天皇制のルーツは結局何なのか2
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スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。 ニギハヤヒで気になるのがY−DNAの調査で、
suzuki姓の3人が3人ともハプログループO2だったらしい。
漢民族と共通するタイプだ。
もちろん3人ぐらいでは意味がないのかもしれないが気にはなる。 大成洞古墳群は4世紀前半の大型級木槨墓から
慕容鮮卑族の金銅馬鈴、銅碗などの鮮卑族系遺物が出ている
『晋書』慕容廆載記では慕容部の始祖莫護跋が司馬懿の公孫淵討伐に功があり
率義王に封じられ棘城(遼寧省錦州市義県)の北に領土を得た 言語系統
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。
これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、
その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。
またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖であるとされる。 倭・倭国・俀国
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」
『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。
『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。
北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭の地である。
人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。
倭人がなぜ遼西周辺にいたのか?
三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。
呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、渤海湾奥の地まで逃げたのでしょうか。 この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。
ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した
日本語族話者が 無文土器時代の末まで存続し、
遼寧式銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者の南下が始まったとする。
一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、
百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島中南部では日本語族話者が存在していたとする。 扶余諸語起源説
朝鮮半島の国家は、その先祖は扶余に遡ると考えられている。
百済は後に、大和時代の日本と密接な関係を持つようになり、クリストファー・I. ベックウィズ(英語版)は、
この時点の日本語には、まだ扶余語との関連性が認められると指摘する。
ベックウィズは、古代の地名から140の高句麗語の単語を再構築した。
この中には、属格「-の」や形容詞連体形「-し」のように、日本語と機能が類似し
同一起源と見なせる文法的形態素が多く含まれる。
「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記から推測される、
いわゆる「高句麗語」が、日本語と組織的に顕著な類似性を示す事を初めて指摘したのは、
新村で、「三」「五」「七」「十」の4つの数詞が日本語と類似することなどを指摘した。 無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。
時代的には日本の弥生時代と重なり、半島南部はこれから影響を受けた可能性もある。
特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。
かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、
青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。
葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、
石槨墓や甕棺墓が見出されている。 N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 倭人(わじん)とは、
1.狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた
民族または住民)の古い呼称。
2.広義には中国の歴史書に記述された、春秋戦国時代(紀元前770年)、
呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の
主に海上において活動していた民族集団。支石墓制、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG 『三国史記』の巻37にある高句麗の地名の表記(下記の表を参照)が手がかりとされているが、
それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、
「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて
日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。
地名 別名
三唄県 密波兮
五谷郡 弖次云忽
七重県 難隠別
十谷県 徳頓忽 >> 吉武高木遺跡では、弥生時代,前期末(紀元前400年〜)頃より
>>「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を持った 王 が現れる。
吉武高木遺跡 | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/CulturalPropertyImage432imageja.jpg
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/432
1984年度調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より
銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した
吉武高木遺跡は弥生時代前期の遺跡で,「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を副葬した
「最古の王墓」(3号木棺墓)など,数々の重要な発見がありました。遺跡群内には同様に
多数の副葬品を有する前期末〜中期後半(紀元前400年〜(歴博)放射性炭素年代測定による)
の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、
中期後半〜後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には
同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした
掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。 魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。 「東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。」
およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。
辰韓はいにしえの辰国である。」
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬
この解釈は、次のようです。
建武中元二年倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人みずから大夫と称した。
「奴国」は倭国の極南界(南端)である。光武帝は印綬を賜うた。(岩波文庫 石原道博) 山海経、海内北経には「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されています。
燕の南に葢国があり、さらにその南方は倭だった。
葢は、日本人は「ガイ」と読んでしまいますが、漢音、呉音とも「カイ」です。
漢の玄菟郡、後の高句麗領域に葢馬県というのがあり、そのあたりだろうという。
これは魏志の濊(カイ)国に重なります。漢書では穢(ワイ、アイ)と記されています。
夫餘は祖先が授けられたという「濊王之印」を持つ(魏志夫餘伝)。
天帝の子と名乗る夫餘王、解慕漱が熊心山(鴨緑江付近、楚山か?)に結び付けられ
(三国史記、高句麗本紀)、熊、夫餘、カイが一つになります。 三国史記高句麗本紀の「倭山」他
後代に成立した文献(AD1145年成立、日本書記に遅れること400年以上)なので、
「倭」「倭人」記事に富む「新羅本紀」を含む隣国朝鮮の正史「三国史記」には、
触れなかったのですが、その「高句麗本紀」に「倭山」記事があります。
「三国史記・高句麗本紀」第三の第六代大祖大王(三国史記での在位年代AD53−146)
諱(いみな)宮、幼名於漱(おそう)、の80年(AD132)秋7月、
弟の遂成(後の、第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、
この時に貫那部の弥儒、桓那部(桂婁部のことか?)の於(くさかんむりが付く)支流、
沸流那の陽神らの家臣に謀叛をすすめられています。
また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、
これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。
高句麗本紀では宮、遂成、伯古(新大王)の3人を兄弟としていますが、
親子関係で三代を直系相続とする中国史書(後漢書高句麗伝)もあります。 三国史記高句麗本紀の「倭山」他
後代に成立した文献(AD1145年成立、日本書記に遅れること400年以上)なので、
「倭」「倭人」記事に富む「新羅本紀」を含む隣国朝鮮の正史「三国史記」には、
触れなかったのですが、その「高句麗本紀」に「倭山」記事があります。
「三国史記・高句麗本紀」第三の第六代大祖大王(三国史記での在位年代AD53−146)
諱(いみな)宮、幼名於漱(おそう)、の80年(AD132)秋7月、
弟の遂成(後の、第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、
この時に貫那部の弥儒、桓那部(桂婁部のことか?)の於支流、
家臣に謀叛をすすめられています。
また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、
これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。
高句麗本紀では宮、遂成、伯古(新大王)の3人を兄弟としていますが、
親子関係で三代を直系相続とする中国史書(後漢書高句麗伝)もあります。 倭・倭国・俀国
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」
『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。
『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。
北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭の地である。
人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。
倭人がなぜ遼西周辺にいたのか?
三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。
呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、渤海湾奥の地まで逃げたのでしょうか。 言語系統
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。
これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、
その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。
またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖であるとされる。 >>312
言葉は十分に根拠になるわ。
たわけめ。
わははははは。 >>313
満州あたりにいたツングース系の諸族が粛慎、挹婁、靺鞨、女真、勿吉など。
挹婁と女真は別だよ。 .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引き削って除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>311
雄略あたりの伝承を8世紀前半の日本書紀が取り入れて神武の話のネタにしたということ。
あり得ることだね。
だから、神武そのものの話(南九州から大和に来たということ)とは別という話だね。 >>310
部族的な社会規範と古代中国の絶対王権のもとの階級社会の社会規範は別。
その絶対王権階級社会の規範から見たら、挹婁に規範はあってなきがごとしということだろう。 >>331
東夷が江蘇省あたりの勢力の呼称だった時代と、
東夷が朝鮮半島などの勢力に対して用いられるようになる時代では、
倭の字の発音が異なるようです。
前者は(イ)、後者は(ワ)と思われます。
「倭城」を元々から(ワジョウ)と読んでいたかどうか分かりませんね。 >>337
何という文献にどんな社会規範で略奪してたと書かれている? >>315
アルタイ地方からモンゴル、遼西遼東、朝鮮半島へと続く交易ルートがあり、盛んに物品が行き来していたということだろうね。
そのルートの最も東のエリアが日本だし。 >>339
綱紀なしと書いてあるから、略奪してたと思うのは短絡。 >>341
「其國便乗船寇盗 鄰國患之」(挹婁伝)
東夷伝を読んでないのか? >>314
今の満州のY遺伝子の割合は、
漢族系O2 37%
アルタイ語系C2 25.7%
ウラル語系N 14.3%
東夷系O1b2 15%
東夷系O1b1 若干
こんなところだそうだ。
満州地方は元々は遼河文明のNが多数派だったところへ、
寒冷化によりO2、C2が進出したとされている。 >>342
日本からだって倭寇が朝鮮半島や中国沿岸を襲っている。
その倭寇の社会が無秩序な社会状態だったかというと、そうではないだろうし、
バイキングだってその点、同じだろう。 >>344
倭寇のころはもう日本国となっていて
日本の辺境や朝鮮や中国南部の盗賊をひっくるめて倭寇と呼ばれたんだが
どういう社会秩序があったんだ? >>340
このルートに乗って匈奴の製鉄鍛冶技術が伝えられたのが、蹈鞴製鉄鍛冶かもね。
元々の倭鍛冶系統と匈奴製鉄鍛冶が宗像と秦ラインに乗って合体した可能性も考えられる。
大和・交野の物部鍛冶は、この系統から出たとみてもOKか。 >>345
盗賊て酒飲んでわいわいやって、また盗みに行ってというのは、映画の見過ぎだよ。
普通の部族社会があって、そこから出ていったのさ。 >>347
後期倭寇は日本人が少ないから実態はよくわかっていない
東夷の挹婁の社会規律は何に何と書かれているのかと聞いている .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>350
これか?
「其人不潔 作溷在中央 人圍其表居」 其人不潔 作溷在中央 人圍其表居
「人々は不潔で便所を中央に作り、人はそのまわりにいる。」
肅慎(しゅくしん),挹婁(ゆうろう),勿吉國(もつきつ),
また、人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、
中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。 併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた
1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので仕事をしないで
呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。
日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。 ようするに、治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れているが、
朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。
・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。また、痰を吐くときは口の近くに壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、家の中の物が水に浸るが、
洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 最近朝鮮事情 - Wikipedia (とに角凡そ,この世の物とは思えない、韓流ドラマとは天と地ほどの違い)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E8%BF%91%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%8B%E6%83%85
ja.wikipedia.org › wiki › 最近朝鮮事情
最近朝鮮事情(さいきんちょうせんじじょう)とは、日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した
当時の衆議院議員荒川五郎によって書かれたルポルタージュである。
1906年(明治39年)に清水書店から刊行された。
20世紀初頭の朝鮮半島の人々の様子や文化が忌憚 ... >>333
>言葉は十分に根拠になるわ。
その程度で何の根拠になるのか、たわけめ。 言語系統
詳細は「夫余語」および「扶余語族」を参照
中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ、沃沮と濊もほぼ同じとされる。
一方、東の挹婁.肅慎は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なると記される。
ここで2つの言語系統が存在することがわかるが、夫余語(扶余諸語)が現在の
どの系統に属すのかについては古くから論争があり、現在に至ってもよくわかっていない。
ただし、高句麗語と日本語祖語とはよく似た発音数詞(ヒフミ)や地名などがある。 そもそも夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫だから倭人とは近しい関係がある。
「史記-呉太伯」闔閭10(BC505)年、夫概を攻める。 夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。
(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、
半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。
・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。
その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが夫餘.高句麗。 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>355
ないよりはまし、の金言知らんのか。
わははははは。 >>336
このように、饒速日と長脛彦の話を物部氏の街道掌握の伝承とみて、
日本書紀編纂室がその物部氏の伝承を拝借して神武の大和入りを華々しく脚色したのだと考えると、
神武の大和入り自体はほとんど内容がなく、
薩摩の阿多から豊後水道、瀬戸内海を通り、難波で上陸して大和に入ったということだけしか残らない。
しかし、これが本来の神武の大和入りの事績であったのではないか。
つまり、神武は大和の連合政権によって薩摩から招き入れられ、連合政権の大シャーマンの座についたということであり、
日本書紀の記述ではその人物は崇神、あるいは応神が相当するということである。
神武の大和入りは、実に平穏に進められたというのが歴史の実態であろう。 >>360
薩摩も不潔な便所洗顔盗人族だったという話か? >>361
全然はずれ。
薩摩は1万2000年前の百越O1a族。
縄文弥生海人族の宗家。
神武こと崇神こと応神はここから来た可能性が極めて高い。
イザナギ・イザナミの故郷。 >>362
近畿に汚いのが居て、薩摩の美しい海人族の王様を招き入れたのかw
汚いのの始祖神と神武どんは同じ民族なんじゃないのか? 熊襲とか隼人とか言われて
征伐対象だったのが
本当の天皇だって。
アホか。
じゃあ征伐してた朝廷側の天皇の誰なんだよ。 >>363
縄文弥生の時期に、全国の主要拠点はO1a+D1a2系の海人によって占められた。
2世紀後半になって、近畿と中部、北陸、吉備などのこれらの海人勢力が大和に集まって、連合政権を立てた。
この時期にはまだO2、C2系種族はあまり来ていない。 天皇家はハプログループD1b1a2なんだね
元はチベットになるんですか? >>365
でお前の作り話では、汚いのはいつ近畿と薩摩で幅利かすようになったんだ? >>364
本格的な戦闘は大隅隼人との間で起こった。
阿多隼人は別。
天皇は、ひたすら安寧を祈っていただろうな。 >>367
日本に来たら尿で顔洗う必要はなくなったから、フツーに水で顔洗ったよ。 >>368
仲哀が実在したか?は疑問だが
仲哀自らが熊襲討伐してたって記事があるように
古代は天皇自らが討伐してたから
祈るようになったのは平安期以降だろ 延喜式祝詞には、
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て皇御孫之命が祭祀を行うとある
また
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている
天之御蔭、日之御蔭と隠れていたという一節は重要なんじゃないか? .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>372
祝詞本文をみても、ちんぷんかんぷんですわ。
お手上げです〜♪ >>371
養老4年の大隅隼人の反乱では、天皇は出陣していないし。 >>1
>神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、
>馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。
神武の時代に馬はいないと言ってるだろうが、このハゲ〜〜〜〜〜! .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>377
くちばし長いめおやじめ。
日本書紀は誰が書いたんだよ。
神武と長脛彦の戦いは元々は物部の伝承。
元明・元正天皇の頃に日本書紀編纂室がその伝承を拝借して脚色したのよ。
馬は5世紀中頃から四条畷で飼われてるから、物部の伝承はそれ以降にできた。
実歴史では、長脛彦を排除したのは物部であって、神武じゃないからな〜。 モンゴルの遺跡で出た製鉄跡の羽口と日本の蹈鞴の羽口の差し込み角度が同じということは、
中国とは関連しない交易路がモンゴルと日本の間にあったことを示している。
遼西遼東あたりを経て、半島を南下し、対馬から唐津へ渡るルートだ。
4世紀後半には秦氏もこのルートで渡来した。
そして、このルートはカザフ平原からギリシャ、ローマほかヨーロッパへとつながっていたのだから、地球を半周する長大な交易路だったということだよ。
日本語の語彙にギリシャ神話の登場人物がみられるのも、そうした交易路に乗って日本までやってきたということさ。 >>380
弥生青銅器が朝鮮青銅器のコピーで、朝鮮青銅器がオルドス青銅器のコピーで、
オルドス青銅器がメソポタミア青銅器のコピーだから、鉄器も同じルートだろう >>380
>日本の蹈鞴の羽口
済まんが何遺跡の? >>379
>神武と長脛彦の戦いは元々は物部の伝承。
先代旧事本記にあったっけ? >>382
日本側の蹈鞴遺跡については書かれてない。
モンゴル側の製鉄遺跡はホスティン・ボラグ遺跡。
この遺跡の羽口の炉への差し込み角度が蹈鞴のその羽口の角度と同じだとする見解がみられる。 >>383
先代旧事本記は平安時代に書かれたものだから、
当然日本書紀の記述がベースになっている。
その日本書紀の記述をさしおいて、その話はわしらの伝承だから、とは書かんよね。 >>381
まったく同意。
メソポタミアやインドから北上する交易路とギリシャやローマからカザフ平原を経て東行する交易路が交差する要衝がウルムチですね。
そして、このウルムチから東へ続く交易路がモンゴル、半島を経て日本までつながってる。
中国を経由しないこのルートが弥生、古墳時代の重要な経路のようだ。 >>384
ホスティン・ボラグ遺跡
紀元前1世紀から紀元1世紀の製鉄炉跡で、居住跡などはともなっておらず、また、鍛冶関係の跡もなし。
ピットを伴う小型製鉄炉で、羽口も見つかっている。
地上に製鉄炉を築く日本とは異なっているが、塊錬鉄製鉄法の炉で、
羽口の差込角度はほぼたたら製鉄の場合と同じであり、
高度な技術がすでに持っていたことが伺える。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2013htm/iron9/1311kyoudop05.pdf
モンゴルの製鉄技術がそのまま日本に伝わっているわけではない >>384
面白いデータがある。
南シベリアのエニセイ川流域のミヌシンスク地方の堅昆、鬲昆と中国側から呼ばれた種族がいて、
この種族は元来はヨーロッパ系だったとみられている。
この種族の遺跡がトロシュキノ・イユス遺跡。
ここからは製鉄炉6基などが出ていて、この製鉄炉は方形製鉄炉で、土製羽口も出ているそうだ。
時期は前1世紀〜後5世紀とされる。
方形製鉄炉は日本の蹈鞴炉の方形炉と同じ。
極めて注目される遺跡といえそうだ。 >>388
補正
トロシュキノ・イユス遺跡はタシュティク文化の遺跡で、
このタシュティク文化の存続期間が前1世紀〜後5世紀。
388の記述の8行目は、このタシュティク文化の存続期間ということ。 >>388
モンゴルのホスティング・ボラグ遺跡を営んだ匈奴が滅ぶのは5世紀。
この遺跡の製鉄炉羽口の差し込み角度が日本の蹈鞴炉の羽口の角度と同じ。
また、南シベリアのトロシュキノ・イユス遺跡の製鉄炉の方形炉の形が蹈鞴炉の方形の形と同じで、
この遺跡をつくったタシュティク文化が消滅するのも5世紀。
日本で蹈鞴製鉄が始まるのも、最近では5世紀に遡るとされ始めている。
日本の蹈鞴製鉄や大和の物部氏の鉄器鍛冶が始まるのは5世紀後半。
双方に関連があるのかもな♪ >>390
日本の炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。
古代(8〜9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、
9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、
東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm
ホスティン・ボラグ遺跡周辺の地域で出土した製鉄炉もほぼ同じ塊錬鉄製鉄法の地下炉
日本とは炉の構造が違う >>387
匈奴は従来、製鉄部門を持っていなかったとされていたが、
この遺跡の発見によって匈奴に製鉄部門があった可能性が出てきたということ。
したがって、匈奴が滅ぶ5世紀初頭頃までその製鉄部門が匈奴に属していたことが推定されるというのがこのサイトの趣旨。
匈奴が滅んだあとは、散り散りになったか、他の部族の傘下に属すようになったかいろいろあるはず。
蹈鞴の羽口の差し込み角度とこの部族の羽口の角度がよく似ているというのだから、技術的な伝播があったのか、技術者が渡来したのか、そこらは何らかの関連があったのではないか。 >>391
吉備から始まった製鉄炉は、箱型だとされている。
吉備は原料に砂鉄を用いたものが盛んだったそうだ。
この箱型(元々は方形)炉がどのようにして始まったか不明とされているが、
方形炉がエニセイ川流域のトロシュキノ遺跡の炉にみられるのであれば、その関連も追及されるべき。 製鉄炉の技術的な変遷には、各製鉄集団の技術が混在しているようにみえる。
この複数の系統の製鉄技術の習合過程と、物部氏が製鉄鍛冶集団の複合集団ではないかとされる見解とは、よく符号するようにみえる。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>394
岡山県赤磐市の石上にある布都魂神社は、製鉄鍛冶や弓削ほか各種職能集団が集まっていた地域の要となる神社で、吉備津彦神社とともに備前一宮であったという。
この神社には、元々剣が祭神として祀られていたという。
そして、この剣は奈良の石上神宮へ移されたとされ、そのことは石上神宮の社伝でも伝えられていることだとされている。
剣の移動については、各地の鍛冶集団が奈良石上の物部氏に習合する過程で、鍛冶集団の宗家としての地位の証として布都魂神社から石上神宮へ移されたものではないのだろうか。
そのように考えれば、剣が移動した理由を理解しやすい。
つまり、各地に物部氏を唱える氏族が存在することについて、奈良物部氏の族党が各地に進出したこともあるものの、多くは奈良物部氏を中核とする鍛冶集団のネットワークに習合した者たちであったのではないのだろうか。
そして、 邪馬台国は最初、台湾から九州(高天原)に移民して、その中の一部が更に奥の機内に船で移動し建国したのだろう。
後から朝鮮との混血が生まれた可能性が高い。 だったら九州や畿内から台湾系の衣食住に関する生活必需文物や
住居跡や漢字遺物が出土する生活痕遺構あるはずじゃないか
妄想願望チンコロ乙 >>395
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます 台湾原住民は4系統在り、名前は忘れましたが、そのひとつに首刈り族が居ます。
漢字文化はまだ在りません。
骨格は徳川家康の様にエラが張ったごつい顔をしています。
多聞、蘇我の馬子も同じ系統だと思います。 >>397
>九州(高天原)
それが土地の神の信仰観 >>400
古代台湾って6000年くらい前から鼎や釜や竈や甑を持つ中国土器文化圏だぞ
住居も木造土間式だろ
痕跡ねえな .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>401
天皇は縄文以来の勾玉をずっと継承しているからね。
着物の柄は変わっても、着物自体はそのままなの。 まあ、天皇は新嘗祭で神と新穀を共食しているし。
一方、時の政権トップも、個人の家では氏神と共食することがあったとしても、
国家レベルではこのような儀礼はしないしな。
時には、天皇が行う儀礼を真似しようとして排斥された者もいるようだけど。 >>384
>日本側の蹈鞴遺跡については書かれてない。
書かれていないのに何で「日本の蹈鞴の羽口の差し込み角度が同じ」とかになるのか。
適当なこと言うな。 >>397
>九州(高天原)
高天原が九州にあるなんて説は江戸末期に出てきた。
しかもそれは南九州説だ。
高天原が北部九州にあるなんて説は最近出てきたヨタ説。
歴史上認められるものではない。
高天原は奈良県御所市高天。
大和朝廷の発祥地だ。
平安・鎌倉の文献にもそれが当たり前のように書かれている。 >>407
この著者は蹈鞴の羽口の角度について知識があるんじゃろな。
ひとを疑ってはいかん。
信心あるのみ。 >>407
古墳時代の4〜5世紀代には専用羽口があったそうだ。(「金属組織学からみた日本列島と朝鮮半島の鉄」大澤正己。A弥生時代から古墳時代へかけて…の27行目から) >>410
博多遺跡の特異な羽口というのは大型の断面形が蒲鉾形で底に平坦面をもつ羽口
ホスティン・ボラグ遺跡の羽口とは違う >>411
4〜5世紀の日本に羽口があったと言ったのは、この時期には鍛治炉の羽口があったことを示したもの。
日本では蹈鞴製鉄炉において初めて羽口が登場したのではないことを言いたかっただけ。
日本で製鉄炉が登場する時代には、羽口の知識はすでにあったのであり、製鉄炉の羽口に対する理解は早かっただろうということ。
ボラグ遺跡は製鉄遺跡であり、羽口は鍛治炉の羽口とは異なっていたと思われる。 >>412
5世紀半ばには、日本で製鉄が始まっていたとする意見がみられる。(「たたらの歴史 製鉄の始まり」) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています