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天皇制のルーツは結局何なのか2
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0001アッシー
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2020/07/01(水) 16:33:11.28
スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。
0267日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 15:44:24.06
>>260
須恵器の国内最古は宇治市街遺跡出土のもので、
時期は4世紀末〜5世紀初頭。
伴出した伽耶系土器も同じ。
5世紀中頃の四条畷の須恵器なども、必ずしも直接伽耶からもたらされたとしなくてもよいと思われる。
0268日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 15:48:13.86
>>262
まあ、どちらにしろ、言葉は同じだろう。
今は満州語と言われている。
0269日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 15:57:01.14
>>263
フルの王て、聞いたことないな。

吉備が纏向へ来なくなったのは、河内がせせり出てきたからやろ。
3世紀前半に吉備の土器は纏向で少なくなり始めている。
入れ替わりに河内の土器が現われてきたからな。
吉備はそれ以来、すねてずっとヤマトに反発しよるし。
0270日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 16:03:42.21
>>266
クナト神は四条畷の北田原大橋交差点から広がって、出雲まで波及したのかもな。
そこで生まれたサルタヒコが南九州でニニギの道案内して、なぜか伊勢に行って溺れたな。
0271日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 16:10:58.54
鎮魂歌は中々興味深い
フルや石上を考える上で参考になる
卑弥呼の次の男王から台与の頃を歌ったものかもな
台与が豊日霎という根拠はないが
興味深いのは次の一節
石ノ上 布瑠社ノ 【太刀】モガト 願フ


鎮魂歌
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0272日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 16:16:47.69
>>267

だから伽耶からの渡来
0273日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 16:20:29.58
>>268

人尿洗顔族の言語は同じ
言語不與夫餘句麗同
0274日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 16:45:58.78
>>267
鳥足文叩き土器は、5世紀中頃の大阪平野では長原遺跡、城山遺跡、八尾遺跡、メノコ遺跡などで出土しているそうだ。
この時期には土器生産は専門化しており、各集落が自家生産していたわけではないようだ。
四条畷の鳥足文叩き土器も専門窯から入手したものである可能性はある。
なので、四条畷の馬飼い集団の構成員が、馬韓・伽耶から渡来した者たちであったとは言い切れないのではないか。
馬関連の日本語の語彙と女真語の語彙がよく似ていることからして、四条畷の馬飼いは女真人(粛慎人)であったとするのがよいと思われる。
0275日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 17:03:43.37
第10代崇神天皇もしくは、第15代応神天皇からは
実在した天皇と考えられている。
少なくとも金錯銘鉄剣で物証が出ている第21代雄略天皇以降は確実だとされる。

天皇の在位年に直すと
第10代 崇神天皇・・・BC97〜BC30年
第15代 応神天皇・・・AD270〜310年
第21代 雄略天皇・・・AD456〜479年

4世紀末〜5世紀中ごろとなると
第16代 仁徳天皇(AD313〜399)
第17代 履中天皇(AD400〜405)
第18代 反正天皇(AD406〜410)
第19代 允恭天皇(AD412〜453)

馬飼いが何だって?
0276日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 17:05:50.92
>>274

鳥足文土器は福岡と近畿から出る土器
馬関連の語って10世紀の「ヒ」と「バ」なんかは根拠にならない
5世紀日本最大の古墳が築造される時代に
半島のどこを拠点に文物を手に入れているか
半島のどこに日本の前方後円墳形が造られるかを全体で考えないといけない
0277日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 17:25:52.37
諸蕃とかあるくらいだから渡来人は普通にいたしルーツを隠す必要も当時は無かっただろう
0278日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 18:32:09.00
>>276
鳥足文叩き土器が出るからといって、出土地で造ったとは限らん。
むしろ、専門窯で造って販売し、それを近くの集落が購入したことのほうが確率が高い。
3世紀中頃には、土器職人が各地に出張して土器を造って販売していた。
5世紀中頃にもなれば、もう集落ごとの土器生産はなくなっていただろう。
四条畷の鳥足文土器も、購入したものだよ。
だから、四条畷の鳥足文土器は四条畷の人民が伽耶から来たという証拠にはならん。

「ヒ」「バ」は根拠にならんて、ほんじゃ、日本の馬関連の語彙はどこが元なのよ。
冗談もほどほどにしてほしいわ。

対馬に最も近い半島の前方後円墳は固城にある。
韓国の調査団が、それを三つの山に改造してしまったがな。
この固城の前方後円墳は5世紀後半の築造だ。
馬飼いが始まった5世紀中頃より遅れる。
5世紀後半は、大和の石上に鍛冶工房ができた頃と重なる。
この固城の前方後円墳は、この時期の日本の鉄素材の入手と関連するものだろう。
0279日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 18:40:18.35
>>275
四条畷に馬飼いが来たのは允恭のときか雄略のときか、とにかくその頃だよ。
0280日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 18:40:38.96
>>278

鳥足文土器や陶質土器や須恵器や製塩土器を
なんで略奪大好きな人尿洗顔族に供給しなきゃならんのか
国家的な政策で馬を飼育させたのが伽耶や百済系の渡来人だからに決まってるだろうが
固城の古墳は森先生のチョンボだろ
0281日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 18:46:08.85
>>277
諸蕃としたのは、平安時代のことだからなあ。
5世紀頃なら、明治期に欧米人の技術者を招聘したのと同じくらいの扱いだろう。
特に馬飼いなんて、大正頃のトラックや乗用車製造の欧米技術者クラスだし。
0282日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 18:50:54.75
>>280
製塩土器は海辺の製塩業者が塩作るのに用いた土器で、その土器に煮詰まった塩をそのまま運んだものだ。
塩は馬に食べさせたものよ。
塩と一緒に付いてくる土器が製塩土器だよ。
今みたいに、ビニールの袋に入ってるわけな〜いじゃん。
0283日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 18:58:23.35
>>280
固城の前方後円墳の調査前の写真があって、調査のあと現れた三連山の写真とはまったく異なる。
この改造があってから、韓国の考古学会は信用を失った。
韓国が日本に仕掛けている歴史戦の賜物といえるな。
こうした韓国の歴史戦は、高句麗エリアでも中国と熾烈に展開している。
ほんに、韓国はええかげんにしてほしいわ。
0284日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:07:26.35
>>271
アチメは磯良だろ。
フル王は磯良かよ。
0285日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:10:38.44
>>273
高句麗に馬を供給していたのは女真(粛慎)だから、扶余と女真は別種だな。
言葉も異なっただろう。
0286日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:12:04.73
アチメは韓国語で朝日らしい
フルは韓国語で流れる

石上神宮の布留の謂れは、刀が流れてきて布で受け止めたら留まったというもの

布留やアチメが大陸と関係あるのか只の偶然かは知らない
0287日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:41:35.14
>>282

だから供給と書いてるだろが
0288日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:44:06.57
>>285

「言語不與夫餘句麗同」(魏志挹婁伝)と書いてるだろ
0289日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:50:02.25
この女真人妄想爺さんは秦氏のユダヤ人堅パン屋の話の時もそうだったが
地名や語句のごろ合わせだけで、まるっきり考古と一致してない
0290日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 19:56:44.52
>>283

固城の前方後円形墳丘は日本の前方後円墳の起源かと注目されてた
調査したら時期も前方後円墳ですらなかったという結果
0291日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 20:19:09.91
>>288
「言語は夫余と句麗同じからず」
女真と扶余もまた別。
0292日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 20:21:09.54
>>290
写真が証拠。
発見されたときは前方後円墳、調査後は三連山。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 20:26:05.00
>>291

そうだよ
だから引用したんだから
0294日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 20:29:18.19
>>292

見た目だけで調査する前に前方後円墳と断定した
森先生は批判された
0295日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 20:33:49.22
>>289
言葉は歴史を知る有力なアイテムだ。
考古遺物は解釈が相当振れる難がある。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 20:35:16.82
>>294
森浩一は三連山を見て何と言ったのか。
0297日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 20:42:01.59
>>295

ごろ合わせのほうがどんなストーリーでも作れるよ
お前のユダヤ人堅パン屋みたいに
0298日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 21:10:48.35
>>286
韓国語 achim(アチム)=朝

アチの発音と日本語のアサ(朝)は似ているな。
韓国語のachim(アチム=朝)と日本語のアサ(朝)は同系語かも。

韓国語 heuleum(フェレム)=流れ

剣が流れてきたという話は、山城の丹塗り矢伝説と似ているけど。
このheuleum(フェレム=流れ)と布留が関連するとすれば、
布留川のフルは川という意味であることになるが、さて真実やいかに。
0299日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 21:15:36.65
>>297
俺ほどうまくはできんだろう。
年季が違うからな。
0300日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 21:21:51.79
>>298
韓国語 achim(アチム)=朝
女真語 cimari(シマリ)=朝

よく似ているな。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 21:26:33.80
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.
0302日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 21:40:02.51
纒向遺跡の外来系土器で1番多いのは東海系
アイチ、アチ
この辺の言葉も関係ありそう

朝、朝日、太陽
太陽信仰、卜占、巫女は殷の文化と共通
0303日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 21:42:29.33
まぁ卑弥呼の前にも倭国はあるからね
倭国の建国は最低1世紀後半まで遡る
0304日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 21:48:46.54
>>302
東海西部系な

天竜川以東の東海中部〜東部系はない

狗奴国=久努国(くののくに)だから
0305日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 22:06:34.04
【アマテラス(天孫族)】
中国の春秋戦国時代の呉の孫が越に負けて九州に
太陽信仰

【スサノオ(出雲族)】
大元はペルシアのスサの王? 東に移動して大月国の弓月君、
その呉、百済新羅から出雲へ
ゾロアスター教

あとニギハヤヒとナガスネヒコがどこから来たか知らん。
この辺がヤマト王権成立、天皇家のルーツ。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 22:24:06.75
まあ、四条畷で馬飼いをしたのは女真(粛慎)人であったことは、まず間違いないだろう。
そして、ニギハヤヒ(饒速日)は女真人の神で、それを奪った物部氏が自らの始祖神とした。
その後、日本書紀編纂室は神武東征のドラマにその饒速日を拝借して華々しく脚色した。
こういう筋立てができるのだから、古代史はやめられない。
しかし、この筋立ては、たぶん真実の歴史だっただろう。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 22:54:08.50
>>306

お前の好きな女真人は
法俗は東夷で最も規律がない(魏志挹婁伝)
0308日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 01:40:18.45
>>307
一方では、「人多勇力」と言っているけどな。
まあ、「法俗最無綱紀也」といっても、生活上のルール・掟がなく無秩序だということではない。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 01:55:22.69
天皇は政治家ではなく、生産がうまく行くように祈り、自然の災難が降りかからないように祈る祭祀者。
こうした天皇のルーツは部族時代のシャーマンに根源があり、その部族シャーマンの系譜を引く日本の祭祀者は南方的要素が目立つとされる。
縄文時代の狩猟採集と定着園芸の時代のシャーマンは北方系と思われるが、縄文土偶にそうした表現があるのではないだろうか。
0310日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 02:01:30.95
>>308

「法俗最無綱紀也」

綱紀:国家社会的秩序与规律。
0311日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 08:33:27.36
>>279
それだと実在性が高いとされる天皇が何人か存在した後の事となり、神武東征の饒速日や長髄彦とは合わない。
0312日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 10:18:32.50
>>306
>四条畷で馬飼いをしたのは女真(粛慎)人であったことは、まず間違いないだろう。

いい加減にしろ。
根拠もなくただ喚きを繰り返してるだけ。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 10:24:08.52
女真って挹婁か。
半島南部の地下式木槨ぼの太成洞古墳群は深く穴を掘る挹婁のものかもしれん。
あと朝鮮人は19世紀まで小便で顔を洗ってたそうだが、これも挹婁の文化と通じる。

日本とは関係ないからね。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 10:28:29.48
ニギハヤヒで気になるのがY−DNAの調査で、
suzuki姓の3人が3人ともハプログループO2だったらしい。

漢民族と共通するタイプだ。
もちろん3人ぐらいでは意味がないのかもしれないが気にはなる。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 12:53:30.82
大成洞古墳群は4世紀前半の大型級木槨墓から
慕容鮮卑族の金銅馬鈴、銅碗などの鮮卑族系遺物が出ている
『晋書』慕容廆載記では慕容部の始祖莫護跋が司馬懿の公孫淵討伐に功があり
率義王に封じられ棘城(遼寧省錦州市義県)の北に領土を得た
0316日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 13:34:36.64
言語系統​

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、

その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。

またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖であるとされる。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 13:35:49.45
倭・倭国・俀国

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。
『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。

北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭の地である。
人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか?
三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。

呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、渤海湾奥の地まで逃げたのでしょうか。
0318日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:40:34.58
この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。
ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した
日本語族話者が 無文土器時代の末まで存続し、

遼寧式銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者の南下が始まったとする。

一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、
百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島中南部では日本語族話者が存在していたとする。
0319日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:41:21.11
扶余諸語起源説​

朝鮮半島の国家は、その先祖は扶余に遡ると考えられている。
百済は後に、大和時代の日本と密接な関係を持つようになり、クリストファー・I. ベックウィズ(英語版)は、
この時点の日本語には、まだ扶余語との関連性が認められると指摘する。

ベックウィズは、古代の地名から140の高句麗語の単語を再構築した。
この中には、属格「-の」や形容詞連体形「-し」のように、日本語と機能が類似し
同一起源と見なせる文法的形態素が多く含まれる。

「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記から推測される、
いわゆる「高句麗語」が、日本語と組織的に顕著な類似性を示す事を初めて指摘したのは、
新村で、「三」「五」「七」「十」の4つの数詞が日本語と類似することなどを指摘した。
0320日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:43:47.17
無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。

時代的には日本の弥生時代と重なり、半島南部はこれから影響を受けた可能性もある。
特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、
青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、
石槨墓や甕棺墓が見出されている。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 13:45:34.72
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized

https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。

東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。

南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。

近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。

2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)

オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 13:47:40.50
倭人(わじん)とは、

1.狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた
 民族または住民)の古い呼称。

2.広義には中国の歴史書に記述された、春秋戦国時代(紀元前770年)、
 呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の
 主に海上において活動していた民族集団。支石墓制、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
0324日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:50:03.09
『三国史記』の巻37にある高句麗の地名の表記(下記の表を参照)が手がかりとされているが、
それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、
「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて
日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。

地名    別名
三唄県  密波兮
五谷郡  弖次云忽
七重県  難隠別
十谷県  徳頓忽
0325日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:50:50.01
甕棺墓・埋甕 - Wikipedia

埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
「 縄文中期」から後期にかけて 関東平野や中央高地で見られる習俗で、
縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居 ...

https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/1-100/images/11627058858.jpg
http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/301-400/images/10umegame.jpg
0326日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:58:13.93
>> 吉武高木遺跡では、弥生時代,前期末(紀元前400年〜)頃より
>>「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を持った 王 が現れる。

吉武高木遺跡 | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/CulturalPropertyImage432imageja.jpg
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/432
1984年度調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より
銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した

吉武高木遺跡は弥生時代前期の遺跡で,「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を副葬した
「最古の王墓」(3号木棺墓)など,数々の重要な発見がありました。遺跡群内には同様に
多数の副葬品を有する前期末〜中期後半(紀元前400年〜(歴博)放射性炭素年代測定による)
の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、

中期後半〜後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には
同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした
掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。
0327日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 13:59:33.10
魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。  「東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。」

およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。
辰韓はいにしえの辰国である。」

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬
この解釈は、次のようです。

建武中元二年倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人みずから大夫と称した。
「奴国」は倭国の極南界(南端)である。光武帝は印綬を賜うた。(岩波文庫 石原道博)
0328日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 14:02:37.72
山海経、海内北経には「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されています。
燕の南に葢国があり、さらにその南方は倭だった。

葢は、日本人は「ガイ」と読んでしまいますが、漢音、呉音とも「カイ」です。
漢の玄菟郡、後の高句麗領域に葢馬県というのがあり、そのあたりだろうという。
これは魏志の濊(カイ)国に重なります。漢書では穢(ワイ、アイ)と記されています。

夫餘は祖先が授けられたという「濊王之印」を持つ(魏志夫餘伝)。
天帝の子と名乗る夫餘王、解慕漱が熊心山(鴨緑江付近、楚山か?)に結び付けられ
 (三国史記、高句麗本紀)、熊、夫餘、カイが一つになります。
0329日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 14:04:13.42
三国史記高句麗本紀の「倭山」他

後代に成立した文献(AD1145年成立、日本書記に遅れること400年以上)なので、
「倭」「倭人」記事に富む「新羅本紀」を含む隣国朝鮮の正史「三国史記」には、
触れなかったのですが、その「高句麗本紀」に「倭山」記事があります。
 
「三国史記・高句麗本紀」第三の第六代大祖大王(三国史記での在位年代AD53−146)
諱(いみな)宮、幼名於漱(おそう)、の80年(AD132)秋7月、

弟の遂成(後の、第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、
この時に貫那部の弥儒、桓那部(桂婁部のことか?)の於(くさかんむりが付く)支流、
沸流那の陽神らの家臣に謀叛をすすめられています。

また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、
これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。
高句麗本紀では宮、遂成、伯古(新大王)の3人を兄弟としていますが、
親子関係で三代を直系相続とする中国史書(後漢書高句麗伝)もあります。
0330日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 14:05:28.29
三国史記高句麗本紀の「倭山」他

後代に成立した文献(AD1145年成立、日本書記に遅れること400年以上)なので、
「倭」「倭人」記事に富む「新羅本紀」を含む隣国朝鮮の正史「三国史記」には、
触れなかったのですが、その「高句麗本紀」に「倭山」記事があります。
 
「三国史記・高句麗本紀」第三の第六代大祖大王(三国史記での在位年代AD53−146)
諱(いみな)宮、幼名於漱(おそう)、の80年(AD132)秋7月、

弟の遂成(後の、第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、
この時に貫那部の弥儒、桓那部(桂婁部のことか?)の於支流、
家臣に謀叛をすすめられています。

また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、
これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。
高句麗本紀では宮、遂成、伯古(新大王)の3人を兄弟としていますが、
親子関係で三代を直系相続とする中国史書(後漢書高句麗伝)もあります。
0331日本@名無史さん
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2020/07/08(水) 15:25:01.72
倭・倭国・俀国

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。
『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。

北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭の地である。
人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか?
三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。

呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、渤海湾奥の地まで逃げたのでしょうか。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 15:25:48.98
言語系統​

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、

その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。

またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖であるとされる。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 16:50:35.80
>>312
言葉は十分に根拠になるわ。
たわけめ。
わははははは。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 17:16:14.06
>>313
満州あたりにいたツングース系の諸族が粛慎、挹婁、靺鞨、女真、勿吉など。
挹婁と女真は別だよ。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 17:25:23.49
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引き削って除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
0336日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 18:25:13.84
>>311
雄略あたりの伝承を8世紀前半の日本書紀が取り入れて神武の話のネタにしたということ。
あり得ることだね。
だから、神武そのものの話(南九州から大和に来たということ)とは別という話だね。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 18:29:38.72
>>310
部族的な社会規範と古代中国の絶対王権のもとの階級社会の社会規範は別。
その絶対王権階級社会の規範から見たら、挹婁に規範はあってなきがごとしということだろう。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 18:52:52.53
>>331
東夷が江蘇省あたりの勢力の呼称だった時代と、
東夷が朝鮮半島などの勢力に対して用いられるようになる時代では、
倭の字の発音が異なるようです。
前者は(イ)、後者は(ワ)と思われます。
「倭城」を元々から(ワジョウ)と読んでいたかどうか分かりませんね。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 19:01:53.25
>>337

何という文献にどんな社会規範で略奪してたと書かれている?
0340日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 19:06:39.49
>>315
アルタイ地方からモンゴル、遼西遼東、朝鮮半島へと続く交易ルートがあり、盛んに物品が行き来していたということだろうね。
そのルートの最も東のエリアが日本だし。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 19:12:51.08
>>339
綱紀なしと書いてあるから、略奪してたと思うのは短絡。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 20:02:48.58
>>341

「其國便乗船寇盗 鄰國患之」(挹婁伝)

東夷伝を読んでないのか?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 20:03:50.31
>>314
今の満州のY遺伝子の割合は、

漢族系O2 37%
アルタイ語系C2 25.7%
ウラル語系N 14.3%
東夷系O1b2 15%
東夷系O1b1 若干

こんなところだそうだ。
満州地方は元々は遼河文明のNが多数派だったところへ、
寒冷化によりO2、C2が進出したとされている。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 20:06:43.00
>>342
日本からだって倭寇が朝鮮半島や中国沿岸を襲っている。
その倭寇の社会が無秩序な社会状態だったかというと、そうではないだろうし、
バイキングだってその点、同じだろう。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 20:28:50.55
>>344

倭寇のころはもう日本国となっていて
日本の辺境や朝鮮や中国南部の盗賊をひっくるめて倭寇と呼ばれたんだが
どういう社会秩序があったんだ?
0346日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 20:30:22.25
>>340
このルートに乗って匈奴の製鉄鍛冶技術が伝えられたのが、蹈鞴製鉄鍛冶かもね。
元々の倭鍛冶系統と匈奴製鉄鍛冶が宗像と秦ラインに乗って合体した可能性も考えられる。
大和・交野の物部鍛冶は、この系統から出たとみてもOKか。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 20:36:33.22
>>345
盗賊て酒飲んでわいわいやって、また盗みに行ってというのは、映画の見過ぎだよ。
普通の部族社会があって、そこから出ていったのさ。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 21:08:41.63
>>347

後期倭寇は日本人が少ないから実態はよくわかっていない
東夷の挹婁の社会規律は何に何と書かれているのかと聞いている
0349日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 21:13:36.23
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
0350日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 23:25:27.51
>>348
魏志挹婁伝を読めよ。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/08(水) 23:34:09.07
>>350

これか?
「其人不潔 作溷在中央 人圍其表居」
0352日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 01:07:23.03
其人不潔 作溷在中央 人圍其表居
「人々は不潔で便所を中央に作り、人はそのまわりにいる。」

肅慎(しゅくしん),挹婁(ゆうろう),勿吉國(もつきつ),
また、人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、
中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 01:15:31.91
併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた

1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&;VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので仕事をしないで
  呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。
  日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。 ようするに、治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&;VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れているが、
  朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。
・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。また、痰を吐くときは口の近くに壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、家の中の物が水に浸るが、
  洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 01:23:45.04
最近朝鮮事情 - Wikipedia (とに角凡そ,この世の物とは思えない、韓流ドラマとは天と地ほどの違い)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E8%BF%91%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%8B%E6%83%85
ja.wikipedia.org › wiki › 最近朝鮮事情
最近朝鮮事情(さいきんちょうせんじじょう)とは、日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した
当時の衆議院議員荒川五郎によって書かれたルポルタージュである。
1906年(明治39年)に清水書店から刊行された。
20世紀初頭の朝鮮半島の人々の様子や文化が忌憚 ...
0355日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 13:04:41.83
>>333
>言葉は十分に根拠になるわ。

その程度で何の根拠になるのか、たわけめ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 13:07:12.44
言語系統​

詳細は「夫余語」および「扶余語族」を参照

中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ、沃沮と濊もほぼ同じとされる。
一方、東の挹婁.肅慎は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なると記される。

ここで2つの言語系統が存在することがわかるが、夫余語(扶余諸語)が現在の
どの系統に属すのかについては古くから論争があり、現在に至ってもよくわかっていない。

ただし、高句麗語と日本語祖語とはよく似た発音数詞(ヒフミ)や地名などがある。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 13:26:06.57
そもそも夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫だから倭人とは近しい関係がある。

「史記-呉太伯」闔閭10(BC505)年、夫概を攻める。 夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。
(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]

・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、
半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。

・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。
その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが夫餘.高句麗。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 13:37:25.44
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0359日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 14:09:43.95
>>355
ないよりはまし、の金言知らんのか。
わははははは。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 14:59:37.00
>>336
このように、饒速日と長脛彦の話を物部氏の街道掌握の伝承とみて、
日本書紀編纂室がその物部氏の伝承を拝借して神武の大和入りを華々しく脚色したのだと考えると、
神武の大和入り自体はほとんど内容がなく、
薩摩の阿多から豊後水道、瀬戸内海を通り、難波で上陸して大和に入ったということだけしか残らない。
しかし、これが本来の神武の大和入りの事績であったのではないか。
つまり、神武は大和の連合政権によって薩摩から招き入れられ、連合政権の大シャーマンの座についたということであり、
日本書紀の記述ではその人物は崇神、あるいは応神が相当するということである。
神武の大和入りは、実に平穏に進められたというのが歴史の実態であろう。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 18:01:22.60
>>360

薩摩も不潔な便所洗顔盗人族だったという話か?
0362日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 18:24:52.37
>>361
全然はずれ。
薩摩は1万2000年前の百越O1a族。
縄文弥生海人族の宗家。
神武こと崇神こと応神はここから来た可能性が極めて高い。
イザナギ・イザナミの故郷。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 19:06:14.08
>>362

近畿に汚いのが居て、薩摩の美しい海人族の王様を招き入れたのかw
汚いのの始祖神と神武どんは同じ民族なんじゃないのか?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 19:43:02.89
熊襲とか隼人とか言われて
征伐対象だったのが
本当の天皇だって。
アホか。
じゃあ征伐してた朝廷側の天皇の誰なんだよ。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 19:43:40.65
>>363
縄文弥生の時期に、全国の主要拠点はO1a+D1a2系の海人によって占められた。
2世紀後半になって、近畿と中部、北陸、吉備などのこれらの海人勢力が大和に集まって、連合政権を立てた。
この時期にはまだO2、C2系種族はあまり来ていない。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 20:15:49.98
天皇家はハプログループD1b1a2なんだね
元はチベットになるんですか?
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