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天皇制のルーツは結局何なのか2
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0001アッシー
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2020/07/01(水) 16:33:11.28
スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。
0363日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 19:06:14.08
>>362

近畿に汚いのが居て、薩摩の美しい海人族の王様を招き入れたのかw
汚いのの始祖神と神武どんは同じ民族なんじゃないのか?
0364日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 19:43:02.89
熊襲とか隼人とか言われて
征伐対象だったのが
本当の天皇だって。
アホか。
じゃあ征伐してた朝廷側の天皇の誰なんだよ。
0365日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 19:43:40.65
>>363
縄文弥生の時期に、全国の主要拠点はO1a+D1a2系の海人によって占められた。
2世紀後半になって、近畿と中部、北陸、吉備などのこれらの海人勢力が大和に集まって、連合政権を立てた。
この時期にはまだO2、C2系種族はあまり来ていない。
0366日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 20:15:49.98
天皇家はハプログループD1b1a2なんだね
元はチベットになるんですか?
0367日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 20:17:54.38
>>365

でお前の作り話では、汚いのはいつ近畿と薩摩で幅利かすようになったんだ?
0368日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 20:35:56.33
>>364
本格的な戦闘は大隅隼人との間で起こった。
阿多隼人は別。
天皇は、ひたすら安寧を祈っていただろうな。
0369日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 20:45:31.37
>>367
日本に来たら尿で顔洗う必要はなくなったから、フツーに水で顔洗ったよ。
0370日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 20:49:42.02
>>366
永遠の謎よ。
0371日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 21:06:37.82
>>368
仲哀が実在したか?は疑問だが
仲哀自らが熊襲討伐してたって記事があるように
古代は天皇自らが討伐してたから
祈るようになったのは平安期以降だろ
0372日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 21:51:04.88
延喜式祝詞には、
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て皇御孫之命が祭祀を行うとある
また
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある

また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている

天之御蔭、日之御蔭と隠れていたという一節は重要なんじゃないか?
0373日本@名無史さん
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2020/07/09(木) 22:25:50.19
>>369

お前がな
0374日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/09(木) 22:26:13.97
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0375日本@名無史さん
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2020/07/10(金) 03:14:36.42
>>372
祝詞本文をみても、ちんぷんかんぷんですわ。
お手上げです〜♪
0376日本@名無史さん
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2020/07/10(金) 03:26:56.81
>>371
養老4年の大隅隼人の反乱では、天皇は出陣していないし。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 11:41:43.00
>>1
>神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、
>馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。

神武の時代に馬はいないと言ってるだろうが、このハゲ〜〜〜〜〜!
0378日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 13:58:29.70
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0379日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 15:23:18.24
>>377
くちばし長いめおやじめ。
日本書紀は誰が書いたんだよ。
神武と長脛彦の戦いは元々は物部の伝承。
元明・元正天皇の頃に日本書紀編纂室がその伝承を拝借して脚色したのよ。
馬は5世紀中頃から四条畷で飼われてるから、物部の伝承はそれ以降にできた。
実歴史では、長脛彦を排除したのは物部であって、神武じゃないからな〜。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 15:44:22.92
モンゴルの遺跡で出た製鉄跡の羽口と日本の蹈鞴の羽口の差し込み角度が同じということは、
中国とは関連しない交易路がモンゴルと日本の間にあったことを示している。
遼西遼東あたりを経て、半島を南下し、対馬から唐津へ渡るルートだ。
4世紀後半には秦氏もこのルートで渡来した。
そして、このルートはカザフ平原からギリシャ、ローマほかヨーロッパへとつながっていたのだから、地球を半周する長大な交易路だったということだよ。
日本語の語彙にギリシャ神話の登場人物がみられるのも、そうした交易路に乗って日本までやってきたということさ。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 16:03:57.92
>>380
弥生青銅器が朝鮮青銅器のコピーで、朝鮮青銅器がオルドス青銅器のコピーで、
オルドス青銅器がメソポタミア青銅器のコピーだから、鉄器も同じルートだろう
0382日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 16:59:22.31
>>380
>日本の蹈鞴の羽口

済まんが何遺跡の?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 17:00:58.25
>>379
>神武と長脛彦の戦いは元々は物部の伝承。

先代旧事本記にあったっけ?
0384日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 18:34:16.68
>>382
日本側の蹈鞴遺跡については書かれてない。
モンゴル側の製鉄遺跡はホスティン・ボラグ遺跡。
この遺跡の羽口の炉への差し込み角度が蹈鞴のその羽口の角度と同じだとする見解がみられる。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 18:43:56.13
>>383
先代旧事本記は平安時代に書かれたものだから、
当然日本書紀の記述がベースになっている。
その日本書紀の記述をさしおいて、その話はわしらの伝承だから、とは書かんよね。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 18:54:40.04
>>381
まったく同意。
メソポタミアやインドから北上する交易路とギリシャやローマからカザフ平原を経て東行する交易路が交差する要衝がウルムチですね。
そして、このウルムチから東へ続く交易路がモンゴル、半島を経て日本までつながってる。
中国を経由しないこのルートが弥生、古墳時代の重要な経路のようだ。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 19:05:30.36
>>384

ホスティン・ボラグ遺跡

紀元前1世紀から紀元1世紀の製鉄炉跡で、居住跡などはともなっておらず、また、鍛冶関係の跡もなし。
ピットを伴う小型製鉄炉で、羽口も見つかっている。
地上に製鉄炉を築く日本とは異なっているが、塊錬鉄製鉄法の炉で、
羽口の差込角度はほぼたたら製鉄の場合と同じであり、
高度な技術がすでに持っていたことが伺える。

http://www.infokkkna.com/ironroad/2013htm/iron9/1311kyoudop05.pdf

モンゴルの製鉄技術がそのまま日本に伝わっているわけではない
0388日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 19:25:49.60
>>384
面白いデータがある。
南シベリアのエニセイ川流域のミヌシンスク地方の堅昆、鬲昆と中国側から呼ばれた種族がいて、
この種族は元来はヨーロッパ系だったとみられている。
この種族の遺跡がトロシュキノ・イユス遺跡。
ここからは製鉄炉6基などが出ていて、この製鉄炉は方形製鉄炉で、土製羽口も出ているそうだ。
時期は前1世紀〜後5世紀とされる。
方形製鉄炉は日本の蹈鞴炉の方形炉と同じ。
極めて注目される遺跡といえそうだ。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 19:36:16.55
>>388
補正

トロシュキノ・イユス遺跡はタシュティク文化の遺跡で、
このタシュティク文化の存続期間が前1世紀〜後5世紀。
388の記述の8行目は、このタシュティク文化の存続期間ということ。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 19:49:01.05
>>388
モンゴルのホスティング・ボラグ遺跡を営んだ匈奴が滅ぶのは5世紀。
この遺跡の製鉄炉羽口の差し込み角度が日本の蹈鞴炉の羽口の角度と同じ。
また、南シベリアのトロシュキノ・イユス遺跡の製鉄炉の方形炉の形が蹈鞴炉の方形の形と同じで、
この遺跡をつくったタシュティク文化が消滅するのも5世紀。
日本で蹈鞴製鉄が始まるのも、最近では5世紀に遡るとされ始めている。
日本の蹈鞴製鉄や大和の物部氏の鉄器鍛冶が始まるのは5世紀後半。
双方に関連があるのかもな♪
0391日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 20:00:30.42
>>390

日本の炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。
古代(8〜9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、
9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、
東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。

https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm

ホスティン・ボラグ遺跡周辺の地域で出土した製鉄炉もほぼ同じ塊錬鉄製鉄法の地下炉
日本とは炉の構造が違う
0392日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 21:11:09.89
>>387
匈奴は従来、製鉄部門を持っていなかったとされていたが、
この遺跡の発見によって匈奴に製鉄部門があった可能性が出てきたということ。
したがって、匈奴が滅ぶ5世紀初頭頃までその製鉄部門が匈奴に属していたことが推定されるというのがこのサイトの趣旨。
匈奴が滅んだあとは、散り散りになったか、他の部族の傘下に属すようになったかいろいろあるはず。
蹈鞴の羽口の差し込み角度とこの部族の羽口の角度がよく似ているというのだから、技術的な伝播があったのか、技術者が渡来したのか、そこらは何らかの関連があったのではないか。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 21:28:48.44
>>391
吉備から始まった製鉄炉は、箱型だとされている。
吉備は原料に砂鉄を用いたものが盛んだったそうだ。
この箱型(元々は方形)炉がどのようにして始まったか不明とされているが、
方形炉がエニセイ川流域のトロシュキノ遺跡の炉にみられるのであれば、その関連も追及されるべき。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 21:41:56.09
製鉄炉の技術的な変遷には、各製鉄集団の技術が混在しているようにみえる。
この複数の系統の製鉄技術の習合過程と、物部氏が製鉄鍛冶集団の複合集団ではないかとされる見解とは、よく符号するようにみえる。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/10(金) 23:44:55.85
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0396日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 00:41:48.94
>>394
岡山県赤磐市の石上にある布都魂神社は、製鉄鍛冶や弓削ほか各種職能集団が集まっていた地域の要となる神社で、吉備津彦神社とともに備前一宮であったという。
この神社には、元々剣が祭神として祀られていたという。
そして、この剣は奈良の石上神宮へ移されたとされ、そのことは石上神宮の社伝でも伝えられていることだとされている。
剣の移動については、各地の鍛冶集団が奈良石上の物部氏に習合する過程で、鍛冶集団の宗家としての地位の証として布都魂神社から石上神宮へ移されたものではないのだろうか。
そのように考えれば、剣が移動した理由を理解しやすい。
つまり、各地に物部氏を唱える氏族が存在することについて、奈良物部氏の族党が各地に進出したこともあるものの、多くは奈良物部氏を中核とする鍛冶集団のネットワークに習合した者たちであったのではないのだろうか。



そして、
0397日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 03:37:40.92
邪馬台国は最初、台湾から九州(高天原)に移民して、その中の一部が更に奥の機内に船で移動し建国したのだろう。
後から朝鮮との混血が生まれた可能性が高い。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 03:49:19.11
だったら九州や畿内から台湾系の衣食住に関する生活必需文物や
住居跡や漢字遺物が出土する生活痕遺構あるはずじゃないか

妄想願望チンコロ乙
0399日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 04:54:51.79
>>395
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です

松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです

松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です

朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています

しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます

これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です

支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます

魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0400日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 05:28:16.36
台湾原住民は4系統在り、名前は忘れましたが、そのひとつに首刈り族が居ます。
漢字文化はまだ在りません。
骨格は徳川家康の様にエラが張ったごつい顔をしています。
多聞、蘇我の馬子も同じ系統だと思います。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 08:39:39.15
皇室は奈良時代に北魏様式化済み
0402日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 11:22:38.37
>>397

>九州(高天原)

それが土地の神の信仰観
0403日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 12:45:31.33
>>400
古代台湾って6000年くらい前から鼎や釜や竈や甑を持つ中国土器文化圏だぞ

住居も木造土間式だろ

痕跡ねえな
0404日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 14:14:12.79
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


.
0405日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 16:37:28.13
>>401
天皇は縄文以来の勾玉をずっと継承しているからね。
着物の柄は変わっても、着物自体はそのままなの。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 18:41:24.49
まあ、天皇は新嘗祭で神と新穀を共食しているし。
一方、時の政権トップも、個人の家では氏神と共食することがあったとしても、
国家レベルではこのような儀礼はしないしな。
時には、天皇が行う儀礼を真似しようとして排斥された者もいるようだけど。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 22:17:30.87
>>384
>日本側の蹈鞴遺跡については書かれてない。

書かれていないのに何で「日本の蹈鞴の羽口の差し込み角度が同じ」とかになるのか。
適当なこと言うな。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 22:22:15.46
>>397

>九州(高天原)

高天原が九州にあるなんて説は江戸末期に出てきた。
しかもそれは南九州説だ。
高天原が北部九州にあるなんて説は最近出てきたヨタ説。
歴史上認められるものではない。

高天原は奈良県御所市高天。
大和朝廷の発祥地だ。
平安・鎌倉の文献にもそれが当たり前のように書かれている。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 22:33:32.28
>>407
この著者は蹈鞴の羽口の角度について知識があるんじゃろな。
ひとを疑ってはいかん。
信心あるのみ。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/11(土) 23:22:38.81
>>407
古墳時代の4〜5世紀代には専用羽口があったそうだ。(「金属組織学からみた日本列島と朝鮮半島の鉄」大澤正己。A弥生時代から古墳時代へかけて…の27行目から)
0411日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 00:04:39.03
>>410

博多遺跡の特異な羽口というのは大型の断面形が蒲鉾形で底に平坦面をもつ羽口
ホスティン・ボラグ遺跡の羽口とは違う
0412日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 02:42:37.06
>>411
4〜5世紀の日本に羽口があったと言ったのは、この時期には鍛治炉の羽口があったことを示したもの。
日本では蹈鞴製鉄炉において初めて羽口が登場したのではないことを言いたかっただけ。
日本で製鉄炉が登場する時代には、羽口の知識はすでにあったのであり、製鉄炉の羽口に対する理解は早かっただろうということ。


ボラグ遺跡は製鉄遺跡であり、羽口は鍛治炉の羽口とは異なっていたと思われる。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 02:50:59.80
>>412
5世紀半ばには、日本で製鉄が始まっていたとする意見がみられる。(「たたらの歴史 製鉄の始まり」)
0414日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 11:02:35.26
>>412

羽口は銅剣矛鐸作ってるころから使ってる
0415日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 13:47:34.29
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0416日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 13:51:01.54
そういうわけだから、モンゴルの製鉄遺跡の羽口の差し込み角度と日本の製鉄遺跡の羽口の差し込み角度が同じということや、
ロシアの南シベリアの製鉄遺跡の炉形が方形であり、日本の製鉄遺跡の炉形に方形のものがあることなどは、
日本の製鉄炉のルーツがそのあたりにあるという可能性も考えないとな。
日本の5世紀半ばの製鉄開始の時期も、ちょうど匈奴が滅ぶ5世紀に重なっているし。
まず広島あたりで製鉄が始まり、それが各地へ広がる中、5世紀後半の雄略の頃に国家的な製鉄事業が大和や河内で始まったということだろう。
物部氏は、そうした流れの中の宗像・秦ラインの主要製鉄鍛冶集団だったと考えることも可能だ。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 18:19:25.05
>>414
羽口は使いなれてるから、製鉄炉がもたらされても、何の違和感もなかった。
ただ、青銅より鉄は高温が必要だから、燃料の問題があっただけ。
山林と原料の鉄鉱石・砂鉄がまとまって入手できたのが、広島の山奥の庄原や三次
だったということだな。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 21:42:31.95
兄弟相続から長子相続に切り替えたのも北魏先生のおかげ。北魏先生の教えで天武朝は倭から日本に変えることができたのです。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/12(日) 23:03:04.57
そういや、古代天皇は兄弟で皇位継承してたな。
あれは大王の権力が弱いから、いきなり小さい子供が継ぐと、豪族にやられるから成人の中で継承すると兄弟間継承になったって説を聞いたけど違うの?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/13(月) 08:48:22.36
>>408
古来の高天原は御所市ではなく金剛山だけどな
0421日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/13(月) 13:36:23.76
>>417
5世紀半ば頃に広島の庄原や三次に大規模な鍛治工房があり、このころには当該地方で製鉄が始まっていた可能性があるとされるように、
当時の鍛冶の先進地はこの地方であったように見える。
とすると、鍛冶工房の新技術などもこのエリアに導入されていた可能性が高い。
そして、この少しあとになって、大和や河内に政権が主導する鍛冶工房が開かれるわけだから、
大和や河内の鍛冶工房は庄原や三次の工房にルーツがあったことも考えられる。
このようにみると、大和石上の物部氏のルーツは、庄原、三次あたりと想定してみるのも悪くない。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/13(月) 14:02:54.87
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0423日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/13(月) 17:54:44.03
4世紀の鍛冶工房に関連して出土する鉄鋏などの鉄製工具は首長層の鍛冶工房で使われていて、
一般の鍛冶工房では石器や木製の工具などが使われていたようだという。
首長層の鍛冶工房で使われたこの鉄製工具は、半島などから輸入されたものと推定されているようだ。
一方、5世紀前半〜中葉頃になると、鉄製工具は一般の鍛冶工房でも使われるようになるそうだ。
製鉄が国内で行われるようになった結果ではないかとみられているわけだ。
つまり、物部氏の交野、石上の鍛冶工房が5世紀後半にスタートすることの前提として、
この製鉄の存在があったのではないかということになってくる。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/13(月) 18:09:46.67
>>423
物部氏系図の物部十市根以前の人物名が、交野から出雲までの街道筋の神社の祭神名と重なるようであり、
その最後の祭神が出雲大社の大己貴尊となっていることは、
交野や石上の鍛冶工房の鉄素材の搬入元が出雲地方にあったことを示しているのではないか。
交野や石上で鍛冶工房をスタートする以前の物部氏は、そうした出雲系の鉄素材を用いる鍛冶職能集団であった可能性も出てくる。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 06:33:46.47
武士/物部(もののふ)とは。 意味や解説、類語。
1 武勇をもって主君に仕え、戦場で戦う人。武人。武者。兵 (つわもの) 。もののべ。
2 (「物部」と書く)古代、朝廷に仕えた文武の官人。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 07:00:32.53
キク科のツワブキは、とにかく強いです。 野草のツワは強い植物の代名詞。

1.日陰でも良く育ちます.
2.ほうっておいても良く育ちます.
3.抑草効果があり他の雑草が生えにくい.
4.常緑多年草です.
5.潮風に強い.海水が直接掛かっても大丈夫です.
6.他の花が少ない時期に咲きます.
7.勝手に増えてくれます.
8.食べられます.
0427日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 12:40:34.10
>>426
ツワブキの(ツ)と強いの(ツ)は同じなんですね。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 13:30:50.66
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.
0429日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 13:36:43.78
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0430日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 13:58:49.77
さて、この「強者」とは、「つばもの」から変化したもの。
もともとは、武器や武具のことでした。「つば」は「鍔」、刀の鍔のことです。

やがて、兵士をさすようになり、次第に勇気のある強い武士をさす言葉に
なりました。「兵」は一文字で「つわもの」と読むこともあります。

今では、武器という意味では使われなくなりました。
すぐれた技量と精神力を持ち合わせた人こそ、
どんな武器にも勝るということなのでしょうね。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 15:30:51.78
>>430
なるほど。
(つわ)、(つば)は(つ)が同じですね。
となると、(つるぎ=剣)の(つ)も同類でしょう。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/14(火) 16:54:32.34
積む、紡ぐ、摘む、詰む、お頭、釣る、吊る、蔓、ツルハシ

「ツ」には強く、ねじ伏せるような意味が有るのかも。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/15(水) 13:07:43.64
>>432
剣(つるぎ)と鶴嘴(つるはし)のツルは同じでしょうね。
とすると、鶴(つる)の語源は、剣(つるぎ)のツルかも知れません。
長く鋭く尖がっているのが鶴の口ばしですから、剣(つるぎ)と形が似ています。
兵(つわもの)は兵が持っている剣(つるぎ)に由来するように思われますから、
兵(つわもの)の(つ)は、鋭いという意味のように見えますね。
そうしますと、(つわもの)とは(鋭い物=鋭い剣)の意味となってきます。
このように考えますと、物部(もののべ)とは(もののべ=剣部)の意味であることが考えられます。
つまり、大和の鍛冶集団であった物部氏は、その産業の中核が「剣の生産者」だったということになってきます。
そして、物部氏の石上神社は剣を祭神としていますから、この推測は当たらずとも遠からずといえるのではないでしょうか。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/15(水) 14:06:37.21
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.
0435日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/15(水) 19:15:49.82
>>433
このように、物部氏の物部とは「剣部(もののべ)」であると考えると、備前の布都魂神社が所蔵していた鉄剣が大和の石上神宮に移されたという話や、
百済から大和の大王に贈られた鉄刀の七枝刀が石上神宮から出たことなど、なぜ鉄剣が物部氏のもとに集まって来ているのか理解しやすいということになります。
そして、備前の布都魂神社の鉄剣は日本で製鉄ができるようになった最初の頃の玉鋼で造った剣であり、
国産の鉄剣の象徴のように位置付けられていたことから、大王のもとで鉄剣製作を進め、全国の刀鍛冶をネットワーク化した物部氏にとって、
ぜひ手元に置きたかった鉄剣ではなかったかと考えることも可能になってきます。
物部氏は「剣部(もののべ)」ではなかったかと考えると、いろいろ理解しやすくなってくるようです。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/15(水) 19:43:56.15
吉備ってヤマト王権より古い王朝なんじゃないのか
地方王権ではあるだろうけど
0437日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/15(水) 20:51:18.19
>>436
大和に連合政権ができる以前は、北部九州連合政権→出雲連合政権→吉備連合政権が西日本三大連合政権だったようですね。
吉備は、瀬戸内海の海運交易の中枢で、東は奈良・近江、南は宮崎・大隅、西は大分・熊本、北は出雲と四方に足を延ばしていた。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/15(水) 21:38:05.25
出雲は2遺跡だけで北部九州を凌ぐ大量の銅剣が埋納されてるから
中枢的と言ってもいいかもしれないが
吉備は中継地といった感じだな
0439日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 02:34:35.35
大和の纏向で桃の種が2765個出たと考古学者が騒いだが、
岡山ではなんと1万3000固もの桃の種が出ている。
桁が違うのよ。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 12:39:32.01
>>439
纏向のは、一つの穴から出てるのと、ネズミ等の小動物に齧られてないのが特殊で、祭事の形跡と考えられる。
岡山のももの種の総数は、間違いなく桃の産地だった事を示してはいるが、纏向のような出方はしてない。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 13:41:18.69
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
0443日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 14:04:50.86
>>441
岡山県の足守川の弥生時代頃の河口付近の波止場跡から出土した桃の種は、実に9608個。
吉備津彦神社の近くだ。
祭祀用土器なども多数出土した。
船の出入りに関する何らかの祭祀跡ではないかとみられている。
纏向の桃の種なんか、足元にも及ばんね。
瀬戸内海や豊後水道方面の交易や舟運の拠点だったのだろう。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 14:11:24.17
神獣鏡などに描かれる西王母が持っているのは、命を司る桃の実。
祭祀に用いられたとみられる岡山の桃や纏向の桃は、この西王母の桃と関連があるのかもしれない。
あるいは、縄文時代からの伝統的祭祀かもしれない。
いずれにしても、岡山の桃は桁が違うね。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 14:43:43.00
>>438
墳墓の形式からみると、岡山など瀬戸内は円墳が基本で、
その範囲はかなり広い。
弥生時代においてはやはり一つの圏域を形成している。
金属器の原材料の流通経路は博多→出雲→岡山などであったから、
その点では出雲の風下に立っていたのは間違いない。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 15:54:43.96
>>443
総量でわかるのは桃の産地だと言うこと。

纏向のは、一つの穴に纏まって出ているのと、種に齧られた跡が無いことから、実のついた状態のまま埋められたということ。

実のついた桃が2000個以上、同時に埋められている事から3世紀の前半の纏向で、桃を大量に埋めるような祭事があったことが分かる。

普通ゴミ捨て場などから出る種の遺物なんかは、ネズミが齧った跡が付いてるので、その違いに意味がある。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 16:57:29.76
鉄を握ってたのは出雲ではなく
弁韓から瀬戸内までの海上交易を支配していた
海人族では?

淡路島から製鉄遺跡が出土している
出雲より海人族の方が戦力があったと思うのだが
0448日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 17:03:32.63
吉備にしてもヤマトにしても阿波にしても
鉄は海人族から弁韓のものを仕入れていたはず
しかも海人族は淡路島に自前の製鉄所まで
構えていたと
淡路島は国産み神話の本拠地だ

北海沿岸起源のゲルマン人は太陽神を女神とした
瀬戸内の海人族も太陽を女神と考えていたのだろう

アマテラスは海人族の信仰が起源だったのだろう
海の向こうからやってくる光り輝く神だった
0449日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 18:39:00.13
>>447,448
瀬戸内海にいた海人族って阿曇ではなく隼人だぞ。
阿曇は半島と日本海側。

鉄の材料はどこから来たのかわからんが、製鉄技術は半島経由では来てないのは確か。

理由
魏や朝鮮の製鉄技術は間接製鉄法で、日本にある製鉄遺跡は全て直接製鉄法
弥生時代どころか、江戸時代まで日本の製鉄は直接製鉄一本しかない。

弥生時代、直接製鉄を行っていたのは魏ではなく呉
0450日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 18:40:18.19
なぜ鉄の材料がどこから来たのかわからないのか?

理由
3世紀の宮崎では自前で砂鉄から製鉄していた痕跡が見つかってる。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/16(木) 21:59:37.29
製鉄とか金属加工には大量の木材がいる
人間の日常生活にも木材が必要

製鉄とかが行われていた地域はより大きな勢力の支配地だろう
0452日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/17(金) 14:10:29.44
.



日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0453日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 00:00:24.38
物部氏の石上神宮がある布留遺跡では鍛冶工房跡が出土しているが、剣の柄にする木製品の完成品や未成品が大量にみつかっているという。
布留遺跡には剣の鍛冶場があり、その完成した剣に取り付ける木製の柄もたくさんストックされていたということになりそうだ。
物部氏のモノノベとは、剣部(もののべ)であった可能性が高まる。
つまり、物部氏が大和に入る前の職能としては、剣の鍛冶集団であったとみることもできそうだ、ということになってくる。
スサノオの十握剣や百済の七支刀が物部氏のもとに集まって来たその理由がみえてくるのだ。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 11:11:01.47
>物部氏が大和に入る前の職能としては、剣の鍛冶集団であったとみることもできそうだ

半島南部の東菜遺跡だっtか出土土器の94%だかが北部九州の倭人系土器。
半島南部に鉄の採掘に行ってたのが物部の前身であろう。
筑紫物部だろうな。

>スサノオの十握剣や百済の七支刀が物部氏のもとに集まって来たその理由がみえてくるのだ。

スサノオ=鴨大御神=アジスキタカヒコネの持ってた神度剣な。
崇神が易姓革命を起こし出雲族から奪った物だ。
他にも山陰出雲の振根の記事にみられるように出雲の神宝を奪ってるが、
おそらく三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」であろう。

にほんでは崇神の時代に臣下が主を倒す易姓革命=クーデターがあった。
倒されたのは大和にいた出雲系大物主。

大神神社でも山陰の出雲大社でも伊勢神宮でも、
征服者が、被征服者の怨霊が祟らないように、
崇めているのだ。
「祟り→崇める」というわけだ。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 12:22:04.24
>>454

莱城遺跡の1号住居の弥生系土器の出土が94%
胎土は在地、弥生中期前半の弥生土器の模倣、甕が主体で短期居住と考えられている
0456日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 13:32:28.89
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0457日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 15:59:48.99
>>454
日本へ鉄が渡る過程としては、採鉱(倭人自身・あるいは現地人など)→製鉄(現地専門技術集団)→市場→鉄購入(倭人)→対馬海峡渡海→博多市場→各地の出先機関が購入→各地へ搬送、ということか。
物部氏が関与したのは博多市場からでないか。
博多市場まではかなり専門的なバイヤーたちが関与した。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 16:17:49.15
>>454
アジスキタカヒコネの剣は十束剣(とつかのつるぎ)→物部・十握剣。
日本書紀や古事記での正式名は大葉刈、大量刈(おおはかり)=神戸剣・神度剣→ヤマトタケル・草薙剣(くさなぎ)。
これをみると、物部の剣とよく似ているな。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 16:57:46.59
>>458
出雲に派遣されたワカヒコとワカヒコの葬儀に出向いたアジスキは瓜二つによく似ていたとされているのは、
この剣の名称の類似とよく似た話ではある。
ただ、出雲系の剣については銅剣が思い浮かび、物部のは鉄剣であり、この点が大きく相違するところか。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 17:24:34.41
もしかして、
瓊瓊杵命から、
第第天皇制は繋がってんじゃね?
そのへんのことは、
宮下文書に書いてあるよ
0461日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 18:06:34.03
>>460
部族時代のシャーマンが天皇制のルーツじゃないの。
しかし、宮下文書もなあ…。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/18(土) 19:43:09.68
>>459
交野物部氏の鍛冶工房については、「森遺跡と鍛冶工房(星のまち交野)」に詳しいな。
この講演者は、交野の鍛冶炉は倭鍛冶系だったとしている。
そして、それは瀬戸内海の系譜とみているようだ。
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