天皇制のルーツは結局何なのか2
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スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。 >>774
そうか?
弥生式銅剣というが、そもそも中国から輸入していた銅剣が元なので、中国文化圏の中央アジアでも使われていておかしくはない。
銅鏡だって中国のもの。
日本オリジナルは勾玉くらいしかない。 賀で囲まれた範囲、建国当時の国の版図なんじゃないかな >>771
普通は、賀は(喜ぶ、祝福する)意を表す語。
なので、例えば「敦賀」の場合、敦(つる)が元々の地名で、賀は好字ということになる。
漢字の敦(トン)は、敦賀の場合は「ずしりとよどむ」意を表している。
敦賀湾の推進は深く、最奥の敦賀港の水深は実に51mもあり、大型船も入港可能。
敦賀の敦(トン)の字は、深い水深を表している。
一方、敦賀(つるが)の(つる)は、ツルギ(剣)のツルの音。敦賀湾の西側の半島は剣のように鋭く突き出ているところから、その形状を表したのが敦賀(つるが)のツル。 >>767
鹿児島の橋牟礼川は縄文時代と弥生時代の時代繋がりを
考古学的に科学的に証明した遺跡も牟礼って語源が付くから何か意味があるかもな >>771
「賀」の付く地名は日本全国にある、佐賀、遠賀、横須賀、浦賀、なんだろな?
賀茂氏が全国に神社を建立して地名に賀、説。 加藤、伊藤、佐藤、斎藤、式に。
正しく、鴨がネギ禰宜を背負っての隠語がある様にかな? 賀茂氏は実はヤタガラスと云われ、
古代天皇家の諜報機関、忍びの者と言われてる。 >>776
中卒乙
弥生式銅剣は朝鮮細型銅剣の輸入とそのコピーだろがカス
中国青銅器は飲食器や楽器が中心なのだよ
弥生青銅器のどこに飲食器や楽器がある? それと鬲や鼎などの調理器な
中国青銅器は調理器と飲食器と楽器が中心 >>783
そんな興奮して朝鮮民族願望的な妄想を史実のように語られてもみんな困っちゃうよ。 >>782
関西の開拓の祖である三島溝杭耳のことだろ。 >>405
勾玉は弥生人が持ち込んだものかと
縄文時代は大珠という勾玉の原型のようなものが発掘されている 天帝の子皇帝
テングリの子ハーン
天孫の子天皇
東アジア三大天子 >>781
近江にも、甲賀、多賀に大きい神社あるな。
しかし、湖西の志賀に大きい神社あったっけ? 砂処(すか)、石処(しか)などに好字二字令で賀をあてたんだろ >>789
記紀に拠ると、近江国志賀郡には二度、京がおかれていて、
最初が成務天皇が京をおかれた穴太の高穴穂宮で、二度目が天智天皇の大津京。
そして天智天皇を祀った神社が「近江神宮」。漏刻や全国かるた祭りが有名。
若き日の中大兄皇子で中臣鎌足と共に大化の改新(645年)を行った事で知られる。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>786 三島溝杭耳と云えば大三輪神の子。牟礼といい娘が神武天皇の皇后。匂うな!
国立歴史民俗博物館(歴博)によるC14年代調査などで茨木市牟礼遺跡の突帯文土器と
水田址は、BC830年〜BC750年の弥生時代初期のものと判明しました。
すなわち、弥生時代早期に遠賀川式土器を伴わない突帯文土器を使う一団が、
茨木市牟礼地区で水田稲作をしていたのです。
牟礼遺跡近く(高槻市津之江町)には筑紫津神社があります。
(摂津の)淀川の三島の津といわれていたところです。 >>782
賀茂氏は銅鐸と関係が有りそうで、銅鐸が発掘される周辺にはカモと付く地名が見られる >>787
縄文中期からC型勾玉が現われるそうだ。 >>793
北西部九州で遠賀川式土器を伴わずに突帯文土器が出土する水田跡がみつかっていて、
牟礼遺跡の水田跡はその系統の集団が来ていたことが推測されているようだ。
牟礼遺跡の水田跡の時期が弥生時代初期のBC830年〜BC750年とすると、
これまで歴博が想定していた水田の畿内域への波及の時期のBC500年半ば頃よりも200年以上も速いものとなる。
北西部九州と茨木牟礼遺跡の水田をつなぐ水田跡が瀬戸内あたりでみつかるといいけどな。 坂本の日吉神社と賀茂、秦は三角同盟を作っていたフシがあるな。 741 名前:出土地不明 2020/07/27(月) 22:05:13.94 ID:rHjDbAu/
>>739
正解
弥生人の土器の方が稲作よりも50年以上早く先に出雲あたりから中国地方に
広がっている(前池式)
九州北部に入るときには山ノ寺式に、近畿地方に入るときには船橋式になって
広がっていく
山ノ寺式土器を作っていた菜畑遺跡の弥生人が朝鮮南部から稲作を取り入れて弥生開始と
時系列的にはこういう流れ
前池式は弥生人の土器なんだけど、まだ稲作が始まっていないから
縄文土器として扱われている 銅鐸が捨てられて銅鏡になるというのはキリスト教でいえばマリア像が捨てられて十字架になるとかそんなレベルの話なの宗教宗派が変わったんだろうね
しかも銅鐸は埋められてたというのだから上からの政治的強制力で全国の宗教施設に指示が降ったのだろう
明治の廃仏毀釈のように全国規模で行われていたはずでそれだけの力を持つ政府がどこかにあったいう証拠でもある
一つの取りこぼしもなく銅剣祭祀が消されていることから大規模な政府の監視団も派遣されていたに相違ない
銅鏡祭祀は間違いなく今の神道の原初の姿だろうからその前の銅鐸祭祀がどんなものだったのか全く興味がつきない
ヒントになるのが諏訪に残る鉄鐸でひょっとしたらこれが銅鐸祭祀の残滓かもしれない
しかし何故銅鏡祭祀が消されたのか
当時の政府によって邪教認定でもされたのだろうか
世界的に見て淫祠邪教とされるのは生贄か性的祭祀というのがお決まりのパターンだ
銅鐸祭祀にそのような教義や実践があったのだろうか 間違いが多かったのでレスし直し
銅鐸が捨てられて銅鏡になるというのはキリスト教でいえばマリア像が捨てられて十字架になるとかそんなレベルの話なので宗教宗派が変わったんだろうね
しかも銅鐸は埋められてたというのだから上からの政治的強制力で全国の宗教施設に指示が降ったのだろう
明治の廃仏毀釈のように全国規模で行われていたはずでそれだけの力を持つ政府がどこかにあったいう証拠でもある
一つの取りこぼしもなく銅鐸祭祀が消されていることから大規模な政府の監視団も派遣されていたに相違ない
銅鏡祭祀は間違いなく今の神道の原初の姿だろうからその前の銅鐸祭祀がどんなものだったのか全く興味がつきない
ヒントになるのが諏訪に残る鉄鐸でひょっとしたらこれが銅鐸祭祀の残滓かもしれない
しかし何故銅鏡祭祀が消されたのか
当時の政府によって邪教認定でもされたのだろうか
世界的に見て淫祠邪教とされるのは生贄か性的祭祀というのがお決まりのパターンだ
銅鐸祭祀にそのような教義や実践があったのだろうか
確かに縄文的要素の信仰には生贄や性神信仰の影が付き纏ってはいる 神武天皇やヤマトタケルが印欧語族の神々を起源としているのなら彼らは古代の大王家の人間が自分らの先祖を伝説の英雄神に比定したというだけだから神武やヤマトタケルは銅鐸祭祀の破棄には関わっていないだろう
銅鐸祭祀は記紀が編纂された時代にはすでに完全に忘れさられていたと考えられる
邪教認定された宗教を二度と復活させないように歴史的記憶そのものからも消してしまったということなのだろうか >>802
既知
稲作遺構も農具もないから半島から輸入したものだろう >>796
更新日:2019年10月15日更新 文/岡山県古代吉備文化財センター 平井 泰男
岡山県総社市 南溝手遺跡
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/632621.html
縄文時代後期後葉らしい時期の土器から籾の痕や
籾の痕のついた土器の土の中かからプラント・オパールが発見されたのである。
籾の痕とプラント・オパールの発見によって約3000年前に岡山の地で
イネが栽培されていたことがつきとめられたのである。
ところが驚いたことに、この時の分析結果では、参考のために提供していた、
さらに古い約3500年前の縄文時代後期中葉の土器片からも
イネのプラント・オパールが発見されていたのである。
しかも土器と一緒に出土した石器の中には、栽培に用いたとも考えられる
土掘り具(打製石鍬)や収穫具(打製石鎌や石包丁)が含まれていた。
わずか1−2年の間に、日本の稲作の歴史は千年も遡ることになったのである。 近畿地方
○讃良郡条里遺跡(大阪) 縄文晩期(滋賀里V)(圧痕)
○口酒井遺跡(兵庫) 縄文晩期(滋賀里W)(圧痕)
○鬼塚遺跡(大阪) 縄文晩期(滋賀里W)(圧痕)
○北白川追分町遺跡(京都)突帯文期(船橋式期)(炭化米)
○今宿丁田遺跡(兵庫) 突帯文期(船橋式期)(圧痕)
○岸遺跡(兵庫) 突帯文期(船橋式期)(圧痕)
○四ツ池遺跡(大阪) 突帯文期(船橋式期)(圧痕)
○鈴の宮遺跡(大阪) 突帯文期(船橋式期)(圧痕)
○京大構内遺跡(京都) 突帯文期(船橋式期)(圧痕)
○口酒井遺跡(兵庫) 突帯文期(長原式期)(圧痕)
○安満遺跡(大阪) 突帯文期(長原式期)(圧痕)
○長原遺跡(大阪) 突帯文期(長原式期)(圧痕)
○久宝寺遺跡(大阪) 突帯文期(長原式期)(圧痕)
○玉津田中遺跡(兵庫) 突帯文期(長原式期)(炭化米・一木鋤?)
○口酒井遺跡(兵庫) 突帯文期(長原式期)(石包丁・籾殻)
○船岡山遺跡(大阪) 突帯文期(長原式期)(石包丁)
○牟礼遺跡(大阪) 突帯文期(長原式?)(堰状遺構)
○小阪遺跡(大阪) 突帯文期(畦畔状遺構)
○口分田北遺跡(滋賀) 突帯文期(水路)
○山賀遺跡(大阪) 突帯文期(PO分析)
○大開遺跡(兵庫) 突帯文期(PO分析) 刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)、突帯文土器は、
西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
中四国地方
○彦崎貝塚(岡山) 縄文前期(PO分析)*註2
○朝寝鼻貝塚(岡山) 縄文前期(PO分析)*註2
○姫笹原遺跡(岡山) 縄文中期(土器PO分析)船元式−里木U式
○南溝手遺跡(岡山) 縄文後期(土器PO分析)彦崎KU式・福田KV式
○南溝手遺跡(岡山) 縄文後期(圧痕)後期末
○福田遺跡(岡山) 縄文後期(圧痕)福田KV式
○林・坊城遺跡(香川) 突帯文期(沢田式古相期木製農具)
○津島岡大遺跡(岡山) 突帯文期(沢田式古相土器圧痕)
○帝釈名越岩陰(広島) 突帯文期(沢田式併行土器圧痕)
○大渕遺跡(愛媛) 突帯文期(圧痕・石包丁・石鎌)
○津島江道遺跡(岡山) 突帯文?(水田遺構) >>805
考古学的証拠にはイネ粒の現物(稲籾、籾殻、炭化米)しか使わないの
プラントオパールは証拠にならないから使わないの
残念 >>810
土壌中のプラントオパールなどは後世の外部侵入汚染の可能性はあるが、
土器胎土中のプラントオパールは外部から侵入しにくく信頼度は高い。
文献2:岡山県古代吉備文化財センター、古代吉備を探る
センターの河合忍市氏の論文で、縄文時代の土器の胎土中から
プラントオパールが発見され、稲作をしていた信頼度の高い資料となったと述べている。
1100℃程度では、プラントオパールは軟化せず、
800℃くらいの土器焼成温度にも耐えて残ってた事が確認された。 >>801
銅鐸が近畿地方を中心に作られていたというのなら、それを作ったのは饒速日(物部)か三島溝杭耳(鴨)しかないだろう。
記紀編纂時には既に主要氏族としては消滅していたし。 >>812
プラントオパールは使いません!
プラントオパールは超大量に出てるが、肝心の現物が一粒もないとか
そんな馬鹿な事があるかゴミカス >>812
縄文時代の陸稲は社会構造に影響を与えることはなく、雑穀の一つに過ぎない。
弥生時代の特徴は、灌漑と暦法という王の二大特権が突如として出現し、水稲稲作が食糧生産の中心になったこと。
おそらく知識人が外部からやって来たのだろう。
それが王族として地位を確立して今日に至る。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. なぜ銅鐸が消えたのだろう
推古朝で物部神道が邪教として禁教されたというのなら確かに全国一律で銅鐸が消滅した理由にはなるのだが、実際には飛鳥時代なので年代が合わない 物部と滅亡と銅鐸の消滅は年代が合わないので物部神道とは違う別のものが古墳時代初期に禁教されたのではなかろうか
物部は禁教された側でなく禁教した側ではなかろうか 記紀によると推古朝時代に秦河勝が蚕を祀る新興宗教団体を殲滅して教祖を逮捕処刑している
ヤマト政権は邪教認定で教団を殲滅にするようなかなり厳しい部分があったのではなかろうか 一歩間違えたら仏教も秦河勝が蚕の宗教を殲滅したようにヤマト政権によって粛清されたかもしれない
実際に物部氏や中臣氏は廃仏を唱えたという
蚕の宗教だけでなくヤマト政権は宗教的異端に厳しい態度を取る傾向があったのかもしれない
銅鐸の祭祀も政府による禁教にあったのではあるまいか >>818
いや、鏡は3世紀頃に畿内へ入っていくから、これが筑紫の天孫でしょ。
それより前に畿内にあったのは饒速日の関係だよ。 >>820
結局は物部の方が倒されて、仏教が採用された。
記紀が編纂された頃には、もう誰もかつての物部氏の銅鐸祭祀など忘れていた。 悪く言うと、成り済まし(というわけではないんだけど)の話だろう。
『天財若子』
この家がホンモノなんだけど、あと菅原某とか。 「まつりごと」は政治のことであり祭祀のことでもある。
それは政治体制そのものであり、筑紫の日向から天皇家が持ち込んだ銅鏡祭祀と相容れない饒速日の銅鐸祭祀は、いつかは消えるしかなかった。 銅鐸が物部氏の宗教ということならば以下でよろしいか
3世紀を最盛期として原物部神道はヤマト政権に組み込まれ銅鐸の祭祀を大王家の神道に譲って衰退
推古朝時代に仏教派によって粛清されて物部神道は滅亡
完全に銅鐸の祭祀は消滅し忘れられた 物部氏が銅鐸祭祀を司っていたということは地方にあった銅鐸を一斉消滅させたのは物部氏自らが天皇家の銅鏡に切り替えるように呼びかけたという理解でよろしいか? 『弁才天』
むかーしの芸能?機織りなどもしてたと言っているし。
天財若子〜の家。 なぜか?
泥棒のようなものに入られたという話もしている。 >>825
いいと思います。
銅鐸廃止をどのように進めたのかはもう少し資料が欲しいところですが、4世紀の纒向遺跡ではすでに鏡を置く建物があったそうですね。 >>830
ありがとうございます
その可能性も大いにありそうですな
物部氏の滅亡は日本を中国文化的に開明させた反面、失われた古来の文化もまた大きいものであったと 日本古来の神道に一番こだわっていたのは物部氏だと考えられていますからね。
蘇我氏の先進的な仏教文化の導入により、「まつりごと」の実権を失ったのが物部氏。
物部戦争の頃にはすでに銅鐸は消滅していますが、神仏習合でさらに神道は変質してしまいました。 物部氏の神道が失われてしまったのは残念です
天皇家と中臣の神道が残ってくれたおかげで助かりましたが物部氏が反仏教や反蘇我で頑なにならずにいてくれればもっと古代の姿が明らかだったはずと惜しまれます .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 鐸は教令を伝える時に鳴らすもの、日本で言う鈴のこと
今でも神社で神に向かう時に鈴を鳴らすだろう
鏡のない神社はいくらでもあるが鈴のない神社などないしね
神楽鈴とかもある
鳥居や狛犬のモチーフはインドの寺院にもあるから元は仏教かもしれない
文献に残る最古の鳥居の記述は四天王寺の鳥居だし
鳥居を潜り、井戸の水若水、ワッカで身を清め、鈴を鳴らし神に向かう
様々な様式が合わさり今の神社の様式がある
鐸は鈴 井戸の技術は重要
水辺から離れた台地上でも居住しやすくなった おかしな話だと気づいている人は気づいている。
日本では河童?・・・『河伯』
実際は、かなり、むかーしの家の人物。 >>835
>鏡のない神社はいくらでもあるが鈴のない神社などないしね
鈴がない神社はいくらでもあるが、鏡がない神社は少ない。
それは現存する神道が筑紫の銅鏡祭祀の系譜であり、神武が畿内に持ち込んだものが由来だからだ。
ただし饒速日も銅鏡は用いていた。
それが籠神社の伝世鏡で、饒速日がアマテラスから授かったものだという。 河伯・・・などw
>>1
てんのー?も、いなかった頃のカミタマ(不明) 蜻蛉日記の記述によれば
アマテラスは河原に住む河伯らしい
河伯は黄河の神で白い亀或いは白い龍の姿をしているとか
日本に来て河童になったのかな 謎の、きゅうりのような葉の写っている写真。
『王母 龍宮』
このような名前の家の写真。 民は生贄を拒否した
民は奴隷を拒否した
そういうこと
平和が一番 『天皇大帝』
新しい宇宙(てんのう?)は〜の元ネタでしょ。 カミでもなんでも同じ。
ただ、私が「宇宙」(天皇)だ〜とか自称しているだけの話。 ただの、きち□がい・・・wみたいな事を言っている人達もいるし。 どうやら格式の高い神社には鈴がなく庶民の神社には鈴があるということらしい
先代旧事本紀も日本書紀より庶民には広まっていたそうだ
物部神道は庶民に浸透し信仰していた神道だったのか かなり凄い話になってくる。
まだ天皇(宇宙?)なども無かった、いなかった頃の人物(家)が・・・・実在していたり。 宇宙(天皇)誕生以前から、
存在している人々(地球で生活)・・・そういう事にもなってくる。 何処の家の先祖も同じ時代どこかに存在しているからねぇ
人の命は連綿と続くのだ 資源の少ない時代になぜ銅鐸は鋳潰されず副葬されずに埋められたか
ある時期に習慣の断絶が惜しまれつつ意図的に行われたと考えるのが自然
文字がない時代、これは技術の伝播が確実に途切れることを意味する
考えられるのは現実的利益がもたらされないと判断されたこと
祭祀というよりも稲作や資源確保、開拓技術の刷新が行われたのだと思う
銅鏡祭祀で方角や暦を読み、古墳築造に伴う水路改造などの開拓事業で現実利益に従う新たな国造りが移民招来によって実現したのでは
そしてそれが奈良盆地以外の何処からもたらされたかと考えると、当時の最先端地である九州北部ではなく、銅鏡祭祀が盛んであり女王国であり交易の恩寵を受けつつ災害などで耕作限界地であった筑紫平野あたりからなのかな、と思う
これは物部の根拠地などとも符合するのが興味深いところ 鐸は鈴
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味もある
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もある
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている 池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、褐鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろう >>852
弥生人遺伝子が朝鮮人に近い筑紫は、青銅器は副葬から始まるが
倭人の風習である卜骨が出土する本州は
銅鐸も武器形も始めから埋納している
北部九州は中広形以降に埋納が始まると副葬されなくなる 弥生時代後期の遺跡、伊勢遺跡にも巨大な銅鐸があったな 北部九州の副葬から埋納への切り替わりの時期は
出雲の2遺跡だけで九州全体の出土数を超える武器形青銅器が埋納された以降である 弥生時代中期10系列以上あった「聞く銅鐸」祭祀が終わり、後期には「見る銅鐸」祭祀が始まります。
この時、銅鐸祭祀を続けたのは5系列の銅鐸を持ちいる国々でした。
これらの銅鐸もやがて、近畿式と三遠式の2系列に統合され、最終的には近畿式銅鐸にまとまります。
銅鐸が統合される経過は詳しく研究されているものの、統合時期については漠然としています。
ただ、マクロに見ると5系列の銅鐸が2系列に統合される時期と伊勢遺跡造営がうまく重なっているように見えます。
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/45taguchi3.html ホツマツタエにはスズ(銅鐸)は暦の源と書かれている
当時の世間にはスズと暦を関連させる認識が残っていたのだろう 銅鐸が天皇祭祀以前の日本文化を彷彿とさせるところに面白味があるのよね
埋葬状況とか見るに個人的には「古き良き時代」の名残に思えてしまう 正倉院に伝わる19個の古代の大型風鈴「金銅鎮鐸」が、
釣り鐘の技法で作られたものと銅鐸の技法を用いたものに分けられることが
正倉院事務所(奈良市)の調査で分かった。
https://mainichi.jp/articles/20190520/ddl/k27/040/278000c .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 中国江蘇省の陶器鐸 (銅鐸とよく似てる)
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の
貴族のものとみられる墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。
南京博物院(同省南京市)によると、 これまで中国各地で出土した鐸と異なり、
日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。 >太陽には三本足のカラスがいて、 月には兎(ウサギ)と蟾蜍(ヒキガエル)がいる。
>下の絵図の中央には、銅鐸のような物を吊り下げて紐を引いて鳴らしてる様に見え
>死者の魂を天上に導く、仏教の鐘の役目の様に見える。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/cb61054dcaa9daa43caf8fa4f5c4cf791ef03063.92.2.9.2.jpeg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、
宙に吊られているのが 鐸である。 それを、馬か鹿に乗った人物がひもで
引っ張って鳴らしている。 玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。 一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。 北方遊牧民たちのカウベル、馬鐸、とは目的が違い
銅鐸は死者の霊魂を鐘の音と共に天上へ送る道案内のためだろう
線香の煙と同じ意味合いだと思う。 『淮南子』より二百年ほど後に書かれた後漢の王充の『論衡』では
「日中有三足烏、月中有兔、蟾蜍。(太陽には三本足のカラスがいて、
月には兎と蟾蜍がいる)」との記述もあります。
太陽と月、そしてそれを象徴する生物の対置というのは、
前漢の頃の陶鐸が見つかった馬王堆というお墓から出土した帛画の世界観とも一致します。
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/cb61054dcaa9daa43caf8fa4f5c4cf791ef03063.92.2.9.2.jpeg これまでの縄文時代観や縄文人に対するイメージを変えるためには十分なものであったが、
その重要な成果の1つは縄文時代にさかのぼるコメの存在であり、
もう1つは列島規模の交流を具体的に物語る考古資料の存在である。両者を詳しく見ていきたい。
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636561.html
前者については、今から10年前に報告書が刊行された岡山県南部の
総社市南溝手遺跡の調査成果がまず挙げられる。
ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)
が発見され、大きな話題を呼んだ。
ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパールがある。
プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる植物珪酸体
とよばれる、ガラス質細胞のことである。
プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、
コメが存在していたかどうかを調べるためによく用いられる試料である。
このプラント・オパールは800℃の熱にも耐えて残るため、土器の胎土(土器粘土)に
混入したものも調べることができる。
土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、
後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。
最古のものとしては、美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、
このほかに縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
以上の証拠から、縄文時代にコメが存在したことは確実視されており、
イネの栽培が行われていたことも多くの研究者によって指摘がなされている。
ただし、イネの栽培が行われていたといっても、これまでの生業形態に新たに
稲作が加わった程度であり、稲作が生業全体の基本に位置づけられる弥生時代とは
区別して考える意見が大勢を占めている。 プラント・オパール土器胎土分析からみた中部日本の稲作農耕の開始
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/8/11/8_11_27/_article/-char/ja/
山梨と新潟の11遺跡から出土した縄文時代晩期〜弥生時代中期初頭の土器76点を
整理して資料化し、このうちの55点を対象としてプラント・オパール分析を行った。
土器胎土の定性分析と簡易定量分析の結果、8遺跡の14試料から
イネの機動細胞プラント・オパールが検出された。 プラント・オパール / 胎土 / 縄文時代 / イネ / 津島遺跡 / 南溝手遺跡 / 草鞋山遺跡 / 野性イネ
土器胎土に含まれるプラント・オパールは当該土器が製作される際用いられたた
材料土に含まれていたものと考えられる。イネは外来植物であり、
もともと日本には存在しない植物である。したがって、イネのプラント・オパールが土器胎土
から検出されれば、少なくとも、その土器が製作される以前にイネが導入されていた
証拠になる。本研究では、日本、朝鮮半島および中国における先史時代の
土器胎土に含まれるイネのプラント・オパールを検出することにより、
それぞれの地域における稲作開始期を明らかにしようとするものである。
日本:縄文時代
岡山:津島遺跡および南溝手遺跡(縄文時代後期:B,C1500)からBC3000年前の、
遺跡から発掘された同時代の土器胎土からイネ.プラントオパールが検出された。
少なくとも、この時代には日本へイネが伝えられていたと考えられる。
朝鮮半島:新石器時代
釜山:農所里遺跡(新石器時代後期:B,C1500)で発掘された土器胎土からイネが検出された。
朝鮮半島南部でも日本列島とはぼ同時期にイネが伝えられていた事実は興味深い。
中国:新石器時代
蘇州:草鞋山遺跡で発掘された馬家浜時代中期(B,C4400)の土器胎土および紅焼土から
イネが検出された。長江デルタでは、この時代すでにイネがあったことがわかる。
ただし、この時代は地球温暖期にあたり、この地域に野性イネが存在(少なくとも、
現在は存在しないが) していた可能性をも考慮しておく必要があろう。 川崎市教育委員会:下原遺跡縄文時代後・晩期出土品
www.city.kawasaki.jp › ... › 指定文化財紹介 › 考古資料
1 土器. 縄文時代後期. 称名寺式土器; 堀之内式土器; 加曾利B1式土器; 加曾利B2式土器;
加曾利B3式土器; 曽谷・高井戸東式 ...
なお、縄文時代晩期前半の土器の胎土21試料中10試料からイネのプラント・オパールが
検出され、当該期の下原遺跡において ...
山梨県北杜市考古資料館 - 邪馬台国大研究 縄文時代
http://inoues.net/museum2/hokuto_museum3.html
<稲作の始まり>
現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては
熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。
DNAの多様性が朝鮮半島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされ、
また朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないことや朝鮮半島での確認された
炭化米が紀元前2000年が最古であり、日本列島のものを遡れないことなどから、
稲作は日本列島から朝鮮半島へ伝播した説も出ている。 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、
籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、
後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の
土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールを見い出し、岡山県総社市の南溝手
(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点を調べた内の
4点からイネのプラント・オパールを見い出した。
うち2点は、縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。
同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、
打製土掘り具と見られる石器を発見した。
晩期の突帯文土器を伴う岡山市北区津島の津島江道遺跡は水田遺構として
最も古いもので、3m×5m前後の小区画水田である。
このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。
ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの
雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています