>>252
さらに、大和から日本海へ出る街道は、この交差点から四条畷に出て、それから淀川を渡河して但馬へ向かうわけだし、その逆もしかりである。
そして、この交差点に最も近いところにあるのが四条畷であるのだから、馬飼い集団がこの交差点を掌握して損になるわけがない。
そこで、集団の一部を割いて白庭台に陣取らせ、街道の交差点を監視させたとすれば、その交差点を見降ろす山に祀った神は当然、白庭台の馬飼い集団の神だということになる。
その後、5世紀後半になって、石上に鉄器鍛冶工房を開設した物部氏が交野の物部氏の鍛冶工房から鉄素材を直通で運ぶために開いたのが天野川の難路で、
その街道のポイントである北田原大橋の交差点を牛耳るために打った手が、四条畷の馬飼い集団の出先機関である白庭台の集団の排除であることは道理である。
この排除が成功して、交差点を見降ろす山頂に祀られていた神を取り込んだのが物部氏が祖先神とする饒速日だったのだろう。
そして、物部氏が白庭台の集団を排除する際の小競り合いの伝承を拝借して脚色したのが、日本書紀の長脛彦と神武の激突のドラマであろう。
神武が上陸した日下から東へ山を登れば国道168号に出て、そこから北へすぐのところが白庭台であることからすると、
長脛彦と神武のドラマのシチュエーションはまったく同じなのである。
おそらく、四条畷の馬飼いの出先機関であった白庭台の集団と物部氏との小競り合いは、確かにあったのではないだろうか。
神武紀では饒速日は神武に恭順して長脛彦を排除するのであるが、これは物部氏の伝承であって、饒速日を取り込んだのは神武ではなく物部氏だったとするのが本来であろう。
日本書紀編纂室は、その物部氏の伝承を拝借して、神武東征のストーリーの中核に置いて話を展開したということだろう。