薩摩から向かうところ敵なしだった神武勢は、生駒で長脛彦勢に太刀打ちできずに退却し、
紀伊半島をぐるっとまわって宇陀から奈良盆地へ入った。
そして、在地の勢力をなで斬りにして制圧したが、このことは神武勢は圧倒的に強力だったことを示している。
ところが、満を持して長脛彦勢に戦いを挑んでも、強力なはずの神武勢は長脛彦の勢力を打ち負かせなかった。
ということは、長脛彦の勢力はこの当時の西日本で最も強い勢力だったことを表している。
長脛彦の勢力は四条畷の馬飼い女真族の一派であり、女真族は身長も体格もよく170pを越える偉丈夫だったのだ。
長脛彦の名はその長身にちなんだ名だ。
さてこれらは、日本書紀編纂室の脚色であるが、こうした脚色をした背景として、
404年に高句麗の帯方地方へ攻め入った倭軍が好太王の軍に撃退されたことがトラウマとして残っていたことがあったからではないか。
女真族は高句麗に馬を供給していた部族であり、騎馬を得意とした。
倭は5世紀中頃になると女真族を招いて本格的に馬の導入を図る。
日本書紀編纂室が長脛彦を強力無比に描いているのは、倭軍が高句麗に敗れたことがトラウマとして残っていたからだろう。