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天皇制のルーツは結局何なのか2

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0001アッシー
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2020/07/01(水) 16:33:11.28
スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。
0003日本@名無史さん
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2020/07/01(水) 20:19:26.48
薩摩から向かうところ敵なしだった神武勢は、生駒で長脛彦勢に太刀打ちできずに退却し、
紀伊半島をぐるっとまわって宇陀から奈良盆地へ入った。
そして、在地の勢力をなで斬りにして制圧したが、このことは神武勢は圧倒的に強力だったことを示している。
ところが、満を持して長脛彦勢に戦いを挑んでも、強力なはずの神武勢は長脛彦の勢力を打ち負かせなかった。
ということは、長脛彦の勢力はこの当時の西日本で最も強い勢力だったことを表している。
長脛彦の勢力は四条畷の馬飼い女真族の一派であり、女真族は身長も体格もよく170pを越える偉丈夫だったのだ。
長脛彦の名はその長身にちなんだ名だ。
さてこれらは、日本書紀編纂室の脚色であるが、こうした脚色をした背景として、
404年に高句麗の帯方地方へ攻め入った倭軍が好太王の軍に撃退されたことがトラウマとして残っていたことがあったからではないか。
女真族は高句麗に馬を供給していた部族であり、騎馬を得意とした。
倭は5世紀中頃になると女真族を招いて本格的に馬の導入を図る。
日本書紀編纂室が長脛彦を強力無比に描いているのは、倭軍が高句麗に敗れたことがトラウマとして残っていたからだろう。
0004日本@名無史さん
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2020/07/01(水) 20:40:08.56
>>3
長脛彦の地盤は登美と書かれているが、これは白庭台あたりだろう。
この白庭台の背後の国道が十字にクロスする交差点の北側の山頂が饒速日が飛び降りた哮ヶ峰だ。
饒速日は、四条畷の馬飼いの女真族が街道の要衝を牛耳るために置いた始祖神だろう。
物部氏は、あとからこの女真族の始祖神を自らの系譜に取り込んだのだ。
日本書紀編纂室は、その物部氏の始祖話を本気で信じていたのかも知れない。
0005日本@名無史さん
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2020/07/01(水) 21:05:21.07
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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0006日本@名無史さん
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2020/07/01(水) 23:42:23.48
俺の計算だと
神武即位は249年になる
神武は男王を倒し新女王を誕生させた武将
0007日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 01:24:47.95
物部十市根から7代前が饒速日。
1代20年としても饒速日は十市根から140年前でしかない。
天理石上の物部十市根を5世紀後半とした場合、饒速日は320年過ぎになるから、
饒速日は成務天皇の頃という計算になる。
ということは、神武は成務だったという意表をつく結論だよ。
そして、成務以前は誰もいなかったということだ。
0008日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 12:22:56.17
>>1
>これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか

長脛彦は馬の日本での導入(=4世紀前半)以前。
時系列が無茶苦茶。
乃木将軍がスマホで切符を予約して新幹線で東京から大阪に移動した、みたいな話。
0009日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 12:30:21.22
>物部十市根から7代前が饒速日。
>1代20年としても饒速日は十市根から140年前でしかない。

そこまではいい。

>天理石上の物部十市根を5世紀後半とした場合、饒速日は320年過ぎになるから、

なんでやねん。
十市根は垂仁天皇の時代。
古事記の没年干支で崇神が318年没、垂仁は320年ごろ、
そこから140年を引くと180年。
ニギハヤヒは180年、卑弥呼の即位時期。

>饒速日は成務天皇の頃という計算になる。

饒速日は神武天皇と卑弥呼の頃という計算になる
0010日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 13:36:40.08
天コロも建業あたりに帰りたいならさっさと帰ればいいのになw
0011日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 13:53:00.43
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


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0012日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 15:26:58.44
>>8
乃木将軍がスマホを使っているイメージを今作れるのと同じで、日本書紀編纂室が馬以前の時代へ饒速日を持って行っただけの単純な創作神話なのよ。
0013日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 15:42:47.79
>>9
崇神から応神までの期間に二人の天皇が消されている。
ヤマトタケルと神功皇后がその二人。
なので、応神の没年が300年代後半なので、崇神が318年ということはない。
饒速日が成務天皇の頃になるとしたのは、物部氏の系図があやしいことを示したに過ぎん。

饒速日を物部氏が取り込んだのは、天理物部氏と交野物部氏が天野川の峡谷を開いて交易路で結んだ頃だろう。
5世紀後半からさほど経っていない頃ではないか。
0014日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 17:10:17.40
日本国天皇が古代ユダヤ系というのは 違うと思う
天皇家 古代神道にユダヤ教の影響を見るからだろうが
実際はシュメール文明の影響だろう
シュメール人は国家滅亡後アジアへ移動しシナ大陸に
たどり着いたという少数民族の言い伝えがある
シュメール系民族の特徴は
@天の子孫と自分たちを考えてる
A個人より国家社会のほうが大切
この特徴は後の日本民族と一致している
邪馬台国卑弥呼とはまったく意識が違うから別の国だ
0015日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 17:28:46.63
>>13
この新しい交易路を開くというケースは、この時期には普通にあったこと。
よく似たケースは太秦に進出した秦氏の場合でもみられる。
秦氏が深草から太秦に進出したのは5世紀後半と考えられている。
その時期以前には、山城から中国地方へ向かう街道は向日が要衝となっていたようだ。
ここには5世紀後半以前からの古墳群がみられるので、向日の要衝に陣取っていた勢力がいたことを示している。
秦氏が太秦に進出し、この向日の要衝を通らずに、秦氏が専用できる街道を新たに開いたのが、嵯峨野から保津峡を経て亀岡へ出る山越えのルートだ。
これと同じで、天理などから淀川を越えるルートは下原田から四条畷に出て、三島江の渡しで淀川を渡河するルートだったのだろう。
そこで、5世紀後半に天理に進出した物部氏は、下田原から四条畷に続く街道を牛耳っていた馬飼い女真族を避けて物部氏が専用に仕える街道を開いたのが天野川の峡谷だったと思われる。
秦氏のケースと同じで、峠越えの難路となっている。
この天野川の峡谷の街道を開くときに、下田原の峰に鎮座していた四条畷女真族の氏神饒速日を物部氏が取り込んで、その街道の専用権を握ったのだろう。
この時期が、物部十市根のときではないか。
0016日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 17:57:26.21
>>14
シュメールとの関連は一概に排除できない。
というのも、八岐大蛇は八頭の大蛇という意味だが、シュメールでは七頭の蛇が遺跡に描かれている。
日本の八岐大蛇神話はシュメールの七頭蛇が元かも知れんからね。
しかし、日本の神話はその多頭の蛇を退治するストーリーになっているから、
仮にシュメールが八岐大蛇神話に関係していたとしても、
やっぱ、ユダヤ教に圧倒された面があるのかもな。
0017日本@名無史さん
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2020/07/02(木) 18:04:51.57
>>16
シュメールの七頭蛇は、奇数を尊ぶ文化が生み出したもの。
そのシュメールの七頭蛇を八頭蛇に変えたのは、偶数を尊ぶ縄文文化のなせるわざ。
シュメールは縄文文化の偶数崇拝に負けたということかもな。
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