天皇制のルーツは結局何なのか2
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スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。 >>16
シュメールの七頭蛇は、奇数を尊ぶ文化が生み出したもの。
そのシュメールの七頭蛇を八頭蛇に変えたのは、偶数を尊ぶ縄文文化のなせるわざ。
シュメールは縄文文化の偶数崇拝に負けたということかもな。 >>17
ユダヤ教は七曜日だから奇数尊重文化。
縄文の偶数崇拝が八の末広がりだから、天皇=ユダヤ教は少し無理がある。 >>19
最古の在日は偶数崇拝だったとみていいのね。 朝鮮日報の調べでは、韓国人は奇数好きらしいな。
偶数好きの日本人とは好みが違うということになる。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>15
物部十市根が物部の姓をもらったのが垂仁天皇のときだと先代旧事本紀が書いているようだが、実際には雄略天皇のときではないか。
西乗鞍古墳あたりが十市根の古墳かも。
物部氏が大族化していく最初の物部の首長だろう。 >>23
雄略から継体まで各天皇の在位期間合計は75年。
物部十市根を5世紀後半の雄略のときの人物とすると、継体のときに磐井征討将軍になった物部アラカイまでは8代なので、
1代10年とすれば80年。
物部十市根を雄略のときの人物とする想定は、ほぼ合っている。
雄略の時に天理の杣之内に鍛冶工房を設けた物部氏は、十市根だったとすることに不都合はない。
十市根が四条畷の馬飼い女真族の氏神である下原田の饒速日を取り込んで、交野の物部との間の直通の道を開いて鉄素材を天理の杣之内に運び込んだのだろう。
もしかすれば、この際の白庭台の女真族とのいざこざが、神武と長脛彦との戦いのモデルになったのかも知れんしな。 >>11>>22
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます 全身刺青の倭人の島とかフィクションだろう
罪人流刑の台湾じゃないのかw どうして罪人流刑の地・台湾に富を注ぎこんだのか?大日本帝国の七不思議 万年奴隷の地である朝鮮半島と千年流刑の地である台湾島なら支配しやすいと思ったんじゃね? >>26
魏志倭人伝の倭人が台湾の間違いだとしたら
次に登場するのは宋書だから、その宋書の倭人も台湾人なのか?日本人なのか?不明になる。
朝鮮の南部の人間も倭人とか言ってる可能性もあるしな。 魏志倭人伝の頃には楽狼郡あったんだろ
記述どおりの道程だと沖縄とか台湾に全身刺青の巫女がいた筈で
全身刺青の鯨布みたいなのがウヨウヨしていたのが・・・千年流刑島・台湾 魏志が日本じゃないとして
宋書の倭人が日本だと言う証拠は無くなるな。 東夷だか鮮卑の白馬将軍のところから陸路でいけばすぐ着くのに
わざわざ船旅一週間でドコにいったんだろうな .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 物部の系図では、饒速日の子のウマシマジの次が湯支命(ユギノミコト)となっている。
この湯支(ユギ)は弓削のことであり、弓矢を作る弓削氏がウマシマジの子として三代目の位置に置かれているわけだ。
弓削氏が物部氏の一党として系図にみえるのはずっとあとのこと。
なので、この三代目に弓削氏が置かれていることには、理由があるのだということになる。
では、なぜ物部氏の系図に弓削氏と思われる名前が書かれているのか、ということが焦点だ。
弓削氏は弓矢を専門的に作る集団。
ウマシマジの次にこの弓削の名が置かれているのは、饒速日の天羽羽矢と歩靫を作る技術をこの弓削が受け継いでいるのだと主張するためだ。
つまり、系図の湯支(ユギ)が饒速日の後継者だと示していることになるもの。
その湯支(弓削)を物部氏の系図に組み込むことによって、物部氏の始祖が饒速日であると主張できることになるわけだ。
そして、後になって弓削氏は実際に物部氏の血縁氏族として登場してくる。これはアリバイ作りの側面があるのではないか。
この湯支(弓削)をウマシマジの子から削除すると、物部氏は饒速日を始祖として主張できなくなるのであるから、
元々饒速日は物部氏とは無関係の存在であったことが推定できることになる。
要するに、物部氏は饒速日を後で取り込んだということになってくるのである。 >>31
倭人の言葉の初出は、1世紀頃に書かれた論衡の(倭人)だけどな。
しかし、この倭の字が(ワ)と発音された証拠はない。
倭は(イ)とも読み、論衡の倭人は(イジン)だった可能性は高い。
実際、春秋時代の魯の宣公の名は倭で、この倭は(タイ)あるいは(イ)と読まれたとされている。
論衡の倭人(イジン)とは、中国江蘇省の淮河の下流域の種族のことだろう。
その倭人(イジン)が移住したところである九州の住民を倭人(ワジン)と呼び変えたということだろう。
まあ、台湾を魏志倭人伝の倭とするのは、ちょつと無理なんとちゃう? 日本書紀は倭人の事を全く伝えていない。
だから、畿内王権は倭人の国ではないのだ。
倭人は南方的風俗を持っていて、畿内王権は北方的だ。
とくに高句麗とよく似た風俗を持っているのが畿内。
邪馬台国が畿内にあったのなら、邪馬台国は高句麗に滅ぼされたのでもなければつじつまが合わない >>13
>崇神から応神までの期間に二人の天皇が消されている。
ヤマトタケルと神功皇后がその二人。
なので、応神の没年が300年代後半なので、崇神が318年ということはない。
脳内で勝手に捜索するな。
神功皇后は別に消されてはいないし仲哀と同世代。
ヤマトタケルはその仲哀の叔父であって何か問題あるのか。
古事記の没年干支からも、考古学的にも崇神=318年没は最有力だ。 >>24
>物部十市根を雄略のときの人物とする想定は、ほぼ合っている。
合ってるわけないだろ、このハゲ〜〜〜〜〜
時系列無茶くちゃするなウンコ野郎。 飛鳥の蘇我氏の墓と目される墓が高句麗式の階段状積石塚である事が判った。
高句麗発のオンドルが飛鳥で発掘されている。
その他。推古天皇は蘇我氏を高句麗人に見立ててほめそやしている。
蘇我氏は高句麗から来たのではないか?
蘇我氏の由来はハッキリわからないが継体天皇の治世の頃から頭角を現した。
継体天皇は越の国から来たと言われているが大陸と深いかかわるがある。
小松は元来、「高麗の津」から変じたものと思われる。
「越」も渡来人を指す言葉である。
継体天皇は高句麗人だったのではないか? >>39
ヤマトタケルは宋書の倭王武をイメージして創造されたキャラであり架空の人物だよ。
倭武を大和読みすれば「ヤマトタケル」になるだろ?
宋書が伝える倭王武は戦いに明け暮れていた。日本武尊も戦いに明け暮れていた。
宋書の時代の日本の天皇と言えば雄略天皇にあてはめる向きが多いけれど、雄略天皇は
は内政宮廷内のライバルを殺す話ばかり。戦争はしていない。
倭王武とは全く合わない。
日本書紀は倭王武を日本武尊として描いたのさ。 >>41
>飛鳥の蘇我氏の墓と目される墓が高句麗式の階段状積石塚
仏教の須弥山世界観から来たもので岡山の熊山遺跡、堺の土塔なで同型のもの複数はある。
>推古天皇は蘇我氏を高句麗人に見立ててほめそやしている。
いつ、どこで?
>継体天皇は高句麗人だったのではないか?
皇室のY−DNAは縄文系D1b2.
渡来系である、などという説が入り込む余地はない。 >>36
物部氏の系図の三代の湯支命(ユギノミコト)の親はウマシマジ、さらにその親は饒速日となっており、
一方、弓削氏の本貫のある八尾市の弓削神社の祭神は、饒速日とウマシマジだから、物部氏の湯支命が弓削氏に相当する名であるのは明らか。
物部氏が饒速日を自分の始祖として取り込むについて、系図上で弓削氏をうまく利用したのは、まず間違いないだろう。
ということは、饒速日は物部氏の始祖神ではなかったことが考えられるのよ。
饒速日は、四条畷の馬飼い女真族の氏神だった可能性が高い。 >>42
おぬしを天才だと評価するのにやぶさかではないが、
宋書に書かれているのは「倭王の武」であって、その王の字を外した「倭武」ではないからなあ。
中国の日本に対する正式呼称は倭(ワ)であり、(ヤマト)ではありません。
また同じく武は(ブ)であって、(タケル)ではありませんから。
ヤマトタケルノミコトを日本書紀は日本武尊と書いていて、倭の字を使ってないのは、倭王武とはちゃんと区別していたということとちゃう?
古事記はヤマトに倭の字を使っているが、タケルは建だしね。
日本の史料では、倭武(ヤマトタケル)は存在しないのよ。 >>39
日本書紀は神功を摂政としているが、天皇であった女性がいたのではないかとする説はある。
また景行天皇紀の構成は不自然で、ヤマトタケルに当たる天皇がいたのではないかとする説もある。
この二人の天皇消し去り説からすると、崇神〜応神までの期間が3世紀後半〜4世紀後半でぴったり。
なんの問題もない。 >>38
魏略や倭人伝は大和あたりの人民を九州倭人と同じ倭種だと書いているから、この時期には高句麗大和打倒説は無理。 >>39
垂仁、景行、成務の在位期間が長すぎる。
この間に消された天皇を設定すると、ちょうどいい塩梅になる。 >>45
雄略天皇が倭王武であった可能性はあるけど
確実では無いわな。 階段状積石塚もオンドルも百済から入ったものだろう
蘇我氏は須我氏から分かれた日系だが、仏教を擁護したので
百済本国や百済系帰化人に熱く支持されたのではないかな 蘇我氏は東漢氏みたいな、渡来系豪族を懐柔してたからな。 オンドル構造は、間違いなく渡来系の集団しかない。
渡来系集落の目安として使われる構造。 >>43
>>飛鳥の蘇我氏の墓と目される墓が高句麗式の階段状積石塚
> 仏教の須弥山世界観から来たもので岡山の熊山遺跡、堺の土塔なで同型のもの複数はある。
それらも高句麗人が作ったとして何の問題もない
>>推古天皇は蘇我氏を高句麗人に見立ててほめそやしている。
>いつ、どこで?
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
「呉の真刀」の「呉」とは高句麗の事。
>>継体天皇は高句麗人だったのではないか?
>皇室のY−DNAは縄文系D1b2.
半島にもわずかだがD1b2はあるよ。
高句麗は唐に滅ぼされたとき皆殺しになったから本流は消えただろうが、傍流は僅かに残った可能性がある。
そもそも、中国北方民族は縄文人の子孫だから、
http://itannokodaisi.shisyou.com/img034_2.gif >>51
日本の最古の寺の伽藍は高句麗式
聖徳太子の養育係は高句麗の僧。 >>22
歴博の学者は歴史を捏造する為にいるようなもの。奴らの言う事信じたら恥をかく。
歴博は旧石器捏造にも関わっているぞ。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 竜信仰は北方で始まったもの。
弥生人は長江流域の稲作民だよ。 烏帽子はとんがり帽子、サカ
トサカも同じ
塞の神、クナト
延喜式にも皇御孫之命は八衢彦、八衢姫、クナトとある >>44
物部氏の系図の人物名は、湯支命(ユギノミコト=弓削)でも分かるように実際の神様の名を隠して書かれているフシがある。
湯支命からの人物名は、以下のように対照できる。
意冨禰命(オホネノミコト)→大己貴尊(オホナムチノミコト=出雲大社)。 オホネとオホナはよく似ている。
出石心大臣命(イヅシココロオホオミノミコト)→天日槍命=但馬の出石神社。 出石心大臣は天日槍命を指している。
大矢口宿禰(オホヤグチノスクネ)→大山祇命(オホヤマヅミノミコト=淀川三島江の三島鴨神社)。 オホヤとオホヤがぴったり。
大綜杵宿禰(オホソキネノミコト)→この大綜杵宿禰は三島江の大矢口宿禰と三島江の対岸にある伊加賀の色雄との間に置かれており、淀川の中、即ち淀川の水流を指していることになる。
綜は織機の縦糸を上下させる道具で、杵は上下に動いて臼の中の穀粒を搗いて脱穀する道具。この器具と淀川の水流との関係をみれば、
水車によって綜や杵を上下させるイメージを描くことができる。その水車を回すのが淀川の水流ということになり、
大綜杵宿禰は淀川の水車を回す水神を表していると考えることができる。枚方市の旧伊加賀村に意賀美神社(オカミジンジャ)があったとのとことであり(現在は枚方市上之町に在る)、
この神社の祭神の高オカミ神が大綜杵宿禰に当たると考えることができる。高オカミ神は水神である。
伊香色雄命(イカガシコオノミコト)→淀川左岸の伊加賀の地名に当たる。この伊加賀の東には物部氏の拠点であった交野がある。
このように対照してみると、交野から淀川を渡り、但馬の出石に出て、それから出雲に至る交易路の要衝にある神社の祭神の名が、物部氏の系図の人物の名と実によく符号していることが分かる。
こうした観点から物部氏の系図をみると、その人物名は交野から出雲に至る交易路の要衝の神を連ねて並べているだけのようにみえる。
つまり、物部氏の系図は、物部氏のルーツを探るうえでほとんど何の情報も与えてくれないものであるという事になって来るのである。 >>59
トサカかあ〜。
トは頭(トオ)のトかな。
サカはな〜んだ。
面白いね。 東京大学の歴史学者である本郷教授の解説によると、1873年に2月11日を「紀元節」に制定したが、その2月11日は神武天皇が即位したのが紀元前660年1月1日のことで、暦が太陰暦から太陽暦に変わったことにより太陰暦の1月1日が太陽暦の2月11日にあたることで、この日を紀元節にしたとのこと。
しかし本郷教授によると、そもそも神武天皇が実在の人物だったかどうか誰も証明できていないとのこと。
つまり、日本政府は神武天皇が実在していたかどうかも確認せず、神話の中の人物が天皇に即位した日の2月11日(太陽暦)を日本国誕生の日と勝手に決めつけて、この日を紀元節としたものであり、この決定にはなんら根拠がない。
ちなみに1873年に制定された紀元節は1948年にアメリカのGHQが「軍国主義につながるもの」として廃止している。
その後、1950年代になって国内に紀元節復活の動きが広まり、1966年に「建国記念の日」が制定されている。
その建国記念の日がなぜ2月11日になったのかをきちんと説明できる人が日本政府にはいないのはもちろんのこと、日本国民もその経緯や由来についてほとんど知らないのが現実である。 >>62
トサカのサカは、裂ける(サケル)のサケ由来かもな。
雄鶏のは特に、裂けてビラビラしてるし。
頭(ト)裂け(サケ)→トサカだろう。 人
(( (ヽ三/) (;.__.;)
(((i ) (;;:::.:.__.;) 日王は百済王族の
/ / (;;:人糞__:) < 生き残りニダ!
| :i /(;;゚\)ll(;;/゚)\ つまり韓国人ニダよ〜
l :i/ ⌒(__人__)⌒ \
< ノ( |r┬- | u > (ヽ三/) ))
\ ⌒ |r l | / ( i)))
`7ι `ー' 〈 __ /
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/ |
,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
〉 イ 〉 |
/ ) (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm。 >>63
ウィキの「建国記念の日」をみると、少し違うね。
明治政府が2月11日を祝日にしたのは、日本書紀の神武天皇即位の日を祝うためであり、この日を祝日に制定した。
少しのちにこの日を紀元節という名称にした。
そして、戦後すぐに、GHQが紀元節の日を廃止した。
その後、佐藤内閣のときに、政府が政令でこの2月11日を建国記念の日という名称の祝日を制定した、と説明されているよ。
このウィキの説明の通りなら、明治に定めたのは日本書紀の神武天皇即位日を祝日としたことであり、明治政府は建国記念日を制定したわけではないね。
ここのところが、東大教授の説明と異なるところだな。 >>59
饒速日は街道の十字路の山に鎮座した神だから、クナト神かもな〜。 天皇は天孫ではないらしいな
天武は皇后の病気快癒祈願を 天皇にも日本人にも
何の関係もないインド人にお願いしていた
疫病がはやると 記紀に一行も出てこないインド人を崇める寺を作った
天孫なら無関係なインド人を崇める必要はない >天皇は天孫ではない
天孫とは高天原(金剛山)の水源に住んでいた神々の末裔。
氏族名でいえば鴨氏、蘇我氏、葛城氏あたり。
神武は日向からきて天孫族の王家の婿になったので天孫ではない。
また自らを天孫などと称してる物部はせとうち海洋民、もちろん天孫ではない。
乙巳の変でその蘇我が滅んだ。
以降、天皇と物部が天孫を名乗り、本来の天孫であった鴨氏が地祇に堕とされた。 >>69
ウィキによれば
天孫族は中国の東北部から来たみたいに書いてあるが? >>70
書いてあるから何?
だいたい天孫という概念自体が曖昧な上にwikiはだれでも書き込めるからね。
中国の東北部はY−DNAではC系統であろうが、
日本の支配者になった事はない。 >>66
ウィキペディアに書かれているのが間違いだと思う。
本郷教授はテレビ番組に出演して>>63に書いたことを述べられていたのをYouTubeで何度も確認したが、この件で内閣府の祝日制定に詳しい部署に電話して確認したところ、本郷教授が述べられていたことに間違いないとのことだった。 >>71
でも天皇家は蝿みたいに自然発生した訳ではないだろ?
そっちの方が不敬では無いかね?
大陸から強力な軍事と技術を持った集団、おそらくは王族が日本に上陸して
支配したという方が、あらゆる記紀の天孫降臨にも一致するし、王族だから不敬にもならないと思うが? .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 中東方面にいたサカ族は騎馬民族として日本にもきた。
インドに行ってシャカ族になったりもした。
シャカ族からシッタールダも生まれ仏教を起こした。
仏教を日本に伝えたのも騎馬民族だろう。
百済から仏教が伝わる前に5世紀の古墳から三角縁仏獣鏡が出土。 >>74>>75
あの時代は中国が存在しないから古朝鮮か >>77
このとんがり帽子は、帽子の中の日陰になる空間を多く確保するためのものですね。
野球帽のように頭に密着するような形の帽子は、日差しが頭に近くなりますから、日陰の空間部分がなく、やはり暑いでしょう。
とんがり帽子は日陰空の空間を多くとるための形でしようね。
ペルセポリスの壁画のとんがり帽子もそういう形でしょう。
後頭部や首付近まで布地を垂らしているのは日陰を多くとるためですね。
芝山古墳のとんがり帽子も同じ目的のものですが、日本ではそれほど日射しはきつくありませんから、この帽子は日射しのきついところでつくられたものが原形なのでしょう。 >>73
その大陸の強力な軍事と技術を持った集団の王族は
いつどこでどうやって発生したんだね? >>72
紀元節などについて知識不足で検証できないのが残念だけど、
ウィキの「紀元節」をみても、明治政府が建国記念日を制定したことを示す資料は挙げられていない。
あくまで神武天皇即位日を祝日とするとの太政官布告の資料しかみられない。
その後、この即位日を紀元節という言葉で表したのは「皇紀」を確立するためであり、天皇を元首とする国の始まりの日を確定したということであるので、
神武天皇即位日を政府として祝日としたことは実質的には建国を記念して祝賀するということになる。
しかし、明治政府の条文には「建国記念日」はなく、建国記念日は制定されていないというほかないと思うのだが。 >>79
タリム盆地のホータンでは、5世紀〜10世紀にかけてペルシャ系のホータン・サカ語が話されていたとされていますね。
この時期にサカ族がホータンあたりまで進出していたことがうかがえます。
この5世紀というのは、なんか、動乱の世紀という印象ですね。 >>79
4世紀後半にはタリム盆地のクジ国で鳩摩羅什が仏典の翻訳をしていたくらいで、
仏教が中央アジア経由で東アジア地域へもたらされたとするのは正しいのかも。
国から国へ伝えられる国家守護仏教とは別の仏教渡来もあったんでしょうね。 >>82
天皇は自然発生したの?
ダーウィンもびっくりだなあ。 >>86
王権の誕生と生物の進化と関係あるのかね? 奈良天理の物部鍛冶も、北河内の交野物部鍛冶も、南部河内の柏原大県韓鍛冶も、
5世紀後半に一斉に活動を始めている。
雄略天皇の政権が武器武具製造体制を確立したのだろう。
それまではこれらの地域には鍛冶工房はみられない。
物部氏に注目すると、この武器武具鍛冶の物部氏はどこから来たのか。
交野から天理へ進出したとする意見もあるが、交野の鍛冶も天理の鍛冶もいずれも5世紀後半からであるので、
交野物部氏が天理物部氏の宗家であるとは言い切れない。
また、交野地域には3世紀後半から4世紀にかけての古墳群がみられ、
古墳群を作れる勢力がいたことは確定事項となっているものの、
この勢力が交野物部氏や天理物部氏の宗家であり、
鍛冶技術者を抱えて王権のもとで武器武具鍛冶を始めたかというと、
多くの研究者はその考えには否定的だ。
そこで目を向けたいのが、秦氏である。
仁徳天皇のときに交野や四条畷の西側にある淀川沿いの茨田に堤防を気付き、
淀川に流れ込む河川の氾濫を防いだとされる記事がみえる。
その結果、低湿地帯であった茨田には屯倉が開かれるほどの水田地帯に変わったというのである。
茨田堤防開設の工事には秦氏が関わり、その際の技術者などが定住したのが寝屋川太秦だとされている。
したがって、この地域にはその後も秦氏の影響があったはずで、
武器武具製作鍛冶の物部氏が交野や天理に入るについて、秦氏の関与があったのではないかと考えることも可能だ。
鍛冶集団の神は天目一箇神であり、この神は宗像と太秦、近江と関連している。
物部氏はこの天目一箇神系の鍛冶集団だったのではないだろうか。
とすると、柏原大県の韓鍛冶技術者集団がこの時期に王権によって他所からやってきたように、交野や天理の物部氏も他所から王権によってやってきたと考えるのが筋ということになる。 >>59
饒速日は塞の神、というのは面白い。
女真族にもそうした街道厄払いの神がいたかどうか、
調べてみよう。 >>70
ウィキの「天孫族」をみてみたけど、九州倭国東遷説の拡大版だよね。
九州倭国東遷説とおなじで何の根拠もないファンタジー。
ヤマト王権高句麗起源説とあまり変わらん。
それにしても、東遷が好きな人が多いということだよね。 >>91
東遷の何が問題なの?
神武東征が証明してるのでは? 称号が唐でも保護された道教の天皇だから
ストーリーとしては大陸に近い筑紫島から入ってきたことにしないとね
律令制での西から東の関東までの土地、人民が天皇に帰属することの
歴史的根拠を書いてるわけだから >>92
皆、神武の後追いしてるだけ。
日本書紀編纂室が、うまくやったとほくそ笑んでいるかもね。
神武がなかったら、皆、尾羽うち枯らして都落ちしてるだけ。
義経と同じ凋落の寂しさ。
それを、日本書紀編纂室が、神武は都落ちじゃなくて凱旋将軍らしい大和入りをしたと華々しく描き上げたから、
皆、東遷が都落ちじゃなくて、凱旋だと思い込むようになっただけ。
日本書紀編纂室が仕掛けたファンタジーなのよ。 奈良時代に書かれた記紀の道教色を見れば、天武朝前後の朝廷がかなり道教好みであったと推測できる
そもそも天武帝の名前が、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)と完全に道教だ
天皇の称号もこの頃産まれたのだろう
なぜなら道教では北辰を天皇大帝というのだから .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 記紀には天渟中原瀛真人天皇とある。
これは道教の神仙を思わせる名前だ。
記紀によると天武帝は天文や遁甲の知識に優れていたという。
天渟中原瀛は神道の高天原を道教風に述べたものだろう
天上の海の沖にある神聖なる場所の神仙というのだから。
実はこれが記紀が編纂された当時の人が心に思い描いていた高天原の姿かもしれない。 鳥居、狛犬
サーンチーの寺院と同じ
サーンチーの門の彫刻にはとんがり帽子を被るサカの人も描かれている 日本と風習が似ているアカ族
鳥居に似た門
アカ族では既婚の女性がとんがり帽子を被る風習がある
既婚女性が身につける鳳凰のアクセサリー
アカ族の伝承では神様は鳥に乗ってやってくる
商売と戦闘に長けた移動民、サカ
アカ族にも足跡を残したのだろうか? 日本国天皇の三種の神器はユダヤ教のアークの三種の神器からきた
と思う人もいるかもしれないが 違うんじゃないか
日本の三種の神器はシュメールの神器から来てる
ユダヤ神器もシュメールから来てるのだろうが
日本の神器のほうがシュメールに近い
周恩来が日本人は奇妙な人種だと米国に喋ってる
日本人は超古代のシュメール人がシルクロードを流れて
シナ大陸からも追われて日本列島に着いた .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>101
イザナギが目を洗うと日神が生まれたという話のオリジナルは、印度の神話のようだ。
この目を洗うと日神が生まれたとする神話は、日本書紀編纂室が中国文献から拝借したのではないか。
八岐大蛇退治の神話もそうした外国文献がオリジナルだった可能性もあるかも。
シュメール人が来たとしたら、シュメールの壁画などに見られる「手に持つ輪」が日本にあってもおかしくない。
シュメールの太陽紋章は、天皇家の菊紋章とぴったりだけどね。 奈良の伊邪那岐神社行ってきた
崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓古墳見てきた。
とにかくすげえ田舎だった。
けど古代日本を少し感じた。
宮内庁の比定だからたぶん間違いの天皇陵で実在したかも分からんけど。 >>96
卑弥呼は鬼道を用いている、というのが倭人伝の主張。
鬼道は道教の元となった呪術とされているから、日本の王権はずっと道教好きだったのかもね。
まあ、シャーマニズムと道教は似ている。
道教の道士が空を飛ぶと言って修行するのも、シャーマンが入神して飛翔したと証言するのとよく似ている。
卑弥呼がシャーマンだったことは誰も異論のないところだから、そのシャーマン卑弥呼がそうした道教の元の呪術を採用していたとしても不思議ではないね。 中国人が「何千年も嫌い続けた民族」がいる
中国人が8000kmもの万里の長城を作るほど嫌ってきた民族とは
800kmじゃなくて8000kmだぞ
場所でいうと、中国東北部
瀋陽軍区とか、満州とか、高句麗とか言われた
人食いが住む恐ろしいところ
簡単に言えば、中国人は食われたくないから長城を作ったのだが
その長城を地図で見ると、あることに気付く
人食いを半島の方に誘導するように長城が作ってある!!
日本では人間をパクパク食ってた奴を、天皇とか武士と呼んでいたのだった >>106
俺が思うに、あの辺りは3世紀以来ずっと墓域だったと思うよ。
無意識のうちに人が近づかんのだろうな。
それで田舎のまんまに残って来たということだろう。
ヤマト朝廷の天皇の宮は、だいたいその纏向辺りより南にあったくらいだから、
纏向や山の辺の道あたり自体は人の近づかんところだったのよ。 >>98
日本に稲作が入って来ても、縄文人の文化はそのまま残ったからね。
その縄文文化がヤマト王権文化の基層をつくっている。
なので、ヤマトは農耕文化を基層に置く中華文化には違和感を抱き続けた。
そして、長城の外の牧畜と狩猟をベースとした東北アジアの民族に親近感を持っていた。
道教などシャーマン系の呪術に親しんだのも、そういう親近感のなせるわざだったのだろう。 >>81
芝山古墳の埴輪のとんがりハットは、サカ族系の尖がり帽子の影響を受けたものかもね。
西方から来てカザフ平原を東へ通るときに、サカ族系のとんがり帽子地帯を通った結果、
ハットの上部が円錐形に高くなった。
そのとんがりハットのまま関東へ入ったのだろう。 >>68
漂泊の貴神信仰というのがある。
外からやってくる貴種が幸をもたらしてくれるというもの。
疫病対策に印度人を崇めたのもこの貴神信仰だから、何の問題もない。 >>110
道教は中国土着の信仰
漢末の黄巾の乱は道教の一派の太平道の信者が各地で起こした農民反乱 これまで匈奴は製鉄技術をもつていなかったとされていたが、匈奴の製鉄遺跡が発見されたらしい。(モンゴルの遊牧の民「匈奴」が製鉄技術を持っていた…より)
この製鉄技術者が匈奴自身であったか、匈奴に使われた別種族であったかは不明だけとね。
匈奴が滅ぶのは5世紀らしいから、その5世紀後半に大和の天理や北河内の交野、南河内の柏原大県で一斉に鉄器鍛冶が始まるのと時期が似ている。
匈奴の製鉄部門の一派が半島へ逃避して、秦氏関連で大和に来ることになったというのは必ずしもファンタジーではないな。 >>113
道教のルーツをたどるとシャーマンに行き着くようだ。
殷の王である貞人はシャーマンだとする考えがみられる。(前17c〜前770年 殷〜西周 祖先神、自然神への信仰…より 65行目)
また、戦国時代の神仙思想が顕著なのは、渤海沿岸の燕〜山東半島の徐地方だ。
燕は神仙郷を探しに渤海湾の沖へ人を派遣しているし、始皇帝が神仙郷の探索に道士の徐福を派遣したが、徐福は山東半島の徐地方の者。
燕は内モンゴルや満州に接するところであり、神仙思想が北方遊牧民、牧畜民の影響を受けているのは明らか。
その聖地は崑崙山で、ここはアルタイ地方だ。
この地方は北方シャーマン地帯といえる。
道教の道士のルーツがシャーマンにあるのは自然。 >>114
仮に、5世紀後半に天理や交野、柏野大県にやってきた鉄器鍛冶が匈奴の製鉄部門の一派だったとしたら、
物部氏は匈奴出自の氏族というとになるけどな。
このあたりは、まだこれからの情報収集によって、いろいろ変化があるだろうね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています