天皇制のルーツは結局何なのか2
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スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。 >>651
後漢書はその当時のことを遡って書いているから、根拠にならない。 >>650
ヤマトと言うのは、漢字が入ってくる前からの日本の言葉で、広く盆地を意味する言葉。
奈良も盆地の地形なので元々ヤマト >>653
何をわけのわからないことをw
5世紀以前にすでに誕生している大和の強大な王権が
5世紀に後漢書を読んで、1、2世紀の他所の国名に変えたという妄想だろ
没落または亡国となった国名にネームバリューなんかない 『やまと』ということばは、
「山処(やまと)」つまり山のあるところという意味である。
「このことばは、広く野や海を知っている人間の名づけたものであるにちがいない。(彼ら)から見れば、まさに「大和」は「山処」であった。」と述べておられる。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>656
大倭は倭人伝にもみられるが、この倭人伝の大倭をヤマトと読む者は誰もおらんな。
それに、倭人伝の大倭が働いている場所は北部九州なので、奈良とは全く無関係。
倭人伝の大倭の倭は誤字の可能性もあるし。 >>654
盆地なら、ヤマアナ→ヤマナくらいだよ。
しかし、ヤマトに盆地の意味なんかな〜いよ。
聞いたことないわ。 >>657
日本書紀や万葉集、風土記などに、一か所でも「山処」の字があればいいけどね。 山や森林を管理していたみたいな話?
家の老婆のほうが詳しい、何かに使用する木材の話とか。
神殺し? 山の上(山奥)のほうに住んでいたとか、周りも森林のようなところ? >>655
中国で大変評判になっている史書に邪馬台国は奈良にあると書いてあるのだから、
奈良の知識人がこれを読んで「うちとこがヤマタイ」なんやなと大喜びし、
ついでに「ヤマタイ」は「ヤマト」と奈良弁で読んどこうと申し合わせただけ。
だから、元々奈良にはヤマトと呼ぶ地名はないのよ。
山口ならあるけどな。 >>655
3世紀前半の邪馬台国は北部九州の今の八女、山門あたり。
その邪馬台国と書かれた国の原地呼称はヤマド。
一方、奈良の政権が本格的に始動するのは3世紀後半から。
そこが何と呼ばれた国であったか、誰も知らんのよ。
奈良がヤマトと呼ばれるようになるのは後漢書以降だから、5世紀半ば以降ということになるな。
大倭の字と邪馬台の字が一か所に書かれているのは、後漢書しかないんよ。 >>652
海人はウミンチュ、山人はヤマンチュ。
ヤマンバの親戚だよ。 >>658朝鮮ヒトモドキ心の支え松菊里(ソングンニ)遺跡の真実
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます 〜半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里(ソングリ or ソングンニ)住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること
A半島最古の水田遺構である麻田里(マジョンリ or マジョンニ)遺跡の温帯ジャポニカ米が九州島由来であること
なお北部は遼河文明領域でありウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって
倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/JVXOXYu.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、
唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、
白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 >>651
奈良に大古墳をたくさん造った政権と南河内に大古墳造った政権は別。
その南河内の政権が奈良の地名を新しく造ることに何の躊躇も感じない。
むしろ、立派にしてやったろうくらいの認識。
そして…奈良盆地の旧名は消えて行った。 >>659
大倭が働いている場所は北部九州という根拠は? 平城京跡の付近にも、古墳とかいっぱいあるけど
被葬者不明とか議論があるみたいだけど
都のすぐそばで、人がいっぱい居るのに、誰も分からないもんなのか?
箸墓古墳みたいに、日本最古の前方後円墳とかなら分からんでもないが。 天皇陵の治定ですら築造時期の大幅なずれが問題になってるくらいだからな 継体の太田茶臼山古墳とかも
100年は製造年代がズレてるみたいだしな。
めちゃくちゃな決め方したんだろうな。
宮内庁もお役所仕事しやがる。
そのおかけで、真の継体陵と言われる今城塚に入れるから。 >>660
それは多分君が聞いたことないだけだよ。 >>675
そりゃあ記紀がハッキリと、資料の散逸と間違った資料が増えてきたからわからなくなる前に纏めたとある。
その時点でハッキリしてないことは書けないし誤りだってあるさ。
一字一句誤りのない歴史資料を期待するのが間違い。 記紀が書かれたのは、天皇が日本の支配を正当化する目的のものだと思うが
これも間違ってないと思う。 >>679
歴史書を編纂するなんて、統治者の正当性の為の事業で当たり前。
それは中国でも一緒。
国を統一したから、過去の歴史を編纂しましょうなんて、中国でもやってる事だよ。
だからといって、改編や捏造をして創作したかどうかとは別の話し。
むしろ土地や人物が膨大に登場する記紀を改編するのは、整合性が取れなくなるから不可能に近い。 >>673
奈良の地の3世紀頃の地名がなんだったか、誰も知らんのよ。
ヤマトでなかったのは明らか。 >>672
3世紀に奈良の呼称がヤマトだったという考古学的根拠を見せてもらいたい。 >>674
墓誌を入れとくという墓制は、はなからないからな。 >>670
あれ、邪馬台国北部九州は確定事項なの、知らんの? >>688
ボーリングもしてないのに山門海岸地帯説のお兄さんか。 信号機付近はあくまでも肥後熊本狗奴国との前線でしょ。
だいたい伊都を糸島から動かしたらダメ。
あれは弥生時代の最大の歴史的定点。 >>694
私有地を勝手に掘るわけに行かんだろ。
吉井信号のすぐ北の国道脇が卑弥呼の祭祀所跡。
一方、邪馬台国の政治経済の中心は八女だろう。
日本書紀の神功紀読んだら、これくらいすぐに分かること。
いちいち掘るまでもないよな。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>695
熊本との前線は大牟田。
ここを突破されたから、山門が危なくなった。
卑弥呼は八女へ避難したわけ。
そこへ、纏向からの暗殺部隊が久留米から南下した。
倭人伝は、不可解な卑弥呼の死を伝えている。
この戦いは南北からの挟み撃ち戦。
南からの攻撃は陽動作戦だった可能性がある。
張政はずっと伊都国の迎賓館にいて、卑弥呼と会っていない。
張政は帰国報告で調子のいい報告したのだろう。
それで出世したと思われる。 バカバカしい
邪馬台国なんて当時の発音で読んでそのまんまだっての
邪馬台国←ヤマトコク←大和国←奈良
狗奴国←クノコク←久努国←静岡神奈川 予断を入れずに正確にデータを組み合わせれば、歴史の真実は簡単に浮かび上がってくる。
歴史の真実は、おめらの世迷言とは違うんだよ。 >>697朝鮮ヒトモドキ心の支え松菊里(ソングンニ)遺跡の真実
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます >>697〜朝鮮半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里(ソングリ or ソングンニ)住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること
A半島最古の水田遺構である麻田里(マジョンリ or マジョンニ)遺跡の温帯ジャポニカ米が九州島由来であること
なお北部は遼河文明領域でありウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって
倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/kVpjVvt.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、
唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、
白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。
在日朝鮮ヒトモドキの捏造妄想はもう通用しません。 諦めましょう。 >>702-703
1割本当を練り込んで中卒の目を欺罔し、あとは9割方詐欺のサギー長文乙
朝鮮煙幕チンコロ
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 秦氏ユダヤ教徒説は、今や渡来人研究の新たなステージから研究されているもの。
これまでのような半分オカルト説のイメージで見るのは、時代遅れそのものといえる。
百済や新羅などの出身と説くのも、何の証拠もない単なるイメージ説にすぎん。
はやくその迷妄から脱しないとね。 イエスが処刑される際に出された布告には「ユダヤ人の王 ナザレのイエス」という呼称がラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語の3か国語で記されたとされ、
この呼称のラテン語の頭文字はINRIとなる。
このINRIの発音はインリであり、秦氏の本拠地の神体山がイナリと呼ばれたのは、
このインリが訛ったものだとし、秦氏がキリスト教徒あった証拠だとする説がある。
しかし、INRIはラテン語発音ではインガリであり、インリの発音ではない。
INRIをインリと発音するのは英語の場合であり、英語のインリがイナリと訛ったものだとすると、
秦氏は英語を話した渡来人だったことになる。秦氏の先祖が渡来したのは4世紀後半とされるので、さすがにそれはないだろう。
このように、今や旧来の半オカルト秦氏キリスト教徒説は大きな批判にさらされている時代なのである。 >>709
秦氏の神体山イナリヤマのイナリの由来は、稲が成る(生る)のイナリだとされている。
しかし、それはイナリの語にあとから付けた説であって、イナリの意味は別にあると思われる。
では、そのイナリとはどんな意味だったのか。
秦氏はトルコ語を話した渡来人だったようなので、トルコ語でイナリの発音に類似したの語をみると、inei(イネイ)がある。
inei(イネイ)は「降りる」意である。
秦氏がユダヤ教徒だったとすると、このトルコ語inei(イネイ=降りる)の主語はユダヤ教の神を指しているとすることが可能になる。
そして、ユダヤ教の神が降臨したのはシナイ山であるので、秦氏は神体山としたイナイ山をシナイ山とみなしていたということになってくる。
このinei(イネイ=降りる)が後にイネイ(稲生)と理解されて、風土記にその神話が記されることとなり、やがて稲荷の字が当てられたということだろう。
渡来した秦氏の宗旨が何であったかと考えれば、このような経緯をみると、それはユダヤ教であったとすることが妥当だということになる。 稲荷、イネカ、インカやな
殷も稲荷もインカも同じ
太陽の神さんだわ
インカ文明のインティ
インティに捧げられる生贄
荼枳尼天の話 >>712
太陽の子が国王インカだそうじゃないか。
日本の天皇も同じだな。
天皇はインカか。
う〜ん、イカンなぁ。 秦氏がトルコ語を話す渡来人であったと想定すると、すべてがあっさりと解けてくる。
秦氏が本拠地とした太秦(うづまさ)の地名は、トルコ語でuc(ウツ=3)+masa(マサ=机)の構成となっており、
「3つの机」がその意味だ。
ユダヤ教の幕屋での祭祀の必須祭器は、幕屋の入り口の犠牲を焼く祭壇、中ほどの神に奉げるパンを置く机、最奥の香を焚く香壇の3つ。
この3つの祭器が神の幕屋の代名詞となる。
なので、太秦(うづまさ)とは、「3つの祭器=神の幕屋」の地という意味になる。
つまり、秦氏は太秦(すづまさ)の地を神の幕屋の地とみなした、ということが推定されるのである。
それに、太秦に住む秦氏の神体山は松尾山(マツオヤマ)であり、ユダヤ教の最も重要な祭事の一つの過ぎ越しの祭りで食べる種無しパンの名前がマッツオであることからすると、
松尾山のマツオはマッツオを表している可能性が高い。
秦氏がユダヤ教徒であったことは、ほとんど避けがたい歴史事実とみて間違いないだろう。 芝山のとんがりハット埴輪の話題からだよ。
ユダヤ教徒が渡来していた→秦氏ユダヤ教徒説→秦氏トルコ語説となった。
とんがりハット埴輪はサカ族のとんがり帽子だという主張だから、サカ族=ユダヤ教徒とは主張されてないんだけどな。
まあ、思わず力が入ってしまったというところだ。
わははははは。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 「ヤマト」
元々古代縄文や弥生のころは、生活空間で人々を判別してた見たいで、
今でも、地方などではお前漁師か百姓かなど職業空間で相手を判断する。
(ヤマト.山辺の人)
山辺で材木、薪や炭など林業と
シカやイノシシなどの獣肉を取って来る猟師などが生活する空間。
(サト.下の人)
山辺の下(した=さと?)田や畑で穀物や野菜などを生産する農民たちの空間。
(ミナト.水辺の人)(ハト波止)(ミト.水戸)
魚や貝、運搬など漁業、海運をする生活の空間。
瀬戸セト、鳴門ナルト、長門ナガト、などトで終わる言葉には古代の香りがする。 古代、大阪の上町台地や河内汽水湖辺りに住んでた人達が
お前ら、どこから来たと尋ねられて、ヤマト(奈良盆地)から薪と炭、持って来たと
年長者で代々奈良の人らは今でもよくヤマトから来たと言うらしい、
この会話で信頼関係ができて売り買いが始まり、市場が出来たと言う具合だろ。
台地のサトからは芋や野菜、ミナトからは魚や貝など市場で売り買いと。 >>718 の職業で一番軍事に向いてるのは、ヤマトで
毎日木こりで斧や刃物を振り回す訓練はされてるし
弓でシカやイノシシを射止めるのも軍事には最適で
兵士を各地に輸送するには、ミナトが活躍する
だから、古代より頼りになる武力集団はヤマトだと自然と認識してたのだろな。
それで、傭兵として列島全土から若い連中を集めた。 飯が食えるぞと。 確かに地方漁村住みの者にはよく感じるんだけど
農民と漁民では性格がかなり違ってて、農民は温厚で静か
反対に漁師、猟師などは日々人間並みの動物と格闘する関係で
気性が荒っぽい、仕事柄一歩間違えると死ぬことも有るため指示が軍と同じ命令調になる。 鏡は巫女関係かもな
軍に随伴する巫女の一群の埴輪も見つかっている
巫女が櫛をさし鏡を掲げている埴輪
軍ー巫女ー鏡、櫛
倭国は倭国大乱前、始まりは男王の国 ふむ、巫女が鏡を持つのは卑弥呼以来の伝統なのかもね。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>725
人物埴輪は5〜6世紀。
「腰掛ける巫女」の人物埴輪は腰帯に五十鈴鏡をつけている。
6世紀の埴輪。
ただ、3世紀前半頃以降の鏡などには二十四節気の季節暦が鋳込まれているから、
この鏡は卑弥呼ら祭祀者の必須アイテムだった可能性はある。 >>725
実際に鏡を持ったかどうかなんて、魏志倭人伝にも何も書いてないけどな。
全部空想 >>728
しかし、皇帝から卑弥呼に銅鏡は送ったって書いてあるから、それだろ? まあ、倭人伝には「汝の好物を賜う」と書いてあるから、卑弥呼が絹織物や鏡を好んでいたということにはなるだろうな。 >>730
日本語の意味とはちょっと違う
好物とは望む物の意味だろう
明帝は難升米から国が不安定になってきており、国を安定させるために魏帝の威光を
拝借したく、その証の魏帝の鏡を頂戴したいという卑弥呼のメッセージを聞いている
だから、「帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく貴女の国中の人に示し、
我が国が貴女を支持している事を周知すればよろしい。そのために鄭重に貴女が
望む物を下賜するものである。」という明帝のメッセージにつながる訳だ
ただ卑弥呼の願いも虚しく、その9年後に狗奴国との戦争が勃発
戦争の最中に卑弥呼は亡くなる 卑弥呼が二十四節気の季節暦で苗代づくりや田植えの時期の祭祀をしていた可能性は高い。
弥生後期にすでに近江の伊勢遺跡で二十四節気の太陽運航による祭祀を行っていたようだし、
纏向でも3世紀前半には同様の祭祀が行われていたようだ。
北部九州の山門でも鏡に鋳出した二十四節気暦で卑弥呼が太陽運航の季節祭祀を行っていただろうな。 ヤマト(山、林を生業とする人)俗に云う山幸
ミナト(水面みなもを生業とする人)俗に云う海幸。後に船泊を港.湊と言う。
ハヤト(行動が俊敏で活動的な人)
サト (平地で農業や手工業などを生業とする人) 湊 - Wikipedia
湊(みなと). 「水の門」を意味し、『古事記』や『日本書紀』では「水門」と書かれる。
港湾 - 古くは、港湾施設のうち水上部分を「港」、陸上部分を「湊」と呼んだ。
中世から近世における土崎港(秋田県秋田市)の称。 出羽湊、土崎湊とも。 フルサト(故郷、古里)
一生で生まれた地が一番古い(サト.土地)だから。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>734
山門→戸(ト・ド)と同じで出入り口の意。
水門→戸(ト・ド)と同じで出入り口の意。
隼人→ヒト(人)のト。
サト→フモト(麓)のトと同じで、所(トコロ)のト。 奈良ヤマトは生駒連山が大和川で切れてる所で
丁度、人や船が行き来が出来る門の様になってて山門が合ってるかも
淡路島では鳴門や明石大門(オオト)と人麻呂が読んでるから
当時、人が行き来する所は門と言って、各地方に何か所か山門が有ったんだろな。 大和のトにあてられた万葉仮名はすべて乙類だから
甲類の門ではないだろう 元々山門と言った名所があって、その一帯に大勢の倭人たちが住んでて
人口が増えて大倭から大和と意味付けで何時しか呼ぶように成ったんだろ 宮中祭祀に太陽信仰なぞない、祀られてる神は自分の身を護る神ばかり、おまけにかんこいかんこいとやってる始末 北部九州に日本列島には拡がらない文化が盛行した弥生時代前中期は
北部九州には万葉仮名であてられた発音はないだろう
アクセント形式も南北九州の境界で崩壊してしまっている 草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、
八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、
八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に
安置されている。 今の日本人は1000年前の地名や固有名詞をそのまま使ってる
明日香時代の人達が1000年前の倭人語を使ってても可笑しくないだろ >>741
ヤマト(大和)とヤマド(山門)は別よ。
山門(ヤマド)は北部九州。
奈良弁のヤマト(大和)は6世紀頃からのもの。
3世紀前半にヤマトは奈良になかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています