そこから寒冷化で南下して高句麗へ
高句麗から百済が分裂 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 国宝ガラスは古代イラク由来 沖ノ島出土、調査で判明
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1583118564/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56258390S0A300C2CR0000/
世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、
調査の結果、5〜7世紀のメソポタミア由来と分かった。
ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、
大規模な祭祀(さいし)の際にささげられたとみられる。 秦氏はミトラ教徒であったというこのスレの議論の結論は出ている 秦氏の頭領は大天使メタトロンを信仰していた神官の一族ということでしょう オルドス式短剣・燕山地方短剣
鋳型に彫られた短剣は柄頭にある双環など中国の春秋戦国時代
(紀元前770〜紀元前221年)のオルドス式と似た特徴がある。
協会によると、上御殿遺跡は日本海まで約30キロと近いことから、
日本海を通じて大陸と交流した可能性があるという。
http://doutaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/01/29/photo_13.jpg
滋賀県高島市・上御殿遺跡 双環柄頭短剣の鋳型出土
http://doutaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/01/29/photo_11.jpg 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」を隋の使節団・文林郎・裴清は
「そこの人々は華夏の人々=中国の古代国家「夏」と同じである」と報告している。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、
黒海や中央アジア で作られたと考えられている。
新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
秦氏と関係深い、石清水八幡宮の神紋(三つ巴紋)
https://stat.ameba.jp/user_images/20180424/17/kenbuncho2017/7c/b4/j/o1179037914177012945.jpg 新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は「そこの人々は華夏
(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
秦の始皇帝陵、兵馬俑と日本の古墳から出土する、
武人埴輪の甲冑が良く似て居り、墓の回りには大量の土器類を配置する形式も同じ。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/08/77/src_11087751.jpg?1451096009
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/880/67/N000/000/008/144647630137934814179.jpg (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. なんとインドにはハタ・ヨーガという有名な言葉がある
ハは太陽、タは月という意味らしい
またハは陽、タは陰という意味もあるらしい
しかもハタ・ヨーガができたのは10世紀以降
秦氏の知識がインドに渡ってハタ・ヨーガになったのかもしれない 秦氏のユダヤ人説は偽装
秦氏が、ユダヤ人である秦の始皇帝に追い払われているのがおかしい
追い払われたのに「秦」を名乗っているのがおかしい
騎馬民族の秦氏に神社の文化があるわけない
秦氏は、ユダヤ人の物部氏の神社神道を乗っ取った
天皇は秦氏から出ていると言われるが
天皇の三種の神器は、モーセの三種の神器と違う
そしてユダヤ人がモーセの三種の神器を東の果ての剣山に捨てて帰るわけがない
モーセの三種の神器は紅海を渡って、エチオピアに避難した
秦氏の神社には狛犬がある
狛はツングースを示す
獰猛な馬賊の秦氏は、ツングースから南下して来たサイコパス人食い馬賊だろう
中国人が万里の長城を作った理由は、秦氏に食われたくないからだろう
秦氏の馬が万里の長城を越えられないから、半島、日本に来たのだろ >>36
人間と猿の違いは、穀物を加熱して食ったことに始まる
それでブドウ糖が脳でグリア細胞になって大脳が発達する
日本の獰猛な上級国民=朝鮮人は焼肉を好み、食肉業界は朝鮮人が独占している
天皇を含めた、奴らの低知能は、ツングースの肉食遊牧民だったことが原因だろう
肉食では猿のままだ
ちなみにアジアの稲作地帯はIQが高い
パン食やパスタでも同様と思うが .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>39
嘘を書くなオカルト野郎 デタラメばかり
X 騎馬民族の秦氏 馬賊の秦氏は、ツングース
→ 真逆やボケ 稲作や養蚕、土木技術、文筆(つまり漢字を操る)に長じた秦氏は明らかに漢人系
X 天皇は秦氏から出ている
X 秦氏の神社には狛犬がある
→ 狛犬は遣隋使、遣唐使が仏教と一緒に持ち帰った 秦氏とは関係ない .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。
漢字、カタカナ文字はギリシャ系の人達が持ち込んだのか?
中国新石器時代の甲骨文字、象形文字などは、後の漢字とは似ていない。
漢字の一二三、ギリシャ数字のTUVなどは同じ思考のように感じる。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A
「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の
王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する κορώνη(korṓnē コロネ)に由来する。
カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と読みが理解できる。
「君」と言う文字を思い付いた人物はギリシャ・ラテン語を理解し
カタカナ「corona(コロナ)王冠」の意味も発音も理解できた人物である。
意味は天下に号令する人、 天子・帝王・諸侯。 また人の上に立つべき徳のある人。
君(きみ、クン)とは、主に東アジアの漢字文化圏の王朝でみられた君主の称号(君主号)
または皇族・王族、貴族(特に外戚・功臣)の称号。 日本の神話にはギリシャ神話と共通するものが多く
スサノオとヤマタノオロチ退治。ヘラクレスとドラゴン退治など
それと、漢字の哲学的意味などは旧約聖書から引用されたと思えるものが多い。
「義」我は仿子羊。「船」八人が箱船によって救われた。
「禁」神は二本の木を示し、そこで禁止事項を語られた。 などなど。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 「カタカナ」文字は東アジアに来る前に
ギリシャ・ラテン系の交易商人たちの間で私的に使用された文字なのかも、
現地語をラテン語に変換するのに簡単に表記でき、他の部族から秘密が守られる。
それで、ヘブライ語がカタカナに似てて、意味も同じとかの話題とも通じる。 中国の半坡陶符文字とギリシャ・クレタ島の線文字Aが現楷書文字に似てる。
半坡陶符
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%9D%A1%E9%99%B6%E7%AC%A6
半坡陶符(はんは とうふ)は中華人民共和国西安市の半坡遺跡から出土した、
新石器時代の文字に近い形態の記号の一種である。
これを漢字の起源であるとする研究者も存在している。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋、神紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 2003年に流行したSARS(SARS-CoV)では、日本人の感染者はゼロでした。
民族による偏りが大きい事に気づいた台湾の研究チームが調査した結果、
HLA型が HLA-B46、HLA-B54(中国南部、香港、台湾に多い)に感染し、
HLA-B46のみ重症になる事が判明したそうです。
SARS(SARS-CoV)で感染するといわれていた、HLA-B46、HLA-B54は、
日本人でも HLA-B46 は全人口の5%、HLA-B54 は7-10%程度いて、
近畿から九州に多いとの事なので安心というわけではありません。
ただ、もし日本で大流行する事になったとしても
約90%の日本人は重症化しにくい? のかもしれません。 秦氏、蘇我氏が歴史に登場する5世紀後半〜6世紀前半に何があったかがわかれば謎が解ける
5世紀後半〜6世紀前半に何があったか
日本の古代史における大きな3つの事件
・継体天皇即位
・任那四県割譲
・磐井の乱
だろう
この3つの事件は当然一連の事件と考えるべきである このスレで誰も「任那」について言及してないのが不思議で仕方ない
謎に思わないのか?
日本は任那に「任那日本府」という交易拠点を置いていた
この任那日本府について、どのような役割だったのかは諸説ある
しかし、日本が任那に常駐機関を置いていたことに異論はないだろう
つまり、倭の豪族の誰かが任那に常駐していたということだ
誰が常駐していたのか
そしてそのうちの誰かは「任那四県割譲」で任那を追い出されたはずだ
誰が追い出されたのか
ここがポイントである
任那四県割譲のすぐ後の時代に、
急に有力豪族に躍り出た、出自のわからない豪族がいる
秦氏、蘇我氏である そう、秦氏、蘇我氏というのは
在任那倭人豪族だったのだ
彼らは任那の縮小によって、倭国に帰国してきたのだ
先進の仏教と語学、技術と情報を身に付けて
継体は彼らを重用した
彼らの技術と情報は、まだ出来て間もない継体王朝を成り立たせるのに必要だった
蘇我氏の系譜を辿ると、蘇我高麗がいる、蘇我韓子がいる
名前を見れば、書いてあったじゃないか、真実が
蘇我高麗、蘇我韓子ともに事績が残っていない
そりゃそうだ、遠く離れた任那にいた彼らの細かい情報なんて誰も把握していない >>39
狛はコマと読み
高麗もコマと読む
倭人からしたら、扶余族も含めたツングース系の遊牧民はみな「高麗の仲間」という認識
後にタリシヒコが隋に強気の国書を送ったのも隋がツングース系遊牧民の国だから過小評価してたからだよ そして百済も同じ扶余族の国
新羅だけが扶余族じゃないんだよ
新羅は元は辰韓であり秦なわけ
それに加えて新羅には倭人が建国に関わってる とりあえずあげとく
任那の駐在官は、
・継体天皇即位
・任那四県割譲
・磐井の乱
の3つの事件でどうなったか
それを考えないと何もわからないよ 「10人の言葉を理解する聖徳太子」
これはどういう意味を持つ説話なのか
聖徳太子の右腕左腕といえば秦氏と蘇我氏だ
秦氏は任那の対新羅担当官
蘇我氏は任那の対百済担当官
その秦氏、蘇我氏に幼少期から英才教育を受けた聖徳太子は当然
日本語、任那語、百済語、新羅語、そして中国語や高句麗語を理解し話しただろう
これが「10人の言葉を理解する」という逸話の真の意味である 任那語、百済語、新羅語、高麗語の違いを教えてくんろ 具体的にはわからんよ
でも「同じだった」とはならないでしょ
たとえばヨーロッパだと同じゲルマン系でもドイツとフィンランドとイギリスでは言葉が違うだろ?
場所的にもそんな遠くないのに
同じラテン系でもフランスとスペインとポルトガルでは微妙に違う
スペインとポルトガルは隣だし共通した単語も多いけどまったく同じではないわけだ
それを考えると韓三国や任那で言葉が同じだったとはあまり考えられないんじゃないか?
ある程度似てたとは思うが 蘇我氏が任那駐在官の百済高句麗担当だとすれば
蘇我稲目が仏教を強く推進したのは当然なんだよね
「倭国以外みんな仏教っすよ」「神道なんてわけわからんの信じてるのウチだけっすよ」「俺も任那いるときは普通に仏教やってましたよ」「仏教くらい知っとかないと倭国バカにされますよ」と
当然そう思ったしそう働きかけただろう そして百済系の仏教、つまり蘇我氏系の仏教を日本は受け入れることになったわけだ
面白くないのは、物部氏、そして中臣氏だろう
この中臣氏というのも出自がよくわからない、いきなり出て来た豪族だが 中臣氏に関しては、俺は九州磐井の部下だったんじゃないかと思う
磐井の乱で筑紫君は領地縮小
筑紫君の北部九州支配は終わり、筑紫君派追従豪族もヤマト朝廷へと鞍替えになった
(九州王朝説とは言ってないぞ、しかし律令のない中で九州が半自立的な立場を取っていた時代があったのは想定できる) で、その九州筑紫君派の有力豪族が中臣氏だったんじゃないか
だから新興豪族のくせに蘇我氏などとは違って仏教を推進しなかった
中臣氏は後に藤原氏となり記紀の編纂に強い影響力を与えた
皇室が九州から来たという説話は中臣氏の故地が九州だったからじゃないだろうか 磐井の乱の背景を言うと
倭の五王系は中国南朝と結んで倭国の広い地域を支配してた
その倭の五王系から継体天皇に半ば王朝交替する形で皇位継承がなされた
地方豪族は「ワカタケルの子孫っちゅうからヤマトに従ってたけど、継体天皇なんか知らんよ」ってなったのは想像できるよ
一番困ったのは「ワカタケル鉄剣」をもらった熊本と埼玉の王だよ
熊本と埼玉の王は「反乱するか、従うか」を迫られたし
その周りの豪族は「お前が反乱しなくても俺は継体なんかに従わないぞ」と言ってきただろう
磐井の乱と同時期に、埼玉を含む武蔵国でも武蔵国造の乱が起きてる ちょうどあれに似てる
漢に金印をもらった倭奴国が、
漢の滅亡とともに覇を失い倭国大乱が起き、
邪馬台国に覇権が移ったと
これを置き換えると
ワカタケルに鉄剣をもらった熊本が、
倭の五王系の滅亡とともに覇を失い乱が起き
勢力図が塗り替えられた 熊本や埼玉だな
熊本は阿蘇ピンク石を見るに、
早々と継体側についたんだろう
このときの功労者が中臣氏かなと思う
中臣氏は阿蘇と継体ヤマトのパイプ役だった
そして皇室の宗教や葬儀をつかさどった
葬儀につかわれたのが阿蘇ピンク石だ 秦氏は在任那官の新羅方面担当だろって言ってる
秦氏が秦王朝の末裔を名乗っていたとすれば、長期間に及ぶ在任那中に新羅王族との血縁があったのかもしれない ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。
漢字、カタカナ文字はギリシャ系の人達が持ち込んだのか?
中国新石器時代の甲骨文字、象形文字などは、後の漢字とは似ていない。
漢字の一二三、ギリシャ数字のTUVなどは同じ思考のように感じる。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A
「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の
王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する κορώνη(korṓnē コロネ)に由来する。
カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と読みが理解できる。
「君」と言う文字を思い付いた人物はギリシャ・ラテン語を理解し
カタカナ「corona(コロナ)王冠」の意味も発音も理解できた人物である。
意味は天下に号令する人、 天子・帝王・諸侯。 また人の上に立つべき徳のある人。
君(きみ、クン)とは、主に東アジアの漢字文化圏の王朝でみられた君主の称号(君主号)
または皇族・王族、貴族(特に外戚・功臣)の称号。 日本の神話にはギリシャ神話と共通するものが多く
スサノオとヤマタノオロチ退治。ヘラクレスとドラゴン退治など
それと、漢字の哲学的意味などは旧約聖書から引用されたと思えるものが多い。
「義」我はさまよえる子羊。「船」八人が箱船によって救われた。
「禁」神は二本の木を示し、そこで禁止事項を語られた。 などなど。 中国の半坡陶符文字とギリシャ・クレタ島の線文字Aが現楷書文字に似てる。
半坡陶符
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%9D%A1%E9%99%B6%E7%AC%A6
半坡陶符(はんは とうふ)は中華人民共和国西安市の半坡遺跡から出土した、
新石器時代の文字に近い形態の記号の一種である。
これを漢字の起源であるとする研究者も存在している。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋、神紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 2003年に流行したSARS(SARS-CoV)では、日本人の感染者はゼロでした。
民族による偏りが大きい事に気づいた台湾の研究チームが調査した結果、
HLA型が HLA-B46、HLA-B54(中国南部、香港、台湾に多い)に感染し、
HLA-B46のみ重症になる事が判明したそうです。
SARS(SARS-CoV)で感染するといわれていた、HLA-B46、HLA-B54は、
日本人でも HLA-B46 は全人口の5%、HLA-B54 は7-10%程度いて、
近畿から九州に多いとの事なので安心というわけではありません。
ただ、もし日本で大流行する事になったとしても
約90%の日本人は重症化しにくい? のかもしれません。 >>75
三つ巴のマークは秦氏も好んで使ったものだな
秦氏は神社の鳥居すら三つ巴形に並べた >ともかく、片仮名の「コロナ」の文字が読めて、
>ギリシャ・ラテン語の「王冠・光冠・君主」の意味を知ってる者たちとは??
>彼らが秦・前漢時代に甲骨・篆書文字の意味などを基に隷書漢字を整理して行った。
片仮名のルーツとなる古ヘブライ・アラム文字
http://www.historyjp.com/images/1208_5a.jpg
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ 秦氏と云えば、八幡神社をはじめ色んな神社に関わり
神紋として多くの神社は「三つ巴紋」を使ってる。
秦氏は「三・参・山」の絡みがあり「参まいる」神社にお参りも意味深。 クレタ島と云えばミノア文明で牛頭信仰の島で、日本の牛頭天王と関係あるかも。
「牛頭リュトン」 紀元前16世紀のもので、ミノア文明の牡牛信仰に基づいている。
彼らは甕棺墓、S字形の渦巻紋の文化も持ってる。 埴輪文化もある。
http://yuuhis.travel.coocan.jp/queenelizabeth.hp/queen9cretemuseum.htm アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征
(現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、アフガニスタン北部)
ギリシャ・マケドニアの王で前334年に東方遠征を開始、
前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。
征服した各地にアレクサンドリアを建設、ギリシア人を入植させ、ヘレニズム世界を現出させた。
前323年にバビロンで死去、その後、帝国は後継者たちによって分割された。
バクトリアはアム川上流域、現在のアフガニスタン北部から北西インドを支配した国。
アレクサンドロスの遠征に従って来たギリシア人が建てたヘレニズム諸国の一つ。
前4世紀後半にアレクサンドロス大王は、東方遠征でアム川(現在のアムダリア川)流域を
征服し、バクトリア、ソグディアナにギリシア人を入植させ、支配を行った。 秦国は(紀元前778年 - 紀元前206年)からの中国の王朝で
周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて全土を統一、
紀元前206年に滅亡した。 統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。
>この秦国の中へ、アレクサンドロスの東方遠征軍の子孫たちが
>多数傭兵や官僚、交易商人の形で浸透し、のち王室を簒奪するまでに成ったんだろ。 そして、秦王朝の係累者や支える家来たちが
朝鮮半島南部に辰王国を起こし後の新羅地域に辰韓国を樹立した
彼らは自分たちを「邦」の人と呼び、
ローマ文化を取り入れ金銀やガラス、ヒスイ、などの加工に匠だった。 >>84
アフガニスタンからでもどんだけ咸陽から離れてるか分かってんのかエテ公? 中国甘粛省 者来塞村 ―古代ローマ人の末裔たち―
紀元前53年、強大な古代ローマから4万人の兵が、クラッスス統帥に率いられ出征し、
パルティア国(現在のイラン)にて広大な土地と大量の金銀財宝を略奪した。
しかしながら一年後、敵に包囲されて、惨敗し、生き残った部隊は、アルバニアへ向けて退却した。
だが、またしても彼らは不意をつかれ、ペルシャ軍に囲まれてしまった。
激戦を経て、クラッススの長男が指揮する第一師団6000人が幸いにも壊滅状況から逃れた。
数年後、ローマ帝国とパルティア国は和議の条約を結び、互いに捕虜の返還を始めた。
捕虜返還が終わったのち、ローマの人々はひどく失望することになる。
当時、敵の包囲を突破した第一個師団が、影一つ残さずして、消え去っていたからだ。
第一師団の消失は、ローマ史上、懸案事項として、千数百年来、
西洋の史学界を悩ませてきた。 歴史学者・関意権は、研究を進めるうち、中国において、この懸案事項についての
新たな歴史的解釈を発見した。
2000年前、敵の包囲を突破したローマ帝国第一師団の数千名が、前漢軍の捕虜となり、
中国西部へ送られたというのである。
中国の歴史書(漢書・陳湯伝)には次のとおり記載されている。
紀元前36年、漢西域、最高長官である甘延寿と、副校尉である陳湯が、
4万人の精鋭兵を率いて西域を出発し、匈奴を討伐した。
この出征中、彼らは匈奴軍の配下に、きわめて奇異な傭兵部隊がいるのを見た。
ある歴史学者は、そのとき陳湯が見た傭兵部隊は、
かつて匈奴に降伏したローマ軍であると考えている。
ここから推測するに、そのとき出現したローマ人部隊は、
失踪したローマ第一師団の残軍に違いない。 歴史書には、甘延寿と陳湯はローマ人を捕虜として中国へ連れて行き、定住させた、とある。
そして漢政府は、特別な県を設置した。それが、すなわちリチェン県である。
また同時にリチェンの町を整えた。リチェンというローマ国を指す言葉を県名とした理由は、
一つしかない。 そこにローマ人を定住させたからである。
古代リチェンの遺跡さえ見つかれば、リチェンとローマ人の関係が紐解ける。
20世紀80年代、関意権は蘭州を出発し、河西回廊をに沿って西へ、
歴史書に書かれていた甘延寿の軍隊が通った道を進み、
ローマ人が定住した形跡について実地調査した。
1996年、蘭州大学歴史学部教授、陳正義の協力のもと、関意権と彼の長男、関亨は、
大量の地方歴史書を調べ、50万字の研究文書を整理し、
中国西部ゴビ砂漠にある70の古い町の遺跡について、さまざまな方向から、検証を行った。 親子は、甘延寿がローマ人捕虜たちを定住させた地が、
今日の甘粛省永昌県であることを、突き止めた。
甘粛省永昌県者来塞こそ、関親子が長年探し求めていた、古代リチェンの町であると、
ローマ人捕虜たちが定住した地であると、出土する文物の一つ一つから証明された。
者来塞の村民たちは、中国語を話し、漢族に属するとされているが、
400名のうち、200名がヨーロッパ人のような顔だちをしている。
先ごろ、中国科学院古人類研究所の研究員が、者来塞の村民300名に対して
DNA分析を行ったところ、この村の人々は確実にヨーロッパ人の血を引くことがわかった。
(人民日報海外版、2002年1月25日より) 者来塞村に住む古代ローマ人の末裔
甘粛省永昌県の県境にある「者来塞」という村は、もともと異国情緒をおびた
古代の砦であった。20世紀に入り、砦はしだいに残骸と化していった。
しかし、どのような変遷を遂げようとも、者来塞の人々は、彼ら固有の民族習慣を保ち続けた。
ヨーロッパ人が作るピザに似たパンを食べ、牛への伝統的な崇拝を続け、
祝日には牛の頭に似せた供え物を作り、手に赤い布を翻し闘牛の祭りを催してきた。
村人たちの中には、代々、ヨーロッパ人に非常によく似た容貌を持つ者がいる。
背が高く頑丈な体つき、高い鼻、深い窪みのある目、褐色でウェーブがかった髪、
比較的長い体毛、赤みを帯びた肌をしている。 漢王朝以前の古代中国山東省、黄河下流には、白人の国が存在していた?!
現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、
現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。
古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。
そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、
遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。
2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、
中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、
約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある
春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得た
ミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表しました。
その結果は、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は
現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は
現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近いという結果になり、
現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらなというものでした。 日本のダイコン、中韓伝来ではなかった ゲノム解析で定説覆る
https://special.sankei.com/a/life/article/20200411/0001.html
日本人の渡来ルートと関係か
これまで中国や韓国を経由して日本に伝わったと考えられてきたが、
ゲノムの解析で大陸渡来ではなく、南アジアから伝わった可能性が浮上した。
日本人の渡来ルートと関係しているのかもしれない。原産地は地中海沿岸 【告知】大阪で1番恥さらしな男!!これまで誰一人として語れなかった覚醒剤中毒者の泥沼の世界!!真実のみを赤裸々に語り最低中の最低の究極のゴキブリ男が書いた渾身の力作!!
ノンフィクション自叙伝!!
【ゴミと呼ばれて刑務所の中の落ちこぼれ】
中学2年生の時に覚醒剤を覚え17歳から45歳まで【少年院1回、刑務所8回、合計20年】獄中生活を体験し100%シャブは止めれないと太鼓判を押されていたが、ある女性との出逢いで生き方を180度変えて見事に更正を果たした感動の奇跡の一冊!!
全国の書店、ネット通販なら楽天ブックスで送料無料!! 勾玉の起源は日本
勾玉の発生は日本の方が古い。日本では縄文時代から翡翠の勾玉が出土するが、
韓国では5〜6世紀ごろの翡翠の勾玉が最初である。
韓国と日本でユニークな丁子頭勾玉が出土するが、これも日本の方が古い。
韓国では、5世紀ごろの遺跡から出土するのに対して、日本では3世紀前半ごろの
平原遺跡から発見されている。日本ではさらに古く縄文遺跡からも出土している。
丁子頭勾玉は、勾玉の穴の周囲に丁子の花に似た溝が掘られてていることを特徴とする。
勾玉そのものも特徴的な造形であるが、さらにユニークな丁子模様が日韓で共通していることは、
偶然の一致ではなく、日本から朝鮮半島に運ばれたものといえる。 コロナ=君 、片仮名を合体させた漢字が君
これ大変な事で、漢字を整理決定した人たちはカタカナが理解できてたって事で
コロナ(王冠、光冠)=君(王族、君主) 南シベリアのアルタイ山中のパジリク渓谷から発見された
スキタイ族=サカ族の部族長の墓から出土したこの絨毯は、
その後の調査でなんと2500年前のものということがわかったのです。
パジリク遺跡のスキタイ人物像と馬飾りの「勾玉」
http://tribe-log.com/wp/wp-content/uploads/feltslide17_edited.jpg
パジリク5号墳出土の壁面覆いに見られる「乗馬する男」と「勾玉」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/PazyrikHorseman.JPG 朝鮮半島以外あるわけねーじゃん
アホみたいなスレだな そうです そうなのに日本の古い研究者らは「秦氏は半島からきた 箔付けのために中国工程の子孫を自称した」で止まっています 恥じかしくないのか、と
土木技術集団でもあった秦氏はもっと研究されるべき
ここらへんはまだ最近の出版なので変なイデオロギーには縛られていないだと思う
https://www.kadokawa.co.jp/product/321707000029/ 大秦(だいしん)は、中国の史書に記載されている国名で、
ローマ帝国、のち東ローマ帝国のことを指すとされる。
この国が、歴史的実在としてはローマ帝国であることは疑いない。
それは、『後漢書』桓帝延喜9年(紀元166年)に、大秦王安敦の使者と称する者が
海路到来したと記されており、
その安敦(アントン)王の年代とローマ帝国五賢帝の最後の人、
マルクス・アウレーリウス・アントニーヌスの治世(紀元161年〜180年)とが、
ちょうど重なることからもわかる。 シン (メソポタミア神話)
シン (Sîn) は、古代メソポタミアで信仰された月の神(男神)。
シンはアッカド語の名前であり、シュメール語ではナンナ (Nanna)。
「ナンナ」はアッカド語ではナンナルと呼ばれる。
秦氏が「月読命」を祀っている事実に、もっと注目したい。
というのは、『日本書紀』の一書では、月読命のことを「月弓尊」と表記しているからだ。
「月弓尊」と「弓月君」、弓と月が引っ繰り返っているが、両者が無関係とは思えない。
月読神社 (京都市)
創建当初は 月読命ではなくて月神だった。 松尾大社や月読神社に伝わる系図によると、
月読神社社家は源平時代に松尾社家(秦氏)の女を母とし、秦氏を名乗ったという。 >イラン人、サヘル・ローズがコロナ=君、の話題をUPしてるな。
>これは単に面白いと言うよりも、学問的には大変な事でカタカナは、
>日本で漢字の偏からが崩れ、前漢ころに「漢」でカタカナが使用されてた事になる。
サヘル @21Sahel
知人から頂いた発見。
あたたかいな。
https://pbs.twimg.com/media/EVoAZfUUYAArRoq.jpg
https://twitter.com/21Sahel?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 鳥越憲三郎 説
倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。
分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。
またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。
これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。
h ttps://artworks-inter.net/ebook/?p=1336 秦の始皇帝 (紀元前259年- 紀元前210年)が紀元前221年、全国の統一を成し遂げると、
宰相李斯に命じて定めたという、漢字の統一書体(当時はまだ「大篆」や「小篆」など)。
その簡略体が隷書(現在の楷書体に一番近い)で、漢代に用いられるようになり、
さらに楷書体、行書体がつくられ、現在の漢字になる。
隷書への展開と衰微・変質
そのような国の意図とは裏腹に、小篆はすぐにその形を崩し始める。
法治国家である秦では、下層の役人が現場で事務処理を行うことが多くなった。
彼らにとって複雑な形をした小篆はきわめて書きづらいものであり、自然走り書きが多くなった。
このことが小篆の書体の単純化・簡素化を生み、やがて隷書を生むことになるのである(隷変)。
紀元前206年に秦が滅亡すると、楚漢戦争を経て前漢が立った。
前漢とそれに続く後漢では公式書体として小篆ではなく隷書が採用されることになったが、
このことには小篆の煩雑さを避けるためという意図があった。
またこのような「筆記手段」としての役割を優先した文字政策は、
「権力の象徴」として存在し続けていたそれまでの文字の概念を完全に覆すものであり、
甲骨文以来続いた「古代文字」の時代の終焉を示すものでもあった。 日本の万葉カタカナ「己コ」「呂ロ」「奈ナ」は漢字の偏からの定説でが崩れ、
前漢ころに「漢」でカタカナを使用してた官僚たちがいた事になる。
そうでなければ、ラテン語「CORONAコロナ=君」が王冠を被る王の意味と一致しない。 「漢」でカタカナを使用してた官僚たちがいた
>この官僚集団こそが、後の秦氏だと思ってる、
>なぜなら彼らは秦語を喋り、自分たちを陝西人「邦」の人と言ってるからだ。 【古代】「日本人の起源」探るゲノム 縄文・弥生の「二重構造」に新説 「現代日本人と渡来系弥生人は遺伝的によく似ている」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1587822038/ 三橋貴明 「邪馬台国は九州だ」
https://38news.jp/default/14713
https://i1.wp.com/38news.jp/wp/wp-content/uploads/2019/10/191006.png
「Y遺伝子、大陸と日本人は全く似ていない」
「畿内説は自虐史家たちの政治的意図を感じる」
日本人は縄文時代から稲作をしており、水稲にしても紀元前930年より前に始まっていたことが確定しています
それにも関わらず、紀元前200年頃に渡来人が水稲を伝えたという通説が消えない。
そもそも、Y遺伝子を見れば、日本人が大陸の人々とは全く似ていないことが明確なのです。
結局、「縄文人+渡来人=弥生人」というおかしな、しかも各種データや遺跡を無視した発想は、
日本人に、お前たちは結局、大陸から来た中国人や韓国人の子孫なんだよと、嘘の情報を
植え付けようとしていると感じられ、率直に言って、気持ち悪くて仕方がありません。
財政破綻論者同様に、嘘を広める自虐史家たちも、日本国の繁栄を妨げる邪魔者なのです。 >>110
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>118
馬鹿すぎワロタ これ2千年前以上前の話だから黙ってろ猿 >>118
有名な志賀島に見つかった金印(漢委奴国王印)は有名だが、あれは中華からみて南方に存在した滇などに送られた金印と同じで蛇の鈕を持つ
この印綬が奴国に贈られた事実、この理由がわかるか?お前みたいな鼻ぺちゃの猿にはわからんやろなwww たとえば記紀には百済王族の子供が日本に人質として来ていたという記述が良くあるわけだけど
韓国側の歴史書には、「百済は王子を倭国に人質として出していた」という記述は一切ないわけだよ
なぜかというと、自国が他国に人質を出していたなんていう「自国の劣位を認めるようなかっこ悪い事実」は、そりゃ歴史書に書きたくないからだよな?
だとすればな、
もし倭国王族が王子を百済に人質に出していたも、それは記紀には書かれないわけだよ
ここまではわかるだろ?
で、じゃあさ、倭国王族は王子を百済に人質に出していたか?いなかったか?
ということを考えたらさ
俺は普通に「人質に出していた」が正解だと思うよ
だって、出さない理由がないでしょ
当時倭国は金属輸入を完全に半島に頼ってて、任那の直轄地も失ってる
文化的にも百済の方がレベルが高い
百済と倭は4〜5世紀までの「倭国優越の関係」ではなく、対等関係になってる >>100
何でも大陸からという固定観念が
間違いのもとだったんですね
そんなに大陸人が有能なら、今でもすごい技術が大陸から来るはずなのに
ほとんどなし 古代史の研究にとって邪魔な存在がいる。
ネトウヨとパヨク、どちらも邪魔。 日ユ同祖論に飛びつく奴の心理。
中韓との類似性を打ち消すために飛びついているだけである。 『図説中国文明史4秦漢』は、秦人(しんひと)は東夷族(広く東部沿海に住む異民族を指す)
から分かれた一派で、黄河下流の東部沿海で遊牧していたともいわれています。
殷代(前16−11世紀)、秦人は何回かに分けて甘粛省東部に移ってきて、
殷王朝と同盟関係をもっていました。当時、秦人は牧畜業を主要な産業としていた。
前16世紀から前7世紀にかけて、秦は3度にわたる東への大規模な移動を経て、
西戎の地から今の陝西省内にある西周のかつての本拠地に移ってきたという。
その西周の本拠地に、雍城は位置している。 そして、秦人の出自は東夷という。
最初に中国を統一したのは秦なのに、何故中国人を秦民族と呼ばずに漢民族というのか
不思議だったが、やっとわかった。 また、秦人は遊牧民だったので、
遊牧民に受け継がれてきた儀式に必要な鍑が雍城から出土しても不思議ではなかったのだ。
雍城出土の鍑が前7世紀のものだとすると、スキタイの鍑(前5−4世紀)よりも古い。 ↑おいおい 嘘はやめろよ 秦氏なんか関係ないぞエテ公 >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw >>120
おまえ、ハニ族の住居が土壁の土間式住居なのも知らんのか?w
100年ほど前にハニ族から分かれて南下したのがアカ族で、アカ族が高床式住居に
住み始めたのは、ここ100年ほどの歴史しかない事も知らんのか?w
サギー華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇マレーゴリラのおまえw 発狂するだけでなんら反論できない低能豚鼻野郎でした〜w ギリシャのクレタ島でマグニチュード6.0の地震
1 時間前 - 5月2日(土)ギリシャのクレタ島でマグニチュード6.0の地震が発生した。
欧州地中海地震学センターが観測した。 欧州地中海地震学センターによると、
震源地は深さ10キロメートル地点という。 中央アジアにいたチュルク、ペルシャ系ユダヤ人たちが交易商人として
西安、楽浪、新羅、日本へと、その時、内々で使ってた秘文字がカタカナに近い文字だった、
いわゆるヘブライ文字がカタカナに似てるのも、コカ・コーラがユダヤ人も読めるらしい。
それと、天平時代の遣唐使として長安へ留学した吉備真備がカタカナの元祖説があるが、
前漢時代(紀元前200年ころ)には有ったはずだから、真備は留学時代に知ったんだろ。
『倭片仮字反切義解』南北朝時代の書物。 前漢のころに秦氏は辰国として、今の百済地域に住んでた
『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に
現在の朝鮮半島の南部にあったという国である。
「百済」はどう見ても波斯ハシ、パーシ、ペルシャ、の当て字の様な気がする
辰国、辰王国は後の辰韓、新羅、秦王国で 確かに、ひらがなは筆じゃないと書きにくい文字だけど
カタカナは固い木でもナイフなどでも書きやすい文字で特徴がある
漢書などでも倭人は木を刻んで文字となすと有るのカタカナの可能性もあるが
残念ながら木は朽ちて消える、土器に期待するしか。 秦から来たら徐福だがwww
無いんで、
辰韓王だが 丹波那国の倭人、王は馬韓貴族として月支国で辰韓の奴隷国家を治めた。
箕氏朝鮮王が建国した馬韓は、秦の戦乱遺民を奴隷として東部に受け入れた。
秦氏という姓は、辰韓という無文字、無王社会じゃ、使ってなかっただろ?
氏姓は、倭王が漢名を名乗った、倭の五王以降に、朝廷が与えた。
勲功があった始祖が何者か? 記録ないし、そういう事。
戦乱で半島から逃げたかった、弓月君で良いかもしれない?
むしろ、百済建国後の、阿直岐、王仁の系統が優秀そうだが?
663年以前の古代に日本と半島南部の国境は無かった。
つまり、そういう事。 それにしても・・・どらごんぼーる?など。
ほんとーは秦氏とか、そういう家の話だと言っている人々がいるでしょ、
孫何やらという家?の話ではないのかな。
どういう事なんだろう? 百済王家は中国東北部から南下したフヨ系だし 交流しまくってた中国側の記録にはっきり残ってる バカな妄想たぎらせてるヤツには残念な現実ですが覚えとけ 高句麗の支配者と同じで夫余系でした 中国東北部出身で農業もする民族です >>1 和田(コータン)について、何か思い当たるものが、日本に在るのではないか 城壁都市が当たり前だった徐福の時代から数百年後の卑弥呼の時代でも、吉野ケ里遺跡などにあるように日本の建築技術など全く向上していないので徐福の日本列島への到来はなかったのではないかと
新宮市にお墓がある、など来てたのかもしれないけど、あれが徐福の墓になったのはずっと後じゃないかという意見もありますね 秦氏に関しての家系研究はこれが一番新しい部類に入る(オカルト本以外)
これまで多くの研究者が秦氏に関する本を出しているが、それらにも触れているので一冊で秦氏研究の流れが分かる
まずはコレを読まずして秦氏を語ってはならない 妄想で語るオカルト連中など相手にしてはならない
https://twitter.com/KKamikawa/status/1101293550065508352
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784434240201
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >まずはコレを読まずして秦氏を語ってはならない
↑
これ自体がただの匿名ねらーの主観
その本読まないのも読まずに語るのも人の勝手でいちいち指図受けません オカルトとは対極にいる家系研究者です。この本は読む価値はあると思いますよ、狂乱の秦氏はユダヤ人だ!論者の本よりは
宝賀 寿男(ほうが としお、「寶賀壽男」とも表記。1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚で、現在は弁護士。 やはり東大法学部卒は文献を 読み込む能力 読み解く能力は優れていると感じております
考古学的なアプローチとは別ですがね
いずれにせよ妄想だけのオカルト連中よりは100万倍マシだと思います 分かりますか? なぜこの人の本を読むべきか?
>日本家系図学会及び家系研究協議会の会長
だからデス 地道に家系研究やってる人の最近の著書も読まずにに語るな っちゅうことやオカルト野郎
分かったけ? 秦いうても中華的な要素が全く無いよね 屋根瓦なし 中国で当たり前だった干しレンガとかもなし
吉野ケ里遺跡で『魏志倭人伝』を読む
https://www.youtube.com/watch?v=ZVURVXR2MTc なるほど、じゃあ秦氏はどうして
新型コロナにはBCGワクチンの免疫効果が大きいと発見できたのか? 秦氏はチベット高地でデニソワ人の混血女性をレイプしていたらしいね では漢字の中に如何して鳥居の「形」が使われてるのか?
「刑」「型」等々。 「其」の古字を日本では「#24320;」と書いた。 漢字って大陸から伝来したものなんだけど?ってツッコまれるの分かってるよな 日本の文字文化は紀元前から? 「すずり」から推測
弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石(といし)などとされてきた150例以上は筆記用具のすずりでは? 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最新論文でそう指摘している。日本での本格的な文字文化の広がりは5世紀ごろともされるが、石製品がすずりなら、文字の使用が紀元前にさかのぼる可能性を示唆する。 >>165
筆や木簡、竹簡、経木がないだろ
だから硯は単なる宝器として搬入された楽浪文物とそのコピーだよ 硯が宝器ってなんだよ 意味がわからん
石は現地で採掘されたものだ
使っていた机も見つかっている 当然現地で生産された同じ規格のものだ モンゴルが奴隷朝鮮人をレイプしまくって混血した現代朝鮮ゴキには関係ないw
朝鮮半島の最初の王朝は中国人 中国殷王朝の政治家だった箕子が支配した王朝
その後も衛氏など中華王朝の支配は続いた
倭人が付き合っていたのは百済のほかに朝鮮半島南部の金官伽耶など 新羅(秦羅)はここに襲いかかったため王族や貴族が渡来してきた
やがて中華王朝が直接支配した
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f8/Map_of_The_east_barbarian_0.png/800px-Map_of_The_east_barbarian_0.png
朝鮮半島に何一つオリジナルなものは何一つない つまり倭国は存在したが、同じ古代に”朝鮮人” なんてものは存在しない
百済ですら百の小国が集まって百済になったのだ 哀れなものですわww 阿知使主が文殊菩薩
弓月の君が普賢菩薩と予想
鞍作鳥は、なんだろか 『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。
そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。
これが辰韓であり、のちの新羅につながる連中であるw ようは最初から日本の秦氏は偽物だと中国人にはバレていたわけだ ↑知識なさすぎだろう
秦国の出身者が秦氏になるのは普通、だが秦に限らず王家の出身なら姓がある
始皇帝の子孫を称するのは飾りすぎ 徐 福、本名は徐 巿(じょふつ)。 『史記』巻六「秦始皇本紀」では徐 巿。
巿(ふつ)は「一」と「巾」から成り、
市(いち)は「亠」+「巾」から成る全く別の字である。
『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に
長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、
3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、
「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、
秦には戻らなかったとの記述がある。 饒速日命の系統神には徐巿の布都(巿.フツ)と付く神様が多い。
布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)
佐士布都神(さじふつのかみ)
甕布都神(みかふつのかみ)
鹿島神宮にも韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)
出雲の経津主神(ふつぬしのかみ)
石上神宮には、素戔嗚の霊剣である天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)、
布留御魂(饒速日の十種の神宝) 布都御魂剣・韴霊剣
韴とは断音、つまり物を断ち切る時のプツリという音で、
刀の霊威をたたえた名称である。悪霊.災いを断ち切るの意。
確かに断ち切るのブツ切りの意味もあるが、
伊勢神宮が祀っている八咫鏡(やたのかがみ)を天照大神として祀っている。
八咫鏡は真経津鏡(まふつのかがみ)とも云われ、フツは「神」と云う説もある。 徐福伝説に出てくる「蓬莱山」とはヨモギ山・草原の事で
「ふつ餅」を検索すると沖縄をも含めて九州各地で「蓬餅(よもぎもち)」
として知られていることが分かる。
しかし問題は「ふつ餅」という呼称が何故に九州に限られるのか、
「ふつ餅」の「ふつ」の意味が何故「よもぎ」なのか、
古代史を研究する学者も含めて誰も知らないし解説しない事である。 徐福が探し求めた、長生不老の霊薬とはヨモギもあるのでは
世界的に古代では万能薬として利用し日本でも最近まで薬として利用した
この「蓬」は灸のモグサとしても使われ、
干した葉を煎じて飲むと腹痛、下痢、健胃、貧血、冷え性などに効果がある。
蓬餅(フツ餅)として食されるのは古代からその点(毒消し)に注目したからだろうが、
いわゆる(邪鬼を払って健康を保つ)万能薬であり、
日本古代史の世界では上記のように「神」として扱われ、
「邪鬼を切り払う」という意味から「神剣」という形で表している。 徐 福、本名は徐 巿(じょふつ)。 徐一族で名は巿(フツ)
『史記』には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」
と記載されている。
春秋時代より斉の徐国の王族と云われ、始皇帝により方士として取り立てられる。 徐福が来日していたなら、九州の古代建築は吉野ケ里よりもっとマシなのがあったはず
環濠集落だった吉野ケ里遺跡でも徐福の時代より数百年後の話
徐福の時代に中国では瓦屋根、城壁都市が存在した
大陸に遅れすぎてる とてもじゃないが徐福がきていたなどと・・・言えないはず
伝説が伝わっただけじゃないのか >始皇帝の命を受け、
>3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
>財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、
残念、そんな痕跡は国内に残っていない 建築遺跡だけで分かる 来ていないと
船が難破して命からがらたどり着いた、とかならありかも 徐福が最初に着いたのは済州島だろうと云われてる
半島南部や九州北部地域で「平原広沢(広い平野と湿地)」と云えば
火山島で平原が広がってるのは済州島しかない、
しかしそこには不老不死の薬草は無かった、火山灰台地でやせ地しかない
それで、もう一度始皇帝に頼んで出直した。 始皇帝なんて別に重要人物じゃないぜ
中国の場合は黄帝の子孫を称する連中らが皇帝となったんだからよ
中国王朝の祖が黄帝なの 黄帝の末裔に連なり当地にて勢力あるものなら誰にも皇帝資格がある
どっかの自称末裔らゴミ >これらは、4000年ほど前の彩文土器、アンダーソン土器と云われる物
>黄河上流部、陝西省、甘粛省の遺跡から発掘された物で中国北部からよく出土する、
>明らかに、シリア.イラク、トルコ、イラン、系の民族が製作した土器。
柳湾墓地遺跡は今までに、
中国で発見された最大の広大な原始氏族社会の公共墓地で、
今から3500〜4500年前頃の遺跡である。
https://danseisakura.dousetsu.com/image79.jpg
https://danseisakura.dousetsu.com/image80.jpg 中国西部のウイグル自治区などは、
むかしの日本地図では東トルキスタンと成ってたな。 中国北部は中央アジア辺の人種で
中国南部は東南アジアから侵入してきたハプロO系の人種だった
それで中国古代北部は小麦文化圏で南部は米文化圏
中央の山東半島辺りが混合文化圏だったんだろう、隋 唐時代くらいまで。 そこで南北人種動乱時代が900年代に起きた五代十国時代。
黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、
華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。
この南北人種闘争が現在も続いてるのが新疆ウイグル問題。 >>193
それだと日本人はDとOの混合人種か
Dは別次元の旧人類だけどな 戦後、やたら渡来人に忖度する風潮で、
秦氏も実力以上に持ち上げられていた。
たとえば秦氏が持ってきたといわれる技術に酒作りや養蚕があるが、
そんなもの秦氏以前にある。
製鉄も製塩も秦氏以前から日本にある。
また文官としての地位なら東漢や西文の方が長けてるし、
秦氏というのは大古墳造営に駆り出された土木民だろうな。
つまりドカチン。
全然大したことはないし、むしろ被差別民の要因の方が多いであろう。
たとえば江戸時代の非人頭である浅草団座衛門は自らを秦氏の末裔と称し、
実際、摂津の被差別地域出身。 秦氏の祖の融通王が神農を祀る一族って方が説明つく
中国の王権は黄帝の子孫らが皇帝の地位を巡って戦ったわけだから
だからそれに繋がらない異民族王朝は中国現地では嫌われるの やっぱり黄帝の正当な末裔の連中らなら当時の王朝のやつらからも保護されてんだわ そゆとこの国にいても芽がでないからな
渡来してきた理由さそんなとこやろ >秦韓・辰韓のちの新羅など、秦氏と関わる地域には東アジアとは違う匂いがする。
>新羅の4世紀〜6世紀と云えば、倭の五王時代で高句麗と対峙した時代。
ローマ文化王国−新羅・4世紀〜6世紀の新羅地方の遺跡から、
ローマ文化の遺物が次々と発掘されている。中国文化の傘下にあった
東アジアにおいて、新羅がローマ文化を持っていたとする著者の説を。
https://image.honto.jp/item/1/324/0256/2216/02562216_1.jpg
西洋文化だった古代新羅
https://gan205.at.webry.info/201401/article_15.html それぞれ別の地域を支配した
新羅は辰韓の一部の国から出たが正解やろ 慕韓(馬韓)は百済となったが百済王家とは別の馬韓の王統の連中らが新羅に亡命して独自の国を作ったりな 202
てめバカか?
始皇帝の労務から逃げてきたやつらが辰韓にいついただぞ
つまり秦の始皇帝の部下らが辰韓に来たんだよ なら始皇帝から始まる遺物なんかを辰韓に持ち込んだだろ
ローマって? 秦氏O2a2bはモンゴル付近で誕生したハプログループだよ
遺伝子は嘘をつかないから面白いね モンゴル付近て?
モンゴルの祖先らが鮮卑人らだぞ
まだモンゴル現れてないの 匈奴にしろO系統なんてな分かってるんだよ(°▽°) 鮮卑人らの中から名前を変えた連中らが現れたわな
易姓革命で漢民族になった連中らだ
唐の皇帝それ 日本とイスラエルは兄弟である。(日ユ同祖論)
ダビデは天皇であり王であり権力者である。
イエス・キリストは神であり反権力主義者である。
ユダはイエス・キリストを無理矢理に王にしようとしたが、
神であるイエス・キリストが世俗的な権力者になるわけがない。 >>211
地理的なモンゴル高原のことな
まともな知能なら文脈でわかるだろう 内モンゴルの砂漠からすでに西域って呼ばれていたんだよな O2a2b1 (M134) 西戎、鮮卑、扶余の主要サブクレード
モンゴル系民族と思われる モンゴルといえばCと思いがちだが実際はC2, O2,N, Qの混合である 匈奴からもO2a1bが検出
685名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/05(火) 22:04:09.90ID:BAm4xvUL
O2で中々big Yの結果が出ないと言ってた者です。
「big Yの結果がようやく出たのに、結果はF2180のままで、
変化は無し」と言ってましたが、
Y fullに移行したところO-FGC54474となりました。
そこで質問。
Y fullの私のDNAの隣にAncient DNAと書かれているのですが、
これはどういう意味で書かれているのでしょうか?
686名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/05(火) 22:41:15.36ID:F9/lQW4P>>687
古人骨から検出されたDNAが同じサブグループに存在するという意味です。
idをググったら出ますよ。
687名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/06(水) 01:52:29.09ID:sBGJdevI
>>686
ありがとうございます。
どこから出たサンプルなのか、興味駸々です。
688名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/06(水) 02:06:12.18ID:sBGJdevI
早速 調べたら、XiongNu(匈奴)って出てきた!
俺のご先祖様は匈奴だったのか!? 結論
ハプログループO2はモンゴル人だった
ハプログループO2の秦氏もモンゴル人だった 辰韓(しんかん、紀元前2世紀 - 356年)は、
朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。
もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。
そのうちの斯蘆が後の新羅になった。
辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。
『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、
弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。
『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、
言語と風俗は異なっていたという。 『後漢書』巻85辰韓伝
秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、
与え住まわせ辰韓人と名づけたという。
そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、
この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、
秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、
これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。
そのため自立せず、辰韓人は明らかに流入し移って来た人であるため
馬韓が全てを制していたと『晋書』は記している。 『三国志』魏書巻30辰韓伝に、「名國為邦(訳:国を邦と言う)」とある。
辰韓(秦韓)の民は秦から亡命してきたと言うが、
前漢の初代皇帝劉邦が自らの諱(劉邦)を憚って「邦」を「国」と言い換え、
漢代以後の漢語では「邦」のことを「国」と言うが、
辰韓人(秦韓人)は「国」のことを「邦」と言っており、かかる事実関係により、
辰韓人(秦韓人)は秦語を使用していることは決定的とみられている さてさて、「邦の人」「邦人」とは何人だろな?
韓国人は自分たちを「僑胞キョッポ」と呼んでるな。
中国人は自分たちを「華僑カキョウ」と呼んでるな。 230
どかしたか?またすっ飛ばして妄想主張か?変わらんな〜 歴史を踏まえると殷王朝の遺跡から出た人間のY遺伝子はNで周時代の遺跡から出た人間のY遺伝子はQだった
中国ではたびたびジェノサイドが起こっている
記録に残っているだけでも三国時代に人口が5分の1になっている
現在NもQも中原ではほぼ消滅しており結局のところ古漢人は遺伝子的には全滅しているようだ
メソポタミアにおけるシュメル人の方がまだ存続しているといえるレベルで古漢人の血は残っていない
今発掘が進んでいる石峁遺跡の人間のY遺伝子が発見されたらさぞや面白いものとなるだろう
石峁遺跡は殷王朝よりも最古層より500年古いとみなされている
彼らの文化は印欧語族と根強い関わりがありそうだ
ハプログループRが出る可能性があるからだ
中央アジアのハプロRとその周辺にいて影響を受けたハプロQやNが殷や周を作ったという事がいよいよ証明されつつある
インドでアーリア人がインド文明を築いたのと同じことが中国でも起きていたことになる
日本文化の起源が分からないのは実は先史時代の大陸の文化が分かっていないからだろう
弥生文化はハプロNが作った南満洲の文化に源流があり朝鮮半島から北九州へと民族移動していったのだろう
そして遺伝子的には多数派だった元被支配者階級のハプロDに入れ替わったというわけだ 恐らく最古層の日本語族はハプロNつまりウラル語族だ
縄文からの日本土着系がハプロDで秦氏などの渡来系がハプロO
遺伝子的には最古層の原倭人はほぼ消滅したのだろう
中国におけるハプロQやNのように ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」。
ジャレド・ダイアモンドは、その世界的なベストセラー『銃、病原菌、鉄』で、
「朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺したので、
弥生時代という縄文時代とは根本的に性格を異にする新しい時代が始まった」
という主張をかなりの説得力を持って示している。読めば納得、というやつだ。
しかしなんと、『銃、病原菌、鉄』が和訳される時、その章だけ訳されなかった。
マンガのような話だが事実。大笑いw。
ほんと糞ジャップは赤ん坊w
「ジャップ=朝鮮人」という真実がそんなに都合悪いのかw。
その訳し飛ばされた部分を訳してくれた人がいる。
https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html ゴキブリ半島で最初の王朝を作ったのは中国人 歴代の中国王朝は朝鮮半島を支配し続けた
その後はモンゴルから満州人まで支配を受け続け、現代の朝鮮人はシベリアの少数民族エベンキと同じ歌・アリランを意味もわからずに歌っているw
何者なんだコイツラ朝鮮人こそ 顔はモンゴル人ぽいのも多いけどなwww ★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。
中国による遺伝子研究(2018)
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5
In this project, we conducted a genome-wide study of three East Asian populations based on genome-wide high-density SNP data.
Our results showed that the three East Asian populations,
Han Chinese, Japanese and Korean, although they resemble each other in appearance,
have distinguishing genetic make-up and are differentiated apparently on genomic level.
>このプロジェクトでは、ゲノムワイドな高密度SNPデータに基づいて、3つの東アジア集団のゲノムワイドな研究を行いました。
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
>Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
韓国人と日本人の遺伝的差異は、韓国人と北方漢民族の間の値よりも大きい
>Genetic difference between KOR and Japanese (JPT) (FST[JPT-KOR]=0.0033) is larger than that between KOR and CHB (F ST[CHB-KOR] = 0.0026).
遺伝子が韓国人に一番似てるのは満州族、その次に北方漢民族。 >>236
ハプロNは遼河文明から東北経由渡ってきたんだろう Nの流れはあったとは思うが限定的に思える
北九州には来なくて東北に一部渡ったとみる
北九州には南方海洋民族O1が来てその後O2の渡来系が来たと思う アイヌ系のDはそれより古い時代に来て民族の下地を作っていたと思う 日本人の遺伝子を「47都道府県レベル」で初めて解析することに成功
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603219355/
四国・近畿がもっとも渡来人の遺伝子に近かった 当然だ 大陸から逃亡してきたら北九州だといつ追手に襲われるか分からんし、不安だろうし 日本側は避けるのが人間の心理というもの
俺には完全に理解できるよ 他にも吸収にはすでに地元の勢力が地盤固めしてて他に行くしかなかった、というのもあるかもしれんし >>245
情報操作チンコロ乙
そんな考古立証、一切できません! チンコロとは?
密告のこと??
チョ○コロの打ち間違い??? >>75 >>51 > >32
>「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称・・・
ふーん、自称ねえ。ハタ氏が中原のシン王朝の子孫ねえ。
それにしても貴方は何故同じ言説を同じスレに3重投稿されたの? 始皇帝は嬴姓やからな ホンマに子孫なら秦氏なんて名乗るわけ無いやろ
秦氏と名乗るのは秦国の残民 本来の秦の領土から遠くに遠征して燕国があったあたりで
仕事してた軍隊の連中(始皇帝時代は蒙恬らも活動していた)とかは帝国が瓦解すると地元に戻れず取り残されたんでしょうなあ
結局、中華圏から脱出しないと漢楚その他の息がかかった奴らに復讐されかねんわね 自称秦氏はほぼ99%間違いなく、秦人、某秦、勝、川勝等(新羅から来た被差別部落民であり秦氏を仮冒)であり、秦河勝とは遺伝子的には何の繋がりもない全くの他人 秦部に所属していた職人とかが秦氏名乗ってたら、当然ながら、頭領の秦河勝らと遺伝子的なつながりはないよね 秦氏なんていうのは血脈ではなくチーム名でしょ
外国で生きていくためにはチームに所属する必要があったというだけ 新羅系の渡来人が秦氏を名乗ってただけだと思うよ
日本はずっと新羅とは対立してたから、新羅系渡来人は日本で暮らすのに新羅出身を隠して秦王朝がルーツだと自称したんだよ
それで秦氏というグループができた
で、そのあと新規の新羅からの渡来人も、その秦氏のグループに合流して秦氏を名乗るようになった
秦河勝もその一人で、
血統的な意味での頭領ではなく、実力でリーダー格になっていったんだろう 秦王国を見た裴世清が「ここに住む人々は華夏(中華)の風習を持つ・・・」と書いてる
半島系なら勝手に「秦」を名乗ることは許されないんだよ
ガチの大陸系渡来系がいたから、半島系はそんな勝手な真似はできない
それぐらいの海外事情は当時の連中だって承知していた 弓月君って融通念佛宗と関係あるのかな?
ゆづつながり
なんちゃって 発音が最初にあって、漢字は適当にアテてるだけだから、全く関係がないと言い切れないし、有り得ない話ではないけどね >>262
「消防署の方から来ましたぁ〜」という消火器売りのおっさんと同じだな
秦氏には色々な顔があり過ぎて特定の氏族とは思えない
アジア有数の騎馬民族である、秦氏を名乗る連中は何者?
平安京を作った、秦氏を名乗る連中は何者?
日本に神社を広めた、秦氏を名乗る連中は何者?
秦の始皇帝に追い払われた、秦氏を名乗る連中は何者?
というそれぞれの正体を探る必要があって
それを全て同一視するのは間違いに違いない 他スレで、
東方三博士とか、
ネストリウス派が、
関係していると言ってた。 がまかつって人が太秦の広隆寺建てたのとチョーソカベが秦氏を称していたことくらいしか知りません 消火器売りが「消防署の方から来ました〜」というのと同じで
秦の始皇帝一派であることを偽装している
秦の始皇帝はユダヤ人であり、秦氏もユダヤ人だと偽装したいのだ
しかし人食い秦氏は馬に乗って人間を襲う定住しない野蛮人であり
イスラエル由来の神社の文化は、ユダヤ人の物部氏から乗っ取ったもので
秦氏は西から来たというより、北のツングースからきた元遊牧民だろう
それは秦氏の神社には狛犬がいることで分かる
狛犬はツングースを表す >狛犬はツングースを表す
元々、インド等を経由して西からきた文化ですので大嘘ですね オカルト板でやってくださいな 狛犬はツングースだが
じゃあ、別の角度で見てみようか
宮内庁は特別会計でイスラエルを育ててきた
宮内庁というのは、神社の朝鮮人が集まった民間団体だった
だから日本に神社を広めた秦氏成分が濃そうな連中である
ところで現在のイスラエルの支配層は白人であり、いわゆる寄生虫偽ユダヤだ
そしてその偽ユダヤが殺しているパレスチナ人こそが本物ユダヤ人だ
すると宮内庁が偽ユダヤを支援して、本物ユダヤ人を殺していることになる
つまり、宮内庁、秦氏は偽ユダヤであると 秦氏をユダヤ人だと思い込んでいるのが、そもそもの誤りの元。^^ いやいや274の俺は思っちゃいない
秦氏はユダヤ人だという見方に対する反論として書いている
ツングースの人食い馬賊が、物部氏の神社神道を乗っ取り
西から来た文明人を装っているが
馬に乗って人間を襲い、定住していない秦氏に神社の文化があるわけない
よって秦氏がユダヤ人というのは偽装だ、偽ユダヤだ
秦の始皇帝と物部氏はユダヤ人だと思うが 神社なんて様式が広まったのは律令からというのが定説。
それ以前は磐境が精々。
5世紀頃は磐座が主流だった。
秦氏が来たのは4世紀後半と書記が書いている。
こうしたことからすれば、秦氏が祀った神は神体山の磐座に降りたんじゃないの。
深草の稲荷山の頂に神が降りたらしいし。 >>276
なんつったって、物部氏は鍛冶屋だろう。
ユダヤ人が鍛冶屋するかな。 >>277
なんか、秦氏って稲荷と関係がありそうですよね イナリ(稲荷)はINRI(インリ=キリスト)由来だとする見解もあるけど、INRIをインリと発音するのは英語か、ローマ字の日本語読みくらいだからね。
秦氏が深草に落ち着いたのは4世紀後半とされるから、この時期に秦氏が英語話者であったり、ローマ字の日本語読みをしていたとは考えにくいね。
イナリ=INRI由来説は、おそらく、間違いじゃないの。
この稲荷を祀っているのが京都の伏見稲荷大社で、全国の稲荷社の総本社だよね。
ユダヤ教徒の超正統派スタイルの人物埴輪が出た埼玉行田の稲荷山古墳の稲荷は、その古墳の後円部に小さな稲荷社が置かれていたことにちなむそうだ。
伏見稲荷の秦氏と稲荷山古墳のユダヤ教徒は、その宗旨においてつながっていたこともおおいに考えられるよね。 秦氏が何者であったか知るには、稲荷(イナリ)の由来を解明することが必須だね。
稲荷(イナリ)は稲成り(イナナリ)の短縮形であり、稲の字はあとから付けたものである可能性が高いので、
そもそものイナの言葉が何を意味したのかが問題になる。
4世紀後半に渡来した秦氏の先祖の弓月君はトルコ語話者であったフシがあるので、
このイネをトルコ語から見てみると、面白い結果になる。
inis(イニシ)=着陸、降下
iner(イナシ)=降りる 例文 tanri iner(タンリ イナシ)=神が降りる
稲荷山を神体山とした秦氏はその山をイナと名付けてイナ山とし、のちにこのイナに稲の字が当てられたと見ることができるので、
トルコ語からはイナ山は「降りる山」の意味になる。
つまり、「降りる山」とは、何が降りるのかということになる。
そこで、秦氏の宗旨はユダヤ教だったとされることと、このイナ山(降りる山)を合わせてみると、
上の例文のようにイナ山とは「神が降りる山」となり、その神はユダヤ教のヤハウェであるとするのが妥当だ。
そうすると、出エジプト記でユダヤ教の神ヤハウェがモーゼの前に現れたのはシナイ山であるので、
このイナ山(稲荷山)はユダヤ教徒の秦氏によって神が降りたシナイ山に擬せられて名付けられた山だとすることが可能になってくる。
伏見稲荷(イナリ)の正体は、秦氏のシナイ山だったのだ。 >>281
上に挙げた(降りる)意のトルコ語 iner(イナシ)の語尾シ音はほとんど聞こえないくらいの発音だ。
なので、inerの発音は、(イナ)で十分だろう。
この(イナ=降りる)を稲(イナ)とみなし、山の上に稲が成ったとする意で稲成り(イナナリ)となり、これが稲荷(イナリ)と転じたものだろう。
稲荷山(イナリヤマ)は、元々は秦氏のトルコ語によるイナ山(神が降りた山=シナイ山)だったとすれば、語源的には明確になるよ。 秦氏の出自については、やはり系図がものを言うな。
渡来した弓月君の子の浦東の発音はホトウだが、その他の子の名も合わせて勘案してみると、
いずれも中国西域のタリム盆地周縁のオアシス都市名と重なる。
このことからすると、浦東(ホトウ)はホータンと発音がよく似ており、浦東はホータンの音写とみるのがいい。
この浦東の君の血脈であるとする秦氏は、ホータン出身の一族の血筋だと考えるのが合理的だよ。 田中の爺さんは、稲荷山古墳や芝山古墳出土のユダヤ教超正統派的人物埴輪の存在を根拠としているからね。
物証があるんだから、その主張には迫力が出てくるな。
ただ、秦氏の先祖が渡来したのは4世紀後半頃で、その後に続く関東のユダヤ教徒集団がヘブライ人であったのか、
それとも改宗ユダヤ教徒であったのか、見極める必要があるね。 大分県や福岡県の豊前エリアに秦さんがやたらに多いのはなぜなんだ? >>286
秦さんが多いところは、なにも豊前に限らんな。
豊前は、渡来系の住民を秦氏が囲い込んだ結果だという説もみられるようだし。 そもそも秦の始皇帝が秦氏を追い払ったというところからおかしい
たぶん追い払われた時点では秦氏を名乗ってなかったのだろう
丸太を刻むトーテムポール程度の文化しかない北方の人食い馬賊には
コンプレックスがあったはずで
新しい土地で、秦一派の文明人であることを偽装したはずだ
だから本当の秦氏というのは存在しなくて
自称秦氏の色々な連中がいたのではないか
その中でも主流なのは騎馬民族の秦氏だろう
それはたぶん高句麗の人食い馬賊のこと そこで東大出の回答者に求められるのが、ではそもそものハタとはだれが名乗って、どんな意味だったのかという設問。
東大出を偽称するものらも、回答OK。 >>274
>狛犬はツングースだが
違うよ 馬鹿かお前は IQ60ぐらいしかないから障害者施設入って出てくるな
お前の妄想なんか何の価値もない
>狛犬
>起源はペルシャ、インドにおけるライオン(獅子)を象った像である。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。 何がいいたいのか全く意味不明すぎるw そうだな始皇帝だって秦氏じゃないけどな?w
「秦氏」は大陸でもいろんな系統がいるんだが、どれが本当の秦氏だってこの馬鹿は言ってるんだ?ww
キチガイすぎて失笑するしかないww
>だから本当の秦氏というのは存在しなくて
>自称秦氏の色々な連中がいたのではないか >>293
進駐軍が調べて、出土品いっぱい持って行ったからな。 >>291
狛犬が神社の守り神とされるようになるのは、平安時代からとされているな。
狛(ハク)は一角獣の兕(ジ)だ、とする説がある。
この説が有力だが、しかし、一方ではこの狛(ハク)をコマと呼ぶその由来が分からないのだ。
そこで、よく考えてみると、形がよく似ていて同じ発音の字に犭と百を合わせた犭百(ハク)の字があり、
この犭百(ハク)はツングース族を意味するのだそうだ。
ということは、ツングース族とされる濊貊(ワイハク)の貊の豸を犭に簡略化した字が犭百(ハク)の字だということになる。
そこで、狛(ハク)をコマと呼ぶそのそのコマは高麗(コマ)の意味だとすれば、高麗、高句麗はツングース族であったとされるので、
狛(コマ・高麗)→犭百(ツングース族)→濊貊(ツングース族)が狛犬の語源だとみなすことができる。
このことからすると、神社の狛犬(コマイヌ)は高麗(ツングース族)の神獣を意味していることになり、
そのツングース族の神獣を神社の神の守護獣に当てているということになる。
奈良時代には両方とも獅子(ライオン)だったが、平安時代に片方は獅子(ライオン)、片方はツングースの神獣に変わったということだな。
その理由が知りたいよな。 高麗は936年に新羅を吸収併合して朝鮮半島を統一したが、このことが狛犬の採用と関係があるのかも知れんな。 >>296
本場の隋唐にヤマトからなんぼでも派遣されてるのに何が高句麗だよ・・・
>>295
大陸では秦漢時代から王宮の入り口などに設置してあるからさ?w
東アジアでの源流はそっちだよ
そもそもツングースがどこに狛犬を設置するんだよw
高句麗とかいう辺境の田舎者だって文明の中心たる大陸の王朝からコピーしただけ >>297
そんじや、なんでコマイヌて言うのよ。
唐由来なら、カライヌでいいわけだし。
唐由来なんて、ぜんぜん整合性がないよな。 >>298
唐どころか秦漢だよ
漢人が古代から半島に流れ込んでるから文化ごと行ってるわけ
もう少しお勉強しなさい
「発音が似てるから」とかいう単なるコジツケはもう結構です >>299
それもありですね
そもそも794年に首都となった平安京自体、どこの国の都を理想とし設計され造成されたかご存じないのかしら?
全て大陸に派遣された連中が仕切ったのですぞ? じゃあ〜、なんでコマイヌって言うのか、ちゃんと説明してね。^^
高麗は非常に交易が活発で、その都にはペルシャ商人まで来ていたらしいし。
コマイヌの背景には、そうした活発な高麗(コマ)の交易活動があったんじゃないかな。 唐の獅子>>>>>超えられない壁>>>>>高麗の犬 今じゃ、唐獅子は忘れられて、どっちも高麗犬だかんな。
越えられない壁がどっちに作用したか、明らかじゃん。 高句麗があった北朝鮮でそういう狛犬を祀っている遺跡が見つかっているならお示しくださいな
発音なんか関係ないよ 渡来の文化だからそう呼んでただけかも知れないし
高句麗系の渡来人が持ち込んだからと高句麗由来とは全く限らない
そもそも、高句麗が支配するまで、楽浪郡や帯方郡で漢唐の時代まで漢族王朝の植民地ですから
祭祀など文明的なところは全部高句麗を含めた騎馬民族系は漢族の王朝からパクって導入してるわけで
高句麗など馬乗って走り回ってただけの連中ですからな
また、残念ながらその狛犬の奥の建物で祀ってる神は日本土着の神か、大陸伝来なのでね 残念ですがw >>305
そう、あれ犬じゃなく獅子ですね
高句麗にせよその向こうの草原にせよ、あの辺りに獅子はおりませんわ
起源など分かりきっております 漢族が西のペルシャ方面から来た西の文化を取り入れただけ
>>303
>高麗は非常に交易が活発で、その都にはペルシャ商人まで来ていたらしいし。
だから何だよw 唐などローマからも来てるんだが?w
ペルシャ程度は紀元前 始皇帝の時代にとっくに来てる
高句麗など辺境のただの田舎者でしかない
文明圏ですらないわ だから狛犬が朝鮮半島に来たのは唐獅子が大陸に広まってからであって、ずっと後でしかない
起源を主張するなどおこがましい、ブッダや老師、孔子、キリストが半島出身だと主張するどこぞのキムチ民族と同じレベルの下劣さ
歴史を発明するなど捏造でしかなく、人間として最低のレベル >>303
> じゃあ〜、なんでコマイヌって言うのか、ちゃんと説明してね。^^
なので、この質問自体が全くの無意味というか何も分かってないんだなというだけの話
名前なんぞに意味はない 場所が変われば名前も変わる、それだけの話
犬なんて読んでる時点で本質が失われているので爆笑もの
高麗に獅子はいないから犬になったわけだ
理解不能だったんでしょうなw 大陸は山東省の孔子廟(孔廟)にも狛犬がいるが、孔廟は紀元前からある歴史遺産
当時は高句麗にせよ百済にせよ半島に国など無かった時代、大陸の植民地でしかなかった
狛犬の発祥など誰でも分かってるのに狛犬という名前だから高句麗から来た〜など何も知らない愚か者が喚いても無駄ですよ >>303
高句麗から来たから狛犬っていうんですよ常識です 紀元前から獅子のぞうが門前に立ってる大陸の歴史の奥深さに震え上がれよ半島派の辺境ゴミども >>313
半島派にイジメられたのかな?
そういえば戦争で高句麗に負けてますね 伊都国の王墓、平原遺跡のガラス製品、シルクロード経由の可能性
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1632912237/
モンゴルやカザフスタン出土の類似品と成分一致 福岡 >>314
高句麗?
散々偽りの幸福を繰り返して醜態を晒した挙げ句、唐に滅ぼされて終わったくせに今だに認識できないとか可哀想 唐獅子や狛犬が公正の神なんて、聞いたこともないわ。
神社の門番程度の役目としか知らん。 日本を破った戦勝国の高句麗が歴史を作るからな狛犬だな 広開土王碑のような戦勝記録が半島にないもんな。負け組に歴史を記録する権利はないのだ。 高句麗など中国の辺境にいた少数民族が建てた哀れな弱小国家に過ぎない
中原の文化を数百年かそれよりもっと遅れてパクっていただけで、注目に値する文化など何一つなかった >>321
高句麗に敗戦したすっぱい葡萄全開の負け惜しみは見ていて滑稽だな パクリしかできない、しょせんはこの時代から植民地でしかない
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f8/Map_of_The_east_barbarian_0.png
このずっと後にできた高句麗は中国東北部出身の扶余の連中が建てた
だから中国の少数民族が建てた国、何も間違ってはいない 大唐に滅ぼされて終わり >>323
そこに敗戦したとか日本もしょうもないな 何コイツ?キムチ悪いし スレ違いじゃないかな?
そもそも高句麗みたいな田舎者どーでもいいスレなんだけど?w 高句麗は狛の貊族。チョンコは韓、濊のどれが先祖ニカ? 楽浪郡・帯方郡など植民地の漢族居住区以外に半島に文明の痕跡なし
コンプ炸裂させて狛犬wぐらい大陸から盗んでも大丈夫ってか?w無理があるんだよゴキ >>331
高句麗に負けたことがよっぽど悔しかったんだな 隋も唐も高句麗に負けまくり。
朝鮮南部を占領してから、南北から高句麗を挟撃する作戦で、やっと唐が高句麗を滅ぼした。
巻き添えになった百済哀れ 秦の始皇帝に追い払われたのに
秦氏を名乗っている時点で全てが偽装されていると思う
西から来た文明人ではなく
北から来た人食い馬賊に違いない
平成天皇が天皇を辞めると先祖に報告しに行ったのが埼玉にある高麗神社
それは高句麗の騎馬民族の王族を祀った神社だ
そう神社の立て看板の説明に書いてあるんだ
南朝天皇は秦氏から出てるのだから、天皇の先祖が高句麗の騎馬民族だというのと
秦氏がアジア有数の騎馬民族だというのと、一致するのだよ
古代イスラエルから来た連中が、高句麗で人食い馬賊なんてチンピラをやってるわけがない >>325
>>326
攻め込まれた高句麗が撤退させただけで勝ったとか恥ずかしい底辺の考え方
中央政府たる大唐に睨まれて滅亡した少数民族の集まりのくせに笑わせる
高句麗の文化など大陸の劣化コピペに過ぎなかったのですから、勘違いくんは攻め込まれ叩き潰され滅亡して中央に吸収されて当然ですよね >>333
一番の哀れはここで高句麗に嫉妬してる負け犬ってことだな >>335
日本が関与した戦争一覧
発端 朝鮮半島の主導権争い
結果 高句麗の勝利
高句麗に勝ってから狛犬を主張するべきだな
今じゃ、唐獅子は忘れられて、どっちも高麗犬だもんな 高句麗は西晋の遺領を侵略したからな。唐の漢人からすれば高句麗、新羅、百済は誅伐対象なんだよね。 高句麗はツングース系の騎馬民族。
朝鮮半島へ南下し百済の都を奪い百済を一時滅亡させた。 そう高句麗なる少数民族は半島の新羅とは別民族だし、時代的にも始皇帝とは一切関係ない
秦氏とも全く関係ない
スレチなのに糞食いキムチが喚いてるだけ >>334
家来のところへなんで報告に行かねばならんのよ。
高句麗からの亡命者らをまとめて武蔵へ移送した結果が高麗郡なんだし。
渋沢栄一の家を見に行ったついでに、私的に見学しただけだろ。
報告なんて、笑っちゃうわ。 >>340
>147日本@名無史さん2021/10/01(金) 14:54:26.66
一方で新羅人は高句麗人、百済人のようだ
国号が高麗になったのも納得だな、倭人勢力は一掃され倭・大和が国号にならなかったわけだな
『隋書』東夷伝によると、新羅は「その人には華夏(中国)、高句麗、百済のたぐいが混じっている」という[118]。
百済と新羅は高句麗が作ったからな、オマエは高句麗に負けて半島を追い出された敗者だけどな >>337
高麗と高句麗は、時代が違うだろ。
唐と新羅に滅ぼされたのが高句麗で、その敗残者らが命からがら逃げ込んできたのが日本。
あちこちに散らばって住んでいたのを、奈良時代の初めにまとめて関東へ移動させたのが高麗郡。
若光がもらったのは従五位下の官位だから、天皇にお目見えできる貴族らの最下位だ。
高麗の狛犬は、平安時代の中頃にもたらされたもの。
時空は、ちゃんと整理しようよね。 >>343
高句麗は高麗の語源だからな
高麗の建国者の母方の高祖父は宝育で高句麗の大属だからな
ちなみに韓国コリアの語源は高麗な
高句麗に敗戦して半島から追い出されたチョッパリはよく覚えとくように まあ、狛犬の狛(ハク)は、ツングース族の貊(ハク)のこと。
貊は松花江付近にいたから、女真族とつながりがあるのだろう。
高麗はその一派だよ。
そもそも半島付近は、濊、貊、韓の種族が代表的。
明らかに韓とは別だな。 高麗が建国される遥か以前に狛犬は伝わっていた。
読み方が似ているという理由で、狛犬が朝鮮から伝わったと必死に叫ぶ知ったか約1名 >>345
貊の発音ってハクじゃなくマクだよ。
古代の半島はよく分かってなくて、それぞれの漢字が指す民族が時代とともに
変化していて、固定のある民族を指していなかったみたいだよ。 >>337
低能すぎる 半島の文化など植民地にいた漢人が齎しただけなのでツングースのカスどもは勘違いするな
半島からの五経博士など渡来知識人も全て漢人だったのが現実
乱暴なだけの低能半島ツングースが漢人たちの功績をぱくろうとしても無駄 高句麗や高麗を日本でコマと呼んだのには、ちゃんとした理由があるよ。
高句麗は戦争に馬を活用した。
日本が5世紀後半に馬を導入したのは、その高句麗との闘いで馬の機動力を知ったからだ。
で、駒(ク=若い馬)の字は、日本では馬の総称として用いられる。
その駒の字は句(ク)と馬(マ)で構成されている。
つまり、駒(若い馬)は句馬(クマ)と俗称され、そのクマが訛ってコマとなったわけだ。
そして、馬を多用したのが高句麗だったので、高句麗を馬の国=コマと呼ぶようになったということだ。
そして後の高麗がその国号を高句麗から取ったことで、高麗もコマと呼んだということだな。
さらにこの高麗が新羅を併合して朝鮮半島を統一したことで、朝鮮半島をもコマと呼ぶようになったわけさ。
狛(ハク)はツングース族を指す言葉だが、高麗はツングース族だったので、高麗=狛(ハク)とし、
この狛(ハク)の字を、日本では高麗=狛→コマと呼んだということだよ。
つまり、コマの由来は駒(クマ)だな。 新羅は秦の亡民が建国した中国人政権だからって高句麗とか・・・分かりやすい連中ですよね 高句麗や高麗は、朝鮮史や中国史の中の国とすべきではない。
高句麗、高麗はツングース史の国とすべき。
コリアとチャイナの高句麗、高麗についての歴史戦は、真実を偽っている。
ツングース族だよ、高句麗、高麗は。
つまり、朝鮮史の新羅なんかはツングース史の高麗に併呑されたわけだ。 要するに、朝鮮半島あたりはチャイナ史とツングース史とコリア史が激突した舞台だったというわけ。
これまでは、その激突をチャイナ史とコリア史だけから見て来たが、それでは実態に迫ることはできない。
この激闘は、チャイナ史とツングース史とコリア史の3史のバトルだったとして、ツングース史を明確にそこに位置付けなければならないよ。 まあな。
海越えて高句麗を攻めたわけだから、日本史も入れてやろう。 ツングースと秦氏は血縁的には全く関係ないよね むしろ縄張り荒らされて嫌がって渡来したぐらいだと思うが 秦氏=ツングース説は、まずないと思うけど。
辛嶋氏が持ち込んだ八幡神が実はユダヤ神であるとする辛嶋氏=秦氏説が根強くあるけどね。 八幡さんまでユダヤとか、オカルト方面の話はまともに相手にしてられませんな
ユダヤなら仏像建立に協力するわけないだろう 頭おかしい 八幡(ヤハタ)とユダヤ人(イェフダ)の発音が似ていることや、
辛嶋氏が渡来人であるとされることが、八幡=ユダヤ説の元だろうな。
これに、秦氏が宇佐地方の渡来人集団を囲い込んだことが、重なったのではないか。 日本におけるユダヤ教徒の総本山が山城の太秦なんだが、
その太秦のユダヤ教徒リーダーの秦氏が宇佐の神を八幡(ヤハタ)、ユダヤ人、あるいはユダヤ教徒(イェフダ)と呼ぶこと自体、
かなりな矛盾なんだけどね。 秦氏は歴史事実。
ユダヤ教徒も歴史事実。
秦氏とユダヤ教徒の歴史事実を足せば、答えは歴史事実になるよね。 秦の始皇帝に追い払われたのに秦を名乗っているのがおかしい
偽装しているよ
秦氏はアジア有数の騎馬民族だよ
騎馬民族とは飢えた遊牧民の新しい形だよ
馬に乗って中国人を食べに出かけるので万里の長城を作られた
食い物は中国人しかない過酷な環境である
万里の長城を馬が越せないから半島を通って日本人を食いに来た
それが天皇を輩出した秦氏の素性であり
秦氏は北から来た人食いだとは言いにくいので
物部氏の神社神道を乗っ取って、西から来た文明人を偽装した 豊前豊後の秦さんが多い地域はだいたい被差別部落だったりするけど、宿神や八坂神社を祭ってるのか多いのはなぜ? 広隆寺の牛祭に登場する摩多羅神は、猿楽者の芸能神(宿神)であったとする解説がみられる。
この摩多羅神については、サイト「常行堂の守護神・摩多羅神」(蓮池利隆)に詳しい。
このサイトによると、摩多羅はミトラの音写だろうとしている。
そして、常行堂(常行三昧を修めるための堂)のルーツは中央アジアのゾロアスター教の神を祭る方形拝殿で、
この施設では色々な行事を行うほかに神を供養するためにハオマというものを混ぜた牛乳を飲み酩酊状態になるそうだ。
そこで、ミトラの音写と解釈される摩多羅について、広隆寺を建てた秦氏の立場からみてみると面白い解釈ができる。
秦氏はトルコ語話者だったと考えられるが、マタラ(摩多羅)をその秦氏のトルコ語で見てみると、
atara(マタラ)は「食堂」の意味である。
この「食堂」を上記のゾロアスター教の方形拝殿での牛乳などの飲食に当てはめれば、
トルコ語のmatara(マタラ=食堂)はまさに方形拝殿自体を表していることになる。
そうなると、広隆寺の大酒神社の牛祭に登場する摩多羅神(マタラ=食堂、方形拝殿)とは、
大酒神(伽藍守護神)そのものであることになってくる。
このように見ると、マタラ(摩多羅)とは秦氏のトルコ語matara(マタラ=食堂)に由来する言葉だと理解することが可能になる。
つまり、マタラはミトラの音写ではなく、秦氏のトルコ語による神を祭る方形拝殿を指す言葉であり、その方形拝殿とは大酒神社のことになるわけだ。
そして、秦氏がユダヤ教徒であったのであれば、その大酒神社に祭られていた神はユダヤ教の神ヤハウェだということになってくるのである。
このマタラ(摩多羅)については、しっかりと精査してみる必要が出てきたようだ。 > 秦の始皇帝に追い払われたのに秦を名乗っているのがおかしい
誰もそんなこと言ってないのでは?どの歴史資料にそんなことが書いてある?
始皇帝の子孫を名乗って誇ってるんだけど
妄想で語らないでもらえますかオカルトさん 小学生でもなければ頭が悪すぎるオッサンですね
>
馬に乗って中国人を食べに出かけるので万里の長城を作られた
食い物は中国人しかない過酷な環境である
万里の長城を馬が越せないから半島を通って日本人を食いに来た 海渡ってこずに、半島で人を食べてればええのにね?
オカルト板か自分のブログででも勝手にやっといてもらえますか知恵遅れさん >>368
広隆寺境内の大酒神社大祭に現れる摩多羅神は、中央アジアのゾロアスター教の方形拝殿に祭られたミトラ神が訛った神ではないかとする研究がある。
このゾロアスター教の方形拝殿では酩酊状態になる飲み物が振舞われ、ミトラを供養したとされている。
そこで、秦氏のトルコ語で見ると、
マタラ(魔多羅)
トルコ語 matara(マタラ)=食堂
の言葉が見られる。
方形拝殿では酩酊状態になる乳製品を飲んだりするので、この方形拝殿をホータン出身の秦氏の先祖たちがトルコ語でmatara(マタラ=食堂)と呼んでいた可能性も出てくる。
そして、後になって大酒神社が建立されたとき、その祠堂を方形拝殿になぞらえてマタラと呼び、その祠堂=マタラの言葉からやがて伽藍神としての魔多羅神が成立したのではないか。
このように考えると、このマタラ(魔多羅)の言葉は秦氏がトルコ語話者であったことの証拠となる可能性が出てくるのだ。 辰韓という国は秦国系の韓の国で、ヒボコは神羅になる前の辰韓から来たとする説がある
筑紫国は昔は筑秦国と呼ばれていたとされている
武内宿禰から別れているという説もあるが、カバネに臣が入らないなど不自然な点もある
一方、吉野ヶ里時代に渡来してきた海童達の庶子とも言われている
秦氏と秦族は明確には区別して捉えるのが良いのかもしれない それは言える。
京都深草や太秦に住んだ秦氏と各地の秦姓は血族としては別個のものである確率が高い。
秦氏は各地の渡来人集団を囲い込んで影響下に置いたとする説もある。
日本書紀の弓月君が百県の民を率いて渡来したとする記述は、そうした囲い込みを正当化するためのものである可能性もある。 >>375
摩多羅神について、比叡山文庫に伝えられる「玄旨灌腸頂私記」は、摩多羅はサンスクリット語であり、大日如来のことだとしているという。
そこで、サンスクリットを見てみると、matha(tの下に・有り)は堂塔、神殿、神社の意味だそうだ。
サンスクリットのmatha(tの下に・有り)の発音がマタとすれば、摩多羅の摩多は(堂塔、神殿)の意である可能性がある。
しかしながら、サンスクリットで摩多の意味が理解できても、羅の説明ができない。
そこで、中央アジアのゾロアスター教「方形拝殿」=秦氏のトルコ語 matara(マタラ=食堂)説をサンスクリットのmatha(マタ=堂塔、神殿)に重ねてみると、
トルコ語のmatara(食堂)の語源はサンスクリットのmatha(マタ=堂塔、神殿)であるとみなすことが可能になる。
そうすると、サンスクリットのmatha(マタ=堂塔、神殿)にはない羅(ラ)の音が、トルコ語のmatara(マタラ=食堂)では問題なく説明ができるわけだ。
このように見ると、秦氏のトルコ語のmatara(マタラ=食堂=方形拝殿)が摩多羅神の名の語源である可能性がかなり高くなってくる。
秦氏はトルコ語話者だった説は、いよいよ高まってくる。^^ >>378
一行目の「玄旨灌腸私記」は、「玄旨灌頂私記」が正しい。 >>378
神殿
サンスクリット語 matha(マタ=堂塔、神殿、神社)
ヒンディー語 mandira(マンディラ=神殿、寺)
パンジャブ語 madara(マダラ=神殿、寺)
このうち、パンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)が、トルコ語のmatara(マタラ=食堂)に最も近い発音だ。
トルコ語のmatara(マタラ=食堂)の語源は、パンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)である可能性が出てくる。
神殿では神を祭るために飲食したりすることから、パンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)の言葉が神を祭るための食堂の意でトルコ語にmatara(マタラ=食堂)として取り込まれたと考えることもできる。
中央アジアのゾロアスター教の方形拝殿では神を祭るために酩酊状態になる乳製品を飲むため、
この方形拝殿を中央アジアのトルコ語話者はmatara(マタラ=食堂)と呼んでいた可能性は相当高くなってくる。
そして、広隆寺の大酒神社の大祭で摩多羅神を祀る秦氏はトルコ語話者であったとする説は、かなり信憑性を帯びてくるのである。
このように見ると、大酒神社の酒の字や秦酒君の酒の字と、中央アジアのゾロアスター教の方形祭殿で酩酊して神を祭るために飲酒する乳製品とは、何か関連があるのかも知れない ユダヤ教では、葡萄酒は神の祝福を受けた神聖な果物とされていて、
金曜日の安息日(シャバット)には神に感謝を捧げる祈祷書を読み上げたあとに、
皆が小さなコップに入れたワインを飲みほすのだそうだ。
http://www.sakebunka.co.jp/oversea/israeli1/index.html
このワインと大酒神社や秦酒君の酒(辟)の字とは、案外、関係あるのかも。 秦氏の祖先を調べようと思ったら、
島津家とか秦氏の男系子孫のY染色体を調べたら
何らかの手がかりがつかめるだろう。 鹿児島県出身の男性の不特定多数のY染色体を調べれば
秦氏の出自が、だいたい推測できる。
確か鹿児島県の人って、濃い顔をしているのに
意外にもO系統が多かったはず。 >>380
秦氏の氏寺広隆寺境内にある大酒神社の大祭に現れる摩多羅神の摩多羅(マタラ)は、
トルコ語のmatara(マタラ=食堂)に由来する言葉で、
そのトルコ語のmatara(マタラ=食堂)の語源はパンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)ということになりそうだ。
摩多羅神は伽藍を護る伽藍神とされるので、パンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)の語義とうまく重なる。 >>381
この大酒神社の大酒は、元々は大辟の表記だったそうだ。
辟(ヘキ、ヒャク)には君主の意味があり、大辟は大王であり、秦氏がユダヤ教徒であった場合、そのユダヤ人の大王とはダビデに相当するとする説がみられる。
つまり、大酒神社の祭神はダビデだったとするもの。
しかし、辟には「避ける」意味もあり、この辟の字が後に酒(さけ)の字に替えられていることからすると、辟は避ける意を表しており、大避(おおさけ)とはユダヤ人のエジプトからの脱出を指していて、その脱出後に憩った安息日を表す表記ではないかとすることも可能なのだ。
そして、この安息日の祝祭ではユダヤ教徒は儀式のあとにワインを飲むのことが仕来りだという。
つまり、出エジプト後の安息日に飲むワインのことを大酒の酒の字に表したのが大酒神社の名の由来ということになるわけだ。
もちろん、秦氏の拠点の深草は弥生時代から酒の産地だったそうだから、その地元の酒の意味も込めたのかも知れない。 秦氏の氏寺である広隆寺境内の大酒神社大祭に現れる摩多羅神の摩多羅(マタラ)はトルコ語のmatara(マタラ=食堂)が語源で、
そのトルコ語のmatara(マタラ=食堂)の語源はパンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)なのは恐らく正しいだろう。
そうすると、そのmatara(マタラ=食堂)のトルコ語を話したのは誰かと言うことになるが、
比叡山の伝承では摩多羅神は稲荷に由来するとするので、稲荷は秦氏の伏見稲荷が総本社であることからすると、
この稲荷は秦氏を指している可能性が高い。
摩多羅神は秦氏に発祥しているということになる。
そして、摩多羅(マタラ)はトルコ語であることが推測されるので、まさに秦氏はトルコ語話者だったということになってくるのだ。
この摩多羅(マタラ=食堂)は、当初は秦氏が神を祀る方形拝殿(祠堂)を指す言葉だったのだろう。
それが伽藍を護る神の名として用いられるようになり、やがて摩多羅神という奇神が誕生したということなのだろう。 このように、matara(マタラ=食堂)はパンジャブ語のmadara(マダラ=神殿、寺)を語源とする中央アジア一帯のトルコ語だとすると、
そのトルコ語を話した弓月君(秦氏)は中央アジアの出身だったことになる。
そして、秦氏の祖の弓月君の子の名が浦東(ホトウ)であり、タリム盆地南部のホータンと発音がよく似ていることから、
秦氏の祖先はホータン出身のトルコ語話者であった可能性が極めて大きいということができるのだ。 このように、秦氏はタクラマカン砂漠のオアシス都市ホータン出身のトルコ語話者のユダヤ教徒だったというのが、謎の氏族秦氏のアウトラインだよ。
イラン系民族によるホータン地方制覇の動乱のときに、ホータンを脱出して日本に渡来したのが秦氏の先祖だ。
秦氏の系図では、弓月君の子は浦東君のほかに3人いるが、この3人の子の名がやはりタクラマカン砂漠周縁のオアシス都市の名に重なるので、
そこを脱出して日本に渡来したのは秦氏の先祖だけではなく、その4氏族は一団となって日本に渡来したことが分かるのだ。 頭脳才能御魂磨き
してこなかった、
卜部中臣鎌足系譜!!! 文章博士
景教博士とでたな
共系博士もでた
明経博士
他なんだっけかな 奴隷制度はいい制度
真の穢多非人なんて、
奴隷にしか出来ねっつうの
御魂のないやつとか 日本人の不特定多数のY染色体を調べたら
日ユ同祖論もトルコ系との類似性も何も
手がかりになるような結果は殆ど皆無だ。
よって、秦氏の祖先は、中国系朝鮮人で間違いない。
ただし、その氏族だったかは気になる。
おそらく、中国東北部にあった燕の秦氏との関連性が気になる。 一番多種多様国家といえば、
ずばり中国。
大学の文学部東洋史学科。
頑張ってくれよ!!
まじ偏差値って意味ねえ。
就職率なども、意味ねえ。
やりたい学問、やりたい研究をするんだぞ!!
学生の諸君!!! 日本人のY染色体ハプログループを調べたら、秦氏は中国系朝鮮人の渡来人で間違いない。
それが、ネトウヨを中心に、ユダヤ説とかトルコ説のような
ちょっと調べたらデマだと分かる説が流布していて、呆れるばかりだ。
なぜ、ネトウヨが日ユ同祖論が好きなのかというと、
反中・嫌韓が影響していて、中国・朝鮮との類似性を打ち消すために
その説にしがみついているに過ぎない。 秦氏が中国系朝鮮人で間違いないのだが、
では、もっと具体的に、どの氏族だったのかは?議論が分かれるところだ。
自分は、古代の中国東北部にあった燕の秦氏について関心がある。
燕王の命令で、燕の武将の秦開が、何度か朝鮮半島に遠征したという記述がある。
この秦氏は、おそらく、秦の始皇帝よりも遥か前の時代に
秦から燕に移住してきた氏族の可能性が高い。
燕の滅亡後、朝鮮半島に逃げ込んだモノも多かったが、
秦開の係累のモノもおたはずである。 >>398
日ユ同祖論やトルコ語論は、ハプロDの血がうずくせいだろう。 >>399
秦氏の秦の字と燕の秦開の秦の字が同じというだけしかつながりがなく、
秦氏の場合の秦は、大秦(太秦=ローマ)の秦由来と考えることができる。
この秦を秦始皇帝の血脈に当てたのは新撰姓氏録に載せるために考え出した血統であり、秦始皇帝の血脈としての秦を持ってきたのはそのようにずっとあとのことだろう。 402
できるわけないだろ
まったく関係ないわだからよ >>401
Y染色体のD系統とE系統の分岐年代って、約6万年前だからな。
その程度の近さで同祖ならば、人類の大部分が同祖というレベル。 >>402
そりゃ、ない。これだけDNAの研究が進んでいるのにな。。。 日ユ同祖論って、
いかにして、日本人をキリスト教に改宗するために広められた
トンデモ説だからな。
酒井勝軍とか中田重治ってグーグれば、色々と出てくるよ。 日本には戦前にユダヤ史研究ってのが盛んだったらしいからな
そおしたら日本内でもユダヤに関係あるだの言いだした連中らが現れたって話だろ
それは成りすましと言います ハプロDの血がうずくと言ったのは、Dの原郷であるアルタイ地方へと目を向けるための具体的な事象がユダヤの東進や
チュルク族の活動ということなのよ。
そのユダヤ東進やチュルク族の活動と日本を関連づけることで、Dのアルタイ地方への望郷の念を満足させているということだな。
アリスの「昴」を聴くと涙ちょちょぎるのは、Dがむせび泣いているためなのよ。
それと同じということ。 ハプロDとハプロRは、約6万年前に分岐したといわれ、
この程度で、日ユ同祖だというのは、
世界中の大半が同祖というのと一緒。
そもそも、古代ユダヤ人の主流は、ハプロJで、これはアラブ人でも主流。
ハプロEは、地中海経由でユダヤに同化した人たちで、
イタリア人や北アフリカにもそれなりにいるY染色体である。 東漢氏や西漢氏は、自分たちは劉氏や王氏の末裔だと主張。
劉氏や王氏は漢王朝の末裔。
たしか、西暦3世紀の帯方郡の太守に劉氏が赴任していて、
東漢氏は彼らの末裔だと自称していた。
一方、西漢氏のほうは、楽浪郡に赴任していた楽浪王氏の末裔を自称していた。 412
日本の朝廷においてはそれは一切認められなかった
ほとんど昇進とかにも関係ないしな
それが起こるなら乗っ取りを仕掛けた連中らが乗っ取り成功したときだけだ
中国史の記録は時代的な合致性が合うかを見るために研究する
向こうに書いてあるのが本物だのそんな見方をするなら話にならん >>413
あくまでも、自称の祖先だよな、東漢氏、西漢氏、秦氏のどれも、
自称であり、本当かどうかは分からない。 >>412
いわゆるゥ蕃も、新撰姓氏録に記載され、官吏に任官される資格の前提となっている時点で貴族層に近いと言って良い。負け組の旧政権の中級官吏・知識階級層といったところではないのかね。 まあ、その中で最大級の影響力を持ったのが、秦氏なんだけど。 秦氏とかいて、はたうじ!と読め(°▽°)
って決めたのが天皇なんや 島津氏が秦氏の絶対的な子孫だという条件は付くけど
鹿児島県人の不特定多数のY染色体ハプログループを調べたら、
秦氏の起源の謎が解けるよ。
誰か、鹿児島県人のY染色体ハプログループを調査の結果を知っている人
いますか? >>365
秦氏って、そんなに悪い奴らなの?
秦河勝は、そんなに悪い人ではないはず。
しかし、秦河勝以外、あんまり秦氏を知らない。
昔、ヤクルトに秦というキャッチャーが居たが、
いい人そうだったよ。
多分、本当に文化人がいたんじゃね?秦氏の中にも。
色々いるから、特定断定できにくいんじゃないかな? 秦氏の祖は弓月王って半島におった人物らしいからね
弓を姓とする氏族としては楽浪弓氏の名が見える 弓月(うず)王って名前なのさ
そんで秦氏は大秦と書いて呼び名も祖先のウズ王の名を取りウズマサと呼ぶんだとよ 王仁なんかもオウジンとは呼ばないのだよ(・∀・)
ワニって呼ぶの🐊 >>147
>>184
徐福っぽい遺跡があれば証明になるかもしれないけど、ないから否定になるとも言えないと思う
南米の日系移民は200万人くらいいるけど、特に日本っぽいものを建築したりはしてないだろうし
2世の時点でフジモリ大統領が出たけど、だからといって芸者とか忍者とかやっていないだろうし 単純な比較はできないですけどね
南米の日系移民は貧乏農家の次男三男で生活苦から物もろくに持たずに着の身着のままで海外に移民
徐福は正式に始皇帝の物資・資金援助を受け、工員など技術者をも引き連れ、格式も高く、秦国王家のミッションを果たすべく、最高水準の技術レベルの集団として準備万端で日本に乗り込んだと思われますし
徐福集団が来てその先進的な技術が南北九州で伝搬していれば、数百年後の卑弥呼の時代には少なくとも平地の住民は竪穴住居ではなく、一般の農家でも高床式の住居に住むとかしてたのでは・・・ ところで兵法書『孫子』を書いた、春秋時代の軍事思想家である孫武が生きていたのが紀元前535年頃。始皇帝の時代を300年ほど遡る。始皇帝の時代の大陸では鉄器も出回り始め、農具などに使われていた。
徐福が渡来していたなら、邦国でも鉄器の時代がもっと早く始まっていたであろうことは容易に想像できる。
あの張良が連れてきた男に、視察巡業でやってきた始皇帝に向かって鉄球を投げつけさせたエピソードは皆も知っているであろう。
鉄は既に広く使われていたのである・・・ 孫子の兵法の圧倒的な先進的な考え方、それより数百年後の卑弥呼の時代にまだ一般農民が竪穴住居に住んでいた我が国。
これで始皇帝の時代に徐福が来ていたとは思えないのです。
戦争だけ強い騎馬民族の連中が乗り込んできて蹂躙しすべての文明が失われた、そんな痕跡もないようですし。 日本だと武士だったり非人だったりするけどアレなんだろうね >>365
有名どころだと西周が秦人で独立していたけど
元々漢民族から追い出されただけなんだよな
でも宋とか唐も秦人らしい。中国にいた奴らは秦氏を名乗らず宋人唐人といったらしいが 日本の場合は本来はよくわからない秦人、秦公ともっと細かく分類されていたようだけど
秦川勝の末裔かが重要みたいだが
始皇帝や秦国とは関係がない朝鮮人の末裔もいるから
ハプロで中国由来かそれ以外かでは分類されてしまう時代だからなりすましの既得権みたいになっている自称もやり得になるか 徐福だのなんだの日本と中国の間で国交ができてからそれから広まった話なんだぜ
てことは? 正美ちゃんの話は嘘なので
だから秦氏はユダヤ人ではないということでいいだろう
そもそも秦の始皇帝に追い払われたのに秦を名乗っているのは偽装だよ
神社の建築技術なんて2、3十年も修行すれば、そこそこの物は作れるだろう
今みたいにカメラで見るんじゃなくて、目視でチェックしたら上の方は見えないしな
秦氏の神社の狛犬はツングースを表す
だから女真族だな
秦氏が輩出した天皇は南朝系だろう
女真族→高句麗の人食い馬賊→百済王族 >>417
お前顔文字を付けなきゃなんない縛りがあるんだろう
5chでは詰んでねえかw 奇説として、景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱されたが、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている。 ↑
>>32-34
始皇帝の一族の末裔、始皇帝自身が青い目に鷲鼻だった説もあるらしいが
始皇帝の息子の墓がみつかって色々わかったらしいが 嬴氏趙姓は後に馬氏を名乗る
馬超も目が青かったかな
特に珍しいものでもない どこからきたって秦川勝は百済だよ
DNAの型はその子孫を名乗るハタさんが福建の漢民族にもいるタイプらしいが
秦氏を名乗るちゃうすがめが斉とか魯のあった場所の血筋。子孫は秦人(羌、北狄説有り)といわれた人と同じDNAの型
宋=唐=秦は同じ人種らしい そら漢の時代は漢四郡で植民地にしてたし、後漢、三国時代も魏や公孫氏の植民地、流入してくる流民も。秦氏も自己申告で秦国系と言ってますよね。 遼河のY-Nが4000年前頃に四散した跡に入ってきた種族が、O2とC2であったことが分かっている。
そのO2とC2が、さらにNのあとを追って朝鮮半島に入ったことが考えられる。
なので、漢の時代に楽浪郡などに入ってきた漢族O2の前に、先住のO2とC2がすでにいたとみるのがよいだろう。
もちろん、そのほかに、陸稲を持ったO1b2も山東半島から朝鮮半島にすでに入っていたから、
O2とC2、O1b2らが先住していて、そこへ漢の時代になって新たに商人系のO2が半島に入ってきたということになる。
とにかく、Y-O系の連中が半島を支配するようになったということだよ。
ただ、言語からみると、少数派のC2がかつてはベースとなっていたとみることができるけどな。 弓月君の秦氏が日本にやってきたのは4世紀後半らしいから、秦氏が半島を通過したのはぐんと時代が新しい。 弓月君(ユヅキ)を融通王(ユヅウ)と変えてるあたり、秦始皇帝の系譜説はまず後付けということ。 秦氏の系図には、弓月君の子に浦東君というのがあるよね。
この浦東の読みは、ホトウ。
ホトウは、ホータンの略。
弓月君の子を浦東としているのは、弓月国のホータン出身者という意味なんよ。
浦東君以外にも子の名が記されているけど、皆、タリム盆地周縁のオアシス都市の名と重なる発音になっている。
弓月君秦氏がそれらオアシス都市のうちのホータンの出身者なのは、ほぼ確定だよね。 また、埼玉の稲荷山古墳からは、今のユダヤ教超正統派とそっくりの姿をした人物埴輪が出ているし。
太秦の秦氏が武蔵へ送り出した入植者が、ユダヤ教徒だったということになるしね。 >>450
ということは、現在の大阪府に在る古墳群を造ったのは秦氏ではないと…はたして誰なんだろう? 弓月君秦氏がやってきたのは4世紀後半。
古市の津堂城山古墳のあと応神天皇陵古墳が造られたのは5世紀初頭。
南河内では、津堂城山古墳が造られる前に、すでに前方後円墳が造られている。
よって、応神陵を造ったのは、それら古墳前期の墳墓築造工人集団だった可能性が高い。
もちろん、その工人集団に古墳築造を発注したのは、応神政権だけどね。 宇佐八幡の八幡(やはた)はユダヤ人を表すヘブライ語イェフディが訛ったもので、
その幡(はた)を取って氏名とした秦(はた)氏はユダヤ人だったとする説があるけど、
日本語の旗(はた)、幡(はた)はパンジャブ語のjhada(ハダ=旗)を語源とする言葉であり、
ヘブライ語とはまったく別の言葉。
なので、秦(はた)氏のハタは、ヘブライ語由来ではないよ。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>453
台湾の浦東・プードンとの関係性はありますか? >>459
誤:台湾、正:上海。
上海の浦東・プードンとの関係性はありますか? 上海の浦東とは、関係ないでしょう。
上海の浦東の西端は川で、この川の西側が上海の元からの市街となっています。
そして、その上海の市街地の呼び名は、浦西です。
ですので、この浦西の東側に広がる原野が、浦西に対して浦東と呼ばれるようになったわけです。
開発前は砂浜の上にできた原野だったのが、開発後に浦東と名付けられたものですね。
つまり、上海の浦東は、最近できた地区名ということになりますね。
それに比べて、秦氏系図にみられる浦東君の字句は、相当古いものではないでしょうか。
ホトーと口伝された名に、系図を作るとき、浦東の字句を当てたのでしょう。
その口伝されたホトーは、中国西域の都市のホータンが短縮されたのでしょうね。 >>461
中国四千年の歴史を踏まえて、秦の始皇帝が秦氏の始祖なのかしら? 東漢氏らがその先祖を後漢霊帝としたため、それに張り合って、秦氏は漢よりも前の秦の始皇帝が始祖だと胸を張ったのでしょう。
秦氏が秦始皇帝を祖先にしたのは、単に東・西漢氏と張り合うためだったとするのが、ワイの考えです。
インスピレーションに溢れた説だと思いませんか。 ただ、一考の余地があるのは、秦氏が本拠地のウズマサに太秦の字を当てていることです。
大秦は、後漢書に見えますように、ローマ帝国を指す言葉です。
大秦は、大きな国というのが原義ですね。
そこで、秦氏が自らの本拠地に太秦(ウズマサ)の字を当てたことを見ますと、大秦の大と太秦の太は同じ意味ですので、
秦氏はウズマサをローマ帝国の都のローマになぞられえたとする意見が出てくることになります。
しかしながら、秦氏がユダヤ教徒だったとすれば、その大きな国(大秦・太秦)とはユダヤ人の都だったエルサレムが考えられていたことも捨てきれません。
そして、ユダヤ教徒だったハタ氏は、そのエルサレムを指す大秦・太秦の秦の字を取って、氏名(うじな)のハタの発音に当てたのが秦(ハタ)の字だったということも考えられます。
このように、ハタ氏が自らの名に秦の字を当てたのは、太秦の秦に由来するものだった可能性が高いです。
そして、この秦の字にかこつけて、のちに秦始皇帝を祖先とする系図を作り、東漢氏らに対抗したのでしょう。 きみたちは思ってもみないだろうけど、太秦からさきたま古墳のある行田までは、秦氏がユダヤ教の出エジプト記になぞらえて描いた日本版出エジプト記の旅程ルートなんよ。
太秦秦氏の神体山の松尾山は、出エジプトの前夜にユダヤの民が食べた種無しパンのマッツオを漢字表現したもの。
深草秦氏の神体山の稲荷山は、もともとはイナイ山の発音だった。
イナイ山のイナイは秦氏のトルコ語では着陸、降下を表すイニシに由来する言葉で、何が降下着陸したのかというとユダヤ教の神が降臨したことを意味する。
ユダヤ教の神が降臨したのはあのシナイ山なので、秦氏のイナイ山はシナイ山に見立てた山名となる。
そして、このイナイ山(稲荷山)からずっと東へ行くと諏訪に至るが、秦氏のトルコ語ではスバは「水がある」という意味の言葉なので、諏訪湖を指していることが分かる。
この「水がある」は、ユダヤの民がエジプトを出て初めて一息ついたオアシスのエリムを指している。
このあと、諏訪から武蔵に入り、いよいよ旅程は行田に到着するが、そもそものムサシ(武蔵)の言葉は秦氏のトルコ語ではヤダヤの民を率いたモーゼがムサで、
シは方向を表す和語となり、ムサとシを合わせたムサシは「モーゼが目指したところ」の意味の言葉になる。
なので、ムサシ(武蔵)とは、秦氏のトルコ語では「モーゼが目指した安住の地カナン」を指した言葉になるのだ。
これをみれば、太秦から信濃を通って入植地の行田に至る旅程を、秦氏は出エジプト記の行程として描いていることが分かる。
つまり、秦氏はトルコ語を話すユダヤ教徒だったとみるのが正解ということだ。
トルコ語は西域のホータンでは当たり前の普通の会話語だったようなので、ホータンから来た弓月君秦氏がトルコ語を話す人々だったことはなんの不思議もないことと言える。
これが、秦氏の謎に潜む真の姿だと言える。
その秦氏が行田の地へ送った入植者の中にユダヤ教の超正統派的な姿をした人物がいることは、何ら不思議でもないごく普通のことだったのだ。
武蔵は、秦氏によって描かれたユダヤの民の入植地カナンだったということなんだよ。 斉って山東半島だよな
山東半島には倭人にまつわる何かがある気がしてならんな
あそこから海にでて朝鮮半島や日本に逃げていったんだろ倭人は。
山東省は日照や嵐山っていう日本みたいな地名あるし、海に面してて日本に少しだけ似てるよね。 菜畑遺跡の水田の様式と山東半島の遺跡の水田様式がよく似ているそうだ。
平野部につくる規模の大きい水田ではなく、山あいの谷筋の小規模な水田の様式。
菜畑のあとの板付遺跡の整った水田遺跡とはかなり違うらしい。
しかしまあ、淮河や山東のどちらの水田もY-O1b系の種族によって運営されたのだろうし、
菜畑や板付にもその同じ種族が渡ってきたのだろうけど。
関係おお有りじゃないの。 なら、菜畑遺跡は中国土器遺構になってないと話しがおかしいじゃないか
菜畑遺跡はそれまでの黒川式縄文土器を押し退けて新たな土器が登場した遺構なんだから
中国から入ったなら中国土器が伝わってないと話がおかしい
ところが菜畑遺跡に伝わった新しい土器は中国土器でも朝鮮土器でもなく、
山陰方面から入ってきた沿海州南部と特徴が一致する土器なのであった 秦氏は元辰韓の王侯貴族
辰韓は連合国の一国だった新羅に国を乗っ取られてしまう
元辰韓王の功満王が来日して仲哀天皇に遺民の帰化を要請し
実現したのが秦氏 >>473
その謎が、極めて重大。
縄文時代から弥生時代へのダイナミックな転換の際に、半島系の無文土器が北部九州でみられるようになるとされているが、
その無文土器でも舶載のものはごく少ないとされているようだ。
このことは、半島から人が対馬海峡を渡る際にも、半島で造られた土器は持ってこなかった可能性を示唆する。
舶載とされる無文土器も、対馬海峡の海人らが交易品として北部九州へもたらした可能性も考えられる。
この無文土器のケースと同じで、水田稲作の籾を持って対馬海峡を渡って菜畑などにやってきた水稲農民も、
その大陸での炊飯用土器などは持って来なかった可能性を考える必要が出てくる。
大陸の炊飯用土器なども無文土器の場合と同じで、それを舟に積むかどうかは舟の船頭の考え方次第だったとも考えられる。
それは、舟のスペースがごく狭く、余分なものは積めなかったということによるのではないか。
つまり、北部九州へ渡るには、身一つで舟に乗る必要があったということになる。
そして、対馬海峡を渡った者が男だけだったとすれば、なおさら大陸の炊飯用土器は持って来なかった可能性が高い。
舶載の鼎などが菜畑や板付などで出土しない理由については、そうした事情も勘案してみる必要があると思われるけどね。 >>475
そもそも、秦氏辰韓出身説の根拠はいったいな〜に?
特に何もないんじゃないの? >>476
記憶からの再現の話を搬入の話にすり替えて誤魔化しんてんじゃねよ馬鹿チンコロ
そんな子どもダマシな欺罔が考古学者や考古学マニアが何百人も集う講演会で
通用すると思うか? >>477
まず秦氏が遺した土器は百済あたりではなく新羅あたりの土器と一致するという事
国王自ら来日して天皇に亡命を哀願している事
この頃に滅んだ国家に楽浪帯方があるが、楽浪帯方なら太守のはずであり王ではない
新羅の執拗な妨害
百済あたりから来たなら新羅は妨害できないはず
辰韓が秦韓とも呼ばれている事 478
記憶からの再現て、その再現の必要についての有無から検討せんとな。
再現する必要がなければ、そもそも記憶からの再現についての議論は不要やし。
記憶から再現する必要をその稲作渡来者は感じていたの?
どうなんよ。 >>480
俺の知ってる限りでは、故郷の土器を伝えなかった渡来人はいないです >>479
秦氏の蛇塚古墳の石室の下から土器が出ているようやけど、その新羅系という土器の出土の具体例を挙げてみてくれん? >>483
スレタイの秦氏も遺してますよ
だから元辰韓人だと分かるのです >>484
インターネットの「西日本の渡来人-研究ノートとして−」(安藤信策)という論考では、秦氏の古墳とされる大覚寺3号墳から出土した新羅土器(7世紀初頭)について、
秦氏について「新羅系氏族としては、その可能性も示唆される」としているものの、しかし、北部九州の新羅土器のケースでは、
「出土する新羅土器から渡来人をその被葬者とする根拠は見出し難い」とする考えも明らかにしている。
この人の論考からすると、新羅土器が出たからと言って、即新羅系氏族と断定するのは危険ということになるようだ。
まあ、それはそうだろうと思うよ。
しかも、この大覚寺3号墳は7世紀初頭ということだから、秦氏の先祖の弓月君が渡来した4世紀後半からは二百年以上のちの古墳になる。
北部九州のケースのように、単に舶載品の土器を副葬しただけということも考えられるしね。 >>485
時代的に怪しい訳か
秦氏は京都太秦に須恵器を遺さなかったため、考古学的追跡が難航するんだよね
京都太秦に移ってきたときもすでに帰化から百年以上経っていて在来人と
同化しているため、渡来人としての痕跡がほとんど見られない
ただ5C頃から西日本各地に韓式土器が出土するようになるから、朝鮮南部から
来ている事だけは間違いないが
韓式土器は粗製土器だから朝鮮南部が故郷である事だけは分かるものの、
それ以上に狭い範囲での地域性を見出せないから出自の特定が難航するんだろう
ただ、功満王が自ら来日して仲哀天皇に亡命の要請をしているから、元馬韓辰韓弁韓の
いずれかの遺民である事だけは間違いないだろう
秦氏は新羅系仏教を信仰していたり、新羅と関係する事柄が多い事を考えると
新羅に乗っ取られた辰韓人と見るのがやはり自然なのではないか >>486
功満王のことが記されているのは平安時代初期の「新撰姓氏録」で、秦氏が活躍する古墳時代中期から後期の時期よりかなり後の記述ということになる。
そこには、秦始皇帝の三世孫の孝武王の子の功満王が仲哀天皇の時代に来朝し、その功満王の子の融通王(弓月君)が応神天皇の時代に来朝するという系譜が書かれているようだ。
始皇帝の三世孫といえば、二世は胡亥なので、二世皇帝の胡亥の子が三世孫ということになる。
胡亥は前207年に亡くなっているので、三世とされる孝武王は前2世紀代の人物とするのがよいようだ。
そこで、前2世紀代の人物である孝武王の子の功満王も前2世紀代の人物とみなした場合、その功満王が4世紀後半頃の仲哀天皇の時代に日本にやってきたと新撰姓氏録は載せていることになる。
そうすると、孝武王の子の功満王は300年間ほどの時空を超えて日本にやってきたことになるので、年代が合わないことは言うまでもないことと分かる。
融通王(弓月君)の場合は、それより一代繰り下げた扱いとなっているむれど、やはり300年間の時空を超えて日本にやってきたことになる。
秦氏がこのような無理な系図を挙げているのは、後漢霊帝の子孫とする東漢氏に対して、秦氏は後漢よりも前の秦の始皇帝の血脈なのだと東漢氏に対して幅を効かすためだったと考えると分かりやすい。
なので、この系図から秦氏と新羅の関係を導くのは、まったく無理筋に近いのではないかということになってくる。
さらに、秦氏が新羅仏の管理を聖徳太子から任されたことについては、その当時、秦氏が外来宗教の関係や異教などを監督する立場についていたことが考えられるので、新羅仏の管理を聖徳太子から任されたのはそうした関連からだったとすることも可能。
新羅仏の件は、秦氏が新羅由来の一族であることを示す事柄だとしなくても、十分に説明がつくことのように思えるね。 >>487
始皇帝の子孫というのが大風呂敷だというのは有名だよね
それが事実なら鬲鼎の一つくらいあるはずだもんね
ただ、労役から逃げてきた遼東秦人の子孫の可能性はあると思うよ
遼東人は元ウラルアルタイ語族で戦国時代に燕に併合されて異民族燕人となり、
その後も異民族秦人、異民族漢人を経る事になるが、中原からの入植が
ほとんどないので中国陶磁器や漢服などの中国系生活文物や衣服や住居などの
影響をあまり受けず、中国文化が希薄な辺境集団だからね
ただ、功満王が来日して仲哀天皇に一族の亡命帰化を懇願したのは事実だろうね
でないと融通王集団が帰化した史実も虚構になるし >>488
遼東地方にはウラルアルタイ語族系の種族が住んでいて、その種族が秦の長城建設に徴発され、苦役を逃れて南朝鮮に逃げた。
そのウラルアルタイ語族系の種族は後の新羅に当たる地方に住んだが、その中の一派が4世紀後半頃に日本に移住したが、この者たちが秦氏の先祖の弓月君であるということですか。
遼東地方にウラルアルタイ語族系の種族が住んでいたという痕跡があるといいですが、そうした何かが出土しますか。 >>489
労役から逃げてきた遼東秦人が入植した可能性もあるというだけの話だけどね
遼東は遼河文明のエリアだから燕の併合以前はウラルアルタイ語族である事は明白
BC6C頃まで遼西は夏家店上層文化時代だから、それよりも東にある遼東は
間違いなくウラルアルタイ語族ですよ >>490
秦の頃では、遼河あたりにいた種族は烏丸と鮮卑ですね。
鮮卑はチュルク系かモンゴル系とされているようです。
ウラルアルタイ語族です。
遼東で徴発されたとすれば、遼東秦人はこの鮮卑かもしれません。 >>492
東胡が匈奴に滅ぼされたあと、その残党が移動して居付いたのが遼河流域で、烏桓・鮮卑がその残党とされているようですね。
東胡は、烏桓・鮮卑がいた元の集団ということのようです。
ですので、東胡も烏桓・鮮卑も同族ですね。
彼らは遊牧民だそうですので、この鮮卑たちが秦に徴発されて長城建設に駆り出されたとしても、長く土木作業に従事できないでしょうね。
そして、彼らは逃亡して朝鮮半島南部へ行き、東南隅の辰韓の地に定着したとして、これをどう秦氏につなぐかですね。 >>473
渡来者が元いたところの土器を復元する場合は、その必要があったからそうしたわけ。
菜畑の場合は、古代中国の土器の復元は行われていない。
ということは、菜畑にやってきた水田稲作民は、復元の必要性を持たなかったということになる。
その理由としては、渡って来た水田稲作民は男性であり、菜畑の縄文社会に溶け込んだために、
元居たところの土器を復元する必要がなかったことが考えられる。
菜畑で出土する土器には、縄文の模様が描かれているので、その土器を造ったのは縄文系の者であったことが推測できる。
やはり、やってきたのは男性の水田稲作民だった可能性が高い。 >>496
都合の良い馬鹿げた小学生レベルの曲解
菜畑の人々は朝鮮土器から壺と高坏という器種をパクった
菜畑の人々が中国大陸からの入植者なら朝鮮土器からパクる必要がないじゃないの
単に自分たちの中国土器を記憶から再現すればイイだけの話じゃないの
壺や高坏だけじゃなく鬲も鼎も甑も釜も竈も平皿もあったんだから
つまり菜畑の人々は中国大陸とは何の関係もない人々だったという事に他ならない >>497
この波旦が、唯一の具体的な秦氏新羅説ですね。
波旦は蔚珍の中の地名であり、渡来した弓月君秦氏はその出身地の波旦(ハタン)の名を取って自らの氏名(うじな)としたというものです。
有名な歴史学者が唱えたものです。
しかしながら、石碑に刻まれた文章はところどころ読み取れないほどにすり減っていて、
この波旦の下に続く一字もかすかにしか読み取れなくなっています。
その字はいろいろな説が挙げられていますが、まだ確定できていないようです。
そして、その説の中に、この字は「緹(テイ)=赤色」ではないかとするものがあります。
この説を当ててみますと、「宜しく波旦の緹を智るべし」と読めることになります。
どうも、何かの諺のように見えます。
そうしますと、この波旦は必ずしも新羅の地名を表しているとは限らなくなります。
この「波旦の緹」が何を言っているものなのか考えてみますと、次のようなことが考えられます。
「波旦」はホータンの漢音表記としますと、「緹」は赤色ですので、「波旦の緹」は「ホータンの赤」という意味がまず考えられます。
そこで、ホータンはどのようなところかと見てみますと、ホータンは白色の軟玉の原石が採れるところで、高価で取引されていたようです。
そして、この白色の原石には、鉄分が染み込んで赤や黄などの膜が被さっている場合があるのだそうです。
高価で売るには、この赤や黄の薄膜を取り除く必要があります。
この薄膜は、日本で言うところの「鼈甲の皮」に当たる邪魔者ということになります。
本来なら高い価値がつくのに、この赤い薄膜のせいで原石は価値が下がるというわけです。
これが「波旦の緹」の意味だとすれば、この蔚珍の石碑に書かれているように、
罰を受ける罪人を取り除かれるべき邪魔者だとみなし、その邪魔な者を表すために「波旦の緹」の諺が挙げられているのだと理解できます。
摩耗して読み取れなくなっている字が「緹」であれば、このように解釈できることになります。
そして、「波旦」は蔚珍の地名ではなく、中国西域の宝石の産地であったホータンを指す地名とすることが可能になります。 >>499
上のように考えますと、蔚珍石碑の「波旦」は必ずしも新羅の地名を表していると言い切れなくなります。
むしろ、弓月君秦氏のハタの名は、中国西域のホータンのホタを取ってそれが訛ったものだとする説が強化されることになります。
ですので、この「波旦」を新羅の地名とする有名な学者の説は、かなり揺らいでくるように見えますね。 >>498
しかし、水田稲作は、その時期、中国の淮河以南でしか行われていなかった。
水田稲作の技術を持った農民は、そのあたり以外からは来ようがなかった。
どこから来たというのよ。
狭い丸木舟には土器などは積んでくれなかった、と考えるのが合理的。
まして、その水田稲作民が男性だけであったなら、菜畑に来てからわざわざ三足鍋を復元する必要性は極めて少ない。
彼らが溶け込んだ菜畑の集落の縄文人らが造った煮物甕で飯を食べて、それで十分だったのよ。 >>501
記憶からの再現の話をしてるのに何で搬入の話にすり替えて誤魔化してるの?
そんな子ども染みた幼稚な欺罔や詭弁が考古学者やセミプロに通用すると思うか?
アジアから何千qも丸木舟で航海して土器を遺したポリネシア人もマダガスカル人も
全て記憶からの再現だぞ
そんな航海に邪魔なもの、搬入する訳がないだろ
土器も住居も全て現地で記憶から再現しただけの話だ
それに何で「来た」と決め付けてるの?
日本最古稲作遺構には外来人が入植した痕跡がない
単にこちらから行って取り入れただけだからだ
取り入れたものの中に中国大陸の農具や土器の器種やイネの粒種などが一切ない
あるのは朝鮮南部と一致するものだけ
ただ単純に最寄りの朝鮮南部から取り入れただけの話なのである >>503
遼東から百済を経て洛東江を下り、新羅と加羅の境界付近を通って伽耶にたどり着き、そのあと対馬の海人の舟で倭国へ渡ったとするルートが最適。
加羅のあたりにやって来た時に、新羅が邪魔して、伽耶まで行かせなかったのが弓月君の事情だったとみられます。
遊牧民の烏桓・鮮卑と秦氏は、つながりにくいですね。
秦の長城建設に徴発された部族で、辰韓まで逃げたと考えられる者は、ほかにいないでしょうか。 >>502
ポリネシアやマダガスカルまで航海した者たちが、男だけで舟に乗ったとは考えにくい。
たどりつく島で野垂れ死ぬのがせいぜい。
しかし、彼らは行きつく島で子孫を残しているのだから、男女が舟に乗って渡ったはず。
また、長い航海が予想されるので、舟には飲料水を入れる甕が積まれた。
雨水が飲料水となった。
彼らは土器を携えた者たちだったと考えるのがよい。
このオーストロネシア語族の航海と、一日二日で島を渡り継ぐ対馬の海人の人渡しとは、事情がまったく異なる。
このような対馬の海人の丸木舟による人渡しの実態が理解してもらえたのは、慶賀の至り。
対馬や壱岐の海人の舟で唐津へ渡ったこうした男性の水田稲作農民が、菜畑あたりの縄文人に溶け込んで、
水田を復元し、稲籾を撒いて水稲栽培を始めた彼が、三足鍋を復元したいと思ったかどうかが問題。
毎日の食事は、縄文人の煮炊き甕で造られる食べ物で十分だったとしたら、わざわざ三足鍋を復元する必要性は感じなかっただろう。
後には、無文土器系の煮炊具が造られたし、新たにやってきた男性水稲農民もことさらに三足鍋にこだわる必要はなかったと思われる。
農具も半島系の畑作のものがすでに伝わっていて、それを改良した木製の農具が製作されていたから、それを水田に転用すれば事足りた。
菜畑などの狭く小さい畑地の土は湿り気があり柔らかかったので、広い畑用の重い石鋤を復元する必要はなかっただろう。
まあ、そういう事情だったのじゃないの。
無文土器ですら半島から搬入されたものはごく少ないとされているので、それらは半島の縄文人による交易で持ち込まれたものではないか。
九州の縄文人がそれを見習って、和製の無文土器を製作したのだろう。
こうしたことから導き出せることは、対馬海峡の海運は対馬や壱岐の海人が牛耳っていたということだね。
対馬海峡は、ポリネシアなどの事情とはまったく異なる環境にあったということになるよ。 秦氏はどこから来たか、がスレタイなのに
・水田稲作はどこから来たか
・縄文式土器はどこから来たか
・弥生式土器はどこから来たか
になってきている…興味深いね >>505
伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?
ふつうは伝えてから必要がなければ徐々にフェードアウトして消えていくというのが
文物の流れだろ
だいたい弥生社会はもちろん、同期する中国社会の庶民層だって土器も住居も衣類も
農具も全部自分たちで作るんだぞ
それができないなら、すなわち死だ
年がら年中、土器も住居も衣類も農具も、作ったり、直さなきゃならない場面が
やって来るのに故郷で作っていたものを一切作らないというのは不自然すぎるだろが
伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?
何で?どうして?どうして?何で? 水田は復元したのに土器は復元しなかったのだから、その理由はおめーが考えろよ。 >>508
おまえの論理だと稲作自体も伝える必要がないじゃないか
縄文社会は様々な種実を煮炊いて食べていて、それで事足りていたんだから
稲作の必要性もないじゃないか
それに農具の出現は水田が出現して50年くらい経ってからだぞ
水田の出現期に農具はなかった
だから朝鮮農具がすでにあったから中国大陸のメイン農具である石スキは
必要がないから伝えなかったのだというおまえの単なる願望創作は最初から
破たんしている 縄文晩期前葉の貫川遺跡出土の石包丁が最古のもの。
ちゅうことは、菜畑のまえに雑穀が栽培されていたのよ。
陸稲も作られていたはず。
つまりやな、半島の縄文人に稲籾見せたら、それが何なのかすぐわかったということやな。
要するに、菜畑の前には、すでに農耕は行われていたちゅうことや。
それで、あれこれ説明したら、よつしや、渡したるということになったのやろ。 >>506
彼に、秦氏の話しろよ、と言ってやってください。😄 秦氏に関連するデータは出尽くしていますね。
そこで思いますに、秦氏はトルコ語話者だったようですので、トルコ語から迫るのが効果的でしょう。
例えば、秦氏は半島を経由して大陸から技術者を招いてようですので、秦氏にとって対馬海峡は重要な交易路でした。
壱岐は、半島から見ますと対馬の次の二番目の島です。
この壱岐の発音のイキをトルコ語で見てみますと、iki(イキ)は「2」を表す言葉です。
秦氏はトルコ語話者だったとしますと、壱岐の島名は秦氏のトルコ語に由来するものである可能性が出てきます。
これは、秦氏に関連する新しいデータになるかもしれませんね。 交易路の地名を秦氏のトルコ語で見ますと、北部九州は次のようになります。
チクシ(筑紫)
トルコ語 tikis(チクシ)=出口
これを見ますと、筑紫(チクシ)の名は秦氏のトルコ語に由来している可能性がでてきます。
大変興味あることではないでしょうか。 もう一つ秦氏のトルコ語を見て見みましょう。
深草の秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)ですが、山城国風土記の記述からすると、どうもイネイ(稲生)が元々の発音のように見えます。
秦氏トルコ語話者ユダヤ教徒説からこのイネイ(稲生)を見てみると
イネイ(稲生)
トルコ語 inis(イニシ)=降下、着陸
が考えられます。
このイニがイネ(稲)に、シがイに訛ったとした場合、トルコ語のinis(イニシ=降下、着陸)が何を意味しているかが問題になります。
秦氏ユダヤ教徒説からすると、山に降りて来くるのはユダヤ教の神ですね。
そして、その山は、シナイ山です。
つまり、イネイ(inis=降下、着陸→稲生)山とは、神がモーゼに十戒を授けたシナイ山に見立てた山と言うことが考えられることになります。
秦氏のトルコ語は、相当有力だといえるのではないでしょうか。 モーゼ→百瀬
長野県中部に百瀬という苗字が多い
ということは、諏訪はユダヤの神域? ヘブライ語でモーゼは、モーシェ。
百瀬は、モモセ。
似てるな。 でも、この頃には口語のヘブライ語は死滅していて、誰も知らない言葉になってたようだ。
司祭とか学者たちが細々と使っていただけの言葉になっていたそうだ。
だから、ヘブライ語は日本の古墳時代には、どうもね。 だから、秦氏がユダヤ教徒だったとしたら、彼らはどんな言葉を話していたのかが問題になってくるのよ。
ヘブライ語は無理だから、別の言葉を話していたとすると、最も可能性のあるのがトルコ語ということになるわけ。
弓月君の弓月が中国の西域を指しているなら、そのあたりは4世紀後半にはトルコ語が主流だったし。
まあ、そんなとこじゃないの。^^ それに、ウズマサ(太秦)の発音はトルコ語では「ウヅ=3」+「マサ=机」の構成で、ウズマサ(太秦)は「三つの机」の意になる。
秦氏がユダヤ教徒であったとすれば、「三つの机」とはユダヤ教の神を祭る幕屋の「3基の祭壇」を表す言葉の可能性が出てくる。
このような観点から見ると、秦氏は太秦を「日本におけるユダヤ教の幕屋(神を祭る所)を置く地」とみなした可能性が高い。 秦氏がトルコ語を話したユダヤ教徒だったのは、おそらく間違いない。
その秦氏のハタの由来は、中国西域のオアシス都市のホータンのホタが訛ったものだろう。
出身地の都市の名を氏名(うじな)にした、ということだね。 秦氏の系図では、弓月君の子は浦東君と書かれている。
中国語の隋唐音では「浦=puo、東=tong」だから、浦東はポトンの発音となる。
これは、中国西域のオアシス都市のホータンとほぼ同じ発音。
弓月道は西域回廊に当たるから、弓月君は西域タリム盆地、浦東君はホータンとなり、秦氏の系図の弓月と浦東はタリム盆地のホータンを表していることになる。
そして、その次の子が秦酒君だから、「弓月君・浦東君・秦酒君」は「西域タリム盆地のホータンから来た秦酒」ということになり、日本における秦氏の始祖は「秦の酒」であるとしていることが分かる。
この「酒(サケ)」は、出エジプト記における神の荒業であるエジプト人の子の排除の力をユダヤ人たちが「避けた」ことを表す言葉だと思われるので、秦氏の祖先が難を避けてホータンを脱出したことを表しているのだとすることが可能だ。
ユダヤ教徒秦氏ホータン出身説からすると、このような絵を描くことができそうだ。 >>523
宇佐の神輿は720年の記録はあるけど上賀茂の記録はある? 上賀茂神社の社殿は天武6年(677年)に建立されている。
御阿礼はこのときに行われた。 宇佐神宮の一之殿が造営されたのは神亀2年(725年)とされるので、御許山の磐坐から神を御阿礼したのはこのときではないか。 >>527
https://i.imgur.com/7iTQjkd.jpg
宇佐神宮には元宮と言われる、池が内宮の薦神社があってそこで採れた薦が神輿の御神体になっている。さらに薦神社の奥宮は八面山で、日本初の神仏習合の象徴の場所でもある。 鷹居社の建立は、宇佐縁起の記述に和銅五年(712年)と書かれているそうだ。
「玄松子の記憶」のサイトの「鷹居神社」にその資料が出ている。
磐座に宿った応神天皇神を依り代に遷して、これを神輿に乗せて、鷹居社まで運んだということだと思うけど。 宇佐神宮の奥宮は御許山ですがもう一つ三女神が降臨したとする神社が安心院の三女神社です ここを祀ったのが宇佐氏一族と言われる筑紫の君の水沼氏です。ここも宇佐神宮の元宮の一つと言えます
https://i.imgur.com/4cHx6u8.jpg 日本書紀 神代上 第六段一書第三
即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。
今、海の北の道の中に存す。号けて道主貴と日す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。 資料の比較という点で、この三女神と水沼君の問題は面白そうだね。
書紀本文と一書を見ると、本文を含む天照系は、三女神は宗像氏が祀っていることが分かる書き方をしていて、水沼氏は登場しない。
一方、日神系は、三女神を元は水沼氏ら複数の氏族が宇佐で祀っていて、今は響灘の宗像氏が祀っているとするか、三女神が降りた「道の中」の場所を特定しない立場をとっている。
沖ノ島の国家祭祀が4世紀後半から始まっているのは確定事項で、宗像氏も関与しているのは明白。
しかし、宗像の沖、中、陸が連携する三女神型祭祀は7世紀になってから始まっているとされている。
なので、三女神に関する書紀の話は、7世紀以降の伝承とするのがよいようだ。
そうすると、日神系の伝承の中に水沼氏らの地方氏族が登場する一書と「道の中」の場所が特定されていない一書については、三女神に関係しない別の伝承が付け加えられたものと解釈できる。
書紀の雄略天皇紀では呉が贈った貢物を水沼氏の飼い犬が食ってしまったという話が見られるところをみると、中国の呉地方から大和に行く交易路は東シナ海から九州有明海の筑後川河口を経て水運で日田あたりまで進み、そこから陸路と水運で宇佐方面に行く経路が想定されていたことを示している。
この経路は、遣唐使の南ルートとほぼ合致するように見える。
筑後川河口の水沼氏が宇佐に関わっている一書の記述は、この九州筑後河口から宇佐にいたる内陸水運の交易ルートを管掌する氏族の連携が織り込まれもので、三女神の話はその現実の勢力関係を物語るためのストーリーに過ぎないと思われる。
この九州北部の内陸水運の大動脈の管掌を示すためになぜ海運の宗像三女神が用いられたのかということについては、半島との交易の実際の業者である宗像氏と深いつながりのある大氏族の秦氏の関与があるのではないか。
秦氏は有明海の筑後川河口から宇佐に至る内陸水運系を半島への対馬海峡の海運系とリンクし、より広域の海運水運の交易路を確保しようとした、とするモデルが考えられる。
そういう観点からすると、書記のこの日神系の一書は、秦氏と朝廷の勢力が組んで筑後川水運の取り込みを図るための企画書のような臭いがするのだが。 隋書倭国伝に出てくる秦王国とは宇佐八幡王国の事だったと考えます。八幡はやはたとも読みますね、平安時代における宇佐八幡の荘園は九州の三分の一に及んでいたそうです。 秦王国宇佐説は、確かに有力な説のようだ。
中国におけるこの「秦王国」の意味は、皇帝が臣下に対して領地を与えて国王に列する扱いをしたことから生まれた言葉で、「秦王の国」の意味になるもの。
漢の皇帝が臣下の諸侯に秦の領地だった土地を与えて王としたことから「秦の土地を領地として与えられた王」が「秦王」と呼ばれ、その「秦王」の国を「秦王国」と呼んだのが始まりだそうだ。
これは、皇帝の親族が国を与えられて国王となることとは異なり、臣下に対する特別な扱いだったそうだ。
この秦王国が倭国にもあったのか、倭国はあの呉の孫権が探索した夷州だったというのだろうかという驚きを隋の使節団にもたらしたのは、その土地の人が中国と同じような服装などをしていたためだろう。
しかし、実際には、随伴する倭国の役人にそのことを一言尋ねたら、その人々の服装などの理由はすぐ分かったはずだ。
しかし、文章は、孫権の夷州を持ち出してきて、山海経のような異郷の神仙郷的な雰囲気を醸すものとなっている。
要するに、これから異文化の倭国に入っていくのだという幻想的な旅行記のような体裁を取っているのが分かる。
では、この秦王国とされた場所は、実際にはどこだったのかということになるが、それを割り出すには、秦王国の手前にある「竹斯国」の場所を知る必要がある。
この竹斯国は、筑紫国の音を写したものであるのはほぼ確実だろう。
そして、筑紫国は、博多あたりだと考えるのはなんの不思議もない。
そこで、博多から東へ進んで、次にある大きな国といえば宇佐地方か対岸の安芸地方かという見積もりが立つことになる。
しかし、問題は、この竹斯国(筑紫国)が博多あたりだとする常識が果たして正しいのかということだ。
魏志倭人伝の記述からして、唐津に着いた使節団がまず一時的に逗留して骨休めするのは伊都国だった。
倭人伝の頃からそれ以降も伊都国が使節団のまず最初の一時的な逗留地だったことは間違いないだろう。
そこに滞在して、これからの長旅の打ち合わせや倭国の役人との折衝などを行っただろうことは、想像に難くない。 …次へ続きます >>535
このように考えると、隋書の「竹斯国」は「筑紫=博多」ではなく、「竹斯=伊都」であったあった可能性が出てくる。
そうであれば、伊都を出て東へ行ったときの次の大きな国は、これは間違いなく博多であり、そこには「筑紫太宰」が置かれていて、そこの役人たちは皆、大陸風の制服を身に着けていただろうから、それまでの唐津や伊都の住民の服装などと大きく異なっていたはずだ。
そして、この筑紫太宰では、使節団一行は間違いなく大歓迎されたはずだ。
なので、この「筑紫太宰」を「秦王国」と文飾し、異文化の倭国の神仙郷へいよいよ入ったぞと山海経的異郷感を醸し、使節団はそのような倭国滞在記の報告書を書いたのだろう。
なお、使節団は九州から海を渡ったことは記していず、ずっと陸続きで十数か国を通過し、やがて海岸(須磨)について、倭国の歓迎使の饗応を受けたことになっているので、関門海峡の渡海で舟に乗ったにしても、それは河を渡るような感覚で物の数に入れなかったのだろう。
この渡海の記事がないことは、秦王国宇佐説の泣き所となっている。
宇佐からだとどうしても瀬戸内海を渡らなければならないから、渡海の記事はなければならないことになるからだ。
このように見てくると、「秦王国==筑紫大宰」説は、相当に信憑性が出てくると思うのだが、どうか。 遣新羅使の航路では宇佐の近くから沿岸沿いに関門海峡に向かっていますね、あと福岡は筑州と豊前に分けられるので伊都も太宰府も築州に含まれると思います。つまり筑州の東の豊前が秦王国だと思います。
https://i.imgur.com/xkXnD5a.jpg 新羅使の渡航を詠んだとする大伴家持の歌には、まったくの大阪湾や瀬戸内海の船旅の情景が詠まれている。
確かに、新羅への渡航は瀬戸内海の渡航を経たのは明白ちゃんだ。
一方、隋の使節団の様子には、そのような潮の香りのする記述はまったくなく、海岸(須磨)についてやっと海辺の香りのする文章になっている。
隋の使節団が陸上の山陽道を利用したことは、明白ちゃんのように思うけどね。 >>538
裴世清は遣隋使船の復路に同乗していただけですよね >>539
遣唐使が乗った船は、安芸で造ったようだ。
どうして安芸だったのかの理由はいろいろあったと思うけど、安芸から東の岡山までの海域は潮流が速く、また航路も複雑で大型船の航行が難しかったからというのも一つの理由だと思われる。
遣新羅使の場合は大阪から乗ったようなので、これはごく沿岸を進む小型の船に乗ったのだと考えるのが筋。
日本の遣隋使の復船に隋の使節団も同乗したけれど、この遣隋使の船はやはり安芸から東の岡山までは航行は無理だったと考えるのがよいと思う。
また、遣隋使たちは書物や貴重材のほか多くの資材を持ち帰ったはずで、隋の使節団も貴重な貢物を持ってきていたはず。
これらの物資を船の難破によって失う危険は、必ず避けたいことだったと思われる。
そうすると、対馬海峡を渡ったあとは、できるだけ早く船を降りて、運んできた資材も降ろして、それらを安全確実に都まで運ぶのが優先事項だったのではないか。
加えて、隋の使節団自身も安全確実に日本の都まで行く着くことが優先されたと思われる。
わざわざ瀬戸内海の難所を小さな手漕ぎの舟に乗って越える危険を冒す必要はなかったのではないか。
これらの状況は皆、想像の産物でしかないけれど、遣隋使の船で厳しい航路の瀬戸内海を超えたとは考えにくい。
安全第一をモットーとに考えれば、唐津で船を降りて、あとは資材と一緒に陸路を行くのがあるべき姿でしょう。 >>540
もし仮に遣隋使船が瀬戸内海を通れないのなら、住吉津から別の船に乗っていき、博多で遣隋使船に乗換えれば良いだけでは?
それが合理的だと考えます。あとは遣隋使が旧山陽道を歩いたという記載も無いですね。
瀬戸内では縄文時代には、国東半島近く姫島の黒曜石を求める航路が確立されていたと思われます。 皇帝の書簡や貢物、使節団の各種用品などを積みこんで、その他に多数の人員を乗せた小型の手漕ぎ舟が何十隻も連なって、難所の瀬戸内海を安芸から吉備まで通り抜けるというのは、どう考えても無理ではないか。
そのような危険を冒すより、山陽道の陸上を確実に都の手前の饗応所のある海岸(須磨)まで進むのが自然だと思われる。
また、使節団の行程は「経十余国達於海岸」と書かれていて、この文の「経」は「へて(経て)」と訓読みするが、漢字のこの「経」の字は「まっすぐ通過する」意であり、山陽道はおおむね東西に真っすぐに進む経路となっているので、使節団は陸上を通ったとする見方を支持する。
さらに、瀬戸内海を東へ航行する場合は、安芸から吉備の間はかなり曲折する航路となり、「経」の字が当てはまらなくなる。
こうしたことから、使節団一行は陸上を通って海岸(須磨)まで行ったと考えるのが合理的と思われる。 >>542
白村江の戦いの時に難波津から船出した額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 」と詠んでいます。この句が奈良時代には船で瀬戸内海から朝鮮半島に渡っていた証拠になるのではないでしょうか。
ちなみに熟田津は松山辺りだという説があります。 日本の古代には、竜骨を持つ舟はまだなく、刳り貫き式の丸木舟の上に舷側板を張った準構造船と呼ばれるものが普通で、遣唐使船などの外洋船とは異なるものだったようだ。
埴輪などでその構造が推測されている。
この準構造船の場合、中央付近には漕ぎ手が座り、乗客は船首か船尾部分に乗ったようだ。
この準構造船からすると、倭人伝に見える災難除けの「持衰」は、船の船首あたりの狭い部分に乗ったのではないか。
こうした準構造船では船内は漕ぎ手でいっぱいになり、乗客は船首あたりに一人、二人乗ればいいところではなかったか。
斉明天皇は筑紫へ行くために駿河に舟を造らせ、その舟は三重県から川を上って山越えで難波まで運ばれた。
そのあと天皇は筑紫へ船で幸行し、皇女もお供して子供を出産している。
天皇や皇女ほかが山越えできるくらいの構造船に乗ったとして、果たして何名が一艘の船に乗れたか定かでない。
一艘にはごく少数が乗れただけではないか。
岡山や松山などをジグザグ航行しつつ、それでも、筑紫には着いているのだから、準構造船で瀬戸内海を通り抜けたのは事実。
そして、そのあと、天皇が崩御して、喪船は同じく準構造船で難波へ帰る。
こういうことなので、隋の使節団も準構造船で瀬戸内海を渡ることができるのは間違いない。
しかし、その準構造船で使節団が瀬戸内海を通り抜けたとする証拠がない。
斉明天皇の場合は、書紀に船に乗ったと書いてあるのでそれが分かるものの、裴世清ら使節団が「海岸」に着くまで船を用いたとはまったく書かれていないのであるから、まず陸上を輿に乗って貢物とともに移動したと考えるのがよいと思われる。
そうすると、 問題なのは、使節団が着いた「海岸」の解釈だ。
普通、船で航行して着くところは港、津であり、その港の名や港のある街名を挙げるのが常道。
それを「海岸」に着いたとするのは、非常に不自然。
この「海岸」の字句が書かれている文は、「達于海岸(海岸に達す)」となっている。
「海岸」が港名であることは、まずあり得ない。
そこで、「達」の字を見てみると、「達」は「さしさわりなく進む、途中でつかえずにいきつく」とされている。
この「達」の用法では、「浮于済凍、達于河」がみられる。
これは、河を水路として船で行くケースで、「済水から漯水に船を浮かべて、(途中でつかえずにそのまま)黄河に達した」という内容。
「達于河」の前に「浮」の字を置くことで、船による水行であることが分かるようにしてあるもの。
これと同じ用法は、他にもみられる。
そこで、隋書の文章を見ると、「竹斯国、秦王国…経十余国、達於海岸」となっていて、船による水行でもって「海岸」に着いたと分かるような字句が見えない。
中国の史書では壱岐のあとは末盧に着いて、その次は伊都、奴国へと陸行する行程になるのが常なので、隋書の竹斯国から秦王国へも陸行した前提となっていると思う。
そして陸行を続けて十数国を経て、そのまま「海岸」に着くことになる。
秦王国のあと船に乗り十数国を通過して「海岸」に着くということが分かる字句はないので、竹斯国から「海岸」に着くまではずっと陸行だったとするのがよいと思われる。 その論理ならば対馬海峡を渡って竹斯に着いた時に達於海岸と記すのではないかと思いますが。
達於海岸というのは航路の終点と考えるのが自然だと思いますし古代山陽道で向かった場合海岸というのは明石の事となり、
いささか目的地と考えるのは都からは遠いのではないでしょうか。 秦氏は、応神14年(283)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、
百済より百二十県の人を率いて帰化したと 『日本書紀』 に記されている。
秦の人々は、養蚕や機織りの技術を伝え、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着いた。
>>468
>秦氏という姓氏をあたえられ
倭国(阿波)王権からな。
「衣手」は、衣服を織る「手」(職業集団)。
「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」の中には、帰化人系の氏である
「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。 @阿波 >>547
応神14年(283年)でしたら、
卑弥呼の時代とカブりますか? >>548
私は阿波さんじゃないんですけど、
魏志倭人伝があるから、正確に被っているでしょう。 >>546
確かに明石あたりは、都には遠い。
しかし、隋書の記事ではそれに続く文で「既至彼都(すでにかの都に至る)」と書いている。
「そのあとに倭国の都に至った」という意味なので、明石あたりの「海岸」は都に入る前にしばし逗留する管制の宿泊所がある場所だったことが分かる。
面白いのは、日本書紀の推古天皇紀の文章で、この文章では隋の使節団一行は船で難波津に着岸して、用意されていた宿舎に逗留したことになっている。
そして、そのあと奈良盆地東南部にある朝廷に詣でて、天皇に拝謁して隋皇帝の言葉を伝え皇帝からの書面を差し出したと記されている。
しかし、日本書紀のこのときの天皇は女性の推古天皇であるが、隋書の文章ではタリシホコというの名の男性の王としている。
非常な食い違いがあり、隋書のほうは王の名を挙げているくらいなので信憑性が高い。
そうすると、日本書紀の記述のほうが怪しくなってくる。
使節団は本当に奈良盆地東南部の朝廷で推古天皇に拝謁したのか、ということになる。
そして、その疑義を引っ張って見てみてば、日本書紀が記している使節団一行の難波津着岸よりも、隋書の「海岸」到着のほうが信用しやすくなってくるし、使節団一行がそのあと都に行ったというのもそれは実は奈良盆地東南部の朝廷ではなかった可能性も出てくるわけ。
使節団が会ったとするそのタリシホコ王の都が聖徳太子の四天王寺あたりだったとすれば、明石あたりは使節団の逗留所としてはちょうどよい距離に当たるのではないか。 >>550
万葉集には「難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ」と遣唐使の船出を詠んだ歌がありますがこれが答えだと考えます。
https://i.imgur.com/cVDjgRw.jpg 斉明天皇の一行ですら準構造船で難波から九州博多の間を往復しているのだから、遣唐使が準構造船で難波津から博多まで行き、また帰ってくることは、普通のことだったということになる。
しかし、だからといって、隋の使節団も同じように瀬戸内海を準構造船で渡ったとする根拠にはできない。
あくまで、推測の範囲に留まるものだ。
一方、陸上を明石まで行ったとすれば、宇佐には立ち寄っていないことになる。 小野妹子は隋に向かう途中で病気になりに宇佐に立ち寄っています。これが遣隋使が陸路ではなく航路を使っていた証拠になると思います。 佐田岬ルート
佐田岬の先端まで徒歩
伊予灘は航路を利用 596年に聖徳太子が四国の道後温泉に行った記録があるので、遣隋使の時には少なくとも難波からの瀬戸内航路はあったと考えられる 雄略天皇のときに、新羅征討のための将軍に任命された吉備臣尾代は山陽道を通って博多へ向かっている。
雄略が崩御したことを聞いて、軍勢に加わっていた蝦夷が逃亡したので、これを追いかけて倒した。
山陽道の陸路が使われていたということ。
安全第一の隋使節団は、陸路で都へ向かったとすれば、宇佐には行っていないと考えるのがよい。 >>556
三宅八幡宮の社伝によれば、
「推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫で病気になった。しかし、近くにあった宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのが当社であるとされている」
とあるので宇佐神宮には立ち寄っている事は明確である。
もし陸路を使ったならば宇佐神宮と最短距離になる門司からは向かう博多方面とは逆方向に80キロあり病気の小野妹子が気軽に立ち寄るには遠方過ぎると思います。海路を使っていたからこそ宇佐八幡の近くにあったと記されているのでしょう。
https://i.imgur.com/bbQwzND.jpg 博多に係留されていた遣隋使船に乗るために、準構造船で瀬戸内海を西進し、途中病気になった小野妹子が病気回復の祈願を宇佐神宮で行ったあと、そのまま博多へ航行したというのはあり得ること。
遣唐使も同じように準構造船に乗って博多まで航行しているようだから、問題ない。
そうなら、帰りも同じく準構造船を利用しただろう。
しかし、隋使節団の裴世清らが準構造船で博多から難波津まで航行したとする記述は隋書のどこにもなく、日本書紀で裴世清らが難波津に入港したと書いてあるだけ。
この書紀の記述にしても、一行が博多から船で出発したという記述はどこにもない。
そういう記述がない以上、裴世清らが陸路で「海岸」まで行ったとするのがOK。
帰りもまだ皇帝に復命する義務を負っているので、安全第一だったことが推測できるため、帰りも陸路で博多まで行ったとするのがよい。 小野妹子は病気の回復と無事に隋から戻って来れた事へのお礼参りとして、裴世清を乗せた遣隋使船は難波に向かう途中宇佐に立ち寄ったと考えられる。そしてその時の様子を裴世清は秦王国と記したのでしょう。
さらに豊前が秦王国であった証拠として当時の戸籍が秦氏で占められている事が挙げられる。
https://i.imgur.com/18F2As6.jpg 最澄も宇佐神宮に唐から無事に戻れたことのお礼参りをしていますね。
https://i.imgur.com/OchrFbh.jpg 遣唐使船は安芸で造られている。
その理由の一つは、遣唐使船のような大型の帆船は航路が複雑で、おまけに潮流まで超複雑な瀬戸内海を通過することが難しかったことがあったと思う。
一方、船体が小さい準構造船の場合はそうした障害が少なく、熟練した漕ぎ手の操船で普通に瀬戸内海を通過できた。
斉明天皇の記事や万葉集の歌でそれが証明されている。
こうしたことから、裴世清らの乗った遣隋使船が筑紫に着いたあとも、そのまま瀬戸内海を進んで難波津まで航行したとは考えにくい。
裴世清らが瀬戸内海を船で通ったとすれば、それは準構造船だったはずだ。
最澄も同じだっただろう。 安芸で作った大型船は周防灘から関門海峡を経て中国に行ったわけなので、
裴世清も最低でも安芸までは船に乗っていたと考えられます。
そして日本書紀には、『客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘』とありますね、
これは航路の終着点での出迎えですよね、陸路の客を船で出迎えるのは不自然と考えます。
そして斉明天皇は駿河の国に百済行の船を造らせていることも、瀬戸内航路に問題が無かったことの証拠であると考えます。 この日本書紀の難波津の記述が史実そのものだったとして、その裴世清らが乗った船の出発点はどこにも記されていない。
裴らが陸路を来て明石に逗留していたとした場合、大和側がその明石の逗留所へ準構造船を差し向けて、裴らはその船に乗って明石から難波津へ着いたということになる。
日本書紀の記述を信じれば、そうなる。
そして、日本書紀では、裴らが奈良の都で拝謁したのは女性の推古天皇ということになっているが、しかしながら、隋書では裴らが拝謁したのはタリシホコ王であって、推古天皇ではなかった。
そうすれば、日本書紀のこの一連の記述は、かなり怪しくなってくる。
本当に裴らは難波津へ着いたのかということになる。
また、斉明天皇は筑紫へ行くための船を駿河国で造らせているが、この船は伊勢まで海上を送られたあとは、多気郡(今の明和町あたり)から川を遡って奈良の大和川の川上まで引っ張り上げられ、そこからその大和川を下って大阪湾に届けられた。
遣唐使船のような大型船でないことは明らか。
準構造船だったとみて間違いない。
斉明天皇が大阪湾から瀬戸内海を航行して博多まで行ったのは、この山越えした準構造船だったということになる。
伊勢から奈良への山越えができるくらいの準構造船だったとすれば、これは漕ぎ手以外に乗れるのは斉明天皇ほかせいぜい3、4人ではなかったか。
そうなると、斉明天皇といえど、普通よりやや大きめの準構造船に乗って瀬戸内海を通ったということになる。
このケースについては、なんの問題もない。 斉明天皇が駿河で作らせたのは新羅征伐のための軍船です、3~4人の乗組員ではいくさになりませぬ。
遣隋使を送ったのは聖徳太子なのでタリシヒコは推古天皇の甥の聖徳太子の事と考えられます。 どうやら裴世清が乗った遣隋使船は乗員が14名なので、120人の乗組員の遣唐使船と比べればさほど大きくは無かったようですね >>564
この駿河国で造った船は、天皇が乗る船。
駿河一国で何百隻もの船は造れない。
また、そんな多数の船を全て伊勢から大和への山越えで運ぶことは不可能。
船を伊勢から大和へ運ぶときに、夜中のうちに船の舳先と船尾が入れ替わったと怪事が起こったことが書かれている。
船が多数であったなら、表現として「悉く」などの字句がつけられていたはず。
しかし、書紀の表現は「その船」であり、複数の船であったことを示す字句は見られない。
駿河国で造った船は、斉明天皇が乗るための準構造船だったとするのがよい。
隋書では、日本の王を「アハケミ」としており、これは「オオキミ」の音訳で、オオキミ(大君)は天皇のこと。
そのオオキミ(天皇)の名をタリシホコとして、後宮には多数の女性がいるとしている。
推古天皇のことではなく、聖徳太子が隋が理解していた日本の天皇ということになる。
そして、裴世清はその聖徳太子に天皇として拝謁したことになる。
拝謁した場所は、難波宮だったと思われる。
そうすると、日本書紀が記す難波津の近くに設けられた裴世清らの宿所はその難波宮に非常に近いところにあり、不自然。
このことからすると、日本書紀の一連の記述は、非常に疑わしいと言わざるを得ない。
裴世清らの宿所が「海岸」にあったとする隋書の記述の場所を明石とすれば、明石から難波宮までの距離はそれ相応のものとすることができる。
そういうわけなので、裴世清らは陸路を進み、宿所のある明石の「海岸」に着いたとするのが合理的。
そうなれば、裴らは宇佐には行っていないという結論になる。 >>565
日本書紀は、隋の使節団は裴世清と下客12人としているが、裴世清と随員が12人の意味だろう。
問題なのは、裴世清ら13人だけがやってきたのではなく、この13名の世話をする人員もその他にいたということ。
彼ら13人の世話を倭人がしたということはあり得ず、中国を出発する時点で裴らの世話人も随行していて、一人に最低5、6人はいたと考えられるから、13人に付随する世話人は総数で70〜80人はいたのではないか。
これらの人員が遣隋使船に同乗してきて、その後多数の準構造船に分散して乗って瀬戸内海の難所を通過するというのは、明らかに無理がある。
このように考えると、これら多数の隋使一行は、陸路を「海岸」まで進んだとするのが合理的だ。 >>566
小野妹子が隋に向かう行程の近くに宇佐神宮があったのですから、当然難波に向かう行程でも宇佐神宮の近くを通るはずです。後に宇佐神宮を勧請するくらいですから、当然訪れたと考えるのが普通です。そしてこの先の航路の安全を祈願した事でしょう。 >>567
120人乗ったと記録のある遣唐使船が難波から出航しているのに、遣隋使船が出航出来ないと考えるのは理にかなっていないと思いますが。 >>569
確かに、遣唐使船には120人くらいが乗ったとかかれているサイトがみられる。
また、その遣唐使船は、難波から出たと書いているものもみられる。
しかし、そのことを記した元にな典籍については、なかなか見つからなかった。
その元になる典籍を示してもらえたら、即座に遣唐使船難波出航を認めるよ。 >>569
この遣唐使船の出発港については「平戸史再考NO.007 遣唐使船とその航海」のサイトが詳しい。
それによると、遣唐使船が難波から出発したのは延暦22年(803年)が初めてで、しかも瀬戸内海の複雑潮流や風で難破して、使い物にならなくなり取りやめになったとしている。
つまり、このサイトでも述べているように、瀬戸内海の難所を通って難波から博多に行けたのは準構造船だったということ。
なので、大陸から戻った遣隋使船も博多の母港で留まっていたのだろう。
このような事情であるものの、では、裴世清ら使節団は準構造船で瀬戸内海を難波まで行ったのかというと、その記述がないことはいうまでもないこと。
陸路だよ、陸路。
「海岸」が待っているよ。^^ >>554
佐田の渡しは、椎根津彦の稼業だったのか。 >>572
> 陸路だよ、陸路。
> 「海岸」が待っているよ。^^
当時の山陽道から陸路で直接難波津に行く道は無いようです
https://i.imgur.com/bEmsf96.jpg 日本書紀には、
「客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口」
と記されていますが江口に裴世清が歩いて行くのは無理だと思います、なので遣唐使は難波津から出航したと考えますし通説だと思います
https://i.imgur.com/2B0pFjH.jpg >>574
天平五年(733年)に難波津から遣唐使船四隻が出発したと続日本紀に書かれていることは、その通り。
一方、650年には安芸で百済船が作られて、これが653年の遣唐使船として用いられたと推定されている。
そして、この百済船が日本で最初の遣唐使船だったと考えられている。
ということは、650年以前には大型外洋船は、日本にはなかったということになる。
そこで、裴世清が来日したのは608年であることを考えれば、裴世清が同乗してきた日本船は準構造船であったことになる。
このように見ると、大型外洋船の遣唐使船は、裴世清のケースでは考えなくてもよいことになる。
また、準構造船であればごく普通に瀬戸内海を行き来できたことは、これまでにも認めてきたところだ。
そうなると、裴世清は日本についてから、準構造船でそのまま瀬戸内海を通って難波津に着いたのかどうかということになる。
日本書紀では、裴世清がどこから出発したのか何も書いていないが、難波津に着いたとは書いている。
しかし、隋書では船で行ったとはどこにも書いていず、ただ「海岸」に着いたとだけ書いている。
そして、日本書紀のこの件についての記述はいささか怪しいとなってくると、本当に裴世清は難波津に着いたのかということも考えなければならなくなる。
隋書の「海岸」とは、いったいどこよ、ということになるわけ。
陸路で着いた「海岸」を明石として、日本書紀の裴世清が難波津に着いたとする記述を信用すれば、明石から準構造船で難波津に渡ったということになるし、信用しなければ裴世清は陸路で難波の宮に行き、そこで聖徳太子を日本の王として拝謁したという可能性も出てくる。 >>575
この大阪湾の地図は、4世紀までの図。
5世紀に入って仁徳天皇が堀江の川を開削してから草加江の水位が低下し、これに土砂が溜まって陸地化して行く。
それから百年ほどたったころには、草加江は相当縮小してる図になるようだ。
明石から東回りに難波の宮に行くのは、ごく普通の行程と言える。 >>576
日本書紀の記述を信用した場合、江口は今の中之島あたりとされているので、そこに造った新館へ難波津から船三十隻でもって渡したということだね。
この記述自体については、問題ない。
また、この頃には、草香江は相当陸地化していて、明石から東回りに陸地づたいでも歩いて行けるしね。 >>577
卑弥呼は238年に生口を含む12名(漕ぎ手は不明)で魏に朝貢しています。
この規模は遣隋使とあまり変わらないと考えられますが、
この船が瀬戸内海を航行出来なかったとすれば、
邪馬台国畿内説は成り立たないという問題提起として興味深いものになりますね。 >>578
日下雅義氏による6~7世紀の地図だそうですよ >>580
卑弥呼の使節団は、弥生の準構造船で魏に朝貢したはず。
一方、魏の答礼使は自前の船で倭国に渡ったのか、伽耶からは倭人の準構造船に乗り換えたのか、そのあたりは不明。
魏は山東半島から朝鮮半島へ船で兵を送り込んでいるから、渡航用の大型船を持っていたことが考えられる。
この大型船でもって、伽耶からは倭人の水先案内で倭国へ渡り、そのまま大和の邪馬台国へ瀬戸内海を通って行くとしたら、これは確かに無理で、日本の遣唐使の百済船が瀬戸内海の難所に阻まれたのと同じことになる。
この場合は、邪馬台国大和説は無理めいてくるね。
ただ、博多あたりから準構造船に乗り換えて大阪湾まで進むというケースは考えられるから、使節団が大和の卑弥呼に拝謁することはOkになるね。
しかし、まあ、卑弥呼の邪馬台国は北部九州にあったけどね。 >>581
堀江の川の開削で草香江の水位が下がり、草香江の陸地化が始まったとされているので、百年、二百年後には草香江は相当縮小していたとする図のほうが合理的ではないか。
この日下氏の図では、その草香江が4世紀頃までの草香江と変わらないように見えるけどね。 日本書紀に、応神天皇31年に武庫水門に停泊していた新羅の使者の船の記載があることや、
応神天皇が兄媛の吉備里帰りのために御原の海人80人の水夫を呼び難波から船を出していること、
弓月君の数万人の渡来などを考えても、遣隋使船が難波津から出航することは不可能ではなかったと考えます。 >>583
762年に安芸国から回航された遣唐使船が難波津で動けなくなる事件が発生する
(『続日本紀』天平宝字6年4月丙寅条)とあるのでそれまでは問題無かったという事でしょう >>587
日本書紀は、兄媛が乗る船の漕ぎ手として、応神天皇が御原の海人を当てたとしている。
この御原は今の南あわじ市あたりなので、御原の海人とは鳴門海峡の難所を漕ぎ渡る熟練の漕ぎ手なのが分かる。
ということは、彼らが熟練しているのは準構造船の操船であり、そのために大津から出発する兄媛の準構造船の漕ぎ手に当てられたのだろう。
漕ぎ手80人については、埴輪などから準構造船の漕ぎ手は片側5人のものがみられるので、両側で10人とすると、兄媛と兄媛のお供たちを乗せる準構造船は全部で8艘程度だったことが推測される。
天皇の妃なので、それくらいの船団になるではないか。
まったく問題ない。
弓月君が倭国に渡ったときの総勢が数万人に達すると日本書紀は書いているようだけど、これは実際の渡来人数とはかけ離れた数字だと思う。
この多数の人数については、のちに秦氏があちこちで囲い込んだ渡来系の民を元々からいた同族人だとして合理化するのが目的の文章だと思われる。
なので、この多数の人数から、彼らを運んだ船が外洋航行の大船だったと導くのは危険だ。 >>586
先に挙げた「遣唐使船とその航海」のサイトでは、瀬戸内海の難所は何艘もの準構造船が遣唐使船を曳航して通り抜けたのではないかと推測している。
それでも難破したりしているのだから、元々無理があったのだと思う。
そういう事情のため、難波津からは準構造船で進んで瀬戸内海を越えて博多まで行き、博多で遣唐使船に乗り込むのが普通だったのではないか。
ということは、その復路も、瀬戸内海は準構造船が用いられたと考えるのがOK。
ただし、裴世清の場合は、海路だったことが分かる記述は見られないので、「海岸」までは陸路だったと思われる。 >>587
船を降りて陸路を使ったという記述はないので海路だと考える 中国からの長旅でやっと倭国についたのだから、一応末盧で船を降りて伊都で骨休めするのが正常な旅程。
その間に末盧の役人が博多の筑紫太宰に到着を知らせ、太宰では役人を末盧に派遣する一方で歓迎の準備を進め、都へも知らせのために役人を送り出す。
日本書紀では、都の朝廷はこの筑紫太宰の知らせを受けて、難波津の近くの江口に使節団滞在のための新館の建築を始めたとしている。
これが正しい外交の手順。
こうした順序を踏まずに都へ直行するのは、あり得ないこと。
そして、難波の江口に使節団の逗留のための新館が建築されたと日本書紀が書いているが、この記述は難波には迎賓施設がなかったことを示している。
なので、このことは、隋書に書かれている「海岸」にその迎賓施設があったことを示していることになるわけであり、そのためにこそ使節団は明石の「海岸」に行ったのだと解釈するのがよい。 平安絵巻をご覧よ
平安貴族たちの顔は縄文系か?
それとも朝鮮系か?
朝鮮人の目はあんな細い目じゃないよ
あれはもろ北方モンゴロイド、ツンギーデの顔だよ
つまり縄文末に沿海州から入植した弥生人の子孫たちが支配階級になったんだよ >>589
>日本書紀では、都の朝廷はこの筑紫太宰の知らせを受けて、難波津の近くの江口に使節団滞在のための新館の建築を始めたとしている。
遣隋使船が出航地の難波津に戻ってくる事がわかっていたからでしょう。
30艘の飾り船で盛大に出迎えたと書かれていますが、船で出迎えをしているのに客人が陸路でやってくるというのはなんとも間抜けな絵面だと思います
海路で難波津の海岸に到着したのです。 継体天皇の時代には任那と淀川に航路があったという日本書紀の記録
https://i.imgur.com/0sDX5uS.jpg 朝廷は、隋の使節団が妹子とともに日本にやって来ることは前もって分かっていなかった。
そこで、その知らせが筑紫太宰から送られてきたので、「難波吉士雄成を遣わし、大唐客裴世清等を(朝廷)に召す」という外交行事を始め、併せて「唐客の為に更に新館を難波の高麗館の上に造る」と迎賓所を新造した、書紀は書いている。
隋の使節団が小野妹子と一緒に来ることが前もって分かっていれば、あわてて迎賓所を新造するようなことにはならず、もっと前に建てていたはず。
つまり、裴世清らは末盧に着いて上陸して伊都で一時骨休めし、その間に筑紫太宰にその知らせが行き、太宰はあわてて朝廷へ裴世清らの来日を知らせたということになるね。
ただ、書紀の記述は怪しい。
筑紫太宰から朝廷に知らせが来たところまではよいとして、そのおよそ二か月あとに裴世清らの船が博多から難波津へ船でやってきたように書紀は書いているが、相当に変だ。
というのも、その頃には裴世清らは「海岸」に着いていて、そこへ朝廷からの多数の歓迎使たちが陸路で二度にわたってその「海岸」にやってきて歓迎攻めにした、というのが隋書の記述だからだ。
このことを、書紀は一言半句も書いていないわけだから、書紀の記述は非常に怪しいということにならざるを得ない。
仮に隋書のこの部分を史実とし、また書紀の難波津の記述も史実とした場合は、書紀が書かなかったその「海岸」へ朝廷は船を手配し、そこから難波津へ使節団を渡したということになってくる。
そうなると、どうして書紀は「海岸」に着いた裴世清らに歓迎使を派遣したことを一言も書かずになかったのかという謎が出てくるのよ。
こうした不可解さは、隋の皇帝とその朝廷は日本の王は男性だとずっと思っていたことの不可解さと、どこかでつながるはずだと思う。
このことは、非常に面白い謎だということができそうだ。 >>594
当時の通信手段には狼煙があるので小野妹子に「の・ん・び・り・も・ど・れ」との指令があったのでしょう
小野妹子はこれ幸いと宇佐神宮に参拝したりして時を稼いだと思われる。 >>592、>>593
準構造船。
航路は丸木舟の時代からあった。 まあ、推古朝としては、隋皇帝の家来として扱われることを避けたかったのだろう。
外交的に対等感を出す挨拶文を出しているくらいだからね。
家来としての立場が明確に記されている皇帝からの挨拶文を、小野妹子は「紛失した」くらいだし。
そういうわけで、推古天皇ではなく、聖徳太子が倭王としてずっと対隋外交の表に立ってきた。
そこへ裴世清が乗り込んできたのだけど、日本書紀は裴世清が飛鳥で天皇に拝謁したと描写しているが、実際は難波宮で聖徳太子が裴世清を上手にして対面し、隋皇帝の家来として会ったのだろう。
日本書紀はその事実を消して、隋の家来としての日本の姿を闇に葬った可能性が高い。
なので、難波津関連の書紀の記述は、非常に怪しい。
裴世清ら使節団は、陸路で「海岸(明石)」に着いた。
聖徳太子は、そこへ多数の歓迎使を二度にわたって送り、隋の使節団を上手に置いた対応をした。
そういうことだよ。 遣隋使以前の継体天皇の時代に何トンもの重量の石棺を熊本から船で淀川まで運搬している実績がある事から、遣隋使船の母港は難波津だったと考えられる
https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/13/363.html 5世紀前半の岡山の造山古墳の前方部から、阿蘇ピンク石の石棺が出ているけどね。
今城塚古墳よりも1世紀ほど早い。
5世紀前半には、まだ大型外洋船は日本で造られていない。
ピンク石は、準構造船で運ばれた。
瀬戸の難所は、大型外洋船は無理。
大型外洋船の母港は、博多。 日本書紀に、応神天皇31年に武庫水門に停泊していた新羅の使者の船の記載があることから当時から朝鮮半島への出発地点になっていたのではないだろうか。 >>600
遣唐使船を難波まで曳航してきたのは、限られた回数しかないみたいだ。
しかもトラブルが発生して、その年の遣唐使を中止したりしているくらい。
準構造船だったら、普通に航行していた。
博多の母港で遣唐使船に乗るために、難波津から準構造船に乗って出発することは、ごく当たり前に行われていたと思われる。
万葉集の歌にある情景は、ほとんどがこの準構造船による船出だろうね。 >>601
武庫の港は、多数の船が停泊できる広さがあったみたいだ。
新羅の使節の船も停泊していて、この船から火が出て舷側を接して係留していた多数の船に燃え移って、皆焼けてしまったと書紀が書いている。
このときには、風が強く吹くを避けて、風待ちのために入港していたのではないか。
そうでなければ、船は舷側を接して係留しない。
各船は風波による被害を避けて密に接してつなぎあっていたから、一船から火がでると強風によって瞬く間に類焼して行く。
おそらく、そういう事情だったのだろう。
なので、武庫の港が朝鮮半島に行く船の出発地点となっていたのかどうかは、かなり微妙ではないか。 このウェブを難波津でページ検索すると、難波津での出航や入港がいくつも引っかかって来るよ。
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1024/nenpyou.htm 603年
『日本書紀』22 推古十一年七月癸卯条
秋七月辛丑朔癸卯。當麻皇子自難波發船。
632年
舒明天皇 四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。
是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。
冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、
則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾
642年
『日本書紀』24 皇極元年二月壬辰条
壬辰。高麗使人泊難波津。
642年
『日本書紀』24 皇極元年五月庚午条
庚午。百濟国國調使船與吉士船。倶泊于難波津。〈盖吉士前奉使於百濟乎。〉
733年
『續日本紀』11 天平五年四月己亥条
夏四月己亥。遣唐四船自難波津進発。 >>605
733年の遣唐使船四隻以外は、みな小型の準構造船だろう。
遣唐使船四隻も安芸-吉備間の難所は準構造船によって曳航して通ったと推測されている。
相当無理したということだ。
これと同じ別のケースでは、遣唐使船は難波津から出て瀬戸内海の難所で難破し、遣唐使を延期しているくらいだ。
なお、632年の高表仁の場合も、推古天皇のときの遣隋使答礼の裴世清のときとまったく同じ記述となつている。
筑紫太宰に立ち寄っているはずだから、九州についたときに上陸した。
その後、準構造船で瀬戸内海を通って難波津まで行ったのか、陸路で明石まで行って準構造船で難波津まで行ったのか、その経路は不明。
しかし、日本書紀に見える高表仁と出迎えの者とのやり取りの内容は、どうも腑に落ちない。
高表仁は、裴世清のときの前例を踏んで、明石までは陸路だろう。
そして、その後も陸路で難波宮に行ったのではないか。 日本書紀では、高表仁の場合も、難波津に着いてから、江口の迎賓所に飾り立てた準構造船で迎え入れられる。
この行程は、裴世清のときとまったく同じだ。
そうすると、高表仁は難波津に着く前はどこにいたのかということになる。
大船に乗ってきたのであれば船中泊は可能だけれど、外洋航行の大船が瀬戸内海の難所を超えるのは難しいとなれば、準構造船に乗って瀬戸内海を渡ってきたか、陸路で来て、難波津まで一日の船行の距離にある港に居たことが考えられる。
そうすると、準構造船の一日の船行の範囲は、やはり明石あたりになってくるので、これは、裴世清のときの「海岸(明石)」に相当することになる。
日本書紀の記述を信じれば、高表仁は明石から準構造船で難波津に着いた可能性が高いということになる。
そこで、裴世清も高表仁も陸路で明石に着いたとするか、準構造船で瀬戸内海を通って明石で逗留し、そのあと難波津に渡ったとするか、どちらかだろう。
まあ、筑紫太宰から明石までどのようにして行ったかについては証拠がない以上、それぞれの考え方に従うよりないというのはその通りだね。
いずれにしても、日本の朝廷は、隋や唐とその国同士の国際関係についての位置づけで対立していて、日本書紀の記述をそのままに受け止めるのは危険だ。
日本書紀の記述に造作がないとは言いにくい。
日本書紀のほうが分が悪いと見るのがよいだろう。^^ >>609
このレファレンスでは、遣唐使船は滋賀でも造られたとする資料が挙げられているが、そのとき造られた遣唐使船とは準構造船だったのではないかとする説があるようだ。
検索欄に「遣唐使船は滋賀で造られた」と入力して検索し、画面の一番上の「遣唐使船-公益財団法人滋賀県文化財保護協会」のサイトを開くと、新聞記事が現れる。
その新聞記事に、滋賀で造られたのは準構造船だつたのではないかとする説がみられる。
まあ、造った造船所と配属された母港は別だけど。
ただ、その造船所までは航行することはできるよね。 >>610
ヒャー、AI、頭良すぎ。
でも、その船はどんな船だったか、と質問しなかったのが惜しい。
日本最初の外洋型大型船(百済船)は、650年に安芸で造られたもの。
そして、裴世清が来日したのは、608年。
難波津から出発する遣隋使の乗った船は、準構造船だった。
もう一度、AIに質問してみたら答えはどう出るか、チョー面白そう。 >>611
魏に朝貢した遣魏使船が瀬戸内を通ったとは考えてはいないが、
それはただ通る必要が無かったということで必要があれば難波津まで航行できたのではないでしょうか。
なぜなら瀬戸内だけでなく日本各地への航路を知り尽くした安曇氏が遣魏使船の運航を任されていたと考えるからです。 >>614
朝鮮内戦が勃発した時、新羅や唐(中国)の連合軍に
親日本的で格下の百済が滅ぼされ、急いで親日的な百済再興のため
天皇が軍を率いて朝鮮に向うのに、征西って言葉使ってんだな >>613
弥生時代には、すでに吉備から大和、近江などへ交易品が流れていたし、またその吉備には南九州からも交易品が流れていた。
瀬戸内海には、吉備をハブとした交易路が確立されていた。
こうした弥生交易路の上に、古墳時代の瀬戸内海航路が成り立っていたと思われる。
準構造船による瀬戸内海交易は、非常に活発だったようだ。
ただ、弥生時代には、博多と難波津を直結する交易路はなかった。
その直結航路が初めて開発されたのは古墳時代のごく初期の250年過ぎ頃で、それ以来大和が急速に発展するようになった。
安曇が瀬戸内海航路で活躍するようになるのは、応神の頃からではないか。 >>614
日本は、伝統的に、軍船は軽量な機動力を持った小型船が得意だった。
丸木舟から準構造線に発展した船が常時もちいられたのは、沿岸の海流が極めて複雑だったからだろう。
それに、大量の人員や物資を運ぶ必要性が生じなかったことも理由の一つと思われる。
なので、外洋をもっぱらとする大船による海運業者が生まれず、沿岸や水系の半漁の運輸業者が力を持った。
安曇もそうした大阪湾の半漁の運輸業者からのしあがった氏族だろう。
当然、運搬船には準構造船を用いた。 >>616
隋書に、倭国は古の倭奴国なりと書かれています。そうであるなら瀬戸内に面する豊前も古くからの安曇氏のテリトリーだったのでは無いでしょうか、宇佐から駅館川を遡った盆地の安心院は安曇氏の根拠地だとも言われています。 >>617
安曇族の王が金印を貰った那国王だったと思います、君が代は安曇族の王の歌と言われています。 安曇(アズミ)の呼称を見てみると、漢字の安曇の音はアドン。
この安曇(アドン)の語尾のン音を切り捨てると、安曇(アド)になる。
そうすると、その安曇(アド)を安曇(アズミ)と読ませているのには、それなりの理由があるのだと推し量ることができる。
では、安曇(アズミ)のスミはどこから来たのかと考えると、博多の志賀海神社には綿津見(ワタツミ)の神が安曇氏によって祀られているというのが古事記、日本書紀の伝えるところなので、
この綿津見(ワタツミ)のツミが安曇(アド)のドと入れ替わったが安曇(アズミ)ではないかとすることが可能だ。
そうすると、博多に元々いた海人族が安曇(アド)氏であるのか、それとも安曇(アド)氏がどこかからやって来て綿津見(ワタツミ)のツミを取り込んで安曇(アズミ)氏になったのかということになってくる。
そこで、どうしても解明する必要が出てくるのが、安曇(アド)とは何を意味する言葉なのかということだ。
安曇氏が海人系であるのは、応神天皇紀を見るとすぐ察しがつくこと。
そうすると、安曇(アド)のドは「門(水門のト、水戸のト、浦戸のド)」の可能性がある。
では、安曇(アズミ)のアは、何か。
安曇は阿曇とも書かれるので、安の字が持っている安泰の意味の安は後付けとみなしていいだろう。
港に関連するア音の地名では、滋賀県大津市の古名の穴太(あのう、あなお)のア音がある。
山口県では、関門海峡を指す有名な穴門(アナト)がある。
この穴門(アナト)も、短縮すれば(アト)になる。
ともに、穴の字が当てられていて、港の窪んだ形の形容と考えることができる。
この港を意味する穴(ア)を当てはめれば、安曇(アド)や阿曇(アド)は穴門(アド)を賀字に置き換えたものと見ることもできそうだ。 …続きます >>619
では、博多の古名である港が穴門(アト、アド)と呼ばれたかというと、博多の古名は一貫して灘津であることや、関門海峡の穴門(アナト、アト)に近く穴の字が並ぶのは紛らわしいことなどから、灘津の別名としての穴門(アト、アド)は考えにくい。
一方、応神天皇紀などでは安曇氏の事績が記されていて、その安曇氏は淡路の野島海人とも関りがあり、また続日本紀には「安曇江」の地名が見え、この安曇江は難波の入り江にあって、そこは安曇氏の居住地(天満橋付近)だったとされている。
そうすると、博多よりもこの難波の安曇江が穴門(アナト、アド、アト)と呼ばれ、その穴門(アド)に安曇(アド)の字が当てられたとする可能性のほうが高いと考えることもできそうだ。
こうしたことから、安曇(アド)氏の一派が難波から博多に移って綿津見(ワタツミ)神を祀るようになり、そこで、安曇(アド)を安曇(アヅミ)と呼び変えるようになったとみなすのもOKではないか。 安曇は始祖の綿津見神 WATAZUMI が転化して AZUMI になったと考えます。 全国の綿津見神社、海神社の総本社である志賀海神社が志賀島にあることから安曇氏のルーツを志賀島と考えるのが自然だと考えます、
所説ありますがイザナギの禊の場所もこの地だとする説を支持します。 >>622
watatumi(ワタツミ)からatumi(アツミ)に転化したとする場合、語幹であるwat(ワト=綿)が失われ、語尾のtumi(津見・ツミ=…の神)が強調される変化なので、atumi(アツミ)が何を意味している語なのか分からなくなる。
なので、少し考えにくい。
一方、安曇氏が大阪湾の上町台地の先端にある湊の海人勢力で、安曇(アド)の元々の語義は穴門(アド)だったとした場合、この穴門(アド)は関門海峡を指す穴門(アナト)と同じ表現であることが分かる。
この穴門(アド)は、上町台地の先端が対岸と海峡になっていて関門海峡の穴門(アナト)と同じ地形であり、そうした海峡の地形の表現語としての穴門(アド)であるとすることは合理的な解釈と言える。
これが安曇(アド)氏の名の由来であり、この安曇(アド)氏が博多の大海社の祭神綿津見神を祀ることを任されて一族の者が渡博して祭祀者となり、その博多の安曇(アド)氏が祭神綿津見(ワタツミ)のツミ(…の神)の語を取り込むことで綿津見神を安津見(アのカミ=安曇氏の神)とみなし、そのために氏名(うじな)の呼称を安曇(アド)から安曇(アズミ)と変えたと考えるのがOK。
博多の安曇(アズミ)氏の立場が強まるのに伴い、本家の安曇(アド)氏もその呼び名を安曇(アズミ)と変えていったとするのがよいだろう。 >>623
イザナギが禊をした場所を博多の那珂川、御笠川、多々良川のいずれかとしていると思うけれど、その理由としては筒男神がその地で現れたからだと思うね。
しかし、記紀では、筒男神が生まれた場所については筑紫のあとに日向を挙げ、この場合の日向は南九州を指すので、南九州の今の南さつま市阿多の万之瀬川が禊の場だったとしているものと思う。
この阿多はニニギ尊から神武までが住んだ吾田と同音の地であり、イザナギ禊の地にその末裔も住んだとしていることには整合性があるね。
やはり、筒男神が生まれたのは、南九州でしょう。^^ 安量一族!山国に移り住んだ海人族の謎!
https://youtu.be/ec3jy3ZcCDw
安曇氏はある意味秦氏の先駆けのような存在だったのでしょう 宇佐の南にある安心院(アジム)は、地元での呼び名はアズミだそうだ。
この安心院(アジム)は沖縄のアジマァ(四つ辻、十字路の空間)が語源で、沖縄の海人族が九州へ北上して定着したのがその安心院(アジム)の地だったとする説が見られる。
その沖縄系海人が定着した安心院(アジム)の地から出たのが安曇(アズミ)氏で、宇佐との関りは深いものがあるとするもののようだ。
そこで、沖縄のアジマァ(十字路の空間)の言葉の語源を探ってみると、次のような成り立ちが考えられる。
十字路、四つ角は、二つの道が直角に交わるところ。
なので、この直角に交わるところの空間を指す言葉であるアジマァは、本土和語のマジワル(交わる)のマジワが訛ったものである可能性が高い。
そうすると、アジマァ(四辻、十字路の空間)が訛ったとするアズミ(安曇)の名にも、「交わる」意が残存しているはずだということになる。
しかし、アズミ(安曇)の語が「交わる」、あるいは「四つ角、十字路」の意味を持っているかといろいろ見てみても、どうもそうした意味は出てこない。
また、綿津見(ワタツミ)や穴門(アド)の言葉からも、「四つ角、十字路」の意味はみつからない。
ただ、安心院(アジム)の立地は確かに交易路の要衝であり、「四つ角、十字路=交差点」であるのは確かだろう。
沖縄の言葉に由来するとする説が出るゆえんだ。
このように見ると、安心院(アジム)が訛ってアズミ(安曇)になったとする説は、その語義からして少し無理があるのではないだろうか。 平家の落人が宇佐の駅館川から遡って安心院方面へ落ち延びた歴史がありますが、当時の宇佐神宮の大宮司公通の妻は平清盛の娘で宇佐氏は平家の外戚だったのです。なので平家の落人も宇佐神宮の荘園内に身を隠したのでしょう。宇佐家の伝承では、公通の子の公仲を安徳天皇とすり替えたとありますね。その宇佐氏も安心院出自の安曇氏だと言われています。
https://i.imgur.com/pkyTIyW.jpg 院内の温見神社の社紋は州浜紋だとされているようだ。
そして、安曇氏が宮司を務めた大川市の風浪宮の紋も同じ州浜紋となっている。
州浜紋が安曇氏の紋所かどうかは分からないが、有明海に注ぐ筑後川の水運と院内の温見を結ぶ交易路が成立していた可能性を物語るのがこの二か所の神社に共通する社紋かも知れない。
そこで、安曇氏が宮司を務めた志賀海神社と宇佐八幡宮の社紋を見ると、これはともに巴紋となっている。
秦氏が関与したとされる宇佐八幡宮の社紋と博多の志賀海神社の社紋が同じなのは、何らかの交易上の連携を物語っているのかも知れない。
このように見ると、交易関係で社紋を同じくしている神社があるように見える。
しかし、州浜紋が安曇氏の紋所であるのかどうかは、はっきりしない。
安曇氏の本拠の氏社とする説のある志賀海神社の社紋が巴紋で、同じく安曇氏が宮司を務めた風浪宮の社紋は州浜紋であり、双方が異なっているところからすると、州浜紋が安曇氏の紋所とするのは果たして正しいのかということになってくる。
紋所の成立はかなり新しい時代になってからとされるので、社紋から同族を割り出すのはかなり難しいのではないだろうか。 宇佐神宮の祖宮である薦神社の社紋が宇佐神宮と違う一つ巴なのは不思議です。勝手な解釈ですが薦神社の辛島氏と大神氏勢力が宇佐の地で宇佐氏勢力と合体した象徴の三つ巴なのではないかと考えています。
写真は薦神社の一つ巴
https://i.imgur.com/E4GLMnt.jpg >>632
宇佐の勢力と博多の勢力とが連携して、その印として三つ巴の紋を社紋としたことは可能性が高いね。
その際に、その三つ巴紋に宇佐の土着勢力と辛島氏と大神氏の三勢力合体の意味を持たせ、元々は中津にいた辛島氏がその中津の薦神社の社紋を三つ巴の一翼を担う意味で一つ巴にしたとする想定は、かなり可能性のある想定かもね。 >>633
出石神社の勢力も、博多の志賀海神社の勢力とフランチャイズしたということかも知れんな。 >>634
香春岳を起点とし薦神社を経た八幡神の東行の完成形が宇佐神宮だったのでしょうね 神社って気休めの無意味な飾り物ものみたいなもんだから
薬みたいに目に見えた具体的な効果などもないし
アインシュタインも大正11年日本を訪れた時、軍国化していく社会で
至る所の神社に武器や鎧が飾られているのには呆れてたと言うし
所詮神社なんて天照大神を頂点とした神話ヒエラルキー構造を
大和朝廷が民衆を誤魔化す為に全国津々浦々に散らばし始めたアイテムでしかない 新田義貞に敗れ九州に逃れた足利尊氏は、宇佐神宮に参籠し武運の再興を祈願したのちに京へと登り、征夷大将軍となって室町幕府を開きました。豊前では宇佐神宮の祖宮薦神社の奥宮の八面山の権現石でも祈願したとされています
https://i.imgur.com/sxFxYYo.jpg まあ、秦王国は筑紫太宰だろう。
裴世清は神仙の異郷を旅して倭王に接見するという筋立ての旅行記を書き、隋書倭国伝はそれを資料にして書かれたのではないか。
実際には、筑紫太宰では大歓迎され、陸路で明石まで行った。
裴世清らが逗留する須磨海岸には、陸路で倭王の歓迎使が二度にわたってやって来た。
裴世清らは、そのあと陸路で難波宮まで赴いて、そこで男性の倭王に接見した。 この時期には、まだ大宰府はなく、那津官家に置かれた筑紫太宰が外交ほかの仕事をしていた。
その那津官家や筑紫太宰の役人らの風俗は都と同じ大陸様式だったと考えられる。
この筑紫太宰の風俗をもって裴世清は中国の秦王国にたとえ、隋皇帝の諸侯国がこんなところにもあるのかとし、また呉の孫権が将軍を派遣したという夷州がここなのか、と異郷感をかもす著述を表した可能性が高い。
そうした異郷を通って、突然目の前にぱっと広がる海の海岸に行き着く。
そして、そこへ忽然と倭国の歓迎団が現れるのだ。
こうした描写は明らかに山海経的な異郷譚の描写様式であり、倭国の都はそのような異郷の中にあるのだと幻想的に物語っているものだ。
なので、裴世清らの一行は、陸路でもってその異郷の海の海岸まで行ったことになる。
もし、日本書紀の記述も正しいのだと仮定すれば、裴世清一行は迎えの準構造船で須磨から難波津へ渡ったとするのがよいだろう。 ところで、秦氏新羅出身説はほぼ崩れたようだ。
秦氏が新羅出身であるなら、新撰姓氏録で百済出身氏族がちゃんと記載されているように、秦氏が新羅出身であることは誰もが知る事実となっていたはず。
しかし、実際には、半島ではなく中国の秦始皇帝にルーツを擬しているわけだし、このことからして半島出身でないことはまず動かないだろう。
そして、秦氏始皇帝末裔説は、ちょっと信じにくいとすれば、残るのはホータン出身説だけ。
そのホータンの語頭のホタが訛ってハタになったとするのが、最も信じやすいと言える。
弓月君の弓月は、中国西域のタリム盆地付近の名であることからしても、秦氏ホータン出身説は確率が高い。
とにかく、秦氏はトルコ語を話していたようだから、ホータンが4世紀頃まではトルコ語が話されていたことと秦氏のトルコ語は完全に一致するのよ。
まあ、そんなとこだな。 レビ族は、神に仕える司祭の家系で、そのために土地を持たない。
一方、秦氏は、大地主。
秦氏=レビ族は、あり得んな。 >>647
弓月君の先祖がカザフ平原を通って来た商人だった可能性は高い。 肉を好む民族はカザフスタンへ、魚を好む民族は日本へ渡ったと言われているらしいね 宇佐の由来は『う・梅』と『さ・桜』だよ。
後付だが『平野大社』と『北野天満宮』だ。 >>650
5世紀頃には、地中海産のガラス小玉が大量に輸入されている。
カザフ平原から内モンゴル、半島を経て日本にもたらされたと考えられている。
こうした関係から、カザフやキルギスには、日本についての知識が古くからあったのだろう。
日本は魚好きの住むところということも知らていたのではないか。
寿司のことも知っていたはずだ。^^ >>651
沖縄北端の国頭村に宇佐浜(ウザハマ)がある。
岬と岬の間にできた内浜だ。
また、四国には土佐(トサ)がある。
この土佐は外砂・狭(トサ=外洋に面した浜)の意味。
宇佐は、蒐狭とも書かれている。
狭(サ)の字は、日本書紀では「浜」を意味する。
そうすると、宇佐は、外洋に面した直線型の浜である外砂・狭(トサ=土佐)の対立概念である深い湾になった内浜である内砂・狭(ウサ=宇佐)であることが分かる。
駅館川と寄藻川などの間は、昔は湾になっていたのだろう。
宇佐の語源は、「湾になった浜=内砂・狭」だろうね。
なお、蒐狭と書かれている蒐の音はシュ、シュウで、「集める」の意。
蒐狭の字は「(川の土砂が)集まってできた浜」の意味だが、ウサ(宇佐)の音の意味は「深い湾になった浜」の意味だ。
元々の地名はウサで、「内浜」の意味だろうね。 >>647
弓月国は、今の中国ウイグル新疆自治区の北西端にある伊寧市にあたりにあった国だとされている。
この弓月国の弓月の名は西突厥の一部族である弓月部にちなむもので、その弓月部の拠点である弓月城が伊寧の地にあったことから、そのあたりが弓月国と呼ばれるようになったものとされている。
研究によると、この西突厥の弓月部は元々は突厥の一部族で、その突厥が東西に分裂したときに西に移動したとされる。
では、突厥はそもそもどこにいたかというと、柔然に隷属してアルタイ山脈の南麓に移住させられて、そこで鉄生産に従事していたようだ。
このアルタイ山脈の南麓は、今のウルムチ、トルファン、ハミなどのあるあたり。
ということは、弓月部は、元々はその付近にいたことになる。
そして、突厥が柔然から独立するのは552年とされるので、弓月君が渡来する4世紀末頃には弓月部はアルタイ山脈の南麓にいたことになる。
そうすると、イリ川上流の伊寧あたりにあったとされる弓月国は、4世紀末頃にはまだ存在していなかったことになってくる。
むしろ、弓月の地名は、ウルムチやトルファンなどのあるジュンガル盆地東端あたりにあった可能性すら出てくる。
また、ウルムチはジュンガル盆地の南に広がるタリム盆地にもつながっていて、ホータンなどと円弧をなすオアシス都市でもあるので、弓月の名はタリム盆地にかかることも考えられる。
こういうわけなので、秦氏の始祖の弓月君の故郷はイリ川上流の伊寧にあった弓月城あたりだとする説は、再考の余地があるのではないか。 >>654
高知市を流れる仁淀川の河口の西側が長い直線状の浜になっていて、その浜が西側に尽きるところに萩岬がある。
この間の直線の浜が土佐(外狭)だ。
そして、この萩岬の西側すぐのところの湾にあるのが宇佐(内狭)だ。
土佐と宇佐が、ちゃんと対になってるのよ。
大分県の宇佐も、この高知の湾の宇佐と同じということだな。
白菟は、この鵜宇佐の浜に住んでるのだろう。 出雲大社の5月の例大祭は八柏手だ。
四柏手は、単に丁寧にしているだけ。
そして、ニ拍手は簡略しただけ。
拍手の回数は、オカルトじゃないからな。
そんなことより、七五三のお参りは奇数なのに、柏手はなんで偶数回なんや? 伊勢神宮でも柏手八回。
ただし、これは神職が祭礼のときに行う。
一般は二回だ。
しかし、伊勢神宮に限らず、二回の柏手は明治からだそうだ。
それ以前は三回の柏手だったというぞ。
七五三も考えると、神社は奇数が基本なのかもな。
しかし、柏手の回数なんかは、コロコロ変わるということだな。 >>655
突厥の弓月部の部族名にちなむ地方名は、4世紀末頃には敦煌からウルムチあたりの西域を指していた可能性がある。
ホータンなどもその弓月地方のオアシス都市だったのかもな。
弓月君がホータン出身なのとぴったりだ。^^ >>659
柏手の回数なんて、ええかげんやな。
ニ拍手は明治に内務省が定めたものとされとる。
それ以前は、いろいろあったそうや。
確実なのは、柏手を打って神さんにお出まし願うことくらいや。
その回数なんて、各社まちまちなのが実態。 秦氏の先祖はアナトリアに入ったギリシャ系の商人で、ここでユダヤ教徒に改宗してカザフ方面の行商に旅立ち、カザフ平原を通るときにトルコ語話者に変わり、そしてそのまま東へ進んでホータンに定着した。
ここがインド・ペルシャ方面と中国・モンゴル・半島・日本・ツングース方面とギリシャ方面との交易の交差点だったからだ。
ホータンでは、トルコ語が主流だった。
その後、4世紀後半になると、ペルシャ系の勢力が浸出してきて、ホータンの言葉もペルシャ語系に置き換わった。
このとき、ホータンに居た秦氏の先祖はタリム盆地のオアシス都市に住む交易関係者らとともにその地を脱出して、商人としての知識やユダヤ教徒の知識として持っていた「海の国」と目される島国の倭国へ行くことに決めた。
内モンゴルから遼河を通り、半島を経て、そして倭国へ到着したのが弓月君とされるトルコ語を話すユダヤ教徒だったのだ。
5世紀後半には彼らはウズマサの地に本拠地を構えたが、そのウズマサの名はトルコ語で「三つの机(祭壇)」の意味し、これはユダヤ教の神を讃えるための幕屋を示す言葉だった。
つまり、秦氏は、ウズマサの地を日本でユダヤ教の神を讃えるために幕屋を置くところと決めたのだ。
これが、秦氏の家系の全貌なのだ。 伏見の深草に根拠地を置いた秦氏は5世紀中頃には太秦に進出して、ここを博多からの交易路の終着点として開発した。
そして、この太秦から埼玉の行田の入植地までの路程をユダヤ教の出エジプト記の旅程と重ね合わせる地図を描いた。
そこで、この日本における出エジプト記の出発地に当たる太秦の秦氏の神体山を松尾山(まつおやま)と名付けた。
出エジプト記ではエジプト脱出の前夜にユダヤ教徒たちは簡易的な食事として種無しパンを作って食べたが、その種無しパンの名はマッツオだ。
マッツオは出エジプト記の最初のエピソードであり、ユダヤ教徒はこのマッツオを極めて大切にする。
この種無しパンの名であるマッツオの音写が、松尾山(マツオヤマ)の松尾(マツオ)なのだと考えることができる。
つまり、埼玉の行田までの日本版出エジプト記の旅程の出発点として位置づけたのが、秦氏の神体山とされる松尾山(マツオヤマ)=(種無しパン・マッツオ)というわけなのだ。
そして、次の重要地は伏見の深草で、ここの秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)と名付けられている。
この稲荷山(イナリヤマ)の元々の山名は、稲生(イニイ、イナイ)のようだ。
イニイ、イナイ(稲生)は、秦氏のトルコ語によるinis(イニシ=着陸、降下)が訛ったものと考えることができる。
何が着陸するのかと言うと、出エジプト記では、山上のモーゼの前に天から降りてきたのはユダヤ教の神なのであり、その神が天から降りてきて十の諌めを授けたわけだ。
この神が降りてきた山に擬せられたのが深草のイナイ、イニイ(稲生)山であり、出エジプト記ではその山はシナイ山と呼ばれている。
なので、深草のイニイ、イナイ(稲生)山は、シナイ山になぞらえた神体山ということになる。
マッツオを食べて出エジプトし、そのあとシナイ山で十戒を神から授けられて、いよいよ本格的な荒地の旅が始まるという出エジプト記の旅程を、太秦から埼玉の行田までの旅程に被せて、そうしたユダヤ教徒の旅路としてこの行程を描いたということが浮かび上がってくるのだ。
秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒だったというのは、まず間違いないことだ。^^ 言わずと知れた『宇佐』は『U・S・A』🇺🇸
ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ🗽
「入浴へ行きたいかぁ〜〜〜!」 ユダヤ人
トルコ語 yahudi(ヤフデ)=ユダヤ人
↓
yahudi(ヤフデ)⇒八幡(ヤハダ) ^^ >>668
→ジャポン→ジャパン→ニッポン→ニホン 秦氏広隆寺の東に蚕の社があり、この社の元糺の池には珍しい三柱鳥居が設けられている。
水源に積んだ石塚を守るように建てられていて、その三つの鳥居の向く方角が下鴨神社、伏見稲荷大社、松尾大社の方角であることから、この三柱鳥居は秦氏と関係があるのではないかとされる。
確かに、そのように方向になるように設置したのかも知れないが、三柱鳥居自体は結界を示す鳥居が池の軟弱地盤のせいで倒れるのを防ぐために強い組み方である三角形のものとしたのだろう。
対馬の和多都美神社の三柱鳥居も、同じように池の中の水源に積んだ石塚を守るように設けられ居ている。
池の水源の地盤が軟弱なために結界をなす鳥居が倒れやすくなるのを防ぐ目的で、鳥居を三つ組みにしたものだろう。
なので、三柱鳥居自体はオカルトチックなものではないといえる。
ただ、蚕の社の三柱鳥居の方角を秦氏と関係の深い下鴨神社、伏見稲荷、松尾大社に向けたのには、秦氏が自己の縁起のためにそのようにした可能性はあるのかも知れないがな。 >>656
土佐清水には竜串海岸があり、まるで蛇(龍、比喩的に鰐)が並列しているような景勝だ。
兎と鰐・・・そう、皆様方もお分かりですよね。 >>616
古墳を造ったのは野見宿禰の後裔・土師氏
当氏は大江氏、菅原氏、秋篠氏の祖にあたる 土師氏は、古墳の粘土槨づくりが専門だった。
その粘土槨が造られなくなったころに、形象埴輪が現れてくる。
形象埴輪は、土師氏の多角経営の産物かもな。 土師氏は、古墳の割竹木棺の下に敷く粘土や、その上に被せる粘土の専業者だった。
粘土を敷くときに、職人が四股を踏んで粘土を締めた。
この技術は、元々は水田の漏水を防ぐために敷いた粘土を作業員が四股を踏んで締めたことに由来する。
土師氏の祖の野見宿禰が相撲に結び付けられるのは、その四股踏みのためだ。
野見宿禰が出雲の出身とされるのは、出雲の粘土と関連するのかもな。 >>650
はじめ人間ギャートルズ = カザフスタン
サザエさん一家 = 日本人 稲荷山古墳の武人埴輪の姿は、ユダヤ教の超正統派の姿と同じだ。
とんがりハットかぶって、垂れ目で、鬢の毛を伸ばして巻いている。
顎髭もたっぷりたくわえている。
しかし、日本は湿潤なので、本来は帽子を被らない。
とんがりハットは、カザフ平原などに特有のものだ。
稲荷山古墳のユダヤ教徒のような武人埴輪は、そのような乾燥地帯から来たことを思わせるな。
辰韓に決まってんだろ
東漢氏だって漢じゃなくて加羅出身さ 秦氏が新羅に乗っ取られた元辰韓人なのは正解
でも東漢氏は百済の元楽浪帯方郡人だと思われ 北部九州にオンドル遺跡が多く出土していて秦氏の勢力圏がわかる 朝鮮半島の古代の衣服の記録って全然ないんだよね
朝鮮半島には埴輪という文物もないし
列島は4C頃まで袈裟衣か貫頭衣で衣服にズボンというものがなく、
ズボンのある衣服というのは秦氏と東漢氏が半島から最初に伝えたものだと
考えられるから、稲荷山古墳の武人埴輪の衣服は朝鮮半島の古代の服装だったと
考えられる訳なんだよ 男の場合、ズボンや股引きが普通。
裸の脚ではすぐけがをして、傷だらけになる。
梁職貢図では、倭人は股引きをはいている。
これが伝統的な正装だった。
芝山古墳など出土の刀を持つ人物埴輪のズボンは、裾が大きく開いている。
寒い朝鮮半島では、このようなズボンはありえない。
後代の袴と同じで、裾が広いのが日本風。
人物埴輪の服装は、純日本風といえるな。 奈良高市郡のオンドル跡は、百済系のものらしいな。
時期も三、四世紀などと古いものではないようだ。
しかも、半島ほど寒くない日本なので、すぐに廃れたらしい。
秦氏の拠点の伏見深草でも、オンドル跡は見つかっていないし。
秦氏辰韓説は、無理だろう。 >>690
高市郡!
葛城豪族か?今木大神か?
天火明命か?一言主神か? オンドルとか言ってるけど元々は極寒い中国東北部だかで始まったもの。
楽浪郡、帯方郡を滅ぼした騎馬民族系に押された漢人系が行き場なくして南下、一部が渡来してきた。秦氏、漢氏が自分らを漢人と申告していたのは何もおかしくない。 最初の日本人に感謝
自分の御先祖様に感謝
そして自分の両親に感謝 大分県の秦姓はほとんどが被差別民だよね?どうしてそうなったんだろ? 大分市南大分の史跡巡り(11)~京都の宮大工が建てた古民家~
https://onsenkenoita.net/post/173319237162/
大分市畑中地区には京都の宮大工が建てた大きな古民家が3軒ある。
3軒とも姓は秦家で江戸時代から広い土地持ちで真ん中の本家は大庄屋だったという。 南大分っていうか、畑中とか荏隈あたり大分刑務所付近だわな
京都の御所で小坊主役を勤めた豊後府内藩の穢多頭の秦家はとなりの永興だったかな? 秦は春秋から文字った氏
大陸から渡来してきた民
日本列島を改造してきた
先ず手初めに平安京条理
秦は通称・役職名なのか!?
源平藤橘秦鴨賀茂加茂かも! 北方漢民族
遼寧省人、黒竜江省人、吉林省、河北省、山西省、山東省、河南省
中央アジア人
内モンゴル、陝西省、寧夏回族自治区、甘粛省、青海省、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、
南方漢民族
湖北省、湖南省、江西省、江蘇省、安徽省、浙江省、福建省、貴州省、雲南省、福建省、広東省、広西チワン自治区、海南省、四川省 薩摩の大名家、島津は秦氏の頭領集団の一つ 秦氏の連れてきた機織りの職人や農民など技術者集団の部民とは区別が必要ではある 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>704
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑
まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ
残りの旧石器人は樺太から入って来ている
両旧石器人の融合人種が縄文人だよ
残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ
沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが
沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている
そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない
弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ
それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ
ない
よろしいですかな?よろしいですかな?
短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑 秦河勝は、景教ネストリウス派ですよね。稲荷山。
そこで教えを受けたのが、空海。密教。
稲荷神社になんで狐霊が入ってきたのかは、不明とのこと。 秦大津父は狼を神と呼んで助けた話があったな
その話が欽明天皇に気に入られて出世した
秦氏のトーテムは本当は狼なのかも
しかし藤原氏の春日大社では神使が鹿なので天敵の狼は都合が悪くなった
それで同じイヌ科の狐になった説 >>704
日本人のルーツが西遼河人なら、日本でY-Nは相当数の頻度になるはずだけど、Nはごく少数派。
西遼河人は無理。 それに、西遼河人の言葉の語順はSVOのようだ。
日本語のSOVとは逆構造なので、西遼河人⇒日本人は無理無理だな。 景教(ネストリウス派)が中国に入って来たのは、唐の時代だそうじゃないか。
秦氏が日本に来たのは4世紀後半とされるから、秦氏が景教だったということはまずないよね。
やっぱ、ユダヤ教だろう。 ユダヤ教徒というのは、世界で最も人種混交が進んだ宗教集団だろうな。
その宗教集団の中で、元々の種族であったヘブライ人のDNAの割合は極限的に少ないのではあるまいか。
人種を超えた宗教だとは言えるな。 秦氏の先祖の弓月君はそうした人種の坩堝であるユダヤ教徒の中でもギリシャ系商人の改宗ユダヤ教徒の子孫で、応神天皇の頃には西域のホータンで交易商をしていた人物だと思うよ。 ホータンのあたりは、4世紀末頃までトルコ語が主流だったから、そのホータンを脱出して日本に渡った弓月君もトルコ語話者だったとするのがよい。
なので、トルコ語で合理的に秦氏ゆかりの日本の地名が解ける。
例えば、筑紫(チクシ)を挙げることができる。
トルコ語では、cikis(チクシ)は「出口」。
太秦から半島などへ渡る位置にある筑紫は、秦氏からすれば「出口」に当たる立地だったということだろうね。
その秦氏のトルコ語が、朝廷の公用語として取り入れられ、そのチクシに漢字の筑紫を当てたというのが実際の歴史だよ。 >>716
訂正
10行目のトルコ語は、トルコ語の語彙が正しく、朝廷の公用語は朝廷の公用語彙が正しい。 残念です、秦氏自身が自分たちを漢人であると大和朝廷に申告しております。
朝鮮半島にユダヤ人がいた記録も形跡もありませんよね。 天皇自身が火葬にしろと言いだしたりしてる
ユダヤなら火葬しないよな 秦氏が始皇帝の血脈だとする系譜を作ったのは、後漢霊帝の血脈だとする東漢氏に張り合ったためだろう。
始皇帝を選んだのは漢王朝よりも古い初めての統一王朝だったことと、始皇帝の家系が西域系にルーツがあると見られたことも関係したのではないか。
秦氏は、始祖の弓月君が西域のホータンから来たことを暗にほのめかしたのかも知れんし。 秦氏のトルコ語からすると、筑紫(チクシ)はcikis(チクシ=出口)由来。
壱岐(イキ)は、トルコ語のiki(イキ=数詞の2)由来。
壱岐は半島から見ると2番目の島だからね。
秦氏がトルコ語話者だった可能性は、極めて高いんよ。 秦酒君は実在した可能性が高い。
ユダヤ教徒集団が入植したとみられる埼玉の行田にある稲荷山古墳出土の鉄剣銘に、オワケの祖父の名がハテヒと刻まれていて、これをトルコ語で見ると、トルコ語のhatir(ハテシ=酒)と発音がよく似ている。
そうすると、オワケの祖父が「酒」の名であった可能性が高く、そして酒の名を持つのは太秦の秦氏の酒君なのだから、オワケは秦酒君の孫ということになってくる。
このことからすると、太秦の秦氏の当主の酒君の子が埼玉の行田に入植して地盤を築き、その子のオワケが雄略に仕えて杖刀人のリーダーを務めたということになる。
つまり、その杖刀人を率いたオワケのバックには、太秦の秦氏がいたということだろう。
そして、この杖刀人は継体天皇にも仕えていたことが継体陵の埴輪から分かる。
秦氏の仕事は、殖産だけではなかったということだな。 ウイグル・アルタイ系の氏族豪族が渡来してきても日本の言語に影響与えたのは秦氏じゃないだろ
遅すぎる 筑紫・壱岐と秦氏が関係ない そこらへんで支配階級は別にいた
ホータン野郎は無茶苦茶な理屈を振り回すな >>725
そこらへんの地域支配者がいくらがんばっても、お上が「そこはチクシ(筑紫)や」と言えば公的にはチクシ(筑紫)になる。
そして、そのチクシ(筑紫=出口)の名を最初に言い出したのが秦氏で、その大豪族の秦氏の命名が公的呼称となったわけ。
この真実に反論するのなら、キミのチクシ(筑紫)の語源説を述べてみたまえ。
噴飯ものの語源説を開陳するんじゃないぞ。 5~7世紀ごろの価値観だと新羅は倭にとって後進地域なんだよ
倭の五王時代は倭王は新羅の管理も中国皇帝から正式に任されてたし、倭国の下という認識が強かった
だから新羅出身の渡来人は見下されることを恐れて「新羅出身だ」とは言わなかった
今でいうフィリピン人が聞いてもないのに「私はスペイン系」とか言うようなもの
秦氏や東漢氏なんかがそれよ
両氏とも間違いなく新羅渡来だけど
本人たちは「うちは秦の始皇帝の由来で」とか「漢帝国の由来で」とか自称して出自を粉飾しただけ 高句麗が仏教受容するのは374年
百済の仏教受容は387年とか言われてる
新羅の仏教受容は527年で倭国が538年
つまりこれって、倭国がいつのまにか最後進国になってたってことよ 百済と新羅の仏教受容にも150年の差がある
むしろ倭国が新羅の仏教受容を邪魔してたんじゃないかな
新羅が仏教受容した割とすぐに倭国も仏教受容してるのを見るに
「ついに拒絶しきれなくなった」という面が強い
倭国は仏教の存在自体はずっと知ってて、それを150年拒絶してたってことよ普通に考えるとね
百済と国際交流しながら仏教の存在を知らないはずがない >むしろ倭国が新羅の仏教受容を邪魔してたんじゃないかな
元々、秦韓とも呼ばれて秦人、韓人が多く大陸系の血が濃厚な新羅に島国からそんな縛りができたのだろうか? >>726
秦氏がいつ渡ってきたと思ってんだ?
筑紫国造は阿部氏で四道将軍の子孫 後発の秦氏など一ミリも関係ない >>730
倭の五王時代長く倭王は新羅の諸軍事に任官されてる >3世紀に編纂された魏志倭人伝によれば、筑紫島の玄界灘側には、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などの国があり、伊都国には一大率などの検問機関がおかれ、邪馬台国の国と帯方郡のあいだの貿易港として栄えていた。
伊都国、奴国の支配者層はともに数百年後に渡ってくる秦氏とは一ミリも関係がない 倭王珍から倭王武まで60年くらいにわたって新羅は倭国に服属してる
527年に磐井の乱があり、同年に新羅は仏教を受容してる
磐井の乱は間違いなく新羅の倭国からの独立戦争だろう その後倭国は任那にも離反を許してる
そして同時期に蘇我氏や秦氏という渡来系氏族が倭国で勢力を振るうようになる
任那からの引き上げ倭人か、あるいは亡命新羅人、逃亡した任那旧王族などだろう それら氏族は「逃亡新羅人」とは名乗らず「三韓征伐の武内宿禰の子孫」や「新羅には一時的に滞在していただけで出自は秦の始皇帝だ」などあることないこと言って家系を箔付けしたんだろう あるいは「三韓征伐の応神天皇の子孫」を名乗った継体天皇もそうだったかもしれない
「越前から迎えた」「近江から迎えた」というのは叙述トリックであって
本来は近江、越前から船を出して任那に迎えに行ったのだろう 「越前から船を出して任那に迎えに行った」を「越前から迎えた」と書いてもギリギリ嘘ではない 最近YouTubeにドップリだという親父が秦氏はユダヤか中央アジアから来たとか言い出したんだが
お前らの仕業か? つべにドップリって自分で書いてるのをもう忘れてらぁ >>740
トンデモ野郎が単一のプラットフォームに留まっているとは限るまい
ったくよお、責任感じろよ、ムー信者は 秦氏は新羅が出自だから
倭が百済と同盟強化し対新羅の姿勢を徐々に強くするに従い倭国中枢からは遠ざけられた だから半島にユダヤ系がいたなんて記録は魏志韓人伝だろうがどこにも記録がないけえよ
大陸政府は植民地の漢四郡漢四郡(かんのしぐん)が半島に、前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡があったこと忘れてるんじゃないか
夢を見てるんじゃないよ妄想で。 >>736
そもそも新羅の成り立ちや王族の出自時代がはっきりしないんだから、倭国から独立とか珍説言われても
まったく説得力ないな
新羅が倭国の勢力圏だったなんてどこに書いてあるのか 倭の五王のうち4人は中国皇帝から新羅諸軍事に任ぜられてるだろ
何の実態もないのにそんな役職に任じたりしない 倭と新羅の関係は日本書紀では意図的に隠されてると思うよ
白村江で新羅は敵国になったから、それ以前の歴史についても蔑視の視点で描いてる 新羅の王冠は翡翠の勾玉が使われてるんだから宗教的にも倭国の影響下にあったはず
じゃなきゃ勾玉の形にわざわざ加工しないでしょ ちなみに勾玉は北斗七星の形を模していて、北斗七星といえば海人族が方角を探すために使う星だね
アメノミナカツヌシとして神格化もされてるが、元は海人族にゆかりがある >>747,748
是非はともかくとして聞いたことない話だなそれは
ここの板にはよくあることだけど思いつきの説を通説っぽく語るのは控えて欲しい
混乱する >>749
新羅の王冠に勾玉が取り付けられているのは事実だよ。
ただ、この勾玉は倭王権からの贈与品、あるいは交易の対価品と考えられている。 >>742
有名学者が新羅の石碑に「波旦(ハタン)」の文字をみつけて、波旦(ハタン)=秦(ハタ)だと唱えたが、今ではまともに扱われていないよ。 >>739
あの馬面の先生のご高説にハマったんだろう。
ヤマトウは、確か、地図では野馬渡の表記で、馬を渡河させる渡し場という意味だ。
その渡し場の地名を邪馬台(ヤマト)の淵源と考えて、邪馬台国の名は西域に源があるという説も唱えていたような。
まあ、西域起源はロマンがあるからな。 >>726
第一、魏略や魏志倭人伝に「筑紫(チクシ)」なんて出てこんしな。
3世紀前半に倭国にチクシの地名があったのなら、当然、倭人伝なんかに出てくるはず。
しかし、どこにもチクシのかけらもないから、その時代にチクシはなかったということなんよ。 日本書紀には百済から来たと書いてある
文化面では新羅要素が強い?
一体何が 秦氏と新羅につながりがあるのではないかする説がみられるが、そのつながりを示唆する最も大きなものは聖徳太子から管理をまかされた新羅仏だ。
秦氏が新羅出身とみられる理由である。
しかし、秦氏は外国の宗教関連や異教を監督する職掌についていたフシがみられることからすると、この新羅仏の管理は単にそうした職掌によるものであり、秦氏自身と新羅のつながりを示唆するものではなくなる。
秦氏は、静岡で発生した異教が都まで進出してきたときに、この異教の指導者を打っている。
なぜ秦氏がその異教を排除したのかと考えれば、秦氏がそうした異教などの宗教関連の監督をする立場にあったからとすれば、その謎は解ける。
これは、物部氏が刀剣などの武器を管理する職掌についていて、百済王から倭王に贈られた七支刀を管理して、自らの祭祀にも用いていたのと同じことである。
こうした観点からすると、秦氏が聖徳太子から新羅仏の管理を任されたのは、秦氏が新羅出身であったためではなく、そうした職掌にあったためということにすぎないと言えるのではないか。 新撰姓氏録みたら、百済や新羅、高麗出自の氏族がかなりいるな。
秦氏が百済の出自だったら、百済の王族の後裔やと書いてるのとちがうかなあ。 まあ、ここらで、秦氏はホータンからやって来たということで手打とうや。 ホータン→ホタ→ハタ。
このホタが、秦氏系図の浦東(ホト)に当たる。
なので、ハタとは、ホータンから来ましたと表明している名なのよ。
弓月君は、おそらく、ホータンの交易商人だったのだろう。
イラン系の部族が4世紀後半頃にホータンを襲撃してトルコ系住民と入れ替わったときに脱出して、ユダヤ教の口伝にある海のそばの国を目指したということだろう。
ただ、ユダヤ教徒だからと言って、ハタ氏がDNA上のユダヤ人だったとは言い切れない。
ユダヤ教への改宗者だった可能性もあるからだ。
ユダヤ教は古代には、キリスト教とイスラム教のいずれにも属さない中立の宗教として扱われたため、キリスト教とイスラム教の闘争の域外に立てたことから、ユダヤ教への改宗者が多かったのだ。
ハタ氏のDNA上のハプロはギリシャ系だったと思うよ。 七星剣が高知県四万十市(旧幡多国)から発見されている。しかも珍しい諸刃の剣だ。 幡多郡は、古くは播多郡と書いたようだ。
播(ハ・ハン)は「種を播く」の「播(ま)く」意だから、播(ハ・ハン)は田のことではないか。
なので、播多は、田んぼが多い地方という意味だろう。
秦氏とは無関係では。
そのような幡多郡の土地に北斗七星を象嵌した珍しい鉄剣があることは謎と言えるが、それと秦氏は関係ないのとちゃうかな。 トルコ系が渡来してたとしても秦氏であるはずがないからw そこが浅はか、近視眼。
秦氏はトルコ語話していて、その当時のトルコ語東端限界線は西域にあるので、秦氏ホータン出自説はまるまるセーフ。 >>772
もちろん、そんな文献があれば、クローせんよ。
しかし、秦氏の周りには、トルコ語でみごとに解ける言葉が多すぎる。
秦氏の最初の拠点は京都の深草だが、ここに秦氏の神体山とされる稲荷山がある。
この稲荷山(イナリヤマ)の元々の発音は、イニイヤマだったと思われる。
山城国風土記では、稲生(イニイ)と読める逸話が乗せられている。
今の発音ではイナイ(稲生)だが、イネ(稲)は方言的にはイニ(稲)もOKだろう。
このイニイ(稲生)がイナイと訛り、それがさらにイナニと訛ったころに稲荷の字が当てられ、これが最後にイナリ(稲荷)へと変化したことが考えられる。
そして、この最初のイニイ(稲生)が秦氏と関りがあり、山城国風土記では、秦氏の長が餅を弓の的にして矢を射たところ、この餅が山の上まで飛んで行き、その餅から稲が生じ、やがてそこに神社が建てられたとするものだ。
これが稲荷山であり、稲荷大社の起源譚だ。
なので、最初のイニイ(稲生)が問題になる。
そこで、このイニイ(稲生)をトルコ語のよく似た発音の言葉と重ねてみると、
イニイ(稲生)
トルコ語 inis(イニシ)=着陸
となる。
イニイとイニシは、ほとんど同じ発音だ。
で、その山に何が着陸したのかというと、秦氏がユダヤ教徒だったという説にからめると、出エジプト記のハイライトの一つで山に関連することと言えばシナイ山である。
シナイ山では、神からモーゼに十戒の石版が降ろされる。
つまり、この十戒の石版が降ろされたことを表しているのがトルコ語のイニシ(着陸)であり、そのイニシ(着陸)を山の名としたところ、それが訛ったのがイニイ(稲生)、イナイ(稲生)であり、やがてイナリ(稲荷)へと変わったことは先に述べた。
要するに、秦氏の神体山の稲荷山は、シナイ山を模したものという説が可能になるわけよ。
奇しくも、イナイ山(稲生山)とシナイ山の発音はよく似ているから、秦氏にとっては予期せぬ訛り方だったということだろう。
いずれにしても、秦氏の周りには、トルコ語の語彙を当てると、意味がよく理解できる言葉が多々あるということだな。 奈良時代に役人登用される程のイラン人がその子孫が居たのはどんな理由が考えられる?
当時イスラム科学が発達して存在感を示す前の事だよな
なぜ日本に?経緯はまだ明らかにされていないがどんな繋がりが? 帰国した遣唐使が一緒に来た唐人3人と波斯人1人とともに天皇に拝謁したことが、続日本紀に出ているらしい。
このペルシャ人本人かその子が、くだんのペルシャ人ではないかとされているな。
また、持統天皇の頃にはゾロアスター教が伝えられていたらしいので、その関連も考えると、ペルシャ人の来朝はあり得るよ。
ちなみに、ペルシャ語の「緑」を表す語は、sabz(サブ)だ。
このsabz(サブ=緑)は日本語のサビ(錆、緑青)の語源だから、飛鳥や奈良時代の前にすでにペルシャ語の語彙が入って来ていた。 現代ペルシャ語でsabzを発音しているものを見たが、
発音は「サブズ」で三文字、主に別な単語と組み合わせて使われている印象だったな
まぁでもペルシャ語起源説は面白いね イラン人?ユダヤ人?トルコ人?
はっきりしろよw
蚕を飼って機織りして献上、米作して米酒造りや餅作りとか・・・
やってることからして秦氏はどう考えても漢人系ですわね。ユダヤかトルコかしらんが秦氏以外で見つけろよ。
隋が使者として送った官僚も隋書によると
「「其人同於華夏(その人(秦王国の人たち)は中国文化とまったく同じであった」と述べているのです。
この記述は信用できます。
日本書紀には、畿内に(隋の)使者が来た、との記載があるので秦氏と同族の話でしょ。 >>779
中国が移出を禁止していた蚕と桑が外国に流出したのは、次のような理由だとする逸話があるそうだ。
ホータンの王が蚕と桑の種子を求めて中国にかけあったが中国に断られたため、花嫁を中国求め、その花嫁の娘が頭飾りの中に蚕と桑の種子を隠して国境を越え、やがてホータンは極上の絹織物を輸出するようになったというもの。
このようにホータンは絹織物で有名だった。
そのホータンから日本にやって来た秦氏が上質の絹織物を生産したのは、ホータンにこのような逸話と実績があることからして、ごくごくもっともなことだといえるけどね。 このように秦氏関連のスレは毎回最終的に基地外が出来の悪い妄説を垂れ流す場になります >ホータンから日本にやって来た秦氏
秦氏は半島経由で来たってのは確かなので、ホータンから半島に流入した集団がいたなんて記録や遺跡が見つかってればまだ信憑性あったのにね。
大陸政府の植民地が幾つもあって韓伝などに記録もない、おかしいよ。 秦氏がユダヤ教徒でトルコ語話者であったのは、数々の事例から明らか。
当時、ユダヤ教徒とトルコ語の二つのアイテムが重なるのは中国の西域。
これに、秦氏系図の弓月君の子の浦東君の発音のホトゥがホータンと重なることやその浦東の発音のホトゥがハタ(秦)に近いことを合わせると、秦氏のホータン出自はほぼ間違いないね。 >秦氏がユダヤ教徒でトルコ語話者であったのは、数々の事例から明らか。
どこが?w
朝廷に秦氏の代表は自分たちを漢人だと申告している、周囲には渡来系氏族は山ほどいて誤魔化しなんかできないよ
隋の官吏も秦王国は華夏と同じ文化だと記録している
オタクの主張とは全く異なりますな
見つかっている秦氏の古墳もユダヤ系の特徴はどこにあるんですか? 『日本書紀』によると弓月君は百済の120県(=市)の人民を率いて帰化したとある。
そんなユダヤ系の集団がいたら記録に残ってる ユダヤ系なら金細工師なんかも連れてきてるはず >>784
あれは、東漢氏が後漢霊帝の子孫だと胸張ったことに対抗して、わしらは始皇帝の血脈だからと胸張り返しただけの捏造。 >>785
これまでに、ユダヤ教徒が墓に何かそれらしいものを副葬したという例はあったかなあ。 >>786
弓月君が120県の民を率いて渡来したと書紀が書いていることは事実だけど、その書かれていることが事実を反映しているかどうかはまた別。
120県もの人数を引き連れて国を出たとなれば、大騒動になる。
国の富をごっそり持ち出すわけだから、無事に国を出れたかどうかあやしい。
この120県の人数というのは、書紀編纂室の脚色だろう。
つまり、秦氏が自分に所属する人民が各地に分散さされているので、自分のもとに再度まとめたいと申告して許されるわけだが、その人民はそもそもから自分のもとに所属する者たちだったから正当なのだと理由付けするための脚色なのよ。
弓月君がそんな大人数の者を引き連れて渡来してきたということは、なかったと思う。
秦氏が各種の職人たちを多数抱えるようになるのは、あとのことだろうね。
大陸や半島などから腕のいい職人を引き抜いて渡来させたということだよ。 >>789
月は、韓国語ではdal(タイ)だからね。
タラではありまへん。 馬韓のことを
ペクチェと言わずにクダラというのは弓月(クタラ)由来の呼称なのだな 馬韓地方に居陀(クダ)という名の地域があって、この居陀(クダ)に城壁を表す羅(ラ)を加えたのが居陀羅(クダラ)。
日本では、その居陀羅(クダラ)でもって百済(ぺクチェ)の字の読みとしたとする説が最も有力。 >>790 都合よく記録されている話を捻じ曲げるのは感心しないな 一気に信用を失うよ
日本側はわざわざ半島まで豪族と軍隊を派遣して秦氏が渡来しやすく環境を整えてるんだぞ
>120県もの人数を引き連れて国を出たとなれば、大騒動になる。
国の富をごっそり持ち出すわけだから、無事に国を出れたかどうかあやしい。
国の富?
どこの国の話をしてるんですか >この120県の人数というのは、書紀編纂室の脚色だろう
そろそろ妄想癖のオッサンが勝手なこと書いてるだけかと疑いたくなるんだが?
日本書紀の編纂に秦氏は関わっていないし、位も低い秦氏のために脚色する理由がないだろ >>792 >>793 秦氏とは何の関係もないな 何を混同してるんだ >>794
日本では、人民を「大御宝(おおみたから)」と言ったよね。
古代では、人手が宝だったわけ。
その宝である120県もの人民がごっそり移住してしまうとなれば、秦氏がいたというその百済の国主にとっては大きな痛手になる。
国の富の元手が失われるわけだからね。
当然、百済の国主は、秦氏を逮捕して、その120県の人民を百済に留めておくことになるのは、当然。
かのエジプトでは、モーゼがイスラエルの人民を率いてエジプトを脱出するや、王はこれを追撃して人民を引き戻そうとした。
これが、常識なのよ。
そうしたなか、百済から秦氏が120県の人民を連れ出すのを、百済の王がただ見ていたということにはならない。
しかし、書紀では百済王はただ見ていたということになる書き方をしているね。
それは、そういう脚色だからなのよ。
現実無視も甚だしい。
そこで、ではなぜ、書紀はそんなことを書いたのかと考えなければならない。
秦氏が大勢の人民を囲い込むことになったのを正当化するために、元々から120県の民を率いて渡来してきたのだと理由付けたわけよ。
その脚色のために、新羅が百済の調をかすめ取ったという出来事をモデルにして、新羅が秦氏の人民の渡来を邪魔したと書いたということ。
その民を救出に行った葛城襲津彦とその軍勢が3年もの間、何の成果もなく音信不通になったなどということは、信じがたいこと。
秦氏が率いた120県の人民の渡来というのは、そういう書紀編纂室による脚色だと思うよ。 >>794
秦氏は、今でいえば、大財閥の当主なのよ。
書紀に多数の豪族の先祖の物語が書き込まれているのと同じように、最大の渡来系豪族だった秦氏の物語が秦氏の意向に沿った形で挿入されたと考えるのはごく普通に当然のこと。
大財閥の秦氏の影響力を過小評価してはいけないね。 まあ、中国の史書に弓月道という地方名が出てくる。
唐代には全国を十道に分け、のちには十五道としたことからして、弓月道の道はその道のことだと思われる。
そして、この弓月道は西域地方を指すらしいから、日本書紀が記す弓月君とはいわば西域から来た人ということになりそうだ。
どうしても、秦氏の出自は中国西域に関連してくるね。 >>798
この弓月道の言葉が出てくるのは資治通鑑で、その中に「力為弓月道行軍総管(力を弓月道行軍総管と為し)」という文章がある。
西突厥を討伐するために軍を派遣したことを記述しているもの。
総管は、司令官のこと。
弓月城という地名も現在の地図の新彊ウイグル自治区にあるらしいから、弓月道が西域地方を指す言葉だったのはまず間違いないだろうね。 >>800
訂正
資治通鑑の文章は「(梁建方と契苾何力の大将軍を)為弓月道行軍総管」が正しい。 >>798
財閥じゃないな 軍隊つきの豪族だよ 養蚕してたのも漢人系なら不思議ではない 深草の秦大津父は、馬の隊商を組んで伊勢(四日市あたりか)へ商いに行っている。
豪商でもあるし。 >>802
蚕(カイコ)は、中国語では蚕(ザン)。
熟語としては、養蚕(ヨウザン)がある。
一方、日本語の蚕(カイコ)は「飼う+コ(蚕)」の構成であるので、このコ(蚕)は中国語の蚕(ザン)とは関係ないことが理解できる。
では、この日本語のコ(蚕)は、どこから来たか。
蚕はモンゴル語ではtorgo khorkhoi(トルゴ=シルク・コルコイ=昆虫)、キルギス語ではjibek kurtu(ジベク=シルク・クルトゥ=虫)、カザフ語ではjibek qurti(ジベク=シルク・クルティ=虫)であり、虫を表すモンゴル語やトルコ語系のkhor(コル)やkurutu(クルトゥ)と日本語のコ(蚕)と発音、語義が重なる。
これを見ると、日本語の蚕(カイコ)のコ(蚕)は中国由来ではなく、むしろ西域由来であることが想定できる。
なので、蚕(カイコ)を日本にもたらしたのは西域出身の秦氏だ、と断定してもいいくらいだね。 ハタ(秦)氏は、西域のホータン出身だね。
ホータンのホタが訛ってハタ(秦)になった。
これで、決まりだよ。 はいはい
それでは秦氏とユダヤ人は関係ないということでよろしいな
トルコ語も関係ないと 養蚕はホータンごときは全く関係ない
大陸系の土木技術で塹壕集落作ってた連中も養蚕をやってたからな
そもそも東アジアの漢字文化圏じゃ当たり前だ絹織物 秦氏もその一員にすぎない 養蚕はホータンは中国文明圏から恵んでもらった盗んだだけや、、秦氏がホータンから来た証拠のように使うなど論外 >>803
日本じゃ身分低くて朝廷の重臣になれないからな 食べていくために商売やってないが不思議なんだ 養蚕は秦氏が渡来する何百年も前から国内でやってる
つまり蚕カイコの発音と秦氏は関係ないんだよ
いい加減に秦氏の渡来と日本語の発音を結びつけるのはやめたまえ 関係ないんだよ だいたいホータンはじんしゅてきにもトルコ系じゃないだろ 混同が だいたいホータンは人種的民族的ににもトルコ系じゃないだろ 使ってた言語も異なるということだ
混同が過ぎる 妄想だよ >
トンデモ論者は、7世紀頃の中央アジアに「弓月国」というのがあったという史実に基づかない説を勝手に立てる。弓月国の人々は万里の長城建設の苦役に耐えかねて朝鮮半島に逃亡し、そこから日本に来たのだと。
弓月国なんて国は、中国の史書には登場せん。
「日ユ同祖論」「秦氏=イスラエルの失われた十支族の末裔説」というトンデモ説の信奉者が、でっちあげた架空の国名。 弓月など漢人にとっては単に三日月という意味でしかない そんな地名は中国国内で探せば複数あったであろう
>
「弓月国」なる国が中央アジアのどこかに存在したなど、中国の史書にはいっさい書かれていない。日本の史書にも、「弓月君は弓月国から来たとされる」なんて記述は登場しない。 >
「資治通鑑」には、唐と西突厥との戦争の記述で「弓月城」というのが二箇所登場するだけで、それが国だったとはどこにも書かれていない。
それ以外の中国の歴史書に「弓月国」なる国の存在は一切書かれていない。 >
「弓月国」というのは、日ユ同祖論者の妄想の中にのみ存在する、いっさい史料的裏付けのない空想の国家。真に受けないように。 妄想を撒き散らすなとばかりにヤフー知恵袋で怒られてますな >>807
いやいや、その塹壕人民が作っていた絹は、山マユ糸だよ。
人工育成された蚕とは遺伝子がちゃいまんねん。 >>806
ワイの考えでは、秦氏(弓月君)はいわゆるイスラエル民ではない。
ギリシャ系改宗ユダヤ教徒が弓月君。
失われた十部族系ではないと思うわ。 ホータンマンは多分老人だから何言っても理解しないで自説を垂れ流し続けるだろうよ >>808
天皇も泣いて喜んだという秦氏の絹。
ちゅうことは、それまで日本にはなかった絹だということ。
どこからその絹糸を出す蚕と織物職人を持って来たというのよ。
ホータンから呼んだのに決まっとる。 >>820
ちゃうちやう。
おめーらが知識不足で論破できんだけ。 >>814
資治通鑑には「弓月道」と書いてあるな。
弓月国とは書いてない。
ちゃんと目ん玉開いて見てる? 論破されまくってるけど効いてないの間違いだろ
あんたはオカルト次元にいるから効いてない
良いじゃん オカ板行けよ >>812
ホータンでは、5世紀から突然ペルシャ語系のコータン語に入れ替わる。
ペルシャ系の部族によって、人民掃討が行われたのは明らか。 >>825
ホータンでは、5世紀の前までは、突厥系のチュルク族が支配的だった。
そこへ、ペルシャ系の部族が侵入を始めたので、弓月君らは4世紀末頃にホータンを脱出したのさ。 >>821
>福岡県の有田遺跡(紀元前200年頃)からは平絹が出土しているが、当時の中国の絹織物とは織り方が異なることから日本列島特有の絹織物が既にあったと考えられている[3]。記紀には仲哀天皇の4年に養蚕の記録がある[3]。
つまり畿内が養蚕の技術を手に入れたのは九州を制圧した後のことなのかな 日本ていきなり技術革新が進む断続なブレイクスルーがいくつもあるよな
西洋などで厳しい状況から明日を夢見てコツコツ積み上がった科学技術が時折友好的かつ直接的にぶつかって来て衝撃を受ける→浸透するの繰り返し
日本て科学技術に関しては世界的に見ても稀でメチャクチャ恵まれた好条件な文化的・文明的進化してる
八百万の神々っていうけどまさにあらゆる恩恵がこれでもかという程もたらされて来る
グローバル経済が当たり前になってからはシェアを握る事が多くなったけど、新基準を作る革新・独創性に関してはいつも後発
最先端というには受け身な国民性もこの当たりの慣習が響いてたりするんだろうか ローマやアメリカは技術の応用・実用化が得意で、アメリカは現在でも次々に新しい技術を生み出している。
それと比べると、日本は開発のための資本投下とその技術の応用になんかの欠陥がある。
典型的な例は、二宮忠八が世界に先駆けてプロペラ式の模型飛行機実権に成功したが、日本の社会はその技術を実用化する方向に動かなかったことに見られる。
そのあと、ライト兄弟がプロペラ型飛行機を世界で初めて実用化した。
また、欧米は八木アンテナとレーダーを組み合わせることでレーダーの性能を飛躍的に向上させた。
ドイツは、この組み合わせによるレーダーを双発メッサーシュミットに搭載して、航空機によるレーダー索敵を実際に行っていた。
この日本の社会のなんかの欠陥性は、確かにあるわな。
おそらく、死に物狂いで金儲けに走る目的性の欠如だろうよ。 >>826
残念です それでは秦氏の渡来には間に合いませんなw
出直してこい詐欺師が ザンネン。
応神天皇は4世紀末の人物。
この応神のときに弓月君が渡来してきた。
ちゃんと、時代は合っている。
書紀の記述を信じて、まさかの父ちゃんみたいに、3世紀前半が応神の時代と信じてるのとちゃいまんのか。 話通じなさすぎだろこいつ
博物館でも学芸員相手に延々珍説垂れ流して嫌われてそう ハタから見たら
はた目に見る
の「ハタ」だよ
単に「外から来た人」程度の意味しかない
だから要するに「その他の渡来人」やね
蘇我氏とかの単独で氏を持つ有名渡来人ではない「その他の渡来人」を総称して秦氏といった
八幡も「数多くのハタから来た人」の意味だし
八幡神は「いろんな外国の神」の意味 ハタ(端)は、ハシ(離れたところ)+端(タン)の和漢合成語。
弓月君が渡来した4世紀末頃には、日本ではまだこのような高度な漢字の用い方はなかった。
つまりやな、ハタ(秦)のハタは、端(ハタ)のハタではないちゅうことでんねん。 八幡(ヤハタ)の幡(ハタ)は、旗(ハタ)の意。
このハタ(旗)の発音と語義は、パンジャブ語のjhada(ハダ=旗)に由来する。
八幡(ヤハタ)は、「たくさんの旗」の意だよ。
「たくさんの端(ハタ=周縁部)の者」なんて、頭大丈夫か。 ホータンマン「◯◯(何の根拠も無い与太話)だからな」「(反論後)しかし◻︎◻︎(関係ない話)だからな しかも△△(別の与太話)だし」
基地外荒らし >>837
ソースは?
個人ブログなんか持ってきたら承知しねえぞ つうかこのスレ建てたのホータンマンかよw
通りで何かおかしいと思ったわ
ここは隔離スレってことで おめーら、皆、欠陥知識振り回すの得意やけど、まっとう純正学問知識には全然歯が立たんやんけ。
まあ、どこかの学者の論文チョロ見して、どや顔で相手を攻めるくらいがオチや。
ワイみたいに、学究辛苦飽くことなき向上心の結果した論議ならまだしも、浅瀬の石ころみたいな論は甚だものたりない。
一昨日来たまえ。 >>837
秦氏の氏としての役割と一致してるだろ
蘇我氏など有名氏族以外の渡来人の管理をしてたのが秦氏なんだから
そのまま「ハタ=外国」の氏だろ ヤハタの神=いろんな外国神
いろんな外国神を渡来人の代表者だった秦氏がまとめて祭ったのが八幡神社
外国人の中には遊牧民も多かった
秦氏の源流のひとつである弓月氏が中央アジア系というのもある程度事実だろう
ただ唯一の源流ではないというだけ 秦酒公の大酒神社が大避でダビデにまつわる名前だっていう説があるけど
俺はどちらかといえば海が裂けて道ができるモーセの説話から取ったと思うぞ
一般論として人の名前は伝わりにくいが、物語は伝わりやすいんだよ
アレキサンダー大王もインドではイスカンダルだし
名前は伝播するにつれてちょっとずつ変わっていく そして当然だけど仏教も倭王権に先駆けて秦氏が受容してただろうね
秦氏が持っていたはずの仏像や秦氏の領地にあったはずの古寺はどこに消えたんだろうな こいつは何を言ってるんだ?w
偏差値40ぐらいだろおまえ ホータンマンって呼び方良いな
変な外人の名前っぽいのが皮肉効いてる >>841
こんな所でそんなどうでも良い事語ってもスレ汚しなだけ >>835-837が841のレスだったら建設的なレスは835-837のみ
そしてこれは至極興味深い、というただそれだけの話
お前らの欠陥知識云々とかそういうのどうでも良いんだよ、嫌味ではなくまっとうな純正学問知識を存分に披露して欲しいと願う >>843
弓月氏が中央アジア系というのもある程度事実というのは卓見だ。
しかし、いろんな外国神を渡来人の代表だった秦氏がまとめて祭ったのが八幡神社、というのは浅瀬の石ころ。
深みに欠ける。
なぜわざわざ宇佐八幡に祭ったのか理由が書けてない。 宇佐八幡に祭った理由は「空いてたから」だと思うよ単に
渡来人の神なんだから朝鮮半島~大阪湾の渡来ルートのどこかに祭るところを作りたいわけだ
みんなが立ち寄りやすいところに
その「みんなが立ち寄りやすいところ」の中で空いてたのが宇佐だったってことだろ
というか宇佐以外にもあるじゃん大阪湾にも福岡にも
でも大阪湾や福岡は他にも神社が多くあってそこまで参詣を集めなかった
宇佐は大きな神社がそこしかないから宇佐が渡来人以外からも参詣を集めて大きくなったってことじゃないか 資料に基づいた根拠も示さない妄想はオカルト版でやってくれよ 秦氏がどこから来たかという妄想を語り合うスレだろバカか
古代史に根拠なんか現存してるわけねーだろ >>853
秦氏がごっそり渡来系の人民を囲い込んだのが宇佐地方だった関連から、ついでに「たくさんの外来神」も宇佐に押し込んだのだ、くらいの解説が出て来るかと思ったが、なんだ単に「空いていた」からか。 >>855
実存した氏族について語るのに単なる妄想のやり取りして何の意味があるんだよ 脳内お花畑かお前は
小卒かお前は 最低限でも文献その他の資料に基づく根拠を示せゴミが
それができないなら単なるオカルトだよ 消えろ 根拠資料が現存してたら謎の秦氏とか言われてねーわ
根拠資料がない中で、根拠資料がないなりに少ない事実と解釈を積み上げて説得力のある仮説を立てていくゲームだろ?っての
これは邪馬台国論争も同じ
「根拠がないことを言うな」なんて言ったらこのゲームは成り立たないんだよ
わからないか? 大避がダビデで太秦がローマ、稲荷はINRIでキリスト教だ!って言いたいんだろお前ら
でも頭領の秦河勝が建てたのは仏教寺院なんだよ その秦河勝が建てた仏教寺院の境内の配置が、エルサレムの神殿の配置とまったく同じなんだよな。 大避(ダイヒ)はダビデというのは、現代のこじつけ。
大避(オオサケ)が正しい。
誰かが、紅海の海が裂けたことを表しているのが大避(オオサケ)だと言っていたが、ダビデも紅海亀裂もダメダメ。
大避(オオサケ)は、神がエジプトの子どもを無き者とするとき、イスラエルの民たちは自分たちの子どもへの難を避けるために、門に血を塗って結界にした。
この神の災難を避けた故事を表すのが大避(オオサケ)だ。
ここからイスラエルの民の荒野の苦行がスタートするわけだから、大避(オオサケ)はイスラエルの民の苦難の旅を象徴する言葉なんよ。 そこだけ何でユダヤかホータンの言葉じゃないの 都合よくつまみ食いするよなお前は 笑かしてくれる 漢人がから逃げてきただけだなやっぱり >>862
漢人っていっても新羅人なんだよな
渡来してきた新羅人はなぜか漢人を自称した >>862
神社ができるのは仏教寺院が建てられるようになってから。
まあ、飛鳥時代頃だろうね。
だいたい7世紀。
だから、大避神社は7世紀以降のものになる。
秦氏が渡来した4世紀末頃からは、200年ほども経っている。
さしもの秦氏も、トルコ語よりも日本語生活に馴染んでいたということだろうね。 >>863
エルサレムの神殿 (東西軸線上に並ぶ) 入口→銅の祭壇→聖所入り口両脇に柱→聖所→至聖書
広隆寺 (南北の軸線上に並ぶ) 入口→講堂→上宮王院太子殿入り口の両脇に灯篭→上宮王院太子殿→新旧霊宝殿
双方異なるのは並ぶ軸線方向だけで、エルサレムの神殿は東西軸線上に並び、広隆寺は南北軸線上に並んでいる。
このほかに、神殿域の南にはギホンの泉があり、広隆寺では西側にイサラ井がある。
広隆寺の方位を90度回転させれば、神殿と広隆寺の配置、ギボンの泉とイサラ井はそれぞれぴったり重なる。
このほかにも類似物はあるが省略。
双方の方位の違いは、広隆寺が立地した場所の地形などによるのではないか。 >>867
エルサレムの神殿=ユダヤ教の神を祀る聖所 >>868
いやだから、すべての神殿が同じ作りではないやろ?と >>869
ソロモンの時代の神殿やがな。
イスラエルの民の栄光の時代やぞ。 いやだからそんなことは聞いてない
エルサレムの神殿とはどの神殿かと聞いている
エルサレムに神殿は複数あるだろと 全く似てないし どこが似てるんだよ いい加減にしろ わかるわかる
実は日英同祖論もあるぞ
意味はミーン
道路はロード
名前はねーむ(ローマ字でna me なめ 訛れば ナメェ)
台風はタイフーン(笑) 実は日英は同祖だっていう証拠を詳しく(もちろんネタ)
日本語&英語訳 ←→ 英語
設定 ←→ setting(セッティング)
掬う ←→ scoop(スクープ)
イライラさせる ←→ irritate(イラテイト)
負う ←→ owe(オウ)
簿記 ←→ book keeping(ブックキーピング)
信号 ←→ signal(シグナル)
茶 ←→ tea(ティー)
浮浪者 ←→ hobo(ホーボー)
買 ←→ buy(バイ)
坊や ←→ boy(ボーイ)
籠 ←→ cage(ケージ)
妨害 ←→ jammer(ジャマー)
なし ←→ nothing(ナッシング)
冗談 ←→ joke(ジョーク)
だるい ←→ dull(ダル)
缶 ←→ can(キャン)
吠える ←→ howl(ハウル)
骨 ←→ bone(ボーン)
塔 ←→ tower(タワー)
煤(すす) ←→ soot(スート)
もちろんいくつか借用語もあるぞ!問題無いな!? >>872
顔ひらべったく丸いし、目玉も丸い、額にバンド巻いて髪を上に反り上がらせているのも同じ。
大避神社の面の鼻は、取って付けたようで、天狗を真似したものだろう。
ホータンの面の鼻は、そんなに長くない。
双方は、瓜二つと言っていい。
おぬしは、目が節穴とちゃうか。 >>876
和語はそれでいいが、漢語は関係ないやろ。 >>876
秦氏のトルコ語は、そんなダジャレみたいなものやない。
例えば、日本語で果物などの種は、タネと発音する。
しかし、この種の漢音はシュで、タネとは異なる。
また、この漢語のシュの発音が訛ったのが韓国語の種で、発音はssias(シア)だ。
そして、日本語の語彙と大いに関係するベトナム語では、種はhat(ハ)だ。
このように、日本語の種(タネ)と似たものは、まったくみられない。
そこで、いろいろ探してみると、トルコ語に行き当たるのだ。
驚くなかれ、トルコ語で種は、tane(タネ)なのだ。
このことからすると、日本語のタネ(種)は、トルコ語のtane(タネ=種)が語源の可能性が極めて大きい。
そして、秦氏はトルコ語話者だったというワイの説からすると、タネ(種)の言葉は秦氏のトルコ語がもたらしたものだとほぼ断定できるだよ。
ダジャレでは、こうはいかんやろ。 こいつは何を力説してんの?
秦氏がトルコ語話してたなんtね証拠が一切ない上に
ホータン人がトルコ語話してたわけでもない
お面が似てたとしてもだから何なんだと言う話
同じ系統のお面には全く見えないので目が丸いとか言われたところで、当たり前過ぎて意味はない >>877
論理の飛躍が酷い
B(古)とC(新)が似てるとして CがBから来たとは限らない
BがAからコピーしただけかもしれないからだ
言ってることが小学生とレベルが変わらんと自覚してくれ >>878,879
875,876書いた者だがそれに関しては何の反論も無いよ、その通りだと思う
俺のはこのスレの日ユ同祖論などへの当て付けレベルではあったな、すまん
一見誰もが本気にしない共通祖先の感じられない言語でも対応している言葉は割と多いので、
これは音対応的な心理学も絡む別な研究課題提起にはならないだろうか(というか既に有る筈)と感じた次第
まぁ、日本人が横文字をサラッと混ぜるのもこうした親近感と使い勝手の良さが理由の1つかも知れないね >>882
そこらのアホどもと違って、率直なところが頭の良さを感じさせる。
だが、心理学へ持って行く論理転換は、コロ付きゴールポストの移動と同じ。
つまり、ワイ説を心理学的ダマシ現象に同定して、実際の語彙移動はないとする否定論。
言語を異にする異民族が身近にいないという日本の特殊環境から生まれたトルコ語話者の日本移住を信じないガラパゴス脳は、やはり時代遅れ。
異民族と歴史的に闘争を繰り返してきている漢族国家やその他の大陸国家では、さすがにそのようなガラパゴス脳の論者はいないだろう。
トルコ語を話すユダヤ教徒なんてざらにいすぎて、むしろ特殊性はゼロの存在だ。
反省したまえ。 >>880
お面が似ていて、その一方の面は秦河勝が作ったとする伝承があるとなれば、その秦氏は西域ホータンとなんらかの関連があることが推測されるよね。
そして、この面を所蔵している神社は大避神社の社名を持つのだから、秦氏は西域ホータンから来たユダヤ教徒だったとする推測が生まれてもなんの不思議もなく、むしろ当然のこと。
第一、この大避神社の神主は、ウイグル人系の顔してるしな。 秦河勝って名前にも一応、トルコ語で紐解ける意味があったりするんだろうか
あと縄文人あたりになんかハザールとの繋がりを感じているブロガー考察組とかも居るよね >>883
俺は比較言語学的な専門知識が皆無だから、そこまで突っ込んで考察が出来ない
俺のスタンスとしては帰属意識が日本人だからか海外の唱える日ユ同祖論は不信に感じるけど、
同族であるはずの日本人が唱える各種同祖論には興味があるんだよね
ただそれだけであって、結局ダブスタな見解になってしまい申し訳無い
まぁ否定的な表現になるから最後に持ってきて濁す感じにしたいが、どれもまだ半信半疑なんだよね 半島にユダヤ系、ホータン人の集団がいた記録はないし痕跡もないと来たらもう
中国ですらユダヤ人が万里の長城を越えて入ってきたのが確認されたのはずっと後
まあ秦氏の墓場にユダヤ系なら絶対にあるはずの特徴がないなら諦めたまえ 正直、日ユ同祖論は目的と手段が乖離した陰謀論的なものを感じる
海外との親和性を語る内容は明治政府が樹立される以前から既に普遍的に存在はしていたけど、
俺は単純にそこに論理的正統性を探る足掛かりとして戦国時代から宗教的な植民地化を模索する勢力の何かがあったからだと勘繰ってしまう
時の将軍のほぼ全てが仏教・キリスト教に寛容でありながら、常に政権を反故にする能力を見せ付けると徹底的に弾圧していたのは
政変の憂いというよりも海外のように国内の倫理的基準を掌握される事での不幸の増加を未然に防ぎたかった狙いがあったからじゃないかと思う
例えば仏教やキリスト教の教え以上に都合良く解釈を歪める事でのこれらの変質は未然に防がれていた筈だ
これらの大前提として殺害を是とはしていない
これらは僧兵や教化による民族浄化の動向を数百年潰しまくった事でこれらに纏わるカルト化の怪異は江戸まで起こっていない事から判る >>885
河勝の名は、三輪山の神の子とする縁起に由来するようだ。
泊瀬川の氾濫で大神神社の前まで流されて来た子を見た欽明天皇が、以前見た夢のことを思い出して、奇瑞としてその子を殿上に召した。
この子が秦河勝で、洪水に勝ったという意味で河勝(河に勝つ)と自称したというもの。
パターンとしては、川を流れてくる丹塗り矢伝承と同じ。
神の子を表している。
欽明天皇の愛顧と三輪山の神の子に縁起づけていて、大族秦氏に大きな箔付けをしているものだ。
今のところ、トルコ語との関連は調査中。 >>885
秦河勝をかなり無理してトルコ語で解釈してみると、次のようになる。
トルコ語 kahkaha(カフカハ)=笑い声、笑い
これを短縮して、kahka(カフカ、カハカ)でも同じ。
意味は、笑い声、笑い。
このkahka(カフカ、カハカ=笑い声、笑い→楽しい)をカハカッに手直しして、泊瀬川の洪水に勝った子の奇瑞伝承化すれば、カハカッ→河勝は可能だ。
まあ、元々はトルコ語のkahka(カハカ=笑い声→楽しい)だろうな。 >>890
トルコ語のkahka(カハカ=笑い声、笑い→楽しい)、これが秦河勝の俗名だろうな。
にわかには信じがたいが、可能性はある。
ハタ・カハカ。 お前の妄想力にはいつも感心するよ
ぜひ文学方面で頑張ってくれ給え 謎の氏族だから好き勝手に妄想するしかないんだってさ
言うほど謎でもないんだけどな… やっぱり、無理すると調子が狂う。
秦氏のトルコ語がもたらした言葉が、tane(タネ=種)。
日本語の種(タネ)は、この秦氏のトルコ語のtane(タネ=種)が語源。
秦氏がトルコ語話者だったのは、これをみても明らか。 トルコ語を話すユダヤ教徒は、大陸においては別段特別な存在ではない。
黒海沿岸に住むクリムチャク人はユダヤ教徒で、「鬢のあるユダヤ人」と呼ばれ、「鬢のないユダヤ人」とは区別されている。
そして、このクリムチャク人が話す言語クリムチャク語はチュルク語系なのだ。
つまり、トルコ語を話し、鬢を長く伸ばすユダヤ教徒は、大陸ではとくに珍しいと言うわけではないのが分かる。
つまり、トルコ語を話すユダヤ教徒なんて、なにそれ、信じられないと叫ぶのは、言語的に隔離された環境にいるガラパゴス日本人だけなんよ。 ユダヤ人=ヘブライ語というステレオタイプの先入観は捨てるべき。
話語としてのヘブライ語は2世紀頃には完全に廃れていた。
ユダヤ教徒は、2世紀以降にはヘブライ語では話していなかったというのが歴史事実。
では何語を話していたのかというと、移住した先の言語をそれぞれ話していたということ。
ホータンに住んでいたユダヤ教徒弓月君は、ごく当たり前に現地のトルコ語を話していた。
で、日本に移住してきた弓月君がトルコ語話者だったのは、当たり前中の当たり前なのだね。 証拠がないんだからオカルトだね
秦氏がユダヤでもホータンでもいいが、商売人なら持ち込んだはずの当時中央アジアで流通してた通貨や金貨が一つでも国内で見つかってるなら出してみな
半両銭は国内の複数の場所で見つかってるよ >>897
いや、当時、日本では金貨という概念はなかった。
持って来た金貨があったとしても、日本ではそれらは金貨という価値物ではないわけだから、金貨は鋳つぶして金として用いたはず。
だから、考古でも出土しないのよ。
このあたりの実態について、>>897はまったく見当はずれとしかいいようがないので、シモ。 >>897
半両銭は、銅貨。
しかし、弓月君がどっさり半両銭を持ち込んでいたとしても、この時期、日本では銭貨はまだ制度化されていなかったことから、珍物として少し手元に置き、その他は鋳つぶして青銅器の材料にされただろう。 どうでもい仮面を証拠にしてるような奴はこの程度です
ユダヤ人の財産といえば絶体的にゴールド、金だが秦氏にそんな伝説はないもんな。秦氏の金貨が見つからないのもユダヤ人じゃないからだわ。 >日本ではそれらは金貨という価値物ではないわけだから、金貨は鋳つぶして金として用いたはず。
だから、考古でも出土しないのよ。
銅でも建築の飾りその他に使うから一緒なんだよボケ
秦氏は全くユダヤ人らしくないな こいつの勝手なオナニー自説に都合のいい解釈には呆れるわ >金貨は鋳つぶして金として用いたはず。
例えば? ユダヤ人の金細工みたいなのは国内産で見つかってないでちゅよ ホータンマンはユダヤのこともテュルクのことも碌に知らないから仕方ないよ >>902
金細工そのものが、その時期の日本で需要がなかった。
需要がなく、価値がないものをわざわざ造らないよね。
ユダヤ人が価値ある物とみなした物品は、この時期の日本では価値がなかった。
だから、考古発掘では出土しない。
ちゃんと、時代背景を考えようね。 >>903
ガラパゴス男が胸張ってるのが、可笑しい。 >>902
金細工物は半島や中華で造られたものはブランドとして価値があったが、ユダヤ人が作る金細工物は4世紀や5世紀の日本で価値があったかどうか。
価値を持たない物をつくるより刀の象嵌に用いるほうが、まだ価値があったろうから、そっちの方で用いたのとちゃうか。 済州島(耽羅国)の赤く塗られた門は稲荷系の鳥居そっくり
秦氏の交易範囲だと思われる 中国では古来、門柱や扉に朱を塗るのが伝統だからな。
耽羅の門に朱を塗ってあるのは、中国の影響だろう。
日本の鳥居の朱塗りも中国の影響か。
しかし、日本では縄文時代から朱が墓に用いられているから、鳥居の朱塗りもいろいろありそうだよ。 秦氏は太秦から埼玉の行田まで交易路を構築していたようだ。
その交易路は、太秦→四日市→尾張→諏訪→行田のルートと見られる。
この中で、語義がよく分からないのが諏訪(スワ)だが、これを秦氏のトルコ語で見ると次のようになる。
スワ(諏訪)
トルコ語 su var(スバ)=水がある
水があるとは、どういうことか。
諏訪で有名なのは諏訪湖なので、これが「水がある」という言葉が指し示しているものであるのは明らか。
そして、su var(スバ=水がある)の発音と諏訪(スワ)の発音がほぼ同じあることからすると、諏訪(スワ)はトルコ語のsu var(スバ=水がある)が語源の言葉であるとすることができるのだ。
このように、秦氏のトルコ語の存在は、交易路の関連からあちこちで確認できるのだね。
これは、日本語のタネ(種)がトルコ語のtane(タネ=種)とまったく同じであることと軌を一にすることなのだ。
もはや、秦氏がトルコ語話者だったことは、疑えない事実なのだよ。 半島にあった秦韓は秦帝国の中国系移民から成った国でした
『後漢書」、「三国志(魏書)」「晋書」の辰韓伝では
・労役や厳罰など秦の圧政から逃亡してきた秦人が半島に来た事。
・三韓の内の「馬韓」が東の地に彼らを住まわせ「辰韓人」と呼んだ事
・王族は馬韓の人が務めた事
・秦の言葉が混じった言語を使っていた事
などが書かれています。
時代が下った「北史」の新羅伝でも新羅の前身が辰韓・秦韓であった事と併記してほぼ同じ記述があります。
最初の記述を後続の史書が踏襲した可能性も大きいのですが、現時点では中国史書にしか記述が無いのですから信じざるを得ないという事かと思います。 秦韓の秦(シン)の字は、辰韓の辰(シン)に置き換えたものだと思う。
秦の長城労役から逃亡してやってきたという伝承があって、その秦(シン)の字を同音の辰(シン)の字に当てたということ。
辰韓の辰(シン)は十二支の5番目だが、これを方角に当てるときは東南東の方位を指し、馬韓から見て辰韓は東南東の方角に当たることから、この地を辰韓(馬韓の東南東にある地方)と呼んだものだと思う。
なので、辰韓が正式な呼び名であって、秦韓は正式名呼び名ではなかったと思うね。 秦韓も正式名称
倭王が大陸政府にもらった称号に入ってる国名だからな >>914
理解の程度が低すぎ。
秦韓は、中国王朝の認識や。
半島における認識とは別。
魏志韓伝では辰韓としており、秦韓なんてどこにもない。
半島での正式名称が辰韓だったことは、明らか。
魏志韓伝の辰韓の150年ほども後になって、宋書に秦韓が登場する。
しかも、宋王朝による認定であって、半島での正式名でなかった。
よくよく考えてみたまえ。 >>916
訂正
魏志辰韓伝に秦韓はないとしたが、秦韓の呼称はある。
ただし、秦韓と呼ぶ者もいるとしているのであり、正式名称は辰韓だよ。
この辰韓(シンカン)の辰(シン)と発音が同じなので、秦韓(シンカン)と呼ぶ者もあったということ。 どれだけ反証されても秦氏はユダヤでテュルクでホータンなんだという奇説を頑なに唱え続けるのって普通に何かしらの病気だと思うよ
専門板にはよくいるタイプだが >>918
正式な名呼び名は、辰韓。
その辰韓をもじって、秦韓と呼ぶ呼び方もあった。
秦の苦役から逃亡した者が居付いたところなので、秦韓と呼ぶ呼び方もあったということ。
なので、この時期には、辰韓が正しい呼び方だった。
そして、その辰韓の名の由来は、馬韓から見て辰(東南東)の方角にその土地があったことによる。
第一、魏志韓伝自体が、辰韓の呼び名を用いている。 >>919
それらしい反論は、なかったけどな。
あったのは、根拠を伴わない単なる主張だけ。 秦氏系図では、弓月君の子は4人いて、真徳、雲師、武良、裏東の4君。
このうち浦東(ホトゥ)がホータンの略だとすれば、他の3人もタリム盆地あたりのオアシス都市の名に違いないと目星を付けて、地図上を探してみると、まぎれもなくこの3君と同じ発音の都市が見られるのよ。
ということは、タリム盆地のオアシス都市のこの者たちが一団になってタリム盆地を脱出して、日本にやってきたということになるわけだ。
そして、そのうちの浦東君(ホータン脱出者)が、秦氏の祖ということになっているのよ。
こうしたデータに根拠ある反論もせずに、ただただ、ソレハネーヨの一言だけだからなあ、おぬしらは。 倭王武が宋朝から正式文書で与えられた称号とは・・・
478年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に任じられる。
哀れなりホータン爺 ホータンから来た連中が何の関連もないのに勝手に秦氏を名乗れるとでも思ってんのかねこいつは
秦姓を名乗る氏族が大陸にいるということが分かっていないし、比較検討すらしていないわな
ただただホータンから来たの一点張り 証拠は一切示さないので論外 >>922 そういうのはこじつけであって証拠にはならない
だったら証明してみろと言われても何もできないのがお前 >>923
ちゃんと考える脳味噌持ってるなら、この南朝宋の文書がおかしいのは、すぐ分かること。
新羅=秦韓とすれば、新羅と秦韓が別々の国だと書かれているいる。
また、慕韓は馬韓であり、馬韓は百済のことなので、百済が書かれていずに慕韓となっていることもおかしい。
宋は百済を倭国王の軍事領域に入れていないので百済は書かれていないが、百済と同じである慕韓はちゃっかり書き入れている。
こんな文章が正式な認定証であるわけがない。
なので、秦韓が正式な呼び名であったとは、到底考えられない。
辰韓が正式なんだよ。 辰韓、馬韓と書かずに秦韓、慕韓とずらした書き方をしているところがミソだ。
辰韓、馬韓じゃありませんよ、別の秦韓、慕韓ですよ、とだましの書き方をしているわけだ。 >>920
そりゃ漢の楽浪郡があるのに、秦韓なんて名前を残してたら、秦復興を目指していると疑われて滅ぼされるだろ。
身を護るために辰韓に変えたのだろう。 >>920
そりゃ漢の楽浪郡があるのに、秦韓なんて名前を残してたら、秦復興を目指していると疑われて滅ぼされるだろ。
身を護るために辰韓に変えたのだろう。 >>924
弓月君が渡来した4世紀末頃は、日本ではまだ漢字がうまく使いこなせてない。
そんな状態で、ハタに秦の字を被せることができたわけがない。
秦の字は、ウズマサに太秦の字を被せた頃にその太秦の秦を取ってハタに被せたものだ。
ずっと後のことなんよ。
ほんじゃ、ハタは、いつからこの一族の族名になっていたのかというと、出身地のホータンを短縮したホタが訛ってハタとなったと考えれば、弓月君の渡来後すぐにハタの名は成立していたとするのがよいということになる。
論が一貫しとるだろが。
おめーらみたいに、具体的例証なしのシンジラレン一点張りとはわけが違うよ。 >>928
そもそもが、馬韓から見て辰(東南東)の方角にある地方だから辰韓と呼ばれたのよ。
その辰韓の辰(シン)に、秦からの逃亡者が居ついたところという意味で秦(シン)の字を被せたのが、秦韓。
辰韓がドンと押す太鼓判、秦韓は軽く押す認め印みたいなもの。
その違いは大きいのだなあ。 >>923
讃が朝貢して大将軍の肩書を求めたのは、宋太祖の元嘉年(425年)。
この時の奏上文に新羅と秦韓がみえる。
新羅と秦韓が別の国のように記してあるのが分かる。
これは、どういうことかと考えれば、次のように解釈できる。
元々、辰韓と呼ばれた部族連合体の中で、斯盧国が力をつけて新羅と名乗るようになる。
この時点では、新羅は他の部族をまだ吸収併合できていず、それらの部族連合は辰韓諸国ではなく便宜的に秦韓諸国とよばれるようなずらした書き方となったと思われる。
これは百済も同じで、百済は大きくなったものの、馬韓諸国をまだ吸収併合できていない状況だったため、それらの部族連合は馬韓諸国ではなく慕韓諸国とずらした書き方がなされたと思われる。
このように見ることが可能であれば、秦韓は便宜的な呼称だったということになる。
たぶん、これが宋書倭国伝の讃の奏上文の実態だろう。
つまり、この時点では、辰韓はすでになくなっていて、新羅と秦韓諸国に分れていたということが言えるだろう。
ということは、辰韓と秦韓は同じではなかったということだな。 >>932
この考え方が正しければ、弓月君が渡来した4世紀末頃には、半島には辰韓の呼称はあったが、秦韓の呼び名はまだなかったということになる。
その後、半島では斯盧国が力をつけて大きくなり新羅と称するようになった結果、辰韓諸国はまとまりをなくして、新羅以外のこれらの旧辰韓諸国は秦韓と便宜的に呼ばれる部族連合になっていたということだ。
そして、倭王の讃が宋王朝に朝貢した425年頃には、かつての辰韓は大きくなった新羅と残余の秦韓諸国に分裂していたと理解すれば、讃の奏上文をそのままに受け入れることができることになる。
なので、秦氏が秦韓の秦の字をハタの名に被せたのだとすれば、それは弓月君が渡来した4世紀末頃のことではなく、それから30数年くらいも後になってからのことになるわけだ。
しかし、その仁徳のころに、氏族の名に漢字を被せることが慣習的に行われていたかどうか、その検証が必要だろうな。 「秦」の漢字が重い・・・
ホータンから来た中央アジア顔の氏族が存在しヤマトに渡来してきたとしても、軽々しく「秦」姓を勝手に盗用し名乗るなどできるものではないことは分かる
ホータン爺はしばらく閉門し外出せず反省した方がいい ホータン爺はこういう無知なやつなので、一切信用がない
>>912
> なので、辰韓が正式な呼び名であって、秦韓は正式名呼び名ではなかったと思うね。 >>933
5世紀後半とされる埼玉行田の稲荷山古墳出土鉄剣の銘では、人名が多数刻まれているが、すべて万葉仮名風の漢字音でその名が表されている。
そして、この鉄剣銘には、一族の苗字に当たる表記はみられない。
このことからして、5世紀後半においても、倭人は苗字のようなものを持っていなかったことが推測される。
つまり、弓月君の子孫たちも、5世紀後半には氏族を表す苗字のような名は持っていなかったと考えることが可能だ。
つまり、弓月君の子孫たちも、この時期にはまだ漢字による秦(ハタ)の氏族名を持っていなかったとするのがよいことになる。
秦氏がウズマサ(太秦)に拠点を築くのは5世紀後半とされるが、このウズマサに太秦の漢字が当てられるのはまだ後のこととするのがよいだろう。
つまり、この時期には、弓月君の子孫たちは、まだハタ氏であって、秦氏ではなかったということになるよ。 >>934
>>936でそのことを言っているのよ。
5世紀後半ですら、まだ氏族名に漢字を当てる習俗が成立していない。
ハタ氏はハタ氏であって、秦の漢字を被せるのはまだずっと後のことなんだよ。 迫害から逃れ、生き延びたシュメール系ユダヤ人は、日本にたどり着いた。 シュメールと関連するのは、の雲の八岐大蛇(やまたのおろち)だけ。
シュメール神話では、嵐の神が持つ武器がムシュマッへで、このムシュマッへは七頭の蛇の意味。
出雲神話では、嵐の神であるスサノオによって、八頭の蛇が退治されている。
シュメールの七頭蛇が、出雲神話では八頭蛇に変わっているのは、日本では吉数が偶数だったからだろう。
このシュメールの神話はペルシャ商品の交易に付随して日本にもたらされたか、中国を経由して日本に伝播したか、いずれかだろう。
ユダヤがこの神話に紛れ込むのは、まあ、不可能とちゃう。 太陽は神の目から生まれたとするエジプト神話がインドに伝わって、これが神が目を洗ったときに太陽が生まれたとする神話に変容し、このインド神話が中国に伝わったあと日本にも伝わったとされるのが、イザナギが禊をして顔を洗ったときに左目から生まれたのが日の神だとする神話だ。
このことからすると、シュメールの嵐の神の武器である七頭蛇の神話は、中国を経て伝わった可能性が高い。
ユダヤがこの嵐の神と七頭蛇の神話の日本への伝播に関与したとは、考えにくい。 嵐の神の武器である七頭蛇はニヌルタというシュメールの農耕神に殺されたとする神話もあるそうだ。
素戔嗚の八岐大蛇退治の神話は、嵐の神とニヌルタがごっちゃになっている可能性がある。
素戔嗚の八岐大蛇退治の神話は、シュメールの神話がルーツである可能性が極めて高い。
そして、このニヌルタ神は、ユダヤ教の旧約聖書の列王記に出て来る二クロスと同一かも知れないとする主張がみられる。
素戔嗚の八岐大蛇退治は、ユダヤ教との関連の線もあるのかも知れない。 このシュメールの神話が日本書紀の八岐大蛇神話に取り入れられていて、それがユダヤ教との関連も取り沙汰されることからしても、まあ、どちらにしろ、秦氏の先祖の弓月君が中央アジアからやって来た可能性の高いことは、もう動かないよ。 秦氏のハタはタリム盆地のオアシス都市ホータンのホタが訛ってハタになったものだし、そのハタ氏はどうやらユダヤ教徒だったらしいことを合わせると、ハタ氏はホータン出身のユダヤ教徒で、ホータンがイラン系部族に襲撃されたときにからくも脱出して、他のオアシス都市の者たちと一団になって日本にやって来たということになるよ。
新羅から来たなんて、無理。
また、百済から来たというのも、百済のほうから来ましたという意味にすぎんから、ハタ氏が半島出身者であることを示すものはどこにもないのよ。
ハタ氏ホータン出身説は、歴史の真実だからね。 ホータンにユダヤ人がいたってどこの記録なんや 教えて ホータン翁 秦氏がトルコ語話者だったことは、明白なこと。
その当時、トルコ語が日常話語だったエリアのうち、日本に最も近いのがタリム盆地あたり。
なので、トルコ語を話す秦氏の出身地がタリム盆地だったとしても、なんの不思議もない。
おめーらに、この道理がわかるかなあー。
脳味噌に難のあるおめーらには、わかんねーだろうなあ。 根拠となる記録もないようではお話になりません 喚き散らせば歴史の事実になる訳じゃない そんなの捏造だよ 根拠になる記録は、なんども言ってるように、家系図に記載の弓月君の子の浦東、武良、雲師、真徳の名とタリム盆地のオアシス都市の名がぴったり重なる事実。
そうなると、浦東(ホトゥ)はホータンの短縮形であることがおのずと分かる。
おめーらは、中国の地図開いてタリム盆地のオアシス都市を見てみる努力くらいせえよ。
そしたら、納得、納豆、甘柿の汁だ。
ひと目氷解、秦氏はホータンだから。
他人の努力に乗っかるだけなら成長しないからな。 前にも言ったように、日本語のタネ(種)はトルコ語のtane(タネ=種)由来の言葉だからね。
このトルコ語のtane(タネ=種)を日本に持って来たのは、トルコ語話者の秦氏なんよ。
わっかるかなあ〜。 ではgoogle翻訳レベルではトルコ語の種を意味するtohumは現代語でしか無いという事なのだろうか? 残念です 古代の発音はウテ
だから音写で于闐の漢字表記となっております 失礼
漢字名の于闐はウテンが当時のホータンの発音だったから 残念でした >>949
妄想にすぎない
だったらまずは土地の呼称を人の名前にする慣習があったと証明しないとな グーグル翻訳は便利だが、1語しか翻されないのが難点。
その点、GLOSBEは数語が例示される。
このGLOSBEでは、種はトルコ語でtohumのほかにtaneも示されている。
日本にもたらされたのは、このtaneのほうなんよ。 >>955
古来、日本では住んでいる土地の名を部族名とし、氏族が誕生するとその居住地の土地名を氏族の苗字とする慣習があった。
その慣習によって、太秦と名付けた土地名の秦の字を取って、氏族名のハタの音に被せたのが秦氏の名。
もちろん、その基になったハタの呼称も、出身地の土地名であるホータンから取ったもの。
これらは日本の習俗によるものであり、ハタの名は弓月君自身ではなく、その子の浦東君あたりから用いたものだろう。
弓月君自身は、ユダヤ教徒としての元々の氏族名を用いていたのではないか。 >>954
于闐(ウテン)の于の音は、中古音ではfiuoなので、ホ音に近い。
中世音ではfiuとなり、ウ音に近くなる。
というわけだから、中国語においてもホータンの音が忠実に再現されていたとするのがよい。
ざんねーん!!!!! 百済に住んでたからクンダル名乗ってたのかな
ちなみにペクチェは秦語(上古音)の発音だよな >>958 言い訳は聞き飽きました そもそも方言だらけの中国で古代の音など正確に分かるわけがない
それより子供の名前を地名にちなんでつける慣習など一体どこにあったのか?w
さあ実際の例ぐらい挙げてみろよ
ユダヤ系ではありえないんだがまだユダヤ系とおっしゃるのかなこのバカはw ユダヤ人がそんな意味のない名前の付け方する訳が無いだろが
それぐらいお前みたいな脳なしでも分かるよな
しょせんこいつはこの程度 >于闐(ウテン)の于の音は、中古音ではfiuoなので、ホ音に近い。
中世音ではfiuとなり、ウ音に近くなる。
これも全く的外れ
上古音だろうが中古音だろうが、時代により発音は変わっていた。
ホータンは当時は「ウテン」とチベット語で呼ばれていたのを中国人が漢字で表したから于闐だったのだ >>959
クンダル?
クダラは、三羅の一つ。
三羅は、クダ羅(クダラ)、加羅(カラ)、新羅(シンラ)。
つまり、百済の自称名が、巨太羅(コテラ=大国)だったのだ。
この巨太羅(コテラ)を、日本が万葉仮名読みでコダラと発音し、これが訛ってクダラ(百済)となったのだ。
なので、クダラ(巨太羅)は、元々は百済の自称の巨太羅(コテラ)で、それが日本読みでクダラ(巨太羅=百済)となったもの。 >>958
中国の地方語の発音は、その地方でしか残らない。
しかし、中央で認知された言葉は、その中央発音で残る。
于闐は中央で認知されたから、fiuo tianの発音が残った。
fiuo tianは、フィォ・ティァンだから、ホータンそのもの。 もともと土地の名前はペクチェなんだよな
だから中国語の上古音でペクチェ(百済)ってちゃんと表記されてる
その百済(ペクチェ)の住民だった一族がクンダル名乗ったから倭人がそいつらの住んでた土地を同じように呼んだわけで これから先、誰に何を言われようともホータン爺はホータン爺のままなのだろうね。
悲しいね。 >>967
百済(baegjie=ペチェ)の前身は伯済(baegjie=ペチェ)だったことが分かっている。
伯を百に置き替えただけ。
その百済の中に住んでいたクンダル氏族から取ったクダラの名を日本が百済の読みとした、など聞いたことがない。
デタラメだろう。
クダラは百済の自称である巨太羅(コテラ)の日本読みで、加羅、新羅とともに三羅の一つだった。 >>968
誰が何と言おうと、ちゃんとした反証がない限り、ハタ(秦)氏のハタはホータンのホタの訛ったものとするのがOK。
おめーらは、ハタの発音の由来が全然説明できてない。
イェフダ(ユダヤ人)のフダ、ハダがハタの語源だとする日ユ同祖論や大氏族の波多氏のハタに背乗りした説のほうがまだましと言える。
はやく、ちゃんとした反証を示したまえ。 >>970
4世紀前半頃に日本人が漢字を普通に読めたとは思えん。
朝鮮語読みの巨太羅(コテラ)の発音を聞いた日本人が、これをクダラと訛っただけ。
だから、クダラの読みが日本にしかないのよ。
巨太羅(コテラ)は百済の単なる自称だから、文章には残らなかった。 ハタは、ホータンのホタが訛ったもの。
ハタ氏の秦は、太秦(ウズマサ)の秦を取ったもの。
ハタ氏に秦の字を被せたのは、かなりあとになってから。
秦氏の苗字が成立したのは、欽明天皇のあたりではないか。 隋書に記録された秦王国が先なのでそれはない
「住民は華夏に同じ(中国人に似ている、同様)でここが夷洲(中国から見て東の野蛮人の住む土地とは思えない」と記録されていますw
ホータン野郎は妄想をやめたほうがいい。 >977
拍手3回(ただし、日本人のルーツはブータンは除く)。 >977
拍手3回(ただし、日本人のルーツはブータンは除く)。 >>976
原文の読みが変だ。
秦王国は、皇帝が特別に家臣に土地を与えて王にした国のこと。
なので、この原文は「…筑紫国(伊都国)に着いて、さらに東に進んで秦王国に来た。風俗が倭国のそれと全然違って中華と同じだ。野蛮人の国だと思っていたのにまさか皇帝の秦王国がここにあるなんて、混乱してその理由を明らかにできないよ…」というもの。
皇帝の秦王国があると思ってしまったのは、実はここは那津官家がある博多であって、官人たちがそろって中国風の衣服を着ていたからだ。
使節の裴世清は、このことは普通に承知していたが、桃源郷に来たように脚色して異郷感を漂わせる文飾を行ったということだよ。
この文飾は、このあと十数国を経て「海岸に着いた」とする倭国の旅程を謎めかすための前置きだね。
なので、この秦王国は、秦氏とは全然関係ないわけ。
漢文は、少し読み違えると全然違った解釈をしてしまうから、要注意だよ。 ホータン爺は功満王の渡来も嘘だと決めつけてるからな。ただ宇佐八幡の辺りも秦氏系の人が多い訳でね。また墓穴掘ったんじゃないかな。
>この秦王国は、秦氏とは全然関係ないわけ。 遣隋使がいる時代に何が桃源郷だよ 正気で言ってるならどんな時代だったか全く分かっていない >>983
始皇帝の子孫に功満王という人物がいたという記録はないよ。
ざんねん。
宇佐八幡の近傍に秦姓が多いのは事実のようだが、これは秦氏がその土地の渡来系人民を囲い込んだ結果、それらの者が秦姓を名乗るようになったというふうに考えられているからね。
当然、そのあたりに対して太秦の秦氏の影響が強かったということは言えても、宇佐八幡が秦氏と深い縁があったかどうかは分からない。
まして、秦王国が宇佐八幡を指しているという確証もないわけで。 忍者のルーツは「中国」にあった!? 服部半蔵の「驚くべき血筋」とは
https://www.rekishijin.com/31436
秦氏とは東漢氏と並ぶ渡来系氏族で、3〜7世紀頃に渡来。『日本書紀』応神天皇紀によれば、百済より百二十県の人を率いて
やってきた弓月君を祖とすると記しているが、天日槍を祖とする新羅・加羅系渡来氏族とみなす識者も少なくない。 秦氏はピューリタン?
秦氏は古代キリスト教『景教』 >>987、>>988
そう考えるについては、何かの根拠があるはず。
その微小、僅少、ほとんどないに等しい根拠を挙げてみたまえ。
聞いてみたいもんやわ。 >>985
↓ホータン爺の発言とは思えず、腹抱えて笑ったわ あんまり笑かすなよ
秦氏がホータンからきたって記録がどこにあるんだよ!?w
> 始皇帝の子孫に功満王という人物がいたという記録はないよ。
ざんねん。
いいかげんにしろよインチキ野郎 そもそも弓月国だかも妄想であって、史書に記録はない。ホータン爺はぺてん師としか思えん オカルト板にいけ なんだかんだ言いながら、あっち向いてホイか。
微小、僅少、ほとんどないに等しい根拠すらも出せない秦氏新羅説者と秦氏景教説者の空虚な妄説。
秦氏はトルコ語話者。
トルコ語は、当時、西域以西でしか話されてなかった。
ホータンは、西域の超有名オアシス都市。
5世紀になるとチュルク系のホータン語は、ペルシャ系言語に取って変わられる。
その動乱で、ホータンを脱出して日本にやってきたのが秦氏の祖の弓月君。
ごく普通にトルコ語話者だったのよ。
百済や新羅がトルコ語話していた国なんか?
ダメダメ。
無理無理。
一昨日きたまえ。 トルコ語でtikis(チクシ)は「出口」の意味。
筑紫は、このトルコ語を語源とするのは明らか。
ということは、このトルコ語を話していた人物は九州ではなく、畿内あたりにいたということになるな。
まさに、太秦にいた秦氏がトルコ語話者だったことを示すものなんだよ。
ついでに、iki(イキ)は数字の2を表す。
壱岐は半島から2番目の島だよね。
秦氏がこの島を2番目の島(iki=イキ)と言ったのが壱岐と書かれた。
もう、秦氏がトルコ語話者だったことで手を打とうじゃないか。 秦氏が百済、新羅出身だとする説は、根拠がほとんどない希望的妄想以外の何ものでもない。
それに比べて、秦氏ホータン出身説は、根拠がいくらでもあるから余裕。
どう、この違いは。
第一、当時日本にはなかった上質絹織物を秦氏が天皇に貢いだということは、その養蚕と織物技術を秦氏が調達できたということだ。
これは、秦氏が先祖の弓月君がいた西域ホータンと連絡が取れていたことを示しているわけ。
蚕と織物技術を先進地のホータンから入手していたということだな。
根拠は、いくらでもあるのよ。 >>994
このような視点からすれば、筑紫はトルコ語のtikis(チクシ=出口)、壱岐はトルコ語のiki(イキ=数詞の2)に由来することもちゃんと説明できることになる。
弓月君が西域ホータンの出身でトルコ語話者だったことを示す有力な根拠になるのよ。
どうよ、この明察は。 そもそもトルコ語の地名だとしても秦氏とは関係ない
秦氏と吸収に会ったであろう秦王国は関係ないと言っておきながらこれだからな
矛盾だらけの根拠なき主張をしておるだけの脳みそが足りない愚か者だとしか思えんw
そもそもお前の主張の根拠もただの憶測、妄想にしか過ぎない。 トルコ語は妄想ではな〜い!
現実そのものだ。
おめーらの空想妄想などと一緒にするな。 そのトルコ語の語彙が秦氏の周りにうじゃうじゃみられると言うとるのよ。 秦氏の残した寺院や遺跡、墓である古墳からもホータンやトルコ、ユダヤと繋がるものは何も有りません、出てきませんがな。
壱岐島にしても秦氏と何の関係があるのか 秦氏の勢力下にあったならともかく 「イ」から始まる地名なんて古代から珍しくもない ホータン爺のこじつけに過ぎない 何の根拠もない このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1311日 9時間 8分 36秒 5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。
▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/
▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。