大阪の陣でどうすれば豊臣は勝てたのか?
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>>2
家康討ち取っても秀忠いるしもう覆せなくない? 家康撃ち取ったら豊臣側に寝返る有力大名がたくさん出たかもしれない。
でもまず淀を亡き者にしてたら豊臣方に勝機があったかもしれない。
真田丸は有効だったはず。 >>3
家康と秀忠を討ち取る事が最低条件だな。
だが、真田のような全滅覚悟の捨て身の攻撃をすれば、大阪方のライフ残量はゼロになるから、
もはや豊臣再興の次元ではない。史実のような、過酷な残党狩りも、それなりに行われるだろう。
その後、家光は幼く、徳川側の基盤がガタガタになるので、むしろ家光が豊臣秀頼のポジションになる。
有力大名が、後ろ立てになって内紛になるかも。
でも、関ヶ原以降の外様大名にチャンスは、あるのか?
外様大名どころではない、序列の中では最底辺の、残党狩りを辛うじて生き残った、
豊臣方の浪人が、内紛に絡んで、うまく立ち回ってのし上がるのは、中々大変だろう。
そして、何とかうまく、豊臣方の浪人が下剋上を果たして、天下人に近付くも、
従来の秩序を回復させるべく、「秀頼を復活」させようとなんて、絶対しないだろうな。
もはや、家康・秀忠が死んだとしても、大幸の夏の陣が終わった時点では、
秀頼自身が、親父の秀吉みたく、一から下剋上をしないと、無理なレベルの状態になってるな。 ウルトラCとしては、キリスト教を再び解禁、
平家のように西に落ち延びつつ、西国に燻っていた、キリシタン大名と城下の農民層を味方につける。
島原の乱さえ、あれだけ豊臣方の浪人層が健在だったんだからな。
スペイン・ポルトガルとの貿易を活発化さて、大砲等を購入。
鎖国志向の家康とは、正反対の方向で行く。
いざとなったら、鄭成功みたく、一時期に沖縄や台湾に逃げるのもあり? 後明(のち鄭氏台湾)と紀伊頼宣が手を組めば
秀頼の大阪は三度目の秋の陣で落城かな 真田丸で描かれてたみたいな、織田有楽斎の内通とか、主張の強い大蔵卿局とかは、史実なの? 豊臣ごときが徳川に勝てるわけないでしょ!
考える必要もないよ。 戦った時点で敗北確定してるので、
せめてお家の存続を… >>11
織田の内通は秀頼公記とかに記述があって、
その中には徳川の間諜が残した話があるから割とマジっぽい。
言われてる様に織田が総大将の位を望んだのかまではわからんが…
ただ、牢人衆がやる気なくなってたのは確からしい。 >>13
勝てるよ
豊臣恩顧を再結集させる
陛下の一言で徳川逆賊認定 >>16
全員からお断りの手紙貰ってるんですがそれは。
そもそも豊臣恩顧が絶滅危惧種なのに… >>17
義勇軍で家臣がでればよいだけ
アホ韓唐国賊はできるだけ早めに殲滅させるべき
そもそも韓唐とか日本でもない そもそも本当の豊臣恩顧大名って古参と子飼いくらいじゃ無いの?
あとは関白秀吉の力に屈しただけと思うけどね、
関ヶ原以後に残った恩顧大名で地理的に大阪に駆けつけられるのって大分少ないよな
蜂須賀
前野
福島
加藤
池田 >>18
そんな寄せ集めで勝てる通り無し。
そもそも大名の家臣とかもう豊臣なんか気にしないに決まっとるし。
主人がやらないというなら家臣もそれに従うだけだぞ。 そもそも豊臣恩顧ってのが少な過ぎる。
秀吉に恩があった連中のうち、大体半分は秀次事件で処分された。
残った連中の内これまた半分は関ヶ原で西軍について処分。
つまり大坂の役時点で豊臣恩顧ってのはもう数えるほどしかいない。
上に大抵徳川から土地貰ったりしてるから恩義は徳川の方が強い。
徳川じゃなく豊臣につきますーなんてのは相当レアなパターンなのは間違いない。 >>21
島津、毛利、立花、前田、上杉、加藤、黒田、池田、藤堂、蜂須賀、蒲生、真田、佐竹、ヨーサンおるがな
これだけでキチガイ国賊韓唐さら地にできるわ むしろ徳川エベンキに味方なんかろくにおらんで糞ワロス 鈴木大拙→梅原猛曰く「近代日本最大の仏教(哲学)者」
林屋辰三郎→京都国立博物館館長、京都大学名誉教授
「約束の念仏は申して候よ やろうやらじは弥陀のはからい(熊谷直実)」
の如きは武人の心構えそのものを赤裸に出していると言ってよい。
阿弥陀の本願にまかせて念仏を称えている自分、それで極楽往生ができるものかできないものか、
それは自分の計らいできまるのでない、阿弥陀の計らいであるから、
いずれなりとあなたまかせだという心持は、他力信者のそれではないか。
また武人として約束はどこまでも守る、その結果がどうあろうと、それはこちらで知ったことでないというのは、
いかにも関東者の律儀性を発揮しているではないか。
『日本的霊性』鈴木大拙・石川県出身
京都盆地は五世紀に朝鮮半島からの渡来まではいぜんとした氾濫原であった。
渡来人最初の村は東山の麓に祇園社を祭る高句麗の人々の八坂村、衣笠山の麓に北野社を祭る秦氏の北野村、さらに南東の方には同じく秦氏の深草村、西の方には太秦村という村々であった。
そしてこの村々の人々は盆地の開発に助け合った。開発は治水を前提としなければならぬ。葛野川に大堰をつくって水量を調節し堤防を築いて水田を造成した。
平安楽土はまさしく渡来人たちが長い間の苦闘の末につくり上げたものであった。
(林屋辰三郎・石川県出身) ▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』
▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』
▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
▼ハシゲ徹(大阪民國総統)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』
▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』
▼戸田恵梨香(神戸市出身・女優)
『神戸って大阪と一緒にされるの凄い嫌なんですよね〜大阪は下品!汚い!』
▼堤真一(西宮市出身・俳優)
『兵庫は大阪と違って洗練された町なんで』
▼森喜朗(石川県出身・元首相)
『大阪は日本のタンツボ』 ▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人全体の平均からは外れている』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が近畿地方に根を下ろしたといってよい』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
▼熊谷公男(東北学院大学教授・日本古代史)
『河内国(大阪府)が列島随一の渡来人(朝鮮半島)の集住地域であったことはよく知られている』
▼仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授・前近代日朝関係史)
『大阪、兵庫、京都の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占める』
▼原田伴彦(佐賀県・日本近世史)
『全国の部落人口は近畿が半数の50%を占め、九州、中国、四国がそれぞれ12%、関東、中部が5%となっています』
▼ウィリス(幕末の英国人医師)
『大坂は世界で一番面白くない都市』
▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』
▼高権三(韓国済州島出身・歴史学者)
『大阪の浪波子には朝鮮の人の血を受けていないものは、殆どない』 また、ひともどきアホ韓唐赤組朝貢エベンキ偽日本シナチョンコエベンキ傀儡国賊が発狂かよ >>23
全員からお断りされててワロス。
大名衆はみんな徳川恩顧だし、それより下の連中には力がない。
少なくとも幕府を倒すには足りん。 >>29
とにかく西に逃げるんだな。
キリシタンの多い九州籠城が良い。
それがダメなら、沖縄、台湾まで逃げろ。
徳川方が大規模な追討軍を送って来ないならば、とりあえず延命はできる。 >>29
福島、浅野、山内もいるし徳川のチヨンこエベンキ丸出し嘘はきエベンキについていくなんてあり得ないな
そもそもキチガイ国賊韓唐いなければもっといいくにになってるしな >>31
福島→関ヶ原で家康から褒美貰ってるので徳川恩顧
浅野→秀吉晩年期から家康派で、それが理由で石田三成と仲悪かった。
山内→秀次事件等で豊臣政権に見切りをつけていたので大の徳川派。関ヶ原では真っ先に家康に力添えをした。
他にはいるか? >>33
はあ、家康は豊臣家を守るために関ヶ原を戦うといってたんだがすべて嘘やんけ
死んで詫びる他あるまい >>34
秀頼が噛み付いてきたからな。
即刻武装解除してたら命は助かったと思うよ。
少なくとも豊臣が倒れる時にいかなる大名も豊臣を助けようとせず、徳川に従った事は確か。
徳川が圧倒的ということもあるが、豊臣が既に大名連から愛想尽かされてたのが痛い >>35
日本でもないアホ韓唐に日本がまかせられるか
家康は秀よりはの家来やんけ
なにぬかしてんだ
完全シナチョンコエベンキ韓唐寄生虫蝦夷が そんな発狂しなさんな。
下克上の戦国時代に家来がなんだといっても何言ってんのお前アハハでおしまいよ。 東国人の野蛮さ
(東国の武士)狩猟民の系譜を引いている者が多く、東国は狩猟民の社会。
東国の武士団そのものも殺伐とした側面が存在。
弓を得意とし、馬を巧みに乗りこなす者たち。
(実盛の発言)東国武士団が西国の武士団のように田畑を支配の中心にすえた武士団ではなかったことを
多少オーバーに述べているのであるが、事実東国は「殺生」や「死」というものについて
重大視しない社会であった。日常的に殺生が行われている社会であった。
(2001年、福島大・伊藤喜良氏) 東国の武士である坂東武者のルーツは古墳時代以降に東国に入植した渡来系
朝廷は平安時代まで渡来系を東国の開発にあたらせたのは周知の事実で、666年に百済人の男女2000人以上を東国に移住させ、716年には高麗人1799人を武蔵國に移して高麗郡をつくり、新羅人を集めて新羅郡をつくった記録がある
彼ら渡来系の徐々に大和民族と同化していったようだが、渡来系の中には馬の飼育や騎射に長けた者がいて、それが後の坂東武者の起源になったのだ 韓唐エベンキは大和民族様でもない寄生虫チヨンこエベンキやということや
アホ韓唐なんて家来にもせずぶっころしたらええのんや オランダと組んだ家康に抜かりなし
ブリキトース カノン砲の威力を知ったか >>39
ついでに不法占拠チヨンこエベンキも他に大量にいるぜ
新潟辺りに漂着するからな 豊臣が勝つにはどれかの大名と繋がるしかない。
問題は豊臣の領土が60万石しかないので下手するとそこらへんの大名にすら負ける。
徳川は400万石オーバーなので求心力で勝負にならない。 台湾はまだオランダ領だろ
順と西(後成)と南明が滅んで
後明(鄭氏台湾)が大陸から亡命してくるのはまだ先の話 いや。チヨンこエベンキだぞ、それがおまエラキチガイ国賊韓唐寄生虫偽日本ゴキブリのルーツだ ちなみに大坂の陣で大名が誰も豊臣に同調しなかったのにはちょっとした理由があって、
時は遡って関ヶ原以後、豊臣家はやたら寺社の改修をやりだした。一般には家康は豊臣家の財産をすり潰す為に淀君に勧めた…とされてるが
豊臣家はその寺社改修の為として諸大名から寄付を募った。
諸大名の中にはこの寄付によって財政が危うくなって家康に許しを求めにきた奴まで居たらしく実は家康にとって頭が痛い問題となっていた。
それが理由であれほどの数の改修をやって豊臣家の財源は痛まなかった訳だが、これによって諸大名の豊臣への信奉は減少したのだという。 旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究
レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。
朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。
レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。
「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。
京都と江戸とは女のひたひつき、髪のはへぎはかはるなり
又都がたの男は、すねに毛すくなし
関東の男は皆すねに毛ぶかくおふる也
生れ付てかはり有
(津村淙庵『譚海』庶民生活史集成8)
ヒゲの発達程度の地域差(人類学者レヴィン)
琉球2.32
北海1.98
九州1.82
関東1.78
東海1.78
東北1.69
北陸1.67
中国1.66
近畿1.51
朝鮮1.31
調査対象: 日本人男性1万300人 おーすごい
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い
日本人の起源/中橋孝博
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人から最も離れている。
日本人のきた道/池田次郎
近畿人の特徴は、朝鮮半島や中国大陸に現在住んでいる人々の特徴と概ね一致する
日本人はるかな旅/多賀谷昭
大阪の浪波子には朝鮮の人の血を受けていないものは、殆どない。
大阪と半島人/高権三
関西の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占めることになります。
在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識/仲尾宏 ここまで言われちゃ反論できないよね。
・兵庫医科大学名誉教授の欠田早苗氏(解剖学)
頭型の分布は朝鮮半島から渡ってきた人たちのルートを示していると考えるわけです。
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い。
で、この(過)短頭の人たちは百済、対馬、瀬戸内沿岸とつながっています。
二重瞼の出現頻度(兵庫医大・欠田名誉教授のデータによる)
北海道73.2% 新潟県70.4% 三重県67.5% 奈良県58.1% 奄美諸島84.0% 南朝鮮42.1%
分離型耳垂の出現頻度(兵庫医大・欠田名誉教授のデータによる)
山形県70.5% 新潟県72.8% 三重県60.4% 京都府36.6% 奄美諸島77.24% 朝鮮32.62%
▽蒙古襞の出現頻度(欠田)
アイヌ男18.9% 女29.9%
新潟県 男34.8% 女45.8%
畿内地方 男47.7% 女65.2%
朝鮮半島南部 男女合計62.8% 東洋文庫シリーズでおなじみの
・『国民百科事典』平凡社
近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する。 半頭ゴキブリ寄生虫がいつものチヨンこエベンキ論文張り付けてホルホルチヨンこエベンキまるだしやな
JR東日本、時間帯別運賃を検討 新型コロナで社会変化
7/7(火) 17:12
JR東日本の深沢祐二社長は7日の記者会見で、新型コロナウイルスの影響による利用客の減少や生活様式の変化に対応するため、時間帯別を含めた新たな運賃体系の検討を始めると明らかにした。深沢社長は「コロナ以前には戻らない。長期的に経営が成り立つようコストやダイヤ、運賃を見直す」と語った。
キチガイ国賊エベンキ鉄道乙
それ以前に半頭に帰って経営しろ
偽日本ゴキブリ韓唐国賊寄生虫
現実には韓唐エベンキにはチヨンこエベンキ会社しかない
完全なチヨンこエベンキの偽日本 豊臣にとっての勝利は生き残ることなんだし全力で徳川に土下座するしかなかろ キチガイ国賊韓唐の命脈を絶つことが肝要
私欲は捨ててキチガイ国賊韓唐を始末すればキチガイ国賊開戦もベクコロもないわけだし一枚板にならない理由などなし 豊臣の信用が既に失墜してるからどうしようもない。
徳川に恩があっても豊臣には無いって連中が多いからな はいはいはいはい、
そもそも日本の話ではないんだけどなw
どこの池沼なんだ。 大阪の役のあと、豊臣の家臣が何人も徳川方で認められてるからな。 あのナベツネ(不明)の話同じ、どこの馬の骨。
『2ch 偉人 おまえがゆうな』 詳しいことは、わからないけど、創価か何かなんだろう?
日蓮〜とか。 豊臣の事を考えてくれる奴が大坂におらんからな。
織田を筆頭に自分達の立身出世しか考えてない。
だから戦争になっても真面目にやらないし、徳川に取り入る機会があれば喜んで尻尾を振るし。 とにかく冬の陣の時点で京都出撃を敢行すべきだったな。
城にこもるのは最終手段だと割り切ればいい。
ここまでやれば、家康が死ぬまでは戦は続くだろうから、
西と東で日本を分断するところまでは持ち込めたと思う。 ただ京を攻撃するとほぼ確実に朝敵認定されて豊臣にとって最悪の事態招くのがなぁ…
将軍に刃向かってる時点で割とチャレンジングなのに、
更に帝まで敵に回すのは本当に最期の手段になりそう。 >>63
平氏は檀ノ浦で、安徳天皇を抱えたまま入水自害をしたが。
源氏は朝敵ではないんだね。 >>64
韓唐エラハリ寄生虫とか全匹が朝敵どころか完全シナチョンコエベンキひともどきエラハリエベンキ国賊寄生虫だわ >>65
アホかおまエラが単なるシナチョンコエベンキひともどき非大和民族様ゴキブリ寄生虫チヨンこエベンキだわ >>64
同じミカドたる法皇の命令があるから問題無い。
問題はミカドがいる京に攻め込めば言い訳出来んところ。
南北朝なら兎も角。 >>68
法王の命令が陛下よか上のわけはない
韓唐ゴキブリ寄生虫は常時朝敵処刑にされないといけない
現実に国賊ゴキブリしかしてこなかった
現在進行形で >>69
はい日本史勉強しなおしましょうねぇー
法皇が上か天皇が上かで争いまくってた時代があるんだから一概に「天皇が上」なんて言えるはずがないわ。
ミカドの座を皆が争うているんやぞ >>69
高倉天皇とか後白河法皇から酷い目にあったような 豊臣(スペイン・イエズス会)vs徳川(オランダ・東インド会社)の代理戦争。
無敵艦隊を打ち破ったイギリスのカルバリン大砲を家康に売り、宗教を押し付けなかったオランダが勝つのは必定。 >>61
清正が生きていれば正則を語らって大阪城に入城したかも。 >>71
おまエラ韓唐国賊エベンキは大和民族様でもない寄生虫チヨンこエベンキだから
分からんのやろうな >>75
加藤清正はもう晩年期には豊臣をどうやって徳川の下に組み込むかを必死に考えてたみたいだし、大坂の陣だと豊臣方にはつかない可能性の方が高そう。
片桐且元の試案三箇条ってのも元は加藤清正のアイディアだったらしい(片桐の記録だけど)し。 アホ韓唐寄生虫を駆除すれば好き放題だからまとまらない理由がない 豊臣が勝つには例えば徳川討伐の勅許を貰うとかも有り得たけど当時の朝廷がそんなことするかはわからん、っていうか多分出さないだろうし、
下手すると逆に豊臣討伐の勅許を出しかねないから変な動きはできんしなぁ。 >>75
家康による清正暗殺説(冬の陣3年前1611年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3#%E6%AD%BB%E5%9B%A0
確かに秀吉にとっての勝家同様、家康にとって清正(秀吉の鳩子)は目の上のたん瘤。
下手すれば、清正の元に豊臣恩顧(冷や飯喰らい)が一斉に目覚めて、秀頼に寝返る可能性もあったからね。 その@この時点では寧々は健在。
彼女がこころを入れ替え、まだ秀吉を愛しているなら黒田、浅野、蜂須賀、福島、池田、細川などの大名たちに声をかけ豊臣の非礼を詫び、秀頼の援護を頼めば状況は変わる可能性がある。
特に黒田長政あたりを味方につければ勝機はある。
しかし彼ら、家康に魂を抜かれた、かっての秀吉の部下たちが寧々に頼まれただけで動くかどうかにかかっている。
そのA
これは妄想だが、タイムスリップできるなら緊急電を陸上自衛隊に打ち、一個師団の応援を頼み戦車100両、150mm自走砲、ロケット砲、重機関銃、装甲車など各100台を五月七日、茶臼山に配備し一斉射撃場の後、家康本営に突入し、家康、秀忠以下全員を皆殺しにしていれば歴史は変わる。
参加した東軍すべてを殺すのが要諦。
戦後も各領地に一個師団で進撃、有無を言わせず壊滅さす。 >>82
@黒田、浅野、蜂須賀、福島、池田、細川 とか全員が豊臣に翻りゃ徳川に恨みを持つ
毛利・島津も翻る。
そうなると西国は譜代以外豊臣陣営になるんでは? それぞれ徳川の親族大名となり、そこそこの地位が約束されている。リスクを負って、不利な豊臣方に組する利益が少ないとみるだろうね。
浅野や福島は豊臣家でも親族大名だけど、親族として特に優遇されていたかというと、そこまでメリットがあるほどではないし。領地はあげられなくても、せめて格式だけは格別の取り扱いとかしていれば、話は別だったんだろうけど。 豊臣が寺院改修でカヌ巻き上げたから
嫌いになったとかだろうけど、すべてエラハリ家康シナチョンコエベンキのせいだと解ったらエベンキ家康をぶっ殺すことになるやろ 諸悪の根元韓唐キチガイ国賊の処刑が大和民族様の課題だからな
東征軍はいつも需要があるのだよ
ベクコロ韓唐まじでぶっ殺したいよな >>84
豊臣自身が滅亡への道を辿ってる以上手助けとか出来るはずもないしなぁ。
本多忠勝が平家物語を読んで一番重要な部分は「平氏は各国からかき集めた兵だったから戦わず逃げた」ってくだりだと言った、なんて話があるが
諸国からかき集めた烏合の衆では勝てる道理がないわな。
そこいくと家康、つまり徳川は上手いんだよな。
敵にクラックが出来ていたならばそこにつけいる。
味方は上手くまとめあげ一つにしてしまう。
流石だわ。 アホ韓唐消滅するからと首都にしてやったのに恩を仇で返すシナチョンコエベンキそのものやな
東チヨンこエベンキ韓唐とかはやく処刑にしようぜ >>87
豊臣が烏合の衆だとな
馬鹿韓唐エベンキにつける薬なんてないな まぁ冬の陣はわかる。
で、冬の陣で敗北が見えて諦めるのもまぁわかる。
何故夏の陣なんかやるのか。
堀も埋めたんだし全面降伏する以外命が、てか家名が続く方法無いのに。 武漢肺炎とか言って武漢を諸悪の根源扱いしてたけど
日本においてはもはや東京肺炎だろ
しかも武漢と違って封鎖してない上にGoToキャンペーンで拡散し放題
東京は封鎖してない武漢だよ
とっくの前に国賊韓唐寄生虫肺炎とかいってるがな 国賊韓唐の未来見せてたらシナチョンコエベンキ韓唐徳川処刑で即団結 韓唐国賊偽日本ははよ集団自決しろよ
何が集団免疫だ
おまエラエベンキの言うことはひとつもまともなことはない 『人国記』
信太明神に野狐多し。この野狐、人を能く誑かす事を得たり。されば此の国は、唯野狐に衣服をしたるに似たり、頼もしからず。別して和泉の府日根悪し。
『甲陽軍鑑』
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
佐賀藩士山本常朝の口述記『葉隠』
武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打上たる武道なるべし。
清河八郎『西遊草』(岩波文庫)
上方は柔弱にして人をあざむく。
・池田次郎『日本人のきた道』(朝日選書)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人から最も離れている。
『アジアからみた古代日本』(角川書店)
朝鮮系の土器の列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多い。
・熊谷公男『列島の古代史1』(岩波書店)
河内国が列島随一の渡来人の集住地域であったことはよく知られている。
・中橋孝博『日本人の起源』(講談社)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い。
・関晃『古代の帰化人』(吉川弘文館)
帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。
・『国民百科事典』平凡社
近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する。 ひとつも韓唐はシナチョンコエベンキ丸出しだがちチヨンこエベンキなのになに訳の分からんチヨンこエベンキ偽造文献貼ってるんだろうな >>87
なにわ武士だよ源平は
治承四年、ポンコツ平家と臆病な畿内童貞侍の皆さん、水鳥の羽音に狼狽し我先にと逃げ帰る。
山槐記…宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww
吉記…於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww
吾妻鏡…所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww
寿永二年、ポンコツ平氏は山城、大和、摂津、和泉、紀伊の包茎侍どもを招集(『盛衰記』)、木曽討伐に向かうも惨敗。
河内長野の貞弘戦死、季国戦死、摂津の重経、紀宗時らは尻尾を巻いて逃げ帰りました。
寿永三年、負け犬行家さんと石川源氏が連合で木曽に喧嘩を吹っ掛けるも、信濃の猛将樋口様にビビって小便漏らしながらスタコラ逃走。
【なにわのトップ】
摂津の国守護は剛毅の士・長沼宗政様(下野国出身)
河内の国守護は知勇兼備・三浦義村様(相模国出身)
和泉の国守護は弓馬無双・佐原義連様(相模国出身)
悲報、相模和田氏出身の河内国司・藤原秀康さんと弟の秀澄さんが長年の京暮らしで都の悪風に染まり
幕府から「天下乱逆の根源、この両人の謀計に起こる(承久の乱)」とまで言われてしまう。 三河の猛将・本多平八郎忠勝(『本多平八郎聞集』)
「武士は武士臭いのが、味噌は味噌臭いのがよろしい」
「武士は上方風の公家臭いのより百姓臭いほうがマシである」
「上方風の業平侍のような女の腐ったような侍は俺は大嫌いだ」 エベンキ蝦夷国賊東チヨンこエベンキ韓唐はトンスル臭い 豊臣が勝つ道は割と存在しない。
大坂城で一番の有力者である織田が徳川と内通してるから
もし秀頼が少しでも動きを見せればたちどころに織田が大坂城を乗っ取ってた。 常真や有楽にそんな器量はない。
間者ならできるが。 てか実際織田は冬の陣でサボタージュしてたって言われとるからな(豊鑑等)
こんな連中を排除できないって事が豊臣の凋落極まれりって感じ まだ有楽の方がましやろ。常真はただのバカ。
有楽は本物の忍びとの説もある。
だけどなんで本能寺の時信忠を落とせなかったんだろう?
有楽は大事をやる度胸がなかったんだろうな?
武将というより茶を愛す風流な教養人だったんだろうな? 織田信雄の戦略は大したものだ
豊臣に政権譲渡して織田の名前は残せたし 韓唐エベンキの行動は韓唐エベンキがシナチョンコエベンキと考えると完全にわかる
区別がつかないほど一致している
諸悪の根元韓唐エベンキ 大坂城が堅牢過ぎたのがいかんかったな。
単なる城なら城を代わるってのも拒否感なかったはずだが… 猿吉の遺族と毒川の対決・・・
どーでもええワ!
糞スレ要らん!!! そもそも戦略が
敵に造反者が出る
ってのはもはや戦略として終わってるのでは そもそも籠城ってのがな…
敵が攻撃出来なくなるまで守り切るしかないわけだが、
徳川はこの時日本全てといっても過言ではない力を持ってるし、勝ち目がなかったとしか… >>106
安土城天主に火を付けたのは、光秀に渡してなるものかという信雄の意地 >>113
結果論からいうと、大阪夏の陣の翌年に家康は死ぬ。
家康が死ぬまでなんとか、のらりくらり籠城で粘ったとしても、やはりダメですかね? >>113
徳川エベンキに不満を持ってるやつは多いし
増封約束すればエエだけじゃん
一部がころべは雪崩を打つスペインも見方につけて >>115
家康よりもアンチ豊臣だった秀忠がいるから家康の死が豊臣に利するかは不明… >>115
大坂冬の陣で豊臣は落城寸前だったのでそこを乗り切るところから始めないといけない
当然、ここでの講和は徳川への無条件降伏なのでどんな条件でも呑まないとならなくなる。
じゃあ冬の陣から家康の天命まで耐え切れるか?っていうと… >>118
落城寸前ではないだろ
軍事的には3年は籠城できたよ 大坂夏の陣で家康は真田幸村に殺され、堺・南宗寺に仮葬され、双子の弟・恵最が影武者を務めた。
それをカムフラージュするため、道明寺口で戦死した後藤又兵衛に殺されたというデマを流して、誤魔化した。
家光から忠長に覆そうとした恵最は、駿府で鷹狩の帰りに春日局(家光実母)の刺客に狙撃され、駿府城で絶命。久能山東照宮に葬られた。
その後、家康本人の遺骸は、堺・南宗寺から日光東照宮へ改葬された。
久能山と日光、2つの東照宮があるのは、家康・恵最が双子だったから。 >>119
一般には知られてないけど、
幕府軍は塹壕を掘って大坂城への突破口を作ってる。
更に織田が徳川に半ば内通していて大坂城最大の弱点である南口への攻撃を容易にし、
牢人衆にスパイを送り込んで情報工作して豊臣が動けないようにしてた。
後は総攻撃をするだけ、ってとこまで詰めてた。
この総攻撃を豊臣が凌げたかは不明。 秀頼が関白になってしまえば、将軍秀忠は豊臣を責めることができなくなる。
足利家や吉良家・今川家そして織田家w同様、江戸時代を通じて高家として残っただろう。
軍事的な話は色々あるだろうが、徳川方の朝廷貴族の買収で、秀頼が関白になれなかったことに尽きる。 豊臣秀次は関白になったが、家族もろとも滅ぼされた。
武家は官位を昇っても命の保障はない。
だが、秀頼が早期に大坂城や浪人たちと無縁となり、1500石程度の公家となっていれば、
本人も家族も安泰だったと思う。 大和郡山への転封を受け入れる条件に
関白になり上がれば太閤秀吉の子孫は今の生き残れたのにな、、、
、 ただ秀頼の関白就任の目は殆ど無かったけどな。
右大臣クビにされて、後任の同じくらいの歳の奴が関白になってるし。
朝廷から「おめーの出世ねぇから!」宣告されてる以上、徳川に土下座するしかなかったろう。 秀吉が裸一貫から成り上がった業績を
二代目が驕って、
家を潰したとしか思えないな豊臣政権は。
豊家豊家と驕ってみたが、
子飼い大名含め他所から呆けられた秀頼殿
頭を下げてれば、末永く血脈が残った気高い血
勿体ない 秀頼が国替えに応じても浪人衆が秀頼を出さない
秀頼は籠の鳥 >>124
将軍秀忠ってそんなに嫌われてたんか!?
>イエズス会の宣教師ヴァレンタイン・カルヴァリヨは、大坂冬の陣の真っ最中に「高齢の家康はまもなく死ぬであろうが、そうなると彼の相続者である秀忠も滅びるであろう。そうでなくても秀忠は諸侯の間で嫌われているので、政権を得られないであろう」と記し、そのときには秀頼が「支配者になる」と明言しています。
>聖ドミニコ会のヤシント・オルファネールは、大坂夏の陣について、将軍秀忠に任せればよいものを、高齢の家康がわざわざ大坂まで出陣してきたのは、秀忠だけであれば、戦況が不利になった途端、諸大名が豊臣方に寝返ることを家康が知っていたからだと述べ、「もし家康が出陣していなければ、秀忠が王座(天下人の地位)につけなかったのは確実である」と言い切っています。 諸悪の根源は牢人衆をカネでかき集めたことよ。
カネで集めた兵の統率は相当難しいし、その上秀頼は戦場を知らない。
下手に彼らの機嫌を損ねるといきなり暗殺される危険性まである。 豊臣の残ってた財で家康より先にオランダから最新兵器を取り揃えていたら火砲の差で徳川連合には勝てたはず。
浪人集めるんじゃなくヨーロッパ人の傭兵をカネのちからで集めるべきだったな。 徳川家から将軍職の権利を天皇にたくさんお金あげて剥奪することも可能だったのに。 朝廷からすると関白職を取られかねない豊臣の方が危険やし 朝廷もしたたか過ぎるよな、秀吉さん亡くなったら
掌返して豊臣排除するんだもんな。 てかそれが朝廷やからな。
権謀術数やり続けて一千年以上の歴史持ってますし。
役に立つなら使うけど、役に立たないなと感じたらあれこれ言ってポイよ。 とりあえず九州は島津ちに中国は毛利に南近畿は浅野に韓唐エベンキは上杉に、東海ゴロツキは加藤、池田に北陸は前田にと先に割譲を決めてから国賊徳川エベンキを始末すれば確実に勝てる アホ韓唐エベンキ徳川のお陰で天皇家は大変な不名誉となるから
最短で韓唐エベンキ国賊朝貢韓唐寄生虫偽日本とっととぶっ殺しておけ >>136
先も読め
シナチョンコエベンキ韓唐なんて日本でもないから国賊しか起こさないのは明白だった
関白?そんなもん名前だけだろ 東京応化工業(tok)は、半導体や液晶ディスプレイの製造に必要なフォトレジストなどの化学薬品、製造装置を提供している会社で...
エベンキ国賊寄生虫企業は南チヨンこエベンキでフォトレジスト生産か
国賊韓唐シナチョンコエベンキはちがうな 秀頼が豊臣の力を過信してたのと、人心掌握術がまるでダメだったのがね… >>142 秀頼はどうやら文武両道系ニキだったらしいね秀吉みたいにセコさがやっぱりかけていたのかな 淀君が秀頼を押さえつけてたって本当なのかね
片桐且元と大野治長クラスなら秀頼のお命を守るために尽力してたんだから、最後は秀頼の意思で戦うように持って行ったとしか思えん 淀君が豊臣家の差配してたのは確かっぽいけど、
資料だと淀君は基本戦争反対派っぽいんだよな…
ただ、なら何故徳川に恭順しなかったのかがわからなくなる。
ここら辺の支離滅裂な感じが政権末期感ある。 朝廷にしてみれば、数百年の間、摂関家で独占してきた関白職を奪った豊臣氏は、目の上の瘤だったはずだ。
関白だけでなく、大半の高位の官職を武家で奪ってしまい、長年築いた朝廷や公家の秩序が壊されていた。
だから、秀吉が他界して豊臣氏が弱った今、朝廷は徳川に加勢して豊臣を潰す側に回ったに違いない。
家康のほうが朝廷の秩序に理解があった。 >>148
足利義昭が秀吉を猶子にしていれば秀吉は征夷大将軍兼左大臣でも右大臣でも大将でも
良かった。
関白に拘わる必要がなかった。
むしろ征夷大将軍の方が都合がいい。 >>149
一時のカネで買った歓心ほど脆いものは無いぞ。
しかも朝廷ってのは長らく日本の中心で、さらにそれを支配している連中は様々な利権と結びついてる。
そこにカネだけで食い込もうとする田舎者なんざ、吸われるだけ吸われてポイよ。
モロこれを食らったのが秀吉よ >>118
例えば、豊臣の小田原城攻めと徳川の大阪城攻め、守備側の難易度の高さはどうなんだろうか?
長期戦の構えで餓えるのを待つのがセオリーなんだろうが、家康の命が持たないとなれば、徳川方は力攻めに出てくる事も考えられる。
万が一、包囲戦の最中に家康が死んだとなれば、死んだことをひた隠しにして包囲戦を続けるだろうけど、何時まで隠し通せるのかな。
豊臣としては、大阪城をギリギリのタイミングで明け渡すか、主力は西国に逃げるプランも、家康が死ぬまでの時間稼ぎとしてはあり。 >>128
秀頼2代目といっても、徳川の秀忠と比べてそんなに劣っているとも思えない。
意外と乱世の残り火のない平時だったら、家光みたいな名君だったかもよ。
初代の秀吉が、内政固めを磐石にするのではなく、朝鮮・明への出兵を志向したのが殆ど全ての原因。
で、結局何も得られなきゃ、大名の不満は高まるだけだよ。
ただ、当時は日本全体でも3000万石程度だけど、仮に華中平原まで掌握したのならば、ざっと3億石はある。
だから、唐入りにもし成功すれば、大名の不満なんて吹っ飛ぶレベル。
家康以外の諸大名が、20万人以上の大軍で渡海したのは、それなりに理由がある。
秀吉は外征によって、魅力的な新たな大名達の褒賞資源を求めたんだな。
なお、女真のヌルハチは、秀吉の入寇時に、勢力を拡大した。
明朝は本来、周辺国で内紛があって、大きな勢力ができつつある予兆があると、予防的に介入してこれを潰し、事前に強大化を阻止していた。
つまり、ヌルハチは秀吉の侵攻によって、監視の目が手薄になった隙を突いての強大化。
タイミング次第で、誰が中華皇帝に近づけるかが決まる。 >>152
問題は10月に始まったこの勝負が、
12月には決着した事だと思う。
小田原征伐は大体3月に始まって終結が7月だから割と頑強に戦争してたわけだが…
大坂冬の陣だと、塹壕が大坂城に掘り進められ、かつ織田が徳川に内通して南口の攻撃機能を大幅に削減、
とどめに大砲による威嚇砲撃やスパイによる情報撹乱…
ときてるからまずは一回決戦が起こるのは確実。
考えられるのは塹壕からの工作部隊の侵入、大坂城最大の弱点である南口への一斉攻撃、大坂城で織田がクーデター…
に、対して豊臣には凌ぐ以外の選択肢が無い。これがキツい… 韓唐国賊ロックアウトでなく空爆更地でエエやんけ
糞な存在価値しかなかったんやし
そもそも日本でも大和民族様でもないから >>154
当時の武士たちの所領拡大欲求は相当なものだったらしい。
外征するしかこの欲求に応える道はなかった。
あれだけ多くの大名が外征に応じたのは、外征が諸大名の希望に沿ったものだったとも言える。
戦国時代を収拾するというのは、それだけ難しいことだったということか。
豊臣政権にとって不幸だったのは、外征を成就する前に秀吉が没したこと、秀次を粛正したため、
成年の後継者がおらず、家中を統一できなくなったことだ。
信長と信忠を一時に失って、家中が瓦解した織田家と似ている。 大坂冬の陣の後に、秀頼が、婿養子として徳川忠長を迎えて、天秀尼と娶せるっていうのを
豊臣側から提案して講和したらどうだったんだろう。
徳川将軍家の血筋に豊臣家を継がせるということで屈服した形でもあるけど、忠長は千姫の
同母弟で、秀頼の従弟で淀殿の甥という近親であり、秀吉の孫で秀頼の娘である天秀尼が正
室なら、豊臣家の血統を残せる可能性が残る。
徳川家が実質的に豊臣家を乗っ取れることがわかれば、徳川家も当面は緩やかな対応にな
らざるを得ないのではないか。 良いアイデアなんだが、問題はそれを主張する前に大坂から出て行けコールされそうってのが なんで徳川が人質を差し出すような真似をしないといけない
最低でも大阪城を出なければどうにもならない
それには浪人衆の反対にあうけど 豊臣のために関ヶ原といっておきながら
シナチョンコエベンキ丸出しだし徳川はよ死に絶えろ 秀吉公は家安をぶっ殺しておくべきだったわな
秀長をして家康を始末させておくべきだった 家康処刑隊
秀長、小早川、加藤、前田、黒田、三成、上杉、佐竹、伊達、織田、真田
これでチヨンこエベンキ出兵前に自害させるべき 牢人衆なんか雇った時点で割と豊臣詰んでるんだよなぁ
約束した報酬(土地)を与えないと何されるかわからんから 関東を開墾して土地を与えようとする家康。
朝鮮・明に侵攻して土地を与えようと考える秀吉。
秀吉側は、外征を前提とした体制になってた。 新田開発って秀吉政権ではやってたと思うけど
まだまだ開発の余地あったよね。
あと物流網整備も。 >>170
政治家がよ、死んだ人間の夢なんか知ったことかよ 外征に無茶があったのは確か。
戦争ってむっちゃ金掛かる訳でそれが原因で潰れた家(武田)とかあるのに。 まずは台湾に攻め込んでオランダと仲良く統治して
江南から明征伐すべきだったなぁ
気候的に朝鮮経由は冬が厳しいし
米育たないからな オランダが豊臣政権と接触したのは秀吉死後
台湾・江南までの船・航路などの情報が足りない >>174
沖縄なら侵攻できる。
しかし山の険しい台湾だと、現地の首刈り部族との戦いになるので、山岳地帯の制圧はかなり不可能。
台湾中西部の平地を押さえるのが精一杯かな。
疫病との戦いにもなるね。 沖縄や奄美の民を兵士して侵攻すれば疫病は大丈夫だろ。
現地民には金か銀をばら撒いて懐柔させて
、現地民とともに江南に攻め込めば南京落として丸っと中原は秀吉のものだな
オランダには海軍力提供してもらえるし オランダの力を借りたら、結局面倒なところは日本がやって旨味は全部オランダが取るんだよな… 福島やら加藤やら突っ走って鴨緑江まで行ったからな。糸の切れたタコ
ちゃんと三成の手綱に捌かれてりゃあ
秀吉の生きてるうちに北京まで行けてるさ モンゴル軍もインド軍に負けてるんだね
負けた記録はよく抹殺されるからよくある話 まず、韓唐エベンキという時点で皆殺しにしておけ
日本は平和になる そもそも三成は反戦派って事を忘れてはいかん。
関白が降伏しましたって書状に一枚噛んでるんだから。
実際問題、朝鮮というあまりに過酷な土地を経由して中国を狙うのは危険過ぎた。 そもそも秀頼は秀吉の子ではないから士気が上がらないので勝てんです 秀頼が参陣しなきゃ外様の豊臣方大名らが参戦できないじゃん まあ赤ん坊にしてもさ
どっか隠れてるなら例え味方と言えども動けないだろ
関ヶ原ほとんど豊臣配下の近親衆のみだけだろ戦ったのさ トランプちやんヒユーストンシナチョンコエベンキ領事館閉鎖
シナチョンコエベンキは書類燃やして応戦
エベンキ中国大使館を捜査したら韓唐エベンキとシナチョンコエベンキの国賊証拠が頭狂エベンキドーム一杯ぶん出てくるんだろうな 中国狙っても維持ができないでよ
本拠地が落ちたとしてもまず従わないだろからそおなりゃ中国自体が分裂していくつも国がそのあと勃興することが考えられる あそこは一つのまとまった軍団て形式じゃないの
十以上の軍管区みたいのがそれぞれ存在していてそこから支持を取り付けた者が皇帝となるってやり方なんだよ
占領したらそれぞれの軍管区が独立して動き出すわけさ 反乱起こすのはだいたいどこかの軍管区の連中らが動きだして政権交代やからな
これはあくまで中国内部の身内話だからやがてはまたいずれまとまるわけ(°▽°) 力があるうちならまあおとなしく従ってることも考えられる
だが一度、力が衰えたな!となったらその政権に協力した連中ら含めていずれは壊滅の憂き目に合う
処刑方法もえげつないからな(°▽°)
人間バラバラにして解体料理を作りみんなで食ったらしいニダ(°▽°) 江南の長江流域だけでも占領して
農民から指示受ければそれで充分だろ。 食われるの嫌だから日本まで逃げてきたよ〜なやつらの伝説構成にしかならんだ(°▽°)
日本ではな 日本の捏造書籍とかじゃあ人間バラバラ料理になったよ!♪( ´▽`)は本が売れなくなるからお察し ●織田信長の息子・織田信孝の強い怨念と
(信孝は信長亡きあと豊臣秀吉に自殺に追い込まれたあげく
織田信孝の家族おろか妻の一族をまでも処刑された。)
信孝は豊臣秀吉に強い恨みを抱きながら最期の辞世の句
「昔よりの主を内海の野間なればやがて報いん羽柴筑前!」
現代訳
「昔よりここは主君を討つ故事の残る野間であるが、
後に時代がめぐり長田忠致が誅殺されたように、
やがてお前に必ずこの報いを晴らさんぞ秀吉よ!」
●豊臣秀吉による鳥取城全滅の渇え殺し城攻めと
三木城の煮込むような城内干殺し城攻めで
悲惨な状態で死んでいった城内に篭城して大量の死霊達の強い恨みが
徳川家康を頼って強い怨念霊達が家康に乗り移り豊臣一族を全滅させる為
大坂城攻めで豊臣一族全滅を決断させ、豊臣秀吉の一人息子秀頼を亡き者とし
秀頼の隠し子であった七才の国松の存在が発覚すると
家康号令の徳川方の執拗な捜索の末見つかり、民衆に晒され京で市中車引き回し後
家康自ら六条河原にて刀の握り、生前陰に陽に秀吉によって行われた悪行を強く糾弾し
徳川家康によって七才であるが豊臣家最期の血筋であるの国松の首を切り落とされる 結局、秀頼が言ったように徹底抗戦あるのみなんだが、
それが難しいんだよなぁ 勝つ方法?
前列を上げるならできるなら拠点を西国に移す 秀頼が秀吉の種じゃねえだろ。淀が豊臣を滅ぼしたんや 秀吉のキンタマは使い物にならんかったんやな
何でやろうな 若いころに高熱でも出したんじゃない
当時は栄養・衛生もよくなかっただろうし アホ韓唐はなぜにイソジンで発狂するのか
キチガイエベンキやからに決まっとるやんけ >>204
勝海舟は野良犬に襲われ陰嚢を噛み切られて睾丸が露出する程の裂傷を負ったのに、
生殖能力は失われなかったな。 >>207
チヨンこエベンキ半頭ゴキブリ寄生虫ひともどき韓唐だからだろ 大阪いらっしゃいキャンペンで観戦がトンキン土人抜いて首位に ここは泉南の田舎町。どこからかZAQ太鼓を叩く音が聞こえてくる。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪119.24.158.163!
歯が語るアイヌの先住性 講師 松村博文(札幌医科大学)
https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1721.pdf
比上肢長という体に対する腕の長さの比と足の長さの比をみると、アイヌ、東北人、畿内人の順に長い。
つまり、アイヌの人たちが一番腕や脚が長く、畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。
朝鮮半島の人々も畿内人と同じように腕や脚が比較的短いことがわかりました。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪119.24.158.163!
一瞬、東大阪のスラムに居るような感覚に私は襲われたのである。 仮に勝ったとしても淀や政治も知らないアホな女官の息子どもが統治し続けてたとも思えない スグに戦乱の世になって50年は無駄にしたと思うよ いくら淀君が強い立場だろうが、それだけで牢人衆を支配出来るとは思えん。
実際に豊鑑とかだと淀君はそんなに強硬派じゃなかったとあるらしいし。 ほだよ
武将とか将軍とかでもよいが人はそいつらにしか付いていかないからよ
秀頼が成人してりゃまだよかったんだがな もともと、豊臣家は戦争強くないし。
懐柔と内通で勝ち上がったのが秀吉 そんなんで勝ち抜いたのがバカやねんな
あと鎌倉の御家人とやらもバカや思うでな
昔、元寇あったろ
やつら日本にきたときは女らに対しては手に穴を開けて数珠繋ぎにして船に括り付けて人間の盾にしたの
そんで子供なんかいれば拐っていき奴隷にしただな
そゆ世界なんだが世界をまとめたすごいやつらだの唱えるだけのバカ学者が日本におるやん
死ねばよいとしか結果を見れば思わん
今度やったらモンゴル人ら皆殺しになるぞ チャンコロは皇帝なんてものなくなってよかったの
あいつら周りに迷惑しかかけとらん 秀頼出陣を淀殿が止めたのは、秀頼が大野治長や幸村など家臣や浪人にそそのかされたってことで、秀頼の助命を嘆願しようとした本丸の意向らしい。 秀頼出陣を淀殿が止めたのは、秀頼が大野治長や幸村など家臣や浪人にそそのかされたってことにして、治長や幸村の切腹と引き換えに、秀頼の助命を嘆願しようとした淀殿の意向らしい。
かつで秀吉が、備中高松城攻めで家臣や領民の助命と引き換えに切腹した清水宗治と違って、なんと女々しいことよ。 >>222
あの状況で秀頼が出て行っても今更誰も寝返らんだろう
家康を除いて秀吉存命中の恩顧大名はほとんど代かわり
しかも関ケ原で東軍について家康から所領を受けた大名ばかり
寝返る可能性のある奴は江戸留め置きなどにして
大坂に来ること不要と命じたし かつて、三法師には誰も忠義を尽くさなかった事と
秀頼への対応は一緒だよな。
血筋だけで代替わりできるほど戦国時代は甘くない 後明(鄭氏台湾)はまだオランダを駆逐できてないのか 血筋で言えば遥かに由緒正しい足利将軍でさえあの扱い
逆に言えば家康と秀忠を討ち取れれば織田政権のように割れるかもしれない
秀頼出陣となれば麾下の将兵の意気は天を衝く如し
たとえそれがダメでもビザンツ皇帝コンスタンティノス11世のように自ら騎兵を率い最後の騎馬突撃を敢行すれば天晴れ武士よとなり小屋で包囲されて惨めに心中するよりはずっと良かった >>228
何を笑うのかわからんな
どこが笑いどころかkwsk 秀頼は城から出れんじゃろう。
下手に出たら城を乗っ取られる。 夏の陣で徳川に内応しそうな武将は残ってるかなあ
織田有楽も退去してるし 冬の陣の段階で居なかった訳だから夏の陣とか自殺志望者しか来てくれんだろうなぁ 冬の陣て秀頼様、ご乱心による御謀反
状態だから誰も助けにはいけないわな あー徳川方からじゃなくて
秀頼が城出たら乗っ取られるという話があったからそれは城内に徳川に内通してる武将がいるという前提になる
冬の陣にはまだ胡散臭いのはかなり居たけど夏の陣ではその辺もう退去済みじゃないかなって思った 火の無い処に煙を立てるのが諜報の妙技よ。
真田信繁に土地を約束した、なんて話を広めるだけで(実際冬の陣ではやってた)効果はあったろうし…
秀頼のクビをとって手柄になる事も確かだったし。 徳川方も浅野裏切りの流言とか松平忠直が大坂城に突入したのを家康が忠直の裏切りと勘違いしたなど真偽は不明だがそうした話があった
浅野は豊家の親族 忠直は家康に叱責されていると言った何らかの素地があってのことではあるが
何せ天下分け目の関ヶ原も決着は裏切りによるわけだから疑心暗鬼にもなるだろう 豊臣側が大坂城で決戦するなら、冬の陣ですべきだった。
冬の陣のときはまだ城の堀が残っているから、何年でも籠城して、包囲する徳川陣の疲弊、
恩顧の大名の切り崩しを時間をかけてやればよかった。
冬の陣で簡単に和睦してはならなかった。 秀頼が淀を暗殺しておいて和睦
家光の代まで待ち、分け前の少なかった不満大名、九州勢、東北勢を集めて徳川討伐 秀頼自ら四国の土佐あたりに転封願い出せば
あとは長生きして機を待つ事が出来てよな。
負けて勝つ戦略を親父から学ばなかったのが残念 家康を討ち取れば和睦になったよ
家康の子供らは豊臣を潰す気はないからよ だから必死こいて家康を殺そうと豊臣方の武将らも決戦仕掛けたろ
家康がいなくなれば徳川方に付いてる武将らが離反するからよ 神君が負けた時の事なんて考えてどうすんの
豊臣の勝ちなんて日本沈没して終わりじゃん 脱出してタイに逃げ、タイに新大阪城を築いて復権を狙っていたが、実は大坂城で討ち死にしており、由比正雪の一子、由比道雪が替え玉をしていたのである。 >>242
実は逆で、家康は秀頼の事を潰したいとは思ってなかったけど秀忠は潰そうとしてたらしいな。 >>244
その逆の説もある
さらにその逆の逆の説もあるし
その逆もある 既に徳川の天下なのは明らかなので生き残ることが勝利
大坂城を明け渡して、公家として生きる 摂河泉65万石から大和郡山15万石への国がえを呑む 大坂を逃げ出すしかないが、馬にも乗れないんじゃなぁ 逃げ出すことが至難
手下が逃してくれない
これこれお殿様どこいくよ
と城に連れ戻される お家を遺す為に徳川に降伏する。
するんだけど、多分男子が産まれたらあの世行きだろうしなぁ。 大坂の陣のころなら、もう武力では勝てないから、公家として生きるしかないだろうな
公家なら朝臣だから、徳川の臣下になる必要はない
武家伝奏のような役目で、朝廷と江戸幕府の仲介のような役目を果たせばよい
領地は畿内に数万石あれば十分 夏の陣はもうどうにもならない無理ゲー
冬の陣なら初戦で勝てば勝機もあるだろ
どの方面に出兵するか
初戦京都遠征は勝ち目ないか?
秀頼を大阪城から出陣させると城を乗っ取られるから秀頼は大阪城縛りにしないとすぐゲームオーバーだろな 平家や足利の例に倣えば一旦大坂を捨て西国に落ち力を蓄えた上で反攻
毛利、島津、福島、加藤などを糾合、外国勢力も巻き込んで一大決戦を挑みたい 大坂を離れられない縛りがキツい。
しかも石高65万石しかない。
これで徳川と決戦はかなり難しい、というか不可能… 65万石というそこそこの領地があったのが、豊臣秀頼の進退を難しくした
1万石程度しかなかったら、もう失うものもあまりないので、喜連川足利氏のように、
高い家格を持つ貴種の家として、徳川将軍家の客将のような立場で生きることもできた 冬の陣の後、農民すら豊臣を見捨てて逃散、65万石すら維持できないとかいう事態が起きてるしこれはもう… 織田秀信のように前代の主君筋として残る道
長浜10万石程度であれば滅ぼすほどのこともなかっただろう大坂城があまりにも巨大過ぎた
関ヶ原の後毛利が残存兵力を統合して大坂城でなお徳川と一戦し城が焼け落ちるとかしていれば状況も変わっていただろう
無論毛利が勝手にやったことという事で秀頼が早々に城を退去している必要はある 秀頼が家臣団を集めた目の前で、淀殿の捕縛を命じて、有無を言わせず、秀忠の陣地に護送し、土下座させるように仕向ける。
そのまま、人質として江戸で暮らすようにさせる。
それでもダメなら、淀殿の顔を見に行くという名目で、秀頼が城を出る。 夏の陣だとどう見ても無理ゲーだが、
後南朝方式で吉野の山奥にひたすら逃げて、
明治維新まで持ちこたえるという手を使うという手は誰も考えないのかな? 大坂城がなまじっか堅牢だったのがいけない。
軟弱な作りだったり実用性より美麗さを重視してたら大坂より離脱しようという考えもあったろう。
堅牢だったが故に撤退を考えられなくなり、
更に大坂城建築当時には考えられもしなかった状況、つまり全日本軍が一斉に攻めてくるという状況に陥ったのが痛かった。 孤城に国中が攻め寄せてきた例は近くは小田原城、遠くは千早城、未来には原城がある
状況に色々違いはあるが原城は未来人が指揮しても絶望的だろう
冬の陣の大阪城は小田原城とどちらが勝機があっただろうか 豊臣方は色々機能不全に陥っとる。
大坂城唯一の弱点(であるが故に真田丸も作られたと言われる)の南口を担当してる織田が徳川と内通、不戦の約定を結んでる。
更に東と西からは横堀(塹壕)を掘り抜いて攻撃しようと徳川方が迫ってきてる。
豊臣方最大閥の織田は排除出来ない、やろうとすれば秀頼を暗殺して徳川への手柄にされかねない。
退くも進むも出来ない… 秀頼の家庭教師の中には六角氏の末裔がいたのだよなww
六角氏の伝統を伝授しなかったのかねぇww
甲賀にとりあえず逃げて、いつの間にか復活するというやり口をww 秀頼の遺児を京極に預けて隠していたが
大坂の役後に家康から出せと言われて出して
六条河原で処刑された 幕府お庭番山中大和守を京極に潜入させて、発覚しました 淀君が強硬だったという話もあるが、
豊鑑なんかだと秀頼の方が強硬なんだよな… >>275
もし妾腹でなく千姫の子なれば、自分の曾孫ゆえ家康は殺せたか?
信康の時と単純比較はできんが。 続きそれを秀吉は計算してたのかも。思惑通りにはいかなんだが。 >>278
秀頼が謀反した後だと良くて出家だろうなぁ 隣国を始めとした他国なら「宦官」技術を用いて・・・ 事此処まで至ればお家を残せば大勝利よ。
てことで大坂からダッシュで逃げろ秀頼 秀頼は京都に屋敷を立てて、時々、上洛して滞在して朝廷や公家との交流を深めていき、
少しずつ大坂城から距離を置いていけばよかった。
大坂退去を要求されれば、65万石相当の荘園と公卿クラスの家格、京都在住を要求すれば
よかった。その後は摂家と肩を並べる公家として生きればよい。 徳川方の提案を受け入れて、大阪を退去し、上総安房の二カ国太守になっていたらどうなっていただろうか。
御三家に準ずる待遇を与えられて親藩になっていたのだろうか。 >>285
信雄の扱い見る限り大減封は避けられないと思う。よくて10万、下手すりゃ3万程度まである。一応有楽斎と言う交渉役はいたんだから勿体なかった。 前田利常みたいにやって警戒解いていけばもしかしたら大大名として生き残れた可能性も >>284
秀吉は死の直前、内裏のすぐ近くに京都新城を建てた
将来、秀頼が関白になった時に住めるように
秀吉死後は秀頼成長までは堅固な城で暮らせという秀吉の遺言で秀頼は大坂城へ入り
京都新城には留守を預かって嫡母の北政所が住んだ
しかし関ケ原の時に徳川軍が京都新城を壊した
そら内裏の近くに豊臣の城があったら面白くないからね
以降は京都に豊臣の城や屋敷を持つことなど家康が許さなかった 和歌山に移住して1大名として生きれば毛利見たいに260年後にひっくり返す事も出来た いそじん「宣言解除してアベコロナで強盗ヘヴンや
よっしゃ、よっしゃあ」 洗濯していないのか、どこか薄汚れた感じが暗い夜道でもわかる。甘苦い体臭、そこに風呂に入っていないのか垢と安もの化粧品の匂いが入り混じっている。
「お兄ちゃん、遊んでいかへん?“1本”でええで。お正月やんか。温めあおうや!」
「1万円?」と問うと、「1000円や!」と言う。
諸説あるものの、地域住民らの話では、西成で“立ちん坊”と呼ばれる路上売春婦の相場は、路上での行為で500〜800円だが、最初は1000円と吹っかけてくるのだそうだ。
もっとも「350円まで値切ることができる」(路上生活者・64歳)という声もあった。
その路上売春婦に遭遇したというわけだ。ちなみに350円という額は、西成ではカレーライスを食べてもお釣りがくる額である。
大阪市西成区「居酒屋で覚醒剤を売るな!」
https://i.imgur.com/hGq1dvT.jpg 秀頼21歳だったんだよね
色々説はあるがそこまで生かしといて、訳のわからん
ことしてるからあまり能力はなかったんでしょう
家康も14年も待ったというから殺す気はなかったんでしょうね
関ヶ原から大阪の陣まで14年
これは長いわ
殺すしかなかったんでしょう
まあ、わかります。家康も死を意識する歳でもし
自分が死んだ後どうなるかと考えるとどうしようも
なかった。
それすら読めないんですから
大阪城から出ていればこんなことにはならなかった 秀頼の才能については未知数過ぎる。
大坂城は既に牢人衆に占拠されてる。
百戦錬磨の牢人衆からすれば、若い、しかも戦場を知らない秀頼の指揮なんかに従えないだろうし。 大名たちからすれば、すでに徳川の天下になってしまっていたし、六十五万石の一大名に転落した豊臣に呼応して徳川とやりあってもメリットがない。
一発逆転大出世を狙う数百の猛者と烏合の衆が十万人いても結局は日本中から集められた徳川の大軍勢の敵では無い。
大人しく大阪城を出て、摂家ではなく、新興の世襲清華家として公家社会に組み込まれて生きていくしかない。 武家として徳川方の提案を受け入れて、上総安房二カ国の太守になっても、官位が高すぎると秀頼一代限りの正二位右大臣で、家光の時代に難癖をつけられて領地没収、高家旗本に降格させられて官位は従四位下侍従 石高は4000石という感じになりそう。 ・大坂城は優れた防衛力がある。
・牢人とは言え、10万人規模の軍事力がある。
・秀吉の残した御金蔵があり、戦費は豊富にある。
・秀吉の嫡子であり、高い官位を持つ秀頼には、家康と戦う名分がある。
・家康は高齢であり、粘っているうちに亡くなる可能性があり、情勢が変わる余地がある。
・城を出て防衛力を失えば、命を奪われるリスクがある。
上記のことを考えれば、大坂城でぎりぎりまで粘った上で、決戦に出るのは合理的だとも言える。
秀頼の立場では、史実のようにするしかなかったと思う。 前田も越中国を返上せよと言われたから
秀頼も自分から摂津と大坂城を返上します
と言えば河泉38万石の国持(次の代から内大臣だった信雄の家のように少将)
で残れたかもしれない どれだけ上手く立ち回っても転封は避けられなかったでしょ。転封ならド僻地の宇和島あたりじゃね? >>300
記録だと徳川方の提案は大阪城を明け渡して、上総安房二カ国に転封だったけど、豊臣方は大阪城を明け渡す条件に上方二カ国を要求したから交渉が決裂したんやで 河内和泉は清洲会議で正当に得た領地だろうに
家康の甲信は火事場泥棒 >>302
もっと僻地かと思ったが位置的に一応準親藩の扱いなんだな
そんな好条件を蹴った秀頼はやっぱアホだわ >>304
千葉県とか、袋のネズミじゃね?
いつでも殺せる 太閤秀吉の嫡子、織田信長の血も引く、右大臣、正室が千姫というエリート中のエリート
本来なら天下人なわけで幕府の序列外、客将として江戸時代前半は丁重に扱われたことだろう。 >>305
譜代は近く外様は遠くに、が幕府の基本姿勢だから信頼の証とも言える。
確かに徳川が抹殺の意思を持ってたら死は避けられないが大坂城に籠っていてもどうせ死ぬんだもの。
戦争しても勝てるワケが無いんだから従うしかない。 >>302 >>307
本当にその気があったかは眉唾だろ
実際には大阪城明け渡したら高野山追放で出家隠遁
適当なところで刺客差し向けだろ
家康の本心は秀頼を怒らせて市中引き回しの上処刑することだ
家康は大坂の役の後8歳の遺児国松を「父、祖父の罰を受けるのである」として
これは豊臣秀吉の代わりだとして市中引き回しして六条河原で処刑した
神に祭り上げられている豊臣秀吉の神号を奪い墓をぶち壊した
それでようやく江戸幕府は安泰になった 大人しく提案をのんでくれなかったから、徳川に逆らったらこうなるという見せしめも兼ねて厳しい処罰をしただけではないのかな。
恭順の意を示したのにもかかわらず、騙し打ちの如く温情をかけずに殺したりしてしまったら、それこそまだ盤石と言えない徳川の治世が揺らぎかねない。
それこそそれを理由として反徳川の兵をあげる大名も出てくる可能性もある。 大人しく恭順すれば厚遇するという懐の深いところをみせたほうが得策では おそらく大人しく徳川の軍門に降っていれば命は助かった可能性が高い。
ただ、千姫との間に男児が出来たらどうなっていたかはわからんけど。
徳川からすると一応摂家の豊臣の血は朝廷支配の上で有益なのでこれを使ったとしてもおかしくない。 「大人しく」「大人しく」って同じ人の書き込みだろうが
豊臣潰してこその江戸幕府
秀頼を生かし秀吉の権威も保ったまま
豊臣恩顧大名も改易せず大封を保ったまま温存なら
家康の神号授与や神格化も難しかったしもっと早くに江戸幕府は潰れてた 権威はそのままなわけないよ
そのまんまだったらいつ反徳川の神輿として担がれるかわからない
徳川、松平の血をどんどん入れて、足利幕府における三管領家みたいな家格にしたかもね
まあ、上総安房だと譜代親藩に取り囲まれているから変な動きをしたらそれこそ潰してしまえる 豊臣に近い大名は少しずつ言いがかりつけて領地減らして力を削いでいけばいい
それこそ福島正則の末路のようにね
正面切ってぶつかるだけが戦ではないと思う 福島正則は割と自業自得だからなんとも言えん。
実際、秀頼が親徳川の姿勢を見せていたら生き残れていた公算は高いよ。
徳川としても豊臣の血は使い道があるから。
単純に生き残る事を目標にするなら我を通さず徳川に恭順するしかない。 サンカの血を引いていたら
サンカがなんとかしただろうけど
血を引いてなかったのかもね 追い詰められたものの、戦いは勝機がなく、大きく譲歩すれば助かるかもしれない
こういう時に主戦論ではなく身を切る譲歩で家中をまとめる事ができる大将は少ない 家康はそれができた
浅井や北条はそれが出来ず豊臣もおなじであり
大日本帝国も同じ轍を踏んだ 親徳川の羽柴分家を立て転封に応じればいい
それで徳川についた北条(氏規系)と織田(有楽系)と宇喜多(坂崎)は小大名で生き残った い・そじん「マンボウやで全員集合
吉村式のマスク会食でマスクばい菌を食器やテーブルに付けまくって
大阪コロナが大爆発や」 豊臣は豊臣を神輿にしようとした浪人どもを切り捨てて豊臣家という公家で生きるか津軽5万石程度の藩主として存続を図るべきだった 天候がよければそれくらい獲れたんでしょうが、江戸時代の東北は冷夏とやまきに悩まされていたのだ 30万石クラスの井伊や藤堂、越前と同じ伯爵>津軽
叙爵は年貢実高で決められ
勤王か賊軍かは関係ない(会津は斗南の石高)
新政府に協力した榊原は子爵止まり 松前(蛎崎)が蝦夷福山3万石(実際は当時は米がとれず無高)から
伊達梁川12万石に転封を命じられて落胆したくらいだからな
蝦夷地は宝の山だった 幕府が開かれなく豊臣政権が続いてたら天皇政治になっていただろう。
大阪というのは神武天皇の活動地
そこに城を築いたのにも多分わけがある 無理そもそも武士は地方豪族の系譜
中央は当時も貧乏とはいえ貴族や皇室がいた畿内
秀吉は貴族の仲間入りを目指した時点で
そこに齟齬が生じていた
また中央のみに富が集中する方式を採用
これに反し徳川は地方分権地方再興殖産興業を考えていた
江戸が発展する様子を見りゃ地方豪族領主で経営に明るけりゃ徳川につくだろ まあ堀を埋めさせず天変地異でも待つしか手は無かったかな 琉球へ逃れ琉球王国を設立すれば豊臣は続いたかもしれない まず間者を使って
豊臣に逆らえしものは罰を受けると言いふらす。
次に天然痘患者を大量にかき集めて徳川へ送りつける。さらに書状・贈り物に患者の息や体液をたっぷりとつけて家康へ送る。天然痘の潜伏期間は3日から10日ほどだからこれで兵糧尽きる前に徳川壊滅できる。
他の日和見大名には太閤殿下の祟りじゃと言って降伏するよう説得。大阪城に籠城して堀池を張り巡らせて出入りを制限し使者も切り捨てるなどの感染対策してれば自爆はしないであろう。 勝てる可能性よりも負ける可能性が低い判断をする家康
家康が動いたからには99.9%失敗しない判断
勝てるって発想が無理 砲弾にビビって和睦とわめいた淀を排除すればよかった
そしたら堀を埋められることもなかったし
徹底抗戦で勝てるチャンスはあったと思う
勝てないまでもズルズル時間を稼ぐことは出来た
家康は長期戦になるのを一番恐れていたんだし
実際わずか一年後に病死するしな 家康が大坂城に撃ち込んだ大砲を大坂方も揃えれば良かったんちゃう?
城の方が高いところから打ち込めるから射程距離も長そうだし 中世、ルネサンスのヨーロッパみたいに、傭兵があったら、
城内の軍資金で雇った傭兵を使ったのに。
仕官目当ての浪人に頼ったのも不利になった。 >>345
成功したとしても
政宗が後見役になり忠輝が三代将軍になり幕府は崩壊しない
ただし西国豊臣恩顧大名に対しての求心力が弱くなり幕府離反も 淀君暗殺による女房衆勢力削減、戦目付五人衆、真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長曽我部盛親、明石掃部による必勝策を、一言 夏の陣で遅滞行動(戦闘は避ける)の末、ほぼ無傷で大阪城に籠城
これで勝てる 大坂城を鉄筋コンクリートで造り、真田丸に機関砲があれば勝てたんじゃないの 家康が命じた工事を秀頼が一切拒否してたら金の力で関ヶ原の残党を大勢雇って勝てたかもしれない https://i.imgur.com/MQO0VfW.png
この布陣図見ていつも思うけどさ
十万の大阪方全軍で茶臼山と岡山の家康と秀忠に夜襲でも仕掛けたら良かったのに
朝鮮と関ヶ原でろくに戦ってない徳川軍は夏の陣のとおり
驚く程の雑魚に成り下がってるからね
北と東西の援軍がくる前に首獲られるんじゃね まあ単純に大阪方の戦が下手だっただけだよね
むしろ負けたのが不思議なくらい 大坂方が幕府と戦争するために集めた浪人が戦場で強い武辺者ばかりなのは素人目から見ても戦をまるで何もわかってないのが丸出しで笑う
その集めた浪人たちを制御できなくなる羽目になるのもどう考えてもバカすぎて笑う
こんなんで幕府に戦争ふっかけて勝てるか 何もかも差がありすぎるんだけど、江戸で政治の実績積んできた秀忠と狭い大坂城でプライドだけやたらと肥大化させてきた秀頼の差が一番ひどい 秀頼が寺社仏閣の再建工事を断ってたら金の力で徳川に勝てたかもしれない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています